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過去ログ
2004.7


感情分析の具体的進め方-8 / しまの

7/10以来のだらだら連載シリーズ^^;
項番の意味がなくなりつつあるので、省略。


■感情分析の基本作業

以前感情分析の基本作業を「反芻と吟味」と書きましたが(5/7)、これをもうちょっと説明補足したいと思います。
それを行うことによって何が変わるのか、という観点から。
カンペキにメカニズム論になりますが。。

反芻と吟味を行うことによって、今まで感じることのできなかったことが感じられてくる。
ソムリエの世界のように。
その結果、ある心の選択変換が本能的な力によって生まれるのですね。
それはどう行われるのか。

1)反芻吟味
特定の感情そのものよりも、何がその感情を起こしているのか、ひとつ手前の感情に対して行う、という感じで考えると良いと思います。
起きた感情について行うとしても、「成分分析」をするという感じになります。
合成された結果の感情をそのまま反芻することにはあまり意味はないように思われます。特に破壊性のある感情への長居は無用です。
また、忘れていたような感覚をふと思い出した時、それが何だったのかという反芻吟味も有用です。これはその感覚を固定化確実化し、上のような由来分析につなげるということになります。

2)選択変換
これは「最後の感情に現れる」と考えておくのが良いと思います。
この感情はどうすればいいのか。それはこんな感情が原因だった。あんな感情も含んでいた。では今のこの感情をどうすればいいのか?
最後に出た、「どうすればいいのか?」という感情に選択肢が現れます。

このメカニズム
合成された感情は、単に成分分析された合計ではなく、独自の価値を備えるようになっている。そのままでは選択の対象にはあまり上がらない。ところが成分分析した結果、成分のある部分は本能的に捨て去られる。その結果最終感情の成分バランスが崩れる。その結果それは、これからの生き方において選択するものであるのかの、根底からの再選択に上がる。

これは精神分析の基本メカニズムの説明でもあると思います。
でもこれを、心の健康という目的のための技術として位置付けるためには、2つの要素が加わると思います。
1)どんな要素感情を感じ取るようにすればいいのかという参考成分表
2)バランスが崩れた状態から、どっちへ向けばいのかというナビゲーション
この2つを明瞭に定義していることが、ハイブリッドの感情分析を単なる精神分析とは別のものと位置付けている理由です。

No.238 2004/07/22(Thu) 14:08

屈辱の世界からの脱出-15(End) / しまの

■望ましい行動法と望ましくない行動法の比較


●真の自信がある人の場合
   ・必ずしも「高い自己評価」ではない。生きる主体としての自己の核の強さ。
   ・ここでは、軽蔑されることへの対処法も心得ていることを想定します。

  1)バカにされ傷つくか
    傷つかない。
    最も重要なポイントは、人の評価を自己評価を決めるためにあまり使わないこと。
    人の評価が自分にとってどう扱うべきものなのか、いったん自分の自己欲求を基準に判断する。
    改善できることがあれば、真摯に受け止める。
    それが自分にとって重要な領域ではない場合は、全く歯牙にかけず受け流すことになる。

  2)怒り
    起きない。

  3)相手への行動
    最もお勧めできるのが「ハーバード交渉術」型の行動法です。
    http://tspsycho.k-server.org/base/base07.html
    まあ単純な受け答え方としては、「そうですね。反省します。」とか。
    バカにした相手の方が筋が通ってないような場合、無視するか、
    表面的に反省のポーズを見せて相手の自尊心を満足させておく。

    ここで、「きちんと話し合って解決しなければ駄目だ」とかの「信念」を脱することも結構重要な話です。
    自分の頭の中で「正しい」と感じることを求めるのか、それとも現実において良い結果を生み出すことをもとめるのか。
    これも、「選択」のひとつです。
    http://tspsycho.k-server.org/base/base04-02.html

  4)対人関係の結果
    相手の自尊心を満足させると、相手は軽蔑を向けるを止めます。
    なぜなら人を軽蔑するは、大抵、自分の自尊心を守るためにそうするからです。

    このような行動を取ると大抵、相手はこっちを見直すようになります。「いいところがあるじゃないか」と。
    それによって、対人関係は良くなっていきます。


●自信がない人の場合

  1)バカにされ傷つくか
    傷つく。これは、人の評価によって自己評価が揺らぐという状態なのであり、
    「自己評価が他人の評価に依存している」状態を示している。

    これは元が自信のない状態なのであり、それから目を反らそうとしているのが、
    人によって自分に目を向けさせられた状態といえる。
    「バカにされた」と怒ることよりも、自分に根本的な自信がないことを問題視して欲しい。
    根本的な自信とはどこから生まれるのかを考える機会にして欲しい。

  2)怒り
    起きる。これ自体は自動的なので仕方のないことです。
    自己評価を他人の評価に依存している状態で、人の評価が悪いと、「追い詰められた」ことを意味するからです。

  3)相手への行動
    「仕返し」的なものになる。
    これは追い詰められたプライドを守り、挽回するための行動であり、
    「自分が受けたのと同等もしくはそれ以上の屈辱を相手に与えて」打ち負かすことで、
    揺らいだプライドが回復するという心理メカニズムがあります。

    これは「自信がない人がそうする」のではなく、
    このメカニズムが誰の心の中にもあるということです。
    これを使えば使うほど、かっとなって仕返しする衝動は、自動的に、強力に起きるようになるようです。
    一方、この「仕返しによるプライド回復」メカニズムを使わずに済ますと、怒りそのものが次第に起きなくなってきます。

  4)対人関係の結果
    「仕返し」行動に出ると、2重のマイナス要素が生まれてしまいます。
    まず相手の自尊心を攻撃して、相手を傷つけ返すことで、互いに嫌悪感情が高まります。
    2つ目に、「些細なことで仕返しする人」という悪評を、今までの軽蔑にさらに付け加えることになります。

