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2007.09


心理学本下巻に向けての考察-51 / しまの
No.1301 2007/09/29(Sat) 16:06:24

■「2種類の人間像への行動学」から「魂の望みへの歩み」まで

またちょっと全体俯瞰
「2種類の人間像への行動学」の基本を以下で説明しますが、ハイブリッドにおけるその位置づけは何か。

それはまずは「治癒」の節目であり、「心の自立」への「成長」の実践ということになります。これは「魂感性土台」に立っての、外向きの方向性と言えるでしょう。

「人の目感性土台」は切り捨てられるのではなく、まずは内面だけに区別されます。そして感情分析があり、最後に、「人の目感性土台」へと姿を変えた大元の魂の感情へと戻るという取り組みが成されます。それが「愛と自尊心の分離」になります。これは「魂感性土台」に立っての、内向きの方向性と言えるでしょう。

その先に「魂の望みへの歩み」が現れます。「魂感性土台」に立った、外向きの方向性と内向きの方向性。これは全くの別世界であることが、取り組むごとに明瞭になってくる。
全くの別世界であるからこそ、進めるということになるのかも知れません。結論はやはり深遠です。2つの全くの別世界を歩み続ける。そこに深遠な統合がある。それが「ハイブリッドの世界」なのだ、と。

下巻もやはりかなりスピリッチュアルな最後で終わりそう..^^;
まとにかく「否定価値の放棄」への細かい道のりも視野に入れながら、説明を続けます。


■「2種類の人間像への行動学」の基本

「2種類の人間像への行動学」の基本を説明しましょう。相手に応じた細かい心理の考え方を、それに合わせて説明します。

もし「健康な心の世界」で生き、「健康な心の人」と共に生き、自らも「健康な心の人」になりたいと考えるのであれば、行動法の指針実に単純明快です。

それは、「健康な心の世界」と「健康な心の人」を相手前提とした行動法に徹する、ということです。
要点は3つになるでしょう。
1)他人の人物善悪評価や好悪評価はしない (非行動化)
2)自分に向けられた人物善悪評価や好悪評価には反応しない
3)「現実において生み出す」ものの共通目標共通利益に着目し、積極的に行動を共にする


これを推奨するのは、まずはごく現実的な問題としては、今の自由主義現代社会はなんやかんやと言っても基本的には「健康な心の世界」であり、「健康な心の人」を中心に動いており、「健康な心の人」の活動によって豊かさが生まれていると考えるからです。

まずこの認識を受け入れられるかどうかによって、この行動学を選択できるかどうかがかなり違ってくるでしょうね。

現代社会は「病んだ心の世界」であり、社会の中心にいるのは本音を隠した腹黒い烏合の衆であり、心の清らかな人間は逆に虐げられる世界である。(^^;)
そう考えるのであれば、この行動学の選択はまず無理です。なぜそうした社会観になるかの「感性土台の違い」については説明していますので、該当する場合は「感性土台の違い」の理解から始めて頂ければと。
少なくとも「魂感性土台の体験」をして、「感情が人に向けるものではない」世界がおぼろげに分かり、社会についても「あるいはそうだったのか」程度には上述の社会認識を持てれば、この行動学は実行に移せるでしょう。


■「愛されれば安全」から「自らを守る」という自立転換のために

そのように「感性土台の違い」が実感として分かるようになってくることと、あともう一つこの転換実践で重要な心理状況変化があります。
それは「愛されれば安全」から「自らを守る」へという基本的な意識変化です。

これは「心の自立」という最大命題に関したことであり、「自己の積極的保護」という兆しを自分の中に感じ始めた人であれば、この命題を自分に問うのがいいでしょう。

「自己の積極的保護」とは、「とにかく自分で自分を守らなければならない」という強い衝動を感じる体験だと言えます。「まず理想ありき」ではない、「まずこの自分ありき」という、やはり意識土台そのものが異なるものが自分の中にあるのを視界に捉えるものです。
これはやはり「魂の感情」という、ハイブリッドがその上に人生を考えるものにより近いものであり、「イメージに支配される心」という、抜け出したい「病」とは違う側にあるものと考えることができます。ですから、「魂感性土台の体験」をした先には、そう遠くないところでこれを見出すことができるでしょう。

「愛されれば安全」とは、まだ親が用意した巣の中にいる若鳥の思考です。思考はどうしても、「どうすればどう思ってもらえるか」という、「人の目」「人の感情」を終着にするものになります。「自分に向けられる目」「自分に向けられる感情」についてばかり思考する存在になります。

現実の世界で生み出し豊かさに向かう人々は、そのようには動いていません。感情を人相手に向けるのではなく、現実というもの全体について思考し意志を持つことの中で、動いています。
そして感情を互いに向け合うものと思考する人の様子はそれとなく分かるものであり、そうした人はまだあまりプレーヤーにはなれない「お客さん」として穏やかに脇に置くような対応をします。

ですから、「感情を人には向けないし、自分に向けられたものとしても扱わない」という行動学は、今の一応は(^^;)健康な自由主義現代社会でうまく生きるための行動学でもあり、それがひいては自分を守る行動学にもなるわけです。
同時にそれは別の面でも自分を守るための行動学になります。それは自分を「感情」から守るということです。それは他人から向けられた感情からということでもあり、自分自身の感情からということでもあります。


ということで、幾つか細かく具体的な考慮点など説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-50 / しまの
No.1300 2007/09/28(Fri) 16:46:29

■「病んだ心の世界」

「2種類の人間像への行動学」で定義する「病んだ心の世界」とは、心理障害の重篤性の基準となる「イメージに心が支配される」という特徴が、人間関係における行動原則になってしまっているような集団です。
つまり「イメージに心が支配される」結果として、「感情が人相手に向けられるもの」として位置づけられ、人々がそれを基準にものごとや行動を考えている世界です。

その結果、その集団の中でやりとりされる感情が主に肯定的か否定的かという内容は、もはや二次的な問題です。
「二次的な」とは、感情の内容以前に器がもう違ってしまっているという話の大きさでもあります。
また、その感情の器の中では、どうしても感情が否定的な方向に向かうようにベクトルが働いています。つまり、結局のところ、その集団の中では否定的感情が飛び交い合い、人間関係が壊れるという基本的方向へと力が働いているということです。

なぜそうなるのかというと、それが「現実」だからです。

「人が互いに優しい感情を向け合うことで調和が生まれる」というのは、「空想」の中だけで成立するものです。
「現実」における調和は、人が互いに優しい感情を向け合うというより、人がその中にいる「現実状況」全体に対する、建設的な感情を共有することで成り立ちます。

「人が互いに優しい感情を向け合う調和」というイメージは、実はその背景で「健康な心の世界」における「無条件の愛」が剥奪された状況があることが考えられます。「無条件の愛」は、相手の条件を問わないからこそ、通常ははっきり相手に向けるのではない、漠然とした感情になるのかも知れません。はっきり相手に向ける「優しさ」が必要であるとは、「無条件の敵意」がある世界なのかも知れません。

また、人相手に直接感情が向けられることは、実は人間にとって本能的にあまり心地良いものではないと、ハイブリッドでは考えています。
愛情要求にせよ、怒りにせよ、じっと自分を見つめられ、感情を向けられることは、うっとうしいことです。つまり「重い」わけです^^; まあ「心の自由」を奪われる面があるからですね。あまり相手の目を凝視しないようにすることは、人間の文化でしばしば作法にも取り入れられています。サルは目を合わせると攻撃するものです。アハハ^^;

現実的にそうした「病んだ心の世界」が、大抵は短期間だけ、出現しては消え出現しては消えるのを繰り返すのが、人間世界の一つの側面だと言えます。
まあ「感情を向け合う」という行動原則の中で、うまく主従関係が成り立ったところで、その集団が始まります。そして「誰を仲間に入れるか」にとても強い意識が配られる「仲良しグループ」活動が始まるわけです。
しかしそれはかなり「心の自由」を奪う拘束的な雰囲気を持つことが多く、大抵は誰かしらの離脱を契機に、互いの非難攻撃合戦になり、グループが解消するというのがごく基本的な流れになります。


■「病んだ心の人」

「2種類の人間像への行動学」において「病んだ心の人」と定義されるのは、「病んだ心の世界」の中でしか思考できない人です。
つまり、「感情」を人相手に向けるものと感じる感覚に立って思考する人です。
つまりは、「人の目感性土台」に立って思考する人、ということになります。

これは先に言った心理障害重篤度で言うと、かなり軽い段階からあり得ます。社会文化などの影響によってです。
重度2の「基本的には健康」であったとしてさえ、そうなる可能性があります。実際のところ、「世間体」思考の日本人、なんて言うと、もうそれだけで「病んだ心の人」です。この行動学においては^^; ハイブリッドの行動学はあくまで今後の時代向けなので..。

そうした思考の中で、まずは「いかに良い人間関係を築けるか」と努力します。しかしその努力とは裏腹に、というかその努力がまさに原因になって、人間関係と社会生活があまりうまく行かないのが基本になります。
なぜなら、その努力が基本的に「使用」するところである彼彼女の「感情」というものが、「人そのもの相手」に向ける感情であることにおいて、概して人にあまり快く受け取られないという事情がまずあるからです。

これは「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」のどっちでのことか、そして「健康な心の人」と「病んだ心の人」のどっちを相手にしてかで、そうした基本事情がある上で、結構様子が異なります。
「健康な心の世界」では、最初からうまくいかないのを感じ、「健康な心の人」には漠然と劣等感を感じ、「病んだ心の人」同士で交際を持とうとするが、次第にその相手とも関係が壊れる、という経過になりがちです。これは今の「現実の社会」がそんな感じだと言えます。
「病んだ心の世界」では、そうした努力は最初は「道徳的」「良い人」と評価されるように感じられる一方、やがて仲良しグループへの仲間入りと離脱をめぐって陰湿な攻撃軽蔑バトルを起こしがち、という感じかと。まあ今の「学校」ですかね。

こうした場と相手による流れの重要なポイントを、幾つかより詳しく説明します。
いずれにせよ、本人は良かれと考えて行う努力がそうしてうまく行かないことについて、人生と社会の理不尽さを感じ、怒ることになります。

なぜそのように、概して悪い結果にしかならない思考法になるのかというと、既に述べているように、心理障害の重篤度と、社会文化などの影響にもよる知的思考法の、2つの影響によってです。

心理障害の重篤度「重い心理障害」あたりになってくると、感情の膿や愛情要求の圧力があまりに強くなり、「現実」というものそのものが意識から遠ざかり、「人が互いに優しい感情を向け合う調和」という空想理想を基準にしてしか意識が動かなくなってしまいます。
知的思考の問題としては、自分の愛情要求と怒りを高い精神性として評価していることが、ここで述べている傾向を生み出す原因になります。社会と他人を、それに対してどう応えるものかによって評価しようとする思考になるわけです。

「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」、そして「健康な心の人」と「病んだ心の人」の基本特徴は大体そんなところですね。
次に、これらをまたがってやり取りされる心理の流れに着目し、その幾つかの重要なポイントを踏まえ、「健康な心の世界」「健康な心の人」を目指すための行動学へと説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-49 / しまの
No.1299 2007/09/28(Fri) 10:30:15

■「2種類の人間像への行動学」の基礎:何を目指すのか

さて、「魂感性土台の体験」を足がかりにして「2種類の人間像への行動学」を学んで頂きたい、ということになります。
逆に言えば、「魂感性土台の体験」をしていない場合、もしくは「人の目感性土台」との違いが実感として分からない場合、この行動学は理解できない可能性が高くなります。その場合どのように理解できないのかも説明しますので、それが役に立つかも知れません^^;

まず最初の基礎として提示する命題があります。「何を目指すのか」です。次のどっちかです。
「健康な心の世界」かそれとも「病んだ心の世界」か。自分がこれから生きていく世界としてです。
「健康な心の人」かそれとも「病んだ心の人」か。自分がこれからなりたい人間としてです。

もし「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いが実感として分からない場合、これから先の実践説明はあまり役に立つものではなく、漠然と「健康な心の人」を目指すとは考えるでしょうが、実際には「病んだ心の世界」を目指す思考法の中にあると考えてまず間違いありません。

まずは「どっちの世界を目指すか」で話しが全く違ってきます。
「病んだ心の世界」を目指す思考法の中で、「健康な心の人」と「病んだ心の人」の違いを考えても、あまり意味はありません。正しくその違いを捉えることができなくなります。
「健康な心の世界」を目指す思考法をすると、「健康な心の人」と「病んだ心の人」の違いが、はっきりと分かるようになります。「健康な心の人になりたい」と考える動機と、そこにおいて「健康な心の人」と考える内容が、一致してきます。

それだけ、「魂感性土台」と、もう一方の「人の目感性土台」は、心の別世界をつかさどる脳の機能なのだと言えます。
最近のメールやり取りから紹介しますと、実際に魂感性土台を体験した相談者の方に感性の違いを指摘したのに対し、こんな感想などもらっています。
島野> Aさんの場合ですと、魂感性土台を体験したものとして、夕焼けに感動したとか、芸術表現への意欲を感じる時間とかがあげられます。
相談者> この時の感覚と現在の不安感覚はまったく違います。同じ人間の感性とは思えません。

まあ「同じ人間の感性とは思えない」とは「同じ自分の感性とは思えない」ということですね^^。
「健康な心の世界」を目指したいならば、同じように、今までは考え得なかったような世界を考えないと、どうしても過去の維持の方に向いてしまうということが、何となく分かるかと思います。


■「健康な心の世界」

まず「健康な心の世界」「病んだ心の世界」の違いの定義から。
なおこれはあくまで「2種類の人間像への行動学」における「目指す方向の目安」としての定義です。「健康な」とか「病んだ」とかの言葉は、どんな視点でそれを言うかによって、かなり定義が変わってきます。ここではあくまでこの行動学での考え方ということで、一般論として「健康な心」「病んだ心」とはどうゆうことかは論じないものとします。

それで言いますと、「感情」というものがどのように飛び交うものであると位置づけられるかが、その違いの要になります。「感情」の内容以前に、「感情」を入れる器がまったく違うということです。
これは「魂感性土台」と「人の目感性土台」で「感情」がどう体験されるかの大きな違いに対応しています。

「健康な心の世界」では、「感情」人の好悪評価として向けられるものではなく、人を中心においた「現実状況」全体に対して向けられるものとして位置づけられます。またそのような感情のあり方が信頼を受けます。

つまり、全ての人がそうした感情の持ち方だけということは現実にはあり得ず、人は誰でも「魂感性土台」と「人の目感性土台」を一定配分で共存させており、人への好悪評価の感情も持つ人もいるし、そんな感情が時に心に流れるのを大抵の人は感じます。でもそれは心のバランスを欠いた、もしくは子供じみた感情だという認識がある世界だということです。
ですから、そうした感情は非建設的な感情として、人々が自然に「感情と行動の分離」をして、人そのものは好悪評価せずに、「現実状況」の方に着目しようとする姿勢があるということです。

そうした姿勢の中で、高く評価され好感を得るのは、「現実において生み出す」という方向におけるものです。何を生み出すかと言うと、「あらゆる向上」「喜び」「楽しみ」「感動」などの、「価値」を生み出すという方向です。
つまり人々は、相手の好悪評価感情はいったん心の片隅において、まずそうした「現実において生み出す」ことへの魅力の感情によって、互いに集まり結びつきあいます。

ですから、こうした集団はオープンな雰囲気を持ちます。「喜び」や「楽しみ」を共有する人がいれば誰でも歓迎されるし、一方それに関心を持たない場合は、その時だけ別行動をするというのが、何の軋轢でもなく自然に行われる集団です。


■「健康な心の人」

「健康な心の人」とは、この行動学では、「健康な心の世界」を自らが生きて前に進む世界とする姿勢を持つ人、と定義できます。

これは実質的には、「魂感性土台」を主体に生きる姿勢ということになります。
「姿勢」ということで、「感性」と「知的思考」および「意志」を総合した姿勢として、魂感性土台に立脚して前進する姿勢が取れることが条件になります。

これは前カキコでの心理障害重篤度では重度4の「軽い心理障害」あたりからは可能であろうと考えています。
心理障害重篤度とは、要は自己操縦心性の支配度とも言えます。「軽い心理障害」あたりが、自己操縦心性が心の主座を占める強度をなくし、健康な心の部分が主座になり得る状態という目安です。その段階から、「健康な心の世界」で生きる「健康な心の人」になり得る。

一方、重度5あたりからは、健康な心の世界に向くことが難しくなってきます。理由はなんと言っても、「人の目感性土台」があまりに強くなると、「魂感性土台」の世界つまり「健康な心の世界」が逆に精神性を欠いた、「腹黒い烏合の衆」に見えてくるからです。それじゃー目指しようがないですね^^;
そこを、「魂感性土台の体験」を足場にして、障害度の低い世界へと強力に導くツールとして、この「2種類の人間像への行動学」を活用頂ければと思います。


■「感情は人に向けない」原則

まずはいかに「健康な心の世界」を想定できるかにかかってくるでしょう。
「健康な心の世界」では、人々は基本的に「魂感情」としての「穏やかな肯定感」によって、「その集団への受け入れ」については何の条件も必要とせずに、事実そこには「受け入れる」という意識さえない形で集っています。あとは、その集団が旨とする「生み出す楽しさ」をどれだけ共有するかによって、その集団にい続けるか、それとも離れるかはそれぞれの自由であり何の軋轢も起こさないことです。

その「穏やかな肯定感」が、実は「無条件の愛」でもあります。それが実際どれだけ「濃い」プラス感情であるかは、その人の魂の成熟度によるでしょう。
魂の成熟度が高く、濃い「無条件の愛」の感情を持つ人は、実におおらかで誰にでも親しみのこもった振舞いをするでしょう。しかし「平均的」な「健康な心の人」の愛情表現がどんなものかは、社会文化にもより、あまりはっきりとは「愛情」としては表に出ないのが通常と考えるのがまず間違いないところだと思います。

これは「病んだ心の人」が考える「無条件の愛」とは、かなり違ったものになるはずです。「病んだ心の人」が考える「無条件の愛」は、自分自身の攻撃性への許し、そして自分自身の攻撃性をまず間違いなく最大の原因とする自己嫌悪感情を中和してくれる、特別な慈悲の優しさのイメージです。
この後説明するように、「病んだ心の人」は時にそれを「理想的な愛のあるべき姿」として信念を抱きさえします。実に条件のハードルが高い「無条件の愛」なわけです^^; そしてそれを用意しない他人と社会を怒ります。

「無条件の愛」がすでにあるという感覚に立っているので、それ以上の「愛」をことさら人に求める感情は人に向けません。
愛情要求にせよ、怒りにせよ、そして人の人物評価にせよ、「感情はことさら人そのもの相手には向けない」という姿勢が原則になります。
実際のところ、人の人物評価が好悪感情を伴う時、それは間違いなく、相手が自分の愛情要求にどう応えるかについてのことであるという心理メカニズムがあります。ですから、「健康な心の人」はそうした人への好悪感情が自分の中に流れても、「感情と行動の分離」によって、その相手への行動は別の視点で考えます。「別の視点」とは、自分がその相手と行動を共にする旨とする「共通目標共通利益」において、相手がどう望ましいか望ましくないかという視点です。その点で望ましくないのであれば、何らかの手段を講じて、関りを持たないようにすることも考えます。

これは恋愛や結婚といった「濃い愛情」を前提とする活動においても、大体同じ原則が成り立ちます。
「愛し愛されたい」という気持ちだけでは、それはやはりあまり長続きするものではなく、互いがどんなデートを楽しみたいのか、そしてどんな家庭を築きたいのかという、「共通目標共通利益」が重要なテーマになってくるわけです。

引き続き「病んだ心の世界」「病んだ心の人」の説明をします。


心理学本下巻に向けての考察-48 / しまの
No.1298 2007/09/27(Thu) 10:37:20

■「健康な心」への動機が初めて意味を持つ「現実とイメージの分離」

自己の積極的保護」を最初の兆候として、「イメージに自分が使われる」から「自分がイメージを使う」というあり方への方向転換が見えてきます。
これが、初めて本当の意味で、健康な心とはどうゆうものなのかを知り、実際に自らその方向へと積極的に向かうことの始まりなのだ、という印象を感じます。

なぜなら今まではどのように考えたとしても、「健康な心」は、「人の目」の中で「心が健康な人」と「見られる姿」という、結局のところ空想に覆い尽くされた心の中で考えるテーマでしかなかったからです。
それが心の病理の世界なのです。
それが、根本的に違うものが見えてくる。そもそも「人の目イメージ」のない世界。それは「魂感性土台の体験」から、そうは遠くないところに感じ取れるはずです。

それが感じ取れるようになったら、自分に問うのがいいでしょう。
「人から向けられる目」「人から向けられる感情」に対して、うまく考えうまく行動することに、自分の人生の成功と向かうべき先があると感じていたと思います。
しかし実は、「人から向けられる目」「人から向けられる感情」の内容がどう良くなるか悪くなるか以前に、実は自分はそうしたものの圧迫や重さそのものに、「つくづく嫌になる」という感情を実は抱いているのではないか、と。

以前はそうではなかったはずです。いかに「人が人に向ける感情」を見逃さず、それを見逃したり間抜けな対処をすることで招く「人生の失敗」を、機敏に避ける観察判断能力こそが、自分に人生の成功を与えるものだと考えていたはずです。
そして「人が人に向ける感情」に、実際のところ自分が誰よりも敏感であるらしいことに自尊心さえ感じていたと思います。

実はその全てが、根本的に、自分の心を病ませ、自分の人生を危機に陥れていたものであったことが、そろそろ感じ取れるかも知れません。

いかに「人が人に向ける感情」に機敏になれるかが成功だと考えながら、自分よりはるかに鈍感そうな他人が、実に自然に人とうまくやっていけている様子に、あまりにも理不尽な人生の疑問を感じたと思います。

しかし「魂感性土台の体験」をしたならば、そろそろ、自分がその中で生きていたのとは全く異なる対人感情の世界があることに、気づき始めても良いのではと思われます。
「人が人に向ける感情」がはっきりある世界と、それがない世界。つまり、現実世界全体に向けられた穏やかな感情だけがある世界

この先のハイブリッド取り組みは、そのように、「人の目」「人の感情」という「イメージの内容」ではなく、そうした「イメージ」の存在そのものを根本的に見直すという動機によって進めるものになります。
それによって、「健康な心になりたい」という願いと、その願いに支えられた実践の内容が、一致してくるわけです。
これがようやくこの段階に至ってのことなのだとは、何とも感慨深いものがあります。これがまさに本当の始まりと言えるような話でしょうから。


■「人の目イメージ」そのものを「未成長」「病」として捉え直す

「現実とイメージの分離」については、実践上のキモ9/16「心理学本下巻に向けての考察-35」で解説したとおりです。
=================================================
「イメージは現実か」「事実か」という思考法をするのではなく、またその思考法での答えを求めることもせず、「イメージ」と「現実」の2つが両方あるという思考法をします。
1)「人の目イメージ」は他人よりも自分の「心の現実」を示すものと考える
2)現実外界の他人については2種類の人間像を想定する
=================================================

これは、上述のような「健康な心で人とうまくやっていく」という目標への、ハイブリッドとしてのより高度な行動学のための最初の基盤になります。
「人の目イメージ」を相手にした行動法と、イメージを除外した行動法の違いを理解する。その結果がこの現実世界ではどんな良いもしくは悪い結果になるのかを理解する。
そうした、かなり高度な行動学をこれから説明します。それが「2種類の人間像への行動学」です。

そのために、ここで一つ、「人の目イメージ」の位置づけについて説明を加えねばなりません。
自分に向けられる人の目人の感情をいかに見逃さないかが重要だと考えていたかも知れませんが、その「人の感情を見抜く感覚のリアルさ」は、それを自尊心にまで感じるような度合いの強さが、心理障害の重篤度にほぼ対応します。

僕の感覚では、心理障害の重篤度最大を10として、以下のようなものと考えています。
どーでもいい話ですが、『悲しみの彼方への旅』で描写した時期も含めての、島野自身の自己診断を参考まで付記しておきます。
重度1 
重度2 基本的には健康
 (←今の島野^^;)
重度3 悩みがちな性格
 (社会人時代)
---------------
重度4 軽い心理障害 (大学院時代)
重度5   
(大学時代)
重度6 重い心理障害(就業困難レベル)
---------------
重度7 境界性人格障害
重度8 精神障害(統合失調症)
重度9 閉鎖病棟措置
重度10


このように、心理障害の「病理」としての重篤度つまり深刻さは、「感情動揺の激しさ」よりも、「空想イメージに心が支配される」という感性土台の歪みの程度が、その本質です。「感性土台の歪み」であって、思考法の問題ではない根深いところの問題です。
一方、「人の感情を見抜く能力」「向けられた感情を見逃すまい」といった「思考」「心の姿勢」は、こうした歪みを明らかに悪化方向に傾ける性質があります。


ですから、「魂感性土台の体験を」足場にした実践というのは、心理障害の治癒を実に直接的に視野に入れた実践という位置づけになるわけです。闇の中の手探り状態で何とかここまできたとして、この先は自分の治癒変化する方向を先取りして進むことが可能になります。


■「人間が人間に向ける感情」への理解と対処という根本変化道のりへの準備

そのような「障害の重篤度」について、やはり「人間が人間に向ける感情」というのが出てきます。

それはやはり「嫌悪」「軽蔑」の類の話になります。そしてここで理解しておくべきは、「嫌悪」「軽蔑」は「健康な心から病んだ心へ向けられる」という構図にはならず、「健康」の度合いが高まるにつれて、「病んだ心」への否定的感情はごく穏やかな敬遠へと薄れることです。
一方、「障害」の度合いが高まるにつれて、「病んだ心から病んだ心へ」の嫌悪や軽蔑はその激しさを増すという構図になります。「障害」はしばしば自らへの特権的な理解を他人や社会に要求する感情を抱くのと平行してです。

こうした整理で何をしようとしているのかと言うと、「人間が人間に向ける感情」の全てのパターンを理解するということです。そしてその中でどのような対処行動をするのが、「健康」と「豊かさ」を増すための方向性の答えであるかを、明瞭に定義しようとしています。

それがゴールではありません。その答えは何の疑問もない、決まりきったものなのです。ただ実に多くの方が、これについて違う方向を向く思考法を、学校や家庭の影響もあり持ち続けていたようです。
その答えが整って初めて、「根本変化」への、自らの内面の神秘なる未知への探求が、スタートを切れることになります。

これが「2種類の人間像への行動学」であり、「魂立脚の原理原則思考」と呼んだのもこの話です。

「魂立脚の感情分析」がこれによって可能になるということになります。ハイブリッドの実践として、当初、感情分析が根幹の実践になると言っていましたが、その実体は「魂立脚の感情分析」のことであり、それが可能になるためにここまでの道のりがあるという話になりますね。

事実まあ「魂立脚の感情分析」ハイブリッドの根幹があると言えます。「根本変化」への道のりはそこからであり、それに較べれば実はまだ何も始まってはいなかったとさえ言えるような世界になるわけです。
今説明してい段階にある人であれば、ここまで来るのに精一杯という感覚ではあるでしょうが(^^;)、その「未知」がさらに向かうに値する魅力あるものであることを、おぼろげに感じることができるのではないかと思います。

ということで、「2種類の人間像への行動学」の内容説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-47 / しまの
No.1297 2007/09/26(Wed) 10:47:45

■心の「病理」と「健康」へのベクトル転換「自己の積極的保護」

http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg
を参考頂きながら、「魂感性土台の体験」から始まる「否定価値の放棄」までの大転換を説明したいと思います。
まず「自己の積極的保護」の兆候が現れるであろうことまで説明しました。

これは今まで「とにかくハイブリッドの言う通りに」という追従型姿勢において来た方の場合は、まずハイブリッド実践から心が離れることが理論的帰結とも言えるものになります。

それでokです。その「ハイブリッドからの心離れ」の瞬間においてはまさにハイブリッドの言葉を全て視界から外してもらっていいのですが、そうした自分の変化の意味を理解してもらうのが、ハイブリッドの新たな歩みの始まりになると考えるのがいいということになります。
まあそうではなく最初っからハイブリッドを自己判断の下に実践していたのであれば、ハイブリッド実践から心が離れるということを意識するかどうかでなしに、その変化の意味を意識できると思います。

その「変化の意味」とは、「空想上の理想のために自分がある」という意識状態が心を覆い尽くしていたものから、「まず自分がいて自分を守る」という感情が芽生えてきたという変化だということです。

これは先のカキコで書いた「心の自立」という最大摂理命題とは、また別のものです。
「心の自立」は「愛されれば安全」という、「依存」の基本命題からの脱却であり、実際に愛に頼らずに自分を守ることへの歩みだしの話です。つまり「成長」の命題だということですね。

その点で、「自己の積極的保護」はまだ「成長」ではありません。心の自立未満であり、心の自立はこの先の課題です。
つまり「治癒」の命題に関係しているということです。


■「治癒」と「成長」のクロスの先にある「人間の心の真実」

まあこれは取り組み実践上からはどーでもいい話ですが、純理論的な考察としては、「人間の心の真実」というものがどこにあるのかというテーマとも言えるような、深い感慨を感じる次第です。
どうしても、「治癒」の問題と、「成長」の問題が、クロスする。

どっちが先とも言い切れない。
空想によって現実が覆い尽くされるという「病理」のために、「愛されれば安全」という、成長を阻まれた姿が生まれたのか。
「愛されれば安全」という成長の妨げによって、空想によって現実が覆い尽くされるという「病理」が生まれたのか。
まあそのどっちでもあるのでしょう。

「自分で自分を守る」という命題の前には、「現実」がより重みを持ちます。
「愛されれば安全」という命題は、どうしても「空想」の中で働くことになります。

「理想」「人の目」といった「イメージ」は、その内容が同じままでも、どっちの命題の先に置かれるかによって、全く異なる存在様式になるように思われます。
「自分で自分を守る」という命題の先では、「イメージ」は自分を守るために「使う」ゲームの駒になります。
「愛されれば安全」つまり「守られる」という命題の先では、「イメージ」は「守られるための条件」として心を支配するものになります。そしてこれが、自分自身の心への脅威となるのです。

空想によって心を覆い尽くされることからの脱出「治癒」である時、それが同時に、「守られる」という空想世界からの脱出でもあり、「愛されれば安全」ではなしに、「自らを守る」という「自立」の最大命題に方向づけられることでもあるでしょう。
ですから、「自己の積極的保護」という転換とは、「病理からの自立」なのだと言えるのかも知れません。

そしてその先には、「愛からの自立」があるということになるわけです。これが「成長」になります。

「愛からの自立」とは、もちろん「愛を壊せる態度」のことではありません。それは逆に、「愛されれば安全」という命題の中で、「守られるための属性」に自尊心を感じるという、愚かとも言える心のメカニズムの結果起きた、「愛されない屈辱」から生まれます。
「守られる能力」に自尊心を求める結果、人に向かう感情はもはや愛ではなくなり、愛を失い、愛を失うことで守られずに恐怖に怯え、自尊心を失う。つまり全てを失うわけです。
これは「負のクロス」と表現できるでしょう。


