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2006.06


自己操縦心性の成り立ち-96:克服に向けて-7 / しまの

雑文調はそんなとこにして..と書きましたが、やっぱもう少し雑文調で。こっちの方が本質が分かりやすいかも知れません。


■「絶望を経た歓喜」のメカニズム

前カキコまでのまとめ
治癒メカニズムには、1)今の人格内における向上と、2)人格の根本的治癒変化という2局面がある。後者は自己操縦心性の崩壊というメカニズムがある。これは定型的な心理過程で起きるものであり、その際には「自分は結局駄目だ」という絶望感情が起きる。
さらにこの本質を考えたいと思います。

理論整理という視点をちょっと離れ、改めて、何のために、この意識体験上は最も避けたかったとさえ思える峠へと、僕としては積極的に向おうと感じるのか、その価値とは何なのかを、浮ぶままに考えてみました。

一番感覚的に分かりやすいのは、人が死に直面するような体験を経て、初めて「生きる喜び」を見出すという出来事です。こうゆう話を見聞きすることは結構多いと思います。
心性崩壊によって得られる価値とは、それなんですね。わざわざ実際に臨死体験などなしに、心理学的技術としてそんな体験を持つということです。

詳しい考察をする以前の実感として、僕自身の変化体験は、それなんです。一度内面において死んだわけです。今ではその実感さえないほどですが、僕という人間は一度死んだ人間らしい。
だから?何も恐いものがない。もしこの先災害や疫病をこうむることがあっても、喜々として自分は生き続けるという感覚があります。
不安や緊張の感情がない不動の人格者になった訳ではありません。態度外見はごく凡人でしょう。それを含めて、もう何も恐くないというのが実感なのです。

そうやって得たものとは何なのか。心理学的に考える。
まず至る結論は、「肯定型価値感覚」です。何もないところをベースにして、生まれるもの全てに価値を感じる感覚です。
これははっきり言って、どんな思考法によって得たものでもなく、心性崩壊体験によって、つまり僕自身の人格の外側で起きた変化だけが生み出したものだという確信的な実感があります。
得ようとして得たものではなく、いつの間にか湧き出ていたもの。あとからその存在に気がついたもの。

もちろん、肯定型価値感覚に立つ思考法というのはあります。人生で求めるものを、そこに置くという価値観です。でも肯定型価値の「感覚」そのものは、思考法では生まれませんし、心の姿勢でも、さらに心の技術で作り出せるものでもないのです。
肯定型価値感覚を生み出すものは、ただ一つ、命そのものです。むしろそれが何もせずに湧き出る状態が、本来のものだったのだと。それを塞ぐものがあったわけです。

もう一つ、自分の中に生まれた肯定型価値感覚の輝きに気づく前に、実感として感じた「得たもの」という感覚がありました。これがその話につながってくるでしょう。
それは「捨てたかったものを捨てることができた」という感覚です。これも思考法によって得たものではなく、極めて痛い体験の中で、ようやく自分がそれを実現した、という感覚でした。

これは何か。まあ「自分自身への嘘を隠したプライド」とでも言うべきものだったでしょう。
「プライドなんて捨てて自分の心を解放したい」と感じる方は少なくないと思います。でもそう考えて実際にそうなれる、そうできた人の話をきいたためしがありません。そう考えること自体が、実はそのプライドから生まているんですね。パラドックスです。プライドの中でプライドを捨てようとしても、それは無理というものです。

こうした話を考えていると、「建設的絶望体験」ということが浮んできます。キーワードとして結構出したことのある言葉です。
心底から絶望した時に、初めて見えてくるものがあるということです。
では何に心底から絶望するということか。それによって何が見えてくるということか。

上の話をつなげると、一つ答えが出てくると思います。つまり、自分自身への嘘をつき続けることに、心底から絶望するということです。
それによって初めて見えてくるものとは、自分自身に本当に正直であること、ということになるでしょう。
ただこうした日常思考の言葉で表現しただけでは、まだ本質をうまく表現できていません。


■安全の獲得

心性崩壊のみが自分に与えたものとして、もう一つ浮んでくるのは、「安全の獲得」というテーマです。
これは「生きる喜び」というテーマに直結します。なぜなら、安全が損なわれた所で、「喜び」という感情は基本的に損なわれるからです。身の危険を感じていては、食事を楽しむことなどできません。

感情の膿とは、自分が危険下にあるという感情の膿でもあります。これがある量に応じて、「生」は危険に満ちた、喜びの少ないものになります。
そしてこの感情の膿が「膿」という物質的なイメージのものとして存在し、それが実際に流れて消えていく、まさに「膿が出る」という体験を経た分だけ、感情の膿の総量が減っていく。そう実感として感じることができたのは、もうほどんどの問題が過ぎたと感じることができるようになった、本当に終わりの頃になってです。

感情の膿などというものがあり、流した分だけ消える。その代わりに「生きる喜び」が生まれる。
これはハイブリッドが説明する心理メカニズムの中で、意識上のつながりがない最大のメカニズムと言えるでしょう。

心性崩壊によって感情の膿が放出される。この現象を治癒の最大の鍵と位置付ける理由は単純です。
なぜなら、自分自身の中に危険を抱えるわけです。これはもはや如何なる逃避手段もない、危険下にあるということです。


■自分自身についた嘘のメカニズム

「自分自身についた嘘」そして「感情の膿」という2つの視点の先に、治癒メカニズムの最後のポイントとして説明しようとしてる「人格外衝動」なるものの本質が浮かび上がってくると思います。

それは、感情の膿などないと、自分自身に嘘をついたメカニズムだということです。
我々の意識が生まれる以前に。我々の人格の外側において。

幼少期の、意識体験の許容範囲を越えた「恐怖の色彩」が切り離され、膿として蓄積する。これは大阪池田小事件の子供の様子など様々な実例を通しても、何となく実感できると思います。
そして思春期の自我成長と同時に、それはもはや切り離されたままでいることはできず、人格に組み込まれ、防御構造ができる。
ここまでは何となく実感としても分かると思います。

しかしそうして出来上がった人格土台から、この問題の根本的解消に向う意識とはどんなものか。これを実感として描いてみることはなかなかなかったでしょう。

少なくとも想像できるのは、切り離されていた感情に再び対面することではあるでしょう。
今の意識が届く、「人格内」ではない所に追いやられていた感情への、再面です。

もうひとつの意味があるということですね。自分自身についていた嘘をやめるということです。しかしこの「嘘」は意識的についた嘘ではない。感情の膿から守るための防御構造メカニズムとしての「嘘」です。意識人格が働く前の、人格の根底においての「嘘」。
しかし、そうゆう根底深層にあるものも、やはり我々人間の「感情」であるわけです。しかも、最も濃い。

そう考えると、ことの本質が見えてくると思います。
我々の人格の外で起きていた「嘘」のメカニズムがあり、それが解消されるメカニズムがあるということですね。

これが「アク毒」のメカニズムです。心性崩壊はこれを焦点にしたメカニズムであり、これが「絶望を経た歓喜」のメカニズムだということです。
そんな位置付けとして、「アク毒」について分析的考察を続けましょう。

こりゃやっぱその100を越えるな^^;

No.1010 2006/06/28(Wed) 23:31:50

自己操縦心性の成り立ち-95:克服に向けて-6 / しまの

人格構造理論の最新版の次に、治癒メカニズム理論の最新版と行きましょー\(^^)/
図としては、最新の人格構造図http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpg
治癒メカニズム図として新たに作ったのがhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpg


■治癒メカニズムの流れ

まず問題発生の経緯から振り返りましょう。
問題とは「心の安全の欠如」であり、それは現実を生きるスキルの欠如および心理障害の根源である感情の膿によるものだと「克服に向けて-4」で話ました。
これは来歴を通して、感情の膿への防御構造が生み出す心理状態によって、この個人の思考法行動法が「現実を生きるスキル」とはまるで反対の方向に向かってしまい、心理的困難に加え現実的困難を招くという厄介な状態になったわけです。

治癒克服の取り組みは、それを健全な状態へと戻すわけですが、上記の経緯を単純に遡るものとして理解できます。
まず思考法行動法を修正し、1)現実を生きるスキルを向上させる。そして大元の2)感情の膿およびその防御構造の解除消滅を果たす。
これが基本です。大きく2つの局面になるわけです。実に単純でしょー? 治癒メカとしてはこの2局面という大枠をまず頭に入れて頂くといいかと。

そして実際それがどのように可能なのか。
我々の意識的努力つまり人格内の努力でできるのは、「現実を生きるスキルの向上」だけです。
感情の膿と防御構造の解除消滅」は意識的努力ではできず、人格外の治癒現象として起きます。
そして、前者がやがて後者を自然に引き起こすような流れになります。


■心性崩壊を境目にした心理変化の定型パターン

治癒克服に向けて実のある努力をし、無駄で間違った姿勢を解除する上で、意識努力では変更不可能であり、人格外治癒現象としてのみ解消される感情とはどんなものかを理解するのが重要です。
それが 最新の人格構造図http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpgで「人格外衝動」と示した部分です。

その具体的説明に行きましょう。
治癒の流れを最新の図にしてみたのがhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpgです。
これは、自己操縦心性の崩壊を境目にした心理変化の流れが極めて定型的なパターンを経るのを、図にしたものです。

心性崩壊のこの流れは、実は既にホーナイ『神経症と人間の成長』の最後の章で精神分析による治癒過程を説明したものが、ほぼ完全に基本パターンを説明していたものと、完全に一致し、僕自身の体験、そして僕が援助した方に起きた心性崩壊の起きるパターンとほぼ一致します。
つまり心性崩壊は偶発的に起きるものではなく、心のメカニズムによってかなりの規則性で起きるものです。

このため心性崩壊は結構予測可能な形で起きます。ホーナイは、「心性崩壊」とは言わず「反動」と呼んでいましたが、こう言っています。
反動はしばしば予想可能な規則正しさで始まるので、何度かそれが起こったあとでは、患者が上向きの状態にある時に警告してあげることが望ましい。そうしたところでやってくる反動の機先を制することにはならないかも知れないが、患者も決められた時期に作動する力の予測可能性を認識すれば、それらを前にしても全くなすすべがないということを助けるのだ。それは、彼が反動に対してより客観的になることを助けるのだ。
「反動」を「心性崩壊」と読み替えれば、僕が見たものと全く同じです。

で僕が援助している方の場合も、継続的に相談対応しているケースでは、「あっ起きるな」と直感的に感じる状況があります。感情分析が進展し、矛盾して断片化した心理要素をまたがる周辺的自覚がめまぐるしく揃ってきた時など、最も典型的。これはほぼ例外なく、その後に心性崩壊に当たると思われる心理動揺が起きます。
で僕としては先にその心得を伝えようかなーと考えいる内に、あやっぱ起きちゃったーというのが大抵ですが..^^;
ま僕としては常々「実存を生かすだけが課題になる時が来る」というような言葉を担保として言っているので、大丈夫だろうーと楽観的に見守っている次第です。

だがまあ本人の意識としては「乗り越えることのできない」ものだという感情に陥るのは、これもメカニズム上そうなっており仕方がなく、ホーナイも先の文章に続けてこんな風に言っています。
この時、分析家が危機に瀕した患者の自己の、はっきりとした盟友になってあげることが、他のどんな時よりも重要になる。

今までの意識土台が根底から崩れる現象なんですね。「自分はもう駄目だ」という破滅思考が流れます。そんな事実などどこにもないんですけどね。
「絶望は問題の深さではなく解決の無知を示す」by島野。自己操縦心性は、心性崩壊後の「未知の心」について無知です。人格の外部で起きるので、教えようがないんですね。だからそんな感情が流れます。

上のホーナイの文にある「患者が上向きの時に」というのも、メカニズム的に意味のある話です。明らかに向上が起きた後に、やってきます。自分の心が思わずして健康になったかと感じるような後に、足元をすくうような圧倒力で、やってくる。これはどうゆうことかと言うと、自己操縦心性が自らの役目を終える準備が整った時というわけなんですね。
うつ病患者の自殺は、悪化期ではなく回復期に多いという話を聞いた記憶があります。多分これも同じ話ですね。病んだ心が退去しようとする時こそまさに、「自分はもう駄目だ」という感情が流れるのです。

超アカデミック調と雑文調で一区切りしておき、では実際のところ意識制御できない「人格外衝動」とは何かの要点を、次に説明します。

No.1009 2006/06/27(Tue) 15:29:20

自己操縦心性の成り立ち-94:克服に向けて-5 / しまの

■マトリックスの中で..

