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過去ログ
2005.4


葛藤への対処と解決-5:「韜晦型人格」補足 / しまの

韜晦(とうかい)型人格について、返答補足メールより。

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■韜晦(とうかい)型人格

「とうかい」で漢字変換すると出ますね。

「症状診断」も、自分でできることを試みてくださいな。
まあ世にある心理診断というもの自体、「自己の放棄」が社会構造化したものと言えますが。


ただはっきり韜晦型人格というのは、行動の一貫性が失われて本人や回りが困るようなレベルを言いますので、Aさんはあまり当てはまらないのでは..

他人にどう診断されるかはどーでもいい話です。
重要なのは、「症状」を生み出すメカニズムが何かであり、それが自分自身に働いているかどうかを知ることです。
それがあるなら、診断されなくても、「内なる韜晦」があるということであり、それへの取り組みが必要です。

ちなみに、僕が内なる韜晦を自覚した時(大学当時)の様子など紹介しましょう。
状況は省略しますので、イメージだけ感じられるかどうか。

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 午前5時。
 きのうは一応12時少し前に寝床に入ったのだが、結局一睡もせずに考え続けて、一応気持ちが落ち着き、こうして日記に向かうことになった。
 寝床に入ったあとは、いろいろな考えや空想が次から次へと現れてきて、寝つけなかった。
 現れた空想は、どれも、安定に安んじた生活をするために、まるで抜けがらのような、自分自身であることを放棄してしまった、おとなしい自分の姿というような類のものだった。

 全く月並な就職、それは自分には社会的能力がないからだ。それでもなければ改めて専門学校にでもという、全くおとなしい自己像。大学院やマスコミというものから切りかわってそう考える。
 今言えることは、自分は、自己軽蔑から逃れるために次々と自己像を切りかえ、そのためにかえって行動不能に陥っていたということだ。さらに、その自己像のどれについても、僕は現在の自分が精神的に豊かになるというおまけも求めたため、ひとつの自己像を選ぶたびに、他の自己像を全く無視するようになったのかも知れない。
 アルバイトをする自分の姿も、ひとつの理想像としてあった。これも、社会性を欠いた自分という自己軽蔑から目をそらし、自己を少しでも高めようとする気持ちの表れであった。
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韜晦は、しばしば「自分を演じ分ける」という感覚を伴うことがあると思います。
しかし、そのどれもが自分ではなかった、一体本当の自分は何なんだ、という衝撃的な自覚へ至ります。
取り組み上も、それが通過点として必要になるでしょう。

No.554 2005/04/30(Sat) 12:26

葛藤への対処と解決-4:「自己否認症候」と「韜晦型人格」 / しまの

返答メールでは続けて、葛藤状態からの逃避傾向が方範囲におよぶ結果起きる状態を解説しています。
「自己否認症候」と「韜晦型人格」という2つのキーワードにて。
それに対する基本的対処についても述べています。

少し長いですが、まとめて載せましょう。

最初に指摘する「内面と外面のボタンのかけ違え」は、おそらく全ての人に現れる共通問題と言えます。ぜひご参考にして下さい。

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■「自己否認症候」の問題

そのように取り組んでいくのが良いと考えますが、Aさんの場合、外面行動を変える意識が抜けている一方で、人間関係が自分の内面を映すものであるかのように考えて、努力の対象と意識する結果がすっかりちぐはぐになっているように感じます。

人間関係がうまく行かないのは、行動の必然的結果なのですが、内面ばかり気にしておられるような。
そして内面についての自己不全感を、人間関係がうまく処理できていないことに「掛け合わせて」体験しているような。
要は、ボタンの掛け違いだらけというようなことが起きている気がします。


この大きな原因と思われる問題に、「自己否認症候」とでも言うようなものがあります。
自分の中にさまざまな矛盾する思考や感情がある時、どれが自分の感情なのかという「自認」をひたすら逃れようとする心理です。
こんな感情がある。だがこうも考える。だからそう本当に感じたわけではない。。だがこうも感じる。だからその考えも本当の自分の考えではない。
しまいには、自分が何を考え何を感じているのかが、分からなくなってきます。

これが全般的に起きると、自分という感覚そのものの希薄化となり、自分というものがない苦しみが生まれるようになります。
Aさんがしんどく感じるものの正体は、実はこれか知れませんね。

心理障害傾向がある時、内面の矛盾は必ずある。それはもう既定事項です。
それに対する取り組みでは、「内面の開放」の局面においては、「どれも本当の自分ではない」ではなく、「どれが本当の自分なのか」を探るのでもなく、一度全てが自分なのだと「引き受ける」姿勢が必要になります。


結構前から気になっていたのですが、今回頂いたメールでも、自己否認兆候が満載です^^;

>私はこれらの質問に責められていると感じているのではないでしょうか?

「自分は..を感じているのではないでしょうか?」という表現は、心理相談においては別に問題はありませんが、本来これは人に聞くというのはかなりおかしな事態だという自覚が必要です。
もちろん、責められていると感じているでしょう。


>穏やかなものの言い方が出来ない。そして「変な奴」と思われていると自分で思ってしまう。

「思ってしまう」のではなく、実際のところそう思っているわけです。
「思ってしまう」のを治そうとしても、治りません。実際そう思っているという事実を認め、何のためにそう思っているのかという目的から考える必要があります。その目的が不要になった時初めて、自然に、その考えは消えていきます。


■「韜晦(とうかい)型人格」

ちょっと参考まで、上の「自己否認症候」が人格に深く及んだ結果の、ある人格類型の話など書いておきましょう。
これは結構頻繁に見られるかもしれません。僕も結構そのケがかつてあり、執筆中の小説で、自分がそれを自覚した部分に、ホーナイの解説を引用した部分がありますので、そのまま下に。

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 僕の視野の中に入ってきた問題は、カレン・ホーナイが「韜晦」と呼んでいたある人格類型の話だ。
 いや、特定の人格類型ではない。むしろ類型を持たない、持てない人格でもある。
 ホーナイはこんな表現をしている。それはまるでおとぎ話に出てくる人物のようだ。追われると魚になって逃げ、つかまりそうになると鹿になり、追いつかれそうになると鳥になって飛び立つ。彼らから意味のある言質を取ることはできない。そんな意味で言ったのではないと言い訳をしたり、言うことを見事に変えたりする。彼らは確定した自己像を作り上げることに失敗した人達なのだ。
 彼らの生活には似た混乱が支配的だ。権威者を求め卑屈に手を差し伸べたかと思うと、自分がドアマットのように踏みつけにされたと怒り、自分が傲慢だという呵責に合うと、一転して痛々しいほど腰を低くする。彼らには、何をやってもこれが自分だと感じられるものがない。
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■問題は同時に2つ発生する

なぜこうした困難状況になるのか、基本的な心理学を知っておくといいでしょう。
それは、問題はほぼ必ず、同時に2つ、しかも対立した形で発生するということです。

人に責められているという感情が起き、同時に、そう感じてはまずいという感情が起きます。

そんな感じなので、両方を同時にうやむやにしてしまおうという心の動きが起きがちです。


■自己否認症候への取り組み

このような状況への対処方法は、極めて明確です。

全てを個別に、自分のこととして「引き受ける」ことです。
そして、両方が矛盾しているという事実については、いったん脇におくことです。つまり不問に処します。
あくまでひとつひとつの感情を、それがちらりとでもあるなら、自分の感情として認め、それに対する取り組みを、別々にします。

これは、より強烈な内部対立である「葛藤状態」への対処とも共通する話です。
これについては他の方への返答メールで詳しく書いていますので、掲示板に乗せますので参考下さい。


また、「そうじゃない」「そうじゃない」という姿勢が、もはや自分にとって気づかないほど自然な「癖」になっていないか、確認するのが良いと思います。
何がどう「そうじゃない」のかという内容以前に、「そうじゃない」という感情と姿勢が先に起きているというような事態です。

これに対する対処法は実に単純です。
まず、それを自覚することです。
そして、否認症候を治すためには、もうひとつ否認を加えればよろしい。「そうじゃないじゃない」です。
元々、外部の具体的な事柄への否認ではなく、内面に用意された否認なので、内容によらず、一律の方法で変えることができるんですね。


■「責められている」という感情への対処

そうやって、まずひとつ一つの感情を自分に「引き受けて」から、ひとつひとつ地道に取り組んで頂きたいと思います。
実のところ、特定の感情がそうして取り組めるようになった時点で、当初の問題のうちのかなりの部分は、もう解決していることになります。問題が特定されないこと、解決の方向性がないこと自体が、かなり大きな問題領域だったからです。


「責められている」という感情について言うと、これは「感情の膿」の中でも最も典型的なもののひとつです。
感情の膿の克服については、また別途掲示板などで解説したいと思いますが、ごく簡潔にいうと、
それは何かの原因があって起きているものではなく、全ての最初にその感情があるという状況の自覚が大切です。また、それが現実においては不合理であり、もう不要な感情なのだという深い自覚の中で、消えていきます。

それを「感情の膿の放出」とか言っていますが、単に出せばいいというものではなく、その人の生き方や、生活体験などを通しての内面の強さが、その恐怖を実際のところ克服できるよう成長しているという準備段階が必要です。
感情に依存しない建設的行動が取れるようになる、という最初の話が、まさにその準備成長の過程になります。

No.553 2005/04/29(Fri) 23:26

葛藤への対処と解決-3:感情と行動の分離で外堀を埋める / しまの

まずは、葛藤状態からの逃避癖のようなものの結果、自分そのものが希薄になってしまっている状態をテーマにした返答メールを紹介します。

相談内容としては、自分の言動の良し悪しと、それが人にどう思われるかを、いつも考えすぎてしまうというもの。

世のカウンセリングでは一般に「自分はクヨクヨ考えすぎて困っています」という相談に対し、「気にしない方法」を一生懸命伝授しようとするものが多いのではないかと思います。

僕のは、結構正反対のアドバイスになるかも知れない。
困らない方法で、しっかりと考えればいいんです。


まず最初に、感情と行動の分離原則について主に解説した部分。
これは、後の段階で葛藤への本格的な内面対処が可能になるよう、外面の問題はぶれないよう落ち着かせておく、という段取りです。
余分な外堀は埋めておくわけですね。

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■感情と行動の分離姿勢の再確認

「感情と行動の分離」の基本姿勢について、再確認して頂くのがいいと思います。
感情は問わず、行動は建設的にする。つまり、感情と行動の食い違いを許容する考え方です。
実はさらに、感情と行動の食い違いを奨励してさえいます。悪感情を抱えながら、自分自身でそれを受け入れ、行動は感情に依存しない、建設的なものにする。

内面については、悪感情を「こんなこと考える自分なんて」とは考えずに、ありのままに知る姿勢が大切です。医学知識で自分の症状を見る客観的な姿勢が必要になります。
悪感情を抱く自分を受け入れるためには、心理メカニズムと来歴による不可避の結果であることを理解する必要があります。悪感情にも一片の理があることを理解する必要があります。

行動を建設的なものにするためには、建設的な行動とはどんなものかという具体的な行動学を知る必要があります。
これは「破壊から自衛・建設へ」ということと、「共通目標共通利益に基づく対人行動」という、2つの大きな原則があります。

これら、内面の開放、および建設的行動という外面を総合して、「人生における自分の望み」に向かうという、大きな方向性を目指したいと思います。


さて、それでAさんの「考え過ぎ」ですが、多少、「何を直そうとするか」が上の原則とはずれてしまっているような所があるかも知れませんね。
自分がどんなことを考えようが、いいんです。自動的に湧く思考は、「内面感情」の一種です。変えようとして変えられるものではないし、変えようとすべきものでもありません。行うべきは、それが何の感情なのかを、知るまでです。

考え方を変えたいのは、はっきりと行動に直結する思考の部分です。自分はどう行動すべきか。
その際は、はっきり言って、内面の感情はごまかし隠して、とにかく行動をしたたかに、うまくやることを考えることです。

こうすると、内面感情と外面行動の間に、実際のところかなり食い違いがはっきりしてきます。
それが、そのあとの内面変化への取り組みを導く、という流れになります。



具体的には、以下のような感じになると思います。


>休憩時間に私が続けて煙草を2本吸うと誰かが「何故2本続けて吸うのか?」
>とたずねます。私はその人を見下している訳ではないのですが、
>そう云う質問がとても馬鹿らしく思えますので
>「あんたは何故1本しか吸わないんだ?」と聞き返します。

馬鹿らしい質問だと感じるとは、実際のところ見下しているわけです。
まず行動の方は、とにかく相手に合わせるのがいいと思います。相手に合わせるとは、ここでは、相手は何も真剣な議論などしようとしているわけでもなく、単なる雑談を楽しもうとしているわけですから、可能な範囲でユーモアな会話をしておけばいい。
「2本目がうまいんだ」とか。

外面はそのように適当にすればいいとは頭で考えていながらも、感情が抵抗する。たとえば何か自動的に貝が閉じるように寒々しい感情が流れ、何を言う気もなくなる。
ならば、その感情とは一体何なのか、という取り組みが始まるわけです。


内面の問題と、外面の人間関係の問題を、できるだけ分けるのがいいですね。
人間関係がどんな感じになるかは、外面の行動法の結果でしかありません。自分の内面の良し悪しを映すものだと考えると、ドツボにはまると思います。
心の中がどんなであろうと、あまのじゃくな返答をすれば、場の雰囲気は変になるものです。

No.552 2005/04/29(Fri) 23:12

葛藤への対処と解決-2:葛藤そのものは対処しないという原則 / しまの

う〜ん珍しく休日に酒を飲まない夜
普段は平日に飲まない分、金曜と土曜の夜はしこたま、日曜もそこそこ飲むという感じで、休みはつい飲んでしまうのだけど、かなり健康志向度が上がり、マジにお酒を飲まない休日というのを考える今日この頃。

これちょっとカキコしたら寝よ。う〜ん健康的。アハ。

さて、葛藤への対処の基本原則には、感情と行動の分離原則に似た、重要なものがあります。
感情と行動の分離では、感情を一切不問として、行動は建設的なものだけにする。

葛藤への対処の基本原則とは、葛藤状態そのものはやはり不問とすることです。
つまり、葛藤そのものは、対処する相手ではありません。あくまで、葛藤を構成する、個々の感情なり欲求を、単独に、まずは取り組みの対象にします。

これは逆にいえば、葛藤状態そのものを見て、葛藤していること自体を望ましくないことだと考え、葛藤しない状態を目指した時、人は誤った方向に向かってしまうということです。

なぜ誤った方向に向かうか。これは、動物行動学から、実に示唆のある見方ができます。
つまり、転移行動を起こしてしまうわけです。
転移行動とは、逃げるか戦うかの葛藤に置かれて、いきなりあくびをするとかの無関係な行動によって、神経緊張の極大化を避けようとする仕組みです。

『A』『B』という2つの感情が葛藤を起こしている時、葛藤そのものを嫌うと、『C』という全く別の行動を起こしてしまいがちです。
それによって、葛藤が消え、一見安堵したかに見える。
ところがそれは、その人間が本心から求めたものではなくなってしまっているんですね。自分に嘘をついているような満足になってしまうわけです。

まあ、自己逃避というやつですね。
来歴においてこれに頻繁に頼っていると、自分そのものが希薄なものになってしまいます。

そうした罠と、その結果の症状を知っておき、自分自身にそれを認めた時は、危機感を持ってそれに流されないような意識をまず持って頂くのが良いと思います。

それをテーマにした返答メールをまず紹介します。

No.551 2005/04/29(Fri) 22:49

「蘇った自己」Up! / しまの

ダイジェスト続編「蘇った自己」をUpしました。
これまでで一番凝縮度の少ないもので、内面の刻々とした変化を描写しております。

ひたすら内面だけを描写しているということで、章内の場面には一切人が登場しないという、文芸の世界では特異なものではないかと。
1人だけ人間が場面に含まれるとしたら、初恋の少女の家の隣家の年配女性^^;

この章をこれだけ詳細なものにしたのは、精神分析によって何が起きるのかという、世にあまり知られることのない事柄を伝えたいためなんですね。
心には深層というものがあり、精神分析がそれを掘りおこす。それを通して、分裂していた人格が統合に向かうという、大掛かりな仕組みがあるということです。その端的な例になるのではと思っています。

このあとは一気に凝縮度を大きくして、「ひとりの人間の死と新しい人間の再生」の描写へと向かう次第。
今までの自己に訪れる「精神の死」と、主人公が閉ざされた空想の世界から健常な現実の世界へと帰還する瞬間などが、力を入れて描写したいところです。後者は鳥肌ものと言えるようなものにしたい。

