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過去ログ
2004.6


感情分析の具体的進め方-6 / しまの

3)心の開放を知る-1

5/23以来の続き。
今までの流れをまとめると、
 ・内面の全てを許すような思考体系への根本的意識変革
 ・感情分析への試み
 ・自分の人格を自分で練り上げることへの諦め(絶望)
 ・生活があって分析がある
 ・心の深層からの感情の体験
という感じになります。


本格的な感情分析はここから始まることになります。
深層からの感情をありのままに体験する中で、その感情に流されるのではなく「知る」ことに全霊を注いで下さい。

「この感情はどうにかしなければ」と感じると思いますが、そうではないです。
「どうにかする」ことは、それが駄目なことなのだという、怒りで対応することです。怒りは追い詰められた時の、自己損傷を含む捨て身の手段のため、心は成長しません。表面的にはスラストが解消したとしてもです。
それをどうともしないことが、その感情を心の自然治癒力に委ねることを意味します。この場合表面的にはスラストレーション状態に心が置かれます。

感情に意識的対処をして、フラストを解消した時、心は成長せず、意識的対処をやめフラストにある時、実は心が成長している、という逆説的状況があります。
世の人が心の成長から遠ざかっている最大の理由は、このことを理解していないからでしょう。
「どうにかしなければ」と感じたことを、どうにかするのが成長の歩みであるかのように、大勘違いをしているわけです。


まずはそれを「どうにかしなくても良いこと」と感じること。
そしてさらにそれを超えて、ポジティブな行動原理によって事態を改善できることを憶えてくると、心の成長はとても強力なものになってきます。

そうした成長が感情分析の過程で起きるようになるのは、上にまとめたような過程から次のステップとして、
「心の変換」が通過点となります。
(続く)

No.217 2004/06/30(Wed) 10:08

「残虐性は人間の本能か」 / しまの

今朝の朝日新聞の文化欄に、首件の興味深い記事あり。
柳澤桂子さんという生命科学者によるもの。
「生命科学」と名乗るのも関心引きますね。なんか漢字多いなぁ..^^;

イラクで起きたアメリカ民間人の殺害、アメリカ兵によるイラク人捕虜への虐待。。これは人間の本能なのであろうか。
イギリスのある動物学者が、チンパンジーに見られた残虐行動を、その解釈に悩みながらも学会で発表したところ、聴衆から痛烈な批判を受けることになった。残虐性が本能であるという考えに嫌悪感を示したのだ。この動物学者は、人間はチンパンジーの残虐性を遺伝的に引き継いでいるのかも知れないと発表したわけだ。
一方、チンパンジーよりもヒトに近い、ボノボのような極めて平和的な霊長類もいる。
人間は一旦なくなった残虐性を、なぜ再び持つに至ったのだろうか。
私たちは、自分達が先天的に残虐性を持つという考えに恐れを感じ、できれば否定したいと思う。けれどもそれが本当に証明されたら、それをただ否定するのではなく、これを受け入れて、理性でコントロールすることを考えなければならないのではないだろうか。


僕の考えを述べちゃいますと、人間とは「あれなのかそれともこれなのか」という問い方はあまり適切ではなく、大抵は「その全て」が答えになりますね。
「本能」というのを安直に考えると、ああでもないこうでもないという不毛な議論にしばしばなる。
正常なDNAに組み込まれていることであり、問題はその発現条件ということになる。
残虐性がそこに組み込まれているという点では「本能」でしょうが、それはやはりストレスを背景にしたものでしょう。


「病気」とは正常なDNAに組み込まれてない心身機能状態と言えます。
「心理障害は病気ではない」というのも、その言い方ができます。

こうした科学的な話は実は単に興味があって引用する話ではなく、「健康な心への道」にとって極めて重大なことでもあります。
次にUp予定の「心理学的幸福主義」では、「科学的世界観」がひとつの軸として登場します。あとは「善悪の解体」「自己による幸福の追求」という、合わせて3つの軸になります。
心理障害の治癒という話で普通は言われることはないであろう最たるものになりますが、結構自然科学知識が出てきます。どこまでサイトで書けるかはかなり限定されると思いますが。。。
「プラス思考は毎日欠かさず続けましょう」と同じくらい、「科学的思考を毎日欠かさず続けましょう」と言えそう。

なぜそれが必要か。
いろいろあるのですが、最もストレートな意義は、「切り離された恐怖」にそれがないと対抗できないのですな。

「切り離された恐怖」は自分の内面のこととして感じることができなくなるものであり、「人生が自分に悪意を持っている」という漠然とした背景感覚になります。
非科学的世界観によってこれが解釈されちゃうと、純粋に取り出して克服する可能性がほとんど阻まれてしまうのですね。。。
入門編全体を通して説明して行きます。

