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過去ログ
2005.11


究極の行動学:原理原則立脚型行動法-5 / しまの

時事ネタから思い至った話。

■原理原則立脚型行動・サバイバル世界観・先見能力・野望的意欲 vs 情緒立脚型行動・道徳的世界観・人間性勝負・怒り苦悩

相変わらず巷を騒がせている耐震強度偽造問題

ヒューザー社の「買い取り提案」が二転三転しているとかで、「もし自分がその住民の立場だったら..」と考えたのですが、マジにその場合の自分の行動を想像していると、報道されている「怒り苦悩する住民達」という感じとはもう全く別世界を見る視野の中に自分は行くのではないかと浮かび、ちょっとこの解説に入れた次第。

もし僕だったらどう行動するか。
まずTVでは、ヒューザー社の小嶋社長の説明会に出て、怒りをぶつけ問い詰める住民の方々が映されていましたが、それはもう全部やめですね。小嶋社長は一切無視。この人の言うことは全く当てにならず、相手にするだけ時間の無駄だと思います。

「買い取り提案」については、「もしヒューザーが倒産したら」住民側に債務だけが残るというのを問題視する話題が出ており、これについては、「もしヒューザーが倒産したら」ではなく、倒産するんです。ま一応ここだけの発言ということで^^;

で僕ならこの状況で、自分がいかに有利な補償を獲得するかのゲームと捉えますね。
被害者に優先的に提供される住宅の情報をくまなく押さえ、早い者勝ちになる可能性高いから、これといったものがあれば即行動あるのみです。
へたすると、より有利な物件が、債務をかなりチャラにする形で手に入るなんてこともあるかも知れない。虎視眈々とそれを狙いますね。

でこの話をネタに解説したかったのは、原理原則立脚型行動法というのは、人間の心理課題の重要なものについて、幾つかをセットとして方向づけるような形で、我々に一つの出来事を全く別の世界として展開させるとも言えるものだということです。

上の話では、その重要な心理課題とは、従来から良く触れている「世界観」の問題であり、ひとつは最近注目している「優越課題」です。

「こんなことがあってはならない。許せない」が道徳的世界観
ハイブリッドが推奨するサバイバル世界観では、何でもアリです。「こんなことがあってはならない」ではなく、あるんです。

で上の僕の想像行動は、ヒュザーに対する一切の情緒を拝した、原理原則立脚型行動です。誰が悪いかなんてこと考えず、置かれた状況を支配する原理原則を見る。契約と法律です。

その結果、この行動法のひとつの特徴が、この例で明瞭に出てきます。自分の先見能力を試す姿勢です。
「先見能力」が原理原則立脚型行動法とセットになるような形で出てくるのが、この話のミソですね。

原理原則は普遍的なので、そうしたものに実に役立つわけです。
で僕自身は、自分の人間としての自信の大きな部分を、はっきりとこれによって得ています。
「原理原則を知り、それを利用した先見によって行動する能力」です。

一方、「こんなことがあってはならない。許せない」という道徳的世界観の中での情緒立脚型行動法では、「先見能力」など得るべくもないですね。
情緒型行動法では、「優越課題」は、相手との勝負になる。しばしばそれは「人間性勝負」という、それを行うこと自体が既に人間性を損なうという、パラドックス的事態になります。

「あいつのせいで」という怒り苦悩なども、「自分の先見能力を試す」という一種の野望的姿勢においては、皆無になります。
まさに別世界の感。

まこれはあくまで心理障害とは全く別の話として書きましたが、実際、僕が心理障害を根本的に脱したのは、そうゆう別世界的視野を持ったことに依存するというのが、理屈抜きの実感です。

あくまで心理障害は、そうした思考法行動法や世界観が原因で起きるのではなく、心理障害のメカニズムとして起きます。
治癒も同様に、思考法行動法や世界観によって治癒するのではなく、特有の治癒メカニズムの中で治癒する。

原理原則立脚型行動法や、それとセットで出てくるさまざまなものは、まあその治癒メカニズムが起きるための、「感情を内面にとどめる」という基本姿勢のためのクイのような役割をするんだろうなぁと。
そして「治癒」だけでは足りない「成長」の内容そのものが、やはりそこにあると感じますね。

さらに加えれば、そうした原理原則立脚型行動法で「情緒を排す」とき、何か内面の繊細を切り捨てるような感覚を覚える方もおられるかと思います。
しかしそれは事実ではなく、「情緒を排す」のはあくまで外面行動の話であり、情緒に揺れない行動という基盤を持つことで逆に、守るべき内面が守られるというのが僕の感覚です。

それが「悲しみや憎しみを看取る」という治癒にまさにつながってきます。
「憎しみを看取る」についてはまたそのうちに。

No.812 2005/11/29(Tue) 12:17

店構え完成^^; / しまの

表の入り口からもぼちぼちお客さんが入って来たようなので、店構えを完成ということで、
ダイジェストの主要部のサイト公開を終了し、この掲示板のカキコ開放を終了しました。

引き続き、感想・質問・ご意見などありましたら、ぜひ読者広場の方にカキコ下さいマセ。
答えられそうな質問等あったら、僕の方でこっちの掲示板にコピペして、会話形式で読んでもらえるよう取り計らいたいと思います。
よろしくで〜す。

なんか思ったより全然ポータルからは増えない感じで、その分出版本の作業にラ〜ッシュの今日この頃。。

No.811 2005/11/29(Tue) 11:11

(感情の膿)+(優越衝動)=(道徳) / しまの

ちょっとメカ論メモがてら。結構重要な話かも。

今日のTVで「あるある大辞典」を眺めていたら「頭痛」を取り上げたもので、番組で行われた調査を指導した医者がこう言っていたのが頷けました。
「日本人は耐えることを美徳と考える間違えをしている人類の一つで..」

「望みの停止」は、改めて思いますが、実に「道徳的」です。
人間の持つ価値軸の善悪優越自己欲求の中で、「善悪」が最も病理性とつながっている。

でこの「善悪」観念のメカニズムをいつも考えいるのですが、最近僕が良く関心を向けているこ典型的な思考パターンがあります。
それは優越感が道徳的特長をテーマにしていると、劣等感が罪悪感に化けるという現象です。優越感はこの逆で、善人気分に化ける、でしょう。

「望みの停止」を美徳とする優越衝動というのがあるとすれば、それは実にパラドックス的なものになることが想像できると思います。
メンヘルサイトを眺めると、そんな感じのものに出くわします。自殺願望をカキコした人に同情して、「私も同じ辛さ」というのが、ちょっとしたはずみで、「それで本当に辛いって言えるの?私の辛さをみて御覧なさい。」という感じの応酬になっている。
「辛さの純正さ勝負」という感じですな。

でもそこに優越衝動が含まれている点において、その優越衝動は自分自身で損なわれるわけです。根本的に、パラドックス。「あるとは、ないことである」とでもいう感じ。

そのパラドックスを見ただけでは皮相であり、パラドックスを作り出し維持させるものと、それが消えパラドックスが消滅するメカニズムが登場する必要がある。
それが感情の膿と現実覚醒レベルの低下だということになる。

ちょー難解な話ですね。あくまで理論整理のためのメモということで。
罪悪感が実は劣等感だという話は実に多いので、これは憶えといてもらって役に立つかと。

No.810 2005/11/28(Mon) 00:18

ハイブリッド教育論-2(End) / しまの

■心を病ませるために「実践的」な善悪教育

もうひとつ心理障害という背景テーマの中で指摘しておきましょう。
これはあちこちで書いていることですが、善悪道徳は心の健康にとって害があります。

>ある親しい知人に「善悪の解体」について話したところ、「ある程度の知性を獲得した大人なら理解できる話かもしれないけれど、子供はどうやって教育するのか?『良いこと、悪いこと』という教え方が最も実践的ではないのか」と問われ答えに窮してしまったことがあるので。

「良いこと悪いことという教え方が実践的」だと言うのなら、まあそれは子供の心を病ませるためには実に実践的だと言えるでしょう。
心理学の背景のない場での議論を想像すると次第に不毛な感じがしてくるのですが、まあその理由を一言で言えば、「道徳は基本的に嘘」だというのが僕の考え。
もしそんな議論の場で僕が発言を求められたとしたら、詳しい説明はせずに、事例を出しますね。
異常な少年犯罪の親は、ほぼ例外なく「厳格な道徳家」の側面を持っているという事実です。

「良いことと悪いことの区別」という子供の育て方をした典型例として浮かぶのは、神戸の児童殺傷事件の犯人少年の母親です。
http://tspsycho.k-server.org/column/4-02.html
で書いたこと。読んだ親の手記というのは以下。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167656094/250-7941273-2401022

ちなみに僕自身がどう子供を育てるかを言うと、やはりハイブリッドそのままで、ありのままの現実を説明し、それをうまく生きるノウハウを教える感じになるでしょね。「善悪道徳」については、「世の中には色んな考えの人がいる」とか言うでしょうね。それとどう付き合うかというノウハウ。

僕の父親なども、厳格な躾をする人間であった一方で、「道徳家」というよりは「戦略家」という感じでしたね。人生では好きなことをとことんやれ、決断が重要だと教えられた。三国志に関心持ったのも親父の影響。
僕はこの親から、心理障害の芽をもらった一方、そんな面で心理障害から抜け出る芽も同時に植え付けられたと感じています。だからダイジェストに書いたような、独力で抜け出る宿命的な前半生が生まれたわけです。

ハイブリッドが「価値観」を極めて重要なテーマにしているのは、そんな背景があった次第。


■なぜ善悪観念を捨てられないか

教育論から完全に離れますが、最後にワンポイント。

善悪観念が気分的にどうしても捨て去れない感覚が残るのは、心理メカニズム的には、まず、自己中心的で強欲に利己的な自己誇大衝動とそれに結びついた自己嫌悪感情の膿が抑圧されているケースです。

これはサイトの感情メカ理論では、「縮こまり態度」の説明で「内面に隠された誇大衝動」うんぬんと言っている話と同じです。その結果起きる「自制的態度」は、良くみれば「道徳的」でしょうし、本人の心の中も道徳的観念で全てが塗り消されているかも知れません。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-063.html#2

治癒過程としては、それへの直面として、最近良く使っている言葉ですが「甘くない自己嫌悪」を体験するという通過点があります。
これは自己操縦心性の崩壊と大体イコールです。
詳しい話は自己操縦心性の崩壊現象の解説に譲りましょう。

つまり、価値観の根本変革や「善悪の完全なる放棄」は、それだけで治癒が達成される効果はなく、その後に自己操縦心性の崩壊を受け入れ乗り越えられるような心理状態になるための、準備過程であるということです。

No.805 2005/11/26(Sat) 12:31

 
Re: ハイブリッド教育論-2(End) / ペーター

大変参考になりました。
どうもありがとうございました。

なぜそんな話を友人にしたのか、というその1の最後でのご指摘、
さすがしまのさん、鋭い!(笑)
まあ、討論という感じでも、ましてや喧嘩腰という感じでもなくて
なんというかちょっと酒の席での穏やかな語らいの一部でした。

その友人はまあ、そんな感じの男ですが、ご指摘を受けて
ハっと思ったのは、別に「アンチハイブリッド的」な友人もいて、
最近では、やはり疎遠になりつつあるですが、
その男を前にすると、どうしても彼の理屈や主張を
論破論駁したくなることに思い至りました。
で、それは基本的に僕にとっても決して気持ちの良い行為ではなく、
だから彼と会うことも自然と少なくなってしまったのだと思います。

とまれ、もう書き込む機会もないかもしれませんが、
陰ながら応援しています。単行本の出版を楽しみにしています。
いろいろとありがとうございました!