最新の人格構造図http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpgがかなり単純化されている一方、直近バージョンの図http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpgはかなり複雑です。

ただしこれほどの違いが出る理由は実に単純で、最新版は人格構造を外から見て見える構造であるのに対して、前バージョンの図は、その人格構造の内側から見て見える構造だということです。
これは宇宙の全体図における地球の位置付けと、地上から見える全天の姿が全く異なる姿になるのと、全く同じことです。

つまり我々は自分の心を一生懸命知ろうとして、やがて自己操縦心性として理性制御できずに心を支配しているものや、その背後にあるストレス源としての感情の膿、特有の感情の塊である残存愛情要求、さらに純粋無垢な生きる力の源泉のようなが、複雑な配置関係で並んでいるように見える。
そうやって見分けたものに対して、異なる姿勢を取って行く取り組みなわけです。

しかしそれは内側から見た話であって、実像は、最新図のような単純なものです。感情の膿から自己操縦心性によって守られ形作られた「人格」の中で、我々は感じ考えているわけです。

ところが、この全体構造における変化が、目指すものなわけです。感情の膿と自己操縦心性が減少した人格構造が目指すものです。ところがそうしようとする我々の「人格」は、その自己操縦心性によって感情の膿から守られ作り上げられたものです。
なんともパラドックス的な話です。まあ実際自己操縦心性そのものが、根本的に脳のバグ的パラドックスの膨張の上に成り立っているようなものですから、その治癒克服はパラドックスを逆にした、これもパラドックスというような姿になります。

そんな抽象的な話は置いといて、治癒の姿は、実際に起きた姿が分かっています。
それはこの構造図で考えれば実に単純です。ということで治癒メカニズム論の最新版説明。


■自己操縦心性の「崩壊」と「破綻」

心理障害の治癒原理の根本は、実に単純であり、感情の膿の減少です。

これが単純な話だと言っているのは、実際に感情の膿が身体の膿と同じような物質的なものであり、どんな手段であろうととにかくその物質的量が減少すれば心理障害は治癒する、そして「生きる喜び」が湧いている、という呆れるほど単純な原理として考えているということです。

それを取り去ることのできる魔法のメスがあるのであれば、何もこんなハイブリッドのような小難しい心理学なんて必要ないんです。まあそれだけでは「現実を生きるスキル」はやはり成長しないままでしょうから、ハイブリッドは治癒克服のためではなく単純な自己啓発ノウハウ心理学として価値を残すでしょうが。
こんな話は2006/01/31「自己操縦心性の成り立ち-35:現実離断とは何か-4」でもしましたね。
ただそんな魔法のメスはない。

あり得るのは、自己操縦心性が感情の膿の防御機能を果たさなくなり、感情の膿が直接人格領域内に放出され消化されるという現象です。これが「自己操縦心性の崩壊」であり、ハイブリッドにおいて心理障害の根本治癒メカニズムと位置付けている現象です。

自己操縦心性が感情の膿の防御機能を果たさなくなるパターンは主に2種類が考えられます。これは最新版人格構造図で実に単純です。
一つは、人格領域の拡大によって自己操縦心性が突き破られるパターン。これは治癒になるものです。これを「崩壊」と呼んでいます。
もう一つは、感情の膿の拡大によって自己操縦心性の防御機能が効かなくなるパターン。堤防が決壊するみたいな感じです。これは治癒にはならず、解離など心理障害の重篤化に関連します。これを自己操縦心性の「破綻」と呼んでいます。

「崩壊」と「破綻」は、自己操縦心性の機能破綻として見るならば、恐らく本質的に同一現象ではないかというのが、僕の観察です。
ただしそれを起こす回りの状況が全く違うんですね。片方の本質的原動力は「魂」であり、他方の原動力は感情の膿、より正確には「アク毒」です。


後者の理由を説明するならば、「感情の膿」は基本的に幼少期に蓄積されるものであり、思春期以降には増加しません。治癒による減少のみになります。一方「アク毒」思春期以降の段階で発生し、増加します。あまり良い例えではありませんが(^^;)、感情の膿に生えたカビみたいな感じですね。ただこの例えもかなり合っており、感情の膿という培養がないとアク毒も消えるようです。
あとでこれについてもう少し説明をします。

結局、心理障害には安定状態はないんですね。方向性を知り、歩むしかない。

治癒取り組み上で起きる「崩壊」も、場合によっては、特に治癒の入り口段階においては、本人の意識においては「破綻」としてしか感じられないような体験になり得ます。
しかしハイブリッドを学ぶほどになった段階では、この心配は100%不要であり、重篤化は起きません。もうあまりに状況が違うんですね。あとは本人が実存を守り続ければ、その後に必ず変化が起きます。


■「崩壊」の流れ

取り組みの中で起きる「崩壊」は、極めて定型的なパターンの心理の流れの中で起きます。
それを次に説明しましょう。

手短に前振りをしておくと、自己理解が進展して、やがて袋小路に至り、暗雲が立ち込めるような感覚を介して、一気に「おぞましい自分」という身の毛もよだつ悪感情に全身が貫かれますが、極力、外界の現実には何の変化もないという理性を保ちつつ、「思考の断絶」に入ることになります。一定の休息時間を経て、全く新しい「自己」が芽生えています。
まあ「全く新しい自己」と言っても、それは崩壊に対応した部分であって、人格全体が一気に別人になるようなものではありません。むしろ残った自己操縦心性がそれを期待して、一時的な高揚の後に幻滅が起きるかも知れません。そんなことの繰り返しの先に、正真正銘の別人のように健康な心の中にある自分に気づくでしょう。

そんな感じの「崩壊」の際の「おぞましい自分」という感情が「アク毒」ですが、その防御のために今まで意識されることなく存在し続けた「人格外衝動」とはどんなものだったのかを概観します。

それらがつながって見えた時、我々は人間の心の仕組みを完全に視野に入れることになるでしょう(^^)vブイ。

No.1007 2006/06/26(Mon) 00:21:20

 
ひとつだけ補足 / しまの

「崩壊」と「破綻」が本質的に同一現象と書きましたが、確かに「機能破綻」という側面においてはそうなのですが、その後の「治癒」と「重篤化」という違いに、やはり何か本質的に違うメカニズムの介入が考えられます。

一言でいえば、「夢のメカニズム」の介入深度が違ってきます。前者では浅くなり、後者では深くなる。
これが一体どうゆうことなのかは、このシリーズを絞めて「魂の成長の成り立ち」も一通り考察した後で、これらの全てを踏まえて考察しようと思っています。

一体なぜ、「夢」なのか...

No.1008 2006/06/26(Mon) 00:32:15

自己操縦心性の成り立ち-93:克服に向けて-4 / しまの

■自動感情まで

ごく幼児期の、自他未分離の世界知覚に対応した、心の全てを巻き込む情動を、「自動感情」として考えることができます。
「自分のための宇宙」を求めるその衝動は、心理障害傾向における残存形では、空想世界が現実において正しいものであることを求める短絡的感情反応に変形していることが考えられます。

そうしたものが、我々の自他分離知覚の上で動くより意識的な感情の、より根底において流れていることを考えることができます。

健全な心理状態においては(少なくとも僕自身が健康な心理状態になったと感じる感覚においては)、自分や他人についての認知は全て安全なものに収められており、心の基盤においては空想と現実の間にはなんの軋轢もないものとして位置付けられているため、もはやその一致比較をめぐる感情反応そのものがない意識状態です。
自分や他人の「イメージ」というもの自体をあまり意識しない状態です。ただ「現実に向って生きている」、解放感に満ちた状態があります
心理障害傾向においては、自他認知の内容は危険に満ちたものであり、それに向うための旺盛なイメージと身構えによる、ストレスに満ちた状態になるわけです。

こうした安全の欠如は、この個人の現実生きるスキルの欠如および心理障害の根源である感情の膿によるものです。
治癒成長への取り組みにおいては、まず前者の改善向上を図ることが重要です。それによって確実に心の力と安全を増大させることができます。
しかし感情の膿はそれでは解消できず、この個人の心の力が、それを現実の危険を示すものではなく、純粋に内面の心理メカニズムとしての危険だという認識を心底から獲得した上で、実際に感情の膿が流れる体験を経た分だけ、根本的に消滅に向うという事実を見出しています。

感情の膿は、幼少期に蓄積し、思春期に人格に組み込まれます。
しかし感情の膿は原則して、意識体験は不可能な、意識体験の許容範囲を越えた感情です。

その結果、意識の土台そのものが、感情の膿への防御を前提とした形に再編成されるわけです。代表的メカニズムは「現実離断」でした。その結果様々に特有な心理傾向が生まれるわけです。
最も特徴的なのは、心理発達課題達成済みの自己理想化像が映像化され、それをもとに破壊型理想という心理状態が発達することでしょう。一方で自己離断により、自己理想像は見えなくなるものの、その拘束圧力や、それとは一致しない現実を前にした破壊的感情といった否定的側面は全く消去されないまま残るという、心理障害傾向の最終的な姿になります。

意識された自己理想をめぐって、自他分離の意識感情が動きます。
自動感情は、もはや意識されない自己理想をも含めて動きます。

ここまでで、我々は通常「自分の人格に起きる」と感じる感情の全体を大体理解することになります。
ただしそれはあくまで、感情の膿への防御ができた後の感情の話です。

人格の根本治癒変化は、それらを超えた世界で起きるものです。
人格のさらに根底にあるものに対応した「感情」とは一体どんなものなのかを知ることで、それを理解することができます。
我々が人間の感情の仕組みを本当に理解することになるのも、実はこれからなのです。



■人格外衝動

自他未分離の原初情動に対応するものとして、自動感情を考えることができました。

では次に、「意識体験不可能な」感情の膿に対応する感情を考えることができます。
答えは単純です。「意識が破綻する」感情です。自動感情以降は、何らかの論理性を持ち、言葉で表現できるものです。感情の膿に対応した感情は、それがなくなります。それが本質的にできないものを、感情の膿と呼んでいる訳です。

自己操縦心性は、それに対する防御を行い、感情の膿に触れないような自他認知意識を作り上げた上で、この個人に体験させます。自己操縦心性による防御後の意識土台の中で、我々はものを考え感じるわけです。我々は通常これを「人格」と感じます。
つまり我々が通常「人格」と感じているものは、自己操縦心性が感情の膿への防御の上に作り上げた「人格」です。


感情の膿に触れないよう防御された自他認知意識とはどんなものか。
最も単純なのは、思考の形を取りえない感情を、思考の形を取った感情に翻訳することです。意識としての形を取り得ないほどの嫌悪感情を、自分や他人のあれやこれやが嫌なのだという感情に和らげます。意識としての形を取り得ないほどの恐怖感情を、現実のあれやこれやの出来事が恐いのだという感情に和らげます。

我々はこうして、自己操縦心性による防御後の意識世界の中で感じ考えることができます。これを「人格境界」と呼ぶことができます。
これに対し、自己操縦心性が防御している内容、およびその防御そのものを意味するであろう「感情」を、「人格外衝動」と呼ぼうと思います。これはもう「感情」と呼べるような代物ではないと思われるので、「衝動」を使っておきます。


■ハイブリッド人格構造図最新版

このことを図にしたものが以下です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpg

直近の下記構造図に比べれば大分すっきりした図かと。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg

自己操縦心性が作り上げた「人格」の中で、我々は感じ考える。自己操縦心性が何をしたのかは、我々には見えない。
『マトリックス』の世界です。6/13「自己操縦心性の成り立ち-88:「アク抜き」と「アク毒」-7」で書いたように、そのまんま。

ただ『マトリックス』では、マトリックスが破られたあとの「真実」が再びマトリックスの中にあるという永遠の繰り返しであるのに対して、自己操縦心性のマトリックスは、破られた分だけ「人格」が「現実」に近づくということです。理論上はゴールがあるかもしれない。
同時に、感情の膿が減少し、「生きる喜び」という心の機能が解放される

それが外から見た話です。
マトリックスの中で考えるしかない我々にとっての主な心得みたいなものをまとめてみましょう。

No.1006 2006/06/25(Sun) 15:42:10

自己操縦心性の成り立ち-92:克服に向けて-3 / しまの

「自動感情」が浮き彫りになってくることで、改めて、これまでの心理メカニズム解説を大きく整理すると、新たな人格構造理論が見えてきます。
これが当面の、ハイブリッドの人格構造理論の完成版(と何度も言っているんだけど^^;)になるでしょう。これでようやく、「何がどう分からない形で起きるか」がかなり明瞭になるかと。

いざそのハイブリッド人格構造理論完成版へ、レッツラご〜。


■「自動感情」と「意識感情」そして「人格外衝動」

「自動感情」は「空想世界と現実との一致をめぐって短絡的に起きる情緒反応」と定義できます。これは自他未分離の世界観を持ち始めたごく幼児期の、原初情動という心の全てを巻き込む大きな感情反応の残存形と考えられます。宇宙求愛全能感万能感全破壊衝動裏切り見捨てられといった情緒反応がある。

