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過去ログ
2006.04


明日から5/5(予定)まで不在 / しまの

また帰省とスキーということで♪

No.959 2006/04/30(Sun) 11:17:39

ダイジェスト小説最終校正作業中! / しまの

島野は先日からダイジェスト小説最終校正作業に入っております。この後にはGWも控えてますので、またしばらくカキコ低調かも知れませんね。

製本におけるカバー表紙などもほぼ確定。今回のは文章のみでなく、カバーや表紙などから徹底的にこだわり、映像的にも「一つの物語」の始まりから終わりが演出されるというような、自分としては一つの芸術作品(ちょっとオーバー?)のように感じているものとなっています。
とにかくちょー自信作。発売開始をこうご期待です。

No.958 2006/04/27(Thu) 15:59:26

改訂「感情と行動の分離」の定義 / しまの

「感情と行動の分離」という、ハイブリッドの最も基本となる姿勢について、定義の改訂を手短に。

今までは「感情と行動はいったん分けて、行動建設的にもしくは原理原則立脚型で感情深く知ることのみ行う」というような表現をしていましたが、もうひとつの指針定義を追加しようと思います。

それは、「行動現実に対して行い、イメージに対しては行動しない」という指針です。
このことを感情面について言うなら、「イメージの中で湧き出る感情は、現実の相手に対するものとしてではなく、自分自身の中の問題として取り組む」とか言えるでしょう。

そろそろ執筆に入りたいと思っている最初の心理学本では、こうしたハイブリッドのキモを整理して、全体を入門編レベルの平易な表現で書きたいと思っているところでやんす。

No.957 2006/04/24(Mon) 16:37:58

自己操縦心性の成り立ち-64:受動型自己アイデンティティと憎悪-12 / しまの

■お勧めする自己アイデンティティ姿勢対象-2

2)外面的豊かさ

自己アイデンティティ姿勢の対象として考えられる2番目は、「外面」の全般です。
容貌や才能、所持品や金銭、社会的地位や人間関係などの「財産」、趣味、健康度。

これは自己アイデンティティ姿勢の対象としてお勧めするしないよりも、外面的な豊かさを求める自然な欲求からの、過剰追及および過小退却という両方向での歪みからの回復が課題となるテーマです。

歪みを起こす要因は主に3つです。
ひとつは前述の、自己アイデンティティ感喪失による空洞を埋めるために外面が必要になる場合です。この場合は先の「幸福とは奇妙に離れた金稼ぎ」のように、「それをしてないと落ち着けない」という駆り立てられるような姿になります。
もう一つは、他人との勝ち負け感情がある場合です。荒廃化した優越欲求ですね。この場合、外面的豊かさで勝とうとするなら、過剰追及が起きますし、精神的豊かさで勝とうとするなら、過小退却が起きる、というのが基本図式です。
最後に、自己理想として課せられる拘束を切り捨てる「自己離断」により、外面豊かさに関する外面テーマ領域が丸々切り捨てられる場合があります。このメカの詳細は後述。

そのような歪み要因が克服解消されるに従って、外面の豊かさを追求する欲求は、自分を駆り立てるストレスや他人との勝ち負け感の少ない、本人自身にごく自然に体験される欲求へと浄化されていきます。

そのような追及姿勢の歪みという課題があることを踏まえた上で述べますが、外面的豊かさは自己アイデンティティの大きな領域を占める、というのが実感です。

これは心理メカメニズムの話ではなく、ただそう感じるという僕の実感として言っています。人によっては、外面的豊かさをかなり超越した幸福に至っている人もいるかもしれませんし、それで心理的健康に何の問題もない、さらにかなり高度な心理的健康を達成していると言える場合もあると思います。
具体的には、実際のところ外面的豊かさは得られないような活動の中で幸福と自己アイデンティティを見出しているケースです。医療や宗教などでのボランティア的活動などが浮びますね。
ただし、その時、もはやその人の持つ外面環境の「豊かさ」という概念そのものが変化するように感じます。少なくとも飢餓や疫病に苛まれるのではない限り、人間の外面の豊かさなど、実に相対的なもののような気がします。

まあそんな話を含めれば、面的豊かさが自己アイデンティティの大きな領域を占める、というのが心理メカニズムとして正解になるかも知れませんね。
ま僕自身はごく俗人ということで..^^;


3)意志と原理原則

自己アイデンティティ姿勢の対象として考えられる3番目、そしてハイブリッドで強くお勧めしたいのが、この「意志と原理原則」です。

「意志」とは「こうする」と自分で決めることです。まあそう決めた材料としては、感情や欲求とか知性判断とか幾つかあるでしょうが、意志として自分で決めたことは、その段階では感情とは一線を引いた、「揺らぎない」性質を持つようになります。
もちろん、その内容は建設的で前向きであることが大切です。具体的にどのような考え方が建設的で前向きかは、自己アイデンティティ姿勢以前に問われる課題です。それは経てのこととして、意志を自分のアイデンティティとする。

意志を自己アイデンティティとする姿勢は、「愛」において非常に重要なことだと感じています。
感情を自己アイデンティティとした時、うっとりするような「愛の感情」は一時的で短期のみ持続するものであり(まこれも議論はあるでしょうが)、特定の相手を「愛する」という自分を持つにあたって、それに依存することはちょっと心もとない感があります。
また実際我々の「愛に基づく生活」は、「愛の感情によるつながり」だけで満たされているわけではなく、「苦楽を共にする」という一回り大きな「愛」によって保たれるのが、現実だと思います。

これは心理障害の影響で、「愛の感情」に不安定が起きる場合に、さらに重要な話になると思います。それを超えて、相手と一緒にいることに価値を見出す、大きな視点が必要になります。
そしてその価値があると判断した時、意志によって決断することです。相手に示す「自分」というものも、感情だけではなく、意志を示すものと考える。

また相手が自分をどう愛しているかを判断評価する場面においても、そうした視点を持つか持たないかで話がかなり変わってくると思います。
うっとりするような愛の感情をささやくことが「愛」だと考えているようじゃ、薄っぺらいんですね。もっと大きな視点で、共に何をしたいという、生活全体、人間全体のあり方を問題にしたい。
まこの辺は人それぞれの好き好きに任せる話ですが、「感情を越えた愛の視点」を持つことが、一つの「人間としての強さ」という感覚を与え、それがより安定した「愛の感情」を湧き出させるという好循環があるように思います。

意志として明瞭に意識するのではない「欲求」も、自己アイデンティティの大きな源泉になるものです。意志とは言わば、欲求と知性の結晶と言えるでしょう。

人は望み、つまり欲求によって生きます。それを否定しようとすることは、「望みの停止」という、心理過程全体を一段階悪化させるメカニズムに乗ることであることを認識する必要があります。
欲求を否定することでフラストレーションを麻痺させた「平静」を作り出すことは容易ですが、代わりに、見慣れぬ破壊性を帯びた欲求が雨後の筍のように自分の心に現れるのを、後に見ることになります。その欲求を否定して「平静」を作り出すことは、一段階困難になっている、という仕組みがあります。
知性からは受け入れられない欲求を自分の中に見ることは苦しいことですが、それを自己アイデンティティとするというより、まず自分のものとして認める姿勢が重要です。まず「欲求の浄化」というノウハウの実践をお勧めする次第です。浄化された欲求はやがて自己アイデンティティとして受け入れられるものとなり、この人間の生きる強さへと変わるはずです。

「原理原則を自己アイデンティティとする」となると流れがちょっと違うようにも感じるかも知れませんが、「欲求を意志の下で自己アイデンティティとする」は、原理原則的思考法行動法と密着しており、ここにひとくくりで述べるものです。
つまり、自分の中のある欲求を、知性によって是として意志に高めるとは、その欲求が自分の立つ原理原則に合致しているという知性判断で行なうことだからです。
人間の生きる姿勢として最も確固たる姿勢は、これを置いて他にはないと考えています。


このような生き方を取る者に取って、もはや原理原則が自己アイデンティティ、自分そのものという感覚が心を満たし始めるようになると思われます。
僕はそうです。ハイブリッド心理学は僕が自分と人間を見るための原則原則であり、それを作るという欲求に生かされ、それを仕事とすることが自分の考える社会の原理原則とも合致しているという、「これが自分だ」という感覚を与えるも最大のものになっています。それが僕を生かしている、と。

そうした「原理原則」を追及する材料というのは、さまざまな仕事や趣味、さらに人間関係一般の世界に満ち溢れていると思います。
ぜひそれを獲得する人生活動に向って頂きたいと。
かくして原理原則立脚型行動法は、自分の立つ原理原則を見出す、対人関係においては相手への意見は言わず原理原則を示す、という行動指針を越えて、それを自己アイデンティティとするという人生の指針にまで及ぶわけです。

これは「自己操縦」という生き方の軌道修正のためのノウハウにもつながると思われます。
つまり、自己操縦の中では、「自己理想像vs現実の自己」や「理想世界像vs現実世界」の比較が基本になりますが、原理原則型自己アイデンティティ(おっまた新しい言葉♪)においては、まず原理原則と現実世界を照らし合わせ、確かな原理原則を確立し、現実の自己は原理原則を基準に評価する、という思考法になります。

原理原則から自分を律する姿勢を現実に向うために使い、自己理想像から自分を操縦しようとする姿勢は、治癒取り組みの問題として扱うという切り分けで、混乱することなく現実生活と治癒取り組みを進められると思います。


ということで「自己アイデンティティ」に関わる解説は絞め、「自分自身からの逃避」に移りましょー!\(^^)/

No.956 2006/04/23(Sun) 16:03:54

自己操縦心性の成り立ち-63:受動型自己アイデンティティと憎悪-11 / しまの

「自己アイデンティティ」というテーマを含めた現時点でのハイブリッド総括「受動型自己アイデンティティと憎悪-8」で書きましたが、「根本選択は価値感覚とアイデンティティにある」と述べた、アイデンティティに関する考察をしましょう。
治癒克服への心の動きを自己アイデンティティとする姿勢について次のカキコで」とそこで書きましたが、理論的解説は以下になります。


■自己アイデンティティ姿勢とは

「自己アイデンティティ姿勢に根本選択」があるということですが、となると、まずこの「アイデンティティ姿勢」とは何じゃらほいというのが分かることが、話が始まるのに必要となります。

「自己アイデンティティ姿勢」とは、「これが自分であり自分らしさだ」と感じる感覚を持つということであり、それが自分にとって満足の行くものであるかどうかを評価する姿勢だと言えます。

まず、この感覚を意識的に自覚する、この姿勢を意識的に取る、かどうかに、別れ目があります。
「自己アイデンティティ姿勢を持つという根本選択」ではありません。自己アイデンティティ姿勢を持つのは、人間の脳の発達レベルとして自然なことだというのが僕の見解です。
つまり、そのような姿勢を持たないというのは、むしろそこから積極的に遠ざかろうとする姿勢の存在が考えられるということです。
「自分らしさの放棄」ですね。これは人生に関わる思考全体が他者依存の方向に傾いていたり、望みの停止の全般的蔓延の結果、さらに自己確立課題不達成の自分の姿を見る自己嫌悪から逃れるために、自己確立した自分という理想像そのものを意識から積極的に抹消しようとする心の動きが考えられます。
最後のものは「自己離断」です。この後のテーマで解説します。

以下、「自己アイデンティティ姿勢の望ましいあり方」について解説しますが、「そもそもそんなこと考えたくない」という心の琴線に触れる部分がどこかあるかも知れません。
それは「自己離断」の機能が働いていることだと解釈しておくといいかも知れませんね。自己離断は極めて強力かつ広範囲に我々の心に働くメカニズムです。いつかそれを解き、心が逃げようとした課題に再び向き合う時が訪れるのだと考え、その時にじっくり考える材料と考えてもらえれば。


■お勧めする自己アイデンティティ姿勢対象-1

これが自分だという感覚、そしてその満足度評価姿勢を持つとして、何を対象にしてその姿勢を持つかについて考えます。これが「望ましい自己アイデンティティ姿勢」の基本骨格を話すものになります。

自己アイデンティティ姿勢の対象としては主に3種類が考えられます。そのそれぞれに我々はどのような姿勢を持つべきか。

1)感情や行動の結果印象

普段感じる感情気分や、その表れとしての表情行動や振る舞い印象など。
つまりいわゆる「性格」や「人柄」「人格」「人間性」といったものです。その人の心のありかたの結果印象のことを指すことです。

一般に世の人が、「自分はこんな人間」と考えたり、時には心理テストで「診断」して確かめようとする「自分」は、ほとんどそれのことを指しているかも知れません。
しかしこれが全くお勧めできないものです。

