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過去ログ
2004.11

「なぜ受け入れられるか」 / しまの

2つめ。
ちょっとじれるような泣きたいような気分が起きた時に浮かんだこと。恐らく埋もれた自己理想化像の破綻に関係しているらしい。
この手の軽いものはまだありますねー。

ハイブリッド心理療法が狙う「治癒効果」には3つがあり、「前向き思考」「操縦心性の解除」「感情の膿の放出除去」。
このうち、脳の構造的変化とも言える根本的治癒は、最後の感情の膿の放出除去によるものと考えています。
生涯を通して蓄積していた脳内ストレス物質の放出除去そのものだと考えておるのです。

でこれをどう起こすかという「技術」を、ハイブリッド療法として追求している。
どうすればその姿勢に向かえるか。それをどんな言葉で人に伝えられるものか、と日々考えておりやす。
感情の膿が放出するのを、ありのままに受け入れるとき、それが起きる。

でちょっと久しぶりに冒頭の感覚を覚えた時に浮かんだこと。
「受け入れないです」。これが本人(僕)のその時の姿勢として、最も直感的な言葉として浮かんだ言葉。

自己理想化像が破綻するということは、意識としては「この事態は受け入れられない」という意識感覚になるわけです。
それをそのまま受け入れるとは、「この事態は受け入れられない」という感情に対して、一切の操作をしないことです。それを消そうとか、「受け入れられる事態だと思えるように」することなど一切しない。

だから、意識としては「受け入れられない」。それだけ。

それはいつか消えます。そして一定時間後(脳のリズムによる)に感情基調が上昇します。
僕の場合は脳天気の度合いが一段高まります。多分。アハハ。

No.370 2004/11/30(Tue) 12:00

「親殺しが止まらない」 / しまの

ちょっと思いつきの言葉をメモがてら2件。

ひとつは、電車の中吊り広告で見た、週刊誌の記事タイトル「親殺しが止まらない」

さてどんな解説が書かれたもんだろうと想像し、多分「親子間の愛が壊れている」という感じの解説だろうなあと。
そこで浮かんだこと。
「愛があるからです」。

愛があるから、一体化を志向するこの感情の結果、相手が自分を見る姿を自己像として取り込もうとする動きが起きてしまうんですね。
で、この手の事件がおきる環境では、親が子供に押し付ける「自己像」は極めて否定的拘束的。憎悪破壊反応が起きてしまうのは不可避的なのですね。

親への愛をむしろ断ち切る方に行く、つまり互いが別の人間であるという独立を果たすなら、これはなくなる。
それによって子供は成長し、「愛する能力」を回復させるのです。そして親を愛せるようになる可能性が生まれる。

パラドックス的ですが、これが生態学的な原理なのですね。
一体化の愛が一度破壊され、個の独立に立った愛に変化するわけです。これは草原の肉食獣の世界で最も端的に見ることができます。草食獣はそれほどこの変化は端的でない。
人間はその中間のような。

心理障害のメカニズムは、この原理に対する誤動作として、その全体を解釈することができます。

No.369 2004/11/30(Tue) 11:35

恋愛感情における嫉妬 / しまの

どもー!タロさんへのレス続き。
この辺で新規カキコで。

恋愛感情における嫉妬という話ですが、実はどう捉えたものかと考えてもいまいち見えてくるものがないんですねー。
はっきり言って、「恋愛感情と嫉妬とは全く別物です」と言ってしまってもいいような気もしています。

僕の心理学は基本的に生態学的な分析考慮をしており、それで言うと「恋愛感情」そのものが単一の感情ではなく、かなり多種類の感情が組み合わさった一群の感情を指す、といえると思います。
だから感情メカ論ではあまり「恋愛感情」という言葉は使いたくない感じもしてます。メカ論とは、それ以上分解できない要素とその相互作用で組み立てる理論のことです。
..と例によって難解物理用語の世界になっちゃってますが^^;

恋愛における嫉妬は、むしろ背景的な「人生への嫉妬」とか、権利要求感情、承認要求などがあり、そのフラストレーションが恋愛という「出来事」を捉えて表面化するものではないかと考えています。

起源として、この感情が最も明瞭に観察されるのは、親の愛をめぐる嫉妬です。
これは犬や馬などの高等動物から観察されます。
人間の場合も、思春期要請以後のメカつまり自信や性愛への欲求よりも、残存愛情要求に関係するでしょう。

現象としては自己建設型の生き方で説明した「賞賛の代用としての愛」という、「愛と錯覚される別感情」で起きますね。
http://tspsycho.k-server.org/base/base08.html

こうした錯覚がなぜ起きるかというメカニズムはまだまだ手をつけてない部分です。
操縦心性のトリックのパターンとして考えられるかも。。
これはそのうちシリーズ続編で書きます。

もし「こんな心理って何?」という特別なものがあれば優先的に考えますんで、何でどーぞ。

No.368 2004/11/30(Tue) 10:29

心を開くと解き放つの違い。 / タロ

心を開くとの入門編の心を解き放つとの違いって
何か解説して欲しいですー。
両方、外界に向かって心を開くという意味では
似たようなものに感じまして・・・。
特に違いってわけじゃないんでしょうかー。
よろしくお願いします。

No.361 2004/11/26(Fri) 01:19

 
Re: 心を開くと解き放つの違い。 / しまの

こんにちはー。

「心の開放」というのは、3つのことを言えると思います。
これらは心理メカニズムの話ではなく、姿勢の話ですね。そのためそれほど言葉はあまり厳密に決めてない感じ。
3つの話があるということを押さえておけばいいと思います。

1)「内面の開放」自分の内面を自分自身に対して開放すること。
これは望みとか悲しみなど健康な感情も、自己嫌悪や憎悪など障害感情も、自分自身で無理に起こそうとか、押さえつけようとか、脚色しようとかせず、自分自身を心理学の目で、もしくは自分自身への医者のような目で、客観的な姿勢を保ってありのままの感じとることです。
これが心の健康化にとり基本的に必要な姿勢になります。

2)「心を開いて相手に接する」これは自分の感情をそのまま形で相手に示すこと、と定義できると思います。
これは心の健康にとって「必要なこと」ではありません。時と場合によって、そうするのが良い場合はそうするのが良いでしょう。

心の健康度が増し、自分自身の重心が増すにつれて、心を開いて人に接することも安定した心でできるようになります。
これは幸福感の元になる人間活動の大きな一つです。

ちなみに「心を外出しする」これは本来自分自身の中に収めるのが望ましい感情を、何らかの無意識の目的の下で人に見せるような態度について使うことがある言葉です。
これを自覚し解除することが治癒となる、複雑な心理の話であり、感情分析で扱うものになります。

3)「心を解き放って生きる」これは人生に対する姿勢の話です。
これを決めるのは、「未知の選択」です。自分の人生はどうせこうゆうものだという思考法、現在の感情の中で人生を決め付ける思考法をやめ、未知の自分の方を積極的に向き、受け入れていこうという意志の問題となります。

「心を解き放って生きる」ことを選択するという意志。
その下で自分自身の「内面」を開放する取り組みを行う。
その結果「心を開いて人に接する」という人生の活動に、イメージへの捉われを脱しながら近づいていく。

という感じになります。

No.362 2004/11/26(Fri) 10:10

 
Re: 心を開くと解き放つの違い。 / タロ

ご返答ありがとうございますー!
> ちなみに「心を外出しする」これは本来自分自身の中に収めるのが望ましい感情を、何らかの無意識の目的の下で人に見せるような態度について使うことがある言葉です。
> これを自覚し解除することが治癒となる、複雑な心理の話であり、感情分析で扱うものになります。
>

上記の件なのですが、ぜひ詳細など知りたいです・・。
なんか時々、自分の思いを洗いざらし言ってしまう事があって
後から心が引き裂かれたような感じになる事がありまして・・。
これは愛情の要求から、そのような事になるのでしょうか。

No.363 2004/11/26(Fri) 17:58

 
Re: 心を開くと解き放つの違い。 / しまの

なるほどなるほど。まさにそのような事ですね。

「心の客体化」(11/5カキコ参照)について言ったことでもありますが、「心の外出し」によって、「相手に見せた自分の心」が自分自身にも違和感のあるような姿でひとり歩きしてしまうという問題を起こしがちです。
これは内面にまだ矛盾した自己を抱えている限り、ひとり歩きした自己像への悪感情という動揺が起きるのが必至なのですね。

でこのメカニズムそのものは、それほど詳しい説明は必要ではなく、単刀直入にその本質を指摘するのがいいでしょう。
むしろその後の話が長くなりますが、このカキコ全体の流れで考えるのがいい話なので、引き続きレスで。

でそこで起きていることの本質とは、「相手の心の中で、特定の自己像において自分の居場所を持とうとする」ような心の動きです。
つまり、「相手の心の中で生きる」ということであり、これは人間の「生き方感覚」の一つと言えるでしょう。

これがどのような情動を「動機」として使われるかというと、愛情要求プライド衝動のどちらでもです。

しかしやはり、一体化を志向する感情である愛への要求において、これが端的な姿になりやすい。
しばしば、理想化された自己像を共有することにおける一体化の感覚がおき、本人達も互いの自己理想化像を信じて疑わないことをもって「それこそが本当の愛」だと感じていることがある。
これは多少とも厭世観と感情没入傾向のある人に顕著に見られることになるでしょう。
時にそれは妄想の共有という歪んだ一体化の様相にさえなりこともあるでしょう。

「それは本当の愛ではありません。本当の愛とは..」と言うことは容易です。
しかし、そのようなものではない、より現実的な愛を目指すかどうかは、どっちが正しいとか合理的とかいうことではなく、「選択」の意志の問題になってきます。

なぜ我々が(と勝手に仮置きしまずが、)より現実的な愛を目指すかの理由は、それが変化し続ける存在としての、人間の心の成長と自由を損なっているからです。


人がそれぞれ自分の独自の心を持ち、独自の人生を歩む存在であるということは、どんな愛があろうと、互いが互いを見る姿は現実には別々だということなんですね。
「愛とは信じること」という考え方をする世界は、それを壊そうとします。その結果、「愛とは信じること」と考える本人でさえ、愛に「拘束」というマイナス要素を無意識の中で感じていることがほぼ不可避になります。そしてそれに対する嫌悪反発という火種が無意識の中で育ち始めます。
その先は書かなくても予想がつくでしょう。

そして、「互いを別の存在と見ることができた上での愛をどうしたら持てるか」になると、それはもう「選択によって」でさえありません。
僕の立場から言えるのは、それが「心の成長の結果未知の感情として生まれる潜在力が人間の心にはある」ということまでです。
それが体験的観察です、ということ。

「信じることが愛」の非現実性を理解し、「現実的な愛」を目指すことを決意しても、それは「持てる」ものではありません。
言えるのは、それが現れるのは心の成長を経た後だ、ということです。

そして心の成長がどのようにして生まれるのか。これは言えます。
実際に愛を求め、心の未成長から不可避的に「自己像共有型の愛」の感情に飲み込まれ、現実の中で不可避的に壊される痛みを体験し、それがもはや自分の成長のために求めるものではないという選択を目の前にする。
その全てを同時に見た時に、心に成長が起きます。これが答えです。

これはもはや「治癒」ではありません。「成長」です。生態学的な視点で見るなら、親子が一体から分離へと向うという課題が、この心理メカニズムに映されていると言えるでしょう。
そしてそこに心理障害が絡んでいる場合、「成長」を触媒にするような形で、「治癒」が起きます。
その時、自分を飲み尽くしていた感情が去り、相手が自分とは別の存在なのだという感覚がまず芽生えてくるでしょう。
その上で相手への愛がどう生まれるか。これは未知の世界です。

ハイブリッドの考え方の最も本質的な部分がここにあります。これは「治療」ではないということです。
「治療」の後に人生が始まるのではありません。治癒を同時にもたらす人生の生き方があるということです。それをお伝えするのがハイブリッド。


そんな話なので、ストーカーみたいになっちゃうのは何とか避けるとしても、恋愛を大いにお勧めしたいという考えがあります。
そしてそこに「望みの停止問題」が大きく現れるだろうと。そのうちシリーズの続き書きますんで。

No.364 2004/11/27(Sat) 11:18

 
Re: 心を開くと解き放つの違い。 / タロ

どうもありがとうございます!!
恋愛は、大いにお勧めしたい という事ですが、
プラス面がたくさんありますしねー。書き込み楽しみにしてます。
で、恋愛についてお聞きしたかったのですが、、
恋愛や恋における嫉妬心についてお聞きしたいですー。
心が引き裂かれるような嫉妬心については、どのような仕組みになるのでしょうか?激しい嫉妬が起こるというのは、そもそも対して相手を本当に好きではない
という事なのですかね?自分は、本当に相手に恋した場合は、別れた後も相手が本当に幸せになってくれるように心から思いましたー。よろしくお願いします〜。

No.367 2004/11/28(Sun) 21:06

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-3 / しまの

■サディズム衝動の「裏」で起きる自己循環破壊

自分は永遠にのけものにされ、永遠に挫折した。
その「人生への嫉妬」の結果起きる、「良いものを破壊する」心理傾向を説明しました。

これが「表」に現れる部分。「裏」で一体何が起きるか。

こうして彼彼女は嫉妬を和らげ鬱積をはらすことには成功するが、価値あるものにケチをつける彼彼女の傾向は、彼彼女の人生における恒久的な失望感と不満足感を生み出す。
たとえば子供がいるなら、彼彼女は子供を育てることの負担と義務を考える。子供がいなければ、そのような人間的体験が自分には与えられていないと考える。旅行に行く機会があれば、その煩わしさに苛立ち、旅行に行かれなければ、家にいるだけなのを不面目と思う。
この慢性的な不満の原因が自分の内部にあるのだとは思いつかず、人生において自分がいかに不当な扱いを受けているかを他人に思い知らせ、増大する要請も当然なのだと考える。そしてその要請が満たされても、決して満足することはない。

こうした結末を生み出す大元の本質の理解が重要だ。
彼彼女は、人間としての真摯さの要件に背きながら、自己内部に、特別に高くて融通の利かない道徳的規準の理想像を抱いている。
彼彼女はこの基準にかなうことは到底無理だと諦め、逆にできるだけ悪くなろうと意識的、無意識的に決心した人間のひとりだ。、その結果、自己理想化像との溝は埋めがたいものとなり、彼彼女は絶望感を深め、もはや失うものを持たない人間特有の無謀さを発揮し始める。
この状態が続く限り、彼彼女は自分自身に対して建設的な態度は持てない。彼彼女を前向きにしようとする安易な試みは全て失敗し、この状態への無知をさらけだすだけである。

やがて彼彼女の自己嫌悪は増大し、自分自身の姿を見ることさえできなくなる。
この自己嫌悪に対抗するために、自分は正しい
(島野用語で言うと「真実を知る」)という確信の鎧を補強する。どんなに僅かでも批判されたら、それを不当と断じて拒否せねばならない。
彼彼女はこの行動によってさらに自己嫌悪を深め、絶望感はさらに深くなる。そして破壊性が増大する。この悪循環に陥る。

以上の説明は、サディズムが人生への絶望から生まれるという、消極的側面だ。しかしそれだけでは、「絶望した人間」があれほどのエネルギーを費やして追求するという積極性は説明できない。
実際のところ、かなりの積極的な動機が生み出されている。それは他人を軽蔑することによる優越感であり、他人の人生を意のままに動かすことの刺激であり、自分の人生の意義の代用品を手に入れることである。そして他人を打ち負かすことで、勝利感に酔って自分の絶望的な敗北感を忘れることが、この復讐の戦いにおける彼彼女の恐らく最も強烈な動機なのだ。

以上がサディズム衝動の「表と裏」の説明です

サディズム衝動のメカニズムはこれでは終わりません。
それはあくまで、人格構造の中の一つの要素に過ぎないからです。サディズム衝動を自己のアイデンティティとして、人格構造をこの衝動を中心に発展させるケースはむしろ稀でしょう。
少なくとも、「自分の心に悩む」方の場合、この衝動そのものは実はあまり問題になるものではありません。

むしろ、それを内なる感情として抱えたまま、無理に否定し意識しまいとする姿勢によって、実に奇妙に「自分自身の中に折り曲げられた心理構造が生まれることが、恐らく深刻な心理障害の重症化を生み出す、恐らく例外のない重要な要因ではないかと考えています。

それが、「逆のサディズム」という現象につながって行きます。
サディズムが他者を敵として生きる姿勢であるのに対して、「逆のサディズム」では自分自身の敵として生きる姿勢が加わります。

もちろんハイブリッドは「障害感情の描写」を目的にしているのではありません。
目的はその克服です。そしてその克服メカニズムが人間の心にはあり、それをどう使うかが大切になります。

克服メカニズムを知ることなく向ってしまう「逆のサディズム」という轍をまずしっかりと理解しておくのが良いと思います。

No.366 2004/11/28(Sun) 01:40

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-2 / しまの

■サディズム衝動の起源

他者の情動を、主に破壊的な形で、まるで楽器を演奏するかのように、操縦することに満足を得る衝動。
それがサディズム衝動です。

私たちは、この衝動を自らのアイデンティティとしてしまった人間が起こした悲劇を、人間の歴史の中でしばしば見ます。
それは「猟奇的」という形容詞を伴って伝えられる犯罪の形を取ります。
彼彼女にとって、他者の苦痛が快楽となり、殺人が「趣味」と化す。
報道は、なぜこの「普通」の家庭に育った人間が、この心の闇に堕ちたのか、それは現代社会に投じられた波紋であり、謎であると報じます。

しかしそれは何の謎でもなく、ホーナイが詳細な臨床観察を通して、そしてそれ以前に詩人達が直感的に感じ取っていた、心のメカニズムの結果である。
それは、彼彼女が自分の人生に深い徒労感を抱いた人間であるという、恐らく例外のない事実です。
そしてもはやその自らの人生への絶望を疑うこともせず、それが生み出した衝動に身を明渡した人間が、そこにはいます。

