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過去ログ
2004.12


小説ダイジェスト掲載開始! / しまの

スキー帰りの勢い(?)で、小説ダイジェストの冒頭ページを作って掲載をしました。
とても長い時間の中で、イメージの描出と凝縮をかさね、これ以外にはあり得ないと言える言葉と映像を作る。ということでそれなりに満足行く最初のページがようやくできたということで。

自分自身で、何度でもうるうるする情景なのだー。

ダイジェストの本文は、出版原稿の形で粛々と書いており、適当なタイミングで今後徐々に載せようと思います。

No.403 2004/12/26(Sun) 02:36

 
Re: 小説ダイジェスト掲載開始! / 澪瀬

初めまして。しまのさん。澪瀬といいますm(__)m
書き込みは初めてですが・・
以前こちらのHPに出会ったとき
書いてあること・・とても丁寧でわかり易く・・共感する部分というか・・
考え方感じ方が近いと思い・・お気に入りに登録させて頂いてますm(__)m

わたしは文章にするのが苦手で・・伝えたいことが上手く文章形式?にはできないけれど
その時々に感じた気持ちを独り言みたいにしか綴れないので・・
今回・・小説ダイジェストのプロローグ読ませて頂いて・・わたしもいつかは・・
自分の心の半生・・歩んできた心の旅・・こうしてカタチに残せることできると
いいなぁ・・なんて・・なんだか新たな光をみつけたみたいな気持ちになりました。
どうもありがとう。これから長い時間をかけて映像が紡ぎだされていくこと
とても楽しみに・・またちょこちょこ寄らせてくださいねm(__)m

No.406 2004/12/26(Sun) 19:04

 
Re: 小説ダイジェスト掲載開始! / しまの

カキコどうもありがとうございます!

「小説」は僕のメイン著作と位置付けています。
まず純粋に文芸作品として読んでもらえること。そして人間が未知へと根本的に変化していくという実例を示すことになれば、と。

これを掲載することにしたのは、「療法」と言うのはやめようと考えるようになったのと同期してるんですね。
とにかくこうゆう体験をした人間がいるという、良くも悪くも先駆者でいようという考えであり、逆に「こうすればいいですよ」とは言わずに、読者の判断に委ねるというニュアンスを大きくする所存。

それが他の方々の光となるならば、こんな嬉しいことはないんですけどね。。
内容掲載も近々着手しようと思いますので、今度ともよろしくお願い致します

No.407 2004/12/27(Mon) 15:05

お願いします / ワムウ

親の過干渉に悩まされて来たアダルトチルドレンの女性がいます。彼女は今自分で考えて自分で決めて自分の感情を素直に相手に伝える事がとても困難です。彼女は自分の感情が分からないと言います。今まで全て親の言う通りにしてきたので、無意識のうちに自分の感情を抑え付けてる、それで感情が意識のレベルにまで上がって来ない、それで自分の感情が分からないんだと思うのですが、彼女が自分の感情を取り戻すにはどうしたらいいのでしょうか?また彼女自身が読んで参考になる(学術的ではないもの)本はありませんか?宜しくお願いします。

No.404 2004/12/26(Sun) 04:19

 
Re: お願いします / しまの

こんにちは。

ハイブリッド心理学でお答えできることは、自分の感情を取り戻すことは可能であり、それはその人自身によってのみ可能になる、ということです。
ですから、まずこのことを本人が知って(まあ納得が完全には行かないとしても)、本人がそれを目指すという意志が必要になると思います。

「どうすれば」という質問については、「ハイブリッド心理学の全て」ということになります。
実践ガイドの頭から、じっくりと、人生の舵を大きく取り直す実践として取り組んでもらえれば。

どんな心の問題についても、まずは今までの「不幸を目指す生き方」の誤りを知り、方向を変えることを理解することからですね。

「自分の感情が分からない」状態についてのピンポイントの説明は、もうじき実践ガイドに追加する予定です。「感情分析」の一番頭に入れる予定。

学術的でなく参考になる本は、知らないでっすー^^;
僕はそうゆうのをぜひ書きたいと思っているのですけど。。あったら逆に教えて欲しい感じ。。^^;

No.405 2004/12/26(Sun) 14:17

人生における喪失への姿勢 / しまの

リカさんへのレスの続きです。
「生命」への僕の考え方をまとめるという意味もあり、例により結構長くなった。。

まあ、リカさんのカキコを読んでの、僕の最も率直な気持ちを言うならば、前を向いて、強く生きることを望んで欲しいなと思います。
僕自身がそうして生きていますので。

その僕の感情をそのままリカさんへの返答としても書こうと思います。
この辺、他のカウンセラーとは大分違うんだろうなー。自分が感じた感情を、そのまま相手に示す。それが僕のモットー。
で今リカさんに僕が示したい僕の感情とは、とにかく僕はこう生きているという話を伝えたいということです。それがこれからのリカさんの生き方を考える上で、参考として役に立つことがあれば嬉しいです。

それは「人生における喪失」への姿勢ということになると思います。
喪失とは、大きなものを失うということです。リカさんのように一度宿した命というのもそうでしょうし、肉親や愛する人の死といのもあるでしょう。あとは身体における喪失。事故で手足を失う、視力や聴力を失う、といった体験。

これに対する姿勢ですが、3つほどお伝えしたいと思います。

まずは人生観世界観です。
僕は、「こんなことがあってはならない」という思考をしません。入門編でも、「私にはもう悪という観念はないのです」という話をしています。
そう考えるのが「正しい」かどうか以前に、それは僕が自分自身の「病んだ心から健康な心への道」を歩むために行った、一つの大きな選択なのです。
それによって、僕は自分に対するのと同時に、他人に対しても、あらゆる怒りを捨てたのです。そして強く生きることを目指しました。

実際、「こんなことはあってはならない」と人は言いますが、それはあるのです。何でも起きるのが現実です。
そこで「こんなことはあってはならない」と考えることは、自分には何の対処法もない袋小路に自分を追い込むことです。何の利もありません。
何でも起きる。あとはそれへの自衛能力を育てるだけです。それが及ばずに喪失に出会った時は、ただそれを痛み悲しむだけです。そしてそこから学ぶことです。

2つめは、思考の変換です。今回は特に「罪悪感を捨てる」ということが関係すると思います。
この説明は以下を参照下さい。
http://tspsycho.k-server.org/base/base04-03.html

今お伝えしたいポイントとしては、ひとつは、罪悪感を捨てることは、実際のところ、思考法の変換というよりは、かなり強い意志でこの感情と闘うという、生き方の選択であることです。

次に、罪悪感を捨てるということは、罪悪感に頼って人を動かすという世界への別れという選択でもあるということです。
実際、世の多くのひとは、相手の罪悪感を頼りに、相手を動かそうとする思考法行動法をします。「お前のせいでこんなになってしまった」とはっきり言う人もいるでしょう。「私はこんな苦しんでます」と暗に相手の罪悪感を引き出そうとする人もいるでしょう。
それはまずは、その人の弱さの問題です。もっと強くなるために努力すればいい。

それを冷酷無情と考えるか、それとも、自ら強さを望む歩みとして、弱さを訴え相手を動かすという世界を棄てるか。
これは選択です。
僕は強さを目指し、罪悪感を捨てる選択をしましたが、それで正しかったと思っています。
なぜなら、真の愛は強さの先に見つかるからです。自分自身の安全と安心を土台にして、揺ぎなく、求めることなく与えることを喜べる愛が未知の感情として現れる。

また、罪悪感の誤りとして、「実際のところ自分がそうできなかった状況」を正しく把握していないということを指摘できます。
人は、自分はこうすべきだったと罪悪感を抱きます。しかし実際のところ、その人はその時、そうすることができたのでしょうか。そうすることができたはずなのに、「自分自身への悪意」で、そうしなかったのでしょうか。
罪悪感は、そうした全てをぼかしてしまいます。
実際のところ、そうできない不可避の原因があったのです。行うべきは、それを正しく知り、次にそれを回避するための具体的な方法を知ることです。

そうできた時、喪失は、学びの機会という、大きな価値に変わるのです。

人生における喪失への姿勢として、お伝えしたいことの3つめは、より深い心理学の問題があるということです。
「自分はこうあるべき」だという感情の塊が、心の土台に巣くっている状態。これへの取り組みがやはり課題になると思います。
これへの取り組みとは、生き方への取り組みの全てを指します。「実践ガイド」に書いていること全てです。

その中でも、最終的には、私たちは「建設的絶望体験」を経ることで、ようやくこのありのままの人生を見出すことができるところがある、ということになりそうな気がしています。
話が長くなりましたので、この話は含みとしてだけ頭の片隅に置いといてもらい、上に書いた基本的な人生への姿勢などまず考えて頂ければ。


最後に。
そうした「喪失への姿勢」の先には、「喪失は豊かさである」という生命観のようなものがあります。
罪悪感とかではなしに、喪失をありのままに痛み悲しむことの中に、私たちが学び、価値を感じ、再び前を向いて生きる原動力のようなものが与えられるような気がしています。

これはまさに僕の、「命の意味」についての考えの根幹のようなものなのですね。
なぜなら、命には限界があるからです。
どうせ死ぬことが分かっている。そんな命に何の意味もない、という思考法をする人も沢山います。

