掲 示 板
過去ログ
2006.11


「感情と行動の分離」から「人格の統合」へ-2 / しまの
No.1131 2006/11/26(Sun) 14:46:18

「感情と行動の分離」とは、あれやこれやの感情のどれかではなく、全ての感情を超越した「純粋知性」を強化し使うことから始まる。

この具体的な例を説明しましょう。
まず、ある相談メールで、「受験勉強」を取り上げて感情と行動の分離について質問が来たのに対して、返答したものを紹介します。

--------------------------------------------------------------
■「感情と行動の分離」の本質

「感情と行動の分離」の本質は、感情を判断基準にするのではない思考や行動を築きあげることです。
ですから、特定の外面行動が「感情と行動の分離」に該当するしないということは言うことはできず、問題はその行動が導き出される過程の方です。

その点、

>面倒くさいやりたくないという感情は放置して、とにかくやるんだと自分に言い聞かせる。どうしてもやらなくてはならないんだと、自分をガチガチに縛り上げ、とにかく問題を解く。

これはかなり「感情と行動の分離」とは別ですね。
というか、完全に「感情を判断基準」にした方。「やらなくてはならない」という感情からその行動をするということかと。

受験勉強を題材にして「感情と行動の分離」を言うならば、受験することが自分の根本目的にとり適切であることや、自分の合格可能性などの客観的データをまず持つという行動が重要です。それを元に、どのくらいの勉強量が必要か、それは可能かなどを考えた計画を立て、それに従った勉強をする、となって「感情と行動の分離」という心理学的姿勢を使った受験勉強だと言うことができます。

掲示板でも「「知性と意志」は「感情」から多少の独立性があります。これを如何に働かせるか」と書きましたが、基本はまず知性です。
結果的には、必ず、上述のように何か専門的客観データを基にする行動ということに大抵なります。

Aさんの場合、やっぱこの手の取り組みはまだで、基本は「感情を判断基準」にした思考法行動法かと^^;
なんでだろーと考えるのですが、基本的に知性を避ける傾向があるかも知れない。これは案外女性にあるものです。

あとはAさんの場合、「感情の強制」が未着手の課題です。それがまだ見えてないため、何か自分を変えようとすることが「強制」に触れ「反発」が起きるというのが、無意識下にとどまっているので、何かを変えるという思考に至れないんですね。

この辺は、今後解説する「感情の膿を起点とした心理メカニズム」(*)などを理解頂き、そうした今見えないものを把握することで、そうしたものに惑わされない客観思考を今度探ってもらえればと思っている領域でありますです。
(*)「心の表と裏のメカニズム」シリーズのことです。
--------------------------------------------------------------

■「純粋知性」と「自動思考」と「選択思考」

上記の例でも、「感情と行動の分離」が実際には、心の動きを3頭立てにしてうまく調整するという行為であるのが分かると思います。

まず、今までの「感情を基準にした思考」の世界だと、感情が矛盾対立していると、当然それを反映した思考も矛盾対立したものが沢山出てくることになります。
a)面倒くさい。やりたくない。
b)自分をガチガチに縛り上げてでもどうしてもやらなくてはならない。

これら全てが「自動思考」と位置付けられるものです。その「どれが感情と行動の分離か」と問うことは、全くの無駄です。

「純粋知性」とは、一切の感情に依存することなく、この世界と自分自身について、自分の行動に役に立つ知識を持つ心の働きです。
店先で「安いよ!さーどんどん買った〜!」と言われてなびくのは自動感情です。その値段の数字を見て、財布の金額と比較するのは、純粋知性で考えることができます。1+1は、感情がどうであろうと2です。これが純粋知性。

受験勉強でも、自分があとどのくらいの勉強量が必要かを、全く感情に依存することなく考えることができます。実際このような思考法ができれば、それだけでもかなり世渡りがうまい、行動力のある人の方になってきますが。
ハイブリッドの「感情と行動の分離」でも、そうした「社会眼」みたいのをかなり重視しています。これも答えがある世界なので、分からないことがあれば聞いて頂ければ。
そうした行動ノウハウを学ぼうとする意欲そのものが、ちょっとハイブリッドでは決定的なものになってくる。まさに「障害」がその「意欲」をぼやかすといういたちごっこがあるわけですが。

そうして「純粋知性」で自分と世界を理解した上で、行動を決めるのですが、「行動を決める」こと自体はもう「客観知性」ではなく、結局何らかの感情があってこそ、行動を決めるわけです。
これを「選択思考」と呼ぶことができます。

つまり「感情と行動の分離」という時の「感情」「行動」というのは、下のような関係にあります。
純粋知性..新しく築き強化する思考
  ↓
選択思考..いわゆる「行動」 ←自己操縦心性になるべく巻き込まれないようにした思考
  ↑
自動思考..いわゆる「感情」 ←自己操縦心性に巻き込まれた感情と思考



■「純粋知性と選択思考」が導く「新たな自己知」

そのように、自分の向かう目的と置かれた状況を、まず純粋知性で把握して、自分の行動を考える。この純粋知性の構築が重要になる次第です。
それにより、自己操縦心性にできるだけ巻き込まれないような思考と行動をするように心がけるのですが、最終的に行動をするとは(「行動しない」も含めて)何らかの感情で決めることですから、自己操縦心性の影響を完全に免れることはあり得ないです。

なぜなら、選択思考はあくまで「自己操縦心性をその一部として持った人間」であるこの個人が成した選択だからです。
一方、自動思考とは、この人間の一部である自己操縦心性が生み出した感情と思考です。
この違いが重要なんですね。なぜなら、選択思考においては成長があり、自動思考においては成長はない、ということです。

こうした「純粋知性と選択思考の構築」は、ハイブリッドの取り組み実践においては大きく2面があると言えるでしょう。
一つは、対人関係や社会行動というごく目の前の問題対応方法ということで。
もう一つは、自分の人生の生き方と心の成長ということで。
前者は、上述の受験勉強の例もその一つで、イメ−ジし易いと思いますので詳しい話は省略しておき、「初期安定以上の成長」を目指す段になって重要になってくるのは、やはり後者だと思います。

そのためには、「客観知性」で何を把握するのかというと、「自分自身の人格状態」であり「自分自身の心理メカニズム」です。そしてそれがどのように治癒成長するのかという、「心理学の目で自分を把握する」ことが、極めて重要になってくる。
それを土台にして、自動思考が囁く言うのとは違う人生の方向に、自分を導いてみる。
「自動感情自動思考が良くなってから行動する」という発想とは、根本的に違う取り組みなわけです!

その結果もまず、自己操縦心性に巻き込まれたものになります。しかしここで、自動感情自動思考とは異なる方向に自分を導いた結果、次にどのような自動感情自動思考が湧き出るかという、新たな局面が発生することになります。
その結果を、再び心理学の目で起きたことを把握するという、「新たな自己知」が発生することになります。そして再びそれを土台に、新たな選択思考を築くわけです。
ハイブリッドの取り組みによる治癒成長とは、そのように進められるものです。


■成長メカニズム論へ

次に、こうした「心の使い方」が、いかにして最終的な治癒成長目標である「人格の統合」にまで人の心を導くのかという考察を書いていきましょう。
「自己の重心」がこうした「心の使い方」によって如何に増大するか、といった話。

これはハイブリッドの「心理メカニズム論」が今まで「障害感情メカニズム論」「治癒メカニズム論」という2面から成るものだったのに加えて、「成長メカニズム論」というもう一つの面を加えることになります。


「感情と行動の分離」から「人格の統合」へ-1 / しまの
No.1130 2006/11/26(Sun) 12:55:14

しばらく掲示板カキコが途切れているので、今日は1個載せておこうということで。
というのも心理学本原稿メール相談対応を優先させているからなのですが、中座状態の「人生の望みへの取り組み」の続きではなく、ちょっとより基礎的な話を割り込まさせてもらおうと思います。

「感情と行動の分離」という最も基本的な話ですね。
「次の著作予定」で項目立てた実践においても、これが最初です。
http://tspsycho.k-server.org/books/book_next.html

一方で、この基本がすっかり視野から消えてしまった状態で、もっと先の話ばかり考えてしまうことがありがちです。それこそ心性崩壊という最後の話とか、感情分析とか。
やはり基本がないまま先走りすると、結局何も身につかないですね。これはハイブリッドだけの話ではなく、全ての学びにおいてそうだと思います。

ということで、「感情と行動の分離」という最も基本が、「人格の統合」という最後の段階にまで、基礎になるという詳しい話を入れておきたいと思います。

感情メカニズム理論の方も、最近より実践的に把握できるような、感情要素の組み合わせから成る決定的障害要因の考察などがかなり進んでおり、今後ちょっとづつその解説も書いていく予定。

その一つを最初に書いておきましょう。「感情と行動の分離」とは感情に依存しない思考法行動法を築くということですが、どのように感情に一線を置いた姿勢が必要になるかのヒントになるでしょう。



■自己操縦心性は根本的に「感情」を目当てにする

「感情と行動の分離」とは、感情メカニズム論から見れば、要はいかに自己操縦心性に巻き込まれない思考法行動法ができるかということです。

その視点で、自己操縦心性がどう動くのか、何を目当てに動くのかと言うならば、一言でいってそれは根本的に、「感情」を目当てに動きます。
つまり、「こんな自分になれれば」という思考において、自己操縦心性が根本的に働いているのは、「こんな感情になれれば」「こんな感情の自分であれば」という部分です。

その観点から「こんな自分」という外面理想について言えば、これは自己操縦心性によるものではなく、むしろ健康な心の部分の働きによるものです。
ただしそれが「こんな感情になれれば」という自己操縦心性の感情を内側に添えることで、その外面理想がその人の本性的願望に比して歪んだものになったり、本性とは全く異なった仮面の外面的自己理想になったりしてしまうわけです。

そしてさらに言えば、外面理想について自己操縦心性は、むしろその価値を否定する働きをするのが典型的です。「どうせそんなもの!」と。
これはもちろん、「望んで得られない挫折感敗北感を味あわないですむ自分」になることを、自己操縦心性が目当てにしているからです。

かくして、人は自らの「望み」について、完全に人生を見誤るような姿に陥ります。
今の自分を受け入れる」ことが「自己受容」だと考えて望みを放棄したり、逆にその誤りを自覚し「望み」に向き合おうとしても、それはやはり自己操縦心性によって歪んだ姿です。

結局そうして、歪みを含んだ「望み」に一つ一つ向き合い取り組むしかないんですね。このより詳しいノウハウは「人生の望みへの取り組み」の続きで。
その取り組みにおいても、自己操縦心性は「解決できたという感情を持てた自分」を目当てにするでしょう。それがないとは、自分が進む道が間違っているのだという感覚を作り出すでしょう。
そして、「どの感情を間違ったものとして脱すればいいんだ?」という誤った「取り組み思考」を生み出すでしょう。

「感情と行動の分離」とは、そうしたどの感情を脱した思考法を築くことなのか、と言えば、その全てなわけです!