なぜお勧めできないかというと、心の治癒成長の方向には完全に逆行するからです。

ひとつは、そのような感情や自分の行動印象を自己アイデンティティとする姿勢は、「受動型自己アイデンティティ」という、心理障害傾向の心理要素そのものだという考え方ができます。
感情の見栄えを自己アイデンティティと感じる。その底に、感情のあり方が他者との勝ち負けになっている、それをきりもりするために自己と他者の操縦をする、という、自他境界の混乱した心理障害の基本的意識基盤の表れかも知れません。
まあ、となると「お勧めできない」とは言っても、自分の感情をそんな風に評価操縦しようとする自動感情が起きてしまうもの仕方ないことであり、無理に「やめよう」と考えることも無益です。
これを「やめよう」と考えるよりは、それは置いといて3番目のパターンを意識するのがいいですね。

もうひとつ、お勧めでない一般的道理として、そのような結果印象に意識を向けても、それは人生の活動の原動力とならないので、そればかり考えていると人生がジリ貧になります。

これは入門編「4.10全てが許された世界へ」で「幸福に「基準」はない」という節で書いた話と大体同じです。
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幸福に「基準」はない

 幸福を見えなくする思考の3つめは、「どうなっていれば」幸福か、という「基準」で考える思考法です。
 一流大学を出て一流企業に就職している。金持ちである。美男美女で性格が良くモテる。頭が良く仕事ができる。健康である。結婚している。生きがいがある。etc。

 こうして、幸福を外から見た姿としてとらえ、それを追い求めた時、人はまさに幸福に近づけなくなります。
 なぜなら、それは「なるべき自分」を自分に押し付けることであり、心に枠をはめることになるからです。
 そして「こうなれば」という姿にとらわれることによって、絵画の中に吸い込まれるかのように、「今」を生きる感情のエネルギーを失っていく。年月が流れて、「こんなはずではなかった」と気づく。

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まあ入門編の記述としてはそれでいいのですが、取り組み法の各論になるともっと細かい話になってきます。
まず一般論としては、「幸福を外から見た姿として捉え追い求めた時、まさに幸福に近づけなくなる」。その通り。

では幸福を内側から捉えるとはどうゆうことかです。それがここで言っている「自己アイデンティティ姿勢の対象」とほぼイコールになります。つまり、幸福を内側から捉えるとは「自己アイデンティティの満足度」として捉えるということです。

そして自己アイデンティティとしては、感情や行動印象、つまり「性格」をアイデンティティとするのは、全くお勧めではない。

まあ参考まで僕自身の感覚を言えば、「自分の性格」という感覚そのものが、ほどんどありません。時にそれを感じるとしたら、それは「空想上の他人の目」を前提にした感覚であり、自己操縦心性の残骸によるものであろうということで、感情分析の対象として取り組む感じになります。
人に僕の性格を何やらと言われた場合、大抵他人事のように聞き流しています。

ちょっと長くなったので、ここでいったんカキコ。Webの原稿に使っているホームページ・ビルダーは原稿が長くなるとだんだん動作が遅くなるのネ..

No.955 2006/04/23(Sun) 13:07:06

自己操縦心性の成り立ち-62:受動型自己アイデンティティと憎悪-10 / しまの

■金では買えない(^^;)自己アイデンティティ

ちょっと具体話の紹介ついでに、もうひとつ。
少し前に時事関連でプリントしておいたあるブログ記事を、何かの話の折に取り上げようととっておいたものがあります。

「投資、その甘美なる地獄」という題。みずほ証券のジェイコム株誤発注20億円儲けた「無職」27歳をアエラが取材した話を取り上げています。ちょっと抜粋。
 彼が取材者に語った言葉の中でとりわけ印象的だったのは、「儲けても損しても精神的にきつい」。市場が閉じているあいだも株のことで頭がいっぱい。常に値動きしていて儲けるチャンスがあるから、株をやめることもできない、と。99年に160万円の元手で始めて、今は資産50億円以上。
 値動き商品から利益を得るという暮らしはひたすら「精神的につらい」のだ。つらさに追い立てられるように、また市場に向う。他のことに関心がも持てなくなる。
 投資は甘美なる地獄、精神の消耗戦。積み上げられた富を楽しむ余裕を生み出す心の健康が、果たして残るのかどうか。


個人特定可能な話をするのも何ですが、まあ僕からのアドバイス(?)含みということで続けますと、その方、ライブドア事件では数億円の損となった時、「食事も喉を通らない」状態だったとか。

脳内不幸物質が放出されているんですね。結局何が人間の幸福を決めるかというと、脳内幸福物質をいかに放出した状態でいるかです。金や富や性の快楽も、その手段に過ぎない。
その点、生理不調への脳内物質放出の中を生きる彼はまがいなしの不幸です。

なぜそんな生活にとどまるのかと考えると、他のハイブリッド心理学解説のどこよりも、ここで取り上げるのが合っていると感じた次第です。自己アイデンティティの獲得や損失の問題が関わっていると。

僕からすれば、数億円あればもう物質的には十分だと思うんだけどなー。もうちょっと広いマンション買って、将来子供を育てるためのお金とか..^^;
それ以上の稼ぎの世界というのは、お金ではなく自己実現のような楽しみとして向うかどうかの世界だと思いますね。自己アイデンティティが失われ、それがマネーゲームへの衝動に化けた時、人間の幸福とは奇妙に離れた金稼ぎの世界があるのかも知れません。

そんな意味では、良く言われる「金で人の心は買えない」の真偽論争にはちょっと距離を置き、もっとはっきりと誰の目にも言える命題を言うとしたら、「自己アイデンティティは金では買えない」「金では買えないもの」のまがいなしの答えではないか、と考える島野でした。

No.954 2006/04/22(Sat) 16:05:48

自己操縦心性の成り立ち-61:受動型自己アイデンティティと憎悪-9 / しまの

■全ての問題を包含した自己アイデンティティ課題

自己アイデンティティという難解なテーマに関連して、「我々はどこに向うべきなのか」に視点を移したいと思います。
これはなかなか難しいテーマです。なぜなら、「自己アイデンティティの確立」について、今自分がどこに立ち、どうすればより確固としたそれを得ることができるのかという、具体的な方法論はあまりないように思われるからです。

治癒論に目を向けた時、「自己アイデンティティ」という課題の特殊性が浮かび上がってきます。
愛・優越・自己アイデンティティという自尊心の条件を考えた時、前の2つは比較的具体的な方法論を示すことができます。
愛の回復へのノウハウは、建設的行動法です。優越の回復へのノウハウは、原理原則立脚型行動法です。

自己アイデンティティの回復へのノウハウとして、そのような限定的手法はありません。むしろ、愛と優越の回復努力を開放することの中に、それがあると言えるでしょう。望みの開放であり、心理学的技術としては「知性によって望みを導く」ことになります。

つまり、自己アイデンティティの達成とその損失回復は、全ての問題を包含した深遠な心理テーマです。この微妙な心理課題が自分の心の現状においてどんな状態にあるのかを省みることは、愛や優越のような「こうすれば」という答えのない、あくまで結果状態を見ることができるにとどまるものでありがら、極めて重要な心理学的実践になります。

なぜなら、その内省結果を魂が受け取り、次に進むべき道に自らに告げるからです。これは「技術」の世界ではありません。


■島野が「現在の自己アイデンティティを獲得した」日

どう参考になるかは後として、僕自身の体験を紹介しましょう。
僕が「島野」を自分の主アイデンティティとした、極めて明瞭な瞬間がありました。この体験は、「自己アイデンティティ」というものの心理メカニズムにおける位置付けの重要さを示唆する、鮮明な体験のように感じており、紹介する次第です。

その時僕の外面的行動には特に変化はありません。純粋に自己アイデンティティの感覚だけに変化があったのです。
そしてその前後で心理状態全体ががらりと変わった。
そんな鮮明さが記憶に強く残ってて、2005/12/29「自己操縦心性崩壊の道のり概観-2」「恋愛願望が僕の中でぶっつりと消えた境目」と一度書いたことがあります。

その時の状況を確認しようと日記を見たところ、結構読んでも面白いので、引用する次第。
自分では意識できないまま、自分の中で「アイデンティティ・ギャップ」とでも言うものがピークに達した状態から記されています。

2005.5.9(月)
 午後僕は今にも泣き出しそうな感情の中で作業をしていた。仕事の合間にはメール返答や原稿整理もしたが。
 なぜこれほど泣きたいほどの感情になるのかと考え、“自分でないことをしている”という感に行き着く。実際の時間としてどんな作業に使っているかではなく、島野として社会や人に面していないという自分のあり方がだ。
 定時に席を立ち、この感情に向き合い始めた時、僕はもう待てないという考えをめぐらせている自分を見た。“全てを投げ打って”島野としての活動に専念する、などという思考も出てきた。

 定時近い頃、僕はこの泣きたいような感情について、出版本が売れるまで待つしかないのだから、問題は「受け入れるしかない状況を受け入れずに嘆く自分の感情」か、という感覚があった。
 だが電車の中でじっくり考えるごとに、実際のところこれはもう経済的にうまく行けばという話ではないのだ、と思えてくる。待つ必要はない。経済的にうまく行けば島野になるのではなく、島野として経済的にうまく行くよう全てを調整していくのだ。その闘志にやたら向うことで、泣き出すような気分が今は消える方向にある。
 まずはやはりYahooか。


ということで、その瞬間、外面では変化のない会社生活も含めて、内面ではもはや「島野という人間」としてやりくりするという心理状態にがらりと切り替わったわけです。
次の日の気分の変化を書いています。

2005.5.10(火)
 今日は気合の入った一日だった。ライブドアの登録サービスなど調べたりした後、仕事もせねばということでチャートに着手した時は「島野としてではない作業」に時間を取られる情けなさを感じたりもしたが、明らかに今日の僕は昨日とは違った。仕事に時間を割り振るとしても、それは全て島野として行なっているのだという感覚の中で行なった。
 自分であれるという感覚が回復していた。単なる回復ではなく、さらに確固としたものになったかも知れない。

 それと同時に、僕の中で、女性相手を求める飢餓感とも言える恋愛願望が消えた。つながりは全く意識されないが、関連性ははっきりしている。僕は自分ではあれないという感覚の中で、女性への飢餓感を感じたのだ。そして自分であれるという感覚の中で、それが消えた。
 昨日をピーク(?)として、ここ数日僕の中には、自分自身であれない喪失感があった。その中で女性相手を得ることは、“自分自身であれている姿”を自分自身の能動的な動きではない形で実現しようとする意味を持っていたように思える。


この気分の変化は僕にとってあまりにも快かったものなので、逆に、こうでないままに留まった心理メカニズムに興味を感じました。それを考察した思考。

 不思議に思うのは、なぜ僕は自分自身であれない喪失感の中に少しの間とどまったのかだ。自分自身であることを損なってトレード・オフするものなど何もないからだ。
 それについてかなり考えたのだが、ひとつは、可能性の認知のずれというのがあると思う。心の底は可能性を感じ始めていて、別の自分を抱き始めている。表の意識はそれを見過ごしたまま。やがて、自分が本当の自分ではあれていないという感覚が彼を捉えることになる。これは健康な心理でもあることだろう。



■広範な衝動にすり替わる自己アイデンティティ要求

ということで、「自分自身でいる」という感覚の喪失が起きていながら、本人がそのことを自覚していない、という現象のもたらす影響の大きさというものがちょっと思い至る次第です。

そこで失われたものを埋めようとする衝動が一体に何に化けるのか。これはちょっと不定なもののようにも思えます。

ただ真似事のような恋愛への衝動は、その代表的なものでしょう。
先日2ちゃんのメンヘルで「こんな世の中で生きている意味を感じられることとしたら、色恋沙汰しかないかも」といった言葉を見かけましたが、実際のところここまでレールが用意されたような社会の中で「自分自身でいる」という感覚の獲得が難しくなっているであろう状況を考える時、多くの若者達が空ろに、レールが再び用意されたような恋愛ゲームに向う様子が浮んでくる次第です。

まあ別にそれが悪いとも思いませんけどね。恋愛や性が空ろな自己のはけ口の筆頭になのも、恋愛や性の根底に「命」という最大の営みがあるからこそ、それが何かの欠損を補う法外な意味を帯びるというメカニズムがあるのでしょう。
恋愛ゲームの中でレールから外れた時、それが見えてくるかも知れません。僕としては若者達にむしろそれを薦めたいような気も..。

No.953 2006/04/22(Sat) 15:15:21

自己操縦心性の成り立ち-60:受動型自己アイデンティティと憎悪-8 / しまの

■心理メカ全体における受動型自己アイデンティティの位置付け

「自己アイデンティティ」をめぐる心理動作の考察のしめくくりとして、今まで解説した心理メカの流れ全体における、その位置付けをちょっと考察してみましょう。
現時点でのハイブリッド理論総括という感じにもなりまます。

