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2007.02


魂の治癒成長への実践-21 / しまの
No.1183 2007/02/28(Wed) 12:23:52

■「破壊型理想」と「建設的理想」

「“高い理想”の嘘」については、まず基本的な話として、「高い精神性理想」を掲げて、「精神性を損なった他人」への怒りの中にいた時、その怒る姿がまさに精神性を損なった、怒る本人が糾弾するものと同じ姿になるという話をしました。
まあ「あいつはこうだああだ」と怒る人の姿を第三者が見た時、えてして、「それってアンタのことなんだけど..^^;」となるわけです。

これは人間の心の基本的な罠ですね。「否定型価値感覚」です。
否定できること、否定できる自分に、価値を感じるわけです。そして、否定できることに価値を感じる姿は、価値が低いのが現実です。そうではなく、「現実において生み出す」の方が価値が高い。

そうして否定するために理想を掲げるという「理想の使い方」が、「破壊型理想」です。ここではさらに、「自分が高い理想の持ち主だ」という自尊心の感覚へと、否定型価値感覚が格上げされてきます。
破壊型理想を持つことにおいて「自分が高い理想の持ち主」であると感じる自尊心は、やはり、「否定できる自分に価値を感じる姿」をさらに一段と進めて、価値のない姿であるように考えることも可能かも知れません。

だがそう言い切れない部分もある。破壊型理想の中にも、一片の真実があるということになるでしょう。「使い方」はどのようなものであれ、「理想」として何らかの内容を描けることは、それなりに価値のあることと言えます。
まあつまり、間違いなく、破壊型理想は諸刃の剣になるものと言えるでしょう。そこには一片の真実があるのだが、それは同時に人を傲慢に、そして文字通り、破壊的にしてしまいます。

これは心理障害メカニズムがまだ絡まなくても言える、人間の心の業と言える話です。
そして心理障害からの治癒成長という話が絡まなくても言えることとして、破壊型理想から建設的理想への脱皮が、人間の心の課題であるわけです。
なぜなら、破壊型理想は主に、「与えられる側」にいる時に、意味があるものだからです。そんなんじゃ駄目だよ。こうしてよ。まだ自意識さえない乳幼児の行動様式は、基本的にこれになります。

自分が「与える側」に立ったことを知る時、人間の心の中で世界観人間観の大きな転換が成されるように感じます。この「世界観人間観の転換」のどこまでが人間の心のDNAに定められたことかは議論の余地があるでしょうが、少なくとも、「あるべき姿」に照らし合わせての「善悪」という二律背反の世界観人間観ではない、「強さと弱さ」そして人間の「不完全性」というテーマが登場してくる。これは確かなことのように感じます。
そして望みに向かって、自分の弱さを克服し、「与える側」としての強さを得たことを感じた時、人は人間の生涯を通しての心の課題である「真の自尊心」を獲得したという満足感を得るのだろうと思います。


■破壊型理想から建設的理想への脱皮成長を阻むもの

心理障害メカニズムという特別品が介入している場合でも、最も表面に見える問題はそれなのだ、というのがハイブリッドの考えです。
つまり、破壊型理想から建設的理想への脱皮成長を阻まれているという問題が、表面に見える最も基本的な問題になります。
そして破壊型理想に立って、他人と世界を憎悪嫉妬し、そんな自分への破壊衝動に苦しむわけです。その破壊衝動の強さが、単なる人間の心の基本的な業としての破壊型理想よりも深刻な問題を内側に秘めていることを示しています。

この表面の底にあるのは何か。それがハイブリッドの心理メカニズム論になるわけです。

それを、最新ハイブリッドの魂論では、3層の「自分についた嘘」の構造を土台に考えるわけです。
第III層「嘘をつき終えたあとの感情層」には、「高い理想」の嘘があります。「理想」をめぐる意識的思考の領域です。
第II層「無自覚の嘘と本心層」(←ちょっと呼び名修正)には、「イメ−ジ」の嘘があります。意識的制御は不可能な形で湧くイメージの領域です。
第I層「魂の荒廃感情層」には、「復讐心」という「魂が魂についた嘘」があります。

度を越えた破壊衝動に裏打ちされた「破壊型理想」が、維持されるメカニズムとは。


■2テーマ×3層=6個の破壊型理想維持要因

これを最新視点では、大きく2つのテーマについての、上記3層構造を積み重ねた要因が起きていると考えています。

1)依存性観念の固執

一つのテーマは「与えられるべき」という依存性観念の固執です。これは破壊型理想から建設的理想への脱皮成長の根底にある、「与えられる側」から「与える側」へという、最も基本的な「成長の摂理」が否定されているという事態が起きているということです。

魂と心の分離」に際して、魂の成長責任を心が放棄し、外界に押しつけるという動きが起きたであろうことを説明しました。これは経緯の話です。
その結果、「与えられるべき」は3層の心理層に渡って固執が起きているという、結果構造ができています。

「心」の層(III層)においては、意識的思考としての価値観に、それが取り入れられます。正しければ世界が幸せにしてくれるべきだ。全ての人が平等であるべきだ。
自己操縦心性の層(II層)においては、自分の心が自分に感情を与えるための「他人の目」に取り囲まれているという、意識制御不可能な前提イメ−ジが映し出されています。
魂の荒廃感情層(I層)では、未成長のまま置き去りにされた魂が、事実、いまだに乳幼児のような依存的感情を一部持ち続けています。だから「赤ちゃんプレイ」なんて発想が出てくる、とこれは余計な冗談^^; 魂の依存感情の残存は、残念ながら冗談ではありません。

この3層が一致協力して、「自分こそが与えられるべきだ!」という依存性観念を、深く固執維持させてしまいます。

2)復讐心

もう一つのテーマが、「復讐心」です。つまり自分にむごい仕打ちをした他人と世界への怒り憎悪の表現手段として、高い理想から、軽蔑嫌悪し、叩き落とすという衝動によって、破壊型理想が掲げられ、その破壊性が裏打ちされています。
これは上述の通り、人間の心の罠の中での自尊心を得ることにもつながりますが、「復讐心に裏打ちされた自尊心」という特別品であることが、色濃くなります。

この「復讐心」がまた3層に渡る構造になります。これは上記「与えられるべき観念」よりもさらに厄介な構造になります。おそらくそれが心理障害メカニズムの厄介さの、いわば骨格になるものでしょう。
なぜなら、「復讐心」は「与えられるべき観念」よりも当然破壊的で、荒廃性の度合いが高い感情だからです。そしてその結果、醜い感情でもあります。誰よりも本人自身にとってです!
この結果が、今度は3層が一致協力してではなく、互いに騙し合いながら、復讐心を膨張させるという事態になります。それはまさに、3層が互いに阻害し合い、自分で自分を傷つける結果を招きながら、互いに嘘をつき、酷いことをしたのは他人と世界だと言い合うといような様相になります。

これは深層から表層へと概観するのが分かりやすいです。
魂の荒廃感情層(I層)には、挫折した魂の復讐感情があります。そして同時に残る残存愛情要求との間で葛藤が起きています。
実はここですでに自己循環膨張が起きています。復讐心を土台とした自尊心残存愛情要求の「幼児性」を軽蔑しくじきます。残存愛情要求の側から見れば、自らの復讐心への嫌悪罪悪感が他者の視線に外化され、自分が怒り嫌悪の目で見られるという感覚が起きます。この結果、「自分は愛されない」という挫折感が強化され、復讐感情はさらに破壊性を増し、自暴自棄の領域にまですぐ膨張するベクトルを強力に持っているのが、この魂の荒廃感情層の特徴です。
またこうした荒廃感情に、感情の膿が結びついています。

自己操縦心性の層(II層)では、こうした魂のオリジナル(?^^;)感情の全体が否定され、別の自分のイメージが描かれます。それは「魂の挫折などなかった自分」の姿です。出生の現実における自分の姿を、自意識が受け入れることができないからです。
これは児童期を通じて、すさんだ感情を飲み込み否定し、空想の世界で生きることで、感情の膿と一緒に魂の感情を切り離し否定し、「そんなものはなかった自分」という感情を作り出すという、自己操縦心性の機能として成されます。

ここで、魂と心の間に、全くの断絶関係が生まれることになります。「心」魂の感情を、まるで自分の中の裏切りのように封印しようとし、はそんな「心」に不信感と軽蔑感を抱きます。これがこの後この人物が常に心理背景として漠然と感じる自己軽蔑になるわけです。

そうした「魂と心の断絶」は、本人の意識には全く捉えられない中で行なわれ、結果、意識表面は、「嘘をつき終えたあとの感情」として動くという形になります。
かくして「心」の層(III層)には強烈に、「自分がどう見えるか見られるか」という意識土台が生まれます。実はそこに、損なわれた魂の「命」の感情への渇望が、注がれるのです。つまり「人にどう見られるか」が、この人物にとっての「命」になります。
最終的に生まれるのは、自分の中の感情的不具合を「人が自分を悪く見たせい」だと考える傾向です。
これがオリジナルの魂の荒廃感情とはまた別メカニズムの、復讐感情を生み出すのです。

かくして、復讐感情、おしなべて「怒り」というものが、実は2重の構造をもっているのが、厄介なところです。
その根本克服のために、2テーマ×3層=6個の破壊型理想維持要因に取り組む必要があるわけですが、これは心理メカ論おたく(^^;)としていたずらに話を複雑化させているわけではなく、素人療法ではない本格的医学知識が複雑であるのと、まったく同じ話です。
そんな難しいの無理だと考えるならば、まさにそうでしょーというのが心理障害の根本克服の難しい実情でしょうし、逆にいえば、そこまで精緻な自己分析ができると、かなり明瞭に「自己治療」が実現するようになってくる、ということです。

実際のところ、2か所を骨折していた時、骨折が1か所だけだったかのように手当てしても、それでは治療にはならないんですね。

この2テーマ×3層の構造の要点にてついてさらに説明を続けますが、こうした構造の全体を貫いて本人の意識においてなされる、「理想を描いた道筋」もしくは「シナリオ」について次に説明します。
これは本人が意識する中で行なわれるものであり、十分に把握が可能です。まずこの「理想のシナリオ」を理解することが、この第2段階の具体的実践の最初(ということになるかな?あとで整理しましょ)になると思います。

上述の心理構造を映し出すかのように、それは嘘に満ちたものになり、「建設的理想」には根本的になり得ない、不実な内容になるという話になります。
午後また出かけますので、カキコは明日以降かと。


魂の治癒成長への実践-20 / しまの
No.1182 2007/02/27(Tue) 13:02:24

■「心がついた嘘」と「魂がついた嘘」

先のカキコを再びより簡潔直感的な言葉でおさらいすれば(ハイブリッド的に精緻かつ平易な文章を書くためにこの練り返しが重要!個人な話^^;)「対人動揺は、心が自らについた嘘と、魂によっては生かされていない状態を示す」ということになります。
「自分についた嘘」を解くこと、そして「魂によって生きる」という方向転換への、「選択」があるということです。

2つのことを言っており、いちおう2つは大分別のことです。
これを短縮(?^^;)して、「対人動揺は魂についた嘘を示す」とし、「魂の感情に忠実に生きましょー」となると、かなり直感的に納得できる言葉に聞こえるかもしれないけれど、大分違ってきてしまいます。
まあそれは一般に魂の感情についてなおざりな姿勢を修正する意味はあるかも知れない。しかし問題はそれだけではないんですね。
魂の感情自体が、かなり錯綜紛糾しており、それをそのまま鵜呑みにしてはいけない面が多々あるわけです。そこには「魂が魂についた嘘」もある。「心」は本来それを受け入れながらも、なだめ、魂が成長するように、魂を導くことが必要になるわけです。「心」と「魂」にも、やはり適切な距離というものがあります。

そんな状況で、「心」がまず「魂」の感情を受け取るようにできているのですが、魂の感情を受け取ったはずの「心」を、「心」自身が「そんなものない」と自ら欺くという構図になります。あるのは、「心が自らについた嘘」であり、それが同時に、「すさんだ魂を無視し置き去りにする」という問題を生み出しているわけです。

問題は大抵2重に起きています。大元の問題と、嘘によって解決しようとしているという問題。
だから克服への課題も、大抵3段階になるわけです。嘘による偽りの対処を解くという課題と、大本の問題の克服という課題と、そして2つの問題を切り分けるという課題です。


■魂論からの治癒経過論

前カキコの後半で書いたことについても、簡潔直感的な言葉でおさらいするならば、「治癒論」そして「治癒経過論」という、ちょっと専門的医学的な視点での話になります。
「どう良くなれるのか?」という、クライアントの切なる疑問にどう答えるかの話ですね。