それが書けたらあとは大体Introductionにちょっと加筆する程度にしてダイジェストを完成させたら、いよいよ出版本全体の原稿整理へとレッツラゴーする予定なのだす。

p.s
流れ的には、「遠く置き去りにした過去へ」の最初と終わりあたりをざっと読み返しといてもらうと、より深く味わえるのではと。

No.550 2005/04/29(Fri) 13:01

わーい10連休 \(^o^)/ / しまの

本日午前半休であとは午後出社すればGWの10連休に突入だー\(^o^)/

ただこのGWは帰省の日取りも未定の、なんの予定も立ててないもので、いつものGW突入感とはちょっと違う感じ。
いずれ物書き専門になったらこんな毎日というのをいつも想像する今日この頃なので、そのリハーサル的な感覚があるんですね。

その一方、仕事との両立も今までよりさらにうまく行けそうな感じになっており、先は分からないけど。
まあとにかく出版は早くしたい。

スキーに行くのもいいんだけど、気分次第。
それよりどーも執筆の方を一気に進めたい気も。

「蘇った過去」は多分明日Upできる見込み。
メイン部分はとうにほぼ出来ていたのだけど、次の「病んだ心の崩壊」へのつなぎになる、急変状況まで入れるところでまたちょっと時間がかかった次第。

あと「読者のフィードバック広場」みたいな掲示板を作りたいなと思っています。
時々頂く、感謝の言葉というより、「これこれによってこういった向上ができた」という、できるだけ具体的なフィードバックをお寄せ頂くような形にしたいなあという目的で。
「治れました」という感じではなく、全ての人が「終わりなき向上」の途上であるという感じにしたいですね。
ハイブリッドをさらに分かりやすく、より短時間での向上効果のあるものにするという目的。

No.549 2005/04/28(Thu) 10:43

葛藤への対処と解決-1:はじめに / しまの

新しいシリーズ、行ってみよー!
題して、「葛藤への対処と解決」

葛藤への対処は、極めて技術的です。
つまり、正しい対処法を学ぶことで、それを知らずに人間の生まれ持った思考に任せたのとでは大違いの、正しい解決に導かれる。


葛藤は苦しい状態です。しかも、心理障害傾向のあるところ、必ず、心が引き裂かれるかのような激しい葛藤が生まれることが運命づけれられているとも言えます。

葛藤が心理障害の核構造だと考えたのは、ホーナイの基本理念です。
人格の根底に葛藤の構造があり、心理障害とはそこから派生するもろもろの意識表現である。

人間は矛盾を抱える存在である。葛藤はつきものである。
そんな決めつけ思考の中では何も変化しません。

葛藤状態の生まれる理由を理解し、それを受け入れ、正しい対処法を学び、葛藤を起こした根本的な自己の欲求へと還り、その意味を自らにじっくりと問うことです。その、真実という代償を伴う痛みに満ちた取り組みを、恐れることなく生きることです。
なぜなら、その中で、心が成長するからです。葛藤への直面と克服、これも治癒の核のひとつです。


そうして成長した心は、同じ葛藤を抱えることはありません
なぜなら、今まで相容れないものと体験された、対立するかのような人間の営みを、ひとつにまとまった自己の上で許容することのできる包容力を備えた、新しい人格状態に変化するからです。


愛と自由、協調と敵対、救済と破棄、それらはもはや引き裂かれるような苦しみの中で選ばなければならないものではなく、自己の自由意志によって選択することが可能なものになります。
どっちかの自分を選び、別の自分を捨てなければならなかった。そうではなくなります。
そこにあるのは、何よりも、大きな自己の重心の感覚と、内面の力の感覚です。全てが自分の手の中にある。それは自己の内面への自信にもつながるでしょう。
そして獲得されるのは、心の豊かさです。なぜなら自分を見失うことなく、全てを認めることができるからです。

そのように、人格状態が変わるのです。成長です。

これは頭で考えて起きることでも、心の持ちようによって変わることでも、ありません。
葛藤への直面と正しい対処法の中で、生きることです。

正しい対処法の中で、葛藤と共に生きることで、心の自然治癒力と自然成長力が開放されます。これは人工的に生み出すものではありません。
従って、この成長のあとに現れる自分自身は、未知の状態へと変化します。

決して、今の自分の感情でものごとを決め付けないことが大切です。
正しい対処の中で、どんどん変化していきます。考え続けることが重要になってきます。

ということで、主に返答メール紹介などからカキコして行きますが、
まずは、心理障害に本来あった葛藤状態から、個人が目をつぶろうとした結果生まれる、自己の希薄化のような現象への理解から始めたいと思います。
まずはその自覚から始める必要のあるケースは、決して珍しいものではないでしょう。僕もそうでした。

No.548 2005/04/25(Mon) 13:37

「蘇った自己」近日中Up / しまの

ア〜サ〜! (←とあるマンガに朝こう鳴くニワトリが描いてあったなぁ..)

ダイジェストの続編「蘇った自己」を近日中にUpの予定です。
明日夜が目標ですが、少しずれこむかも。

泣けるんじゃないかと思います。僕も今週は文章詰めながら涙たまって鼻ぐしゅぐしゅさせた時間が多く、こりゃマジーと思ったことが何度か。スーパーのレジで「カード払いで」という時涙声になりそうだったり。アハ。
僕はそこに、人間にとっての癒しの悲しみの原型のようなものを感じるのだけど、果たしてそれは他の読者にも共通することなのか。
興味あるところです。感想などぜひお寄せ下さいマセ。

主人公の心の動きをなぞり、ある情景が出た瞬間、どっと涙が出るような気分を感じるのですが、
実はこれと同じ描写手法を使ったものは(まあ僕の方は手法として入れたわけではないけど)、案外、映画「タイタニック」だったりするような気がしています。
どの場面のことか分かる人いるかなー。

こうご期待!

No.538 2005/04/23(Sat) 08:32

 
Re: 「蘇った自己」近日中Up / しまの

やっぱ時間足りなかったー。
のんびりお待ちくださいマセ。

GW入り口までにはUpできると思うんだけど...

No.547 2005/04/24(Sun) 20:44

過去ログ(2月分)4件紛失^^; / しまの

2005年2月分の過去ログをUpしたのですが、どうやら一部保存ミスがあったようで、
No.448〜451の4件が消えちゃった模様。

掲示板カキコはいずれ出版本原稿として整理しようと思っているので、一瞬ちょっと焦りましたが、
前後を見たところ、ペーターさんが6項目ほどまとめて質問くださった件あたりだったようで、
No.448 ペーターさんの質問
No.449 それへのレス
No.450 回答その1
No.451 回答その2

が消え、その後に
No.452 「直感」と「ひらめき」
No.453 「プラス思考」と「未知への選択」
No.454 「魂」
No.455 「ただの人」と「唯一無二の存在」

への解説となっている模様。

補足的な説明部分だったので、まあいいかあという感じではありますが、可能なことは全てするということで(^^;)、
ペーターさん、質問のあと2項目って何でしたっけ。何か残ってたらお知らせ下さいマセ。

No.544 2005/04/24(Sun) 00:48

 
あれー? / ペーター

こんばんは。
掲示板の内容は基本的にすべてワードファイルに落としてたんですが、
少し前、ファイルがあまりにも長大となったため、テーマごとに
ファイル分割する作業を行いました。
で、お尋ねの件ですが、なぜか僕のファイルにも見つからないんですよ。
これは僕にとっても大きな損失でした。
上のカキコを見た時は「こんなこともあろうかと…」とほくそえみながら、
消失分すべてを貼り付けて、しまのさんに喜んでもらおうと思ったんですけどね。
残念です。
僕からの質問項目ですが、残り二つは確かハイブリッドにおける
「運命」と「運」の解釈についてだったような…。
うろ覚えでごめんなさい。

No.545 2005/04/24(Sun) 02:18

 
Re: 過去ログ(2月分)4件紛失^^; / しまの

どもー!

>ファイルがあまりにも長大となったため
あっはっはー。だよねー。
我ながらよー書くもんだと。早く本にしたいー。

>なぜか僕のファイルにも見つからないんですよ
それは不思議だねぇ。案外、掲示板プロバイダー側でデータ破損があったかも。まあ無料サーバーなもんで、何でもあり。

>僕からの質問項目ですが、残り二つは確かハイブリッドにおける
>「運命」と「運」の解釈についてだったような…。

何書いたかは大体思い出しました。

「運命」については、「人生に法則はない」「宇宙に意図はない」ですね。
ただし自分の人生を味わう情緒においては、運命とか宿命という観念を使うことは別に何の問題もない。僕がハイブリッド心理学を作るようになったのは宿命というようなことですね。

「運」は大いにあり。この世界の出来事は、自然物理の因果関係と、偶然による。同じ日に生まれた何10万人という命の中から、今の自分へと至るところに生まれたのは、単なる偶然である。人生のスタートに平等はない。
しかしこの人生というゲームにおける成功とは、どこにあるかではなく、そこから如何に前に進んだかによって決まるらいいという人生観ですね。

ついでに今思いついた新しい話を書きますと、「運を味方につける」とは何のことかと浮かび。
面白い言葉ですねー。運が偶然に過ぎないのであれば、「味方につける」ことなどあり得ない。しかしその言葉は確かに実際そうゆうのがあるような気がするんですね。

それは、「運」そのものが、実は常に2相の意味を持ちながら起きるということですね。
あるべき姿からの損失」という相と、「未知への可能性」という相の2つです。

そしてその2相のうちどっちを取るかという選択が、人間にはあるということです。
現にこうして、4つのログが消えたことにより、新たに7つめのテーマが浮かんだわけです。これは明らかに損失ではなく新たな獲得です。

だから、「運命は自分から切り開くもの」という言葉が成り立つんですね。
ログが消えたことを嘆く姿勢のままだったら、4つのテーマしか残らない。可能性を尽くす姿勢の中で、逆に7つのテーマへと増えたわけです。うん?言葉としてはこれで8個目までかも。

『ターミネ−タ2』のラストに出たように、「運命は変えていくもの」というわけですが、『ターミネ−タ3』は「運命は変えられないもの」になっちゃってたなぁ。。アハハァ..

ねよ。
ベーターさん、サンキュでした。

No.546 2005/04/24(Sun) 02:55

人間関係における自己嫌悪の克服:「真の向上心」への切り替え-4(End) / しまの

「真の向上心への切りかえ」は、起きた自己嫌悪をプラス感情に切り替えるという方法になります。
これに対して、自己嫌悪感情がそもそも起きないようになるには、どうしたらいいか。

これは自信の確立です。「愛される自信」の確立ということになります。
ではこの大仰な課題を、どう達成できるのか。

心の底に根深く染みこんでいる、「自分は愛されない」という感情。
これは「愛する能力の損傷の意識表現」であると指摘したのはホーナイです。ではどうすれば「愛する能力」を持つことができるか。

これについての世の人生論や心理学は実に多様であり、実にまゆつばが花盛りです。アッハッハー。
ハイブリッドでは、これについて、明確なある姿勢を定めています。同じこというものが世にほとんどないのは驚きですが、僕が知らないだけなのかな。

それは、「愛のないところにおいて人と交わる」であり、「残存愛情要求の克服」というテーマです。
多少とも、目指すものに背をむけて歩むような感じになるかも知れません。それによって逆に近づくのです。

「残存愛情要求の克服」は、心理障害の根源構造である3要素の克服という全体の中で進めることになります。
3要素の克服の「方法」は、それぞれ異なる姿勢であり、ひと言で次のように表現できます。
残存愛情要求...看取る
自己操縦心性...解く
感情の膿......流す

あと基本原則として、破壊感情の「非行動化」ということがあることを考慮して下さい。


残存愛情要求は、こうした対処原則の中で、単純ではない端的なものです。
それは「否定する」ことによって克服することはできません。それは離反への反動だけです。
その愛情要求を、認めることが必要です。しかし行動という形においてそれが満たされることはないことを自覚することが必要です。
「信頼」について誤った信念があることの自覚が必要です。残存愛情要求の満足を他者に求めた時、それは愛ではなく要請になることの自覚が必要です。
それを知りながら、他者に近づく行動を否定するのではなく、向かうことが必要です。ほぼ間違いなく、今言った誤りを犯すことで失敗するか、もしくは、限界をわきまえることに成功した時は自らによってその要求が挫かれるでしょう。
それを成長の痛みとして受け入れることです。それが「看取る」ということです。

「行動という形を取りえない」愛の自覚というのは、まさに次のダイジェスト「蘇った自己」で究極的な描写がされるものになります。

「愛する能力」は、このような対処の結果として生まれる、のではありません。
心の自然成長力の結果生まれます。自然成長力そのものは、「どうすれば」生まれるものでもなく、「どうする必要」があるものでもありません。上に述べた対処は、それを開放する方法のあれやこれやの中の、ひとつなのです。
「愛は技術ではない」ということですね。

大局観をごくキーワードのみ並べるとそんな感じですが、いずれもっと詳しい解説をしたいなと。

No.543 2005/04/23(Sat) 22:36

人間関係における自己嫌悪の克服:「真の向上心」への切り替え-3 / しまの

(続き)

■「心を開く」から「建設的である」ことへ

で目標とは何かをしっかり定めることが重要です。
これは、「心を開く」ことから「建設的である」ことへと変えて頂くのがいいと思います。

良い人間関係というと、メールでもあったように、「親密な感情を示す」ことだとか、打ちとけ和むことだとか考えるかもしれませんが、そうではないんですね。
もちろんそれはいいことです。でもそれを意識して目標にするのは、間違いなのです。

何の観点から間違いかというと、心理学からです。


「良い人間関係」が目標なら、正しい方法を考える必要があります。
その方法として、「心を開く」は間違いです。少なくとも、「方法」には順序というものがあり、最初に挙げることととしては間違いです。
なぜなら、人の心は本来その人自身しか体験することができず、共有することはできないからです。これを認めないと、心を縛る、自分自身に何かを押し付けるという、否定的感情の元になります。
それを、「自分を出さなきゃ」と考えてたら、もうしっちゃかめっちゃか..つまり言葉にならない状況になるわけです。

正しい「方法」として、最初に確実に言えることが「建設的である」ことです。
これは「共通利益共通目標のみに注目して行動する」という対人行動方法のことです。
これでイメージ湧きますかね。とりあえず以下の下の方など参考下さい。
http://tspsycho.k-server.org/guide/g02-02-02.html
分からない点はまた聞いて下さい。


でその行動方法を知るのと同時に、はっきりと知り、受け入れておかねばならないことがあります。
世間は、「心を開く」というあまり適切でないイメージを「良い人間関係の方法」と考えることしかできていない、ということです。
だからAさんのような葛藤に悩む人間が大量生産されるんでもあるんですけどね。
「自分を見せなきゃー」「打ちとけなきゃー」とだけしか言いません。

それに反発することは全くの無用です。適当に頑張る振りして、あとは放っておけばよろしい。
そのためには、Aさん自身が、自分自身に対して、自分の学校での姿勢をかなり明瞭にする必要があるでしょう。
患者さんとどう打ちとけるようになるかは、長い自分の心の成長の問題と考えることです。
学校で第一に重要なのは、技術を学ぶことだと思います。僕は個人的にも歯科医の技術をかなり選別して、六本木にある歯医者を一生もので使うのを決めてるほどの人間なのですが、僕から言わせれば、医者が「自分を出す」ことなど全然期待しません。
期待するのは、高度で正確な技術であり、インフォームド・コンセントです。

そうゆう面では、きっと回りの人たちと共通認識や共通目標が見つかるでしょう。
それだけに注目して行動することを、まず心がけてもらうと良いと思います。

これが、ハイブリッドの一番の基本である、「感情と行動の分離」の考え方です。
心の中の感情は一切問わない。
外面の行動は、建設的なもののみを心がける。

その姿勢が、心を成長させます。
心が成長したとき、安心して、自分を出すことができるようになります。「親密な感情を示す」というのは、その後の話です。
それまでには、「一切問わない」ことにした感情を、より本格的に解きほぐすという「方法」がまた出てきます。
それはまたおいおいで。

まずは真の向上心への切りかえですね。
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以上返答メールからでした。
さらに、人間関係における自己嫌悪感情の根本的克服につき付け足しします。

No.542 2005/04/23(Sat) 22:33

人間関係における自己嫌悪の克服:「真の向上心」への切り替え-2 / しまの

(続き)

■自己嫌悪は「真の向上心」に置き換える

「基本的自己受容」というのを、ハイブリッドの実践の頭の方に位置づけていますが、やはりこれが大切です。
これをしてないと、心が成長しないからです。

自分自身への味方になり、自分の辛さを認めてあげることも必要です。

また、「自己受容しないような価値観」をAさん自身が持っていることを、見直す必要もあるでしょう。

例えば、「どうせ私は嫌われている、と感じている自分を嫌っている」。
「嫌われている」という感情が湧いてしまうのは、仕方のないことです。これはしかるべき原因があることであり、今後取り組めばいいことです。
また、その感情を嫌になるのも、仕方のないことです。なぜなら実際、嫌な感情だからです。

