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過去ログ
2005.8


ダイジェスト来週Upはまだ無理か..^^; / しまの

執筆状況ですが、「前進と後退」「病んだ心の崩壊」は大体完成したところですが、その後の「現実への帰還」がまだまだこれから。
ここからは後日談モードでかなり凝縮度を上げていこうと思いますので、今までよりも手早く書いていけるかとは思いますが、でもやっぱ時間かかるなぁということで、9/3(土)のUpはちょっと厳しいかも知れませんね。

出来上がった2つの章だけでもUpするかとも考えましたが、今回はこの3つの章をぜひまとめて読んで欲しいという意図は変わらず、あわてずじっくり3つ完成した上でのUpにしようと思います。
来週また来週とずれこんで行くかも知れませんが(アハハ..^^;)、のんびり待ってやって下さいまし。

でなぜ3つの章まとめて読んで欲しいかというと、今まで描写していたのは、主人公の目に映る内面の情緒の変化の流れなんですね。言葉で描写された情緒に多少とも感情移入できれば、多少中断が入ってもその流れが見える。
それに対してこれから描写しようとするのは、主人公の目に見える情緒の内容よりも、内面情緒を見ている主人公の人格という、外側の器の方の変化みたいなものなわけです。これは情緒を描写した言葉そのものからは見えず、全体の流れ方そのものの中に織り込まれるのではないかと考えています。
だから3章まとめて読んでもらうのが良いのではないかと。

その最も端的な場面が、「現実への帰還」の中に出てくるのですが、まさに「現実覚醒レベルの回復」が起きた瞬間の描写になります。
これがハイブリッドの理論面においても、これから整理する課題にも関係します。

心理障害状態というのは、健康な理性思考とは基本的に別種の意識状態であるわけです。だから理性で「直す」「正す」というアプローチは全く意味をなさない。
それに対してハイブリッドでは、それでも理性で自分の心の成長を導く方法を考えているですが、「壁」はやはりここに現れます。治癒成長の過程にある、「心の姿勢」「心の選択肢」といった、意識的に理解して進むことができるのとは全く別種の、幻想的意識状態を解除するという課題があります。

そのためには、現実覚醒レベルの低下に「よって何が守られているかというメカニズムを解明理解し、そのメカを無理なく解除に導く道程というものを考える必要があるでしょう。
それでも言えるのは、これは夢の中で夢から覚めようとするようなことに、やはりなるということです。夢の中でどんなに詳しく、起きた状態を考えても、結局それは夢の中で考えているに過ぎない。
だがまず知ることがそれを助けるものになる。夢と起きている状態とは全く違うものだという知識が、夢の中でもがいて覚醒するということを、実際に可能にすることを、我々は身近に観察すると思います。

そんな意味でまず、その「覚醒の瞬間」の描写にチャレンジする次第。

No.706 2005/08/28(Sun) 15:56

「好きに生きる」 / しまの

もうひとつの新聞ネタ。
毎日新聞18日朝刊の生活面にあった「ポスト定年プラン」というコラム。
ノンフィクション作家の加藤仁さんという方が書いていましたが、ようは定年後に「好きなこと」をして生活するのを勧める内容ですね。

それで定年間近な人にそれを語ると、「どうすれば好きなことが見つかるのですか」と質問されるとのこと。
35年以上も会社の看板を背負い、自分を押し殺すようにして働き続けていると、自分の「好きなこと」が何だったのか、分からなくなってしまうらしい。

それに対して加藤さんは、10代の頃に自分が憧れたことに挑戦してみては、とか言っておられますね。これは大賛成ですね。

さらに言えば、それを定年など待たずに考えるのもいいのではというのが、僕が世の人々に提案したいことなどでもあります。家のローンや子供の教育費はどうするんだ..と問われれば、それは自分で考えて下さいという話になりますが^^;
ま会社辞めなくても、趣味として続けるのも良し、それで趣味として本格的に活動すると、どんな人生の路線変更の芽が生まれるか分からないわけです。
そうやって実際会社を辞め好きな道に進んだ人間は僕の周りには結構いて、僕の兄もそうだし、僕自身もそう。

まじっさい人生路線変更を誰がどうするかは別として、心理メカニズムとして注目したいのは、人生そのものが与えられた義務、「こうしなければいけない」というものを持つものであるかのように感じられる心理状態というものです。
そうして世の中の大半の人が、敷かれたレールの上のような人生を歩んでいるのが、現代のマジョリティでもあります。

それが、自己操縦心性における人生感覚という話にやはり関わります。今後の解説でじっくり取り上げます。

それをほぼ完全に脱却したと思える僕自身の実感からすれば、人生は無限の価値の宝庫という感じですね。自分はこうなりたいとイメージしたものを超えるものが待っているという実感です。実際今の自分の身分も、こうなるとは思いもしなかったもの。一体何が自分の人生で起きるかと想像すると、ちょっとワクワクする感覚も起きます。
その根底には、「好きに生きてやる!」という意志があります。それが自分自身の中で社会道徳観とか価値観とかと矛盾ない状態で、生きる基盤になるまでの、内面戦争のようなものを経てのことですけどね。

これは自己操縦心性の崩壊という治癒取り組みと、サバイバル世界観の選択という2つによってもたらされたものです。
この辺の話を重点的にメカ論の中で取り上げたい次第。

No.701 2005/08/20(Sat) 16:55

 
Re: 「好きに生きる」 / おやじ

おやじです お邪魔します。

若い頃から好き勝ってに生きてきたつもりでしたが島野心理教室を知ってからは考えが変わりました。
好きに生きている積りが実は自己操縦心性のお陰(?)で怒りに満ちた、善悪思考で生きていました。
このサイとを訪れる若い人達は幸せですね。障害を克服して本来持っている瑞々しい
感性を取り戻しすばらしい未来を創ることが出来ますね。

私も後ろばかり振り返らずにハイブリッド療法を勉強して第2第3の青春を楽しみたいものです。
あと何年残っているではなく、まだ何年残っていると肯定的に考えて生きます。

私は長年心理障害で悩みました。30代の時に、いくつかの病院の神経科にも行きました。投薬は拒否しました何故かは分かりませんが自分は病気ではないと言う感じが強かったのです。心理障害(神経症)の本も読みました。心理障害の原因は分かりましたが確かな納得の行く療法は書いてありませんでした。
このサイトと出会ってからは「なるほど」と納得の行く点ばかりです。
確かにハイブリッド療法は難しいです。^^;途中で投げ出したくなります。
私は若くないので特に焦ります。
しかし善悪や怒りの感情をモロに社会にぶつけて生きて行く事を考えれば難しくても
「建設的生き方」等を実践していけば以前より楽に生きて行けるようになりました。
今の私は感情分析を勉強しています。
自分では知ることの出来ない心の底での変化ですのでどのように変化していくのか分かりません。大変もどかしい感じはしますが心理障害に即効の特効薬無いと思います。
人生には何があるかわかりません。私が偶然このサイトに出会えたのもそうです。
私はラッキーでした。
・・・・・・と書いてきましたが私のポイントはおやじも頑張ってるので若い人達も頑張って下さいと言うことです。なんだか宣伝文のようになりましたがお礼も込めて書きこませてもらいました。

No.702 2005/08/21(Sun) 14:47

 
Re: 「好きに生きる」 / おばさん

島野さん、おやじさんこんにちは。

私もこの研究室に通いつめている一人です。そして私も、もう若くなく、というより年寄りで(笑)、‘あと’何年しか…という数え方がまず最初にきてしまいます(そしていつも、イヤちがう、‘まだ’何年なのだ。…と思い直すのですが)。私も長い間、何で私だけこんなに生きることが苦しいんだろう、と不思議に思い続け、何か違うという気持ちをどこかに持ち続けている感じでした。ここ数年、少しずつ、ひとつずつ、絡んだ糸を解きほぐすような時間がながれています。そして、問題の核心はやはり親との関係にあり、私が怒りでもって長年押さえつけていたものの下に埋もれていたのは、「恐怖」であることが見えてきました。いまその恐怖をまな板にのせて、どう料理しようか格闘中です(笑)―最後は何味にして食べてしまおうか思案中!―

何があっても自分自身のこころのしあわせを第一に考え、自分のこころと行動に責任を持ち、何ごとも否定せず、感じ、最後までしあわせを求めて努力しつづける、ぞぉ〜〜〜と、思うこの頃です。

私も、お礼を込めて、それから、おやじさん、あなただけでなく、「高齢者」はまだいますよ(失礼かしら?)ということで書きました(笑)。みなさん、ゆっくり生きましょう。そして、自分のこころのほほえみを、日々感じながらいきましょう。

No.703 2005/08/21(Sun) 17:39

 
Re: 「好きに生きる」 / おやじ

いやぁ〜驚きましたぁ〜と同時に心強く感じました。
心理障害で苦しんでおられるのは若い方ばかりではないのですね!

私は正真証明のおじさんです。
この先いつまでも苦しみを抱えて生きなきゃならないのかと
日本人の平均寿命が伸びるたびに暗い気持ちになっていました。

しまの心理研究所を知ってからは私の生きる道に一筋の光が差したように感じました。
お互い一日でも長く良い人生が送れるようにがんばりましょう。

ご同輩(失礼)がおられると思うと本当に心強いです。

No.704 2005/08/21(Sun) 18:37

 
Re: 「好きに生きる」 / しまの

おやじさん、おばさん、どうもですー。(何か親戚に会った時の挨拶みたい。アハハ。)

>好きに生きている積りが実は自己操縦心性のお陰(?)で怒りに満ちた、善悪思考で生きていました。
そうですね。まさにその辺の心理メカニズムをこれから細かく解明したいと思っています。

>確かにハイブリッド療法は難しいです。^^;途中で投げ出したくなります。
ハイブリッド心理療法はまだ揺籃期です。難しさは本質的なものと、まだ僕自身が整理途上のものを勉強してもらっているという、2つの面によりますね。

>自分では知ることの出来ない心の底での変化ですのでどのように変化していくのか分かりません。
僕自身がまだ未整理と感じている最大のものは、この、「自分では分からない中で治癒変化が起きていく」という部分ですね。どうすると何が起き、なぜ自分では分からないのか。
しかもそれを導くのは自分自身しかいないわけです。これは全くもって雲をつかむような話になってきます。本質的に難しい所だし、ハイブリッド療法が完成するためには、この部分が何とかイメージできる手順と説明を作ることが大きな課題ですね。

ダイジェストがもうすぐ完結に向かいますが、これからの部分でまさに、大きな治癒変化が起きる状態、そしてそれが自分では何がどう起こっているか分からない状態のまま進行する様子が、かなり詳しい実情として描写できると思います。
どうゆう心の仕組みでそうなるのか、これからそこに向かうために何を理解する必要があるのか。理論面でもそれをこれからまとめて行きます。

そんな風に整理途上のものなのですが、それでもある程度役に立つレベルにはなったであろうこと、そして実際いろんな人に取り組んでもらってのフィードバックがないと、実際のところより分かりやすくするための検討材料が不足すること、あとは僕自身の人生設計といった点から、現在の、ほぼ宣伝なしながら完全公開形式にしている次第です。

その結果現在のところこのサイトを訪れる人は、かなり熱心にネット上で情報を探した結果たどり着いたような少数の方に限られていますが、そうした方々の声があってこそこれまでの著作活動も支えられており、僕の方でも大きく感謝している次第^^。

>私が怒りでもって長年押さえつけていたものの下に埋もれていたのは、「恐怖」であることが見えてきました。いまその恐怖をまな板にのせて、どう料理しようか格闘中です(笑)

