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2004.10


治癒取り組みの流れ:癒しvs前進 / しまの

「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長」シリーズに含めてもいい話ですが、もっと大枠の話なので、単独でカキコ。

心理障害の基本構造は、感情の膿がまずあり、それから逃れようとする、同時に別の人間になりきることで人生の勝利を得ようとする自己操縦心性の膨張という構図です。
ところが自己操縦心性は、この人格構造、つまり自らを激しく嫌悪軽蔑しているパラドックスがあります。このパラドックスが問題の肥大膨張を起こす張本人です。

治癒への取り組みは、まず基本的な自己受容を学び、全く無益に自分自身を容赦なく追い立てることをやめることから始まります。
そして自分自身に向き合う落ち着きと内面の力が得られてきたら、いよいよ専門的な心理学の手助けを共にした、上記の構図の解除に取り組むことになります。
ここからは一般カウンセリングとかでメインとなっている「自分を受け入れる」というのとは大分異なる、内面戦争というような感じの局面になると思っています。

まず自己操縦心性のトリックを解除することが有用だと思っています。
このトリックとは、感情の膿から逃れ、自己欺瞞的勝利を目指して、自分の人生を捨てさせ、敵意と憎悪の中で生きさせるというものです。敵意と憎悪の最中は、怒りの感情の麻酔作用で苦しみが消え、心身は衰弱し、意識が敵意と憎悪から自分自身に向くと暗黒があるという循環悪化の構図があります。

このトリックについて、この後ちょっと割り込みでシリーズ書き込みをしようと思います。
このトリックを解除するとは、敵意と憎悪に転化されていた自己軽蔑を自分自身のものとして「戻す」ことを意味します。

ここからは、自己存在への自己嫌悪と、操縦心性のトリックの中で駄目にしてきた自分への健全な自己嫌悪、そして自己受容という、3つ巴の内面戦争という感じ。
この辺の話を、「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長」シリーズで書いています。「望むことを禁じる」病んだ自己嫌悪に対して、強い意志で、「望む意志」を持つ必要が出てくるという話が中心です。そこでは健全な自己嫌悪がバネになることもある。

自己操縦心性が逃げてきた感情の膿への突入とは、この「望む」方向への動きの中で行われます。
敵意と憎悪に転化してきた自己軽蔑を自分自身のものとして戻り、それに徹底的な抗戦をして、望むことへ踏み出す。
その時初めて、自分が人生で逃げつづけたものの正体が姿を現します。
そしてそれは痛みと悲しみの中で消えて行きます。これが根本的治癒。

そして「望む」ことについて心得ておいて頂きたいのは、それはやはり「望まなきゃ」という、今までの自己操縦心性の働きの別バーションという轍の中では可能にならないということです。
つまり、「治癒のために望むことが必要なんだ」では、ここで言ってる「望む」とは異なります。
望まないことも許すことができて、初めて望むこともできます。ここに再び自己受容の話が出てきます。
成長には休息も必要であり、いつ休むことが必要かは、その人自身の心だけがその信号を発することができます。これに耳を傾け、自分をいたわり立ち止まることは、望むことを禁じる自己存在への嫌悪の結果の「制止」とは全く異なります。

例えば、対人恐怖から人を避けて過ごしてきた人の場合、やがて人々の中に入っていくことへの望みを感じ取り、それに向って全力を尽くすことです。
でもそれを力づくで行動するのではありません。望んだ時に直面した本当の恐怖を前に、無理な行動をやめ、自分自身を癒すこともあるでしょう。その時間がやはり成長の時間です。

ですから、実際の行動について「どうしたらいでしょうか」という質問に対しては、僕は結局直接の答えは出さない感じになります。

今自分を癒すのがいいのか、それとも恐れに逆らって行動することがいいのか、その答えは未知の自分自身が出すものです。人に教わるものでもないし、自分の頭で決めることでもない。自分が今本当に望んでいるものに耳を傾け、それに自分を委ねる。
それが、心を解き放つということです。


その繰り返しの中で、本当に望むものへと近づくごとに、揺らぐことのない人生への自信が育っていきます。

No.315 2004/10/31(Sun) 15:21

「切り離された恐怖の膿」という病巣の本尊 / しまの

ワンポイントで治癒メカ上の重要な知識を。
メール相談でもこの段階に踏み込んできたのが増えており。

サイトの感情メカ理論では、「自己操縦心性」が心理障害を駆動するものとして重要な位置付けで説明しています。

しかし最新の島野理論ではこれが少し変化しています。
なぜ変化してきたかという経緯をちょっと説明してみましょう。
それが、治癒取り組みする本人が、自分の心に向かうべき姿勢と密接に関連すると思われるからです。

流れとしては、分析の重点が、障害が膨張するメカニズムから障害が治癒するメカニズムの方に移ってきた。
で膨張過程では、明らかに操縦心性が役割を果たし、この心性が病んだ心の不合理な本尊であるかのように見える。

しかし治癒過程まで詳しく見ていくと、「切り離された恐怖の膿」こそが本尊であり、操縦心性はむしろそこから逃げ、その人間の精神を救おうとしているという意味で、必ずしも病んだ心性ではなく、理解かつ解除可能な自己心理操縦というのがその本質のように見えてきます。

操縦心性としては、感情の膿から逃れられるならば、その人間に自分の人生を捨てさせ、他人への憎悪と敵意の中で過ごさせようとするほど、逃れようとしている。
ところが実は感情の膿とは、耐性をつけて操縦心性を解除した状態でそのまま体験した場合には、逆に消滅に向うという性質があるのですね。
それを知らずに操縦心性の行うことの愚かな悲劇、という話になりますが、それが実に強力なメカニズムで備わっているのが人間の脳というわけです。

実際、感情の膿は言わば、「感情よりも恐い恐怖」と言えます。
操縦心性の逃げの論理の罠の中で、それへの耐性を持たないまま直面へと放り出された場合、人は狂気に陥るということになるのでしょう。
人間が幽霊などを仮定して、下手すると狂気に陥るような恐怖を持つのは、実はこれが正体だと考えています。このような考えは既にホーナイも指摘したことです。

治癒においては、そうしたものへの耐性もつけていくことになります。
ちなみに僕は幽霊とかてんで否定しており、その手の話への恐怖感も皆無です。

このため、治癒への最も根本的な局面では、感情の膿への耐性をつけるという前進と、操縦心性が逃げようとしてきた感情の膿に突入するという痛みという2面が必ず同時に起きます。

これからますます障害過程よりも治癒過程に重点をおいた説明を色々書いて行きたいと思いますが、全てに渡って重要になるのが、「二面を同時に見る」ということです。
今の話について言うと、「治癒は現象としては必ず前進と悪化という2面を伴って起きる」こことして理解しておく必要がある。
あらゆるテーマで「二面を同時に見る」という話が出てきます。まさにハイブリッド。
これは座右の銘もしくは呪文としてでも憶えておいて欲しいことですね。

それを一面だけを取り出すという心の動きが、今までの病んだ心を生み出していたのですね。
しかし相変わらず難解言葉の羅列。我ながら..^^;

まあ膿の方は望まなくても向こうからやって来ますので、意識的努力はそれへの耐性をつけるような思考変換と、操縦心性のトリックの解除の方ということになります。

No.314 2004/10/30(Sat) 19:06

悪感情への対処の基本-3(End) / しまの

(続き)

■身体反応は全く重症ではない

勝手に心臓がドキドキして冷静でいられなくなる。
こんなコントロールできない体の反応が起きるほど重症だった。

そんなこと全然ありません。
感情の膿というのはごく軽症でもそうなります。
むしろそれを重症の心理障害だと自分を叱責することで、感情が重症化します。

この辺の説明として、僕自身の体験を紹介しましょう。

僕の「恐怖の膿の放出」の本格的なものの、今のところ最後のものはちょうど1年前の11月頃にありました。
詳細は省略しますが、ある女性にデートの申込みとかしている時、その女性へのラブラブな気分を伝えた後、恐怖感に襲われたのです。離反型が人との濃いつながりを持とうとする時に良く起きる反応です。

僕自身はもうすっかり健康な心で、生き生きと充実した毎日を送っていた感じです。
で、その時の恐怖感は実に独特なものでした。僕はもうそれが恐れるに値することではないことを十分分かっていて、実際のところ、感情としての恐怖感はないのです。
それでも体が震え、縮こまって、動くのを嫌がっているようでした。「こりゃまるで恐怖症患者だ」と思いました。
恐怖の感情はない。まあ気分は当然そこまで行くと沈んでますが。
ただ体の中を「恐怖の色彩」が流れている。その言葉を思いついたのは、その体験からです。

でも、この体験の後は、やはりさらに自分の基調感情が明るく、楽しみを基調にしたものに一段階上がったのを感じました。


■「苦悩」を「痛み」へと戻す

「悪感情への対処」の「ひとつ目」。基本中の基本。
以下は他の方への返答メールで書いた文です。

===============================
痛みは、それを嘆くことにより、苦痛になります。
苦痛は、それがない状態を「あるべき姿」と考え、それが実現するような救いがないことを嘆くことで、苦悩になります。

まずこの基本メカニズムが働いていないか。
広範囲に自分の日常の思考を点検して下さい。

歯医者が好きとのことですが、痛みの受け流しかたとか考えたことはありますか。
「痛いだろうか痛くないだろうか」と、痛みに精神集中すると、痛みが拡大されます
痛む時に痛む存在として自分を受け入れると、苦悩は苦痛に、そしてただの痛みへと戻って行きます。
なぜ受け入れるか。僕の場合は、自分が動物だからと考えています。「こんな痛みなどあるべきではない」などと考えることのない動物のように、僕は痛みを痛もうと思っています。
===============================

「自己建設型」の生き方へ3.心理学の目で自分を見る
http://tspsycho.k-server.org/base/base03.html
なども参照下さい。

といことで、少し詳しく説明しましたが、体の反応の方はとにかく脇において、じっくりと「自分の望み」「それへの感情反応」をじっくり把握することを心がけるのがいいですね。


以上メール返答より。
悪感情への対処としては、あと「有意義な悪感情の理解」や「自分を追い立てない方法」とかあります。
さらに、自己嫌悪・怒り・憎悪・苦しみ・悲哀・空虚・抑うつ・無気力などの代表的悪感情についての、最も初歩的なガイドをいずれこの「悪感情への対処」として用意しようと思っています。

No.312 2004/10/28(Thu) 20:34

悪感情への対処の基本-2 / しまの

メール返答より掲載。

■悪感情への対処

これは本当は一番最初にじっくり説明すべきことなんですけどね。
「ハイブリッド心理療法入門」では「悪感情への対処」として4つにサマリーしたうちの、最初の2つに関係する話です。

===============================
 ひとつ目に、「痛みを嘆くことにより苦痛になる」「苦痛のない自己をあるべき姿を考えることにより苦悩になる」という膨張を解除すること。苦悩を苦痛に、苦痛を単なる痛みにまで戻すことです。
 ふたつ目。恐怖や苦しみなどの悪感情に対する、誤った意味付けを解除することです。意味の分らない恐怖や苦しみは、幼少期からの「感情の膿」であって、現実がどうであるかを示すものではありません。
===============================


■恐怖の膿

最初に「ふたつめ」の方を説明しましょう。

障害感情の大元の起源に、「切り離された恐怖の膿」とかがあるという説明をしています。
これは幼少期の、生理感覚と感情と思考がまだ未分化な生育期に蓄積されるもので、感情として明瞭に体験されるより、全身に及ぶ生理的な恐怖感とかです。