No.808 2005/11/26(Sat) 19:16

 
Re: ハイブリッド教育論-2(End) / しまの

どもども。

>「アンチハイブリッド的」な友人もいて

一応確認したくなったのですが、これは「性悪説的」な考え方の人ということですかねぇ。

ハイブリッドのように、「開放によって善性が開放される」とは考えずに、
「利己的で攻撃的な本性を抱えるのが人間だから抑圧も必要」とかの思想。「フロイト的」とは言える。

まちょっと気になったというのは、逆に上記以外に「アンチハイブリッド的」なものが世にどう出て来得るかと。
あとは受容オンリーのカウンセリング主義みたいのかと思い浮かべるが、これは雑談ネタには出ないだろうなぁ。

それはともかくなんかLivedoorから来る人全然ない模様。 (`ε´)ぶー
集客には結局本出すのが一番か。。ぶつくさぶつくさ..^^;

No.809 2005/11/27(Sun) 17:59

Livedoorポータルに登録されました\(^ ^)/ / しまの

今見たら載ってた。あれってな感じ。いつ登録されたんだろー。
最近チェックは更新日時が表示されてるExciteで見てたので、気づかなかった。

がまだポータルからの来訪者はなしの模様。
このままずっと来訪者増えなかったりして。( ̄Д ̄lll)ガーン!
                    もしくは ) ̄o ̄(あっちょんぶりけー!(←最近のお気に入りあっはっは)


とりあえずポータルからの来訪者がぼちぼち出始めた時点で、この掲示板のカキコ開放はいったんcloseします。
ダイジェストのサイト公開も間もなく終了しますんでヨロシク。

No.807 2005/11/26(Sat) 18:06

究極の行動学:原理原則立脚型行動法-4 / しまの

11/11のその3に引き続き、具体例。時事ネタより。
なお「上級編」と一度予告したのは後に回します。

以下のような感じで、「毎日が原理原則立脚型行動法」だすね。


■具体例-3

今巷でホットな(^^;)耐震強度偽造問題。(でもまあ僕んところは検査の民営化以前のようなので人ごとと安心してますが、人の立場に立つとマジとんでもない話だよねー)
昨日TVで疑惑の売主ヒューザー社の小嶋社長が、「銀行は債権を放棄し、国は90%の公的資金導入をして欲しい。ウチが10%を買い取る。」と述べたのを見て、思わず「あさましー」と感じたのですが、
そのあと小嶋社長への怒りを表現するような観念が一瞬芽を出しかけた瞬間、「いやまあ..」原理原則立脚型思考が走り、特に怒りのようなものはないまま。

いやまあどうかというと、小嶋社長の主張が是か非かは、契約と法律の問題であり、また僕はその是か非かを判断する立場じゃないということです。
しかるべき人間が是か非かを判断し、それに応じた処置をすればいいだけのことです。


■具体例-3解説

この場面では、原理原則立脚型でない行動は、「義憤を感じる」になります。
奴は悪どい。図々しい。許せない。

原理原則立脚型行動法では、「相手に対する自分の心象は一切言わない」が大原則です。
相手の言動をどう感じるかを直接言うのではなく、相手の言動を評価するために自分が原理原則と認識していることを言います。それに沿って相手を賞賛する、もしくは処罰することは、自分が行うのではなく、その原理原則が「執行」します。


「お前は図々しい」とかの情緒的言動はしない。その代わりに、上記では2つの原理原則を述べていることになります。
図々しいかどうかの問題ではなく、契約と法律の問題である。
自分はその是非判断をする立場ではない(判断する権限を持たない)。

こうした原理原則立脚型行動法が我々の人生の幸福にとって理(利)にかなっている、2つの理由をここでは指摘できます。
「怒りの有害性」そのものは別としてです。それは本人の心においての話。以下は人間関係において

第1に、相手を直接非難中傷する行為は、必ず相手からのしっぺ返しをくらいます。直接反撃されるかも知れないし、そうでなくとも、その相手との関係を保っていれば将来得られる可能性のある良いことが、まず断たれます。人は一度噛まれた犬には近寄らないものです。

第2に、「怒る人」はやはり好かれないということです。
これは人間集団に2つのグループが分かれます。怒りに同調して怒る人と、それはしない人。前者は生活を主に怒りの中で過ごす人です。後者は主に喜びや楽しみで生きる人。
どんなに「正しい怒り」も、それを喜ぶ人はいません。同調して怒る人と、静かに離れる人がいるだけです。
自分はどうゆう人たちと一緒にいたいか、という「選択」にも、多少なってきます。

でもまあこの社長さん、結構マジにあくどいかも。逮捕というケースも視野に入った調査になってくるのではと。。

No.806 2005/11/26(Sat) 13:34

ハイブリッド教育論-1 / しまの

11/20「ダイジェスト「新たな人生へ」Up!」への11/24ペーターさんレスへの解説カキコ。
ちょっと長くなったので2つに分けて。

>以前、確かこの掲示板にも少しだけ書かれていたという記憶がありますが、しまのさんの「子育て(幼児教育)論」が聞きたいです。


■ハイブリッド心理学に「教育論」はない

まず、「教育論」の定義。
「教育」とは「教え育てる」ことです。
「教育論」とは、それをどのように行うのがいいかという方法論です。特に子供に対してということになるでしょう。

でハイブリッドには、「教育論」はないです。その話は特にしない。今までもしてないし、これからもあまりするつもりはない。
その理由は、特に「子供への教育」という広範囲な行為について言えば、「教育論」として意識的に考えられた事柄通りに「子供が教育される」ことは、まずないからです。

大人がそうして意識して教育論なるものを考えている脇で意識しないままの、その大人の生き様や、生きる上での価値観や、子供への愛情の有無と質が、子供に大きな影響を与えるでしょう。
それに比べれば、意識された「教育論」の役割は微々たるものであり、さらに言えばそれに捉われたまま自分の生き様を振り返らない大人の姿は、子供の教育上かなり害があると考えます。

つまり結局、その大人の生き方そのものが、鏡のように子供に映されるものだと。
でハイブリッドは大人の生き様をダイレクトに探求する心理学です。だからハイブリッドに「教育論」はあまり出ません。


■教育原理はその人間の立つ価値観原理で決まる

まあそうは言っても教育論というものが心理学的テーマになるのは否定できないので一考。

人が子供に対してどんな教育スタイルを取るかは、その人間が拠って立つ価値観原理によってほぼ決まると考えています。
で人類には、価値観に3つの種類がある。これはハイブリッドで「価値観の根本変革」というテーマを論じる時に言うものそのものです。
「善悪」「優劣」「自己欲求」という3つの軸です。
2005/09/26 ハイブリッド心理学による価値観の根本変革-2
を参照のこと。

それに応じて、教育のスタイルは、「善悪の区別を教える」「優れた人間勝つ人間になれと教える」「うまく生きるノウハウを教える」という形になります。
それぞれの詳しい説明は特にいらないっすよね。

この3態の価値観および教育スタイルは、それぞれで自己完結的な論理世界を持ち、それぞれが我田引水的に、他のものをけなすような形になります。
善悪に立つ価値観は、他の価値観を邪悪なものとけなします。
優劣に立つ価値観は、他の価値観を負け犬の強がりだとけなします。
自己欲求に立つ価値観は、他の価値観の人間は結局人生でうまく行かないとけなします。
従って、この3態を「公平公正に」比較しどれが真に「優れた」価値観であるかを論じるための「論理」は、ありません。あるのは人それぞれがどれを「選択」するかだけです。

ただし心理学の視点に立つと、ちょっと話が加わり、「自己欲求に立つ価値観」に軍配をあげています。3つに順位をつけるなら、上記で後ろからの順で、「優れて」います。
その理由は、上記で書いた後ろのものは、前のものを包含できるからです。前に書いたものは、後者の軸を切り捨てている点で、欠損があります。一種の思考ミスが起きていることになります。

「善悪」からは「競争優越」や「利己」が否定されます。人間の本姓の一部を、頭越しに否定することにならざるを得ません。
基本的に「性悪説的」になります。

「優越」にとって、「善悪」は優越材料のワンオブゼムになり得ます。善人づらに優越感を覚えたければ、そうすればいい。実際、社会で善人として認められることは、一種の優越です。
ただし、人より劣り善性も欠いた面があったとき、やはり頭越しに否定せざるを得ません。人間の不完全性を認めることができなくなります。

「自己欲求」という価値観に立つと、全てが対等になります。頭越しに排除することはなくなり、全てを同じ天秤で計って「選択」することになります。「打算的」です。
善は大抵自分の得になるから、推奨されるでしょう。リスクを見極めた上で、善に反することをすることもあるかも知れない。
「自己欲求」の価値観に立つことで、自己の本性の全てと、人間としての不完全性を認めることができるようになります。

だから心理障害の治癒克服にとって、この価値観変革が決定的に重要だというのがハイブリッドの考え方です。
..とやはり書くことはやはり「教育論」から反れてきますね^^;

「善悪の解体」だけを取り出して論じることは、ハイブリッドというか僕は全くしないです。価値観論議など日常で人にすることは皆無です。それらしい議論の場にいても、てきとーに笑顔で合わせている感じ。
あくまで心理障害の治癒克服という背景がありますので。それとは別のところでは人に合わせるのは、そうしておくのが得だという打算からです^^;

ペーターさんへのハイブリッド取り組みアドバイスを言うとしたら、「なぜそんな話をその友人にしたのか」を吟味するといいかもしれませんね。
その友人の心理障害克服への協力として、ハブリッド心理学という背景と一緒に説明したのであれば、それはその友人にとって役に立つ可能性がある。
そうではなく、純粋に価値観倫理観の形で言ったとしたら、ペーターさんは何を友人に示そうとしたのか。
ま単なる雑談ネタだっただけかも知れませんが^^;

No.804 2005/11/26(Sat) 12:26

久々に写真集をUp / しまの

ご覧あれ〜〜♪
自分でも好きな作品が結構多く。

No.803 2005/11/25(Fri) 13:49

ダイジェスト「新たな人生へ」Up! / しまの

感想あったらぜひカキコよろしく〜〜。
しかしQちゃんの走り、感動だったなぁ\(^^)/

No.797 2005/11/20(Sun) 18:55

 
Re: ダイジェスト「新たな人生へ」Up! / ペーター

しまのさん、こんばんは。久しぶりに書き込ませてください。

ハイブリッドの学習効果か、ここ数ヶ月、精神状態は極めて良好で、情緒もかなり安定していました。それは、これから先、自己操縦心性の崩壊に伴う絶望体験が自分に訪れることなど全く想像できないほどの快活な日々でした。
心がとても健康的になった実感が強く、「建設的絶望体験」というのはしまのさんに起こったことには違いないけれど、僕には起こらない可能性もあるのでは…と実はちょっと高を括る気持ち半分、半面、それが無いのはどこかウソのような不安感も同時に抱いていたわけです。

そんなわけで、掲示板を中心にこちらのサイトはほぼ毎日チェックさせていただきながらも、ここ数ヶ月間、感情分析のための日記を書くことはなくなっていました。日記を書かずとも、掲示板を読むだけで極めて効果的な学習を実践しているという実感がありました。(どこか、その意味がわからなくても、音読するだけで悟りを得られるとされた「お経」のような感覚で)

このまま掲示板を読みながら、少しずつ、確実に、そして、大きな峠を越すこともなく、僕は心の健康に近づき、そこに到達するのかもしれない、という淡い期待があったのです。

しかし、そうは問屋が卸しませんでしたね。
本日午後、実に久しぶりですが、猛烈な悪感情が噴出しました。昨日あたりからその予感はあったのですが、その猛烈さ加減にちょっと自分でも驚きました。
自宅で僕は椅子に座っていることも、立っていることもできず、ベッドに突っ伏して、苦しみの言葉を吐き出すことしかできませんでした。

そして数時間後、少し落ち着きを取り戻した僕は自分の中に猛烈な勢いで暴れる悪感情をほとんど自動速記するようなスピードでノートに書きなぐり、そして、いったんペンを置いて、さらに今度は全く違う感情に突き動かされて、こう追記しました。
「僕は、僕が可哀想だ。僕は、僕を助けてあげたい。僕は、僕を救い出してあげたい」
そして、涙が溢れました。

それから心はようやく静まり、僕はしばらく読んでいなかったダイジェストを計4回分、時間を掛けて、ゆっくりと読みました。
ひとつひとつの言葉が沁み込んでいきました。直前に嵐にのまれた分、きっと普段以上に、しまのさんの物語を深く味わえたような気がしました。今まで以上の強い感情移入でした。そして、物語の中の言葉をいくつかノートに書き取りました。

きっとこれも自己操縦心性の崩壊ではないのでしょう。きっとこういうことはこれからも何度も起こるに違いありません。次はまた数ヵ月後になるのか、あるいは数年後になるのか、ハイブリッドへの取り組みには長い時間が掛かることを改めて思い知らされた一日でした。

さて、話は変わります。
以前、確かこの掲示板にも少しだけ書かれていたという記憶がありますが、しまのさんの「子育て(幼児教育)論」が聞きたいです。
ある親しい知人に「善悪の解体」について話したところ、「ある程度の知性を獲得した大人なら理解できる話かもしれないけれど、子供はどうやって教育するのか?『良いこと、悪いこと』という教え方が最も実践的ではないのか」と問われ答えに窮してしまったことがあるので。
お閑なときで構いませんので、聞かせていただけるとうれしいです。

事業化のほう、順調そうで何よりです。
僕に本当の峠が訪れるときは、相談サービスを利用させていただくかもしれません。とりあえずは小説の出版を心待ちにしております。

No.799 2005/11/24(Thu) 01:41

 
Re: ダイジェスト「新たな人生へ」Up! / しまの

どうも〜。

>ここ数ヶ月、精神状態は極めて良好で、情緒もかなり安定していました。
>それは、これから先、自己操縦心性の崩壊に伴う絶望体験が自分に訪れることなど
>全く想像できないほどの快活な日々でした。

操縦心性の崩壊後は、もっと良くなると思いますヨ。
それ以前の良い気分状態には、「これでいい」という自意識感覚が残ると思います。自己監視下での良好な精神状態なわけです。実はストレス下なんですね。
崩壊後はただのまっさらな良い精神状態になります。

自己操縦心性の除去克服には、崩壊体験が必要である。それ以外の方法はない。これは僕にとっては理論確定事項です。
それはこんな理論を作った僕自身がその考えを疑い、自分の心を直接的に良い方向へ導く実践だけでそれが消える可能性というのを考えながら日々生活し、今だに変化を続けながら、建設的絶望体験はなしでも克服できるという考えを支持する兆候は皆無という状況です。
「これでいい」は必ず後で覆されます。その後の悪化状態の中で、操縦心性が「どんな自分」を描いていたものが崩壊しているのかを感じ取る過程の中で、操縦心性の消滅が定着していきます。


>物語の中の言葉をいくつかノートに書き取りました。

これはどのあたりでしょう。参考までちょっと聞きたいかも。


以前、確かこの掲示板にも少しだけ書かれていたという記憶がありますが、
しまのさんの「子育て(幼児教育)論」が聞きたいです。

2005/06/09 心理発達課題の損失と回復の考え方-5:子供の自尊心を育てるために
ですね。
教育論..はて..と一瞬考えるところがありましたが、いろいろあるのでそのうち新規カキコしましょう。
ハイブリッドでは基本的に、「教育論は不要」というような感覚が流れてますね。もっとダイレクトに、人間の生き様を考える。子供にどう接するかは、それが自ずと導く、みたいな。
その点も踏まえて「ハイブリッド教育論」とかで。

No.800 2005/11/24(Thu) 12:42

 
Re: ダイジェスト「新たな人生へ」Up! / ペーター

さっそくのレス、ありがとうございます。

書き残した言葉は次の3箇所になります。
これは、取りも直さす昨日僕を苦しめていた問題、
つまりは「愛」の問題を巡る感情の遷移を
そのまま(順不同ですが)トレースする言葉でした。

いくつかの章をまたいでいます。

「自分は独立した一個の人間であり、
 他人にもたれる必要はないのだ」

「人生で追い求めるものに背を向けた時、
 人は自分自身を見失い、愛を見失います。
 自分自身の敵となりながら、敵の姿は見えず、
 世界と人生だけが敵であるかのように感じます。
 そして自ら見下した人生の空虚と、
 枯渇した自分の心を埋めるための『愛』を
 彼がその高潔な哲学の中で糾弾した強欲さで
 まさに彼自身が欲するようになるのです」

「自分の人生とは何なのだろう?
 今までそれは常に、人に対して示されるものとして
 僕の中で描かれていた。
 そうなのだ。“他人の世界”で自分が何者かになる。
 人生そのものがその要求によって方向づけられていたのだ」
(「人に対して示されるものとして」に傍点を打っています。)

参考になりましたでしょうか?

