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2007.08


心理学本下巻に向けての考察-13 / しまの
No.1263 2007/08/31(Fri) 23:35:54

■実践の流れここまでの総括

さて、下巻原稿も含めこの考察で書いている実践の流れを総括しますと、今日Upした5章「自己受容」と、あとは後日予定の「内面感情の開放」「悪感情の基本的軽減」といった話までが、最初の一歩的なものと位置づけられます。
つまり、「感情と行動の分離」に始まる、感情の内容各論にはまだ踏み込まない段階での実践がそれですね。

でその次は、行動学とか、愛と自尊心の考え方とか、感情内容に踏み込んでまず「考え方」を沢山学んで頂く段階がきます。このシリーズで書き始めた、「愛されない屈辱への報復自尊心」のメカニズム論などもそれ。あとは、ここでは改めての掲載はしていませんが、各種の価値観的な話が出てくる。

そして、その感情メカニズムの帰結でもある、「感情依存」からの脱却が重要な実践になってきます。
まず知性思考や原理原則思考。スキルについての話や社会見識についての話といった、心理学以外の話も補助的に出てきます。これは「外面現実」へ向ける目のための話。

ただし、知性思考がゴールではないという話までしました。「魂と現実への立脚」がまずはターゲットです。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg

ここで、「感情と行動の分離」を最初の実践チェックポイントとして、次のチェックポイントのような形で、「魂と現実への立脚」姿勢の獲得が来るということになります。

これは分かりやすい構図ですね。
まずは内面感情外面行動をとにかく分離する。これは「姿勢」としてすぐ取るものの話です。

次に、内面感情における次段階のための内実として、「魂の感情」を何らかの形で感じ取る「体験」を持つこと。「体験」ですから、人それぞれでその訪れ方は違いが出てきます。話を聞いてすぐ感じ取れる人。多少の心性崩壊を経てからの人。

外面行動における次段階のための内実としては、上述の行動学や価値観のような学習もありますが、これは「体験」ではありませんね。


■「魂と現実への立脚」姿勢のための「体験」

「感情と行動の分離」姿勢から次の「魂と現実への立脚」姿勢へというチェックポイント通過においては、内面においては「魂の感情の体験」が重要になります。
これは具体的には、「開放感」や「魂の愛への願いの感情」の体験です。後者の例は、上巻最終章終わりの方の女性の言葉など参照。

外面においても、やはり「体験」が重要になってきます。これは「魂の感情の体験」において同時に得られるものです。
つまり、外界現実の人々を、今まで揺れ動く感情と思考の中でイメージした「軽蔑の目」「愛情の目」といった感情イメージをかぶさずに、「直接透明に見るだけ」の体験です。

ちょっと表現が難しい。とにかく動揺感情の中でイメージした他人は、感情のカラーセロハンを貼った他者像です。そうしたカラーセロハンを貼らない、ただそこにいるだけの他者。何らかの感情は持っているでしょうが、この瞬間においては二の次に位置づけられます。

言葉で表現するのは難しいのですが、体験としては極めて自明です。
深い魂の感情を感じている瞬間、その感情は「現実世界から切り離された」内面だけの感情であることをはっきりと感じることができます。そして「魂の感情」はあらゆる「人の目」の合計をさらに凌駕する重みを持ちます。
ですから、その瞬間、「人の目」の先にある「人の感情」は、もうあまり意味を持たないものとして、心に映す必要さえないもののようになるのです。

その瞬間、人は「自己の存在の重み」のようなものを感じます。自分は今この感情において生きている。
それはもう「人の目によって生きる」ではありません。

この感覚を強烈に体験した時の描写が、実は『悲しみの彼方への旅』にもありました。これは僕自身、何を表現したいのかはっきりしないまま、その極めて特異な感覚を表現しようと難儀を感じた珍しい一行があります。節全体を引用すると以下(P.176)
===================================================
近づく現実

 翌日起きた時、私を醒めた感情がおおっていました。
 自分がなぜあの子に近づこうとできなかったのか、ひとつの理由がはっきり分かった。僕は人に愛想良くする時、何よりも自分自身が嫌になっていたのだ。
 あの子に対してもそうだった。あの子に対して本当に心の底から自然に現れてきた感情を表現すること以外のことをしている自分自身が、僕は嫌だった。
 そうして僕は人に近づくのをやめた。もし彼女以外の人間だったら、その時点で相手との関係もよそよそしいものになった。だが彼女だけは違った。彼女が僕の中に残したものだけは消えなかった。

 ホーナイについて学生達に教えたりしながら、ひとりで生きていく・・。
 それが今僕の抱くことのできる、自分の将来像だ。
 それでも、胸の中にあの子への思いが溢れる。うつむいたまま僕の横を過ぎて行ったあの子の姿が、目の前に浮かんでくる。変わったのは僕の方なのだ。
 街に出ると、私は女子高生の顔などをひとりひとり見入るような衝動を感じました。偽りのない感情に生きる自分・・。自分がただ真実に生きる、威厳ある容貌と人格と威厳だという感覚・・。
 あの子への狂おしい思慕が湧き、少ししてそれは消えます。安定した現実感の中で、あの子に手紙を書こうとします。なぜか筆が進みませんでした。

 あの子との関係が、
急に現実味を帯びて感じられてきました。
 彼女が実体として感じられるようになった。現実に何の関係もないのに愛を寄せ合っているというような感覚が消えた。
 そうしてあの子が現実的に感じられると同時に自覚するのは、自分が彼女に与え得るものの貧弱さだった。
 僕には、実質的な感情表現というものは、ほとんどなかった。実際に彼女に会ってみて、僕は会話をうまく持たせる自信がないのだ・・。

===================================================

こう見てみると、実に面白いことが言えます。画期的とも言える治癒メカニズムの微細究明になるかも知れません。

この節の前段は、下巻1章「洞察」の例としても出していますが、「魂の感情」を自覚することで、心の表層の動揺感情が解けたものと言えます。ここでは意味不明の悪感情状態の原因が「洞察」される形でです。
心の表層にあるのは、「人と親しくできる自分」を演じようとするストレスと抵抗感であり、そんな自分への自己嫌悪感情を抱いていたという構図になります。

「あの子」への感情についてはさらに、まっとうな自分を演じようとした心の表面の感情の底に、魂において自己欺瞞への嫌悪の葛藤があります。
命の重みを持つ「魂の愛」の感情によって、これら全てが意識の表面に明瞭に引き出されたということになります。


■魂の感情の自覚による「治癒効果」

この体験には、3つの「治癒効果」が考えられます。

第1に、魂の感情から表層の動揺感情までがつながったことで、一つの自己不明状態の解消が起きています。

第2に、これはかなり深遠な話になりますが、魂のレベルでの葛藤が直接自覚されていることです。恐らくこれが、「人格内部の亀裂」の融合消滅に向かう、治癒効果があるのではないかと。
ただし、この「魂のレベルでの葛藤」は、本人の意識体験としては極めて苦しいものになります。

第3が実に明瞭な「治癒」として言えるものになります。「人の目」の重みが消えるということが起きているのであり、結果的に対人恐怖や視線恐怖の感情が消えていることです。

それが上記引用の赤紫にした行です。
「女子高生の顔などをひとりひとり見入るような衝動」の文はそうとして、その後の文章は当初、「容貌と人格の威厳さ。自分がそんな人間だという感覚・・。」と書いたのですが、編集者さんから意味不明と指摘され、もうちょっと説明的に直したものです。

まそんな話はどうでもいいとして、どーゆうことかと言うと、女子高生と目を合わせる不安や躊躇が見事に消えているから「見入る衝動」が表に出たのであり、また多少反動的なナルシズム衝動も含み持たれたことを描写しています。

同時に、こうした治癒の結果が「現実感の増大」として最期に出現しているという流れ。もはや他者は、今までの感情カラーセロハン貼って認識していた相手とはもはや別の存在のようにさえなります。
そして、感情カラーセロハン相手にあれこれ考えた対人思考が、もはや全く無意味であったことが自覚されてくるのです。

これは同時に、「現実世界における自分の情緒的貧困」をありのままに自覚する、自己操縦心性にとっては望ましくない事態になり得ます。心性の崩壊が導かれる方向に向かい得る。実際この本ではその流れに向かったわけです。

このように見ると、視線恐怖や対人恐怖は魂の感情の自覚によって解消するという、実に単純な治癒メカニズムの答えが言えるということになります。
ところがこの単純な治癒メカニズムが、その時点の本人に、そして僕自身の理論考察においてさえ出てこなかったのは、実際そうした時、視線恐怖や対人恐怖はそもそも問題ではなくどーでもいい話と化しているわけです。実際、魂の葛藤に置かれることにおいて、本人の意識上は何の解決でもない、より深い苦悩の様相に化すわけです。

これは逆に、人が自分の視線恐怖や対人恐怖をなんとか「治したい」という思考と願望そのものが、まさにこうした治癒メカニズムとは反対の方向を向いている姿勢だということを言えるでしょう。


■感情分析と原理原則思考は「感情イメージのない現実」をアンカーポイントとして進める

ということで、ここでは「魂と現実への立脚」を生み出す「体験」を説明しました。
それは「魂の感情」の自覚体験であり、同時に、他人を感情カラーセロハンを貼らない姿で知覚する体験を伴います。
これ自体が実は治癒メカニズムになるのですが、これだけでは実際極めて苦しいです。『悲しみの彼方への旅』で描写されているように。

ハイブリッドでは、これをさらに、治癒の仕組みを本人が自覚しながら進められることで、より効率的かつより耐えやすい(^^;)ものとして進めるアプローチ化したいと考えています。

それが感情分析原理原則的な知性思考の2つになります。
このどちらもが、「魂と現実への立脚」に基づいて進めることが効果の要件です。つまり、他人を感情カラーセロハンを貼らない姿で知覚した意識土台に立って、そこから動揺感情の論理を探ったり、行動法を検討する形になるのが正解です。

その辺の具体的な話を次に。


心理学本下巻に向けての考察-12 / しまの
No.1262 2007/08/30(Thu) 16:21:21

「魂と現実への立脚」世界がちょっとでも見えてきたら、いよいよ感情分析が効果あるものとして進められる土壌ができたことになります。
これがどう「愛されることを必要とせずに愛せる」意識世界へとつながっていくのか。

「感情分析」はここで、主に「言葉」というミクロのメスを使っての、自分自身の脳へのブレイン・サージェリーの様相になってくるのです。

う〜ん話はますます難解化^^;
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■感情分析は「思考の改善」ではなく「脳の実験」

>「こうなるだろう」と思っていたのとは違い、まるで思いもしないところが、思わぬ形で変化する感じですね。正直指摘してもらわないと分からない、またそれが本当にそうなのか?とも思うぐらい、まだ不安です。

その通り、「感情分析の効果」は極めて難解です。ここまでメカ理論や治癒論を整理した僕にして、まだ良くわからない面が多々ある。

とにかく、「自分をこう変えたい」と考えたようになるものとは、根本的に違います。まず僕が印象として感じるのは、感情分析で何かが捉えられると、正反対側にある何かが変わる、というイメージです。
目の前で何かのつながりが見えた瞬間、背後で何かが変わる。そんな感じ。


ですから、これは「建設的な思考法行動法の習得をしよう」という意識で行うものでは、根本的にありません。
極めて医学マニアック的な好奇心が、最も強力な動機になるでしょう。自分の脳の中でこの配線とこの配線を変えてみると、一体何が起きるか。

ミクロのメスを使って、自分自身の脳のブレイン・サージェリーをする感覚。はっきり言って、その時「良い対人関係」なんてどーでもいいという感覚でさえ、僕は感情分析をします。ちょっとオーバーですが、人体実験に興じる、倫理感覚の緩んだ医学者の情熱のようなもので行うとさえ言えるような気がします。

「まだ不安」というのは、あながち杞憂ではないことを言えます。感情分析は「思考法の改善」というより脳の自己実験に近い取り組みであり、思わぬ感情の噴出があり得ます。

また感情分析も含めての治癒効果は、かならず何らかのかなり痛い体験を伴います。心性崩壊や膿の放出がそれですし、あと「人格地殻変動と融合の意識恐慌体験」というのもあります。これは今日ちょうど例の男性相談者から注目に値する報告が来ましたので、参考まで転送しましょう。

多分Aさんの心の底が、治癒に際したそうしたものを怖がって、「まだ不安」という感覚も起きるのではと。
「まだ不安」としてAさんの方でも意識するものがあれば、言ってもらえれば解釈をお伝えします。

しかしまあ感情分析が純粋単独に危険なものになることはありません。これは安心しておいて下さい。
危険になるようなものは、心性によってもっと強力に防御されるからです。あくまでその土台の上でしか感情分析自体できないので、もともと耐えられる範囲でしか何も起きないと安心頂ければ。

