■ 自己建設型の生き方に変えるとは.. / しまの |
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もうひとつ共通した話としてコメントしとうこうかな。
「自己建設型の生き方へ」で、価値観道徳観や人生観にについて説明しているわけですが、 自己建設型の方が「優れているから」、 または「理想的であるから」、 もしくは「合理的だから」、 さらには「自分の利になかっているから」、 「そのように思考法を変えよう」と考えてそうできるものではない感じですね。
これもさっきの話と少し関連していますが、「自分の思考法はこうだからこの思考法に変えよう」は、得てして自己否定のひとつのバージョンになりがちです。
自分を「こんな自分に」という思考は、その内容と強度を問わず、基本的には心に枠をはめる姿勢です。 自分を他人のように見る、自己否定の態度であり、幸福感は少ない。つまり行き詰まることになります。
最初から最後まで、全てに渡って、「怒りを捨てる」というテーマが流れているように思います。 「自分の思考法をこう変えよう」は自分に怒りを向けるパターンであるように感じます。
まず自己を受容する。なぜならそれが現実だからです。 「欺瞞」は基本的にストレスがあります。人はそれを捨て「真実」に向かう基本的本能を持っています。 「怒り」によって「こうでなきゃ」という枠をはめることで、この本能が妨げられます。 怒りを捨てることは、ここでは真実に向かう力として作用します。
その上で、生きるための選択肢として直面した時に始めて、思考法の変革ということが意味を持つように感じます。 現実を受容した時、それは「自分の思考法を変える」という感覚の中で行われるのではないように、自分の体験からは感じます。 現実を受け入れることは、自分が自分として生きれるかどうかという瀬戸際に自分があるという心底からの自覚であり、自分が生きるために一つを選択し、他を完全に捨て去るということを心底から感じる、知的ではなく情動的な体験として起きるように思います。
「技術」と言えるのは、怒りを捨てることがあり、あとは真実に向かうという姿勢になる。 その方向での各論として理論として説明している様々なことが出てくる。 そんな流れを考えています。 |
No.142 2004/02/19(Thu) 16:16
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