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2006.09


ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-7 / しまの
No.1096 2006/09/29(Fri) 14:36:21

別カキコで幾つかの補足など。

まず補足以前の話ですが、「ハイブリッドのサバイバル世界観では子供が殺された時も怒りを捨てることさえ視野に入れたもの」という言葉について。

それに対して「そんな場合さえ怒らないなどまでして根本変化が欲しいとは思わない」というご意見があり得ると浮かんだのですが、それについて言えること。
その通り。まさにそれが「否定型価値感覚」ですね。その場合は、それがその人の現在の立つ位置だということをしっかりと把握するのがいいでしょう。ハイブリッドで言う「否定型価値感覚の放棄」とかの価値観変革は、「根本変化を目当てに」してそう考えてみようという付け焼刃では意味ないです。心底からそうした価値観世界観を持つかどうかの「選択」だということになります。

まあ心理メカニズム的には、その「選択」は、そうやって「怒り続ける」ことを選ぶか、それとも「怒りを捨てて生み出していく」ことを選ぶかの選択であり、もともと生み出すものを持たない者はどうしても怒りを選択する傾向に流れるとは言えます。
この辺はちょっと淡々とした表現になりますが、「選択」は本人の「選択」でしかなく、それができないときに「どうすれば生み出すことを選択できるのか」と問われても、もう何も言えることがない終着点に近づいてきます。
ただまあ、自分が生み出せるものは何なのかを、最後まで探し続けることだとは言えるでしょう。

いずれにせよ、ハイブリッドで「怒りを捨てるためのサバイバル世界観」とは、それだけラディカルなものだということです。

またこれも補足以前の話ですが、「怒り」を捨てるとは、「相手を許す」なんて話とは全く別のことです。罰を与えるのが良いと判断するのなら、与えるがいいでしょう。
「罰」は「怒り」ではありません。「罰」は行動であり、「怒り」は感情です。これは入門編で言った話。
感情としての「怒り」は完全に捨て、罰が必要であれば、これからの世界のために行う前進の一つとして行うがいいでしょう。これは「怒り」ではありません。

でなぜそうまでして怒りを捨てないと、損失は癒えないのか。これが理論的補足として言いたかったこと。
それは実に単純な理由であり、怒りの中では、「現実を生きていない」からです。「こんなことは起きるべきではない」と怒る時、それは空想に立つ心の動きであり、ありのままの現実を生きる時間にならないんですね。
だから心は変化しない。実に単純です。
これは一連の掲示板解説の大完結で言った話です。否定型価値感覚とは、空想を生きることなのだと。
(2006/09/11 大完結:自己操縦心性の崩壊とは何か)

もう一つの補足。「損失は悲しみの中で癒える」ですが、これにもやはり条件があり、前を向く姿勢の中でというのが条件になります。
逆に言うならば、自己否定自己破壊の姿勢の中で損失をいくら悲しんでも、それは癒えないということですね。これは「望む資格」という思考法を完全に脱することが条件になるということです。

事実、「望む資格思考」というのは、「そんな人間に望む資格はない」という一種の攻撃的軽蔑衝動ですが、相手の損失を喜ぶことになります。相手が自分であってもそう。
望む資格思考や怒りを捨てた、前を向く姿勢の中で、実は人は初めて「損失を悲しむ」ことができるのかも知れません。

「望む資格思考」を脱する方法は?
これは書いてきませんでしたが、まずは皮相化荒廃化欲求への対処一般論になります。感情を正そうとしても無駄です。
治癒成長取り組み全体を通して、それとは別の浄化された欲求が芽生え、皮相化荒廃化した欲求を打ち消すという、長い道のりを歩む必要があります。
「望む資格思考を脱する」ことが、損失が癒えるための条件であり、一方でそれは治癒の結果でもある。いたちごっごがここにもあります。

短絡的に目の前の問題を解決しようとするのではなく、「生き方」と「障害」がクロスするこの取り組みの全体を理解し、地道に歩むことが何よりも重要な基礎になります。


 
もいっこ付け足し^^; / しまの
No.1097 2006/09/29(Fri) 15:14:32

「悲しみの中で損失が癒える」ための条件として、「前を向く姿勢の中で」に加えて、あと一つあった。
「内面の損失が外面の損失に化けている時は、いくら悲しんでも癒えない」という制約があります。

これは自己肯定の損失の根本から目をそむけたまま外面を追い求めるような心理状況の話となります。この場合、外面についての損失をいくら悲しんでも、何も変わらないと思います。
これを解く感情分析が必要になります。「否定型」と「受動的」の心理メカニズムをしっかりと把握する。それにより「自己の重心」が失われた中で、本当に失われたものは何だったかの探求の歩みです。
否定型価値感覚破壊型理想受動的価値感覚受動的自尊心受動的自己アイデンティティ。ま否定型自己アイデンティティというのもあるでしょうね。

こうしたものは皆、「生き方」と「障害」のクロスの産物です。
成せる選択は成す。選択がなせないものは感情分析する。これが「地道な歩み」の基本になります。


ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-6 / しまの
No.1095 2006/09/29(Fri) 12:53:49

続き。
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■心のリロードを視野に入れる客観思考の実践

そのように、原理はきわめて簡単。損失は悲しみの中では癒えるが、怒りの中では癒えない
あとは怒りを完全に放棄するような考え方と姿勢を取るかです。心底からです。
だから、

>不快な気分は、どうしても安心できるケリや落としどころを捜し求めてしまうものですが、感情はそのままに、客観的思考との2面を同時に見る姿勢ですね。

ケリや落としどころを求める気分が心の底にあると、やはり結局それは「今の心にとどまる姿勢」になってしまうと思います。

「心のリロードを視野に入れる客観思考」とは、この原理を踏まえて、今の自分の感情を客観的に見る思考法です。

結局我々の脳は2種類の「心のプログラム」を用意しているようです。
今の自分の思考や感情は、そのどっちを表したものか。別の方の「心のプログラム」だと、どのように感じ考えることになるのか。
そして今、心のプログラムがリロードされる時か。

これを考えることができる状態が、「心のリロードを視野に入れる客観思考」が可能であるということ。
少なくとも、全く異なる思考感情をめぐって3つのことを同時に考える姿勢になると思います。
今の感情思考別種の思考感情。そしてリロードのあり方。

Aさんが書いてくれた「苦しい感情を深追いもせず、操作もせず、ただ見つめるという状態」とは大分違うということが感じられると思います。
「ただありのままの今を生きる心」に変化していくという方向感を加えたいですね。


■「神の国vs放たれた野」と「怒りに価値のある世界vs怒りに価値のない世界」と「評価に生きるvs生み出すことに生きる」

結局2種類の心のプログラムと書きましたが、まずこの違いの把握が重要ですね。
「魂の成長の成り立ち」シリーズで「神の国vs放たれた野」という話を書き、入門編からの基本として「怒りの無益さ」を書き、先のメールで「生み出すことに生きる」ということを書きましたが、根本は同じようです。

根底になるのは、魂が住む心の世界ということで、「神の国vs放たれた野」という捉え方が根源になると考えています。
「神の国」とは、定められた「あるべき姿」のある世界ですね。人の心は、まずこの世界に生まれる。

それは怒りが価値を持つ世界です。なぜなら怒りは本来弱さの現れですが、この人間の怒りを見た神がこの人間に味方するという感覚が根底にあるからです。
本人が「神」という観念をもはや意識上では全く否定していてさえ、感情はそんな風に流れるわけです。
つまり、「怒れば何かが良くなる」「怒らなければならない」「怒り続けなければならない」という根底の感覚の中で抱く怒りです。

「放たれた野」では、この人間の怒りを見て味方してくれる神はいないので、全てがこの人間の生きる能力だけに委ねれた世界になります。怒りは弱さであり、「自衛と建設」のためには全く不要なものになります。
損失に対して、安全が回復すれば、ただ悲しむ形になります。これは癒えます。

「神の国」の心だと、損失に対して怒り続ける形になるようです。怒れば何かが良くなるような感覚が拭い去れず、怒り続ける必要があるという感覚があるんでしょうね。
本人が意識的にそう考えるかどうかに関わらず、怒れば「時間が戻る」ことさえ求めるような心の動きになっているのではないかと考えています。
なぜなら、そんな損失は「あるべきではなかった」ことだからですね。

「放たれた野」では「あるべき姿」はないので、何でもありです。損失不遇は、単なる偶然のハズレくじを引いただけの話です。
怒っても、時間は戻らない。だから怒らないでただ悲しむ。

「怒っても時間は戻らない」というあまりに単純な話ですが、人間はどうもほとんどの人がそうは考えることが難しいようです
ニュースではあい変わらず、子供が犠牲になる悲惨な事件が報じられていますが、親は加害者を怒っています。
子供を殺されて怒らないことなど普通考えられないと思いますが(あくまで子供への愛情がある場合の話。心理障害でそれさえ損なわれるような話は置いときます)、そんな場合でさえ、「単なる偶然」「自衛能力の不足」として怒りを捨てるような姿さえ、ハイブリッドのサバイバル世界観は視野に入れたものです。

実際、大草原で肉食獣に子供を食われた親獣は、次の子供を産み育てる中で、悲しみを越えていきます。
ハイブリッドのサバイバル世界観は、というか僕のサバイバル世界観は、人間においてもその姿勢を視野に入れたものです。
まあ実際は犯人が生きているかぎり脅威が続くわけなので、何らかの報復は考えざるを得ないかも知れませんが。

なぜそこまで徹底して怒りを捨てることにしたのか。
それは「評価に生きる」のではなく「生み出すことに生きる」ことを選択したからですね。
怒りは「評価に生きる」中で生まれます。そして「評価」は必ず自分にも跳ね返ってきます。そしてそれは何も生み出さない。
だから怒りを徹底的に捨てることにしたわけです。

「生み出すことに生きる」を原動力にして、「不完全性の放棄(否定型価値感覚の放棄)」をなし「神の国から放たれた野」へ向かい、怒りを完全に放棄した、という感じですね。


■「意識破綻への防御」と「感情に頼る思考」

まずはそんな感じで、「怒っても時間は戻らない」ということを心底から認める、「神の国から放たれた野へ」出る人生思想を選択するかが、大きな鍵になります。

ただし、これは「選択」はできない場合もあります。「障害」がクロスするからです。「障害」が、「神の国の幻想」を心に映し出し続ける。

これは心理メカニズムとしては、感情の膿や人格亀裂に意識が触れる「意識の破綻」への防御が、最も意識の根底で働いており、その上で動く意識では基本的に「感情に頼る思考」が動くのではないかと考えています。
これはかなり難解な話と感じられるでしょうが、専門的な考察として、大元が感情を基準にした動きなので、その上で動くものも基本的には感情を基準にしたものになるという仮説です。

従ってこの場合可能なのは、感情および自動思考として「感情に頼る思考」が動くのを自己観察する一方で、純粋知性で「感情を超越した思考」を築くことができるかという、やはり2つの思考の同時並行といった姿勢が取れるかの話になってきます。

2つの思考の同時並行姿勢が取れたとしても、「感情に頼る感情思考」は変えられません。
それでも並行姿勢によって怒りに荷担しないと、大元の「意識破綻」が現れてくるように考えられます。これは具体的には全く理由の分からない恐慌感の類になります。これが起きると、根本変化は少し「ケタ違い」のものに近づいてきます。

それによって「生み出すことに生きる」という原動力が増えてくると思います。これが最初に言った中の「解除準備過程」ですね。
「神の国から放たれた野へ」という本格的選択も次第に視野に入ってくるかと。

「心のリロードを視野に入れる客観思考」とは、こうしたことを念頭に入れて自分を考える姿勢です。
かなり難解な話と思いますが、まず心理学として憶えてもらって、徐々に自分自身に適用して考えてみるという感じになると思います。
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ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-5 / しまの
No.1094 2006/09/29(Fri) 12:41:36

引き続きの返答メール文より。
「新たな心」を実際にリロードするとは、実際どのような心の姿勢心の動きの中でのことなのかの本論ですね。

返答メール中で書き漏れた重要な補足などもあとで加えます。
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■心のリロードを視野に入れる客観思考

「根本変化へと自らを積極的に導く姿勢」で、ただ「流す」だけだと20年もかかるような根本変化が1年で起き得ることも考えられるということですが、その「姿勢」に必要な条件はおよそ次の3つになるかと。

1)心の根本変化の原理を実感として理解する
2)それを妨げるものを理解し解除する準備過程
3)心の根本変化への時間を過ごす

その点、

>「頭では分かっているんだけど…」と思いつつ、苦しい感情を深追いもせず、操作もせず、ただ見つめるという状態になるのかなと思っています。体質改善と同じく、忍耐を必要とする姿勢ですね。

だけではちょっと違う、+αが必要になると思います。
まあ、

>ただこの2年の間、非常に苦しい感情に見舞われる事は何度もありましたし、それに耐える経験というのも積んで来れたので、きっと大丈夫だろう…とも思っています。

というのは「悪感情への耐性」ということではアドバンテージですね。
まあ根本変化をする際に通過する悪感情というのは、そうでない時の悪感情よりも概して「耐え難さ」はむしろ少ないように、僕の体験上は感じています。そうでない時の悪感情というのは、何となく自分が軽く宙に浮かせられ切り刻まれるような苦しみであるのに対して、根本変化へ向かう悪感情は、重く静かに全てをおおい尽くすという感じ。

心のリロードを視野に入れる客観思考というのは、こうしたこと全てを理解して、自分からそれに向かうために必要なものだと言えます。


■「根本変化」の種類

参考まで整理ですが、「根本変化」と呼んでいる、脳の構造が変わったかのような変化「心のリロード」は、2種類の形で起きると考えています。

1)治癒変化...緩やかな感情の膿の放出
2)成長治癒変化...心性崩壊とアク毒の放出
これはhttp://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpgで示した通り。
2006/09/18 治癒限界から考えるハイブリッドの基本-1
でも書いた通りです。

この2つを明瞭に分けるのは、「成長治癒変化」「望みに向かう行動体験」を契機にすることです。明瞭な心性崩壊とアク毒の放出は、望みに向かう行動による現実性刺激で起きます。緩やかな感情の膿の放出は、それは不要。
そしてこの2つで起きる根本変化の大きさはケタ違いだということです。

で、今回Aさんに説明しようとする「心のリロードを視野に入れる客観思考」は、最初の「治癒変化」の方のためのものです。「成長治癒変化」の方はまだ先の話。
Aさんの場合は、「流しても」まだ治癒変化にはならない状況が多々あります。

「根本変化」以外のものもろは、「現在の人格土台内での向上」に位置付けられます。思考法行動法の改善感情分析の一般的進展による効果など。
Aさんの場合も基本的にはこの範囲ですが、2年も続ければ根本変化のさわりくらいにはなるということですね^^;

根本変化の場合は、あくまで感情の膿の放出による変化であって感情の膿の放出そのものは長くてせいぜい数日なので、根本変化効果がある場合は1週間の前後で自分が別の人間になったのが分かるような感じになります。

ただし、そうしようとして「ではこれから心の手術をします」なんてことにはできず、上述した「心の根本変化の原理の実感」「妨げるものを理解し解除する準備過程」が大半の時間を占めることになると思います。
まずはいかにこれに向かえるかですね。


■心の根本変化の原理

まず「心の根本変化の原理」ですが、これは極めて単純なものが言えると思っています。
それは「怒りを完全に放棄した悲しみは癒えるが、怒りの中での悲しみは癒えない」と表現できると思います。

あくまで話を根本的な「治癒変化」に限り、「成長治癒変化」はちょっと置いておくと、結局のことろ、「損失が癒える」ということです。
感情の膿とは、目をそむけたまま膿化した、損失への感情だということですね。

そしてこの原理を言う根本となるのは、我々自然界での生きものは、生きていく中で基本的に何らかの損失をこうむりながら、悲しみの中で損失は癒え、再び生きることを喜べるように、脳のDNAが設計されているのだ、という考えです。
もちろんこれは損失による身体的危険が克服された場合の話です。危険が持続する場合は、その解決が問題になり、損失の回復は問えません。

例えば、事故や病気で片足を失った犬や猫は、野生であればちょっと難しい話になってきますが、家で変わらぬ愛情の下に飼われた時、全く変わりない、生きることを喜ぶ姿を観察することができます。

ハイブリッドが考える「根本変化」は、この原理を是として自らに適用することを選択することで、その可能性が生まれるものと考えています。

単純な話ですが、まず大抵の人はこうした考え方をしないと思います。人間はそんな動物とは違うと。だから皆似たように変化のない心の中で生涯を送ります。
少なくとも僕は、完全にその考え方を覆して生きるようにしたわけです。自分は単なる一匹の獣なのだと。「道徳」とか「世間の目」なんてものには一度完全に別れを告げて、全てを自分の欲求と戦略の問題と考えて生きるようにした。その結果、今になってみるとこれほど社会には無害と自分で思えるような(^^;)、欲求の根底から世界と調和する方向への変化に向かっているわけです。

ということで、「根本変化」をまず支えたのは、サバイバル世界観です。自分は単なる一匹の動物である。
そしてなぜそれが「根本変化」を生み出すようになったのか。実に単純です。怒りを完全に捨てたからです。そして一匹の動物として生きてきて自分がこうむったさまざまな損失を、完全に怒りを捨てた中で、ありのままに悲しむ時間を過ごしたからです。その都度に、自分が別の人間に変化していることを知りました。「ただありのままの今」を生きる心にですね。
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ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-4 / しまの
No.1093 2006/09/28(Thu) 13:31:22

次は、「評価に生きる姿勢から現実において生み出すことに生きる姿勢へ」というテーマに、「神の国から放たれた野へ」のテーマを絡めて説明しています。
これが、根底において何が根本的に転換されるのかという、根底感情、根底感覚を把握するということにつながっていきます。

まず、自分の感情思考が「神の国」の感情論理で動いていることを把握する。これが「今までの心」
次に、「新たな心」の準備のため、「あるべき姿」に対して、その現実性を科学的原理原則的に検証する思考を対抗打として立てます。
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■「評価に生きるvs生み出すことに生きる」と「神の国vsサバイバル」