No.801 2005/11/24(Thu) 14:19

 
Re: ダイジェスト「新たな人生へ」Up! / しまの

どうも〜!
今後の僕の作品のプロモーション(?)や解説を構想する上でちょー役立ちました。
「感情移入できた」というのも僕にとって最大の評価の言葉と位置付けており、意を強くした次第。
サンキュですー。

2つ目のは感情メカ論的描写を入れることに力点を置いた部分ですね。

3つ目のは、自分の日記を読み返してみて、これは入れねば!と感じた重要な言葉だと思います。
解説を若干先取りして書きますと、「自己操縦心性の人生感覚」という重要なテーマになります。
ちょっとこの場を借りて自己操縦心性の根幹について今頭の中にあるイメージを言語化すると以下のような感じ。

一言でいうと、自己操縦心性とは、「愛を通しての自尊心」そして「強さを通しての自尊心」を経て「人生を確立」し「心の豊かさ」を獲得するという、心理発達課題を達成した姿を外から眺めた姿でイメージして理想化された自己像として自分に強制しながら、その感情があたかも自分の「内側からの望み」であるかのように錯覚させることを、根幹の機能とする心性です。

そしてその錯覚がいかにして行われるかが、「現実と空想の逆転」になります。
空想された他者像が現実を覆い隠してしまう中で「受動的価値感」が働くことで、現実乖離した空想に反応して起きた感情が「現実的感情」として体験される。

2005/07/10 望みのメカニズム-6:「他者により自分の望みが決まる」というちょうつがい
「まだつながっていません」と言いながら書いた様々な心理要因が、全てつながってくるんですねー。

この先は解説にて(まだ大分考える感じ^^;)

No.802 2005/11/24(Thu) 23:59

自動思考とハイブリッド思考-7 / しまの

11/4その6に引き続きの解説。

ハイブリッドでは基本的に「感情を正す」はせず、感情そのものではなくその原因の方に取り組む。
根本原因に取り組むことで結果として感情が良くなる。この原理をまず知りましょうという話を始めました。
その6では、「良い感情を育てる思考法行動法」があるという話をしました。これが一面。
次に、それとは全く違う面があるという話を以下にて。


■感情改善の原理その2:心理障害の除去

もう一つの側面とは、心理障害という特別な状況があるということです。
これに対しては、日常的な思考ではなく、専門的な心理学の思考で対処する必要があります。

心理障害とはどんな状況であり、それは何がどうなって起きているのか。この専門心理学の知識を学び、その克服に適した心の姿勢を実践する。
良く言っているように、自分に対する医者になる必要があるわけです。心を直接見ることができ、治癒の方向に直接向けることができるのは本人しかいないので。
できるだけそれを日常用語に近い言葉で理解できるよう、僕も努めています。しかしどんなに日常用語的に理解できたとしても、その治癒克服の姿は、日常思考を超えた全く別世界のものです。それを実践する意志があるかどうかということになります
もちろん実践するかどうかは本人の自由です。

ここでは心理障害の除去の原理について、再度おおまかな理解を得たいと思います。

この話を既に書いているものとしては、「「感情分析」技法による人格改善治療」の中の、
3.感情分析による心理障害の治癒原理
島野の心理構造理論 3 治癒への取り組み 3.4 人格改善の基本原理
3.4.3 人格改善の基本メカニズム
などがあります。

その後のハイブリッド理論の進展も踏まえて、全体を眺めると、結局のところ治癒の原理とは次の2つと言っていいように感じます。

1)抑圧の解除
抑圧とは、「心の底から自然に湧き出るものとしての感情が押さえつけられ感じ取られない状態」とでも定義できます。
これは、湧き出る感情が押さえつけられるという様相と、人工的に作り出した感情を強いるという様相の2態があります。
これが蔓延するに従い、人は自分自身を見失い、自分自身であれなくなります。この状態を自己疎外と言います。
これを解除する。

解除するためには、自分が自分の感情を抑圧している事実の理解、そして抑圧によって人生を送ることはできないという深い実感、時には絶望感が必要になるでしょう。
絶望感というのは、11/12「自己操縦心性の最初の崩壊 」(おやじさん「否定型の価値感」へのレス)で述べたものです。

抑圧解除の効果は、開放感の増大として体験されます。

留意しなければならないのは、抑圧を解除して湧き出る感情には、健康なものも病んだものも含まれるということです。最初は後者の方が多いでしょう。これは「見たくなかった自分」を見る体験になるでしょうし、かえって事態が悪くなっているという感覚を起こす可能性もあります。


2)心理障害の根源構造の除去

もうひとつは、「自己操縦心性の崩壊」や「感情の膿の放出」という形を取る、心理障害の根源構造の除去体験です。
これは抑圧の解除が進行し、「自分自身に近づく」過程を進めることで、必ず起きるようになっています。これらの根源は非常に不安定な構造であり、もともと自己崩壊を起こす性質があるからです。
この詳しい説明はいろんなところでしているのでここでは省略。

留意事項としては、この局面は必ず精神状態の悪化が起きることです。今までの生き方の土台が崩れるわけですから、「完全なる絶望」が起き死の衝動が起きる可能性もあります。


■心理障害除去を目指す思考とは

さて、どんな思考を持てばいいかという本題に戻りますと、
原理その1の思考法行動法については、単純にそれを学び実践するだけです。

しかし原理その2の根源除去については、「それを行おう」という姿勢ではできません。自分で「操縦心性を崩壊させよう」「感情の膿だしをしよう」という思考では不可能です。
自分の心にじっと見入り、「何が悪いのか」「どう直せばいいのか」という姿勢は、治癒成長を促す前進への心の動きが止まります。

ではどんな姿勢がいいのか。
上述のような障害除去についての知識を、あくまで道のりの過程についての知識とした上で、自分が目指す目的地とそこへの方向を知り向かう姿勢が必要です。
それをハイブリッドでは、「人生の望みに向かう」としています。

その大きな方向に沿った形で、自分の感情の抑圧を知り、自己理解を深める。
最新のハイブリッド理論は、「望みの停止」を問題の根幹に据えています。自ら望みを停止し、そのことを棚上げにするかのように、自己の重心を欠いた思考の中で、望みの停止による苦しみの原因を外部に帰して怒りを向けるというのが、全てを貫く感情論理と言っていいように思います。

それを、自己の重心を取り戻し、自ら望むという方向へ、自分の人生の方向変換をする。これを行うという意志によって、上述の治癒過程は導かれます。

このため、外面行動については、建設的行動や原理原則立脚型の行動法でこなすとして、その先の内面変化を目指すのであれば、「自ら望む形で人生の望みに向かう」という生き方を支える価値観世界観人生観が重要になってきます。

「心の治癒成長への道」でも示したように、左側の思考法行動法の取り組みは、行動学の次は価値観人生観の根本変革です。

これを踏まえた、具体的思考法を考えるということです。
ということで次に具体例に行けるかな。。

No.798 2005/11/22(Tue) 11:49

会話がすき / きむちゃん

しまのさん、

こんばんは。
私はこの掲示板での会話を読むの好きです。このまま会話があるといいなって思います。

No.793 2005/11/18(Fri) 22:55

 
Re: 会話がすき / しまの

どうも〜。

前向きに検討し、適切に判断しようと思います。アハハ..^^;

ポータル開店後どんな感じになるか分からないので、その時点でいったんカキコ開放止めといて、しばらく様子見て考える感じになると思いますね。
有料メール相談対応を優先することになりますので、余裕あったらまた開放を考えます。
よろしくです。

No.794 2005/11/18(Fri) 23:29

 
Re: 会話がすき / きむちゃん

ありがとうございます。ぜひご検討お願いしま〜す。

No.796 2005/11/19(Sat) 14:19

ダイジェスト「自己の受け入れに向かって」をUpしました / しまの

もうひとつの「新たな人生へ」は、明日夕方Upの予定です。
当初一緒にUpを考えていたのですが、「自己の受け入れに向かって」をじっくり読んでから読んで頂きたいと思い。
それでいよいよ大学時代エピソードの完結です!

なお「自己の本質への接近」に加筆したのは、「愛と敵意の迷走」の節の次の文章です。
 その日、一学年下の学友とのお喋りの中で、あの下級生の子の話題を聞きます。本当に育ちの良い子ですね。新歓コンパで潰れた男の子を最後まで介抱していたのがあの子でした。最近服装が派手になったという噂です。

「あの子」の性格について描写する一文としてですね。ホント人生で出会った、一番素直で優しい人だった感。。
その性格的特長が、この「自己の受け入れに向かって」の心理顛末につながるわけです。

加筆はそこだけで、読み返してもらうには及ばないかと。

No.795 2005/11/19(Sat) 12:13

感情と行動の分離を行った鳥越キャスター / しまの

最近直腸がんの手術から仕事現場に復帰したジャーナリストの鳥越俊太郎さんですが、闘病生活を支えた自らの姿勢について話しているのを聞いて、ハイブリッドの姿勢とまさに同じだなあと感じたものがあります。

それは、「苦しむ自分とは別に、この闘病過程を取材するジャーナリストとしての、もう一人の自分を作った」とか言うもの。
ジャーナリストの目とは、事実をありのままに見る姿勢と言えるでしょう。「嘆き」も「慰め」も、そして自分の中の「生きる意欲」も、全てひとつの事実として見る。
そして事実に基づいて、真実や、新しい知識を得ようとする姿勢。

なぜそれが鳥越さんを支えたか。そうゆうジャーナリストとしてあることが、鳥越さんにとって「唯一無二の存在として世界と調和する」ことだったのだからでしょうね。
詳しくは「人生における優越課題」の解説の時に説明しようと思いますが、この「唯一無二の存在として世界と調和する」が、「優越」という心理発達課題の達成の姿である、というのがハイブリッドの考えです。

「自動思考とハイブリッド思考」シリーズで詳しく説明する予定ですが、ハイブリッド思考は上述の鳥越さんの姿勢と全く同じ姿勢で始まります。そしてそこで使う目は、「心理学の目」です。
自分の中のあらゆる感情や思考を、まずひとつの事実として観察する。
「自動感情」を中和する別の思考を立てるわけではありません。自動感情を何とかなだめようとする別の感情や思考も、ひとつの事実としてまず知る。

まその先はハブイリッド心理学独特の世界になりますね。選択を知り、選択をしていく過程になります。
「ジャーナリストの目」と「心理学の目」が違うのは、「心理学の目」を持って思考し行動していくことが、「心理学の目」で見る対象である自分自身を変化させていくことです。

そうしていったん「自動感情の塊である自分」と「心理学の目の自分」を分離させることから始まった歩みの中で、前者は変化していき、後者はより深い理解へと成長する。
そして2者が最後には「統合」に向かうわけです。

なおちょっとネットで関連記事見てたら、鳥越さんが手術費用を勘違いして「3500円だった」と発言したのを、「せっかくの闘病ドラマが台無し」という記事があった。
その記事を参照の上、鳥越さんの体験公表全体を攻撃批判するブログだったわけですが、「たかだか助かることが決まっているような病気で公共の電波を乗っ取るな」「このような大袈裟に取り上げること自体が何か違っているのではないか」だってー。

「台無し」というのは実に自己操縦心性に親和的な言葉ですね。
「台無しになった」というとき、それは事実ではなく、それを言った人の内面の空想世界のことを言ってる感覚がするのが大抵ですね。
ブログのコメントも、とっても否定型価値感の世界。。

No.792 2005/11/18(Fri) 11:41

自己操縦心性の成り立ち-4:背景その1否定型・受動型の価値感-4 / しまの

■人の目を前提にした価値

否定型価値感から「望みの停止」が起きること、それと同時に「自らは望まない」「望む資格思考」という価値観が発達することを説明しました。
また、「優越」という心理課題を背景にして、この人間の中で「辛抱」「苦労」「辛さ」「我慢」という自分の姿をテーマにした優越衝動が発達することも説明しました。

