■ 魂の治癒成長への実践-8 / しまの |
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No.1167 2007/01/31(Wed) 14:07:01
「魂の感情」について、さらに質問への回答を書いたものも一挙掲載します。
同時に、魂論を踏まえたハイブリッドの基本指針も書いています。「魂の感情をベースに生きる」ということです。 もちろん破壊的衝動も魂からのものであり、それをどう「浄化と成長」に導くかが課題なわけです。 これらを踏まえ、第2段階実践の考察へいざ! --------------------------------------------------------
■魂の感情に「正しいか」という問いはない
>よく私は「相手の表面しか見ていない」と言われますし、そういう「感じ取る」機能を使っていない気はします。しかしその「魂で感じ取ったもの」が果たして正しいのかというとどうなんでしょうか。
魂の感情は、「感じ取る機能として使う」というものではないです。「使う」と言う時、「自分」があり、「機能を使う」という2段階になりますが、魂の感情はそうゆうものではなく、対象について何かを感じ、それが同時に自分そのものになります。
この辺、Aさんが一度「大きな開放感」を体験したことは、実感として理解する足ががりがあるということで、今までよりかなり話がし易いですね^^。
その「大きな開放感」は、この世界について感じたことであり、それを感じるのが自分なのだという、一体のことだったと思います。 またその感情に「正しいか」という問いはありません。これもあれこれ説明するより、Aさん体験した「大きな開放感」そのものは、それが「正しいか誤りか」という問いは無意味だったと思います。 ただそう感じる自分がある。それにおいて自分は生きている、という感じですね。
魂の感情は、そのように、対象と自分自身が渾然一体となった感情だと言えます。心における根源的エネルギーのようなものですね。
ですから、それは実は「現実の対象」についての感情とも言えない面があります。 つまり「現実の相手」という意識になった段階で、次元が異なる、「明晰意識」の「心」の世界になりますね。すると「正しいか」という問いが意味を持つようになってくる。空想と現実という、分かれた世界の突合せというものが出てくる。
魂の感情は、感じ取る機能として使うというものではなく、常に何らかのものが、そこにあります。開放感しかり。空虚感しかり。移ろいゆくものであり、治癒成長に伴い変化するものでもあります。 怒りや悲しさや寂しさも、かなりの面が魂の感情として背景があります。日常生活の感情は、そうした魂の感情を背景に、明晰な心の思考感情や空想が前面におおいかぶさる形になります。
このように魂の感情と心の感情を分けて捉え、それをどう意識し考えていくのかが、まさに感情分析になりそうですね。 この線から感情分析実践をさらに具体的に説明できるかも知れません。これでは今後考えたい。
■魂の対人感情
一人の人間が抱く対人感情も、そうした魂の感情の上に心の感情がおおいかぶさる形になります。背景的根源的な対人感情があり、さらに心であれこれ考えている感情がある。 実際の対人場面というのは、その総体結果がさらにやりとりされる、総合的なものになります。
ですから、実際の対人場面でどっちの感じ取り機能を使い分けるという考えはあまり意味がないです。それは皮膚をはがして感じると、と言った話になってしまいます。
それでも、そうした総合的結果をどう考え、今後の対人姿勢につなげるかに、心理学的な話が出てきます。 感じ分ける、つまり感情分析の出番でもある。
まず、現実の対人間の親愛度は、魂の感情同士で結び合う度合いが、現実的結果になるでしょう。人が人を好きになるのも、最も安定したベースはそれになります。 一方で、「心の感情」の方は、より具体的な場面場面の話になったり、さらに、心理障害メカニズムつまり自己操縦心性によってかなりフィルターがかかったものになる。そればかりに意識の焦点が向くと、表層ばかりに心が惑い、深いものが見失われてしまいます。
■ハイブリッドの最大指針:魂の感情をベースに
詳しい話はこれから整理したいと思っていますが、そうした、魂の感情と心の感情を分けて捉え、それぞれへの向き合い方を定義するのが、ハイブリッド「魂の治癒成長論」のキモになると思っています。
今見える大まかな話としては、対人関係の方向性は魂の感情をベースに考えるということです。 これは、今現在自分が持てる対人関係や、今自分が人にどう好かれるかは、自分の魂の感情で大体決まるということです。 それを受け入れる。そして魂の浄化と成長を目指すという方向性になります。
一方、心の感情の方は、ごく瞬間瞬間の話として、外面においては建設的行動法のみです。 それ以外は、障害、つまり幻想として扱う感じになります。
Aさんの場合も、魂の感情としては「愛されない怒り」という感じがまず間違いないところだと思います。魂の荒廃化の基礎ですね。 Aさんがそれを認め受け入れ、魂の浄化と成長を目指すという方向性を選ぶかになります。これは魂の関係性つまり他人の目を一切意識しないで、自分の魂に向き合う姿勢が第一歩になります。
>見せないという時点で演技、振舞っているのではないでしょうか?それに、上記の魂の機能があると、怒りを見せなくとも伝わってしまうのは避けられないと言うことでしょうか?少なくも、今は怒りを感じない事は不可能な意識土台ですし。結局、相手には引き続き「作っている」と思われるような姿で居るしかないでしょうね。
魂で感じるのは相手の魂の感情であり、しかも魂の感情とは相手について感じることであるだけでなく、この個人の存在の仕方そのものでもありますし、魂の感情が他の魂にどう正確に伝わるかというのも、またあまり問えない話になってきます。
荒廃した魂は、まず健全な魂の感情を感じることはできません。これは間違いないように感じます。
健全な魂からは、荒廃した魂が何となく分かります。 ただそれはその人が漠然と怒りの中に生きていることを感じ取る程度であって、自分に向けられる具体的な怒りというのはもう「心」の側の話で、ロールシャッハ原理で敏感な人も鈍感な人もいるでしょう。
「怒りを見せない=振舞う」と感じるのは、基本的に「自分を人に見せる」「見られる」という意識がある場合だと思います。 魂に向き合う姿勢の中だと、それはなくなりますので、内面に怒りを抱えていても、非行動化だけしたら、あとはもう「振舞う」という意識もなくなると思います。怒りが伝わることさえなくなってくるような気がします。
つまり魂の関係性に入る、他人の目は一切関係ないものとして自分の内面に向き合う姿勢によって、魂の感情はもはや他人にはほとんど伝わらなくなると言えます。魂の感情を自分が受け取るからです。 一方、魂に向き合う姿勢がないと、本人は魂の感情への意識が薄れ表面に捉われる一方で、魂の感情が他人に伝わるわけです。魂の感情をパススルーしちゃってるんですね。
まずはそうして魂との関係性に入ると、魂自身が変化を始めると思います。 Aさんの場合も、自分および他人への向き合い方の全体が、完全に反転するような方向転換になるでしょうね。
もう少し僕の方の整理も進めながら、その辺考えていってもらえれば。 -------------------------------------------------------- |
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