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2007.10


心理学本下巻に向けての考察-96:「心」と「魂」の原点へ-5 / しまの
No.1347 2007/10/31(Wed) 12:13:42

■「心の自立」と「魂の自立」

「心の自立」については9/24「心理学本下巻に向けての考察-46」あたりでも焦点を当て、そこでは、それはもう「実践」というよりは「一人立ち」するという「命の摂理」であり、その基本は「自分は自分で守る」ことだと書きました。
より詳しい心理メカニズムの視点から、改めて定義をしましょう。

まずお伝えしたいのは、ハイブリッドが考える「心の自立」とは、それをしているかしていないかで、心の状態が全く別世界となる、極めて大きな違いを考えているということです。
大自然において自立している動物していない動物の違いに匹敵するほどにです。まあ「自立していない動物」とは、大自然に生きるのではなく人に飼われて生きるという話になるでしょう。同じです。我々人間も、「心の自立」をしていない場合は、社会や回りの人々に飼ってもらうことで生きていけるような心の状態になっていることを意味します。

そうした大きな違いは、「人の目感性土台」「魂感性土台」別世界の違いにそのまま対応しています。
「人の目感性」に影響された心の領域には、「心の自立」はありません。そして先に「人の目感性」は「克服できない」と述べたことにおいて、ここでは「実践として克服はできない」とより正確に付け足しておきますが、同じように「心の自立」は意識努力だけではどうしても成しえないのが、人間の不完全性の大きな一つだということになります。

そんな状況において、「否定価値の放棄」は、ハイブリッドの取り組みにおいて、意識努力で成しえる範囲での「心の自立」の獲得解決です。これをまずは「心の自立」と呼ぶので良いかと。
ただし「否定価値の放棄」だけでは、「人の目感性」はもはや「土台」であることをやめたまま残されます。これは「感情」としてはまだ「自立できていない感情」がかなり心に流れるということです。

真に自立を成した結果としての「未知の感情」が心に流れ出すのは、その先の「魂の望みへの歩み」の中で、「魂の挫折の原点」に戻って、その原点が「まっさらな未知」の中へと消え去った後です。
これを「魂の自立」と呼んでいいと思います。

ですから「否定価値の放棄」では一応病気が治った病み上がりで、「魂の挫折の原点」を超えた先に、病んだ要素が完全に消えた心の領域が現れるという構図になります。
まあもちろんそもそも心を病むメカニズム人間の心の基本的なメカニズムであることにおいて、この構図における「完全形」をいたずらに目標とすることは、もはや誤りです。それはどう頭でイメージしよとしても、「人の目の中でこうあれる自分」の焼き直しの絵に描いた餅にしかならないでしょう。

意識実践の目標はやはり「否定価値の放棄」です。そしてそれがまだかなり不完全な人間の姿であることにおいて、まさにその不完全性の受容とはどうゆうことかを見出すのが、「否定価値の放棄」なのです。それが成されれば、あとは「魂」が導いてくれます。

まあありがちな轍は、「心の自立」について考えることが、「こうなれれば心の自立した人間として社会や人から見られる」という目標像を考える思考に陥っているものですね。「心の自立」とはまさに、そのように「こう見られれば」という思考を超えた思考を築くことを言います。
まあまずは「ちゃんと心の自立した人間の思考法行動法」を学ぶという、ごくプラクティカルなアプローチから始めるのでいいと思います。それだけでも社会を生きるノウハウとして高度な領域になってきますので。
そしてそれを実践する中で、単に処世術のようなものを超えた真の「心の自立」とはどうゆうことかを考えていくのがいいでしょう。

ということで、位置づけの話をしましたが、午後出かけることもありここでカキコして、「心の自立」のより具体的な構成要素、そしてそれがどのように「否定価値の放棄」へつながるのかの、考察説明を行いますす。