これは、幼少期の恐怖感情の中から、そのまま体験しては生きていられないような、おぞましい「色彩」だけが切り離され、膿のように残ったものです。
したがって、生育後の大人になった時には、これはもう現実世界での出来事とは不釣り合いだし、それどころかもう現実とは関係ないのに、相変わらずストレス源であり続けます。

つまり、「理由のない恐怖」だけが最初にある状態になるわけです。
何か理由があってその恐怖が起きているのではなく、恐怖が起きた理由をあとから、「自分は人に接するのを恐れているんだ」と理由付けしてしまっているんですね。


さらに、「人をこんなに恐れる自分は心の病気なんだ。駄目なんだ。」と輪をかけて悪感情を煽るわけです。
心理障害というのはそうゆう心理メカニズムでできます。


■恐怖の膿の消滅

このような感情の膿は、意識的な抵抗をせず、やり過ごすことで、膿が溶けて消えるように消滅に向います。
ただ、単に味わえばいいというわけではなく、次ぎのような条件が揃うことが、消滅のために必要になってきます。

1)間違った理由付けをしないこと
まず理由のない恐怖があるということです。「恐怖を感じる。それは現実がそれだけ恐ろしいということなのだ」という「感情による決め付け」をやめること。

やはり良くあるのは人間関係や恋愛ですね。もともと強い感情が起きる世界です。
それに感情の膿に対する理由付けが加わると、「拒絶されたためにこんな酷い苦しみを味あわされた」とか「こんな苦しくなるなんて、彼と別れるより死んだ方がまし」とかになってしまうわけです。

2)自分を追い立てる材料として「利用」しないこと
自分は「こんな自分にならねばならない。そうでなければあの苦しみが待っている」とか。
これをやめる。

3)現実のその状況に対して、怒りや恐怖を感じることなく対処できる行動学を習得する
これが結構時間のかかる、日々の実践によるものですね。

このため、感情の膿はやみくもに味わって消えることを期待しても、そうは問屋がおろさないのが大抵です。
意識としては、感情の膿はもう「そんなものがある」ことを知るだけにして、上の3つの条件そのものに意識を向けることが重要です。

意識的に「感情の膿を出そう」などと考えるのも全く無益です。
感情の膿は、「ある」なら、必ずいつかどこかで望まなくても向こうからやってきます。
意識すべきは、それに備えて上の条件の実践を日々行うことだけですね。

(続く)

No.311 2004/10/28(Thu) 20:33

悪感情への対処の基本-1 / しまの

現在、以下2つの連載ものを掲載中。

1)自己受容でなく
取り組みの最初の前進感が、「見たくなかった自分」への直面によって落胆に変わる時期というのが必ずあります。
その時こそ、「自分を受け入れる癒し」を超えた視点が必要になる、という話。

2)感情分析実践指南
感情分析の中で、実際に何を感じればいいのか。
「自分が人生で今本当に望むもの」を知り、それに全力を尽くせるようになることを妨げているものを探る、というのが基本アプローチになる。

この2つは、取り組み段階としては重なります。
ハイブリッドの進め方全体として、おおよそ以下のようなものを考えています。
@「心理学的幸福主義」「自己建設型の生き方」をまず頭で学習する
A悪感情への基本的対処を学び、問題の軽減化を図る
B本格的な感情分析に取り組みながら、終わりのない向上へ
このうち掲載中の連載ものは、Bの初めの頃、初歩的な感情分析が始まるころの話ですね。
まあ一言でいって、頭だけで理解する次の段階。
本格的に自分の感情を把握しながら進めるための、感情分析としての技術的な面と、自分の感情に対面してどのような姿勢を取るのが望ましいかの知識ということになります。
無意識についての専門的な話はちょっとまた別として、意識的な話のキモは大体出ると思います。


でこれに先立って、悪感情への対処というのがあります。
結構苦しくってどうしようもない緊急状況の場合、心理学的幸福主義とか自己建設型生き方をじっくり勉強しているゆとりもない場合もあり、実はこれを最初に位置付けてもいいかも知れません。

その中でももっとも基本的な部分についてメール返答で書いたものがありますので、これも割り込み連載で錯綜しますが掲載します。これは一気に掲載してひとまず締めマス。

No.310 2004/10/28(Thu) 20:30

自己嫌悪と攻撃衝動(メモ) / しまの

これは人に見せる目的どころか、自分でも未整理のメモ。
いつもPC上に同じメモファイル開いて、ちょっとしたメモとかメール下書きに使っているのですが、書いたっきりでうっかり消しちゃいそうなので、こっちにメモ。

「ニセへの怒り」と攻撃衝動が結びつくメカの話なんだけど、いつかじっくり考えよ。

・ニセものへの怒り
・ニセるしかない自分

1)いかさまの自分への自己軽蔑
2)プライド損傷反応..報復勝利衝動
3)他者の「ニセ」の仮定と攻撃

No.309 2004/10/27(Wed) 22:49

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-5 / しまの

自己嫌悪の理解と対処についてまとめます。

これ超重要。できたてほやほやのほぼ完成に近づいた島野理論の核となる部分です。


■自己嫌悪の起源

幼少期に根付く「基本的不安」の中に、その芽がすでにあります。
サイトのメカ論では、基本的不安は「愛情が不適切に損なわれた環境で起きる」と説明しました。単に愛情が損なわれて起きるのではない。そこに特有の歪みが加わったものである。

その特有の歪みの最たるものが、「世界にウソが潜む」という感覚です。
これは既にホーナイにより強調されていたことです。僕はこれをさらに障害のメカ論全体を貫くもの、さらにはホーナイはあまり作れずに終わった治癒メカニズム理論の中心へと大々的に位置付けます。
つまり彼彼女は、その内面世界においては「不当に断罪された者」です。この表現はどこかで既に使ってたと思う。
彼彼女の中には、ニセの世界への怒りが流れるようになります。
また、外界から受けた処罰感情が膿となって蓄積していきます。

やがて思春期要請の結果、彼彼女は、人生を生きるために空想の中で自己理想化像を抱き、その実現のために自分を鞭打つために、なんとこの2つの感情を利用するのです。
まず、自己理想化像通りでないときの処罰感情と、「感情よりも恐い恐怖」である「切り離された恐怖の色彩の膿」による脅し
もうひとつが、「ニセへの怒り」です。自己理想像になりきるためには、マガイものであってはならない。

前者はまだ、うまく行けば通用する可能性があります。
しかし後者になって、完璧にこの逆境救済プログラムが誤動作となる芽が組み込まれています。
なぜなら、現実は駄目なものと三くだり半をつきつけた上で自己理想化像を追うという構造において、彼彼女は彼彼女の内面において根本的にマガイものだからです。
この結果、上記の2つの起源の悪感情を合成した自己嫌悪感情が必至となります。

自己嫌悪感情において最も苦痛なのは、自分がマガイものだという感情を前面に出したものであることは間違いないでしょう。


■自己嫌悪の働き

ここからは治癒をにらんだ理解になります。

健康な自己嫌悪というのもあることを知っておく必要があります。まあ苦々しく心臓の縮むような不快感の強度が違うとかあるかもしれませんが、病んだ自己嫌悪との違いは、その働きにあることを理解しておく必要があります。

健康な自己嫌悪とは、向上への意欲と一体の感情として起きるものです。
病んだ自己嫌悪とは、向上への意欲を抑えつける感情として起きるものです。
健康は自己嫌悪は自己の「属性」への嫌悪であり、病んだ自己嫌悪は自己の「存在」への嫌悪とも言えます。自己の「存在」と「属性」については10/18カキコでも触れました。

これが「マガイもの」への怒りによるものであることは明らかでしょう。
自分自身に向けるこの怒りに出会う恐怖に比べれば、「何も望まない」方がずっと安全です。

我々が病んだ心を克服し、健康な心へと成長したいのであれば、この違いを見分けることが極めて重要になってきます。
健康な自己嫌悪は、むしろ迎え入れ、自己の成長へのバネとすることが望ましいことです。
病んだ自己嫌悪には、徹底的に抗戦する必要があります。これは「自己受容」と表現されるものよりももっと強い意志が必要になります。

最初のうちはこの2つを見分けることができません。後者が全てを飲み尽くしてしまうからです。
彼彼女にできることは、それを恐れて、何も望まず、人生を放棄することかも知れません。
まず基本的な自己受容を学び、本格的抗戦への力をつけることです。


■自己嫌悪への対処

何とか自分の心に向き合えるようになったら、自己嫌悪への対処として次の3つがあります。

1)悪感情への基本的対処。入門編の「ハイブリッド心理療法入門」では4つにサマリーしています。詳細は略。細かいことに取り組む前に、「悪感情への耐性」を多少ともつける必要があるでしょう。

2)病んだ自己嫌悪への徹底的抗戦。その感情は自分の本質について何も言っているものではない。その感情に逆らって、人生を前に進む必要があります。

3)「破壊の思考」から「包含の思考」へ。これが治癒メカ論の核になります。なぜならここに、人間の思考形態の選択肢があるからです。
入門編では、選択を「未知への選択」「自己への責任」「イメージから現実へ」「過去から未来へ」の4つとしていましたが、さらに「破壊から包含へ」とできるように思います。5つでちょうどいいしー♪

それはまさに「ニセ」「マガイもの」への人間の思考です。これは人間の幼児期から起きている、根源的なものだったのです。
「課題」は、それをいかにして消滅させるかです。

障害感情の多くが、これを破壊によって達成することを目指した思考回路によって発達しています。自己への破壊的嫌悪も、他者への破壊的怒りも。相手がマガイものであった時、それを攻撃することの手ごたえがないことは本質的です。それは相手の消滅によってようやく鎮静化するのです。

人間には、もうひとつの考回路が備わっています。それは、「ニセ」「マガイもの」とされたものにある一片の真実の価値を認めることです。例えば、人助け行為が如何に「邪悪な」偽善的動機から行われたものであっても、それが現実に人を助けた出来事であったことの価値を認めることです。

これは自己建設型の生き方で説明した「中庸の思考」です。ものごとは多くの側面を持ち、そこから一面だけを取り出して絶対化した時、善悪という観念が硬直化し、破壊が生まれます。
それに対し、多くの側面を持つひとつの本質を認めるというのが中庸の思考です。それは多くの側面の中に一片の価値があるのならば、それを認め守ろうとする思考です。これは非破壊を志向します。

この思考の中でも、「ニセ」「マガイもの」は消滅します。
なぜならそれはもともと現実には存在しない「完璧」を仮定した上での観念に過ぎないからです。
神になることを求めず、完璧という不可能を追い求めるのをやめた時、同時に「ニセ」「マガイもの」は、自分自身の中に吸収されるように消滅するのです。

ここに、病んだ心を駆動していた心性の役割が同時に終わることになる、治癒へのメカニズムがあります。

この選択は小手先の「思考の修正」でできるものではなく、人生観世界観全体の選択が問われる、人生をかけた選択です。
関連したメール返答文が幾つかあるので掲載しましょう。

No.308 2004/10/27(Wed) 10:46

今シーズン1番ゲレンデ / しまの

今日はいい天気だワーイ\(^o^)/
そろそろ天気も晴で安定するかな。ホントここ最近の天候には閉口だったからなあ。
来週にはどっと寒くなるとのこと。11月下旬なみの寒さとか。