心理障害傾向が深刻であるほど、その人は世界と他人への憎悪嫉妬、そして自分自身への破壊衝動に苦しんでいます。とにかく、それが軽くなりとにかく「心が楽になる」ことが、その人にとっての「治癒」なのです。魂の治癒成長の途上にある「成長の痛み」は、「悪化」としてしか感じられない可能性がかなり大きい。

魂論つまりこの「魂への取り組み」では、第1段階において、魂について学び、自分に向き合うことの意味を学ぶことで、危機的な状況からの軽減は、かなり確実に図られるように思っています。それは「魂への取り組み」の背景となるハイブリッド心理学全体の学習による、心の姿勢の改善と絶望状態の軽減でもあるでしょう。

しかし、第2段階は「自分についた嘘を解く」のがメインです。そのため、「心が楽になる」という期待通りの経過は、もう即効的にはほどんど期待できない。必ず、嘘を解いて大元の問題に向き合う、痛みが伴うようになります。この痛みは心理障害傾向が深刻なほど、つまり「心が楽に」なりさえすればと期待しているほど、痛みも深刻になるのが実情だと思います。

その結果、再び全てを視界から遠ざけようとする心の動きに流れる可能性もあります。それとも、「自己の真実」に向かうことを報酬と感じて、痛みを受け入れて取り組みを進めるか。
ハイブリッドとしてできるのは、こうした道筋論を言うまでです。どっちに進むかは、結局本人次第です。
ハイブリッドとしては、今後ともこの道の過程にある報酬を分かりやすく説明することに努めましょう。

ということで、いったんカキコして、「心が自らについた嘘」の最も表層にある、「高い理想」の嘘について説明を続けます。


魂の治癒成長への実践-19 / しまの
No.1181 2007/02/24(Sat) 18:26:17

■「高い理想」の嘘と真実

「人の目」によって生き、「人の目」の中で翻弄されて生き続けるか、それとも自分の中に、自分自身による確固たる生き方を確立し、それを土台に、人からどう働きかけられるかという受身ではなく、自ら能動的に人々と社会に働きかけていく存在になるか。
後者を選びたいのであれば、まず我々自身の中に、「感情の生命体」である「魂」が、直接見ることのできない「もう一人の自分」として存在し、それが「人の目」ではなく本来人間を生かすものであることを理解し、「人の目」に翻弄される感情とは実は「魂の真実」に対して嘘をついたあとの感情であることを理解するのがいいでしょう。
だから「どう見られるか」がこれほど重大事のような感情が湧き起こるわけです。自動的にです。

そして、「自分への嘘」に向き合うことです。その先に、魂の真実が見えます。
最も表層にある嘘が「高い理想」の嘘です。まずはこれを解くのがいいでしょう。「人の目」によって翻弄される感情は、意識の表面ではまずは「理想」をめぐる思考感情ですので。

とまあ何の話をするのかをゼロから書くと、やっぱこれだけの言葉を並べる必要があるわけで。


■高い理想から否定することがまさに理想を損なう

「理想」をめぐる思考感情の中にある嘘とは、まずは先のカキコの通り、「高い理想から現実を否定することが理想に近づくことだと考える誤り」です。
これは理想の「掲げ方」「用い方」についての誤りです。「破壊型理想」ですね。

一方、理想の内容そのものに誤り、嘘があるという問題も存在します。これはかなり心理障害傾向の発達の中でおきやすいもので、このあと説明します。本人が「理想」だと思っていることが、社会や健全な人々の感覚と完全にズレてくるという問題です。

内容の話はいったん置いといて、「高い理想から現実を否定することが理想に近づくことだと考える誤り」について言えば、これは心理障害メカニズム以前の話として、人間が抱きやすい、単純な、大勘違いです。
これは「悪を怒るのが善」という大勘違いとだいたい同じです。「善は悪を怒る」まではまあ言えるとして、「悪を怒るのが善」になると、もう論理のこじつけです。
同じように、「高い理想」から現実を否定する時、それは確かに理想から離れる一方の現実を止める効果はあるかも知れません。しかし別に「理想に近づく」わけじゃない。「理想に近づく」ためには、「ではどうすればいいか」という具体的な答えを考える必要があります。
それを考える姿勢が、ハイブリッドで言う「自衛と建設」であるわけです。そしてこれを考える中では、「怒り」という感情思考は全く用いません。

「高い理想から現実を否定することが理想に近づくことだと考える誤り」は、そのように「実際には近づかない」というどころではなく、「高い理想から現実を否定することがまさに理想を損なった姿になる」という問題をしばしば抱えます。これがより深刻な問題になるでしょう。
これは人間の業であり、心理障害メカニズムではなく心の基本メカニズムにそなわったバグといえるでしょう。

これは「他者の精神性への怒り」について言えます。
事実、何かを損なった人間の姿が現実にあったのかも知れません。それに対する憎しみには一片の真実もあるでしょう。しかしそうして他者の精神性を否定することが、実は自らの精神性を損なうことなのです。
「許しが大切」ということではなく、人間性を自ら高めるための正しい知恵を知り実践することが重要であり、それを知らないまま怒り憎しみに耽る者は、自分自身が、自分の憎んだ相手と奇妙に似た人間になっていることに、長い月日のあとに知ることになります。


■「高い理想を掲げて理想を損なう」動きへの3つのドライブ

そうした心の基本メカニズムにおける勘違い、バグというものがまずあるのですが、心理障害メカニズムにおいては、この話だけではビクともしないほど「高い理想の嘘」が入り組んでおり、高い理想を掲げて現実を否定することで、自ら結局的に理想を損なっていく動きへの強力なドライブがかかった状態の中にあります。

これに主に3つの要因があります。

一つは、上記で少しだけ触れておいた、理想の内容そのものの誤りであり、現実向上のための理想とズレた理想内容の発達です。これを次のカキコで説明します。

次により深層の「嘘」として、「イメージの嘘」があります。ここでは「自己像の嘘」であり、高い理想から現実を否定する自分が何か高い評価尊敬を受けるべき存在であるかのようにイメージされてしまうという「嘘」があります。まあこれ自体はあまり害のあるものではありませんが、実際にはそうした評価尊敬など受けない現実に出会うと、内面に目をそむけるための嘘が破滅に向かわせられるという緊迫感を背景にした、極めて突破的な怒り破壊衝動が湧き出てしまうのが問題です。

さらにより深層に、荒廃した魂の敵対的復讐心があります。これが破壊性の根源であり、これはもう「心」のレベルから見たらもう「嘘」ではなく、ただ魂がそのように抱いている、ただ怒り破壊を目的とした衝動が根底にあります。
これを解く取り組みは第3段階になります。


■まず見える可能性ある「絶望の谷」

いずれにせよ、もしハイブリッドの取り組みが、他人への憎悪と、さらに自分自身への破壊衝動という極めて危機的苦しみの中で始められた時、問題が「心理障害」という、はっきりとメカニズムと解決の答えのあるものだということに多少の癒しを得ても、その中でのより実践的な取り組みは、こうして「理想の嘘」に取り組むのが順当な道のりであろうとしても、苦しみは決して解けない事態に突き当たる可能性が少なくありません。

主に3通りの経過が考えられるでしょう。

もっとも心理障害傾向が軽い、比較的健全な心理状態の中での学びとなるならば、より建設的な思考法行動法を習得することにつながり、感情状態の向上効果がすぐあるでしょう。

心理障害傾向が中等度である場合は、こうして自分への嘘を解く先に、魂の荒廃感情への取り組みにすぐ向かうことになると思います。第3段階の取り組みです。

心理障害傾向が深刻な場合、そうもなれない可能性が高い。考えられるのは、かなり深刻な絶望感情に覆われる事態です。
なぜなら、どんな意識的努力をしようとも、ハイブリッド取り組みも上記3つの「高い理想の嘘のさらに深層のドライブ」の中にあるからです。特に、敵対的復讐衝動の中に
そしてどんな形であろうと、理想を達成できない自分自身に対して、まさにその理想達成を求める敵対的復讐衝動が、向かうわけです。

この結果は、極めて苦しい状態にならざるを得ません。おそらくそれは、こんなハイブリッド取り組みなどしない方がむしろマシだったという観念も多分起きるほどのもので、そして実際は、ハイブリッド取り組みをしないまま心理障害の膨張の結果起きる破綻により苦しみと、ほぼ同等のものになる、というのが僕の見解です。
ただまあ心理障害は基本的に強力な自己膨張のメカニズムを持っていますので、克服への取り組みをしないまま障害が生み出す感情のままでいたほうが良かったなんてケースは、完全にゼロだというのが僕の信念です。あり得るとしたら、人格が崩壊して隔離病棟に保護収容されて、飛んだ意識の中で笑っている姿を、回りが「これで本人にとっては幸せ」なんて言うような話になってしまいます(こんな話を書くのは誉められた話ではありませんが、深刻な境界例がそんな状態に移行した例を見ており..)。

いずれにせよ、何もしなくても、取り組みをしても、障害の深刻度に応じて、苦しみがあるのが事実です。
違うのは、こうして自分への嘘を解く最初の一歩の中で起きる苦しみや絶望感情は、ほぼ確実に、ほぼ例外のないこととして、「治癒」が起きている症状であることです。
つまり、「自己操縦心性の崩壊」がこの段階で始まっているでんすね。

頭は働かなくなります。この状態の人にハイブリッドが示すことができるものとして残される「選択」のは、ただ一つ「絶望の先にある未知」です。実際その人にとって、何とか自分を支え続けようとする動機のために、もうすがれるものはそれだけになるでしょうし、その状態ではそれにすがることが、正しいんです。
そしてもう何も考えずに、休息の時間を持つことです。

こうした谷を越えることは、確実に本人の意識の土台を、根底から変えていきます。何がどう変わるのかというと、障害を克服しようとする思考が実は障害思考として動くという、意識領域の外側からの圧力が減少することです。
この変化は本人にも、「何がどう変わったのか良くわかならいが、確かに何かが変わった」というような感覚で実感されます。まあ脳の外側から電圧をかけていたのが減るような話で、人間の通常の意識体験で生まれた言語や思考ではもともと表現できない、特殊な治癒現象が起きているわけです。

まあこうした話を最初の心理学本でどこまで説明するべきかは悩ましいところですが、いづれにせよ、何がどう変わるのか本人でも良く分からないまま、克服への思考がそのまま克服への思考として意味を持つようになってくる。
そして引き続き、再び取り組みの道を歩んでもらうわけです。この繰り返しで、「深刻なケース」はやがて「中等度のケース」として、そして「比較的健全な心理状態」での取り組みという風に、移行していくわけです。

たどる経過がどんなであろうと、学んでもらうのは、同じことです。

ということで、「高い理想から現実を否定することがまさに理想を損なう姿」になるという基本的誤りの、さらに根底でドライブをかけている要因の説明を続けます。


魂の治癒成長への実践-18 / しまの
No.1180 2007/02/23(Fri) 16:53:13

今週末はスキー休みのため、のんびりこの時間にカキコ..