No.237 2004/07/19(Mon) 13:22

屈辱の世界からの脱出-14 / しまの

説明の残りです。
実はこれを結構最初に書いておいたのですが、
すぐこの話をする前に根本的な話があるということで、今までの長い説明を加えておいた次第です。

自己と現実を受け入れ、過去の仇ではなく未来への成長を選択した上で、出てくる、細かく沢山の思考法行動法の世界です。
けっして、「今の自分を何とかするために、そうしてみる」という姿勢の中で行うことではないことに注意して下さい。それは自己否定です。
その姿勢を少しでも自分の中に感じたら、その根本的な生きる姿勢の選択を問い直す方が先です。

お勧めする行動法が取れる人と取れない人を比較したものを書いてみましたので、それを参考にして下さい。
後者の思考法行動法を前者のものに切り替えて行く努力を常に意識して頂ければと思います。
繰り返しますが、決して「そうできる人間になる」という結果ではなく、生き方の違いを理解して、進む方向を変えるということが大切です。


■外化と健康な共感の違い

なお外化の話を少し補足しておきます。「外化」と「現実」の違いについて。
単なる外化か、それとも現実か。それを区別することが重要なのではなく、
外に映し出された内面に向かって、それが外にあるかのように反応することが問題。

ただ一般的な「共感」とか「人の心を感じる」こととはどう違うのか、というのがあります。
「外化」を健康な心理と分けてわざわざそう言う、違いとは。

それは、相手がある感情を持っている、それが「ありありと」感じられることです。
本来、人は人の感情を直接感じることはあり得ませんので、
健康な共感とかでは、相手の表情や行動とか、実際の様子を元にしてそう判断するわけです。

一方外化では、相手をどう見たかということはあるとして、まるで相手が、
自分にその感情を向けるためにのみ存在しているかのように、ありありとその感情を抱いていると感じる
わけです。

これは基本的に、空想の世界を現実のように知覚してしまう現象で、
「自己操縦心性」の持つ現実覚醒レベル低下の特徴でもあります。
これが度を越えると、妄想とか幻聴といった世界まで連続的に発展します。
病気の話ではなく、そんな人間の心理メカニズムがあるということです。

それに加担せず、弱めることが大切です。
とにかく、「自分は自分の内面を映し出したものに反応している」と自覚を持って、
今まで説明したような姿勢変換を図ることです。

No.236 2004/07/19(Mon) 13:19

屈辱の世界からの脱出-13 / しまの

■外化と「事実」

外化を、「人にバカにされたと感じるのが外化なのか事実なのか」という文脈で考えようとしても、あまり益はないように思います。

外化されて体験する軽蔑などが「現実かどうか」、一応心理学説明としては、次の2のケースがあるという話になります。

まず外化が往々にして、現実の相手の反応を引きだすことがあるということ。相手が自分を嫌悪するという外化によって、空気がやはりとがったものになりますので、実際、好意が向けにくくなるというような。
外化はしばしば現実と混じる、というケースです。

もうひとつのケースは、外化が完全に現実から乖離しているもの。人の心の読みすぎ。取り越し苦労。


■外化はどう取り組むべきものか

つまり外化は、現実なのかそれとも外化なのかと、区分けして見ることに意味があるものではありません。

外化とは、自分の心が外に映し出されていることを意味します。
現実に比べて、それが「正しい」かどうかが問題なのではなく、映し出されたものに対して反応していることが問題です。
鏡に映った自分の姿を相手にしているような話ですね。鏡に映ったものと、鏡の向こうの世界がたまたま一致していたとしても、これが心の罠にはまった姿勢であることには変わりがないのです。

より具体的な取り組み方法を説明します。

「バカにされた!」
そう感じた時、実際そうだったのかそれとも勘違いだったのかに関わらず、
人からの評価によって自分の感情がどれだけ乱れたのかを、それはつまり自分自身によっては確実な自信を確立していない部分であることを、まず認識することです。

そして課題は、この相手にどうこうするではなく、自分自身としての確実な自信をどう目指していくかということになります。

この先にまた色んな難題が見えてきますので、そっちにエネルギーを注ぐことです。
「真の自信」については既に色々とお話しているテーマですね。
あとは「行動法」というのが出てきます。
次ぎのメールにて。

まあカッとなると反撃してしまうのも、ほとんど反射でそうしてしまうものですので(僕もたまにあります^^;)、これは怒りの都度、一生を通して自分に「そうしてる場合か?」と問うプラクティスが大切です。

No.235 2004/07/19(Mon) 13:09

屈辱の世界からの脱出-12 / しまの

あと「行動法」と「外化」について説明が残ってますね。
順番としても、外化についてまず説明しておきましょう。

細かい話も含めるとかなり沢山の事柄がありますので、要(かなめ)を見失わないよう、
もう一度全体観を確認しておきます。
全体として向くべき「姿勢」があり、その姿勢の中で細かい「実践」がある、ということです。


■自己否定と屈辱の怒りから抜け出す

これが全体の話で、目標です。

自分がバカにされているかどうかを正しく見極め、自分の問題点を考えなおそうとしたり、逆に自分をバカにした人の行動にどんな理不尽があったかを見極めてやろうとする。

何かこれが正しい姿勢であるかのように感じがちなのですが、実は心の罠にどんどん引き込まれているわけです。
前に言った、自己と現実の否定、そして間違った過去の仇を討つという姿勢です。

この姿勢に一度足を踏み入れると、まるで砂地獄のように、自己否定と他人への敵対姿勢へと強く強く引きずり込まれてしまうのです。
これは正に、罠です。
その中で「正しく」考えようとすればするほど、深みに向かう力が働くことになります。

この深みから抜け出る方法は、この砂地獄の思考回路の中にはありません。
全く別の思考回路を使うことが必要です。


どっちの思考回路を使うことが「正しい」というのはなく、選択です。
そして、今までの人生ではあまりに砂地獄思考を取ることが自然な流れとして骨の芯にまで染み付いていますので、全く別の思考回路を働かすためには、今まで通り砂地獄に流れるよりもはるかに大きなエネルギーが必要であることをわきまえておくのが良いでしょう。