しかし、「そんな自分を嫌う」のは、仕方のないことではなく、多分に、Aさんが選んでいる価値観です。
「人に嫌われているなどと感じずに、皆に溶け込んでいる人間でなければならない」という感情があるでしょう。
まあこの「〜でなければ」という感情自体が、問題の一部でもありますので、そう簡単に直るものでもありませんが、じっくり変えていくべき最初の部分だと考えていいと思います。


自己嫌悪、つまり「自分を嫌いになる」というのは、実は、自分が駄目だという感情と同時に、
「嫌悪される自己に対する、嫌悪する自己の優越感」ということが起きています。
自分が高い理想像を持った優れた人間であるということを、自分自身を駄目だとけなすことにおいて確認するようなことが起きているんですね。

このことを理解し、自己嫌悪感情が無駄な感情であることを理解することが大切だと思います。
それは本当の「向上心」とは全く別物です。本当の向上心をどう持てばいいのかを考えることが大切です。

真の向上心とは、具体的な目標と、そのための適切な方法の学習を用意した上で、その実践をする努力のことです。
自己嫌悪というのは、ひとつの「姿」を定め、それにそぐわない「姿」を、頭越しに叩き潰そうとするだけの感情でしかありません。

真の向上心を持てば、自己嫌悪感情のうちの大きな部分は、不要です。

(続く)

No.541 2005/04/23(Sat) 22:27

人間関係における自己嫌悪の克服:「真の向上心」への切り替え-1 / しまの

人間関係で自己嫌悪に陥っている状況へのアドバイスをした返答メールを紹介します。

以前はよく、“「どうすればいいか」と考える姿勢の中に間違いがある”というようなことを言っていましたが、最近は結構「どうすればいいか」を直接アドバイスするような表現を心がけておりまする。
質問はやっぱ「どうすればいいでしょうか」なので、「どうすればいいかと考えないことです」じゃーあまり分かりやすい話じゃないですもんね。
これからはでいるだけ、ずば〜り!(@_@)「方法はこれです」という言い方にしたい。

その点でこの話は重要ですね。僕的には結構前々からこの考えだったもの、あまり明瞭に書いたものがなかったような。
自己嫌悪を克服する方法として重要なのは、それを「真の向上心」に切り替えることですという話。

なおこれは、起きてくる自己嫌悪感情への対処法です。
根本的に自己嫌悪感情を克服するための大局観を、最後に付け足しましょう。

簡潔に相談状況を書いておくと、こんな感じ。似た状況の方も多いと思います。ひとつの典型ケースですね。
●不自然な言動や演じる見苦しさを感じないよう、一人でいることが多い。どうせ自分は嫌われているという思いが根底にあるようだ。そんな自分を嫌っているのだと思う●人と階段などで会ったりすれ違うことに対して忌避的な感情が湧く●自分のペースで他人との関係を築くことができず、親密な感情を表さなければと無理が出る。一方で人に合わせなければならないのが内心気に入らない。ちっとも面白くない。といった否定的感情●自己紹介の場面では仮面をはぎとられたような感覚で震えてしまった。先生からは「もっと自分を出さなきゃだめだよ。」と言われる。まだ自分で自分の心が良く分からない。

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こんばんは。
大体様子が分かりました。

■自分の人生を受け入れる

「分析不足」の問題というより、もっと大きな事柄への目を向けて頂くといいと思います。
そのことを置き去りにしたまま、分析を考えても、あまり意味はないんですね。同じことの繰り返のような。

まず、Aさんの置かれた心の状況は、かなり難しい状況だと思います。
人に合わせなければという焦りと、そうすることへの嫌悪感の板ばさみ状態ですね。
僕の学生時代が大体似たものだったので、どんな感じなのかは分かるのです。辛さが響いてくるかのよう。


明らかに、自分が本心では望んでいないことを、自分に強いているような状況ではないかと思います。
赤ん坊をひっぱたいて、「楽しそうに振る舞いなさい!」と命令しているような。

「自分の人生を受け入れる」ということが、まず今向かうべきところのように思えますねえ。
かなり困難な状況が、事実、起きていると思います。そんなことはない他の人々のようになろうとするのは、何を生み出すものでもない。

ではこれからどうすればいいか。

(続く)

No.540 2005/04/23(Sat) 22:24

「洗脳の心理」と「自己の重心」 / しまの

「洗脳」という、ちょっワンポイントねたですが、これも返答メールより転載。

「自己の重心」の対極に起きる心理現象ですが、実は結構複合的な結末ですね。
こんな心理学を知っておくのも無駄ではないでしょう。
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■洗脳の心理

>ちなみにこういった洗脳についても取り組みの範囲内なのか
>島野さんの意見を聞きたいと思ったのですが・・範囲内でしょうか?


もちろんです。「洗脳」は「自己の重心の選択」とは完全に反対側にあるものですね。

「自己の重心の選択」とは、自分の感情は自分自身によって決まってくるという考え方を選択することです。
「怒らされた」ではなく「怒った」。自分から怒ったのは何故か。弱いからである。
では強くなるためにはどうすればいいか。道が開けるのです。

「守ってもらう」ことも、自己の重心の中でできることであることに注意して下さい。
それは、自分の弱さを認識した上で、相手がそれを補うのに足るものを持っている、それに任せる、という「自分自身の判断」で、「守られる」という行動を選択するということです。

もし、実は相手がそんな人間ではないイカサマだったとした、結局自分の判断ミスだったということです。そこから学習し、次は変な人間にひっかからないようにすればいい。

そうゆう思考法をすることが、「自己の重心の選択」です。
経済的自立をするかどうかとは、関係はありません。


■洗脳の犠牲者

「洗脳」は、自分の感情が相手次第だと感じることをさらに超えて、思考さえ相手に委ねてしまうことですね。つまり自分自身で判断することをやめてしまうわけです。

注意しなければならないのは、「洗脳」と聞くと、オカルト宗教や戦争中の話が浮かぶかと思いますが、実は日常にも全く同じことが溢れていることですね。
自分で判断するのでなく、相手が言ったことを鵜呑みにする。それはもう洗脳の芽なわけです。

言ってしまえば、現代日本の学校教育も一種の洗脳みたいなものです。勉強しなさい。正しく生きなさい。なぜならそれが人の生きる道だから。
「なんで?」という素朴な疑問を押さえつけているわけです。「道徳」も一種の洗脳ですね。

つまり、内容がおどろおどろしい時だけ注目を集めますが、起きていることは皆同じなんですね。
自分で判断する努力を放棄してしまうという現象です。


この犠牲者になったものが最近ニュースに出てますね。
ひとつは、韓国人宣教師が多くの少女に性的乱暴をした事件です。自分のことを神だと教え込んで、言うことを聞かないと地獄に落ちると思い込ませたそうです。うまくやったもんですね。おっとこれは失言(ちなみに僕はその手の趣味はありません)。

今朝も似たような話のニュースが出てました。長野で、女子高生が誰かに灯油をかけられ、自分で火をつけろと脅されて、そうしてしまったようなのです。その子は今重体らしいです。

なぜこんなことが起きるのか。恐怖などのために、思考が麻痺してしまうんですね。
それで「相手の言うとおりにしておけば」済むかのような感覚が起きてしまう。


■「自己放棄」「委ね」と残存愛情要求

上の事件のような極端な例はまだしも、「自己放棄」「委ね」に引き込まれる心理というものが、人間にはあるということを知っておく必要があります。
子供においては、これが健康な心理現象として、「育成」という営みが行われるわけです。赤ん坊は全てを親に委ねます。小さい子供も、自分にできないことがあると、泣いて親を呼びます。自分は無力であり、守ってくれる誰かがいる。自分自身で考えることを止め、自分を委ねるわけです。

この感情は、「残存愛情要求」として大人になっても継続することがあります。
心の中に不安が膿のようにあり、無力な自分が強い誰かに守られたい、という感情が理屈抜きにあるわけです。


■「委ね」感情への取り組み

その感情の意味をじっくり感じ取って、それに身を任せることが果たして現実的なのか、自分の幸福に利のかなったことであるのか、自分で判断することが取り組みになります。

その感情の意味とは、ざっと考えてると4つほど浮かびますね。

1) 自分からの逃避。もうこんな自分のことは考えたくない。助けて。「自分を誰かに」任せたい。人は入れ替わることはできないんですが..
2) 没入感。恍惚感。うっとりする感情。忘却の境地。こんなものを求めて「委ねる」という感情もあります。
3) 相手の理想化。自分は無力であり、特別な存在に守られたいという欲求を通して相手を見ると、実際に相手がそんな人間であるかのように錯覚してしまう現象が起きます。
4) 現実覚醒の低下。その錯覚が真実であると思い込んでしまいます。これは心理障害傾向に伴って起きているので、やっかいです。半分夢の状態ですから。理性が残っているのなら、夢の中で夢を醒まそうとするようなところまで努力する必要があります。


「委ね」の感情にはこうした意味があるのですが、結局問題になるのは、それを「愛」だと思い込むという現象だと思います。
実際のところ、そうして相手に任せることが「愛」だという感情に、なってしまう場合があります。

それは愛ではありません。少なくとも「建設的な愛」とは全く別物です。

でも本人が、「これが愛だ。自分をあの人に委ねたいんだ。」というのなら、もうそれが「正しい」かどうかの問題ではなく、選択の問題になります。

「自己の重心」を取るか、「委ね」を取るかですね。
ンハイブリッドでお勧めしているのは、もちろん自己の重心の方です。
自己に重心を置くことで初めて持つことができる、現実の中で互いに成長できる「愛」というものを目標にしたいものです。


また、こうした依存的感情を利用して騙す人間も世の中には大勢いますので、愛どころでなくサバイバルの問題としても(^^;)、委ねの感情には注意して「自己の重心」を保つことが重要ですね。
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「洗脳」はこのように、恐怖からの逃避や、自己放棄、「委ね」の衝動や、愛情要求における相手の理想化など、比較的消極的衝動から起きるという面の一方、さらに積極的衝動が結びつくことで、その本格的妄想の様相を示すようになりますね。
それはプライド衝動であり、人生で体験した屈辱が抑圧され、広範囲な復讐的勝利衝動が生まれているものです。

洗脳においては、自分がその絶対思想の一員となるという幻想的尊大感が役割を果たすでしょう。

洗脳ではなくとも、相手の理想化を伴う恋愛感情は、裏側に大抵、人生への嫉妬やプライド衝動が隠れているという知識が、多くの分析例で役に立つでしょう。

No.534 2005/04/21(Thu) 14:21

 
Re: 「洗脳の心理」と「自己の重心」 / 匿名希望


なぜこんなことが起きるのか。恐怖などのために、思考が麻痺してしまうんでね。
それで「相手の言うとおりにしておけば」済むかのような感覚が起きてしまう。

の部分についてお伺いしたいのですが、
「相手のいうとおりにしておけばすむ」についてどうしてそんな思考になってしまうのかもう少し詳しくお聞きしたいです。
相手がイカサマだとわかっているのになぜ?そんな思考になってしまうのでしょうか?プライド衝動とかいろいろ関わってくるのでしょうね・・。
人間というのは恐怖があると思考が麻痺してしまうものなのですね・・。
それは安全な人から見れば信じられない事ですが、そこまで思考が変わって
しまう仕組みとかがあれば詳しくお伺いしたいです。
自分を防衛するという意味も含まれているのでしょうか?

No.536 2005/04/21(Thu) 22:35

 
Re: 「洗脳の心理」と「自己の重心」 / しまの

こんばんはー。

>相手がイカサマだとわかっているのになぜ?

いえ、相手がイカサマだという判断が消えてしまうのが、洗脳などの心理現象の本質ですね。
メカ論を一度話し始めるとちょっと難解になっちゃう傾向があるのですが、まとめてみましたので参考下さい。

「恐怖から逃れる」といった健常論理だけではそのようなことは説明できないですね。
恐怖から逃れるといった消極的な動きが起きているだけではなく、もっと積極的に、自分の理性判断を捨てる動きがあるわけです。

■他者の絶対視のメカニズム

自分の理性判断を放棄するのは、「相手を通して感じ考える」という心の動きになります。

そこでは、自己を放棄するだけではなく、その代わりになる価値体系なり思考体系を持つ他人があるわけです。
この相手が理想化されます。絶対的な価値を持つこの相手に所属することによって、依存感情を満たすと同時に、プライド衝動が満たされ、世界は下界のクズどもになる。
同時に、この相手を通して生活や人生を体験することで、内面の空虚に苦しむこの人間に、情動が外部から与えられます。
この人間の抱える心理的不具合のほぼ全てが一挙に解決するわけです。

これは依存恋愛のメカニズムを説明するものでもありますが、恋愛だけにとどまらない非常に広範囲な心理現象にわたるメカニズムです。

で健常な現実理性から見た問題は、主に2つあります。
1) 相手を比類ない存在に感じる理想化感情の非現実性
2) その比類ない相手の絶対愛により自分が守られるという感覚の非現実性

この人間が期待する相手イメージからすれば、現実の相手はイカサマなわけです。

相手の現実を理性的に判断できなくなるメカニズムは、心理障害の基本的源泉である3つの仕組みから供給されます。
1) 残存愛情要求による「宇宙の愛」への要求。他人を現実理性によって見るのではなく、「親のように自分を愛し守る他者への要求」を通して他人を見ます。
2) 自己操縦心性による、空想と現実の逆転。これもやはり、自己を尊大な存在にするために必要な世界という空想があり、それを通して世界を見ます。
3) 感情の膿のストレス。これはあたかも脳全体に外部から強い電気的圧力を加えるかのように、残存愛情要求と自己操縦心性の強迫性を作り出します。

これらのメカニズムが、現実世界である「相応しい相手」を捉えた時、相手の絶対視と依存の心理は、基本的に、理性をねこそぎ足元からすくうような形になります。

■異常性の高い自他破壊行動への引き金

上記は「洗脳」のような絶対信奉の心理ですが、その中で異常性の高い破壊行動が生まれるケースでは、多少上記のメカニズムに崩れが起きていることが考えられます。
これはオウム真理教の地下鉄サリン事件とか、上のメイン書きこみの長野の女子高生の事件のような異常な行動例で考えられる話です。まあ後者はいまいち状況が不明瞭ですが。

いくら現実覚醒が低下した心理状態でも、起きる事態は、相手が理想的存在などではなく、全くその逆であることが知覚されます。
すると上記の絶対依存感情による人格の安定状態が崩れ、かなり不安定な状態になることが考えられます。混乱と葛藤などが表面化するでしょう。

すると、人格不具合により潜行化していた自己破壊衝動が表面化する可能性が出てくる。増幅型の自己嫌悪感情というやつです。
積極的に「堕ちてやる」という自己破壊衝動の緊張の高まりによって、精神状態が一段階劣化したものになるという現象です。
この後にどのような行動が起きるかは、もう健常論理の彼方の世界になりますね。

サリン事件も、長野の女子高生も、その時の状況圧力だけでそうした異常行動は説明できるものではなく、その人間に実は以前から心理障害傾向があり、自己破壊衝動が働いて理性の劣化が起き、異常行動への一線を越えさせた、と考えるのが妥当だと思います。


とまあ今日研修を受けてる合間に書いたのですが、メカニズム論を意識すると、このようにかなり複雑だということになります。
だからこそ、常識解釈はこうした事件には何の役にも立たないのが現実ということであり、またこうした心理からの脱却を目指す本人に沢山の課題が課せられるということになると思います。

No.537 2005/04/22(Fri) 21:59

 
Re: 「洗脳の心理」と「自己の重心」 / 匿名希望

返信ありがとうぎざいました。
本当にとても勉強になりました。
どうもありがとうございます!
これからもがんばって下さい。
応援しています。

No.539 2005/04/23(Sat) 21:04

感情分析してると人生が長くなる? / しまの

ちょっと日常雑感ネタ。

相変わらず感情分析を頻繁にしている毎日なのですが、

..それというのも、感情分析を通過すると自分がさらに変化するというのをかなり意図してやっているような感じがあり、もう全然気にしないつもりなら気にしないでいられるようなことも、結構些細に渡って感情分析してるからなんですね。
で実際いまだに変化を感じており、最近の感覚を言うなら、焦りとか緊張とか不安とか恐怖とかの生理的感情をつかさどる脳そのものが消滅しつつある、という変化感があります。
もう「心の持ちよう」の変化などこれ以上ないので、感情分析した内容と、その変化にはつながり感がないです。脳の方で勝手に変化してる、という感じ。こんな仕組みがあるんですから、有難いもんです。

でまあそんな変化にやがて至る感情分析の最中は、起きた出来事と、そこで起きた感情のバランスについて、かなり明瞭なギャップ感を感じるのを分析するような感じです。「何だこれは?」という感じで。
でその対象として取り上げる基準は、ま基準を考えて取り上げてるわけではないけど、「血が昇る」「胸がきゅっとする」「どきどきする」とかの生理的反応です。
本来それは身体物理的な危険に対する反応なはずなので、物理的に危険ではないところでそれが起きた場合、感情の膿の存在が考えられるわけです。で感情の膿が「イメージに閉じ込められた感情の塊」であることから、何か該当するイメージが自分の中にあるのを反芻吟味するわけです。