自他未分離の原初情動に対するものとして、自分と他人が分離した後の、より細かく清明な様々な感情を、「意識感情」と呼びたいと思います。
自動感情自ら意識する以前に動いているような感情であるのに対して、意識感情は文字通り、自他の知覚認知や出来事についての思考と一緒に動く、自分で意識しながら動く感情と言えます。

6/20「自己操縦心性の成り立ち-90:克服に向けて-1」で整理したこれまでの心理過程は、その中で「意識される感情」の全てが、この自他分離後の細かい感情群に該当します。それらは人間の心理メカニズムそのものであり、「克服」という言葉も当たらないものだと。
それに対し、心理障害傾向の発達過程では、「空想と現実との一致」をめぐって起きる短絡的な残存原初情動が加わる。ここに来て、「克服」ということばが当てはまり始めます。

ただし、その「克服」を、「これが悪いんだ」という思考で「切り捨て」や抑圧の姿勢で対処すべきものと考えたら、それは自己操縦の繰り返しでしかありません。
自動感情が明瞭になったところでハイブリッドの指針は一切変わりません。感情は正さず。一片の建設的要素に向い、破壊的要素は非行動化という原則。これだけです。

というのも、残存原初情動の中にこそ、その人間の最大の心の現実があるからです。そしてその中に、魂の求めたものがあるからです。
感情に一律の頭越しの姿勢を取ることの先に、答えはありません。心の現実と魂が求めたものに近づき、その中で感情を見分け「選択」をするという、成長し直す過程があるだけです。


ただしここで「選択をする」は、あくまで「可能な選択において」とにどまります。可能な限り、選択を探し続けることです。
しかし、選択できないものが残る。先のカキコで、否定型価値感覚と肯定型価値感覚の結末をソミュレーションし好きな方を取ればいいと書き、ハイブリッドが言えるのはそこまでと書きましたが、実はそうじゃないんですね。ま「可能な選択」を前にしたらそうなんですけど^^;

選択できないものがある。それが「人格外衝動」であり、これが「自己操縦心性」の正体です。

取り組みの進み方としては、まずは今の意識土台の上で、自己理解を進め、可能な選択を見出していく。これは自動感情と意識感情の中の世界です。
やがてそれが行き止まりになると、自己操縦心性の崩壊に向います。これは壁が突破されて、人格外衝動が意識内に侵入するような形になります。

話をそこに進める前に、自動感情と意識感情の結果について、理解の仕方をまとめておきます。


■自動感情と意識感情のコンビネーション

心性崩壊の局面を除いた、通常の日常心理状態においては、自動感情と意識感情で構成される心の世界になります。
この自己理解がまず重要になるのですが、この範囲においても「自分で理由の分からない」感情が起きる仕組みを、ここで明瞭に説明できると思います。

それは、愛や自尊心といった心理課題に向けた感情の流れの中で、自己理想像が描かれたりするのですが、その後の自己離断抑圧といった自己嫌悪感情からの防御の中で、意識的な自己理想はどんどん塗り替えられたり、意識からは否定し去られたりするのですが、多くの場合それは最も積極的能動的な自発欲求の消去だけで、自己理想そのものやそれを満たさない現実への破壊処罰衝動など他の側面は消去されないままです。
そうして意識上ではあまり見えなくなった自己理想において、現実との一致をめぐって起きる短絡的な原初情動が、やはり起きることになります。
この結果、自分でも訳もわからず怒りに駆られたり、憂うつになったり、興奮したりといったことが起きるわけです。

そんな仕組みがあるので、「望みに向う」取り組みを基本とするわけです。
感情が良くなることに目が奪われると、自己理想を否定することばかりに焦り、「望みの停止」によってさらに心理状態全体の悪化を招くという、誤った方向に向かいがちです。

望みに向う中で起きるものはそれが人間の業なのだと受け入れ、望みに向うことを妨げるような思考法行動法を修正していく。その中で自己理解を進め、心の選択を行なっていく。
まずはこれが基本になる次第です。

やがてこれは早晩壁に当たることになります。そこで停止しないのであれば、心性崩壊という、心の土台からの変化に向います。
それで何が起きるのか理解するための話に移りましょう。

No.1005 2006/06/24(Sat) 14:48:14

自己操縦心性の成り立ち-91:克服に向けて-2 / しまの

■原初情動

正真正銘(?^^;)これが最後の根幹的心理メカニズム登場になると思われる、「原初情動」について。
これはごく幼児期の、自他未分離の心理発達段階において、この世界を生きるということについて抱かれる感情だと定義できます。

まだ自分と他人という区別がない、世界が渾然一体のものとして知覚される段階での感情であることが想定されます。
したがってこれは、自分と他人という区別があった上での感情ではない、自分と世界という区別ができたかできないかというレベルでの、心の全てを巻き込むような大きな感情だと考えられます。

具体的には次の5種類あたりをまず想定しています。
1)宇宙求愛..自分を取り囲んで、自分を守る、自分のための宇宙を求める感情。
2)全能感万能感..自分が宇宙に愛され守られ、何でもできるという素朴な安心感信頼感。
3)全破壊衝動..望んでいる自分を守る宇宙とは違うものに取り囲まれ、自分の中に閉じ、全てを拒絶破壊しようとする衝動。
4)裏切り..一度望む宇宙であるかの姿を見せたものが、違うものになったのに対して向けられる、全不信の感覚。
5)見捨てられ..望む宇宙が自分を置き去りにして、自分が宇宙のはてで孤独になったという感情。


そして今の僕の考察ですと、そのような原初情動は、幼児期に親が子供に向ける「宇宙の愛」によって「宇宙求愛」が満たされ、素朴な全能感万能感がその後の健全な心理発達の土台となる一方、自他分離ができた3歳前後以降は、基本的にはそれらの原初情動は体験されなくなるのではと考えています。
自分と他人という区別を前提とした、より清明な感情にとって変わられていくわけです。


■原初情動の残存

しかしどうやら、心理障害傾向の発達過程においては、そうした原初情動が残存するらしい。これが先のカキコで「原初的情動反応の残存」と書いたものです。

どのようなメカニズムの形で残存するのか。
知覚としては自分と他人は分離していますから、幼児期の渾然とした世界に向けられる衝動と想定されるような形としてではない。
そうではなく、自分にとっての宇宙つまり空想世界が正しいものであることへの要求のような形に変形するのではないかと考えています。

最も「自己愛的」な姿においては、現実は自分の空想世界の通りなのだと感じるような形になるでしょう。自分の空想世界を通して、自分の空想世界が具現化されたものとして、現実を見るわけです。これが宇宙求愛の残存形が満たされた姿になります。自分を神だと感じ、全能感万能感にとりつかれるかも知れません。

恋愛感情は、相手が自分の空想世界を支える存在であることを求める「愛情」という変形を帯びるようになります。相手は普通の人間ではないような、大きな輝きを持つ存在のように体験されるでしょう。
しかし相手が自分の空想通りではない行動をした時、「裏切り」および「見捨てられた」という情動反応に傾くかも知れません。そして「裏切り」への憎しみが、「全破壊衝動」を生み出すかも知れません。

これは昨年11月だったかの、町田市女子高生刺殺事件の犯人少年が「何も悪いことしてないのに無視された」のが動機という、あまりに我田引水な論理に潜んだ病理性が、僕としても最もしっくり説明できる感の中で浮んでくるものです。
2005/11/14「町田市女子高生刺殺事件の心理」では受動型価値情動の荒廃化ニセの破壊衝動を取り上げましたが、こうした「自他分離後の感情」ではどうしても説明し切れない圧倒的理性凌駕性が、この原初情動の残存メカニズムでようやく説明できるように感じます。


■「自動感情」の正体

残存した原初情動は、空想世界そのものが支えられることに焦点を置いていると思われます。つまり、雑多な空想内容の個々のものがその人間にとって様々な意味を持ち得ることを無視し、空想と一致する現実を短絡的に求める性質があるということです。

これは、理性思考を全く無視した情動反応が、個人がそれに飲み込まれるように起きる状況が十分に起き得るということです。実際には、理性思考が働く前に残存原初情動の反応が起き、理性思考がその後にそれをどう解釈するかという形になるでしょう。
実はこれが「自動感情」の正体なのかも知れませんね。

あまりにもネガティブ思考に傾く自分を持て余している方は、この視点からの自己分析をするといいかも知れません。
つまり、自己嫌悪思考や他人のあら捜し思考の中で抱く空想が、現実に合っていると感じるということでの宇宙求愛と全能感万能感に流されているのでは、ということです。

否定的価値感覚の中で宇宙求愛と全能感万能感を満たすことは、実に容易なことと思われます。果ては、「人間なんて一番汚い動物だ。人間なんて皆死んでしまえばいい。」と想像すればいいのです。それだけで、自分が神になったような気分を味わえるでしょう。楽チンです。しかしそのあとに現れるのは、延々と続く、身を苛む空虚だけです。

「生み出す」ことを「強さ」と考える肯定型価値感覚は、現実において最初に「生み出す」ことに、ちょっと高い敷居があります。ものごとの悪い面を見下すことに快感を覚える思考を一度ストップさせ、人生の悪意として他に帰していた不足を、いったん全部自分で引き受けた上で、生み出す努力をしなければならない。
しかし一度「生み出す」ことを知った時、彼彼女は今までの「見下す強さ」とは全く質の異なる、極めて安定した自信の感覚を手に入れることになります。それがさらに彼彼女を強くして行き、生み出す大きさをさらに増して行きます。社会での成功という「俗的」な報酬も間近でしょう。そして実際に社会的成功や地位まで手に入れた時、彼彼女はそれを俗的成功の喜びとしてではなく、世界の中で自分が唯一無二の存在として生かされる「調和」という最大の優越のための手段として活用するかも知れません。彼彼女は完全な勝利を手に入れるわけです。
ちょっと良くある自己啓発セミナーっぽい文章アハハ^^;

ネガティブ思考を力づくでポジティブ思考に変えようとしても無駄です。ネガティブ思考の中にあるポジティブな価値を抽出し、それをポジティブ思考と比較するのが正解です。そして上述のような、結末をシミュレーションすることです。
その上で、好きな方を取ればいいですね。ハイブリッドが言えるのは、ここまでです。お好きなように。ま後は「ネガティブ思考の中にあるポジティブな価値を抽出する」感情分析の技術とか出てくるんですけどね。

自己啓発セミナー調はそんなとこにして、次に、もっと心理学的視点から、自動感情について幾つかの視点をまとめましょう。

No.1004 2006/06/22(Thu) 11:00:39

自己操縦心性の成り立ち-90:克服に向けて-1 / しまの

■自己操縦心性の克服..