でまず「生き方」については「評価に生きる」と「生み出すことに生きる」が2極になるという話をしましたが、自分の感情や思考(この場合の思考は感情の上の思考)がそのどっちかなのかを、その2極に照らし合わせて検討することになります。

でAさんが書いてくれた内容はもちろんバリバリの「評価に生きる」感情と思考ですが(^^;)、それをどう考えるのがいいかというと、客観思考で考えるならば、それらの感情思考が立つ前提の感情論理を明確にすることですね。

具体的には、少し前に掲示板で整理した「魂が住む心の世界」であり「心の命題」です。
「評価に生きるvs生み出すことに生きる」という違いは、やはりその前提としての「神の国vsサバイバル」という違いを把握するのが重要です。
「神の国」では、「あるべき姿」というものがあり、それにかなうことで神が自分を幸せにしてくれるという世界です。
「サバイバル」は、「あるべき姿」のない世界です。

Aさんが書いてくれた内容は、「神の国」の感情論理で動いていると思います。まず「あるべき姿」がとにかくスタートライン


■「あるべき姿」ありき思考の検証

具体的には、

>嫉妬に関しては、やはり自分自身が皮膚病だったせいで、着たい服を着れない事、何をするにも肌がきれいになってから、といってこの年齢まで来てしまったこと。服を着るのにも、肌が良くなるまで何年も待たなければならない、それが耐えられず自己放棄してきたこと。

ここでの「あるべき姿」とは「着たい服を着るためには肌がきれいでなければならない」ですね。

>友人などと、思い切り感情を表して付き合えるような姿、着たい服を着て、少なくとも人に見られることを恐れなくてもいい肌でいること。

これは「あるべき姿」というか、「そうでありたかった姿」ですね。

>こういう感情は、思春期が過ぎれば普通は脱出しているものなんでしょうね。脱出していない自分が、とても稚拙で人間性が低いように思えます。

これも「あるべき人間性」の姿。
ちなみにこの「思春期が過ぎれば普通は脱出」での「普通」は意味のない使い方になっています。前にいいましたが「普通」とか「常識的」というのは、統計的もしくは健康度という2種類のどちらかで意味があって、初めて使って意味のある言葉です。

それで言うと、親への確執感情があると、最もマジョリティは一生脱しないままで終わるものと僕は見ています。脱出できたとしても、思春期は難しい話であり、最も考えらるのは、自分自身が親になった時です。
思春期に脱出できる程度の確執感情なんてのは、心理障害には入らないごく軽い反発心程度の話でしかありません。

ですから、親への憎しみ感情を「普通なら脱出できてるはずだ」と考えるのは、全く現実からは事実誤認の「あるべき姿」思考をしているということです。

これも、「自分はこうでなければと感じる。それは普通の人はそうできているということだ。」という全くナンセンスなミス思考が起きているということですね。


■「あるべき姿」の「原理原則性検証」

ということで、「客観思考」の大枠基本である「感情による思考を脱する」とは、「こう感じる。それは現実がそうだということだ」という「感情による現実の決め付け」というミス思考を解除するという指針になります。

何によって解除するのか。それが科学思考であり原理原則思考です。
科学思考とは、単純に事実のみを認識する思考です。それをどう感じるかを言わない思考。
原理原則思考とは、いくつか考え方がありますが、社会の原理原則であるかどうかは、法律になる得る話かどうかというのがかなり汎用的な判断基準になります。

親への憎しみ感情は、「普通は」一生脱していないのが大半である。これは僕の事実観察結果を述べた、科学的思考です。

なお話のついで、

>虐待までされても許すという人の事が、まったく信じられないです。

まだ読んでないならぜひデイブ・ペルザーの『Itと呼ばれた子』をぜひ読んで欲しいですね。彼がどのように母を「許した」のか
はっきり言えるのは、「親を憎む心」の先で「許す」なんて甘い話ではないということです。今の心が考える「許す」ではなく、今の心そのものが違う心になって初めて見える話だということですね。
一言でいえば、「親が自分とは関係なくなる」というかなり強固な独立の感覚が前提になると思います。その先で、親がなぜそんな行動をしたのかを理解できた時、「許す」かどうかという感情の選択が現れると。

話を戻して思考の客観性ですが、

>嫉妬に関しては、やはり自分自身が皮膚病だったせいで、着たい服を着れない事、何をするにも肌がきれいになってから、といってこの年齢まで来てしまったこと。服を着るのにも、肌が良くなるまで何年も待たなければならない、それが耐えられず自己放棄してきたこと。

「肌が良くなるまで待たなければならない」社会の原理原則ではないですね。肌がどんなであろうと、着たい服を着るのは自由です。これはそんな法律などあり得ないという基準で判断していいでしょう。
一方、「何か着なければならない」は原理原則ですね。ストリーキングは警察に捕まります。アハ。

そんな風に、「こう感じる」とは別に、現実というものを科学的原理原則的に考える客観思考を作る
ただし客観思考を作るとは、「こう感じる」を正そうとするものではありません全く別の、互いに何の影響も想定しない、別立ての思考回路を作ることが重要です。

「原理原則ではそうであっても、人は白い目で見る」と感じるかも知れません。
それはそれだけの話です。原理原則がそうであり、一方で「人は白い目で見る」という感情があるという、2つの事実があるだけです。
ただその事実を見る思考が、客観思考です。

その点、そもそもAさんが、

>これが感情による思考、評価に生きている状態だとすれば、どう考えればよいでしょうか?

という問いを出す姿勢そのものが、「この感情を良くするためには」という「正そうとする」意図が土台にあるのをちょっと感じます。
客観思考はその意図を超越したものです。さらに言えば、その意図が自分にあるという事実を単に捉える思考が、客観思考です。

そのような、客観思考の思考回路を堅固に築いていくことが、ハイブリッドの客観思考の取り組みです。
それによって、何と感情が良くなるわけです!まあ思考の現実への適合度が上がることと、あとは感情を正す意図を持たない思考の増加によって、感情が全般的に安定します。
感情を正そうとすると悪化する。これは基本公式ですので。

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もちろんそうした客観思考による感情の改善は、ごく僅かです。
ここまではあくまで「今の心」とは違う「新たな心」を準備する段階と言えます。根本的な治癒変化は、準備した「新たな心」を実際にリロードする作業が必要になるわけです。

返答メールの残りでその点に触れています。
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■「心のリロード」を視野に入れた客観思考

ただし、「科学的原理原則的客観思考」だけで得られる感情の改善安定は、ハイブリッドが考える根本変化に比べれば誤差程度のごく僅かなものでしかありません。
根本変化を促す上では、「心のリロード」を視野に入れた客観思考が重要になってきます。
これは超上級となる難しい思考法になりますが、20年が1年になるという話は、これによるものになります。

これは、今の感情や思考を生み出している心そのものが「精神的な死」を迎え、心が再生されリロードされるという心理学的現象を想定して、それを通過するに相応しい姿勢を取るという、極めて高度で難度の高い話になると思います。

恐らく、

>これが感情による思考、評価に生きている状態だとすれば、どう考えればよいでしょうか?

の裏にあると想定される、「この感情を解決するためには」という意図とは、まさに逆を行くような話になるのでないかと。

これは言わば、自ら実存を生かしながら精神の死に向かわせるような感じになります。
まああまり一度に話を先に進めるのも何ですので、ここまでで一応送っておきましょう。
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ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-3 / しまの
No.1092 2006/09/28(Thu) 13:00:40

引き続き、「今の心を弱め新たな心を準備する」思考法。
これは、治癒メカニズムとしては「否定型価値感覚の放棄」と呼んだ、大方向転換の最大道標が、実際の意識思考においてはどんな事柄を考えることで成されるのかの説明になるものです。

これについては一度、
2006/07/18 魂の成長の成り立ち-11:「神の国」から「放たれた野」へ-8
などでも書いていますが、その際は「絶対なるものという観念の放棄」という意識側面に焦点を当てています。
ただそれではやはり、沢山の意識側面を巻き込んだこの一つの本質的転換の、ごく目立つ一点の結果を描写したものに過ぎないようにも感じます。

この大方向転換にからむ意識の側面とは、およそ次の3つがありそうです。
1)感情による思考を脱すること
2)「評価に生きる」から「現実において生み出すことに生きる」へ
3)「神の国から放たれた野へ」 つまりサバイバル世界観の問題


以下では、そうした側面について順に見ています。
最初にちょっと短いですが「感情による思考を脱する」ことの、感情面に対する意義説明の部分を。
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■ハイブリッドにおける客観思考:心のリロードを視野に入れた思考

>以下は現在の自分の思考で、感情による思考、評価思考のオンパレードですが、私一人で考えても脱出できそうにありませんので、何か客観的ヒントがありましたらお願いいたします。

その通り、客観的な思考というのが超重要ですね。
客観的な思考とは、感情を超越した思考です。
特定の感情の中で考え続けても、その感情は変わりませんが、その感情を超越した思考をすると、その感情を生み出したのとは異なる心の動きが起きる可能性が出てきます。それで感情の根元からの変化が起きる可能性が出る。

図式的にいうなら、我々の通常の思考というのは感情を土台にして動きます。それを、感情とその上の思考というセット両方から離れて、身体から離脱した一次元高度な思考を作るという感じにします。マンガで、地上世界から遠い天国界から人間を小さく眺めてどうたらこうたらと議論するような絵があると思いますが、そんな感じですね。

まあそんな感じに、自分自身に対して超傍観者的な思考をすることが必要。ただ時おり問題にする「傍観者姿勢」は別の話で、これは感情内容そのものの話です。自分の感情を自分のことではなく他人事のように受け取っている姿勢であり感情。
「客観的思考」というのは、それを含めた様々な感情が流れる人間一個体を俯瞰して考える思考です。

当然この客観的思考は、感情には一切頼らない思考となり、要は科学的思考であり心理学的思考です。

ハイブリッドとしては、究極的にはそれは「心のリロード」を視野に入れた心理学的客観思考になることが望ましいものです。
それにより実際に「心のプログラムのリロード」が促されるわけで、それが思考を変えずに「流す」だけだと20年かかる変化が1年に早まるほどの加速度だということになります。

かなり高度な話になると思いますが、ぜひ試みてもらえればと。
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ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-2 / しまの
No.1091 2006/09/28(Thu) 12:15:37

続き。
いよいよ「治癒メカニズム発動を促す思考法」の本論です。「心のリロードを視野に入れる思考」ですね。
前段でこの取り組みのメリットを相談者にお勧めする文章なども書いてますが、そのまま入れときましょう。

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■思考法行動法の根本変換

まず心理学上の理屈は以上です。

でAさんの場合は、まだ根本消滅を促す姿勢を取ってないので、流してもあまり減らないです。でも全く減らないわけではない。これはこの2年間での変化が示すもので、「生き方」が変わらないままでもここまで減る(^^;)というのはむしろ心理障害の根本治癒について楽観論に1票支持入れるような話でさえあります。

で現状の「減り方」ですと、ざっとあと20年もすれば出口が見える感もあるほどの根本変化に至るのでは、という感じの、かなり遅々としたものになると思います。
一方、思考法を変えることに成功すれば、1年で十分それが見える変化が可能な段階に来ていると思います。大方向転換の時期ということですね。
前に「今年後半に大きな変化があると見込んでいる」と書きましたが、Aさんの場合その潜在力ができてきていると感じるからですね。思考法を変えれば、今年のうちにもあり得ると思いますヨ。

今までAさんはほとんど思考法を変えていないので、それを変えようとするかどうか、Aさん次第ですねという感じ。
その前に「思考法を変えていない」と言われることが不本意かも知れませんが^^;
20年間かけたいか、1年で変化するような世界を目指すかですね。(←餌でつるような表現^^;)


■「感情による思考」を一切排す

「思考法を変える」の方針は、まず大枠として「感情による思考を一切排す」というのが必要です。
「こんな気分がする。だからそうなんだ。」という思考法を、徹底的に見直すことです。
その代わりに、心理学的な思考法と、あとは「生き方」の変換ですね。「現実において生み出すことに生きる」とはどうゆうことか。精神論ではなく、かなり具体的な思考法の検討になります。

>昨日メールで書いた感情は、減る事はないように思います。結局、その感情に出口がないことを実感できるまで、苦しみ尽くしたとしても、なくならないように思います。自信がつけば多分違ってくるのだと思いますが。。

これも「感情による思考」ですね。
減る事はないように感じる。だから減らないと思う。
心理学的思考として正しいのは、「感情の膿が減るかどうかはその時点では判断できない」です。本当に減ったかどうかは、かなりの時間経過を追って初めて判断できることです。まあ判断基準は、感情の動揺に足元をすくわれる強度の減少ということでいいでしょう。それで言うと、この2年で明らかにAさんの感情の膿は、「いちおう」(^^;)減少している。

「感情による思考を脱する」とは、そのように、反対思考を自分に思い込ませるという安直なものではNGです。正しく現実を知る思考にならないと。科学的思考であり、原理原則を知るということですね。


■自分の心を決め付けずに「評価に生きるvs現実に生み出す」の対比検討

そんな風にまず「今の気分」でものごとを判断する思考を排し、次に自分が進む先については、自分の心を決め付けずに「評価に生きるvs現実に生み出すことに生きる」の対比検討をするというのを基本指針とするのがいいですね。

昨日のメールですと、

>若くて人生謳歌しているような女性を見ると、やっぱり嫉妬の念を抑えることができません。

これはもち全くの「評価に生きる」思考ですね。「若くて人生謳歌している姿」
「現実において生み出す」という軸での思考に修正する方向としては、まず「人生謳歌している」とは何をしているということか。これを明瞭にすることです。

案外大した中身はなく「いかにも人生謳歌しているような姿」がそこにあるだけだったりして^^;
合コンしたいということか。友達沢山連れ立ってワイワイしたいということか..これは中身の不明瞭な「姿」になってきますが。
そんな風に、具体的に考えることです。

>しかし年下の女性が嫌だと言っていたら、どこにも行けませんね。

上の文章から続けて読むと、どうもAさんは現実の他者を嫌がっているよりも、「自分の感情」を嫌がっている雰囲気がありますねぇ。
ま実はそれが自己操縦心性の本質だったりします。それは「感情を目当てに」動きます。それが外界現実についてのことだと、本人が完全に騙されるわけです。

この辺のメカニズムはかなり上級の話ですが、あまりに重要な本質なので、今後の執筆を検討したい領域です。

>今の仕事が、自分を幸福にするかどうか全くわかりませんが、それでも今のぬるま湯&安定を考えるなら。自分がどうしたいかがもっとわかれば…と悔しくもどかしく思います、それがあればすぐに行動の方向を決断出来るのに、とやりきれません。

この辺も「全く変わってない思考法」の一つですね。
「こうでさえあれば」という思考法。基本的に「自己否定することが目的」の思考かのようで、やはり「評価に生きる」という姿勢だとそうなりますね。「評価」とはまず高みから見下すことですから。

言えるのは、「自分がどうしたいかがもっとわかればすぐに行動を決断出来るのに」と考えている先には、「自分がどうしたいか」はいつまでも分からないということです。

これは「頭で考えるのと実際に行動するのとは全く違う」という最も基本的な人生の心理学です。ハイブリッドの専門心理学でその理由を言うと、実際に行動すると「現実性刺激」が本人の空想を突き破って、眠らされていた感情が刺激されるからです。

ですから、自分の願望がはっきりして行動に出るということももちろんありますが、往々にして、行動してみることで自分の願望が分かってきます。

それを受け入れ行動すると考えた時、多分別の恐怖感情が見えてくるかも知れません。これ自体が既に「現実性刺激」なんですね。
感情分析の進展というのはそのように起きます。

ということで、最近の取り組みとしては否定型価値感覚攻撃的軽蔑衝動などありましたが、それと対比させるものとして、「感情による思考」を排した心理学思考「評価に生きるvs現実において生み出す」の対比検討というものをぜひ積極的にしてもらうといいと思います。

これは僕の体験でも、日常思考のオーバーホールという感じになるほど徹底した自分の思考の疑い検討になります。
より正確な心理学思考や原理原則思考についてはなるべくちょくちょく聞いてもらうといいと思います。
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ということで、ここでは主に1)感情による思考を脱する2)「現実において生み出す」という観点からの思考修正、を説明してます。
これは主に「心のリロード」への準備段階と言えますね。まあ「今の心」を弱め、「新たな心」を準備する思考法です。ここでは主に思考法行動法の側面を扱っています。

次に、引き続き「心のリロード」への準備段階ですが、より根底にある感情面において「今の心」を弱め「新たな心」を準備する思考法を次に。


ハイブリッドの基本から「心のリロード」へ-1 / しまの
No.1090 2006/09/28(Thu) 11:48:34

先の「治癒限界から考えるハイブリッドの基本-4」で紹介した返答メールからの続きになりますが、「根本変化の原理」という最後に残された整理領域の重要な話が多いということで、引き続き紹介します。

ここまでのところ、「評価」から「生み出すこと」にと言う「生きる姿勢」の転換が基本になり、その姿勢の中で「心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる」といった根本治癒現象が起きるといった言葉を言いました。
引き続きの返答メールでは、さらに「根本治癒現象」の側面に触れ、それを促す姿勢や思考法について説明しています。

ここで「心のリロード」という言葉を使うようになってますが、これは根本治癒に向かう本人のその時の意識においては、それが治癒なのかどうかは分からず、実感的にはとにかく「脳の構造が変化していく」ような、「心のプログラムがリロードされていく」といった表現をするのが最も合う感じになりますので、その言葉を使う次第です。
もち『マトリックス』からヒントを得た言葉の使い方なんですけどね。

例により分かりやすさ整理は出版本(いつのことやら^^;)になりますが、参考あれ〜。
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■「心の膿」の整理

>昨日頂いたメールでは、「感情の膿」とありましたが、その前の「攻撃的軽蔑衝動」との違いが、私には把握できませんでした。どちらも、空想してた望みへの絶望には変わりないと感じます。

何はともあれ、そうした感情の細部に関心が移ってきたとは、感情の清明度が上がってきた前進ですね^^。

あまり違いはありません。感情の膿があるところではほぼ自動的に攻撃的軽蔑衝動が生まれます
起きていることは一つで、あとはそれが他人から向けられると感じられたり、自分に向かって体験されたり、耐え難い恐怖や破滅感が感じられたりと、いつどの側面が意識されるかだけです。