■対人動揺から「自分への嘘を解く」そして「魂の真実」へ

きのう「魂の治癒成長への実践-14」への追加補足として以下のように書きましたが、第2段階の導入への問いと言えます。
>「あいつが」という姿勢を続けるのを選択するか、その姿勢を生み出した自分の魂の真実に向き合うか。

「自分の魂の真実」とは、「魂のゼロ層」になります。
そこに何があるのかを理解した時、「自分への嘘を解く意味」が分かってくる、ということになるでしょう。単に嘘を暴き責めたてるという姿勢は、この取り組みではありません。
だから、第2段階が「自分への嘘を解く」であり、第3段階が「魂の真実に向かう」として、この2つの段階は極めて隣接した作業として行なわれねばなりません。

魂の真実とは何か。「魂のゼロ層」には何があるのか。
そこに「命」があります。第1層つまり魂の荒廃感情層には、まだ「命」はありません。なぜなら、この層は「魂が魂についた嘘」の層だからです。
嘘のもとに「命」はありません。だから障害感情についてまた一つ解釈を追加できます。「空虚感」とは嘘の中に命がないことが感じ取られている感情だと言えるでしょう。

まず「嘘」とは何かの内容から説明しましょう。
その前に、昨日また所要で午後出かける前に浮かんだ言葉など書いておきます。第2段階への導入であり、より実践的直感的な、自分への問いかけの言葉になると思います。

一体自分はなぜその相手にどう思われるかについて、こんなにも動揺しているのか。
それを問いたいならば、その感情が「嘘をつき終えたあとに人間が抱く感情」であることを自覚するのがいいでしょう。

自分自身の何かから目をそむけようとしているわけです。それは直視すれば、案外乗り越えられるものなのです。時には、呆れるほどの話として。
なぜなら、人は一度逃げ始めると、自分が何から逃げ出したのかよりも、逃げることが成功するかどうかに気を取られてしまうんですね。さらに、逃げるという不面目な姿の自分という感覚との闘いが、逃げ出した大元の原因よりも大きなことになってしまったりもするかも知れません。
実はそれは逃げる必要のなかったものだったりする。そして、もともと逃げることのできるものではなかったりする。
なぜなら、そこから逃げようとしたものは、自分自身の中にあるのだから。

この構図が、心理構造のレベルで当てはまるわけです。
大元は、にあります。はその大元をもはや全く知らないかのように、逃げることが成功するかを、目標にして動き始めるわけです。


■3層の「自分への嘘」

ここでは「自分への嘘」の構造メカニズムの概要を手短に書いておきましょう。
第I層から第III層に、それぞれ該当する次元の「自分への嘘」の構造がある形になります。深層から表層へとその嘘が積み重ねられるということで、その順序にて。

1)第III層(嘘をつき終えたあとの感情層) ... 「高い理想の嘘」(価値観思考感情)

「理想」をめぐる思考と感情の中にある嘘。

「理想」自己本来の自然な望みからと、I層からIII層までの「自分への嘘」によって描かれる混合品になります。従って「理想」そのものを嘘として取り組むアプローチは全くの無駄で、むしろ理想の「掲げ方」「使い方」の中にある嘘に取り組む一方、「理想」が持つ一片の建設的要素は積極的にあと押しする姿勢が重要になります。
理想の「使い方」の中にある嘘とは、高い理想から現実を否定することが理想に近づくことだと考える誤りです。
理想の「掲げ方」の中にある嘘とは、下の2つの層の嘘から理想が描かれることそのものです。従って、これを解くにはより深層への取り組みが必要になります。

2)第II層(自分への嘘と本心層) ... 「イメージの嘘」(自己操縦心性)

自分や他人の「イメージ」の中にある嘘。「イメージ」は思考や感情のように「自分で抱く」というよりも、外から見た自分を含む外界を示すものとして、視覚などの感覚に準ずるものとして「自分に示される」ものであるため、その中に含まれる、現実とは異なる「嘘」を認識するのが難しくなります。

自分で描いた」と認識すれば、それは現実とは一応別ものだという認識が保たれますが、「自分で描いた」という認識が薄れるごとに、それは外界の現実を示すものだという感覚と一緒に体験されるようになります。
実際のところは、イメージというのは「自分で描く」もの以外のなにものでもないんですけどね。

この説明が暗示するように、イメージは、積極的願望の中で抱かれた時、あくまで現実とは別の空想だという認識が保たれ、積極的願望が停止されるにつれ、イメージをまるで現実のように体験しようとする傾向が起きるという心理メカニズムが、どうやらありそうです。

第II層における「イメージ」の嘘は、これが本人の意識感情の内部ではとどまらずに、人格構造のレベルで起きる、自己操縦心性のメカニズムによる嘘で、原則として意識的努力で「解く」ことはできません。
しかしこれが「解ける」現象があり、それが心性崩壊ですが、その際に同時に起きる感情の膿の放出という現象から、自己操縦心性は感情の膿を否定し去るためのイメージを作り出していることが考えられます。
それを本人は自己理想だと思い込むわけです。しかしこれはもう健全な自己理想の役割は果たしません
これへの理解およびアプローチをこのあと説明します。

3)第I層(魂の荒廃感情層) ... 「魂が魂についた嘘」(復讐心)

III層およびII層の「自分への嘘」を解いた時、第I層の「魂の荒廃感情」が露わになってきます。これ自体もかなり複雑なもので、一面的な理解およびアプローチでは取り組めません。

その全体についてはここでは省略しますが、魂の荒廃感情の中で「復讐心」が大きな役割のものとして取り組み対象になります。
そしてこれが最も深い層における「嘘」になります。
「魂に嘘は効かない」と書きましたが、そうではない、もう一種の「自分への嘘」があったわけです。それが復讐心であり、ハイブリッドにおいてこれが「魂が魂についた嘘」と位置付けられます。

第2段階の実践である「感情分析」では、これを解くことはできません。できるのは、ここに到達するまでです。
その先は第3段階になります。結論を言葉だけ出しておけば、復讐心という嘘を解くことができるのは、ただ「命」だけになります。

それでも、第2段階が成された時、答えはすでに出始めているんですね。それは「心」の嘘が解かれることで、「魂」が「心」の声を聞き始めるようになっているからです。そして「心」が自らの嘘を解いた姿勢を、「魂」が自らも行なうべきこととして、受け入れ始めているからです。
この先は第3段階で考察しましょう。


こうした「嘘の構造」の中で、人は何から逃げようとしているのか。
一言でいえば、「自己否定感情」と「現実」からです。そうして「理想」の嘘「イメージ」の嘘に走る。ただしこの底には、意識制御不可能な感情の膿自己操縦心性というメカニズムが介在している。
これが、人間の心の問題なのです。

これを全ての人に分かりやすい話として説明するという至難のわざ(^^;)はまた心理学本原稿でチャレンジするとして、ここでは上記の3層の「嘘」の要点の説明を続けます。


魂の治癒成長への実践-14 / しまの
No.1175 2007/02/15(Thu) 15:30:18

引き続き「第2段階」序論ですが(あくまで序論です)、魂の治癒成長への歩みの鍵となる「嘘」「愛のいらない楽しみ」について返答メールで書いたものを抜粋して紹介します。

多少前後の文脈は省きます。ま先のカキコへの言葉のつけたしとして読んどいてもらえれば。

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■「人の悪意に向く」vs「悪意のない世界への望み」

「人の悪意を必要とする生き方」について、それを不合理で利に合わないと考えるアプローチはあまり意味がないです。「不合理だからやめなければ」という思考自体が、「人の悪意を必要とする生き方」の意識土台に属するからです。基本的に破壊優越の世界ですね。

選択肢はそうではなく、全く別のものがはっきりとあります。
それは、そうした「悪意」のない人物や人間集団に近づく願望に積極的に向くことです。落ち度なく理想的な相手と思える他者に自分が近づくならどうなるかを、はっきり見据えることです。
すると「自分の中に抱えた悪」の正体が見えてくるでしょう。

実際Aさんが書いたことも、その文脈のものはそんな感じになっていますね。「素直な親しみ感情」が見えると自分の中の「根源的な悪意」を漠然と感じるということで。

「実際に悪意を持っている人間がいる」に目を向けると、心理構造が切り替わります。自分の中の悪意はすっかり視界から消えます。その代わりに破壊だけの行動結果になります。まるで悪意の表れかのようにです。

ハイブリッドが示す方向性とは、「素直な親しみ感情」と「根源的な悪意」の方ですね。これは魂の感情です。
「実際に悪意を持っている人間がいる」は、その魂の感情に目をそむけた、心の表層の感情です。

ただその魂の感情には、出口がないです。
そこで出口への鍵を与えるのが、「心」の役割です。2つの鍵がありそうです。


■魂の荒廃と浄化の軸は「嘘」

一つの鍵は、魂の荒廃と浄化の軸は「嘘」であることです。

これを、「素直な親しみ感情」と「根源的な悪意」に向き合う中で考えるのがいいでしょう。つまり、今までの流れだと、「親しみ感情をどう振舞えるか」への焦りの思考に捉われると思いますが、そうではなく、そうした焦りの大元にある、魂の本当の感情と、「根源的な悪意」の正体を探り続けることです。

どうゆうことかと言うと、魂の荒廃と浄化の軸は、「愛」ではなく「嘘」だということです。魂は心がついた嘘で荒廃化し、嘘を晒すことで浄化に向かいます。そして浄化と成長の結果、愛が増えます。

これは、魂の感情が元々、全て「愛」に根ざしているからです。全てが愛の表現です。その状態の中で愛を考えても、堂々めぐりなんですね。「愛」「親しみ」はいったん思考から外す方が正解とも言えます。
そしてただ、自分の真実に向かうことです。

それが最後に、愛を増大させます。

ということで、内面においては「親しみへの努力」よりも「自分の中の嘘を解く」です。


■魂を「楽しみ」に導く

「親しみへの努力を捨て自分の中の嘘に向かう」ことは、かなり「愛や親しみの不明」という事実を晒すことになるでしょう。
まず外面においては、そうした内面は内面のこととして、建設的に行動することを努めることです。まあ気分が塞ぐとそれもなかなか難しいですが、とにかく仕事の目的に淡々と直目していればokです。

そして次の内面の鍵です。
それは、魂を「楽しみ」に向かわせること。この文脈においては、「愛と親しみがなくても存在する楽しみ」になるでしょう。
これは必ずそうしなければなりません。これは魂を成長させるための、「心」の義務なのです。

なぜなら、それがやがて「愛」を育て増やすための芯になるからです。

これは、魂自身の中にある、全く別の世界を、「心」が刺激し導く作業ということになるでしょう。
あたかも、敵と戦うことに自分の存在意義を認めていた戦士が、敗戦し戦争が終わったことを受け入れるようなイメージにかなり近いです。
今まで描いていた、勝利の栄光のようなものではありません。全てを失ったような喪失感の中で、目の前にある草木の美しさを見るような、ささやかな喜びに目を向けることです。
そしてその中から、継続的な活動につながるような楽しみを見つけていくことです。

それが魂を育てるための、心の義務なんです。

そしていずれ、そのような楽しみ活動を軸として、人間関係を育てていく。
これがハイブリッドが考える、最も着実な「愛と親しみを育てる」方向性です。

魂論的に言えば、これは魂が持つ「神の国」の世界から、魂が持つもうひとつの「放たれた野」の世界へ、魂自身を自立させることです。
今までそれを主に「論理命題」の話としてだけ書いていましたが、実践面においては実は「論理命題の選択」では必ずしもないんですね。それだと上述のように「破壊優越」の中の堂々めぐりになる。

「神の国」から「放たれた野」へ旅発つ。その鍵は「論理命題の選択」ではなく「愛がなくても存在する楽しみを見出す」ことだということです。


■「現実」に向かう

上述の2つの鍵へ向き合うのを、「第2段階」の主な内容にしようかと考えているところです。主に内面取り組みの面です。

「第3段階」、これが最後の段階になると思いますが、あとはその内面方向性を携えて、「現実」に向かうことです。

すると、「あるべき通りではない現実」が必ず通る道となります。そこでありのままに痛み悲しむことが「現実を受け入れる」ことになるという体験が必ず出てきます。
その時、現実を受け入れない場合は、怒りが起きます。これは空想に立つことです。それが「自分への嘘」であることを知るのが実践となります。
補足:怒りを無理に直接捨てようとするのではなく、怒りを嘘として知ることがミソになります。

現実体験による「現実性刺激」が、心性崩壊を導き、感情の膿とアク毒の放出を促すことが起きます。
それがある程度の規模以上になると、「嘘が暴かれる」痛い体験になるでしょうし、緩いものであれば、自分から嘘に気づくような形になるでしょう。

いずれにせよ、嘘の解除を是とするのがハイブリッドの方向性です。
それは、嘘を知り、嘘を許すことです。
つまり、嘘をやめるとは、嘘を否定し責めるることではありません。それは再び嘘になります。
そうではなく、嘘をつくしかなかったほどの自分の逆境を認め、嘘をつくことを人間の不完全性の一つとして、肯定し許すことです。嘘が実際になくなるのは、こっちの姿勢なんですね。

魂の浄化と成長が起きるのは、その現実体験の中でです。

さらにその先を言いますと、現実を原点として、自分を自分で支えることができるのであれば、相手が変わる必要はないということです。
空想を原点として、自分を自分で支えられない時、「変わるべきは相手(補足:これは外から眺めただけの自分という相手の場合ももちろんあります)だ」という怒りが起きます。これは何も生み出しません。
そうして現実を原点として自分を自分で支える安心感安全感に立って、次に、「相手を変える技術」というノウハウが出てくるわけです。この先は人生が豊かになる方向だけになります。
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ということで、明日またスキーに出るので来週になるかと思いますが、いよいよ第2段階の実践内容をずばり定義しようと思います。
「魂への取り組み」で最終的に取り組むのは、魂の復讐心が大きな対象になり、それを捨てる方向への内面格闘を定義しようと思っていますが、「自分に向き合う価値を知る」という第1段階の次、では自分にどう向き合うか第2段階は、「自分自身への嘘を解く」ことが主題になります。

どうゆことか。
自分自身への嘘が、あまりに多すぎるんですね。魂の復讐心に取り組んで怒りを根底から捨てるということなど、とても問える状態じゃない。今までのハイブリッドでなかなか変化できない方は、例外なくその状態です。

