■ 治癒取り組みの流れ:癒しvs前進 / しまの |
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「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長」シリーズに含めてもいい話ですが、もっと大枠の話なので、単独でカキコ。
心理障害の基本構造は、感情の膿がまずあり、それから逃れようとする、同時に別の人間になりきることで人生の勝利を得ようとする自己操縦心性の膨張という構図です。 ところが自己操縦心性は、この人格構造、つまり自らを激しく嫌悪軽蔑しているパラドックスがあります。このパラドックスが問題の肥大膨張を起こす張本人です。
治癒への取り組みは、まず基本的な自己受容を学び、全く無益に自分自身を容赦なく追い立てることをやめることから始まります。 そして自分自身に向き合う落ち着きと内面の力が得られてきたら、いよいよ専門的な心理学の手助けを共にした、上記の構図の解除に取り組むことになります。 ここからは一般カウンセリングとかでメインとなっている「自分を受け入れる」というのとは大分異なる、内面戦争というような感じの局面になると思っています。
まず自己操縦心性のトリックを解除することが有用だと思っています。 このトリックとは、感情の膿から逃れ、自己欺瞞的勝利を目指して、自分の人生を捨てさせ、敵意と憎悪の中で生きさせるというものです。敵意と憎悪の最中は、怒りの感情の麻酔作用で苦しみが消え、心身は衰弱し、意識が敵意と憎悪から自分自身に向くと暗黒があるという循環悪化の構図があります。
このトリックについて、この後ちょっと割り込みでシリーズ書き込みをしようと思います。 このトリックを解除するとは、敵意と憎悪に転化されていた自己軽蔑を自分自身のものとして「戻す」ことを意味します。
ここからは、自己存在への自己嫌悪と、操縦心性のトリックの中で駄目にしてきた自分への健全な自己嫌悪、そして自己受容という、3つ巴の内面戦争という感じ。 この辺の話を、「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長」シリーズで書いています。「望むことを禁じる」病んだ自己嫌悪に対して、強い意志で、「望む意志」を持つ必要が出てくるという話が中心です。そこでは健全な自己嫌悪がバネになることもある。
自己操縦心性が逃げてきた感情の膿への突入とは、この「望む」方向への動きの中で行われます。 敵意と憎悪に転化してきた自己軽蔑を自分自身のものとして戻り、それに徹底的な抗戦をして、望むことへ踏み出す。 その時初めて、自分が人生で逃げつづけたものの正体が姿を現します。 そしてそれは痛みと悲しみの中で消えて行きます。これが根本的治癒。
そして「望む」ことについて心得ておいて頂きたいのは、それはやはり「望まなきゃ」という、今までの自己操縦心性の働きの別バーションという轍の中では可能にならないということです。 つまり、「治癒のために望むことが必要なんだ」では、ここで言ってる「望む」とは異なります。 望まないことも許すことができて、初めて望むこともできます。ここに再び自己受容の話が出てきます。 成長には休息も必要であり、いつ休むことが必要かは、その人自身の心だけがその信号を発することができます。これに耳を傾け、自分をいたわり立ち止まることは、望むことを禁じる自己存在への嫌悪の結果の「制止」とは全く異なります。
例えば、対人恐怖から人を避けて過ごしてきた人の場合、やがて人々の中に入っていくことへの望みを感じ取り、それに向って全力を尽くすことです。 でもそれを力づくで行動するのではありません。望んだ時に直面した本当の恐怖を前に、無理な行動をやめ、自分自身を癒すこともあるでしょう。その時間がやはり成長の時間です。
ですから、実際の行動について「どうしたらいでしょうか」という質問に対しては、僕は結局直接の答えは出さない感じになります。
今自分を癒すのがいいのか、それとも恐れに逆らって行動することがいいのか、その答えは未知の自分自身が出すものです。人に教わるものでもないし、自分の頭で決めることでもない。自分が今本当に望んでいるものに耳を傾け、それに自分を委ねる。 それが、心を解き放つということです。
その繰り返しの中で、本当に望むものへと近づくごとに、揺らぐことのない人生への自信が育っていきます。 |
No.315 2004/10/31(Sun) 15:21
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