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2004.2


絶望を超えて−2 / しまの

最大の治癒ポイントである「自己操縦心性の除去」とは、人格の根底そのものが健康なものへと入れ替わる変動です。
その際、心を去ろうとする自己操縦心性は、断末魔の毒を吐くような心理状態をもたらします。
同時に「死の本能」が動員されます。これは強大です。徹底抗戦する必要があります。

参考:
「感情分析」技法による人格改善治療 6.2 感情分析の基本的進行過程 (8)自己操縦心性の破綻
「感情分析」技法による人格改善治療 7.おわりに

関連するメール返答です。
最初のは自殺を示唆するようなものに対して僕の方でちょっと言い訳っぽい言葉も入っていますが、まあ嘘はないです。
付け足しとして2通めが、僕の考えの核心を表現していると思います。
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>わたしは30位でなんとか理想通りになれなかったら、ダメだと思っています。

僕は、なれませんでした。
今も理想通りにはなれていません。
でも、生きていることが楽しいし、嬉しいと今は感じています。

今お伝えできるのは、どんな風にして、こうなったのかという事実だけです。

>このような考えが病を呼ぶのは分かりきっていますが、捨てられないのです。
>それを捨ててまで生きていたいとか思えないのです。

まさにそう感じました。
自殺を決意しました。
思考はそこでストップしました。
自殺の決行が伸ばされている時にある偶然が僕をこの世界につなぎとめました。
そんなことが何度かあった後、僕は生きていることを苦しんでいない自分に気づきました。

つまり考えたこと、感じたことは全くAさんと同じだったのです。
そして、それが通らなければならない通過点であったことを、後で知ったわけです。

全てそれで良かったのです。
ただ、命をこの世界につなぎとめておく、それは僕自身の意志でそうしたわけではなかったけど、それがあまりに大きな世界を分け隔てていたのです。

僕は偶然にこの道にたどり着いたので、どのように人を導いたらいいのか、分かりません。
自分で真実と今感じていることを書き続けたいと思います。
もちろん僕よりももっと適切にこうしたことを説明してくれる方もおられると思うし、僕とは違う道の開き方の考え方もあるでしょう。
答えはただ生きることだけの中にあると信じています。
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ひとつ付け足しです。

>> 自己受容とは、歓喜でも平安でもありません。
>> 生きる意志を伴う諦め、絶望とも言えます。

この「諦め、絶望」とは、理想に近づくことへの諦めでも絶望でもありません。
自分とは別の人間になろうとすることへの諦めであり絶望です。

>このような考えが病を呼ぶのは分かりきっていますが

これは逆です。
心の病が、このような考えを生み出しています。
「それを捨ててまで生きていたいとか思えないのです」という感情は、この病が自らに絶望し、心を去る時に、必ず生み出す感情であり、通過点です。

知っておいて欲しいのは、この病によって、かえって、理想に向かって自分の全力を尽くすことができなくなっていることです。自己嫌悪感情によるブレーキはその最たるものです。

絶望を伴うような自己受容を経て初めて、恐れることなく、理想に向かって自分の全力を尽くすことができるようになります。
それによって今までよりもはるかに、自己を高める可能性が生まれてきます。
その心理状態はAさんにとって未知のはずです。
それはただ生きている中で得ることができます。これには確信を持っています。
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お伝えついでに、僕は理想的な20代を送ることはできませんでしたが、今は自分の年齢に応じた、けっこう理想に近い状態に近づいていると感じています。
不健康な医者じゃ、信憑性ないですもんね^^;

また、自殺念慮とかの衝動に際して、とにかくそれを行動化しないこと。これが感情と行動を別にするという、ハイブリッド療法の基本原則のまさに端的なものです。
前向きでない感情は全てそうです。感情を正そうとはせず、ただ行動化しないこと
それだけでいいんです。まさにその時に、未知の治癒への変化が起き始めています。