そのメカニズムを自分自身で知る、新しい視点を定義します。
それを活用し、自分自身への嘘を解いた時、全てがさっぱりとするのではなく、自分の魂の挫折の真の姿に向き合う、苦しい次の段階が、実は待っています。しかしこれはもう、答えが出たのに等しい段階になります。

そこまで理解したら、実際その道に進むかどうかは好きにするのがいいでしょう。
いつも言っている言葉ですが、「選択」は自由に委ねられます。


 
追加補足 / しまの
No.1179 2007/02/22(Thu) 11:57:40

「人の悪意を必要とする生き方」と書いたのがいまいち分からないという質問が寄せられましたので、ちょっと補足しますが、紹介した返答メールの前にはしょった部分がありましたね。それがその説明でしたので、追加しておきます。

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■「人の悪意を必要とする生き方」

>他人の悪を暴くというような、正義感を伴った猜疑心の正体は、自分の悪意から人に拒否される事の恐怖(への反動)だった。でもその自分の底にある悪意自体が、形がなく何だか分からないということ。

「自分の中にある悪意」はアク抜きによって自覚できなくなります。またアク抜きによってその衝動は「悪意ではなくなる」のも事実と言えます。それでも「悪意ある自分」という遊離したイメージが残るというメカニズムです。
それが人に拒否される恐怖から、人の側の悪意を責める。この中に含まれる「自分の中にある悪意」がアク抜きされ、正義感を伴った猜疑心になる。
永久ループになります。

>また実際に悪意を持っている人間がいることと、どう関係付けていいのか分からない事。

永久ループを抜ける鍵が、その疑問の向こうにあるでしょう。

「実際に悪意を持っている人間がいる」ことは、事実でしょう。
一方、それに「意識を向ける必要」があるかという話が出てきます。
そして、人の悪意に意識を向ける必要のある心理構造があるということです。いわば「人の悪意を必要とする生き方」です。

まあ、人の悪意を責めること以外に自分に何も持っていない者は、それにすがるということになるでしょう。自分の存在感を、人の悪意に依存するわけです。
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で返答メールとしては、そうした「人の悪意を必要とする生き方」を不合理だと「やめよう」と考えてもあまり意味がないと続けているわけです。「よくないからやめる」と言っても、「ではどうするのか」という明確な選択肢を理解せねばならないんですね。

それが解説中の第2段階になるわけです。「あいつが」という姿勢を続けるのを選択するか、その姿勢を生み出した自分の魂の真実に向き合うか。
この場合の後者の選択を見る道筋は、多少複雑です。「実際の他人の悪意」を責めるのは、自分の中にある同じ悪意を否定し去るための姿勢ではないかと、自分に問うわけです。ここには、「悪意を責めるのは善意だ」というパラドックスがあり、それが「自分についた嘘」になるでしょう。
実際には、「悪意を責める」ことが、同じ悪意の中にはまっていくわけです。その悪意を自分の中においては否定するために、さらに他人の悪意を責める。上述の通り、永久自己循環ループになります。

これについてより整理した説明を、「自分への嘘の内容」における「高い理想の嘘」としてこのあと説明します。

そして、さらに、そのように「自分についた嘘」を暴いた時、それを責めても、やはり意味がない。「破壊優越」の轍の繰り返しでしかない。
そこで「現実において生み出す」というのが、選択肢になるわけです。これは第3段階になります。自分への嘘を解いた先に、これが問えます。ただし、このためには第3段階でもう一つの「嘘」に向き合わねばなりません。「魂が魂についた嘘」です。これは感情分析でも解けない、別のアプローチになります。
これは第3段階で説明します。

ということで、この辺は一番複雑な部分で、まだかなり長い説明が必要です。
引き続きの解説を参考下さい。


魂の治癒成長への実践-17 / しまの
No.1178 2007/02/21(Wed) 12:38:49

■第2段階のターゲット感情

第III層から第I層つまり「嘘をつき終えた感情層」から「魂の挫折荒廃感情層」へと解いていく道筋を簡潔に説明しましょう。
十分に整理された心理メカ理論はここでは書かず、ここ最近の僕の考察の流れを書いてみると、本質が浮き彫りになってくると思います。
「嘘をつき終えた感情」とは何か。この聞き慣れない心理用語ながら、その内容は実に直感的に分かりやすい感情が、全ての鍵になるようです。

まず、取り組みたいターゲット感情は、やはり「怒り」です。
第1段階では、「自分が自分をどう感じたかの責任が他人にある」という、あまりにも理不尽な論理による怒りの解除を、まず取り組むものとしました。それは「魂の成長責任放棄と外界へのなすりつけ姿勢」が生み出した、いわば心のバグ論理です。
魂の関係性」を理解し、自分に向き合うことの価値を知ることにおいて、その理不尽な怒りと、まさにその自らの理不尽さに向けられる自己嫌悪感情の軽減へと取り組むわけです。

でそうやって自分に向き合ったとして、実際何を見据え、取り組み対象にするのかです。

それは「自分を見る人の目」への反応として起きる怒りが、典型的なものになります。それは大抵の場合、自分を見る、人の不当な目への怒りです。同じように、「自分がどう思われるか」という緊迫状態が、取り組み対象にしたい感情状態として浮かびました。

なぜならそれは、「魂の放棄」の結果最終的に意識に現れる、典型的な感情だからです。
人は自らの魂を切り捨てた時、より正確には魂の挫折荒廃感情層を切り捨てた時、「人の目」によって生かされる存在になります。同時に、感情の膿が生み出す緊迫感が相手との関係の問題として映し出される。だから上述のような「どう思われるか」という緊迫状態が生まれる。
魂によって生きた時、人は魂によって生かされる存在になるので、人に「どう思われるか」は、この人間の今生きる生命力にとってあまり取り立てた問題ではなくなります。加えて、感情の膿の緊迫感を外界の問題ではなく、心理メカニズム現象だとしてそのまま流す「悪感情への耐性」姿勢によって、内面のストレスが根底から解消されると同時に、内面に芯を得た心の強さを得るのです。

ですから、「人にどう思われるか」をめぐって起きる怒りと緊迫感に際して、ハイブリッドとしては「選択」を提示したいわけです。
そうやって「人にどう思われるか」に生き、目の前の相手にどう思われるかが人生の一大事だという考えを取り続けるのか、それとも、自分の魂が望むであろう、全く別の世界に向くのか、です。

ただし、この選択を問うことはちょっと無理があるように感じます。
まず、後者は今は全く見えません。選びようがない感が多々あります。
また、この「選択」を、「人にどう思われるか気にするな」という安直な人生訓として解釈したら、それはもうまさにハイブリッドが示したい方向とは逆なのです。それは「心」におけるただの強制であり、人に言われてそうするとしたら、まさに「人目による生き方」の世界です。
そうではなく、選択肢とその背景となる心理メカニズムを、自分自身のこととして実感として納得した上で、自己の決断として選択することが重要になるわけです。それが「成長」を生み出す「体験」の基本だからです。

だから、その形で可能になるであろうことを、「魂への取り組み」として定義しているわけです。
その最初は、魂について理解することです。自分に向き合う基本的な姿勢を持つことです。これは分かると思います。
次は、「自分への嘘を解く」なんですね。なぜなら「自分への嘘」を解かないと、選択が見えてこないからです。「自分への嘘」の向こうに、選択がある。

どうゆうことか。それについてちょっと考えていたわけです。
片方には、「人にどう思われるか」という怒り緊迫感の世界がある。
少し向こう側に、「自分についた嘘」があります。代表的な嘘は、「自らは望まない」という姿勢において実は多いに望んでいるという嘘です。
この「嘘」を直接解くことはできません。なぜなら、実際のところ「望んでいるという感情」が消えているからです。
その代わりというか何なのか、「人にどう思われるか」への反応として瞬時に起きる感情は、もはや選択不可能な自動的感情として湧き怒ります。「選択」は、「人にどう思われるか」の感情にではなく、もっと前にあるのです。

どうゆうことか。分かりましたね〜。
そもそも心理障害感情とは何なのかという基本的理解を刷新する、極めて単純な答えが見えた次第です。



■障害感情とは実は「嘘をつき終えたあとの感情」

上述の通り、まず見えたのは「人にどう思われるかの怒り緊迫感」と「自らは望まない姿勢において望むという嘘」です。
で、そんな風に、「自分がどう見えるか見られるか」の緊迫感情と、「嘘」の関係を考えたわけです。

答えは実に単純です。「あとは自分がどう見えるか見られるかだ」という緊迫感情とは、まさに、嘘をつき終え嘘に徹することを決め込んだ人間が抱く感情そのものです。
自分が何のためにその嘘をつくことにしたのか、その経緯はもはや視野の彼方に去っています。あとはもう、嘘が成功し続けるかどうかだけなのです。だから、「自分がどう見えるか見られるか」があまりに重要な問題として前面になるわけです。

そう考えてみると、そもそも心理障害感情とはどんな感情なのか、その「普通の感情とは違う」性質について、今までのどんな説明よりも直感的に分かりやすいものになるように感じられました。
それは「嘘をつき終えたあとの感情」であるわけです。
誰々にこんなこと言われた。こんな風に見られた。そのちょっと普通でない緊迫に満ちた怒り。うつの人が抱く、「もう駄目だ」という感情。沢山の不安感。
まさに内面を嘘をかかえている人間の抱く感情なんですね。人に疑われることへの過敏、そして嘘でもう支えられないという破滅感、そして嘘がばれ破滅することへの不安恐怖というわけです。
これは自分への怒りについても言えるでしょう。嘘に徹するための「姿」だからこそ、それに合わせられないことを失敗として、緊迫感の中で激しく自分を怒るわけです。

ですから、心理障害感情とは、基本的に「嘘をつき終えたあとの動揺感情」という性質を持つものだと言えます。
さらに、面白い、というのも何ですが、決定的な特徴が加わります。
それは基本的に「嘘をつき終えたあとの動揺感情」なのですが、自分がどんな嘘をついているのか自分でも分からないということが加わります。
さらに、この本人は嘘をつくことへの激しい嫌悪軽蔑を抱いているというのが加わります。

なんたる錯綜という感がありますが、何よりもぴったりくると、自分自身の体験からも感じます。この3要素が、まさに心理障害感情の特有性を説明するものになるでしょう。

ここまで来れば、「選択肢」が多少は見えてくるのではないかと。
「人にどう思われるかが人生の一大事」だという感情にとどまるか、それとも、その動揺感情を生み出した、「自分でも分からない嘘」を解く試みのために内面を向くか、です。

それが解けた時、多いに何かが変わることが、漠然と感じられるのではないかと。
午後出かけるためまた明日になると思いますが、その具体的内容の説明に進みましょう。


魂の治癒成長への実践-16 / しまの
No.1177 2007/02/20(Tue) 16:35:34

■魂への取り組み第2段階の実践概要

先のカキコで書いたように、「魂への取り組み」の第1段階は、「魂の関係性」についての理解が主なものであり、実際に自分を変えていく歩みをまだ行なうものではありません。
「魂の成長責任放棄と外界へのなすりつけ姿勢」の解除はするとしても。これは魂の積極的荒廃への歩みをやめるという程度の話です。

第2段階から、明確に「自分を変えていく」という話が始まるのですが、それは同時に、選択が問われることになります。
自分の魂に近づいていく生き方を選ぶのか、それとも、自分への嘘をつき続けて生きていくのかです。

どっちもあまり楽なものではないことを十分に心に入れるのがお勧めです。この「選択」はそう簡単なものではありません。ハイブリッドが推奨するからと安直に「選択したつもり」になったとしても、それがまさに「自分への嘘」の中にとどまる姿勢かも知れません。

自分への嘘をつき続けて生きるのは、その時は楽ですが、人生がジリ貧になって行きます。長い目で見ると、真綿で首を締めるように、知らぬ合間に、生きることの苦痛が増すことになる可能性が高いように思われます。

魂に近づくとは、自分への嘘をやめるという方向変換となります。これは自分が自分に嘘をついていたことを自分自身に晒すという不名誉だけではなく、さらに苦しいこととして、自分への嘘によって目をそらすしかなかった、澱んだ感情に対面しなければならないという事態をもたらします。
しかしその先には、人生を通して身をさいなみ続けてきた嘘のストレスからの大きな開放と、魂との盟友関係を確立し、魂によって生きていくという、人生の豊かさへの道があります。

何もそんなことをしなくても、いいんです。自分に嘘をついて、適当に回りに合わせ流されて生きていくのも、一つの生き方です。実際のところ、それが現代人のマジョリティと言えるほどなのかもしれません。それで、もう大した失意もなく、人生を終えられるかも知れません。その胸中など僕は知りませんが。

