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過去ログ
2004.3


3つの真実-2 / しまの

2つめの真実とは、「今」という真実。
今を生きる上での真実であり、一般にいう真実というテーマが幾つも出てきます。
真の自信とは何か、真の愛とは何かとか。

そして3つめが「未来」という真実。
これが「未知」という話になります。未来は未知にある。
それは宗教の経典が定めたような姿でもなく、誰かが「人はこうあるべき」といったような姿でもなく、自分自身が思い描いたものでもない。
その未知の変化への源泉が自分の中にあることをつかんだ時とは、
実はそれこそが人生を生きる上での最大の自信感の源になるのだろうなあと感じます。


さて、駒を振り出しに戻すと、この話もやはり「そうなれた自分の姿を思い描くことでそうなれるのではない」ということから始まります。
それを理解しておくのは、焼け野原に誰も知ることなく生まれる緑の草の芽を、絶望の自棄の中で踏みつけないためにです。
それをちょっとでも視野に捉えたら、それに大きく注目して、それに自分の全ての力をそそぐためにです。
まずは、今自分の立つ、冷めた熔岩の岩石に覆われたような大地を、受け入れていく必要があります。

No.167 2004/03/31(Wed) 12:32

3つの真実-1 / しまの

前のカキコまでをメール回答シリーズのひと区切りとして、その流れで考えたこと。

絶望にただ耐えればいいわけではない。その代償というか報酬となるものがあり、「真実を知る」ことだと表現できる。
これは感情分析の過程全般に言えることで、分析体験とは、自分自身で知りたくなかった、または知ることができなかった、自分自身の苦い感情に出会う過程であり、それを受け入れることは、それもひとつの絶望の過程であると言える。

そう考える時、そこで知る「真実」には3つの真実がある。

ひとつは「過去」という真実。これは「自分の心を知る」ことでもある。
過去の苦い感情が、そのきっかけとなった出来事そのものは別としても、その苦い感情は、誰かのせいでもなく、運のせいでもなく、自分からの心の動きであったことを知る。

心理障害の方に典型的に見られるものに、過去の「誰か」のせいで自分が駄目になったというものがある。
そして憎しみを抱き続ける。この時、憎しみの感情によって脳内毒が放出されると同時に、怒りの感情によってその毒に対する脳内麻酔が放出される。
この人は「自分の心を知らない」ままでいると同時に、自分で気づくことなく、脳内毒の蓄積による人格(と恐らく身体機能も)の衰弱のレールの上にいることになります。

過去という真実を知ることは、ここに心理学の目を差し入れるという、新しい行動の介在を意味します。つまりその学習が必要です。

同時に、それは思い出せなかった過去の感情の想起という、劇的な現象を伴います。
それについてはサイトの理論では触れませんでした。著作としては小説の方で描写することになる予定。
それは場合にして極めて大掛かりなものであり、精神分析というのが「生涯の過程」と言える特徴を見せる端的なものである。

No.166 2004/03/31(Wed) 10:17

未知の自己へ変化-12 / しまの

揺らぐことのない自信とはどう得られるのか。
ハイブリッド理論では、これに対する明確な立場を取っています。
「偽りなき自己の欲求に邁進できること」とかと言えます。

この辺で、世の中の各種の思想と違ってくる場合があります。
ハイブリッド理論では、これが正しく他は間違いだという言い方はしません。
こう考えるという選択があり、そうするとそうなるという事実として説明するだけです。

選択は、各自に任されます。


■プライドと自信

プライドと自信は大分違いますね。
まあ単純な心理学定義では、プライド自己を高く評価することで、自信自分を信頼することです。
本質的な違いは、プライドは自分を他人のように外から眺めた結果であることです。
いわば、自分の写真を見てかっこいいかどうか評価するようなもの。

プライドそのものは別に不健康な心理ではありません。
誰でも自分の写真を見て、悦に入ったり幻滅したりするように、自分を眺めて、期待する自分と比較して評価します。

自信というのは、全く別物で、自分を信頼できるという感覚です。信頼するとは、信じて頼める。
あれこれ考えずに、自然な流れでものごとがうまく行くという感覚です。
これが育つと、精神的にとても安定して、より幸福な状態になります。
だから皆「自分に自信を持てること」を目標にします。
ハイブリッドの考え方でも、それは同じです。

ではどうすれば自信が得られるか。
ここに心理学があります。

プライドばっかり追い求めると、自信が得られなくなります。
これはまるで、延々と自分の写真を眺めて、いいか悪いか考えているような状態です。
自分の姿見を良くしたければ、健康な食生活をして、運動して体をきたえ、良く寝てお肌も健康に保ち、..etc。
そういった「活動の過程」が、高い自己評価につながるような「成長」の元なのに、
プライドつまり自己評価にかまけている時間、それが止まってしまうのですね。

一方、その「活動」そのものを楽しく感じ、何もあれこれ考えないでも、そうするようになると、
結果として自分の姿も良くなる。
こうなると、ちょっとやそっとではぐらつくことのない「自信」という感じになってきます。