No.144 2004/02/20(Fri) 10:04

絶望を超えて−1 / しまの

しばらく、メール相談での返答などからポイントなどを原稿メモがてらUpしておきたいと思います。

ハイブリッド療法では、まず「自己建設的生き方」への認知修正を図り、その後で分析によって感情の膿などの無意識への取り組みに進むという手順を考えています。
参照:ハイブリッド心理療法とは3.進め方の概要
まず基礎体力をつけて、それから、理性ではどうしようもない部分について手術する、という感じですね。

このような手順を取っているのは2つの意図があります。
まず、認知療法アプローチと精神分析アプローチの療法が必要不可欠であること、最終的には両者が有機的に結びついた姿勢が治癒をもたらすという考え方。
もうひとつは、最大の治癒ポイントである「自己操縦心性の除去」に際しては、感情的な動揺が最も激しくなるため、それをできるだけうまく乗り越えられるような準備をするという考えからです。

でこれがうまく行くかどうかにしても、自己操縦心性の除去に際しては、前向きの感情はなくなってしまいます。
これに触れるの入門編では後の方かと考えてはいましたが、療法の進行によらず、心理障害は動揺と絶望をもたらすものになっていますので、これを乗り越えるために、これを知っておくということをやはり伝えたいと思っています。

最初は、自己分析は、自分の中にある「べき」や「理想化された自己を生きる衝動」を見つけ、それを消し去ろう、というような姿勢で行われるかもしれません。まずそうなります。
しかし、実際にそれが除去される時は、それが消えるという意識表現にはなりません。
むしろ逆に、「この感情は自分にとってあまりに重大だ。それが実現できないなら生きる意味はない。死こそが解決だ。」という感情になります。
これは心理障害の原因である病んだ心が自らに絶望して心を去ることの表れであり、理屈からしてもそうなります。

このことを十分に知っておき、この際にはもう何も考えず、ただ生きることを維持することだけが、行うべきことです。
このことを表現したメール返答を載せておきます。

No.143 2004/02/20(Fri) 09:39

自己建設型の生き方に変えるとは.. / しまの

もうひとつ共通した話としてコメントしとうこうかな。

「自己建設型の生き方へ」で、価値観道徳観や人生観にについて説明しているわけですが、
自己建設型の方が「優れているから」、
または「理想的であるから」、
もしくは「合理的だから」、
さらには「自分の利になかっているから」、
「そのように思考法を変えよう」と考えてそうできるものではない感じですね。

これもさっきの話と少し関連していますが、「自分の思考法はこうだからこの思考法に変えよう」は、得てして自己否定のひとつのバージョンになりがちです。

自分を「こんな自分に」という思考は、その内容と強度を問わず、基本的には心に枠をはめる姿勢です。
自分を他人のように見る、自己否定の態度であり、幸福感は少ない。つまり行き詰まることになります。

最初から最後まで、全てに渡って、「怒りを捨てる」というテーマが流れているように思います。
「自分の思考法をこう変えよう」は自分に怒りを向けるパターンであるように感じます。

まず自己を受容する。なぜならそれが現実だからです。
「欺瞞」は基本的にストレスがあります。人はそれを捨て「真実」に向かう基本的本能を持っています。
「怒り」によって「こうでなきゃ」という枠をはめることで、この本能が妨げられます。
怒りを捨てることは、ここでは真実に向かう力として作用します。

その上で、生きるための選択肢として直面した時に始めて、思考法の変革ということが意味を持つように感じます。
現実を受容した時、それは「自分の思考法を変える」という感覚の中で行われるのではないように、自分の体験からは感じます。
現実を受け入れることは、自分が自分として生きれるかどうかという瀬戸際に自分があるという心底からの自覚であり、自分が生きるために一つを選択し、他を完全に捨て去るということを心底から感じる、知的ではなく情動的な体験として起きるように思います。

「技術」と言えるのは、怒りを捨てることがあり、あとは真実に向かうという姿勢になる。
その方向での各論として理論として説明している様々なことが出てくる。
そんな流れを考えています。

No.142 2004/02/19(Thu) 16:16

自己受容についてその2 / しまの

ご参考まで、メール相談への返答内容を、掲示板見ておられる方にも共有ということで。
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怒りなり自己嫌悪感情なり、「病んだ心とも言える感情を持つ自分」に対してどんな姿勢で臨むかということになると思います。

