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精神分析編
2. 心理症状の心理過程 − 2.2 一次的心理過程

(1)愛情への欲求
  人が生まれてからすぐに現れる欲求には、食欲や睡眠欲、快適さへの欲求に加えて、愛情への欲求があります。これは人間だけではなく犬や馬などの動物から見られるもので、本能的な欲求と考えられます。まだ幼少である彼彼女を守り安心感を与える存在、遊び相手となり好奇心を満たしてくれる存在を、小さな子供はまず純真に求めます。
  この愛情への欲求が適切に満たされることによって、子供の心には外界に対する基本的安心感が生まれ、生き生きとした好奇心に応じて他者と交わり、協調やあつれきのなかで積極的に生きていく自信感を成長させることができます。
  このように、人が本能的に愛情への欲求を持って生まれ、その充足が生き生きとした人生を送るための自信の成長に必要となることを、このサイトでは全ての心理症状の原点と考えています。

(2)基本的不安と基本的不信
 一方、子供の愛情が適切に満たされない場合に、心理症状の発達の芽となる、ある心理状態が子供の中に生じます。

基本的不安
  基本的不安という概念はカレン・ホーナイにより定義されています。次の記述は『神経症と人間の成長』からの抜粋です。
  子供がその生育過程で、自分の個人的欲求や可能性に見合った成長を実現できない場合がある。その条件はあまりにも多様なのでここに列挙することはできないが、結局のところそれらは全て次のように要約できる。
  つまり、周囲の人はそれぞれが自分自分の神経症的状態にすっかり心を奪われているため、その子を愛することができず、さらにはその子がひとりの個人なのだということさえ分らなくなっているのだ。簡単に言えばその大人達は、支配的、過保護、威嚇的、怒りっぽい、厳しすぎる、甘やかしすぎる、一貫性がない、他の兄弟をえこひいきする、偽善的、無関心、などの態度を取る。ただし、これらの態度のうちの一つがあるからと言って、それだけでは問題とは言えない。問題となるのは、それらの態度全体の相互作用の結果として、子供の成長に不適切な影響が出るものである。
  その場合、子供は「私たち」という帰属感を発達させることができず、むしろ逆に不安定な心理状態を深めて、漠然とした不安感を持つようになる。この状態を私は基本的不安という語で表現した。子供は世界を潜在的に敵対的なものと見なし、その中で自分は孤立し無力だと感じる。基本的不安の阻害的な圧力のもとで、子供は真の感情に基づいた自発的な人間関係をとり結ぶことができず、他人と対立する方向へと追いやられる。
基本的不信
  TSは、さらに基本的不信というべき状態がこの段階で起きていると考えています。
  単に外界が潜在的な敵で自分が無力だという不安だけでなく、親を始めとした回りの他人が、気まぐれで、偽善的で、横暴な、得体の知れない、全く共感の余地のない異形の存在であるかのように感じる、原初的な不信感です。不安が自己に対する認知感情であるのに対して、不信は他者に対する認知感情だと言えます。
  同時に、子供の中には、本来は自分を愛すべき存在であった彼らがそうしなかった、逆に自分を迫害したというような原初的な怒りが発生しているのではないかと考えています。
  *「原初的」というのは、他の感情の背景的基盤になるという意味と、生理的ともいえるような基本的な感覚として感じられるという2つの意味を合わせ持ったものです。

  この怒りを含んだ不信感を原初的なものとTSが考える理由は、TS自身の経験上、他人に対する基本的な不信感が多くの心理過程の背景にあり、治癒の後期になってこれがより明瞭に自覚され克服されるという流れが見られたことです。
  また、思春期以前の情緒不安定な子供の段階でも既にしばしば見られる自棄的な攻撃性を考えた場合、愛情欲求が満たされないことによる不満感に加えて、外界への不信感により、それが満たされることをも期待できないと感じる原初的な絶望感が発生していることを考えなければならないと思っています。
  不信感とか絶望感は比較的複雑な感情であり、もっと年代があとになって生まれてくるものと考えるのが一般的かも知れませんが、TSはこれが年少時にすでに発生し、これをもって心理症状の過程がスタートすると考えています。