「危険」はとにかく現実側で破壊を行動化してしまうことです。
この一線さえ守れば、意識はどうなろうと長い目では正しい方向に変化するのだと心得るのがいいですね。


■感性の異なる感情の隙間にさぐりを入れる

さて、では実際感情分析で何を行うかと言うと、こう表現できるかと。
「感性土台の全く異なる別々の感情の合間にあるものを探る」

そして、全く感性土台が異なる幾つかの感情の間にある大きな空間を埋める歯車を、実際の感情想起を通して探ります。

Aさんの場合、

8/26
>それは亡くなった父親が自分を大事にしてくれていたことを、思いおこさせました。そこに無償の愛が確かにあったんだと感じました。

というのがあり、昨日の

>美しくて笑って幸せそうにしている女性は死ねばいいという感情があるのを感じます。
があり
>死ぬ事で逃げられるという感情も。あとは実行できるかどうかというような..。

がある。

で「美しくて笑って幸せそうにしている女性は死ねばいい」という手のAさんの言葉をいつも僕はただ汗タラってな感覚で読んでいただけなのですが、こうして全く感性の違う感情を並べて眺めると、その一段階底に、苦しむ人間の魂が見えるわけです。「愛に飢えている」という表現を先日言いましたが、愛に飢えているという以上に、自分の心の迷路に苦しみあえいでいるという表現の方が合うでしょう。

だから幸せそうな人への嫉妬が起きるであり、

>容姿が自分の満足に行かないという事は、私にとっては常に侮蔑の眼差しの元生きるという事です。皆私に優越感を持っている気がする。

という背景があるからこそ、「死ねばいい」という憎しみになる。
もしそこで、「人々は自分に軽蔑を向ける存在」という背景イメージがなかったら、同じ憎しみを抱くでしょうか。もし背景が自分を大切にしてくれていた亡きお父さんのイメージであった時、その憎しみは保たれるでしょうか。

また、死への衝動は明らかに、他人への憎悪が先立って先導しています。
こうして並べて見ることで、初めてそうゆうのが分かってくる。それによって「自己の全体」が把握されるんですね。

それなしに、憎悪感情や死の衝動が、それを引き起こした背景から一人歩きすることが起きがちです。どんどん自分が壊れた人間のように感じてしまう。
実はそれを逆に戻す「浄化」も、かなり大きく起き得ます。その点、Aさんも全然セーフだと考えるのが正解です。
僕も、今からは一体どんな背景でそうなったのかと分析したいところですが、大学院当時の日記には「そこにいる皆を殺してしまいまかった」なんてのがありましたね^^;

自分の脳に、さぐりを入れることです。次第に何かが分かってきます。
そして、背後で何かが変わっている。それが何かはまず分かりません。場合によっては僕が指摘できるかも知れない。

感情分析とはそうゆう作業です。神秘な心の探求の世界です。


■脳にさぐりを入れる

「脳にさぐりを入れる」という点で、感性土台の異なる感情を、常に思い出せるよう保持するようにするのも実践という感じになります。
自分にはこんな感情があった。一度垣間見たその感情を思い出させた刺激もしっかりと記憶しておく。だから感情分析は言葉として書くことが極めて重要になってくる。また感情を思い出させる刺激はこれというのを把握する。

例えば「無償の愛」への魂の感情を刺激したのがAさんの場合、「私は君にとっての空でいたい..」であったとして、「あの感情はどんな感情だったろう」と気になったらまたそれを聞いて、その感情に感じ入る。
そうした材料集めみたいのが、僕の場合も感情分析の一面でしたね。

ちなみに「私は君にとっての空でいたい..」はネットで見たところCrystal Kayの「Motherland」のようですが、やはりちょっと世代が違うなーとちょっと感じ、僕の魂の琴線に触れた曲として参考まで出しておきますと、秋川雅史歌う『千の風になって』がありますね。先日の日テレの24時間でやってましたが、黒木瞳が号泣モードでしたね^^。
世代を超えて魂に触れる曲かと。作詞者不詳というのもなんか深い。
http://www.dailymotion.com/video/x115i8_akikawa-masafumi-sen-no-kaze-ni-nat_music

>「軽蔑のない世界」の想定、これは難しいですね。

これについてはさらに細かい脳へのさぐりの入れ方の話になってくると思います。それについては感情分析解説として僕自身の例も出して考察する予定なので、そのうち説明します。掲示板に直接載せるかも。


■外面行動の原理原則は「対感情」からの完全脱却を

あと内面の感情分析とは完全に切り離す外面について一つ言っておきますが、「原理原則」は「相手の感情に対して」というのではない、完全に客観的な世界を軸にするものの考えるのが正解です。

その点今までAさんが「原理原則が分からない」と言っていたのは、「相手の感情に対してどう対応するか」というのがスタートになってしまっていたからだと思います。
そして「相手の感情」と見たものが「現実なのかどうか」という話になる。

話のスタートからして、話が違うわけです。

>しかし誰かが自分に悪意のある表情や言葉を向ければ、また感じ方が変わると思います。知らないから平然としていられる、という事もあると思います。
>全てが心の中で、といっても実際にお咎めや怒りなどを表現されれば、それは自分の心の中の出来事ではなく現実なわけで。


「怒りなどを表現された」とか「感じ方」は、感情の話です。これは感情分析テーマになります。

外面の原理原則は、そうした「感情」ではなく、そこに出された客観的事実についての原理原則を考えるということです。
例えば、「お咎めや怒り」かどうかが問題なのではないのです。お咎めや怒りであれば、そうではなく、それが単なる「口頭注意」かそれとも「減給」か「解雇」かといった話のレベルで、雇用者と従業員の権利や義務はどんなものか。それによって異議をどのように出すことが可能か、といった、感情抜きの問題として考えるのが、「原理原則検討」です。

ですから、心性崩壊直後に他人の怒りイメージが消えたからと言って、あんま変な行動は禁物という話^^;
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心理学本下巻に向けての考察-11 / しまの
No.1261 2007/08/30(Thu) 14:42:11

連続3つの終わりです。

ここで、「魂と現実への立脚」という重要な概念への、当面のハイブリッド最新定義が出てきます。
にしたのがこれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg

重要なのは、「魂と現実への立脚」から、「体験」をベースにするということです。思考法ではありません。
ここからいよいよ感情分析の効果メカニズムの本格解明へ。

まあまりに断片的な掲載なので、かなり読むの難儀かと思いますが、あくまで下巻発刊前の便宜ということで^^;
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■「魂と現実への立脚」

転換への最初の選択は、既に述べているように、「魂と現実への立脚」になります。

これは思考法というより、実体験を通して行う「選択」です。
「実体験」とは、何らかの形で、今までの感情動揺とは全く別の感覚を感じ取れた体験です。具体的には開放感であったり、「魂の愛への願いの感情」を感じ取った体験など。

ここで重要なのは、そうした「全く新しい感覚」体験の時、いままで揺れ動いていた他人イメージが消失することです。
開放感においては、それはもはや何の重みも持たない記憶として遠ざかるし、「魂の愛への願いの感情」においては、現実から切り離された深い感情が体験されます。それは現実の誰かについての感情やイメージではないことが、その体験の中で感じ取れるはずです。

つまり、「現実の他人」はもはやあまり「イメージ」を持たないものとして体験される瞬間が訪れる。

「魂と現実への立脚」とは、そうした新しい感覚の世界を、自分が足場を置くもう一つの世界として、認めることです。
それは「なるべき自分」イメージが生まれる前の、ただ自分がその中で生きている感情の世界です。その感情に生きた時、その感情に生きることにおいて、人の目がどうであるかはもはや自分にあまり影響を与えなくなる。
そんな「命の感情」の世界です。

これは思考法で導けるものではなく、多少の心性崩壊や感情の膿の放出を経る必要があるケースも多々あるでしょう。
そしてこの新しい世界への立脚を「選択」するとは言っても、これは「今日から夏服」という感じで「切り替える」形にはできません。

あくまで、今までの動揺感情の世界があり続けます。これはそうあっさり消えてくれるものではありません^^;
つまり、今までの世界に「追加」して「加える」形で、自分の生きる心の世界が2つあるような2枚岩姿勢を獲得するのが、最初の選択になります。

これを図にしたのが以下になりますので参照あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg


■「軽蔑のない世界」に碇をおろした「感情分析」

次の「選択」は、というか「実践」は、「感情分析」です。
いままで感情分析については説明に苦労しましたが、これでようやっとその本質が説明できます。

つまり、「魂と現実への立脚」に立った感情分析になります。

何が可能になるかというと、まるで脳の働きが違うような感情感覚が、事実、座標として入手されたからです。今度は、なぜその違いが出るのかという、自分の心の歯車を紐解いていくことができます。
そして見えなかった歯車が見えることに、今までの意識ははじけ、新たな意識土台がリロードされる。

重要な点が2つあります。

まずその自己探求をする動機と意志です。「もうどうでもいい。とにかく嫌」だと進まない^^; まその時には、とにかく実存を維持したまま思考の断絶に入るのが得策でしょう。

もう一つは、この自己探求の一つの碇をおろす先として、「軽蔑のない世界」というものをどう想定するかが重要になってきます。
なぜなら、動揺感情の世界は「愛されない屈辱」という、外界から向けられた「軽蔑」をキャッチすることから始まっているからです。

事実、未成長な心の世界ほど、「軽蔑」という感情が強く存在します。
一方、成長した心の世界ほど、「軽蔑」という感情が存在しなくなります。

ですから、「軽蔑のない世界」というものをどう想定するかが、およそ2つの段階を通して大きな意味を持ってくる。

1)悪感情の分析段階...知的想定

価値観思考の転換などによって、被軽蔑感に始まる悪感情の脱却が可能であることの見通しを可能にする。
そのためにはまずはとにかく、「軽蔑のない世界」というものの知的容認想定とも言えるものが碇となる。

2)望みの分析段階...理想像

より積極的な「望み」の感情を見出す上では、「軽蔑のない世界」を理想と感じるかどうかが重要なポイントになってくる。
それとも「軽蔑合戦の勝者」を理想とするか。この場合は、今までの動揺感情の世界を抜け出ようとするドライブに不足することになります。


■魂のために生きる:「愛するために愛されることは必要ではない」

手短に第3の実践まで(かなり一足飛びに^^;)言っておきますと、「愛されないことは不面目でも屈辱でもない」という感情論理の選択になります。

これも思考の切り替えというよりも、そうした感覚を何らかの形で一度キャッチした上で、今までの動揺感情との間にあるものを感情分析する形になります。

キーワードだけ書いておきますと、「愛されないことは不面目でも屈辱でもない」の先には「愛するために愛されることは必要ではない」というのが出てきます。

そして、「魂の愛への願い」のために生きる、というのに行き着く。これが一つのゴールになるでしょう。
これは「愛情要求」ではもはやなく、「相手の目」を目当てにすることなく愛する行動になってきます。「愛されることは必要ではない」からです。

同時にこれは、「感情に従って行動する」というよりも「魂の願いを果たすために行動する」という感じになってきます。
感情は揺れ動く中で、意志と行動が芯を持ってくる。「感情」の位置づけ自体が減ってくる。
そして「魂のために生きる時、感情が消える」というその5のような話へと至ります。


後半はちょーはしょってますが、全体としてはそんな感じです。
あとは、「軽蔑のない世界の想定」から「愛される必要なく愛する望み」へと向かう間に沢山ありそうな、感情の歯車を明瞭にしたいですね。これは他の相談者ケースも含めて考えることになりそうで、別の話の流れになるかも。

Aさんの場合は、「軽蔑のない世界の想定」がまず知性レベルからの実践になると思いますね。

8/20
>高望みをする自分に対し、持つものからの激しい軽蔑を感じます。私が理想とするイメージからの軽蔑です。

今日の
>容姿が自分の満足に行かないという事は、私にとっては常に侮蔑の眼差しの元生きるという事です。皆私に優越感を持っている気がする。

など。
まず、「軽蔑」を抱くのは「持たざる者」です。
人の軽蔑なんてしない気のいい超美人さんなんて想定してみるのもエクササイズですね。
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心理学本下巻に向けての考察-10 / しまの
No.1260 2007/08/30(Thu) 14:26:04

2つ目。

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■「感情のない世界」へ?