..となんか感情分析実践指南のような話へとそれましたが、
最初の一文に続けて書こうとした話題とは、ここ数日時間が長く感じることがかなりあり、それは感情分析が頻繁に行われているからだろう、と考えた次第。
1週間前のことが、大体2週間前くらいに感じるという感じですね。あれっそれってまだ1週間前だったっけというのがかなりあった。

これは人格状態が変化している時、同じ時間の中でもより多くの心的時間を経過しているということなんだろうなあと思います。
ダイジェストで書いているような激動の期間はほんとそれが顕著でしたね。数日の間に、心の中では数年間を駆け巡るようなことが起きているのですから。

ということで、人生を長く生きるうえでも、感情分析はお勧めかな、というのがこのカキコの結論でした^^;

No.535 2005/04/21(Thu) 16:40

望みの停止問題-9:「人生」は人間の生来感覚 / しまの

「望みに向かって生きるう」ということについて、
望みって何ですか。欲望?欲求?という感じの質問への返答メールを紹介しまっす。

ここでのポイントとして、3つ指摘しておきませう。

まず、「人生」という観念は、人間にとって学習によるものではなく、生来的本能的な観念であるということです。

「欲求に忠実」というと得てして「今が楽しければいい」とか「刹那的人生最高」とかいう発想が思い浮かぶかと思いますが、人間というのはもともとそんなものじゃーございません。
全ての自己の欲求を総合的に満たすべく、人生のプランを考え、いかに充実して意義ある人生だったと思えるようになるか。これを求めるのは、本性だと思います。
「今が楽しければいい」という言葉を語る時、人は例外なく、人生の空虚感を感じているでしょう。というか、もし人生の空虚感を感じていなければ、わざわざ「今が」という限定した言葉を使う必要はない。

「人生」という目で、自己の欲求を追求していただきたいですね。何がそれを満たすものなのか。
それはある「活動」であり、ある「目標」があり、その中では快楽のみでなく、苦しみさえも輝く価値を持つ。結果だけではなくその「過程」に意味を感じる。そんなものを求めているのが、本心だと思います。


2つめに、「欲望vs社会」という観念は、「自己の重心」の喪失だということ。
社会というのは、我々の欲求の一種です。それに従う、守られたいという欲求。
バイブリッドでは、全ての欲求を並列化して、取捨選択する取り組みをお勧めしています。社会規範や世間常識に反した事柄への欲求がある時、それを「社会の抑圧」だなどと考えず、うまくやり通せる可能性や手に入れるものの価値、そしてとがめられ処罰を受ける可能性などのデメリットを考慮し、自己の選択として選ぶことです。

3つめに、「人生への劣等感」など、「望みを停止させるもの」があるということ。
以下では、それについては詳しく説明していません。しかし「望みへ向かう」とは、まさにそれに取り組むという面が大きな領域としてあるということを、ここでは指摘しておきましょう。

そんな考慮点があるという前提で、以下は「望みに向かう」ことについての一般的説明になります。
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■望みに向かって生きるとは

「望みに向かって生きる」とはどんなことなのか。おおよそ3つのことが出てくると思います。


1)幸福を目指す

望みとは何か。欲求?欲望?
これについては、「人生における幸福」というテーマになると思います。

やはり「人生」という観念が、人間には深く根付いているんですね。
人生を捨てた人間にも、欲求や欲望は起きます。まあそれは大抵歪んだ姿になりますが。
でも、求めた本当のものは、人生における幸福だったと思います。
ならばそれに還ることが大切です。

人生における幸福という命題が出ると、次に必ず、「では幸福とは何か」という問いになります。

僕の考え方を一言で言えば、人生という長い目を持った上での、全てを含みます。
衣食住の快適さ。人間関係や恋愛や性欲。社会活動。趣味。etc。
入門編では以下などに、幸福についての考え方を書いています。
http://tspsycho.k-server.org/ent/ent048.html

最近掲示板で書いたかと思いますが、「人生における活動」という目が一番いいように思えます。
その「活動」を通して、さまざまな欲求が満たされるような、人生の活動。
自分にとってより望ましい仕事生活や家庭生活を目指すというのがやはり大きいと思いますね。

それがはっきりするごとに、「人生の目標」という感覚も育ってきます。
それに向かうことで、より幸福になるということですが、それは快が増えるということだけではなく、
その過程での努力や、場合により苦難への直面など、その全てが価値を持ってくるわけです。



ただ、ハイブリッドでそのまま「人生の目標を定めましょう」とか言わないのは、
その言葉がおうおうにして、人生の虚無感を人工的に埋める思考法に使われるからです。


「欲望」という類も開放して、衝突する他の「良心」など、それら全てを対等なものと考え、
総合的に、調和的に充たされる姿とはどんなものかを探求するという姿勢をお勧めしています。
これが3)の「望みの取捨選択」につながります。


2)望みを停止させる思考や感情への取り組み

「人生における幸福」へと努力できている状態とは、一心不惑ともいうような感じで、揺らぎのないものだと思います。
心にわだかまりがあるということは、幸福への努力に、自らブレーキをかけているような状態だと思います。
それは何なのか、という取り組みが、そこで必要になります。

Aさんの場合、やはり「苦い感情が吹き出てくる」というあたりが、望みが停止されている状態の一端の現れだと思います。
これに対する取り組みは、実践ガイドにまとめているような全てになってきます。
まず認識して頂くと良いと思うのは、「望みの停止」は、意識で気づくより遥かに広範囲に、我々の心に根深く浸透していることです。

実践ガイドの「感情の全般的抑圧の自覚」などでも書いていますが、自動感情が起きる時点で、「望みの停止」は起きています。
従って、自動感情の全てが検討対象になり、個々の感情のテーマにつながっていきます。


3)望みの取捨選択をする

幸福への努力に自らブレーキをかける状態に取り組むと、やがて、自分の中に対立して全く共存できない感情や欲求に行き着きます。
それに直面して、取捨選択するという過程がいつか起きます。
これは「葛藤」という苦しい状態にしばしばなるものです。取捨選択は意識の上では不可能になり、絶望感に陥ることもあるでしょう。

しかし、望みへと向かう姿勢を選択した時、心の芯はそれに相応しい力を発揮するものです。
絶望感の中で、心は何かの選択をするでしょう。
「成長の痛み」としてそんなことが起きるという知識を持っておくといいですね。
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「葛藤」は心理障害傾向があるところ、必ず出てくる問題です。
というか、実は葛藤が心理障害の根っこだというメカ論さえ可能です。つまり無意識下での葛藤の意識表出が、各種の心理障害症状である。
これはホーナイによって確立された考え方ですね。

葛藤への対処は、極めて心理学的技術と言えるものです。知ってると知らないじゃ大違い。
いろんなテーマに関連する話ですが、これを題目としたシリーズを書きますのでこうご期待。

No.533 2005/04/21(Thu) 11:32

感情分析実践指南-12:思想討論という名の防衛.. / しまの

これはワンポイント。
きのうウェブである著名思想家のサイトの言葉を眺めたり、今朝の新聞の読者投稿欄を見たり、要は「私はこう考えています」ということなんだけど、
著名思想家の方は、「あらまあ何でそんなことを考えるんダロ..」と思わず絶句の、ひねった善悪観念の言葉。誰のどんな言葉かはバレないよう伏せときますが。。アハ。。
新聞投稿欄の方は幾つかあったけど、大体忘れた..けど印象に残っているのは、17歳くらいの人だったか、何かを訴えておられた。
..何かを訴えるから投稿してるわけだから、意味のない記憶。。^^;

つまり、何言ってたか憶えてないけど、そうした人々にまとわりついているある雰囲気が、印象に残るわけですね。
それは「私は人はこう生きるべきであると思います」と言っている雰囲気。
その人の心の中では、世界がその人の思想をめぐって討論をしているかのような心の世界を持っているらしい人という雰囲気。

なぜこの話をするかというと、自己分析取り組みによる変化を阻む要因として、かなり一般的なことだからです。
ホーナイはこれを「知性化」という言葉で指摘していました。

自分は人生をこう考えます。それを主張することが、「人生を生きている人間」という自己像を駆動している。
自分は愛をこう考えます。それを主張することが、「愛を生きている人間」という自己像を駆動している。
そこまではまだいいんだけど、注目しなければならないのは、そこに含まれる、「対決気分」なのですね。自分の主張が、世界を向こうに回し、賞賛の目と、敵視の目に取り囲まれるという幻想的感覚が伴うことに着目し、まさにその幻想感覚こそが分析対象にしたいものなのだとお知らせしたいものです。

これを分析して、何を明らかにするのが良いか。

ひとつは、「自己中心幻想」です。人の心が自分を取り囲んでいるという感覚。それは現実ではありません。
もし道行く人が全て、「あんたはそんなこと考えているのか。呆れたもんだ。」と言ってきたり、「あなたの考えは素晴らしい!」と言ってきたりするなら、それは現実でしょう。
しかし、誰も大して気にとめない。それがほぼ現実です。人は今日の夕食に何を食べようかと考えていたり、会社が終わってからのデートのことで頭が一杯だったりします。
これがとける時、対象喪失感情が起きることを知っておくと良いでしょう。対象喪失感情は、嘆くべき病んだ感情ではなく、それを看取ることが治癒なのだということを知っておくと良いでしょう。

もうひとつ、ちょっと新しい感情メカ的な話です。
それは「対決感覚」の方です。この感覚を持っている時、人の心の成長が止まるという現象がかなり前から引っかかっていました。

これは感情メカを考える前に、直感として感じたことなんですね。「この人は変わらない」と。
で改めて、なぜそう感じるかを考えてみました。

どうもこの「自分は人生や愛や人の生きる道をこう考えているんです」という時の、強い身構え感覚には、2つの要素があるように思えます。
1)残存愛情要求の一要素である自己中心幻想。これは今言った話ですね。
2)愛情要求の抑圧による敵対的競争心。これが新しい話。

これは、「生活全般にひろがる競争心」というテーマとも奇妙につながっています。
この、人の生きるべき道を考えることに没頭する一方で、その人につきまとう全般的な優劣意識のようなものが妙に引っかかる、というあるグループがあります。
で、その人が言う「人生はこうあるべきだと思います」という言葉の裏で、実はその人が人間としての情動を麻痺させた希薄な人格状態にあるという感覚がする。

いまいち言葉がまとまりませんが、これは取り組み初期において、変化を阻む状態としてぜひ知識を持って頂きたいと思います。
本人は、まさにその対決気分の中で、自分がいかに自己の人生を喪失した状態にあるかに気づかない状態にあります。怒りの感情の麻酔作用によってです。

生きるとはそんな抽象的なことではなく、実際に誰かと触れ合ったり、何かの活動をしたりする、直接的な濃い情動の方にあるんだということですね。

そのいかにも真剣な考える姿勢の一方で、いかに自分自身の人生を見失っているか。
まさに僕自身の本格的自己分析以前の状態だったので、身を持ってわかるのです。

そしてまた今の僕自身が継続して取り組んでいくテーマでもあります。こうした心理学を出すという行為には、その人間個人の生き方がどう人に見られるかということへの過剰な意識が付きまとうのは不可避。
まあそれを脱して、あくまで心理学は心理学、僕個人は実にただの俗人という形での行動力(?)を自分の中に育てている範囲において、社会に出る行動を考えている、という感じがあります。

ワンポイントと言いながら例により話が長くなったか。。

No.532 2005/04/21(Thu) 10:32

感情分析実践指南-11:「感情の目的を感じ取る」という原則 / しまの

感情分析の進め方で、「感情の目的を感じ取る」という最も基本的な原則について触れている返答メールがありますので掲載します。

感情分析で行う作業そのものは、「感情の反芻と吟味」なのですが、闇雲に反芻吟味しても何にもならない、場合により逆効果になるという話での、では何がそこで必要かの、ひとつがこれです。
感情が連鎖的に流れる中で、自分では意識してないような、ある特徴的な要素を、反芻吟味の中で明瞭にしていくわけです。「感情の目的」がそれ。

そして、この「感情の目的」を反芻吟味により把握するためには、さらに、行き当たりばったりで考えるのでなく、地図に該当する、「感情の構造学」の知識が必要になります。心理学の深さと幅という世界がここで出てきます。

ここでは「自己努力への抵抗」の心理を取り上げて説明しています。
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■自ら努力することへの抵抗

ここでひとつの心理の問題を考えるのがいいと思います。
自分から努力することが必要であり、それが自分にとっても良いことである。
でもそうする気になれない。まず「自分は辛いんだ」と言いたい気分になる。

あるいは、自分の辛さを人にぶつけたくなる。相手の不理解に出会い、さらに自暴自棄的な気分になる。

これは「自ら努力することへの抵抗」の心理ですね。

その感情は実は、何も「間違って」はいません。
なぜなら、実際のところAさんにはそうする権利があるからです。
子供の心を正しく、優しく育てる環境があれば、Aさんにとって今自分は「好きな自分」であれたでしょうし、こんな苦しみなどなくて良かったのです。
自分は間違ってはいなかった。世界が間違っていた。
それは「間違い」ではありません。

それを表現するためには、「辛くなければなりません」。
「自分から努力してはいけない」のです。なぜなら、自分から努力したのでは、まるで自分が間違っていたような話になってしまうからです。

この論理がほぼ無意識下で一瞬におき、「自分は辛い」という姿勢が現れるという心理メカニズムがあります。
「機能性の苦しみ」と呼ばれることもあります。自分は苦しいと感じることが、ある機能を果たしているんですね。


■感情の目的を感じ取ることで初めて選択が見える

これへの対処ですが、この感情を頭から否定して、「自分から努力する気持ちにならなければ」と考えることではありません。
むしろ逆に、その「自分は辛い」という感情に感じ入り、その感情の目的を感じ取るのがアプローチになります。
多分、「間違っているのは回りであり自分は間違っていない」ことを確かめようとするかのような目的を持っていることが感じ取れると思います。

そこまで感じ入って、初めてその感情をこれからも取り続けていくのかどうかの「選択」が見えてきます。
「自分は辛い。間違っているのは世界だ。」という姿勢を取り続けるか。それとも、その主張をすることより、自分から動くことを選ぶか。

後者においては、「善悪」観念が放棄されてもいます。
自分は辛い。そこで「何が間違っていたのか」は一切問わず、ただこの克服に向けて最も合理的で利にかなった行動をする。人がそれをどう見るかという問いは、ここにはありません。


ここには世界観というものも関係してきます。
「思いやり助け合い」の世界観、「皆が平等に幸せになるべき」と言った世界観を取るか。道徳的世界観とも言えるでしょう。
それとも、「自助と自衛」、自然界における弱肉強食やサバイバルの世界観を取るか。置かれた状況で利にかなった行動で自ら前に進む者が生き残る。そうしない者は潰されるだけ。善悪を放棄した世界観です。

前者では、自分からは動かず、回りが動くというのが行動原理になります。
後者では、自分から動くことが行動原理です。
ハイブリッドは、後者に立っています。

No.531 2005/04/20(Wed) 18:51

(No Subject) / タロ

「頭では分かっている」とおっしゃいますが、親密な感情とは頭で分かるものじゃーございません。まず自分を解放することが大切です。
頭で考えると、自分の本心を見失います。自分が何を求め、何を嫌がっているのかの本心を、感じ取ってあげることからだと思います。
その自分の辛さを認めてあげることからです。
どうすればいいかは、その本心に立つことで、ハブリッドからも色々tとまた示唆できると思います。
-------------------------------------------------
といった内容を以前掲示板に書かれていたと思うのですが、
すみませんまた探せませんでした・・。
これについてお聞きしたかったのですが、
私は「真の自己を探す=真の本心を探す」という風に感じていたのですが
以前、真の自己を探そうとしても見つからないため、自分の魂を見つける という風にというアドバイスであったのですが、自分の本心を探すという風に感じ探すことは構わないのでしょうか。
よろしくお願いします。

No.525 2005/04/18(Mon) 16:46

 
少し訂正(下から5行目) / タロ

私は「真の自己を探す=自分の本心を探す」という風に感じていたのですが


よろしくお願いします。

No.526 2005/04/18(Mon) 16:48

 
Re: (No Subject) / しまの

こんばんはー。

そのカキコはNo.517「小説ダイジェスト次のUpしちゃいました」(4/10)への匿名さんレスへのレスNo.521「ヒント」(4/12)だすね。

>自分の本心を探すという風に感じ探すことは構わないのでしょうか。

もちろんそれでいいと思います。
それで、ぜひ、常に「何のために」という目的を一緒に理解して頂くのがいいと思います。
それが分かれば、「どうするのがいいか」は自ずと決まってきますので。