(3)強迫的な3つの態度
  子供の置かれた環境が悪くても、その内容が比較的単純なものであれば、外界への不信は強いものではなく、単純な不安にとどまるものと思われます。その場合後の環境が好転し善意に恵まれれば、子供はその愛情を受け入れ、安心感と自信を成長させていく可能性が残されていると思います。
  しかしそこに基本的不信という要素が加わるにつれて、子供は次第に新しく出会う善意や愛情もそのままの形で受け入れることはできず、単なる気まぐれの中の一時的なものか、もしくはうわべだけの偽善のようなものとして受け取るようになります。これによって、子供の心の成長に必要であった他者からの愛情が、最初は回りの人間が原因となり、やがて子供自身の心理過程として閉ざされます

  この結果、子供は他人に対して自然な感情で接していく代わりに、独自の方法で「対処」しようとする態度を発達させるようになります。

 1)敵対攻撃的態度
  回りの人間に対して抱いた不信感に対して、比較的ストレートな戦略として生まれるのがこの傾向で、相手を攻撃すべき敵と考え、弱点を見抜いて攻撃し制圧することで、自分の欲求を満たすという方法を生きるための基本として身につけるものです。恐らく、子供への接し方や感情に一貫性がない中で、子供が泣きわめいたり癇癪を起こすことで折れるような場面が多い親の下で、このような傾向が顕著になるのではないでしょうか。
  このような態度の中で、彼彼女は知力体力精神力といった、力の強さや他人に優越することへ極端な価値を感じるようになります。そして自己中心的でわがまま、攻撃的という要素に加え、同情や愛情といった感情を“めめしい”ものとして軽蔑し、自分の中にそのような感情が現れそうになると抑圧する傾向が見られます。なぜなら、そのような柔らかい感情を認めると、彼の心の底にある自分が孤独な弱者だという感情に触れてしまうからです。
  このため、この人物が一度感情を荒げると手がつけられないようなものになります。それをなだめようとする働きかけに同意することは、彼彼女にとって自分を危うくする共感への火種であるため、それをはねつける衝動に駆られ、なだめようと努力する相手をさらに容赦なく攻撃し打ちのめそうとします。

  対人関係についてホーナイの著書での説明では、他人の中にある同じような攻撃的傾向、先を越して利益を得ようとする意図などを敏感に見抜き、これに対してはかなり冷静に対応するのに対して、次に述べる自己犠牲型の人間の追従や卑下の傾向を歓迎し、これを搾取することを好む傾向にあるというようなものが印象的です。

  この傾向への動きが大きく、他の動きがあまり生じなかった人間というのは、心の障害に悩む人間になるというよりも、その攻撃性によって他人を悩ませる人物になるのではないかというのがTSの考えです。極端な場合はアウトローの世界で生きる人間になるのかと。
  また本人が心理症状にならなくても、心理症状を持つ子供を作り出す親のひとつのパターンでしょう。敵対攻撃型の父親と、次の自己犠牲追従型の母親という組み合わせは、互いに求め合う要素をもち組み合わせが成立することが多く、この心の歪んだ両親の下での子供の心の混乱は非常に大きなものであり、重度なボーダー症者を生み出す典型的な環境ではないかと、TSは考えています。

