掲 示 板
過去ログ
2005.12

1/4まで帰省のため不在 / しまの

よいお年を〜^^。

No.844 2005/12/31(Sat) 12:49

自己操縦心性の成り立ち-18:背景その2自己処罰感情の利用-3 / しまの

■自己処罰感情の起源

12/17「自己処罰感情の利用-2」自己処罰感情の簡潔な定義など書いときました。
人が幼少期にひどい仕打ちを受けた時に体験した、生理的不調を伴う悪感情を、その後の生活において自己統制のために利用する現象です。

このような定義をするにあたっては、外的には同じ危険状況を前にしても、幼児と大人とでは体験する恐怖感情は本来違うのだという、基本的な考えがあります。

幼児の場合は、より弱者としての原始的反応をする。全身を縮こまらせる防御姿勢の中で、神経が大きく張り詰める、生理的反応のような恐怖感情です。
脳性理学で言うと、こうした動物的情動は、大脳辺縁系と呼ばれる、脳の深い内側の部分で司られます(だったはず)。
大人の場合は、こうした原始的反応を司る脳の上位に、知的な機能を司る新皮質系が発達して、原始的な生理的感情を抑制するようになります。
同じ危険状況を前にしても、感情が揺れることなく、物事を知的に処理できる能力を獲得します。実際それによって、危険な状況をうまく処理できたり、嫌な恐怖感情を味わうこともなく生活できるようになるわけです。

自己処罰感情では、そうした「脱生理感情」とは逆を行く心の動きが発達することになります。
本来感情を揺らすことなく対応できるような事態においてさえ、幼児が得体の知れない相手を前に全身を縮こませて震えるような恐怖を、自分自身に与えるという心の動きが使われるわけです。

これは入門編の「4.5 閉ざされた恐怖」の中で、「幼いままの恐怖に怯えるもうひとつの自分」とかの表現で描写していますね。
http://tspsycho.k-server.org/ent/ent045.html


■自己処罰感情の使い方

「自己処罰感情の使い方」とはちょっと変で面白い言葉ですね。もちろん皆さんにどう使えばいーかを説明するのではなく、心がどうそれを使うのかカメニズムもといメカニズムあっはっはの説明です。
アカデミックな雰囲気ぶち壊しー..^^;

心がどう自己処罰感情を使うのかを理解する。それは「感情は現実を示すものではない」という、「感情による決めつけ」の解除、そして「自己処罰感情を全く使わない生き方」という、今までとは全く異なる心のあり方をイメージすることにつながるでしょう。これが取り組み全体を一貫する、とても重要なプラクティスになります。

2つの形態があります。

1)意識可能な自己処罰感情
小さい子供が親に叱られた時の感情のような感じで、意識上で体験できる感情です。
基本になるのは、怒りを向けられた恐怖と、愛が失われた悲哀、そしてその事態に自分では対処できない無力感が、自己処罰感情の3原色のような感じになると思います。

そうした不快感情を、今度は外からの処罰で与えられるのではなく、自己処罰として自らに与えるようになる。
どんな状況でかと言うと、人から望まれるような価値ある「姿」になることに失敗した時に、ということになります。

こうした心の動きが、親の否定型価値感の下で発達することを思い出して下さい。「そんなじゃ駄目!」という叱責の中で起きる心の動きです。
そのため、自己処罰感情は、望みの停止と受動的価値感と必ず3点セットで発達します。
自らは望まず人に望まれれば望める。そのため価値ある姿にならねばならない。それに失敗した時、自らに自己処罰感情を与える。
これが、親の否定型価値感の下で育つ子供の、基本的な生き方になります。


2)感情の膿
感情の膿とは、幼少期に体験した恐怖などの悪感情のうち、意識体験することは精神的ダメージが大きすぎ、意識体験の許容範囲を越えたものが、「切り離し」という心の機能によって膿の塊のように蓄積化したものです。

感情は存在したのですが、体験されません。最も端的なケースでは、そうした出来事の記憶もろとも、感情が切り離されます。大阪池田小児童殺傷事件の被害者の子供が、事件のことを思い出せない事例などがあります。

自我が未発達の児童期は、感情の膿は単純な切り離しによって、心の表面にはほとんど影響を及ぼさないままです。夜驚や悪夢やパニック症状などで断片的にその一端をかいま見せる程度。

自我が発達してくる思春期になると、「人格統合の要請」により、切り離されていた感情の膿が、この人間の人格構造に組み込まれて機能しようとし始めます。
その最初の表れは、「漠然とした不安」の体験です。世界が崩壊するかのような不安。これは不安症状の最も根源的源泉になります。
より定常的にこれが働く形とは、「世界と人生に悪意が潜む」という感覚です。「危険下にある」という基本的感覚が空気のようにこの人間を取り巻くようになります。


■感情の膿による感性の変形

感性の基本的な変形を、先に解説した受動的価値感によるものに加えて、この感情の膿によるものを考えることができます。
受動的価値感による感性の変形とは、相手によって感情が湧く傾向と「奪い合い感覚(嫉妬傾向)」が基本。

感情の膿による感性の変形の基本は、「焦り」であり、「追い詰められ感覚」による融通のなさや破壊性です。
危険下にあるので、一刻も早く安全を確保する必要があります。このため、基本的に「楽しむ」という感情が希薄です。ピストルを突きつけられてたら、どんな豪華な料理も味わうどころではありません。
そして、全く相互理解不可能な攻撃的な他者に囲まれているという感覚に対抗するため、自己主張する時の強情さと融通のなさは、追い詰められた獣の直情の性質を帯びるようになります。

こうした傾向は、多くの方がまさに自分の中で持て余す感のある性癖をずばり指摘したものになると思います。
これらは「性格」「気質」などではなく、感情の膿による必然的結果だという理解が大切ですね。感情の膿を自分を鞭打ち駆り立てるために「利用」せず、折々に感情の膿に触れる体験の中で、悪感情への耐性を心がけた上でただ流す「放出」によって、感情の膿は減少し、それに応じてそうした性癖も弱くなっていきます。
それはまるで脳の構造が変化したかのような、根本的な性格変化の姿になります。

しかしその前に、感情の膿をバネにして、悪意ある世界を見返す栄光への自己像を描く、自己操縦心性が発動してしまっています。
その理解と、「崩壊」に向けた取り組みが重要になってきます。

No.843 2005/12/29(Thu) 23:57

自己操縦心性崩壊の道のり概観-2 / しまの

■取り組み前半はまず「開放」

12/18「自己操縦心性崩壊の道のり概観-1」で、自己操縦心性の崩壊という最大の根本治癒メカを理解するための、まず体験上のおまかな流れなどまとめ始めてみました。

まず取り組みの初期から中盤までは、とにかく「開放」だという話をしました。
長い目での自分の心の成長を信じて、より自分の本心と言える感情を探っていくことです。それはもう「こうなりたい自分」どころの騒ぎじゃーなくなるのが前半だと。

内面の開放は、「知りたくなかった自分」を知ることにもなるでしょうが、確実に「内面の力の増大」につながります。
受動的に与えられるのではなく、自分から動いて望みに向かおうという能動的な願望が芽生えてくる。


■典型変化:恋愛願望の消失

その辺から取り組み後半となり、ちょっと様相が変わってきます。
その後の典型的な心理変化の中で、自己操縦心性の崩壊が進行するのですが、そのメカニズムは極めて難解であり、それを体験した僕自身が一体何が起きたのかと思案するほど。

その詳しいメカニズムを理解してもらうことで、より多くの方にそこを通りやすくすることが課題なのですが、体験上意識に見える典型的な流れをここで書いとこうと思います。
これを表に見えるパズルとして、その内側を考察していきます。

それは恋愛願望の変化というテ−マとして浮き彫りにするのが最も端的です。
こんな流れ。

「こうなりたい自分」があります。まあ一言で言えば、自分を好きな自分。人を好きになれる自分。
僕は自分が今ほぼその通りになったという、ゴール感のようなものさえ感じています。誰に対しても、ほんわかと好意感情が体の中から湧いてくるので、自分が人からも好かれるという感覚があります。

で、そうなれれば自分は素敵な女性を相手にできる、きっとモテる、とかいう期待もあったわけです。実際、そうなれれば..という感覚の中で結構お相手探ししていました。
ところがどっこい、実際にそんな「なりたかった自分」になった今現在、そうゆうかつての期待が実現しているかというと、てんでそんなことはないんですね。
というか、その期待が崩壊しているわけです。

その期待の崩壊の仕方が実に特徴的です。これが自己操縦心性について何かの本質を示すものになるでしょう。
「やっぱモテないヨ。現実はキビシー」(アハハ)とかいうものとは、全く異質なんですね。

先日買い物の際、店の女の子に微笑むような気分の自分を感じた時、それを感じました。今の僕にとって、相手に微笑む気分というのは、相手が子供だろうと老人だろうと男だろうと女だろうと美人だろうと不美人だろうと、ほぼ全く同じ感情です。
でその時感じたことは、かつての自分にとっては、「相手を好きになる自分が相手からも好かれる。そんな気持ちの交換が“愛”」という感覚があった。そんな愛の究極のものを実現するものが、恋愛としての相手なのだという感覚。

ところが今現在、実際に相手にほんわかとした好意感情を感じ、それを微笑みに表現できる自分を感じた時、かつてとは全く異質な感覚の中にいる自分を感じたわけです。
自分のこんな混じり気ない微笑みを相手も感じ取って、僕への好感を持つに違いない。安心感のようなものの中でそれを感じられる。
ここまでは、「こうなりたい自分」の「期待通り」です。でもそのあとが決定的に違います。
「でも別にこれは“愛”じゃない」と。これが実にはっきりと確実な感覚として、ありました。

かつての「愛のイメージ」は、こんなだった。
相手が自分を本当に愛し、その本当さを認めことで自分の高貴性を相手に委ねる。そんなイメージ。
それに足る相手を見つけようという、恋愛願望があり、そのためには、「こんな自分であれば..」というイメージ。

それが特有の心理変化パターンの中で、自己操縦心性が崩壊します。
この描写をまとめるのもまた一苦労で、ここではごく輪郭を書くと、多少とも「そんな自分」に近づいた気分で、勇気を出して自分を後押しして、能動的に望みにつまり恋愛対象として望む相手に近づく。
そこで、人それぞれパターンがあると思いますが、相手に対する肯定的感情とはとんでもない別の自分があらわになるような事態が起きます。
完全に自分が自分に騙されていたのを自覚する羽目になります。しばらく沈んだ気分で過ごす。
しばらくすると、「こうなれれば」という自己イメージを伴わない、「そうなっている」良好な心理状態が芽生えてきます。「こうなれれば」というイメージを伴った恋愛願望そのものも同時に消失している感じになります。

かつて「こうなれれば」と想定したのとは全く別世界の、さっぱりとした気分の状態。


■ニセのアイデンティティと恋愛感情

上の描写を書くのに結構苦労してます。断片的に絡んでくる様々な感情や感覚を追っていると、あまりにも多方向に意識が拡散してしまう。
内面メカニズムを整理するのはかなり難敵な感じで、今後除々にとして、内面メカを考える上でひとつの材料としている面白い現象を書いときます。

上述のような恋愛願望が僕の中でぶっつりと消えた境目があります。
それは僕が会社を辞める決意をした少し前のことで、それまで僕はその会社に勤める人間としての生活をする自分の姿を、まだ自分の「主アイデンティティ」としていました。本を片手間に書いて、もし成功したら島野としての活動に切り替えようと。

しかしどうもあやふやな気分を感じ、何とかこの2足のわらじ状態で自分を満足させようというような意識の中感情分析を始めた中で、逆に、もう全て投げ打ってでもという考えに至る。僕の中で「島野隆」が僕の「主アイデンティティ」に切り替わった、明瞭な瞬間がありました。

その時を境に、ぷっつりと恋愛願望が僕の中で消えたのです。

この2つの感情の変化は、意識上では全くつながりがありません。
しかし多分意識下でつながりがあるんですね。

簡潔にいうと、「これこれの会社に勤務して年収いくらで」という自己アイデンティの一環で、そんな僕を愛して一緒に家庭作る女性を得たい。そうゆう僕自身のアイデンティティ・イメージを一緒に見る女性の目の感覚があったわけです。そんな僕を愛する女性。
ところが僕自身がその自分のアイデンティティ・イメージを、実は心底からは愛していなかったんですね。その不足を、僕のアイデンティティ・イメージを愛する女性という感覚で補おうとしてた部分があったような気がします。

それが島野隆自己アイデンティティに切り替えた時、僕は自己欺瞞を全く含まない、全く揺らぐことのない自己アイデンティティを獲得したわけです。
自己アイデンティティの維持に、他者の目が必要なくなったということです。

ニセの自己アイデンティティを維持する衝動が恋愛感情に化ける。
その真偽を、より精緻な自己操縦心性メカの考察の中で、検討してイキヤス。
このメカニズムは間違いなく、恋愛衝動だけではなく、人からの評価を求める感情一般に働くものでしょう。評価願望、地位、勝ち組み負け組み意識、セレブ願望などなど。

No.842 2005/12/29(Thu) 17:53

よろしくお願いします。 / 匿名希望

「自己操縦心性の成り立ち-13:背景その1否定型・受動型の価値感-7 」の

最後の方の『精神の高貴さに逃げる必要があるほどの、逆境があったわけです』
という部分で質問なのですが、

この仕組みについて教えていただけないでしょうか。

自分を守るために・・?とはウスウスわかってはいるのですが
詳細を知りたいです。
自分としては逃げたくないのですが、癖がついてしまった感じがします。
あまりに予期せぬ対処できない事がいきなりあると
自動的に精神の高貴さに逃げている自分を感じます。

せっかく現実との和解ができ初めていても、予期せぬ事が起こると
そうなってしまう感じです。よろしくお願いします。

No.839 2005/12/27(Tue) 19:47

 
精神の高貴性=空想による救済+否定型価値感 / しまの

おっ久々の質問♪
質問あると僕の脳みそも発想刺激されるので、他の皆さんもどしどし質問下され。

精神の高貴さに逃げる必要があるほどの逆境があった
ですが、これは自己操縦心性の起源に関する話ですね。

メカニズムの基本は、「空想による救済」です。
現実があまりにも耐え難いものであることへの精神的危機を、「これは現実ではない。空想の世界の方が本当なんだ。」と思い込むことで自己救済するメカニズムがあるようです。