心理学本下巻に向けての考察-95:「心」と「魂」の原点へ-4 / しまの
No.1346 2007/10/30(Tue) 23:31:48

「心の自立」については書けていなかった面が多く、サマリーというよりややじっくりになるかと。


■「中期」への基本視点2:「心の自立」へ

まずここでは、「心の自立」というのが基本的に難しいテーマになっている現代社会、さらには人類文明(大きい^^;)という状況から話したいと思います。
まあそれが結局は、人類の文明と共に「心を病む」という人間特有の問題が発生したという、文化人類学的な背景が実際のところ、「心を病むメカニズム」にはあると僕としては思っとります。

これはまあ現代社会のように高度に整備された社会であれば、こうなるのも仕方のない状況ですが、どうゆうことかと言うと、内面において精神的な「心の自立」をしていようといまいと、大して違いのない外面生活になるという状況ということです。
この「大して違いのない」と言うのは、大自然の動物界に比べるとはっきりしてきます。大自然の動物においては、自立できないでいることは、基本的に死を意味します。
だから、大自然の動物は、「自立とは何か」なんていう哲学的心理学的な問いをする暇があれば、とっとと自立していくわけです。

それに比べれば、今の社会というか人間の社会は基本的に、精神的な自立をしないままでもそれなりに大人の生活になります。で「心の自立」をしていない人は、「心の自立」をしている人と自分との違いが良く分からないまま、何となく自分が生きて前に進むのが不器用で、うまくやっている人々が何かずるい世界の住民であるかのような苦い感情に置かれがちになるわけです。
かくして心理学が世に溢れ(ハイブリッドもその一つ^^;)、「心の自立」というテーマが時に言われたりします。


■人類の歴史における「自尊心」と「自立」

しかしちょっとアカデミックに考えて頂きたいのは、人間の脳数百万年の歴史を通して醸造(酒か!!)されたものであり、恐らくは文明社会以前のホモ・サピエンスが、大自然の中で「それができないことは死を意味する」ほどの重みも持つ「自立」によって、「自尊心」という心の成長課題が達成されるという設計が、ほぼ今も脳の基盤にあるのではないだろうかと。
この文明社会なんて、数100万年の人類の歴史の中での、まだほんの数千年なんですね。

また他では言う機会のなかなかない話なので言っておきますと、人類文明において「女性」は「男性」に対し受身の社会的立場に置かれた歴史を持つ一方、「自尊心」のDNA構造は人間共通で男女を通してあまり変わらない脳の構造ではないかと、僕としては推測しています。
脳の構造には多少の性差があることも知られており、心理的な機能についても、恐らくは「愛情」特に子供へのそれの働きなどには、多少の違いがあると僕としても推測しています。
しかしハイブリッド心理学として述べる話は、そうした違いは誤差程度の小さなものとしての、人間として性に関らずに共通普遍的と考える内容を述べておりますので。

ですから、現代社会では人間としては同じ「自尊心」課題において、「女性」はやや不利をこうむってきた歴史があり、今はまさにそれを脱却するという時代の転換期にあると考えています。
従来型の社会における「女性観」「女性の役割」には縛られることのない、「命」という本性において女として生きることの中にある「心の自立」というのが、僕としてもぜひ多くの女性に考えて欲しいところである次第です。


■「心の健康」の基本的目安としての「心の自立」

「心の自立」は、上述のように、もう人類文明の発達とともに人間が抱えるようになった課題という、基本的に難しい話である。

そんな背景もある中で、心の障害からの回復と成長のために「心の自立」が必要になるとは、「普通」よりもさらに高い志を持つ必要があるような感も抱かせる面があります。
心の障害傾向などない「普通の人」「心の自立」などしていない人はゴマンといるでしょう。むしろそれが現代社会のマジョリティかも知れません。しかし心の障害から脱出したいと感じる人が、せめて「普通の人」程度に安定した心になりたいと考え、「普通の人」と同じ程度の「心の自立」ができれば、と考えたら、もう治癒成長は止まると感じます。結局、そうした「普通」と言ったレッテルによって自分とは別の人間になろうとするという大元の問題が全くそのまま維持されるからです。

