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過去ログ
2004.4



3か月ぶりにサイトを更新 / しまの

写真集だけど..。

入門編の続きも来週にはUpできそうな見通し。
スキーシーズン中はあまり手につかないのもあるけど、
今度のは何度書き初めてもしっくりせず、結局がらりと流れを変えて、道徳論から心理学へ。

No.173 2004/04/25(Sun) 00:40

心理療法にはかかわりなく起きる「心の膿」の放出 / しまの

朝新聞を見ていたら、面白い記事が2つ。

ひとつはThe Familyという、広告に混じって無料配布されてるやつだけど、
トップ「旬なこの人」として、「自らの虐待体験を絵本に」「願いはひとつ“愛されたい”」という見出しで
絵本作家のMOMOさんという方。

「絵本を書いている時は、ずっと泣いていました。嫌なことに向き合うのは、うみを絞り出すようなものです。
この絵本を出すことは自分をさらけ出すことにもなるし、ある意味で家族も巻き込んでしまう..(中略)..でも私と同じように虐待の体験を大人になっても引きずっている人たちへのメッセージになれば..(中略)..虐待されている子供の気持ちを知ってもらって、虐待が少しでもなくなればという思いで書きました。」


「小さい頃は自分が悪いことをしたから殴られるんだと思っていました。それが高校生になると、鉄の棒で殴られました。その頃には、これは虐待なんだと気づきました。..(略)」

絵本の解説によると、「虐待される子どもの追い詰められた気持ちをぬいぐるみのクマに託して描いている絵本だ。見ていて胸が切なくなってくる。虐待されている子の悲しみ、それでも親を慕う思いもあふれている。それもそもはず。MOMOさんは、この絵本を自分の体験をもとにして書いたからだ。」

作者は、自分の虐待体験を、「嫌なことだからと胸の奥にしまいこんでいました。友人に話す時も笑い話としてしか話せませんでした。だから、ずっと自分に嘘をついているような気がしていました。」

だが、泣きながらこの絵本を書いていく。
「なんでこんなに殴られてきたのに、父を憎めなかったのだろうと、それがずっと疑問でした。でもこの絵本を30回くらい書き直していくうちに、“愛してほしい”という自分の気持ちにたどりつきました。そこで初めて自分が変わっていくのを感じました。」

ハイブリッドでは「感情の膿」を理論上に位置付けていますが、
それは理論と言うまでもない事実なのであり、逆に言えば、その理論上にこれを言及していない心理療法理論があるとすれば、それは大きな本質を失っていることになる、と感じた次第です。
これに言及した理論とは精神分析であり、精神分析は真実であり続けます。
(まあその中に諸説があって紛糾の素なのだけど...)

さて、この絵本にせよMOMOさん自身にせよ、この膿がどのように、またどの程度まで克服されたのかは、この紙面からは分りませんでしたが、ハイブリッドでは、それが完全に克服される姿を見出しています。

詳しくは今後書いていくとして、もったいぶった話にならないよう、要点を書くならば、
それは“愛されたい気持ちに気づく”ことで終わるものではなく、その気持ちが愛によっては満たされない自己の欠乏であるという智彗を知り、自己を確立しながら生きていく過程そのものの中で、人間的な強さを獲得していくことです。その強さを通して自分を虐待した父の弱さをポーズとしてではなく本当に理解した時、過去はその人の中で、初めて文字通りの「過去」の座に安定するようになります。

あっさり書いたつもりではあるが、きわめて深い話だなぁ。。
2つめの話も今日書けるかな。。

No.171 2004/04/23(Fri) 10:26

 
つけ足し / しまの

これも重要な話。
「では“愛されたい”という気持ちはどこに行くのか?」いき場のないこの感情が...
それはいらなくなるのです。なぜなら「愛せる」からです。これが「未知」の感情の最大のものかと。
メカ論最後の「愛の喪失と回復」はこのことを書く予定。

「自分は愛されない」という感情は、「愛する能力」の低下によって起きる。これを指摘したのはホーナイです。

No.172 2004/04/23(Fri) 10:36

愛の命題 / しまの

前のカキコで、自信に関する命題を書いたので、「じゃあ愛の命題は何ですか?」という質問が出るのが思い浮かび。

愛の命題とは、「愛を求めた時、愛を得ることができなくなる」かと。
では何によって得られるかというと、真の自己を探して生きる過程の全てであり、愛はそこで未知の中から現れる、と言えます。

うーん、この3命題がハイブリッドの核と言えるようだな。
これをもっと前面に大きく出したディスプレイというものがあるな、と思う次第。サイトなのか著作なのか、色々あるとして。

No.170 2004/04/18(Sun) 16:06

自信と自己受容 / しまの

メール返答より。
「自己評価」「自信」そして「自己受容」に関する話です。
これはまさに心の健康と病の、中心課題の双峰のうちのひとつですね。
もうひとつの峰が何かというと、「愛」をめぐる話でしょうな。

人間としての生きていく自信。これはまさに幸福な人生への磐石だと思います。
これがいかにして得られるのか。

2つの決定的な命題がある。
「自己評価によって自信は得られない」こと。
そして「自己否定の上にあるどんな栄光も自信を築くことはない」こと。


では何によって得られるのか。
それは、真の自己の欲求を見出し、それに乗って生きる過程の中で見出すことができます。
自己受容とはいわば、そこに向かう分岐点であり、選択です。