■「否定価値の放棄」の基本原理

「正のクロス」はどんな形を取るのか。
一言でいえば、「現実を向上させる価値」「空想を守る価値」とのせめぎあいの先に、前者が勝利を収める収束点の出現と言えます。
それが「否定価値の完全放棄」になります。

ここで重要なポイントになるのは、つまり「否定価値の完全放棄」の基本原理ともなるのは、「イメージの使い方」です。

「負のクロス」の方においては、「理想」というイメージは自分がそのために生きるものとも言える絶対的な価値を帯びると同時に、自らを圧迫する脅威となります。
「正のクロス」において「現実を向上させる価値」とは、「イメージ」の圧力を嫌って「理想」から目をそらすことではありません。目をそらすのは、全く同じ以前のままの世界にいることを意味します。

「イメージの使い方」が根底から変わるということです。なぜそれが起きるのか言うと、「自己の積極的保護」を節目にして、「まずイメージありき」という病理が解け、「まず自分ありき」という健康な方向性への変化が起きていることにおいて、「イメージ」はそれによって「自分が使われるもの」から「自ら使うもの」という位置づけにその様相を変化させ始めているからです。
だから、「イメージ」を「現実を破壊する」ために使うのか、それとも「現実を向上させる」ために使うのかという、人間の心のメカニズムにおける全ての根底とも言える歯車における、「選択」が問えるようになってくるということです。


ただし「選択」は、実際そのどっちの使い方を本人ができるようになるかに、かなり依存することになると言えそうです。

事実この人はこの段階では、「イメージの使い方」を選択するどころか、「イメージ」に支配される生き方しか知らずに人生を過ごしてきたのであり、しかも、「イメージ」に振り回されることの中に自尊心があるとさえ思い込まされていたわけです。病んだ心のメカニズムによってです。
しかしこの段階になればそろそろ、「イメージの内容」そして「イメージを基準にした現実の満足度」がどうなるかの問題を超えて、「イメージ」の存在のあり方そのものが自分の人生を大枠において損なっていることを、薄々と感じることができるはずです。

その先に、「イメージ」というものを根本的に今までの人生とは別の形で使う最大の転換が脳の中に見出される道が開かれます。

本質は、今までにも解説してきたように、「絶対なるもの」という観念の放棄がポイントになります。それは「不完全性の受容」です。「絶対なるもの」空想の中だけに存在するものであり、「現実」には存在しません。

ただしこれはここで考察している文脈においては、どうもまだ話がつながっていない、一段階下の細かいレベルになるように感じます。「空想の中だけ」ということと、「魂」がどう関るのかが鍵になりそう。「神」がそこで一つのテーマになります。問題の全ての始まりが「神の国」に生まれた出生の挫折にあることと、それはどう関連するのか。

今見えるのはその範囲として、とりあえず「イメージの使い方」実践説明に行きましょう。とにかく、今までの「イメージに振り回される」のではない、「イメージを使う」という心の使い方を学んで頂く。それがあることを知ることからです。
そしてそれによって「現実を向上させる価値」を実際に体得した段階で、「否定価値の完全」「不完全性の受容」という選択lが問えるということになるでしょう。

自己の積極的保護」と「否定価値の完全」「不完全性の受容」の間に、結構な道のりがあるということになりそうですね。
この「イメージの使い方」に絡んだ実践が3つ。今まで別々の文脈で触れていたテーマですが、この流れで整理されることになります。
1)現実とイメージの分離
2)2種類の人間像への行動学
3)愛と自尊心の分離


心理学本下巻に向けての考察-46 / しまの
No.1296 2007/09/24(Mon) 19:41:17

■全てを貫く根底命題 「心の自立」

さて、材料がかなり揃ってきたということで、「魂感性土台の体験」から先の道のりについて、その基本的な本質をどう考えて進むのがいいかという話をしようと思います。
「否定価値の完全放棄」というひとまずのターゲットの、基本的な探し方の話も、そこからつながってきます。

それで言いますと、この大きな転換期に起きるさまざまな内面変化と、それをメドにして考えたいさまざまな実践の全てが、あるたった一つの単純かつ決定的に大きな命題に沿ったものであることを言うことができます。

それは「心の自立」です。
これ自体はもう「実践」ではありません。「実践」である面もありますが、同時に「内面変化」でもあるし、さらにそれは「命」に定められたある大きな根本的な摂理の話になると思われます。
「自立」です。命あるものとして生まれ、守られて育ち、やがて一人立ちする。そして自らが新たな命を守り育て、そして自らの命を終える。

この大きな摂理によって我々人間のDNAに刻まれた、その本性そのものへと我々の心を回帰させる取り組み。
それがハイブリッドなのだと言うことができるように思われます。ハイブリッドが成そうとするのは、決して、理想的な心の健康の姿の追求でも、人の目を気にしない生き方の試みでも、ないのです。
追求するのは、「命」という全ての始まりの、根本的に解き放たれたあり方です。

「心の自立」という根底命題の具体的な組み立てが、「愛されれば安全」という歯車の狂いのような思考の問題を通して、次第に明らかになってくるように思われます。
その基本とは、「自分は自分で守る」ということになるでしょう。「自立」とは、そうゆうことです。とてもシンプルです。
ですから、この転換の要は、どうすれば愛され自信が持てるかの「理想」をめぐる話ではなく、「恐怖」がテーマになるわけです。


■「守るため」に

自分は自分で守る。この実に単純な命題から、愛と自尊心などの命題の全てがその様相を変えていきます。当然、「人の目」の位置づけが、それによって変化します。

自分は自分で守る。この言葉は時に殺伐とした印象を与えるかも知れませんが、それは実は守れていないということになるでしょう。
自分で自分を守れた時、その人は次に他者を守ることができる能力も持つことに向かうことができます。何よりも「愛」がそこで、この転換の前とは全く異なるものとして姿を現すはずです。

「否定価値の放棄」も、この文脈の先で、その本質を理解することができそうです。この文脈とは、全てが「守られる」ために必要な条件という位置づけから、「守る」ために自らが使うものという位置づけになるということです。

そもそも、「守る」ことができるためには、何から我々自身を守らねばならないのかを知ることが必要になります。そもそも、我々は一体何に対して我々自身を守る必要があるのか。
それで言うならば、それは明らかに、災害や疫病などの外部、そして同じ人間同士における攻撃がまず対象になるとして、我々は自分自身の心を、自分自身の心から守らなければならないのだと言えるように思われます。人間とは、そうゆう存在なのです。

そのように、自分を何から守るべきかを正しく認識できない時、我々は脅威が全て外部にあると感じるようになります。そして守るべき相手を知らないままでいる時、我々はそこからの攻撃を無力に受け続けることになる。
それと同じことが、自分自身の内部と外部において起きるわけです。自分自身の内部に自らを守るべき脅威があることを認識できない時、人はいつまでも外部を恐れる存在になります。


「否定価値の放棄」は、その構図の解決の姿を示すものと言えそうです。
「魂感性土台の体験」から、この転換の流れを見ていきましょう。


心理学本下巻に向けての考察-45 / しまの
No.1295 2007/09/23(Sun) 14:59:57

■「一人立ち」を告げる「自己の積極的保護」

「一人立ち」を告げるもう一つの節目、つまり「否定価値の放棄」に到達するまでに通る主な節目の最初のもの。

それは「自己の積極的保護」です。
これは、理想から自分の現実を叩き見下す衝動と、自己否定によって自らが受ける痛み苦しみから自分を守ろうとする衝動のせめぎあいにおいて、後者が優勢になってくるという節目です。

これは面白いというか微妙な節目ですね。本人はまずそうとはあまり自覚していないまま、全てが本人の心の中でのみ進行している、大きな2つの力の対決として、健康な心への回帰への力が初めて優位に立ったような出来事として、それは起きます。

そしてこれがいったん「ハイブリッドとの別れ」を成す「一人立ち」を示すことでもあるように思われる面が多々あります。
なぜなら、まず間違いなく、今までのハイブリッド実践そのものが、空想上の理想を大明神にした意識において進められていたからです。自分を見下し叩く衝動の中で、ハイブリッドの言う通りの実践をせねばと、自分を駆り立ててていたわけです。
ハイブリッドの実践を通し、健康な心への回帰のベクトルが優勢になることは、まずそうしたハイブリッド実践そのものから心が離れるという兆候を、ひとつの理論的帰結とも言えるような形で、生み出すことになります。

一方、意識上は案外それが「後退」であるかのような感覚が起きがちかも知れません。空想理想の大明神もまだかなり優勢ですから。
ですからそれに類するような兆候を自分の中に感じた場合は、まず自分を許すことです。そして空想よりも「現実の自分」を守ろうとする感情が自分の中に芽生えている事実を、しっかりと見てやることです。

それを僕が助言して確認してもらうことは、ありません。助言なしに、自分からそれに気づくことが、この大きな節目になります。助言を引き金として借りることなく、それに気づく姿勢を考えてもらえれば。
今そうなったようですよ。確認してみて下さい、と僕が言うと、ちょっと話が変になるような^^;

ですからこの場も借りて最近もらった話などでは、今まで考えることのなかった「薬の助け」についての相談などがあります。1件のみならず。
それも案外そうした「自己の積極的保護」の方向にあるかも知れません。実際それに該当するかどうかの確認は、僕の方ではしません。自分で確認してみて下さい。については、副作用や依存性がないものを補助活用するのは問題なし、というのが基本アドバイスになります。

「取り組みの先に取り組みをやめることが現れる」。この進行過程の構図は、既にホーナイから指摘されていたもので、僕の『悲しみの彼方への旅』では、それがあのような巨大な絶望の谷間にもなったわけですが、今のハイブリッドではもう進め方が全く違っており、大きな悪化の心配はまず必要ないものと考えています。
先のカキコでも書いたように、深刻なケースでは「否定価値の放棄」に至るまでは自殺念慮を完全には脱することができない可能性があります。しかし、心の根底では、もうそこから自分を守れる力が十分に芽を伸ばしています。もし実際何か事件が起きたとしても、それは多分もう心理障害とその取り組みの話とは別の話が絡んでになると思われます。とまあ何とも都合のいい結論ですが^^;


■「自己嫌悪をやめる」ではなく「自己嫌悪に対抗できる知恵の獲得」へ

自己否定自己嫌悪が生み出す悪感情状態に対して、自分を積極的に守ろうとする「自己の積極的保護」の姿勢は、この先の歩み全般において、極めて重要になってきます。なぜなら、この先、自己嫌悪感情は、「自己嫌悪をやめる」という感覚において解消することは基本的にはなく、意識コントロールの外部から自分に襲いかかる別人格のような自己嫌悪感情に対して、いかに心理学的な知恵を用いてそれに対抗し、突き抜けることができるかという形で解消に向かう面がかなりあるからです。

その点、実は「自己嫌悪をしない自分」イメージこそが、自己操縦心性の掲げた蜃気楼であり、自己否定自己嫌悪感情の根源だとも言えます。
この視点で振り返るならば、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg
にも示した通り、ハイブリッドには最初っから最後まで「自己嫌悪をやめる」なんて実践はないんですね。それには直接手を出さないまま、心の基盤向上をひたすら実践する道のりです。

それがこの先の道のりにおいても、より高度な内容のものになってくるわけです。「魂感性土台」という「感性土台の違い」を視点として加えた、知性思考や感情分析。「感情と行動の分離」に始まる大枠は、そのままです。そこに新たに追加になります。
そして「一人立ち」を契機に、いったん分離させたものの「統合」へと歩む道のりが始まるわけです。


■「一人立ち」後のハイブリッド実践

なおこれもこの場を借りて言っておきますと、「一人立ち」そして「ハイブリッドとの別れ」という節目によって、メ−ル相談に特に変化があるとは考えなくて構いません。
重要なのは、一人立ちへの内面の変化があること、そして一人立ちしてそこに「ただ人生がある」ものとして歩む力が自分にあることを、自ら確認することです。それについて僕の方で気づかせるためのような言葉は、本当にその時になればなるほど、言わないのが基本になると思います。

その上で、やはり何かあれば積極的に相談してもらうのがいいでしょう。思考法行動法にせよ、感情分析にせよ、とにかく細かい話でのノウハウが沢山あるからです。これについては、僕の方でも常に進歩しているので、教え尽くせることはまずないと思います^^)v

とにかくまあ、「魂感性の土台体験」あたりから先に行こうとするような段階になったら、基本的に先へと自分を導くのは自分自身の意志になってくるのだと考えて頂ければ。今までどっちかと言うと受身の形で「魂感性の土台体験」あたりまで導かれたのと同じように、「否定価値の完全放棄」にまで「導かれる」ことは、もうないということですね。

とにかく、より高度な実践段階へのノウハウを適宜伝授しますので、いってらっしゃ〜いということで^^;
そうした「一人立ち」へと携えてもらうノウハウとして、「否定価値の放棄」までおよびその先を整理しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-44 / しまの
No.1294 2007/09/23(Sun) 12:02:15

■「否定価値の放棄」の前にある「ハイブリッドとの別れ」

「魂感性土台の体験」から先の、「否定価値の放棄」という最大道標までの段取りについての考察は、僕自身予想もしなかった結論へと収まりつつあります。

その2つの間に、「ハイブリッドとの別れ」があるようです。これは要は、「取り組み実践」として見ていた自分の人生という状況をを、「取り組み」という視点を取り去るということです。もう、ただ「人生」がそこにある。それだけにします。
プラクティカルに言えば、メール相談でやってきた人の場合であれば、ひとまずの終結として一人立ちする。僕の助言なしに考え行動する。独習でやってきた人であれば、ハイブリッドの言葉によって方向を考えていたのを、完全に自分の言葉と視界だけで進む

なぜそれが必要か。単純です。「人生の方向」についてハイブリッドからの助言を受ける形のままでは、真の「自分自身の人生」にはならないからです。
ハイブリッドは、それを超えたものを目指します。だから、一度ハイブリッドとの別れが必要なのです。最後までパラドックスです。

これは僕自身、今回の心理学本出版で事例をどう紹介できるかについていまいち見通しが立たたない感があったことへの、ちょっと予想外の、しかしとても安定感のある答えになっているのが今感じるところです。
ハイブリッド相談でこんな大きく変化できた人がいるんですヨ。それを示すことができるのは、間違いなく大きなアドバンテージになるはずです。
少なくとも「否定価値の放棄」について、深刻な事例から始まって相談対応の中でそうなれたものを出せるかがポイントになると感じていました。

そうはならない。そうした人が「否定価値の放棄」に至ったとしても、まずは相談期間をひとまず終えてから後の話です。これがかなり確実な結論として見えてきた。
まあその分、比較的健康な事例でのそれは出せそう。そこから分かったこともこの後説明します。
後は、相談事例という形でないものとして、「ハイブリッドを通しての人生転換」手記でも募集しようかなーと。採用者には小額金一封とか^^; まあこれは後で検討します。
「魂の望みへの歩み」の事例も、それに近い断片的一例を入れ、基本は僕の一人旅を主事例として書く予定。


■「否定価値の放棄」までの3つの前提節目

原稿事情の方はどーでもいとして、「否定価値の放棄」までの主な段取りを説明しましょう。以下のがまとめになります。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg

でまず僕自身に見えた順序として説明しますと、「否定価値の放棄」そして「不完全性の受容」とは、「空想上の理想」という、これまでの人生において明らかに大明神の座にあったものが、野原の片隅に捨てられた残骸のようにその価値を崩壊させる、天変地異とも言える思考転換です。

それだけのことが可能になるには、やはり前提背景があった。色々と整理考察して、それが3つになりそうです。

第3の前提から見ていきます。後ろの方、つまり「否定価値の放棄」に至る直前の方から見ています。
まず言えるのは、何やかんや言っても、そうなるだけの「現実における自尊心」が増していた状況が、まずあっただろうということです。
それは具体的には、「現実において自分や他人を変えることができる」という、自分の力の自覚が背景にありました。

この「自他を変える力」は具体的には、この後説明する「2種類の人間像への行動学」によるものといえます。
ですから、この先を目指す方は、まずその行動学を適用して実際に日々を生きる過程で、その力を習得獲得することがまず課題になります。そのための行動学は、一人立ちされる方へのハイブリッドからのはなむけと言えるでしょう。

第2の前提は、最初から比較的問題が軽かった事例で、「否定価値の放棄」を思わせる大きな心境変化が成された事例で分かったことです。これは「A子さん」として紹介の事例で、より具体的な内容は下巻原稿で。
その「心境変化」についてあまり詳しいやり取り確認はしてないのですが、ともかくポイントになっているのは、「今まで空想の中の自分を自分だと感じていたことに気づいた」というものです。

つまり、「空想ではなく現実が自分」という感覚への到達です。無論これは思考の変化ではなく、感覚の変化であることに意味があります。従って、これは思考法の問題より、心性崩壊と膿の放出の進展の問題にかなりなってきます。

これが、とても大きい転換ポイントになってきます。全てを空想基準ではなく現実基準で感じ考えるという方向への基本的転換だからです。この先に、「あるべき姿」という根本的な命題そのものの大崩壊、そして現実において自己がこうむっているあらゆる不遇や損失への積極的受容という、生命が持つ最も深遠なパワーとも言うべき領域への道が開かれるからです。


■まず「一人立ち」が前になる「否定価値の放棄」

まずこの2つ、つまり「空想ではなく現実が自分」感覚と、「現実における自尊心」のそれなりの増大。これが「否定価値の完全放棄」を成せる段階への到達条件と言えるでしょう。

そしてこれが深刻な状態をスタート地点とした本格的なハイブリッドの歩みとして来た場合、それは一人立ちつまり「ハイブリッドとの別れ」を一度した後の話になってくる。そう言えるように思えてきている次第です。
一度、僕の助言もハイブリッドの言葉もなしに、ありのままの現実とこの社会に向かって生きる、それなりの期間の歩みの先に、それが生まれてくるでしょう。

その理由は、「現実における自尊心」について言えば自明です。人の助言を受けることなく自分で考え行動して、現実を向上できる体験の積み重ねが、それを育てます。それが「現実における自尊心」の基本的条件です。
これは当然ですね。「社会で生きる自信」がつくまで親が職場まで一緒に付き添っているなんてことはあり得ませんね。そんなの期待しているからいつまでも自信が育たない。

「空想ではなく現実が自分感覚」への到達については、「一人立ち」は直接の関係はありません。もっぱら膿の減少量に依存します。膿の減少がしかるべき条件で、そうした感覚命題を自分に問うことで、そこに至るでしょう。

それについて本格的な歩みでの状況を考えるならば、まず言えるのは、自己嫌悪自己否定感情に流されることなく、「空想ではなく現実が自分」と感じられるというのは、やはり「現実における自尊心」もしくはかなりの心性崩壊と膿の放出が前提になる、かなりハードルの高い事柄であろうということです。
「空想ではなく現実が自分感覚」は、あくまで、空想理想を大明神とした意識でふと現実を目の当たりにする「この駄目な現実が自分」という感情の話ではなく、「この駄目な」という感覚をもたらした「あるべき自分」という空想基準そのものが意味をなくす感覚のことを言っています。

そして本格的な歩みの状況を概観した時、もう一つの節目段階が、その遥か以前に現れるのを見ることができるようです。
それが同時に、「一人立ち」を告げるものになるようです。


いったんここでカキコし、もう一つの節目、そして「否定価値の放棄」の基本的探し方の説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-43 / しまの
No.1293 2007/09/22(Sat) 13:07:18

■「空想世界」と「現実世界」における問題の循環

「魂感性土台の体験」を足がかりにして、何ができるかをまず以下に図にしました。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro15.jpg

まず、「空想」と「現実」における問題の循環を理解頂きたいと思います。図の左側になります。

まず空想世界です。「与えられるべき愛」というイメージに、全てが始まっています。
「愛を与えられ得る姿」によって自尊心を感じようとします。しかし「与えられるべき愛」が与えられず、自尊心を持てません。それを見返そうとする衝動を自尊心に当てようとすることもありますが、それでは愛を破壊できるだけです。
愛されることで安全」になろうとします。愛が得られてないので、怯えています。

現実世界においては、 「愛されることで安全に」という思考によって、ますますこの人は弱い存在となり、恐怖が克服できません。当然自尊心も育ちません
現実世界においては、自尊心が生み出す安全感によって、愛が意識することなく溢れてくるようになります。この人の場合は、自尊心が育たないので、愛も湧き出ません。ただ「愛が与えられるべき」と感じるだけです。

そうして空想世界での「愛が与えられない」に戻ります。この人が愛を得ることができないのは、自分から愛することができないからであるのが、現実的な原因です。
自分から愛する人に、人は自然に愛を向けるように、現実世界はできています。

もちろんそう聞いて「自分から愛さねば」と考えることは、答えではありません。そうした誤りでどうしようもなくなった結果、ハイブリッドを学ぶようになったと思います。

そのように、空想世界と現実世界を通して、「恐怖」の問題が橋渡しとなった上で、それぞれの世界で問題が自動連鎖していると大体考えることができます。
空想世界では、「愛が与えられるべき」から始まって、「自尊心を持てない」「恐怖に怯える」まではほぼ自動連鎖です。
現実世界では、逆の流れとなり、「恐怖が克服できない」から始まって、「自尊心が育たない」「自分から愛せない」と自動連鎖。
「愛されれば安全」という思考が、この2つの自動連鎖をつなげます。
そして、現実世界で「自分から愛せない」が、空想世界での「愛を得られない」へと戻ります。
とてもきれいに(^^;)循環します。


■「否定価値の放棄」までの間にある意識の闇

それがどう解け解決するか。「否定価値の完全放棄」にまでです。

「否定価値の完全放棄」が、ハイブリッド取り組みの大きな目標であり続けます。根本変化はまだその先なのですが、「否定価値の完全放棄」を成せば、日常の感情気分基調は一変して良いものになります。「魂の望みへの歩み」もその先なのですが、もう心配はいりません。
「否定価値の完全放棄」までは、深刻なケースにおいては、自殺念慮を根本的に脱するのは困難です。基本的に自己嫌悪自己処罰が、自ら求める形でこの人を苦しめるからです。その苦しみには心底から嘆き怒り嫌気を感じるのですが、一方で、それを生み出す自分の根本姿勢を、自分の心の支えにしているのです。
それが「否定価値感性」です。

「否定価値感性」を生み出すものは、意識より下にあります。図での右側にあります。
これに対しては、意識的な努力では近づくことができません。心性崩壊と感情の膿の放出だけが、この問題を解消し、それにおうじて、「肯定価値感性」が開放されます。
「否定価値の完全放棄」のためには、「肯定価値感性」の開放がある一定度合いに達することが必要であると考えています。

心の問題が深刻化した今、あまりにも理不尽な否定感情の中で生きる人の姿が増えています。不遇の中で貧困な現実を抱え、さらにその現実を空想上の理想から叩き、「現実向上」というれっきとした解決があるのに、自らそれに背を向ける人々。それがさらにその人を苦しめているのですが、何よりもその「空想」が支えなのです。

そうしてふと現実を前に苦しむ人を見て、僕はこう浮かべます。「現実はずっとこうだったのに、逆になぜ前に自尊心みたいなものを感じることができたのだろう」。まあつまり、最初っから「空想の中の理想」などなければ、誰もが与えられた現実の中を向上できるわけです。

現実を叩き見下すことで自尊心を守るという、不遇の心を守ろうとするメカニズムがあるのです。その根底には、「生」からの拒絶を受けた来歴の膿があります。そこから逃れるために、「空想の中の理想」にすがるしかないのです。
それが、意識より深いところで起きています。「空想の中の理想なんてとらわれないように」と考えるその人の思考でさえ、びくともしないこのメカニズムの上で動きます。

「理想のあり方」「理想の用い方」についての「合理的」な思考努力の一切が、このメカニズムの前では無駄です。
ただ一つできるのは、意識が破綻する「恐怖への突入」でしかないのです。

それをすれば、また心性崩壊と感情の膿の放出が起きて、また「肯定価値感性」の開放が進む。それがある程度進んだところで、「理想のあり方」「理想の用い方」についての思考法転換が、この人の心に巨大な転換を可能とさせる時が訪れます。

それはいつ訪れるのか。訪れるまでの段取りはどう考えればいいか。
これを考えましょう。

とにかく言えるのは、「魂感性土台の体験」を足場にして意識努力できるのは、「恐怖の克服」への新たなる方法論の習得です。それがこの後説明する「2種類の人間像への対人行動学」です。「人の目掌握思考」を用います。

それができれば、上述した連鎖が良い方向に回り始めます。
現実において恐怖が克服できれば、自尊心につながります。自分から愛せるようになります。人からも愛されます。愛される自尊心も持てます。世界が恐くなくなってきます。

しかしその好連鎖が「否定価値の完全放棄」という心の大転換になるかどうかは、「肯定価値感性の開放」という、全く手が出せない深いところに依存します。それはもう人それぞれの感情の膿の残量によって決まってくる。
つまり、「魂感性土台の体験」から「否定価値の完全放棄」の間には、やはりまったく予知不可能な、闇の谷間が存在するということです。

まあ実はこれは、話が収まるべき所に収まってきた感のある話でもあります。
もし意識的実践として「否定価値の完全放棄」までが導き得るものであるならば、実際そこに進めないという行き止まりが、その人の実質的限界として確実視できてしまうからです。これはハイブリッドそのものの限界ということでもあり、全ての終結、不満足な終結となり、人によっては「これでおしまい。死ぬのがやっぱ正解」となるかも知れません。
しかしその絶望が、やはり次への答えになるんですね。いいか悪いか(^^;)、結局最後まで「未知」がつきまとう。

そんなことを踏まえて、「否定価値の完全放棄」までの段取りと、その基本的な探し方を整理しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-42 / しまの
No.1292 2007/09/22(Sat) 11:06:01

■「真の未知」への歩みへ

社会文化の影響まで含めた「知性思考」という別のベクトルからの合流も出てきたところで、またハイブリッド道のりの俯瞰に戻りたいと思います。
「魂感性土台の体験」という足がかりから、この先の歩みがどう進むことができるのかの考察です。重要なのは、この後に控える「否定価値の完全放棄」というハイブリッド最大の中間道標にどう至ることができるのかです。

かなり見えてきました。ちょっと深い感慨と共に。
一言でその「感慨」を表現するならば、「否定価値の完全放棄」を、ハイブリッド心理学がその人に見出させることはできない、ということにちょっとした結論感を感じる。そんな感慨です。
つまり、「否定価値の完全放棄」を見出すのは、その人自身が、その人自身のみによって成すことのように思われます。それは同時にその人の「現実との和解」になります。

それはもう、ハイブリッドから教えられることとして見出そうとする姿勢の上では見出すことはできず、その人自身がその人自身から教えられることとしてのみ、見出されることが可能になると思われます。
それはもはや、「ハイブリッド心理学との別れ」を告げた後になるような..だから、感慨。

「真の未知」が、そこから始まるように思われます。

それを教えるのが、つまりどうこの心理学と別れるかを教えるのが、ハイブリッドだということです。パラドックスです。
まとりあえずそこまでの道のりを説明しましょう。この考察もそれで終わりに近づく。でとにかく出版本原稿に入らねば!^^;


■全てを決する「空想という巣」の外への一人立ち

「魂感性土台の体験」という、これまでの歩みの一つの成果と言えるものから、何が見えてくるのかを考察してきました。
まず言えることとして、その体験は、その人が「自分の脳の中に今までの生き方とは全く別の領域」があるという実感を与えてくれるものになるでしょう。
それは、全くストレスなく、この世界と一体化した存在として前に進むことのできる自分のありかた、というものの土台になることを、漠然とは感じ取れると思います。

しかしそれ以上先は、まだ全く見えないままです。いったん「現実」の「他人」を前にすると、一気にかつ一瞬にして、今までの「人の目感性土台」で動く感情と思考の世界になります。その中で、魂感性土台の中にいたような伸び伸びした自分を描いたところで、全てが今までの焼き直しです。

一つの重要なファクターが、全く別のところから見えてきました。「愛されれば安全」という、とにかく親の庇護を終着にするかのような思考の存在です。それがとても大きな枠として、「成長のない世界」にその人をとどめているという印象を受けます。
その対照として、「人の目」「人の感情」を思考の終着にするのではなく、むしろそこから先を考える、言わば「人の目掌握思考」とでも呼ぶべき思考法が、「現実を生きる自尊心」の強力なツールになることを言うことができます。

そしてその「現実を生きる自尊心」が、まだ見えない、そしてこの先にあるものの一つであるわけです。
「愛」における「この先」は、さらにまだ良くみえないままです。でも言えるのは、「現実を生きる自尊心」の先に、全く未知の「溢れる愛」があるということです。

「安全」つまり「恐怖の克服」に関する分かれ目がまずあります。その先として合流する形で、今歩む先の「自尊心」があり、そのまた先に「愛」がある、という順序になります。

これは要は、親の下から一人立ちする姿そのものです。それはまず、親に守られる、つまり「愛によって安全」になることから、全く一人で恐怖に向かうというのが、そこにある転換の本質と思われます。その結果、今までとは異なる「自尊心」「愛」が生まれてくる。
かくして、「魂感性土台の体験」の先に控えるのは、単独とも言える形で、「恐怖」の問題だと思われます。それを掛け橋にして、「自尊心」「愛」へとつながっていく。


■「魂の感性」と「恐怖の克服」をつなぐ接点「現実感の増大」

「愛」には全く依存しない形で、恐怖を乗り越える。これはどうゆうことでしょうか。

それについては、まずは全く何の特別な思考法や行動法の話でもなく、それが心のDNAに設計されたことなのだという感がします。時が訪れれば、それは誰に教えられるまでもなく、空気を吸うことや排泄をすることを教えられることなくするように、そこに向かうことなのだと感じます。まあ多少最初の一歩は鮮明な分かれ目になるでしょうが。

今まであるのは、単に、それに積極的に逆らおうとする、病んだ心の病根であり、人間が不自然に本性を捨てた思考法だったわけです。
それを取り除いていく。ならば「一人立ちへの志向」は、教えられることなく姿を見せ始めるはずです。

それをキャッチする接点が、実は「魂感性土台の体験」にあります。
それは「現実感の増大」です。別にそれが恐怖の克服法について何のプラスを与えてくれるものでもありません。しかし今までの「空想」にある誤りを、それは示すでしょう。
「愛されれば安全」だなどということは、「現実」ではないのだ、ということです。

それぞれの人がどうそれを感じ取るのかは、人それぞれでしょう。
まあ最も典型的なのは、「何もない今の現実」に気づく瞬間とでも言うものです。空想の中で、こんな自分になれば、こんな風に愛されて..騒がしい時間がふと解けて、「何もない今の現実」がじかに魂に感じ取られます。
どんなに空想の中で安全を謳歌したところで、現実が前に進んでいなければ、何もない元に戻るだけです。

「空想の仕方において努力する」ことの不毛さを、感じ取ることはできるでしょう。しかし「現実における安全」については、学ぶ必要があります。それをこれから説明します。

いずれにせよ、「魂感性土台の体験」が、やはりその入り口になるわけです。

こうして考察すると、魂感情の体験が「愛されれば安全」という誤りを解くというつながりが、上巻原稿最後の女性の言葉にも示されていたことに、印象深く思いあたります。
「不思議ですが、今、悲しいのですが、前のように誰かに抱きしめていて欲しい、暖かさが欲しいとは、思っていません。」
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/14.htm
この女性は以前には「抱きしめられると安心する」と言ってたのに対して、僕は「それで問題が片付く訳でないので変な話ですねぇ」とか指摘していた次第でした。


さて、この先はかなりの学習を踏まえて、一人立ちへです。全体を整理して、その詳細説明へと行きましょう。

そうしたら、その後ハイブリッドができることは、一人旅へと旅立つ人を見送ることだけです。「否定価値の放棄」そして「現実との和解」は、人それぞれが、その一人旅の中で見出す事柄になります。基本的な探し方だけは教えます。
「魂の望みへの歩み」という最終段階が、その先にあります。「真の未知」は、そのまた先に見出されます。


心理学本下巻に向けての考察-41 / しまの
No.1291 2007/09/21(Fri) 11:22:13

■「愛されれば安全」vs「愛されても安全とは無関係」

変化する人変化できない人とで、「恐怖」についての姿勢決定的な違いがある。
これが結構その本質がはっきりしてきましたので、まず結論から言いましょう。

「変化できない人」というのは、まず、「恐怖と安全」の問題を、全て「人の目」ベースで考えます。白い目で見られることに恐怖を感じ、愛情の目で見られることに、安全を感じます。
ただしこれは「人の目感性」においては誰でも基本的にはそうゆう感情が流れます。「魂感性土台の体験」をしても、これは誰でもかなり継続します。

問題は、知性思考の面に現れます。
「変化できない人」という印象を僕が感じる人は、「安全」についての思考がすべて「人の目」「人の感情」に終始します。
「変化できる人」という印象を僕が感じる人は、「安全」についての思考が「人の目」「人の感情」を含んだとして、むしろその後の「現実外界全体」の結果を思考します。

当然この結果、この両者が話す事柄の内容は、「変化できない人」の場合どうも「社会行動見識が不足している」ような、「人の目を気にしすぎる」印象を感じさせるものになります。
で僕としても社会行動スキルの話はしますし、基本的に感性土台の違いに焦点を当ててきている訳です。

しかしそこには、そうした「何か足りないもの」ではない、「何か積極的に違うものに向いている」ものがあります。それがはっきりした感がある次第。
それは、「愛されると安全になる」と感じ考えているらしいことです。
それじゃー当然、全ての話が「人の目」に終始しますね。

一方、「変化できる人」という印象を漠然と感じる人の場合、対応する命題は「愛されても安全とは全く無関係」となります。「安全」とは、「身の安全」の話であり、「人生の安全」です。
それと「愛されること」は全くの別の話。だから、人に嫌悪を目を向けられる恐怖「不安感」の問題であり「恐怖感」の問題として「取り組む」わけです。「安全」の問題として取り組むのではありません

「変化できない人」という印象を漠然と感じる人の場合、それが「安全」の問題になってしまっている。「人の愛情の目」が「安全」のゴールになってしまっているわけです。


■本来「愛」とは全く関係ない事柄への思考法

ごくプラクティカルな視点で言いますと、「変化できない印象の人」の思考の問題は、「愛」についてどう考えるかの問題では全くなく、本来「愛」とは全く無関係な事柄についての思考が見事に欠落しているという印象を感じます。

どう愛され抱きしめられようとも、蚊がいれば食われるんです。ころべば足をすりむくのです。
それが、どうも、「人に愛されれば」蚊がいても食われこともないし、ころんでも足をすりむくこともないと考えているかのよう。
そんな風に、この人生を生きることについて、「愛されれば全てがうまく行く」ことを期待しているのかしらんと思えるような。
まあ、愛されれば、その相手が常に蚊を追い払い、ころんでも地面に落ちる前に自分を抱き起こしてくれるはずだ、と考えているのかも知れませんね。アハハ..