さてこの「自己操縦心性の成り立ち」シリーズの最後に、「克服に向けて」というテーマでの一考察を入れておきたいと思います。
「アク抜き」と「アク毒」のメカニズムまで話したところでいったん絞めようかなーとも考えていましたが、どうもそれでは絞まんないんですねー。まだ何かが足りない。残された「魂の成長」の話に行けない。

心理メカニズムとして、まだ大きなものが残されています。自己操縦心性「別の人格体」だと言っていますが、その「別人格」の正体とも言える部分が、まだ出てきていないんですね。
それをこの「克服に向けて」という一連の考察の中で話したいと思います。「自己操縦心性の克服」と言う時、一体何を「克服」すべきなのか。それは「克服するもの」と果たして言えるのか。

実際のところ、今までの話をざっと振り返った時、「自己操縦心性の克服」という命題ちょっと奇妙な印象を受けます。
何故ならそれは我々の心のメカニズムそのものなんですね。それを「克服する」というのは、まるで「消化や呼吸の機能を克服する」と言うかのように、変な話に聞こえます。

しかしそれだけで終わるのではなく、やはり「克服すべきもの」があるのを感じています。「消化や呼吸機能の『病を』克服する」と言えば意味を成すように、自己操縦心性の『病』の根本がまだ書いていないものがある
それが「別の人格体」メカニズムとなります。これもその解明の緒についたばかりの試論的解説に終わるでしょうが、「何を克服するのか」のより正確な考察に役立つでしょう。


■心理過程のまとめ

今までに解説してきた心理過程をざっとまとめると、以下のようになります。対処の方向性も書いてみましょう。

1)悪感情の基本的源泉エネルギー
自己処罰感情感情の膿(アク毒)
この感情で自分を評価するのではなく、別の視点によって自己評価をする姿勢が重要です。「現実における向上」という指標と言えるでしょう。行動学が極めて重要です。そうした自己評価基盤を持った上で、この悪感情はただ感じ流す姿勢の中で、根本的解消に向います。

2)情動一般の変形の流れ
否定型および受動的価値感覚望みの停止欲求の皮相化荒廃化
「望む自由」思考への価値観変革とともに、自分が何を求めているかを深く解明する感情分析の中で、感性レベルでの自分の価値感覚を捉えることが重要です。その先に否定型価値感覚の放棄である「不完全性の受容」と「現実との和解」がある。皮相化荒廃化した欲求は、内面では解放し結末をシミュレーションする「心の実験」や、「変形の構造」を遡るような感情分析を通して、自然で健全な欲求へと「浄化」され得るものです。

3)心理発達課題の損失
残存愛情欲求愛情欲求と優越欲求の皮相化荒廃化
真の愛や真の自信についての心理学的理解が重要です。愛は魂の成長によって、「求める愛」から「湧き出る愛」へと、同じ「愛」でも全く別種の感情へと変化します。「愛って何?」を既知の感情ベースではなく未知をベースに考えないと、完全に方向を誤る。心が成長するような生き方を選択するかどうか。真の自信は自己評価によっては生まれず、望みに向う人生活動の中で可能性を尽くす体験の蓄積によって育ちます。

4)自己操縦心性の病理発動
現実離断現実覚醒レベルの低下精神性の乖離自己像固執
これは心の姿勢で対処できるものではなく、「障害のハンディ」として受け入れる必要があります。対処すべきは、これを「治そう」とする焦りの姿勢の方です。多くの人は完全にその逆をしてしまっています。「心を開かなきゃ駄目だ」「自己像に捉われずに」と自分を鞭打つ。「心を開けない」は受け入れるべき障害であり、「駄目だ」の方が変更可能な姿勢。そして身体障害とは異なり、心理障害は受け入れた時消える方向に向かうというパラドックスがあります。

5)自己操縦心性の上で発達する心理過程
破壊型理想抑圧自己離断「アク抜き」と「アク毒」外化
これは基本的に、自己否定感情の毒から逃れるための各種心理メカニズムを「活用」して、3)の心理発達課題という問題において成長達成への方向とは全く逆行する「自分自身からの逃避」という方向のものです。2)と3)の視点を総合しより高度化された感情分析によって、自己不明を解き、徐々に内面の力の回復を行ないます。それがやがて4)の問題を突破するための、魂の成長を準備します。


■勝手に動く「人格制御衝動」..

さて上のように心理過程が整理でき、根本変化への話に移ろうとしても、どうも足りないという変な感覚を感じ、この数日解説書きものの手が止まり、何なのかと考えていた次第です。
根本変化への最後の解説は、「どのように自分で分からない形で起きるか」が分かるように、というのが目標でした。でも上記心理過程ではまだ、「自分で分からずに勝手に動くもの」がいまいち明瞭ではないんですね。

「自己不明」が起きるメカニズムは、上記では主に5)にあります。自己嫌悪感情の膿への各種防御機能があり、人は素の思考の中では、この防御機能にあまりに安易に立って、あーでもないこーでもないという結局のところ自分をごまかす思考に流れ、問題の根本解決とはまるで逆の方向に向かいます。自分自身の内部の問題を、他人との関係の問題として捉える「外化」を信じきってしまった時、もはやそれは心の底で「自分では解決できないものを抱えた自分」を宣言することになり、その後の「こうすればいい」思考はことごとく不毛なものになります。

しかしそれらはまだ、「自分の中でごまかす」ものに留まっている。感情分析の中で本心へと解きほぐすことが、かなり解消の役に立つでしょう。

だがそれだけでは済まない、「自分の外で」起きる情動反応というものがある。「欲求の多重化」として、一つの人格内に湧き出る複数の情動が人格多重化の芯になると言いましたが、それとも違う、「人格の外側」で湧き出る感情がある、という考察に至った次第です。
ここに至って完全に、「別の人格として動く感情」という視点が登場することになります。

実際、問題のつながりをほとんど触れないままだったテーマがありました。「空想と現実の逆転」「夢のメカニズム」と言った、心理障害の最も「病理」という特性に関わるテーマです。
これを司る、「人格制御衝動」とも呼べるものがある。いわばこれは、この心理過程にある人間がその中に住む現実と空想の世界を、さらに外側から監視統制下に置こうとする、もう一つの人格が存在するというイメージを浮かべさせます。

この全く別次元にある人格相互には、少なくとも内側の「いわゆる自分」の人格からは、外側の「空想と現実を統制監視する」人格には、全く感情的なつながりがない
しかし外側の人格は、これまで書き漏れていたような、大きな情動反応を示す。それが内側の人格に体験される。それを「いわゆる自分」の人格が自分を取り囲む世界との間で起きたことであるかのように解釈する。
これが心理障害の姿なのだと考えた時、僕としても完全版の心理メカニズム理論として実にしっくりとする感を覚えます。

逆に言えば、外側の人格が起こした大きな情動反応を、今自分がいる現実世界のことではなく、心理メカニズム反応なのだという心理学の目で保つことが、「克服」への大きな杖となる。
これで「どのように分からないか」の答えが出せると考えています。

そしてその「外側の人格」の正体は、「原初的情動反応の残存」と捉えたいと思っています。はるか彼方の幼児期、自他分離がまだの時期の、「全能感万能感」そして「裏切り」と「見捨てられ」といった情動反応。これが「空想と現実の逆転」といったテーマをめぐって起きている。
そうした原初的情動反応の名残りが、まるで宇宙のビッグバンの名残りのように、全ての感情への背景放射となって働いている..ってこの比喩はちょっと難あるかぁ..^^;
そして原初的情動反応の名残りという話から、「魂の成長の成り立ち」という考察が完全につながります。

例により難解そうながらも、何か大きな謎の琴線に触れる話のような予感を感じる方もおられるのではないかと思います。
そのメカニズム考察を次に。

No.1003 2006/06/20(Tue) 15:33:57

書店注文用チラシ掲載しました / しまの

『悲しみの彼方への旅』注文情報ページ書店注文用のチラシを掲載しました。印刷して持っていけばそれで注文可能です。
出版社からは「6/20頃より注文可能予定」とのことなので、今日あたりからもう注文可能かも知れないですね。
近くの書店まで、ラ〜ッシュ!いやいつでもどうぞ〜。

よろしくです!

No.1002 2006/06/19(Mon) 11:20:43

サイン入り初版本購入「郵便局留」でもOKですー / しまの

住所通知を差し控えたい場合などは、「郵便局留」で受け取ることも可能の模様。
その場合は、送付先住所として受け取りたい郵便局の住所と郵便局名を書いて頂ければ。

受け取りは到着後7日以内で、印鑑と身分証明書が必要になるようです。
必ずしも必要ではないようですが、事前に「郵便局留を利用したいので受け取り手続きを教えて下さい」等申し入れをしておくと確実なようです。

No.1001 2006/06/17(Sat) 13:00:02

自己操縦心性の成り立ち-89:「アク抜き」と「アク毒」-8 / しまの

おっついに1000カキコ♪

■感情の偽装-5:苦しみの偽装(機能性の苦しみ)

1)序論

苦しみの感情の偽装は、愛の感情の偽装よりもかなり錯綜としている印象を受けます。
というのも、心理障害傾向の中で「苦しみ」を生み出すメカニズムはかなり多彩であることに加え、「苦しみ」「辛さ」「苦労」が価値を帯び強調されてしまう要因も実に多いからです。

そうした状況を背景にして、心性崩壊のみにより解除されるタイプの「偽装」としての苦しみがどの部分かを抽出することはかなり錯綜とした印象を感じる。
実際のところ、心性崩壊によって明瞭になる「偽装」は、既に述べた「愛の偽装」の方が鮮明です。「苦しみの偽装」はそうではない。
どうゆうことかと言うと、「心性崩壊」はハイブリッドにおいてはあくまで治癒成長の現象として起きるものを言っているということです。その時、「愛の偽装」が明らかになる。これはつまり、心理障害傾向の中で価値を帯びていた「愛」が崩壊することで、それを超えた「愛」を生み出す心の基盤という、より大きな価値が初めて獲得されるということです。

「偽装された苦しみ」はそうではない。これは価値を帯びるものである一方、苦しみそのものはやはり不快なものなので、その軽減は治癒成長ではなくても価値がある。治癒成長による、より確かな未知の価値は見えないまま。
ということで、偽装された苦しみの解除と心性崩壊は、必ずしも対応関係が明瞭ではないです。

まずそうした、心理障害傾向の中で生まれる「苦しみ」のメカニズムをざっと考察しておきましょう。

2)苦しみ感情の主要メカニズム

本人が「苦しい」と体験する状態を生み出す要因をざっと挙げてみましょう。

まず、この本人がこうむっている、現実的困苦があります。これは本人が置かれた環境によるものと、本人自らが招いている現実的困苦があります。
(参照:2006/02/17 自己操縦心性の成り立ち-40:現実離断とは何か-9 から
-12 まで)

次に、一般心理としての苦しみとして、フラストレーションの苦しみがあります。これは上記の現実的困苦によるフラストレーションと、「望みの停止」という心の動きによるものががあります。後者はまさに、自分の首を自分で絞めるということです。望みの停止が来歴を通して起きるメカは2006/05/08「自己操縦心性の成り立ち-66:自分自身からの逃避-2」で解説。
3つ目に、感情の抑圧による苦しみがあります。この辺の苦しみから、一般心理というより障害特有の、意味不明瞭で耐え難い苦しみ感情になってきます。
これは何種類かありますが、中でも明示的に「苦しみ」として体験されるのは、「怒りの抑圧」です。これはしばしば身体表現性障害の形を取ります。
4つ目に、感情の膿の中でも「自己否定感情の膿」のタイプは、極めて耐え難い苦しみ感情を体験させます。これはしばしば目まい吐き気を伴います。
最後に、自己否定感情の膿が刺激され流れ出る状態で、受動的自己アイデンテイィティの「感情の見栄え」に優越感劣等感を感じる傾向の中でそれを抑圧しようとするストレスがかかると、上記の苦しみに嫉妬や屈辱感などの嫌な感情なども混ざった上で、意味は全く不明な、恐らく人間が体験し得るうちで最も苦しい感情の一種が生み出されます。リストカットなどの自傷がむしろ転移行動としての軽減になるような苦しみです。

そうした心理メカニズムを理解すること自体が、苦しみの軽減に多少とも寄与するでしょう。なぜなら第一に、どんな苦しみにおいても、その原因がはっきり分からない不明感や、解決が分からない絶望感が、苦しみに暗い色を加え強度を増しているからです。そうした不明感の解除による軽減に加え、それぞれの根本原因に取り組むことで、根本的克服への歩みを始めることができます。

「苦しみ」に価値を感じ、誇張しようとする心理メカニズム要因は、主に3つがあると考えています。

まず最も「純朴」なものは、残存愛情要求の中の一要素である、「幼児期悲嘆衝動の残存」です。これは自分を守ってくるような「愛」を願う「甘さ」を報酬とするかのように、苦しみや辛さに華々しい(?^^;)スポットライトが当たる形になります。そのための苦しみを感じられるように自己嫌悪感情に耽美的に耽るようなことも大いに行なわれる場合があるでしょう。
(参照:2006/03/23 残存愛情要求とは何か-補足)

次に、「望む資格思考」です。より苦しい者辛い者が、望む資格がある。これは多分に文化的価値観的な、理性思考を大きく巻き込んでいる問題であり、知性的な解除が克服への大きな方向性です。この思考の根源は、人間が持つ「傷ついた者への愛」という感情にあり、それを目当てに苦しみを強調するという、「身せかけ」と「偽装」という色彩を帯びてきます。

最後に、苦しむ姿を見せつけることが、相手への非難攻撃の手段になり得ます。
怒りが抑圧された状態で、相手への怒りを表現するのは、まずそれになります。自分はお前のせいで苦しんでいる。ひどいことされた!
ここでは、自分の苦しみを見て相手の中に起きるであろう罪悪感や無力感が、この人間にとり勝利の意味を持ちます。「弱さを盾に振りかざす強さ」という世界。

3)「偽装された苦しみ」は取り組み対象ではない

さて、そのように苦しみを生み出す要因、苦しみに価値を帯びさせ誇張させる要因が数ある中で、さらに「偽装された苦しみ」がどのような所にあるのかを考察するのはちょっと錯綜した話になります。

手短に言うと恐らく、「アク抜き」と「アク毒」というメカニズムに基盤をおいた幻想的なイメージとして、「自分の善意が外界の悪意により踏みにじられる」「清廉純潔なはずの自分が汚れた外界の餌食になる」という感覚を帯びた苦しみが、それに当たるのではないかと考えています。

