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2007.03


久々にトップページをリニューアル\(^^)/ / しまの
No.1192 2007/03/29(Thu) 14:14:35

結局日曜もスキーだった..というのはどーでもいい話として、
久々の新規サイトコンテンツとして、「ハイブリッド人生心理学 実践メニュー」をUpしました。
ごく手短なサマリーものですけどね。

とにかくやたらと話の多い(^^;)ハイブリッド心理学ですが、実践面においては、ごく外面的思考法行動法など心のテクニック的な話、次に根本的な生きる姿勢の話、そして最後に心理障害メカニズムへの専門的深層アプローチ、という3段階に分類するのが、実際これからハイブリッド心理学を学ぼうとされる方には分かりやすいのではないかと考える次第です。

今掲示板解説しているような、心理障害メカや「魂」といった深層の問題についても、そうした全体を踏まえることで、より明快な理解が得られるのではないかと思います。

現実をより良いものにし、心と人生を豊かにすることについて、実にはっきりした答えがあります。「建設的」であることです。
問題は、それにもかかわらず、現実を自ら破壊せざるを得ないような心理状態があることでしょう。「怒ることが自分にとって正しい」という感覚の中でです。
なぜそうなるかというメカニズムは、主に2つあります。
一つは、それが「感情の膿」という、「人格破綻的な自己否定感情」から自分を守る防衛メカニズムとして自動的に働くことです。それに比べれば、「自分だけ嫌われる」という「イメージ」とそれへの怒りは、まだ意識が保てるタイプなのです。この防衛を解除すると、「人格破綻的な自己否定感情」が表面化します。それを建設的な価値観によって乗り越えた時、それは根底から消滅します。
もう一つは、現実を破壊することの中で、魂が求めるものがやはりあることです。その否定的側面に流されることなく、それに深く自己共感し、建設的価値観を携えて「魂の望み」に向かうという道が、最終的な方向性になります。

3段階として説明した全てが合体したところに、奇跡のような変化の世界があるんですね。
ということで、何とかより分かりやすい解説を今後の掲示板や心理学本でー。


魂の治癒成長への実践-25 / しまの
No.1191 2007/03/23(Fri) 14:18:06

今週末は天気悪そうなので、自主トレで考えてたスキー行きはちょっとなしの動勢..

■「成長の摂理」と「理想」

先のカキコで触れた「成長の摂理」という視点から、人間の心の成長発達における「理想」の役割の、本来の自然な姿を書いておきましょう。

人の心はまずイメージと現実が混沌とした世界に生まれ、基本的に親を通して現実世界に接する生育の過程を持ちます。「自分自身で直接現実世界を生きる」ことはまだしていません。

やがて「理想」という羅針盤を手がかりに、「現実」という大海原の航海へと旅立ちます。「理想」というイメージを持つ一方で、「ありのままの現実」という、イメージの衣を取り去った世界に、親を通してではなく、ありのままの自分で、向き合い、その中を生きる体験を持つのです。

そしてその「理想」を羅針盤とした「自らの望み」に向かって全てを尽くしたという充実感を得た時、彼彼女の心の中で「理想と現実」という二律背反の構図は消え、現実世界と一体の存在として生きる自分という調和の感覚を得るのだと思います。これは「イメージ」というものの役割自体がそれを終えた未知の感情として訪れるように思われます。

「成長」は、そうして「ありのままの現実を生きる」ことの中に生まれる、一切の人為的操作も意識的捻出も介するものでもない、「命」そのものが持つ自然成長力の発現として存在します。
その時我々が体験するのは、望みに向かい、ありのままに現実に接して、喜び、痛み、悲しむという感情です。

それが全てです。それは決して、「こうあらねば」という「イメージ」に自分を当てはめることの中にはありません。そしてそうでない自分や他人という現実への、怒りの中には、ありません。


■「成長の摂理」に反する「自分への嘘」

それが、「与えられるべきものの理想」へと人が固執することを最初の兆候として、全く異なる、茨の道へと反れていくわけです。自ら現実を破壊するという、「心理障害という生き方」の道へとです。

一体何が起きているのか、その表面からは全く見えません。「与えられるべきものの理想」への固執という時、何となく分かるのは、「成長の摂理」に反したことが起きているということだけです。
「誰を通してでもなく自分自身で現実に接していく」という変化をたどるという、成長の摂理に反したことがです。

「高い理想の嘘」の残りの2側面、「飾りとしての理想」「理想を掲げることが理想に反するパラドックス」を見ると、一体何が起きているのかが、もう少し明瞭になってくるように思われます。

「成長の摂理」に反することとは、自分に嘘をつくことだということが、です。
この恐らく人間の歴史を通して語られてきた叡智の言葉を、今までにない精緻な心理メカニズム論として説明するのが、ハイブリッドだということになるでしょう。


自分への嘘の始まり:「飾りとしての理想」

「飾りとしての理想」という側面は、「心理障害型理想」の5段階変遷において
2)高い理想を抱いていることに感じる自尊心
に現れます。

第1の側面「与えられるべきものの理想」ではまだ「嘘」という性質はあまり目立つものではありませんが、この「飾りとしての理想」になると、ニセモノの性質がはっきり目に入るようになってきます。

どうそれはニセモノか。
「理想」の本来の役割が損なわれ、方向を反れた目的、あるいは別の目的のためにそれが掲げられる時、その「方向を反れた」度合いに応じて、それはニセモノという性質が濃くなってくるでしょう。
さらに、そうした「別の目的」ために掲げる「理想」と、本来の役割においての「理想」について本人が心の底で感じていることとが食い違ってくるに従い、それは完全に「嘘」という性質を帯びてきます。

「理想」の本来の役割とは、現実において本人を向上に導くことです。
「方向を反れた役割」「別の目的」が、「飾りのための理想」というわけです。

この違いを、先の理想の本来の役割説明の延長で、例えを使って説明できます。単なる比喩以上の例えになるでしょう。

本来の役割における「理想」は、この現実世界という荒野と大海原を航海するための、羅針盤です。その意味で、この「理想」は命がかかっているほどの重要な役割を持っています。
「飾りとしての理想」は、同じ羅針盤の姿をしているのですが、実は部屋を飾るためのインテリアです。自分が前に進むための道具ではなく、眺めて悦に入るための飾りです。さらに言えば、人に見せて自慢するための飾りです。
どうです。私はこんな理想の持ち主なんですよ。すごいでしょう。ぜひ私を好きになりなさい、と。

こうした「飾りとしての理想」の性質を帯びやすいのは、まあいわゆる道徳的理想でしょう^^;
やる気頑張り、忍耐、克己心、そして人との良い関係、優しさ、建設的であること、etc。ハイブリッドの建設的思考法も、この罠にはまる可能性は十分にあります。それは本当に自分が前に進むための思考法になっているか、という問いが大切ですね。


■「飾りの理想」と「信念」のメカニズム

もちろん多くの場合、人が掲げる「理想」は、彼彼女が前に進むための本来の役割を持つと同時に、飾りとしての性質も持つ、混合物でしょう。
ただしこの混合は、単純な混合ではなく、内部矛盾対立をはらんだ混合です。

何が起きるのかというと、「飾りとしての理想」は、それがニセモノであることを「魂」は知っているということです。本人の表の意識は「理想」がニセモノだという自覚意識はほとんどないままにです。
この結果、この人物は、もの心ついた頃から、極めて漠然とした自己不信感の感覚につきまとわれている可能性が高い。
そしてそれを振り払うために、「信念の感覚」が使用されます。これが大切なんだ。自分はそう信じるんだ。

漠然とした自己不信感が強いほど、それを振り払うための「信念の感覚」にはより強度が必要になります。
一方これがまた「魂」から見ればニセモノなんですね。結果、漠然とした自己不信感もより強くなります。これはもう悪循環です。
かくして、誰からのともつかないニセモノ糾弾の声に悩みながら、何かへの妄信狂信的信念に刈られる人間の姿が出来上がる可能性があります。


■「現実を生きるための理想」と「飾りとしての理想」

自己の向上を導くという本来の目的で抱く度合いが高まるにおいて、人は自分の理想を特に人に見せつけたり、押しつけたり、人の理想との比較競争などしなくなるものだと感じます。
それはそっと、自分の中で静かに、そして揺らぎなく、大切に、抱くものになるでしょう。

これも例えの続きができます。実際そうした本来の目的の理想は、あまり人さまに見せられるようなものではありません。荒野と大海原を進むための命綱として使われたその「理想」は、あちこちが擦り削れ、見栄えのあまり良いものではないかも知れません。
しかしその役割性能を果たすために、その針は常に丁寧に磨かれ、見る目を持つ人が見れば、いぶし銀の輝きを発するものであるのが分かると思います。

「飾りとしての理想」は、文字通り、自分を飾るインテリアとして、とにかく見た目がいいのが重要になります。針そのもの性能というより、それが収められた箱や針のデザインの見栄え美しさを、一生懸命に磨こうとするわけです。そしてそれを人に見せ、人が心腹したり、自分の意識の方が上だと思えることで、自己満足感を得るかも知れません。

