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過去ログ
2005.6


望みのメカニズム-4:異常性愛のメカニズム / しまの

これはごく簡潔に書くだけにしときますが、各種の異常性愛は、1)深層欲求の阻害による欲求の皮相化、2)怒り憎悪の蓄積による破壊衝動、3)感情の膿の作用、により変形した結果として大体理解することができます。
もちろん、性愛衝動が思春期以降の一般欲求として元来かなり誘引を持つという背景があってです。
また例により医学書的文調..^^;

能動的な愛の欲求が停止されると、受動的な愛が比重を高め、嫉妬という感情が起きてくる。健康な愛が阻害されると、性が比重を増し、象徴的傾向を帯びるようになる。
最も初歩的(^^;)な心理傾向としては「面食い」があります。これはごく一般心理から、ややあまりに特異な一目惚れ入れ込みへと進化(ちょっと冗談っぽい言葉の使い方ですが..^^;)していく。
さらに象徴的になるのがフェティシズム

幼児性愛同性愛では、接触のための障壁の低しものが次第に短絡的に性愛衝動を帯びるという変化過程を想定することができます。

僕自身の体験談などちょっと書きますと、こうした異常性愛の世界にはっきり足を踏み入れる感じでは幸いありませんでしたが、そうした感情の芽は視界に届いていた感じです。そして性愛には概して異様な誘引を感じながら、同時にそこに近づく深淵のような恐怖があった、という感じ。
それらは長い感情分析の歩みを経て、今は実にあっけらかんと健全な性の感覚を持つ自分を最近感じている次第です。そしてそうした変化の媒介となった、性愛衝動の象徴的要素についてのかなり明瞭な分析体験を沢山経ています。

分析体験の内容と、その前後での性愛衝動の変化に、意識上のつながりは皆無です。時間を経て、自分の性愛衝動がやけに健全で陰湿さが消えているのを自覚し、これは有難いことだと感じたりしたわけです。
うんまあ、こうした体験を詳しく描写するまで筆が進むのはまだかなり将来のことになると思いますが。

つまり、異常性愛の発生メカニズムは、我々が意識できるのを超えた深いところで起きる、実にはっきりした法則に従っているということです。
これは逆の方向性として、異常性愛が健全な性愛に変化していくような、我々の意識的理解を超えた回復メカニズムがあるということです。


最近のニュースでは、奈良の幼女殺傷事件の小林薫とか、監禁王子とか、そうした異常な事件が示された後に、社会は何故そんなものが生まれたのかと騒ぎだす。
原因は不明、なんかじゃない。さらにそれは健全への回復の道があることなのだという認識を、社会が持つことが課題だと思う次第。

No.641 2005/06/29(Wed) 00:01

望みのメカニズム-3:欲求の荒廃化という問題 / しまの

■心理障害過程で加わる「怒り憎悪」と「感情の膿」

深層欲求が阻害されて欲求全般の皮相化が起きることは、比較的健全な心理においてもあることと思われます。

なぜなら、人間の感情というのは概して惰性や環境に流されやすいものだからです。
「自己の重心」などという難解なことを考えないまま、日常のあれやこれやの欲求に走っていると、どんどん形ばかりが追い求めるものになってしまいます。日本のような高度社会が用意した人生のレールの上ですごしていると、人生というものはあっという間に自動生活機械のような毎日の中で過ぎてしまいます。

だから心理学というのが重要なんですね。

心理障害過程においては、こうした人間の基本傾向としての欲求皮相化ではない、心理発達課題の損失による情動変形のプロセスが進行することになります。
そのプロセスを悪化させる2つの要因が、怒り憎悪感情の膿です。

■怒り憎悪の発生と合成

まず怒りと憎悪ですが、これは基本的に、「自分を苦しめ続けるものへの破壊衝動」です。心理障害過程のものは、一過性の怒りではなく、蓄積された破壊衝動になります。怨念という感じ。

憎悪感情は健常な心理においては、民族間の殺し合いの繰り返しや仇討ちの心理として現れます。
心理障害過程においては、かなり不定形な憎悪感情が発生します。

なぜなら、心理障害過程で発生する憎悪は、心理障害過程による苦しみが根源だからです。そしてそれは望みの停止によって起きています。
そしてこの望みの停止が深層欲求で起きているものであるため、何によって自分が苦しんでいるのかという意識上明瞭な理由がありません。自分が苦しんでいることさえ意識されないこともあるでしょう。
結果として体験されるのは、漠然とした憎悪です。彼彼女が憎むものは、他人であり、自分であり、そして人生です。

こうした憎悪感情の発生は、残念ながら、深層欲求の阻害による直接的結果であり、極めて基本的です。どんな軽微な問題においても、問題の始まりと同時に、問題の程度に比例した強さで、怒り憎悪がまず発生する。

この結果、欲求の皮相化は、この憎悪のベルトルを合成したものになります。つまり破壊的性質を同時に帯びる。

嫉妬の感情は、この合成プロセスの基本的産物です。自らの望みへ自らの足で歩くことが停止され、代わりに望むものを得た結果の姿を得ることが追求されるようになります。同時に、自分が渇望するその姿を得た他者への破壊衝動が起きます。

■感情の膿の作用

合成結果の変形した感情のバリエーションについては、話し始めるときりがないのであまり深入りしないでおきます。

深層欲求の阻害による欲求の皮相化において、心理障害過程においては不可避的に加わるもうひとつの要素が、感情の膿です。

感情の膿の作用はまず第一に、情動の変形内容そのものより、変形した欲求の強迫性です。

第2に、感情の膿が来歴の中で蓄積された時の、本人の特有の行動特徴です。極度に卑屈なもの、自分の殻に閉じこもる、とにかく他者を攻撃する、という3種類の対人態度という方向性で理解できるでしょう。

第3に、性愛衝動の強化があります。これは愛が恐怖に勝つ感情という、種の保存本能に由来する特徴、そして性の刺激が空虚を埋める麻薬のような役割を果たすという特徴を背景にしています。
その結果、感情に膿によって、本人が意識するかどうかにかかわりなく人格の根底で恐怖と空虚を抱えるこの個人に、極めて身体生理的な現象として、性欲衝動の鮮烈化が起きます。

このつながりが意識上で体験されることは、完全にありません。衝動内容の詳しい説明は今回省略しておきますが、本人はただ、すさんだ色彩の性衝動を自分が抱えていることを自覚するだけです。

■欲求の荒廃化

ということで、欲求の変形プロセスとしては、深層欲求が阻害されることで欲求の皮相化が起きるという基本的な変形過程に、怒り憎悪による破壊的色彩と、感情の膿の圧力による衝動の強迫性やすさんだ性衝動の出現が加わる、という流れになります。
単に皮相なのではなく、すさんで荒廃した雰囲気の衝動に変化していくという流れです。

これが問題を深刻なものにする大きな原因でもありますね。単に発達課題の損失という過去の問題ではなく、欲求の荒廃化という現在の問題があるわけです。
こうしたすさんだ心理状況は、不可避的に、本人の自己嫌悪感情を生み出します。もはや過去が原因なのか、今の何かが問題なのか分からない状態になる。

悪化のプロセスはいくらでも詳しく説明できるのですが、それをいくら詳しく知ったところであまり何かが変わる訳でもありませんので、治癒のプロセスへの視点に話を切りかえますと、
ひとつは深層欲求の阻害への対処ということであり、もうひとつは現に荒廃化の方向で変形した内面を抱えて前に進むという姿勢が重要になってきます。

深層欲求に取り組む技術について、次にまとめましょう。
変形した内面を受容して前に進むために必要と思われるのが、善悪の完全なる放棄、そしてサバイバル性善説の世界観につながって行きます。

そして、その歩みの先に起きる自己操縦心性の崩壊感情の膿の放出とは何か。残存愛情要求の崩壊という現象も言えるようです。同時にそこに、現実覚醒の回復という現象が伴う。
これらの治癒の動きは同時に起きます。その時点そのものでは、表面的には悪化と見える「心の手術」になる。
ひとつの問題から、さまざまな問題が起こり、それぞれの側面にそれぞれの対処をすると、やがて根本治癒のポイントが再び一点に収束するという流れになります。

幾つかのシリーズ解説が今、その収束に向かっているわけです。

No.640 2005/06/27(Mon) 14:38

望みのメカニズム-2:深層欲求の阻止による欲求の皮相化 / しまの

■心の深層での望みと表層での望み

我々が我々自身の望みをどう捉えるか。その視線によって起きる欲求の変化の2つめの軸が、心の深層での望みと心の表面での望みという軸です。

これは基本的に、心の深層での欲求を我々の心が感じ取り受け止めているか、そしてその充足状態はいかなる状況かという事柄に関するものです。
ここで「我々の意識が」ではなく「我々の心が」と書いたのは、心の深層の欲求が意識表面でどう捉えられるかは一筋縄ではなく、重視すればいいという単純な話ではないからです。

まず、人間の欲求には、日常生活の中で具体的に意識される「一般欲求」と、普段はあまり明瞭には意識されず、意識的に「耳をすませる」ような姿勢で感じ取ることのできる「深層欲求」というのが、別次元の欲求として存在する、という心理学を最初に理解したいと思います。
一般感情としての望みとは、具体的なあれやこれやの仕事がしたいという気持ちとか、誰彼と交際したいという具体的対人欲求など。
深層欲求とは、目の前に見える欲求ではなく、人生を貫く欲求と言えます。

この「深層」とは、意識の深層であると同時に、人格の深層という意味でもあります。つまりひとつの心理土台として、その上にあるさまざまな感情に支配的影響を及ぼす。

これを意識することが必ずしも健全な状態ではないことに留意したいと思います。
障害傾向人格に陥った人はほぼ例外なく、これを難解な哲学的思考の中で意識するようになります。人生とは何か。愛とは何か。自信とは何か。生きることの意味は何か。

健全な状態では、心がそれを受け止めた上で、意識表面ではあまり意識されなくなります。
健全さを損なった状態としては、上述のように難解に意識されるケースと、それとは逆に、積極的にそこから目を反らそうとする虚無思想的な意識が起きるケースがあります。人生なんて。愛なんて。自信なんて。生きることに意味なんかない。