一方、「心の自立」をしている人で、「病んだ心の人」というのはいません。
それだけ、「心の自立」というのは難しいテーマであると同時に、心の健康を目指す上での実に強力な指標であり、それを目指すことが自然と心の治癒と成長への道へと自分を導いてくれる確実な目標にし得るものです。

だから、結局、「心の自立」というものを真正面から考えるしかない。
そして、そうした難しい課題だからこそ、ハイブリッドのような総合的で難しい心理学をわざわざ作っているわけです。エッヘン(^^;)

「心の自立」というテーマについて若干余談的な話が長くなりましたが、それがどんな本質的転換として、「問題のひとまずの解決」でもある「否定価値の放棄」へと我々を至らせるのかを次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-94:「心」と「魂」の原点へ-3 / しまの
No.1345 2007/10/30(Tue) 14:51:08

■「中期」への基本視点1:「健康な心の世界」へ

「中期」つまり「魂感性土台の体験」から「否定価値の放棄」までの要点を概観しましょう。

まず何よりも思考法行動法について、「魂感性土台の体験」を足場にしての、より洗練された検討を課題とすることになります。
まず「健康な心の世界」という視点を加える。

「病んだ心の世界」とは、「人間の価値」を見る目、それも主に否定的な「審判の基準」で見る目を前に、そこから向けられる潜在的な「存在への怒り」を何とか跳ね返し、逆に「愛情と賞賛の目」を獲得しようと躍起になるやり取りが成される世界です。

まずは、そうした「人間の価値を否定的に審判する目」に「どう見られるか」によって自分の自尊心を保とうとする姿勢こそが、何よりも自分の自尊心を危うくしている脅威なのだと、認識するのがいいでしょう。

今これを書こうとしてた時、TVの昼のワイドショー番組で、よくありがちな「嫁と姑バトル」みたいな場面が流れていました。嫁の「人間の価値」に否定的な「審判の目」を向ける姑という構図。鬼の首を取ったように、自分の方には一切の誤りはないという高みから見下す批判の表情。そんなものを向けられる場面を想像すると、ここで問われる命題が分かりやすいでしょう^^;

そもそもそうゆう目を人に向けるののは、「病んだ心の人」なのです。その人に「どう見られた」ところで、その人が社会における自分の位置づけや安全などを実際に確保してくれることなど、何もないわけです。それよりも、自分が自分で自尊心を感じられることは何かなのを見出し、それを自分で伸ばす努力をすることです。そして、人にどう「見られる」かではなく、自分の努力の結果という「現実」を見ることによって、自分自身で自分を評価できる視点を育てることです。

それが積極的な方向性として、それを見出す前に、まず自分の中にある消極的な側面の原因に目を向けなければならないかも知れません。
「人にどう見られるか」に心を駆られ、人に見られる場においてはどうしても「こう見られなければ」という譲れないような基準があるなら、「本当の」もしくは「現実の」自分はその基準において何ものなのか、ということを考える必要があるかも知れません。
「人に見られる時だけはこんな自分で」というのも一つの生き方なのかも知れませんが、もしそうなら、果たしてそれが「生きる」ということとして本当に意味のあることなのかと、自分自身に問う必要があるかも知れません。


■「自尊心」テーマ・「魂」への問い・「現実」

上記の問いは、「自尊心」というテーマにおいて、「魂」まで届くように自分に問うということ、そして「現実」というテーマを加味した問いです。
「人の目」は結局「空想の世界」です。もし上記のような問いの先に、「自分自身による」そして「現実に立脚した」自尊心への姿勢を選択するのであれば、「人の目」はその「病んだ心の人」においては事実その通り存在するものだとしても、もはやこちら側にとっては「ただのイメージ」として無視できるものになるわけです。

