掲 示 板
過去ログ
2005.5


いまだ職場にて^^; / しまの

常駐先ではきのう挨拶を済ませあっさり引き上げたものの、
残り休暇とかの関係と、最後のご奉公ということで、この数年で手がけた領域の知識の棚卸を残す作業を2週間ほどして、仕事が完全に終わりとなる模様。

6月に入ったら完全自由モードを想像していたものの、良く考えればこんなもんですね。泣けるぜ..。(←ダーティハリーのせりふをまねて。あはは)
まああとちょっとのお勤め。

No.605 2005/05/31(Tue) 16:55

感情の膿の理解と克服-3 / しまの

感情の膿に対する姿勢の誤りパターンとその軌道修正方法について、ちょっと具体例をあげて考えてみましょう。

「対人恐怖」がこの辺の話の実に典型的なものと言えます。
対人恐怖感情は、一部、感情の膿そのものでもあります。

先日あるメンヘルサイトの掲示板で、こんな内容の投稿を見かけました。
最近「対人恐怖」が強くて、極力外出を控えている。それに伴って「怒り」の気持ちが強く出てきて、子供に当たったりしてしまう。

こんな短い表現だけでも、自分の中の悪感情に対する「心の使い方」の誤りによって、見事に自ら問題を悪化させている姿勢というものが見て取れます。

この人にとって、対人恐怖感情は、あるべからざる悪しき症状であり、それが出ないことが良いこと、それが出ることは悪いこと、という感覚の中でいると思われます。

しかし、対人恐怖感情の膿がそこに「ある」なら、思考法や心の持ち方をどのように工夫しようとも、対人恐怖感情は、起きるのです。
その結果この人は、自分の中に対人恐怖が起きたのを見ると、「良い状態」という基準に合格しなかった自分への自己処罰感情を怒りを体験することになります。その苛立ちを他に、それも子供に当てるとなると、間違いなく、「良い母親」というまた別の基準からの、自己軽蔑感情を引き起こさざるを得ないでしょう。

ここまでは、起きた対人恐怖感情の結果、「自分は駄目だ」というネガティブ反応に流れただけの問題です。
重要なのは、こうした態度を取る裏で、心に何が起きるかです。
それは、「対人恐怖に怯える自分」が、自らによって、あるべからざるものとして位置付けられ、疎外され、弾劾されるというあり方が問題だと、ハイブリッドでは考えています。


「対人恐怖に怯える自分」など、病気であり薬で切り離すに越したことはないと、その人やその人の主治医は考えているかもしれません。これは心の病への認識そのものにも、多少絡んでくる話です。

ハイブリッドでは、その「対人恐怖に怯える自分」こそが自分の「魂」であり、感情の源泉であると考えています。その感情の源泉に対するその人自身の姿勢によって、湧き出る感情は変化します。
自己処罰的な姿勢をすれば、毒のある抑うつ的な自己卑下感情が湧き出るでしょうし、自己受容的な姿勢をすれば、和らいだ感情が湧き出るでしょう。

従って、対人恐怖を「あるべからざる悪しき症状」と見なす姿勢そのものが、その人の感情悪化の大きな原因になっている、ということです。

ですから、自分の対人恐怖感情を受け入れ、自分をいたわる姿勢を持つことです。「基本的自己受容」。
それによって、対人恐怖感情が和らいでいく..のではないです。
感情の膿があるかぎり、変わりません。それに輪をかけて自分から問題を悪化させることを止めることまでが、基本的自己受容によってできることです。

本格的に対人恐怖が消えるのは、どんな過程を経てか。
僕自身の例も振り返って、それを次に考えましょう。

No.604 2005/05/30(Mon) 22:05

感情の膿の理解と克服-2 / しまの

昨日の解説の続き。

感情の膿の働き方と克服除去の方向性は、それがどのように人の心に生まれるのかの経緯を理解すると分かりやすくなると思います。

感情の膿は、幼少期において体験する恐怖や嫌悪の際に、「それを体験し続けたら生きていけない」ような「異形なる色彩」のみが意識から切り離され、無意識下に置き去りにされたまま蓄積するものと考えています。
起きた出来事の記憶そのものが切り離されるのではなく、「異形なる恐怖の色彩」だけが切り離され、出来事を「何でもない」と思い込むことで、心的損傷を最小限にとどめようとする心理機制が働く、という感じ。

例をあげると、親からひどく「なんて悪い子なの!」と起こられた時、「自分が悪いことをしたから怒られた。良い子でいなくちゃ。良い子でいれば愛されるんだ。」という記憶と感情のみが意識に保持される一方、自分を愛すべき親が得たいの知れない獣のように、全く理解不能のものに囲まれ、それによって自分が叩き潰され人間として異様な姿に破綻していく、というような筆舌しがたい恐怖感だけが切り離されます。

心的損傷があまりに酷い場合、出来事の記憶そのものが意識から葬りさられます。

そんな「恐怖の色彩」だけが切り離されることで、意識表面は何とか平静を保てるようになるのですが、切り離しによってストレス体験自体が消え去ったわけではなく、心の底に大きな爆弾が薄いベールで隠されただけで潜んでいるような薄氷の状態での平静になる。
子供の場合は、ストレスが夜驚や時折のパニック症状に現れます。

この状態が維持されるのは思春期までです。
「人格統合への要請」という心理発達課題が活発化しはじめ、切り離しによって隔離されていた感情の膿が、現在の人格とまとまろうとする力が働き始める。

この結果、切り離されていた感情の膿が意識表面に近づいてきます。
ある日、感情の膿が意識に接触する。
その結果の意識体験は、「漠然とした不安」です。世界が崩壊するかのような不安感です。

これがすぐ、この漠然とした不安を、漠然としたものではない現実の事柄として解釈する心の動きが起きます。なぜなら得体が知れない恐怖は、その度合いが増すからです。
何で自分がこんな漠然とした不安にかられるのか、理由付けをして、安心したいわけです。

生きることは辛いことであり、それは自分は心が繊細だからであり、人に拒否されることは辛いことだ、と。
これが「感情の膿に合せた現実解釈」

一方、その恐怖感から逃れるためには、自分はこんな人間でなきゃという、自己理想化像の形成が行われます。
もしそうなれなければ、自分は人間として異様な破滅の姿になるという、自分自身への脅しが始まります。

これは表面的には、健康な心理における自己理想と似た姿を大抵とります。内容は特におかしくありません。本人が「こうでなきゃ」と感じるその内容そのものは、しごく妥当です。
そして実際その自己理想像は、恐怖から逃れるためだけではなく、社会において成功し、幸福になるためには望ましい自己理想像でもあります。
健全な目標というポジティブな側面に、恐怖からの逃避というネガティブな側面が結合する。
かくして自己理想化像に向かって自分を駆り立てるために、感情の膿の爆弾の脅威が「利用される」ことになります。

こうして感情の膿が強固な維持状態におかれます。
恐怖の原因は外部にあり、何とかそれから逃れるため、自分をあるべき姿にしなければならないという自己脅迫です。

恐怖の原因は、幼少期に切り離された恐怖の色彩の蓄積物に過ぎない、かつ自分が向かうべき方向は「その恐怖を感じないこと」ではない、という心理学の目と姿勢を持つなら、それは感じ流すごとに消え去るという、簡単な話なんですけどねー。

だがそれがやはり難しい。
人の意識的な思考、そして無意識の自動感情の両方が、感情の膿から逃れようとして逆に維持するという形に、あまりにも広範囲になってしまている。それをひとつひとつ解除していく必要があります。
意識思考においては、非科学思考や、それにやはり善悪観念も絡んでくるような。
自動感情においては、自己操縦心性がでーんと構えています。

これをどう解除していくか、そして感情の膿が消えていくような「感じ流し方」とはどんなことかを、次実例なども考察しながら書いてみましょう。

No.603 2005/05/29(Sun) 12:36

感情の膿の理解と克服-1 / しまの

ちょっとこのテーマで一連の解説を書きたくなり。ちょっと以前紙片にメモったものもあり。

感情の膿とは、ハイブリッド心理学において、心理障害を構成する3つの「障害構造」のひとつです。
障害構造とは、健康な要素とは異なる、病理特有の構造要素のことです。相変わらず学術言葉調^^;

3つとは、感情の膿残存愛情要求、そして自己操縦心性

なぜ心理障害をこのような「要素」で考えるかというと、ようは敵のチェスの駒を知るということです。
心理障害が全体としてどんな布陣で、どんな症状を現そうとも、結局はひとつひとつの駒の動きに還元されます。
そして我々がチェスの駒ひとつひとつの特徴と動き方を理解し、その攻略法を得れば、千差万別の症状にはあまりとらわれることなく、ひとつひとつの駒を攻略していくことで、心理障害全体を確実に減少させることができる。

感情の膿の定義。
あらゆる意味において意識上においてはその存在が否定される異形なる恐怖や嫌悪の感情の塊」とでも表現できるでしょう。
これは人格をつかさどる脳中枢において、根底における神経伝達の固着した偏りのようなものとして保持され、恒常的なストレス源として作用するものと想定されます。
なんだこの専門医学辞典のような文章。我ながらだめだこりゃーという感じ^^;

とにかくどんなものかというと、自分の意識ではどうにもならない、脳に蓄積されて固着してしまったストレス物質の塊のようなものということ。
だから、心理障害を脳の病気と考えて、神経伝達物質の異常だという気になって観察すれば、実際そう見えるほどの脳生理的状態だと思います。

心理障害の重度は、感情の膿の量にイコールである。と考えています。

ただし感情の膿の残量は、いかなる形においても直接知ることはできません。
体験するのは、膿が溶け出した部分です。水底にある絵の具の塊が水に溶けた結果の、色のついた水を見ることができるだけであり、残った感情の膿がどんな大きさか、そしてその内部にどんな絵の具が混ざってるのか、知ることはできません。

それでも、感情の膿の大幅な減少は、基調感情の変化として体験されます。
生まれて初めて体験するような大きな開放感。世界が輝く感じ。初めて知る、生きていることを喜ぶ心が自分の中にあるという感覚。
これはまさに脳の構造が変化したと思えるような、根本的な変化として体験されます。

ということで、感情の膿の除去は、ハイブリッドが考える心理障害治癒そのものと言えます。

感情の膿の克服方法は、非常に単純な原理に従います。
感情の膿が放出される、つまり溶け出して異形なる恐怖嫌悪感情が体験される時において、
1)現実は必ずしもその感情には値しないという理性が保たれること
2)その感情を「利用」しないこと
ができれば、その時放出された分だけ、感情の膿が減少します。

そうでない場合は、感情の膿そのものが活性化され、放出が起きても減少は起きない、という感じ。

きわめて単純です。そして実際、これを習得したなら、基調感情は一直線の右上がり状態になります。
もちろん膿の放出体験は常に耐えがたい悪感情であり、その一時変化を除外しての、基調感情の話です。

どうですか。そんな単純な話ならぜひ習得したいと思いませんか。ところがどっこい、なかなかというかほとんどできないんですね。
感情の膿をそんな風に「ただ流す」ことが難しいことでは、ありません。
現実を感情の膿に合せて曲解してしまうこと、また感情の膿のストレスを「利用」する心の動きが、あまりに強固に染み付いているからです。

次に、1)感情の膿に合せた現実の曲解、2)感情の膿を利用する心の動き、について解説し、克服への道をまとめましょう。
酒のまずこの時間にして眠い。。(←健康的)

No.602 2005/05/28(Sat) 22:54

小説ダイジェスト難航中^^; / しまの

「蘇った自己」以来1か月が経とうとしていますが、例により結構難航中^^;

凝縮度を高めようと考えながらも、この心理描写は書かなきゃーとか考えながら書いていたら、結局同じ詳しさの原稿でWord A4の5枚ほど進んだものの、どーも今いちで、えーい全部書き直しーと決めたのが昨日。

何が今いちかというと、今までの流れからの、雰囲気のつながり。詳しく続けると、どうもこれが消えちゃう。
ということで今までのダイジェスト原稿を読み直して見たりしているのですが、我ながらいい出来だなぁと思うんだけど(^^;)、このダイジェスト版のクライマックスは明らかに、「解かれたパズル」から「自己の本質への接近」をして、「遠く置き去りにした過去へ」向かい「蘇った自己」を見出すという4つの章の流れにあるんですね。

この流れで何が起きているか、そしてその結末はどこに向かうのかが、浮き彫りになることが、次の章の役割となるわけです。
だから今までと同じ詳細度で出来事場面そのものを描写しちゃーいけない。

で何が起きているのかの、最も象徴的な言葉は、「遠く置き去りにした過去へ」の、
「ありのままの自分で生きていこうとする新しい自己が、その歩みのために本格的に立ち上がろうとし始めていた。しかしそれは、今まで私の人生を支配してきた自己と、共存し得るものではなかった」
ということなのです。

ありのままの自分で生きていく自己の台頭と、今までの心の圧制者との対決です。
前者が初めて顔を覗かせた時、主人公の心の中に一瞬「何をお前が友人など作っていやがる!」という毒に満ちた視線が現れたのが、その対決の幕開けです。

主人公の中で、生まれ出でようとする無垢な自己は、気づかないまま、この圧制者の毒に追いやれていきます。この現実世界は自分の生きる世界ではない。。
そして自分が生きていた、もうひとつの世界が蘇る。それは追い詰められた無垢な自己が求めた、救いの愛のようなものだったと思います。
来歴がつながり、現実と心の世界の2つが一つの視野の中に収まる。そして「精神だけの存在」である自分を受け入れていくことで、主人公にようやく現実の時の流れへと戻る意志が回復する。
しかし彼は冷徹な気分に急変し、初めて自殺を真剣に思い描く。

このあと主人公の心は2相を示すようになる。
ありのままの自分で生きていく、前進への力を持つ自己の台頭。
同時に主人公の心は、より深い心の闇の底への階段を下りていく。。

この2つの関係が今いち表現できない。。今こうして構図を書こうとしてどうも描写する言葉が足りないということは、今までの流れを受けた次の章がどうも書けない状況も無理はないということだ。
足りないとは、この2相の意識表面の下で、操縦心性がどんな挙動を示しているかを直感的に表現する言葉なんですね。そして実際、僕が小説という形でこれを書く意味はまさにそこにあるので、理論用語でなしに、それを描写する言葉を捜さねばならない。
なるべく詩情のある言葉で。

その言葉を探さねば。。
読者の方への解説というより、自分のコンテ作りにハッパかけるためのカキコでした^^;

No.601 2005/05/28(Sat) 12:14

心理発達課題の損失と回復の考え方-3:自尊心という課題の構造 / しまの

幼児期の心理発達課題は「自尊心の獲得」である。
幼児期における自尊心は、愛情要求とその満足がその意識表現である。


これが最近の僕の考えなのですが、クミータさんの質問にもあるように、さらに現実の幼児の行動を観察すると、愛情要求に依存しない自尊心獲得も見られる。
これは幼児期において既に結構複雑な心理構造というのがスタートしていることを考える必要があるということだと思います。今までの心理学にこういった視点をもったものはあったのかな。

で、やはり想定すべきは、「要求」や「欲求」の人格における深さです。「深層」とそうでないものが発生してくる。
深層でないものを「表層」とか「一般」とかの形容詞で表現しようかとも考えましたが、いまいち合わないのでそのまま。
この深さという概念は、もちろん大人になっても引き継がれます。だから深層心理学というものがあるのであり、精神分析が意味を持つ。

人格において深いほど、人格に対して基礎的な役割を持つことになります。その人間の感情や行動全般の底流を作り、基調感情をつくる。また人生において人が真に求めるものという、価値論的な話にかかわってもきます。
深層の要求や欲求が素直に満たされない時、それが本来の素直な表現ではない、要求や欲求へと化けて意識表面に現れることがあります。これが情動の変形です。

こんな前提で、関連する幾つかの言葉を定義をしましょう。

自尊心とは何か。自信やプライドとは分けます。この3つの心理要素の関係が非常に重要な話になってきます。

自尊心とは、自分を尊重する態度のことを言います。幼児期の心理発達課題は、これが深層において獲得されることです。
実にハイブリッド的な定義になってきます。つまり、自分の重みを尊ぶ心のことです。自己の重心の確立です。
自己の重心を獲得するとは、自分が生きるこの世界において、情動の重みの中心点がいかに自分自身の中心にあるかということを言います。
自己の重心が獲得されないほどに、情動の重みが外部に移っていきます。最終的には、人を通して生きる、自分のものではない人生を生きる心へとバランスを喪失して行きます。
自尊心は、深層要求です。

自信とは、自分を信頼できることです。自分を信じて頼める。意識的な努力は必要なく、湧き出る感情に従って行動することでうまく行くという確信度のことを言います。
従って、真の自信は、自意識を伴いません。
バーンズ流の定義を使うと、自信とは、自分自身で幸福になれる能力が自分にあると感じることです。
これはその人間が獲得した人格状態の、社会に対する調和度を示すものとも言えると思います。

プライドは、自分を高く評価する感情です。これは自分で自分を高く評価できることを求める感情と、他人が自分を高く評価することを求める感情で成り立ちます。
「評価」なので、評価する自己と評価される自己が分かれ、自己の客体化が起きます。
客体化された自己は、前に進むエネルギーを持ちません。それはある時点の自分を外から見て一瞬の絵として切り取ったものに過ぎないので、「自己評価に生きる」姿勢の中で、人は今を生きることを見失い、人格の貧弱化という問題が起きがちです。
本人がプライドを求めるのとは裏腹に、それは満たされないことが多くなっていくという流れが基本形になります。
これは「心の使い方」を誤ったケースです。自信はプライドによっては得ることはできません。

人格における深さは、この順番に深いと考えられます。
ということは、自尊心は自信の基礎だと言えます。
ハイブリッドにおける「自己の重心の選択」とは、この獲得の損失を回復するために、まず思考面において行う第一歩の修正作業だと言えます。発達課題という観点で考えるとさらにその重要性が理解できるでしょう。