つまり、プライドと自信は似ているけれど、実はあまり両立しない側面があります。
人が生きる姿勢として、このどちらを重視して生きるかという、選択があり得ます。
ハイブリッドの考え方とは、この選択の深刻さを自覚し、この違いを見分けられるようにすること、
そしてプライドではなく自信を目指す姿勢をお勧めするものです。

で結局何が人に自信をもたらすかと言うと、嘘偽りない欲求に従って活動するということになりそうです。
具体的な内容は人により千差万別ですが、やはり、
「創造的で生産的な活動」そして「良い人間関係」が人が幸福になるのに大切な要素のようです。


で、健康な心への成長のために、取り組む必要が出るのは、2つのことです。
1)創造的で生産的な活動への欲求の芽を積極的に探し、それを伸ばすこと。
2)真の欲求ではなく、プライドのために自分を偽るように駆り立てていた衝動を見極め、その不実さを感じ取ること。

これはちょっとつらい体験でもあります。

プライドと自信のバランスというより、プライドが自信には全く役に立たないことを知る。
そして自分で「欲求」だと思っていたのが、実は自分を別の他人に仕立て上げて、
その姿にプライドを見出そうとしたものだったことを知る。

これは頭で理解することではなく、感情として味わい体験していくことです。
生涯終わることのない過程であり、その時に自己も変化します。

今頭で考えて答えを出すのではなく、「生きる」ことだという、ゆえんです。

No.165 2004/03/30(Tue) 16:03

未知の自己へ変化-11 / しまの

未知の自己への変化ということで説明してきましたが、
いままでの説明の流れは、「既知に絶望した時に未知が現れる」という見方と言えます。

これはつまり、人間は基本的に完全な存在ではなく、
(そしてもうひとつ「宇宙に意志はない」という世界観が加わるのですが、)
現実を生きる上で絶望はつきものである。

これを破滅としてではなく成長として糧にするという話になります。

これは成長の痛みという負の側面に着目した話の仕方であり、正の側面に着目した話もできます。
そして、痛みに耐えるというマイナス側面と、前を向くために何かをつかむというプラス側面、
この2面がいついかなる時も同時にある
のだと考えるのがいいでしょう。

絶望のあとに未知が現れるという誘因をマイナスの誘因としたら、
プラスの誘因とは、「真実を知る」ことだと考えています。

耐えればいいというわけではありません。
その中で、真実をつかむことができます。また、それをつかむ姿勢が必要です。

それは微動だにしないものであり、人生を生きる上での、内面の核となるものです。
心理障害からの回復ということに、時として、単なる健常人への復帰以上の価値を感じることがあります。
それは明らかに、この真実が明瞭に示されることにあると思います。

その具体的な真実とはなにか。
ひとつは「自信」の話でしょうね。あと重要なのは「愛の回復」かな。
「愛の喪失と回復」はメカニズム論の最後を飾るものとして、僕の思想の最大の核を書きたいと思っているのです。

まず「自信」について触れたもの。

No.164 2004/03/30(Tue) 15:38

未知の自己へ変化-10 / しまの

「それが全てなのか」この疑問はやがて、自分の価値観世界観の解体にまで導くことができます。
今までの思考を全て解体したとき、初めて、偽りのないものが何なのかが見えてきます。


■なぜ軽蔑がそもそもあるのか

次は、この絶対自分道徳を疑ってみることです。
なぜ人と明るくお喋りできなければいけないのか。
最初は、それは疑問を挟む余地のないものに見えるでしょう。だから今までがあったわけです。
でもそれは、嘘だらけの大人が言う道徳と、どうれだけ違うものか。

そして何よりも、そうした絶対基準を自分に押し付けることで、実際のところ自分が伸びるのかということです。

こうした疑問は、やがて今までの価値観人生観の解体まで続けることができます。
「こうでなきゃ駄目だった」。
それが全てだったと思います。でもそれは根本的に、何かおかしかったことが分ってくると思います。
それはひとつの絶望でもあります。

でも、そんなものとは全く違う、自分自身への圧力でもないし、人への優越心でもない、
自分自身への味方のような気分の中で、純粋無垢に、何かをしたいという欲求の源泉が人間にはあります。
上のような、これまでの生き方の解体の中で、それはやっと芽を出す環境が整いはじめたことになります。

その芽は未知のものとして現れます。
未知のものがあるという姿勢の中で、上のような自己への対話を続けることがお勧めです。

No.163 2004/03/29(Mon) 16:35

未知の自己へ変化-9 / しまの

■軽蔑されたという感情はどこから来るか

これが一番心理学っぽい話で、こんどは言われた方が「軽蔑された」と感じる感情がどこから起きるかという話です。

これが面白いというのも変ですが、言う方に軽蔑感情があったかどうかとはなんと無関係なのです。
そして、重大なことに、「自己軽蔑感情」がある場合に、「軽蔑された」という感情が起きます。
つまり、自分で自分を軽蔑しており、それが引き出されただけなのです。

なぜこんなことが起るかというと、自分で自分を軽蔑している感情は実に苦しいものなので、
自然と、それが自分自身ではなく他人から与えられた感情だという感覚になる、心理メカニズムがあるわけです。
ただ、この結果、人への敵意がかき立てられ、人間関係が悪くなり、心の底の自己軽蔑に拍車がかかる、
という何とも逆効果の結果が起きるわけですが。