■まず外面への対処法習得から

ハイブリッドで言うことがよくある話ですが、実践面の複雑さに比して、原理の単純さという話が、ここにもあります。

外面生活において、この社会でうまく生きる方法は、その答えが幾つかあります。まずは内面の感情はいったん置いといて、それを学び実践することです。
ですからハイブリッドの取り組みは、「感情と行動の分離」の後は、いったん思考法行動法の習得を先にしてもらうのを基本にしています。
そうして社会で生きることができる安心感と自信を土台に、より本格的な内面取り組みに進むわけです。

自己操縦心性の「感情目当て」は、この実践法そのものも妨害しようとするかも知れません。
まず、「“こんな人間”だらけの社会でうまく生きるなんて価値ないこと」と、成長努力そのものを否定するかも知れません。
次に、「外面をうまく対処できることでこんな感情になれる」「社会でうまく生きるスキルによって幸福になれる」といった期待を生み出して、外面のノウハウを見る目そのものを歪ませ、「相変わらず良くならない感情」への怒りを生み出すかも知れません。そしてその怒りを自分と世界に向けることで、まさに外面ノウハウとは逆の行動をしているのがこの人の姿になったりするかも知れません。

ですからまずは、その「どの」感情を脱した思考法かではなく、「全て」の感情を脱した思考法を、習得するんです!

外面がうまく対処できるということは、まずはそれだけのことです。
別にそれによって内面が良くなるわけでもないし、幸福になるわけでもありません。また内面が良くなることによって外面対処が完成に近づくような話でもありません。
外面はあくまで外面です。そしてそれについては、感情がどうであろうと、答えがあります。まずはそれを習得することです。

そうやって外面が内面に巻き込まれないことを知った時、心は心底から安心して、内面が良くなる変化が始まるわけです。


■「純粋知性」が頼みの綱

そうゆうわけで、ハイブリッドの取り組みは、基本的に「純粋知性」というものの役割を極めて重視しています。
それが命綱とも言えるでしょう。
感情と行動の分離」とは、「純粋知性の強化訓練」ともイコールな話だったりする感があるくらい。

実は単純に「分離」するわけではなく、「知性」という最高統括機能を上に置いて、「感情」と「行動」を分離するわけです。
心の機能としては、2つに分けるというより、実際は3つに分けることなんですね。

そんな感じで、自分自身の心においてどれが「純粋知性」なのか、と考えてみることもお勧めの実践の一つになりますね。

そのような「純粋知性」の働かせ方の具体的な話ということで、以下に。


人生の望みへの取り組み-6 / しまの
No.1129 2006/11/15(Wed) 11:34:54

■望みへの扉を最終的に開けるのは心性崩壊

「人生の望みに回帰する」具体的な取り組みに切り込んでいこうと思うのですが、これからの多くの話はできるだけ知的な準備を行なうという位置付けになり、実質的に望みへの扉を開けるのはやはり自己操縦心性の崩壊に依存するらしい、という話をしておきます。
これは特に否定傾向が蔓延しているケースです。一方肯定的感情も最初からあるケースでは、心性崩壊などなくても、これから説明の心の姿勢や思考法で、十分に、より積極的な望みの促しに役に立つかと思います。

と言いますのも、先のカキコで「障害を是とし利用する生き方」「恐怖を是とし利用する生き方」というのを書きましたが、否定傾向が蔓延するようなケースでは、これが自己操縦心性による意識の外枠として用意されてしまっているからです。
本人はあくまでこの意識外枠の内側でのみ思考ができますので、この不合理性を実感として自覚できません

自分の生き方を検討する思考は、しばしば途中で分断し、前後に完全な矛盾が起きているのですが、その矛盾が知的に目に入っても、その矛盾がどれぼど深刻な事柄であるのかの実感がぽっかりと抜ける状態になります。
つまり人格の分裂が起きているわけです。これは価値観や思考法が「望み」を妨げているのではなく、はっきり、「障害」が妨げています。思考法では解決できません。

こうした「障害」は、最終的には自己操縦心性の崩壊のみが解決になります。

これは真剣な感情分析の先にもたらされます。内容は、自分が人生で追い求めた「理想」や過去の来歴で抱いた「望み」を詳しく吟味し、それが完全に自己撞着の中にあり根本的に実現不可能な矛盾体であることを自覚することです。
これはこの感情分析の途上で、頭で理解する前に、心の底でそれが自己操縦心性自身に自覚され、人生への深い絶望感情が流れ出てくる事態に恐らくなります。この絶望は、今起きたものではなく、実は人生の早期に起き、それ以降それに目をふさぎ自分を欺いて生きる生き方の中にあったわけです。
これが、今までの「答えが出ない心」の全体そのものが崩壊する、「捨てたかったものを捨てる」時として、受け入れる必要があります。

このような心性崩壊が、「望みの見えないケース」における、「初期安定」から「望みに向かう動機段階」への大きな谷間を通る道のりとして起きることを、ハイブリッド理論の一つの帰着として言えるように感じます。
こうしたケースでは、これが多分間違いなく最大の心性崩壊体験になります。これはまさに僕が『悲しみの彼方への旅』に描写したものなんですね。「人生をかけた取り組みになるというのは実はこの話で」と触れた通り。

一方、これこそが「再生」のメカニズムであることを知る時、『悲しみの彼方への旅』に描写したような深い絶望は、無用と考えています。その絶望は、多分にこの現象の本質的部分ではなく、当時の僕の無知に起因するものが大きかったと感じる次第です。
知的には楽観を保ちながら、感情としては絶望を流すことも可能..とまあ理論的には言えますが、やはり最悪の精神状態が考えられますので、とにかく「精神は死に実存だけを守る」ことが課題になる通過点があることを、心にしっかりと刻んでおくことが大切です。

心性崩壊が「人生の望みの回復」にどう役立つかというと、まず、同時に起きる感情の膿の放出によって感情の膿の残量が大幅に減少し、肯定型価値感覚が人生で初めて芽を出すことです。
次に、自動思考自動感情の根底にある、「危険と恐怖をベースにした」感情論理が、「安全と楽しみをベースにした」感情論理へと、大きく入れ替わることです。これが、今まで思考を変える努力が徒党に終っていた状況を根底から変えます。
つまり努力することなく、自動思考そのものが肯定的なものに変化している状態が訪れるわけです。これはあまりに大きい。

以下で説明する「望みへの取り組み」では、まずそれに向けての知的準備から初めて、最後の「人生の挫折に向き合う」でそうした心性崩壊も考えられる取り組みへと進めます。
もちろん最初の話から「望みの促し」に役立つ人もいるでしょう。これはもう人それぞれで、取り組み過程そのものが結局は全ての人に唯一無二になる、ということです。


人生の望みへの取り組み-5 / しまの
No.1128 2006/11/12(Sun) 13:56:19

■「人生の望みへの取り組み」全体方向感

より積極的に「人生の望み」に向かう姿勢と取り組み方ですが、「人生の望みへの取り組み-3」で前触れの通りの以下にて説明しようと思います。
1)「恐怖の克服」の真の姿を知る
2)虐げられた社会で挽回し勝つ方法を知る
3)「現実の見下し」を解除する
4)望みの挫折に取り組む


これをより大きく俯瞰して、方向性を言うことができます。これは大きく2段階の取り組みなのだと言えるでしょう。
始めの段階は、望みを妨げる基本的な悪感情を脱することです。上記1)2)に該当。
次の段階は、現実世界内で望む価値に具体的に向き合う取り組みです。上記3)4)に該当。


■悪感情特に「恐怖を使う心」を脱する

始めの段階は、ハイブリッドの取り組み全体を通しての大きな指針でもありますので、ここに取り上げて説明しましょう。
全てを貫く指針とは、「心理障害を是とし使って生きる心を脱する」ということです。

これはあまにも単純明快な話として理解頂けるでしょう。また、この取り組みで誰もが陥りがちな罠も。
誰でも「心理障害を脱したい」とは思ってこの取り組みを始めるのでしょうが、結局のところ、障害感情の中でそれを望んでいるので、同じ轍の中を回り続けるという罠です。
これも実に単純な話です。なぜ変化できないかの理由として。

まあそれを本人が自覚できるのを妨げるのがまた心理障害ということで、とにかく本人の意識からは錯綜とした状況になるゆえんがあります。しかし外から見ればかなり単純にその状況が分かりますので、それを知りたければメール相談など。(←営業^^;)
多分その状況の自覚を進めれば、いつかはその罠の論理も崩れる時が訪れるでしょう。

