■ 自己操縦心性の成り立ち-96:克服に向けて-7 / しまの |
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雑文調はそんなとこにして..と書きましたが、やっぱもう少し雑文調で。こっちの方が本質が分かりやすいかも知れません。
■「絶望を経た歓喜」のメカニズム
前カキコまでのまとめ。 治癒メカニズムには、1)今の人格内における向上と、2)人格の根本的治癒変化という2局面がある。後者は自己操縦心性の崩壊というメカニズムがある。これは定型的な心理過程で起きるものであり、その際には「自分は結局駄目だ」という絶望感情が起きる。 さらにこの本質を考えたいと思います。
理論整理という視点をちょっと離れ、改めて、何のために、この意識体験上は最も避けたかったとさえ思える峠へと、僕としては積極的に向おうと感じるのか、その価値とは何なのかを、浮ぶままに考えてみました。
一番感覚的に分かりやすいのは、人が死に直面するような体験を経て、初めて「生きる喜び」を見出すという出来事です。こうゆう話を見聞きすることは結構多いと思います。 心性崩壊によって得られる価値とは、それなんですね。わざわざ実際に臨死体験などなしに、心理学的技術としてそんな体験を持つということです。
詳しい考察をする以前の実感として、僕自身の変化体験は、それなんです。一度内面において死んだわけです。今ではその実感さえないほどですが、僕という人間は一度死んだ人間らしい。 だから?何も恐いものがない。もしこの先災害や疫病をこうむることがあっても、喜々として自分は生き続けるという感覚があります。 不安や緊張の感情がない不動の人格者になった訳ではありません。態度外見はごく凡人でしょう。それを含めて、もう何も恐くないというのが実感なのです。
そうやって得たものとは何なのか。心理学的に考える。 まず至る結論は、「肯定型価値感覚」です。何もないところをベースにして、生まれるもの全てに価値を感じる感覚です。 これははっきり言って、どんな思考法によって得たものでもなく、心性崩壊体験によって、つまり僕自身の人格の外側で起きた変化だけが生み出したものだという確信的な実感があります。 得ようとして得たものではなく、いつの間にか湧き出ていたもの。あとからその存在に気がついたもの。
もちろん、肯定型価値感覚に立つ思考法というのはあります。人生で求めるものを、そこに置くという価値観です。でも肯定型価値の「感覚」そのものは、思考法では生まれませんし、心の姿勢でも、さらに心の技術で作り出せるものでもないのです。 肯定型価値感覚を生み出すものは、ただ一つ、命そのものです。むしろそれが何もせずに湧き出る状態が、本来のものだったのだと。それを塞ぐものがあったわけです。
もう一つ、自分の中に生まれた肯定型価値感覚の輝きに気づく前に、実感として感じた「得たもの」という感覚がありました。これがその話につながってくるでしょう。 それは「捨てたかったものを捨てることができた」という感覚です。これも思考法によって得たものではなく、極めて痛い体験の中で、ようやく自分がそれを実現した、という感覚でした。
これは何か。まあ「自分自身への嘘を隠したプライド」とでも言うべきものだったでしょう。 「プライドなんて捨てて自分の心を解放したい」と感じる方は少なくないと思います。でもそう考えて実際にそうなれる、そうできた人の話をきいたためしがありません。そう考えること自体が、実はそのプライドから生まているんですね。パラドックスです。プライドの中でプライドを捨てようとしても、それは無理というものです。
こうした話を考えていると、「建設的絶望体験」ということが浮んできます。キーワードとして結構出したことのある言葉です。 心底から絶望した時に、初めて見えてくるものがあるということです。 では何に心底から絶望するということか。それによって何が見えてくるということか。
上の話をつなげると、一つ答えが出てくると思います。つまり、自分自身への嘘をつき続けることに、心底から絶望するということです。 それによって初めて見えてくるものとは、自分自身に本当に正直であること、ということになるでしょう。 ただこうした日常思考の言葉で表現しただけでは、まだ本質をうまく表現できていません。
■安全の獲得
心性崩壊のみが自分に与えたものとして、もう一つ浮んでくるのは、「安全の獲得」というテーマです。 これは「生きる喜び」というテーマに直結します。なぜなら、安全が損なわれた所で、「喜び」という感情は基本的に損なわれるからです。身の危険を感じていては、食事を楽しむことなどできません。
感情の膿とは、自分が危険下にあるという感情の膿でもあります。これがある量に応じて、「生」は危険に満ちた、喜びの少ないものになります。 そしてこの感情の膿が「膿」という物質的なイメージのものとして存在し、それが実際に流れて消えていく、まさに「膿が出る」という体験を経た分だけ、感情の膿の総量が減っていく。そう実感として感じることができたのは、もうほどんどの問題が過ぎたと感じることができるようになった、本当に終わりの頃になってです。
感情の膿などというものがあり、流した分だけ消える。その代わりに「生きる喜び」が生まれる。 これはハイブリッドが説明する心理メカニズムの中で、意識上のつながりがない最大のメカニズムと言えるでしょう。
心性崩壊によって感情の膿が放出される。この現象を治癒の最大の鍵と位置付ける理由は単純です。 なぜなら、自分自身の中に危険を抱えるわけです。これはもはや如何なる逃避手段もない、危険下にあるということです。
■自分自身についた嘘のメカニズム
「自分自身についた嘘」そして「感情の膿」という2つの視点の先に、治癒メカニズムの最後のポイントとして説明しようとしてる「人格外衝動」なるものの本質が浮かび上がってくると思います。
それは、感情の膿などないと、自分自身に嘘をついたメカニズムだということです。 我々の意識が生まれる以前に。我々の人格の外側において。
幼少期の、意識体験の許容範囲を越えた「恐怖の色彩」が切り離され、膿として蓄積する。これは大阪池田小事件の子供の様子など様々な実例を通しても、何となく実感できると思います。 そして思春期の自我成長と同時に、それはもはや切り離されたままでいることはできず、人格に組み込まれ、防御構造ができる。 ここまでは何となく実感としても分かると思います。
しかしそうして出来上がった人格土台から、この問題の根本的解消に向う意識とはどんなものか。これを実感として描いてみることはなかなかなかったでしょう。
少なくとも想像できるのは、切り離されていた感情に再び対面することではあるでしょう。 今の意識が届く、「人格内」ではない所に追いやられていた感情への、再面です。
もうひとつの意味があるということですね。自分自身についていた嘘をやめるということです。しかしこの「嘘」は意識的についた嘘ではない。感情の膿から守るための防御構造メカニズムとしての「嘘」です。意識人格が働く前の、人格の根底においての「嘘」。 しかし、そうゆう根底深層にあるものも、やはり我々人間の「感情」であるわけです。しかも、最も濃い。
そう考えると、ことの本質が見えてくると思います。 我々の人格の外で起きていた「嘘」のメカニズムがあり、それが解消されるメカニズムがあるということですね。
これが「アク毒」のメカニズムです。心性崩壊はこれを焦点にしたメカニズムであり、これが「絶望を経た歓喜」のメカニズムだということです。 そんな位置付けとして、「アク毒」について分析的考察を続けましょう。
こりゃやっぱその100を越えるな^^; |
No.1010 2006/06/28(Wed) 23:31:50
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