これは、人間の心身メカニズムの中で暴走して自分を破壊する方向に向かうものの、代表と言えます。
(身体面にもアレルギーとか、自分を守るための機能が逆に自分を破壊するものがありますね)

これへの対処は、とにかく、「これは相手に軽蔑されたというより、自分が自分を軽蔑しているんだ」と考えることです。
そう考えても、感情の苦々しさはあまり変わらないでしょう。
しかし、次にすべきことの方向が少し変わってきます。


つまり、その相手に「屈辱を晴らす」ことが解決ではないということです。
結局のところ、自分が自分を軽蔑しているのです。

なぜ軽蔑するのか。
それは絶対専制的な、自分だけの道徳宗教のようなものを持っているからです。
仕事ができなければいけない。人に明るくしなければいけない。やるきがなければいけない。

No.162 2004/03/29(Mon) 16:33

未知の自己へ変化-8 / しまの

続き。
「軽蔑」に出会うとはどうゆうことか。


■軽蔑感情はどこから生まれるか

ごく簡単にまとめると、以下のようなからくりがあります。
まず子供の頃に適切に愛されないで育ち、人への安心感や仲間感が育っていない。
人への不安感を押さえるため、また自分の自信のため、人への「優越」が重要になる。とにかく相手を打ち負かせれば、その時の優越が得られる。
人に出あうごとに、この勝負の世界になる。

これはしかたのないことです。そうなってしまうだけの、不遇の来歴があったからです。
ですから、こうした軽蔑感情を「正そう」とはせず、受け入れます。

そして、これからの自分を考えた時、どうするのが良いかです。
つまり、人に優越することが重要だと感じる、この自分の感情をどう捉えるかです。

本当にそれだけだと思い入れ、優越を人生指針としてこれからも生きるか。
それは怒りを基本にした生き方で、怒りは心身に良くない感情なので、お勧めでない方法になります。

では他に何があるか。
まあ「愛を基本にした生き方」と言えばそうですが、それを言っても絵に書いた餅でしょう。
人は過去を背負って今があります。
この感情ではだめだと言っても、変わるものではありません。

だから受け入れます。軽蔑感情も、優越心も。
それが自分への最初の愛です。
それに付け加えるのは、たったひとつ、「本当にそれが全てか?」と自分に疑問を投げ続けることです。

「投げ続ける」であって「投げる」ではありません。
投げると「これしかない」という答えが返ってきます。それでも投げる。
それが自分を育てるということの最初の一歩です。

どこかで別のものが見えてくる。
それが未知と言っているものです。

ただ、それが見えるまでには、まだまだ学んで頂くことが沢山あります。

No.161 2004/03/29(Mon) 16:25

未知の自己へ変化-7 / しまの

未知の自己への変化、そして絶望の乗り越え。
これは「健康な心への道」のいわば外枠です。
実際にそこを歩む作業は、自分自身への、そして対人関係への、より具体的な取り組みになります。

まず、絶望感を生み出しがちな、「軽蔑感」について。

比較競争がつきものの現代社会で、優れた存在でない自分には生きる道などないのではないか、という考えが浮かぶと思います。
これは、そう思う心理メカニズムがあり、その人はそのメカニズムの中で思考しているだけの話です。
それとは全く別の心理メカニズムもあり、より健康なこの別のメカニズムにも目を向けてみるか。
そして、それに着火させるか。
これも、「選択」です。

まずはその2つの違いを知ることから始まります。


■「この世界で軽蔑以外に何があるのか」

この辺が一番はっきりとした心理学がある部分ですね。

まず、この現実社会においては、実に様々な比較評価の目が向けられるようになっています。
また、自分からも比較評価の目を他に向けます。
これと「軽蔑」とは全く別ということです。

普通の、つまり「健全な」比較評価とは、何かの目的に対して、最も都合の良いものを選ぶという行為であり感情です。
イタリヤ料理か中華料理か。一番好きな味。より健康に良い食材。
人間関係では、仕事と恋愛が、この評価の目が行き交う代表です。
この仕事ができる人。素敵な異性。顔の好み。
様々なものからそれを「取り上げ」、それを自分の幸福に役に立てるということです。

これに対して、「健全でない」比較評価は、駄目なものを叩き潰すという破壊衝動が特徴です。
「そんなもの駄目だ」と、目的に合ったものを選んで役に立てるという生産的なことではなく、
とにかく「駄目だ」と頭ごしに否定するわけです。

どちらも、ある理想なり目標なりを基準に、自他を評価する「向上心」のように見えますが、
健全な評価感情と軽蔑感情との明確な違いがあります。


それは軽蔑感情に、「希望をくじく」機能があることです。望むことを禁じる。「おまえにはその資格などない」。
伸びようとする努力さえ認めようとせず、努力しようなら「何様のつもりだ」と押さえ込もうとする。
これがループ脳による評価感情と言えます。

健康脳の評価感情は、より良いものを選ぶまでであって、悪い方を潰す感情は含まれません。

「子供っぽいねー」と言うことばが軽蔑を表すかどうかは、言った人間が軽蔑感情で言ったとすれば軽蔑だし、
軽蔑感情なく言ったのであれば軽蔑ではなく、単なる感想、場合よっては好感を表したのかもしれません。