そしてこの「逆境」とは、心理障害が生まれる環境においてどんなものであるのか、分かりやすいイメージは..と考えた時、浮かんでくるのは悲しい情景でした。
それは、「自己否定する姿においてしか親に愛されない」ような、そんな「逆境」です。多分この状況の具体的描写は、読者の皆さんには不要だと思います。

そして子供は、自己否定の一部を、もはや自己否定だとさえ感じない姿勢を、心の底に根深く取り込んで育つわけです。
自己否定だとさえ感じない自己否定とは、望みの停止です。現実世界において自らの望みを停止させることを、もはや停止とさえ感じることなく、自動的に停止させます。
その救済が、空想世界にあります。空想世界の中で、子供は自分がまだ愛され、人生を生きていけると感じる。

この「空想による救済」メカニズム自体は、必ずしも心理障害につながるものではない、人間の心に元から備わる、健康かつ極めて高度な心理機能です。

そのことを僕が理解したのが、
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3
で取り上げた「“It”と呼ばれた子」デイブ・ペルザーです。
彼の場合は、「空想による救済」が比較的ストレートで単純なものであったことが、心理障害化を免れた理由だと思われます。
それに対して、心理障害が生まれる環境では、「自己否定による自己肯定」とも言うべき、屈折して錯綜した心理状態があり、それが心理障害化します。

「心理障害化」のキモは、感情の膿です。これは意識体験から切り離された恐怖の塊であり、後に自己操縦心性が「別人格化」する根源メカニズムになります。
心理障害の「障害」たるゆえんは、この「別人格の生成」の部分にあります。理性的人格からの乖離が起きるわけです。
ちょっと話がおどろおどろしくなってきますが、克服のためにはこの理解と、それを超えるためのかなり強力な理性意志が重要になります。人生をかけた闘いになるでしょう。

これらの過程が思春期を迎えて、どんな人格構造になるのかは、
1)基本的に否定型・受動的価値感の上での発達であること
2)感情の膿からの逃避
3)優越による自尊心課題の発生と残存愛情要求との衝突
などの要素を全て組み合わせたものになり、その詳細についてはこれから考察します。とにかく、とっても破壊的なものになります。
詳しくは今後の「成り立ち」シリーズにて。

克服方法について言えば、とにかく重要なのは、そうして発達する思考回路に立って「なんとかしなければ」と考える限り、出口はないことです。
全く別の思考回路にスイッチを入れることです。「ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長への道」の左側のパスにある、思考法行動法の取り組みで取り上げるものがそれになります。
この「全く別の思考回路」による内面強化と、自己操縦心性として発達した感情回路の深い自己理解により、自己操縦心性は自動崩壊します。これが根本治癒になります。

No.840 2005/12/28(Wed) 12:47

 
Re: よろしくお願いします。 / 匿名

ご丁寧な解説ありがとうございました。
克服過程などの詳細など更新を楽しみにしています〜!

No.841 2005/12/28(Wed) 19:29

好きに生きる2 / しまの

島野@スキー帰りです。
スキーもこれだけ年季が入ると、シーズン最初のスキーでも、ゲレンデに立つと先シーズン最後から大した日にちも経ってないかのような連続感のある今日この頃。まこれも1年を短く感じるという、歳をとった証拠でもあるのでせう^^;
というわけで3日振りに執筆生活に戻り、珍しく生活心境雑感など。

実はこの数日、出版社からダイジェスト小説の原稿審査結果などが来ており、出版本の出方の大まかなイメージが浮かんできたところです。
まあ評価は高いものの、最初ということで、ごく細々とした売出しになる模様。新聞にでかでかと広告が出るようなものもイメージしたりもしましたが、やっぱそれはちょっと誇大空想的な夢だったなぁという、現実がだんだん分かってくる感があります。
まそれが最初に本を出すパターンなわけですね。その細々としたものに、読者反響が食らいつくかどうかで、その後の流れが変わってくるわけだす。
僕としてはまあ自信はある一方、鳴かず飛ばずで終わる可能性というのも十分想定内とした自分の将来生活なども考えている次第なのだす。

見込み的には書店に出るのが7月あたり。反響有無が分かるのは秋口くらいか。。
ちなみに有料カウンセリングの方は微々たるもので、生活の糧になるものではない。まあ僕の場合もともと収入は出版本でと考えており、カウンセリングは僕自身の勉強のため片手間程度と考えていたのだが、多少の足しとしても考えずに行くことがほぼ確定という状況。

となると、この活動を続けること自体が不可能になることも、十分想定内になっている今日この頃なんですねー。まあこのサイトを無料公開し続けることだけは、いかなるケースでも続けるつもりなのでご安心(?)あれ。
出版本が成功しない場合、実質、あと1年が期限。その間に、書けるだけ書かねば。これが今の心境。

でこんな話黙っていればいいところもあるんですが、書こうと思ったのは、僕自身がこうした自分の人生の節目を迎える心境そのものの中に、僕がこの執筆活動の中で人々に伝えたいメッセージがあると思ったからです。
この心境は、僕自身にとっても、僕の人生の中で体験するのは今だけであり、それを書くとしたら今なわけです。そう考えること自体、実は胸がじわっと熱くなるところがあったりする次第。

そのメッセージとは何か。

まずは、サバイバルの中に生きているという感覚ですね。自分自身をそうゆう存在だと位置付けているということです。
表では順調そうに「うまく行ってます」と聞こえるようなことしか出しませんが、裏では何でもアリの想定の中で生きています。収入ゼロ想定なぞ当然。
そして、そうした中で、心に何の曇りも生まれないこと。何だって、いいんです。
この活動をもうやめるとしたら..と考えた時に、最初に感じたのは、「僕はもう報われている」という感覚でした。少なくとも、このダイジェスト小説を出せた。それだけでも、とても十分なのだと。

これはダイジェストの大学院合格を控えた時の心境との対比を感じさせます。あらゆるケースを想定するという思考の仕方は同じでしたが、かつては「もしこうなってしまったら」と想定した時に、心に暗雲が立ち込め、静かな水面の下にある闇の葛藤の世界が現れる。
今はそうしたものは何もなく、僕の心はいつでもポカポカと小春日よりのように光に満たされている。ニュースでは最近僕もネタにしたフィギュアスケートの話題が出てますが、今は、ちょっとしたゴタゴタがあったようなのは波間に消え、決定された代表選手の、未来に向かう意志の感覚だけが心に映る。

そしてなぜ僕はこうなれたのか。。そんな感慨の中で最初に浮かぶのは、「一度死ねたから」。そして「捨てたいものを捨てることができたから」ですね。
これがかつての自分の心にあった、「捨てたいが捨てられないもの」という感覚に対応しているかと。それは「つまらないプライド」とかの言葉で考えていたかも知れません。とにかくそうゆうものを強く意識した時期があった。自分を制止し、でも同時に自分を維持している、いつまでもつきまとっているそれをなくしてしまいたい。
でも捨てる方法が分からない。思考はそこで途切れていました。

で結果論的に、いつの間にか捨てているという道を歩んでいた。そして「捨てる方法」を明確にすることが今自分の課題になったと。
どう自分を導けるのか。

それが「ステップドリル」では「生きる姿勢の変革」として書いた部分ですが、これについては最近「生き方の大方向変換」という言葉を使ってちょっと整理しているところです。
その大方向転換の最大のキモは、今までの生き方が「自己像に生きる」というものだったのを方向転換するすることです。
それがこれまでの連綿とした解説で出てきた全てをつなげるポイントになりますね。「自己像」です。

それが何によって成り立っているのか。「自己像の中で生き」ようとした時、求めるものは永遠に得られない。そのことを深く感じ取った時、「自己像に生きる」という心の底にある、その人間の心を支配した塊が自己崩壊をするようにできています。
「自己像の中で生き」た時、何が得られなくなるかというと、真の愛であり、真の自信。特に後者が大きい。
そしてそれが崩壊した分だけ、全く違う生き方が見えてくる。
それが「好きに生きる」という、このカキコのタイトルにした言葉で表現される、生き方の感覚になります。
そして僕自身が今、今後の自分の将来のあらゆるケースを想定して、結局自分を導く意志はそれなんですね。僕は好きに生きる。

そしてそれを説明する心理学を書くのが、僕の課題なわけだ。書いていてあい変わらず難解だなぁと感じ、これをいかに一般の人に分かりやすく書くことができるかと。。
これを、自己操縦心性の解説を踏まえた上で、原稿にするという次第。

とまあ頭に浮かぶ言葉をタラタラとこんな雑感で書き留めるのも踏み台として、再びいつもの執筆に向かう島野であった。。

No.838 2005/12/26(Mon) 13:50

スキーシーズン開始\(^^)/ / しまの

島野は明日からスキーに出かけますので、日曜まで不在となります。
返信作業等月曜以降となりますのでご了承下さいませ。

毎回のお知らせは省略しますが、週末はこのパターンになることが多くなると思いますので、よろしくご了解下さい。

No.837 2005/12/22(Thu) 23:16

島野がスケート強化部長ならどう行動するか / しまの

真央ちゃん問題について、引き続き「僕ならどうするだろう」とか結構考えていましたので、ちょっと書いてみようかと。
こうした日々のちょっとした出来事の中での、自分の思考法の検討プラクティスの積み重ねが、原理原則立脚型の建設的行動法に習熟するためには極めて重要なんですね。

でまず察するに、日本スケート連盟の態度はもう恐らく、内輪の対人関係を引きずった結果ではないかと。
多分5人の代表候補選手に、「真央ちゃんを出すことはなく、この5人の中から出す。その前提で頑張りなさい」とかいう感じで対応していたので、今特例申請するなると、選手側からは手のひら返した嘘つきという非難を浴びることになる。たぶん日本チーム全体の士気もガタガタになってしまう。
おそらくそんな感じでしょう。特に「チーム全体の士気」が重要な判断基準になっているでしょう。

でこれは内輪で通用した原理原則であっても、日本国民を前に素直に通用するものではない。
どうあるのがベストか。

まずどう行動し得たかに影響するのは、真央ちゃんのここまでの活躍と、特例検討という事態にまでなることを、「想定」できたかどうかです。
僅かでもその可能性を敏感に予測し、早い段階で、「基本的にはこの5人から。でも真央ちゃんの活躍によっては特例もありえる。最後は真央ちゃんも含めての実力勝負と思いなさい」と言っていればベスト
ここまでできるのは、相当の行動能力のある人間だけです。天才的行動能力とも言える部類。一般的にここまで求めるのは無理です。

2番目に望ましいのは、特例の可能性を察知できた時点で、可能な限り早く、強化選手を集めて、そのようなことがあり得ると説明し、気持ちの切り換えを促すことです。これを受け入れないアスリートはいないと思いますね。
チームめぐる状況変化が起きた時は、コミュニケーションを図って疑心暗鬼を取り去るのが鉄則です。自分ひとりで決める問題だと考えるような独り善がりが一番たちが悪い。

僕が強化部長なら2番目のパターンで行動するだろう。これが結論。
この場合、強化選手から多少の非難が出ることについて、腹をくくります。強化選手との親子のような親しみ気分は壊れるかも知れない。しかしコーチとしての信頼はこれで壊れることはないはずです。
日本国民全体からも支持される行動でしょう。

そうした行動をしない3番目の、特例申請せずの行動が現在の日本スケート連盟のものということになります。

想定能力の不足は、人間としての限界と捉えられます。つまり組織のあり方というより、個人の問題。
状況変化への対処決断能力の不足は、リーダーとしての適格性の問題として、その組織の社会的役割に応じて、より高度なものが求められるようになります。
内輪の原理原則だけでしか行動できない強化部長は、日本スケート連盟の強化コーチとしては適格であっても、日本全体の期待を担うリーダーとしては、不適格だということになるでしょう。求められるものに対応した能力を持っていないということです。

原理原則立脚型の考え方においては、原理原則の内容に加え、それが問われる土俵を適格に捉えることが極めて重視されます。
土俵が違うと、異なる原理原則も、ありです。

道徳的に善悪を考えるのとは、思考法が全く違うのが分かって頂けるかと。
日本スケート連盟は、原理原則型の行動よりも、情緒道徳的な行動をしているということですね。

個人的には真央ちゃんも「バンクーバーに出れれば」と言っているようだし、まあどっちでもいい話ですが、やっぱこのままだとトリノ五輪終わるまで、日本中から不満タラタラだろうなぁ。。

No.836 2005/12/20(Tue) 10:47

原理原則が示されない浅田真央五輪不出場 / しまの

昨日に引き続き女子フィギュアスケートの話題。
ニュースより。
日本スケート連盟には特例措置の働きかけを求める電子メールが400通以上も届いているが、「真央のためだけの陳情はできない。IOC(国際オリンピック委員会)の働きかけを待つしかない」(城田憲子フィギュア強化部長)と完全におよび腰だ。

で、どうもこの「特例申請せず」のままでいようとするのが、聞いていて納得できる理由が今いち示されないんですねー。
城田強化部長が理由説明するのを2回見ましたが、それぞれで違うこと言ってました。

一つは、「日本スケート連盟はあくまで国際スケート連盟の下位組織だからできない。一社員が社長に陳情するようなもの。」
一社員が社長に陳情する価値ある内容であれば、大いにすべし
もうひとつは、「私が真央の方を向くと、他の選手が動揺して影響が出る。一人のために他の皆を犠牲にできない」。
僕自身スキー部活動やってるせいで内部事情が多少想像できるんだけど、なおさら納得できない。「強化選手枠」というのがあり、コーチング体性がそれで変わってくる。しかし最後は完全に実力勝負なので、そうゆう内部事情的枠を守る姿勢は、とても独り善がりな感じ。

今日の報道ステーションでも松岡修三は日本スケート連盟寄りの見解を示し、「課題はあくまで日本選手のメダル」と言ってたけど、なら最短距離の浅田真央こそがその候補でないの?