今僕の頭の中でその辺の整理が進んでいるのを書きますと、「心の膿」の要素の話になります。
「心の膿」とは、その人の思考法行動法つまり心の姿勢のいかんに関わらず、来歴を通して膿のように心の底にできてしまっている感情の塊全般を言います。

今考えている整理ですと、それは3つの要素になります。

1)感情の膿...主に恐怖感情を主体にした膿。呼び名を変えた方がいいかも知れませんけどね。
ようはこれはこの人間の「弱さ」を象徴する感情の膿です。客観的な弱さではなく、この人間自身が、自分を弱く虐げられる存在と位置付けた感情です。

この「弱さの膿」(この呼び名がいいかどうかは難しいところ)の結果、自尊心の手段として「あるべき姿」を基準にした怒りや軽蔑が自動的に生まれます。否定型価値感覚であり、破壊型理想です。
これがハイブリッドの考える、かなり重要な公式になりますね。怒りや軽蔑は、「弱い人間」に生まれます。怒り自分より強大もしくは対等な相手と戦うための感情という基本公式ですね。

一方これとクロスするのが、生きる姿勢、心の姿勢の問題です。
これは「姿の評価に生きる」と「現実において生み出すことに生きる」という2つが大きな軸です。前者は前進への力を持たないので、人を次第に貧困化させます。後者が人を豊かにします。つまり前者の生き方で人は弱くなり、後者の中で強くなることができます。

結果は、感情の膿と生きる姿勢のクロス問題です。
「弱さの膿」があると、感情としては必ず「姿の評価に生きる」という感情が生まれ、あとは知性理性で「現実において生み出すことに生きる」という思考法ができるかどうかで、感情の膿に巻き込まれますます弱くなるか、それともそれを脱却して強くなる方向に向かうかが分かれます。

知性理性で「現実において生み出すことに生きる」という思考法ができないままだと、その人は「姿の評価に生きる」ことがあまりにも当然のことであり、世界もそのように動いていると感じます。自分のその思考を「障害」だとは思わないでしょう。
知性理性で「現実において生み出すことに生きる」という思考法ができると、思考と感情の矛盾が本人自身に自覚されます。「姿の評価に生きる」感情は、本人自身にとって「取り組む障害」となり、やがて克服消滅に向かいます。

本人がどう感じ考えようが、ハイブリッドから客観的に言うならば、「姿の評価に生きる」怒りや軽蔑の感情は、「障害」です。

「心の膿」の残りは、

2)残存愛情要求...自分が宇宙の中心になるような愛を求める幻想的欲求
3)アク毒...自らの皮相化荒廃化の最も忌まわしい感情色彩だけを消去した「アク」が、感情の膿の中の「自己否定の膿」と結びついた、潜在的な「破滅的自己嫌悪感情」

ということになります。

ということで、「残存愛情要求」と「アク毒」がかなり突出した独自感情として別立てで論じられるのに対して、残りの雑多な感情が、この人間の「自分は弱く虐げられる存在」という自己感覚を根源にした膿のようにあると考えています。


■治癒成長の原動力の核「現実において生み出すことに生きる」

治癒成長の原動力についても、一通り理論範囲を押さえた今、かなり明瞭になってきています。

先の総括でも、
a)心理メカニズム
b)治癒メカニズム
c)治癒成長への動機

までまとめましたが、「治癒成長の原動力」はまだ整理してなかったですね。まこれは感情分析がなぜ治癒効果があるのかと言った、最も難しい心理学を整理する話になります。

それでもかなりはっきりしてきたのが、先にも書いた、
現実において生み出すことに価値を見出す姿勢の中で心の膿を看取り病んだ幻想が崩壊する
が、治癒成長の原動力全体をサマリーしたことだということです。

つまり本人の意識における実践努力としては、「現実において生み出すこと」に価値を置く思考法行動法です。これに感情分析などによって膿の放出が加わった時、それは根本的な消滅に向かう。

「生き方」「障害」がクロスした事柄なのだと言いました。「障害」意識努力では治せないものをそう言っています。
「生き方」を変える。それによって「治癒メカニズムが発動」した時に、「障害」根本的に消える方向に向かう。
これが基本的な考えです。

「生き方」「治癒メカニズムの発動」が必要になります。
「生き方」が、「評価に生きる」vs「現実において生み出すことに生きる」です。最終的にこの2極論に行き着く。
「治癒メカニズムの発動」感情分析ですね。
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難解だと思いますが、要は、まず意識努力するのは、「評価に生きる姿勢から現実において生み出すことに生きる姿勢へ」です。
次に、この生きる姿勢変換を「治癒メカニズム発動」につなげるための思考法というのが出てきます。これが、単なる「生き方転換」だけではない、「自ら心のプログラムをリロードする姿勢」という、ハイブリッドの極意(^^;)という話になってくるわけです。


治癒限界から考えるハイブリッドの基本-4 / しまの
No.1089 2006/09/22(Fri) 14:09:12

引き続き、「現実において生み出す」とはどうゆうことかの、基本の説明。

これを妨げるものとして、新たに心理メカニズムの話も一つ追加しています。
「受動的プライド」「受動的自尊心」と呼んでもいいかも知れません。
これ重要!チェックよろしくー。

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■何を「生み出す」のか

ということで、ハイブリッドが言う「現実において生み出す」とは、何を「生み出す」という話なのか。
この基礎講座が今までなかったですねー^^;

改めてそれを定義するならば、「喜びと楽しみそしてあらゆる向上」と定義できます。
喜怒哀楽の感情という「感情の健康学」で言うなら、「」と「」。
「怒」追い詰められた反撃のための脳内毒です。「哀」損傷を癒す感情です。
「楽」つまり楽しみ感情は、我々をそれに向かって進める役割をします。「喜」はその結果得られる快の感情です。

また面白い公式が言えますね。
「怒」と「哀」が、「破壊」における進行と結果の感情。
「楽」と「喜」が、「自衛と建設」における進行と結果の感情。


人間の心がなぜ病むのか。その根底にある「否定型価値感覚」は、その組み合わせの歯車を狂わせるものと言えます。
「破壊」が価値を帯びる。
「怒」が「喜」になってしまう
わけですね。破壊の快感の中で、自分の心身を損なって行くという姿のできあがりです。


■「優越を求める」と「優越感を求める」の違い

>人間はどうしてこうも優越感を求めるんでしょうか。。

この観念を完全に覆す必要があると言ったのは、そのことです。
人間は「優越」を求めます。それは様々な「向上」の尺度の一つです。今の自分よりも優越した容貌や生活。まあ人と比べること自体もそんな「病んだ心」の話ではないと思います。

しかし、「優越感」となるとちょっと話が別です。言葉の使い方の話にもなりますが、これは大抵「自分が勝者として負けた相手を見下す」感覚を含んだものだと思います。
これは「病んだ心」の話です。なぜなら「破壊が快を帯びる」という変形した情動の部類だからです。

ですから、「攻撃的軽蔑衝動」について思考を覆した感情分析をと言ったのは、まず、今まで他人が優越感の中で行動したものとAさんが人生で観察したものを、実はそんな「優越感」などない行動として見れる可能性をイメージしてみる、というのが一つになります。


■「向上」の目を失明させる「受動的プライド」

「生み出す」とは「楽しみ」と「喜び」そして「あらゆる向上」と言った最後の「向上」について、もう一つ解説で大きく抜けていた心理メカニズムの話をしましょう。
解説で抜けたというか、はっきりハイブリッド用語を定義しなかったので、読み流されただけになった感のある話ですね。
「受動的プライド」です。

「受動的価値感覚」は、人を通してのみ価値を感じる感覚です。人が望むなら望める。愛されるなら愛せる。人から高く見られる美貌や才能によって生きる意味が出る。

「受動的アイデンティティ」も言いました。人を通して自分に起きる感情を、自分だと思う傾向です。人から非難されたヘコんだ気分を「自分はこんな気分の人間」と感じる。友人に囲まれ高揚した気分を、「自分は明るい人間」と感じる。
自己アイデンティティを他人に依存するという究極のパラドックスで、これは「憎悪」の大きな原因になります。人に否定された否定感情を自分だと感じ、自分を過去に否定した人間を憎みます。家族内の殺人事件の大きな動機になるものと考えています。

「価値感覚」「自己アイデンティティ」について「受動的」を定義した訳で、間に大きなのが抜けてましたね。自尊心です。「受動的プライド」

これは自尊心つまり自信を、「人からそう見られる」ことによって得ようとする姿勢だと定義できます。
これをすると、自信を得るための材料つまり「現実における向上」を完全に見失います


「怒られない」ことが、「自分は正しい」というプライド感となります。原理原則を習得するというより、「相手に怒られないこと」という抜け目を求めるのとの違いが分からないような話になってしまいます。
当然正しく行動するための原理原則が習得されないままで自信は育ちにくく、人に怒られると、言われた内容に頭が回らないまま動揺してしまいます。

自分は信頼される人間だ」という自信を、「人に信頼されることで」得ようとします。この姿勢では逆に人に信頼されなくなります。これも原理原則の習得が正解です。

自分は愛される人間だ」という自信を、「人に愛されることで」得ようとします。人に愛されるために自分も愛さなければと考えるのですが、大元で求めているのはプライドであって愛ではありません。かくして不信と破壊に満ちた恋愛沙汰が花盛りになります。
「自分は愛される人間だ」という自信は、「愛する能力」によって生まれるものであり、実際に人に愛されることは不要になります。これは詳しくは省略しますが、魂の成長という最も大きな話です。

こうして受動的プライドを求めると大抵、自尊心の損傷反応としての怒りが起きます。この結果ますます人を遠ざけ自尊心も損なっていくのは、火を見るより明らかです。
受動的アイデンティティが「憎悪」に結びつくのに対して、受動的プライドは基本的に「怒り」に結びつきます


自信の素というのは、もっと現実的に、さまざまな物事の向上手段を学び生み出すことにあります。この内容は何だっていい。料理でも趣味でも投資でもスポーツでも。
その基本的羅針盤が「楽しみ」「喜び」という感情だということです。

そうやって、とにかく「楽しみ」「喜び」そして「現実における向上」。これら全てが「現実において生み出す」ということです。
人生の活動の100%をそれにするというのがハイブリッドの目標ですね。



■まず「人が回りにいる中での自律的な楽しみ」の発見へ

ということで、「現実において生み出す」という最も基本の話に戻しました。これを押さえ直してもらうのがいいと思います。
それは「喜び」「楽しみ」という感情をベースにしたもののことです。「優越感」ではなく。

自分の生活の中で、どのように「喜び」や「楽しみ」の感情があるかを確認してもらうといいでしょう。多分それはかなり見出しにくいかも知れません。ということは「現実において生み出す」ということがまだ見えないということです。

まずは「自律的な楽しみ」を見出すことが重要だと思います。以前も一度言ったことがありましたね。
最近Aさんが言った「自然の美しさ」はそれに当たります。こうした「自律的な楽しみ」を、人が回りにいる中で見出すことが次です。

すると、そうした感覚の先で行動し生きて行くことと、「攻撃的軽蔑衝動」との鮮明な対比が感じられてくると思います。
一段階高度な感情分析になるのは、その先ですね。
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治癒限界から考えるハイブリッドの基本-3 / しまの
No.1088 2006/09/22(Fri) 13:50:03

■治癒成長への「原動力」の探求へ

掲示板解説で行ったハイブリッド総括で大体整理できたのが、「障害メカニズム」「治癒メカニズム」「治癒道のり」そして「動機」
そしてこれからの探求は、そうしたメカニズムの車に乗って、道のりを進む歩みがあって、それに踏み出す動機があって、最後にいよいよ推進力を生み出すものの正体の探求になります。ガソリンとエンジンの仕組みですね。

そこで最も根本的なパワーを生み出すものとして焦点を浴びるのが、「現実において生み出すことに生きる」という姿勢になります。

とにかくこの姿勢が全てを決する。
そう言えるほどこれが重要そう...ってこの話の単純さの割には今までの話の膨大さ難解さは何だったの..という感じですが(^^;)、まあこうした単純な軸から膨大な裾野が広がるわけで、裾野まで見通してようやっとこの結論を安心して言える状況になったわけです。

分かりやすさ整理はまたの話として、「治癒限界」という問題に絡んでこの話を書いた返答メール文を紹介します。
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■ハイブリッドの方向性基本:「現実において生み出すことに価値を見出す姿勢」の中で心の膿を看取り病んだ幻想が崩壊する

「悪感情への耐性を心がけ知性では疑問を保ちながら自分の本心に忠実になる」基本姿勢だと書きましたが、何のためにそんな難しい姿勢を取るのかという、さらに大元にある目標が重要ですね。どんな方向性のためにその基本姿勢を取るのか。

で今最初の心理学本で使おうと思っている表現では、“「現実において生み出すことに価値を見出す姿勢」の中で心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる”という感じです。
これがハイブリッドの方向性の基本です。その実践として上の姿勢を取る。

「心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる」という難解な部分は置いといても、とにかく「現実において生み出すことに価値を見出す姿勢」が最大の治癒成長基盤です。

逆に言えば、これが損なわれた場合、ハイブリッド的にはもう手も足も出ない限界が生まれることになります。


■「何も生み出すには値しない現実世界」という「動機への阻害」

従って、最初に述べたような「こうなるともう駄目かも」という阻害要因の本質は、「その中で何かを生み出すことに価値など感じられない」ほど現実社会というものが汚く不純で野蛮な世界なのだという感覚が出来てしまうケースです。
Aさんのメールにもちょっとそれを感じた次第。

少し詳しく解説しますと、心理障害傾向の発達環境においては、「汚く野蛮な世界」という感覚は一面では真実であり、一面は障害の結果です。真実と障害の混合物ですね。

「一面では真実」とは、実際そうゆう汚く不純で野蛮な人間がこの現実世界にはいるということです。
しかし、そのような「汚い心」が「ありありと」イメージされ嫌悪感が起きるのは、実はこの個人自身の心の中に起きてしまっている皮相化荒廃化衝動外化されたものです。心は本来外からは見えないものです。「悪を見抜く能力」と本人が錯覚することがありますが、「ありあり」の実体は外化です。自衛能力における観察能力とは別もの。
そうした外化がなければ、「汚い人間」が現実に接近した時違和感を感じ避ける程度の話であり、意識にまとわつき心を覆うようにそんな「他人観」が起きることもありません。

自分の皮相化荒廃化衝動を外化した「汚い世界観」は、かなり子供の段階で起きます。

幼少期からの「望みの停止」により本人の心に皮相化荒廃化衝動が起きているのですが、一方でこうした個人は現実において虐げられているからこそ、何かの精神性についての高い理想を抱きます。この理想は真実です。しかし自分自身の中の皮相化荒廃化はまさにこの理想から許せないことです。

かくして「アク抜き」という巧妙な心のメカニズムが起きます。自分のそうした「欲求」を押さえつけ消去することで、自分が高潔だという自尊心を感じ、代わりに自分の欲に従う他人は汚い存在だという人間観になります。
隘路は、そうして「自分の欲を押さえる」ことで、「望みの停止」はさらに進行し、欲求の皮相化荒廃化がさらに進むことです。
かくして「人間の欲望」は攻撃的で貪欲で残忍で醜いものであり、人間など信じることができず嫌いであり、そんな風に人を好きになれない自分が何よりも嫌いという、定められた軌道を行くような心理状態になります。


■「自らの皮相化荒廃化」への取り組みの前に「現実において生み出す」の確認

この状況で、「皮相化荒廃化した欲求は実は本人が持つもの」なんて言うことは、何の役にも立ちません。なぜなら実際その欲求をもう本人は持っていない場合が多いからです。「アク抜き外化」という特別なメカニズムによって。
ただしその結果他人への嫌悪がもたらす自己嫌悪が大きく進むと、アク抜きの防御も決壊して破壊的復讐衝動が噴出する場合があります。以前のAさんがそうかも(^^;)

「皮相化荒廃化した欲求」は取り組み上は、そのまま自覚できる範囲もありますが、かなりの部分はもう「本人の欲求」としての活力を失った「活発型アク毒」になります。この具体的説明ができるのはまだかなり先の見込み。雰囲気だけも感じといてもらえれば。

従って「自分自身の皮相化荒廃化した欲求を自覚しよう」というアプローチでは全然歯が立たないです。
その点、先のメールでお伝えした、

>「人間」が優越感を求めているのではなく、求めているのはAさんであり、かつそのことをAさん自身の心が否定しようとしていると思います。この状態の感情分析ですね。

はあまりいいアプローチではなかったかも知れませんね。ちょっと未開拓の領域だったということでご容赦。
まだから「かなりすぐに何かでつかえる」と予想したのですが、結局つっかえてどうすればいいのかというのを考え、「現実において生み出す」という基本を捉え直すのがいいと考えています。

「現実において生み出す」とは何を生み出すということか。それが実感として身についてくるにつれて、他人の行動もその視点で見直すことができるようになるでしょう。
これが「望みの回復」につながります。「自らの皮相化荒廃化への取り組み」は、その後になります。
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治癒限界から考えるハイブリッドの基本-2 / しまの
No.1087 2006/09/22(Fri) 11:10:20

■治癒成長限界を作る「他者の精神性への軽蔑と怒り」

どこまで変わりたいかという動機はどんなであれ、何らかの根本変化は誰にでも可能と考えているという話を書きました。
次に、逆に「これがあると根本的治癒成長が完全に止まる」という感情要素について。

これはずばり、「他者の精神性への軽蔑と怒り」です。さらに、その「他人の軽蔑すべき精神性」によって「自分が虐げられた」という感情が加わると、典型的です。
軽蔑すべき精神性」とは、偽善、傲慢、利己的、自己中心、恥知らず、図々しい、見せかけ、自己顕示的、見栄っ張り、わがまま、虚言的、軽薄、浅ましい、身のほど知らず、残忍、無理解、思いやりの欠如、薄情、粗野、攻撃的、知ったかぶり、依存的、迎合、強がり、情知らず、無表情、覇気のない、高圧的、高慢、支配、搾取、寄生、そしてさらに、メンヘル的、情緒不安定、うじうじしてる、意識過剰、妄想的、サドマゾ(^^;)、ウザい、キモい、心理障害的、人格障害的、等々、およそ我々が「精神性」として人に見て望ましくないものと感じること全てに渡ります。
それが相手の心が直接見えるかのように「ありありと」感じられ、意識から振り払えない怒り軽蔑を感じるというもの。

