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過去ログ
2005.1


小説ダイジェスト続編まもなくUp / しまの

あとちょっと体裁整えてから、続編「自己の本質への接近」をUpしようと思います。
Upは今日遅くあたりにしようかと。

結構残り部分があったので、明日以降になるかなーとか思いながら書きはじめたら、止まらなくなってしまった。
最後は自分自身でも際限なく何度でもうるうるする場面です。今日も書きながら泣いてしまった^^;
人の心に眠る記憶の役割の不思議さです。心がそこに「還る」という動きをする瞬間、ドワっと涙が出てくるんですね。これは何なのか。「悲しみ」ではないんですね。面白いものです。

読まれる方への注文なのですが、冒頭からざっと読み直してみて欲しい。特に「少年時代まで」の内容をじっくり読み返し、この小説の主人公が少年時代にどんな心の世界にいたのかを、イメージしてみて下さい。

文芸小説の中の人物に感情移入することで、登場人物が経た心の変遷を、読者が心の中でシミュレーションする
それが読者の心にも変化への仮線(いい言葉が見つからないけど)を引く。これが僕が文芸小説というものに求めたいものだし、自分の小説で実現したいことなのです。

評価される小説とは、人がそこから何かを学ぶものであって欲しい。
自分のがその点でどこまで成功するかどうかは分からないけど、文芸の世界で、何かを学べるものというのが実に少ないのをちょっと不満に感じている島野です。
部屋掃除しなきゃー。

No.429 2005/01/30(Sun) 15:23

 
つけたし / しまの

「少年時代まで」にもちょっと加筆修正を入れます。初恋の少女の人物像を少し出すため。
ぜひ頭からご一読を〜。

なおこの初恋の女性は、今回のダイジェスト版で主に描写する大学時代をはるかに過ぎてから、再会の形で再び登場します。
ダイジェスト版ではごくさわりの含みしか書かない予定ですが、やがてその女性の存在が、暗闇の中で光り続ける一点の恒星のように、私の歩む道を導くことになるのでっすぅ。

我ながら、類まれな前半生だったなあ〜と感慨。

No.430 2005/01/30(Sun) 17:21

善悪の解体・補説-5 / しまの

理論的な解説の前に、まず、僕自身がどのようにして善悪観念を完全に捨てたのか、その経緯を少しご紹介しましょう。

■社会哲学としての絶対善悪の否定

僕が頭の中で、観念的に、絶対善悪を否定したのは高校時代です。
これは小説ダイジェストの、高校時代の話の「独立への出立」という節で書いたあたりのことです。加藤諦三とかの影響で。そして僕はこれをきっかけに対人恐怖を克服したというか、振り切ったわけです。

これは社会哲学あるいは道徳哲学のひとつとして、前からあるもののひとつですね。「契約論」です。ルターだったかルソーだったか^^;
これはそんな特異な考え方ではありません。
世の中の善悪とは何かという問いに対して、人類が取った思考は、これか、それとも宗教かのどっちか、というような大きなくくりになると思います。

善悪とは、人間が人間自身のために用意した、一種の契約である。契約論とは、そんな思想かと。まあ法律のように明文化されるものも、世間の慣わしとかのように、漠然としていて、情緒的に維持されるものも含むとしましょう。
宗教では、人間を超えて善悪があるという思考をする。神や自然とか宇宙の法則とか。

現実科学的世界観からは、善悪は契約論的に解釈されると思います。
それは人間が人間自身のために用意した観念であり、感情である、と。結局誰かしらの欲求に基づくものである。


ごく知的にこう考えることは、それほど違和感のある話ではないと思います。
しかし我々は人間世界を外から眺める存在ではなく、その中で生きる存在である。自分の身に染みた、そして人の目に映る善悪というものから、そう容易に別れを告げられるものじゃーございません。

実際のところ、僕が対人恐怖を振り切ったのは、人にとっての善悪に惑わされず、自分にとっての善悪に忠実になる、という姿勢によってだと思います。
善悪そのものは全く放棄されていません。そして自分にとっての善悪に忠実であることに、自分の誠実性というものがあるという感覚を持っていたのです。それが何か支えでもあったのです。

僕がはっきり善悪そのものを放棄したのは、今ダイジェスト版で詳しく描写している、大学時代の自己操縦心性の巨大な崩壊よりも後です。
つまり善悪放棄という思考アプローチなしの、精神分析一本でその局面へと導かれたわけで、ドラマ性が高まった(^^;)反面、きわどい状況であり、ちょっと危険な進み方だった。
そしてドラマ性の割には、多くの問題が残った。

残された多くの問題(操縦心性と感情の膿)を根本的に克服する道は、その後の、人生観世界観の大きな変換に待たされたわけです。

No.428 2005/01/28(Fri) 12:54

小説ダイジェスト次日曜あたり / しまの

にUpできるかなーという感じ。
今の目次で「蘇った自己」としている章ですが、ちょっと長くなるので「自己の本質への接近」という章を前に切り出します。

これは今までで初めて、オリジナルの章がそのままダイジェストの章になる感じで、原稿の枚数をちょっと調べてみたら、オリジナルでA4紙(1枚あたり出版本で2ページ程度)に46枚。これがダイジェストで10枚程度。とかなり凝縮レベルを減らして、感情変化のほとんどを描写しています。

いよいよ最大のクライマックスに入る部分なのですが、そのクライマックス性というのが、感情の変化とか心理の流れとかにとどまらず、「記憶の消失と想起」および「現実覚醒」という特異な現象を絡めるようになるのが、なんとも面白いところです。自分で何度も鳥肌もの。
その類のクライマックス場面の大きなのが小説で3つほどあるのだけど、その最初のものが、今度Upするものの後ろの方で出てきます。

こうした特異な心理現象が絡む側面は、精神分析の世界で注目されていたものです。
感情を超え、人の心に眠る記憶を巻き込む、壮大な心のメカニズム。こうした部分を論じる時、それは「精神力動論」とか「心理力動論」とか呼ばれていました。
物理学アナロジーは島野のオリジナルじゃーございません。

人間の心という、この不思議なものへのご招待。
こうご期待。

No.427 2005/01/28(Fri) 09:47

「自己の重心の選択」の本質 / しまの

これは思いうかんだことの、ごくメモ代わりのカキコ。

病んだ心から健康な心への道を歩むための、生きる姿勢における最大の変換。
「自己の重心の選択」がそれだと考えている今日この頃。

この本質とは何かというと、思考感情における論理の流れの逆転である。
「なんとかのせいで自分がこうなる」から「自分がこうこうである結果こうとなる」。

これは特に、人間関係における思考の変換に、端的に現れます。
誰々のせいで、誰々のおかげで、自分がこうなる。
それが、自分がこうすると、自分はこうなる。さらには、人がこうなる。
自分が変わると、人も変わる。
世界との一体感が生まれ、やがて自分が世界に向かって働きかける存在であるという感覚が芽生えてくる。

これは、巨大な水と一緒に回転する巨大な円盤の回転を、逆方向にするようなイメージを思い浮かべさせます。
円盤が感情だとしましょう。水が回転しているせいで、円盤が回転しているのか。それとも、円盤の回転が、水の回転を引き起こしているのか。もう見分けがつかないほど、その回転運動は強い慣性で維持されている。

その回転を逆にする。
できるのは、小さな手で、水を逆の方向にかくか、回転する円盤を逆の方向に押す。回転の慣性力は、そんなものにはびくともしない感じで、そうしても、同じ方向に回り続ける。
でもその回転力は弱くなってるんですね。それを続けることです。やがて、回転の速度が減っているのが分かるようになる。そして回転がとまり、やがて逆の方向に回り始める。
人生の巨大な方向変換なのです。