これはその当人達自身はそれなりの理由を持っているんだろうけど、社会全般に通用する原理原則として示せていないということなんですね。当然これではまだ風当たりは強いでしょう。

ではどう扱えば原理原則として通用するものになるか。
本来の理由である年齢制限について、その妥当性を示せればもうちょっとまし。ただこれも今いち良くわからん。
こうゆう問題が起きる最大の原因は、グランプリ出場の条件とオリンピック出場の条件の不整合なんですね。
そうした本質に切り込まない限り、日本スケート連盟は、日本国民全体の願いは彼女の出場だという要請の前に、原理原則を示せない、信頼感の持てない人々だという印象のままでいることを免れないと思いますね。

No.835 2005/12/19(Mon) 23:43

自己像がぶれちゃったかなミキティ / しまの

残念に終わった彼女の話をするのもちょっと憚りながら心理学的考察など。

安藤美姫選手がTVで取り上げられた時、結構メンタル面で苦労しているようなのが出ていますが、以前松岡修三がインタビュアーになった収録の中、「普通の女子高生みたいな生活がしたい」とか言っていたのを聞いて、僕が松岡修三なら「えっミキちゃんそれって他人の人生を生きたいってことだと思うヨ..」と言うなぁと感じたことがあります。

自宅外にカメラ持った変な人がいる生活に嫌悪感を感じ、スケートが嫌でしようがなくなったのが昨年とのこと。今年渡米し、とても明るい性格の米国人女性コーチの下、スケートをする楽しさを取り戻し、トリノ五輪に向け奮起していたわけですが。。
先日は4回転ジャンプするという宣言をしていた時、「やっぱり4回転の美姫ちゃんがいいですよネ♪」と笑顔でカメラに向かっているのを見たとき、「まだ残してるナ..」という感覚を感じ、昨日のフリー演技番組は期待よりも心配感の方が大きく、見ないでおこうとした次第ですが、ちょっと案の定の結果であった。

で心理学的考察ですが、「楽しんでいる自分」という自己像の中にいることと、心の底から楽しんでいることとの間の距離というような話になると思います。
前者の中には、量の多少はあれ実際の楽しみと、「楽しんでいる姿」を外側から自分に当てはめようとするストレスと、実は嫌悪が残されている自分の感情から目をそむけていること、この3つの心の動きが混ざった状態です。
ということで一見似た2つの心の状態の距離は、実はかなり大きいんですね。メンタル面での成長のためにはもうちょっと長い取り組みが必要になってきます。

具体的には、
1)「楽しんでいる姿」を外側から自分に当てはめることの放棄。これはイコール、
2)心の底に残されている嫌悪に向き合う、ということにいや応なくなります。で、
3)その「嫌悪」と「正真の楽しみ」との間での調整取り組みをする。スポーツにおけるメンタルトレーニングでは、極限緊張にならないようにメンタルトレーニングするのではなく、極限緊張の中で楽しめるようになることを練習するのが基本かと。僕もスキーでこれ多少実践しました。

これは自己操縦心性のメカおよび対処の話と全く同じです。心理障害の裏にあるもの、能力発揮というテーマでの心のメカニズム、全部同じものです。
それが「障害」になる由縁は、ただひとつ、「感情の膿」を背景に持つことで、心理障害独特のメカニズムになってきます。「成り立ち」シリーズの次のカキコはその話が出てくる予定。

No.834 2005/12/18(Sun) 16:08

自己操縦心性崩壊の道のり概観-1 / しまの

昨日の「自己処罰感情の利用-2」「ここまでの変化が起きるとは考えていなかった」ほどの変化を僕自身が得ることができたということを書きましたが、その道のりは「こうなりたい自分になれた」とかいうのとは全く違うものだったという話をちょっとしようかと思います。
良く言っている話ですが、「ここまでの変化」も含めた視点で改めて概観しましょう。

そこには実に特有なパターンの心理変化の繰り返しがあり、自己操縦心性崩壊という根本治癒の姿を知る上で参考になると思います。

まず、「こうなりたい自分」を捨てることで心が成長するというイメージを、心理学を学び始めた方は持つかも知れませんが、そんな単純な話ではあ〜りゃしません。

■取り組み初期
まあ実際、「こうなりたい自分」という圧迫を捨てることから始まると思います。
最初はあまりのストレスのために、自分が何を感じているのかさえ分からないような状態から始まります。自分が何を感じているのかをそのまま感じることを許すようになれるのが最初です。
僕の場合、他人への身構えだとしか感じられなかったものが、実は他人への敵意なのだと感じ始めたような時期です。これ自体が「人格改善への絶望」を伴っています。
その代わりに、人生で最初の大きな開放感が生まれた。それで先に進めたわけです。
ただしその後には嵐が待っていることになります。

■最初の関門
まずここで最初の関門があると思います。自分の感情の開放を心の底から許す態度を持つかどうかにかかってくると思います。
それを可能にするのは何か。僕は「性善説的人間観」だと思います。科学的知性に基づいた、堅固なものであることが極めて望ましい。
「科学的で性善説的人間観」とかいうものは、取り組みの最後の方で必要になるというイメージを持つ方がおられるかも知れませんが、僕は最初から最後まで必要だと考えています。
いまいち変化に入れない、変化が今いち滞りとお感じの場合、性善説性悪説問題を知的に問うことを重要なアプローチにできるかも知れません。

■取り組み中盤
取り組み中盤の感情分析期は、「こうなりたい自分」どころじゃない時期になるでしょう。
悪感情の起き方を把握する中で、やがて葛藤に導かれ、操縦心性が崩壊を始める。自分がどこをどう進んでいるのか全く分からないというか、確実に、大きな下り坂に向かっているという感覚の中で、そうなります。
その代償は、「自分の真実に近づいている」という強い感覚です。同時に心の片隅に、新しい内面の力の準備が始まっています。
それから一番苦しい時期を通るでしょう。

■取り組み後半の始まり
大きな嵐が過ぎると、内面に多少の地盤ができ、多少の安定が生まれている自分に気づくことになります。
ここからは取り組み後半という感じで、今までは荒波にもまれながら導かれていたようなのが、これからは自分で自分を導くことが変化のために必要になります。
人生の大方向変換を果たすべき時です。一言でいうと、「評価に生きる」生き方から、「楽しみを追求する」生き方へと表現できるでしょう。

知性と感情を全部巻き込んだ、人生観の変換をするかどうか。今までの人生観とこれからの人生観で、「どっちが正しいか」という思考法は意味があまりなく、ただそこに「選択」だけがある分岐点に来ます。
人がどんな人生観を選ぼうと自由ですが、心理障害の治癒と関係してくるのが現実です。それを踏まえて「選択」するのがいいでしょう。

「選択」を決めるのは、「高貴な精神性」の中で「否定するため」だけの理想像と共にこれからも生きることを選ぶのか、それとも「現実」を少しでもその理想に近づけるような泥臭い努力をする自分を許すという、「現実との和解」を選択するか、ということになるでしょう。
後者を選んだ時、暗雲の下での荒れた天候から、光の差す風景へと、心の風景が変わるでしょう。ただし極寒の地の穏やかな天候でしかまだないです。

ここで、「こうなりたい自分」の内容そのものが、大きく変わる、というか、いちど白紙になるような感じになるのではと考えています。
今までの「こうなりたい自分」とは、来歴で自分を迫害し軽蔑した他人たちを見返すことができるような何者かだったのではないかと。
それはあくまで極寒の嵐を跳ね返すために空想されたものでしかなかった。穏やかな天候の今、もうそれは欲しいとは思わない自分を感じると思います。
その代わりに、「どんな自分」が欲しいのかは、良くわからない。「どんな自分」になれるのかも分からない。穏やかだが沈んだ気分が基調です。

■取り組み前半の展望
とりあえずここまでが前半になります。
従来の心理医療の世界では、ここまで来れればもう「根本治癒完了」であり、「治療は終わりました。もう来なくていですヨ♪」となる段階かと。それだけでも快挙という扱いなのでは^^;

ハイブリッドの場合、ちょっと様変わりする後半の過程がこれからです。自己操縦心性の崩壊は、今まで多少起きていますが、がんじがらめの悪感情の解きほぐし作業に覆われており、見えません。
この後は、自己操縦心性の崩壊が自分で見えるような感じになってきます。その通過後に感情基調が上昇する好循環が、上述の「人生の大方向変換」によって始まることになります。

ちなみにこのサイトを開設した時期との関係で、今この段階に来た方がちらほら出始めている感じですね。いちおうそこまで、理論とのブレはないです。
ほぼ全体を通過した方の事例なども出てくれば、新しく学ばれる方にもより分かりやすいものになると思いますが、とにかく長期の取り組みです。心理療法理論の発展というのは、とっても長丁場。


■「こうなりたい姿」から「歩む方向」へ
そうゆう長丁場だからこそ、「方向を知る」ことが重要になります。「こうなりたい自分」になろうとするのではなく、自分が歩みべき道を歩むことです。

で最初の「こうなりたい自分を捨てるだけの単純な話ではない」というのに戻ります。
「こうなりたい自分を捨てる」だけだと、裏にやはり「こんな自分になるためには」という変幻自在の自己イメージが残ります。まさにそれが自己操縦心性。

それを超える心理学の方向感覚が非常に重要になります。
前半の過程を概観するならば、それは、何をおいても「開放」に尽きるような気がします。「こうなりたい自分」とはむしろ逆方向に向かう自分を許すような感じもあるでしょう。
その中で道を踏み外さないためにも、「開放」の意味は、目の前の感情そのものよりも、その背後にある心の自然治癒力を開放することにあるのだということを、知的な人間観として持つことが重要だと感じます。

その先にある人間変化の先に、僕の例のような、気質体質レベルまでの変化があり得る。それを「こうなりたい自分」という最初の轍の中を入れ替えるためではなく、あくまで歩む方向を知る上での補助知識にして頂きたいというのが、ここでの主旨になります。
実際そこまでの可能性を知るならば、ほとんどが辛い時間となる前半で起きがちな「絶望感」は無用だと考えています。

「絶望感」そのものは問題の深さを表現する感情ではなく、解決の無知を表現する感情ですので。。

No.833 2005/12/18(Sun) 15:16

自己操縦心性の成り立ち-17:背景その2自己処罰感情の利用-2 / しまの

「自己処罰感情」とは何か。
今までの心理学常識を打ち破る理解が重要ですね。


■自己処罰感情


「自己処罰感情」とは、人が幼少期に「ひどい仕打ち」を受けた時に体験した生理的悪感情を、その後の生活において、自分自身を統制するために自ら「利用」するようになる現象です。
つまり、自分が「うまくいかない」と感じると同時に、生理的心身不調を伴うような悪感情を生起するよう、脳が教え込まれるわけです。「こんな自分は駄目だ」という観念と一緒にです。

もちろんこれは本人が意識自覚してそうなるのではなく、自我(自意識)が未発達の幼児期の心において、自動的にそうなります。

何たる心の悲劇!という感を感じます。何が悲劇かと言って、人間はそれが「正しく良い」ことだと考えながらそうして、その結果全く割に合わない、辛く不幸な生涯を、自ら用意するからです。
もちろんこれを用意するのは、本人ではなく、その親です。
さらに、社会文化です。
それが「躾(しつけ)」というものであり、人が正しく生きるためには必要なのです。もちろんこれはハブリッドの考えを示す文章ではありません。


■気質体質レベルの根本変化の可能性

ハイブリッドにおける「自己処罰感情」という考え方は、今まで「性格」「気質」といった、基本的には変わらないと考えられていたその人の情緒性が、実は、根本的に変化し得るダイナミックなメカニズムの上にあるという、今までの心理学常識を全く覆すような人間理解を呈示するものです。ちょっと堅い文章^^;

人は何かしらの危険なもしくは受け入れ難い状況を前に、不安緊張怒り恐怖などの生理的不調を伴う感情を感じます。

その起き方や程度については、多少ものの見方考え方で変えることはできるけれども、そうした生理感情の材料そのものは、ひとぞれぞれの遺伝的な体質気質などで生まれつき大方決まっている。そう考えがちです。
自分の場合、起きた場合は人より濃いようだ。あとは起き方をどうコントロールできるかだ。人が心理学に興味を持つのは、せいぜいその範囲を期待してではないかと思います。
それを「繊細さ」「敏感さ」と言った言葉で表現することもあるでしょう。一種の美徳にさえ考えるかも知れない。

ところがどっこい、そうした「体質気質」レベルの情緒性さえ、実はかなり流動的で、変化の可能性に富んだものらしい。

実はこれは僕自身が実際に体験して初めて持った考えです。心理障害の根本克服は可能であるという理論考えを固めた時も、ここまでの変化が起き得るとは僕自身考えていなかった領域でした。
この変化を自覚した時のことを書いたのが2004/01/17「怒りが消えた..」です。ぜひ読んで下され。
その時「含みが沢山あるのだが..」と尻切れトンボだった続きが、およそ2年後の今、操縦心性の詳細メカ理論の考察になっているわけだす。

実際それ以降の僕の日々の感情基調変化は目を見張るものがあると自分で感じています。
それ以降「怒り」らしい「怒り」を感じたのは、確かその年の秋あたりだったか、「ニセの笑いで固めた人格」の持ち主の無能な現場上司への怒りだった。
ちなみにそれが、「怒りの根本理由は2つしか言ってなかった」ということで、「プライド損傷反応」「望みを停止させた他者への怒り」に続く、第3の怒りの根本理由が「皮相への怒り(自己の純正維持のための怒り)」だという理論考察に寄与した体験のひとつでした。
ちなみにその現場上司はその後すぐ、やり手で厳しい人事上司との軋轢の結果うつ病にて現場脱落^^;
それ以来、もう1年とっくに越えますが、僕は「怒り」という感情そのものを全く体験していません。もう生涯ないかも知れない。。

あと今までだったら「うわーどうしようー」と不安でドキドキ緊張バクバクだったであろう場面で、頭では「おーこりゃまじー」という思考が働きながら体には何の感情も流れず平静という感じに変化しています。
「自分が社会で大きなことができる」という感覚は、その変化にかなり負っています。マスコミに出て衆目集めようがなんてこたないという感覚が生まれてくるので、何も恐れることがなくなる感じなんですね。
ただ「緊張感」はまだ起きると思う。あまり超人的イメージの誤解なきよう念のため。ままた10年後にどうなってるかは僕自身想像もつかないですが。。

ぜひこうした知識を、「悪感情への耐性」を心がける上で役立てて頂きたいなと思います。
体の中にどんな恐慌感が流れようとも、それは「現実を示す」ものではないし、そうした濃い恐怖状態に陥ってしまうことも、別に心理障害の悪化を示すものではなく、むしろ「感情の膿の放出」という治癒過程であり得るという知識を持ち、それをやり過ごすことです。
参照:2004/10/28 悪感情への対処の基本-1-3

実際、自己操縦心性の崩壊除去が終わりに近づいた頃には(まこれは取り組み全体の終わりも終わりですが^^;)、そうした悪感情を流した後に、基調感情が一段階上昇するというのが、結構短い期間の中で感じられるようになります。

No.832 2005/12/17(Sat) 12:37

自己操縦心性の成り立ち-16:背景その2自己処罰感情の利用-1 / しまの

ということで(どうゆうこと?^^;)、ようやく背景その2の説明。
「自己処罰感情」という決定的根源の話です。


■心の変形メカニズムを駆り立てる原動力

否定型・受動的価値感から始まる心の変形メカニズムを詳細に解説してきましたが、その変形メカニズム自身には、それを駆り立てる誘因はないことに注意が必要です。

その変形メカニズムの中で、人はやがて皆から脚光を浴び愛され賞賛されるような、一点の曇りもない能力なり美しさなりを獲得する栄光こそが、人生における最大の勝利であると感じるようになります。
しかしそれは「奪い合う世界」という、この人間の内戦を映し出した外界の戦線に立った上での、極めてストレスに満ちた、転落の恐怖に満ちた薄氷の高揚感に過ぎません。

心はそのことを予期しており、成功して登れば登るほど、崖から落ちる恐怖が増大することから、自ら成功を避けるような貧弱な外面に甘んじることさえ起きてきます。自分の不成功を人生の不遇と怒りながらです!