こうした「他者の精神性」への軽蔑と怒りが「治癒限界を作る」とは、要は、そうした他者への怒り軽蔑の感情が心を占め尽くし、本人がその感情で感じることに自分自身で疑いを持つことができなくなるに応じて、治癒成長は不可能になるということです。
治癒成長はまず、本人がいかにこの感情を知的に疑うことができるかにかかっている、ということになります。

僕としてはこのことは前々から直感的に感じており、メール相談などでも、相談者の方が他人の無慈悲さに怒り軽蔑を表明しておられる時、そのことには基本的には触れないことを基本方針にしてきました。なぜならその感情を疑ってみるようにと指摘することは、ようは「貴方の被害妄想だ」という感じの指摘をすることになり、反発感情を生む可能性こそあれ、治癒成長にとって役に立つことはほとんど考えられないからです。
でそのことを真正面から見るのではなく、全く違う角度で見ることを促すアドバイスを考える。

また、その感情を感情分析するようにというアドバイスも、あまりしていないつもりです。相談者の方は他人への怒り軽蔑感情の自己分析に強い関心を抱いていることが少なくないかも知れませんが^^;

そのくらい、この感情は、それが現れたところでは治癒成長が完全に止まるというシロモノです。いくら自己分析的にその感情を見つめたところで、何も変わりません。


■「外化」と「感受性」は全く別

心理メカニズムについてワンポイント説明しておきますと、上述のような「怒り軽蔑すべき他者の精神性」がまるで相手の心を直接見たかのように「ありありと」感じられるのは、「外化」という心理メカニズムによるものです。
そのように怒り軽蔑が向けられるのは、以下で「自己嫌悪の能動型の外化」と呼んだものです。
http://tspsycho.k-server.org/base/base06-01.html
そこに書いたように、「人間として信頼の置けない」、みせかけ、偽善、といった「偽り」の要素がかなり本質的な役割を演じます。

詳しい解説は省略しますが、こうした外化が起きている時、そうして見て取られた精神性が当の他人の現実において当てはまるかどうかは、あまり重要な問題ではありません。
そうかも知れない。つまり相手は実際そんな精神を持ってるかも知れない。あるいは全くの勘違いかも知れない。この場合は本人側の空想が暴走しているということになります。

相手が現実にそうか違うかに関わらず、「外化」は障害の症状です。健全な感受性で相手の内面を感じ取るのとは、全く異なる心の機能です。

心は本来外からは見えないものであって、健全な感受性による観察の場合、その「見えない」という感覚が保たれた上での観察能力の鋭敏さになります。
「外化」では、まるで相手の心が直接見えるかのように感じます。これは「病理」です。取り組むべき障害と考えることが正解です。


どんな観点で取り組むべきか。ひとことで言えば、「自己の重心」です。
「外化」は、思考そしてさらに感情よりも根深い「感性」「知覚」のレベルで自己の重心が損なわれた、障害症状です。

心理学の知識がないと、人はこの「外化」という「障害」を、大抵、感受性の高さだと完全に勘違いしてしまいます。これを疑うことから、治癒への道が開けるのです。


■治癒成長への原動力の根本:「現実において生み出すこと」に生きる姿勢の中で心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる

他者の精神性への怒り軽蔑がなぜ治癒限界をつくるのか。
これを考えることは逆に、治癒成長の原動力の根本が何なのかを明瞭にするのかに役立った次第です。

実は最近のハイブリッド総括でも、「障害メカニズム」「治癒メカニズム」「治癒道のり」「動機」まで整理したところで、この「治癒成長の原動力」の最終整理はまだなんですね。これは感情分析がなぜ効果を生むのかといったかなり難しい心理学を整理することになります。

で今その「治癒成長の原動力」の全体像はかなり公式化できる表現が見えた感じです。
それが「現実において生み出すことに生きる姿勢の中で心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる」です。

これは3つの事柄を言っていることになります。

一つは「生きる姿勢」の転換です。「現実において生み出すことに生きる」。

あとの2つは障害根源の治癒を起こす事象のことです。ここで「事象」なんて変な言い方をするのは、「姿勢」と「治癒現象」を併せ持った事柄だからです。これが「心の膿を看取る」「病んだ幻想を崩壊させる」
「心の膿」とは、「感情の膿」「残存愛情要求」「アク毒」のことです。これはあとで説明を出します。
「病んだ幻想」とは自己操縦心性のことです。最初の心理学本ではまず「病んだ幻想」という言葉を使いたい。

「他者の精神性への怒り軽蔑」は、この「治癒成長の原動力3要素」にまっこうから逆行するものです。
まず「生きる姿勢」の逆行。それは「現実において生み出す」姿勢ではなく「評価に生きる」姿勢です。これについてこの後詳しく述べていきます。
次にそれは「心の膿」看取るのではなく、心の膿を是として維持する姿勢です。
最後にそれは、「外化」を「感受性」と勘違いすることにおいて、「病んだ幻想」維持です。


■「他人の軽蔑すべき精神」という感覚が根本解消する時

そうした「他者の精神性への怒り軽蔑」は、「人間不信」という感覚を生み出し、これ自体が本人の自己嫌悪を生みます。本人も多少は、自分が人のマイナス面だけを大きく取り上げていることを感じますので、そんな自分が嫌になるのです。
かくして、「人が信じられない。そんな自分が嫌い。」という典型的メンヘル心理ができあがります。

ハイブリッドが考える、そんな心理状態が根本解消する様子を書いておきましょう。
それは、自分自身が人生の望みに向かう中で、自らがかつて人に見て糾弾した浅ましさ見苦しさを自らに晒し、その耐え難い自己否定感情を、成長への動機や未知への信念の中で、乗り越えることです。


これは最初の「怒り軽蔑すべき他人の精神性」という心理状態からは、一つの大きな谷どころではない、グランドキャニオンが間に横たわっているような、何段階もの思考法行動法の変化や治癒の準備的進行が必要な、天と地との違いのあるようなことに感じられます。
まあそれを言ったのが、人生の大方向転換の3大道標感情の流動性」「否定型価値感覚の放棄」「真の自己受容」であるわけです。
平易な言葉で直感的に理解頂くための説明は心理学本の方で考えたいと思いますが、少なくとも今までの善悪感覚が根本的に引っくり返るようなことであるのは容易に想像がつくでしょう。

もちろんどのように生きるかは自由です。そのように他人を怒り軽蔑することが正しく、そんな他人を憎むことこそに自分の人生があると考えるのも自由です。
ただしそれは心理障害を大切に守って生きていくことを意味します。

心理障害を根本的に脱し、健康な心で生きる喜びという宝物を発見したいならば、考え方を変える必要があります。

「障害」「生き方」はセットです。クロスしています。片方だけ好きな方を取ろうとしても、そうは問屋つまり心理メカニズムが卸しません。
それを踏まえた上で、「選択」するのがいいでしょう。



ということで、ハイブリッドの全てにまたがる話となり、治癒成長への原動力という最も根幹に関わる話になります。
分かりやすさのための整理は心理学本に譲りますが、今までの解説で漏れていた点なども書いた返答メール文など紹介を続けます。


治癒限界から考えるハイブリッドの基本-1 / しまの
No.1086 2006/09/18(Mon) 11:39:08

掲示板解説の最後の方で、「結局最後は治癒成長への動機」という話をしましたが、それとも関連し、「治癒成長への動機を阻害する心理要因」について考察する機会を持ちましたので、関連する返答メール文の紹介など入れながら、手短なシリーズものを書いておこうと思います。

今までの解説で書き漏れていた、基本的で重要なことも入れましたので、ご参考あれ。


■治癒成長への動機まとめ

まず「結局決め手になる」ところの「動機」をざっとまとめると、以下3つになると思います。
1)悪感情の軽減
2)人生の望みへ向かう
3人間理想と未知への信念・信仰 「人生を超えた望み」


1)は全ての方にとってハイブリッドのような心の取り組みへの入り口になるもので、真剣に学んでもらえれば全ての方にある程度の達成が可能になるだけのものを、ハイブリッドとしては用意できたと思っています。まあ「今までとは全く違う心の世界」を知って頂くことであり、怒りの感情をかなり減らした安定状態へという感じですね。

「人間性の根底からの変化成長」2)3)の動機付けが必要になると思います。これは逆に言えば、1)の「悪感情の軽減」という動機付けを多少とも放棄しなければならないことを意味します。脳の構造が変わったかと思えるほどの治癒成長変化は、必ず感情の膿の放出を経てのことですので、目に見える感情はかなり動揺します。それを通ってでも向かう意志を持てるような、何か大きな目指すものが必要になると思います。

「悪感情の軽減という動機の放棄」は、治癒成長道のりで言いいますと、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
「真の自己受容」という道標に該当します。心性崩壊の谷を越えて一貫して成長する自分の魂を実感し、その成長に向かって歩むという強い動機と意志を感じる時です。こうなるとかなり大胆に人生を変化させる野望さえ生まれてくると思います。

人間性の根底からの変化成長は、魂の成長に向かうという強い動機の先に生まれる、人生のさまざまな体験を通して起きます。それは「学びによる成長」だけの変化とは全くケタ違いの変化成長の世界です。
「愛する能力」という、最も価値ある成長変化も、やはりこの中で生まれるものと考えています。「愛」の質が変化してくる。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
で書いた浄化成長方向への動きは、ここで起きます。
「愛する能力」というのは、心の悩みを抱えるほぼ全ての方にとってのダイヤモンドのような価値あるものになると思いますが、こうした、脳の構造レベルでの変化の中で根本的な増大変化に向かうということですね。

こうした「人間性の根底からの変化成長」に向かうかどうかは、もう本人の自由だと思います。これは人生生活の外面的な変化もかなり伴うような歩みがまず考えられますので、既に安定した生活を崩すことが難しい状況では、劇的な変化はあまり起きにくいのが多少事実だと思います。
それでも、実践することは同じですし、「緩やかな根本変化」というのは、人生を変えようとするほどの動機は持てないとしても起き得ます。これは、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro3.jpg
の左側で「ゆるやかな感情の膿の放出」と書いた過程です。人生をかけるような体験の中で大きな心性崩壊を起こすような形ではなく、じわじわと根本変化が起きるもので、僕自身の「ゼロ線の通過」前の上昇はそれでした。

ですから、ハイブリッドの言う「根本変化」は「ケタの違い」で言うと3段階と言えますね。
1)根本変化以前の安定化
2)ゆるやかな根本変化
3)劇的な根本変化

3)は人生そのものの変化がちょっと必要。でも2)なら安定した生活の中でも可能。
ということで、どなたも「もう自分は」という悲観は不要だと思います。一方、人生を変える可能性を持つ方は、どんどん大胆に考えてみてもらえれば。


動機まとめだけで結構長くなったのでここでカキコしましょう。
要点は、ハイブリッドが考える治癒成長への変化というのは、かなりケタ違いの3段階ほどがあるということです。
根本変化は、ケタを問わなければ基本的に誰でも可能性がある。ケタ違いの劇的な変化は一部の方に可能性がある。という感じ。
どれがいい悪いの話ではなく、治癒メカニズムとしてそうなっているという話であって、それ以上の話でもそれ以下の話でもないということです。

次に、「治癒成長の限界を作る心理要素」について説明します。
これがあると、誰でも可能な「ケタを問わない程度の根本変化」さえ閉ざされる、重点課題の感情です。


今後の執筆予定など\(^^)/ / しまの
No.1085 2006/09/11(Mon) 14:20:31

ようやっと自分でもこれで大完結だーと思える締めということで、当面の解説連続モノはいったんこれで終わりということにしようと思います。
とにかく自分の頭の中にある大地図のようなものを一度全部文字にせねばということで、終わりの方は突貫工事で書きましたが、今後は引き続き突貫工事で最初の心理学本の原稿にかかりたい。

いちおう多くの人のお役に立てそうな話はすぐ公開する方針で(あと宣伝も兼ねて^^;)、最初の心理学本にまとめるハイブリッドの取り組み実践のごく平易な説明のさわりなどを、「入門 心の成長への実践」として新たにUpしていこうと思います。
引き続きちょくちょくご訪問頂ければ。

あと掲示板解説としては、適宜の思いつき原稿になりますが、「心の表と裏のメカニズム」というシリーズもので書ければなあと思っています。
これは今までの心理メカニズム解説がいわば「人体解剖図総説」(^^;)みたいのだったのに対して、いよいよ具体的な「心の手術の術式各論」的な話になるものです。
これは以前、
2006/03/17「ノーマルシーズン活動最後のスキー\(^^)/ということで解説前振りというか総括」
で、「放出される感情の膿の内容と、それ以前に本人の意識表面にあった各種の情動、つまり愛情要求や優越衝動、嫉妬感情などの間には、奇妙な法則関係があるようです。これについて整理した内容」とか触れたものです。

例えば「心を開いて親密になれる理想を感じながら、人に近づくことに抵抗を感じる」といった表の分裂感情が、裏にある「嫉妬感情の膿」が放出されることによって一度に消え去る。こうした奇妙な心の表と裏の関係に、かなりの法則性があり、それを元にした感情分析を治癒克服への具体的な内容のあるものにかなり短期間にできるのではないかと期待すできる、そんな内容です。
やっぱこの位の話ができてこそナンボのものかと。
いつ書けるかは分かりませんけどね^^;

ご質問などあれば一般的なことについてはなるべくお答えしますので読者広場の方に、個々の方に合わせてのご相談はメールカウンセリングの方を、引き続きぜひ積極的にご活用頂ければ。


大完結:自己操縦心性の崩壊とは何か / しまの
No.1084 2006/09/11(Mon) 13:34:29

さて、ハイブリッド心理学の理論完結をにらんで、大きく2つのシリーズを書き終えました。

ひとつは「自己操縦心性の成り立ち」「克服に向けて」シリーズ。これは心性崩壊を、感情の膿というものなどないと自分に嘘をついたメカニズムが崩れ去る心理障害の根本治癒現象だという説明しました。
もうひとつは「魂の成長の成り立ち」。ここでは心の治癒成長の根底にある「魂」の浄化と成長という一貫した軸を話し、最終的には「死」「命」を視野にするという話をしました。これは「生き方」の話です。

そして一つの視点を残しておきました。心性崩壊という根本治癒現象を起こす「自己操縦心性」とは結局のところ一体何なのか。それは「夢のメカニズム」に関連するという視点です。
同じように、「魂」という視野で「生き方」を論じた中でも、ひとつの隘路が残り続けました。「否定型価値感覚」です。これが人生の生き方の全てを狂わせる大元であると。

こうして大きく2つの流れでの話の中で残されたそれぞれの最後の一点が、つながります。


■否定型価値感覚は本質的に空想に基づく

そもそもなぜ否定型価値感覚なるものが生まれるのか。この起源については実は書いていませんでした。

望ましくないものを「それは駄目だ」と否定できることに「価値」を感じる。そう否定できる自分に価値を感じる。
これは「破壊」という行動様式からすれば一見単純な話に見えます。

しかし、本来、現実的な害を取り除くこと自体は、「価値」を生むものではなかったはずです。害が取り除かれて開放されるもの得られるものの方に「価値」はあるはずです。
それが、否定することそのものが価値を帯びる。これが否定型価値感覚です。何かの理想から現実を否定できることに価値を感じます。それにより自尊心を得るのです。

つまり否定型価値感覚とは、根本的に、「空想への自尊心」です。
その時人の中で、空想こそが万能の価値を帯びるのでしょう。


かくして自己操縦心性の起源の話に戻ります。それは本来現実にあえぐ自分を救うためのものだったのです。デイブ・ペルザーがカルフォルニア州史上最悪の虐待の中で自分の心を救ったように。これは現実じゃない。空想の方が現実なんだ。僕はスーパーマンだ。
(参照:2004/12/15「自己操縦心性のついたウソ-18:操縦心性起源の大どんでん返し3」)
そうして本来耐え難い現実から本人を救うためだった「空想世界」が、やがて現実を破壊しはじめる。

これは究極的に、根本的に、心のバクなのです。脳に刻まれた「心のプログラム」のミスです。
そして自己操縦心性の崩壊とは、心のプログラムのリロードです。その時、全ての根源であった感情の膿が流れる。


■「生き方」と「心のプログラムのリロード」がクロスする歩みへ..

かくして、ハイブリッドの示す歩みとは、やはりこの全く異なる次元の出来事がクロスする歩みだということです。

「生き方」を示しました。それに向かって歩んだ時、それは完全に得られるのではなく、途上で散って果てるのです。そして新しい「心のプログラム」がリロードされる。これが永遠に繰り返される歩みです。

『マトリックス』ですね。それは単にプログラムの話ではなく、何かへと向かう人間の話です。それに向かう歩みによって、それが完全に得られる前にプログラムのリロードが起きる。
向かうものとは「真実」でしょう。それに向かい続ける、終わることのない道のりが続く。

それが、ハイブリッドの示す道のりです。これが大完結〜\(^^)/


魂の成長の成り立ち-55(End):魂が求めるものへ-32 / しまの
No.1083 2006/09/11(Mon) 12:34:24

これで「魂の成長の成り立ち」の完結です。そしてハイブリッドの大完結へ..