一方で、「人に見られる時だけは」という姿勢の裏には、自分自身で目をそむけ続けていた、貧困の窮地にある自分の現実があるかも知れません。否、「人に見られる時だけは」という姿勢が強ければ強いほど、そこには貧困の窮地にある自己の現実があると考えて正解でしょう。
「現実」については、ハイブリッドとしては何の言い訳気休めも用意しません。ただ「現実」がそうなのであれば、それが「現実」です。そして「感情の開放」という前期からの実践として言えるのは、ただ「現実」をありのままに見据え、もしそこに損失があるのであれば、ありのままに痛みと悲しみを流すことです。「現実はこうであるべき」という怒りだけは捨ててです。

なぜなら、人生の損失をありのままに痛み悲しむことで、それを乗り超えて前に向く力を回復させるという、心の自然治癒力と自然成長力が人間の、そして全ての生きるものの心のDNAには本来用意されているからです。
ただ人間だけが、それを「はず」「べき」という、自ら神になろうとする傲慢によって閉ざしてしまいました。

これらの問いは、「自尊心」というテーマにおいて、「人の目感性土台」から「魂感性土台」への移行方向性のための問いです。同時にそれは「現実」というテーマにおけるその方向性です。「魂感性土台」は、基本的に「現実に近づく」という方向性を持ちます。
「人の目」から「現実」へ。そしてそれを見る自分自身の目へ。

「人間の価値基準」命題はまだ残されますね。次に「自立」の命題を加えます。


心理学本下巻に向けての考察-93:「心」と「魂」の原点へ-2 / しまの
No.1344 2007/10/30(Tue) 13:11:06

さてハイブリッドの全て「神の国」から「放たれた野」への「自立」という根源命題で捉えられるということで、当面の最終整理(となるはず^^;)をしたいと思います。
特に、「否定価値の放棄」という「ひとまずの解決」と、「魂の望みへの歩み」の中に見出される「魂の挫折の原点」に戻る最終解決構造的なズレが、取り組み道のりの枠を大きく決定づけているという観点で。

やはり3つの段階ということで、なるべく今までと重複した話は省略の上、残されていた視点からのサマリーを書きましょう。
以下のような3段階になります。
I.前期 <自己との未知の関係へ>
II.中期と「否定価値の放棄」 <自己と他者と現実世界との未知の関係へ>
III.後期 <魂の望みへの歩み>



■ I.前期 <自己との未知の関係へ>

「病んだ心」という問題は、幼少期に起きた「魂」の挫折と、「心」がそれを置き去りにし、かつそれを否定し見返すような「愛」と「自尊心」を求めるようになる、という構図で始まります。

それによって、本来は「心」が「魂」を守り、「魂」の生命力を受け取り開放することで「愛」「自尊心」が育つところを、「愛されない屈辱」を見返そうとする自尊心によってさらに愛を破壊し、「愛されない屈辱」に戻るという悪循環によって、「愛」と「自尊心」を自ら破壊していくという構図に置かれます。
そして、自らが置かれたこの心の苦境を、「自分を否定できる自己理想」を掲げるという自己矛盾と、自己への強制というストレスをはらんだ「自分を良くする方法」を基本として生きた結果、自分がいったい何を感じ何を考え何を苦しんでいるのかさえ分からなくなってしまう、心の混乱状態に至るわけです。

感情と行動の分離」に始まるハイブリッドの取り組みは、まず「前期」として「魂感性土台の体験」あたりまでを考えることができます。
これは2種類の感性土台の話で言うと、基本的に「人の目感性土台」主体であった人格構造に、「魂感性土台」という全く異なる脳の領域の存在が自覚されてくる、という変化として位置付けられます。
つまり、置き去りにされた「魂」がその存在の芽を出す、というのがこの「前期」での目標成果です。

そのための実践は、「怒りの有害性の理解」「感情の開放」「自己の理解」といった、まずは「自分との関係改善」を言えるでしょう。「未知への知思考」としては、自己との未知の関係というものを考えることが課題になるわけです。


