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2007.01


魂の治癒成長への実践-8 / しまの
No.1167 2007/01/31(Wed) 14:07:01

「魂の感情」について、さらに質問への回答を書いたものも一挙掲載します。

同時に、魂論を踏まえたハイブリッドの基本指針も書いています。「魂の感情をベースに生きる」ということです。
もちろん破壊的衝動も魂からのものであり、それをどう「浄化と成長」に導くかが課題なわけです。
これらを踏まえ、第2段階実践の考察へいざ!
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■魂の感情に「正しいか」という問いはない

>よく私は「相手の表面しか見ていない」と言われますし、そういう「感じ取る」機能を使っていない気はします。しかしその「魂で感じ取ったもの」が果たして正しいのかというとどうなんでしょうか。

魂の感情は、「感じ取る機能として使う」というものではないです。「使う」と言う時、「自分」があり、「機能を使う」という2段階になりますが、魂の感情はそうゆうものではなく、対象について何かを感じ、それが同時に自分そのものになります。

この辺、Aさんが一度「大きな開放感」を体験したことは、実感として理解する足ががりがあるということで、今までよりかなり話がし易いですね^^。

その「大きな開放感」は、この世界について感じたことであり、それを感じるのが自分なのだという、一体のことだったと思います。
またその感情に「正しいか」という問いはありません。これもあれこれ説明するより、Aさん体験した「大きな開放感」そのものは、それが「正しいか誤りか」という問いは無意味だったと思います。
ただそう感じる自分がある。それにおいて自分は生きている、という感じですね。

魂の感情は、そのように、対象と自分自身が渾然一体となった感情だと言えます。心における根源的エネルギーのようなものですね。

ですから、それは実は「現実の対象」についての感情とも言えない面があります。
つまり「現実の相手」という意識になった段階で、次元が異なる、「明晰意識」の「心」の世界になりますね。すると「正しいか」という問いが意味を持つようになってくる。空想と現実という、分かれた世界の突合せというものが出てくる。

魂の感情は、感じ取る機能として使うというものではなく、常に何らかのものが、そこにあります。開放感しかり。空虚感しかり。移ろいゆくものであり、治癒成長に伴い変化するものでもあります。
怒りや悲しさや寂しさも、かなりの面が魂の感情として背景があります。日常生活の感情は、そうした魂の感情を背景に、明晰な心の思考感情や空想が前面におおいかぶさる形になります。


このように魂の感情心の感情を分けて捉え、それをどう意識し考えていくのかが、まさに感情分析になりそうですね。
この線から感情分析実践をさらに具体的に説明できるかも知れません。これでは今後考えたい。


■魂の対人感情

一人の人間が抱く対人感情も、そうした魂の感情の上に心の感情がおおいかぶさる形になります。背景的根源的な対人感情があり、さらに心であれこれ考えている感情がある。
実際の対人場面というのは、その総体結果がさらにやりとりされる、総合的なものになります。

ですから、実際の対人場面でどっちの感じ取り機能を使い分けるという考えはあまり意味がないです。それは皮膚をはがして感じると、と言った話になってしまいます。

それでも、そうした総合的結果をどう考え、今後の対人姿勢につなげるかに、心理学的な話が出てきます。
感じ分ける、つまり感情分析の出番でもある。

まず、現実の対人間の親愛度は、魂の感情同士で結び合う度合いが、現実的結果になるでしょう。人が人を好きになるのも、最も安定したベースはそれになります。
一方で、「心の感情」の方は、より具体的な場面場面の話になったり、さらに、心理障害メカニズムつまり自己操縦心性によってかなりフィルターがかかったものになる。そればかりに意識の焦点が向くと、表層ばかりに心が惑い、深いものが見失われてしまいます。



■ハイブリッドの最大指針:魂の感情をベースに

詳しい話はこれから整理したいと思っていますが、そうした、魂の感情と心の感情を分けて捉え、それぞれへの向き合い方を定義するのが、ハイブリッド「魂の治癒成長論」のキモになると思っています。

今見える大まかな話としては、対人関係の方向性は魂の感情をベースに考えるということです。
これは、今現在自分が持てる対人関係や、今自分が人にどう好かれるかは、自分の魂の感情で大体決まるということです。
それを受け入れる。そして魂の浄化と成長を目指すという方向性になります。


一方、心の感情の方は、ごく瞬間瞬間の話として、外面においては建設的行動法のみです。
それ以外は、障害、つまり幻想として扱う感じになります。

Aさんの場合も、魂の感情としては「愛されない怒り」という感じがまず間違いないところだと思います。魂の荒廃化の基礎ですね。
Aさんがそれを認め受け入れ、魂の浄化と成長を目指すという方向性を選ぶかになります。これは魂の関係性つまり他人の目を一切意識しないで、自分の魂に向き合う姿勢が第一歩になります。

>見せないという時点で演技、振舞っているのではないでしょうか?それに、上記の魂の機能があると、怒りを見せなくとも伝わってしまうのは避けられないと言うことでしょうか?少なくも、今は怒りを感じない事は不可能な意識土台ですし。結局、相手には引き続き「作っている」と思われるような姿で居るしかないでしょうね。

魂で感じるのは相手の魂の感情であり、しかも魂の感情とは相手について感じることであるだけでなく、この個人の存在の仕方そのものでもありますし、魂の感情が他の魂にどう正確に伝わるかというのも、またあまり問えない話になってきます。

荒廃した魂は、まず健全な魂の感情を感じることはできません。これは間違いないように感じます。

健全な魂からは、荒廃した魂が何となく分かります。

ただそれはその人が漠然と怒りの中に生きていることを感じ取る程度であって、自分に向けられる具体的な怒りというのはもう「心」の側の話で、ロールシャッハ原理で敏感な人も鈍感な人もいるでしょう。

「怒りを見せない=振舞う」と感じるのは、基本的に「自分を人に見せる」「見られる」という意識がある場合だと思います。
魂に向き合う姿勢の中だと、それはなくなりますので、内面に怒りを抱えていても、非行動化だけしたら、あとはもう「振舞う」という意識もなくなると思います。怒りが伝わることさえなくなってくるような気がします。


つまり魂の関係性に入る、他人の目は一切関係ないものとして自分の内面に向き合う姿勢によって、魂の感情はもはや他人にはほとんど伝わらなくなると言えます。魂の感情を自分が受け取るからです。
一方、魂に向き合う姿勢がないと、本人は魂の感情への意識が薄れ表面に捉われる一方で、魂の感情が他人に伝わるわけです。魂の感情をパススルーしちゃってるんですね。

まずはそうして魂との関係性に入ると、魂自身が変化を始めると思います。
Aさんの場合も、自分および他人への向き合い方の全体が、完全に反転するような方向転換になるでしょうね。

もう少し僕の方の整理も進めながら、その辺考えていってもらえれば。
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魂の治癒成長への実践-7 / しまの
No.1166 2007/01/31(Wed) 13:10:07

■「嫌われている」感覚と「アク抜きとアク毒」序論

「好かれない」程度ではなく、「嫌われている」と感じる。その原因は何か。

自分を見る他人の目に、ありありと激しい嫌悪が映る。そうなるメカニズムがあります。
それが「アク抜き」「アク毒」に関連します。それへのアプローチがまさにハイブリッドの取り組みの最大のキモになる部分ですが、返答メールの続きで、まず最も初歩的序論から書いています。

ひとことで言えば、「自分の中に抱えた悪」というテーマになるでしょう。1/25「魂の治癒成長論-20」で書いたように、自分自身の中に、自分自身が悪と感じるものが生まれており、しかしその正体は意識体験不可能になるというメカニズムがあります。
それを、外界現実における罪ではなく内面の魂の世界のこととして、人間の不完全性として許す姿勢の中で、全てを晒すというのが答えになります。

まずは、その正体が体験不可能な形で、自分自身が悪と感じるものが自分自身の中に生まれている。それへの嫌悪が、「自分を見る他人の目」に映される、という現象を理解頂きたいと思います。
全ては現実の中で起きていることではなく、自分自身の中で起きていることなのです。


返答メール後半ではそれを踏まえての、今後の方向性についてアドバイスしていますが、ここではまだ状況理解という序論の範囲です。より実質的内容第2段階の方で。
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■自分を一番嫌っているのは自分自身

では最大の原因は何か。それは他ならぬ、Aさん自身が、そのAさんを、激しく嫌っているということだと思います。
それが他人の仕草表情に見る感情に映されるわけです。ロールシャッハテストの原理で。

それが分かったのは、ホンジャマカの石塚に「腹黒い」ものを感じると言ったことです。
Aさんがホンジャマカの石塚を見る視線で、人はAさんのことを見ると、実はAさんの心の底に映っているように思えます。そのあまりの理不尽な視線への怒りが起きる。

>冗談で作り笑いとかいうのとは全然違いますし、それぐらいのニュアンスであれば把握できます。あからさまな作り笑いの後、すぐ真顔に戻るというのを好意と思うのは逆に変な気がします。芸人のホンジャマカの石塚のような感じですかね。私はあの人からすごく腹黒そうな印象を覚えますが。

心の中は否定的、上辺だけは笑顔。
実はそれは、Aさんが自分で自分がそうしていると感じるもの、そのものだと思います。

でもAさんのはそれとは違う、と感じるでしょう。そして実際、違うと思います。
どう違うかと言えば、Aさんの場合は良い人間関係への苦しい努力としてそうしていると思います。自分のは善意だと。石塚は..知りませんが。
あれは善意ではない、と感じると思います。腹黒い。

それがAさんの心の深層の、「悪意」だということになると思います。
それが、原因不明の罪悪感の原因であり、「悪いのは自分」「世界の全ての人に謝りたい」という感情の原因だと思います。
そうだとして、Aさんはその自らの「悪意」を体験しません。それがアク抜きのメカニズムです。

アク抜きのメカニズムのより詳細については掲示板に譲りますが、内面心理としては、まさに僕自身がそうであったので、おおよそ分かります。
お笑い系の世界、それを真似る、いかにも大学仲間の世界の人間達。そこにある楽しみや笑顔を、極めて皮相で真実を欠いた、殺伐とした世界だと感じていました。自分は「彼らの側」とは違う。決して「彼らの側」に迎合したりはしない、と。
今は感じ方が大分変化しています。

まだじっくり読んでおらずプリントしたままですが(^^;)先日のAさんの「悪者仕立て上げ衝動」の話も関係します。これは意識に漏れた「悪意」になるでしょう。

そうした自分の悪意を認めて反省しようと考えても、何も変わらないと思います。
解決は、アク毒の放出です。これはもうAさんも体験した。その後に、徐々に意識土台が改善されて来てはいます。

だがまだ、Aさんは分かってこの方向に進む道は、全く見えていません。
それを考えてみましょう。


■選択肢

まず、選択肢を言うことができます。

上記説明を踏まえて、引き続き「嫌われる理由が分からない怒り」に中にい続けるか。
そうではなく、まず自分の現実として理解するか。全体サマリーすると、まず「好かれない」のは仕方ないかと。そして「嫌われる」という感覚については、すぐ答えが出る問題ではなく、心理障害の問題として考えるのが正解だろうということです。内面を映したものだと。

まあ実際のところ、「嫌われる理由が分からない怒り」にいるとは、自分の心理障害を全部度外視して、人間関係についての自分の感情は正しいと主張することだと思います。ならハイブリッドもそもそも必要ないんですけどね。

おそらく、こうした理解選択が自分に突きつけられるという現実そのものがもう嫌だという感情も持つと思います。もうつくづく疲れて嫌になったと。
まAさんの場合、そうして絶望感からすぐ「思考の断絶」に入っちゃってもらうのが、当面一番効率的かも知れない感もありますが^^; とにかくそれが今の意識土台の減少の起きる姿。

頭を働かせるなら、僕が言えるのは一つだけです。
実際それだけの苦境の中で始まった人生なんです。掲示板でも書きましたが、それを受け入れられず死を考えるのであれば、事実、死を考えるほどの現実であることを、認めることです。
そして死を前提にでも、だめもとでやって見る価値があることを試すしかない。

自分の原点をどこに定めるか、ということになると思います。
皆と同じに好かれるべきだったという空想を維持することを原点とするか、事実そうではない現実に生まれてしまった現実を原点と考え、そこから前に歩くことを原点とするか。
ま前者に立っても結局、後者になるしかない現実を見るわけですが。

それを原点とした歩みについては、次のように言えます。
外面内面、全く異なる話になります。


■外面

>また、内面と外面の分離という意味であれば、悪感情を抱えていても外面はそれとは別に振舞うのではないでしょうか?

これはそのままです。建設的行動法の原則。
破壊は行動化しない。共通目標共通利益のみに着目した行動をする。

怒りは表に表さないのが当然いいことです。
ただ「別に振舞う」という表現は何か変ですねぇ。何か演技するみたいな。これは「自分がこんな人間だと人に見せる」というのがAさんの基本意識土台である結果ですが、誰もそんなもの目標利益にはしておらず、内面の問題として取り組む必要があります。

破壊は行動化しない。あとは共通目標共通利益のみです。
そして共通目標共通利益とは、まず自分の目標利益を定められなければならないということです。
これは「魂の自立」が前提です。

結局、外面についてはAさんの場合ほとんど何もないんですね。いい意味でも悪い意味でも。
淡々と仕事していればいいことです。

問題は、「好かれる人間であること」が求められているという感覚になると思います。


■内面

そろそろ読んで理解するのも疲れる感じになってきたと思いますので(^^;)、また僕自身としてもこの先は平易に説明するのが難しい話になるので、ごく全体方向性を言いましょう。

とにかく、自分の問題は外面つまり誰彼に嫌われることだと、その怒りの感情を取り上げ続けるか、それとも、問題の大元に戻るために自分の内面に静かに向き合うか、です。
まず上述で書いたことをどう理解できるか。「嫌われる理由が分からない怒り」をどう位置付けるか。まだ納得できない面があるなら、感性のズレのメカニズムなどについてさらに説明するのもいいでしょう。

そして内面に向き合うのであれば、自分で魂を育てるという関係性の問題として、取り組むことです。
これは他人の目を一切排した内面取り組みになります。

なぜ「好かれる人間が勝者」なんていう世界感覚の中で生きるようになったのか。その裏にある魂の挫折と復讐心に向き合う必要があります。
まあそうした具体的な話はまた後でいいでしょう。

何よりも重要なのは、人生を反れて今に至った現実を原点として、先に歩むのは、先日体験した開放感のような、「姿を眺める」というのではなく、見えないものが自分を支え突き動かす、そうした魂の動きを基盤にしなければならないことです。

つまり、今問題にしているような、細かい心理要素のどれをどうではなく、全部ごっそりと、別の世界に探さなければならないということです。

「魂」と「心」を、もはや比喩ではなく、はっきりと別のものとしてイメ−ジして、全く他人の目を排した形で自らの魂に向き合い、魂の挫折に向き合うことが基本になります。それを他人の目との問題ではなく、心の魂への接し方の問題として取り組むことです。
Aさんはまだこの方向では一歩も歩んでおらず、完全に今までとは世界を反転させるような話になると思います。

実際そのための分かりやすい説明もこれからになりますが。
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魂の治癒成長への実践-6 / しまの
No.1165 2007/01/31(Wed) 11:26:14

■現実への全破壊衝動を必然とする「好かれる者勝ち」という意識土台

「好かれる者勝ち」という意識土台が、まさに人には好かれなくしてしまいます。
なぜなら、その意識土台において、は「人に好かれる」ことを求め、そのための努力が人に受け入れられ尊重されることを求め、それが「親しみへの努力」なのですが、そこにおける魂の感情は素直な親しみ感情ではなく、むしろ敵意と復讐心の方に近いからです。


なぜこんなことになってしまうのか。第2段階解説に先走って今浮かぶ応えを書いておきますと、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg
という心の構造において、は「愛されない怒りと復讐心」と供給する一方、自己操縦心性「愛される姿」の神格化された理想像を掲げ、感情の膿恐怖からの救いのための愛情要求を湧き出させるからです。
結果は、「愛される姿」への死に物狂いの渇望と、魂の怒りおよび感情の膿の「追い詰められた獣の直情」により、実際には愛されない現実への全破壊衝動が生まれる、ということになります。

まずこの状況を理解し、誤った「好かれる姿への努力」を解除することが、「魂からの人間関係構築」への第一歩になるでしょう。
解除した先にどうするかが大きな問題なんですけどね。それはまた第2段階で。

引き続き返答メールから、この現状理解の解説です。

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■「魂で感じ取る感情」と「目で見る感情」

そう感じる「今の現実」において、Aさんはどんな風であれているかを、再度確認しましょう。
「ありのままの自分」は、少しわがままで怒りっぽいけど純粋..そんな自分が好かれてもいいはずなのに、という思いの一方での現実は..ということになると思います。

それについてのは、僕の前の返答にAさんがさらに質問した点が新視点になるかと。

>>・・(略)・・内面で怒りを感じても、それを表に出すことに成功したら、「にこやか」になると感じているのではないかと。実際はそうではないと思いますねぇ。
>>人間が心で抱く感情というのは、自分で表に出すのをとどめても、案外出てしまうものなんですね。表情や声もそうでしょうし、Aさんが「穏やかな言葉」と考えた言葉が、実は一般的にはそうでないこともあるかもしれません。まこれはボイスレコーダーででも録音してもらって僕が分析すれば結構具体的なことを教えられると思いますが、まもちろんそこまでは。
>>さらに、実は人は人の感情を、電磁波か何かで感じ取るというのもあると僕は考えています。
>これは、「人の感情は見えない」というこれまでの島野さんの主張と、どう関係してくるでしょうか?

この質問は実にいい質問かと^^;

人の感情を感じ取る方法に、全く異なる2つの形態があるということです。
一つは、今Aさんが主にそれだけ使っている、「目で見る」です。
もう一つは、「直接感じる」です。見えないものとして、感じ取ります。

見えないものであって、感じるものというと、ハイブリッドが言う「魂」があります。
実はこれはほんど同じ話を言っているのではないかと考えています。

Aさんはこの違いが分かる第一歩に立っていると思います。
今は主に、自分を外から眺めて品評した結果起きる感情がメインだと思いますが、先日一度「大きな開放感」を体験したことがあったと思います。
その開放感は、自分を眺めて肯定したり否定したりの自己評価として湧いた感情とは全く別種の感情だったと思います。
言わば前者は「見ての感情」であり、後者は自分を直接動かす、見えない、ただ「感じる」だけの感情です。

我々が人の感情を感じ取る方法にも、その全く別種の2形態があるということですね。
見えないものとして、感じるもの。
見るもの。これは文字通り表情や言葉声色などを見るわけです。Aさんはこれしか使っていない。


■「目で見る他人の感情」は実は本人の内面を示す

この2形態の結果は、かなり異なります。全く違うと言っていいほど、人の内面についての感じ取り結果が変わります。
自己品評と開放感が違うほど。

人の感情を見えないものとして感じる時、それは「魂」を感じ取るのとほぼ同じ感覚で感じます。見えないが、かなりしっかりと、そこにあるものとして感じます。まあその場の電磁波かどうかは知りません。「魂」を感じるのが五感のどれかと言えない深淵な人間の心の機能であるように、人の感情を見えないものとして感じる、深淵な人間の心の機能があるのだと思います。

一方、見えるものとして感じ取るのは、基本的に静止画の鑑賞という感じになります。視覚が主体です。
この結果はどうなるか。それを端的に示すのがロールシャッハテストです。これは知ってるかと。
つまり、そのテストの目的がまさに示すように、この感じ取り方だと、結果は主に本人の内面を示すのです!