No.160 2004/03/29(Mon) 16:19

(⌒∀⌒)ノ初めまして♪・・・ / 鏡の精 せり

リサーチでたどり着きました(⌒ ⌒)(_ _)ぺこ

18年前から精神世界を探求しております。
私自身がPTSDになったことがきっかけでした。
心理学の本を読み漁りいろんな説に出会いました。
おかげさまで今はその世界から解放されました。
心の葛藤を生み出したのもすべて自身で惹き起したことですもの。

7年前から縁あって心風邪惹かされた方たちのお手伝いをしております。

サイトを拝見して気づかされたりφ(□□ヘ)ナニナニ??そうだったのかととても参考に
なりました。

>自己操縦心性が作り出す「自滅」という負の側面と、この心性が崩壊する際の意識表現であり、健康な心に入れかわる兆候という正の側面があります。

人は誰しも心の中に光と闇の世界が存在してどちらにフォーカスするのかは本人しだいと
捉えております。

光と闇・・・どちらの世界も伴った感情を生み出すことになりますよね。

言葉は違えども同じことを顕わしているのではないかと想うしだいです。

これからもご教授いただきたくよろしくお願い致します。

No.158 2004/03/29(Mon) 13:07

 
Re: (⌒∀⌒)ノ初めまして♪・・・ / しまの

こんにちはー。
心の風邪からの回復のお手伝い、とても意義ある活動ですね。
心の問題がこれほど大きな今、ひとりでも多く、助け合える人がいれば。
僕の書くことが参考になれば幸いです。

今後ともよろしくー。

No.159 2004/03/29(Mon) 15:50

未知の自己へ変化-6 / しまの

絶望はただ耐えるとして、その正体が自己操縦心性によるプライドの負の現象であることを理解することが大切です。

もっとも直接的には、自己嫌悪感情に「希望をくじく」「努力を否定する」という基本的性質があること。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-061.html
これが、理想化された自己像と、現実の「重ね合わせ」思考の結果であること。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-022.html#ks
そして、この態度の全体が、自分を実のある成長へと伸ばすものでは全くないことを、感情として味わう必要があります。

これは自己操縦心性が自らに絶望する過程を導くというマイナス側面です。

これと平行して、真の成長を促す姿勢とはどんなものかという、プラス側面が大切ですね。
これも2面、自分自身に対する問題と、対人関係に関する問題。
前者は「自信」の問題、後者はいろいろありますがまあ「プライドと愛」とかの問題。

この、対人関係面について幾つか取り上げます。

No.157 2004/03/29(Mon) 09:57

未知の自己へ変化-5 / しまの

続き。


■「自分の幸福を追求しようとしても空しさを感じる」

これはその通りです。
ループ脳はそう感じるように回路ができています。
健康脳の思考や感情を、ループ脳は決して知ることはありません。

説明している取り組みとは、ループ脳のスイッチを切り、
健康脳のスイッチを入れることです。
ループ脳の感情が健康なものに改善されることはありません。
ただ、耐えたときに、意識することなく消滅に向かうだけです。

その後に健康脳にスイッチが入る方向にあるかどうかで、
建設的絶望と破壊的絶望という違いが出ます。

ループ脳のスイッチが切れ、健康脳のスイッチが入る時、意識には断絶がおきます。
連続していません。訳がわからず違う自分になった状態になります。

これが僕のハイブリッド理論の実に独自なところですね。
病気を直すときに手術という闇の通過点があることを、私達は医学的知識として理解することで、
その勇気を得ます。感情を越えた理性で、自分を健康に導く姿勢です。

このような医学的知識を持たないがために、
人は絶望感などに直面すると、「これはまずいことだ、何とかしなければならないことだ」と感じて、
自分に枠をはめる動きを取ってしまう
のですね。

自分に枠をはめず、ただ絶望感に耐える通過点があることを、知っておくことです。


■建設的絶望と破壊的絶望

心理学的には、建設的絶望とは「自己操縦心性自身への絶望」であり、
破壊的絶望とは「自己操縦心性による現実の自己への絶望」です。
前者は心を健康化する大きな作用があり、後者にはそれはありません。

ただ、大抵の場合、2つが同時に起きて混ざっています。
また絶望はこっちから望むものでなく、向うからやって来ますので、
それを見分けるということはあまり考えないでいいでしょう。

重要なのは、どのような姿勢の中でそれを向かえるかということです。

ループ脳のスイッチを切り、健康脳のスチッチを入れる通過点において、
それは必ず起きるので、それについてはただ耐えることを知っておくことです。

そして、昨日のメールで言った、ループ脳の思考への反駁と、健康脳の思考の先取りが、
実践すべきものの本体です。


ここまでは実に抽象的な話だったと思います。
「未知への変化」とはそんな風なものだ、ということをイメージした上で、
その「実践」の具体的な話をしたいと思います。

人間関係の話についてです。

No.156 2004/03/29(Mon) 09:41

未知の自己へ変化-4 / しまの

自己が根本的に変化する過程で、「絶望」がもうひとつのキーのように現れます。
それには、自己操縦心性が作り出す「自滅」という負の側面と、この心性が崩壊する際の意識表現であり、健康な心に入れかわる兆候という正の側面があります。

