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2006.03


自己操縦心性の成り立ち-47:「自己操縦」の基本 / しまの

ダイジェスト小説校正中ですが、ちょっと一服がてら、今後の考察の前段として整理したものを書いておきましょう。


■「自己操縦」という心の動きの基本

自我統制つまり「自分」という意識を基盤にしてこの人生を生きようとする心の機能を「自己操縦心性」として解説していますが、ここでその最も基本的な心理動作とも言えるものを考察しておこうと思います。
「自己操縦」の基本形とも言えるものですね。

その最も基本となる心理動作が、
2006/01/17 自己操縦心性の成り立ち-26:根本機能その1感情への感情
で解説した「感情への感情」です。「感情評価感情」「感情演技感情」「感情強制感情」の3種類。これを総称する言葉として、「感情統制感情」と呼ぼうかなと思います。

自己操縦心性の基本機能として指摘したものは、あと「空想の中の優越」です。これは要は、空想の中で自尊心を満たそうとする心の動きです。

そして解説し始めた基本機能その3が「人生感覚」です。ここにおいて、「自己の操縦」は「人生の操縦」という様相を帯びるようになります。

そもそも、「操縦」という言葉は、ありのままの自分とは別の自分を装うことで外界に太刀打ちしようとする、人間のひとつの生き方の様相を示す言葉として使い始めました。

それは自分の中に押し込められながら、外界において何物かになろうと駆り立てられる人間の姿です。あたかもそれは、SFドラマの中で、巨大な怪獣が実は遠隔ロボットであり、それを操縦している主は、実はみずぼらしい小動物のような知的生命体だった、という姿を連想させる、人間の「生き方」の姿です。

それが心理障害の中で膨張する姿を考察していた訳ですが、その前に、「感情統制感情」と「空想の中の自尊心」という最も基本要素でまず形づくられる人間心理とはどんなものだろうと考えてみました。
つまり心理障害以前、感情の膿がまだ影響しない一般心理としての「自己操縦」とは如何なるものか。これが、その障害の形を考察する上でも重要なテーマのように思えます。


■「感情統制」vs「心の成長」

まず考察するに値すると思われるのは、「感情統制感情」という、ごく一般心理としてもあり得る心の動きが、一体どんな時起きるのかです。

自分の感情のあり方を自分で評価する。自分の感情がこうであるべきだという観念の下で、自分の感情がそうなるように自分に働きかける。時にはストレスを加える。
そうした人間心理は、「気持ちが大切」「やる気があれば」「明るい自分で」「人を好きになれば」といった言葉に表現されます。

現代社会においては、そうした「心の姿勢」はあまりにも当たり前のものに聞こえますが、この後の自己操縦心性のメカニズムにおいては、「感情統制感情」が心理障害悪化の主因となります。
それは感情を直接変えようとする試みであり、草木を育てることに例えると、無理に引っ張ったり、型枠にはめることで形を整えようとするようなものです。

一方、ハイブリッドが示す「心の成長」は、感情統制感情を一切使わず、感情を直接変化させようとはせずに、感情に対しては間接的に働きかけることで、感情が湧き出る大元の心の方を成長させるという「技術」を使います。
それは草木には直接手を加えず、それが育つ土壌を良くし、必要な日光や温度を与えるという方法です。無論これが「育てる」という本来の姿であることは言うまでもありません。

僕自身の現在の感覚としても、自分の感情をどうこう変えようとすることは、一切していません。自分なりに開放感に満ちた生活をしている感覚から言うと、そもそも自分の感情を自分で操縦しようとすることは、極めて不自然なことというのが実感です。


■「自己否定」が前提となる「感情統制感情」

では一般心理としても、「感情統制感情」はどんな時に起きるのか。これは通常の人間生活の状況においては基本的に不要なものと思われます。

価値ある目標に向うときの「やる気」は、目標に価値を感じることで自然に湧き出るものです。「やる気を出さねば」と考えることでやる気が出るのではありません。
俳優として喜怒哀楽の感情を演技する時も、まずは「感情表現」の演技であって、その感情を自分に強いることはなくてもいいように思われます。「入れ込む」ことによって実際そんな感情になることはあるでしょう。しかしそれは「自然に湧き出る」タイプであって、日常生活の中で「自分がこうでなきゃ」と「こんな感情になろうとする」のとは違うように感じます。

それを考えるならば、「感情統制感情」というのが一般心理として起きるとしても、それは「自己否定」を前提にしなければ起きない、という考えに至ります。
これは「道徳」の世界です。人はこうあるべきである。今の自分は駄目だ。その自己否定があって初めて、自分の感情を直接変えようとする心の動きが起きます。

これは何らかの自己処罰感情が伴っていることを意味します。心理障害の範囲に踏み込まない場合では、まあ生理的不調は伴わないレベルでしょう。

自己否定が前提であるとは、自尊心が実は損なわれているということです。自己処罰を行い、自尊心が損なわれた上で、自分の感情を直接変えて、「やる気」を出したり、「人を好きな自分」でいたりする。

その代わりに、「こんな自分でいられる」と感じることができる範囲においては、彼彼女は自分が人や社会から尊重され評価され愛されると感じることができます。それが自己否定によって損なわれた自尊心を供給します。
これは「空想の世界」になってくると思われます。なぜなら、片方で自己否定によって自尊心を損なった人間が、片方で人に評価されることで自尊心を得るとき、「現実の彼彼女はどれか」という問いへの答えが出ようもないからです。現実にあるのは「自尊心において分裂した人間」ということになるでしょう。

これが、「自己操縦心性の基本的な使い方」です。これは「道徳心」そのものと言えるでしょう。


■「道徳」 vs 「戦略」

ハイブリッドでは、自己統制のための基本思想として、「道徳」ではなく「戦略」という考え方を使っています。「正しい者は報われる」という道徳世界観ではなく、何でもアリのサバイバル世界を生き抜くための戦略です。

社会は「やる気ある姿」を評価します。その中でうまく生きるための戦略として、やる気ある姿を演じます。実はそれは表面的にであって、内実はかなり手抜きをしているかも知れない。僕はそれが企業生活の基本だとさえ考えています。
自分にストレスかけるなんてことは一切やらない。やっても自分が損するだけ。
そのように、「道徳」さえも自分の「一つの持ち駒」として、戦略を練る。そして決断し、結果を全て自己責任として引き受ける。

そのように自分の行動を「道徳」ではなく「戦略」として律する場合の大きな違いは、自己否定はないことです。
自尊心はまず自ら供給します。その行動結果により人や社会からの評価が違ってくる。戦略の成功もしくはミスとして。それが彼彼女の自尊心へのフィードバックになるでしょう。
これは「現実を生きる」姿だと思います。


ということで、まとめると、自己操縦心性の基本的な使い方とは、自己否定に立ち、感情を操縦し、その結果として得られるべき他者や社会からの評価という空想による自尊心を生きる生き方です。
最初に自己否定がある限り、これはあまり満足度の高くない生き方だと考えます。

これが、心理障害がまだ絡まない段階での、自己操縦心性の動きです。
これは「心の姿勢」です。つまり「意識的選択」によって変更可能です。主に知性が文化の影響を受けて、この心の姿勢を取っているのが、現代社会人のマジョリティでしょう。

心理障害の治癒克服への取り組みとしても、まずこの「選択」があることを理解いただければと。「道徳世界観と感情操縦」かもしくは「サバイバル世界観と戦略」か。
「現実を生きる」という生き方、そして揺らぎない自尊心の獲得のために、ハイブリッドが推奨するのは後者です。

心理障害が絡むと、つまり感情の膿が人格に組み込まれる「現実離断」が起きると、「心の姿勢」では変更不可能な形で、上述の基本形を発展させたものが起きることになります。
そんな流れとして、病理形を考察して行きます。

No.936 2006/03/31(Fri) 14:16

ダイジェスト小説校正作業中! / しまの

今日からまた校正作業集中モードに入ってます。
今度は「校正ゲラ」という、製本形式で組版した印刷物にて。出版本イメージが出来てきた〜!