受動型自己アイデンティティ自己操縦心性についての解説の一環として説明したのですが、この2つは一応別々の流れから始まります。

1)心理発達課題からの流れ
まず、優越自己アイデンティティを条件要素とした自尊心獲得という心理課題は、自己操縦心性が発動する以前から、この人間に働いています。
その心理発達過程においてまず起きるのは、否定型・受動的価値感覚であり、残存愛情要求であり、自己処罰感情という基本的心理構造です。これらが心理発達課題の達成に不利に働く、というか、心理発達課題の達成を損なった姿がそれです。さらにそれが、その後の人生における達成回復を困難にする原因となります。

2)心理障害という流れ
心理発達課題の損失という背景的な事態にとどまらず、心理障害という病理が顕在化するのが、思春期の自己操縦心性発動になります。
感情の膿という見えない「精神破綻の脅迫」が人格に組み込まれ、現実離断による自己像固執の中で、精神破綻から逃れるために「なるべき自分」の姿へと駆り立てられる、自己操縦という基本的心理基盤が生まれます。
「なるべき自分」とは、自尊心発達課題のための達成要素である愛・優越・自己アイデンティティの獲得済みのイメージが先回り的に映像化された、「心を開いて人に接する」自分であり、「落ち着いた自信の中にある」自分であり、「自分らしさを獲得した」自分です。

自己操縦の心理基盤とは、描かれた「なるべき自分」を掲げて、上述の心理構造の中で生きようとする姿です。
彼彼女は概して自己処罰的であり、他人の目と心が自分の心を取り囲んでいるような感覚の中ですごします。そしてその中で生きようとする心理構造がまさに、彼彼女が求める心理発達課題の回復を破壊する方向に、彼彼女の心を向けていきます。
残存愛情要求により「憎しみの中で愛を求め」自らそれを破壊し、自己処罰感情によって自分を優越した者にならんと鞭打ちながらまさに自己処罰感情によって惨めな弱さに陥り、自己操縦心性の中で「自己操縦」によって「自分らしく」なろうとしながら自分を見失っていく、という姿です。

3)受動型自己アイデンティティの位置付け
さて、上述のように概観できる心理過程の中で、「受動型自己アイデンティティ」というこの特別品は、どこに位置付けられるか。
その特徴を上記心理過程にマップすると、何となくあちこちに分散して、あまり一つの話として浮き彫りにされるものではないかのような印象も受けます。
しかし僕の感覚では、上記心理過程全体の上に鎮座した王冠のような、特別品なんですね。

受動型自己アイデンティティ姿勢の最も基本的な特徴は、自分の中に湧いた感情の見栄えを自己アイデンティティとして評価しようとする姿勢であり、自己アイデンティティの元が主に他人から自分にされた行動にあるという感覚です。
そこには、自己肯定が他人によって与えられる、自己肯定を互いに支え合うという感覚の世界があります。

これについて、2つの見解を指摘しましょう。

まず、その姿勢の中で掲げられている「なるべき自分」とは、自己肯定をしている自分の姿です。これは「心理発達課題」のさらに上位にある、「心身成長の摂理」とでも言うべき、「依存から自立へ」という課題の達成された姿です。
しかし受動型自己アイデンティティにおいては、そうした「自立した自分」の姿を他人に依存することで実現しようとするという、完全なパラドックスがあります。
この意味で、そこにあるのは「依存性の残存」なのですが、単なる幼児的依存性の残存というものではなく、特別な依存性です。言わば「格上げされた依存性」です。

もう一つ。受動型自己アイデンティティが心理過程全体の上に鎮座した王冠のような特別品のような印象を受けると書きましたが、そのような単純な図式イメージが、僕の理論上の決定的公式によくつながります。これもそう。

つまり、受動型自己アイデンティティ姿勢とは、心理障害の心理過程そのものを自己アイデンティティとする姿勢のように思われます。この対比として、上記とは全く別の心の動きとして心理障害からの治癒克服過程があることを考えた時、自己アイデンティティ、「自分らしさ」を求める感覚の中で心理障害の心理過程に執着するような心の動きが起きた時、その妨害性は計り知れないものがある、というのが僕の印象です。


■治癒克服過程総括

受動型自己アイデンティティが目を向けるのとは別世界の、治癒克服過程についても総括しておきましょう。

1)意識して取るべき姿勢
まず、我々が取るべき姿勢にはおよそ3種類があるように思われます。

ひとつは「根本的選択」です。さまざまな心理メカニズムの根底にあるものを突き詰めていくと、最後には、それ以上の依存関係はない、純粋な分水嶺が見えてきます。どっちを向くかで世界が変わる。全てはその選択から始まる。先日TV放映された『マトリックス・リローデッド』でモーフィアスが言ったように^^;
これは心理障害の心理過程の中で、メカニズム連鎖ではなく、人間としての選択として取られた心の動きに対応します。治癒克服においては、その逆形を取る「選択」が問われます。
つぎは「ノウハウ」です。その「選択」に立って、もしくはその「選択」は多少ぶれていても、とにかくそうすればうまく行くという「技術」があります。行動学であり、心の使い方であり、心の技術。これは、それを学び実践する積み重ねが重要です。その積み重ねによって心が成長します。
最後は「深く知る」です。それを知り何もしない。
知ることで何かの変化が起きるという世界です。たとえば、「根本的選択」が見えてくるかも知れません。

2)心理障害過程と「取るべき姿勢」の対応関係
多くの心理メカニズムは、ほとんど「症状」として自動的に生まれます。残存愛情要求自己処罰感情、そして自己像固執さらには自己操縦姿勢などが全てそうです。
それを意識的努力で「直そう」とすることは無駄です。心理メカニズムを理解した時、「確かに自分はそうだ。これが問題を起こしていたのだ。」と分かったところで、「それをやめよう」と考えることは、自己操縦の中に再びあることでしかありません。
それらについては「深く知る」だけです。知る以上には何もしない。

ハイブリッドの取り組みは、まずノウハウを学び実践するところから始めると考えるのでいいと思います。
「7つのノウハウ」としてまとめられそうです。「感情と行動の分離」「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」「悪感情への耐性」「感情分析」「欲求の浄化」そして「知性による望みの導き」。

自己を深く知り、正しいノウハウを実践する中で、怒りや自己抑圧に使われていたエネルギーが開放され、内面の力が増大してくると、「根本選択」が見えてくると思います。
上記心理過程の中で、根本選択がかかわるのは、極めて僅かな要素です。

ひとつは否定型・受動的価値感覚であり、もうひとつが受動型自己アイデンティティです。実はこの2つは次元がちょっと異なるだけで、本質はひとつかも知れません。つまり、根本選択は「否定型・受動的価値から肯定型・能動的価値へ」です。これが全く別世界の心の世界への扉を開きます。他は全てノウハウとして一くくりにできるような話です。
上記心理過程は触れませんでしたが、3種類の癌細胞思考「望む資格」「苦しむ価値」「正しい怒り」は、これも「自ら選択した」ものです。これら否定型・受動的価値感覚を支える人間思考であり、その後の心理過程のほぼ全てを膨張させる役割を演じます。価値感覚の一環の問題として捉えることも可能です。

つまり、根本選択は価値感覚とアイデンティティにあるということになります。
この後の解説は、この根本選択への視点により重点を置いたものになると思います。

値感覚における根本選択は、「不完全性の受容」による「現実との和解」でなされます。この詳しい説明は「魂の成長の成り立ち」シリーズで。「選択」にかかわる話としてはそれがハイブリッドで最大のものになりますね。
アイデンティティにおける根本選択は、上で「受動型自己アイデンティティとは心理障害の心理過程そのものを自己アイデンティティとする姿勢」と書いたことに対応します。
ようは治癒克服への心の動きを自己アイデンティティとする姿勢が「選択」として成すことができるということですね。これは次のカキコで簡潔に説明しましょう。

3)魂の成長と自己操縦心性の崩壊
心理メカニズムと「取るべき姿勢」をまとめましたが、それではまだ完結しません。
それによってなぜ治癒成長が起きるのかという原理が必要です。
これは2つになります。

ひとつは心の自然治癒力自然成長力であり、「魂の成長」と呼びたいと思います。「魂の成長の成り立ち」シリーズで、この「見えないものの成長」の内容を、「分析的に」考察します。

最後にやはり、障害が解除される特別な現象が残ります。自己操縦心性の崩壊という特別現象が、まだ未解説の事柄として残っています。これは「自分自身からの逃避」の解説の中でとにかく理論をまとめたい。
意識的努力では全く解除不可能な、「現実離断」と「自己離断」が破れるという、特別な心理現象です。これによって自己操縦という意識基盤が自己開放の意識基盤への質的変化を起こす。脳の構造的変化のような形でです。

ノウハウがあり、深く知ることがあり、根本選択があり、その過程が魂が成長する。
実はそれはあくまでその際の意識土台の上での話です。意識土台そのものの質的変化は、唯一、自己操縦心性の崩壊によります。
最後の最後まで未解説になっているこの現象に、あまりにも大きな変化が依存するわけですね。
何とかそこまでの解説を急ぎましょう。

ハイブリッド心理学の全体がかなり整理できてきましたね^^。

No.952 2006/04/22(Sat) 13:37:35

自己操縦心性の成り立ち-59:受動型自己アイデンティティと憎悪-7 / しまの

■人生観念の皮相化

受動型自己アイデンティティの影響で、人生にかかわる様々な事柄への観念が、どうも薄っぺらく深みを欠いた、皮相なものになる傾向が起きることにも、注意が必要でしょう。
具体例など詳しくはまた別の機会とし、今回は言葉を出す程度にとどめておきますが。

その最たるものは善悪や倫理の観念で、「世の中や人がどう言うか」を善悪倫理観念のスタートラインにするようなことが起きがちです。
その結果、「怒られないこと」が「善」であるかのような感覚、自分の「誠実性へのプライド」と「人に怒られない能力」を混同しているかのような感覚が起きがちです。いずれ詳細な具体例など分析したい領域です。

次に影響を受けるのは「愛」についての観念ですね。しかし愛についての不明は、受動型自己アイデンティティ以外にもあまりにも多くの要因によって混乱が起きていますので、「受動型自己アイデンティティによる皮相化」ではくくれない問題になっているのが実情です。
「不倫」についての善悪観念などは、受動型自己アイデンティティによって皮相化が起きやすいテーマですね。これも具体的な話は別の機会に。

受動型自己アイデンティティ姿勢によって、善悪をまず「世の中や人がどう言うか」から考え始め、それに迎合したり、逆に反発したりといった心の動きが起きるわけですが、人間の持つ「善悪感覚」は本来もっと深い、人間固有のDNAに刻みこまれたものがあります。
たとえば「嘘への嫌悪」は最も強力に人間のDNAに刻まれた善悪感覚のひとつです。自己操縦によって自らに嘘をついた者は、たとえ「世の中や人」が彼彼女の姿を賞賛さえしたとしても、明瞭には意識できない心の底で、自らによって弾劾される圧迫感を抱え続けることを免れることは、まずできないしょう。

お勧めしたいことは、まずは自分の受動型自己アイデンティティ姿勢を自覚することからです。その不実さを実感するほどに、それは薄れていきます。
同時に、今まで逃げ続けていた、自分自身への弾劾に再面することになるでしょう。受動型自己アイデンティティ姿勢の中で渇望していた「良い感情の自分」になるのとは、別の方向なのです。
まず、逃げ続けていた自分自身の真の姿を知ることからです。
その先に、見えない「魂」が、どうすべきかという声を上げる時がきます。
続きは「自分自身からの逃避」で。

「世の中や人がどう言うか」を脱した、自己の本性に基づいた善悪感覚を取り戻すことは、「人間性の深み」を感じさせる、「人間としての魅力」といえる印象を与えてくれるように思われます。
前に「こうした取り組みで自分の人間的魅力が増大していると感じる」と書きましたが、自分にとって今まで見えなかった深い感覚を知ることは、人がどう言おうと、何よりもまず自分自身で、「豊かさの感覚」を感じる、ひとつの報酬だと言えます。
そんな報酬を動機付けにこの取り組みをするのも、全くいいことだと思います。


■否定型自己アイデンティティ

自己アイデンティティ姿勢として望ましくない、もうひとつのものを簡潔に説明しておきましょう。
「否定型自己アイデンティティ」です。
否定型自己アイデンティティは、「決して〜しないこと」という形を取ります。自分は決してあんなことはしない、という信念を自己アイデンティティ、自分らしさのように感じる感覚です。

これは、嫌悪軽蔑を感じさせる「押し付けがましい」他者の存在が想定されているのが大抵です。それは親であったり教師であったり社会であったりします。
決してその言いなりにはならない、という自己独自性の感覚が、その個人に強い自己アイデンティティの感覚を与えるわけです。
反発を感じる相手がおり、その相手への嫌悪軽蔑があり、反発だけにとどまらず、その相手を「喜ばせる」ことにつながるような行動を一切拒否するという行動パターンにしばしばなります。