さて問題は「感情依存」とはそもそも何なのか、という話になります。

Aさんのように、感情が「こうあるべきもの」「目指すべきもの」「その人の全てに近いもの」とまで感情を重視する姿勢とは、一体何なのか。

実践面での悪影響という、ごく表面的な話ではない、根本的な選択がそこにはあるはずだと考えたわけです。

その結論を考えたのが午前出かけた車の中だったのですが、まずその中で僕が僕自身の「感情」について今感じる印象というのを改めて考えたのですが、あまりに違うものであることが鮮明だと思います。

先日は「感情は借りもの」とか言う表現をしましたが、さらに極端な感覚を感じています。
「感情というものがない」です。

それに近い。概して、意識すべき感情らしいものを、あまり感じません。
「ない」とは言っても、あくまでそれは、かつて感じた「空虚感」というれっきとした「感情」とは、全然違います。
「無色透明」で、とても澄んだ感覚を感じます。こうキーボードを打っていても、特に「感情」として意識するものはなく、ただ書くべき言葉が浮かび、書いている。

生活の全般において、そんな感じが多くなっていますね。まあ基本的に良い状態です。
そして「感情」として意識するものが流れる時、大体は良い色で心を満たすものになっています。まあ今はあまり人と接触のない生活なので、書き物に関連して考えたり毎日夕方には海まで気分転換にジョギングもしくは自転車という往来の中での物思いの中で感じる、軽い感動感や喜びの感覚など。

それは特に現実の何についての感情というより、魂の感情が時折顔をのぞかせたのだろうと考えます。

一方、今日車に乗っていて、変な渋滞の中で後ろの車から2度クラクションを鳴らされた場面がありました。まあどっちに非とも言えない状況で、僕の進行方向は塞がっており後ろの車は別方向に行きたい。かなり微妙な構図で、僕が無理すれば後ろの車が出せるような状況。

で2度クラクションを鳴らされると、さすがにもしやヤクザな人が..という想像も浮かび、ちょっとじわっとした感情を感じました。
先の方の信号が青になると事なきでしたが、その「じわっとした感情」にちょっと引っかかった気分も感じました。「この感情いまいちー」という感じ^^;

状況説明がちょっと長くなりましたが、そうした「感情」についてはどう考えたかというと、それは基本的に感情の膿によるものだろうと。
「現実状況」としては、その「じわっとした感情」さえ別に感じるほどのものではなかった。感情の膿がちょっと刺激されたのだろう。
現実においては何の反応もしないでおくことで、やがて消えるものだろう。

何を言いたいかというと、つまり僕にとって「感情」とは、まず「魂」がつかさどるもの、もしくは「感情の膿」によるものと位置づけられるわけです。
つまり自分でどうこう考えるものではない、という感覚です。

さらに話しが長くなりますが、「魂」から湧き出る感情がより良く豊かなものになるとは、愛が溢れる感情になってくるということですが、僕はそれを「表現」するという考えはありません。
つまり概して、僕は「感情表現」というものを考えません。

ただそれは、実際に僕の外見に感情が表れないという話ではなく、感情がどう外に表れるも表れないも、僕は「魂」に任せているという感覚です。もし将来子供でもできたら、「感情表現」と意識することなく、湧き出る感情で鼻の下が伸びているのだろうと考えています。

ちょっと長くなりましたが、まず対比参考として僕の「感情」についての一般感覚として、そのように、基本的に「魂」に任せるもの、もしくは「感情の膿」に触れて起きるもの。
自分でどうこうするものでもないし、「自分のこと」でさえない、という感覚なんですね。

こうした「感情への基本姿勢」の別世界を生み出す、転換の前の姿勢と、後ろの姿勢の本質は何か、がテーマになります。


■「感情によって良くなる」

ヒントは、やはり「神の国」です。

「あるべき姿」をめぐって揺れ動く感情の底には、人の心が引きずる「神の国」への思い怨念が込められているようだという話を上巻原稿で書きました。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/13.htm

そこではそれを、感情の論理内容の説明として書いたのですが、「感情依存」「感情重視」というのは、そうした感情の内容論理という中身に対応する、それに人生を賭けようとした姿勢そのものと思えました。

つまり、「感情によって良くなる」です。何がかと言えば、自分であり世界がです。

感情がどう良くなれば、自分や世界が良くなるはずだという、具体的論理が十分に自覚されていたわけではありません。
でも、それを期待した大きな理由があります。「神の国」だったからです。自分を守るべき大きな目があり、「感情」はその「目」に向けての言葉なのです。神が「感情」を見て、良くしてくれる。

だから、怒れば、良くなるべきだったのです。
だから、恐れれば、救われるべきだったのです。
そして、それを願うのは何かと言えば、やはり「愛」だったのではと思えたわけです。こう考えると同時に、なぜか目頭が熱くなります。

魂の感情は全て愛を軸にすると以前言いましたが、こうして考えると、それだけではない、人間の全ての感情が、実は「愛」だったのではと考え至っています。


■「感情への嫉妬」

ということで、「感情重視」「感情依存」は、「神の国」への「心」が引きずり続ける願いと怨念という、個々の感情を超えた構図が考えられます。

これが、その3までで説明したメカニズムの流れと合体するわけです。
その2で書いた“「感情がどうあれるか」が「愛されない屈辱」への報復における勝利と敗北の問題になる”というのが、「感情が現実と化す」と言えるような様相になってくる。

どうゆうことかと言うと、「感情によって良くなる」と感じるので、「良い感情の持ち主」は、まるで幸福への切符の持ち主のように見えるということです。
だから嫉妬する。

嫉妬は実は、「感情」に対してのものだったのではないか。
あの人はこんな感情を持っている。自分にはそれがない。

そして、「感情がどうあれるか」が「勝ち負け」の問題になってくるわけです。「幸福への切符」の見せびらかし勝負です。


とりあえずここまでが「現象」です。
Aさんも、今までの自分の感情を、ぜひこの観点で把握し直してもらえばいいと思います。
「感情」が「幸福への切符」だった。だから嫉妬があり、怒りがあった。他人の悪意と、それへの怒りがあった。

>希望を持とうとしている自分が許しがたいです。

これはまだ僕にも良く見えない。こうして説明した大きな枠の中にその感情論理もあるのでしょうが、もう少し具体的な感情の歯車の問題にもなってくるでしょうね。

多分、「希望を持とうとする」ことで「こうなる」自分が許しがたい、という話が一つ抜けていると思います。この論理つながりはAさんに多少固有のようなので、ちょっと考えてみてもらうと有難い^^;


これを踏まえて、「選択肢」の話に次行きます。
「魂」との関係での大きな話になります。
魂のために生き、感情は魂に任せる。その時、感情が消える、とでも言える世界の変化があるようです。

またじっくり考え整理しますので。


■「青春」という幻想

その先の具体的な話でもありますが、ひとつ付け足しておくと、

8/26
>私の根底には根強い「青春コンプレックス」があります。

これは実に典型的ですね。そのうち下巻原稿で事例紹介を登場開始しますが、「B子さん」のでも「“友達”というものに強い劣等感」なんていう言葉が出てきます。
かつての僕もしかり。友達のいる男でない自分。

そうした「青春」「友達」こそが、自己操縦心性の描く最大の幻想なのかも知れません。
「魂」の世界には、どうもそれがないかも知れません。

「青春」「友達」といった幻想を超えるものを見出すことが、実践上はひとつのゴールになるかも知れませんね。
これはまたおいおいの話の中で。
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心理学本下巻に向けての考察-9 / しまの
No.1259 2007/08/30(Thu) 14:17:36

「愛から生まれた怒りが愛を破壊する」意識世界から「愛されることを必要とせずに愛せる」意識世界への転換移行ということで、引き続きその中途段階で捉えるべきものの話をします。

連続の返答メールを3つ。
全部「Aさん」にしていますが、この「Aさん」は「考察-4」の続きです..とは言っても良く分からんと思いますので、相談者側の課題状況は脇においといて下さい。

まず、「感情依存」を脱却した状態についての説明です。
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■魂を見えなくする「感情操縦人形」

その3までが大体のメカニズムの流れになりますが、そこから治癒成長への転換に話を移そうと考えた時に、先に述べたように、Aさんの返信に「あれっ?」と思ったわけです。
これは別の問題が、次に移るためのクレバスの割れ目のように待ち受けているなと。

>>まず、自分自身の中にある「絶望的に愛という栄養の失調したひもじい人間」を、まず認め受け止めるべきは自分自身であるということ。
>疑問なのは、私は一人ではなく相方と一緒に住んでいるのに、それでも満足しないんですよね。異性というより既に家族同然で、それなりに満たされているはずなのにと思います。


これですね。
「それなりに満たされているはず」とは、一体何のことか?と。

まあAさんがどこまで愛の栄養失調状態なのかの心の現実(^^;)は、僕からもちょっと分かりません。それはAさんの魂が知るものであり、同時にその魂の声を認めた時、愛の栄養失調状態も回復に向かうというパラドックスがあります。

いずれにせよそうした「魂」は、「それなりに満たされているはず」という一言で、見えなくなるのを感じた次第です。
で「Aさんにとって“感情”とはどんなものでしょう」という設問を出した。
でAさんの返答が、

>自分の言葉で表すなら、感情は「こうあるべきもの」で「目指すべきもの」であり、その人の全てに近いものですね。幸せになるというのは、「幸せな感情を感じつづけられるようになる」ということです。
>だから怒りなども、「そのうち変わるさ」と考えられず、むしろ変わる事で負けたような気になりさえしました。
>でも「良い感情でいられる事を目指す」には変わりありませんね。


というもので、これは僕が解説続きとして説明する「選択」をする時の、僕自身が取った姿勢とはあまりに違うと。

まず僕がイメージしたのは、まるで「感情」という粘土で人形を練り上げて、その出来栄えを一所懸命良くしようとするような姿勢の姿でした。
とにかく、何かが根本的に違うと。まるで「自分」を「感情操縦人形」にしている姿のような、と。

でここ3日ほどそのことを考えていたわけです。かなり重要なことが見えてきました。
表面的な話から深く根本的な話までという順序で説明しましょう。


■感情監視統制による感情悪化

まず、最も直接表面で見える話を言いますと、「良い感情でいられる事を目指す」のは、それはそれでいいのですが、そのための具体的方法論をどう考えるかです。

Aさんのように感情が「こうあるべきもの」「目指すべきもの」「その人の全てに近い」とまで感情を重視し、感情に見入った時、感情は良くならなくなります。時間の経過とともに、当然ジリ貧になります。

きのうはAさんから初めて、「魂の愛への願いの感情」の体験を聞いたように感じていますが、それはそうした感情重視姿勢とはちょっと別のところから、ふと湧き出たものだったと思います。
一方今日はまた、

>出口はないですが、このまま生きていく自分も許せないです。自分の嫌な事を一切せず楽をしたいです。

と、感情を規準にした思考が出てきているのは、感情重視姿勢、感情監視統制姿勢が残っている中でのことだと思います。

感情重視姿勢だとなぜ感情が良くならないか。

色んな話ができます。「知性」「意志」の役割があってこそ「現実向上」につながり感情が良くなる。表面の感情を小手先で良くしようとするのではなく、それが湧き出る土台基盤を向上させる。
感情重視姿勢だと、そうした大きな流れが止められてしまう。

そうした実践的な話も言えますが、さらに根本では、感情が良くなるためには、感情が変わらなければならないわけです。しかも、「未知」の良い感情になるのが、最も望ましい。
それを、「こうあるべきもの」「目指すべきもの」とイメージするのでは、「既知の感情」の中に閉じ込められざるを得ません。
こうなるともう根本的に、大きな感情の改善というものがあり得なくなってくる。

そんな風に「感情改善の実践」の観点から言うことはできます。
ただ、これもまだ根本的な話ではないんですね。なぜなら、あくまで「感情改善の実践」という視点であることにおいて、やはり感情を結局良くしたいという動機から始まることになるからです。

治癒成長に転換するための「選択」としては、それとは全く違う話が出てくる。
それを考えていたわけです。


■第1の選択は「感情依存」から「魂と現実への立脚」

ここ3日の考察の流れをそのまま言いますと、次に見えるのは選択「後」の世界です。

それは「感情依存から脱却」した世界です。
これはもうお一人の男性ケースでも、知性思考などの準備をした上で、話は一気に別世界に飛んでいます。間を埋めるものがあまりないままにです。

どこに飛ぶかというと、「感情依存」を脱却した世界ですが、『参考資料』として読んでもらった返答メールでは、「現実立脚」と言っていました。
しかしその言葉では正しくハイブリッドの選択を示していないんですね。「感情依存から現実立脚へ」では、どうしても「味気ない現実への妥協」みたいな話になってしまう^^;

やはり、「魂」にしっかりと足をつけなければ意味ないわけです。
つまり、「感情依存」から「魂と現実への立脚」です。
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心理学本下巻に向けての考察-8 / しまの
No.1258 2007/08/30(Thu) 10:21:51

次の説明メール。これはまた内側内容の話に傾いています。
ま転換後にはこうした世界という目標イメージの話になります。

実践上は、まだ「異なる意識構造の意志的選択」の話が必要になります。

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■「生きること」はとてもシンプル

>彼らを見ると、生きることはシンプルなんだろう、と思いました。
>心理障害のない人たちは、「魂」と「現実」や「現実立脚」、「知性、意志、行動」を無意識でやっているのでしょうか。


そうですね。「生きること」はとてもシンプルだと思います。
「生きるために何が必要か」と問われるならば、「ただ生きればいい」と感じますね。

そして、そこに余分なものをつけ加えないことが、とても重要になってくると思います。
なぜなら、「ただ生きること」が最も「愛」に近いのだという感覚を、最近は持っています。
「生きるために何が必要か」に余分なものをつけ加えると、それが見失われていってしまう。

生きることにシンプルになれば、自然と魂と現実に立脚し、知性と意志で行動するようになると思います。それが人間のDNAだと考えています。
それが別のものへと目がそれて、生きることが複雑に感じられるようになってしまう。なぜそうなるかが複雑です^^;

