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過去ログ
2007.07


残された問題への視点-4 / しまの
No.1246 2007/07/15(Sun) 11:39:48

しかしさっきはすごい雨だった^^;(台風4号)

■「心の自立」とは

先のカキコでも書いたように、「自立」というテーマが重要になっているということで。

もちろん経済的な自立のことじゃーございません。「心の自立」に立って、経済的に人に頼ることもアリなわけです。
“経済的に人に「依存」することもアリな”..と書こうとしてやめました。「依存」という言葉が出ると、もうどんな面でも「心の自立」ではなくなってくる。
どうゆうことか。それが「心の自立」の定義を示すことにもなるでしょう。

「心の自立」とは、「自ら望み、自らの考えで判断し、自らの責任で決断できる」ことを指します。これが今のところの定義になります。
これをさらに実践論的に言う場合は、「自らの考えで」を「自らの原理原則で」とします。

ですから、「心の自立に立って経済的に人に頼る」とは、自分が進む人生の望みを持ち、その手段として、自らの経済的限界を知り、原理原則的に問題ないと判断する形において、人からの経済的援助を受ける判断をするということです。
ここで「自らの責任で」とは、その行為の結果についてもしっかりと予測し、望ましくない事態が起きようとも、自分の自衛能力の問題として受け入れるいうことです。

これは大きくは、女性の生き方としては大きくテーマになっているのが、今の時代という転換期とも言えるでしょう。


■「心の自立」への動機づけ

まそうした定義よりも重要なのは、そのような「心の自立」を目指す動機づけとはどうゆうものかになってくると思います。

これは僕自身が実に実感として持ったことですが、自分に対する人の目や人の心のあり方によって、自分の心のあり方が左右される動揺というものが、本当に心底から嫌だったわけです。
たとえそれが自分にとっての価値ある異性であろうとも、僕はそうした動揺で精神疲労した時、心底から「強くなりたい」と感じました。


それが2006/05/19「魂の成長の成り立ち-2」で、「ちょっと面白い文章なので、ごく最近の日記から」と引用した文章でもあります。それは僕にとっての「魂の女性」を相手にした出来事を踏まえたものでもありました。
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帰ってきて僕は、もういいかげんこんなことはなしにしたい、と考えた。何をなしにしたいかと言うと、相手に対する自分の位置付けを自分では定めることができないような不安感の中で、相手に接するということをだ。
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相手が自分のことを大切に思っていると感じると、相手への愛情を感じる。実はそうではないと空想すると、愛情が失せる。
もうそんなことはなしにしたいと感じてきたわけです。愛するなら愛する。愛さないなら愛されるどうかには心をもう惑わさない。
そうした、自分で安心のできる自分自身を、何よりも欲しかったわけです。そうでないものは、「望ましい」感情であろうと、もういらない


■「望みにおいて現実に向かう」ことだけが生む「心の自立」

そうした「心の自立」は、「望みにおいて現実に向かう」ことだけが、それを生みはぐくむことができるものです。

空想の中で、相手のことや自分のことをどう考えればいいのかと、いくら思考を繰り返しても、それがどんなに優れた感情分析建設的思考法であろうとも、「心の自立」を増大させることはありません。感情分析や思考法できるのは、あくまでその準備「望みにおいて現実に向かう」ことへ自分を近づけることだけです。

ただ「望みにおいて現実に向かった時」、「心の自立」という心の歯車が実際に動きます。
それはまあ多分、「心の自立」が心の自然治癒力自然成長力に最も密接につながったものだから、そうした「現実行動」が持つ「現実性刺激」を引き金にしないと、発動しない仕組みになっているのでしょう。

そしてその時、「望みの真実性」が同時にふるいにかけられるわけです。これも「現実性刺激」がないと動かない話です。頭の中でどんなに「自分のこの望みは本当?ニセモノ?」と考えても、それは真実のふるいにはかかりません。
ですから、現実において望みに向かうしか、ないわけです。

上記引用の日記の続きは、そのことを指したものです。
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・・(略)・・その先は分からない。とにかく分かるのは、これからも彼女とのつき合いは続けられるということだ。そして彼女から見てどうかは分からないけれど、僕自身にとっては、今の自分の現実に地に足をつけた土俵に乗ることができたということではある。
・・(略。「これからどうするか」を考え、自己操縦が含まれたものが見えるのを書いています)・・それ以外にはないのだ。最近治癒論の締めくくりを真剣に考えるようになり、最後に見えないものとしての「魂」をどう捉えるかになると考えていた。最後まで見えるのは、真実とニセ物の混合物なのだ。それでもこれだけは明瞭に言える。現実を生きる強さが増している、と。