そして実際のところ、この人間が描く「完璧なる能力や美という栄光」には、必ず転落の時が訪れるように運命が定められています。
何よりも、老いや寿命という根本的限界のために。次に、同じ座をめざす競争の世界の中で、最高の座に座れるものはごく少数の人間、しかも短い時間でしかないという現実のために。

一方心が健康になり、肯定型の能動的な望みの中で、可能性を尽くして己の限界を知る体験の中で、人は「競争における優越」の達成を失う代わりに、人生における別の価値を見出すようになります。
それは言葉では表現しにくい、「生きる喜び」であり「人生の豊かさ」です。実際それはあらかじめ目に見えることはあり得ず、実際に味わった時、それが今まで自分の追い求めた何物よりも大きく輝く価値であることを知ります。


そして実は、心はこのことを多少察知しています。病んだ心の中でです。
そして否定型受動的価値感の中で発達する「価値ある自分の姿を求める衝動」の中で、この、人生の豊かさを実現した自分の姿を偽装しようとさえするのです!

これは自己操縦心性の根本を先回りして表現した言葉です。詳細は近々。

いずれにせよ、否定型受動的価値感の中で変形した心を生きることは、健康な心を生きることに比べて、何の誘因もありません。
そのメカニズムを駆り立てる別のものがあることになります。

それは実に単純で、決定的な、単一の根源的理由です。
それが、「自己処罰感情」です。

ちょっと短いですが次が長くなりそうなのでここでカキコ。
う〜しかし風邪だ〜。流行ってるようですねー。でも多分今日もジョギング行くのだ〜。

No.831 2005/12/16(Fri) 12:52

自己操縦心性の成り立ち-15:背景その1否定型・受動型の価値感-9 / しまの

自己嫌悪の本質とそれに対する対処の、ハイブリッドとしての結論の言葉がやっぱここで必要と思いますので書いておきます。


■自己嫌悪の本質

この「精神性」が、ハイブリッドが考える自己嫌悪の本質ということになります。
それは「精神の自己」の、「現実の自己」に対する優越感です。自己嫌悪に伴う「甘さ」はそこにあります。

ハイブリッドが示す道は、その「現実と精神の分離」という生き方から、「現実において生きる」という生き方への、根本的変換です。
そのためには、何が起きているのかの全体像をしっかりと見据えることです。全体を見据えた上で、「選択」を自分に問うのがいいでしょう。


その全体とは、「精神性」の維持が、「現実」を犠牲にして貧困化しているという事実です。この過程にいる個人は、自分が自ら現実を貧困化していることと、貧困化された現実を不遇として嘆き嫉むことを、まるで別々のことであるかのように体験しています。
それはまるで、右手がしていることを左手が知らずに、自分がやったことの結果をまるで人生と世界の理不尽であるかのように怒る姿です。この具体的なパターンはまた詳しく説明する機会があるでしょう。

その根本は、完全性を求める精神性の高貴さへの信念のために、現実において生み出すことを放棄していることです。
現実とは不完全なものであり、その中で生み出すためには、泥臭い歩みをする必要があります。


■現実との和解

そこからの「最大の方向変換」への芽が、どのように心の中に芽生えるのかについての道筋も示しましょう。

「精神力で」などでないことは無論です。まずそれに絶望しなければならないでしょう。
自分の人間性や「人格」が、今まで自分が信念を抱いていた「精神性」によって練り上げることはできないのだという事実を、受け入れる必要があります。
我々の人間性「人格」は、結局のところ、今は大した信頼も置けない「感情」と、何とか知恵を絞って利にかなったものを心がける「行動」で、醸成されるものでしかないのです。精神力が自分の人格を改善するという幻想への絶望が、信頼の置けない感情を信頼の置けるものへと変化させていく、第一歩なのです。

そうして、「現実において生み出す」心の芽は、抑圧の解除を始めとしたこの取り組み全体の中で生まれる、内面の力の増大によってやがて萌芽を始めます。

その芽の具体的な姿とは、原理原則立脚型の建設的行動が取れるようになることで、「真の強さ」を知ることです。
その時、来歴の中で自分を迫害し、叱責し、侮辱し、軽蔑した、怒りと憎しみの対象であった人間たちの「強さ」を越える「強さ」を、自分が身につけようとしている、そんな扉の前に立った自分を感じると思います。
「最大の方向変換」を自分自身に本当に問えるのは、その時です。それ以前にどう問おうとしても、「振り」にしかならないでしょう。

それは同時に、「現実において生み出す」というのがどんなことなのかを知る時です。それが今までの「精神性」とは全く別世界であり、全く共存し得ないものであることが見えるでしょう。

方向変換への「選択」は、極めて明瞭な意識の中で、明瞭な意志として、成されます。自分が何をするのかが、はっきりと見えているからです。
その根本が、「完全性の放棄」です。神になろうとする誤った姿勢を放棄することです。
その時、「善悪」は完全に崩壊するはずです。その代わりに、心の中を光が満たし始めます。

ちょっと宗教チックな文調かも。アハ。僕自身のケースでどんな体験だったのか、ダイジェストと同じレベルでいつか書きたいですね。
「現実との和解」とは、そんなものですね。現実の中で生きるようになり、自分の本当の可能性を見出す歩みは、ここからです。


■内面感情の枯渇・感情の物体化

話の流れで書きそびれたワンポントを付け足しときます。

受動的価値感の流れで起きる症状として、あと、「内面感情の枯渇」や「感情の物体化」があります。
これらは「症状」として自覚されるという形で表面化することが良くありますが、根本メカニズムは受動的価値感であるということを理解しておくのがいいですね。

内面感情の枯渇化は、望みの停止の直接結果でもあります。感情というのは望みを要に動くものなので、望みを停止すれば感情全体がなくなってきます。
程度が進行すると、人や自分が人形のように感じられるといった現実感の喪失になります。「離人症」とか呼ばれます。

感情の物体化は、「自分からは望まず人によって望める」受動的価値感が感性のレベルで進行して、感情が自分の中で湧き出るものではなく、まるで人から受け取る電波体かのように、視覚的に感じられるようになってくる現象です。
視線が電波のように侵入してくる、感情が人と人との間でやり取りされるのが視覚的イメージになってくる、自分から感情が電波のように漏れ出す、といった幻覚的感覚を起こすものです。
フェティシズムもこの感情の物体化の一種ですね。

以前の相談メールでこんな話がありましたが、受動的価値感による感情の物体化感覚ですということで、この場を借りて。
>本を読んだり、誰かから聞いた面白い話があったとします、
>自分ではその話しが80へ〜くらいだと思ったとします。
>その話を誰かに話して80へ〜を獲得したいと思ってしまいます。
>そして誰かにその話をして80へ〜を貰っている場面を思い浮かべてしまいます。
>これは何なのでしょうか?

これらは、受動的価値感が自分の心の中でどのように動いているかを地道に感情分析することで、解消できると思います。

No.830 2005/12/15(Thu) 12:52

自己操縦心性の成り立ち-14:背景その1否定型・受動型の価値感-8 / しまの

「精神性」について総括します。


■「精神性」という自己アイデンティティ

否定型および受動的価値感を起点とした流れを説明しました。
もう一度キーワードを並べるとこんなのがある。

<否定型価値感からの流れ>
否定型価値感..感性。否定できることに価値を感じる
望む資格思考..価値観思考(善悪観念)→望める人・望めない人・不相応で図々しい人という他者イメージの発生
望みの停止(自らは望まない)..姿勢
辛抱苦労への優越感..優越欲求
<受動的価値感からの流れ>
受動的価値感..感性。自らは望まない結果、「相手によって感情が湧く」という基本感覚。
注目される欲求..欲求→集目型の人生目標などにつながる
欲求の皮相化(内側からの望みの希薄化)..欲求。→現実における成功が獲得しにくい傾向
奪い合い感覚..感性。人によって感情が湧くという受動的価値感の結果、基本的感性として生まれてしまう「良いものは奪い合う」という感覚。
粗野な他者vs繊細な自分..自他イメージ
ニセへの破壊衝動..優越欲求

なお優越衝動あたりになると、多少他の心理傾向からの流れも混ざってきています。

さて、これらの雑多な心理要素は、この心理過程にいる個人にとって主に「感性」のレベルのことであり、この個人が自分自身を、そして人間世界を眺める感覚であり姿であるわけです。

それに対して「否定型・受動型の価値感-7」になって出てきた「精神性」は、否定型受動的価値感から連鎖的に生まれる心理要素というよりも、そうした内面および外界に対峙する、その個人の主体的存在意識のような話になってきます。
つまりアイデンティティです。「精神性」がアイデンティティになってくる。

彼彼女の目に映る自分の心とは、はなはだ屈折に満ち生きずらいものであり、彼彼女の目に映る人間世界とは、奪い合いの粗野な世界です。
それを考えた時、否定型受動的価値感からの心理発達の中で生まれたこの「精神性」は、「望まずに与えられる」ような、超現実的な神格性を帯びたものになることが想定されます。


そして僕は、これが人間の心に与える影響の深淵さに、感慨を禁じ得ません。
それはもう心理障害という話を大きく超えた、「神」の概念、人が抱く「神聖なるもの」というイメージ、それを願い求める希求の心、それをめぐって人間が体験する願いや感謝などの深い感情、それを描いた芸術の発展、そうした人間の心の一つの真実がかかわってくる領域に、考察を進めることになる、という感覚を感じます。

心理障害のメカニズムが、そこにかかわってくる。
それは今までの話が感情の変形であり感性の変形であったものが、ここでは「魂の変形」と言うべき領域に足を踏み入れることになる。そんな感じがします。


■精神力・審美眼

簡潔にその特徴を把握しときます。
「否定型・受動型の価値感-7」で述べた通り、これは「現実の自己からの乖離」を特徴にします。

その状況でこの個人が抱く「能力」の感覚に、特徴的なものが生まれてきます。

ひとつは「精神力」です。感情は信頼の置けないものとなり、精神力により統制されるべきものという感覚になります。
自分の人間性、そして「人格」さえも、感情ではなく精神力によって練り上げようとする意識が生まれます。これが「感情の抑圧」という病理への扉を開く動きであることは、言うまでもありません。

もうひとつは「審美眼」です。一点の曇りも欠点もない美しさや能力こそが、「望まずに与えられる」という幻想的な価値の条件を満たすものとして、彼彼女の涎望の的になります。
この結果、彼彼女に特有の心理傾向が2つ発生します。
ひとつは、その目に叶うところに近い他者が、突然神格化されて目に映る現象です。対人関係を「能力」のように捉える感覚の中では、ごく原始的な(?)形で誰とも親しくなる人間が天使のように見えたりします。
もうひとつは、彼彼女がその審美眼そのものを、自分の重要な能力のように感じ始めることです。
この結果は実に複雑な人間心理となり、神格化された相手に惹きこまれる感情と、一点の曇りに着目する審美眼によって自分のプライドを維持する感情とが、衝突し合うような姿になります。
これが、恋愛の中で織り成される感情の複雑さになっていくでしょうが、ここでは深追いはやめておきましょう。


■現実の彼方への飛翔

とりあえず文芸調で総括をしときますと、そうした神聖ささえ帯び始めた「精神性」へのアイデンティティそして信念が、このあと、この個人を自ら破滅へと追いやる心の罠に向かわせることになります。

そのメカニズムの説明へと移りましょう。ようやく自己操縦心性の背景その2の話になります。精神性が心理障害へと姿を変える、決定的要因の話になります。

その前にひとつだけ、人の心がなぜそんなものに向かうのか、健康な姿では芸術などに描かれたものが、心理障害の中で容赦ない自己破滅となる、それら全ての根底にあるのが、「完璧なるもの」「完全なるもの」を求める人間心理にあることを指摘しておきます。

そして自分から駄目にしていく人生からの方向転換となる、「現実との和解」も、その観念の放棄にあるということ。

これを指摘したのはホーナイです。実際僕が人生の方向変換をしたのはその教えによるものであり、僕にとってその方向変換は、それまでとそれからとで世界が完全に変わるような、明瞭な変換であったことが記憶に残っています。
いずれさらに詳しく説明したいものですが、ここでは簡潔にということで、ホーナイの言葉を紹介して終わりましょう。
これどっかで書いてなかったかなぁ。。
「自己嫌悪とその破壊的な威力を概観してきたが、そこに大きな悲劇があることに注目せざるを得ない。それは恐らく人間の心にとって最大の悲劇だろう。
人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない。」

No.829 2005/12/15(Thu) 01:13

自己操縦心性の成り立ち-13:背景その1否定型・受動型の価値感-7 / しまの

紹介している返答メールから引き続き。
「精神の高貴性」について考察している部分です。

最近の僕の理論考察上、この位置付けが極めて重要なものになっています。
どう重要かというと、人が心理障害の中で自分自身を容赦なく責めたてこき下ろし、自らの人生を破滅に追いやろうとするのが、本人の「〜のせいで」という意識とは全く裏腹に、まるで現実の自分が破滅するという目標が先にあって、それが後から「〜のせいで」という口実を見つけているのではないかと思えるほど、奇妙な論理の構造をしているらしいことです。

しかしこれが逆に、現実にその人が置かれた状況がどんなであろうと、容赦ない自己嫌悪が解かれる道があるのだという感覚を、僕に与えています。
問題は外部にあるのではない。完全に自己自身の中、脳の中にある思考回路の中にあるのだと。

その意味で、この自滅を目指すかのような一連の思考が、今の僕の感覚では、はっきりと、「脳のバグ」ではないかと感じるという話をしています。
そのバグを使い続けるのではなく、正常な「人生脳」への切り換え方法をはっきりと定義するというのが、ハイブリッドの重要な使命ということになりますね。