恐怖の克服については、2つの一般論が言えますね。

ひとつは、恐怖感情についてあまり直接的な取り組み方法はないということです。心理障害傾向の中で起きる恐怖感情は、起きる時から克服解消される時まで、結局何が原因なのか分からないままというのが、僕の体験上は実感でした。結局心の底の葛藤や自己嫌悪感情への取り組み一般の進行に応じて、恐怖症的感情は減っていったという実感。

もうひとつは、それでも最期には「悪感情への耐性」という単純なことが決定的に重要になるということです。感情の膿というメカニズムにおいては、何が原因で恐怖があるのかではなく、先に恐怖感情があって、それが現実を捉えるという形になります。「恐ろしい。これは現実に大変なことが起きるということだ」という、「感情による決め付け」思考にまず抗戦する
そして結局のところ、我々は恐怖感情を恐れているのだということを認識しておくといいですね。つまり現実に自分にとって危険で不利なことが起きているという評価を客観的にして、それを恐れるのではなく、どう判断してかはともかく湧き起こった恐怖感情こそを恐れているということです。
物事の良し悪しを感情に頼らずに判断する、客観科学的な姿勢が重要になると思います。

「入門 健康な心への道」の「4.5 閉ざされた恐怖」の終わりの方で、多少そんな話を書いていますね。
ちょっと今読むと禅問答のような表現を感じますが。あはは^^;

No.705 2005/08/22(Mon) 00:29

純粋培養無菌の人生.. / しまの

ダイジェストの作業に戻る前に、最近の新聞から書いておきたいと思っていたネタを2つ。
一つ目は、この12日に20年を経た日航ジャンボ機墜落事故のその後の話。

奇跡の生還を果たした4人の女性がいたとのことですが、「今も堅く口を閉ざす」との記事。
20年間、癒えることのない心の傷を抱えながら歩んできた4人。新たな命をはぐくむなど、それぞれの人生を歩んでいる。
当時12才だったひとりは、事故の記憶に苦しんだ日々を経て結婚。同乗した両親と妹を失う。母親代わりになった伯母の言葉、「見た目には元気そうでも事故で受けた心の傷は深かった」。結婚相手とは、ドルフィン・セラピーを学ぼうと渡米した際に知り合った。「私にもやっと家族ができた」。事故後初めて口にした、幸せをかみしめる言葉だった。
夫と子供2人を亡くした現在55才の女性、「20年たっても何も変わりません。お話しすることはありません」。
日航添乗員で乗客として乗っていた現在44才。事故後母親になった。近くにすむ父親は「そっとしておいてほしい」とだけ語った。

彼女達の人生について僕が何か意見するように聞こえるのが憚られるところですが(実際そっとしてやりたいという心境ですが、鮮明な例として触れたい感を押さええず..)、
そこに「時間が止まった人生」という感をどうしても感じざるを得ませんでした。
そしてそれがひとつの生き方として選択されたものだという感も。

「起きてはならないことが起きた」、あとの人生はそこで時間が止まり、心の傷が「大切に守られていく」という表現さえ浮かぶような雰囲気を何か感じた次第です。
何か浮かんでくる、「人生はこうあるべきだ」と予定された枠の中を過ごすことを善しとし、それにそぐわない出来事に出会うことを「心の傷」として、時間を止めた過去に向いて生きる人々..という感覚。
何か、人生というものが純粋培養無菌の製作物としてイメージされている人々という感覚。
これは今度取り上げる自己操縦心性の源流にある特有な人生感覚に関連してきます。

そしてハイブリッドが取る「サバイバル世界観」は、それとは逆の世界観を選ぼうとするものです。とにかく記事を読んだ感想を言うなら、「僕は違う生き方を選んでいる」が実感。。

実際僕がそんな身になれば..と想像したら、逆にその体験を活かしてひとかど上げることを目論むなぁ..とあくまでその方達について何かを言うものではなく、僕の思考法の例として読み流してもらえれば。
ま実際のところ自衛をモットーにする僕としては飛行機には乗らないという原則をまだしばらく守るつもりですが。。

No.700 2005/08/20(Sat) 16:22

愛を目指す姿勢-5(End) / しまの

別の方への返答メール文で、現実的ではないと思えるほどの愛への感情が実際のところ湧き上がってくる、そんな自分の心に対してどんな姿勢で臨めばいいのか、ざっと書いたものです。

今まで紹介した文と多少だぶる所もあるかと思いますが、最終的にどんな姿勢が望ましいのか、まとめになるでしょう。
特に終わりに書く、「行動はとどめたとして心の中では思いっきり開放する」というのが、最期の結論とも言えるものになると思います。

逆の見方をするならば、「どう行動できるか」をめぐる問題、つまり自己像や他者像、自信とか意志とか責任とか価値観と言った問題、それらに結びついて、感情を「自分の中で禁止する」か「許可する」かといった「感情の検閲」とでもいう動きが起きた時、人は自分自身を見失う、そして自分を偽るという病理への芽が生まれると言えます。

治癒は、そこで起きたことを逆方向にほぐしていくことになります。
そして愛への願いを現実行動とは別のこととして、心の中で開放する過程になるでしょう。これはダイジェス全体を貫くテーマでもあります。
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■心の成長を目指す

愛をめぐる感情がいろいろ湧き出るようになると、そこにはかなり辛いものがあったり、逆に生きる輝きを知るようなこともあると思います。

それに対処するにあたり、何を目標に自分の感情に対処するのかということを、見定めておくのが大切です。
それは、心の成長を目指すということですね。

愛をめぐる辛さは、「成長の痛み」として位置付けられるものがかなり多くあります。
それを受け入れることが、心の成長のために決定的に重要なものがあります。

したがって、まずは「この感情をどう分析したらいいか」という感じより、「この感情に対してどんな姿勢を持つことで自分は成長できるのか」という感じで取り組むのがお勧めです。


■愛の感情を鵜呑みにすることなく愛に向かう

でその心の成長のための姿勢として、大枠の方向性はこれになります。
愛の感情を全て鵜呑みにすることなく、それでも積極的に愛に向かう、という姿勢です。

これは、「愛への願い」が、人間の心の成長の種だからです。

一方、愛情への欲求はさまざまな問題の埋め合わせを求める要求としても起きます。
この結果、心の中のさまざまな問題が一緒に表面化して、何かとうまく行かないことが多くなります。

このため、純粋な「愛への願い」は否定することなく心の中で認める一方で、
何かの埋め合わせとして求められた愛が得られない痛みを、同時に受け入れるということが、心の成長にとってとても重要な姿勢になってきます。

愛を願い、それが叶わないものでるある時、なぜ叶わないのかを知る体験が、まさに心の成長の時間そのものになります。

愛情をめぐって辛い状態にある時は、まず、このような「成長への試練」に自分が来ているという心構えがいいですね。


■建設的であることという目標

そして「愛の感情を鵜呑みにすることなく愛に向かう」という時、
どのように向かえばいいのか、どんな行動は後押しし、どんな行動は避けるべきか。

この指針は「建設的であること」です。
建設的対人行動法です。共通利益共通目標のみに着目する行動法です。
同じ目標や同じ楽しみがあれば、それに積極的に着目した行動。
対立や相違があるときは、それをことさらに取り上げません。対立や相違を解消しようとさえしない。解消したければ、対立や相違の中にもある一片の共通利益共通目標に着目します。
対立や相違が大きければ、ただ離れます。


■建設的でない感情の分析把握

外面行動はそのように建設的なものだけにすることを心がける。
すると建設的ではない感情が、浮き上がってきます。
それを分析理解します。


■行き場のない愛への願い

以上が、愛の感情に関する基本的対処の姿勢です。
実際のところ、分析の問題も沢山出てきますが、それ以前に、「満たされぬ愛の願いの痛み」を「看取る」姿勢が目標になります。

分析するとしても、安直に楽になるような思考法を探るのではなく、「受け入れられる痛み」を探るために分析するという心構えがいいと思います。
「受け入れられない痛み」はどこから来るのか。それを知った時、それは「受け入れられる痛み」へと、つまり「成長の痛み」へと変わるわけです。


>愛している、愛している、と、強い焦燥感とともにわき起こるその感情はどういうものなのでしょうか?
>愛していると思いながら、その対象との関係は閉ざされているようで、この感情のほとばしりには苦痛を感じます。行き場のないような感情です。

これはその感情が何なのか、僕の推測を安直にお伝えするよりも、愛についての勉強をして頂くのがいいと思います。
その全体観の中で、今の自分の感情はどんな位置付けにあるのか、と考えて頂くのがいいですね。

いろんな所でその話を散発的に(^^;)書いていますが、とりあえず以下が結構まとまった解説ですので読んで頂ければ。
http://tspsycho.k-server.org/guide/g02-02-02.html


■大切なのは愛を認めることであり行き場は必ずしも必要ではない

「愛の苦しみ」への対処については、ひとつ、広きに渡りこれが答えになるという話がありますのでお伝えしておきましょう。

7/12「望みのメカニズム-7:望みの停止のメカニズム 」で、
苦しみは、欲求を感じながらも、自分の中で「形」を取ることを停止した状態で起きるということを書きました。
これはつまり、願望が湧き出していながら、それを自分は望んではいけない、という感情が衝突した状態です。

どのような原因でこれが起きるかが、分析で探りたいところです。

そしてその原因が何であろうと、これからどうするかの答えは、現実の相手に対してそれが実現することは期待しなくとも、自分の心の中では思いっきり愛の感情を開放することだと思います。
それを、「こんな感情は抱いてはいけない」という観念があったことから、「形を取り得ない望み」という苦しみが起きるわけです。

どんな不相応でも、どんな一人よがりだろうと、愛を求める感情を抱く自分を許すことが、かならず答えの中に含まれると思います。
現実の相手に対する行動は、建設的行動を守る。それによって自分の中の感情は、それを相手にまで行動化するか否かに関わらず、守ることができます。

No.699 2005/08/20(Sat) 15:24

愛を目指す姿勢-4 / しまの

紹介した返答メール文の続きですが、「心を開く」という観念に関連したコメント部分です。

この「心を開く」というイメージも、障害傾向人格の発達において特異な役割を果たしている心理要素だと思います。
残存愛情要求の中で、おそらく個人は例外なく、「心を開いてつながり合う」イメージを何か燦然と輝くようなものとしてイメージし、それが自分のなりたい姿であり、人はそうゆうものでなければという価値観のようなものを抱く。

一方で、人と打ち解け和む姿が、和を演じる、和を強制する、そして和を誇示するという皮相な色彩を帯びた時、それに対する激しい嫌悪と敵意的抵抗がしばしば起き、離反感情を生み出す大きな原因となります。

こうした心理に関連する、日本文化に特有な現象がありますね。和が道徳化する。
「心を開かなきゃ」「和みなさいよ」「バカになれなきゃ駄目ね」うんぬん。

心理メカニズム的には、そこでの「心を開いてつながる」イメージの大元は、残存愛情要求における純粋な愛情欲求であることは多分間違いないでしょう。ですから、建設的な大人の集団で良い人間関係を築くための現実的指針からは、ちょっとズレていることがある。
さらにそれが「幸福な人間像」として「勝利」というベクトルを含んだ時、錯綜した心理を裏に隠した「良識」となる。
対人恐怖症の生まれる温床とも言える文化環境になります。
何言ってるのか説明始めると膨大になる話をさらっと雑感的に書きましたが(^^;)、基本的にはあとで解説する自己操縦心性のメカニズムの上に乗りますので。

それが日本人社会の現実でもあります。流されず、無駄な軋轢もないよう、うまく付き合うのがいいですね。
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■愛にオープンになるかどうか