そしてその複雑さもまた人間のDNAにはある。単純にそれを無視しようとすることは無駄で、結局、両面を同時に見つづける必要があります。

>私は障害があるから、とても難しく感じるのでしょうか。

そうですね。その「難しく感じているもの」の正体をはっきり理解し、それがどのように不実不毛なもので、どのように捨てていくことができるのか。これをしっかりと理解し、実践していくのが、これからの歩みになります。


■大元の「望み」を知りそこから考える

>>どこかでやはり「自己評価」は必要になります。ただ「現実」を見ても、それだけではやはり何から現実を評価するかというものが必要です。
>これはどういう意味ですか。何から現実を評価するのでしょか。教えてください。


「望み」から「現実」を評価します。自分の「望み」の通りに現実はあれているか。まあ100パーセントそうあれることはまずないでしょう。だから、「望み」に向かって歩み続けるわけです。これが一生続きます。

重要なのは、「大元の望み」は何かを知ることです。「自己像」や「人にこう見られる」といった「イメージ」は、とかく一人歩きして、次第に「大元の望み」には沿わない形で、力づくで自分や他人を変えようとするストレスに変化しがちです。
そこでいったん立ち止まり、「大元の望み」は何だったのかを考える。そして、それに対して最も合理的な近づき方を考え直すことです。

そして「大元の望み」とは、まず間違いなく、「愛」です。

「どんな人がいる価値ある人?」というエクササイズをして頂きましたが、

8/16
>気に入られて、プライベートを含む親密な話をして、以心伝心の仲になって、かわいがられる人ほど、待遇がいい、と思っています。しかし、自分はそこまで相手に踏み込めない。やってみるけど、仲良くなっていない。仲良くやっている人が羨ましい。

がAさんの今の「望み」でしょうし、それが「大元の望み」としては何かと言えば、やはり「愛」です。
だから、「愛」という大元の望みに立ち、それに近づくために合理的なものを考え、実践する。

そうではなく、「親密で以心伝心の仲になってかわいがられる人」と言った「イメージ」に走ると、それはもう「大元での愛への望み」とは違う方向を次第に向いてしまいます。
だから、

>心の中は、本当はその上司たちが嫌いで、信用していない。それを無理矢理仲良くしようとしている。同時に仲良くなれない自分を処罰している。これはとても疲れる思考・行動ですね。

となる。
これは大元で「自分は駄目な人間」という自己否定感情がある中で「愛」を望むと、とにかく自己否定感情に目を塞ぎ塗り消すイメージだけを追うようになってしまいます。
「自分に嘘をつくことの成功」を求める形になってしまうわけです。だから、他人との関係が疑心暗鬼になります。

では「自分は駄目な人間」という自己否定感情を心の片隅に感じながら、「愛」に近づくとは。

病気の治療に専門的医学知識が必要なように、病んだ心の克服にも正しい心理学知識が必要です。まず生半可な素人心理学にならないよう慎重さが重要。まこの「正しい心理学知識」が実に不足していたわけで、僕としてはようやく満足できるものがこれから定義できそうなんですね。
話はこれからです。


■「見えないものの成長」へ

「愛」への向かい方としてまずとっかかりの話としては、

>先ほど、考えるのが面倒くさくなり、なるようになるだろう、と思ってダラーと身を任せたら、体がポカポカして、生きているだけで幸せかも、と思いました。

この「幸せ感の芽生え体験」がいい材料になると思います。

>現在、仕事面や健康面でハンディーがあり、つらいですが、自分を見つめる機会を得て良かったなあとも感じます。変化しているのでしょうか。魂の成長ですか? 心性の動きですか? (頭デカッチの私^^;)

「魂の成長」と言えるでしょう。見分け方としては、「イメージ」による高揚や幻滅は心性の動きです。魂の感情は、イメージをあまり伴いません。まあこの2つが多少重なるのが大抵ですが。

そしてその幸せ感が、続くことはありません。また違う感情の波が現れ、それは見えなくなるでしょう。
しかしこうした波のスパイラス全体を通して、見えないものが変化し、成長しつつあることを、そろそろ感じられるようになって来たのではないかと思います。

その「見えないものの成長」が、「魂の成長」です。


■「愛する」ために「愛される」ことは必要ではない

そしてその「見えないものの成長」である「魂の成長」が、「愛」への歩み方として正解です。

魂が成長するほどに、「愛」が心に溢れてくるようになります。それが心を満たします。
それは「愛される自分」というイメージとは、全く別物です。

その点、「愛される自分」というイメージは、「自分は駄目な人間」という自己否定感情に目を塞ぎ塗り消す中で、「愛が得られた感」を何とか得ようとする、自分への嘘の完成を求めるようなものだと言えます。

実際人はそのイメージの中で、「愛されることが必要だ」と考えます。だから、

>気に入られて、プライベートを含む親密な話をして、以心伝心の仲になって、かわいがられる人ほど、待遇がいい、と思っています。しかし、自分はそこまで相手に踏み込めない。やってみるけど、仲良くなっていない。仲良くやっている人が羨ましい。

と、「相手から仲良く見られる」ことがゴールだと考えます。
しかし、

>先ほど、考えるのが面倒くさくなり、なるようになるだろう、と思ってダラーと身を任せたら、体がポカポカして、生きているだけで幸せかも、と思いました。

そうした「幸せ感」の中で、人は人を愛します。でもそれって、「私は愛されることが必要です。貴方が私を愛してくれれば、お返しに私も貴方を愛します。この協定を結びことが必要です。でないと私たちは破滅するのです」なんていうような縛り合いとは、全く別物だということが、何となくイメージできるのではないかと。

つまり、「愛されることが必要」だという心の世界には、愛は生まれません。
「愛される」ことはもう必要ではないとさえ感じられる開放感の中で、愛が生まれ満ちていきます。

世界がそうして動いていきます。つまり、それはAさんがどう「いる価値のある人か」などとは、何も問いてはいないのです。


■大元の望みに向かいイメージ感情を看取る

さてこれからですが、大枠としては、「大元の望みに向かう」と「イメージが生み出した不合理感情を流し看取る」の2頭立てと言えるでしょう。

「大元の望み」としては、上述の「愛」の他に、あと「豊かさ」があるでしょう。衣食住が不満足だと、愛なんて言ってられないのも現実です。

まずは淡々と仕事に就くことが次の段階になりますね。その中で、「大元の望みに向かう」と「イメージが生み出した不合理感情を流し看取る」は続けることになります。

「もうこれで“駄目出しへの恐怖”はなしでいける」となることは、残念ならがありません。そうした「イメージが生み出した感情」を心に流しながら、上述のような「愛される必要のない愛」についてもしっかりと心に浮かべ、前者に足元をすくわれないような心の姿勢を保ちます。

これを、職場に出る前に実践するのと、職場に出てからも実践するのという違いしかありません。内容は同じことを実践します。「この感情が完全に片付いて職場へ」というのは、ありません。

あとはその踏ん切りをどこでするかだけですね。まあ特に恐怖が残る部分があれば、またそれを集中的に検討しますので言って頂ければ。

あとは、

8/23
>数年後みんな驚くだろう、と。みんなに賞賛されてスポットライトに当たる私。

これは「誉れ」というまた別の「望み」になるでしょう。まあ「愛」の特別形ですね。
これは自然な「望み」として否定する必要はないのと、心性が描いたイメージだという両面を含み持って認識しておくのがいいですね。

確かにそうした「誉れ」を目指すのは、人間の自然な本能でもあります。一方、「愛されなかった屈辱」への見返し復讐という色彩も帯びているかも知れません。

そうした多面を認めながら、実践としてはただ「自分にできることをする」しかないですね。

現実に「みんなに賞賛されてスポットライトに当たる」成功というのは、実際それだけ優れた内容成果を生み出した場合ですが、優れた内容成果を追求することは、もうそうしたイメージに浸ることとはまったく別のことになってきます。

ですから僕の著作などが大成功し「みんなに賞賛されてスポットライトに当たる」可能性がゼロでないとして、その華々しいイメージ自体はもう僕にはあまり意識がないので現状で、その辺は「淡々」と言えるかも知れません。
まあ「優れた内容の追求」はそれ自体がやはりかなり大変な作業であり、その過程でそうしたイメージは何度も思い上がりと幻滅を繰り返して、やがてそんなイメージ自体あまり意に介さなくなるという感じですかね。

まとにかく、「今自分にできることをする」が全てだと言えます。
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心理学本下巻に向けての考察-7 / しまの
No.1257 2007/08/30(Thu) 10:09:30

次の説明メール。「魂」の視点を追加します。

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■「魂と現実への立脚」へ

まとまったアドバイスはもうちょっと時間頂き、断片的になりますが、「現実立脚」をさらに「魂と現実への立脚」と言い改めた方がいいかと考えています。

というのも、「感情依存」姿勢の流れで「現実立脚」を考えても、その「現実」がやはり「感情依存で捉えた現実」でしかないからです。

>理想から見たら、みすぼらしい現実の姿。

これがまさにそれです。
その「理想」が、感情依存の理想です。そこから見下した「現実」は、やはり感情依存で捉えた現実に過ぎません。

>14歳ごろから理想を叶えることに生きる喜びを見出していた。復讐やあこがれから生まれた理想。

これもしかり。感情依存で捉えた理想だからです。

>しかし、その理想によって、自分が壊れた。自分を痛めつけて頑張りたくない。私は自分の破壊者であり、その被害者だった。

さらにこれもしかり。感情依存の理想からの話です。そして、

>もう空想の世界での戦争は終わりにしたい。終わりにして、現実に戻ろう。

これもまたしかりかも知れません^^;

どこかでやはり「自己評価」は必要になります。ただ「現実」を見ても、それだけではやはり何から現実を評価するかというものが必要です。
それが「魂」になります。

自分の魂がどう成長しているか。それは何を求めているか。
今まで感情で「自分はこんなだ」と感じたことの上下を超えて、存在し続けるものがあります。見えない「魂」としてです。

今の自分はどうあれているか。やはりそれは僕も自己評価しますし、それが人生の舵取りには必要だと思います。
そのためにやはり、何に対して「現実」がどうあれているか、という規準がやはり必要になると思います。

それが「魂」なんですね。

難解なテーマですが、これが結構基本的な話として必要かも知れませんね。
また明日になるかと思いますが、もうちょっと具体的に分かりそうな説明も考え、また送ります。
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心理学本下巻に向けての考察-7 / しまの
No.1256 2007/08/30(Thu) 10:00:36

(続き)

■「感情依存」の根底の理解と克服へ

以上が進みたい先の話として、それを妨げているものの理解へと話を移しましょう。
「現実立脚」が目標だと知ったところで、それを妨げているものの正体とその克服法が分からないうちは、怖いだけだと思います。

実際Aさんの意識としては、「もうこれでいけば大丈夫だ」というのを先に持ちたい、という感じだと思います。
でないと、どんな石ころにつまづいて、

8/20
>復帰して、思いがけないイヤなことがあると、「やはり私はダメだ」と落ち込んで、再度休職、最悪自殺してしまうのではないかと懸念する。

ような事態になるかと怖い。

ただそれを読んでまず感じた印象は、まるで飼い慣れていない馬に乗馬して走るような話を言っている感じなんですね。ようは自分がまるでコントロール不能の借り馬のように感じておられる模様。

実はそのメール以降、Aさんのメールを読む度に、僕はクスクスと笑いをこぼしていました。いや失敬^^;

というのも、気にして一生賢明考えていることの土台からして、あさっての方向を向いているような感じがして。
まとにかく「頭でっかち」になるばかりの思考を繰り返しておられるのですが、一生懸命夢のストーリーの脚本を書き直しては、「これでどうでしょうか」と伺い立てられるような。

いや、今必要なのは夢から覚めることなんですけど..という感じ。ハハハ..^^;


■空想は現実ではない

さてこれが現状課題と問題として、これで話はまだほんの緒についたばかりです。
やはり、より本格的な心理メカニズム理解に立った、生きる姿勢の方向転換の取り組みが必要だと思います。

その具体的な話をこれから進めたいのですが、このメールではまだその説明にも入れないような沢山の話があります。
まあまずは当面、復職ふんぎりの最終一歩を焦点にしましょう。

でまずとっつきとして自覚して頂くといい心理メカニズムは、上記の「自分がまるでコントロール不能の借り馬」になる理由です。

それは、「自分が自分について感じた通りに、人が自分のことを感じる」という感覚が背景です。
だから、思いがけないイヤなことで「やはり私はダメだ」という気分になるとは、人々が鬼の首を取ったかのように自分のことを糾弾する事態なのだ、というイメージがあると思います。

まず実践して頂きたいのは、そのイメージの「知性による補正」です。

「感情がどうなるか」が至上命題、という感覚があると思います。
しかし、「現実」は、Aさんの心の中で「感情」がどうなろうと、何事もなかったかのように、流れていきます。
まずこれを、自分の目でしっかりと見ることです。Aさんが「自分は駄目だ」と感じた瞬間、それと同調するように、現実外界の風景は急変していましたか。
何もないまま、「現実」は前の続きとして、そのままだと思います。