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こうした「心の自立への動機づけ」が重要になってくるということになります。
それは今回の原稿でいうところの、「心の障害が関わってくるケース」における、最初の入り口である、「自己受容」において、ということになるでしょう。

ハイブリッドにおいて「自己受容」とは、「自らによる唯一無二の成長への意志」のことを指します。世の心理学で良く言われる「自己受容」が得てしてまさに「成長の断念」みたいなものであるのとは、対極のものになります。
「自己受容」とは、ですから、自立する存在としての自己を受容すること、という意味を含むことに、ハイブリッドにおいてはなるわけですね。


残された問題への視点-3 / しまの
No.1245 2007/07/13(Fri) 15:27:35

心理学本「1部−2」原稿についての、その後の3点考察+アルファの残り。


■その3:「他人への関心」

「自尊心」関連で考察したことの残り一つという話になりますが、まずさっき書いた2つとは、まず「自尊心への自尊心」が自己操縦心性の中でどうしても本人の懸念事項になること。
「否定価値の放棄」「不完全性の受容」という最大道標を選択させる原動力として、「自立」への望みもしくは動機とも言うべきものがあるのですが、それ自体を生み出す要因はもう見えないものであること。

心の「自立」への動機を持てないと、自分の自尊心が外から見てどんな見栄えの自尊心かに躍起となる心理が生まれる、という話になります。
これは何とも実に変な話です。「自尊心」というのは、まさに、そんな躍起になって心を惑わすことがなくなることを言うのですけど、という感じで。
こう書いていても、「変な話だなー」と思わず口にする。本人は自尊心を得ようと躍起なのですが、それがまさに自尊心を損なっている。

まこれは、「自尊心」を持とうとするのが脳のレベルでの不可避の機能である一方で、心の「自立」をなしにするという心理土台がある結果、そうした変な意識状態が出現することになるのでしょう。
後者は、「人の心が自分を囲んでいる」という幻想感覚です。だから自分の自尊心感情の見栄えというテーマが、「現実」問題であるかのように体験されてしまう。これをどう1)知性で補正しつつ、2)この根本克服である心性崩壊を越える姿勢を持てるか。

「心の自立した世界」をどう想像(ここでこの「空想」という厄介なものが必要になるという隘路があるわけですが)できるか、それが何についての絶望を超えた先にあるのかを、できるだけ具体的に想像できるようにすることが、まずはそれを促し支えるものになるということになります。
それがまさに「人の目の中にあるものとして躍起になった自尊心」という「空想」に絶望すること、ということになるでしょう。

それは自尊心が崩壊するのではなく、空想世界という病理が崩壊することなのですよ、というのが最も適切なメッセージになるように思われます。
これが今回「14章 病んだ心から健康な心への道−2」で書いた「心の再生」の正体だということになります。

うん、これが今のところ一番良く、ハイブリッドが示す最大転換を通るための、いったん全てが見えなくなる通り道を説明した言葉になりそうです。

3つめの話というのは、先の2つの話を考えた時に浮かんだ、今の世の人々の様子として強く僕の心に飛び込んできたもののことでした。
とにかく他人に興味あるという姿^^;
新聞に出てる週刊誌広告もそうだけど、見聞きする心の悩みや関心事にせよ、かつての自分にせよ..

一方今の僕の様子など手前味噌ながら書きますと、今月のカレンダー用事が書いているのたった1日(おとといだったけど)という、何とも世離れ(^^;)したものになっており、それについて何も感じないというのを、やはり以前の自分との違いとして感じる今日この頃です。
ま僕の場合、執筆や相談対応が一応(あんま金にならぬ^^;)仕事としてあるというのはありますが、基本的に世の人が他人に関心持つような形では、人に興味持ってないようで、「魂」のレベルではある..という話はそこそこにしておきましょう。

まとにかく、そうした他人に興味しんしんの様子ががらりと変わる生き方という話なのだろうなーと浮かんだという話でした^^;


■「愛し続ける」ではなく「愛し続けた」自尊心?

