■ 「感情と行動の分離」から「人格の統合」へ-2 / しまの |
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No.1131 2006/11/26(Sun) 14:46:18
「感情と行動の分離」とは、あれやこれやの感情のどれかではなく、全ての感情を超越した「純粋知性」を強化し使うことから始まる。
この具体的な例を説明しましょう。 まず、ある相談メールで、「受験勉強」を取り上げて感情と行動の分離について質問が来たのに対して、返答したものを紹介します。
-------------------------------------------------------------- ■「感情と行動の分離」の本質
「感情と行動の分離」の本質は、感情を判断基準にするのではない思考や行動を築きあげることです。 ですから、特定の外面行動が「感情と行動の分離」に該当するしないということは言うことはできず、問題はその行動が導き出される過程の方です。
その点、
>面倒くさいやりたくないという感情は放置して、とにかくやるんだと自分に言い聞かせる。どうしてもやらなくてはならないんだと、自分をガチガチに縛り上げ、とにかく問題を解く。
これはかなり「感情と行動の分離」とは別ですね。 というか、完全に「感情を判断基準」にした方。「やらなくてはならない」という感情からその行動をするということかと。
受験勉強を題材にして「感情と行動の分離」を言うならば、受験することが自分の根本目的にとり適切であることや、自分の合格可能性などの客観的データをまず持つという行動が重要です。それを元に、どのくらいの勉強量が必要か、それは可能かなどを考えた計画を立て、それに従った勉強をする、となって「感情と行動の分離」という心理学的姿勢を使った受験勉強だと言うことができます。
掲示板でも「「知性と意志」は「感情」から多少の独立性があります。これを如何に働かせるか」と書きましたが、基本はまず知性です。 結果的には、必ず、上述のように何か専門的客観データを基にする行動ということに大抵なります。
Aさんの場合、やっぱこの手の取り組みはまだで、基本は「感情を判断基準」にした思考法行動法かと^^; なんでだろーと考えるのですが、基本的に知性を避ける傾向があるかも知れない。これは案外女性にあるものです。
あとはAさんの場合、「感情の強制」が未着手の課題です。それがまだ見えてないため、何か自分を変えようとすることが「強制」に触れ「反発」が起きるというのが、無意識下にとどまっているので、何かを変えるという思考に至れないんですね。
この辺は、今後解説する「感情の膿を起点とした心理メカニズム」(*)などを理解頂き、そうした今見えないものを把握することで、そうしたものに惑わされない客観思考を今度探ってもらえればと思っている領域でありますです。 (*)「心の表と裏のメカニズム」シリーズのことです。 --------------------------------------------------------------
■「純粋知性」と「自動思考」と「選択思考」
上記の例でも、「感情と行動の分離」が実際には、心の動きを3頭立てにしてうまく調整するという行為であるのが分かると思います。
まず、今までの「感情を基準にした思考」の世界だと、感情が矛盾対立していると、当然それを反映した思考も矛盾対立したものが沢山出てくることになります。 a)面倒くさい。やりたくない。 b)自分をガチガチに縛り上げてでもどうしてもやらなくてはならない。 これら全てが「自動思考」と位置付けられるものです。その「どれが感情と行動の分離か」と問うことは、全くの無駄です。
「純粋知性」とは、一切の感情に依存することなく、この世界と自分自身について、自分の行動に役に立つ知識を持つ心の働きです。 店先で「安いよ!さーどんどん買った〜!」と言われてなびくのは自動感情です。その値段の数字を見て、財布の金額と比較するのは、純粋知性で考えることができます。1+1は、感情がどうであろうと2です。これが純粋知性。
受験勉強でも、自分があとどのくらいの勉強量が必要かを、全く感情に依存することなく考えることができます。実際このような思考法ができれば、それだけでもかなり世渡りがうまい、行動力のある人の方になってきますが。 ハイブリッドの「感情と行動の分離」でも、そうした「社会眼」みたいのをかなり重視しています。これも答えがある世界なので、分からないことがあれば聞いて頂ければ。 そうした行動ノウハウを学ぼうとする意欲そのものが、ちょっとハイブリッドでは決定的なものになってくる。まさに「障害」がその「意欲」をぼやかすといういたちごっこがあるわけですが。
そうして「純粋知性」で自分と世界を理解した上で、行動を決めるのですが、「行動を決める」こと自体はもう「客観知性」ではなく、結局何らかの感情があってこそ、行動を決めるわけです。 これを「選択思考」と呼ぶことができます。
つまり「感情と行動の分離」という時の「感情」と「行動」というのは、下のような関係にあります。 純粋知性..新しく築き強化する思考 ↓ 選択思考..いわゆる「行動」 ←自己操縦心性になるべく巻き込まれないようにした思考 ↑ 自動思考..いわゆる「感情」 ←自己操縦心性に巻き込まれた感情と思考
■「純粋知性と選択思考」が導く「新たな自己知」
そのように、自分の向かう目的と置かれた状況を、まず純粋知性で把握して、自分の行動を考える。この純粋知性の構築が重要になる次第です。 それにより、自己操縦心性にできるだけ巻き込まれないような思考と行動をするように心がけるのですが、最終的に行動をするとは(「行動しない」も含めて)何らかの感情で決めることですから、自己操縦心性の影響を完全に免れることはあり得ないです。
なぜなら、選択思考はあくまで「自己操縦心性をその一部として持った人間」であるこの個人が成した選択だからです。 一方、自動思考とは、この人間の一部である自己操縦心性が生み出した感情と思考です。 この違いが重要なんですね。なぜなら、選択思考においては成長があり、自動思考においては成長はない、ということです。
こうした「純粋知性と選択思考の構築」は、ハイブリッドの取り組み実践においては大きく2面があると言えるでしょう。 一つは、対人関係や社会行動というごく目の前の問題対応方法ということで。 もう一つは、自分の人生の生き方と心の成長ということで。 前者は、上述の受験勉強の例もその一つで、イメ−ジし易いと思いますので詳しい話は省略しておき、「初期安定以上の成長」を目指す段になって重要になってくるのは、やはり後者だと思います。
そのためには、「客観知性」で何を把握するのかというと、「自分自身の人格状態」であり「自分自身の心理メカニズム」です。そしてそれがどのように治癒成長するのかという、「心理学の目で自分を把握する」ことが、極めて重要になってくる。 それを土台にして、自動思考が囁く言うのとは違う人生の方向に、自分を導いてみる。 「自動感情自動思考が良くなってから行動する」という発想とは、根本的に違う取り組みなわけです!
その結果もまず、自己操縦心性に巻き込まれたものになります。しかしここで、自動感情自動思考とは異なる方向に自分を導いた結果、次にどのような自動感情自動思考が湧き出るかという、新たな局面が発生することになります。 その結果を、再び心理学の目で起きたことを把握するという、「新たな自己知」が発生することになります。そして再びそれを土台に、新たな選択思考を築くわけです。 ハイブリッドの取り組みによる治癒成長とは、そのように進められるものです。
■成長メカニズム論へ
次に、こうした「心の使い方」が、いかにして最終的な治癒成長目標である「人格の統合」にまで人の心を導くのかという考察を書いていきましょう。 「自己の重心」がこうした「心の使い方」によって如何に増大するか、といった話。
これはハイブリッドの「心理メカニズム論」が今まで「障害感情メカニズム論」と「治癒メカニズム論」という2面から成るものだったのに加えて、「成長メカニズム論」というもう一つの面を加えることになります。 |
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