■信仰のメカニズム-2:「望み」への支え

「信仰」がまずは「恐怖の克服」に関係することを説明しました。
恐怖の克服のためには、まずこの現実世界における危険に対処する自衛と建設の能力が重要として、さらに死をも恐れない「信仰の情緒性」が役割を果たすのではないかと。
「死を恐れない」というと、むしろそれを望むようなケースの話も出てきますが、今話しているのは治癒成長への原動力の話である一方、それは障害の結果の話であり、大分別の話です。ただそこで「死に向き合う」ことは、そこからの脱出への歩みにとって無意味なことではないでしょう。この「恐怖の克服」という点でも、また以下の話においても。

「信仰の情緒性」が大きな役割を果たすと思われる2つめのテーマは、「望む資格」です。

そもそも「望む資格」という感覚は、「望みの停止」という人間の心の根源にして唯一の悪化原因に関わり、心理障害の根底にある自己否定感情に関わります。
「望む資格」「望みの停止」については情動変形の一般メカニズムとして解説しましたが、それが心理障害の構造でどこに位置付けられるかについては触れていませんでした。改めて整理すると、究極的に最初の根源にあると考えています。心理障害の発生の大本の根源である幼少期の自己否定感情において、それは本質的に起きていると思われます。それは根本的に、自らによって望む資格を否定し自らの望みを停止させる、自己否定感情の膿のようです。

全てがその上に発達します。自己否定に立った愛、自己否定に立った優越、そして自己否定に立った自己アイデンティティ。そうやって、自己否定に立った自尊心という蜃気楼を追い続けるのです。
思春期に発動される現実離断と自己操縦心性は、それが意識の領域を越えた人格の根底で、「人格外衝動」として起きる事態です。やがて自らを破壊しようとする自己の人格から、心はさらに「自己からの逃避」へと動くに至ります。

ハイブリッドの取り組みは、「望みに向かう」ことを軸として行われます。「心理障害を治す」ことではなく。障害を、望みを見えなくし望みに向かうことを妨げるものとして理解し、建設的に自己の望みへと向かう思考法行動法を学ぶ。感情分析によってより深い自己理解を進める。そうやって、自己否定に立った自己操縦の中での望みから、真の自己受容に立った望みへと、人生の舵取りを大きく転換する。

では望みはどこから生まれるのか。どのように望みを自らに許すのか。そして大元の自己否定に向き合った時、それはどのように克服されるのか。
実はこれについて最終的結論を書かずじまいだったと思います。というのも、延ばし延ばしにした訳ではなく、改めて考えても論理的な答えがないことのように思われます。特に「大元の自己否定の解決」については。

まずは見える「望み」を軸に取り組む。そうすればやがて真の自己受容に立った望みも回復する。それを入門編では心の自然治癒力を自然成長力だと言ったわけです。それはそうなのですが、目に見える「心」の中だけでは、不足するものもあるかも知れない。

そうした「心を越えた望み」が、今論じている「信仰の情緒性」の中に見出されるかも知れない。それは「命への望み」になるでしょう。これは「人知を越えたもの」を思う気持ちが生み出す「望み」です。
「死」人知の最後に現れるものとして、既に出しました。「死は望みと真実を促す」と。(9/7「魂が求めるものへ-27」)

人知を超えた「命」を思う情緒性は、「望み」を支えるように思われます。
「死は望みと真実を促し、命がそれを支える」。
この、ハイブリッドが支持し得る「信仰」を簡潔に書きましょう。


■「命」と「未知」への信仰

「何のために生きるのか」という問いに対しては、ハイブリッドとしては「問いが既に破綻している」と言ってきました。そもそも「意味」や「価値」は命がある後に発生することであって、命が何の意味や価値のために現れたのかを問うのは論理的に破綻していると。
事実それは論理性を問う土俵での話です。論性性が問われる土俵とは、社会生活だと言えるでしょう。

一方、人間の脳に「信仰のメカニズム」があることが事実である時、それが生み出す情緒性をどう利用するかは、内面生活における「選択」になり得ます。
そしてハイブリッドとしては、この現実世界を生きるスキルのために徹底した科学思考を推奨する一方、科学思考の先にこそある、「人知を超えた領域」を明瞭に定義した上での「信仰」を是としたいと考えています。


命があって意識がある。だから命がある前の世界のことを、「意識に映されるもの」によって考えるのは、誤りです。
しかし、命が生まれる前から、何かがあったことは厳然とした事実のように思われます。「人知」の範囲はここまでです。その先は何も見えません。

しかしそれを「思う」ことはできる。自分の命が何かの目的の下に現れたのであろうことを、思うことはできる。
そして自分の命がただ自分の命であることだけを超えて、何かにつながっていくことを思うことはできる。

この「思い」を、「命への信仰」と呼べると思います。そしてそれが自分の「生」を支えるのを感じます。

さらに、自分の命の目的が、「未知」の先にあるのだということを感じることができる。これは治癒論的には、治癒がある程度進んで、肯定型価値感覚の質量共の増大を感じ取れることができた先かも知れません。
いずれにせよ、そうやって僕としては、自分が「未知」に向かって生きていくことを、自分の命がこの世界に現れた目的であるような感覚を抱くわけです。

なぜそうした「信仰の情緒性」を「選択」するか。自分が根本的には弱い存在だと考えるからですね。現実世界は不完全であり、人間は不完全な存在です。だから何か絶対的な大きなものに「自己をゆだねる」情緒性というのが現れます。

それがハイブリッドの、「神の国から放たれた野へ」という「思想」ともつながるものです。こうして生きることと自己の存在に疑問を感じることをスタートラインとした歩みにあるのは、「放たれた野」へ向かうことだけだと。だが人間はそこだけで生きるのではない。「神の国」に生まれ、「放たれた野へ」と旅立つのだと。

そして自分が根本的には弱い存在であると感じるからこそ、自分もやがて再び「神の国」に還っていくのだ、という「情緒性」を持つのが最近です。
それは自分が死ぬ時です。それまでは、「放たれた野」で生きる。全ての善悪を個の欲求に過ぎないものと解体し、現実において生み出すことに徹し、善は悪を怒るべきだという声には何もすることなく、ただ自分のできることへと進む。そんな「放たれた野」における一匹の勇獣として生きるというイメージを抱く次第です。「ライオンハート」でいたいと。

それが神の指示したことなのだと。そうして生きて、最後に死ぬ時に再び「神の国」に自分は還っていくのだと。
これが、「未知への信仰」です。

治癒成長における「大元の自己否定への対面」の先は論理的な答えがないと言いました。ハイブリッドが言えるのは、その先に未知があるということです。これが心のメカニズムの事実だと。
だがその時、まだ見えぬ未知を前に、「自己への審判」が問われることになります。それを根底で真に支え得るのは、そうした「未知への信仰」という情緒性のレベルの話になるのかも知れません。

「自分はそうした信仰の感覚も持てない。どうしたらいいか。」とのことであれば、結局治癒論になります。そうした情緒性は治癒取り組みの原動力になると同時に、治癒の結果でもあるといういたちごっこがあります。
否定型価値感覚は、そうした情緒性も必ず損ないます。まずは否定型価値感覚に取り組むことです。

この話を最後の最後にもう一度します。


■「自分自身として生きる人生」に命をかけて..

さて、治癒取り組みへの「動機」の話を端緒にして、「魂の求めるもの」の先に「命」というテーマがあるという話までしました。
具体的実践の話に戻りますと、「真の自己受容」に立ち「魂の求めるもの」へと向かうとは、我々自身の意識としては実際何に向かうということなのか。この結論になります。

魂の変化が「愛」を軸にするとは言っても、その結果としてできた「心」においては、「愛」「優越」「アイデンティティ」という感情はそれぞれ別の感情になります。
そうした「心のレベル」で「愛に向かう」のが答えと考えると、方向を少し違えるように思います。確かにそうした人生の局面もあるでしょう。しかしそれが全てではない。

結局、多面がある中の一面に決め付けた時、方向を誤るわけです。多面を同時に見た時、そこに一つの本質が現れる。そこに向かうことです。だからハイブリッド。
それは仕事に関することかも知れないし、恋愛や家庭生活に関することかも知れない。最終的には、命をかけて向かい得るものを探す歩みという感じなるのではと。もしあと1年しか生きられないとしたら、その1年でやり尽くしたいことはなにか。もしそれが浮かぶのであれば、今それを始めることです。

そして人間の心はそれに自然に向かうようにできているのだと思います。そうでないのは「否定型価値感覚」によるものです。否定型価値感覚が、人生の全てを狂わせるのです。この話が最後の最後にまた出てきます。

僕も今回の出版の売上ですぐ生活できる見込みはかなり厳しく、再就職なども想定して今後を検討してはいますが、命をかけて書き続けるという選択しかないようにも感じる今日この頃です。結局これが僕のアイデンティティであり、生活手段の様々な想定の中で、執筆者としての自分に停止が生まれるイメージが生まれると淀んだ感覚が心に流れる。そうなっているようです。
それはもう自分として生きることを捨て、他人として生きるようなことに等しい話です。

自分自身として生きる人生に、命をかけるということですね。
そもそも「人生」「命」は本来ほぼ同じものを指しています。ところが「人生に命をかけない」というような生き方が出来ているらしい。これは本来奇妙なことだったのではないかと。その結果人に嫌われるのが恐くて自殺するなんて変な話が生まれる現代社会なのだろう。
そんなことを徒然と思う次第..


■ハイブリッドの大完結へ

ということで、「魂の成長の成り立ち」シリーズもこれをもって完結としたいと思います。

が、結局話は終わらなかったですね。
「魂が求めるものへ」シリーズを始めた7/31カキコで、“最後のトリとして「自己操縦心性の崩壊とは何か」というのを「夢のメカニズム」という視点で”と含みを残しておきましたが、「魂」のレベルの話をひと通り踏まえて何か追加できる話があればと考えていたのですが、大いにありました。

ハイブリッドの取り組みとは結局何なのかという、大完結になります。


魂の成長の成り立ち-54:魂が求めるものへ-31 / しまの
No.1082 2006/09/10(Sun) 15:11:31

「信仰」人間の情緒に影響するメカニズムとしてまず「恐怖の克服」をあげましたが、次の「望む資格」について書く前に、科学的思考と信仰との両立性について書いておこうと思います。
ハイブリットが「支持」する「信仰」の本質は「望む資格」にかかわるものになるということで。


■科学と信仰

まず手短に「信仰」の位置付けなど。

「信仰」の定義としては、「人知を超えたものを考え思う情緒」としましょう。
ネット辞書など見ると「神仏などを信じ崇めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。」などとあります。「神仏」となるとかなり限定的ですが、「人知を超えたもの」がやはり基盤になると思います。「自己をゆだねる」とは極めて意味深ですねえ。

「人知」といえば「科学」がその代表と言えます。「科学を極める」ことは「人知を極める」こととほぼイコールと言えるように思われます。
科学を極めると、科学の限界つまり人知の限界も明瞭になるように思われます。
科学の限界を知る姿勢が、科学を極める姿勢だと考えます。「科学に限界はない」と考えようとする姿勢は、実は科学を良く知ろうとしない姿勢のように思えます。
この点、掃いて捨てるほどの数の(^^;)教師教員のレベルではなく、人類の科学を導いたレベルの科学者のほとんどが、信仰深い人物になっていったように思われるのは、実に印象的なものがあります。アインシュタインはその一人ですね。

科学そして人知の限界とは、ずばり言って「人知の発生理由」そのものにあると考えます。「人知」が生まれる前のことは、我々は何も知ることができないのです。
科学は我々の意識を前提に体系立てられたものですが、意識がなぜ今の人間の意識のようになったのかについては、何も言うことができません。
太陽系地球という惑星が生まれ、その上で人類が進化し、科学を発達させたわけですが、この宇宙そして太陽系という姿は、あくまで人間の意識に映し出されたものでしかありません。でも人間の意識など生まれる前から、明らかにこの宇宙は存在しています。

では人間の意識というものが存在しない場合の宇宙の姿とは、どんなものだろうか。これを問うことは、既に問いそのものが破綻しています。こう問うこと自体が人間の意識だからです。
一方、人間の意識では捉えることのできない「もの」がこの宇宙に存在することは、既に科学で知られています。「ダークマター」はそれが明言されたものですね。
この辺の詳しい話に興味がある方は、サイト掲載の「感情の科学論」など読んで頂ければ。

つまり、科学を極めると「人知を超えたもの」がより明瞭になる。従って科学と信仰は対立するものではない、というのがまず結論。

問題は、その上でどんな「人知を超えたもの」を考え思うかですね。それが元の科学つまり「人知の中にあるもの」と矛盾したら論理破綻です。


■「人知を越えたもの」はあり「知る」ことはできない

僕の考えを簡潔に述べますと、人知を越えたものとして「神」を考えることは、別に悪くはないと思います。「誤りではない」ではなく。正しいか間違いかは言いようのない話です。だから「悪くはない」。何にとってかというと、心の健康と幸福にとって。

ただし、それが神の「恵み」神の「怒り」神の「意志」といった、人間の意識に映るようなものとしてイメージした時、いかなるものであろうとそれは「誤り」だと考えます。それは人知を越えたものを自分が知り得ると考える誤りだと考えます。
「人知を越えたもの」は存在する。「神」も存在するかも知れない。しかしいかなる形においても、我々はそれを「知る」ことも「感じ取る」ることもあり得ない。

科学思考に徹するという「選択」をするならば、「神の恵み」とは単なる「偶然の幸運」であり、「神の怒り」とは「不運もしくは能力不足による失敗」でしょう。だだまあ「運」のかなりの部分は単なる偶然ではない、過去の積み重ねによる必然の場合もありますね。
だからまずはとにかく、自分の「自衛と建設」の能力の向上に徹するわけです。この現実世界で自分に起きる出来事の全てを、自らの観察能力と対処能力で向かうべきものと考える。


■「神からの独立」

なぜなら、嘆き怒ることをやめることを「選択」したからです。そして恐怖の克服を自らの成長として目指すことを「選択」したからです。もしこの世で自分に起きることが自分の預かり知らない何かの「意志」によって左右されるなんて感覚の中にいたら、恐怖の克服など考えようもなく、不快な出来事に際しても何も学ぶことなく嘆き怒るだけのように思われます。

だから全てを偶然と自己の対処能力に帰す思考法を「選択」したわけです。
そのために科学思考を「選択」した。少なくともこの「現世」において自分が目にすることはすべて「神からは独立した」事象だという見方を「選択」した。
この話は入門編の「4.7 心理学的幸福主義」の「神からの自由」でも述べています。

「神の意志」ではなく、「自らによる選択」だということになります。

ここまでが「現実世界への科学思考の徹底」と矛盾しない話になります。


■「神の意志」

それを超えたら、もう科学思考の及ばない話になります。そして科学を極めれば極めるほど科学を越えたものの存在が明瞭になるならば、科学を超えた世界、「現世を越えた世界」について考えることが、科学思考に徹した先のむしろ自然な流れになるかも知れません。

例えば多くの「心霊現象」「電磁波」のいたずらによるものと僕は解釈していますが、電磁波はその発生源から遊離して残存し得ることから、体から遊離した「霊魂」みたいなものがあるいは存在し得るかも知れないなどど考えたりしています。ただしそれが「現世の人間」に知覚されるような形になることなどはない、微弱なものだと思いますが。
同様に、「死後の世界」なんてのも別に否定する必要もないと考えています。ただし「現世」の我々がイメージする「天国」とか「地獄」はあくまで「現世の意識」の産物です。

そのように、現実世界についての科学思考に影響を及ぼさなければ、現世の我々の意識を超えたものを思う情緒をどう自分に当てはめるかは、もう自由だと思います。これも「選択」なのだと。ならば得するものを選びたい。

それが「神の意志」になるでしょう。
「現世」においては、全てを自らの「選択」とする。それが自ら選んだ「生き方」なのですが、なぜそれを選ぶのか。心の健康と幸福に理(利)にかなっているから。なぜそうなのか..と問い続けると、どうしても「ただそうあるだけだ」という話に行き当たります。それでも人間の脳というのは「なぜそうなのか」と問い、「神」という観念に行き着くのが脳のメカニズムなのかも知れません。

そんな意味で、「全てを自らの選択とする」ことが、まさに神の意志なのだという情緒的感覚を、僕は持つ次第です。
だから自分の目の前には、神は現れない。自分の目を支えるものとして、それはある。


まそんな「情緒性」を持つのも悪くはないなと思う次第です。ハイブリッドの歩みを支えるものして。
さらにこれが心理障害からの治癒成長の中でかなり本質的な話になるかも知れない。そのポイントが「望む資格」というテーマでの次の話になります。


魂の成長の成り立ち-53:魂が求めるものへ-30 / しまの
No.1081 2006/09/09(Sat) 16:15:53

■信仰のメカニズム-1:恐怖の克服

「信仰」が人間の情緒にどのような肯定的役割を果たしえるのか。まずそれを考察し、次に心理学的幸福主義としてどのような「信仰」を提示し得るのかを考えたいと思います。

「信仰」の肯定的役割としてまず浮かぶのは、「恐怖の克服」です。

この姿は映画『タイタニック』の中で如実に示されたように感じます。沈んでいくタイタニック号の上で、死を受け入れながらも心が穏やかであった者、一方で、死を受け入れることができずに逃げ惑う、あるいはお世辞にも潔いとは言えない、人を踏みにじって助かろうとする者。
この話は2004/11/12「自己操縦心性のついたウソ-8:最大ポイントの前に雑感」でもちょっと取り上げましたね。そこでは「愛は死の恐怖さえも凌駕する感情」だとして触れました。

つまり、「死をも恐れない情緒」とは「信仰」に関連し、それは「愛」に関連するということです。

「恐怖の克服」としてハイブリッドがまず示すのは、サバイバル世界観であり、自衛と建設の能力です。そのために、徹底した現実科学思考を推奨します。
しかし「死」はいかなる自衛と建設の能力によっても、避けることのできない恐れになり得ます。

「信仰」の本質とは、「死」が現実世界では知ることのない、別の世界への旅立ちのようにイメージされる「情緒性」にあるのでしょう。その世界は、自分が絶対なるものによって守られる世界です。
「絶対なるものによって守られる」ことは、「絶対なる愛」という感覚につながるもののように思われます。なぜなら愛は多分に、「安全」を前提にした感情だからです。「死」によって自分が絶対的に守られる世界に行くのだという感覚を持った時、人はこの現実世界に対する普遍的な愛の感覚を、同時に持ち得るような気がします。

実は、科学的思考の徹底度を自負する僕自身が、ここ最近になって「信仰」の感覚をかなり持つようになっているのを感じる今日この頃です。これは「共鳴の愛」「包含の愛」といった「魂の感覚」を感じるようになったのと符号した変化です。
その具体的な現れについては何度か引用しました。“人生で初めてのように「神のみに許される」という観念が感情を伴って現れた”出来事です。
「それは誰にも受け入れられる可能性もない、救いのない姿だった。いや、救いのない姿だという、感覚があったのだ。その感情の中で、神に許されることだけに救いがあるというイメージは、何か強い安堵の悲しみを湧かせる感のあるものだった。」
(8/29「魂の成長の成り立ち-40:魂が求めるものへ-17」)

この引用は、「望む資格」にかかわる話になります。この側面を次に説明してから、僕自身の「信仰」の内容を説明します。その内容は科学思考を極めた時むしろ現れるものであり、ハイブリッドにおいて「信仰」が一つの本質的位置付けになってくるという話へと進みます。

これも短めにカキコ。大量の思考によって出てくる僅かな言葉なもんで。


魂の成長の成り立ち-52:魂が求めるものへ-29 / しまの
No.1080 2006/09/09(Sat) 14:03:36

■「人生を越えた望み」..