No.216 2004/06/22(Tue) 17:22

どうも / ハリー

結局のところ、自己中心に関する考えの違いは、自己にどういう意味付けをしているかということになりますね。それが違えば当然話が変ってきます。
しまのさんのお考えも理解できますよ。これは、好みの問題ですね。

No.214 2004/06/22(Tue) 15:06

 
Re: どうも / しまの

奥が深い問題ですね。
今後もいろんな視点で考えてみませう。

No.215 2004/06/22(Tue) 17:22

はじめまして / ハリー

しまのさんの理論すばらしいですね。
いろいろ試しましたが、もうひとつ癒しきれなかった理由が、おかげさまで見えてきたように感じます。
自己操縦心性と感情の膿みを両方除去するというのはとても納得です。
こちらのサイトのお話は、私も殆ど同意見です。
ただちょっと私と違うな。と感じたところお話指せてください。
本筋からちょっとずれますが、しまのさんのお話で、何度か自己中心的な人物をネガティブなイメージとして表現されていますが、私は自己中心的であることを理想的なことと考えています。
「べき」の中にいる人は、他人を気にしていて、他人中心的な人だと思います。
そして、その囚われから抜け出た人は、自分の欲求に素直に従うことが出来、自己中心的と言えると思います。
つまり、しまの理論は、他人中心から自分中心になりましょう。ということだと受け止めました。
他の心理両方などでもこのあたりのことを明確に区別しているものを見たこと有ります。
で、世間一般で言われる自己中心的という言葉をどう受け止めたらいいか。という問題が残ります。
それは、
1.他人中心の人が、自分中心の幸福な人を見て、嫉妬を感じて出てくる言葉。
2.自分の欲求に素直になりきれず、「真の愛」、「妥当な罪悪感」を抑圧している状態。
だと思います。
お話に出てくるのは2のケースだと思いました。
傲慢な人は、自己中心的というより、自己中心的になりきれていないというのが性格なのかと思っております。
あと、宗教についてなのですが、私が学んだ範囲では、良質な宗教の教えは、善悪判断を薦めている物は無かったですね。
逆にそれを戒めているものならいくつもあるようです。
以上重箱の隅をつつくような話かもしれませんが、しまのさんの理論を否定するものではありません。
むしろいろいろ参考になり、今後を楽しみにしております。

No.210 2004/06/16(Wed) 21:07

 
Re: はじめまして / しまの

こんにちはー。

沢山勉強してらっしゃるようで、高度なカキコですね^^。
簡潔に整理しませう。

ハイブリッドが目指す健康な心の理想的姿については、以下あたりで一番明確に言ってますね。
理想は、内面に矛盾を抱えないこと。まっさらな心で自分の幸福に向かって全力を尽くせること。
http://tspsycho.k-server.org/theory/01/01-07.html
http://tspsycho.k-server.org/case/ca02-07.html

「自己中心」という言葉は、色々なことを説明する時に使う言葉で、これ自体はあまり特定の心理を指した言葉ではないですね。幾つかの心理要素の特徴を描写するのに便利な時使っているような感じです。
主に3つあると思います。

1)人の外面行動の傾向としての自己中心性
衣食住とか基本的生活場面で、自分の利になることを優先するか、他人の利になることを優先するかという行動特徴。
自分の利になることばかり追求する行動傾向を「自己中心」と呼ぶことがある。
印象的に思い出すのは、「アンビリバボー」だったか、氷点下の河に飛行機墜落して奇跡的に生存していた数人のうち、最も衰弱が激しかったにもかかわらす、救助のロープを他の人に譲り続け、自分一人になった時力尽きて亡くなった方。(今思い出してもジーン。)
ただこれは心の健康度とは直接は関係ないかと。本人の好みの問題ですね。

2)自己操縦心性の結果として現れる自己中心性
これは「自己像にとらわれている」心理傾向を指します。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-023.html
で説明したと思ったんだけど、自己中心という言葉は使ってなかったですね。「自意識過剰」という言葉は使ってる。
「自己中心性」という言葉はやっぱ使ってない感じですね。
ちなみにこの特徴は、それ自体を取り上げて「治す」ことではないです。取り組み全体の結果減ってくる特徴です。

3)「自己の重心」
「自己の重心」という言葉は好んで使っています。
これになると自己中心というのとは大分違った話になってくる。
話が長くなりそうなので、省略^^;

というわけで、「自己中心」かどうかは、どっちでもいいような..と曖昧なレスでお茶をにごそうかなっと^^;
まあまずは上のように問題を分解して検討しましょー。
あと「世間一般で言われる言葉をどう受け止めるか」は、理論解釈というより感情の外化の問題になってきますね。これもちょー複雑な話なので、関心あれば別途のカキコとかで展開しましょう。

>宗教についてなのですが、私が学んだ範囲では、良質な宗教の教えは、善悪判断を薦めている物は無かったですね。
>逆にそれを戒めているものならいくつもあるようです。


ほほ〜。深いですねー。
僕も最近は結構宗教に歩みよっているところがあります。
次にUp予定の入門編「心理学的幸福主義」でちょっと触れる予定。こうご期待!