 2)迎合追従型態度
  不信を抱く外界への次の対処方法は、上記の敵対型とは正反対のもので、親を始めとした重要な他人にすり寄り、可愛がられ、評価され、守られることで安心感を得ようとするものです。このため子供は自分の欲求を自然に表現するよりも、親などの機嫌を窺い、相手が求める通りに行動しようとする傾向を発達させます。
  親からの愛情庇護につながるものとして、子供は学力などの能力を伸ばす努力をすることもありますが、敵対攻撃型がそれを他人より優位に立ち勝つための手段とするのに対して、この態度の中では、重要な人物から自分が愛されるための基準を満たすための努力になります。また、他人からの愛情につながる、優しさや無邪気さといった性質に極端な価値を抱き、自分の性格をそのように伸ばそうとします。また親密なお喋りや和気あいあいとした場の雰囲気を最高の価値のあるものとして扱い、それを生きがいとする考え方も顕著です。
  優しさや共感は人間にとってごく一般的な価値ある性質であり、自然な成長の結果としてのものと不安不信への対処方としてのものが見分けがつかないことがあります。しかし以下のような特徴では、ごく自然な自発的感情と不安を抑制するための強迫性の現れの違いが明瞭になってきます。

  まずもっとも基本的な態度は卑下傾向です。親の叱責などをそのまま自分の中に取り込むような形で、悪いのは自分だという感情を背景的に持つようになり、多少理不尽な不遇も甘んじて受けるという基本的傾向を持つようになります。事実、これにより回りとのバランスで安定が保てる状態になり、自分の行動様式として良しとし、常識的な範囲の態度としては性格としてもかなり固着する要素ではないかと思われます。ただしあまり極端なものになると、自分が甘んじた理不尽に対して内心で怒りが発生し、さらにその怒りに対して罪悪感が起きるような非常に不安定なものになります。
  さらに独特な現れ方を示すのが、自己犠牲的態度です。他人の苦しみや不遇に極端に敏感な同情心を持ち、相手が望まないにも関わらず苦しみを引き受け救おうとやっきになります。このような自己犠牲行動は心理症状において多様な意味を持つ複雑なものですが、この段階では、真に強い者に自分が愛されるための最高の価値という意味を持つのではないかと思われます。
  さらに不合理な態度として現れるのが、相手に反論できない(断れない性質です。話の内容に納得したから合意するのではなく、相手を怒らせたくないという強迫性から自動的に合意的態度に駆られるもので、当然悪徳商法の搾取を受けやすい人物となります。

  このように、迎合追従型の態度は、背景となる不安が弱ければあまり理不尽なものまでならず、常識的な範囲で本人の生活に安定をもたらし、卑下はつつましさや謙遜といった美徳として本人の価値観ともなり、性格として定着していくものも多いと思われます。ただし背景の不安は克服されたのではなく抑制されたものとして残りつづけます。時折それが近くされ、人間が本来的に持つ不安として、哲学や社会論が展開されることもあります。このような形で安定を保つに至る性格は、近代におけるマジョリティともいえるものでしょう。
  背景となる不安が強くなるにつれて、不合理なほどの卑下や自己犠牲により内心に怒りが発生する不安定なものになります。このため怒りを契機に態度が一気に敵対攻撃型に切りかわったり、怒りを抑えるために自己犠牲に絶対的な至上の価値を与え、それにより真に強いもの(例えば神)に自分が愛されるというような空想的価値観を抱くようになったりします。

不信と怒りの抑圧
  このように、敵対攻撃型の態度が外界への不信に対して比較的ストレートな心理であるのに対して、迎合追従型への動きは、内面の矛盾をはらんでおり各種の心理症状の芽となるものと思われます。最も基本的な矛盾は、心理過程のスタートが他者への不信や怒りでありながらも、強く重要な人物達に愛されるためにはそのような敵対的な感情は持たないように振舞う必要があり、子供の心理過程ではそれが明瞭に意図した演技ではなく(攻撃型では明白な演技があり得ます)、子供自身が自分をそのような敵対的な感情を持たない人間であると信じ込もうとする、つまりそれを抑圧し意識の上からは排除するという自己欺瞞が必要があることです。