それら障害感情をどのように「分析」しようとも、結局のところ、どんな姿勢で臨むかは本人の選択といえる、ある分岐点があります。

自己否定とは、「こんな感情じゃ駄目だ。何とかしなくては。」というような姿勢です。
自己受容とは、「自分はそんなに優れた存在ではないかも知れない。でもこれが自分だ。生きて行く自分だ。」というような姿勢。
問題があることを認めまいとする姿勢と、認め受け入れる姿勢です。

そして心の病とは、皮肉なことに、それを認め受け入れることから、治癒への道が始まるように感じています。
それを駄目なものと否定し、取り除こうとすると、そのストレスにより心の病がより深くなるようです。

これはとても微妙な話で、「障害感情をなくすために自己受容しよう」と考えてもそうなれません。
「障害感情をなくすために」という感情が残り続けるかぎり、自己否定をやめることができないからです。

自己受容とは、歓喜でも平安でもありません。
生きる意志を伴う諦め、絶望とも言えます。
そこで生きる意志が欠けたら、この病に単に飲み込まれるということです。

感情を越えた真実を知ろうとする理性によって、初めてここに自分に導くことができると言えるかも知れません。
これがまさに「医者の心」です。


否定と受容は、外からの評価として与えられる条件ではありません。
どんなに良いことに対しても、どんな悪に対しても、人は、それに満足できず変えようとする時に、
2つの姿勢を持つ選択が、内面にあります。
「それじゃ駄目でしょ」と、過去を否定し、破壊しようとする姿勢。
そして「こうしてみようよ」と、今を受け入れ、共に歩もうとする姿勢。
前者が怒りにより物事に対処する姿勢で、後者が愛により物事に対処する姿勢です。

そして愛により対処する姿勢を取った時、人は自分で気づかないまま、未知の心の成長を開始します。
怒りによる姿勢では、成長は止まったままです。心身の損傷を仮定した感情だからです。

こうした未知の変化に自分を導くことは、自己受容によって始まります。
「こうでなきゃ」という自分を捨て、一度暗闇の中に飛び込むようなことかも知れません。

言うまでもなく、「自己受容しなきゃ駄目だ!」は同じ怒りによる対処の繰り返しですね。
まずはこんな自己受容というものがあるということを知っておき、焦らず自分を見つめ直すことから始めて頂くのがいいと思います。


あとひとつだけ、「自分に責任を持つ姿勢」について。
これは、「自分で自分の幸福を追求しようという決意」によって持つことができます。
つまり人に幸福にしてもらうのでなく、自分の努力によって幸福になろうという決心です。
そして不思議なことに、この決心をした時、人は実際に幸福に一方近づいているようです。

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ひとつ付け足すと、「自己受容」とは、ちょっと禅の世界を思わせる境地のような感じがします。
自己受容とは、自己を受容しようとすることではありません。
自己受容しようと考えた時、自己受容できなくなります。
自己受容しようと考えるということは、考える自分とその対象としての自分が別れることであり、自己否定です。
自己受容とは、それをやめることであり、自分について考えるのではなく、自分自身になることであり、自分自身に戻ることです。

No.141 2004/02/19(Thu) 14:23

自己受容についてその1 / しまの

 土日がスキーでほぼ潰れるのと、仕事が去年より忙しいというか面白い内容になってきた事、さらに書こうとしてる内容の難しさもあり、サイト原稿のUpがちょっと停滞気味。
 一方メール相談が増えており、そこでおおよそ感じるのは、「健康な心への道」への最初の方向付けをつかむのが課題であり、この一番最初の段階が実は一番難しい部分であるとも感じている次第です。

 この部分は大体Up済みのハイブリッド療法の本論部分ではあまり表現できていない部分であり、今執筆中の入門編で詳しく書かねばと思っているところなのですが、表面的な言葉や思考を超えた姿勢とかの話なので、言葉で表現するのが難しいところでもある。