この2つの側面を両方理解することが大切です。

ただし、実際の取り組み過程においては、意識的にこの2つの側面を切り分けることはできません。
ただ、自己の破滅として感じられます。
そして実際、健康な心への入れ替え体験をする前の、取り組み過程の初期は、その正の側面を信じさせるための材料は、少なくとも感情面においては全くない状態です。

いくつもの疑問が起きるでしょう。
幾つかそれを取り上げた形で説明しています。


■「未知の変化を信じて絶望に耐える」こと

これは実は、「信じる」と言うのはあまり正確ではない話です。
なぜなら、信じるとは、それが何なのかを知ろうとすることを含むからです。
僕の言う「未知」とは、「知る」ことを越えた未知が、自己の中には源泉のようにあるということです。

ですから、自分がいつか自信のある姿になることを信じて、絶望に耐えるというのではありませんね
ただ、耐えるだけです。
なぜ耐えるかの理由はありません。強いて言えば、それは固定されたものではないから、今はただ耐えるだけです。

なぜ耐えることができるのか。
自分に枠をはめなければ耐えることができます。
自分に枠をはめず、心を解放つ中で絶望を通りすぎた時が、最も大きな変化がおきます。
それが心の自然成長力です。

それを、「こうなれるだろうから」耐えようと考えた時、心の自然成長力は閉ざされます。
自分に枠をはめ、「こうでなきゃ」という圧力が、再び石うすのように回り始めています。
それは絶望を生み出したものであると同時に、切望を乗り越えることをできなくするものです。

No.155 2004/03/29(Mon) 09:36

未知の自己へ変化-3 / しまの

心の成長には「絶望体験」がつきものです。

なぜなら、心の成長を閉ざしているものは、自己の不利な来歴を否定し、全てが都合よく来歴が塗り替えられたかのような、現実の自分とは別の自分になろうとする衝動だからです。
心理障害(いつまでたってもこの言葉の響きがしっくり来ないのですが..)においては、
これが意識的な衝動としてではなく、人格の土台として、その衝動が全ての思考と衝動を方向づけているような状態です。

健康な心に変化する過程は、この衝動が放棄されることによって促されます。
それは2つの形態から成ります。
1)意識的にこの衝動が放棄される。これは悟り体験のようなもので、開放感を伴います。
2)無意識の中で、この人格土台が崩壊する。これは意識上は「絶望体験」になります。これは極めて苦痛に満ちた体験です。

健康な心に変化する過程で起きる絶望感は、その時にはそうとは自覚されません。単なる、そして純然たる、自己の破滅として自覚されます。
うつ病の自殺は、治癒に向かう時に起きるのが多い、という精神科医の言葉を見たことがあります。
心の病についての考え方は、この精神科医と僕ではてんで違いますが、現象面においては実に一致します。
一方、「絶望すれば良い」という発想では、もちろん望ましい結果を得られるわけでもありません。

絶望は、ただ耐えることを学んで頂きたいと思っています。
そのことに触れた部分。次ぎのコマにて。

No.154 2004/03/28(Sun) 18:37

未知の自己へ変化-2 / しまの

■未知の自分へ変化するということ

これがとても難しい話ですが、おおよそどんなことなのかをイメージできると良いと思います。

ループする思考の中には、出口はありません。
その思考の先に、ループしない別の答えがないかと一生懸命考えても、同じ結論がループする、逃れられないものとして出ます。

その時考えている脳そのものが、ループする回路を備えているようです。
そして健康な心をつかさどるのは、どうやら別の脳の場所のようだというのが、僕の心理学の考えです。
この2種類の脳の場所は決して交わることがありません。

そのため、心を健康にする方法とは、ループする思考を直すのではなく、全く別の思考にスイッチを入れることになります。
しかしAさんがメールに書いたようなことについては、今Aさんはループ脳の方の活動によって思考し、生きているわけです。
思考は今ループ脳で動いているわけで、その思考をどう調整すれば健康脳にスイッチを入れられるかという話になります。

これを外からできるような魔法のメスもなく、それができるのはAさん自身しかいない、という難しさ。
自分への取り組みに際して、「医者の心」が必要と言うのは、そんな話です。

今の自分の考え方生き方とは全く違う考え方生き方というものがあり得る。
それを試みるかどうか、という選択が、Aさんにはあるという話です。

試みるのであれば、具体的にはやはり次ぎの2つの側面から進めることになります。
1)ループ脳の思考に自ら反駁してみる。これは無理に違う考え方を自己暗示するのではなく、「本当にそうか」と疑う、もうひとつの自分を仮設するような感じです。
2)健康脳の思考にスイッチが入るよう、健康脳の思考パターンを先取りして試して見る。「こうゆう考え方はできないだろうか」と、自分に対するカウンセラーを自分自身の中に仮設するような感じです。

No.153 2004/03/28(Sun) 18:16

未知の自己へ変化-1 / しまの

久々の用事のない土日。
やること多く、最近ゲットした巨大トランスサイトからの大量ダウンロードmp3をCDに焼いたり、洗濯部屋掃除にベランダ掃除など、ようやく一服。これが皆楽しいんだなー。我ながらこの状態には関心。