  抑圧された感情は無意識の作用をする。これもフロイトにより導かれた基本的な原理です。
  自我がまだゆるい子供時代では、比較的単純な形で、対象場面を分離した漏出という形がまず考えられます。夢の中で明瞭な不信や恐怖を表すものを見たり、強い相手へはけなげな追従的態度を示す一方で、自分より弱い者に対しては人が変わったように極端に残忍な行動を行うといったものです。また、自分の親に対しては従順だが、学校では人が変わったように荒れる、授業参観の日だけはおとなしくしているといった人格の分離がしばしば見られるようです。

 3)離反退却型態度
  基本的不安不信に端を発する態度の最後として、安心を得るために敵対的に打ち勝つことも愛情を得ることもかなわない場合、他者との情動的な関わりを一切排除して自分の内面に逃避するという方向があります。敵対するには相手はあまりに強大である恐怖と、愛されることを求めても得られない怒りに疲れ、相手との接触を切って自己の内面に閉じこもります。これにより子供は内面の純粋さを守れる代わりに、外界へ対する積極的な感情を次第に失っていくというリスクを負います。

  子供が他者との関わりを避けるという場合には、主に2つの流れがあると考えています。
  そのひとつは、基本的な欲求、特に愛情の原初的な断念によるものです。これは犬や馬など愛情欲求の顕著な動物でも見られる反応で、非常に基本的な反応と思われます。自分だけが愛情を受けられないという認知から、まず軽い怒りと不信を含んだ不満感である「すねる」という状態が発生し、そのまま経過するとやがて冷たい感情を含んだ無関心に変わるものです。このような形での自己退却がより早期に発生する程、子供は単純に外界への関心と感情を失った、自閉症に近い性格や人格へと固着していくのではないでしょうか。

  もうひとつの流れは、従順型への動きが不完全であったときの安定策として生じるものです。原初的な愛情断念が生じるほど冷酷な環境でなく、愛されることを求める方向に動きながらも、人に近づこうとする努力が功を奏さない場合、多くの場合は不満と怒りという結果に終わるような状況である場合に、子供は現実世界を自分が情熱を持つに値しないものと見なし、他者との距離を置き、自己の内面を生きる場とする態度が発生します。
  不完全な従順型態度から離反が生まれるという過程は、心理的には2つの目的効果を持っています。ひとつは葛藤の回避です。従順型態度は内心で怒りを蓄積するものであり、怒りを背景とした敵対的態度という別の選択肢が潜在的に常に準備されることになりますが、そのどちらを取って良いかが微妙な境目になるような事態になると、行動が不能となりパニック症状が発生する危険があり、その回避として離反行動を取るものです。この葛藤回避は非常に基本的な心理機能であり、葛藤を起こす可能性のある状態が知覚されると、葛藤は自覚されることなく、結果としての対人忌避感のみが生理的な感覚として自覚されます

*葛藤の破壊作用について
  基本的情動間の葛藤の破壊力の大きさを指摘しているのがホーナイの理論です。事実、この考えは神経生理学的な観点でも注目されて良いのではないかとTSは考えています。比較的低級な動物でも、全く異なる2つの行動(例えば敵と戦うか逃げるか)の選択肢の間で、ちょうどどちらともつかないある狭いバランス点のような状態に置かれると、動物のストレスが極大になり、突然「転移行動」と呼ばれる、その場の状況とは全く無関係な行動を示すことが知られています。この際には神経生理学的にも注目できるような変化がおきており、場合によって神経機能に破壊的作用まで及ぼすことが考えられるのではないかと、TSは推測しています。
  このような考えで、TSは、パニック不安の原因はこの葛藤による破壊作用への恐怖であり、精神病に見られる現実離脱も、あるいはこの破壊的作用の結果起きているのではないかと推測しています。