取り組み上は、まずは上述の、苦しみを生み出し誇張する要因に取り組みます。苦しみが起きる心理メカニズムを理解し、不明感や絶望感を解除すると同時に、根本となるメカニズムの方に取り組みのがいいでしょう。
個々の要因の状況はどうであれ、苦しみは、自ら望む姿勢を圧殺した状態で、自分を外から「こんな人間に」という目で見る状態の中で、典型的に起きます。自分自身によって改善が望み得るのであり、それを具体的に考えようとする時、もはや苦しみの大部分は消失しているでしょう。

あとはその改善取り組みを進めるだけです。

苦しみ感情そのものには、決して反応しないことです。それを自分の中に見て人を非難する、もしくは人の中に苦しみを見て自分が救ってあげると考える。その時思考はまず間違いなく、罠の中にあります。

ハイブリッドの取り組み現場ではまずない話ですが、憎悪の中で見せつけられる苦しみに対して、人は決して救いの手を差し伸べることはできないのだ、という心理学的鉄則のような話があります。
なぜなら、その時苦しみは彼彼女にとって、見せつけることで相手に罪悪感を起こさせる勝利の手段となっており、苦しみが軽減することは自分が負けになることを意味するからです。この「見せつけの苦しみ」の欺瞞性を実はこの人間自身が心の底では感じ取っており、それに対する自己嫌悪感情が、彼彼女が勝つために必要とする「苦しみ」を供給するのです。ここにももう一つの完璧な自己完結の感情システムがあります。

この説明は、それが起きる心理状況についてやや舌足らずな説明ですが、「苦しみの不誠実さ」というものを理解しておくのはいいでしょう。何よりも、自分自身の中に、そうした不実な「苦しみ」がないかと見る視線として。
それを支えるメカニズムは結構錯綜していることが考えられる一方で、怒りの表現や勝利の意味を帯びながらも、本人自身には単純に「苦しみ」として、一瞬のうちにすり替えられ体験される意識の表の単純さが際立っています。


■愛と苦しみと優越

「感情の偽装」として愛と苦しみを取り上げしましたが、難解なメカニズム論はちょっと置いといて、根本にある感覚のようなものの話を最後にしましょう。

それは「優越」の感覚であり、愛することが優越になり、苦しむことが優越になるというものです。
実際のところ、苦しむことができる人間は、そうでない人間よりも優れているのだ、というような、素朴な感覚というものがどうも人間にはあるようです。同じように、尊大な愛の感情の中で優越の感覚を抱く、素朴な感覚があるのでしょう。
これは一方で、快感に優越感を感じ、悪感情に劣等感を感じる感覚があること、愛してしまうことは屈辱であり、愛さないでいられることにプライドを感じるという正反対の感覚もまたある。

最終的な心理風景というのは、もはや適切な形容詞も見当たらない滅茶苦茶な混沌状態になり得ます。
自らを苦しめ、そんな自分に劣等感を感じながら、同時に優越感を感じる。愛する自分の姿に自己陶酔する一方で、相手を前に愛を屈辱と感じ、愛を否定するプライドに駆られる。まあ実際世のメンヘルサイトに毎日のように書かれているのがそんなものだし、僕の今回の小説でも結局そんなもんなんですね。

表面に現れるものを見て辻褄を考えるような、難解な哲学的思考などは全くの無駄であり、根本にある心理メカニズムの方を見ないと話が始まらないというわけです。

No.1000 2006/06/15(Thu) 15:28:25

サイン本まだ在庫余裕あり〜 / しまの

さっき注文情報ページの文言を直しましたが(更新日付はそのまま)、「ぜひ書店注文で」と書いたのを見て、もしやサイン本購入を手控えた方がおられるかと浮んだのですが、何もそこまでには及びませんので、ま素直に(?^^;)サイン本の方がいいと感じる方が申し込んで頂くのでいいかと。

ま書店注文が増えないと困るのは事実ですが、7月に入ったらまた大々的に宣伝工作(^^;)をしようと思っており、それからを意識した話ですので。

No.998 2006/06/13(Tue) 13:09:29

 
Re: サイン本まだ在庫余裕あり〜 / しまの

書店注文を考えて頂いた方が少なくなかったようなので、ちょっと状況をお伝えしますと、以下のようなことを考慮頂ければ。

発行部数僅かの処女作初版本のサイン本ということで、プレミア価値ものになる可能性なきにしもあらず。まあ僕自身今だかつてサイン本など持ったこともないし、あまり関心なかった話ですけどね。これを機に色々見てみたのですが、そうしたものに価値を感じる人はやっぽいるようですね。

今後の販促ですが、当面のネット上はあくまで呼び水として反響の感触を感じられればと思っている程度で、販促のメインは8月に読売・毎日両新聞上に大きく掲載される『文芸社8月お薦めの一冊』の一こまに掲載されるやつです。両紙合わせて1400万の読者の目にとまって興味を引いてもらえるか。

ということで、当面の書店注文ご協力についてはあまりシビアなものではなく、サイン本を我慢してというのは全く勿体無い話ですので、サイン本希望の方はためらわず申し込んで頂くのでいいかと。
まハイブリッド的に言えば、サイン本希望と販促ご協力というのは全く別の問題として、無理に択一問題としてくっつけないという思考法がこの際正解ですね。

まそんな点考慮の上、ご希望の方はどしどし申し込んで頂ければ。

No.999 2006/06/15(Thu) 12:49:53

自己操縦心性の成り立ち-88:「アク抜き」と「アク毒」-7 / しまの

■感情の偽装-3:メカニズム序論

「感情の偽装」のメカニズムですが、まずこれまでの流れをおさらいし、どのような状況でそれが起きるのかを理解したいと思います。

幼少期において感情の膿を抱え始め、それは切り離される一方、自発的能動的な望みはごっそりと停止が起きます。
思春期になり、感情の膿が人格に組み込まれ、現実離断による精神性の乖離自己像固執が起きます。一方で優越欲求が旺盛になり、破壊型理想に向けられることで、自他への軽蔑衝動が高まり、自己嫌悪感情も顕著になってきます。
この状況で不可避に起きるのが、本人の精神的理想の高さと、現実に起きている皮相化荒廃化した欲求感情とのギャップです。一方で清廉で純粋な人格像をイメージしながらも、すさんだ感情の中で流れる破壊性を帯びた衝動が雨後の筍のように芽生えている。

「感情の偽装」は、そうした、清廉純粋な人格像と破壊的衝動とのギャップを補修するためのメカニズムということになります。

ただしこのギャップの補修メカニズムは他にもあり、「抑圧」比較的自覚化可能な形で、愛情欲求と破壊衝動のいずれかを取り、他方を無意識に追いやるというものです。まあ前者では「対人関係を良好に」しようと「相手の気持ちを思いやる」ことへのストレスが、後者では品評眼で物事を見下す冷笑的態度が、意識の前面に流れるものの代表的なものになるでしょう。

「抑圧」は感情分析によって解かれ得ますが、「感情の偽装」は感情分析では解けません。自己操縦心性の崩壊によってのみ解かれます。
逆に言うと、自己操縦心性の崩壊以外にはいかなる解除もない、矛盾した感情の補修メカニズムによる現象を、「感情の偽装」と呼ぶことにしています。
心性崩壊のみによって解かれる「偽装」であるとは、つまり、心性崩壊がない限り、「偽装」と呼べるものが起きていたことが分からないということです。心性崩壊が稀な現象であり、それが起きない状況では、それはもはや偽装ではないという図式が最後まで成り立つことになります。

「抑圧」はその人自身が自分の感情をごまかすという感じですが、「感情の偽装」では、その人が偽装を行なっているのではなく、その人が偽装された世界に住むという感じになります。だから自分で偽装を解くことはできず、心の世界全体が偽装から解かれる形を必要とします。

『マトリックス』の世界です^^; 最初は全てが現実に見える。そこから抜け出した者だけが、それが虚構であったことを知る。しかしそうして知った「真実」さえもが、実は虚構かも知れないのです。それが分かるのは、今いる世界がはじけ、新たなプログラムがリロードされた時です。そうして新たな「現実」が再び虚構と真実に分かれる次の終着点へと歩み出す、新しい物語が始まります。
これを永遠に繰り返すわけです。

このアナロジーは単なる比喩以上のものがあります。全てそのままなんですね。「今いる世界がはじけて新たなプログラムがリロードされる時」というのは自己操縦心性の崩壊です。

そうして手に入れる新たな現実が「真実」だという確証はない。今の現実が全てなのだと、「既知」の世界で生きようとする者もいます。その人間は「全ては原因と結果だ」と言う。一方、未知の真実を求め続けるモーフィアスは「あるのは選択だ」という。
(参照:2004/05/05「原因」と「選択」)
まさにこれが人間の心の奥の究極にある、全ての大元にある歯車みたいなものなんですね。
というわけで『マトリックス』、すごい映画です。哲学的心理学的な命題を表現したものとして。だから不動のマイ・ベスト・ムービーあまたの「人間vs機械」映画の単なる一つと鑑賞したら、この映画の凄さは全然分からないかと。

さて心性崩壊についての考察の続きは「自己操縦心性の崩壊とは何か」に譲り、「感情の偽装」のメカニズムを説明します。

今回は主に2つの感情の偽装を説明します。他にもあるかも知れませんが、この2つがあまりに突出した重みを持っていると考えています。
「愛」と「苦しみ」の偽装です。


■感情の偽装-4:愛の感情の偽装

愛の感情の偽装では、自分が相手を愛しているという感情が作り出されます。まあ感情の「味」としては、相手に近づきたい、相手と一緒にいたい、相手と関心を共有したい、という、「一体化」への欲求の感情です。かなり純粋な一体化欲求の感情として体験されます。

メカニズムとしては、まず背景として、残存愛情要求における純粋な愛情欲求要素と、一方で来歴を通しての望みの停止による皮相化荒廃化した「愛」への渇望、「愛」を利用して復讐的自尊心を満たそうとするような衝動の存在がまずあります。

この状況で、「皮相化荒廃化の色彩」だけがアク抜きされ、本人の意識においては純粋な愛情のみが体験されます。一方でアク抜きされた「皮相化荒廃化の色彩」は世の中の他人全般に外化され、自分が他人にはない純粋な愛情の持ち主だという尊大感が伴うのが特徴になります。
このアク抜きの成功により幻想的自尊心が保たれ、自分が愛されるという幻想が映されます。ここに愛の偽装を完成させるもう一つのメカニズムが入り込みます。強固な受動的価値感覚によって、相手が自分に向ける感情により、自分の感情が湧き出るという仕組みです。相手が自分を愛するという幻想への反応としての、自分も相手を愛するという感情が湧き出る。これは強制力を持ち、本人はこれを相手へのまがいなき愛情としてしか感じることはできません。

かくして、アク抜きの成功による「自分が愛される」尊大幻想と受動的価値感覚により、完璧な自己完結の感情システムが組み立てられます。

一方、アク抜きされた「皮相化荒廃化の色彩」は自己否定感情の膿と結びつき、「愛に見せかける自己中心的利己性」というおぞましく嫌悪すべきものがあるという感覚も生み出されます。これが「アク毒」です。意識の一方に生まれる、もはや偽装とは言えないほどの愛の感情の強度と、見せかけの愛への嫌悪の強度は、心理障害傾向の重度とほぼイコールだと考えています。

結果として、これは極めて不安定な葛藤状態をもたらし得ます。まず、疑いようもない圧倒的な愛の感情の一方で、自分の中に何か許されざる悪しき性向がある、それが暴かれるのではないかという漠然とした、かつ圧倒的で幻想的な恐怖に駆られます。
自己否定感情の「望むものから排斥される」根底論理において、愛を望めば望むほど、この恐怖は大きくなるのです。
この結果、もう一方の「偽装された世界」に転換するベクトルが生まれることになります。「自分は愛されない」という断定によって、望みを自ら挫くことによって、葛藤の強度を和らげる必要が出てくるわけです。

実はこうした心理メカニズムは、もはや障害感情のメカニズムという特異性のあるものではなく、人間の一般心理にまで及んでいるものだと考えています。
好きな人に告白しようとする時の不安などは、間違いなく、こうして「アク抜きが成功した心の世界」が「現実」という刺激によって破綻することへの、自己操縦心性の機能不全への不安が混じり込んだものです。
もちろん単純に相手が自分を好きでない場合への失意ということもあるでしょうが、その範囲の不安は十分に理性制御が可能です。あらゆる可能性を想定し、意志により相手に近づく行動を選択するならば、不安は消え得る。そうゆう理性制御を超えた不安感というのは、まず「自己操縦心性による人格分裂補修の機能不全不安」です。