魂に近づくことを選択するのであれば、感情分析の実践になります。これは心理メカニズム理論の学習と、それに基づく自己理解が基本になります。心理学を専門的に学んで行なう、専門技術の実践という、日常生活の中の今までの日常思考とは違うことをするわけです。

これは当然、「自分をこんな人間」にという、人目もしくは自分自身を眺める品評の目には一切無関係に行なわなければなりません。まあそうした姿勢はどうしても障害が強制的に生み出すものでもあり、第2段階つまり感情分析を始める段階で十分にそうなれるのは難しく、それで仕方ないし、そんな中で進めるしかありません。
まずは第1段階で、人目には一切無関係に自分に向き合うという姿勢を考え始めてもらうのを、この第2段階の感情分析につなげることになります。

心理メカニズムとして、魂に近づくとは、感情の膿に近づくことであることも理解しておかねばなりません。
意識が破滅するかのような恐怖感の膿があり、自己操縦心性はそこから自意識を守り、防御するための強いバイアスを「心」にかけています。それが「自分への嘘」になるわけです。
「自分への嘘」を解いた先に、感情の膿が現れることを知っておくのがいいでしょう。それに対処できるために、外面における思考法行動方として、感情と行動の分離と、建設的な価値観を十分に学んでおく必要があります。
そして実際に感情の膿に出合った時、もう頭は働かなくなりますので、その中で何とか自分を保つための「悪感情への耐性」を心がけることを知っておかねばなりません。

実際、そうした準備ができた分において、心理メカニズム学習に基づいた自己理解によって、「自分への嘘」が解かれるのです。
それが感情分析です。ですから、下手な進め方をしたからと言って、準備もなしに意識が破滅するような危険はありませんので、その辺はご安心を^^;
それでもやはり感情の膿に触れるとは、破滅を味わうような体験でもあります。それが現実を示すものではないという思考法を先に用意しておくことが大切です。


■6つの「心理層」概要

感情分析の進展は、深い魂の感情を置き去りにして、その上に積もり重なった幾層もの「心理層」を、表層にあるものから「嘘を解いて捨てていく」という感じの内面取り組みになります。

この「心理層」として、6つの層を考えています。ここではごく概要を書きましょう。あとで絵を書きたいですね。
魂の最も深い心理層から順に、次の通り。

ゼロ層(魂の生命層) ... これは完全に未知のもので、荒廃した魂のさらに深層にあるものです。

I層(魂の荒廃層) ... 挫折し荒廃した魂の感情の層。ここでは「望み」と「復讐心」の分裂葛藤が起きています。感情の膿もこの層に属しています。

II層(自分への嘘と本心の層) ... 独特な論理によって、魂の挫折感情や感情の膿を否定する論理が生み出されます。自分への嘘が実行される、ストレスに満ちた心理層です。自己操縦心性はここに属しています。

III層(嘘をつき終えた意識土台) ... 心理障害メカニズムによって最終的に意識表面に湧き出る感情です。いわゆる自動感情自動思考として、一応の論理性があるもの。

IV層(怒りの洪水層) ... 心理状況悪化によって表面に現れる、もはや論理性のない、怒り破壊衝動だけに心を占め尽くされる状態です。これは嘘が破綻し、嘘で支えることもできなくなった状態と解釈できます。

V層(純粋知性層) ... 心理障害メカニズムに侵されるのを免れた、純粋知性を働かせることのできる領域です。心理障害の治癒克服は、これが多少とも残されていることに依存します。ハイブリッドでは、これが失われたものを「精神障害」と分類しています。

こうした構図において、感情分析として実際に行なうのは、III層(嘘をつき終えた意識土台)を解いてI層(魂の荒廃層)に近づくことです。
V層(純粋知性層)は感情分析を行なう主体そのもので、分析対象ではないです。IV層(怒りの洪水層)は、第1段階で「自分に向き合う姿勢」を学ぶことで何とか脱出しているのが準備条件と考えられます。

つまり、実質的に向き合う感情とは、「嘘をつき終えた感情」と、その根底にある「魂の挫折荒廃感情」です。前者を解き、後者に近づく。
II層(自分への嘘と本心の層)は、ストレスに満ち、そこに意識がとどまることはできません。一瞬で通り過ぎるか、心性崩壊の形になります。

そして最後に、「ゼロ層」ハイブリッドの目指すものです。I層からゼロ層へは、もはや感情分析では近づけません。魂への取り組み第3段階の話になります。

十分に説明するためには、それだけで本が一冊できあがるのですが、最も要点となる話を続けます。


魂の治癒成長への実践-15 / しまの
No.1176 2007/02/20(Tue) 10:45:06

■第1段階をふたたび整理^^;

スキーに出かけるとどうも考察が途切れるからでもないのかあるのか(^^;)、また全体方向性から話を始めますと、ハイブリッドの「魂への取り組み」とは、ようは「魂の荒廃」から「魂の治癒と成長」への歩みであるわけです。

第1段階は、「自分に向き合うことの価値を知る」と言いました。これは要は、「自分が自分のことをどう感じたかの責任が他人にある」という、とんでもない魂の成長責任放棄と外界への押し付け姿勢をやめることです。
その魂の成長責任放棄姿勢は魂の荒廃を膨張させると同時に、自己嫌悪感情を膨張させる姿勢ですので、それをやめることは魂の荒廃の膨張をそれ以上は停止させ、広範囲に蔓延した自己嫌悪感情を低減させるという最初の効果を与えてくれると思います。
ということで、第1段階は、まずは魂の荒廃の膨張を停止させることです。

こうして整理すると、この後に何をするのかという話も、かなりすっきりと、ごく僅かな本質を行なうだけであるのが分かってくるんですね。
つまり第1段階は魂の荒廃化の膨張を止めるだけで、自分に向き合う価値を知るだけでは、「治癒と成長」はまだです。

その意味では、2/8「魂の治癒成長への実践-10」で書いた「自らの魂を自分で支える意志」は、まだ早いですね。そんなもの、問える段階ではない。
話が紆余曲折しますが、まあ魂の治癒成長実践という難しいテーマをとにかく明快にする考察途上ということで。
自らの魂を自分で支える意志」は、今は第3段階の話になるように感じている次第です。
第1段階ではまだ、魂なんてそもそも見えちゃーいない。第1段階はあくまで準備段階ということで、「選択」「意志」はまだ問わない段階と言えるような気がしてきています。
心理学本の方では考察し終えたものをすっきり分かりやすく書きますので^^;


■「自分への嘘」の重み

一方、2/8「魂の治癒成長への実践-11」での第2段階「自分への嘘を解く意志」という話が出てくるというのは、そのままです。
つまり、「魂への取り組み」で、実際のところ「選択」そして「意志」としてまず何をするのかは、「自分への嘘を解く」です。

ハイブリッド全体での、この重みを再確認しておきたいと思います。
まず「心への取り組み」は、建設的思考法行動法あるのみです。これは「感情と行動の分離」を前提にしますので、感情にはまだ一切タッチしないこととして行ないます。
感情にタッチする必要がある場合に「魂への取り組み」をするのですが、実質的に何をするのかというと、まず「自分への嘘を解く」なんですね。

「感情と行動の分離」をして、外面への思考と行動は建設的なもののみにする。
次に、自分への嘘を解いていく。


そうした項目立てになるほど、重みのあるのが「自分への嘘」だということです。
これを解かないまま、「自分の心を良くしようと」すると、完璧に方向誤りになるということです。


■魂に嘘は効かない

なぜ「自分への嘘」がそんなに重いテーマになるのか。この理由は実に単純です。
自分に嘘をついていると、魂は全く成長しないからです。

この「嘘」の内容については次のカキコ以降で説明しますが、心理メカニズムとしての外枠を言いますと、この「自分への嘘」心が魂に嘘をついているというものではあまりなく、「心」が「心」に対して嘘をついているというメカニズムになります。「心と魂の分離」に絡んで起きていることというより、人間において発達した「自意識」や「空想」において起きていることであり、「自分に嘘をつく」という、そのままのイメージの出来事です。
まこうした心理メカニズムおたく的な説明(^^;)は心理学本では省略しますが。

どうゆうことかと言うと、魂には嘘は全く効かないということです。

単純に、効かない。それは例えば、ある手品で子供は騙せても大人は騙せないという形での「嘘が効く」ということが、そもそも全く比喩にならない形で、魂に嘘は効かないです。
なぜなら、魂は自己の根本的な源泉であり根底だからです。そして自分が自分に嘘をつくとき、嘘をつく相手は自分なのですが、そうして嘘をつこうとしているのも自分なので、自己の根底である魂はそれを知っているからです。

ただし、魂は自分(心)が自分(心)に嘘をつこうとしていることを知っているのですが、魂は(心が)直接感じるものではないので、自分が自分に嘘をついていることについて魂が抱く感情も、直接は感じ取られないことに、まずなります。
この結果は何を意味するのか。ちょっと取り組み実践の話からメカの話に流れますが、まずは外化されて体験されるということです。つまり、嘘をついているという猜疑と軽蔑と嫌悪を、魂が「心」に対して抱くのですが、本人の意識上は、他人に猜疑と軽蔑と嫌悪を向けられていると体験するということです。

仔細なメカにはあまり踏み込まず、根本的な話を続けますと、魂には、嘘は、そしてあと一つ重要なものとして、強制は、効かなということです。
自分に嘘をつこうとしても、魂はそれを知っており、全くそれに動かされることはなく、ただそんな自分への不信と軽蔑を抱きます。
感情を良くしようと何らかの強制を自分に加えても、魂には全く効かず、魂は反発を感じます。
これが基本メカニズムです。

これは実質的には、魂の荒廃がまだ膨張の中にあることになります。
第1段階での「魂の成長責任放棄の解除」によって、加速度積極的な魂の荒廃膨張は止められると思いますが、緩やかな、消極的な魂の荒廃膨張は続きます。
なぜなら、我々は生きているので、厳密な現状維持停止はあり得ないからです。魂は本来、成長し続けるものなのです。積極的な魂の荒廃膨張はなくなっても、魂は自分が時間に取り残されたままであるのを感じています。結局、月日が経つごとに、魂はすさんだ感情を深めているのです。

一方、「心」には多少嘘と強制が効きます。このギャップが人間の複雑な内面心理を作り出すわけです!
人は自分の心を「良くしよう」と、自己の深い真実から目を反らし、自分への嘘と強制によって心を多少「良くする」ことが実際のところできるように一時的に見えるのですが、それは同時に、自分自身の魂との縁を切り、魂からの静かな自己軽蔑の視線に悩まされる生涯を歩み始めるわけです。
その正体の見えない自己軽蔑の視線に苛立ち、自分に向けられると知覚する他人からの猜疑と軽蔑と嫌悪の視線に、最後に湧き出るのはただ「破壊」への衝動です。もう嫌だ!そんなものなくなれ!と。

そうした「自分への嘘」には、再びメカから言うと、2種類があります。
「心」が「心」に対してつく嘘。これは意識的努力で解除が可能です。
そしてもう一つが、自己操縦心性です。これは「嘘をつき終わった形で心が動く」というものになります。これが厄介で、意識的努力では解除できず、心性崩壊という特別な治癒現象が必要です。

魂論から心性崩壊を詳しく表現するのはまたの機会に譲り、一貫して言えることは、自分への嘘を捨てた時初めて、魂が「心」の声を聞き始めるということです。
今まで、魂についてはもっぱら、「心」が魂の声を聞く必要があるという言い方ばかりしてきました。これは「自分への嘘」の問題を取り上げなくても言えることだったわけです。魂と心が分離した人間という存在は、基本的に魂の声をないがしろにする傾向がある。
だから積極的に魂の声に耳を澄まし、それに応えると同時に、魂に対しても積極的に語りかけることが大切なわけです。自分はその声に応えて生きると。何も恐くはないのだと。

そうして魂を成長させるわけです。そうして生きる過程が、魂を成長させるわけです。
「自分への嘘」がなければ。

「自分への嘘」があると、こうした話の全てが覆されたものになります。


■心と魂の盟友関係の回復へ

ですから、ハイブリッドにおいて、「感情と行動の分離」の次に位置付けられるほど、「自分についた嘘に向き合う」ことが重要な取り組みになってきます。

建設的思考法行動法が、魂に受け取られるようになってくる。自分についた嘘を捨て、自己の真実に生きようとする「心」に対して、魂は尊敬の念を抱くようになるようです。
魂のエネルギーを、心がこの人生と世界を生きるための基本的活力として活用するようになってくる。
魂と心が盟友関係を確立するわけです。

これがあまりにも明快に、人生の豊かさを約束することである一方で、そこに至る道のりにある深い谷を言わねばなりません。
自分についた嘘に向き合い、それを捨てるということの、価値ある苦しみということになるでしょう。これは冗談掛け値なしに、苦しいことになります。これが魂論からの心性崩壊ということになるのでしょう。

なぜなら、そもそも克服不可能かと見えたほどの苦境が、事実あったからです。それを実は克服が可能なものだという、新しい人間観人生観を確立した上で、自分への嘘をついた大元の原点に一度立ち返る勇気を選択するか。
これが「選択」になります。

そうした重み、取り組みの先にある報酬と、そこに至る前にある苦しみ
そうした全体を踏まえて、初めてこの「魂への取り組み」における「選択」が明瞭なものになってくるように思われます。現状と、変化への方向性と、報酬と、払わねばならない代償と。

実際こうして、話は入門編で書いたレベルの話とも符号してきます。「あるべき姿」という道徳的な思考に別れを告げることを書きました。事実、道徳的思考とは、結局のところ心への嘘と強制であるように感じます。
これが現代人の生き方の基本である時、「魂への取り組み」とは、現代人の生き方の根底を問う作業であるように感じます。

かくして、いつもの言葉で次のカキコにつなげることになります。
ハイブリッドが示すのはそこまでです。選択は自由ですと。
ただし、『マトリックス』でモーフィアスがネロに選択させた赤と青のカプセルのように、一度「真実」を選んだら、もうあと戻りはできないですけどね..