自尊心という課題の構造をこんな感じで考え上で、それが幼児期にどう獲得されるかを次考察しましょう。

No.600 2005/05/28(Sat) 08:06

心理発達課題の損失と回復の考え方-2:幼児期課題は「自尊心の獲得」 / しまの

幼児期の心理発達課題とは何か。
これについての最近の僕の考えが非常に明瞭になってきています。ハイブリッドの心理構造理論の最終版は、これについてある発想の変換みたいのが、起死回生的に、多くの問題を解き明かす形になる感じです。

今まで、幼児期の心理発達課題は、「愛情の獲得」みたいな雰囲気で考えられることが多かった。
「基本的安心感」「基本的信頼」の獲得。
これはまさにホーナイによる、心理学の歴史でも重要な概念です。
この世界の人々が仲間であり、安心でき信頼できるという、思考や感情が未分化な、人格根底における基調感情の定着、とでも表現できるでしょう。

だがこれは、明らかに違います。これでは現実の幼児の感情を説明できないのです。
最近、僕自身の幼児期の感情の想起の感情分析の中で、この結論に至った次第。

結論を言いましょう。
幼児期心理発達課題は、「自尊心の獲得」です。そしてそれが「愛情の獲得」を手段としているということです。

そう考えることで、鼻高々で自尊心に満ちた様子とか、親の愛が他に奪われることで起きる怒りに「プライド損傷反応」的な色彩が含まれることを、幼児においても考えることができるようになります。
単に愛情要求の損傷として考えられる感情とは、対象喪失感情であり、悲しみや寂しさです。
復讐的な怒りは、基本的に「プライド損傷反応」だというのがハイブリッドの考えです。

「嫉妬」のような、幼児や動物にも見られる感情は、大人におけるプライドのような衝動が既に幼児期において働いていることを示すものだと考えられます。

さらにはっきりしてくるのが、親を失うことで明らかに愛情が不足したからと言って心理障害になるわけではないという事実です。
最近僕はこれを、むしろ「現実への信頼」というような概念で考えようとしたのですが、心理発達課題は自尊心であると言った方がはるかに分かりやすく、直感的に合っていると思います。

どんな愛情の下であろうと、自尊心が確立されるのであれば、健康な心理発達である、という考え方です。

溺愛が時に心理障害傾向人格を生むのも、そう考えるなら実に自然です。
「何でもしてあげるよ。いつまでも親に頼ればいいんだよ。」と「愛されて」育つことで、自尊心が育たないのは直感的に理解できると思います。

となると、「自分に足りない自尊心のためには愛されることが必要だ」がまさに、残存愛情要求がもたらす意識体験になるのが自明とも言える結末になります。

「愛情の獲得が課題」だと考えたのは、実は残存愛情要求による「症状」ではないかという考えができるようになってきます。
現代人は大抵はこの問題を抱えますので、ほぼ全ての心理学者が、「愛情獲得が課題」だと考えてしまったのですね。



この考えから、2つの話が大きく含みを持つようになります。

ひとつは、思春期課題です。それは明らかに「自尊心を愛に依存せず確立できる」ことです。確固とした自己ができてくる。
愛情要求と自尊心要求は分離して行きます。
すると、残存愛情要求と思春期課題が見事にバッテイングするようになります。これだけで、思春期に起きる心の混乱が容易に想定できます。それが実情に合っているでしょう。

もうひとつは、誰にでも愛情溢れるような「基本的信頼感の持ち主」という人間像です。感情表現が豊かで、誰にでも愛着心旺盛で、誰にでも心を開いて横に座ってくるような人というのが、この世にはいます。
やはりそうなれることが、ひとつの発達課題ではないのか。自尊心があればいいわけではないのでは。

「こんな人間」というのが出てくると、話がブレてきます。それは残存愛情要求が描いた理想化像に過ぎないのではないか。そんな人間がこの現代社会にうまく適用できるのか。そもそも「課題」とはどういうことなのか。

ここでは「課題」とは、「心理障害を起こさない健康な心の状態」への課題として説明します。
天真爛漫とか冷静沈着とか特定の性格を目標にするのではないということ。

それでも、「他人一般への愛着感情」は、ひとつのテーマになるでしょう。
それが幼児期に損なわれたものが、ハイブリッドのような治癒の中でどう回復し得るのか
とりあえずそれは僕自身の例で説明して行きましょう。理論的推測など完全に不可能なことであり、実際に体験してみて始めて知る、未知の感情の中に、その答えがあったわけです。

No.597 2005/05/25(Wed) 16:43

 
Re: 心理発達課題の損失と回復の考え方-2:幼児期課題は「自尊心の獲得」 / クミータ

しまのさん、こんにちは。研究が佳境に入ってきた感があり、エキサイティングですね!この先の展開がとっても楽しみです。

> 結論を言いましょう。
> 幼児期心理発達課題は、「自尊心の獲得」です。そしてそれが「愛情の獲得」を手段としているということです。


のところで、私の疑問なのですが、「自尊心の獲得」は必ずしも「愛情の獲得」手段としていないのではないか、ということです。たまたま昨日、5歳の娘とカルタ取りをして遊んだ時に気がついたことがありました。私は札を読みながら取り札を探すのですが、そこは大人なので子供より先に見つけてしまいます。でも、わざと分かっていながら取らなかったりして、子供を立ててやろうとしていました。最初は得意になっていた子供も、それに気がつき、「ママもちゃんと取って!」と言い始めました。でも、圧勝しても仕方がないので、手加減しながらやっていました。で、彼女が札を取った時、私に聞くのです、「ママも見つけたのに私の方が早かった?」と。「うん、うん。あっと思ったら、もうアンタが取ってたから、ママ悔しかった〜」と答えると、得意満面。で、ここから思うのが、「自尊心の獲得」は、「愛情の獲得」よりも自分で何かができるようになることに由来するのではないか、ということです。それとも、この局面は「愛情の獲得」による「自尊心の獲得」と平行して現れるというだけの話でしょうか。多分、そうかな?

No.598 2005/05/25(Wed) 17:45

 
Re: 心理発達課題の損失と回復の考え方-2:幼児期課題は「自尊心の獲得」 / しまの

ど〜も〜。普通の会社勤めモードがもう今日で終わった感の中、乾杯がてら飲んでる島野です^^;

さすが現役ママさん、子供さんの細かい心理機微に触れていらっしゃる。
僕も一瞬、ちょっと安直な考察漏れがあったかと、さらに頭ん中で結構整理しましたので、その3としてカキコしましょう。
「自尊心という課題の構造」という話。

No.599 2005/05/25(Wed) 23:46

心理発達課題の損失と回復の考え方-1 / しまの

原稿整理していて、3/30匿名希望さんからの「クリアされなかった発達課題」(No.499)と、僕自身のレスを見かけ、その後の解説予告もした5/11「情動変形の核メカニズム 」(No.571)の話の続き未了ということもありましたので、ごく重要なポイントから始めませう。

実際、この話は、善悪の解体上級編で解説予定の、情動変形メカニズムとも密接にかかわり、ハイブリッド心理学における心理構造理論の完成版を説明するものになると思います。

心理発達課題があり、その達成や損失があり、その過程で発動される自然型および心理障害型の情動メカニズムがある。
この構造メカニズムで、その後の人間の情動を全て説明するという壮大な心理学理論になると思います。
そしてこの完成版は、とても単純で分かりやすい幾つかのメカニズムから、最後には複雑怪奇な心理までが予測されるという、現実の人間の実情にあったものになると思います。

ではその始まり始まりー。

人間の心理発達課題は、時期的に2段階の要請発生により起きます。(←完全学説言葉モード容赦^^;)

第一段階は、幼少期。1才後半あたりから4才あたりでこれが活発化します。その後はこの時期に獲得された達成状態の中で、ある程度平衡状態になり、次の時期へとつながっていく。
第二段階は、思春期。10歳あたりから20代前半あたりまでが活発化時期で、その後次第に緩やかになり、30代あたりからは僅かながら「要請内容」の質的変化もあるようですが、概要を知る上では無視できる範囲。

まず問題は、幼少期の発達課題は何だったのかということ。

純粋に心理学上の発達課題ということを考えると、まず「認知機能」の発達課題というのもがあります。知能の発達ですね。
僕はそれについては専門外です。そして、「心理障害」と「精神障害」の境目には、この認知機能の発達障害がちょっと関連しているのではないか、という感覚を僕は持っています。

ということで専門外での推測ですが、認知機能の発達障害は回復は比較的困難だと思います。
ただしこれが精神障害に近く見える深刻な心理障害も回復が困難だという見解では全くない、というのが、ここで言及しておきたいことです。
というもの、深刻な自己破壊衝動の結果、しばしば精神障害擬態とも言うべき状態が起きるからです。詳細は省略。

ちょっとおどろおどろしい話に触れましたが、ハイブリッドを自分で勉強できる理性があるのであれば、こうした発達障害はほとんど心配ない話です。ご安心あれ。

書こうと思った「ごく重要なポイントから」の前段ですが、とりあえずここでカキコ。
「心理発達課題」というテーマを概説的に整理すると、最初はちょっとこんな話に触れざるを得ないのですが、以降は純粋に「人生における心理発達課題」に限定しての話になります。

No.596 2005/05/24(Tue) 15:17

「僕は野に放たれた」 / しまの

6月末にて現在勤めている会社を退職することが大体確定し、大した残務もないので退職手続きやら各種必要事項の整理やら住宅ローンの算段(^^;)など始めている次第。
いつどんな風に会社を辞めるかは見通しのかなり難しい大きな課題でしたが、今回、急転直下起死回生的なめぐり合せにより(うっしっし^^;)、実に良い退職がすぱっとできそうです。
「天はわれに味方せり。僕は野に放たれた。」との感。

というわけで、多少ばたばたする日々が続くかも知れず掲示板の方もちびちびが続くかと思いますがよろしくです。

No.595 2005/05/24(Tue) 13:40

善悪の解体・上級編-3:「残存愛情要求の抑圧」という根源問題 / しまの

先週5/15からの続編ですが、そこで掲載した2ちゃん「人間嫌い」スレの言葉から拾うことのできる心理要素をまず説明します。
それから、それら心理要素のつながりメカ考察と行きましょう。

その前に、ここ最近つれづれに気になっていたことが「残存愛情要求の抑圧」という現象であるということをちょっと話しときたいと思います。
どう気になっていたかというと、それがある限り、人格の根本変化、最近僕が使っている言葉で言うと「人格開墾」が起きない、という現象です。

ここで言う人格開墾とは、脳の構造変化と体験されるほどの改善体験が起きる人格変化のことを言います。
そして、残存愛情要求の抑圧がある限りそれは起きない、という根拠は、僕自身の体験です。ほぼ20年間にまたがる歩みを通して、きわめて確信度の高い事実として、それを感じます。
ですから、残存愛情要求の抑圧を示す特徴、そして「この人は変わらない」という直感を、僕はいつも即座に感じ取ります。

ただ「あなたはその状態じゃ変われませんよ」とは僕は言っていません。それは破壊型の、一種の脅迫の言葉であり、あまり何かを生むものではない。どうすればいいかという、建設型の言葉だけを使うように心がけています。
それに、そうした言葉は、何かを生む以前に、「否定された」という無用な感情を起こしやすい。それは望むものであはりません。

どうすればいいか。まず何に着目すればいいか。それで僕が最近指摘するようにし始めているのが、「道徳的自尊心」です。
ホーナイは「精神的優越感」という感じの表現をしていましたね。

頑固な神経症にとどまる人には、必ずこれが見られる、と。

善悪の放棄の話も同じなんです。善悪観念は、道徳的自尊心や精神的優越感とは切っても切れない関係にあります。
僕は決してこの言葉を使いませんが(使ってる^^;)、「あんたそれじゃあ変われませんぜ」との意が込められた、実に重大な話なのです。


これがどう、残存愛情要求の抑圧とつながっているのか。
意識の上では、つながっていません。このつながりなさも実に明瞭です。見事に片方が意識外に追いやられる。
一方、僕のような経過を長い目で観察すると、つながりがかなり確実なものとして感じ取られてくる。というか、それは一体のものという感じです。
表が見えた時、裏は見えなくなる。裏が見えた時、表は見えない。
残存愛情要求と道徳的優越感は、そんな関係にあるように見えます。

残存愛情要求が解除された意識体験はどんなものかを説明しましょう。
それは文字通り、愛への要求です。とても深い感情です。その感情の中で、我々は人間の根源が「愛」にあることを知る、とさえ言えるような気がします。

なぜそれが抑圧されるか。本人の内面感情の深さの一方で、その人間の外面はちょっと「みっともなく」なるんですね。自分というものがなくて、思う相手をやたら美化して、その感情に自己陶酔しているような、ティーンの女の子じゃあるまいし、大の大人があ..
と来るわけです。
「いつまでも甘えてんじゃないの!」という心の動きが、一瞬にして、わたしにゃーそんなものございませんという身をわきまえたような大人の顔と、社会に適応して自動機械のように生活するだけの皮相な人生と空虚が表に現れるわけです。

その後に残るのは、人間はこうあるべきだという意識とは裏腹の、現実の人間は!という漠然とした全般的苛立ちです。
これで人格の成長が止まる原因は、ひとつには怒りの感情が人格底流に流れるということ。怒りの中では成長は起きない。これはこの心理状態の本人自身にも何となく分かることです。この苛立ちを何とかしたい。

そしてもうひとつの原因が、残存愛情要求が抑圧されていることです。これは本人には完全に分からないことです。意識上はこのつながりが完全に断たれます。
そして愛情要求の開放を経ないと人格成長が起きないという事実は、まずは直感的理解ではなく、心理学的観察の結論として我々が理解していくことから始まります。

ここまでが、意識表面を観察したときに見られる、典型的な感情の流れです。

ちなみに誤解なきよう言っておきますが、「愛こそ重要」という価値観もおうおうにして、残存愛情要求の抑圧表現です。
その価値観における精神的優越感において、その人は人を実際愛さないというパラドックス的事態にしばしばなります。
愛情要求が開放された時、「価値観」そのものが消え去ります。
分析過程では、まずその偽りの道徳観の放棄を通って、自己受容が進み、愛情要求の開放という、進行をたどることになります。

つまり、愛情要求の開放は、自己受容で起きます。これが心の自然治癒力です。
残存愛情要求の抑圧とは、自己受容していない状態です。だから心は成長しません。

意識表面に現れる現象としてはそんな説明として、「人間嫌い思考」の各心理要素を具体的に見ていきましょう。

No.594 2005/05/22(Sun) 09:49

トップページ・リニューアル! / しまの

トップページのリニューアルをしました!
これで店構えも結構整ってきたのではと。

あとは、実践ガイドの抜けを埋めて、表の右側に、実践ガイドの各項目に該当する原稿へのリンクを掲載などしたら、Yahoo登録申請もそろそろできるんではないかと思っています。

風雲急を告げ、近々会社を辞めしばらく執筆に専念する可能性が出てきており、出版原稿整理に一直線の島野でした^^;
会社辞めたらどこの会社だったかも出しちゃおうかなー。○○出身とか宣伝になるか。えっへっへ。
とにかくこの活動に残りの人生を捧げる決意なのだすヨ。

No.593 2005/05/22(Sun) 00:13

不完全性の受容という選択 / しまの

ちょっと原稿整理メモがてら、チョー重要なポイントなどひとつ。

ハイブリッド心理学の「3.2 心の選択肢」は、我々の人生における「心の使い方」の全てが、ごく少数の「選択」から成り立っていることを説明しています。
人生における全ての「ものの見方考え方」の中に、その選択肢がある。その選択肢は、外部の条件にはいっさい関わりなく存在する。なぜならそれは脳のメカニズムというレベルで用意されているのだから。

で現在「善悪の解体・上級編」「情動変形のメカニズム」などで、人間の善悪観念の根源的起源などを解説しようとしています。

キーは残存愛情要求です。これが今まで考えていたのを遥かに超えた位置付けになる。
答えを先に言っちゃうと、幼児期の愛情要求とは、単なる愛情獲得課題ではなく、自尊心の獲得課題にかかわっているということです。

親の「宇宙の愛」によって、自分が宇宙の中心になる。そこで、愛と自尊心が未分離なレベルで獲得されるわけです。
成長後、健全な心理発達では、愛と自尊心が分離します。だから愛が得られなくても自尊心は揺るがなくなるわけです。
残存愛情要求とは、この未分離な要求が残存することを意味します。愛に自尊心が引きずられる現象が起きてくるわけです。
この結果起きる複雑なメカはまた別途。

もうひとつここで、決定的なキーワードが出てきます。
「全能感・万能感」です。これが第3の獲得課題として定義されてもいいでしょう。

愛情課題は文字通り「愛」、そして自尊心課題「自信」、そして全能万能課題は、「自由」に関係すると思われます。自分は何でもできる。全てが自分自身の選択である。
(ふむ、ということは、選択が見えないのは全能万能感の損傷によるものか..)
これで、人間の3つの課題が揃ったことになります。愛と自信と自由。

この3つの凝縮されたものが、幼児期の愛情要求の中に込められるわけです。

また例によって話が遠まわしになっています。
善悪観念の完全なる放棄の話です。そのポイントは、「不完全性の受容」になります。つまり、「完全性の放棄」が善悪の放棄にイコールです。

「完全性」もしくは「完璧性」。これを求める人間心理があります。
これは、「思い描いたあるべき姿への完全な一致」と定義できます。これを求める心理。この心理によって、きれいな部屋の片隅にあるホコリによって「掃除できていない!」という感情が、何度でも手を洗わなくてはいられない強迫が、そして美しい女性の身体にあるひとつの欠点に注目する冷笑癖症が、生まれるのです。

そして、人間の善悪観念の起源は、これなのです!
あるべき姿を掲げ、それを基準として善と悪を分け、悪を破壊する。
そして、幼児期獲得課題が達成されなかった時、つまり残存愛情要求が残る時、人格中心に獲得されるべきものであったものが損なわれ、自己の重心を欠いた、外界のイメージへの要求へと化していきます。

自己の重心が失われるに従い、思い描いた外界イメージへの完全一致を求める傾向が強くなってくる。
この公式は今初めて出たものですが、正しいでしょう。

これらが実に、人間の善悪観念にむすびついている。
もちろん、人間の善悪観念が全てこの心理現象によるもの、と表現したらもう違ってきます。違ってくるのは、善悪を相対的に捉え、イメージに依存しない、現実的建設的な対応が取れるという方向です。

善悪の放棄は、こうした文脈の中で扱われます。善悪の放棄がやはり決定的なんですね。
心の選択肢としては、「不完全性の受容」の話。
話の始まりは、これを「3.2 心の選択肢」に新たに加えようかなあと考え始めたのが始まりでした。
とりあえずこれは、「イメージから現実への選択」の中のひとつとして扱おうと思っています。

No.592 2005/05/21(Sat) 10:01

ペーターさん感想への返答-2:「善悪観念を使う心」の放棄 / しまの

2日間缶詰研修だったため掲示板テーマの方は頭の隅でころがしていた感じでしたが、ひとつ考えが熟しましたので書きましょう。

まず以下のペーターさん感想に関して。
>「大罪」という言葉に「善悪」に対する考え方が反応。
>「罪」とは「悪」ではないのでしょうか?
>やはりホロコーストは「起こるべきではなかった」?