これは基本的に、人生の価値が人の目を前提にするという構図です。
人生の課題を大ざっぱに「愛と優越」というとすると、それが人の目を前提として獲得されるという感情論理です。
この基本構図がその後、いかに複雑な心理構造の発達を必然的なものにするかを、考察していきます。


■感性の変形

愛と優越が人の目を通して達成される。これは、そうゆう感情や思考がその人間の中に流れるということです。
同時に、特有の「感性」が発達することに注目できます。

そして感性は感情や思考に比べて、自分自身で検討吟味するものというよりも、「そうあるもの」という前提の目で物事を見る背景になる。この結果、心理障害にある個人の目に映る世界が普通とはちょっと異なるものになるという、この人間のその後の心理傾向にとって極めて広範囲の影響を及ぼすものになります。

実際、この「感性の変形」が、心理障害の症状の中でも最も恐ろしいメカニズム(?)だと言ってもいいかもしれません。幻覚妄想のような精神病状態への入り口があるという点でです。
逆に言えば、幻覚妄想のような症状があっても、それは純粋に心理メカニズムから起き得る、心理的取り組みで解消する可能性もかなりあるということです。


まずは、心してこの問題の認識を得て頂きたいと思います。

この感性レベルの変形とは、「否定型価値感」から発達する「受動型価値感」のことです。
次は返答メールからの引用。

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■受身型の価値感

「自ら望める」心の世界では、他人に依存することなく内面から湧き出る望みによって、自分自身によって「生きる価値」を感じることができます。
従ってこの心の世界では、人生の価値が比較的自己完結的で、競争心があまり膨らまないという仕組みがあります。

一方、自分からは望めず、他者によって望むことができる(善または価値ある者になれたら望める)心の世界では、自分一人だと豊かな感情が湧かず、人生の価値の感覚が希薄です。人は本来望みによって生きるからです。
人から評価され求められた時、自分も望むことができます。その時だけ、自分が「生きている」という感覚を感じることができます。

この結果、本来「望み」が「価値」を生み出す、という構図が、「人から評価される」が「価値」を生み出す、という形になってしまいます。

これがどうゆう結果になるかというと、人生の目標が、人から注目される種類のものに偏るという心理現象です。
TVアイドルスポーツヒーローの類が、典型的にまぶしく感じる世界になります。

これは僕自身の若き時代(^^;)を振り返っても感じることです。
人付き合いが苦手であまり好きでないのにもかかわらず、人が大勢いる所にいたがる。そのような職場が想定される仕事を望む。一人でこつこつ仕事すると、何か意味を失ったような心細さを感じる。
考古学研究みたいに、一人で物に向き合う仕事に、どこに面白みがあるのだろうと感じたのを憶えています。

否定型価値感の少ない、「自ら望める」心の世界で育った人というのは、人生の価値を他人にあまり依存しないので、そうした「暗く孤独な」仕事にも結構目をキラキラ輝かせて没頭したりするんですね。
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■受動型価値感の定義

改めて「受動型価値感」の定義をしましょう。
それは「感情を湧き出させるための価値を感じることが他者の存在に依存する」感覚のことを言います。自分ひとりでは感情が湧き出さず、他人という刺激に反応するもののように感情が湧き出る傾向です。

「自らは望まず、人がそれを自分に望むのであれば、自分はそれを望むことができる」という感情論理です。
「否定型価値感」から「望みの停止」「自らは望まない」「望む資格」という情動や思考の変化と共に、この感性レベルでの変形が必然的に起きます。

とりあえずここでカキコしましょう。
次に、この感性レベルでの変形が及ぼす影響について、それが現れる心理状態を幅広く考察します。
「嫉妬心」の発達もそのひとつになります。

No.788 2005/11/16(Wed) 13:36

 
Re: 自己操縦心性の成り立ち-4:背景その1否定型・受動型の価値感-4 / おやじ

こんにちは。

少しお尋ねします。
私は、もの心がついた頃から親の言いなりにに、なっていた様に思います。
親の顔色を伺いながら、親が望んでいる行動を取ってきました。
親が「こうしなさい、ああしなさい」「これは駄目、あれは駄目」
と親の望む様に行動していました。
「こうしなさい、ああしなさい」よりも「これは駄目、あれは駄目」の方が
圧倒的に多かったですが・・・。

私は、親の道徳観で縛られていましたので、自分から欲求が湧いても「親が望まないだろうな」と思うような事は行動に移しませんでした。

受動型価値観・否定型価値観は私が幼児(6才〜)の時に、既に私の中に在ったのでしょうか?

No.789 2005/11/16(Wed) 14:51

 
Re: 自己操縦心性の成り立ち-4:背景その1否定型・受動型の価値感-4 / しまの

どうも〜。
これは「否定型価値感」と「受動型価値感」で話が違ってきます。
(知的に意識される「価値観」ではなく、感性感覚レベルということで「価値感」という言葉を使用します。)


1)否定型価値感
これは「人生における価値」という感覚として生まれるものなので、幼児期にはないです。
思春期以降の、「人生」という感覚が起きて「優越」という課題が発生し、その材料として抱かれる「価値感」

子供はもっぱらその価値感を大人にぶつけられる対象になります。
「望みの停止」が蔓延し、「自らは望まない」姿勢や、「望む資格」思考が骨の髄まで根深く染むこむ時期ということになります。
また、「望む資格のない自分」という自己像の浸透が問題になります。価値のない自分という感情が染み込み、一部は感情の膿化します。

そしてその子供が成長して思春期に入った時、子供の心には自発的望みが少なく、世界や人生の肯定的側面を見る視力が減少しているので、肯定型価値感は育ちにくい。
親から受け継いだ、もしくはその逆形のような、否定的道徳を材料として、世界や人生の否定的側面を見る、否定型価値感が発達し始めることになります。

そして「価値のない自分」という感情が心の底に根深くあればあるほど、否定型価値感はより破壊的で激しいものになることが予測されます。その感情の膿から逃れる手段になっているからです。

そしてそれが子供に向けられます。輪廻ですね。


2)受動型価値感
これは「自らは望まない」態度と同時に発達を始めますので、幼児期から起きていることになりますね。
幼児期におけるこの度合いの影響は、「感性の変形」の度合いとして表面化すると思われます。この具体的内容は次のカキコにて。

嫉妬心は基本的にこの受動型価値感の結果、発達するという説明も次にします。
受動型価値感は幼児期から起きる。だから嫉妬深い子供というのができる。
否定型価値感は幼児期にはあまりない。人の欠点を批判することに熱心な子供はあまり見ませんね。

受動型価値感が強度になると、嫉妬心の激しさと破壊性も増す傾向は、多分あるでしょうね。他の要因も関連すると思いますが。。

No.791 2005/11/17(Thu) 00:46

ダイジェスト大学生活終了までの2章近日Up! / しまの

ダイジェスト続編ですが、その後の5か月間を1章でというのはやはり無理があったようで、2章にわける予定です。
「自己の受け入れに向かって」「新たな人生へ」の2章で。
前者の題はちょっと変えてもいいかなとも思いますが、やはり流れとしては「本当の自己受容」はこの時に始まったと思えるので、それでいいかなと。

その点をちょっと治癒論から触れると、ハイブリッドでは「基本的自己受容」を最初の入り口に位置付けているのですが、それは「成長への意志」であって、実際に「自分を受け入れられる」という心理状態になるのは、自己操縦心性の大きな崩壊後だ、という考えにやはりなります。
僕自身の例でも、そうでしかなかったということになるかと。

ま自己操縦心性というのが基本的に現実の自己の否定の上に立っている心性なので。
「自分を受け入れることで心理障害が治る」というようなイメージをお持ちの方も多いと思いますが、実際はそうじゃないです。

現実の自分を受け入れられるかどうかは、心理障害の治癒とは別問題、のような..
心理障害というのは、現実の自分を見れない状態なので。
治癒は、現実を現実として見ることができる状態への回復ですね。そうして現実のままに見える自分をどう感じるかは、治癒後に開ける新しい世界と言えるように思えます。

まそれはともかく、ラスト書いてて泣けましたねぇ。ま自分のことだからか、アッハッハというところで、世の人々にどう感じてもらえるか楽しみだなー。

あ、本題(^^;)。Upは出来次第ですが土曜あたりかなと。

No.790 2005/11/16(Wed) 15:12

自己操縦心性の成り立ち-3:背景その1否定型・受動型の価値感-3 / しまの

まず、「望みの停止」が「否定型価値」から生まれるという説明をします。

「望みの停止」とは、望みが達成されて充足感に変わるのでも、達成未満でも全ての可能性を尽くしたことへの満足感に変わるのでもなく、つまり「望みの消化吸収」が起きることなく停止されるものを言います。
達成も消化吸収もされていないのに、望みを停止する。それは望みを停止することに何らかのメリットがあるからです。

それがまさに「否定型価値」です。その上で、「望む資格思考」の論理が生まれ、「望みの停止」が起きる。返答メールより。

--------------------------------------------------------------------
メカニズムを超えた全体の流れを決める選択は、「肯定型価値」「否定型価値」というただ一点にあるという話。
徐々に成長する中で、その選択ポイントが見えてくればいいですね..と人ごと言葉ですが(^^;)、「操縦心性の成り立ち」で解説したいキモのひとつということで、一通りまとめました。


■望む資格思考のメカニズム

>望む資格のためだと思います。
>今の自分が楽しそうにしてたり「なりふり構わず」望みに向かうのを
>想像すると腹が立つのです。
>
ある行動は自分がよしと認めた者でなければ、望む資格はないという視線を、
>常に他人に持っています。
>ゆえに
自らをよしと認められない限り、自分もまた望んではならない
>しかしいくら目を逸らしても結局「望み」は残る訳です。


これはまず、心に何が起きているのかの心理メカニズムを知っておくのがいいですね。
変更不可能な「連鎖」がどこで、変更可能なというか最初にあった「選択」はどこにあったのか。
そしてその「選択」の結果起きる連鎖により、抜け道のないような窮地に陥るわけですが、「選択」が最後まで残りつづけることを説明したいと思います。


■全てが「否定できる価値」から始まる

これはすべて「否定できる価値」を選択したところから、全てが連鎖して起きます。

2005/10/08「自己操縦心性の成り立ち-1:背景その1否定型・受動型の価値感-1」
で、自己操縦心性、つまるところ心理障害が生まれる背景を書き始めていますが、全ての最初に、「肯定型価値」と「否定型価値」のどっちに心が揺れるかという分岐点があります。

全てがそこから始まります。あとはほとんどが自動的な連鎖として起きます。
どっちを選んでいるかの配分量により、その後の人間の姿は決まったも同然です。


■否定型価値が生み出す望みの停止

「否定型価値」とは、「否定できること」に価値を感じることです。
善悪という観念は、基本的にこれでできています。悪を許さないことに価値があります。その信念に価値があるわけです。

そこでは「善」は、「悪でないもの」という悪あっての善という消極的概念です。
なぜなら肯定型価値の感情を開放した時、「悪」がなくなるので、ことさら「善」というものもなくなるからです。
これは理解しにくいことかも知れません。未知なる肯定型価値の感情を開放した後に実感できると思います。

否定型価値を使うと、それを向けられた相手は「望みを停止する」ことでそれに応えるという形になります。

なぜ「否定できること」に価値を置くと望みを停止することになるのか?
ちょっとつながりが奇妙な感じがして考えたのですが、要は「その姿では駄目だ。その姿を消せ」ということなんですね。悪いと感じる相手の姿の「消滅」を求めるということです。
これに対して、望みを停止する。つまり感情を停止させると、いったん消えたような感じになるんですね。

もちろん人間は本来相手の「望みを絶つ」ために善悪観念を使っているとは本人は思っていません。あくまで善を求めてそうするのだと感じています。
でも結局、いったん目の前から消えて、出直せということです。
悪であるものは、いったん望みを停止すれば、ひとまずいいだろう、ということになります。

善い者、価値ある者だけが望むことができる、ということにならざるを得ませんね。


■望まない価値

この否定型価値の世界では、「自分からは望まない」のが原則になります。

なぜなら善い者価値ある者が望むことができるのですが、自分で自分を善い価値ある人間だと言うことは、自分勝手で傲慢な姿になるからです。
自分からは望まない慎ましさは、それ自体がこの世界では価値になります。それを人が認めることで、この者は望む資格を得ます。
「望まないことで望める」。パラドックスです。

この世界で、傲慢というそしりなく「自ら望める者」とは、かなり特権的なニュアンスを持つことになります。それは万人がその善性や価値を認めて、既成事実のようになっている人です。
いきおい、美人や才能ある人間ということになります。

それ以外の「平民」(^^;)は、慎ましさ我慢辛抱頑張りが価値になります。「辛いのに頑張っている」という、もう一つの典型的価値というか善の感覚が抱かれます。

ここまではまだ素直な(?)、表側の心理の流れです。
この裏で、感情が歪んでくるメカニズムが働きます。それを理解すると、逆に歪んだ感情が健全な感情に戻る、より具体的姿が分かってくると思います。
--------------------------------------------------------------------

ここまではまだ「感性の変形」は起きていません。
それでも、人生の欲求は既に屈折したものになっています。

「優越」が否定できない心理課題である時、上記の特性がそのテーマになります。
「苦労」をテーマにした優越感や劣等感。
さらに「辛さ」ををテーマにした優越感や劣等感。