No.211 2004/06/17(Thu) 10:13

 
愛と自己中心性 / しまの

夜長酒の中で自分のサイト原稿見てたら、「自己中心性」について触れた所を発見(?)。

 この状況で発動される自己操縦心性は、彼彼女を愛から遠ざける決定打となります。
 自己操縦心性が人を愛から遠ざける仕方には、心の背景で起きるものと、前面でおきるものがあります。
 まず背景で起きる変化とは、彼彼女がいやおうなく自己中心的になることです。 

http://tspsycho.k-server.org/mech/mech03-011.html

ここでは、自己中心性は「愛を遠ざけるもの」として説明しています。
一方、上の3)「自己の重心」は、自己の強さの源泉となり、愛を生み出すものになります。
そして、人は自己の重心を見出す過程において、一度全てを自己中心に考え直す必要があるでしょう。

自己中心は目指す目標ではありません。
目指すものを見据えるための土台です。これが答えかな。

そろそろ意識が途絶えそうなので、ちょうはしょり^^;

No.213 2004/06/20(Sun) 01:40

苦しみを思い出した / しまの

先日6/13のカキコの話。
感覚として思い出したわけではないのだけど、分ってきた感じ。

ちょうど小説原稿が、大学4年時の自己操縦心性の巨大な崩壊の後の期間に入っており、そこで、何が苦しいのかのキーとなる記述を幾つか見出した次第。
自己操縦心性の鎧が崩れて、赤剥けの心が白日の下にさらされたような時期ですね。

これは大きな治癒のポイントだったのですが、自己操縦心性は真の自己が成長して崩れるのではなく、自己操縦心性が崩れた隙間を埋めるように、後になって真の自己が育ってくるんですね。
もちろん操縦心性の足元をぐらつかせるだけの成長は必要になります。でもそれが現実世界を生きる自信となるにはまだほど遠い。
この辺を乗り切るために、強力な理性による自己方向付けが必要になります。だからハイブリッドでは全てに先立って、思考体系の根本的変革と自己建設型の生き方の習得を勧めています。
それがないと多少とも危険な時期が訪れることになります。僕のはその危機に瀕した例。

で、感情的動揺が収まった静かな状態で、苦しさを言う言葉が出てくる。
それがどんなことだったのか思い出せなかったのですが、ちょっと違う所に書かれたある出来事が、その苦しみの意味を思い出させたように感じた次第です。
その出来事については省略しますが、結論からいうと、「自己がない」苦しみなのですね。

それはまるで、魂だけ幽霊として現世に戻ることの出来た人間の苦しみ。この世界を生きてああしたいこうしたいと思いながら、そのための自己がない。「ゴースト・イン・ニューヨーク」の世界。
これが感情の膿を背景にした圧迫下にあることを考えると、その背景的な苦しみの性質というものが何となく理解できるような気がします。

これを心理学として指摘することは重要な意味があると思いますね。
ひとつは、理由の分らない苦しみは増す傾向があること。この苦しみの正体をはっきりと自覚できた時、それは恐らくかなり軽減されると予想します。
苦しみの正体が自覚された瞬間に苦しみが消失するというのが、僕の小説にも沢山出てきます。

もうひとつは、自己操縦心性の支配下にある場合、この苦しみが往々にして隠される、ということ。
自己操縦心性はまさに「自己の欠損」を自分自身に対して欺こうとする心性です。
このことの含みはまだ僕も考察は行き届いていません。
まずはこの苦しみの出現が、心理障害の経緯上、かなり不定形な形になる可能性がある。しかしそれを捉えて積極的意識介入を行うことが「治療操作」上極めて重要なことになる。
と言えそうです。

この「治療操作」は自己分析でも同じ話です。
意識的介入とは、それが「自己のない苦しみ」であることをはっきりと自覚することです。
これに相当するエピソードは自分の場合の小説上も多分どっかで出るだろう。。。