そんな折にということで忘れないうちメモメモ。

今朝の朝日新聞朝刊には、ゲレンデ1番のりの写真。場所は富士山のふもと、スノータウンYeti。
去年の記憶では一番は11/1の丸沼だったと思うので、10/22オープンとはさらに早い。
スキーシーズンも真近かだなぁ。

No.307 2004/10/23(Sat) 11:30

望むことへの恐怖 / しまの

「望むものに近づくために全力を尽くせる」。
これを目標として掲げるとして、次に何が見えてくるか..
感情分析指南と「自己受容でなく」の2つの連載ものに重なる局面。

何となく考えているうちに、ある心の構図がやけに浮かんで離れない。
それが目標として、ある構図がそれを真っ向から妨げる。
「望むものに全力を尽くせることを目標に」といってまず目にするのがまさに、正反対そのものの心の構図。
自ら望むことへの恐怖。

これも例によって読者への説明よりまず自分の発想メモ目的ご了承。
「望むもの」に対して、人格治癒前と治癒後で端的に異なる思考形態がまず浮かんだ次第。

(治癒前)
自分が本当に望むものなんて手に入るわけはない。
なぜなら自分は本当に望むものを手に入れることができない人間だからだ。
自分の手に入るものなんて、価値はないものなのだ。

望むものは他から与えられる。
そのために自分はこう「ならなければ」ならない。
そう「なれれば」、価値をもつ者が自分に望むものを与えてくれる。

(治癒後)
そう「なれて」いる。
そう「なる」ことによって、何かが自分に与えられるためにでもない。
そう「なれて」いるのか? と聞かれればそう「なれて」いる。
それ以外には何もない。


この2つの思考形態の変化の底にあるのは、つまり治癒前の思考の表面には隠されているのは、
明らかに、「自ら望むことへの恐怖」なんですね。

補足するとこんな感じ。

(治癒前)
自分が本当に望むものなんて手に入るわけはない。
(望む恐怖を味わうくらいならそう決め込んだ方が楽だ)
なぜなら自分は本当に望むものを手に入れることができない人間だからだ。
自分の手に入るものなんて、価値はないものなのだ。

望むものは他から与えられる。
(実は手に入るはずだと思っている。自分から望むことが恐い。)
そのために自分はこう「ならなければ」ならない。
そう「なれれば」、価値をもつ者が自分に望むものを与えてくれる。


これは幼少期からの「感情の膿」の代表となるひとつでしょう。
何とも不思議なのは、こうした複雑屈折した感情が、幼少期から「原初的に」起きているらしいこと。

ふと思い出すのは、かつて読んだ加藤諦三の本にあった言葉、「望むということは強靭な精神の持ち主にできること」。
そりゃ違う。望むことができなくなった特別な心の構造があるということだ。

心理障害において「望みをくじく」ことを根本的特色として持つ「自己嫌悪」。
なぜこんなことが起きるのか。

その微細構造に挑むのら。

No.306 2004/10/23(Sat) 00:41

感情分析実践指南-3:分析の目的を心得る / しまの

次は連続もの行きましょー。

感情分析において、自分の感情の中の何をどう感じ取ればいいのか。
これについて間違った方向に行かないためには、そもそも分析を何のために行うのか、ということをはっきり心得ておく必要があると思います。

これはハイブリッド療法の目的そのものでもあります。心のメカニズムとか、取り組みの内容とか治癒の仕組を理解するとして、実際のところ自分の意識としてまず何を意識すればいいのか。
それは、何のためにこれを行うのかということです。

でその目的とは、「人生で望むものに近づくために全力を尽くせるようになれる」ことです。
その結果望むものに実際に近づけるかどうかは、ハイブリッドとか感情分析の枠外です。運や外部条件にもよるでしょう。
しかし本当に望むものに対して全力を尽くし切ったとき、心に成熟という変化が起きることを見出しています。望むものをはっきりと見出し、全力を尽くしたということそのものが、その結果に関わらず、心の成長と感情の豊かさを生み出すという、人間の歴史を通して観察されたこの事実が、意識して求めることのできることです。

心理障害の病理についてこの効果を言うと(また例によって難解用語に展開しますが^^;)、自己の重心は、自分が本当に求めるものを見出すほどに回復します。
人格の分裂は、自分が求めるものの葛藤に向き合い、人生を賭けてその選択を自分自身に問う過程で、融合へと向かいます。
ストレスの消失については、必ずしもこの目的を意識するという方向には限りません。癒しでも共感支持でもリラックス法でも、一時的ですが改善効果がある。だから世の心理療法はこれ中心。
心理障害の最も厄介な病理に対してこそ、この、自分が求めるものを見出し人生を賭けて選択するという能動的な方向性が必要なんですね。

つまり「悪感情を消すため」という目的を意識するのではありません。それは中間派生物です。単なる通過点です。

精神分析が一般にうまく行かない原因はまずこれにあると思います。大抵、あれやこれやの障害感情を消したいが一心で、自己分析してみる。
それは障害感情を生み出したもとの姿勢そのままです。

精神分析の基本作業である反芻吟味は、特定の感情を、日常生活の範囲を越えて抽出拡大する手法と言えます。
それによって人が極限体験でしばしば起こす心の成長みたいなものを、内面の世界で起こす技術と言えます。

ですから、なんで自分はこんなんだ!という今までの姿勢で、そのまま「消したい」悪感情の反芻吟味をしても、それって逆効果なんですけど..タラ..ってなことになります。

深刻な心理障害傾向から取り組みの入口に立った人は、大抵、自分の首を閉めながらクルシイ..というような状態で始まるので、まず力を抜きましょうことから始めます。
そんなに自分を容赦なく責めることはないんですよと。

落ち着きを確保できてきたら、生き方の見直しという話から進める必要があります。ハイブッリドの進め方はそれです。
自分や他人に対してどんな感情があり、それについてどのような思考法をしているのか。
感情メカニズムを学ぶことで、それらの関係が多少は把握できてくるでしょう。

で、どう治していくか。ここからさらにハイブリッド特有の進め方を決めていきたいと思っています。
「治す」じゃないんですね。「症状」は対象にはなりません。
なぜなら、最も単純な話を言うと、症状を治すことを意識しても、治らないんです。
症状はいったん脇において、「人生で望むものに近づくために全力を尽くせるようになれる」ことを考えると、そこから色んなことが芋ずる式に見えてきて、それに取り組む過程で、症状は意識しない所で消えている。
そんな変化への取り組みが、ハイブリッドであり、感情分析です。

従って、まず何からということへの回答
1)ひとつは、最も気になる感情を取り上げることでもいいと思います。それを、悪感情だから何とかしたいという方向で見ていくのではなく、自分が望むものは何であり、それとどう関係しているのかという方向で見ることです。
2)今いち何からというのが分からないという場合、ストレートに「自分は今何を望んでいるか」という問いからでもいいと思います。
3)「望むものなんてない」という場合、なぜそうなのかを問うと、何か出てくるでしょう。
4)どうしてハイブリッドとか感情分析をしようとしているのか、それによって何をどうしようとしているのかも、そこで問うものに含まれてきます。


マシンガン的に浮かぶまま書きなぐりましたが、もうちょっと丁寧な整理をして、この「精神分析」という超難しい作業が誰でもできるような手引きをいつか作る所存。

これが「まず意識する内容」。
次に、その内容について、何を感じ取るのか。いよいよ感情分析の本論となる、「感情成分」のパズルの内部に潜入するところに、次レッツラごー。

今日は何か仕事の提案プレゼン作りも含め、鼻血でそーな勢いで書いていたここまで。ふー。
後は気ぬいてタラタラいくかーっ。

No.305 2004/10/22(Fri) 13:39

道徳の記述について / toyo

情緒道徳について批判されている点にちょっと疑問に感じました。
学校で教師が生徒が万引きした生徒を教育するのに、そんなことどうしてしたんだ。この行為は悪いことと、善悪で注意し更正するのは、正しいと思うのですが。 善悪という手法は今の家庭内でもかなり使われているはずです。当事者間で怒りや恐怖の伴わない理解ができれば、多少情緒道徳的な部分もでてきてもいいと思いますがいかがですか?よろしくおねがいします。

No.299 2004/10/22(Fri) 02:51

 
Re: 道徳の記述について / しまの

意見サンキュウです。

「情緒道徳なんて絶対に駄目だ!許せない!」となると、もう同じ穴のムジナですね。
2つ僕のコメントとしてお伝えしましょう。

まず学校や家庭で情緒道徳的な「しつけ」が行われている現場に対して、僕がどんな態度を取ろうと考えているか。
また、実際にどうしているか。例えば兄家族のとこでそんな場面に出会った時です。
何もしません。なぜなら底に潜む問題点とかを指摘したり「そんな躾は駄目だ」とか言ったところで、何も生み出すものはないからです。
むしろ混乱を、特に子供の側に良くない混乱を起こすだけでしょう。
それが怒りの下で行われないこと、それによる子供への悪影響がないのを期待して見守るだけです。

そしてもし子供に悪影響が見られるのであれば、それを見直すことを提案するというのが良いと思います。
実際そんな体験はないですね。言うのは容易で行うのは難いことでしょう。

つぎに、純粋に教育のあり方を議論する場においては、僕は真っ向から情緒道徳は不適切なものであり、それに代わるものが必要であると主張する立場です。
具体的には「ルール教育」の手法が良いと思っています。
これは先日TVで見かけたのですが、ネットで今見たら道徳教育手法としての説明はちょっとなし。
その時掲示板に書こうと思ってそれきりでしたが。
機会あったらもうちょっと詳しく扱ってみようかと思っています。

なおこのように自分の考えがあった上で、相手や場所に応じて行動法を変えることは、「現実において生み出す」という原則とか、ハーバード流交渉術とかの行動学の話になります。詳細は略。

万引きとかを、「この行為は悪いことと」として叱ることにはやはり反対ですね。
それではあまりに言葉たらずです。それが法律でどのように処罰されることなのか、また損害を受ける人の立場でそれが如何にむごい行為なのかとかをまず説明するのが良いと思います。

No.300 2004/10/22(Fri) 09:42

 
つけ加えれば / しまの

実際のところ道徳をどうするかに関わらず、情緒道徳が心の健康にとって害があるということは心理学的事実だと思いますね。

実はこの検討には「裏」の話が潜んでいることも認識しておくといいかも知れません。
そもそも大人とか社会は、子供の心の健康を望んでいるのか、という話。そうではなく、ただ「良い子」に仕立て上げたいということなのかも知れません。
はっきりそう意図して情緒道徳を採っているのなら、口出しする余地はなくなる..
ちょっと身につまされる話ですが、まあ我々大人自身がどう生きたいのかというテーマにも絡んでくるでしょう。

No.301 2004/10/22(Fri) 10:00

 
道徳の記述について / toyo

そうですね、情緒道徳が相手に罪悪感などマイナスの影響を与えてします可能性は
ありますね。だからハーバード交渉術が出てくるのですね。今の学校ではそこまでの
技量のある先生は少ないのが残念です。

No.303 2004/10/22(Fri) 13:14

 
Re: 道徳の記述について / しまの

うんうん、ハーバード流とかは、もう中学校から教えてもいいんじゃないかと思うんですよねー。

No.304 2004/10/22(Fri) 13:38

情緒道徳に代わるルール教育 / しまの

カキコしようと思っていたテーマということで、調べたところ、この本で知られるようになったことの話のようです。

ロン クラーク著『あたりまえだけど、とても大切なこと―子どものためのルールブック』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/detail/-/books/4794213204/customer-reviews/250-6389892-4799424

TVで見た時、とにかく「全米最優秀教師」の人だったというのを覚えていて、検索したところ。
「それは悪いこと」という言い方はやはり使わないところに特徴があると思います。
「こうゆうルールがあります。なぜならこうこうだからです。このため、もしルールを破る人がいたら、ちょっと可哀相なんだけど、こうゆう罰にします。」という言い方。

やっぱ「お前が悪い」という響きを伴う言葉は、センセそれいっちゃーいけえねえよ、と思うなあ。

TVで見たのはこれを実践している日本の小学校教師の様子。
特徴的なのは、罰を生徒に伝えるとき、「○○ちゃん、ごめんねーイエローカード1枚。」という感じで、怒りの感情を全く使っていないところです。むしろ感情としては愛情を示しながらという形。
見事に、レッドカードまで行く子が一人もいない様子が映されていました。

アマゾンのレビュアーは全員5つ星評価でしたね。
これからの道徳教育はこうでなきゃー!

