■ 魂の治癒成長への実践-25 / しまの |
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No.1191 2007/03/23(Fri) 14:18:06
今週末は天気悪そうなので、自主トレで考えてたスキー行きはちょっとなしの動勢..
■「成長の摂理」と「理想」
先のカキコで触れた「成長の摂理」という視点から、人間の心の成長発達における「理想」の役割の、本来の自然な姿を書いておきましょう。
人の心はまずイメージと現実が混沌とした世界に生まれ、基本的に親を通して現実世界に接する生育の過程を持ちます。「自分自身で直接現実世界を生きる」ことはまだしていません。
やがて「理想」という羅針盤を手がかりに、「現実」という大海原の航海へと旅立ちます。「理想」というイメージを持つ一方で、「ありのままの現実」という、イメージの衣を取り去った世界に、親を通してではなく、ありのままの自分で、向き合い、その中を生きる体験を持つのです。
そしてその「理想」を羅針盤とした「自らの望み」に向かって全てを尽くしたという充実感を得た時、彼彼女の心の中で「理想と現実」という二律背反の構図は消え、現実世界と一体の存在として生きる自分という調和の感覚を得るのだと思います。これは「イメージ」というものの役割自体がそれを終えた、未知の感情として訪れるように思われます。
「成長」は、そうして「ありのままの現実を生きる」ことの中に生まれる、一切の人為的操作も意識的捻出も介するものでもない、「命」そのものが持つ自然成長力の発現として存在します。 その時我々が体験するのは、望みに向かい、ありのままに現実に接して、喜び、痛み、悲しむという感情です。
それが全てです。それは決して、「こうあらねば」という「イメージ」に自分を当てはめることの中にはありません。そしてそうでない自分や他人という現実への、怒りの中には、ありません。
■「成長の摂理」に反する「自分への嘘」
それが、「与えられるべきものの理想」へと人が固執することを最初の兆候として、全く異なる、茨の道へと反れていくわけです。自ら現実を破壊するという、「心理障害という生き方」の道へとです。
一体何が起きているのか、その表面からは全く見えません。「与えられるべきものの理想」への固執という時、何となく分かるのは、「成長の摂理」に反したことが起きているということだけです。 「誰を通してでもなく自分自身で現実に接していく」という変化をたどるという、成長の摂理に反したことがです。
「高い理想の嘘」の残りの2側面、「飾りとしての理想」「理想を掲げることが理想に反するパラドックス」を見ると、一体何が起きているのかが、もう少し明瞭になってくるように思われます。
「成長の摂理」に反することとは、自分に嘘をつくことだということが、です。 この恐らく人間の歴史を通して語られてきた叡智の言葉を、今までにない精緻な心理メカニズム論として説明するのが、ハイブリッドだということになるでしょう。
■自分への嘘の始まり:「飾りとしての理想」
「飾りとしての理想」という側面は、「心理障害型理想」の5段階変遷において 2)高い理想を抱いていることに感じる自尊心 に現れます。
第1の側面「与えられるべきものの理想」ではまだ「嘘」という性質はあまり目立つものではありませんが、この「飾りとしての理想」になると、ニセモノの性質がはっきり目に入るようになってきます。
どうそれはニセモノか。 「理想」の本来の役割が損なわれ、方向を反れた目的、あるいは別の目的のためにそれが掲げられる時、その「方向を反れた」度合いに応じて、それはニセモノという性質が濃くなってくるでしょう。 さらに、そうした「別の目的」ために掲げる「理想」と、本来の役割においての「理想」について本人が心の底で感じていることとが食い違ってくるに従い、それは完全に「嘘」という性質を帯びてきます。
「理想」の本来の役割とは、現実において本人を向上に導くことです。 「方向を反れた役割」「別の目的」が、「飾りのための理想」というわけです。
この違いを、先の理想の本来の役割説明の延長で、例えを使って説明できます。単なる比喩以上の例えになるでしょう。
本来の役割における「理想」は、この現実世界という荒野と大海原を航海するための、羅針盤です。その意味で、この「理想」は命がかかっているほどの重要な役割を持っています。 「飾りとしての理想」は、同じ羅針盤の姿をしているのですが、実は部屋を飾るためのインテリアです。自分が前に進むための道具ではなく、眺めて悦に入るための飾りです。さらに言えば、人に見せて自慢するための飾りです。 どうです。私はこんな理想の持ち主なんですよ。すごいでしょう。ぜひ私を好きになりなさい、と。
こうした「飾りとしての理想」の性質を帯びやすいのは、まあいわゆる道徳的理想でしょう^^; やる気頑張り、忍耐、克己心、そして人との良い関係、優しさ、建設的であること、etc。ハイブリッドの建設的思考法も、この罠にはまる可能性は十分にあります。それは本当に自分が前に進むための思考法になっているか、という問いが大切ですね。
■「飾りの理想」と「信念」のメカニズム
もちろん多くの場合、人が掲げる「理想」は、彼彼女が前に進むための本来の役割を持つと同時に、飾りとしての性質も持つ、混合物でしょう。 ただしこの混合は、単純な混合ではなく、内部矛盾対立をはらんだ混合です。
何が起きるのかというと、「飾りとしての理想」は、それがニセモノであることを「魂」は知っているということです。本人の表の意識は「理想」がニセモノだという自覚意識はほとんどないままにです。 この結果、この人物は、もの心ついた頃から、極めて漠然とした自己不信感の感覚につきまとわれている可能性が高い。 そしてそれを振り払うために、「信念の感覚」が使用されます。これが大切なんだ。自分はそう信じるんだ。
漠然とした自己不信感が強いほど、それを振り払うための「信念の感覚」にはより強度が必要になります。 一方これがまた「魂」から見ればニセモノなんですね。結果、漠然とした自己不信感もより強くなります。これはもう悪循環です。 かくして、誰からのともつかないニセモノ糾弾の声に悩みながら、何かへの妄信狂信的信念に刈られる人間の姿が出来上がる可能性があります。
■「現実を生きるための理想」と「飾りとしての理想」
自己の向上を導くという本来の目的で抱く度合いが高まるにおいて、人は自分の理想を特に人に見せつけたり、押しつけたり、人の理想との比較競争などしなくなるものだと感じます。 それはそっと、自分の中で静かに、そして揺らぎなく、大切に、抱くものになるでしょう。
これも例えの続きができます。実際そうした本来の目的の理想は、あまり人さまに見せられるようなものではありません。荒野と大海原を進むための命綱として使われたその「理想」は、あちこちが擦り削れ、見栄えのあまり良いものではないかも知れません。 しかしその役割性能を果たすために、その針は常に丁寧に磨かれ、見る目を持つ人が見れば、いぶし銀の輝きを発するものであるのが分かると思います。
「飾りとしての理想」は、文字通り、自分を飾るインテリアとして、とにかく見た目がいいのが重要になります。針そのもの性能というより、それが収められた箱や針のデザインの見栄え美しさを、一生懸命に磨こうとするわけです。そしてそれを人に見せ、人が心腹したり、自分の意識の方が上だと思えることで、自己満足感を得るかも知れません。
重要な続きがあります。そうして飾りとして磨いた「理想」は、外に持ち出してこの現実世界という荒波を進もうとした時に、うまく動いてくれないのです。見栄えだけ考えて装飾を施していたため、羅針盤としての性能を失い、余計な見栄えほどこしで凝り固まってしまったのです。
「自己を現実において導く理想」と「飾りとしての理想」は、まさにこの例えがそのままの姿になります。 いったんカキコして、「飾りとしての理想」についての障害メカニズム論および治癒論からの考察を続けます。 |
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