重要な続きがあります。そうして飾りとして磨いた「理想」は、外に持ち出してこの現実世界という荒波を進もうとした時に、うまく動いてくれないのです。見栄えだけ考えて装飾を施していたため、羅針盤としての性能を失い、余計な見栄えほどこしで凝り固まってしまったのです。

「自己を現実において導く理想」と「飾りとしての理想」は、まさにこの例えがそのままの姿になります。
いったんカキコして、「飾りとしての理想」についての障害メカニズム論および治癒論からの考察を続けます。


魂の治癒成長への実践-24 / しまの
No.1190 2007/03/20(Tue) 15:24:35

祝!カウンタ5万Up♪

■何が「高い理想」の「嘘」なのか

さて、「イメージの嘘」という、最も心理障害メカニズムっぽい話に行く前に、第III層つまり一般的な心の表面層における「高い理想」「嘘」について、結局その何が「嘘」なのか、という結論的考察をしておきたいと思います。これしてなかった。

心の表面層における「嘘」であるとは、その不合理性を本人が疑問に感じることができるということです。自らの価値観の検討として、それを自らに問うことができる。
ただし、不合理性を自覚できたからと言って、それを心底から変え得るかどうか別問題です。それはこの後の要因つまり「イメージの嘘」などの問題によって、かなり妨げられるように感じます。これはまた後で振り返ってみましょう。

その23で書いた「心理障害型理想」の5段階変遷
1)望んで得られなかった、怒りで見下すための高い理想
2)高い理想を抱いていることに感じる自尊心
3)現実には自分こそが理想に最も遠いのではという焦り
4)自分よりさらに自己軽蔑にある者への軽蔑衝動
5)「性格競争」「人間性勝負」「消去法型理想」「苦しみ優越感」など独特な理想観の発生

をざっと見ると、3つの話をすることができると感じます。「与えられるべきものの理想」であること、「飾りとしての理想」という問題、そして「理想を掲げることが理想に反する」というパラドックスです。

これがハイブリッドから見てどんなことなのか、それぞれ簡潔に書いておきましょう。


■「与えられるべきもの」としての理想 vs 「自らの望み」としての理想

まず最初の、「与えられるべきもの」についての理想であることについて。

これは上記5段階変遷の1)に該当します。人はこうあるべきであり、自分はこうあるべきだ。そうした理想が、自らの来歴において主に求めながら得られない怒りの表現として抱かれる時、それは自分に与えられるべきものだった、いわば「条件」についての理想と言えます。

これは外面の資質や環境についての理想だけではなく、自分がどうなりたいという人間性や内面についての理想でもあり得ます。つまり、自分がどんな人間になりたいかという、「自らの努力」が一番決め手になるであろうその理想においても、自分がどのようにしてそれに近づくかという話の現実感を、完全に欠落させているというものです。

とにかく、「こうあるべきだ」という観念を描くわけです。まるで、「こうあるべきだ」という観念を描けば、「現実」もその通りになるという奇跡を期待しているかのようです。というか、わざわざそんな表現をするまでもなく、現実がそうあるべきだと感じるのが、そこでは「理想を抱く」ことなのです。

一方人間の心のメカニズムとしては、それとは全く違う感覚において「理想」を抱く感情もあります。 僕自身がこの両者を実際に体験した身として、実感としてこっちの全く違う理想感覚の方をいいますと、「現実がその通りであるべき」だなどという感覚は、皆無です。
その代わり、「理想」はまず「自らの望み」として感じます。現実がどれだけ理想に近づくかは、自分がどのようにしてそれに近づく能力と幸運を持つかが全てになります。


■「イメージの中で生きる」 vs 「現実を生きる」

そうした、「与えられるべきものとしての理想」と「自らの望みとしての理想」という違いは、「依存性」というテーマをちょっと浮かばせるものでもあります。「幼児期依存性の残存」という問題ですね。
自分からものごとを良くすることを知らず、ひたすら与えられることを求める依存性。

確かにそうゆう面もあるかも知れないのですが、僕としては実はもっと違う、もっと深い違いがあるような気がしています。
それは「自己」「イメージ」「現実」という3つの、関係性の問題のようなこととしてです。依存性が問題であるより、そうした意識土台おける根本的関係性に、何か問題が生まれている。

これも実感として言いますと、上述の「自らの望み」として「理想」を抱く感情においては、「自己」と「現実」がありのままに直接接するという感覚があります。「理想」は、「自己」と「現実」の関係性の中で生まれた、ごく一過性の、「自己」と「現実」の関係性を調整するための、中間派生物でしかありません。
まず「自己」と「現実」があり、「理想」はその中に溶けて消えるとでも表現しますか。その時、「自己と現実の一体化」という深遠なものも見えてきます。

これは魂論から考えると、魂が現実に直接接している状態と言えます。

一方、「与えられるべきものとしての理想」においては、まず「理想」と「現実」二律背反の関係を構成します。「自己」はその二律背反の中を揺れ動く存在という構図になります。
これは基本的に、イメージありきの世界です。まずイメージがあるから、「理想対現実」という構図が生まれる。その構図の中を、自己が生きる。
魂論からも、これは魂が現実に直接接するのではなく、イメージを通して接してる状態だと言えるでしょう。

ですから、この理想の抱き方の話は、依存性というよりもっと深い、人間の生き方の様式の違いに対応しているように感じます。
「イメージの中で生きる」「現実を生きる」です。

正確に表現した言葉として、そうなります。「イメージを生きる」ではなく「イメージの中で生きる」。イメージに閉じ込められているわけです。
現実を生きる」であって、「現実的に生きる」じゃーないです。「現実的」という言葉はどっちかと言うと、「理想対現実」という構図の中での、理想に達しないものへの妥協という感じで使いますね。 「現実を生きる」においては、「理想対現実」という構図そのものが薄いので、妥協もへったくれもない。

「与えられるべきものとしての理想」においては、自ら望むという感覚が薄れ、理想が満たされないと、怒りが起きます。
「自らの望みとしての理想」においては、文字通り理想は自らの望みとして感じ取られ、理想が満たされないと、悲しみが起きます。
これがこの後の「イメージの嘘」において決定的な鍵になってきます。説明はその時に。


■「成長の摂理をたどり直す」という最大原理

この「与えられるべきものとしての理想」と「自らの望みとしての理想」というテーマは、ハイブリッド的には、「成長の摂理」の話なのだと考えています。

人の心は、この場合の「心」は魂を含む未分離状態の「心」ということになりますが、幼少期の心は、まずイメージを通してこの世界を生きるように思われます。つまり自分で直接「現実」に向き合うことをまだしていないわけです。
それは感情を通して生きるということでもあります。
より大きな視点で見ると、結局、親を通して現実に接するわけです。自分で直接現実に接することはまだしません。

それが思春期を経て成長するということに中に、人間の心のDNAに刻まれた「成長の摂理」とは、親を通してではなく、自分自身でありのままの「現実」に接するようになるという変化だと考えるわけです。

そうした「成長の摂理をたどり直す」ことが、ハイブリッドの考える「心の治癒成長」の、最も大きな「方向性」であり、「方向性」の由来となる根本原理です。
最近の整理では、まず「心の成長」のための建設的思考法行動法があり、さらにそれを妨げるものに取り組むための「魂の成長」のために、「自分に向き合う」や「自分についた嘘を解く」という説明を始めています。
それが、「成長の摂理をたどり直す」ための、具体的方法論という位置付けなのです。


■「肯定型価値感覚」の前にある「現実を生きる」

取り組み実践上の、より細かいメカニズム論的視点についても、そうした大枠の中で、さらにその位置付けが適切に理解できるでしょう。

心理障害の来歴メカニズムの中で起きるのは、まず「イメージを生きる」という存在様式の中でこうむった現実的不遇をバネにした、「与えられるべきものとしての理想」の観念の発達です。その結果この人物の心理表面に現れる、もっとも端的な、取り組むべき問題として、「否定型価値感覚」があがってきます。「破壊型理想」しかり。

それを軌道修正するために、「理想」というものの、本来の意義を考え、「現実において生み出す」という「真の向上心」の方向性への手段として、建設的思考法行動法を学ぶわけです。
その結果としての一つの大きな道標が、「否定型価値感覚の放棄」でした。そして、それと同時に大きく芽生えることになる、「肯定型価値感覚」を自らの基本的な生きる糧にする。
それがハイブリッドの示す道です。

でも、取り組みの実践意識として言うならば、「否定型価値感覚」はそのまま検討対象になります。その存在を自覚し、それが自分の思考感情に与えている影響の範囲と、その価値を、じっくりと吟味し、問うことです。
そしてその背後に、「与えられるべきものとしての理想」という来歴背景があるという自己理解を得ることです。

しかしその先で、「否定型価値感覚を捨て肯定型価値感覚を探す」という取り組み表現をするなら、それは誤りです。恐らくそれは、「肯定型価値感覚に生きる人間」という理想から自分を見下す、同じことの繰り返しにしかならないでしょう。