ということでまたしばらくカキコ低調かと。

No.934 2006/03/24(Fri) 17:41

 
Re: ダイジェスト小説校正作業中! / しまの

ということでそろそろ原稿公開も終了としました。
販売開始の暁には、ぜひ購入よろしく〜^^;

No.935 2006/03/27(Mon) 16:16

残存愛情要求とは何か-補足 / しまの

残存愛情要求の心理要素について、今後の説明を考えても必要と思われる、定義の追加をしときます。


■「幼児期悲嘆衝動」と「人生への批判」

残存愛情要求の心理要素については以下の3つを指摘していました。
(2005/07/26 残存愛情要求とは何か-3:残存愛情要求の心理要素)
1)自尊心が愛に依存する傾向。愛され必要とされ評価された時に自分に価値を感じることができる。
2)宇宙愛への要求と一体化幻想
3)純粋な愛情欲求の残存

この3つの心理要素は、いわば残存愛情要求において「要求するもの」に当たります。
一方、それらは健全な心理発達においては適切に満たされたものが、この状況においては失われているという負の状態に対する、特有のマイナス感情の恒常的発生を考える必要があると思われます。

これはその後の心理成長において自滅的な悪循環が起きるメカニズムを考える上で重要な要素になると思われ、残存愛情要求の心理要素として定義しておきたいと思います。

4)幼児期悲嘆衝動の残存
「悲嘆衝動」とは、望ましくないものを悲しみ嘆く衝動です。これは幼児期においては、親の助けを求める衝動という意味を持ちます。
つまり上記2)宇宙愛への要求と関係します。まだ目の前の問題を解決するには自分は無力である一方、そんな自分を救ってくれる宇宙の愛の親を求める感情があります。親からはぐれて苦境におかれた動物の子が、ただ親の助けを求めて鳴き続ける時の感情などに、この衝動の原点を想像することができると思います。

「どうせ..」と自己嫌悪感情や絶望感に「自ら浸る」ような感覚に伴う特有の「甘さ」は、この衝動によるものと思われます。そこには、愛を求めているという感覚と、その愛が「あるべきであったもの」という感覚が伴っているでしょう。
僕自身、きわめて甘い感覚の中で「どうせ僕なんか..」という感情に浸っていた少年期を思い出します。

取り組み上は、これが自己嫌悪感情の克服を見えなくする、ごく単純な問題であることを認識することが必要です。心の病が「単なる幼児性」といった全く無益な認識を避けるためにも、その手の言葉はあまり使いたくないと思っていますが、これだけは単純に「単なる幼児性の残存」に限りなく近い衝動であることを、はっきりと知ることが大切です。

つまり、自分の足で立って歩くことが必要なわけです。もう泣いているだけでは、何も変わりません。そして、自分の足で歩けるはずです。
今放映中の映画でこの話を連想させる印象的なテロップのものがありますね。「イーオン、君に泣いているヒマはない」。この映画は見てませんが、心はまだ少女。しかし彼女には戦う能力がある。そんな状況を連想させます。

泣いていたい感情も分かります。しかし自分の足で立って歩く力がある。だからそうする。
これは「心の姿勢」「心の選択」「心の使い方」といった心理学ノウハウ以前の、治癒成長への一つの基本的歩みです。子供から大人へという「成長」の中で変化していくのがごく自然な本性である時、それに気付いた時がそうする時だと言えるでしょう。心がそうなっています。その自然な本性に従うことです。

「か弱さ」への自己理想像などがあると、ちょっと話が厄介になるかも知れませんが..。「自然な本性に従うことを妨げるもの」が、今後の解説の中で検討するものになります。


5)人生への批判
残存愛情要求が生まれる状況においては、上記3要素のように愛を求める心理要素の一方、現実の他者や世界に対しては不信感の色濃い不満の感情を基調として抱くようになると思われます。

これは2005/08/06「残存愛情要求とは何か-6:皮相な粗野への憎しみ」で書いたことに重なる話でもあります。明瞭な憎悪感情は思春期以降の自己操縦心性のメカニズムの中で生まれますが、その前段として、既に学童期に「人生への疑問」という感覚の萌芽のような状態が起きていることを想像できます。
「自分の人生が間違っている」という感覚ですね。ただし学童期レベルでは、これは少なくとも言語レベルではまず表現されません。

その代わり、この子供には、他人や物事全般に対して、概して冷淡で批判的な態度が見られるのではないかと考えます。
これはサイトのメカ理論でも「漠然とした不満」と書いていましたし、僕自身のダイジェスト小説でもそんな雰囲気が描写されていた。
この「間違っている」という幼い「人生への不満感」を、残存愛情要求の心理要素として「人生への批判」と呼んでおきましょう。

なお、「自己操縦心性の成り立ち-4:背景その1否定型・受動型の価値感-4」へのレス(No.791
2005/11/17)
の中で「否定型価値感覚は『人生における価値』という感覚として生まれるものなので幼児期にはない」と書きましたが、これは若干訂正です。
自己操縦心性そのものは「自分」という概念が生まれ始める3、4歳頃において既に機能し始めるというのが、今の僕の考えです。「人生」という感覚はその頃から始まっています。だから「大きくなったら何になりたい」という会話が成立する。
「人生への嫉妬」の芽は、既にその頃起きていると考えるのが正解でしょう。

この後の心理発達においては、2つの影響を指摘しておきます。
一つは、この「人生への批判」が、やがて「人生への嫉妬」という感情に発達するものであるらしいこと。「何か間違っている」がやがて「良いものが自分をす通りしていく」という感情になる。
もう一つは、この幼い批判魂の持ち主は、周りにあまり馴染めず、場合によりいじめの対象になるなど、他人との現実的な軋轢の中に置かれる傾向になりやすいという事実です。そしてこの子供がその理由を自覚することは、まず不可能でしょう。
理由は全く分からない形で自分が人に忌み嫌われるという状況が典型的に起きることになります。

心理障害は決して純粋に心の中だけで起きるのではなく、現実をまたがって起きるという理解が重要です。克服は純粋に心の中だけの問題ではなく、現実の問題を解く見識が問われます。原理原則的な思考の確立が重要な由縁です。

No.933 2006/03/23(Thu) 13:01

ノーマルシーズン活動最後のスキー\(^^)/ということで解説前振りというか総括 / しまの

また夕方から出かけて日曜まで不在になりますです。
ノーマルシーズン活動と言っても、このあとポストシーズン活動が6月まであるんですけどね。えへ。

自己操縦心性の人生感覚の解説については、この週末でにもじっくり考察してからですね。
ちょっと前振りなど..と書いていたら総括みたいになった。

心理障害感情を構成する主な心理要素がほぼ全て登場したことになります。自己操縦心性の人生感覚によって、個人がそれに向って駆り立てられる自己理想像の内容が出来上がるわけです。

その自己理想像内容に、今までの全ての心理過程が注がれることになります。主に5つの流れがあることになるでしょう。
1)皮相化荒廃化した優越欲求、2)残存愛情要求、3)自己処罰感情と感情の膿、4)自己操縦心性基本機能としての感情操作感情、そして知性レベルを巻き込むものとしての5)3種類の癌細胞思考