ということで、「自分への嘘」の内容面を次に説明し、第2段階の実質的実践内容の定義へと進みます。


魂の治癒成長への実践-13 / しまの
No.1174 2007/02/15(Thu) 12:44:02

早いとこ心理学本原稿に移りたいということで、第2段階以降を手短かに。と言っても、理論整理である限りつい細かくなってしまうのが毎度のことですが..。

■魂の感情と心の感情

「魂」の感情も、あくまでそれが感じ取られるのは、「心」に伝わって「心」で感じるわけですが、一方、魂を起源とはせずに、明晰意識の「心」だけでもっぱら司られる感情もあります。

例えば、図形や数字などのパズルやゲームを面白く楽しいと感じる感情は、魂は起源ではなく、もっぱら心の側だけの感情だと思います。「楽しみ」という感情は、基本的に脳の機能を活発化させ成長させるための触媒感情とも言うべきもので、そうしたゲームの楽しさ感情は、脳の高度な知的機能を発達させるために仕組まれた活性材なのでしょう。

このような考え方で、魂を起源とする感情と心だけの感情を、ある程度切り分けられるように感じています。ざっと言うと以下のような感じ。

魂からの感情は、基本的に「愛」についての感情です。そして「生と死」つまり「生命」そして「人生」に関する感情です。
心だけの感情としては、生理的感覚感情つまり衣食住についての感情、そして「生活」に関する感情が、魂はあまり関与しない、ごく目の前のことを捉える感情として動いているようです。
「性」はこの両者にまたがるものというのが僕の印象です。純粋な性欲そのものはかなり単純な生理的衝動に近いと思いますが、魂の感情が損なわれた時に性の感情がその代用品としての誘因を帯びる、というメカニズムがあるようです。そうでないとしても、「性」は「命の営み」という原初的意味があるので、多少とも魂はそれについての感情を持っているのでしょう。

ということで、我々人間は、魂の感情がまったく途絶えていても、それなりに生活をします。しかしそれは自分がこの世界を能動的積極的に生きていく存在だという感覚の欠けた、いわば自動生活機械としてただ時間が流れるのを待つだけのような姿になってしまいます。
その点「魂」の定義としては、1/30「魂の治癒成長への実践-2」で書いた「感情が湧き出る源泉体」は必ずしも正確ではない。「心」だけで湧き出る感情もあるので。1/4「魂の治癒成長論-2」での心の生命力の源泉体」がより適切な表現になるでしょう。

だからと言って、「心の感情ではなく魂の感情を選ぶ」という択一的な発想は、本来の健全な心の姿ではないことに留意する必要があります。豊かな魂の感情を裏打ちにした、現実への心の感情という表裏一体の姿が、健全な姿です。
しかし、魂の感情と心の感情が大きくズレてくるメカニズムというのが、人間の心にはある。それをどう見分け、どう選択していくかという課題が、現実として存在します。それを現代人に共通の課題として取り組む方法を定義するのが、ハイブリッドの目指すところになります。


■魂の成長と「愛の感情」の質の変化

「豊かな魂の感情を裏打ちにした現実への心の感情」という一体形が目指すものになりますが、そのために、ハイブリッドでは心と魂に対して全く異なる取り組みを用意するわけです。

「心への取り組み」は、「魂」と「現実外界」の仲介者として、「現実外界」に対する「魂」のための対外窓口としての役割、そして魂の成長責任を自覚してもらい、建設的思考法行動法の習熟に努めるのみです。
「魂への取り組み」は、魂の深い世界への理解に立った、独特なものになります。それを説明している次第。

ここでは、「魂への取り組み」による、魂の治癒成長の結果とは何かという話をしておきます。
それは、「愛の感情」の質の変化です。
魂が成長すると、内面の強さの感覚が増し、安心感安全感が広がり、「楽しみ」「喜び」「愛」の感情が増えてきます。「生きているという充実感」しかり。
こうした肯定的感情の全てが、魂においては「愛」という一元的な軸にある、と考えるのがハイブリッドです。
したがって、魂の成長は愛の質量共における増大という結果として基本的に捉えています。


これをにしたのが以下。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro5.jpg
説明としては2006/08/22「魂の成長の成り立ち-35:魂が求めるものへ-12」など参照のこと。


■「嘘を捨てる」と「愛のいらない楽しみ」という魂の成長への2つの鍵

そのように、我々が生きる上での肯定的感情の全てを、ハイブリッドでは結局「愛」という軸で考えており、結局「愛」を増やすのが目指す方向ということになります。
それをどのような方法で行なうのかの、ハイブリッドの基本的な考え方もここで書いておきましょう。

恐らくハイブリッドがこの点で極めて独自の思想に立つ心理学になると思いますが、愛を増やすのが目指す方向だからと言って、愛の感情を重視せよとは決して言わないのがハイブリッドです。
それどころか、逆です。愛はいったん目指す方向の視野から除外するとさえ言えます。愛は求めるものではありません。求めてはいけないのです。魂の成長のためには。

「求めることなく向かう」が「愛」についてのハイブリッドの推奨姿勢を表現する言葉です。

この点、『いやな気分よさようなら』デビット・バーンズがその言葉を強調して言っていたのが印象に残ります。ちょっと引用しますと。
------------------------------------------------
何かを欲しいと思っていることと、必要としていることの間には違いがあります。酸素は必要ですが、愛情は欲求です。繰り返します。「愛情は大人が必要とするものではありません!」 確かに愛する人と幸福な関係を持つことはすばらしいです。けれど、他人からの賞賛、愛情、または注目を、生きるためや、最高レベルの幸せを味わうために「必要」としてはいけません。
------------------------------------------------

まあバーンズはそう言うだけで、なぜそうなのかの心理メカニズムも説明しませんし、「愛を必要とはしない」ためには実際どうすればいいか、そして「愛を必要とはしない」代わりに何を求めればいいのかの説明もしていません。彼があくまで精神科医であり療法家であって心理理論家ではないからでしょう。しかしその言葉の強さに、豊富な臨床から彼が見出した一つの真実が表れているのでしょう。
ハイブリッドでは、それをメカニズムとして、そして「ではどうすればいいのか」までを説明するものです。

なぜ愛を求めてはいけないのか。「心」のレベルにおいては2つの理由があると思います。一つは「残存愛情要求」が一つの障害感情として、鵜呑みにすることなく、ただ流し看取るだけにするべき感情と、ハイブリッドでは位置付けていること。
そしてもう一つは、基本的にこの取り組みが大人の行なうものであるのなら、「与えられる存在」から「与える存在」になるという、成長自立の命題を受け入れる必要があるということです。

「魂」のレベルでは、そのことはさらに大きな一つのこととして説明できます。「魂」においては全てが「愛」の感情であるので、今見える「愛」の感情をベースに「愛」を考えると、成長を妨げる自己同着になるという問題があるからです。
だから、我々が心で見ることのできる「愛」は、魂の成長への鍵には、ならないのです。


では何が鍵になるのか2つあります。
1つ目の鍵は「嘘」です。これは確実に、愛を壊し減少させます。それを解くことです。

そして2つ目の鍵は「愛のいらない楽しみ」です。これに向かうことです。
なぜこれが魂を成長させ愛を増大させるのかの、直接的メカニズムはあまり明瞭なものではありません。まずは体験的に、確実に言えることです。
恐らく、それが「ただ生きる」という、魂の自然成長力の開放を促すのでしょう。これが最初に言った「楽しみは脳の機能の活性化触媒」と言った話とつながります。「愛のいらない楽しみ」と言っても、TVゲームの類はちょっとここでの推奨の範囲ではありません。人間関係を、愛を必要とすることなく築くための鍵として、それを活用するのです。それが魂の成長を促すような「生活体験」につながります。この辺の話はまたあとでもう少し詳しく考察するかも知れません。

若干説明の追加として、この話を書いた返答メールがありますので、紹介しておきましょう。


魂の治癒成長への実践-12 / しまの
No.1173 2007/02/14(Wed) 14:01:46

いまいちまとまりのないつれづれ風の記述ですが、魂への取り組み「第2段階」序説ということで。

■魂の成長へと生きる

魂への取り組み第2段階は「感情分析」がメインテーマになりますが、「自分に向き合うことの価値を知る」という第1段階、そして「魂の望みに向かう」という第3段階も通して、この「魂への取り組み」が一体何をしようとしているのかの全体の話を書いておきます。
つまりハイブリッドが何をしようとしているのかの根底です。
こうした根本の整理も、細部の整理と同時により明快に本質をついたものになって行くという考察作業の途上ということで。

1/30「魂の治癒成長への実践-8」で「魂の感情をベースに生きる」というのが魂論を踏まえたハイブリッドの基本指針だと書きました。
これはより大きな言葉で言えば、「魂で生きる」ということです。それがハイブリッドが成そうとしていることを表現する、最も明確な言葉といえます。
「生きる」とは、「現実を生きる」ことです。空想世界にとどまった姿を、ハイブリッドでは「生きる」こととはあまり考えていません。
なぜなら、「生きる」ということを、基本的に「成長」が伴うこととして捉えているからです。
現実を生きた時に生まれる「成長」は、人工的人為的なものではなく、その根源的成り立ちについて我々は完全に未知です。入門編で「自然成長力」と「自然治癒力」として言ったものですね。

ですから、魂の感情を現実に触れさせる、魂に現実を生きさせるということが、ハイブリッドが成そうとしていることなわけです。
そうして「魂の成長へと生きる」ことが、ハイブリッドが成そうとしていることです。


■魂の成長を止める「現実拒否否定」

従って、対比となる、お勧めでない「魂の成長を止める」こととは、空想にとどまり現実を拒否否定するというのが大枠になります。

この後より具体的に分析考察しますが、「空想」「イメージ」を描くのは、「心」の側の機能です。
これ自体を捨てるべきものとは考えていません。これは「魂」を骨と血とすれば「心」は肉と皮という、基本的な心の成り立ちで、とり除いて考えるのは意味のない話です。

問題はその使い方です。
健全な形においては、空想やイメージは魂の望みの実現形を心が描くことで、現実の中でそこに向かって自分を導くという、魂と心の素直な相補関係にあります。そして魂の望みへと現実において向かう行動の体験が、「魂が現実を生きる」こととして、魂の成長を生み出すわけです。

ですから、これの対照となる、魂の成長を止める姿勢とは、魂の望みに背を向け、空想に立脚して、現実を拒否し否定することです。
これが先のカキコで触れた、「損なわれた魂の感情に蓋をして自己像の殻を身にまとう」というものに発展していくわけです。魂の感情を否定して空想という心の殻をつくるわけですね。


■魂の感情を否定するのは魂自身の復讐心

具体的メカニズムの話に踏み込んできますが、魂の成長を止める姿勢には、「魂の感情の否定」と「空想立脚」という2つの心理要素があることになります。
空想そのものが有害無益ではないことは上述のとおりです。魂の感情に背を向けて空想に固執すると、魂の成長に逆行する形になるわけです。

では魂の感情に背を向ける感情は何から生まれるかといいうと、これもまた魂から生まれます。
これは「復讐心」だと考えています。魂の荒廃化の基本要素として説明したものですね。(1/17「魂の治癒成長論-13 」)

復讐心とは、何らかの形で自らが受けた損失に対する「仕返し」をするという感情です。ここには、現実において受けた損失という事実と、それを「あるべきでなかったこと」として怒り、その怒りを相手に向けるという、2つの要素があることになります。
この時、魂の成長は止まります。理由は単純です。心の時間が止まり、「生」が過去に向くからです。