「be open to love」とは、まさに「言うは易し」な言葉ですね。

「being open to love」であれば、齟齬を生まない言葉です。
それは気持ちが相手に向かえている状態です。
それを「be」という命令語でいうとは、何とも酷な言葉であることもあるでしょう。

愛にオープンではあれない状態というものがあります。
それは、気持ちが自分の内面に向かう時と、そして失われた愛を痛む時間です。
その時、我々はbeing open to loveではあり得なくなります。

その必要性が少ない時であれば、我々は気持ちを切り替えて、愛にオープンである努力をすることもできます。
しかし、自分の内面に向かい、失った愛の痛みを看取ることがとても大切な時が、失ったものを回復するこの歩みの途上にはとても多くあります。
その時さえ、相手が「be open to love」という時、どっちを取るかという選択になってしまうかも知れませんね。

ただまあ、世の人は大抵そんな心の深みなど知りません。
「be open to love」ということが常に善意である形で、そう言うものです。むげに反発姿勢を見せたりはせずに、適当に努力する姿勢だけ見せればいいと思います。
そして自分の内面は、まず自分自身に対して素直であること、そして自分の心の成長という観点でどうするのがいいかを、自分で判断することです。

No.698 2005/08/20(Sat) 14:57

愛を目指す姿勢-1 / しまの

「残存愛情要求とは何か」シリーズで、そのメカニズムを一通り解説しましたが、関連した話題として、恋愛や愛情欲求の感情への姿勢について返答メールで書いたものがありますので紹介しときます。
今までがメカニズムの話なら、今度はノウハウの話になります。

なおこれは「残存愛情要求への対処」というテーマで書いたものではありません。正式に(?)それを書くならもう少し分析的に考える必要があると思います。まず純粋な愛情欲求愛により自尊心を得る心理状態、そして一体化幻想という3つの考察が必要になります。
また、最終的な解決は、感情の膿や自己操縦心性の克服と一緒になってきます。そこでは現実覚醒レベルの低下の問題とか難しい話が絡んできますので、自己操縦心性の解説の後に改めて考えるのが良いと思います。

ここではそういった難しい問題は置いといて、愛の感情について自分をどう導くのがいいかという、ハイブリッドのお勧めするノウハウを話ます。

残存愛情要求の最終的克服でも言えることでですが、「愛する能力」を育てるような「心の成長」を目指す時重要なのは、感情では答えが見えないということです。今の感情の中で、どれが愛か、どうすればいいかと考えても答えは出ない。
心の成長によって未知の感情が現れるという心理学の観点から、自分を導く必要があります。

同等に大切なのは、愛の種類を学ぶことですね。残存愛情要求の中で、人は例外なく愛について誤った観念や姿勢を持ちます。
一体化の愛と普遍的愛の違い。一体化の愛の限定性。健全な心理発達におけるその変遷など。

以下多少補足なども入れながら返答メールより掲載。
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■心の成長の3つの道程

>こころも、その使い方ひとつで、
>それまでの自分の苦しみの、もしかするとすべてが、
>消えてしまうのかもしれないと思った時間でした。

まさにそうですね。「心の使い方」です。
まあそれだけで全てというわけには行かず、ハイブリッドでは3つの道程を考えています。
「心の使い方」「心の成長」「心の開墾」。

「心の使い方」はその時その時に意識して行うことです。
「心の成長」はそれを継続的に行うことで、心が土台からよりしっかりしたものへと変化することです。これは意識して行うものではなく、自然治癒力と自然成長力によるもの。

「心の開墾」はかなり特殊なものですね。「心の使い方」と「心の成長」だけではまだ壁があるものを、さらに突破して、根本的に自己の本性を開放すること。
今回のご相談テーマの恋愛などは、これを導く最たるものになります。
「心の手術」という、ちょっと辛い面を含むこともありますけどね。
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これは話の前段です。
そのうちまとめようと思いますが、ハイブリッドでの心の治癒成長は、大きく3種類の段階になります。

いろいろと言葉を考えているのですが、「曲がった骨」という例えがそのまま最も分かりやすいと思っています。
まずは、間違った姿勢をやめ、骨がそれ以上曲がるのを止める。これは自己受容や癒し心の使い方という言葉が当てはまるでしょう。
次に、既に曲がった骨から発生する痛みをやわらげることです。これは抑圧の解除であり、抑圧解除による心の自然治癒力と自然成長力の回復効果が、時間をかけて現れるという過程です。感情分析の実践過程。
最期に、曲がった骨を根本的にまっすぐに治すという段階があります。これが心の手術的局面になります。スペースシャトルが大気圏突入という壁を通過したように、自己操縦心性の崩壊という特別な取り組みをする必要があります。
これについては次の「自己操縦心性の成り立ち」シリーズで解説の予定。

今回のノウハウシリーズは、その2段階目までに含まれます。
これは意識的に理解して、自分を導ける範囲の話です。

最期の段階は、「意識的に理解して」は通れない段階になります。「意識の破綻」という谷を通る必要があり、それを支える心の姿勢が大切になります。「悪感情への耐性」が重要になり、「サバイバル性善説」がそれを支える価値観になります。

つまり、以下の話を幾ら理解して実践しても、何かの壁が残ることを留意しておいてください。逆に言えば、それを感じて万事尽きたと絶望する必要は全くないということです。
その壁の越え方は、別途説明します。

No.694 2005/08/19(Fri) 11:51

 
つけたし / しまの

心の治癒成長の第2段階にはあと、建設的思考法行動方の実践と習熟というのがありますね。これも大きな話です。
これは障害の治癒そのものではなく、「現実を生きる能力」の基盤強化です。それがまた治癒過程を支え促すものになるでしょう。基礎体力の向上であり、体質改善というような話です。

No.697 2005/08/20(Sat) 12:27

愛を目指す姿勢-3 / しまの

以下、恋愛についての僕の考えをざーっと書いたもの。
感情メカニズム理論はいったん置いといて、僕自身の恋愛観をざっと書いたものみたいな感じもありますね。

僕の今の恋愛観をひと言で言うなら、「心の成長過程として大切なものであるが、成長した心にとってはあまり重大なものではない」というのが実感ですね。
別に恋愛が重大でななくなることが成長なのではむろんありません。
人間の心理発達過程に応じて、追求されるテーマは変遷していくということです。今僕が「成長した心にとって重大ではない」と書いたのは、恋愛の輝きが人生の特定時期において比類ないものであることは全然否定しない一方で、恋愛とは別の所で見出した人生の輝きの続く時間が、遥かに長いという実感を言っていることでもあります。

逆に見るならば、恋愛感情の中で人がしばしば人生の他の価値を全て凌駕するものを追い求める心理状態に陥る。それは一体何なのかというテーマが出てくるわけです。僕自身がそれを実際に「卒業」した人間として、追求し続けるものになると感じています。
多分そこにあるのは真実と偽者の混合物でしょう。そして人間が真実と偽者の混合物であり、完全な存在ではないことが最終的な真実だというのが、僕自身の体験的、そしてハイブリッドの理念的人間観なわけです。

そうした恋愛感情の複雑な内部メカの話は置いといて、実際のところ恋愛感情の中で迷う時、基本的指針として頭に入れてもらうと良いかと思う恋愛訓(?)など書いたものです。

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■愛が試練となる恋愛

問題は「共通目標共通利益」の中身になります。
仕事の場では、あまり心の深層に踏み入ったものはないので、結構単純明瞭です。ごく理性を働かせれば、建設的行動ができる。
恋愛や親子間では、「相手と一緒にいたい」「相手が好き」という愛の感情そのものが、その内容になってきます。それが互いに重なり、相手と心が一体になる。

ところが心が成長していないと、愛がしばしば自己の欠損を補うものとして求められるという深層メカニズムから、愛が渇望されるもののように意識の表面に現れてきてしまいます。
それはしばしば建設的な愛ではなく、依存や拘束という姿を取るようになり、渇望という性質とは裏腹に、否、渇望という性質が強ければ強いほど、壊れやすくなります。

だから恋愛の場では、愛がしばしば「試練」になるわけです。

心が未成長な段階で、愛が試練にさらされる場合、心はそのことを予期します。だから恐くなる。
人によっては、そこで愛から退きます。
でもそれでは心は成長しないままなんですね。


■愛の2面を同時に見る

かなり「複合的な姿勢」が重要になるでしょう。
未熟な愛の感情の裏にある「自己の重心の阻害」に向き合いながらも、そこに自分が本心から求めるものがあるのならば、そしてその可能性があるのならば、それに向かって進むことです。

なぜなら、愛が人間が本来求めたものであるからです。
そして最初に起きた心の損失とは、その愛という望みが停止されたことにあったからです。その結果自己の欠損と苦しみが生まれ、やがてそれを補うものとして自己の重心を欠いた愛への渇望が生まれる。
パラドックスですね。

ハイブリッドがハイブリッドたる最大のゆえん、「2面を同時に見る」という端的なひとつが、ここにあります。
そこに自己の重心を欠いた愛への渇望があることと、そこに自分が本来追い求めた何かがあることを、同時に見ることです。

これが同時に視野に入ることはかなり辛いことですが、それが「心の手術」ですね。
パラドックスがはじけ、思考が停止し、やがて未知なる感情が現れてくるでしょう。


■未熟な愛を受け入れて前に進む

「2面を同時に見る」というのは、難しい、一種の山場のような話ですが、
まずはとにかく、自分の未熟な愛を受け入れて前に進むということですね。

人間はどだい未熟です。未熟な愛であろうと、相手も似たものを求めているのなら、共通目標共通利益となる。
ただまあ、未熟な段階だとどうしても「自己嫌悪の共有」とかが刺激され、傷つけあうようなことになってしまいがち。前向きな方向がらどうしても外れるような場合は、離れるという理性も必要ですね。

ティーンの子の稚拙な恋愛を見守る大人という、2つの自分を同時に持つ感じがいいですね。


■愛を見出したければ愛だけを見るな

大人の目では、そもそも恋愛というものが人生においてどんな意味を持つのか、という長い目も持つのがいいでしょう。
人生という長い目で、生涯続く愛とはどんなものか。

それを考えると、「愛を見出したければ愛だけを見るな」とかいう言葉が浮かびますね。

相手を好きだという気持ちをどうやり取りするかが恋愛であるかのような風潮がありますが、僕はこれはあまり実の少ないものだと考えています。

別にそれを否定しようという訳ではありません。僕は純愛道徳などありませんので、極端なこと言えばセックスだけ目的にしようとするのであっても、互いが求めるものが一致するのであれば共通目標共通利益なわけです。
「建設的行動」に反するものではないと言ってもいい。本人同士の勝手。

しかし人間が本性として求めた愛とは何かというテーマがありますね。
人を一生愛し続けるとはどうゆことかというテーマでもあります。

愛は大きく2種類のものに大別できます。
相手そのものを愛する気持ちを交換する、一体化の愛。密結合の愛。相手を見つめ合う愛。
もうひとつは、一体化するのではなく相手を別個の存在として、見つめ合うのではなく、同じ方向を向いて歩むという愛です。相手の自由を認める愛。疎結合の愛

一体化の愛は、華々しく劇的であり、至高の悦楽を生み出すものでもあります。
しかしこれは基本的に限定的だと考えています。親子間でも恋人同士でも、ある時一体化が起きても、やがてそれは消える。
同時に一体化の愛は、自由を阻害します。これは健康な愛においてもです。