さて、ちょっと前のメール相談返信メールで、考えをある程度まとめた文章を作りましたので掲載します。
どりあえず「未知の自己へ変化する」ことがどんなことなのか、というテーマと考えることができます。

これが僕の心理学の最大のキーです。
現在と現実を受け入れるだけでなく、その先に未知の変化があることを知って、自分をその方向に方向付ける。
これができた時、根本的に人間が変わるような変化が起き始めます。

難しいのは、この流れにたどり着くまでです。
それは知的な理解として起きることではなく、情動的な体験として起きることなので、
一生懸命理解したところでそうなることはできないです。

そんな方向があることを理解して、模索しながら、生活の中で生きる過程がそれを導きます。
生きる過程がやがてそれを目の前に提示するかも知れません。

この「未知の自己へ変化」をシリーズものにて。

No.152 2004/03/28(Sun) 17:17

「蹴りたい背中」読んだ / しまの 引用

「蛇にピアス」に続き、綿矢りささんの「蹴りたい背中」を読みました(3/11カキコ参照)。

読み始めてすぐ、言葉の響きの良さを感じましたね。
文芸春秋への掲載冒頭に彼女の受賞の言葉が載せられていましたが、そこに「言葉へのこだわり」のようなことが述べられており、なるほどと。
言葉の流れのこだわり感覚は、僕が書くときのそれと、似たものを感じました。
サイトの文よりも、執筆中の小説の方。これは徹底的にこだわるつもりで、ひととおり原版を書き終えたら、次に全面的に書き直すくらいのつもりで、言葉を洗練させるつもり。
歌や音楽が流れるように、完成度の高い言葉の流れというものを作りたい。
この点、小説読みは結構勉強になっています。

ただ、内容への感想なのだけど、とりあえず「......。」^^;
感想なし..って感じなのですが、どうゆうことかというと、心理の目で、心の変化というものの表現を期待している。
この点、この小説はただ一時期の心理描写をしているだけで、動きがあまりないのですね。
綿矢さん自身が「日常の感じ」と言っているのからも、そうであることが頷ける。

僕は小説というものに、何かそこから人が真実を知るとか学ぶとかの役割を期待したい。
それは何かの「命題」として表現されるとする。
例えれば「1たす2は3」とか言うように。
それが「1」とだけ言って終わっているような...

それはさておき、純粋に心理学の目からは、主人公に人格障害、その響きがいまいちなら性格障害の兆候が読み取れます。
対人恐怖の軽度な特徴ともいえるようなもので、人格障害の心理メカニズムが、思春期に実に一般的に示す心理状態。
これがうまく描写されていることに意味があるともいえます。

ただ「現代の若者の感性と才能」として実をむすんだものがこれだと考える時、何とも寂しい感覚を覚えた次第です。
「蛇にピアス」もそうだったけど、文芸として評価されるものは、閉ざされた内面の描写だけ..
「現代のティーン達がしなびている..」。しなびるという言葉は正しくないのだろうけど、そんな言葉が浮かびました。
心理障害への取り組みはそれはそれでいい。
文芸小説にはまた別のものを期待したい。
若者の血を奮い立たせるような。かつて石原慎太郎の小説から「太陽族」(だったけな)が生まれたような、その内容の賛否は別として(僕はこの小説読んでないのだ)、インパクトを期待したい。

さてさて、純粋に心理学の目から見ると、主人公に特徴的なのは、自閉的な感情他への破壊衝動(良いものを「そんなもの!」と叩き潰す気分)、そして、それとは全くちぐはぐな、孤独への自己軽蔑感情です。
特に、後ろの2つ、つまり人々の馴れ合いを嘘と見て否定しようとする衝動と、人と馴れ合えないことで落ち込むことという、実に奇妙な相容れなさが自分の中にあることに全く気づいていないことです。
もちろん「人間とは矛盾したものだ」という割り切り思考では、それを克服するような変化の方向は見えて来ません。
なぜこんな矛盾が自分の中にあるのか?その疑問が第一歩です。

こうした心理学の知識も、社会に普及すべきものと感じますネ。
芥川賞の選評に、「人間の心とは何と複雑なものか」と賞賛の言葉を送っていた評論家がいたけど、心理学から見ればそれほど新しい話じゃーありません。

No.151 2004/03/17(Wed) 12:44

対人関係における自信について / しまの

メール相談への返答文ですが、考え方を簡潔にまとめてありますので、掲載しましょう。
対人関係のちょっとしたいざこざから、自分に自信をなくしてしまいそうだということが、とても良くあります。
これに対する考え方。

ありがちなのが、プライドを傷つけられ、何とかその修復を図ろうと、いざこざを起こした相手と話し合おうとしたりするケースです。
それはあまりお勧めでない方法です。
何故なら、それは自分を成長させる思考法行動法ではないこと、また実際会ったところで有益な結果が得られる可能性は低いと思われるからです。
この2つの理由をテーマに、簡潔に説明します。