でそうした悪感情の中で、「望みを妨げるもの」として特に「恐れの感情」を取り上げることができるわけです。
恐怖感情の基本的な克服の方向感を心が感じ取らないと、望みの感情は塞がれたまま、という一般則を言えます。
なぜなら、恐れとは、自分が危険下にあると心が認識していることを示すからです。危険下にあると、安全の確保が第一優先順位となるので、他の望みは脇に追いやられます。
つまり、心が戦時下にあるような状態です。空襲に怯える中で、人生の望みなんて言ってられませんね。

ですからまず恐怖の克服の方向感を、心に植え付けることが必要になります。それが「恐怖の克服の真の姿を知る」と「虐げられた社会で挽回し勝つ方法を知る」という始めの段階に該当するわけです。
まあその内容はあまり目新しいものではなく、「感情と行動の分離」「悪感情への耐性」「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」ですけどね。これを使えば、確実に内面および外面とも、安全が確保される方向に向きます


■残存愛情要求と攻撃的優越衝動の合成感情を克服する

一方、そうした「恐怖の克服」を強固に妨げる心理要素も、今かなり浮きぼりになってきています。これも「望みへの取り組み」に限定されずに、ハイブリッド取り組み全体を貫く話になりますので、ここで説明しておきましょう。

それは「恐怖に価値を置く生き方」のような姿勢です。これはあまりはっきりした意識的思考の形をとらず、本人の心においては思考の前提のような形で根を下ろしてしまっているものです。
恐怖を感じる自分の感性が、自分が特別に高貴で繊細な存在であることを示すものであり、それを感じることにおいて、世界が自分に特別なものを与えるべきだ、というような感情の論理ができています。これは心理障害傾向が生み出す必然的かつ根幹的感情であり、必ず存在します。これは個々の障害感情というより、この感情論理の構図の中で、個々の感情が配置されると言ってもいいほど基幹を成すものです。

これに従い「こうあるべき世界」という「空想」が描かれます。「現実」はその通りではなく、まず「空想を支えない現実」への原初的全破壊衝動が起きます。これは論理性のない感情です。次に明晰感情が、それを「酷い仕打ちを受けた」ことだと解釈し、それに対する正当な怒りだという感覚を起こします。
怒りのフラストレーションが残存悲嘆衝動を引き起こし、「世界と人生に虐げられる自分」という甘い自己嫌悪感情を引き起こします。

これは明らかに、「現実において生み出す」「建設的に生きる」という治癒成長への根本原動力に真っ向から逆行する感情論理です。
「建設的に生きること」への習熟の問題だけではなく、積極的にそれとは逆に向かうベクトルが自分の中に働いていることを、はっきり把握する必要があるんですね。
「建設的に生きる」過程が成長を産む、という基本を言いました。それに対し、これは「自滅的に生きる」です。

「自滅性」の本質は、個々の感情にあるのではなく、こうした感情が流れ動く舞台そのものにあるように思われます。
それは「あるべきでない現実」という全体命題です。空想こそが正しい。この命題のために、「自滅」がそれを確実なものとする手段になるわけです。


「建設的に生きる」とは、そうした感情舞台そのものと全く別の心の世界を選ぶことです。感情に依存しない知性で、その別の心の世界をいかに捉えられるかがまず入り口になります。
それを捉え、現実則に従って考え行動すれば、心は確実に成長し、やがて恐怖と障害感情を根底から捨てます。これは実に単純なことなのです。

選択は、こうした大きな感情論理を選ぶのか、それとも全く違う生き方の世界を選択するかなんですね。
なかなか変化できない方は、恐らくそうした大きな感情論理を捉えずその中にいたまま、個々の感情にどうこう対処できるかと考え迷っている傾向があると思います。
思考の前提論理そのものを捉え、それを選択の俎上に上げる必要があるということですね。

感情メカニズムとしては、この感情根幹論理を、残存愛情要求と攻撃的優越衝動の合成として、言わば感情メカ理論の集大成として説明することができます。
それは正の側面および負の側面においても、残存愛情要求と攻撃的優越衝動の奇妙な合体作品のような、決まりきった感情の流れを作り出します。

正の側面においては、まず自己理想像は主に残存愛情要求をベースに描かれます。人と親しく打ちとけることができ、人の中で生き生きと生きている自分の姿です。そしてそんな人間であることが優越課題として、攻撃的優越衝動の中で抱かれます。
その結果、自分を囲む宇宙の愛に向かって、幼い自己顕示欲の中で自分を見せびらかそうとするような感覚の中で、自分がいかに愛すべき人間であるかを誇示しようとする衝動が起きます。

負の側面においては、攻撃的破壊衝動の残忍さで、理想通りでない自分を見下し、自己処罰感情を生起させ、自己軽蔑を外化して「軽蔑してくる他人」への攻撃的な怒りの感情が起き、残存愛情要求は損なわれ「対象喪失感情」が生起され、世界への全破壊衝動悲嘆衝動へと向かいます。

こうした感情の個々のものを、どうしてそう感じるのかと問うことは無駄です。そうゆうメカニズムになってます。それが先に心の中に出来ていて、全てが始まったわけです。
できるのは、それが自分の現実を生きる方向性にとって無関係なものだという認識を心底から保った上で、その感情を見ることです。
するとそれらは根底から消える方向に向かいます。


これは恐怖が流れる中で現実が恐れるに値しないという認識を保った時、恐怖が根底から克服される方向に向かうという公式と、根底メカニズムは同じです。


ということで、望みへの取り組みの最初の基本は「恐怖の克服」だが、「恐怖を是とし利用する生き方」という全体問題があるという話をしました。
こうした全体感を持った上で、「望みへの取り組み」という個別テーマへのアプローチも有効になってくる、ということです。

これを踏まえた上で、「望み」にテーマをしぼった取り組み内容を説明します。


ハイブリッドに教育論はなし & 注目の色彩映像家 / しまの
No.1127 2006/11/11(Sat) 21:30:20

つれづれですが、今日ビートたけし爆笑問題が6時間ぶっ通しの教育論番組などやってますが、もしこの組み合わせで純粋にコントを6時間ぶっ通しなら、録画でもしようかと思えるほどなんだけど、教育論じゃー全然に見るに値しないとの感でパス。

2005/11/26 ハイブリッド教育論-1-2
でも書きましたが、ハイブリッドでは「教育論」ははっきり「なし」です。
「教育論」の大半は実にならないものと考えています。なぜなら、基本的に「教育論」はその大半が親や教師の生き方を映し出しているに過ぎない一方で、その教育論を論じる本人が自分の生き方を棚に上げた理想論みたいのを言っているのがほとんどだからです。
こうなるともうその言葉には、ほとんど現実において何かを生むということが期待できない。聞くだけ時間の無駄と感じます。

もちろん全ての教育論がそうだというつもりはなく、実があると感じるのはもっと技術論的なものですね。

話はがらりと変わりますが、『悲しみの彼方への旅』に使うイメージ写真の素材探しをしたりした経緯から、あるサイトの新作案内DMなど来るのですが、先日入ってきた色彩映像家のものは目を見張りましたね。
ハンス・バッハーというアーチスト。これは一種僕の美術感覚の琴線が求めていた一つの世界を具現したものとも感じるもので、ちょっとネットで検索したら、同じ感想を抱いた美術系学生など結構いるようで、歴史に残るアーチストになるのは間違いないでしょう(なってる?)。

興味ある方はご覧あれ。
http://imagenavi.jp/brand/lip/
の下の方より。


人生の望みへの取り組み-4 / しまの
No.1126 2006/11/11(Sat) 17:59:44

「初期安定」から「人生の望みに向かうことを動機とする段階」への飛躍のための取り組みなど考えてみました。

なおこれは、先に「心の表と裏のメカニズム」で解説した「自己再生への方向づけ取り組み」ほど決まった順序のものではない見込みです。
そっちは一ステップづつ、自分の何を変え得るのかを体得していく取り組みであり、検討の順序がかなり重要になります。先飛ばししてしまうと全てが無駄になると言えるほど。
だから「ステップX」としましたが、今度はそれほど順序は厳密なものではないので、単純に「そのX」と呼んでおきます。


■望みに向かう取り組みその0:「基本的自己受容」という前提

まず、これ自体は「望みに向かう取り組み」には含めませんが、極めて重要なことなので言っておきますと、「基本的自己受容」という自分に味方する姿勢が、「望み」を回復させるための根本的前提になります。

「基本的自己受容」とは、「唯一無二の成長に向かう意思」のことを言います。自分の心の治癒成長を、他のいかなるものの真似でもない自分独自の道のりとして成すという意志です。
ハイブリッドにおいて「自己受容」とは、常に「成長変化への意志」のことを言います。「今の自分に満足する」ではなく。
この「基本的自己受容」が、まず取り組みの最初に成されることを想定しています。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpgに示した通り。

「初期安定」は基本的にこの基本的自己受容を支えに成されるものが多くのパターンと考えていますが、基本的自己受容を成さないまま初期安定に相当する状態にもなり得ることに注意が必要なのを、感じている次第です。

これはその次の段階に進むに当たって、本人および援助者(つまり僕ですが)の双方ともが、それに騙されるような事態が起き得ます。本人はより先へと成長したい意志を見せ、僕もそれに応じたアドバイスをするのですが、やがて何かが根本的に間違っていることが判明します。基本的自己受容を成していない。つまり自分への敵の姿勢で、「成長した自分の姿」を頭越しに自分に押し付ける努力が、その人にとっての「成長」になっている。

こうなったら、一度駒を振り出しに戻すような感じになります。自分への敵対姿勢を生み出している要因を探る取り組みにするわけです。
典型的なのは、自分への敵対姿勢の中で、感情分析が自分を変える魔法のツエのように感じ、感情分析を習得しようとするケースです。この場合、この姿勢の誤りを自覚し基本的自己受容を体得することが、取り組みであり「感情分析」です。