再び大きく俯瞰。
取り組みの実践があり、治癒成長の道のりがある。その原動力は「望み」に向かう歩みである。
だが「望み」は治癒への原動力でもあり、治癒の結果でもある。
この全体のさらに根底に、「治癒を超えた望み」というものが浮かんでくる、と書きました(9/7「魂が求めるものへ-27」)

これは別の言葉では、「人生を越えた望み」とも表現できるように思われます。
この取り組みにおいて、そしてこの人生において実現できるであろうこととしての望みを越えた「望み」を、我々は抱き得る。そしてそれが何よりも強力にこの取り組みにおける「方向性」を支えるのではないかと。

なぜそう感じるのか。少し考えるとその理由はかなりはっきりしたことのように思えました。「人は望みによって生きる」という、ハイブリッドの基本的な人間観ですね。

我々が「自分は生きている」と強く感じることのできるのは、望みに向かって歩んでいる時なのだという考えです。人に誉められた時でもなく、望みが満たされた時でもなく。まあそれらも快感ではあるでしょうが、最も揺らぎないものはその中で何かと選ぶならば、「望みに向かっている」時ではないかと。
ならば、我々がこの人生において抱く「望み」が、実際にこの人生において実現できるものの範囲に収まるのであれば、我々はいつかどこかで生きる意味を見失う時が現れる、という話になってしまうという気がします。
成長への歩みへの動機が、どこかで歩みそのものを下回ってしまう、というイメージが浮かんだ次第です。

そうした「人生を越えた望み」とは具体的にどんなものか。
子孫の繁栄」はまだ「人生の内側」の話に思えますねえ。そのために人生でできることはかなり具体的にあります。
人類の繁栄」しかり。
これらは結局、我々がこの現実世界において「知ることのできるもの」を土台にした発想です。

そうではなく、「知ることができないもの」を土台にする「望み」の話です。


■「取り組み実践」を越えて治癒成長を決定づけるもの-2

3)「命」と「信仰」

かくして、ハイブリッドの取り組みを根底において支える、ある人は持ちある人は持たないものの3つ目に、「信仰」というテーマが出てきます。「命」がそこでどのように捉えられるのか。

これは難しいテーマです。内容が難しいというより、扱いが難しい。
内容については、もはやもともと論理性や科学的客観性などありようもない話です。

しかし厳然と言えることがあります。この取り組みにおいても、個人の情緒や治癒成長への歩みに明らかにそれが肯定的な作用をするということです。逆に、それが欠けている場合は、明らかに個人の情緒や治癒成長にとって否定的な作用が働くということです。

従って、これはハイブリッド心理学においても重要なテーマとして取り上げるべきものになります。
ハイブリッドのスタンスは明瞭です。心理学的幸福主義に立ち、これをまず「信仰のメカニズム」という、脳のメカニズムとして捉えます。それが心理学的幸福主義の観点で役立つものであるならば、大いに利用するが良い、というスタンスです。
しかし当然、心理学的幸福主義の3本柱のひとつである「現実科学世界観」と矛盾するものであってはならない


この基本指針の先で、ハイブリッドが示し得る「信仰」「命の意味」について、簡潔に書いていきます。
ちょっと短いけどいったんカキコし。


魂の成長の成り立ち-51:魂が求めるものへ-28 / しまの
No.1079 2006/09/08(Fri) 12:31:23

「命への姿勢」という最後のテーマになります。

ここに、ハイブリッドの具体的実践心の姿勢」「心の使い方」「心の技術」には今まで書かれなかった、治癒成長への大きな要素が残されているように思われます。


■「取り組み実践」を越えて治癒成長を決定づけるもの-1

ハイブリッドのそうした実践を行おうとする人が、さらに根底で持つ姿勢。ある人はそれを持ち、ある人は持たない。そして前者は根本変化に向かいやすく、後者は向かいにくい。それを僕はずっと直感的に感じていました。
まずその内容を考えてみたいと思います。およそ3つの事柄が浮かびます。それらが「命への姿勢」というテーマで扱えるのではないかと。

1)「人間理想」のイメージ

ハイブリッドでは“自己否定に立ち「なるべき自分」の姿を掲げる”という「自己操縦」を、心理障害のいわば原型姿勢として取り組むべきものと考えます。なぜなら、ストレスに満ちたその「生き方」がまさに「なるべき自分」になることを不可能にし、その結果、大元の自己否定と自己操縦の失敗による自己否定が混沌とした自己否定感情の中で、自分が一体何を感じ何を考えているのか自分で自分が分からなくなるという、「心の病理」に陥るからです。

しかしそれはもちろん、自己理想を抱くことそのものを否定するものではありません。問題は、その自己理想が現実において自分をその理想に向かっての向上を促す理想なのかどうかです。
それに対して、理想像に照らし合わせて現実の自分や他人を見下しこきおろすだけにしか使われない「理想」「破壊型理想」と呼んでいます。また破壊型理想を抱いて現実の自他を否定できること、否定できる自分に価値を感じる「感性」を、「否定型価値感覚」と呼んでいます。

ちょっと難解な話になりますが整理しておきますと、否定型価値感覚の中で抱かれる「破壊型理想」の中にも、否定型価値感覚を放棄したとき、「理想を抱くこと」が現実的向上に役立つものとそうではないものがあります。

おおざっぱに言って、外面に関する理想は、否定型価値感覚を放棄した中でも抱くとき、比較的単純に人をそれに近づける役割を果たすものです。各種能力や美貌の類。
一方、内面に関する理想はたいてい、「理想を抱くだけでは」現実に人をそれに近づけることはありません。例えば「心を開いてつながり合える」姿が美しいと感じそうなりたいという理想を抱いても、人はそうなれません。「なにごとにも動じない心」しかり。
ではどうすればそうした理想に近づけるのか。ハイブリッドの取り組み実践の全てになります。いったんそうした理想からは離れて、自分の心と行動に向き合う取り組みになります

しかしながら、ハイブリッドの取り組みの中で実際に根本治癒成長に向かう方は、概して、そうした内面に関する理想を強く抱いていた方が多いと感じます。
つまり、ハイブリッドの取り組みの中では同じように「いったん理想を追うことをやめて」の取り組みを行うのですが、結局のところ取り組む前からの人間理想のイメージでかなり方向性が決まっているらしい。


つまりこれは、取り組み実践という意識の前面で行うことの背景で、そうした人間理想のイメージというのはそう簡単に変化するものではなく、取り組み実践のより深い根底で働いているというメカニズムを考えることができます。
そしてその人間理想として役立っている具体的内容とは、自分の中に強い芯を持ち自分から外に向かって肯定的なものを湧き出させる人間といった方向でのイメージです。要はハイブリッドの「自己の重心」「破壊から自衛と建設へ」に符号するイメージ。

これは心理障害の深刻度意識表面の感情が前向きか後ろ向きかにはほとんど関りなくそうです。
例えば、「自立した人間」という理想像を抱きながら、それとは全く逆の悪感情に心を支配されていく自分に絶望し自殺しようとする人と、頭の先からつま先まで「人の目ありき」の感覚で、「見放された」という怒り絶望で見せつけのように自殺しようとする人とは、そこからの治癒克服というのは大分違った話になるように思われます。
これは「治癒克服は障害の重さではなく自己像や価値観で決定づけられる」という考察をサイトの最も初期の原稿で書いたことと同じ話です。
http://tspsycho.k-server.org/intro/int04.htmlの“「純粋で健康な心」という理想化された自己像”)

ただこうした「自己理想の治癒への影響」は、もっと具体的な治癒メカニズム論で考えることもできます。それが次。

2)「心の姿勢」の徹底度

取り組みの前から抱いていた自己理想が、どうも取り組みの成否を決定づけている。
これは治癒メカニズム論からは結構単純な理由が言えます。

治癒論から言えば、取り組みの以前からの自己理想がどうであろうと、問題は「心の姿勢」の徹底度です。これは100%の徹底努力を求めます。悪感情に困った時に試してみるというおざなりの姿勢では治癒成長効果は期待し難く、むしろ悪感情のない平常時の思考法を徹底して見直し修正する努力が、悪感情を生み出す根源を根底から解消させる効果につながります。

これは実に単純な話です。ここに来てハイブリッド理論の全てを整理しましたが、全ての実践はまず「心の姿勢」を基盤とし、それは何かと言うならば、「未知への選択」と「多面を同時に見る」が思考の外枠として、思考の内容そのものについての「心の姿勢」「自己の重心」「破壊から自衛と建設へ」たった2つしかないのです。これが「生き方」についての基本
あとは「悪感情への耐性」もいちおう「心の姿勢」に入れられます。本の目次などでは、幾つか具体的思考法があるので「心の使い方」の方にいれますが。これは「障害」への対処の基本になります。

これを本当に行う気があるかどうか。それが、ハイブリッドの取り組み実践としては問いませんが取り組み以前からの「自己理想」によって、かなり決まっているらしい、ということですね。

まあ、そんな視点で自分の「人間理想イメージ」を振り返ってみることも有用ではないかと。
もちろん、ハイブリッドはあくまで全て「選択」として、取り組まれる方に「選択」をお任せしますが。

ここでいったんカキコしましょう。3つ目は「人間理想」のさらに根底にある「命への感覚」になります。
上記までは一応今までの治癒論に収まる話かも知れません。次が、それを越えるテーマになると思います。


魂の成長の成り立ち-50:魂が求めるものへ-27 / しまの
No.1078 2006/09/07(Thu) 16:20:50

■「望み」はどこから現れるのか

真の自己受容から始まる道のり後期は、魂との関係において始められるものであること、そしてその最終的に目指すものは自己アイデンティティと愛を統合した「包含の愛」という魂の状態であろうことを話しました。
しかしそれはスタート地点とゴール地点の光景を眺めただけのような話で、実際その道のりの中にあるのは、大分違う光景のように思われます。

実際その道のりの中で行うことは何なのか。
これが取り組み実践の内容をサマリーした9/2「魂が求めるものへ-21」に戻ります。それは「心の姿勢」であり「心の使い方」そして「心の技術」の実践です。
そしてその一歩一歩が、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
に示した荒廃した魂から浄化成長した魂へと変化する、幾つもの溝を踏み越えていく歩みになるわけです。心はその中で全く違う様相に上下の揺れを繰り返しますが、その根底にある魂の成長変化は一環としてぶれのない、静かな浄化成長が続きます。

そしてそうした取り組み実践を行う原動力が、「人生の望みに向かう」ことにあるのだという、ハイブリッドの最初の話に戻るわけです。それは決して「障害を治そうとする」取り組みではないのだと。障害がなくなって人生が始めると考えると、障害を克服する成長が止まります。障害があるまま人生に向かう歩みが、障害を根本から消す成長を生み出すのだと。
「望み」があるから動揺も起きる。だから動揺をなくしたいという消極的動機だけではなく、望みに向かうという積極的動機によって、たんなる癒しではない成長への取り組みにするわけです。
ハイブリッド人生心理学による心の治癒成長への道

しかし「自己の本性としての望み」については、真の自己受容に立ってからの話の中で言ったばかりです。
つまり「望み」治癒への原動力であると同時に、治癒の結果でもあるといういたちごっこが、結局現れます。実際ハイブリッドに取り組む方の中にも、「望みが見えない」という「症状」を問題とされるケースが結構少なくありません。
それについて何を言えることができるか。

これは「治癒を超えた望み」とでも言う概念を浮かばせます。こうしてサマリーした取り組み実践や治癒成長道のりの全体を超えて、ある人間をハイブリッドの目指す方向に導くものがある。
そしてそれを持つ人と持たない人がいる。これは前々から直感的に感じたことでした。しかしそれが何なのかと明瞭に定義することは今までありませんでした。似たような感情テーマや深刻度でありながら、自分の問題にどう向き合おうとしているかの、根底の姿勢に人によって違いがある。同じような問題と深刻度であっても、治癒克服に向かうかどうかは、それによってほぼ決まってくるとさえ言える。

それを促す「心の姿勢」を、今回考えた次第。


■「死」は「望み」と「真実」を促す

「死」「命」というテーマは、この次元で出てくる話のように思われます。
「命」は既に出てきてますね。「愛」とは「命の結びつき」を志向する感情であり、「結びついた命」を獲得したとき「包含の愛」が現れる。
「命の結びつき」? こうした観念をどう感じるかということが、どうやら上述の「治癒を超えた望み」を生み出すもののように感じます。

まず「死」について。
間違いなく言えるのは、この取り組みにおいて「死に向き合う」ことは必須とも言える事柄だと言えることです。


自己操縦心性の崩壊が『悲しみの彼方への旅』で描写した「完全なる絶望」にまでなってこそ治癒効果があるなんてことは、全然ありません。心性崩壊の動揺度は、障害の深刻度そのものの話でしかないでしょうし、さらに「絶望は問題の深さではなく無知を示す」ものですので、思考法行動法の習熟や「未知への知」を携えることによって、感情の膿を流すという峠は、心の片方には楽観的気分を残しながら片方で痛みを感じるような、乗り越えるのが容易なものにさえなり得ると考えています。

「死に向き合う」ことがハイブリッドの取り組みにおいて必須と考える一つの理由は、「サバイバル世界観」のためだとまず言えます。我々はどのように死の危険に晒されるのか。それに対する自衛の能力と技術とは何なのか。
なぜならそれが「恐怖の克服」につながるからです。「人に嫌われる恐怖」を克服するという話を考えてみても、自分の基本的な生存は社会に守られるべきであるり、事故や事件に出会ったとき「こんなことは起きるべきでなない」という思考の世界にとどまったままでは、「人に嫌われる恐怖の克服」なんて考えようもないというのが、僕自身の前半生からの実感です。無法地帯で命を狙われる恐怖にさえ勝ちたいという意志を持つからこそ、「人に嫌われる恐怖」の「現実に見合わない強さ」を実感として感じ、感情分析の中でそれが消える方向に向かうわけです。

そしてもう一つ「死に向き合う」ことが必須と考えるのは、それによって我々の「望み」が変わるからです。
これについてはあまり例など出すには及ばないでしょう。もし自分の命があと1年だとしたら、何をしたいか。よくある話です。

これをいかに現実的に考えることができるか。これをハイブリッドの実践の一つとしてご提案しましょう。

そして本当に死に向き合った時、ハイブリッドの治癒理論と根本的につながる、一つのテーマが現れます。
それは死に向き合った時、自分自身へのごまかしや欺瞞は意味を失うということです。意図的に人についた嘘は別の話です。少なくとも、自分で自分に嘘をついていた、そして自分でそのことに気がつかなかったことに気がつくのは、死に面した時にはまさにそうなるであろうことなんですね。

かくして、魂の浄化に関して例に出した犯罪者の話、そして自己操縦心性の崩壊という治癒論、そしてそれに向かうための「動機」の話が「死に向き合う」という話からつながります。自己操縦心性の崩壊とは、感情の膿などないものと自分についた嘘が破られる現象なのです。

「死に向き合う」という話となると、「こんな自分は死んだほうがまし」というよくある小言(^^;)も出てくるかも知れませんね。
それは否定型価値感覚のためです。

引き続き「命」についても。否定型価値感覚とは一体何なのかという話も一緒に続けます。


魂の成長の成り立ち-49:魂が求めるものへ-26 / しまの
No.1077 2006/09/07(Thu) 13:28:04

「死」「命」というテーマの位置付けを分かりやすくするために、話をまた整理しましょう。
「真の自己受容」によって始まる、治癒成長取り組みの「後期」と位置付けられる道のりの話になります。


■取り組み後期サマリー:魂との関係性と達成の姿

真の自己受容から始まる道のりは、その前段階として、「否定型価値感覚の放棄」を大きな道標にした前期の道のりの先にあるものです。否定型価値感覚によって人は現実世界への、そして自分自身への敵となって生きるのですが、自らへの敵となることによって、この人間の本性までもが閉ざされるのです。

従って真の自己受容は、自らの本性に立ち、魂の成長のために、魂の求めるものに向かって生きる過程として位置付けられます。これこそが、この人間が本来可能性として持った人間性を大きく開花させる、根本変化を伴う成長の道のりになります。

この2つの道のりは、あたかも出発直後に事故を起こしたアポロ13号が、地球に帰還するために一度月への周回軌道へと向かわなければならなかった姿に似ています。心理障害においても、躓きは実は人生のごく早期に起きたのが根源です。
気持ちは救われたい一心で、すぐにでも宇宙船の向きを逆にして地球に向かいたいのですが、既に月への加速にある中では、それは無駄なあがきでしかない。月の裏側を回って加速することで地球に戻る道のりしか残されていません。

これと似たように、心理障害の苦しみから逃れたい一心で、自分の心を何とかしようとするあがきが、逆に心理障害を悪化させます。内面の良し悪しを問うことをやめ、宇宙船の操縦という行動学をしっかりと確かめ直しながら、自分の闇の宇宙の中にあるものを深く知ることがまず指針となります。
戻りたい健康な心という地球は、逆にどんどん遠ざかるような気がすることもあるかも知れません。道のり前期は概して、目に見える自分の感情はあまり変わり映えのない動揺の繰り返しが続きます。まあその中でもかなりの開放感の体験といった治癒感もあるはずですから、心配することはありません。
月の裏側をまわっていよいよ地球へと戻る道のりに入ると、光景は目に見えて変化するようになります。地球という、我々の命の源へと還っていくのです。
例え話としてはここまでが同じで、アプロ13号は大気圏突入をして無事生還しましたが、治癒成長の道のりにおいては終わりのない向上の道のりです。
..いや大気圏突入は「死」というイベントであり、それにより「命」の源へと真に還っていくということなのかも知れません。この話が最後に出てきます。