+アルファというのは、最後の方で、“「愛し続ける」ことがやがて誇りとなり自尊心となる”と書いたのが、ちょっと表現を訂正した方がいいかなあというのを考えているという話です。

これは実際において、「愛し続ける」という形にははならず、「愛し続けた」ことに自尊心を感じる、という過去形にしかならないかも知れません。まず実感としてそう感じた次第。

というのも、「現在形」での「愛」は、基本的に自分自身のことではない感情を持つことにおいて「愛」なのであって、現在形で「愛していること」「愛し続けている」ことに自尊心を感じるとなると、今回の原稿で書いた「バニラチョコクッキー現象」になってしまうんですね。
はっきり自尊心に変わるような「愛」は「看取る」くらいまで行った段階のものと、言えるかも知れません。

実際、この心理を表現した歌詞や散文などちょっといろいろ眺めたのですが、やはりもっともらしいのは過去形になっています。「愛せたことが誇り」「愛せたことが私の幸せだった」
一方、現在形で愛を誇りにしている文章もあります。こっちはどうも病んだ心のメカニズムがぷんぷんと匂ってくる文脈になっています。

微妙ですね〜..なんて自分で関心せず(^^;)、ちゃんとメカニズム考察せねばですが、まとにかく「バニラチョコクッキー現象」が起きるのは明瞭で、あとは、愛とすりかわった自尊心と自らどう闘い、それを克服したかに、「愛せた」という自尊心が生まれる、ということになるでしょう。う〜ん深い。1部は「愛せた」に言葉修正程度して、2部の方はこの主旨で流れを書こうかなーと。


まあさっきのカキコも含めてですが、こうした成長へのきっかけはやはり「出会い」にも依存するというこことで、「趣味と恋愛は自己強制してでも持て」なんて言葉も浮かんだ次第。よくある「男女格づけ合コン恋愛」だけだともう性愛衝動と皮相な自尊心という、「魂」に触れることのないものということで、あまりお勧めではなくなってきますが..^^;


残された問題への視点-2 / しまの
No.1244 2007/07/13(Fri) 12:03:19

きのう掲載した最初の心理学本「1部−2」原稿についての、その後の考察などをさっそく。

まず3つのことが「残された問題」..ってゆーかー、何らかの形で出版本レベルでは触れたい話。
この3つの話というのは、明らかに底の方ではつながっている大きな話になるわけで、そのつながりについて考えながら書きましょう。


■その1:「自尊心への自尊心」

まず書き終わって自分で読み返して気になった点として、「自尊心」の章読む人にとって結構心苦しい内容になっているような気が、最初に読み返した時点で感じました。
これは相談メールしている人も実際そうだったことを確認済み。

ちなみに僕自身が心苦しさを感じるというのはありません。エヘ。僕の相談対応スタイルとして、相談者の心理状態シミュレーションして、それに対してどんな思考検討してもらうとどんな変化があり得るというシミュレーションに慣れてますので、その感覚で文章振り返ると、理屈考える以前に、こりゃちょっと苦しいわな、と直感的に浮かんだ次第です。

でなぜか。これはズバーリ(@_@/)、今回の原稿で問題の核にあると書いている、「外から見た見栄え」をテーマにする「皮相化した自尊心」の対象内容最もポピュラーなものが、「自尊心のありかたの見栄え」になっているというメカニズムになります。
つまり、メカニズムとしては特に新しい話はありません。メカニズムが働いて向けられる対象が、このメカニズム自身になるということです。このメカニズムの最後に至る「自己嫌悪」という歯車が、この自己メカニズムを対象に動く。

これはサイトでも前から良く触れている「自己循環」の話でもあります。自信があることへの自信。自信がないことに自信を失う^^;

自分の自尊心がいかに見栄えのいい、中身の整った自尊心かと、(実はあんま見栄えの良くない)皮相な自尊心が気にする、という形になるわけです。まパラドックスですね。
でまさに、その懸念意識を、「感情と行動の分離」における、流すだけで巻き込まれない感情として扱いましょうというのが、取り組みの第一歩にもなる話なわけです。

「皮相化荒廃化の反転」として、皮相化荒廃化しているのは他人の方だと敵対するというのも、やはりこれが最もポキュラーなテーマ内容になるでしょう。
人のこんな自尊心は真の自尊心ではない。そんな自尊心など価値あるものではない。とアラ探しするわけです。..ってハイブリッド理論書いていること自体がそれやってるのー?てな話にもなるわけです。