この返答メール紹介の後に、それを「現実との和解」としてちょっと考察しようと思います。

-----------------------------------------------------------
■「自ら望まない」と「価値の獲得」の自己撞着

さて、否定型価値の中で生き始めた場合の人生の流れを一通り説明しましたが、これらはすべて「連鎖」として、意識的な修正は効かない形で起きます。
全てが最初の、否定型価値の中にどれだけ身を置くかで決まってきます。

結果は心理メカニズムとして決まっています。
至るのは、「自分は特別な繊細さによって、不遇な人生と高貴な精神を獲得した」という心理状態です。このあまりに端的な心理状態は僕もそうでしたし、ホーナイも特記しているものです。
こうなるメカニズムが、人間の脳にあるんですね。

問題は、結局現実世界に生き、現実世界における人生の望みがある限り、自分自身が現実に価値ある人間にならなければならないという制約を抱えていることです。
価値ある人間にならないと、自分から望めない。つまり自分では望めない。

しかし自分から望まないと、価値ある存在にはあまりなれるものではないのが現実です。
これは一体何なのか。

この思考形態を突き詰めていくと、完全に自己撞着に行き着くんですね。
「自分からは望めない。自分からは価値を獲得することはできない。」
「自分は価値ある人間にならなければならない。価値ある者だけが自分から望むことができる。」


これはつまり、自ら必要とするものを自ら不可能にするという構図です。
「自ら不可能にしたものを必要とする」ということです。


■現実の自己と精神の乖離

この人間の価値感は、「望まずに価値を手に入れる」という感じの、神秘的な精神という色彩を帯びてきます。
本人にとってはそれが自分自身であるとさえ言えるほどの、守るべき価値となるでしょう。
僕のダイジェストでも、こんな言葉がありますね。「現実がどうであろうと、"僕"はその姿そのものだった。それは"自己像"と呼べるほど浅はかなものではなかった。」

これは「現実の自己と精神の乖離」という状態を作り出すようです。
自分が信じる自分の精神性はあまりに気高く、それに対して現実の自分というものが異質にさえ感じられてくる。
Aさんが「食事というものさえ生々しく異質に感じた」とか書いてくれたのもそんな感じかと。

これもホーナイが特記していたことです。
いわく。「ここで論ずるべき最後の一般的傾向は、精神の高貴さへの患者の信念である。感情は荒々しく手に負えないものであるから統制すべきだが、これに対して「精神」は、壺の中から現れ出て広がる精霊のようだと見なされる。こうして事実上、新たな二元対立が作り出される。もはや精神と感情はともにあるのではなく、精神対感情の対立となる。精神は現実の自己とともにあるのではなく、現実の自己と対立するようになる。」

一方に、「望まずに価値を手に入れる」高貴な精神があります。
一方に、望みの停止に始まった情動の皮相化と荒廃化によって、自らの内部に憎むべき敵の姿を見出すようになります。


「否定型価値」に身を置くという最初の選択の結果、後の流れが全て決まっています。
後はその程度の違いだけです。この基本的な流れに、あとは感情の膿の強度と、残存愛情要求で起きる同時多発的な変形感情のどれが優勢になるかにより、結果として現れる人格像は千差万別になりますが、全て同じ心理メカニズムの中で起きています。
程度が進むと、精神異常の世界までが連続的なものとして容易に想定できます。


■人生脳のバグ

これは一体何なのか。
僕は今でははっきりと、これは「脳のバグ」だと思っています。
「否定できる価値」によって「生きる」ことができるかのような感覚を生み出すというバグですね。

そしてその脳のバグの中で生きるという選択をしてしまった結果が、心理障害であり、強度の増したものが精神障害に近くなってくると考えています。

ですから「選択」は、「否定型価値」という脳のバグをこれからも使いつづけるか、バグではない「肯定型価値」を使うかということになると思います。

ただしこうした心理障害メカニズムはあらゆるところで悪循環の自己膨張が起きていますので、この「選択」はまだ見えない形で、様々な心理メカ自体の解きほぐしをしなければならないことも多いでしょう。
それは自分の人生を駄目にしていくこの大きな回転の動きを弱めていくことです。今までの回転が次第に弱まり、やがて停止状態から逆方向へと回り始める、その転換点は、ただこの「否定型価値」から「肯定型価値」への転換という唯一点にあります。


■最後まで残り続ける「選択」

では、「否定型価値」に生き続けた結果至った窮地で、いまさらどう方向転換できるのか。
実に単純なようです。

パラドックスをそのまま裏返して見ればいいようです。
「現実の自分を認めることができないほどの精神の高貴さ」があるのなら、まずその精神の高貴さを認めてあげればいい。
それを一つの現実のスタートとすることです。その分だけでも、自ら望むことを許してあげることです。

最初に何を自分に許すのか。
不完全な存在として生きることを、だと思いますね。実際「選択」によって何かがバラ色に変るわけでもなく、大いなるハンディからのスタートだと思います。

実際、「人生脳のバグ」とは言いましたが、精神の高貴さに逃げる必要があるほどの、逆境があったわけです。むしろ「最初にあった選択」は、単なる失敗ではなく、そこから自分を救うものであってとさえ言えると思います。
これは自己操縦心性の起源の話ですね。自らを許さずに自滅に追いやるその心性は、実はその最初においては救いだったのだというもの。
2004/12/15 自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3
-----------------------------------------------------------

No.828 2005/12/14(Wed) 18:09

自己操縦心性の成り立ち-12:背景その1否定型・受動型の価値感-6 / しまの

では受動的価値感について引き続き、それにより感性の変形が起きる流れを説明します。
「否定型・受動型の価値感-4」で引用した返答メールの続き。

---------------------------------------------------------
■「人によって望める」者の隘路

自ら望める」世界の人間と「人によって望める」世界の人間が、その後の人生でたどる一般的道筋も理解しておいてください。
「人生の失敗をわざわざ説明されるのか」と感じるかもしれませんが、「選択と連鎖」の全体を理解することで、再び人生を180度方向転換する「選択」がより見やすくなってくると思います。

物事を成し遂げるには、人から評価されることを目当てにするような「外側からの望み」ではなく、その活動そのものへの興味関心や欲求といった「内側からの望み」がないとうまく行きにくいのは分かると思います。
前者では、中身が伴わないんですね。

概して、仕事や人間関係で成功が難しくなります。
そして成功者に対しては概して、憎しみのこもった嫉妬を感じてしまいす。


これは、人生の価値が「人の注目を勝ち取る」ことを前提にしているので、基本的に「成功は奪い合うもの」という感覚ができてしまっているからです。
しばしば「一人の幸福は十人の不幸を生む」とかの人生論を考えて、「真実を知った」気分になってしまいます。幸福は罪深いという感覚も生まれてくるでしょうね。

成功者に対して、傲慢な人間だという善悪感と、自分は「奪われた」という怒りの感覚、そして羨望の混ざった感情を感じます。


■自ら望む者への怒り

この結果、この心理状態にいる個人特有の、「強欲で野蛮な他者と高潔な弱者の自分」という社会像ができます。

人々はおよそ3つのグループに分かれることになります。
まず「望むことを許された」、価値を手に入れた者そうでない者という構図ができます。
そして「価値を手に入れた者」には、ホンモノイカサマが分かれます。「自分からは望まない高潔さ」を保った上で価値を手に入れた者こそがホンモノということになるでしょう。そうでない成功者は、「自分からは望まない高潔さ」という原則を破ったイカサマである。
自分自身は、それを守った側である。

付け足せば、「失敗して地獄に落ちるイカサマ」という第4のグループもできるでしょう。実はこれこそが「自分からは望めなく」なる、無意識の自己嫌悪の正体だったりします。
無意識の自己嫌悪の話については今回省略。自己操縦心性の解説で。

自責の苦しみを感じることなく「自ら望める者」に対しては、概して怒りを感じるようになります。
ひとつは、自分が苦しみならが控えめに生きていることに対して、そうした人間はルールを無視した抜け駆けをしているというような感覚。
あとは、万人に認められる程の水準に至らない「成功者」へは、ニセモノだという怒り。


■破壊傾向の発展

これは心の中で鬱積するだけの怒りに留まる場合もあるでしょうし、「ニセを潰す」ことにプライドと快感を感じるようになると、より積極的に相手への破壊行動へと進化することもあるでしょう。
そうなると次第に、自分から積極的に破壊すべきニセという獲物を求めるようになってきます。

稲中のギャグとかはそんな感じですね。
>あるギャグマンガ(稲中ですが)にあったシーンで、「護身術」道場で訓練する女性達の中にいる、一人の醜い女性に、主人公たちは「お前は襲われる要素などないのに、そんなもの習っているのは身の程知らずで腹が立つ、分をわきまえろ」という場面。
女性は自らを醜いとは認めず、主人公はそのずうずうしさに腹を立て、何とか認めさせようとする。
…典型的な望みの停止思考ですが、認めない女性をあさましいと感じる人が多いからこそギャグとして成り立つのでしょうね。


ギャグで済む内はまだ笑えますが、破壊傾向が強くなると次第に犯罪者の姿に近くなり、そうなるとこの生き方の先にある一つの現実的破滅の姿がちらほらと見えてきます。
稲中ギャグも、現実に起きて女性が告訴したら有罪になる可能性がかなり高いと思うんですが、こうした心理の中にいると、「守るべき高潔さ」の感覚が勝ってしまうんですね。

いずれにせよ、破壊する獲物がある時は、怒りの中で生きることになります。怒りの麻酔作用によって、苦しみには鈍感になっています。
破壊できる相手がないと、その矛先が自分に向かってくることになります。麻酔が切れ、一気に生きる先を見失った苦しみが増します。
---------------------------------------------------------

この説明で登場したキーワードを整理すると、以下のようなものがあります。
内側からの望みの希薄化..欲求。→現実における成功が獲得しにくい傾向
奪い合い感覚..感性。人によって感情が湧くという受動的価値感の結果、基本的感性として生まれてしまう「良いものは奪い合う」という感覚。
粗野な他者vs繊細な自分..自他イメージ
ニセへの破壊衝動..優越欲求



■「奪い合い感覚」が生み出す人間世界との敵対姿勢

この辺に至って、この個人が心の中に内戦状態を抱える原因となる、矛盾した感性が起きることが分かります。
それは何と言っても、「奪い合い感覚」です。
良いものは奪い合うものだという感覚が生まれてしまっています。これは受動的価値感の基本的派生物です。人の目によって価値が生まれるという感覚を背景にした時、価値は基本的に人の目や好意という固定パイをどう配分し合うかの世界になるからです。

「自ら望める」心の世界には、この「奪い合い感覚」はありません。価値は自分自身の中心から湧き出るので、何も焦って奪うものなどないのです。

そしてこれが思考や感情の背景となる「感性」のレベルで起きてしまい、この個人が疑いもせずに人間世界を見る姿として映し出されてしまうことで、この個人と他者全般との関係が基本的に敵対的になってしまう、最も根源的な原因なのです。
人間世界では奪い合いが行われている。その中で怯える自分は繊細であり、うまく行っている他人は粗野で強欲だという、基本的な自己イメージが生まれてしまっています。
それは現実の人間世界の中にあるものを見ているのではなく、自分の心の中に生まれた内戦を映し出してしまっています。

現実の世界は多様な人間で満ちている。某ヒューザー社社長のように強欲な人間もいれば(アハハ)、奪い合い感覚などまるで無縁な心の世界に生きている人々も沢山います。
まずは知的にでも、そのような視点を持つかどうかか、我々自身が「奪い合い感覚のない心の世界」に移るという人生の大変革の、第一歩なのです。

こうした全てが、否定型価値感と受動的価値感から生まれているのだという理解が重要です。
否定型価値感が、主に思考のレベルで問い直しをするものとして。
受動的価値感が、主に感性のレベルで問い直しをするものとして。


否定型価値感と受動的価値感から生まれる心の変形が行き着くのが、「精神の高貴性」です。ここに至って、自分自身の内戦を映し出した人間世界を敵に回し、繊細で不遇な自分という自己像を維持するために、自らの人生を駄目にしていく傾向の必然性が生まれるに至ります。

「精神の自己vs現実の自己」という基本構図が生まれます。これが自己嫌悪の正真正銘のメカニズム。
ここから、感情の膿や残存愛情要求など含めた全てがつながってきます。
それを次に。

No.827 2005/12/14(Wed) 13:57

自己操縦心性の成り立ち-11:背景その1否定型・受動型の価値感-5 / しまの

途中で「自己操縦心性の崩壊メカニズム序論」をさしはさみましたが、操縦心性の背景となる「価値感覚」についての解説を引き続き。
「背景その1否定型・受動型の価値感」のNo.5になります。No.4は11/16でした。

おさらいをしますと、自己操縦心性という「別の人格体」を人形のように練り上げる材料となる粘土の話です。大元中の大元。
それが否定型価値感受動的価値感です。この2つの役割は、前者が幸福になる能力を損ない、後者が心を変形させる、と言えるほど、全ての根源になるものです。

発生メカニズムは、まず否定型価値感から始まります。「それは駄目だ」と否定できることに価値を感じる感覚が、生育期の環境にあることが始まりです。否定型価値感をめぐるキーワードを整理すると以下の通り。
否定型価値感..感性。否定できることに価値を感じる
望む資格思考..価値観思考(善悪観念)→望める人・望めない人・不相応で図々しい人という他者イメージの発生
望みの停止(自らは望まない)..姿勢
辛抱苦労への優越感..優越欲求

受動的価値感は、これらを背景にして起きる、感性レベルにおける心の変形の始まりです。心の健康な他人とはちょっと違う感性。
感性レベルというのが、その影響がその後の感情や思考に幅広く及ぶ理由です。今までの話からキーワードを整理すると以下。
受動的価値感..感性。自らは望まない結果、「相手によって感情が湧く」という基本感覚。
注目される欲求..欲求→集目型の人生目標などにつながる



■「感じ取る」ことと治癒

ひとつワンポイントを入れておきますと、上記のような感覚を感じ取る感情分析を実践することと、それによって何がどう治癒するのかということを理解頂いておくと良いと思います。

重要なのは、それらがつながり合い全体としてもたらす結末を把握する中で、自分の中にあるそれらを感じ取ることです。

そして治癒というとき、それらが心の健康にとり望ましくないから持たないようにしようという、自分の中で否定しようとする姿勢を向けることでは全くない、ということが重要です。
その姿勢は否定型価値感という元の木阿弥です。

まずするのは、全体の結末も同時に感じ取りながら、それらの感覚が自分にあるのを感じ取るまで。
一方、より健康な感覚へとどうそれらを戻すかの方法を言うならば、そのためにそれらの感覚に対してすることは何もありません。
可能ならば行うのは、それらの感覚については感じるだけで放置する一方で、全く異なる感覚のスイッチを入れる努力が望ましいものです。この結果、治癒途上では全く異なる感覚が並存することになります。その状態のまま、成り行きは心に任せます。


全く異なる感覚のスイッチを入れるとは、「こうでないとは一体どうゆう感覚だろう」とイメージすることですね。
駄目だと思ったものへの否定をやめるとは??
望む自由。「図々しい」という観念のない、「望みの開放」とは??