引きこもりは、否定型自己アイデンティティの典型的産物です。
そこには、何の人生の喜びも与えられないまま、「ちゃんと」勉強したり仕事したりする人間であることを頭越しに押し付けられてきた来歴があります。そうした「大人や社会の嘘」への嫌悪軽蔑を背景に、「彼らを喜ばせる」ことにつながるような行動を一切拒否する。

TVで「引きこもり立ち直りへの壮絶な闘い」(^^;)とかのドキュメントを見かけることが良くありますが、登場人物は引きこもり本人と、彼を何とかまもとに仕事させたい家族、そしてこの手の問題解決を仕事としている熱血引受人
アプローチとしてはハイブリッドのような難解心理学ではなく(あはは)、「常識のたたき直し」という単純明快(?)なものです。
ものものしい雰囲気で皆が集まり、相手も大の大人の男ですから、力づくでの反抗も予想されます。「戦争が始まるヨ!」と熱血引受人。女性なんですけどね^^;

なんでも、これまでの家族とのやり取りには、「金を入れないなら家から出て行け」という家族に対して、「今出ていったら負けになる」と、「訳の分からないこと」を言っていたこともあると。
本人の中では、自分の中の何かへの勝ち負けがかかっているんですね。
でまあとにかく、「そんなんでいいと思っているのか!」という常識たたき直し攻防の末、本人は熱血引受人の斡旋した牧場での仕事に就くことを受け入れます。結果、彼自身が牧場での仕事で生き生きとした自分を取り戻すのです。めでたしめでたし。

さて、ハイブリッド的にはこれをどう見るか。
頭越しに「ちゃんと仕事するのが当然」だという周りに対して、そこに何かの嘘を感じて抵抗した彼の中にあったであろう思考を比べた時、彼の方が論理的には正しい
回りの言葉は、素朴な「なぜ?」という問いに答える論理性がありません。せいぜい「それが常識だ」程度。
ハイブリッドとしては、物事を現実科学的に論理的に考えることを推奨しています。

論理的には彼の方が正しい。でも彼の行動によって最も大きな損害をこうむっているのは、彼自身なわけです。人生そのものを捨てるようなことになっています。
他人への反発と、自分の人生と、どっちを取るかですね。
ハイブリッドとしては、というか僕個人としては、全然関わりのない話なので、勝手にすればーという感じですけど..(←ちょー無責任^^;)

反発する相手自身にはあまり嫌悪軽蔑を感じるものではないのに、反発せざるを得ないと本人が感じる例もあります。その場合それが「八つ当たり」であることを本人も感じます。
3/1「自己操縦心性の成り立ち-42:現実離断とは何か-11」で「現実破壊」の例として取り上げた、引きこもり傾向の男性の例もそれですね。母親自身への嫌悪はあまり表現されてない一方で、母親を喜ばせるような行動とは逆の行動に徹底しています。

これは間違いなく、残存愛情要求を背景にした優柔不断さ・ぐずぐず態度への自己嫌悪が、「いつまでも子供という目で見てくる」母親を前にして刺激されることへの反発行動です。全く似たような心情をかつて僕自身が持っていたので。

この男性に何かを指摘するとするならば、求めているものとその手段が、全くズレていることです。自分自身の内部の問題を、外部の問題にすりかえてしまっています。それでは根底にある自己嫌悪感情の克服には近付けません。

克服に最も近い行動とは、自分にとって真に魅力を感じられる人間達の前に立つことです。まったく言い訳のできない、自分が本当に自分自身に感じていることを知るのは、そんな場面です。そしてその自己嫌悪感情の苦さに、苦しむのがいいでしょう。僕自身の体験的考察を言えば、そうした苦しみが介在しない、「自己嫌悪の真の克服」体験は、ありません。
もちろんあとは、原理原則型など、真の強さ成長などのノウハウが重要になってきますが。

「これが自分だ」という自己アイデンティティの感覚が介入した行動は、時に、その行動そのものの純粋な意味からはかけ離れた重要さを、本人に感じさせてしまいます。
この心理学を理解し、行動そのものの意味と自己アイデンティティの感覚を分けて感じ取ることが、不合理に駆り立てられる行動を沈静化させるのに極めて有効な場合があります。

それがどのくらい広範囲な行動種類に及ぶのかをちょっと言及し、「能動型自己アイデンティティ」というハイブリッドからの提案を述べます。

No.951 2006/04/19(Wed) 18:31:15

自己操縦心性の成り立ち-58:受動型自己アイデンティティと憎悪-6 / しまの

■受動型自己アイデンティティの動作-3

感情のあり方が自尊心の問題になる延長で起きる、この心理のタチの悪い動作についても説明しましょう。
主に3つあります。

1)他者の操縦

先のカキコで触れたように、受動型自己アイデンティティが動く人間存在の様相である「自己操縦」を生きる者にとって、他者との関係も「操縦」という様相を示すようになります。
自分の中に湧き出る、それは大抵人が自分に何らかの行動を示すことで湧き出る感情が、自分の存在を作る。
ならば、そんな行動を相手が自分にしてくれることが極めて重要になってきます。どうすればそうしてもらえるかが、この個人の目指すものになってきます。

自分から愛することはできない。まず相手が自分を愛する行動を取ることが必要です。すると自分の中に、相手を愛する感情が湧き出る。
相手が自分を愛する行動を取るように仕向けるための、「価値」が、自分にあるかと腐心するようになります。それはもはや、愛が愛を生むという自然な姿という意味での「純粋な愛」とは別のものになっているでしょう。

2)他者おとしめ衝動

望みの停止による欲求の荒廃化が起きると、他人を打ち砕く攻撃衝動が発達してきます。
感情を自尊心の問題と感じる心理がそれと結びつくと、他人の心の中に惨めな感情を想定することで優越感を得ようとする衝動になります。
「お気の毒」という言葉が、同情よりは優越感の表現になる、という世界。

その衝動を持つ人間は、当然他人からも同じ衝動を向けられると感じますので、思いやりが侮辱に感じられることがあります。実際のところ、その「思いやり」が純粋なものなのか、それとも優越感を満たすための「思いやり」だったのか。これもその人間の内面の問題です。

さらにタチが悪くなると、相手が惨めだと見なす言動を、相手を打ち負かすための手段にするという行動が出てきます。もしくは相手の内面状態を勝手に仮定して、見下すという心理。これは捏造にまで発展し得ます。
これは双方が受動型自己アイデンティティの中にいる場合に、攻撃として成り立つ行為です。攻撃する方は相手を見下せる状況を想定して、相手に当てはめることで攻撃しようとする。攻撃される側も、受動型自己アイデンティティによって、人に言われたことを自分のこととして当てはめようとする基本的傾向があるから、その攻撃を自ら、まともに食らうわけです。

こうした「他者おとしめ衝動」は、この心理過程にある人間の、他人との関係が悪化する最大の要因のひとつです。一言でいえば、漠然と、他人というものが一般に自分に「悪意」を向けているものと体験されます。

この根底には、心理障害治癒の「壁」を構成している「自己離断」のメカニズムがあります。本人自身が抱く「他者おとしめ衝動」の自己中心的攻撃性は自分では自覚されません。単に空想の中で他人が惨めに映るだけです。そこで意識から消去された自己中心的攻撃性の色彩が外化され、他人が自分に向けているものと体験されます。

自分の衝動から「皮相荒廃の色彩」だけがアク抜きのように消去されます。消去された「皮相荒廃の色彩」は感情の膿と結びつき、もはや意識できることのない、自分が得体の知れない悪しき存在だというような感情破綻的な自己嫌悪感情の膿が出来上がります。
そこから逃げる、自己からの逃避のための自己操縦という意識状態がここで堅固に生まれることになります。これが心の姿勢や思考法行動法では変更できない、「壁」の状態です。


「自己離断」の序論的な話になってきましたが、詳しくは「自分自身からの逃避」の方で解説しましょう。それを超える視点こそが、ハイブリッド心理学が提供する最大の要になると思っています。

3)自己嫌悪の発展

受動型自己アイデンティティが起こすタチの悪い動作の3番目は、受動型自己アイデンティティという存在様相そのものが、心の極めて深いところで自己嫌悪対象になるざるを得ないことです。
自分から感情を湧き出させることなく、受け身に他人から与えられる刺激で、何とか自分らしさを感じようとあくせくしている人間、と。
一方で、そうしたものを持つ、感情豊かで輝いているような他人への羨望感情もあるでしょう。

それに対してハイブリッドが定義する対処姿勢は、2つです。
ひとつは、受動型から能動型へという自己アイデンティティへの姿勢の変換です。これは「否定型自己アイデンティティ」についても説明した後に述べましょう。
もうひとつは、自己嫌悪感情の真の克服としてハイブリッドが定義する、「魂の成長」の世界になってきます。そこでは決して自己嫌悪感情を消滅させようとする作為的努力はしません。自己嫌悪感情の真の姿を知り、それをどうするかを魂にまかせるという感じになってきます。
これについては「自分自身からの逃避」から説明に入っていきます。


■受動型自己アイデンティティ結語

自分の中に湧き出る感情を受ける形でという、受動的自己アイデンティティ姿勢の中で、自分の感情のあり方が自尊心の問題と化す。さらにこれが他人との優越勝負の問題と化す。
人が心理障害傾向の中で自分自身にとらわれる姿を生み出す最終的な心理構造が、この心理メカニズムによって生まれます。

その中で、人は「自分の感情を良いものにする」ことへの焦りの虜になってしまいます。人が心理療法やカウンセリングで「良くなったか」かどうかと腐心するのは、実はこの姿勢の延長に過ぎないかも知れません。

根本にあるものを理解しないまま感情を良くしようとする試みは、不毛です。
そうした試みでの僅かな気分の変化に一喜一憂するのではなく、根底にある心理メカニズムを知り、心の成長への根本的な選択を知り、その選択を生きるという決断が、ハイブリッドでお勧めするものです。
その先に、魂の成長という根本変化への道があります。

自己アイデンティティというテーマにおけるその「選択」を、あと少し否定型自己アイデンティティなど説明してから具体的に説明します。

No.950 2006/04/18(Tue) 16:19:33

自己操縦心性の成り立ち-57:受動型自己アイデンティティと憎悪-5 / しまの

ちょっと話の流れが整理いまいちですが(^^;)、受動型自己アイデンティティの基本動作について、次のパターンを説明します。
重要な対処方法についても説明しましょう。


■受動型自己アイデンティティの動作-2

「受動型自己アイデンティティと憎悪-2」で説明した動作その1は、「人によって湧き出た感情を自己アイデンティティとしようとする」でした。
動作その2は、これがさらに「対自己」「自己完結」の性質を帯びたものです。自己像固執の中でそうなるのでしょう。

それは、湧き出た感情の見栄えを自己アイデンティティのように感じる傾向です。
喜びを感じると、自分が「明るい人間」のような気がしてきて、自己評価が上昇します。
怒りを感じると、自分が偏狭な人間のような気がしてきて、自己評価が下降します。

これはしばしば、ごく些細なちょっとしたきっかけで、感情が極端な上昇や下降を起こす、ジェットコースター状態を生み出します。
一つの感情反応が、「こんな自分」という感覚とその自己評価感情を引き起こし、その結果の気分がさらに自己評価の天秤に乗ります。
まるでサーモスイッチのついた自動変調装置のように、自分自身の気分の変化によって、自分自身の気分が変わってしまいます。

この時、自分がどんな自己像基準から自分の気分を評価しているかという、自己理想像は全く意識表面からは消去されています。
その結果、自分の気分の変化の理由が全く本人に分からないことが少なくありません。その結果「病気」だと考えられたりします。「うつ病」はそうして出来た「病名」だと考えています。

ちょっとした気分の変調の際に、このメカニズムが働いていることを感じ取ることは、治癒取り組みとして極めて重要です。
何となく「やる気」が失せたのをちょっと感じたと思ったら、見る間にどんよりと抑うつ気分が襲ってきた。これは「やる気ある自分」という自己理想像によって得られていた、空想上の「人からの愛や尊敬」が失われるという心理反応が起きているわけです。「こんな自分じゃ人に接していけない」という、望みの停止感情も起きているでしょう。

そんな時は、このメカニズムが働いているという視点で自分の感情の流れを観察し、その裏にある「見えない自己理想像」をできるだけ浮き彫りにしてみることです。

それによってこのメカニズムが解消される、のではありません。そんなヤワなメカニズムではありません。
それでも自己不明感や、自分の不安定さへの絶望感はなくせるでしょう。そして気分の変調になるべく巻き込まれないような、原理原則的な思考法行動法を育てることです。
気分の安定は、そうして築かれていく心理的基盤が生み出します。