その本質が「論理の逆転」にある。
逆の言い方をするならば、病んだ心においては、論理の逆転が起きている、ということです。
それを正常に戻すという部分に、最も意識的努力によってこの問題に立ち打ちするための糸口がある、ということになる。

No.426 2005/01/26(Wed) 09:28

なぜ忙しくてもストレスがないのか / しまの

忙しいと言いつつこんなこと書いているワタシ..^^;
思いついたのは、なぜ忙しいのにストレスがないのか、と自分自身の例を振り返って、参考までポイントをまとめとこうと。
実際、ストレスはない、というか、実は「忙しい」という感覚さえすぐなくなるような感じになってます。というか感じ方をするようにしてます。

詳しくは別途になると思いますが、ポイントとしては3つほどある。

1)作業の段取り方法
これは3つのことから成り立つ仕事の仕方。
まず仕事の全体量を冷静に把握し、自分に無理がきそうな量が来るのを防止する努力工夫。
次に、その作業優先順位の計算。伸ばせる作業はとことん伸ばす(^^;) 人への報告責任など強い期限のあるものを前に。何もしない言い訳ができそうな場合は、思い切ってその仕事を捨てる。結構それで済んでしまう仕事というのが多いものです。
最後に、決めた優先順位による作業に取りかかったら、その作業中以外のことは意識圏外に置いとく。

このような仕事の進め方は、実践を通してより確実なものへと洗練されていきます。
ひとつ付け足すなら、「自分は仕事を引き受けたくありません」というのを決して顔に出さないことです。「積極的にやってます」という顔をしておいて、実はすごい手抜き。えっへっへ。
これは上のような仕事の進め方をしながらも、良好な人間関係を保ち、信頼を得ておくためのテクニックのようなものです。

2)感情の膿や自己理想化像への対処
「ゆとりある仕事の仕方」をそもそもから阻んでいる心理というものがあります。
「常に働き生み出し続ける」ことが善であるというような価値観。
「周りの皆が一生懸命働き、自分だけが不満や無気力から壊れた、何もしない何もできないお荷物人間」というような感情の膿。
どれも、感情分析を通して、その現実性を真剣に問い脱却するという過程があります。僕にはあった。

3)人生設計
ゆとりある仕事の仕方ができるような、キャリアとか仕事の領域。現在の仕事のIT関係はけっこう色んな職種から成り立っているので、常に結構虎視眈々と楽でおいしい仕事を狙って、今があるという部分があります。詳細は略。

まあいずれにせよ、会社の仕事はもういいんだけどなぁ。。
あ、あと4つ目の話として加えるなら、会社での自分の評価とか地位とかについては、もう腹をくくっているというのがあるということだ。

No.423 2005/01/25(Tue) 13:27

 
Re: なぜ忙しくてもストレスがないのか / ペーター

僕の質問に対する回答の続きを心待ちにしている所ですが、
上記のような、極めて現実的・実践的な話も、
以前からとてもありがたく思っています。

僕の場合、というか、たくさんそういう人はいると思うんですが、
「やらなければならないこと」からずるずると逃避し、
ぐずぐず先延ばしにして、ぎりぎりまで追い詰めれた段階で
感情が大きなダメージを負うことが多々あったからです。
「オレは何やってたんだよ!」という猛烈な自己嫌悪と自己不信。
(これは「感情の膿」によってもたらされた現象?)
こういう点を、すいすい、さくさく、仕事を処理していけるだけでも
感情生活は大きく安定するような気がしますね。

というわけで、「作業に没頭し、作業の結果については想像しない」など
以前も、この手のプラクティカルな話は確かこの掲示板であったと
記憶していますが、今後もよいヒントを期待しています。
それと「善悪」についての回答、読み応えがあります。
続きを期待しながら、実はまた別の質問が生じているのですが、
それはまた、折をみて。

No.424 2005/01/25(Tue) 20:02

 
Re: なぜ忙しくてもストレスがないのか / しまの

どもー。

善悪解体の話は、入門編の改訂版にもなるほどの本格的原稿として書く感じになりつつあり、ちょっと練る時間を確保するのに時間がかかっている状況。
今週末のスキーは土曜のみで帰ってくるので、日曜には何か書けると思うんだけど。。

No.425 2005/01/25(Tue) 20:48

なんか忙しー / しまの

週末のスキーと年始以来どうも仕事多く、
カキコやメール返信がちょっと遅くなる状況。

ご了解よろしくー。

No.422 2005/01/24(Mon) 16:59

全体を見る目 「逆を知り2面を同時に見る」 / しまの

善悪の解体の続きを書くまとまった時間がなかなかないので(続きは明日か来週以降か..)、ちょうどきのう送った返答メールから紹介します。

「全体思考」を使う話ですが、題材としては「バランスのとれた、現実的な愛情を育てる」とかの話になると思います。

全体思考は、実践ガイド上の「思考の選択」の最後に位置づけていますが、まさにこれがハイブリッドがお勧めする「思考方法」の総括となります。
これが至るところに出てきます。

今後アドバイスを書く時にはいつもこれをポイントしようと思うし、この思考方法による実践的内容のバリエーションもそのうち整理しようと思います。

例により抽象的表現で概観すると、
我々は真実を求めますが、それは一面にはないということなんですね。真実は全体にあります。
自己の中に真実がある。とはいっても自己が必ずしも真実ではないのです。現実が真実かもしれない。現実を真実だと考えて自己を切り捨てた時、何かが壊れる。
一面を追った時、他面が損なわれるようになっています。

意識と物質の関係もそう。意識が真実でも、物質が真実でもなく、真実はその全体です。
別の表現をするなら、我々は真実を「知る」ことはできないということなんですね。知ることの中には真実はない。真実は未知にあります。
「知る」のではなく、それに向かって動くこと、「生きる」ことに成長があります。
なんか宗教っぽくなってきたなぁ。。アハ。

この全体思考を「逆を知り2面を同時に見る」と表現しようと思っています。
ハイブリッド心理学最大の宝刀ですな。
それも真なら逆も真。それが常にあります。答えはどのどちらでもないところにある。それを知るのは我々の魂という未知なるもの。それに委ねるということが、「心を解き放つ」ということなのじゃ。


●自分は相手に「宇宙の愛」を求めてしまう。その過剰さゆえに愛されない。それを感じてこんどは離反に転じてしまう。
どんな姿勢でこの心に望めばいいか。


「感情を知る」と「感情を受け入れる」という2面を考えてもらうのが良いと思います。
2面を同時に見る。ハイブリッドです。

自分の感情が「宇宙の愛への要求」だと知る。
それはそれで進歩です。今まで良くわからなかったことが分かったのですから。
それは幼少期の経緯から残存している愛情要求です。そうゆうメカニズムなので、しかたのないことです。

自分の感情を知るのと合わせて、自分の感情を受け入れるということをぜひ考えてみて下さい。
「過剰なものを要求する自分は受け入れられない」。これは従来の思考法ですね。対等で純粋な愛情の持ち主だけが、愛される、と。

では新しい思考法とはどんなものか。
とにかく「現実的な愛を育てる」とはどうゆうことか、考え続けるのが良いと思います。これは僕もそうですが、生涯続く課題であり目標だと思います。