■永続する愛は自由を認める愛

ですから、一生愛し続けるということを考えた時、

>いまはうっとりするようなことを言っているけど、

というような、「一体化の感情」を基準に考えるのは無理があると考えています。
それはいつか消えるものです。
うっとりすることは消えた時にも残り続ける愛が、一生続く愛だと思いますね。それは相手の個別性を認め自由を認める、疎結合の愛の方だと思います。

自由を認める愛は、相手と見つめ合う感情に見入っては見出すことはできないと思います。
相手との感情だけではなく、人生全体を見る目の中で、その相手と共に歩もうとする気持ちとして見出すものだと思います。


■愛する意志

そうした自由を認める愛において初めて、「愛する意志」というものが意味を持つと考えています。

相手と見つめ合う、一体化の愛は、意志によるものというより、その感情の虜になってしまうという形を取ります。
またそれが消えてしまう時は、意志でそれを戻そうとしても、戻るものではありません。
意志には関わりなく湧き出て、意志には関わりなく消え去ってしまいます。

相手と共に歩むという愛は、意志により支えられます。

>いまはうっとりするようなことを言っているけど、
>そのうちどこかに行ってしまう。


相手がいつまでうっとりするようなことを言うかは、どだい限定品です。相手がどんなに情熱の永遠を語ったとしても、値引いて聞く方が賢明でしょう。

しかし相手が決して去る人ではないかどうかは、相手を見ればある程度分かります。なぜならそれは意志だからです。

まずこの2種類の愛の違いについて考えておくのがいいと思いますね。
まあそれで実際どんないい恋愛体験や相手の獲得ができるかについては、僕もあまり偉そうなことを言えるほど経験豊富ではありませんが。。

No.696 2005/08/20(Sat) 00:18

愛を目指す姿勢-2 / しまの

まず、対人関係の築き方の基本です。
これは恋愛であろうと友人関係であろうと親子関係であろうと、ハイブリッドで推奨する行動方はたった1種類です。「建設的対人行動」です。

答えは決まっています。問題はその具体的内容ですね。さまざまな広がりがあります。
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■求めることなく愛に近づく

さて恋愛の問題ですが、まず、ハイブリッドでは愛を目指すための指針を非常に明瞭に定めています。
ひと言でいえば、「求めることなく近づいていく」という方向性です。

良い対人関係は、建設的な行動法によって育てることができます。
建設的であることで、心が強く成長します。
心が強くなった時、愛は自然に生まれます。
これが、ハイブリッド心理学が定める、愛を目指す指針です。

答えは明瞭です。しかしそこに含まれることから、心理学が広がってきます。
建設的な行動法とは、共通目標共通利益のみに着目する行動法のことを言います。これができるためには、相手に依存することなく自分が何をしたいのかという、自己の確立が必要になります。また「のみに着目する」とは、相違や対立には惑わされないということです。怒ることなく対処する行動法の習得が必要になります。

また、「愛は自然に生まれる」という時、愛は意識して作り出すものではない、という理念があります。
「愛は技術ではない」。


■「愛することはどうゆうことか」を今知ることはできない

また、「愛は常に未知の感情として現れる」と考えています。
これは僕自身、実際の体験を通して初めて分かったことです。心が成長した後に現れた、「恐れることなく愛せる」感情は、心がまだ成長していない時、「愛を求め恐れる」心の中でどう想像したものとも、違う感情でした。実際、別の心になって生まれる感情を、今の心が想像して擬似体験することなど、あり得ないのです。

ですから、
>人を一生愛する、愛しつづける、愛そうと努力する、
>ということは、…どうなのでしょうか。
そういくら考えても、答えは出ないと思います。

どんな愛の感情が現れるかは分からない。現れるかどうかも分からない。
そうした未知を前にしても、揺らぐことなく自分を導ける指針というものが、大切だと思います。

それが、「建設的であること」です。共通目標共通利益のみに着目する行動法です。
これがあらゆる対人関係に一貫する指針です。仕事の場でも、恋人同士でも、親子の間でもです。
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補足するなら、「建設的対人行動」において「相違や対立には惑わされない」というのも結構深い含みがある話です。
なぜならこれは、最終的な「生きる価値」という話につながるからです。

「自己操縦心性の成り立ち」で、何が追い求められていくことで自己操縦心性という矛盾の塊ができるのかを解説しますが、それはまさに対立に目を向け、それを悪として破壊消滅させることを求める衝動の上に成り立ちます。
自己操縦心性の最終的克服には、生きる価値の根本的変換が必要になるという話が、やがて出てきます。

ここではそれには踏み込まず、恋愛感情についてのハイブリッド的理解のための一般論などを続けます。

No.695 2005/08/19(Fri) 12:21

次ダイジェスト一挙掲載予定 / しまの

ダイジェストの執筆優先の今日この頃ですが、今ちょっと一段落したので、このあとに「愛を目指す姿勢」という、メカ論からノウハウ講座へと気分転換ものの(?)解説を入れましょう。

なおダイジェストは順調に稿が進んでおり、今月末から来月初あたりを目標に、「前進と後退」「病んだ心の崩壊」「現実への帰還」という3つの章を一挙掲載しようと思います。
というのも、今回は途中だと沈痛な悲しみ気分を引きずる恐れがあり、一種の“浄化感”をもって読了感として頂きたいという狙いから、大学時代エピソードの完結までをまとめて仕上げようと思う次第です。

余計なお世話かもしれませんが(^^;)読むことにどっぷりはまって仕事とかに差し支えることのないよう、土曜の早め時間にUpして週末に読んでもらおうかと思います。となると9/3(土)あたりがとりあえずの目標かな。
それが終わればようやく出版本原稿整理に入ると思いますが、やっぱ時間かかるなー。ふぅ〜。

No.693 2005/08/19(Fri) 11:26

「憎しみ〜技術」難しいです。。 / クミータ

しまのさん、こんにちは。「憎しみを捨てる技術」、難しくて分かりません。。。とほほ。私が今まで理解できた「しまの理論」からいうと、「憎しみを晴らすこと」は他人を通して生きることだから、自己の重心がなく、選択しない方がいいことなのでは?と思ったのですが、こちらの切り口はいかがでしょう。ただ、それを一つ理解した、と思う反面、それなら、他人とはどうやって関わっていけばいいのだろう?という疑問が出てきます。お互いの利益に基づいた建設的な関係?うーん、それなら、用がなければ友達に電話もしないことになっちゃうのかな。。。頭でっかちで、ギクシャクしてるから、私って友達少ないのかも。。。 今はそれでいいのですが、将来的にもっとリラックスして交友関係も広げられるような心の成長ができればな、と思います。

No.690 2005/08/18(Thu) 06:42

 
Re: 「憎しみ〜技術」難しいです。。 / しまの

確かに、ハイブリッドで取り組もうという意識のある方へのアドバイスというより、自分自身に取り組む意欲さえ阻害される状況についての話ということで、ちょっと「プロ向け」の話のような感じですね。

一般的なアドバイスの面に戻しますと、幾つかの事柄がハイブリッドの取り組みそのものの基本理念の話になってきますので、ちょっと整理してみました。ご参考あれ。
レスとしては超長いですが^^;


■感情の多面的源流

他人への憎しみは、「他者によって望むことができる」という、自己の重心を欠いた姿勢の中で、望みの停止が拡大することで起きます。「自己の重心を欠いた望みの停止のメカニズム」によって起きると表現できるでしょう。
これは現実にその人が受けた被害には釣り合わない、憎しみの膨張のメカニズムです。

一方、こうした心の問題があるところでは、現実的な迫害体験が多少とも起きています。それに対する根源的な憎しみは、かならずしも「現実に不釣合い」ではありません。
「深い悲しみを踏みにじった皮相」への憎しみも、別に非現実的なものではないし、人間の心のひとつの真実の現われでさえあると考えています。
また、そうした「根源的な憎しみ」は、「自己の重心を欠いた姿勢」でもありません。まさに「自己の重心」を守ることにおいて抱く憎しみとでも言えるでしょう。

ひとつの感情に、こうした全く別の仕組みによる源流が合わさってきます。
感情分析とは、そうした源流そのものを感じわけることです。

感じ分け、その意味を考えていくことで、心の底で化学反応のような変化が起きます。それが心の治癒成長を促します。
感情メカニズム理論とは、そうして感じ分けると役に立つことを、言語化したものです。

感情のひとつの源流を感じ取って、その感情を放棄できたとしても、感じ取られていない別の源流がある時、その感情は残ります。
その時、なぜ自分が今だにその感情を持つのか、疑問感が起きるでしょう。そうして感情分析が繰り返されていくわけです。

一度の感情分析で、複数の源流を感じ取ることは、まずできません。一度にひとつだけです。
そうした「感情の源流」が、人間には何十とあるわけです。
ですから時間がかかります。そもそも、算数ドリルのように、全体を一通り押さえて、理解して、「これで分かった」というようなものとは、根本的に違うわけです。

■感情の選択?思考法の選択?

>「憎しみを晴らすこと」は他人を通して生きることだから、自己の重心がなく、選択しない方がいいこと..

これは何かがあべこべになっているような表現ですね。単に文章表現の問題ならいのですが、実は非常に重要な話ですので説明しましょう。

1)憎しみを捨てるのは、それが心の成長を止める感情だからです。人を幸福から遠ざけるからです。

2)自己の重心を欠いているから選択しない方がいいのは、憎しみを「相手のせいだ」と感じ解釈することです。感じ取り方であり、思考法ですね。
自分の抱く憎しみを、「自らによる望みの停止」と「相手を通して望む」姿勢の結果として理解することを「選択」する。
これによって、憎しみは相手に引き起こされた受身的な運命ではなく、自分がこれからどう生きるかという「選択」の俎上に乗ることになります。

3)憎しみを捨てるという実際の「選択」は、思考法の選択でだけでは恐らくできないでしょう。もちろん「他人を通して生きることだから選択しない方がいい」と考えるだけでは、多分足りないと思います。
憎しみという「感情」の選択を問うならば、憎しみとは対極の別の「感情」が視界に見える必要があります。「感情」と「思考」を並べても、それは選択にはなりません。

■憎しみとの「選択」になる「感情」とは

「それがです」などと言うと実に分かったような気分になるかも知れませんね。アハハ。
「愛」じゃないと思いますね。愛が湧き出るのはもっとずっと後。

強いて言えば「未知」への感情という感じですね。前にも書きましたが、結局「それを知り、何もしない」です。そのためには「未知を信じる」という姿勢がとても重要になります。

これはハイブリッドで良く言っている、「心の成長への心理学的視点」とかと関わってきます。

我々は何を目指すのか。意識して目標にすることができるのは何か。
結果として期待できるが、意識するのはあまり役に立たないのは何か。これが結構重要です。なぜならこれを意識して目指すものとした時に、逆にそこから遠ざかるという心のメカニズムがあるからです。これが今後解説予定の自己操縦心性に関わってきます。


■ハブリッドが意識して目標にするもの

>将来的にもっとリラックスして交友関係も広げられるような心の成長

これはかなり「条件付き」の「心の成長」ですねえ。アハハ。
まあ、「心の成長」とは何か。どうイメージできるかが結構重要になると思います。ハイブリッドでそれをどう考えているか。それに同意できれば、ハイブリッドの実践へのあと押しになるでしょうし、そうでなけではハイブリッドとは別の答えの方が合ってるかも、という話になってきます。

ハイブリッドが目指すのは、最近より平易な表現を考えているのですが、心の強さと豊かさです。
それに比べると、「広い交友関係」は本人の趣味嗜好の問題のような。ちなみに僕は今かつてない精神的安定状態を感じていますが、「交友」に使う時間は、まあ最初の出版目指して専念という時期の特殊性もありますが、極端に減少しています。まいつもでも家で執筆だけの生活パターンを続ける気もありませんが。