そうした感覚全てを、鵜呑みにすることなく、今回においては「望みの感情」をベースにした自尊心を答えとして目指す方向性というのを、今回初めて明瞭に書いたわけです。

この補足的説明は、自尊心の章自体にも入れたい気がしますね。


■その2:「否定価値の放棄」&「不完全性の受容」を選択させる「見えない要因」

「否定価値の放棄」ハイブリッド実践の最大中核として明瞭に書いたのも、今回の特徴です。

これがないと、「望みの感情をベース」にした自尊心へは、向くことができません。
なぜなら、「否定価値」とは基本的に「自分が持つ空想世界を誇る」という自尊心だからです..ただこれではまだ理屈が完全ではないです。「望み」も、かなり「空想的」なところがあります。
「現実を生きる中にある自尊心」という考えをキーにすることはできます。「否定価値」は基本的に、それに背を向ける、病んだ自尊心です。

「望みによって現実に向かうことへの自尊心」とすると、かなり明瞭になってきますね。それは明らかに、今回書いた方向性を明瞭に示す言葉になってきます。
これが、内面に「強さ」の感覚を与えることを感じます。

「不完全性の受容」は、これとどう関連するか。
これは、基本的には、「自分は神ではない」という自己受容です。そして「現実世界」の受容です。
こっちが先かも知れませんね。自分も現実も不完全なものだから、否定することの意味がなくなる。否定することによる自尊心が、全く意味がなくなる。だから否定価値を放棄する。
まこれは原稿を読み返した範囲では、とくに直す必要があるものではない。

それと「望み」によって現実に向かう自尊心」との関係はどうか。
ここでつながりがなくなります。「否定価値の放棄」「不完全性の受容」は、内面意識と外面意識という表裏一体の一つのことを言っているとして、「望み」は、それとはいったん関係なく、来歴からの連綿とした流れの中にあります。


そしてまず言えるのは、「自立」への「望み」があるのであれば、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が成されるだろうということです。逆に、「自立」への「望み」が来歴の中で殺されていると、難しくなり、今回説明したようなメカニズムにつかまり続ける。
僕自身の体験を振り返って、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が成された時の感覚をはっきり憶えているのですが、それはまず、自分の方が親よりももう強くなっていくのだという感覚が、かなり決定的な背景にあったのを感じます。
そして、親や他人に関連して今まで怒っていた全てが、善悪の問題ではなく、「弱さ」として見えてきた。そうした背景があります。

これが「見えない要因」になります。それを生み出すのは、自然治癒力と自然成長力そのものしかない。
あとは、「自立の中では善悪は強さ弱さの問題になる」といった言葉の力が、それをどう引き出すかという話になってきます。
これだけは、それしかできない。そしてそれに決定的に、依存する。僕としてもハイブリッドがどう人の役に立てるかについては、そこでいったん諦観の一線を引いているのが事実です。
それだけは、まさに神のみぞ知る、ということになるでしょう。

「自立」への「望み」が決定的だということですね。いかに子供時代の不遇への怒りではなく、自立した未来に得るものに向くか。こうした言葉を自分に染み込ませる効果を、まずは期待したい。
それができないケースでは、まず知性レベルで「自立した心の世界」を想定できるかが鍵になってきます。そこから、それに対応した心の領域を育てるのと、心性崩壊というルートが生まれる。
ということで、一応ハイブリッドとしては理論的には、全てのケースに手は用意するという形にできる次第。あとは本人次第、そして神のさじ加減だと^^;

ちょっと長くなり、残りの話+アルファがつながっているので、いったんここでカキコ。


最初の心理学本「第1部−2」原稿掲載! 理論改定どころ / しまの
No.1243 2007/07/12(Thu) 11:33:57

さきほど最初の心理学本「第1部ー2」8つの章の初稿を一挙掲載しましたので、関心ある方は時間の折にでもじっくり読んで頂ければと思います。

これが「ハイブリッド心理学」のまずは正式版になります。いままで掲示板であーでもないこーでもないと色々(アハハ)考察したことを全て踏まえ、本当に重要なこと順に、本の方を展開するという主旨。
その点で今回の原稿は、来年の刊行まで待って頂くには忍びない、基本的重要項目が網羅されていますので、早々の掲載とした次第です。

ま特にあとの章の方ほど猛スピード(^^;)で書きなぐったもののため、誤字脱字や長すぎ文章など、今後出版本までにかなり調整したいと思いますが、要点についてはたぶん変更はないと思いますので、あとは刊行までということになるかと。

なお第2部の方は今のところ事前掲載は予定していませんが、半分は掲示板ですでに出した話のまとめなおし、あと半分は実例紹介という感じで、今まで出してなかったものが結構出てくると思いますので。
つまり、2分冊の予定ですが、要は出たら両方買ってね〜ということです。アハ。