ハイブリッド心理学の大元の目的は、心を成長させることです。
心の持ちようも、思考法も、そのために用意します。それですぐに何かが良くなるのを期待するのとは、少し違います。まあ成長に役立つことの中には、すぐに役立つものもある。しかし場合によってはもっと長い目で見る必要のあることもある。

心を成長させるための基本は、内面の感情は開放し、外面の行動は建設的にすることです。感情と行動はいったん分けて考えます。「感情と行動の分離」の大原則ですね。

「自分の本心を探る」ことは、感情の開放の話です。実践面では、言葉の違いはあまり気にしなくていいと思います。
感情の開放のために自分の本心を探るとは、人は自分を偽った感情を持とうとすることがあるということであり、自分に嘘をつく姿勢を解除する必要があるということです。

基本的な考え方はそうゆうことです。
実践面においてどうゆうことなのかは、日常生活の中で具体的に気になる感情や思考をじっくり分析する中で、色々出てきます。タロさんも具体的なことをメールなり掲示板なりで書いてもらえれば、一緒に考えませう。

No.527 2005/04/18(Mon) 22:16

 
Re: (No Subject) / タロ

ありがとうございます!!毎回助かります。
またメールや掲示板などで質問するかもしれませんが、
よろしくお願いします。

No.530 2005/04/19(Tue) 22:43

しまのさん、ありがとう。 / 匿名希望

しまのさん、こんにちは。
ハイブリッド心理療法が少し分かってきた気がする今日この頃の匿名希望です。
他人に何かを期待するのも自分の人生を生きないことなんだな、嫉妬するのも裏にその他人がうまく行かないことを望むという「他人の人生を生きる」姿勢があるんだな、と気が付いた次第です。でも、感情の膿はまだまだ放出されずに抱えています。それでも、したたかに共通利益を目指す人間関係の形成に向けて生きていこうと思うと、どんな人に会うのも苦になりません。これだったのですねー。しまのさん、本当にどうもありがとう。

No.528 2005/04/19(Tue) 19:42

 
Re: しまのさん、ありがとう。 / しまの

こんばんはー。
何かをつかんだようですね^^。新たな人生の歩みにれっつらごー。
新しい感覚や新しい感情、新しい疑問などもどんどん出てくると思います。
またいつでもカキコ頂戴な。

No.529 2005/04/19(Tue) 22:25

感情分析実践指南-10:「感情と行動の分離」基準を見究める-2 / しまの

カキコネタがまた結構増えてますので、簡潔にまとめときましょう。


■感情分析実践過程における「感情と行動の分離」基準

「感情と行動の分離」は、感情分析の実践過程において、さらに深層心理レベルでの実践項目になります。
感情分析とは、単に自分の感情を深く知るだけではないのですね。それに応じて、心理学的な自己導きという姿勢ができてこそ、心の成長および人格治癒という効果を発揮するわけです。

それによって、今までの自動的な行動パターンとは違う行動方法を取る方向に導くわけです。
大抵これは心理的抵抗のある行動になるでしょう。それが操縦心性に逆らうことで、操縦心性の崩壊や感情の膿の放出という手術的局面を導く可能性がかなりあるという知識も持っておくと良いでしょう。
そしてこの流れを自分の成長過程として受け入れることが、まさに治癒作用の核ともいえるものになるわけです。

感情分析過程で実践する「感情と行動の分離」の、より深層心理学的な基準は、主に4つの要因から考えられると思います。そのうちもっと増えるかも知れないけど。

まず、自動的な感情反応である、追従・攻撃・離反という3つの主要自動感情の意味を深く知り、自分の幸福にとってより望ましい行動方法へ変えるというものがあります。
これが4要因のうちの3つというわけ。

詳しく見れば色々とあるでしょうが、ごく典型的な話をするならば、
追従態度においては、恐怖回避の手段として「縮こまる」という姿勢を自動的に取っていることを自覚し、その妥当性を検討する。「愛」についての自分の思考法を検討する。不安回避方法として相手にすがるという行動方法を見直すなど。
攻撃態度においては、多くの攻撃衝動がプライド損傷反応として起きていることをまず自覚する。プライドと自信とは全く別物であることを理解する。人生という長い目で、自己の幸福と自信という目標を考え、それに従って行動の取捨選択をする。
離反態度においては、離反型行動が主に「内面の純粋性の維持」という目的を持っていることを理解する。「ニセへの嫌悪」が人間関係から自分を退却させていることを理解することも重要です。一方で、それが自己の人生そのものからの退却であることを理解し、不完全な世界の中でも生きるという意志が重要になることを理解する必要があるでしょう。行動に踏み出す。

もうひとつの要因は、そうした感情内容にかかわらずに強く意識したいことで、「イメージを相手に行動せず、現実を相手に行動する」ということです。
これは、自動感情が起きる状況においては、感情の具体的内容以前に、我々の心がイメージの世界におおわれている現実覚醒低下状態にあるということを、わきまえておく必要があるということです。

この「イメージの世界」は、大きく2つの供給源があります。
ひとつは残存愛情要求のひとつの側面である、「人の心が自分を取り囲んでいる」という幻想感覚。「中心幻想」とも呼べるものです。
もうひとつは感情の外化です。これは自分の中にある感情が他人に投影されるというのと、要求する他人の情動が実際に相手にあると感じるものがあります。

こうした「イメ−ジの世界」に対しては、「とにかく反応しない」ことが指針です。つまり非行動化が原則。
現実はそこにはない。現実とは何かを考えていく姿勢が大切です。


■人間集団幻想からの脱却

上記の、自動感情やイメージの世界といった様々なことが組み合わさって、しばしば、特定の「人間集団の輪」が、自分がそこに入ることができる、それとも手がとどかなかったり、排斥されたりするものとしてイメージされることも、典型的に起きますので、知っておくと良いと思います。

また、世の中の人々は実際のところ、こうした人間集団幻想の共有によって成り立つ排他的な身内意識を持つ場合が良くあります。まあ一種の仲良しグループですな。
そうした集団においては、人々は自動感情とイメージをまさに現実として生きてしまう。まあ次の心理障害が生まれる故郷のような世界です。

一方では、そうした集団意識のない、開放的で建設的な人々から成る集団がある。それは「入れてもらったり」「のけ者にされる」という観念のない世界です。それぞれが個人として独立した上で、共通目標や共通の楽しみがあれば一緒に行動するという、排他性が少なく流動性の高い人間集団です。

そうした建設的な人々の集団に入ることは、とてもお勧めできることですね。
明確な目的を持った人々のグループになると思います。趣味とかボランティアとか。
これは「心の選択」でもありますが、「生きる環境の選択」でもあります。心理障害は例外なく、心の健康にとって望ましくない環境で生まれ、人はその環境に適応することが「正しい」ことであるかのような感覚でいることが良くありますが、「環境を変える」ことが自己の幸福にとり適切なことであることもある。
これが「破壊」という行動様式から、「自衛」のさらに進歩した「建設」という行動様式というものです。


■揺らぐイメージの中にある一片の建設的要素に向かって行動する

最後に、こうした実践は、自動感情やイメージを「排して」行うのではなく、まさにその中において、つまり自動感情やイメージを頭越しに否定するのではなく、それらと「共に歩む」中において行うものだということを知っておく必要があります。

自動感情やイメージをなくすことで、現実的行動が取れるようになる、のではありません。
現実的行動への努力の中で、自動感情やイメージを成長の痛みと共に克服できます。


そのためには、自動感情やイメージに自分が惑わされていることを十分に把握しながら、そこにある一片の建設的要素に注目し、それに向かって行動する勇気を出すことがとても重要になります。

これが「心理学姿勢」の目指す姿です。
この行動の結果は、大抵、期待した通りにはならず、得てして手痛い失敗になります。自己操縦心性の崩壊や感情の膿の放出を招く。そこで何が起きているのかを理解し、身をもって感じることで、心が根底から成長するわけです。

このあとの「心の手術」シリーズでは、このように現実行動を建設的に変化していく過程でテーマとなる、自己操縦心性の挙動の理解や、感情の膿の放出の迎え方などについて解説していきます。

No.524 2005/04/18(Mon) 13:24

感情分析実践指南-9:「感情と行動の分離」基準を見究める-1 / しまの

■感情分析における「感情と行動の分離」の実践と治癒作用

「感情と行動の分離」は、感情改善へのアプローチの第一歩であり、ハイブリッドの実践の本体部分における最初の要件です。
感情は一切問わない。その代わりに、行動とは分け、行動は建設的なもののみにする。それ以外は非行動化する。
この大原則です。
http://tspsycho.k-server.org/guide/g03-10.html

これは、ハイブリッド実践のスタートであると同時に、より本格的な感情分析を進める中においても、新たな「心理学姿勢」の実践に進化していきます。
自己深層心理の理解において、「感情と行動の分離」基準を自ら理解設定し、それに従い行動化と非行動化を判断する。

これが、「心の手術」と合わせ、治癒が本格的に実現するひとつの局面になります。
「心の手術」局面、つまり自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出は、自分で起こそうとして起こすことはできない、という話をしましたが、では何によって導かれるかの答えがこれになります。
つまり、自己深層心理の理解において「感情と行動の分離」原則を実践した結果が、しばしば自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出を招きます。

この理解は感情分析の本質と大局観を理解するために重要ですね。
感情分析によって何が起きどう治癒が起きるのか。今までは「感情の構造学」を学ぶことで、自分の感情を深層での構成要素に切り分け吟味する。その中の非合理的要素の自覚によって、その部分が崩れる。その結果感情全体のバランスが崩れ変化がおきる。というような説明をしてきましたが、ここでさらに能動的な要素が加わります。
1)感情の深層要素レベルにおける意図を理解し、それが本当に自分が求め続けていくべきものかを考え判断する
2)上記判断結果に従い、行動化もしくは非行動化を行う。


この結果は大抵、今まで自分が出来事に自動的に反応して行動したのとは、違う行動を取ることにつながります。
それが「現実」において起きることに意味があります。なぜそれが今まで現実の中で取られることがなかったのか。まさにそれが、感情の膿に触れないために自己操縦心性が取った回避策だったからです。
感情分析を通しての新たな行動化もしくは非行動化は、これを「犯し」、操縦心性が命じていた「べき」に抵触する事態が現実において起きることになります。

この結果、感情は想定外の悪化を起こすことになります。これが「感情の膿の放出」になります。
そこで何が起きたのかを理解することが極めて重要になります。それが心が成長する、まさに中核作用であるからです。心の根底が、何かを学び、感情の膿の放出状態を定着させるわけです。
これがないと、分析過程での感情の悪化は、「膿の放出」に見えてもあまり治癒効果のない、リバウンドのような元通り結果になってしまう。

ここでいったんカキコしましょう。
次に、「感情分析における感情と行動分離の主要基準」について説明します。

今日のカキコはとってもアカデミックな雰囲気だなぁ。アハハ。

No.523 2005/04/16(Sat) 12:49

望みの停止問題-8 / しまの

掲載中の返答メール文の残り部分を以下に。

人間の情動を破壊的な方向に変形させる直接原因は、「望みの停止」である。
ここで言う情動とは、欲求とか衝動のことです。

つまり人は、自分自身への処罰感情から逃れる中で、自らの望みを停止するという手段を用いる。
それは確かに恐怖を逃れるために自らの人生そのものを停止させるという方法で、役に立つのですが、それは同時に、人間性そのものを歪める結果につながるという、代償の極めて大きい両刃の剣なわけです。

一言でいえば、自分の人生を生きることができず、「他人を通して生きようとする情動」が生まれることです。
これは新たに大きな焦点を当てたいキーワードですね。

我々が取り組むべき問題は何なのか。見失わないことが大切です。自己の重心の選択、残存愛情要求、望みの停止、自己操縦心性、感情の膿、行動学、自己の受容、これらが取り組み対象として大きな目印になるものです。
そろそろこうした目印全体の整理をしたいと思っていますが、この「他人を通して生きようとする情動」もそのひとつとして挙げたいと思っています。

なぜ人のことがこんなに気になるのか。なぜ揺るぎない自分というものが持てないのか。
むしろこの目印の方が、先に現れるかもしれません。つまり多くの人が、まずそれを気にして、どうにかしたいと思い始める。

それに対するアプローチは多様です。沢山の取り組みが必要になります。
なぜなら、そうなった原因が「望みの停止」なのであり、「望みの停止」が多様な問題から供給されるからです。その全ての源への取り組みが必要です。

掲載の返答メール残りは、それをざっと概観するような感じで書いているものです。
それを通じて目指しているのは、「自分自身の人生を生きる」ということです。
この大きな目標観が重要だと思います。決して、あれやこれやの悪感情を、行き当たりばったりでどうこうしようとすることではないのです。
人間の生き方として大きな選択肢があり、そのどちらを選ぶのかという大きな方向性があるということを、ぜひ心に強く意識して頂きたいと思います。

細かい課題は、その選択によって、自然に整理され、実践へと導かれるでしょうから。

返答メール文は、残存愛情要求や、「自ら望む」と「与えられる」の矛盾といった個別の話を受けて続けています。
引き続き個別の話を並べていますが、「他人を通した人生vs自分自身の人生」という大きな選択の中の話であることを意識してみて下され。

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■隠された最も毒気の強い自己嫌悪感情

なぜこんなことが起きるのか。
それは最も毒気の強い自己嫌悪感情から逃れるためなんですね。そしてその毒気は強烈ですが、それを克服することが、全ての問題の解決につながる。
自己操縦心性は、それから逃れるためになら、その人間に人生を捨てさせようとします。直視できた時、それは消えるのに。


そんな毒気の強い自己嫌悪感情が、「自ら望む」ことにくっついているのですね。
それは自分自身に対して「なにを〜などしようとしている。お前はそんな分際じゃない。」という自己嫌悪です。自己の属性への嫌悪ではなく、自己主体への嫌悪です。
それに抗って自ら望むものへと行動したとき、感情がそれは破局だというような自己嫌悪感情が現れます。にせもので不様な、見せ掛け倒れのクズ。。

それを感じ流すという、「悪感情への耐性」と、その感情の背景にあって、その感情を生み出し続ける「生きる姿勢」に対抗できる価値観人生観が必要になります。

メニカズム説明の続きをしましょう。


■特別扱いへの権利要求のメカニズム

自ら望みに向かわない限り、その毒気の強い自己嫌悪感情は停止させておくことができます。
しかしそれは両刃の剣として自分に返ってきます。

まずは望みを停止したことによる、背景的な苦しみや空虚感や、価値ある世界への憎悪。
そして感情の活力を失い、あるべき自分の姿から、現実の自分の姿が遠ざかります。
ますます苦しくなるわけです。


■全ての背景にある「望む資格」という価値観

以上が感情の、「現象面」におけるメカニズムです。
つまり表で流れている感情の仕組み。

その裏に控えているメカニズムが、「望む資格」についての論理です。
これこそが、全ての問題の起源であるとさえ、僕は最近考えています。


それは、価値ある者だけが、それに相応しいものを望む資格があるという論理です。
もうひとつあります。辛い人間が、望む資格があるという論理です。


ここで上に説明した流れがつながってきます。
つまり、苦しみゆえに、望む資格が出てくるのです。
「与えられる」「世界が自分のためにしてくれる」ことへの要求がここから出ます。

これが、明晰な思考を伴わずに、自動感情として起きます。

毒気のある自己嫌悪によって、自らの望みを停止し、その苦しみを背景に、与えられることへの要求が増大する。
一方で、無意識は、このメカニズムにある人間を軽蔑します。自己軽蔑が、この循環の最初につながります。
底なし沼ですね。


■脱出への課題

この底なし沼から脱出するための課題は上に書いたように、2つ。

自ら望みに向かおうとする時に現れる、毒気のある自己嫌悪への抗戦であり、悪感情への耐性全般が重要になります。
悪感情を嘆くという悪循環を起こさずに、そのまま感じ流す。

もうひとつが、価値観世界観の根本的変革です。
結論から言えば、「望む資格」思考の徹底的な破棄です。
どんな人間にも、望むことが許されるという、世界観。

僕は奈良の女児殺人犯の小林薫にさえ笑顔を見せることのできる自分を感じています。
なぜなら、もし彼との間で面白いジョークが交わされれば、それが単に面白いからであり、その会話が楽しいからです。
一方で、彼が犯した罪の罰を、彼は受ける。それは死刑であるかも知れない。僕がその決定をしてもいいのです。
それと、彼に笑いかけることとは、全く別のことなのです。

「そんな人間に笑顔など見せる必要はない」。その価値観が、全ての問題の始まりだと思います。
駄目な自分には、望む資格がない。生きる資格がない。

その価値観を破棄した世界が、「善悪の破棄」に他なりません。


■サバイバルへ

手短に、世界観に最後に加えて欲しい、もうひとつの要素をいいます。

我々がこの取り組みをする時、はっきり言って、不利からのスタートであることです。
最初に「100%でなければそうとは言えない」と言ったのはこのことです。与えられた環境だけにとらわれず、可能性を最後まで追及する姿勢が、決定的になると思います。