その上で自己操縦心性が人生感覚からこの個人の自己理想像に帯びさせるのは、心理発達課題達成済みの「豊かな心にある自分」「人生を生きている自分」という色彩です。
自己操縦心性が掲げる自己理想像は決して皮相な社会的成功の姿ではありません。皮相な社会的成功はむしろその人の本来の心が掲げた理想像であり、自己操縦心性は「豊かな心の自分」という見えない自己理想像によって、むしろその人本来の自己理想像を打ち消そうとします。

ここに完全なる自己矛盾と自己撞着の世界が始まります。
自己操縦心性が掲げる「豊かな心の自分」という姿は、完全に誤りです。しかしこの蜃気楼が、現実覚醒レベルの低下した「空想の世界の生」に支えられることになります。
この個人が皮相化荒廃化した優越欲求と残存愛情要求を満たされる資格と感じるものが自己理想像の実現にある時、今や、彼彼女は自分の感情のあり様によって、望む資格を得るという自動感情に置かれることになります。しかもこの「自分の感情のあり様」が、貧困化した現実と感情操作感情による蜃気楼と、そして「自分の感情のあり様」によって望む資格を得るかどうかの「審判」の結果としての自己処罰感情と有頂天感情、これら全てが入り乱れる、不安定が不安定を攪拌し合うような様相になります。
この基本的なパターンは「自己矛盾と自己撞着のメリーゴーランド」とでも題して考察しようかと。

これだけでは終わりません。この自己撞着自己矛盾という苦境を何とか辻褄合わせしようとして、自己操縦心性が打つ、最後の病理の決定打。それが「自己離断」です。自分の感情の不都合な部分を自分のものではないとして切り離す動きです。「願望の取り下げ」「抵抗と無気力の生起」など。
自他への嫌悪そして自他からの嫌悪感覚のメカニズムも、この「自己離断」を前提にして初めて正確に理解することができます。これは「自己嫌悪の構造と外化」として説明します。

この「自己離断」までの解説によって、ようやく我々は、心理障害の中で起きる自動感情の正確なメカニズム理論を持つことになります。それによってようやく、我々自身の中に起きる感情の正確な仕組みを知ることができるようになるでしょう。今までのハイブリッド理論ではまだ周辺から眺めているに過ぎなかった状況です。

正確な心理メカニズム理論によって、我々は自分の感情への不明感を消せる代わりに、知らないままでいた安泰が打ち破られる面もあるでしょう。これを治癒への第一歩と位置付けることが重要です。
その先に進むためには当然、単に障害のメカニズムを知るだけではなく、治癒のメカニズムを知ることが必要です。「自己離断」を踏まえることにより、ようやくその完結版をハイブリッドとして定義することができると思います。

さらに、メカニズムを知るだけではなく、それを歩むための動機付けと勇気が必要になるでしょう。
障害メカニズム理論が描くのは、確かに不実な人間の姿です。それを自分のこととして知ることは、辛い側面もあります。治癒メカニズム理論が描く道のりは、決して「心が楽になる」「癒し」などとは別世界の、苦しい道のりです。

しかしそこに、「人間としての成長と魅力」というテーマをやはり加える必要があると思っています。
それは多分に自己操縦心性が描く蜃気楼と重なるものでもあります。そして我々は自分の「人間としての成長と魅力」について、現実蜃気楼を、見分けることができません

これがハイブリッドが示す治癒への道のりのキモになります。我々に見ることができるのは常に、現実と蜃気楼の混合化合物です。
その偽りの側面だけに着目して自分を駄目なものと見下すと、我々の成長は止まります。真実の側面だけに着目すると、ニセを認めようとはしない傲慢という、病理の構造に嵌ります。
真実とニセの両面があることを現実として受け入れ、ニセを悪ではなく人間の弱さとして見たとき、「自己像を生きる」生の世界とは全く異なる、「現実を生きる」生の世界が見えてきます。
これは思考法行動法だけでは到達できず、感情分析によって錯綜した感情を解きほぐす体験による内面の力の増大の積み重ねが必要になります。

さらに自己操縦心性の堅い殻は、感情分析によっても破ることはできません。増大してくる内面の力によって見えてくる「人生の望み」に向き合い、さらにその真実性と欺瞞性を自分は見分けることができないことを受け入れた上で、変化への恐怖を破って行動する「現実突入体験」によって、自己操縦心性の堅い殻が破られます。

それは恐らく「自己操縦心性の崩壊体験」の引き金になります。自己操縦心性によって防御されていた感情の膿の放出と同時に、真実とニセが明瞭に分離され、分離されただけのニセが放出された感情の膿と一緒に消えていきます。
この時本人は悪感情だけに覆われます。悪感情が本人になります。思考が断絶し、しばらくの休養期間を置いた後、自己観察性のない未知の感情が現れます。
これは「脳の構造的変化」を思わせる根本変化です。

この際放出される感情の膿の内容と、それ以前に本人の意識表面にあった各種の情動、つまり愛情要求や優越衝動、嫉妬感情などの間には、奇妙な法則関係があるようです。これについて整理した内容も、障害メカニズムおよび治癒メカニズムをまたがったテーマとして、極めて重要な足ががりになると思います。

さて、こうした治癒への道のりを歩む意味について、「人間としての成長と魅力」というテーマを考える。
「人間としての魅力」とは何か。それはやはり内面に嘘を抱えず、いかに自ら能動的に肯定的な感情を湧き出させて生きるかにあるように感じています。
上述のような苦しい道のりを経たあと、自分がそうなっている度合いが高まっている。自分がより人間的に魅力ある人間になれている
「自分の人間的な魅力」を云々するなど思い上がりであり、それこそ自己操縦心性による感情ではないか。そう考える方もいるかも知れません。

でもそれが、僕が今までの自分の道のりに満足し、今もさらにこの同じ道を歩き続けようと思っている、嘘偽らざる動機です
そして同時にそれは、自分が「自ら幸福になれる能力」を増していると感じることでもあります。
「それが蜃気楼だ」という人もいるかも知れません。いいんですね。これが「選択」です。
人は「正しさ」によって幸福になるのではないという思想です。人は感情によって生き、理性はそれを守るためにある。理性で生きるのではない。

その「選択」に立ったならば、あとはただ、失敗を繰り返して成長していくという、ごく単純なことをするにすぎないわけです。

ということで前振りというより、何かの総括に使えそうな話でした。

p.s 祝!WBC日本準決勝進出\(^^)/
Yahooニュース見て思わず「嘘みたーい」。日本全国「潔く諦め」ムードのこの状況でこうゆうのは超軽快に嬉しいですね〜。
これで対米国戦誤審のもやもやもきれいさっぱり、仕切り直しだ〜!