ハイブリッドでの言葉の定義を書きましょう。
..ある取り返しのつかない大きな損害を与えたという事実
..相対的概念。何かの欲求にとり都合の悪いもの、もしくは契約やルールに反すること。

これが定義です。

つまり、ナチスによるユダヤ人虐殺が人類の歴史における大罪だというとき、それは損害の大きさについての事実を言っているのであって、特定の感情のことを指す言葉ではありません。
その罪に対して、人がどんな感情で臨むか、という話は別の問題として出てくる。

ちなみに、前に「僕に対する罪を犯したものはこの世界に何もない」と言ったのは、現実問題として、僕は取り返しのつかない損害を人生でまだ体験していない、という実感を言っている言葉でもあります。
大した高尚な精神論などではございません。ラッキーだということです。

「起きるべきではなかった?」という言葉について、検討したいある側面が出てきます。
言葉が破綻していることです。

「起きるべきではなかった」とは何のことか。起きたという事実を否定したいということか。事実を否認するなら、それは現実乖離という、ちょっと健常でない心理の類になります。
「起きて欲しくなかった」という表現にすると、少ししっくりしてきますね。善悪の放棄というテーマで何を言いたいのかというテーマに近づいてくる。

それは現実否認という思考破綻ではなく、現実を受け入れたくない感情のことを指しています。
その感情を検討したいんです。ニーチェちゃんとの哲学論議をしたいんじゃないんです。

でその先がちょっとぼんやりしていたのですが、今朝のTVニュースで、何なのかがはっきりしてきました。
福岡の一家殺害事件犯人の中国人が死刑判決というニュース。
裁判官、「歴史上にない極悪」。それを見た僕は、「まさにそうだ」と感じたんですね。そこには、コップの水に一滴たらしたようなかすかな、苛立ちの感覚も含まれていました。
実際のところ、よその国から来て、金目当てに、あまりに安直に殺人するとは、日本人としてたまったもんじゃありません。

このような「怒り」の妥当性は、被害の当事者である度合いに関連します。
日本人同士による事件なら、今までの人生で知ってる範囲ですから、特に新たに感情を起こすほどのことはありません。
しかし外国人が日本で、日本人をターゲットにした犯罪というとき、自分もそのターゲットになりえるという、人生で新たな事態が起きるわけですから、感情も起きて不思議なことではありません。

で僕自身、「これは悪という観念を使ったということか」と考えた。そうなんですね。
同時に、ある感覚を感じました。その感情においてその瞬間、自分は「生きることから退却した」という感覚です。

「それは悪だ」と考えている時間、人生の場から一時退却し、裁判所の部屋の中、という感じ。

これが重要な話になります。
心の治癒成長には、3段階があるという風に最近単純化しています。
1)生きる姿勢の修正。あまりに不適切な姿勢を直し、それ以上骨が曲がるのを防ぐ。
2)抑圧の解除。曲がった骨の痛みを和らげ、多少安定した状態にします。
3)人格根底の「開墾」。あまりピンとくる言葉ではありませんが、「開墾」というのがイメージにあっています。枯れて不毛になった人格根底の土地を耕すという感じ。


2)と3)の間に壁があります。
2)までは受身的に「こうすれば良くなる」だけで進みます。
3)は、何をしようとするのかを理解して、困難な局面に自ら向かうという能動性が必要になります。その代わりに、人格の根本的変化がここでもたらされます。脳の構造的変化とも言える、生きる喜び機能の回復。
それはかなり明確な、ある姿勢を取らないとできません。難しいし、その先も大変なので、ここから先に行くかどうかは、本人の自由選択に任せます、という領域です。

で、僕は自分が根本変化をするように至った、善悪観についてのある180度の方向変換をしたあとの姿勢を、実感として分かっています。
その姿勢と、さっきの「極悪..まさにそうだ」という感覚は、全く違うものなのです。


結論を言いましょう。
「善悪」は、「破壊」という心の使い方で現れる観念です。それは既に起きて目の前に現れているものを善悪というふるいにかけ、悪を破壊するという心の使い方です。
したがって、善悪観念は過去志向の心の使い方です。

心の成長は、「破壊」という心の使い方の中では起きず、「自衛と建設」という心の使い方の中で、実際に生きることで起きます。これが基本原理です。

自衛と建設という心の使い方だと、このような外国人犯罪に対して、どう臨むことになるか。
相手の行動様式を知り、防衛の手段を考えることです。万一それに接近した時に、相手の手を逃れる、または戦うための技術と能力を獲得することです。
「善悪」は完全に消えるのです。

そうゆう意味での善悪観念の解体によって、自分の悪感情に取り組むということなんです。

たとえば、ペーターさんからの質問で、あとで返答を書こうと思いますが、人への好き嫌いの感情
嫌いな人間の、ある嫌いな特徴への、生理的とも言える嫌悪感。それはあたかも、人間の悪しき心性がそこに具現したものを見るかのような感覚だと思います。
逆に、破壊的な自己嫌悪感情の中で、自分自身のある特徴が、人間の悪しき心性の具現であるかのような感情を感じるかもしれません。
そこにおける「悪」という感覚を生み出した、思考と感情が未分化なレベルでの善悪論理を完全に解体するということなんです。

ですから、「善悪はあるのか」という議論は意味がないです。
ハイブリッドで言うのは、「善悪はある」。相対的にです。人格の根本的変革のためには、善悪観念を完全に使わない心の使い方が必要である。それで生きる過程が必要である。ということです。

善悪観念を使う心の使い方の中で、どんな善悪哲学を考えたところで、ハイブリッドでの善悪放棄とは、無関係です。
ハイブリッドでの善悪放棄とは、善悪観念を使わない心の使い方を選択するという意志のことです。

善悪観念を完全に使わない心の使い方とは、どんなものかをぜひ考えて行って下さい。
それはどんな世界観の中で生まれるのか。
それが、「サバイバル世界観」です。この世界観に立たないと、善悪の完全放棄は難しいと思います。

そして、多くの人が、サバイバル世界観を持つことに抵抗を感じます。だから、善悪の放棄もできなません。
それは「思いやり世界観」があるからですね。思いやり世界観の中では、善悪によって安定が保たれます。
とても善悪を放棄できる世界観じゃありません。

ハイブリッドの提示する世界観は、サバイバル性善説の世界観です。
この世界観では、愛によって安定が保たれます。そして性善説であるとは、愛が本性であるということです。「愛が善です。愛しなさい」という必要はないということです。
愛は心の成長の結果、自然に現れます。だから未知の感情として現れます。愛を「あるべきもの」として求めた時、心が縛られ、心の成長がとまり、愛が生まれません。

あるべき姿を善として掲げると、心が縛られるので、心が成長しません。愛がそのままでは現れないので、「愛が善です。愛しなさい」と言う必要が出てきます。
これは愛が本性ではないという考え方をしていることになります。だから善悪を捨てることができません。全てつながっています。

あるひとつの感情論理の世界と、全くべつの感情論理の世界。
その世界の中で、それぞれの感情論理は閉じてつながっています。2つの感情論理の世界のどっちが「正しい」と議論するための、論理というものはありません。論理の世界が2つあり、その狭間には、論理はありません。

あるのは、選択です。

サバイバル性善説とは逆の、「思いやり世界観」にとどまるという現象。これは性悪説の世界観ということになります。思いやりが大事だと考えながら、現実の人間は汚い、と考える思考法です。
その代表が、5/15「善悪の解体・上級編-2:変化なき典型「人間嫌い」」で紹介したものです。

この思考の根底には、残存愛情要求の抑圧という現象がひそんでいます。人間嫌い思考が必然的にもたらされるメカニズムです。
そのメカニズムを引き続き善悪解体上級編で。

人格根底の開墾とは、このメカニズムによって枯れた土地と化した人格根底にクワを入れ、来歴の中で切り離された濃い情動の世界を耕し直すということです。心の手術的局面であり、難しい取り組みです。
でもそれを行うなら、人格が根本的に変化します。
そうした全体を理解して、進むかどうかを各自が判断して頂ければ。

話は遠くめぐってつながってくるんですね。だから僕の話は一度始まると長い。あっはっは。
今後ともこのつながりをより直感的に分かるよう、エッセンスを整理していく所存。

No.591 2005/05/20(Fri) 11:22

望む技術〓「内側から望む」と「外側から望む」-3(End) / しまの

メールの終わりの方では、自分の望みの性質を見分けるためにも、「価値観の問い直し」が必要であることを述べています。
それがまた前段の話になります。

つまり、その1で書いたことから、このメール後ろ部分に向かって、話は次第に前段へと戻っていくような感じになっています。
流れを把握するために、その3からその1へともう一回読んでみるといいかも知れません。


治癒の流れも言っておきましょう。
1)価値観の問い直し
2)「内側からの望み」が分かってくる。ちょっとした前進感が得られるでしょう。
3)その前進に促されて、操縦心性の崩壊が導かれます。これはきれいに「外側からの望み」を捨てる感じにならないです。それが追い求めたものであり、根本的にかなわなかったことであることへの絶望感に覆い尽くされます。これが建設的絶望に他ならないことを知っておく必要があります。

これが、ホーナイから既に出されていた、根本治癒の経過パターンです。必ずこのパターンを経ます。

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■全ての価値観を問い直すことで感情の膿と操縦心性が明らかになっていく

この、内側から望むのと外側から望むのとの違いは、人生における全ての領域にかかわってきます。
人生全ての領域において、内側から望むことで埋めていく。
人生が変わります。


>たとえば「女性らしくなければいけない」というメッセージが頭にあって、
>何の理由もなく有無を言わさずそうしなければ、人に足蹴にされ軽蔑されるのだ。


これもやはり、このことが分かるような所へ来たみたいですね。

自分は本当にそのことをどう考えているのか。
やはり「耳をすませる」ですね。内側からの望みに焦点を当てることです。
「しっかり見つめる」では、外側からの望みに焦点が当たります。

逆にこの違いを分析することが、感情分析そのものです。
「こうしなければ」という価値観を、頭でもそのように考え支持するのなら、それ以上あまり検討の余地はありません。
「こうしなければ」に縛られて生涯をすごすだけです。

しかし頭では、つまり冷静な理性では、「こうしなければ」という価値観に疑問を感じる。
それにもかかわらず、そうしなければ足蹴りにされ軽蔑されると感じる時、そこに感情の膿や操縦心性がある、ということになります。
それに対する特有の姿勢が次のステップになります。

「足蹴りにされ軽蔑される」という、実にリアルなイメージを伴った感情が、感情の膿に該当します。
感情の膿とは、「イメージに閉じ込められた感情」です。それが人の心を圧迫する程の強さで、心の前に映像としてかぶさるものです。

一方、冷静な理性では「こうしなければ」に疑問を感じていても、体が自動的にそのように反応する。これが操縦心性に該当します。
感情の膿から逃げようとして、もしくは、自分自身をある別人になり切ろうとして、そうゆう衝動が起きます。

まずはこれをつかむことですね。


■「女らしさ」

具体的には、「女らしくしなければいけない」とは、一体何のことか。
「女らしさ」とは、僕の感覚では、恋愛や配偶者の獲得のために女性が使う武器のことです。しなっとやわらかい線とか香りとか。それで男を惑わす武器に使いたいなら、使えばいい。

おしとやか、けなげ、思いやりとかを指すこともあるでしょう。「女らしくしなければいけない」という言葉を使う時には、この類でしょう。
ホーナイは“現代社会でいつも「女性らしく」しようとするなら、全ての女性が神経症になっているだろう”と言っています。ちなみにホーナイは女性。


■イメージの現実性と人間環境

価値観を問い直すということには、自分が本当にその価値観を信じているかを問い直すことと、
あとは、この社会の人がその価値観をどの程度信じているかの認識の問題があります。

まあこれが多少厄介な問題でもあります。
問題を抱えた人は、得てしてその問題を生み出す人間集団の方に馴染む傾向があるからです。
「井の中の蛙」はむしろここで問題になります。

確かに世の中には、「女らしくしなければいけない」という頭越しの考えの人もいます。
僕の見る(?)限り、おそらく日本人口の約1割程度かと。まあ心理障害の発生率と大体等しいでしょう。


トラウマのような恐怖の克服への具体的課題が、ここから出てきます。
そうゆう人間とそうでない人間を、見分けることです。
そうゆう人間からの関わりを避ける対人行動法を習得することです。

トラウマ的恐怖の克服は、「心の持ちよう」「感情分析」を超えて、極めて実践習得的です。
その実践習得の具体的学習がないうちには、変わろうとして変われるものではありません。
逆に、それ以前に、自分は変われないと考えのもナンセンスです。


また例によって色んなことをお伝えしましたが、
まずは「投げ出したい」と「かすかに楽しいかも」の、世界の変わりようを、心をとぎすませて感じ取ることを続けて下さいな。
それが僅かな「心の技術」によって天と地を分けるものだということ。

望むのは、その心の技術を身につけて生きることとすることが、お勧めということになります。

これはこうした心理学を学ぶことで初めて可能性が開けることです。
人間が生まれ持った感情や思考だけに頼って、「自分を変えよう」と考えたところで、「変えられないものは仕方ない」となるのが関の山です。
感情に頼らずに(もちろん無視はしませんが)、感情を長期的に改善する、技術です。それを実践するかどうかの選択があるだけです。

No.590 2005/05/17(Tue) 11:02

望む技術〓「内側から望む」と「外側から望む」-2 / しまの

返答メールより。
これは、「心を成長させる望み」とそうでないものを、どう見分けるかという話の部分です。
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>なんだかその「ものすごくストレス、どうせできないんだから辞めたい」
>と投げ出すのと、「かすかに楽しいかも」と作業するのを繰り返していました。


これは非常に面白い感覚の対比が見えてきたと思います。

何が面白いかと言うと、結果的にやっていることは、まるっきり同じということです。
ところが、視点が変わると、天と地の差とも言えるほどの別世界になるわけですね。


■「内側から望む」と「外側から望む」

この違いは、「内側から望む」と「外側から望む」のとの違いという風に大体言えます。
自分の内側から望むか、自分の外側から望むかです。

「望みに向かう」ことを言っていますが、うまく望めないのは、外側から望む心の使い方をしているからなんですね。

外側から望むとは、何かを行っている自分の姿を外から見て、その姿の実現を求めることです。
内側から望むとは、行うことそのものを求めることです。


すると、結果として行うことはまるっきり同じなのに、世界が変わるわけです。
内側から望むと、そこには前進の感覚と、統一の感覚と、快い労働感と、楽しみや喜びの感覚の輝きがあります。
外側から望んだ瞬間、焦りとストレスの暗雲が立ち込め、吹きすさぶ荒風に打たれる苦しみと、放棄への誘惑と葛藤が現れます。

>私が思ったのは、「こういう風にしか生きられない」という強い実感でした。
>健康を保ちきれいでいられる人は、自己管理能力がある人です。


それはちょっと違う気がしますねぇ。
違う生き方を望んでないだけです。
能力の話ではありません。能力は望んだあとの話です。何を望むかが重要です。

>今までの理想が、現実として自分がそうなれるかと考えたときに、
>今の私では無理に近いことが実感されました。
>自分にそう言ってみて、もはや「そんなの私じゃない、認めない!」という
>気持ちにはなれませんでした。


もちろん「変えられない自己」を知り、受け入れることは、通過点として大切なことですね。
自己受容のないところに成長はないからです。あるのは押し付けだけ。

ぜひ、「変えられない自己を受け入れる」だけではなく、もう一歩別のことがあるのを知って下さい。
「変えられない自己」はl、外側から望む時に出てくる、現実です。確かにそれは「変えられない」かもしれない。
しかし、内側から望む時は、「変える」のではなく、「変わる」のです。

やがてそれが「変えられない自己」を打ち破る時がくるかも知れません。


■望む技術

ここで「望む技術」という話が出てきます。
全く同じことをするのにも、視点が変わると別世界になる。
ならばその視点をどう自分自身の人生に取り入れていくか。これを望みの対象にするというのが、望みの技術です。


「時間配分して余裕ある段取りで仕事をする」という理想像を掲げたところで、同じことなんです。外側から望んでいるからです。
やはり時間配分した中で、同じように焦り、逃げたくなり、実際に逃げ、最後にパニックになるでしょう。
そうして大勢の人が、遅れて追い立てられて心身消耗して仕事して、疲れ果てて次の仕事の始まりが遅くなり、遅れて追い立てられて..と繰り返しています。

それを変えたければ、焦るとはどうゆうことか、焦りのない作業とはどうゆう条件で生み出すことができるのかという、違う視点から、内側の内容に着目して、それを徹底する努力をすることです。
管理能力じゃないんですね。まずこの、望みの視点を変え検討する技術が問題になります。

まずは視点を変え、その視点で自分の行動を計画する努力をすることからですね。そうゆう視点で努力してみないことには、どこに本当の能力不足があるのか、全然わからないんですね。

どうすれば、「かすかに楽しいかも」が自分の時間の全体を占めるようになれるのか。じっくり検討してみて下さいな。
多少、正真正銘の管理技術の話も出てくるでしょう。案外それは、こんな悩みを抱えていた人間にとって得意なことだったりします。

(続く)