ハイブリッドが考える健康な心では、主に「見えないものとして感じる人の感情」を、対人関係で使います。これは魂を基盤に生きる心ということでも、そうなるのでしょう。

そうではなく、人の姿を目で見て感じる感情ばかりを「人」を知ることに使っている状態とは、実は、その相手のことをほとんど知っちゃーいないし、実は何の関係も持っちゃーいない、切り離された自分の内部で映された世界の中で生きる姿だと、考えています。

この2形態の違いで、人についての見方が如何に違ってしまうかは、驚くべきものがあります。
まあこの両世界をまたがって体験しないと分からないので、世の人々は人が人を見るという同じことの中で、違いがあるのだという感じで人の話題をしているだけです。

もちろん健全形でも「目で見る感情」を使います。「見えないものとして感じる」を骨とし、「目で見る感情」を肉皮とする感じですね。日常の瞬間瞬間は、「目で見る感情」が前面でもあるでしょう。でも「見えないものとして感じる」がないと、それは骨のない、目を離したらいつでも消えてしまうようなものでしかなくなります。
だからまあ、離婚が多いご時世。人間関係が表層的なんですね。


■感性のズレの2大要因:「否定型価値感覚」と「目で見る感情メイン」

話が少し長くなりますが、上述の人の感情の感じ取り方は、健常人との「感性のズレ」の大きな原因になります。
まあ否定型価値感覚によって基本的に思考が否定に傾いていることと、この話が、2大要因と言えるでしょう。

Aさんも含めたメンヘラー(^^;)は、そしてそれはかつての僕もそうでしたが、「優しさ」としてイメージするのは、まるで弥勒菩薩のような静かな穏やかさ優しさになります。
何よりも「自己否定感情の膿を刺激しない」ことが「優しさ」になるからです。その結果、それはまるで目をつぶって傷ついた小動物を愛でるような、優しさの絵になります。

それは「健常人」から見ると、「ちょっと変」なんですね。
なぜ「変」かというと、健康が前提で、たくさんの「活動」をする身なので、それを支持し共に楽しむことが、共感であり優しさのベースになるからです。
メンヘラーにとっての「優しさ」は、傷を癒すのが前提です。そしてそれを、本人は人間関係の基本理想であるかのように求めるので、人間関係に関する感覚に大きなズレが起きます。

僕自身の話をすれば、今になって、「病み上がり」的な要素さえもほとんど消えた、なんでも楽しむ感じになっています。
スキー活動で、メンヘルとは一切関係ないような若者達とも全く自然に慣れ溶ける感じに、マジに今シーズンに至りなった感があります。

そうしてそんな人間関係にいると、かつての僕からは度肝を抜かれるような、悪ふざけジョークにも接します。配車報告の中で「〜とは別になりました。仲が悪いので」なんて。
実はこれは、芯に揺ぎない友愛があるから成せる技(^^;)なんですね。ジョークとして楽しんでわけです。
もちろんそれを真似ろとは言いませんし、実際それはメンタルヘルスへの無理解であって誉められた話でも特にありません。

とにかく指摘しておきたいのは、「目で見る」だけで人の感情を感じるのは、実際は自分の内面を見ているだけ。その相手のことを実は知らないに等しい。自分自身の内部の自己否定感情を克服し、「魂」で感じるようになると、全く違う結果がありえるということです。


■表面だけの「にこやか」はやはり嫌われる

「今の現実世界」におけるAさんの現状確認をさらに続けますと、

>「にこやかに」というのは、その時表面だけ、楽しく話すという事です。
>笑って親しげに話すことが「にこやかに」だと思っているんですが。一時的に感情を殺して、笑って話せればいいというぐらいです。
>表情は笑って話す事ぐらいが限界で、話し方は一般からすれば明るくはきはきとは言えないでしょう。私の中で明るい方という程度です。

Aさんの「内面に比べれば外面は明るい」ということですね^^;

Aさんはこれを、人にどう見られるかについてのプラス材料に考えていたかも知れません。

>それでいて職場では、私は怒りなんて感じてないと思い、誰に対しても訳隔てなく振舞えていると感じる事があります。私はこんなにニュートラルで誰にも悪意を抱いていないのに、なぜ敬遠されるのかとそのときは考えます。

と。

まず言えるのは、Aさんの内面が外面とは違うであろうことは、大抵の人はまず分かるということです。
これがやはり「感性のズレ」です。本人は、人がそれを好印象で受け取ってくれるはずだと考える。
実は、大抵逆です。なぜならそこに「嘘」を見るからです。

僕の最後の職場の現場上司がまさにその好例でした。明らかに、常にほがらかで、笑顔を絶やさず、全てを誉めるような言葉を使おうとしています。強いストレスの中で。それがありありです。
それが人に好かれるか。かなりまちまちだったと思いますが、実は嫌われた方ではなかったかと。まその人の場合、あまりに声が大きいのが生理的に不快だったこともあります。彼が電話している時、僕は時にその側の耳を塞ぎました^^;
また直接関係を持つ部下としては、彼の言葉はまさに上辺だけで、それが上司と来たのですから、嫌悪感は倍増でした。上辺では応援するような口ぶりで、内実は足を引っ張っているかのよう。
隣の席の、口から先に生まれたような男と話を交わした時、「ヘドが出る」なんて言葉を言ってたこともあります。

彼はその後、組織のボスがやり手の厳しい男になると同時に、全くそりが合わず、うつになって現場から離脱しました。
彼は「嘘にまみれた世界に住む男」という感がありました。我々は本能的にそうゆうのを察知する感性があります。そして嘘はやはり、嫌悪の対象になるものです。

まあAさんの場合は、そこまでは当たらないと思います。
一応「良かれ」と考えている分がまさに、人からは「なにこの人?」と見透かされていた可能性があるでしょう。まさに「魂」で感じるからですね。
だがそれも結局は「好かれない」範囲と考えていいと思います。上の話のように「実害ある偽善」の形にならない限りは。

そしてそれがAさんの「嫌われる原因」でもないと思います。
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以上、「好かれる者勝ち」という意識土台が、まさに人には好かれなくする状況説明でした。
ただしそれだけではまだ、「人は自分を嫌う」という強烈な感覚の説明にはなっていません。
その話が続きます。


魂の治癒成長への実践-5 / しまの
No.1164 2007/01/31(Wed) 10:21:18

■人間関係における「魂の感情」と「心の表層感情」

魂からの深い感情と、魂に嘘をついたような心の表層の感情がある。
それを自分で感じ分ける実践第2段階の主な取り組みにして頂きたいと思うのですが、実はそれは我々が日常生活の中で互いにしていることでもあります。

まもちろん、心が健康になるほど、人のそれが何となく正確に分かる一方、心理障害傾向は人の中に自分の感情を映し出し、人のことが実際には分からなくしてしまいます。自分の内面の何がどう映されるかを理解するための説明は第2段階の方でしましょう。

そうした心の表層の感情に惑わされず、魂からの深い感情により注目することで、「人間関係を築く」ということの本質が見えてきます。その理解に立った魂への取り組みは、確実に自らの人間関係を改善し、より豊かなものにする方向へと導いてくれるでしょう。

以下はそのための基礎教養講座となるような、メール返答文の紹介です。
「魂からの感情」と「心の表層の感情」が、人間関係の構築においてどのような役割を果たしているのかの説明になります。

メール返答は、相談者の方の「なぜ自分だけが嫌われるのか分からない」という嘆きへの取り組みとして始まっています。
まずその主訴内容への所見(^^;)部分から。これは障害感情が生み出す典型的思考というより、障害感情メカニズムそのものです。必ず起きるものです。

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■「他人びいきの現実」ばかり..

>相変わらず、嫌われる現実が今ひとつ飲み込めないというか、あまりに「自分の存在自体がまるで当然のように否定される」という怒りが強すぎて、自分以外否定してしまいます。ただ一方では、逆の立場なら私は話しづらい相手かもなーぐらいは思います。

とりあえず、「好かれない」程度なら納得できるという感じですかな。
それが「嫌われる」だと納得できない!と。

>あまり好かれないのが現実だとしても、私にない要素ばかり皆は好きになるとすると、自分を肯定させるのに、ありのままではダメだということになり、存在そのものを否定されたと感じるからです。

この文章を見て何となく分かったのですが、「今の現実」の中で自分が嫌われる理由が分からないというより、「今の現実」は他の人だけ人に好かれる現実であって、自分だけ自分が好かれる現実がないのは不公平だ、という感じなのではないかと思うのですが、どうでしょう。
「他人びいきの現実ばかりでずるい」ということですね。

>好かれるための努力は単なる迎合と違いが分かりません。
>周囲は否定するけども、自分だけが自分の存在を肯定している、そんな感覚です。自分は無力で何もできないからこそ、優越感を求めます。

好かれるためのものを人は持ち、自分は持たない。つまり土俵に参加しようもなく、カヤの外という気分だと思います。あとは単なる迎合のみ見える。
そんな無力感を打ち消す、優越感が欲しい。

ということで、この現実の中で嫌われる理由が納得いかないというより、自分だけがカヤの外になる現実という不公平が納得できない、という感覚ではないかと。
ここまでその通りでしょうか。


■意識土台そのものの変化に向かうという選択肢

>それは、そんな歪んだ感覚がある事を否定しても、知的に考えてもどうにも変わらない論理なんです。自己否定すればするほど逆効果です。

いいでしょう。ハイブリッドはまさに、それをどう変更可能かの選択肢を示す心理学です。
選択肢は、今の意識土台の中での選択肢ではなく、意識土台そのものの変化に向かうという選択肢になります。

ただこれが、難しい。とくに、変化に向かう道筋が。
意識土台が変化することがあるのは分かっています。変化すれば、はっきり別世界だと分かります。
そして変化する瞬間の様相も、かなり分かっています。心性崩壊として。
しかし、「変化する前の意識土台の中で」どうすればそうなるかが、とても難しい。

「自己理解の進展により頭で理解するより前に起きる」なんて言ってますが、もう少し分かって進めるようにしたいと思っている次第です。

とりあえずは、今の意識土台を理解し、それとは全く別世界の意識土台を多少なりとも具体的にイメージできるようになることが第一歩かなと。


■「好かれる人間が勝者」という意識土台

まずAさんの現在の意識土台ですが、基本的にこの世界は「好かれる人間が勝者」なのだという感情論理の中にあると思います。
そのために必要なものを、今の現実とは、他人は持ち自分は持たない不公平なものだと。

その感覚を不合理と知的に考えても変わらないし、自己否定すればするほど逆効果。
それはそうだと思います。その意識土台の中で知的に考え、その意識土台の中で自己否定するしかありませんから。

それは基本的に「どれだけ好かれるか」という「品評」の目の中にある世界です。
Aさんがその感覚を変えようにも、あるのは自分のその感覚を「許す」か「駄目だしする」かの、どっちかしかありません。「品評」という意識土台の内側にはその思考回路しかありませんので。
どっちを取っても、その感覚は変わりません。当然です。「品評」という意識土台の内側の選択肢であって、「品評意識土台」と「別の意識土台」の選択肢などではないからです。

「どれだけ好かれるか」という競争の世界という意識土台ですね。
だから「対等」がないわけです。同等に好き合う人間同士の間では何となく対等というのがありそうだが..と。
「対等」はなく、「つるみ合い」つまり腹の探り合いのような世界になってくるかも知れませんね。

競争であるだけではなく、何か自分が世界にいられる条件というものでもあるという感覚だと思います。
「好かれなければならない」という定文の下に世界があるような。
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なぜこうした「好かれる者勝ち」という意識土台ができるのか。その説明は第2段階でします。自分自身の心の中でその成り立ち過程をたどることが、「魂からの感情」と「心の表層の感情」を感じ分け、相互関係を実感する感情分析の取り組みになるわけです。

それは置いといて、自分が置かれた状況を理解するということで、そうした意識土台とは「魂からの感情」と「心の表層の感情」が食い違っている意識土台であり、その意識土台そのものが人間関係を成り立たなくしているのだという理解画重要です。
「好かれる者が勝ち」という意識土台が、まさに好かれることを不可能にしてしまいます。

この現状を理解することは、「心の表層の感情」への無駄な入れ込みをまず放棄するという第一歩につながるでしょう。
現状理解のための説明を引き続き。


魂の治癒成長への実践-4 / しまの
No.1163 2007/01/30(Tue) 22:58:47

■人間関係における「魂」の役割

「自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情」の源である「魂」に向き合い、自らその成長へと取り組むことの意義について、さらに説明しておきます。
それは「人間関係における魂の役割」です。

なぜ人間関係が常に良好に保たれ、人からの信頼を築ける人と、そうではない人がいるのか。恐らく本人の意識的努力においては後者の方がしばしば必死の努力をしているにも関わらずです。
ハイブリッドからは、それについて大きく2つの要因を指摘できます。

一つは行動法の問題です。建設的行動法原理原則立脚型行動法が実際のところできるかどうかが影響します。

そしてもう一つが、「魂の対人感情」です。人間関係が実際のところどれだけ深い信頼で結びついたものかは、魂の対人感情がまずベースになります。
「心の対人感情」は、上辺だけで、人間関係を定着させない傾向があります。より正確には「魂に嘘をついた心の対人感情」は、人間関係を定着させることが全くありません。
この詳しいメカニズム説明は、「魂への取り組み第2段階」の方で説明しましょう。

いずれにせよ、ここで「魂の関係性」について、さらに新しい話が出てくることになります。
「魂」は自らの「心」との間だけに関係を求める、と述べました。一方で、深い人間関係は魂の感情がベースになる、という話が出てきたわけです。


■見えない「魂」と見えない「絆」

ごく体験的考察を書いておきましょう。一応僕自身は現在人間関係はすこぶる良好と感じていますが、それが一体どのような感情によって支えられているのか。

まずそれは魂の感情です。魂の感情として、自分が人と結びついているのを感じる。その感情をベースにして、自分の他者との関係に「絆」があるのを感じます。

では「魂の感情は自分の心だけが受け取れるもので人に見せるものでない」という話はどうなのか。
そのままです。自分が人と結びついているという魂の感情を、心が感じ取るだけで、僕はそれを相手に示す気はないし、そうする行動を考えもしません。
なぜか。その感情は、僕自身だからです。別に人に見せるための何かではないわけです。魂の感情とは、そうゆうものです。


ではその魂の感情において人と結びつくとはどうゆうことか。
これはちょっと考えたのですが、良く分からないんですね..というか、それは自分の魂が自分にも見えないように、自分が人と結びついているという「絆」も、見えないんですね。でも、それがあるのを感じる。感じるというか、「あるんだろうなぁ」と感じる。実はちょっと他人事のような感覚でさえあるのです。自分の魂は人の魂と結びついているのかも知れないなぁと。

感情の中に「結びつき」が包含されているのであって、「結びつきを得て」起きる感情、ではないわけです。「実際の結びつき」を意識するとしたら、その感情とは別の感情や思考を使うことになります。
ま僕自身はもっと積極的に人づきあいした方がいい部類かもしれないですけどね^^;

「愛」とか「絆」とかいうものは、実はそうした見えないものが本質なのかも知れません。
それを、「心」は「明示化」しようと躍起になるわけです。より正確には、「魂の感情に嘘をついた心」は、です。
これは後で詳しく解説。


■人の「魂の感情」は感じ取られる

もう一つ。「魂からの感情」と、魂を放置したような「心の表層の感情」というものがあるわけですが、健全な心は他人のそれを何となく感じ取ることができるようです。

これは「魂は見えない」という話と矛盾することではなく、「魂からの感情」はあくまで「心」に届いて意識体験されているものを言いますので、一応「見える」ものになります。根源の「魂」そのものは見えないままですが。
だから、人が表面では親しみを表していても、その人の魂が感じているのは実は別の感情のようだと、何となく察することもある。

「魂への取り組み第2段階」では、「魂からの感情」と「心の表層の感情」を感じ分ける実践を主な内容と定義したいと思っています。本人がそれを感じ分けることが可能であるように、人が人のそれを感じ分けることも結構可能だということです。僕の相談援助もまさにそれを使うわけです。

かくして、「魂の感情」は、自分の内面の問題としてだけではなく、対人関係において実はかなり実質的な影響を及ぼすメカニズムがあるという考えを採るのが正解なようです。

それについて、メール相談の中でかなり具体的に対人関係の疑問への解説を書いたものがありますので、載せておきます。


魂の治癒成長への実践-3 / しまの
No.1162 2007/01/30(Tue) 16:31:47

一通り書いたら心理学本原稿へ..というか、そのまま心理学本原稿の骨組みドラフトみたいな感じになっていますが、前カキコのような前段説明から引き続き、ハイブリッドの「魂への取り組み」を、実践の段階として考察します。

「段階」であるとは、その順序で、前の段階が後の段階のための準備条件になるということですね。


■魂への取り組み第1段階:自分に向き合うことの価値を知る

先のカキコで「魂との関係性が第一歩」と書いた通り、魂への取り組み第1段階はまず「自分に向き合う」という基本的な姿勢の習得を考えたいと思います。

ま実際ハイブリッドに取り組まれれている方で、変化する人と変化しない人の前提的な違いがここにあったのを感じています。変化しない人というのは、自分に向き合うことができていなかったと思います。
それは多分に、感情の膿による強制的な事柄であり本人の意識努力ではどうしようもない部分もあったと思いますが、「魂と心の分離」という厳然たるメカニズムを理解することで、かなりこの「自分に向き合う」ことの真の意味が分かってくる部分もあるのではないかと。

障害傾向の深刻で厄介なケースで「自分に向き合う」ことができなかったのは、「自分に向き合えることが大切」といった言葉だけだと、どうしても「そうできた自分の姿がどう人の目に映るか」という感覚に再び流れてしまう傾向があったと思います。「人の目に映る自分の姿」というバイアスがかかっているんですね。
まさにそうではなく、自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情がある。それを認め感じ取る姿勢という考え方をするのがいいと思います。

そして、そうして「自分に向き合う」ことが与えてくれる価値を、まず理解するのがいいでしょう。


■「自分で自分を支える」という方向性

「自分に向き合える姿勢」が与えてくれる価値とは、「自分で自分を支える」という方向性になるのではないかと思います。

ただしこれも、この言葉だけを文字通りに受け取ると「自活能力」みたいな話になってしまいますが、そうではないです。
自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情があるとは、それが「魂の感情」だということです。それを受け取ることにおいて、「自分で自分を支える」。つまり、自分の魂を自分で支えるという意味での「自分で自分を支える」です。

これが自分の心や性格や人生への不満足感への取り組みということでちょー重要な話として理解頂きたい心理メカニズムとは、それらの不満足感の原因となる自己嫌悪感情の大きな背景には、「自分自身の成長責任を放棄した自分への嫌悪」があるということです。自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情を放置したまま、「自分にこれがなければ」と外面のことや、「人が」と考えている自分自身への、根底の嫌悪があるということです。
まずはその自己嫌悪感情に向き合うのがいいでしょう。するとそれは消えます。なぜなら、それがまさに自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情だったからです。


それに気づくことはいわば、自分を根本的に変化させる道への、最初の扉を見つけたことに匹敵するでしょう。
ならばその前で立ち止まっているのではなく、扉を開けて、踏み出すことです。

自分の魂を自分で支えるという歩みの最初の指針は、「自己像を他人に依存しない」ということになると思います。自分のことをどう考えるかは、自分によるということです。それが本来できることなのであり、その方向に向かうという意志を持つことです。

というのも、不安定な感情の最大の原因とも言える姿勢が、「自分が自分のことをどう感じたかの責任が他人にある」という姿勢だからです。
相手が自分に対して示した行動や振る舞いの、客観的な妥当性適切性が問題になるのではありません。それによって自分が自分自身について感じたことが、問題になるのです。そして自分が自分について嫌な感情を感じてしまった。それは誰々がそんなことをしたからだ!と怒りが起きます。「自分がこんな気分になってしまった。それは相手のせいだ!」と。そして怒りに取り付かれている自分が、嫌になってしまうのです。


他人が自分に行なったことと、それによって自分が自分自身についてどう感じたかを、分けて考えることです。
なぜ自分は相手の行動振る舞いによって、自分自身について感じることがこうも変わってしまうのか。

まずは、それが、今まで「自分自身でしか受け取ることのできない自分の感情」に向き合うことをせずに、そうした感情の源泉である「魂」を放置していた結果としての現状であることを、理解するのがいいでしょう。自分の中に芯がなく、周囲にあまりにも揺れ動く心の状態になっているのが現状だということです。それを認めることから、自らの魂の成長への歩みがスタートします。

「魂の成長への歩み」を目指す動機づけのために、さらに「魂」の役割について説明しておきましょう。
人間関係における「魂」の役割の話です。それを次に。


魂の治癒成長への実践-2 / しまの
No.1161 2007/01/30(Tue) 00:30:24

■「心への取り組み」から「魂への取り組み」へ

ハイブリッド心理学の実践を改めてスタートラインから説明する感じの言葉を考えてみますと、それはやはり「心への取り組み」として始まります。

自分自身の心についての、あるいは自分の性格についての、そして人生の生き方についての、漠然としたあるいはかなり具体的に差し迫った、不満足感から始まるわけです。
で、まず心の健康と幸福についての基本的な心理学を学んでもらう。怒りの有害性心を解き放つという幸福の考え方、心を病むということ、生き方の思想と、ハイブリッド心理学が推奨する心理学的幸福主義

そうした基本的な理解に立って、具体的な実践を行なう。まずは「心の成長」への実践というのが基本的な考え方になります。「成長」とは、「自ら幸福になる能力の増大」のことを言います。

「感情と行動の分離」をその第一歩にするのは、いいことでしょう。感情は移ろいやすく、不安定なもので、必ずしもそれによって自らを導くに足るものではありません。心理障害という問題があるのであれば、なおさらです。歪んだ感情を克服したいのであれば、まずはそれを鵜呑みにしないことです。
もちろん感情を無視し続けることはできないし、結局我々人間は感情によって生き、感情によって幸福を感じます。
ですから、「感情と行動の分離」とは、感情によって自分を導くのではなく、感情が湧き出る大元を向上改善することで、結果として感情改善につながる。そのような考え方を取ることです。

「感情が湧き出る大元」への取り組みの最初として、「思考法と行動法」がまず焦点にあげられます。「建設的であること」が大きな指針です。「破壊」から「自衛」と「建設」へ。対人関係においては、共通目標共通利益のみに着目する建設的行動法。そしてこの社会をうまく強く生きるための原理原則立脚型行動法

こうした建設的な思考法行動法を学んで頂きたいのは、それが人生をうまく生き心を成長させるための極めて確実で実のある方法であるにもかかわらず、学校や家庭で教えることがまだほとんどないからです。学校や家庭では、今だに、過去の時代に必要であった情緒道徳思考を伝えています。しかしそれによって何を得ることができるのかが不明瞭になった今、人は生き方の指針を失い始めている。
それに代わる「生き方の指針」として、建設的な思考法行動法を採用することができます。まずはそれを学んで欲しい。

ただしそうした建設的思考法行動法も、自分の心や性格そして人生が良くなるための魔法の杖ではありません。「感情と行動の分離」の言葉に戻れば、我々は揺れ動く感情によって自らを導くことはできないにしても、行動への最終的な原動力は何らかの感情の中に求めるしかありません。思考法行動法によっていわば車のハンドルを回すとしても、ガソリンがなければ車は動かないのです。そしてガソリンは、やはり感情です。

建設的な思考法行動法は、すでに良質なガソリンがあるのであれば、すぐに心の成長という目的地へと人を向かわせてくれるでしょう。それは確実に、より豊かな人生とより豊かな人間性を、我々に与えてくれます。今までのどんな道徳思考が教えたものよりも、です。
しかしガソリンが枯渇していたり、不純物が混在した低質のガソリンのままでは、車はうまく走ってくれません。この場合は、なぜガソリンが枯渇してしまったのか、そして一体何が不純物として混入してしまったのかを理解し、良質で豊富なガソリンへと改善向上させる、全く別の取り組みが必要になります。