No.930 2006/03/17(Fri) 13:25

 
Re: ノーマルシーズン活動最後のスキー\(^^)/ということで解説前振りというか総括 / ペーター

今回のカキコは、率直に言うととても難解でした。
内容の半分もきちんと理解できていないかもしれない。
けれど、なんだかとても勇気付けられるものでもありました。

ハイブリッド理論は、あくまで「感情障害の克服・治癒」を
テーマに掲げた取り組みだとは理解しているつもりですが、
僕には、そうした合目的性から突き抜けた、大仰にいえば、
人間の新たな可能性、人生の新しい地平まで示しうるものだ、
という思いを禁じえません。

本の出版を心待ちにしております。必ず買わせてもらいます。
それから減りゆく一方の預貯金残高の恐怖については
僕も会社を辞めてフリーになったばかりの頃に経験しましたが、
賢明なしまのさんのことです、まあ、なんとかなりますよ(笑)

No.931 2006/03/19(Sun) 02:59

 
Re: ノーマルシーズン活動最後のスキー\(^^)/ということで解説前振りというか総括 / しまの

どうも〜。しまの@スキー帰りです。

>人間の新たな可能性、人生の新しい地平まで示しうるものだ、という思いを禁じえません。
>それから減りゆく一方の預貯金残高の恐怖については僕も会社を辞めてフリーになったばかりの頃に経験しましたが、賢明なしまのさんのことです、まあ、なんとかなりますよ(笑)

あれっ貯金残高の話ってしたかな..って前のカキコですね。
我ながら見事に何の心配もせず脳天気にスキー三昧しとります。まあ実際今の僕のような「将来見通しなし」の転身に飛び出した身を知った友人の中でも最もラテン系の根明人間「恐ろしー」とか言ってましたね。

確かに今の社会ではちょっと考えられない楽天生活だと自分でも思っています。マジに状況言いますと、退職金をうまくせしめてマンションのローン残金が極めて少なくなり、いちおう財産作ったという達成感あり。今後については預貯金はもうゼロになっても、また金かせぐ仕事につける自信あり。これが今までに築いた財産だと。あとはこれから新たな財産(色んな意味で)作りだと考えておるのです。

ハイブリッドのターゲットは「感情障害」ではなく「人格障害」です。
僕自身それを抱えながら前半生で人生結構うまくやった。人格障害を根本的に脱した。この実際のノウハウをお伝えするのがハイブリッドです。僕が今将来に不安感じるようなら、「不健康な医者」というあまり信憑性のない感じになっちゃいますね。

ま詳しい状はさておき、今の僕の貯金目減りへの脳天気さは、たしかに「人間の新たな人生の地平」かも。あっはっは。でもこーでなきゃー?^^;

>内容の半分もきちんと理解できていないかもしれない。

これは単純に未解説の領域に入る話を書いているからです。
重要な話ですが、ハイブリッドの理論展開は外側からベールをだんだんはぎながら中核に向う形で進めています。基本から応用という形で話を進めているのではなく、むしろその逆で、新しく解説した事ほど、まず基礎として理解する有用性の大きい話になっている状況です。
だからこれが一巡するまで心理学本に着手できない。

僕自身、「これが分かっていなかったから僕自身の問題がこれほど長引いた」と感じる、極めて重要な話がむしろこれから増えてきます。ハイブリッドに取り組んで根本変化へ向うための道筋が、ようやく理解してもらえるレベルになるのはこれからの解説によってだと考えており、こうご期待です。

No.932 2006/03/19(Sun) 21:28

自己操縦心性の成り立ち-46:基本機能その3人生感覚-1 / しまの

■精神性による権利要求

自己操縦心性の基本機能として「感情への感情(精神力)」「空想の中の優越」、そして病理発動として「現実離断」までを説明しました。
この結果は、現実から乖離し、しばしば暴走化し本人の心において比類なき信念にまで高められた精神性において、自己理想像を描き、それを基準に、この見下すべき現実の中で自分を自己理想像通りにしようとする、「自己像を生きる」という生き方になります。
一方で、この個人の現実の自己は、数々の理由により概して貧困化にあえいでいます。その中で「望む資格」「苦しむ価値」「怒りの力」という、人間の心が歪んでいくのを促す癌細胞思考とも言える観念によって、この個人が抱くある特徴ある心の姿勢を、ここで指摘しておくのがいいでしょう。

それは、精神的に高い理想を抱いていることにおいて、自分を尊敬や愛情に値する優れた人間であると思おうとする姿勢です。
「精神性による権利要求」と呼んでおきましょう。これがこの後の心理メカニズムにおいて大きな役割を演じることになります。
もちろん他人との関係、さらには自分自身との関係を極めて破壊的にする役割です。取り組み上もこの姿勢に対して知性による徹底的抗戦が重要になります。

メカニズム論上の位置付けは、現実離断がもたらす心の姿勢ということになると思います。
この姿勢が演じる役割の詳しい考察は後にして、次の心理要素の話に進みます。


■自己操縦心性の人生感覚

上述のような「自己像を生きる」生き方を、意識の外枠として、その内容の話です。
自己理想像の内容は、まず残存愛情要求優越欲求から供給されます。これが既に衝突し合う代物です。
あともう一つ、特別品が加わります。それが「人生感覚」です。

これは「自我統制のための心の機能」である自己操縦心性の、病理とは関係なしに一般心理からある基本機能と位置付けられます。
「人生」という観念と感覚があるから、人は自分の人生全体を眺める視野を持ちます。人生という観点を基盤にして、自分の理想像を描き、それに近づこうと可能性と全力を尽くして努力する。
これが人間の人生そのものです。

それが、ここまで説明したような情動の変形そして現実離断を背景にして、どんなものになるのか。
これがあまりにも特別な様相を示します。だから、心理障害は単に感情が悪化するだけではなく、人生を狂わせてしまうのです。

理論的説明の前に、これが強烈に表現された例を載ておきましょう。
「自己操縦心性の人生感覚」というテーマで書くときに載せようと、ずっととっておいたものです。


■自己操縦心性の人生感覚が強烈に表現された例

この例は、2005.5.15(日)毎日新聞『日記から−50人、50の「その時」』に掲載された、『二十歳の原点』高野悦子を取り上げたものに引用された彼女の日記の文章です。
とりあえずそのまま引用しますので読んで頂きましょう。どんな印象を感じるでしょうか。

1969年1月2日、20歳の誕生日を迎え、1月15日成人の日の日記にこう記されます。

 『独りであること』、『未熟であること』、これが私の二十歳の原点である。

この2年前、入学式の翌日1967年4月9日の日記では、次のように大学生活の抱負を述べていた。

 私はこれから始まる、いや実はもう始まっている大学生活の一大支柱を、学問をすること、日本史をおいてやることにおいてやっていこう。あと一つの小さな柱としては英語をやることである。
 自信と誇りを持つ自主性のある人間になるよう努力しよう。それから人対人の関係、対人関係をじょうずにしよう。
 学長はマルクス主義者であるらしい。私はマルクス主義が何であるか知らない。マルクス主義を学ぼう。本ばかり読んでいてもいけない。実地と照らし合わさなければ。


それからの2年間を、彼女は学問・アルバイト・学生運動そして恋愛に、真摯に生きようとした。しかし戦後日本の変革の一つのピークとなったこの時期、彼女のストイシズムは移り変わる時代に対して古風でもあり、そこに彼女の苦しみがある、と筆者は続けます。時代のドライブが強すぎたのだと。
僕はそうではなく、自己操縦心性の病理をそこに見ます。

「二十歳の原点」を書いた冒頭の日記から1月後の1969年2月24日、彼女の苦しみが記される。

 私には『生きよう』とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズット持っている感情である。

やがて自分自身に対する冷酷な視線が現れてきます。同年4月9日の日記。

 青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱も持っていない状態で生きたとてそれが何なのか。

5月13日、彼女の中で今までは一つであった心が敵同士に分かれたような日記が記されます。
最初の言葉は、

 自己創造を完成させるまで私は死にません。

で始まるが、次のように進む。

 本を読む気なし。何でも入ってくるものはすらっと受け入れる純粋無垢の状態。封鎖でも何でもやってやる。しょせん死ぬ身。自殺?敗北か。
 大体、何でこんなこと書いているんだろう。サアネ、ワタシニモワカリマセンデスワ、オホホホ


そして次の言葉で結んでいる。

 自殺は卑きょう者のすることだ。

最後の日記は6月22日。

 今や何ものも信じない。己れ自身もだ。この気持ちは、何と言うことはない。空っぽの満足の空間とでも、何とでも名付けてよい、そのものなのだ。ものなのかどうかもわからぬ。