No.302 2004/10/22(Fri) 12:10

今朝の雑感 / しまの

マジに会社をやめる算段をする今日この頃。もち心理と執筆を主業にするということで。
その可能性が感じられるほどに、会社組織全体に対して自分が対等な存在であるという自由感のようなものが感じられてくる。言葉の暴力得意な(^^;)ボスを前にした時の緊張も激減。
僕自身にとってこれも未知の感情デス。

今朝は何となく確信感のように「もう自分を縛るものは何もない」。
まあ今になって一人もんというのは大きい。。
「たった一つ、マンションのローンだけだ」。
これがまた大きい(T_T)
アハ。

No.298 2004/10/21(Thu) 12:46

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-4 / しまの

掲示板につぎ書くことを考えてたら、何か感情分析指南と頭の中で錯綜@_@
まあ実際重なっているし、取り組みの段階としても同じような話かと。


「自分が好きになれない」とお悩みの方へということでまとめると、こんな感じ。

そんな方にまずひとこと言うとしたら、「自分を好きになれなくってもいいんです。それが自己受容です。」ということですね。
「自分を好きにならなくっちゃ」は、自分の心を縛る一バージョンですね。それが実は自分を愛していない姿勢になる。
さらに真の自己受容とは何かという話になると、心理学的幸福主義みたいに、思考体系の変革をするかどうかという選択になってきます。というかハイブリッドではそう考えており、それを採るかどうかは各自の選択になります。と。

その中でも「どうすれば自己受容できるか」については、心の自然治癒力と自然成長力に委ねるという考え方がやはりキーポイントです。
つまり、意識でどうこうすれば自己受容できるというのはないんですね。心の本来の姿はそれを意識することなく自己を受容している状態なので、意識的に可能なのは、それを阻害している自分の姿勢を知り、それを捨てる努力だけです、ということ。
そして後に残るものは人為的に作り出すものではなく、本能的に湧き出てくる。その中に自己受容というものが見えるでしょうと。

あともう一個「自分が好きになれない」とお悩みの方に、ほぼ例外なくどうも気になるのは、「愛すること」についての固定化された観念のようなものなんですね。
何か、愛というものが、「与えたり」、「与えられたり」するものであるかのように捉えられていることです。

それは心を縛る、自己犠牲のようになってしまう可能性があり、無意識の抵抗や怒りを生みます。
なかなか持続できず、「愛せない自分」という感情に向かってしまう。

これは真の自己受容がないことと、何か関連性がありそうです。
これはじっくり考えねばならない複雑なメカニズムなのですが、断片覚悟で書いときますと、
愛は本来「一体化」の中で生まれる感情で、与える与えられるという分解はできないと考えています。分解した時、それはちょっと別物になってきてしまうんですね。

一方、真の自己受容がないと、自己を「存在」として捉える感覚が減り、「属性」が自己であるかのような感覚が蔓延してくる。
この状況では「愛」とは「属性」を与えたり与えられたりすることのように見えてくる。
でもそこからは愛は出ないんですね。「存在」からしか愛は湧き出ないように思われます。だから自己受容してないと愛は出てこない。

抽象難解ご容赦。僕自身の考えの書き記しです。
いつかかなりの説明に展開する所存。著書になるかも知れませんが。

話を「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長」というタイトルに戻すと、「自信を持って自分を好きになれる」ところまでを目標とした話ということです。
「自分を好きになれない」という悩みの背景にある盲点に気づき、まずは自己受容を知る。これが最初の一歩。
次は、「自己嫌悪との闘い」に進むと思います。
ということで引き続き。

No.297 2004/10/20(Wed) 12:21

感情分析実践指南-2:価値観善悪観の解体と再構築が正しい感情分析を導く / しまの

長いタイトル..収まるかな^^;

その1で「まずは思考の修正」と書きましたが、さらに感情分析への入り口そのものについても、「まず思考」という話になります。

これはハイブリッドの感情分析特有の話です。精神分析一般の話では、ここから先のことは出てこないと思います。
精神分析は特殊技術であり、その方法については諸派があります。
もともと言葉では捉えられないような心の深い世界に切り込むのですが、それでもまず言葉で伝えないとどうにもならないので色々な言葉を使う。
別の言葉でやる方法も、これから説明するのとは違うアプローチでやるのもある。
「その中で正しい」のがハイブリッドの方法だとは言いません。僕自身が専門としてその方法と効果をはっきり分かっているものに、この方法があります、ということになります。


感情の反芻吟味は精神分析の基本的方法ですが、ハイブリッドの感情分析はそれ以外に求めているものがあるということを、明瞭に宣言しようと思っています。
それは「価値観善悪観の解体と再構築」です。そのために必要な感情の反芻吟味を行う。つまりやはり「心理学的幸福主義」と「自己建設型の生き方」を徹底するために、それと矛盾する感情を深く知るということです。
逆に言えば、その目的以外では、特に反芻吟味などしない。


ですから、「3つの取り組み」の関係を、ここで多少言い直すような感じになると思います。
「心の健康化は心の自然治癒力と自然成長力を開放することでもたらされる。その開放は心理学的幸福主義と自己建設型の生き方という姿勢によって開放させることができる。感情分析はそれを無意識の領域にまで浸透させる技術である」という感じ。

治癒効果としての比重はやはり感情分析に大きいものがありますが、
取り組み姿勢とか取り組み意識においては、心理学的幸福主義と自己建設型生き方の方に大幅に比重を置きたいと思います。

ですから、悪感情を分析するという場合、取り組み姿勢としては、それを解消するという姿勢ではなく、その感情をめぐる自分の価値観善悪観を自己把握し、解体し、再構築するという姿勢で行います。
「自分の価値観に取り組む」というのがメインです。「悪感情を消す」ではできましぇ〜ん。

感情を自分で吟味するにも、どんな測量器と尺度で自分の感情を見るかを用意してからです。
具体的には、「自分・他者・人生」への、自分の「愛・自信・自由」についての考え方や姿勢とはどんなものか。自分は何を「愛」と考えていて、誰をどのように愛していると考えているか。感情はその通りなのか。なぜあれやこれやを「悪い」と感じるのか。それは本当に「悪」だと自分が考えているのか。そうでないのに何故非難されたという感情が起きるのか。などなど。
これを知的な作業としてではなく、実際に生活の場面で「引っかかる」自分の感情や思考を対象に検討して行く作業から入ります。

これは、自己受容つまり人生の尺度を与えられるものではなく、唯一無二の自分自身に尺度を置くという選択によって、初めて意味のある作業になるように思えます。
なぜなら、この選択の先で感情分析をするということは、外から与えられたものではなく、自分自身の内部から湧き出る感情や欲求に何よりも重きを置いて生きるということになるからです。
そうでない形で精神分析するということは、自分のアラ探しになってしまう感じがしますね。

自己受容の選択がまだ見えないところでは、感情分析は難しいということになるかも知れません。
そのため、ハイブリッドでは「悪感情への対処」を先に位置付けたいと思っています。そこで基本的な自己受容の考え方と姿勢は学んで頂く。

思考として取り組み始めた価値観善悪観を、やがて感情の世界の問題として取り組むという感じですね。
自分はこれが大切だと思っていた。でも本当はそうじゃなかった。自分の本当の欲求はこれなのだ。
多少反道徳的な自己の内面を開放することに至ることもあるでしょう。
それでもいい。なぜいいかの答えは既に思考の方でかたを付けておきましょう。

書きなぐると我ながら相変わらず長く堅い文章^^; まあ初稿ということで。

No.296 2004/10/19(Tue) 13:43

心理解釈をお願いします / ハリー

知ったかぶりをする人、例えば無意味に「量子力学で言うと...」なんていう言葉を使うタイプの人の
心理はどういうものなのか、どういう自己操縦心性が働いているのか教えてください。

No.293 2004/10/19(Tue) 07:56

 
それと / ハリー

2CHで貴サイトのご紹介があったとのことでちょっとのぞいてみたいのですが、どちらに掲載されたのでしょうか?

No.294 2004/10/19(Tue) 08:05

 
Re: 心理解釈をお願いします / しまの

どもー。
そりゃ皮肉ですがな^^;

一応質問にそのまま答えますと、操縦心性は、表面に現われる態度というより、色々な感情が表面に現われる仕方を変形させる働きをしています。
一番端的なのは、空想化された自己理想像を現実だと思いこむ、それによって自分が賞賛され愛される権利を無意識に主張する、また屈辱に対する復讐的勝利へのプライドを求める、などです。

なお僕が量子力学について話す理由について言っておきますと、それが心理学的幸福主義の実直科学的世界観にかなり関係しているからです。特に「神」の考え方には強い影響を与えています。
それでちょっと心理学からは離れますが、入門編などにも書いている次第です。


この世界観について書く時、じつは心理の話でなく、科学哲学において自分の理論が意味あるんでないかと感じて興奮したことありましたね。
これは「野心」という、操縦心性が良く働くタイプの感情だったかも知れませんね。「知ったかぶり」以外でも、大体働き方は同じです。

このような操縦心性への対応ですが、プラス側面を否定する必要はありません。そこには一片の真の感情も含まれているでしょう。
自己否定や自己欺瞞、自己疎外に基づいているというマイナス側面が取り組まれて克服されれば良いと思います。

この辺は感情分析実践指南シリーズでも話して行こうと思います。

なお2ちゃんとかの話は、もういちいち取り上げるときりないので、一切やめー。ご了承。

No.295 2004/10/19(Tue) 10:00

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-3 / しまの

「自分を受け入れる」ということについて、多分ハイブリッドでは他とは違う考え方をすると言えると思います。
入門編「ハイブリッド心理療法入門」では「自己を受容しようと思ってもできない限界」と書いておきましたが、ハイブリッド療法においてそもそも「自己の受容」とは何なのか、今まで明確な定義はしていなかったのですね。
もちろんその本質内容そのものは説明済みです。

例によって多少堅い言葉を使って、定義そのものから書きましょう。
ハイブリッドにおいて自己受容とは、自己の「存在」を受け入れることです。
自己の「属性」を受け入れるかどうかは、これとは無関係です。

自己の存在を受け入れるとは、自分が他によって定められた存在としてではなく、唯一無二の存在として、自分独自の内容と速度で成長する存在であることを受け入れることです。
それは自分以外の誰からも「与えられる」ものではありません。何かの条件が揃うことによって「可能になる」ことでもありません。
それはむしろ、選択であり、意志です。
自分がそのような存在として生きると、自分自身で決めることです。