こうした「基本的自己受容」が「望み」に取り組むための前提になるとは、要は、自分への味方の姿勢を取らないところでは、「望み」が湧き出る心の源泉が、単純にかつ完全に、塞がれることが起きるからです。
この場合「望みに向かう」なんてのはあさっての話になります。

その場合、取り組みの対象になるのは、「自分への敵対姿勢」の要因になるもの全てです。
怒りの無益さへの無知道徳的思考望む資格思考感情の強制、「自分への優越感」。「残存悲嘆衝動」も結構大きな役割を果たすことがあります。「こんな自分なんて駄目なんだ」という甘い自己嫌悪感情の中で、自分を救う者への愛を求める甘い感情です。この衝動にとって、自分への敵対が強烈なほど都合が良くなるのです。

こうした要因のどれが僅かでも意識の前面に出ている場合、「望みを見出す取り組み」の全てが無駄です。
まずはそれに取り組むことですね。

それに取り組んで、今まで人生の中で抱き続けていた「自分への敵対感」がぽっかりと消えた、一種の「無の状態」を感じるようになったら、実質的な「望みの見出し」に向かうことができると思います。

否定型感情が蔓延した深刻なケースでは、これだけで結構期間を要します。多少の心性崩壊と感情の膿の放出体験が進んだあとの話になるでしょう。
それで「自分の味方」という感覚が分かり、「感情の流動性」が多少とも自覚できるようになった段階が、次の望みへの実質取り組みが有効になってくるのではないかと。


■「自己の真実」に人生を掛ける覚悟

上述の考察をすると、「とにかく動揺を脱する」という動機段階で至る「初期安定」から、「人生の望みに向かう」という動機段階の間には、実際のところかなりの距離があるという感を感じさせます。
最初から「人生の望み」の方向感がある、治癒成長にとり有利な条件があるケースを除いて。
まあその距離を埋めるのが、「自己を深く知る」という動機段階になるわけです。

そして「最初から望みの方向感がある場合はかなり短期間で根本変化できる」ことが実績として言える状況となってきた今としては、「動機があれば根本変化に進む」という一般則を確実なものとして言えるように感じている次第です。

だがそれで言うと、「自己を深く知る」という「動機」は、どうも弱いのを感じます。あまりに漠然としている。
「成長したい」は漠然としている上に、これは自己操縦心性の描いた自己理想化像とほぼイコールであり、正直に言っちゃいますが中身は大部分がニセモノです。取り組めばすぐ分かる。
それを超える「動機」が、やはり「自己を深く知る」段階でも必要になるんですね。

それは「真実」という動機になると考えています。「自己の真実に向かう」。僕が『悲しみの彼方への旅』で、サークル会長という「なるべき自分」という最後の姿を捨てた時に残された、最後の賭けとして向かったものです。(P.42)
その道のりにおいて、たとえそれによって「知らないままでいたかった自分」を知り絶望にうちひしがれることになろうとも、真実を知ることにおいて価値を感じるほどの、覚悟が必要だと考えています。

まあ選択は自由です。
ハイブリッドは、基本的に「人生をかけた取り組み」と自らを位置付けています。人生をかけることが、この実践の一部なんですね。

今ならそれを治癒メカニズム論から説明できます。「命をかけて真実に向かった時未知の愛が現れる」といった話をしましたが(2006/08/29「魂の成長の成り立ち-40:魂が求めるものへ-17」など)、要は、「命をかける」という姿勢によって、「魂の浄化」が作用を開始するらしい、というメカニズムです。
ですから、まずはポーズだけでも「命をかける」という意識をお勧めしたいですね。案外それだけでも何かが変わってくるかも知れません。

そして実際にその覚悟があれば、「人生の望みへと回帰」する歩みは確実に成されるでしょう。
かくしてハイブリッドの治癒成長の歩みが、かなりつながりのあるものとして説明できるものになったのを、僕としても確実感を感じます。
人生での望みに向かうためには、まず「真実」に命をかける覚悟が鍵になる、ということですね。


人生の望みへの取り組み-3 / しまの
No.1125 2006/11/07(Tue) 14:08:32

というわけで、人生の望みへの取り組み手法を考えた次第ですが、まず「人生の望み」を促すために誤った姿勢を理解いただき、次に「人生の望み」を促す具体的取り組み手法を説明します。

ちょっと前宣伝しときますと、取り組み手法結構面白いものになりそうですね。
その名も「望みの蘇りへの虎の巻」という感じ^^; まさに「虎の穴」なんですね。いったん人生の望みに向かい得る、強靭な戦闘能力をつける秘宝を学ぶわけです。それがありゃー、望みなんていくらでも開放できると。(←大風呂敷?^^;)
なんかとてもメンタルヘルス関連サイトとは思えない言葉..^^;
具体的には以下4ステップの予定。
 1)「恐怖の克服」の真の姿を知る
 2)虐げられた社会で挽回し勝つ方法を知る
 3)「現実の見下し」を解除する
 4)望みの挫折に取り組む


まず、望みを促すに当たっての、誤った姿勢の話から。


■「成長を動機にする」段階

まず「動機」に応じた「どこまで行けるか」という最も大枠の話をしましょう。

「自分を深く知る」と「人生の望みに向かう」の間には大きなギャップがあると言いましたが、実はこの中間を埋めるような動機があります。
それは「成長したい」という動機です。
つまり、最初のどうしようもない混乱動揺段階はとりあえず脱し、そこそこの安定状態にはなったのだけど、はっきりと人生の望みが見えるわけでもなく、かなり停滞に入ったという状態がまずあります。
そこで「自分を深く知る」という動機で、まだ多少は緩やかな前進ができます。しかしこれも「人生の大方向転換」に届くような推進力はありません。でまた停滞を感じるかも知れません。

その状態でまだ前進を望むケースに、「とにかく成長したい」という動機がある場合があります。漠然と成長をイメージし、とにかく現状にとどまらず自分を変えたいという気持ちは強い。どうせ生まれた人生だもの。朝くらい自由にさせて..ではなかった(←きみまろのCM^^;)せっかく生まれたからには楽しい人生を送りたい、といった動機で、さらにハイブリッドに取り組む。

この「とにかく成長したい」という動機では、残念ながら推進力はほとんどないです。というか実は逆に、本人が前進しようとする一方で、まさにこの動機が前進を止めるという姿になります。
ようは、ポールを後ろから押す力と前から押す力を同時に加える状態になります。結果として、力は加わっているのですが動かない形になります。

なぜか。この「人生の望み」なしの「成長したい」は単純にかつ簡単に、自己操縦心性の歯車にそのままそっくり乗っかるだけになるからです。
それは生き生き伸び伸びと人生を生き、人に積極的に接している自分の姿かも知れません。しかし中身がない。「そのように見られる人間になる」という、自己操縦心性が描く自己理想化イメージとそれへの実現衝動そのままです。
それだけだと治癒成長メカニズムの歯車を動かす力がないんですね。

これを逆に取り組み課題とする発想もできます。感情分析によってその不合理な側面を感じ取ることです。
一つは、それは受動的プライドであり受動的自己アイデンティティです。それを把握し、その不実さを知る。
もう一つに、それを求める衝動の底には、恐らく他人への復讐衝動が潜んでいます。これを明るみに出すことはあまり気分の良いことではありませんが、自己不明を解き開放感や内面の力を増大させる効果があります。

ただしそうした減点法的な感情分析は、最大効率を目指すハイブリッドのあまりお勧めする方法ではありません。実際人生の望みが見えないところでそれをしても、何か自分の欠点の調査だけしているようで、あまり感情基調の上昇は望めない。
でもまあ、望みが見えなくても「成長したい」という動機があるのは、それさえないよりは遥かにましです。ないケースでは、単純に前進をやめ現状維持の残りの人生があるだけです。

で僕としては、とりあえずその動機で「望みの蘇り虎の巻」の実践に進んでみてもらうのが良いかと考えています。
「成長したい」動機だけの段階では前進はないが、「望みの蘇り虎の巻」にホップステップして、「人生の望み」動機の段階にジャンプするという按配。で前進の軌道に乗せる。


■「望みの感情を引き出す」という考えの誤り

もう一つ間違った姿勢として、取り組み特に感情分析で「望みの感情」が見えてくる、引き出せると考えるのは基本的に誤りです。

取り組みによる治癒成長の効果が働くことで、取り組み外の生活時間の中で、何かへの望みの感情が湧き出てくる。これが基本形です。
これは僕自身の経験を振り返ってみて、完全に言えることです。今までの何百回という感情分析の中で、見えなかった望みが引き出されたような体験は、ゼロ回です。

あるとしたら、取り組み外で望みが十分出てきているのをベースとして、それを妨害する心理要因が感情分析によって取り除かれたことで意欲が回復するというメカニズムです。これは感情分析に習熟すると、結構劇的に起きます。
これは『悲しみの彼方への旅』でも、P.202で「あの下級生の子」に近づく意欲が一瞬回復した場面、またP.236でホーナイ訳者教授に電話をする勇気が起きた場面に描写されています。(まだの人、買って〜^^;)

重要な望みが湧き出るのは、むしろ、分析取り組みと感情の膿を流すような時間の後に、開放感が現れて「心を無にした」ような時間ですね。上記小説でも、「あの子」への思慕を自覚したり写真への関心が復活したのは、ちょっとした峠を越えて生まれた開放感の中で、何もないところから現れているのが分かると思います。(P.56)

「望む感情」「やる気」を直接自分から引き出そうとする姿勢の誤りは、一般心理学としても言えることです。
「やる気」を輝く宝刀のように感じて、「やる気よ出て来い」「やる気を出さなきゃ」といくら自分に言っても、やる気がでることはまずありません。「望む感情」も同じです。
それはガソリン入れずに鞭で叩いているだけと同じなんですね。そんなことしても、逆に無気力自堕落感情が湧き出てくること請け合いです。これは「感情の強制」が「抵抗」を生み出すという無意識下のメカニズムです。
自分のそして人間の心理メカニズムを計算に入れて考えないと。こうした心理学への無知が生み出しているのが、まさに現代人のストレスに満ちた生活うつ病だしょう。