否定型価値感覚を捨てる先にあるのは、ありのままの現実を生きることです。肯定型価値感覚は、その結果として、湧き出るべき条件において湧き出るでしょう。条件が悪ければ、肯定的感情など感じようもない。それは当然のことであって、どっちになろうと、まずあるべきことは、「現実を生きる」です。

だから、「高い理想の嘘」ということでまず「与えられるべきものとしての理想」という側面を指摘しましたが、それを背景にした「否定型価値感覚」つまり「怒り」も合わせて取り組む先に、探すべきものは、依存性を脱することでも、肯定型価値感覚でもなく、「イメージを脱したところにあるもの」になります。


■2つの全くの別世界を維持する

それをどう探すか。これを分かりやすく表現するのは、「イメージの嘘」についての整理をした後の方が良さそうです。ここで書こうとしても、上述の文章にしても、その背後にあまりにも大きなメカニズムがあることに触れないまま、何をどう説明するか、僕自身かなり苦労しています。

ここでは、「成長の摂理をたどり直す」という大枠についての、最も基本的な話をしましょう。
それは「未成長」の部分を捨てて「成長後」のものに変えるということではないということです。そうではなく、「成長の摂理」がたどる、2つの全く別の世界を、同時に自分の中に見据え続け、その中にある価値を追い続けることです。

「イメージを脱したところにあるもの」と言いましたが、はもともと、イメージを多分に志向しています。イメージは「魂」よりも「心」の側の機能ですが、「魂」にも漠然としたイメージがあるようです。それは深い情動の象徴のようなイメージです。「心」はそれに明瞭な姿を与えます。
それを切り捨てることは、魂そのものを切り捨てることになります。

一方で、「心」はイメージを脱した、ありのままの「現実」へ向かうこともできます。その方向において、建設的思考法行動法というものが結びつき形を成してくるでしょう。

この2つの、全くの別世界を、同時に持ち続けることです。
2つの別世界の間には、全く接点がなく、その間には「無の意識空間」だけがあるように感じるかも知れません。
しかし、その2面を同時に見た時、その「無」から「未知」が現れるのです。良く言っている言葉を焼直せば、これが、「魂」を成長させるための、「心」の使い方なのです。

う〜ん「イメージの嘘」の整理など経て、もっと分かりやすくせねばあかんなぁ..


魂のゼロ層へ:序説-3 / しまの
No.1189 2007/03/16(Fri) 14:40:34

う〜ん今週は執筆以外の所用がけっこう目白押しで、考察を新しく進める時間がなかなか取れなかったですが、ようやっとスキー出発前の一段落ということで、「鎮魂の姿勢」という話だけUpしておきませう。


■「感情の強制」を捨てた先にあるもの

先のカキコのように、取り組んで頂く本人の意識においては、「感情の強制」というものが実は「心理障害」の正体と言ってもいいほどの、重要な妨げ要因として捉えることができます。

しかしそれが「障害」であるとは、「感情の強制」を意識で何とか捉えても、それを意識的努力で直接解除することは不可能だということです。ここには「イメージの嘘」という、自己操縦心性による大きなバリヤが控えている。
克服のためには、「感情分析」というかなり特殊な心理学的自己分析への習熟が必要になります。

その辺の詳しい話は引き続きの「魂の治癒成長への実践」シリーズに譲り、とにかくまあ、心理障害の程度に応じそれが大変な感情分析作業を経てなのかそれとも比較的あっさりと思考修正によって至れるのかはさまざまとして、「感情の強制」という鎧を脱いだ時、我々は我々自身の魂の感情のありのままの姿に、ようやく対面することが可能になるわけです。

理論整理も含めた精緻な考察上記シリーズに譲りますが、ここでは、そうしてありのままに対面する「魂の感情」とはどのようなものか、どのように向き合うのかがいいかについて、入門編的平易な文章で書いたものを載せておきます。
返答メール文を再編集したものです。


■「心と魂」のメカニズム

我々の心は、直接自分で感じ考えることとして分かる「心」と、深層に眠っている、まるで「もう一人の自分」のように別の人格を持つ「魂」から成っている。
だから一言で「心の成長」と言っても、結局「魂」という別のものの成長も考えなければならないわけです。

なお「魂」と言うと少し宗教的な感じや、「霊魂」といった非科学的な考え方が浮かぶかも知れませんが、ハイブリッドでの「魂」は、あくまで「心のメカニズム」として、と言うことは「脳のメカニズム」として、そうなっていると考えています。

例えれば、我々は心臓の鼓動についてあまり意識せず、心臓が勝手に鼓動するようになっています。かといって意識と完全に切り離されたものではなく、いろんな出来事によってドキドキしたり、思考法によって動悸を鎮めることも多少可能です。

それと同じように、我々の底には「魂」という、意識であまり直接コントロールできない感情の主がある、ということです。
そして意識ではあまり直接コントロールできない心臓の鼓動が、我々の生存にとって根本的に重要なものであるのと同じように、意識ではあまり直接コントロールできない「魂の感情」が、我々の「生」にとって根本的に重要なものである、という考えを取っています。


■「魂」の声を聞く

ここでは、そのように「心」と「魂」を分けて考えた上で取る姿勢について、最も基本的なことを説明したいと思います。
掲示板で整理の途上なのですが、まあそっちは「感情分析による完全版」という感じで、以下は入門版の説明ですね。入門版とは言っても、いちおう方向性の全体がそこにあります。

「魂への姿勢」として、大きく2つの姿勢を言えると思います。
魂の声を聞く」と「鎮魂」です。

まず「魂の声を聞く」ですが、「心の感情」と「魂の感情」を分けて把握するのがスタートです。
「心の感情」は、目の前の具体的出来事についての思考や感情
「魂の感情」は、具体的な対象を持たない、漠然とした、でも深い、感情です。その感情が向かう対象が、はっきりしていません。「何についての感情」ではなく、ただ感情があります。

然とした怒りや悲しみ寂しさ空虚感といったマイナス感情開放感や「内面の力の感覚」といったプラス感情
これらは、「心の感情」がほどんど混じっていない、魂の感情がそのまま感じとられたものと言えます。


■「目の前のことではなく魂の感情」という自覚が重要

重要なのは、そうした感情を、決して目の前の出来事に無理に結びつけずに、目の前の出来事とは別の問題として、「魂が何かを感じている」と自覚することです。

そうでないと、目の前の出来事がうまく出来ていないからか、とか、こんな感情になったのはあの出来事や誰かのせいだ、と怒りに走ることになります。これは魂の感情を受け取らずに、外にだけ向く姿勢です。
内面の感情を全て外界に帰することで、外界への怒りが起き、建設的思考法行動法もできなくなってしまいます。

ですから、内面の感情と外面の問題を分け外面については建設的思考法行動法をするのみ。内面感情は魂の感情の問題として考える。
これが基本的な姿勢になります。


■「鎮魂」の姿勢

次に、目の前のことではなく魂の感情として感じ取ったものへ、どのような姿勢を取るのがいいのか。

今思い浮かべるものとしては、「鎮魂」という言葉が最も合っているように感じます。
「鎮魂」とは、文字通り、「魂を鎮める」ということです。辞書を見ると、「死者の霊魂を慰めしずめること」「体内にある霊魂をしずめること」とかありますね。

もちろんハイブリッドでは「霊魂」という概念は使わず、あくまで脳のメカニズムとして心の深層にある「魂」を考えますが、それへの姿勢は、まさにそのままです。
つまり、「魂を鎮める」時、魂だけに向き合うということです。そしてそれを受け止める姿勢を取るわけです。ただし、魂の感情をそのまま鵜呑みにして、外面行動に移すのではありません。それは現実において形を取り得ない、「死者の霊魂」の感情なのですから。

実際、ハイブリッドでは「魂の感情」を、そうした「死者の霊魂の感情」に例えられるような内容のものだと考えています。それはこの世に生まれて、果たされることのなかった何かへの、願いであり、怨念です。
それを、優しく受け止める姿勢です。受け止めてあげることで、それは鎮まっていくのです。

大ヒットしたホラー映画の「リング」にも、そうしたアナロジ−を感じます。貞子の霊を気味悪く感じ、拒絶しようとした男は、貞子の霊に呪われて死にます。しかし、貞子の霊の感情を受け止め、共感の中でそれを受け止める姿勢を松嶋菜々子演じる主人公が取った時、霊は鎮められたのです。

そうやって、魂に寄り添う姿勢で、魂の怒りと嘆きを受け止めることです。
それが「慰め鎮める」ですが、もう一つの姿勢があります。
「魂の願いを果たす」です。

これを説明するものとして、最初の心理学本原稿で書いてあるものからちょっと引用しましょう。
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 もう一つ「精神世界」のテーマについて考えてみましょう。「前世」についてです。
 これはもう明らかに「非科学的観念」であり、私もずっと前世の考えについては頭から否定していました。
 しかし、実はごく最近になって少し考え方を変えています。「前世」というものはあるのかも知れない、と。