そこで特に大切になるのが、「全体を見る目」ですね。
現実の出来事は、常に多面からなる一つです。本来ばらばらにできないんですね。
確かに過剰に「宇宙の愛」を求める感情が働くこともあるでしょう。
しかしそうではない、対等な愛情とか、互いの関係をあまり固く決め付けずに、楽しみを共有するとか、別の気持ちもあると思います。
それに注目できたら、それに向かって自分の可能性を探していくことです。


これを、「全か無か」思考になると、その中の一面だけ取り出して、他のものも一緒に捨て去ってしまう、ということになります。
実はそうするのは、不安から逃れようとしてなんですね。自分が不相応な愛情要求の持ち主だと拒絶されることを恐れ、他の全ての感情もシャットアウトしてしまう。
「過剰な宇宙の愛」だと感じたことがあれば、それは自分の心にしまっておく。でも他の気持ちも否定したりしないで、そこでの人との関わりを模索していく。
これは頭で「こうすればいい」とできることではなく、生きていく中でそのバランスを学んでいくことです。多分失敗もあるでしょう。人からの手痛い反応を食らうこともあるかも知れません。でもそれが学ぶということなんですね。

痛みを感じてもへこたれず..でもなく、人との関係から尻込みしてしまう気持ちを、こんどは受け入れるべき時もあるでしょう。
どうするのがいい、という「姿形」はないんですね。自分を偽らず、本心に耳を傾けながら、イメージに偏らず、現実という全体を見ていく。そうすることで起きる、自分の魂の成長に委ねるということです。


●宇宙の愛を求める感覚なのか、ベッドで布団にくるまっていたいと思う時間が続く。
時間を無駄にしてしまうように思えるが、この感情にはどう対処すればいいのか。


「感情と行動の分離」の原則です。上の話もそうなんですけどね。
感情は変えようとせずに、尊重した上で、最も現実の利にかなった行動をすることです。
ひとつの感情は持ったまま、別の思考感情を働かせる、という感じですね。

障害感情は、その感情だけじっと見つめても、どうにもならないものです。
別の目も持って、両方を同時に見る。この「全体思考」が特効薬というわけです。

「建設的でない愛を求める感情」だと分かったら、それへの対処方は、「対処しない」ことです。
それを押し殺そうともせず、ただ知ったまま、未知の自分に委ねるという感じですね。

極端に揺れ動く感情のどちらを見ても答えはないですね。両方を同時に見ることです。そしてそのどちらでもない、未知に答えがあります。
まず見えたのが葛藤の苦しみである場合は、心を休めることも考えて下さい。それはいつか消えるものです。その後に未知が現れます。

No.421 2005/01/20(Thu) 13:15

善悪の解体・補説-4 / しまの

ちょっと仕事忙しめー。
なこと言いながらこんなこと書いてるとは、一般人に比べればはるかに手抜きなのだが^^;

解説事項はかなり頭の中で整理してるんだけど、今日はその前にまだ、雑感というか..
あとはまた明日以降。


■善悪思考と自己操縦心性

>しかしおそらく、しまのさんは「“善悪”というものはない」とまでは言っていない。単に「心の健康のためには、“善悪”というモノサシは放棄したほうがよい」ということですよね。

ペーターさんのこの言葉の響きからすると、やはり僕の中では「善悪」はもうないような気がするんですね。
「善悪というモノザシを放棄する」という感覚は、やはり善悪が「あり」それを捨てるというニュアンスがありますが、僕の中ではもうそもそも、善悪はモノサシではないし、そもそも捨てると意識するものとして、善悪は「ない」のです。

今の僕の頭の中では、「善悪観念」は「自己操縦心性」とほぼイコールです。

操縦心性は必ずしも病んだ心性ではなく、人間の思考を極端に体現したものに過ぎない、という言い方をしています。
病んだ部分とは、現実と空想との重みの逆転、そして覚醒レベル低下によって現実理性を覆いつくす強制力を持っていることです。
操縦心性がその上で主張する論理は、すべて人間の思考そのものです。
特定のあるべき姿から、現実を品評する善悪思考です。

操縦心性への治癒アプローチには2面があります。感情分析と思考変換という2面。
感情分析は、操縦心性の中で抱かれる「あるべき姿」そのものが無意識化し、自分自身の中で複雑に錯綜しあっているのを解きほぐすことと言えます。それはパラドックスによって成り立つ姿であり、もともと破綻し崩壊する潜在性を持ちます。感情分析はそれを開放する。

思考変換は、操縦心性に体現化された人間の思考そのものを変革することです。
心理学的幸福主義の3軸でいうと、「自己による幸福の追求」と「現実科学的世界観」はまだ、心を病んだ状態から健康な心への状態へ変えるためという感覚がつかみやすい。自分から不幸になろうとする思考、非科学的な妄信はやめましょうという話。
これが「善悪の解体」になると、「心の健康」とは必ずしも直結しないような第一印象を与えるかも知れません。

実際、僕の漠然とした印象なのですが、心理障害は、上で「善悪の解体」の前に書いた取り組みにより、おそらくはっきり診断されるレベルの心理障害状況は脱することができるように感じています。つまり、どうしようもない状況では何とかなくなる。
それでもやがて、何となく中途半端な状態で変化が感じられなくなるというケースが結構多いのではないかと。

まあひとそれぞれの推移は千差万別なので想像の域をでませんが、要は、「病んでいるものをどうにかする」という段階は済んだ先での、まあ言ってしまえば「普通の人」でいられるようにはなった先での、生き方の選択の世界があるということです。
一応ハイブリッド心理学は、その最後のところまでも、というかその最後の目標をまさに意図して作っています。

そのため、もう「治療」とは言えないようなところまで踏み込んでいるんですね。
ハイブリッドを「心理療法」とは言い切らないのは、そのためです。どこまでやるかは、もう本人の自由です、と。

「善悪の解体」はそんな領域に大きくかかわってくるものですね。
まあそれを「善悪と操縦心性はイコール」というからには、心理障害のメカニズムが人間の生き方の根本に関わる、という思想でもある。。
いまいち言葉がまとまりませんが、その辺の根本の変革の話を、僕自身の経緯など出しながら続けまっす。

No.419 2005/01/18(Tue) 13:50

 
Re: 善悪の解体・補説-4 / しまの

感情分析と思考変革の対比について、もっと明瞭な記述を加えましょう。

感情分析がやるのは、「あるべき姿」自体が矛盾していることを心の底に自覚させること。根本的に矛盾しているので、自覚することで自然崩壊力がある。

しかし「あるべき姿を掲げること」自体は感情分析ではつき崩しません。つき崩せないと思います。
これが思考の変革であり、人間としての意志による選択なのです。

ということ。

No.420 2005/01/18(Tue) 21:28

善悪の解体・補説-3 / しまの

■島野の率直な世界観

ぺーターさんの感想について、まず説明抜きで、僕の率直な感想を述べてみましょう。

>世の中には、「善悪判断」を捨てたところの単に個人的な「好き(好ましい)」もしくは「嫌い(好ましくない)」という判断だけは処理できないことがあるような気がしてならない訳です
>「法律に抵触したから犯人はルールに従って罰を受ける」という熱のない客観視もできない。やっぱり僕は、そういった事象を「正しくない」「間違っている」と感じているのです。
>世界には「絶対悪」というものも存在するのではないだろうかという思いが拭えないでいます。世界では、あらゆることが起こりうるのだけれども、こんな陰惨な事件は「起こらないで欲しかった」というより「起こる“べき”ではなかった」と感じる心が僕の中に根強く残っているようです。