心の強さとは、内面に矛盾を抱えないことから生まれると考えています。命のほとばしりをストレートに現実世界へと向けられる状態。
そして心の豊かさとは、そうやって現実を生きるという体験の蓄積として生まれると考えています。

そのために、自分の心に枠をはめずに、感情が流れるのを開放することからです。それを知る、感情分析の歩みが始まります。
自己理解があり、思考法の選択があり、価値観の変革がある。

こんな方向感でもって、取り組んでもらえればと。

No.691 2005/08/18(Thu) 17:29

 
Re: 「憎しみ〜技術」難しいです。。 / クミータ

レス、ありがとうございます。私も「心の強さと豊かさ」、欲しいです。というのは、自分の気持ちでありながら自分の気持ちが分からないようなところや、恐れや不安の気持ちに流されるようなところがあるからです。まず私に必要なのは感情分析のようですね。。。

No.692 2005/08/18(Thu) 18:39

「憎しみを捨てる技術」よもやま話 / しまの

ワンポイント考察もの。
ハイブリッドが説明する「心の成長」の大枠、つまり心の治癒メカニズムの基本に、怒りや憎悪を捨てるというのがあります。
怒りの中では心の自然治癒力や自然成長力が働かず、心身の低機能化麻酔状態にあるからです。

ひとつ考えられる問題は、「憎しみを捨てよ」という言葉が単なる奇麗事にしか聞こえないほど、あまりに憎しみの衝動が大きい場合にどう対処するかということです。

そもそも、「憎しみを捨てるという選択」というからには、憎しみを晴らすことと並べて選択肢に見えるような、他の「価値」が見えてこそ、そう言えます。
ところが、憎しみを晴らすことの価値の方があまりに確実、大きなものに見えて、他のものが見えなくなる状態というのが、あるものです。

実際のところ、取り組んでいる心が「生きる喜び」を見失った心である限り、これは程度の差はあれ一般的に起こり得る問題だと思われます。
憎しみを晴らす以外の、自分の生きる道が見えれば、それを「選択」ということもあることになりますが、それも見えないところで憎しみを捨てようとすることは、一種のごまかしに見える。
確かにそうだと思います。感情をごまかしたり、無理に消そうとすることは、お勧めではありません。

こについては、3つほど話をしようと思います。

まず一般論として、良く言われる方法ですが、憎しみを晴らそうとする感情を無理に捨てるのではなく、憎しみを晴らす方法の「内容」を変えるということです。
良く聞く言葉に、「最大の復讐は自分が幸福になることである」というのがあります。だから憎む人間のことはもう相手にするな。

まあ憎しみの感情の中で「幸福になって復讐してやる」と考えても、その復讐心が幸福を阻みますので、一種の自己矛盾ではありますが、これは正しい方法のひとつです
なぜなら、その時点での感情は実際幸福を阻む感情ではあっても、本人の思考方法や生活態度は、それを脱却する方向に向く可能性が生まれるからです。

ただし、その後の思考方法が問題になります。ハイブリッドから言うなら、心の成長についての正しい心理学を知り、それを実践することです。
そうした具体的方法論なしに、ただ外側から見た「幸福になった自分の姿」を描いただけでは、いつか絶望に逆戻りになりかねません。

2番目。
憎しみを晴らすことがあまりに他の誘因を凌駕してしまい、他のことが見えなくなる状態があります。
これはある典型的状況で起きるという心理学を知っておくのがいいでしょう。

それは、深くかつ広範囲に、望みの停止が起きている状態です。


例として僕自身の話をしますと、小説オリジナルには「憎しみの哲学」という章があります。ダイジェストでは「抑圧された感情の解放」の中の「残された抑圧の解放」という節に該当します。
昨日ちょっと読み返してみたところ、「どうせ自分は嫌われるのだ」と、「あの下級生の子」にさえ憎しみの感情が起きていたことが書かれており、ダイジェスト最新の「心の罠の中へ」あたりとはもう別人の感がありました。あまりにも広範囲に憎しみの感情が蔓延していたわけです。
そして「若い女性を憎むことにこれからの人生の目標をおこうか」という思考にさえ至る。
これがどんな状況で起きていたのかを考察した次第。

それは僕が人生で最も地味でダサい服装をしていた時期であり、あまりに広範囲で毒々しい自己嫌悪感情のために、他人に対する攻撃的優越衝動さえも抑圧していた時期でした。
心の中には、他人への軽蔑心や攻撃感情が煮え盛っているのですが、敗北感が優勢なこの人間は、人に受け入れられようとする絶望的衝動に捉われています。

そこで起きていた、一種典型的思考とも言えるのが、「相手を尊重する」です。その時僕は一生懸命そう考えていた。
それは一体何のことを言っているのか。相手を「信頼」しようとする思考でもあったでしょう。しかしそう「信頼」して期待するのは、この人間があえぐ自己軽蔑衝動を中和してくれるような、特別に思いやりの満ちた、また純真な子供のように愛情欲求に満ちた、天使のような「善の心」なわけです。

現実世界の大人は違います。
実際、その時の僕の姿は、堅いオタクのような表情に格好だけ当時の流行を真似たのが見え見えの、今の僕から見ても吹き出したくなるような姿だったのではと。で当時の六大学写真部の腕章を付け任務を果たすべく、頭痛がするような感覚の中、全身の勇気を振り絞りながら、六本木のナウい(^^;)女の子2人連れに声を掛け無視され、少し間をおいて聞こえてきた「きゃはは」という笑い声に、道路にへたりこんで脱落。
などどいうことがありました。そして体の中から煮えたぎってくる憎しみの感情の中、「若い女性を憎むことにこれからの人生の目標をおこうか」と考える。

ポイントは、深く広範囲な望みの停止状態が起きていることです。そしてその事実全体が抑圧された状態で、「人を尊重する信頼する」という思考が起きていることです。
そしてその「信頼」が裏切られたという思考の中で、憎悪が爆発噴火するという、一種の典型メカニズムがあります。

このさらに細かいメカニズムを、自己操縦心性の解説でできるかも知れません。

これに対する対処は、とにかく抑圧の解放だと思います。
自分で普段考え感じていることは何なのか。多分、「この世は万人の万人に対する戦いである」という、攻撃哲学があるでしょう。それを正面から考えてみることが必要です。

3番目の話はその続きです。
もし、攻撃性が人間の本性であり、愛などは弱さのごまかしでしかない、と感じるとしたら、「憎しみを晴らす力」が人生において確実な価値に見えてきます。実質的に他の選択肢はなくなってきます。
これは心理学の観点からは、幼少期における屈辱体験が大きすぎるケースで起きます。復讐衝動が発達し、愛という選択肢はかすみます。
僕の場合は、心の損傷はかなりのものがあったと思いますが、それが小さかったので、憎しみは不完全であり他の選択肢が見えていた、という幸運があります。だから「憎しみを捨てる技術」を人に教わらなくても、宿命的に今の所まで導かれた。

同じ心的損傷であっても、全般的に屈辱体験が優勢な場合、「人間は攻撃的」という人間観、そして性悪説的人間観が生まれることが多く、その場合ハイブリッドが基盤とするような「本性の開放」という思想の上での「成長」は不利になると思います。愛情欲求が抑圧されたままで、本人はその状態をあまりに自然なものと思い込んでいる。
そして実際、その人が心理学素養を持つ人間ならば、ハブリッドのような解放論に意義を唱えます。僕はそうした人に何度も会ってきました。

それに対して、僕は気休めの言葉は言いません。そのままでは変化は多分起きない。
ただ、「人間観」が問われるということを言いたいと思います。なぜならこれは理性というか知性の問題であり、どう感じるかという感情の問題ではないからです。

今までの人間の歴史や事例をどう知っているのか。どうそれを考えるのか。純粋に知性の問題として問います。
そしてもし「頭ではそんな話も分かる」というのが少しでもある時、感情と思考の矛盾を突くというアプローチが開かれます。


そんな意味で、僕はやはり詫間守の事例を思い浮かべます。憎しみが価値となり、力となった人間の端的な例でしょう。
それでも「もういい。誰か止めてくれ」という思考が彼の中にはあったこと、そして最期に「ありがとう」と彼が言ったことが、憎しみは本性ではあり得ないという人間観を支持していると思います。
そんな意味で、僕は彼の命さえも尊重しています。

No.684 2005/08/11(Thu) 13:09

 
Re: 「憎しみを捨てる技術」よもやま話 / おやじ

おやじです お邪魔します。

2番目。
憎しみを晴らすことがあまりに他の誘因を凌駕してしまい、他のことが見えなくなる状態があります。
これはある典型的状況で起きるという心理学を知っておくのがいいでしょう。
それは、深くかつ広範囲に、望みの停止が起きている状態です。

私は望みの停止が起こっている状態にあります。
肉親に対して「お前達の所為で心理障害になった」という怒りはあります。
しかし恨みを晴らす感情は感じられません。
心が大きな復讐心に覆われているとそれを感じる事が出来ないのでしょうか?

No.685 2005/08/13(Sat) 02:47

 
Re: 「憎しみを捨てる技術」よもやま話 / しまの

どうも〜。

>しかし恨みを晴らす感情は感じられません。
>心が大きな復讐心に覆われているとそれを感じる事が出来ないのでしょうか?

「恨みを晴らす感情」と「復讐心」は同じものを言う言葉だと思いますので、ちょっと質問状況があやふやかも^^;

まあ、「恨みを晴らす感情」も「復讐心」も、怒りや憎しみが底にあって、さらに、相手を破壊しようとする積極的行動への衝動が起きていることを言います。
大抵の場合はそれは明瞭には抱かれないでしょう。なぜならその感情そのものへの自己非難や自己嫌悪により抑圧されるからです。
抑圧から漏れて意識されることがあるとしたら、ふとした空想の中で、もしくはの中で、相手への破壊行動として表現されるでしょう。

重要なのは、「お前達の所為で心理障害になった」という怒りのレベルで、それは「恨み」であり、それが積極的に恨みを晴らす衝動になるかどうかは、「恨みを晴らす方法」が実際のところあるかどうかの差に過ぎないことが多いということです。
「お前のせいで」という思考から「復讐心」まで、それがどんな行動を想像させるものであろうと、もうそれは連続したものです。
で実際そうした思考を抱くことにおいて、「望みの開放への道」など見えるわけもない状況なわけです。単純にエネルギーが回らないという感じ。

今回のカキコで「復讐心が大きすぎる場合」というのは、そうした恨み感情を何とか克服したいとさえ考えることができなくなるケースのことを言っています。
恨み感情は一般メカニズムです。不可避。克服への意志さえも消えるかどうかが、「量から質への変化」になってきます。
憎しみを克服しようという意志さえかすれてしまうような状況についての解説が、上に書いたものです。

それ以前の、恨み感情への取り組みそのものについては、一般論になります。「その感情を知り、何もしない」です。
「知る」という部分は感情分析になりますが、やはり難しいものですね。
糸口としては「心理障害になった」という部分で、それは自分のどんな状態のことを言っているのか、それがどのように不都合なのか、それをなくしてどうなりたいのか、そのために自分でどうしようとしているのか、等々を考え吟味することになります。

No.686 2005/08/13(Sat) 13:39

 
Re: 「憎しみを捨てる技術」よもやま話 / おやじ

おやじです。
アドヴァイスを戴き有難う御座いました。
憎しみを晴らす=復讐心の意味で使いました。

私の質問のポイントがぼけていました。
肉親に怒りを持っていると前レスで書きましたのは肉親に対する怒りや憎しみを捨てたつもりで本当はしっかり持っているような気がしたのです。

しまの心理研究室に通い始めてから自分でも理解出来ない自分の感情が分かり出してきました。ハイブリット療法を知ってから一番顕著な私の変化は実生活で「怒り」が激減したことです。

しかし肉親のことを思い出すと「怒り」や「恨み」の感情ではなくて、表現し難い感情になります。強いて言えば「思い出したくない」という感じです。
心理障害の大元は親子関係から始まっているのですからその辺りをハッキリした方が良いと思っていました。
しかし全ての自動感情に対する方法と同じく「その感情を知り何もしない」で良いのですね。
判り難いレスを付けてすみません。

Have a nice Bon Vacation!