ですから、ハイブリッドの実践の最大の根底も、「復讐心を捨てる」という、人類における心の基本テーマになるんですね。
多くの先人が、この「復讐心を捨てる」というテーマを語っています。復讐は何も生み出さない。復讐の連鎖を止めなければならないと。それは主に「何が真の利になるのか」という視点からのものだと思います。
ハイブリッドは、さらに深い、魂の摂理のようなものを見つめます。

ハイブリッドが考える「復讐心を捨てる」姿とは、そもそも自分に起きた損失を「あるべきでなかったこと」という観念を完全に放棄することです。怒りを完全に放棄することです。これが、「現実はそうでなくこうであるべきだった」という空想ではなく、現実を受け入れ、現実に立脚する心の姿勢だと考えています。
これと同じ姿勢をする人間を、めったに見ることがありません。TVではいかにも「自分は良識の側に立つ」という表情の著名人が、心の荒廃の中でエスカレートする「怒り」を嘆きながら、「でも正しい怒りもある」と言います。
そんなものは、ありません。

人間の抱く、全ての「怒り」が、実は「復讐心」なのかも知れない。そう感じます。
怒りが実際に役に立つのは、クマに襲われた時のように(^^;)、「今存在する身体的攻撃」への反撃をする場合です。現代人が体験する怒りは、そうしたものよりも、社会生活や人間関係の中での、精神的な怒りが一般的です。これは魂が望んだ何かへの損失を、あるべきでなかったこととして怒るということになるのでしょう。


■「深い悲しみ」が魂を成長に導く

そうした全ての復讐心、つまり「あるべきでなかった」という観念と怒りを捨てた時、魂には深い悲しみが湧くようです。その時、魂が成長に向かうと、ハイブリッドでは考えています。「心」が「魂」をそのように導くことが、ハイブリッドの示す「選択」です。

どうゆうことなのかと一考したのですが、一つは、それが「不完全性の受容」だということです。実際のところ、人間と現実は不完全なものなので、不完全性の受容を成さない限り、現実を受容し、現実を生きるということはありません。

そしてもう一つは、「悲しみが魂を成長させる」ということについて。これは悲しみの感情に治癒成長の作用があるという考えが浮かぶところでもありますが、実はそれ以前の、もっと実に単純な話なのかも知れないような気がしてきています。
それは単純に、「魂が現実を生きる」時、この不完全な現実の中で時にはあるであろう自然な姿であるという、ただそれだけのことであるような気がしています。根底にあるのは、魂で現実を生きるか、そうでないかの違いだと。
別に涙の効用なんて話じゃないし、泣けばいいというわけじゃない。ただ、魂でありのままに生きるという姿の結果がそう表れるという面もある。それだけのことに過ぎない、という気がします。

僕自身の個人的感覚を言えば、自分が大自然のサバイバル世界を生きるただ一匹の動物なのだ、という感覚が、最も端的に表しているように思えます。
「こんなことは起きるべきではない」という観念の中で怒るというのを、他の動物に見ることはまずありません。同じように、そうした観念を完全に捨てて生きる人間を、なかなか見ることがありません。ま一応文明社会の中で生きている身としては、ということになるでしょう。


■魂で現実を生きる

しかし「魂で現実を生きる」身(?^^;)とすれば、この高度な現代文明を支えているこの社会で大きなこととされることも、些末事に過ぎないというのが実感なのです。就職、リストラ、出世や偏差値、結婚、恋愛、そんなことが些末事に見えてくる。今日本のビジネス界で大きな出来事として例えばトヨタがGMを抜いて世界一位の自動社メーカーになれるかという話などありますが、魂にとってはそんなことは些末事に過ぎないわけです。

魂で現実を生きるならば、現代人の生き方も全く変わってくる。そんな可能性さえ感じるんですけどね。

暗示的な表現になりますが、ここに新しい視点が加わってきます。魂の感情にとって何が重大事なのかです。一方で、「心」が重大事と考えることは、大分ズレてくる。
それを感じ分けるのが、「魂への取り組み」第2段階「感情分析」になるわけです。

上述にて、既に第2段階の話は始まっています。最後に至るのが、魂の復讐心へと白日の下で取り組むことです。
その上に覆いかぶさる魂と心のズレ。それが魂の復讐心に心がそのままなびいた先に起きる、「自分自身への嘘」によってどんどん発達するというメカニズムから理解して頂こうということで、第2段階のより実践的な解説を次に。


「人間関係力」の「テスト」だってー^^; / しまの
No.1172 2007/02/12(Mon) 15:09:02

今日10CHで古館アナ司会の「全国一斉 人間関係力テスト」というのが放映される模様。
まもちろんハイブリッドにも関連のある話で、何度か予告映像なども流れていたので興味はあるのですが、まず見ないですねー。役に立つものでは多分ないっす。

「人間関係力」というのは、確かにあると思います。良い人間関係を築く能力ですね。
ハイブリッドが考えるそれは、明快です。魂の感情をベースにして、つまり魂の成長をベースにして、建設的思考法行動法への習熟です。
これはもうハイブリッドが目指すものそのものと同じです。心と魂の成長です。

そうなんですけどー、それを「テスト」するというアプローチになると、まったく方向勘違いになってしまう感がありますね。
「テスト」する、つまり何か採点基準を決めて当てはめて良し悪しを考えるという思考法は、すっかり完全に魂の感情を脇に置いた、表層的な「心」の使い方になります。そして、別に建設的でも何でもない。単なる採点という「品評」姿勢だと、「現実において生み出す」もののまるでない、非建設的な、労力の無駄使いということになるでしょう。

そもそも、何で「人間関係力」を「テスト」しようなんて発想が出てくるのかと言うと、「あなたは好かれていますか?」というのが副題だけあって、「人に好かれる自分」になりたいという感情の中にある人が、その言葉で「どきっ」と感じて、身につまされる気分の中で見ることになるのでせう。
でもそれって、まさに損なわれた魂の感情に蓋をして、「人に好かれる自分」という自己像の殻を身にまとうという、ハイブリッドが考える魂の治癒成長への逆行姿勢そのものなんですね。

実際どんな「テスト」がされるのかと、TV番組面の広告を見ると、こんなのが例として出されてました。
−「場の空気が読めない人」って、嫌われますよね。その場のリーダーが分かる人。人同士の関係が分かる人。そんな人は人間関係力が高いです。
−初対面の人の顔を覚えていられますか?一度見た人の顔は決して忘れない人がいます。そんな人は人間関係力が高い人。
きっと人気者のはずです
−「この笑顔は愛想笑い?それとも本当の笑い?」毎日浮かぶこんな疑問。
これこそ人間関係力の基本です。あなたはどうやって見分けてますか?

ま僕としてはそれ見て笑ってられる今日この頃ですが、なんかそれって、そんなのばっか考えていると、なんかヤになってしまうものな気がしますねぇ。人がそんなテストするのは勝手ですが、僕がそんなテスト受ける場に出くわしたら、すたこらさっさと逃げ出すと思います^^;

ま実際そうした「テスト」で行なわれるのは、1/31「魂の治癒成長への実践-8」でも書いたように、ロールシャッハ原理の、「目で見る」型のもので、すっかり魂の感情を見失った、自分自身の感情を映し出したものを相手に人間関係だと考える世界になります。

その「テスト結果」が実際その人の「人間関係力」を結構正確に示すかも知れない可能性は、僕としても認めるのはやぶさかではありません。
でも、それが「人間関係力の向上」に実際どう役立つかというと、全くです。
「人気者になるためにはこれが必要」だなんてことばっか考えているから、人気者になれないっす。「この笑顔は本当の笑い?」なんて非建設的な疑問に捉われるから、人間関係が築けないです。まさに「これこそ人間関係力を貧困化する基本」です。

ということで、この番組の内容の正しさについては多分僕もやぶさかではないと思いますが、そんなのあんま気にしてても人間関係力が低下すること請け合いですね^^;

ということで、損なわれた魂の感情に殻をまとうという心理メカニズムや、魂の成長への正攻法について、「魂の治癒成長への実践」で引き続き説明していきましょう。


魂の治癒成長への実践-11 / しまの
No.1171 2007/02/08(Thu) 15:34:22

■第2段階の基本テーマと軸

魂への取り組み第2段階を前のカキコのような整理の仕方で大枠を言いますと、自分の感情を自分で受け取るようにした先に、どうするかという話になります。

これは、自分で受け取った、今まで一つのものであるかのように体験していた感情を、幾つかの基準で感じわけて、それぞれに全く異なる姿勢を取るという実践になります。
これは基本テーマは、「感情分析」になりそうです。これは心理学課題としての表現ですが。

いずにせよ、今まで「感情分析」については、その実践の外枠の話と内容の話が全く分かれたまま、その最も濃い内実についてほとんど説明できなかったのですが、最新の魂論の視点で感情分析を考えると、その内容がかなり具体的になってくると思います。
それだけ広範囲の話がこの第2段階に詰め込まれる(^^;)ことになります。

自己理解の軸においては、魂論から見た自己操縦心性の位置付けが最も基本的な視点になると思います。
つまりそれは、感情の膿の圧力を背景にして、魂の挫折を否定しようとする心を生み出す圧力です。これを解いていく。つまり、根源的な魂の感情と、感情の膿、そして自己操縦心性が魂への嘘をついてできあがる心の感情を、切り分けることです。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro9.jpg
の構造の理解でそのまま感情分析できます。

そして最終的に、全く異なる3つの姿勢へと、振り分けることです。ただ流し看取るべき感情、幻想として反応しないままにすべき感情、そして一片の建設的要素を後押しすべき感情、と。

広範囲の感情分析テーマの中でも、まずターゲットにしたい入り口は、やはり「怒り」です。他人への、そして自分自身への、怒りです
それはまず、「相手が自分に向ける不当な白い目」という怒り感情が、表面の皮として最も典型的になります。その下には、「人にどう思われるか」に緊迫の中で駆られる基本的衝動という肉があり、さらにその根底には、「人に好かれる者が勝ち」という感覚感情の芯がある。
こうした怒り衝動を生み出した大きな部分が、第1段階で取り組む「自己像の他者依存」で生み出されていたものです。従って、第1段階においてこうした怒り衝動はそれなりにすでに低減していることを期待しています。そうでないなら、第1段階がまだだということになるかと。


■第2段階の意志軸:自分への嘘を解く意志

他人と自分への怒りの残りの部分が、かなりメカニズム的な話になってくる。だから感情分析の出番になるんですね。
アプローチの順番としては、今浮かぶものとして言えば、まその順番で次第に真正面に向き合いにくくなるものと言うことになりますが、1)感情の膿、2)空想立脚、3)復讐心、4)自分の中の見えない悪意、という感じ。

そうゆうのを感じ分け、それぞれへのハイブリッド推奨の姿勢を取って頂くのですが、全体を通して方向性を言えます。
それは「自分自身への嘘を解く」です。これが第2段階の「意志」の軸になるでしょう。「自分自身についた嘘を解いていく意志」です。これが必要です。

上に4つあげた心理要素それぞれについて「自分自身への嘘」があったのを解いていくのですが、意識的実践において大きな位置付けになるのは、後ろ2つに対応するものになるのではないかと考えています。

一つは、復讐心です。つまり、「あるべき姿」が純粋な願望として掲げられたものではなく、純粋な望みへの挫折の結果、それを見返そうとする復讐衝動の中で掲げられたものであることを、解いていくことです。

もう一つは、ハイブリッドが基本的に「望み」の心理学であることにおいて、「自分についた嘘」の最大のものとも言えるものを解くことです。それは「自らは望まない」という嘘です。「自らは望まない」ことにおいて実は望んでいるという、パラドックの嘘です。そこに、自分の中の見えない悪意が明らかになる時が訪れるでしょう。

同時にそれが、「魂の望み」を基本テーマとする第3段階への導入へとなります。


■「嘘」を解くことが「愛」を増加させる

この第2段階は、自分自身の中の見たくない部分を自ら暴いていく、基本的に苦しい道のりになります。
それがどのように治癒成長になるのかも説明しておきましょう。そうした報酬がないと、実際やり切れないです。

一つは、この段階の基本テーマである「嘘を解く」ことが、「愛」の回復と増大への基本メカニズムであるということです。
これは次のカキコで別途説明します。ここでは言葉だけまず。


■魂の自然治癒力と自然成長力へ

もう一つ、自分への嘘と復讐心の中で駆られた「あるべき姿」が解かれた時、心がきれいさっぱりになるのではないことを、心にとどめておいてもらうのがいいと思います。
感情分析をすれば「心が良くなる」と安直に考える、ありがちな勘違いへの正しい答えでもあります。
これもごく簡潔に。