リストカットなどの自傷行為は、多くは自己嫌悪感情の膨張による苦しみからの逃避として行われるものですが、しばしば、自傷行為の派手さが「優越」のテーマになっているかのような例を見ることもあります。

「苦労」や「辛さ」がプライドのテーマになった場合、まず本人の優越欲求は抑圧されるのが常と思われます。
それを見せつけることで特別扱いを要求する衝動が、本人の意識においては「善悪」の問題に化け、辛さを理解しない他人への破壊的怒りに陥るという典型的姿が生まれます。

ただしこの心理メカニズムは極めて複雑であり、今書いた言葉はごく表面を捉えた皮相な観察でしかありません。より正確なメカニズムについては、このシリーズがかなり進んだ段階でもう一度考察したいと思います。

次に、感性の変形を生み出す「受動型価値感」について説明します。

No.787 2005/11/16(Wed) 00:53

自己操縦心性の成り立ち-2:背景その1否定型・受動型の価値感-2 / しまの

自己操縦心性の基本的機能を説明するシリーズ、10/08以来のその2。


■否定型価値感おさらい

その1では「否定型価値感」について説明しました。

我々が人生で何に価値があると感じるか。
否定型価値感とは、「否定できる」ことに価値を感じる感覚のことを言います。「それは駄目だ」と言えることに価値がある。

ようはこれは「道徳」です。
善をなしなさい。悪を行ってはいけません。悪を許してはいけません。
もちろん道徳にも肯定的な価値感はあります。命を尊ぶ心。思いやり。
でもそこには必ず否定型価値がつきまとっていると思います。それができないのは駄目。

これに対して、ハイブリッドが立つ倫理思想は「サバイバル性善説」です。
破壊ではなく自衛と建設を選ぶ。それに沿うものであれば、何でもあり。何でも価値がある。
「それは駄目だ」とは言わずに、「こうすればいい」と言います。「あるべき姿」ではなく、前に進む強さと能力の開放獲得をモットーにします。

一方、人間の情動変形の始まりに「望みの停止」があるという話をしています。「望みのメカニズム」シリーズにて。

以下では、「望みの停止」は否定型価値感から生まれるという話をします。
そして「望みの停止」から始まる、その後の情動変形メカニズムを説明します。これについては既に「皮相化」「荒廃化」が起きることを説明していますが、その中間段階をさらに説明することになります。

中間段階とは、欲求が変形する前に、感性が変形するという話になります。
心理障害にある人が、「どうも普通とは違う感性」を持っていると感じる、その内容を説明するものになるでしょう。

そしてその「感性の変形」の先にあるのが、「嫉妬心の発達」という必然的結末です。
この結果、世界が「人々」と「自分」、そして「ホンモノの人間」と「ニセモノの人間」に分断されるという結末を説明します。

否定することに価値を感じる。これは選択です。
それ以外は全てが連鎖として起きます。これは選択不可能です。
つまり全てが「否定型価値感」を選択した結果の連鎖として起きます。

そしてその結末を概観した時、この「否定型価値感」はどうも人間の脳のバグではないかという感覚さえ感じさせます。
それによってその人間の人生が狂わされることに、バグを感じるということではありません。
人生が狂うことが必然でありながらも、本人がそれを人生で重要なものと信じきる姿に、バグを感じます。

以下、返答メールから引用しながら解説します。

No.786 2005/11/15(Tue) 12:15

町田市女子高生刺殺事件の心理 / しまの

その後の報道がTVなどで続いていますが、この犯人の少年について「心の謎」とかの言葉が使われ、またいつものように「それは解明されず謎のまま」として終わるんだろうなぁと眺めつつ。

ま通常心理の延長で考えている限り、理解できるわけないですね。
やはり心理障害という観点で見ないと。通常の恋愛感情と、心理障害を背景にした恋愛衝動の違いは何かが重要だと思いますね。

ということで、この犯人少年に殺害を実行させた心理要素など一考。
主に3つある。

1)相手が世界の全てになるという心理状態

これは「望みの停止」の蔓延によって、その人間の感情が枯渇するという状態を背景にしています。
人間は望みによって生きることの意味を獲得します。それが停止された時、世界と生は無機質無味になる。
ここで「受動型価値」という感覚が発達します。外部から何かを与えられることで、感情が出る。自分では自発的に感情が湧かない。
「受動型価値」については「自己操縦心性の成り立ち」シリーズで次に解説予定。

この状況で、恋愛感情は、相手が世界の全てになるという「依存恋愛」の衝動へと変形します。その相手の目を通して世界を見て、その相手の感情を通して感じる、そんな相手の存在への衝動。
健康な恋愛感情は、自分の目で世界を見て、自分から感情が湧き出る。そのワンオブゼムとしての恋愛感情です。
両者は全く異なる感情です。
この変形により、磁石に引き寄せられるように相手に惹かれる状態になります。本人の自己感覚は極度に空虚化します。

この受動性と同時に、情動の変形も起きます。まず皮相化
相手が身につけるものを所有するとか、写真映像を所有するなど。
ただ相手をじっと見つめるような行動に、この心理状態が現れます。情動が自分自身では湧かず、相手に吸い付くような形で情動を与えられる。
このありさまが「キモい」と感じられるものの正体ですね。


2)情動の荒廃化

望みの停止による背景的な苦しみが蔓延すると、情動の全体が破壊性を帯びるようになります。破壊が快感を帯びてくる。
価値あるものを破壊する衝動傾向が起きます。

これが「望みの停止」によるものだという心理メカニズムは非常に明瞭なのですが、本人は自分の破壊衝動を、まるでタケノコが地面から出てきたかのように、自分の「望みの停止姿勢」とは無関係にそれが自分の中に現れたという感覚を持つのが注目すべき点ですね。
自分の中の破壊衝動は間違いなく本人の自己嫌悪を深め、「望みの停止姿勢」をさらに確実なものにし、衝動の破壊性を強化するという悪循環があります。

人は良く「幸福なんて」「自分なんて」という姿勢を、自分の精神性や高潔性の維持であるかのように抱きますが、やがて「幸せそうな人を見ると腹が立つ」という破壊的嫉妬が自分の中に起きているのを知ることになります。
この2つがつながっているという視点をもち、自分の「望みの停止」姿勢に取り組むことが重要なんですね。


これは上記の、依存恋愛衝動の相手に対しても向けられます。
自分の情動の空虚を補うように相手に吸い付き情動を得て、しかもその相手を傷つけることに快感を覚える。
こうなるともう猟奇犯罪の世界が見えてきます。

おそら今回の事件の犯人少年も、このような心理状態が背景として起きかけていたレベルではないかと思います。まあくまで「起きかけていた」レベルじゃないかと。

「望みの停止」による情動変形が破壊性を帯びるのは、背景的苦しみからの快感的破壊というのと、あとひとつに、「価値あるものへの屈辱」があると思います。
依存恋愛感情においては、その心理状態に陥った本人は「負け」であり、魅力を発した相手が「勝ち」です。プライド損傷反応としての攻撃衝動が起きる。

この攻撃衝動そのものは、情動の変形とはまた別のものと思われます。むしろ一般人間心理に近いような。
自分の中の依存恋愛衝動によって、比較的健康なプライドが損傷を受けるという感じかと。だから依存恋愛から抜け出ようという意志が起きることもある。
情動の変形が一方にあると、それと融合されて相手への攻撃性になっちゃうかも知れない。


3)ニセモノの破壊

これが最も深遠な心理メカの部分。自己操縦心性にかかわります。
相手は「ニセモノ」であり、それを消滅させようとする衝動。

これが働いた時の特徴は、自分の攻撃行動が相手にヒットしても手ごたえがないことです。相手は得たいの知れないニセモノであり、人間らしい痛みを持つ存在ではない。
相手の消滅を求めます。相手が死んだのを見て、ようやく落ち着く。
今回の事件も、少年は少女の50個所以上も刺していたとのことで、これが働いていた可能性がある。

「ニセモノ」とは何の「ニセモノ」か。
「ニセの親」。これは相手に「宇宙の愛」を求めた場合。
「ニセの自分」。これは相手に「自我共有」を求めた場合。その相手が自分の方を向かないことは、自己存在の否定になる。自己存在のためには、その相手を否定する必要があるという論理。

No.782 2005/11/14(Mon) 13:58

 
Re: 町田市女子高生刺殺事件の心理 / おやじ

こんにちは。

>人は良く「幸福なんて」「自分なんて」という姿勢を、
>自分の精神性や高潔性の維持であるかのように抱きますが、
>やがて「幸せそうな人を見ると腹が立つ」という
>破壊的嫉妬が自分の中に起きているのを知ることになります。
>この2つがつながっているという視点をもち、
>自分の「望みの停止」姿勢に取り組むことが重要なんですね。

私は感情分析をすると「嫉妬」に辿り着く事が多いです。
私は嫉妬心を持っていないと思っていたので驚きました。

勿論、私には「望みの停止」が蔓延しています。
嫉妬心は望みの停止が原因まのでしょうか?その場合が多いのでしょうか?
大雑把な質問ですみません。

No.783 2005/11/14(Mon) 15:14

 
Re: 町田市女子高生刺殺事件の心理 / しまの

>嫉妬心は望みの停止が原因なのでしょうか?その場合が多いのでしょうか?

「望みの停止」の結果「嫉妬心の発達」が起きます。これは必然です。
このメカニズムは非常に重要なもので、ぜひ理解して頂きたいものです。


逆に見て、嫉妬心は望みの停止が原因か。
まあそうでしょうね。あらゆる嫉妬感情が、望みの停止の上で起きると言えるでしょう。
比較的健康で一時的な羨望から、「嫉妬心」といえるような人格傾向として発達するまで、望みの停止が土台にあります。

「望みの停止」から「嫉妬心の発達」までのメカニズムについては、「自己操縦心性の成り立ち-2」としてちょうど載せたいと思っていたところです。
明日にでもUpしましょう。

No.785 2005/11/14(Mon) 18:33

外化 / おやじ

こんにちは。
外化についてお尋ねします。

>1)自己嫌悪の外化(受身型)
>2)「べき」の圧力の外化
>3)破壊的攻撃衝動の外化と屈辱
>4)生理的に我慢できない相手(自己嫌悪の能動型の外化)

私の場合は@ABが時と場合によって起こっています。
Cは起こっているかもしれませんが強く感じた事は有りません。
私の様に3つのパターンを持っていると言う事は普通(?)なのでしょうか?

そして投射される相手の選択はどのようになっているのでしょうか?
自分の嫉妬心を駆り立てる人間でしょうか?
それとも誰彼構わず投射してしまうのでしょうか?

>感情の外化とは、本来自分の中にある感情が、
>自分の中ではなく他人の中にあるものとして知覚する現象です。

自動感情との違いをはハッキリと自覚できるものでしょうか?

解説をお願い致します。

No.784 2005/11/14(Mon) 15:47

掲示板のカキコ開放終了タイミング / しまの

先日日曜で終了と書きましたが、ポータルに登録されたかどうか毎日チェックする感じなので、登録されたのを発見(^^;)した時点でとしたいと思います。
その時は、書き込みパスワードが求められる形になります。

それまで現状通りとしますので、何かあればカキコ下さいマセ。

No.781 2005/11/14(Mon) 12:26

否定型の価値感 / おやじ

おやじです こんにちは。
11/12のアドヴァイス有難うございました。

>人生の望みを見出し、そこに向かう取り組みです。
>心理障害の治癒は結果としてついてくるものです。
>それが結果としてついてくることを目指す試みでさえもありません。
>「心理障害を治す」ことだけに意識が向いた時、心理障害は治らないものです

(´ヘ`;)ハァ 難しいですねぇ〜 頭では理解している積りなんですが・・・
心理障害が少し改善されたと感じたら「それ行け〜」ってなき持ちで焦ってしまい
どちらを向いて良いのかわからなくなって空回りして元に戻るような感じです。
お尋ねしますが、
自己操縦心性の成り立ち-1:背景その1否定型・受動型の価値感-1 10/08
の続きはあるのでしょうか?
私がシリーズに割り込んでカキコした為中断したのではないでしょうか?
中断しているのでしたら「原理原則立脚型行動法」シリーズが終ってから
再開をお願い出来ないでしょうか?
宜しくお願いします。

No.773 2005/11/12(Sat) 05:29

 
Re: 否定型の価値感 / しまの

了解です。
自己操縦心性については、このレスでワンポイントのアドバイスを書いておきましょう。
別のカキコねたがあり、ちょっと後で。

No.774 2005/11/12(Sat) 10:16

 
■自己操縦心性の最初の崩壊 / しまの

>(´ヘ`;)ハァ 難しいですねぇ〜 

おやじさんの状況ですが、察するに、
「どうすればいいんだ..どうすればいいんだ..」という感じで、さらに何をどうすればということなのかも良くわからない、という感じではないかと思います。

実際、おやじさんのケースは、「感情を自分でどうにかしようと」のをやめるということが、「感情と行動の分離」としての課題です。
でおやじさんも、そのことは「頭では分かっている」つもりで、それを「できるようになる」ためには「どうすればいいんだ..」と悩んでおられる。

..ってそれをやめることが答えなんですけど。。というのを僕が説明します。
でおやじさん、「そうか..でそれはどうすればいいんだ..」となる。僕、「“どうすれば”をやめることです」。おやじさん、「そうか..でそれはどうすれば..」
あはは。これ永遠にループします。