ちょっと余談も一緒に掲載しときましょう。


■自己受容への分水嶺

「理想と現実の自分」というテーマをめぐるさまざまな感情は、一貫して、

 A)自分を理想に向かって伸ばす建設的な感情

 B)根本的に自分を伸ばすことのない感情

この2つを見分けることが取り組みになります。
知的にではなく、味わう感情としてその違いを探ることです。

「自分がこうなりたい」という理想を抱くこと自体は、何の心の歪みでもなく、自然なことです。
違いは、

 A)それが自己を受容した上での感情なのか、

 B)それとも自己を否定した上での感情なのか、つまり
   現実の自己は駄目なものなのだという三下り半を無意識のうちに突きつけて、
   そこから逃れるように自己を偽った別人になろうとする衝動なのか、

という違いです。


この過程では、自分が「空威張りのいかさま野郎」だという自己軽蔑が起きます。
それは「別人になろうとする衝動があるから、自分は恥の塊のいかさま野郎だと感じる」ではありますが、
じつはこの自己軽蔑自体がこの衝動のもたらした結果であることを知って下さい。

つまり、僕が「こんな衝動が心の歪みの原因です」と説明したのを受けて、
そんな衝動がやはり自分にはあるようだ、やはり自分は駄目なんだ、という感情が起きるかも知れません。
そのとき、「病巣」はどこにあるのかと言うと、「発見した衝動」ではなく、それを見る態度の方に現れます。

そこにこそ、今まで取りつづけてきた自己否定の態度と、「自己を受容する」という深遠な感情の分水嶺が現れます。

その時こそ、「自己を受容する」とは何なのか、と自分に問いて下さい。
これはきっと、自分の来歴を問い直すことを意味します。
自分はなぜこんな衝動を持って生きるようになったのか。
そして自己を受容するとは、それが不可避のことであり、人間の不完全さの結果であったことを知ることを伴うと思います。

http://tspsycho.k-server.org/mech/mech01-023.html#tk
これは「追従衝動」の説明の流れですが、その辺の自己受容に関連したことを書いてありますので読んでみて下さい。


>どうすればモノを大事にできる自分になれるのだろうと思います。

これも上に書いたような感じで、
「どうすればモノを大切に」と考える自分の感情そのものを、
それによって自分がモノを大切にするようになれるのか、吟味していくと良いと思います。

自分はなぜ、どのように、モノを大事にするようになりたいのか。

ちなみに僕は、モノを大事にしようとはあまり考えないですねー。
当然好きなものは大切にしますが、モノはどうせ壊れるものだし、壊れたら壊れたで考えればいいと。
むしろ僕は「スペース」の方が価値あるように感じてますね。狭い我が家なもので^^;
スキーシーズンも終わったこの土日は、何捨てられるかなーと楽しみなのです。。。

No.169 2004/04/18(Sun) 15:43

4つめの真実 / しまの

もうひとつの「真実」があると、メールのやり取りの中で考えに至ったもの
メ−ル返信文から掲載します。

過去、今、未来という3つの真実を含んだ形で、「人生」という真実があると考えています。
これはハイブリッドのそれぞれの実践の「代償」として得られるというより、その全体を支える世界観でもあり、その結果として至る世界観でもある。
ハイブリッドのスタートであると同時にゴールでもあるもの、と位置付けられると思います。

詳しくは入門編でいずれ書く予定。

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4つめの、そして最後の真実があると思います。
それは「人生という真実」ですね。真実とは、「人生に法則はない」


これは必ずしもハイブリッドの要件ではないと思っていますが、
僕自身がゼロ線通過後の最後になって自分の人生を見出した時に得たものです。
掲示板でも書いた「宇宙に意志はない」という世界観でもあります。

人生が神にも、五感を越えたようなものに影響されるのでもない。
与えられた外的資質に支配されるのでもない、自分の内面の源泉が開くものである。
その時、過去の不遇は、もはや不遇であることを終えるのみでなく、それを人生の成功のために利用できる宝の山とさえ見ることができるようになります。

その目が、自己への確信と共に、世界との調和を与えてくれるもののように思えます。

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ちょっと補足しましょう。

なぜこれが「世界との調和」となるのか。
それは「人生に法則がある」という世界観では、「法則に従う者」と「法則に従わない者」、あるいは「法則を満たした者」と「法則を満たさない者」という、人間を区別する目が必ず生まれます。
これは「敵対」につながるように感じます。

そんな法則などない、意志のない偶然が支配し、あとはそれを如何に自分の人生として開こうとするかという、人間の意志と努力がある。そこに完全な平等がある。
少なくとも僕の場合は、そう感じると同時に、自分の心の中に世界との調和感が生まれ始めたように思います。

この辺の話は、「なぜそう考えるのが正しいか」という説明があまりできないテーマになってくるように思います。

それを「真実」と言うのは、自分が生きて行く方向において、それが微動だにしない核として自分を構成している、という感覚を言っています。

No.168 2004/04/07(Wed) 14:22

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