No.212 2004/06/18(Fri) 10:22

はじめまして / こんちゃん

しまのさん、はじめまして
昨日は仕事を休んだのでですが、たまたまこのHPを見つけて、一日中読ませていただきました(でも全部読めなかったw)
エニアグラムの本で、クラウディオ・ナランホの『性格と神経症』という本を買ってかなり自己理解の参考になったのですが、その方がカレン・ホーナイの言葉をたくさん引用して、尊敬していたので、前からホーナイさんには興味がありました。
その頃は全集6(自己実現の闘い)を買おうかと思ったのですが、4000円くらいしたので、躊躇していましたが、昨日勢いで注文してしまいましたΣ(^∀^;)
メールで相談しようかなとも思ったのですが、何を書けばいいのかまとまらないので、掲示板にとりあえず書き込みさせていただきました。
やっぱり自分を見つめ直す作業って疲れますね。今まで色々手をだしてきましたが、どれも一過性のナルな暇つぶしで終わってまして変容はありませんので、自分の頑なさに辟易しているところです。そのあたりの私の特色?は前述のナランホの本にホーナイの言葉が引用されていて『彼は分析に興味を持っているかもしれないが、その興味はかなりの間、娯楽を楽しむといった段階にとどまる。そして何も変わらない』でした。変わる気がさらさら無い自分の一部を見透かされた思いでした。今まで触れた本の中だけの印象ですが、ライヒ派のボディワーク(バイオエナジェスティック)で有名なアレクサンダー・ローエンとホーナイは本当に人間への洞察力が鋭いなと思います。
また仕事から帰ったら読ませていただきます。メールお送りするかもしれませんので、信いただけると嬉しいです。

No.208 2004/06/16(Wed) 05:13

 
Re: はじめまして / しまの

こんちゃん、こんちゃーw。

クラウディオ・ナランホさんというのは知りませんでしたね。もう他の心理学に関心あまりなく、たまに確認し直そうと思う著書としてホーナイとバーンズだけという感じ。
そう言えばと読者皆さんへのお知らせですが、バーンズの「いやな気分よ..」の改訂版が出たらしいですね。ページ数倍でお値段据え置きのお買い得とのこと。
これも4千円近くで高かったんですよね。改訂版もそのうち買って読んでみようかと思っていますが。しかし800ページ超(?)とはどんな分厚い本なんだろ。。

>やっぱり自分を見つめ直す作業って疲れますね。

自己分析の作業は人それぞれ似たような話として、「分析する姿勢」が結構根本的な話になりますね。
「入門 健康な心への道」はまさにそれを書こうと思っているものです。
自分の感情の解釈で終わる分析は、変化をもたらしません。もっと深いものが必要になりますね。
そのためには、むしろ、何を目的にして分析をするのか、何を分析に求めているのかの自分の感情をとことん問いて見るのがいいかも知れませんね。

メールいつでも大歓迎でーす。

No.209 2004/06/16(Wed) 09:31

苦しみを思い出せない / しまの

あともう1個、今日気づいた話載せときます。
小説の原稿が、大学4年当時の最大の峠から、自己の受け入れに向かうところ。
そこで主人公、当時の僕なのだけど、感情の動揺の山場を過ぎて静寂になった心の中で、自殺を志向する言葉が相変わらず続く。

そこには、背景感情としての苦しみがあるわけですね。
これは「取り残された恐怖」の膿に対応します。本人は全く意識しないけど、それが人格を圧迫しているので、明瞭に意識されない苦しみが意識の土台をおおっているわけです。

それがあることは心理学知識として、また実体験記憶として分かるのですが、問題は、その苦しみがどうしても思い出せなくなっているんです。
これは小説書き上困った話であり、当時の日記を読んでも、それがいまいち感じられない。

ピンピンの健康状態の時、風邪で寝込んだ時の苦しみ感覚がいまいち思い出せないような話ですね。

感情の流れとして表に表れる内容については、自分で何度読み返しても鳥肌立ったり胸が熱くなるように表現があるのですが、背景感情としての苦しみは、「意識する対象」というより「意識する背景」になっており、言葉には全然現れてないのですね。
さらっと読むとあっけらかんに感じちゃうほど、それを表現する言葉が欠けている。

でこれは僕だけの話でなく、この苦しみを持つ人間全てに言えることなのですね。
それはあえて表現するまでもない、「いつもそこにいること」なので、言葉になっていない。
別の言い方で言えば、本人は「それが人生だ」と思っているわけです。だから「人生は辛いものだ」と。その背景感情が苦しいのではなく、「生」は苦しいものなのです。

分析を通して感情の膿が消去された結果というのは、そうした背景感情の変化になって現れます。
そのため、本人にとって世界がまさに未知の状態になったかのような変化が体験されるという次第。