でもそうじゃないんですね。
これは、僕自身が、「自分というものが消える」愛の感情を知るようになって、初めて抱いた考えです。
命が何のためにあるのか。それは「命を継ぐためにある」のだと思っています。

ひとつの命には限界がある。でもその中で新しい命を作り、別の命の喪失に出会い、その価値を知り、そして自分の命は尽きる。その中で命が継がれていくことに、価値を見出すということが、命のDNAの根幹にあると思っています。
継ぐ命とは、自分の子供とは限りません。僕自身、今のこの執筆活動こそがライフワークであり、命を継ぐという本能からの行為だと感じています。
だから、どんな命にも、その喪失にも、意味があるんです。


まあ、こんな話を耳に入れてもらいつつ、今は、生まれることのできなかった赤ちゃんのために、悲しみましょう。

No.402 2004/12/23(Thu) 23:33

(No Subject) / リカ

流産してしまいました。もっと早く異変に気付いていたらとか後悔ばかりして涙がとまりません。こんな時はどうしたら良いのでしょう。

No.396 2004/12/21(Tue) 15:14

 
Re: (No Subject) / しまの

こんばんはー。

きのう会社のスキー部の忘年会帰り、夜更けの時間にレスしようとして書き始めたのですが、結局書ききれず、改めて夜更けの時間にキーボードに向っているところです。
きのうは半分日記のようなこんなこと書いてた。

会社のスキー部の忘年会帰り、こんな夜更けの時間にレスです。
どーでもいい話ですが(と言いつつ結構つながっている話かも)、先代のキャプテンが急きょ会社を辞め転職することになり、実質その歓送会になった。
宴会の終わりの方で、皆が一言ずつ送る言葉ということに。

歳の若い順ということで、僕は最後の方で、今日は何となくお喋りが楽しめなかった気分のせいかちょっと緊張しながら、何いおうかと考えてました。
で、現キャプテンの番になると、「こんな場で涙が出るなんて..」と言ってあとは言葉が続かず。
いつも飄々とした彼の風情とは異なる一面を見ましたが、それを見た皆の目は実に暖かいものでした。宴会幹事の女の子はもらい泣きしてた。


さて以下は昨日書いた部分も改めて整理します。

僕からのアドバイス、つまりそれは、リカさんの前に今ある「選択」とは何かの、僕の人間観をお伝えするということですが、

まず、失われた命への悲しみは、一切否定することはないと思います。思い切り泣けばいい。
そして選択の問題とは、残りの時間をどう過ごすかです。

人は失ったものを悲しむようにできています。
それが心の損失を修復する感情だからです。悲しみを無理に別のものに変えようとすることで、人は自分自身を見失います。
悲しみに身を任せることです。

「残りの時間」とは、「失ってはいない」もののための時間です。
これに対する人の態度に、違いが出てきます。

ある人は、失ったものへの悲しみにいつまでもとどまり、失っていないものを見ることを、自ら禁じるような態度を取ります。
ある人は、悲しみの後に、笑顔になります。
何故か。失ったものが、失っていないものの価値を教えてくれるからです。

そうして、損失は私たちの心を豊かに、より強くします。
ただし、これこそが「選択」になります。損失を豊かさに、そして強さに変えていくという生き方を選ぶという選択です。


これとは別の生き方を選ぶ人もいます。
こうであるべきである。損失があってはいけない。そんなものは許せない。
その、自他への怒りの感情の中で生涯を閉じる人々です。

以前、あるTV番組で、とても感情豊かな生活を送っている未開部族の生活を見たことがあります。
ビートたけしがナビ役の、「色彩」をテーマにしたドキュメンタリー番組だったかな。。その部族の人たちは、実に微妙な色彩の違いを見分ける能力を持っていて、皆がマイ・カラーを持っている。
部族全体で、屋根の続いた仕切りのない住居の中で生活をします。皆が家族。彼らの生活は、まさに愛と楽しみの中で生きるという感じです。

彼らは、我々文明人のことも知っています。結構接触がある。
それで、この表情の乏しい(?)文明人を呼ぶ言葉を、自分達を呼ぶ言葉とは別に用意している。何という言葉かは忘れましたが、自分達は「ヒト」として、「ヒトに満たない者」という意味の言葉だったか。
彼らからは、文明人は何かを欠いているように見えるようです。

で、番組はある印象的な事件を報じます。
幼い子が、吸血こうもりに就寝中に頭をかまれて、ちょっと大きな傷を作ってしまう。取材中の文明人である番組スタッフが、何とか手持ちの薬をつけ、回復を期待して別れます。
半年ほど後にだったか、再びそこを訪れると、その子の姿がどうしても見つからない。取材陣は、頭の傷が悪化して亡くなったのだということを察知します。しかし、部族の人は、その子のことには決して触れようとしません。亡くなった者の話をしてはいけない、という暗黙のルールがあるようでした。

そんな中、部族の中での特別のお祭りの日がやってきます。
皆が集まって、何をするかと思いきや、皆が号泣しはじめます。
その特別な日だけ、亡くなった者を思って、思いっきり泣くことが許される。
今回は、皆が、頭の傷で亡くなった幼い子のことを思ったようでした。
特別な日だけ、失ったものを悲しむ。残りの日々は、失われていないものを、愛し、楽しむ。

彼らの生き方に、何をどう学べきかという話はないのですが、はっきり言えるのは、
失ったものへの心の姿勢をどうするか。これはかなり意識的な、人生への選択であるように思えます。

1)失ったものを大いに痛み、前を向く。
2)失ったものを大いに痛み、前を向くことをやめる。
3)失ったものは無視して、とにかく前を向く。
4)失ったものは無視して、とにかく前を向くことをやめる。これは意味ないか^^;

お勧めはもちろん1)。
とりあえずお酒の影響もあり(^^;)意識がなくなりそうなので、ここでカキコ。

No.397 2004/12/23(Thu) 02:28

スキーシーズン突入 / しまの

島野は今日夜から今シーズン最初のスキーに出かけ、シーズン突入となります\(^_^)/
週末はレス等返せないことが多くなると思いますが、ご了承あれ。
それにしても強烈な暖冬になりそうな今シーズンの予感がちらほら..

それにしても今朝電車で隣に座り合わせた2人の男の会話は、同じ職場のメンタルな人の話題で、これがまた良く観察している様子。
2人とも、まあ面倒見のよいタイプの感じで、フォローしようとしたんだけど..という感じで会話している。

リーダータイプの男:誰々が精神科やカウンセリングにかかったけど結局良くならず、職場を離脱。
きっかけはそれこれだった。それが始まるときのパターンは、完全に無視してくるか、完全にかしこまるかのどっちかだ。でもうひとつ。最後に阿鼻叫喚だ。
もうひとりの人の良い小僧(?)タイプ:僕だけ苦しんでます〜ってやつですよね。。

ホント、数年前までとは雲泥の違いを思わせる、精神疾患の心理の細かいところまでが一般の人々の常識的知識の範囲に入りつつあるのを感じました。

それから完全に克服する道のりがあるという知識も、いつか一般常識化して欲しいものですね。

No.395 2004/12/17(Fri) 09:32

自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3 / しまの

サイトの感情メカ論では、操縦心性を、危険回避システムの暴走という感じで描写しています。
身体の免疫システムと似て、暴走によって、自分自身を破壊する方向に転じてしまったものだ、と。

この理解は、一面では正しいのですが、一面で誤りがあります。
正しい面とは、人間の生きる能力にとって明確に本来意味のあった機能が暴走して、逆に自らに危害を加えるという面。
正しくない面とは、それを免疫システムに例えたことです。免疫システムは最初から、破壊攻撃を身の上としていました。
操縦心性はそうではありません。
はるかに建設的で、創造的であり、人間の脳の進化が生み出したまさに結晶とも言うべきメカニズムが操縦心性の起源だったのです。

ここに至ったことは、大きな感動でした。
その時僕は初めて、自分自身の心理学l理論によって、涙を流しました。

さっきのメール文に続けて。
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■自己操縦心性は安らかにその役割を終える

無限への期待をイメージに閉じ込める。
なぜ人はこんなものを持つようになったのか。

それを考えた時、思い浮かんだのは「“It”と呼ばれた子」のデイブ・ペルザーです。
カルフォルニア洲史上最悪と呼ばれる児童虐待の中で、最後まで彼の希望を失わせずにいたもの、それは彼の空想力でした。彼は自分がスーパーマンになる空想によって、ぎりぎりのところであの地獄の中で人間への希望を保った。これは現実じゃない、空想の世界の方がむしろ本当なんだという思考が、彼を救ったわけです。

「現実からの逃避」。最初僕はこの言葉を思い浮かべましたが、それは間違いでした。
それは前進だったのです。

そして自己操縦心性は何故こうすることで、地獄の中に生きる自分自身の心を救おうとするのか。
それは「傷ついたものへの愛」ではないかと思えたのです。
こう考えるに至り、僕は目に涙が浮かびました。

最後までそれはパラドックスです。
傷ついた者への愛を否定させる自己操縦心性そのものが、実は傷ついた自己への愛だった。

それが心理障害として人の心の中で生き続けるのか、それとも成長への過程としてその役割を終えるのか、それは、この心性に対するその人間の姿勢によって決まる。
パラドックスの全体を直視したとき、それは悲しみの中に消えるわけです。
自己操縦心性は病理の心性などではない。その本質は傷ついた自己への愛から始まったものである。
それを捉え、否定するのではなく、それに感謝した時、それは静かに、心安らかにその役目を終えるように思えます。