つまりはっきり言っっちゃって、赤ちゃんの思考です^^; ハイブリッドの取り組みにおいては、幼いままの「魂」の開放は是とします。しかしそれを守る役割が「心」にあるというのが、この先の道のりの基本的な考えです。

人に愛され守られることへの願望を、自分自身で受け止めます。そうした感情については、「正す」という姿勢は不毛です。「感情」に、この先に歩む上での問題があるのではありません。

しかしそれが「知性思考」にまで及んでいる時、どうも別の問題が起きていることを考えずにはいられません。そしてその状況にあるのであれば、「知性思考」についてはかなりの覚悟と意志をもって、「正す」という表現もできるような意識変革が必要になると考えます。


■「自分は社会の歯車..」ではなく「社会を自分の歯車として利用」という思考

もし上記を読んで「赤ちゃん思考の自分は駄目だ」とお感じになった方がおられたとしたら、多分それがまさに「人の目感性土台」の先にさらに「人の愛の中で安全になれる」思考による、人の目の中の自己理想からの見下しではないかと、確認頂ければ。
では何が「選択」になるのかを説明しましょう。

それは、「人の目」「人の感情」を自分の思考行動の終着先であるかのように考える思考法から、逆に「人の目」「人の感情」を一つの駒としてその後のことを考える思考を築きあげることです。
「どうすれば愛されるか」「どうすればこんな目で自分を見られずにすむか」ではなく、「愛されてどうなる」「こんな目で自分を見る他人が果たして社会のどこに位置づけられるか」を考えることです。

より具体的にいえば、多くの方が社会に出ることについて、「社会の歯車になるなんて」と空しさを感じると共に「社会に受け入れられる」ことへの不安を感じます。
僕もまあそうした時期は『悲しみの彼方への旅』で書いたようにあったわけですが、良く考えるとかなりその一瞬に限られた感じがあり、日常思考全般ではそうした思考はどうもあまりなかったような気がします。人生の全体を通してであり、ということは心の障害傾向の深刻さとはあまり関係ないものとして、そうだったということです。

そして今の感覚を言うならば、自分が社会の歯車だなんて感覚は、全くと言っていいほどありません。むしろ、社会が、僕の歯車だと感じます。社会を歯車としてうまく利用して、今の実にストレスのない生活を送れていると感じます。
そうでなく、「人に愛されれば安全」と感じ、「社会の歯車になって」という思考をして生きるって、それってなんか「社会に飼われている」という言葉が浮かぶような印象を与えるもののような気がする次第。

実際のところ、「社会での身の安全」については、「愛されれば安全」なんてのとは全く逆の感覚を感じるのが正直なところです。愛に頼れば、逆に危うくなる。なぜなら愛は基本的に自由を損なう性質も含むからです。これまた逆に言えば、それを犯してまで「愛する」ことの真の意味という話が出てくるわけです。

自分の人生戦略のために、「人の愛情の目」を目指すどころか、その逆も良くでてきます。実際僕は会社勤めの終わりの頃は、あえて自分が能力不足に見られるように振舞った面が多々あります。能力あると見られ仕事を増やすと、定時で帰れなくなり執筆もできなくなってしまうので。そして自分の成果が少ないのは、努力不足ではなく根本的に能力が足りないとボスに思われるように、不足を責められた時は真剣に悩む振りをした訳です^^;


■感性土台の影響と社会文化の影響

そうした思考法の違いは、心を病むメカニズムとしては愛情要求人の目感性土台の結果もたらされる面もあるでしょうが、それを超えて、やはり社会文化や学校家庭での教育そして親の日ごろの言動の影響が大きいでしょう。

やはり、「人の目」を基準にした道徳的思考をする環境では、「愛されれば安全」的な思考になるでしょう。「人に後ろ指さされるようなことだけは」「人にバカにされることだけは」「人様に迷惑かけることだけは」の類。なにその「人様」の「様」って?という感じなんですけど。という感じー^^;
かくして、「何も悪いことしてないのに何でこんな目に」的なことを言う人が沢山社会に出てくる。そりゃアンタの自衛能力がなかったということなんですけど。という感じー^^;

人をバカにすることでしか自尊心をもてない人は、かなりバカです^^; 相手が悪人であれば、相手に迷惑な事のほうが善です。
目の前の相手を基準に考えるのではなく、その相手は一体この社会全体でどんな人間なのかというのを考える目が大切ですね。それが「優れた社会見識」を培います。

どうもこれはやはり江戸時代の農耕民衆向けにカスタマイズされた「儒教」信仰の影響が大きいと思いますね。「人の和」「人の絆」を神のようにあがめる思想ですね。最初っから人の下で生きる人のための思考です。
僕の親はそうゆうのではなかった。「道徳家」というより「策略家」という感じで。多分それが、僕が親から心理障害の種をもらうと同時に、自らそれを乗り越える芽も与えられたという状況だったのだろうと。


ということで、ちょっと言葉が雑になりましたが(^^;)、魂感性土台の体験という内面治癒段階から先の道のりと、こうした思考法の問題の関係について、治癒論としての整理を次に。


心理学本下巻に向けての考察-40 / しまの
No.1290 2007/09/20(Thu) 14:58:42

■魂感性土台から先の「自尊心」「愛」「恐怖」

ここでは、
1)「魂感性土台の体験」の体験として実際に得られている内面変化
2)この先の根本的治癒成長変化の方向性。つまり1)だけでは得られていないもの

という視点について、「自尊心」「」「恐怖」という3つのテーマにおいて僕自身および多数の相談者事例を踏まえた実際を描写してみたいと思います。

引き続きまとめた表を参照頂きながら。
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html


■「自尊心」における変化の芽と成長の先

人の目感性土台と魂完成土台とで、違いが最も端的明瞭に感じられるは、「自尊心」になるでしょう。これはあまりに明瞭です。

人の目感性土台では、文字通り「人の目の中」で、見上げられるような賞賛の目の先に自分があるという、実に空想的な高揚感をもって、「自尊心」と感じます。まあ破壊性を帯びて荒廃化したケースでは、人が劣等感を感じながら自分を見るという空想になるかと。

魂感性土台の先に成長した自尊心は、まるっきり違います。
まず僕の感覚を言えば、これはまさに大草原で一匹の獣が、自分の力で生き抜く能力を得たことに自信を感じる、その感覚そのものであることを想像します。つまり、そこには、他の獣がこの獣を見上げる目など、全く必要ないのです。

これを「弱肉強食のギスギスした勝利」の話か、と感じる方もおられるかも知れません。そうじゃないですね。それは同時に、自分が多くの命をこれから育て守り愛することができるという、「強さと愛」の統合された、実に豊かな感覚なのです。

この違いは、魂感性土台の体験の段階で、多少は視界に捉えられるかも知れません。
なぜなら、「現実感の増大」と共に、「空想の中の自尊心」の価値実感として下がるからです。そんなもの幾ら繰り返しても、「現実」においての自尊心には結局つながっていないことがわかるし、どんなに空想の中で自尊心に浸っても、「現実の豊かさ」が増えるわけでもない

そして「現実の中の自尊心」のはしくれとも言えるものが、案外早く得られているかも知れません。
なぜなら、「空想の中の自尊心」の不毛さに気づいた時点で、大きな前進を果たしたことになるからです。実際のところ、この人間世界で実に多くの人々が、空想の中だけで生涯を送ります。それに較べれば、何か一歩を成したと感じたとしても、それは決して自己誇大自賛ではないと言っていいものです。恐らくそれだけでも、この人は後に生きる人々に、何か伝え得るものを得たことになるのです。

その先も、まさに「空想した通りになれること」ではなく、「現実を生きる」ことそのものが生み出す自尊心の増大があります。それはまさに、「空想」という蓑から外に出て生きたという、そのことを起点とする自尊心なのです。

そのために、より積極的に「自ら望んで生きる」ことが重要になってきます。残りのテーマ「愛」そして「恐怖」が次第に、それを妨げるものとして目の前に現れるものになってくるでしょう。


■「愛」における変化の芽と成長の先

魂感性土台の体験という形を取って、「人への穏やかな肯定感」というのが現れたかも知れません。まあ今までの、愛が得られないフラストレーションと怒りが一時的に消え、他人イメージにつきまとっていたトゲトゲしい色彩が薄れた感覚ということになるでしょう。

しかしこれはまだ、この人が「人生で欲する愛」について、何の答えになるものでもありません。
なぜならば、実際のところ心の底に愛情要求を抱えているこの段階においては、人の「愛情の目」が基本的に「愛への入り口」なのであり、まずそれが得られた先の、愛し愛される栄光が、求めるものになっているからです。

ですから、まとめた表
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
においても、「愛」については、「得られた変化」として書くことはまだ何もありません。
つまり、「愛」については、変化する先がまだ視界には入らないまま、この先の歩みをする必要があるということです。

一言でいえば、「愛」に関する感情は引き続き、今までの人の目感性土台の感情として動きます。それを心の中に置き続けることを許す2つの感性の共存の中で、一方はその感情が欲しがる「愛」とは違うものへと向かうという、実に難しい道のりがあります。
これが実際のところ、この先の歩みのキモの話になるでしょうし、ハイブリッドの実践の最大本質そのものになるでしょう。それが「ハイブリッドが進む世界」になるのです。

上巻原稿で表現したように、「2つの世界」を同時に見続けることです。「魂」が願った愛の世界と、それに挫折した「心」が「人の目」を起点にして空想の中で抱く世界と。
その2つの世界が交わるところに、2つの世界を生み出した根源がはじけ、新たなる「未知」が現れることになります。「愛」は完全なる「未知」として増大していきます。

これはまず生涯において最後まで完全には果たせないものと考えてまず正解です。そしてこれを歩み続けるのが人生になるわけです。

魂感性土台の体験ではまだ得られないものとして、この先の歩み方について、正確な知識正確な実践をハイブリッドで定義します。これが下巻原稿の目的です。

この「2つの感性土台のまたがり方」について、一言ではこう言えそうです。
「人の目イメージは、受けるが、向かわない」そして何に向かうかといえば「魂の願いを果たす」ことへと向かう。
人の目イメージと感情は否定しません。ただし行動方向性は、人の目を越えたものにします。この両立共存が、これからの歩みです。

そして表に表現しましたが、イメージと感情は人の目感性という状況に変化があまりない一方で、「現実を生きる自尊心」が「未知の愛」への鍵になってくるというのが出てきます。
これも難しいテーマです。このあとじっくり考察しましょう。

で、これを阻むものが最後に出てくる。


■「恐怖」における変化の芽と成長の先

「愛」については感性感情面でまだ変化はないが、「自尊心」における変化が「愛」の変化への鍵になる、という構図。
ということで、「魂感性土台」の体験として、「自尊心」については変化が視野に入る。
「愛」になると変化がなくなる。だが変化への鍵が視野に入る。

そして「恐怖」について考えて、魂感性土台の体験との関係がさらに見えなくなります。
というか、全く関係がなくなるのです。事実僕は先の表をまとめるにあたり、最初「恐怖」の項目をすっかり抜かしていました。

話は全く別のところから合流してきます。良く検討するテーマですが、ハイブリッドに取り組んでもらって、結構スンナリ変化する人と、なかなか変化できない人がいる。その違いは、何かかなり決定的な事柄に関連しているらしい気配を感じるのですが、それをはっきり定義できていない。

実のところ、それがハイブリッド心理学の発展の歩みそのものでもあります。最初それは精神分析と認知療法をミックスしたようなものとして始まりました。「感情分析」が根幹になります。
ところが「感情分析」をして意味のある人と、てんで意味にならない人がいる。感情分析作業の仕方そのものではなく、それをする姿勢に重要なものがありそうだ。で「建設的生き方」を考える。
そして「建設的生き方」がどうも定着できない人がいる。何か「正しければ幸福に」のような、ちょっと甘い(^^;)人生思考が問題かも。で「サバイバル世界観」なんて出してみる。

そうして、その「決定的な事柄」がまさにテーマになる、この転換期の実践考察に至ったわけです。
「決定的な違い」の一つは、「感性土台の違い」です。その先での「自尊心」「愛」が全く別物になる。

残された「決定的な違い」が見えてきました。それが「恐怖」です。変化する人としない人が「恐怖」に面する姿勢が全く違う
そしてそれがやはり「感性土台の違い」に関連する。

ただし、答えが全く別のところから来る。「知的思考」です。これは内面治癒の流れよりも、社会文化科学思考などの「外部」から、答えが出てくる。まあ「現実世界を生きるノウハウ」という根幹ベクトルというもう一つの流れの方からということですね。
それが「感性土台の違い」を接点にして、合流してきます。

それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-39 / しまの
No.1289 2007/09/20(Thu) 09:53:39

■「魂感性土台」の体験から先の変化方向性まとめ

魂感性土台の体験を足がかりにした、ハイブリッドの道のり後半への転換を説明していますが、基本的な視点は2つあります。
1)「魂感性土台の体験」の体験として実際に得られている内面変化
2)この先の根本的治癒成長変化の方向性。つまり1)だけでは得られていないもの


それを先日の表を更新してまとめています。
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
「実際に得られる内面変化」であり、は内面変化だけでは足りず、自らその方向性を強く意識する必要があるものです。

こうまとめるのも、ハイブリッドが目指す「新しい生き方」が本当に心の根底からの変革になるためには、どうしても頭で考えるだけでは不可能な面が多々あるからです。
なにより、「自己の重心」という基本方向性を言い、「人の目ではなく自らの望みへ」と考えたとして、まず大抵、それは結局その人の「人の目感性土台」の上で「人の目を気にしない自分」が人の目の中にあれるという、焼き直しを描くことにしかなれないのが実情です。

ですからそれを、根本的に「人の目の中で人目を気にしない自分」を超えた真の生き方変革にしようとするならば、まず「感性土台の違い」という脳のレベルでの別領域が自分の中にあるという実体験をもって、「新しい生き方」を頭で考えて目指す前半段階から、本当に脳のレベルで変革を成していく後半段階に移行するという変わり目を通るという主旨になります。

「魂感性土台の体験」は、比較的深刻な障害傾向があるケースにおいては、まず多少の心性崩壊および膿の放出体験が必要になります。

一方そうではない比較的一般人(?)向けには、とりあえず「千の風になって」などを聞いて感動する時の感覚の確認をもってそれに当てもらうことを考えたいと思います。やはりとにかく実体験ベースで考えてもらう。
あとは大自然に触れて感動した時、良く「日ごろの悩みがあまりにちっぽけに思えた」といった言葉が出る感覚ですね。日ごろ思い悩む「人にどう思われるか」がなぜか薄れる感覚
そうしたプラクティカルな実践順序として、下巻原稿はまとめる所存。


■断片的なだけの「魂感性土台の体験」

そうした魂感性土台の体験は、比較的深刻なケースでも一般的心の悩みケースでも、まずは、思い煩う日ごろとは切り離された時間として体験するに過ぎない形になると思います。

思い煩う時間の辛さには、あまり変わりはありません。深刻なケースでは、「原罪感情」と「理想からの見下し軽蔑」が異質なものとして体験されてくるという変化がありますが、それはやはり心を下り坂に向かわせます。「原罪感情」においてはもはや「理想通りになる」ことすら解決にはならいという、さらに行き詰まりの感覚を引き起こすかも知れません。
一般的なケースでは、上記プラスティスだけでは、日ごろの悩み時間に戻れば、大抵はあまり変わりのない元のままです。

比較的深刻なケースでは、一般ケースよりもやはり苦境のままですが、その分光のきざしが見え始めます。
それが「現実感の増大」です。日ごろの感覚として、今まではまるで夢を見続けていたような、空想の中だけで生きる自分がいた。何かそこから目が覚めたという感覚。
ハイブリッドに長く取り組んだ先のそれは、それが何かのプラス方向に向かうことであることが、何となく感じられるかも知れません。比較的短期間に変化しようとするケースでは、それはまだ暗雲の切れ間程度で実に淡々とした断片でしかないかも知れません。今後ハイブリッドも良く整理され普及してくると、後者のケースが多くなってくるでしょう。

いずれにせよ、「素の思考」だけでは、魂感性土台の体験を、その先の根本変化につなげるのはまず無理です。意識的に、この先を理解し、まずそこに向かいたいかという自分の関心動機の確認からから始めて、実に意識的な実践がこの先必要になるということです。

これは医学と全く同じ話です。問題の加速を止め一時的に気分が良くなる程度のことは、進め方に多少のブレがあっても至ります。とにかく問題を加速させたものから離れればいいのですから。
根本解決へは、違います。かなり正確な医学知識が必要になります。かなり正確なその実践が必要になります。


ということで、「魂感性土台」を足がかりにして意識実践すべき内容を、「自尊心」「」「恐怖」という視点から引き続きまとめます。
どうやら、「自尊心」「愛」をこの魂感性土台の先に育てるのが答えとして、そのために全く別方向からの話が必要になるようです。それが「恐怖」の克服という視点で明瞭になります。


心理学本下巻に向けての考察-38 / しまの
No.1288 2007/09/19(Wed) 14:05:30

材料出し整理ということで、例により流れが順不同ですが、ちょっとまた話の流れを変えます^^;


■「原罪感情」の向こうにある「最終解決」

先のカキコで書いたように、「魂感性土台の体験」から先の道のりにおいては、嫌悪軽蔑感情において「原罪感情」「理想からの見下し」明瞭に異なるものとして意識体験されてくるのが、この先の治癒過程において重要な意味を持ってきます。

まあこれを本人の意識体験で見るならば、こう表現できるでしょう。
以前は、「理想に満たないまがいもの!」
これからは、「理想に満たない情けなさ」「理想を蓑にしようとしたまがいもの!」の2種類の体験。

前者理想からの見下しであり、後者原罪感情に対応します。後者がより強烈になり、前者つまり理想に満たないことへの軽蔑嫌悪感情は徐々に緩やかになっていきます。
つまり、「理想をめぐる感情」は、過度に駆り立てられるのでも、自己嫌悪回避のために理想から目をそらそうとするのでもない、本来の健康な感情へと徐々に回復しているのが、既におき始めているのを見ることができます。

ただし本人はあまり治癒回復とは気づかないままにです。原罪感情の強烈さが相変わらず、場合によっては今までにも増して、この人の心を不安定もしくは下り坂にするからです。

これは同時に、この道のりにおける「最終解決」が視野に捉えられることが可能になる時が近づいているものでもあります。
なぜなら「原罪感情」とは、幼少期における「生からの拒絶」を受けた「根源的自己否定感情」に対応するものだからです。学童期には、それを否定し去ろうとするベクトルと、ごく自然な願望との混合物として、「なりたい自分」像が生まれたという経緯でした。
「根源的自己否定感情」が今、「原罪感情」として明瞭に意識の表面に戻ってきたことにおいて、「なりたい自分」という混合物から、「根源的自己否定感情」とその否定に由来する部分が除去されるという、この先の根本治癒原理が働くことが可能になるわけです。


■「障害の除去」という「治癒」だけではやはり足りない「恐怖の克服」

本人の「素の意識」では、そうした治癒の積極的意義の側面を感じ取ることはできません。少なくとも、まだ優勢な「人の目感性」で外界の他人や社会に面する限り、自動的な感情と思考は、根源的自己否定感情から逃れるために理想通りになることが全てだという感情論理を生み出す、自己操縦心性の中で動くからです。

それは相変わらず、「自然と人に繋がることのできる活発な人間」を理想像としてイメージさせながら、「結局自分は人と繋がることが根本的にできない心を損なった人間だ」という自己否定感情を湧き出させがちです。

事実、上述の「原罪感情の向こうにある最終解決」として書いたものも、「なりたい自分という混合物から根源的自己否定感情とその否定に由来する部分が除去される」という、「問題が取り除かれる」という消極的な側面だけでしかありません。

ということで、次にその「最終解決」について、僕自身の日記例なども出して説明しようとしていたところですが、どうも大きな抜けがあるのに気づいた次第です。

それは、「自尊心」と「恐怖の克服」に関連する方向性です。
昨日Upした
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html
は、「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という「魂」側の「治癒」のベクトルから整理したものと言えます。
それだけではやはり、大きなベクトルが抜けています。それは「心」の側の「成長」のベクトルとして、そこにつけ加えたいものです。

事実その表では、「恐怖」の項目が抜けています。そして、魂感性土台だけでは、状況が変えられないのです。
一言でいえば、「知性思考」がやはり今までの「人の目感性土台」の上にあったものそのままでは、「恐怖の克服」はできません。



■「魂感性土台」と手を組んで「心」の真の役割が姿を見せる

大きな話の流れで言うと、「魂感性土台」の体験を契機にした、新たな段階の説明をしています。「魂感性土台」から、「人の目感性」が捉えたのとは違う人間像を想定しましょうという話をしています。
これは「魂」の側の治癒進展が可能にするものです。

それと手を携える形で、「心」の側に、独自の役割が求められるようです。「心」にやはり、「魂」を恐怖から守り、「魂」を「強さ」へと導く役割があります。
それはここまでの流れとして説明した範囲では、どうも出ていない。ここまでの実践では、どうじっと待っても「魂」は強くならない

具体的には、「サバイバル知性思考」が、ここで本当の意味を持つようです。
「感性土台の違い」と「サバイバル知性思考」がどう結びつくかに、大きなキーポイントがあるようです。
それを次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-37 / しまの
No.1287 2007/09/18(Tue) 14:43:51

■「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という状況変化

魂感性土台の体験から先の実践を説明していますが、同時に、心が置かれる状況にも変化が起きています。
実践説明をいったん置いといて、メカニズム説明を入れましょう。

それをまとめたのがこの表(HTML表直接表示不可^^;)
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/20070918tbl.html

この転換段階を最も特徴づけるのは、「現実感の増大」と「原罪感情の明瞭化」という2つを言えると思います。

「現実感の増大」というのは、文字通りの感覚で、体験してみないと分からない特殊な面もありますが、今まで何かの夢の中で生きていたようなのが、目が覚めたリセット感覚みたいなのがあります。

「原罪感情の明瞭化」というのは、今まで自己嫌悪を全て「理想からの見下し」としてしか体験しなかったものを、明らかにそれとは異なる嫌悪があるというのが意識で感じられるようになってくるということです。
それは結論から言えば、「理想を掲げて人に近づこうとした意識」そのものへの非難嫌悪であり、罪悪感です。

メカニズムとしては、この「原罪感情」が、来歴を通しての心を病むメカニズムとして上巻原稿で説明した、最も根源となる、幼少期の「根源的自己否定感情」が置き去りにされていたものが、遡り治癒過程として意識に現れるようになったものと言えます。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/08.htm

幼少期における根源と、学童期における「なるべき自分」による問題のぼやかし。
この大局構造が、ここでかなり見分けられるようになってくるわけです。

「幼少期における根源」が、意識の構造を変えるインパクトを持っており、そこから逃れるために、半夢状態の「空想を生きる生」という意識土台ができていたという構図になります。
ですから、治癒の進展によって、空想の殻が次第に崩壊し、現実感が増大するという治癒の一方で、それまで防御されていた、今までの自己嫌悪感情とはちょっと異質なものが意識に現れてくるという、新たな隘路の様相にもなることを考慮する必要があります。


■「原罪を受け入れ乗り越える生」へ

方向性の観点に戻し、手短にキーポイントを説明しておきましょう。

「原罪感情」が明瞭になるに従い、感じ取られる新たな命題とは、意識上においては次のような否定形になると思います。
「この悪感情においては理想通りになることさえ解決にならない」
理想像通りになるかどうかが問題ではない。もっと根本的な、自分の「人格」への不信嫌悪の問題となっている。
そう体験されると思います。

しかし、まさにその否定形の裏で見えない「未知」に、答えがあるわけです。それは、
「理想像通りになることではないところに答えがある」ということです。

どんな答えなのか。「未知」です。
それをできるだけ肯定形で先取り思考するのが、これからの実践になるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-36 / しまの
No.1286 2007/09/17(Mon) 12:52:43

■「2種類の他人像想定」というハイブリッド後半道のりへの関所

「開放感」「魂の愛への願いの感情」などの体験を通して、まず「魂感性土台」という、今までの「人の目感性土台」とは全く別の感性が自分の中に用意されていることを、しっかりとキャッチする。

そしたら次は、この2種類の感性土台の上にできあがる、2種類の人間像を知ることです。これは体験として知る話ではなく、まだ未体験の世界への先取り思考をするということです。まだ未体験ですから、心理学知識として学びます。
キモは、魂感性主体人間は、感情を人相手そのものに向けるのではなく「現実状況」全体に向けるということです。それは今までの人の目感性土台の中で「感じ取った人の目と感情」とは、実は全く別世界のものかも知れない。この想定をしてみることが、この先への前進にとって、とても重要になってきます。

その想定は今の自分にはできない。「軽蔑の目を持たない他人イメージ」など考えられない。
ならばまだこの折り返し時点より前の状況だということです。まだ自己操縦心性が強い状況で、空想が心の全てを覆っている状況です。そうして前進し得ない自分への絶望を感じるのであれば、それが心性崩壊の前進でもあるでしょう。パラドックスです。とにかく生き続けることです。

実は「軽蔑の目を持たない他人イメージ」を想定できるような、潜在的治癒にすでに来ているかも知れません。しかし今までの思考法があまりに骨の髄にまで染み付き、「人の目イメージ」を起点として考える思考に固執している結果、そうなっているかも知れません。
その場合は、今説明している「2種類の人間像想定」の実践にかかってきます。話は単純です。それができたら、この先に進めます。できなければ、この先には進みません。それだけです。
治癒がまだ不十分だからにせよ、思考法の固執にせよ、ここがハイブリッド道のりの後半から先に進むか進まないかの、明瞭な関所であることを心得て頂ければ。


意識実践上のポイントとしては、「開放感」「魂の愛への願いの感情」などを感じ、人の目イメージの圧力が減り、この世界と人々への穏やかな肯定感の中で人にはあまり感情を向けていない自分の状態をまず追想する。なぜ人に感情向けない状態になるかというと、それは当然のことで、「感情の箱」が自分内部の「魂の感情」で塞がれているからです。「人に感情向ける」というのもまた「感情」であって、それはちょっとこの塞がった箱には今は入りません。
そしてそれを今度はその状態にある他人を想定してみる。他人は他人で、他人自身の中の「感情の箱」が「魂の感情」で塞がれている。
まあそんな他人像を想定してみる感じですね。

一方、今での「人の目イメージ」の中の「人」は、自分自身が「人の目イメージ」を引き金にして起きた感情をまた人に向ける。そのままの同じ姿として「人」がイメージされていたと思います。