ですからそれは、「自分を好きになる」「自分を誉めてあげる」「自分をいたわってあげる」とかいうことでは、じぇんじぇんないのです。
自己受容とは、自分が自分に何かを与えるということでさえありません。
与える、与えられるというのは、何かがあって、それをどうこうするという「既知」の世界にとどまる思考です。

自己受容は「未知の選択」にかなり近いものです。
なぜならそこで受容する自己とは、対象としての自己ではなく、存在本質としての自己です。「知る」対象としての自己ではなく、主体としての自己です。これは「知る」ことはできません。基本的に未知です。

知る対象としての自己、つまり外見とか能力とか生活態度とか対人態度とか、その現状に対して抱く感情についていうならば、ハイブリッドの基本姿勢をそのまま当てはめます。
つまり感情は全てそのまま受け入れ、思考は建設的なものにする。
その上で、湧き出る感情に対してどのような姿勢を持つのが自分を成長させることなのかを学び、考える。

これがハイブリッドの考え方ですが、それに比して、「自分を好きになりたい」とは一体何でしょうか。
まあ言えるのは、「自分を好きでいるのは良いことだ」は情緒道徳思考の一パターンかも知れないということ。
自分のあれこれが好きかどうかは、その人の趣味嗜好の問題であって、心の健康にはあまり関係ありません。
むしろ、「自分のここが好き、ここが嫌い」と感じた後の、その感情に対する姿勢に方に、心の健康度が関連してくる。


もちろん、心理障害への取り組みの初期においては、今まであまりに容赦ない自己否定の中を過ごしてきたと思われるので、まず「そんなに自分に意地悪しなくてもいいんだよ」と、自分に基本的に優しくなれるよう促すのが必要だと思います。
それは必要な時に休息を取るということですね。
元気を取り戻したら、今度は立ち上がって成長に向かうことが必要になります。それは世のカウンセリングとかで言う「自分をいたわる」「自分を誉めてあげる」とは大分違ってくると思います。

これは身体の怪我からの回復とかと全く同じです。
まずやはり自分を癒すことが大切です。しかしそれをずっと続ければいいわけではない。

自分の中に力を感じたら、もしくはその可能性を感じたら、むしろ自分自身への嫌悪をバネにして反攻に転じるターニングポイントが現れると思います。

もう少し基本知識を整理してから、その辺を説明しましょう。

No.292 2004/10/18(Mon) 14:18

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-2 / しまの

でまず「自分を好きになろう」「自分を大切にしよう」がどうも違う感じがするというケースの理由。
それは、「潜行した自己破壊衝動による苦しみ」(10/6-7カキコ参照)を放置したまま、その苦しみを中和するために「自分を好きに」という、なんか嘘っぽい思考を感じるんですね。

そして良く見てみると、その人達は、「なんでこんななの!」という怒りや、何かへの憎しみを、それについては疑うこともなく、それが「正しい」ことであるかのように持ち続けている様子が見えるわけです。
それじゃー苦しみは消えませんです^^; っつう感じ。

まあメカ的には、怒りや憎悪の脳内毒による苦痛という自然な流れがあるのと、怒りや憎悪を抱く自分への破壊的な自己嫌悪衝動が無意識内で潜行していることが挙げられます。
まあこのメカが必至となる理由はもうちょっと詳しく説明でいるんですが、省略。
とにかく怒りや憎悪は、「それが正しい」と感じながら抱き続けている限り、自分自身へ倍の痛みとなって返ってきます。
こっちを見直してもらう方が最初。

こんな状況で「自分を好きになろう」って、なんか自ら泥沼に入るようにこの問題構造を強化している感じがするのですね。
多分「自分を好きになれない自分」への自己嫌悪が増すだけでないかな。

無理して自分を好きになれなくったっていいんです。
何を変えていけばいいのかを学び、実践するための心理学を提供しています。


ということで、そもそもハイブリッドにおける自己受容とは何か、そして「自分を好きになれない」と悩み苦しむ方へどんなアドバイスができるのか、を考えて書いてみます。

No.290 2004/10/17(Sun) 13:20

 
Re: 自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-2 / しまの

なんやかやであっという間に時間過ぎたため、また明日以降^^;

No.291 2004/10/17(Sun) 20:11

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-1 / しまの

先の「知りたくなかった自分に出会った時」の続編的な話です。

「こんな自分だったとは..」という自己への直面はかなりのケースでターニングポイントとして現れます。
本当の自分自身として成長していく方向へ向うためのターニングポイントです。
ということは、これは往々にして、自己操縦心性による非建設的な自己嫌悪ではなく、真の自己による自己変革意欲の芽であることがある、ということですね。

そんな話もあるので、メンヘルサイトにせよカウンセラーのサイトにせよ良く出てくる「自分を好きになろう」「自分を大切にしよう」という言葉を見ていると、なんか違うんダヨナーとどうも感じる。

このテーマでのメール返答文も含め、幾つかに分けますが今日中にでも書いてしまいませう。

きのう夜のお酒をいつもより少なめにして早めに起き、気分も爽快天気も久々に爽快。
リビングの窓少し開けて受ける風は涼しく、こんな気候が1年のうちで一番快い気候なんだろうな〜とうれしい感じ。
夕方のジョギングでまたきれいな海を見れるかな〜。

No.289 2004/10/17(Sun) 12:08

なぜ島野が親のことに触れないか / しまの

心理障害との取り組みにおいて親との関係がどうこうというテーマを目にするのが3つほど重なったのでカキコ。

以下はきのう寝る前にメモ書きしたままだったもの。

他の(結構しっかりした)メンタルサイトとか見てたら何か「親が」「親が」というのバッカ出てくるんですねー。それも本人の言葉でなく人格障害解説者の言葉を引用して。
専門家さえが「親が」「親が」とばっか言っているのが現状の模様。

そう言えば先日の2ちゃんの人も僕が親との関係とか言わないのに共感できないとおっしゃってた。

なぜ島野が親のことに触れないかというと単純明快であって、親の問題ではなく自分の問題だと考えてから、「健康な心への道」が始まったからです。

ちょっと尻切れ。以下はメール返答。

「親との関係」は、幼少期の人格形成には決定的な影響を持ちますね。
でも成人後の心理障害の克服には、はっきり言って無関係です。

たとえですが、私は子供のころ箸の持ち方を親から正しく教わることがなく変な持ち方のまま育ちましたが、大人になってその間違いを知り、直した時、親に対してどうこう言うことはありませんでした。
正しい箸の持ち方を知って、実践しただけです。
これはあまりにも当然の話。箸の持ち方を直すために親との関係をどうすればいいのかと言う話を持ち出すとしたら、笑い話ですね。

心理障害の克服についてこんな極端に単純な話をたとえた話を他に聞いたことなどありませんが、実は問題の構造は全く同じだと思います。

まあこの話が返信の目的ではなかったので(例によって一度触れるとどんどん膨らむ^^;)、簡潔にまとめますと、
1)現在を知るための過去としての意味はある。だがこれからどうしたらいいかには関係なし。
2)「親のせい」は、「自分への責任を持たない」姿勢の表れです。「自己による幸福の追求」を選択するということは、「親との関係」は現在の人間関係の中のひとつに過ぎないことになります。
3)感情分析において、埋もれた感情を紐解く上では、親との関係を想起することは有用になります。

メール返答中の当テーマ部分ここまで
感情分析について付け加えておくと、

分析対象となる「感情を閉じ込めたイメージ」がしばしば親と結びついているので、結果として「親についての感情の分析」をしていることにはなる。
ただしそれはあくまで自分の心の中の「感情を閉じ込めたイメージ」を分析する作業であって、現在および今後の親との関係について考えることとは全く無関係であることを心得ておいて頂くのがいいと思います。

現在および今後の親との関係については、対人関係全てと同じ話です。
建設的に、そして軋轢はハーバード流で対処するのが良いでしょう。その実践の中で心の成長があることも、他の人間関係と全く同じ話です。


「親と対決する必要がある」なんて言葉見ることあるけど、ちゃうちゃう。

ただし身近な人間が相手だと何故かそうできない、という場合にはやはり感情分析。
その際に参照頂く感情メカもその内掲載します。

No.288 2004/10/16(Sat) 13:17

感情分析実践指南-1:やはりまず思考の修正から / しまの

なんかカウンターがまた不自然に増えてるなぁ。。誰かまた2ちゃんあたりで噂してるかな?
そろそろもう僕からはその類のものへの対応は卒業ということにするかと思う今日この頃。むしろマジに心理医療現場から想定されるご批判を想定し、誠実に公式見解とか明確にすることを、僕の理論の一部として行うのが良いかと思ってるんですね。


さて、サイト原稿の更新は当面できない見通しで、そこで不足している、断片的にでも重要な知識を掲示板に書きたいことが結構出てきています。
先日の「自己操縦心性核」のメカニズムとかは、あと「愛の根源」とかのメカを入れないと片肺になっちゃってるんで、そのうち書きたいのですが、

メール相談などでも、そろそろ感情分析をどう進めるのが良いのか、それは何をどう感じればいいということなのかというテーマに関わるものが増えてきた感じがします。
読者さんの取り組みが全体的に進行の段階を迎えているのか、と感じるこの頃。

ということで、例によって随時不定期で、感情分析の具体的指南のようなものを書いて行きたいと思います。

その最初。
やはり言えるのは、感情分析はやはり特別な技術であって習得が必要だということ。やみくもに感情を反芻吟味することではない。精神分析一般の言葉で言えば、自由連想だけじゃーダメっつうことですね。
それに加えるものをはっきりと整理体系化したものを別途「感情分析」と呼びたいというゆえんなんです。

で最初の要件は、ハイブリッド式ということでやはり先に思考を合理的なものに修正する必要があるということになります。
分析対象は合理的思考と矛盾する感情の部分を追っていくという形になります。

別の方向から言うと、障害感情を鵜呑みにした思考にどっぷりつかったまま幾ら感情分析しても、「それってそのままなんですけどー」ということになる。

思考としては、自分はこうゆう場合にはこう感じることが合理的だと思う。でもそうじゃない感情が自動的に湧いている。これは何だ。
その疑問感が感情分析の原動力です。

次に、その感情に対して「正そう」という意図を向けないことが大切です。感情は流れるままに受け入れ、それを知る。自分自身への医者の目で、自分を知ることです。
もし「これが駄目なんだ」という気持ちが心の中に起きるのを感じたとしたら、まさにそっちの方が分析対象になります。

ということで、合理的思考とは何か、感情をそのまま受け入れるとはどうゆうことか、しっかり勉強してから感情の方に取り組んで頂きたいんですー。
合理的思考については「自己建設型の生き方」、そして感情を受け入れるための基本的な人生への姿勢を入門編の掲載済みにて。つまり「心理学的幸福主義」に立つことです。

これがハイブリッド療法を採用するかどうかの最初の選択判断になります。
3つの取り組み「心理学的幸福主義」「自己建設型の生き方」「感情分析」。
一応はそれぞれきり離して、それだけ実践してみるというのも、いちおう本人の自由選択です。
でも先のものがないと、だんだん効果は期待が難しくなってくると考えています。

そんな訳で、「こんな場合どう考えるのが合理的なのか」というのを結構徹底的にやっときたいところです。この辺から「指導」という療法実践ができるんでしょうね。

一応あれやこれやと考えて、合理的思考が分かってきたとしましょう。
でも感情はそうじゃない。その時感情分析をどう進めるか。
「反芻吟味する」とは何を感じるということなのか、感情分析の具体的指南に次入りましょう。