それだけ、深刻な選択です。
人生がかかっていると言っていいでしょう。


別の思考回路を使うとは、前に言った2つの選択の、今までとは違う方を選ぶことです。
自己と現実を受け入れること。
過去の仇を討つことではなく、未来へと成長することに自己を注ぐことを選ぶこと。

今は、とにかく、この選択に自分を向けるという、巨大な船の方向変換をするような作業に向けて頂きたいと思います。
良く分からない点や納得できない(妨げるような)点があれば何度でも質問して下さい。

「外化」の問題は、ここで、前を向くことを妨げる要因として絡んできます。

No.234 2004/07/19(Mon) 13:08

屈辱の世界からの脱出-11 / しまの

(続き)
2)過去の仇と未来への成長

もうひとつの選択は、「過去を直す」ことに心を向けるか、これからの未来に向かって自己を作っていくか、という選択です。
これは「戦争するかしないかの選択」という話で言ったことでもあります。

人から傷つけられるような目にあった場合、相手にとってはそれで終わったことであっても、
傷ついた方は、傷の痛みが続きます。心から血が流れ続けるわけです。

その痛みに怒り、過去に心を向けるとは、「お前はそうすべきではなかった」と反撃することです。
ふつうの人はこれを取りますね。結構自動的にそうしてしまうものです。

心を未来に向ける選択肢を取ると、自動的に反撃行動に出てしまうのとは対照的に、
一挙に沢山の難題が現れてきます。自動的な反撃行動の代わりに、これを考えることにエネルギーを向けます。

難題の一つは、これ以上の傷を受けないためには、どうしたらいいかです。

この辺から「行動学」が出てきます。「選択」のあと、つまり心を未来に向けるという選択をした後は、
ではどうすればそれがうまく行くかという、「条件」とか「仕方」とかの話が出てきます。
つまりこれは、うまく生きる技術です。
これについては、お勧めの行動法がありますので、この後に説明します。

もうひとつの課題は、受けた傷をいやすことです。
リラックス法、音楽、とか。
心を静める自分なりの方法を持つことはとても良いことだと思います。
僕の場合は入浴とか、あとジョギングとかも頭をからっぽにして、運動の際に出る脳内幸福物質で心を静めることが多かったですね。


■人を過去に向かわせるもの

ここで、自己や現実を受け入れるとか、未来に心を向けるとか、
「前向きな選択をできなくするもの」があるということも知っておくと良いでしょう。

それは「絶望」です。

心理障害の背景には必ずこれがありますので、
自分の場合もこれがあって、前向きな選択が心の土台で阻まれていると認識しておくと良いでしょう。

これに対する対処が、特にないというか、「心の中でただ溶かし流すこと」というような話になります。
これについては前に送ったメールで主にテーマにした話ですね。
前に進む前に、「絶望の淵」があることを避けることはできません。

それが「何かまずいこと」だという、枠をはめる目で見ることをやめ、ただそれを迎え入れることが必要な瞬間があります。
その後にどうなるかはもはやつながった話はありません。ループ脳と健康の間の断絶があります。
その先に「未知」があります。

No.233 2004/07/19(Mon) 12:01

屈辱の世界からの脱出-10 / しまの

■「選択」の話

前のメールでも書いたことですが、もう一度この点が全ての根元のところで重要になりますのでこれについて。
「選択」とは、外部のどんな条件にもかかわらず、つまり「〜だから〜できる」という条件の話でなく、
人間の心の中に究極の選択の分かれ目がある
という話です。

回りがどうだから自分の感情がこうなる、とか自分がどうだから自分をどう評価できる、とかではない。
そんな条件がどんなに変わっても、同じ選択肢が常に人間には現れ、どちらを向くのかを、人間は選択することができる。

この選択には具体的に、2つのものがあると思っています。

転載時コメント:「根本選択」と「基本選択」
これは心理療法の話というより、純粋にメカニズム論的な話になり、ちょっと難解な話かもしれませんが。。
メカニズム論に興味なければ無視して頂いて構いません。

現在の僕の頭の中では、「根本的選択」は大体のところ3つに収束するかと思っています。
未知への選択、空想の中でなく現実の中で生きるという選択、過去でなく未来を向くという選択です。
これが「根本的選択」。根本と言っているのは、心理メカニズム的な原初性を言ってます。人間以外でも当てはまるような原初性です。
下記の自己受容の選択は、これを基盤にしたもので、複合的なものです。このレベルは「基本選択」とか呼べるかも知れない。根本選択が3つ。基本選択は幾つかとかはまだ考えていません。自己受容の選択心理学的幸福主義の選択とかは、基本選択の話になります。

下のは、こんな科学論バカ(^^;)的なこだわりなく、とにかく重要な選択として、2つにまとめています。


どちらも、この選択は、一度選んだもので心がきれいに塗り変わるというものでもなく、
何度も何度も、全ての感情や行動の都度に、この選択ができるということを知っておいて下さい。
そして、自分はこれからの人生において、どっちを選択して生きていくか、じっくりと考えて下さい。

1)自己と現実の受容

これは前のメールで書いたことです。
自己を受け入れ、今の自分がその中に安堵することを許される存在と考えるか、
それとも、「別の自分」にならなければいけない存在と考えるか。


どっちをお勧めするかと言うと、予想できると思いますが、自己を受け入れることです。

なぜなら、これが現実だからです。自己を受け入れるとは、現実を受け入れることも意味します。
そして人間の不完全さと弱さを受け入れることでもあります。現実は大抵理想とは違いますので。

選択です。
どんな不満があっても、今の自己と今の現実を、自分が立つ地盤として受け入れるか。
それとも、「なるべき姿」こそが自分の主(あるじ)であり、現実と自己を否定して作り変える、神の力を持つ存在であることを求めるのか。
(続く)