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僕の心理障害感情メカ理論は、ここで完結します。
もちろん、操縦心性はその起源としての「傷ついた自己への愛」そのものではなく、それが人間の思考ミスを背景として暴走し、別の人格体と化したものです。
そしてこれが現実覚醒レベルの低下という特徴を合わせもつことで、極めて厄介なものになる。それへのアプローチは特別なものが必要です。

いずれにせよ、ここに至り、僕は自分の理論が初めて、明かにホーナイのものから先に進んだという実感を得ました。
とにかく、進むべきものは治癒メカニズム論です。
そこでもホーナイは全てにおいて先鞭をつけています。いくつかの面ではその先にまでいけるかも知れませんね。

感情パズルの組み合わせの話を飛ばしていますが、次は治癒メカ論へと進みましょう。

No.394 2004/12/15(Wed) 11:41

自己操縦心性のついたウソ-16:操縦心性起源の大どんでん返し1 / しまの

すでに指摘してますが、自己操縦心性の機能の本質は、空想と現実の重みの逆転です。
これが、現実の自己への三下り半を下し、それをもはや見直すこともない確定事項であるかのように、空想された自己像こそを主(あるじ)とする、健常の彼岸の世界へと旅立つフライトとして発動する。

それによって、この心性は、この人間が最も必要としたはずの、傷ついた者への愛を、自らが破壊するように仕向ける。
現実の愛の中に不可避的に現れる不完全さを捉え、その愛はウソだ!とささやく。
そしてニセの愛の下で苦しみつづけたこの人間の憎悪を、この人間が最も必要としたかも知れない相手に向けさせる。

僕の考察がここまで進んだ時、疑問が生まれていました。
いったいなぜこんな心性が生まれたのか。
空想の自己像を主(あるじ)としたところで、その結末はほぼ避けることのできない、悲惨な自滅なのです。


■操縦心性の破壊的側面は別の源で用意されている

この答えを理解するために、幾つか順を踏んで理解しておくのがいいことがあると思います。

まずひとつは、操縦心性の機能はかなり限定されたものであり、それによって司られる情動のほとんどは、操縦心性そのものではなく、他に源があるということです。

こうでなきゃ駄目と決め付け、現実の自己を嫌悪する怒りの感情は、幼少期の自己処罰感情を蓄積した感情の膿が、直接的な源でしょう。
傲慢なナルシズム感情は、愛情要求とプライド衝動の合体品です。
愛情要求は幼少期に根があり、プライド衝動は思春期要請に発動した自信への要求によります。
優越への欲求そのものは、障害感情ではなく、ごく自然な本能です。
それが、感情の膿を背景として、残酷な他者像や自己の破滅の恐怖に対抗するための強迫的な衝動という性質になった時、何かを追い求めるという表ではなく、その裏に控える悪感情という観点で、障害感情として観察されます。

苦しみを理由に、これらの要求は権利主張へと化します。しかしこの感情の論理は、操縦心性以前に、人間の思考が用意しています。
人のためは善。善い人間は愛される。悪を怒るという世界観。この自己の重心を放棄した人間の思考の世界で、この人間が使うことのできる最終思考は、「自分だけが苦しんでいる」というものです。
障害感情の自己嫌悪の本質でもある「望みの停止」も、やはり操縦心性が用意したものではなく、人間の思考として先に用意されたものです。諦めが肝心。自分の身のほどをわきまえよ。分相応。おまえごとき分際で。図々しい。そんな悪い子に望む資格なんてありません!
全て人間の思考が用意していたものです。

操縦心性は、これらを忠実に組合わせたものに過ぎません。

この話は、あとで治癒論の方でさらに触れましょう。

こう考えると、操縦心性そのもののマイナス面というものが、あまり見えなくなってきます。
あくまで空想と現実の逆転だけ。

次に、操縦心性が追い求めようとしたプラス要素の特徴を考察します。
空想の中に思い描いたものの、全能万能の価値です。
それもやはり操縦心性そのものが用意したものではなく、人間の願望と思考、そして空想の想像力が生み出したものです。

No.392 2004/12/15(Wed) 10:39

サイト開設以来の方向変換リニューアル予定 / しまの

タバ子さんへのレスでちょっと触れましたが、現在大幅リニューアルを準備中です。

サイト名は「しまのたかしハイブリッド心理相談室」へ。
「療法」という呼び方はやめます。「ハイブリッド人生心理学」とし、「自己治癒」という言葉を使います。

「療法」というからには、それを施す人間と、それを受ける人間がいる。
「こうすればこうなるんです」と言い、2者の間で行われることへの合意を行い、療法の実践をする。合意にもとづいた、なんらかの拘束(役割)関係が発生します。
ハイブリッドでは、そうゆうの一切ないんですね。少なくとも今の僕はそのようなことをする気はないんですね。
完全に本人の意志と努力と人生にお任せしたいと思っています。その上でのアドバイスをせっせとする所存。

この心理学をもとに指導実践というものを誰かが考えて、それを療法と呼ぶことはまああり得るでしょう。当面それは視野にはない。

それに伴い、心理学の内容をより一般人向けに、言葉そのものから変える予定です。
真の自己と操縦心性は「無垢の自己」「とらわれの自己」。ホーナイにはなかった「自己の魂」というのを入れる。

また、ヤフーのメンタルヘルスにおける「自己啓発」カテゴリーでの登録を念頭にしたサイトデザインにします。
今までの、理論発表の場で、それなりに理論思考をする方を対象にしていたのを、ごく世間一般の人達を対象にした活動にしていこうと思っています。
トップページの方は準備出来次第変更し、内容がこの方向で大体充実した状態に、来年夏頃にはもっていきたい。

メール相談の有料化を除々に検討していこうと思っています。
あり得ると思われるのは、ヤフーに運良く登録されたタイミングですね。
当面引き続き無料メール相談はお気軽にお寄せくださいマセ。

No.391 2004/12/15(Wed) 09:37

「愛と心の成長の心理学」Upしました / しまの

サイトの方を参照下さい。

No.390 2004/12/14(Tue) 16:31

はじめまして / タバ子

最近になりこちらのサイトを訪れさせていただくようになりました。
私は2歳の子を持つ母ですが、子どもが寝た隙にプリントアウトさせて
いただいたり、サイトを読ませていただいたりしてます。
島野ハイブリッド療法・・・奥が深い!!
そして大変興味深く、とても参考になります。
このようなサイトを作ってくださった島野さんに脱帽です。
出版される予定がおありとのことで、執筆活動はご苦労があるかと
思いますが、ご無理なさらないよう・・。
島野さんの「飯の種」に協力させていただきます
(ていうか是非買わせてください、楽しみにしています)

それにしても、自分の感情と向き合うのはたーーいへーーんキツイ〜!!
(すぐ逃げ込みたくなる・・見ないフリ体制発動!というか・・)

No.387 2004/12/13(Mon) 22:47

 
Re: はじめまして / しまの

こんにちはー。
カキコどうもありがとうございます。

確かにキツイですよね〜。
ハイブリッドでは、自分に向き合う辛い作業によって、逆にどんな良いことが得られるのかを、常に一緒に説明するようにしたいと思っています。でなきゃね^^。

執筆は楽しいの一言です。
問題は会社の仕事との折り合い^^; 早いとこ独立を画策中。

それもちょっと関係し、「ハイブリッド心理療法」はそのうち「ハイブリッド人生心理学」に改名の予定。
「療法」じゃないんですよねー。詳しくはそのうちアナウンスしまっす。

今後ともよろしくー。

No.389 2004/12/14(Tue) 16:29

ありがとうございます / はるか

ゆったりとした気持ちで結果を焦らず接していこうと思っても、ついつい結果を早く求めてしまい、それを口に出してしまいます。
彼を変えたいと言うよりは、自分を変えたいということなんだと気付きました。
それでも、漠然としていて不安な気持ちになります。