No.589 2005/05/17(Tue) 10:47

望む技術〓「内側から望む」と「外側から望む」-1 / しまの

書きかけが沢山ある一方で他のもどんどん入れちゃいますが、
先日新シリーズとして「望む技術」と予告したものを、手短にUpしておきます。

■ハイブリッド総括

考えてみると、この話はハイブリッドの総括とも言える話につながっていきます。
全ての情動変形の大元には「望みの停止」という現象がある。その上に心理障害メカニズムが発達するわけです。
それに対抗する手段として、ハイブリッドが理論化しているような、治癒のメカニズムがある。その根幹が、「望みに向かって生きる」という意志なのです。

そこで、「技術」が出る。「望む技術」です。

そしてハイブリッドが提示する技術とは何か。違いを見分けることです。昨日「自己操縦心性の理解と対処・初級」で言ったようにです。
どうゆう観点で見分けるかというと、心を成長させるものと、そうでないものです。

人間の感情の全てに、似て非なる相似形があります。愛と自由と自信、意欲と安らぎ、勇気と自制、自己評価と自己嫌悪。そして自己受容と絶望。それらの感情のどれが心を成長させるか、ではないのです。全てに、そうであるものとそうでないものがある。
同じように見える「愛」に、心を成長させるものとそうでない、似て非なるものがある。「自由」もそう。獲得への自由と逃避のための自由。
「自己嫌悪」もそう。大抵の自己嫌悪が心の成長を閉ざす一方で、心を成長させる自己嫌悪もある。まあ最初は前者が覆い尽くしているので、まず自己受容しましょうと言う。
でも自己受容が全てではない。だからハイブリッドでは「基本的自己受容」と形容詞を加えています。

そして「望み」もそうです。似て非なるものがある。その2つの違いを知ることです。
これが、ハイブリッドが最後に提示する、ひとつの通り道を提示します。「絶望」です。これにもやはり2つがある。


つまり、2相の望みの違いを知るという技術によって、心を成長させるものへの「望み」を持つということと、そうではなかった、今までの「望み」を捨てるという、2相が必ず起きることになります。
しかし、あるものを失った時、それは同時に、成長を志向する別のあるものを意味するのです。まさにハイブリッド。

行き付くのは大抵ここになるでしょう。建設的でない愛や自己評価を失うことが、建設的絶望になるというものです。


■望む技術

ということで、「望み」についての2相
これを理解することが、操縦心性の崩壊という最終局面に大いに関わってきます。

それは、操縦心性自体が、ある「望み」の塊であったということです。
望みの2相における、究極的に陰の相とも言えるもの。
この違いを見分けていく取り組みは、やはり、自分を成長させる「望み」の芽に気がつくようになるという相と、もうひとつが起きることを必然的にします。
それが陰の相の「望み」が完全に断たれる時であり、建設的絶望の時です。


「望み」の2相の違いについて説明した返答メールを次に掲載します。
建設的な望みと、そうでない望みを見分ける観点の話です。

No.588 2005/05/17(Tue) 10:44

自己操縦心性の理解と対処・初級 / しまの

以下は今日午後なんとなく気だるい気分の中で書いたもので、自己操縦心性というものが実感としてどんなものかを書いたものです。
対処についての事後談を書き加えた上で、Upします。
-----------------------------------------------------------------

例によってまだ途中の話が沢山ありますが、いずれいろんな話に関わるということで、単発テーマなどひとつ。
自己操縦心性のつかみ方みたいな話。
どう関わるかというと、治癒論は全てここに話が行きます。
自分の心にどう対処すればいいかという話は、操縦心性がどう除去克服されるかという話に行き着く。

実践において理解するためには、そもそも操縦心性とはどんなものなのかという理解が必要。
今までの説明は、主に感情メカ論からの説明が中心です。
空想と現実の重みの逆転をして、空想で抱いた自己理想化像を維持すべく働く、別の人格体。
あと現実覚醒レベルの低下などどいう特長もある。


この説明からは、自分を追い立てるストレスの厄介な大元であろうことは何となく分かると思います。
より正確には、ストレスの大元は感情の膿ですが、それはまず操縦心性を動かし、操縦心性がそのストレスの代理人になるような感じ。感情の膿との関連の話はまた別の機会に。

実践面、つまり本人自身からはどんな感じで操縦心性が捉えられるかというと、こんな感じ。

まずそれは、「感情を監視する感情」の塊、とでも言えるような振る舞いをします。
生き生きとした感情が湧き出れば、それを有頂天になって褒め上げ、気力が低下した兆候を見るやいなや、ぐずでのろまな自分という苛立ちを向ける。
人に近づく感情が芽生えれば、自分が比類なき博愛主義者になったかように自分を炊きつけ、ちょっと反感が心に芽生えると、もはや何の協調もあり得ない異形の敵に面したかのような気分にします。

ここで重要なのは、操縦心性は我々の明晰意識より深いところで、明晰意識より先に働いているということです。
明晰意識が感じ取るより先に、操縦心性は自分の感情の揺れを感じ取り、それに対する自己賞賛や自己処罰の反応をします。
またその際に基準になっている自己理想化像も、明晰意識では感じ取れないような、「自分自身の特定の情動的あり方」のようなものが、操縦心性が掲げる自己理想化です。
美貌や才能など、はっきりした自己理想像というより、情緒的活力に溢れ人生や人に生き生きと対応できる自分というような、生理的感覚から感情や思考までがまだ未分化な、ぼんやりした形での自己理想化イメージです。

かくして、週明けに心身エネルギーがまだ前向きになっていないような兆候を感じ取るやいなや、操縦心性は自己処罰感情を向け、どーんという鬱感情が体験されます。
本人には最初の感情の揺れが意識体験されるより先に、操縦心性が反応し、結果、操縦心性の反応だけが意識に体験されます。
これがしばしば、本人には理由の不明な抑うつ感情になる。

操縦心性が自分の感情を叱り付けたり、逆に焚き付けたりする内容というのは、「やる気」親愛・離反・攻撃という対人感情や「プライド感」など様々。
感情の力関係で、操縦心性に検知された感情が何だったのかによって、結果はかなり不定形な様相になる。
しかも操縦心性が反応した大元の「自然感情」が意識で感じ取られる前に、操縦心性の方が反応するので、原因は分からずに結果の感情だけを感じるような形になります。

かくして、「やる気のある自分」という自己理想化像がある場合、仕事に向かった時、実際のやる気がどんなだかを明晰意識が捉える前に、操縦心性が反応します。
中身への興味がまだ湧き立たない状態を操縦心性が感じとるやいなや、拘束への抵抗としての無気力感情が体験されることもある。

実は僕も今日はそんな感覚がちょっとあり、なんか気だるい感じ。まあ気分の動揺はもう全然ないレベルですが、多分もっとバリバリしている自己理想化像があるんだろうなーという感じで、逆のブレーキ感を意識の片隅に感じながら、ちょっとのろいペースでこれを書いている次第です。
あれ僕何書こうとしてるんだっけーって感じで。あっはっはー。

このような操縦心性への対処法ですが、まずとにかく、操縦心性は意識で探し出してどうこうできるものではないということです。
意識より先に働く部分を、操縦心性と呼んでいます。これがどんなことをしても、最後まで残ります。


まず問いて修正をかけることができるのは、意識的価値観です。
「無気力は悪いことだ」と考えているなら、気力低下を操縦心性が捉えて起こした自己処罰感情とうつ感情に対して、さらに明晰意識でも自己処罰感情を加えるだけにしかならない。

そうした善悪価値観を心底から捨てた時、不合理な自責感情から徐々に捨てていく道のりが始まります。
それでも残り続けるものが、上に書いたような形で感じ取れるものとして残る。
それへの対処方法は、かなり毛色の異なるものになります。この先はまた色んなカキコで。

気だるい月曜ネタでした^^;
-----------------------------------------------------------------

ということで、この後すっかり忘れていた会議のためUpしないまま帰宅となったのですが、実は帰りの電車中、このアンニュイ感を感情分析して、結構明瞭な対処をして、まあさっぱりとさせました。

詳細は省略しますが、何をしたかというと、出版本のためのスケジュールを真剣に考えたことです。ごくキモのところを言うなら、自分がいつ独立していつまで会社の仕事が必要かが、どうも自分の中でうやむやになっていたのが放置されていたのが、今日のアンニュイ感の原因だった模様。
これじゃーまずい。ちょっとはっきりさせなきゃあということで、ちょっと気力を奮い立てたわけです。

この流れは、自己嫌悪感情への対処としては、以前「自己受容ではなく」というタイトルで書いた類のものになります。
現状を受け入れるのではなく、受け入れないことが取った対処です。

これを見てあれっと感じる方も多いと思われます。受け入れることが重要なのでは?
ここがハイブリッドなところです。大抵、ある命題が真の時、逆も真である。重要なのは、その違いを分けるものは何かです。
「自己受容ではなく」でキーワードにしたのは、自己の主体への嫌悪と、自己の属性への嫌悪。前者には徹底抗戦し、自己受容が指針となる。後者はそうではない時がある。死に物狂いで何とかしようとする意志こそ、開放すべき時がある。

ではどんな時にはどっちを考えるがいいか。
まさにそれを未知なる自己に委ねることです。頭で考えて答えが出るものではありません。委ねられた自己が出した答えを、現実にぶつけて見る。その結果がいい方向にいくことも、悪い方向に行くこともある。それが学びということです。それによって魂が成長していく。

自己受容か自己変革か。最終的には未知なる自己に委ねるわけですが、ハイブリッドが提供する知識とは、そこに至るさまざまな事柄ということになります。

どんな状態なら、未知なる自己に委ねられるか。
自分の味方でいることです。そんな魂を感じたら、それに委ねる。
そのためには、ます自分に敵対視していることを知る必要があります。それを知り、捨てていくという前段が必要です。

自分に敵対視するとは、どのようなことか。自己の本質への嫌悪です。属性への嫌悪との違いを知る必要があります。
自分の味方でいるとは、望みを開放することです。望みを開放するとは、評価されることへの望みではなく、自分から歩んでいく意志のことです。この違いをまず知る必要があります。

こうした前段をひとつひとつクリアしていくと、最後に、操縦心性そのものが崩壊するある局面に至る。
ほとんどの局面で、操縦心性そのものは、対処の対象にはならないです。それを見つけて、どうこうするものではない。
こうした前段があって、最終局面が見えるようになってくる。

という感じで、前段の話から色々とじっくり整理していきたいと思います。
難しいっすねー^^;

p.s
今週は残り結構忙しくなりそうでちびちびの予定。

No.587 2005/05/16(Mon) 22:29

情動変形の核メカニズム / しまの

「望みの停止」によって情動が変形するメカニズムを考えているのですが、
ひとつわかって来たある決定的なメカニズムがあり、手短に。
これは僕自身の幼少期の体験が、感情分析の過程で閃光のように浮かんできた内容をメモったのを、日記に書き写しながら、はっきりと見えたてきたことです。

それは「愛情損傷反応」と「被軽蔑反応」が同時に生じる、というメカニズムです。
これは操縦心性以前の根源的メカニズムです。操縦心性は、このメカニズムの先で、人格の分離と錯綜化をするような。

つまり、愛されることを求め、それがかなわないため起きる「対象喪失」の悲しみ感情がある。これは「信頼した」相手の愛を求める感情ベクトルです。これは残存愛情要求を作り出す働きをするでしょう。
もうひとつ、自分が尊重されないことでプライド損傷反応としての怒りが起きる。これが破壊的攻撃性の芽になります。そしてその芽が出た瞬間、それは自分が嫌われることの予期に変化します。これによって本人は、「自分は愛されない」という自己像を持ちます。

この愛を求める感情と、破壊的攻撃感情は、本人の意識においては切り離されて体験されます。
なぜ切り離されるかというと、両者をつなぐ「プライド損傷反応」が意識から取り除かれるからです。
そして、「自分は愛されない」という感情は攻撃感情を主な原因にして生み出されるものでありながら、それを受け取り体験するのは愛情要求の側になります。

これ、何が起きているかというと、最初に「愛されない」何らかの事態があったことは事実なんでしょうけど、その後には、全くその事実がないところで、上に書いた感情が自己膨張するということです。本人がそのメカニズムを全く体験していない形でです。

すごいですねー。決定的なメカニズムです。
今まで愛情要求と破壊衝動を、幼少期に出てくる別の衝動のように、木の幹から枝が沢山分かれていくようなイメージで考えていたのですが、実はもっと根源的にカップリングされていた、元素物理でクォークが最初から6種類セットで生まれるような、閉じた元素宇宙のようなイメージへと変化した次第。

このメカニズムと操縦心性の核メカニズムの関連を考えることで、かなりのことが分かってきそうな感じがします。。

No.571 2005/05/11(Wed) 11:03

 
Re: 情動変形の核メカニズム / 匿名希望

>愛されることを求め、それがかなわないため起きる「対象喪失」の悲しみ感情がある。これは「信頼した」相手の愛を求める感情ベクトルです。これは残存愛情要求を作り出す働きをするでしょう。

の部分についてお聞きしたいのですが、
これが健康な人だった場合はどうなるのでしょうか。
作りだされる愛情要求の割合がより少ないという事になるのでしょうか。
比較的健康な人とは愛の形が異なるので比較対象にならないのでしょうか。
健康な人が愛を求め、それがかなわなかった場合、対象喪失の悲しみはあると
思うのですが、愛情要求についてはどのように違うのでしょうか。
よろしくお願いします。

No.577 2005/05/14(Sat) 22:54

 
Re: 情動変形の核メカニズム / しまの

>これが健康な人だった場合はどうなるのでしょうか。

いえ、その前の話です。幼少期の話
「愛されない」体験によって、残存愛情要求が作り出され、健全な状態と分かれる。
「愛されない」体験とは、親がいないとかではなく、愛されるべき対象がいながらそいうでない状況のことです。そこには「この現実は嘘だ」という感覚の発生という、操縦心性への流れもありますが、このメカを理解するためには視野の外に置いといていいでしょう。

で、残存愛情要求がない健全な状態においては、求めた相手の愛が得られないことによる対象喪失感情は、確かにあるでしょうが、違いは、自己否定感情は含まないことです。
残存愛情要求がある場合、対象喪失感情に、自己否定感情が伴ってしまいます。

これはひとつのプラスアルファが起きただけではなく、自己否定による「望みの停止」が起き、後の人生全体を閉ざす動きが起きてしまう。

「善悪の解体・上級編」の続きで、このメカニズムを具体例を上げて説明して行きます。

No.579 2005/05/14(Sat) 23:45

 
Re: 情動変形の核メカニズム / 匿名希望

お忙しいところ、ありがとうございます!
これは親が子供を愛していたとしても、親の知らないところで
子供が心理障害が必要な環境に置かれ健康な状態へと移行できかった場合は
(思春期をそのような環境で過ごした場合は)
親から他の他人と変わりなく愛されていたとしても、新たな愛を受け取れず、
愛情要求が残ったままという事もあると考えていいのでしょうか?
というかちなみに自分はそうだと思います・・。
話がずれてしまいましたが、
なるほど自己否定感情は含まないという違いがあるのですね。。
「善悪の解体・上級編」の続き楽しみにしています。

No.580 2005/05/14(Sat) 23:59

 
Re: 情動変形の核メカニズム / しまの

>子供が心理障害が必要な環境に置かれ健康な状態へと移行できかった場合は
>親から他の他人と変わりなく愛されていたとしても、新たな愛を受け取れず、
>愛情要求が残ったままという事もあると考えていいのでしょうか?

これはその通りですね。「そんな事もある」というより、必ずそうなります。
これには2つの理由があります。

ひとつは最初に愛情要求が損なわれた時点で、外界への不信感情が生まれているからです。
このため、以降の「愛情」は、原則として取り入れられません。
(我ながらあっさり書きましたが、心理学としては重要な話ですねぇ..)

もうひとつは、一定時期を過ぎたあとは、別の心理発達課題があるからであり、それはまさに「愛を受け取る」ことではなく、むしろそれを断ち切ってひとり立ちするという課題が起きているわけです。
「愛を受け取る」ことは、もう課題ではなくなってしまっている。もう遅いという感じ。
「母子分離課題」ですね。愛に頼らずに、心の安定を確立するという次の課題が迫っているわけです。

残存愛情要求は、「自分は叶えられなかった愛が必要だ」という感情を生み出すもので、この分離課題の達成も阻害する結果になります。
これは、発達課題が、前の課題の達成を前提にして順次的に積み立てられるものであるので、不可避の結果です。最初の課題に失敗すると、後の課題が全て連鎖的に失敗してしまいます。

この結果は、このままでは、人格の欠損ということで終わりになります。従来の心理学が言っているのはここまでですし、動物種で言うと猿まではそうだと思います。
人間の場合は脳がさらに柔軟になっているので、損なった達成課題を挽回する能力が備わっています。
これが、健康な心理成長と正真正銘同じ状態への回復なのか、それとも脳生理学的に別部位による代替回復なのかは、僕の研究レベルでは分かりません。(何のこと言ってるのかわかるかなぁ。。)

とにかくそれは、損なった発達課題を、損なった時の時間を元に戻してやり直すようなものとは全く異なる、複数の達成未了課題を全部考慮に入れた、新しい「回復課題」というものが用意されている、というような現象として理解すると良いと思います。

現在わいせつ罪で拘留中の某教授だったか、「育てなおし療法」とかいって赤ちゃんプレイするのは、とんだ勘違いだということです。あっはっは。
はぁ..^^;  とにかく、その新しい「回復課題」についても解説に入れますので。

No.581 2005/05/15(Sun) 01:49

 
補足 / しまの

“以降の「愛情」は、原則として取り入れられません”は我ながら大胆な発言だなぁと思い、ちょっと補足を考察。

虐待児がその後の献身的な愛によって立ち直るケースなどがあり、それは幼少期の「受け取り型」の愛情獲得と同じものか、愛情獲得課題はいつまで「募集期限」があるのか、といったテーマが考えられます。

これはまたちょっと考察の必要なテーマですが、僕の考えとしては、これを考える上である明瞭な境目時期があるということ。
それ以前では、取り組みとしても、とにかく「愛を注ぐ」ことをまず検討する。
それ以降では全く異なる、ハイブリッドのような専門心理学の登場となる。

その境目とは、思春期です。

No.582 2005/05/15(Sun) 02:10

 
Re: 情動変形の核メカニズム / 匿名希望

もうひとつは、一定時期を過ぎたあとは、別の心理発達課題があるからであり、それはまさに「愛を受け取る」ことではなく、むしろそれを断ち切ってひとり立ちするという課題が起きているわけです。
「愛を受け取る」ことは、もう課題ではなくなってしまっている。もう遅いという感じ。

こう感じるのは人間の仕組みとしてこうなっているのでしょうか。
周りがそういう一人立ちしていっているので自分もそうならなきゃと焦って
そうなるのか、極端な話世の中に自分一人だけだで周りに誰もいなかった場合
周りから何も影響を受けないような場合でも一人立ちするように要請がかかるの
でしょうか?少し知りたいと思いまして。

また
>人間の場合は脳がさらに柔軟になっているので、損なった達成課題を挽回する能力が備わっています。
これが、健康な心理成長と正真正銘同じ状態への回復なのか、それとも脳生理学的に別部位による代替回復なのかは、僕の研究レベルでは分かりません。(何のこと言ってるのかわかるかなぁ。。)
の部分は少しショックでした・・。
直っても代替なんだみたいな・・。
実際直った感じはどうなんでしょうかー?
本来の機能が回復したのか代替の部分が回復したのかはわかりませんよね・・。
でも、そういう部分って脳見てわかるもんなんですかねー?と
少し疑問に思います・・。
脳見てどこが活発に動いているというのはわかると思うのですが・・。
すいません。ド素人なもので。。
でもホント脳の生きる部分回復など他の人には見られないというか
ほんとすばらしいと思います。
解説楽しみにしています。がんばって下さい!