身体にハンディを負って、望みを絶たれたかのような人生の再スタートと同じことです。
死にもの狂いで、その克服を目指した人間が、やがて自分の人生を見出す例を沢山見ることができます。

心に障害があるのなら、それをひとつのハンディとして、唯一無二の自分の人生を見出す歩みへと踏み出す勇気を持つかどうか。
それが、根本的な「選択」になりますね。

No.522 2005/04/13(Wed) 10:51

小説ダイジェスト次のUpしちゃいました / しまの

今日から3日連続で「社会に出る」作業ごとでごたごたするのでまた次週かと思っていましたが、
時間ができると進めたい気分に乗せ、「2 少年時代まで (出生〜中学時代)」「7 遠く置き去りにした過去へ (大学4年7月)」を仕上げUpしましたのでぜひ読んで頂戴な。

2つとも、次の「蘇った自己」への助走の位置付けになります。
それだけ、この後の5日間に起きたことは、10年にわたる時の流れと、その中で分離したままの人格が収束していくという特異な時間となる。
それをいかに表現できるかにチャレンジ。。

No.517 2005/04/10(Sun) 00:22

 
Re: 小説ダイジェスト次のUpしちゃいました / 匿名希望

小説ダイジェストのUP、お疲れ様でした、と同時にありがとうございます。わくわくしながら拝読いたしました。そして、「否定された家族」の部分にとても共感いたしました。
「I should not love them, because they do not love me. 彼らを愛してはいけない。なぜなら彼らは自分を愛さないのだから。」私は現在、誰かと親密な関係を持てずに悩んでいます。誰かに何かを頼まれると、「利用されている」と感じるのです。逆に誰かにものを頼むのはその人を利用するような気がして気後れがするのです。頭では「友人関係は持ちつ持たれつ」と分かっているのですが、実感レベルでできないでいるのです。これは、やはり来歴に由来するのだろうとは思うのですが、これからのために解決したい事項のナンバーワンです。島野さん、お願いします、ヒントを下さい。

No.518 2005/04/10(Sun) 07:12

 
Re: 小説ダイジェスト次のUpしちゃいました / しまの

こんばんはー。

対人関係つまり人への感情や行動の「成長」について、ハイブリッドでは、かなり総合的かつ長期的な方向性だけを示しています。

つまり、短期的、即効的な「こうすればいい」というのは幾らでも考えられますが、得てして元の状態に戻りがち。
大きな方向性を持つことが大切だと考えています。

ハイブリッドでは「二面を同時に見る」ことを極めて重要視します。これは問題そのものが大抵二重の構造を持っているからです。
だから、片面だけ見て「こうすればいい」と考えても、視野から外れた別の面が、問題を供給し続けてしまう。
対人関係については、
1)否定的感情が湧いてしまう
2)その否定的感情を頭越しに直そうとする

この二面が問題を持続させているものとしてあります。

湧いてしまう否定的感情を自分で受容しないまま、「これではまずい」と直したいと考える。すると「自分はまずい状態にあるらしい。危険な状態らしい。」と心の底が感じて、不安や猜疑に満ちた感情が生み出されます。

このため、方向性としては次の二面になります。
1)湧いてしまう否定的感情を頭ごなしに否定するのではなく、理解することに努める。直そうとはせずに、なぜ否定的感情が起きるのかを知ることです。
2)「知ること」おうおうにして、頭ごなしに自分の欠点のあら探しをすることになりがちです。1)の「知る」ことと平行して、自分の欠点をあら探しするのではなく客観的に見ることができる姿勢、そして自分や他人の中に起きる否定的感情に動じることなくいられるような、価値観や善悪観、そして行動学を学ぶことが大切です。また「愛」という感情がそもそもどのようなものかの心理学の理解も大切です。


ひとことで言うなら、感情は「変える」ことはできません。しかし「変わる」のです。
心の姿勢により、プラス方向もしくはマイナス方向へ。感情の方からプラス方向へ「変わる」ための、「心に対する態度」を学び実践することが大切ですね。

上のそれぞれの詳細については、サイトや掲示板のどこかに書いてあります..ではどうしようもないですね^^;
早いとこ整理して本にしたいんですが。。
「実践ガイド」の「愛と心の成長の心理学」に多少まとめてありますので、まずその辺を参考の上、細かい疑問等あればどしどし質問して下さいな。

No.519 2005/04/11(Mon) 19:38

 
つけたし / しまの

上記のようにいきなり「これが全部です。全部必要です。」では途方に暮れちゃうかもしれませんので、どこから取り付いていいか分からないような時は、ぜひメール相談などして下さいな。当面まだ無料相談営業中。

心の状態に応じて、次に何に取り組めるのかは大体範囲が決まっています。自分では得てして、その範囲でないとこばかりに目が向きがち。
相談者の焦点をその範囲に集中させるのが援助者の役割です。

その辺に、僕が本だけでなく今後とも色んな人の援助を続けることで磨きたい、専門技量という世界がありますので。
自分で言うのも我田引水ですが。。^^;

No.520 2005/04/11(Mon) 19:53

 
ヒント / しまの

とりあえず全体観は以上。
とにかく、それを見失うのが気になり書いた次第ですが、匿名さんのカキコ読めばいちおう具多的なヒントになるものはありますねえ。エヘヘ。

>私は現在、誰かと親密な関係を持てずに悩んでいます。
>誰かに何かを頼まれると、「利用されている」と感じるのです。逆に誰かにものを頼むのはその人を利用するような気がして気後れがするのです。
>頭では「友人関係は持ちつ持たれつ」と分かっているのですが、実感レベルでできないでいるのです。


これに対するアドバイスをこのカキコの雰囲気を維持したままあっさりと書こうとしていると、とても悩みます^^;
問題はかなり錯綜していると思うんですね。
多分何よりも、「誰かと親密な関係を持たなければ」という圧力を自分に加えていることが、まず取り組むべき問題のように感じられますねぇ。
「頭では分かっている」とおっしゃいますが、親密な感情とは頭で分かるものじゃーございません。まず自分を解放することが大切です。

頭で考えると、自分の本心を見失います。自分が何を求め、何を嫌がっているのかの本心を、感じ取ってあげることからだと思います。
その自分の辛さを認めてあげることからです。
どうすればいいかは、その本心に立つことで、ハブリッドからも色々tとまた示唆できると思います。

そうゆうことだと思うんですけど。

No.521 2005/04/12(Tue) 15:07

小説ダイジェスト次のUp予定 / しまの

本日午前半休。
毎日往復3時間半以上の遠距離通勤のせいか何か疲れてる感じがしてそうしたんだけど、酒のまず(^^;)目覚ましを使わずに寝た朝の快爽快感に、やはり今の生活はそろそろ終えるべきとの感を強める。
なお残業もなく総合的な忙しさというのはないのでご心配なく。

今の職場はもう今年でやめちゃる。もうこの仕事はやめるということを話すこともアリで、いったん自宅近くの、長くいた前の部署に戻り、恩返しがてら何かできることを1年ほどやってお終いに、などどいうプランが真剣味を持ち始めた今日この頃。。
ナント今日はローン残と自己資金、カウンセリング収入シミュレーションなどを組み込んだ生活財務計画表など作り始めようかと浮かんでいる次第。ようは会社任せにしていた全ての数字計算や税金業務などを、全部自分でやることになるワケダネ。
ポイントは今のマンションを手放さずに会社をやめられるか。出版本の成功を待たずにこれが可能か。
人生が大きく変わろうとしてるとの感強し。

さて小説ダイジェストですが、「自己の本質への接近」のラストで遠い過去の自分が一瞬蘇って以降の、混沌として良くわからない期間をなんとかまとめ、いよいよ本格的に過去の自分の想起が始まるところが、順調に書き始まったところです。
その結果、「蘇った自己」の前にひとつ章を分割しUpすることにしました。「遠く置き去りにした過去へ」という題で、ややつなぎ的でクライマックス性は薄いものになります。

当初、このダイジェストは、最初の出版本を2部構成にして、その中の付録的な分量に収めようと思っていましたが、もうこうなるとダイジェストだけで分冊にして、3部構成で最初の出版をドーンと行おうと考えている次第です。

オリジナルに対する凝縮度ということを考えると、次第に凝縮度が少なくなり詳細な描写になってきているのですが、当初考えていた分量に合わせた凝縮度に戻すと、とたんに尻切れトンボ感になるのは自明のこと。
改めてこの凝縮度というものを考えると、実は今までの描写を通して、現実時間に対する凝縮度は少なくなっているのですが、心的時間に対する凝縮度は一定を保っている感じがするのですね。

その点、「蘇った自己」は、凝縮度をいちばん少なくした内容で、現実時間においては5日間だけでオリジナルの一章を書いているものを、ダイジェストでもそのまま一章に収録します。
ところがそれは心的時間においては一気に10年を駆け巡るような感じになります。テーマは「離反vs愛」別人格として分けられていたそれが、ひとつの人格に収まっていく特異なさまをいかに描写できるかが課題です。

なお前段の「遠く置き去りにした過去へ」を次にUpするのに伴い、「少年時代まで」に加筆を加え再Upします。
初恋の頃にも存在していた離反型別人格を描写するのと、初恋の少女との別れの場面、そしてその後初恋の少女が主人公の中で現実感を喪失していくさまを記述します。

この「現実感」の喪失と回復というテーマが、今僕の理論の中でも重要性を増している状況です。
現実覚醒レベルの低下は、単に心理障害における意識の外枠の話ではなく、操縦心性が求める尊大感と、残存愛情要求が求める一体化幻想に直接の供給をしているものである。そのため、現実覚醒の回復という治癒は、同時に情動的要求の破綻と、感情の膿に対する防衛の破綻となり、必ず一過性の悪化現象を生じさせる。かつこの状況は、本質的に本人には理解不能な形で起きる。
これがハイブリッドの治癒理論の大きな核のひとつになります。これは取り組みをする本人および援助者の双方に、何に向かおうとしているのかという全体観を強い心理学の目で持つことへの要請をすることになります。

今週末はちょっとばたばたするので、その次の17日あたりが次のUpの目標です。

No.516 2005/04/08(Fri) 11:02

心の手術-3:操縦心性崩壊時へのアドバイス / しまの

まあ自分で「今が操縦心性の崩壊だ」という判断はできないかもしれませんが、
深い「人生への徒労感」もしくは「自分が心底から追い求めたものが得られない」という深い悲哀の感情の類を感じた時に、どんな姿勢でそれを迎えるのが望ましいか、ちょっとアドバイスを考えてみました。

ちなみに、治癒がかなり進んだ後の感情分析では、操縦心性の崩壊は自分自身で明瞭に分かるようになります。

■理論理論からの要請

まず治癒理論面からの要請はただひとつ、「実存を維持すること」です。
それ以外は何もありません。というか、それ以外には何も期待できない状況も想定しています。一切の前向き感情がなくなる、それどころか、感情そのものが崩壊したような「精神の死」状態が起きることもあり得ます。

この要請への対応さえできなくなる状態では、自殺の危険が高くなります。
ただし、治癒現象による操縦心性崩壊が実際の自殺につながる可能性は、ほぼゼロです。これについては、僕自身かなりしっかりとした実感として、安心感を持っています。
なぜなら、実際の自殺行動を起こすような自己破壊衝動の大元そのものが、崩壊する現象だからです。
自傷衝動のような激情もそれには含まれません。極めて静かな、深い、死のような絶望感です。

怖いのは、活発な操縦心性がかなり残りながら、操縦心性の一部崩壊が起きるような状況です。
一部崩壊で起きた絶望感を、まだ活力のある操縦心性が「利用」して、死の本能を強力にあおります。
大抵現実上の破綻的事件が引き金となるでしょう。
これは療法取り組みが逆効果になったのかという疑問を感じさせる状態ですが、それを問う以前にその人間が危機的状況にあったというのが現実です。

このため、うまく進んだ治癒による自殺衝動の危険性は、純粋にはゼロですが、治療は真空状態の中で行うのでない限り、「破壊衝動の非行動化」という「感情と行動の分離原則」における鉄則は、操縦心性崩壊への対応以前に、絶対的要件として要請されます。

*ここでは「療法」「治療」という言葉を使っています。
ハイブリッドでは、自らに対し実施する形においてであれば、「心理療法」と言っていいと考えています。
他者に対して施すという形においては、療法ではあり得ません。他者に対しては「心理学」です。


■人間としてのアドバイス

次に、心を育てるためのノウハウとしてのアドバイスです。
これは、僕自身が人間として、そのような局面を迎えた人にお伝えしたいことです。

律儀に治癒理論との関係を考察しますと、これは操縦心性崩壊への対応の話というより、この局面になって初めて裸の姿になる、その人間の魂への言葉です。
「基本的自己受容」が、この時初めて、真の光を照らすように思えます。

巨大な、深い、人生への徒労感に覆われた時。

自己分析など、やめましょう。
むしろ、その感情に深く感じ入ることの方をお勧めしたいような気がします。
ただし、そこに幾つかの感情が混じっていた場合、まあ大抵そうでしょうが、自分自身に対する敵対的な感情と、自分の魂への優しい悲しみの感情を感じ分け、後者と手を組むことです。
そして、自分の魂の嘆きが悲しみの中で消えていくのを、しっかりと看取ることです。

思いっきり泣くのもいいでしょう。それは恐らく人生で一番深い涙になるでしょう。
僕もそうして今があります。その時の涙は、胸から血を絞り出すような嗚咽でした。
その涙があるからこそ、心が豊かになるのです。「失う悲しみ」を認めることができるからです。それを認めないうちは、人は現実を生きることはできません。
人生は出会いと喪失の繰り返しであり、悲しみを認めることができないと、人は失うのを恐れて求めることもやめてしまいます。悲しみを認めない「強さ」という仮面の下で、自分の人生を生きないまま時間を過ごしてしまいます。

そうして本当の裸の自分に出会えるのは、まさに今でしょう。
そして本当の裸の自分が、本当に自分のための意志を持てるのも、今が初めてになるでしょう。
たとえそれが「死ぬこと」だという観念だとしても。

ダイジェストの「病んだ心の崩壊」でも、この辺の描写までは入れたいと思っていますが、
その時僕は、「幸福になるために、死ぬんだ」と考えました。
それが、僕の人生の中で、初めて、他者への意識を完全に捨て去った上で自分自身のために下した、最初の決断であったように、今思い返すと思えます。

■思考の中断と休息

精神的な死のような絶望感の中で、あたかも自己の死をシミュレーションするかのように眠りに入るのも、いいプラクティスになるでしょう。
軽い睡眠薬程度の力を借りるのも、問題はないと思います。

ここで「プラクティス」という言葉を使いましたが、実際のところここからは身体生理学的なプラクティスの領域になります。
ハイブリッド心理学そのものは純粋に心理面のみを扱うものですが、もともとターゲットは、「心の持ちよう」を超えた、脳の構造レベルでの改善です。

今までのさまざまな悪感情が、その由来との論理的つながりを超えて、脳に起きた病状のように見えるのとまさに対照的に、この後に起きる改善変化は、ここに至る感情分析で取り上げられた感情テーマとは、もはや論理的なつながりがない、全般的な心理機能の改善になります。
マジに、脳の中の物理的病因が取り除かれて、自然治癒力によって脳が身体生理レベルで改善されたとしか解釈できない変化が起きます。

なので、身体生理的な休息やリラックス法の習得という技術が、ここで重要になってきます。
まあそれそのものの話は巷に山のようにあるでしょうから、ここでは省略しましょう。
それでも明らかにそれらに共通するものがあり、「思考の中断」です。おそらくその時、傷ついた神経連絡を回復させるための脳内物質のようなものが、放出されているのでしょう。

ハイブリッド心理学での言葉に戻りますと、
ハイブリッドにおいて「建設的」や「前向き」とは、決して、前に向かって歩き続ける、考え続けることなどでは、決してありません。
それをぜひ誤解なきよう。

休息は、「停止」ではありません。生み出すための技術の一つです。
これは仕事でもそうですね。質良くより多くの成果を発揮するためには、決して寝ずに働き続けるのが適した方法ではありません。
「頑張っている」というイメージに生きるのではなく、現実において生きるということです。

■外部行動は機械的にこなす

最後につけたしですが、この局面でおき得る「精神の死」は、実存の死へと現実化するのを避けるのは言うまでもないこととして、仕事など日常生活の表にはできるだけ表さないのが望ましいことです。

人に何か変わった様子と思われるのは、まあ本人はもう他者意識さえ消えているでしょうが、後から考えると何かとうっとしい話になります。
淡々と日常行動はこなす。案外、今までよりも制止や緊張感がなく行動できます。
多少仕事を休むなども問題ない話です。人生全体に比べれば、1日や2日の仕事など、ほんの些細な話です。