このような深層欲求は、それをどのような言葉で表現するにせよ、人間が生きるということにおける、深い3方向の感覚に関係しています。
ひとつは自尊心の維持です。これは主に我々が心の内側から自分を支えるものを持つことに関係します。「内側からの望み」と関係が強くなります。
もうひとつは自己アイデンティティです。これは我々が我々自身の姿や人格を外から見た姿の一貫性確実性や豊かさや価値の感覚に関係します。このため「外側からの望み」に関係が強くなります。
最後がです。これは外界との一体化や調和の感覚に関係します。

■深層欲求の阻止による欲求の皮相化

「深層欲求が阻止されると、意識表面の一般欲求が皮相化する」。これが情動変形メカニズムの基本原理となります。

これは意識的制御を超えた変化であることに注意して下さい。
そもそも、深層欲求が阻止された状態とは、阻止が起きた時点ではそのことは意識されず、後になって情動が変形しており、心に何か不具合が起きているという結果によって、深層欲求に阻害が起きたということを認識できるだけです。
るまり我々は、深層欲求がどのように阻止されたのか分からず、阻止が起きた結果だけを知るのです。

さらにはっきり言うなら、深層欲求の阻止とは、心理発達課題の損失によって起きるということです。
来歴の中で積もった問題として起きます。そしてその結果としての情動の変形も、来歴の中で積もった、そうと気づいた段階ではもはや意識的制御は不可能な状態で起きます。

この「欲求の皮相化」の内容を支配する公式は、「深層欲求における望みの停止により、表層欲求におけるその獲得形へバイパスした衝動が生まれる」です。

つまり、深層欲求は明瞭な姿を持たない、人生を貫く、生きることを支える何ものかへの欲求です。
その最も根源的なものは、幼児期の自尊心への欲求です。これは愛とまだこん然とした、自他未分離な、自分と世界が調和してそこに向かって生きるエネルギーを解き放つことができるという感覚。
それが充足した状態ほど、自己の情動世界の中心点が自己の重心に置かれる。そこから生まれ湧き出る情動は「知る」対象ではなく、姿形を取らないものであるという話を6/4「心理発達課題の損失と回復の考え方-4:「宇宙の愛」の中で育つ幼児期の自尊心」でしました。

そのような深層欲求が望みの停止により阻止される。つまり自らによって、それは自分にはかなわないものと決め付けが行われ、自己の中心から世界に向かってその望みを解き放つことが停止される。
するとその欲求は単純に停止されるのではなく、フラストレーション状態を維持したまま、あたかもその欲求が満たされた結果の姿形を取るものを得ることへの短絡的な衝動が発生するわけです。

3種類の深層欲求の阻害によって、意識表層での欲求がどのように皮相化するかは、明白です。我々はこうした人間像を、実に、現代社会のマジョリティとして観察することができるでしょう。

深層の自尊心が阻害されると、意識表面では、自己評価や自意識、競争心やプライドが識烈になってきます。
深層のアイデンティティが阻害されると、地位や肩書き、優位集団への所属への欲求が識烈になります。勝ち組み。セレブ(..って何?^^;)
深層での愛が阻害されると、形としての親密さや性が識烈な重みを帯びてきます。


深層欲求の阻害についてはここまでが一般心理学と言えます。
いったんここでカキコし、幾つかさらに問題を紛糾させる関連要素や、対処技術論など続けましょう。

No.639 2005/06/25(Sat) 00:05

望みのメカニズム-1:3つの欲求変化軸/内側からと外側から / しまの

現在解説中のハイブリッド心理理論ほぼ完成バーションを俯瞰しますと、
1)心理発達課題の達成と損失という現象がまずあり、まあ後でそれは回復というテーマにつながるわけですが、
2)その結果起きる情動変形のメカニズムがある。
3)そこでは感情の膿という別要素が入り込む。
4)これらの帰結的人格状態として、「人間嫌い思考」などが典型的に生まれる。これは残存愛情要求の抑圧というメカニズムが深く関連しています。この打破のために「善悪の完全なる放棄」が必要だという話を善悪の解体上級編で。


ということで、心理発達課題とその損失による情動の変形という時間軸での縦の流れと、
その流れの中で発生する感情の膿と残存愛情要求という発生物という構造がまず浮かび上がると思います。

そして最後に、これらの障害傾向人格の克服において「人生の望みへ向かう」という心の姿勢が決定的ポイントになること、そしてそれを難しくしている、自己操縦心性という深遠なる難物メカニズムをどう理解し対処すべきかという話に向かうわけ。

でこれらの心理メカニズムのより基礎的なものとなるメカの話を入れておきたいと思います。「望みのメカニズム」です。
我々人間の望みつまり欲求とはどんな構造をもっているのか。その構造に従って情動の変形が起きるという基本構造があります。
これを理解することによって、我々は自分の真の望みとは何であるのかをより正しく知ることができるようになるのではと。


■3つの「望みの変化」軸

この「望みのメカニズム」は、我々のあれやこれやの欲求に対する、我々自身の意識的無意識的な着目姿勢によって、欲求内容に多少変化が起きてくる、という現象を理解するものです、
もちろん、これが来歴を通して蓄積連鎖していくと、やがて異常欲動というのが発生してくるという、情動の変形につながる基礎メカです。

この欲求内容の変化が起きる軸というのが3つある。
1)内側からの望みと外側からの望み。これが最も意識表層のものです。
2)心の深層における望み。これに耳をすませ感じ取るというのと、そこから目をそらすという心の動きがあります。後者では欲求が皮相なものに変化していく。
3)真の望みと偽装された望み。意識的な演技のことではありません。自分自身でこれが望みだと思い込む中での話で、半意識的なものと、完全に無意識で起きるものがあります。意識制御が完全に効かない深層無意識で起きる感情の偽装に、自己操縦心性というメカニズムが絡んできます。


■内側からの望みと外側からの望み

まず我々の日々の意識的欲求を、「内側から望む」か「外側から望む」かという心の姿勢の違いがあります。大元の望みが似通ったものであっても、その姿勢のふるいにかけられた結果の欲求は、人間の心をまるで別世界のものにしてしまう。
これは5/17「望む技術〓「内側から望む」と「外側から望む」」で書いた話。

例えば、ものを作る楽しみそのものから行うことと、こんな作品ができたらと思い描いて行うという違い。
「内側からの望み」では、充実感自己統一感価値を感じる輝きがあります。
「外側からの望み」だと、ストレス比較評価という自己分裂感、そして時に現実の壁と限界そして必ず達成状態の終わりというものがあります。
「内側からの望み」には終わりがありません。

内側からの望みこそが人生を推進するものであり、外側からの望みは心を締め付けるだけのものである、のではありません。

どっちにもそれなり価値があります。それを人生における自己の幸福の追求という目的にかなうよう、使い分けることが「心の技術」なのです。
ひと言で言えば、内側からの望みは、内面を豊かにすることに役立ちます。
外側からの望みは、外面を豊かにすることに役立ちます。

幸福にとって、内面の豊かさと外面の豊かさのどっちが重要か。その問いの先に、答えはありません。
その問いが生まれることそのものが、心の中に何かの断裂と葛藤があることを示しているからです。幸福とは、調和です。内面も外面も、欲求全体が調和された形で充足するのが幸福。

断裂と葛藤が起きている状態とは、深層における欲求という軸、そして望みの偽装という問題として理解することができます。

No.638 2005/06/23(Thu) 11:55

メール相談有料化の行方^^; / しまの

何度かというか何度も「もうじき無料メール相談の看板おろし..」と言ってますが、実際にそうするという判断を何によって行うかというと、気分で行うという感じのところがあります。

まそれは結局サイトをメジャーなポータルに登録し来訪者の大幅拡大を図るタイミングということになります。
でここ最近は、また後でいいかなーという気分の今日この頃。

とにかくを出したら間違いなく活動形態にひと区切りがつくという見通しですが、要はそれ以前に登録し来訪者拡大を図るか、出版までは現状の地味な活動にするかという判断なわけ。

で今はとにかく書かにゃー始まらんという気合が優勢であり、メール相談はあまり忙しくない現状でとにかく出版原稿を書くことが優先かと感じる今日この頃。
中でも小説ダイジェストの続編が手付かずのままだったのを、より本格的な原稿作り技術を駆使した執筆方法に切り替え取り組み始めたのが今日。

ダイジェスト全体を8月には何とか完了させたい。これが今の最優先課題という感じかなーと。

No.637 2005/06/21(Tue) 16:42

「望みの開放の選択」をめぐるメカニズム・メモ / しまの

これは解説以前の、僕自身の理論整理考察のためのメモです。ここに書いとくのが便利なため。
今後の解説ものに反映される予定。


A.「ニセの世界への怒り」。偽善的世界への怒り憎悪。これに伴うのはが、
相手は心の破壊者であり自分はその犠牲になったという感覚

B.ニセの許容。偽善の中にある一片の現実的善を認めるという選択。
この時「自分の心は壊された」という事実は消える。

前者において「自分の心は壊された」は、一体何をされたという感覚なのか。

怒りは「望みを停止させたもの」に対して起きる、という法則性がある。
相手によって自分が持ちえる望みが決められる、という姿勢が前提となり、相手に評価されなかったり、それを先読みするような低い自己評価によって、望みの停止が瞬時に、自分は犠牲者という感覚と相手への憎悪に変わる。

この個人が「犠牲者」となる現実が、実際にあることもある。心理学的にこの個人の内面世界を見るならば、現実においてこの個人が犠牲者となることを自ら導いているかのようなものだろう。

この観察だけでは答えは出ない。
追加考慮すべき観察は、こうした個人が自らの主体性によって生きるような心の状態になる過程で、自分がとんでもない身のほど知らずの偽善者であり中身のない不様な人間であることがばれるという膿のような感情を経ること。
この自己嫌悪感情の膿を経て、別の膿、「望みの停止」感情の膿が出る。対象喪失感情や精神の死感情。


自己嫌悪感情の膿の放出が自己操縦心性の崩壊に、そして望みの停止感情の膿の放出が、残存愛情要求の崩壊に、相当する模様。
これは望みに向かって自ら歩く過程で起きる。前者は自己拡大への望み、後者は愛への望みに対応する。