それが、感情の大元の原動力である「魂」への、ハイブリッドの取り組みということになるわけです。


■「魂との関係性」という第一歩

「魂への取り組み」の第一歩を、「魂との関係性に入る」という言葉で表現しようと思っています。

「魂」とは、我々の感情が湧き出る「源泉体」です。「感情」は「心」で感じることができ、その意味で「見える」と表現するならば、「魂」そのものを見ることはできません。あくまで、「魂」から湧き出たものが「心」に届いて意識に現れたものが、感情なのです。「魂」そのものは、我々の意識が届かない、心の深層にあります。

なぜそのように直接見ることのできない「魂」などというものを考える必要があるのか。
「魂と心のメカニズム理論」が、それを説明するものだったわけです。我々に見える自分自身の思考や感情の範囲が「心」であり、その「心」を持つ「人格」として我々は存在するわけですが、人間においては、どうやら、「心」が日常の生活や「人の目」にあまりに奪われて、自分自身の深い感情を置き去りにした、上っ面なものになる傾向があるらしい。深い感情の源泉体である「魂」と、明晰な意識をつかさどる「心」が、どうやら人間では分離しているらしい。

そうした日常生活を送る「心」にとって、「魂」は何か自分自身の分身のような「別の人格体」が、心の底に眠っている。そんな様子を考えるのが、どうやら正解のようだ。見ることのできない、その「もう一人の自分」にしっかりと向き合うことが、我々自身の心の成長にとって決定的に重要なようだ。
なぜなら、結局のところ行動への原動力となる「感情」は、「魂」が根源なのだから。もう一つの自分であるその根源にしっかりと向き合わねば、良質か低質かという問題はあろうとも、車を動かすためのガソリンが得られない。

そうして「心」が「魂」にしっかりと向き合った時、「魂」も成長を始める
なぜなら、「魂」は「心」との間だけに直接の関係を持ち、「心」に導かれて成長するからです。人間の心において「魂」と「心」が分離し始める、恐らく3、4歳頃から、「魂」は「心」を仲介にして他人に影響を受けながらも、「魂」の成長への直接責任を果たせるのは「心」だけになっていきます。ですから、「心」は自らの「魂」を成長に導くような姿勢を身につけることが大切になってくるのです。


■「自分に向き合える人」と「自分に向き合えない人」

上述のような心の姿勢は、「魂と心」などと考えなくても、実は結構日常の言葉で言い表されてもいます。「自分に向き合う」ということです。
そしてそれができる人とできない人がおり、その違いが、この姿勢を実践する意義を教えてもくれるでしょう。

やはり、「自分に向き合える人」というのは、人間的な深みがあり、芯がしっかりとある、人間的魅力のある人物をイメージさせます。
一方、「自分に向き合えない人」というのは、移り気で頼りない、浅はかな人物をイメージさせます。
そのような「人間性の魅力」を動機とするのはいいことだと思います。

しかし、そこに向かう「自分に向き合う」実践とは、もちろん、「そうできた自分」という結果の姿を自分に当てはめることではないし、「自分に向き合う」だけで何かが良くなるわけでもありません。
先のカキコで書いた通り、目指す目標への方向性に向かう、「過程」として、自分に向き合い、何を見て、どう考えていくかという、より具体的な話が重要になってきます。

そこで、「魂」という考え方をハイブリッドでは使うわけです。「魂」と「心」を分けて捉えることで、内容を具体化する。
眠気のためいまいち言葉がまとまりませんが(^^;)、こんな話を導入部として、より具体的な内容の考察を次から。


魂の治癒成長への実践-1 / しまの
No.1160 2007/01/29(Mon) 14:00:41

「魂の治癒成長論」シリーズでは、最新ハイブリッド理論の主にメカニズム理論面についてざっとキモの部分を押さえてきましたが、あと少し要点をまとめてから、また心理学本原稿の方に作業を移そうかと。

より具体的な実践面についてですね。ということでタイトルも新たに「魂の治癒成長への実践」ということで。


■「心が良くなる」から「自らによる魂の治癒成長」へ

まず、今までも良く出した言葉ですが、「どうなれたかが重要なのではなく、方向性を知りそれを歩むことが重要」

まあそうなのですが、方向性を知って歩むためには、やはりその先でどうなれるのかという、ある程度の目標像がないと方向もつかめないので、それも必要です。
これはもう心理学に限らない、人生の一般則にもなってきます。大きな目標像を描くことが、我々に「希望」という動機を与えてくれます。しかし実際にそれに向かう歩みとは、その目標像と自分を比較評価することではなく、目標に近づくために一歩一歩の変化を歩むという「過程」の方にあります。

「歩む過程」が常にあり続ける「線」となる。目標像と自分を比較評価するのは、まあ適宜すればいいことですが、それはある時点における断面でしかないわけです。
そうした形での「方向性を知りそれを歩む」ことが、ハイブリッドの実践になります。

でこうした「方向性」について今までのハイブリッドでは「心の成長」と言ってきたわけですが、さらにはっきりと、「魂の成長」という目標を掲げることになります。

もちろん「心の成長」というのもあり続けます。でもこれは思考法行動法の改善向上とその習熟だと、今としては範囲を定義できます。
そしてもう一つの領域が、「魂の成長」です。根源的情動の源泉体としての「魂」の成長です。「心」と「魂」をはっきり分けて捉えることが、その具体的内容へのスタートラインになります。
ということで、どちらも漠然と「心が良くなる」ことを期待して何かをするというのではなく、はっきりとした実際内容があることなのだということを強調しておきたいと思います。

「感情の改善」というのが、こうした取り組みを人々が学ぶ基本的な動機になるでしょうが、それについてはハイブリッドとしては2つの取り組みがあるということになります。
「心への取り組み」では、感情はついてはむしろ一切不問とする姿勢を学びます。そして上述のような思考法行動法の改善向上への取り組みを行なう。
「魂への取り組み」において、感情に直接向き合うことになります。

その具体的内容をおおまかに。
短いですがいったんカキコ。


魂の治癒成長論-22 / しまの
No.1159 2007/01/26(Fri) 18:04:31

■「アク抜き」と「アク毒」のメカニズム

上述の敵対攻撃的な復讐衝動において、意識表面上は「精神性の劣った相手への怒り」が前面をおおいますので、本人はこれを傲慢な利己性とは夢にも思いません。
また実際それは文字通りの利己的傲慢ではないでしょう。利己的傲慢というよりは、追い詰められた者が幻想にすがる姿という感じです。ただしこれは大人として対等な立場から見た場合です。

より弱者、典型的には子供が相手になった時、この姿は、おそらくこの本人が幼少期に目にしてやがて憎しみを抱いた粗野傲慢と、まるでそのもののように似た姿になる可能性があります。
粗野傲慢を憎むことで自分が高い精神性の持ち主だという優越感を持った時、まさにその姿が粗野傲慢になる。これはまるで写真のポジとネガの関係を浮かばせます。反対の姿を身にまとったが、それを裏返すと元の姿になる、というように。
それは人が「憎しみ」において犯す過ちでもあるでしょう。憎しみを行動化することで、憎んだ相手の過ちを自分自身が犯すわけです。ここに輪廻があるのを感じます。

「アク抜き」とは、そのように自らが最も激しく嫌悪軽蔑する「皮相化荒廃化の色彩」が、その衝動において消去されるメカニズムです。
時間の都合上(^^;)簡潔に書きますと、これを可能にする心理要因は3つです。
まず感情の膿による追い詰められ感。
次に「辛さ」「苦しみ」の感情です。「辛い者が与えられる権利を持つ」という論理が、利己性をカモフラージュする免罪符になるわけです。
最後に、「自らは望まない」という感覚です。これが決定打となり、自分が特別扱いを要求しているという感情色彩が消去されるようです。

ここには、「自分自身についた嘘」の最終形とでもいえるものがあります。「自らは望まない」という嘘。
魂はこの自分の姿を見ています。そして自らへの激しい嫌悪と軽蔑を抱く。これが「アク毒」になります。嘘をついて利を得ようとする自分自身への軽蔑嫌悪ですね。

こうして説明してきた心理メカニズムは、自動的強制的に起き、抵抗することはできません。他人への怒り衝動の中で、自分の傲慢性を感じ取り反省しようと考えても、そのようにはなりません。怒り以降だけが意識表面に現れます。

問題の解消は、「アク毒の放出」になります。今までの心理過程を通して、「嘘をついて利を得ようとするおぞましい自分」という毒々しい自己嫌悪感情が、遊離されたように蓄積しています。それが放出される体験。これは、自分の望みの根源を探る感情分析と、望むものに積極的に向かう体験の中で起きます。つまり、「自分が望んでいる」という感情の回復と同時に、起きるわけです。
これを、感情の膿と同様、現実を示すものではなく、心理メカニズム現象なのだと認識してやりすごすことが必要です。



■自己嫌悪感情の3大源泉と対処姿勢

スキーに出発の準備などしつつ超かけ足になりますが(^^;)、今までの心理構造を踏まえると、自己嫌悪感情の大きな源泉として3つを指摘できます。
そのそれぞれへの対処姿勢が、「魂の治癒成長論」による最新ハイブリッドの示す方向性大枠になります。

一つは、心が魂の成長責任を放棄したことに対する、魂が心に対して抱く自己嫌悪感情です。
これに対しては、単純明瞭な方向性を言えます。魂の感情を受け取るのは自分自身以外にはないことを認め、その姿勢を取ることです。
そして「神の国」を願った魂の感情を看取り続けることです。この先には「原罪」の感情も控えています。

二つ目に、敵対攻撃性の中で「あるべき姿」から現実を見下す衝動と、未熟な自己の現実です。
これについては、全人格的取り組みとして、自分を現実において豊かにする、現実において生み出す生き方への思考法行動法の転換です。「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」というはっきりした答えがある領域です。
「放たれた野」を生きる、サバイバル世界観が重要になります。

この2つを踏まえると、建設的感情以外は、全て自分の内部で向き合う問題になります。魂の根源的情動以外の、イメージをめぐる感情は、幻想として、心のスクリーンにただ映るものとして反応しない姿勢が大切です。

三つ目が、感情の膿とアク毒です。これは悪感情への耐性を心がけ、心理メカニズム現象として流す姿勢が大切です。
「神の国」と「放たれた野」の2つの世界を同時に見る姿勢が、それを実現する姿勢になります。

建設的感情が見えないうちは、感情分析によってもっぱらこれを通過する、辛い時期が続くかも知れません。しかし一つ目の、「魂との関係性」に入る姿勢が、なによりも着実に、その裏側で未知の感性を芽生えさせてくれるでしょう。それによって二つ目の建設的な生き方も、その実質的な内容を獲得し始めます。

最後はちょー駆け足でしたが、以上が「魂の治癒成長論」の大枠になります。また後日細かい補足などあればUpしていきます。


魂の治癒成長論-21 / しまの
No.1158 2007/01/26(Fri) 15:16:21

またスキーに出かけるので、ちょっと説明の丁寧さは置いといて、書けるものを書いておきます。


■「来歴における不遇」から新たな問題局面へ

「依存性への神格付与」において、魂の成長責任放棄「自己像の他者依存」論理によって取り繕うまでは、まだ問題の全体は問題の置き去りにとどまっていたと言えます。心は「愛されることへの挫折などない自己像」を追うことに駆られるという、真の解決とは異なる方向に向かい始めるというおまけもついた形でですが。

それが、荒廃した魂の敵対攻撃性復讐衝動をエネルギーとして取り込みながら、自ら固執する「神の国」の倫理である「あるべき姿」とは異なるその姿をさらに取り繕うとするに及んで、問題は「来歴における不遇」ではない、別の様相を示し始めるようになると思われます。
それは、人間の心にある罠に自己を明け渡し、自分自身と他人への破壊への本線ともいえる道に足を踏み入れる、自ら生み出す心の悲劇への道です。


■「ひどいことされた!」感情

鍵は、学童期においてすでに始まっていた、「空想による救済」の中でほぼ必然的に生まれる、「精神的優越感」にあります。

この現実的不遇の中で、空想の中で自尊心を満たすことにおいて、実際この子供は、現実的な資質における優劣はケースバイケースであろうとも、まず間違いなく、自分の不遇を生み出した環境に含まれる精神的粗野と残忍さへの軽蔑と憎しみを抱きます。そしてこの軽蔑と憎しみにおいて、自分の精神性の高さを確認し、それに自尊心を感じるようになります。
これ自体はまだ病理性のない、自然な人間心理と言えます。

彼彼女の誤りは、粗野横暴への憎しみによっては、真の優しさを獲得することはできないという知恵について無知であることです。そして「優しい気分」に耽ることが、必ずしも現実的な優しさではないことを知らずに、粗野横暴への憎しみや空想の中での優しい気分を、人に好かれ愛される「優しさ」だと錯覚することです。
その錯覚に立って、思春期要請で発動する強烈な優越欲求を背景に、荒廃した魂から湧き出る敵対攻撃性と復讐衝動の中で、「相手を打ち負かす優越欲求」に駆られることになります。
その内容テーマは、「精神性」です。「優しさ」や「純粋さ」や「誠実さ」そして「心の健康さ」において、他人を激しく軽蔑攻撃する優越衝動に駆られるわけです!

これはあまりに自己矛盾とパラドックスに満ちた状態であり、安定した心理状態としてはあまり成立し得ず、自分の敵対衝動が自己非難自己軽蔑に合うという、不安定な心理状態が基本になります。
これは1/17「魂の治癒成長論-13」ですでに述べた状態です。「依存性への神格付与」の論理転換をまだ経ていない状態であり、治癒成長取り組みとしても、まずこの状態を原点として向き合うことが必要となる、辛い状態です。

これから問題にする病理メカニズムは、この不安定な心理状態をさらに取り繕い、精神性における攻撃的優越衝動を満たすという、特別なメカニズムです。
それがまさに、今まで出てこなかった、心理障害の根源である感情の膿によって与えられます。つまり、感情の膿は、心理障害メカニズムの中で生まれる敵対的復讐心と精神的優越感のために、利用される様相になるわけです。

これは感情の膿に含まれる、「相互理解不能なできそこないの異形な獣」のようなものから向けられる怒りへの恐怖、もしくはそうした「異形なるものを見る目」を自分に向けられたという、「人にあるまじき」という感覚色彩が使われるものです。

そのメカニズムが意識に表出される感情は、実に巷に溢れているもので、心理障害そのものが人間の心のメカニズムであり、程度の差はあれ誰もがその部分を持つということの結果として、この感情が良く観察されるものになるでしょう。
それが、「ひどいことされた!」という感情です。これは閃光のように瞬間的に起きる感情であり、その後に、この感情を説明するかのような、相手が酷いことをして自分がその犠牲になったという具体的構図が描かれるという特徴があります。


■感情の膿をバネにした復讐勝利衝動の3形態

感情の膿敵対攻撃性と復讐衝動に利用される。それが「ひどいことされた!」という感情となって意識に現れるのですが、背景となる感情論理命題の組み合わせにより、これは結構毛色の違う3つの感情形態となるようです。
話がかなり細かくなってきますが、十分な描写よりも、とにかく論理命題の整理の範囲で書いておきます。

1)「悪いのは向こうだ」論理

何かの不和発生状況などで感情の膿が刺激され、「自分を愛さなかった粗野な他人への怒り」と「愛されるに値しなかった自分への否定感情」の拮抗の中で、後者を避けるために前者を強調するような形になります。
「自分が悪い」という血の毛が引くような感覚が一瞬頭をもたげたあと、瞬時にそれを打ち消し、「悪いのは向こうだ!」という怒りが起きます。

これは敵対攻撃性と復讐衝動が比較的浅く、他人への共感が完全には損なわれていない心理状態の中で働くもののようです。「悪いのは自分だ」という感覚も残りつづけている感じになるかと。

2)悪意仕立て上げ衝動

敵対攻撃性と復讐衝動が強く、他人への共感が全般的に損なわれている心理状態で働くもののようです。
感情の膿が刺激されて起きた「人にあるまじき」という感覚を積極的に相手に帰し、それを怒り攻撃します。
これはまず自己軽蔑が刺激されるのですが、自己軽蔑から目をそむけようとする強いストレスの中で、こんな嫌な気分を起こしたのだから、相手はそれに値する、人にあるまじき悪意を自分に向けたということだ」という論理が展開されます。

これが行動にまで表れた時、これがいかに人間関係を破壊し、本人に対する周囲からの嫌悪と不信を買う行動であるかを、本人が自覚していないことが少なくありません。何といっても本人の意識においては自分が被害者なのであり、自分の行動は相手の誤りを教えてあげたことなのだとさえ考えられますから。
しかしこれはしばしば、自分は被害者だと嘘をついて他人を攻撃するという、最も好ましくない人間性の姿になってしまいます。これが頻繁になるケースは、「社会行動障害」という様相を示すようになります。
そして気分が変わると自分の行動を忘れたかのように、人の好意を求め、それが得られないのに対して、再び「人間にあるまじき悪意」が向けられたと怒る。雪だるまが坂を転げ落ちる様相になります。

ごく簡潔に書いておきますと、こうした行動問題が実際にあるケースでは、「治癒成長」プラスアルファの行動学が必要になります。人間関係の修復はむしろ不可能だと受け入れての慎み深い行動を心がけるのが正解です。

3)「自分一人が辛い目」構図

上記2つの混合形です。罠にはめられたかのように、自分一人が周囲から浮き上がり排斥の目に遭うという構図の空想が描かれ、悲嘆衝動と怒りに心が満たされます。
本人はプライドを守ろうと周囲全体に敵対的行動にしばしば流れ、人間関係を破壊し、自責の念も強く残る結果になります。


感情連鎖の流れとしては、大体この辺までを理解すれば十分でしょう。
こうした流れをもたらす心理構造全体を踏まえての話を続けます。


魂の治癒成長論-20 / しまの
No.1157 2007/01/25(Thu) 13:11:44

■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題(続き)

3)精神性による優越と復讐

これまでの論理命題は、「あるべき姿」の完全性によって「神の国」の庇護論理を掲げることによる、未成長なままの依存性と、魂への心の責任放棄を取り繕うものと言えます。

出生における挫折から始まった心理過程において、取り繕うべき大きなものが残されています。それが荒廃した魂から湧き出るようになった、敵対攻撃性復讐心の衝動です。なぜならこの衝動は、「神の国」で「あるべき姿」とされるものとは、ちょっと異なった姿になってくるからです。

ここにもう一つの大きな心理テーマが重なります。自尊心という生涯を通しての心理発達課題における、「優越」という課題の側面です。

既に述べているように、ハイブリッドでは「優越という課題」を、目をそむけることのできない、心のDNA上に設計された宿命であり、全ての可能性と努力を尽くしてそれに向かうしかないのだと考えています。そしてその現実解は、「相手を打ち負かす」という優越にはなく、「調和」さらには「価値の創造」という優越にあると考えています。

一方で、この心理過程においては、必ず「相手を打ち負かす」という優越衝動が発達します。これが敵対攻撃性と復讐心と合体することで、「優越感を求めて相手を打ち負かす衝動」という、およそこの心理過程にある本人の抱く精神性理想とはかけ離れた、利己的粗野傲慢の姿になります。

これが、必ず起きています。そしてこの心理過程にある個人は、この現実に向き合うことができません。心の姿勢として向き合うことができないのではなく、心理メカニズムとして向き合うことができないような防御策として、論理転換が行なわれます。そしてこの防御策としての論理転換が、自他への破壊的関係を生み出します。ここに人間の心の悲劇の歯車の中核があります。
この論理転換を解き、「破壊」という収束された出口に至った個々の根源を、個別に見つめ直し、それぞれにおいて全く異なる真の解決への対処を取り直すことが、ハイブリッドの示す答えになります。


何が起きるのか。人がそれに向き合うことができないメカニズムとは何か。ずばり言うと次のようになります。
つまり、この個人は自らの現実的不遇を背景にして上述のような「優越感のために相手を打ち負かす利己的傲慢」を激しく憎むのですが、その憎しみにおいて自らが「優越感のために相手を打ち負かす利己的傲慢」の衝動を獲得してしまうのです。

流れとしてはこのようになります。
まず、幼少期からの現実的不遇を生み出した、人の心への無理解と粗野と傲慢への怒り憎しみを抱きます。これは基本的人間心理として自然です。
しかし一方では、現実において弱いこの人間は、強さや優越を求める衝動を持っており、上記のようにそれを「相手を打ち負かす破壊力」のことだとイメージします。これも、人間の心理メカニズムがそうなってしまっているのでしょう。
その結果、他人の利己的粗野傲慢を怒り憎しむことにおいて、自分はそれを許さないという観念と、その観念を抱くことにおいて、自分はそのような利己的粗野傲慢とは反対の誠実性と優しさの高い精神性の持ち主であるという優越感を感じるわけです。これは実は、「相手を打ち負かす破壊力」というタイプの優越に属する心理なのです。

この結果は、しばしば、敢えてこの言葉を使ってしまいますが愚かな、パラドックスになります。
これはジョークに使われることもあります。昔見た『東大一直線』という爆笑マンガで、東大くんが人の些細な振る舞いに勝手に激しい屈辱感を抱き、憎しみに燃えるお婆さんの姿に変身して、「心の優しいお婆さんは復讐を誓うのであった」とつぶやく。「優しいお婆さんは復讐しないの!」というつっこみが入ります。

以前相談メールで、「相手を打ち負かす優越は真の優越ではなく調和が真の優越」と伝えたのに対して、「その通りだと思います。相手を打ち負かす優越など愚の骨頂です」と返ってきたことがありました。これも、「愚の骨頂」という極端な言葉に実はどうも「相手を打ち負かす」用語の感が若干感じられたことなどありました。まこれはつっこみ入れませんでしたが^^;

この個人が実際に「利己的優越衝動」を獲得しているのが事実であることは、時に、気分がいい時に自分が目の前の「相手より自分が上」という感覚に満悦感を感じていることに気づき、あわててその感覚を振り払おうとする場面などに表れます。