(1)自分を成長させる思考法行動法について

最近サイト掲示板で、選択→実践→変化という話をしました。
つまり、「ある選択」をすることなく、その先の良い結果だけ期待しても無理という話です。

サイトで説明している考え方の、最も基本的な「選択」とは、「自分が成長して強くなることによって幸福に近づく」という方法を選択することです。
つまり、人に依存したり、回りに良くしてもらうことによって、幸福になることを目指さすのではないということです。
実際、人や回りによって幸福になれることは滅多になく、この期待の中で生きると幸福になれることは滅多にありません。
一方、自分自身が成長して幸福になる方法だと、必要なのは自分の努力なので、自分で何とかできる可能性が多くあります。
だからこっちをお勧めしています。

この実践とは、2つの側面があります。
ひとつは自分を成長させる思考法行動法を学び、実践すること。
2つめに、そうは言ってもどうしても湧いてしまう、自分の成長につながらない感情や衝動がある。これへの対処法を体得することです。この対処法は2つのことで構成され、まず「とにかく行動化しないこと」です。2つめは「自己を知る」ことで、専門的な自己分析の領域につながっていきます。


さて、今回のご相談では、「自信」というものが揺らいでいることが課題です。
これは、自分自身によってではなく、人や回りによって自信を得ようとしている姿勢の結果、起きる問題です。
自分が人にどう見られるかによって自信を得ようとする方法も、同じ部類に入ります。
いつでも誰にでも良く見られることなど実際ないので、この方法では自信が確立することはありません。

つまり、揺るぎない自信を確立するためには、自分の本当の感情や願望欲求など、自分の内面に比重をおいて、現実の壁にぶちあたりながら生きて行くことが大切になります。


(2)人間関係への心得

上の原則から、対人関係についてまず言えるのは、「人間関係を自信から捉えてはいけない」ということです。
人とうまくやって行けるということは、それによって自己評価をどうこうする話ではありません。好みに合う人がいるというだけの話です。人が好きであることに自信を感じようとするのは本末転倒です。好みでない人を相手にしたときに、自分に自信を失うなんて、変な話ですね。
より沢山、好きになれる点に目を向けるのはいいことです。幸福を増やす材料になります。

そこで自信が何から生まれるかというと、自分の側の好き嫌いをしっかりと見極められ、揺らぎなくなることです。
「好き」の方が多くなると、さらに自信が増します。

あなたはその女性や男性を、心から好きでいるのでしょうか。そうであれば近づけばいいし、そうでないのなら、黙って離れ、より好きになれる人々や世界を向くことをお勧めします。

「黙って離れる」だけであることも非常に重要です。決して非難や悪口は言わないこと。
なぜなら人間は変化するものだからです。彼らも変わるかもしれません。しかし一度非難や悪口を口に出すと、それが一人歩きしてしまうのです。黙っていればただ波間に消えていき、好きなものだけに囲まれることが本来可能なのに、それが台無しにしてしまうことが少なくありません。

心から好きとは言えない人に、見下されたり、踏みつけにされて、屈辱から、非難や悪口に出ようとする衝動が起きますが、これが最も実りのないものです。
人に好かれることでプライドを満たそうとすると、人が本当に好きになれないばかりか、プライドが傷つくことだらけという2重の不利益をこうむります。
心の歪みとは、このような衝動が理性ではどうしようもないところに膿のように存在する現象です。
まずこれを理解し、決して行動化しないという姿勢を確立することで、食事療法によって体質改善するようなじわじわとした形で、人格の根底が健全化していきます。

「これはどうにかしなければいけない」と感じると思いますが、どうにもしないことが答えであることが多いです。
「こうでなければ」と自分の心に枠をはめる見方を放棄し、心を開放することで起きる未知の変化を信じることです。

No.150 2004/03/11(Thu) 11:40

「蛇にピアス」読んだ / しまの

このところ忙しく掲示板にカキコする暇もない感じだったのだけど、
ようやく一段落の感じ\(^ ^)/。
(スキーシーズンの方は来月までまだまだ続くのだけど..)

もうひと月前ほどにもなるんだけど、金原ひとみさんの「蛇にピアス」を読みました。
2人の史上最年少芥川賞受賞者の両作品が掲載とあって、文芸春秋を買って。
「ダブル最年少効果」もあって、空前の売れ行きらしい。
内容への興味というより、小説書きとかの勉強がてら(1/16カキコ参照)。

で、読み終わった直後の感想は、「よくわかんないなぁ」。
僕の場合は基本的に心理の目で見ており、表現に値する内面描写に目を向けている。
この点、関心が持てる作品だとは感じました。

去年の「ハリガネムシ」よりははるかにいい。
「ハリガネムシ」は「堕ちる」過程があまりに安易で、あとは堕ちた後の気をてらうようなグロテスクな世界だけ。
「蛇にピアス」の方は、作家の金原さん自身の体験の背景もあるのか、何かが欠けた心の世界を表現力を持って描写していると思います。