実は、これは自己操縦心性の特徴が表れているひとつの典型状態なんですね。
自己操縦心性が生み出す、「姿勢」「傾向」は、意識が生まれる以前に働いています。本人が意識でそれを捉えることができるよりずっと前に、自己操縦心性はある姿勢を取っています。


それは結局、本人を、「自分の心がこうであるべき」という「姿」に向かってストレスを加える思考の中に起きます。それを妨害する他人を消滅させるための怒りの自動感情を作り出します。

これは意識では直せません。
しかし特有の感じ方で深い自己理解を進めると、この「心性」は自動崩壊を起こします。


なぜ崩壊するか。それは、根本的に不可能なことを実現しようとする論理パターンからできているからです。
内部に矛盾を抱えている。それを「空想と現実の逆転」によって、問題は外部にあると体験させるのが、自己操縦心性の機能です。
この詳しい解説はシリーズ側で。

深い自己理解を進めることで、自己操縦心性は、本人が頭で意識できる以前に、自己破綻を起こします。操縦心性の働きそのものが意識よりずっと前に働くのと同じように、それが自己破綻する姿も、意識では捉えられないかたちで起こります。
意識上は、パニック的絶望感が典型的なものになります。

これに対する対処はきわめて明瞭なものを定めています。
何も考えずに、それをやり過ごすことです。これを「思考の断絶に入る」とか良く言っています。今までの学習実践のハイブリッドスタイルとは、ここで180度変換することになります。

「悪感情への耐性」を心がけて、じっと流すのがいいですね。

これが、心理障害の根本治癒の基本形であり、「心の手術」場面の最後に位置付けられるものです。

これが起きる状況は、色んな相談対応の経験を通じて、ほぼ決まっています。
感情分析が多少進み、意識関心がさまざまな方角に、磁気嵐にあった磁石のように移ろいます。一生懸命頭を働かせるのですが、それぞれの思考が途中から先が何故か切れます。
そして「あーもー駄目だ」という感情にどっと襲われます。

おやじさんの場合も、メールの方も考慮すると、これが今起きる時期かと。

多分最初の崩壊、「プチ崩壊」とでも言えるものですね。アハハ..^^;
http://tspsycho.k-server.org/ana/ana06-0203.html
でも、「最初の絶望体験」と書いていますが、これが自己操縦心性のレベルの話になる場合もあるでしょう。

それらしい感じになったら、対処については以下でも説明していますので参考下さい。
2005/04/07 心の手術-3:操縦心性崩壊時へのアドバイス

シリーズの方では、操縦心性の崩壊について、感情の膿や残存愛情要求まで巻き込む、より本格的なものについて解説しようと思います。
対処の考え方は、ここで書いたものと同じです。死んだつもりで休息するのもいいことです。
「看取る」という姿勢がここで登場します。

こうした段階を経て、思考の断絶の後に、全く未知の感情が現れる
これが治癒の基本形になります。

No.779 2005/11/12(Sat) 15:31

 
Re: 否定型の価値感 / おやじ

こんにちは。

>..ってそれをやめることが答えなんですけど。。というのを僕が説明します。
>でおやじさん、「そうか..でそれはどうすればいいんだ..」となる

解説有難うございました。
私が予想していた回答でした。頭では判るのです。
右を向いても左を見ても壁のようなものが有って先へ進めない状態です。
まぁ兎に角「どうすれば良いんだァ」をやめちゃいます^^;

No.780 2005/11/12(Sat) 16:11

Re:「現実による覚醒」 / おやじ

こんにちは。

3)「現実による覚醒」という話。これが最近良く言っている、治癒成長における「壁」を破るための鍵になります。ハイブリッドのような心理療法において、頭で理解して自分を導くだけでは壁がある。それを超えるのは「現実への出会い」だということです。
No.707 2005/09/01(Thu)


上記の詳しい説明をお願いします。
お願い続きで申し訳ありません。

No.778 2005/11/12(Sat) 15:02

究極の行動学:原理原則立脚型行動法-2 / しまの

この行動学はとにかく「原理原則」の中身が伴わないと意味ないので、ハイブリッドからの解説の前に、具体例を幾つか出しましょう。


■具体例-1

単純な場面の例。僕自身の経験より。

6年前に今のマンションを買ったのですが、当時とにかくマンションを買おうという機運で、今のとは違うマンションで手ごろなものを見つけ、それにしようと決め申込書にサインをしました。
その直後、今のマンションの営業担当者から連絡があり、既に売却完了の棟でローンが組めずにキャンセルが出たのでどうかとのこと。他の棟は入居が1年以上待たされる情況だったので、違うマンションの方で手を打った次第でしたが、キャンセルが出た方は間もなく入居可であり、他の条件も全然いい。

ということで、こっちに変更し、申込みしたマンションの担当者に、やっぱやめますと電話。
担当者は何とか思いとどまらせようと、「今からお宅に伺います」のでと。僕は「いや申し訳ないですが話しても無駄ですので」と言うと、「部下にも示しがつかないので」とのこと。

でまあ相手は、自分の方のマンションの方がいいことを再度説明しましたが僕が取り合わないと、今度は「約束を守って頂けないことが残念。決めた約束を守って頂けないのか。」と、道徳心に訴える話へ。
で僕は適当に聞き流していましたが、それが繰り返された時、「いやその点はホント申し訳ないですが、これは僕の権利ですので」と一言で、相手は戦意喪失。

あとはその場で申込み書を破いて、引き上げて行きました。


■具体例-1の解説

これは最も単純な例ですね。
この頃は僕自身、原理原則立脚型の行動が身についており、感情はほとんど揺れず飄々とした対応です。

担当者の方は、道徳心の土俵で僕と勝負しようとしたわけです。
これは「人の心はこうあるべきだ。貴方の心はこうではないか。そんなんで情けなくないのか。こうしないのか。」と、「心のあり方」がテーマになります。

僕はそれには一切関わらず、「権利」「契約規定」を問題にする姿勢を示したわけです。今回の申込みにはどれだけの拘束力があるのか。破棄条件は何か。

これは、相手との対応において、自分のこと、もしくは相手のことを、問題として取り上げなていないということです。
自分や相手という人間を取り上げるのではなく、「義務と権利」「契約と履行」という「概念」、つまり原理原則を取り上げて、それはどうなっているのかと議論する姿勢です。

この議論の仕方の特徴として、2つ指摘しておきましょう。
第1に、自分と相手についての意見は言わないこと。原理原則についての意見だけを言っています。
第2に善悪観念を一切使わないことです。
これは原理原則立脚型行動法が全てそうだというのではなく、ハブリッドが推奨する原理原則立脚型行動法という時、それは善悪観念を一切使わない原理原則を使う行動法を言うということです。
これはハブリッドの「善悪観念の完全なる放棄」からして当然の歩調合せです。

No.769 2005/11/11(Fri) 13:59

 
Re: 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-2 / ヨッシー


はじめまして。
実生活で問題が起き(心臓バクバク)、その対処に大変役に立ちました。
有難う御座いました。
問題解決までもう一息ところです。
私にとっては、文章が難しすぎて理解できない事が多いのですが
具体例は、とてもわかりやすかったです。
また違う具体例がありましたら、宜しくお願いします。

No.776 2005/11/12(Sat) 12:10

 
Re: 究極の行動学:原理原則立脚型行動法-2 / しまの

どうもー。
具体例その3ではさらに上級編を取り上げる予定です。こうご期待。

>文章が難しすぎて理解できない事が多いのですが

その際はぜひどしどし質問下さい。
僕の解説文章はもともと、かなり抽象言葉で、というか頭の中の最初は言葉以前の記号のようなもので考えた内容(あっはっは)を文章にしていますので、基本的に難解だと思います。

具体例、今後も増やしたいですね。

No.777 2005/11/12(Sat) 12:21

悲しくも愚かだった町田市女子高生刺殺事件 / しまの

珍しく事件ネタ。
昨日未明発覚(発生は10日夕刻)の町田市女子高生刺殺事件ですが、今日未明に同級生の男子が逮捕されたとのこと。

被害者の小山優亜さんは高校中庭で鍵の入ったカバンを盗まれていたとのことで、この高校の生徒が犯人である可能性がかなりあり、犯人もすぐ見つかるだろうと昨日考えたりしていましたが、予想したよりさらに早い逮捕でしたネ。

で今朝新聞を見ていて、この男子生徒は手に大怪我をして十数針を縫う怪我をしており、またクリーニング店に返り血のついた服を出していたとのこと。
この情況より、被害者の優亜さんは犯人の男子生徒とけなげに戦った末の惨劇であろう様子が想像され、何とも痛ましく感じました。

でその後、僕は何ともやるせない悲しみのようなものを感じた次第。
普段この手の事件については、草原でライオンがインパラの子供を襲って食らったのと似た程度の感情しか揺れないのに比べると、ちょっと違った感情が自分の中に起きたのを感じ、自分は何を感じているのかと考えた次第。

で僕の胸を打っていたのは、「なんと愚かなことよ」という感覚なんですね。犯人の男子生徒ではなく、被害者の方がです。
優亜さんは鍵を盗まれたことについて、「知らない人が入ってきたらどうしよう」と心配していたとのこと。
入ってきたらどうしようではなく、入ってくるんです。
するべきことは、入ってこられないように自衛することです。即。
鍵を盗まれたのは2日だったとのことで、1週間以上放置していた。これはもう自衛する気がなく自ら招いていたというのが事実とさえ言えるでしょう。もちろん本人は毛頭そうゆう意識はないでしょうが。

そして印象強いのは、この事件全体があまりに幼稚なレベルで起きていることですね。被害者もそうだし、犯人もそう。
そうした事件を防ぐのはもう初歩の初歩とも言える簡単な情況で、失われたものはあまりにも大きすぎたということが、この事件への何ともやるせない悲しみを起こしたのだと思えました。

鍵を交換しなかったことについては、母子2人暮らしだったお母さんの役割が大きかったかもしれない。明るく優しい娘さんの存在が支えだったとのこと。
自衛の能力も当然最初から得るものではなく、失敗から学んでいくものですが、今学んだところでどうにもならない損失が起きてしまった。

「被害者に対して愚かとはなんたる言葉だ」との批判がちょっと浮かび。
まあ、それが僕の世界観なんですね。サバイバル世界観です。

はっきり言えるのは、僕は今この世界への、そして何よりも子供たちへの愛を自分自身の中に感じるのですが、この愛は自分で確信を持てる「心の強さ」を獲得した結果自然に湧いてきたものであり、「心の強さ」はそうした言葉が想定する世界観とは対極にある世界観の中で育てた結果であることは、確かだということです。

No.775 2005/11/12(Sat) 10:55

Re:「心の理想」もほどほどが理想 / おやじ

こんにちは。

最近の私は自動感情・自動思考に悩まされる時間が短くなりました。
行動との分離も上手く出来るようになってきました。
で、チョット有頂天になったのだと思います。
広場の方にも書いた事なのですが、分離に躓くと「がっくり」ときてしまいます。

>「定められた姿になることを目指す」という心の姿勢の、
>肩の荷物を降ろしましょーということです。

自分では定められた姿のイメージはありませんが、心の理想は持っているのですね?
自分に優しく他人に厳しくをモットーにしてきた積りですが^^;、
自分にも厳しい目を向けて生きてたのですね。
ちょっと躓くと一歩進んで二歩退いた感じになり自分を責めてしまいます。
気長に自然治癒力にまかせると言うことは判っているのですが、根がせっかちなので
わかっちゃいるけどやめられな〜い♪です。

良い時もあるのですよ。
大きく激しい自動感情が湧いた時に、上手く行動の分離が出来て尚且つその感情の説明がついたと時、心が軽くなる様に思いますが「錯覚」でしょうか?