 そう考えるようになったのは、ごく最近の2006年10月に、これもよく見るTV番組の「アンビリバボー」で、アメリカのジェームズという2歳の少年が持った、第二次世界大戦で戦死したジェームズ・ヒューストンというパイロットとしての前世の記憶を克明にたどった物語を見てでした。
 父親はこの少年の言葉をたよりに、ジェームズ・ヒューストンの足跡を捜し求め、少年の言葉と驚くべき一致の沢山の事実をつきとめていきます。そして4年後の2006年9月、この親子の、少年の前世をたどる旅は最後の場面を、ヒューストンが日本軍に迎撃され海に沈んだ小笠原諸島の父島で迎えます。この出撃を最後に、帰国して家族と再会できるはずであったヒューストンの、無念の魂に鎮魂を捧げるためにです。
 美しい父島の海にボ−トが出され、ヒューストンの墜落地点に近づいた時、それまでこの旅行を無邪気に楽しんでいた6歳の少年ジェームズの顔から笑顔が消え、突然苦しそうな悲しみの表情に変化します。父の胸に泣き崩れる少年。そして少年は気を取り直して立ち上がると、花束を海に投げつぶやきます。「さよなら、ジェームズ、僕は絶対に忘れないよ」と。この場面には、思わず私も涙が止まりませんでした。この後、少年が前世を語ることはなくなったそうです。

 少年の前世がヒューストンであったことを、科学的に証明などしようもありません。全てが巧妙に作られたドラマと演技だったと考えることも可能でしょう。そう考えるには、父島での少年の様子の映像はあまりにもリアルでしたが。

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この話では、「死者の魂を鎮める」こととして、単に魂に向きあうだけではなく、現実的行動が取られているのが特徴です。

ハイブリッドにおける「魂への姿勢」も、魂の感情に向き合い受け止めるだけではなく、最後に、これが出てきます。
「魂の願い」を果たすために、行動に出るのです。それは一言でいうと、「愛」「命」「人生」のための行動です。


■外面と内面への別世界の姿勢

「魂への姿勢」については、ここではそこまでまでにしておきましょう。
とにかくその入門として理解頂きたいのは、外面行動については建設的思考法行動法があり、内面感情については「魂への姿勢」という、全く別世界があることです。別世界を持つことが、ハイブリッドが考える「心と魂の成長」です。

外面行動についての建設的思考法行動法は、あくまで外面問題により良く対処するための姿勢であり、それですぐ感情がどうなるということは、考えてはいけません。長い目では、建設的思考法行動法で外面内面共に豊かになれば、湧き出る感情もより良いものになるでしょう。建設的思考法行動法が直接感情を良くするわけではありません。

その一方で、内面感情については、魂の感情として受け取る姿勢です。人の心には、この世に生まれたことにおける願いが必ずしも果たされないことへの、怒りと嘆きが、まるで死者の霊のように眠っていると、実際ハイブリッドでは考えているわけです。これは「霊魂」の話の例えではなく、逆に、人間の心に最初からそうゆうメカニズムがあって、「霊魂」なんてものが考え浮かぶのだと思います。

それは、「感情がこんな風に良くなれば」という期待を自分の心に向けたり、「感情がこうでなければ」感情を強制するのとは、全く異なる、まるで別の人格のような魂を尊重し、「魂を慰め鎮める」そして「魂の願いを果たす」という姿勢によって、魂の感情が根底から変化していき、それが自分自身の内面感情の変化となるわけです。


魂のゼロ層へ:序説-2 / しまの
No.1188 2007/03/13(Tue) 15:03:15

■「鎮魂」そして「原罪」へ

第3段階について今見えている、もう一つの話が「鎮魂の姿勢」です。

これが先の「復讐心を解く」という、第3段階のいわば入り口の、さらに先にあるように思われます。
先のカキコで書いた通り、復讐心を解くことで、心がきれいさっぱりするのではなく、その先に「魂の望み」がある。

これがやはり、期待するような、「純粋で揺らぎない、安心してそれに向かい得る、確固とした自己の源泉」などにはならないことを心得ておいてもらうのがいいでしょう。
もはや復讐心が膨張させた、他人との比較の中で何かを得ようとする渇望はない。それでも、魂は、怒りと嘆きを抱えているようです。

同時に、「自らの醜い復讐心」への、「イメージの嘘」によって隠されていた自己嫌悪とも異なる、深い「原罪の感情」がそこにはあるようです。それは一言でいえば、「満ちたり得ない罪」と言えるかも知れません。「汝、満ち足りよ」が人間への究極の戒めであった時、人間はやはりその通りであれない「原罪」を抱えることになります。

そうした魂の感情に対して、もはや「イメージの嘘」が映し出した他人の目との関わりの一切ない、魂と自分の心だけとの間の、そしてその観念を使いたいならば、「神」との間だけの、対話に入るということです。
「魂のゼロ層」の感情が、その対話を生きる先に、現れるようです。対話の中で現れるのではありません。魂との対話を実際に生きた後に、それが生み出した魂の成長の後に、「未知」なる感情が現れる。
それを知ることで、「魂のゼロ層」の存在を、知ることができます。

そこで問われることになるのが、建設的価値観です。このハイブリッドの取り組みの最初に出てくることが、この最後に、再び、全く異なる意味を持って登場するわけです。
最初は、外面現実への対処法としてでした。
最後は、魂のゼロ層に向かうことを支える価値観となるわけです。
望みと原罪の中で揺れ動く自分が前に進むことを、是とすることです。「生み出す」ためにです。

まそんなことが思い浮かぶわけですが、建設的価値観を携えて向かいたい、魂との対話の姿勢が、「鎮魂」という言葉を浮かばせるものになります。


■「建設的思考法行動法」と「魂への取り組み」

そうした「鎮魂の姿勢」を、最近の返答メールで「魂への取り組み 入門編」的文章など書きながら浮かべたわけですが、ここではその返答メールをそのまま掲載するのではなく、改めてどんな話になるのかを書いておきます。

まず大枠として、ハイブリッド心理学は、「自らによる心の成長」のための心理学です。「成長」とは「自らによって幸福になる能力の増大」のこととして言っています。

ですから、ハイブリッド心理学は、自らによる心の成長によって、幸福を目指すための心理学です。
これは別に、それ以外の「幸福」があるかも知れないことについて、何も否定するものではありません。それについては何も言いませんし、僕は知りません。ハイブリッドとして確実に言える、一つの「心の成長と幸福」の方法があるということです。とにかくその説明だけをするのがハイブリッド心理学です。
それは同時に、心理障害の根本的克服の方法にもなると、ハイブリッドでは考えています。

ハイブリッドが考える「心の成長と幸福の方法」は、大きく2段階から成るものです。

一つは外面現実に対処するための思考法行動法です。これは心理障害の問題の有無に関わりなく実践してもらえる、人生の知恵で、「建設的」であることを重視します。
これは感情に流されないという内面姿勢も含みます。具体的には「感情と行動の分離」や「悪感情への耐性」ということが出てきます。これも建設的思考法行動法の一部と言えます。

もう一つがより深い内面感情への対処法です。これは心理障害の程度に応じて、どこまで取り組まねばならないか、また実践の結果の道筋が違ってきます。
内面感情については、すでに建設的思考法の段階で、外面行動においては感情に流されないことを重視しましたが、ここでさらに、外面現実への対処姿勢とはいったん切り離した問題として、自分の内面に向き合う姿勢というテーマが出てきます。外面のことではなく、純粋に内面の問題としてあるテーマを認めることが、このスタートになるわけです。

これを「魂への取り組み」と呼んでいます。ハイブリッドでは、深い内面感情の源泉を「魂」として、「心」とは別に存在する「もう一人の自分の人格体」であるかのように振舞うものがあるという、メカニズム理論を持っています。

従って、ハイブリッド心理学の実践とは、大きく「外面現実に対処するための建設的思考法行動法」と「魂への取り組み」の2つから成る、ということになります。
これがまあ、最新のハイブリッド総括ということになりますね。


■建設的思考法がうまく行かない..