これからは、それを実際に自分の目でしっかり見ていくことです。それがこれからの実践です。「自分は駄目だと感じないようになる」ことが実践ではありません。


■自分の魂との関係性へ

一方、「自分は駄目だ」という感情は、そうやってもう現実とは無関係に切り離す一方、それを一つの「心の現実」として認め、仕事面とは全く別の話としての取り組みを進めます。

これが「魂」との関係の事柄になります。これはもう他人とは一切の関りのない、自分の魂との間の対話として検討していきます。

同じく8/20メールですが、

>なんとかしなければ、と思うとあーー頭が混乱し、やる気が起きず、体がだるく、食欲もない。鬱病のようになります。体は正直に反応します。

これは「愛のない強制努力を拒んでいる幼い魂」がAさんの中にあるとも言えます。
それを、自分で受け止めてあげることです。そのまま身体表現に転化しているだけでは、魂は自分の声が自分の心に聞き届けられた安心感を持てません。


■「イメージのない世界」へ

まあ長くなりましたので、今回は「人生の根本転換」という大枠骨格の話として、まずはこんなところで。
最後の具体的な何かを期待した一方で、また途方もなく大きな話になった、とお感じかも知れませんが^^; まあこれがハイブリッドです。

それが目指す先について一つの表現をしておきますと、「イメージのない世界」です。
「自己像」とか「人の目」といった「イメージ」のない世界。

僕は実際大体そうゆう感じで生きています。「自己像」というもの自体、日常生活の中で空想することは、もうほとんありません。同じように、他者像もイメージはほとんどありません。
ただ自分の行うことをするエネルギーが魂から湧いており、それに生かされて「現実」と直接触れ合っています。

前に「感情はかりもの」という表現をしましたが、この感覚になると、「自分」そのものがもう「かりもの」的な感覚になってきます。
何か大きなエネルギーが自分を生かしており、それはもう自分が自分をどう感じるかに一喜一憂右往左往する必要もない、揺らぎないものの一部として、自分が生かされている。

こうした言葉は結構色んな人が語ることであり、上記石原加受子さんの言葉にもそうした部分があるのは、これがやはり一つの大きな真実ではないかと感じる次第。
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心理学本下巻に向けての考察-6 / しまの
No.1255 2007/08/30(Thu) 09:59:14

■心の内側内容問題と外側器問題のクロス

「愛から生まれた怒りが愛を破壊する」この心の悲劇を抜け出し、「愛されることを必要とせずに愛せる」という人生の輝きの増大へ。

これが下巻の主題とも言えるものになりますが、その転換のためには、まず心の外側器のあり方への取り組みが必要になります。
なぜならば、そうした心の悲劇とも言える感情論理は、その不毛さと悲劇性を本人が十分に自覚してさえなお、人を駆り立てずにはいられないからです。その歯車は、一度動き始めたらまず止めることはできません。

なぜか。全てが「愛」という一つの動力の中で起きた変形だからです。それが「愛」において悲劇的結末を生み出すものだとしても、あくまでその悲劇的結末が、その人にとっての「愛」と化すからです。

従って、転換への「選択」を見出すためには、こうした心理過程の全体を離れた、全く別次元の動力との対比の中で成されねばなりません。
それは「自由」であり、「愛に依存しない自尊心」になるでしょう。だがこれを一度愛の変形の歯車が動く中から見出すことは、まず不可能に近い。

かくして、人間の意識構造を超俯瞰的に眺める、新たなる上位意識の獲得が、転換への最初の鍵になるように思われます。う〜ん何とも脳科学+スピリチュアル的な言葉。

具体的には、まずは「感情依存」から「魂と現実への立脚」になります。
「感情依存思考」からと書こうとしてやめました。なぜならこの転換は、単なる思考の転換を超えた、異なる意識構造の意志的選択にならなければならないからです。

難しい話ですが、明らかにこれが大きな転換における最大の関門です。これを通ることで、次は「感情分析」のかなり厳密な効果論という、恐らく心理学の世界に残された最も難解なテーマの答えに近づいていくことになります。

以下ではまたこのテーマでの返答メールをいくつか。
詳しい文脈は省略しますが、「知性思考」や「原理原則思考」を一通り説明した後の話で、知性思考そのものが目的ではないという説明の仕方で始めています。
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■人生という大自然への出発

まず未説明だった大枠骨格の話をしますと、実は今までの見識エクササイズから始めた「知性思考」は、ごく補助にすぎないとも言えるものになります。
まあ、Aさんがこれからオフロードカーに乗って人生という大自然を旅するに当たり、まずは今までの外見ばかりスタイル良いがひ弱な車輪から、しかるべき耐久性あるオフロード用車輪に替えたような話ですね。

で問題は、オフロードカーが全体としてどんな装備のものであり、さらに重要なのは、これからどこに向かうかなのです。

それで言うと、Aさんの意識はまだ、大自然へと実際に向かうのではなく、中学校の教室で机上の地図を一生懸命に暗記して「もうこれで大丈夫か」としきりに考えているような話になると思います^^;

今回僕としてもガイドするのは、人生の根本的な変換だということを最初に確認しました。
それで言うなら、それに対応するような具体的「根本的な変換」がこれだ!というのを、Aさんはまだ感じ取っていないと思います。

実際まだ説明もそこまで行っていなかったわけです。
これはまあどこまで説明する必要があるかは人それぞれの目の前課題によりそれぞれで、Aさんの場合はやはり本格的に行く必要があると感じています。


■地に足がついた「生」とは

その「根本的な変換」を説明するにあたり、まず昨日のメールで紹介いただいた、
佐藤富雄
http://www.hg-club.jp/
石原加受子
http://www.allisone-jp.com/index.html
にちょっと目を通した印象などから始めますと、まずはそうした内容で良く偉い肩書きや商売が成り立っているものだと関心..というのが率直なところ。

害のあることは言ってないでしょうし、その中には真実も含まれるでしょうが、まあ誰でも考えれそうなことかなーと^^;
実際それが役に立った人もいるでしょうが、多分その人はそれがなくてもうまく行けたのではと感じましたね。
これはあくまで批判ではなく、いちおう肯定的評価として書いています(どこがー^^;)。

がやはり何か問題あるように率直に感じた印象を言いますと、「何か地に足がついていない」感を受けた次第です。
なぜか。それを考えるのが、まず説明のとっかりとして役に立つと思います。

まず言えるのは、上記お二人の思想の主題は、前者は「自己像」の世界であり、後者は「感情」になると思います。両方とも、ようは「いかに気分を高揚させるか」という感じの話だと思います。
そしてこれは、ハイブリッドにおいてはあまり高い位置づけを与えていないものです。

ハイブリッドが考える「生」の構図は以下のように表現できます。
 ----
 現実 ----
 ---- 知性
  心  空想
 ---- 感情
  魂  ----
 ----

ハイブリッドが考える「地に足がついた生」における「地」とは、「魂」と「現実」です。
「魂」は心の命そのものです。そのありのままの命によって、最大限にこの「現実世界」を生きる。これがハイブリッドの考える「地に足がついた生」です。

空想や感情は、そのごく仲立ちをするに過ぎない。まあ知性は現実を捉え、感情は魂の声を伝えるものと言えるでしょう。
しかしあくまで足をつけるべき「地」は、「魂」と「現実」です。

それが、この心が地に足をつけるべき「魂」と「現実」が見失われ、「空想」と「感情」の世界の中に閉じるかのような「生」に入りこんでしまう。
これが、人間の心が持つ、心を病む側面であると考えています。


■「感情依存」から「知性主体」ではなく「現実立脚」へ

まずそれがハイブリッドが考える「地に足がついた生」の大枠。

これに沿って、ここ最近の見識エクササイズやスーパーバイザー自己の知性思考の総括として、またちょっと話を逆にするようなことが残ってると触れた話。

ようは、「感情依存」から脱却するという話をしていたのですが、その先は「知性主体」ではありません。
見識や知性思考そして原理原則といった材料を仕入れたのは、今まであまりに感情依存だったところに、別の支柱、まあ車でいうと重要なシャフトとしてこれからの旅路に見合うものを装備したような話です。

べつに「知性思考」という目的地があるわけではありません。
目的地は、「現実」です。

つまり、「感情依存」から脱却する先は、「現実立脚」へです。

>【1】話されていない話の骨格レベルの話をお願いいたします。

これが上記までの話として、

>【2】原理原則を厳選する基準は何か?
>【3】心理障害をもつ人間がおこなう原理原則の具体的な見つけ方は?参考となる良書はなるのか?
>【4】厳選された結論をなるべく早く出すことが望ましいのはなぜか?
>【5】サバイバル世界で魑魅魍魎の相手や感情的な相手に対する原理原則の使い方は?


については、もう今までの話以上に細かい話はありませんし、参考となる良書などありません。
なぜなら、Aさんがこれから出発するのは、唯一無二のAさんの人生という大自然であり、それを細かく先立って指南するものなど、あり得ないからです。

厳選された結論をなるべく早く出すことが望ましいのは、それが「現実」だからです。

「現実」は多様であり、刻々と変化していきます。その中で見出す答えは、決断が早ければ早いほど有効であり、遅ければ遅いほど意味を失っていきます。
だから、原理原則は確実なものに適宜厳選し、時代遅れになったものは捨てるというのを常にメンテナンスします。そして決断は、なるべく即時に下す。


■原理原則の選択基準は「現実において生み出す」

原理原則の選択基準について言えば、「現実において生み出す」になります。言えるのはこれだけです。

そして「現実」は常に多様な複合的状況を持ちますので、大抵は、次元の違う原理原則を掛け合わせた「中庸」が重要になってきます。

これはあまり一般論を言える世界ではありません。ケースバイケースには即時に答えを言えますが、それはもうあらかじめ学べる一般論ではありません。
あらかじめ学べるのは、ごく大まかな原理原則と、「現実において生み出す」という姿勢までです。

あとは、「現実を生きる体験」によって、実践を通して習熟していく必要があります。これはもうその人それぞれの唯一無二のセットになるので、あらかじめ準備などできません。
人それぞれが生きる現実の人生が、それぞれの多様な複合的状況で成り立つからです。

ですから、

>具体例でいうと、以前、契約書を締結した相手会社が大きな契約違反をした。私は契約違反で訴えてやると言った。しかし、上司は大きな問題になるとマズイので、示談で解決した。結局は納期遅れ、支払い減額など相手に有利に思える。契約書の意味がない。これが大人の解決か。

これはその実例になると思います。まあその上司判断が僕から見てもどれだけ良いか悪いかは、もっと細かい内容を見ないと何とも言えませんが、良いか悪いかの判断規準は「現実において生み出す」です。
まあ恐らく上司さんもその方向で行ったのだと推測します。

(続く)


心理学本下巻に向けての考察-5 / しまの
No.1254 2007/08/30(Thu) 08:16:44

その4までは、「愛への望みが怒りに変わり、怒りが大元の愛への望みを破壊する」というパラドックス的根源構造をテーマにしました。

で次はそれを治癒と成長メカニズムへと視点転換させての考察になるのですが、ちょっとここでちょっとした行き止まりがあります。
そのまま素直には治癒と成長への転換に向かえない。

なぜか。「愛と自尊心」という内側内容の話では済まず、「空想と現実」そして「恐怖」という外側器の話が、どうしてもクロスしてくるからです。

以下は数日前に、この行き止まりまでを一応総括整理したメモ。

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「愛から生まれた怒りが愛を破壊する」この人間以前の動物にさえ見始めることのできる心の悲劇が、全ての根源となる。

それが主に2つの段階で深刻化することを説明しました。

1)基本構造...「愛されないことは不面目」という自尊心損傷から、他人に同等の不面目を望む自尊心が生まれる.。
2)荒廃化構造...上記の「不面目」が「愛されない屈辱」という度合いを強める。他人の不面目を望むという消極的破壊性が、「軽蔑攻撃衝動」という積極的破壊性を持った自尊心へと深刻化します。

これはまあ、「軽蔑感情」がこの問題で生まれる基本的な「悪感情」として、基本構造レベルでは「普通の」(?^^;)軽蔑感情、つまり目に入った他人の短所欠点を軽蔑するというレベル。
荒廃化構造では、これに破壊攻撃性が加わり、力づくでも相手を軽蔑できるように落としめる衝動という感じになってくるでしょう。実際それが行動化されるものを我々は良く知っています。「いじめ」がそうですね。

この2段階が影響する重要な問題が、「望みの停止」です。特に、「魂」が抱く「愛への望み」の感情の停止が問題になります。

恐らく、基本構造レベルでは「望みの停止」はまだ起きない。ただし「望む資格思考」が生まれているでしょう。「望みの停止」の中途段階であり、「人の目を通して望む」という基本的な皮相化が起きる。

荒廃化構造レベルで、はっきり「望みの叩き潰し」が起きることになります。これは、自分の望みが屈辱の中で断たれたという同じ苦しみを、他人にも与えようとする衝動ということになるでしょう。何をお前が!たわけ!という感じー。陰湿な怒りの中でこれが抱かれる姿がイメージに浮かびます^^;