多少説明がないと全くイメージつかないものもあるかも知れません。説明が頭で分かっても実感としてはピンとこないかも知れません。
そこから始まります。「感性」という根深いものなので、ちょっと思考を変えてみたところでそう簡単には変わりません。日々の生活の中で、上述の「感じ取る」「別の感覚を想定してみる」の繰り返し積み重ねで、やがて別の感覚のエンジンがうなりをあげる時がくるでしょう。

ということで、受動的価値感による感性の変形について引き続き。

No.826 2005/12/14(Wed) 00:31

2ちゃんで紹介^^; / しまの

というわけで、2ちゃんで紹介しました。以下の通り。
どうなることやら^^;
さ〜て執筆執筆。。

「心の成長」で克服
1 名前:島野 2005/12/13(火) 13:18:20 ID:U710nwWB
心の障害を「心の成長」によって根本的に克服するというコンセプトの新しい心理学の紹介です。
心を成長させる「心の使い方」「心の選択肢」を説明します。それを選ぶかどうかは自由にお任せしますというスタンス。

沢山の理論説明などありますので、その手のにアレルギーがなく興味持って頂ければご訪問下さい。

ハイブリッド人生心理学(ハイブリッド心理療法)
http://tspsycho.k-server.org/

No.825 2005/12/13(Tue) 13:23

「ハイブリッド人生心理学ステップ・ドリル」をUpしました / しまの

とりあえず前半という感じです。

ダイジェストの方あと考察をまとめたら、心理学本の執筆に着手したいのですが、上巻が入門編をベースにメカ論をかみくだいた理解編下巻がこのステップ・ドリルをベースにした実践編になるかなと思っています。
既存原稿を活用し、ダイジェストよりは高スピードで進めたい。

それにしても新規訪問者の少なさが深刻なものがあり、ちょっと手を打とうかと思っています。2ちゃんで紹介とか(まず思いつくのがこれとは悲しーT_T)(^^;)、あと心理学本のおおまかな内容コンテをメルマガなどでやろうかと。あと有名サイトで紹介させてもらうなどできないかと画策中です。

ここ数日は失業保険の有効期間の関係もあり、それもらうために再就職活動もありかなどと思案していたのですが、やっぱ心理学本を書きあげるまではこれに専念する所存。
貯金があるうちは今の生活で何とか心理学本まで仕上げ、あとはえ〜い何とでもなれいと、その頃には小説本の売れ行きも見通しつくだろうから、その時点の状況で、この活動を続けるか再就職かを決める覚悟でござる。

というわけで、執筆三昧生活後半に突入の気分の今日この頃。。

No.824 2005/12/13(Tue) 12:47

12/12(月)まで不在で〜す / しまの

法事で帰省のため。

戻ってきたら次は「ハイブリッド人生心理学ステップ・ドリル」なるニュー・コンテンツをUp予定です。
「ハイブリッドでは実際のところ何をするのか」だけを抽出した一覧表みたいなやつですね。ハイブリッドがより親しみやすく(?^^;)なるのではと。
こうご期待。

No.823 2005/12/10(Sat) 11:35

自己操縦心性の成り立ち-10:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-6 / しまの

引用の最後に、こうした壁を控えた状況での取り組み姿勢について説明した部分。
またワンポイント入れてから。

■「自ら望むことへの恐怖」を遠く望む心得

まず言えるのは、そうした自己操縦心性の崩壊を自分で「起こそう」という思考は、全く意味がないこと。
治癒現象としての「崩壊」は、治癒成長が堅固に進展し、内面の力がそれに耐えられる状態にならないと、起きないです。これは意識思考ではびくともしないほど、かなりしっかりとしたメカニズムに従います。
「崩壊させよう」とかの雲をつかむような思考が起きる状態とは、まだ「人口的に練り上げた仮面の感情」を自分に強いろうとしている、取り組み初期段階です。
崩壊などまだ先の先と安心して(?)、まず感情と行動の分離の実践によって、内面の善悪を問わずありのままに感じ取れることを目標にして頂ければ。

破綻」はいつでも起きる可能性がありますが、これは積極的破壊に向かった時の話であり、取り組みどころの話でないですな。

取り組み初期段階においては、「自ら望もう」とした時に漠然と起きる理解不能な恐怖感の先に、先に説明した人格衝突などが控えていると認識しておくのは、有益だと思います。
心がそれを感じ取って、恐がっているんですね。

そうしたはっきりしたメカニズムがあることを理解すると同時に、恐がっている心を受け入れてあげることがとても重要だと思います。
自分で認めてあげることで、心に安心感が芽生え、やがて来るべき対決の時に備えての力が蓄えられて行きます。

いつ「自ら望む行動」に出るべきか。自分に強制する姿勢を捨てた上で、自分の心、つまり「魂」に委ねるのがいいですね。力をつけた時、それは自分から「出たい」という声を貴方にかけるでしょう。

恐怖を押さえつけることなく、認めてあげること。
恐怖を無視した「勇気」を自分に強制するのではなく、「今は行動しないでいる?それとも踏み出す?」と自分の魂の声に耳をすませること。
まずはこの違いを感じ取る実践から始めてもらえれば。

そのような、「壁を越える」局面の理解をふところにして、後は取り組みを通して変わることのない、一つ一つの問題感情への取り組み方法になります。

-------------------------------------------------------
■取り組みはあくまで各人格傾向それぞれに個別に進める

さて、「甘くない自己嫌悪」について、その入り口的説明をしましたが、今までとは打って変わって心理学理論調オンリーの解説になったと思います。
実際、日常感情の言葉では理解できない事柄であり、そして何よりも、それが起きた心理悪化状態を、外部のせいにするのではなく、また「自分は狂ってしまうのでは」とかの誤った不安を自ら煽ることなく、治癒現象が起きているものとしてじっと流す姿勢が、まさに心理障害の根本治癒への姿勢なのだと心得ておいて欲しいと思います。

で、そうした根本治癒を目指す姿勢について。

まずは、説明したような「亀裂した人格同士の衝突」や「自己操縦心性の崩壊」は、それを起こそうとして起きるようなものでは、全くないということを心得ておくのが重要です。
ま考えたところで宙に浮いて雲をつかむような話になるかと。

取り組みは、あくまで個別の人格傾向それぞれに対して、個別に進めるだけです。
特定の心理傾向それぞれ、感情と行動の分離を心がけ、行動は行動学を意識し、感情はより深く知る

その過程で、感情の動揺の背景に、上に説明したようなことがあるのを背景的知識として持つのがいいと思います。

これは身体面でのリハビリに似た話ですね。
リハビリで行うのは、スポーツに似たトレーニングであり、損傷そのものに処置を施すという感じではありません。しかしトレーニングで独特に起きる痛みや、通常のトレーニングとは違うものが必要なことについては、その損傷についての医学的知識をもっておく必要があります。

同じように、障害感情への取り組みは、上述の一般道程をそれぞれ行うだけですが、なぜ感情が悪化するのかの背景に、人格の剥離分裂と、治癒途上におけるその衝突融合という現象があるのだという知識を持っておくのが、非常に重要なことになります。

なぜならそうした知識がないと、治癒による悪感情に対しても自己嫌悪が起こり、今までの逃避的思考や行動に逆戻りする動きが起きたり、また無駄な絶望感を感じたりする危険があるからです。


■「大人にもなって」と「子供なのに」

Aさんの場合、全く相容れずに対立的に矛盾した感情というのは、次の2つの部分になると思います。


>実際、もう社会経験をそれなりにしている年齢なのに、何も積み重ねてきていない、
>それは社会的に十分なハンデです。

これは「こんな年齢ならこうなってしかるべきものだ」という考え方。
一方、

>常日頃、自分が一人前の大人として振る舞い行動する事を求められると、
>強烈な違和感を覚えます。まだ子供なのに?みたいな。

これは「中身は本当はまだ子供」という意識。


この2つが、意識の上ではそれぞれ別々の違和感のように体験されていますが、根っこのところでは干渉し合っています。
つまり、それぞれが、意識上の思考論理の中で問題があるのではなく、別の感情が控えていることで問題が起きているのが実情です。

「この年齢なのに何も積み重ねてきていない」から問題なのではなく、子供のように扱って欲しいという矛盾する感情があるから、ハンデを抱えている感覚が起きます。
子供のように扱って欲しい感情が心の片方にないなら、大人の自覚で挽回しようとする意志が出るだけですが、それじゃ嫌だという感情があるから、埋められないハンデであるかのような感覚が起きます。

「まだ子供」だから、一人前の大人としての行動する事を求められると違和感を覚えるのではなく、「こんな年齢なら」という容赦ない視線を自分自身が持つから、自分で違和感を覚えます。
単に子供な人間は、大人としての行動を求められれば、大人としての行動をしているつもりで、それが他人からは子供なだけです。本人は違和感は感じません。

問題は実は他人との間に起きているのではなく、完全に自分自身の中で起きているのが分かると思います。


これに対する取り組みは今述べた通りです。
「大人にもなって」と「子供なのに」について、一応切り離したまま取り組みます。

「大人にもなって」については、それが基本的に「唯一無二の存在として成長する」ことなどまるで認めず、「人はこの年までにこうなっていなければならない」というレールを敷いた人生観であることを自覚し、「唯一無二の存在として成長する」ことと選択にかけてみるのがいいでしょう。

そして、「人に教わることができるのは何歳までである」などという規定など何もないという、現実社会の原理原則を検討するのがお勧めです。

「子供なのに」については、「庇護を求める感情」を明瞭にすることが役に立つかも知れません。それを十分に感じ取って、自分の心の中のこととしてしまって、外面では原理原則型の行動を取ることで、違和感は多分消えるでしょう。
庇護を求める感情への取り組みそのものは長期戦かと思われますが。


そうして一応切り離して取り組む過程で、感情分析面の進行はやがて意識が葛藤に触れるところに行き着きます。この辛さはもう分かっていると思いますが、人格の融合治癒の時間となり、葛藤がどう解決したのかしないのか分からないまま足元がまた強くなる。


■「タブーを破る」ことになる「自ら望む行動」

葛藤に至るのではなく、自分から行動法を変えるというものあります。
「ハンデを抱えている」と感じたまま何もしないでいるのではなく、人に教わったり自分で勉強したり。

こうした行動変化は、いままで取ってきた行動を取り続ける慣性に逆らうことになり、「タブーを破る」という感じになります。もしくはそんな勇気が必要になります。

「タブー」とは、ある行動について、もう理由など問い直すこともなく避けることが儀式化している類のことです。惰性のようにそれを守ることで、何となく安心感がある。
それによって得られる安心感がもう理由なしになるように、それを破る行動は、もう理由なしに不快感と恐怖を感じることになります。

「自ら望む行動」は、多くの場合、タブーを破るような感情の中で行われることになるでしょう。というか、タブーを破るという勇気がなければできないような気がする。
そして実際、理由なき不快感と恐怖が、起きるのです。
でも、それだけです。まるで世界が崩壊するかのような感覚が流れたあと、世界を見回すと、何も起きていないことに気がつくでしょう。

これも「感情の膿の放出」の一バリエーションと言えると思います。

そのような敷居があることを理解し、それを超えるという意識を持った上で、今までとは違う行動に出るのがいいと思います。
無理をすることはない。恐怖感が強ければ、それを認めてあげることも自己受容という大きな意味があることです。

ただし、何もしないとは、結局現状のまま人生が終わるということです。
これら全体を把握した上で、今具体的場面でどうすればいいかには既決の答えはなく、自分の魂にその判断を委ねることです。

上の「タブーを破る」は、バーンズ『いやな気分よさようなら』「反応予防」と呼んでいるものと同じです。
バーンズはこれを、戸締確認強迫などの根底にある「完璧主義」の打破方法として説明しています。
「自らは望まない」も、自分がエセ人間に見える場面を完璧に避けようとする態度と解釈することもできるでしょう。

バーンズの記述が分かりやすいので引用します。
===========================================================
この恐怖と対決し克服する一つの方法は、「反応予防」と呼ばれています。
その基本原則は単純かつ明確です。単に完全主義を否定し、恐怖と不快感に身を委ねるのです。どんなに混乱しそうになっても気にとめないことです。そこで踏みとどまり、混乱が最大に達するのを許すのです。
ピークを過ぎれば、強迫性はそれが完全に消えてなくまるまで、だんだんと減じていくでしょう。この時、それがほんの十分かそれとも何時間かも知れないが、あなたは勝ったのです。自分の強迫性を克服したのです。
===========================================================


「タブーを破る」恐怖を無意識に抱えたまま、「恐怖を感じない自分」になるという「治癒」が自分にもたられることをじっと待って、何もしないでいる人が大半のように思います。
それは心理障害の治癒について紺本的な勘違いをしていることになります。

恐怖がなくなって、行動できるようになるのではありません。
恐怖の中で行動した時、恐怖が消える方向に向かいます。

恐怖感が強すぎる場合や、「タブーを破った」あとの混乱が大きすぎる場合は、上に説明した人格亀裂などの視点を用いて、感情分析するのがいいでしょう。
-------------------------------------------------------


■「望む自由」価値観という壁を越えるための踏み台

さいごに付け加えますと、このような「壁を越える」というのは、「望む資格思考」を根本的に捨てないと、起きようがないです。その善悪思考によって、「自らは望まない」ことは是とされるからです。

人がどんな価値観を持つかは自由ですが、それは心理障害の治癒と関係するのが現実です。そのことを踏まえた上で、「望む資格」価値観を持ち続けるか、それとも「望む自由」価値観へと根本変革するか、「選択」するのがいいですね。
参考:2005/07/24 望みのメカニズム-12:「望む資格」思考に対抗する「望む自由」原則