この2種類の人間像想定をできる自分の心の2形態を、まずしっかりと把握する。


■「人の目感性主体の自分」で「人の目感性主体の他人」に向かうパターン

次に、その2種類の人間像想定をできる、自分の心の2つの状態それぞれで、他人への行動姿勢がどうなるかを、また想定してみましょう。

自分人の目感性主体の感覚で、他人人の目主体でイメージされた時の行動様式は、次のように言えると思います。
「愛情の目を期待して向かい、それが報われない悪意に出会い、怒りを返す」

これは面白いほど(?^^;)、必ずそうなります。ほとんど自分と他人の事態状況を問わずです。これはもう内面メカニズムとしてそうなるんですね。
「報われない悪意」には、およそ3種類があるでしょう。はっきりと他人から向けられる、自分への不信軽蔑の目状況全体が、自分の向かう先を妨害するようになるという感覚。最後に、自分自身の内面気分が、自分の行動を妨げるふがいないものに変化するという、自分自身の内部にある「悪意」

そうなって「正常」です。なぜならば、「人の目」を目当てに行動するという心の動きそのものが、心の最根底において、それとは全く異なる行動姿勢が心の自然な成長の先にあるものという、最大の心の摂理命題に反するものを、自分が行おうとしているという、強烈な自己軽蔑が起きているからです。
逆にこれが起きないとは、人間性を損なった、自己本意に他人を踏みにじる行動に自分でも疑問を感じないという、心理障害とは全く別カテゴリーで心を損なった何かにあることを示すものと言えます。
まあそうしたケースの人間は、そもそもハイブリッドを読むこともないでしょう。

ただし、実のところその自己軽蔑を何とかはねのけようとして掲げられたのが、自己理想像でもあります。
つまり問題はあきらかに2重構造にあるということです。
「人の目」を目当てにするという心の動きそのものへの、深く強烈な自己軽蔑。これは「原罪感情」に関係します。
それをはねのけられるような、輝かしい自分の理想像そこから自分を見下す自己軽蔑。これは自然な望みである側面と、そうなれれば「原罪感情」をはねのけられるという錯覚の、2面を持っています。
後者は完全なる錯覚です。「原罪感情」はそんな生易しいものではありません。


■ハイブリッド後半道のりの治癒原理

この先の治癒の答えも言っておきましょう。
自己理想像の「自然な望み」の側面へと、成長していく心がより意識を向けることで、「望みに向かう行動」に踏み出すことで、必ず、人の目感性の中で起きている上記2重構造が露わになり、必ず、「自己理想願望」と「原罪感情」の衝突が起きます。
これは極めて苦痛度の高い感情状態になり、その中で、「自己理想願望」に含まれる、感情の膿に始まる病んだ要素部分だけが取り去られます。


これがハイブリッド後半道のりの、基本的治癒原理と言えます。
この極めて苦痛度の高い体験をうまくやり過ごすことで、さらに心の基盤が向上し、病んだ要素を減少させた「自己理想願望」は生き続けます。
そしてそれに向かう。するとまた、残った人の目感性土台に対応した部分において、「自己理想願望」と「原罪感情」の衝突が起きる。これがまた治癒になる。
この繰り返しです。

この観点で考えるならば、ハイブリッド道のりの後半とは、「原罪感情の衝突」を自己理想からの見下し問題とは別のこととして、意識が捉えられるようになった段階から先であり、またそう捉える形で、本人の意識実践上も進むべき過程だと言えます。

逆に、前半道のりでは、まだ全てが自己理想からの見下し問題としてしか見えない段階と言えます。

この大きく様相を異にする2局面の移行転換の前後について、引き続き考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-35 / しまの
No.1285 2007/09/16(Sun) 14:38:30

■「未知への積極的前進」の第一歩となる「現実とイメージの分離」

ハイブリッド道のりにおける「未知」は、「開放感」を代表とした「魂の感情」の体験としてほぼ理解することができます。

それは、人の目イメージが引き金になって揺れ動いた今までの感情の世界とは全く異なる、「この感情において生きている」と感じられるような、自分自身の中心から湧き出る感情における、プラスの増大、豊かさの増大です。その時、人の目イメージの圧力は、意識努力を超えて減少しているという、感性土台の違いが分かります。

こうした「未知」は、思考法の改善による現実対処の改善のような、「あらかじめ想像できる向上」を超えた、まるで自分の脳が変化したとさえ感じられるような、実際に味わってみないと分からない、とても良好な気分を得ることができます。それはこのハイブリッドの道のりが、自分が向かうべき正しい道であることを感じさせてくれるでしょう。

ただしこの最初の頃の体験は、まず間違いなく、全く予期することなく「向こうからやってくる」体験となるでしょう。実際、それはあらかじめ想定もできない自分の心の状態なので、自分からは意識して目指しようもないものだからです。ただ心の自然治癒力と自然成長力だけが、それを生み出すことができます。

「未知」そのものは、そのように自分で意識して目指しようもありませんが、それを促す方向への意識的努力はできます。
まあ「感情と行動の分離」から始まる実践の全てがそうではあります。ただし、建設的行動法への努力にせよ、初歩的な感情分析にせよ、その意識実践そのものは「未知」にはかすりもしないまま続けられるわけです。
そして大抵は、多少の心理崩壊などの谷間を経て、ある時突然、最初の「未知」が現れます。

そうして最初の「未知」の体験によって、「魂の感性土台」という、具体的な「未知を生む構成部品」が手に入る。
そしてここまでの説明で、この「感性土台」という「未知を生む部品」によって、外界の人間像がどう違ってくるのかを説明しました。

ここにおいて、次の一歩は、意識実践そのものが「未知」にかかり、「未知」を拡大する作業になる段階になったのだと言うことができます。
それが「現実とイメージの分離」です。


■「現実とイメージの分離」の意識実践

先のカキコでは、「魂感性土台による他人認識と人の目感性土台による他人知覚を心の中に両立させる」ことと書きましたが、ここではさらに、本人の意識上の実践内容を説明しましょう。

まず言えるのは、「自分にこんな目こんな感情が向けられた!」と感じる体験があり、それを取り組み材料にするのですが、もう決して、「向けられたと感じた感情は事実か」「現実か」という思考法をしないことです。その思考法をやめる

事実、その29/30で書いたように、多くの方が、自分に向けられたと感じた他人の感情イメージについて、「このイメージは現実か?」という問いに悩み、状況においては「事実以外のなにものでもない」と確信し、それでもあまりに一人相撲な揺れ動きに疲れた時、「何が現実か分からない」と感じます。

そうした思考法をやめる。
それは「イメージした感情は現実ではない」と考えることでも、「感情イメージを全て排除したものを現実だと考える」でもありません。後者に近い言葉原理原則思考などに関連し述べたこともありますので、ここでより正確な内容を書きます。

「イメージは現実か」「事実か」という思考法をするのではなく、またその思考法での答えを求めることもせず、「イメージ」と「現実」の2つが両方あるという思考法をします。

1)「人の目イメージ」は他人よりも自分の「心の現実」を示すものと考える

まず、「自分に向けられた目と感情のイメージ」がある。これは自分自身の「心の現実」です。

これは最後まで否定しようがありません。結局行動の原動力は感情であり、感情はイメージを補助にしている限り、最後までそれとのつき合いが必要です。それは時に勇気や望みを与えてくれるものであったり、逆に失意や痛みを与えるものであったり、また冷静になるために邪魔で足手まといなものであったりします。

そのように、「人の目イメージ」が起きるということは、それ自体が我々の心の成長や治癒の状態を示す、厳然たる「現実」です。
まあ大抵は未成長治癒未了を示すものでしょう。しかし同時に「人の目」が「望み」への原動力にも事実なっている。これは受け入れる必要があります。
決して、「人の目イメージ」を度外視した思考法を確立して進む、という話をしているのではありません。これは9/12その27でも「常に共存の中にある」と言ったことです。

つまり、「自分に向けられた人の目と感情のイメージ」は、「現実の他人」をどう理解するかよりも、自分自身の心の状態、心のメカニズムを理解するための事実として捉えるということです。
どんな状態どんなメカニズムでイメージが起きるという捉え方をするために、感情メカニズム理論の勉強が必要です。つまりここで、「人の目イメージ」は、外界他人の理解よりも、自分自身の感情分析の材料になってくるということです。

2)現実外界の他人については2種類の人間像を想定する

では「現実外界の他人」については、「人の目イメージ」においてどう考えればいいのか。
今まで説明した「2種類の人間像」をしっかりと理解し、まずその両方を想定してみる努力をして下さい。


まずは、「本音を言わない腹黒い烏合の衆」とイメージしたのとは、全く別の魂感性主体の人々が、イメージにおいてはそう見えただけかも知れない。
まずこの想定をすることに意味があります。これを全くしないで、「腹黒い烏合の衆」と100パーセント思って人と社会に接するのとでは、それだけで天と地の違いが出てきます。

そうした可能性想定もした上で、相手の言動を良く観察してみるのがいいでしょう。
実はその結果どっちに行くか、つまり「魂主体の人なのかも」と思えるか、それとも「やっば悪意攻撃の人間だ」あまり重要ではありません。
なぜなら、どっちにしても、対処行動の原理原則は同じになってくるからです。


ここでまた、2種類の人間像を相手にした行動法の詳細検討を説明する必要があります。どうなってそれが同じものになっていくのか。
これがハイブリッド折り返し中間地点における思考転換の、一番大きなキモになってきそうですね。


心理学本下巻に向けての考察-34 / しまの
No.1284 2007/09/16(Sun) 10:03:25

■「魂感性への立脚」からのハイブリッド道のり

さて「開放感」や「魂の愛への願いの感情」などの「魂感情の体験」を得て、それを足場にした先の実践内容を整理していますが、また全体整理しておきましょう。

「魂感性への立脚」として、以下を説明しています。
1)2種類の感性土台の体験的理解
2)魂感情と人の目感情の位置づけ理解
...「人の目感情」は文字通り「人の目」の強いイメージから始まる感情で、障害メカニズムが生み出す面と、自然で健康な未卒業の幼少情動の側面があります。(9/12その27)
3)人間観と社会観の選択(目指す健康な人間像)
  3.1)2種類の人間像の違い理解
...これについて解説中
  3.2)2種類の人間像への思考法行動法
  3.3)目指す人間像の選択


「魂立脚からの原理原則(価値観)思考」「魂立脚からの感情分析」が、ここから開始することができます。この実践はこの後も継続して、生涯続けられるものという位置づけになります。

平行して「未知への実践」というのも出してみました。(9/13その31)
1)未知への選択...ハイブリッド実践のスタート
2)未知の体験
...「魂感情の体験」とほぼイコール
3)未知を望みと位置づける
4)未知を先取る「未知に向かう強さ」へ


「未知に向かう強さ」はどの段階で獲得できるか。
これはまだ上記「魂感性への立脚」だけでは得られません。「未知」へ向かう内面過程を正確に理解し、かつ自らそれに向かう形で「未知」を増大させる体験を実際に一度は持つことが条件となり、かつそれを自分の人生の方向性として確信を持つことが、「未知に向かう強さ」の獲得になります。
このために、「魂感性への立脚」の次「現実への立脚」がやはり出てくる。

「現実への立脚」については後で詳しく考察しますが、「不完全性の受容」つまり「否定価値の放棄」はここに含まれると思われます。
恐らく、「否定価値の放棄」と同時に「未知に向かう強さ」が獲得されるように思われます。

以上が、ハイブリッド道のりの中間折り返し地点です。この中間折り返し地点に、多くの内面変革が集中するわけです。

その後に、最後の段階「魂の望みに向かう」が出てくる。人間性の根底からの変化は、ここから始まります。
ここから先は、もう頭で理解して実践する理屈項目はありません。頭で考えるのを完全に超えた世界です。人間の心の最も深遠な世界を知る段階であり、一番面白くなります。


■「現実」と「イメ−ジ」の分離

さて上記のようにまた全体整理したのも、「2種類の人間像の理解」に絡んで、これら中間折り返し地点の重要な節目要素を、もう一つ定義したいと思ったからです。
それは「現実とイメ−ジの分離」です。

これは、魂感性土台による他人認識人の目感性土台による他人知覚を心の中に両立させる」ことだと定義できます。
これは感性と思考をまたがっての、心理学的な技術と言えます。感情分析がワインのソムリエのように体験を積み重ねる習熟が必要であるように、この「現実とイメ−ジの分離」も、微妙な感覚把握と、さらに一定度の治癒完了が前提になります。

「一定度の治癒完了」が前提という通り、これは実践であると同時に、これができることが治癒完了度合いのかなり厳然たる指標になると思います。
逆に言えば、これが難しい段階とは、心理障害としてまだかなり深刻な状態ということです。心が幻想に覆われている段階です。

これを考える段階としては、上述の「魂感性への立脚」での「3.1)2種類の人間像の違い理解」と「3.2)2種類の人間像への思考法行動法」のになると思います。先のカキコでちょうど解説しているような話を受けてです。
つまり、2種類の人間像の違いを理解して、心の中に、人の目イメージに対応する対人思考世界と、魂感性に立脚する対人思考世界の、2つの思考領域を確保することだと言えます。
結構難しい話になってくるかも知れませんね。

それができて、つまり2種類の思考法領域を頭の中に用意して、「2種類の人間像への思考法行動法」を考えるという、高度な実践に進むわけです。

相変わらず難解なとお感じの方も多いかとは思いますが、これは「原理原則思考」や「感情分析」というハイブリッドの実践を説明して、やってもらっているにも関らずに、どうも僕自身が変化したようには変化しない方が結構おられる。その理由となる姿勢の違いを分析した結果、こうした理屈をどんどん追加している次第です。
目の前に現る動揺感情は、誰のものも、かつての僕のものも、同じです。しかし僕が意識的にやったことをやってもらっただけでは、変化しない。意識的にやったことだけではなく、それをやった背景意識、背景姿勢に鍵があるのではないか。そうして分析研究している訳です。
それが「現実とイメージの分離」などと定義できる、かなり特殊な姿勢だったと。

そんな位置づけとして、詳しい説明に戻ります。


心理学本下巻に向けての考察-33 / しまの
No.1283 2007/09/15(Sat) 12:14:25

■人の目感性主体における「仲たがい」の心理の流れ

親愛行動絡みの様子の考察の最後に、ちょっとした仲たがいの場面で起きる心理の流れのパターンを見ておきます。「ちょっとした」程度のものということで、深刻な失恋や離婚など重いものは除きます。

これが、魂感性主体と人の目感性主体とで、天と地の差が出てきます。そしてこれが我々の日常生活で実に良く起きることであることにおいて、これがその人の「行動原則」を実際のところ作っているようなものになります。

ですから、この全く異なる2種類の人間像の心理行動様式の違いを理解し、そうした知識を、この混成からなるこの現実世界における人間集団、そしてこの社会全般というゲーム舞台の中で、相手プレイヤーの心理の流れをどう読み、どう対処するかの基本前提とするのが大切です。
その中で、自分自身の心の方向性として、そして共に活動する相手を選ぶ上で、より健康で豊かな心の方向性になる行動原則を選択することが、人間関係および社会における「勝利」に確実に導くものになるわけです。


まず言えるのは、人の目感性主体だと、ちょっとした仲たがい「愛情喪失」反応「屈辱」反応が起きることです。出来事が「親愛に値しない相手だと見下された」と捉えられるからです。
悲しみと困惑と同時に、自分が相手より人間として格が下だと決めつけられた感じがして、怒りが湧きます。そしてこの屈辱への怒りの反撃として、人間として格下なのはそっちの方だという軽蔑攻撃に出るというのが起きがちです。

これに対する相手の反応が、人の目感性主体と魂感性主体とでまるっきり違ってきます。

相手も人の目感性主体である場合は、軽蔑攻撃バトルへとエスカレーションしやすい^^; 互いが、自分に向けられた非難批判を、悪意によって人間的劣性を決め付けようとするものだと感じ、次第に仲たがいで問題になった本来の話から、相手の「悪意」を非難軽蔑攻撃することに内容が移ってくるからです。大抵話が抽象的な「善意とは悪意とは」という話になり、際限がなくなってきます。ネットの中傷合戦でありがちですね。

どっちが人間として駄目かと攻撃し合うような姿になってくる。相手が反論できないような捨て台詞を決めた方が勝ち、というような。そうはならじと、言われたことには必ず一言言い返す、という行動が見られがち。


■魂感性主体における「仲たがい」..?

魂感性主体の場合は、そもそも、意見や趣味嗜好の相違による不調和が、「仲たがい」つまり仲の悪くなる出来事として当人達に受け取られること自体が、あまりないという状況があります。

これは9/5その20で紹介したバーンズの資料の言葉での、「チェリーパイよりアップルパイの方が好き」というだけの話です。つまり考えや行動が相手と合わないのは、単にレストランで「私ラーメン僕カレー」というのと、全く同じ話に過ぎません。
魂感性主体では、「感情」がそもそも人そのもの真正面に向けるという形ではあまりないので、基本的に、相手に対する否定的感情を表現することはないし、そもそも人相手に否定的感情を感じることが少ない傾向にあります。

これは時に、表面上は互いに怒りを向け合ったような事態においても、そうであり得ます。相手の人間そのものに怒っているのではなく、相手の考えがもたらす不都合に怒る。外から見れば喧嘩のような姿にもなる。
しかしその後、何もなかったように互いに親しそうな様子に戻るのは、人の目感性主体の人からは、あまりに奇異に見えると思います。これは僕自身大いに身に憶えがあります。喧嘩した後に仲良くしている人を見て、何かあまりに非人間的な嘘を演じているという感覚さえ感じた気がする。


■「感性の違い」の上に誤構築される「社会を前にした恐怖と絶望」

実はそこに、心の障害傾向に悩む人々が、自らを「一般人」とは一線を引いた「メンヘラー」と位置づけ、「普通の人々」との間に不信反発を宿した深い溝を抱きがちな理由があるのかも知れません。

その端緒はあくまで、「感情」というものを基本的に人そのものを相手に向け合うものと感じる感性と、人そのものよりも「現実状況」全体に対して向けるものと感じる感性という、「感性の違い」に始まっています。
「普通の人々」への不信反発を構成するものとして、これが障害メカニズムとしての土台要因になります。

あとはこの「感性の違い」の上で起きる、さまざまな「誤解」と、その「誤解」に対してさらに病んだ心の感情を向けることの先に、この社会に面することへの「恐怖と絶望」が「誤構築」される。そんな印象を感じます。

その「誤解」とは、まずは、「普通の人々」とは「本音を言わない馴れ合い集団」だと感じるものです。健康な大人の心においては、そこで「本音」と呼ばれるような、人相手の好悪感情のようなものはそもそもあまりなく、「人そのもの」に対しては、概して平坦で穏やかな肯定感情があるのが「普通の」健全状態です。強い感情は人そのものよりも出来事全体に向けられる。

ただし現代社会においては、ここに、自分の人生から退却して情動全般が希薄化し自動生活機械化(^^;)した、心を病むメカニズムの先に生まれるもう一つの病んだマジョリティ人間像が合流してくるという状況があるのを否定できません。
人そのものに感情を向けるのではない様子そのものは、魂感性が主体となった結果としてのものと、情動全体が希薄化した自動生活機械人間のそれと、外見としてはもう全く同じになってくるからです。

そうした「感性の違いによる誤解」の土壌の上で、さらに病んだ心の感情が向けられる。これはつあります。

まずは愛情要求です。親が子供を誰よりも大切にするように、人々が自分を大切に扱ってくれることを「愛情」と考えるのが、やはりある。
これへの逆境は、「現実」そのものになるでしょう。現実はそうゆうものではありません。もう互いが大人だという前提で皆が行動しています。そして「社会の厳しさ」というのも場面に応じてある。軋轢やいざこざはどこにでも起きます。時に怒りを向け合う。しかし「普通の人々」はその後、何もなかったように仲良くする。全く理解できない。

かくして、「普通の人々」というのは、「本当の愛情」のかけらもない、本音を隠した腹黒い烏合の衆だという他人像が生まれがちになります。生まれがちというか、必然的に生まれる定型像かも知れません。

誤解を背景に向けられる感情その2は、自尊心です。上述の他人像において、その「精神性の低さ」に対して極めて敵対攻撃的な軽蔑感情を抱くことにおいて、自尊心を維持するわけです。
この結果は、「報復敵対への恐怖」です。自分が敵対軽蔑衝動を抱いたことにおいて、もはや意識思考で他人のことをどう考えようと努力しようと、自分に敵対的な攻撃姿勢を返す他人像が基本的感覚として生み出されるからです。

誤解を背景に向けられる感情その3は、そうした他人像が帯びる「悪意性」の感覚を生み出す、「情動の荒廃化の反転」です。
これは他人を痛めつけ傷つけることに快感を覚えるという荒廃性が根源です。これはまず本人の意識においては、その荒廃性の色味だけが「アク抜き」されます。これはもちろん、荒廃性をそのまま自分のアイデンティティ化させ、快楽的破壊行動に走る人間像とは対照になる、良心を維持した道徳的態度を獲得した姿勢です。それでも、破壊に快を覚えるという「悪性」が、根本的には克服されないまま残り続けるのが、「情動の荒廃化の反転」です。

僕の体験では、この「情動の荒廃化の反転」は、最も最後まで残り続ける問題です。そしてどうしても、他人が悪意で何か攻撃的なことを自分に向けるという感覚が、どうしても残りやすい。
この根本的解消は、この後説明する取り組み道のりを通して、現実的に他者との攻撃的関係をすぐに解消できる行動力を身につけた先の感情分析という、かなり遥かなる目標だと言えます。

かくして、「普通の人々」とは本音を言わない腹黒い烏合の衆であり、高い精神性からそれを軽蔑する自分に対して、極めて悪意に満ちた攻撃が用意されている。これが典型的な他人像社会像になるわけです。
そして最後に加えねばならない状況として、実はこの人は、「普通の人々」がとうの昔に卒業した、幼児の愛情要求と恐怖心を、今だに抱えているのが現実です。本人の意識がどんなにそれを認めたくないにしても。

こうなるともう絶対にとも言える形で、社会を前にしての恐怖と絶望に駆られるのは必至です。


感性土台の違いから、「感性のズレ」そして「親愛」の様子といった話を始めましたが、結局、心を病むメカニズムの先に生まれる「他人や社会との関係阻害」についての総合的整理になってますね。

克服は、「感性土台の違い」という一番の土壌違いにあることに目を向けることから、道が開けるものになるでしょう。自分がイメージしたのとは全く違うものが、実は他人なのかも知れない。そこから、「感性土台の違い」の上に誤構築された恐怖と絶望を一つ一つ解体して克服する歩みが開かれるわけです。

誤構築を解体するために参考となる、「恐怖と絶望」の設計図についてもう少し続けます。


心理学本下巻に向けての考察-32 / しまの
No.1282 2007/09/14(Fri) 10:15:17

話を戻し、まず2種類の人間像における「親愛」の様子について。
こうして異なる感性土台をシミュレーションしながらの思考をすることで、先のカキコで言った「未知の先取り」が始っているんですね。

■人の目感性主体人間像における「親愛」

人の目感性主体においては、「相手に向ける感情」としての「愛情」を、互いに与え合うことが「親愛」であるようにイメージされ、その線にそった親愛行動への努力が成されます。

「努力が成される」だけであって、実際の親愛が生み出されることは、あまりありません。
それが成功する場合においても、それは「相手が愛情を与えるに値するという評価を与え合う」ことの相互の取り決めのような、暗黙の約束暗黙の了解のようなものが、その「親愛」を束ねるちょうつがいのような役割を果たします。そしてその「了解を得ている」というような安心感の上に、親しみを演じる行動が可能になる、というのが基本になります。

まあうまく行けばそこに自然な親愛が含まれてくることもあるでしょう。しかしその行動の歯車自体が必然的に生み出すものとして、「拘束感」「相手への嫌悪感」が出てきます。
相手の何が嫌というものが具体的にあるよりも、その相手に向くと「拘束感」が出てくることへの、生理的反発とも言えるものです。意識上は、相手への嫌悪感となって体験されます。もしくは、相手への愛情感覚の消失となって意識に表れるでしょう。

それは当然、「了解」の上に成り立つこの「親愛関係」を壊すベクトルになります。愛情要求からくる親愛衝動と、拘束嫌悪感との板ばさみにしばし揺れ動く先に、どっかで断ち切られるのが基本的な流れになります。

この「断ち切られる」タイミングの問題として、「断ち切る」側は、拘束からの逃避が意識表面になる一方、「断ち切られた」側は、事前通知なしに梯子をとり外されたような、動きの取れない「裏切り」にあったという感覚を感じます。そして怒りが起きます。
これが基本的な流れ。

いつまでも人間関係が育たず、それができている人間達への嫉妬も感じます。そしてそれがうまく出来ている人々が、上述のように使う「暗黙の了解」を与え合っている姿を、とても「不公平」だと感じます。人々がつるみ合って、自分だけを排斥していると感じるわけです。他の人同士では与え合っているものを、なぜこの自分には与えてくれないのか。

実は別に「与え合っている」のではありません。
魂感性主体における「親愛」の様子を理解し、そこから人の目感性の「親愛努力」がどう映るのかのシミュレーション追想ができれば、自分の置かれたハンディを理解し、自らを助ける方向への転換の道が見えてくるのではないかと思います。


■魂感性主体人間像における「親愛」

魂感性主体の人間像においては、明瞭に誰か相手に向ける感情よりも、「この感情において生きている」という漠然広範囲の感情におけるプラス感が、各種の行動の原動力になります。

ですから、親愛行動の引き金は、愛情要求よりも、またその相手への感情というより、何らかの活動への好奇心や楽しみになってきます。その途上で、相手と好奇心や楽しみが触れ合うと、そこに感情が共鳴したハーモニーが生まれます。するとそれがまた楽しみとなるので、この行動全体が持続されるわけです。結果、外から見ればそれが親愛の姿になります。

つまり、もともと「親愛そのもの目当て」ではなく、何らかの活動への楽しみ動機があるのが、もっとも健全で自然な形と言えるでしょう。その結果、「親愛」は特に意識されることなく結果として生まれている、という形になります。

興味深いのは、完全に魂感性100パーセントの人というのは現実的ではなく、人の目感性も共存していることです。そして人の目感性の側が、このハーモニー状態を捉え、心の片隅にある愛情要求への報酬のような刺激を与える場合があることです。

この先は、上述の人の目感性主体での流れとの混在となり、行き先はかなりバリエーションが出てくるでしょう。
根深い問題が潜んでいた場合、自然な親愛が見失われ、人の目感性主体の「与え合い拘束し合い」パターンにすっかり切り替わってしまい、関係が破壊されるケースもあるでしょう。
ごく軽い愛情要求が底流にある程度、まあこれが現代人のマジョリティになると思いますが、自然な親愛をベースとする中で、ハーモニー状態を強調し一種の儀礼化して維持するものと、逆にあまりハーモニー状態を意識しない態度を維持するのと、おおよそ二分されると思います。これは社会文化にもなります。アメリカ人などは前者、日本人は主に後者の側にあるのではと。

いったんここでカキコ。親愛行動絡みの心理の流れについて、あとちょっと少し続けます。


心理学本下巻に向けての考察-31 / しまの
No.1281 2007/09/13(Thu) 12:24:53

■2種類の人間像における「愛」「自尊心」「恐怖」

いままでの話をまとめると、「人の目感性土台」では、自分に向けられた目と感情の強いイメージから始まり、それへの反応としての感情、その相手にどう対応するかという思考が起き、結果の感情を相手に向ける、という様子になります。
「魂の感性土台」では、「この感情において生きている」という「魂の感情」が行動の基盤となり、人の目イメージは圧力を減らして体験され、対人関係においては、感情はあまり人には向けません

ではこの延長で「愛」「自尊心」「恐怖」という問題がどうなるかを説明しましょう。

特に「対人関係において感情はあまり人には向けない」というのがどうゆうことか、想像もつかない方がおられるかも知れません。そこを、2種類の感性土台を体験し、頭の中でそれを追想できるようになった段階からは、その先を積極的にシミュレーションしてみるのです。魂の感性土台の上に成長する、「未知」においてはどうなるのだろうと。


■未知を先取りする

ここでちょっと「未知への治癒論」考察を入れておきます。抽象的で難解かと思いますが^^;

上記のようなシミュレーション思考が実は「未知を先取りする」ということにつながってきます。
「未知」の実際の「味」はあくまで未知ですが、その基盤は魂感性土台としてあくまで心にもとから備わっているので、その先で動く感情や思考の大枠は、多少は見通しを持つことができます。まあこうした説明を学んでもらうという補助も得てです。

同時に、自己操縦心性もそれを知っているのです。本人が意識する以上に。
まあ何を知っているかというと「未知」というよりも、魂感性土台の感情について、自己操縦心性は良く知っています。そして本当の問題が魂の感情の側にあることを知りながら、いや知っているがこそ、感情の膿による意識の破綻から逃れるために、魂における問題をカモフラージュした人の目感性土台を作り出しています。

魂感性土台をシミュレーションしながら行う思考作業は、自己操縦心性によるこのカモフラージュを解く効果があります。
その方向で思考法行動法を検討する原理原則思考が、まずそのカモフラージュのベールをはがす効果を持つことになるでしょう。そしてその延長で、人の目感性土台で揺れ動く自分の感情を感情分析することは、自己操縦心性が目をそらさせようとした、意識の破綻の谷底への視野を開かせることになります。

そこに、「望みの果て」があるはずです。意識の破綻を伴いながら。
それをしっかりと見届けることです。

これが、人の目感性土台で揺れ動く感情にただ乗って、奈落の底へと落ちるのとは異なる、違う視野を開かせるはずです。その先に「未知」があることが、同じ揺れ動きの中でも見えてくる。

これが未知の先取りとなり、未知を増大させます。そして「未知に向かう強さ」という新たなる内面の力を与えます。なぜなら、「未知」は漠然と待ち受けるだけではあまり増大せず、「未知を知る心」において良く育つからです。
この「未知に向かう強さ」自体が一つの「未知」であり、その21で「未知への成長を望みと位置づける」といったような、「未知」をテーマとした実践そのものの次の段階ということになるでしょう。

「未知への実践」とはつまりこうなりますね。
1)未知への選択
2)未知の体験
3)未知を望みと位置づける
4)未知を先取り「未知に向かう強さ」を獲得する



■「未知に向かう強さ」を目指す

4)が「未知への実践」の一つの完結であり、ハイブリッド取り組み全体における大きな道標になるでしょう。
あくまで折り返し中間地点の道標です。根本変化はこの先に始まります。

「未知に向かう強さ」メカニズム論的位置づけは、2つの感性土台を人格内部の射程圏内に捉えるということになるでしょう。それまでは、2つの感性土台のどっちかが優勢になるごとに、人格が入れ替わる分裂状態。分裂の一部がばらばらの人格である状態から、人格の中に分裂を収める状態へ。

それは同時に、心性崩壊と感情の膿の放出が、2つの感性土台をまたがって、自分の行く先にあることを視界に捉えることができる状態ということになります。当然その先の「未知」も、視界に入ってきます。