で、ハイブリッドを学んで頂くにあたっては、何はともあれ建設的思考法行動法を学んで頂くことからにしています。
その内容はとここでは省略しておきますが、やがて、どーもうまく行かないとなると、次の「魂への取り組み」への導入になるわけです。

「建設的思考法がどうもうまく考えられない」というのに対しては、おおよそこんな説明をします。
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これは2つの問題というか取り組み方向があると思います。

一つは、建設的思考法行動法について、単純に、具体的場面におけるその理解が不十分というケースです。
これについては、より具体的に建設的思考法行動法を学ぶという視点で、何か材料を探して考えることも可能です。

もう一つは、「魂」の問題です。

ハイブリッドでは、最近掲示板で書いているように、人間では「心」と「魂」が分離して、別のものとして存在するという考えを取っています。「心」目の前の具体的な事柄を考える思考や感情が動く場所であり、「魂」「命」「愛」「人生」といった、心の深層の感情が動く場所です。

そして一言で「心の成長」と言っても、そのように分けて考えての、「心の成長」と「魂の成長」が、全く別のこととしてあるという考えを取っています。

建設的思考法行動法は、目の前の具体的な事柄を考える思考や感情についての、表層の「心」の成長のための方法です。
しかし「魂の成長」のための方法は、全く異なったものになります。
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■建設的行動法は感情を良くするためではなく現実を豊かにするためにある

建設的行動法が良く分からない、うまくできないという時、それは上述のようにごく実践的な面での具体的な発想不足のこともあります。建設的行動法は精神論ではないので、時と場合により結構さまざまなノウハウが出てきますので、それは見識ある者に学ぶと同時に、実践を積むことが重要です。

一方そうではなく、そもそも建設的行動法が何のためにあるのかについて、根本的な誤解をして方向違いになっているケースがあります。
ケースがありますというか、まさに心理障害感情が建設的行動法についての誤解と方向違いを生み出しますので、その誤解の検討が心理障害への取り組みの入り口になり得ます。

その誤解方向違いとは、「建設的行動法は感情を良くするためにあるのではない」ということです。そうではなく、「現実を豊かにする」ためにあります。
感情にはタッチしません。まあ建設的行動をするための最低限のプラス感情は原動力として必要になりますが。
そして建設的思考法行動法に習熟し、「現実において生み出す」ことのできる自分と、それが生み出した現実の豊かさによって、感情は「勝手に」より良いものが湧き出るようになります。

心理障害の中で、これとは全く正反対の姿勢が生み出されてしまいます。建設的思考法行動法によって、感情が良くなるという期待を漠然と持ちます。
そして感情がどうなるかと、感情にこだわり感情に捉われ、まるで「現実を豊かにすること」など眼中にないかのような思考に流れていきます。そして感情が良くならない怒りを向けることで、現実をさらに貧困化してしまいます。
その結果、湧き出る感情はさらに悪いものになります。


■心理障害の正体「感情の強制」

どうしてそんなことになってしまうのかと言うと、根底にあるのは「感情の強制」です。自分の感情が何とか良くならないとマズイという緊迫と、何とか感情を良くしようとする圧迫があるんですね。

それがどのようなメカニズムによって成り立つのかの詳細を、このあとの実践シリーズ続きで説明しますが、こうして魂論から見ていくと、「感情の強制」こそが心理障害の正体なのだという視点が出てきます。

まあ今まで「感情の膿と自己操縦心性」が心理障害の正体という言い方をしても、それはメカニズム論上の表現であって、取り組む本人の意識で分かる表現ではないんですね。本人の意識で捉えるならば、「感情の強制」こそが「障害の原因」です。

「感情の強制」とは、それを完全に捨てた自然状態から見ると、実に奇妙な人間の行いです。それはまるで、息を止めて身体中の血液をうっ血させて意識が遠のくまでじっとするのを良しとするようなことを、常に行なっているかのような状態です。そんなこと続けていると、体がおかしくなります。
どうおかしくなるのか。結果は不定かと。もう何がなんだか分からなくなるような、不調が起きるわけです。
心理障害とは、まさにそんな感じで、心がもう何がなんだか分からなくなるような不調状態と言えます。

先のカキコでは「復讐心を背景にした感情の強制」を指摘しました。あと大きなものが、「イメージの嘘」によって、自分が感情強制していることが自分自身でも分からなくなるというメカニズムがあります。
これらが、最新魂論から、取り組む実践意識において見た心理障害の正体ということになります。

「ならば感情の強制をやめれば良くなる」という短絡的発想が、またこの感情の強制の同じ轍の中で動くことになるかも知れません。
正確な対処法実践シリーズに任せまずが、一つ言っておきますと、明らかに、「感情分析」という心理学的特殊技術が必要になってきます。

いずれにせよ、前も書いたように、「魂に強制は効かない」わけです。
感情の強制」という奇妙なメカニズムを感情分析によって解くという本格的取り組みが通り道になる一方で、その先には、今まで「感情の強制」によって目をふさごうとしていた、魂のありのままの姿に向き合うという最終段階が見えてきます。

それが「第3段階」の話。その内の「復讐心を解く」について先のカキコで書きました。
その先に、さらに「鎮魂の姿勢」というものが出てくるという話です。これについて入門編的文章を書いたものを、ここでいったんカキコして続けます。


魂のゼロ層へ:序説-1 / しまの
No.1187 2007/03/12(Mon) 12:46:21

■「魂のゼロ層」に向かう

木曜にスキーに出かける前に「魂への取り組みについて入門編的文章」と言ったのは、これになります。
メール返答文で、理論整理を意識せず平易な説明を書いたものがあったので、ちょっと再編集など入れながら載せようかと。

でそうした、理論整理を意識せずに平易な言葉で直感的に心に染み込むような説明を考えてみると、大体、とっかかりと最後を説明することになるようで、要は「第3段階」の最後を意識した文章になるようです。

これは「魂のゼロ層」に向かう、ということです。

ハイブリッドの「魂への取り組み」は、具体的実践としては3段階になります。第1段階は「自分に向き合うことの価値を知る」。第2段階は「自分についた嘘を解く」。
そして第3段階が、「魂の望みに向かう」です。これを「魂のゼロ層に向かう」と言うのは、ちょっとメカニズム論の視点を入れた表現で、必ずしも入門的ではない。

いずれにせよ、第2段階「自分についた嘘を解く」で行なうのは、「高い理想の嘘」という第III層つまり「心」の層の嘘、そして「イメージの嘘」という第II層つまり自己操縦心性の層の嘘を解き、第I層つまり挫折した魂の荒廃感情に至ることです。
これ自体には全く答えはありません。答えは、さらに深層の「魂のゼロ層」に向かうことにあります。ここに「命」があります。

それがどうゆうことか、という話で、第3段階の序説入門編的表現のごっちゃになりますが、今言えることとして書いたものがありますので載せておきます。


■第3段階の2つのアプローチ

第3段階について今言えることには、およそ2つのことがあります。

一つは、第2段階の「自分についた嘘を解く」を経て、第3段階で向き合う魂の荒廃感情の大きな根源に、「復讐心」があること。
それ以外にもさまざまな感情が錯綜して存在しており、具体的にはこの後の「魂の治癒成長への実践」シリーズ続きで説明しますが、それらはとても「心がきれい」になった状態などではありません。

ハイブリッドは、それへの対処姿勢の答えを出そうとする心理学です。そうした、とても「心がきれい」などとは言えないものがすぐ消え去る魔法を用意する、僕が知る限りいかさま誤魔化しでしかない心理学ではありません。だから、「自分についた嘘を解く」という、真実に向かう痛みをまず経ると言っているんです。

そうした魂の荒廃感情の根源に、「復讐心」がある。これはとても大きな人間の心の問題で、僕は「全ての怒りが実は復讐心である」とさえ今考えています。
それに対するハイブリッドとしての答えを、第3段階の話で考察しますが、ここではそのアプローチの一つを説明します。
「復讐心」は「魂が魂についた嘘」だと考えています。それを解くのは第2段階の「感情分析」ではなく、第3段階になります。これを解く方法論が一つ。

第3段階について今言えることのもう一つは、「鎮魂の姿勢」です。
これが、復讐心を解いたさらに先に出てくる話です。これが、冒頭で言った、理論整理を意識せず平易な説明を書いた中で、新たに浮かんだものです。

「復讐心」は、自らの心の中で、解きます。命をかけてです。
それでは終わらない。最後に、「魂の望みに向かう」時が訪れる。これはもはや「自らの心の中」だけには収まらないことのような気がしています。それが「魂」を「自分」とは別の存在として位置付けたことに対応する、最も深い事なのだと感じます。
それが「鎮魂」などと言った言葉を浮かばせた次第。

ということで、まずは「復讐心」について。これはごく最近の返答メール文からそのまま載せます。
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■復讐心は根本的に満たされ得ない

>こんな風に、何一つ明るい兆しのない灰色の世界が現実だからといって、変えようとする事も嘘を重ねる事になるなら、一体何を頼ればいいのでしょうか。復讐心の強い衝動もあるのに、どうやって嘘を晒すという状態までいけるでしょうか。

自分の中に頼るものがないと決め付けたのが最初で、その結果、現実を否定する嘘に頼らざるを得なくなったのが実際ですね。
自分の中に頼るものを見出せないと、嘘を晒すことも難しいでしょう。

それを妨げているのが「復讐心」「イメージの嘘」で、特に後者が大きな壁になりますので、それを解く方法論も、今度のスキーの合間にでもじっくり考えたいと思っています。

それはちょっとお待ち頂き、「復讐心」については先に答えを言っておきます。
これは第3段階の作業になりますが、「復讐心」が見えたならば、別に第2段階の全てを済ませてからと考える必要はなく、すぐに取り組んでもらっていいことです。掲示板解説は理論整理のためじっくり段階内容を洗い上げていますが。