善悪は相対的なものだと考えます。
あるのは、個人の欲求にとり都合がいいかどうかということと、あとは法律つまり約束事であり契約です。


絶対的な善悪というものは存在しません。
奈良の事件についての僕の率直な感想を述べるなら、その子と家族については運の悪い、可愛そうなことだと思います。男はやってはいけないことをしたから、罰せられる。
男の生育暦は、神戸の児童殺傷事件の犯人と似たものであったことが伝えられています。親は厳しい道徳的だったかな。ここではその説明は省略しますが、男の情動に心理学的に理解可能な歪みと変形が起き、幼女への加虐的性愛衝動を持つに至った。女の子はその犠牲になった。

それだけです。それ以上のことは考えないし、もう何も感じません。
実際、事件を知った時、感情はあまり揺れませんでした。珍しい事件ではなくなっている。


それが「起きるべきでない」「間違った」ことと感じるかどうかについて。質問されたので、敢えていいましょう。
それはスマトラ地震の津波で人が死んだことや、草原で肉食獣が草食獣を捕獲して食らうことや、ある動物が自分の身体の一部を餌に見せて他の動物をおびき寄せて捕まえて食らうことと、特に変わりのない、この自然界のひとつの出来事だと思います。
それだけです。

自分がそのような不幸な目に会わないためには、まずは自衛能力を育てることです。
「それは起きるべきでないことだ」と考えても、それは起きるのですから。
これが僕の感想であり、世界観です。

■高潔な破壊から稚拙な建設への選択

このような世界観を読んだ時、「何かが失われている」と感じる方も多いと思います。
「なんだ、島野のハブリットは心の繊細さを切り捨てて強くなっただけのことだ。許されるべきものでないものへの道徳心を捨てて、愚鈍になったということだ。」と考える方もいるでしょう。

この世界観で、何かが失われたのは、事実だと考えています。
それは、僕がはっきりと意識して行った、人生での大きな選択なのです。

失ったものは何か。僕が何を放棄したのか。
それは「自分は正しい」と思う感覚だと思います。


なぜなら、それは現実には何も生み出さないからです。それは「怒り」に属する心の使い方だからです。
「それは間違っている」という言い方は、僕はしないように心がけています。どんな些細なことについても、徹底してです。100%そうするつもり。
そのかわりに「こうすると良い」という言い方をしようと思っています。
ここで重要なのは、「こうすると良い」というからには、問題は何であり、どんな原因で起きていることか、それを改善するために具体的に可能なことは何か。その全てが把握できて、始めて言えるということです。
「こうすると良い」と自分が言うからには、そうやって良くならない場合の責任というものも発生してきます。

この2つは、望ましくない事態に対する人間の対処法として、異なる世界にあります。

「それは間違っている」というのが正しいとして、「こうすれば良い」とは言えない時、その望ましくない事態を解消する方法は、「破壊」という手段です。
問題の「消滅」を目指した心の動きが使われます。
「こうすれば良い」は、非破壊の方法です。「自衛」「建設」の方法です。
これは掲示板2004/11/19からの「過去から未来への選択」でも説明したこと。ご参照あれ。

「心の使い方」として重大なのは、この2つの対処法の世界は、両立しないことです。
具体的にどうすれば改善できるかを考えるためには、「これは駄目だ」と考えた時に心に走る苦みとかを、いったんリセットしないと可能にならないんですね。「ちょっと待てよ。こうすれば..」と気持ちと発想を切りかえて、始めて、具体的な建設的対処法についての頭が働く。
すくなくとも僕はそうです。

このため、ある時期、この思考法の切り替わりが、極めてはっきりした意識的選択として、僕の中で行われました。
それは一種の内面戦争ともいえるようなものです。それはまちがっている、という自動的に起きる怒りの感情。そう感じることがまさに自分の正しさを維持するためのことであるかのように。
しかし怒りの感情は心身への麻酔毒であり、それを捨てた生き方が自分の課題となっている。どうすればいいのか。

その内面戦争の中で、僕は結局後者を、つまり怒りを捨てた人生を、選択しました。
もちろん自分の幸福のためにです。
「それは間違っている」と考えることは、たいてい正しく、非のうちどころのない、高潔なものでしょう。
一方、「こうすればいい」として考えることの内容は、まずは稚拙です。
でもそれを選んだのです。揺れる心の中で、足を一歩どっちの方向に進めるかで、全く違う心の光景が切り替わる。やがて後者に確信を感じるようになる。やがて心の根元から、怒りの感情が生まれない自分を感じる。
高潔な破壊より、稚拙な建設を選んだのです。

そして実際、それは単に対処法の違いだけではありませんでした。
「それは別に間違ってはいない」という善悪観世界観の変化が起きたのです。
やはりそれがなければ、それは無理なことであったと思います。


善悪観念の放棄」というものが、実際起きていると思います。ある種の心の繊細を切り捨てたようなところもあるのを、自分で感じます。
ですから、これは本当に、選択の話になってきます。こっちがより進歩的だからそうしましょうとは言えない感じもする。
でもいいんです。僕はそれで「子供への愛」を自分の中に見出すことができた。

その意識変換の本質は、人間の不完全さを認めることだと思いますね。
この辺の話を次しましょう。

No.418 2005/01/17(Mon) 11:32

信頼と不信の切り替わりの心理 / しまの

この土日はスキーに行かないものの、急に降ってきた仕事のため、珍しく自宅で仕事しながらなのだー。
とりあえずこの話を先に。


「自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 」では、自己操縦心性が掲げる「全能万能の価値」への相手の態度によって、信頼感と不信感が極端に切り替わる心理現象に触れています。
それについてのタロさんの質問への解説。

幾つかの質問を出して頂いてますが、まず全体として踏まえたいことは、これは一つの心理現象についての話ではなく、複数の心理がさまざまな力関係の中で絡み合う結果起きる現象だといういうことです。

>特別な価値があると思う相手というのは、初めて自分より尊敬できる部分があるとか自分と同じ価値観を持った人と思う人なんですかね?あくまでも特定の人ではありますよね。

一体化の愛情要求が働く相手とは、ホーナイの言葉を借りれば、「持つ者」であるかどうかが重要になります。
何を持つということか。それは千差万別でしょうが、その人間にとって重要な何かです。
まあ自分が求めていながら、自分が欠いた何か、という感じになると思います。それを持つ相手が、まるで他の世界は色彩のない背景のようになる形で、特別な輝きを帯びる。

>でも、一転して不信離反感情に変わるというのは、相手を利用していた(一体化する事により自分の問題を片付けようとしていた)っていう事も根底に含んでいるんですよね。。?