これがまずハイブリッド実践の一つのターゲットになるような気がしますね。これを得れば、あとは右肩上がりで生涯続く向上への幹線道路を進むことができるでしょう。メール相談でなんとか来たケースにおいても、一人立ちが可能になるのはこの時と言えそうです。

そうした「未知に向かう強さ」というテーマをまず意識することからですね。


心理学本下巻に向けての考察-30 / しまの
No.1280 2007/09/12(Wed) 16:27:13

引き続き、前掲載への質問にさらに返答解説したもの。

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■「相手の感情無視」は人の目感性側に危険度大

>となりますと、場合によっては実際と大分違ってしまう事もあり得ますね。明らかに怒り出すまで相手の感情を察知できないと「気が利かない鈍い奴」と低評価を受ける可能性もありますね。

これは実は、「相手の感情を察知」できるかどうかにはあまり関係ないというか、人の目感性主体の方がむしろその危険が高くなるように感じます。

これはまた説明を追加せねばなりませんが、人の目感性では基本的に心理疲労が大きいので、当然対人感情全体からの退却も起きやすくなります。一種の感性麻痺に一時的になりますので。

魂感性主体の場合は、説明したように「感情をありありと察知する」のではなく、言動から理解します。これも頭で考えてではなく感覚で即座にです。
従ってそのような問題は基本的な傾向としては起きません。
本人が意図的に怒りを無視することも可能です。「鈍感力」とか言われますね。

Aさんの場合も、もし人が怒っていたとして、魂感性土台にいた時でも、それは見て分かるとシミュレーションできるのではないかと思いますが、どうでしょう。こうしたシミュレーション作業はいい実践です。

「他人に全く無頓着」感覚は、魂感性というより人の目感性の一時麻痺ですね^^;


■「相手の感情が現実か」という問いの脱却へ

>相手の感情は、「魂の感性」ではあくまで現実ではない。しかしそれがもし現実であったとして、それに動揺するのは「人の目感性」ですよね。

いえ、相手の感情は、こっちの感性に関らず、まず直接体験するのは相手自身しかあり得ないことを理解下さい。
他人の感情を人が「直接」体験することは科学的にあり得ません。それはまるで幽体離脱して相手の中に入り込むというような話になってしまいます。

その上で、魂感性と人の目感性での「相手の感情」の感じ取り方の違いは、基本的にそれをうまく描写する言葉を、人間は持っていません。
Aさんはそれを「現実かどうか」という言葉で考えようとしていますが、それが大きなネックになっています。この先の実践においてです。これは比較的深刻な障害傾向の人にかなり共通するネックです。

実直に表現努力すると、こうなります。

まず、相手が何かの感情を抱いた。これが「現実」だとします。
次に、こっちからその相手の感情を「直接」見たり体験したりすることはあり得ません。これがまた「現実」です。
これはいいでしょうか。「現実」として厳密に言えるのは、それだけなんです。


■人の目感性は「夢の中で人を見る」感性

で問題はその先、どうそれを「感じ取る」かの仕方が、かなり違うということです。
一番分かりやすい例えをするなら、人の目感性では、「脚本に書かれたこと」として人の感情を見るという傾向があるように感じます。

例えば映画や小説で恋愛ストーリーが書かれたとして、登場する人物が互いの気持ちを知らずすれ違うとします。お互いが、相手の本当の気持ちを知らない。
でも読者は互いの本当の気持ちを知っています。なぜなら、脚本にそれが書いてあるからです。映画では、互いの心の中のつぶやきが音声となって、観客はそれを知ることができます。

人の目感性は、そんな風に「脚本に書かれたこと」として人の感情を見るという感性です。

それは別の例えで言えば、「夢」の中に出てくる他人の見方と同じです。
「夢」では、他人の感情はかなり「既定値」として貼りついて出てきます。もともと、相手の様子から感情を察知するというより、自分の心の中にある、「こんな感情を自分に向けたあの相手」というイメージの描画ですから。

実はこの「夢」は、例えというより心理障害メカニズムそのものになってきますが。


■「建設的」という課題から「半夢状態の脱却」課題へ

ですから、人の目感性の人は、「相手の“この感情”は現実か」という問いに良く悩みます。でも問題は、“この感情”が鎮座していること自体にあります。
それは夢の中で見た相手の感情と似た体験になりますので、「現実か」という問いがどうしても本人を悩ませます。

心の健康からの問題は、夢の中で見た相手の感情と、現実の相手の感情が同じかではなく、夢を通して現実を見ていることにあります。

はっきり言って、厄介な問題です。「病理」の克服が、ここに掛かっているわけです。
先日もAさん自身、「ふと夢から覚め、我に返ったという感じ」と書いてくれましたが、その違いが、対人知覚にも起きるということです。

魂感性土台を一度体験したら、ぜひそこに積極的に意識を向けて欲しい、というのが今回の主旨です。

見て取る相手の感情の内容、そしてそれに反応しての思考法行動法の内容が課題というよりも、夢で見るように相手の感情を受け取り、当然、過剰反応になる傾向を、補正できる思考法の確立という課題です。

人の目感性土台の減少は、Aさんも体験しているように、心性崩壊による治癒状況にほぼ依存し、感性土台そのものの基礎工事は思考法ではできません。
それでも、魂感性土台が視野に入ってくる段階になれば、多少はシミュレーション思考ができるのではと。

それを積極活用し、「半夢状態を脱却した思考法」が、今話していることの目標になります。
このテーマは「建設的」ではないです。「半夢状態の脱却」なんですね。


■「相手の怒りへの恐怖」への感性土台の影響

相手の怒りに動揺するかどうかは、まず感性土台だけの問題ではありません。相手の位置づけや、背景にある対人衝動との関係によります。
動揺するのは「人の目感性」とは限りません。相手が権力者で、その怒りがこっちの境遇を悪化させるのであれば、怯えるのは健全とも言えます。

感性土台の影響は、上で「夢の中」と言った、まさにその形で起きます。

人の目感性では、相手の怒りの感情そのものに怯えます。怒りの感情そのものは抜きにして、それがどんな現実的かつ客観的波及結果を生むかという面での怯えは、むしろ欠落するのが特徴です。夢ではそんなことはあまり描かれませんね。

また、相手の怒りの感情そのものに怯えるのは、基本的に幼児の特徴です。幼少期に始まる心の障害は、それが残るわけです。

魂感性土台が主体になると、相手の怒りは当然圧迫感を減らしますので、怯えは概して減少します。あとは思考法行動法と、その積み重ねによる「心の鍛え方」という話がやはりあります。

>「現実である相手の怒り」を恐怖するのは、以前メールにあった「現実を恐怖する」ということと、どう関連してくるでしょうか?
>人の目が事実であろうとなかろうと、魂の感性では、人の目感性ほどの圧力はないという事ですが…でも結局その怒りを事実と認識したのであれば、恐怖を感じる事には変わりないのですよね。


この質問への答えがそれになりますね。
「現実を恐怖すべし」は、相手の「相手の怒りの感情」ではなく、相手が怒ることの現実的結果を客観的に判断して、そこにあり得る危険をしっかり恐れなさいということです。
一方、相手に怒りの感情があるだけで、客観的には何の結果も伴わないのであれば、恐れる必要はないということですね。「空怒り」というやつです。

>単純に言って、憶測の域を出ないのであれば、楽観的に構えるか、悲観的に構えるかという違いのように思えるのですが。。むろん<人が人に見て取る「感情」は本人が抱くもの>という認識がありますので、ありありと見えたにしろ、きっと違うのだろうと考える余地はありますが。

楽観か悲観かの違いとは、次元が違うのが分かるかと思います。
まずは夢を見るのと、目を覚まして現実を見るのとの違いとの相似。
あとは、「相手の怒りの感情そのもの」を恐れるのか、それともその「現実的結果」を見るのか。魂感性主体だと、基本的に「相手の感情」にはあまり悩まないです。「気づかない」ではなく。「この感情において生きている」が元から前向き感情になっているからです。その点では楽観側に行くでしょう。

>そうではなく、「魂の感性」土台であれば、そもそも「ありありと」感じる事がない。その違いは、頭で考えて決める事ではなく、感じ取った経験からしか分からない。だから楽観.悲観という問題ではなく、その「魂の感性」の割合を大きくしていこうと…いう事でしょうか?

まず一度は感じ取った経験がないと、違いが分からないと思います。
でその後は、上で出したような「シミュレーション思考」が実践になります。魂感性の割合を大きくするのは、基本的に心性崩壊が大規模な仕組み。

あとは「シミュレーション思考」をふんだんに活用した、魂感性土台からの原理原則思考と感情分析が、地道にこつこつと魂感性土台を増大させていく作業になります。これが脳のミクロなブレイン・サージェリーになるわけですね。
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心理学本下巻に向けての考察-29 / しまの
No.1279 2007/09/12(Wed) 16:21:09

「2種類の人間像を相手にした思考法」に行く前に、魂立脚人の目立脚での「感情の受け取り方」の違いについて、返答メールとして書いたものを掲載しておきます。

2つ。まずざっと説明したもの。

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「魂感性土台からの原理原則思考」という次の重要課題への、再度準備的な話です。

ちょっと難しいというか、面倒な話ですが、とにかく重要なポイントなので理解あれ。
「他者の感情認知」についての基礎講座みたいな話です。


■とにかく「魂感性土台」を足場にするのがハイブリッド^^;

>ちょっと混乱気味ですが。

僕もどう説明するのがいいかと混乱気味です^^; 特に久しぶりの相談者にここ最近のハイブリッド進化を踏まえた説明をしようとした時など。
できるだけ単純化した骨子を打ち出すようにしたいと思っており、それで言うと、とにかく、

「2つの感性土台の違いが分かった先は魂感性土台をベースに各種実践を再方向づけする」と言いたいと思っています。
それを大枠として、原理原則思考なり、感情分析などの各論が出てくる。

>「なんでもあり」というのは否定的なものをも含めて何でもあり、なんですね。そしてすべての感情は、最終的には望みに繋がっていると。

これはYesですね。

>「人の目を気にして望みを捨てる」事も、また何かの望みの表れであるということで、それを分析し追求するのが「望みの追求」になるのですね。

これもYes。

>人の目感性土台で起きる「人の目が現実かどうか」は感情分析のプロセスの一つとして含まれる事、ですね。

これは文章表現の問題かも知れませんが、
「人の目感性土台で起きる人の目が現実かどうかという懸念」は、もっと話を単純化して、「人の目イメージ」は「現実」ではありません。
「人の目が現実かどうか」を感情分析で検討することは、ありません。

「魂感性土台」においては、「人の目イメージ」は「現実」とは映りません。
人の目イメージ」が「現実」のように感じられるのが、「人の目感性土台」です。

まずは「どっちが正しいか」という以前に、「魂感性土台」をベースとして、つまり「人の目イメージ」は「イメージ」であり「現実」ではない、という思考法に立った感情分析をしましょうというのが、ハイブリッドの「感性区別」以降の実践だということです。

これがどうゆうことかの説明を今回しましょう。


■魂感性土台と人の目感性土台では「感情察知」の仕組みが違う

まず、取り組みを始めた動機となる感情の動揺は、大体というかまず例外なく、強い「人の目イメージ」を引き金に揺れ動く感情です。
「愛情の目」「軽蔑の目」まあ後者が良く出てくるわけです。そこではその目を向ける相手の心に、「愛情」や「軽蔑」の「感情」があると、実にリアルに体験されるわけです。

で、そこでイメージされた「相手の感情」が、その相手の抱いた「現実の感情」と一致するかどうかという問いは、やはり本人も感じます。
そしてまあ、相手の言動や行動の文脈から、まずそれは「間違い」ではなく「事実」であるのが多くの場合とも言えます。よっぽどの空想暴走から話が始まった場合は除いて。
それは認めます。

しかしあくまでハイブリッド焦点を向けるのは、魂感性土台では、それが事実であろうと勘違いであろうと、「相手の感情イメージ」の圧力が減少するという違いです。
魂感性土台でも、相手が怒っているのは見て分かります。でも人の目感性土台にいる時のようには、圧迫感を持って迫ってこない。
この違いがまずある。

それは相手の「感情内容」を正しく察知するかどうかの正確性とは別に、「察知」そのものが別のことだという話です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg
の右と左で書いたように。


■どっちの「感情察知」の仕組みが「正しい」?

そのように「感情察知の仕組みが違う」結果、当然、察知した相手感情の内容もちょっと違ってきます。

まず上に書いたように、人の目感性土台では圧迫感ある、ということは、相手が自分にじとっと狙いをつけた強い感情を抱いていると察知されます。
一方、魂感性土台だと、そうは迫ってこない。ということは、「自分に向けられている」という感覚が薄れているということです。何となく怒ってのは分かる。でもそれって私のこと?

..で「私のことだ。マズい!」となると、人の目感性土台に切り替わるわけです。そして冷や汗が流れてくる。
これはどっちが正しいかという話もあるとして、「感情察知の仕組み」の切り替えが起きているんですね。

実際「どっちが正しいか」を実直に考えるならば、はっきり言ってケースバケースです。
まあ相手が牙むくような表情だったら、「強い怒りが向けられている」と感じるのが大抵は「正しい」でしょうし、一方、ちょっと相手が目を向けた瞬間に「怒っている。マズい!」と体験したとしたら、「間違っている」可能性も多くなる。


■人が人に見て取る「感情」は本人が抱くもの

上記はまだ「怒り」という単純な感情の話として、もっと複雑な感情になってくると、話が面白く(?)変わってきます。

「軽蔑」や「貶め衝動」などがあるでしょう。ここでは「軽蔑」を取り上げましょう。

「軽蔑を向けられるイメージ」は、当然、人の目感性土台でのイメージの代表的なものと言えます。
一方、それを魂感性土台で感じる取るとどうなるか。相手が何となく軽蔑しているのは分かる..
かと言うと、どうもそうではなく、全く感じ取れないような気がするんですね。

まああまり厳密な話ではないかも知れませんが、僕自身としては日常生活は大体魂感性土台で思考し感じており、人の目感性土台はもっぱら感情分析に回すだけになっている感覚からして、そもそも「軽蔑」という感情そのものを、自分自身の感情としも忘れかけており、まして人がそれを抱くという実感あるイメージが、もうないのです。

これはいわば、それでは「正しく察知できない」からと、察知の仕組みを切り替えようにも、「軽蔑察知」という仕組みそのものが消えてしまった状態です。
「別に軽蔑されてるとは感じない」は、「善意の解釈」ではなく、実は「察知能力の喪失」です。少なくとも僕の場合。

実に基本的な心理学を言えるわけです。
人が人に見て取る「感情」は、本人が抱くものだということです。

まこれは当然なんですね。ナマコがナマコ特有の感情を抱くとして、我々人間はまずそれを自分では抱かないので、ナマコが抱く感情を見て取ることはできないわけです。


■自分では抱かない感情の「不活性な察知」

ただ、「人が人に軽蔑を向ける様子」は、それらしいものが外部に現れれば分かります。そこまでナマコ並みに分からなくなったわけではありません。アハハ。
例えば青木さやかが女優に対抗心燃やしてことあるごとに軽蔑する演技をして、その意味は分かります。まああれはギャグとして、実際日常で、そうした言動を見ればそれが「軽蔑」であるのは分かる。

こうした、「相手の感情がありありと」感じるのはないが、言動表現としてその感情の意味は分かる。
このタイプの感情察知は、一応人間の感情メカニズムとして用意されている範囲において、意味は分かるという、「不活性な察知」と言えると思います。

ですから、能天気な人が陰湿なイジメの感情を実感できなくても、イジメという意味は分かる。だからドラマとして成り立つ。
これが正真正銘の脳の怪我などで起きる異常心理現象となると、想像もしようがない、となるわけです。

一方、自分自身が軽蔑を抱く人が、人の軽蔑の目をありありと感じる。これは「活性察知」とでも呼べるでしょう。


■「人の目意識感情」の原色イメージとパステルイメージ

そうした「不活性な察知」と「活性察知」の違いが、実は「魂の感性土台」と「人の目感性土台」の上で広範囲に起きます。

「人の目感性土台」で揺れ動く感情は、基本的に「人の目を意識した感情」です。人の目の中でどう振舞おうとする感情も、軽蔑衝動も、愛情要求も、基本的に「人の目意識感情」ですね。
「人の目感性土台」では、他人のそうしたものが、ありありと分かります。目につき鼻につくというように。

「人の目意識感情」は、それを持つ者同士の間において、ありありと察知されます。原色イメージという感じですね。

一方、「人の目意識感情」をあまり持たない、ということは「魂の感性土台」が優勢な者からは、他人の「人の目意識感情」は、それらしい様子が見て取れる範囲において、一応分かります。ただ基本的に人のことを気にして生きていないので、目につき鼻につくということはない。視野から外れれば忘れる程度です。

「それらしい様子」とは、やはり結局、何か目つきがジトっとして表情が硬いとか、おどおどしているとか、そうゆう話になります。その心中はありありというのではなくても、何となく心の安定を欠いた感情であろうことは分かる。その程度です。
パステルイメージという感じ。

「人の目意識感情」は、やはり全般的に、心の安定を欠いた感情ですね。これは人間の心のメカニズムとして備わっているので、実際そうした感情を持たない人からもその意味は分かるということです。

さらに一方、「人の目意識感情」を持つ人は、「人の目意識感情」は持たない人の行動も、原色の「人の目意識感情」として察知します。

まとめると、こうゆうことになります。

魂感性主体の人は、他人の感情をおしなべてパステルイメージで捉えます。
また、魂感性主体の人は、人の目感性主体の人の様子をそれと見て理解します。ありありとは意識しませんが、心の安定を欠いた状態と理解し、距離を置くのが無難と理解します。

人の目感性主体の人は、他人の感情を「人の目意識感情」の原色イメージで捉えます。
人を魂感性主体と人の目感性主体で見分けることはできません。そして自分に向けられた「人の目」イメージに揺れ動きます。
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心理学本下巻に向けての考察-28 / しまの
No.1278 2007/09/12(Wed) 14:12:03

■魂立脚による「人間観社会観」の選択課題

「魂立脚」という、「感情と行動の分離」の次にくる大きな枠組みは、実質的にはステップ3の「人間観と社会観の選択」が骨子となります。

これもまた3つのステップで考えることができます。
まず、「魂立脚の人間」と「人の目立脚の人間」という2種類の人間像の違いを理解する。
次に、その2種類の人間像のどっちをベースにするかで思考法行動法がどのように違ってくるかを理解する。
最後に、これからの思考法行動法における2種類の人間像の位置づけの選択です。

結構高度になってきます^^;


■2種類の人間像の違い

まず、「魂立脚の人間」と「人の目立脚の人間」という、2種類の人間像の違いを理解します。
内面感情と対人行動の様子がどのように違ってくるか。

先に「人の目立脚の人間像」について説明しましょう。
人の目感性と人の目感情そのままです。まず人が自分にどんな目を向けたか、どんな感情を向けたかから、思考がスタートします。そして愛情要求や自尊心要求もしくは恐怖心に沿って、相手にどんな行動を返すかと考えます。これは「相手にどんな感情を返すか」でもあります。
つまり、対人関係は基本的に感情の向け合いと認識されています。その認識の中で思考し行動している様子があります。

一方、「魂立脚の人間像」だと、大分違います。
相手の目や自分に向けられる感情は、穏やかに察知はしますが、同時に、自分や相手の置かれた現実状況を幅広く見ています。そして概して、自分に向けられた目や感情はあくまでオンオブゼムの一つとして配慮しつつ、「現実状況」全体を相手に思考し行動します。そこでは「感情」は「現実状況」全体への動力であって、人相手に向けるものとする度合いが減っています。

つまり、やはり「感情」の位置づけに、決定的と言える違いがあるということです。
魂立脚人間像においては、「感情」は基本的に人に向けるものではありませんまあ向けるのはかなり限定された相手と状況ですね。


■「感性のズレ」の正体

この結果、魂立脚人間像と人の目立脚人間像とがお互いに交わった時相互認識にかなりのズレが起きます。

これは悩む人がしばしばテーマにする、「感性のズレ」の正体とも言える話になってきます。以前それを僕は「否定傾向」「怒り傾向」などの思考感情の色合い内容の偏りとして説明しようとしたこともありましたが、それは不正解です。「感性のズレ」の正体は、「感情の向け方捉え方」にあり、文字通り魂感性と人の目感性の違いが、人間関係において「感性のズレ」が表面化する最大の正体と考えます。

これは心理学を越えて、社会行動学の問題にもなってきます。そして僕としてはどうしても、人の目立脚の人間像にとって不利な描写をせざるを得ません。あとはどっちがマジョリティになるかという、数の問題になってくるでしょう。
これは読んで快い話ではないかも知れませんし、僕としてもあまりはっきり書くことに躊躇することでもありますが、この理解が克服方向への決定要因になると考えていますので、敢えて率直に書きます。

魂立脚人間からは、人の目立脚人間が感情を人に向けているのが、基本的に分かります。そしてそれを概して稚拙な態度、もしくは心のバランスを欠いた態度と感じます。魂立脚人間からは人の目立脚人間への信頼度は低めに向く傾向があります。これは怒りや嫌悪感を伴うものではなく、スポーツチームの中で風邪を引いた選手がいたら試合には入れないでおく。その「穏やかな敬遠」そのままの感情を向けます。

魂立脚人間は、魂立脚人間と人の目立脚人間が大体見分けられます。そして魂立脚人間により信頼感を感じ、共に生き共に行動する相手として選ぶ傾向があります。

一方、人の目立脚人間からは、魂立脚人間は概して捉えどころのない、その内面が理解不能のものとして映ります。こっちのことをどう感じているかという、「自分に向けられる感情」がはっきりしないので、しばしば「本音を言わない」「本音が分からない」と不満を感じ、自分が本当にはどんな感情を向けられているのか分からない不安感による、特有の排斥感情を魂立脚人間を相手にして感じます。魂立脚人間の態度をしばしば「ドライ」だと感じます。

結果、人の目立脚人間は、どうしても、同じ人の目立脚人間とだけ交際を持つ傾向にあります。相手が何を考えているのか分かりやすいからです。

面白い(?^^;)のは、この両者が対等に面する「場」が生じたときです。感性のズレが浮き彫りになり、明らかに、言葉にし難い異様な空気の乱れが流れることになります。

まあこの「空気の乱れ」は、最も一般的なのは、魂立脚人間が優勢(^^;)な「場」において交わされる言動が、彼ら自身には大した重みのない感情表現が、人の目立脚人間には相手相互間の直接的な感情の向け合いに見えることです。これは「あまりにも真に受ける」「冗談が通じない」というパターンです^^;

また人の目立脚だと感情疲労が激しいので、時に対人感覚全体からの退却が起きます。人の感情に敏感なはずのこの人が、まるで心があさってに行ったように逆に人の感情に無感覚になるのが良くあります。これは「空気が読めない」パターンになります。「KY」ですね。アハハ^^;

一方、人の目人間優勢の集団に、魂立脚人間が「紛れ込んだ」らどうなるか。
まず、「ここに来たのは間違い」と感じるでしょう。そして丁重に逃げ出すというか抜け出る^^;
互いにどう思い合っているのかを話し合うような場がそこにできているでしょう。魂立脚人間の行動メニューに、それはあまりありません。一言でいって、「キモい」となる^^;


■「感性のズレ」を誰よりも気にする人の目感性心理

このように、「感性のズレ」は大きくは、「感情が互いに向け合うもの」と感じる人の目感性土台に原因があります。
そして、この「感性のズレ」が表面化した「空気の乱れ」を嫌うのがまさに人の目感性土台だという、やはりパラドックス状況があります。

これは人の目感性が基本的に「絵」のように理想像とする、「暖かい親密信頼関係」の構図を損なうからでもありますが、同時に、人の目感性を生み出す大元の根源である「感情の膿」に触れる危険が出てくるからです。それは「理解不能だという不信を向けられる恐怖」です。
かくして、人の目感性土台が強ければ強いほど、「感性のズレ」が大きくなり、それが「場」に表れることへの恐怖も強くなるという、基本的メカニズムがあります。

一方、「感性のズレ」は大抵、魂立脚人間から人の目立脚人間について感知することになるのですが、魂立脚人間としてはそのことをあまり気にするものではありません。それでその人に嫌悪感や排斥感情を持つこともありません。ただちょっと「?」と感じる程度です。
でそのちょっとした「?」が向けられるのを、今度は人の目感性土台が、「嫌悪不信怒りを向けられた!」と捉えるわけです。いやはや..^^;

「感性のズレ」と、それがやはり「一人相撲」になる詳しいメカニズムをご理解頂けたかと。


■対人行動の不利と内面自尊心の奇妙な隘路

このように、人の目感性土台での行動は何かと人間関係において不利をもたらすことが多いのですが、これを「改める」のが難しい状況も説明しておきましょう。

一つは、基本的に、こうした「感性土台」は心の成長と障害治癒の状況に依存し、「思考法」で「直せる」ものではありません。もし魂感性土台主体を目指すのであれば、こうして解説している実践を地道に続けることです。

あともう一つは、そのように「感性のズレ」という不利益をもたらす一方で、この人がこの感性に自尊心を置いている状況がしばしばあることです。これが最大のネックになるかも知れません。
それは「自分に向けられる感情を見抜く能力」への自尊心であったり、「自分は人の心を知る」という自尊心感覚であったりするでしょう。自分は決して自分に向けられる感情を見逃してたまるか。これは時に「信念」という範疇にまでなります。
別に向けてないんだけど..^^; というのが実は回りだったりする中で、ですね。

魂のプラス感情を体験すれば、その「信念」を捨て、全く異なる感性を土台とした2種類の人間像を相手にした思考法という、新たな道を選択する動機も視野に入ってくるでしょう。

それはもちろん、自らの「感性のズレ」も不完全の一つとして受け入れ、同様に他者のそれも受け入れ、両感性が共に手を組んで共に成長を目指すものでなければなりません。
人間関係においても、そして自分自身の内部においても。


そうした思考法について具体的な説明を次に。


心理学本下巻に向けての考察-27 / しまの
No.1277 2007/09/12(Wed) 11:08:09

「もう一つの感情分析パターンを次に」と書いておきましたが、話を変えます^^;
やはり感情分析以前に、きわめて重要ではっきり定義しておかねばならない話が浮きぼりになってきており。


■「魂の感性への立脚」の先のハイブリッド実践

話をここ最近のテーマに戻しましょう。
「感情と行動の分離」に始まるハイブリッド取り組みの過程で、何らかの形で、「開放感」なり「魂の愛への願いの感情」なり、「魂の感性土台」を感じ取れる体験を得てからの話をしています。

そこから、「感情と行動の分離」に匹敵する、大きな実践枠組みを開始するのを、実践として明瞭に定義したいと思います。
実際のところ、「感情と行動の分離」がかなり明瞭な枠組みとして最初にある一方で、その先の根本治癒までの枠組みがどうもぼんやりしたものでしかなかった。
その新たな枠組みを「魂と現実への立脚」とも書きましたが、もっと単純明瞭にしたいと思います。

「魂の感性への立脚」です。短縮形で「魂への立脚」。さらに略し魂立脚と書くこともあるかと。
まあ「現実」はここでもまだ結構曖昧です。だが「魂の感性」はかなりはっきりしてくる。その段階を境目にした、新たな枠組みということになります。

「魂の感性への立脚」の実践項目を明瞭に定義したいと思います。
1)魂感性土台と人の目感性土台の体験的理解
2)魂感情と人の目感情の位置づけ理解
3)人間観と社会観の選択(目指す健康な人間像)

とりあえずこの3つにしとこうかと。

でそれを受けて、「魂立脚による原理原則思考と感情分析」に進む。

とりあえずこれでばっちり話がつながるか、考察を展開してみませう。それにより、心の障害の深刻度にかかわりなく、「魂の成長」へと向かう実践手順になるかどうかを確認しながら。


■ステップ1:感性土台の違いの体験的理解

定義としては、魂の生命力を感じさせる感情体験と同時に、人の目イメージの圧力が消えた穏やかな対人感覚の実体験」を持って、自分の中にある、全く異なる2種類の感性土台を把握理解すること、と言うことができます。

「魂の生命力を感じさせる感情体験」としては、まずは「開放感」と「魂の愛への願いの感情」を指標にしたいと思います。
「魂の感情」とは、明瞭な外界現実の他人や出来事への感情ではなく、「この感情において生きている」と言えるような、「自分」と「世界」との関係を示すような感情。

この「魂への立脚」実践に進むためには、そうした「魂の感情」としてのプラス感情の体験を基本的に要件にしたい。
「魂の感情」としては、「空虚感」「漠然とした悲しみ」「抑うつ感情」なども実は魂の感情です。その体験の中でもやはり「人の目イメージの圧力が消えた感覚」は分かるかも知れないが、それだけでこの先の実践をするのは無理があるように感じます。まず怒りの有害性の理解など、「感情と行動の分離」からの基本実践をがんばりましょーと。

「人の目イメージの圧力が消えた穏やかな対人感覚」として、ただ人の目イメージが消えた無味乾燥の他人感覚ではなく、「穏やかな肯定感」まで視界に捉えたい。
ちょっと敷居が高くなるかも知れませんね。でも生命感ある「開放感」と「魂の愛への願いの感情」なら、その「穏やかな肯定感」が伴うはずです。

まずこの感覚をしっかりとキャッチし、感情と他人感覚がばらばらに異なるのではなく、連動して質の異なるものになるというセットの状態を把握します。
それが「感性土台の違い」であるわけです。

そうした魂感性土台の感覚をしっかりと心に刻み、いつでも追想できるようにします。つまり、自分自身の心の中で、今現在の感情とは異なる感情をもシミュレーションできるようにするわけです。
この「異なる感情のシミュレーション」が可能になることで、自らの心を自ら方向づけることが可能になるわけです。


■ステップ2:魂感情と人の目感情の位置づけ理解

次のステップは、「魂感情と人の目感情の位置づけ理解」
「位置づけ」とは、治癒と成長における位置づけです。

「魂感情」は、魂感性土台の上で動く感情です。基本的にプラス感情の話で考えます。開放感や、人への穏やかな肯定感。そして漠然としたイメ−ジでの、愛への願いの感情。

「人の目感情」は、強烈な「人の目イメージ」から始まる感情です。人の目への反応として動く感情。愛情要求や怒り、憎悪、優越感などが代表です。

「優越感」と呼ばれる感情には、強烈な「人の目イメージ」の中にあるものと、そうではない、いわば「自律的な優越感」まで、結構広い範囲があります。まあ「自尊心」という広範囲の形態がある重要感情に沿った話ですね。
「優越感」の中でも、人の目応報イメージを伴うものは「人の目感情」であり、「自律的」になるにつれて「魂の自尊心感情」へと移行します。同時に「優越感」という、他人との比較感覚自体が薄れて行きます。
まあこれも多少解説が必要ですね。後で「愛されることに依存しない自尊心」などのテーマで触れることになるでしょう。