心理障害傾向を免れる人間というのは稀で、心理障害というのは「肩こり」というという身体障害とほぼ同程度の頻度と考えていますので、これはもはや一般心理でもあるのだと考える次第です。

また、受動的価値感覚の中で、自分を愛する相手のイメージにより愛が湧き出るというメカニズムにおいて、「自分を愛する相手のイメージ」というのが必ずしも明瞭な視覚的イメージとして意識されるものに限らないということも指摘できます。それは極めて漠然とした空気の感覚のようなものでもあり得る。
その結果、自分では全く理由の分からない状況で、相手への愛の感情が突然消失する、といった現象が良く起きることがあります。
今回の僕の小説でも、「自分を愛する相手のイメージ」が消え、「自己中心的な愛」への自己嫌悪の毒が刺激されるされるような状況の中で、突然愛の感情が強制的に消去される様子などが、端的に描写されてたりします。

こうした状況は苦しいものであると同時に、我々自身の根本的な変化と成長のための、貴重な試練の場なのだという視点が重要だと思いますね。感情分析によって自分の感情の中の真実を感じ分けていくという内面取り組みと同時に、現実行動への考え方と勇気という、この取り組みの全てが集約される場になります。
この具体的指針を、メカニズム説明のあとに書きましょう。

No.997 2006/06/13(Tue) 12:00:18

自己操縦心性の成り立ち-87:「アク抜き」と「アク毒」-6 / しまの

■感情の偽装-1:位置付け

「感情の偽装」という、かなり古くから課題として言葉を出していた心理現象について、ここでようやくその具体的メカニズムの説明となります。
感情の偽装とは、本心ではない感情が生み出され、それを自分の感情だと感じてしまう現象のことです。

当然、感情の偽装の存在は、人の心を惑わせます。目に見える他の「偽装」(例えば今巷で話題の耐震偽装^^;)とは違って、「感情の偽装」はその「偽装された感情」だけを取り上げて、それがどう真実からズレているものであるかを言うことが、できません。「偽装された感情」そのものについては、本人はただ、そう感じる。それだけの事実があります。

これに似た概念で「感情の演技」は既に話しました。自己操縦心性の基本機能としてある「感情操縦」の一形態です。
(参照:2006/01/17 自己操縦心性の成り立ち-26:根本機能その1感情への感情)
これも本人はその感情を自分の感情として感じますが、ここでは、その感情が、自分が多少とも人工的に作り出したものであることの自覚ができるものを言います。
元気出さなきゃやる気出さなきゃ、と考えて、自分の気持ちを昂ぶらせる。盛り上がらなきゃと考え、楽しみ感情を湧き立たせる。ふざけている場合ではないと考え、神妙な気分になる。
演技された感情は、やがて自然で演技性の少ない、同じ感情とまざり合い、演技要素は自然となくなっているかも知れません。最初の演技感情は、いわば呼び水のような感じとして。

感情の演技は、その人の置かれた「心の現実」との食い違いが大きくなるほど、ストレスが大きくなります。「心の現実」と矛盾がなければ、ストレスはほとんどありません。
心に人への疎外感を感じながら、人に接する時に楽しい感情になろうとすると、ストレスが大きくなります。やがてそのストレスが、感情の演技を不可能なものにします。

「感情の偽装」では、それが人工的に作り出した感情だという自覚が、全くなくなります。本人はその感情の虚偽性を、少なくとも感性のレベルでは、疑うことができません。
それが人の心を惑わすのは、その感情そのものにおいてではなく、全く別の感情を示す自己の存在を見ることによって、ということになるでしょう。同様に、相手の中に全く異なる顔を見た時、我々はその感情を疑います。否、その感情を疑うというよりも、もっと深い「信じられないもの」が自分もしくは他者の中にあるという感覚に取られるのだと思います。これはおそらく「感情の演技」を前にしたのよりも遥かに暗い影を落とすものになるでしょう。それは「信頼」を壊し、「愛」を壊すものになり得ます。


■感情の偽装-2:心理障害の「病理」

ということで、「感情の演技」と「感情の偽装」は、心理メカニズムとしては一応全く別物だと考えています。まあ起源としては自己操縦心性の「感情操縦」という基本機能にはあるでしょう。しかし「感情の偽装」では、起きる場所がはるかに心の深い部分であり、「病理」の側面が加わっています。

病理とは何か。
「正常」からの歪みを病理と呼べますが、すると「正常」が何かが分かる必要が出てきます。明らかに本来の心身機能とは異なる、形態の異常や損傷、外部からの侵入物による感染などは「病気」と呼ぶことができます。
一方、根本的な原因が何かは置いといて、持ち前の心身機能の中で起きている事柄の中で、定型的な「症状」と定義して、我々自身がそれを不具合として困るものを、「障害」と呼ぶことができます。ここでは正常と異常の境目は必ずしもはっきりしたものではなく「困り具合」が明らかに決まった形になるものを「障害」と言うことになります。たとえば「難聴」は障害の一つです。

そうした「障害」として定義できる「症状」として、「正常じゃない」と言って間違いはないだろうと言える特徴を、「病理性」と言うことができます。
たとえば難聴では、その「聞こえない程度」を病理性として、障害だと定義するわけです。

障害の根本原因は、何らかの病気怪我にあることもあるし、そうではない障害もあります。ただし「原因のない障害」というのはなく、そのように見えるのものはまだ未解明だということになる。これが医学の基本発想だと思います。僕もそれに賛成です。
たとえば、老人性難聴という障害になる人もいればならない人もいる。その違いの原因が今は何も言われていないとしても、DNAの違いでなりやすい人となりにくい人がいて、「加齢」という要因によって聴覚神経の機能低下を起こすような細胞組織の変化が起きる、などなど考えることができます。
医学用語の基礎知識でした。

さてそれで「心理障害」を考えるとどうなるか。まず心理障害を「障害」と言わしめる、「病理性」を指摘できる「症状」は何か。
今まで説明した心理メカニズムの中では、心理発達課題の損失をめぐる情動の各種変形、つまり皮相化荒廃化は、まだ日常の人間心理の世界であり、障害と呼ぶような明瞭な「歪み」を指摘できるものではありません。
心理障害構造の3源泉について、それぞれ障害としての特性を言うことができます。

残存愛情要求においては、「愛の渇望度合い」については言いようがなく、自分を他人の心が取り囲むように感じられる「一体化幻想」が、その「現実からの解離性」によって障害症状と言える可能性のあるものになります。ただしこの幻想感覚は残存愛情要求単独の症状ではないように思われます。
感情の膿は、その「精神破滅さえ引き起こし得る」ストレスの強度が、障害と言い得ます。「意識体験不可能なままストレス源になる」という「自己不明性」も障害と言えるでしょう。
自己操縦心性は、現実覚醒レベルの低下という端的な特徴が、障害と言うことができます。その心理メカニズムである現実離断によって起きる精神性の乖離自己像固執なども、「障害」なのです。これが僕の考え。

でそうした「障害」と呼びえる心理現象として、まだ詳しいメカニズムを言わないままでいたのが、今解説しようとする「感情の偽装」に関連しているんですね。
「心理障害の病理」としても、上述の「障害」の病理は、まだ静的で消極的な病理です。まあ「現実をありのままに生きることができなくなる」という病理と言えるでしょう。
「心理障害の病理性」として際立った特徴として既に言っていたものとは、例えば、2005/07/10「望みのメカニズム-6:「他者により自分の望みが決まる」というちょうつがい」で言ったのは、「空想と現実の逆転」「真実と要求の差し替え」そして「感情の偽装」でした。

うまく生きることができなくなるだけではなく、「狂う」というあまり望ましくない言葉で表現されてきた病理性の細かいメカニズムを、ここでようやく説明することになります。
まずは「感情の偽装」という視点で。それが果たして「空想と現実の逆転」「真実と要求の差し替え」までを説明できるか、考えてみましょう。

その考察によって、心理障害の「病理性」の根源が、かなり明瞭になってくると思います。そしてそれを支えるメカニズムの大きなものが、「夢」のメカニズムに関係していることを考える時、「心理障害の病理性」は実は身体について言っていた「病理性」という概念では捉え切れない、何か深い人間の業とでも言うべきものを浮き彫りにするのでは、と感じるのが、これからその考察に入ろうとする僕の予感だったりします。

ということで「感情の偽装」のメカニズム定義から。

No.996 2006/06/10(Sat) 15:52:59

サイン入り初版本販売! & 今後のサイト変更予定 / しまの

サイン入り初版本販売の方は予定通り準備できましたので、今夜にもお知らせをUpして、その時点で申し込み可能開始としますので、希望する方は申し込んで頂ければ。

サインはどんな感じにしようかと結構考え、芸能人によくあるミミズがにゅるにゅる這ったようなやつは今いち作り方が分からず、もう普通に名前書くだけでいいかーとか考えたものの、色々やっているうちに程よく崩してバランスの良さそうなのが出来てきた次第。
先にお見せしますとこんな感じ。
http://tspsycho.k-server.org/books/img/book01_sig.jpg
「野」の字空飛ぶ宇宙円盤のような楕円を書くのがポイントなのです♪
なお今回のサイン本は2006.6.10と皆同じ日付を記入しています。

まあ大した冊数になるものとは考えてないので、正式流通前の今月一杯の受付としようと思いますが、万一今手元の冊数で不足が出ても用意できるかと思います。

なお今後のサイトの変更予定としては、7月になったら今度こそ読者数の拡大を想定し(でなきゃー後が続かない^^;)、この掲示板を僕からの一方通行モードに変更予定です。
あと写真集の方もいずれ本にしたいと思うので、これも今月一杯で全部の公開は終えようと思います。新しいのだけ一定期間のみ載せるようにしようかなと。好きな写真でとっておきたいものがあれば今の内に画像でも保存してもらえれば。

よろしくで〜す。

No.993 2006/06/09(Fri) 11:59:57

 
Re: サイン入り初版本販売! & 今後のサイト変更予定 / しまの

今Upしましたんで、よろしくで〜す。

No.995 2006/06/09(Fri) 20:43:35

自己操縦心性の成り立ち-86:「アク抜き」と「アク毒」-5 / しまの

■人間の根本変化をめぐる残テーマ..

さて、「アク抜き」「アク毒」という心理メカニズムに、人間の「善悪」という観念の根源がある。それに対しハイブリッドは如何なる姿勢を取ろうとするのか。

多分今回は、そのメカニズムを十分実感できる具体例描写には至らず、読者の方からも未消化のまま終わるであろう(?^^;)このメカニズムは、単独ではその姿がほとんど掴めないものです。
それはあたかも、人間の根本変化をめぐる幾つかの最も重要な心理現象が、水面上に頭だけ断片的に姿を見せる時に、水面下にあって全てをつなげている歯車のようなものが、そこにあるのを感じさせます。

根本変化をめぐる重要な心理現象として解説に残されたテーマとは、自己操縦心性による「感情の偽装」があります。そして偽装される感情の双頭とも言えるものが、「」と「苦しみ」です。苦しみは「憎しみ」につながり、「愛と憎しみ」という人間の業とも言える姿が、ここで出てくることになります。
「感情の偽装」に、「病理」という側面が出てきて、「治癒」という現象がテーマとなる。治癒によって、感情の偽装が解けるわけです。
その時、愛と憎しみがどう変化するのか。変化の内容は「魂」に依存し、その成長を「治癒」が開放する、ということになります。その「開放」とは何なのか。

そしてそれらに向う姿勢としてハイブリッドが呈示するのは。「感情の偽装」は「解く」ことはできないというのが、結論です。「解く」ことはできず、「解かれる体験」がある。
それに向って歩むという方向性は、言うことができるでしょう。これがハイブリッドの最後の結論とも言えるものになります。その「方向性」を具体的に示すのが、「魂の摂理」だということになります。

つまり、我々は解くことのできない「感情の偽装」を持つ。これは人間の限界であり、不完全性です。
偽装された感情に「愛」と「苦しみ」がある。心理障害の病理という時、その欺瞞性は恐らく同等です。どっちが正しく、どっちが間違いだと言っても、いいんです。
そして「愛」と「苦しみ」の欺瞞は、おそらく同時に生まれる。残るのは、このどっちを向くかというベクトルです。

ここでそれを決めるものとして出てくるのは、「能動的自己」です。僕が大学院まで心理学を学び、一度それに別れを告げた時の結論がそれでした。「能動的な自己の発見こそが最大の課題である」。それは一定の基準で自己を規定することではなく、「生」を楽しむ人間の本性を開放することで生み出される。
これが、「神の国から放たれた野へ」ということです。