■感情のあり方が自尊心の問題になる

湧き出た感情の見栄えを自己アイデンティティであるかのように、自己評価する。
この心の動きの根底にあるものは何か。

自分の感情の良し悪しが、自尊心の問題になっているということです。
自尊心獲得への3要素が、自分の感情によって達成されるかのような論理が描かれています。自分の感情がこうであれば、人に愛され、人に優越し自分らしくいることができる。

かくして、恋人を失うことが、そのこと自体の本来の意味とは別の、自尊心課題の損失であるかのように体験される心理が起きます。
つまり、愛による自尊心を得られない孤独と、優越による自尊心を得られない敗北と、自己アイデンティティによる自尊心を得られない空洞として、体験されるわけです。

そうした自尊心課題をめぐる心理感情と、その相手を唯一無二の存在として愛する感情を切り分ける。純粋にその相手自身を愛した感情は、どうあったのか。
前者はフラストレーションを起こす感情であり、後者はフラストレーションを起こさない感情であることが分かってくるでしょう。
こうした感情分析とともに「生きる」体験が、治癒成長へのひとつの答えとなる時間を生み出します。
これは僕のダイジェスト小説で詳細に描写したものそのものです。

受動型自己アイデンティティが感情悪化のキモになる、さらにタチの悪い動作の説明を次に。

No.949 2006/04/18(Tue) 15:51:02

自己操縦心性の成り立ち-56:受動型自己アイデンティティと憎悪-4 / しまの

■「自己アイデンティティ保持衝動」という深淵な心理学テーマ

先に述べたように、自棄的憎悪が昂進する心理状態には、受動型自己アイデンティティという器の存在が考えられます。
しかしその時、受動型自己アイデンティティという心理現象そのものは姿を全く見せていません。

そもそもこの「自己アイデンティティ」を保とうとする人間衝動は、極めて漠然としており、強力であり、そして深淵な心理だと考えています。

これを十分に理解するためには、我々はおよそ次の3テーマについての視点を持つ必要があると思います。
1)自己アイデンティティを保持しようとする衝動の存在
2)それがさまざまな感情や欲求に「徹底した追求性」を帯びさせる現象
3)その根底には「人間という存在」そのものに関わる観念理念があること

整理途上の難解なテーマになりますが、現時点で考えるに至った事柄を簡潔に書いておきましょう。
まず、先に引用した返答メール文の続き部分ですが、受動型自己アイデンティティの背景にある、人間存在のひとつの様態について書いた部分を引き続き引用します。

「人間存在の様態」という大きなテーマでハイブリッドが説明している、ひとつの「人間の生き方」。それが「自己操縦」という言葉で表現できることを説明し始めています。
受動型自己アイデンティティの心理をさまざまな視点から眺めていると、さらに根底にある何かが見えてきます。
「自己操縦」という生き方を選択する者は、同時に他者との関係も「操縦」という様態になる。

最終結論は「魂の成長の成り立ち」というシリーズで書こうと思いますが、まずそんな視点からの返答文を。

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■「自己肯定を与え合う」という世界

そうした観念の行き着く所は、「互いが自己肯定を供給し合う」とでもいう世界のようです。これは自尊心の損傷残存愛情要求優越欲求、そして受動的価値感覚3種類の癌細胞思考、それらが合流してできた、一つの典型的世界かと。

そこに、自己操縦心性による「要求と真実の差し替え」が加わるのでしょう。
自分は相手を思う。これで既に「与えた」ということになる。今度は相手が自分の自己肯定を支えるような好意を返すべきである。
しかし最初の「与えた」ものは実は空想の中だけの話であり、現実には何も返ってこない。相手は悪だ、ということになります。

「望みの閉塞」もこの世界で起きるようです。
相手の自己肯定を共有し合うことが「愛」ならば、相手がそれを否定した時、自らの望みを閉塞させることが「愛」になり得るかも知れません。やがて憎悪に変わる「愛」でしょう。

「自己肯定させてくれなかった!」と憎むわけです。


■「自己演技の支え合い」

整理がいまいちですが、そうした「望みの閉塞」「受動型自己アイデンティティ」「皮相で軽薄な人間社会観」「思いやり優越感」そして「自己肯定の与え合い世界」というものの中で、ひたすら貪欲に与えられることを求める衝動と、それに値する価値を持たない自分という自己嫌悪と、そんな状況を生み出したこの間違った人生と世界という憎悪、これが暴走するようです。

僕の大学院時代の泥沼脱出の話に戻りますと、脱出を促した自覚らしかったのは、「自分を演じるための支えを人に求めていた」という自覚です。
明るい人間として振舞いたい。そのためには、自分を明るい人間としてみてくれる人の目が必要である。

その底には、自分を偽り演技している自己への、激しい嫌悪があると思います。「無条件の嫌悪」の世界です。
それに触れないように相手を支える。それを善意と位置付けるような心の世界があります。「お前は本当はそんなではないだろう」という目が、相手を傷つけるための武器になる世界。
「人を信じられない」とは、自分の演技に暖かい目を向け続けることへの「信頼」についてのことでしょう。

結局、自己の根本から逃げている世界です。それを相手が支えてくれることを「信頼」という世界。

これらの話から言える「選択」は、「望みの閉塞の解除」であり、「自らによる自己確立」ですね。
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No.948 2006/04/18(Tue) 11:00:41

自己操縦心性の成り立ち-55:受動型自己アイデンティティと憎悪-3 / しまの

受動型自己アイデンティティが心理障害傾向の中で、感情悪化の極めて重要な要になる。
この心理メカニズム自体は表にその姿を現さない形でです。

最近の返答メールでその辺りの説明をしたものがありますので引用します。
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■「望みの閉塞」と「受動型自己アイデンティティ」

実はこの話が、「僕自身が分かってなかったから問題が泥沼化していた」ものです。
大学4年の峠を過ぎて、僕の心の中の病根は明らかに大幅に減少していたにも関わらず、大学院生活の中での自己分析は泥沼の様相を呈していました。愛情要求のフラストレーション自己嫌悪怒りの爆発により、「自分がどうかしてしまいそう」という状況で何度も自殺念慮に陥ります。

その後大学院2年の就職確定あたりの短い期間の中で、泥沼状態を急速に脱する感じになりました。
それを導いたものは何だったのかと、ここ最近分析していたのですが、ひとつの大きな要因は実に単純なもので、自分の「現実的な強さ」を自覚したことだったようです。
ひとつは例えば、自分が父親よりも体格が上で腕力も強いという事実です。自分が物理的に父より優位にあることを知った。親を弱い存在と感じるようになり、親への恨みが急速に消えた時期でした。

それでもかなりの泥沼状態が続いた、2つの原因が見えたところです。

ひとつは「望みの閉塞」とでも言うべきもので、「望みの停止」の全般的蔓延状態です。何か具体的なあれやこれやの「望み」が停止した状態ではなく、「望むという行為」そのもの、「目標に向って前に進むという姿勢」そのものが塞がれた状態です。自分は望んだりしてはいけないんだ。自分に、何か目標に向って前に進むことなんてできないんだ。

望みの閉塞により、人生における欲求は消え去るわけではなく、受け身に与えられる形での、より貪欲ですさんだ衝動が湧き出るようになります。
一方で本人は、「外から自分を眺めて」「こんな人間でなければ」「こんな性格でなければ」という破壊型理想の視線の虜状態です。

そんな中、「自分はあの仕打ちによってこんな性格になってしまった」という類の言葉がしきりに出ています。あの仕打ちによって自分は他人への不信感を学んだ。他人への恐れを学んだ。云々。そして憎悪感情を湧き出させるわけです。
単に、自分が受けた仕打ちへの好悪を言うのではなく、それが自分を作ったという観念です。


■「思いやり優越感」

そこには、「人によって湧いた感情」を「自己」そのものであるかのように感じている姿勢があります。
同様に、他人の安心感も、自分が与えなければいけないという観念の存在が認められました。人が安心感を抱けるように、自分が振舞わなければならない。「安心」は「与え」「与えられる」ものだという観念
果ては、自分がいるとその場の雰囲気が悪くなる。自分がいなくなることが善意だ、なんていう観念まで出ている始末です。

これは受動的価値感覚や感性の皮相化を我田引水した形での人間観です。世界の全ての人間を、心理障害型の、自分自身では自己を保てない、皮相で浅薄な心の持ち主に仕立て上げてしまっています。
これは「思いやり優越感」と呼べると思います。思いやりによって、自分が優位に立つ。同時に、その返りを相手は自分に差し出すべきである。
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■重症悪感情における受動型自己アイデンティティの役割

受動型自己アイデンティティは実に多くの悪感情にもぐり込んでおり、あえて探そうと思わなくても、悪化がひどい自己嫌悪感情の表現を見ると大抵そこに受動型自己アイデンティティを認めることができます。

ちょっとそんなものを拾ってみようかと、2ちゃんのメンヘル掲示板を見て拾ったものを引用しましょう。
感情悪化がひどいものを見れば、すぐ受動型自己アイデンティティが読み取れるものが出てきます。

投稿者1
元凶殺して刑務所行きたい
そいつの家族に恨まれようが自分の家族が悲しもうが関係ない
殺して楽になりたい
投稿者2
オレの元凶は、とっとと無理心中しやがったよ。
元凶の思惑どおり、生き地獄の日々だよ。
オレも死にたい。


ある人物が自分の苦しみの元凶であり、それへの憎しみは殺意とまで強いものになっています。
そこには当然(?)受動型自己アイデンティティそのものの表現はありませんし、本人もそんなものは全く意識もしていないでしょう。
しかし受動型自己アイデンティティ能動型自己アイデンティティが両方とも分かってくると、この引用例のような心理の背景に受動型自己アイデンティティが横たわっていることは直感的に感じられます。

それを理解するためには、逆に、受動型自己アイデンティティが解けることで、あまりにもがんじがらめのようだった悪感情が、ちょっと拍子抜けするほどあっさりと消失してしまう例を見るといいかも知れません。
そこで人がどのように能動型自己アイデンティティの方を向いているのか、沢山の事例から、この漠然としながらも巨大な影響を及ぼす心理現象が理解できるかも知れません。
この面での説明を次のカキコで。


■自己圧殺衝動

その前に、上記引用例の自棄的憎悪のような、最も感情が悪化する状態を促す最大要因とは一体何なのかを一考しておきましょう。

受動型自己アイデンティティ自体が感情悪化の要因ではありません。それは悪化する感情が動く器です。それはまるで、その中で動く心理要素が何にでも化けてしまう、玉手箱のようなものです。その中ではもはや、感情はその本来の意味をありのままに知ることは不可能になってしまうように思われます。
そんな玉手箱からは出して、ありのままの自分を見る必要があります。ちょっと抽象的表現。

では何が感情悪化の元凶なのかと言うと、「自己圧殺衝動の高まり」ではないかと、僕自身の体験も振り返って考えています。
これは、自分が向おうとする方向に、ことごとく自分から「圧殺」とも言える願望停止衝動が起きている状態です。これが昂進した時、出口を失った怒り憎悪のエネルギーが、「過去の原因人物」への怒り破壊衝動をはけ口にするような心理状態が起きるらしい。
それが上記2ちゃんの例のような感情表現になる。

受動型自己アイデンティティという器に流れる背景について考察を続け、能動型自己アイデンティティへの変換という視点を探っていきましょう。

No.947 2006/04/17(Mon) 13:00:17

土曜まで不在 / しまの

まだまだスキーで〜す。今から出かける。
天候がどうもいまいちっぽいんだけど..