なぜこんなことが起きるのかというと、恐怖感情や自己嫌悪感情の膿の抑圧手段として望みの停止が使われているというのがまずある。それらの感情の膿がある限り、望みの停止は必要であり、望みの停止感情の膿は意識化されず、感情の膿のさらに背後に押しやられる。
この結果、望みの停止の解除は、感情の膿の放出、望みの停止の膿の放出、という順序になる。

望みの停止をそのまま選択する場合は、活性化状態のままの、膿ではない、自己嫌悪衝動の餌食になることになる。
望みの開放と停止が、基本的な選択肢となる。これは「自己の重心の選択」と重なる面もあるがそれだけではない。第6の選択肢か。

全体の構図は単純になる。感情の膿を避けるために望みを停止を選択するということが、他者への怒りと自己嫌悪衝動の維持。
望みの開放の選択は、感情の膿の抑圧解除であり、これを補う心理学的技術の補助が重要。


この選択そのものは人間の意志による。ただし望みの停止を核とした心理傾向が蓄積され無意識人格体化したものが自己操縦心性であり、意識領域と無意識領域へのアプローチの境界が出てくる。

No.636 2005/06/20(Mon) 17:53

6/20昼まで不在 / しまの

明日夜郷里で中学校の同窓会に出かけるため♪

No.635 2005/06/17(Fri) 23:06

「異形」の起源と受容 / しまの

ハイブリッド心理理論の完成版に、どうしても組み込まねばいけなそうな単発テーマ。
数日前酔ったまま(^^;)このタイトルだけ書いて、中身を書かずじまいだったメモを見て、今は考えがまとまっているので簡潔にカキコ。
それが「異形なるもの」「異質なるもの」への嫌悪軽蔑恐怖の感情
これは、全く得体の知れない、薄気味悪く、有害で、悪意に満ち、怨念から生まれたかのようなばけものがあるという感覚

ポイントは、これが心理障害をはるかに超えた、人間の破滅的悪感情の芽として、一般的にあるということ。
というか、この「得たいの知れぬ」ものへの感情という脳のプログラムがあり、それが他のメカと組み合わさって心理障害構造を作る、という考えをするに至っているところです。

これが心理障害とは別のところで現れるのが、幽霊という観念と、それへの恐怖です。
子供が実にこれに反応することなど考えると、かなり本能的な感情プログラムのひとつでしょう。
そしてしばしば、幽霊への恐怖に取り付かれた人間に発狂という症状が伝えられるほどのものであることと、心理障害の最も破壊的な「乖離症状」の類似性など考えると、本質的にはこれは同一のプログラムではないかと考えられる。

そしてこれは僕の感覚的には、脳のプログラムミス、つまりバグのようなものに感じられます。
脳の側頭葉への電磁波刺激によって、幽霊体験のような状態が起きるという実験を見たことがあります。暴走した感情と何かのイメージが結びついて、暴走する感情をむしろ煽るような心の動きが起きます。

こうした脳のミスを克服するために、科学的思考があります。
感情を暴走させるに値するものなどない。なぜならそれは単に、これこれの現象だからである。
そこでは、得体の知れぬものに出会う毒のような感情をいったん「受容」して、科学的思考の中で消化吸収するという心の営みが行われます。
他方には、得体の知れぬものに出会う毒のような感情を、自分が体験すべきでない、あり得べからざるものに出会ったかのように、悲鳴をあげ排斥するための破壊衝動に身を委ねるという人の姿があります。これは「破壊」という、敢えていいますが進化上の低い段階の行動様式に頼る、実に智慧のない姿です。

これは幽霊を怖がる人のことを思い浮かべて書いていることですが、心理障害へのある取り組み姿勢について思い浮かべて書いていることでもあります。
それが感情の膿に対する姿勢ですね。

2005/05/28「感情の膿の理解と克服-1」で、感情の膿の放出による減少の条件として、
1)現実は必ずしもその感情には値しないという理性
というのを指摘しましたが、これは極めて科学的思考によって可能になるものと考えています。

幽霊を怖がっている感じのうちは、感情の膿の減少というのはちょっと難しいかも。。というのが実感なのです。
徹底的科学思考をお勧めする次第。もっと具体例などあげながら、いつか詳しい解説したいですね。

No.634 2005/06/17(Fri) 23:00

聖書 /


聖書による者は永久に倒れることなし。内村鑑三

あなたがたがわたしにつながっており、
わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、
望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。ヨハネ  15:7

日々多くの言葉に触れ続けるうちに
聖書がわかるようになりました。

毎日読んでも飽きないですよ〜!

No.632 2005/06/14(Tue) 02:13

 
Re: 聖書 / しまの

どもですー。
確かに聖書の言葉は深いですねー。

ハイブリッドはひたすら科学的思考を使いますが、それはあくまで「手段」に過ぎず、
最後に求めているものには、さまざまな宗教との共通点が実にある。

「望み」しかり。
現在、「望みの停止の核メカニズム」考察中♪

No.633 2005/06/14(Tue) 23:31

「実践ガイド」改め「サマリー」そして「原稿インデックス」を収録 / しまの

「実践ガイド」がどーも読みにくかったので、だいたい内容そのまま「サマリー」として改めました。
ま実際のところ、それは実践ガイドというより、やはりサマリーなんですね。

実践のためのガイドとしては別途、「ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長入門」とかいうのを収録すれば、大枠は揃う予定。
これは最近良く言っている3段階で、ハイブリッドの体系のどの部分に焦点があたるかを解説するもの。
3段階を最も簡潔な言葉でいうなら、1)自己受容2)ときほぐし3)心の開墾、という感じ。

「サマリー」収録の勢いで、「原稿インデックス」を収録。
このインデックスそのものは前から用意始めてたんだけど、このページそのものはそのデータを使って一挙に作成。
づがれた..。

しかし我ながらよー書くもんだ。掲示板カキコのインデックス作ったはいいが、このクソ大量の原稿をどう使うかというんだ..と考えている一方で、熱心な人は全部読むんだろうなぁ..いやそんな人いるか..ちょっとはいて欲しい..しかしこれだけ全部読んでるとしまいに洗脳状態になるんでは..
などとバカなことをつれづれと考える今日この頃。

まこんなの眺めて出版本の原稿本番を考えるワケだ。。

No.631 2005/06/13(Mon) 23:35

異変..? / しまの

マンション15階のベランダ窓に、小さな虫がうようよ
こんなの初めて。。先日のゴキブリの件もあるが..
何か異変か。明日朝にはいなくなってて欲しいなぁ。。

そー言えば今朝は一度5時頃目が醒めたときか、外はまるで牛乳の中のような濃い霧だった。
8時に外みたら結構さわやかだったものの、遠くの海沿い工場地域は地面沿いに綿がしかれたように濃い霧がまだいた。

こんな感じ。
http://tspsycho.k-server.org/img/20050612.jpg

だがこの2月に一度、マンションから完璧な雲海が見えたことがあった。
異変話というより、話のついでに写真集に先立ち
こんな感じ。
http://tspsycho.k-server.org/img/200502.jpg
あまりの光景に、感動を超えて、なんか笑っちゃうねーという感じ♪

No.630 2005/06/12(Sun) 22:36

(No Subject) / Tokuyuki SEKINO

昔農です。御返事ありがとうございました。自分のことばに建設的な反応があるととてもうれしいです。

私も以下の引用部と同じことを考えていました。
引用
我々は自分のホンネ自体を良く知らないことです。だからまず「自己を知る」ことを実践対象とします。そして次に、その自己理解を通して、感情は変わることです。一度ホンネとして「表現」すると、それは一人歩きしてしまいがちです。最後に、「自分の心はこんなです」という「心の外出し」は、それ自体が人間にとってストレスのあることである一方で、真のメリットというべきものがあまりないことです。あるとしたら「心を共有する」という幻想的一体感であり、これは心理障害とお友達ともいえる感情です。
 
 今日30代前半の若手教諭と数年ぶりに再会しました。サッカー仲間ですが・・・。悩み多き様子でしたのでこちらのサイトを紹介いたしました。
 
 さて,私は,明日〆切の宿題にとりかかります。 それでは失礼いたします。

悩める40代末期青年英語教師 昔農 http://www.sekino.tv

No.629 2005/06/12(Sun) 17:18

広告表示をなくしました / しまの

..とひと言だけ「お知らせと更新情報」に入れておきましたが、
無料サーバーだったのを有料版にアップグレードした次第。
まあ月額ウン百円程度と安いものですが、このサイトのさらなる展開への島野の意気込みを表現しているかと..なわけないか。あっはっは。

いずれにせよ今後島野の活動をより社会的に認知されたものとして展開すべく、いろんなものを揃えていく予定です。
大きなポータルに登録する時には、その前に税務署に事業届も出すなど。

ということで、無料メール相談の看板ももうじき降ろす感じになりますので、何かあればお早めにー(?)。
ま料金設定とか色々考えているのですが、継続するほど安くなる設定など考えてます。メール下さった方から見ても、そうすると違和感ない感じになるのではと。

No.628 2005/06/12(Sun) 12:51

望みの停止問題-11:望みの開放が生み出す「価値を認める心」-2 / しまの

以下の返答メールでは、人生におけるレールの上にいることに甘んずることなく、自分の可能性を感じ取って変えていく、というような話を扱っています。
「望みの開放」という話をしていますが、その具体論のひとつになります。別の具体論としては、人間関係における行動の話とかがあるでしょう。

仕事や生活のあり方に関する「望み」は、この現代社会では得てして、心の底の無意識的願望とか意欲とかと、表の意識との間にずれが起きやすい領域だと思います。
自動生活機械と化して、何となく過ぎ去っていく人生というものを自覚し、時には危機感を持って変化への勇気を持つことも必要でないでしょうか。などどご提案。

僕自身が会社を辞めることにしたのも、実は表の意識上の生活計画の結果だけではなく、僕自身の人生の問題についての感情分析をした体験が絡んでいます。いつか小説とかで詳しく書くかも知れません。
ごく簡潔にそれにも触れています。
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■今なにを成すべきか