それでも、この背景感情としての苦しみも、表現したい。
表現豊かなメンヘルサイトとかに、何か学ぶものがあるか、と感じている次第です。

No.207 2004/06/13(Sun) 00:30

今日のプラス思考 / しまの

ものは考えようで、それを受け取る感情も変わる。
これ地味だけど重要。毎日かかさず続けましょー。

というわけでちょっと分かりやすい体験が今日あり、ご紹介。

所用があり銀座へ。通勤定期で新木場まで行けるのだが、改札まで行って持ってくるのを忘れていることに気づく。
電車まであと3分。自宅マンションは駅から徒歩3分の目の前。一瞬、走って取りに戻るという考えが浮かぶ。
でも全速力で行っても戻るの間に合うの無理。京葉線の本数少なく、この電車を逃すことができない。
しかたなく切符買って乗ることに。往復900円か。大した金額でないけど、無駄な出費と考えるとちょっと苦い。しぶしぶー。

まあ些細なことですが、これで気分を悪くしたままというのはあまりにつまらん。うまく考えられるかと、ちょっと頭をひねる。
「定期を持ってくるのを忘れた」ことは大いなる失策である。物を忘れるとは、場合によってはほんとに大変な目にあうこともある。今日それをしてしまったわけだ。ところが900円で万事解決。なんと安いか。
ラッキー♪

てな具合。
まあこうした思考の切り替えでどれだけ感情の切り替えができるかは、起きた出来事の内容と、背景にある人格の状態により一律に、「こうなれますよ」などと言える話ではないが、間違いなくこの地道な積み重ねが重要であることをお伝えしときたいと思います。
ちなみに紹介ついで、僕は最近は、テープルの上のティーカップを倒して紅茶をマットレスにこぼしたような瞬間さえ、ほとんど感情振れないです。「あ!」とか「ちっ!」とかなし。「おやー」という感じで坦々とあと始末。
こんなことでさえ、怒りの脳内毒が放出されるのはつまらん話ですもんね。

でこの話をしたのは、こうした地道な積み重ねは、それによって感情をプラスにすることだけが重要だからそうしている訳ではないんです。もちろんそれも大切だけど。
それよりも、こうした思考切り替え・感情切り替えができるようになるというのは、先のカキコで書いた、
「本人が人生において物事に対処する能力の成長がこの恐怖に打ち勝てる潜在性を獲得した中で、この自覚が成される時、問題の病巣が根本的に消える方向に向かう」
での「恐怖に打ち勝てる潜在性」というのが、こうしたことの積み重ねで成長するということなのです。重要なのは、発想の柔軟性と、自分の幸福に有利な方向に物事を選択する能力

決して今の目の前の感情を解決できるかどうかか重要ではない、そうした積み重ねが、人格における「恐怖に打ち勝てる潜在性」という目に見えないものを形作っている、ということです。
実践面においては上の例のようなのより、人間関係についての話が大きな領域を占めますね。

「切り離されていた恐怖」が感情分析の過程を通して意識に「戻された」場合、もはや思考の切り替えによってそれを中和するなんてことはないです。ただその人間世界のものとは思えない恐怖の色彩をやり過ごすだけです。
それを変なプラス思考によってごまかそうとすることはむしろ再度の「切り離し」のあがきでしかないことになりがちかと。

プラス思考とはあまりにかけ離れたその現実乖離性がありありと体験されます。
むしろその不合理性と共にごまかしなく恐怖を追体験することにおいて、その恐怖が根本的に消える方向に、あくまで意識よりずっと深いところで、向かうわけです。

No.206 2004/06/12(Sat) 23:59

「切り離された恐怖の色彩」への取り組み / しまの

入門編ではできるだけ心理学用語を使わないことにしていますが、根本的な変化のためには、無意識に切り込むことが絶対的に必要になってきます。精神分析の領域であり、一番難しいところ。
とりあえず入門編では、これを「切り離された恐怖の色彩」として記述していこうと思っています。

出来事の記憶も、感情も、基本的には切り離されていない。
しかし、その中のある恐怖の色彩だけは、切り離されて人格の底に取り残される。これが絶対的に必ず起きます。これが健康人のストレスから心理障害の病理までの、基本的なマイナスの駆動エネルギーなのですね。

これはもう普通の方法では誰にも手が出せません。まず本人がそれを意識できないだけでなく、そこから目をそらそうとする基本的な力が意識の大元に働いているので、別の問題にすり替えられて表に現れるわけです。

恐怖症がそうであり、「恐いのは」人ごみであり、異性であり、隣人であり、家の鍵を締め忘れることであったりする。
それで、その恐怖をなくそうと、恐いことはないんだと自分に言い聞かせる練習をし、マイナス思考をプラス思考に変え、より軽い恐怖が起きる状況から段階的に馴れていく、「段階的行動療法」を試みる。
表から見ると実に理にかなった方法であり、しばらくやってると、何とか恐怖が薄らいでくる。
もう大丈夫か、と気を緩めて、数か月。ある日、ふとしたきっかけで恐怖症がぶり返す。
もう一度最初から。恐いことはないんだと自分に言い聞かせる..
多分こんな経緯を取るのが一般でしょう。