とまあ我ながら良くできた例えですが(アハハ)、真の自己受容で始まる後期道のり理論的にサマリーしょうましょう。

まず方向性の基本は、魂との関係として生まれます。自己の本性の開放と実現がその骨子です。この「自己の本性」には「望み」つまりさまざまな欲求願望という側面と、「本性的善悪感覚」という、人や社会の目の影響を完全に脱した善悪倫理感の側面があります。このため、「望み」に向かう行動の中で自己操縦心性の崩壊が起きた時、「自己への審判」と呼ぶべき自分自身への向き合いがしばしば起きることになります。


■達成の姿:アイデンティティと愛の統合

次に、この道のりの先に実現される治癒成長の姿は、「アイデンティティと愛の統合」に向かうように思われます。これは魂との関係の先にある、心の姿の話になります。
アイデンティティと愛が統合された心の姿は、「包含の愛」という魂の状態に対応するものと考えています。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg

その意識内容については8/29「魂が求めるものへ-17」などで少し描写しましたが、再度その特徴的な意識を書きますと、手前味噌で僕自身がそんな感覚の尻尾が見えてきたものとして言うならば、老若男女にかかわらず普遍的な人への愛情感、中でも子供への強い愛情感があり、それは僕の場合はこうした著作活動で、自分の真のアイデンティティを獲得したことが支えになっているという感覚が強いです。
ただし「包含の愛」というのを僕の著作活動のような特殊な生き方に限定して考える必要はなく、要は、主に「優越」を目指した人生活動と、「愛」を目指した人生活動が、心の深層においての分裂を抱えない状態になるということが本質と考えます。
この点、出世や肩書きにこだわる生き方というのは、「優越への活動」が人工的アイデンティティになる一方で、愛をめぐる来歴アイデンティティが隠蔽されているという感じでしょうし、恋愛や結婚をめぐる過熱にある生き方というのは、意識の表面では一見「愛」という一つの目標への人生活動にあると見えながら、心の深層には「優越」と「愛」の激しい亀裂と葛藤を抱えている姿であり、それもやはり真のアイデンティティを隠蔽した姿なのだと考えることができるように思われます。

つまり、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
で示す「共鳴の愛」と「怒りの愛」の境界線を境目にして、荒廃した魂においては「優越」と「愛」のベクトルは分裂と葛藤を起こすという構図です。図にもそれをあとで反映したいですね。

荒廃した魂ほど、その分裂と葛藤は激しく破壊的であり、魂が浄化されるごとに、上方の状態へと変化していき、「優越」と「愛」は相容れないものではなく統合に向かうようになります。
ですから「共鳴の愛」の魂においては、「優越」と「愛」は対立しません。その実現は「誉れ」という、愛の中で優越価値を達成する姿です。これがまず人の人生で基本的な目標になるよう、脳がプログラムされているのでしょう。
やがてそれが達成された時、否、達成そのものではなくそれに向かって可能性を尽くしたという心の充実が、最後に「包含の愛」という魂の状態に人を向かわせるように思います。ここに至ると、「共鳴の愛」が愛の感情の交換や一体化を求める感情であるのに対して、「包含の愛」はもうあまり一体化を求めない、穏やかで実に安定した愛の感情に変化するように思われます。

なぜか。僕の実感を言うならば、それは「命のつながり」に関連したものだから、ということになるでしょう。
「共鳴の愛」は、「命のつながり」を志向した感情です。だから一体化への愛の感情が意識の前面に現れる。
それに対して「包含の愛」は、既に「つながった命」を獲得したことの表現であるように感じます。命がまだつながっていない時、つなげるための愛が湧き出る。やがてもう揺らぐことのない、命が既につながったという感覚を得た時、愛の質が変化するように感じます。

人生の主活動、仕事や家庭において「命のつながり」というものを考え意識することは、自己の真のアイデンティティの確立に良いことだと思います。僕も例えば経済的理由でこの執筆生活が続けられない場合再就職するわけですが、やはりそれを意識したい。
何も人命にかかわる仕事を候補にはしないですね。IT関係はちょっと飽きたから(^^;)例えば広告関係とか。そこでの「命のつながり」とは何か。かなり緩いものになるでしょう。「秩序の維持」とか。道徳秩序の話じゃありません。ライフラインの障害は社会の混乱を起こします。それを防ぐ。ITの仕事とか広告の仕事の「命」は、そんなところにまずあるのが妥当と感じます。それ自体の技術の進歩なんて、特に大した意味はないかも知れない。まあ加えるならば我々人間の創造性の発展への貢献..
まあ「仕事の命論」の詳しい話はこの程度でやめときましょう。あくまで方向性を定める上での細かい話であって、実際に歩むというのはちょっと違うもっと大きな話になります


ということで、真の自己受容から始まる道のりの後期について、道のりを開始させる「魂との関係」と、道のりの達成結果としての「心の姿」についてサマリーしました。
開始させるものと、結果の姿がある。その間の話が次に必要です。その一歩一歩の歩みとは、結局のところ何か。どうできるのか。
それが「望みに向かう」という、ハイブリッドの取り組みの根本の話になります。

この視点でのサマリーの中で「死」「命」についても結論を述べます。


魂の成長の成り立ち-48:魂が求めるものへ-25 / しまの
No.1076 2006/09/06(Wed) 12:42:35

■愛への願いに気づくことが..?

前のカキコでは「心の底に愛への望みを抱えながらそれに気づくこともできず、重要に見られることに駆られて仕事をし続ける現代人」と書きました。

これはちょっと安っぽい表現だったかも知れませんね。この表現は何か、「愛が願いであることに気づけば何かが良くなる」かのような印象を起こさせます。
だが事実はそうではないでしょう。まあ人によっては「何かが分かった」という甘い錯覚のような気分を感じるかも知れません。でもそれ以上の変化を与えるものではないような気がします。

これはごく体験的に、直感として、そう感じるという話です。かつての僕にとって、そんな言葉を聞いたところで何がどう変えられる訳でもなかった気がする。

はっきりと言える事実は何なのか、改めて振り返りましょう。


■「愛」は軸にして答えにはあらず

はっきりと言える事実とは、真のアイデンティティが隠蔽されたまま、重要な存在と人に見られることへの熱に駆られた状態があったということです。
そしてその心の状態が終わった時、全てが「愛」を軸にしていたことを感じる、ということです。

「魂のメカニズム論」からは、「心の全てが愛を軸に変形したものであるからこそ、心において愛は答えではない」とでも言えます。
難解でしょうが、「心の全てが愛を軸に変形したもの」を示す図が以下でした。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg

魂が「破壊の愛」にある時、心の中に写るのは、「復讐破壊」という「優越」と、「隷従」という「愛」でしかありません。それが「愛」を軸に変形した心なのです。
その時、「愛を目指す」ことは、心に写る意識においては「隷従」でしかありません。それは答えではないのです。


そうして変形した心の状態が一つの終わりを告げる時に、人はその全てが愛を軸にしたものであったことを、知るのです。

では変形した心を終わらせ、より浄化された心へと一段階変化させる原動力は何なのか。その本人に意識においてです。


■「愛」に還って行く殺人囚..

これを考察するために、もう少し事例を紹介しましょう。
3人の殺人囚が思い浮かびます。どれもが、犯した罪によって逮捕され、自らの死を前にして、生まれて初めてのように「愛」を思わせる言葉を口にした人物です。

一人はTVのワイドニュースで取り上げられたとある老殺人囚。内縁の女性を殺した罪で終身刑となり、年が経ち体は衰え、もはや死を待つだけのような囚人でした。文字通り骨と皮だけのような姿。
精神ケアのため、牧師が時折訪れるそうです。映されていたのは、ベッドで牧師の手を握り、「今何が欲しい?」という問いに、涙を流しながら「聖書が欲しい」と答えていた姿でした。「罪を悔いたい」とも言っていた気がする。「罪を補いたい」ではなく。

もう一人は快楽殺人者として歴史に名を残すテッド・バンディ。これも死刑執行直前の彼の姿が残れされています。「自分は暴力の中毒になっていた」。もはや殺人者だった彼とは違う表情でただそれだけを言う彼の目は、僅かながら涙を滲ませていたようです。

最後に、日本の犯罪史上に名を残す宅間守。獄中結婚した女性に、彼は最後に「ありがとう」と言ったそうです。

こうした例から、心の状態が明らかに浄化されたものへと根本変化するのは、「死に向き合う」ことが一つのきっかけになっているということを言うことができるように思われます。
これは先に紹介したマリー・ヒリーの場合も同じです。彼女の心の根本的な浄化は、終身刑の判決が下された後に促されたものであり、最後の場面はまさに「死に向き合う」という姿でした。

そしてハイブリッドが自己操縦心性の崩壊を根本治癒のメカニズムだと考えていることについて、まさに似た話をしましたね。
人が死に直面するような体験を経て、初めて「生きる喜び」を見出すという出来事があり、心性崩壊の体験的意識内容はまさにそれなのだと。心性崩壊とは、実際に臨死体験などなしにそんな体験を持つ心理学的技術なのだと。
(参照:2006/06/28「自己操縦心性の成り立ち-96:克服に向けて-7」)

かくして、「愛は軸にして答えにあらず」の先に、「答えは死と命にある」というテーマがクローズアップされてきます。
理論的考察に戻って続けます。


魂の成長の成り立ち-47:魂が求めるものへ-24 / しまの
No.1075 2006/09/03(Sun) 16:04:21

■太宰治の「トカトントン」

心の底に愛への望みを抱えながら、そのことに自ら気づくこともできず、重要に見られることに駆られて仕事をし続ける現代人。
その心の底には、やはり未解決の感情の膿が潜んでいるのであろうことを感じます。

同様に、この社会で「自分の生きる道」を探してさ迷う、これからの若い人たち・・。
先日、TVドラマ化されたのか綿矢りさ『インストール』の紹介文では、「風俗営業のバイトを通して社会で生きる自分を見出して行く少女」・・こう並べられた言葉を見ただけでも、何かあまりにもおおごとのように「自分自身にとって特別な存在である自分」というものを求めて揺れ迷う現代の少年少女という構図が浮かんでくる次第です。

これに対し、ハイブリッドが見出した答えはかなり特殊なもので、その迷いを構成する感情をいったんばらばらに分解して、そのそれぞれの要素に対して、幻想を崩壊させ感情の膿を流し見取るなんて難解な心理学とくる。
しかしこれも意識して行うのではなく、長い取り組みの中でやがて訪れるなんて表現でお茶を濁している状況が多々あるのも現実であり、それでも最後に言えることがあると、この考察に至っているわけです。

余談をちょっと続けますと、最近相談者の方がメールの中で触れていて知った、実にこのテーマとつながる小説作品に、太宰治『トカトントン』があります。ネット文庫で読めますので興味ある方はぜひご一読あれ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2285_15077.html
描写されているのは、まさに、「真のアイデンティティ隠蔽と人工的自己アイデンティティ熱症」の実に鮮烈な症例と言えるでしょう。

輝くように何かに打ち込む人の姿に魅了され、「これだ!」とのめり込むも、やがてどこからともなく聞こえてくる大工の「トカトントン」という音の瞬間、すべてがバカらしく無意味なことに白けてしまう日々をつらつらと綴る男。。
この熱心と白けの間隔はしだいに狭まり、やがて「火事があって起きて火事場に駈けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン」と。アハハ。

まそうしたなだれ込むような独特な文調は太宰ならではの文才を感じさせますが、そうした奇異な精神の描写だけならまだ太宰治の名をわざわざ出すほどでも..と感じながら、ラストに綴られた短い、「むざんにも無学無思想の男であった某作家の返事」を読み、「さすが太宰治!」と感じたものです。

拝復。気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、「身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ」この場合の「懼る」は、「畏敬」の意にちかいようです。このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら、君の幻聴は止む筈です。不尽。

「いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けている」なんてのは思わず目を見張りましたね。まさに「アク毒の放出」を思わせる言葉。そして「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とする」 まさに然り。

多分太宰治も、そうした一見破滅と思われるかのような体験が実は何かを突破するということを漠然と感じていたのでしょう。
しかし結局太宰治が病んだ心の世界から抜け出せなかったのは、結局彼が既知の中で考える思考を脱することができなかったためだと考えます。またホーナイのような心理学に触れていなかったためでもあるでしょう。
「醜態をまだ避けている」という叡智によって、多分太宰自身の「気取った苦悩」を振り切ろうとした思案が、実は同じ轍の中にあり続けるという自己操縦心性の無限ループの中に、彼は結局あったように感じます。


短い余談のつもりが結構長くなったので、いったんカキコし、ハブリッドが見出したような答えがある世界においても、最後には結局何に向かえばいいのかというテーマの考察を続けます。


魂の成長の成り立ち-46:魂が求めるものへ-23 / しまの
No.1074 2006/09/03(Sun) 11:45:00

■島野の「仕事に熱中した20年間」

さて先のカキコで紹介した、「人生の見出し体験」の前の僕の仕事振りとは、自分の仕事の能力にプライドを持ち、自分の世界に閉じこもった仕事に熱中し、頭に血が昇りながら「成果を正しく評価しない」上部を憤る。そんな形で「あれほどまでに熱中した」ものであったのを、最近振り返る機会を持ちました。

思えば、大学院修士卒業後にシステム開発企業に入社して以来、システム開発の仕事は僕にとって「天職」と思えたもので、そのことについて何の疑いもなくシステム開発の仕事に熱を上げた人生の時期が、僕の前半生の後半、ちょうど20年間あったことになります。
20代後半、徹夜をして一晩でプログラム1本を書き上げた日。馬の目を抜くような厳しいスケジュールの大プロジェクトを中心設計者となり引っ張り、その成果では社長賞を受賞するが、同時に人間関係への失意の中で大手コンピュータ企業に入社。世界にも名も知れた企業の社員として、この社会を生きるスキルを底堅く獲得した自信の中、仕事も順調な中で静かに内面に向き合うようになっていった30代後半..。

そうやって思い出して浮かぶのは、仕事に熱中した自分とは全く別の、時にふと仕事への意識が全く消えてしまい、一体自分はなぜそして何のためにここにいるのだろうという虚無感に取り付かれていた自分の姿が、その全ての時々にあったことでした。それは喧騒の大プロジェクトの中、ふと緊張が切れて会社から抜け出し、近くの公園の近くを、漠然とした悲しみの中で遠く失われた何かを思うようにただ歩いていたような姿であったりしました。

思い出すと何となく目がうるうるしてきます。『悲しみの彼方への旅』で書いた、青白い夕方の空気の中を歩き続けた自分と重なるような..。


■人工的自己アイデンティティの中で得たもの

そうした20年間の最後の日々となる日記を読み返したのが先日ですが、ある後日の一文を読み、仕事への熱の中で自分が追い求めたものが何だったのか分かった気がしました。
担当を変えられた時、上司に言われた言葉を見返しながら書いた文章です。後任者がこの新しい仕事にちょっと難儀を感じている可能性を見て、僕は一瞬「やれるものならやって見ろ」という気分の中で書いた文章。

2002.12.28
 ・・(略)・・
 僕としては“最初から他の担当者にしていればもっといいのが出来たはずだ。もう待てない。”とまで言われたことは、そのまま筋を通して交替を実行して欲しいと思う。年明けにどう動くかだ。


そんなことまで言われたのかと思い出した時、僕は当時のこの上司の言葉はさすがに酷い、と感じました。そのツールは、業界でも明らかに先進のもので、そこにつぎ込んだ僕のノウハウは評価されてしかるべきものだと、今でも考えます。だから、それを簡単に「誰でもできた」というような言葉を言うとは、あまりにも配慮が欠けているのでは、とその時考えた。
しかし今の僕にとって、それが今業界で高く評価されていようが、それとも元々の狙いに無理があり頓挫して消え去っていようが、全然どーでもいい関心のほとんどないことなんですね。

この、内容そのものへの関心のなさと、「他の人間ならもっと良いものが出来た」と言われた失意を一緒に振り返った時、自分が仕事の中で追い求めたものが何だったのか分かった気がした次第です。
それを僕はこんなメモで書いておきました。

(2006.8.13メモ)
 読んで一瞬、“やはりその言葉はあんまりだ”という感覚が流れる。
 自分がその中で重要な役割を果たすことに誇りを感じることができた組織があり、事実自分にはそれだけの能力はあったかも知れない。
 だが、それだけ。「能力を示せる仕事」があった一方で、その仕事をする意味を与える「命」は失われていたような気がする。
 そう思い返し、少し悲しみが流れた。



■「命」という命題へ

なぜ悲しみが流れるのか。自分が追い求めたのは「愛」だったからですね。仕事の内容そのものは、結局どうでも良かったんでしょう。自分が重要だと見られることに誇りを感じられる集団。そしてそれを可能にするはずの「能力」

でも結局心の底で追い求めたのは「愛」だった。
それを与えてくれる組織だという感覚があったから、僕はその組織に結局最後まで愛着感を感じながら、完全には受け入れらなかったという感情にいた自分を、感慨深く思い出します。

そしてそうした「心の底で求めた愛」がなかったら、もう自分のいかなる高い能力も、もう意味は失っていた気がする。事実その狭間のような感覚に陥った時間が、結局最後まで僕にはあった訳です。

どんなに高い能力で遂行する仕事でも、そこに「命」が失われた時、その価値の何かの本質を失う。そう感じます。
そう感じ、僕はこう振り返って初めて、当時の上司が良く言っていた「仕事のやり方を変えなさい」という言葉が、正しかったような気がしている次第です。まあその上司は気さくで人間的な大きさのある人物でしたね。