サディズム衝動の起源についてのホーナイの解説。『心の葛藤』より。
多少言葉を変え文章を凝縮しています。

サディスムを障害感情のひとつと考えるなら、それを生み出す人格構造の理解から始める必要がある。
その観点で見るなら、明白なサディズム傾向を形成するのは、自分の人生に深い徒労感を抱いた人間だということが分かる。
我々はこれを詳細な臨床観察を通して探り当てたが、詩人たちはずっと前にこのことを直感的に感じ取っていた。
『ヘッダー・ガブラー』の場合も『誘惑者の日記』の場合も、主人公が自分の人生を活用して自己を確立することはまず不可能であった。
こうした状況下で個人が諦めへの途を選べないとなると、あとは徹底的な憤懣を体験するより他ない。
彼は、自分が永遠にのけものにされ、永遠に挫折したと感じる。

こうして彼は、人生と、人生における良いものを一切、憎み始める。その憎しみには、熱望するものを拒まれた人間の激しい嫉妬が混じっている。
それは、人生が自分をす通りしていくと感じる人間の抱く、そねみでありねたみである。ニーチェはこれを「人生への羨望(レーペンス・ナイド)」と呼んだ。
この個人には、他人は他人なりの悲しみがあることに思い至らない。「他人」は彼が飢えている時に食卓についている。「他人」は人を愛し創造し楽しみ、健康で快適にくつろぎ、所属する場を持っている。
「他人」の幸福や、喜びと楽しみへの素朴な期待が、彼を苛立たせる。自分が幸せにも自由にもなれないでいるのに、なぜ彼らだけにそれが許されるのか。

だから彼は、他人の喜びを踏みにじらずにはいられない。彼の態度はまるで、結核の宣告を受けた教師が、生徒のサンドウィッチにツバを吐きかけ、生徒たちに危害を加えられる自分の力を得意になるのに似ている。
この教師の場合、その行為は意図的であったが、サディストの場合、その傾向性は無意識に深く根付いている。しかしその目的は同じだ。自分の苦難を他人に押し付けることである。苦しむのが自分ひとりでなけでば、多少はしのぎ安くなるという心理である。

嫉妬を軽減する他の方法は、「酸っぱいぶどう」式の策略だ。(イソップ物語のきつねが負け惜しみに「あのぶどうは酸っぱい」という話)
彼の嫉妬は心の奥深くに隠されているので、その心理傾向を示唆しても、本人は嘲笑うだけで受け付けない。
彼が人生の苦痛に満ちた厄介な面を強調するのは、自分の辛さを表現するためだけではなく、自分には欠点が全くないことを自分自身に納得させたいためである。

彼の絶えざるアラ探しやケチをつける情熱は、一つにはここから来ている。彼は美しい女性の身体を見ても、見劣りのする一点に注目する。素晴らしい演説にあった、たった一つの欠点に気づく。他人の生活や性格や行動の動機に何か悪いものがあれば、それだけに注意を払う。
彼が知的な人間であれば、自分のこうした傾向は不完全さへの敏感さだと弁明する。しかし実際のところ、彼は他人の不完全さばかりに注目して、長所美点は全部無視している。


ここまでは「人生への羨望」から生まれる「良いものを破壊する」傾向の説明です。
これが「表」です。裏で何が起きているのかの説明が続きます。

No.365 2004/11/27(Sat) 23:36

感情分析実践指南-7:実体のない自己理想化像4/ しまの

対人関係に対する自己理想化像として、心理障害過程では、「人との心のつながりを持つ自分のイメージ」「気持ちを通わせあっているイメージ」「感情を開放して人と接している」「信頼し合っている」イメージがまず間違いなくあります。
そしてそれはイメージだけがあり、中身がないのが特徴です。

現実世界の良い人間関係というのは、そうゆうものではないのです。まず中身ありきです。
その中身に応じて、相手への信頼感を使い分けるという感じになると思います。これは自分自身の重心がすっかり座っている状態と言えるでしょう。

これは目指すものとしての、「人間関係における2種類の能力」の話から説明すると、さらに話の主旨がはっきりします。
つまり、心理障害過程において抱かれる、良い人間関係を持つ自己理想化像は、「愛する能力」がある自分のイメージだと思います。
現実世界では、それは「求める」ものではないのです。

求めるべきものは、「対人関係の技術」の方です。これは感情に左右されない行動学であり、「自分の心を開く」といったこととは無縁な世界です。
そうして安定した対人行動能力がつくにつれて、内面の力がつき、揺るぎない自信が芽生え、やがて「愛する能力」が未知の感情として現れるのです。


イメージの中で描く「愛する能力のある自分」の姿には一度別れを告げて、技術としての対人行動の行動学を学ぶことです。
それによって求めることなく「愛する能力」へと近づくのです。


「愛する能力」という大きな目標への「方法」としては、これがハイブリッドにおける基本指針になります。

感情分析という実践について言うと、そうした中空の自己理想化イメージを追う感情を、否定することなく自覚し、それが現実においては実現世界というよりは空想世界でしか存在し得ないことを、ありのままに痛むことが、重要な治癒ポイントになります。

もうひとつ言うと、この中空の自己理想化像は、「心を縛ることなく感情をほとばしって人と接している自分の姿」を、緊迫したストレスの中で自分をがんじがらめに縛る姿勢の中で抱くものです。
完全にパラドックスです。
求めることにおいて正に得られないものであるということを感じ取ることが重要です。
その時意識は痛みを感じるだけです。しかし心はその時成長しているのです。痛みの先には必ず未知の光がいつか現れます。

No.360 2004/11/24(Wed) 17:14

感情分析実践指南-6:実体のない自己理想化像3 / しまの

なんか違うと感じた2つ目は、そのサイトの管理者さん自身の日記に書いてあったのだけど、カンセリングの研修に行ったとのこと。
そこで何したのかというと、「自己開示」の練習だった模様。

世のカウンセリングで学ぶことって、「傾聴」とか「自分の心を開いて話す」とかみたいなんですよねー。
ハイブリッドではそんなの毛頭やってませんが。
実際その場で行っているであろう、何を題材にするのか不定形のまま人と人が面と向かって、「心を開いて話す練習をしましょう」とかのありがちなやつ、ちょっとゾ〜っとする感あり。
でその研修では、「最後まで心を開けなかった人」が一人いて、皆が「その人は最後には心を開けるようになっただろうか」と心配していたらしい様子。
「心開き競争」という、かつて感じたことのある世界。。ヤダネー。

まあそのイヤな感覚の説明はさておき、こんなところに現れる「自己開示している姿」というのは現実世界からずれた理想像だと思います。
これは僕自身の治癒の「使用前」と「使用後」の違いからの、体験的観察として。

僕も昔は、自分が人と馴染めない、心を開放してお喋りできないという拘束感に悩んだりした。
今では、その頃こうなれればと想像したのに対応するような、人と和んで談笑する感じで大抵いるようになっている。ところが実際にそうなってみると、それは「自己開示」とか「心を相手に開放する」とかでは全然ないのですね。
単に話のねたが面白いので笑っているだけです。「自己開示」なんて全然しとりゃせん。
昔抱いたイメージで考えても、世のカウセリングの勉強などに出てくる言葉のイメジージでも、「自己開示してますか」「相手を信頼してますか」とかの言葉への、現在の率直な感覚を言うと、「それって何の話?」という感じ。
現実とずれてるんですね。

ちょっとこの感覚的説明が分かりやすかったかどいうか分かりませんが、理論的説明をしましょう。
ここでまたいったんカキコ。

No.359 2004/11/24(Wed) 15:03

感情分析実践指南-5:実体のない自己理想化像2 / しまの

あるメンタル系サイトを眺めていて、「ナンカ違うんだよなー」と感じたこと。
このサイトはヤフーにも登録されてるので、じっくり見てる人はどこのか分かるかも^^;
2つあります。

ひとつは掲示板に書かれた悩みの言葉:
世の中には生きたくても生きれない人もいる。「死にたい」なんて言ってはいけないことだって分かっているけど消えない。
なんで強く生きていけないのか、なんで前向きに生きていけないのか、腹が立つんです。

1行目についてはやはり情緒道徳からの脱却をお勧めしたいところですね。生きたくて生きれない人の話と、その話は無関係。これはまあさておき。
2行目。逆です^^; 腹立ててるから前向きにはならないんです。

詳しい解説は別の機会にしますが、障害感情がこんがらがるところでは、大抵「先回りの自己嫌悪」というメカニズムが働いています。
まだ起きていない(意識化されていない)自分の感情に対して、先回りするように自己嫌悪感情が起きるという現象です。これが起きると、訳もわからず抑うつ気分になったり、敵意に転化される怒りが起きたりします。
何が起きているのかを後からじっくり分析(これは感情分析というより研究の話になってくる)すると、何か時間が逆転するような感じで、先回りした自己嫌悪への反応が起きて、あとからそもそもの自分の感情が見えてくるといった流れが見えます。
これ発見した時は驚きましたね。

で良く「こんな自分なんてナントカダだ」という自己嫌悪の表現が起きますが、感情の流れを逆転させたような思考が起きているのが多いんですね。
「ナントカだ」というものの見方をすることが「こんな自分」を作り出していると。
こんなメカニズムが基本的なところで働くので、思考も感情もぐるぐる状態になりがちです。

これをまあ起きた時にはもう感情分析でどうこうするという話ではないのですが、基本的な話として理解しておくと良いと思います。
いったんここでカキコしときましょう。

No.358 2004/11/24(Wed) 12:57

感情分析実践指南-4:実体のない自己理想化像1 / しまの

あるメンタル系サイトを眺めていて、「ナンカ違うんだよなー」と感じたことをじっくり考えている内に、これは結構重要なことだという話につながり、結局「感情分析実践指南」シリーズの中に入れることにしました。
前回No.3では、分析の目的は「望みに向かって全力を尽くせる」ことをまず目的として、分析は行いますという話。

それで実際何を感じ取って行くかという話になります。
これはまだもうちょっと詳しく整理したいのだけど、ごくサマリーを言うと、「望み」という切り口からは以下3つがテーマになってきます。
(1)現在の自分の望みを感じ取る
(2)望みに向かうための適切な思考法行動法(分析側面というより建設思考と行動学の側面)
(3)望みを停止させている状況とその原因を把握する(これも思考修正につなげる)


ここで、(1)から(2)にかけて、「望み」の内容とそれに対する自分の感情を把握することになります。そこで具体的に把握吟味していくのが、
・自分や他人に対して何を求めているのかという感情
・そこに現れる自己イメージと他者イメージ

です。後者が特に重要になります。つまり、自己や他者のイメージを追い、もしくはそれに反応して起きる、自分の感情を把握するわけです。

そこで、イメージを追及する情動の不合理性を自覚すると同時に、それと重なった現実へと向かう自分の気持ちから目をそらさないことも重要です。
なぜならそこには一片の現実、そして真実がありからです。

その結果、何かに向かって行動することになるのか。それともそこから身を引くことになるのか。
ケースバイケースで色々な話になるでしょう。勇気を出して行動するのがいいのか。それとも恐くてできない自分をそのまま受け入れるのがいいのか。
まさにそれを自分の心の魂の声に委ねることです。それが心を解き放つということです。


ざっとサマリーするとそんな感じですが、そんな中で「イメージに縛られた感情の不合理性」の自覚は、いかにも分析という側面の強い、重要な要素です。
これが起きると、いかなる自己受け入れ努力も、自分の感情を操作しようとする努力も必要としない形で、感情のこんがらがりが解除される現象が起きます。
先日の小説抜粋例(11/4「自己操縦心性のついたウソ-5」)でもそんな場面がありましたね。

そんな不合理性の重要なものとして、今回「実体のない自己理想化像」というのを説明したいと思います。
サイトの自己理想化像の説明では、自己理想化像そのものは必ずしも不合理なものではなく、自己操縦心性がそれを利用する仕方に不合理なものがあるという説明の仕方をしています。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-021.html

しかしそれを超えて、自己理想化像の内容そのものが現実世界とはずれているという特徴が実はありそうです。
だから現実に出会うと、必然的におかしな結果になる、というような。

これを考えるきっかけになった、あるメンタル系サイトに見た「なんか違う」話から。

No.357 2004/11/24(Wed) 11:29

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-1 / しまの

「抑圧されたサディズム衝動」は、身動きがとれないほどの酷い対人緊張や、不合理なほど頻出する罪悪感や卑下傾向の原因となる、精神分析における定石中の定石とも言えるメカニズムです。
またこれは分析治療における感情の解放、そして治癒の姿の定石中の定石でもあります。

分析の歩みに求められる要件についても。
ハリーさんへのレスにも書いたように、偽りの仮面の道徳を脱ぎ捨て、人間としての真の倫理観を自らに問う、思考戦争とも言える局面が必要となるでしょう。
決して「露悪」とか「懺悔」ではなく、一度全ての善悪道徳を超越した世界観に立った上で、この内なる粗暴な情動に向かい合うことが必要になると思います。
僕チャンもそうして今があります。


まず「サディズム衝動」の定義から。今回の説明はホーナイによるものをほぼそのまま使います。
それは、「他人を通して主に破壊的な仕方で、人生を生きようとする衝動」です。

この衝動の代表的な幾つかの現れ方を知ることで、その衝動の性質が分かるでしょう。

ひとつの表現形態は、自分の相棒を「奴隷」にしたがる傾向です。
奴隷にされる「犠牲者」は、主人に対してどんな要求も抱かない超人の奴隷でなければならない。
これは相手を自分の思い通りの鋳型にはめ込んだり、教育したりするという形を取ることがある。子供や生徒に対する親や教師の場合、これが建設的な側面を持つこともある。
問題は、奴隷が自発的に、主人に従うこと以外への関心を抱いたりするそぶりを少しでも見せると、悪魔がたちまち正体をあらわすことにある。
主人は、この奴隷の所有に絡んで、時に嫉妬に悩まされる。それを使って、相手を責めさいなむ。犠牲者をとらえて離さないことの方が、自分自身の人生よりも遥かに重大な関心事になるのである。

別の種類のサディスムは、まるで楽器を演奏するように、「他人の情動を操作する」ことに満足を見出す。
ホーナイはこの事例をキルケゴールの『誘惑者の日記』に見出します。“自分自身の人生には何ひとつ期待を持たない”主人公が、他人の心をもてあそぶゲームに熱中する姿。彼は、相手の女性にいつ関心を示し、いつ冷淡にすべきかを心得ている。どうすれば彼女の性的欲望を刺激し、また阻止できるかを知っている。
しかし彼の関心は、この遊びの範囲に限られている。それが相手の女性にとってどんな意味を持つのかには、全く関心がないのだ。

他人の要求を「挫折させようとする」傾向を理解すると、サディズムの性質が一層良く分かる。
彼彼女は、必ずしも、他人に何ひとつ与えたがらない人間ではない。ある条件下では気前良くなりさえする。それでも、他人の喜びを妨害し期待を打ちくだく傾向は、ほとんど無意識に働いている。相手が彼彼女に会うことを楽しみにしていれば、彼彼女はむっつりと不機嫌になる。相手が性交渉を望めば、彼彼女は不能や不感症に陥る。意識的に何かをし損じる必要はない。ただ陰鬱な気分を発散させるだけで、相手の気持ちを挫くことができるのである。

より典型的な破壊的傾向は、「相手を侮辱し辱めようとする」傾向に現れます。
彼彼女は、相手の弱点を見出す天才的とも言える鋭敏さを使って、相手を侮辱し批判します。そしてその批判を、自分が正直だからとか、相手を助けたいからだと言って合理化する。
しかし、そうゆう態度の誠実性が疑われた時、彼彼女はひどく動揺する。
彼彼女は、相手の実際の欠点を浮き彫りにしてみせるだけでなく、自分自身の欠点短所を極めて巧みに外化して、相手に不利な状況をデッチあげる。相手が彼彼女を恐れた時、その猜疑心を非難し、相手を自分に依存させておいて、相手の依存心を責める。

こうした欲動が阻止されたり、あるいは主客転倒して、彼彼女の方が支配され侮辱されていると感じる場合、彼彼女は狂気じみた憤怒のとりこになる。
空想の中で、相手をあらゆる手段によって痛めつけ、足蹴りにし、殴りつけ、ズタズタに切りきざむ。
こうした憤怒が抑圧され、急性の恐慌状態や内的緊張の昂まりを示す心身障害を起こすこともある。


以上、ホーナイの『心の葛藤』からサディズム衝動の表れの記述でした。
これはしばしば、メンタルの世界で、「人に迷惑をかける人格障害」としてしばしば報告されるものだと思います。「自己愛性人格障害」とかになるのかな。

しかしそうしたレッテルを付けたところで、何が分かるわけでも、良くなるわけでもありません。
そうした「相棒」に悩まされる人は、自らがこの衝動の持ち主でありながら、それを抑圧した人なのかも知れません。
そして、そうした衝動を単に人間の心の闇とするのではなく、その底に、自分の人生に絶望した人間の姿を見たとき、私たちはこの衝動に対する見方を変えることになるのではないかと思います。


といことで、この後、このサディズム衝動の発生源の話、そしてそれを抑圧する結果生まれる「逆のサディズム」の話をしましょう。

No.356 2004/11/23(Tue) 21:39

出版&独立化計画^^; / しまの

きのう実は出版社の人との打ち合わせに出かけてきました。

入門編の掲載済み部分を大体そのまま出版原稿として整理したものを先月出版社に送っており、実際に出版化する場合の段取りなど聞いてきた。
まあ出版社側の評価は極めて良い感じで、ちなみにこのまま出版化した場合は来年5月発売という感じのスケジュールで進めるとのこと。

で出版販売動向についてとにかく重要なのは著者のネームバリュ−だとのこと。
ネームバリュ−つくまでは、自費出版でなくとも一部著者側でもバカにならない経費負担がある。
ということを勘案し、とにかく小出しにでも早く収入化を図ろうかと考えていたのを軌道修正し、最初の出版で一気に勝負に出るという路線で行こうと思っておりやんす。

掲載済み入門編を「病んだ心から健康な心への道 上巻」、残りを「下巻」として2巻構成として、そこに前半生録つまり小説のダイジェスト版も載せる、という形。
計画としては、2006年上旬にこの最初の出版
2006年下旬に小説の初版出版。5巻構成くらいになるかも。ドヒャー。いっぺんにそこまでは無理か。。
Introductionの冒頭の中の僅か4段落程度に書いた部分に相当する、大学時代までの話なんだけど。
そして2007年に独立して会社をやめる、という段取り。
まああと2、3年は会社にいるということで、それまでは仕事する振りして、もとい、それなりに仕事も頑張って行く必要があるかと。