No.585 2005/05/15(Sun) 23:28

 
Re: 情動変形の核メカニズム / しまの

おはようございまーす。

ちょっと長くなりそうなので、あらためて新規カキコで解説しましょう。
「心理発達課題の失敗と回復の考え方」とでも題しましょう。

結構これは心理学全般において、一種の偏見的発想や、バイアスのかかった議論がおきやすい分野なので、ハイブリッドとしての見解をまとめておくのもいい機会かと。
明日以降になるかも知れませんが、ちょびっとお待ち下され。

No.586 2005/05/16(Mon) 09:59

空想と現実^^; / しまの

朝からちょっと書きかけてた、ちょっと生活ネタ。

島野は実は先日、あるTV番組に出演しました。BSで、誰も見ないような番組ですが^^;
島野としてではなく、本名の僕としてかつ仮名でですが。
以前「社会に出る」とか書いたのはこの話。

出演とはいってもスタジオ出演でなく、野外および自宅での収録を放映したもので、大した緊張感もなく出ることができましたが、
送られてきたテープを昨日夜見て(自宅TVではBS見れない)、最初の番組イントロで自分の映像が出た時は思わず笑ってしまいました。あ僕だーと。

内容は全くハイブリッドとは無関係で、ある趣味生活の領域の実例のワンオブゼムで登場したのですが、生活場面収録では、心理学サイトを作っていると著作活動についても紹介し、「小説も書ける心理著作家が夢」とか話したのが映っていました。
一応個人情報は出さない前提として、サイト画面も「ハイブリッド」という文字はモザイク入れてたものの、「人生心理学」の文字はばっちり出ていた。

で何書きたかったかというと、自分がどんな外見の人間なのか、動いている全体の様子で見るのは他にはない機会だなぁと感じた次第。
これは普段の鏡や、写真では分からない、他人から見た自分の最も現実像はそんなもんだというのを知る、いい機会になったと感じます。

空想していたのとはやはりちょっと違う..というか頭の中では明らかに美点ばかし拡大して現実とは違う感覚を持っていた部分がある。あっはっはー。
もっと若々しさばかりと思っていたり。。まこんなもんかーと感じつつ、ある外見上の短所改善については新たに方策を講じようと段取っている今日この頃。

「人生における望みを追求し続ける」がハイブリッドの勧める生き方であり、自分の外見がどんな感じであるかということへの望みも、その例外ではありません。現実を受け入れながら、できることはやる。
人にどう見られるかを気にする感情は、健全でごく自然なものから、心理障害人格における自己理想化とそれに合わない現実への唾棄感情、操縦心性による現実と空想の逆転への要求、そしてその虚構への操縦心性自身の自己軽蔑と、実に錯綜した領域ではあります。

僕自身はもうその錯綜からはほぼ開放された自分を感じていますが、年齢による老いの不可避的作用と、健康の改善による外見的向上、内面の表れという要素、そして今自分が人生で求める課題における自分の外見の役割、それらの追いかけっこは、まだまだ続くだろうなぁと思う今日この頃。。

それにしてもなんか寒いっすねぇ。。

No.576 2005/05/14(Sat) 21:49

 
予告^^; / しまの

読者広場にうさこさんが書いてくださったのを見て、書き忘れ思い出した。

本出して独立できたら顔出しても支障ないので、「こんなん出てました」とサイトにTV放映の動画をばっちり載せようと思います。ま余興ですね。あは。

No.584 2005/05/15(Sun) 14:31

善悪の解体・上級編-2:変化なき典型「人間嫌い」 / しまの

情動変形の核メカニズムが僕の頭の中でほぼ固まったのですが、それに至った考察材料などをまず取り上げておこうと思います。話が具体的になるでしょう。
ちなみに情動変形の核メカニズムそのものは、きわめて単純明瞭でありながら深い広がりを持つ公式のようなものにできそうです。アインシュタインのe=mc2のような。
真実を表現するものは美しい形を取るものです。これもアインシュタインが言ったことだったっけ。。

心理障害人格はハイブリッドの治癒過程を経れば必ず根本治癒されるのですが、それとは正反対に、全くの停滞にとどまる典型的な思考状態とも言うべきものがあります。
それが「人間嫌い思考」

これは先日久々に2ちゃんを見て「人間嫌い」というスレが目に入ったもので、ちょっと控えたものを転載しましょう。
そこでどんな心理メカが動いているかを考察するのが、ここ最近の僕の情動変形メカ論に至るスタートでした。
注目したい言動部分を太字にしてあります。

●本当に人間は汚い
他人の幸せを純粋に願う人間なんか居ない。たとえ身内でも。
当たり前のことなのかも知れないけど、この年になって思い知った
人間嫌いだから、あまり人と接してこなくて学習不足だったけど、
人の不幸ばかりあからさまに望んでいるタイプの人間と出会って色々学習できた
親でさえ、自分の介護をして貰いたいが為、
私が結婚相手を見つけたり、独立を恐れているのがわかる。
「お前に面倒見て貰うつもりはない」なんて言ってても口だけだ。
親でさえ、生ゴミ程度にしか思えない。
汚くなければ生きてけないとも言える。
これまで人から散々な目にあったからもう期待
するものは何もないとは思っている。
まあ、大人になるほど汚いことに抵抗しなくなるな。
人の身になって考えれるほど余裕はない。
今の社会、感じやすい人には生きにくいと思う。
悪いことを見過ごせないのは重荷なわけだし。
何も感じず、人の不幸を喜べるぐらいの神経が
丁度いい
んだよ。
でも、思いやりだけはほんの少しでも持っててくれ。
思いやりがなくなったらそれこそ終わりだ。
●他人も嫌い、自分も嫌い…どうすりゃいいんだろ…
●神様が許してくれるまで、何があっても生きなくてはならない。
●人も嫌いだし動物も嫌い…
昔はトリマーや獣医になるのが夢だったのに今じゃ犬ですら可愛がれない
●どいつもこいつも表向きは良い人ぶって、影では私の事を馬鹿にしてる。
もう人間なんて嫌いだ。
●人付き合いでなんか悩んで自分の人生ダメにしたくない
周囲の人とコミュニケーションとれなくて鬱入ってる自分なんて惨めで浅はかな馬鹿猿
これほどまでに煩悶するのなら最初から人となんて関われなければいいんだ
でも人生において絶対に人との関わりは避けられないよね・・・
一人で生きていける力をつけたいな・・・
●自分のことだけいつも気にしていれば他の人のことなんてどぅでもよくなるよ(≧∪≦)b

●慕われない・疎まれる程度の状況ならそれがいえるんだけどね。
信じられないほど執拗に嫌がらせを受け続けてもそういう風に思える?


このような思考状態からうかがえる幾つかの心理メカ要素について、それぞれカキコして行きましょう。

No.583 2005/05/15(Sun) 12:10

ペーターさん感想への返答-1:あくまで人格治癒が目的 / しまの

「サバイバル性善説」はハイブリッドの人生思想である「心理学的幸福主義」が志向する、最終的世界だと言えます。
そこでは善悪観念が存在しなくなります。

これがハイブリッドの考える人格治癒において、きわめて重要な位置付けにあるのですが、その説明が必ずしも容易ではない。
また読む側からも分かりにくい話だと思います。
そのため、サバイバル性善説の説明そのものは善悪の解体上級編で書きますが、それをどんな意識で読んでもらいたいかという話をまずしましょう。

それは、これは善悪哲学を論じるのが目的ではないということです。あくまで人格治癒が目的です。
善悪思想を純粋に論議するのが目的ではないし、その土俵でサバイバル性善説を論じるなら、話がどこに行くのかは、糸の切れた凧状態になると思います。

人格治癒とは、明晰な意識よりも深い、思考と感情が未分化なレベルでの、自己や他人や人生への情動状態の健康回復を目指しているということです。
それを司る脳の構造的改善とも言えます。

それが明晰意識による言語で、どう表現されようと、ハイブリッドでは、というか僕はどうでもいいのです。
宗教信仰であろうと、別の哲学思想であろうと、脳のその機能が健康化され、この生を楽しむ機能が回復されれば、いいんです。その方法を定義する手段として、僕は心理学というものを使い、ハイブリッドとして定義している。

ですから、ハイブリッドが言う善悪の解体と放棄は、ハイブリッドの文脈で理解しないと、意味ないです。ハイブリッドの文脈から独立させて単独で善悪哲学として議論するのは他人の勝手だけど、その結末には責任持てないし関与する気もないし関心もありましぇ〜ん^^;

より具体的に言いますと、目的は、感情の膿と自己操縦心性の除去です。
感情の膿とは、来歴において蓄積した、自分自身への怒りの膿です。これを除去できれば、人生が輝く。

これに至る段階は、5/13「善悪の解体・上級編-1」に書いた通り、まず3段階が考えられます。
心理障害とは、幼少期から不健康な姿勢を取りつづけた結果、骨が曲がって痛んでいるような状態と例えられます。

1)明らかに不健康な心の姿勢を直す。骨の歪みの拡大を、まず止めます。
これは実践ガイドで言うと、1 心の健康学、3 心の姿勢、5 感情改善の基礎にだいたい該当します。
2)錯綜した感情を解きほぐし、ストレスを減少させる。曲がった骨でも、痛みが少ないような姿勢にする。
これは、2 新しい人生観(心理学的幸福主義)のサバイバル性善説より前部分、4 人生の再建、6
感情分析
に該当します。
3)人格の根本治癒。曲がった骨をまっすぐに戻す。
これが、サバイバル性善説と7 心の手術に該当します。

「善悪の解体・上級編-1」に書いた通り、2)と3)の間には、ちょっと壁があります。
それだけ、感情の膿とは、手ごわいものなのです。結局自分自身への怒りを捨てられないんですね。

なぜ捨てられないか。
実に単純です。捨てようとしていないからです。
捨てようとしていないものは捨てないまま、それがもたらすストレスという不都合だけは嘆くいても、何も変わらないんですね。

「捨てようとしていないもの」が、まさに「情動変形の核メカニズム」です。
これを理解した時初めて、3)段階への扉が開かれます。そのメカニズムを捨てるために、善悪の放棄があるんです。そのメカニズムをまず理解して頂きます。

「善悪の解体・上級編」の続きでそれを説明します。
..とちょうど質問も来てますねー。まさに、残存愛情要求と、健全な愛情要求およびプライド要求の3つ巴の話になります。
つながって来ましたね〜!

No.578 2005/05/14(Sat) 23:21

感想をまとめて / ペーター

■「憎悪が爆発物なら恐怖が起爆装置なのだ」(2005/05/07)
>改めてナチスの行ったことが、人類の歴史に刻んだ大罪であり、
 決して忘れてはいけないことだとの感を、当時の状況を伝える
 ユダヤ女性の話に胸が詰まる思いの中で感じた次第。

「大罪」という言葉に「善悪」に対する考え方が反応。
「罪」とは「悪」ではないのでしょうか?
やはりホロコーストは「起こるべきではなかった」?

■ 望みの停止=歩みの停止(2005/05/09)
>ということで、「望みの停止」問題とは、
 自分がある目標にかなうかどうかという価値評価における
 拒絶のことを指すのではなく、自分から歩み自らの努力で
 近づくという動きの停止であること…

すごい! と思いました。
この日、僕もまさにその事実を体験・体感したから。
「シンクロニシティだ!」とかなり興奮しました。

■ 善悪の解体・上級編-1(2005/05/13)
上記の「ナチスの罪」の件などについてカキコしようかなと
思っていた矢先だけに、これもちょっとした「シンクロニシティ」でした。

ちょっと前から、僕はこの「善悪問題」に引っ掛かっている、
というより、こだわってしまっています。
それは僕がそこに、とてつもなく大きな可能性を感じているからです。
しまのさん自身、「善悪の解体がなくても心理障害は克服できる」
「善悪の解体は治療のその先の領域」と指摘されているように、
僕にとって、この「善悪の解体から放棄へ」というテーマは、
もはや心理学にとどまらず、新しい哲学の誕生を予感させます。

ハイブリッドに初めて触れたとき、僕がまず想起したのは
「道徳の系譜」や「善悪の彼岸」といった著作で
従来までのキリスト教的倫理観を相対化しようとしたニーチェでした。
「怒りの放棄」というテーマは、ニーチェのいう、人間一般の行動原理にして、
人生を台無しにする「ルサンチマン」(憤怒)という考え方に相通じます。

とまあ、わかったようなことを偉そうに書いていますが、
実際僕はニーチェをあまりよく知りません。
学生時代に上記2冊の本を「教養」として何とか読んでみた程度。
しかも、その理解度については甚だ心もとない。
そこで「ニーチェ」をキーワードにネットを検索してみると
いろんなことがわかりました。たとえばこれとか。
h ttp://www.ne.jp/asahi/village/good/nietzsche.htm
些か極論とは思いますが、「ハイブリッド」は
「ツァラトストラ」=超人への道にもなりうるし、
普遍性と実践性においてはニーチェを越えてるかも、とすら感じます。

「善悪の解体・放棄」というテーマに、
もうひとつ僕の脳裏をよぎった言葉があります。

実は未読で、実際その意味もまったく知らないんですが、
大江健三郎が確かノーベル文学賞をもらう直前だか直後だかに
書いた何冊かの小説やエッセイのタイトルに使われたそれは
「新しい人」という言葉です。

なんだかんだいっても、人間は変わらない。
「新人類」(古っ!)とかいっても、
総じてジェネレーションギャップというものは結局、
価値観ひいては「なにを善しとするか」という善悪観念の内容の変化、
つまり質的変化をベースにしたものだったわけで
だからもし、「善悪観念」そのものを放棄するという
精神の「構造的変化」が達成されるなら、
そこに立っているのは、これまでの歴史には登場しなかった
「新しい人」なのかもしれないと思うのです。

しまのさんは
「善悪観念の放棄は必ずしも進歩的とはいえない感じもする」
といってますが、従来の人間像から逸脱するその姿勢は
人類に新しい可能性を切り開くのではないかとすら思えます。

一方で、「ジェネレーションギャップ」の当事者同士は、
案外よくよく話せば理解し合えたりするものですが、
もしかすると、「古い人」と「新しい人」の間には
相互理解の基盤そのものが失われているかもしれません。

それぐらい、この「善悪問題」は難しい。
「善悪を放棄するのが『善』、善悪にこだわるのは『悪』」
といったパラドックスに捉われないとも限らない。
事実、最近の僕は、道徳観念に捉われ過ぎている人が
「おバカさん」にみえて仕方なかったりするんです。

とはいえ、僕は徐々にその本質を理解しつつあるような気もしています。
「インパラがライオンに食われるのに善も悪もない」
「大地震が発生して多くの人が亡くなったことに善も悪もない」といった喩えは
とても理解しやすいし、最近のトピックでいうと尼崎で起こったJRの大事故で
遺族の「悲しみ」に感情移入する一方、遺族の「怒り」には共感できない
自分を発見したりしました。「当事者ではないから」といわれれば反論の言葉は
ありませんが、それだけではないような気がしてなりません。

現象そのものがあり、善悪そのものはない。
善悪はいわば、事象に対するある種の「感受性」なのだと思います。

けれど、いまだにちょこちょこ引っ掛かることがあったりして、
でもそれは単に表面の「言葉」に引っ掛かっているだけなのか、
それとも「本質」的な事柄につまずいているのか、
自分ではよく分からなくなる瞬間もあります。
最初の「罪=悪?」という問題もそうです。

というわけで、しまのさんに最後にシンプルな質問なんですが、

@「好き・嫌い」というの感情は、しまのさんにもありますよね?