おしなべて、プラスの魂感情は健康な感情であり、人の目感情は心を病む方向にある感情です。

「心を病む方向」というのは、人の目感情がおしなべて「障害感情」だとは言えないということです。つまり、人の目感情は、心理メカニズム上大局的には、感情の膿と自己操縦心性という障害メカニズムで起きる面と、あともうひとつ重要な側面として、「幼児性の残存」として起きます。

つまり、健全な心の発達成長においても、基本的に子供の感情は人の目感情から成長を始め、やがてそれを脱するのが、「心の自立」という最大命題であろうと、ハイブリッドでは考えています。
その点で、もし人が「心の自立」を果たす方向ではなく、幼児性の中にある何かの価値にしがみつこうとしている時、それは心を病む方向にあるのだろうということです。

だからと言って、人の目感情を排し、魂感情だけになろうと意識努力することが実践ではないのは、長くハイブリッドを学んだ方ならお分かりだと思います。
心を病むメカニズムが人間の心の一側面であり、また子供の心から大人の心への自立が成長課題だとして、結局人間は不完全な存在であり、その完全なる達成は基本的に視野に入れる必要さえないと考えています。

つまりそれは常に共存の中にあるということです。その共存状態の中で、感情を直接変えようと意識努力するのではなく、感情に直接手を加えることはしないというハイブリッドの基本線において、治癒と成長への心の土台レベルの実践を行う。その先に、どのような治癒成長メカニズムによって、人の目感情が魂感情へと移行脱皮するのかを心得るのがいいでしょう。

ですから、この先の実践に進もうとする今においても、「感情と行動の分離」基本枠は維持されます。
人の目感情においても、それが現実において何かを生み出す建設的側面を一片でも持つのであれば、行動面においてはそれで後押しして良い。
人の目感情が心を病む方向にあるとは言っても、「子供から大人へ」というその道は一度通り抜けなければなりません。その点でも、後押しして良い。これもあとで説明を加えねばならない話ですね。
感情は内面においては全て開放します。破壊的感情はもちろん非行動化の原則です。

そうした基本枠に、今度は魂感情と人の目感情という区別による対処姿勢や思考法の違いという、次の基本枠が加わるわけです。
当然、実践としてレベルアップします。沢山の視点を同時に組み合わせることが必要になってくる。


■ステップ3:人間観と社会観の選択(目指す健康な人間像)

そうしたレベルアップした実践への基盤として、この「魂感性への立脚」の締めくくりになるのが、「人間観と社会観の選択」です。

これは、これから自分が生きていくための思考法および対人行動法のベースを、魂感情と人の目感情のどっちに立つ人間像を基準にするかの「選択」です。ハイブリッドが示すのはもちろん魂感情に立つ人間像をベースにすることを推奨します。
これは極めて重要です。この「選択」はもちろん自由ですが、この「選択」によって、この先の実践は必ず根本的治癒成長への効果を生むことを請合えますが、この選択をしないまま、作業だけこの先の実践をしても、変化をもたらすほどの効果は期待できません
そのくらい、ここでの「選択」が決定的な分水嶺になります。

この内容説明を、次のカキコでしましょう。


心理学本下巻に向けての考察-26 / しまの
No.1276 2007/09/08(Sat) 11:27:51

引き続き、本格的な感情分析で行われることの細部について。

■「否定感情の連鎖を流れる」から「感情連鎖の配線の脳内整理」へ

「人の目イメージの消えた感性土台」つまり「魂の感性土台」に立つとは、「人の目イメージ」は「現実」ではない、という感覚が保たれることになります。

これは上述の通り「思考法」ではなく、治癒の状態に依存しますので、「現実ではないと考えればいい」という話ではありません。治癒がまだこの手前であれば理解不可のことと腹をくくって頂き(^^;)、そうなった場合の先の「本格的感情分析」でどんな治癒効果が起きるかを、とにかく理解しておいて頂ければと思います。

まず人の目イメージの圧力が減少し、それを「現実」とは感じなくなることで、上に書いた「否定感情連鎖」は起きなくなります。まあ感情連鎖がきれいに消えるというより、「不活性化」するという感じですね。
ただし、「嫌悪が向けられる」イメージが心にちらつくことで、相手と自然に接することができないという現実的問題はそのままです。

で、とにかく「魂の感性土台」で考え得る、「まっさらな他人」に貼り付けられた感情カラーセロハンの色合いを、じっくりと吟味するわけです。
僕の意識印象としては、その「色合い」の「カラー番号」を舌見で探るという感じです。「カラー番号」の背景には、「カラー構成表」の知識があり、カラー番号が分かればそれをうまく中和するために使うことのできる、他のカラー番号も分かる。そんな感じで、「向けられる嫌悪」の「カラー番号」を探るわけです。

もちろん「カラー番号」は例えであり、実際の感覚をより近く表現するならば、「自分が今までに見知った感情」の構成地図を整理するような感覚です。この感情はあの感情と同じだ。ということは、あの感情が起きる時にあった、こんな感情も今回伴っているばずだ。そんな感じ。
それは要は、脳の中で細かく入り乱れた感情の配線を、同じものは束でくくり、やがてすっきりした幹線ケーブルに置き換え、さらに全体配線をきれいにしていくという調整を自然と伴うようになるのでしょう。そんな感じ。

それに比べれば、「初歩的」な感情分析というのは、とにかく込み入った配線に電気流してたどって見るだけの感じですね。
同じ「感情分析」と言っても、内部で行うことは海に向くのと山に向くのほどの違いがあることがお分かりではないかと。

そして上記の例では、いままでまったく離れたところにあった、若干違う色の配線が、実は同じものであり、全く余分で間違った配線を繰り返していたものであることが、「直感」で捉えられたわけです。
この「実は同じ」「直感」で捉えるのは、まさにワインのソムリエが、違う銘柄のワインの原料ぶどうがある特定の同じ原産のものであるのをピタリと当てる。この感覚そのものです。

「直感」であって、「感覚」の世界です。思考法の世界ではありません。そして「あっそうか!」という、この「ピン!」という感覚の中で、意識的思考努力ではなしに、無駄な配線を取り除きすっきりさせるということが脳の中で行われているのでしょう。


■「ニセへの嫌悪」と「自分に向けられる嫌悪」イメージ

それが本格的感情分析の内部で行われていることとして、先の例におけるその具体的内容の解説をしておきましょう。これは心を病む感情メカニズムの根幹とも言えるもののように思われます。

僕としてはまず、受付のきれいな女の子からの「自分に向けられる嫌悪」カラー番号を突き止めようとしたわけですが、上記では、既にカラー番号が分かっている、全く別の感情とピッタリ一致した、という直感が起きたわけです。
その全く別の感情とは、僕自身が職場上司の作り笑いに向けた嫌悪であり、心理メカ的表現をするならば、「人の好意を得ようと自分を演じる中にあるニセ」への嫌悪と言えます。その「ニセ」とは、実際の心はその演じた姿とは異なる、淀んだ姿であることにおける「ニセ」です。

僕はこの「ニセへの嫌悪」が、「自分自身のニセを否定するために自己存在を賭けて抱く嫌悪」であることを、それまでの感情分析でしっかりと自覚していました。そしてそれに対してとるべき姿勢も。それは根本的に、他人との間で起きている問題ではなく、自分自身の中で起きている問題なのです。まずそれを自分内部の問題と心得、他人にその嫌悪を行動化しないのが得策です。

そして、最後には、「ニセを不完全性として許す」ことに方向性がある。なぜなら、そこにはニセだけではなく、真実との混合があるからです。「愛への願い」という真実だと言えるでしょう。
ニセを攻撃すると、真実までも一緒に捨て去ることになります。真実だけ拾ってニセを否定しようとしても、まさにニセに陥ります。
結局、その二面を同時に見据えるしかないのです。その時、ニセと混合が衝突合体するかのように、何かがはじけ、「未知」が現れます。
そうしたことの自覚の中にあった、「自分の中でただ見据えるべきだけの嫌悪」と同じものが、相手から自分に向けられるというイメージになっている!

同時に、この自覚は今まで未解決のまま、僕の中で宙吊りになっていた別の問題ともつながったのが上記例です。人と楽しげで親密なお喋りをイメージしながら、そうすることに抵抗を感じてできなかった。それは自分自身の「ニセへの嫌悪」がその場に出現するからだった、というわけです。


■感情分析と心性崩壊の共通構造

感情分析はそこで終わりです。
この終わり方重要な本質を示します。「ではどうすればいいか」という問いもその答えも、「自分に向けられた嫌悪」という「人の目感性土台」上のイメージに対しては、一切出されないことです。
つまり、それは一見して尻切れトンボで終わります。しかしそれが正解です。「人の目感性土台」上のイメージやそれを引き金にした感情は、対処することもなく、「どうすこともできない」だけで、あとはただ消滅だけを静かに迎え入れます。

これは実は自己操縦心性の崩壊と、起きていることの構図は同じです。心性崩壊は、思考の足場も心性側つまり「人の目感性土台」にある状態で、人の目の中で「何か特別な自分」であらねばという衝動が崩壊する現象です。その幻想に心を支えられていた割合に応じて、それは巨大な絶望感を生み出します。

一方本格的な感情分析では、心の足場が「魂の感性土台」の側にある状態であり、それはとりも直さず心の足場が心性ではなく健康な心の側にあるということであり、「人の目感性」の感情が消滅するとしても心の支えの崩壊という姿にはならない。その差があるだけです。

なおこうした感情分析、もしくは心性崩壊の際にも、「感情と行動の分離」によって外界現実に対しては建設的思考を保つという原則方向性は、変わることなく有効です。
「特別な自分」でなくても、外界現実はそんな内面破綻は気にもせずに、同じように流れています。上記の例で言えば、受付の女の子はただ淡々と受付をするのみであり、それ以上の個人的関係がどうなるかについて、こうした話は全く関係はありません。そのうち気が向いたらデートに誘ってもいいのです。ま実際それはあり得ない。アハハ^^;


■起きていることの根源は「原罪」への到達とその消滅

取り組みの初期的な段階にある方は、「人の目感性」上の動揺する感情について、「どう解決するか」を知り、見通しをつけてそれに進む安心感をまず得たいと考えると思います。
それは間違いです。
「人の目感性」上の動揺感情には、答えがありません。それはただ、「どうすることもできない」という破綻の中で、波間に消えていくのを見続けるしかありません。

なぜ「どうすることもできない」のかの根源には、「愛されないことへの怒り」がその全ての始まりという、「人の目感性」の感情のスタート点があります。
愛されない怒りの中で、「特別な自分」という「意識」が始まったのです。しかしその「意識」が「怒り」であることにおいて、「特別な自分」によって求めた愛を、その「意識」が破壊するのです。
これを直接感じ取るのが「原罪感情」と呼んでいるものです。
これを体験することは、全く身動きもできない中で自分の意識が破綻消滅していくような、苦しい時間になります。しかしそれは一定時間の後に、かならず消え去ります。この「一定時間」も、医学的な法則性が感じられるものです。

感情分析にせよ、心性崩壊にせよ、治癒において根源部分では「原罪の暴露と消滅」が起きていることが考えられます。上記の僕の感情分析例でも、「嫌悪感情」や「嫌悪の目イメージ」という表面の姿が題材になっている一方で、根源では「原罪」がはじけて消えるということが起きているのでしょう。


■開放される「未知」はそこに至る実践とはつながりはない

治癒効果は、「人の目感性」上の感情にとっての「解決」ではなく、「原罪」を底に宿した人の目感性感情という障害物が取り去られることによる、心の自然成長力の開放としてもたらされます。
その結果は、「未知の感情の出現」です。そしてそれが「人の目感性」から期待した「愛情の目」が獲得されるという「解決」ではなく、魂の感情における未知の出現という形を取ることを、方向イメージとしてしっかり心に入れるのがいいでしょう。

そして、魂の感情における「未知」は、最初は「開放感」といったあまり明瞭な色合いを持たないものが中心である一方、次第にそれが「愛」という一貫としたベクトルにおける未知への増大になることを、同じく方向性として知っておくのがいいでしょう。
それは「愛情」という「感情」の次元を超えた、内面から溢れ出る「愛の感性」という広範囲な未知への変化になります。

僕の場合も、現在の人生で最も良い心の状態(ま先もまた未知として)につながる「未知」が、紹介した感情分析から数日後に現れています。
この「未知」は僕にとってもかなり大きいもので、それに対して紹介した感情分析はかなり些細なものですが、根底で起きたことはかなり根源的な問題になっていたということで、つながってはいるかも知れません。
しかし意識上では、つながりは全くありません。「未知」が現れることと、それに至るまでの実践内容は、全く無関係な形で現れます。
それが「病んだ心の治癒」なんですね。

2004.7.16(金)
 ここ数日だが、とにかく軟らかくてほのぼのとした気分で何でもやっているのを感じる。いつもニコニコしている自分を感じるようになった。
・・(略)・・



もう一つの感情分析パターンを次に。


心理学本下巻に向けての考察-25 / しまの
No.1275 2007/09/08(Sat) 10:51:37

■「自分を迫害する他人」イメージの感情分析

引き続き、「本格的」な感情分析細部を説明します。

「本格的」な感情分析にはどうやら幾つかのパターンがあることが、おぼろげながらに見えてきた感があります。その全体を網羅するのは今回の心理学本ではちょっと無理かも知れませんが、基本的なものをとりあえず2つ出しましょう。

まず最初は、「自分を迫害する他人イメージ」

なぜこれを基本パターンとして取り上げるかと言うと、実際これが感情の動揺をひたすら悪化方向に向かわせる原動力になるからです。当然、それへの反応として怒り憎しみが起きるし、怒り憎しみを抱く自分が相手や他人一般や社会でやっていけないという自己否定感情が起きます。

そして、自分が社会でやっていけないという自己否定感情の原因となった、他人を憎むわけです。
「人の目感性土台」には、基本的に「自分の感情は人のせい」という感覚があります。これが強力に作用するわけです。
同時に、他人への憎しみを人が察知して、さらに自分に迫害的排斥を向けてくるという感覚が起き、それへの怒りが起き..と際限のない膨張が起きるわけです。この結果はもう、「爆発」まで一直線^^;

「人の目」イメージの圧迫度が減少した「魂の感性土台」では、この膨張をふみとどまり、「自分の感情は自分次第」なので、いったいなぜそうした「自分を迫害する他人イメージ」が生まれるのかと、本格的な感情分析をすることができます。

「自分の感情は人のせい」「自分の感情は自分次第」は、思考法や「心がけ」によって向く方向が僅かには変えられますが、基本的には「感性土台」という、脳のレベルの状態に大きく依存します。「心がけ」で変えられるという勘違いを排した上で、取り組み道のりにおいてその根本克服は、治癒の発生と感情分析の相互により成されるという全体像を理解することが大切です。


■「自分の感情」と「人の目イメージ」のつながりを明らかにする感情分析例

自分に対して嫌悪の目が向けられるイメージを分析した、僕自身の比較的近年の例など出しましょう。
サイトも始めた後で、深刻な心の状況はなくなっており、内容としてはごく浮かれた内容です(デヘ^^;)。しかし、感情の構造は、上述のような深刻なものと、丸っきり同じなんですね。
ですから、「嫌悪の目が向けられるイメージ」が解かれ、軽減に向かう一つのパターンと言えます。

2004.7.12(月)
 金曜のことだが、スポーツジムに行く前にふと気づいたことをメモしておく。
 会社で財布の中の金を確認して2千円札があるのを見た時に、頭の中に流れた連想だ。浮かんだのは、スポーツジムの受付のちょっと気になるキレイめな女の子に、珍しい2千円札ということで、それを
楽しいことだと含む会話で対応する自分のイメージだった。“こんなお札があったよ♪”というような。
 でそれに対してすぐ、
嫌悪感を含む抵抗感のような目が向けられるイメージが湧いたのだ。それは僕自身が職場上司Kさんの作り笑いに対して感じることの多い、生理的な嫌悪感と似ているものが向けられるというものに感じた。
 
僕がお喋りの楽しみの中に自分を解放しないことの原因の一端が、かいま見えた感があった。楽しい会話として振舞おうとした瞬間、その嫌悪が抵抗を起こすということだ。


■「人の目イメージの消えた感性土台」を足場にする

これは「自分に嫌悪が向けられる」という、心理障害に実に一般的なイメージ感情の感情分析です。
ただしここでまず理解頂きたいのは、この例は「人の目イメージの消えた感性土台」に立って行っている感情分析であることです。そうした「足場」そのものは、ここにはもう何の記述もありません。

では上記感情分析の前提となった「人の目イメージの消えた感性土台」とは、僕が何をどう感じ考えていたという話なのか。それをここで書きましょう。

まず、「魂の感情」を感じた時、それは現実からは切り離された自分の心の中だけで流れるものであり、その時他人の実際の感情はもはや推し量るべくもない、やや遠いものに感じられます。「魂の感情」はそのように、他人から与えられる感情ではなく、その感情において自分が生きるあり方である、そんな感情として湧き出るものです。
そうした「魂の感情」を感じた時の感性土台が「現実外界の他人」を見る感覚を、足場にしているということです。

つまり、他人の感情というのは本来、ついたての向こうにあるものとして推し量るしかないようなものであり、イメージとしてありありと自分の心に飛び込んでくるようなものではなく、そんな「イメージ」は実は「現実外界の他人」とは全く無関係なものだということです。そして、そんな「イメージ」が「現実外界の他人」と自分の間に立ちふさがることで、自分は実は相手の実際の感情を察知することができない状態にあるという制約事態の自覚を、この思考の足場では保っています。
まずこれが、「足場」にする感性の違いです。


■「人の目感性土台」を足場にするとどうなるか

これがそうではなく、「初歩的」な感情分析の段階で行われる、「人の目感性土台」を足場にしたものだとどうなるか。

「自分に嫌悪が向けられる」ことを「現実」と受け取ることからスタートする、自分の思考感情をたどることになります。
まずそれは、「自分ははっきりした理由もなく嫌われる」と感じていることを明瞭にすることであり、そんな目を向けた相手への怒りや憎しみを感じていることを自覚することであり、この理由もなく否定感情に陥る自分への自己嫌悪感情を自覚するということになるでしょう。

つまり「分析」とは言っても、実体はただの否定感情連鎖そのままです^^; で最後は「自然な親しみ」という理想に至り得ない自分という心底の自覚が、心性崩壊という治癒効果につながるかも知れません。
そして心性崩壊をやりすごした後には、人の目イメージの圧力が減少した感性一時的に得られます。その感性をしっかりキャッチして、上記のような本格的な感情分析へと移行することを、できれば本人が積極的に考えるといい。

ただし足場がしっかり変わるまでの溝はかなり大きいのが実際かも知れません。特に障害傾向が深刻な場合はですね。
まずは「感性土台の違い」をいかにしっかり自覚し、「人の目イメージの消えた感性土台」に種植えて育つ思考を作ってみることができるかどうかが、治癒を早める上での鍵になるでしょう。

この溝を埋めるアプローチの実際は、相談メールでの材料を後で掲載できるかも知れません。


話がまだ長くなりそうで、いったんカキコし、「魂の感性土台」を足場にした場合に起きる効果の細部から次に。


心理学本下巻に向けての考察-24 / しまの
No.1274 2007/09/07(Fri) 14:52:02

■感情分析の基本例(続き)

2)「本格的」な感情分析の例

「魂の感性土台」に立った、「本格的」な感情分析だとどうなるかを考えてみましょう。

まず考えたいのは、そもそも「魂の感性土台」とはどんな感覚で、そこからは「人に言われたこと」はどう感じられるかです。
実は、これでもう「魂の感性土台からの感情分析」が始まっています。今までの「人の目感性土台」での感情がまず題材になる一方で、それを異なる感性ではどうなるかの比較検討が始まるからです。

それで言うならば、「魂の感性土台」においては、「まず自分がここにある」という確かな感覚があるということです。まず「人の目」があって全てが始まる感性とは異なります。

しかし、その先は、「人の目」「人に言われたこと」をどう位置づけ重要視するかという、この人の知性思考によってかなり違いが出てきます。心の障害度が同じようなものにおいてもです。

母から聞いた話などからも分かることですが、やはり僕の親の世代は、そして「団塊の世代」あたりまでもかなりの程度において、「人の目」を重視する道徳的価値観思考が強いです。人に悪く言われること、人に後ろ指さされることだけはしていけない、と。
一方、僕の世代である「新人類」そして心の病の拡大が懸念されている30代の「団塊ジュニア」の世代になって、人に悪くいわれること、人に後ろ指さされることは、どうも道徳の問題でなく、個人間の攻撃のような出来事化し、そうした価値観は我々の心を導くものではなくなった訳です。
その代わりに何を目指せばいいかという、人生の確実な指針が見出されたわけでもありません。ただレールのようにある社会の生き方に魅力を感じることができない一方で、そこから取り残される恐怖だけは時の経過と共に切迫するだけの人生..

とまあ話が脇にそれましたが(^^;)、要は、知的思考においても「人の目が大事」という思考をしていると、この先の感情分析をしようにも、先の初歩的なものと同じパターンにならざるを得ないと思います。
悪く言われた。屈辱と怒りが起きた。だが表には出さずに取り繕った。
これでは初期段階で得られる治癒効果も、もう起きなくなっていき、次第に停滞状態になっていきます。

そうでない知的思考として、まずできるとすれば、「誰にどう言われたかと、その受け取り方の問題だ」とは考えられると思います。それに対して、今回の自分の感情反応は釣り合ったものだったか。釣り合ったとして、自分として納得満足できる感情反応か。そうも考えることもできるでしょう。

「自分は弁護士ではないし、それを知らないことは恥ではない」と考えるか。
「社長たる自分はやはりそれを知らないとは恥ずべきこと」と考えるか。まずこれで話が変わってきます。
次に、「恥ずべきこと」だとして、実際自分が冷や汗かいて血が逆流し胃が痛くなるような感情反応だとして、こうした感情反応は妥当だろうか。「動じない」感情で自分の非を認めるというのが理想ではないか。これでも話が違ってきます。

つまり、「本格的な感情分析」「魂の感性に立った感情分析」になって、知的思考をどうするかが決定的な要因になってきます。
ここに、一度「開放感」や「魂の感情」を感じ取った体験程度では、「本格的な感情分析」に向かえない、難しい面があると言えるでしょう。

いったんここで、「魂の感性土台」に立った価値観思考の検討、原理原則思考の検討が次ステップになるとも言えるような気がします。

かくして話は、外面行動における、この社会を生きる知恵とノウハウに再び向かうことになります。それがすぐには成長効果につながらないような、深い内面妨げに取り組む手順の話をしてきました。まず「魂の感性土台」を感じ取ることが道標です。
それができたら、以前には自分の成長として取り込むことのできなかった、建設的対人行動法、原理原則立脚型行動法、そしてサバイバル世界観に基づく行動学を、再び学習検討し直してみるのがいいでしょう。


それが同時に、「本格的な感情分析」「魂の感性に立った感情分析」をスタートさせるはずです。

誰が自分にどう言うかは、その人の目的からの話であって、自分は自分の目的に従って、それをどう捉え受け取るかを判断すればいい。
先の詐欺の件で言えば、ここは相手と親しくするのが自分の目的ではなく、この「査察官」を名乗る知らない人物を前にしての自衛能力が問われる場面である。そもそもドア開けて家に招きいれることからして、考えねばならない。

そう考えて、自分の「強制的に人に親しくしようとする内面感情」が視野に捉えられるかも知れません。「こんなこと知らない?」と言われた時の自分の感情の根底に、子供の頃から「頭の良さ」へのコンプレックスがあったという感情が捉えられるかも知れません。

かくして、「本格的な感情分析」「魂の感性に立った感情分析」は、一気にその実践の高度さレベルがアップするという印象を、こう書いていても感じます。
まあ、「魂の感性」をいかに自分の思考土台として定着させ、原理原則思考や建設的対人行動法を考えるかという、日常生活での具体的問題への取り組みの切磋琢磨期間が多少必要になるでしょう。
同時に、「愛」と「自尊心」についての考え方と方向性が重要になってくる。全ての取り組みが渾然一体となってくる。

まそうした切磋琢磨が進むとして、その過程での効果的な感情分析の細部などを、次に説明しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-23 / しまの
No.1273 2007/09/07(Fri) 11:56:22

■「初歩的な感情分析」から「本格的な感情分析」へ

感情分析は、「人の目」イメージの圧力が消えた、「魂の感性土台」を足場にして行うのが、本来の形になります。

そうではなく、「人の目感性土台」の中だけでも感情分析はでき、それなりの効果もありますが、上記の形との違いはまず直感的に僕として感じるのは、それは麻酔なしの手術をするようなものの印象があります。感情分析をする足場が、感情分析によってぐらつかせられる形で進むわけです。
これは「初歩的な感情分析」と呼べるでしょう。

心の障害が深刻に関係するケースにおいては、まあ最初は多少はその形で多少の心性崩壊は経る形になるのがいたしかたないかも知れません。それで何とか最初の「開放感」などを感じ取れた時、次の「本格的な感情分析」というものへの姿勢を考えてみるといいと思います。

その「姿勢」とは、「人の目イメージが消えた感覚」での感情からは、今までの「人の目イメージ」前提の思考や感情は、どう「感情論理」がつながっているのかと、実際に感情を追想する体験において自己究明理解する姿勢です。

まずキーポイントは、「実際に感情を追想する体験において」自己究明することです。ただ知的に論理をつなげるだけでは、感情分析にはなりません。「追想体験」を伴うことが条件です。


■感情分析の基本例

実例を出して説明しましょう。

先日TVで各種詐欺の手口(^^;)を紹介していましたが、その中に、相手の恥じ心理を利用したものがありました。税務署の査察官を詐称して、お金持ちの税金逃れ査察と称して、金品を預かってとんずらしてしまうという大胆なもの^^;
被害者の女社長がこの査察官にちょっと疑いを感じ、「2週間も預ける必要があるんですか?」と疑問を投げると、詐欺師、「え社長さんまでしてそんなことも知らないんですか?」すると被害者女社長「あ、いえ、そうでしたね」とのこと。
「そんなことも知らない?」と言われると、つい無知を恥じる心理から「知ってますよ」という素振り行動に向かうという心理を応用したものとのことです。

ま確かに、詐欺師というのはヘタな心理学者よりも人間心理を詳しく知っているもののように思えますね、なんてことは言いません。(←言ってる^^;)

例題の状況説明が不要に長くなりましたが(アハハ)、要は、「そんなことも知らない?」とか言われ、バカにされてはマズいと知った振りするなど、要は「人に言われた」ことへの感情反応の感情分析を取り上げてみたいと思います。

まず言えるのは、感情分析作業としては、そこで自分の心に起きた感情連鎖をたどり、流れを理解することになるのですが、「魂の感性土台」からするのと「人の目感性土台」からするのでは、かなり異なってくるだろうことです。
というか、「人の目感性土台」からだと、やはり感情分析にならない可能性が高い。


1)「初歩的」な感情分析の例

この人が「人の目完成土台」に立っているケースからシミュレーションしてみましょう。この人は、「人の目」の強い圧力の中で生きており、どう人の目を変えることができるかに心が奪われています。それでも、自分の感情動揺を脱したいというのは、また一つの動機になりますので、ハイブリッドを学んで感情分析をしてみるわけです。

すると見えるのは、「人が自分をバカにしようとする言葉を言った」であり、「その結果自分の中に屈辱感情が流れた」「屈辱感情への反応として、怒りが起きた」「屈辱と怒りをごまかすために知った振りをした」となる。
これは感情分析にはなっていませんが、治癒効果はあり得ます。自分の屈辱感や怒りを認めていることであり、もしそれが今まで「落ち着き」理想像などのために認めることができず抑圧されていたのであれば、抑圧解除になり得ます。
一方それは自分が自己理想とはかけ離れた現実を、この人に突きつけることにもなり得ます。その結果起き得るのが、自己操縦心性の崩壊という治癒効果です。

こうした「感情分析」の効果は、かなり不定です。抑圧感情の解放がこの人の心にとって歓迎できる状況であれば、その18で紹介した僕自身の例のように、治癒効果として開放感が現れるでしょうし、屈辱感や怒りを認めることが敗北と受け取られる状況にあれば、心性崩壊の方向に行き、どっと感情悪化して絶望感に向かう可能性が高い。

概して後者の方が、障害傾向の深刻度が高いほど起きます。この違いの本質は、自分の感情が人に見られ、また見せつけるものとして、感情が自己操縦対象になっている緊迫度です。これが、意識表面に現れる感情の色合いの違いには関りなく、心理障害の重篤度を決める本質要因だともいえます。自分や他人の感情が「実存」から引きはがされ、自分と他人の間の地面に「引きはがされた」感情が品評対象の陳列物のように見える幻想の度合いが高くなるからです。
これは一般の人には難解な話でしょうが、実際に深刻な心理障害を体験した人には分かると思います。

一方、そこで起きた心性崩壊は、感情が「実存」からはがされた陳列物という幻想意識土台を崩壊させ、意識土台の改善をもたらします。「人の目」の重圧度も減ります。つまり心性崩壊は基本的に「人の目感性土台」を減少させる効果があるということです。
それを足場にして、「人の目感性土台」への依存度のより少ない思考法に変えることが、この先の治癒をさらに加速させるものになります。ただし「人の目感性土台」が知的な価値観思考にまで、骨の髄にまで染み込んでいる場合が多く、それもかなり大変ではあります。

いずれにせよ、初歩的な感情分析は、実体は感情分析になっていなくてもそれりの効果があり、深刻なケースでも心性崩壊を招きながら深刻さを脱するという、結果的には不思議と話しがうまく行くように全てのケースでそれなりの改善が得られるので、僕が相談対応する場合も、感情分析そのものの洗練度などはあまり気にせずに、相談者が感情分析するのを促すようにしています。
まそもそも、自分の心の問題に自分で取り組むという方向を選んだ段階で、基本的に治癒へ向きますので、何でも進めてみるのがいいでしょうということかと。


■感情分析に向かないケース..?