No.287 2004/10/15(Fri) 10:13

2ちゃんにまた登場^^; / しまの

これもどーでもいい話ですが、読者がどこからサイトに来ておられるかを見ていたら、サイトが2ちゃんに登場していた模様。
去年の一件は別として、一般読者さんが2ちゃんで僕のサイトのことを触れたのを見たの2回目。
これの前のはお勧めサイトとして書かれていたのですが(これは特に取り上げなかった)、今回のは逆で「小難しいことオンリー」とのこと。
(`ε')ぶぅーって感じ(あはは)。

まあいいっす。おっしゃることごもっともで、心の問題へのアプローチや「療法」とかの考えも百家の中のひとつということで、合うと思う人が考えればいいと思いまっす。
これはマジな話。省略しますがこの点については専門的説明ができます。

..とこれだけならカキコするには及ばないんですけど、2ちゃんにその文句カキコ書いた人が、「良く見ているのだけど」とのことで、「粗が見えるけど指摘したら理論武装でかわされる」と^^;

で結構マジに見てくれてる部分もあるかと書くことにした次第。
はぐらかす意図は毛頭ありませんので(まあ理論武装で難解なのは認めまっす)、何でも指摘頂戴な。
具体的内容に踏み込んだ指摘である限り、嘘偽りなく率直に対応する所存。


P.S
この掲示板もそうだけど、考えてみれば僕のサイトの出し方にしては攻撃的批判がほとんどなく、何か気が緩んでた感じするんだけど、知名度が上がる(なんて勝手に夢想しちょる^^;)につれていろいろあるんだろうなぁと思った次第。
月初あたりにカウンタが不自然に上がった原因が分かった点はちょっと晴れ晴れした気分がしたけど、これはサイトのことには関係いIT技術者的感覚だったな。。

No.286 2004/10/12(Tue) 12:44

昨日の台風 / しまの

どーでもいい話ですが、昨日の台風はなんか千葉に住む僕んちのかなり近くを通った模様。

午後所要で銀座に出かけたのだが、行きは何とか京葉線が動いていたものの、6時過ぎに戻ろうとした時には運行停止で、総武線で遠回りして戻ったのが8時過ぎ。
家に戻れたときには夜空も晴れていて風もそんなでなく、「最強の台風」と騒がれていた割にはナンカあっけなかったなぁなどと思っていたのだが..

今日マンションのベランダには、住んで5年経つ今だかつて落ちたことのないものが落ちていたり、結構とんでもない状態になっていた。

千葉を通過したのは6時頃だったみたいなので、どんな風の状態だったかの知らずに過ごしてたんですねー。
もしかしたら台風の目も分かったかも。ちょっと惜しい感じも。

でも名前が「マーゴン」って、何か可愛い怪獣とか連想するんだよなー。ブースカとか。。

No.285 2004/10/10(Sun) 14:48

知りたくなかった自分に出会った時-2 / しまの

自己分析の途上で、今までは無意識に感じまい感じまいと目を反らしていたような、対人恐怖感情や劣等感無力感などがあらわになる。
「自己分析なんかしなければこんな感情もなしで済んだのでは」と感じることも出るような局面だと思います。

これは本当の自分自身として成長するために、避けて通れない道ですね。
実は心理障害からの治癒と、心の成長が起きる決定的ポイントは、こうした峠にあると感じています。
こうゆうのを何度でも繰り返すわけです。その都度成長するという感じ。

こんな場面にどう対応するかが極めて重要になると思いますので、ちょっとまとめてみました。
ハイブリッド療法の取り組みの全ての要素がここで出てくると思います。

以下4つにまとめてますが、今すぐこうできるようにという話ではなく、まずは入門編の続きみたいな感じで読んで下さい。


「こうできなきゃ」という気持ちにあまりとらわれず、今自分を受け入れた上で前を向くために何ができるのだろう、という感じで、心に響いたところからじっくり考えていくといいと思います。


(1)成長の考え方
(2)プラス思考
(3)感情分析
(4)生きる方向性の選択

---------------------------------------------------------------------------
(1)成長の考え方

「自分は成長してなかった」と感じることもあると思いますが、心の成長を自分で判断するのは実はとても難しいことです。
高度な技(^^;)という感じ。

なぜなら、悪感情そのものは、よっぽど心が健康になった後でさえも、大体同じように現れます。心の健康は、むしろそうした悪感情を迎え入れる自己の方がしっかりしてくるという形になります。
これは入門編の先日の原稿でも説明していますね。

大方の問題が解消するまでは、どうしても「こんな風に健康になった自分」という期待が先行してしまうので、「ハイブリッドの理論通りになってくれない!」と、必ず感じてしまうと思います。
「理論通りに」良くならないかどうかは何とも言えませんが(^^;)、少なくとも「期待通りには」良くなりません。これは必ずです。「こうなれば」という期待そのものの中に悪感情の原因があるからです。

ですから、これも先日の原稿で言ったことですが、自分が「どうなっている」からどうこうという「評価」は、ただそんな感情があると置いといて、取り組みとして、方向を知って歩むということが大切です。
具体的には以下の3点。

---------------------------------------------------------------------------
(2)プラス思考

内面にどんな悪感情を抱えたとしても、仕事ができないと決めつける必要はありませんね。「悪感情を抱えた人間は仕事をしてはいけない」という法律があるわけでもありませんから。
どんな感情の中でであっても、とにかく仕事ができることは価値があることだと思います。

仕事に適合できるよう多少自分に圧力かけてしまっても、別に良いと思いますヨ。やっぱ難関を前にしたら多少自分に気合いかける必要もありますね。
今までのように、無力感などないと思い込もうと自分を偽るのではなく、無力感があっても何とか仕事に向かってみるという違いが区別できればいいと思います。

能力があって仕事も好きで、皆の尊敬を受けている姿として、「仕事ができる」というイメージがあると思います。
そうでなくても仕事ができることは、それだけでも価値あることだと思います。

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(3)感情分析

上に書いたような「尊敬される姿」というイメージで、「自信」というものを捉えていたのを感じ取ると良いと思います。
「自分はこんな人間だ」と、自分を外から見るような目で「評価」する感情があるんですね。

でも、そうした自分への「評価」への目では、未来永劫本当の自信は得られないんですね。
本当の自信は、そうした「評価の目」さえいらなくなるところにあります。

ではそのような本当の自信は、どんな方向へ歩めば得られるのか。
それを探っていくのがまさにこの取り組みといえます。まずは自分を他人のように評価するものと、それとは違うものの2つがあるということを考えるところからですね。
自分は前者だった。では後者とはどんなものか、と考えてみることから。

これは「自己建設型の生き方」の最後の自信についての説明などで説明している話です。
これがある程度イメージできたら次ぎの「選択」というのが見えてくると思います。

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(4)生きる方向性の選択

今回のように「やっぱり駄目だった自分」が見えたときこそ、「自己受容」の選択が見えるかも知れません。
今までの自分の生きてきた道のりを含めて、今自分がどうゆう方向を向くのか。

「以前と似た状況」と書かれていましたが、恐らく不信感や無力感を感じざるを得ない状況が来歴の中であったと思います。
そうであれば、それを完全に克服するまで、それを感じることはむしろ自然なことだと思います。それは弱い自分を守るための感情であったと思います。

今、そうした感情が全くないかのような、「自信にあふれた姿」、という尺度で自分を見るということは、自分自身を唯一無二の存在と認めず、外から与えられた尺度で自分を見るということです。それは自分自身の人生を生きるということではなく、他人の人生を生きるということです。

自分自身の人生を生きるということは、自分の来歴も全て認め、その影響を受けている自分を認めることです。
その上で、唯一無二の自分がどう生きたいのかを考える。

真の自身は、そうして自分を唯一無二の存在として認めた上で、自分自身の中に湧いてくる欲求に向かって全力を尽くすことで得られます。


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以上メール返答でしたが、加えるならば、こんな時こそ、人生観が問題になると思います。

人生のスタートラインは不平等です。でもそれは人生の幸福にはあまり関係ないのです。
「あるべき世界」を考えることは、神になろうとすることです。
神になろうとするのをやめたとき、自分になることができます。

No.284 2004/10/09(Sat) 13:21

知りたくなかった自分に出会った時-1 / しまの

「自己分析をすることによって『悪化』することがある」。

これは3つほどの可能性を考えておくといいと思います。

ひとつは分析姿勢が自己処罰になってしまっているもの。「これが悪いんだ」と自分のあら捜しをする姿勢では、どんなに「正しい」自己洞察であっても、その裏で自己処罰感情が生まれることになってしまいます。
だからハイブリッドでは感情分析の前に思考への取り組みとか人生への基本姿勢の学習をお勧めしています。

そしてもうひとつの可能性が、まさに治癒過程のひとつの現象として起きるもの
これは不可避です。恐らく取り組みする全員に起きます。
前向き姿勢とか、多少の分析の進行で、自分の心は結構健康になってきた。しかし、さらに分析が進み生活の中で、もうないと思っていたような対人恐怖感情とか、自己の無力感劣等感などが前面に現れる。自分は成長などしていなかった。これでは自己分析する前より自分への自信が消えてしまいそうだ。。

これは未解決の自己嫌悪の表れであると同時に、ありのままの自分を受容することへの扉の前に立ったことを意味します。
従ってこのような時にどのような姿勢を取るかが、治癒への極めて重要なポイントになると思います。

それについて、メール返答という形でまとめたものですが、次ぎのカキコで掲載します。

3つ目の「悪化」は自己操縦心性の崩壊です。
この場合は「知りたくなかった自分」というより「完全なる絶望」で、あまり頭は働かなくなりますので、とにかく悪感情への対処の全てを動員して自分を守ることが大切です。


「知りたくなかった自分」に出会った時は、大いに頭を働かせるべきことがあります。

No.283 2004/10/09(Sat) 13:01

トランス・ダウンロードサイト一覧 / しまの

いえ〜い!Enjoy the Trance Music !
っつうことで、サイトのMy Favorite Thingsページ(Faveriteは間違い^^;)にトランスサイト情報をちびちびと準備しているのだけど、いちど作り始めるとどうも凝ってしまいいつUpするかおぼつかないので、以下に単純に一覧を掲載しませう。
一部に記念イベントで今日大量掲載のサイトもあり。

ダウンロード方法の解説等は省きますんで、興味ある人は自分で読んで考えて頂戴っ。
My Favorite Thingsページ掲載時には解説しまっす。

実は内心、僕ちゃん世界でも有数、日本でNo.1くらいのトランス・ダウンロードマニアではないかと思っているのです。
..ってな話、サイト関係より一般ネットユーザーにこの手の情報欲しがってる人いると思うんダケド。。
このリストのサイトで今ダウンロードできるmp3を全部合計すると、まあ10GB..どころじゃないかも。

Mix Site
ETS Global http://www.ets-global.org/index.asp
Summer Sessions 2004はDay1-5のシリーズでそれぞれが1GB超のHugeもの。しかも遅い(^^;)。3日くらい(どころじゃない?)は見とこう。それ以外でもとにかく量が多い^^。ダウンロード用Soft(Bittorent)要。
DJmixes2k http://www.djmixes2k.com/index2.php
ダウンロード用プラグイン(Anti-leech)要。
CrystalClouds http://www.crystalclouds.com/
ダウンロードはForumから。今日からユーザー登録なしでも可の模様。
UKTA - UK Trance Alliance http://uktrancealliance.com/site/
今日は1st anniversaryで700MBの掲載!
Trance Inc http://www.trance-inc.com/?page=files
ちびちび
TranceAddict http://www.tranceaddict.com/livesets.shtml
化石的Up頻度
GlobalClubbing.Ru http://www.globalclubbing.ru/mp3.html
ロシアのサイト。裏わざ要(^^;)。 ダウンロードしたっきりまだ聞いてない..--;