現実に相手より上の自分を見ての満悦感そのものは、人間の一般心理としてそれほど害のあるものではありません。まあ上述の「真の優越論」からは全然誉められた話でもありませんが。
この心理過程にある個人が時に心から漏れ出したように感じる「相手より上」満悦感にある病理性とは、その「相手より上」が実は現実でなく極めて空想的な内容であることにあります。それはまず、自分が過去に持ったみじめさ感情を相手の中に投影しての「相手より上」満悦感が、典型的なものになります。
『悲しみの彼方への旅』でもそんな一文がありました。「火曜日は、人の心の中にある絶望感が、私の空想の中に映し出されていました。自分は自己を確立する。一方で、多くの他人は自己を見失った絶望的な人間である。あの子の前で、自分は冷静で強い男になる・・。」(P.96)


■「相手の精神的劣等の仕立て上げ」による優越衝動

上述のような優越衝動は、おしなべて、「相手の精神的劣等の仕立て上げ」を使う心理メカニズムだと言えます。
細かく考察すると、これは一般心理メカニズム心理障害メカニズム2種類がありそうです。

まず一般心理メカニズムとしては、自己軽蔑を感じていることを他人の中に発見してそれを軽蔑するというものです。上述の終わりの方で触れた「満悦感」のタイプ。

これについてハイブリッドの一般指針としては、その感情に入れ込むことも利のないことであり、振り払おうとすることも利のないことです。ようは、関りずらう(って言葉ないんだけど語韻がピッタリ♪)だけ無駄です。
重要なのは、他人への軽蔑は、実は同じ軽蔑を感じる事柄が自分自身の中にもあることを示すということを認識し、その克服が自分の課題であることを認識することです。
どう克服するか。自分がそれを現実場面で問われることになるであろう、自らの望みに向かう歩みが、いずれそれを用意します。今そうしようとして意識的にできることではありません。まず方向性を知ることです。
そして実際のその時が訪れた時は、自らの欠点にありのままに向き合い、改善向上できるものはそうする、できない部分は人間の不完全性として受け入れると同時に、望みを得られない悲しみをありのままに痛むという姿勢も必要になるでしょう。
これは1/13「魂の治癒成長論-9」で言った「現実的不遇に対する全人間的な克服努力」という話になってきます。

「全ての軽蔑は自己軽蔑の表れである」。ぜひこれを銘じて頂ければ。

これは感情分析でも取り組むことができます。ごく最近僕が上記銘の言葉を思い浮かべた体験として、「辛い過去を話す時に涙する」人の様子を、「それってまだ克服してないからでは?」と軽蔑というほどでもありませんが感じたことがありました。でもその後、自分でもこんな感情がまだ自分の中にと思えるような、「辛い過去をさらけ出す涙」の感情が自分の中にもあることを知ったことがあります。で僕は自分でその感情をちょっと自己軽蔑気味に抑圧していたわけです。
でそうした感情を自然なものと受け入れると同時に、やはり膿が出て減った部分もあるのでしょう。さらに感情基調の上昇を感じる結果にはなっています。

心理障害メカニズムとしての「相手の精神的劣等の仕立て上げ」を使う優越衝動は、話が込み入り、かなり厄介なものになります。感情の膿が関わってくるからです。
解決も上述のような一般指針ではすまない、特別な治癒現象がプラスアルファで必要になってきます。「アク毒の放出」です。

ちょっと長くなりそうなので、ここでいったカキコし、感情の膿が関わって起きる、この衝動の裏のメカニズムの解説に進みます。


魂の治癒成長論-19 / しまの
No.1156 2007/01/24(Wed) 16:06:23

理論整理ということで、かなり細かい考察が続きます。
最初の心理学本ではこうした全体を踏まえ、平易かつ簡潔直感的な解説にする予定。


■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題(続き)

2)依存性の温存

この心理メカニズムの意識表現は、「あるべき姿であれば世界と他人が全てを与えてくれる」という論理を裏に隠した、映像的空想です。

まこれ自体は、要は、誰でも抱く都合良過ぎ空想(^^;)と同じです。もし自分がこうであれば、誰からも好かれ尊敬されて、異性にモテて仕事もうまく行って..と。
これ自体は、「望みを達成した自己像」という面では、健全な一般心理でもあります。
それが健全な望み達成像である場合は、それが健全な望み達成像である範囲において、この人間が自らその実現に向かって現実的努力をする方向づけの役割を果たします。それに対して他人がどんな目を向けるかは、健全な望みにとって主眼ではありません。

しかし「依存性への神格付与」における「望み達成像」は、ちょっとニュアンスが違います。
そもそも、それは「望み」の実現像ではありません。あくまで「そうあるべき姿」の空想です。さらに、それは自分のことではなく、まず他人のことなのです。人が自分に何をするか、ようはいかに特別な尊重をしてくれるかの、空想像です。
つまり、まるで赤子なみに全てを他人と世界が用意することを求める依存性をそのまま満たすための条件としての、完全性を備えた「あるべき姿」が描かれます。

そしてこの感情の中においては、これが「依存性」だという感覚さえ完全にありません。それが「あるべき姿」なのです。
これは本人の知性の問題ではなく、その感情が最初っからそうゆう感情として湧くのです。それを障害感情としてどう疑えるか。ここに知性の問題が出てきます。


■自己像の他者依存

事実、この「依存性」は赤子が衣食住の世話を必要とするという依存性とは異質なものです。それが、知性でこの感情の不合理性を疑うことが難しくなる原因でしょう。

しかしこれこそが、「依存性への神格付与」という心理障害の核メカニズムにおいて、それをさらに構成する論理命題の中核の歯車であり、完全なる自己撞着自己矛盾のパラドックスにより根本から論理破綻したまま人の心に抱かれる感情論理です。
それが、「自己像の他者依存」です。
自分が自分のことをどう感じられるかを、他人に依存するという感情論理になります。

この話は「2006/04/18自己操縦心性の成り立ち-56:受動型自己アイデンティティと憎悪-4」などでも既にしました。「自己肯定を与え合うという世界」があり、「自己肯定させてくれなかった!」という憎しみがあると。
今まではそれをもっぱら感情分析の取り組みとして、その不合理性をいかに自覚するかしかありませんでしたが、ここではそれを、挫折した魂を置き去りにしてその成長を止めたまま、魂の成長責任を心が引き受けるのを拒否し、自意識が現実を拒否するという、「魂と心の分離」に際して起きた障害が生み出した感情として説明するのが、新しい話になります。

つまり、ここで問題になる「自己像」とは、「愛されることへの挫折などない自分の姿」だということです。これは挫折した魂が復讐衝動として抱くようになった、自己見せつけ衝動が描く自己像です。
これ自体はまだ障害ではなく、人間の本性です。問題は、「心」がそれをどう受け止め、その真の解決にどう導くかを全く知らないまま、真の解決とは全く別の方向に踏み出す歩みになることです。

魂の復讐衝動だけを通り抜けさせながら、心は荒廃した魂を癒し成長へと回復させることを放棄し、未成長の自己の依存性を神の領域にまで格上げする。あるべき姿であれば世界と他人が全てを与えてくれると。
何を与えてくれるのか。自己肯定をです。自分で自分を受け入れている、自分の姿です。自分で自分を受け入れることができず、拒否しているからこそ、この論理が生まれます。完全なるパラドックスです。

これはまずは基本的に、「魂の自立」という思春期課題をし損じたことへの、言い訳であり取り繕いの位置付けになるでしょう。


■自己像錯綜の根底にあるもの

深いところで自己拒否しているからこそ、「あるべき姿」であれば「愛されることへの挫折などない自分の姿」に世界と他人はしてくれるはずだという信念に、すがります。

この感情論理の底にある魂の感情と、この感情論理におおいかぶさって起きる心の動きの構造を理解することが大切です。これは最終的な個人の意識表面において、自己像や自己理想像への意識が完全に錯綜したものになる状況をもたらします。
その結果起きる自己不明状態が、さらにこの個人に自分をまっとうな人格にまとめ上げることへの絶望感を与えてしまいますので、それを解く感情分析が有益になるでしょう。

深層にある魂の感情とは、愛されることへの挫折感と、「愛されることへの挫折などない自分の姿」によって世界を見返そうとする、復讐心です。まずこれが心へと通り抜けるエネルギーになります。
実はそのさらに深層には、まるで捨てられた子犬のようにひもじい思いで、寂しさの中で愛を求める感情があります。これは完全に葬り去られるか、他の感情の連鎖が途切れた中空の時間に時に意識に漏れ出したりします。

一方で、心はこの魂の成長責任を拒否し、「依存性への神格付与」の歯車が回ります。「あるべき姿」であれば、「愛されることへの挫折などない自分の姿」に世界と他人はしてくれる。
この感情論理を自覚しないまま、「あるべき姿」に成り切ることが、意識表面における命題になります。なぜならこれを自覚するとは、「愛されることへの挫折を抱える自分」が実際の自己像であることが明るみに出てしまうからです。
かくして、「あるべき姿」通りか否かに極度に意識のバイアスがかかった状態になります。

これは以前「自己像固執」と呼んだ意識状態の話と同じです。
以前の説明では、これは感情の膿の組み込みによる現実離断で起きる意識状態としましたが、これはこの意識の外枠の説明です。上記説明が、その内容となる感情論理の説明になります。

でそうした「あるべき姿」に自分が一致するかどうかという意識土台の上で、「依存性への神格付与」の深層メカニズムを抱えた結果、意識表面で動く感情は何とも錯綜した、3段階を踏んで深層にフィードバックされるものになります。
まず、比較的外面についての「あるべき姿」に自分がなれているかどうかの意識が働きます。
その結果に応じて、そんな自分に対して人がどんな目を向けるかという空想が起きます。
そして、その向けられた人の目に対して起きる自尊心感情が、「愛されることへの挫折などない自分の姿」を満たすかどうかがが問われます。これは「受動的自己アイデンティティ」と呼んだ心理メカニズムが、ここで働くということです。

つまりここでは、外面的な「あるべき姿」は必ずしも本当の目的ではなく、それをエサに人の目を集め、自分に向けられた目によって湧き起こる「愛される自分」という自己感覚が、実は目的になります。「愛されることへの挫折などない自分の姿」を満たすからです。
ですから外面的な「あるべき姿」が人の目を集めるだけの達成度に行く見込みがないと、逆に「そんなもの気にしない」という意識もアリになってきます。それも「愛されることへの挫折などない自分の姿」の一パターンだからです。


一方で、そうした外面的な自己理想像は、この個人の全人格としてはごく健全な望みだったりする。しかしこの健全な望みの部分は、上記の錯綜に隠されて見えなくなってしまいます。そして大抵、現実的努力を放棄する方に向かってしまうわけです。そして現実がどんどん貧弱化してしまいます。

ここまでは主に美貌や才能など、ごく外面的な自己理想をめぐる心理の流れの話として、まだ比較的穏やかな(?)話です。
それが、「精神性」をめぐる理想像というテーマになっていくにつれて、「依存性への神格付与」を構成する感情論理の、最後の、極めて破壊的な側面が焦点になってきます。

それが、「自己像の他者依存」という歯車を中核として、出生の来歴における挫折を抱えた魂を放置したまま、その荒廃した情動だけをエネルギーにして、世界への復讐と勝利を成そうとする、心理障害が生み出すひとまずの帰結感情を構成します。
魂はそれをじっと見ています。そして深い自己嫌悪感情を抱く。それを取り繕う「アク抜き」のメカニズムと、その結果生み出される「アク毒」のメカニズムへと、話を続けます。


魂の治癒成長論-18 / しまの
No.1155 2007/01/24(Wed) 13:32:48

■心の罠の歯車の最深奥の先にある「選択」へ

「精神性を欠いた無理解と粗暴と残忍さによって、自分をないがしろにした他人」への怒り憤怒。
これが、「魂の治癒成長論-16」のおさらいで書いた「出生における逆境」から始まる、魂と心の分離に際して起きた障害メカニズムの、一抹の終結感情になります。

ここに至り、「あるべき姿とは違う他人への怒り」という、それなりの論理性を持つごく日常的な感情だけが見えるようになります。
だから、たしかにその論理を、さまざまな人生観価値観から問い、この人間に別の思考法を促すことも意味があるかのように思えもします。
しかしそれを人生観価値観の知的な問題としての議論は、何の意味も成さない可能性が高い。それが「出生における逆境」から始まった、魂の成長を損なった深い内面の問題を含んでいる限り。

それは「成長を阻害された魂を前に、心がその成長責任を果たすことを拒否すると同時に、その事態をもたらした世界と人生を激しく怒る」という状況であると、ハイブリッドでは考えます。
そこには、「あるべき姿通りでないものを怒る」という、ごくあたりまえのような道徳感情の是非を議論するよりも遥かに深い問題が、この人間の心に起きてしまっていることを、正しく認識する必要があるということです。

上記描写に暗示される通り、それは2つあります。魂の成長が阻害されたままだということ。そしてこの個人が、自分で自分を成長させることをできなくなっていることです。それを可能にするのは自分自身だけであるにも関わらずです。
これは「あるべき姿通りでないものを怒る」のがいいか悪いかの問題どころではない、甚大な問題が起きているということです。

それが、「精神性を損なった他人への怒り」に、全てを覆い尽くされるような状態になる。問題を置き去りにして一番不利をこうむるのは、その人本人であるにも関わらず。
その感情が流れたあと、この人はそうして自らを成長に向けることのできない自分に、激しい怒りと絶望を感じるかも知れません。
それは同じことなのです。同じものが、他人に向かうか、自分に向かうかの違いでしかありません。実際その違いについて、この心理メカニズムは無頓着だったりします。

何が起きているのか。この歯車の最深奥を理解し、その先にある「選択」を知る必要があります。


■「依存性への神格付与」を生み出す論理命題

こうした「依存性への神格付与」というメカニズムに含まれる論理命題を整理してみましょう。
これは主に3つあるように思われます。

1)「あるべき姿」の完全性

人の心がまずその中に出生する「神の国」の情動世界には、「あるべき姿」があります。人がそうあることで、大きな目に見守られ、愛され、幸せであれる姿です。
それが「正しいか」どうかという議論はあまり意味がありません。実際それは人間の心のDNAに刻まれた理想像でもあるでしょう。

一方で、人間は不完全な存在です。「あるべき姿」には完全にはなれない部分を持つ。
ここに「原罪」という感情テーマが生まれてくるのでしょうし、「不完全性を受け入れる」という、人間の心の奥にある最大の分岐路のようなものがある。

この分岐路に人の心が立つ最大の由来は、自分が与える側に回る時だと感じます。与えられる側にある時、不完全性を怒るという論理は自然ですが、与える側に立った時、人間の不完全性がはっきりと見えます。「あるべき姿通りでないもの」は、「怒るべき悪」ではなく、「人間の弱さ」に変わります。
これが、魂の成長における一つの区切り目を生み出すようです。「無条件の愛」が、その魂から湧き出るようになるという、魂の成長の一つの段階の達成なのでしょう。

なぜ不完全性を受容すると、無条件の愛が湧き出るようになるのか。この論理命題は簡単ですね。不完全性を受容したならば、受け入れられるものとは、「全て」になりますから。無条件です。
これはちょっと寄り道テーマでしたが。

「依存性への神格付与」(書いててもっといい呼び名ないかなーと..)のメカニズムにおいては、「あるべき姿」において「完全性」という論理命題が生まれます。完全無比なる、絶対性の価値です。その絶対価値によって、万人がひれ伏すような姿です。

やや長くなりそうなので、いったんカキコ。
「依存性への神格付与」内の論理命題と、関連事項も一緒に整理していきます。


魂の治癒成長論-17 / しまの
No.1154 2007/01/23(Tue) 14:53:15

■自立論理の消滅という病理

「依存性への神格付与」でもたらされる感情論理の最も強烈な特徴について、まず説明しましょう。
「自立論理の消滅」とも言うべき現象です。「自立」という概念観念にかかわる感情論理がごっそりと消滅していることです。自分で何ができるかを考えた結果それを拒否したのではなく、最初っから「自立」という論理が消滅した論理が展開されることです。

どのような形で自立論理が消滅するかというと、次の特徴になります。
「空想による権利」です。空想によって現実の権利を得るという感情論理です。2側面があることになります。「空想によって」と「現実の」。
前者の論理側面を表現するなら、「高い理想を抱いていることにおいて、世界と他人は自分のために仕えるべきである」。
後者は、「自分が空想の中で成したことに対して、他人は現実の中で応えるべきである」。

自分は他人を思いやった(現実には何もしていない)。それに対して他人は現実で応えるべきである。

これは当然、社会における成人人間の論理としては異常であり、これが実際に社会における義務や権利など明瞭な原理原則に侵入するにつれて、この個人は実際、精神異常の姿を示すようになってしまいます。感情の障害だけではなく、「知的障害」というレベルにまで及んでしまい、ハイブリッドが手を出せる範囲を超えてしまう。


■「特別に尊重された自分」という結果イメージ

「心理障害」は、そこまで及ばないものが範囲です。知性への障害は一応ないはずだし、精神的不安定の重篤度が精神障害より軽いということでしょう。
それでも、心理障害傾向にある個人が、上記感情論理の不合理性異常性を、自分ではあまり実感することができません

というのも、この「空想による特別扱い権利」は、その内容はもっぱら「自分が特別に思いやられ尊重される」という漠然とした情緒的期待が主な内容であり、かつそれを「望み願う」という感情色彩はほとんどないまま、特別に思いやられ尊重された結果イメージだけが先行して描かれるからです。

だから知性があまり疑うための視点もあまりない。そしてそれはあまり感情を伴わない、視覚的映像のイメージです。
現実は大抵それとは違うものです。それを心が捉えた瞬間、直情的な怒りが起きます。感情が実感されるのはこの瞬間からです。


この、「自分が望み願う」という感情が伴わずに、特別に尊重された結果イメージだけが描かれるというのが、「アク抜き」メカニズムの基本になります。
なぜこのメカニズムが働くのか。「自分から望んで」しまうと、マズいことになるからです。これはこのあと説明していきましょう。

いずれにせよ、起きたことの結果は定型的であり、「相手の精神性の低劣さ」への怒り憤怒です。そしてこの時、それが「あるべき姿」を損なった相手への怒りとして、全く妥当な感情だという感覚が前面になるので、「自分が望む」という感情色彩が消去されたアク抜きの裏にある自分の内面問題が全く視界をそらされます。

それはまさに、料理の味付けにおいて、実際にはあるはずの食材の特有の味だけが隠されたかのように、この特別扱い要求の感情の味付けの中で、ある毒々しい色味だけ抜かされたという現象を思わせます。
だから「アク抜き」という呼び名をつけた次第。

引き続き、この裏にあるメカニズムを説明します。


魂の治癒成長論-16 / しまの
No.1153 2007/01/23(Tue) 11:17:26

■おさらい

「依存性への神格付与」という最大核メカニズムを考察するにあたり、今までのおさらい。

まず、「子供への愛」が何らかの形で損なわれた出生環境という、現実的逆境があります。これが全ての始まりであることを認識することが大切です。なぜなら、この後の心理障害メカニズムは、それに対する現実的解決を全く用意してくれないからです。心理障害メカニズムを解く先に、この現実的逆境に向き合い、自己のありのままの姿から再出発する成長が、ハイブリッドの示す道になります。

受け入れ難い現実の中で、感情の膿という火種を心の底に蓄積し始めながら、子供の心は空想の中で救済されます。
この「空想による救済」という心の機能が、この後の、人間の心に仕組まれた真の悲劇への序奏ともなります。「魂の自立」が要請される思春期を迎えるにあたり、空想の中で育った「自意識」が、現実を拒絶するのです。

この「人格成立の危機」とも言うべき状況を取り繕うために、自己操縦心性はまず心に対して3つの嘘をつきます。膿の否定魂の否定成長の否定です。
一方で、魂は出生における挫折を抱えたまま、魂の挫折は心が受け取ることなく、荒廃した魂の感情だけが心へと通り抜けるようになります。この「魂の荒廃化」として、まず敵対攻撃性復讐心を説明しました。魂の復讐心は、「あるべき姿」を掲げる敵対攻撃性と、「愛される挫折のない姿の見せつけ衝動」が特徴です。

で「魂の荒廃化」の3要素最後として「依存性への神格付与」を説明し始めたのですが、ちょっと整理修正しようと思います。
これは魂の内部で起きる荒廃化ではないです。取り上げている人格のほころび状況全体に対する、起死回生的かつ決定的取り繕いになる。
先のカキコでは「依存性への神格付与」の定義として、「自分が空想において高い理想を抱いていることにおいて、世界と他人が自分のその空想を実現するために責任を負うべきだという感情論理」と書きました。

「空想」が要となる。つまり自己操縦心性の核機能そのものがこのメカニズムの中核となります。それにより、「魂」と「心」つまり「自意識」が求めるもの全てを、極めて強力な感情論理の中に収束させるものになります。
それは単純に言えばこのようなものになるでしょう。
私は空想の中でこれが「あるべき姿」だと感じる。だから現実はそうあるべきなのだ、と。

そしてそうではない現実に対して、怒りを抱くことになります。
これは「あるべき姿から現実を怒る」という、もはやあまりにも一般的な現代人心理そのものです。
それが実は、ここで説明しているような心理障害メカニズムである。それがハイブリッドの考えです。

その、あまりに一般的な感情論理にまつわる心理要素を整理して、それとは全く別世界の成長への道をはっきりと定義したいと思います。

短いですがいったんここでカキコしときましょう。


魂の治癒成長論-15 / しまの
No.1152 2007/01/18(Thu) 00:01:02

■「魂の荒廃性」の3要素(続き)

挫折した魂を持て余し、自己操縦心性が心についた3つの嘘、「膿の否定」「魂の否定」「成長の否定」。
やがて荒廃した魂から心へと通り抜ける、敵対攻撃性と、「あるべき姿」を掲げながら「愛される挫折のない姿」を見せつける復讐心