今自分がその上にいるレールを人生の与件であるかのように感じていると、
自動生活機械と化した時間の中で、人生というのはあっという間に過ぎてしまいますね。

残された時間。自分の可能性と現実。そして危険を冒す意志。
これらを真剣に問い、今なにを成すべきかを考えるべき時というのが、人生には何度も訪れると思います。

これを見逃してしまう心の傾向というのは、どうも心理障害の有無に関係なく、人間にはあるようです。
一方でこれを問うというプラクティスは、心理障害傾向の打破に役立つようです。ちょっと面白い現象ですね。

実は僕が会社を辞めることにした経緯には、僕自身がそれをどう望んでいるのかが見逃されていたのを感情分析したのが絡んでいます。
会社の仕事に向かうと、どうも情けなく滅入るような気分があり、感情分析したわけです。何がこの滅入る気分の本質なのかと。
僕としては本の出版が成功し経済的見通しができたら会社を辞めるという考えでいたので、感情分析によって、この2足のわらじ状態を受け入れ我慢するよう落ち着かせる方向に行くようなイメージを持ちながら、感情分析をしたわけです。
でもこの滅入った気分は、「自分でないことをしている」という感情だという自覚から、次第に、もう何も待たずに「島野になる」意志が強くなったところに、会社で特別退職奨励キャンペーン(^^;)があり、渡りに舟と決断した次第です。

それで感じたのですが、人は自分の心の底が感じている自分の可能性を、明らかに表の意識では見逃したままにする傾向があると思います。
人は本来変化するものなので、何かと人生にレールを敷きがちな現代社会ではこれは自然の成り行きかも知れません。
表の意識は、今のレールの中でものごとを考えていますが、心の底の自分は、もはやそれが本当の自分ではないことを感じているんですね。
補足:すると意識の表には、漠然とした空虚感目の前のことへの集中困難などの症状が時に現れるわけです。そうした症状を、障害として切り捨てず、自分の心が何かを求めていること表れだと考え、それを探り続ける姿勢が大切です。

また心理障害が絡むと、自分と人々や世界と関係の変化機会というのは、それ自体が感情の膿に触れがちなので、変化を恐れる感情が起きてしまいます。


■求めたものになれない焦りへの対処

このままではまずいという感情が、何か具体的に変えていこうという意欲が生まれるのであれば、それはいいことだと思います。
一方それが、自分が求めたものになれないという事実をまざまざと突きつけられるような、青ざめるような焦りの感情を伴う場合もあるでしょう。

その場合の指針としては、何が本当の望みであったのかを突き詰めることです。それはこの仕事そのものというより、燦然と輝く自分のイメージだったりするでしょう。仕事は単なる材料に過ぎなかった。何でも良かった。いやむしろ本当は..
そんな風に、自分が来歴を通して本当に求めたものは何であったのかを突き詰めることです。

なぜなら、そうして真に求めたものに還った時、初めて心の自然治癒力が姿を現すからです。
真に求めたものを得られない痛みと悲しみに還った時、それはいつか癒されるものになります。
一方、真に求めたものから目をそむけたまま、それを補うような代用品を渇望した時、それを得ることができない痛みは癒えることのない不快なフラストして持続します。


■価値を認める心

もうひとつ、真の望みが何だったかを知るだけでなく、その感情を開放することです。
それが望みに向かうということであり、自分の足で自分から歩くということです。
それは開放すると同時に、それがかなわない現実であることを真に知ることを意味するかもしれません。それははるか遠い過去に痛まないまま置き去りにした痛みを痛み直すようなことになりかも知れません。

しかし望みを開放し、自分の足で自分からそれに向かって得られない時、心が変化するのです。ひとことで言えば、「価値を認める心」が生まれるのです。

それに対して、結果を先取りするかのように、望みそのものを停止した時、そして自分の足で向かうことをやめた時、結果はまるで同じことのように見えますが、心は全く違います。
「価値を認められない心」になるわけです。


心理障害というのは、そうした動きが来歴を通して蓄積した状態なので、生きることの価値が見えない心の状態になってしまいます。
また自分から動くことを善しとしない思考が生み出されやすく、循環的にその状態が膨張してしまいます。

その逆を地道に進むことですね。自分から動くことを選択する思考法を探り、実践する。
その過程で、自分が不様な出来そこないの悪あがきだという感情が膿のように出ます。それに対抗できる価値観が大切です。
「みのほど」「望む資格」思考をこっぱ微塵に粉砕する。
不様な身をさらして、前に進むことです。そうした過程によって得られる成長こそが、真の成長です。

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この「価値を認める心」の回復ということが、ハイブリッドの示す治癒論の本質とも言えます。
その先にあるのが、生きることの意味、喜びを感じ取る心の回復です。

人生の価値には3つの価値があるということを以前言いました。
自分で認めることのできる、自分の持つ価値。
人に認められる価値。
そして最後に、価値を認めることができるという価値。最高の価値とはこれである、という話。

これを教えてくれたのはデイブ・ペルザーです。
大学院を出て以来の20年の中で、ホーナイとバーンズとハーバード流を除くと、「“It”と呼ばれた子」のデイブ・ペルザーが唯一、僕が何かを学んだといえるものでした。
(2003/10/11カキコ「久々の感動本」参照)

彼の生き方も実にサバイバル的でした。
僕自身が今、自分の人生と心に感じている豊かさの多くの部分は、サバイバル性善説の上に生きることで築いたものです。

「善悪」はそれを全てだいなしにしてしまいます。
僕の頭の中では、「善悪は人生をだいなしにする」とさえ言えます。望みを開放して砕けることを善しとせず、望みを停止して良い姿になることを求める観念だからです。

望みの停止から始まる情動の変形、そこに底流として流れる心理発達課題、それを損なったとき人が陥る「人間嫌い」の思考と、特徴的な善悪観念。
全てがそこにつながってきます。

No.627 2005/06/12(Sun) 12:30

望みの停止問題-10:望みの開放が生み出す「価値を認める心」-1 / しまの

返答メールで、ここ最近完結へと向かいつつあるハイブリッド理論の要に関連することを書いたものがありますので紹介します。
情動変形の要であるとともに、治癒変化の要でもある。
ひとことで言えば、「望みの停止」が情動変形の要であり、「望みの開放」が治癒の要になります。

全ての情動メカニズム、そして治癒メカニズムが、これをめぐって起きます。
何故か。
そこに、人間の生きる意味という究極のテーマが絡んでいます。

2つの立場というか、生きる姿勢があります。
ひとつは、何か望んだものを手に入れた結果の姿を思い描き、その姿になることに意味を求める生き方です。
もうひとつは、結果ではなく、望む感情そのものと、それに向かって自分の足で歩むことそのものに意味を求める生き方です。

結論を言いますと、人は後者の中で、心の豊かさと人生を生きる意味を見出します。そして前者の中で、人はそれを見失います。
何故か。
望みの感情を開放し、現実世界に向かって砕け散ると、「価値を認める心」が生まれるからです。
一方、最初から特定の姿を善とし、それに見合わない自己の望みを停止するという方法で終わったとき、「価値を認めない心」が生まれます。
この2者は外から見れば、同じ、ゴールを得ることなく終わった人間の姿があります。しかしその内面は全く異なるのです。


前者、つまり望みを開放する方について、「現実世界に向かって砕け散る」とだけ言いました。「成功すると」というのは、このさい除外してさえいいものです。
なぜなら尽きることのない成功はなく、必ず果てるからです。必ず老いはやってくる。どんな優者も、どんな美人も、やがてその地位を失います。
その時、彼彼女の成功の裏にあった、生きる姿勢が問われるのです。自分が求めるものは何かを追求し、それに向かって歩むことそのものの中に価値を見出し、成功は単にあとからついてきたものに過ぎないと言える生き方を獲得したか。それとも短絡的に、自分の成功した姿を得て維持することだけに心をやつしたのか。

その違いはどうその後に表れるか。
多分、前者は人を指導し助けることに喜びを感じるようになるでしょう。そして彼彼女に学ぶ多くの人が、同じように生きる価値を見出していく。価値が連鎖していくわけです。
後者は、残りの人生を、失われた栄光を嘆きながら生涯を終えるかも知れません。

人はよく青春時代の輝きこそが人生最高の価値であり、その時期の成功が人生そのものの成功のように考えるかも知れませんが、案外そんなものではないですヨ。
「今が良ければ」と良くいいますが、「今」はあっという間に「過去」になってしまいます。
「得たものを失う」未来に感じる価値を見出した時、人はもう果てることのない価値を手にしたことになります。
「終わり良ければ全て良し」というのが、人生においてもかなり当てはまるようです。
人生の最後にようやくこれを見出した時、苦渋に満ちた過去もすべて報われていることを感じるでしょう。なぜなら最後に見出す価値は、そうした唯一無二のその人の人生によって生み出されたものだからです。

これが「望みの開放」と「価値を感じる心」の関係についての基本原理です。
返答メールでは、それが実際の取り組み過程においてどのようにアプローチすることなのかという側面から書いています。

No.626 2005/06/12(Sun) 10:47

質問です。よろしくお願いします。 / 匿名希望

付き合っている彼氏がいるのですが、最近彼氏がいない間に
勝手に彼の携帯電話のメールなどをチェックしています。
彼のこととても信用しているのですが、気になったりして
別に何もやましい事はなかったのですが、一度見てしまったら
何かやめられなくなってしまい今だに見てしまっている自分がいます。
このサイトを度々拝見しているのですが、
ハイブリッド人生心理学実践ガイドの感情の全般的抑圧の自覚の部分を読んでおり、気になったのが
「たしかにそうした自分離れの試みによって、本人の意識上の苦しみは一時的に薄らぐかに見える時もあるでしょう。
 しかし問題なのは、そうした態度の結果、自己嫌悪感情が無意識のうちに潜行することです。本人はまさに苦い感情から
 逃げることに目が向いているので、これをあまり明瞭に意識しません。
しかし心の無意識のメカニズムはこれを見逃しません。自分はどうしようもない、無力なできそこないだという感覚に、
 自らを追い込んでしまうのです。」の部分です。
勝手に人のメールを見るのは悪いことというのはわかっています。見ないほうがいいという事も。
最近バイトを始めたのですがなかなかきつくってストレスが溜まっているのかな
と自分でも思っており、それのせいで何か自分離れをしてしまっているのかなぁと思いました。
信用している彼の携帯を見ることで何か紛らわしているような・・・。
でも一度見るとやめられないし・・。
この心理構造について教えていただけますでしょうか。
無意識に自己嫌悪が潜行するという事は、この場合、本当は見てはいけないという気持ちが
無意識においらやれて後から意味もわからず自己嫌悪に落ちいったりするという事でしょうか。
無意識のメカニズムは見逃さないとは、本当は悪いことだとわかっている事が無意識においられらて
後から自分にはねかえってくるということでしょうか。
よろしくお願い致します。