DJ Site
TRANCE#DJ (DJ Shivan) http://www.trancedj.net/index2.php
Dave Dempsey http://www.djdavedempsey.com/Mixes.php
Manuel Le Saux http://zappa.halden.net/~alex/TTT/
Mike Mackay (Ultrafusuin) http://ultrafusion.tranceairwaves.com/mp3/
DJ Tiane http://www.djtiane.com/modules/mydownloads/ これもダウンロードしたっきりまだ聞いてない..--;

まあこんなとこだな。
ちなみにダウンロードしたmp3はPCで再生して聞くのでなく、CDに焼いて聞いてるんですねー。
焼く手間が馬鹿にならず、休日の結構な時間を割いている今日この頃。
その方が音がいいし、評価マークなどつけて一目瞭然にしてる、トランス聞くのとPC起動はどうも一致せん、とのことで、結局CDで聞いてるんですね。

No.282 2004/10/09(Sat) 01:31

「自己操縦心性核」のメカニズム / しまの

どもども。
ハリーさんのレスへのさらにレスとして簡潔に書いて、もう少し詳しくは後日..などと考えながら書き始めたら例によって(^^;)長くなったので、やはり新規カキコにて。

「なぜ潜行した自己破壊衝動による苦しみが起きるのか」ですが、この辺は今、「自己操縦心性核」なんて言葉を思い浮べながらそのメカを考えている部分です。
何かがあってそれが起きたのではなく、それが起きたのが全ての始まりとも言える、根源的なメカニズムという感じ。

まず幼少期の処罰感情が自分の中に取り込まれる。
思春期要請によって生まれる「自己完成への要求」のために、空想された自己理想化像とこの処罰感情が使われる。

ここで心の歯車にある狂いが生じる。
空想こそが現実もしくは主(あるじ)であり、現実は従であると。
これは人間の心に備わる「逆境克服プログラム」の誤動作です。逆境に置かれた子供に働くこのプログラムによって、子供は「これは現実じゃない。自分は本当はスーパーマンなんだ。本当はお姫様なんだ。」と思い込むことで、精神的死を免れるのです。

しかし、自己処罰感情のストレスがある許容量を越えると、この逆境克服プログラムに誤動作が起きる。
この誤動作メカニズムのことを「自己操縦心性核」と呼ぼうと思っています。この核を中心に発達する「別の人格体」自己操縦心性です。

自己操縦心性核のメカ。2つのメカから成ります。
1)「要求と真実のすりかえ」。要求が実現する世界こそが真実であり、そうでないものはニセ物だという感覚を起こします。
2)自己嫌悪。自己処罰感情は、このすりかえメカに対して向けられています。自分にウソをつき、そのウソを激しく嫌悪しているというパラドックスです。

自己破壊衝動はこの時点で同時に生まれています。それは元素を構成するクォークが生まれたとき必ず幾種類かのものが同時に生まれるのと同じように、最初に生まれるわけです。
従ってこれが意識出口を持たない苦しみは、最初から起きています。
いつからかといえば、思春期からです。

外界への憎しみ感情も同様に最初から起きています。
憎しみは苦しみを与えつづけるものへの攻撃感情です。
自己操縦心性が何に苦しんでいるかというと、「ニセの世界」です。それは自分であり、他者です。
そのうち自分に向かう破壊感情を回避するためには、他者の中に「ニセ」を仮定してさえ、他者を攻撃しなければなりません。

この攻撃感情は、相手に攻撃を与えたことの「手ごたえ」がないのが特徴です。
(これがさらに何かのメカによるのかちょっと考察未了ですが、ちょっと不思議です。)
一方でこの攻撃行為が自己破壊感情を強化し、苦しみを増し、攻撃感情をエスカレートさせるという循環があります。
これは攻撃対象が消滅することで収まります。自己の消滅であることもあります。

これが、「ものごとの一面を切り出し、完全を求める」思考回路の中で動くことに注目するのが重要です。
人間に備わる別の思考回路とは、多面を同時に見て総合的本質を見る包含の思考です。この思考の中でもやはり「ニセの世界」が消滅します。この包含的視線から見た時、本物とニセ物は相対的なものでしかないからです。
破壊による消滅ではなく、自己の中に吸収することによる消滅です。

これにより、自己操縦心性の役目も終わることになります。ここに治癒メカニズムがあります。

No.279 2004/10/07(Thu) 09:56

 
つけたし / しまの

当面ていねいな原稿に書く余裕ないので自分のメモ目的程度の書き記しです。超難解な記述と思いますがご容赦。

「ニセ物への攻撃衝動」は恐らく、外界への攻撃衝動全てに対して、その背景となり「攻撃したことの手ごたえのない」際限なさの色彩を加えているものと思われます。

これは自己操縦心性から真の自己への嫌悪が、全ての自己嫌悪の背景となって、破壊的色彩(“何を勝手に生きてやがる..”)を加えているのと似ています。

この2つが、「自己の存在」そのものにかかわる根本的メカニズムであると考えられることに注目できます。
「ニセ物への攻撃衝動」は、他の攻撃衝動と異なり、外面的目的性を持たない、自己の存在そのものにかかわる衝動として起きます。対象を打ち負かすためにではなく、自己の存在をかけて怒りを向けるのです。

「手ごたえがない」のはこのため必然的な現象のように思われます。
まさに対象はニセ物なのだからそうなのであり、しかも外面的目的性はないとくれば、手ごたえは必要ない。ただ対象の消滅を志向するわけです。

No.281 2004/10/08(Fri) 23:28

心のメカニズム理論はどう作られるか / しまの

ちょっと脇にそれて、ちょっと自分でも面白い話だと思うこと。

ここ最近以前にも増して細かい感情メカニズム論を考えているのですが、どのようにして僕がこうした理論を作るのかと言うと、「見える」んですね。
まるでパズルが動いて組み合わされるのが見えるように。様々な元素がつながったり離れたりして違う分子が組み立てられるのが目に見えるように。

つまり感情としてその流れを感じ直しているのではないんですね。「見えるんです」とかいいようがない、面白い話です。
だから、僕は心理障害のメカを考える時も、相談に乗って相手の心を考えているときも、まずは映像的に見えるという感じで進めるので、気分の動揺は全くないんですね。
まあ純粋にメカを考えている時は、化学式を考えているような面白さで考えるし、人の心が見えた時はそれなりに感情移入して痛みに共感したりとかありますが。

克服が終わった障害感情というのは、こうして映像的に見えるということになるようです。
それが未克服の感情の部分につき当たると、見えるのでなく、感情そのものが起きてしまう。映像としては見えない。そのまま理論にするとバイアスがかかっている理論になってしまいます

こんなわけで、心理障害の理論といういうのは、実際に体験しかつ克服できた人間が作ることができるものなのだなあと思っています。
そうでない研究者からは、こんな理論など勝手に空想した空論だと見なされるかもしれませんが、「だって見えるんだからしょうがないもん」ってカンジ〜(^^;)。

No.280 2004/10/07(Thu) 10:27

ホーナイにおける「自己苦しめ衝動」の説明 / しまの

心理障害の最もやっかいな症状、「苦しみ」のメカニズムを考えて、「自己苦しめ衝動」というのを考えていた件。
この言葉はホーナイの「神経症と人間の成長」の原文(大学院当時は訳本なかった)で、自己嫌悪の一形態をSelf Tortureと説明していたのを思い出しての話。

そこでまた、今度は日本語訳の本の方を読み返したのですが、そこの場所は「自虐」という風になってましたね。
体をひっかくとか、つねるとか、リスカとかの行動を起こさせる衝動。

でもこれはちょっと違うんですね。自虐はその苦しみから逃れるために起きます。まず苦しみが起きて、それからの逃避行動としての自虐が生じる。
どうゆう言葉を使うかは別として、この構造を捉える必要があります。

でもう少しホーナイを読み進んでいたら、それに該当する説明がありました。
分かった。
ってカンジ。

自虐の次の形態として説明されているもので、ホーナイの言葉では、「純粋で直接的な自己破壊の衝動および行動」
「急性の場合もあれば慢性の場合もある。目に見えて激昂状態を示すこともあれば、潜行したまま苦痛が続くこともある。
これ。

さらに読むと、「深刻な自殺企図が多く見られるケースでは、寝深い自己疎外があることに留意すべきである。」
大体分かってきた。明瞭な意識的出口のない自己破壊衝動と自己疎外の組み合わせが、極めて苦痛度の高い苦しみをもたらすようです。

なぜこの苦しみに注目しているかと言うと、治癒メカニズムを考える上で重要になる「憎しみ」のメカとつながってくるからですね。憎しみを捨てることが回復への道なのに、なぜ憎しみが消せないのか。
苦しみがあるからです。
そしてこれが、先日「今後の島野理論の最大の改訂ポイント」(9/17カキコ)で言った、「自己操縦心性は自らを嫌悪している」という話とつながってきます。

その中で、自己操縦心性があるトリックを行って、それにのっとられた心が外界を憎み破壊に向かうというメカニズムが完結します。これが心理障害のメカニズムの究極の素粒子レベルで起きているようなんですね。
このメカニズムは、「ウソの世界の消滅」を志向しています。自己操縦心性は憎しみを通した消滅を司ります。
人間の心の中には、同じ消滅を実現するもうひとつのメカニズムがある。それを選択することで、自己操縦心性は自らの役目を失い消滅に向う。

こんな感じで障害メカニズムを越えて「治癒メカニズム」のひとつの完結ポイントが見えてきています。
後日掲示板にサマリー載せましょう。


P.S
ホーナイの「神経症と人間の成長」はやっぱバイブル的存在なので、本格的に自己分析したい方はぜひお買い上げを〜(販促ではありませんが^^)。

No.277 2004/10/06(Wed) 19:04

 
Re: ホーナイにおける「自己苦しめ衝動」の説明 / ハリー


> でもう少しホーナイを読み進んでいたら、それに該当する説明がありました。
> 分かった。
> ってカンジ。
>
> 自虐の次の形態として説明されているもので、ホーナイの言葉では、「純粋で直接的な自己破壊の衝動および行動」。
> 「急性の場合もあれば慢性の場合もある。目に見えて激昂状態を示すこともあれば、潜行したまま苦痛が続くこともある。」

これがなぜ起きるのか?というのが私の疑問点なのですが。
どうなのでしょう?