一体化愛情要求が挫折するという単純な悲嘆の反応に、プライド損傷による怒りと、まさに一体化に抵抗する離反感情が加わります。
この結果表面に現れる相手への不信感情は、前の一体化うっとり気分とはまるで相容れない、別人感情になる、というメカニズム。

>そこから成長が始まるんですかね。。

ここまでの話には、まだ成長要素の話はなしですな。
ここで押さえておいて欲しいことは、こうした心理現象の底にある、一体化愛情要求・プライド衝動・離反感情という主に3つの感情の間には、心理的(論理的)なつながりがまるでないことです。
起きた出来事のなかで、どれがより強く刺激され引き出されるかという、力関係で様々な様相を示すに過ぎません。

人はその中で、相手がああしたからこう感じるんだとか、やっぱりこう考えて元の気持ちへと戻ろうとか、あれこれと考えます。
でもそれは単に、全く相容れない感情同士の力関係の切り替わりのつながりのなさを、何とかつじつま合わせする思考でしかないんですね。
なぜ全くつながりのない感情が自分の中にあるのか、その根本に触れてないので、こうした人間関係のドラマの後でも、人は不思議と何の成長もしていない、ということになりがちです。
時が経って、全く同じことが繰り返されていく、と。

>相手との調和はあり得ない とありますが、これは絶対ですか?例えば、相手の態度が変わって仲良くしようとかたまたま自分のイメージにあった対応をしてきた時は、どうなるのでしょうか。

この質問への答えは上の通りです。
まったくつながりのない内面感情の力関係がどう変わるかという話になります。
また仲良くしようと考えた時、一体化愛情要求が力関係の中で前に出る。しかしプライド衝動や離反感情は変わらず心の底でくすぶっているので、何か火種がくすぶるような気分を抱えることになると思います。

こうした対人感情不安定の克服のためには、つながりのない感情の底にあるものへの取り組みが必要なんですね。
それでハイブリッドのような特別な専門的心理学が必要になるという次第。

超簡潔にいうと、大元に「感情の膿」がある。そしてそれから逃れようとする自己操縦心性というものが働く。
これは意識の土台で起きることなので、これを「知る」だけでは何の解決にもなりません。それを何とか変えようとする思考そのものが、その土台の中で動くだけです。まあその暴走を止める役には立つでしょう。
根本的解決は、それが克服される特有の生き方の中を生きるということです。
それがハイブリッドの実践ガイドで示される全てということになります。

まずは、自分の感情を決めるものは相手ではなく自分の中にあるという見方で、自分に向き合うこと。つまり「自己の重心の選択」が最初の一歩になるでしょう。
やがて、自分の中に、思考を超えて自分を支配している何ものかがあることが、次第に分かってくる。
それが解消に向かう最大の峠の話を、「自己操縦心性のついたウソ」シリーズのこれからのカキコでまさに扱います。

大体こんな感じで、質問への答えになったかな。

とりあえずここでしばらく意識を仕事の方に切り替えますー。

No.414 2005/01/15(Sat) 11:47

 
Re: 信頼と不信の切り替わりの心理 / タロ 引用

返答ありがとうございました!
まったくつながりのない感情の底にある取り組みが必要なんですねー。
深いですねーすごいです。どうもありがとうございました。

No.417 2005/01/16(Sun) 20:18

善悪の解体・補説-2 / しまの

相変わらずペーターさんの質問への返答の前の話。
前々から書こうと思っていた内容の話なもので^^;


■科学による感情の膿への取り組み

感情の膿は、人格の土台で、人生へのストレス源として働きます。
自己操縦心性は、それから逃れるためなら、人生を捨てさせてでも逃れようようとする。
これは、本来一定期間後に解除されるべきであった、「空想と現実の逆転」という人生の逆境克服プログラムが、解除されないまま暴走するような形で、それを核とした「別の人格体」が発達してしまったような現象と、ハイブリッドでは考えています。

感情の膿は、いわば「感情よりも恐い恐怖」です。
それは、自分が世界から孤立し、見放され、弾劾され、何を得ることもできず、汚され、朽ち果てるという「精神の死」の、身体生理レベルの感情の塊です。
そんなのができてしまってるんですね。

人は、人生に何か避けるべき破滅があるという感覚の中で、生きるようになります。
危険が迫っているのですから、心にゆとりと自由がありません。安全と自由を土台にして心から湧き出る自発的な感情はふざがれ、花開く人生の喜びのための「生きる活力」のための心の領域が、脳の構造レベルで停止状態になる。

ハイブリッド心理学の取り組みは、それを克服しようとするものです。
脳の構造レベルでの人生へのストレス源を解消し、生きる活力脳の機能を回復させる。

そのための基本的手段が、科学的思考なのです。
これは人類の、自然の脅威や疫病への恐怖の克服の歴史と、本質は何の変わりもないのです。
それが「神のたたり」「天罰」と考えたとき、人間は恐怖に自分の力で対処する潜在力を持たず、追い詰められた存在でいることを意味します。
恐怖と怒りの中で生き、心身機能を自ら損なって生きる。場合により、非科学的思考の中で、特定の人間を魔女と扱い、いけにえにすることで恐怖を静めようとしたりする。

人間は科学によって、それら恐怖の対象が、しかるべき原因と結果による現象にすぎず、原因への対処をすることで回避することができることを学びます。
それによって、不合理な行動が減り、自らより幸福になるような行動をする心というものを、人類の歴史を通して育てている。
医学の進歩がその最たるものでしょう。

心理障害の病根である感情の膿についてのハイブリッドの説明は、心の病という現代に残された災いに対する、科学のアプローチを示そうとするものです。
それは幼少期に蓄積された、意識から切り離された生理的恐怖感情の塊である。
それが元で、全ての他人が潜在的な敵であり自分は追いつめられるという感情が流れるようにできている。
残されたのは、いかに理性による合理的現実的思考が可能になるかです。それはあくまで自分の心の中に映されただけのものであって、現実とは必ずしも一致しないかも知れない。

その理性の目が働くことによって、自動的に流れる恐怖の感情の中でも、何とかとどまる。実際にそうして生きる体験の中で、恐怖が現実ではないことが、心の土台へと染み込んでいきます。
やがてその恐怖から解放された時、恐怖が去ることを越えた、計り知れない変化が人格の土台に起こります。「生きる活力脳」が機能を回復し、かつては無意味に見えた生活場面のさまざまなことが、喜びと楽しみに満ちてくるようになる。

それはかつて、意識して「楽しみを見つけよう」と考えて、何とか楽しいという感情を自分の中に起こそうとしていた時とは、まるで別世界です。
「そんなこと自分には」と考えていたことへの可能性が見えてきます。僕自身の最近の感覚を言うと、上司や会社のえらい人にも、以前感じた畏怖の念がまるでなく、友人のようなフランクな感覚を感じるようになったり、何千人を前にするような壇上に出ることを前にしても、アガるという感覚がまるでない。
こうした変化は、思考法の変化を遥かに越えたものです。なぜこんな伸び伸びと生きるようになれたのか。理屈じゃないんです。以前あった、心臓がキュっとなる感覚とか、冷や汗を感じるとか、そうした生理現象が、まるでないんですもの。だから、これからの自分が、何かより大きなことができるという感覚が広がってきている。

もちろん、僕のハイブリッド心理学は、それを目指して作ったものではなく、自分自身の心の迷路から抜け出すための、命をかけた歩みの先に、それがあったということです。
この歩みの本質については、小説ダイジェストのおわりに再考したいと思います。

そんな形での、恐怖との取り組みなのです。
徹底的な現実的合理的、科学的思考がなによりもよりどころです。人生のストレス源を、「人は誰でも」とか「人生とはそうした」とか、感情の膿に迎合する思考をしたら、もうそれが変化する余地はないでしょう。
感情の膿と自己操縦心性は、覚醒レベルの低下という、厄介な特性があります。最大の対抗手段である現実理性思考そのものが、それによって侵されてしまう。
したがって、望ましい理性思考の徹底度合いは、かなりのものが必要だと思います。夢の中に理性を送り込み、夢の中で夢を解こうとするような自己が生まれるレベルになって、それが働きはじめるでしょう。


ということで、前振りがようやく完了。要は、徹底した合理的科学的思考ということです。
その方向性で、ペーターさんの質問に対して僕がどう考えるかを率直に書いてみようと思います。
まず部屋掃除と仕事の残りをせねば..