..と思考が完結するまでつらつらとキーワードを書きましたが、「アク抜き」と「アク毒」は、これら一連の話の中で「感情の偽装」を説明する、「メカニズムの話」としては唯一に近いものになります。あとは「メカニズム」という「見える」心の世界の話ではない、「見えない」魂の世界の話になってきます。
あとは「能動的自己」を捉えることができるか。これは「受動型」心理要素へのアンチとしてごく輪郭を把握することができますが、その中身は「未知」だということになります。


..と何を言っているのか分からないような話が最後にどかっと出てきている印象をお感じの方も少なくないかも知れません。
今回は僕自身がようやくこの辺の領域の試論を始めたということですね。とにかくメカニズムとして整理した部分と、試論部分が多少入れ混じるかも知れませんが、今見えている範囲を今月中に簡潔に記すのを目標に書き、掲示板解説を絞めようと思っています。
領域としては全てを網羅したことになるでしょう。詳細に具体的姿として書くのを、一生かけてやっていくということになると思います。

ということで「感情の偽装」のメカニズムを次に。「愛」と「苦しみ」。これについて一通り解説して「自己操縦心性の成り立ち」シリーズも絞めかな。その100までは行かない感じだったか..^^;

No.994 2006/06/09(Fri) 15:14:50

自己操縦心性の成り立ち-85:「アク抜き」と「アク毒」-4 / しまの

■「自己理想化vs自己嫌悪」と「アク抜きvsアク毒」

抑圧と「アク抜き」の違いという話をしましたが、今度は、今までこの「自己操縦心性の成り立ち」シリーズで長く解説した「自己理想化」と「自己嫌悪」というメカニズムに対する、「アク抜き」と「アク毒」との違いについて説明しましょう。
実際のところ、「アク抜き」というのは、それを単独で捉えることはかなり難しいものに思われます。それが起きる流れの全体を見た時、その独特性が浮かび上がってきます。

「自己理想化」「自己嫌悪」という軸でみた時、心理メカニズムの多くは、感情の膿への防御の結果できた意識土台の上で動くという感じになります。
現実離断自己像固執の中で、心理発達課題達成済みの自己イメージが描かれ、個人はそれを「なるべき自分」と感じ、自己操縦に駆られ、それとは違う現実の自己を激しく自己嫌悪します。
自己嫌悪感情から逃れるために、自己離断などのメカニズムが働くと同時に、自己嫌悪は外化され、自分が嫌われ不信の目を向けられるという感覚が生み出されます。

これを解く取り組みとしては、まず何よりも「不完全性の放棄」による否定型価値感覚の放棄が重大です。これが上述の意識土台の上の動きを停止させ、意識土台の「素の」状態に戻すような位置付けになります。
また、外面に関する自己嫌悪の形を借りた、内面に関する自己嫌悪を感情分析するような解きほぐしも重要です。より自分の本心に近づく歩みが、内面の力の回復につながっていきます。

そうして感情の膿によって作られた「壁」に近づくまでが、そこで主に成されることです。
「壁」の突破は、「アク抜き」「アク毒」そして自己操縦心性の崩壊という視点で表現できる現象の方に強く関連します。

「アク抜き」と「アク毒」は、まるで、「壁」をはさんで起きるやりとりのような流れを想定できます。今までの話が、感情の膿に触れない世界で起きていたような感じであるのに対し、今度は感情の膿に直結する動きが起きます。
分子の組み合わせによってできる物体の世界のメカニズムではなく、元素同士の変化をもたらす電子の移動のメカニズムの世界の話のような..ってこの例えは無理があるか^^;


■「アク抜き」と「アク毒」の動きの例

そうしたイメージで、このメカニズムの動きの例を3つほど書いて見ましょう。これがそのままメカニズム定義説明になると思います。

例1:異形なる者という被嫌悪イメージ
善意から、もしくは悪意のない好意感情と感じる中で相手に近づき、想定外の否定的な態度に出会った時、まるで自分が消滅すべき汚物のように受け取られたという、幻想的な被嫌悪イメージが現れる。吐き気と目まいの伴うような生理的不調状態が現れる。

これは「相手に関わろうとする」衝動に内在した自己中心的利己性が「アク抜き」され、代わりに、吸血鬼のようなおぞましさといった感覚が自己否定感情の膿と結びついて出来た、いかにも「毒」のような「感情」とも何とも言えないものが出来たという感じです。
それが「外化」され、相手にそれを抱かれるという感覚になっているわけですが、通常の「自己嫌悪の外化」による「自分は嫌われる」という、まだ日常感情の言葉で表現されるレベルを超えた、「異形なるもの」に向けられる感情という「異常心理」の世界の代物です。

例2:自傷衝動を引き起こす苦しみ
望むことができない。望むと屈辱感の色濃い苦しみが現れる。

これは「望む」という心の動きに付随した皮相化荒廃化の色彩、例えば「幸福になることで他人を見返し軽蔑する」といった攻撃性の色彩が「アク抜き」され、それが自己否定感情の膿と結びついて「アク毒」が生まれている。この状況で、何かを望んでフラストを感じることは、アク毒を刺激する。フラストが葬り去ったはずの復讐心を呼び覚ますというよりも、復讐心という「荒廃化の色彩」を凝縮した、「自分の中にあるべきでないもの」の象徴である「アク毒」が流れるという動きに変形したわけです。

これは実は、リストカットなどの自傷衝動が生まれる苦しみ状態の、僕の解釈です。その状態では間違いなく、受動型自己アイデンティティによって「良い感情に優越感」「悪感情に劣等感」を感じる状態になっており、その中で悪感情への耐性といった心理学姿勢もないまま感情の膿に触れることは、一種狂気的な苦しみ感情を生み出すことが予想されます。自傷という「転移行動」によってなんとか軽減が図られのも、もはや当然と言える状態になるかも知れません。

例3:「道徳の人」の完成
最後の例はちょっとおまけですが、「アク抜き」と「アク毒」のメカニズムの現れと感じられる典型のもうひとつの姿は、他ならぬ「普通の現代人」です。心理障害傾向など表には出さず、善悪観念を持ち、悪いことには怒り、正しくある者は尊敬されるという漠然とした期待の中で生きている、普通の人。

人を踏みにじり得をしようというような皮相化荒廃化した感情の芽は、幼少期のごく早期に、適切な「躾」によって刈り取られ、その代わりこの世には「自分勝手」「我がまま」「甘え」という糾弾すべき悪しきものが存在し、それは自分のことではなく非難する側に立つことに安堵し、万一自分がそんな「甘え」に低迷し働き続けることができなくなったら、それを「うつ病」と名付け脳の病気と弁明し、休んで薬を飲んで元気が回復したら、また「普通」に復帰する、というような、「普通の人」です。

上の2つと、心理メカニズムは同じなんですね。程度の違いが、ある段階で表面の姿に質的な違いを映す。それだけのことでしかありません。
以前2005/06/07「ペーターさん感想への返答-4:新しい人..ニーチェ..」で書いた「自然の人」と「善悪の人」というのは、このことを言っています。「アク抜き」と「アク毒」によってできた殻である「善悪」の中で生きる。それが現代人の姿です。

それに対してハイブリッドは何をしようとするのか、考察を続けましょう。

No.992 2006/06/08(Thu) 17:25:50

自己操縦心性の成り立ち-84:「アク抜き」と「アク毒」-3 / しまの

■「アク抜き」と「抑圧」の違い

「アク抜き」のメカニズムの詳細を理解するにあたっては、それ自体を描写するよりも、まず似た心理メカニズムである「抑圧」との違いを把握しておくのがいいでしょう。

「抑圧」は、個人の心の中に「実在」する感情が、本人の意識ではそんな感情はないかのように強く押さえつけられる現象です。意識の表面にはしばしば、抑圧した感情を何とか塗り消そうと、抑圧した感情とは反対の性質の感情を身につけようと駆り立てられる、ストレスの強い心理状態が生まれます。

典型的なものは、残存愛情要求の抑圧と、相手を叩きのめす優越感に快を感じる、荒廃化したサディズム衝動の抑圧です。
残存愛情要求の抑圧では、愛を求める依存的感情が、愛を求める真の感情もろとも抑圧され、代わりに意識表面には、「こんな歳にもなって!」という「大人らしい振る舞い」への頭越しの理想態度が典型的に生じます。
サディズム衝動の抑圧では、極めて鬱屈した圧迫感の色濃い、卑下的態度が典型的に生じます。人前では自動的に温厚で卑下的な態度を演じ、心の底にはこの世の全ての破壊的批判が沸騰しているという、ちょっと典型的な人物像が想像されます。
(参考:2004/12/05「抑圧されたサディズム衝動の理解と克服-5からの4カキコ」)

治癒過程としては、抑圧の場合、抑圧された感情が開放されありのままに体験されるというのが、一度通る道になります。かくして「醜いアヒルの子」は、自分に人を惹き付ける魅力と能力が実はあることを自覚すると、それまでとは別人のように、異性の心を惹きつけるゲームにのめり込む感情とそれが成功することの快感を、自覚するかも知れません。
それが実は自分が深い来歴の中で失ったものへの屈辱を見返す、自分が本当に求めるものの代用品でしかないことを自覚できる道が始まりのは、それからです。

「アク抜き」の場合、それとは違う治癒経過が観察されます。
「アク抜き」される典型的感情とは、見せかけ自己顕示衝動相手を利用し踏み台にして自己陶酔などの得を得ようとする衝動、そして自分だけが尊敬や愛情に値するという特別扱いへの要求衝動などの、変形した情動が帯びる「色彩」です。

「色彩」という言葉をここでまた使うのは、感情そのものが抑圧されるのではなく、本人にとって「出来そこない人間」と感じられる、より正確には「出来そこない嫌悪」の膿に触れる可能性のあるような、受け入れ難い「皮相化荒廃化の色彩」だけが本人の意識において消去されます。
本人の意識においては、それが「特別扱い要求」だという感覚はない。もう違う色をしている。しかし姿はどう見ても「特別扱い要求」だというような姿になり得ます。

「アク抜き」された皮相化荒廃化衝動の克服は、いちどその感情をありのままに自覚するという経緯には、あまりなりません。
本人が封じ込めた「悪しき衝動」への本人の嫌悪は、「抑圧」とは異なり、偽りではなく本物です。彼彼女は実際それによって、ある種の清廉な性格を現実において獲得します。
しかし彼彼女の心がストレスにまみれていることは、あまり変わりません。それによって彼彼女は恐れや怒りや罪悪感に駆られることが多く、それはしばしば一人相撲の姿です。そんな自分の姿に激しい自己嫌悪感情に駆られる「自己像固執」にも、変化はありません。

「抑圧」は、それによってもたらされる心理構造の不安定さにより、早晩自然に自己理解の中で解かれる方向に向かう力を内在させています。
「アク抜き」の結果は極めて安定しています。多分人が「これが障害ではなく性格の部分なのだ」と感じるものになるでしょう。それがどう変化するのかなど検討もつかないし、「一生変わらない性格」なのだと考えるものになるでしょう。

「アク抜き」のメカニズムが解消されるのは、いままで埋葬されていたような「望み」が回復し、その自発的能動的な欲求の力が、アク抜きされた「皮相化荒廃化の色彩」への意識上の嫌悪に触れる危険を凌駕した場合です。そして自発的能動的な行動に出るという「現実性刺激」が、「幻想的自尊心」を破ることで、「アク毒」と化した感情の膿が放出される、という現象が起きます。
これが自己操縦心性の崩壊です。

輪郭説明としてはそんな感じで、細部の話を今できる範囲で進めます。

No.991 2006/06/08(Thu) 12:46:56

自己操縦心性の成り立ち-83:「アク抜き」と「アク毒」-2 / しまの

■「アク抜き」の位置付け

「アク抜き」というハイブリッドの中でも一番奇妙な(?)用語で呼ぼうと思う心理メカニズムの説明。

まずその位置付けですが、かなり大きな広がりが考えられるものの、今回はこれを「自己操縦心性による幻想的自尊心」の作成維持のメカニズムとして限定的に解説しておこうと思います。

というのも、「自分自身からの逃避」というテーマで解説した心理メカと同様、根源は基本的に感情の膿にあり、その防御として意識制御不可能な病理メカニズムとして起きるものである一方、単に防御という消極的位置付けを越えた、「幻想的自尊心」の作り出しという積極的位置付けが最も大きな特徴だからです。

感情の膿への防御の流れとしては、能動的自発的な望みの停止があり、思春期における現実離断の発動があり、それによる精神性の乖離自己像固執という意識状態があり、さらに自己理想化衝動の消去という自己離断があります。
しかしそうした「逃避」の動きだけが意識制御不可能な自動メカとして起きるのではなく、この意識土台において自尊心を生み出すという積極的な動きも、やはり意識制御不可能な自動メカとして起きる。
かくして、「心理障害者」が単に苦しみあえぐだけの人間ではない、幻想の中で現実の自分とは別のある尊大な存在になろうと空想の世界に飛翔する、もうひとつの顔を描写できることになります。