No.946 2006/04/13(Thu) 14:28:24

自己操縦心性の成り立ち-54:受動型自己アイデンティティと憎悪-2 / しまの

*その1では「受け身型」と書きましたが、やっぱ「受動型」と呼んでおこうと思います^^;


■受動型自己アイデンティティ

「受動型自己アイデンティティ」は、心理障害過程にある人の対人感情が極めて難解複雑に錯綜した形で悪化する、最大の原因とも言えるものです。
心理障害傾向の中でしばしば起きる、爆発的憎悪の感情は、主にこのメカニズムによると考えています。この極めて破壊的感情とセットになって、実に典型的に観察されます。ということで、タイトルにも「憎悪」と入れています。

なにせ、自己アイデンティティという、本来自分自身で得るべきものが、他人によって与えられるものであるかのように、差替えられるのですから。
その結果、この心理過程にある人が悩みを述べるとき、それは一体自分のことを言っているのか人のことを言っているのか、どうも奇妙に要領を得ないという感じになりがちです。この具体例も後で出しましょう。

まず心理メカニズムとしての定義を言いますと、「受動的価値感覚」の延長線上で自己アイデンティティを得ようとする姿勢で起きる心理状態です。
受動的価値感覚とは、人によって望める。人によって感情が湧く。
望みや感情は自己アイデンティティの材料になります。その結果、人によって湧き出た感情を自己アイデンティティとしようとする心理傾向が起きます。これが受動型自己アイデンティティの定義。

もっと直感的に分かりやすい表現をするなら、「人の目にどう見えるか」「自分はどんな人間に見えるか」と、人の目を通した自分の姿を自己アイデンティティとする傾向というのに関係します。受動型自己アイデンティティによって、人の目に映る自分の姿はより深刻に気になるでしょう。
しかし人の目に映る自分の姿を自己アイデンティティとするのは健全な心理にも一部含まれるものです。
受動型自己アイデンティティでは、自分の目に映る自分も、気になるのです。まこれも健全な心理にもある..
気にするものの対象と、その気に仕方が独特なんですね。

まずどのような動きをするものかを説明しましょう。そしてそれを踏まえて、対極として我々は何を自己アイデンティティとするのが良いのか、治癒成長という観点からのノウハウを考察しましょう。


■受動型自己アイデンティティの動作-1

心理障害傾向の中にせよ、健康な心理発達の中にせよ、自己アイデンティティとは「これが自分だ」といえる自分の「姿」を持とうとする衝動です。
心理障害傾向の発達においては、その材料とすべきものが乏しい状況があります。受動的価値感覚の結果、人から受ける刺激によって湧き出る感情が、その主な材料になります。

一方、「自己アイデンティティ保持」への衝動は、漠然としながらも極めて強力なものであることを踏まえるのがいいでしょう。
自己アイデンティティの維持のために、人から何かを与えられて感情が湧き出る必要があるわけです。それがないと、この個人の自己アイデンティティは「空洞化」します。先の高野悦子の例などはそれを描写したものと言えるでしょう。

その結果、人から何かを与えられ湧き出る感情が、その感情そのものの純粋な意味を遥かに超えて、その人間の存在そのものに関係する事柄であるかのように感じられます。

具体例など。

例1
僕自身がかつて日記に書いた言葉で、大学院2年の後半頃、多くの重要な自覚が起き、急速に内面状態の改善が起きた時期のものです。自分の心に流れる「ある命題」が浮き彫りになった。
それは「人に冷たく見られたら、明るい人間になれるはずもない」という「命題」でした。始めてその「命題」に疑問を感じ、日記に記した次第です。僕自身の内面としては、「人にどう見られるかに依存しない自分とは?」という意識が育ってきた時期です。

人にどんな人間だと見られるか。それによって湧き出る自分の感情をバネに、何者かになる。
単純に、「人に期待される自分を演じる」という心理ではありません。これは単純に自己アイデンティティの放棄です。問題を指摘するのは容易です。
心理障害の中で人がなかなか自覚できず、解決を困難にしているのは、もっと複雑な心理現象です。

例2
もう一つ、僕自身が最近自分の中で「受動型自己アイデンティティ」を感じた例を紹介しましょう。
お正月の年賀葉書「少ないな」と感じた時です。その時かすかに、何となく低調な気分を感じました。

この場合、2つの心理解釈ができます。
ひとつは、友人の多さを優劣基準として、少ない状況を叩き下ろす。自己軽蔑感情です。この場合は自己処罰感情として、生理的不快感まで起きます。これはもうあんまない感じですね。

もうひとつがその時自己分析したことですが、年賀状の多さによって「自分には沢山の友人関係があると感じる豊かな気分」が得られない、という感覚でした。もしそれが得られていたら、ちょっと違った自己像が得られた、というような。
「沢山の年賀状」が得られないと嘆く感情ではなく、それがあったら得られたであろう、「(多くの友人に囲まれ)豊かな自分という気分」が得られないという感覚だ、とはっきりその時感じました。

沢山の年賀状が欲しいという感情と、それがもたらすであろう自分の気分が欲しいという感情。

何とも微妙な話であり、それがどんな心理学的意味を持つのかと不明瞭に感じる方もおられるでしょうが、このように「感じ分ける」ことがまさに感情分析の実践として極めて重要です。なぜなら治癒効果があるからです。
「自分は気分を目当てに年賀状を欲しがっている」と自覚すると、年賀状の少なさに苦さはあまり感じなくなる。それ自体が実は欲しいものではないからです。
そうした自覚なしに、そうした事態を眺めるだけだと、フラストレーション感だけが続くと思われます。

受動的自己アイデンティティそのものは一般心理かつかなり強力に根深い心理と思われ、人はこれをあまりに自然なものとして空気のように意識しないままその中にいると思われます。
しかし、深刻な心理障害傾向の中で、これが感情悪化に果たす役割は端的なものです。

既に起きている他の心理傾向と組合わさって、ということになります。その説明を次に。

No.945 2006/04/13(Thu) 10:06:47

自己操縦心性の成り立ち-53:受け身型自己アイデンティティと憎悪-1 / しまの

■悪感情の2大悪化過程

自尊心という心理発達課題を構成する要素として、「」「優越」に加えて「自己アイデンティティ」という第3の要素が登場したことで、人間の人生に向けられた欲求衝動の源泉が揃ったことになります。

心理障害傾向の発達過程においては、これが感情の膿による自己否定から、現実離断による自己像固執の中で、それらの課題達成済みの自己理想化像がイメージ映像化され、それに合わせるように自分を操縦するという、基本的な心理傾向の土台が出来上がるわけです。

この心理土台の上で実際に展開される心理構造の基本パターンを見ていこうと思います。
心理障害の中で生まれ維持される悪感情が、どのように膨張するかのメカニズムに着目点を当てたいと思います。これを理解することは、悪感情の膨張を解き、緊張の大幅な低減に役立ってくれると思います。一部は避けていたものに直面する、心の手術的な話に向いますが。

この悪化過程を貫くメカニズムとして、2本の流れを説明します。

まずはこの「受け身型自己アイデンティティと憎悪」というタイトルで説明する、自己アイデンティティに絡んだ心理混乱のメカニズムです。
これは意識的解除が極めて重要で、緊張低減に極めて貢献する自己分析に導くでしょう。

もうひとつは、そのあとに「自分自身からの逃避」とでも題して解説しようと思う、一連の「自己離断」の動きです。主な話としては「自己嫌悪の構造と外化」および「自己理想の取り下げ」という心理メカニズムです。これは自己操縦を解除した後の「壁」を越える「魂の成長」という、ハイブリッドが呈示する最終的治癒成長過程への、導きと位置付けられる話になります。


■2つの悪化過程を踏まえた治癒論イメージ

大局観からイメージを言いますと、自己操縦という心理土台の上で、受け身型自己アイデンティティのメカニズムを中心に悪化膨張が起きます。これを解くことがまず重要です。
受け身型自己アイデンティティを解くと、自己操縦という心理土台の「素」の状態に戻るような感じになります。しかし実はそれは「自分自身からの逃避」という来歴の結果です。

自己操縦という心理土台をさらにつき抜け、逃避していた自分自身に戻る。これは外化によって回避されたまま積み重なった自己嫌悪の構造へ、外側から中心へと「最突入」するような心の手術局面になります。この「最突入」が、宇宙から地球の大気圏への再突入にも例えられる、複合的な心の姿勢が求められます。はじき返されないための「深さ」と、燃え尽きないための「浅さ」が両立する、微妙な姿勢というか。
それは要は、自己嫌悪感情の正しい克服の姿を知るという課題の実践です。現実的向上の正しいノウハウ、そして最後に「魂に委ねる」という深遠な世界が登場します。

「魂の成長」という深遠なテーマによって、ハイブリッドの治癒論が完結します。これがないと治癒原理が完結しません。
感情と行動の分離行動学。これはまだ外面的改善です。
感情分析は、自己操縦を「解く」までです。
根本治癒が起きる姿勢については説明しました。感情の膿を流し愛情要求を看取る荒廃化した欲求の浄化もあります。これらはノウハウです。しかしそうするとなぜ治癒成長が起きるのかの原理はその話の中には出てきません。

最終原理は、「魂が成長する」です。魂による自然治癒力と自然成長力です。
なぜ「魂」というハイブリッドの分析的心理学には毛色の違う言葉を使うか。分析して「見る」ことができないからです。「見ようとすると見えなくなる」ものです。
そんなものがあり、それが成長する。

人間が自分を「成長させよう」とする2態があるということです。「自己操縦」と「魂の成長」。ハイブリッドは前者を解除し、後者を促すという心理学です。
自己操縦では、結局真の成長は起きないんですね。なぜなら、自己像固執の説明で言ったように、自己像は自分ではないからです。

そのような、見えないものの成長という世界を感じ取れるかが、上述の「治癒成長技術」全体を貫く要件です。
見える自分の成長として捉える時、それは結局自己操縦なんですね。

自己嫌悪の構造への再突入という「技術」について解説した最後には、その中で起きる「魂の成長の成り立ち」という最も深淵なテーマにまで進めるかも知れません。「愛と命」「原罪」と言った、まるで宗教と重なる話が出てきます。

..と構想を考えていると次第に「科学の彼方」にまで思いが進んでしまうのですが(^^;)、まあまず多くの方にとって現実課題である「受け身型自己アイデンティティ」関連の分析的解説から始めましょう。

No.944 2006/04/11(Tue) 12:25:24

自己操縦心性の成り立ち-52:基本機能その3人生感覚-4 / しまの

■心理発達課題達成済みの自己像を描く自己操縦心性

現実離断による自己像固執の中で、人生は「自分が他人の世界で何者かになる」ための脚本であるかのように描かれます。
時にそれは自分の本当の姿を隠して、猟奇的な破壊行為によって社会を右往左往させることに快感を覚えるような、「自己操縦」の姿を呈することもあるでしょう。

なぜ自己操縦心性がこんなものを描くのか..と少し前のスキーの車の中で考えていた折、ひとつのヒントがありました。
「心理発達課題だから描かれる」ということです。

これは自己操縦心性が描く自己理想化像の特徴について、以前から注目していたことでした。それは必ずしも外面的成功のような皮相なものではなく、心理発達課題を達成し終えたような、心が豊かで安定している自分の姿である。それがこの心理障害傾向の発達の中にあっては、完全なる自己矛盾を起こす、と。
2006/01/16 自己操縦心性の成り立ち-25:背景その3優越による自尊心課題-5
の「2)ニセの調和」で述べたもの。

つまり、自己操縦心性が描く自己理想化像は、心理発達課題の達成済みの姿を先回りして描こうとします。これが自己操縦心性による自己理想化像の最大の本質です。
そしてこの心理発達課題未達成にあえぐ人間の現実を、容赦なく叩き落とそうとするわけです!何たるメカニズムかという感。



■心理発達課題第3の要素「自己アイデンティティ」

上記の考えから、一つの考えがすぐに導かれます。
つまり「人生の獲得」は、社会で教わるような話である以前に、心理発達課題であるということです。

心理発達課題としての「人生」とはどんな位置付けか。
それを考えるにあたってもう一つ考察したのは、「人生の面白さ」という感覚です。
これは僕自身はごく最近になって感じるようになりました。手短に書いておくならば、それは「青春を楽しむ」とか食欲性欲とかの満足悦楽とか創造性の発揮とか物事の達成とか、そういった「人生の個別の物事」の楽しみとは別種のものです。

つまり「自己の変化への楽しみ」です。学生時代、社会人時代、そして今の自分はもう全く別人のような生活です。でもそのそれぞれにそれなりの心の財産のようなものが伴う。10年後の未来は全く想像もつかない楽しみがあります。
そんな意味で「人生の楽しさ」は、やはり40代くらい以降でないと分からない、というのが僕の実感です。

そんな「人生の楽しさ」レベルになると、もう「心理発達課題」という範囲じゃないような気がします。「人生の楽しさ」なんてものを意識しなくても、それなりに満足でき心が健康な生活の中で生涯を終える人もゴマンといるでしょう。
そんな意味で「人生の楽しさ」まで言及するとなると、ペーターさんがハイブリッドが「人間の人生の新たな地平」を示すのではと言ってくれたのもあながちオーバーではないかも知れないなどと。

では心理発達課題としての「人生」とは何か。やはり「自尊心課題」の一環だと思うんですね。「これが自分の人生だ」と言える感覚。やはり「自己アイデンティティ」です。

ということで、人間の生涯を貫く「自尊心」という心理発達課題が3つの要素を通して達成されるという結論になります。
「愛」「優越(強さ)」そして「自己アイデンティティ」です。



■現実離断により心理発達課題達成がイメージ映像化される

かくして、今までの心理過程全体を実にうまく貫く1本の心理メカニズムが定式化されます。メカニックとしてうまく行き過ぎた話のように、これが浮んだ瞬間感じましたが、真実を表現する公式は常に美しいというアインシュタインの言葉通り(ちょっとオーバー^^;)、これが事実なのでしょう。

