■ 心理学本下巻に向けての考察-3 / しまの |
|
No.1252 2007/08/24(Fri) 11:41:11
メカニズム説明の続き。
-------------------------------------------------------------- ■大局的心理構造
メカニズム説明の続きですが、まず「上巻」で解説した大局的メカニズムに先のメールでの「愛されない怒り」の流れを加えると、次のような心理構造を理解することができます。
1)愛への願いと根源的自己否定感情と怒り [魂] 2)愛情要求...損なわれた一体化愛の穴埋めのためのイメージ化された「愛情」への要求 [心] 3)「愛されない屈辱」への自尊心報復衝動 [心] a)積極型報復...攻撃的軽蔑 b)消極型報復...1)相手の期待喜びに背く 2)愛への願望否定
ここで新たに付け加えておいた重要な要素があります。「愛されない屈辱」への自尊心報復衝動における「消極型」で、「愛への願望否定」がなされることです。 消極型の報復として、「もう決して相手の望むようにはしまい」「もう決して相手を喜ばせるようなことはしまい」と、冷たい敵対がなされると同時に、相手に愛を求めることをやめようという「決意」がなされます。
これは『悲しみの彼方への旅』では次の場面で描写されています。(P.113) ====================================== 小さい頃、僕は家族への愛情表現に抵抗を感じた。その結果としての無愛想な態度が、この20年の生活史を通してあまりにも当たり前のものになってしまった。こんな自分など最も受け入れたくないものだったのに。。 自分の心の中に起きていたことがはっきと見えてきます。ホーナイの本にあった英語の文がそのまま浮かびます。I should not love them, because they do not love me. 彼らを愛してはいけない。なぜなら彼らは自分を愛さないのだから。 家族から離れ、自分の感情を小さな紙片に書き記す私の中に、強い悲しみが流れます。 人の中に入ることへの絶望は自棄的な感情を引き起こす。それを捨てようとした時、あの根源的な悲しみが見える・・。 ======================================
ここでは愛への願望否定は不完全です。それで「強い悲しみ」が起きている。
この愛への願望否定が強固になされた範囲において、魂の「愛への願い」が切り捨てられることになります。根源的な愛への願いの感情が見えなくなり、根源的自己否定感情と怒りだけが引き続き「心」の自尊心にとっての懸案材料として供給されます。
こうした「魂」のレベルのことがどう意識感情に反映されるかと言うと、「命」というレベルで、底流となる感情背景が変化してくることです。 これは主に2つあります。一つは「生の空虚化」。これは魂の「愛への願い」が切り捨てられた範囲に対応します。 もう一つは、根源的自己否定感情と怒りが「破滅」のイメージとそれへの爆発的な怒りの色合いを、「心」の自尊心に与えることです。
■「感情がどうあれるか」が「愛されない屈辱」への報復における勝利と敗北の問題になる
ここで特筆すべき「意識状態」が、上記心理構造の帰結として生まれることになります。
それは、「感情がどうあれるか」「自分についてどう感じることができるか」が、「愛されない屈辱」への報復における勝利と敗北の問題になってくるということです。
これは特に消極型報復の影響が大きいと考えています。 「愛されない屈辱」への報復においては、明らかに、相手への愛情要求を感じることは、敗北です。相手からの愛など取るに足りないと見下すことができれば、勝利になります。
そしてさらに、「上巻」で「愛情要求症候」として説明した、「人の目と心が自分を取り囲む感覚」によって、「自分についてどう感じることができるか」が、報復における勝利と敗北において法外な現実味を持って体験されてしまいます。
つまり、自分が自分のことを感じた内容通りに、他人も自分のことを見ているという、基本的な感覚があるわけです。 その中で、自分の卑屈な愛情要求への自己軽蔑を感じることは、その状態を他人が見て残酷な笑いの中で思いっ切り自分のことを軽蔑しているという感覚が、あまりにリアルなものになります。 一方、自分で自分を良く感じることができると、それを前にした相手は心の中でみじめさを味わっている、という感覚になります。
まあこれが、いわば自己操縦心性のイメージ描画エンジンとも言えるからくりになるでしょう。
そして、そんな風に「自分のことをどう感じたか」が勝利と敗北のいずれになるにせよ、ちょっとした時間の経過で流れ行く先は同じであり、結局愛を得ていない自分への怒り絶望になります。これはこの心理構造全てが愛への望みから始まっているという根源と、この心理構造によって愛を損なったままの現実という状況から、必然的なものです。
またこの流れに、ごく自然な流れでの「なりたい自分像」も掛け合わせられます。その中にはまず大抵、「人を好きになれる自分」なんてのもあります。 その結果、言えることはもうはっきりしてきます。とにかくもう収拾がつかない^^; あとは要素の組み合わせと優劣関係で、千差万別の意識表面が出来上がるだけです。
また、なんとかこの混乱した心の収拾を図ろうとして人が考えるのは、「どう感じられるか」における解決を模索するようなものになります。「想念」で何とか全ての片をつけられるのを求めるような、とにかく自分の頭の中にじっと見入るようなものになってしまいます。 多くの心理学がこれに巻き込まれ、この方向であれやこれやと心理学が考えられていく。 Aさんにもまだ、この「想念による解決」を期待している気が残っているような気がしていますが..^^;
もちろん、「どう感じられるか」といった話のレベルでは解決方向は見えないです。 -------------------------------------------------------------- |
|