望む感情ややる気を出したいのであれば、ガソリン入れてアメを自分の前に差し出せばいいんです。そうすりゃ、心が勝手に走り出す。敵と戦う戦闘能力というガソリンと、おいしい人生というアメ
..なんて、実際取り組み途上におられる方には大変なことであるのを重々知っていながら、それが実に簡単なことに浮かべてしまう今のワタシ..^^;

というわけで、そう事は簡単に運ぶとは言えない面も多々あるでしょうが、まずきちんと自分へのアメを用意する手法から考えてみましたので、その説明を次に。


人生の望みへの取り組み-2 / しまの
No.1124 2006/11/07(Tue) 11:38:42

■「自分を深く知る」と「人生の望みに向かう」との間の大きなギャップ

治癒成長の道のりのどこまで行くかをほぼ決定づける「動機」として、「自分を深く知る」「人生の望みに向かう」との間には大きなギャップがある、という話をしました。
「人生の大方向転換」といった、治癒成長の一つの目安としたい段階に行くのは、「人生の望みに向かう」という動機が原動力になる段階においてです。「人生での望み」という方向感が何かないと、「取り組み前期」のかなり中途段階で停滞状態になってしまう。

なにはともあれ、ハイブリッドが目指す根本治癒成長のためには、「人生における望み」が、いわば車のガソリンのように基本的原動力になるということです。
「人生における望み」があまりない状態とは、ガソリンが入っていない車と同じになります。

このことは、先に説明した「自己再生への方向づけ」の取り組み手順の中で、さらにピンポイントに、何が足らなくなるかを言うことができます。
「自己再生への方向づけ」の手順をまとめますと、「他人への怒り軽蔑」に流されて治癒成長への動きが全く止まってしまう状態を、どのように「自己再生」とも言える変化の方向を向くように自分を位置付けるか、という思考法の手順と言えます。

「自己再生の方向」とは、「感情の膿の放出」を起こし得る姿勢ということです。この取り組み法は、「感情の膿」を根本問題と理解する思考の上にあります。
そのためには、「相手に依存せずに被軽蔑感を感じ取れる姿勢」なんて表現もしました。これは「自己の重心」を完全に自分内部に取り戻した形で、感情の膿に触れる体験を持つということです。

従ってこれは基本的に悪感情に向かう方向です。それなしに「心が良くなる」ことはないです。で、それに拮抗できる原動力が必要になるわけです。だから、「人生における望み」が必要になってくる。

具体的には、こんな思考検討手順を定義しました。
ステップ1:変えられないものを知る...怒り軽蔑などの「他人との間の感情」は変えられない。それは感情の膿による精神破綻から自分を守るために自動的に起きる。従って、この感情にはまず感謝をすべきである。  
ステップ2:変えられるものを知る..「感情の強制」「望みの停止」などの「自分との間の感情」は変え得る。自分を変えたいならば、じっくりとこれに向き合うことである。
ステップ3:現実において生み出す選択を問う..「他人との間の感情」は変えられないが「自分との間の感情」は変え得るという前提で、実際に他人への怒り軽蔑が起きたような状態を前にして、選択を問う。
 1)「自分の人生を生きる」かそれとも「人の目の中で生きる」か
 2)「感情に流れて生きる」かそれとも「知性と意志で考えて行動する」か
 3)「建設的な生き方があって心の成長と幸福がある」という人生観を真剣に選ぶか
 4)「建設的」であるために残存愛情要求のハンディを計算に入れる
 5)「弱さという理想」から「強さという理想」へ転換する

まず、感情の膿を起点として「変えられないもの」と「変えられるもの」をしっかり把握するのが重要です。これは車がどの方向に動き得るのかを、実感として体に覚えさせるということです。頭で理解するだけでは不足です。「こんな感情は変わらない」「こんな感情は変わり得る」とイメージして、自分の体に覚えさせる。でないととっさの時にあらぬ方向に向かおうとしてしまうんですね。
それをしっかり体で覚えた上で、問題の都度、上の選択を順番に問いて行くことです。

この手順は、「人生の大方向転換」の通過を、十分に射程内にいれた取り組み手法です。そして「否定型価値感覚の放棄」まですれば、世界が変わります。これは請け合います。脳が根底から違う機能を働かせ始めたのを感じるかのようです。人生が面白くなってくる
そうなれば「後期」はもう自ずと進むことになるでしょう。「人生の面白さ」が原動力になるとも言える。

そんな前進をするかなり明瞭なエンジンを設計できたように考えているのですが、「人生での望み」という方向感がないと、上記の選択のまさに最初ですぐ脱落してしまう、という状況があります。

僕としては、「人生での望み」というのはまあ誰でもあるもんだーという曖昧な前提であまり深く考えないまま、もっと先のことをとにかく整理していたのですが、そもそも「人生での望み」が見えなくなっているという障害状況が結構あるわけで、今回これを真正面から検討しようと思った次第です。

実際そんな相談者の状況を見て僕が送った返答メールを、この問題への基本的な取り組み指針の参考に紹介しときます。
------------------------------------------------------------

■「人生の望み」を問う

>しかしそこがネックで、結局一体何が建設的なのかよく分かっていません。
>自立した人間の考える建設的な事というのは、こんな時どのようなものでしょうか?冗談を言って楽しませるという事以前に、例えば今晩のような新人歓迎会においてなら、相手を歓迎するという肯定的な心持をもてれば充分な気がします。私にはそれは殆どありませんが。

どうもやはり完全に選択の問いの先走りになっていると思います。
最初の「自分の人生を生きる」を完全にすっとばしているような。完全に「人が」の世界のような。

「建設的に生きる過程」を経ることなく「心が良くなる」ことを期待するのが誤りと指摘しましたが、さらに基本的な誤りがあると思います。これはどうも他の方にも結構言えそうな、重大な問題が見落とされているのを、僕の方でもちょっと軽視していたかも知れない。

それは「人生の望みを捨てたところには心の成長も変化も何もない」ということです。

こうしてメールくれてヒントを探そうとすることそのものが、一体何を求めてのことなのか、ちょっと考えてみてもらうといいと思います。
一体何が自分の人生の望みであり目標なのか。それと今の話がどう関連するのか。

ハイブリッドでは自らを基本的に、「障害を治す取り組み」ではなく、「人生の望みに向かう取り組み」だと位置づけています。
http://tspsycho.k-server.org/guide/m00.html
でも「心の成長は、自己の人生における望みへと向かって生きることで生まれます」と最初に書いた通り。


■「人生の望み」とハイブリッド取り組み

一方、「人生にこれといった望みがない」と語りながらハイブリッド取り組みの相談をよこす方も、結構おられます。望みが特にないまま、何となく「心が良くなる」ことを期待している。
また感情分析によって「望み」が見えてくることを期待しておられる方もいます。

それは基本的に、期待そのものが誤っています。人生の望みが見えないまま「心を良くしよう」とする態度そのものを見直すのが最初です。
補足:「態度そのものを見直す必要がある」というよりも、その「態度が起きる原因に取り組む必要がある」という方が表現としては正しいですね。

ただ僕としてもそれをあまりストレートに言わなかった面が多々あります。これは僕のアプローチに少し誤りがあったかも知れない。
なぜあまりストレートに言わなかったかと言うと、一つは基本的に「人生の望み」はあるのが自然であり、ハイブリッドに取り組む人にもそれがすぐ見えるだろうことを、僕としてはちょっと過度に楽観的に見ていたと思います。
そしてもう一つは、「人生の望みが大切だ」と説くことが、ありきたりの「人生説教」になり、相談者の方の自己嫌悪に触れたり反発を招く可能性を避けていた面もあります。
で「人生の望み」をどう考えるかはご本人にお任せしようと。

その結果、ハイブリッドに取り組み始めてからの経緯はかなり単純な違いを見せているのが事実です。
人生の望みという方向性がもともとある人は、すぐに変化し、そうでない人は、いつまでも変化しない。


■人生の望みなくして建設はない

でそれをこれ以上放置(^^;)しておくのもまずそうということで、「人生の望みへの取り組み」という話を詳しく考えようと思っています。

最近「原動力」という話をしていますが、「生み出すことに生きる」も「建設的に生きる」という言動力も、さらに、人生における望みが原動力になるわけです。
人生における望みがあり、それを基本ベクトルにして「生み出す」「建設的に生きる」中で、心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させるという治癒成長がある、ということになります。

「建設的」には2つの意味があり、一つは目の前の課題に対して「それは駄目だ」という否定ではなく「こうすればいい」という肯定で対処するという行動様式です。
もう一つは対人関係における「建設的」があり、共通目標共通利益です。共通目標共通利益と言うからには、まず自律的に自分の目標を持たないと、何も始まらないわけです。

「人から建設的に見える行動をする」というのは、自己を放棄して「人が」の世界を生きることです。
「人生における望みと目標」が、全ての始まりになります。


■人生の望みへの取り組み

それを強く意識してもらう。それを「人生の望みへの取り組み」と呼びたいと思いますが、順番としては、掲示板で解説した「再生への方向付け」よりも前です。
まず自分の人生での望みと目標が何なのかをつかんでもらう。それができて初めて、「再生への方向付け」における最初の「選択」である「自分の人生を生きる」という選択ができるわけです。

ハイブリッドの取り組みアプローチは、最初はとにかく目の前の動揺を脱することからですが、多少の安定後に停滞が現れるケースでは、この「人生の望みへの取り組み」をぜひ勧めるという位置付けにしたいと思います。
その後に「再生への方向付け」へ、という感じかと。