「よくわかんないなぁ」と感じたのは2点。

ひとつは、なぜ主人公ルイが、「普通の女の子」の世界に背を向け、陽のささない世界を志向するのか。その内面がぜんぜん描写されていない。

もうひとつは、この小説が評価されているポイントでもある、最後の場面。
あまりに不安定な状況の中で、かえって、ルイの中に生きる気力のようなものが芽生えてくる。
小説というものが、何かの「過程」を経て、ある「変化」なり「答え」を描写しようとする。
しかし、最後にルイが置かれた状況はあまりに波乱を孕むものであり、むしろその後の「過程」の方が、それまでよりもはるかに大きいものになるはずである。
あるいは、ルイの変化は本物ではなかったことが分るかも知れない。

これは僕独自の心理学の目です。
それで小説の方はぷっつりと終わってしまうので、「わかんないなぁ」と感じた次第。
むしろこの後に長い物語が始まるような小説が、あり得ると感じました。

それを金原さんが意識するか、そして書くかどうか。
「ルイの身体改造も、私の小説書きも、それによって救われるわけではないけれども..」という言葉に、まだそれは分らないことが暗示されているように思いました。

No.149 2004/03/11(Thu) 10:09

サイト障害発生中の模様 / しまの

自分のサイトに入れない..--;
管理画面に入ろうとしたら「サーバーエラー」。
障害発生中の模様。

まあ、無料HPですので。
回復まで気長にお待ち下さい。

No.147 2004/03/11(Thu) 09:19

 
あっもう回復 / しまの

ほんの一瞬だった模様。

No.148 2004/03/11(Thu) 09:35

「怒りっぽいと死亡率高」米調査 / しまの

ちょっと仕事で退屈な作業中(といっても単純作業じゃないのですが..)、
ふとYahooニュースなど見たら、おっこれはという記事。
そりゃそうだよ〜〜ということで記事掲載。
こうした、「より幸福でいるため」正しい知識が科学として普及することが、とてもこれから大事だなぁと思いますね。

<心臓>怒ると発作の要因に 米研究調査

 【ロサンゼルス國枝すみれ】怒りっぽく周囲の人間に敵対的な男性は、脈が突然速く不規則に打ち始める心房細動を起こす率が高いことが、米国の研究調査で分かった。心房細動は心臓発作を引き起こす要因にもなる。

 米心臓協会の発表によると、「短気」「批判されると我慢ならない」「怒ると殴りたくなる」などの質問に「はい」と答えた怒り型の男性は、穏やかな男性に比べ10%も高い率で心房細動を起こしていた。また、同タイプの人間は死亡率が20%も高かった。

 また、「専門家なのに私より物を知らない人間によく会う」「家族のなかで我慢ならない癖を持つものがいる」などの質問に「はい」と答えた敵対型の男性は、30%も高い率で起こした。

 女性の場合、怒りや憎しみの度合いと罹患(りかん)率に関係はなかった。

 実験には、マサチューセッツ州フラミングハムの住民約3700人が協力した。(毎日新聞)


どうでもいいひとり言:
僕は100歳まで生きるゾ〜〜。(←人生の目標)
ってことはあとまだ60年も。何となくうきっとした感じ。その内若返り薬なども開発されて..などと我ながら能天気なことを考えている僕であった。。

No.146 2004/03/03(Wed) 12:04

変えるのは「思考内容」ではない / しまの

先日久々に2chのメンヘルスレッド見たら、認知療法関連のスレッドが新装開店の模様。
「初めての認知・論理療法」だったかな。
書き物の参考がてら、全てプリントして読んでいこうと思っています。

で、最初の方を読み始めて感じるのは、
「何か違うなぁ。。これじゃ何も変わらない。。」という感想。

なぜ変わらないか。それは極めて明白なことで、「思考する姿勢を変えずに思考する内容だけを変えようとしてる」から。
僕が考える自己取り組みでは、その辺どのようになるのか、そのうち例を掲示板にでもUpできたら、と思っています。

では、「思考する姿勢の方を変える」とはどうゆうことかというと、今は次の3ステップから成るように感じています。

  (1)選択 → (2)実践 → (3)変化

まず、生きる姿勢考える姿勢の中から、根本的な選択というものがある。
人間には、どう生きどう考えるか、外面にも性格もに生い立ちにも依存せず、自分を変えるような選択点がある。
まずそれを知り、生き方の選択肢を内面に感じるのが最初。

その上で、「認知修正」なり「自己分析」なり実践をする。すると変化が起きる。
そんな感じかな。。

2chの認知療法スレとか見ると、この「選択」をすることなく「変化」だけを期待している感じがほとんどです。

ハイブリッド療法では、まず認知療法的取り組みを勧めていますが、その範囲だけでつかむことができる「選択」はごく僅かしかないとも感じています。
無意識への取り組みが必要になる。

それでも、まずその僅かな選択を実感できることが全てのスタートになると考えています。
それを知らずに無意識に取り組もうとすることは、医学知識を持たずにメスで自分の体を切り刻むようなもので、あまり有益ではないと感じています。

これを読んだ方はすぐに質問を感じると思います。
その最初の僅かな「選択」とは何か?、と。
とりあえずはやはり、「「感情分析」技法による人格改善治療 5.1 基本姿勢の確立」に書いたような範囲だと思います。

実際、これが初めて認知療法に取り組もうとしている方の関心事についてどう考えることを示すのか、ちょっと具体的に考えて見ようかと思っているところです。

No.145 2004/03/02(Tue) 10:01

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