  離反退却のもうひとつの心理効果は、内面の純粋さを保てることです。これにより、迎合従順型態度で発生した自己欺瞞に陥ることから逃れ、彼彼女は自分の心の中に生じた愛情欲求や他者への不満不信や怒りを比較的そのまま認識できる状態を保つことができます。これは自己の感情を見る自己という、極めて人間特有の新たな心理過程の発生により、彼彼女のその後の人生において自己をどのように方向修正していくかの可能性をいう新たな局面と共に、現実世界において生きるための生き生きとした情動を次第に失っていく危険をも同時に意味しています。
  不完全な迎合追従で生み出される離反退却の中で、比較的感情の豊かさが保たれている場合、彼彼女は現実世界に対して概して幻滅感を抱き、夢や空想、マンガや文学の世界を自分が感情的に生きる世界と考えたりします。また家族や世間に対しては皮肉な無関心の一方で、特定のアイドルに熱狂的になるといったのも、このような心理構造での現象でしょう。このように軽度な迎合従順と離反退却がバランスを保つようにしてできた人格といのは、従順迎合が近代のマジョリティであるのに対して、現代のマジョリティとまさに言えるものでしょう。

(4)一次的心理過程における人格形成
  以上、思春期以前の段階において発生する心理過程について説明しましたが、基本的不安への対処方法として敵対攻撃、迎合従順に加え、離反退却と自己を見る目、この3つの方向への動きが人の自己と他者に対する基本的駆動力となり、その組み合わせが多くの人間心理に対する網羅的な構成要素となります。
  また、人は基本的不安を持つ人と持たない人に単純に分かれるのではなく、様々な心理場面の積み重ねとして、記憶が蓄積するように、基本的不安に駆動された上述の心理と、現実的な信頼に基ずく自発的感情としての愛情、敵対心、離反などの感情を同時に持ちます。個人の性格はこれらのミックスにより形成されるものであり、組み合わせのどの要素がどれだけ他より多いかにより正に千差万別となります。
  不安の抑制策として発達した感情と、現実認識に基づき自発的に生まれた感情が同じ方向を向くとき、本人の意識の中ではそれは区別されず、単一の感情として自覚されます。これは精神分析が説明する無意識作用の中でももっとも端的なもののひとつです。しかし心理過程としては全く異なる原動力を持つため、意識下で真の感情と心理症状側の感情の揺れとがミックスされた結果としての意識上の感情はきわめて微妙で不定な動きを見せるようになります。これはしばしば人間心理のドラマとなります。

人格の分離と自己疎外
  神経症やボーダー症例などの心理症状は主に思春期以降に発生します。これは次に説明する二次的心理過程が発症の引き金になるからですが、心理障害の芽となる背景的な人格形成上の問題が、子供時代において進行しています。またその後発症する心理症状の重さも、この問題の程度にほぼよるものと考えられます。
  ひとつは人格の分離現象で、主に迎合従順的態度と敵対攻撃的態度との間に生じるものです。不安定な迎合従順方向への動きの中で、蓄積された怒りから切りかわる敵対攻撃方向が同じように性格の一部として成長し、子供時代には性格の裏表が激しい、行動の一貫性がないといった現れ方をします。もう少し穏やかなものとしては従順迎合と離反退却の2つの方向での人格分離が一般的なようです。
  人格の分裂と統合は心理症状において極めて重大なテーマですが、それが問題となる自我というものが子供時代ではまだ弱く、分離という単純な方法で心理障害として破綻することを免れている、猶予状態、発病までの潜伏期間のような状態に当たります。

  もうひとつ進行している人格上の問題は、やはり心理症状の極めて大きなもう一つの柱に対応するもので、自己疎外です。これは迎合従順における自己欺瞞と離反退却における感情の非活性化により主に駆動されます。いづれの場合も、自己の自発的な真の感情を停止させるものであり、感情は危険に対処するために自動的に駆られるものか、もしくは枯渇したものになります。この進行が、子供時代において既に、自分の本当の感情が分らない、自分が何者なのかが分らないという感覚を生んでいる場合もあります。
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