「人生の望みへの取り組み」は、「人生の望み」を明瞭に感じることを目標にした実践といえます。
手短に言っておきますと、まず現状での人生の望みや目標を確認してもらうのですが、それを次の3ステップを通して、より力強いものにする。もしくは見えなくなった望みを見出す、という取り組み。
1)人生の望みの挫折に向き合う
2)望みへの価値観修正
3)知性と意志で望みを自分に課す


詳しくは例によりこの返答メールを前振りとして紹介した上で、掲示板で「人生の望みへの取り組み」というシリーズをちょっと書こうかと思います。


■人生の望みの挫折に正面から向き合う

Aさんの場合も、自分の人生での望みとは何なのかを徹底的に問うのがいいと思いますね。

今回のメールの言葉から浮かんでくるのは、せいぜい「職場の人気者になる」というようなものなのですが、果たしてそれがどんな価値あるものなのか。
その言葉ではあまりに俗的で語弊があるなら、「職場で信頼され愛される」とか表現するとしても、それで終わるとしたら、既に「自分」が失われ漠然と受身に「何か良くなる」ことを期待するという、中身のない話になります。

やはりもっと積極的能動的な「望み」を見出さないと、何も始まらない。積極的な望みとはまあ「社会で活躍する」「魅力的な異性の獲得」「華やかな楽しみの場への参加」「幸せな家庭」など、結局はごくありきたりのものになるでしょうが。

問題はそうしたごく自然な「人生での望み」が来歴の中でどのように挫折し、自ら否定し背を向けたかなんですね。
そのことに目をつぶったままでは、浮かんでくる望みは、すさんだ欲求を帯びるか、負け惜しみのような自分に嘘をついた望みになります。最後に向かうのは「人まね人生」の世界。まあ現代人のマジョリティがその毛があるようにも感じますが。

それを解きほぐし取り戻す実践が、詳しい心理学の問題になってくるわけです。
あとは掲示板の方で。
------------------------------------------------------------


人生の望みへの取り組み-1 / しまの
No.1123 2006/11/06(Mon) 00:13:24

またちょっとシリーズで一つのテーマを解説。
最近の考察は主に「原動力」についてですが、ハイブリッドが基本的に自らを「人生の望みに向かう取り組み」と位置付けている(http://tspsycho.k-server.org/guide/m00.html)、「人生の望み」そのものへの取り組み手順などを考えています。

まず、「どのような治癒成長が達成されるかは、どこまで行きたいかという本人の動機いかんである」という話について、ちょっと具体的な段階分けなど考えてみましたので、その話から。


■取り組みへの「動機」と成される「治癒成長」

ます、治癒成長の道のりについては、以下に示した通り。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro6.jpg

で、問題はどうすればその道のりにおいて先に進めるのかですが、「どこまで行きたいか」という「動機」いかんだという話までしてあります。
現在整理した結果、これはおよそ4段階になると考えています。簡潔に説明しますと以下の通り。

1)心理的動揺を脱する

とにかく心理障害傾向から来る苦しみや動揺を脱したいという気持ちを動機にする段階です。
これは「怒りの有害性」を理解することなどを始めとしたハイブリッドの学習をして頂くことで、比較的容易に達せられると考えています。
これにより、心の状態が多少とも安定し、どうしようもない混乱状態を脱する。これを「初期安定」などと呼んだりもしています。

2)自分を深く知る

初期安定は比較的に誰でも達成できると思いますが、動揺を脱するという消極的動機だけだと、すぐそれ以上の向上実感のない、停滞状態になるのが通例です。

初期安定を超えた治癒成長に向かうかどうかの境目の一つは、感情分析が有効に実践できるかどうかが、かなりのポイントになると考えています。上記引用の図でも示しましたが、感情分析が始まらないと、その以降の長い道のりが始まらないという感じ。
「感情分析ができる」とは、一言でいえば、今まで漠然と一個に感じていた感情を、感情メカ理論に沿って「感じ分ける」ということになるかどうかです。
それに進むための動機は、「自分を深く知る」という動機になると考えています。図では「自己を深く知り現実を生きるスキルを学ぶ」と書いていますね。

ただしこの「自分を深く知る」という動機が漠然とあるだけで、例えば恋愛や仕事での成功といった具体的な「人生での望み」に絡んでそれを行なうことをするのではない場合、推進力はかなり弱いものになるように思われます。
これは望みの内容にはあまり関係のない事情もあります。とにかく何かの望みに絡めないと、そもそも感情分析などの糸口がない状況になりがちです。とにかく、取り付くシマがないという感じになってしまう。

その結果、何となく「自分はどう良くなれたか」と自分に見入るだけで、何となく良くなった気がしたりそうではなかった気がしたりの繰り返しという感じかと。
治癒成長の道のりで言いますと、「人生の大方向転換」の最初の道標「感情の流動性の回復」に届くよりも手前に停滞する感じになると考えています。

3)人生の望みに向かう

生活の中で自分を積極的に向かわせる望みがあると、それが治癒成長への基本的な原動力の役目を果たしてくれます。
これは2つの意味があり、一つは上述の、望みの内容に関わらず感情分析の糸口が豊富に得られることです。
そしてもう一つは、心の成長は基本的に、望みに向かって現実を生きる過程が生み出すという原理です。もちろん建設的に向かうことが重要です。

「人生の大方向転換」に向かうレベルの変化には、基本的にこれが必要になると思います。
望みが軸となって、自分に味方する姿勢の中で起きる「感情の流動性の回復」があり、肯定的価値感覚の回復によって「否定型価値感覚の放棄」がなされる。
これで道のりの「前期」が完了し、この先の道はがらりと変化したものになります。

4)魂の成長に向かう

否定型価値感覚を放棄した上で、引き続き望みに向かう歩みをすると、自分の中で成長する「魂」を感じ取ることができるようになります。
こうなると人生の方向感覚が極めて明瞭になってきます。
「感情としての望み」よりも、自分の魂が求めるものに向かうという感覚が持てるようになってくる。これが「真の自己受容」です。

「人間性の根底からの変化」が起きるのは、この段階からです。それは要は、望みに向かう思考行動や感情が変化向上するのが前述段階であるのに対して、この段階から、望みの質的変化が起き始めるということです。一言でいうと「浄化」という変化。
「心の成長」が「魂の成長」として進む形になります。


■「人生の望みへの取り組み」+「自己再生への方向付け」へ

とまあざっと簡潔に整理しましたが、書いていて感じたのは、2番目の「自分を深く知る」と3番目の「人生の望みに向かう」という段階の間には、大きな谷間があるということです。

「ハイブリッドは望みに向かう取り組みです」なんて定義し、「まず望みがある」という状態を安直に前提にしたような話ばかり今までしていましたが、自分自身のことを振り返っても、実はそんな安易ではない、実に重大な取り組み課題がその谷間にあるのを感じています。
「人生をかけて」行なうこととは、実はそれなのかも知れないと。

「心の表と裏のメカニズム」「自己再生への方向づけ」という取り組み手順を考えましたが、この「人生の望みへの取り組み」はその前段として位置付けるべきものになると思います。
この2つを組み合わせるということで、かなりハイブリッドの取り組みノウハウが形になってくるのではないかと。

ということで、「自分を深く知る」動機段階と「人生の望みに向かう」動機段階の大きなギャップの考察などから。


アマゾンの著者コメント更新 / しまの
No.1121 2006/11/04(Sat) 13:22:08

メモがてらここに。かなり短縮化。
タグ有効かなぁ..^^;

----------------------------------------------------
 本書は、初めて心理学的な裏づけのある実例描写として、「病んだ心」がほぼ完全に「健康な心」へと治癒成長する過程を仔細に描いた小説です。「病んだ心」の本質、そしてそこからの治癒と成長の本質とは何かを理解し、「健康な心への回帰」というテーマに関心のある全ての方に一読をお勧めします。
 「心の病」とは言っても、その根源にあるのは、誰もがこの人生で迷い悩む、「愛」「自尊心」といった共通のテーマです。奇にてらう異常心理の描写ではなく、「人生」「愛」を主テーマにし、誌的な味わいもある感情描写の中で、一つの「出会い」から始まり、心理学の導きの中で心の奥深くへと旅をする、内面のドラマが描かれます。
----------------------------------------------------


 
Re: アマゾンの著者コメント更新 / しまの
No.1122 2006/11/04(Sat) 13:28:06

やっぱHTMLタグは使用禁止でした^^;


問題ある「やらせ」と問題なき「やらせ」^^; / しまの
No.1120 2006/11/03(Fri) 01:10:40

なんか奇妙なニュースが増えているような気がする今日この頃。
何が奇妙かというと、「何を問題にしているのか」がよく分からないまま、誰かが何かを問題だと言っている。

そもそも何が問題なのかの原理原則が示されないので、どうも、「誰かが何かを問題だと言っている」ことが問題らしく、その問題がどう片付くのかが、問題らしい。あっはっはー。

具体的には、政府のタウンミーティングでの「やらせ質問」を、「あってはならない」ことと野党が批判し、「政府の責任を追及する」とのこと。
「原理原則の理解エクササイズ」としては面白い出来事ですね。面白いというのは、文字通り笑える面白さ?^^;

「責任」はこの場合、「損害」に対応します。どんな「損害」が起きたのか
以前「やらせ記事」というのがありましたが、この場合の「損害」はかなり大きいものです。事実を正確に報道するというメディアの信頼を失墜させた。

では「やらせ質問」がもたらした「損害」とは何か。なんとも表現が難しいものです。どう表現が難しいかというと、とにかくそれを怒る人がいるというのがまさに「損害」だということです。それ以上は僕としてもあまり言いたくない^^;

その点、その批判に政府がどう「反論しない」かが、政府の対応能力の見どころかと。「あってはならないこと。注意する。」と述べた安部首相のコメントは、とりあえずは及第点だと思います。(←なんて偉そうに言う立場じゃーございませんが^^;)

