■ 自己操縦心性の成り立ち-43:現実離断とは何か-12 / しまの |
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ようやく落ち着いて解説ものカキコできる時間が戻ってきた。しかしスキーシーズンはまだまだ続くー♪
3/1「自己操縦心性の成り立ち-42:現実離断とは何か-11」に記載した破壊型理想による現実破壊の例2について考察しましょう。 今僕の頭の中では治癒メカニズム理論の終結を見据えた考察が進んでおり、そこに向けてのつなぎもぼちぼち触れようと思います。
■現実破壊の例2-印象
まず率直に感じる印象を書いてみましょう。我々が心理学知識を持たないままでも感じ取ることのできる、人間心理のある様相ということになると思います。
まず感じられるのは、この人物が心底からの悪人ではなく、むしろ何かの精神的理想の持ち主であることです。それが「俺のポリシー」とか「美意識」と言った言葉に表れています。 しばしば、こうした人物を持つ親が、「心根は優しい子」という言葉を使うのが典型的なものとして浮びます。
そしてこの人物の現実に対する破壊的感情について当てはまる印象を言うならば、「精神的理想の高さゆえに現実を否定せざるを得ない」という弁明が聞こえてくる雰囲気というものがまず感じられます。
ただし、その否定の仕方はあまりにすさんだものになっています。それはまさに本人の抱く精神的理想を挫くような荒廃した姿です。 「親父のように無神経にはなれない」と言いながら、外見的には全く無神経としか言いようのない八つ当たりをし、そんな自分が再び精神的理想の攻撃の対象にできます。
これは一体何なのか。
■現実破壊の例2-分析
心理学の目からは、この人物の心の中で働いている心理要素を幾つか指摘することができます。 それらは全く断片的で、つながりのない感情です。それはまるで、一人の人間の中にある一つの心の行いを、他の心が怯えていたり、嘲笑ったりしているかのようです。
1)残存愛情要求と優越欲求の衝突 まず、この人物の八つ当たり衝動は、残存愛情要求によって「自尊心が愛に依存する」性向を、自らの優越欲求が激しく軽蔑した結果であることを指摘できます。 つまりこの人物には、人に愛されることで自尊心を得ようとする感情があるながら、それは抑圧されています。その代わりに、その自ら軽蔑する構図が現れそうな場面に、破壊衝動を向けるという形になります。 それで母親の世話への破壊衝動が起きる。
こうした八つ当たり衝動は、どちらかというと内面の不満に対して引き出される「反応性」の感情と言えます。
2)情動の荒廃化 一方この人物の中に時に、そうした「反応性」の破壊衝動ではなく、破壊そのものに快楽を覚えるような荒廃化した衝動が漏れ出し始めていることが見て取れます。
その一つは、親友の死の知らせに泣く父親の「惨めな姿を見るのがただ快感だった」。これは「相手を打ち負かす」タイプの優越衝動ですが、「悲しみへの共感」が麻痺しており、心の健康という観点からは、より深刻な状況です。この状況では、自分自身に対しても破壊的態度しか取れず、心は成長することなく消耗するだけの方向に向かう傾向があります。 これは感性のレベルに及んでいる荒廃化であり、より深刻。
「幸せそうな顔の人が憎らしいものに見える」も荒廃化した情動ですが、これはまだこの人間の無垢な心に近い感情です。この根底には「人生への嫉妬」という、深い感情があります。
3)裸で無垢な心 一方そうした変形した感情に汚染されていない、裸で無垢な心もこの人物には残されており、それが最後の「人生で何百回目かの涙」という場面に現れています。
その姿だけを見たとき、我々はこの人物への同情や慈愛のような感情を感じざるを得ないようにも感じます。そこには、自らの破壊行動によって自ら招いている不幸に、たださいなまれ、あえぐ人間の姿があります。
しかし、彼をさいなんでいるものを生み出しているのは、他ならぬ彼自身なのです。それをやめれば、彼の不幸はなくなる。それは実に単純な話です。 しかしそう言ったことろでそうはできないでしょう。できないから、それを心理障害と呼びます。
■自己破壊を駆動し続けるもの:「自己離断」序論
その「障害」の根本とは何か。 上述の分析のように、表面に見える感情のメカニズムを理解し、それぞれの感情に対する適切な対処姿勢を彼に教えることはできます。残存愛情要求への対処姿勢、真の強さを目指す姿勢、荒廃化した情動への対処姿勢、etc。
しかしそれでは彼は変われないでしょう。表面に見えるもの以外に、より根本にあるものが取り組まれないと、です。 それは一つは、「生きるノウハウ」についての欠如があるでしょう。この社会で確実に自信を育てるための行動法など。 そしてもう一つ、彼が抱く価値観にあります。「望む資格」「怒りの力」そして「苦しむ価値」という3つの癌細胞思考は、彼もどっぷりとその中にいるものでしょう。
特に彼の「世界中で自分が一番不幸とは思わない。けれども、結構苦労はしてきたつもりだ。」という言葉に、「苦しみという優越」という、人間の持つ一つの根本観念の表れを見ることができます。 その観念を採る限り、人は自ら苦しみを脱する強さを獲得することはできません。人の苦しみを根本解決するためのものを生み出す強さもです。 互いに苦しみを見せ合う癒しを求めるか。それとも自ら苦しみを脱する強さを求めるか。これは両者を同時に得ることは完全に不可能な、究極の選択です。
最後に、それでもまだ、「見えているもの」の話です。「見えているもの」について考えている限り、それは一般心理としてのノウハウでしかありません。それではやはり、この状況を変化させるために必要なものは何かが見えないままだと思います。
なぜなら、見えなくする積極的な力が働いているからです。本人の心の姿勢の問題ではなく、「病理」の問題としてです。この「病理」に対する対処姿勢を定義できた時、はっきりと、変化への方法が定義されたことになります。 そして実際それはまだハイブリッド心理学としても未解説です。これからの解説がいよいよその核心に入っていく次第。
その「病理」の僅かな尻尾のようなものが、この事例でも現れています。「だから避けていた。逃げていた。」という言葉。 ある特定の自分自身に面することの積極的回避です。これが知性を巻き込み、全ての対処方法論を全て無効にさえしてしまうような、厄介な病理の核がある。 これは、自分自身を積極的に「不明なもの」にしようとする心の動きです。感情の膿が人格構造に取り込まれた時、意識が感情の膿に触れる情緒破綻を避けようとして、自己操縦心性がまず行なった「現実離断」という病理現象に引き続いて、自己操縦心性は「現実」だけではなく、次に「自分自身」を切り離そうとする。
これをどう呼ぼうか、と、土曜のスキー帰りの車の中で考えていました。 やはり「離断」なんですね。「自己離断」です。 この核は「病理」として、本人の自覚のないところで起きます。それが如何に広範囲な影響を及ぼしているかを理解した時初めて、今までのハイブリッド心理学が「こうしているうちに治癒成長が起きる可能性がある」程度に話していた治癒理論が、明瞭に、「この姿勢によって変化が進みます」と定義できるものになるでしょう。
ということで、次のトピックにどんどん進みたいと思います。 とりあえず「現実離断」の結果起きる症状としての、「自己像への固執」あたりからかな。
管理メモ:No.925,926は投稿ロボットと見られるゴミカキコのため削除 |
No.924 2006/03/13(Mon) 14:35
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