No.232 2004/07/19(Mon) 11:59

屈辱の世界からの脱出-9 / しまの

(続き)
サイトの入門編でも、これから、「選択」というのがとても重要な言葉として出てきます。
心理療法によって、こうすればこうなれます、という話が幾つかあるなかで、その底のある要のような所に、
『人間としての選択』以外の何物でもないある分岐点があります。

この『自己受容』という微妙深淵なことがらは、そのひとつです。
その選択が、Aさん自身の選択として見える瞬間がどこかにあることをさぐって行って下さい。
それが近いところにあるかも知れません。

Aさんは今自分を、受け入れざるべき存在のように感じているかも知れませんが、
僕ははっきり言って、何の先入観もなく受け入れることができる存在であることを感じています。
それは実際の行動や仕事ぶりがどうこうということよりも、こうして成長しようと努力する意志を持った存在であることです。
それで十分です。


人間は神ではなく不完全な存在なので、必ずどこかで失敗をします。
それが対人関係を損なったり、回復の難しい不評を買ってしまったりすることもあります。
でもそれは今自分が生きていて、成長しようとしている一個の人間であることは、
どんなにうまく生きている人とも全く同等の価値のあることです。

この、自己の存在そのものへの受け入れと、
個々の行動や感情の改善とは、全く違う話になる
ことを知っておいて下さい。

このような見方をするとは、「中庸の目」を持つということと言えます。
今、実際の生活でうまく行かないことが多いとしたら、それは確かにその面では価値の低い状態があるということです。
一方で、その状況の中で成長しようと努力している。それはうまく行っている人がその努力を知らないことに比べると、はるかに高い価値があります。一方、だから「うまく行っている人の方が価値が低い」などと見下すべき話でもありません。

人間には様々な面があり、その中のどれかを取り出すと、優劣が生まれます。
しかし人間の存在そのものは、その様々な面を全て足した総和などではなく、様々な側面を見せることがある、ひとつの本質的な生きる主体があるということです。
その本質には、もう優劣はありません。

なぜなら、優劣は、ものごとの一面だけを断片的に取り出して、特定のものさしで決め付けることで初めて判断できることだからです。
http://tspsycho.k-server.org/base/base05-02.html

まずはこの目を自分に向け、自分が今の時点においても自己に安堵することを許された存在であることを感じ取って欲しいと思います。
いえ、これは言われたように感じ取ることではなく、自ら感じ取ることを、自分の意志で選ぶことです。
これが今の自分の心の中ではどんなことなのか、「今の自分じゃ駄目だ」と感じ続けていたのとは違う自分への視線が、視野のどこかにないか探って行って下さい。

この自己受容が、今までの人生の最大の方向転換になると思います。
それは頭で考えることではなく、心全体を、自分の全人生の中での今の位置を見つめ直すことです。
何かが間違っていたことに気づくと思います。自分を慰めながら思いっきり泣くのもいいでしょう。というか、それほど大きな「自分自身への戻り」があることを知っておいて下さい。それはいずれ通る道であり、自分からそこに導いてみるのもいいことです。


ひとつだけ留意点があり、「人はこうあるべきだ」というものの考え方をどれくらいしているか、です。
それが心を縛る全ての始まりなので、何か「人はこうあるべきだ」という考えが本当にあるようなら、
まずそれを問いてみるのが、上の話よりも先になります。

行動や感情には、沢山改善できる糸口があるでしょうね。
分解していきますので、じっくり取り組みましょう。

No.231 2004/07/19(Mon) 11:21

屈辱の世界からの脱出-8 / しまの

■自分がバカにされつまはじきにされることへの怒り..の前に自己受容の話

これ(怒り)については、外化の話を含めた、
一連の心理の流れを理解しておくことが良いと思います。

とても沢山のことが連鎖し合って、どんどん対人関係を悪くする方向にしてしまいがちなのですね。
沢山のことが連鎖し合っている分、どれか一個だけ着目して、それを「直す」ことでうまく行くように自分を変えたいと考えても、ちょっとそれでは無理なんです。

その前に、自分が置かれた状況が、何かとてもまずいことだという焦りを感じておられないでしょうか?
それを何とかして変えなければ、と。
Aさんを窮地においやっているのはその焦りそのもの、ということが多分起きていると思います。
後日幾つか問題を分解した説明をしますが、その全ての根本に、これがあります。

ぜひ自分に問いてみて下さい。
今一生懸命自分を何とかしようとしている、その気持ちの大元が「これじゃまずい」と自分を容赦なく追い立てる姿勢ではないだろうか。
意識は対人関係を何とかしようとすることに向かっているけれど、心の底で、泣いている小さな子供を鞭打って「なんとかしなさい!」と責め立てているのではないか。小さな子供というのはもちろん自分自身です。


表の意識は、「対人関係を良くしたい」ではあっても、
心の底は、「世界はお前に悪意に満ちた厳しい目を向けているぞ。危険だらけだ。何とかしろ!」というストレスを自分に加えているのではないか。

これはまさに敵に身構える姿勢です。きつい鎧で武装する感情です。

実際の「対人関係を良くする」こととは、この武装を解除することです。
丸腰になり、弱い自分を認めて、人々の中に存在することを選択することです。今は多少「性格に難があっても」です。

表面的な行動法思考法は、幾つも説明できるでしょう。
でもそれは、この選択の前には、ちょっと価値がかすんでしまいます。
(続く)

No.230 2004/07/19(Mon) 11:19

屈辱の世界からの脱出-7 / しまの

■外面行動をうまく立ち回る

上のように傲慢な生き方さえ良しとするのは、文字通り本人の自由という意味もありますが、
心理療法的な意味があります。

それは、道徳的な仮面の下でそれを隠すと、かえって暴走するからです。
あまり意識することなく打ちのめし合いに流れるより、
はっきりと、自分がそれに何を求めているのか、心を開放して味わって初めて、
それが本当に自分に都合の良い感情なのかどうか、分ってきます。

ですから、どんな感情も良しとして、まずはその感情をはっきりと知ることです。
一方外面行動について、まさに、長い目で自分にとって最も都合良い行動を取る
努力をして下さい。