 要点は、自己建設的な思考法にせよ、感情分析にせよ、それをどんな姿勢の中で行うかということ。
 「自己受容」の姿勢の中で行うことが大切です、と。
 一方、同じ取り組みが「自己否定」の姿勢の中で、つまり、自分のあら捜しをする姿勢、「こうならなくちゃ。こうなれない自分は何て駄目なんだ」という姿勢の中で行われては、元も子もないというか、思考する姿勢は変わらず内容が変わっただけ、ということになりがちです。

 サイトの専門的な表現で言えば、療法の取り組みそのものが、自己操縦心性に加担するような形で行われてしまうことがあり得るわけで、そうでなく、真の自己に加担する形で行われることが望ましい。
 しかし実際のところ、取り組みの最初の頃においては自己操縦心性が人格の主要部分であり、真の自己はまだあまり育っていないところで行うので、自己操縦心性のエネルギーを借りて取り組みを進める形にならざるを得ません。
 つまり、「建設的姿勢」を「なるべき自分の姿」として思い描いて、自分をそれに当てはめようとしたり、自己嫌悪が生み出す「唾棄された自己像」を確認するかのようにあら探しをする姿勢で自己分析することになりがちです。
 なりがちというか、理屈から言って必ずそうなります。僕もそうでした。

 その罠になるべくはまらないよう、「自己分析をしようとする自分の姿勢そのもの」に意識を向けてみるのがいいかな、と思います。

 自己受容とか自己否定とは、入門編の言葉でいえば、自分への怒りを向けるかそれともそれを捨てるかという「選択」についての話です。
 心理障害とは、人格の土台そのものが自分に怒りを向ける姿勢になっている症状とも言えます。
 それを解除する時がどこかにある。それを探って行って頂きたいと思います。

 具体的な話としては、たとえば、ハイブリッドの実践をしようとしたが、何もうまくできない。やはり自分は駄目なんだ。
 そんな気分に陥るかも知れません。
 それこそがむしろ最初の転換の候補と言えます。
 最初からすぐ自分を変えるなんて誰にも不可能なことです。そんな非現実的なものを自分に厳しく押し付けていないか。

 ハウツー的には、「怒りを解除する技術」という話になります。これ本当大きいんですねー。

No.140 2004/02/19(Thu) 14:11

負け犬の遠吠え..? / しまの

先週金曜の朝日新聞に、「迷いつつ探る『私の生き方』」との特集記事あり。
話題の著書『負け犬の遠吠え』を読んでの投稿など。

どんなに美人で仕事ができても、30代以上・未婚・子ナシは「女の負け犬」なのです。――著者
投稿は、「主婦だっていいことばかりではない。これも負け犬の遠吠えか」。
中見出しの言葉「自分が充実していれば『勝ち』」

女性にとって自ら出産するかどうかは、人生にとってとても大きな事柄だと思います。
一方で、実際にその選択肢の前に立てるかどうかは、自分ひとりの行動でどうにもなるものでもない。
この点、男性にとっての人生の成功の問題とは大分違う面もあるように感じます。
だから、どんなのが幸せな人生なのかという女性達の議論には、あまり加わる気はないですね。

それはさておき、この記事を読んでいて感じたのは、「人生を比較して勝ち負けを問う」という感情の気配でした。
これは、心理障害を生み出すメカニズムである「自己操縦心性」が底流に持つ、「自分の人生そのものが世界の目の向けられる競争の場にある」という感覚です。
(参考:心理障害の感情メカニズム 2.2 自己理想化と自己操縦心性 (3)理想化された自己の天国と地獄

この感情が強くなればなるほど、この世界は敵に満ち安全ではないというストレスを意味します。
幸福感の元になる脳内物質の放出が抑制され、基本的に幸せを感じることが難しい状態です。
そのような心の土台の上で、「充実していれば勝ち」と考えても、やはり幸福感は得られないことになります。

ちなみに、このような感情は人格の土台で起きているので、「生き方」についての思考法を変えたところで消すことはできないというのが、私自身の経験的考察です。
また、精神分析的な取り組みにおいても、直接対象とすることはできないとの経験的考察です。
より具体的な対人感情の膿などの分析を通して、人格全体が健全化する程度に応じて、このような「人生競争感覚」は減少し、反対に「世界が自分の味方」という感覚が増えてくると考えています。
この結果、人格の根底レベルでのストレスが減少し、幸福感が増大するわけです。

