■ 心理学本下巻に向けての考察-96:「心」と「魂」の原点へ-5 / しまの |
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No.1347 2007/10/31(Wed) 12:13:42
■「心の自立」と「魂の自立」
「心の自立」については9/24「心理学本下巻に向けての考察-46」あたりでも焦点を当て、そこでは、それはもう「実践」というよりは「一人立ち」するという「命の摂理」であり、その基本は「自分は自分で守る」ことだと書きました。 より詳しい心理メカニズムの視点から、改めて定義をしましょう。
まずお伝えしたいのは、ハイブリッドが考える「心の自立」とは、それをしているかしていないかで、心の状態が全く別世界となる、極めて大きな違いを考えているということです。 大自然において自立している動物としていない動物の違いに匹敵するほどにです。まあ「自立していない動物」とは、大自然に生きるのではなく人に飼われて生きるという話になるでしょう。同じです。我々人間も、「心の自立」をしていない場合は、社会や回りの人々に飼ってもらうことで生きていけるような心の状態になっていることを意味します。
そうした大きな違いは、「人の目感性土台」と「魂感性土台」の別世界の違いにそのまま対応しています。 「人の目感性」に影響された心の領域には、「心の自立」はありません。そして先に「人の目感性」は「克服できない」と述べたことにおいて、ここでは「実践として克服はできない」とより正確に付け足しておきますが、同じように「心の自立」は意識努力だけではどうしても成しえないのが、人間の不完全性の大きな一つだということになります。
そんな状況において、「否定価値の放棄」は、ハイブリッドの取り組みにおいて、意識努力で成しえる範囲での「心の自立」の獲得解決です。これをまずは「心の自立」と呼ぶので良いかと。 ただし「否定価値の放棄」だけでは、「人の目感性」はもはや「土台」であることをやめたまま残されます。これは「感情」としてはまだ「自立できていない感情」がかなり心に流れるということです。
真に自立を成した結果としての「未知の感情」が心に流れ出すのは、その先の「魂の望みへの歩み」の中で、「魂の挫折の原点」に戻って、その原点が「まっさらな未知」の中へと消え去った後です。 これを「魂の自立」と呼んでいいと思います。
ですから「否定価値の放棄」では一応病気が治った病み上がりで、「魂の挫折の原点」を超えた先に、病んだ要素が完全に消えた心の領域が現れるという構図になります。 まあもちろんそもそも心を病むメカニズムが人間の心の基本的なメカニズムであることにおいて、この構図における「完全形」をいたずらに目標とすることは、もはや誤りです。それはどう頭でイメージしよとしても、「人の目の中でこうあれる自分」の焼き直しの絵に描いた餅にしかならないでしょう。
意識実践の目標はやはり「否定価値の放棄」です。そしてそれがまだかなり不完全な人間の姿であることにおいて、まさにその不完全性の受容とはどうゆうことかを見出すのが、「否定価値の放棄」なのです。それが成されれば、あとは「魂」が導いてくれます。
まあありがちな轍は、「心の自立」について考えることが、「こうなれれば心の自立した人間として社会や人から見られる」という目標像を考える思考に陥っているものですね。「心の自立」とはまさに、そのように「こう見られれば」という思考を超えた思考を築くことを言います。 まあまずは「ちゃんと心の自立した人間の思考法行動法」を学ぶという、ごくプラクティカルなアプローチから始めるのでいいと思います。それだけでも社会を生きるノウハウとして高度な領域になってきますので。 そしてそれを実践する中で、単に処世術のようなものを超えた真の「心の自立」とはどうゆうことかを考えていくのがいいでしょう。
ということで、位置づけの話をしましたが、午後出かけることもありここでカキコして、「心の自立」のより具体的な構成要素、そしてそれがどのように「否定価値の放棄」へつながるのかの、考察説明を行いますす。 |
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