いづれにしても今後の原稿執筆はまず出版向けに書いて、中身に応じてサイトに事前掲載するような感じで行こうと思います。
いづれサイトの体裁も整理せねばと。
ちなみに出版原稿をそのままサイト掲載するのは著者の自由とのこと。

小説ダイジェスト版はサイトにも掲載しようかと思っています。
サイトの集客効果というより、ちょっとあるメッセージを伝える意味があると思い。
それは、今までの生き方の綱を手放して、大海に飛び出すということがどうゆうことなのかを伝えるということ。
取り組まれる多くの方が、今までの生き方にとどまったまま、自分をどうにかしようとしておられるかも知れないのを感じ。

自分が変わることで、今までの生き方を手放せる、のではないのですね。
今までの生き方を手放した時、初めて変化が始まるのですね。

それは今まで自分につながれていた命綱、それは同時に自分の心を縛っていたものを、手放すということが最初に必要なんです。

ハイブリッドでの感情分析が始まるのは、それからです。
感情分析の前の多くのステップは、この大海に飛び出す勇気と基本的な知恵と体力をつけてもらうためのステップと言ってもいいと思います。
今までの命綱を手放した後、どれだけ未知の世界があり得るのか。それはもう理論では伝えられないような。

一切の道徳観念が通用しない。一切の人生論が通用しない。唯一無二の心のハンディキャップからのスタートなのです。
身体のハンディキャップから逆に輝いた人の話を知っていると思います。
それと同じことなのです。今まで通り「普通」でいることを尺度にした思考を、唯一無二の自己を尺度にした思考へと根本的に変革することから、始まるんでっすー。

No.355 2004/11/23(Tue) 12:54

「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」-4(End) / しまの

詳しい解説は別の機会になるでしょう。ここでは簡潔にキーワードを並べる感じで。

この「健康な心への道」が目指す「自らによって幸福に近づく能力の増大」の具体的本質とは、ひとつは「自己の重心の回復」です。それによって、心を解き放って生きることへと向うことです。
そしてもうひとつが「愛する能力の回復」だと言えるほど、これがやはり大きな話なんですね。
サイトの感情メカ論の最後を飾るのも「愛の喪失と回復」という深淵なテーマにしようと思ってた。

ハイブリッドが最後に目指しているのは、「愛する能力」の回復です。
ホーナイは、障害感情としての自己嫌悪に根強く共通する感情「自分は愛されない」という感情であることを指摘しました。そしてそれが「愛する能力」の障害に対応した現象であることを指摘しました。決して、あんなこんなの生育暦があるから、ではないのです。

これに対して、ハイブリッドでは、対人関係についての2種類の能力について説明をします。

ひとつは文字通り「対人関係の能力」
これはハーバード交渉術の理念を基本とします。
http://tspsycho.k-server.org/base/base07-02.html
あらゆる対人関係をこの考えで処理するようにします。これもやはり100%を目指します。

これは正しく学び、具体的な思考法や行動法を考え、実践する積み重ねが重要です。それによって間違いなく対人関係は向上します。
これはそのための「技術」なのです。技術によって、感情に流されない、安定した向上が可能になる。

一方、「愛する能力」というのがあります。
これはまさに「愛する感情」が湧き出る力のことを言います。これは内面の力と安全がとても重要な役割を果たします。
これは人間の幸福感の大きな源泉のひとつです。
多くの人が、そして一般のカウンセリングや人生訓が、どうすればより良く愛せるようになるかと考えています。

ところが重大なのは、愛することを、その人間の姿で捉え分解した時、それはもう愛ではなくなっているということです。
この話は11/10の「自己操縦心性のついたウソ-7」とそのレスとかでも言った話です。
そして分解してもう愛ではなくなっているものを、愛であるかのように求める時、人間は逆に求める愛から遠ざかるのですね。
「自己建設型の生き方」での愛についての説明でも言った話。
http://tspsycho.k-server.org/base/base08.html

ではどうすれば「愛する能力」を手に入れることができるのか。
「方法」はありません。つまりこれは「愛は技術ではない」ということです。


「心を解き放つ」ことと同じ結論になります。
できるのは、愛が技術であるかのように「こうすれば」とか「愛があるならこうするべきだ」とかの、自ら愛を遠ざける態度をやめる努力です。残されたものは最後まで未知です。その中に愛が現れます。

つまり愛は本質的に、「未知の感情」として現れるものです。既知のものとして捉えた時、それは愛ではなくなっています。
愛においては基本的に自己がなくなるので、実際のところ、それは知る対象ではなくなります。

難しい話ですが、ハイブリッドにおけるかなり頭の方の学習事項として良いかと思う今日この頃。。

No.354 2004/11/22(Mon) 18:40

「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」-3 / しまの

続きは「対人関係の基本的改善」についての部分。
自分の魂に対して優しい味方でいること。これはまさに最初の一歩です。
そして自分の対人姿勢をこの成長の歩みへと向け、最初の一歩となる、基本的な理解というものがあります。

(続き)

■基本的対人関係の改善

>人を取り込む事によって、自分を保てるというか・・。
>間違っていると思うのですが、この場合、どのように心がけたら良いでしょうか?

別に「間違って」はいません。これもやはり「正しい」かどうかではなく、選択の問題です。

確かに、意識的に人を取り込むことなく、自然にしている結果人との友愛ができて行くのに比べれば、幸福感は少ないでしょう。基本的にストレスがあるからです。
といって、どうすれば自然なまま人とも良くなれるか、その「方法」が分からないまま、それが「間違っている」と考えても、何がどうなるわけでもありませんね。

まず、「必要なことは何なのか」をじっくり考えることからだと思います。
またそれは何のために必要なことなのか。
僕からのアドバイスをちょっと説明しましょう。

まずこの話は、思春期以前とそれ以降とで話が変わります。
つまり、小さな子供とその親御さんへのアドバイスをするのか、それとも中高生以降の人にアドバイスするのかで、僕は話が全く変わると思っています。

中学生以降は、もう年代を問わず同じアドバイスになります。つまり、「健全で建設的な大人の現実社会」を、より幸福に生きるための方法をアドバイスします。
中学生からこうゆう話にするというのは、恐らく世に違う意見の方が多いかも知れません。


でその建設的な人間社会において、良い人間関係を持つために、「必要なことは何なのか」の答えは。

まず第一に言えるのは、「それは必要なことではありません」です。

健全な人間社会においては、良い人間関係は「必要なこと」ではありません。
必要なことは、ルールがあり、それを守ることです。それ以外は個人の自由です。大学へ行くなら授業料を払い、他の学生の学業への迷惑行為をしないことです。また決められた試験を受けることなど。

良い人間関係にしなくちゃという気持ちが出るなら、それは何のためにかをじっくり考え、それに適した行動を取れば良い。ということになります。

それは寂しさを消したいとか言う気持ちでしょうか。
それとも友人がいないことは人間として恥ずべきことだとかいう気持ちがあるのでしょうか。
「なりたい自分」を実現させるためにでしょうか。
それらもやはり、どれが正しい、良い悪いという話はありません。それぞれに応じた適切な行動や思考法を取っていけばいい話です。

そして中には、答えの見出せない気持ちもあるでしょう。
それは答えがない痛みを受け入れることが、とても重要なことになるものもあるでしょう。
それによって心に成長が起きるからです。
その結果、人間関係への気持ちにも変化が起きます。その結果の感情に向き合い、..。あとは同じ話の繰り返しになります。

まず、「必要なことは何なのか」を考えてみることからですね。

-------------------------------------------------------------
以上返答メールからでしたが、「対人関係の基本的改善」の第一歩が「それは必要なことではない」ことを理解することだとは、意外に感じられる方も多いと思います。

実際、、そうでない考え方をする世界があります。世の一般カウンセリングもそうでしょう。どうすれば人間関係を良くできるのか。対人関係の改善法は。。
何か良い対人関係を持てる能力が、まるで受験勉強時代の偏差値みたいな感じで、人間性の評価の尺度であるかのように..

「人間関係の改善」というテーマに対して、ハイブリッドでは2種類の「能力」というものとの関連で考えています。
「対人関係の能力」「愛する能力」です。
そしてこの2つは、全く別物なのです。
その話を簡潔に次に。

No.353 2004/11/22(Mon) 18:02

「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」-2 / しまの

以下の返答メール文では、「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」について、もう少し詳しく整理しています。


■基本的自己受容

>今の自分に自信がないからです。辛さを認めていくことが大事なのだなと思います。
>無意識のうちに、辛いと思っちゃだめなんだ、という感情があるみたいです。

まず自信がないという自分の気持ちを認めてあげるのが大切ですね。
「認めてあげる」とは、自分自身に対する愛情ということですが、これは比喩でもなんでもなく、人間は心の中に2つの自分を持っていると言えると思います。

ひとつは、感情が湧き出る大元の自己。のようなものですね。
そしてもう一つが、それを感じ取ったり、それを見たりしながら思考し行動する自己。真の自己とか操縦心性とかも、こっちの側でさらに分かれる、基本的姿勢のような感じかと。

-------------------------------------------------------------------------
*補足説明
ここで「魂」という言葉を使っていますが、心理構造理論そのものに、これを入れたいと思っています。
サイトの心理構造理論では、真の自己や操縦心性が感情の源泉のように捉えられています。
http://tspsycho.k-server.org/theory/02/02-032.html
でも、少し違う理解をした方がいいかな、と思っています。
源泉は、真の自己でも操縦心性でもないところにあり、真の自己や操縦心性は、その源泉から出てくる感情をどう扱うかという態度のことを言います。
真の自己は自己欺瞞性や感情の作為性がなく、素直に感情を処理する人格姿勢。操縦心性はそうでないものが人格土台として発達しているもの。
この理論修正は、取り組みにおいてしばしば起きがちな、「真の自己になろう」という誤った意識を防止したいからでもあります。
「真の自己になろう」としたり、「真の自己を探そう」としても、できないんですね。探して出るものでも、そう「なる」ものでもないのです。
探し求めるべきものは「魂」です。これは「未知の自己」とも言えます。それを解放する態度が、真の自己であるわけです。

-------------------------------------------------------------------------

で、私たちが自分自身への自信がないところから成長していこうとする時、その魂は、赤ちゃんなのです。
自分の辛さや自信のなさを無視して「こうなれなきゃ」と考えることは、まるで赤ちゃんを放って外に出ようとするようなことです。
まず、一緒にいてあげることが大切です。そうすれば育っていくのが見えるでしょう。いつひとり立ちできるようになるか、見守っていくことが大切です。

これは「基本的自己受容」ということで、「選択」なんですね。
「何歳にもなって!」という考え方をする、別の世界があります。それは自分の魂の味方をせず、敵になって生きる生き方です。
どっちが「正しい」ということではありません。その世界に別れを告げて、自分自身の独自の成長を「選択」するかどうかなんですね。


(続く)

No.352 2004/11/22(Mon) 17:47

「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」-1 / しまの

シリーズもの結構オンゴーイングですが、まとまった文章あればどんどんアップということでこの話。

ハイブリッドが考える「心の成長」への取り組みの最初は、「基本的自己受容」です。下のタロさんへのレス通り。
これはやはり一つの「選択」です。そして、この選択をしていないところで、いくら「どうすれば」「こうすれば」と考えをめぐらせても、それはもうこの「心の成長」ではなくなってしまっているんですね。
そのくらい、最初にこれが来るのは絶対的とも言えるものなわけです。

このテーマで返答メールを2つほど書いてますので掲載します。

基本的な自己受容と同時に、「対人関係の基本的改善」というのも言っています。これも、ハイブリッドの最初の選択としての一環に含めようと思います。
入門編の目次とかでは、まず心の選択肢をざっと学んだ後、「他者への揺るぎない姿勢」が出てくるという流れを想定していましたが、人間はやはり自分自身への姿勢をどうするかということと同等に、人々の中にいる自分をどう捉えるかということが、最初っからテーマになる、ということで。

このテーマでの返答メールの1つめ。おおまかな言葉が中心で、質問の状況ははしょりますが、この取り組みをするほとんど全ての方の、最初の状況として当てはまる言葉だと思います。

返答メール掲載のあと、ちょっと「愛する能力」について簡潔に考え方を追加しておきましょう。
対人関係の改善が目指す方向はこれだと思うので。それはどのようにして得ることができるのか、と。
-----------------------------------------------------------
人からも自分からも責め立てられているという感じかと。

まずは、自分の味方をしてあげて下さいな。という感じですね。

「どうすればいいだろう」「こうしなければ」とあれこれ考える事そのものが、「今の自分じゃ駄目なんだ」と決め付けて、もうそのことは確定したことであるかのように、自分を変えようとはしていまいか。

自分の辛さを無視して、人に見られる自分を作ろうとしていまいか。
まずは自分の辛さを認めることからです。自分自身への優しさが、人に対する感情を和らげます。
人に対する感情は、ちょっと落ち着いてからじっくり考えるのがいいですね。

感情も、見抜かれたりするものではありません。

以下は他の人へのメールでも言ったことの抜粋ですが:
現実世界においては、行動としてはっきり出さない限り、感情は自分自身のものでしかありません。
憎悪によって人を傷つけるのが、自分にとって首をしめる不利なことだとしたら、心にしまっておけばいい。それだけです。
なぜなら、人それぞれが自分の心の世界で生きているからです。
感情は人に見せるものではなく、見られる必要もない。

まず上の2点を考えてみて下さい。
まず「どうにかしなければ」と考えることで自分を追い立てていないか。
感情は見せたり見られたりする必要はないということ。

自分を追い立てないために、気になるような場からちょっと距離を置くのも役に立つかもしれません。
まず、自分に味方をするという優しさから、探すものを育てて行きましょう。

No.351 2004/11/22(Mon) 17:20

過去から未来への選択-3(End) / しまの

■感情への未来向き思考とは

自分の中にある、望ましくない感情に出会った時どうするか。

「この感情は駄目だ」は過去向き思考。

「この感情はこうすると良い」は未来向き思考..かと言うとそうでもあまりないんですよねー。
なぜなら「こうすると良い」と考えても、感情はそうならないからです。これが事実。
対処しようとしている、望ましくない事態とは、望ましくない感情があり、しかもそれが変えようとしても変えられないという事実です。
この事実に対して、未来向き思考で考えることが大切です。

えは、「何もせず、知るだけ」です。
知ることによって、根元から変化が起きるという原理があります。これはアドバンスドつまりもっと後のステップとしてじっくり学びましょう。

思考を未来向きにしようとしても、過去向きの感情が湧いてきてしまう。
自分はあんなことをやってしまった。あいつはどうこうした。
同じです。そんな感情が湧いているものとして、何もせず、知るだけです。

これが、思考と感情の分離という、ハイブリッドの大原則の一要素です。

取り組み初期の危機的な状況においては、得てしていきなりアドバンスドな分析のことばっかり意識が向いてしまうかも知れません。
どうしよう。こうすれば。ああすれば。
この、思考と感情の分離の姿勢だけでは、喉から手が出るように欲しい「救い」には全然届かないでしょう。

でも、この僅かな差だけをしばらく実践するだけに耐えることが、まさに本当の救いの実践の始まりなのです。

No.346 2004/11/19(Fri) 11:09

 
Re: 過去から未来への選択-3(End) / タロ 引用

>この僅かな差だけをしばらく実践するだけに耐えることが、まさに本当の救いの実践の始まりなのです。
具体的に何をどのように実践していけばいいかはまた続きで教えていただだけるんでしょうか?本当の救いの実践について具体的に教えてください〜。
よろしくお願いします〜。

No.349 2004/11/21(Sun) 19:15

 
Re: 過去から未来への選択-3(End) / しまの

>本当の救いの実践について具体的に教えてください〜。

ハイブリッド療法の全てです。

「救いの実践」という言葉そのものにまず話を戻しますと、ハイブリッド療法はあくまでワン・オブ・ゼムです。
他にも色々、「これが救いです」と言うのがあると思います。それについては何も知らないし、何も言わない。
その上で、ハイブリッド療法として形づくろうとしているものも、「救い」です。

人間が幸福を求めながら自滅する心理メカニズムがある。
それを解除し、その人間の幸福への可能性を解放するメカニズムがある。
それはひとつの「救い」だと思います。実際、僕自身、それによって救われたのです。

ハイブリッド療法の全体については現在整理中で、先日11/19「過去から未来への選択-1」にサマリーを載せましたが、ちょっと手直しして以下のようにしようかと今日考えているところ。

(1)新しい人間観世界観の学習
(2)基本的自己受容の選択 
←追加
(3)思考へのアプローチ..心の選択肢
(4)感情へのアプローチ..悪感情への対処と感情分析

追加した部分については、すぐ解説カコキ予定。

で「救い」のために、ハイブリッドではこの全てが必要だと言っています。
どうゆことかというと、心をそのものをより健康なものに「変える」ということ。これは変えたい、でもこれは嫌だ、はなしということですね。
自分がその上に乗っている、心の土台そのものを変えていく、ひとつの取り組み。
もちろん、それをするかどうかは個人の自由です^^。

No.350 2004/11/21(Sun) 23:40

サディズムの抑圧 / ハリー

>参考まで、不合理なほど過剰な罪悪感や卑下傾向が起きる定番と言えるメカニズムに、サディズム衝動の抑圧があります。
これ説明してもらえますか?
「色彩」と物理用語は抜きで、一般人にもわかる形でお願いします。

No.347 2004/11/21(Sun) 16:23

 
Re: サディズムの抑圧 / しまの

>「色彩」と物理用語は抜きで、一般人にもわかる形でお願いします。

ふおっふォっふォ(V)o\o(V) ばるたん星人。
了解了解。

これはまさに精神分析における定石中の定石と言えるメカニズムです。
この辺の話つまり「サディズム衝動」について最も分かりやすい描写はホーナイの「心の葛藤」なんだけど、これ今絶品なんですよねー。

レスする前にホーナイの説明を一応読んでおこうと目を通したんだけど、やはりすごい。鋭敏なメスでこの複雑なメカニズムを白日の下に晒した上で、最後の行間に現れる彼女の深い人間愛。ちょっと感動物の心理メカ書という感じ。

ということで、この絶品本の優れた描写を多くの人が読めないまま埋もらせるままではもったいないので、このテーマをちょっと詳細に連続もののカキコで解説しましょう。
まずそのメカニズムの理解。そしてそれを克服するための要件とは何か。