No.615 2005/06/09(Thu) 20:06

 
「自分から駄目にする」心理 / しまの

こんばんはー。
「自分離れ」による自己嫌悪の潜行というのは、「自分でも良くないと思うことをしてしまう」というのとは、またちょっと違う話ですね。
「そんなもの」「自分は違う」「気にしない」とかの態度で、自分自身に対して見ざる言わざる聞かざるのような無視の姿勢を決め込む心理のことを取り上げています。

彼氏がいない時携帯メールを見るのを止められない、とかの行動の場合。
これは単なる好奇心からということもあると思いますので、こうした行動そのものから、その心理はこうと一概に言えるものではないのですが、
止めようと思っても止められないという落ち着けなさを考えるためには、「自分から駄目にする心理」のメカニズムが参考になるかも知れませんね。

これは、人に好かれそうになると自分からそれを壊すようなことをして、「どうせ自分は好かれない」と感じているようなケースで起きている心理です。
これは自己嫌悪感情のひとつの表現で、どうせ自分は嫌われるという感情があり、それ以前に幸せを味わうほどその「事実」への直面が辛くなるから、傷を最小限にしようと、最初から最小の傷だけで失敗しておこうという心理です。
これは「成功することへの恐怖」とも表現できます。ホーナイの表現を使うなら、崖を高く上れば上るほど、墜落の恐怖が大きくなるのです。

彼を信じているけど携帯メールを見てしまうという場合、自分が嫌われ彼が別の方に向いてしまう、という膿のようなイメージがあるのかも知れませんね。
その膿のイメージに直面することはちょっと辛いことかも知れませんが、代わりに彼の携帯を覗く衝動が消えるかも知れません。
問題は彼ではなく自分の心の中にあるということがはっきりするからです。

その先は、「愛の喪失と回復」というハイブリッド心理学のひとつのテーマ領域の話になってきます。そもそも愛とは何か。どうそれを導くのがいいのか。
ここではその全体については省略ですが、ひとことだけアドバイスしますなら、「互いに好き」という感情だけを見るのではない、別の目もぜひ持って頂くといいと思いますね。

ハイブリッドでは、良い人間関係は建設的対人行動の中で育つ、建設的対人行動とは共通利益共通目標のみに着目する行動法である、という話を判で押したように言っていますが、実際それが全てです。それがあらゆる人間関係、夫婦関係や親子関係、恋人関係といった全てに一貫します。

共通利益共通目標のみに着目できるとは、相手に依存することなく自分の方向を持つことも意味します。その上で相手との共通点を積極的に見出していく姿勢が、安定した愛情を育てていきます。

愛の感情だけに目を向けず、そうした建設的行動を選択するという理性によって、逆に、愛が守られるのです。

No.625 2005/06/11(Sat) 23:22

またまた参考になりました / Tokuyuki SEKINO

 島野さん,お久しぶりです。数ヶ月ぶりにこちらを訪れて,書き込み等を拝見させていただきました。参考になりました,ありがとうございました。
 以下の部分は私も良く考えていることでしたのでうれしく思いました。ただ,こういう考え方そのものが良くわからない人,もしくは,それ以前の問題を抱える人がいっぱですね。

引用 
「良い人間関係は建設的であることで育つ」、そして建設的であるとは、共通目標共通利益だけに着目することです。

 教育現場でSGEがよく話題になります。私は,常々,SGE活動のメリット,デメリットを考えます。ここを訪れデメリットのヒントがわかったような気がしました。

 島野さんに紹介していただいた,道徳の実践のHPも利用させていただいております。ありがとうございます。

 私は20代後半,「悪気がなければ良い」と思っていたような気がします。30代に入り,「悪気が無ければ良いとうものではない」と考えるようになり。
 最近は,どのように生きても人に誤解を与えてしまうこともあるのだから,悪気無い自分の良いと思ったことを実践しようとしています。ただ,何が良いのか,何が好きなのか良くわからなくなることもあります。・・・・・
また,やってきます。お元気で。

No.623 2005/06/11(Sat) 18:36

 
Re: またまた参考になりました / しまの

どもですー。

SGEって知らなかったので検索して調べたら、「構成的グループエンカウンター」とかいうものらしいですね。
「エンカウンターとは,ホンネを表現し合い,それを互いに認め合う体験のことです。この体験が,自分や他者への気づきを深めさせ,人とともに生きる喜びや,わが道を力強く歩む勇気をもたらします。」
だってー。

これはハイブイリッドでお勧めしている建設的対人行動法とは違うものですね。
ハイブイリッドでは、「ホンネを表現する」ことにはあまり価値を置いてないです。むしろそれは心を病む方向に作用する姿勢だと考えています、とあえて言ってもいいでしょう。

その理由としてだいいちに、我々は自分のホンネ自体を良く知らないことです。だからまず「自己を知る」ことを実践対象とします。
そして次に、その自己理解を通して、感情は変わることです。一度ホンネとして「表現」すると、それは一人歩きしてしまいがちです。
最後に、「自分の心はこんなです」という「心の外出し」は、それ自体が人間にとってストレスのあることである一方で、真のメリットというべきものがあまりないことです。あるとしたら「心を共有する」という幻想的一体感であり、これは心理障害とお友達ともいえる感情です。

SKINOさんも「デメリットのヒントがわかった」とのことですが、漠然と何かこれは違うんじゃないかと感じておられた部分があったのでしょう。

SGEが健全で建設的なテーマを扱いながら行われるのであれば別に問題はないと思いますが、そうでない内容で行われた場合、結果については冷や汗ものになるような。。
いずれにせよ問題はSGEそのものというより、それとは異なる明確な対人関係改善の方法について無知であることですね。

でもいまどきの臨床心理セミナーが提唱するものってそれなんだろうなー。
もし個人的にそんなものに出されそうになったら、ゾッと感じるホンネは隠して、適当に口実つけてとっとと逃げるでしょう。あっはっは..^^;

No.624 2005/06/11(Sat) 21:23

心理発達課題の損失と回復の考え方-5:子供の自尊心を育てるために / しまの

子供の自尊心は、どうすれば育てることができるか。それについての僕の考えを書いておこうと思います。
まあ自分で子供を持たない身でそんな偉そうな話をするのもなんですが、僕自身はこれについては結構楽観的な気分でいるんですね。その楽観の意味も説明したいと思います。

ひとことで言えば、子供をひとりの別個の人格として尊重することが大切だと思います。
そして親自身の自尊心と建設的な生き方が、子供の自尊心へと鏡のように映されていくのではないかと。


これが「どうするのがいいか」への僕の考え。「愛すればいい」という言葉は出てこないんですね。
幼児期課題としての自尊心の獲得は、親の「宇宙の愛」を受けることを基本手段とする、ということにもかかわらず、です。
「子供が愛を通して自尊心を得る」というのは、心理学的な事実を言っていることであって、では親がどんな意識で子供に接するのがいいかという話となると、また話が出てくる。

これは、「愛は技術ではない」というハイブリッドの愛についての基本理念と関連します。
愛は心の成長と強さの結果、自然に生まれます。
その中核は、いかなる人為的な生み出し努力によって生まれるものでもありません。だから、純粋な愛情は常に「未知の感情」として湧き出てきます。それは「知る対象」ではありません。愛の感情を知って捉えようとした時、そこに「自意識」が生まれます。それは愛を促す作用ではなく、愛を壊す作用があります。

子供の自尊心がいかに育っているかと気にして、なんとかそれを引き出そうという意識を持つと、逆効果になるように思えますね。
それはもう子供への愛というより、「操作」になってしまいますので。
あるべき姿を学習するという方法にあまりに頼る日本の親は、まさに「ちゃんと自尊心持たなきゃだめでしょ!」という「躾」に流れます。それが子供が自尊心持てない原因なんですけど..

意識して努力できるのは、親自身が自分に対して建設的であるよう努力するのと同じ形で、子供に対しても建設的であることだと思います。

だから僕は子供を持ったと仮定して、かなり対等な大人を相手にするような態度を取ると思います。特に子供が自分の頭で何かを考えようとしたとき。現実科学的に、この世界のことを説明し、あとは子供の自由に任せる。
正真正銘の大人に接するようなサバけてドライな態度でない側面というのは、自分の本能にまかせる。メロメロかも知れないし、相変わらずサバけているかも知れない。
「善悪」という言葉は使わないと思います。僕自身がもう自然にその観念を使わない状況なので。
「怒らない」なんてことはてんでないでしょう。相手は加減知らずのガキにやがてなります。手加減なしに叩かれれば、こっちも結構手加減なしに叩き返すかも知れない。「躾」としてではなく、僕自身の好悪の感情を直接示す。で相手がワッと泣き出せば、ごめんごめんパパも痛かったもんでーとかなだめる..いやはや^^;

回りの人間とのそうした現実的な感情のぶつけ合いというものの中で、子供の自尊心というものも「なるようになる」、という考えが僕にはあります。
というか、子供の自尊心は子供自身のものであって、それを親が用意しようとする発想があるならそれが誤りだと言えるのではないかと。


恐らく、親の側に心の問題があるなら、それを映すような形で、子供の自尊心の達成にも問題が起きるでしょう。
しかしそれは程度の差はあれ、この現代社会の中では多分全ての人間に起きることです。
そしてもしそれが子供本人の人生に困苦を与えるような程度であった場合も、子供自身がその克服に取り組めばいい。
どこまで行っても、子供の心は子供自身のものであり、子供の人生は子供のものです。好きにすればいい。
そんな考えで、僕は自分の子供については、楽観でいるわけです。それは自分がいい親になる自信という楽観ではなく、自分および子供にどんな障害があろうとも生きることはいいもんだという感覚のことを、楽観と言っているという感じです。

No.619 2005/06/09(Thu) 22:02

 
Re: 心理発達課題の損失と回復の考え方-5:子供の自尊心を育てるために / クミータ

ありがとう、しまのさん。なんか、涙が出そうな感じです。私もそう思うと自分の親との関係を納得できますし、自分の子供との関係も肯定できます。これから何らかの問題がおきたとしても、私達は私達なりのやり方で何とかしようとすると思います。それに、だからこそ、彼女もこんな私達を慕ってくれるのだと思います。

っていうか、このページにアクセスするような人達は誰かを好んで傷つけるような人はいないと思うのです。だからこれを読んでるあなたは、善悪の尺度を放棄して全然オッケー。ですよね?しまのさん?