こうして狂い始めた心の歯車の結果は、逆境からの救済というそもそもの目的から自己操縦心性が目論んだこととは、まるで逆の、はなはだ望ましくない姿になるように思われます。
それは、人生を生きるための実質的な成長を何も遂げておらず、無力で、恐怖に怯えながらそれを否定し、自分からは決して愛さないことを決め込みながら、愛される姿を貪欲に求めるというものに陥ります。

そもそも自己操縦心性が用意した「空想による救済」は、あくまで一時的回避策であったはずです。不完全な存在である人間の心は、そのことを知らないまま、自分の心に湧き出る感情が人間の本性なのであり、自己操縦心性が映した感情論理が、世界の論理なのだと、狂った歯車のまま人生を駆け抜けようとし始めます。
事実その時、自己操縦心性が用意した「空想による救済」において、そして上述のような「現実の姿」において、もはやこの個人の心は自己の現実を直視することは到底できない状態に、なっているのでしょう。

それでも、その逸れ始めた道の延長で生き続けるとしたら。
それはもう、破滅への運命が時間の問題となったような狂った歯車を、さらに決定的にこの人間の人格の中核に据えようとする、悪あがきの様相になるのかも知れません。

何ともおどろおどろしい表現かも知れませんが、それが人間の心のメカニズムとして、程度の差こそあれ誰の心にも忍び込む心の闇であり、このストレス社会と呼ばれる現代において人々の心に広がりつつあり、明らかに今社会が「心の危機」を抱えている、その根源であると、ハイブリッドは考えるわけです。

それが、余りにもはなはだしいさまざまな不具合を一挙に片をつけようとするかのように、自己操縦心性が、今度は魂に対してついた嘘になると、考えています。
そしてこれが「魂の荒廃化」を魂自身に直視するのが困難なほど悪質なものに改悪し、「アク抜き」「アク毒」という人格根底に抱えた爆弾のような悪感情の塊を生み出す、人間の心の病理の核となるメカニズムになります。

一方で、人間の心は、そのメカニズムをさらに凌駕した、魂の浄化と成長への回復のメカニズムも、心のDNAの上に配置したようです。それは「知って」進むことのできる道ではなく、命をかけて自己の真実へと向かった時初めて現れる、全ての心理要素が収斂してはじける、プラズマの世界を思わせるようなメカニズムです。
それを人間は自ら見出すか。これは神が人間に与えた試練なのだ。そんな言葉が浮かびます。いやー大げさですね〜と言いながらマジに^^;


3)依存性への神格付与

こうして起き始めた歯車の狂い、「膿の否定」も「魂の否定」も「成長の否定」も「敵対攻撃性」も「復讐心」も、実はまだ「正常な心理」なのかも知れません。
心性発動メカニズムの最後に打たれた次の歯車が、決定的な「異常な心理」になります。そしてその感情に支配された時、本人はその異常性を自覚できなくなる。人間の心のメカニズムに最初から組み込まれている狂った歯車であり、それが回転の度合いを強めるにつれて、人の心は「正常心理」から「心理障害」そして「精神障害」へとストレートに悪化する。人間の心の病理の根本核が、次のメカニズムです。
何か似た前振り言葉を何度も繰り返している気がしますが。アハ^^;

それが、「依存性への神格付与」です。
これは、自分が空想において高い理想を抱いていること、自分が良いと感じているものを自分が持つと感じることにおいて、世界と他人が自分のその空想を実現するために責任を負うべきだという感情論理です。
これは基本的に、自らは無力で全てを親にお膳立てしてもらうという赤子の依存性が、「あるべき姿」を抱くことが絶対なる価値を持ち、世界と他人がその価値の下に従属する存在となる、という神格化を獲得する構図の幻想的感覚です。

本人はこれを「依存性」とはあまり感じません。ただ「それがあるべき姿」だと感じます。そしてその通りでない他人と世界を怒ります。

これを「自己中心的依存性」と言うのは皮相です。これは人格崩壊を防ぐための、最後の「自分自身についた嘘」なのです。

この裏で一体何が起きているのかを正確に理解し、この病理メカニズムに頼ることなく魂を治癒と成長へと方向転換させる、DNAに用意された解決へのメカニズムを探る考察を続けます。


魂の治癒成長論-14 / しまの
No.1151 2007/01/17(Wed) 16:58:57

正真正銘、次のカキコがハイブリッド最新の「魂の治癒成長論」の最大核になりますが、その前に「魂の治癒成長論」からの明確な答えを説明し始めておきましょう。


■最大の答えは「魂の関係性」にある

さて、先ほどのカキコで最後の方では、人間の心が抱えた業とでも言える歯車の狂いによって生まれる心の混乱というのに至りました。

これが、「神の国」に生まれ、大きな目に守られて幸せであるはずだった自分がそうではなかったという、「魂の挫折」という最初のつまずきがもたらす、不可避必然な結果と言えるでしょう。
これは不可避です。それが人間の心の業というものです。こうした感情メカニズムに逆らおうとしても、無理ですし、ひいてはそれが自己否定の轍をさらに回すあがきになるのでしょう。

この後の最大の歯車を説明する前に、「魂の治癒成長論」からの明確な答えを説明し始めておきましょう。
答えは、「外面に向かう姿勢」と「魂に向かう姿勢」の峻別、そして「魂の関係性」の回復にあります。

最も大きく俯瞰すると、挫折した魂を抱えながら心が分離していくに際して、自己操縦心性は、「魂の挫折を認めまいとする心」を生み出します。自分の心の底に挫折した魂があるなんてことはないと心に否定させようとする圧力。それが自己操縦心性の正体です。
そうして、魂は挫折を抱えたまま、心はそれを癒すこともなく放置し、それによってさらに魂が荒れる叫びを、他人が責任を持つべき問題だと外界に帰するという構図が、心理障害の膨張土壌です。

人間の心には、それを逆の治癒成長へと向きを変える機能があります。これは魂と心が分離することで生み出された、さらなる高度な心の機能ということになるでしょう。それによって、人間以前の動物がもっぱら荒廃した心の回復を外部に依存するのに対して、人間は自らによって魂の浄化回復と成長へと自己を導くことの可能な存在へと進化させたのだと、僕は考えています。

それが、「魂と心の関係性を持つ」という姿勢です。心の根源からの感情は、「心」が受け取る。他人にはパススルーしない
「心」はそのように魂への、魂だけとの内向きの関係を持つ一方で、外界に対しては全く異なる思考法行動法で対処します。サバイバル世界における建設的行動法と原理原則立脚型行動法が推奨するものになります。

魂が生きることを願った「神の国」への思いを、受け入れることです。その願いがある限り、それを感じ続けることです。これが「看取る」ということです。これは一切の他人の目を意識して行なうことではありません
そうして魂を守りながら、「心」は対外窓口としての強さを目指す必要があります。魂から分離した「心」は、すべてが対等なサバイバル世界に生きるようになります。それを相手に、魂の感情との間の調整役になる必要があります。つまり、「心」は「魂」と「現実世界」との、ネゴシエーターの役割を担うのです。
やがてこの役目を終え、身体が朽ちた時、心と魂は再び一体のものになり、「神の国」へと還っていくのでしょう。


この姿勢を取る鍵は、「人の目」を一切排して、自分の内面感情に向き合うことです。とくに、自分の感情がどんな見栄えのものかと、「人の目」に映るようなものとして、自分の内面を見る自分自身の目を捨てることです。
これはハイブリッドをそもそも何のために取り組むのかの話にも言えます。人に見られる自分ということで「見栄えのいい心を作る」ために内面に取り組むとしたら、それは上記の障害構図を意味します。
そうではなく、「人の目」とは無関係な問題として、自らの魂の荒廃に向き合い直し、魂の浄化と成長を、「人の目」とは無関係な「魂と心だけの対話」によって導くことを、はっきりとこの取り組みの目的にする。それによって初めて、「内面の取り組み」になります。

つまり、ハイブリッドの取り組みは、全く異なる2面から成ります。

「心への取り組み」は、外界と人に対処するための「心」を向上させる取り組みです。これは内面感情を問わない、建設的な思考法行動法だけがありです。
「魂への取り組み」は、そうした建設的な思考法行動法を妨げるものが内面にあると感じる場合、それに進むのがいい取り組みです。これは明瞭に、自らの「挫折した魂」に取り組み、魂を浄化と成長へと導くことがその内容です。これは「人の目」とは一切無関係に行ないます。基本的にこれは悪感情に向き合い直すことが内容になります。

こうして見ると、ハイブリッドには「感情を良いものにしようと」直接試みることは皆無だということが分かると思います。
感情には一切直接手をつけません。感情が湧き出る大元だけに取り組む。それがハイブリッドです。


頭に浮かぶ説明をとにかく書きなぐりましたが、ちょっと抽象的で分かり難いかも知れませんね。
この後説明する最大の障害歯車など踏まえながら、より直感的に理解頂けるよう整理して行きたいと思います。


魂の治癒成長論-13 / しまの
No.1150 2007/01/17(Wed) 14:08:02

■「自分自身についた嘘」と「魂の荒廃性」

自己操縦心性のフィルターを通過して心が受け取る、挫折した魂のすさんだ衝動。

その第1の要素「敵対攻撃性」でした。これは単独純粋、つまり何もなくてもその衝動が湧くようになるという、その個人の人間性そのものの荒廃化として捉えられるものです。
もしそれが本性として根付いてしまったのであれば、それはもう変更つまり浄化は不可能という命題も浮かんできます。

ただしそう悲観的になる必要もないかも知れません。
敵対攻撃性の多くは、次の「復讐心」として湧き出ている部分が大きいからです。これは本人自身は敵対攻撃衝動を単独純粋な自己操縦心性の欲求と感じる場合においてもです。
それが実はそうではなく、深い復讐心、つまり自分が受けた迫害への報復として生まれた衝動であったことが判明する事態がある。純粋な欲求ではなく、です。

この「破壊欲求が実は報復衝動だったことが判明する事態」とは感情分析であったり、この人間が死を前にして初めてありありと自覚することであったりします。
この辺の「暴露過程」の話はここでは省略しますが、鍵を一言でいうと、「生と死に向き合う」ことの「現実性刺激」が、「自分自身についた嘘」を暴くという形になります。感情分析も、その真剣味を仮想的に自ら持つことで進むと言えるでしょう。
「2006/08/28 魂の成長の成り立ち-39:魂が求めるものへ-16」などこの話について書いています。

こうした、疑いようもなかった自分の感情が偽物だったことが露わになる出来事は、「自分自身についた嘘」というメカニズムの役割の大きさを感じさせます。
その核と言うべきものに、以下次第に近づいていきます。


■「魂の荒廃性」の3要素(続き)

2)復讐心

「復讐心」とは、復讐衝動が情動の基本的背景として機能し続ける状態です。

魂の挫折を根源とする復讐心は、健全な(?)一般心理としての復讐衝動とは違う、特有の内容を持ちます。
一般心理としての復讐衝動とは、典型的なものは親兄弟を殺された仇を討つという話などです。
まあこの行動の妥当性を議論するのは今回やめときましょう。ここで言えるその特徴とは、「自分が悪意によって積極的にこうむった被害」への仕返しという性質があります。

一方、魂の挫折を根源とする復讐心は、基本は「自分を愛するべき者が自分を愛さなかった」ことへの復讐です。
この「仕返し」は、「厳密な論理」においては、ややそのままでは形を取りにくい感があります。仕返しとして、「自分も愛さない」。実はこれが事実であり、これが重い意味を持つのかも知れません。
なぜなら、この人間は、基本的に「愛する」ことを自ら遮断するということが、ここで基本的に起きているのかも知れないということでです。

愛することをやめるとは、命を捨てる、人生を捨てるに等しいことのように、今の僕としては感じます。
この後のメカニズム連鎖は、いったんこの事を置いといて、障害感情の独特な論理のさまざまな展開を見て行きます。でも実は、もう「自分からは愛さない」という「復讐心」によって、この後の全ての感情が「自滅」を基本目的にしたものになるのではないか。つまり自分を愛すべき者の前で、自分を破壊する。これがもうこの時点で、全ての根源的衝動として生まれているのではないか。

今書いていて浮かんだ考えとして、それを記しておきましょう。


さて「自分からは愛さない」という基本形ではどうもあまり形を成さない感のある、「魂の復讐心」は、次の2つの独特な心理傾向として、その形を取ろうとするように思われます。

一つは、「あるべき姿」という観念傾向への、攻撃的信念による執着です。
もったいぶった言い回しかと思いますが、ようは、そもそも「あるべき姿」というものをイメージする意識状態を、ハイブリッドではあまり健全で自然な状態ではないと考えています。「そうだと望ましい姿」であれば健全です。だが「あるべき姿」は、一種の論理破綻を起こしています。

「あるべき」とは何か。誰かが望んだということか。もちろんそれを言う人間が望んでいます。
しかし本人はそれを「自分の望み」とは感じません。あくまで「あるべき」ことなのです。
これは恐らく、「望み」として感じることができない状態にあると思われます。なぜなら、望みを感じると、同時に感情の膿を体験しなければならないからです。

いずれにせよ、心理障害傾向の中で必ず出てくる「べき」の執着性は、果たされなかった「神の国」への願いを、復讐と攻撃の盾として掲げようとする心の動きを思わせます。
「神の国」で、「あるべき姿」の中で守られ幸福であるはずだった自分。そうではなかった悔しさを、「あるべき姿」をうとんじた軽薄な外界の人間どもにぶつけるわけです。自己操縦心性のついた「成長の否定」と手を組んで。
「あるべき姿」、それが「神の国」のおきてだったはずだ!と。

「魂の復讐心」の心理傾向の2つ目は、「挫折などしていない姿の見せつけ」衝動です。
これは「愛されなかったことの仕返し」という、あまり積極的な形を取りえない内容が、この「魂の挫折」を抱えた心に実に特有の屈折した「望み」の感情を生み出します。これは「深い望みが断たれた代わりに表面的に満たされたかの姿を求める」という「皮相化」が作用した結果としての、「愛される姿」という基本的に皮相化した愛情要求になります。
これは「挫折否定愛情要求」とでも呼べるでしょう。

本人がこれをどれだけ明瞭に意識するかはまちまちです。飢餓的にそれを感じるケースもあるし、ほとんど感じないケースもある。それでもはっきりいえるのは、とにかく「愛されることに挫折などしていない」という風を装う自己理想化像があることです。別の表現をすれば、「ごく普通でいられること」に、魂の挫折を否定することに成功するかどうかの問題として、法外な意識が向けられることにしばしばなりそうです。
それを、飢餓的に求めるか、それとも、実際そうであってそれで問題ないのだと「気にしない」態度を身にまとうか、どっちかになります。

この衝動が残存愛情要求の発生メカニズムかと一瞬浮かびましたが、そうではないでしょう。
逆に、この「愛されることに挫折などしていない姿の見せつけ」衝動は、やはり魂が抱く、より根源的感情である残存愛情要求を否定し抑圧しようとします。残存愛情要求とは、その根幹においては、はっきりと、愛されることに挫折した辛さをさらけ出して愛を求める、より純粋な感情です。


この、残存愛情要求と挫折否定愛情要求の衝突と混合状況は、実に多様な人間像のバラエティを生みます。これもあまりに細かくなりますので、ここでは省略しましょう。
ここで知っておいて頂きたいこととして重要なのは、こうした結果、「愛」は救いとして求められると同時に、敵対攻撃衝動の中で「あるべき姿」として掲げられるものになると同時に、復讐衝動にとっての戦利品という貪欲性を帯びることです。
これら全てが、互いに妨害しあい、奪われたものへの衝動を強化し合い、再び妨害し合います。本人はこの内面つながりをほとんど体験できません。とにかく全てが他人と人生の悪意によって壊されていくと感じるだけです。


それが、一般の他人から見れば何のことはない、「ごく普通にできること」をめぐって、嵐のように荒れ狂ったりします。

個人の心に最後に現れるのは、ただ、「混乱」の一言でしょう。恐らくこれも「死」だけが唯一の解決出口だと囁くものになります。
この状況でハイブリッドから言えるのはただ一つ、「自己に向き合え」ということです。全ての他人の目をリセットして、内面に向き合う静かな時間と空間を確保してです。


そして自己に向き合い、問うべき最大のテーマが、次の話になります。
「魂の荒廃化」の第3の要素であり、かつ自己操縦心性が今度は魂についた嘘であり、心理障害の病理の根幹核になる、「依存性への神格付与」です。


魂の治癒成長論-10 / しまの
No.1146 2007/01/13(Sat) 22:00:44

毎度のことですが、ごくサマリーだけ載せようと書き始めても、結構じっくり考察カキコになりますね^^;
まあやはり理論整理が頭の中で一巡した後でないと、心理学本向けの平易な文章は書けないので。


■自己操縦心性が行なう3つの嘘

空想の世界で救われていた「自意識」が、思春期要請の一つである「人格統合への要請」を前に、「現実」と「魂の成長への責任」の受け取りを拒否する。同時に、感情の膿からの防御を図る必要がある。
自己操縦心性は、このとんでもない事態に対して、それでも何とか「人格」として成り立つ状態を生み出すために、救済のメカニズムを発動させます。

それは、「自分自身についた嘘」です。
これは魂から分離した明晰意識を内容とする「心」を作り出す過程において、「自己操縦心性が『心』についた嘘」です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpgのような構図において。

自己操縦心性が「心に」ついた嘘であって、「心が」ついた嘘ではありません。もちろん本人が意識的意図的に嘘をつくのではありません。
自分自身への嘘によって出来た枠の中で、心が動くのです。

この「嘘」とは存在する何かを否定するという嘘であり、3つの否定があります。

1)感情の膿の否定

これは今までの説明通り、最も人格の外枠として起きます。この結果、現実を全般的に遠ざける「現実離断」という実に奇妙独特な意識状態が生まれます。ようは「現実感」が減少した意識土台です。
今までの解説ではこの外枠説明だけで終わり、内側の内容がどうなるかのメカニズムまでは説明できていませんでした。
以下がそれを説明するものになります。

2)魂の否定

引き受け難い「魂」なんてものがあることそのものを否定します。
これは主に2つの形態があるように感じています。一つは、魂の全体を厚く覆い隠すことです。まるで厚いコンクリートで埋めるように。
もう一つは、魂が湧き出させる濃い情動の中の、受け入れ難い部分だけを切り捨て隠します。これが「抑圧」の基本形態の一つということになるでしょう。「抑圧」の全てがこれではありません。

この2つの形態の配分状況によって、表面に現れる人間像のバラエティというものが生まれてくるように思います。ただこの詳細は、あまりに枝葉末節の話になってきますので省略。

ここで理解しておくべき事柄としては、このように魂を否定するとしても、魂が濃い情動の源泉という構図は変わりようがなく、心に湧き出る強い衝動の源泉として働き続けます。
しかし魂の成長責任を心が引き受け拒否した大きな溝を間に置く形になり、伝わる衝動はかなりのフィルターを通した後のものだけであり、内容もかなり変形したものになるということです。


その変形内容を決定づけるベクトルが、次の否定によって生まれてきます。

3)「成長」という命題の否定

これが心理障害の中で起きる自動感情の論理を決定づけるものになります。画期的説明ですねー^^;

それはまさに、魂の成長責任の放棄という、大きな仕損じに対する、自らへの、つまり「心」への、言い訳であり、「自分自信についた嘘」になるでしょう。
それが「成長の否定」です。「成長」という課題、命題の存在そのものを、否定するわけです。
その代わりに、人間に存在する課題命題とは、「あるべき姿」にどう一致するか否かだけなのだと、「心」に伝えます。
「成長」など絵空ごとである。結果の「姿」だけが全てなのだ。一致すればOK、少しでもずれればNG。それだけなのだ。


■心理障害そして精神障害の「病理」の核

恐るべきことは、この「嘘」、まあこの段階ではまだ「嘘」というよりは「一面に偏った論理」であり、「嘘」の様相が深刻になってくるのはこの後の「付随論理」の方なのですが、この「嘘」を「心」に対してつくというのが、思考のレベルではなく、感性のレベルで、さらには視覚聴覚といった身体感覚のレベルでのメカニズムだということです。

その結果、「心」はこれを疑うことができません。我々は感性や感覚を通して世界や他人を見るしかないので、世界や他人がそのようなもの、つまり「あるべき姿」への一致か否かによってその感情を反転させる目を自分に向けている存在だとしか、見えないのです!