No.688 2005/08/13(Sat) 15:14

 
Re: 「憎しみを捨てる技術」よもやま話 / しまの

>全ての自動感情に対する方法と同じく「その感情を知り何もしない」で良いのですね。

「全ての自動感情」への対処法が「その感情を知り何もしない」では、ないです。
破壊的衝動への対処法が、それです。

何かを目指す、何かを生み出そうとする感情については、それが破壊的衝動に根ざすのでない限り、積極的にそこに注目して、自分を後押しするのがいいですね。
というか、「何かを目指し生み出そうと」する感情に意識を当てて行動しないと、人生ですることは何もないような^^;

そこに自己操縦心性による偽りの目標や傲慢な自己理想化が含まれていようと、同じです。

だいいち、心が未成長なら、自己理想化による偽りを含んだ衝動しか湧かないんです。「選択」は、それを受け入れ、現実において一片の建設的要素があればそれに積極的に着目する価値観や行動法を取るか、それとも心が成長した後の、最初から現実的かつ建設的な衝動じゃないと駄目だと考え、未成長な自分の心を現実にぶつけることを避けるような価値観や行動法を取るかにあります。

後者が、望みの停止を生み出す価値観行動法です。

「“真の自己”などはない」と最近僕が言っているのも、そうゆうことです。
自己操縦心性に「汚染」(^^;)されない「真の自己」なんてものは、ありません。自らの自己操縦心性を受けいれ、現実において一片の建設要素があるならそれに着目して行動するかどうか。
前を向いて生きるかどうかという「選択」は、それだけです。

“真の自己”はまさに自己操縦心性が生み出した観念である。これは操縦心性の重要なメカのひとつとして、今後の解説に入れませう。

No.689 2005/08/16(Tue) 00:13

15日まで帰省 / しまの

お盆で〜す。

No.687 2005/08/13(Sat) 13:40

残存愛情要求とは何か-7(End):敵意憎悪へのターニング・ポイント / しまの

残存愛情要求についての当面の解説を締めたいと思いますが、ここでは、今までの流れを経てこれから何が起きるかについての、僕の関心事項を書いとくような感じにしようと思います。

それは、敵意憎悪と組み合わさった自滅衝動が強固なものになる本質的理由です。
いままでの流れを意識面からサマリーするとこんな感じです。

自分は幼少期に本来誰もが得られるはずの愛情を受けることなく、その深い悲しみを皮相な粗野に踏みにじられた。その皮相な粗野への憎悪感がある。ここには、こうした来歴を持つ人間こそ知る、「心の真実」があります。
一方、他者から愛されたり認められたりしないと、「軽蔑された」と感じてしまうため、他者への怒り敵意がいつも湧いてしまう。それは今の自分がいる大人世界において、他者の「愛情欲求の健康な薄さ」も「皮相で粗野な攻撃性」も区別がつかず、また自分自身が「親が幼児に向けるような絶対愛」を求めてしまうからでもあるが、結果、淡々とした他者の視線言動の前で、自分が攻撃され軽蔑されたと感じてしまう。
実際のところ、人が好きになれないし、こんな自分も好きになれない。

最後の一文は、このあとの自己操縦心性の発達も含めた結果の心理状態です。

この結果、端的な心理状態は、他者への敵意憎悪と結びついた自己嫌悪感情であり、自滅衝動です。みんな嫌い。こんな自分なんて。
実際のところ、今までの流れを理解したところで、上にサマリーしたような自分の状態を理解できるのみであり、自分がひとり相撲の状態であることを理解し、悪感情の現実感を多少減らすことはできても、抜ける道がどこにあるのか見えないんですね。

で言えるのは、抜ける道はあるということです。それが事実であり、僕自身が抜けたあとだからこうしたことを書いている。
ただしそれがどうすれば本人に見えるのかが、とても難しい。僕自身、最大の峠については自分でそれを見つけて脱出したのではなく、偶然や特定他者の存在に救われ、結果的にそこを通りぬけていたというところがあります。これはダイジェストで描写します。
であとからそうした体験を振り返り、自己操縦心性とかのメカニズムを考えるようになってからは、僕自身で抜け道はかなり明瞭に見えるようになりました。その後のこの3年間での人格変化は、それ以前の20年間にも匹敵すると思えるくらい、変化が早くなりました。

その抜け道とはどんなものであるのか、感覚的に理解できるようなものを、完全に組み立てられた理論として説明するのが、このあとの解説の狙いなわけです。

でまず最初に言いたいのは、その抜け道を通ることに比べれば、他者への敵意憎悪の中での自己嫌悪自滅衝動は、とっても甘い感情であるということです。
この「甘い」というのは、辛抱が足りないという外から見た意味でではなく、本人の体験において文字通り甘い誘惑性があるという意味でです。


実際のところ体験した身なので分かるのですが、自己嫌悪に浸ることは、その感情は実に苦い感情である一方で、何かそこに浸り切ること自体への甘い感情のようなものが伴っているんですね。

こう吟味していると何かが明瞭になってくると思うのですが(まさにこれが感情分析)、そこに浸りきるのを善しとせず、抜け道の方に向かうというのは、苦い感情に伴っていた甘い感情さえも捨てるということであり、体験的に言えば「意識が崩壊する」ような耐えがたい感情になる、というか「感情」と呼べる体裁さえ取っていないような、異常な精神状態を通過することを意味します。
自己操縦心性とは、そうなることを防いでいるわけです。それと引き換えに、上にサマリーしたような心理状態が維持されます。

ですから、心理障害の克服において、自己受容や生きる姿勢の修正である程度の平静化が得られたあと、さらに根本的に変化することを望むのであれば、自己操縦心性を超えた「心理的成長への視点」を持つことが大切になってきます。
それは今までの取り組みが主に「感情の改善」を目指して進むことが出来たのに対して、「今当面の感情改善」を求めていたら進むことができない領域になります。心理障害そのものが安定したものではないので、いずれ感情改善は下り坂になります。
「根本的変化を望むのであれば」などと言いましたが、実はそうでなくともこの視点を持たないと、行き詰まりになってしまう。

そうした「自己操縦心性を超えた成長への視点」を持って頂くための解説というのを念頭において、次は「自己操縦心性の成り立ち」なるシリーズを書こうと思います。
望みのメカニズムをベースに、残存愛情要求を経た情動の変形に、思春期以降の新たな心理発達課題を迎えて、一体何が起きるのか。
「自信」「人生」という課題のために、「望みの偽装」が起きてしまう。これが感情の膿を背景にした現実覚醒レベルの低下により、ほぼ完全におおい隠される。これは意識努力で解くことはできないものになる。しかしそれが解かれる「人生の体験」というものがある。そこに全ての世界を分ける選択肢が現れる。
選択肢を分けるものとして、「価値」がキーポイントとして現れます。「生きる価値」「価値の発見」「価値の創造」とは何か。


■内面への価値

そうした話へのつなぎとしての、残存愛情要求からの最後の帰結感情の話です。
それは純粋な内面への価値を見出す傾向です。
傾向」というのも微妙な用語ですが、ようは、そうした感情であり、そうした姿勢であり、またそうした能力を備えるようになるということです。
能力」という言葉も出しましたが、実際のところここには、健全な心理成長だけでは獲得されないある価値が獲得されるという考えを述べています。

それが純粋な内面世界であり、「皮相」をアンチテーゼとしてこの人間が心に抱く精神世界に向けられます。
実際のところ心の皮相の犠牲になった彼彼女だからこそ、皮相でない心の純粋の世界を強く意識し、願い、そこに自らの価値を見出すことができるわけです。
それを掲げて他者を糾弾攻撃することに、「力」という新たなベクトルが出現する。

ところがこの人間の心理発達は望みの停止の先にあり、情動が変形していく過程にある。情動の皮相化は免れないわけです。
何とも処理しようのない矛盾を抱えることになります。

自己操縦心性はこのような状況で、「発動」します。
そのメカニズムを次のシリーズにて。またメカニズムの全体が「高い理想」という価値に推進されていること、そしてこのメカニズムを抜ける道に何があるのか。それを支える、「高い理想」を超える価値ということなどについて説明していきます。

No.681 2005/08/08(Mon) 13:38

 
Re: 残存愛情要求とは何か-7(End):敵意憎悪へのターニング・ポイント / おやじ

おやじです こんにちは。

自己嫌悪に浸ることは、その感情は実に苦い感情である一方で、何かそこに浸り切ること自体への甘い感情のようなものが伴っているんですね。

慣れ親しんだ感情なので、そこに居ると落着く(?)と言うか安心(?)できると言うか
上手く言えませんが現実っぽく感じます。
逆に、感情と行動の分離を実行して物事(人間関係等)が円滑に(建設的に)運ばれると「あれ?」と言うか 「おっかなびっくり」の状態になります。
今までが否定的、自滅的状況が展開されていた為上手く行くと現実っぽく感じません。
今後、上手く行くことに慣れ親しんでいけば現実感を感じるのでしょうか?
それとも、上手くいったと勘違いしているのでしょうか?

No.682 2005/08/09(Tue) 04:48

 
Re: 残存愛情要求とは何か-7(End):敵意憎悪へのターニング・ポイント / しまの

おやじさん、どもですー。

「慣れ親しんだ感情」とは秀逸な表現ですね。アハハ。

>今までが否定的、自滅的状況が展開されていた為上手く行くと現実っぽく感じません。
>今後、上手く行くことに慣れ親しんでいけば現実感を感じるのでしょうか?
>それとも、上手くいったと勘違いしているのでしょうか?