No.385 2004/12/12(Sun) 13:33

 
Re: ありがとうございます / しまの

愛と心の成長についての心理学を理解しておくことが大切ですね。
ちょっとまとめて、カキコしておきましょう。うまく行けば今日、でなければ2、3日のうちに。

サイトの方は理論こてこてで(^^;)、こうした人生の心理学はこれからようやく書き始める感じになってきた。

No.386 2004/12/12(Sun) 15:20

 
Re: ありがとうございます / はるか

楽しみにしています。宜しく御願いします。

No.388 2004/12/14(Tue) 00:27

分析結果をふまえて彼にどのように接したらいいか / はるか

はじめまして。32歳の女性です。彼(38歳 医療関係)が性格分析を受け、その結果が知らされました。この結果を見て、本人はその通りだといいますが、治す気はないし、自分の家族は全員同じ性格だと開き直っています。私は彼に楽に生きて欲しいし彼と幸せになりたいのですが・・・。どう接していったら良いのでしょうか
以下分析結果です。★彼女と同じ病状になり逃げる・・・ものの見事に同じような病状になる。彼女が一番精神的に追い詰められた時には、自分の方が重いような精神病状態になりそれを彼女のせいにして逃げ自分のバランスを保つ。(おそらく以前も同じ事をしいるはず)★結婚出来ない男症候群・・・・結婚が出来ない状態では結婚したいと言う。もしくは実際に結婚願望が生まれるが、いざ結婚話が現実になろうとすると、結婚のタイミングが合わない等という理由をつけ逃げる例えば、自分より収入の良い男の方が彼女が幸せになるんじゃないか。等。)→全てに於いて、自分を悪者にしない。相手のせいにする又は自分のしていることを正当化する理由を探すただし、言い訳や逃げる道を与えているのは彼女である。彼女の周りの彼より年収のある男。彼より包容力のある男。の存在が余計問題行動を取り易くしている。★自分にとって都合の良い状況においては、「喧嘩の強い男らしい男である」と話をし、都合の悪い状況においては「自分は弱い人間だ」という。★どうしても逃げられない時は、開き直る・・・・「俺はこういう奴だ」「どうせ・・・」が口癖★似ているタイプを探し安心して自分を正当化する★仕事面に於いては、対人関係の障害や想像力の欠如などが見られる。相手の表情や場の雰囲気を読めなかったり、冗談や慣用表現の理解、文面に於ける情緒的な理解ができなかったりする。
自分を正当化し、人に押し付ける癖や、人との距離がうまくとれないところがある。ただし、会社員としての表面的人望はあつい。独立出来る性格ではないが、もし万が一独立したら今までの表面的人望の意味を理解せざるを得ない状況となり、またどこかに逃げ口を探す。(Dr
や業者を悪者にし、自分を被害者にすること等)★コミットメント恐怖症・・・女性や物事(仕事)に深く永続的に関わることを恐れるあまり、人にひどい仕打ちをしたり、逃げ出したりする。又、それよって生じた事を追想錯覚(過去の実際の体験を変形し、塗り替えた形で追想する。その人にとって都合のよい、願望の方向に修正されることが多い。)で正当化しバランスを保つ。★したくない症候群・・父親不在と母子密着の家族形態により心の歪みが生じ、父親が不在だと男になることを学べない為、より肥大化した自己イメージと現実との
葛藤に苦しむ

No.378 2004/12/11(Sat) 22:32

 
Re: 分析結果をふまえて彼にどのように接したらいいか / しまの

詳しいケース相談ですね。
じっくり拝見して、またレスしまっす。
このあと連載ものをどどっとカキコしてからネ。

No.379 2004/12/11(Sat) 23:58

 
Re: 分析結果をふまえて彼にどのように接したらいいか / しまの

こんにちは。改めましてレス。

詳しい状況説明..かと思いきや、性格テストの診断結果なのね^^;

ハイブリッド心理学的には、大きく2つのアドバイスができるかと。

まず、その性格テストそのものはもう捨てちゃっていいと思いますネ。
はるかさんがおつき合いするのは、生身の彼であって、性格テストとおつき合いするのではないでしょうから。
人間は変化する流れの中にある存在です。「性格」を「診断」するといった目を持つと、もう生身の人間を見ているのでなく、べつのものを見ているという感じになってしまいます。

2つめに、彼にどう接するのがいいかの前に、「自分自身に向き合う」ということを一つやって見ればいいと思います。

「どう接していったら良いのでしょうか」と聞きたいお気持ちがあることについて、大きな選択肢があるということをお伝えしましょう。
ひとつは「どうすればいいか」を、人に聞くなりして、答えを出すという選択肢。
もうひとつは、自分自身の心の声に耳を済ませ、自分自身から答えを作り出していくという選択肢。
前者は、今の状況ですぐ答えを出すという選択肢。後者は自分の心の成長のために、この状況にどう向き合うのがいいかという、視点を変えた考え方をしていくことになります。

まずこんな話を聞いてどう感じるか、考えてみて頂ければ。

No.384 2004/12/12(Sun) 12:20

自己操縦心性のついたウソ-15:ウソへの怒りを捨てるという選択 / しまの

ニセの愛の下で虐げられ、ニセに苦しみ、ニセを憎む。
やがて成長して、自らがニセの自己を生きる。そして自己への怒りを、自己の命を継ぐものへと外化する。
この輪廻の世界があります。

その世界の中で、如何なる思考を働かせたところで、その世界から抜け出る出口はありません。
当然です。なぜなら、その世界があり、その世界の中で動くようにしか用意されていない思考なのですから。

人間の脳に用意されている全く別の思考回路のスイッチを入れる必要があるのです。
それは「選択」です。自由です。
その選択に応じた世界がある。それだけのことです。

その13で掲載したメール文の後に続けて書いたことです。
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■最後の選択

これはもう、人間の存在根本にかかわる話になってきます。
なぜなら人間は人間を愛するからです。そして愛した相手を破壊する。この繰り返しが人間の歴史を作っています。

で、この愛と破壊の永久回転をどうするか。そこに人間の選択がかかわってきます。
ここで、僕が入門編で書いた善悪思考がからんできます。

つまり、「完全」を求めた時、かならずこの永久回転が続くんですね。
人間が本質的に不完全な存在だからです。
どこかに必ず、誤りや不純なものがある。


そうである限り、この自己操縦心性のメカニズムは、最後まで「正しい」のです。
完全を求める論理の中で、自己の内部の欺瞞を外化する。そして攻撃破壊する。
現実の人間は必ずどこかに不完全を持ち、もしその不完全だけを取り上げ、この論理に乗せれば、この攻撃は「正しい」ものとして自己完結することになります。

最後の選択はやはり、人間が不完全であることを許すかどうかということに行き着きます。
人間を、ひとつの側面を取り上げて善悪判断した結果の総合と見るのではなく、様々な側面を持つ不完全な、ひとつの本質的存在として見ることです。

中庸の目で人間を見ることですね。
http://tspsycho.k-server.org/base/base05-02.html

感情を善悪の目で見ない、という僕の心理学の基本に、これでつながりです。
これは、自己操縦心性への対処において、新しい治癒理論を僕にくれました。これはサイトの心理学を更新するというより、著書の方でまとめようと思っています。変更範囲がちょっと見積もれないので。

簡潔にいうと、自己操縦心性は悪の心性などではないということです。パラドックスです。
それを受け入れた時、この永久回転のエネルギーが減少します。
こんな心性は駄目だと怒りを向けた時、この永久回転を生み出しているエネルギーの大元に、再びエネルギーが供給されることになります。

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操縦心性は悪の心性ではない。
サイトの感情メカ説明では、まだ、操縦心性が勝手に思い上がり、容赦ない敵意と嫌悪を自己と他者に向けるよう暴走する心性であるかのような印象を与えると思います。

しかし、何のことはない。操縦心性の「暴挙」は、それが発動する以前に、この人間が教え込まれた思考を、忠実に体現したものでしかない。
この詳しい説明はこのシリーズのしめくくりでしましょう。サマリーとしては以下2点。
1)悪を怒ることが正しいという思考。白黒をつけることの完璧さを求めたとき、あらゆることへの怒りが正しくなる。
2)悪い人間は望んではいけないという思考「望みの停止」です。望みの停止により、人の心は成長を止め、代わりに絶望感と人生への嫉妬という、悪循環への強力な歯車が回りだす。

これは、操縦心性がそもそも何のために生み出されたのか、という疑問につながると思います。そのあまりにも悲劇的な結末を意図したものが生み出された理由は?

その答えこそ、心理障害の発生における最大のパラドックスと言えるものでしょう。
そしてそれを知り、受け入れることが、障害感情の膨張と、鎮静とを分ける分水嶺になる
操縦心性の第3の、そして最大のパラドックス。それは操縦心性の起源そのものだったのです。


自己操縦心性を理解して、最後に現れた大どんでん返し。
それを次回に。

No.383 2004/12/12(Sun) 01:51

自己操縦心性のついたウソ-14:永久回転サマリー / しまの

操縦心性のついたウソその13で掲載したメール文の後に、さらに僕は、この人間心理の宿命とも言うべきものに、我々がどう向き合うべきかの考えを伝えました。
それを次に紹介しますが、その前にもうひとつ他のメール文を。今までの話を手短にサマリーしたものです。
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至上の愛とは、「子供への愛」だね。
その感情においては「自分」が完全になくなる。他の愛では「自分」が残り続ける。
自分が宇宙になって子供を包む。
子供が宇宙の中心になる。
子供から見たとき、これは「宇宙の愛」。

そして重大なことに、人間の心の発達課題として、子供はこの「宇宙の愛」を求めているんだね。
それが満たされた時、心の土台に、もう意識する必要のない万能感を持って、人生を生き始める。
なぜなら、自分は宇宙の中心として生まれたのだから。

人間がこの「子供への愛」を見失った時、全ての歯車が狂い始めた。
子供は宇宙で見放されたと感じ、自分を宇宙の中心にしてくれるものへの衝動を意識への火種として持つようになる。これが残存愛情要求

ところが大人になった現実にあるのは、「宇宙の愛」を除いた、有限の愛でしかない。
有限の愛を求めることにおいては自然だが、それでは残存愛情要求は満たされない。

そこで自己操縦心性は、決定的なトリックを行う。
この人間は満たされぬ残存愛情要求を抱えている。そして真実に飢えている。
だから、有限の愛への欲求に「宇宙の愛」への要求を仕込んで送り出す。そして決定的な嘘をつく。「宇宙の愛」への要求に応えないような愛は真実ではない、偽者だと。
そこに、この人間が苦しみ続けた「ニセの世界」への憎悪を向けさせる。


この者に最も必要な愛とは、何よりも「傷ついた者への愛」なんだね。それは他人からのものでもあり、自分自身からのものでもある。
それを、この自己操縦心性のトリックが、破壊させるのだよ!