これは、「切り離された恐怖」が克服されたかに見えて、実は「取り残された恐怖」は全然そのままだった、という状況と思われます。
「治療が病巣をそれている」ということになります。
どうすれば病巣が見えるのか。真の病巣は何なのか。それを治療できるのか。。となる。

この「取り残された恐怖」は、人類の歴史を通じて人の心を多種多様に紛糾させていたのですね。
人類の歴史を通じてそれに初めて切り込むことができたのが、精神分析ということになる。
まあそもそもこの「取り残された恐怖」が大きな問題となるようになったのも、この近代からかと。

でこれにサイトの心理学で直接答えると、「人格の亀裂」と「自己操縦心性」となる。
取り残された恐怖は人格の亀裂への恐怖となって残る。それのない自己を思い描き実現しようとする包括的な衝動である自己操縦心性によって、そこから目をそらし対極の素晴らしき人間であると思い込もうとする巨大な圧力がその人物を支配している。

でそれに取り組む方法とは、人格の底に、そのことをそのままの形で自覚させること、となる。
恐れているのは人ごみではなく、人格の亀裂なのだと。それから目を反らす衝動を持っているのだと。
そして本人が人生において物事に対処する能力の成長がこの恐怖に打ち勝てる潜在性を獲得した中で、この自覚が成される時、問題の病巣が根本的に消える方向に向かう。となる。

ふとこの話をこうまとめとこうと思ったのは、今朝の新聞の生活相談欄で、「就職に化粧は必要ですか?」というやつ。
「“人事担当者にウケるための化粧”には抵抗を感じます。“女性である”というだけで化粧をしなくてはいけないのでしょうか?化粧をしない自由は認められないのでしょうか?出版関係を希望していますが、もうフリーターでいいかな...。」
思わず「あれれー」とちょっと笑い。てんで自分の心の問題を別のことにすり替えているのがありあり。まあ化粧は女性に許された武器であって、..と僕の意見は以下省略。
もちろん、こうした話を「取り残された恐怖」の問題として扱おうとする視点は、新聞とかでは望むべくもない話だ、と思った次第。

この問題は入門編の「取り組み3」で書く予定ですが、どんな表現になるか。
多少とも上に書いたことをそのままに近い言葉で書かざるを得ないかも。まあそれを理論というより、体験面での説明にするのがいいかなと思っています。その根本的な変化とは、実際の体験においてはどんな感じなのか。多少はイメージがつかめるのではないかと。
書くの楽しみです。

「未知への選択」は今日明日にでもUp予定で、頭の中では次のトピックの稿を練り始めたところ。いよいよ実際にどんな風にすればいいのかという、これからの話。れっつらごー!

No.204 2004/06/12(Sat) 12:44

 
つけたし / しまの

ひとつ重要な話をつけたし。

なぜ「人格の亀裂」となるか。
それは、取り残された恐怖が意識化するのを防ぐ基本的手段が、人格の分離だからです。
これも必ず起きます。そしてこれが表に現れるのが、性格とか人格における「矛盾」なのです。いわゆる性格の多重化。この段階で情動的混迷の色彩はなくなり、論理的矛盾として表出することになります。
このため、心理障害とは一見無関係に見えるような、思考体系上の矛盾が、全ての問題をたどるための最初の糸口になるのです。
これが基本アプローチ。

No.205 2004/06/12(Sat) 13:48

「宴会恐怖」こう治りました..^^; / しまの

今朝の朝日新聞「職場BBS」というカラム。
職場にちなんだ憤懣をつのり、読者が回答案を寄せるもの。5/1カキコでも取り上げた。

今日のは女性会社員で、「苦痛でたまらぬ社員旅行」。温泉で宴会するだけの旅行に貴重な週末をつぶされてまで、気の合わない会社の人と旅行なんて本当に嫌なんです、と。
これに対する読者の答えは、「..と毎年異なる理由を考えても楽しいかも」「自分が幹事となって仕切ります」「伏し目がちに、家柄が厳しくて、嫁入り前に血縁のない男性と同じ屋根で一夜を過ごすなど、父が日本刀を振りかざして..と嘘を」「そんな会社には見切りをつけて、修学旅行ならぬ修職旅行に。上司の寝顔にいたずら書き。部屋に戻ればお決まりの枕投げ。不倫の2人を名指ししましょう。」など。

読んでいて何ともいい気持ちのしない特有の感覚あり。
どうゆうことかと考えたのですが、ようは物事に素直に対処せず、自分に嘘をついて現実を練り上げようとする日本人、という雰囲気を感じるのですね。
まあちょっとひねった回答を好んで載せるているという偏りもあるのでしょうが。