結論から言えば、感情に依存しない行動法に馴れることで、内面の潜在的な力は確実に増します
一方、そのままでは主観的な「自信」には定着しません
この2面があります。

以下、今後の解説をサマリーするような感じになりますが、あまりに抽象的かも。詳しくはまた順次。

主観的な自信が定着しない理由は、底に「人格の偽装」が潜んでいるからです。
「人格の偽装」とは、操縦心性による「感情の偽装」という言葉を言っていますが、それが人格という塊のレベルで起きているものです。
人格の不整合、一貫性の欠如、そして瓦解というような問題があります。

これらの問題に意識が触れることは、自己嫌悪という悪感情とはもはや質が異なる、別カテゴリーの悪感情になります。「人格不全体験」とでも言えるでしょう。
操縦心性はそれを防いで「くれている」わけですが、自分を偽るという不安定な方法なので、表面的な安定が崩れやすいどころか、根本的自信へは根本的につながりません。

自己操縦心性は、人格不全体験を避けるために、自己嫌悪感情を生み出すと言ってもいいと思います。
実際、自己嫌悪感情はまだ「人間」の姿を取ります。人格不全体験は「人間ではない」様相を示すようになります。これを防ぐために自己嫌悪による自滅という方法を取ります。
それで多少の平穏化が得られるのですが、今度は自滅という手段そのもののマイナス要素により、精神的基盤が弱くなり、人格不全の問題が膨張し表面化してしまう。これが心理障害の重篤化プロセスです。

一方、これから解説するような操縦心性への対処、人格の根本変化では、この人格不全体験への直面が非常に重要になってきます。
人格不全に意識が触れることは、「人間ではない」悪感情の体験になりますが、そこに治癒作用があるというのが、ハイブリッドの考え方です。

今までの全ての精神医学や心理学が、このカテゴリーの悪感情を避けることを是としてきたわけですが、それに治癒があることを名言するのはハイブリッドが初めてではないかと思います。

自己操縦心性は、我々の意識を超えた偽装を行いますが、心の自然治癒力は自己操縦心性を超えた治癒力を持っています。それを活かす視点が必要です。そこに「価値」の問題がかかわってきます。価値の達成よりも価値の創造に重点を置く価値観とでも言えるかな。抽象的ですね。

郵政民営化は正しいが小泉首相のやり方は賛成できないと法案に反対するか、「やり方」には多少目をつぶっても「結果」を取るか、というような話に多少なってきます。
ここにも「人間としての選択」があります。ハイブリッドは後者を取ります。郵政民営化の話ではなく^^;

No.683 2005/08/09(Tue) 10:40

残存愛情要求とは何か-6:皮相な粗野への憎しみ / しまの

「愛を通しての自尊心の獲得」という幼児期心理発達課題の損失と同時に生じる、残存愛情要求という状態。

これまでの説明をまとめると、それは愛が得られないことで自尊心損傷反応(被軽蔑反応)が起きるという心理傾向によって、心理発達早期の強い愛情欲求という、残存愛情要求自体の純粋な側面が抑圧され、心の成長が止まる。一方で「自分は愛されない」という感情と敵意衝動が自己膨張するという流れが見られます。
一方、この個人は親から幼児に向けられるような「無限の愛」「宇宙の愛」こそを“本当の愛”と考える傾向があり、他人の心が自分を取り囲むという、病理性の芽となる一体化幻想の存在があります。

こうサマリーしただけで実に多彩な心理要素が起きていることになります。
さらにこの後の心理発達の流れにつながる、もう一群の帰結感情について説明します。
「この後」とは、自己操縦心性のことです。「あるべき人格」像が生まれる源流となる、「求め願うべき人間性」と「憎み破壊すべき人間性」という感覚の起源にかかわります。

そしてそこに一片の真実があるということを考える時、障害傾向人格にある人間が、あたかも自己の存在をかけるかのように他者への怒り憎悪を抱かざるを得ない理由のひとつを、我々は理解することができるように思います。
同時にこうして他者への怒り憎悪の起源をさかのぼった時、心底からそれを捨てるという選択への道がより明瞭に見えてくるでしょう。


1)悲しみを踏みにじる皮相への憎しみ

他者への怒りや敵意憎悪がなぜ膨張するのか。このメカニズムをサマリーすると、まず、怒りが起きる原因起きた怒りへの態度という2つの局面があります。

起きた怒りへの態度について先に説明しときますと、怒りを「晴らすべきもの」と考えるかどうかという問題と、怒りを抱く自分への自己嫌悪感情怒りの抑圧という問題、そして怒ることなく対処する行動法という智慧の有無、といった事柄があります。
そして怒りへの対処がうまくできないことは、それ自体が怒りを引き起こす原因となる、という自己循環があることが、まずこれらの感情が膨張しやすい理由のひとつでもあります。

そして怒りが起きる原因というのは、改めてこう整理したのも初めてですが、今までの説明では、たった2つなんですね。物理的危害を加えられた場合の怒りを除く、心理的な怒りの話です。

ひとつはプライド損傷反応です。被軽蔑反応とも言います。愛されることで自尊心を持てるという残存愛情要求や、思春期以降の発達課題としての「自信への要請」から発達するプライド欲求が源泉です。いずれにせよ、自尊心の維持を他者に依存する状況で、他者による尊敬や評価が得られないことや、軽蔑的態度を向けられることで、怒りが起きます。
もうひとつは、「他者を通して望める」という姿勢において、望みの停止が他者によりもたらされたと感じるために起きる怒りです。望みの停止により苦しみが生まれ、他者が苦しみを与えるものと位置付けられ、憎悪は苦しみを与え続けるものへの破壊感情というメカから起きます。

残存愛情要求において生まれると思われる、別種の怒りを加えたいと思います。

それは、愛を求める純粋な感情が妨げられたことによる、深い悲しみの感情を「理解しない」他者の皮相さへの怒りです。
この怒りにおいて、上記の2種類の怒りとは少し様相が異なってきます。
上記の2種類の怒りは、なんらかの見方において、利己的な性質があります。自分のプライドや自分の望みをめぐっての怒り。
この「無理解への怒り」では、自分個人の利益をめぐる怒りというより、何か神聖なものを守るという感覚を帯びてきます。


そしてそこには真実が含まれていると思われます。
なぜなら、この個人が心の問題を持つようになった大元の由来は、深層欲求を阻害された者の皮相があったからです。
この過程にいる個人の心は、これを感じ取っていると思われます。そして全ての問題の始まりである「心の皮相さ」への憎しみを抱く。

深い悲しみを踏みにじった皮相への憎しみ。そこには「真実」という感覚が伴っています。
「真実への欲求」という強力な欲求が人間にはあるということを、幼児期のレベルから考慮する必要があると考えています。
その結果、この憎しみは捨て去ることが極めて困難なものとして抱かれると思われます。

2)他人が粗野だという感覚

深い悲しみを踏みにじった他者という怒りが、この個人の成育過程においてはひとつの真実でもあり得たとしても、その後の成長過程において、この憎しみが現実から乖離していく不可避的な理由があります。
それがまさに、残存愛情要求における純粋な愛情要求の残存と、健康な心理発達におけるその低減というギャップです。

残存愛情要求においては、幼児期の旺盛な愛情欲求が、その純粋な感情そのものは大抵抑圧されるとしても、「望ましい人間が持つ愛情」の基準像を描き出すと思われます。
しかし、健康な心理発達を経た大人の愛情欲求は、恐らく確実に言えそうなこととして、かなり低減します。残存愛情要求が描く「望ましい人間像」のような姿じゃなくなる。

感覚的表現をするなら、小さな子供はその旺盛な愛情欲求により、目に映るもの全てに感情移入し、同情心を持ちます。小さな蟻から空の太陽まで、同じ感情を持った存在のように感じ、同じ喜びや悲しみを持つ仲間のように見ようとする。
目の前に辛い人がいると、何とかしてあげたくてしょうがなくなる。

心の健康な大人はそうではない。これは多少語弊を感じさせる表現でもあるでしょう。「辛い人がいたら助けましょう」という道徳があります。
はっきり言って、これは僕自身が、自分の心が健康になったと感じると共に得たさまざまな感覚から言っていることであり、体験的仮説とも言えるものです。
僕はそれを、自分の中の「子供への愛」という感情の出現をひとつの指標にして考察しています。小さな子供を見ると、「自分」がなくなるような、可愛くて何でもしてあげたい感情が湧く。「傷ついた者への愛」というものやはりひとつの指標です。これは自分の命を犠牲にする危険を超えた感情です。
そうした絶対的な愛の感情が出現すると同時に、それを向けるべきものは極めて限定された相手であり、それ以外の他者についてはごく対等な、自由を前提にした「普遍の愛」を持つようになった。
目の前に辛そうな人がいても、僅かでも自力で何とかできそうな兆候があれば、特に感情は湧かない、という感じ。

このことからして、残存愛情要求の中にある個人からは、他人一般が粗野だという印象を持たざるを得ないという感を、僕は持っています。
そして残念ながら、「自己嫌悪の外化」などのメカニズムによって、心の健康な大人の「薄い愛情欲求」も、「深い悲しみを踏みにじる皮相」と区別できないものとして知覚されざるを得ない、という感を持っています。

この結果、「真実への欲求」にも支えられた「皮相への憎しみ」は、世の中の他人一般に対して抱かれざるを得ない
これが残存愛情要求の、ひとつの帰結のように思われます。


これが源流となり、その後の自己操縦心性では「自己像」をめぐるメカニズムへと発展して行きます。
それを理解した時、他者への憎悪や自己嫌悪は、もはやそのまま維持される以外にはないような様相にさえ見えてきます。

たった一つの「選択」が、この世界と別の世界を分けます。それは今説明している心理メカニズムが「破壊」という対処法の原理の上にあることです。あるべき基準を定め、それにそぐわないものは破壊消滅させるという原理です。
「善をなし悪を許さず」という破壊原則の中で、今説明しているメカニズムが自己完結して維持されます。

「建設」という対処法の原則では、別の世界になる。
詳しい話は別の場として、憎しみをどうするのかというと、「何もしない」です。憎しみを行動化しないことは無論、憎しみを「悪しき感情」として消し去ろうとさえしない。消し去ろうという意識を向けた時、破壊の原則の上で感情が動きます。ただ「知る」こと。そして自分の進む先という意識の焦点から外すことです。
それが「憎しみを捨てる」ということです。

No.680 2005/08/06(Sat) 01:06

残存愛情要求とは何か-5:「自分は愛されない」という帰結感情 / しまの

自尊心のために愛を必要とする感情によって、純粋な愛情欲求が抑圧されていく。
こうした残存愛情要求を背景にして不可避的にもたらされる、幾つかの心理状態があると思われますので、それについて説明します。

特に、ぬぐい去ることのできない他人への敵意憎悪が生まれるメカニズムを理解することが重要ですね。
なぜなら、そこには一片の真実が含まれるからです。そしてその真実を認めた時初めて、人は来歴の中で身に付けた憎悪を持ち続けるか、それとも心底から捨てるかという選択をすることが可能になると思えます。

まず最初は、「自分は本当は決して愛されない」という、心理障害にある人間の骨にまで染み込んだような感情です。
これは、残存愛情要求が実際のところ現実的に満たされることがほとんどないという状況の直接的な結果とも捉えることができますが、むしろ、現実的には本人自身さえ回りの人々に多分に「愛されている」状況が感じられる時において、「それは本当の自分が愛されているのではない」という冷たく醒めた感情が流れる時、その感情が何か独立した意味を持っていることを窺わせるように思います。

この感情が生まれる原因として、4つほど説明しましょう。
その中でも根本的な原因は最初のものかも知れません。でも他の3つも実に根本的に、この個人が「自分は愛されない」という観念を持つことが必然になる理由です。それはこの個人が愛について誤った姿勢の中にいることを意味しています。

1)純粋な愛情欲求の抑圧

「自分は愛されない」という根深い感情について、ホーナイ「愛する能力」の損傷の結果であると述べています。
ただしホーナイは「愛する能力」とは何かについては、あまり明確な記述をしていませんでした。
(2004/11/22 「基本的自己受容」と「対人関係の基本的改善」-4など参照あれ)

僕の考えでは、まず、幼児期においては健常な大人よりも愛情への欲求が旺盛であり、心理発達においては幼少期の旺盛な愛情欲求が「愛の能力」の重要なひとつである、と考えています。

残存愛情要求の中で純粋な愛情欲求が抑圧されることは、「愛する能力」という、人間にとって根本的な生きる能力のひとつに損傷を起したことになります。
「自分は愛されない」という感情は、この直接的結果だという考え方です。

2)無限の愛への要求

親が子に向けるような無限の愛を、「本当の愛」と考えると、現実においては既に大人であるこの個人には、そんな愛を与えてくれる者など実際のところいはしません。その結果「自分は愛されない」と感じる。
つまり愛の要求水準が高すぎるということです。