No.515 2005/04/07(Thu) 11:04

心の手術-2:何が崩壊するのか / しまの

さて具体的実践的知識として、以下のようなことがあると思っています。
 −操縦心性の崩壊とはどんな現象か
 −操縦心性によって防御されていた感情の膿の話
 −備えとして可能なこと−先回りの成長へ道

今後、多少順不同に、テーマを拾いあげながら解説したいと思いますが、
今僕が自分の体験をダイジェストなどで追いながら、「一体何が崩壊したのか」という問いを考え、今浮かんでいるあるメカ論を書きたいと思います。

■操縦心性崩壊の意識表現

つまり、「何が崩壊するのか」が結構分かりにくい。
まず、それは意識上でどのような感情として現れるのかを考察しましょう。

それは例えば自分の容貌や能力など外的資質への絶望では、少なくともありません。このような外的資質に対する絶望的自棄感情は、自己操縦心性によるプライド衝動の活発な暴走状態を示すものであり、操縦心性崩壊を示すものなどでは全くないと考えています。
このケースはまだ、それらの外的資質が果たしてどれだけ自分の幸福に必要かを問うアプローチが適切です。
外的資質の優越に何を求めているのかという、感情分析も必要でしょう。

自分の性格やパーソナリティへの絶望感になると、やや近くなります。つまり操縦心性の崩壊が、意識上ではその形を取ることもあるように思えます。
自分は根本的に人を愛せない人格だ。
ただしこれも、自己操縦心性の活性状態を示す、自己嫌悪のひとつに過ぎない可能性が多分にあります。

操縦心性崩壊によって現れる、典型的感情をひとつ指摘しましょう。
それは、「人生への徒労感」です。

これが、大河のように深く現れます。

これは僕自身がダイジェストをまとめていて、鮮明に浮かび上がってきていることです。
単なる自分のあれやこれやへの絶望ではなく、人生全体への絶望です。
その前に、特徴的な心理現象が起きています。自己の来歴の全体が見渡せるようになってきたことです。

その時、操縦心性には答えが出るのかも知れません。「この人生は生きるに値しない」と。

■必然的に崩壊するものとは

人生への徒労感として表面化してくる、操縦心性のぐらつき。

ひとつ注意しなければならないのは、これは必ずしも治癒過程には限らないことです。操縦心性による自己破壊の暴走があまりにも進むと、同様にこれが起きます。回復への絶望が起きるからです。
ですから、我々が意識的に努力できるのは、こうした感情を自分から求めることなどでは全くなく、自己を知り、選択を知り、自己を受容して前に進むという取り組みだけです。

一方、良好な分析によってある幻想が崩壊することが、自己操縦心性の崩壊を促すことが観察されます。
我々が医学の立場で向かうべきものは、これです。

でなにが崩壊するのか。自分が類まれな天才だという幻想か。自分が価値ある人間に愛されるという幻想か。
どうもそうは表現できないんですね。そうした具体的な幻想が崩壊しても、結構何ともないケースがおうおうにしてあります。操縦心性は変幻自在に、別の幻想に姿を変えているんですね。

何が崩壊したのか。僕に今一番しっくり来る結論を言いましょう。
それは「自分が世界の中心である」という幻想です。

これは実は先日の、残存愛情要求の2つの要素の話とつながります。(4/5「望みの停止問題-7」)
それはただ愛されたいという感情ではありません。他者との一体化幻想の残存です。
そこでは、愛されるだけではなく、嫌われたり、ひどい目に合わされたり、無視されたり、おだてられたり、批判されたりする、あらゆる外界との関係において、外界の「心」が自分を取り囲んでいるという幻想が保たれることにおいて、充足されているのです。

僕自身の経過をじっくり追った時、どうやらこれが崩壊しているらしい。
そしてこれは、「自分が世界の中心だと考える特別扱いの要求」などと意識で感じ取れる類のものではなく、現実覚醒レベルの話だということです。
この幻想の中においては、自分がどう謙遜で中庸な人間に扱われようと、半夢状態のような「人生という映画」の主人公である点において、自分が世界の中心であるという尊大感が保たれているのです。

つまり、崩壊するものとは、「現実覚醒の低下による尊大感」という感じになってきます。
現実覚醒レベルの低下と尊大感を直結させる考え方は、実は今初めて僕がしているものです。
尊大感、つまり操縦心性が本質的に目指す、プライド感。

それが実は残存愛情要求からも供給されているものであったことを考えた時、この心理構造の決定的なパラドックスがまたひとつ見えてきます。
操縦心性は、残存愛情要求を軽蔑しながら、それに頼っているのです。
この構造が、意識に反映してどう複雑な感情が現れるかを考えるのは、興味深く時間がかかりそうなテーマです。愛するものに惹かれながら軽蔑する心理とか。まあまたの機会に。

分析の進行過程の話に戻しますと、分析の進行は、必然的にこの崩壊に向かいます。
自分の感情が次第にはっきりと自覚できるようになってくる。
頭で考えるより先に、というか頭で把握できるようなこととしてではなく、現実覚醒が呼び起こされ、中心幻想が崩されていく。
これをそのまま進めれば、操縦心性は必然的に崩壊します。

それが正しい方向なのです。それ以外は僕は知らない。
ですから、「空想と現実の判別」は、治癒への取り組みとして極めて重要なプラクティスです。
それは空想か、それとも現実か。どこまでが現実に起きた「物理的事象」であり、どこからは自分が心の中で映し出した「心的解釈」か。
それによって現実覚醒機能の回復を図り、同時に心の手術的峠にも向かうことだという医学的知識の下で。

覚醒レベル低下という次元で保持された中心幻想の崩壊という話なので、本人の意識上では、何が起きているのか全く分からない形で、この崩壊の怒涛に足元をすくわれることになります。
夢の中に、実存を保持するためのくいを送っておく必要があります。

我々は日ごろ強く念じていることが、良く夢の中にも現れるものです。
ですから、それは可能です。

No.514 2005/04/06(Wed) 12:50

心の手術-1:自分への医者の目 / しまの

さて、新しいシリーズもののカキコを始めたいと思います。
まだ途上のシリーズがありますが、多面から同時のアプローチというものが極めて重要なのでかまわず。ハイブリッドです。
題して「心の手術」。いよいよ、ハイブリッド心理学の中でも最後に位置づけられるトピックになります。

ハイブリッド人生心理学が読者に学んで頂きたいと考えていることを、現在以下の5つに整理しようと思っています。
1)新しい価値観世界観人生観(心理学的幸福主義)
2)基本的自己受容
3)心の選択肢
4)感情分析
5)心の手術


順番が大切です。なぜならこれは「心を育てる技術」であり、育つとは人工的な加工の話ではなく、生きるもの固有の成長段階を追いながら、自然成長力を開放し促すことだからです。
始めから完成され成長した姿を押し付けても、何も成長しないのです。

その中でこの「心の手術」を最後に位置づけているのは、幾つかの理由があります。

まず、それはいかなる形においても、意識的な向上感が感じられない局面だからです。つまり悪化しているとだけ体験されます。
まず可能な限り、はっきりとした向上感を伴う取り組み作業を進めるべきであると考えます。これは基礎体力の向上に匹敵します。
向上感を感じることで、それが取り組みを続けるあと押しになります。
この局面は、今までの向上の全てを否定しようとするかのように、その人間を足元から根こぞぎすくうように訪れます。

そしてこの局面を最後に位置づけているのは、取り組みがどのように進もうとも、早晩訪れるからです。
これはまさに最大の治癒変化の峠として起きます。

これは僕が独自に考えたことではなく、ホーナイの分析治療過程の説明に明瞭に示されてもいたものです。まあホーナイはまだそこで何が起きるのかの描写に足りないものがあった。それで僕も自分の中で起きたことの意味を見失い、人生の危機を迎えたわけです。
ホーナイはこれを、一人の人間の心の内部で起きる現象のように記述しました。
しかし実体は、一人の人間の中で、一人の人間が死に、別の人間が再生する過程です。ですからこの前後の人格状態には連続性がありません。未知の状態になります。
「操縦心性は別の人格体」だと言っていますが、その人格体が死ぬわけです。

ホーナイの書いた事例は、比較的経度と思われる心理障害ケースでも、最後の治癒の峠で、生涯で初めて自殺念慮が現れたことが書かれています。
そんなのを合わせ考えても、各自の進行過程が千差万別で先が読めないとしても、これが起きるということは理論的帰結として予期できる、という話になります。

それまでの取り組みがうまく行けば、それだけ早くここに到達するかもしれません。しかし、この局面を目的にして、つまり「操縦心性を崩壊させよう」と考えて取り組みを進めたところで、この局面が望ましい形で起きるかどうかは疑問です。それはまだ変幻自在の操縦心性が別の仮面を探すだけのことかも知れません。

つまり、如何なる形においても、この局面は意識的努力によって向かうものではありません。
唯一の例外があります。それはほぼ完全な治癒後の感情分析です。この場合は、自分からこの局面に自己を誘導する技術というものが出てきます。それはこの峠を越えた後の自分がさらに良くなるという確信が生まれている状況でもあります。

■自分への医者の目
意識して向かうのではない。ただし意識してその備えをする。
これは何を求めているのかというと、自分への医者の目です。しかもかなり感情に流されない、科学の目を持った医者の目です。

何が起きているのか。それをどのように迎えればいいのか。
もし人の心を直接見る顕微鏡と、人の心を直接治せるメスがあるのであれば、こんなものは不要です。
でも心を直接見て、直接その方向を変えることができるのは本人しかいないのが現実であり、「心の治療」については本人が専門的医学知識をある程度備える必要がある。これが僕の考えです。

それを学んで頂くのが、このシリーズの目的になります。

そして実のところ、多くの方がこの知識を望んでおられたような気がします。
なぜなら、操縦心性はこれが起きることを知っているからです。
だから常に、漠然と、何かから逃げる焦りが、人生を通してつきまとっていたわけです。
ならば、我々の理性も、これを知るのが良いことだと思います。操縦心性に任せず、この時代に即した、科学的対応をしたい。

医者の目で、この局面をどう迎えればいいのか。
一言でいえば、操縦心性が死に、実存が生き残る状態にすることです。

その際感情は操縦心性側に立っています。意識の上では「死」が体験されるかも知れません。
思考の断絶の後に、心の自然成長力が初めて本格的な開放を迎えます。

繰り返しますが、これは、治癒可能な病気や怪我への対処と、全く同じ話なのです。
それに必要な医学的知識と、医学的態度によって対処する。
心理障害も同じです。しかも、100%の治癒が可能な症状です。これは僕自身の体験を元に、断言します。
もちろん時間は必要であり、時間切れのケースもあるでしょう。事故とかで死んだらそうだし。しかし症状と病根そのものは、完全な治癒が可能な現象です。

その知識を強く保って、迎え得るこの局面をやり過ごして頂きたい。
そのためのより具体的実践的な話を、このシリーズにて。

自己操縦心性に、安らかなる死を...

No.513 2005/04/06(Wed) 10:32

望みの停止問題-7 / しまの

その6では、「望みの停止」こそが心理問題の最大の核であり、それに対する取り組みには、視野の外に置かれたさまざまな関連問題への取り組みが必要である、という話をしました。

愛情要求がその一つ。
恐怖により愛が必要になり、恐怖により望みが停止するというメカニズムを背景に、「愛こそが望み」という感情が生まれる。
これへの対処について、前回の説明はいまいち歯切れが悪い感じでしたが、一言でいうなら、「実は愛が望みなのではない」という可能性を見る目を維持する必要がある、ということになります。

ただしこれも「愛情要求の克服」のごく一面でしかありません。消極的側面。
積極的側面とは、愛の種類を学ぶことであり、未知の自由で建設的な愛を探すことです。

ここではとにかく、望みの停止に関係する、視野から外れやすい現象をもうひとつ指摘します。
引き続き返答メール文より少しだけ転載し、解説を加えます。
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■出口のない感情を作り出すもの−2:「自ら望む」と「与えられる」の矛盾

現象としては、「自ら望むことへの禁避(タブー)と与えられることへの要請」の矛盾というものです。
これが起きていると思います。
操縦心性のメカニズムにからむ大きな話で、掲示板とかで解説書こうと思っている話なんですけどね。

つまり、自分から望むという方向においては極端に卑下的な感情
一方、与えられるという方向において、自分が特別扱いされる要請


今回の場合だと、前者の感情として「自分より下はいないと思う」「めぐまれた会社」とかがあると思います。
それは現実社会から見て、ちょっと不釣合いのように思えますねぇ。
本当に能力なけりゃとうの昔にクビになっているのではと。皆夜11時まで残業して、自分の健康を考えるのが甘えという雰囲気のある会社が、恵まれているとは思えませんねぇ。
現実社会に目を向ければ、より良い仕事の候補が沢山ある可能性がある。

一方、インターンの子が出先に連れていかれたことなどは、会社において全く自然なことなのです。それはその人間の魅力とかとは無関係。もちろん、「ひいき」というのも良くある話ですが。
それを怒るということは、世の中の常識を全て否定してでも、自分を特別扱いにして欲しいという感情です。

この2つの感情傾向は、ひとりの人間のこととして見ると、実にちぐはぐです。
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この「自分から望む時の極端な卑下」と「与えられる時の法外な要請」は実に無意識メカの存在を思わせる現象です。
その極端なくい違いもさることながら、しばしば本人がその食い違いを疑問に感じない、というところに、精神病理につながる問題の芽が見えるように思われますので、心してこの問題に取り組む必要があると思っています。
「強力な心理学姿勢」が必要になるという話のひとつです。

この矛盾の中で、ひたすら、自分からは肯定的になれず、外部が自分に肯定的に接することを要請し、そうはならない現実を前に、自己破壊的になっていく。

この感情は、さまざまな要因が合わさって注ぎ込んで起きます。
自己嫌悪の外化しかり。プライド損傷反応としての報復衝動しかり。

ここでは、この自己破壊における残存愛情要求の役割について話しておきましょう。
話の流れ(?)でもあり、未説明だったものでもあり。

残存愛情要求を単なる愛情要求と言わないのは、それが心理発達課題の達成失敗という特別な状況を背景にして起きている、特有の心理現象だからです。

残存愛情要求には、主に2つの心理作用があります。

1)文字通り「自分は愛情を受けることが必要だ」という感情を生み出す
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech03-012.html#az

2)一体化の幻想。これが実にくせものです。
これは他者の感情や「心」が、自分を取り囲む宇宙であるかのように感じる現象です。

人の心は本来その人のみが体験できるものであり、共有されるものではありません。
ただし「一体化の愛」において、共有に近い状態が起きます。恋愛と親子の愛など。
特に子供にとり、親の心は自分を囲む宇宙です。
残存愛情要求においては、「他者の心が自分を取り囲む宇宙である」という感覚が一人歩きして継続するように思われます。
これが本来自他区別の清明な大人において起きているので、非常に幻想的な感情状態です。操縦心性の現実覚醒レベル低下とこれは、強力に結びつきやすい。

「外化」のメカニズムというのを言っていますが、他者に投影した自分の感情が、世界を覆いつくすかのように体験されるのは、この一体化幻想によるものであると考えています。

これはしばしば、自分の不遇感社会への憎悪の背景になっている可能性がありますので、要注意です。
子供時代においては、この感情は意味があったものです。子供がぐずれば親は動く。親は子供の宇宙だった。
残存愛情要求は、これを自動的に再現しようとします。自分はひどい目に合っている。
まず「自分はひどい目に合っている」という感情が先に起き、目にもとまらぬ瞬時に、その感情が現実の出来事を捉えます。出来事を把握した結果起きるのではなく、感情が先にあり、現実をその感情に合わせて変えるような事態が起きます。
その感情が起きている時は、本人が自覚する以上に、現実から乖離した幻想的自己対社会のイメージができているかもしれない。

これはマジに要注意です。
子供じみた我がままにならないように、ではなく、本格的精神障害につながる道に踏み出さないために、です。

No.512 2005/04/05(Tue) 15:27

自己操縦心性のついたウソ-20:操縦心性の定義 / しまの

通勤途上ふと「操縦心性の定義」というテーマについてメモったりしたのでカキコ。
そのままタイトルにしても良かったのだけど、操縦心性の詳細メカにも関係する話ということで、シリーズに含め。

で今のところの定義は「感情の膿を背景にして発動する別の人格体」です。

サイトの感情メカ論での定義は、
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-022.html
などにありますが、それを書いていた頃と現在のメカ論最新状況との違いは、
多くの感情が操縦心性に元から組み込まれた定型感情だと考えていたのに対して、現在では、操縦心性そのものの役割がごく限定的であり、多くの障害感情や悪感情は、他のものを起源とする。操縦心性はそれを取り込んでいるに過ぎない、という考え方になっていることです。