No.278 2004/10/06(Wed) 21:16

「自己苦しめ衝動」について / しまの

ハリーさんの質問へですが、新規カキコにて。

「自己苦しめ衝動」が何かを簡潔直入にいうならば、増幅型自己嫌悪の一形態です。
サイトではあまり説明してないですね。。ホーナイの「神経症と人間の成長」などでは説明されてたか。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-062.html#3

で僕が最近これに特に注目しているのは、比較的深刻な心理障害で最も「耐え難い」状態とは「苦しみ」だと考えられることです。
この正体を突きとめたいんですね。最も心理的な意味が不明瞭なので、たちが悪い

これから開放されることを(無意識に)意図した自傷や自殺企図、また理性の放棄などの自滅行動によって、しばしば身体的社会的損傷という、回復の難しい外面的障害を自ら作っちゃうことで、本格的回復への壁ができちゃうことになります。
本人の意識においても、これが続くのならば、もういっそ死んだ方がまし、と感じるものになります。

心理障害が「病気」のように見えるのは「意味が分からない」部分であり、この「苦しみ」が最もその端的なもの。
さらに、僕自身の話をすると、僕自身がこれを体験していながら、それがどんな苦しみ感覚なのか、今思い出すことができないということがあります(参照:6/13および6/18カキコ)。体験した本人でさえ、健常後に理解できない。病気と見なされるのも無理なし。
小説原稿書いていて、当時の日記に出てくる「僕は苦しかった」等々の言葉の前後を考えながら、それがどんなメカニズムで起きるのかと考えている今日この頃です。

で話を冒頭に戻すと、この精神的苦しみのメカニズムとして最も直接的と思われるのが、自己苦しめ衝動です。
多分、重要な要求のフラストと、自己苦しめ衝動が重なることで、耐え難い苦しみ状態が生まれるように感じています

苦しみというと「窒息」がまず浮かぶのですが、窒息症状との脳生理レベルでのつながりとかもちょっと考えたいと思っているところです。

この考察はまだ未完成です。
精神的苦しみは、その理由が分かった時に大幅に軽減される性質がありますので、この辺のメカニズムを突きとめることが重要だと思う今日この頃。。

「苦しみとはこんな感情だ」とかのご意見あれば、皆さんからも是非聞きたいですね。。
ホーナイ読み返して、またサマリーをカキコするかも。

No.275 2004/10/05(Tue) 10:24

 
Re: 「自己苦しめ衝動」について / ハリー 引用

レスありがとうございます。
どういうものを指しているのかということはわかりました。
> サイトではあまり説明してないですね。。ホーナイの「神経症と人間の成長」などでは説明されてたか。
どんな説明になっているのか気になるところですね。
衝動ということは「どうしてもそうしたくなる」ということですが、
自分をどうしても苦しめたくなる。という矛盾した気持ちがなぜ起きるのか気になります。

No.276 2004/10/05(Tue) 19:30

なんとなくまったり / ハリー

宅間守るの件について私もなんかいやーな印象を受けました。
これに似た感覚で一番わかりやすいのは芸能人が不倫した時の記者会見ですね。
最近はさばけてきたようですが、
芸能レポーターが問い詰めて、芸能人に「みなさんたいへんご迷惑をおかけしました」と言わせるものです。
芸能レポーターは飯の種ができて喜んでいるわけだし、視聴者がいちいち迷惑をかけられたと感じたとしたら、それはご本人に問題があるし、配偶者や仕事関係者であれば、テレビを使って言う必要は無いものですしね。
これと似た気持ち悪さを感じました。
それから、
恐怖体験をきっかけにしたと思われる心理障害、
例えば性的暴力を受けたために性的なことに対する心理的な障害が出ている場合、しまの理論ではどのような解釈になるのでしょうか?

No.269 2004/09/29(Wed) 21:08

 
Re: なんとなくまったり / ハリー

見直したら、後半は意味不明ですね。(苦笑)
愛情を求める気持ちを下地にして3つの傾向が現れ、それが心理障害の芽になるということだと思うのですが、
恐れを下地にしたものを考える必要は無いのだろうか?と感じたもので質問させていただいた次第です。

No.270 2004/09/30(Thu) 12:25

 
Re: なんとなくまったり / しまの

どもっす。
明日会社が創立記念日で休みなので(わーい♪)、トランス聞きながらお酒しこたま飲みながら返答っす。

心理障害のメカニズム論については、サイトに書いたものからかなり進化しています。えっへん。
最新の島野理論ではどうなるか。じゃじゃ〜ん(あは)。
..と以下質問への回答というより、僕自身の整理っていう記述です。
それぞれ説明していると本が一冊できちゃう内容なもので、ご了承あれ。


まず、「障害のメカニズム」を考えるのと、「人間の心理メカニズム」を考えるのと、何を知りたいのかによって、説明することもかなり違ってくるでしょう。
例によって(^^;)分かりやすさを無視してまず結論を直入に言えば、単に障害のメカニズムを知りたいのであれば、それに限定して説明ができます。しかし治癒のメカニズムを知りたいのであれば、人間の心理メカニズム全体として考える必要があります。

まず障害のメカニズムから。
「障害」として扱われるのは、パニック恐慌精神的苦しみという部分だと思います。
これは大きく2つの原因があります。ひとつは幼少期から蓄積された恐怖感情の膿です。もうひとつは、心理障害人格発達の結果として生じている、自己操縦心性による自己嫌悪の一機能、「自己苦しめ衝動」です。
最近僕は「自己苦しめ衝動」が心理障害の最大の直接原因でないかと注目しています。

残存愛情要求や3つの態度、その他もろもろの心理メカニズムが、この病巣を維持強化する人格構造を組み立て上げます。
このため治癒は人間心理メカニズム全体を相手にする必要があります。
治癒の面からは
1)「これはあるべきでなかった」という思考体系の克服 (参照:2004/5/8カキコ「記憶を消す事ができるか」
2)「性的暴力を受けた自己像」が自己理想化像にもたらす傷つけの克服
3)人格成長の結果としての潜在的な「愛する能力」が、自己理想化像を通して愛されることへの要求を補えること
の3つが重要な克服課題として指摘できると思います。

というわけで超々サマった記述をしましたが、
ハリーさんの質問「性的暴力を受けたために性的なことに対する心理的な障害」というケースを言うなら、
「性的暴力を受けたため」に心理的障害が起きたのではなく、心理障害はもっと全般的な来歴の中で作られており、それが表面化する触媒として「性的暴力を受けた」ことが意識表面に現れるもの、ということになります。


全部説明すると本が書けるほどの内容になりますので(いずれそこまで書き尽くしたいですが)、当面、気になったポイントからどしどし質問してくだされば、そのつど掲示板で説明を書くようにしませう。
よろしくー。(って我ながら質問への答えというより自分の整理でしたが^^;)

No.271 2004/10/01(Fri) 00:49

 
Re: なんとなくまったり / ハリー


> これは大きく2つの原因があります。ひとつは幼少期から蓄積された恐怖感情の膿です。もうひとつは、心理障害人格発達の結果として生じている、自己操縦心性による自己嫌悪の一機能、「自己苦しめ衝動」です。
> 最近僕は「自己苦しめ衝動」が心理障害の最大の直接原因でないかと注目しています。

この自己苦しめ衝動というのはどういうものですか?

No.274 2004/10/05(Tue) 08:31

自分にストレス与えず効率的に作業をするテクニック / しまの

これも以前のメ−ル返答より。
今頂いてるメール質問でも、先日の入門編原稿の下記部分につき質問があり、参考まで。
(なおこの頂いてるメールへの返答については、これ以外の話の部分につき後日送りまっす)
..これが大切であることは各種の心理療法で良く言われることですが、「自己受容しよう」と思ってできるとは限らない限界も理解しておくと良いでしょう。
もうひとつは、仕事や家事など日々の生活をストレスなくこなすための技術のようなものがあります。これは心の問題に悩む方が自分では注目していないところで実に共通する話で、結構重要だと思います。


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まずは無気力状態への取り組みという感じになりそうですね。
付記:この「テクニック」が取れないところでしばしば無気力が起こるというワケだ。

これは2面のアプローチで行くといいと思います。
ひとつは作業の進め方の意識の持ち方。一種の技術ですね。無意識などあまり深く検討する前に、これで改善できる部分があるか、ちょっと取り組んでみるといいと思います。
一方には、やはり分析的に深く進めなければならない事柄もあるでしょう。そっちはじっくりとがいいと思います。

作業の進め方意識ですが、一度に全体を片付けるイメージは持たずに、どれかに限定してしまうという意識の持ち方です。
認知療法のバーンズなどはこの話を、どんな好物でも、一生かかって食べる量が目の前に出されたら食欲も失せる、とかの例えをしてましたね。

やはりそうですね。作業する意識と、結果への意識を全く分けることがポイントです。
これを同時に意識すると、作業には集中できなくなるという、基本的な心理メカニズムがあります。
付記:「あがってしまって頭の中が真っ白になる」とかも、意識が作業そのものから飛んで、「自分の姿」に向いちゃうのが原因で、同じメカニズムです。緊張の大元は感情分析などでじっくり解消していく必要がありますが、自分の姿結果でなく作業そのものに意識を向けるというのは、結構常日ごろから意識することで身につく訓練的な要素もあると思います。

例えば私自身の例など出すと、部屋がものすごく散らかっている時、敢えて小さなペン1本の収納にだけ意識を集中するような感じが身についています。全体がどう片付くか、全く意識していない訳です。そうすると、いつの間にかきれいに片付いてる♪ってな感じになります。

これは身の回りのことから本格的仕事に至るまで共通の、自分にストレスを与えないで効率的に作業をするテクニックです。
--------------------------------------------------------------------------

なお掲示板7/15カキコ「屈辱の世界からの脱出-4 」なども同じテーマの話です。ご参考あれ。

No.273 2004/10/03(Sun) 18:27

自己建設型の生き方を定着させる方法 / しまの

ご参考まで、メール返答より。

全体的な話をすると、やはり思考と感情へ別のアプローチをする、ハイブリッド療法の取り組み全体ということになると思います。
まず頭で自己建設型の思考ができるようにして、それが定着してさえ自動的に湧き出る否定的感情に対して、感情分析の取り組みを進めます。

その過程で、「自己建設型の生き方を体の芯に叩き込む」という感じになる局面とは、やはり生活の中での感情の揺れ動きのなかで、どう自分に語りかけるかという場面になると思います。読んで憶えたことを、生活の実践の中で繰り返すことで定着していくと思います。

そこで、「自分に語りかける方法」というのが多少出てくると思います。
長期の感情分析まで行かなくとも、変えられるところは変えたい。
その際、無理な自己暗示のような「こう考える自分にならねば」という圧力ではなしに、自分を育て得る方向を探るという感じで行くのがいいと思いますね。

具体的な方法としてはには以下のようなことがあると思います。

1)常日頃からとことん合理的な思考を心がける。

2)自分の思考や感情を自分に対して常に合理的に説明することを心がける。
 「なぜそう考えるの?なぜそう感じるの?」と自分に質問する癖をつける。
 これは以下で説明していましたね。
http://tspsycho.k-server.org/ana/ana05-012.html
「感情分析」技法による人格改善治療
5.実践の方法
5.1 基本姿勢の確立
(2)自分自身に対して感情や行動の説明をする

3)根強い自動的な否定的感情から自己建設的姿勢へ変える方法として、
 僕の場合とても役に立ったのが、「自分でカウンセラー役をやってみる」という方法です。
これはサイトでは説明してなかったかも。

どうしても自分の姿勢が建設的でない方に向いてしまうのを感じた時、
思い切ってこれが赤の他人の事だとして、「自己建設型生き方カウンセラー」だったらどう言うかと考えてみる。
自分のこととして考えている内は思いつけなかった重大な思考の変換がそれで起きたのが何度かあったのを覚えています。

難しいのは、今起きている感情や思考の中で、果たしてどこが変えられるところなのかを探すことです。
その場その場でスイートスポットが変わるような感じがしますね。僕からアドバイスするのも役に立つかも知れませんので、何か具体的なものあればお気軽にどーぞ。

No.272 2004/10/03(Sun) 17:11
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