内面感情と表の違いなど全くOKです。
まあ、攻撃的行動は、結局自分に損です。


■道徳観について

以上、ハイブリッドの実践のかなり具体的な内容になってきましたが、
さらにここで、このような進め方ができるか、
道徳観や世界観と言った話が絡んできます。

本当に、「絶対的な善悪」などないという思想。
だから自分の中の何もかも許して、その上でじっくりと自分自身の利にかなっているかを
考えられるということになります。

この道徳観世界観については、入門編でこれから詳しく書く予定です。
(転載時メモ:道徳観世界観については入門編では大体稿了です。)

No.229 2004/07/16(Fri) 10:26

屈辱の世界からの脱出-6 / しまの

■戦争するかしないかの選択

まず「相手の悪い点を指摘することで自己評価を守ろうとする」態度
お互いにぶつかっていて、戦争状態になっていることを理解すると良いと思います。

一度これが始まると、実際の戦争と同じで、結果は見えているのですね。
とにかく自分の自己評価を守ること=相手の欠点を指摘して打ち負かすことなので、
とにかくこの戦いをやめ気持ちを全く切り替えるか、破綻が起きるまで、
際限なく傷つけ合いが続くだけです。

これはどっちかというと、心の病とか以前の、人間の行動世界のひとつです。
戦うことで自分を守るのと、戦わないで自分を守るのと。

イラク問題とも本質は同じです。戦争を選ぶか、別の手段を選ぶか。

肉親や仲間を殺された憎しみという話まで全て同じです。
復讐のため相手を殺すか。これは際限ない殺し合いです。中東で起きている問題。
過去よりも今とこれからを重視し、未来のために和解の道を選ぶか。

どっちが正しいかの問題でなく、どっちを選ぶかです。
まあお勧めはもちろん、戦わないでうまく対処する生き方ですけどね。

「一般論としてそれは分る。だがこれだけは許せない。」
戦争する全ての人が、そう感じます。

結構この基本の話が、自己嫌悪の根っことつながっていたりします。
「これだけは許せない」がどこかで自分にも向かっているわけです。


戦うのをやめるとは、戦う以外の方法でも自分を守れるようにすることです。
ですから相手の攻撃を単純に許すことではありません。


この態度を構成する2つの問題が取り組み対象になります。
取り組み対象になるとは、その感情が自分にとってどんな意味のある感情なのか、
自分の幸福に利にかなった感情なのかじっくりと考えることです。


1)欠点を指摘されることで自己評価が揺らぐ
  これは、自分の幸福に利にかなうかどうかとは考えるまでもない話でもありますね。
  むしろまず、自分が自己評価をどんなことを材料にして判断しているのか
  この自己理解を進めるのが良いと思います。

  で次に、そのような材料によって自己評価を考えることが
  自分の幸福に利にかなうかどうか、という話になります。
  本当の自信とは何か、という問いにつながります。次の2)はそれです。

2)相手の欠点を指摘することで、揺らいだ自己評価の挽回をはかる
  これが、人間を終わりなき戦争に導く感情でしょうね。
  相手を打ちのめした時、自分が強いという、自己評価が上昇して気分が良くなるという
  基本的メカニズムが、人間の心にはあります。

  この感情が、自分の幸福に利にかなうかどうか、とじっくり考える対象のひとつです。


ここで、「相手を打ちのめすことで自己評価を得る」感情を、
自分の幸福に利にかなう感情ではないと思えればいい...
のでは実はありません!

多分逆でしょうね。
思いっきりその快感を思い浮べるとこまで行ってもいいと思います。
そこまで行かないと、本当にその「感情の意味を吟味する」ことにならないのです。
そこまで行って、自分を疑うようになった時、初めて心の底からの変化が起きます。

実際の所、物理的暴力とかで事件を起こすのでない限り、
人を思いっきり打ちのめして生きる生き方も、犯罪者となるリスクを負った上での、本人の自由です。

No.228 2004/07/16(Fri) 10:16

屈辱の世界からの脱出-5 / しまの

まず最も基本的な方向として、「幸福を基準にする」基本指針がある。
はじめのまとめで言った「屈辱は真実ではない」とは、この基本指針に立ったときに、屈辱に対して自分がどう行動するかの選択肢が見えるようになるための、視界を確保するための認識です。


屈辱は真実ではないことを理性が知った時、たとえ感情がそれを真実と感じ続けても、そこに最初の方向転換への芽が現れたことになります

さらに言うならば、屈辱が真実ではないことを理性が確信し、屈辱が真実であることを感情が確信した時、屈辱が根底から消え去る方向に向かいます
これが「屈辱の世界からの脱出の原理」です。理性と感情が完全に相い対する極を向く瞬間。「屈辱は気のせい」とごまかす時、これは起らず、屈辱は温存されます。
感情はありのままに開放し、理性は感情に依らず前を向く。両者が全く別種のエンジンのごとく二枚岩の形で個人の生きる主体性を構成する。これがハイブリッドの求める、生きる姿勢です。

屈辱が真実ではないことを知るとは、屈辱のない世界を知ることができて、初めて可能になります。
その話。
感情の分析の話ではなく、この現実世界における「行動学」の話になります。

No.227 2004/07/16(Fri) 10:03

屈辱の世界からの脱出-4 / しまの

これは余談ですが、ちょっと参考になると思いますので、これも付けときます。
前コマの返答メールの付けた余談。

つまり、「屈辱からの脱出」について書きたいことが余りに多かったので、
僕の中であれやこれやと「書くべきこと」が迫ってきて、ちょっと目の焦点が合わなくなるような混乱が起きたんですね。

僕自身がそれをどのように解決したか、という話。

------------------------------------------------------------------------
実はメール内容への返答をひと通り書こうとしている内にあまりに話が多くなり、
僕自身何をまとめようとしているのか混乱してしまい(^^;)、
まずこれだけ最初に打っておきます。