No.771 2005/11/11(Fri) 18:18

 
Re: Re:「心の理想」もほどほどが理想 / しまの

>心の理想は持っているのですね?
そうですね。だから「自分を責めてしまいます」となる。

心の理想の掲げ方がちょっとずれちゃってるので、見直しましょーという話。
心を縛る形から、育てる形へ。
「いつまでにこうなれなきゃ」と「成長後の姿」を自分に押し付けるのではなく、いつかその姿にも近づくであろう方向を知りそれを歩む
この考え方を選択するのが、基本的自己受容
「方向」とは、次の「感情と行動の分離」以降の取り組みを指します。

「感情と行動の分離」行動は感情に巻き込まれないようにして、思考法行動法と、内面感情に対して別々の取り組みをできるようにする。

でおやじさんの場合は、「感情に巻き込まれない」だけが一人歩きして、「次の取り組み」が視界から消えちゃっているような感じがちょっとしますねぇ。
一人歩きしている「感情に巻き込まれない」が、「自分はこうあるべき」として、もとの自分を縛るという姿勢に戻っているような。

これは10/24「自動思考とハイブリッド思考-4」で言った、「何を問題として取り上げるか」の躓きだと思いますね。
最後に現れる感情ほど、取り上げるのにふさわしいという定石があります。
つまり、取り組むこととして取り上げて欲しいのは、「分離に躓くとがっくりときてしまいます」なわけです。

これは実は、ハイブリッドを実践しようとする姿勢そのものを取り上げるということでもあります。多くのケースでそれが相応しいものになります。
自分が自分をハイブリッドでどうにかしようと考える。それ自体を取り上げるという、もう1枚かぶせる感じですね。

がっくりしたとしても、自暴自棄な行動はしないでおく。それが行動の分離。
がっくりした感情とは何の感情か。これを心理学的に理解する。理解するためには、ありのままに受け入れる。がっくりした自分を責めるよりも、その心理メカニズムを理解する姿勢です。これが自然に、「次の取り組み」に進みます。

「感情と行動の分離」そのものは、あくまで通過点であり、それ自体にあまり治癒効果はありません。
ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長への道」に示すように、まだ「心を曲げ続ける姿勢をやめる」段階です。治癒効果は、その後の取り組みの方が主になります。

その取り組みが、基本的自己受容で「姿ではなく方向」とした、「方向の内容」の答えです。

No.772 2005/11/12(Sat) 00:21

究極の行動学:原理原則立脚型行動法-3 / しまの

久々の一日3カキコ以上♪


■具体例-2

これも単純例。

今朝の新聞に、安部官房長官へのインタビューが出ていました。
質問。来年9月の総裁選に出馬する意向は?
回答。官房長官は女房役として首相を全力で支える立場で、それに集中すべきだ。自分自身の政治的な目標を喧伝することは厳に慎みたい


■具体例-2解説

これも原理原則立脚型行動法のちょー典型的なもの。さらに、これを実行する人物が自然にかもしだす信頼感を説明する良い例です。

典型的であるのは、自分のことも、質問を出した相手のことも何も言わず(人によっては「そんなバカな質問するな」と良くいう場面です)、「官房長官の役割」について話していることです。
善悪観念のない原理原則の例でもあります。

もう一つ、これを見て僕は安部官房長官に対する信頼感をグッと感じたのですが、その信頼感とは何かを一考。
2つあります。まず、僕自身が良く知らなかった「官房長官の役割」について、前より分かったという感覚が僕の中に起きた。
次に、それを話したこの人物は、原理原則を知っている、原理原則を身につけた人間だという人物感が起きた。
でこの結果、「この人物に近づくことで自分は学べる。自分自身が向上できる。」という感覚になるわけです。


■優越するための最強の姿

「優越」が人間の心にとって結局捨てることのできない心理課題だという話を、別途しようと思ってます。
そのために、こうした姿を目指して欲しい。これがハイブリッドからの提案です。これが目指して実際に近づける、「優越」の手段です。


「優越」には、主に2つの形態があります。
ひとつは「相手を打ちまかす強さ」。もうひとつは「価値の所有」です。「価値の所有」にはさらに、価値の種類が出てきます。

価値の種類として、「原理原則の習得」は最も強力なもののひとつです。
面白い(?)のは、これは自分自身の優越を求める感情を使わない方法だということです。むしろ、この行動法をする人間の回りの人々の優越欲求を刺激し、人々が自分が勝つためにはその人物に近づこうという気持ちになる。
回りに押し上げられるような形で、「優越」を獲得します。

「相手を打ちまかす強さ」は、心理障害の自動感情の中で使われる「優越」です。
それは心理障害の苦しみに根ざした、復讐的な色彩を帯びます。自分自身の価値を高めるのではなく、相手を叩き降ろすことを目指します。
相手の中に屈辱感と劣等感を引き起こすを、勝利とします。ここに、本来は直接的に見ることのできない「心」を土俵にした「勝負」という、病理の芽があります。
先のその2カキコで触れた、「道徳心勝負」はまさにそれです。

そして、「相手を打ちまかす強さ」は、勝利感を体験させる一方で、それ以外の価値はあまりその人に付与しないので、それに心をかまけている間に、逆にその人の価値が失われていきます。
「格付けしあう女たち」という番組は、これをブラックジョーク化したものですね。格付けし合う姿によって、まさにその人たちの格が下がっていくのを笑うわけです。

感情は心にしまい、外面は建設的にという「感情と行動の分離」において、復讐的勝利衝動への対処のひとつの答えが、これになります。
勝利衝動は抑圧する必要はありません。勝利への願望は否定せず、相手を打ち負かしたいという短絡的衝動は利に合わないものとぐっと心にしまい、長い目での勝利を目指すことです。


そして本当に強くなった時、相手を負かしたいという気持ち自体が消えています。「相手に追いつめられた」という、弱さに基づく感情だったからです。

No.770 2005/11/11(Fri) 14:44

「心の理想」もほどほどが理想 / しまの

ちょっとワンポイントで、初心者(?)向け解説などひとつ。
「基本的自己受容」の話になります。ハイブリッドの取り組みの最初に位置付けられている話。

基本的自己受容については、「唯一無二の存在として成長する意志」という定義をしていました。
逆の表現をするなら、「定められた姿になることを目指す」という心の姿勢の、肩の荷物を降ろしましょーということです。

でその最初に言ってもいいような話がこれかなと。出版本の原稿の順序など浮かべながら考えてます。
それは、「心がこうあらねば」という自己ストレスなんですね。これが、常に大元にあります。それが役に立たず、かえって問題を生み出していることを知っておくのがいいですね。

自分のうつ状態を良くないと思う姿勢が、うつ状態を生み出します。
自分の人格障害を嘆く姿勢が、人格障害を駆り立てます。


そしてその姿勢の大元には、「心の理想」を追い求めようとする、気高い心の理想への願望があると思います。
でもそれが、自分の心を厳しい目で監視し、評価し、批判しようとする目になった時、心は萎縮し、伸び伸びとした感情を失い、まさに追い求めた心の理想から離れていきます。

その「心の理想」から、人の心を詮索し、欠点を探し、怒りの中で叩き降ろそうとする感情が芽生えていないか、注意して下さい。
もしそうなら、それが心の底で「人との愛のない自分」という感情を生み出し、憂うつの原因になっていることを理解して下さい。

「心の理想」もほどほどが理想です。

ではどんな「ほどほど」がいいのか。
自分の心を監視と評価と批判の目で見るのではなく、「心を育てる目」で見ることです。では「心を育てる」方法とは?
人を怒りの中で正そうとするではなく、怒りを使わずに対人関係を改善し、信頼を得る行動法を学ぶことです。ではその行動法とは?

それをこの本で詳しく説明します..って感じかと。
大体こんな語調で書きたいですね。最初でも分かりやすいっしょ。

ただ分かりやすいけどこれはまだ一面なんだな。。肩の荷を降ろしきれないものが残る。それは「追い詰められている」心の状態であり、捨てることのできない「こうなりたい自分」だとなる。で元の「こうあらねば」に戻る。。
愛と自信の基本的な心理学を述べた後で、心理発達課題の損失と回復という真髄の解説に入る。。という流れか。 ぶつくさぶつくさ。。^^;

No.768 2005/11/11(Fri) 13:12

究極の行動学:原理原則立脚型行動法-1 / しまの

では引き続き「原理原則立脚型行動法」について解説しませう。


■原理原則立脚型行動法の位置付け

まず、この行動学がハイブリッド心理学の中でどのように位置付けられるのかを説明しておきたいと思います。

おやじさん11/9「感情と行動の分離。」へのレスで述べたように、ハイブリッドが目指す心の治癒成長には、文字通り「治癒」と「成長」の2面がある。
ハイブリッドでは全てをちょー具体的に定義します。精神論じゃございません。

治癒とは、感情の膿・残存愛情要求・自己操縦心性の減少。
成長とは、心理学的幸福主義に立った、自己建設型の思考法行動法の習熟。
「原理原則立脚型行動法」とは、この「自己建設型の思考法行動法」の中で究極の行動学とも位置付けれらるノウハウです。

自己建設型の思考法には、一般的思考法の技術と、自己欲求を軸にした価値観人生観があります。
自己建設型の行動法には、建設的対人行動法原理原則立脚型行動法があります。
ウン、大分整理できてきましたねぇ♪

建設的対人行動法とは、共通目標共通利益だけに着目する行動法です。これは主に、良好な人間関係を育てることに役立ちます。
原理原則立脚型行動法とは、文字通り原理原則に立脚した行動法です..ってそれじゃーそのまんまなんでもう少し具体的定義を言うと、原理原則を示すことだけを行う行動法です。まず原理原則を示す。それに対する自分や相手の意向や感情は次の問題であり、場合により不問にする。
この行動法は主に、この現実社会における優位性を獲得することに役立ちます。

「優越」というテーマが出てくるんですねえ。原理原則立脚型行動法は、それに対する答えとしてハイブリッド心理学が位置付けるものです。


■原理原則立脚型行動法の人物像

原理原則立脚型行動法を習得した人間は、この社会においてどこでも間違いなく優位に立てます。なぜなら、この行動学を習得した人間が、まだそれほど多くないからです。

なぜ優位に立つのか。まあ「原理原則」が万人の求めるものだからだと思います。原理原則立脚型行動法とは、万人が求める原理原則を身につけた人間として行動するということですね。
まあもちろん、原理原則の中身が重要になります。それがズレると、今度は総スカンを食らうことになります。

原理原則立脚型行動法に習熟している人間は、ともてはっきりした人物像を持つようになります。
一言でいうと、人とのいさかいが皆無信頼が厚い人物です。
一番合うイメージとして思いつくのは安部晋三官房長官ですね。逆は管直人元民主党代表。
女性では猪口邦子大臣あたりか。逆は田中真紀子元外相。

原理原則立脚型行動法によって社会で優位に立つ場合、人に押し上げられるような形でそうなるのが特徴です。
内面はどんな破壊的競争心であろうと、外面では原理原則立脚型行動法を取れば、そうなります。



■強さによる自尊心獲得方法の修正

これが、心理障害の中で発達した破壊的競争心の克服方法として、ハイブリッドが提案する答えです。

ハイブリッドでは、「感情を正す」はしません。
破壊的な競争心もそうです。それを否定することなく、心にしまい、外面では建設的な行動だけにする。
しかし、競争心を心にしまった建設的行動というと、外面では競争心を否定した迎合的行動を取ることかと勘違いするケースが大半です。
それはもう「抑圧」です。それ自体が病理の芽です。

ハイブリッドでは、「優越」がひとつの心理発達課題だと考えています。詳しくは別の解説で。
競争心は、その方法が歪んだものです。それを、歪んだ感情に影響されずに、優越という心理発達課題を達成できる本来の方法に戻す。
これが11/7「ハイブリッドの治癒理論サマリー」で言った、「強さによる自尊心を、本来の達成の姿に戻す試み」です。

原理原則立脚型行動法は、建設的対人行動の一部と考えることも可能です。このため、この行動法によって「良好な人間関係」と「優越」が同時獲得され統合されます。

心理障害の中では、これとは逆の自動感情になります。
残存愛情要求の依存性と競争心の破壊性が、相互に妨害し合いながら強化し合ような様相になります。依存性が屈辱を招き、競争心の破壊性を増大させ、破壊性が人間関係を損ない、安全感を損ない、愛情要求がさらに依存性を増します。
際限のない泥沼のような自己膨張になります。

内面では感情を否定せず受け入れ、ただ知るのみを行う。
外面では建設的行動をする。
そして「優越」という課題を否定することは抑圧でしかなく、自己否定という元の轍に戻る。

この状況で、強さを目指すための外面行動として、原理原則立脚型行動法が利(理)にかなったものになります。


■道徳的行動法 vs 原理原則立脚型行動法

位置付けとして最後に、この行動法は「善悪の完全なる放棄」という、ハイブリッドの「サバイバル性善説世界観」につながるものです。
つまり、「原理原則」の中身は善悪観念を完全に排除したものを使います
具体的な内容は今後解説しますが、それは自然の原理であり、経済社会の原理であり、組織行動の原理であり、人生の幸福の原理であり、具体的なものです。
ハイブリッドではその内容として、現実科学に基づいたものを使う。

「原理原則立脚型行動法」の全てがそうだとは限りません。イスラム原理主義などは宗教型の原理原則立脚型行動法かも知れません。
ハイブリッドが推奨する原理原則立脚型行動法での「原理原則」の中身そのものは、本来心理学という枠からはみ出るものですが、できるだけそれも明瞭に示したいと思っています。
ま基本的には自由主義経済社会と、あとは心理学からの幸福の観点ですね。後者はハイブリッド理論そのものなりますので、原理原則立脚型行動法として特別に説明する場合は自由主義経済社会の原理原則の話が多くなります。

一方、我々が成育過程で学んだ行動法は、道徳的行動法です。善いことをしなさい。悪を許してはいけません。
そして対人関係は、善悪観念のやりとりになる。
ハイブリッドが推奨する原理原則立脚型行動法は、それが皆無になる行動法です。


■自動感情 vs 原理原則立脚型行動法

ということで、原理原則立脚型行動法は、心理障害が生み出す自動感情と、それが囁く行動に対して、完全な対極になる行動法となります。

感情は心にしまい知るのみ。
行動は建設的に。

原理原則立脚型行動法の習得によって、その実際の姿が完成します。
それにより、そぐわない内面感情の分析が意味を持つようになります。

例により長い前説でしたが、次から返答メールからの引用など入れながら具体的解説を続けます。

No.767 2005/11/10(Thu) 12:48

感情と行動の分離。 / おやじ

こんにちは。
おたずねします。
ある人に「怒り」の自動感情が湧いた時に。
@感情はそのままで建設的な行動をする。
Aその時の怒りの自動感情+「こんな奴に腹を立ててもつまらないな」
と考えて建設的な行動をする。
@とAでは心の成長に違いは出るのでしょうか?
@の様にスンナリと建設的行動が取れれば問題はないのですが・・・・。
スンナリと行動に移せないのは自動感情を受け流していないからでしょうか?