そこには恐らく、「健康な心への道」における最も真剣な、我々の道徳観念の解体と再構築が求められるところになると思います。
また抽象的な言葉になるけど(好きなんだこれが^^;)、常識的道徳の偽りの仮面をぬいだ時、初めて我々は人間の真の倫理観を持つことができるのだと。

明日休み取っており、4連休も残り後半もあるので、時間見つけながら書いていきますんでよろしくー。
タイトルは「抑圧されたサディズム衝動の理解と克服」とでもしましょう。

No.348 2004/11/21(Sun) 18:37

過去から未来への選択-2 / しまの

■過去向き思考と未来向き思考

人間の脳には、過去向きの思考回路と、未来向きの思考回路の2つが備わっています。
この2つのうちどっちを使うか。これは常に存在する選択肢です。一度に両方使うことはできません。

望ましくない事態に対して、この2つの思考回路のどっちを使うか。これが心の成長に大きく関係してきます。
この選択肢は、「怒りによってものごとに対処する」のと、「怒ること以外でものごとに対処する」という選択肢とほぼ同じことです。思考の選択肢としてはあまくで過去から未来という思考形態の違いであり、感情について何か規定するものではありません。でも現実上ほぼ間違いなく、これは怒りを捨てるという選択になります。

望ましくない事態への、この2つの思考の違い。

過去向き思考では、「それは駄目だ」と言います。「何でそんなことしたんだ」「いつもこうだ」
これは基本的に、「破壊」という対処方法のことです。良くないものを否定して、それが消え去ることを求める。
動物の進化の過程で、これは原始的段階から備わる、環境への適用手段です。
敵が現れれば逃げるか撃退する。蚊がやってきたら叩いて潰します。

未来向き思考では、「こうすると良い」と言います。
もちろん未来向き思考の中で、過去を知ることもあります。まず「こうできると良い」があって、それがどうもできないなら、その原因を探ります。なぜこの望ましくない事態が起きたのかを考える。そして原因が見つかったとします。
その原因に対して、再びこの思考の選択肢が表れます。「これが悪いんだ」は過去向き思考。「これに対してどうするのが良いのか」が未来向き思考。

動物の進化過程では、これは「自衛」そして「建設」という対処方法の進化に対応します。
まず敵に出会わない方法を考える。さらに、様々な可能性を予測し、包括的に対処する結果としての、安全な生存環境を自ら建設する。
蚊がきたら叩いて潰すということではなく、蚊がこないようなしかけを考える。蚊が発生する元を断つことを考える。

進化と共に、感情が多彩化しています。高等動物になるにつれて、生理的要求による感情だけではなく、社会性の感情や、「遊び」といった、生存の必須事項から離れたことへの感情が現れてくる。そうして、生存必須事項から離れたことに関する感情において満たされることが、「幸福」として求められるものになる。「喜び」や「愛」といった感情。
つまり、より進化の過程へと向かうことを快に感じるという仕組になっています。
逆に退行の方向に向かう時、不快を感じるようになっている。
ちょっとフロイト的な考え方とは違うかも。「人間は退行への欲求がある」とか。まあ、まさにそう考えるか、選択ですね。

「人は過去向き思考と未来向き思考の両方を使うものだ」。と考える方も多いと思います。
違います。あくまで選択です。そして、ほぼ100%、未来向き思考だけを、生活の全てにおいて、使うことをお勧めします。
お勧めしますし、それがないと感情分析という作業は不可能ではなくても、実りより苦渋ばっかの過程になっちゃう気がする。
これは、怒りという感情をほぼ100%なくすことを目標にしているのと同じことです。

何故ほぼ100%かと言うと、心の成長と健康、そして幸福にとって害があるからです。
「人は体に害のあるものと害のないものを食べるものだ」というのはナンセンスだと思います。害があるなら極力食べないに越したことはありません。

なぜ過去向き思考が心に害があり、未来向き思考が心に成長をもたらすのか。
これは「感情の自発性」とか「望み」と直接結びつくからだと言えると思います。過去向き思考の中で、感情の自発性と望みが一時停止し、人間を幸福にする感情の発現が一時停止します。
未来向き思考の中で、これらの感情が湧出を促されます。

全ての過去向き思考を、未来向き思考に変えることが可能です。
これは思考法の技術という性質が少しあります。いろんな例を知って、日々の生活の中で、実践する訓練をするのがいいですね。

No.345 2004/11/19(Fri) 11:08

過去から未来への選択-1 / しまの

これ原稿そのものなんだけど、構成整えるの手間かかるんで、頭に文章浮かび次第どんどん書いて掲載しちゃいます。

ハイブリッド療法では取り組みの順番というものを非常に重視しています。それを整理しつつ正式なガイド本を作ろうとしている今日この頃。
なぜ順番が重要かというと、先のステップができていないまま後のステップをやっても、ほとんど成果がないから。自己分析になると下手すると逆効果になっちゃう。
こうゆうのIT構築の世界では「工程」と言いますが、心理療法でも工程と言っていいのかな?「工」の字がちょっと変な感じ。医療の世界では何というんだろー。

全体の順番は今のところこうなってますのでよろしくー。

(1)新しい人間観世界観の学習..掲載済み入門編部分。心理学的幸福主義。これは後のステップを通しても継続するもの。
(2)思考へのアプローチ..心の選択肢の学習
   1)未知への選択
   2)自己の責任の選択
   3)イメージから現実へ
   4)過去から未来へ
   5)断片から全体へ
(3)感情へのアプローチ
   1)悪感情への基本的対処
   2)感情分析

このうち「過去から未来へ」について説明しまっす。
感情に対する基本姿勢がこれでかなり決定します。「感情に対する基本姿勢」というのを独立項目立てするかどうか、思案どころ。

No.344 2004/11/19(Fri) 11:06

自己操縦心性のついたウソ-11:操縦心性のウソが破壊する「傷ついた者への愛」 / しまの

■傷ついた者への愛の限定性

「傷ついた者への愛」という人間のひとつの真実の愛は、極めて限定された愛です。

それは自分では立てなくなった者への愛です。
これはごく日常生活では、一緒に歩いていて片方が何かの拍子で倒れたら、とっさに本能的に助け起こそうとする感情が起きるとかいったことに現れます。格闘スポーツでも、相手が怪我をしたら攻撃感情が消え、相手へのいたわりの感情に変わる様子など見ることができます。

この愛が抑止されるケースがあります。典型的なのは、相手がニセだという感覚の中においてです。
ごく最近の例では、倒れているイラク兵を米兵が「こいつ死んだフリしてやがる」と射殺した事件。
操縦心性においては、他者の中にニセを仮定して憎悪を向けさせるというメカニズムが強固にそなわっており、この根源的感情において、相手への攻撃が「手ごたえがない」という特異な感覚をもたらします。際限のない破壊衝動は相手もしくは自分自身の消滅によってようやく鎮静化するという性質があります。

傷ついた者への愛の限定性は2つあります。

ひとつは、相手が自分で立てるようになったら、もしくはその潜在力が認知されたら、即座に消失します。
事態が複雑化する要因は、本人が既に自分の力で立てる力を回復しているにもかかわらず、1)自分でそれに気づかないか、2)気づいていて意図的にか、3)無意識の依存衝動により、自分で立とうとしないケースです。
その場合、その人間の姿勢はしばしば「依存」さらには「寄生」という不快感を持って受けとめられることになります。この複雑な事態については後にもうちょっと詳しく考察しましょう。

第2の限定性は、「見捨てる」という可能性です。
これは移動中に病気で倒れた仲間に対する草食獣の行動などに見ることができます。まず傷ついた者への愛から、倒れた仲間を心配する行動が見られます。しかし、体をさすったりして元気付けをしても、もう立つ力がないのを見てとると、もう見捨てて移動の歩みへと戻ります。そうしないと自分自身が生きていけなくなる恐れがあるからです。

このように「見捨てる」行動について、それでは真の愛ではないと考えるか、それでもその感情が起きたことにおいて真の愛であると考えるかは、多分に、心の健康度の問題ではなく、健常においても存在する人間の思考の違いと言える面があります。

つまりそれはもう、どう考える方が「正しい」ということではなく、どっちの考えを取るかという選択の問題になってきます。

また、「見捨てる」ことへの罪悪感の有無の違いというテーマがあります。
ある者は、この地球上で飢える人に比べ、自分が恵まれていることに罪悪感を覚えます。最近あるメンタルサイトで、新潟地震の被災者に助けをできないことへの最悪感にかられ、また援助の薄い行政への怒りなどによって心身消耗している人の姿を見ました。これを最高の思いやり精神と見るか、それとも何かの障害感情の表れと見るか、考えの分かれるところです。
参考まで、不合理なほど過剰な罪悪感や卑下傾向が起きる定番と言えるメカニズムに、サディズム衝動の抑圧があります。


■操縦心性の中で憎悪により破壊される「傷ついた者への愛」

心理障害メカにおいては、「苦しみ」がこの「傷ついた者への愛」と大いに結びつき、人間関係の破壊的様相がしばしば生み出されます。
この者は、望みの停止や自己破壊衝動によって苦しみの中にいる。その点において、傷ついた者への愛を求めます。また実際にその愛が必要でもあるでしょう。それに出会い、自分は絶対に否定される存在ではないことを知るために。そして自分の足でたつ勇気を与えられるものとして。

しかし、自己操縦心性は、そこに「宇宙の愛」への要求、つまり残存愛情要求を仕組んで送り出します。
そして要求と真実の差し換えというトリックの中で、限定のない愛でないが見えたらそれはニセだという感覚を起こします。
この感覚は、さらに抑圧された攻撃性の外化や自己嫌悪の外化などにより、極めて野蛮な偽善性に出会ったという感覚を起こしやすい。
「本当はわたしのことなど考えてない!」という感覚によって、切り替わりが起きます。

そしてこの傷ついた者への愛を呼び出したものが「苦しみ」であることを考慮した時、相手にニセがチラと見えた時に切り替わる感情は、極めて破壊性の高い、憎悪に基づくものになります。

憎悪は、自分を苦しめ続けるものへの破壊衝動です。
心理障害においては、この「自分を苦しめ続けるニセ」が極めて漠然とした広範囲な人間性に渡るため、その救いを求め、ニセを見出して憎悪を向けるというメカニズムが様々な色彩のパズルの中で広範囲に起きます。

いくつかのパターンを次に説明しましょう。

No.343 2004/11/18(Thu) 10:16

自己操縦心性のついたウソ-10:操縦心性と残存愛情要求のメカの違い / しまの

操縦心性のついたウソによって、最も破壊的な事態が起きるのが、「傷ついた者への愛」との関係で起きます。
それによって、この傷ついた者に向けられる愛を、本来それを必要とする本人自らが破壊するように仕向けられるのです。

その話の前に前段。
操縦心性と残存愛情要求は全く別物だという話。

操縦心性の基本機能空想と現実の重みの逆転です。
これが「切り離された恐怖の色彩」という感情の膿を原動力として駆動する。「切り離された恐怖の色彩」はもはや意識では全く到達できない、人格の土台に作用します。操縦心性も同じように、意識が起きる以前に、その内容を支配しようとしているメカニズムであることを理解しておくのが良いでしょう。

残存愛情要求は別物です。
これは「幼少期に不充足であった『宇宙の愛』への欲求を生育後も抱え続ける状態」と定義できます。

操縦心性と残存愛情要求が別物だというのは、異なるメカニズムを持つということです。

治癒の観点から見るならば、おおまかに言うと、操縦心性は現実理性によって対抗し解除することで克服しますが、残存愛情要求は「解除」することで克服することはできません。体験的にそう考えています。

残存愛情要求は、人間の「愛する能力」を獲得する上での、ひとつの通過課題のようなイメージを持っています。
それを否定することでも、満足させることでもない、その内側にある人間の真実へ向かうことです。と言えるのが今のイメージ。

理論的整理が未了ということですね。まあいずれ残存愛情要求の克服のメカニズムをより精緻に考えたいと思っています。
操縦心性が残存愛情要求を生み出しているのではありません。
2つのメカニズムの相互関係はかなり複雑になるでしょう。それを考えるのはもうちょっと後になりそう。

これはちょっと前段として、傷ついた者への愛が破壊されるメカニズムを次に。

No.342 2004/11/17(Wed) 11:11

望みの停止問題-1 / しまの

「操縦心性のついたウソ」シリーズを掲載中ですが、その後に「望みの停止問題」というシリーズを書こうと思います。
これはその予告編的な感じで。

操縦心性の核構造を説明しているわけですが、これは病理構造です。
それにより損なわれた健康な要素とは何だったのかは触れていない。でその最大のブラックホール化したのがこの「望みの停止」という問題に思われます。

障害感情において後ろ向きの感情が前面に出て、嫉妬や憎悪などの破壊的感情が生まれてくるのは、望みの停止という背景があります。
また、「潜行する自己破壊衝動による苦しみ」とは「望みの停止」とほぼイコールです。

感情分析指南でも、まず人生で望むものは何かという視点から進めるという話をしていますが、これは分析そのものには治癒への原動力はないということです。
何かが欠けたところで、いくら「こうすれば」という意識で感情分析を試みても何も変わらない。それは「臨みの停止」が放置されたケースです。


「真の自己」が意識表面に現われる感情は「望み」「悲しみ」が代表です。これが加担すべき感情と定義できます。

望みの停止のメカニズムを考えることは、今までの操縦心性メカニズムに加えて、それに真の自己が加わったメカニズムという話になってきます。
操縦心性メカに対する治癒メカをそのうちまとめますが、それは消極的治癒の側面です。
望みの停止に対する治癒メカを論じるところで、積極的治癒の側面に向かうことになります。

多少感情分析が進行すると、「望むことへの恐怖」というのがテーマにあがってくると思います。
そこでは、望む感情に対して、人間に向けるものとは思えないようなおぞましい嫌悪軽蔑が現れます。分かりやすく言うと、嫌われるのが分かっていて近づくあさましい悪あがきというものへの耐え難い嫌悪のような。
これが、操縦心性が真の自己を発現させまいとする、感情の脚色の代表例と言えましょう。

望みの停止が無意識状態に留まると、背景的な苦しみから生まれる憎悪は必然的に外界に向けられます。
望みを停止させたものが外界にあるという感覚の中にとどまるんですね。幸運な人間だけが望むことを許されている、もしくはニセの人間がのうのうと望みを抱いている、と。
これに取り組むことは、望みの停止を自らの内面の問題として「戻す」ことを意味します。
敵意へと転化された自己軽蔑を自らが自分を軽蔑していることとして「戻す」という話をしましたが、これに続く局面となるでしょう。

取り組みは「望みへの進行と撤退」を繰り返すという様相になるでしょう。ちょうど僕の小説原稿もその流れに入っているところ。
かなり苦しい体験でしょうが、最も有益な体験でもあります。

そして、これに取り組めるためには、「望む資格」という思考形態についての根本的な変革が条件です。
つまり人間にとっての望む権利とは何なのか。価値ある善い人間だけが望むことを許されるという、根源的思考があります。「わがままと我慢」という思考体系にとどまっている限り、この局面へ歩を踏み出すことはできません。エゴイズムと自己犠牲という既知の世界にとどまります。

情緒道徳型の決め付け思考から、全ての善悪を相対的なものと認識し、感情に依存しない対人行動学を習得する。
その方向を自分の生き方として選択する。
結局それは本人に委ねられます。

予告編的なものとして読んどいてもらえれば。掲載はちょっと後かと。

No.341 2004/11/16(Tue) 09:50

自己操縦心性のついたウソ-9:操縦心性がついた破壊的な嘘 / しまの

では、最大ポイントの説明に入りましょう。


■自己操縦心性のついた嘘

人間の心は、その発達課題として、幼少期に「宇宙の愛」を求め、それが満たされることで心の土台に「基本的安心感」という、心の自由を支える万能感を獲得する。自分は宇宙の中心として生まれたのだという主体感。
人間が「子どもへの愛」を見失った時、全ての歯車が狂い始めます。

子どもは、自分が宇宙で見放されていると感じます。
一面に広がる、世界への不安。育たない人生への能力。やがてこの現実を否定しさるための、空想の世界を主(あるじ)とする、人生の危機回避システム、自己操縦心性が発動する。

サイト説明のレベルでは、この心性の病理性を主に現実乖離現実覚醒レベル低下ということで言っていました。
しかし、この心性をめぐって、プライド衝動や「べき」そして自己嫌悪という対自感情、そして依存と怒りと憎悪という対他感情が必然的に生み出される仕組みは、十分に説明できていませんでした。
現実乖離だけでは解けないパラドックスが結局全ての問題を維持していたわけです。

パラドックスを構成するもののひとつは、「要求と真実を差し替える」というトリックです。
この人間は、幼少期にこの宇宙の愛を与えられず、今だその欲求を捨てきれずにいる。
そして真実に飢えている。嘘の世界で苦しみ、嘘への憎悪を抱いている。

自己操縦心性は、空想された自己理想化像の中で、宇宙の愛への欲求を充足させようとします。
しかし、それと現実は違います。なぜならもう彼彼女は大人だからです。彼彼女に向けられる愛は、無限の愛ではなく、限定付きの有限の愛です。自分は自分で守ることが前提の愛。
現実の愛では、その要求は満たされません。自分が宇宙の中心になる愛でなければ駄目なのです。

この現実という不具合を打ち消そうとして、自己操縦心性は、決定的に破壊的な嘘をつきます。
現実にある、その限定付きの愛は真実ではないと。偽者だと。
これで同時に、飢えている真実への欲求も満たします。

自分は真実を知った。それは嘘の愛だ。
そうして、この人間がはっきりと意識しているかどうかは問わず、嘘の世界の下で苦しみ続けている結果としての自動的な憎悪の感情の上で、その嘘の愛に対する破壊の怒りを向けさせます。

これが「表の」構造です。


■破壊的自己嫌悪の必然的由来

この表の構造の裏に、自己操縦心性は自らについたついた嘘を激しく軽蔑嫌悪しているというパラドックスがあります。
嘘のひとつは、まさに空想の世界を主(あるじ)としたこと自体です。
そしてもうひとつが、要求を真実と差し替えるトリックという嘘です。

つまり、自己操縦心性は根本的に、自らを嫌悪軽蔑する心性として発動します。
この結果、潜行する自己破壊性による苦しみが最初から生まれます。そしてこの苦しみが、表の「ニセの世界」への憎悪感情に火をくべるという形でつながっていきます。

自己破壊衝動の意識化を避けるために使われる基本的な手段が、外化です。
相手の中に「ニセ」を仮定して、それに対して憎悪の色彩の濃い破壊的な怒りの衝動のはけ口を用意するわけです。
これは「自己建設型の生き方」で説明した外化のパターンの4つめ、「能動型の外化」として説明したものです。
http://tspsycho.k-server.org/base/base06-01.html

この結果、他人の中にニセを仮定して憎悪の怒りを抱くということが、極めて強固な傾向として生じます。


■全体俯瞰

全体を整理しましょう。治癒メカニズム理解をにらんで。「全体を見る目」が重要です。

まず最初にあるのは「残存愛情要求」「プライド衝動「ニセへの憎悪」です。
操縦心性が機能する前からこれがあります。

現実乖離し覚醒レベルの低下した人格体として、操縦心性は表でこれらの衝動を「自己理想化」「要求と真実の差し替え」によって処理します。
この結果、表では「ニセへの怒り」と「ナルシズム感情」が最も顕著になります。

操縦心性は、裏側でこの表の構造を「自己嫌悪」しています。
その結果、「苦しみ」「ニセの外化」が起きます。

これが最初の材料に循環的に戻っていきます。特有の色彩で。
残存愛情要求については「救い」への願望という色彩。
プライド衝動については、「復讐的勝利」という色彩。
ニセへの憎悪については、「他人全般にニセを見出す傾向」そして「憎悪の循環強化」。

この循環の中で、自己理想化の維持は困難になってきます。人格構造の不具が目立ってくるからです。
裏側が次第に大きくなる形で、この循環が続きます。
最終的には、自己破壊が全面に出て人格が破綻するという流れになります。


何とも巧妙な自滅のメカニズムですが、怖れる必要はありません。
人間には別の人格メカニズムがあり、そうやすやすとこのメカニズムの暴走だけが起きるわけではありません。
またこのメカニズムに対して治癒メカニズムがあります。一言でいうと、このメカニズムの構成分子ひとつひとつに対する緩衝作用を用意し、さらにこの循環全体を回しているエネルギーとは逆方向の力を働かせることです。
あと少しこのメカニズムの結果起きる特有の現象について解説したあと、治癒メカニズムのまとめへとしめくくりたいと思います。

No.340 2004/11/14(Sun) 17:45

刻銘 / しまの

ちょっと個人的(?)メモ。

久しぶりに覗いてみた、かつてのかかわりある人のサイトが閉鎖されている。
確かに、あの人が亡き後、あまり意味のないサイトというムードがあった。
消え行く痕跡..