「本格的」な感情分析の検討に進む前に、もう一つの障壁があるケースを説明しておきます。

基本的に「自分の感情」に向き合うのが苦手で、外界出来事の話としてだけしか思考しない傾向があるケ−スがあります。
これは基本的に感情分析には向かない状況で、実際感情分析に向かおうにもそうならない。
で僕としてもあまりそれ以上手は出さないというケースがあります。

これは恐らく、自己嫌悪感情からの逃避のために、基本的に自分のことを考えるということをやめた姿勢を習慣としているケースです。そしてこれは心理障害の深刻度としては、むしろあまり深刻でないケースに見られるような印象を感じています。
そもそも「一般の人」にそうした人多いですよね。

これについては、僕としてもアプローチを見出しかねている、というか、それへのアプローチまでまだ手が回らない(^^;)という感じで、自分にじっくり向き合う真剣度と動機はお任せモードにして、それが高まるのを待って次の段階に向かうという感じですね。
これはハイブリッドに取り組む動機の強さとほとんど同じ話になってきますので、まあ本人の問題意識の奮起、もしくはハイブリッドが発展する中で「自分への向き合い」への興味動機を高めてもらえればいいかという程度で考えている状況です。

いったんカキコし「本格的」な感情分析へ。


心理学本下巻に向けての考察-22 / しまの
No.1272 2007/09/06(Thu) 15:24:43

■「望み」の優先順位を定める

「人の目」の重みが消えた未知の感情を体験したらならば、この先の歩みにおいては、その「魂の生命力感性土台」の側に、自分が前に進むための動機目標を定めるのが良い、という話をしました。
「未知への成長」を、これからの「望み」と定める、ということです。

これは、ハイブリッドの実践のための方法論にはとどまりません。それはこれからの人生全体の「動機」「望み」を、「未知への成長」に置くことの、提案なのです。
なぜなら、ハイブリッド心理学そのものが、「人生」の生き方の最大の根本を問う心理学であり、「命」の根本を問う心理学として、作っているものだからです。

逆に言えば、「未知への成長」を人生の最大枠の望みと定めない時、我々はどうしても、心の罠というものに根底から足元をすくわれるように思うからです。そしてそうした「人生のためにこれが必要だ」という「派生的な望み」によって、逆に「人生」と「命」を危険に陥れる。人間の心というのは、どうやらそうできているらい。

我々が日々生きる上での思考は、結局のところ、意識の視野にある範囲においての、
望み(上位)−そのための方法手段−その実現への望み(下位)−そのための方法手段−..
というように「構造化」されています。
その構造において、本来は「手段」に過ぎなかったものへの意識が一人歩きして、上位の望みが視界から消え去り、下位の望みが人生の全てであったかのような錯覚に陥るという罠がある。

その罠に陥らないよう、自分の「人生の望みの構造」を常に確認する姿勢が大切です。
感情分析は、無意識領域まで追いやられた上位の望みを、意識の舞台に解き戻す作業とも言えます。これは具体的説明の方で詳しく。


■恐るべき「抽象化された望み」

若干話の流れからはわき道になりますが、「手段だったものを根本目的のように感じる」心理は、人間において極めて強力なようで、中でも端的なものとして「抽象化された望み」というのが考えられます。

本来は何かの「望み」への「中間手段」でしかあり得ないものが、完全にそれ自体を得るか失うかだけで、人生の幸福と挫折がかかっているかのような大きな満足や落胆の感情が起きるようになってしまうもので、本人はその感情反応の法外さに思いを致すことさえできなくなりがちなものです。
その最大の代表は、まず「お金」ではないかと。

これは実は僕自身の最近の体験でもあり、小銭での投資取引などやって数千円の儲けや損に大騒ぎする自分の感情が、ここ最近最大の感情分析対象になったのですが(エヘヘ^^;)、見えてくるのは、やはり「愛」なんですね。
儲けの先に「豊かな自分」という期待感があるのに応じて、些細な金の数字に感情が騒ぐ。
裕福になって愛する子供に物買ってあげてる自分なんて妄想(^^;)があったことを分析するにつれ、それが大元で求めたものだったという少し悲しみを伴う自覚とともに、熱が冷めていく。まこれも感情分析の一例になります。

しかし、そうした「大元の望み」感情が見失われた中で、人は実際マネーゲームに熱狂するわけです。
同時に僕自身が感情分析して見えたのは、そうして結局利を生まない時間においても、そうした「抽象化された望み」に向かっている時間に得ている、「人生で何かやっている」感覚とも言えるものです。そうして全てなくなったところで、何のこともない事柄に駆られ続けているのが現代人なのでしょう。
思わず、「抽象化された望み、恐るべし」との感^^;

まそれが「仕事」だったりするわけです。「なんかしてないと不安」という心理^^; やはり「人の目」感性ですね。

また女性にとっては「美しさ」が、その本来的価値に加えて、「抽象化された望み」を帯びやすいと思いますね。それによって人生が豊かになるような、と。まそうした一面もなきにしもあらずでしょうが、それだけでもそうは問屋が卸さないのが現実かと。
「美しさ」の価値の過大視よりも、「美しさ」とは別に重要なものへの視点が落ちてしまうのが罠ですね。


■「未知への成長」を「望み」と定めるハイブリッド道のり

ちょっと話が膨らみましたが、より具体的にはこんな意識を持って頂くのがいいかと。

まず「感情と行動の分離」から始まる取り組みによって、何らかの「開放感」を体験できた。

心の障害が関係する比較的深刻なケースにおいては、感情メカニズム理論の勉強などを通して、「初歩的な」感情分析は既に始まっているでしょう。その過程で多少の心性崩壊感情の膿の放出も経てから、人生で始めて体験するような、体に感情の血が暖かくめぐり開放感に満ちた状態を体験することになるでしょう。

それは意識の谷を通過して、未知の心の地に立ったような体験です。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg
の右の領域から左の領域へと。

しかし、その後に、例外なく(^^;)勘違いをします。今までの動揺感情の中で思い悩んだことが、今までの動揺感情の中で「こうなれたら」と思ったように解決し、自分がもしかしたらそうなれたのでは、と。
残念ながらそうはなりません。それはあくまで「人の目感性土台」の思考が考えたことであって、「人の目感性土台」で動く感情であることにおいて、「人の目感性土台」の上で揺れ動く動揺は、そのままです。

そして再びバイオリズムみたいのもあって、「人の目感性土台」の動揺感情が「どうすることもできない」という破綻を起こし、意識の谷間を抜け、再び未知への向上が起きる。以前の心性崩壊後よりもさらに自然に、この現実世界を生きている自分を見出すでしょう。
そして再び空想するわけです。「今度こそはこうなれるのでは」と。残念ながら、やはりそうはまずなりません。そして心性が崩壊する。
この繰り返しです。

どうせそうなるなら、「人の目感性土台」からの「望み」は否定する必要はないとして、もうはっきりと、「魂の感性土台」(と次第に略称化^^;)からの「未知」そのものを人生の「望み」としてしまうのが良からんざんしょか、ということです。

つまり、その20で書いた「ハイブリッド取り組みの大枠」を、次のように修正できます。
======================
1)「魂の感性土台」から「未知」を「人生の望み」の大枠と定め、価値観と原理原則思考を構築する
2)「人の目感性土台」の上での感情については、建設的要素は後押しする一方、非建設的要素は非行動化の原則を維持。さらに「魂の感性土台」からの感情分析を行う。「人の目」目当ての感情は「どうすることもできない」という破綻へと消滅するのが方向性になる。
======================


■人生の目標は「未知への成長」

上述はハイブリッド用語としての説明として、もっと直接的な説明をできます。僕自身の人生の将来目標感など例にしましょう。

僕にとって当面の人生目標は、最初の心理学本を出版することと、その時点での生活算段のために何か別の収入手段など獲得することなどが課題です。それはせいぜい2、3年先までの話です。
その後は、全くの「未知」です。10年後には、別の仕事を本業として落ち着いているかも知れないし、本が沢山出てあちこちで公演活動などもしているかも知れない。

そうした10年後の自分の「姿」についての「望み」は、僕には全くありません。自分がどんな内面になっているか、全く想像もつかないからです。

「どんな内面になっているか分からない」から、10年後の姿の望みは考えもしない。
こうした思考法をする人は、あまりいないと思います。大抵の人は、「今の感情」で、将来の望みを描きます。その姿になるような内面へとどう成長できるか、という思考法はするかも知れませんね。

しかし、僕自身がハイブリッド心理学を作ってから、自ら加速するようになった内面変化体験からすると、そうしたのが全く無駄であるのを感じるわけです。少なくとも、予定よりかなり早く(^^;)執筆専念に入った。30台後半頃、いつかは本でもと考えた時、漠然と考えたのは50代過ぎてという感じでしたね。かつての自分からは、まさかこうなるとは..という感じ。

また、上記で「公演活動してるかも」と書きましたが、はっきり言って今の僕にはそんなの面倒で腰が上がらない。基本的に喋るの疲れるので^^; しかしそれも10年後にどうなっているかなんて、分からないし、今の僕に知ったこっちゃない。未来の未知の自分に任せればいいという感じです。


■あらゆる時間において「成長」が可能になる

そのように、「人生の望み」の最大枠が「未知への成長」になると、実はここでさらに成長への強力なベクトルが生まれてくるようです。

「未知への成長」が「望み」である時、これは内容をほとんど限定されないので、実際のところ生活のあらゆる時間が、「成長」イコール「人生の望み」につながるものになってくるということです。

これは本当に実感として、そのように僕は今の自分の生活を感じています。もし別の仕事を収入のためにやるとなれば、その中で社会生活において普遍的な、自己管理や行動学の実践をできるでしょう。何か嫌な気分になることがあれば、感情分析できます。休息する時間は、次の成長のための充電時間になります。

そうやって、生活のあらゆる時間において、1分1秒たりとも無駄な時間はなく、「成長」「自分の人生」に向かっているという実感です。ちょっと脳が疲れ気味..でもうちょっとボケーとする時間あってもいいかもとは感じますが^^;

でこの「成長」の積み重ねの先は、チリも積もれば山となるで、もう全然分からない。そんな感じですね。
そんな生き方って悪くないんじゃないかなということで、これがハイブリッドの提案する「生き方」の一つの表現になるでしょう。

世の一般の人は、やはり「自分の人生こんなもの」と、とかく「姿」「イメージ」で限定して考えるように思われます。自分ならせいぜいこんな大きさの会社の部長までかな、とか。そうした思考法をした時点で、「生涯続く未知への成長」への道は閉ざされてしまいます。

そうした「姿」基準の成長イメージをとっぱらった所で、「成長」のベクトルそのものを「望み」と定めることができた時、人生を生きる原動力は無尽蔵に溢れてくる。それが実感です。


もちろん、「未知への成長の望み」を「感じられる自分にならねば」という思考法をすると、今までの繰り返しになります。

そうではなくなく、実際に「未知の感性」を視野に捉えた体験を持った場合に、次の歩みを最も着実にするための検討項目になるということです。
その検討、つまり「未知への成長」を自分が「望み」に感じられるかどうかという検討も、「そんな望みの感情があれば」と自分にじっと見入って待ち受けるのではなく、実体験としての「魂の感性」を実際に心の中で反芻吟味して、「望む」という感情も思い浮べてみて、それがうまく繋がるかを確認するような形にするのがいいでしょう。

そのように、感性土台の異なる思考感情の断片を頭の中で浮かべ、繋がるかどうか実験するかのような思考作業
それが「感情分析」になるわけです。

次はいよいよ具体的な中身の話かな。


心理学本下巻に向けての考察-21 / しまの
No.1271 2007/09/06(Thu) 12:50:35

■「魂と現実への立脚」から先の歩みへの「動機」とは

感情分析の細部説明と言いながら、このカキコでも感情分析作業そのものはまだ書きません^^;

ここまでの話では、「魂と現実への立脚」が、「開放感」と「魂の愛への願いの感情」の「実体験」を道標にすること、そしてその体験において、今まであったような「人の目」の重みが消えた、異なる感性土台が視野に入るはずだという話をしてきました。
そしてこれからの実践は、この「異なる感性土台」をまたがる思考が鍵になると。

先のカキコでは、それを一言で、知性面では「魂の生命力感性土台」に立っての価値観構築であり、感情面ではその知性から感情分析を行い、「人の目感性土台」の先の感情はやがて「どうすることもできない」という破綻消滅に向かうのが方向だと書きました。

しかしこれでもまだしっかりとは踏み出せません。この先の感情分析をするにも、感情分析をする「動機」がそれなりのものになる必要があります。つまり「動機」を誤った感情分析は、ほとんど効果を生みません
そしてハイブリッドの取り組み全体において、「望みに向かう」というのを、基本的な原動力と位置づけています。

ここでちょっと問題が起きます。「望み」はやはり「感情」であることです。
そして、今説明している段階というのは、素直に「望み」があって、「感情と行動の分離」からの基本ステップで順調に成長できる範囲のことではなく、それを阻まれたより深い問題への取り組みであることです。まず「望み」ははっきりとは見えなくなっている状態であるのが通例です。
その状態で、感情面への実践である感情分析では、ただ破綻消滅を迎える話になる。これでは駒が揃わない。


■「未知への成長」を「望み」と位置づける

つまりどうゆうことかと言うと、「歩む」ためには「望み」という「動機」が必要だというのを大前提として、ここから先の歩みにおいては、「人の目」の重みが消えた「魂の生命力感性土台」側を「望み」としてはっきり方向づけるのがいい、ということです。
とは言えこれはあまり内容がはっきりしないものです。というか、「未知」です。「未知」をまず実際に体験したことにおいて、ここで次の段階に向かう姿勢を定めようとしています。ならば次の目標も、やはり「未知」なんですね。

本人の意識上では、まず「開放感」という未知の感情を体験しています。あくまでそれは一時的であって、その中で行動できることも限られています。しかし、この先の歩みにおいて再び「未知」が現れた時、それはさらに大きな「未知」であり、よりしっかりとした心の地盤になっている。その時、自分は人生におけるもっと大きなことができる。

やはりこれが、しっかりとこの先を歩むための「動機」になると思います。
というのも、この先、まだ幾らでも心性崩壊の谷を通過することがあり得るからです。「未知」ではない「既知の望み」は、崩れ去る可能性が高い。その度にマジに絶望しては希死念慮との葛藤に悩むのは、はっきり言ってかなり無駄です。

一方、心性崩壊を何とかやりすごすと、脳の状態が変化します。これは本人にとってのそれまでの悩みにとっては、何がどう解決したという話そのものが消え去っているので、本人が気づかないまま改善された心を生きている形にもなり得ます。
そのように、心性崩壊後の改善は、かなりの相談対応事例を通しても、ほぼ100パーセントの確実性で現れています。
どうせそうなら、もう最初から心性崩壊を覚悟して通るのが得策のように感じまずね。希死念慮さえも、「あまたか」程度にやりすごす。


■「愛」は大枠で目指すものではない

上の話は、きのう出かける用事の中で、僕自身の歩みを振り返って、ちょっと今までの文調にやや偏りがあったかと感じたことでもあります。

「命」の望みとは「愛」だと書き、「魂」の望みとは「愛」だ言い、「魂の望みに向かう」のがこの先だというようなことを書いてきました。
魂論の解説においては、また『悲しみの彼方への旅』でも、僕自身の例としては、例えば初恋女性への魂の感情に導かれた様子など書きました。それが「望み」として「歩み」を導いたのが事実です。

しかしそれは後から、つまり今振り返って言えることであって、それを歩んだ当時の僕を本当にその道に向かわせたのは、「愛への望み」ではないと、はっきり感じるんですね。
「あの下級生の子」への感情にしろ、初恋女性への感情にしろ、それは僕がある大枠の望みに向かう歩みにおいてたまたま拾った、一つの駒に過ぎない。

では僕が一貫として目指し続けていたのは何かというと、やはり「未知」なんですね。とにかく自分が変化したかったわけです。一度変化を体験したのが嬉しくて、もっと先へと貪欲になったわけです。
それにまた、当時の僕には、事実それ以外のものは、自分が確実に向かい得るものとして残されていなかった。

このことが、ハイブリッドをまとめ始めて以来、どうも視野から外れていた。
無理もありません。「未知へ向かう意志」「僕自身」そのものであって、その僕が視界にとらえたのが、恋愛感情などの「望み」だったわけです。「僕自身」は僕の視界には入ってこないわな。

また逆に、そのように最大大枠の望みは「未知への成長」であったからこそ、意識表面上の「愛への望み」については、自ら若干の距離を保った知的な思考をできたり、時にはかなり無謀とも思える行動への意欲さえ自認したりといった、何にも縛られない広い視野からの自分にとっての「愛」への探求ができたように感じる次第です。これが今説明する段階から先の実践の、根底テーマになるような気がします。

ですから、心理メカニズム的には「愛が全ての大元」とは言えても、本人の意識努力上では、「愛は大枠で目指すべきものではない」とさえ言って正しいように感じます。

さらに言うならば、「愛における成長」を目指すのならなおさら、我々は今現在の意識で捉える「愛」にとらわれてはならないと言えます。基本的に、広範囲にわたる「愛の感情の変形」においては、愛が妨げられることによって皮相化荒廃化した感情が、意識上では「愛」として映るようになるからです。それに向かうことは、大抵人間関係や社会生活を次第に破壊貧弱化させ、実際その人が得る「愛」を縮小化させる方向に向かいます。

逆h、「未知への成長」に向かうことが、「愛の増大」になるという心理学的見通し「賭ける」ことは、愛の不明に悩む人への一種の担保の役割を果たしてくれるものになるでしょう。
今心に映る「愛」については、得られない方向に向かう可能性がある。ただし違う形で「愛」への答えがある、ということです。
前々から言っていた「求めることなく愛に向かう」というのも、同じことです。



ちょっと長くなったのでいったんカキコし、引き続きこの先を歩むための「動機」「望み」の話を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-20 / しまの
No.1270 2007/09/05(Wed) 12:36:12

■2つの「感性土台」の基本心理学

「2つの感性の違いをまたがる思考作業において治癒効果が生まれる」と先に書きました。
このメカニズムの意味を説明すると同時に、その実践の具体的説明へと進みたいと思います。

「2つの感性」とは以下。
1)魂の生命力の表れとも言える「イメージのない感性土台
2)「人の目」から始まる「強いイメージの感性土台

こう書いた言葉が、すでにそのメカニズムを暗示しています。
「命の望み」が解き放たれた状態と、それが差し止められた状態ということです。これが大局的なメカニズムになります。

どうゆうことかというと、「イメージ」願望の実現へと「現実」に向かうことを差し止められた中途半端な状態で生まれるという、基本心理学のメカニズムが、「命」のレベルで起きているということです。
かくして、我々はおいしい料理を実際に食べている時、その「今」を楽しむわけですが、何らかの理由で料理を口にできないフラストレーションの中で、さまざまな料理を空想するわけです。
この実に基本的な心のメカニズムが、心を病むメカニズムの大きなバックボーンとして働いているわけです。

そして「命の望み」とは「愛」です。それが差し止められた時、「愛」がイメージ化する。その象徴が「人の目」ということになるでしょう。


■「人の目」の蜃気楼

それが2つの感性の外枠構造の話として、次は内容です。

料理を食べたい空腹の中で浮かべる食べ物を、我々は「空想」であることを自覚しています。ですからイメージの中で空腹を満たそうとしてもどうしようもなく、何とかして「現実」の食べ物に到達する努力をして、それを得て、それを楽しむことができます。

「イメージ」の始まりの構図は、同じです。しかし違いが出てきます。
「人の目」ありきの「強いイメージの感性土台」の中で、人はその「イメージ」を「現実」であるかのように思いこみ始めるというものです。そして、そこに求めても満たされ得ない満足を、いつまでもその「イメージ」の世界で満たそうと駆り立てられるようになる、というものです。
何の満足かというと、「愛」の、です。


事実、「人の目」が自分に向けられた中だけでは、「愛」は完全には満たされないことを、人は思い至れると思います。
この結果、話の流れからはちょっと単独化する現象として、「性愛」法外な価値を帯びがちです。その中でだけ、「愛」が「本当に」満たされるという感覚が起きる。

全体の流れとしては、別の要因が加わります。一つは「自尊心」であり、一つは「恐怖」です。
そして「人の目」によって「自尊心」が満たされるということについては、人はなかなか疑問を抱くことができません。「恐怖」も同じです。人からそして社会から白い目で迫害される恐怖がリアルである時、「人の目」をどう変えられるかに、自分の運命と人生がかかっているかのような感覚に駆られることになります。

かくして、「人の目」が巨大な蜃気楼として、人が追うものになってくる。もはやそれが蜃気楼ではなく「現実」であるかのように。


■2つの「感性土台」から2つの「根底感情命題」へ

ハイブリッドの「感情分析」は、この「現実」と化した「人の目」を、蜃気楼でしかないその「正しい」位置づけへと、人の心において解き戻していく作業だと言えます。

解くための根幹の糸「愛」です。「自尊心」も「恐怖」も、実は「愛」から派生して生まれます。だから「人の目」が蜃気楼に戻る経路がある。
「愛」が生み出した蜃気楼に、「愛」から派生したものが重みを加えて、蜃気楼が「現実」に見えるという経路があります。それを逆にたどるわけです。「愛」から派生した「自尊心」と「恐怖」を、「愛」に戻す。すると「人の目」が蜃気楼でしかないことが分かってくる。

ただしこの経路をたどることは容易ではありません。というか、実はたどることができるものであることが、今だに分かっていない。たどることができないかも知れない。
たどるのではなく、とびとびに戻るということが起きるのは分かっている。
..とまあ例により話が抽象化^^;

とにかくまあ、2つの感性土台の上に、「愛」「自尊心」「恐怖」という大きく3つのテーマがある。2つの感性土台の上で、それぞれが閉じた感情論理を持つようになります。「閉じた感情論理」だとは、一方の感情論理ともう片方の感情論理のどっちが「正しい」かと比較したり、2つの感情論理を連続的につなげるための「橋渡し論理」がないということです。これも抽象的^^;

具体的にはこうゆうことです。

「人の目感性土台」は、「愛されないことは不面目であり屈辱である」という感情論理から始まります。だから「愛」から「自尊心」と「恐怖」という派生物が生まれる。不面目を跳ね返すための、人の愛の目を強制的に勝ち取る能力、もしくは愛など不要とはねつける能力に自尊心を求める。そのコントロールを失うことへの恐怖が生まれる。

「魂の生命力感性土台」は、その健全な成長においては、「愛する能力が自尊心となる」という姿になるように思われます。そうなれることで「恐怖」もありません。

「愛されないことは不面目であり屈辱である」から「愛する能力が自尊心となる」へは、つながった形では進めません。後者には「愛されなかった事実」がないからです。前者はそれから始まっている。前提が違うわけです。健全形での前提は、「愛されることは誉れである」です。
ところが「愛されなかった事実」という課題が、人間の歴史の中に起きてきた。


■「愛されないことは不面目でも屈辱でもない」

「愛されなかった事実」を前提とした、「魂の生命力感性土台」からの感情論理があります。
「愛されないことは不面目でも屈辱でもない」です。

誰が見出したともつかないものです。恐らく、人間の歴史を通して、「愛されなかった事実」から生き始めた上で、魂の生命力に向かって生きることを選んだ人間が、その中で選択していた感情論理でしょう。
その好例が、『Itと呼ばれた子』デイブ・ベルザーです。

なぜ「愛されなかった事実」を不面目とすることをやめたのか。この感情論理もあります。それは相手に「愛する能力」がなかったからです。
デイブ・ベルザーが最後に行き着いた結論は、「自分が愛されるに値しない悪い人間」だという深い挫折を除々に脱した先に至った、とてもシンプルなものでした。「母さんは病気だったんだ」と。
もちろんこのシンプルな結論に至るまでの過程が、命をかけたサバイバルであったことを読者は分かると思います。サバイバル世界を生きた時、「愛すること」は「能力」であることが実感されるものです。

同時に、もう一つの感情論理が出てきます。これが決定的になってくるのかも知れません。
「自分を愛さなかった者をも愛することができる」です。かくしてデイブ・ベルザーは、心を変えることなく死んだ母を前に、その祝福を祈ることができたわけです。

この「愛されないことは不面目でも屈辱でもない」という感情論理は、認知療法のデビッド・バーンズ『いやな気分よさようなら』でも書いていたものです。僕に方向転換を与えた重要なところの一つだったので、ちょっとスキャナーで取り込みましたので、興味あれば参照頂ければ。ちょっと大目に見てもらい一時掲載ということで^^;
http://tspsycho.k-server.org/bbslog/burns.pdf


■「魂と現実への立脚」から先のハイブリッド取り組み

「愛されないことは不面目であり屈辱である」「愛されないことは不面目でなく自分を愛さない相手をも愛することができる」
この2つの感情論理の間には、「橋渡し論理」がありません。両者の間には、深い闇の谷があります。深い闇の谷を間にして、2つの感性土台があり、その上にその2つの感情論理を底辺とした感情の世界が構築されます。

この構図の先にある、ハイブリッド取り組みの大枠を言いましょう。

1)「魂の生命力感性土台」に立って、価値観と原理原則思考を構築する
2)「人の目感性土台」の上での感情については、解き戻しを行う。これが感情分析になります。この結果は、「どうすればいい」という感情が、「どうすることもできない」という破綻へと消滅していくのが方向性です。

つまり、知性面において、「魂の生命力感性土台」からの構築。これが長い目で感情の改善を導きます。
感情面においては、「人の目感性土台」の上での感情を、「魂の生命力感性土台」の知性を足場にして感情分析をします。これは基本的に、感情改善よりも感情悪化を念頭にした作業だと考えるのが正解です。

感情を「愛されないことは不面目でなく自分を愛さない相手をも愛することができる」というものになるよう意識的に努力したり、「そうなれた自分」を良しとすることは、この実践には含まれないことに注意して下さい。それは意識努力が導くものではなく、上記大枠の2つの結果、長い目で生み出されるものです。

向かう先は、「まず悪化感情があり、その先に未知への向上がある」、これを基本単位と心得て下さい。
すぐ感情改善がある部分については、そのまま人生の実践として進めばいい。これは外面行動へのノウハウの世界です。そして豊かさを目指すことです。

「感情と行動の分離」と「外面行動ノウハウ」から残された、深い問題への取り組み段階の説明をしています。
感情分析のより具体的内容へ。


心理学本下巻に向けての考察-19 / しまの
No.1269 2007/09/04(Tue) 14:27:45

■「2種類の感性の世界」の確認

「開放感」と「魂の愛への願いの感情」の例など出しましたが、そこにおいて何を確認しておくべきか。
2つの話をそれぞれに対して言えるでしょう。

「開放感」においては、「人の目」が自分の心の活力を生み出すものとして、全く必要でない状態になることです。そうした「感性」であることを、確認しておきましょー。
一方、心を病む方向での動揺する感情は、「人の目」ありきです。「人の目」によって、感情が動く活力が生まれる。「人の目」がない世界は、空虚で無味乾燥に感じられてしまいます。

「魂の愛への願いの感情」においては、これはちょっと「人の目」イメージというか、「愛」という相手あっての感情なので、「相手のイメージ」がちょっと出てきます。
ただ違いは、『千の風になって』に感じ入る時の「愛」のイメージは、「形」において限定性がないことです。それはたしかに「イメージ」ではあるのですが、千現自在に姿を変え得る。
つまり「緩いイメージ」の感情と言えるでしょう。

この「形の限定性のなさ」は、魂の愛への感情が、その根源が自他未分離の渾然意識にあることに由来することが考えられます。世界と自分が分離のない一体として存在する中にあるという「愛」への願いを、魂は抱いてこの世界に生まれてくるのです。それが「無条件の愛」「無償の愛」というものにつながっていくのでしょう。

これに対応する「心を病む方向での感情」は、「愛情要求」です。これは「形」をとにかく重視する感情です。本当の愛はこうあるべきだ、と。それがないと、怒りに変わります。
先のカキコで紹介した僕自身の例のように、「自然な談笑」といった「姿」を基準にして、錯綜の中で揺れ動く感情が始まります。だから「強いイメージのある感情」です。

この2つの例はそれぞれ「自尊心」「愛」に強く関連すると書きました。
そして、それぞれの例における、この治癒成長方向への「未知の感情」の感性と、心を病む感情での感性は、「自尊心」と「愛」がどこかで重なり合い、治癒成長方向と心を病む方向での「感性」の違いの、まとまった一つの姿を示します。

治癒成長方向の「感性」では、「人の目」の前提のない自分の内側から、活力が溢れてきます。そしてその活力によって向かう先には、形において限定性のない「愛」があります。
事実最近僕としても、生活の中のあらゆる時間において空虚や退屈はなく、それでいて何のストレスや駆り立て感もない、そして生活の中で出合う他人や世界のあらゆるものへの穏やかな愛情感を感じる、とても良い心の状態が見え始めているのですが、その内面メカニズムの本質はそれになるのだろうと思います。

心を病む方向においては、「人の目」から感情が始まり、「愛」のあるべき姿があり、その「あるべき姿」への信念によって自尊心が生まれます。これが攻撃性を帯び、愛を破壊するというのが、基本構図です。


■治癒と成長の方向にあるもの

このような「感性土台の違い」をスタートラインとして、この先の治癒と成長への過程にあるのは一体何か。

まさに、この2種類の感性土台から育つ、あらゆる思考や感情を含む「2つの大きな人格構造ベクトル」が、異なる遷移の先でクロスするという方向性になります。
難解な文章でしょうが、まずこうして書いていて浮かぶのは、とても映像的なイメージです。

片方は、「人の目を必要としない感性」を土台にして、これから芽が出て茎が伸びていく
もう片方は、「人の目」から始める淀んだ色で、既にその錯綜として絡まった幹と枝が、より根底へと縮小していく。まあ先端から根元へと短くなっていくというより、枝から幹へと、そして根元へと「縮小波」が移動していき、その都度全体として縮んでいくイメージ。

素直にそれで終わるのではありません。淀んだ色の幹と枝の「縮小波」が、新たに伸び出した新緑の幹とクロスした時、まばゆい光の中で何かがはじけ、淀んだ色の枝は消え、新緑の枝はしっかりとした緑の幹へと姿を変えている。
そんなイメージ。


「まばゆい光の中ではじける」ものとは何か。それが自他未分離の渾然意識と、自他分離意識が、つまり「魂」と「心」が分離した時に起きていた、我々の意識では捉えられない、我々の全ての意識の根底にある「何か」なのでしょう。
それが、「原罪」と呼ばれるものに関連していると。

多分まあ、「分離」をめぐって生まれていた「ことがら」です。村上春樹調^^; 「分離」への「理由」であり、「分離」への「怒り」であり、そして「分離」への「許し」という3つが少なくともある。それが光のエネエルギーをはじき飛ばしながら、再び新しい「一体」に変わるわけです。原子とクォークの交換のようなイメージが浮かびます..って一体何のことやら^^;

はじけるのは必然です。「人の目」からの感性においては、「愛を破壊できる自尊心」が育つのですが、それは愛への願いからスタートしたものだからです。愛を求めて、愛を破壊できる力を求めたわけです。それが愛を破壊するのだが、破壊の根源が愛です。
自己操縦心性が奇妙な思考によってそれを「区画」で遮ることで人間思考が保たれるのですが、「自らを知る」中でその「区画」が取り除かれる先には、思考が破綻する消滅点がかならず起きることになります。


■「知性」による自己の感性と感情メカニズムの洞察作業へ

まあ難解なイメージはさておき、実践の説明に戻りますと、とにかく上述の「2種類の感性」の上に、人間の思考と感情が延々と構築されるわけです。

感情分析にせよ、原理原則思考にせよ、この先の治癒成長取り組みは、この「2種類の感性の違い」をまたがった思考作業です。「2種類の感性の違い」をまたがる形になる思考作業において、治癒効果が生まれる。