この2日後、1969年6月24日未明、彼女は鉄道自殺する。

彼女の誤りは何だったのか、じっくり考察しましょう。

No.929 2006/03/16(Thu) 15:44

自己操縦心性の成り立ち-45:現実離断とは何か-14 / しまの

■「現実離断」まで

ここまでの心理メカニズム解説をまとめますと、1)一般心理における感性と情動の変形2)自己処罰感情と感情の膿3)心理発達課題損傷に関連した残存愛情要求と優越欲求および自己理想像形成、という自我発達までの心理の流れが3本。
自我統制機能である自己操縦心性の基本機能として、4)感情への感情(精神力)、5)空想の中の優越。この辺から空想による救済や軽蔑感情など、やや障害傾向を帯びた心理が現れ始めます。

これらはまだ心理障害という障壁が起きる前の心理要素であり、そのそれぞれに対して、心の成長と幸福のために望ましい向き合い方を定義することができます。これだけでも結構沢山勉強頂きたいことが出てきます。心理学本ではまず平易な言葉で整理して説明したい。
その対処方法により、確実にこの人生をより良く生きることができるでしょう。

ところが〜っ、心理障害という障壁の出現により、それが素直にはできなくなってしまいます。できなくなるのを決定づける要素を、「障害」と呼んでいます。これには極めて専門心理学的な特別な対処姿勢が必要になってきます。

その厄介な「障害」の最初が、「現実離断」です。「現実性刺激」を避けるために、「現実」を心から遠ざけるような特異な心理状態がまず平常心理の基盤になってしまいます。これが重いほど、「現実覚醒レベル」の低下した意識状態が心を覆うようになります。
感情は理性による制御が利かなくなり、残された「知性」を如何にフル回転させてこの状態の回復に取り組むかが根本治癒への鍵になります。

現実離断が生み出す心理構造として、まず「現実から乖離した精神性」を指摘しました。その中で人が陥りやすい問題として「精神性の暴走」「破壊型理想」「現実の貧困化」があります。3つ目は先の2つの結果と言えるでしょう。
取り組み上は、精神性の暴走をやめる現実科学的なものの見方考え方が重要です。
さらに、破壊型理想を建設型理想に置き換えると共に、破壊に価値を置く感性の裏にある「完全なるもの」という幻想的価値の誤りを自覚し、「人間の不完全性の受容」を見出すことが、全ての問題を解く克服への転換点になります。この治癒メカはこれから詳しく考察し整理して行きます。

その前に、「障害」の根本核の姿を知らねばなりません。それがまさに「人間の不完全性」だからです。真の自己受容は、それを受け入れたところにあります

ということで、現実離断が生み出す心理構造として、「現実から乖離した精神性」に続いて2つめのものを説明します。


■自己像への固執

現実離断が起こす意識状態の特徴の消極的側面として、現実覚醒レベルの低下や、現実というものが概して味気なく感じる現象があります。一方積極的側面が、特有の心理構造の出現であり、その最初が「現実から乖離した精神性」でした。

現実離断による心理構造の2番目が「自己像への固執」になります。
これは「安心できる自己像を描き、その通りに自分を演じようとする恒常的衝動」と定義できます。

これはもはや本人が「衝動」と自覚することさえない、この個人の基本的な「生き方」になります。自己イメージがまずあり、現実がある。現実の中で食い違いが現れる度に、なんとか辻褄の合う自己イメージの描き直しをすることになります。これは基本的に、とても精神的消耗度の高い「生き方」です。

自殺衝動は、しばしばこの「自己像描き直し」の疲労や失敗感が原因です。もしくは、「死の平静にある自分」という、「描き得る最終像」への衝動です。

この「自己像への固執」は、自己操縦心性が、意識が感情の膿に触れるのを避けようとして行なった現実離断の、必然的な結果だと思います。「現実」は基本的に二の次です。その上で「生きる自分」を知覚するとしたら、空想の世界に描かれる自己像ということになります。
心理障害の中で起きる、本人には理由の不明な不安症状は、主にこの「自己像固執による感情の膿からの防御」の機能不全症状ではないかと最近考えています。「安心できる自己像」に浸り切ることを許されない「現実場面」で頻繁に起きることになります。


■自己像は自分ではない

自己像への固執という症状に対する、重要な対処姿勢を2つアドバイスしておきましょう。

まず、「自己像は自分ではない」ということです。
心理障害傾向にある人は、この心理状態の中で必ず、「どれが本当の自分なのか」「どれが現実の自分なのか」という終わることのない思案の虜になります。
しかしそのどれも、現実ではありません。

健康な心になって現れてくる「現実を生きる感情」は、「揺るぎない自己像を基盤にした感情」などではなく、「自己像」そのものを持ちません。あくまで、現実があり、その中で自分が生きているという、自己観察性のあまりない感情です。

心理学知識がないと、この心の罠にまるまると嵌ります。その先に繰り広げられる膨大な思考が、ほとんど意味のないものになります。

現実はどこにあるのか。これを感覚として体験するのはすぐにはできません。体験的に言うなら、自己像固執の意識基盤は、自己操縦心性の崩壊とほぼイコールの形で減少します。崩壊の際には最悪の自己像が現れ、思考の断絶の後に、自己像観察強迫のない未知の感情が現れます。
それまで心得ることができるのは、とにかく原理原則的な思考と行動を心がけることです。これが心の強さを少しづつ育て、やがて来るべき崩壊体験に備えることができます。

また、基本的に多くの人が心理障害傾向を持つこの社会では、「互いの自己像を品評し合う」言動に終始する人間関係があちこちで起こります。
それは人生に何の実になるものでもないことを心得、少し距離を置く工夫が有用ですね。


■心の障害として受け入れる

次のアドバイス。これはあくまで障害であり、心の姿勢の問題ではないということです。障害ハンディとして受け入れることが極めて重要になります。もちろん知性で修正できる範囲は修正した上での話です。

自己像固執は、実は残存愛情要求と大きく衝突を起こします。残存愛情要求が描く「心を開いてつながる」自己理想像を見事に阻害するからです。そして心を開くことができず、自己像の中に生きる自分の姿への自己嫌悪が、「原罪」とも呼べる深い感情として存在します。これはまず外化され、自分が人に鋭く刺さるような違和感の目を向けられるという感覚の主因になります。これについては詳しくは「自己嫌悪の構造と外化」という話の中で解説します。

障害ハンディとして受け入れるとは、自分が「心の障害」を持った人間であることを受け入れて、社会で自分の可能性を最大限に生かす道を見出すということです。自分の心の長所も短所も、ごまかすことなくありのままに認識し、その自分が生きていく場を現実の中で見出す努力をすることです。
このためにはやはり「人間の不完全性の受容」と、それに基盤をおいた世界観が決定的に重要になります。自分が唯一無二の「生きもの」として生きているのを認めるような、「社会のレール」的感覚の完全に崩壊したサバイバル世界観のようなものになるでしょう。

とりあえず言葉が出るまま書きましたが、「不完全性の受容」というテーマでさらに丁寧に説明するかも知れません。

一言分かりやすいと思われる、「選択」があることをお伝えしておきましょう。
自己像固執の姿は、人間としてあまり美しくないのが事実でしょう。「高貴な精神性」による「理想の高さ」からまさに、「こんな自分は駄目だ」という感情が起きるのも不可避です。
でもはっきりと心得ておくことです。
障害を駄目なものと見下す思考の中で、障害が働きます。障害を受け入れた時、障害は消える方向に向かいます。