No.621 2005/06/10(Fri) 07:15

 
Re: 心理発達課題の損失と回復の考え方-5:子供の自尊心を育てるために / しまの

ど〜も〜。

>なんか、涙が出そうな感じです。

今回はお涙頂戴の文章を書いたつもりはなかったのですが、改めて考えると、
日本のお母さんって大抵「この子をこんな子にしなければ」というストレスに苦しんでるんですよねー。

そんなの、誰も望んでいないんですね。そんな重荷、降ろしちゃっていい。すると、子供が笑い出す。

>だからこれを読んでるあなたは、善悪の尺度を放棄して全然オッケー。ですよね?

まあ確かに、これは犯罪防止のHPではないからそんなこと言っていられる面もありますが(^^;)、
僕としては人を好んで傷つける人にも、「善悪の解体」を言いたいと思っています。というかそんな人も変えてていくような一貫した理念を確立したい。

それは「放棄」だけでなく、新たに何かを獲得するという面です。
それをもっと直感的に説明できた時、さらに楽観的な見通しの中で、どんな人に対しても本人の自由に任せることに安心したまま、この「選択」を呈示できるように思えます。

何を獲得するのか。引き続き善悪の解体上級編にて。

No.622 2005/06/10(Fri) 09:52

心理発達課題の損失と回復の考え方-6:その2のクミータさん質問へのコメント / しまの

ということで解説をはさみましたが、
>「自尊心の獲得」は、「愛情の獲得」よりも自分で何かができるようになることに由来するのではないか、ということです。それとも、この局面は「愛情の獲得」による「自尊心の獲得」と平行して現れるというだけの話でしょうか。多分、そうかな?

表面上で見える何が子供の自尊心に寄与するのかは、もう何とも言えないです。
というか、心理発達課題としての自尊心は、深層感情だということです。

実際の生活場面で、何がその深層感情としての自尊心に強く寄与したか、という結果論はケースバイケースに出てきます。
おおらかに愛されたことが重要だったかも知れないし、励まされ自分で何かをできるようになるという体験かもしれない。
これら個々の体験は、一般感情です。

そして幼児期心理課題としての自尊心は、1歳から4歳程度という、自他境界の未分離な意識状態における獲得を底流とする形で出来上がるということを考慮するのが、心理学的理解に役立ちますね。
つまりこの段階の自尊心は、自他分離のない、現実覚醒レベルがまだ低い段階での感情であり、愛されることと自分の能力とがこん然一体となった原始的感情というものを想定しています。


こうした心理要求が満たされないことで起きる残存愛情要求には、現実覚醒レベルの低下という自己操縦心性の特徴が強く関連してきます。
自己操縦心性の覚醒レベル低下は、実は残存愛情要求がその供給源であるとさえ考えても良さそうな気がしてきますね。まだそうは言いませんが、そのうち書くメカ論では整理しましょう。

そうした根源的感情としての幼児期自尊心の供給源とは何かというと、やはり「愛」だというのがハイブリッド理論の考えです。
親の宇宙の愛に包まれ、宇宙と一体となり、全能万能であるという感覚ですね。

子供に物心がつく4歳頃以降の、愛され体験や、勝負に勝つ体験などは、一般感情として、課題としての自尊心とは一応別の次元の話になってきます。
そして深層感情としての自尊心が損なわれるほどに、一般感情における「姿」がその代用品として渇望されるようになるという特徴もあります。といって自然な甘えの感情や勝負心などに猜疑を向けるのも全く無用です。
その5で言ったように、親に足りないものは子供が自分で探すのに任せるつもりで、おおらかな愛情を向けることがお勧めですね。

難解な説明、かつこれでも説明不足な話なのですが、
クミータさんの例で言うと、子供さんの得意満面な体験そのものより、クミータさんがそうやって子供さんの成長を願う気持ちの方が、その子の深層での自尊心に反映しているのではないかと思いますね^^。

No.620 2005/06/09(Thu) 23:05

きのうの感動と今日の衝撃 / しまの

どーでもいい徒然ネタ。
きのうは日本のW杯サッカー出場決定を決める鮮やかな勝利が実に歴史的感動でしたが、
今日は歴史的衝撃として新築マンション15階の我が家に、6年目にして初めてゴキブリが出現というショックな出来事^^;

玄関で、巨大な真っ黒のやつなので、多分エレベーターに乗って紛れ込んできたやつであり、近辺にまで生息域がやってきたということではまだないと思うが。
でもそれももう時間の問題か。。

それにしてもゴキブリというのは、単なる虫なのに、なんであんなに気持ち悪いのだろー
殺虫剤の効き目も大したもので、すぐ上むいて足ぴくぴくしたのでテッシュをかけ触らず包み込もうとするものの、テッシュに足あけて手の方にやってくる気配に思わず大声でうわーと言いながら奮闘のすえ無事に分厚いテッシュに包みこまれたゴキブリをゴミ箱に捨てる。

あの気持ち悪さは、恐らく心の中に残っている僅かな感情の膿でも共鳴するらしい、とか思わず考えた次第..。

No.618 2005/06/09(Thu) 21:25

下から2行名訂正 / 匿名希望

後から自分にはねかえってくるということでしょうか。
よろしくお願いします。

No.616 2005/06/09(Thu) 20:07

 
Re: 下から2行名訂正 / しまの

質問ど〜も〜。
本文訂正しときます。返答もそっちにて。

No.617 2005/06/09(Thu) 21:11

ペーターさん感想への返答-4:新しい人..ニーチェ.. / しまの

これもきのう考えたので今のうちに書いておきませう。

>しまのさんは
>「善悪観念の放棄は必ずしも進歩的とはいえない感じもする」
>といってますが、従来の人間像から逸脱するその姿勢は
>人類に新しい可能性を切り開くのではないかとすら思えます。

これについて考えたのですが、僕は人間には2種類があるように感じるんですね。
「自然の人」と「善悪の人」です。

「自然の人」というのは、人類の歴史の中で、人類の数が飛躍的に増えはじめた発展期の人々というイメージを持っています。まだ社会文明があまり発達していない時期で、南の楽園のような、寝食にあまり困らない良い環境を想定するといいでしょう。
現代社会のように子供の学歴などなんも気にすることもなく、戦争もなく、好きなだけセックスして好きなだけ子供を生むような世界。

確かモヤイ島だったか何だったか、そんな時期があったのが推測されているという話を聞いたことがあるような。
それで爆発的に人口が増加した結果、生存に適さない環境になってしまい、後にモヤイ像だけが残った、というような..。
そうゆう人類史の中では、ある時期に生まれた人間がとてもいい目を見る一方、あとの時代の人間がそのツケのような辛酸をなめさせられるということが起きる。しかも個人に帰するような小規模な話ではなく、自然環境そのものが生存に適する適さないという大規模な話でです。

その観点では、この21世紀はかなり恵まれた時代だと思います。22世紀になると、ちょっとヤバい兆候とか現れてくるかも。
自然環境大切に。

さて一方の「善悪の人」というのは、社会文明が発展して以降の、善悪観念を持つようになった人類のことです。
大江健三郎が「新しい人」という言葉を使ったのが、どんなスパンでの新しさのことを言っているのか知りませんが、今の言い方でいう「善悪の人」が、この数千年の人類なわけです。

そして、「善悪の人」に現れたひとつの特徴が、心理障害を持つようになったということだと言えると思います。それだけ、僕の頭の中では、心理障害と「善悪」とは関係が深い。

で、ペーターさんがハイブリッドの示す思想が「人類に新しい可能性」を開くかも知れないという考えが湧いたとのことで、考えたのですが、やはり人間の「生態型」は「自然の人」と「善悪の人」の2つだと思うんですね。

ハイブリッドの「善悪の完全なる放棄」は、「自然の人への回帰」と考えてもいいと思います。古代人のように単純に社会がないことによる本能の開放ではなく、善悪の人として生まれ育ち社会と膨大な情報に囲まれたこの現代と未来で、「内なる自然人」を開放するという、まさにハイブリッド型の新しい類型と言えるかも知れません。

ただまあ僕が「新しい人」として想像するのは、異なる心理メカニズムを備えた人類の誕生のことを言います。特に、感情の膿により発動した自己操縦心性が自滅の人生を作り出すというメカニズムを、進化的に免れた人類の誕生。脳の構造が最初から違うわけです。
この新しい人類が世界をどう変えていくかと想像することは、なかなか面白い話ですが、その前に果たしてこの地球がもつものかと..^^;

ニーチェの話ですが、簡潔に言いますと、ゴメンあまり関心ない..という感じ^^;
「ニーチェを超える」かどうかと考える時、「超える」とは何の尺度においての話かが問題です。そしてその尺度を何のために使うかという動機があって初めて、「ニーチェを超えるかどうか」が議論の対象になります。

その点で、僕ちゃんは自分の心理学をニーチェと比較する尺度と動機を持ってないので、何もコメントすることがない..という感じ。

ただまあニーチェは、心理障害の世界を描いた哲学者として、心に刻み込む言葉を作った人だと思います。
あくまでホーナイを通しての知識しかありませんが、なんといっても「レーベンス・ナイド」だったかな。「人生への羨望」です。「人生を台無しにするルサンチマン」ねぇ。まさに。

さすが哲学者だけあって、本質を見抜いていたという感じですね。
なによりも、彼自身が恐らく自らの中に閉ざされた人生に悩んだ人間の一人であったことえを、まずは感じる次第です。

そうして人間の心の理解の歴史があります。ホーナイも、精神分析の発展は分析家の自らの心理障害の分析によるということを言っていましたね。
僕もそれと同じです。さらに読者の皆さんも同じ。みんな同じです。
違いはそれを本にしたかどうかというような違い。僕も早く本出したいなぁ。。

しかし会社に拘束されて大した作業もないと、筆が進む進む。家にいるより書いているかも..^^;

No.614 2005/06/07(Tue) 12:10

一般カウンセリングの異質な世界.. / しまの

先のカキコとも通じる、対人感覚に関連する話。
世のカウンセリングとはどんなものかという興味で、カウンセリング関係のメルマガなどひとつ配信受けてるものがあったのですが、そこが開催しているセミナー内容のタイトル

「よりよい人間関係を作るためのトレーニング」。トレーニングでできる良い人間関係っていったい..?
「相手を勇気づける話し方」。それって話し方の問題..?
「本当の自分の気持ちに気づいて、それを表現しましょう」。ゲゲッ、「本当の気持ちを表現」してどうするの..?