「受動的価値感」が生み出されるのは、生育環境における否定型価値感と「望む資格」思考が取り込まれることで、ということになりますので。

No.822 2005/12/07(Wed) 11:59

自己操縦心性の成り立ち-9:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-5 / しまの

続き。
「自己操縦心性の崩壊」とは、「振り」への嫌悪を中核にした人格剥離分裂が解かれる現象だと定義できます。

これが、「壁」を越えるためには日常感情言語を越えた心理学理解が必要だと良く言っている、その内容ですね。

--------------------------------------------------------
■亀裂した人格同士の衝突

その分離状態が、衝突融合するような事態を体験するのが、「甘くない自己嫌悪」です。
上記のaとbが合体するような状態です。ちょっと目まいの感覚がイメージできるのではないかと思います。

これが感情分析の進展による、内面の力の増大によって、やがて起きるようになります。分裂した人格が衝突融合して、統合に向かう。そこに根本治癒が起きることになります。
この起き方の特徴を、2つ指摘しておきます。

1)「感情」として体験されるのとは異質な悪感情状態であること

異様で意味不明なパニック感や、場合により目まい吐き気として体験されます。吐き気の場合、まるで感情の膿が脳で感情として体験されるのなく、胃腸の方に行って消化されたかのような感じです。

もともと感情や思考や感性は、人格の中で働くのであって、分裂した人格をまたがって働くものではありません。
ひとつの人格内の感性を、他の人格が知ることはありません。
このため、亀裂した人格同士の衝突そのものは、一般的な感情として体験することはできない。治癒がある程度進んだ段階から、これが異様な恐慌感として意識に捉えられるようになります。

それ以前の段階では、亀裂した人格同士が交差する局面は、感情としては体験すること自体が不可能になります。
これは僕のダイジェストでも「自己の受け入れに向かって」になってから起きるようになった、「あの子」への感情が突然奇妙に消えてしまうような現象として描かれています。

さらにそれ以前では、不遇感と自己軽蔑感に覆われて、亀裂した人格同士が交差することすらありません。


■自己操縦心性の崩壊メカニズム

2)内面の力が増大し、能動的な願望の出現を媒介して起きる

能動的な願望の出現と同時に、封印されていたかのような空想的な全能感万能感が伴ってきます。
同時に、現実覚醒レベル劣化が治癒に向かう。この結果、空想的な全能感万能感が打ち砕かれるような現象になります。これが自己操縦心性の崩壊そのものです。

これは能動的な願望に基づく行動に向かっていた途端に、はしごを外されたような形になります。
今まで外化されていたエセ人間嫌悪感情がどっと自分自身に向かい、極めて嫌な感情に覆われます。これが「甘くない自己嫌悪」そのもの。
「感情の膿の放出」がこの後じわじわと進む感じかな。もうちょっと考察が必要。


上の2つの特徴、「亀裂した人格同士の交差衝突」と「自己操縦心性の崩壊」の間には、まだつながり説明が欠けています。
自己操縦心性が人格の分裂を衝突を防いでいるということになりますが、その詳しいメカニズムは今度考察します。


■非常に危険な「自己操縦心性の破綻」

なお話のついでで、今のAさんには特に必要な知識ではありませんが、
自己操縦心性の崩壊は治癒過程においてのみ起きるのではなく、心理障害の悪化の中でも起きるというような話を何度かしています。
2005/04/06 心の手術-2:何が崩壊するのか
など、

でこれについては、違いを明瞭にする目的から、「崩壊」ではなく「自己操縦心性の破綻」と呼ぶようにしようと思います。
両者のメカニズムが同じであるのは、やはり空想的な全能感万能感が打ち砕かれるのを引き金にしていることの模様。

ただし、自己操縦心性の破綻では、それを導いたものは現実覚醒レベル劣化の治癒ではなく、その人間の取った自他への現実的破壊行動の結果認知となる。現実覚醒レベル劣化は続いたまま。
そしてこうした過程全体を導くのが、操縦心性崩壊の場合は能動的な願望の出現であるのに対して、操縦心性破綻は憎悪の膨張による破壊衝動の昂進だという違いがあります。

その結果「破綻」では、心理障害の破壊的側面が全てそのまま膨張した形で、本人自身への破壊衝動が起きるという、非常に危険な状態です。

まこれはあくまで僕の理論整理上の文章でした。
--------------------------------------------------------

No.821 2005/12/07(Wed) 11:05

自己操縦心性の成り立ち-8:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-4 / しまの

では「壁の向こうの心理メカニズム」について。
一個ワンポイント解説を入れてから。

■受動的価値感から情動・思考・感性全ての変形が始まる

基本的に「受動的価値感」から全てが起きます。
受動的価値感がなぜこれほど大きな問題を引き起こすのか。ハイブリッドんの心理メカ理論全体の中でその位置付けを考えると、次のように言えるでしょう。
 ・「望みを停止しかけた」状態であること。自分からは望まず、人に望まれれば望む。「望みの停止」が、情動を変形させます。
 ・「自己の重心の欠如」であること。「自分自身によって」ではなく、「人のせい」で感じる。自己の重心の欠如は、思考と感性の変形に表れます。

いわば、「否定型価値感」が幸福になる能力を奪い、「受動的価値感」が心を変形させる、と一言で表現できるでしょう。
「病んだ心」とはそれだと言っていいようにさえ思います。



以下、返答メールから引用します。
まずは、受動的価値感の中で、「振り」への嫌悪を中核に「人格の剥離分裂」が起きる、ということの説明。

多分、我々が人間の心について何か理解し難いものを感じる時、それはこの現象が介在しているからだと言っていいように感じます。「自分が分からない」の根底メカニズムかと。

-------------------------------------------------------
■受動型価値感の中で積極的に望むと自己が浅薄になる

「浅薄感」は、「甘くない自己嫌悪」の初歩的(?^^;)なものと考えています。そのほんの尻尾の先が意識に捉えられているという感じ。
「イカサマで成功したような後ろめたさ」はそれですね。

説明済みの通り、「自らは望まない」という価値感の中で、受動的価値感が働くようになります。「人から望まれれば望める」。

しかしこうした「望みを停止しかけた」姿勢の中でも、人間の欲求というのはそう易々と押さえられはしないようにできています。やはり望みたくなる。
何の欲求かはすでに曖昧になり始めているように思います。愛情欲求とも優越欲求ともつかぬ、両者の混じった欲求のような。
まあ「自己顕示欲」という感じは多少するでしょうね。通常の「自己顕示欲」(これも一つのテーマになり得ますが)というより、とにかく「見られる」ことへの強迫的意識。生きることは「見られる」ことだという感覚

その状況で積極的に望むのであれば、いったん「価値ある人間の振り」をして、相手に望んでもらい、その望みを受け取ることで、自分も望む、という形になります。
何とも屈折した心の動きですが、どうやらこれが基本形になるらしい。

一方で、この人間は、「振り」を激しく嫌悪軽蔑します。
受動型価値感が強烈であればあるほど、同時にその人は「振り」を激しく嫌悪軽蔑するらしい。このメカニズムは不思議ですが、現在考察中です。

つまり、激しく自己嫌悪することに、強制的に依存するようなことが起きます。


■「振り」を見る角度によって感情が変わる

面白いのは、その一塊の感情を眺める角度によって、受ける感覚が変わってくることです。
ちょっと心の中でシミュレーションしてみると分かると思います。

a.人に望まれなければ望むことができない。だからいったん価値ある人間の振りをして、望まれることで望めることを期待する。

b.望まれることで望めることを期待して、価値ある人間の振りをする。人に望まれなければ望むことができない。


同じ一連の心理パズルを、眺める角度をちょっと変えただけで、受ける印象が大分違ってくると思います。
bは何か嫌な浅ましさのようなものを感じさせるのではないかと思います。aではその感覚が薄い。
aはその代わりに、「不遇感」が表れていると思います。「不遇感」が「浅ましさ」の免罪符になるかのように、嫌悪する色彩を中和する。

ホーナイ「苦しみの機能」について、「彼彼女は苦しみによって他人を責め、自分を許すのだ」という描写をしていましたが、「自分を許す」部分の詳細メカニズムがそれだということになりますね。
何について許すのかと言えば、彼彼女自身が信念を抱くところの、精神的高潔性に反する自分自身の中の不誠実性の分子についてということになると思います。

それが次に「他人を責める」になるメカニズムはかなり複雑そうで、考察はまだこれからです。


■人格の剥離分裂

このように、実在する心理状態は一つなのですが、見る角度によって全く異なった感覚の中で感じられる。全く別の人間のことであるかのようにです。

心理障害では、このメカニズムが中心核になって、いわば「人格の剥離分裂」というべき現象が起きているものと考えています。

「望まれることで望む」という心理状態が、感情の膿などを背景にして強烈であればあるほど、それは激しく嫌悪されるエセ人間的色彩を裏にまとう形になります。
「不遇感」が免罪符となって、本人はその自分の心理状態の中のエセ人間的色彩は自分のこととして感じ取らないままです。一方、他人のエセ人間的色彩に対しては、激しい嫌悪を向けることになります。これを「積極的外化」と呼んでいます。

それが上記のaの角度「希求」と、bの角度「エセ嫌悪」によって分離され、両方を同時に自分の事としては体験しないようにできている。
-------------------------------------------------------

No.820 2005/12/07(Wed) 10:51

自己操縦心性の成り立ち-7:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-3 / しまの

■「壁」の基本的心理状態

これについて前回書いたのは、残存愛情要求についての説明の最後です。
2005/08/08 残存愛情要求とは何か-7(End):敵意憎悪へのターニング・ポイント

そこでは僕自身のとっかかりの思考そのものを書いたのであまりまとまっていませんが、ようは、残存愛情要求と「望みの停止」に始まる一般的情動変形の相乗の結果起きる、極めて執拗で変更不可能な情緒状態のことを言っています。その解明がこれからの課題だと。

それは一言でいえば、「人と人生を愛せない自分への自己嫌悪」です。
対人関係を自ら積極的に破壊するような行動はなくなり、望みの停止も多少和らいでくる。
それでも、どうしても、精一杯の善意と努力で人と親しくしようとしても、期待する「好意の返報」がないと、冷たい視線を向けられたという怒りが起きてしまう。もしくは、それを想像しただけで、気持ちがなえる。楽しめない。意味を感じることができない。そんな自分が他人とは違うという感覚が根強く流れる。癒されることのない孤独感と空虚感が残りつづける。

「壁」とは、そんな心理状態です。その先は、全く見えないです。で〜んと動かしようもない巨大な壁がある感じ。

「人と人生を愛せない自分への自己嫌悪」では、2つのことが同時に起きていることになります。
まず、人や人生を愛せないこと。そしてそんな自分への自己嫌悪が流れること。
この2つがあると、もう、後は尾を引くように出てきます。孤独感は、「人を愛せない」感覚がある限り、現実的な他人とのつながりでは、埋めることはできません。人生を愛せないなら、空虚感は当然です。

その片方をどうかにしようとしても、まず無理です。
自分をもっと愛するようにすることは、多少できるでしょう。でも人や人生を愛する感情が湧き出ないなら、そんな自分を愛そうとしても限界があります。
人を愛するようにしようとしても、自己嫌悪が残っていると、無理です。

どっちが原因とも結果ともつかない。「結局自分はこうなのだ」という沈滞した無気力的気分になるのがオチです。心理学の知識がないと、です。
その、先が見えない壁の向こうに、とんでもない沢山のメカニズムがあるというのが、ハブリッドの視野です。
それが分かってくると、「どうせ自分は」なんて考えていられないほどに。多分^^;


なお、取り組みの「前期」は、上記の心理状態がまだかなり「不確定」な、流動的な状態です。まあ、かなり危機的な対人疎外感から、「治った」ような気になったり戻ったりを繰り返して、ある程度穏やかな状態へと改善され、でもその先に壁がある感じになる、という経過を想定するのがいいでしょう。


■「精神の高貴性」という鍵

2005/08/08 残存愛情要求とは何か-7(End):敵意憎悪へのターニング・ポイント
では、この「壁」状態を解くひとつの鍵が「内面への価値」にあると書いています。

これは「精神の高貴性」という言葉を使いたいと思っています。

これは心理障害の中で派生するものというより、心理障害の構造の根幹に関わるもののように思えます。
先に自己嫌悪について言った話では、自己嫌悪とは現実の自己に対する精神の自己の優越感
僕のダイジェストでも、「僕は精神だけの存在だ」なんて言葉が出てきた。

ホーナイもこの点についてはかなり強調して記述していました。
神経症からの回復途上の患者が言ったことを、ホーナイが記述しています。「私は自らの道徳的な優位性を、謙遜しながらも当然のことと考えていたのだ」。この心理状態を指摘できないケースは、多分ゼロでしょう。

人が残存愛情要求の中で抱く、愛への願望には間違いなくこれが絡みます。彼彼女の願う愛はとても高貴なものであり、彼彼女はその高貴なるものを愛する自分の精神において、自分が愛されることを願うでしょう。
「現実の自己」への嫌悪を抱えながらです!これを現実の他者との関係に追い求められた時の、複雑な人間情緒は想像に余るものがあります。
その「愛」を互いに向け合う時、それは、「自らを嫌悪する精神の高貴さが愛されることを求め合う」という様相になります。
このメカニズムを芯にして、ちょっと話を作れば、ちょっとした小説が簡単にできてしまいそう。というか大抵の恋愛小説のスジガネはそれでないかと。だからいちいち読む気になれない。

ちょ−話脱線^^;

そしてもうひとつの鍵が、そうした「壁」を越える時に起きる、「甘くない自己嫌悪」だという見通しまで書いたわけです。それはもはや「感情」などと呼べるものではない、「人格不全体験」だと。


ということで、「壁」について説明しました。
「人と人生を愛することができない自分への自己嫌悪」という低調な基本的心理状態。それを解く鍵になる、精神の高貴性と、甘くない自己嫌悪。

これを前説として、「壁の向こうにあるメカニズム」のほんの入り口の話を次に返答メールから引用します。
新たなキーワードは、「“振り”への嫌悪」「人格の剥離分裂」。

その詳細メカニズムを考えるのはまだまだこれからで、「受動型価値感」の説明の続きとしてたどって行きます。

No.819 2005/12/06(Tue) 14:10

自己操縦心性の成り立ち-6:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-2 / しまの

やっぱ書き始めると前説が長くなってる〜..^^;
前説というか、新たな治癒論視点だすな。

■「壁」と取り組み前期・後期

もうひとつ前説として、「壁」についてもう少し理論的な説明をしておきます。
この「壁」の姿が明瞭になるにつれて、ハイブリッドの取り組み自体が、そこに行き当たるまでと、それを超える過程とで、「前期」「後期」に区分されると考えると、取り組み全体の姿とそれぞれの時期における課題がさらに明瞭になってくるでしょう。
なお後期の後には「好循環期」が生涯続く過程として続くことになります。