明らかにこれこそが、心理障害そして精神障害の「病理」の核メカニズムです。
心理障害では、「感性」が侵されるレベルにとどまります。つまり、「他人が抱く感情」の空想が、現実を覆います。
精神障害では、視覚聴覚のレベルで侵されます。「他人が抱く感情」の空想が、視覚聴覚となって誤体験されます。

実際、この話だけがハイブリッドの中で唯一、我々が「病気」として抱える症状であることを肝に銘じて、理性を保たねばならないと時に書いている話です。
この点に関して知性が侵されるほど、ハイブリッドのような自己取り組み実質的限界が生まれることになります。

これはどんなに軽い心理障害の中でも、動くときには同じメカニズムで動きます。当然、現代人の日常心理の中に入り込むほどの強力なメカニズムと言えるでしょう。

他人の感情のイメージは、現実ではない、ということですね。
イメージした他人の感情と、実際のその人の感情が同じものだったかどうかという問題は、二番手の問題に過ぎません。イメージした他人の感情に反応して感情が湧き出るということにおいて、「現実を生きる」意識土台とは全く異なる、「自分への嘘の中で動く心」という、「空想を生きる」意識土台にあることが、一番の問題です。

実際相手の感情がイメージと同じだったか違ったかは、まあケース・バイ・ケースです。僕自身の過去のとんでもない空想傾向など例として紹介してもいいのですが、長くなりすぎるので省略しましょう。

そして問題は、人の感情がイメージと現実で食い違うといったことよりも遥かに込み入った、連鎖的な問題が人格内部で次々に起きることです。人の感情のイメージが現実とは食い違うのは、むしろこの連鎖メカニズムが外化されるからです。

連鎖的に起きる事柄の話をしましょう。
特に「自己嫌悪」のメカニズムが、快刀乱麻のように(^^;)はっきりしてきます。


 
重要なつけたし / しまの
No.1149 2007/01/15(Mon) 12:02:28

ここでの「自己操縦心性が心につく3つの嘘」は、「この後の連鎖メカニズムが重大」という感じで書いたように、心理障害傾向の中で動く不合理な感情への、まずは最初の負の地ならしをすることになります。
障害感情が悪化する要因は、この後の「魂の荒廃化」が重大なものになり、魂と心でそれぞれ起きる動きが相乗的に膨張する様相を示すようになります。

そうした障害側面の一方で、もう一つの重大な帰結が、この最初の負の地ならし、その中でも特に「成長の否定」によって生み出されることを指摘しておきます。

それは、この個人の心が「経験から学ぶ」ことを全く知らなくなることです。これは実質的に、心の成長を全面的に閉ざすということになります。

とこれを書くのも、朝TVのワイドニュースで流れていた「父親力診断」なんて話で、子供にどう答えるかの設問などしており、「友人に貸した500が返ってこないという息子」「カラオケに誘われなかったことを嘆く娘」にどう答えるかと、4つの選択肢から選ぶもの。
で僕から見たら、「全部全然ダメ」。なんでかというと、全部「あるべき姿でなかったことへの言い訳」なんですね。その経験から何かを学ばせるという視点のものが、全くない
でその後には、参加者10人ほどの「正解数」が発表され、父親たちの神妙な表情が映される。一方で、この設問をした誰か知らないけど偉い先生が、その中のどれかが「正解」だと、尊大な表情で見下ろしている。はっきり言って、呆れましたねー。

これが現代日本の親の姿なんですね。恐るべし^^;

ま参考まで僕が上記設問にならどう答えるかというと、息子には500円返してもらうための戦略を一緒に考えることであり、にはかなりじっくり取り組むべき問題として、友情とか親愛というものについて、どう感じ考えているのかを話し合うものになるでしょう。何か外面の形に捉われて、重要なことを見失っていないかと。それはおまえが本当に何をしたいと感じているかだと。

「経験から学ぶ」とは、基本的に、「失敗から学ぶ」ということです。
だから失敗に価値が出てくるんです。「あるべき通りでない姿に出会う」ことが、逆に価値をもつようになるんです。
それを役立てるのが、「成長」の基本なんです。


この姿勢を心底から習得した人間には、実際のところ「あるべき姿でない現実」に出会ってもあまりマイナス感情は起きませんし、実際毎日の生活が基本的にプラスの感情でおおわれることになります。ほぼ恒久的にです。


魂の治癒成長論-12 / しまの
No.1148 2007/01/14(Sun) 22:37:20

しかし、納豆がない〜!^^; いつものジャスコでは大きな棚がからっぽで、近所のセブンイレブンに寄ったらあった^^;
TVで放映されたダイエット効果の影響らしいけど、いつも食べてる側からはなんか迷惑な感じー^^;


さて、ごくメカニズム論に戻り、「魂の荒廃化」「浄化」そして「原罪」を構成する心理要素など概観します。同時に、克服への方向性についても考え始めましょう。


■魂の荒廃性の3要素

膿を否定し、魂を否定し、成長を否定した自己操縦心性は、まず、「人生の命題とはあるべき姿に一致するか否かだけなのだ」という感情論理を、「心」の基本回路として組み込みます。

一方、濃い情動の源泉としての魂を完全に捨て去ることまではしません。なぜなら、あくまで、これから生きる人格を何とか作り上げるのが目的なのですから。
そうして、自己操縦心性が心についた嘘に乗るような形で、魂がその根源的情動をほとばしらせるようになる姿を、「魂の荒廃化」と定義することができます。

そうして魂が「獲得」する「荒廃性」には、およそ3要素があるようです。

この3要素は、次に述べる順において、後ろのものほど人間性を病的に損なう一方、解くことが比較的容易な性質があり、逆に、前のものほど、人間性への歪みは少ない一方解くことが難しいものになるようです。
厄介なのは、この3要素が合成された結果が、個人の意識表面の感情になるということです。この結果は悲劇的な感があります。ざっと見てみましょう。

1)敵対攻撃衝動の獲得

他人を基本的に「敵」と感じる感覚と、破壊攻撃衝動が獲得されます。これはかなり単独かつ「純粋」な、この個人の人間性の変化になるようです。この破壊性衝動が抑圧されないまま発達すると、最も典型的な人間像としては、快楽殺人者になります。

いきなり物騒な(^^;)話を出しましたが、実はこれはかなり一般的心理メカニズムとして、人との間で体験される嫌悪感そして被嫌悪感の伏線になるものであり、純粋に意識化された場合はそうした障害感情の解決がむしろかなり見通せるようになる話として、その深刻さと同時に十分な解決への可能性を明記のうえお伝えしておきたい話です。

というのも、僕が自分の日記を読み返していて、2002年のゼロ線の通過および人生見出し体験の、なんと後になってさえ、これがはっきり見えてきている状況があるほど、これは容易に、背景化して本人が気づかない部分が、人との嫌悪感と被嫌悪感に化けるメカニズムがあるということです。

意識化されるのがどんな時点であろうと、これに対するアプローチは同じで、「解く」という性質のものではありません
そうではなく、全人間的存在としての、この個人の価値観の問題になってきます。

破壊し打ち負かす快感に、どれだけの価値があるのか。それ以外に自分が持ちえる価値と、公平に比較し、選択するのがいいでしょう。心底から破壊に快感を感じ、それ以外の価値はそれに劣ると感じるのであれば、それで仕方のないことです。後はその衝動を行動化したらどうなるかという現実を見据え、自己責任の上で行動を選択するしかない。

一方でこの衝動は、確実に「愛」を破壊します。そしてこの心理過程にある個人は、同時に愛情への飢餓的な要求を抱えており、愛を求めることは同時に愛が破壊される結果を味わうことであり、そしてこの2つが自分の内部でつながっていることを自覚しません。
分析を通して、そうした内部でのつながりを意識化した上で、敵対攻撃衝動の価値を問うことが必要です。


ただそう問えるのは、心がかなり成長した後ということになりそうです。どう成長した後かというと、この後の残りの2要素を解いた後ということです。それだけ、破壊攻撃衝動が根っからのものかどうかは、かなりの分析を経ないと見えないということですね。

魂が獲得したこの敵対攻撃性は、今まで言ったハイブリッド理論の中では、「否定型価値感覚」の基本的源泉になります。これが強度を増すにつれて「破壊型理想」の破壊性も当然増します。
これが、この心理過程にある個人の進路を、基本的に困難なものにしてしまいます。なぜなら、「自意識が現実を拒否する」というこの心理過程の基本構図においては、敵対攻撃性は外界の他人はもとより、誰よりも自分自身に対して向かうからです。

そしてこの個人の抱く理想像が精神性や人間性の高さや親愛性にある時、その理想を高く掲げるところの敵対攻撃性がまさに、自ら掲げた理想から敵対的に攻撃されるという、究極的とも言える自己撞着的パラドックスの中での自己嫌悪感情の膨張につながります。


これは極めて苦しい状態です。間違いなく「死」が唯一の解決出口として浮かんでくるような状態でしょう。
それに対する気休めの言葉はありません。僕自身がその苦しみを知っていますから!
ハイブリッドとして用意したいのは、死を思いつめるほどのその苦境にある自分というのが現実であることを見据え、むしろそれを自らの原点と位置付け、死を見据えてさえ残り続ける価値に向かうしかないのではないか、という考えです。


その価値とは何か。
「真実」となるでしょう。この状況に置かれた個人は、あまりにも自分が本当に何を感じているのか分からなくなって来てきます。それを解き、自己の真実を見据えることだけに、最後の賭けをするしかないのではないか。
実際僕自身がそれを原点として「心の旅」が始まり、今に至ったわけです。
『私の最も大きな関心は、精神分析になりました。「自己の真実に向かえ」。心の底から聞こえるその声だけが、最後の賭けのように私に残されたのです。』という感じで。(『悲しみの彼方への旅』P.42)

自他への否定感情が心を占め尽くしている、深刻なケースにおいては、やはりこれが内面取り組みの入り口であり続けると思います。
そして長い取り組みは、もっぱら、自分がいかに人生の生き方と自分自身への向き合い方を誤っていたかを知っていくという、負の成果の積み重ねでしかない期間がかなり続くでしょう。それでも、それが後の根本変化への、着実な準備になります。
今展開している「魂の治癒成長論」は、まあまずはそれに加速をつける役割をするということで、まずはそれ以上でもそれ以下でもないでしょうが、ターゲットは「否定型価値感覚の放棄」です。これで、世界が変わる。

それへのアプローチが「魂の治癒成長論」によってどう短くなるのかは、もう少しこの後のメカニズムを踏まえないとまだ何とも見えません。
「否定型価値感覚」つまり「敵対攻撃性」と「自らについた嘘」との関係を考えることで、何となくそれが見えてくるような予感はあるのですが..。

長くなったのでいったんここでカキコして続けます。


魂の治癒成長論-11 / しまの
No.1147 2007/01/14(Sun) 13:42:45

考察はさらに核心へと迫ります(^^;)。この、人類の歴史が抱えるテーマとも言うべき話に踏み込むにあたって、ちょっと精神世界チックな感慨などしてみました。


■「心の闇との契約」へのターニングポイント

思春期要請を前に、統合を要請された人格は感情の膿拒否し、自意識は現実魂の成長責任拒否する。
この支障をとりつくろうために、自己操縦心性は、感情の膿と魂の存在を否定する嘘を心に対してつくのに加えて、魂と心に「成長」というものがあることそものものを否定するという、決定打を打ちます。

ここまでは、逆境への救済メカニズムとして働いています。
ここで、ターニングポイントが生まれるようです。つまり、この心理過程が、逆境への救済というネガティブな位置付けであったものが、一度心についた嘘を逆手に取ったような、全く異なる様相へと動き始めるということです。

ここに、人間の心の業というものを感じます。

「悪魔との契約」という話があります。
サイトのメカ理論でも、自己操縦心性の発動を、これになぞらえて考えました。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-022.html

一時の甘美なる悦楽と引き換えに、自らの魂を悪魔に売り渡すという話です。
出典は何でしょう。ウィキペディアでは、「悪魔の契約書」というのが出てきます。「キリスト教の悪魔学において、人間と悪魔が契約を締結する際、取り交わされる契約書である」とのこと。
「歴史上最も有名な契約書は1634年、フランス、ルーダンの司教ユルバン・グランディエが悪魔と取り交わしたとされるもので、契約内容のほか、悪魔の署名などが記されている」なんてことも言っている。

ネットで検索していたら、面白い言葉が出てきました。悪魔はそうした契約をするのだが、「悪魔は約束を守らない」
この後は容易に想像できます。悪魔との契約をなした者は、自らの魂を悪魔に明渡しながら、実は甘美を与えられることもない。破滅への運命を余儀なくされる者になります。

まあ、表現があまりに寓話的で、心理学的ではないですね。心理障害の中で起きる何がしかを「悪魔」なんて言葉で描写するのは、僕としてもあんまいい気のするものではないです。
だが、多分、心理障害メカニズムの中にある心にとって、それは何か自らの中に悪魔との契約を抱えているという感覚を生み出すことなのかも知れません。これが心理障害における自己嫌悪感情の、最大の背景になるのかも知れません。


例えば、『悲しみの彼方への旅』でも、まるで「悪魔の側にいる自分」を感じ取るかのような感覚が起きた時の、こんな描写があります。(P.110)
「自分の心の中に流れる不安を少し見つめたあと、私は学友の家に電話をかけます。
一瞬、相手の家族に対して自分が何か許されざる存在であるような感覚が流れました。」


こうした感覚がどこから起きるのか、というメカニズムの話になります。


■魂の「荒廃」と「浄化」そして「原罪」

メカニズム解説そのものは次カキコに回すとして、ここでは全体概観をしておきますと、魂の「荒廃」と「浄化」そして「原罪」というテーマになります。

今までの流れでは、「魂」は挫折した己をかかえたまま、もっぱら置き去りにされ、意識の底へと押しやられる側にありました。
ここにターニングポイントがあり、今度は魂が自己操縦心性の心についた嘘に乗じて、破壊的攻撃衝動をほとばしらせようと、動きはじめるのです。

この動きが、「魂の荒廃」と呼ぶものになります。

これが人間の心の業の核となるでしょう。
そしてこの「魂の荒廃」への動きを、「破壊の価値」を放棄し、清廉な魂へと戻る「浄化」へと取り戻すことを人は選択するかどうか。この精神論的テーマに、「心理障害の根本治癒」という心理学的テーマが重なっていると考えるのが、ハイブリッドの思想だということになります。

その選択は、人類の歴史において、つまり人間の脳に刻まれた心のDNAにおいて、拮抗していると僕は考えています。
これは「憎しみの放棄」つまり「復讐」というものの価値の放棄という選択が、人類の歴史において拮抗しているのとほぼ同じようなものだと考えています。根源さえも同じものなのかどうかは今の考察段階では何とも言えませんが、考えどころでしょう。

しかし、それを解く鍵があると、僕は考えています。その2つの話それぞれにおいてです。

「憎しみの放棄」については、既に言ったことのある話です。憎しみを捨てるためには、むしろ憎しみを守ることである。憎しみに駆られ、復讐を行動化すると、相手を破壊すると同時に、自らも多くのものを破壊し失います。その結果、憎しみを守ることはできなくなります。憎しみを守りたければ、憎む相手が犯した誤ちを、自らは決して繰り返さないことです。永遠に。
不思議なことに、この道の先に、憎しみの感情そのものが根底から消える、「未知」があります。

「魂の荒廃から浄化へ」の鍵は、「原罪」です。魂は荒廃すると同時に、「原罪」の感情を抱くらしい。そして魂のレベルで、荒廃した衝動と、原罪の感情との間に、葛藤があるらしい。
これをありのままに晒すのが、答えです。この先は「未知」です。我々はさまざまな人間の事例から、この「未知」の先に「魂の浄化」があることを知ることができます。

しかしその「ありのままに晒す」を意識的努力として成すことはできません。やはり「未知」に向かう歩みだけが、意識的に努力できるものになります。


■「自らについた嘘」と「原罪」

心理学調に戻し始めますと、「原罪」とは何かという話になりますね。そして拮抗を解く心理学としての鍵は。

ここでは精神世界表現を残し暗示的に表現しますと、「破壊攻撃性の価値」については、拮抗を解く内面の鍵はないように感じています。つまりそれについて、むしろ鍵はないということです。
外界現実が答えです。現実が敵に囲まれた外界であるのであれば、我々は破壊攻撃力を獲得するしかありません。それ以外の話は全てまやかしやごまかしでしかないでしょう。

鍵は「嘘」にあります。「自らについた嘘」です。
つまり、悪魔との契約によって負う「罪」とは、「甘美」ではないということですね。「現実が敵に囲まれた外界」だという、「自らについた嘘」ということになるでしょう。

自己操縦心性の発動の中で、「罪」は「成長の否定」そして「あるべき姿」に負ったのではないということです。その後の「自らについた嘘」にあるということですね。
それがハイブリッドの中でも最後に登場した難解言葉で示す、「アク抜き」「アク毒」のメカニズムの話になってきます。

拮抗を解く内面の鍵がそこにあります。内面の鍵であるとは、どんなに「破壊攻撃性の価値」がある現実の中にいるかのように見える個人の内面にも、その鍵があるということです。
それは「嘘をつき続ける価値」「嘘を晒す価値」の選択です。これがやはり、人間の歴史において拮抗しているのでしょう。

そしてハイブリッドが言えるのは、嘘は必ず自らの中にストレスと自己嫌悪を生むということです。嘘を晒すことは、嘘をつくことで得ようとしたものを失う代わりに、ストレスと自己嫌悪の放棄への道を開く。
それだけです。ハイブリッドは「嘘をつくのをやめましょう」という言い方はしません。「嘘はストレスを生むというメカニズムがあります。あとはお好きに」と言うだけ。

さらに言うならば、実は「嘘をつくことで得られる」ように見えたものは、実はそもそも得られないものだったのかも知れません。
これが恐らく、「意識的実践努力」における「鍵」になるでしょう。つまり感情分析実践はまずこれに切り込むことだということです。

最後に、目の前に餌をぶらさげるような話になりますが、「原罪」に向き合った「魂」は、極めて純粋化された清廉性を獲得します。恐らくこれが、何よりもこの個人の人間性を高め人間的魅力をかもし出すものになるだろうということです。魂は心との盟友関係を取り戻し、魂は強く成長します。そして明らかに、純粋な「愛」の感情は「原罪の受容」の上にこそ育つように、僕としては感じています。ここで言う「純粋」な愛であるとは、「無条件の愛」の感情であるということです。
自己操縦心性の嘘に巻き込まれた魂は、やはり醜い印象を個人の人間性にしばしば与えます。そしてそれを知るのは、何よりも魂自身であり、それに魂を向き合わせることができるのは、「心」だけだということになります。

また、その「原罪」が「自らについた嘘」であることにおいて、事実個人は外界への罪を何も負っていないのだという、「魂の再生」への導きも必要になるででしょう。ハイブリッドの取り組みとしても、まず思考法行動法の転換によってそれを準備しておくわけです。

内面への取り組み、つまり魂への取り組みは、そうして魂と心との関係性の中に入ることとして成されます。
事実、その時、「他人の目」は消え、自らの命は、「心」と「魂」、そして「神」とだけの対話の中に置かれる。
外界において罪を犯しているのではない限り、「実存を生かし続けよ」と..。この声は「心」だけでは、その時もう発することはできなくなっているかもしれません。そこに「神」が現れるのかも知れません。そこに「信仰」という、心理学を超えた領域が現れるのかも知れません。

とまあ感慨していると「未知」の先のスピリッチュアルな世界に心がまどろむ今日この頃ですが(^^;)、バリバリ心理学調に戻して、「魂の荒廃」、そして「魂の浄化」「原罪」のメカニズムを説明し、取り組み上の意識的努力の具体的内容アプローチの考察へと進みたいと思います。


魂の治癒成長論-9 / しまの
No.1145 2007/01/13(Sat) 16:08:29

自己操縦心性「空想と現実の逆転」という構図によって本人をそこから救おうとした「現実の不遇」とは何か。
その結果一体何が起きるのか。

「魂の治癒成長論」による心理障害メカニズム論のキモの部分になります。


■自己操縦心性の発動

「自己操縦心性が発動」する以前にも、この心性機能はその前段階での機能を働かせ始めています。
「空想による救済」です。とにかく絶え難い現実から目を反らすために、空想の世界に浸りこむわけです。
これは同時に、「不遇からの救済」だけではなく、「望みの描写」という役割もあるでしょう。

思春期要請により、もうそれだけでは済まなくなる。自分の人格が抱える全ての側面を、自分自身のこととして引き受け、自分自身の自由と自己責任において進む方向を決め、一歩一歩、現実世界の中で重みのある自分の体を動かし運んでいかねばならないわけです。

しかし、感情の膿に象徴されるように、このまだ若い人格では受け取ることのできない部分が、この人格の中に組み込まれようとします。
その許容不可能な部分において、実際のところそれが裸の状態で意識に組み込まれたら起きてしまうであろう「人格崩壊」からこの人間を救うために、自己操縦心性が発動するわけです。


■「心」による「魂」の引き受け拒否

発動する自己操縦心性は何をするのか。それを考えるためには、「人格統合への要請」を前にして、「心」に何が起きるかを考えるといいでしょう。
それは、「魂」の成長に責任を持つものが外部の「養育者」であったのが、自分自身の「心」が「魂」の成長責任を担うことになるという、「魂の自立」に支障があるという事態として想定できます。

それは、「心」が、それに対して成長責任を負うようなものとしては、自らの「魂」を引き受けるのを拒否する、という事態です。
本人の意識体験上は、もちろん、「魂」が差し出されるのを見て、それを嫌がるというような意識体験をするわけではありません。「魂」は見えないものを言います。
しかし、これは意識下で起きるというよりも、多分に意識可能な出来事として、この「心による魂の引き受け拒否」の幾つかの側面が起きるのを想定できます。

ま実際のところ、意識してそれを感じる少年少女は稀でしょうし、先にハイブリッドを勉強してから思春期を迎える少年少女というのもちょっと状況があり得ないので、実際にこれが意識されることはまずないでしょうが^^;

意識化可能な「心による魂の引き受け拒否」の側面とは、2つあると思います。

一つは、「心」が、「魂」の何かを受け入れないことです。つまり、根源的情動の中の何かを、切り捨てようとすることです。これが「望み」であった場合は、かなり意識化される部類になってくるでしょう。幼い自分が感じていたものを、全て切り捨てるような心の動きです。

もう一つは、ほとんど意識化はされないが、それでもかなりはっきりとこの個人の心に起きた動きとして考えられます。
それは「心」が「魂」の成長についての責任を放棄することです。つまり、全存在として自らに要請された「魂の自立」の受け入れ要請に、はっきりと「No!」という返答が成されることです。

実は、心が魂の中の何がしかの側面を拒否した時点において、心は魂の成長責任の放棄をしているのです。なぜなら、成長責任を引き受けるのであれば、この部分は引き受けてもいいがこの部分は嫌だなんて形はあり得ないからです。赤ちゃんを育てることを引き受けるのであれば、頭だけ引き受け胴体は引き受けないなんてことはできません。


■「心」の外側で起きている困難

上記は「魂の成長責任の受け渡し」ということで、「魂」を前にして「心」に起きる支障ということになります。
あと、この外側で、人格全体として起きている困難として、2つがあります。

ひとつは、もちろん感情の膿です。それが直接意識に触れることは、人格崩壊の危険があります。

もう一つは、この個人の「現実」全体が、この個人の全存在レベルで望むものに比べて、かなり満足できない状況にまずあることです。これは「魂」「心」のどっちがどっちを拒むという話ではなく、全存在として自分の現実がはなはだ受け入れ難いという、「現実的不遇」が実際あるだろうということです。