その結果生まれる流れとは、自然な愛情欲求が宇宙の愛への要求にすり替わり、与えられる有限の愛を偽物として破壊する。そして無に帰してからまた自然な愛情欲求が回復する。宇宙の愛への要求にすり替わり..
愛と破壊が永久回転してるんだよ!


何たるメカニズム。

まずこの衝撃的なメカニズムを理解することがやはり大きいと思うね。
そこから、未知への方向を探る歩みが始まると思うよ。
僕は内面構造の偶然もあって、この宇宙の愛を求めるのをやめて前に進むところへ導かれた。その結果、後の人生の中で、「子供への愛」が未知の感情として現れたんだよ。
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最後の文に書きましたが、我々がどこに向うべきかの答えは、全く別の世界にあります。
「この感情をどうすればいいのだろうか」。どう解決できるのか。
どうするものでもない。それが答えです。
それを満たす方法を探すことでもないし、それを否定し去ろうとすることでもない。ただ感じ、何もしない。
そして全く別の世界があることを心に刻み込むことです。


これをもう少し具体的に説明した文が、先のカキコで紹介のメール文に続きます。

No.382 2004/12/12(Sun) 01:08

自己操縦心性のついたウソ-13:愛と破壊の永久回転運動 / しまの

■愛と破壊の永久回転運動

自己操縦心性は、空想と現実の逆転というウソと同時に、残存愛情要求を仕込んで送り出します。
この結果、現実の愛の限定性に不可避的に出会うことによって、「本当に愛してなんかいない!」という「真実を知ってしまった」感覚と共に、憎悪への切り替わりが起きる。

この結果、愛と破壊の永久回転運動とも言うべきものが、人間の心の中で起きるようです。
否、それはもう「心の中で」というよりも、「脳の中で」と言えるほど、必然的な結末のように感じます。

現実世界に存在する最小のモーターは、生物の細胞の中にあるそうです。
電子顕微鏡でようやく見れるほどの微細な分子構造が、くるくると回り続けている。それは赤ん坊が1キロメートルの鉄柱を回しているような姿で、中心核がその外側の有機物質をくるくる回している。
生体のリズムというものがあります。一番身近なものは、睡眠と覚醒のリズム。
そうしたリズム周期が、さまざまな生体活動を生み出している。

人間の歴史を通して繰り返される、愛と憎しみの繰り返し。
人はそのなかで、予期できぬ波乱の中に自分がいるかのような感覚を覚えます。
しかし、何のことはない、それは操縦心性のパラドックス構造があるなら、あとは脳細胞が備える微細モーターの独自のリズム周期で、愛と破壊の定められた永久回転運動がくるくると回っているにすぎないという感を、僕は持っています。


この話を、さきほどの能動的外化と合わせて、それを見出した時人に伝えたメール文を紹介します。
もちろん、それは僕自身にとってもショッキングな発見だったわけです。

幾つかの愛と、「子供への愛」の違いについて話した後に続けています。
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これらの真実の愛は、相手がその存在であることにおいて、無条件です。その点で真実という言葉を使う。
一方、子供への愛以外では、自分が残る。このため有限の愛です。

自己操縦心性は、宇宙の愛のように無限でないのが見えた時、「その愛はウソだ」とささやく。
問題はこれからです。
なぜこれが一転して、完璧破壊主義とも言える憎悪の裁きの怒りへと変貌するのか。

ここに、全く別問題と思われていた、強力な破壊感情のメカニズムがつながってくる。
「外化」の中で最も破壊的色彩のものです。
http://tspsycho.k-server.org/base/base06-01.html
で説明した「自己嫌悪の能動的外化」。
この外化で、激しい嫌悪の対象となる最も典型的性質とは、まさに「ウソ」なのです!
あいつはウソつきだ!絶対に許せない!人間の姿をした魔物だ!

何たる結末。
自己操縦心性は、自らウソをついておきながら、ウソをついて搾取する人間心理を激しく嫌悪しているのです。
ちょっと細部は省略しますが、ここで、自分がついたウソと激しく嫌悪するウソが、意識に出るまでの過程で分離される。そして激しく嫌悪するウソだけが外化され相手の中に映る。そしてそれを激しく攻撃するというメカニズムになります。

そしてこれらが愛への要求から始まっていることを踏まえる時、とんでもない結末が導き出されます。
夜中目をさましてこれが分った時、僕は思わず笑いながら涙が出てきました

このメカニズムは、「愛した対象を悪として破壊する」ことが必然的な結果になるのです!
愛した対象を、悪として破壊する、そしてまた愛が生まれる、そして破壊する。この繰り返しになります。
永久回転してるんですよ!

No.381 2004/12/12(Sun) 00:40

自己操縦心性のついたウソ-12:能動的外化により完成する操縦心性のウソ / しまの

その11では、「傷ついた者への愛」という、この傷ついた心を抱える個人に関連の深い愛の特殊性を説明しました。
それが不可避的に希求され、やがてその限定性に出会うことによって、「本当にわたしのことを考えてなんていない!」という憎悪への切り替わりが起きる。

このような感情の組み合わせパターンを幾つか説明しましょうということにしていましたが、先に、ここで起きる憎悪の本質的メカニズムの方を説明しときたいと思います。
それによって、操縦心性の全体構造がより明確になるでしょう。

僕自身の考えを整理しながらということで、例によってこてこて理論用語の組み合わせで難解な記述になると思います。
いずれはこれを世の一般人にも一読でわかるような説明へと翻訳の予定。う〜んどうなるか。



■能動的外化により完成する操縦心性のウソ

操縦心性は、完全にパラドックスの結晶のような構造体です。
(例によって物理的な言葉ですが、改めて考えると、感情メカを物理的に俯瞰する目というのは、全体思考そのものであり、治癒への杖なのです。)

それは現実の自己に三下り半を下し、自分を欺瞞し別の人間になった自己理想化像を主張します。
そして、そこでの自己理想化像の内容とは、まさにそうした操縦心性などない、健康で、自発的感情に溢れる、生き生きとした人間像です。
まずこれが完全なるパラドックス構造の第1です。
これほどのパラドックスなので、本来自然状態では崩壊へ向う因子がある。

一方、自己操縦心性は、この自己理想化像に、プライド衝動や残存愛情要求を結びつけます。
そして宇宙愛への要求に「真実」という絵の具をつけて送り込み、この要求を特別扱いの権利要求へと化けさせます。自分は残酷で野蛮な外界の犠牲者である。それを補うものを世界は自分に差し出すべきである。
権利要求が自覚されなければ、それは「自分は真実を知る」という感覚を伴った、外界への激しい嫌悪軽蔑の形を取るでしょう。

これで自己理想化のほころびが補修されます。
自分の不具合は、残酷で野蛮な外界のせいである。
第1のパラドックス構造の崩壊が防がれ、感情の環が永久に回り続ける現状維持の完成です。

しかし、「残酷で野蛮な外界」という感覚の強烈さの原因は、ここには出てきていません。
別の表現をするなら、それが全く見えないまま、今まさに説明したような感情の流れがつながってしまう。ここに、残された因子の特別の位置付けがある。

それこそが、この操縦心性の構造を支える支柱と言えるでしょう。
それは完全に無意識のメカニズム、「自己嫌悪の能動的外化」です。

つまり、この人間は、幼少期からニセの世界に虐げられ、苦しみ、人生への能力の成長を阻まれた。そのニセを憎んでいる。
しかし思春期要請は待ってはくれない。自己の統一と自信の獲得をこの人間に強います。
自己操縦心性は、これに対する苦境回避システムとして発動し、空想と現実を逆転させ、もはや子供ではない彼彼女が宇宙の愛を得る特別扱いを主張させる。
そこにおいて、彼彼女が幼少期から虐げられ憎悪を抱いたニセを、まさに自らが行うのです。
操縦心性は、自らが行うそのニセを憎みます。これが直接的に体験されると、自己の人格への破壊的嫌悪になります。これは症状が悪化した時の自己破壊衝動によって表面化する。それ以外の場合は、意識表面からは見事なほどに消去されます。
その代わりに、その嫌悪は能動的に外化される。つまり外界が残酷で野蛮だと体験される。


つまり、自己操縦心性は自らのニセの構造への激しい嫌悪を抱いています。
これが完全なるパラドックス構造の第2
これが意識表面に触れることは破壊的事態であり、実に強力なメカニズムとして、自己嫌悪の能動的外化が起きる。
自己嫌悪の能動的外化については以下参照。
http://tspsycho.k-server.org/base/base06-01.html


■「外化」を越えたメカニズム?