そう考えるならば、前期の課題はとても明瞭であり、基本的な自己受容と、積極的破壊傾向の除去、そして人工的に練り上げた仮面の感情を身にまとおうとする傾向の放棄と言えると思います。
ハイブリッドの治癒成長過程マップで言うと、それが基本的自己受容および感情と行動の分離、そしてある程度の感情分析価値観見直しまでで成されることになると思います。
仮面の感情の放棄については、多少、建設的絶望を経る必要もあるかも知れない。

「自分の感情を練り上げる」傾向が残っていると、後期取り組みの話は全く無意味になることを、ここで強調しておきたいと思います。
自分の心を「どうすれば」と、感情を湧き出るままにするのを許さずに「こんな感情」「こんな自分」とイメージして、そうなろうとする傾向は、「自己疎外」という、心理障害における「病理ストレス」そのものですので、まずそれを脱することが先決です。
感情は心の中で、善悪を一切問わず、湧き出るままに許すことができる姿勢。これは感情と行動の分離ができ、破壊的衝動からの安全が保たれる状態が目標になります。
「どうすれば」いいかは、「行動」について考えます。行動を安定させることで、どんな感情をも許せる姿勢。感情については、まだ何もしません。というか、この先も何もしません。

「人口的な仮面の感情」を身にまとい続けようとする傾向と、自他への積極的破壊衝動は、僕の実感の中では密接につながっています。
「人口的な仮面の感情」を身にまとい続けようとしている時、問題が自分の中ではなく、他人との間に起きていると知覚される。「外化」が強力に働く中にあることになります。
このメカニズムは後で詳細に考察することになるでしょう。


■パラドックス治癒姿勢

そうした「人口的な仮面の感情」の放棄には、建設的絶望が必要かも知れない。というのは、まず大抵の人は「ハイブリッドで自分を1日も早くどうにか」という焦りの中で始めるでしょうから、「ハイブリッドで自分をどうにかできることへの絶望」という形になるような気がします。
それを感じ始めたら、むしろその絶望をじっくり味わい、自分が一体何を成し遂げようとしようとしていたのか、何を今絶望しているのかを、じっくりと吟味するべきです。「成し遂げようとしたこと」よりも、それに絶望することの方が、実は正しいのではないかということが分かってくると思います。
つまり「ハイブリッドで取り組むことへの絶望」がハイブリッドの取り組みになる、というパラドックスです。

これは、心理障害自体がパラドックスの中で発達するので、それを解くのもパラドックス的2面姿勢になるという、根本的な原理のようなものがあります。これは極めて重要な話なので、ぜひ憶えておいて頂きたいと思います。
一面的姿勢では、解けないです。

至るところで、それが出てきます。「こうするためにはそうしないことだ」という禅問答のような話をします。それを禅問答ではなく、「こうする」と「そうしない」が、明瞭に異なる2つの感情姿勢であることを感じ取ることが、まさにハイブリッドの重用な根幹のひとつです。

例えば、大きな話なのでキーワードだけ出しておくと、今まで「憎しみを捨てる」として言ってきたことのためには、実は「憎しみを守る」姿勢が同時に必要になります。
詳しい話はいずれ「荒廃した欲求の浄化技術」とかのタイトルで解説しようかと思います。

人は憎しみにかられると同時に、その憎しみを受け入れることができいなから、憎しみが膨張します。
憎しみを行動化することなく、憎しみを受け入れ、その中にある真実を守り通す意志を持った時、憎しみは消える方向に向かうでしょう。なぜならその姿勢によつて、憎んだ相手を越える「強さ」を獲得できるからです。


そして実際その「強さ」を獲得した時、実は最初の憎しみを引き起こした虐待的出来事そのものが、被虐体験であることすらなくなってしまうことがあります。

話が流れましたが重要なので、一応青字入れといた。


■後期への展望

ここまでは、取り組みの進行はそのまま、感情の改善として現れます。最も明瞭なものは「開放感の増大」です。生まれて初めてのような、大きな開放感が一度体験されると、ハイブリッドでは予想しています。

ただしこれはあまり長続きするものではなく、再び停滞感に戻ります。そこで見えてくるのが「壁」ということになります。

それも越えたいということになるのであれば、後期ということになります。ここからは、取り組みの進行は一時的感情悪化の姿を呈するようになります。
その悪化の仕組み特徴を理解することが、心理障害の根本克服がなぜ難しいのかが分かることにつながり、それを超えようとする意欲を次第に芽生えさせてくれるのではないかと思います。

まだまだ続くよ前説が〜^^;

No.818 2005/12/06(Tue) 10:57

自己操縦心性の成り立ち-5:自己操縦心性の崩壊メカニズム序論-1 / しまの

返答メールから解説カキコに展開したいものが溜まりに溜まっているのですが、ごく最近のものから。

自己操縦心性の成り立ちについて、今「受動型価値感」について説明しているのですが、この後の大まかな流れを言いますと、それから発達した心理構造が自己操縦心性の中で維持されながらも、極めて不安定な分裂状態にあり、潜在的に自然崩壊力を持つものになります。
「自己操縦心性の崩壊」は、その自然崩壊力の開放による、心理障害の根本治癒現象であるというのが、ハイブリッドの治癒理論の要になります。

でこれについて、話の途中に挿入するような感じになりますが、入り口的説明を書いたものがありますので紹介します。
自己操縦心性の崩壊とは一体何なのか。これが日常感情の言葉では全く理解し得ない、完全に心理学的理解が必要なことであることが、多少はイメージできるのではないかと。

その細かいメカニズムについては、僕自身まだまだ考察途上です。
それを完全に説明するのは、このシリーズのかなり先の方になると思いますので、まず試論的なものとして参考頂ければ。
今回はあまり補足説明はしませんが、最近よく「治癒上の壁」という感じで言っていることを理解する上で、ちょー重要なキーワードが大体出てきますので、それが分かるよう文字の強調などしときます。

返答メールから引用する前に、ひとつ基本知識のまとめ。
補足説明なしと言いながら、前説がまた長くなりそうな。。^^;


■「甘くない自己嫌悪」

自己嫌悪感情へのハイブリッドのアプローチは、これまでは主に、それが健康な向上心とは全く異なる感情であり、向上への意欲や望みを押さえつけるものだという違いに注目したものが中心でした。
自己嫌悪感情から真の向上心への切り替え」というのが、ひとつの課題として捉えられます。
サイトの感情メカ理論も、主にその視点で書いたもの。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-061.html

一方、それ以降に加わった重要な視点とは、自己嫌悪感情が実は「現実の自己に対する精神の自己の優越感」なのだというもの。

これについては既に2005/04/23「人間関係における自己嫌悪の克服:「真の向上心」への切り替え-2」でも述べていた。
抜粋すると、
自分が高い理想像を持った優れた人間であるということを、自分自身を駄目だとけなすことにおいて確認するようなことが起きているんですね。
このことを理解し、自己嫌悪感情が無駄な感情であることを理解することが大切だと思います。
真の向上心とは、具体的な目標と、そのための適切な方法の学習を用意した上で、その実践をする努力のことです。
自己嫌悪というのは、ひとつの「姿」を定め、それにそぐわない「姿」を、頭越しに叩き潰そうとするだけの感情でしかありません。
真の向上心を持てば、自己嫌悪感情のうちの大きな部分は、不要です。


これは、自己嫌悪が向上心であるかのように勘違いしていた部分を解消する点では、役に立つアプローチです。
ただし、それでは済まないものが残ります。
「真の向上心」が持てない、見出せない、というものですね。結局こんな自分なんて。

ここに「壁」ができることになります。結局、自己嫌悪に戻る。

この状態を見る視点として、最近注目したのが、結局「そこに落ち着く」自己嫌悪には、何か「甘い」感覚が伴うことです。でこれを「甘い自己嫌悪」と呼ぶ。
それとの対照として「甘くない自己嫌悪」があり、それが「壁」を越える通過点なのだというのが、根本治癒の表現として言えます。

ちょっと断片的ですが、返答メールでそのことを書いた最初あたりの僕の文章など引用しときましょう。

--------------------------------------------------------------------
■自己操縦心性の崩壊という峠

>結局外側から見て、「こんな事ができないダメな自分」
>「こんな事ができる自分」という自己イメージが目標になるのでしょうか。。
>自己嫌悪を引き起こす行動をしない。
>内側から真の望みがない場合には、さほどの強い意志が出てくるかどうか、
>疑問です。そこで挫折しまた自己嫌悪のループに陥るかもしれない。


上記のような「充実した人生を生きる」課題のためには、もちろん「内側から真の望み」が重要になります。
それがないのを感じた時、自己嫌悪のループに陥らざるを得ない。

まあ分かりますが、それが最後の峠です。これは請合います。それを超えたならば、人生が開ける。
どうやったら超えられるかを分かりやすく説明するのは、もうちょっと後です。もうちょっと自分がどうやって超えたのかの様子を分析して、その説明を作って行きたいと思っています。

今はっきり言えるのは、「内側から真の望み」がないのを感じて陥る「甘い自己嫌悪」と、その峠を越えるために体験する別種の「甘くない自己嫌悪」の2つが、分岐路としてあるということです。
どっちも自己嫌悪感情を通ることになります。前者は今までの生き方の現状維持であり、「甘い自己嫌悪」に寄り添いながら生きていく道です。
後者の先に、ハブリッドが示す根本治癒の世界があります。「甘くない自己嫌悪」は「悪感情への耐性」を習得した上で通った分だけ、根本的に消滅していきます。

これを十分に説明したら、僕としては自分のできることはやった、後は心おきなく本人の勝手に任せるという感じになるかと思っています。
--------------------------------------------------------------------

No.817 2005/12/05(Mon) 23:47

わーい / きむちゃん

書き込める♪嬉しいなあ。

「それはほんの些細な寂しさと不満から始まっていたようでした。そこには私の心を壊そうとしたものは何もなく、全てが人間の心の中に元からある、些細な歯車の狂いの積み重ねだったように思えました。」

ちょうど最近思い出したことですが、

4-5歳くらいのころ、一過性の病気で2−3週間入院したときに、夜ひとりで、よく泣いていたんです。病気を悲しみ、家から離れて夜を過ごさなければならないことを悲しみ。。。で、それではだめだよ、強くならなければいけないよ、と親や、看護婦さんや、病院に入院していた大人の患者さん達から優しく励まされました。私にとって、その思い出は、暖かい人間関係に囲まれた、幼い日の幸せな経験として感じられます。

それと同時に、こうした出来事を通して、「泣くのを我慢できるようになること、悲しまないことが、強くなることだ」という風に、幼い自分なりに考えるようになって、泣くことや、悲しむことを自分自身に禁じる姿勢で生きてきたのかもしれないなあ、って思いました。たぶん、周りの人は、直接的には、そのようには、言わなかったのではと思います。ただ、「あなたか泣いていると私もつらく感るのよ。」「強い子になろうね。」とか、そんな言葉だった気がします。

No.815 2005/12/04(Sun) 14:13

 
Re: わーい / しまの

どうも〜。
その一文もIntroductionにはなかった話で、今回重要と思って加えた部分ですね。

確かに、「悲しみを認められない」が、人間の心にある歯車の狂いの代表的な一つなんでしょうね。
悲しみは弱さであり、それを抑えられることが強さだと感じ始めた時、心の歯車の何かが狂い始める。

「悲しみは強さ」とは必ずしも言えないでしょう。
しかし、「悲しみを認めることができる」ことは、間違いなく強さですね。
そしてさらに、「深い悲しみは強さ」だと言えると思います。どうゆう点で強いかと言うと、それが心の自然治癒力だという点でですね。
どんな人工的な力や努力にも勝る、「強さ」だと思います。心の傷を癒し、それを心の豊かさに変えるのは「深い悲しみ」だと言っていいように思います。

そう言えば今日書いた返答メールに引用しようと久々にバーンズの『いやな気分よさようなら』を見たのですが、引用とは全く無関係に、読み返したくなったバーンズの言葉が、「悲しみはうつ病ではない」という章の最後の言葉でしたね。
「私にとって深い哀しみは高尚なものでありたいへん強い体験なのです」とのことだった。

なおその返答メールというのは自己操縦心性の崩壊メカ解説の入り口的なもので、すぐ解説カキコで紹介の予定。

>「あなたか泣いていると私もつらく感るじのよ。」「強い子になろうね。」

まさに自己操縦心性の歯車を動かす言葉の感。
その詳細メカニズムとは。引き続き「自己操縦心性の成り立ち」ソリーズにて。

No.816 2005/12/04(Sun) 21:35

で〜きた〜\(^o^)/ (^^;) / しまの

ダイジェストの本体部最終章「見出された人生」をさきほどUpしました。
これでようやく出版本の段取りに入れる。ばんざ〜い。ばんざ〜い。\(^o^)/

なおダイジェストはまた公開にしました。ポータル出店による新規客はほとんどないようで、有料配布の手間に比べるとメリットがないので。えへへ。
せっかくプリントしといた人、ゴメンナサイヨー。ただまあ状況と気分でいつ公開終えるか分かりませんので、ご了承あれ。

で今回は完全後日談モードですが、それなりに重要なメッセージも含めていると思います。
とりあえず「人生観」になるかと。唯一無二の自分の人生を生きるという人生観。

でこの後日談を改めて書きながら泣いちゃったところがあり、の部分なんですね。
今日も見直ししていて涙がどわっと来る感あった。これは特に悲しくも感動も描いているものではないので、何とも不思議で面白いものです。「自己の本質への接近」のラストで初恋時代の空気が蘇った瞬間の感覚に近いものがある。
まどんな夢だったかは読んで下され。

出版出版レッツラご〜♪ (^^;)

No.814 2005/12/04(Sun) 12:46

やっぱ掲示板開放しときま〜す^^; / しまの

その後ExciteおよびBiglobeのポータルに登録されたようですが、どうやらほとんど人気のない所の模様^^;
特に今までと変わらないようなので、この掲示板は今まで通り開放しておこうと思います。
また何かの変わり目でアクセスが増えたら一方通行モードを検討しようかと。

従来通り何かありましたらカキコ下さいませ。
よろしくで〜す。

やっぱ僕の場合、出版本が飯の種かと。まずはダイジェストの出版だすな。。

No.813 2005/12/03(Sat) 22:50


inserted by FC2 system