まあ、こうした内容をカウンセリングの講座とする背景には、心が触れ合うことが良いことであり、心理障害への癒しとは、それを提供することだという考え、そしてそうして和やかに面談しているカウンセラーとクライアントのイメージだけが先行して、それをいかに成功裏に演じるかがカウンセラーというものであるという、意識的もしくは無意識的な思想があるのでしょう。

ハイブリッドとは全くの別世界であり、そして現実の社会から見ても別世界な、閉じた空間がそこに用意されるという感覚を感じる次第。
感情は心にしまう。ましてやそれが取り組みたい歪んだ感情であるのならなおさら、自分自身でもその感情を鵜呑みにせず、まずは非行動化し、次に自己理解に努めるのが方法です。

「本心を言う」ことが良いことであるような感覚は、それでもかなり残り続けるでしょう。そのメカニズムの説明をするのは、これからです。善悪の解体上級編になるかと。
メカ説明はさておいても、ハイブリッドがお勧めする姿勢は、「良い人間関係は建設的であることで育つ」、そして建設的であるとは、共通目標共通利益だけに着目することです。

それが全てです。悩む心を打ち明けることは、心理学的な取り組みの方法として、相手にもその意欲がある場合には問題ないでしょうが、そうでない相手に「本心を打ち明ける」ことが良い人間関係だと感じて行動すると、とんだ心の罠にかかることになります。
それで「結局他人なんて信じられない」となる。
まあ詳しくはメカニズム説明に譲りましょう。

いずれにせよハイブリッドは、というか僕は、対等な大人同士の人間関係についてはかなりサバけた、ドライな感じの姿勢がまずあるように感じます。
それは、自分の心の闇を人に受け入れられることへの願望を、自分自身の中では受け入れ、現実の中では果たせず「精神の死」とも言えるような感情の中で看取ってきた結果生まれた、心の豊かさと強さという感覚を背景にした態度なわけです。
そうした心の豊かさと強さの感覚を背景にして、初めて、「子供への愛」が自分の中に生まれていることに気づいた。

だから僕は前しか見ないです。悩む人にはただ選択を示す。救いを求める人間に目を向けるかどうかは、自分の本能に任せる感じ。「傷ついたものへの愛」に動かされるかも知れないし、手に負えないとあっさり見捨てるかもしれない。その時「自責」という概念は存在しません。
これは僕の「サバイバル性善説」姿勢の感覚を描写する文章と言えると思います。

例により話が膨らみましたが、ようは、だから僕は臨床心理士資格とかというものにはてんで関心持てないということナノダ。

No.613 2005/06/07(Tue) 11:03

ペーターさん感想への返答-3:人の好き嫌いの実感.. / しまの

5/14のペーターさん感想の中にあった質問ですが、ちょうど実感として書きたいことが浮かび。

>@「好き・嫌い」というの感情は、しまのさんにもありますよね?

この質問の前後のことはさておき、この質問にストレートに答えるとしたら、僕の最近の感覚としては、
回りの人は大体皆好きです。嫌いな人というのはほとんどいません。職場に限らず、接する人全てに、大体それなりに好感を感じます。仕事上も敵というものがいません。さぼっているにもかかわらすです。これは改めて考えると自分でも関心します。

もちろん以前はそうではなく、生理的嫌悪感を感じる相手というのが、いつも誰かしらいました。
明らかにそうゆうのはなくなりつつあり、多少オーバーな表現に聞こえるとしてもあえて上記のように書いた次第です。

一方、「人のどんな面も受け入れる」などというのではてんでなく、嫌なものは嫌なのは、極めて即物的です。
最も支障のない例をあげれば、風邪ひいた様子でマスクもせずに咳している人が近くにいると、僕は嫌悪感を感じます。うつされたくないからです。近づくな。あっちへ行け。声には出しませんが。
これ以外の例を沢山あげると次第に道徳心を疑われますのでやめときます^^;

また、このカキコを書きたくなった、最近の僕の人に対する感覚の面白い特徴が、人を「信頼」する、「信用」するという感覚がほとんどないということです。
人はあんま信頼していない。でも大抵好き、というのが合ってますね。

ただこれは改めて考えるとしかるべき理由がある話であり、信頼とは「信じて頼む」ことであり、信用とは「信じて用いる」ことです。
今の僕はかなりに渡って自足的であり、人に頼んだり人を用いたりすることがないんですね。これはたまたま仕事や生活スタイルがそうなだけです。

で例えば会社を辞めるにあたってスキー部での仕事を誰かに頼もうとしているのだけど、実際、できる相手はなかなかいないのです。その面であんま信頼できる人ないなーと思っていたのですが、実際に当たってもまあそんなもんかーと調整中です。

なぜこの話としたかというと、善悪の解体上級辺で解説しようとしている「人間嫌い」心理は、まさに上述の感覚の逆であることです。

彼らは大抵、「人を信頼する」ことを何か貴重なことであるかのように意識します。僕の感覚では「えっ何のこと?」という感じなんですが。
そうして人を信頼することを大切に考える彼らが、実は「現実の人間は!」と、人が嫌いであり、そんな自分が嫌いなのです。


一体なぜこんなことが起きるのか。メカニズムがあります。
僕はそのメカニズムの彼岸の世界へと渡る、ある選択をしたわけです。
それが善悪の放棄であり、その本質は「現実の不完全性の受容」であり、「神になるのをやめた」ことです。
善悪思考はその逆と言えます。その本質は..。上の言葉を逆にすればその通りです。

シリーズカキコで引き続き詳しく解説して行きます。

No.612 2005/06/06(Mon) 22:22

今日のぼやき^^; / しまの

普通の会社勤めも今週で終わりだー\(^^;)/

かったるい知識伝授資料など作りながら、回りの動向を眺めるに、僕が結構得意な領域がこれから日の目を浴びてくる気配が結構あるんだよなー。
このまま残って頑張るなら、それなりの成果も出せるかもしれない所を、我ながら良く全く別世界をワイフワークにと生活を切りかえようとしているもんだと感じる今日この頃。。

そうした得意領域も、はたで見る分には面白そうに見えるし、自分にできるのは分かっているんだけど、実際やる段になって時間が取られるととたんにやる気うせるんだよなー。

まとりあえず何年か著作系でやってみて、あんま日の目が見えないよう状況で満足できたら、また再就職でもしてこれやーろおっと♪と極めて安直能天気に思う島野であった。。

No.611 2005/06/06(Mon) 12:03

心理発達課題の損失と回復の考え方-4:「宇宙の愛」の中で育つ幼児期の自尊心 / しまの

その3(5/28)では、自尊心という幼児期課題は、人格の深層における心理課題であるということを話しました。

人格の深層であるとは、意識的な思考のことではないということです。むしろ、意識思考のあれやこれやがそれに支配される、ある心理様相のようなことです。

自尊心という課題について言えば、これは自己の重みが尊重されるという態度のことです。情動世界の重心点が、自己の中心点に置かれる状態のことを言います。

自己の中心的とは、感情が湧き出る中心点ということです。この中心に至るほど、それは無形になります。
なぜならそれはまさに「今」が生み出される源泉だからです。それは「今」でさえもない。真の自己の中心点にしてみれば、知ることのできる「今」は、むしろ「過去」であるとさえ言えるようになります。
知ることのできる「今」は、起きたから知ることができるだけです。しかし自己の真の中心点は、「知る」ものを生み出すものであり、それ自体はもはや知る対象ではありません。それは「未来」でさえない。あえて言うなら「未知」です。
なんと抽象的な言葉よ^^;

幼児期発達課題である自尊心とは、そんな自己の中心を、自分の情動世界の中心として尊ぶ感覚の定着のことを言います。

人格深層における課題達成が欠乏するに応じて、明瞭意識層における情動がその代用品として要求されるようになります。これが情動変形の基本原理です。
自尊心の場合、自己の中心の重みを獲得することを損なうほどに、その無形の価値の代わりに、有形の価値がひどく求められることになります。自分が高く評価されるというイメージが渇望されるようになる。自己評価他者による評価、そして競争心が顕著になってきます。
これはプライドの心理です。

プライドや競争心そのものは、別に病理ではありません。人間の自然な欲求のひとつです。
しかし、自尊心の損傷を補うものとしてプライドが過剰な重みを持ち始めるという現象に、病理があります。


これを見分けることはそれほど難しくない話でしょう。
健全なプライドや競争心は、外界との調和を損ないません。勝てば嬉しい。負ければ悔しい。でもそれが他者との関係を険悪にするものでは、本来ありません。
もしプライドを損なう場面で、その子供に抑うつ的な状態や、他人との関係の急変が見られるとき、その子供の中で自尊心が損なわれるているという状態を想定することができます。

つまり、自尊心でいう自己の中心とは、世にいう悪いイメージでの「自己中心性」ではなく、世界の中心に自己があるという感覚であり、それは自己が世界と調和しているという感覚のことを言います。
いわゆる「自己中心性」は、むしろ世界から疎外された自己という感覚の中で、自己卑下を通して世界に迎合することの拘束感を捨てた、反抗的自律の態度のことを言います。