心理障害というのは、基本的にそんな性質を持っています。

No.928 2006/03/14(Tue) 22:12

自己操縦心性の成り立ち-44:現実離断とは何か-13 / しまの

新しいテーマに入りましょう。一応「現実離断」の話の続きです。

■治癒理論の終結に向けて

ハイブリッド心理学としての心理障害の治癒の道のり説明がかなり終結的考察に向っている今日この頃ですが、今見えてきているイメージを言いますと、2つの局面を経て治癒が成されるという構図がかなり明瞭になっています。

「治癒への姿勢」を一言ではこう言っています。感情の膿「流す」残存愛情要求「看取る」、そして自己操縦心性「解く」

このうち、最も直接的な治癒の局面前2つになります。つまり感情の膿を流すという体験と、残存愛情要求を看取るという体験です。
これは自己操縦心性の崩壊という現象を引き金にして端的に起きるものであり、取り組みの後半において上記3つの治癒姿勢がほぼ同時に起きるような、動揺の激しい峠のような体験の中で、心理障害が根本治癒に向います。
自己操縦心性の崩壊も介在して、感情の膿と残存愛情要求が流し看取られる体験。この最終局面は、「魂による洗浄」とも呼べる局面です。
つまり、感情の膿と残存愛情要求が流し看取られる体験の中でなぜ心理障害が根本治癒されるのかという、その先のメカニズムはありません。というかそれはメカニズムとして「見る」ことのできるものではない、心の自然治癒力の世界になります。
だからそれを司る心の機能を、ハイブリッドでは「魂」と呼ぶことにしています。
それを開放する。魂の開放です。これが最終治癒局面です。

一方、崩壊前の自己操縦心性は、この最終局面で起きるような感情の開放を阻止しようとする、極めて強力な役割を果たします。それは自らの魂に背を向け、別人になり切ろうとする心の動きだと言えるでしょう。
従って治癒への道のりは、「魂による洗浄」局面の前に、この局面への到達を阻んでいる分厚いバリアを解いて捨てるような、もう一つの局面が必要になります。
これは「自己操縦の解除」と呼べると思います。

この2つの局面という構造を、しっかりと把握頂くのが重要だと思います。峠は1つではありません。2つあります。
そして自己操縦心性はまさに、心理障害の治癒克服が1つの峠を越えた先にあるかのような、誤ったイメージを作り出します。取り組みをされる方はまず例外なくこの罠にかかると思います。


感情は必ずその罠にはまった動きをします。これを踏まえた上で、知性によって正しい治癒克服イメージを持つことが極めて重要です。
2つの峠から成る道のりのイメージです。

これからの話は、感情の膿と残存愛情要求を流し看取るという「治癒への姿勢」を不可能にする、自己操縦心性の心の動きを詳しく説明するものになります。
それが「自己像を生きる」「自己操縦」という人間の生き方のひとつの様相を作り出します。

まずそれをしっかりと把握し、それをこれからの自分が生きる道としてはもはや取り得ないという深い自覚が、一つの峠になるでしょう。
その先に、次の峠が始まります。魂による洗浄という世界であり、ありのままの自分の心でこの人生を生きるという体験の長い積み重ねであり、その治癒成長への歩みそのものが人生になるでしょう。


自己操縦は全く違う「治癒」イメージを囁くでしょう。それはまさに「治癒成長した人間」であるかのように自分を操縦するという世界です。
それを捨て、自分の魂を開放する。自己の自然な本性を開放する。
原理原則立脚型行動法などの思考法行動法の世界は、この開放の試みを支えるための、補助的な強さに過ぎません。過ぎませんとは言っても、それもまた決定的に重要なものになるでしょう。

ハイブリッドが考える根本治癒への道のりイメージが、かなり形づくられてきたと思います。それはこのように、かなり「限定的」な思想の上に立っています。これらのどれかが欠けても、根本治癒への歩みは難しいと考えています。
これが唯一の答えだとは思いません。しかしこれが成されれば、必ず心理障害の根本治癒と、「生きる喜び」という心の機能の回復が起きる。これは確実だと考えています。

とりあえずここでカキコし、「自己像を生きる」という生き方が起きるメカニズムの解説を進めます。

No.927 2006/03/14(Tue) 15:33

自己操縦心性の成り立ち-43:現実離断とは何か-12 / しまの

ようやく落ち着いて解説ものカキコできる時間が戻ってきた。しかしスキーシーズンはまだまだ続くー♪

3/1「自己操縦心性の成り立ち-42:現実離断とは何か-11」に記載した破壊型理想による現実破壊の例2について考察しましょう。
今僕の頭の中では治癒メカニズム理論の終結を見据えた考察が進んでおり、そこに向けてのつなぎもぼちぼち触れようと思います。


■現実破壊の例2-印象

まず率直に感じる印象を書いてみましょう。我々が心理学知識を持たないままでも感じ取ることのできる、人間心理のある様相ということになると思います。

まず感じられるのは、この人物が心底からの悪人ではなく、むしろ何かの精神的理想の持ち主であることです。それが「俺のポリシー」とか「美意識」と言った言葉に表れています。
しばしば、こうした人物を持つ親が、「心根は優しい子」という言葉を使うのが典型的なものとして浮びます。

そしてこの人物の現実に対する破壊的感情について当てはまる印象を言うならば、「精神的理想の高さゆえに現実を否定せざるを得ない」という弁明が聞こえてくる雰囲気というものがまず感じられます。

ただし、その否定の仕方はあまりにすさんだものになっています。それはまさに本人の抱く精神的理想を挫くような荒廃した姿です。
「親父のように無神経にはなれない」と言いながら、外見的には全く無神経としか言いようのない八つ当たりをし、そんな自分が再び精神的理想の攻撃の対象できます

これは一体何なのか。


■現実破壊の例2-分析

心理学の目からは、この人物の心の中で働いている心理要素を幾つか指摘することができます。
それらは全く断片的で、つながりのない感情です。それはまるで、一人の人間の中にある一つの心の行いを、他の心が怯えていたり、嘲笑ったりしているかのようです。

1)残存愛情要求と優越欲求の衝突
まず、この人物の八つ当たり衝動は、残存愛情要求によって「自尊心が愛に依存する」性向を、自らの優越欲求が激しく軽蔑した結果であることを指摘できます。
つまりこの人物には、人に愛されることで自尊心を得ようとする感情があるながら、それは抑圧されています。その代わりに、その自ら軽蔑する構図が現れそうな場面に、破壊衝動を向けるという形になります。
それで母親の世話への破壊衝動が起きる。

こうした八つ当たり衝動は、どちらかというと内面の不満に対して引き出される「反応性」の感情と言えます。

2)情動の荒廃化
一方この人物の中に時に、そうした「反応性」の破壊衝動ではなく、破壊そのものに快楽を覚えるような荒廃化した衝動が漏れ出し始めていることが見て取れます。

その一つは、親友の死の知らせに泣く父親の「惨めな姿を見るのがただ快感だった」。これは「相手を打ち負かす」タイプの優越衝動ですが、「悲しみへの共感」が麻痺しており、心の健康という観点からは、より深刻な状況です。この状況では、自分自身に対しても破壊的態度しか取れず、心は成長することなく消耗するだけの方向に向かう傾向があります。
これは感性のレベルに及んでいる荒廃化であり、より深刻。

「幸せそうな顔の人が憎らしいものに見える」も荒廃化した情動ですが、これはまだこの人間の無垢な心に近い感情です。この根底には「人生への嫉妬」という、深い感情があります。

3)裸で無垢な心
一方そうした変形した感情に汚染されていない、裸で無垢な心もこの人物には残されており、それが最後の「人生で何百回目かの涙」という場面に現れています。