つまり、現実離断による自己像固執の中では、心理発達課題達成済みの姿がイメージ映像化されます。その主要要素は3つです。
一つは「愛」。「心を開いている姿」、親密に人と結ばれる姿がイメージ映像化されます。
一つは「優越(強さ)」。「自信満々の姿」がイメージ映像化されます。
そして「自己アイデンティティ」。「自己確立した人間の姿」「これが自分だと言えるものをしっかり持つ姿」がイメージ映像化されます。

そうしたイメージ映像に合わせるよう、自分を操縦します。


■真の問題は何なのか

この説明で、「現実離断」という、基本的に現実から遠ざけられた意識状態の中で起きる特有の「自己操縦」の姿が、心理発達課題というもう1本のメカとの結合によって、如実に表現されると思います。

ただし、心理障害の発達と治癒という全体テーマにおいて、真の問題は何かと考えた時、そこにはあまり大きなものはないという感を、僕としては感じています。

上記の姿は、確かに、この人生を生きる正しいノウハウを知らない時に、人が実に容易にはまり込む、不実な思考法行動法の源泉です。
良い人間関係のために「心を開く」ことが大切だと思わせます。現実はそうではありません。共通目標共通利益に着目する建設的行動法が正しいノウハウです。
社会で評価されるために「自信に満ちた態度」ができなければと思わせます。現実はそうではありません。社会で勝てる原理原則を体得するのが正しいノウハウです。
人生を出来合いの脚本のように描いた時、真の自己アイデンティティは見失われます。

しかしそれは、到達目標イメージそのものは、それに至る方法を教えてくれるものではないという一般論とあまり変わりません。
スポーツでもそうです。うまくできる人を真似るのも無意味ではありませんが、内部の筋肉の使い方などの、外面では分からない沢山の技術を学ぶ必要があります。

心理発達課題達成済みの自己像が描かれること自体には、あまり害があるとは思いません。
問題は、それがどう関連するのかは置いといても、心理発達課題達成とは逆方向への動きが起きていることです。


真の問題の源泉は、自己操縦心性以前の始まりに、つまり「否定型価値感覚」にあります。否定できることに価値を置く。それが今説明しているような自己操縦心性のメカニズムの中で、やがて暴走する。
「否定型価値感覚」と自己操縦心性のメカニズムが結びつくことで、「自己離断」という心理障害病理の決定打が起きる。

それを探る視点に移ります。

No.942 2006/04/10(Mon) 16:29:02

 
ちょっと訂正:人生の「楽しさ」と「面白さ」 / しまの

上のカキコで人生の面白さ」と「楽しさ」という2つの言葉を混在させましたが、この2つはかなり違うものと感じますので、はっきり分けて定義しておこうと思います。

まず「人生の楽しさ」。これは心理的健康と発達課題の達成の、一般的表現となる意識体験と考えられます。つまり、心が健康であればこれを感じるのが自然な状態として、治癒成長の取り組み上の一つの目安と考えていいと思います。
愛や強さに関連した自尊心が得られ、そして自己アイデンティティが確立されれば、大抵の状況で「今生きていることが楽しい」と感じるものだと思います。
それを「人生の楽しさ」と表現することも自然なことでしょう。

「人生の面白さ」。これが特殊で、「心理発達課題という範囲じゃない」と上で書いたのはこっちです。
これは「人生の戦略」という感覚と関係します。人生を、与えられた場ではなく、自分で切り開くものとして位置付けることができ、実際そのような戦略的技術と能力があった場合、与えられた人生の場を楽しむということを越えて、人生の場そのものを自分の意志で変化させる、自分の来歴を自分でコントロールするという、ちょっと今までの人生論にはなかった次元が見えてきます。

ハイブリッドはそのための技術を提供したいわけです。それが「再生という戦略」です。
参照:2006/04/02 自己操縦心性の成り立ち-49:「自己操縦」の病理-2

ひとつぶで二度おいしいではありませんが(あはは)、この人生の中で何度でも別の人間に生まれ変われるという感覚です。その成果を左右するのが自分の人生戦略だという具合。
だから、人生が、面白い。

これはもう「心理障害からの治癒成長」を完全に越えた、もっと先の領野です。
まさに人間の新たな次元かも知れませんね。

No.943 2006/04/11(Tue) 11:05:06

自己操縦心性の成り立ち-51:基本機能その3人生感覚-3 / しまの

■「人生」という心理要素

「離断によって鮮明な人生感覚が起きる」と述べましたが、これは「現実離断」によって起きる「自己像固執」という意識状態の中で、「自己像」に「人生を生きている自分」というイメージ要素が描かれるという話です。
自己像固執については3/14「自己操縦心性の成り立ち-45:現実離断とは何か-14」を参照のこと。

これを健康な心理発達における「人生感覚」と比較すると、おもしろい理論的帰結になります。

そもそも「ハイブリッド人生心理学」は、「人生」に関する人間心理の心理学として体系化しています。どんな人生論を論じようがどんな人生観を持とうが人の勝手ですが、もしそれが脳のDNAとして組み込まれたものであれば、その設計に反する生き方は、どんな高尚な人生論であってもあまり実のあるものではない。
そのような、身体の科学と同じ発想の下で、人間の脳に刻みこまれた「人生の設計図」を解き明かそうとする科学のつもりでやっています。
それがこの「現代社会」という場でどのように歪んだのか。そしてそれを本来のDNAの設計図通りに戻す取り組むとは何か。

そして僕自身が自分なりにその実体験を持った経験を最大の研究材料としている心理学です。
一度は完全に人生を見失った。しかしやがて見出された。「人生」はやはりあったわけです。そんなものがあると人に教わったからそう考えるようなものとしてではなく、またそんなものが社会から評価されるから得ようという「手段」としてではなくです。
そうではなく、「生きている目的」という「動機」の最上位に位置するものとしての「人生」が、明瞭にあるのを体験したわけです。

もし「人生」が「生きている目的」の最上位に位置しないとしたら、人生は「手段」になります。それは僕がダイジェスト小説の中で表現したように、「人の世界の中で自分が何者かになる」ための脚本として描かれるようになります。
まあ要は、人生がプライドのための手段になる、とでも言える世界になるでしょう。
これは一体何なのか。


■人生感覚の例その2

治癒論上のキーポイントだけ手短にと言いながら現象描写が続きますが(^^;)、「自己操縦心性の人生感覚」が強烈に表現されている例をもうひとつ書いておきましょう。

これは読売新聞3/6の人生相談欄に載っていた相談例です。題して「『負け犬』・・・私がそうなのか」。ちょっとサマリーしましょう。
30代独身女性。資格を取って働くのが夢で、20代で会社を辞め、派遣社員をしながら仕事をしている。
今の仕事にはやりがいがある。長年つき合っている彼もいるが、結婚する気はない様子。
恋人としては仲もとてもいいが、ただ、独身で正社員ではない私は最近、「負け犬」という言葉に傷ついている。今の状況ではなく、正社員の職や結婚する気のある相手を探す方がいいのでしょうか。
もっと自分を高めたいとも思い勉強材料を取り寄せるのだが、給料は安く貯金も少ないので、十分に勉強できない。「負け犬」という言葉は、きっと私のような人間をさげすんでいるのだと思い、心の病気にもなってしまいました
このまま、人生に疑問を持ち、ひがみながら生きるしかないのでしょうか


重要と思われる言葉に下線を引いています。
なお回答者は海原純子さんという心療内科医の先生で、アドバイスとしては、「自分が本当に望む人生に向っていますか?それとも世間体や社会的評価を求めてのことでしょうか。後者が気になるのは『自分らしさ指数』が低い。まず自分が何をしたいのかを明瞭にすることです。」と、しごく妥当なものだと思います。
「自分らしさを生かした人生」が重要だとも言ってますね。僕としても答えはもうそれでずばりだと思います。あとはそれを見えなくしているものがどう克服解消できるか。

この例で強烈な印象を与えるのは、やはり「空想の世界」で問題が起きているらしい、そのちょっと異様さです。
誰かに面と向って「負け犬!」と言われたわけではなく、「それは自分のことか」とむしろ自分から積極的に「社会にさげすまれる自分」を描くようにして、「心の病気」にさえなる。
これは徐々に説明していくことになりますが、ハイブリッドではこれを、「そうなってしまった」ではなく、別の根本問題に触れるのを避けるために「そうなる必要があった」とさえ言えるメカニズムがあるという視点を加えます。

また「人生に疑問を抱きひがみながら生きるしかないのでしょうか」と言う時、これは一体何の相談をしていることなのか。
社会がどうなって欲しいという希望でもなさそうですね。自分がどうすればいいかの相談でもないかも知れない。
やはり問題は「人生」なんですね。自分と人生の関係が問題なわけです。「ひがむ」相手が誰なのかは、ここでは不明です。

「自分らしさを生かした人生」が答えだと分かって、この人はどう変われるでしょうか。何とも言えません。
真の「自分らしさ」を見出す心の技術のようなものが問題になってくるかも知れませんね。

「自分らしさを追い求めて、逆にそれを見失っていく」という心の罠があるようです。高野悦子『二十歳の原点』がそうだったのではないかと。
ハイブリッドとしては、それを「離断」という病理として取り組むわけです。

ということで、もう少し「人生」という「心のDNA」についての考察を。

No.941 2006/04/10(Mon) 15:15:46

自己操縦心性の成り立ち-50:基本機能その3人生感覚-2 / しまの

3/16「自己操縦心性の成り立ち-46:基本機能その3人生感覚-1」の続きです。
高野悦子『二十歳の原点』に表現された「自己操縦心性の人生感覚」についてまず印象の浮き彫りなどから始めましょう。


■『二十歳の原点』に表現された「自己操縦心性の人生感覚」概観

高野悦子『二十歳の原点』からの抜粋を引用しましたが、まず印象として強烈に感じることができるであろうことを2つ指摘しておきたいと思います。

ひとつは、その「自己確立」という課題意識の鮮明さです。これは一種独特であり、通常の健全な心理におけるものを越えている感があります。

それを最も端的に示す言葉が「大学生活の一大支柱を、学問をすること、日本史をやることにおいてやっていこう」でしょう。
普通こうゆう言い方はしません^^; 「日本史を勉強しよー!」で済むことです。
それが、「大学生活の一大支柱」を、日本史を「やることにおいてやっていく」。これは一体何なのか。

そこにあるのは、まぎれもなく、「人生を生きている自分」の姿だと思います。人生を生きている、のではありません、「そんな自分」なのです。

この奇妙な人生感覚が健全なそれとは異なるものであることが、次の強烈な印象に示されると思います。
その人生感覚は彼女を実際に人生へと導くものではなく、逆に「自己空洞体験」とでも呼ぶものに向わせていることです。
で最後には「空っぽの満足の空間」とでも名付けてよい「ものなのかどうかもわからぬ」ものへと行き着く。多分ここには自己操縦心性の病理発動のひとつ「真実という錯覚」が入り込んでいるでしょう。このテーマはまた後で。

こうした「人生感覚」が、「自己像」をめぐる心理機能を司る「自己操縦心性」が描き出したものであると考えて良いものに思われます。


■自己操縦心性の基本機能まとめ

ということで自己操縦心性の基本機能をまとめますと、「感情操縦感情」「空想の中の自尊心」そして「人生感覚」がある。
3/31「自己操縦心性の成り立ち-47:「自己操縦」の基本」で書いたように、自己操縦心性の基本的な働き方がこれで完成します。
まず自己否定に立ち、なるべき自分になろうと自分の感情を操作し、そうなれていると思える範囲において、空想の中で自尊心を満たす。そうなれているのは何がかというと、「人生」が、です。

これはもはや、我々現代人という「人間」の、「生き方」そのものであるような感さえ覚えます。
そのどこが悪いのか。どう変えられるというのか。

悪いなんて言っちゃーいません。ハイブリッドがお伝えするのは、その裏にある心理メカニズムです。人生論の問題ではなく、「現実離断」という障害の問題としてアプローチします。

なぜ障害の問題か。高野悦子の例が示したように、その「人生感覚」の底には「自己空洞体験」があります。僕自身の体験でも、ダイジェスト小説で描写したように、同じように自己空洞体験に導かれています。
違いは、僕の場合は幸運にも実存が維持されたため、その後に生きる人間心理が開放され湧き出していることです。
彼女の誤りがどこにあったかと言えば、まずこの心理メカニズムを知らなかったことだと言えるでしょう。

つまり、「空洞」として何も見えない底に、膨大な心の世界があります。それが「離断」によって切り離されている。
この「離断」のメカニズムを理解し、「離断」を越えて一度見えなくなった世界に「再突入」する治癒メカニズムの話になります。
それがハイブリッドの治癒論のキモということになります。