No.416 2005/01/16(Sun) 13:53

善悪の解体・補説-1 / しまの

ペーターさんの質問への解説のつもりで書き出しているんですが、
まずはそれにかこつけて自分の関心事を書きなぐったような感じかと。
例によってかなり抽象的です。


■感情の膿の克服のために

ハイブリッド心理学が採用する、「人生への姿勢」。
それが「心理学的幸福主義」であり、善悪の解体自己による幸福の追求現実科学的世界観という3つの軸で成り立つ。

そもそも何故このようなものを採用するのか。何故これが心の健康化に役立つのかを、まず説明しましょう。
それは決して、より優れた人生観倫理観を極めるためなどじゃーございません。
ひとえに、感情の膿に打ち克ち克服する生き方が目的です。

感情の膿とは、人間が幼少期の発達の中で、脳に蓄積する悪感情とストレスの源泉だと、ハイブリッド心理学では考えています。
それはおそらく、脳生理学的に認められるほどの、神経伝達物質の異常な偏りとして定着しているでしょう。
そして、この量に相当する分だけ、その人間の本来の「生きる活力」をつかさどる脳機能が圧迫され、機能しなくなっていると考えています。

この感情の膿を除去することによって、その人間本体の、生きる活力脳が機能を回復し、人生を生き生きと生きるようになる。
これが目的です。
その結果その人間が、どんな人格者になるか、それともどんな生き生きとした悪人(^^;)になるかは、この心理学の枠外です。
これは医学の立場とまったく同じです。どんな善人であろうと犯罪者であろうと、医学がなすことは、心身機能の回復であり、変わりはありません。
ということで、善悪の解体とかいう話がありますが、とにかく医学的な考え方からスタートしていることをご了解頂きたい。

で、心理学的幸福主義の3つの軸とは、感情の膿の克服手段として用意しているものです。

感情の膿とは、無力な幼少期においては合理的反応といえる恐怖感情の中の最も破壊的な色彩の部分が、意識から切り離され、その人間にとって「避けるべき破滅的な得体の知れない何か」がこの世界と人生に潜んでいるという、焦燥感の強い心理状態を、成長後の人格の土台において生み出すものとなります。

この結果、人は特有の信念、世界観人生観、善悪感を持つようになります。
人間はこうあるべきだ。自分はこうならねば。この世は神の支配下にある。人間は欲望と社会の矛盾を抱える存在だ。etc。

そうした色んな世界観人生観に、感情の膿との親和性の差という特徴が出てきます。
ある世界観人生観は、感譲の膿との親和性が高い。それはつまり、感情の膿を、自分の人生において変更不可能な前提として生きる姿勢になります。
感情の膿はもはや疑問を抱かれることなく、その人間の心の底で機能しつづけ、その人は生きる活力脳のかなりの部分を停止したまま生涯を送ることになります。自分はこうでなきゃ、というストレスの一方で、人生って一体何?という疑問を感じながら。

しかし、感情の膿が生まれたのは幼少期であって、成人後のその個人にとってもはや合理的な恐怖感情ではない、という考え方もできます。
無力な幼少期に、人に拒絶されることが恐怖であったことは妥当であろうが、生活能力の潜在性のある成人後において、人に拒絶される恐怖は合理的とは言えないのではないか。

ここで思考法の違いが、その後のその個人の人格変化を決定付けます
ある人は、人に拒絶されることが恐ろしいのは当然のことであり、問題はどう人に受け入れられるかだと考えます。
ある人は、自分の生活に影響を及ぼすのでもない相手からの拒絶は、本来恐れるに値しないはずだと考えます。それでも自動的に自分の心の中に起きる、拒絶される恐怖の感情を自覚して、これは一体何なんだ、と疑問を感じます。

両者とも同じ、「人に拒絶される恐怖」を抱く人間です。
しかし、その内なる感情への思考法の違いが、その後の人間形成に決定的な違いを生み出すのです。
前者は、人に拒絶されることを恐れながら生涯を送ります。
後者は、人に拒絶されることを恐れずに行動して生きる人生への可能性が開かれます。

「人に拒絶される恐怖」がどう「治る」かが問題ではないのです。
それから逃れようとして、自分の可能性を、そして自分の人生を閉ざす生き方をするか、それとも、その感情に悩みながらも、自分の可能性を見出し、自分の人生を見出す努力をする生き方をするか。その違いが問題だということです。
その結果生まれるものの差が問題だということです。

ハブリッド心理学の心理学的幸福主義は、そんな形で、人の「生きる活力脳」を圧迫する感情の膿という現象に、最も対抗し得る世界観人生観を採用しているものです。
一言でいえば、とことん合理的な思考を追求します。現実科学的世界観のみによって、出来事を解釈します。
それとはそぐわない感情が自動的に心の中に湧いている。ならばそれは自分の心の中だけで起きている現象である。それにしたがって外部への行動をするのは利にかなわない。

心理学的幸福主義の3つの軸は、感情の膿が生み出す特有の問題に、それぞれ対抗するものです。
善悪の解体は、不合理な自己処罰感情に対して。
自己による幸福の追求は、望みの停止という、人間の情動を屈折させる動きに対して。
現実科学的世界観は、不合理な無力感に対して。

ということで、善悪の解体に焦点をあて、ペーターさんの質問への具体的解説に次いきます。
寝よ。

No.415 2005/01/16(Sun) 02:54

自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / しまの

■操縦心性が追い求めた全能万能の価値

次にプラス側面について。
ここからの文章は人に伝えたメールからの掲載です。
そこで僕はまず、「人に拒否されることでナルシズムが崩れ、一転して相手への不信離反感情に切り替わる」現象について取り上げています。
そこで、操縦心性のナルシズムが掲げた価値の特徴が、空想と現実の重みの逆転が生まれた起源への糸口となりました。
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■2つの自己イメージの間でやりとりされる「信頼と不信」

まずここから説明を始めましょう。

僕自身が女性へのデート申し込みとかしている時に起きる感情や感覚、そしてその中で抱いたイメージを分析していて考えたことです(えへ)。

2つのイメージがあります。これは体験的に分かると思います。
まず理想のイメージの中で、相手に近づく時の、自分自身のイメージ。これは「ナルシズム・イメージ」と呼べます。それは、相手もこう応じてくれるというイメージを含むものです。
それがちょっとした「イメージと違う」ものに出会った時、一挙にこのイメージが崩壊し、対称的な、相手に破壊の怒りを向ける、もしくは断罪されたかのような押し静められた自己像になる。
これを「唾棄された自己イメージ」と呼びたいと思います。

僕が注目したのは、この2つの自己イメージが切り替わる時に、それは単に自己イメージの変化だけではなく、その相手に対する実に独特の感覚を含んでいることでし
た。
それは「信頼」と「不信」です。
なぜこの感覚が伴うのかを考えました。


■高く掲げる価値

高揚した気分で相手に近づく。そこで相手が拒否というに及ばない、ちょっとイメージが違うだけの様子を示す。
それだけで気分が一挙に、頭を押しつけられたかのような重苦しいものになる。
それはどうゆうことか。

それは、「高く掲げた価値」が否定されるという感覚だと思うんです。
まず、自分がその価値を「持っている」という感覚があります。それは本当の自分自身ではない、イメージの中にある自分です。何か、誰よりも素敵で愛されるべき自分になれるような、価値。輝く水晶を手に掲げると、その光線によって、皆が自分を愛する。そんなイメージ。

ちょっと話の流れとしてはそれますが、このイメージによって愛されることを期待する人は、同時に、「本当の自分自身は愛されていない」という感情に悩むことになることがほぼ確実ですね。
それは自分が「持っている」価値であって、自分自身ではないからです。