こうなると、この人にとっての「望みありきの人生」とは、「望みの叩き潰し合い」の世界になると思われます。人の目を通して望むというよりも、誰の望みを潰してやれるかという、軽蔑攻撃バトルの世界になるわけです。
この世界の中で「望みを抱く」ことは、他人そして自分自身からの軽蔑への「弱み」を見せる、自虐的行為になるのかも知れません。

感覚的にはこの辺で次第にシミュレーションが難しくなってくる..
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とここまででメモ中断していたのですが、なぜシミュレーションが難しくなってくるかと言うと、「空想と現実」そして「恐怖」という外側器がどうなっているかによってかなり話が変わってくるからです。

ということで次は、外側器をテーマとした話へ。


心理学本下巻に向けての考察-4 / しまの
No.1253 2007/08/24(Fri) 11:45:40

悪感情の膨張までのメカニズム。そして視点を治癒成長への本人意識ポイントへ。

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■「望むことが自虐」の前提「情動の荒廃化」

さて「望むことが自虐」になるという、Aさんの懸案の心理メカニズムですが、これはその2までで説明した基本メカニズムの段階ではまだ起きません。
基本メカニズムだとは、心を病むメカニズムは人間の心のメカニズムそのものの一面だということで、現代人に程度の差はあれ存在するものだということです。

その段階でも、つまり現代人では基本的に、幼少期の愛への願いは多少とも妨げれているのが「普通」です。それで、先の「愛されないという屈辱」に始まる「大局的心理構造」が基本的に起きてきます。

その結果「望み」も多分に妨げられています。
ただし、「望むことが自虐」というほど激しく圧殺されることは、そこまでの話では起きません。主に「自ら望む」能動性が損なわれ、「人の目」を通して望むという、「皮相化」が主なものになります。

「望むことが自虐」というほど激しく圧殺されるのは、「情動の荒廃化」が深刻になった場合です。
これは、「愛されない屈辱」における「屈辱」の強さが深刻になった場合ということです。

「愛されない屈辱」への報復衝動における破壊性が強くなる。
その結果、愛されないことを「屈辱」として感じる強度が増していることは背景化し、あまり意識されなくなる一方で、自尊心衝動があたかも単独に破壊的なものとして意識されるようになります。
これは、
 a)積極型報復...攻撃的軽蔑
 b)消極型報復...1)相手の期待喜びに背く 2)愛への願望否定
がそのまま破壊性を増して意識される、ということです。

つまり、「大元では愛を求めてのこと」であることがどんどん見えなくなる一方、「愛されない屈辱」は激しくなり、報復としての軽蔑衝動や敵対衝動も激しく、愛への願望否定も冷酷さを増す。

それが「大元の愛への願い」を損なうという自己循環も激しくなります。この自己循環は、ごく心の悩みレベルから深刻な心理障害まで、構造は同じです。


■「屈辱の固定」問題

「愛されないという屈辱」から生まれる「愛を破壊できる自尊心」が再び「愛されないという屈辱」に火をくべる。
この自己循環の構造は愛の損傷の程度に変わらず同じなのですが、これに伴って、愛の損傷の程度によって異なる問題が起きてくるようです。

それは、幼少期に体験したであろう屈辱の度合いと同じ激しさの屈辱を、成長後の日常生活での、通常なら何でもない他人の反応に対して感じる、という現象です。
これを「屈辱の固定」問題と呼べると考えています。

比較的問題が浅いケースでは、人からのあからさまな非難を受けて、感情動揺に悩んだりします。
問題が深刻なケースでは、人が自分にちょっとした挨拶を返さなかっただけで、殺意を抱いたりします。

これは要は、今現在の現実で起きている事柄の「客観的」深刻さとはもう無関係に、幼少期における「愛されない屈辱」の激しさが、そのまま固定されて外界への感情反応が起きる、という法則性みたいのが考えられます。


■固定された屈辱の底にあるもの

でなぜこの「屈辱の固定」が起きるのかのメカニズムは、僕の頭の中にもすぐぱっと浮かぶものではありませんでした。
なにせ、激しく愛への願望を切り捨てたのですから、もはや挨拶仕草など意にも介さない冷徹が生まれても良さそうなのにと。

まあこの世には本当に愛を意に介さない冷徹人間もいると思いますが、それはどうもこのメカニズムとは別の話で、恐らく、比較的健全な心理成長と冷酷な環境が成せるわざのような気がします。
心を病むメカニズムという人間の心の一面では、そうではない。激しく愛を切り捨てた人間ほど、極めて小さな愛情表現有無に捉われ、激しい屈辱を抱く。

でそれはなぜかと、僕自身の体験も振り返ってイメージしているうちに浮かぶのは、やたら悲しいイメージばかりだったんですね。
こうしたメカニズム考察は、僕は直感イメージと論理思考を組み合わせて行うのですが、まず直感イメージでつながるものとして探ったイメージはやたら悲しく、事実僕はそれを部屋掃除をしながら考えている内に、涙が出てきてちょっとヒクヒクした感がありました。

それは、絶望的に愛という栄養の失調した、ひもじい人間の姿でした。そしてほんの小さなものでもいいと、愛に飢えている姿でした。こう書いていても涙が出てくる^^;

上巻12章
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/12.htm
の第3の鍵:「死」
のところで書いた例が、みんなそうしたものをイメージさせるものです。「聖書が欲しい」と涙を流し牧師にすがった老殺人囚にせよ、テッド・バンディにせよ、最期に生家のポーチに倒れたマリー・ヒリーにせよ。

そしてなぜ屈辱が固定されるのかと言うと、そうしたひもじい魂を抱えた人間が、日常生活では別の顔をして、そうした愛に飢えたひもじさを軽蔑すべきものと感じ、それを刺激されることを屈辱と感じる。
メカニズムとして確実に浮かぶのは、これだけでした。


■「望みの叩き潰し衝動」への鍵「軽蔑衝動」

ということで、「望むのは自虐」となるメカニズムも押さえる上で、「軽蔑衝動」が鍵になります。

「望みの叩き潰し衝動」は、最初に言った基本構造レベルでは、まだ起きません。かなり深刻な荒廃化の中で起きます。
これは僕自身の経験でそう言えることです。はっきりとした「望みの叩き潰し衝動」があったのは、まだかなり深刻な時期で、『悲しみの彼方への旅』でも巨大な心性崩壊を経る前の時期に該当します。たとえばこんな記述。(P.108)
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その時です。私は自分の中に、自分自身に向けられた冷淡な目があることに気づきます。
「何をお前が友人など作ろうとしていやがる!」と。
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「望むのは自虐」という感覚自体は、もう僕には思い出せなくなってきているものの一つです。ただそれが、激しい軽蔑破壊衝動が自らの「望み」に向けられたものであることは、論理的に何となく分かります。
そして実際、「望みの叩き潰し衝動」があった時期、僕の中にも「全てに軽蔑がまとわりついている」意識状態があった。これは以下あたりで描写されている。(P.252)
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 土曜日、授業は休講で、早稲田大学へ行って過去の大学院入試問題を入手します。
 私の感情はすさみ始めていました。早大のキャンパスで、自分の美貌によって男女を問わず威圧したい衝動。しかし自分の〃ごつい〃顔を自覚すると、自分には可愛い女の子の相手となるだけの魅力は全くない、という沈んだ気分。
 他人であろうと自分であろうと、服装の着こなしに僅かでも欠点を見ると軽蔑を感じてしまう。
 見るものの全てが、軽蔑に出会う。世界の全てに、軽蔑がまとわりついている。
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これ見ると少し分かってきますね。2つあります。

まず、「望むもの」に、かなり傲慢な自己陶酔が明らかに含まれてきているということです。

そしてその「傲慢な自己陶酔」に対して、激しい自己軽蔑が向けられるであろうことです。これはもう体験的に、「最大級」の自己嫌悪感情であることははっきりいえます。

つまり、「望み」に付随する傲慢な自己陶酔への自己嫌悪が、まずメカニズムとして考えられます。だから「望むのは自虐」になり得る。


■脱出への鍵

だいたいそんなところがメカニズムになりますね。
ここから治癒メカニズムの方に考察を転換したいと思いますが、詳しく考える前に言えることが幾つかあります。

まず、自分自身の中にある「絶望的に愛という栄養の失調したひもじい人間」を、まず認め受け止めるべきは自分自身であるということ。
ちなみに、巨大な峠を経た大学院時代、僕はまるでその状態からの回復のためであるかのように、少女向けの愛情たっぷり家族アニメなどすごく好きになって見てました^^;

一方そうしたのがまだおぞましく気色悪いものに感じる軽蔑衝動が維持されている場合、それが取り組みのメインアプローチになります。

これを次に考えます。ここではそのさわりとして、「軽蔑衝動」というものが自然な感情ではなく、人間世界で特殊なものだという事実を考慮した知性が、主な活用材料になるというのが言えます。

実際、今の僕の脳の中で思い出せない感情のもう一つが、「軽蔑」なんですね。今、「“軽蔑”ってどんな感情だったっけ..」と考えても、良く浮かんでこない。でそれは「何らかの劣等性ゆえに愛に値しないと叩き潰す感情」と定義することで、なるほどーと何となく思い出す気がします^^;

同時に何となく思い出すのは、「軽蔑衝動」は明らかに強い「怒り」を伴っていたことです。
だからそれが自分に向かう「自己軽蔑衝動」というのは、「怒り」のストレスも含めた複合的悪感情が混濁して、実に苦しい状態になると分かります。


ということで、大体のメカニズム改定と、治癒実践論へのさわりということで送っておきます。
次に、治癒実践がかなり明瞭になってくる見込み。

「基本構造」と「荒廃構造」に対応して、それぞれ「選択可能ポイント」が出てきます。順序は逆となり、
「荒廃構造」では「軽蔑のない世界」という感覚の選択。
「基本構造」では「愛されないことは屈辱ではない」という感情論理の選択。
つまり始まり時点に「選択可能ポイント」があるわけです。それを外し、動き出したメカはもう変えられません。

より詳しく具体的な話を次で。
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心理学本下巻に向けての考察-3 / しまの
No.1252 2007/08/24(Fri) 11:41:11

メカニズム説明の続き。

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■大局的心理構造

メカニズム説明の続きですが、まず「上巻」で解説した大局的メカニズムに先のメールでの「愛されない怒り」の流れを加えると、次のような心理構造を理解することができます。

1)愛への願いと根源的自己否定感情と怒り [魂]
2)愛情要求...損なわれた一体化愛の穴埋めのためのイメージ化された「愛情」への要求 [心]
3)「愛されない屈辱」への自尊心報復衝動 [心]
 a)積極型報復...攻撃的軽蔑
 b)消極型報復...1)相手の期待喜びに背く 2)愛への願望否定

ここで新たに付け加えておいた重要な要素があります。「愛されない屈辱」への自尊心報復衝動における「消極型」で、「愛への願望否定」がなされることです。
消極型の報復として、「もう決して相手の望むようにはしまい」「もう決して相手を喜ばせるようなことはしまい」と、冷たい敵対がなされると同時に、相手に愛を求めることをやめようという「決意」がなされます。

これは『悲しみの彼方への旅』では次の場面で描写されています。(P.113)
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 小さい頃、僕は家族への愛情表現に抵抗を感じた。その結果としての無愛想な態度が、この20年の生活史を通してあまりにも当たり前のものになってしまった。こんな自分など最も受け入れたくないものだったのに。。
 自分の心の中に起きていたことがはっきと見えてきます。ホーナイの本にあった英語の文がそのまま浮かびます。I should not love them, because they do not love me. 彼らを愛してはいけない。なぜなら彼らは自分を愛さないのだから。
 家族から離れ、自分の感情を小さな紙片に書き記す私の中に、強い悲しみが流れます。
 人の中に入ることへの絶望は自棄的な感情を引き起こす。それを捨てようとした時、あの根源的な悲しみが見える・・。
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ここでは愛への願望否定は不完全です。それで「強い悲しみ」が起きている。

この愛への願望否定が強固になされた範囲において、魂の「愛への願い」が切り捨てられることになります。根源的な愛への願いの感情が見えなくなり、根源的自己否定感情と怒りだけが引き続き「心」の自尊心にとっての懸案材料として供給されます。

こうした「魂」のレベルのことがどう意識感情に反映されるかと言うと、「命」というレベルで、底流となる感情背景が変化してくることです。
これは主に2つあります。一つは「生の空虚化」。これは魂の「愛への願い」が切り捨てられた範囲に対応します。
もう一つは、根源的自己否定感情と怒りが「破滅」のイメージとそれへの爆発的な怒りの色合いを、「心」の自尊心に与えることです。


■「感情がどうあれるか」が「愛されない屈辱」への報復における勝利と敗北の問題になる

ここで特筆すべき「意識状態」が、上記心理構造の帰結として生まれることになります。

それは、「感情がどうあれるか」「自分についてどう感じることができるか」が、「愛されない屈辱」への報復における勝利と敗北の問題になってくるということです。

これは特に消極型報復の影響が大きいと考えています。
「愛されない屈辱」への報復においては、明らかに、相手への愛情要求を感じることは、敗北です。相手からの愛など取るに足りないと見下すことができれば、勝利になります。