大元の、魂の挫折に戻るんです。怒りを解くと、さっぱりするのはなく、怒りが深い悲しみに変化します。それでいいんです。
その先は未知です。意識によって方向を決めることはできません。まさに、心の意識で魂に枠をはめるのをやめるのが、この取り組みなのです。

そしてその先に、「魂の望みに向かう」という、全人間存在としての根本変化に向かう第3段階の歩みへの扉が、開かれるわけです。


魂の治癒成長への実践-10 / しまの
No.1170 2007/02/08(Thu) 11:54:03

■第1段階における「意志」

第1段階について一つ追加しておきます。

魂への取り組み第1段階は、先のカキコでまとめたように、「魂の関係性」を理解することと、それに応じた「自分の感情は自分で受け取る」という基本姿勢を取ることでした。
これはさらに整理すると、魂への取り組みの各段階における、基本テーマと、そのための「自己理解」と「心の使い方」というが整理できるということです。

第1段階基本テーマは「魂との関係性」という最も基本的な話であり、「自己理解」の軸においては、魂との関係性を踏まえて自分および他人との関係を理解することであり、「心の使い方」の軸においては、自分の感情は自分で受け取るという姿勢だったわけです。

でもうひとつ追加というのは、もう一つの軸があるということです。それは「意志」です。

基本テーマをめぐって、自分を理解し、特定の心の使い方をする。それはある意志の下において行なうことであるわけです。この意志がないまま、形だけ真似るのでは効果がありません、ということで。
これは先のカキコで「動機」として言ったのと、ほぼ同じ内容です。取り組み実践の段階を定義するにあたって、これをさらに明瞭にするため、「意志」という言葉で整理します。

なぜなら、「意志」は、そにかくそれを持つか否かという、極めて単純な心の働きであり、「心の選択」だからです。「動機」はもうちょっと内容絡みの話も出てくるかと。

そしてハイブリッドで「選択」「意志」を極めて重視するのは、そこに人間の「自由意志」という深淵なる領域への信念のようなものがあるからです。
「自由意志」を否定する人間思想もあります。全ては与えられた条件に依存するのだと。ハイブリッドは、そうではなく、かと言って全てが「自由意志」だなどとは考えませんが、「自由意志」という領域があり、それが心理障害メカニズムによって妨げられない範囲をいかに活用して心の方向転換を図るかのノウハウを追求するのが、自らの役割と考えているわけです。

だから、各段階において「何の意志を持つべきか」を、明確に定義したいと思います。
何においての「べき」か。それが「動機」になるでしょう。自分の魂を成長させたいのであれば、貴方はその意志を持つ必要があります、ということです。魂を成長させたいなんて考えないのであれば、そうする必要はありません^^;

でそんな位置付けにおける第1段階の「意志」は、「自らの魂を自分で支える意志」になるでしょう。
魂の関係性を理解し、自分の感情を自分で受け取る。それは自分の魂を自分で支えるという意志の下にです。

それができたなら、次の段階に行きましょうということになります。

いったんカキコして第2段階の考察へ。


魂の治癒成長への実践-9 / しまの
No.1169 2007/02/07(Wed) 10:55:35

魂の成長への取り組み第2段階を考察するに当たり、第1段階を整理しておきましょう。要点を押さえるのがちょっと不完全だった感もあり。

■「魂の成長」への取り組み

1/30「魂の治癒成長への実践-2」でもハイブリッドの全体からの流れを書きましたが、再度押さえておきますと、ハイブリッドの取り組みは、「心の成長」と「魂の成長」への取り組みになるわけです。「成長」とは、「自らによって幸福になる能力の増大」のことです。

「心と魂の分離」の問題を考慮しない範囲での「心の成長」とは、建設的思考法行動法への習熟のことです。それだけです。

それ以外に「心が良く」なったり「気分が良く」なったりするための、世に溢れる小手先の「気持ちの持ちよう」は一切行いません。多分その多くは、「こうなれればいい」という心の状態そのままを言っているだけで、そのために「ではどうすればそうなれるのか」という深い心理学を欠いたごく表層的な話で、結局ポーズや精神論の押しつけになる傾向のものがほとんどではないかと。

一方、ハイブリッドにおける建設的思考法行動法は、単なるポーズや精神論ではなく、具体的内実と、それを支えるへの心底からの価値観転換を問います。「現実において生み出す」ことに価値を置く生き方を選択することです。
これしないままハイブリッド実践をしているつもりになっている人、結構多いかも^^;

「心の成長」とは外面における建設的思考法行動法。
それ以外の感情改善は、全て「魂の成長」の問題として取り組みます。それがハイブリッド。

分かりやすいかと。

逆の表現をすれば、建設的思考法行動法にそぐわずに揺れ動く感情があるならば、それを全て「魂の未成長と荒廃」が自らの心にあるものとして取り組むことを、ハイブリッドではお勧めします。

「魂の未成長」ならまだしも、「魂の荒廃」が自分の中にあるものとして取り組むことを良しとしない方もおられるかも知れません。
この汚い人間社会の中で自分の魂だけはきれいだ、という観念を持ち続けたまま、心理障害のような感情動揺を克服することを期待しておられる方もいるかも知れません。
そうではなく、「魂の未成長と荒廃」に真正面から向き合った時、「魂の浄化と成長」が見えてくるのです。ハイブリッドではそれを伝えることだけをします。選択は委ねます。


■第1段階のまとめ

健全な人格ほど、建設的思考法行動法を学ぶことは、人生をより豊かにする実を結ぶことに直結するでしょう。しかしハイブリッドでは、心理障害を人間の心の基本メカニズムと考えており、「心と魂の分離」を踏まえての「魂への取り組み」が全ての人に有益なものと考えています。

第1段階は、「魂との関係性」に入るということとして位置づけられます。これは心理学課題としての言い方です。

まず心理学的な理解が必要ですね。濃い情動の源泉である「魂」は、我々の心においてもはや見えない「もう一人の自分」であるかのように、心の奥深くに分離されていること。そうして「心と魂の分離」が起きたことにおいて、魂の成長責任を果たせるのは自らの「心」だけになること。

魂が未成長な内は、人は「人の目」によって生かされます。魂が成長すると、人は自らの魂との関係の中で生かされるようになります。
未成長な魂は自分の中に芯を持たず、「弱さ」の感覚を抱え、回りに左右されやすいので、恐怖や怒りを感じやすいです。
成長した魂は自らの中に芯を持ち、「強さ」の感覚をよりしっかりと持ち、回りに左右されることもなくなり、恐怖や怒りは減り、楽しみと愛の感情が増えていきます。これが同時に、その人間の人間的魅力を増大させることにもなりそうです。

人間関係が現実においてどのように築かれるかは、魂の感情がベースになって、建設的行動法によってより豊かなものになると考えるのが正解でしょう。
魂が人への親愛の感情を抱いていないにも関わらず、心が人との親愛を得ようと躍起になる中で、怒りと破壊に心を占め尽くされるようになるメカニズムがあります。
それを解き、魂の感情を受け取り、そして魂の本来の望みに向かうことが、魂の浄化と成長を導きます。最終的には、魂の望みに向かって、心が建設的行動法をすることで、魂が成長し、それを芯とした心の成長が揺るぎないものになります。

意識的実践の言葉で言えば、この第1段階で行なうことは、「自分自身に向き合う」という基本的な姿勢を学ぶことです。
感情は基本的に自分が受け取るものであり、人に受け取らせるものではありません。これは魂の感情と心の感情を切り分けるかどうかに関わらず、そうするべきです。
そしてその中から、さらに人にも「見せる」感情を、共通目標共通利益という原則によって選びます。

その原則にそぐわない感情があるのであれば、それを自分の生き方価値観の問題として真剣に問うと共に、自らの魂の荒廃と未成長の問題として取り組むべきです。魂の成長を選択するのであれば。
生き方価値観の問題とは、「破壊優越」に価値を置くものの見方考え方をすると、魂の成長は止まります。なぜならこれは基本的に敵を増やし現実を破壊する生き方であり、人生の基盤が常に脆弱化の中にあると魂が感じるからです。
これをどれだけ真剣に、「現実において生み出す」という価値観への方向転換をするか。

魂の荒廃と未成長の上に立つ感情の最大のものは、「怒り」です。特に、「自己像や自己評価を他者に依存して怒る」という姿勢です。まずはこれを解除することです。
人からの評価を無視せよということではありません。そうではなく、「自分のことを自分がどう感じた」かの責任が他人にあるという、深い姿勢の問題です。これはもともと論理的に破綻している心のバグであり、必ず他人と自分自身への怒り破壊感情に帰結します。
なぜなら、自分のことを自分が良く感じれるように他人がしてくれる魔法など、現実には存在しないからです。そしてこの姿勢によって、まさに自分のことを自分が良く感じることなど不可能になります。自分自身の成長責任を自分が果たしていないという自己嫌悪感情によって

ということで、「自分自身に向き合う」という第1段階は、「魂の関係性」を理解すること、自分の感情は自分が受け取るという姿勢、そして自分のことを自分がどう感じるかは、結局のところ自分がどう感じるかなのだという事実を受け入れること、この3つが具体的実践になるものと言えます。


■「魂の成長」への動機

ハイブリッドの道のりをどこまで行けるかは結局「動機」次第だと、良く言っている視点から言うならば、この第1段階とは、ずばり「魂の成長」への動機を持つということです。
自らの魂を成長させたいという動機を持つかどうか。それを願う人がハイブリッドの「魂への取り組み」をすればいいし、そうでないなら、別にハイブリッドなんて勉強してもらわなくていい。選択は、そして動機は、自由です。

その点で、ハイブリッドに取り組み始めてもなかなか変化を得られない方というのは、「動機」においてちょっと方向違いになってしまっているのかも知れない。
「人に見せるもの」としての「自分」が、ハイブリッドによって良くなるという期待、というか。「人の目」ありきでハイブリッドの取り組みも考えてしまう轍ですね。
その感情の大元にある、魂の感情に向き合うのが第一歩になります。

ただまあ、そうした「人の目ありきの心の感情」は、障害メカニズムによって生み出される、選択不可能な強制力を持って起きるものでもあります。それを解いていくのが第2段階になります。
最初からそれを無理に捨てようと考えるのもあまり実になる話ではありません。というかそれが「これが駄目なんだ」「人の目ありき感情」の中で考える元の轍の中ということになるでしょう。大切なのはそうした心の表層感情に拘泥するのではなく、深い魂の感情に向くという方向性なのです。

最後にもう一つ。「人の目の中でなにものかに成る」ということが現代社会人にとってあまりにも基本的な人生の目標である時、「人の目」を一切排した自分自身の感情に向き合う作業は、少し味気ない、「暗い」印象さえ自分に与えることであるかのように感じられる部分もあるかも知れません。

しかしこれは「人間の課題」であり、『悲しみの彼方への旅』「考察」で書いたように、これは我々自身が「人間の心を守るための闘い」だと考えるわけです。それに意義を感じることは大いに意味のあることではないかと。

そうする姿がまた人の目にどう映るという感情が、また出てくるかも知れません。しかし魂の感情も、一切の他人との関係を排したものなどではあり得ず、多分に「人の目」を..ではなく、人の魂の感情を意識したものになるはずです。
その点において、この取り組みが、これからの未来の人間につながっていく。そう感じ、そこに意義を感じることが、魂の望みでもあることを、僕としては感じるんですね。


土曜に『マトリックス・レボリューションズ』放映 / しまの
No.1168 2007/02/01(Thu) 08:57:38

今週土曜日『マトリックス・レボリューションズ』が放映されますが、今日見た読売の週間映画欄での「映画担当記者採点」は5つ星満点中のたったの星3つ

解説を見ると、「1作目に比べると見劣りは否めないが、スタイリッシュな映像は相変わらず。現実や機械との関係などを考えさせる」とある。
まあ「スタイリッシュな映像」「人間と機械の関係」なんて視点だけでみたら、まそんなもんだろうがと..と良くみたら「現実や機械との関係」でしたね。

まいずれにせよ『マトリックス』シリーズ僕にとって不動のマイ・ベスト・ムービーであるのは、そこで描かれたのはまさにハイブリッドが考える、人間の意識世界と、その中における生き方そのものなんですね。

我々もいつか必ず死ぬことを考えれば、全てが幻想だと考えることも可能なわけです。その中で、ある者は「全ては原因と結果だ」と言い、ある者は「あるのは選択だ」と言う。ハイブリッドはもちろん後者に立ちます。
そして選択を信じ、真実に向かった時、一つの幻想世界がはじけ散る。そして新しい幻想世界がリロードされるわけです。
それに向かい続ける。

まさに、ハイブリッドの思想そのものですね。


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