Yahooで検索かける。
唯一残っている..というか、それは今もあの人を忘れられない人がいるというしるしだけが..

「好きなネット詩人」
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/poem/1053554914/l100
83 :名前はいらない :04/09/28 01:30:21 ID:l8HqSoXo
SIESTAのまりこ姫。
HPにも貴女にも、もう二度と逢うことは叶わない。

僕は全て残している。いつか必ずそれを世に出す。
いつか彼女を、必ず、蘇らせる。

No.339 2004/11/14(Sun) 01:01

「整形は自分に嘘をつくこと」だってー / しまの

今年の5月GWに帰省したとき、甥の小学校入学祝いということで、2歳のもうひとりの甥と4歳(だったか)の姪も含め、トイザラスで欲しいおもちゃを買ってあげました。

小学校に入学した甥には、ゲームボーイのソフトということでそれなりに高価。2歳の甥は100円未満とは思えないカッコいい水鉄砲。姪は700円くらいでか、手に乗せたりすると時折「ピヨピヨ」と鳴くかわいい雛鳥人形。
上の子は別として、下の方の子にとってはそうしたものが一番欲しいものということで、帰る道すがら「ワーイワーイ」と喜んでいたのは何ともかわいいもんです。

で姪は雛鳥人形が「ピヨピヨ」と鳴くたびに、「だってー」と嬉しそうな顔で言っているのが面白かった。
ピヨピヨだって。

「だって」の話でした。


..と何の話やら。カキコの目的は久々の新聞ネタで、朝日新聞朝刊の「読者と生活」欄の相談投稿
「顔の傷消すのは嘘つき?」という題。子供の頃に目の手術をした傷跡があるのだが、最近眼科で、今の技術なら傷跡を消せると言われたとのこと。ところが、ある人の「整形は自分に嘘をつくことだ」という言葉が突き刺さって、傷のある顔を変えることは嘘をつくことになるのかと混乱している、とのこと。

「整形は自分に嘘をつくこと」...だってー。

まあ心理からは、もちろん「整形が嘘をつくことか」どうかが問題ではなく、ナンデソンナコト考えるのー?という話。
2つのテーマが考えられると思いますネ。

ひとつめのテーマは、「整形することへの後ろめたさ感情」が何から生まれるか、というテーマ。
ある人はこれを感じ、あるひとはアッケラカーンと「よりきれいになることは良いことだ」という感情だけを感じる。
これは先日の小説からの抜粋場面の、「自分の性格への自己軽蔑を外見で補おうとする無意識の意図が抑圧された状態」とかと関連がありそうな話です。
これがあると逆に、人は「外見など気にしない」ことが人格的に優れたことであるかのような感覚の中で生きる。

この無意識の意図性が意識に明るみとなり、その論理が放棄された時、人は逆に自分の外見を磨くことに素直に注力するようになると思います。
ただしこれは「意識すればいい」という簡単な話ではなく、その根底に「自己のニセ」への自己嫌悪という膿がひかえており、それとの長期的な格闘が必要です。これを裏と言うなら、表は「自分を受け入れている人間」という理想化イメージというものがあるでしょう。
ちなみにこの「取り組む」っていうのは、それを「分析」したら消えてくれるということではなく、「自己イメージを追っても真の自信は得られない」ということを、そうした感情を味わう中において自覚することですんでヨロシク。なんか最近言葉変だなあ..

「外見気にしない」はむしろマズイ話だと思いますネ。カッコイイっていうのは、より健康で子供産むのに適した状態であるものに対して感じるようにDNA上に設計された感情なのです。
健康増進と一致する気に仕方なら全然オーケー。「外見気にしない」ことを誇ってたらただの不潔人間にならないようご注意。
外見気にする自分を強烈に自己軽蔑するという板ばさみ状態があると、人は極端に地味な外見をまとう傾向ににあるかも。僕もかつてそれで超ダサイ格好していた時期あり。

ふたつ目のテーマは、「顔の傷を消したい」というこのあまりにも自然で、健康でさえある願望がなぜ打ち消されようとするのかいうメカニズムの話です。

これはもう、傷害感情の問題ではなく、ごく一般の思考として自然な望みを押さえつけ否定することが正しいことであるかのような思考があるということが、今回の特徴です。
「分相応」「高望みをしない」「自分をわきまえる」。。
「整形するなんて、親にもらったものを否定する親不孝」。。
「そんな悪い子にナニナニなんてする資格はありません!」
「正しい者だけが望むことを許される」いう思考が染み付いている世界があるのですね。

傷害感情としての自己嫌悪の最も基本的な特徴は、自らの望みを打ち砕くという機能です。

何のことはない、自己操縦心性はこうした人間の思考を忠実に体現した感情の塊にすぎません。
病んだ感情ではあっても、その由来は全く当然のメカニズムの結果なわけです。


ハイブリッドでは、人生で望むものへと全力を尽くすという選択を、原動力にします。
自動的に生まれるようになった、願望を否定しようとするこの感情に加担するか抗戦するか。この選択が治癒への決定的ポイントのひとつになることは疑いのないことです。
結局、思考の変換が決定します。

昼前の合間から少しづつ書いてたら、終わりの方はお酒の入る時間となり(^^;)、かなりはしょり。
「望む資格思考」というテーマについては今後かなり重点的に解説する予定。

No.338 2004/11/13(Sat) 23:12

自己操縦心性のついたウソ-8:最大ポイントの前に雑感 / しまの

話の流れをなぞって書いていたら、ちょっと雑感に及び..


愛は、死への恐怖さえも凌駕する感情です。
おそらくこれは、「種の保存」という原理の上で、高等動物の脳が発達する過程で獲得した、最も深い感情であることに疑いはないと思います。
これは親から子供への愛に限りません。詳しい話は省略しますが、映画「タイタニック」での、タイタニック号がまさに沈没していく時、もはや逃げることさえせずに、愛の感情の中で静かに死を迎え入れようとする様々な人々の姿が描かれていました。
演奏家という使命への、子供への、そして神への。。う〜ん感動。

そんな愛の中で、「限定の無い」愛とは、「子供への愛」だと考えています。
他の愛では、限定が「常に」あります。愛が持続する時間の問題ではありません。
異性愛も傷ついた者への愛も、「自分を維持する」という課題、本人がそれを愛の名において否定しようとしたとしてさえ存在する課題があります。
「必ずしも相手のことだけを考えているわけではない」部分が、常にそこにあるわけです。
「友情」というレベルになると、これはさらにルーズにカップリングされた状態です(これIT用語なんだけど^^;)。「自由」が前提です。他の愛では自由がちょっと犠牲になる。

子供がある成育期に至るまで、親は子供への絶対的な愛情を抱く。
これが「種の保存」の原理の上で人間の脳にプログラミングされた心の設計書。
子供は「宇宙の愛」の中で人生を生き始めます。そして、自分が宇宙の中心として生まれたという万能感を、意識より深い心の土台に持って、育つ中で現実の壁にもぶつかる体験を通し、人生への安定した自信を育てていく。

人間の脳はこうできていた。100万年という人間の進化によって。
ところが、親が子供への愛を持たなくなるような文化が出現する。しかし脳はその文化に合うように変わるわけではないのです。
100万年の中の、たった1000年程度、いや、たったこの数100年のことかも知れない。

これは脳のプログラムから見たら、異常事態と言えるでしょう。
親が子供を愛さないどころか、怒りの中で脅しつけ、破壊しようとさえする。
ある種の生物は、個体数の調整のために、異常事態において自己破壊するようなプログラムを備えているらしいという話を聞くことがあります。
現代社会に蔓延する心理障害は、実は、自然状態から乖離したこの人間社会の状態を異常事態と見なすように、用意されていたのかもしれません。


そんなものであるかのような、自己操縦心性のついた破壊的な嘘とは。。

No.337 2004/11/12(Fri) 11:40

自己操縦心性のついたウソ-7:至上の愛 / しまの

5つの愛の形態を説明しました。
では、その中で至上の愛とはどの愛でしょうか。それはどのように至上なのでしょうか。
その愛を自分自身の中に生まれた未知の感情として体験した時、初めて、残されていた全ての謎の答えへの道が開けたのです。

以下、人に語る形で書いた文章ですが、そのまま読者の皆さんに語ることとして載せたいと思います。


■謎への糸口

こうして、「月光の愛」「ひまわりの愛」「子供への愛」「傷ついた者への愛」という、4つの愛が確認できました。
この時、僕は謎への糸口が見えてきたような気がしました。

なぜなら、自己操縦心性の中で、人はこの「傷ついた者への愛」を見失うからです。
だから、傷ついた者へ、さらに容赦ない怒りを向けるのです。傷ついた他人に対して。そして傷ついた自分自身に対して!


■至上の愛

人はなぜ、自己操縦心性の中で、「傷ついた者への愛」を見失うのか。

この答えは、4つの愛について、漠然と色んなことを考えているうちに、近づいてきました。

この4つの愛の中で、どれが最高の愛だと思いますか。
僕は「子供への愛」だと思っています。
自分が健康な心になって見出した、とても確かな感覚として。
他と質が違うんです。

どう違うか、他の愛では「自分」が残っているのです。
2つの異性愛もそうです。自分と相手との一体化。
傷ついた者への愛も。相手の中に自分が入る。他にも傷ついた者がいたら、少し手を休めてそっちも見なければいけない。自分を失うわけにはいかないんですね。

でも相手のために自分を投げ出すエネルギーというのは大したものです。僕もこの数日ちょっと体内が変化している感じがちょっとありました。睡眠時間が短くなってるのに全然影響ない感じ。災害救命隊の人が一日1、2時間しか寝ずに何日も救助作業を続けるのを関心して見たことがありますが、何か分かった気がします。それに比べりゃ楽なもんですが。

「子供への愛」では、「自分」が完全になくなるんですね。
自分が宇宙になって子供を包むんです。
子どもが宇宙の中心になるんです。


他の愛では、どこかに自分が残る。最後には自分を守らなければならないんですね。
「子供への愛」は違います。自分は子供の宇宙なのです。子供しかいない。自分はその宇宙。
他の愛では、相手の命が失われそうなときに、自分も同時に命を失う危険がある時、相手を救うか自分を救うかという、選択肢が出ます。人がどっちを選択するかによってドラマがありますね。
でも「子どもへの愛」においては、その選択肢はないんです。なぜなら自分は子供の宇宙だからです。

実際のところ、こうした「子どもへの愛」を持つ親がどれだけいるかは、もう言及するまでもない悲劇的状況です。

問題は、人間の心理メカニズムにおいて、子どもは、この愛を求めている、ということです!
そしてそれが満たされることを求めているのです。
そして本来それは満たされていたのが自然な人間の姿だったわけです。そうして自分の足で立ってあるく力の中で、人生への能力をつけていく。


人が「子どもへの愛」を失った時、全ての歯車が狂い始めます。
それを補おうとして自己操縦心性がつく、決定的かつ破壊的なウソとは何か。
それを次回。

No.334 2004/11/10(Wed) 13:52

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-7:至上の愛 / ペーター

学生時代、三浦綾子の「塩狩峠」を引き合いに「完全な自己犠牲」というテーマを肴に親友と飲みながらクダ巻いたことがありました。曰く、
「あらゆる自己犠牲や献身、善行などを行う主体は、例外なくなんらかの代償を受け取ってるわな。たとえ自分の命を投げ出すような極限状況にしてもだ。良心や倫理観や美意識が満たされる満足だったり、行為そのものが、そういうことができる自分を見てうっとり酔うための自惚れ鏡にもなりうる」
「でもまあ、結果的に人様が助かったり喜んだりするわけだからハッピーなことじゃんね。他者の喜びで自分が満たされるのは結構なことだしさ、咎め立てるようなことじゃないでしょ。そのへんが人間の限界っつーか、そもそも相手が+100、自分が−100って状態を望むってほうが無理ってもんよ。そういうことができたのが、もしかしてキリストだったりブッダだったり弘法大師だったりガンジーだったりマザーテレサだったりするんかね。知んねーけど」
「あー、だけど例外もあるかもしんない。もしかして唯一の例外かも。例えばさ、自分の子供が溺れてるのを見つけて、自分はカナヅチなのに反射的に飛び込んじゃって死んじゃったりする親の話。よくは聞かないけど、珍しくはない話。あれは完全な自己犠牲かも」
「たしかに。ほとんど条件反射だから頭を介していない感じの純粋さは感じるね」
「自分の命を危険に晒してまで子供の命を救おうとした英雄的な自己像なんてものを夢想するヒマはないわけだしね。もうね、身体が動いちゃってる感じ。善悪の遥か彼岸というか、むしろ動物に近いかも」
「いやあ、つくづく、親ってありがたいよね」
多分に饒舌な脚色含みつつ、けれど本質的にはそんな話をしたことを、しまのさんのカキコを読んで思い出した次第です。

No.335 2004/11/10(Wed) 22:28

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-7:至上の愛 / しまの

ど〜も〜。
まさにそんな話ですね。

本能的な親の愛では、もう「自分」はないので、「自己犠牲」でさえなくなってるんだと思います。
さらに、他の愛の形態においても、ハーモニーとしての愛の中には、基本的に「自分」は消失するというのが僕の考えです。
そこで自分を意識した感情は愛とは別物。

でも感情というのは、基本的に幾つか混ざった結果を体験しているというのが人間の姿ですね。

No.336 2004/11/11(Thu) 10:08

自己操縦心性のついたウソ-6:愛の起源 / しまの

完成版(..と我ながらよく繰り返しているモンダ。果たして残りはないか?まぁ結構確かな収束感はある..)島野理論の核、「自己操縦心性が行なったトリック」ですが、いよいよその最大の中心核の構造の説明に入りたいと思います。

それはやはりに関するものだったのですね。そもそも愛とは何だったのか。なぜそれを求めても満たされないのか。
全ての謎が解けた。その時僕が感じたのは、謎解きの喜びではなく、ただこの人間の心という壮厳さに打たれた気分でした。

そして最後に、自己操縦心性がそもそもなぜ生まれたのかという起源の、大どんでん返し。自己操縦心性は病んだ心性ではなかった!
それを知った時、自己操縦心性は、怒りに燃えたぎる赤い眼光から憎悪の色を消し、穏やかなまなざしの中で、安らかな眠りに還っていくのです。


幾つかのカキコで説明していきます。
まず、愛とは何だったのか。その起源へと遡りたいと思います。


■愛の起源

愛とは、「一体化」への感情です。これが定義です。お互いが同じ感情を感じ、同じところにいて、ひとつになること。
これは身体的なものから精神的なものまでへと至ります。スキンシップ、セックス、たわいないお喋り、スポーツにおける一致団結、難しい課題への共同作業、etc、の全てが、一体化することそのものを志向する感情において、愛です。

愛を行うおのおのの人間の外面だけを取り出したとき、それは愛ではなくなります。
「与える」「与えられる」として分解された行動そのものは、もう愛ではありません。
愛とは、それを求める2つの気持ちがかなでるハーモニーと言えます。ハーモニーを構成する音を分解して、どこに愛があるのかと探しても、愛はありません。

真実の愛とは何か。5つの形態があるという整理にほぼ落ち着いているところです。
なおここで言う「真実」の愛とは、純粋にそれだけを目的にし、それ以外の目的性がないことにおいて真実であるということにしたいと思います。

まず異性愛
これは種の保存のために生まれたものでしょう。子供を産みために、異性愛というものが作り出された。

これに2種類がある。
この2つの違いの詳細は省略。説明しようとしている「操縦心性のついたウソ」を理解する上で、この2つの違いはあまり大きな話ではありません。その後の愛との違いが大きなテ−マになってきます。