■余談:焦りの解除

これは今日、僕自身で行ったことでもあるのですが、
サイトの原稿とか、朝すごくアイデアが浮かんで、今日は2ページも3ページも書けるのではと浮かぶ。
このメール返答も、ポイントがひと通り浮かんで、それで返信出せるイメージが浮かぶ。

ところが実際にとりかかると、仕事の合間ということもあり、気が散って考えがまとまらない。
イメージしていた、何枚も書き終わった姿との違いに焦りが出る。

この場合、イメージの方をリセットします。
そんなすぐに、幾つものエッセンスを押さえた上で何ページも書けるなんて、常人技ではないでですから。

仕事の進め方とも共通する話になりますが、こんな時は以下のようにします。

1)作業の優先順位を整理する。
  幾つもやりたいことがあっても、自分はひとりしかいないのだから、
  平行作業など考えずに、一直線に優先順位で並べます。
  この際、思い切って余裕のあるスケジュールまで大胆に伸ばしてしまうのがポイントです(^^;)v

2)今日できる部分だけを考える
  優先順位を決めたら、「腹をくくる」というのが入ります。つまり、優先順位が低いことはとりこぼしが出る可能性あり。それでもいいやと。
  あとは、優先順位の一番高いところの、今日1日でできるところだけを考える。
  それに専念して、終えたら残りのことは考えずに休み、遊ぶ。

ということで今日はここまで^^;

No.226 2004/07/15(Thu) 10:32

屈辱の世界からの脱出-3 / しまの

「屈辱の世界からの脱出」をテーマにおいた、ある一連のメール返答文を掲載します。
もう3か月くらい前のもので、僕自身この後にさらに考えが煮詰まっている部分もありますが、色んな角度・色んな言葉で問題の本質を捉えることが大切ですので、大体そのまま掲載します。

全ての問題が絡み合っています。
一面を取り出して何か分ったとしても、それは最初の糸口でしかありません。
別の問題から、その問題が供給され続けますので、別の問題への視点も必要になります。
そうして、大方の問題への視点が心の中でつながった時、初めて本格的に、自己の進む方向の選択肢、つまり自己を開放するという、今までの生き方とは違う選択肢が見えるようになります。
もちろん、頭の中でつながった時ではなく、感情体験の中でつながった時です。


前カキコにも指摘のように、2/20掲載の「絶望を超えて」と3/28からの「未知の自己へ変化」シリーズから、合わせてじっくり読んで下さい。

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「自分の感情や行動の善悪を決め付けず、何が不合理なのか、
何が自分自身の利になかっていないのかを、具体的に考える」


これが一番基本的な話で、人生という旅程をうまく進むための、
目的地の定め方と地図の見方と歩き方というような話になります。


■幸福を基準とする基本指針

「自分自身の利にかなっているかどうか」とは、「自分の幸福にとって」利にかなっているか、という話です。
つまり、目的地は「幸福」であり、それを闇雲に思いつきの行動や感情に流されていくのではなく、
今自分がどこにいるのか、どっちを向くのがいいのかを考えていくということです。
この際に多少心理学の知恵を加えます。

それに応じて、以下のいずれかの姿勢を取る。

1)自分の幸福に、利にかなっていると思われる感情に出会った場合
  積極的に加担する。それがなぜ良いことであるのかを自分なりに考えてみるのも有益です。
  もし何か新しいことへの行動とかが思い浮かび、不安も伴う場合、自分を勇気付けてみる。

2)自分の幸福に、利にかなっていないと思われる感情に出会った場合
  その感情に力添えしない。

  ここで、決してその感情を否定し去ろうとか、正そうとすることではないのがポイントです。
  なぜなら、感情を無理に否定したり直そうとするのはストレスであり、気分の不調の原因そのものだからです。

  力添えしないとは、その感情を否定することなく、行動化もせず、それに疑問を投げかけることです。
  なぜそう感じるの?そうすると何が得られるの?
  この自己との対話だけにエネルギーを注ぎ、この感情をめぐる行動は一切止めます。

これが、自分の幸福にかなった感情を増やし、そうでない感情を減らすための実践になります。
自分に無理強いすることなく、じっくりと確実に自分を変えていく方法というわけです。


これ自体はあまりに一般論で、では具体的な問題をどう考えるかということになりますが、
基本から押さえるのがやはり大切ですので、
これを一つ一つの「実際の生活場面のやりくり」を越えて、一貫した「人生のプラクティス」と
することを意識して頂けたらと思います。

No.225 2004/07/15(Thu) 10:22

幻想の中の行為としての軽蔑 / しまの

この話はやっぱりひとつカキコしときましょう。
ちょっとメモしておきたい話もあり。
ラフなメモということで、例によって難解なところもあるかもしれませんが、今僕の頭にあるストレートな言葉で書いときます。

そもそも「軽蔑」とは、「空想の中で他者を傷つけることで自己の力や優越性の確認を求める衝動」と定義できます。
これが「現実の中で..(以下同)」となると、「サディズム」という別のテーマの心理になる。(また例によって話が膨らみそう..^^; ここではずっぱり省略。)
少なくとも、それはその人の空想の中で行われることであって、それを向けられる人間に本来かすりもしないものなのですな。

「ちょっとメモしておきたい話」と言ったのは、先日ネットで調べ物をしていて、まさにそんな例があった次第。
入門編で「幸福」についての自分の定義を書いたので、世にある幸福論をちょっと見とこうかと思った。
それでヤフーで検索してヒットしたものに、こんな文章あり。
「もしこの世に、宇宙のすべての情報を知る存在者がいるとするならば、私はその存在者を尊敬するどころか軽蔑します。あなたは、電話帳一冊を丸暗記した人を尊敬する気になれますか。」

これ読んで思わずポカ−ンと口をあんぐり。
この人は哲学系の著書も多い評論家的な人のようですが、何かを空想して、何かを軽蔑しているらしい。
このケースでは、軽蔑の対象となるものも実在しない、形を成さないものになっています。
それにしてもこの人の幸福論はちんぷんかんぷんでしたなぁ。マジに哲学論として読む気になりゃーそれなりの解釈はできると思うけど、興味なし。「言いたいこと分るけど、そんなこと考えて何が楽しいの?」ってカンジ〜。
...(^^;)