まあこんなケースでは、実際のところ、その旅行に行かねばならないという拘束が現実にどんな程度なのかがまず問題ですな。
今どきこんな会社もあるということもある得はする。
あとは本人がどれだけ行きたくないかによって、うまく折り合いがつくように処理するか、我慢すればいいという話。
「用事があるので残念ですが参加できません」で普通は済む。上の読者回答のようにわざわざ考えるの変。

これが一般の話として、心理学的には、そのうまく折り合いがつくように処理することができないということが問題として考えられる。
断ることが苦手な一方でフラストがたまるというやつですね。


この辺の話はここまでとして、ちょっと関連して紹介しちゃおうかなと思い浮かんだのが、僕自身が前はちょっと「宴会恐怖症」的な傾向があったという話。
会話することが浮かばず、やがて自分の隣から人がいなくなり、宴会の場での苦い孤独感。みたいな。
それでいて、自分もそんな場で楽しくお喋りできるように、という感情がある。何とか自分をあと押しして参加して、自分を気にして、毒が体に回るような苦い会話なし状態を感じると、やっぱ駄目か、というような。
それでも宴会の話があると、呼ばれたいという気持ちと苦さが混ざる。

でこれが今この「症状」は完璧にゼロとも言えるように解消しているのですが、どう治ったかという話。
「いつかは皆と同じように宴会でも楽しく..」などと考えていたのですが、ぜ〜んぜんそうじゃないのですな^^;
宴会はやっぱつまらないので、呼ばれたいとか思わないし、出ないわけにはいけない場合はフラストもなく出る。それだけって感じですね。出たら結構それなりにお喋りに興じますが、1時間もしてお腹いっぱいで話すこともなくなると、「そろそろ帰りてー」て態度そのまましちゃいますね。お開きしたら、とっとと駅へダッシュ。ま、会社の宴会での話ですが。

同僚との会話でも、「お酒は好きだけど宴会は好きじゃない。目的のない会話していると飽きちゃうのですぐ帰りたくなる」と公言してます。興味のないちょっとした宴会の話があっても、僕は知らん振りしてて、声がかかっても「いかない。」で大体済んでいる。別にそれで何も感情的波風もてんでなく、以前に比べれば我ながらお気楽だと感じる次第。

あんま参考になる話ではないかも知れないけど、まあ人それぞれですな。好きなら行けばいいし、そうじゃないなら行かなければいい。義務的ならそれなりに対処すればいい。
変にこねくり回して考えるのでなく、自分の内面の矛盾に注目した方が良いケースが多々ありそうかと。

No.203 2004/06/11(Fri) 10:10

サバイバー型性善説 / しまの

あともう一つ。
事件のあった小学校の児童や父母には、かなりのショックで、学校に出れないとかいう話だったかどうか具体的なことは忘れましたが、この事件を心の中に受け入れることができない様子の方もおられる模様。

この辺については、先日5/8カキコの「記憶を消す事ができるか」でPTDSに関連し触れたような、「こんなことは起きるべきでなかった」という思考がテーマにあがってきます。
これは先日Upした入門編「4.5 閉ざされた恐怖の克服」の「恐怖が消化克服されるとは」でも触れています。

出来事を受け入れるとは、それが自分の立ち向かう世界であると感じることです。
受け入れないのは、それが自分に降りかかったことであると感じること。つまりこれは、物事の見方考え方が基本的に自分を重心とするのではなく、「誰か」が用意するものである、という特徴であることが重大なのですね

この「誰か」はしばしば「神」とか「天」になる。

自己の重心を失う。これが心理障害の病理の、第一歩とも言えます。
周りに合わせて自分の感情を操作しようとする、自己の真の姿から離れていく自己疎外というものが起きてくる。やがて現実からの乖離が大きくなると、感情が周りに操作されると言った、「自我統合の緩み」へとさえ至る。

ちょっと話が逸れましたが、これは人の生き方の根本的態度「自分自身への責任を持つ」ということです。
「幸福への条件」としてホーナイや、先の「“It”と呼ばれた子」の筆者デイブ・ペルザーも強調していたこと。

さて、自分に責任を持つ世界観から見れば、今回の事件もまずは「これが現実」と言えます。
僕の思想は極めて性善説に立つものと位置付けられますが、こうしたことも踏まえた上でのものなのです。

しばしば、「性善説」を「苦労知らずの坊ちゃん嬢ちゃんの人間観」のように捉える人がいます。人は皆親切で優しいことを疑わない。恵まれた人間なら性善説で行けるだろうが、そうでない自分は性悪説にならざるを得ない。
これはサイトには無関係なプライベートの場でも、よくそう言う人に出会いました。