これが現象面です。さらにその深層を考察しましょう。

能動的外化が起きている時、それは「外化」とさえ体験されない。つまり外化される前の自己嫌悪感情が一瞬たりとも起きている気配さえ感じられない。これは何か?
僕はこれを、「外化」を越えたメカニズムであるように感じます。それは「外化」というよりは、「輪廻」です。
人間の脳がDNAに組み込んだある闇の罠というものがあり、それによって虐げられ苦しんだものを、やがてその本人が体現する。


この世界と、それとは別の健康な心の世界がある。その違いを分けたメカニズムは何か?
僕の考察は、ここで、メカニズムの連鎖が消失します。メカニズムよりも深い分岐点がある。それは「選択」です。
「ニセは許せない。破壊せよ」という世界と、「本当とニセは相対的なものでしかない。どちらも愛せばいい」という世界。
それはメカニズムではない。選択である。


ニセに苦しみ、憎悪を抱き、ニセを破壊せよという衝動を抱きながら、自らがニセとして生きるという世界。
本物とニセは相対的なものでしかない。何も破壊すべきものはないという世界。

前者を望むか、後者を望むか。
どうすればどっちの世界に向くのか。
そこには何の答えもないんですね。ただ「無」からの「選択」があるように感じます。


このことを人に伝えたメール文など掲載しましょう。色んな文調で同じことを言っているのを読むのは、難解な現象の実体をイメージするのに有用です。
そこでは、もうひとつ、こうしたメカニズムの結果生まれるショッキングな現象に言及します。
「愛と破壊の永久回転」です。

No.380 2004/12/12(Sun) 00:00

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-8(End) / しまの

■克服への要件

手短にこれをまとめ締めましょう。操縦心性のついた嘘の話も早めに締めたい。
答えは出ているのです。

抑圧されたサディズム衝動を克服するための要件は何か。
おおよそ3つのことを挙げることができると思います。
これは基本的に実践ガイド「V.1感情への基本姿勢」の終わりの方で言ったことそのものに大体重なります。

第1に、「思いやりは美徳」といった、(言ってしまいますが)偽善的道徳観念を捨てることです。
そうした情緒道徳思考を持ち続けたまま、自分の中のあらゆる感情を開放することなど、できた話ではありません。
思いやりは美徳でもなんでもなく、あれやこれやの欲求のひとつです。自己の抱く様々の欲求と対等にそれを比較し、自分にとって本当に重要に思えるものを選択していくという歩みが、やがて葛藤の苦しみを経て、人間の心の分裂を克服し、統合へと向かわせるのです。

第2に性善説的人間観であり、そのような心理学の目です。
それがないと、サディズム衝動を開放するまま行動にまで及ぶと、社会や人々との関係を破壊し、自分の生活基盤を自ら破壊することになりかねません。

この2つは、実に複合的な自分自身への姿勢を要求します。道徳は放棄した上で、人間としての善性というものに背を向けずに外面行動を制御しておく。
感情は自分の心の中にしまい、それをひとつの材料として、場合によってそれが建設的な行動とも折り合うのであれば、突き進むこともありでしょう。
そして、人間が変化する存在であることを十分に心にとめておくことです。その感情が果たして本当に自分の全ての望みだったのか。それ以前に自分が求めたものがあり、一度自分はそれに絶望してはいなかったのか。
そうした目を持ちながら、自分の内面を開放する。
これは我々の行動規範を、社会文化道徳にたよる善悪観から、科学に立脚した倫理観に変革する、ということでもあると思います。

ちなみに僕自身は、人間の変化についての理解がないところで、内面の開放と精神分析一本で歩んだため、道を逸れる危険のあるきわどい状況でした。道徳観念は既に高校時代に放棄。はっきり言って道を踏み外す準備はできていたのです。幸い複雑な内面構造がそれを阻んだ。
まあこうして自己取り組むする人の場合、大体、攻撃衝動を内面で開放しても、道を踏み外すことへのブレーキは機能するようになっていると思いますので、あまり心配には及ばないと思っています。

最後の要件は、勇気です。
今まで見ようとしていなかった自分の内面に向き合う勇気。そしてそれによって始まる嵐に向かう勇気。
ここにやはり「望みの停止問題」が出てくるでしょう。望みがあるから、勇気が生まれる。
僕自身が、かなり深刻な心理障害傾向に陥りながらも、全くの独力で明るい世界にたどりついた決定的要因を、最近はっきり自覚しています。「望みの停止」を免れていたことです。

ということで、治癒メカニズムを論じるにあたっては、「望みの停止問題」が最大ともいえるものとして上がってきます。
操縦心性の根本メカニズムの結論も早いとこUpしましょう。
操縦心性の唯一の根本特性は、「空想と現実の逆転」です。それ以外の中身は、実は人間の不合理な思考を忠実に体現したものに過ぎません。
病んでいたのは、感情ではなく、人間の思考だったのです。

No.377 2004/12/10(Fri) 09:48

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-7 / しまの

■逆のサディズムの発症と分析の過程

ホーナイの人間心理洞察の鋭さと深さ、そしてその底に流れる人間愛を感じさせる、彼女の全著作中でも輝く叙述の部分です。
ジーンと来るなぁ。。

分析療法の期間中、患者が自分の恋愛関係の全体像を無意識にゆがめていたことが、次第に明らかになることがある。
すると、奇妙な変化が起きる。「醜いアヒルの子」は、自分に他人を惹き付けたいという欲望と、そうする能力があることを、自覚する。だが、他人が彼の求愛を本気にして、これに応じると、とたんに、憤りと侮蔑をこめて、相手に背を向けてしまう。

この結果、人格像は誤解を招きやすく、評価しにくいものになる。
この人物像は、追従型と著しく似ている。明らかにサディズム的な人間は、攻撃型に属するのが普通だが、「逆のサディスト」は概してまず追従型態度を主として発達させる。彼は、幼児期に特にひどい仕打ちを受け、力づくで他人に屈従させられた可能性が高い。彼は、自分の感情を偽り、圧迫者に対して反抗する代わりに、これを愛するようになることがある。成長してからは、多分思春期ごろにだが、葛藤が耐え難いほど激しくなるので、彼は離反に逃げ込む。しかし、失敗にぶつかると、もはや象牙の塔に孤立しているわけにはいかなくなる。
そこで、以前の依存状態に逆戻りするように見えるが、一つだけ以前と違うことがある。彼の情愛への要求は、絶望的なほど激しくなっているので、のけものにされないためなら、彼はどのような犠牲でも喜んで払う気になっている。しかし、誰かの情愛を獲得する見込みは、極めて少ない。以前から存在する離反への要求が、誰かと親しくなりたいという彼の願望を、絶えず妨害するからである。
この葛藤に疲れ果てて、彼は絶望しサディズム的傾向を発達させる。しかし人を求める要求が執拗に存続するため、彼は自分のサディズム傾向を抑圧するだけでなく、それを隠すために全く逆の態度を取らなければならない。

こうした個人にとって、他人と一緒にいることは、本人は気づいていないかも知れないが、緊張のもととなる
彼はぎこちなく、かたくなる。自分のサディズム衝動とは全く逆の役割を、絶えず演じる必要に迫られる。そして当然のことながら、自分は人間が好きなのだと本気で思い込むようになる。
だから、自分に他人への感情などほとんどなく、あってもそれがどんな性質のものか分かっていないという事実を、分析療法の場で自覚すると、非常なショックを受ける。そして自分に他人への感情が欠けているという事実には改善の余地がないと考えがちである。しかしそれは、今までの見せかけの感情を放棄する過程にいるにすぎない。他人への肯定的な感情が回復するのは、彼がサディズム衝動を自覚して克服し始めるときである。

逆のサディストの場合も、熟練した観察者が見れば、サディズム的傾向を示す要素を見ることができる。
第一に、個人は陰険なやりかたで常に他人を脅したり挫折させたりしている。本人は自覚していないが、他人に対して、道徳的規準の低さを表向きの理由にして、明白な軽蔑を抱いている。
第二に、サディズムを示す数多くの矛盾が見られる。ある時は自分に向けられた搾取に対して、ほとんど無限とも言える忍耐力を示すが、別のときには僅かばかりの支配や屈辱に対して、過敏に反応する。
第三に、彼は「マゾヒズム的」であるように見える。つまり、被害者になったことを喜んでいるように見えることがある。マゾヒズムという言葉は誤解を招きやすいので、その現象に含まれている要素を説明するのがいいだろう。彼は、自己主張が広範囲に制止されているため、他人からの不当な扱いを招きやすい。しかし彼は自分の弱さに腹を立ててもいるから、おおっぴらにサディズム的行動を取れる個人に、賞賛と嫌悪を同時に感じながら、魅力を感じる。一方おおっぴらにサディズム的な人間の方でも、彼の中に進んで犠牲になろうとするものを感じ取って、彼に惹かれる。こうして彼は、自らを搾取や挫折や屈辱の中に置くようになる。
しかし、彼はそれを楽しむどころか、そのために苦しむのである。ここで彼が得ているのは、自分のサディズム衝動を自覚することなく、相手の行動を通して自分のサディム衝動を「執行」することである。
彼は、自分が潔白であると信じ、自分の憤りは道徳的に正しいと感じ、そして同時に、いつの日かサディズム的な相棒をやっつけ、征服することを望む。

そして最後に、サディズム衝動についての説明を総括するホーナイの言葉が続きます。
感動的な銘文だと思いますネ。ジーンと来ます。こうした人間理解がなければ、今の僕はなかったでしょう。
幾つか、「自分を救った言葉」というのがありますが、この辺もそうだったと感じる次第です。