ようは、世の人々が向け合い、屈辱を味わい合う軽蔑とは、実は全てこれと本質は同じなのですね。
そこで軽蔑を向けられた人間にどうしたら「傷つく」ということが起きるのか。
その違いは、軽蔑を向けられた人間が「それについて自分を軽蔑している」かどうかが分かれ目になります。

自己軽蔑がなければ、屈辱にはならない。だから幻想に過ぎない。
「屈辱はないと思えばいい」という話ではありません。
「いや、相手はこっちの自己軽蔑を知って、それを悪意で突いてくる。それが許せない。」
「こっちの自己軽蔑を知って悪意で突いてくる」。それはまさに空想ですね。
完全に自己の中に閉じた幻想なのです。

もう少し丁寧な説明を、この後のシリーズ続きでできるかと。

No.224 2004/07/14(Wed) 14:39

ちょっと失礼 / ハリー

ん〜、しまのさんの理論は内容的にすばらしいが、同時に説明がスばらしく難しいですね。
良かったら、ここ具体例など交えつつわかりやすく説明していただけたら幸いです。
>>>>
でもそれも幻想なのです。実のところ、「軽蔑する」という行為自体が幻想の中で行われる営みであり、屈辱が真実に感じられやすいのは、向き合う2者の間でこの幻想が重なりやすいのですね。
互いが、自己の鏡を見るかのように、「軽蔑する」と「軽蔑される」の幻想を見合っている。その幻想がたまたま一致しているから、人は屈辱が真実だと感じる。そしていやおうなく憎悪に向かう。
<<<<
それから、レスはエラーになるようですが、ここはレスは管理人意外つけられないようになっているんですか?

No.221 2004/07/13(Tue) 20:44

 
Re: ちょっと失礼 / しまの

レスてすと。

No.222 2004/07/14(Wed) 09:29

 
Re: ちょっと失礼 / しまの

>同時に説明がスばらしく難しいですね。

そんなんすよねー。
僕もサイト掲載の文章を月日を経て読んだ時、なんじゃこりゃーと思うことが良くあります。
今執筆の入門編についても、いずれ「超入門」も必要と思う今日この頃。。。

どうでもいい(勝手にそれる^^;)話ですが、僕はいつか中学生向けの本を書きたいと思っているのです。
タイトルは「嘘をつく大人にならないために」ってやつ。

>「軽蔑する」という行為自体が幻想の中で行われる営みであり、
>屈辱が真実に感じられやすいのは、向き合う2者の間でこの幻想が重なりやすいのですね。


この辺の説明を「屈辱の世界からの脱出」シリーズに載せていきます。具体例あったかなー。
メール返答文をちょっと添削の上載せるのですが、具体例も出るよう考慮しときます。

「軽蔑は幻想の中で行われる」。これ実に重大な話。
これをはっきりと認識するようになったのは実は最近です。
というか、以前はまず理論を整理することに気が向いていたので、「軽蔑は思春期要請の結果発動される自己操縦心性によりつかさどられる」となったのですね。アッハッハー。
理論用語でなく、日常用語で考えるようになって、さらに本質が見えてくるように感じる今日この頃。。

>ここはレスは管理人以外つけられないようになっているんですか?

これは最近この掲示板提供サイトのセキュリティが強化されて、ちょっと設定変更が必要になったためと思われます。
実は僕自身がカキコ修正をできなくなっていて、先日気づいたところです。

僕はレスできましたので(↑)、他の方もできるよう設定を確認してみます...っと別に↑も特に「管理者レス」になるわけでないから、先日の設定修正で直っているかな。お試し下さい。

No.223 2004/07/14(Wed) 09:37

屈辱の世界からの脱出-2 / しまの

心理障害は怒りと恐怖と憎悪のストレスの蓄積であり、まず基本的に、怒りが無駄な感情をあることを知り、憎しみを捨てるという選択が見えるようになる必要がある。
ところが、頭では分っても、体が憎悪に向かう。なぜならば、屈辱の強度が上述の選択の可能性を上回っているからです。

これを何度も見ました。そして、これをどうにかできないものか、と考え、その人が置かれた屈辱の強度を思う時、これはもう手がでないメカニズムなのか..、と多少無力感を感じたこともありました。
だがそうではないことがはっきりと見えてきました。
強度の問題ではない。屈辱が真実であると感じているから、そうなるのです。
「屈辱の真実」とは、「屈辱は真実ではない」。これが真実です。

自分がある異性から好かれている。そんなナルシズムが幻想に過ぎないと疑うことは、人は比較的容易にできます。
でも自分が軽蔑されたという屈辱が幻想であることを、人はほとんど思い至ることができません。
でもそれも幻想なのです。実のところ、「軽蔑する」という行為自体が幻想の中で行われる営みであり、屈辱が真実に感じられやすいのは、向き合う2者の間でこの幻想が重なりやすいのですね。
互いが、自己の鏡を見るかのように、「軽蔑する」と「軽蔑される」の幻想を見合っている。その幻想がたまたま一致しているから、人は屈辱が真実だと感じる。そしていやおうなく憎悪に向かう。

これは弱い人間同士の世界です。心が強くなった時、これが幻想であったことをはっきりと知ります。
先回りして幻想であることを知っておくことが、極めて有益でしょう。

屈辱が真実であるかのように感じる。これに加わる問題として、人の目に映る自分の姿を通して自己評価するという、自己評価方法の根本的なまずさが問題点として絡みます。
これは自尊心や自信というテーマの話で、今回触れるとこまであまり行かないかも知れない。

ひとことポイントを言っときますと、日曜にUpした入門編原稿でテーマにした話ですが、自己の重心というものをこれが端的に失わせるのですね。
まさにこれが破壊的な自己軽蔑の伏線になっています。自らの生きる姿勢において、自己軽蔑を招いているわけです。それを人の目を通して自分に向ける。そして人に憎悪を向ける。