まず最初は、その最も枝葉として、感性前提などカヤの外にある各種の「思考」が、どの感性の上で生まれる思考なのかを把握することからになるでしょう。
「現実なんて空虚」という言葉であれば、明らかにそれは「人の目」感性からです。「人の目」が視界から消えると、空虚になる。

こうした感性の違いをまたがる足場で、感情分析を行います。
その細部を次に。


心理学本下巻に向けての考察-18 / しまの
No.1268 2007/09/04(Tue) 11:06:24

■「2種類の感性」の例

まず「2種類の感性土台」の確認から始めましょう。

治癒成長方向への感性土台として、これまでの過程で得た「未知の感情」が、それを頭で「どうなれれば」と考えるのとは全く異なる、実際の体験においてそれを知る道標になります。
まずは「開放感」そして「魂の愛への願いの感情」です。

1)「開放感」の例

まず「開放感」の例など出しておきましょう。『悲しみの彼方への旅』で描写した僕自身の歩みにおいては、「最初の大きな開放感」が、次の場面で描写されています(P.58)。
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最初の開放感

 秋が深まろうとする頃、私は、自分が何かにつけ他人を軽蔑し、優越感を持とうとしている自己中心的な感情があることを認めるようになりました。また、心理学の授業などに対する、追い詰められた獣のような反抗感情も認めるようになります。

 しかし同時に、私はその頃、生まれて初めて体験するような、大きな開放感を体験しました。日々自分が変化している。
 それは自分の進んでいる方向が正しいのだという感覚を私に与えるものでした。
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これは治癒原理としては、とにかく「内面感情の開放」の結果です。「自分が何かにつけ他人を軽蔑し、優越感を持とうとしている自己中心的な感情」など、それ以前の自分からは聞き捨てならぬ反理想的感情だったわけですが、この頃の僕にはもう「理想像を追う」ことによる救いへの希望は散り果て、自己分析だけが最後の賭けとして残った状況での話なので、どんな感情でもそのまま感じ取ろうとした強い方向性があったわけです。

この「大きな開放感」をもっと描写的に書いた文章など出してみると面白いかと、「オリジナル」の方をちょっと見たところ、実に面白い文章を書いてましたので、それも紹介しましょう。

まず「開放感」が起きる前々日の日記です。
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81.10.21(水)
・・(略)・・
 昼食の終わり頃になって、**先生の研究室へ行く。
 その途中でT君を見かける。彼が「あ、こんにちは」と言い、僕は
いかにも落ち着いた声でこんにちはと言う。そうできたことを、いかにも喜んでいる自分を見出して、こんな調子では駄目だな、と感じる。
 だが、
そのような反省のしかた自体が、どこかおかしいように感じる。自分が取った態度に一人で一喜一憂している自分自身への、この自己嫌悪は何なのか。このような自己中心的な自意識は、本当の自信が付けば自然に捨て去られるものであって、このように意識的に抑えるべきものではないと思った。

 自分はただ自分の自己中心性から目を反らそうとしているだけではないのか。
 としたら、自分の自己中心性を脱した姿が自己理想像になっていて、僕はそれさえ達せられれば万事うまく行くと考えているということだろうか。
 僕は自分のそのような自己中心性を見るたびに、自己軽蔑をつのらせていなかったか。それに僕はしばしば他人の中に自己中心性を見て、それを軽蔑した。
・・(略)・・
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かつての自分ながら、読んで思わずククク..と笑え^^; つまり、自分のことを何重にも意識する人間の姿があるわけです。
「こうできた」と一喜一憂する意識。その「一喜一憂する意識」を「こんな調子では駄目だ」なんて意識。これをさらに意識して、一体自分は何を気にしているのか、という思考。

最後つまり「自分見入り」の3重目の意識になって、核心に近づいています。つまり心の根底で、自分が自分をどうあらねばと感じているのかの本質を、捉えかけているわけです。
それは何かの「自己中心性のない自分」という理想ではないか。

こうした分析の先で起きる治癒として、自己操縦心性の崩壊として何が崩壊するかというと、その3重目で捉えたものではなく、さらに深い、4重目の自己意識が崩壊します。これははっきり言って、もはや「言葉」では捉えられないです。「意識では捉えられない」とも言えるでしょう。なぜなら根本的に、そこから意識が生まれる土台だからです。それが崩壊する。

次にその翌日の日記

そうした「4重目」まで意識が到達した様子が記されています。
ただしここでは心性崩壊ではなく、心性の活力の一時弱化が起きています。まあこれは根本治癒ではないですが、その途上で前兆的に起きるものと言えます。
余談ですが、結構長くハイブリッドに取り組んだ人であれば、こうした開放感のあとにかなり深刻な絶望感体験が起きていることを、詳しく振り返れば見出すでしょう。実に医学的な法則性があります。

とりあえずここでは開放感までの描写を。

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81.10.22(木)

 きのう、サディズム的な自分の態度を許容するような洞察が生まれてからは、
精神的にかなり楽になってゆとりが生まれてきたような気がする。

 これで他人に対して行く時、
自分が心のゆとりを持っていることで勝利感を持つようだったら、まだまだ駄目だな、とふっと思った。
 しかし
これ自体が、自分の勝利感に対する抑圧という性質を持っているような気がする。もしかしたら、自分が他人とうまく話せるということで万能感を持とうとする欲求だけでなく、その上に、自分はそのことで勝利感を感じてはいけないという理想像が働いているのかもしれない。

 図書館の参考書室でM君と少し話をした。
 かなり落ち着いて話せたが、そのことに対しても今までになく落ち着いていた。これで自分が自分自身であるという確実感はまだないが。そしてこのような場面で今までにあった高揚感のようなものを思い出して、それはまさに勝利を得または求めようとするときのものではないかと思った。

 心理学史が終わったあと、病理パートの4人で学食へ行く。
 MくんやN君とはごく自然に談笑する。T君は何となく黙りがちのような気がする。彼に話しかける時には、"話しかけてやる"というような、またはそうしないと彼に悪いから、というような感覚が少し伴っているのを気にする。彼の中に、談笑できないでいる自分自身に無力感と屈辱感を感じていたかつての自分と同じものを見てしまうのだ。そして彼に話しかけるのは、それを少しでも楽にしてあげようとする意味を含んでいるような気がする。
 病理パートのときも、以前のような拘束感はなかった。
・・(略)・・
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ちょっと多めに引用しておきましたが、まさに対人恐怖にある人の心理ですねー。最後の段では、対人恐怖心理の「反転」が起きているのが分かります。つまり自分が気にする自分の対人恐怖が、他人の中にあるように感じられる現象です。
この後の解説文的な段落も引用しておきましょう。
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 この頃の僕の心理が、「自然に談笑できる」ことに掛かっていた様子が見える。それができない時に破壊的感情が生まれるという対極に、それができるだけで自分が勝利を収めるかのような感覚がある。単なる挨拶や談笑の場面に、この両極端な感情の分水嶺が生まれてしまうのだから、それが緊迫した場面となるのだろう。
 対人恐怖の背景にあると考えられる心理だ。
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とまあ関連テーマに引かれ引用が長くなりましたが、かくして大きな開放感が生まれます。
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81.10.23(金)

 明らかに自分が変化しつつあることを感じる。
 今までに自分の足につながれていた重りが切り離されて、自分が開放感を持って前進しようとしているように思える。そして自分が実際に変化したということに、そして自分の目に映る世界が次第に自分に開かれたものになっていることに、感動している。
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こうやって緻密に見ると、実に面白いですね。

感情分析論からは、こうして人が僅か一文で表現する感情の中で、かなりの数の歯車が回っていることになります。感情分析とは、それを個別に自覚する作業になるわけです。
僕が相談対応する時も、相談メール文を対象にそれをしているわけで、しばしば、相談者の一つの文章を何日にも渡って追求するなんてことしてるんですねー。

2)「魂の愛への願いの感情」の例

「魂の愛への願いの感情」の表現例としては、とりあえず上巻最終章原稿終わりの女性の言葉などどして、ここでは読者の皆さんにも実体験としてそれを感じ取れるかも知れない材料など紹介しましょう。

先日の日テレ24時間TVでも出演がありましたが、秋川雅史歌う『千の風になって』というのがあります。
これに感じ入るものがあれば、それは間違いなく「魂の愛への願いの感情」です。24時間TVでは黒木瞳が号泣モードでしたね^^。世代を超えて魂に触れる曲かと。作詞者不詳というのもなんか深い。
http://www.dailymotion.com/video/x115i8_akikawa-masafumi-sen-no-kaze-ni-nat_music


例紹介だけで結構長くなったので、いったんカキコ。
何を確認するかの話から、引き続き解説へ。


心理学本下巻に向けての考察-17 / しまの
No.1267 2007/09/03(Mon) 23:11:51

■「魂と現実への立脚」までに得るもの

また今までの話をまとめることから話を始めますと、「感情と行動の分離」という最初のチェックポイント姿勢から、次の「魂と現実への立脚」というチェックポイント姿勢までの実践で、何を得るのかが明瞭になってくると思います。

まずはとにかく、外面における「現実問題」への建設的な対処ノウハウです。「現実問題」と「内面感情問題」を切り分け、「現実問題」について客観的な対処ノウハウを学び実践する。外面行動には大抵答えがあるものです。

次に、内面感情については、感情はただ流すのを基本として、まず鵜呑みにしない姿勢にします。一方で、外面行動を改善したことの結果や、感情強制の解除や、悪感情の基本的軽減姿勢(感情による決め付け解除など)などを通して、より良い感情を視界に捉えていくことが、次への足がかりになります。

「良い感情」とは言っても、明らかに、それはこの人が今まで抱えた「動揺する感情」にとっての「解決した感情」ではありません。それとは全く別の、「未知の感情」が自分から湧き出るのを感じた体験です。

そうした「良い感情」として、ある特定のものに焦点を当てたいと思います。主に2つのカテゴリーがあります。

一つは「開放感」であり「内面の力の増大」の感覚です。前進できるという感覚。これはまずは、外面における建設的行動へのさらなる後押しとしてフィードバックできます。
この先の心の成長において、これは「自尊心」により強く関連してきます。

もう一つのカテゴリーは、「魂の愛への願いの感情」と言えるものです。「愛情要求」という、「愛される」イメージとそれによる安心感満足感を渇望する感情とは異なる感情であり、「対象と一体として存在することを願う深い感情」とここでは定義しておきましょう。愛情要求との違いを見る例としては、とりあえず上巻最終章原稿の終わりの方の女性の言葉など。
これはこの先の心の成長において、もちろん「愛」により強く関連してきます。


■「イメージのない感情」と「強いイメージの感情」を基準に2つの感性世界を分離する

上述の「開放感」や「魂の愛への願いの感情」とは、要は「イメージのない感情」であるのが特徴です。

これは「魂の感情」について全般的に言えることです。
「心の感情」は、明瞭な具体的対象を持つ感情だと言えます。その対象に対して、どう感じどうしたいかという感情。
「魂の感情」は、特定の具体的な対象への感情というより、その感情において自分の生きるあり方があると言えるような感情です。

この辺の違いは、2007/03/16「魂のゼロ層へ:序説-3」などでも書いていますね。そこでの説明から引用すれば、
===============================
「心の感情」は、目の前の具体的出来事についての思考や感情。
「魂の感情」は、具体的な対象を持たない、漠然とした、でも深い、感情です。その感情が向かう対象が、はっきりしていません。「何についての感情」ではなく、ただ感情があります。

漠然とした怒り悲しみ寂しさ空虚感といったマイナス感情。開放感「内面の力の感覚」といったプラス感情。
これらは、「心の感情」がほどんど混じっていない、魂の感情がそのまま感じとられたものと言えま
を持たない、漠然とした、でも深い、感情です。その感情が向かう対象が、はっきりしていません。「何についての感情」ではなく、ただ感情があります。
===============================


そこでも書いているように、魂の感情も多様で、良い感情も悪感情もあります。
その中で、「感情と行動の分離」から始まって「魂と現実への立脚」へという次のチエックポイント姿勢に移るための、足場とも言える感情として、2つの感情を特に取り上げたいと思っています。

それが「開放感」「愛への願いの感情」です。
なぜかというと、この2つが「自尊心」と「愛」への成長のための、原点的な前進点とも言える感情だからです。

「より純粋な大元の望み」に立ち戻ることが重要だと、上巻原稿で耳にたこができるほど(?^^;)書きました。
それを探そうとして分からないと感じる方が多いと思います。実は取り組み途上で体験している場合でさえもです。
なぜ体験していながらそれが「大元の望み」であることに気づかないかというと、「望みの感情」を、「なるべき自分」へと自分を押し上げてくれるような、何か具体的な目標が見出された情熱ややる気のようなものが、まるで目の前に落ちてきたおいしい果物のように、自分の心に現れることを期待しているからだと思います。

実践上は、そうした「具体的な目標が見出された情熱ややる気」は、内面感情への取り組み、つまり感情分析などよりも、外面への思考法行動法の中で、目標を定める思考法ノウハウによって、自ら組み立てて行くというのが正解と思われます。つまり実は感情面よりも知性面の方が重要な気が、今書いていて感じられますね。

そうした、「より純粋な大元の望み」からの前進成長という、ハイブリッドにおける治癒から成長への転換点における原点感情とも言えるものとして、「開放感」「愛への願いの感情」を、実際の体験を通してまず理解する。
それでどうするかというと、この感情を原点にした時、さまざまな価値観をその上に築く土台である「感性」が、それまでの動揺する感情論理の基盤となった「感性」とは、全く別世界のものであるなずなのです。



■「感情と行動の統合」へ

ですから、ここで、「感情と行動の分離」という、ハイブリッド実践の最初の大枠みにおける、転換が出てきます。
今度は、「感情と行動の統合へ」です。

実際のところ、「感情と行動の分離」がゴールではないと書きました。しかし「統合」という枠組みを今まで書いていなかった。これでは分解修理において、分解だけあって組み立て直しがないという、未完結であったわけです。

ここで、「感情と行動の分離」から「感情と行動の統合」へという、大枠における転換が追加されます。
ただし、全体がこう折り返すのではなく、「統合」に向かい得るものと、今まで通り「感情と行動の分離」でいくものと、大きく2つに分かれてくる、ということです。


「感情と行動の統合」に向かうのが、「イメージのない感情」の感性から始まる感情と思考。
「感情と行動の分離」のままで行くのが、「強いイメージのある感情」の感性から始まる感情と思考。

そしてこの2つのグループに対して、この先の実践で違うことをするわけです。

「イメージのない感性」を土台にして、価値観の確立を行います。原理原則思考もこの一貫で。
「強いイメージのある感情」に対して、「イメージのない感性」に立っての感情分析を行います。この結果、「強いイメージのある感情」の中で「どうすればいいか」とめぐらされた今までの思考感情については、「どうしようもない」「どうすることもできない」という破綻消滅が基本的な方向性になります。

つまり、「分離」の先に、より積極的な「統合」への歩みと、「破綻消滅」への歩みという、外面および内面における2枚岩取り組みが一段階進化した形になるということです。

これを全体枠組みの話として、感情分析の話を次に。


心理学本下巻に向けての考察-16 / しまの
No.1266 2007/09/02(Sun) 15:00:56

魂と現実に立脚した原理原則思考について、次に「望みに向かう」を加算する話と書きましたが、ちょっと変え(^^;)、「魂と現実に立脚した感情分析」の話をします。「望みに向かう」前に、これが必要になりそうで。
また大局的な話から。


■「心の再生」を越えた先にあるもの

感情と行動の分離」という最初のチェックポイント姿勢から、次のチェックポイント姿勢は「魂と現実への立脚」だという話の流れできました。
でその先の、「魂と現実への立脚」からの原理原則思考と感情分析が、その先の実践だという話をしています。それによって、ぐんぐん治癒と成長が促されることになる。

しかし、ここまでの途上に、大きな関門が実はあります。自己操縦心性の崩壊です。これは心の障害が関係している程度において、深刻な問題として起き得ます。
この「治癒現象」「深刻な問題」と書くのも、どうしても本人の意識上は「人生のいっかんの終わり」(^^;)としてしか体験できないのがまず不可避であり、希死念慮にどうしてもつながりやすい。

場合によってはそうなるものを足場にしての、次の実践なんて話をしているわけです。

心の障害が深刻に関係しなければ、「魂の感情」を即時的に感じ取ることで、こうした「深刻な問題」は起きることなく、進めることができると期待しています。
ですから深刻なケースほど、この実践の先になにがあるのかという目標像を明確にし、それを誘因にしないと、先に進めず果ててしまう(^^;)ことが起きかねない。

で先のカキコにおいて、「魂と現実に立脚した原理原則思考」については、感情イメージのない、無味乾燥した他者像を規準にした原理原則を習得することによってこそ、この社会をうまく生きるスキルがつき、豊かな人間関係も実はこの「無味乾燥した対人接触」の方の枠の中でゼロから育つものになるという、外面における方向性を説明しました。

内面においては、さらに「心の再生」の先に何があるか、という話になるでしょう。心性崩壊は明らかに、内面においては「死」になりますので。

というのも、これから説明する「感情分析」は、心性崩壊後の実践であるだけではなく、心性崩壊を導く実践である面が多々あるからです。
ですから、いま自分が行う感情分析作業によって、何らかの心性崩壊つまり感情悪化に向かうかも知れない。それでもその先にこうした利益を得ることができる。だから進む。そうした方法感が極めて重要になってきます。

これは前に進む誘因を得るという話だけはなく、実は感情分析はどんな意識の中で行うかという、技術論の話にもなってくるのです。


■「空想世界における“怒り”という名の愛」から「現実の中の愛」へ

それで言いますと、「空想世界における“怒り”という名の愛から現実の中の愛へ」という言葉を出すことができます。
これが、内面における「魂と現実への立脚」にまたがる成長変化の、大きな一貫とした方向性になります。

これは感情分析に限らずの話です。
「魂と現実に立脚した原理原則思考」も、まずは外面の社会行動スキルをターゲットにしますが、豊かな対人関係もその先に築くものであり、それが同時に、内面における愛の成長が生まれる領土になるのです。
さらに、内面における愛の成長が大きく花開くためにも、原理原則思考による「愛に依存しない自尊心」が支えになります。これはこのシリーズの終わりの方で説明します。

自己操縦心性の崩壊とは、「空想上の愛の崩壊」だとも言えます。それは空想の中で自分が得ていると感じる愛の崩壊だけではなく、というかそれよりも、空想の中で愛を得ようとする生き方、意識根底そのものの崩壊といえます。そしてそれが崩壊した分だけ、「現実の中の愛」という未知の感性と感情が開放されます。

感情分析が自己操縦心性の崩壊を導くというような表現を何度かしていますが、より正しくは、「現実」が自己操縦心性の崩壊を導きます。
感情分析が自己操縦心性の崩壊を導くのは、「現実」へと方向づけられている感情分析の必然的な流れとして、そうなるということです。また、そのような感情分析しか、効果はありません心性崩壊を導くせよ、そうではない洞察体験へと実を結ぶ場合もです。

ですから、感情分析においては、何らかの形で「空想上の愛」と「現実の中の愛」の区別をする思考を土台にする必要があります。たとえ今見分けがつなかいとしても、その違いとは一体何なのかを知ろうとする意欲は必要だと言えるでしょう。
そして「空想上の愛」から「現実の中の愛」へという方向性を歩むという動機が必要でしょう。


その中で、「“怒り”という名の愛」が、主要な分析対象の感情やイメージになってくるわけです。

より具体的な実践を次に。
感情分析という作業の外から見た姿と、それによって何が変わるのかという精緻な内側をつなげた解説は、ハイブリッド史上ようやくここで登場することになりますね^^)v。


心理学本下巻に向けての考察-15 / しまの
No.1265 2007/09/02(Sun) 12:12:34

「魂と現実への立脚」に立った原理原則思考の、より実践的説明。


■魂と現実に立脚した原理原則思考の実践

「魂の感情」を感じ取った時、もしくは自己操縦心性の崩壊の際も大抵そうなりますが、人の目と感情がまるで自分の生きる舞台であるような今までの感覚が消え、他人はむしろ遠い存在として離れた場所に浮かび、その本当の心中は推し量ることも遠い存在であるのかのように感じる、異なる意識土台の感覚が現れると思います。

その感覚における、「感情イメージのない他人像」を対象にした、建設的行動法としての、自分なりの原理原則を考えていきます。

これは比較的深刻な障害傾向から始めたケースにおいては、結構難儀を感じることかも知れません。
難儀となる状況が、主に2つあります。


■無味感想な関係舞台からこそ育つ豊かな対人関係

まず1つ目は、「感情イメージの消えた他人像」はあまりに無意味無機質なものに感じられ、もはや何らの働きかけの意味さえ失ったものに見えるというケース。感情カラーセロハンをはがすと、その下の人物画そのものまで取り去られてしまうような意識状態と言えるでしょう。

これについては、2つのアドバイスをできます。

まず、その無味乾燥した人間世界(^^;)において、習得することでこの社会をうまく生き、より豊かさに近づける原理原則がある。とにかくそれを淡々と習得し実践するのがいいでしょう。これは信号で青は進め赤は止まれというのを覚えるのとほとんど同じことです。
同じように、基本的な対人行動においては、ごく淡々とした連絡や約束事をとり行う。仕事生活においては自分の役割を理解し、なるべく最低限の労力を(^^;)はらってこなす。
こうした行動は、感情イメージのない他人像を前にした時の方が、案外容易になります。自己操縦心性崩壊後の呆然とした意識状態でも、結構というか以前より仕事ができたりする。

もう一つ。その無機質な関係イメージで始まる舞台上に、これから徐々に育っていくのが、魂と現実によって他人と繋がっていく豊かな対人関係だということです。

今まで、こうした人にとって「豊かな対人関係」とは、まずはイメージした「愛情の目」をいかに自分が向けられ囲まれるかという、0か1かのビットの世界(?^^;)であり、その「頻度」の話のようにイメージされていると思います。
そしてその「頻度」がほぼ10割になった時、何となくイメージする「幸福な感情」に自分が包まれる、という期待をしていると思います。

実際の心の成長というのは、そうゆうものではありません。
「自分に向けられる感情」のイメージのない意識状態において、自ら他者と世界に働きかける体験を積み重ねることで心が成長し、「未知の豊かな感情」の出現が繰り返されていくという形になります。
この背景には、「望みに向かう」ということがあってのこととしてです。

僕自身にこのことが見えた時の感覚を、はっきりと憶えています。日記への記録はなく、社会人になってからのことだと思います。
幾つかの心性崩壊を経た淡白な感情の中で、「こうなるべき対人関係」のイメージがかなわぬ夢であったかのように消えた中で、ごく自然に仕事の中で自分の役割を果たす行動をこなし始めていた時でしょうか。ふと、今までイメージの中にあった「暖かい信頼関係を目指す道」のようなものが消えた薄暗闇の先に、全く未知の、どこに続くとも分からない一直線の道が自分の前にあるという感覚を、極めて映像的に感じたのです。

それは今までの自分のイメージの中では「人としての感情などない相手」である年上の人達との仕事での接触の中で、そうした人達の背後に実は何か暖かい感情があるというイメージを感じた感覚でもあります。
それは今まで他人を味方と敵に峻別した規準である「暖かい目」という「姿」ではなく、「姿」においては以前の僕にとっての「人としての感情などない相手」と同じそのままでありながら、見えない背後に暖かい何かがあるという感覚。
まあそれが「魂の共感」というものの始まりだったのでしょう。

まあ取り組み実践上は、こうした感覚に意識的にどう導けるのは何とも言えませんが、進む道のりとしてはそんなものだと考えておくのがいいでしょう。


■できるだけ「現実に表出された客観的事実」に即した原理原則を築く

ということで、「魂と現実に立脚した原理原則思考」としては、まず「感情イメージのない他者像」を前提にした原理原則を考えるのが重要です。

ただしあくまでこれは、外面行動における豊かさのための側面です。内面感情における豊かさは、これにさらに「望みに向かう」というのを加算した方向性になります。これは次のカキコで説明します。
まずは、この社会をうまく生きるスキルを、感情カラーセロハンを取った他者像を前提として築き上げることです。

具体的には、友人の一人が金に困って、ちょっとした金を貸してくれと頼みにきた。それに対しどう行動するかの自分としての原理原則を決める。可能金額はどうか。借用書は書かせるか。

感情カラーセロハン相手だと、辛そうで悲しげな表情でだったら貸してやる、高飛車で傲慢な態度だったら貸してあげない、といった情緒に流れるものになりがりです。
これは社会を生きるスキルとしてはちょっと脆く、相手が「どんな感情で」というのは抜きに、そこに起きている客観的事実に対して原理原則を持つことが重要です。この例はあくまでプライベート的な話ですが、社会行動の本質は全てそれと全く同じと言えます。そして相手が多種多様になるに従い、感情基準の原理原則ではうまく生きていけなくなっていきます。


ということで、感情抜きの客観的事実への原理原則をまず持つ。そして次に、「望みに向かう」要素を加算する。順番としてはこうですね。

そして「望みに向かう」の大きなものが「」と「自尊心」であり、「愛」においては、上の話であれば自分としての基本的な原理原則をまげてその友人に金を貸してやるということも出てくるでしょう。そこでやはり「相手の感情」「自分の感情」という話が出てきます。
そしてその「相手の感情」「自分の感情」がどれだけ「現実的か」という問題がやはり出てくる。ここに2つめの難儀が出てきます。

それを踏まえての実践を次に。


心理学本下巻に向けての考察-14 / しまの
No.1264 2007/09/01(Sat) 15:16:39

先のカキコでは、「感情と行動の分離」に続く次のチェックポイント姿勢「魂と現実への立脚」における意識内容について説明しました。
次に、「魂と現実への立脚」に立っての次の実践を説明します。これは2つのステップがあります。
1)「魂と現実への立脚」からの原理原則思考
2)「魂と現実への立脚」からの感情分析

この進め方ができれば、ぐんぐん治癒と成長が促されます。これは請合います^^。
まあ問題は、「人の目への立脚」姿勢(^^;)との間の選択になるかと。「人の目への立脚」が姿勢どう生まれるかについても合わせて考察しましょう。


■「魂と現実への立脚」からの原理原則思考

まずは「魂と現実への立脚」に立っての原理原則思考について説明します。
これは社会で生きるスキルや行動見識建設的対人行動法など、要はこの「現実世界」を生きるためのノウハウです。

重要なのは、「感情イメージのない現実」を知覚した感覚に立った上で、現実世界において建設的に生きる行動法を考えることです。
つまり、「感情カラーセロハン」を貼り付けた他者像を相手にではなく、それをはがした透明な、他者が現実行動において「出した客観的事実」に対して、建設的対処となる行動法を考えます。

なぜこれが大切かの説明として、まず、「人の目」立脚型行動法の問題点を言いましょう。「感情カラーセロハン」を対象にした思考や行動をしてしまうと、どのような問題や不利益があるか。

これはごく実際問題として、良い成果を生むことがありません。
まず感情カラーセロハンの色が、現実からかけ離れてしまうことが少なくありません。客観的な表面は「親切」という姿をした他人の行動が、「悪意の罠」というカラーセロハンを貼り付けてしまったりします。「悪意」の底には「殺意」さえあるという色を貼ってしまったりします。
そうして「現実」からかけ離れた他人イメージに反応して行動すると、当然、現実にそぐわない不適切な行動になります。

また、感情カラーセロハン相手に思考と行動をする姿は、どうしても人からの信頼を損ねがちです。これは貼り付けするカラーセロハンの色の種類には関らずです。

ここで、人が「感情カラーセロハン相手の思考行動」をしているかそれとも「現実の他者を相手の思考行動」をしているかの区別は、相手から分かるのか、という命題が出てくると思います。
何とも残念な話(?^^;)になるかも知れませんが、「感情カラーセロハン相手の思考行動」をする人にはこの区別は分かりませんが、「現実の他者を相手の思考行動」をできる人には、この2種類が分かります

2種類というのは、
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro14.jpg
の右側のパターンと左側のパターンになります。「現実の他者相手」のパターンの場合は、「実感情の察知」と「魂の共感」によって対人行動をする形になります。
そして感情カラーセロハン相手に思考行動する姿には、どうしてもあまり良い印象を感じることができません。

我々人間は、この2つの態度の違いを区別する言葉を、あまり作っていません。それでも僅かに該当する言葉があります。
「ひとりよがり」です。「ひとり相撲」を取っている、という表現もしますね。要は、現実の相手を相手にするのではなく、自分の頭の中で空想した相手を相手にする様子。
「ひとりよがり」はやはり誉め言葉ではありませんね^^; またこんな歌詞も良く出てくる。あなたは本当の私を愛したのではなく、私を愛する自分の姿を愛したのお〜♪と^^;


■「ひとりよがりでない自分」という自己操縦心性の理想パラドックス

ここでちょっと話の流れがそれますが、上記「ひとりよがり」という言葉が、自分への実に苦い指摘のようにイメージされる感情というものが考えられますので、それについて説明します。
実はこれが根本治癒において決定的な話だったりします。
上の説明も、「そんな自分が人から白い目で見られる」という恐怖イメージを刺激するかも知れません。

実はそこに、自己操縦心性が根底で抱く、最も重要で基本的な自己理想像があり、それを空想の中で維持しようとすることによって、まさにその理想像を損なう姿になるという、究極のパラドックス構造があるということです。
これがまさに「病根」とも言えるような印象を感じます。

その自己理想像とは、「ひとりよがりでなしに人とそして世界と繋がることのできるちゃんとした人間」とでも言うべきものです。
これが幼少期の「一体化の愛」の挫折を飲み込み否定し去ろうとした結果生まれた理想イメージであることは明白です。

詳しい進め方はこの後説明しますが、「感情分析」は明らかにこのパラドックスを解除し、この自己理想像において現実の自分はそうであり得ないという深い絶望に導きます。
そしてこのパラドックスによって隠されていた、大元の魂の感情をあらわにするのです。それが「生」における拒絶を受けた魂の深い悲しみと絶望感になります。

これが、根本治癒の瞬間になります。しかし本人の意識においては、これは「解決」ではなく「絶望」であり「自己の破綻」として映ります。
これが「自己操縦心性の崩壊」の、感情内容にまで最もつっこんだ説明になるでしょう。

実践上は、「ただ実存を守れ」という、良く出している話になります。
(参照:2005/04/07 心の手術-3:操縦心性崩壊時へのアドバイス)

また重要なのは、そうした自己理想像があくまで「人の目」依存の感情カラーセロハンありきの意識世界で描かれたものである一方、現実において「ひとりよがりでなしに人とそして世界と繋がることできる」思考法行動法への答えがしっかりと別の意識土台の上にはあることを、心に刻んでおくことです。
その時はまだそれは見えないでしょうが。

そうした「現実においてひとりよがりでなしに人とそして世界と繋がることできる思考法行動法」ということで、「魂と現実への立脚」からの原理原則思考について説明を続けます。



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