「復讐心」は、「魂の層における嘘」で、感情分析で解くものではなく、「命」によって解きます。
それは、「復讐心は根本的に満たされ得ない」ものであることを、心底から自覚することです。


以前Aさんの言葉に「職場で誰とも会話しないうっぷんも晴らせないなんて」と言った言葉があり、コメントしませんでしたが注目していました。
「うっぷん」が「晴らせるもの」だという感覚が、おありのようなんですね。これはそれだけ復讐心がAさんの感性の深くにまで根付いているということだと思います。

復讐心が強く根ざすと、怒り破壊が快感になります。それが価値あることだという感覚が、感性にまで根付き、疑うことができません。
それが全ての大元になるわけです。「感情を良くしようとする誤り」の大元にも。

これは魂のレベルで根付くことなので、感情分析では解けません。「ただ自分はそう感じるのだ」で終わりです。

それを解くのはただ一つ、「命」であり、「死」を見据えることです。
ただし復讐心がめぐりめぐって希死念慮になっていると、死を見据えることは意味がありません。これは「イメージの嘘」の産物であり、その層を解いた上で「死と命」に向き合うことが、復讐心を解くただ一つの方法になると考えています。

ですから「イメージの嘘」がまだ未着手の現状としてはまだこれを問うには尚早かも知れないのですが、答えは言っておきます。
「復讐心は根本的に満たされ得ない」ものだということです。これは死を見据えて、復讐が自分にとってどれだけの価値があるものだったかを、問う作業です。

それが必ず復讐心を解除するとも、ハイブリッドでは考えていません。これはいわば「最後の賭け」です。
嘘を捨て、自己の本性を開放することを、ハイブリッドは取ります。それが最後に「復讐心が真実」となるのであれば、それでもかなわないと。
実際、死を前にして、復讐の破壊に生きた自分に、他の選択肢を考えることができないまま死刑になった犯罪者が、沢山います。
しかしそうではない、世界の犯罪史に残る人物もいる。それが詫間守であり、テッド・バンディであり、掲示板にも書いたマリー・ヒリーです。至上最高(?)の快楽殺人者であったテッド・バンディでさえ、死の直前に、自分のやったことが自分自身に意味のなかったことを自覚したのです。「自分は暴力中毒になっていた」と。目にはうっすら涙が浮かんでいました。

そこまでを自分に問う作業を、ハイブリッドでは考えているわけです。だから「人生を賭けた取り組み」だと言っています。

そうして復讐心が解けた時、心がきれいさっぱりするのではありません。復讐心の根源となった「魂の望み」が見えてきます。

>はっきりとは分りませんが、望む事を禁じている何かがあり、そこは苦しみと悲しみだけのマグマのような感じ。泣き叫ぶのを抑えているような感覚があるのです。

これは案外近いですね。ただそれはまだ自分自身から逃げる方向の中で、少し振り返って見えた程度のものになると思います。自分自身に近づく方向において見るのは、そこからさらに深いものになるでしょう。
それが「魂のゼロ層」です。この「未知」に委ねるかが、第3段階を決定づける「選択」になります。
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■復讐心を生み出すのは復讐心

復讐心について一つ解説しておきましょう。復讐心は現実の不遇よりも、実は復讐心自体によって生み出されるということです。

これは、復讐心が「人よりもいい目にあう」ことへの執着心を生み出すからです。「人よりもいい目」によって、他人の中に起きた敗北感や自己軽蔑感を想像して、優越感にひたりたいという衝動です。
この結果、ちょっとした現実の不遇が受け入れられず耐え難くなるというメカニズムがあります。

そこには第II層自己操縦心性による「イメ−ジ」の嘘が、大きく絡んでいます。ここでの嘘は、そうした衝動が自分自身にとり醜い衝動だという感覚によって、他人の中にそうした衝動を投影して怒り非難を向けることで、自らの自覚を不活性化するというメカニズムです。
この状況で「不遇」を体験することは、自らの復讐心の敗北と同時に、自らの復讐心自覚の不活性化の失敗という2重の事態を意味します。
そしてこの「イメ−ジ」の嘘を実現するために使われた「感情の強制」メカニズムは、この事態をどう収めるかが分からないまま、狂った方向磁石のように暴走します。
この結果が、心理障害の中で起きる「苦しみ」の最大の基本メカニズムというのが今の考えです。今まで「苦しみ」のメカニズムについては自己破壊衝動望みの停止などを言ってきましたが、それらは「復讐心を背景にした感情の強制メカニズムの暴走」という器の中で動く内容の一つと考えるのが正解と考えます。

「感情の強制」というのが大きな焦点を浴びるようになります。実に「嘘」とつながりが深い。

こうしたメカニズムを知ることは、「他人の心は汚く自分の心だけはきれいだ」と思いたい気持ちにとっては不都合なものでしょうが、何のことはない、それが事実であるなら、それに向き合うことが問題の解決のスタートになる、価値のあることです。
より詳しくは「イメージの嘘」の解説で。

いずれにせよ、世の「怒る人々」の思考内容をじっくり吟味すると、何かよほど幸運な事態を「あるべき」ことのベースとして考えているようだ、と感じるのが今日この頃です。
そんなのは、人間だけなんですね。

いつも執筆後の気分転換に夕方海まで行きますが(スキーオフシーズンはジョギング、今はチャリで)、誰にともなく作られた猫小屋の中で暮らしている猫を見ますが、皮膚病が流行っているようで、中に両目がつぶれ、体の毛があまりなく、足もガリガリに痩せ細った猫がいます。
でもそれに不平不満も言わずに、生きている様子を見ます。

『悲しみの彼方への旅』で書いた僕の「人生見出し体験」(P.338)は、そうしたものが「生きる」ことのベースだという思考の転換だったわけです。多分まあ、そうした中でも生きていて得るものがあるという肯定型価値感覚が十分に用意されたというメカニズム的背景があったのでしょうが、それは恐らく僕の中で「復讐心」が根底から消えた瞬間だったのでしょうね。
それを境に、あらゆる障害感情が明瞭な消失へと、急速に向かう、人生の境目だったわけです。これらの根底にあるメカニズムを、今後とも考察して行きたい。

実際のところ、生きるとは、片足失い片目がえぐれ、暑さ寒さにのたれながら、というのがベースだという感覚さえ、僕は自分にはあると感じているんですけどね。まあそれが「サバイバル世界観の思想」でもある。
それに比べれば今は快適なマンション暮らしをありがたく満喫していますが^^;

そんなことを徒然と考えていると、心理障害の根本的克服というのが、実に単純な話で、何もハイブリッド心理学なんてものもいらないくらい簡単なもののような気がしてしまう感覚にさえ襲われる今日この頃ですが、まあかつての自分を思い返しても、まったく出口の見えない迷路の中であえいでいたのが事実なわけで..。

それを生み出すのが、ひとえに「イメージの嘘」の影響範囲の大きさということになるでしょう。これがハイブリッド心理学のキモになる部分なのだと改めて感じる次第です。


3/10(土)まで不在 / しまの
No.1186 2007/03/08(Thu) 13:48:40

今週のスキーは金土ということで^^;

なお帰ってきたら「魂への取り組み」について入門編的文章などUpしようと思います。結構斬新な視点も出てきますので、こうご期待?^^;
掲示板解説の方はじっくり理論整理モードで難解な話を続けていますが(^^;)、ようやく根幹中の根幹である、「魂論からの自己操縦心性へのアプローチ」に入ります。「イメージの嘘」という難しく大きなテーマですね。

..と考察が進むに任せていたらもう3月..これで年内に最初の心理学本出版果たせるのかと..^^;
まどーにでもなるようになるんで良いかと^^;


魂の治癒成長への実践-23 / しまの
No.1185 2007/03/06(Tue) 15:25:35

■理想価値観という糸口

感情分析第2段階の主な実践になると言いましたが、先のカキコの通り、それは自分の理想価値観について心底の感情と向き合いながら真剣に考えるという作業です。
考える上での大局的な視点が、3つあると言いました。「与えられるべき」感覚と復讐心という来歴に根ざした感情、「自分についた嘘」の3心理層という最も心理メカニズム論的視点、そして意識表面における理想価値観念です。

この先の意識的実践内容を定義するために、もう少し理論整理を続けます。
意識的実践は、やはり本人自身が意識できる理想価値観念基本的な入り口になります。それを糸口に、他の2視点を加えるという形。
これは要は、自分は一体何を求めて(理想)、何を感じているのか(感情、主に怒り緊迫感)、どのように得ようとしているのか(心理メカ、自分への嘘)を、真剣に考えるということです。

そうした自己理解のための一つのガイドとして、「心理障害型理想が描かれる経過」というものを話しました。主に5段階を経ると考えています。
1)望んで得られなかった、怒りで見下すための高い理想
2)高い理想を抱いていることに感じる自尊心
3)現実には自分こそが理想に最も遠いのではという焦り
4)自分よりさらに自己軽蔑にある者への軽蔑衝動
5)「性格競争」「人間性勝負」「消去法型理想」「苦しみ優越感」など独特な理想観の発生