この後者の話は一見つけたし程度に聞こえるかも知れませんが、実は心理障害からの根本回復にとって本質的な話がこの中にあります。

つまり、「現実的不遇」は、人間が不完全な存在である限り、誰にも多分に不可避であり、それをありのままに痛み、悲しみの中で癒し、損失を乗り越えてまた希望へと向かうという、動物的本性能力が、治癒成長への最も根源的かつ非人工的なものとして全く意識的作り出し努力は存在しない、「自然治癒力」「自然成長力」だからです。

今説明している心性発動では、そんなことなど言っている余裕なく、人格崩壊の危機を回避するために自己操縦心性メカニズムが否応なく発動し、それが心理障害症状を生み出すわけですが、そこからの治癒成長は、自己操縦心性が用意した一時的回避策が生み出した歯車を解いて行く先に、「現実的不遇」に対する全人間的な克服努力を、その本性的な「自然治癒力」と「自然成長力」の力を借りて歩み直すのが、答えだということです。


この点、今までのハイブリッド説明では根本を明瞭に言えてなかったところがあり、多くの方が大きな勘違いを抱き続けているかも知れません。
「自己操縦心性を崩壊させて感情の膿を出せば、心が良くなる」という誤解です。


そうではなく、自己操縦心性を崩壊させて感情の膿を出すことで、挫折し置き去りにされたままの魂にありのままに向き合い、そこから真の回復へと向かう正しい取り組みを、始められるようになるということです。


■「自意識」の登場が生み出した人間の心の悲劇

自己操縦心性は、現実的逆境への救済メカニズムとして生まれました。

それは、不完全な存在としての人間にとって不可避な現実的困苦への、本来の克服の道とは全く異なる、「自らについた嘘」を核とするものになります。
それが、新たなる悲劇を生み出す。むしろ真の悲劇はこちら側でしょう。

この人間の心の悲劇は、「魂と心の分離」を生み出したものが、やはり生み出した悲劇と言えるでしょう。
それは「自意識」です。自分はこんな人間だ。そして空想がその困苦への救済となる時、自己操縦心性が発動する時の状況は、一言でこういえると思います。

つまり、「自意識」が「現実」を拒否するのです。

そこで自己操縦心性が行うことの具体的説明を次に。


魂の治癒成長論-8 / しまの
No.1144 2007/01/13(Sat) 12:25:11

感情の膿とともに、意識下で眠ったままの、置き去りにされた「挫折した魂」という状況がまずある。
その状況からどのように自己操縦心性が発動するのかを考察しましょう。


■「魂の治癒成長論」から見た「思春期要請」

何が起きるのかというと、「心による魂の引き受け拒否」とでも言うべき事態です。

これはハイブリッドで「思春期要請」と呼ぶ、人間の生涯にわたる人格発達上の一大イベントを契機とします。
まずこれについて改めて考察を改訂しておきましょう。

「思春期要請」についてサイト掲載のメカ理論
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-011.html
では、「自信への要請」「優越への要求」「人格統合への要請」という3つを言っていますが、今の「魂の治癒成長論」の視点からは次の言葉に置き替えられるでしょう。

1)「魂の自立への要請」

上記「自信」「優越」は、ちょっと内容がダブっています。「自尊心」を生涯を通しての課題と考えた時、「自信」という言葉で言い表す感覚は、内面的な自信の感覚と外面的な自信の感覚に分けるのがいいかと。この2つは全く次元が異なるのです。

そして「内面的な自信」とは、明らかに、「魂の自立」が基礎基盤です。これを土台にした上で、実際の感情や思考がこの社会を生きる上でうまく行くものが自動的に湧き出ることが、内面の自信につながります。
「魂の自立」なきところに、真の内面の自信はあり得ません。それは人の目をうかがって日和見に自分の思考や感情を操作することでしかなく、その「能力」にどんなに長けたとしても、それははりぼての自信でしかありえません。たった一つの微風だけで、それはゼロに落ちるようなものでしかないのです。

「思春期要請」においては、この「魂の自立」の達成が要請されるように思われます。何が要請するのかというと、「魂」でも「心」でもなく、それを含む全存在としての「人間体」がです。まあ「人格形成」というDNA上の設計図において、「思春期に成されるべきこと」として書かれた筆頭のようなことだと言えるでしょう。

2)「優越への要求」

「外面的な自信」については、やはり「優越性」が欲求されるものであり続けます。
この「優越欲求」は「魂」が源泉と考えています。つまり根源的な欲求です。

より優れた存在になりたいという欲求。これは文字通りの外面的事柄と、あと「心」の良し悪しといった話も含みます。まあ自分の性格への自信ということですね。「心」は対外的なもので、人にも見せ、その良し悪しという感覚がやはりあります。

治癒成長取り組みにおいて問題なのは、「優越」が「相手を打ち負かす能力」だと感じる感性がかならず生じていることで、これが「現実的優越」を完全に見誤せることです。
「相手を打ち負かす能力」は極めて応用範囲の狭い、「低次元の優越」です。
そしてまた、そこで優越の「内容」を見誤っているのと同時に、優越への「方法」の見誤りが起きます。それは「力づく」という基本方法です。
とにかく力を込めて、相手を打ち負かす。

見誤りの結果起きるのは、それに取り憑かれ駆られるストレスか、もしくは「優劣」という観念や場への禁避や嫌悪という、両極端のまずどっちかです。

この社会において現実的優越となるのは、「価値の創造」であり「調和」です。そしてこれは、「力づく」では生まれません。

この言葉を見て、「価値の創造」や「調和」がない自分は駄目だ、という観念を抱く方がおられるかも知れません。
それが「力づく」勘違いです。理想から頭越しに結果の姿だけ見て優劣つけるという姿勢。


そうではなく、「生み出す過程」を知り実践することが正しい方法です。結果よりも生み出す過程に視点をおくことです。
「価値の創造」や「調和」を生み出すものとは何か。これは「学んで真似る」ものよりも、「無から開放する」というものが主体になります。「魂の治癒成長論」からこのあと説明するアプローチの全てがその具体的方法ということになります。

3)「人格統合への要請」

直近の掲示板解説では、自己操縦心性の発動の契機は、この「人格統合への要請」で感情の膿が人格に組み込まれることと言ってきました。

同じように、「魂」も、切り離し置き去りにしたままでいることはできず、統合された人格として、「心」とうまくやって行くことが要請されることになります。これも「全存在」が求めることとしてです。

自己操縦心性は、この状況で、「受け入れ難い現実の不遇」から本人を救うために、「空想と現実の逆転」という基本命題を成すもの、というのが基本構図になります。
「受け入れ難い現実」とは何か。それは感情の膿だけの話ではなく、置き去りにされた「挫折した魂」のことでもあるということが加わってきます。

それで「心」による「魂」の引き受け拒否という、とんでもない事態になるわけです。
自己操縦心性はそれを「空想と現実の逆転」によってしのごうとする。
何が起きるのか。どうやらこれで完全に全てが見えてくるようです。


魂の治癒成長論-7 / しまの
No.1143 2007/01/12(Fri) 17:58:20

■「魂の自立」課題

人間においては、「心」「魂」が3、4歳頃に「自意識」の発生を契機として分離し始める。
心と魂がまだ一体である間は、「魂」の成長への責任は主に養育者にある。
心と魂が分離してくると、「心」が「魂」を育てる役割を担うものになる。

この構図が、「魂の治癒成長論」基本命題です。
そして「魂の関係性」として、魂は自分自身の心との間だけに関係を持ちます。

つまり、人間において最も濃い情動の根源である「魂」を成長へと導くものは、「養育者」から、自分自身の「心」へと、転換が成されるということです。
これは心と魂が分離したらすぐという訳ではなく、恐らく思春期ころまでを通して徐々に成されるものと思われます。
自分はどんな人間であり、どんな風に生き、どんな風に人と世界に向かうべき存在か。そうした根源的感情において、学童期まではやはり外部からの影響を受けやすいが、思春期頃になって、「自己の確立」と呼ばれるような心理状況として、回りからの影響ではなく、自分自身の「心」が「魂」の声を聞き、それに応え、そして導く

「心」がこのように「魂」の成長への責任を引き受ける転換を、「魂の自立」と呼べると思います。

「魂の自立」は明らかに、「自尊心」という人間の生涯を通しての心理発達課題への、きわめて重要な通過点と思われます。
今まで自尊心獲得の条件として「愛」「優越」「自己アイデンティティ」という3要素を言いましたが、「魂の自立」という転換は、それら3要素を超えたより大きな次元での、自尊心への最大の要件なのかも知れません。

そう言えば『悲しみの彼方への旅』「真の自尊心」についてデビッド・バーンズの言葉も借りて書いた文章は、「魂の自立」の表現なのだと、改めて思えます。(P.246)
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 彼が進むべき道は、「多面を同時に見る」中庸の目の先にあります。自らの短所を自己卑下に陥ることなく見据え、ひとつの制約条件として受け入れると同時に、自分の長所を傲慢に陥ることなく認識し、それを役立てることです。
 そして自分を、長所と短所の差し引き合計の結果として捉えるのではなく、さまざまな側面を持つひとつの本質として、前に進む存在であることを宣言することです
 真の自尊心は、その姿勢によってこそ導かれます。真の自尊心は決して「高い評価」を与えられることによって「獲得」されるものではありません。主体的存在としての自己の可能性に向かって生きていく意志として、自ら選択するものなのです。認知療法のデビッド・バーンズが述べたように、真の自尊心とはそのようにして、「勝ち取らねば」ならないものではなく、「勝ち取る」ことができるものでさえないのです。

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■幼い心の中で置き去りにされる「挫折した魂」

問題は、人がその幼少期において、意識的体験の許容量を超えるほどの不遇な経験を持った場合です。
今までの説明では、意識的体験の許容量を超える「恐怖の色彩」だけが切り離され、「感情の膿」として意識表面からは切り離されたまま蓄積する、ともっぱら説明してきました。

それだけではなく、もう一つの大きなことが起きていたようです。
それは「魂の挫折」です。「挫折」とは、人の心がまず生まれてから住む、「神の国」という情緒世界における挫折です。
大きな目に見守られ、宇宙の愛に包まれ、幸福であれたはずの世界。しかし自分はそうではなかった、という挫折です。
そこには、自分を愛すべきであったのにそうしなかった者と世界への、怒りがあります。そして神の国の愛に値しなかった自分という、深い自己否定感情があります。

子供の中で魂と分離しつつある「心」は、これをどうすることもできません。できるのは、それを意識から切り離し、置き去りにしておくだけです。
この状況が表面に表れるものとしては、「現実」よりも「空想」の中で生きるという傾向、ということになるでしょう。

こうして、子供の心の中で、「挫折して置き去りにされた魂」が、感情の膿とともに意識下で眠っていることになります。

やがて思春期を迎え、自己操縦心性が発動する。
そのメカニズムを、魂の治癒成長論の視点から改めて考察します。


魂の治癒成長論-6 / しまの
No.1142 2007/01/12(Fri) 15:48:21

「魂の治癒成長論」による心理障害メカニズム説明。

■「心がすさむ」という心理障害の原型

サイト掲載のメカニズム理論、これはまだハイブリッド理論というよりホーナイ理論の焼き直し程度のものでしたが、その最初、
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech01-01.html
で述べたのと同じように、
「魂の治癒成長論」においても、問題の発端は、人が幼少期に親から適切な愛情を十分に受け取れないという、「最初のつまづき」から始まると考えています。

つまり、愛が剥奪されることで、心がすさむわけです。これが心理障害の原型と言えます。
「心がすさむ」とは、愛を求める感情と同時に、怒りが起きる状態です。愛を求めるので、他者に近づく引力が基本的にあるのですが、表面に現れる感情は怒りです。

そしてこの怒りが、さらに、心の底では求めているはずの愛を破壊します。結果、愛が失われることが確定的になると、絶望感自暴自棄感情によって、さらに荒廃した感情が湧き出ます。
結果、まるで破壊が目的であるかのように他者に近づく衝動が生まれます。
これが、「心の荒廃化」の基本メカニズムです。

これを図にしたのが以下。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg

なお、他者への怒り全般「愛を求めることの表現」と考えるのは、あまりに拡大解釈の誤りです。怒りは多くの場合、「自尊心を傷つけられた」「追い詰められた」という感覚への反応です。
心の荒廃化によって愛情要求に怒りが伴う場合、その怒りはそうした「反応性」の感情ではなく、漠然と湧き出る感情として背景的なものになります。


■「心の荒廃」の回復と「魂の成長責任」

すさんだ心の回復は、人間以外の動物の場合はまだ話が比較的単純です。
心をすさませた状況を超える、より大きな愛が与えられることで、すさんだ心が回復します。これは動物番組などで良く目にします。飼い主から虐待されて、人間への不信と怒りの感情の中にあった犬が、優しい飼い主に出会い、次第に凍っていた心を溶かし始め、やがて人間への信頼を取り戻した穏やかな表情に回復します。

しかし、人間の場合は、そう単純なものではなくなります。
なぜか。それがまさに、「魂の治癒成長論」における「魂と心の分離」そして「魂の関係性」という視点によって、明瞭にその違いが定義されるものになります。

つまり、人間以前の動物の場合、まず心と魂の分離はほとんどないということです。
そして、「魂の成長」に誰が責任を負うかというと、主に養育者だということです。

人間においても、心と魂がまだ分離していないごく幼児期までであれば、同じ形での、すさんだ心の回復が考えられます。
つまり、親に愛されずにすさんだ心が、親の愛を取り戻すことで、穏やかな心に回復する。

これは何歳くらいまでのことか。いつ頃まで心と魂は一体のものであり、いつ頃にそれは分離するのか。
僕の考えでは、それを分けるのは「自意識の発生」です。これはおよそ3、4歳です。つまり3、4歳ころまでであれば、一度荒廃した心も、外部における人の愛によって、回復し得る。

自意識の発生によって、心と魂が分離していく。そして「魂の成長」への責任は、「心」が負うようになるのです。
だから、3、4歳を過ぎて存在するすさんだ心は、人からの一方的な優しさだけで回復することはありません。この子供自身が、自分に起きたことをどう解釈するかに依存するようになってきます。
かくして、反抗的だった子供が、やがて大人としての苦労を知る中で、親の愛を知り、親への愛を回復させるといった話をよく聞くわけです。

心理障害のメカニズムは、この「魂の成長責任における転換」をめぐる悲劇として、ハイブリッドの「魂の治癒成長論」では説明されます。


魂の治癒成長論-5 / しまの
No.1141 2007/01/11(Thu) 18:19:24

「魂の治癒成長論」では、心理障害のメカニズムは以下のように捉えられます。

■「心」と「魂」の分化

まず、人間の心においては、「心」の底に「もう一つの人格体」であるかのように、「魂」というものが分離して存在するようになる。このメカニズムが、「魂の治癒成長論」の基本仮説になります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg
に示すように。

「心」明晰な意識が主な内容であり、「魂」は「根源的情動」が主な内容です。「根源的情動」であるとは、命がかかっているかのような、濃い情動だということです。「恐れ」や「怒り」だけではなく、「愛」を求める情動においても、命をかけて求めるかのような濃い情動の世界です。

健全な心の状態においては、「心」と「魂」が分離して存在するなどと考える必要もあまりなく、両者は調和した一体となって働きます。
「魂」が湧き出させる根源的情動を「心」が感じ取り、「心」はより明晰な感情と思考を展開して、「魂」が望むこと現実世界において実現させようと努力するために働くわけです。
かくして、「魂」は異性への感情を湧き出させ、「心」をそれを受け取って、現実の相手にどうアプローチするかの算段を必死になって(^^;)明晰な思考と感情として展開させるわけです。

それでも、人間ほど知性と学習能力が発達し、生活様式が社会によってレールづけられてくると、多くの人が魂の根源的情動を軽視し、学習つまり「真似する」能力に頼りすぎることになります。
かくして、一体何のためにそうし続けているのか分からないような自動機械のように、仕事や生活ごとを繰り返すだけの現代人の姿が巷に溢れるわけです。ただその多くは、単に深い情動を軽視した結果ではなく、心理障害のメカニズムが程度の差はあれ誰の心にも働いているというのが、ハイブリッドの考えです。


■「心で感じる」と「魂で感じる」の区別はない

「心」とは別のものとして「魂」とでも言うべきものが存在することは、折りに触れて、「こんな感情が自分の中にあったのか」と驚くような気持ちを感じるような体験からイメージできると思います。「知らなかった自分」との遭遇体験とでも言えるでしょう。

メカニズム的に説明しますと、そんな状況において、感情を感じる場所として「心」とは別に「魂」がある、ということではありません。

感情が感じ取られるのは、どんな感情であれ、「心」においてです。見える感情や思考をつかさどるのが「心」。あくまで「見えないもの」として存在するものとして、「魂」と定義しています。
「魂」が別に存在するというのは、普段我々が自分で知って馴染んでいるものとして動く「心」の中で感情が湧き出て動くのとは違う、感情の別の源泉が、見えない心の深層に存在するということです。

ですから、「心で感じるのではなく魂で感じる」という表現はなんとなくイメージは分かりますが、実際にはそうゆうことはありません
感じるのは「心」でだけです。違いが出てくるのは、「魂」からの感情がきちんと「心」に届けられ、「心」がそれを受け入れているかです。
また「魂からの感情であればきれい」ということも残念ながらありません。未熟な魂から湧き出る感情は未熟な感情ですし、荒廃した魂からは破壊性を帯びた衝動が湧き出ます。

これは、「感情分析によって心が良くなる」という感情分析初心者(^^;)が抱きがちな見当違いとして留意頂きたい点です。
感情分析で「感じ分ける」という形で、自分の中で信頼おける純粋無垢な感情とそうでない自己欺瞞的感情を分け、前者を選び、後者を捨てることで、信頼できる自分になりたい。そんなイメージを、実際に感情分析を経ての変化体験を持っていない人は抱きがちです。

実際はそうではありません。確かに「魂」を根源とする感情はかなり純粋無垢であり、自己欺瞞的要素をほとんど持ちませんが、一方、それが信頼に足る感情かと言えば、まったくそうではないのです。これは「魂の荒廃化」という問題が起きているからです。
そしてそれを現実世界において、なだめ、受け入れ、「浄化と成長」へと導く役割を担うのが、「心」であるわけです。


心理障害メカニズムは、この「魂の荒廃化」という問題、そしてそれに対する「心」の役割関係が、完全に歯車の狂った事態として発動するものとして説明されるものになります。
そして心理障害の克服も、「きれいな感情だけ取り出す」というイメージとは全く異なり、「荒廃した魂」を「心」が受け入れて、「心」が「魂」を治癒成長に導くという役割分担を回復させるという取り組みが本質になります。


心理障害のメカニズムについて、この視点からつっこんだ説明を次に。


魂の治癒成長論-4 / しまの
No.1140 2007/01/11(Thu) 13:29:13

■魂の治癒成長論をベースにしたハイブリッド理論総括

「魂の治癒成長論」ハイブリッド心理学の根幹に位置付けようとしているのですが、改めてハイブリッド心理学の主旨をまとめると、こんな大枠になると思います。

まずハイブリッド心理学は、「心の健康と幸福」を目指すための、一つの方法を示す心理学です。

ハイブリッド心理学が考える「心の健康と幸福」とは、怒りの感情を捨て心を解き放ってこの現実世界を生きることにあります。
人に左右されることのない、自分への揺らぎない自信を築き、自分自身と他者へのより多くの愛を感じ、自分の人生を最大限に生き生きと生きるための「生き方」の実践を示す心理学です。

そしてまたハイブリッド心理学は、人間の心のメカニズムについて深い理解に立ち、人が社会とも調和ある形で自らの自然な本性を開放して生きることが可能であるという、人間の心についての一つの思想であり理論です。
これは同時に、「病んだ心」つまり心理障害の根本的な克服への、一つの答えを示そうとするものです。

心理障害とは、現実に不釣り合いほど強い怒りや不安や自己否定感情などのストレスが、人生を通して頻発し持続する状態と言えます。
「ストレス社会」と呼ばれる現代において、これは程度の差こそあれ、全ての人が抱える問題と思われます。従ってハイブリッド心理学は、「病んだ心」の克服を基本的に全ての人が向き合う課題と位置付けた上で、ごく基本的な話から、深刻な心理障害の治癒克服までを順序立てて扱います。

内容としては、まず、心の健康と幸福についてのハイブリッド心理学の基本的考え方があり、それを目指す基本的スタンスとして心理学的幸福主義があります。

具体的実践は、大きく2つの領域に分かれます。

ひとつは、この現実社会をよりうまく生きるための方法つまり思考法行動法であり、「生きる姿勢」として、「評価に生きる」姿勢から「現実において生み出す」姿勢に変換することです。具体的には、対人関係を向上させる「建設的行動法」と「原理原則立脚型行動法」がその中心になります。
これがうまく実践されれば、対人関係と社会生活は必ず向上します。それほど、これは多くの先人の実践に基づく、確実な行動法なのです。その習得により「生きる自信」が増し、心に湧き出る感情は根底からより良いものが増えていきます。

これがうまく図られない場合、この思考法行動法の理解と習得が足りないからではなく、「評価に生きる」姿勢の中で空想する「あるべき姿」からの自他への怒り嫌悪が心の前面を覆ってしまうこと、さらにそうして怒り嫌悪することに、本人が価値を感じてしまっていることが原因でしょう。
それが、心理障害によって生み出されるものでもあります。

それへの取り組み、つまり「心理障害傾向の内面的根源への取り組み」が、具体的実践のもう一つの領域になります。
これは自分の心に心理障害傾向による問題があることを感じる方が、その深刻さに応じた対処方法を学ぶのがいいでしょう。
ハイブリッド心理学ではこれを、感情の膿と自己操縦心性の克服を克服しながら、「魂の浄化と成長」に向かう取り組みと定義しています。