「ハイブリッド」は決して「博愛主義」を推奨するものではないから、
「好きにならないこと」「嫌うこと」は許容していると僕は理解しています。

また、「好き」「価値がある」と感じることを「善」と考え、
「嫌い」「価値がない」と感じることを「悪」と考えることが
一般的な感受性でしょうが、

A「価値を感じない」「好きになれない」対象を「悪」と捉えたり、
 さらには「憎んだり」しないようにするためのコツみたいなものがあれば、
 教えてください。

「オレにあんなことをするアイツは大嫌いだけど、
 アイツが「悪い」というわけではない」と自分を納得させるのは
 多くの人にとって、やっぱり簡単ではないような気がします。

ムチャクチャ長くなってしまってすいませんが、最後に。
「嫉妬」に対する取り組み、「自分の望みが絡んでいるから難しい」
という回答には「なるほどなあ」と思いましたが、
理論が急速にブラッシュアップされつつあるようにお見受けする昨今、
もし、また新たな発見があったら教えてください。

No.573 2005/05/14(Sat) 03:50

 
Re: 感想をまとめて / しまの

ど〜も〜。

ざまざまな話との関連での疑問を出して頂くと、僕の方でも思考回路が大いに刺激されて活性化されます。
う〜ん、返答カキコに腕が鳴る鳴る。アハハ。

>ちょっと前から、僕はこの「善悪問題」に引っ掛かっている、
>というより、こだわってしまっています。
>それは僕がそこに、とてつもなく大きな可能性を感じているからです。

大いにこだわって下さい。
分かった時、人生が変わるでしょう。これは断言できます。


ハイブリッドの善悪観は「サバイバル性善説」と命名して明瞭に定義しようと思っているところです。
定義そのものは「善悪の解体・上級編」で説明しようと思いますが、どんな意識でこれらのことを考えるのかというのを話す良い機会と思いますので、
感じたことを「ペーターさん感想への返答」としてカキコして行きましょう。

No.574 2005/05/14(Sat) 09:38

 
Re: 感想をまとめて / ペーター

こんにちは。

「善悪の解体・放棄」は意識的に取り組む課題や目標というより、
ハイブリッドのいう自らの望みに向かって生きる姿勢の中で
“結果的に善悪という考え方は必要でなくなってくる”という話は
なんか、とてもシックリきてました。

それまで朝起きると無条件に、当たり前のように掛けていた
「メガネ」の機能や構造に改めて着目し、調べてみると
実は余計なものまで見えてしまうような仕組みをもっていたから
試しに掛けないで一日を送ったら、ほとんど困ることがなかった。
そこでしばらく掛けないようにしたら、それが当たり前の習慣になって、
いつしかそのメガネの存在そのものを忘れてしまう。
さらに、裸眼で世界を見つめ始めるとそこにはとても大きな
可能性があることが見えてくる。

「善悪問題」の難しさは、それを第三者に説明することの
難しさでもあります。僕はどんな親しい人にもこのテーマを説明し、
理解してもらえる自信がないのです。
宗教はその最たる例として、「善悪」は私たちの社会の深部にまで
根を張っている極めて頑強な、「経済」と双璧をなす社会原理だと思います。

ハイブリッドのほかのテーマ「望みの追求」や「怒りの放棄」などは
おそらく一般の方にとっても受け入れやすい事柄だと思うのですが、
こと「善も悪もないよ」という話は、圧倒的多数が拒絶反応を示す
極論的な「大異端」の考え方と捕らえられるのではないかと。
話を聞けば、ある程度まで理解も納得もできるけれど、
どうしても受け入れるのに抵抗を感じるという人も多いかもしれません。

というわけで、しまのさんによる善悪問題のさらなる探求と解説に
大いに期待する次第です。

No.575 2005/05/14(Sat) 13:40

善悪の解体・上級編-1 / しまの

3/2の「善悪の解体・補説-15」以来となりますが、善悪の破棄についての話の続きをそろそろ書こうと思います。
善悪観念を「捨てる」という消極的側面を越えて、より積極的にそれを志向するのは何故か、という話。そしてその行き着くところであるサバイバル性善説の話が残っています。

これを、最近の僕の目でとらえるとどんな話になるかということで、ちょっと改めて「上級編」として。
なぜ上級編かというと、治癒論とかかわってくるからです。
最近、色々と拡散した理論側面がかなり特定された治癒メカニズムの中に収束しつつあり、より明瞭に、何が何のために必要なのかを説明できるのではないかと。

前説的に、基本的な考え方を書きますと、
まず、善悪の解体が善悪の放棄を通って、より積極的に何かを志向するという、思想の側面があります。
これは、別れを告げるものは「破壊的道徳」だということです。必ずしも全ての道徳を排除しようとするものではない。
「破壊的道徳」は、「そうしてはいけない」「こうでなければならない」と言うものです。

それに対して、「建設的道徳」というものがあるのなら、それはもはや「道徳」の姿を取らない、と言うことができます。道徳の姿を取らないし、取る必要さえないのです。
なぜなら、建設的であるとは、「どうすればいいか」という、未来志向の思考法を使うことだからです。このためには、なぜそうするのがいいのかという知識と、それを具体的に実践するための方法の提示を、必ず必要とします。
ここに至って、「こうでなければ」という規範が問題になるのではなく、知識そのものの正確性有効性が問題になります。

つまり、もし建設的道徳と言えるものがあるのであれば、それは「技術」の姿を示すようになる、と言うことができます。
そこに「善悪」という観念は不要です。

治癒論の側面からは、そのような善悪観念の放棄が、危機的状態を脱した低調な安定から、根本的な人格の改善変化へと移行するための必須要件であるということを言おうと思います。
これを明言したのは初めてかと。

治癒成長の段階レベルとしては大体3段階くらいがまず考えられます。
1)危機的状況を脱する。また明らかに間違った心の姿勢を修正し、心の健康を向いて生きる姿勢を習得する。
2)来歴を通じての感情の抑圧を解除し、ストレスを減少させる。いくつかの、こんがらがった感情を解きほぐす。

ここまでは大抵誰でも行けると思います。本人の生きる姿勢に大きな変換はないまま、幾つかの心理学知識によって無駄が除かれるという感じ。
これの先には、ちょっと壁があります。何か根本的方向変換によって、壁を破る必要がある。同時に、「心の手術」局面に導かれるという実践的難しさがあります。
3)人格の根底に開墾のクワを入れ、脳の構造的変化とも言えるような人格の改善変化へ至る。

ということで、比較的安定した、でも低調な治癒段階から、脳が変化するほどの人格改善の間には、ちょっと超えるのが難しい峠道のようなものがあります。
でもハイブリッドが目指しているのはそれなので、その峠の超え方に関する話が多くなる見込み。

で、まずその峠を越えるどころか、それに向かうことさえ阻んでいるのが、「道徳的自尊心」だという話などから、次以降書いていきます。

また、別のシリーズものとして「望む技術」という話もします。
それで話がつながるんですね。善悪の放棄は、破壊的道徳の放棄であり、道徳的自尊心を放棄して、建設的道徳とも言える世界を選択することです。実際その時、道徳は道徳であることをやめ、技術になる。
望む技術という、「心の技術」という世界になってくる。技術であるとは、感情には揺らぐことがないということです。それも、「心」という感情の出元への技術です。

何かを捨てるということではなく、より強固なものを確立するということなんですね。

No.572 2005/05/13(Fri) 10:34

サイトの展開拡大計画^^; / しまの

サイトの展開活動を拡大したいなぁと思う今日この頃。。
とにかく現状のサイトはほとんど新規訪問者がおらず(^^;)常連読者さんでもっている(?)ような感があるので、もうちょっと活発化したい。

ということで、そろそろ展開拡大方策をちょっと考えて行こうと思っています。
まずはヤフー登録を試みる感じかと。そのために、トップ・コンテンツのリニューアルをまたそのうち行おうと思います。

6月あたりがめどになると思いますが、新規訪問者の拡大見込みが立ったら、無料メール相談の看板は下し、有料カウンセリングに切りかえようと思います。
それまでにメール頂いた方は引き続き無料メール相談形式にて継続しますので、お気軽にどーぞ。ハイブリッドが現状まで進歩したのも、今の読者さんのおかげです。その感謝もありますんで。
有料化は収入化のためより、数の制限をするのと、より公の形態にするためですね。

まそうできそうな時はまたお知らせします。

なお「読者のフィードバック広場」ですが、「なるべく具体的に」とか「読者と一緒に発展させていく」とか、ちょっと気合が入り過ぎていたので(^^;)、とにかくハイブリッドがどんなものかという感触を、訪れた人にも伝わることを目的にして、お気楽なものにしたいということで、冒頭文もちょっと修正しました。

ちょー簡単なカキコから何でも大歓迎しますので、ハイブリッドを盛り立てるためぜひぜひ積極的にカキコ下さいませ。
まあ自分がどう変化したかと考える余裕ができた折にでも、煩わしくない範囲で、よろしく〜〜!

No.570 2005/05/10(Tue) 11:31

望みの停止による情動の変形・序説 / しまの

先のカキコの続きになりますが、自分自身で歩む動きの停止が意識されず、到達できないゴールだけがフラストレーションの苦しみとして意識されると、ゴールの最終形だけを、自己の歩みの停止状態のまま獲得しようとするバイパス的な衝動が起きることになります。
これで情動の変形が起きる。

この時、停止されたものとは一体何だったのか。それにより何が何に変形したのか。
停止されたものとは、恐らく「自分自身であること」でしょう。自分自身であることに絶望したまま、本来追い求めたものの目標に近い最終形だけを獲得しようとする衝動が起きた。

これがなぜ嫉妬競争心敵対心サディズムなどの、本人さえ不快なまま引き込まれる、変形した情動になるのか、考えどころです。

ちょっと時間がかかりそうですが、理論がまたひとつ進化する予感。明らかに理論に欠けていた部分があったんですね。
操縦心性による「ニセへの憎悪」は、苦しめ続けるものへの憎悪というマイナス面は説明できても、嫉妬やサディズムのように本人自らそれに熱中するというプラス要素は説明できていなかった。
ホーナイはそれを「敗北感を打ち消す代用品」と説明していましたが、それはまだ消極的側面の説明でしかなかったんですね。

自分自身にあることに絶望する動きは、操縦心性に関連します。
ゴールは「愛」です。しかも、残存愛情要求です。敵対心やサディズムは、明らかに、残存愛情要求の抑圧によって生じます。
この2つをつなげるメカニズムがあるはずなのですが、今は奇妙に見えない..。

まそのうち見えるでしょう。
残存愛情要求の抑圧は、人格の治癒成長を停止させる特効品です。
それを愛と鵜呑みにしない姿勢の中で、残存愛情要求の抑圧を解除するという、極めて独特な姿勢が要請されます。

その独特な方向性をより直感的に理解するためにも、上の答えが鍵になると思うんだけど。。

No.569 2005/05/09(Mon) 22:49

望みの停止=歩みの停止 / しまの

ここ数日、僕自身の感情分析が結構活発化していたのだけど、そこではっきりした極めて重大なことがあり、手短に。
それは、情動の変形の根源原因として言っている「望みの停止」とは、「与えられる望み」ではなく、「自らそこに向かう歩みの停止」だということなんですね。

ある、追い求める願望なり夢なりがある。それが達成できたゴールの姿そのものは、決して望みは断たれていない。否、それは待てば与えられるようなものでさえある。
でも実現はしていないのが現実である。
こんな時人は時に苦しみを感じるのですが、しばしばそれを、ゴールの目的物が得られていないせいだと考えやすい。
なぜならゴールの姿はイメージできるからです。

このような自己観察だけを行った場合、フラスレーションは持続します。

感情分析では、この感情の生起過程を幾段階かに分解して、自らの心の中で反芻吟味のシミュレーションをします。
もしこれがこうやって実現したら、自分はどう感じるだろうか。
この方法なら、どうか。
いやいっそ、こうしてみたら。。

するとあることが極めて明瞭になる。ゴールに到達できるかどうかはあまり関係ないんですね。
そこに向かって自分から動く動きが自ら縛られていると、苦しみが続く。
感情のシミュレーションの中で、ある自分の行動パターンを試みると、苦しみが消える。そこではっきりしているのは、ゴールが消えていることです。代わりに、自分の歩む動きが前面に現れます。

これは多少うなづける心理現象です。ゴールをイメージするとは、基本的に現在とのギャップを意識するということです。そこに「生かされる今」はない。
歩む自分の動きが前面になると、そこには何かと何かの断裂は存在しない。それだけになる。そこに「生かされる今」があるわけです。

ということで、「望みの停止」問題とは、自分がある目標にかなうかどうかという価値評価における拒絶のことを指すのではなく、自分から歩み自らの努力で近づくという動きの停止であることに、焦点をより明瞭にして行きます。

才能や美貌に溢れた人が自殺する例も、この問題からすれば、何の不思議もないわけです。
逆に言えば、「条件に恵まれない」人の苦悩も、真の原因は別のところにある、ということです。

No.568 2005/05/09(Mon) 22:03

『マトリックス・レボリューションズ』見た / しまの

GWも終わろうとする土曜夜、レンタルDVDで『マトリックス・レボリューションズ』を見ました。

レンタルで映画見たのは1年ぶりで、レンタル店カードが更新時期で、更新するとレンタルひとつタダとのことで、じゃー見るかということで、前回見たのがやはりGWに『マトリックス・レボリューションズ』でした。確認したら5/5だった。
この1年、他に見た映画といえば、あとはTVで再放映されていた『T2』や『マトリックス』くらいかも..^^;

で『マトリックス・レボリューションズ』の方は、知人とかの評判ではいまいちで、やはり最初のが一番面白いとの声でしたが、僕的には結構面白かったですね。『マトリックス・リローデッド』は『レボリューションズ』の前段的な感じでやはりいまいちでしたが、この完結作は、最初の作に匹敵する面白さというより、それとはまた異質な面白さがあったという感じ。

始まりの方はどうもいまいちパッとしなかった感じだけど、後半あたりからグッと迫力が出てきて、面白さとしてはマシンと人間の戦いの壮絶さと、ネオの最後の戦いの壮厳な意味という感じかなと。

特にラスト場面に至って、全てが何であったのかという一種の謎がどんでん返し的に現れる。これがこの3部作を通して現れた、もうひとつの新しい次元であったのがとても面白いですね。

僕の解釈では、まず「マトリックスの世界」と「現実の世界」がある。しかしそこで見ている「現実の世界」が正真正銘の現実であるという保証は、どこにもないわけです。
これは人間の知る世界像があくまで人間の知覚によって描かれた映像に過ぎないということであり、人間知を超えた普遍的実在という概念は、その内容を文字通り人間が知ることはないながらも、その概念によって示される何かがあることを否定することはできないんですね。
すると、全てはその普遍的実在によってプログラムされたものなのか、というテーマが現れるわけです。全ては神の業である、とか。
偶然と運命、原因と結果、選択と作用とはそもそも何なのか、という哲学的テーマになってくる。

『マトリックス・レボリューションズ』はそのテーマを扱った映画のような気がします。
そこで大きな役割を果たしているのが預言者です。3部作を通じて、最後に、この預言者の位置づけが、一次元高いところに移る。
そこで預言者の言った言葉に、大きな意味があり、それがこの『マトリックス』シリーズを作った人間の持つ世界観が示されているのだと思います。

「こうなると分かっていたのか?」との、アーキテクト(?)の問いに、
「いいえ。」と預言者(オラクルという名だそうhttp://www.eiga.com/special/revolutions3/05.shtml)。「でも信じてた。」
これが、このシリーズを通して最も高次元に位置づけられる者の口から出たということ。
それは、「因果」と「意志」との関係において、「意志」が最初にあるという、作者のメッセージではないかと。

これはハイブリッドの、というより僕の科学観とも一致します。
全てを物理法則によって解明しようとする科学の「へり」には、「意志」が現れてくる。
「不確定性」の先にあるものは何かというテーマ。それを「神」といおうと「至高存在」と言おうと、何かがあるわけです。それを因果的なものと考えるか、それとも意志的なものと考えるか。

僕は後者を取っています。まず意志的なものがある。
これはその世界が因果的なものから成り立っているという考えを否定するものではなく、意志的なものの中で自分が生きている、自分が知りえるのはそこまでであるという境界をはっきりと宣言しているということです。

あくまで科学哲学の話であり、心理療法とはちょっと離れた話題でした。
いずれにせよ、僕の生涯の中で、この後何回も見る映画になりそうです。

No.567 2005/05/09(Mon) 10:22

実践ガイドに項目解説を入れました / しまの

これでようやくハイブリッド心理学の全体像がつかめてくるのではないかと。

あと「感情分析」「心の手術」という、キモ中のキモが残されているのですが^^; さすがにこれは難しく、幾つかの主要な感情のテーマも盛り込むと膨大になりそうですが、今までの掲示板カキコや返答メールなど整理しながらまた更新していきたいと思います。

基本的な方向付け部分については、これで大体項目が整理できたので、あれの事これの事という風に話が進めやすくなると思います。
相談メールもどーんと来なされ^^。

No.566 2005/05/08(Sun) 13:45

「憎悪が爆発物なら恐怖が起爆装置なのだ」 / しまの

「ベルリン陥落 1945」の著者、アントニー・ビーバー(58)の言葉だそうな。
実に深い言葉、そして自己操縦心性といった心理障害メカニズムにも通じる言葉だと思います。

今朝の毎日新聞朝刊で、1945年5月8日のドイツ無条件降伏を特集した記事のひとつです。
改めてナチスの行ったことが、人類の歴史に刻んだ大罪であり、決して忘れてはいけないことだとの感を、当時の状況を伝えるユダヤ女性の話に胸が詰まる思いの中で感じた次第。

同時に、中国での反日が騒がれている昨今のわが国ですが、やはりちょっと認識は甘いのを感じますね。
まあ政治問題には基本的にコメントしないスタンスですが^^;

さてタイトルの「憎悪が爆発物なら恐怖が起爆装置なのだ」という言葉ですが、まさにその通りであり、そこにハイブリッド心理学から何を考えるべきか、付け足すならば、憎悪と恐怖をもたらしたものの正体は何か、です。
ナチスによる虐殺のような、憎悪に非人間的色彩を加えたものの正体です。

それが、操縦心性による「ニセへの憎悪」のメカニズムである、というのがハイブリッド理論の考え。
単なる憎悪ではなく、相手がニセモノだという、「自分は真実を知る」という幻想的尊大感を伴う認知によって、相手はいかなる非人間的破壊にさえ足りない、異形の存在へと化すのです。
その憎悪による破壊衝動は、いくら破壊衝動を行動化しても「手ごたえがない」という独特な感覚を伴います。
後にあるのは、ひたすら破壊衝動の暴走とエスカレーションです。

「ニセへの憎悪」を抱く人間は、まさにその憎悪衝動を、無意識下において自分自身に対して抱いています。これが恒常的に流れるストレスの膿の正体なのです。
自己操縦心性が、「自己理想化」と「空想と現実の逆転」そして「ニセへの憎悪」をつかざどる心理構造体である時、この帰結は必然的です。