1)月光の愛
特定の相手の輝きが他とはあまりに違うものになり、相手が世界の全てとなるような愛の感情です。相手がいない場所は闇と化します。異性愛として最も深い愛の感情を生み出すものです。
これはしばしば心理障害と結びつき、依存恋愛となります。
しかし人間が本質的に弱い存在であり、成長途上の存在であることを考えるとき、この形態の愛もやはり人間のひとつの本質であるように思えます。

2)ひまわりの愛
明るい陽を浴びて、誰にでも微笑むことができる愛です。
心理的な成長と強さによって、相手に依存することなく愛を誰にでも持てるようになります。
ただし「この人だけ」という月光の愛の深さはありません。
意識的に「あなただけ」という約束をして、その誠実性によりカップルとして保たれるというものです。

この2つの愛は、少なくとも僕にとっては「既知の感情」でした。心の成長の途上で、「この人だけ」の輝きに惹きこまれる「月光の愛」をさ迷う。そこで自己の弱さを知り、強さを土台にした、傷つくことのない愛を願った。
そして心が成長したとき、「ひまわりの愛」と呼べる感情を自分が持てるようになったことを自覚した。実際にそうなっていない時でも、それは多少イメージできる感情であった点で、やはり既知の感情でした。

それに対して、次の2つの感情は、本当に最近なって、僕の心の中が安心感と安全に満たされるようになった結果生まれた、未知の感情でした。
その未知の感情を実際に体験して、他の愛との違いが分かった時、全ての疑問を解くような答えへの謎解きが始まったのです。


3)子供への愛
最近、小さな子供を見ると、可愛くてたまらない気持ちになります。
Introductionにも書いたことですが、以前はどうせ自分の人格欠損を感じて恐がるだろうからと、自分から突き離すような感情を小さな子供には抱いていました。
僕自身の「健康な心への道」の歩みで印象的なことは、子供に対する愛情の出現が、自分自身の成長感の中で、以前とは質的に違う成長の段階に自分が来たことを確信させたものとして、後から振り返ると大きな道標になっていたことです。「ゼロ線」を通過した後の、自分の変化をはっきりと感じるきっかけとして。そしてここ最近の、自分への自信に以前とは質的に違う大きさのようなものを感じるものとして。
(ちょっとナルな描写ゴーメンナサイヨー。あくまで心理成長の理論モデルの議論と割り切って頂戴。)
僕はここに、人間の心理発達における、「種の保存」という目的の支配力のようなものを感じています。

他の愛とこの愛がどのように違うのかという考察は、次のカキコに引き継ぎます。

4)傷ついた者への愛
これもやはり、僕自身の内面が安全と安心に満たされたことではっきりと見えた、未知の感情でした。
それまでは、異性愛、友情、子供への愛とかの違いが、どうもはっきりせず、いわばぼやけた境界しか持たない一群の感情だったのです。それが、はっきりくっきりと、その境界が現れ、それぞれが全く別の愛の感情であるのが見えてきた。

「傷ついた者への愛」の端的なものは、災害救助活動などで見ることができます。
一刻を争う死の瀬戸際にある人を救うために、わずか1、2時間の睡眠だけで救助活動を続ける人々の姿を良くみます。
これの特徴は、しばしば自分の生命までも危険にさらすことです。愛がその恐怖を凌駕してしまうのです。

僕自身がある出来事の中で、この感情の中に包まれた。
それが謎解きの始まりでした。この感情は一体何なんだろう。こんなにも相手のことばっかり考えている。僕の心がそうやって相手と一体になることを求めている。これは間違いなく愛だ。

しかしどうも他の愛と違う気がする。それが気になりました。
色々考えているうちにはっきりしたのが、この愛の中では「愛しています」という言葉が全く意味を持たないことでした。
他の愛では「愛しています」と言います。男女の間で。親子の間で。
それは、立っている相手に対して言う言葉だからです。この愛は、もう自分では立てなくなっている相手に対する愛なのです。だから「愛しています」と言うことは、この愛においては全く意味を持たない。愛していますという代わりに、相手を立てなくしているものに向かって、自分の身を投げうって闘うのです。

ということで、これが他の愛とは全く異なる、別の愛であることが分かりました。

この愛は、原則として短期です。
自分の身を危険にさらして行う愛です。自分も一緒に死ぬわけには行かないという前提があるのなら、必然的に時間的限界が生まれます。
そしてもうひとつ、相手が自分の力で立てるようになったら、もしくはその潜在力がついたのなら、この愛は終わります。

心理障害においてしばしば現れる「依存」という問題は、この「傷ついた者への愛」がおおいに絡む現象です。
今回は「依存」のメカニズムが主テーマではないので、ごく簡潔に示唆を述べておきましょう。
自分の傷ついた心の苦しみから求める愛が、「傷ついた者への愛」を呼び込むものである時、その有限性を越えた継続を求める姿勢に、「依存」という心理が現れる。
また、このような人間関係の中で、人は良く「飲み込まれる不安」というのを感じます。これはまさに、自分の身を危険にさらして相手の中に飛びこんでいくというこの愛の特徴に関係したことでしょう。

5)普遍の愛
これはごく簡潔に。
これは、他の愛では「あなただけを見ています」という言葉が成り立つのに対して、この愛ではこの言葉がなくなります。
他の愛が双方向での密結合であるのに対して、この愛では片方向での疎結合。
「あなただけ」とは言わない代わりに、「みんな愛してる」とは言える。

この愛では、「自由」が確保されています。相手に何も約束するものでもない。
他の愛では、多分に自由が奪われます。
異性愛とかは、健康な心においても、しばしば自分自身の自由と両立できないことがあります。

まずこの5種類の愛があるということで、その中の最大の違いについて次回。

No.333 2004/11/08(Mon) 14:04

自己操縦心性のついたウソ-2 / しまの

まず最初に、全体をおおまかに説明した返答メール文を掲載します。
「憎しみを捨てる」選択についても言及。
次回以降より詳細な解明へレッツラゴー!


■ニセへの憎悪のメカニズム

>他人がとてもエゴイスティックに感じられたり、
>他人の望みを駄目にしてしまうような方向への感情が渦巻いています。
>これでは人に嫌われると感じているから、人を信用することができません。
>また、人がたまにとても残酷に感じられる時がありますが、
>これはどのような心理メカニズムが働いているのでしょうか?


その辺の詳しいメカニズムについて、掲示板の方にもそのうち書く予定です。
大元は、自分自身に対して残酷な自己否定を向けているのが他人に映し出されるという感じになります。

簡潔に言うと、
@まず自分自身への自己軽蔑感情が起きる。
Aそれへの反応性の怒りが起きる。また自己否定による苦しみを与えつづけるものへの、出口のない憎悪があります。
B怒りと憎悪の矛先が他人に向けられる。それが「正しい」かは別として、目に映る他人に向かう性質がある。
ここまでは閃光のように一瞬にして動きます。本人にはほとんど自覚されません。
C他人のなかに怒ることが妥当となる「ニセ」を見出す。
Dぶつける対象を求めていた怒りと憎悪が一気になだれる。
この結果、他人を欺瞞に満ちた残酷野蛮な存在と感じて怒りと憎悪を向ける感情だけが体験されます
このメカニズムは強力です。


ここには自己操縦心性が感情の膿から逃れようとして使う、とんでもないトリックが関係しています。
「満たされないままの要求」と「真実への本能」を逆手に取るのです。

ひとつは、「満たされなかった愛情要求」を埋めるような絶対無条件の愛を求める感情があります。
しかし大人になった後の現実世界は、もう限界のある条件付の愛情しかありません。
それが「ニセもの」だ、という感覚を起こさせます。


そして現実の人間は不完全な存在です。
実際に愛情のある人間であっても、その行動には必ず一片の利己性があるでしょう。
そこに注目させ、同時に「自分が真実を知る」という感覚を起こさせるのです。

「真実への欲求」が人間の最大の本能だと考えています。
それを満たすという代償によって、他人に向ける怒りと憎悪のメカニズムが心の内部で正当化され、まったくブレーキのない怒りと憎悪が湧き出るというメカニズムです。


また憎悪は、自分を苦しめ続けるものを破壊しようとする衝動です。
この心理過程にある人間が幼児期から何に苦しみ続けているのかというと、「ニセの世界」だったのではないかと思います。
憎悪は怒りよりさらに、対象が無差別になる性質を持っています。持続的な苦しみが源泉であり、「誰かが自分を救うべき」という感情において、実際に自分を救うことのない全ての他人が、憎悪の対象になるというメカニズムがあります。


このメカニズムは「ニセは破壊せよ」という前提の世界において、「完全」です。
意識的努力によって解くことはおそらく不可能でしょう。

そしてさらにとんでもないことに、自己操縦心性は、このメカニズムの中に陥って、人に敵対し憎悪を抱く自分自身を軽蔑するのです。
これが最初の自己否定感情に火をくべるという循環膨張が働きます。


このメカニズムを「途中で」解くことはできません。
できるのは、このメカニズムが働く前提そのものを放棄することです。
それは現実が不完全な世界であり、人間が不完全な存在であることを認めることです。


「怒り」もそうですが、特に「憎悪」は、その感情をどう処理するかについて、「解決する」という選択肢はありません。
あるのは、それを取るか捨てるかのどっちかだけです。


■憎しみを捨てる・自己否定を捨てる

「憎しみを捨てる」も「自己否定を捨てる」も同時に、ひとつの選択として目の前に現れると思います。
つまり、「憎まないために、自己否定を捨てなければ」ではないのです。
「自己受容できるために、憎しみを捨てなければ」ではないのです。
それは同じ思考回路の中で考えているままです。

全く別の思考回路が、人間の脳には備わっています。
憎悪の下で身動きが取れないでいるその思考回路を開放することです。


それはハイブリッドの基本姿勢そのものです。
自己の感情を一切問わないことです。感情は一切否定せず、ありのままに受け入れます。
そのために、感情の善悪を言う情緒道徳的な思考は根本的に変革する必要があります。

そして感情をひとつの材料として、自分の全体を見る目で自分を見ることです。
そしてどの感情を後押し、どの感情は流れるだけで行動化は避けるべきか、人生をかけて考えることです。
自分の幸福という観点でです。

感情は一切問わない。全ては自由による自己の選択である。全てが許されている。
最終的にはこの世界観を持つかどうかという選択になると思います。

No.323 2004/11/02(Tue) 10:56

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-2 / タロ

「真実への欲求」が人間の最大の本能だと考えています とありますが、
これは通常の状態であっても、心理障害の状態であってもどちらでも
真実の方向に心が向う という事ですよね?
心理障害の状態でだと、連載されているような状態になることもあるという
事だと思うのですが、この件について質問なのですが、
以前の掲示板No.234にある
「自分がバカにされているかどうかを正しく見極め、自分の問題点を考えなおそうとしたり、逆に自分をバカにした人の行動にどんな理不尽があったかを見極めてやろうとする。
何かこれが正しい姿勢であるかのように感じがちなのですが、実は心の罠にどんどん引き込まれているわけです」
といったような内容なのですが、真実への欲求から真実を知ろうとし、相手が何を考えているかなどを知ろうとしたり、いい人間になろうなどと考えたりして
こういった姿勢になり、罠にはまる という事なのでしょうか。
これも真実への欲求と関係があるのでしょうか?
教えて下さい。。。

No.328 2004/11/04(Thu) 16:27

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-2 / しまの

どもー。
No.234は7/19の「屈辱の世界からの脱出-12」ですね。

>心理障害の状態であってもどちらでも真実の方向に心が向うという事ですよね?

「真実の方向に心が向う」という表現を使うとなると、逆だと言えそうですね。
人間には「真実への欲求」があるとして、実際に真実に近づくことは「能力」の問題になります。
そして人間のこの能力は、人間の歴史を通して見れば明らかなように、不完全です。

したがって、健常においてさえ、人間は真実への欲求の中で逆にそれから遠ざかる傾向がある。
心理障害、より正確には自己操縦心性においては、不可避的かつ強い力で真実から乖離されると言えます。


>真実を知ろうとして相手が何を考えているかなどを知ろうとしたり

そうする衝動そのものは愛情要求とかプライド衝動が源泉です。
その際に、「真実への欲求」が「利用」されてしまうという感じですね。
「自分は真実を知ろうとしているのだ」と錯覚して、かえってそこから遠ざかっているわけです。

この角度で考えたことはなかったので、改めて新規カキコに考察まとめましょう。

No.329 2004/11/05(Fri) 09:29

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-2 / タロ

ありがとございました!!
相手が何を考えようかしろうとしたりというのは、愛情欲求とかプライド欲求が源泉なのですねー。真実を利用しているようであまり役に立っていないというか。。。
遠ざかっているのですねー。
この場合の真実とは一体なんなのでしょうかー。
人によっていろいろ解釈があるのですかね。
たしかに人はいつも真実へ向かおうとしてますよねー。
でもあまり真剣に考えようとすると真面目人間と言われたり・・・
普段日常では使ったり使わなかったりしますよねー。
心の客体化といい、勉強になります!

No.331 2004/11/06(Sat) 22:52

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-2 / しまの 引用

>この場合の真実とは一体なんなのでしょうかー。

真実を知ろうとして、逆に真実から遠ざかる。
その真実とは何か。

「心は知るものではない」ということですね。生きるものです。生きるとは知る前のことなのです^^。

No.332 2004/11/07(Sun) 01:38

真実への欲求と能力・「心の客体化」と外化 / しまの

タロさんの質問への回答がてら考えたこと。


■真実への欲求と能力

まず、「真実への欲求」というのは、心理学的には、次の3つの感情のことを言えると思います。
1)自分が真実を知っていると思い込みたい欲求
2)嘘への嫌悪
3)本当の真実を知る欲求

上の方がより「原初的」、つまり本能の自然な状態で生まれるものと考えられます。
「本当の真実」という観念は多分に、本能によるものというより学習によるものです。

実際に真実に近づくかどうかは、「能力」の問題であり、人間の宗教や科学の歴史が示すとおり、この能力はかなり不完全です。
この能力の不完全さの上で、自分の知っていることを真実だと思い込みたい欲求、そして嘘への嫌悪によって、実のところ人間の不幸が生まれているとも言えると思います。

なぜなら実際の真実から遠ざかった時、概してものごとはうまく行かず、不幸な結果を生み出すからです。
従って、本当の真実に近づくために、人間には学習と努力が必要です。こうした心理学とかもその一つです。


■心の客体化

タロさんの質問が触れた「屈辱の世界からの脱出」シリーズは、「外化」という、人間を真実から遠ざける基本メカニズムの説明です。
もうひとつ、さらに基本的な意味を持つメカニズムを指摘したいと思います。
それは「心の客体化」です。

それは心を「もの」としてイメージする、人間のひとつの感性能力です。
他者の中に自己の感情を映す「外化」は、実は「共感」という能力の基盤とも言えます。それが心理障害の中で暴走する。
「心の客体化」では、この外化や共感を基盤として、「心」がおおもとの「人間」からまるで「もの」のように固定化して取り出され、評価の目にさらされるという心の動きがあります。

心つまり感情は本来、流動的に流れ変化するものであり、固定されたものではありません。
「心の客体化」により、自分の、もしくは他人の心が固定化され、流動性を失った「こんな人間」「あんな性格」という観念が生まれます。
これが「心を縛る」という動きの大元なのかもしれません。


人間関係で動揺する感情も、これを基盤にしているでしょう。
「お前はこんな心だ」という非難。「私はこんな心です」という依存。そこで「私の」「お前の」心の内容がどのように表現されようと、それは人間本来の感情の流動性を失った別物です。

心理障害が生まれる来歴の最初に起きていたのも、これだったと思います。
「お前はなんて悪い子なんだ!」という叱責の中で、親は子供の心をわしづかみにして子供自身から引き剥がし、子供も同じ心の動きの中で、自分の心を操縦しようとするようになるのでしょう。

ネットとかで人が傷つきやすいのも、このメカニズムによります。
どんなに無根拠の無意味な中傷とかであっても、自分自身の心を客体化した自己嫌悪感情があると、中傷の言葉を単に見て、その意味を考えるという行為そのものが、自分自身の心にメスを入れるという痛みになってしまいます。
ネット中傷が容易に人を傷つけるのはこのためですね。

心の成長を目指す歩みにおいては、この感性能力の放棄が必要になると思います。
それによって流動化した心が、成長を始めるわけです。

しかし考えてみると、こうした心理学そのものが実は心の客体化によって成り立っています。
それがあくまで既に閉ざされた心を開放するために「知る」手段であり、その役目を終えた時、人間に備わったこの能力は心の中の納屋に収め(う〜んいい言葉の響き^^;)、もう使わずに生きるのがいいでしょう。


■「最大の本能」

「真実への欲求が最大の本能」という表現を使ったのは、あまり理論的な話でなくイメージです。
最大であるからこそ、操縦心性が幻想の世界を真実だと思わせるために利用する。そこから生まれる心理障害を脱するこの歩みは、真実を知ろうとする本能に依存し、それによって可能になる。
パラドックスです。

心の客体化により傷ついた心に対処するために、心の客体化を利用した回復への技術を築く。
すべてパラドックスです。心理障害は基本的にパラドックスの上に発達し、パラドックの中で治癒します(*)。
*「自己受容せよ。そのためには自己受容しようとするな。」とか「障害を治そうとすることは治療ではない。」とか、あらゆるところに出てきます。

パラドックスの断片だけを見る目の中でそれは膨張し、全体を見る目の中で無に帰するわけです。

No.330 2004/11/05(Fri) 10:41

自己操縦心性のついたウソ-5:自己軽蔑と敵意のメカニズム例(続き)/ しまの

次はその翌日の話です。
このメカニズムが解ける部分です。けっこう強烈な「ひらめき感」が伴ってますね。

どのように解けるか。敵意へと転化した自己軽蔑を自分自身への軽蔑として「戻す」ことです。
その時、暴走したメカニズムから外された自己軽蔑が初めて、根本からの放棄という選択の俎上に乗ります。

ここでは自分の容貌に対する軽蔑とナルシズムという両極端を行き来したことで、自分の性格への自己軽蔑を外見で打ち消そうとしたナルシズム衝動という構造を洞察したことが変化を導いています。
(僕ちゃん傲慢なナルシズムも醜形恐怖も持ってました。障害感情のデパートです。ヨッテラッシャイ何でも揃ってますヨ!アッハッハ^^;)