その他の起源としては大きく3つある。
感情の膿残存愛情要求、そして人間の元々の思考論理です。
これらの要素をこのように分けているのは、それぞれの動き、およびそれぞれの克服方法がそれぞれ別に定義できるからです。
まいずれ感情メカ論の全面的改訂として書きましょう。独立後の出版本になるかな。

上の最新定義でキモになるのは、それはあれやこれやの感情のことではなく、「人格体」であることです。
人間の心を乗っ取る、別の自分というメカニズム。
感情の膿や残存愛情要求と結びつくので、表に現れる感情は大体定型パターンを取るのですが、目だった悪感情を超えて、それがいたるところに入り込むものであることを認識しておく必要があると思っています。

あまりにも当たり前であるような感情や思考が、実は操縦心性に乗っ取られているものである。
それはつまり、感情の膿への防衛になっているということです。それが有効に働いている限り、本人はそれに疑問を一切抱かないどころか、それを一種の信念のように保持します。

分析治療は、何が起きているかを鮮明に示します。
そこはかとなくちらついていた何かを糸口にした分析の進行によって、耐え難い悪感情が暴露され、操縦心性による防衛を取り外した状態でその感情をただ流す。それに成功すると、後になって、脳の構造が変化したとさえ思えるような、全般的心理改善が起きる。
ストレスの減少自発的感情の回復、そして人生を楽しみ喜ぶ機能の回復という感じです。

実際に体験した人間として言うと、それはあまりにも大きい恩恵なので、その過程には多少の痛みは伴うでしょうが、ぜひお勧めしたいというのが実感です。

これは人格の切り替わり的な変化なので、その前にある人間には、それによって自分がどのようになれるかを、決して知ることはない。
未知の状態に変化するわけです。
まずはこのような全体感を持って頂くのが重要だと思っています。とにかく感情は、目先にまどわされ「それは破滅だ」と言うでしょうから。

さて、そんな「人格の切り替わり」という仕組みのレベルで防御されている感情の膿とは一体何なのか、という理解が次に必要になると思います。
「感情よりも怖い恐怖」などと表現したこともありますが、小説ダイジェストなど、かなり具体的描写での事例などで、それを説明することができるでしょう。

操縦心性の特異な特長である「現実覚醒レベルの低下」は、やはりこの人格体の基本特長です。
これが消える姿も、この心性に我々がどのように臨むべきかを示唆するでしょう。
それは極めて特異な現象です。
小説ダイジェストの「病んだ心の崩壊」の中に「現実への帰還」という節を入れる予定であり、そこで描写されます。けっこう鳥肌(?)もの。
現実理性がしばしば太刀打ちできないこの現象に対して、強力な心理学的理性というものが重要になってくると思います。

No.511 2005/04/05(Tue) 10:36

罪と贖罪と「自己の重心」 / しまの

返答メールから掲載です。

人の心を傷つけてしまった、または無神経な言葉で傷つけられてしまった。または、誰かが誰かを傷つけた。
それに対してどうすればいいのか。。


これに対する「選択」は、それをめぐる思考の、本当に最初の最初にあります。
その選択によって、別世界が分けられる。
その選択を見逃した後には、もう答えはないように思われます。

非常にありがちな話でもあり、ハイブリッドにおける「自己の重心の選択」という、最初の方向性を決する最も重要な選択に関する話ということで、一文を書いたものです。

「感情と行動の分離」という大原則に加えて、「自己の重心の選択」という姿勢。
全てはここから始まります。


選択は、もちろん、自由です。
--------------------------------------------------------

■罪と贖罪と「自己の重心」

まず、それはいつのことか。

相手に悪いことをしたと感じたなら、謝ることができるのであれば、謝るのがいいことだね。
これは行動の問題です。

一方、相手が「傷ついた」ことについて、我々はどのように謝ることができるのかは、難しい問題だね。
それは相手自身の心の中のことなので、はっきりとは見えない。実際に「傷ついている」のかも知れないし、実際はそれほどでもないのかも知れない。
これは心の問題になります。

行動の問題というのは、タイミングというのが重要になります。
時期を逸すると、ある時点では適切であった行動も、もう適切ではなくなってしまうことがしばしば。出来事そのものの重みが薄れていくからです。

心の問題は、最初から最後まで、適切な行動は難しいものです。というかそれはもともと行動の問題ではなく心の問題なので。

「誰が誰を傷つけたか」という問いを発した時、登場人物全ての「自己の重心」が否定されます。
心は自分で育てるものではなく、相手が良くしてくれるものとして位置付けられます。


ここに選択があります。
自己の重心を選択する者にとって、「傷つけられたことへの贖罪」という概念は存在しません。
なぜなら「自分で傷ついた」からです。それを克服することは自己の成長の問題です。

同じように、「傷つけてしまった」者の罪とは、「傷つけられた」者から見た時、自分への罪ではなく、相手の未成長という単なる事実になります。
「傷つけてしまった」者も自己の重心を選択するならば、罪と贖罪の問題ではなく、互いの心の成長の問題になります。


罪と贖罪の世界とは、否定すべき悪を特定するという対処法の世界です。これは「破壊」の世界です。
自己の重心を選択するとは、「自衛と建設」という対処法の世界を選択するということです。

僕の知る限り、罪と贖罪の世界と、自己の重心の世界は、共存できないように思われます。これは選択です。
どっちを取るかは個人の自由です。

僕は自己の重心の世界を選択しています。
僕に対する罪を犯したものは、この世界上になにひとつもありません。

No.507 2005/04/03(Sun) 13:58

 
Re: 罪と贖罪と「自己の重心」 / ペーター

いかに簡便なものであるにせよ、ある特定の処世術、もしくは世界をより的確に捉えようとする方法論を学ぼうとする時、その実践において常に心理的な障害となっていたものがあって、それは、その認識なり方法論なり、自分が信じ、選択しようとするメソッドから逸脱した行動原理を持つ「他者」の存在でした。
「自分はこれだけ真実に近づきつつあるのに、そんな“正しい”道とは無縁の愚者が私のことをないがしろにする現実」「これほどの認識の高みまでに到達しようという自分が、思想の低い俗物にスポイルされる現実」。
目の前で展開されるそういった事象に「自分の心の持ちようを変えることによる世界観の変化・改善」を期待していた僕は、いやが応にも閉塞感と限界を感じざるを得ませんでした。
言い換えれば「私が変わっても世界は変わらない」という諦観で、それは必然、世界を変えられないのなら、そんな美しさや正しさとはかけ離れた世界からは、いっそ積極的に身を引こうという誘惑を伴う感懐でもありました。

さて、しまのさんが以前から訴求している「自己の重心」という考え方は、そうした脆弱な感傷を克服する強い認識だと感じています。
「僕に対する罪を犯したものは、この世界上になにひとつありません」という言葉はおそらく、「世界」に対するしまのさんのステートメントであり、僕がかつて読んだ本の中にあった「何人たりとも、あなたの許可なしに、あなたを傷つけることはできない」という言葉を僕に思い出せました。
「傷ついた」という事象を「傷つくことを私が選択した」といえる強さ。揺れ動く自分の感情をコントロール下に置けるようになった時、人はとてつもないタフネスを手にすることができる気がします。

話は変わりますが、最近つとに「賢くなること」が必ずしも「幸せになる」ことと同意ではないと痛感させられています。きっと世界には「愚かで不幸な人」よりも「中途半端に賢くて不幸な人」のほうが多いような気がしてなりません。
まあ「賢明・愚昧」というのも「善・悪」みたいな相対的な基準に過ぎないんだろうけど。

No.508 2005/04/04(Mon) 00:57

 
Re: 罪と贖罪と「自己の重心」 / しまの

ペーターさん、どうも〜。
おそらく多くの方がもやもやと感じているだろうことを、端的な表現で描写して頂いた感ですね。
ハイブリッドが立つ世界観と「選択」の話をしましょう。

>自分が信じ選択しようとするメソッドから逸脱した行動原理を持つ「他者」の存在

それはあると思いますネ。
実はハイブリッドが立つ世界観、というか僕の世界観は、結構残酷です。人を傷つけ、食い物にして、捨てることを楽しむ人間が大勢いる世界です。
ただ、それと同じくらい、建設的で、人を愛し、前を向いて生きる人間も大勢いる。
そんな世界観を持っています。

この世界観をめぐって、いくつか指摘したいこと。

1)世の中そんな捨てたものじゃーないという話
もし前者の方が大半であり、後者などないという世界観を持ってしまっていたら、この世界は努力して生きるに値しないものに感じてしまうだろうなぁ〜...などと無責任に(^^;)まずはぼけーと考える次第。
まあ、自分の近くに見える人間集団がそう見えるとしても、世の中には前向きな人々、そして前向きな人々で構成される人間集団というものがあるということを、知ることはぜひしておいて欲しいですね。
そのために読書というのがあります。
近いうちに参考図書に加えとこうと思っていますが、デイブ・ペルザーの「“It”と呼ばれた子」などは本当にお勧め。

2)サバイバル
上記のような世界観の中で、生きることはサバイバルだという基本的な思想のようなものがあります。
いかにして破壊を好む人間集団の影響を最小限にして、前向きな人間集団に入るか。これが、自己の可能性を尽くして、「自衛と建設」という方向において努力する課題ということになります。

3)低劣な人間を見ようとする操縦心性のバイアス
世の中なんて。社会なんて。という感情が優勢である場合、操縦心性のバイアスが掛けられている可能性がかなりあります。
自分から好んで悪い奴らの方を向くというバイアスが心にかかった状態というのがあります。場合によっては、近づいてしまう。
そして自分の生活を非常に不満足な状態にしてしまいます。

操縦心性からすれば、感情の膿に接するよりは、その方がマシなのです。
この状態は、脳が閉塞しているような状態で起きるものであって、「心の持ちよう」で変わるほど生易しいものではありません。
どう考え方感じ方を変えようとも、考え感じるための脳の土台がそうゆう状態なので、その脳でどう考えようとも、感じられることは同じです。

本人が強力な心理学の目を自分に向け、ぎりぎりの状態で自分の行動を変えていく意志力が必要になると思います。
強力な心理学の目で、自分を客観的に見つめ、何をするかというと、「感情と行動の分離」「自己の重心の選択」です。
行動は建設的なものを選択する。それができない時は、せめて破壊性の非行動化をする。
そして建設的なものに目が向けられないことへの、さまざまな分析課題が出てくるでしょう。
「望むことへの恐怖」など。

「自己の重心の選択」は、最初の大選択であると同時に、最後まで現れる問題です。
なぜなら、操縦心性は最後の最後の残骸まで、自己の重心を否定した感情として動くからです。
感情は自分によるものではなく、人に良くしてもらうもの。内面から湧き出る自発的感情によって生きるのではなく、人の目の中で生きる。そんな感情の、脳の中に蓄積された感情の塊です。

自分はここまできた。そうであればせめて..
そこにまた自己の重心の選択が現れます。
>ないがしろにされる
>スポイルされる

ここにやはり現れる。
「自己の重心の選択」に、どの程度まででいいという話はありません。徹底してです。徹底した時初めて、その人間の持つ内面の力が開放されます。

そのためには、上述のサイバイバル的思想が、やはり必要になるような気がします。
戦う意志の有無が決してしまうような気もするなぁ。相手は自分なのですから。
そんな点で、「“It”と呼ばれた子」はホントお勧め。

自己の重心を選択することによって、変化への道が始まります。
変化して、自己の重心が持てるようになる、のではありません。

No.509 2005/04/04(Mon) 10:18

 
ワンポイントつけたし / しまの

賢明さと幸福の関係についての僕の考えですが、ひとことで言えば「直接は関係ない」が僕の考えです。

人は感情で生きる。幸福の度合いは感情に依存すると思います。
賢明さ、理性は、それを守るためにあると考えます。感情に流された時、人は本来の幸福という目標を見失う。その修正を図るのが理性の役割であり、賢明です。

No.510 2005/04/05(Tue) 09:17

サイト・リニューアル / しまの

今日夜か明日、サイトのトップページをリニューアルし、
サイト名も「病んだ心から健康な心への道・しまのたかしハイブリッド人生心理学」に変更します。
サイト・タイトルとしてはやはり長すぎるんだけど、「病んだ心から健康な心への道」というタイトルはやはり残しておきたいのを感じ。この言葉はとてもこの心理学の本質を表現しているので。

「ハイブリッド人生心理学とはなんぞや」を説明する小文のページを新規掲載します。

トップページのデザインを一新することも考えていたんだけど、結局現在のデザインをそのまま残し、最小のデザイン変更にとどめた次第。
なんやかんや言って、今のサイトデザインがとても馴染んで気にいっているんですねー。

こうご期待で〜す。

P.S
写真集ページの追加もするかも。
スキーシーズン終了後最初のUpは、何故かやっぱ写真集になったという感じ^^;

No.506 2005/04/02(Sat) 12:59

望みの停止問題-6 / しまの

現状のサイト説明レベルでは、しばしば、「べきのストレス」がさまざまな心理メカニズムの中で「問題の最大の要」のように感じられるかも知れません。
最近の考えでは、「望みの停止」こそが問題の最大の要だと思っています。
望みの停止によって、べきのストレスに抵抗すべき礎さえも損なわれ、情動の変形が起きる。
「べき」や自己理想化像といったものが、人間の心の「形態」を変えるのに対して、望みの停止はその「内容」を変えると表現することもできると思います。

問題の要であるとは、それを要とする形で、さまざまな問題が発生し、相互に増強し合うような状況が起きているということです。

自己理想化像が高すぎるので、「現実の自分なんか..」と、望みが停止されます。
望みが停止していると、情動が他人から与えられる必要が出てきて、人に相手にされるような価値ある自分の姿が必要になります。
このような、原因と結果の区別ができない、出口のない状態がしばしば意識に現れるでしょう。
これは、望みの停止という要をめぐる、さまざまな他の問題が視野の外になるからです。意識の上ではつながりのない、別の問題にも目を向ける必要があります。

そのひとつとして、「愛情要求」について。
引き続き返答メール文より。
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■出口のない感情を作り出すもの−1:残存愛情要求

出口を見えなくしているものが、恐らく2つあると思います。

ひとつは残存愛情要求です。
その感情は実際のところ、「自分は愛される必要がある」と言います。
そうでなきゃ自分は寂しいし、無力だし、空虚です。

これに対する対処を一言でいえば、
この感情を鵜呑みにせず、だからといって愛に背を向けることなく、建設的な人間関係における愛というものを目指すことです。
建設的な対人行動とは、良く言っているように、共通目標共通利益だけに注目して行動することです。


そこで知っておかなければならないのが、「愛は必要なものではない」ということです。
「自分には愛が必要」という感情を、むげに否定する必要はありません。
しかし、大人にとって、「愛は必要なものではありません」。「必要としてはいけません」。これはバーンズの言葉です。そして僕もそのように考えています。
ここに感情と思考の分離があります。詳しく説明すると長くなる話ですが、この要点のみここでは。

つまり、愛を必要とすることなく、それを目指す姿勢が答えです。
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上の返答文はあまりにさらっと流したため、補足。

愛情要求と「望みの停止」がどうつながっているかというと、意識の上では、つながりはありません。
というか、逆に、意識上では「愛が望み」という感情思考が生み出されます。


つながりは、愛が恐怖によって必要になるというメカニズムにあります。
人格の底に控えている恐怖の膿のために、愛が必要になり、意識の上では強迫的に愛情を求める衝動が体験されます。

そして望みの停止は恐怖によって起きています。心が危険にさらされているので、ものごとを楽しむ余裕はなく、自発的になにかをしたいと望む感情は麻痺しています。
これは3/30「離反と人間関係と真空状態.. 」でも説明した話。

この2つの連鎖相互のつながりは、意識上では全く体験されません。
その結果、自分が愛を望んでいるのは本当のことだと感じてしまいます。

メカの流れの続きを説明しときましょう。
愛は一体化への感情です。いつも一緒にいて、同じことを考え、同じことを感じることへの欲求。
自己嫌悪にあえぐこの人間の自己像の世界も、相手が共有するという一体化の幻想が起きます。
結果として、自己破壊の共有化という人間関係が起きます。
このメカは自己操縦心性の微細核メカニズムとして説明できる超複雑なものがその内側にあるのですが、とにかく、とっても破壊的。

この必然的破壊的結果という問題もありますが、望みの停止問題としても、「愛情要求の克服」という大きな課題があることを、まず知っておくのが良いですね。
これは出口のない問題ではなく、答えは(ハイブリッドとして)出ている問題です。
答えが出ていると言っても、その実践が難しいのは、感情では答えが見えないことだからです。感情に頼る思考の範囲を超えて、心理学の姿勢を持つ必要があります。その結果答えは未知の感情として現れます。

「愛情要求の克服」については、もうちょっとそれ専用の解説が必要ですね。。
結局実践ガイドの全てになってしまうような話になりますが、その中の「愛と心の成長の心理学」など参考にしといてもらえれば。

No.505 2005/04/01(Fri) 11:22

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