「心の手術」で究極的に行おうとするのは、この「ニセの自己への憎悪」の抽出除去です。
詳しい解説は別に譲るとして、簡潔に言えば、これは知的に理解してすぐできるものではなく、自己の望みに向かい生きる生活の過程において、憎悪感情の中から、利に合っていない怒りの感情や、プライド損傷反応を切り出して放棄していく過程を通じて、「ニセへの憎悪」が純粋に抽出されていく段階を経る必要があると考えています。内面の力が増し、自ら能動的行動を取ることができるようになった時、初めて、そのストレスの膿の正体に近づけることになります。
長い道のりです。

No.565 2005/05/07(Sat) 11:27

実践ガイド全面改訂開始 / しまの

実践ガイドを全面的にリニューアルする作業を開始しました。

これは結局、最初の出版本の原稿整理を、ダイジェストが終わったら始めようかと思っていたのを、もう始めた状況です。
ダイジェストを一気に片付けようかという考えもあったのですが、ダイジェストは原稿を練る作業がまるで感情分析みたいな感じで、時間がかかり、それに対して出版本のための原稿整理はかなり単純作業でどんどん進められるので、平行して進めようかと。

実践ガイドをこんな風に整理することを重視しているのは、「感情と行動の分離」というスタートからして、そのような整理が必要とされることだったと言えます。
感情の問題と行動の問題を分ける。次に、それぞれについての話が始まる。
そして「全体思考」というのがあります。2面を同時に見るとき、心が成長するのです。2つのことをまず十分に知識で学び、実際の人生体験において、2つを知る。その取り組みの延長で、やがて、2つの視線を同時に持つという、特別な姿勢が現れます。
これが心を成長させるのです。

だから、「この話があります。一方でこの話があります。」というのを、ちゃんと分けて、似て非なる話として知って頂く必要があり、実践ガイドのような整理がとても重要だと思うのです。

例えば端的な一例をあげると、人間関係に向かう姿勢として、「建設的行動学」としての話と、「人生再建の心理学」としての話では、話が違います。まあ前者はどちらかというと行動の話だし、後者はどちらかというと感情の話になります。
取り組み初期においては、この2つは交わることのない、別世界のこととして体験される可能性が大きいでしょう。
そこで一面に走ったのが、今までの成長を閉ざした姿勢だったわけです。そうではなく、2つの世界を見つづける。その時、心が静かに変化を始めるのです。
やがて2つが交わる時、そこには未知の自己が見出されるでしょう。

うん、この言葉はどっかで使おー。

No.564 2005/05/06(Fri) 23:56

「読者のフィードバック広場」開始! / しまの

新しい掲示板として「読者のフィードバック広場」を開設しました。

主旨等については掲示板冒頭に掲載しましたが、僕としては要は、ハイブリッド心理学を島野一人が細々と公開する心理学ではなく、社会で広く認知してもらうための一つのステップとしたい所存でありまする。

先日もヤフーのメンタルヘルス・トピック見ていたら、米国で「人格障害の増加」が報じられており、成人の10人に1人は人格障害を持つとのこと。
多分日本でも同じような状況でしょう。

これだけ大きな問題でありながら、それに対する解決のアプローチが社会に十分に提供されているとは言えない状況であるのを感じます。
きのうも、帰省先で、家にきたお手伝いさんから、身近に接している、うつ病で何件精神科の医者に見てもらってもなおらない人や、10代の登校拒否の子の話とか聞き、時間があったらアドバイスしましょうとかいう話をした次第。
3歩あるけば心の病にぶつかる時代という感。

それに対して、現在認知されているアプローチは、精神科のお医者に任せ、診断して、とにかく薬を飲むことだ、というもの。もしくは、「傾聴」だけを繰り返す、方向性のあまりないカウンセリングが中心ではないかと思います。
それに対して、ハイブリッドでは、明確にある取り組み方法を定義するものです。なによりも、自分の人格を人に診断してもらうという姿勢とは対極にある、「自己の重心の選択」によって始まる取り組みです。

こうした考え方が支持されるかどうかは、結局具体例に依存すると思います。
僕自身の話は置いといて、実際のところ、ハイブリッド心理学がどう人の役に立っているのか。掲示板にカキコ頂いたり、メールで感謝の言葉を頂いたりという、はっきりしたもの以外でも、プライペートの中で自分の著作活動を紹介すると、ほぼ皆が強い興味を示してくれます。

掲示板に主旨を書いた中でも触れましたが、僕自身は、ハイブリッドがどう役立っているかを、個々の人に聞くことはありません。なぜなら、これは自己自身による、自己を成長されるための取り組みであり、それを人に導かれる形で行うことはバイアスを生じさせることだからです。

今日「ハイブリッド心理療法」というロゴをトップページに載せました。
最近、「療法とはもう言わなくなっている」と書いたことがありましたが、「自分自身の心理障害の克服として実践する限りにおいて心理療法と言い得る」と、定義しています。

ということで、ハイブリッド心理学がどう役立っているかは、僕個人への報告ではなく、社会へのひとつの主張して行って欲しいように感じているのです。

僕自身の目に見えることについて上述したことに続けると、ハイブリッドは僕に分かる以上に、かなり役に立っているという実績が、そろそろできてきている感触があります。
今はまだまだ準備段階ですが、こうした実績を土台にして、今後社会で大きく島野としての活動を展開したいという意志があります。

そんな発展と飛躍に向けての、ぜひはなむけ(?)代わりにでも、ご自由に報告下さいマセ。

No.563 2005/05/06(Fri) 12:13

明日から5日まで帰省 / しまの

↑じゃすといんふぉーめーしょんです。

結局スキーは「なんとなく面倒くさい」が「滑りたい」に勝ち、今年もスキーに行かないGWに決定。。

No.562 2005/05/02(Mon) 23:19

葛藤への対処と解決-12:盲点と勘違いを探る-4 / しまの

紹介したメールの相談者は結局、白旗あげて上司に裁量を任せたところ、結構あっさりと段取りを調整してもらえたようです。
「あんなに焦って苦悩したのは何だったのか..」とのこと。
そんなもんです。結構つまらない勘違いやこだわりが、人を出口のない葛藤状態のままにしてしまいます。

僕の方では引き続き、「仕事をする能力」についてのコメントをメール返答しました。
これは「仕事の能力とは、“できる”能力だ」という勘違いについての指摘です。

実際の仕事の能力とは「“できない”ことを認める能力」であるという面が、この企業社会においては多くあります。

これは多くの人が、自分の仕事の能力について、勘違いをしながら無駄に自分を追い込んでいることが実にあると思いますので、引き続き紹介します。
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■仕事の段取り方法

ぜひこれを機会に、仕事の段取り方法を習得するとよいと思います。
仕事量を自分でコントロールするということですね。

まず「見積もり」。自分ならこれくらいの期間でできそうだ。
それに多少の余裕を上乗せして、相手に伝えるのが基本です。
自分を有能に見せたい衝動から、自分の首をしめることにならないよう、安易に「できます」と言いたい誘惑とは戦う必要が、特に若い間は(^^;)あるでしょう。

習熟してくると、仕事している振りして自分の時間を作ることも容易になってきます。
あとは、自分の仕事の全体量と優先順位の把握、そして作業中にはそれだけに意識集中、というのが重要ですね。
掲示板1/25「なぜ忙しくてもストレスがないのか」など参考下さい。
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/200501.html


■「能力」とはなにか

あともうひとつ、これを機会にぜひじっくり考えてみて欲しいのは、自分の能力は何かということです。
いままで、これについての明晰な思考が欠けたまま、何か「できる人間」のイメージだけに追い立てられていたのではと思います。

つまり、いつもやる気があり、どんどん仕事を進める、作り続けるといったイメージがあったかと思いますが、実は、仕事の有能さとは、上に書いたような、段取りをきちんとできることであったり、自分の限界を知ってそれに応じた対応をできることであったりします。

なぜなら、それが自分の仕事についてできる人は、他の人の仕事に関わっても「調整能力」が発揮されるからです。
そして、企業が求めているのは、これなんです!

オリジナリティがあって馬力と魅力に溢れる仕事人は、1パーセントに過ぎません。
99%の人は、この経済社会の活動を地道に分け合い、それぞれのペースで分担する調整作業で、自分のポジションを作っているんです。

逆にいえば、そうした自己管理と調整ができれば、どこでも仕事ができるんです!


これ重要ですね〜。
Aさんの場合どうも自己嫌悪感情の方ばかり注意が向いていましたが、この極めて重大な話が抜けてたかと。
なぜなら、この社会で生きる自信というのは、自己嫌悪感情の具体的内容に関わらず、それを底からつき崩すための、汎用的な自信の基盤だからです。

そうした調整ごとに目が向くと、「行動学」がいよいよ本格的に実践に供されることになります。
それがつかめてくると、さらに自信の底堅さが増す。

No.561 2005/05/02(Mon) 16:25

葛藤への対処と解決-11:盲点と勘違いを探る-2 / しまの

その10でのメールの続き。

ここでは、社会のルールについての勘違いはないか、というのが一つのテーマになっています。

我々の済む現代日本は、自由経済社会であって、道徳社会ではありません。これが現実です。
「こうでなければならない」ことなんて、何もないんです。

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■目の前の問題の放棄もひとつの選択

で前回は選択肢として以下を挙げましたが、ちょっと抜けてましたね。

a) とにかく回りに合わせ、やる気がある姿を見せる
b) 自宅で作業できるよう早く帰宅する
c) そもそもの仕事量の適正化を図る

Aさんが今置かれた状況の場合、このように自分で整理して選択するという母集団ではなく、
困難な自分の状況を正直素直に伝えて、もう相手に任せてしまう、というのがあります。
ちなみに、今まで、実際のところ仕事量が辛いことを、上司の人に相談したことはあったでしょうか?

頭の整理がつなかいほど心身疲労しているのなら、まず全ての債務を放棄して休むという選択がありますね。
デメリットとして、クビになるのを覚悟ということになるかも知れません。
実は大抵は、「私には無理です」とはっきり白旗を上げると、あっさり向こうは何とかするものです。
袋叩きやリンチに合うことはまずないでしょう。

ところが恐らく、Aさんの感情は、「袋叩きやリンチに合う」ことを予期しているかのような感情だと思います。
その感情を「どうにかする」必要はありません。人工的にどうできるものでも、あまりありません。
どれだけ現実において合理的かを、じっくり考えて下さい。


■「有無を言わさず」など建前

「私にはできません」と言えない理由についてじっくり考えてみるのがいいと思います。
口で言わなくてもぶっ倒れてそのことを示すということにならないようにしたいものです。
とにかく無理をしないことです。

自分から「私にはできません」と言えない理由について、また別途考えられることをメールしようと思いますが、
もしかしてAさんが根本的に勘違いしてはいないか、という点だけ先に。

それは、「有無を言わさず」なんてことは、この企業社会には、全然ないということです。

もちろん、仕事を指示する人間は、そういうものの言い方をします。それは建前です。
心の中では、「この仕事がうまく行かなければ辞表を出すまでだ」とか腹をくくったり、「本当はこんな仕事ぽしゃったところで..」とか考えながら、決して自分に責任は降ってこないよう、そんなことおくびにも出さずに振舞います。
これが基本です。

なぜなら、自分の身は自分で守るという前提があるからです。自衛できない者が潰れても誰も責任を持たなくてもいいというルールがあります。これは多少の語弊のある表現ですが、正真正銘そうです。
「自己管理責任」というものがありますので。

ですから、企業社会においては、「できないものはできない」というのは、ごく日常茶飯の、簡単な言葉として取り交わされています。
Aさんの会社は違うのでしょうか。。


もしこのことを勘違いしていたとしたら、心理分析どころではありませんので、先に。

現実社会においては、「できない」ということはとても簡単なこと。これが現実。
ところが、自分から「できない」という言うことができない。
この2つを分けて認識してみるといいですね。自分はどう感じ考えているのか。

No.560 2005/05/02(Mon) 16:08

葛藤への対処と解決-10:盲点と勘違いを探る-1 / しまの

葛藤して出口がない状況は、しばしば、思考の全体が特定方向にバイアスがかかった状態です。
これを疑うことが、時に大きく役立つことがあるでしょう。
こんな心理学を頭の片隅においておくといいですね。

思い切って発想を変えてみたり、自分の考え方の中に何か根本的勘違いがないか疑ったりすることが役に立つことがあると思います。

前回で紹介したメールも、多少そんなところがありました。
僕自身が、「相談者が何とかこの事態を収める」ための取り組み方法を考えたわけですが、実は今置かれた状況は、「何とか収めよう」という焦りへと思考の全体にバイアスがかかった状態であるのをちょっと感じました。

発想を180度変えてみる
そもそもこれは「収める必要がある」ことなのか。全て放ってもいいことは何かないか。
「債務放棄」という言葉も入れてあります。それが通ることが、この社会には時にあります。
--------------------------------------------------------------------

前回の返答メールで、幾つか選択肢例を書いてみましたが、
選択肢集団がちょっとAさんの状況には合ってなかったかもしれませんね。
単純に僕自身の平素の思考に合わせてしまったかも^^;


■「自分のためになることは何かを考え、それを選択する」という根本目的

葛藤において選択肢を洗い上げ、メリットデメリットをじっくり考えるというのは、
あくまで「対処方法」として、最終的にはそこまで、という方向性です。

でもそれはあくまで手段方法の話です。
根本的な目的は、「自分のためになることは何かを考え、それを選択する」ということです。
選択肢を比較するのは、そのための手段です。

自分のためになることを、自分で考えるということに意味があります。
「対処の完璧性」など二の次でいいです。


■自分を支えなくていい

>この「徒労感」はかなりのものです。。

実際に、かなりの徒労をしていると思います。
何かを捨てなければならないんですね。

それは何か。
「自分を支えようとすること」かも知れませんね。


同じ言葉を伝えた別の女性がいました。すごく熱心に僕のアドバイスを求め、何とかしようと頑張っておられた。
でもどうも、同じ苦しい状態が続いてるんですね。続いているというか、続けている。

で僕は、その人にとって今までとは逆に聞こえるような言葉を伝えることにしました。「何とかしようと」しなくてもいいんです、と。自分を自分で支えなきゃ。そうじゃないです。
貴女が自分の頭で考えて自分を支えようとすることをやめれば、代わりに未知の貴女が貴女を支えます、と。
まず、力を抜きましょう、と。

何回かのこのやりとりを通して、その女性は気づいたようです。
何とかしようと構えて力を込めるのをやめた時、問題そのものも何故か消えている部分がある。
もちろん全て消えるわけではないですが。


Aさんの場合も、「回りがイラついて怒ってると考えるとパニックになる」そして「何も手につかなくなる」のを、何とかしなければ、と思ってはいませんか?
そうなっても、いいんです。
それで一体何が失われますか?昨日も悲惨な電車事故がありましたが、それに比較してみると何分の一の問題が起きるでしょうか。


しかも、もしAさんが今、「もう何もできません」と放棄したら、回りの皆はその状況を自分で判断し、手を講じることができる。
昨日の電車事故では、何かが起きたことを人々が知ったのは、起きてしまってからです。

しかもこんな悲惨な事故も、直接関係のない人は、何もなかったように自分の生活を続けます。
それがこの現実世界。その中でAさんが今「何とかしなければならない」ことなんて、ないんですね。

(続く)

No.559 2005/05/02(Mon) 16:02

葛藤への対処と解決-9:葛藤への対処概説-4 / しまの

選択肢をじっくり検討するとは、これからの自分の行動を考えるということ。

それは同時に、自分が望ましいと考える行動法に対して、自分の感情が合っているかが問題になってきます。
そして合わない部分につき、感情分析へという流れになります。
ここではその流れの概説。

「葛藤への対処法概説」としては、それで終わりになります。
つまり最後の方にも書いてますが、葛藤状態そのもの結局どうするかという作業は出てきません。
それが葛藤への対処技術の本質でもあります。葛藤そのものは、対処の対象ではありません。

では葛藤そのものはどう解決されるのか。
メールの残りを掲載し、補足として簡潔に書いておきましょう。
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■決断阻害要因の検討...本格的感情分析の糸口

まずは頭を柔軟にして、選択肢とそれによるメリットとデメリットを考えていくのですが、思い浮かぶことの中に、感情にバイアスがかかって正常な判断ができなくなる部分があることに気がつくと思います。
というか、そんなものがあることを意識して、それが何なのかを特定することを行います。


Aさんの場合明らかに、「やる気がないと思われる」という部分で、それが起きています。
それが何か得体の知れないブラックホールの恐怖のように、現実的妥当性を考える思考がぼやけてるんですね。

一体それはどの程度、恐れるに値することなのか
これを、自分の人生と、この社会全体に対する認識の問題として、じっくり考えていくことです。

会社と共に生きていくか、別の仕事を探すかという選択肢も十分にあるということを、少なくとも頭では考えられないものか。
もしそう考えることもできない場合に、本格的な阻害要因の存在が考えられます。それが感情の膿なんですけどね。

あと一つ、人は病気で倒れて「示し」をつける、もしくはそれで「責任」を果たすことはできますが、個人が損なった健康の責任は、誰も取ってくれません。その場合の会社というのは、実にあっさりしたものです。そんなにまでしたのは本人の勝手でしょ、という感じ。
それで潰れた人間を、僕は両手では数え切れないくらい見ています。
もちろん会社を非難することはできますが、損なわれた健康は帰ってはきません。

どんな仕事の入れ込みかたをするか、結局本人の自己責任で選ぶしかないんですね。


■感情分析

ここからは感情分析そのものの話になります。今までの文脈でいうと、次の問いが重要になります。

1) 自分は何を求めているのか。
給料だけではないでしょう。それだけでは、次の「恐怖の理由」が説明できないからです。自分がどんな人間になろうとしているのかという理想化像の分析なども必要になると思います。

2) 自分は何を恐れているのか。自分が能力なく、可能性を閉ざされるとはどうゆうことか。

こうした問いをするためには、自分の感情に合わせた世界観を持ってしまうと、話が始まりませんね。
「やる気がないと思われるとは、お終いだ」と思考も感情に合わせていたら、それこそそれで話は終わりです。
もし自分に、他の職場でもやれる可能性があるなら、今の職場でどう思われるかは大きなことではないはずだ。それに比べてこの恐怖感の強さはマッチしているのか。