離断によって鮮明な人生感覚が起きるというメカニズムを次に考察しましょう。

No.940 2006/04/10(Mon) 12:51:17

ダイジェスト小説初回の版組み校正終了\(^^)/ & 今後見通し / しまの

ダイジェスト小説の版組み校正は昨日で初回の著者側作業が終わり\(^^)/、また掲示板の解説原稿書きを中心に進めようと思っとります。

版組み原稿での著者側校正は2回行なう予定で、今回の校正でほぼ出版本として仕上げた感じです。
まあ結構細かい手入れをして文芸作品としての完成度を高めた感じですねー。この週末は一部差替えするイメージ写真の製作などに凝っていた次第で、今回の作品は単に文芸小説であるだけでなく、本そのものの外観から視覚的映像を統合した一種の芸術作品にまでなっているもののように自分では勝手に考えてます。まあこれだけ凝った作品はこの後ももう出さないでしょう。
売れたら写真集なんぞも出したいですけどね。

掲示板解説の方は、最終結論までのキモをできるだけ手短にまとめ、それでいったんサイトでの原稿書き作業は絞めようかなと思っています。
最初の心理学解説本の執筆に入ろうかなと。ダイジェスト小説の販売も近づいてきますので、ネット上中心の活動形態から出版本中心の活動形態に切り替えていくという、そんな按配です。
でなきゃー再就職だー!あはは^^;

治癒論のキモは今まで解説済みの話よりも、これからの話が、全体における役割が大きなものになってくるような気がしていますが、これからの長い著作活動を通して、事例分析も含めてそのより詳細な説明を続けるものになるような気がしています。

ハイブリッドでは結局何をしようとするのかのキモは、最終的には「自己操縦 vs 魂の成長」というテーマに行き着くと考えています。
前者を捨て、後者へと向う。

ホーナイ理論では「真の自己」とされた到達目標は、ハイブリッドでは「魂」になります。
その最も大きな違いは、前者が「自己」という「見ることができるもの」のようにイメージされるものであるのに対して、後者ははっきりと「見えないもの」であると位置付けているところにあると思います。

見えるものとしての自己を成長させようとする時、それは必ず「自己操縦」の中です。それとは違うものを目指すんですね。
自己操縦を否定することでさえもありません。

そんな「魂の成長」とは何なのか。とにかく理論上のキーポイントをまとめるのを優先しますが、引き続き「人生感覚」の話などから。

No.939 2006/04/10(Mon) 11:36:26

自己操縦心性の成り立ち-49:「自己操縦」の病理-2 / しまの

■自己操縦の病理形概観

前述の「自己操縦の基本形」は、その病理形を考えるにあたり示唆の多いものと思われます。
どのような違いが出てくるのかを見てみましょう。

まず最初の自己否定はどのように始まるのか。
基本形において「人はこうあるべき、自分はこうあるべき」という時、そうなることで人からの尊敬を得るということは、逆に言えばそうなれないと尊敬を失うということであり、それが嫌なら「こうあるべき」通りでいろ、ということです。
これは脅迫を受けている状態です。

病理形においては、それが「感情の膿の人格への組み込み」と共に始まります。感情の膿は意識することができず、理由の認識不能な脅迫下にあるような状態になります。同時に、理由の認識不能な剥奪が既に起きているような状態でもあると言えるでしょう。
基本形のアナロジーの世界では、「人はこうあるべき」と言う人間は宗教家であったり学校教師であったりと、相手が見えます。感情の膿による脅迫では、相手が見えません。

現実離断」によって、「現実から乖離された精神」と「自己像固執」という特別な意識状態が生まれます。この中で、自己理想像を描き、破壊的見下しを自他に対して向けます。
その破壊的な自己嫌悪感情から逃れようとして、また理由不明の剥奪にあえぐ自分を挽回させるための愛や栄光を手に入れる欲求の実現に駆られ、彼彼女は自己像固執の中で描かれた自己理想像を演じようと、自己操縦に駆られます。

この状態は意識的努力によって解除することは原則的にできません。なぜなら解除しようとする努力自体が、破壊的見下し衝動の中での自己操縦衝動としてしか生まれないからです。
出口は別のところにあります。


アナロジーで言ったように、自己操縦はストレスに満ち、やはりうまく行くものではありません。
自己操縦がうまく行かない時、彼彼女は明瞭に自己嫌悪感情を体験するのですが、やはり「自己操縦がうまく行かなかった」ことへなのか、それともそれ以前の自分への何かの嫌悪なのか、不明瞭です。いずれにせよ、自己嫌悪感情から逃れたくて自己操縦に駆られるという繰り返しになります。

自己嫌悪などの悪感情の本質は何か、そしてその克服の本来の姿を知ることは、この繰り返しをやめ、問題の根本克服への方向性を生み出してくれるでしょう。自分を操縦して自己嫌悪を免れた人間を演じるのではなく、悪感情を克服する心の成長への正しい技術を学ぶことです。
「ステップ・ドリル」などで描写した実践はこれに該当します。


■現実離断の壁を越える技術=「知性で望みを導く」

しかしそれでは越えることのできない壁が存在します。現実離断そのものです。これは心の技術で太刀打ちできるものではなく、心の成長そのものがそれを突破する唯一の手段であるように思われます。
心の成長は、人生の望みに向って生きる過程で生まれます。

問題は、望みが見えなくなっていることです。これがまさに、自己嫌悪感情と人格不全体験を回避するために自己操縦心性が取る、「自己離断」の一連の動きによって起きます。これも意識的努力で解除できる代物ではありません。この詳しい解説は後に。

もうひとつの壁は、この心理過程においては、自己操縦と本来の自分との見分けがつかなくなっていることです。これがまさに現実覚醒レベル低下の意識状態で起きます。
これは受動的価値感覚の発展である受動的自己アイデンティティが大きな要因です。また新しい言葉が出てきましたね。これは意識的解除努力が極めて重要になる領域です。それでも自己操縦と本来自己の見分け困難は続くでしょう。

最後に呈示される「心の技術」がここに登場します。知性によって望みを導くことです。壁を越える手段はこれしかない、というのが僕の考え。
知性によって導かれた望みは、やや心もとない面があります。あい変わらず自分でも判別つかない自己操縦を含んだ行動でしか、向うことはできないでしょう。
それでも望みに向う努力の中で、心の成長は起きます。この建設的側面に着目する姿勢をいかに取れるか。これが壁を越えるための要のその1。

一方、知性に導かれた望みへの行動では、あまり望ましい結果を得られるものではない可能性も大きく、手痛い失敗になることもある。しかしこの時、自己操縦心性の崩壊が導かれます。この視点が壁を越えるための要その2であり、この視点がハイブリッドの治癒論の結論とも言えるものになります。

何か特別な宗教の話だったら、その教えに従い得ない自分を自覚した時、人はその宗教が提示する加護を与えられないことを嘆くと同時に、その価値を疑うことができます。そして「神の国」から「放たれた野」に出るという選択が可能です。

しかしこの心理過程の中で描かれる自己理想像の価値とは「人生」であるわけです。その「あるべき姿」に従えない自分を自覚した時、人はその「あるべき姿」が呈示する価値を疑うことはできません。
つまり、ここには「選択」はなく、自己の破滅と位置付ける感情が起きることになります。自己操縦心性のメカニズムがそうなっています。

解説しているように、こうした自己操縦心性崩壊により、感情の膿の放出が起き、完全な悪感情飲み込まれ状態となり、思考の断絶が起き、一定の休養時間を経て自己観察強迫のない未知の感情が現れる。


■治癒論概観

まとめると、
1)知性によって望みを導く
2)受動的自己アイデンティティの解除−能動的自己アイデンティティの発見
といった話が最後の段階になるものとして、治癒論が完結します。

感情と行動の分離に始まり、行動面においては原理原則立脚および建設的行動法、感情面においては主な障害源泉への対処。残存愛情要求を看取る姿勢と、荒廃化した欲求の浄化技術。3種類の癌細胞思考に対抗する、「自由と自己責任」のサバイバル世界観の思考。
あくまでこうした進め方があって初めて、「知性によって望みを導く」という生き方の先に、自己操縦心性の崩壊を経た未知なる自己の萌芽が起きる。

そうした根本的人格変化が起きる土台のことを、「魂」と呼んでいます。そこはもう、何が起きているのかを見ることはできない世界です。
そうしたものとしての「魂」を感じ取り、その変化に委ねるという姿勢を、ハイブリッドでは呈示したいと思っています。

今の自分で答えが出ることを求めない姿勢です。今の自分は一度破滅し、その後に再生される未知なる自己に委ねる。
これが「戦略」の中身です。「再生」という「人生の戦略」です。



ということで今まで解説済みの話に比較しても、まだまだ沢山あるなぁという感じなのですが、全部十分に解説できるの待ってると何年もかかるので、そろそろ適当なイメージにまとめて最初の心理学本に着手したいと考えている島野でした。
あとは「人生感覚」のメカ、自己離断については自己嫌悪の構造の話などして、受動的自己アイデンティティをざっとすれば当面の解説絞めとできるかなぁと。。

No.938 2006/04/02(Sun) 22:15:24

自己操縦心性の成り立ち-48:「自己操縦」の病理-1 / しまの

「自己操縦心性の基本的な使い方」を概観しましたが、その延長で、その病理形についてもざっと考察しておきましょう。
きのうまた日帰りでスキーに行ってきましたが、その道すがら車を運転しながら考えましたが、そろそろ現段階での治癒論の結論あたりまで見据える感じになっている今日この頃。早いとこ最初の心理学本の構想にも入りたいということで。

でその病理形を考察するにあたり、基本形においてもある人間存在の様相が浮びあがると思われます。それがやはり病理形を考える上でのアナロジーとして示唆の多きいものになるでしょう。


■自己嫌悪は「本来の自分」へか「操縦の失敗」へか

「自己操縦の基本形」アナロジーとしてその病理形を考察することができますが、基本形においても面白い(?)続きがあります。
病理形において執拗にその個人を苦しめることになる自己嫌悪感情の、基本形における姿です。

つまり、基本形とは、「人はこうあるべき」という観念の下でまず自己否定から始まり、自分の感情を操縦して「なるべき自分」を演じ、そうあれていると感じることができている範囲において、他者からの尊敬という空想の世界で自尊心を満たすという心の世界です。

問題は、「なるべき自分」になれていると感じることができなくなった時です。これは自己操縦がストレスを伴うというネックにより、早晩訪れる可能性が大きい。
その時人は初めて「自分は駄目だ」と考えることになります。つまり、最初に自己否定していることを本人は大抵意識しません。
つまり、人が「自分は駄目だ」と感じる時、本人は大抵それを自己操縦の失敗のこととして考えるということです。

これは一体どうゆうことか。
現実は、「人はこうあるべき、自分はこうあるべき」とした時点で、自己否定しているわけです。そして「人はこうあるべき」という教えに従い自己操縦することで、その代償として、人からの尊敬という空想世界での自己否定の中和を得る。
自己操縦に失敗した時、その報酬は得られず、人は初めて明瞭に自己処罰感情を体験することになります。
しかしその自己処罰感情は、実は「自己操縦の失敗」についてのことなのか、それとも「本来の自分」についてのことだったのか。そして自己操縦は本当に必要なものだったのか。


■「神の国」から「放たれた野」へ

これは教律の厳しい宗教の世界を浮ばせます。その教え通りにしているならば、神のご加護がある。しかし教えに従えなかったお前には、もはや神の加護は与えられない。

このとき人は、自分の人間としての存在の選択の前に立つように思われます。
一つは、「人はこうあるべき」という教えを是とし続け、自分を破滅者として位置付けることです。
もう一つの選択肢は、そもそもの「人はこうあるべき」という教えに反旗を翻すことです。
言わば、「神の国」から「放たれた野」へ、という選択になるでしょう。

原理原則のセットということを言っています。「行動理念のセットを知る(2/3「ハイブリッド推奨 人生勝利の原理原則10則-2」)
「放たれた野」へ出る(「下る」という表現もできるでしょう)とは、「自由」を得ることを意味します。このセットは「自己責任」です。きのうのカキコ(自己操縦心性の成り立ち-47:「自己操縦」の基本)でも書きましたね。
一方、「神の国」には、「庇護」があります。そのセットとは、「拘束」あるいは「束縛」になるでしょうね。

人は「神の国」にいようとする限り、「怒り」という不快な感情を持ち続けざるを得ないように思われます。
なぜなら、心の自由が奪われているからです。「心の自由」を求める志向性は、人間の本能の中でも最も強力なものの一つです。

そこまで知れば、あとはただ「選択」だけがあります。
実際人は、「神の国」の中で与えられるものの価値とその信憑性を疑い始めた時、「教え」に背を向ける「選択」をしばしば取り始めます。かくして若者達が髪を染め、ピアスをつける。

いったんここでカキコし、これをアナロジーとした病理形を概観します。

No.937 2006/04/02(Sun) 22:10:23

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