■何が消えたのか

上のような理想価値観の変遷において、個人の心理状況の中で何が消えて見えなくなったかを考えると、以下のようになると思われます。
消えて見えなくなったものとは、つまり意識の深層に押しやられて無意識化したということです。それが積み重なっていきます。最初に押しやられた深層感情が無意識化した意識土台の上に、次の意識内容が生まれます。やがてそれも深層に押しやられると、最初の感情の上にそれが積み重なった深層感情がさらに無意識化した意識土台の上に、さらに新たな意識内容が生まれる。そのような構図になります。

この土日のスキーの合間にそれを考えていたのですが、一言でいうと次のように表現できそうです。
「まず現実が消え、次に自らの望みが消え、最後に魂の感情が全て消える」

まず1番目「望んで得られなかったもの」を「高い理想」として掲げ、それを怒りで現実を見下すために使った時、既に「現実」は消えていたように思われます。この個人、つまり子供の心の中でです。
「現実」は、自分が生きる場所では、基本的にないという感覚が、子供の心の中に据えつけられたように考えられます。

次に2番目で、自分が「高い理想」を抱いていることにおいて自尊心を感じた時、「自ら望む」ことが消えたように思われます。もはや自分からは望まず、その「高い理想」が、自分の生きる世界を変えるはずのものとして抱かれるわけです。

3番目「実は自分が一番理想に遠い存在」という感覚には、感情の膿の介在が考えられます。既に述べているように、感情の膿は魂の感情に近いところにあります。

そして4番目の「自分よりもっと駄目な者への軽蔑」で、魂の大元の感情はほぼ完全に見えなくなるように思われます。魂の大元の感情とは、現実の中で何かを望んだ感情です。そこには感情の膿が結びついています。
それら全てが、ここで見えなくなっている。
その代わりに、意識の表面に、自分よりさらに駄目な人間への破壊的軽蔑衝動が主役となる理想価値観思考が繰り広げられるようになる。これは魂の大元の感情からすれば、自分自身に対して完全に嘘をついている状態す。

5番目の各種独特な理想価値観は、その上に展開されるもののように感じます。まとめて「人目を通しての理想価値観」と言えると思います。


■「怒り復讐心」という振り出しから第2段階へ

このように「意識から消えたもの」を概観して言えるのは何か。

何よりも強烈な印象を与えるのは、「自分よりもっと駄目な者への軽蔑」を選んだ時、この人間が心の底で本当に願い求めたものとは、おおよそ違う方向へ、この個人が向くことです。そこに、取り組む上での自己方向転換のポイントが考えられます。
一体それによって何を得ようとするのか?この問いを本人自身が自分に問いても、自分が明らかに自分自身にとってあまり得になるものではない、すさんだ衝動に駆られた行動への方向を向いているのを感じるでしょう。

しかし、それを止めることはできない可能性が高い。たとえ自分に得にならないとしても、そうせずにはいられないのです。
それは何故か。

それが「復讐心」です。悔しくてたまらないわけです。その怒りの矛先を、何かに向けないではいられません。
この衝動が一度走りだしたら、それを理性論理によって途中で止めることはできません。可能なのは、大元からその衝動を捨てるか、もしくは、その衝動の結末をどう考えるかという、2つだけです。

かくして、「理想価値観」を糸口にして感情分析するとしても、「ただ自己を知る」という感情分析だけでは取り組めない問題に突き当たります。
ここで再び第1段階からの大局的な視点に戻ります。「怒り」を克服するという、最も基本的なこの取り組みの目的に立ち返る必要があります。

怒り復讐心の一つの大きな源泉は、「魂の成長責任放棄と外界へのなすりつけ姿勢」です。その検討はしたのか?こうして感情分析すること自体が、実はまだその姿勢、つまり「自分を見捨てた他人への怒り」の中で、他人を見返そうという感情の中にあるのではないか。
ならば行なうべきことは感情分析よりも、その姿勢に向き合うことです。そして自分に向き合うことの意味を知ることです。これは第一段階の話になります。

そしてさらに進みたいのであれば、何に着目するのがいいのか。それが第2段階になるわけです。
このように「振り出し」に戻って考え直す繰り返しは、何度でも行なうのがいでしょう。その都度、先に進める範囲が増えてくるわけです。


■ひたすら「自分についた嘘」に向き合うのが第2段階

そうして怒り復讐心に駆られる方向性から少し距離を置き、自分に向き合うことができたならば、第2段階として行なうことは、ひたすら、「自分についた嘘」に向き合うことがその内容です。

それを行なうかどうかを、はっきり自覚して頂くための、「選択」をこう表現したいと思います。
「自分に嘘をついている人間」として、これから生き続けていくか。
それとも、「自分への嘘のない人間」として、生きていきたいか。


「自分に嘘をついている人間」は、ストレスに満ち、外から見ても何か信頼することのできないものを感じさせる人物になってしまいます。自分に嘘をついて、どんなに明るく親しそうな振舞いをしても、人はそこに心底からの親愛を感じることはできず、愛はあまり育ちません。

「自分への嘘のない人間」は、心に芯のある人物だという印象を、まず人に与えるものです。そして彼彼女は、「生きている」という感覚を強く感じさせる人物になるでしょう。
言いえるのはそこまでです。「自分への嘘のない人間」は、誰からも好かれ、いつもいい気分でいられる、などと言うことはできません。そう期待したいのだとしたら、まさにそれが「自分に嘘をついている人間」の方向をまだ向いているということなのです。

それだけ、「自分への嘘のない人間」になることは、痛みを伴う、真剣な試みだということです。ただ言えるのは、その「痛み」は、「嘘をつき続ける」痛みではなく、「真実に向かう」痛みだということです。どっちの痛みもそう変わらないというのが、僕の実感です。いや後者の方がその時点の痛みは強烈かも知れない。
しかし前者の先には、ただ「闇」が、そして後者の先には、「輝き」があります。

それを選ぶか、なんですね。


■「高い理想」の嘘

そうした選択に立って初めて意味のあることとして、「理想の来歴」を振り返った時、まず言えるのは、4番目「劣ったものを軽蔑する」という心の動きを取った時、それはもう本来の「高い理想」でも「向上心」でも全くないということです。
それはもうただの負け惜しみの弱いものいじめということになるかと。

そして5番目「人目を通しての理想価値観」が、厄介な取り組み対象として、巨大な壁としてたちはだかる地点へと、第2段階の歩みが進むことになります。
ここまではもっぱら意識表面の明晰思考で捉えられる「理想価値観」思考が自己理解の材料でしたが、ここで、それでは済まない心理障害メカニズムが介在してくるからです。
それが「イメージの嘘」であり、意識的努力によっては最も解くのが難しい、第II層つまり自己操縦心性の層がついた嘘になります。

その結果、「人目を通しての理想価値観」に生きるとは、「嘘に人生を賭ける」とも言うべき、人間の生き方になる。
選択は「嘘に人生を賭ける」かそれとも「自己の真実に生きるか」として問われねばなりません。

その考察を続けます。


魂の治癒成長への実践-22 / しまの
No.1184 2007/03/02(Fri) 15:50:05

■「自分についた嘘」への3つの大局視点

3つの心理層にまたがる、「与えられるべき」感覚と「復讐心」という2つのテーマ。これが本人自身にもはっきり自覚されない、「自分についた嘘」の内部構造になります。

一方、本人の意識体験においては、そのぼんやりとした輪郭が、この人物が来歴の中で「理想」を描いた、独特の過程に表れます。
それは一言でいえば、「理想と空想」のセットに対する、「魂の感情と現実」のセットの、内なる断裂と対立矛盾という構図になります。その中で「理想」は基本的に「現実へのアンチテーゼ」として描かれるというベクトルがあります

詳しい話はこの後にしますが、とにかくそうして、「与えられるべき感覚と復讐心」という来歴に根ざす感情内容3つの心理層にまたがる「自分についた嘘」という心理構造、そして「現実へのアンチテーゼとしての理想」というこの人物にとっての未来への観念内容という、大きく3次元の大局視点を考えることができます。

取り組むべき心理要素を考えるならば、まず「与えられるべき感覚と復讐心」×3つの心理層=6心理要素。これは内面に向き合い、自己を知り自分についた嘘を解くという、感情分析の作業が考えられます。

感情分析は、基本的に、魂との対話に向かうものとして行なわれねばなりません。人の目を意識して自分を変えるための作業として行なっては、いけないのです。
ところが、感情分析しようとする「自分についた嘘の構造」がまさに、人の目を意識して自分を変えようとする衝動を生み出し続けているのです。感情分析も、人の目を意識して自分を変えようとする衝動の中で、人の目を意識して自分を変えようとする衝動の誤り(?)を分析しようとするものになります。
これは成立しません。