■高く掲げた価値を否定された時

自分がそんな高い価値を持っているというイメージの中で、相手に近づく。そこでイメージに合わない反応に出会う。

その時に起きる感情反応は、まるで、宗教における価値の否定とまるで同じもののように感じられました。
自分自身を否定されたわけではない。でも自分自身にとってあまりに絶対的な価値を否定されたという感覚
そのあとでは、その相手との調和はもうあり得ないのです。あり得るのは敵対か離反です。

また、この際、高く掲げた価値を否定されたという感覚と同時に、それが「まがいもの」と見られた、という感覚が必然的に起きてしまうと思われます。
自己操縦心性は自分のついたウソを心底では嫌悪しているからです。


■全能万能の価値

こんな極端な結果を生み出す価値とは何なのか。
どんな価値を心に抱くと、こんな極端な結果になるのか。

それは「全能万能の価値」だと思います。
それがあれば何でもできる。何でも手に入る。宗教における神の力
これは心理学の観点からは、「宇宙の愛」の中で付与されるものと考えられます。無限の親の愛に守られ、無限の力を持つことによって、幼い自分でも、何でもできる。その素朴な安心感と期待の中で、現実世界へと歩み出す。

自己操縦心性は、この幼い心の発達上の要求を、自己イメージというものの中に、その無限性と万能性への期待を閉じ込めたもののように思えました。
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このように操縦心性が掲げるプラス面を考察すると、これもやはり病理の世界ではなく、人間思考のひとつの世界そのものになってきます。

自分は何でもきるんだ。その空想こそが現実だ。
今の自分は現実じゃない。

この逆転は何のために行われたのか。

それは、僕の心理障害理解の歩みの最後の最後で現れた、大どんでん返しでした。

No.393 2004/12/15(Wed) 10:57

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / タロ

「人に拒否されることでナルシズムが崩れ、一転して相手への不信離反感情に切り替わる」現象という事ですが、これについてお伺いしたいのですが、
この場合対象となる人というのは、特定の人だけなんでしょうかー。
彼・彼女があくまでも自分の価値をわかって欲しいと思ってる人にぶつかっていってそういう現象が起こるんですかね?それとも全般的に人に拒否されてしまうと
起こってしまう現象なんでしょうか?

No.398 2004/12/23(Thu) 16:17

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / しまの

こんばんはー。

特定の相手に限られることだと思います。
「一体化の愛」を求める相手です。それを求める感情が「引き出される」に足るだけの、特別な価値のようなものが、相手にはあります。
僕はこの「一体化の愛」への感情を、「自己存在を支える内面的な自信」への、通過課題のようなものだとイメージしています。

他人一般に肯定されるか否定されるかをめぐっての感情の揺れ動きは、もう少し限定的な気がしますね。
それは「自分の持つ能力への自信」に関連しているような。

「生きていく自信」には「自己存在への自信」「自己能力への自信」という2つがあるのかも知れませんね。
「自己評価と自信の心理学」をいつかまとめようと思っているのですが、そこでは「自己評価によっては自信は得られない」という話がテーマになります。
人生の活動に向っての、自発的な感情を解放することで、真の自信が育つ。

そこでは「愛」の問題はちょっと別に置いておこうと思っていたのですが、ちょっと考えると、それではどうも足りない気がする。
「一体化の愛」を求める特別な感情に巻き込まれることをもってしか起きない、心の成長のようなものがあるような気がします。

他人一般との関係の場合との端的な違いは何かというと、心の弱さが見事に引き出されることです。
他人一般との関係の感情においては、それはありません。心の弱さはうまく隠されることができる一方、それは維持されます。
なぜか。まさに「一体化」を求める感情だからこそ、それが起きます。
「一体化」を求める愛の感情に、自己の欠損を背景として、相手を通して生きようとする衝動が不可避的に仕込まれる。

その結果、相手を通して、自己自身に対する理想化の感情と自己否定の感情がさらけ出されるわけです。
なぜなら、まさに相手は自分と一体なのであり、相手からの否定はまさに、この人間が心の底で抱える自己否定感情と一体化するのです。

これは人の心の成長、そして傷害感情の治癒にとって、他にはない特別な意味がある体験だと考えています。
そこに、満たされようのない、自己の欠損を相手を通して修復しようとした自分の感情を見分けること。
そしてそこには進むべき方向はないこと。
それを、一体化の愛を求めた自己の感情を受け入れることにおいて、同時に見たときに、心には成長が起きるのですね。
その時、意識は「絶望」という形しか取らないかも知れません。
しかし、その絶望の断絶の後に、未知の自己が生まれます。そこに「自己存在への自信」が芽を出しているのです。

愛を求め、その中で起きる絶望体験がこうした心の成長になるかどうか。
それは、それまでのその人間の生き方に依存すると思います。
実践ガイドで説明しているような生き方を選択していること、ということになるかと。

例によって書きはじめると話が質問への答え以上に発展しましたが、質問とかあると僕自身が未整理の重要ポイントを考える良い原動力になりますね。
今後ともどしどしどーぞー^^。

No.399 2004/12/23(Thu) 18:57

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / タロ

ご返答ありがとうございます!
>特定の相手に限られることだと思います。
「一体化の愛」を求める相手です。それを求める感情が「引き出される」に足るだけの、特別な価値のようなものが、相手にはあります。

特別な価値があると思う相手というのは、初めて自分より尊敬できる部分があるとか自分と同じ価値観を持った人と思う人なんですかね?あくまでも特定の人ではありますよね。
でも、一転して不信離反感情に変わるというのは、相手を利用していた(一体化する事により自分の問題を片付けようとしていた)っていう事も根底に含んでいるんですよね。。?
でも、そうはいかないから、一転して感情が変わるんですよね・・。
自己操縦心性により違う自分になろうとしたが、それで補いきれなかった。
尊敬したどうしても仲良くなりたかったあの人と思うように仲良くなれなかった。
だから、相手を不信離反に思うしかない。そうする事で自分を守ろうとするって事
ですよね。でもなんか違う・・そこから成長が始まるんですかね。。

No.400 2004/12/23(Thu) 21:14

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / タロ

すいません。
「自分自身を否定されたわけではない。でも自分自身にとってあまりに絶対的な価値を否定されたという感覚。そのあとでは、その相手との調和はもうあり得ないのです。あり得るのは敵対か離反です。」
の部分なのですが、相手との調和はあり得ない とありますが、これは絶対ですか?例えば、相手の態度が変わって仲良くしようとかたまたま自分のイメージにあった対応をしてきた時は、どうなるのでしょうか。

No.401 2004/12/23(Thu) 21:58

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / タロ 引用

新規カキコ待ってまーす。
もちろんお暇な時にー。

No.412 2005/01/12(Wed) 21:08

 
Re: 自己操縦心性のついたウソ-17:操縦心性起源の大どんでん返し2 / しまの

そうそう、その話がまだありましたね。
すっかり忘れてた。アッハッハ^^;