No.764 2005/11/09(Wed) 14:42

 
Re: 感情と行動の分離。 / しまの

こんにちはー。

違いはありません。
全体を押さえておきましょう。

心の取り組み成果として「治癒」と「成長」というとき、
治癒というのは心理障害の除去減少であり、成長というのは自ら積極的に幸福に近づく能力の増大のことをいいます。この「幸福に近づく能力」は、技術として身につくということと、その習熟度合いのことをいいます。

心理障害の除去軽減とは、感情の膿・残存愛情要求・自己操縦心性の減少のことです。
幸福に近づく能力として必要な技術は、ハイブリッドとしては、心理学的幸福主義に立った、自己建設型の思考法行動法のことです。

上記質問でいいますと、心の成長は、「建設的行動」がどんな具合にできているかです。実際のところどれだけ建設的か(技術の側面)。どれだけスンナリできたか(習熟度の側面)。

「建設的行動」として考えた中身がまず重要ですね。
11/4「自動思考とハイブリッド思考-6」で触れたように、得てして、具体的内容を伴わないまま、漠然とした「良好な人間関係を保つ」ことが建設的行動のように感じて行動する感じになりがちです。

「建設的行動」とは、共通目標共通利益のみに着目した行動法と定義しています。それが良好な人間関係を育てるとしています。
「良好な人間関係を持つ」ことが建設的行動ではありません。というか、良好な人間関係がないところからそれを育てる方法のことを言っています。
良好な人間関係がないところから良好な人間関係を育てるために、建設的行動として良好な人間関係を保つ行動をする..って変ですね。良好な人間関係がないのがスタートなので。

「建設的行動」は、人間関係の良し悪しを問う以前に、共通利益共通目標を発見していく行動法です。
つまり「仲の良さ」は、「共通利益共通目標」からは除外して考えて下さい。

ちょっとこの辺は説明不足だった点かと。。

そんな観点で、どんな「建設的行動」を思い描いたかを、一度確認して頂ければ。もしや具体的な中身が消えてしまうのではと。。
「建設的行動」は、中身の考え方が重要で、難しいものです。実を言うと、それについての具体的説明が全然できてなかったりします^^;
これについてはそのうち、「原理原則立脚型行動法」という、もう一つの視点の説明をしようかと思っています。

No.765 2005/11/09(Wed) 18:34

 
Re: 感情と行動の分離。 / おやじ

ありがとうございました。

「原理原則立脚型行動方」の説明をワクワクしながらお待ちしています。

No.766 2005/11/10(Thu) 03:54

祝!ポータル出店決定 / しまの

ヤフーの方は登録されませんでしたが(こちらは非営利モードでの応募でしたが)、
他の大手ポータルへの登録がほぼ決定しました\(^o^)/
Livedoor系およびExcite系「心理療法・カウンセリング > その他の療法・カウンセリング」のカテゴリーになるようです。

登録は2〜4週間後とのことで、まあそのころにはダイジェストの続編原稿も上がり、有料カウンセリング対応に時間をシフトし始められると思うので、タイミングとしてもベストかなと。
多分これで来訪者が一気に増えると思うんですけどねぇ。。

ということで、この掲示板は今度の日曜あたりまで書き込み開放しておき、来週頭くらいに非開放モードに変更しようと思いますので、何かあればカキコ下さいマセ。
ダイジェストの方も同じタイミングあたりで主要部のサイト掲載を終わりにしようかと思います。その後の提供形態についてはその際に案内を掲示します。

No.763 2005/11/09(Wed) 09:52

ハイブリッドの治癒理論サマリー / しまの

これはメモがてらカキコですが、ハイブリッド心理学の「心理メカニズム理論」は、サイト掲載済みの「心理障害の感情メカニズム理論」と、まとまった掲載はしていない「治癒メカニズム理論」の2本立てになります。

前者は心理障害が生まれる過程と、心理障害の中で動く感情のメカの話。
一方「治癒理論」は、ハイブリッドの取り組みを通して何をどのように治癒回復させるのかという、より大局的な心理メカニズムの説明をする理論になります。

これが揃って、勉強してもらえば、ハイブリッドが考える心理障害治癒がどんなものか、何を通る必要があるのかが、あらかじめ分かることになるという目論見。
で主要項目をあげると以下のようになります。黒文字が一応掲載済みのもの。まだ大半が説明できてないんですねー。

●幼児期の心理発達課題
●感情の膿と残存愛情要求
●望みのメカニズム
●価値観が歪むメカニズム
●「人生における優越」という心理発達課題
●自己操縦心性の根本機能
●自己操縦心性崩壊の本質


ま今までの治癒作用説明は主に「心の自然治癒力と自然成長力」とお茶をにごしてきたわけですが(?^^;)、これからの解説問題は、「心の自然治癒力と自然成長力」の正体そのものになってきます。

でこの最近、かなり整理が頭の中で進んでおり、正真正銘の理論完成(と何度も言ってる^^;)が上のような項目の説明でできるかと。

今の表現で大きな要を言いますと、心理発達課題の全体像がまず大きな背景として描かれます。
ポイントは、幼少期の心理発達課題が「愛されることを通しての自尊心の獲得」だということまで説明したのですが、思春期以降の心理発達課題がいまいち整理できていない感があった。
で結論は、思春期以降の心理発達課題もやはり「自尊心」なんですね。そして今度は「愛されることによる」獲得ではなく、「強さの獲得」による達成という形になるらしい。

生涯の2つの局面を通して、「自尊心」が心理発達課題となる。
そしてその達成によって、自尊心が意識焦点になるのが終わり、愛に戻る、という感覚を得ています。それが子供に向けられるわけです。
愛から自尊心へ。そして自尊心から愛へ。これが連綿たる人間の営みになるというものです。

こうした考えで、最近「強さ」「優越」というテーマについての考察を非常に行っています。これが達成課題となる。
「優越」というテーマなどは、むしろそのストレスが人を心理障害に追いやるというような認識がありがちなので、なかなか切り込みにくいテーマでした。

しかしむしろ「優越」を心理課題と位置付けることで、情動の変形の実態が実に綺麗に図式化できるようになります。
発達課題の損失により特有の情動変形が起きる姿です。
「愛による自尊心」の達成損失は、健全な愛情欲求が、依存性の大きい残存愛情欲求に変形する。
「強さによる自尊心」の達成損失は、健全な優越欲求が、破壊性の大きい競争心に変形する。


さらにそれが抑圧された結果の、心理障害に実に特有な心理状態も図式化できます。
愛情欲求が抑圧された時、「人間なんて嫌い。そんな自分が嫌い。」という典型的心理状態。
競争心が抑圧された時、敵対的身構えの中で親密さを求め、人に避けられて破壊的怒りに陥るという典型的心理状態。
両者の抑圧が相乗的に起きた場合は、フラストレーションと自己処罰感情の膨張により、自傷や自殺を招きやすい、「苦しみ」という典型的心理状態。

そしてハブリッド療法では、その軌道修正を図るわけです。
どう図るか。「強さによる自尊心」を、本来の達成の姿に戻す試みをします。


「愛による自尊心の損傷」の修復努力は、ハイブリッドではしません。
書きながら思いついたことですが、「愛による自尊心の損傷」の修復は、自己操縦心性が行っているからです。ただしその結末が自滅の方向に向かう。
だから自己操縦心性の崩壊という、もうひとつの治癒過程が介在することになる。

そんな感じで、全体の話がつながってきます。
実際の解説掲載は、ぼちぼちと..^^;

No.762 2005/11/07(Mon) 01:05

自動思考とハイブリッド思考-6 / しまの

その5では特に「感情は正さない」ということ、そしてハイブリッドでは感情そのものではなく、感情の原因の方に取り組むという話をしました。

で「怒り」についてその具体的内容を次にということにしたのですが、ここでもう一つ基礎知識を入れておきたいと思います。


■感情改善の原理を理解する

感情は正さない。ではどうやって感情は良くなるのか。その基本的な原理を理解しておくのがいいと思います。
重要なのは、2面を考えなければならないということです。だからハイブリッド。


■感情改善の原理その1:より良い感情を育てる思考法行動法

ひとつの面は、ごくストレートな話として、感情をより良いものへと「育てる」ような思考法行動法を学ぶということです。

「育てる」ということが重要です。
「育てる」のではない感情改善法というのもあります。つまりそれは「一時しのぎ」だということです。この代表は、「ごまかし」と「なぐさめ」でしょう。「ごまかし」は先に言った、感情を強制的に変えようとする思考のほぼ全てがそうなると思います。「気にしない」「許しの心が大切」「好きになる努力」etc。

感情をより良いものへ育てる思考法行動法は、本質を整理するとそれほど数が多いわけではなく、ハイブリッドではその全体を明瞭に定義しています。
それとは異なる、というかそれとは相容れない思考法行動法では、良い感情が育たない、それどころか悪い感情が蓄積されるものになる、と明確に考えています。

良い感情を育てる思考法行動法は、それを行う時点では感情を良いものにするという意識努力をあまり、場合によっては全く含んでいないのが特徴です。
たとえば「破壊から自衛と建設へ」という選択は、それ自体で感情を良くする要素が多少あります。でも実際の行動場面においては、「今この問題において自衛的建設的になるとは具体的にどうゆうことか」という純粋に知的な理解ができていないと、本質的意味をなしません。
こんな状況で、それ自体で感情を多少良くする思考法行動法は、しばしば感情が良くなることを目当てに、具体的内容を伴わないまま、お題目のように唱えることになりがちです。こうなると「ごまかし」になってきます。
「建設的対人行動」などは結構そうなりがち。

ハイブリッドが推奨する多くの思考法行動法は、それを行う時点では感情を良くする即効性はあまりないのが特徴です。
実はこれは本質的な意味を持っています。それは感情には影響なく物事をうまく処理できるようになる思考法行動法だということです。
即効的に感情を良くするわけではない代わりに、心の中に悪感情を抱えていても、それに影響されずにこの社会でうまく生きていけるようになる思考法行動法です。
これが、心の安全と自信の基盤を育てるのです。そして心の安全と自信が育つごとに、湧き出る感情は自然に良いものになっています。


そのような思考法の代表が、まさにハイブリッドと呼ぶ由縁である「2面を同時に見る」です。これはその時点ではほとんど感情には影響しません。
しかしそれが心を強くするわけです。無敵と言えるほどにです。これが絶対的とも言えるほどの心の安定がその先にある、長い道のりの一歩になります。

たとえば先日、村上ファインドの村上さんがメディア株買収の件で報道陣に囲まれた場面をTVで見かけましたが、「放送の公共性というものを知らないのか。金儲けだけすればいいと思っているんだろう。」とヤジを入れられた場面がありました。
さすがに村上さんもこれには苛立ちの様子を見せていました。
で僕もこのヤジにはちょっとムッと感じたのですが、ちょっと考え、「“両方重要です”と言えばいいのになー」と考えました。民営放送である限り、公共性を保ちながら収益を上げることが重要です。
これを小泉首相のように、その場の相手ではなく国民に語るような遠い目の表情で穏やかに言うと、なおヨロシ。

で実際、それが「現実」なのです。現実は常に、多面体です。

このハイブリッドが推奨する思考法とは相容れない思考法を採る。ものごとの一面だけを見る思考法です。
これは往々にして、その時点では気分が良くなるものです。「自分は真実を知った」という錯覚と、切り捨てたものへの優越感を味わうことができるからです。
しかしその代償として、その人は「現実を生きる」ことができなくなります。このツケは長い時間を経て現れます。自分がどうも現実世界が向かうのとは別のところに来ている。現実においては何か貧弱な自分の姿を目の前にして、呆然とするかも知れません。

自分の心を豊かにする思考法行動法はそのように、感情で考え出すものではなく、人間の叡智として伝えられるものを学び、実践し、さらに洗練するという営みによって形作られているものです。

No.761 2005/11/04(Fri) 12:04

ダイジェスト佳境! / しまの

掲示板カキコが滞ってますが(^^;)、また完全にダイジェストに没頭中で〜す。

今度の「新たな人生へ」ですが、なんか「現実への帰還」を越えた最長の章になる可能性もチラホラ感じる今日この頃。まあ、人生の危機を乗り越えてから大学卒業までの、残り5か月を一つの章に収めようという訳だから、このくらいの長さはいいかとも。

結局大幅な話の凝縮モードはなしで、今までとほぼ同じ心的時間のスケールで書いているという感じ。少ない心的時間のうちにより多くの現実時間が流れていくようになる感じなども、描写に入ってきます。

で今回のテーマはずば〜り@_@/、「真の愛」です。
真の愛とは何かについての今の僕の考えなども、なるたけ叙情的な言葉で表現にトライ。要は「それは知るものではない」ということなんですけどね。

そして話としては、「真の愛への出会いによって自己操縦心性が打ち破られる」とも言えるような含みを持った内容になります。ま、もちろんその理論的な考察を書くような言葉は一切入れていませんが、確かにそれはひとつの、この心の問題への示唆なんだろうなと考える次第。
結局また泣きながら書くような感じになった次第。自分でも期待以上に、最後まで面白い心理読み物にできるかなーと。

こうご期待!月中ごろにはUpできるかなぁ。。
とにかく今月中にはストーリー最後の「見出された人生」まで仕上げて、出版社とのやり取りに入るスケジュールを死守せねば..う〜ん当初の予定からは2か月遅れ。。

No.760 2005/11/02(Wed) 14:29


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