No.133 2004/01/27(Tue) 10:05

 
Re: 負け犬の遠吠え..? / (~o~)

このサイトを見ているものなのですが、
生き方の思考法を変えても消せない、精神分析でも直接対象することはできない
とありますが、このサイトには、行き方の改善と、詳しい精神的な取り組みこの両面からとして治そうという風にあるように見受けられますが。
これは、私が詳しくまだ読んでないからでしょうか??
他には、どのようなことが必要なのでようか?
社会と接していくことが必要ということでしょうか?

No.136 2004/02/10(Tue) 22:16

 
Re: 負け犬の遠吠え..? / しまの

確かに説明をちょーはしょった文章でしたね。
これは「取り組みの対象にできる感情とできない感情」というテーマであり、詳しく説明するとそれだけでひとつのサイトテーマができるほどの話となります。

何の話かというと、身体の病気に対して、「治療の対象にできる症状とできない症状」という話と全く同じです。
たとえば、「発熱」は何らかの問題を表す症状であっても、発熱自体は「治療」の対象にすることはあまりできません。
もちろんそれが身体への負担を加えるようであれば、緩和するための処置も有用です。解熱剤など。

要は、人間の複雑雑多な感情それぞれ、扱いが異なるわけです。
だからこそ、身体医学と同様に、これほど理論が沢山になります。

「人生競争感覚」は、全てのひずみの結果とも言えるようなもので、これ自体はあまり直接「治療」対象とはならないと、僕自身の経験から感じています。
もちろん、この感覚を自覚し、自分の生き方に何か歪みがあるという問題意識を持つことは意味があると思います。

では直接対象となる感情とは何かというと、もっと具体的な、他人や自分への感情、つまり敵意、憎悪、依存感情、賞賛、嫌悪といった感情です。
精神分析で扱うのは、こういった直接的な人間関係の感情が主なものになります。人間の心は本来この領域にあるものということですね。
多少とも、それに自ら突入するという意識も有益だと思います。

漠然とした人生競争感覚ではなく、具体的直接的な対人感情への取り組みということになります。
それを通して、精神的安定が増し、内面の強さを感じ、自信が芽生え、その結果として人への無条件な肯定的感情が生まれて来たとき、人生競争感覚も自然と消えているという感じになると思ます。

なお、同様にというかさらに典型的に、直接取り組み対象にできないものに「パニック不安」などがあります。
僕自身の経験でも、パニック不安は、なぜ起きるのか、そしてなぜ治ったのか、全く自覚はできないままに、治癒全体の進行に応じて減少したものでした。
(参考:パニック不安のメカニズム

No.137 2004/02/11(Wed) 02:41

 
つけたし / しまの

ちょっと専門的に感情メカニズム理論でいうと、
「人生競争感覚」は自己操縦心性がもたらす3つの基本感覚、つまり1)2極化思考、2)持続的緊迫感、につづき3)人生競争感覚として位置付けられます。

このため、自己操縦心性が人格を占める割合とその強度に応じて、この感覚も強烈になります。
また自己操縦心性の弱化除去全体に応じて希薄化していくということになります。

参考:心理障害の感情メカニズム 2.2 自己理想化と自己操縦心性 (3)理想化された自己の天国と地獄

No.138 2004/02/11(Wed) 11:54

 
Re: 負け犬の遠吠え..? / (~o~)

詳しいご説明どうもありがとうございます!
とてもよくわかりましたー。
何かあったら、また質問させていただきたいと思いますー!(^^)!

No.139 2004/02/11(Wed) 19:50

★少しエッチな心理学★ / ayu


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No.134 2004/02/08(Sun) 12:12

 
Re: ★少しエッチな心理学★ / しまの

う〜ん、こりゃちょっとサイトの主旨と違うなあ。
島野の掲示板のための島野の勝手な判断ということで、後日消しときますんで、ご了承よろしくー。

No.135 2004/02/08(Sun) 18:30

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