そしてさらに、「上巻」で「愛情要求症候」として説明した、「人の目と心が自分を取り囲む感覚」によって、「自分についてどう感じることができるか」が、報復における勝利と敗北において法外な現実味を持って体験されてしまいます。

つまり、自分が自分のことを感じた内容通りに、他人も自分のことを見ているという、基本的な感覚があるわけです。
その中で、自分の卑屈な愛情要求への自己軽蔑を感じることは、その状態を他人が見て残酷な笑いの中で思いっ切り自分のことを軽蔑しているという感覚が、あまりにリアルなものになります。
一方、自分で自分を良く感じることができると、それを前にした相手は心の中でみじめさを味わっている、という感覚になります。

まあこれが、いわば自己操縦心性のイメージ描画エンジンとも言えるからくりになるでしょう。

そして、そんな風に「自分のことをどう感じたか」が勝利と敗北のいずれになるにせよ、ちょっとした時間の経過で流れ行く先は同じであり、結局愛を得ていない自分への怒り絶望になります。これはこの心理構造全てが愛への望みから始まっているという根源と、この心理構造によって愛を損なったままの現実という状況から、必然的なものです。

またこの流れに、ごく自然な流れでの「なりたい自分像」も掛け合わせられます。その中にはまず大抵、「人を好きになれる自分」なんてのもあります。
その結果、言えることはもうはっきりしてきます。とにかくもう収拾がつかない^^; あとは要素の組み合わせと優劣関係で、千差万別の意識表面が出来上がるだけです。

また、なんとかこの混乱した心の収拾を図ろうとして人が考えるのは、「どう感じられるか」における解決を模索するようなものになります。「想念」で何とか全ての片をつけられるのを求めるような、とにかく自分の頭の中にじっと見入るようなものになってしまいます。
多くの心理学がこれに巻き込まれ、この方向であれやこれやと心理学が考えられていく。
Aさんにもまだ、この「想念による解決」を期待している気が残っているような気がしていますが..^^;

もちろん、「どう感じられるか」といった話のレベルでは解決方向は見えないです。
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心理学本下巻に向けての考察-2 / しまの
No.1251 2007/08/24(Fri) 11:36:36

視点を本論の心理障害メカニズムへ。

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■「愛情要求に根ざす怒り」という根源問題

まず感情メカ理論の最初の流れから言うと、「愛への望み」があり、それが妨げられる度合いが一定限度を超えると、「怒り」に転じるという問題があります。
これがほぼ全ての問題の根源だと考えています。

この話は、動物学のレベルでテーマになる根源的な話です。似たようなことが、猫で観察されるんですね。猫は動物の中でも最も複雑な感情を持ち、人間に近いとのこと。
これについてちょっと長い話を他の相談者当てに書いていますので、別途転送しましょう。

で、愛が一定以上に妨げられると、愛を求めた当の相手に怒りが起きる、という根源メカニズムの先です。
まずこの「怒り」は、相手を攻撃することに向けられます。本来愛を求めた当の相手にです。

これはちょっと悲劇的な状況でもあります。怒りに転じたほど、深く愛を妨げられているわけです。誰よりも強く愛を求めたはずの当人が、やがてその強すぎる愛情要求から生まれた怒りによって、まさに求めた愛を積極的に破壊することになってしまうのですから。

これが猫のレベルで起きている、問題の根源構造です。
人間の場合、これがさらに複雑化し、さらに悲劇化するようです。なぜなら、猫の場合、攻撃するのは一番愛を求めた相手に焦点が定まっているからです。これは別途転送のを読んでもらうと分かるかと。

ま猫の場合は、あくまで特定相手への態度の豹変で済む。猫の「人格」(?^^;)の変貌そのものは起きていないという感じです。
人間の場合、愛を求めた特定相手(まず親)への態度変貌では済まず、人格の変貌が起きてしまう。
このメカニズムをちょっと考えた次第。そしてその先に、「選択」の答えが見えてくるのではと。


■「愛を破壊する自尊心」の誕生

人間の場合、上記「愛情要求に根ざす怒り」問題が複雑化するのは、「魂と心の分離」にともなって「愛と自尊心の分離」が起きることに由来するようです。
これを3段階で考えています。

1)愛と自尊心の一体化段階

これは自他未分離意識の「幼少期」です。
ここで「愛が妨げられた怒り」は、まず自他未分離意識として発生する。それが自他分離意識に移行すると、何か「全てへの怒り」というような、対象が不明瞭な背景的な怒り感情になると考えています。
それは他人への怒りであり、自分への怒りであり、そうして怒りの中へと一体化を失ったことへの怒りという、3つのベクトルがあるような。

2)愛から自尊心が分離する段階

次に、愛から自尊心が分離する段階になる。自尊心が愛とは独立して機能し始める段階です。
ただし、自尊心が愛と別の心の機能になるとは言っても、この段階ではそもそもの自尊心材料は、「どう愛されたか」にまず大きく依存するでしょう。

その結果、「愛されない怒り」として愛を土台にした意識体験が、背景は愛であっても、自尊心を前景とした意識になります。
これは「愛されない」ことが「軽蔑された」こととして体験されるということです。
つまり、「愛されない」ことが「屈辱」として体験されるということです。

これはちょっと掲示板などでも触れましたが、僕自身の幼少期の感情分析でも、明らかに、「愛されない」ことを「軽蔑された」として体験している。4、5歳頃のことだと思います。

3)自尊心が単独で機能する段階

難解なのが、自尊心が単独で機能する段階の前後の動きです。
一体化段階と分離途上の歯車が組み合わさるような形かと。
 i)愛を求めた相手を叩く怒り
 ii)愛されないことは屈辱
 iii)単独で働く自尊心
が組み合わさる。

まず、屈辱からは自然と報復衝動が生まれます。これは同じ屈辱を他人に味合わせることです。これは愛を求めた相手と、あとは八つ当たり的な転化も考えられるでしょう。

この「愛されない屈辱への報復」として2形態がある。積極形と消極形。
積極形は、相手が「何かの劣等性ゆえに愛に値しないと叩く」もの。つまり「軽蔑」です。
消極形は、「相手の望む通りにはしまい」「相手が喜ぶことは決してしまい」です。

次に、これがもはや「愛されない屈辱への報復」という感覚さえ薄れた形で、単独に機能する自尊心の材料になってくることが考えられます。
つまり、「不特定他者に対して何かの劣等性ゆえに愛に値しないと叩く軽蔑」が自尊心材料になる、という動きです。

こうなる要は、学童期以降の自尊心が、「愛されることには依存しない」という要件を含むことです。
そのために、「愛を破壊する」という上述の心の動きが、自尊心と結びつく、というメカニズムです。


■「愛を破壊する自尊心」の悲劇

こうして「見下し軽蔑」「相手の望むようにはしない」という自尊心が生まれるのですが、これは最初に言った「猫型」の対象限定的な悲劇を超えて、人格のレベルでの悲劇を生み出すようです。

なぜなら、本人の意識においては自尊心だけのこととして感じられているのですが、意識の底では深く、愛を求める感情に根ざして生まれた衝動であり、結局、「愛を求め破壊する」という構図を、今後は他人全般との間で繰り返すという形になることです。

ですから、このタイプの自尊心は、必ず、愛が妨げられていることへの絶望的な怒り嘆きに戻ります。そしてその怒り屈辱への報復として、この自尊心をさらに強化し破壊的にしていきます。

このつながりを本人が自覚して、かなり強力な意志でその歯止めをしない限り、ですね。そして僕自身の体験を振り返っても、つながりを実感して意志で歯止めするのは、かなり難しいように感じています。ここまで独力で自己分析した僕にして、それは結局できていなかった感さえあります。

つまり、この自尊心の無益さを自覚して放棄するのは、どうも「選択」にはあまりなり得ない気がしています。それだけ、一度動き始めたら止めようがない、強力なメカニズムのようです。

では「選択」はどこにあるかの前に、「愛され自尊心」タイプならこうした悲劇がないか、と考えるに、これはもう考えるまでもなく、そうはいかないと感じます。

それは、「愛され自尊心」は基本的に自尊心を損なうんですね。低い自尊心を補おうとして愛を物乞いしたことに。
たとえうまく行っても、満足は一瞬の表面だけです。そして意識下で損なわれた自尊心は、結局破壊型の衝動を生みます。

「愛され自尊心」は単独で問題を考えるのでなく、人格構造として破壊型自尊心を引き連れずにはあり得ないという全体で考えるのが正解のようです。


以上の話の結論は、「愛されない屈辱」から始まった自尊心は、全て出口がない、ということです。
あともう一つ、「望むのは自虐」となるメカニズムを考えます。その後で、「究極の選択」を説明できるかと。
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心理学本下巻に向けての考察-1 / しまの
No.1250 2007/08/24(Fri) 11:25:13

現在最初の心理学本下巻に向けて鋭意執筆中ですが、下巻全体を通しての最大の骨格となる考察を、主に返答メールとして書いており、ちょっと早めに紹介しておこうと思います。
多くの相談へのアドバイスとしても、まずこのハイブリッドの新たなる前進を読んで頂くのが多くの場合良いだろうということで。


■治癒と成長への実践の根底核

でその最大骨格テーマを一言でいうと、「愛されない怒りが自尊心として一人歩きしていき、愛を壊していく」とでもいうべきメカニズムの流れです。
そして愛が壊され、再度怒りが起きるという最初に戻る。完全に自己循環します。

上巻の原稿の方は、今のところこの視点よりも、自尊心がどう妨げられるかという視点を中心に書いています。これは心を病むメカニズムの結果見える各種の表面を正しく認識するという主旨と言えます。
一方下巻の方は、そうした妨げを生み出すと同時に、それを健康な心へと治癒成長へ転換させる、実際の本人意識上の根底核とも言える歯車と、それがどのように他の歯車に連鎖するのかという、かなり緻密かつ実践的な話を骨格にしたいと考えています。

まあ全体としては、さらに「愛」の役割の比重が大きくなると言えるでしょう。

ということで、返答メールから抜粋しますが、言葉に色つけ面倒なので今回省略します^^;


■怒りに変わる愛

でまず主題ですが、「愛されない悲しみがやがて怒りに変わる」という心理現象が、もっともその根幹核になります。

なぜこれが「主題」かと言うと、これは人間だけではない動物においてすでに起きている現象だからです。それだけ、心の土台レベルで全体を支配する感情の流れだということになるでしょう。
人間の複雑な心理メカニズムも、その延長にあると。

ということでまずその話。
ここではを取り上げていますが、多分僕の知る範囲ではそれ以外にも、などは似たような感情を持つと思います。
以下ではを違う形で触れていますが、多分犬もある程度そうなる面があるでしょう。ただ犬はやはり「愛の動物」であり、「怒りに変わった愛」が再び愛に戻り得る度合いが大きい気がする。

まあようは、全て問題は同じだということです。
愛されないことが怒りに変わる。それが愛を破壊し、大元で求めた愛をさらに破壊するという絶望へと至る。これを再び純粋なる愛に戻す道はあるのか、ということです。

まずは問題の始まりから。
「怒りの価値」という話で始まった返答メールですが、上記テーマにかかってくる途中から。

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■「怒りを取るか捨てるか」という人間の心の究極命題

ということで、「怒りの価値」という命題については、怒りそのものを論じるのではなく、「同時には選択し得ない別の価値」という視点がかなり重要になってきます。

僕の場合は「感情の膿を減らしたい」という実にマニアック(?^^;)な理由が一番だったのが率直な話になるわけです。

まあそうとしても、結局自分がどうなれるかに、より大きな価値を感じるかということになるでしょう。

感情の膿を減らす先に僕が目指したものとは、人間としての大きさであり、それは自分一人で社会全体を相手にできるということであり、自分が真に魅力を感じる相手への行動ができるということを、「人間としての大きさ」だと考えているということです。
決して、社会の奥隅で気に入らない相手を殺せることが「人間としての大きさ」だとは考えていないということです。

そしてそうした「人間としての大きさ」は、「怒り」とは両立できない。まあこの「両立できなさ」を本当に分かるまでが、また人生経験を要する話になるかも知れません。

>それと、島野さんは、健康な道の達成は、30代40代という長期のスパンで考えるべしといっていましたが、それまでは、怒りやストレス、焦燥感、劣等感などをやはりある程度は感じながら生きざるを得ない、というか、その中でこそ、健康な道は達成される、ということですか。

とのことですが、「怒り」はその言葉通り、残りの「ストレス、焦燥感、劣等感」などと両立します。というか、それをバネに怒りが起きるとも言えるでしょう。
その延長で、人を殺すことはできます。

しかしその人間は、本当に好きな相手に近づけるか。腕の力なら指先にも満たないほどの、その可憐で美しい少女を前にして、びくびくおどおどできるだけではないのか。(これはもちろんAさんがそんなではと推測する話ではなく、実に一般論です)
なぜなら、そうした行動には「怒り」は何の役にも立たないからです。

「怒りを取るか捨てるか」というのは、そうした話を背景にして存在する、やはり人間の心の究極命題だと思いますね。


■「怒り」だけが見える状況での「怒りの選択」という隘路

そしてなぜそれが人間の心の究極命題として、人類の歴史を通してあり続けるのかというと、その命題が問われる時というのは、実際のところ「怒り」がすでに生まれた状況においてだということです。

