■ 皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-9(End) / しまの |
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「憎しみと嘆き、そして悲しみを守りたい。そこに真実があると感じるから。」の続き。
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■憎しみを捨てるとは憎しみを受け入れること
これは僕が良くいっている「憎しみを捨てる」という話と、矛盾した話に聞こえるかも知れません。 しかし僕の中では、それは全く矛盾することではありません。
僕は彼女の話を世に出すとして、彼女を追い込んだ人々、彼女が憎しみを向けようとした人々に対して、何の非難の気持も感じません。 破壊の感情を向けないこと、さらに破壊の感情を持たないこと。これが「捨てる」部分です。
しかし憎しみの中にあった真実を、決して否定しません。それはむしろ「守る」という姿勢を向けます。
これは「看取る」という心の働きに関連します。 「看取る」は、残存愛情要求への対処を一言でいう言葉として使っています。感情の膿は「流す」。自己操縦心性は「解く」。そして残存愛情要求は「看取る」。 看取るとは、否定することではなく、最後までそれを見届けることです。しっかりと最後まで見据えることです。
「憎しみ」もやはり、「看取る」なんですね。そして実際これは残存愛情要求の中で起きている事柄なのだと思います。
残存愛情要求の中で「看取る」ものとして、今まで触れてきたのは、文字通り「愛情要求」でした。 幼少期に果たされることのなかった、愛を願う気持の中にあった真実。それが今だに自分の中にあることを認め、同時にそれが今大人として自分がいるこの現実世界では満たされようもない感情であることを受け入れた時、心は痛みの中で残存愛情要求を卒業します。 これは僕のダイジェストでも主題となったものです。
実は僕自身、「憎しみ」を「看取る」時が後に訪れています。30代後半になり、対人行動学を習得し、自分にある程度自信が持てるようになってからです。 それでようやく憎しみを看取れる時になったんですね。
鮮明に憶えているのは、電車の中で仲睦まじい若いカップルを前にした時に自分の中に現れた感情でした。その時僕は心の中で、地面に崩れ落ち、泣きながら地面を叩いて悔しがったのです。僕はただそんな自分を静かに見つめていました。
それ以前は、そんな場面では漠然とした苛立ちの中で、羨望感も抑圧気味だったと思います。だけど、真実の感情というのは、最後まで残るものです。そこから目を反らす姿勢は、内面の弱さにつながり、弱さが目を反らさせます。 真実の感情を見据える姿勢は、強さを志向します。そして内面の強さが、今まで逃げていた感情に還ることを可能にします。
憎しみを受け入れることは、強さだと思います。受け入れるから、怒らないわけです。 憎しみに駆られ、破壊の気持を人に向ける時、それはその人間がその憎しみを受け入れることができないでいることを意味していると思います。憎しみを受け入れることができないから、怒るわけです。 憎しみの中にある真実を認め、それを人間の不完全性として受け入れる強さを持った時、怒りは消え、憎しみを看取るということになるのだろうと思います。
先の彼女の話をすれば、彼女はその憎しみを受け入れることができなかった訳です。それは彼女が弱かったからです。 弱かったから潰れた。それだけのことです。
ちなみに僕が人への、混じり気のない和み感情を持つようになったのは、上記のような鮮明な「憎しみを看取る」体験を経たあとでした。 ◎嫉妬感情の膿の抑圧によって、意識表面には「心を開いて和む」という硬直的理想像が現れます。嫉妬感情の膿の放出により、その拘束的理想像が消滅し、ストレスのない対人感情が現れます。 このように、感情の膿の存在によって意識表面に現れる心理状態を、今後かなり図式化整理できると思います。 ----------------------------------------------------
次のメール往復から引き続き。 ----------------------------------------------------
■破滅の美学..