心理障害のメカニズム理解に立った上での、人生をかけた取り組みになります。長い道のりになりますが、これは人間が抱える心の問題への取り組みという、大きな価値があることであり、その達成は他に代えがたい、人間の心への深い理解と、人生で大きなことを成し遂げたという充実感と心の豊かさを与えてくれるでしょう。

この2つの領域を通して、一貫して重要になる「心の姿勢」があります。まずそれを説明しましょう。また、2つの領域の具体的実践を通して、病んだ心の中で失われた「自信」と「愛」そして「自分の人生」がどのように取り戻すことができるのかの、基本的な道筋を先に説明しておきたいと思います。

という感じで最初の心理学本に書こうかなーと。
ということで、次のカキコは最後の文章の続きではなく、「魂の治癒成長論」の要点説明を続けます。


魂の治癒成長論-3 / しまの
No.1139 2007/01/04(Thu) 14:50:25

■「魂」における「関係性」

http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg
に示すように、人間の心においては、「心における命」の源泉である「魂」は、普段は意識しない心の深層へと分離します。
心理障害傾向においては、それがさらに感情の膿と自己操縦心性によって意識から追いやられる圧力が生まれますが、そうでない比較的健康な心においても、「魂」というものが忙殺され見えなくなりがちなのが、どうやら人間の宿命のようです。

この結果、「心」が「魂」をどう感じ取るかという、「関係性」の話が出てきます。
これが全く新しいちょー重要な話です。

魂が成長すると、魂が自分を生かすものになります。
魂が未熟なままだと、「人の目」が自分を生かすものになります。「人の目」によって、自分が生きていると感じることができ、それがないと、現実と人生が空虚です。
成長した魂は、自分を生かすものが自分の中にあるので、空虚を感じることはありません。一人でいても、人と一緒にいてもです。何をしていてもです。

僕自身、なんとかそんな心の状態のはしくれが得られてきたのを感じる今日この頃です。その道のりで見た分岐点を「選択」としてまとめ、これからの人々に示す。
僕が行ないたいのはそこまでです。選択は自由に任せます。


■「魂」を感じる感覚と感じない感覚

「そんなものはない」と考えることも可能です。ハイブリッドではそれが「正しいかどうか」は議論せず、それを確かに選択肢の一つとして認めます。
つまり、まず、自分の心の中にある「魂」を感じる感覚と、感じない感覚があるということです。そしてそれが人の心に大きな影響を与えるということです。

これは僕のメール相談の中でも、その有無が劇的な差となって表れるのを見ます。
端的な例は、記憶にある範囲で最も短期間に最も劇的変化を得た女性との、最初の頃のやりとりでした。

相談を開始した中で、あまりに自己批判的な思考の中で苦しみながら救いを求めるその人に対して、こんな言葉をかけました。
Aさんの中で眠っている、無垢のAさんを、Aさん自身が最後まで守ることだけを願っています。それはAさんの分身であり、赤ちゃんです。」
するとこんな返答が返ってきました。
「なんか・・・打撃を受けました。正直な反応は、間違いだらけのこんなわたしに赤ちゃんなんて守れるの?ってことと同時に、どうしても守りたい!守り抜きたいっ!て思いです。自分の今の存在をかけて、守りたい。ここには追い立てる衝動はないように思います。そう、何かのために、ではなく、守ることそのものが、欲求かつ目的として感じられます。」「ああ、母親ってこんなきもちなのかなって、違う次元でも感じています。もちろん泣きながら・・・。」

まあこの方の場合は、「自分への味方の姿勢」という治癒への芽が十分にあったケースになります。一方で、人格障害傾向の重さも深刻で、下手すると強制入院もあり得る危機的状況の中でメール相談を開始し、そうした単純な言葉が強烈なインパクトとなって治癒成長への歩みが始まったケースです。
この時はまだ「魂」という考えも僕の方にはなく、ごく情緒的に自分への味方の姿勢を促した次第ですが、「自分の分身」といえるものが自分の中にあるという感覚。これが極めて強烈な、「自分自身の魂との関係性」という感覚なのだろうと思います。

一方、そんな感覚にぜんぜんピンと来ない方もいる。変化がない方は、大抵こっちのケースになります。
問題はそうなるメカニズムですね。今回それをかなり探っているわけです。


■魂は自分自身との間だけに関係を求める

「魂を感じる感覚」に立つと、「魂の関係性」という命題がはっきり見えてきます。
これは体験的考察です。つまり、ただそう感じた時、そうである。それだけです。

「魂」は、自分自身の心との間だけに、関係を持ちます。
それ以外に関係を持つ相手とは、強いて言えば「神」だけです。ただしこれはハイブリッドが使う概念ではなく、オプションです。もし「神」というものを感じ、自らの魂が神との対話をするという感覚に意味を感じるのであれば、非科学的な思考を使わない範囲、たとえば自然現象を「神の意志」と考えるような非科学的思考を使わない範囲で、それはそれでいいことでしょう。

つまり、「魂」は他人との間に関係を持ちません。
「魂」は人に見せるものではありません。それを人の目に見せるもののように感じるとしたら、それは「魂を捨て去る姿勢」を取っていることを意味します。


別の表現をするならば、魂は、自分の声が自分自身の心に聞き取られることだけを、求めています。心がそれに答えない時、魂はすさんでいきます。関係を持ち得る唯一の相手から、無視されたと感じるからです。
心が魂の声を聞き入れるとは、魂の感情を、一切の他人との関係のない、自分自身の内面のこととしていったん受け入れるということです。

これは人への愛情要求や怒り憎悪などの揺れ動く感情を、いったん、現実の他人とはむしろ関係はなく自分自身の内面世界のことして受け取る姿勢を意味します。
それを現実の他人との問題であるかのようにパススルーすることは、魂を無視することになります。やはり魂はすさんでいきます。そして湧き出る愛情要求や怒り憎悪の感情は、さらにすさんだものになるのです。


■「自己の重心」と「感情と行動の分離」の本質

ハイブリッド実践の基本である「自己の重心」と「感情と行動の分離」も、この魂との関係性において、その意味が今まで以上にはっきりしてくると思います。

「自己の重心」とは、魂の声として自分の感情を感じ取ることです。それを他人に実際にどう向けるかには一切関わりない、自分の中に存在する感情として、自分の感情や考え方を感じ取ることです。
「感情と行動の分離」とは、そうして魂の声として感じ取った感情はいったん内面にとどめ、外面行動は全く別に考えるということです。どう考えるか。そこに「共通目標共通利益」という「建設的行動法」の大原則があります。

つまり、 ハイブリッド実践の基本である「自己の重心」と「感情と行動の分離」とは、魂を感じ取り、魂と現実世界との共通目標共通利益を見出していくという、根幹的な姿勢です。
これによって、魂が成長します。


ここまでが「魂の基本心理学」です。
心理障害傾向においては、この全てが自己操縦心性によって覆されます。そもそも「魂」などというものは消え、全てが「他人の目」の中にあるかのうような「心」が作り出されるわけです。

治癒成長への方向性とは、この人間の心の悲劇の業のメカニズムを理解し、対抗打を着実に図っていくものにせねばなりません。
その考察へと続けます。


魂の治癒成長論-2 / しまの
No.1138 2007/01/04(Thu) 12:28:06

■「魂」とは何か

「魂」とは、「心の生命力の源泉体」と定義できます。

一方「心」は、感情や思考として意識できる「意識体」です。
つまり「心」は自分自身で見えるものであり、「魂」は自分でも見ることはできません。

これは身体における生命力と似た話です。我々は身体の生命力の「表れ」を、さまざまな身体機能の動きとして見ることができますが、「生命力」そのものを見ることはできません。
だがそれは「生命力」というものが、さまざまな身体機能の単なる総合結果なのではなく、一つの実体として存在するものであるという考え方をすることができます。上述のように、身体機能は生命力の「表れ」だと。

ただまあ、身体の場合は、「生命力」が「さまざまな身体機能」ではなく「一つの実体」だというのは、我々の医学的姿勢にとってあまり差のある話ではありません。まあとにかく全体的にまとめて身体の健康を考えるということでしょう。
バランス良く、「命を大切にする姿勢」が望ましい。命を粗末にする態度では、健康は損なわれます。

心も同じように、心の生命力というものを考える。心の健康のためには、魂を大切にして粗末にしない姿勢が重要だということになります。
ただ、この言葉だけではあまりに抽象的ですね。


■「魂」と「心」の分理

ハイブリッドが考える「魂」と「心」は、それぞれが別の「体」であること、つまりそれぞれが別の感情を持った「人格体」のような振る舞いをする、という考え方がキーポイントです。
別の人格体であるとは、その相互の間に「関係性」つまり「やり取り」があること、そして互いに異なる成長曲線を持つということになります。
「心」の成長と、「魂」の成長とは、大部異なるということです。「心」はそのままでは「魂」の成長を知らず、「魂」に問い合わせをしなければならないということです。

なぜこのようなことが人間の心に起きるのか。
恐らく、「魂」と「心」が渾然一体であったものが、人間の場合、脳の進化によって、明晰意識を主な内容とする「心」と、根源的感情を主な内容とする「魂」が分離する結果になったのだろうと考えています。
そして、学習能力など明晰意識があまりに発達した結果、根源的感情の世界が忙殺される傾向も起きたのだろうと。

しかし、「魂」と「心」の分離が、人に自らの人生を見失わせるような悲劇的結末にまでつながるような「乖離」の様相にまでなったのは、恐らく、人間の幼少期に芽生える、ある高度な心理機能の影響によってだと思っています。
それは「自意識」の出現です。
「自意識」は、自らの心をもその射程圏内に入れています。自分はこんな心の人間だ。
そうやって、「自分の心」への「自意識」さえも含んだ結果が、「心」なわけです。それは根源的感情の世界にある「魂」とは、どうもかなり違うものになる可能性があるらしい。

それが、人が自らの人生そして「命」そのものを、見失う結果にさえなる。
「魂」は、「心における命」そのものともいえます。人の心が「魂」との連絡を断った時、人は心の中で命を失うわけです。その結果、まず見まごうことなく現れるのが、人生と現実の空虚です。

この経緯、そしてそこからの回復のメカニズムを説明していきます。


■「別の人格体」とは自己操縦心性ではなく「魂」

なお今まで、自己操縦心性を「別の人格体」と説明したことがありました。

たとえば2006/06/20 自己操縦心性の成り立ち-90-96:克服に向けて-1からの一連の解説では、自己操縦心性を「克服すべき別の人格体」というような論調で書いています。
「別の人格体」であるとは、「勝手に動く」性質があるということです。そしてそれが、「原初情動」を源泉として、感情の膿から防御した結果の意識人格を生み出す「人格制御衝動」の塊のようなものだと考えたわけです。
そして心理障害の治癒の根本原理は「感情の膿の減少」だと論じました。

どうやらこれは間違いだったと言っていいようにさえ感じます。まあ詳しくはそんな間違いではないが、これでは「どうすればいいのか」が良く分からない。
確かに心理障害の治癒の根本原理は「感情の膿の減少」です。しかしそれだけでは、「健康な心」にはならないんですね。病理性がなくなった、からっぽの心が現れるだけです。
やはり「治癒」だけではなく「成長」が伴わなければならない。心理障害は、治癒の後に成長があるのではなく、成長を志向することに治癒が始まり、成長と同時に治癒が成されるという相補関係にあります
自己操縦心性を克服対象と考える考え方では、方向性が見えない。

「別の人格体」とは、むしろ「魂」だということになります。
自己操縦心性も、実際勝手に動くものということで人格体というような捉え方をしても間違いではないのですが、そもそも自己操縦心性は、それ自体の感情を持ちません。自己操縦心性が行なうのは、「魂」の感情を、「心」があるべき姿になるために邪魔な、除去すべき身勝手な「自動感情」だと「心」に錯覚させるような、幻想を織り込んだ翻訳を行なうわけです。
かくして、「心」と「魂」に、一種の敵対関係を生み出してしまう。それが自己操縦心性というもののようです。


これは、今までハイブリッドを学んだ方が持ちがちな、「自己操縦心性を取り除くことで心をきれいにする」という誤った努力感覚にとって不利なというか、修正を余儀なくされる話になると思います。
まあ僕としても、「自己操縦心性は意識努力して除去するものではない」ということは言ってきましたが、問題の根が自己操縦心性にあるという理解に流れるような説明しかできなかったことは、ひとえに僕の考察進展不十分によるものです。この点、ハイブリッド自体が体系化途上であった不可避のこととしてご容赦頂ければ。


■「魂の荒廃化」が取り組み根本問題

実際、「原初情動」や「荒廃化」といった問題側面が実際どこにあるのかは、明瞭に示さずじまいだったわけです。
それは「魂」に起きています。「魂の荒廃化」が根本問題です。


自己操縦心性が問題根源だという理解にある時、自己操縦心性を取り除くことで、きれいな魂が芽を出す、つまり「自分の魂だけはきれいなままでいるはずだ」という期待の中の取り組みになったかも知れません。
実は、「自分の魂だけはきれいだ」という構図の幻想を生み出していたのが、自己操縦心性のようです。

魂に荒廃化が起きてしまっています。それが取り組み課題です。
これは、自分自身の中に人間性を損なったものが確かにあることを認めることを求めます。それによって、「やはりどうせ自分は」という自己嫌悪感情が呼び起こされるとしたら、まさにそれが自己操縦心性の行なった翻訳作業だということです。何の翻訳かといいうと、「魂の自己嫌悪感情」である「原罪」の感情です。そして実はこれこそが、「魂の浄化」をもたらす感情です。

問題が「魂」という心の最も根元に起きていることを理解することで、我々は問題の深刻さを正しく理解すると同時に、その解決への正しい方法論を明確にすることができると思います。
それが「選択肢」になります。

以上はやはり今まで掲示板解説を読んで勉強して頂いた方向けの説明が多いですね。
次に、「魂への取り組み」を理解するためのおニューな説明に入りましょう。


魂の治癒成長論-1 / しまの
No.1137 2007/01/03(Wed) 18:03:55

■魂の治癒成長論へ

まず、今まで掲示板解説を読んで頂いていた方向けに、考察進展の流れなど説明しますと、「魂の成長の成り立ち」という話で、ハイブリッドが目指す方向性の根本みたいなものを言うまでに至っていたわけです。

一方、そのための取り組み実践については、一言では「現実において生み出す姿勢の中で心の膿を看取り病んだ幻想を崩壊させる」というようなものだと言っていました。
しかしこれはまだ、難解な「心理学的表現」にとどまります。実際のところ、どうすればいいのか。その「選択」なり「姿勢」なりを説明できるものではなかった。

実際どうすればいいかについては、「動機」が最も直接的な話になりました。そこで、「人生における望みに向かう」ということが最大の原動力になるわけです。
一方、否定的傾向が強固に染み付いたケースでは、「望みがない」状態がネックになります。
考察はこの辺まででした。一つの鍵は、「本心に向かう」という姿勢の有無が、「望みがない」ケースでも何らかの変化をもたらす要因になるらしいこと。

さらに、今執筆中の最初の心理学本は、ずばり「望み」をめぐるメカニズムとして全体を解説する感じになります。これが心理発達の中でどう妨げられ、どんな派生物が生まれ、どんな風に「病んだ心」が発動するのか。
そこからの回復への歩みとして心理学的幸福主義を書いていると、最後に「サバイバル性善説の世界」に向かいます。
これへの対比として、「神の国」という心の世界があります。ハイブリッドが示す最後の答えは、この2つの心の世界を同時に認めることだと。

これは「魂」のレベルの話になります。「心」という目に見えるものの中で考えるのではなく、それが生きる世界の選択という話です。
「魂」というものを実体として捉えた考察になってくる。

この年末年始は、これら全ての話をつなげるものを考えていたわけです。
「魂」を実体として捉えた心理構造論です。「心」とは別のものとして「魂」があるとすれば、「心」は「魂」に対してどのような挙動をするのか、という話が出てきます。魂を起源とする感情と、そうでない感情という話が出てきます。
「望み」は明らかに「魂」に所属する感情です。その停止メカニズムと、自己操縦心性の関係はどうなのか

そうした考えがまとまると同時に、我々が意識して行なう「魂への姿勢」というものが存在することが明瞭になってきました。
これが決定的でした。なぜ決定的かと言うと、意識的には同じ「心への姿勢」が、「魂への姿勢」が違うことで全く反対の結果になってしまうのですから!


■「魂」を実体として捉えた人格構造図

さて前振りはそんなとこにして、早速要点解説へ。
まず、新しい「人格構造図」はこうなります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg

とにかく「魂」が実体として位置付けられているのが特徴ですね。

ちょっと前の構造図だと、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro.jpg
は「魂」を書いてあるものの、もともとこの絵は「内側から見た図」で分かりにくい。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro2.jpg
でよりシンプルに、「自己操縦心性の中に住まわせられている心」という視点を表現していますが、ここには「魂」は出てきません。

上記最新図になって初めて、「魂」は「心」とはっきり別物として捉えられているわけです。
そしてそれは自己操縦心性と感情の膿を間に置いて、「心」とはっきり隔たった位置にあります。この位置関係が重要です。「魂」は自己操縦心性を破り感情の膿を通らないと、近づくことはできないわけです。これは実際の治癒過程に完全に符号します。

また、「人格」というものをこの構造で捉えた結果、「取り組み」も明瞭な2つに分かれます。

「外面への取り組み」対人関係向上と社会をうまく生きるための思考法行動法です。これが生きる自信につながります。自信を基盤として、湧き出る感情はより良いものになります。
これが「心への取り組み」と言っていいでしょう。重要なのは、内面感情の良し悪しは一切問わない姿勢であることです。感情に一切揺らぐことのない思考法行動法を確立するから、心底から安心して感情が良くなるのです。感情が良いものであることに外面行動が依存していたら、いつまでも安心感を得ることはできません。

これが習得されれば、それだけでもかなりの感情改善ができると考えています。世のさまざまな安直心理学より遥かに^^;

深刻な心理障害傾向によって、思考法行動法の改善が妨げられている場合や、外面取り組みが多少功を奏して感情改善が図られながらも、まだ何か大きな妨げが内面にあるのを感じる場合、また自分の生き方や性格を根本的に改善したいと希望する場合、さらに「内面への取り組み」を行なって頂く、という寸法です。

これは今まで言わなかったほど明瞭に、「魂の浄化と成長」を目指す取り組みと位置付けられるものになります。「魂への取り組み」になるわけです。

それが全てです。これ以外に、「心を良くする方法」を、ハイブリッドでは考えていません。
今まで、思考法行動法の改善以外に、主に「感情分析と共に生きる体験」によって治癒成長が起きるというようなことを言ってきましたが、外面についての思考法行動法という答えがすぐある世界と、「魂」という見えないものを相手にする治癒成長の2つしか、ないということです。
感情分析はそのための手段に過ぎません。

そして根本変化は、魂の治癒成長によります。それが図のように、自己操縦心性と感情の膿を越えて近づくものであるということが、今までの話を全てつなげて明瞭に「歩み」の過程を説明するものになるでしょう。

ということで、具体的説明を次に。


あけましておめでとうございます\(^^)/ / しまの
No.1136 2007/01/03(Wed) 12:53:07

まず年始挨拶がわりに、今年の年賀状など紹介。ま特に変わり映えないものですが、写真は最近のお気に入りの1枚で、最初の心理学本のカバー裏にでも使おうかと思っているものです。
http://tspsycho.k-server.org/img/ny2007.jpg

さて今年はとにかく最初の心理学本を出すつもりですが(かなり頑張って今年ぎりぎりっぽいんですよねー^^;)、お知らせしたいこととして、ハイブリッド心理学を大幅に改訂します

これは特に最近、「望みが見えないケース」といった話で、最初から治癒への芽が十分にあるケースではかなり短期間に根本変化を成している一方、そうでないケースはこのサイトを本格化して3年経つ今もあまり変化が得られないというギャップを、真剣に考えて考察を進展させた結果です。

ま実際、ハイブリッド心理学は、まずは十分に治癒への芽がある方であっても、今までの心理学の不足のためにそれが得られないのをなんとかしたいと考えて書いていたのが正直なところです。
心理障害は根本的に治癒が可能な障害です。まずは比較的深刻さが軽いケースを対象に、その実現への方法論を作りたい、と。

一方、心理障害が深刻になると、心理障害の深刻さが、治癒への芽を殺す。この結果、実質的な限界があるのを感じていたのも正直なところです。これに対しては手も足も出ない感もありました。

で最近、その違いを生み出しているものについてより本格的な考察を重ね、かなり明瞭な考えがまとまってきた次第です。
それはつまるところ、僕自身もそうでしたが、他の短期間で根本変化を成した方々も、最初から持っており、ハイブリッド考察はそれを「選択」としてあまり意識しないまま、もっぱらその後のことを主にまとめていたということになるでしょう。

恐らくこれで深刻なケースも楽になるわけではなく、その困難さは「人生をかける覚悟」を求めることになると思いますが、今まで全く方向がつかめなかったケースにおいても、「選択」がどこにあるのかを示すことはできるようになると感じています。
これはまた、より軽いケースで、「性格上の悩み」程度の意識しかない人にはちょっとハイブリッドは難解だったのを、より主旨が明瞭で分かりやすい心理学にするものと期待しています。

ずばりそれは「魂への姿勢」に関係します。

まとまってきた考えとは、「心」と「魂」は別物だということです。従って、ハイブリッドの取り組みは、「感情と行動の分離」という大枠よりもさらに大きい方向付けとして、「心への取り組み」と「魂への取り組み」が分かれるということです。
そしてこの2つにおける心の姿勢は、全く違うのです。

ということで、ハイブリッドの理論全体がこの新しい枠組みに再編成されるということになります。
詳しい発表は最初の心理学本になるかと思いますが、要点は掲示板で書いておきましょう。
ということで、さっそく「魂の治癒成長論」というシリーズを手短に掲載します。



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