一方、「現実へのアンチテーゼとしての理想」という、3次元の大局視点における残りの側面は、自分への嘘を解くという感情分析の作業になると同時に、そもそも「理想」とな何なのかという、「価値観」の再検討の作業にもなります。
これは成立し得ます。人の目を意識して自分を変えようとする衝動の中で、この検討作業を行なうのですが、その成果(?)は、自分に嘘をついて「理想」を目指す試みが、根本的に実現不可能であることを、心底から自覚することになります。

ですから、第2段階においてまず行なって実質的に意味が出てくるのは、この「理想」つまり自分や他人がどうあるべきだと考えている、思考内容だということになります。
それを価値観検討と感情分析を一緒くたにした形で行なうわけです。まあそう行なうというか、暗中模索の中で、そうゆう思考検討になった部分が、効果を生み出すわけです。ただし効果とは言っても、その19および20でも述べたように、心理障害の深刻さに応じ、比較的即座に自分の方向転換につながるものから、ただ治癒としての絶望感情に覆われるものにまで分かれることになりますが。

またちょっと難解な感情分析方法論みたいな話になりましたが、分かりやすい言葉を書くための準備としての理論整理ということで。

要は、「自分についた嘘」の3心理層構造の最も表層である、「高い理想」の嘘に、まず取り組むということです。意識的努力としては、感情分析と大上段にかまえるのではなく、自分の理想価値観について、真剣に、心底の感情と向き合いながら考えるということでいいと思います。
その真剣さと自分の本心への真摯さが、自然とそれを感情分析の作業という性質のものにしていきます。感情分析とは、そうゆうものです。


■「心理障害型理想」の発達過程

ということで、「理想価値観」と「自分の心底の感情」を真剣に考える作業として行なって頂きたいと思いますが、「現実へのアンチテーゼ」として理想が描かれる過程を説明します。
心理障害傾向にの深刻さに関わらず、ということは全ての現代人の方々において、自らの抱く「理想」にあるこの要素は、取り組んで頂きたいものということになります。

「心理障害型の理想」(と敢えて呼んで良いように感じます)は、まず幼少期から学童期にかけて、つまり「もの心」ついた時期に、回りの世界に対する漠然とした怒りの中で抱かれるのが、特徴のように思われます。

それは自分が与えられるべきだったのにそうではなかったものに対して、ということになるでしょう。親や回りの大人の、外面内面にわたる資質や性格や人間性の特徴がまずその対象になるはずです。
ようは、自分が願い求めながら実現しなかったものを、空想の中で「理想」として強く意識するわけです。それは例えば、互いが優しく明るく、心を開き合って生き生きと接し合っている姿であったりするでしょう。
そしてその「理想」から、実際の目の前の人たちを、こき下ろし軽蔑する形になります。「あんな人間達!」と。
これは「怒りで見下すための理想」です。

次に、そうした「高い理想を抱いている」ことが、本人に自尊心の感情を与えた人生の時期が、必ずあったはずです。かなり短い期間でしょうが。
回りの人間を、その「高い理想」にかなっていないことにおいて劣等な存在だと軽蔑し、また、そうした「高い理想」を回りの人間は抱いていないことにおいて(ただしこれはもはや現実にそうかは分かりようがなく、本人の空想にそう映っているということですが)、低俗な存在だと、軽蔑するわけです。
なぜこれがかなり短い期間に限られるかというと、単純な話で、「高い理想の持ち主」であることだけで自尊心を感じられるのは、結局自分のことは棚に上げていられる間だということです。

かくして次の特徴が、思春期になって現れます。自意識が急速に発達し、怒りで見下す理想の矛先が自分自身にむいてくるという事態です。
これは、本人の意識において、自分が抱き続けてきた「理想への近さ」からして、他の誰よりも実は自分が一番遠いのではないかという、暗雲の漂う驚愕の感覚としてある時自覚されるかも知れません。知れんませんというか、そうなるものが今取り上げている「心理障害型理想」なわけです。

これは本人にとってきわめてマズい事態であり、この状況をなんとか取り繕おうとして、とある画策が行なわれるようです。それはきわめて錯綜した画策であり、この人物を「心理障害」という、自分自身の中に折り曲げられた心理状態へと旅立たせる、画策であるようです。
それは、自分が理想にかなわないことに感じるのと同じ感情を、他人の中に何とか見出し、その状態を軽蔑するということです。

他人の中に見出して、その状態を軽蔑する感情とは何か。その核となるのはずばり「自己軽蔑感情」です。
ここで、この人物に抱かれる「理想」が、本来の「理想」とはそもそもの位置付けがちょっと異なる、自分自身からの逃避つまり「嘘」の位置付けになる方向性の始まりを感じます。
自分は何を、なぜ理想とするのかが、ぼやけて来ているわけです。とにかく、それにかなわないという忸怩たる自己軽蔑感情を、軽蔑します。
その中で、自分だけじゃない。自分はまだましだ。あいつの方が駄目だ、と考えます。この流れを見ると、その先には、「おまえの方がもっと駄目」と言える相手の餌食を求めるのが、「いじめ」の心理であることが容易に想像されます。

この結果の意識形態は、大体3種類かと。
他人の中に自己軽蔑を内に宿した敗北感を想像して、優越感と快感を感じます。
自己軽蔑を内に宿しながら何かを望むあさましさを見て、その願望を叩き潰したいような怒りを感じます。
自己軽蔑を内に宿しながら、それを隠し、自己肯定がある人間のように明るそうに振る舞う姿を見て、鳥肌が立つような不快感と嫌悪感を感じます。

こうした「理想観念」が生まれてくる源泉には、魂の挫折感情と復讐衝動が考えられます。
魂においては全ての感情が基本的に「愛」を軸にしており、自己軽蔑感情は、「愛されることへの挫折」の象徴です。復讐衝動は、その同じ感情を、他人に味あわせる衝動として発生します。
一方、「自分は愛される」という感情を持つことは、復讐の勝利の意味を帯びます。愛されるという感覚で、相手に勝つと感じます。
ただし、そうした魂の挫折感情は、たとえ本人がその感情の存在を意識の中に認めたとしても、自分の「人に見せる顔」からは切り離し、まるで自宅に泊まっている望まない客のように、足手まといで目障りな感情のように感じるかも知れません。

やがてこの人物に、実に特徴的な「理想」の観念が抱かれるようになります。これはここまでの心理の流れと、何かつながりがなく、一度何かが消えて、再び意識表面に現れてくるのが、この特徴的な理想観念になります。
それは「性格競争」「人間性勝負」とでも呼べる価値観理想観です。性格や人間性の良し悪しが、勝ち負けの問題になっているのです。10っちゃん「格づけし合う女たち」の世界ですね。アハ。

そしてまた意識表面に見えるのは、「消去法型理想」とも呼ぶべき、理想についての思考法です。「〜でないこと」「〜なことなどしないこと」
流れの話をそろそろ終わらせたく手短な説明になりますが、これは実は、この人物自身が自らの中に抱いて、そして禁止したことです。他人の中にそれを見ると激しく軽蔑糾弾するのですが、実は自分自身が持っているからこそ、軽蔑糾弾すべきものとして「知っている」のです。こうした心理過程をたどらない人の場合、人の中にそうした糾弾すべきものがあるという感性自体が生まれないんですね。

これは当然、自己撞着的に、自己糾弾へのベクトルを持ちます。この破壊性が、本人が意識している以上に、人格に対して影響力が大きいのが事実です。
この人物は、何かと「精神的的苦しみ」の感情を感じやすい。
最後に、この「精神的的苦しみ」が、この人物の自尊心を支えるものになります。それが自らの精神性の高さの証明のように感じるのです。そして苦しむことなく、この自分の苦しみを無知な他人を、粗野で無神経な存在だと怒り憎しみます。

およそ、こうした流れになるのが、「心理障害型理想」の思考内容になります。


■3次元の大局視点の交差にあるもの..

またスキーに出かける前の締め(?^^;)を書いておきますと、とにかく強い印象を与えるのは、上述のような理想思考の中で、本人がそれを「高い理想」であり「向上心」だと感じる信念の強さとは裏腹に、現実に向上へと導くという「理想」本来の位置付けを失っている、そのギャップの大きさです。

実際、「理想」についていくら考えても、そこに近づけないという奇妙さに、本人も漠然と気づいているかも知れません。
しかし本人が気づいていないのは、「理想」を考える「前提」となる論理です。それを脇に置いているから、何が理想かという話がまったくかみ合わないままになります。

一体何がどうなっているのか。どういう風に思考方法を変えればいいのか。
そのは、上述で「実に特徴的な理想観念」と言った流れの前で消えているものにあります。
それをできるだけ分かりやすい説明で書くための頭の中での整理は、またこのスキーの間にでもして、また来週以降ということで。

それは最初に言った「3次元の大局視点」、つまり 「与えられるべき」感覚と復讐心という魂の来歴感情「自分についた嘘」の3層心理構造、そして自分自身から逃げるための理想思考、この3つが交差するところにあるものを、この「魂への取り組み」としてはどう意識すればいいかという具体的実践の話になります。


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