現代人の仕事の仕方のあまりにも大きな範囲が、同じものが重なっているような気がします。
心の底では「愛」を求め、でもそれはもう意識はされず、ただ重要に見られることをめぐっての衝動が空回りするように、働き続けることに駆り立てられていく人々・・。「頑張っていない」と見られることを恐れ、倒れるまで働き、うつ病になり、過労で死んだり自殺さえしていく人々・・。
その一方で、まさにそうした姿の中で、その仕事の内容そのものには「命」が失われているように感じます。

ではどうするか。「仕事に愛を込める」か。良く聞く言葉のような気がしますが、ちょっと違う気がしますねえ。
やはり「命」なんですね。

というわけで、「命」という最後の考察テーマ、そしてその彼方にある「信仰」というテーマの考察へ。


魂の成長の成り立ち-45:魂が求めるものへ-22 / しまの
No.1073 2006/09/02(Sat) 16:25:40

心理メカニズムの本格的解説項目としては最後のものになる、「真のアイデンティティ隠蔽と人工的自己アイデンティティ熱症」について。


■自己アイデンティティと愛の統合へ

「真の自己受容」によって「魂の求めるもの」へ向かった時、最終的には「自己アイデンティティと愛の統合」というのが目指すところのように感じています。
これについては理論的説明はもう多くありません。手前味噌ですが、ごく体験的に、僕自身がそれを感じ始めているという例を紹介しようと思います。

「自己アイデンティティへの衝動」は、人生を巻き込む大きな衝動である一方、この衝動だけが単独純粋に体験されることはなく、表面的にはかなり多様な衝動に化けるという話をしました。
(「自己操縦心性の成り立ち」の「受動型自己アイデンティティと憎悪」シリーズを参照)

それは多様であるものの、概して、自己アイデンティティ衝動は概して「優越への欲求」を心の表面出口とする形で編成される傾向があるように感じます。
この社会で自分がどのように優越した存在であるかを示す、能力や美貌、仕事や地位肩書き財産、性格振舞い、etc。
それはまさに、「自己操縦」という生き方の中で、「なるべき自分」として掲げられる自己理想像と、現実の自分との間に揺れ動く、「自分らしさ」を維持しようとする衝動です。

一方、「自己操縦」という生き方が「大元の自己否定」に立って「なるべき自分」を目指す生き方であるとき、「大元の自己否定を抱えた自分」は、人目に晒すことのできない、隠すものを持つ自分ということになります。
しかし人間存在として見た時、根本はむしろこっちにあるかも知れないのです。それを隠して生きる。



■「真のアイデンティティ隠蔽」と「人工的自己アイデンティティ熱症」体験例

かくして、「真のアイデンティティ隠蔽」とも呼ぶべき心理状態が生まれます。
そして面白いことに、真のアイデンティティを隠蔽したまま、この社会で何者かになろうという自己アイデンティティ衝動の中で自分の生き方を追い求めた時、真のアイデンティティを確立した人間には本来無用な、度を越えた熱中や攻撃的な意欲が生まれるらしい。これを「人工的自己アイデンティティ熱症」と呼びたいと思っています。


この具体例として紹介しようと思うのは、まさにかつての僕自身です。
やや長くなりますが、心理学に戻る直前の心理状態の描写など。

2002年の「ゼロ線の通過」と「人生の見出し体験」の直前まで、僕にとって今のような心理学執筆に向かうことは、夢にも思えないことでした。あくまでITの仕事の先に、自分の未来があるのだと。「未来」とは言っても、それが自分に特に何かを与えるものだという感覚が感じられないことを何度も日記に綴っていましたが。僕にとって人生はもう「失われた何か」でしかないという気分が、まだ基調でした。

それでも2000年あたりからの静かな感情分析の中で、僕の感情基調は明らかにに上昇していました。相手女性を探す意欲もようやく復活し始め、趣味のスキー活動や仕事も順調。
ただ仕事の方では、もうかなりのベテラン社員の部類になっていく自分が、組織で残るための独自な優越性を確立しなければならないという課題はかなり感じるようになっていました。

実際には、企業ITシステムの発展の現場と共に歩んだ仕事の経験で、システム開発業務については絶大なる自信を持ち、この頃の仕事は、システム開発業務を自動化するツールの設計と運用を行うという、先進的で高度な仕事になりました。
組織の上部は技術的内容はちんぷんかんぷんなまま注目する中、今から考えても当時の僕だけにしかできない仕事をしたわけです。だが結構良くある話(?)ですが、そんな新しい試みがそう上部の期待に添える目覚しい結果などすぐに出せるわけでなない。僕は技術内容の高さを理解しないまま成果を評価しない上部への不満を感じるようになっていました。

前置きが少し長くなりましたが、お伝えしたかったのは、そうした状況での僕の心理状態です。
上部からひいきにされないことへの不満が湧き立つ状態が日記に記されていますので、引用します。理性でそれを落ち着かせようとしています。

2001.12.21
 相変わらず、生活の中で上司Tさんとかへの不満に関する思考で、血圧が少し昇っているようなことが多い。それがこう気になるのは、この思考の度合いが、自分の利にかなっていると思える範囲をオーバーしていると思えるからだ。
 いわく。「出るクイを打つ組織になっている。」 これは客観的な感想だ。
 「一部の人間の声しか聞いていない。」 「YさんやSさんの声ばかり偏重し過ぎる。」 それは彼らがチームリーダーで影響力を持っているからだ。僕自身はチームには属していない。マネジメントとしてまず彼らと話すのは当然のことだ。
 もっと心理的に引っかかっているのは、何か外から話があった時に、何でもYさんが知っていると誉めているかのように話している時、僕の方は何もないかのように位置付けられたような不満感を感じたことだ。これは結局組織の中で自分がNo.1の位置にないということ。
僕がNo.1であることを認識するほど細かい視野を、マネジメントは持っていないということだ。これについてはあれこれ考える方が損だ。
 もう一つ、仕事の進め方で良く言われる、「やり方を変えるように」という言葉への不満。色々考えたが、
確かに自分は回りを巻き込む度合いがあまりに少ない仕事の仕方であることは事実と思える。だがこれは自分の性格とか行動の仕方という前に、そのような仕事が割り当てられていだけのことだ。自分の方であれこれと考える問題ではない。

このように、僕の仕事の仕方は、自分の技術にプライドを持ち、それが正当に評価されないという怒りの中で、自分の世界に閉じこもるような仕事の仕方をしていたのが実情です。今から考えると独り善がりの傲慢な勘違いだったと思えるところを茶文字にしてあります。
そんな風に、仕事に気分が乗るときは戦闘的意欲なのですが、一方、休日に気分がリセットされた月曜に会社の席に座ると、意味の分からない生理的な悲しみの感覚が流れ、仕事をする気にもなれない、「休み明けの悲しみ」が繰り返されていた日々でした。

この年の年末、上部はこのツールの成果に不満を感じ、その仕事の担当者を別の人間に変えられます。かつてのような悪感情で落ち込むことはもうありませんでしたが、さすがにショックでガックリの出来事でした。まあ実際そのツールはそれでもう発展が終わり、僕だけにできた仕事であったことはそれなりに評価されたのではと思います。

その後、「人生の見出し体験」の後、僕は心理学に再び情熱を感じ、サイトなどでの執筆を始めるのですが、そうなるともう、そうしたITの仕事の成果といった話の全てが、もう「どうでもいいこと」になった次第です。これは自分でも呆れるほどでした。


とりあえずいったんカキコしましょう。顛末はそうゆうことです。
しかしあの時代、「あれほど熱中したものがあった」ことは、今その内容そのものへの関心をほとんど感じない状態で思い出すと、不思議な感覚を感じさせるものがあります。

ごく最近この日記を読み返して、「あれほど熱中したもの」の正体を振り返る機会を持ちました。
それについて次に書き、「真のアイデンティティ隠蔽と人工的自己アイデンティティ熱症」が我々に教えてくれる事柄についての考察を続けます。


魂の成長の成り立ち-44:魂が求めるものへ-21 / しまの
No.1072 2006/09/02(Sat) 09:35:59

「進めない状況」という難問については今回はそんなとこにして、全体を締めくくりましょー\(^^)/
「動機」の究極の根本についても総括の流れで述べます。


■治癒成長道のり総括:魂が求めるものへ

ハイブリッドの取り組みは、大元は「心理学的幸福主義」で始まります。「成長」とは「自ら幸福になる能力の増大」であると捉え、心理学に基づいて「幸福になる方法」を追求するわけです。
今までの情緒道徳による善悪観を解体し、現実科学的世界観の中で、「幸福」を自らによって築くものとして追求します。

「幸福」について心理学から言える最もシンプルな話とは、我々は「怒る」ことによって不幸になれるということです。そして不幸を盾にして生きる。そんな生き方もあります。
それはやめるということですね。怒ることをやめた時湧き出るものの中で、心を解き放って生きる。

最も基本的な実践は、「心の姿勢」です。これは「選択」として表現されます。
最大の選択は、「未知への選択」です。今の自分の心で、自分を、他人を、そして世界と人生を、決めつけない。既知によって決めつけた時、心の成長は閉ざされます。
心の成長に向かう選択の基本は、「自己の重心」です。これは内面の健康のための姿勢です。これが損なわれるごとに、本来自分自身のことであったことが、他人の目によることに感じられてしまいます。これが進むごとに、心は病んでいきます。
外面への姿勢は「破壊から自衛と建設へ」です。「現実において生み出す」ことを「強さ」とします。
否定破壊を「強さ」と勘違いした時、現実にはどんどん弱くなります。弱いと怒り、怒ると自己の重心は損なわれ、心が病んでいきます。この全てを逆の方向にする「選択」が、この道のりの根本なのです。

その選択に立ち、より具体的な実践を行います。
まず「感情と行動の分離」病んだ感情を克服したいのですから、感情を鵜呑みにしない、外面行動と内面感情をいったん切り離すことを行います。単に心の成長ではなく、心理障害の治癒克服という課題を含んでいる限り、この後の実践はそれに応じた特別なものになるわけです。
外面行動については「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」に徹します。前者は良い人間関係を築くための行動法であり、後者はこの社会で「勝つ」ための行動法です。「現実において生み出す」ことを「強さ」と考える理念に立ったこの行動法が、愛と強さの統合を可能にするのです。

内面への取り組みはまず「悪感情への耐性」姿勢の具体的ノウハウを学びます。「感情による決め付け」を解除し、自分への医者の姿勢。「痛みを痛む」、「苦悩をただの痛みに戻す」姿勢。これが心理障害治癒への決定的基盤です。なぜなら治癒発現の本質部分は悪感情の形を取るからです。「こんな気分になってはいけない」という姿勢が致命的誤りであることを知ることが大切です。そう考えるから、そんな気分になるんです。
「感情と行動の分離」と「悪感情への耐性」の上で行う「感情分析」が、心理障害の治癒への主技術となります。優越そして自己アイデンティティの衝動が、どのように「自己の重心」を失い皮相化荒廃化の変形をしたかを自己分析します。これは早晩、自己嫌悪感情が袋小路状態にあることの自覚につながり、自己操縦心性の崩壊感情の膿の放出という耐え難い現象をもたらします。実はこれが根本治癒の発現です。
「欲求の浄化」「望みの導き」は感情分析をより有益なものとするためのノウハウであると同時に、この後に続く「魂の成長」への導きのための知恵になります。

治癒成長への道のりの前半は、「良くなる」実感は少ないままの、辛い段階であることを覚悟する必要があるでしょう。だが恐れる必要はありません。というか、道のり前半の辛さは、その人の心理障害のもともとの辛さがまだ継続するということです。そして何もせずに心理障害が膨張するに任せていたら、もっと辛くなっているでしょうから。
自己操縦心性の崩壊感情の膿の放出というのを何度か体験すると、明らかに心理状態が安定し、ストレスが根源から弱まってきます。そしたらいよいよ「人生の大方向転換」の時期が訪れます。この最も大きな転換点は「否定型価値感覚の放棄」です。この「心のバグ」とも言える感性が消滅に向かうと同時に、「生きる喜び」の素である肯定型価値感覚が芽を出してきます。
肯定型価値感覚の質量両面での増大を感じるにつれて、目に見える「心」の揺れ動きを越えて、目に見えない「魂」が成長することが実感として感じられてくるでしょう。同時に、「魂の成長」に向かって生きるという方向性が見えてくるはずです。それを自分の生きる道として選択することが、「真の自己受容」です。

根本的変化への歩みは、ここから始まります。「魂が求めるもの」へ向かって生きるという感覚が、人生の揺らぎない価値の感覚を与え、人間性の根底からの成長へと実を結びます。自分がこの世界と調和していきる唯一無二の存在であるという感覚が、心理学的幸福主義の目指した「幸福」の実現として結実します。


「魂が求めるもの」とは、心理メカニズム的に見るならば、「自己アイデンティティと愛の統合」へと向かうように思われます。
これを次に。
そして最後に、これらの歩みを支える「動機」の究極の根底にあると思われるものについて考察を述べましょう。「命」「信仰」です。


魂の成長の成り立ち-43:魂が求めるものへ-20 / しまの
No.1071 2006/09/02(Sat) 00:11:32

■悪感情の克服は2回の直面を原則とする

先のカキコで“「まず2回程度の心性崩壊」と「3大道標」の説明を”と言いましたが、「3大道標」そのものの説明は以下でしていましたね。
2006/08/07「魂の成長の成り立ち-25:「真の自己受容」へ-7」
これは「治癒メカニズム」の話です。まだ述べてないのは「動機」との関係。これをこの後に簡潔に書きます。

「まず2回程度の心性崩壊」というのは、感情の膿の絶対量の減少のためにはその程度が必要というのが体験的に言えることですが、一般心理学として「悪感情の克服は少なくとも2回の直面を経る」という話ができます。
つまり、最初はそれを「耐えられないもの」として体験します。そんなものだから「克服」と言うに値するわけです。
次にはそれが「耐えられるもの」として体験されることで、克服に向かいます。

「良くなる実感がないままの心性崩壊」がまずあるというのは、そうした一般心理学の法則にもつながった話と言えるでしょう。
「心が楽に」というだけでは見失うものがあるという視点として心にとめておいて頂ければ。

なお「3大道標の中で真の自己受容の前にも1個心性崩壊」というのは、「否定型価値感覚の放棄」によって肯定型価値感覚がはっきりと意識の前面に出てくるのですが、さらに心性崩壊があって、その質量両面における増大変化が実感として分かるという意味で、そのように図にした次第です。

以上、治癒成長道のりのメカニズムについてやや些末な補足でした。


■「動機」であり「治癒結果」でもある「真の自己受容」

「3大道標」と「動機」との関係について。

「真の自己受容」は「根本変化」への動機づけです。「根本変化」は「真の自己受容」から始まります。心の動揺を超えた魂の成長を感じ取り、それに向かって生きる意志です。これが観念論ではなく具体性を帯びます。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg
にそのことも表現を加えました。

しかし「真の自己受容」は治癒の結果として可能になることでもあります。それなしに「真の自己受容」をしようと思ってもできません。


■最初の敷居「感情分析」

では「真の自己受容」の前の治癒は何によって可能になるか。
これは単刀直入に言うと、「感情分析」です。「かなり最初の段階でそれ以上先に進めなくなる」について具体的に言うと、「感情分析に進めない」というのとほぼイコールと言っていいように感じます。

では感情分析ができるための「動機」は何か。これを考えることが、「取り組み動機」の根本を考えるのにも役立つでしょう。
これはずばり言って、「自己の重心」の姿勢と「悪感情への耐性」という姿勢を取ろうという意志動機です。

「自己の重心」姿勢と「悪感情への耐性」姿勢によって、感情分析が治癒の技術になります。
感情分析とは、自分の思考や感情や感性が、いかに自己の重心を失った変形をしたのかの分析が、そのかなりの本質部分です。
このためには、悪感情から逃げずに客観的に向き合える、「悪感情への耐性」の姿勢が必要になります。
そして「自己の重心」姿勢の中で自己分析することで、他人との関係で起きたと知覚された悪感情を、自分内部の問題として起きていることを自覚できるようになるわけです。

結局のところ、「自己嫌悪に向き合うことに意味がある」という動機づけになってくると思います。逆に、自己嫌悪から逃げる姿勢だとできない。
ではどうすれば自己嫌悪に向き合う動機づけができるか。
自己嫌悪から逃げるのではなく向き合うことで何が良くなるのかを分かることが必要です。しかしこれもまた障害と治癒の状況に依存する面が出てくる。


どこまで行ってもいたちごっこのような話になる。
まあとにかくここでは、かなり最初の段階で先に進む敷居が「感情分析」であること、その本質は「自己の重心」と「悪感情への耐性」であること。この意志がまず「動機」の課題だということを理解頂ければいいでしょう。

そしてさらにそれを生み出すものは何なのか。
これは「命」「信仰」という感じの話になってくるように思われます。これをこの後で。


■取り組みが頓挫するケース

「ハイブリッドが良さそうだ」と感じて取り組みを始めたものの、すぐ頓挫するケースは、まず上記の「動機」課題を確認するのがいいと思います。
ハイブリッドに見向きもしなくなった人には役に立てないでしょうが(^^;)、まだ何か糸口を探す方への参考情報。

最初の意気込みがすぐ頓挫するのは、まず間違いなく、自己嫌悪感情からの逃避姿勢の中にある場合ですね。「心の成長というのが良さそうだ」という期待が結局、すぐに自己嫌悪感情がなくなることを求めていたもの。
「自己の重心」「悪感情への耐性」という基礎に戻って考えて頂くといいかと。実践するのはそれなので、それをするかの動機を自分に問うことです。

メール相談では、そうした動機と目標のズレがあると、メール相談が感情分析のさわりで何かプレッシャーや威圧のあるものに感じて、突然頓挫することもあるかも知れません。
その場合そのプレッシャーや威圧感を感情分析するという手もあります。多分、「前向き」であることとは「やる気を自分に強制する」こととイコールになっている状況があります。

ただそれは上述のような感情分析の基礎が抜けた結果がその状況なので、それをまた感情分析しようとするのもちょっと無理があります。
そんな場合はいったん取り組みの全てをリセットして、「自己の重心」や「悪感情への耐性」などの基本中の基本から考えて頂いて、それについて質問するなど改めてメール相談が役に立ちそうならまたご利用頂くのがいいと思います。


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