その姿だけを見たとき、我々はこの人物への同情や慈愛のような感情を感じざるを得ないようにも感じます。そこには、自らの破壊行動によって自ら招いている不幸に、たださいなまれ、あえぐ人間の姿があります。

しかし、彼をさいなんでいるものを生み出しているのは、他ならぬ彼自身なのです。それをやめれば、彼の不幸はなくなる。それは実に単純な話です。
しかしそう言ったことろでそうはできないでしょう。できないから、それを心理障害と呼びます。


■自己破壊を駆動し続けるもの:「自己離断」序論

その「障害」の根本とは何か。
上述の分析のように、表面に見える感情のメカニズムを理解し、それぞれの感情に対する適切な対処姿勢を彼に教えることはできます。残存愛情要求への対処姿勢、真の強さを目指す姿勢、荒廃化した情動への対処姿勢、etc。

しかしそれでは彼は変われないでしょう。表面に見えるもの以外に、より根本にあるものが取り組まれないと、です。
それは一つは、「生きるノウハウ」についての欠如があるでしょう。この社会で確実に自信を育てるための行動法など。
そしてもう一つ、彼が抱く価値観にあります。「望む資格」「怒りの力」そして「苦しむ価値」という3つの癌細胞思考は、彼もどっぷりとその中にいるものでしょう。

特に彼の「世界中で自分が一番不幸とは思わない。けれども、結構苦労はしてきたつもりだ。」という言葉に、「苦しみという優越」という、人間の持つ一つの根本観念の表れを見ることができます。
その観念を採る限り、人は自ら苦しみを脱する強さを獲得することはできません。人の苦しみを根本解決するためのものを生み出す強さもです。
互いに苦しみを見せ合う癒しを求めるか。それとも自ら苦しみを脱する強さを求めるか。これは両者を同時に得ることは完全に不可能な、究極の選択です。

最後に、それでもまだ、「見えているもの」の話です。「見えているもの」について考えている限り、それは一般心理としてのノウハウでしかありません。それではやはり、この状況を変化させるために必要なものは何かが見えないままだと思います。

なぜなら、見えなくする積極的な力が働いているからです。本人の心の姿勢の問題ではなく、「病理」の問題としてです。この「病理」に対する対処姿勢を定義できた時、はっきりと、変化への方法が定義されたことになります。
そして実際それはまだハイブリッド心理学としても未解説です。これからの解説がいよいよその核心に入っていく次第。

その「病理」の僅かな尻尾のようなものが、この事例でも現れています。「だから避けていた。逃げていた。」という言葉。
ある特定の自分自身に面することの積極的回避です。これが知性を巻き込み、全ての対処方法論を全て無効にさえしてしまうような、厄介な病理の核がある。
これは、自分自身を積極的に「不明なもの」にしようとする心の動きです。感情の膿が人格構造に取り込まれた時、意識が感情の膿に触れる情緒破綻を避けようとして、自己操縦心性がまず行なった「現実離断」という病理現象に引き続いて、自己操縦心性は「現実」だけではなく、次に「自分自身」を切り離そうとする。

これをどう呼ぼうか、と、土曜のスキー帰りの車の中で考えていました。
やはり「離断」なんですね。「自己離断」です。
この核は「病理」として、本人の自覚のないところで起きます。それが如何に広範囲な影響を及ぼしているかを理解した時初めて、今までのハイブリッド心理学が「こうしているうちに治癒成長が起きる可能性がある」程度に話していた治癒理論が、明瞭に、「この姿勢によって変化が進みます」と定義できるものになるでしょう。

ということで、次のトピックにどんどん進みたいと思います。
とりあえず「現実離断」の結果起きる症状としての、「自己像への固執」あたりからかな。

管理メモ:No.925,926は投稿ロボットと見られるゴミカキコのため削除

No.924 2006/03/13(Mon) 14:35

こんどは明日夕から土曜まで不在^^; / しまの

う〜ん今週はスキー関連の雑用にも忙殺され、解説もの書く暇がないままの感じですねぇ。
また行事のカメラマンやって動画ファイルやDVD作りなどしていたこともあり。

こんどは明日夕方早めに出かけ、土曜まで不在の予定となりますです。またスキーの行事ものなんですけど。

しかし今日は健康保険の次期納入通知もうん10万という額で来ており、あとさき考えずスキーに行っている結果、マジに貯金の残りが..ヤバっ^^;

No.923 2006/03/08(Wed) 22:01

日曜まで不在です / しまの

これからスキーに出かけまーす。
帰ってきたら、例その2のケーススタディのじっくり考察など。

No.922 2006/03/02(Thu) 17:36

自己操縦心性の成り立ち-42:現実離断とは何か-11 / しまの

■見えてきたハイブリッド心理学の最終結論..

「現実離断」という病理によって生まれる「現実から乖離した精神」、その中で抱かれる「破壊型理想」の話に戻ります。

治癒克服への道としては、自分が抱いている破壊型理想の把握が極めて重要です。なぜ重要かというと、その中で追い求めている価値を明確化し、その価値を「破壊」ではなく「建設」によって生み出すという、全く異なる方向への視野を持つと同時に、「破壊できる価値」の背景にある「完璧なるもの」という誤った観念を捉えることです。そしてそれが「神になろうとする」誤りであることを知り、「不完全性の受容」という、この取り組みにおける最大の転換点を見出すことです。これにより「現実との和解」が開かれ、心理障害とは別世界の心へつながる道が始まるからです。

言葉が出るままに書くと、そんな感じー。
ハイブリッド心理学の最終結論がだんだん見えてきた感じですねー。行動学においては原理原則立脚型行動法により、「自尊心の確立」という生涯を通しての心理課題への一つの答えを示します。
一方感情面の取り組みとして、破壊型および受動的価値感覚から始まる情動変形の浄化への道筋がある一方で、根本の破壊型価値感覚から肯定型価値感覚へという別世界への入り口が近づいてきたわけです。


残されるのは、自己操縦心性の崩壊と感情の膿の放出という、意識の外枠で起きる根本治癒現象を、治癒克服を目指す本人の姿勢においてどう捉えればいいかです。今こう書いていてもそれは見えない超難題ですが、この先の解説で自己操縦心性の根本メカを詳しく描写してくる中で自ずと見えてくるものという、かなり高い期待を僕自身が持っている次第です。


■破壊型理想による現実破壊の例2

ということで、破壊型理想の把握に向け、それによる「現実の貧困化」の具体例その2を取り上げます。
これは破壊型理想というものが、本人においては破壊衝動におおわれ、何らかの理想価値を追い求めているという感覚さえ見えなくなっている状態を、端的に示す例です。

本人の抱く理想には、真実があります。しかしまさにそれによって、本人の現実はその真実から逆に遠ざかってしまいます。
このメカニズムを理解しないままの本人は、この心の罠に翻弄され苦しみと悲嘆を重ねるだけです。ここに、人間の心の悲劇があるように思われます。
自分が一体何をしているのかが分からなくなる。それは破壊型理想の問題以外のメカニズムが絡んでくるためでもあります。それを理解する上でも、破壊型理想を抽出した描写ではなく、一人の人間の生活そのものの一場面を描写するケーススタディとして、起きている心理メカニズムを解説します。

以下の文章は、ちょっとネット検索していてたまたま引っかかったもので、書いた人物のメインページからのリンクも外れているような、書き捨ての随筆を、若干編集を加えています。書いた人物は既に社会人のようで、サイトの更新はもうとうになく、ネットの片隅に捨てられた紙切れの文章みたいな感じです。
「精神性による現実の破壊」が端的に表れたものとして、しばらくとっておいた次第。