 今朝はきのうとは打って変わって静かな感情の中にある。
 人に対して心を開くのを否定する自分を感じる。

 今日コンタクト・レンズを受け取った。
 つける練習をしている時の鏡に、精彩のない自分の顔が映る。検査の人に、"暗い性格"の、気のない返事をしている自分。
 そうしたことに自己軽蔑を感じているとは、それほど自覚しなかった。ただ、僕の隣には女子高生がいて、彼女から自分が軽蔑されているだろうということを、漠然とした形で感じただけだった。
 その後で、僕は寡黙で威厳ある自分、という気分になっていた。それは他人を見下そうとするものだった。


 女子高生から軽蔑されるという感覚が空想に過ぎないことを、彼は理解することはできない。
 なぜなら、彼を軽蔑しているのが彼自身に過ぎないとしても、軽蔑された怒りを他人に転化して生まれる敵意は、自動的に起きるからだ。そしてその敵意を抱いていることにおいて、彼は現実に「軽蔑されるべき存在」へと化すのである。
 このメカニズムは強力だ。彼が自らの意識によってこのメカニズムを解くことは、恐らく永遠にできない。
 彼にできるのは、大元の自己軽蔑を自らが自己を軽蔑していることへと「戻して」体験することである。そこに、彼がこれからも彼自身を軽蔑し続けるか、それともそれを放棄するかの選択が現れてくる。


 自分の部屋に帰ってレンズをつけてみる。
 目がうまく開けられないためか、容貌が何とも精彩のないものになる。自己軽蔑がそのまま強い形で自覚される。
 少しして、自分の容貌に精彩が戻ってくるのを感じた時、僕は、自分の求めていたものが何であったかをはっきりと自覚した。
 それは、ただそれだけで、自分が他者から特別の注目や期待を向けられ、その一方で、自分の様々な性格的な弱ささえも帳消しにしてしまうような、美貌であった。その人間が何か特別に喋ったり行動したりしなくても、その人がそこにいるだけで価値がある。そんな美貌として、自分があることを僕は欲していたのだった。


 僕は自分の性格の弱さを軽蔑していたのだ。自分の容貌に対する僕の自意識には、それを帳消しにするような美貌であることを求める感覚があった。
 見えなかったものが見えたという、閃きの感覚と同時に、身につまされるような落胆の中の不思議な安堵感が僕を包む。
 感情の生命力が少し復活してくる。


この後感情は再び別の局面に向かって行きます。
この後では明らかに、他人に向けられる軽蔑と敵意の度合いが一段階減少しているのが観察できます。

興味深いのは、この洞察体験そのものの中には、自分の容貌に対する自己評価についての意識的変化や、「自分を受け入れる」努力等は一切ないことです。
起きたのはただ、自分の性格への自己軽蔑を外見で塗り消そうとしていたという、今までは無意識だった意図性の自覚です。
ただ、この論理的間違いだけが、何の操作性も必要とせず放棄されたものです。

これによって自分の性格および容貌への自己軽蔑感も減少の方向に向かったのですから、面白い話です。

No.327 2004/11/04(Thu) 10:41

自己操縦心性のついたウソ-4:自己軽蔑と敵意のメカニズム例(続き) / しまの

では小説より。紺色文字は本文、緑色文字は日記引用部(インデントしたいんだけどこの掲示板では使えないのネ)。
なおこの小説ですが、主人公は島野自身ではなく大学時代の親友という設定です。
時折、心理解釈を挿入しており、その時は「彼」と呼んでいる。

 自分が誰にでも積極的に接していけると思えた高揚感は、結局半日と持たなかった。
 空想した自分とは違う自己が、僕自身の意識に捉えられる。すると僕の感情は複雑なからくりの中で、一気に別のものへと変化する。

 再び、下降の世界へ。


 アルバイトを申し込んだあと、図書館で上の日記を書き、それから読書室へ行った。
 それまでは、自分が誰に対しても、好意を持ち得ると感じ、僕の気分は浮ついた状態にあった。たとえば島野のガールフレンドに会ってもそうできると空想した。
 しかしその高揚感は読書室に行ってから崩され、落胆が生じることになった。

 読書室で僕は、ひとりで勉強をしていた。川村もいたが大して話もしなかった。
 あとは2年生が実験日であるために多人数がいた。彼らは互いにとても仲良く振る舞っていた。そうした態度を彼らは上辺だけで装っていたわけではなかったが、そこにはやはり何か"明るい性格"の基準というものが彼らの頭にはあるのだと感じた。彼ら自身がそれにうまく合せているのだと。あるいはこれも結局は外化なのかも知れない。


 この時の彼の感情の変化に、興味深い心理メカニズムが見られる。
 まず彼の中に起きたのは、誰にも話しかけることのない自分への自己軽蔑だ。だが彼はこれをあまり明瞭には体験しない。一瞬の内に次の感情への連鎖が起きるからだ。それは自己評価を防衛しようとする衝動である。
 彼は自分が自らを軽蔑するのではなく、回りが自分を軽蔑すると感じる。その方が、水が上から下へと流れるように抵抗が少ないからだ。それによってさらに彼の感情が窮地へと向かうにも関わらずだ。
 同時に彼は、自分が軽蔑されることへの怒りを抱いていることもあまり自覚しない。なぜならそれは彼の人間としての度量の狭さを示すからだ。彼が彼の自己評価を守るためには、軽蔑されたという怒りなど感じてはいけない。
 その代わりに、彼は他人の中に「ニセ」を探し出し、それを批判する感情を体験する。自分は不当に蔑まれる。自分は真実を知る人間であるという感覚が、むしろ彼の自己評価を支えるのだ。自分で自分に向けた軽蔑への反撃を他者に向けるという転化が、何の曇りもない意識の中で行われるためのトリックがここに完成する。
 しかしこの無意識のトリックが彼の意識を欺いたとしても、彼の無意識が無意識自身を欺くことはない。彼の無意識は、彼が独りよがりな構図の粗捜しを行っていることを知っている。そして彼の無意識は彼を軽蔑するのだ。
 循環のコマが、自らを軽蔑するという振り出しに戻る。

 かつて僕は、社会にひそむ欺瞞を批判することへの戦闘的な情熱を抱いていた。
 躁の時代が破綻した時、社会は問題ではなく、自分と他者との関係が問題となった。
 現実の中を歩もうとする僕にとって、自分と自己自身との関係が問題になろうとしていた。


 少しして僕は、特に感情を感じることなしに、彼らはひとりで勉強している僕を見て軽蔑を向けているだろうな、と考えている自分に気づいた。
 そうなのだ。確かに僕は自分が軽蔑されると感じているのだ。その点で、僕は彼らに対して疎外感と、そしてかすかな敵意を感じていたのだ。だがその時にはそのようには感じなかった。その時は、もっと漠然と、軽蔑されるという感覚にとらわれている自分への落胆のようなものを感じていた。

 そのあと森下くんと少し話をする。やはり人見知りする自分、というものを感じる。
 そのあとアルバイトの打ち合わせのため、襟懇館ホールへ。そこへ行く途中、僕は自分の容貌に対する自己軽蔑を感じていた。ホールの経営者の人と話をしている時にもそうだった。自分が無感情で人間味に欠ける人間に思えた。
 "感情の豊かさ"。それがひとつの重要な問題になっていた。


 自分は感情を欠いた、人間味のない男だ。
 その感覚が、重い空気となって僕を圧迫していた。


このメカニズムは強力です。
この時、僕はほぼこのメカニズムを脱するところに向かっていましたが、一度つかまった結果、やはり自己軽蔑感が体を圧迫するような感覚にまで一気に膨張しています。

(続く)

No.326 2004/11/04(Thu) 10:07

自己操縦心性のついたウソ-3:自己軽蔑と敵意のメカニズム例 / しまの

その2では、「真実を知る感覚」という代償によって自己軽蔑が敵意と憎悪に転化されるというメカニズムを説明しました。

小説の現在執筆中の部分が、ちょうどそのメカニズムが明瞭に現れている部分になってましたので、紹介しようと思います。
これは自己操縦心性の巨大な崩壊が過ぎたあとの、好循環に向かい始めた頃の話です。

それ以前にも同じメカニズムは働いていたのでしょうが、問題の構造が大きすぎて全体が意識の中には捉えられないのですね。その中のスポット断片だけが意識に見える。スポットが移動するごとに、あまりにも極端な感情が現れる。
大嵐の波にもまれる木の葉のような感じ。

それが、目に見える問題はあまり変わらないまま、見る自己の方がしっかりしてきます。
問題構造の中で揺れ動く自己があるのではなく、自己の中に問題構造があるという逆転になります。
問題構造の全体が視野の中に入ってきます。

操縦心性崩壊の前は、揺れ動く感情の劇的ドラマという感じ。
崩壊後は、障害感情が電子顕微鏡で見るように、その全体像が視野に捉えられ、分子構造と元素の分離結合による化学反応のように変化していく感情メカニズムが解明されていくという感じ。
面白いっすよ。

引用する部分は、主人公が、内面の力の湧き出しによって極端な高揚感で上昇するのと、現実の自分が視野に入って極端な自己卑下感情に下降するのを繰り返すような部分。
その中で、ここでは、高揚感が落胆とへ墜落するところで件名のメカニズムが働いているのが良く分ります。
さらにそのメカニズムが消滅に向かうところも見ることができます。

もちろん本人は、そのメカニズムを知っているわけでもなく、それを解こうともしていません。
僕がホーナイ精神分析一本で歩んでいた時の話です。
原動力はただひとつ、「自己の真実に向かう」という意志です。

No.325 2004/11/04(Thu) 09:44

抑うつ感とは / しまの

超ワンポイント。「抑うつ感」についてメール質問に答えたものです。
せっかくだから掲示板に載せようと。掲示板カキコはそのうち整理して、「コラム集」とかの形で出版して飯の種にしようと考えているでゴワス^^;

原因不明で「脳の病気」と考えられやすい感情のひとつですね。
---------------------------------------------------------------

抑うつ感はサイトでは以下に説明しています。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-025.html#sk

障害感情は、幼少期に蓄積された感情の膿を火種にしており、
身体感覚と感情が分化していない、身体的感情とも言えるのが特徴です。

その中で抑うつ感は、自己嫌悪の基本的な機能、自分自身の成長と望みを押さえつけるということが、まさにそのレベルで表現されているものと言えると思います。

全く原因は分からない形で体験されますので、脳に刷り込まれた、もう治らない感情であるかのように感じられると思います。
僕自身がそう感じたのを憶えています。

でもそうではなく、治癒によって完全に消えることのできるものです。

No.324 2004/11/03(Wed) 14:58

自己操縦心性のついたウソ-1 / しまの

ジャジャ〜ン!(^^;) 完成版島野理論最大の核、自己操縦心性が行う自己心理トリックの解説をこのシリーズでします。

これが未解明であったうちは、自己操縦心性は「恐るべき病んだ心性」でした。
ケーススタディでの経験などでもそうでしたが、援助に際しても、相手の心に巣食う自己操縦心性が恐かったのです。

http://tspsycho.k-server.org/case/ca02-06.html
より抜粋しますが
 正直に言います。私は心の病の病巣に棲む毒虫の正体も、それとの戦い方も知っています。が同時にその強大さも知っており、恐いのです。もしAさんが私にすがりたい気持ちのまま一緒にそれと戦うとき、私には全く勝ち目がありません。何よりもAさんが自分の足で立つ強大な決意が必要です。それによって何とか私の援助も役にたつかも知れません。それでもなお、もっと強力な心の支えが必要になる場面が出る可能性もあるのです。だから、その時にAさんを救うすべも、Aさん自身がよく考えておいて欲しいのです。良い薬で一時的に気を和らげることかもしれないし、お母さんとかかも知れません。
という感じ。

しかしそうではなかった。

この解明が完成に近づいたのは、上記ケーススタディにも比する濃い体験の中でしたが、その途上で僕は、「病巣の洞窟への入り口に立つ、頭脳優秀な最強の敵守衛兵」自己操縦心性を倒したという実感を、映像を見るように感じました。洞窟の本尊は感情の膿。こっちはより重量巨大だがトロイ。「もう恐くない!」。「勝てる!」と。

自己操縦心性そのものには特別な病んだ「別物要因」はありません。
(これを核にして発達する人格が別物になる。)

全てが自然な人間の心理を材料にした、巧妙なトリックだけを行っていたのです。

No.322 2004/11/02(Tue) 10:52

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-11(End) / しまの

「人に受け入れられる」という観点で人と交流しても、うまく行くことはまずありません。
それは自己評価を人に依存する、自己の重心の放棄です。心の安心感が失われ、幸福感が損なわれるので、怒りと憎悪に戻ります。

自分はどう人に接して行きたいのか、その願いと意志を確認し、選択をする必要があります。

生育期の明白ないじめとかから、この方向が見えない状況の人もいるでしょう。
この状況を念頭においての返答文が続きますが、考慮すべき前提を加えておきます。

それは、いじめが起きる子供達の世界と、いじめはない健全な大人達の社会とで、対処が全く変わることです。
要点を言っておきます。

以下の説明では、いじめはもうない健全な大人社会での考え方について書いています。
問題は、現実の大人社会にも、時としていじめの心を持つ人々が紛れ込んでいることです。
これを前にした場合の対処は全く別の話になります。それはかなりアドバンスド、つまり上級コース(^^;)の話になります。ここではそれは省略。
まずは自分が生きる環境として、健全な大人の人々の集団を選ぶことを考えることが大切になってきます。


いままで人を避けていたが、もっと積極的に接したい意欲を持つ。そうしてみる。
でも人々は、「一時的な気分変わり?」といぶかる目で見るのです。健全な大人の世界でです。
それをどう考えるか。


(続き)

■恨みを2倍捨て、人々の中で生きていくとは
恨みを2倍捨てるとは、「どうせ一時的」と見られた時、それでも積極的に働きかけること、ではありません。
まず最初に捨てる恨みとは、上に書いた、「人は自分を否定した」という世界観そのものを捨てることだと思います。
それはXさんを否定したのではありません。単に一緒にお喋りする興味のあることがなかっただけのことです。そして、口臭がひどかったのなら、それが嫌だったという、それだけです。

ここで、「存在」そのものを否定することと、あれやこれやの「属性」を否定することの違いをはっきり知る必要があります。


つまり、恨みを2倍捨てるとは、まず今までの、Xさんに対して世界が対応したことを、Xさんそのものの否定としてではなく、ただの事実として認めることです。少なくとも今の大人同士の世界では、受け入れる受け入れないではなく、趣味嗜好の合致不一致だけの問題です。

そして次に捨てる恨みとは、過去への怒りを捨てたこと自体は、別に評価されないという事実を認めることです。
自分の気持ちを変えたと言って、人は同じ人間として見てきます。他の人にはそんなことはないのに、自分がちょっとだけ変な発言をすると、やはり冷たい目をする、と感じることもあるでしょう。世界は連続しているので、それが自然なことなのです。

それに対して恨みを2倍捨てるということは、それが自分の生きていく現実として受け入れることです。
「それでも積極的に」と考えることは、むしろこの現実を受け入れずに、今までの世界観の中で自分を否定し続けようとすることに近いように感じられます。

「どうせ一時的」と見られたとして、そのことを怒らないことです。同時にそう見られた自分の悲しみも認めることです。
悲しみはいつか癒えます。
そして、行動学から言うなら、冷たい目を向けられたら何もしないで、それを悲しんでいる方がずっと自然であり好感があります。まあそれ目当てに演技せよとまでは言いませんが。

人はそうして相手の行動の自然さが続くごとに、信頼というものを感じるようになります。一方で、悲しみというのは癒えるものなので、再び人に接する意欲も回復するでしょう。人と人との信頼の回復というのは、そのように長い時間を通して可能になります。焦ってどうこうすることの中にはありません。

このシリーズはここでひとまず締めます。
このあといよいよ、完成版島野理論最大の核を解説する「自己操縦心性のついたウソ」シリースを掲載。
憎しみがなぜ消えないのかの説明もそこで出ます。
こうご期待!