プロイトはこうした人格像を観察したが、せっかく発見した結果を不当に一般化して、価値を低下させてしまった。彼は、これらの発見を自分の人生観に組み入れ、人間が表面的にはどれだけ善良でも、生来的に破壊的なのだとした。しかしサディズムは、特別な神経症から発生した特別な状態なのである。
われわれは、サディズム的な個人を性的倒錯者とみなしたり、サディストが卑劣で邪悪な人間であることを手のこんだ代名詞を使って主張する立場から、はるかに遠ざかってここに至った。性的倒錯は比較的稀である。それがある場合、他人への一般的態度のひとつの現れにすぎない。
破壊的な傾向が存在することは、否定すべくもない。しかし、その特質を理解すれば、非人間的行動と思われるものの背後に、悩む人間の姿が見える。
こうして、我々は、治療をとおして、彼に手を差しのべる可能性を開く。彼の中に、自分をだめにしてきた人生の再建を、必死に求める人間の姿を見出すのである


そのうち小説ダイジェストを掲載しようと思っていますが、大学3年、大きな失意の中で編入学後の新しい大学へ通い始め、ホーナイを知って自己分析の歩みを始めたのも、この「逆のサディスト」の状態からでした。
ホーナイは、それが分析による克服の道があるという言葉を示すだけで、どうすればその道へと進むことができるかは、あまり示してはいなかった。
その要件とは何だったのか。ちょっと考察をまとめ、このシリーズを締めたいと思います。

No.376 2004/12/08(Wed) 11:14

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-6 / しまの

■逆のサディズム

ホーナイによる「逆のサディズム」の説明。

サディズム衝動は、もっと深く抑圧されることもある。その場合、「逆のサディズム」というべきものが生み出される。
個人は自分のサディズム衝動を恐れるあまり、それとは全く反対の行動を取り、衝動が自分自身や他人の目にふれぬようにする。その結果、自己主張とか攻撃とか敵意とかに少しでも似ているものは一切避ける。その結果、行動全般にわたって強い制止を受けてしまう。
他人を奴隷にしたい衝動とは全く逆の態度というのは、他人に命令したり、上に立ったりできない状態を意味する。他人に影響したり忠告したりすることでさえ、用心深すぎるようになる。しごく当然な嫉妬心でさえ、抑圧される。
事態が個人の思い通りにいかないと、頭痛や胃の不調その他の症状も示す。

他人を搾取したい衝動と逆の態度を取ると、自己卑下の傾向が前面に出てくる。
個人は、願望を一切表明しないばかりか、願望を持とうとさえしなくなる。他人に虐待されても手向かわず、他人に虐待されたとさえ感じなくなる。
他人の期待や要請の方が、自分のものより正当でかつ重要だと考えがちになり、自分の利益を主張するよりは、他人から搾取される方を選ぶ。

こうした個人は、いわば、腹背に敵を受けている
彼は自分自身の搾取衝動におびえているが、同時に、自己主張のできない自分を臆病と断じて、自分を蔑む。そして、他人から搾取されると、実際搾取される事態が当然生じるが、解決不能なジレンマにとらわれ、抑うつ状態か、何らかの機能障害に悩まされる。

同様に、他人を挫折させる代わりに、彼は、自分が他人を失望させていないか、他人への思いやりや寛大さに欠けていないかと、過度に心配する。聞こえのよい“結構な”ことがら、たとえば相手のプライドをくすぐるような感想も、直感的に見つけて口に出す。
反射的に自分を悪者にして、やたらと許しを乞う。他人が彼を批判するとき、彼の態度は相手を「理解」することに終始する。しかし彼は屈辱に対しては過度に敏感であり、耐え難い苦痛を味わっている。

他人の情動を弄ぼうとするサディズム衝動が深く抑圧されていると、個人は、自分には他人を惹きつける力が全くないという感情を抱く。そして、自分には異性に対する魅力がないから、屑で我慢しなければならないと、心から信じ込む。実際には全くその逆だという立派な証拠がある場合にさえである。
この心理をただ劣等感と呼んでみても、彼の自己軽蔑の現れを別の言葉で表現したにすぎない。むしろ重要なのは、
自分には魅力がないという感情が、相手を征服したり捨てたりする素晴らしいゲームへの誘惑から、個人が無意識的に後退することによって生じていることである。

いったんここでカキコしましょう。
ホーナイの説明は、引き続き逆のサディズムの分析過程およびその発症の経緯について触れます。
おそらくそこに、心理障害における他人への深い疎外感の基本的な構造というものが、示されていると僕は考えています。
ちょっと色使いすぎかな..^^;

No.375 2004/12/08(Wed) 09:59

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-5 / しまの

■サディズム衝動の抑圧

自分自身の人生への深い絶望を抱いた自分が、他人を自分の苦難の身代わりとする勝利感によって、自分の敗北感を忘れ去ろうとする衝動。
それがサディズム衝動であり、僕はこれは障害感情の発達過程においてほぼ不可避に生じると考えています。
なぜなら自己操縦心性が、心の深いところにおいて「現実への三下り半」をつきつけた人格体であることにおいて、人生への絶望感は起きており、サディズム衝動も自動的に発現すると思われるからです。

しかしこれは極めて自己本位で破壊的な衝動です。
対人不安の中で何とか外界に受け入れられる自己を演じようとする脅迫的な親和強迫に駆られる個人にとっては、この衝動はまさに身内に抱える時限爆弾のような存在になります。

その結果、この時限爆弾を抱えた個人が陥る、極めて消耗性の高い心理障害が生まれます。
それが「逆のサディズム」です。
ホーナイの説明を引用しましょう。

まずはサディズム衝動抑圧の一般的傾向について。これはまだ逆のサディズムではありません。

しかし、こうした破壊的な要因が、本人にはねかえってこないはずはない。
自己軽蔑が増大することは、すでに指摘した。同じように重要なのは、不安の発生である。
この不安の一部は、報復の恐れである。自分が他人を扱うように、もしくは扱いたいと思っているように、他人も自分を扱うだろうという恐れである。これは意識の上では、はっきりした恐れというより、他人は自分を、できれば「ひどい目に合わせたい」と思っているに違いない、という確信の形を取る。
だからこそ、彼は先制的に攻撃にでて、それを防がねばならないと感じる。しばしばそこで、自分が必勝不敗の存在だというプライドが大きな役割を果たす。何らかの外的状況によりこのプライドが傷つけられると、急性の恐慌状態に陥ることが多い。

彼の不安は、爆発性の高い自己内部への不安でもある。
彼は自分が、強力な火薬をつめた爆弾をかかえて歩きまわっている人間であるように感じる。この危険物を封じ込めておくために、過度の自己統制と用心が必要である。
彼にとり誘惑性の強い状況下で、破壊衝動が意識の表面に近づくこともある。かくして、ゾラの小説『人間獣』に出てくるサディストは、少女に心を惹かれたとき、ひどく狼狽した。少女を殺したいという衝動が刺激されたからである。
また、この個人は、事故を目撃したり、残酷な行為を目にすると、それが自分自身の破壊衝動を呼び起こすために、突如として恐怖に襲われることもある。

以上の2つの要因、つまり自己軽蔑と不安は、サディズム衝動が抑圧されることの主な原因である。
抑圧の強さや深さは、多様である。破壊衝動が意識から遠ざけられているだけの場合も多い。
個人は、実に多くのサディズム衝動を、全くそれと気づかずに取っていることは、驚くべきほどだ。残酷な行為を読んで興奮したり、明らかにサディズム的空想を抱くのを自覚する程度だ。しかしこうしたばらばらな自覚は、ばらばなままになっている。
日常行動の中で自分が他人にしていることの大半を、彼は自覚していない。彼の基本的な対人態度の中で、それは正当化される。

たとえば、縮こまり型は、差し迫った要求によってこれを正当化する。困っているとか、不安であるとか、病気であるとか。助けを必要としてるのだから、他人は彼に尽くすべきだとされる。他人が自分をどれだけ苦しめているかを無意識に見せびらかすことによって、他人への非難を間接的に表明する。
攻撃型では、サデイズム衝動を全くあからさまに表明する。とはいっても、縮こまり型より自分のサディズム傾向を自覚しているわけでもなく、自分のことを極めて率直な人間と感じている。自分が他人にどれだけ酷い扱いを受けているかを、露骨に伝え、相手を脅す。
離反型では、サディズム衝動の表出は、驚くほど控え目である。彼は、ひそかに、他人を挫折させる。たとえば、いつでも身を引く姿勢を見せて、相手に心細さを味合わせたり、他人が自分で自分を笑いものにするように、ひそかにはからって楽しんだりする。

ここまでがサディズム衝動の一般的抑圧を説明した部分で、「逆のサディズム」がこの後に説明されます。
まだまだ長っ..
とりあえずここでカキコ&今日は就寝。

No.374 2004/12/05(Sun) 02:09

恋愛感情における嫉妬 / しまの

どもー!タロさんへのレス続き。
この辺で新規カキコで。

恋愛感情における嫉妬という話ですが、実はどう捉えたものかと考えてもいまいち見えてくるものがないんですねー。
はっきり言って、「恋愛感情と嫉妬とは全く別物です」と言ってしまってもいいような気もしています。