こうした自尊心は、親の「宇宙の愛」に包まれ、自分が宇宙の中心だという全能感の中で育つ感覚であろうと考えられます。
そこには、人間の心の3つの価値の要素が含まれています。
ひとつは。自分が世界から愛され、世界を愛するという感覚。
もうひとつは。自分の可能性を開放することをとがめられることなく、全力を尽くして、それが世界に影響を及ぼすことを知る感覚です。
そして自由。自分が全能万能であり、選択が可能だという感覚です。

これらは、それが確固とするほどに、無形です。それを損なうほどに、有形のものへの飢餓感が生まれます。
愛においては、愛されるという姿への飢餓感へ。
力においては、比較競争や相手を打ち負かすことへ。
自由においては、全能万能の代わりに、「全知」が代用品として求められるようになります。

No.610 2005/06/04(Sat) 23:17

感情の膿の理解と克服-6(End) / しまの

対人恐怖をなくしたいという気持ちの先には、対人恐怖の解消はない。
全く別の視野、全く別の原動力での取り組みという選択があることになります。まずそうした選択肢があることを知らなければ、話は進みませんね。

先のカキコでは、「自分が何を求めているのかを知る」「価値観」「強い心への成長」という3つのアプローチという話をしましたが、実際の本人の意識では、頭と終わりの2つが、主な動機になり得ると思います。
つまり、「自分を知る」ということと、「強さを目指す」ということです。その目的の中で、自分が一体どんな価値観を持っているのかの問い直しということも自然に進むでしょう。

自分を知るという側面においては、先に言った、症状の細かい違いという話が糸口になります。
自分がどんな場面で、特にひどい対人恐怖を感じるのか。電車に乗るとかデパートの中といった、相手が無差別的な話なのか、それとも親しみたい相手とか異性とか目上の人とか、相手により違いのある話なのか。

症状の違いは必ず、「自分が求めるもの」がそこにあるかどうかという違いに対応します。
それを「自分が求めるもの」は何かという観点で、見ていくことが重要です。

こうした心理学的アプローチに無知なままでいると、得てして、自分が強く求めるものに対面しようとする時に起きる恐怖感情がより強いため、自らそれに背を向けて心の平穏を保とうとするという心の使い方をしてしまう。つまり「望みの停止」を起こし、それがさらにその人の心の状態を一段階押し込められたものにしてしまいます。

先に言った悪感情の基本的軽減と共にこれを進めると、かなりのことが明瞭になってくるでしょう。
自分が何かを恐れるのは、何かを求めているからであり、恐れがあるから、求めるものに近づけないという状況が次第に明確になってくる。

この辺が、最近僕が言っている治癒成長の第2段階に相当します。自分から悪化するのを止める第1段階、そして曲がった骨の錯綜した痛みを和らげる第2段階。

第3段階「人格根底の開墾」と呼んでいる段階で、この段階で、恐怖感情をそのまま流しながら、自分の追い求めるものに近づくという意志の獲得がキーポイントになります。

僕自身の例でいいますと、対人恐怖的感情の顕著な減少は、前半生において主に2つの時期になされました。
ひとつは、現在ダイジェストに書いている自己分析過程です。これはひたすら「自己の真実に向かう」という動機の中で、本当に追い求めるものへと近づく過程で、本当に求めるものではない周辺的な事柄への恐れの感情も自然に捨て去られていったという感じです。
これはやはり第2段階に相当します。この結果、「自分はもう神経症的人間ではなくなった」という状態にまでなります。

それでも、その過程の激越さの割には、多くの問題が残された。
根本的な感情の膿の消去というようなことが起き始めたのは、前半生も終わろうとする30代後半からの、再び自己分析が活発になった時期でした。それまでの人生経験を通して、本当に追い求めるものに近づく恐怖以外のことは解決していった感じがあり、自然に、その核心へと対決する方向に向かった。
その核とは、残存愛情要求であり、その歩みを支えたのが、ザバイバル性善説の世界観であり価値観ということになります。

ということで、感情の膿の解消の核心部分は、感情の膿そのものを考えるこの一連の話では、完結しなくなります。
なぜサバイバル世界観が必要になるのか、そしてその世界観の中で残存愛情要求に対してどんな姿勢を取るのか。この2つが感情の膿を根本的に解消するような「放出」への歩みの鍵になります。


ということでこのシリーズはいったん締め、善悪の完全なる放棄の話、そして心理発達課題の話に戻ろうと思います。

No.608 2005/06/04(Sat) 12:07

 
ちょっと訂正 / しまの

ダイジェストで詳しく描写している過程は、第2段階を超えて第3段階に踏み込んでいる部分が、やはりかなりあります。
なんてったって自己操縦心性の巨大な崩壊がある。

ただそれは積極的な治癒成長による「開墾」という姿ではなく、あまりに不安定に膨張した自己操縦心性が、精神分析一本やりの脆弱な治癒成長の過程で自然崩壊したという消極的な姿が多分にあります。
だから危機的状況になったということでもあり、その劇的過程の割には多くの問題が残ったという経緯です。

No.609 2005/06/04(Sat) 21:53

感情の膿の理解と克服-5 / しまの

対人恐怖感情を克服したい。どうすればいいか。

まず、その感情を「感じてはいけない悪症状」などと考えないことです。それを心理メカニズムのひとつの表れと考え、現実をその感情に合せて解釈せず、ただ感じ流すようにする。
思考と感情の分離基本的自己受容、そして悪感情の基本的軽減法

これで、対人恐怖があるからと言って、自分から輪をかけて感情を悪化させるようなことはなしにできたとします。
とりあえず、これが自分なんだと感じられるようになる。
で次に、対人恐怖感情が根本的に消えるためには、どうすればいいか。

人への恐怖感は、感情の膿の最たるものです。感情の膿の除去の原則に従って克服消滅へと向かいます。
感情の膿が流れる体験において、現実はそれに値しないという実感を保つこと、そしてその感情を「利用しない」で、ただ感じ流す時、感じた体験の分だけ、感情の膿は減少します。

ところが、そうはできないんですね。
そもそも、人を恐れるのが嫌で取り組むわけです。
つまり、「自分を変えたい」と思う気持ちは、その感情の膿を「使って」こそ起きるわけです。そしてこんなでない自分を望むことにおいて、現実は恐れに値するのです。

だから感情の膿は消えません。そのままです。
感情の膿は嫌だ。だからなくしたい。まさにその姿勢が、感情の膿をそのまま維持させるわけです。

「対人恐怖をなくしたい」という視野の中には、対人恐怖をなくす原動力はなにひとつありません。
「対人恐怖をなくしたい」という動機そのものを変えること。もしくは、全く別の視野の中に、答えがあります。


この先には3つのアプローチがあります。

ひとつは、対人恐怖をなくすことで、そもそも何を求めているのかを深く探求することです。これは残存愛情要求をはじめとする、「情動の変形」を紐解くという課題に関連します。

もうひとつは、価値観の問題です。良い人間関係とは何か。信頼とは何か。とは何か、といったことへの理解が問題になります。ハイブリッド心理学では、それに対する答えを用意しています。
自己操縦心性が、こうした問題に対する人の思考にバイアスをかけます。現実的ではない、別の人間関係とか信頼とか愛が、真実のものだという錯覚を起こさせるのです。

最後に、「心の成長」という基本課題を認識することです。「心の強さ」を目指すのか。
ハイブリッド人生心理学では、心の強さを志向した上で、「心理学的幸福主義」という思想を呈示しています。それは「弱さを訴える」こととは対極の、自助独立の精神を奨励しています。
それは「愛なんて所詮..」という考え方ではありません。心の強さを通して、弱きものへの、そしてこの世界のあらゆる存在への普遍的な愛の感情が、人間の本性として開放されるという心理学的事実に、自分の心を委ねるという選択です。

これらの各論が、情動変形のメカ論とか善悪放棄の話につながっていくわけです。
そうした理論的考察はそれぞれに譲り、実際のところ対人恐怖感情が消えたのはどんな経緯だったのか、僕自身の体験を振り返ってエッセンスを考察してみましょう。

No.607 2005/06/04(Sat) 01:08

感情の膿の理解と克服-4 / しまの

感情の膿がどのように解消されていくか、対人恐怖感情を例にして考えます。

対人恐怖感情といってもさまざまなバリエーションがあり、特定の挨拶場面などで死ぬような緊張恐怖を味わうようなものから、対人場面で無差別的に得体の知れぬ猛獣に出くわしたような身構え感が現れ、そんな自分に疲労感と敗北感、というような格式高い(^^;)対人恐怖症まで想定してみるといいと思います。
症状のバリエーションが実はひとつの鍵となってこの後の話に出てきたりします。

まずは、その感情を「あるべからざる悪症状」などと考えることをやめることです。
対人恐怖感情が生まれたのは、それなりの来歴というものがあります。その結果対人恐怖症になることを、善悪の問題ではなく心理メカニズムの問題として理解することです。
そして、その克服に取り組もうとする自分が、独自の内容と速度で成長する存在であることを、認めることです。「何才にもなって!」という考え方をするのをやめる。
これが基本的自己受容

ハイブリッド心理療法の取り組み手順で言うと、次は悪感情の基本的軽減法です。
これは主に2つ。
「感情による決め付け」の解除。恐怖を感じる。それは恐ろしい現実が起きるということの証拠だ。感情は感情に過ぎず、現実を示すものではありません。恐ろしい現実など、何も起きていないのです。
「苦悩を苦痛に、苦痛を痛みに」戻す。痛みに過度の意識集中をするのを止めることです。
これが「悪感情をただ感じ流す」基本姿勢になります。これは「悪感情への耐性をつける」という課題の実践でもあります。
掲示板2004/10/28「悪感情への対処の基本」など参考あれ。

対人恐怖のような悪感情を「克服したい」という意識によって、まずできることはこんなとこですね。
恐らくこれだけでも、精神科医が診断するような「対人恐怖症」レベルは脱することができるのではないかと思います。それは病気の問題ではなく、意味のある濃い感情のひとつとなる。

でさらにその先、対人恐怖感情を根本的に消すためにはどうすればいいか。
ここでひとつの壁というか、方向の変換が要求されることになります。

つまり、そもそもの取り組みの目的であった、「対人恐怖感情をなくしたい」という動機そのものの上ではもはやその感情の減少はない、ということになります。


ねむ..続きはまたあした。

No.606 2005/06/02(Thu) 23:37

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