つまり、「怒りを取るか捨てるか」という命題とは、何らかの価値を持つものとして目の前に今実際にあるものと、それを捨てることで今は見ることのできない別の価値がいつか生まれることへの望みという、あまり対等ではない「選択」になるということです。

ですから、「怒りを捨てる」ことは、とても難しい。これが人間の心の現実だと思います。

そういった、人間の心の全ての側面を全て見通して、「選択」をするのがいいでしょうということまでが、ハイブリッドとして言えることです。あとは「選択」はもう自由です。


■「愛」によって生きる動物と「自由」によって生きる動物

ということで選択は自由として、あとは動物学的な参考の話を言うことはできます。ハイブリッドは動物学の視点をすごく重要視しており。
基本的に、その種のDNAに沿った生態様式が、幸福への近道だという考えです。DNAの設計に反した生き方をすると何かと気分よくないことに囲まれると。

ここでの話においては、基本的に動物は2つのグループに分かれると考えています。
「愛によって生きる動物」と、「自由によって生きる動物」です。
「愛によって生きる動物」にとっては、「怒り」は基本的に不幸なものです。「自由によって生きる動物」にとっては、特にそうではない。

「愛によって生きる動物」の代表は、犬です。仲間を失ったり、飼い主に見捨てられた犬は、とても不幸です。

「自由によって生きる動物」の代表は、森林で生きる虎です。大きななわばりを持ち、他の個体に出会うことはめったにありません。それは一つの緊急事態を意味します。

この中間型の代表は、猫です。代表というか、僕の知る範囲では猫がこの点特殊です。


■怒りに変わる「愛」

ちょっと話が膨らみまずが、動物番組が好きで、「志村どうぶつ園」を毎週録画して見ているのですが、「動物と話せる女ハイジ」というコーナーで、ある飼い猫が登場したものがありました。

その猫を飼っている家族の中で、ただ一人高校に入ったばかりの少年が、急にその猫の攻撃に合うようになった。それは少年が高校入学と同時に下宿住まいとなり、その家を離れ、2が月してまた家に戻った時、突然始まりました。

前にも可愛がっていたその猫に、「元気だったか〜」という感じで前と同じように抱こうとした所、爪を立てて腕を思いっきり引き割かれ、十数針を縫うという大怪我をしたのです。その後も、その少年の姿が見えたとたん、その猫は毛を逆立てた凶暴な姿に豹変し、襲おうとする始末。
で、どうしてなのかどうしたものかと思いあまり、番組の「動物と話せる女」コーナーに助けを求める手書きを出し、ハイジの登場となったわけです。

その時の映像が流されていましたが、檻に入れられた猫の入る部屋に少年も入ってきたとたん、その猫はうなり声を上げ、少年が彼女に挨拶しようと檻の横に座ると、すかさず腕を伸ばし爪を立てて少年の足を引っかこうとします。少年が慌てて離れる。

実際その時の猫の様子は、今までいろんな動物を見てきた僕にとっても、始めて見る不思議なものでした。それはあくまで敵を相手にして怒り攻撃する姿なのですが、通常なら、その敵が消え去ること目的としたものになります。
その猫は違いました。自分から近づいて、ひたすらその少年を傷つけることを求めるかのように、何かに憑かれたように、一生懸命に檻から腕を伸ばし少年に爪を立てようとします。

ハイジが猫に向き合うと同時に、毛を逆立てていた猫がただじっと背を丸めて座る姿に変化します。
やがて判明したのは、実はその少年こそが、その捨て猫を拾ってきて11年くらいだったか、片時も離れずに可愛がっていた主人であり、理由も分からずに自分の元を離れた少年への寂しさが、やがて怒りに変わったということでした。

ハイジいわく、「彼女はとても怒っているの。家を離れる時に、説明をしたの?」。少年はいつものように「じゃまた元気でな」という感じで別れただけで、それが間違いだったとのことです。家族の言うことによると、その猫は1か月もの間、夜になると少年の部屋の前で鳴いていたとのこと。
「彼女は本当に寂しかったの。でもそれがやがて怒りに変わったのよ」と。


■「怒り」の根源に「愛」があるという問題の原形

この話をここまで詳しく書いたのは、実はここに人間の心の問題の原形があると考えるからです。
実際その猫の姿を最初に見た時、これはもう「処分」もあり得るなと、薄情な僕としては(^^;)考えました。なにせ一緒にいると必ず怪我を負わせられるわけですから。
しかし、それは「愛」だった。

人間の心が病む根源に、これがあります。全くそれと同じ形でです。
今回の原稿で、「愛」の章に、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」という副題をつけたものが、まさにそれです。

愛を願って生まれ、それが得られなかった時に、怒りに変わる。そしてその「怒り」が、「愛」を破壊する。
そうして心に生まれた憎しみを、もう変えることはできません。それはすでに起きてしまったことなのです。

「怒りを取るか捨てるか」という人間の心の究極命題とは、そうゆう命題でもあるということです。

愛を求めたから、憎しみを抱きます。憎しみを捨てることは、愛を諦めるということを、少し意味します。つまり憎しみを捨てることが、愛を取ることではなく、空虚を意味することになる。だから憎しみを捨てることができない。そして憎しみによって、求めた愛を破壊する。

これが人間の心の問題なんですね。

ちなみにその猫に対しては、「ただ一つ方法がある」とハイジは言いました。「心から謝ること。謝り続けること」それによってその猫が少年への愛を取り戻すかは、今は分からないけれども、と。
そして少年が涙を流しながら猫に語る日々が始まったわけです。「本当にゴメン。寂しかったよな」と。
番組のコーナーの方は、部屋の中でまだ檻にはいった猫と少年が二人だけで部屋の中で向き合い、少年が謝り続ける様子を流して終わっていました。猫はもう少年を攻撃しようとはせず、ただ静かに背を丸めてじっと少年の言葉を聞いている感じでした。

その猫と少年が和解をする日が戻るか。これは難しい話だとまず考えました。まず事の発端は、愛を遮断された喪失が、まるで敵に危害を与えられたことであるかのように、脳の中で回線が切り変わってしまった、一種の脳の配線ミスのようなものに思えたからです。そうして一度「敵意」が記憶された限り、愛に再び回復するのは難しいかも知れない。

心理障害に悩む多くの方が、これと全く同じ事態が自分の心に起きたことを、嘆き怒るわけです。自分は人に敵意を感じる心に育ってしまった。これはあるべきことではなかった。親が悪い、と。

回復への道としては、記憶を抹消するというのは現実的な話ではなく、問題はこの事態を修復するために、さらに上位の脳神経機能が進化するかどうかだと、僕としてはまず考えた次第です。

その猫のその後の様子は、まだ番組でも取り上げられていませんが、いつか情報が出されないかと関心を持っている次第です。


■人間はハイブリッド型

さて、いつか書こうと思っていた話のため膨らみましたが、人間は「愛」によって生きる動物かそれとも「自由」によって生きる動物かというと、やはりそのどっちにも単純には属さないというのが僕の考えです。

猫は中間型。
人間はさらにそれでもなく、ハイブリッド型だと考えています。やはり「ハイブリッド」ですね。

一言でいえば、「自由によって生き愛によって生かされる」のが人間だと考えています。

人間の人格が「魂」と「心」という2重構造論の話になりますが、それで言うと「愛」は基本的に「背景感情」だという言い方を最近しています。
「愛」は「背景感情」であり、基本的には「前景」には成り得ない。「愛」が前景感情になるのは、限定した場面においてになります。愛が障害を受けた後の、再会の場面などでかわされる愛の表現。恋愛や性愛は愛そのものが前景感情になりますが、これは発情期(^^;)という限定つきだと考えています。

それ以外で、「愛」が人の心であまりにも持ち上げられる形で前景になるとき、そこに病んだ心のメカニズムが介入してくる、というのが僕の考えです。
ここに再び「感情の膿」や「根源的自己否定感情」そして「情動の荒廃化」が絡んできます。あまりに完成した愛には、それが失われた時の病理がどうも伴います。エミリ・ブロンテの「嵐が丘」などそんな感じだったような。今村上春樹の「海辺のカフカ」読んでますが、登場する輝かしい年配女性の過去の完全なる恋愛の世界の裏にも、どうも心の病理の気配を感じながら読んでいる次第。


さて、話が長くなりましたが、「怒りを取るか捨てるか」という命題について、「怒り」そのものではなく、怒りとは別のものを選択した先にあるものの話ということで、ざっと浮かぶままに書いた次第です。
それは、基本的にその「選択の時」にはまだ見えない、深遠な世界だということになります。上の話もぜんぜん終わりが見えないですね^^。

その先に、「ハイブリッドの世界」があるわけです。これを下巻の方でぞんぶんに書きたいなと。
まあここで一言で書いておけば、「自由に立って生きる自尊心を得た時、背景感情としての愛が溢れ出す」とでもいうことになるでしょう。

そんなことを考慮の上、「怒りの選択」ということを考えてみるのがいいでしょーということで。

あともう一個つけたし(^^;)。ごく実践的な思考法としては、「怒りの感情」など一切使わなくても、我々は世界と社会のものごとの善悪判断などいくらでも出来るわけです。ハイブリッドの「原理原則立脚型行動法」はそれをするものですね。
その点でも、怒りには用なしがハイブリッドの考え。
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業務連絡 / しまの
No.1249 2007/08/17(Fri) 14:32:29

用済みのため内容削除^^。


16日(木)まで不在 / しまの
No.1248 2007/08/13(Mon) 11:38:51

お盆で帰省で〜す。


なかなか面白かった『海辺のカフカ』 / しまの
No.1247 2007/08/02(Thu) 16:38:22

先日「下巻2章」をUpして以来、その後の材料整理の長い道のりに入り、ちょっとキーボードを打つ手が止まりがちな感のある中、今日はここ半月ほどちびりちびりと読んでいた村上春樹『海辺のカフカ』の下巻の残り1/3ほどを一気に精読。

けっこう面白かったですね。
アマゾンの読者レビューなど見るとかなり賛否両論で、確かに描写内容にはちょっと雑な感もところどころ感じましたが、今まで数冊読んだ村上作品の中では、これまで一番好きだった『世界の終わりと..』を抜いて一番気に入った作品という感じ。

というのも、これを指摘したアマゾンのレビューなどは当然皆無でしたが、そこで書かれている内容の根源は、ハイブリッドの根源テーマと全く同じものだと感じたからです。
もちろんアマゾンのレビューで「ハイブリッド心理学との共通性」なんて言葉が出るわけもなく、そのテーマを指摘したレビュアーがいなそうだということ。アマゾンでなくしかるべき識者によるレビューで指摘あるものがないか、ちょっと関心ありますね。

でそのテーマとは、「マトリックスの世界」ということ、そして「魂と心の分離」なんですね。まさにこれがハイブリッドの全体の最大枠です。
それで今日は未明にどうも目が覚めてそれ読んでる途中に、「魂と心の分離から見た意識土台のリロードのメカニズム」なんてものを考察してメモしたりした次第。

一言でいえば、やはり「魂と心の分離」という人間の心の発生上の最大の境目が、意識土台の構造を決めているという話になります。

「原罪」とは、それに際して、魂がその分離について抱いた罪悪感ということになるかと。これは魂の「心への怒り」になります。我々人間の意識土台は、それを底に隠した構造にある。
これは人間の意識にまだ見えるものです。

「心」がこの「原罪」をその通りに受け取り、「分離」を「悪」と見なすのが通常の人間思考だということになります。これが小説中の「佐伯さん」に象徴される。「一体化」の世界に引きずられ、そこに戻る。ここでは「精神を守り実存を殺す」という方向になります。

ハイブリッドの世界は、「分離」を悪とは見なさない思考を選択します。これは「原罪」を自らに許すという方向です。これによって、「分離」を「悪」とした時魂から心に怒りが供給されていたものが、魂から心に愛が供給されることになります。

これは実に都合の良い解決方向に聞こえるかも知れません。しかしそうは問屋が卸さない。その時、同時に「アク毒」が露わになるからです。これが一体化の世界に惹かれる人間思考の裏で見えないものです。
これは「魂の魂への自己嫌悪」になります。なぜ魂が分離に際して自己嫌悪を抱いたのかという論理性は、あまり問えません。というか、「論理性」は後から生まれたものだからです。「論理性」が生まれる前にそれは起きているわけです。

今までの人間思考は、これを超えることができませんでした。ハイブリッドがなぜそれを超えたのかは、やはり「科学」にあると考えた次第。これが決定的になる。
でそのアク毒が露わになることで、新しい意識土台がリロードされるわけです。これが主人公の最後の姿に象徴されていると。
ただし「実存を生かし精神において死ぬ」という側面はこの作品では不明瞭。


..と一体何のことやらという感じの難解キーワードだけとにかく書きましたが、最初の心理学本下巻は、最後にここに至る話を書きたいんですね。今書いている、実に実践的な話から連続性のある話として。
ということで、ちょっと構想整理に時間食っている今日この頃^^;


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