そのアンマッチさを感じ取った時、感情分析というのが意味を持って来ます。
他の関連する糸口もいもずる式に現れてくるでしょう。


■考え続ける中で変化が起きる

長い説明をしましたが、こうした「葛藤の解きほぐし」は、結構長い時間をかけて行います。
その中で、各選択の意味合いが変わってくるんですね。自分にとって重要だと感じること、恐れることそれぞれが、微妙に明確化し、変化してくるからです。

葛藤そのものをどうするかについて、今まだ説明してませんが、実はこの後にも出てきません。
つまり、葛藤状態そのものは、少し脇に置く感じかと。
選択肢を見極める中で、自然に、淘汰されていきます。
最後に、確信に導かれるわけです。
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以上のように、葛藤への対処とは、あくまで、選択肢を考え、その意味を深く理解し、自分の幸福という観点から、選んで、決断することです。
その結果、葛藤がどうなるかについても、結局不問としています。葛藤状態が幾らかは解決するかもしれないし、感情の葛藤自体は残り続けるかもしれない。

では葛藤そのものは、どのようにして解決するのか。
それは、葛藤を引き起こす、対立した個々の人格傾向の克服に依存します。つまり葛藤を含まない、統一した自己の成長に依存します。
そして、葛藤状態に正面から向かい合い、対処していくという姿勢の中で生きることが、成長のひとつの原動力です。

葛藤から逃げずに、それに向き合いながら、自分の進むべき建設的な道を探っていくという、葛藤への対処。
それで葛藤は解決するのではありません。しかしその中で生きることが、心を成長させます。
心の成長が、葛藤を根底からつき崩します。
葛藤への対処は技術だが、解決は技術ではない、ということになります。自然成長力であり自然治癒力に属する話になります。
それを開放することです。
従って、葛藤のない自己も、未知の自己として現れます。

No.558 2005/05/02(Mon) 15:12

葛藤への対処と解決-8:葛藤への対処概説-3 / しまの

返答の続き。


「選択肢候補を出す」「選択肢のメリット・デメリットを吟味する」「葛藤からの逃避という選択肢は外す」という思考手順につき、その際の考慮ポイントを説明します。

選択肢の例も書いてありますが、この選択肢集団は、平素の僕の思考を基準にしてしまったため、あまり実情にあったものではなかったようです。
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■問題の大元に立ち返る

難しいのは案外上の、葛藤からの逃避衝動と戦うことかも知れません。実際、その逃避でうまく行くのなら、そもそもの問題が一挙に片付く、という妄想的期待が起きているわけですから。
それを放棄するとは、葛藤を地道に解きほぐす沢山の辛い峠が一挙に押し寄せるだろうという恐怖が起きているわけです。

だけど、葛藤というのは、自分で地道に決断するしかないのが現実です。
自分で決断する意志が持てれば、実はもう解決できたのと同じことかも知れません。
なぜなら、正しい思考手順さえ実践すれば、心が自然に答えを導くからです。

そのためには、「問題の大元に立ち返る」というのが大原則です。
自分はそもそも何を目的にこの選択肢のことを考えているのか。


例をあげ、順序を示して説明しましょう。


■選択肢候補の洗い出し

Aさんの今回の話ですと、行動の選択肢としてまず以下のようなものが挙げられると思います。

(補足)
ここで挙げた「選択肢」は実は、心身疲労度が少なく、自己管理力がある程度ある状態でまず思い浮かぶ選択肢です。
ところが今回の相談者はかなり心身疲労している状態であり、ここまで頭が回る状態ではありませんでした。
この返答メールはあくまで「葛藤への対処概説」ですが、心身疲労度の高い葛藤状態でより有効なアドバイス、それはつまり自分自身で困難状態から抜け出すためにまず考えたい事柄は、次の返答メールの方になります。このメールの後に紹介します。


まずこれを、「どれかに決めなければならない」とはあまり考えず、あくまで「選択肢候補の洗い出し」作業として考えて下さい。
頭を柔軟にするための作業です。
決断はまだ不要です。この後に、「決断阻害要因の検討」をいちど挿しはさみますので。


a) とにかく回りに合わせ、やる気がある姿を見せる。ただし健康は損ない、病気で倒れるなりして示しをつける。冗談ではなく、本気でこうゆう姿勢で仕事している人が世の中には大勢います。

b) 自宅で作業できるよう早く帰宅する。この場合は、回りの心象を損なうという代償があるとします。
回りの心象を損なわずに早めの帰宅をする手段がないかを考えるのもいいでしょう。これは行動力にもよります。
自宅で作業することで実際仕事がはかどり、成果が認められる可能性があります。
自宅で作業しても仕事がはかどらなかったら、ただの怠け者だと判断される可能性があります。

c) そもそもの仕事量の適正化を図る。
これは、そもそもこの仕事を何のためにしているのかという、人生観の確立を必要とする選択肢です。
自分にはこのくらいの能力があって、このくらいの給料のために、このくらいの労力を仕事に費やすという、人生設計です。
「仕事量の適正化」は、その人生設計を携えた上での、会社との交渉事になります。
自分にはこれはできます。これはできません、と言う。それじゃクビだと言われたら、もっと頑張るか、会社をやめ別の職場を探すか考える。


上の3つは、「自己の確立」の低いものから高いものへの、3段階を考えたものです。
a)は、最初から自己放棄した選択肢です。大半の人がそうして死んでいった時代があります。
c)が、十分な自己確立に立った選択肢です。僕はもうほぼ完全にこれで行っています。
b)はその中間的な感じですね。当面それでしのげればそれでもいいでしょう。

(続く)

No.557 2005/05/02(Mon) 14:37

葛藤への対処と解決-7:葛藤への対処概説-2 / しまの

昨日はフィットネスに行き、運動のあとということでビール飲んだら例によって止まらなくなり、今日は11時起き。
飲みすぎると翌日が短くなるんだよなー。このデメリットに比較して、飲みすぎている時のビールがそんなうまいわけでもない。
本格的に酒を減らそうかと思う今日この頃。。


葛藤への対処の概要を説明したメールを紹介します。

相談状況としては、
仕事が多すぎて時間が足りない●職場は何かとストレスを感じるので帰宅して作業した方がはかどるが、周囲は遅くまで残っているためそれに合せてしまい、イライラがつのり、仕事が進まないという悪循環●仕事が終わらなかったら、無能と思われたらと考えるとパニックになりそう
てな感じ。

なおこの返答メールは書いているうちに、「葛藤への対処 超概説」という感じになっており(あは)、実情に即したアドバイスというより、僕自身の考えの簡潔な整理という感じになっています。
実情に即したアドバイスについても、これの後に紹介していきます。


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■自ら「決断」をしなければならない時

来るべき時がきたような感じと言いましたが、それは感情の膿に直面する時というより、「自ら決断をしなければならない時」という感じですね。
「葛藤への直面」ですね。
そしてなぜそこで決断できないのか、という問題の裏に、感情の膿が控えています。


まず、葛藤する状況で何故、自ら決断しなければならないのか。

実に単純な話です。自分で決断して行動を決める以外には、解決法のない事態があるのが現実だからです。
敵に襲われた時、逃げるか、さもなければ戦うかを決めなければ、つぶされるだけです。「こんなことは起きてはいけないことだ」と考えたところでどうにもなりません。ぐしゃっとやられておしまいです。それだけの話です。

Aさんの今回のメールも、ちょっとそんな雰囲気がありますねぇ。置かれた困難状況を色々分析しておられます。
決断するためには、まず選択肢を考える必要がありますが、選択肢は考えてないような。


■決断を避ける心理

決断を避ける心理というものが人間にはありますので、それをちょっと説明しときましょう。

これは「葛藤」に置かれた時に起こります。
葛藤とは、両立しない欲求同士の対立です。しかも、そのどちらとも、損なうことは自分にとって避けねばならぬ事態に思える。つまり、両立しないのですが、選択することもできないわけです。

今回の場合は、仕事を減らしたいが、やる気がないと思われたくない。
早く帰りたいが、やる気がないと思われたくない。
焦るパニックを解除したいが、仕事が進んでいない。


なぜこんなことが起きるのか。はっきりとした理由をお教えしましょう。
逃げたいものに正面から向き合うのをやめてしまっているからです。つまり、逃げることが目的になり、何から逃げようとしていたのかには目をつぶっているようなことになっています。

心理障害傾向においては、ここに感情の膿が絡んできます。
「逃げようとしたものに目をつぶる」というのが、意識より先に自動的に起きてしまい、思考が全て「いかに逃げるか」にバイアスがかかります。それはそもそも逃げるべきものだったのかと言う問いなど踏みにじられ、有無をいわさず「逃げるべきもの」になってしまいます。
まずこんな現象があるということを理解することからですね。

そして、「自分が本当に逃げなければならないのは何か」という問いに切り替えるのがいいですね。


■葛藤への対処...心理学的技術を駆使してとことん考える

葛藤を解決する方法は、とことん考えることです。そしてそこでの「考え方」には心理学的な法則があります。
それを理解した上で、とことん考えることで、心が自ら最適な答えを出してくれる。その過程で心が成長する。
これは感情分析の中で必ず出てくる事柄であり、「技術」ともいえるものですね。

それを知らない人が、しばしば「考えすぎはやめて..」と考えます。
そして客観的に見ると事態の改善につながらないような、不適切な行動を取ってしまう。


葛藤に対面するための技術とは、次のようなことから成り立ちます。

1) 自分がとり得る行動の選択肢の代表候補を考える
2) それぞれの選択肢によって得られることと、失うことを明確にする


ここで、得られることと失うことそれぞれの、自分にとっての重要性をじっくりと考えるのが重要です。
その際に、感情分析という実践が非常に重要になります。自分は何を求めており、何を恐れているのか。それは現実的なことなのか。それを基準にして行動することは、自分の将来の幸福にとり利にかなったことなのか。

もうとつ、選択肢を考えるにあたってしばしば起きる、次のことへの考慮があります。


■「自己からの逃避」との対決

3) 葛藤から逃れるだけのための行動は、選択肢から除外する

これが結構重要です。大抵これのせいで、問題の全体がぼやけてしまうからです。

僕自身の体験例など述べますと、大学4年の秋、大学院に行くか就職するかでかなり葛藤しました。
社会に出ることへの不安の一方、大学院では望む勉強ができないという不安から、どっちつかずの状態になり、自分がもぬけの殻のようになってしまうような不安の中で、やがて「留年」という新たな選択肢が現れ、それが魅力を持つように映ります。
やがて3つ巴の葛藤の中で極限状態になりかかったのですが、自分があるおかしな思考に陥っていることに気づいたのがきっかけになって、次第に選択肢を確定する方向へと感情が整理されていったんですね。

それは「留年するかしないかの葛藤に疲れてしまったから、留年する」というものです。
結構よくある話かもしれませんね。「生きるか死ぬかの葛藤に疲れて、死にたくなる」。選択肢のために葛藤になったのか、葛藤が選択肢の理由なのか、全体が混乱してしまうわけです。

葛藤というのは、極めて苦しい状態なので、それに対する適切な対応姿勢を学んでいない限り、「葛藤から逃れる」ことそのものが、葛藤を起こしたそもそもの問題とは無関係に、自分の目の前の問題であるかのように現れるという心理学的性質があります。
もしそれが本来の選択肢に混ざり込んだら、もうお手上げの紛糾状態になります。

そこで現れる新たな選択肢がしばしば、「自己放棄」です。
これは場合により、自殺念慮などにもなり得ます。死んだら楽になるだろう。
より一般的な形態が、怒りへの埋没でしょう。自分がどうするかという思考が麻痺して、回りへの不満に心が占領されます。気づいた時には、自分から何もしていないツケがどんどんたまってパニックに陥ります。

「自己の重心」の放棄が自動的に起きてるんですね。

葛藤への対処技術がまだない人の場合、まずこの状態を自覚して、そこから抜け出るという意志を持つことが第一歩になります。

(続く)

No.556 2005/05/02(Mon) 14:24

葛藤への対処と解決-6:葛藤への対処概説-1 / しまの

お酒を飲まない休日がちょっと板についてきた感。
これが定着すれば一気に、残っているぜい肉も落ちるかな。ちょっとたるんだ頬(さえない中年男の顔は思い浮かべないよーに。アハ)も引きしまるかな。結構いいかも。


その5で取り上げた返答メールとはまた別の方へのメールですが、葛藤への対処技術の心理学を一通り解説したものがありますので掲載します。
その前に全体感の解説を入れましょう。


■根本治療としての「心の手術」局面

葛藤への対処も、最近取り上げている「心の手術」局面のひとつと言っていいと思います。
操縦心性の破綻感情の膿の放出、そして葛藤への直面などがある。全て苦しい過程ですが、心理障害の根本治癒はこれです。他のは対症療法であり、通常の姿勢をより健康なものに直すものです。

心の底に実際にできてしまっている病巣を取り除くのは、対症療法と姿勢の健康化ではできません。心の手術がその役割を果たします。
それが果たされるまでは、脳の構造自体が心理障害型であるわけです。心の手術では、脳の構造的な変化が効果となります。
多分この変化は、現在主流の、心理障害を脳の伝達物質異常と考えるアプローチからの観察においても、変化が認められるほどの結果をもたらすと考えています。
それだけ、この恩恵は極めて大きい

心の手術局面についての解説は、読んで実感として理解できることはありません。これはそのメカニズムからしても本質的な事柄です。
なぜなら、まさに、これが起きないよう防衛が働いている姿そのものが、心理障害だからです。


つまり心理障害は、それ自体が心理的悪化状態なわけですが、実は別の精神的破綻を防衛しようとするメカニズムが働いている姿です。
ところがこの防衛メカニズムこそが実は厄介物であり、それが防衛しようとしている精神破綻は実は開放すれば消え去る性質を持っている。
このメカニズム全体感を持っておくことが重要です。

従って、その根本的治療は、その防衛を解除することで、避けようとしていた精神破綻に一度対面するという局面が起きることを意味します。
これは極めて辛い体験であり、こんなのはなしに根本治癒ができればいいのだけど、理論上それなしには根本治癒はないというのが、ハイブリッド理論の現状です。
僕の体験上でもそうです。ごく最近になっても今だに、自分が大きな向上をまた一歩できたと感じる時には、必ずその前にこの局面が起きています。今ではそれをほとんど精神動揺なしに迎えることができていますが、それが起きる時には、ドーンと感情全てがそれに飲まれます。
頭で、自分が未知の自分へと変化することをもって、それを受け入れる姿勢を、僕は取っています。そして実際、未知の状態に変化するのです。
今でもそうです。この2、3日にも実はちょっとあった。あっはっは。

■科学的客観理性の重要性

この精神破綻に耐えうる最大の精神基盤は何かと言うと、科学的な客観理性だと、僕は考えています。
なぜなら、防衛が解除されてあらわになった「精神破綻感情」が、別に現実的破綻ではないという認知は、これによって可能になるからです。

科学的理性が欠けると、精神破綻感情が、現実における破綻として解釈される恐れがある。「感情による決め付け」です。精神的破綻の感情を感じる。だから自分は現実に破綻したんだ。
それに疑問を投げかける理性が必要です。
道徳的思考や、宗教的思考、神秘論的思考では、それができないような気がするなぁ。

まあここでの科学的理性は、治癒論上は必須事項ではありません。あくまで僕自身の体験として、決め手になったのはそれだと感じるという話。
必須なのは、感情による決め付けの解除です。
感情としては自分は破綻した。しかしそれは現実の自分の人生について何を言うものでもない。
そうして、破壊方向への衝動を非行動化し、防衛が破綻して流れる毒のような感情を、ただ流すことが必要事項です。


■心の手術への段階

これは、実際に起きて体験してみないと、一切理解することができません。
それまでは、ひたすら防衛が働いてバイアスがかかった思考だけをすることができます。

ですから、「心の手術」についての解説は、最初は実感として理解できる必要は全くありません。実際不可能です。
まずは、とにかく心理学知識として頭に入れることです。

やがて感情分析の進行によって、自分の思考にバイアスがかかっていることが、なんとなく感じられてくるでしょう。
自分の感情を追っていくと、奇妙に、あるところから先が途切れている。まるで雲の中に入った飛行機のように。そしてちょっと違うとこから、また感情が姿を現す。
幾つもの断片的な切れ端の根底に、見えないけど、何かがあるという感覚が起きてくるでしょう。

その「何かある」感覚からつながるように、心の手術局面が起きる、のではありません。と体験的に言える気がします。
一度その辺のもやもや感覚が消えるかも知れません。むしろ何かに向かっていく衝動が現れ始める。
そして今までの感情分析の効果として、多少の行動力ができている。
何かの行動に踏み切る。
そこで起きる感じですね。

現れるのは、今までの自分が体験することを避けていた感情の自覚、という感じになります。
それが、操縦心性の崩壊であり、残存愛情要求の破綻であり、感情の膿の放出です。これは別々に起きるのではなく、一緒に起きるのが一般的パターンだと考えていいと思います。
それを、「感情による決め付けの解除」と共に、流す。


■葛藤と治癒過程

さて治癒論そのものの話が長くなってしまいましたが、葛藤への対面の位置付けは。
それは、「何かある」内面感から、次の外面行動に意識が推移する段階で、しばしば起きるもの、と考えられると思います。
つまり、内面的にそのしっぽが見えてきた人格根底の何かが、外面に結びつくところで、しばしば葛藤が現れます。

これは心理障害そのものが実は人格根底における葛藤であるというメカ論からしても、考えられることです。
人格根底における葛藤であるとは、ひとりの人間としては共存できない別人同士の対立だということ。
その状態をごまかすのを担っていたのが、操縦心性。
かくして、葛藤への直面によって、操縦心性が崩れ、上記の局面が始まる、という感じ。


ということで、葛藤への正しい対処技術を知っておくことは、それが心の手術局面だという位置付けの理解と合わせ携えることによって、心の根本治療という大きな流れを通過するために、極めて重要な心理学になるのです。

これを全体観として、対処の概説を書いた返答メールを読んで頂ければ。

No.555 2005/05/01(Sun) 10:48

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