何とも巧妙確実な自滅のメカニズムです。
これに気づいて、抜ける方向を自分の心の中に探すことが、最初から最後まで決定的な成長ポイントを構成する実践になります。

No.220 2004/07/12(Mon) 10:31

屈辱の世界からの脱出-1 / しまの

また長いシリーズもののカキコをUpしたいと思います。
題して「屈辱の世界からの脱出」

自分の成長を実感し、進むべき方向感が確実なものになるまでに、越えなければならない谷のようなものが2つあると感じています。
ひとつが絶望の谷であり、もうひとつが屈辱の世界

前者については、2/20掲載の「絶望を超えて」3/28からの「未知の自己へ変化」シリーズで取り上げていますので、過去ログで参照下さい。
これ「未知の自己へ変化」としたつもりだったんだけど..アハ。

「絶望の谷」について一言にまとめると、本当のものではない別の自分になろうとする衝動が人格を支配している、それが自己の開放を阻んでいる最大のものである。そして自己の真実に向かう歩みの中で、その衝動はいずれ崩壊する。なぜならば、自己の真実に近づくにつれて、別の自分になることは根本的に不可能であることが、頭ではなく、心の根底で自覚されるからです。
その時には意識の表面は望まざる絶望につつまれることを知っておいて、ただそれをやりすごすことが必要です。

先日ある相談メールの方が、感情を行動化せず別にするという話を、「雨が降る中で傘をささずに雨に打たれるようなことですか?」という言葉を使っておられましたが、これは言い得てるなぁと思いました。
そんな感じですね。雨が降ってきた。「これはどうにかしなければならないことだ」と傘をさしてそれをはね返すことは、私たちが感情体験の中で獲得する変化をシャットアウトした平坦でしかないのですね。
そして、傘をささずに雨に打たれると風邪を引く危険もある。これが絶望を乗り越える時にも当てはまるように思えます。それは気力が失われる、間違いなく望ましくない状態であり、その痛みを受け入れながら理性で体の休息を確保するような心がけが必要になります。

一言どころでないサマリーでしたが(^^;)、「屈辱の世界からの脱出」についても、先にまずサマリーを載せておきます。

No.219 2004/07/12(Mon) 09:56

感情分析の具体的進め方-7 / しまの

3)心の開放を知る-2

(続き)
「心の変換」とは、心の向きが変わることを言います。

自分の心理障害を、何とか治そうとして、自己分析に取り組む。
多少とも何かが見えることはあっても、「自分を何とかしよう」というストレスの中で「治そう」とする姿勢には、あまり変わりがないんですね。
ストレスがなくなっている自分の姿を自分に押し付けるストレス..と元のまま。

これが全く違う方向へ向く転換点が起きると思います。
その転換点の内容は幾つかあるかも知れないけど、どりあえず「心を開放することを知る」体験というのがまず考えられます。
これを体験したとき、自分の進むべき方向が何となく、はっきりと分かってくると思います。
これはどのようにして起きるのか。起こせる?のか。

「心の開放」が「心の健康」と強く結びついていることは、恐らく直感的に分かると思います。
それで、「心を開放しなくちゃ」と思う。
ところが、そう思うことも、心を縛りつける心性の中でのことなので、結局のところ、心を開放しているような別の人間になろうとするストレスでしかない。

人の目の中で、心が開放された姿になっている自分。そうなろうとする衝動は結局のところ、得体の知れない獣に囲まれたような不安感の中での武装。
心の開放は、その武装がちょっとしたきっかけで解除される体験として現れると思います。

武装を解除する。
それは赤剥けの心を地べたにさらして、人々の前にあることを意味します。

心を開放するということがどんなことなのか、その時に初めてわかるでしょう。
もし条件がよければ、「カタルシス」と呼ばれる開放が起きるでしょう。
ただしそれは一時的なものです。人格を変化させる魔法ではありません。
そこから得ることができるのは、方向を知ることです。
そこから、その方向へと歩む、長い、恐らく生涯続く成長への過程が始まります。

これは一応、感情分析の進行段階として(3)演技心性の放棄として延べたことの最後のポイントですね。

どうこれを起こせるのか、という話はあまりありません。まさにそれを起こそうとするのではないところで起きます。
それでも、前カキコに書いたことが既になされていた時、早晩これは起きると思います。
なぜならそれが人間の本能であり、今まで行ったのはそれを塞いでいたものを取りはらう作業だったからです。

起こそうとして起こせるものでない。しかしいずれそれが起きる。
それを知っておくことは、それを迎い入れるために良いことだと思います。

一方で、ひとつだけ条件があることをお伝えしときたいと思います。結構これが一番言いたかったことでもある。
それは、心の開放を許すような人々の集団の中に入っていく必要があるということです。


心理障害は病気ではなく、生き方に過ぎない。
心理障害的な行動様式が必要になったしまったような人間集団の中で生まれたわけです。
心理障害を克服するかどうかに、それを必要としない人間の世界を選ぶという選択が、やはり前提としてあるように思えます。

つまり、同じ本質の中から、悪い面ばかりに焦点を当てる人々と、悪い面は見ずに良い面に焦点を当てる人々という、2つの世界があります。
どちらも一応健常人です。でも、類が類を呼ぶように、この2者が一律に混在しているのではなく、人間集団というものが分かれているように感じる。

これが僕の社会人生活を通じての実感です。

これはちょっと微妙な話になってきますが、
今いる人間世界でのいざこざの中で、どうしようかこうしようかと悩まれる方を見たとき、思い切って別の人間社会に出ることが必要だと感じることが、良くあります。。

どんな人々の集団か。どう探せばいいのか。まぁそれがまた色々と難しい話かもしれませんが。。
一言だけ添えれば、表面的な明るさよりも、建設的で前向きというのが大切ですね。
そうした人々と接することは、頭ではなく体で学ぶことが多いものです。

No.218 2004/07/10(Sat) 22:06
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