さて重要な理論改定どころですが、まず完全に削除した概念が2つあります。
「残存愛情要求」そして「外化」です。

「残存愛情要求」は、その言葉から「過去の何かが残り続けているもの」という印象ですが、正式ハイブリッド心理学では、全てが今生き続けている「魂」と「心」の今現在の感情の問題として捉えられるようになります。
ただこの構図は今回掲載の「第1部−2」でも最後に述べます。「今生きているもの」としての「魂」の感情の展開は、第2部の方で流れが分かるように書きたい。これは掲示板の方でもここ最近に書いた流れの話です。それを、今回の正式理論の枠においてさらに浮き彫りにする目論見。

「外化」という文きり型概念はもう使わず、他人に投影される感情内容によって、かなり別メカニズムのものとして分けて説明していきます。
その結果、今回出てくるのは、
「情動の荒廃化の反転」...荒廃化しているのは他人と見なし、それへの敵対によって自分は清らかだという自尊心を得るというメカニズム。詳しくは「9章 心が病むメカニズム−2」にて。
あとは「外化」が絡みそうなものとしては、「破滅感情のイメージ化」を、「感情の膿の人格組み込み」の流れで言ってます。これも同章。
「アク抜き」「アク毒」という一番分かりにくそうな話も、その言葉のまま今回の中に入れています。それだけこれは重要なメカニズムだということですね。これは「11章 「自尊心」の混乱と喪失」で。

「自己操縦心性」という概念を、このあくまで一般向け狙いの心理学本でどう書くかは考えどころでしたが、結局その言葉で踏み込んだ説明をしています。「バカの壁」みたいな脳関連の難解本(読んでないけど^^;)も売れるご時勢ということで。
その分、説明はかみ砕いたものを心がけており、「感情によるあやつり人形状態」だとまずは説明などしてます。

あと新しい理論枠として「幼少期」「学童期」「思春期」と3つの段階を重要な軸として設けています。
これは魂論を踏まえたもので、「幼少期」から「学童期」に推移する際の、「自意識の登場」こそが人間の心の発達における最大の節目なのだという論旨になります。

これはまあ、「一体の世界」から「分離の世界」へという、大命題をバックボーンにしたものになるということです。全てがこの転換における出来事なのだと。

まだ特に書いてはいない話ですが、5/28「残された問題への視点」“実は「魂と心の分離」こそが「原罪」なのではないか..”とか書きましたが、恐らくこれは間違いないだろうという考察の今日この頃。
ちなみに最近読んでいる村上春樹『海辺のカフカ』でも、主人公少年が四国の図書館に行った最初の日に、いきなり書司のおニイさんと、こんな会話があり、
(おニイさん)「昔の世界は男と女ではなく男男と男女と女女で成立していた。ところが神様が刃物を使って全員を半分に割ってしまった。それで世界は男と女になり、人々はあるべき残りの半身を求めて右往左往するようになった」
(少年)「どうして神様はそんなことをしたんですか?」
(おニイさん)「さあ。神様のやることは大体において分からないんだ。だいたい理想主義的だし怒りっぽいし、たぶん何かの罰みたいなものだったんじゃないかな。アダムとイブの楽園追放みたいにね」
(少年)「原罪」
(おニイさん)「そう。原罪」
なんて会話があり、いったい誰がこんな話初対面でするかー!とか考えながら、どうやらやはり宗教哲学の世界で出る「原罪」もやはり同じことを言っているらしいと考えた次第。

そんな枠組みをハイブリッド心理学の基本バックボーンとしつつ、治癒と成長への答えを明瞭に「望みの感情」においているのが、今回の原稿のポイントになります。
これは最後の「14章 病んだ心から健康な心への道−3」で今回初めて明瞭に書いた話ですので、ぜひ読んで頂ければと。


ちかじか心理学本原稿掲載! / しまの
No.1242 2007/07/10(Tue) 16:53:42

こっちの掲示板無料版で、あんま長いことカキコないと掲示板ごと消えてしまうので(^^;)、そろそろ何かカキコせねばと思っていた折りではありますが..

まとにかく最初の心理学本原稿の方はちょー順調であり、「第1部」の方の最初の文章材料出しともいうべきレベルができたので、ちょっと新しい話がある部分は公開しようかと考えとります。
新しい話というか、「これがハイブリッドの考えだー!」というのをまとまって出せるのはむしろこれが第1弾になるものになるんですなこれが。

ということで、ちかじか。


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