次のカキコで考察を書きましょう。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 朝起きて右手中指つけ根の疼きを感じる。
 母に八つ当たりする夢を見ていた。夢の中で母の顔を思い切り殴っていた。骨を砕いたような感触があった気がする。
 自分の右手を見るとあざができている。皮が壁紙にこすれて剥ぎ取られていた部分もあった。壁には、赤い血痕。
 壁を思い切り殴っていたようだ。

 前日の記憶が蘇る。思い出すだけで気分が悪くなった。起きて親父を殴りに行きたかったけど、そうすると一番困るのは母だということは分かっている。そこまで迷惑をかけることはできない。俺は親父のように無神経にはなれない。

 結局母が起こしにきても無視していた。ベッドから出たのは午後1時。
 学校に行く気などあるはずがない。単位も危ないが、行く気力なんてさっぱりなかった。適当に家でボーっと過ごす。何もする気力がない。
 しばらくすると母が出かける。家には俺ひとり。何もすることがない。

 昼間家に電話がかかってくる。出る気もなかった。
 20回くらい鳴り続けて切れる。ふと、これが「田舎の祖父が危篤」という知らせだったとしたら...という考えが浮ぶ。そうだったら俺は最低の親不孝の祖父不幸者だ...そう考えて笑う。
 なんでそんな想像で笑ったのかのは分からない。だが笑っていた。声を出して笑っていた。

 そういえば親父の親友が死んだという知らせがあった時、親父は泣いていた。
 その姿を見て、俺は心の底から笑っていた。親父の惨めな姿を見るのが、ただ快感だった。

 昔の俺は壊れていたと思う。ようやくそんな俺とは別れたと思っていたが、また戻りつつあるらしい。
 悲しい気もしたが、そんな気持ちもどうでも良くなった。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 シャワーを済ませた時には母は帰っていた。電話のことは黙っていた。どうせ大した内容ではないだろう。重大なことだったらあの後もかかってくるはずだし。そう自分を納得させておく。

 「ティラミス買ってきたよ」と母が言った。
 俺の好物だからか?だが好物だからだこそ今は食べる気なんてなかった。
 「いらね。勝手に食えよ。好きなもの食ったら機嫌直すような『誰かさん』じゃねーんだよ俺は。」 『誰かさん』とは親父のことだ。言わないでも母には分かっている。

 母が夕食の支度を始めるのを見て、俺は急に出かけようと思った。なんとなく。いきなり出かけると夕食を作る側にとっては量にも内容にも予定との狂いが生じる。迷惑以外のなにものでもない。
 だから、出かけることにした。はっきり、これは八つ当たりだった。分かっている。

 「出かける」
 「飯は勝手にする」
 「一応遅くはならないようにする」
 投げやりにそう告げると家を出た。
 親父の八つ当たりを長年見てきた。八つ当たりなんて最低のことだとは重々承知している。自分自身の中でも八つ当たりは最低の行為の一つだ。そう思っている。
 要するに今の俺は最低の男なんだ。そう納得して、また少し笑った。

 もし自分が結婚していたら、母ではなく奥さんに八つ当たりするのかな?と考えた。
 それは俺のポリシーにも美意識にも大きく反するけど、でも、するんだろう。
 でも俺って結婚できそうにないから、関係ないか。そもそもこんな状態になり得るような性格じゃあな。

 出かけるのは好きでも嫌いでもないが、ただ家にいるのが嫌だった。帰ってくる親父に顔を合わせるのがあまりに嫌で嫌で耐えられなかった。
 昔の俺に戻っていた。
 当てもなく外に出ては、一瞬でも嫌な時間から逃げる。できるだけフラつく。
 帰りが遅くなって怒られて。でも親父が家にいるだけでも十二分に気分は悪い。怒られるも怒られないも、大した差はなかった。
 だから避けていた。逃げていた。

 出かけても行くところなどない。この辺は店が閉まるのも早いし、仲のいい知り合いなんて地元にはいない。小学校のとき恋した相手から親友まで、親の都合で転校して行ったこともあって、地元には誰一人として話せる相手がいない。

 結局あてもなくふらついてから、いつものゲーセンに行った。いつもやるゲームをする。気分が悪い時にやっても上手くいかないのは分かっていたが、やる。連コインしまくる。
 まともにいかないことは分かっていても、なぜか今この時間だけは自虐に走りたかった。

 4000円ほど投入したところでさすがに切り上げる。財布は大分軽くなっていた。これ以上使うと、今月の残りが辛くなるから。もし学祭とか予定がなかったら、何万円でもある限り使ったかも知れない。
 ヒマをつぶす当てがなくなった。行きつけの喫茶店に行くことも考えたが、今の状態ではせっかくのコーヒーも不味く感じるしかないに決まっている。
 結局、当てもなく街をふらつくことにした。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 12月を前に冬の様相を一段と増してきた街。
 幸せそうな顔の人が溢れている。皆、親しい人と過ごす時間を楽しんでいる。鬱屈とした今の俺には、あまり好ましくない、いや、憎らしいものに見える。

 世界中で自分が一番不幸とは思わない。けれども、結構苦労はしてきたつもりだ。思い込みとか被害妄想とか、そんなことは抜きにしても。
 こうやって気楽に過ごすような普通の人々には想像もつかないような屈辱的な生活だったと思っている。今でも昔の事を思い出せば殺意が湧き上がるくらい。
 このご時世、よく子供に対する虐待とか言うが、そんな世間は甘いと僕は断言できる。いちいち虐待と喚く。うるさい事この上ない。その程度でひねくれて自分の子供への虐待に走るなんて、よっぽどぬるま湯の人生だったんだろうさ。反吐が出る。
 よく、兄からは被害妄想が強いとは言われるが、今まで家庭内の現実に接していないあいつにそれだけは言われたくないと思う。

 最悪な気分で歩く街はやはり最悪だった。気分転換にもなりはしない。
 「幸せそうな人を見るとムカついた。だから殺した。」 そうゆう殺人犯の気持ちがよく分かるような気がした。そんな感情を抱く人間と抱かない人間に分けるとしたら、俺は抱く人間だから、自分はちょっと殺人犯寄りの人間かも知れないと思う。そう思うとまた笑う。

 自分で自分を嘲笑う。そんなことだけ、誰よりも上手いと言える。
 そんな時の笑い声は本当に裏がない。取り繕ったさまもない。底の抜けたような声。
 下らないけど、現実。

    *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 結局思ったより早めには帰った。とは言っても母にすれば十分に迷惑な時間だったはずだ。
 親父が飯を食っていた。どうやらいつもより遅く帰ったらしい。当てが外れた。顔なんて合わせたくなかったのに。気づかれないように舌打ちする。

 親父は俺の顔を見ると笑って、「何かあったのか?気分悪いのか?」と聞いてきた。
 何も分かっちゃあいないどころか、昨日自分のした事を覚えてもいない。もしくは。自分のした事を悪いとは思っていないのか。
 何がなんだか訳が分からなくなった。感覚や、常識が、ずれている。

 俺は何も答えずに自分の部屋に戻ると、Gジャンと、バッグを思いっきり床に叩きつけた。
 何かが割れる音がした。

 買ったばかりの新品のCDが入っていたことを思い出したのは、それが砕けてからだった。
 ただ無言でベッドに突っ伏して。
 訳の分からないくらい、涙が溢れ出してきて。

 人生で、もう数え切れないほどの、何回目の、何十回目の、何百回目かの、失望。
 昔の記憶も混ざって、もう何も考えたくないのに、考えては失望し続けた。
 いつまでこんな事が続くのだろう?
 そう思って、涙を流しながら、声を上げて笑った。

 明日からはまた、何事もないように振舞わなければならない。

No.921 2006/03/01(Wed) 14:31

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