僕の心理学は基本的に生態学的な分析考慮をしており、それで言うと「恋愛感情」そのものが単一の感情ではなく、かなり多種類の感情が組み合わさった一群の感情を指す、といえると思います。
だから感情メカ論ではあまり「恋愛感情」という言葉は使いたくない感じもしてます。メカ論とは、それ以上分解できない要素とその相互作用で組み立てる理論のことです。
..と例によって難解物理用語の世界になっちゃってますが^^;

恋愛における嫉妬は、むしろ背景的な「人生への嫉妬」とか、権利要求感情、承認要求などがあり、そのフラストレーションが恋愛という「出来事」を捉えて表面化するものではないかと考えています。

起源として、この感情が最も明瞭に観察されるのは、親の愛をめぐる嫉妬です。
これは犬や馬などの高等動物から観察されます。
人間の場合も、思春期要請以後のメカつまり自信や性愛への欲求よりも、残存愛情要求に関係するでしょう。

現象としては自己建設型の生き方で説明した「賞賛の代用としての愛」という、「愛と錯覚される別感情」で起きますね。
http://tspsycho.k-server.org/base/base08.html

こうした錯覚がなぜ起きるかというメカニズムはまだまだ手をつけてない部分です。
操縦心性のトリックのパターンとして考えられるかも。。
これはそのうちシリーズ続編で書きます。

もし「こんな心理って何?」という特別なものがあれば優先的に考えますんで、何でどーぞ。

No.368 2004/11/30(Tue) 10:29

 
Re: 恋愛感情における嫉妬 / タロ 引用

お忙しいところ、どうもありがとうございましたー!!

No.373 2004/12/03(Fri) 21:37

抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-4 / しまの

■精神分析から見るサディズムの本質

逆のサディスムについて説明する前に、サディズム衝動の分析過程についてのホーナイの記述を紹介しておこうと思います。
精神分析によってこうした「根本的にはその人の人生に価値のない」衝動がどう克服されるのか、その定石的な道筋を説明しているものだからです。

この要点を述べておくならば、「自分の中の悪しき衝動を発見して捨てる」というようなものではさらさらないということです。
むしろその逆であり、本人は一度その衝動を内面にありのままに開放することによって、一度その衝動の価値を自分自身に対して認めるのです。
そうして認めた価値が、果たして自分の人生にとってどれだけの価値なのか。それを心底から自分に問う過程は、その価値を味わった時初めて意味を持ちます。

従って、このような開放による取り組みは、前提必要条件があります。それが満たされないところにおいて自己分析しようとしても、あまり意味はないか、変な方向にそれてしまう危険性があります。
その条件を3つ説明しておきましょう。

1)情緒道徳思考を脱すること
ホーナイはこの点をあまり説明していませんが、個人主義の米国文化が先にあるからです。「人のため」「我慢は美徳」などという日本的善悪観の下では、この衝動の開放取り組みなど考えようもありません。
2)破壊的衝動を行動化しない自制
内面で開放し、さらに行動として開放してしまったら、その人は反社会的人物としてその後の人生に不利な結果をもたらしかねません。あくまで開放は内面のみであって、行動面とは分離することが必要です。まあ自己分析する理性があって内面開放をするのでしょうから、心配には及ぶ話でないかと。
3)性善説的人間観
これは必須とは言い切れませんが、人間はその本性において破壊的で残酷だという性悪説的人間観にどっぷり浸かっている場合、サディズム衝動の分析過程は「失敗」する危険があると考えています。
性悪説をいいわけに、「開放」の次の「自分に問う過程」をサボってしまうからです。
性悪説は「ニセ」への自己嫌悪を外界への非難にスリ変えた代表です。人間なんて駄目な存在なんだ。自分はその真実を知っている。この感覚によって、自分自身の内面の矛盾がほやけてしまうのです。
科学的心理学の観点からは、残酷な破壊性は自然に湧き出るものではなく、何らかの阻害への反応として起きるものです。その阻害を除去することで残酷性も消失するという話を、少なくとも頭では、半信半疑ではあっても持っておくことが大切です。

前説が長くなりましたが、ホーナイの説明を。先に今までの話のサマリーを書きましょう。

サディズム衝動は、自らの人生への深い絶望を背景に生まれる。相棒を奴隷にし、楽器を演奏するように他人の情動を操作することに満足を求め、人生における良いものを壊すという衝動。
しかしそうしたネガティブな側面だけではく、ポジティブな側面が結合するからこそ、この個人があれほど取り付かれる衝動となるのだ。それは他人を破壊的に征服することで、自分自身の深い敗北感を忘れることだ。

これを分析するということは、多少ともそれが抑圧された状態からスタートすることになります。その後の進行とは。

分析治療の期間、自らのサディズム衝動に対する患者の態度は、著しい変化を見せる。
自らのその衝動に初めて気づいた時、患者はそれに対して多分に批判的な態度を見せる。しかしその自己批判には中途半端なところがある。世間の規範に同調して、口先だけの批判なのだ。ひとしきり自己嫌悪を示すこともある。
しかし後になって、サディズム的な生き方を放棄しようとすると、突然、何か大切なものを失おうとしているように感じる。そして他人を自分の思い通りにできることの喜びを、初めて意識的に体験する。
彼は、分析治療が自分を卑しむべき弱虫に変えてしまうのではないかと心配する。実際それは彼の主観からすれば当たっている。他人を征服する力を失った時、彼は彼の内面において、実はみじめで無力な存在だという感情があるからである。
やがて彼は、サディズム的であることによって自分が強いと感じていたのは、実は貧弱な代用品に過ぎなかったのだと気づく。

ホーナイはこのように分析過程を説明し、サディズム衝動の本質についての結語を記します。

サディズム衝動の利得の性質がこうしたものだと分かれば、絶望した個人が何かを熱狂的に追い求めることがあっても、別に矛盾ではない。
しかし彼が追い求めるのは、より高度の自由でもないし、自己の実現でもない。彼が何をしようと、その絶望感の原因は何ひとつ変わることはないし、彼自身、それを変えることができると思っているわけでもない。彼が追い求めているのは、あくまで代用品なのである。

こうして彼は、他人を身替わりにして生きることで、情動的な利得を手に入れる。
サディズム的であることとは、他人を通して、攻撃的に、そして主として破壊的に、生きることである。
こんなにも挫折してしまった個人が、生きていける道は、これしかない。彼が目標追求する時の無謀さは、絶望のあまり生じた無謀さである。彼には、失うものはなにもない。どう転んでも、何かが得られる。
この意味で、サディズム的な努力とは、積極的な目標を持っており、絶望した人間による回復への試みと見なさなければならない。この歩みがこれほど熱烈に追求されるのは、他人に勝つことによって、自分の苦々しい敗北感を忘れることができるからなのだ。

現代の子供社会に蔓延する「いじめ」は、明らかにこの衝動が子供達に広まっていることの表れだと思います。
それを「父性の崩壊による残酷性の暴走」などと捉えるのはあまりに皮相です。その子達は同時に、深い絶望感と、自分は実は惨めで無力だという感情を抱えた存在なのです。

この理解が、「いじめ」の衝動を自ら抱える者にとっても、また来歴において逆にその痛ましい犠牲になった者にとっても、この内面の蟻地獄から抜け出すために、決定的な重要性を持ちます。
それは破壊だけに頼る弱い心の世界です。その世界の中にある思考や感情の中で「どう取り組んで」も、その先には解決はありません。
全く別の世界の思考と感情を使う必要があります。それをつかさどる脳のスイッチを入れる必要があるのです。

克服の話へと進む前に、この衝動の残された表現形態をじっくりと理解しておくことが必要です。
おそらく心理障害の深刻な悪化をもたらす最大のメカニズム。
それが「逆のサディズム」です。
これを次に。

No.372 2004/12/03(Fri) 09:21

新コンテンツ掲載予定 / しまの

早くも部の忘年会でボーリングのブービー賞(ハンデ込み)とカラオケ3番手指名を食らった飲み会から帰宅しようやく寝る体制。。
(明日はゆっくり)

2つばかし新コンテンツを掲載しようかと思っちょります。

ひとつは「ハイブリッド心理療法実践ガイド」
取り組み手順と具体的な学習・実践内容というのがかなり整理できてきたので。
こうしましょう、ああしましょう、ああするとはこうしないことです、等々、沢山の事がありますんで、体系立ったものを用意しないともう話が進めにくいかと。
こうゆうの用意するんで「療法」と言っているわけです。

もうひとつは「島野小説ダイジェスト版」
僕自身の前半生記ですが、目的は2点。

その1はハイブリッドの治癒過程の参考になるだろうこと。
ただし「こうすればいいですよ」では毛頭ないです。逆に、そうしたレールに別れを告げて生きることで起きる変化がどれだけどでかいものかを具体例で示すこと。
心を解き放つということは、内面において自己統制の手綱を断ち切るということであり、これはもう言葉では説明できないところも大きくなってくるように思います。
ま、僕の場合は危うく糸の切れた凧状態だったのですが、そうならない程度に(^^;というかそうならなくする必要があるのですが)内面を解放する参考になるかと。
どう参考にして欲しいかは掲載時にもう少し詳しく説明しまっす。

目的その2は、単純に僕はこんな体験を経た人間ですというのを世に示そうと思うこと。
著作で身を立てようとしている人間として、プライペートで自分のこと知ってもらうにも、今のサイトのレベルでは不足を感じ。

No.371 2004/12/02(Thu) 02:48
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