奥歯にものが挟まったようなキレの悪いカキコ。あっはっはー。


心の表と裏のメカニズム-10 / しまの
No.1119 2006/11/01(Wed) 13:08:57

■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ3選択を問う-4

5)「弱さという理想」から「強さという理想」へ

最後に説明する「選択」は、先のカキコの終わりに書いた、心性崩壊が多少進んだ後の段階を想定しています。もう心の風景は多少別世界になり始めている段階です。
多分多くの方にはもう想像もつかない状況だと思います。
その点、先走りを防ぐためには、この辺はもう今読まず、それらしき時期が来た折にでも読んでと言っても構わない内容になります。
まあ障害が軽く、この段階に該当する心の準備ができている方の場合は、すぐにでも真剣に問うことのできる「選択」になるでしょう。

それが心理学的課題の表現としては「否定型価値感覚の放棄」であり「真の自己受容」なのですが、ここでは「心の再生」という方向性をにらんでの、本人の意識における方向性選択により強い焦点を当てて説明します。
「人生における覚悟」とも言えるものになると思います。

大枠としては、障害の苦しみや残存愛情要求の背景から、来歴の中で抱き続けていた「苦しみを救う慈愛」の理想を捨て、サバイバル世界の中で生きる強さを理想とするという、「理想」の内容変更です。

これはもちろん、「自分だけ良ければ」という、障害傾向の中で起きた皮相化荒廃化した欲求を是とすることではありません。それすると、社会から嫌われ内面外面ともに貧困化するだけです。
今までの心には、「良心理性vs欲望」という2元対立があったとしましょう。ここで述べている「強さ」は、その2元対立のどちらとも交わらない、全く別の心の世界です。
なぜなら、「良心vs欲望」という2元対立は、どちらも「与えられる」という前提の世界だからです。今度の「強さ」は、「自ら生み出す」という世界です。
「正しいものに与えられる」「奪うのは悪」とはもう無縁の世界です。

そうした心の世界は、いかなる思考法をしても見出すことはできません心性崩壊を経て感情の膿の残量がある程度減少し、肯定型価値感覚がそこそこ回復した時、見えてきます。肯定型価値感覚は思考法で作り出すものではなく、心の自然成長力と自然治癒力のみが生み出します。
もちろん、障害がもともと軽い方の場合は、肯定型価値感覚と否定型価値感覚の違いをじっくり理解把握することで、この選択を問うことができるようになるでしょう。

そうした準備ができた時、今まで来歴の中で抱き続けていた、「苦しみを救う慈愛」の理想を捨てる選択が現れます。
これはその準備ができていない人からは、何か人間として大切なものを捨てることのように感じられるかも知れません。そして実際、肯定型価値感覚があって選択を成す場合でも、確かにそれは何かを失うことであるのを、僕は自分の体験から感じています。

まさにその「選択」になるわけです。全てを視野に入れて選択することです。
「苦しみを救う慈愛」が理想だとして、その理想に至れない自分への怒りを自分は抱きつづけていること。自分への怒りの中では、愛せないこと。愛せたとき、「変えていく強さ」が得られること。「変えていく強さ」の前では、善悪が消えること。
そうやって、今までの理想と、人間としての確かに一つの価値だったものを、捨てる。
そしてその代わりに選択して得たものの中で、生きる。

これはもう、どちらが「正しい」なんて言えない、まさに「選択」だけがあるような気がします。好きな方を選ぶのがいいでしょう。
まあ僕は苦しみを捨てる方を選択したわけですね。それでより多くを愛せることを、選択した。そして心理学的に言えるのは、心理障害からの「再生」がこの方向にはあるということです。
そして実際、僕は心の中で、「ものごとの悪い側面を見る視力」を失ったと思っています。代わりに「ものごとの良い側面を見る視力」を持つようになったと。確かに「ある能力を失う」ことではある。その結果、結構能天気になった。

苦しむ人への共感能力を、自分はかなり失ったと感じるのが事実です。代わりに、新しく生まれ育つ命への関心と愛情を強く感じるようになった。酷い言い方をするなら、自分で立てない人を見捨てることにあまり心が動かなくなった。
僕は神ではなく、その両方を一度に見る能力がどうもないんですね。そしてそれを悩むこともなくなった。まさに不完全性の受容をした結果なので。

あとはやはり、「苦しみを救う慈愛」が幻想の中にある病理だということを、心理学としては指摘しておかねばなりません。これはまさにその幻想の中に強くある人ほど、その幻想を失うことに耐えられない状況にあるので、言いづらいことではありますが。

これもやはり「アク抜き」メカニズムによるものです。自分の残忍な攻撃性や支配欲をカモフラージュするために、苦しみを理解する優しさを免罪符にする必要があるわけです。それを理解する自分という、幻想的自尊心を維持するわけです。そして相手に苦しみを強要するという姿に陥ります。もちろん本人にその意図はありません。この人の意識人格をその内側の籠のように住まわせる、自己操縦心性の側にその意図があります。
「一緒に苦しみましょう!」という世界。

これを自覚して幻想を脱することは、「選択」ではなく、心性崩壊の方の話になります。それを経て落ち着いてから、またここで話している「選択」のような話を考えるのがいいでしょう。


■心のハンディの中で生きる

苦しみを理解する優しさ」という理想を捨て、「自ら生み出す強さ」を自己理想とすることは、同時に、世界観の根本的な変更を「選択」として問えることになると思います。
「良いことをすれば」「正しければ幸福になれる」といった「与えられるという構図」を全く持たない世界観です。

これはあらゆる「平等性」を否定する世界観とも言えます。「平等」は人工的で不自然です。自然は多様であり、「平等」は存在せず、自分がその中のどこに生まれ落ちるのかは、単なる偶然の結果です。
これがハイブリッドの推奨する世界観であり、サバイバル性善説の世界観です。

「再生」となぜその世界観が結びつくのか。
まず、その世界観の中で、ほとんど一切の怒りが消えることです。まあクマに襲われるような、実際に怒りを奮うことが役立つ場面を除いて^^;
つまり、人生における損失への怒りを捨てるということです。怒ることなく、人生の損失に向き合う。
その時、悲しみの中で損失が癒えるという脳の原始的なメカニズムが、機能を回復するようです。これに自分の心を委ねることです。
これが「再生」の正体です。


「原始的なメカニズム」と書きました。まさにそれは現代人が使わなくなってしまった、動物的な原始的メカニズムなんですね。
現代人というのは、この原始的な脳のメカニズムを使うことを拒絶して生きている人々のように思えます。だからニュースに出てくるどんな人間達を見ても、「許せない」「怒るべきだ」「皆で怒って欲しい」と言っている。
そして、自分の人生の不遇を、怒るわけです。そして怒りの中で、心の時間が止まった人生を歩んで行きます。

「人が」「親が」「社会が」と怒り、「全ての人が平等であるべきなのに」と嘆き、この現実を一体どう考えたらいいのかと悩む。
サバイバル世界観の中では、答えは実に簡単なんですけどね。ハズレくじを引いただけの話です。
自己操縦心性はそれを許さないでしょう。なぜなら「自分は特別」であるべきだからです。その前提で、幻想世界を作り出し、その中に人の人格を住まわせます。実はその幻想が、現実においてはその人を実に平々凡々とした姿にしてしまうんですけどね。

そんな自己操縦心性の幻想を打ち破って、現実の中で生きる。それを望むのであれば、そのような世界観が「選択」になる、ということです。

そしてそのサバイバル的視点で受け入れるべき最大のものとは、まさに、このハイブリッドの取り組みにおいては、「良くならないままの自分の心」なわけです。
容貌や才能ならまだしも、心と性格さえも良くないものが与えられた。心はこうあるべきであり、親はそんな心になるように自分を育てるべきだったと考えるかも知れません。社会はそれを理解した仕組みを用意すべきだと考えるかも知れません。
それは、理想を自分が果たすのではなく人が果たすことを求める残存愛情要求の感覚の中で、さらに全ての人間が神であることを求める思考です。

心理障害になってしまった。それは単に大草原のヌーの群れの一匹が石に蹴っつまずいて足の骨を折ったのと何の変わりもない、この大自然の偶然の中で、ひとつのハズレくじを引いた。それだけのことなのです。
それで、「あるべき人生」を掲げて止まった時間を生きる現代人のままでいるか。それとも大草原の一匹の勇獣として、起きたことを怒らずに、これからそのハンディを抱えて生きる戦略を考えるか。

この「選択」です。

後者の選択を成した時、まさにこの現代社会の中で人間が失い表面だけで生きるようになった、本当の心の世界を取り戻す歩みが始まるという次第です。
そして身体のハンディと根本的に違うことが起き得るわけです。心をハンディとして前に進むことを選んだ時、やがてハンディそのものが消えていると。


ということで、かなり心の別世界を志向する「選択」まで説明しましたが、こうした「選択」が全て成された段階で、ハイブリッドの想定する「前期」が完了です。
この段階で「心が良いもの」に、まだなってさえいません。上記選択が「根本変化」のゴールではなく、むしろスタートです。
この段階でも、もう本人は自分を以前とは別人のように感じていると思いますが、これから始まる根本変化はそれどころではないものになってくるということです。
ハイブリッドの目指す変化の大きさのイメージが少しでも感じてもらえれば。

以上が「再生」を睨んだ準備過程ということになります。「再生」そのものに向かうのは、この先
でもこの準備過程を進もうとして、進み得ない絶望を見い出した時、実はそこに「再生」が始まっているというパラドックスがある。
そうしてやがて内面の力が増大して「再生」の方向に自ら向かうことができた時、劇的な変化につながる「人生の体験」への扉が開かれる、という感じかと。
その先に起きる正真正銘の「再生の瞬間」のメカニズム、まあこれも結局は心性崩壊ですが、それについても感情の膿から始まる表と裏のメカニズムについて、またその内書こうと思います。