だとすれば、自己操縦心性の崩壊という最大の治癒ポイントが、人格破綻における精神状態悪化と一見して紙一重のような絶望感情を生み出す意味が、明瞭になってくるものと思われます。
つまりそれは「幻想的自尊心の崩壊」です。単純に「自尊心の崩壊」ということだけを抽出するならば、これは治癒として起きるものも、心理破綻として起きるものも、実際のところ本質的に同じものかも知れません。

根本的に違うのは、治癒として起きる場合、それは「幻想的自尊心」が「現実における自尊心」に脱皮成長するために、必ず通らなければならない通過点だということです。つまりそれは「成長の痛み」です。

そして僕としては常々、この最大の治癒ポイントにおいては最悪の精神状態がおき得ると、いわば担保として、「実存を維持するだけが課題になる場合がある」というような言葉を言っていますが、もはやこの取り組みにおいては、それが恐れるほどの痛みにはならないことを、かなり楽観的な感覚の中で感じているのが最近の僕の実感です。

なぜならば、「絶望は問題の深さを示すものではなく、解決の無知を示す」ものでしかないんですね。この取り組みの先に、奇跡とも言えるような(そんな言葉を使うことを憚らないでいいと感じられるほどの)根本変化が起きるということが、僕だけの事例としてではなく起き始めているのを感じるのが、ここ最近なのです。
サイト始めてもう4年も近づいてますからね。そろそろそんな事が出始めていい時期かと。


■「アク抜き」による幻想的自尊心創出のメカニズム

ということで、「現実における自尊心」への成長への通過点としていずれ崩壊をせざるを得ない「幻想的自尊心」として、「アク抜き」のメカニズムを説明しましょう。

これは、現実離断の結果発達してきた「高貴なる精神的」と、一方で望みの停止の結果発達してきた「情動の皮相化荒廃化」という、完全につじつまの合わない精神構造を、何とも巧妙なからくりで補修し、この人間がひとりの分裂のない存在としてその「生」に向うための硬い鎧を作り上げるメカニズムのように思われます。

そのメカとは、情動における「皮相化荒廃化の色彩」だけを消去抑圧し、それが成功していることにおいて、世界が自分を尊敬し愛するはずだという「望む資格」の感覚とイメージが生み出される、というメカニズムです。

なんか書いていて、これって「道徳観念」そのものじゃん..との感もありますが、まあこれが理性思考においてではなく、意識土台で動くことに、病理としての側面があります。
というか、この心理メカニズムを知性化したものが「道徳」の観念だと言うのが正しいように思われます。
そして知性的道徳観念を完全に崩壊させても、この心理メカニズムの核は強力に働き続けます。だから根本変化は思考法だけでは達成できず、心性崩壊という通過点を持つことになるわけです。

知的思考において道徳的観念が維持されているのならば、この幻想的自尊心のメカニズムの解除など全く見るべくもないでしょう。
善悪の完全なる解体、そしてサバイバル世界観の中で前に進む価値観を獲得した時、初めて、この幻想的自尊心を不実なものと自覚し、それを越える「現実における自尊心」へと成長するため、一度命綱を切って闇の中に飛び込む勇気が生まれてくるものと考えます。

とりあえずここでいったんカキコし、より詳細なメカニズム考察を続けましょう。

No.990 2006/06/08(Thu) 10:35:40

自己操縦心性の成り立ち-82:「アク抜き」と「アク毒」-1 / しまの

■自己操縦心性が組み立てる鎧

さていよいよ「アク抜き」「アク毒」という、ハイブリッドが説明する心理メカニズムの最後の核のからくりとも言えるものの解説に入りますが、「自分自身からの逃避」というテーマとしてではなく、単独テーマとして書こうと思います。

というのも、この心理メカニズムの要はやはり自己否定感情の膿からの防御になるのですが、そうゆう局所的機能にとどまらず、この心理過程にある人間が彼彼女の「生」に向おうとする姿そのもの、つまり自己操縦心性によって作られる、この人間の「生き方」としての硬い殻、鎧のような姿になるからです。
今までの心理メカニズムが最終的に組合わさる姿であり、それが硬い意識土台として、「壁」のように硬く維持される姿になります。

同時に、この硬い組み合わせ結果が瓦解することにより、それにより阻止されていた魂の成長が大きく開放される。それが自己操縦心性の崩壊という現象だということになります。

まず、この硬い殻を組み合わせて行く、心理メカニズムの柱から見ていきます。


■多重化した欲求の湧出

まず人を生かす原動力となる「望み」ですが、この心理過程の中で、来歴を通して大規模な「望みの停止」が起きることを指摘しました。
一つは自己否定感情の膿による能動的願望の埋葬です。これが幼少期から起きている最も大規模なもので、現代人は基本的にこの上で生きていると考えるのが妥当です。その上でさらに思春期以降、現実離断自己離断により、現実を見下し願望が全般的に希薄になり、その中でも描かれる自己理想化衝動さえ消去される一方、自己理想化の挫折による自己処罰感情などの悪感情は消去されないまま体験されるという、はなはだ不満足な心理状態が生まれます。
(参照:2006/05/08 自己操縦心性の成り立ち-66:自分自身からの逃避-2からの3カキコ)

で、「望みの停止」は自己否定感情の膿に触れないよう、「望まなければ失うことはない」というような観念の中で、もしくは「望む資格」思考という頭越しの破壊型理想の観念の中で取られる。本人はそれが「欲求」という信頼の置けないもののたずなを引き、心を安定させるためのことであるかのような感覚の中で「望まない」姿勢を取るのですが、「望みの停止」は情動全体の皮相化荒廃化を招くという、大きな心理メカニズム原理を免れません。

望まないことで安定させたはずの心に、やがて、雨後の筍のように、皮相化荒廃化した欲求が湧き出ていることを、本人が何かそこに「人生の悪意」を感じるかのように、自覚することになります。
皮相化した欲求とは、ようは、外面の見せかけで衆目や人の心を我が物にしようとする欲求であり、荒廃化した欲求とは、破壊性を帯びた欲求、つまり相手を奴隷のように操ったりいたぶることに快感を感じるような欲求です。

皮相化荒廃化した欲求は、主に自棄的な感情の中で苦いフラストレーションと共に体験される一方、比較的安定した心理状態においては、心理メカニズムの勉強としては何となく分かるものの、どこか他人事のような、自分のこととしてはどうも浅い問題であるかのように感じられる方が多いのではないかと思います。
実際、そこに「アク抜き」のメカニズムが働いているわけです。まこの説明はもうちょっと後で。

理屈の上では、望みの停止により、欲求の皮相化荒廃化が起きます。
しかしこの人間の心に湧き出る欲求がおしなべて皮相化荒廃化するのではなく、その後何が起きるのかというと、まるで双頭のヘビのように、皮相化荒廃化していない純粋無垢な欲求もそのまま、そして皮相化荒廃化した欲求も、という感じに、多重的に欲求が湧き出るようになる。これを基本的な実態の姿として考えるのが正しいように思われます。


容易に想像できる(?)かも知れませんが、これこそが、人格多重化への芯です。
「愛」を例にするなら、純粋に相手を愛する感情、愛する自分の姿によって何者かになろうとする衝動、そして相手から情動を吸い取り利用しようとする破壊的な「愛」が、湧き出るという感じになります。
この状況において当然本人は「どれが本当の自分の感情なのか」という苦悶に陥りますが、その問いは全く無駄です。どの感情もその人間の「心の現実」を示すものであり、一つの感情であるかのように体験したものを切り分け、それぞれに全く異なる心の姿勢を確立することが答えです。


■感情の膿を起点とした皮相化荒廃化の自己循環

多重化して湧き出るようになる欲求の、基本的な流れを考察しておきましょう。

まず起きるのは、自己否定感情の膿の影響で、自発的能動的な望みが停止されることです。この結果、受動的価値感覚の発達と共に、受け身に与えられる形での欲求が湧き出るようになります。この段階では、「皮相化」が情動変形の主な要素になるでしょう。
「望みが断たれた」という感情を明瞭に体験するのは、受身的欲求も挫折した時です。憎悪復讐の感情が生まれ始め、欲求が破壊性を帯びる荒廃化が起きます。

すると今度は荒廃化した欲求が、自発的能動的な望みとして新たに出現するようになります。つまり、自分から望むとは、人を打ちのめして利を得る、自己中心的利己性として感じられるようになります。
一方で、受け身に与えられる欲求を満たすためには、自分がそれに値する価値ある存在である必要があり、自己理想像が融通の利かない高いものになります。この自己理想像からは、能動的欲求が帯びた荒廃化は受け入れ難いものになります。

かくして、「自ら望む」ことは禁避されるという振り出しに戻ります。さらに受け身に与えられる欲求へと傾き、それが満たされないフラストレーションが、情動の皮相化荒廃化に拍車をかけます。

この自己循環の中でかけ離れていくのが、融通の利かない清廉とした自己理想化像と、皮相化荒廃化した自己中心的利己衝動の隔たりです。しばしばこの隔たりが修復不可能なほどの大きさになり、人格分裂の様相を示すに至るメカニズムだと言えるでしょう。


■「2つの大きな力」と最後の防御機能

そのような人格破綻に至らないレベルでは、心は様々な方策でその隔たりを修復しようとします。
方向性としては大きく2つになるでしょう。清廉な自己理想化像を取るか、自己中心的利己衝動を取るか。「望むものから排斥される」という自己否定感情の膿に触れるのを防ぐために、前者では「自らは望まない」姿勢により世界から尊敬されるという幻想的自尊心が強調され、後者では「排斥される自分」に自己同一視することで、「望むもの」の深い部分を切り捨て、皮相化荒廃化した衝動の開放に流れるという方向性になります。

この心理過程のそれ以上の詳しい結末は、もはや考察するにはあまり及ばないでしょう。特定のレベルで平衡状態になるか、それとも人格破綻へと向うか、その中でどのベクトルが優勢になるか。それは問題の程度とその人間の資質や環境によって千差万別のバラエティに広がります。

そのバラエティを整理するよりも重要なのは、まずなによりも、この心理過程全体を進行させる根本的な力と、それとは正反対の方向、つまり本性の開放の中で浄化された望みと戻り、分裂した人格を統合へと戻す力という大きな2つの大きな相反するものの存在です。
問題の根本は「望みの停止」と「感情に立脚した思考」にあったと言えるでしょう。それとは正反対の力は、「魂の成長」へと向う力であり、それを支える「現実に立脚した思考」と言えるでしょう。この根本となる「魂の成長への力」とは一体何か。ハイブリットではそれを「魂の成長の摂理」として捉えようと考えています。「魂の成長の成り立ち」で説明しましょう。

そしてもう一つ。人格形成のバラエティを越えた、自己操縦心性による最後の防御機能を理解することで、この心理過程の全てを我々は視野に入れることができます。その防御機能ゆえに、清廉な自己理想化像も、荒廃化した自己中心的利己性も、実は同じものでしかなくなってくるというパラドックスがあります。

そして実はこれが、我々全ての現代人の姿ではないかと。それを免れた完璧なる心理的健康を求めた時、同じ轍に戻ることになります。
姿ではなく、方向性に、完全に袂を分かつ「選択」があります。自分に問うことができるのは、それを歩むか、歩まないか、だけです。

ということで、不完全なる人間が免れない「姿」である、最後のメカニズム「アク抜き」「アク毒」、そしてそれを突き破る動きが、根本治癒としても悪化過程としても一見似た姿で起きる、自己操縦心性の崩壊について考察していきます。

僕自身の理論整理優先のため(書くことで整理が進むんですね♪)例により抽象難解な文章かと。書籍の方で分かりやすくじっくりと書きますのでこうご期待を..。

No.989 2006/06/07(Wed) 11:22:16

トップページ・リニューアル\(^^)/ / しまの

先ほどトップページ・リニューアルをUpしました。書籍情報の掲載を開始です。

サイン入り初版本の販売6/10あたりから今月末までの受付にて行なう予定で準備中です。
よろしくで〜す。

なおメール連絡についてのお知らせなども新たに掲載しましたので一瞥頂ければ。今は問題のある状況ではないと思いますが、とにかくスパムが多いので..
あと「ハイブリッド心理療法」という看板も下ろしてあります。基本的に「療法」とはもう言わない予定です。「療法」っていうと「定められたことを遵守することで治癒する」というニュアンスがどうしてもあり、それはハイブリッドではなしなんですね。あくまで「心理学」ということで。

No.988 2006/06/03(Sat) 10:04:49

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