>こういう言い方はどうかとも思いますが、ある意味「破滅の美学」のお手本ですね。
いや、最後の頃の彼女は、醜かったです。外見の話ではなく人間として。 確かに彼女を死に向かわせたのは「破滅の美学」だったろうとは思いますが、破滅しようとした彼女の姿はとても醜いものとなり、彼女は実際は「破滅の美学」によって死んだのではなく、自分のその醜さに絶えられずに死んだのだと僕は感じています。
彼女が美しく輝いていたのは、生きようとしていた時です。 「破滅の美学」によって、彼女は輝きを失い、くすんだ灰色の醜さになっていきました。 彼女の話を書くとして、僕はそれをそのまま表現しようと思っています。
僕が書きたいのは、彼女の憎しみの底にあった、生きる願いです。それを看取りたいと思う。 彼女が自分自身でそれをすることができなかったので、僕が代わりに書こうという感じですね。 彼女はその宝石を、「破滅の美学」によって捨ててしまった。
■「憎しみを受け入れる」ための方法論
「憎しみを受け入れる」ための方法論を考えてみました。 今までの話の全てがつながった時見えてくるものです。
一言では「憎しみの中にあった真実を正しく抽出する」と表現できます。 そしてそこで抽出した真実を、これからはどう守ろうとするかです。そこに根本的選択が現れます。
まずその憎しみが何だったのかを知ることからですね。表と裏の両面をしっかりと見据えることです。
■「自分への憎しみ」の必然
>自分は、低俗な他人の持っていない、美しく純粋で高尚な感覚を、障害と引き換えに持っている。‥それは精神性であったり道徳性であったり、審美眼であったりします。
まさにそれが心理障害の根源構造の中にあるんですね。僕のダイジェストでも「他の人にはない純粋で真実の愛を自分が持っている」という言葉が出てきます。 それが、自己存在をかけて守るべきものだという感覚があったわけです。まさにそれが自分の精神的優位性であり、審美眼だったわけです。
それが心理障害の発達過程の中で、必然的に生まれるものであることは、 2005/08/06 残存愛情要求とは何か-6:皮相な粗野への憎しみ で説明しました。
そしてその中で、「そこに一片の真実がある」とも言っています。 「皮相な粗野への憎しみ」は、真実です。心を育てるものではなく、心を踏みにじるものがそこにあった。それへの憎しみは、真実だと思います。
その後の流れはまだ詳しくは説明していません。自己操縦心性の解説で行います。 キーワードは出してあります。「自己像」です。 皮相で粗野な外界への憎しみの中で抱いた、純粋で高潔な精神性への理想。それが、自分のなるべき自己像として抱かれます。
新しく加わる話が、「思春期要請」によって登場する、この人物の心理発達に課せられた新たな課題です。 2つあります。「優越への欲求」「人生の確立」です。 純粋で高潔な精神性を実現した自分が、皮相で粗野な他人達への優越的勝利者として、その人生を確立する。 これが、この人間に課せられた人生の青写真になるわけです。
しかしターニングポイントは、この人間の幼少期から既に準備されています。 それは広範囲な「望みの停止」によって、この人間の情動自体が皮相化し、荒廃化することです。 やがてこの人間は、憎むべき人間の姿を、自分自身の中に見出します。これが必然的な流れなのです。
■皮相と粗野を「悪」ではなく「弱さ」と見る
ハイブリッドが提示する方向転換とは、皮相と粗野を、「悪」ではなく、「弱さ」と見ることです。 自分の中に皮相と粗野が発達してしまった。それは弱さです。 そして、それを生み出した来歴の中には、人々の皮相と粗野があった。そのせいで自分がこうなってしまった。
しかし彼らも弱かったわけです。そう見ることが出来た時、彼らと自分の姿が重なってくるでしょう。 そこに、全てを同時に許すという選択肢が可能性を帯びてきます。まあそれを取った時は、「許す」という言葉さえもが消えることになりますが。 ◎「不完全性の受容」のことを言っています。これにより「現実との和解」がなされます。
「悪」という見方をする場合は、全てを同時に破壊するという選択肢になります。 自己操縦心性は、これを選択しているわけです。
■憎しみの中にあった真実を正しく抽出する
心理障害が絡む場合は、そうした選択肢の見出しや方向転換が、もはや意識的努力だけではできないことを考慮する必要があります。
心理学の目で、何が起きているのかを知ることが必要です。表と裏の両面をしっかりと見る。 そしてそこにあった真実を正しく抽出することです。
表にあったものはこんなものです。 ・精神的優越感 ・一片の真実(皮相への憎しみ) ・「自分は真実を知った」という錯覚
この裏にはこんなものが控えています。前のメールで詳しく説明した部分です。 ・破壊的優越衝動による愛情要求の阻害 ・愛情要求の阻害による卑屈さの増大と破壊的色彩の強化 この裏の構造が、表の構造をさらに敵対的にしていくという大きな自己膨張があります。
そこにあるのは、真実と自己欺瞞の混合物です。 そこから、真実だけを正しく抽出する。
真実は何だったのか。細かい議論は抜きに、ハイブリッドとしての結論を言います。 それは、憎むべき皮相と粗野があったという事実と、あとは、優越への欲求と、愛への欲求です。
自己操縦心性は、それを全部、「破壊」の中へと一からげにしてしまいます。 ハイブリッドが示すのは、その多面を別々に見ることです。そしてそれらを守り通し、追求することです。
そのために、建設的行動学や、原理原則立脚型行動学が出てきます。 ----------------------------------------------------
とりあえずここでこの割り込みシリーズは絞めておきましょう。
結語として総括しておくならば、どんなに醜い破壊性攻撃性の中にも、一片の真実があります。大阪池田小児童殺傷事件の死刑犯宅間守のような人間が抱いた、社会への憎しみの中にでもです。テッド・バンディのような猟奇的殺人犯にでもです。 そしてそれを浄化する、深遠な心の力が、彼らの中にも本来はあったのです。だから宅間守は殺人を犯す中で「もう誰か止めてくれ」と考え、最後の死を前にして「ありがとう」という言葉を残した。バンディは死刑の直前になり、「自分は暴力の中毒になっていた」と自分を振り返った。
そうした「浄化」への心の力が、まさに、理想のような存在であろうとする心の動きによってふさがれてしまう。このメカニズムを引き続き「成り立ち」シリーズで考察していきます。 そしてその開放への道筋を。
いずれにせよ、憎しみと絶望の底にある人にハイブリッドが伝えるメッセージは確固としたものです。 その憎しみの中にある真実を守ることです。人生とは、人の心とは、本来こうであるべきだった。それは真実です。それを守り続けることです。そのためにはどうすればいいかを考えることです。 破壊に走ったら、真実を守り続けることができなくなる。真実を守るために、生き続けることです。 |
No.919 2006/02/28(Tue) 15:34
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