これは「信頼と不信の切り替わりの心理」として説明カキコしまっす。

年始は何かと会議が多くて、仕事合間の時間もなくなりがちなんだなー。
今週末はスキー行かないので、掲示板カキコも掃かしたいなぁ。

No.413 2005/01/12(Wed) 22:50

呼びかけがてらに質問 / ペーター

小説の執筆でお忙しいのか、掲示板が10日以上更新されてないので質問します。

このサイトを知った当初から内容に興味を覚えるとともに、良い印象を抱き、掲示板などに表れるしまのさんのお人柄にも誠実さを感じていましたが、「自ら望むことへの恐怖」(「希望の停止」から「人生で望むものへと全力を尽くすという選択」へ)というテーマが提示された際は、本当に自分の中に長年あった混乱を解きほぐされた気がして、「なんでしまのさんは、僕のことを知ってるんだろう?」と思うほど強烈な衝撃を覚えました。
(ちなみに小説ダイジェストの内容は本当に僕自身のことが書かれているように感じさせられます)
さらに「既知ではなく未知を選ぶ」といった、とても勇気を与えてくれる指向性、そして、例えば「自己操縦心性」に関する定義や考察の修正などに感じられた誠実な追究姿勢を垣間見るに至って、このメソッドを今後も真剣に実践していこうと決意を新たにした訳です。

で質問というのはですね、おそらく「ハイブリッド」の世界観の根幹を支える「善悪思考の放棄」「善悪の相対化」といったテーマです。
これは多くの一般的な考え方を持つ人たちにとって「ハイブリッド」を実践するにあたっての最も高いハードルになっているのでは? と個人的には感じています。

実践の最初の段階では、事件・犯罪などに関するニュース報道などを見ながら、その事象を「善悪」ではなく個人的な「好き・嫌い」「好ましい・好ましくない」という基準で捉えようと努めたことがありました。
善悪の基準というものが各人の立場によって異なる極めて相対的な尺度に過ぎないことにについては、昨今の「アメリカ対世界」という構図などを見ても非常に実感しやすいのですが、世の中には、「善悪判断」を捨てたところの単に個人的な「好き(好ましい)」もしくは「嫌い(好ましくない)」という判断だけは処理できないことがあるような気がしてならない訳です。

例えば、今度の奈良の事件など自らの欲望のために、子供の未来を奪い、ご両親などを悲しませ、さらにそれを楽しんでいるような人間の存在を知った時、僕はどう考えてもそれを個人的に「嫌い」「好ましくない」と感じるだけでは収まらない。「法律に抵触したから犯人はルールに従って罰を受ける」という熱のない客観視もできない。やっぱり僕は、そういった事象を「正しくない」「間違っている」と感じているのです。とはいえ、個人的にはその感情は必ずしも犯人に対する「怒り」を導くものではありません。

確かに「善悪判断」は相対的な様相を帯びることも多々あるけれど、世界には「絶対悪」というものも存在するのではないだろうかという思いが拭えないでいます。世界では、あらゆることが起こりうるのだけれども、こんな陰惨な事件は「起こらないで欲しかった」というより「起こる“べき”ではなかった」と感じる心が僕の中に根強く残っているようです。
今後の実践に当たって、この感情にはどんなトリートメントが必要でしょうか?

僕に限らず、多くの人にとって「善悪」を放棄することは簡単なことではないような気がします。だからこそ、特にこの部分はより詳しいお話を読みたいと以前から思ってました。
「善悪の放棄」にも関わらず、“性善説的人間観”という言葉も混乱の一因かもしれません。

しかしおそらく、しまのさんは「“善悪”というものはない」とまでは言っていない。単に「心の健康のためには、“善悪”というモノサシは放棄したほうがよい」ということですよね。

助言いただければうれしいです。もしかすると書き込みで予告のあった「全体思考」というものと大きく関わってくるのでしょうか?
間違った理解をしてたらすいません。

No.410 2005/01/12(Wed) 02:58

 
Re: 呼びかけがてらに質問 / しまの

どもー。

>小説の執筆でお忙しいのか、掲示板が10日以上更新されてないので

忙しいというか、単に書くネタがないという感じかと^^;
スキーシーズンは土日がつぶれることが多く、サイト向けに割く時間が減っているというのもある。
質問意見、大歓迎です。

>小説ダイジェストの内容は本当に僕自身のことが書かれているように感じさせられます

文芸作品としては、読者に感情移入してもらえるかが重要なので、うれしい言葉ですねー♪

質問への返答としては結構ポイントがあると思いますので、新規カキコで幾つか分けて説明しましょう。
「善悪の解体補説」とでもしましょう。

No.411 2005/01/12(Wed) 11:40

自己操縦心性のついたウソ-19:治癒論への予告 / しまの

頭の中に浮かんでいることの健忘録がてら。

自己操縦心性の解明を受け、以降本格的な治癒論を論じたいと思います。
そこには2つの取り組みがある。情動の側面思考の側面です。ハイブリッドの、感情と思考へのそれぞれ異なるアプローチですね。

情動の側面、つまり感情へのプローチとは、精神分析的な側面になります。
これについては、小説ダイジェスト版の中の「解かれたパズル」で、その鮮明な事例を示すことができると思います。
これが、自己操縦心性の背後にある自己嫌悪感情の本質、そして自己操縦心性がどのようにしてそこからその人間を守ろうとしているのかが、劇的な姿で示されるでしょう。こうご期待。

治癒面では、これを解除するという通り道が必ずあると考えています。
それは同時に、その人間が今まででは耐える、否それどころか目を向けることさえ不可能であった、この問題の病巣に、直面するという試練を意味します。

まずはこの心理構造の理解をすることが、それへの最大の準備となるでしょう。

そして思考面においては、操縦心性がそこからその人間を守ろうとした自己嫌悪感情への、この心性に頼らない形での抗戦が課題となります。

そのためには、この自己嫌悪感情を貫く「感情の論理」を簡潔に整理しなおすのが有益となると思います。
なぜ、何のために、この人間は自らを苦しめ続けるのか。そして苦しめたものの最大の核とは何なのか。
入門編を始めとして、心の問題を生み出した人間の思考ミスを色々と上げてきました。正しければ怒って当然。5W1Hを失った善悪思考。愛されるためには価値を与えなければならない。既知の中で自分を縛る思考。自己の重心の放棄。非科学的世界観。断片的思考。無限の愛への要求と真実の差し替え。。

入門編のそれらの説明は、問題思考の核をまだ取りあげてなかったのかも知れないんですね。
問題を生み出した思考の核とは、「希望の停止」であるという重みが、僕の頭の中で増している今日この頃。
なぜなら、上にあげた思考ミスはまだ、必ずしもこの人間の苦しみの、そしてその結果生まれる世界への憎悪と情動的衝動のすさんだ形への変形の直接原因になってない。
直接原因の回りで、それを維持させていたものに思われます。

「希望の停止」こそによって、この人間の心が自分自身の中に折り曲げられ、情動の変形が始まる。
そしてその根源にあったのは、「正しい者だけが望むことを許される」という、実に根深く人間の道徳思考に染み付いた思考方法なのです。


従って、思考面においては、これを打破する思考体系の確立が課題となるでしょう。
そしてそれを取り巻き維持させていた思考ミスへの特効薬は「全体思考」です。

これらをそれぞれ、じっくりと解説していきます。

No.409 2005/01/01(Sat) 11:52

謹賀新年 / しまの

読者の皆さんあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

去年は僕の著作活動としても充実した1年だったと思います。
今年はいよいよ独立に向けての勝負の年としたいと思っています。そろそろ仕事との両立に決着をつけたいなと。。

メールを頂いたり掲示板に質問意見カキコ頂くことが、僕自身の考えの整理や着眼を促すうえでもとても役にたっています。
今後ともどしどしお願い致します。

なお島野は今日から3日帰省します。メール返答やレスなどはそれ以降になりますのでご了承あれ。
下のタロさんの質問への返答もそのうち新規カキコでしますので。


今年の年賀状です。(直接ここに表示しようとおもったけどこの掲示板ではできないのね)

No.408 2005/01/01(Sat) 09:06
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