まあこれを「苦労知らず型性善説」と言うならば、全然違う「サバイバー型性善説」があるんですね。
僕はそうですし、心理障害からの脱出は実はサバイバルでさえあったとも言えます。なぜなら、実際のところ、従来の思考では「生きていけない」世界だったのですから。それを抜け出たのには、それなりの修羅場と言える思考戦争をくぐっています。
だから、普通の人なら取り乱すかもしれないような天災とか病気とかが降りかかったとしても、自分は人とは大分違う反応をするのではと考えたりもします。

このサバイバル的局面は、やはり「健康な心への道」として説明する必要があるものと感じています。
「取り組み3」あたりになるかな。。
性善説そのものは「取り組み1」の最後で説明する予定ですが、骨子は2つかと。
「“It”と呼ばれた子」の話(5/30)で言った、「問題を真正面に見据え最善の努力を続けることで必ず解決できる」という楽観論
そしてもうひとつは、世界が従来言う「善」に満ちているという期待ではなく、そもそもの「善」の基準を引き下げている、ということになるかと。

どこまで引き下げているかという話は、ゾっとされる恐れもあるので、小出しにして「取り組み3」の終わり頃にしようかなーと^^;
そこまで根本的徹底的に思考体系を変えているわけです。

No.202 2004/06/03(Thu) 10:34

「ごく普通の」.. / しまの

前カキコ事件ですが、今朝のTVニュースで関係者が「ごく普通の..」という言葉を強調しながら何度も繰り返しているのが耳に入ってきました。
たしかに、「人は善を成すべきです」「悪を許してはいけません」という思考の世界で生きているのが「普通」の日本人ということであり、たしかに普通だわな..と思わず苦い苦笑。

「悪を許してはいけません」と言っても、人間は完全な存在ではないから、悪しきことに流れてしまうこともある。
それに対して、この思考体系は答えを用意してないんですね。「善に立つ側」が気に入るような反省をすれば許すという事なのか。ではそうでなければ、「許してはいけない」とはどうゆうことか。
悪は怒るべきである。怒りとは破壊であって、結局行きつくところは、「殺せ」ということになる。これが理屈の通った話となる。
一方で、「人を殺してはいけません」と言う。どうしてと子供が疑問を出すと、あわてふためいて奇妙な論理を展開し始める。

ごく普通に学校や家庭で使われている「しつけの言葉」を聞くたびに、とても普通というかまともとは思えないと、僕は即感じることばかりですねぇ。
何でまあこんな「傷つける」ことを手段とする思考法をしているものか、と。

「人は善を成すべきです」「悪を許してはいけません」でなく、どうなのか、と聞かれるならば、一言でいうなら、
「善悪は相対的なものである。私たちの幸福のための技術として判断すればいい。」ということになる。この辺は入門編「取り組み1」の中でかみ砕いて説明する予定。

No.201 2004/06/03(Thu) 09:44

小六女子同級生殺傷事件 / しまの

また社会現象的事件が起きたわけですが、この事件について僕の心理学の目から述べるならば、
「とくに新しくコメントすることはない」と言えます。

事件の速報をきのう会社でYahoo Newsで見て、最初、
「この子は追いつめられたんだな」と感じました。この子というのは加害者の子の方です。

これは、現代の日本社会が、
「善は悪を怒る」「悪を許さず」といった、怒りによって物事に対処する生き方を主とする世界の中にあるということであり、その突出した表れにすぎない。

他の些細ないざこざや軋轢との違いは、質的なものではなく、量の差にすぎない。

怒りとは「追い詰められた」ことを意味しており、怒りによって対処するとは、基本的に自己と他者を同時に破壊するという、最後の手段です。
日本でこれが主流であるとは、基本的に自分と他人を破壊することで物事に対処する方法を基本としているということです。


さて、それでも心理学の目からは、この少女の怒りの量がある一線を越えた原因は何かというテーマがあります。
加害者側の少女について、社会の目が向けられ、これからさまざまなことが言われるであろうことは推測というに及びません。
むしろ僕が最初にこの「原因」としてどんなものだったのだろう、と考えたのは、被害者側の少女のことでした。
「どっちが悪い」という話ではなく、この事件はあくまで2人の少女の「自他を追い詰める」態度の相互作用の結果生まれたものであることが確かと思われるからです。

この辺が神戸や長崎の少年犯罪事件とは異なるところ。

これについて、「やはり..」と思わせる一文が、今朝の新聞に載せられていました。
被害者少女の父親の言葉です。
3年前に妻を亡くし、大学生および中学生の男子とこの少女を男手で育てていたとのこと。
少女については「甘やかしてはいけないと、時に厳しいことを言ったりもした。いい子だった。」と。
この子も、ありのままの自己を押さえつけることで生きる生き方を、小さい時から心の芯に染み込ませていたのだろうなぁ..とその子のイメージがありありと浮かんだ次第です。

No.200 2004/06/02(Wed) 11:06

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