心の表と裏のメカニズム-9 / しまの
No.1118 2006/11/01(Wed) 10:47:27

■自己再生への方向づけ取り組み:ステップ3選択を問う-3

4)残存愛情要求のハンディを受け入れる

変えられないもの」と「変えられるもの」を把握した上で、まず「“人が”ではなく自分の人生」、そして「感情に流されるのをいいかげんやめる」という選択、さらに「“心が良くなる”はもう求めず建設的に生きる」という選択がある。
この順番でじっくり、 「選択」をしていくのがいいですね。先走りは禁物です。それは現状維持を選択したことと同じです。

「心が良くならないままでも建設的に生きる」ことを選択したのであれば、「良くならないままという制約」とは実際のところ具体的にどんなものかという話に進むことができます。
これは意識的努力としては、「残存愛情要求の存在を制約として受け入れる」という姿勢を考えると良いと思います。

建設的に生きることを妨げる障害感情としては、「人を傷つけてやりたい」といった「破壊的感情」の類もありますが、これは「制約として受け入れる」べきものというより、明らかに行動化を拒否し心の脇に流すだけにすべきものです。決して「受け入れる」という言葉が合うものではなく、破壊性はあくまで障害の一時的症状と認識すべきであり、「建設的」という目標にとって考慮は不要で、単になにもせず無視すればいい。

そうではなく、「建設的に生きる」という意志がある上で、その「建設性」をぼやかしてしまう心の偏りが自分の中にある。それを計算の上、「建設的に生きる」ことを考えていかねかればならないという意味での、「制約」です。

一方「制約」として組み入れなければならないのが、残存愛情要求ということになります。
残存愛情要求があると、どうしても、自立した心で建設的行動をするというより、人の目の中で自分が特別に見られたがる稚拙な感情の中で、「人が自分に何を」してくれるのかという自動思考に偏るような、いわば心に色メガネをかけたような状態になります。
その中で「建設的」と考えたことが、どうしても現実からは見当外れのことになる危険があります。まあごく普通の行いが特別な注目賞賛に値する「建設的行動」であるかのような気分。それを特別視しない外界に怒りの自動感情。そんな自分に自己嫌悪。てな具合。
その結果人から実際に敬遠され、人との適切な距離がつかめなかったり、自分の居場所がないという感情を感じやすい状態です。

自分の心がそんな状態であることを受け入れ、それを計算に入れた上で、外面行動においては、各自が自立した人間として行動することを前提とした世界で「建設的」と言える思考法行動法を取る。
これは「建設的であること」という心の課題について、ゼロからのスタートではなく、マイナスからのスタートである面が多々あります。
そのために、建設的行動法と原理原則立脚型行動法の徹底努力が必要になるゆえんです。

この辺になると「選択」としてかなり高度な領域になってきます。それでもまだ、これはハイブリッド取り組みの「前期」です。
実際これが可能になってくるためには、先のカキコで書いた「選択を成しえない絶望」を流す経験を何度か経て、それが感情の膿の放出となって、内面の力が結構増大してきた先のことかも知れません。
でもこの段階になると、いよいよ、取り組みの前期から後期への転換道標である「否定型価値感覚の放棄」が視野に入ってくると思います。そうなると世界ががらりと変わります。
そして次の「選択」が現れる。これは次のカキコで。

取り組み後期に入ると、残存愛情要求の中にむしろ向かうべき真実が現れてきます。それを依存するのでも否定するのでもなく向かう姿勢が、「残存愛情要求の看取り」という治癒成長体験につながります。これは「魂の浄化と成長」という最も深淵な領域です。

それまでは、残存愛情要求の否定的な働きばかりが前面に出ます。それを制約として受け入れる姿勢が、まず通過段階として必要になる次第です。


■残存愛情要求を計算に入れる思考の具体例

ここでは、残存愛情要求の否定的側面を理解し、それを制約として受け入れる思考の具体例など話しましょう。
制約として受け入れる思考というか、残存愛情要求のメカニズム補説みたいな感じでもありますが。

この「ステップ1から3」の説明の前振りとして引用した相談メール(心の表と裏のメカニズム-4)にこんな言葉がありました。

>シュレッダーの使い方に慣れていなくて、新入社員の人に真顔で「コンセント抜けてんじゃないですか」とすれ違いざま言われた事がありましたが、こういうのは「軽蔑」以外に何があるんだろうかと思います。

この訴えがあるところには、「軽蔑された」という感情と、そんな相手への怒り敵意が自動的に起きると同時に、こんな嫌な気分に付きまとわれている自分がほとほと嫌、いう気分があるでしょう。

「こんな気分にならない」ための、魔法の思考法など、ないということです。
他人との間に起きる感情は、基本的に変えることはできないという感情の膿に始まる心理メカニズムを理解することです。むしろそれは感情の膿による精神破綻から自分を救ってくれている。
変えることができるとしたら、感情の強制や受動的プライドなどです。しかしこれも感情分析の長い取り組みの先の話であって、今そうした「嫌な気分」の中では、何も見えません。

そうした障害感情の中で、建設的に生きるとはどうゆうことかを考える。思考に残存愛情要求を計算に入れた修正をすると、多少はそれが見えてくると思います。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro8.jpg
の図には残存愛情要求の作用を書きませんでしたが、今話している文脈だと、「理想イメージ」の内容にバイアスを与えていることを理解するのがいいでしょう。

つまり、残存愛情要求の中で人は自分を無力でか弱い存在に感じ、それを庇護するような深い慈愛の精神のようなものが、まず間違いなく理想イメージの一要素になります。
一方で、心理障害傾向の中では必ず、攻撃的な軽蔑によって自尊心を維持しようとする衝動が生まれます。この衝動の残忍性は精神性理想からは受け入れ難いので、抑圧されるのですが、単純な抑圧だけではなく「アク抜き」メカニズムによって、攻撃性につながるような自分の自発的願望を一切停止することで自分に精神的高潔性を感じる一方、自発的願望をひかえない他人が残忍に見えるというメカニズムになります。

この「アク抜き」には悪循環もあり、自発的願望の停止によって、さらに欲求の皮相化荒廃化が起き、さらに自発的願望を停止せざるを得ないという面もあります。
これは非常に苦しい状態であり、苦しみから救う慈愛の理想イメージがさらに硬直したものになるという流れがあります。

こうした感情を基本的背景として、残存愛情要求の中でさらに対人感情に起きてしまうのは、「自分で理想を果たすのではなく他人が果たす」という構図です。認めたくはないでしょうが、幼少期の「まず与えられる」という心理構図が残っているんですね。
しかしそうした「苦しみを救う慈愛」というのは、現実世界の中であまり形を取り得ないんですね。残存愛情要求の中では、自分が理想を果たすのではないので、そのことに感覚が気づかないままです。
その結果、他人のごく普通の仕草が、残忍な軽蔑のように感じる感覚だけが、それに見合う事実のないところでも遊離した感覚のように流れるという結果になります。

対人視野にこの色メガネが入っていることを考慮に入れる必要があります。その上で、外面行動についての思考法行動法は、建設的なものを選択する。
上述の例の場合なら、コンセントを入れてシュレッダーを使うのを覚えれば、それを一個勉強した価値として認めるという思考法です。「軽蔑された」と感じる感情については、とりあえず放っておく。

そんな感じに、「心が良くなる」ことを求めるのでなしに、建設的に生きるという「選択」です。
こうなるともうかなり高度な「選択」になってきますが、今まで説明した選択を順番に見るならば、もうこうした生き方をするしか、ないんですね。
繰り返しまずが、「選択」はじっくり、順に問うことです。先走りした選択を問うのは、現状維持を選択したことと同じ

このようにして、「良くならない」ままの心を抱えながら、建設的に生きる過程で得ていく内面外面の豊かさが、根底から「良くならないままの心」を別のものに変えていく方向に向かい始めます。
多くの方は、きっとこの逆の発想をしていると思います。心が良くなれば、自分を豊かにする行動ができるはずなのに、と。
残念ながらそう事がうまく行く方法というのを、僕は知りません。「自分を豊かにする行動ができれば心が良くなる」と期待するのでさえ、まだその通りにはなりません。
自分を豊かにする行動ができている段階になり、それでもいまだ「良くならないままの心」というギャップが明瞭になった時、劇的な変化への道が始まる、というのが体験的な実感です。

その劇的変化は、やはり「否定型価値感覚の放棄」が成され、次のカキコで説明する最後の「選択」をしてからということになります。


■見えてくる「自己操縦心性の崩壊」

「心が良くならない」ままでも建設的に生きる残存愛情要求が自分の視野を歪めている事実を受け入れるということができるようになると、自己操縦心性の崩壊という最大の治癒体験が視野に近づいてくるように感じます。

なぜなら、全てが自分が原因であること、自他を残忍に軽蔑しているのは他ならぬ自分自身以外にはないことへの、言い訳ができなくなってくるからです。
これが上述の「自尊心幻想」を崩壊させることにつながるわけです。

これは頭で理解して起きることではなく、今まで説明した選択に近づこうとする途上で、頭では何が起きているのか理解できないまま、「自分は完全に駄目だ」というような感情が流れてくる体験になるかも知れません。
まあそんことが起きるものだと心得て、やり過ごすことです。

「建設的に生きる過程で得ていく内面外面の豊かさが心を変えていく」と書きましたが、それだけだと心の幸福度実際の「豊かさ」に依存するという考えも出てきます。
しかし心性崩壊があると、これががらりと変わってきます。「生きる喜び」を感じる心の機能が根本的に回復してくるからです。この結果、必ずしも現実的な「豊かさ」が増えなくても、幸福度がぐんぐん上がってきます。これが逆に「心の豊かさ」になる。不思議な話です。


inserted by FC2 system