No.321 2004/11/02(Tue) 09:29

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-10 / しまの

引き続きさっきと同じ方への返答より。
自己受容だけではない成長へのターニング・ポイントの具体的なテーマとして、「積極的に人と交流できるように」とかある。

より具体的な取り組みの視点について書いています。
いまいちまとまりない返答文だったので(^^;)、見出しを追加とか加筆訂正しときましょう。

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■「積極的に人と交流できる」という目標の考え方
「積極的に人とコミュニケーションできる自分」という理想イメージについては、3つのことを分けて考えておくのがいいと思います。

まず、自分自身の望むこととして、「積極的に交流している姿」という、自分を外から見たイメージがあるということ。
これが感情を混乱させる元になるものですが、意識して捨てられるものではありません。まずはこのイメージをはっきりと認識しておいて、このイメージをめぐってどんな感情が起きるのかを把握するのがいいでしょう。

次に、そうした姿になりたいという気持ちと別に、人とお喋りする内容そのものへの関心です。
実際に話したい内容がないのに、ただお喋りしている自分の姿になりたいという気持ちばかりが早っても、うまく行かないものです。
実際のところ自分がお喋りしたいという気持ち、そしてお喋りする内容があるのかどうかを把握することが大切になってきます。

3つめ。人と積極的にコミュニケーションできることは、客観的に言えば特に価値のあるなしはないということです。
そうできることを良いことだと考える人々とか、社会文化が一部にあるかもしれませんが、現代社会そのものはあまりそうではありません。
お喋りしたい人がすればいいし、仕事とかの必要があるなら、その話をすればいい。
人によっては、一人で静かに過ごしたい時間が多い人もいるでしょう。その人に向かって、お喋りすることは価値あることだと考えて、相手の興味もないことを話かけたら、うざったく思われるだけでしょう。


■話したい気持ちによって話す。「よく話す人」になって話すのではない。
ですから、人と積極的に接するかどうかに、まずキャラを変える必要はありません。キャラで話すのではありません。話したい内容についての関心から話します。
話したい内容があれば、そして相手もそれに関心を持つようなら、話せばいい。
これを現実的な考え方としてお勧めします。


■やはり起きる「話せない自分は駄目だ」という感情への対処
そうは言っても、「話すことに価値がある。そうできない自分は価値のない人間だ。無理して話しても嫌われるだけだ」という感情も起きてしまう。これにどう対処するのがいいのか。

まずは、この感情の「論理」をはっきり把握することが良いと思います。
それは、楽しくお喋りできることは価値あることであり、そうできる人間に価値がある。そうできない人間には価値がない。働きかけて、受け入れられることは、人から自分がそんな価値ある人間として認められることである。相手にされないとは、自分が価値のない人間だと宣告されることである。
という論理ですね。

上の現実的な考え方と全く違う論理であるのが感じられると思います。
それは「人に受け入れられることに価値があり、それによって自分の価値も確かめられる」という論理ですね。
人を基準にして生きる生き方です。
これの上で生きると、怒りと憎悪に満たされること請け合いです。なぜなら人を基準にして生きても、自分の願いが満たされるようには、現実はなっていないからです。

まず自分自身の願いをはっきり持って、それに向かって行くことが大切になってきます。

(続く)

No.320 2004/11/02(Tue) 09:24

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-9 / しまの

(続き)

■行動を阻むもの

自分で変わろうとする気をそぐものは何かと考えると、高校時代の部活の件などちょっと関係しているかも知れませんね。
自分は努力して出たのに、冷たい目をされたという感情かと。

この辺はちょっと憶測で何とも言えません。
「なぜか改善できない」と関係しているかどうか。

上の話と直接結びつくかどうかは分かりませんが、その記憶とかを自分でどう自分の心に納めているか、じっくり検討するのは良いことだと思います。

自分はどんな気持ちで部に出たのか。
それを何故村八分にされたのか。

これを考えることは、まだ辛くて難しいかもしれませんが、この中にこれからのXさんを変える鍵が、僕が今感じるものとしては最大の鍵があると思っています。
なぜなら、Xさんの他者イメージとそれへの感情の大きな枠がそこにあるからです。それは生活態度とか身なりの問題よりもずっと大きなテーマなんですね。


■憎しみは2倍捨てる必要がある

憎しみを捨てるという選択が心の健康と幸福への道であることは、多分繰り返すまでもないと思います。
問題はそれを難しくしているものが何かですね。

これは内面の問題も色々あると思います。
多分強いのは、「努力が否定された」という感情ではないかと思います。この感情の中で、人は「悪くなる」ことをむしろ選んでしまうのだと思います。
確かに、社会や人々の側の問題もあるでしょうし、「自己嫌悪の外化」によって現実以上の攻撃が向けられたと感じるという問題もあるでしょう。

どれもじっくり考えてみて欲しいことになりますが、あともう一つ、「行動学」というのが重要になるという話をしましょう。

如何に人の怨みを買わないような行動するか。一度不評を与えた人々に受け入れられるためにどのように行動するのがいいのか。

ひとことで言えば「恨みは2倍捨てる必要がある」と言えます。
まず恨みが起きるような状況で、既に人々との溝ができているでしょう。恨みに感じことも起きているでしょう。
その後の行動学です。

もし自分の方に非があるのであれば、あるいはどっちが悪いというのを越えて、恨みを捨て、人々に受け入れられたい。
恨みを捨て、受け入れられるよう努力する。実際にそのように行動できたとします。

でも人々は受け入れないのです。

なぜなら変わったのは自分の気持ちではあっても、人々は自分を同じ連続したものとして見るからです。
自分の気持ちはもう直したのに、と恨みを感じたところで、アウトです。人々は「やはり..」という目で見ます。

この状況への怒りを捨てて始めて、「恨みを捨てる」ことと言います。
憎しみを捨て、愛を選ぶためには、憎しみを2倍捨てる必要があります。


この選択を自分に問う必要が出てくると思います。


■行動学

自分の気持ちを直すだけでない、行動学の問題が出てくる。
これはハイブリッドで良く言っていることで、なぜかというと、自信の獲得とか心の安定とか健康は、気持ちの問題だけではなく、実際に人生でうまく行動できるという技術習得もかかわると考えているからです。

この点で、例の件で男とやりあった件をちょっと考えることができると思います。

実はXさんの行動は、今の僕から見ると、とても無謀で危なっかしいものだったと思えるのです^^;
これも「実は」ですが、ずっと前の僕は似たところがありました。「このくらいいのでは」と思いながら行ったことが、人に責められて悶々とするような。

無謀で危なっかしいとは、もし相手がラリったやくざだったら、殺されていたかも知れないのです。
今の僕は、常に万一でもあり得る危険は用心するのを旨として行動しています。
「善悪」という観念を捨てているからです。とにかく自分の利になることをするという人生観で、危険は冒さない、外面はうまく繕うということを旨としているわけです。


もしXさんのような状況で、男に言われたとしたら、内心で「何偉そうに言ってるんダロ」とか思いながらだとしても、最大限痛恨の誤りをしてしまったという反省の表情の演技に努めると思います。相手がどんな人間か知れないからです。
こうした行動学も、僕の「人生への安心感」の一つの元です。

これもやはり「選択」の問題です。


■人生観

何が正しいかという話ではなく、「正しければ〜だ」という考え方そのものを捨てるとか、恨みを2倍捨てるとか、結局はそれを選択するかどうかということが大きな問題になるところが大きいと思います。

結局人生は不公平です。
それを受け入れ、自分から動くことを決めて、恨みを2倍捨てれば、結構世界は変わるものです。

僕の話をすれば、そうして今では「恨みを向けた、悩むことのない人間」の側にいるような感じになってしまいましたが、実際そうなって見ると、溝はもともと大きなものではなかったのだ、と感じるようになっています。


ぜひ一度、自分の幸福だけを考えて、これらを考えてみて下さい。
「拒絶されても仕方がない」なんてことないです。こうして成長しようと格闘しているXさんの本質は輝いているんですヨ。
あとは自分自身で幸福に向うという選択と決心です。

自分を受け入れるというより、人生を賭けた選択ですね。

No.319 2004/11/02(Tue) 01:25

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-8 / しまの

メール返答より。
詳しい状況部分は省略しますが、相談者が自分について率直に感じた言葉、それに対する僕のコメントから載せましょう。

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>これらのことがたまらなく恥ずかしいと思うのに、なぜか改善できない怠け好きな自分。
>外を見ず、ひたすら自分に閉じこもってこの歳まで来てしまった。
>そうするだけの能力しかなかったのが、私という人間です。


いや、それはXさんにその能力がなかったということではなく、能力が「制止」されていたということだと思います。
またさらに、「実際のところその時の自分にそれ以外のことができたか?」、と問うと、それは無理ではなかったかと思います。多分それは自分を保つための精一杯のことであったと思います。そんな自分をいたわってあげて頂戴な。

「恥ずかしいと思うのになぜか改善できない」のは、改善する努力に向かおうとする時に、それを上回る自己否定感情が起きてしまうのを避けるためであるのが大抵です。
「お前はそんな努力などできる分際か」と言った類の自己嫌悪感情。

それで、片付けなければならない問題に向こうとした瞬間に、無気力が起きるというメカニズムがあります。

その自己否定感情があまりに強すぎたために、今まではこの事に、あまり真正面から触れることもできなかったと思います。
こうして自分の来歴を含めて自分に向き合えるようになったのは、その自己否定感情に対抗するだけの内面の強さをXさんが持ち始めているからのように感じます。

そこで今回は、自己受容と成長そして自己嫌悪の関係について説明しますので、じっくり考えてみて頂くと良いと思います。


■自己受容

まず「自己受容」は、自分自身として成長するためには、もちろん大切です。

それは「ありのままの自分」をまず受け入れた上で、ありのままの自分をベースにして成長するということです。
つまり、ありのままの自分に目をつぶったまま別の「こんな自分」をいくら思い描いてそうなろうとしても、それはストレスであるのみでなく、自分を成長させることでもない。

では「ありのままの自分」を受け入れるとはどうゆうことか。
これについて先日の原稿では、以下のように書いていましたね。

================================================
自分を容赦なく追い立てるのをやめることです。これにも2つあり、ひとつは「自己受容」。これが大切であることは各種の心理療法で良く言われることですが、「自己受容しよう」と思ってできるとは限らない限界も理解しておくと良いでしょう。もうひとつは、仕事や家事など日々の生活をストレスなくこなすための技術のようなものがあります。これは心の問題に悩む方が自分では注目していないところで実に共通する話で、結構重要だと思います。================================================

後者の「仕事や家事など日々の生活をストレスなくこなすための技術」は掲示板の10/03参照。

「自己受容しようと思ってできるとは限らない限界」について。
ひとことで言えば、受容しているだけでは成長できないということです。
全てを受容していたら、何も変わらない現状維持に安住するということになります。
成長するためには、受容していてはいけないものがある。それを自分で選ぶことが必要になります。


■受容する必要のないもの

これをもう少し具体的に言うと、「自分の目に映る自分」と「それを見る自分自身」に分かれるかと思います。
かなり微妙な話で、試みにこの表現で説明しましょう。

それで言うと、受容するのが大切であるのは「見る自分自身」であって、「自分の目に映る自分」を受容する必要はないと思います。外見なり、生き方なり、自分自身で気に食わないという気持ちを否定する必要はありません。
気に食わなければどうしたいという欲求に向かって全力を尽くすのが成長です。

これで言うと、自分の生活態度とか身なりが嫌だとかいう気持ちを前にして、「自分を受け入れる」ことは必ずしも答えにならないんですね。


■自己嫌悪の本質

一方、自己嫌悪とは、「自分の目に映る自分の姿」についてのものよりも、「見る自分自身」に向うもののことを言います。もしくはそれが有害な自己嫌悪です。
「お前には成長する資格などない」という感情ですね。
こんなのが起きてしまうんですね。

これはただ感じ取るだけで、それを鵜呑みにせず、理性で抗戦することが必要になってきます。
自己受容という「癒し」のイメージではなく、自分自身の影の部分との戦いという感じになってきます。
僕自身の経験としても、苦しい中での意志で何とか抗戦を続けたという感じですね。
自己受容よりもこっちの方が多かったですね。自己受容はある大きなものが片手で数える程度、あとはひたすら自分の幸福を目指した闘いという感じ。


■成長への選択

従って、自分の何かを変えたいという健全な自己嫌悪と、自分の成長する意欲を押さえつける有害な自己嫌悪を、見分けるのが大切です。

まずは、はっきり自分がどうしたいかを自分に問うことだと思います。
そして変わりたいと思うのであれば、変わるように行動することを決断することが必要です。
もし別に変わりたくない、こうした生活が好きだということであれば、そのままでいいということになりますが、まぁ「恥ずかしいと思うのに」ということですので、「自分はこれが好きなんだ。終わり。」はないでしょうね。。

でそれでもやはり、自分が変わるように行動しようとする時に不安とか自己嫌悪が起きるようなら、その原因をじっくり紐解く作業ができます。
「意欲がなきゃ駄目だ!行動できなきゃ駄目だ!」と自分を追い立てるのをやめることから。

自分を優しく育てるということで、疲れを感じたら休み、動けるときは思い切って決断する、という勘所を探っていく感じがいいですね。

努力するのを阻んでいるものについてもちょっと考えておきましょう。

(続く)

No.318 2004/11/02(Tue) 01:24

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-7 / しまの

このテーマでの総合的な返答文を書いたものがありますので掲載します。
必要に応じ補足を加えていきましょう。

「知りたくなかった本当の自分」に出会った時というのは、まさに、今までの心理障害を生み出す人生から、自分自身の人生を取り戻す歩みへのターニング・ポイントの時期といえます。
小手先の思考修正や慰めの癒しではこの方向変換を図ることは難しいです。大きな船の方向を180度変えるように、今まで説明した全ての事柄を動員して、人生をかけた方向変革としてことに当たるのが大切です。


今までの説明にはなかった、「憎しみを捨てる」という話も出てきます。
これもやはりこの時期に、「自己による幸福の追求」「過去から未来への選択」に絡んでしばしばテーマに上がるでしょう。
ここでは憎しみは「2倍捨てて初めて捨てたと言える」とかの、必要な事柄を説明します。

ここで先に補足しておくならば、「憎しみを捨てる」とは、憎しみの感情を自分の中で「正す」とか「消し去る」ことではありません。それは無理です。
ただそれに意識的荷担をせず、また行動化しないことです。それでいいのです。
より根本的な憎しみ感情の消去は、無意識領域にまで切り込む、より専門的な感情分析に委ねられるでしょう。

No.317 2004/11/02(Tue) 01:22

自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-6 / しまの 引用

先のカキコで自己操縦心性のトリックについて割り込みでシリーズ書き込みと触れましたが、やっぱ書けたものから順不同にどんどん掲載していきまっす。
話の順番ってとても大事なんですが、とにかく複雑な話なので、一番いい順番考えていると日が暮れるので。その整理は著書原稿に任せまっす。
今日は福山まで日帰り出張で明日午前半休とったのでこの時間のカキコですが、ねむっ。


その5では、自己嫌悪への対処として、しばしば健康な自己嫌悪と連合を組んでの、病んだ自己嫌悪に対する強い意志での抗戦が必要になるという話をしました。
その抗戦にたずさえるべき宝剣が、「破壊の思考」から「包含の思考」への選択です。


これについて、メール返答でいちおう平易な文を意識してかいたものがありますので掲載します。
「自ら望むことへの恐怖」にどのように対処したらいいかという話になります。
まずそれが「自己存在への嫌悪感情」であることを知る。
そして、「自ら望むことを許す」思考体系への変革が必要です、という話。

これで、「人生で望むことを探る」という、この段階の大枠につながります。
--------------------------------------------------------------------
「望んではいけない」という自己嫌悪感情は、まさに自己否定に基づく自己嫌悪感情ですね。

掲示板の方に、自己の「存在」そのものへの否定感情と、自己の「属性」についての否定感情の違いがあるという話をカキコしたと思います。
(10/18「自己受容ではなく:自己嫌悪vs成長-3」でした。)

この2つの違いを見分けるのが重要です。
「属性」とは、自分の目に映る自分のあれやこれやのことです。外見や能力とか行動とか。これについて自己嫌悪感情を持つことは、必ずしも病んだ心によるものではありません。健康な心でもあることです。そしてそれが人の成長への意欲につながっていきます。
「存在」とは、自分を見る自分自身の方です。これに対する否定感情とは、むしろ成長することを禁じるような感情です。「お前はそんなことできたガラか」と。

この2つの違いをまず感じ分けること。
そして、自己存在そのものへの否定感情は、「味わっておく」のではなく、「それを捨てる選択」が問われてきます。その「意志」を持つことが大切になってきます。

なぜなら、この2つの感情は、もともと人間の心に用意された2つの思考回路だからです。
曇りのない完全さを求め、そうでないものは破壊しようとする思考。
不完全なものを認めた上で、それを破壊することなく伸ばそうとする思考。

前者を使った時、人の心は闇に向かいます。後者を使った時、人の心は成長に向かいます。
心理障害とは、前者の使いすぎで、自己の存在への否定感情が心の底にまで蓄積された状態と言えます。
したがって、これは「自己受容の癒し」というより、かなり強い意志で抗戦するという感じが必要になります。
場合によっては、健康な自己嫌悪によって病んだ自己嫌悪に立ち向かうという局面も出るでしょう。

この「選択意志」のために、2つのことを理解して頂きたいと思います。
そうした自己嫌悪感情が起きる背景として、「生き方」や「世界観」の選択の問題があるといことです。


■2つの世界観

1)思いやり・譲り合いの世界

相手を思いやり、人のためにすることが善であるという考え方をする世界。
自分の欲求を通すことは自己中心として非難されます。
この世界観の中では、「正しければ世界が自分を幸福にしてくれる」という感覚になると思います。

この世界観はお勧めではありません。
なぜなら、現実社会はその通りではないからです。現代の自由社会は次の世界観の方が合っています。
その結果、この世界観の中で生きると、幸福になれない怒りの中で生活することになります。
また、「自己の重心」を欠いた思考法であるため、心を病むという結果になりやすいです。

2)自助努力の世界

「神は自らを助くる者を助ける」という言葉もこの精神を言っているものですね。
幸福になるためには、まず自分で努力することが必要です。願いがあるのであれば、それを人に思いやってもらい、自分は何もしなくてもそうしてもらうことを期待するのでなく、自分から行動します。
その結果相手がその通りにしてくれるかどうかには、保証はありません。相手とうまくコミュニケーションして、相手を動かすという能力が必要になってきます。
この世界にはあまり「善悪」という概念はありません。法律とか、約束つまり「契約」とかの概念です。


「望んではいけない」という感情は、前者の世界観の中で発達します。「悪い」とは人に良くされる資格がないということです。
自分が悪いと感じたとき、自分は何も望んではいけないと感じるでしょう。
その感情を捨てたいのであれば、世界観も変える必要があります。

自分で望むことがエゴイスティックなことに感じられてしまうのは、まだ弱いからです。弱いと、与えられることは自ら望めても、与えることは望めないからです。
それは「悪」ではありません。努力して与えられるものを勝ち取るか、与えることを望む強い人間に与えてもらえばいいだけの話です。
そうして成長していくと、やがて自分が強く、与えることに喜びを感じる側にもあることに気づくことになります。
まずは善悪観世界観を変え、望むことを自分に許すことからです。


■他者への視線

上のことを自分自身について考えると同時に、自分が人に対しても「あんな人間に望む資格はない」という思考や感情を向けていることがないか、確認が必要です。
あんな人間に、人から賞賛される資格なんてない。そんな感情を抱くことがあるのに気づくことがあると思います。
人の態度の中に、ちょっとしたニセの要素を感じると、結果の全てを否定したくなる感情が湧く。「そんなもの!」と頭から否定する感情です。

その感情が自分に向かうか、他人に向かうかは、あまり大差のある話ではありません。片方を持つ者は、必ずどこかで他方を持ちます。
「本物とニセ」は大抵混ざっています。それが現実です。そこから一面だけを取り出し、過大視したり、頭越しの否定を行ったり来たりするという思考の世界があります。これは「断片思考」であり、「決め付けの思考」です。
その世界にいるというだけのことでしかありません。

別の選択肢とは、「本物とニセ」が混ざった不完全品という現実を、ひとつの本質として認めることです。
そしてそこに何らかの価値があるのなら、それを認める思考です。これは「全体思考」であり、「包含の思考」です。


ざっと駆け足で書きましたが、まずはこの、「世界観の選択」と「人にも同じ感情を向けていないかを見直す」が要点になると思います。

No.316 2004/11/02(Tue) 01:21
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