どんなことになっても相手を見捨てないことが「本当の愛」だという思考法です。
こうした硬直した「愛の基準」は、当然自分自身にもはね反ってきます。
愛は実は、自己破壊衝動の緩和としても求められています。その自己本位の動機がまさに激しい自己嫌悪の対象になります。
この自己嫌悪が外化され、「自分は嫌われる」という感情が生み出されます。

3)自尊心損傷反応による敵意

これは外界への敵意の膨張メカニズムとして極めて重要なものです。
2005/05/11「情動変形の核メカニズム 」で述べたもの。

幼児期の心理発達課題が「愛を通しての自尊心の獲得」であったことを背景にして、残存愛情要求とは、愛が得られない時自尊心損傷反応が起きる状態であることを意味します。
自尊心損傷反応とは、プライド損傷反応のことです。被軽蔑反応とも言います。
自分のプライドが傷つけられたと感じると同時に、他者への敵意的攻撃衝動が起きます。

残存愛情要求においては、これが幼少期からの長い年月を通して定着しています。このため、自分が愛されないという深い感情を背景とした他者への敵意は、一時的衝動というより根深い基調感情のように定着します。
そして重要なのは、この敵意衝動により、「自分は愛されない」という感情が確信度を強めることです。
その結果、他者への敵意も自暴自棄的な破壊性を帯びるようになります。その結果「愛されない」という感情は絶望的な確信度へと至ります。

つまりこのメカニズムには完全な自己膨張性が備わっています。そして重要なのは、敵意衝動によって「愛されない」という感情が生まれているという結びつきが無意識化することです。なぜなら愛情欲求の感情が抑圧されているからです。愛情欲求は意識から消去されたまま、この膨張のメカニズムが動きます。

そのため、この過程にいる本人は、自分がなぜここまで絶望的に回りから孤立した人間になったのか、その理由をあまり自覚できないのが大抵になるでしょう。いつのまにかそうなっていた。自分はそうゆう星の下に生まれた人間なのだ。
外から見れば、この心理メカニズムの中で実際のところそうなっているのは明白な状況の中でです。

こうした心理学を理解し、本来は愛を求めていたという自己理解を得ることが、外界に対するどんな破壊性を獲得した個人においても、その人間性の回復につながるものと、信じています。

これに関連して思い出すのは、「ありがとう」という言葉を最後に言った、大阪池田小事件の詫間守です。彼はあるいは刑による死の直前、自分が愛を求めていたことを理解したかも知れません。
そして他者の愛の存在が、そうした気づきを与える上で大きな役割を果たすでしょう。彼の場合は獄中結婚した女性の存在が大きかったのではないかと思います。

それは心理障害への取り組みにおいても同じでしょう。自己分析や心の選択の学習だけではなく、何らかの愛に出会うという人生の体験が、何か重要な役割を果たすと思います。
ただ僕はそれを療法家が提供するものという考えは採りません。なぜなら愛は技術ではないからです。心理障害の克服というものが、「治療」を超えた、人生における成長だと考えているということでもあります。

僕はハブリッド心理学を、そのようなスタンスで提供しています。最終的にどうなるか、どこまで取り組むかは、本人の人生の問題。
そしてその援助者としての作業をする時、人生の援助そのものは行わないというスタンスを採っています。
ただ療法家が「普遍の愛」の持ち主であれば、それは提供する援助を超えて相談者に示されることもあるでしょう。僕個人はそれを「使う」という意識はないまま、自分の本能に任せるという感じですね。そこで示された「普遍の愛」がどんな限定性を持つのかを学んで頂くのも有益でしょう。
まあこうしたハイブリッドの著作活動というのも、僕にとって「普遍の愛」のひとつであるわけです。とっても限定的な愛で、その他の動機はたっぶり自分自身のためという利己的なものですが。。エッヘッヘ。

4)偽りの自己感

自分は愛されないという感情が「本当の自分は決して」という感覚を帯びる時、そこには「自分がそもそも偽りの存在である」という深い自己嫌悪感情の存在を窺わせます。
これは自分の偽り性について多少とも自覚がある場合もあるものの、それを超えて、心の深層に自己が偽りの存在だという感覚があることを理解しておくと良いでしょう。

これは残存愛情要求よりも自己操縦心性の問題に関わってきます。感情の偽装という、自己操縦心性の基本機能の結果、その人間は誰よりも自分自身に対して、偽りの存在になります。
そうした人間が、自分が本当に他人に愛されるという感覚を持つことなどできるわけはないのが自然と思われます。

自己分析の取り組みは、まさにこれが主なターゲットになります。
一体自分は何ものなのだという深い疑問感が、その後の内面の開放への道へと導くでしょう。


残存愛情要求の帰結感情について、まず「自分は愛されない」という冷たく醒めた感情について解説しました。
これは基本的に、愛を求めそれを得られないという、あくまで愛と自尊心の間で揺れる感情です。

次に、残存愛情要求の他の幾つかの帰結感情についても説明を続けます。
そこでは、愛の獲得という次元から一段階別の世界、つまり善悪観念が伴ってきます。その結果、他者への敵意憎悪が、「自分が善の存在」であるためにはそれを抱かざるを得ないという性質を帯びてくることを意味します。

敵意憎悪が、「自分の存在をかけた」という色彩を帯びてきます。
そこには一片の真実があります。それを理解した時こそ、憎しみを捨てるという真の選択が見える時かも知れません。

No.679 2005/08/01(Mon) 15:20

残存愛情要求とは何か-4:残存愛情要求自体により抑圧される「愛への願い」 / しまの

その3で説明のように、残存愛情要求の心理要素は3つ
1)純粋な愛への願い。これは人間の愛情欲求が幼少時に旺盛で強い状態で湧きでるものが、一種の保留状態に置かれたもののように捉えられます。
2)自尊心のために愛を必要とする感情。これはこの後の心理発達での「情動の変形」に大きな役割を果たすことが想定されます。
3)一体化幻想。他人の心が自分の心を取り囲む宇宙のように体験される。これが現実との乖離という病理性をはらむ。


幼児期自尊心の獲得という心理発達課題の損失とともに、このような残存愛情要求という心理状態が生じる。
でその後の流れですが、まず起きると思われるのが、純粋な愛への願いの感情が、残存愛情要求自体により抑圧されるということです。
これにより心の成長が止まる。

何によって抑圧されるかというと、自尊心のために愛を求める感情によってです。
この2つの、愛を求める感情の違いを理解することが重要です。それは全く別物です。

純粋な愛への願いは、怒り憎悪も、他人との競争も、そして恐れさえも含まない感情です。
一方、自尊心のために愛を求める感情は、焦りと不安、そして怒りに満ちた感情です。
純粋な愛の願望が自尊心型愛情欲求により抑圧されていたのが、その解除により全く異なる心理状態が現れることは、小説ダイジェストの「自己の本質への接近」などで、主人公が憎悪感情を捨てた時に、初恋の頃の感情を思い出した場面などに描写しているものです。

治癒論から見ると、怒り憎悪を含む自尊心型愛情要求を捨て、純粋な愛情欲求を体験できる状態への「回帰」が、決定的なものになってきます。
それは、そうした感情の違いを知るという分析作業という側面を越えて、本人の生きる姿勢の問題が大きくかかわってきます。

つまり怒り憎悪を捨てるという選択です。これはメカニズムの話ではなく、姿勢の話です。
他者への敵意や憎悪は、この後説明するメカニズムによって、不合理な膨張をしていきます。
しかし最初のきっかけは、怒り憎悪に値する事態があったのが事実でしょう。それに対して怒りを捨てるという選択肢を取るかどうかは、もはや不合理な膨張の解除という問題ではなく、人間の生きる姿勢としての究極の選択肢です。

怒りを晴らす。憎しみを復讐へ変える。これは健全な人間の心理においてもなされます。
民族間の殺し合いの歴史がこれで作られています。親の仇を討つ。
これは「破壊」という対処法の世界です。他方には「自衛と建設」という対処法の世界がある。
ここで破壊と建設を分けるのは、過去を向くか未来を向くかが大きな決定要素になります。

ただし、説明している心理障害の発達過程においては、この個人は破壊型の生き方をする人々の中で問題が始まります。建設型の生き方をする人間集団の中で、心理障害はまず生まれるものじゃありません。
過去志向の破壊型の思考法を取り込んでおり、自然と破壊型の思考を選択します。純粋な愛情要求よりも怒り憎悪に満ちた自尊心型愛情要求に心が向かう。

治癒論の話に戻しますと、この後説明する怒り憎悪のメカニズムを理解して頂くという分析的側面もさることながら、「憎しみを晴らす」という人間行為の妥当性について、心理障害以前の問題としての自分の態度を検討して頂きたいと思います。
憎しみを晴らすということがどれだけの価値あることか。世の中の、さまざまな残酷で理不尽な扱いから復讐に立った人間の事例を知った時、それについて自分はどう考えるかという思想を明確にするのもいいでしょう。

そして憎しみを晴らすことを是と考えるなら、心理障害の克服は多少犠牲になるざるを得ないことになります。
理由は単純です。怒りは心身の機能を低下する脳内麻酔であり、その中では心の自然治癒力や自然成長力が働かなくなるからです。
ハイブリッド心理学が考える心の治癒成長は、心の自然治癒力や自然成長力に大きく依存します。それにより未知への変化が生み出されます。

純粋な愛情欲求にも残存という状態があること。そしてそれが抑圧されること。
この結果起きる幾つかの心理状態について次に説明します。
残存愛情要求の帰結感情と呼べるものですね。

No.676 2005/07/31(Sun) 15:43

 
Re: 残存愛情要求とは何か-4:残存愛情要求自体により抑圧される「愛への願い」 / おやじ

こんばんは おやじです。
私も親兄弟の仕打ちを恨みました。
遠い遠い昔の事ですが その頃のことは今でもはっきり覚えています。
憎んだ所で心理障害が無くなるわけではありませんが・・・
ついつい「お前の所為で」と言いたくなったものです。

今では昔の事を思い出しても「あんな事もあったなァ」と言う感じです。
憎しみは消えてしまいました。(消えたと思っているだけかも知れませんが)
但し親兄弟に対する情愛のようなものは感じません。(チョット寂しいですけど)

障害克服の第一歩は怒りの放棄・善悪思考の放棄から始まりそれを持続する事ですね。
歳が歳なので時間切れにならないようにがんばります。^^;

No.677 2005/08/01(Mon) 13:55

 
Re: 残存愛情要求とは何か-4:残存愛情要求自体により抑圧される「愛への願い」 / しまの

おやじさん、どうも〜!

その通り、「怒りや憎しみの放棄」が、まず一番外枠にある、一貫した指針ですね。それはもう心理療法を超えた「人間の選択」だと思います。
その外枠の中に、心理療法としての特殊な各論がある。

人間の選択として、復讐が自らの利にならないという考えを採用する。その次は、怒りや憎しみを「知る」という段階が来ます。

そこでは今度は、感情の善悪を問わない姿勢が重要になります。怒りや憎しみの感情を、「悪しき感情」として捨てるのではなく、何なのかを知る姿勢です。
その段階で、怒りや憎悪を「捨てる」のではなく、怒りや憎悪の世界から他の世界へと自らが変化するという次元に移るわけです。
怒りを向けていた対象にさえ愛が見出せるようになるのは、その時かも知れませんね。

残存愛情要求の解説その6あたりで、そうした「憎しみの彼岸」にあるものの解説になると思いますので、ご参考あれー。

No.678 2005/08/01(Mon) 15:05

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