■II.中盤と「否定価値の放棄」 <自己と他者と現実世界との未知の関係へ>

「否定価値の放棄」は、「心と魂の分離」にまつわる問題の「ひとまずの解決」という、ハイブリッド取り組み全体の目標成果に位置づけられます。

それだけのさまざまな変化が収束する大転換ということで、今まで「否定価値の放棄」を「最大の中間道標」と言い、それまでを「前半」と呼んでいましたが、やや見方が変わってくることになります。
というのも、「魂感性土台の体験」は、主に「内面感情の開放」や「自己の理解」と言った、主に「自己との関係の改善」によって、比較的容易に至ることができるからです。まあ深刻な障害傾向からスタ−トした場合は、多少の「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」が必要になり、それなりに大変ではありますが。

そこから「否定価値の放棄」に至るまでには、かなりの思考転換が求められます。
まず何よりも「魂感性土台の体験」を足場にして、「健康な心の世界」そして「心の自立」という命題を検討して頂きたい。その意味で、「魂感性土台の体験」まで「前期」、そこから「否定価値の放棄」まで「中期」として、明確に「期間」として別立てで考えるのがいいかと思っています。
下巻原稿「部」の構成としては多少違う感じのままかも知れませんが..

「健康な心の世界」「心の自立」という命題を入れた時、他人やこの現実社会への思考に、かなり大きな転換が求められることになります。「未知への知思考」として、「他人と現実世界との未知の関係」へ向うことが求められる。それをフィードバックすることで、「自己との未知の関係」への模索は引き続き新たな局面が始まります。

その要点を次にサマリーしましょう。


心理学本下巻に向けての考察-92:「心」と「魂」の原点へ-1 / しまの
No.1343 2007/10/29(Mon) 15:23:50

■全ては「神の国」から「放たれた野」への「自立」の中に

さて、「人の目感性」は「克服」はされないという先のカキコの話や、「未知への知」の話も含め、最終的な整理をしたいと思います。
どうやら、ハイブリッドの全ての話が、ただ一つの命題の下に収束して整理できそうです。

それは「心の自立」です。
全てが、「魂」が「神の国」に生まれ「心」が「放たれた野」へ自立するという命題の下で、挫折した魂とそれを置き去りにした心という問題の発生と、そこからの回復と魂の命への回帰という構図で捉えられるのだと。


「人の目感性は克服されない」。ここではもう「土台」という言葉は取り去りました。つまり、「否定価値の放棄」によって、「人の目感性土台」はもはや感情と思考までを大きく巻き込む「土台」であることをやめ、ただの「人の目感性」として、イメージだけは相変わらず心に流し続けるものになります。イメージだけとは言っても、それが心の視界のかなり基本的な部分として映っていますので、まだかなりの影響度があります。

そのように「克服」はされない代わりに、次の「魂の望みに向う」という最後の歩みの中で、「魂の挫折の原点」が露わになった時、「人の目感性」は「消滅」します。これによって、「心と魂の分離」にまつわる問題を残し続けた人間の姿に、最終的な解決の時が訪れ、この人間はただの「まっさらな人間」へと戻ります。

これはつまり、全てが一つの問題と一つの解決という出来事の中で起きているのであり、「思考・感情・意志」という通常の心の働きにおいては「否定価値の放棄」でひとまずの解決に至っているのであり、ハイブリッドの全ての取り組みがそれを目指すものになるということです。
しかし「感性」はそれでは終わらない。それは脳に閉ざされた問題という「病理」によって、「克服」はできないまま残るということです。しかしこれが同時に本当の解決の始まりとなるのです。

「魂の望み」に向った時、「病理」によって閉ざされていた「魂の挫折の原点」の、ありのままの姿が晒されます。ここにこそ、「人間の不完全性」という命題の真の姿が示されるように感じます。「罪」「許し」そして「神」という人間の根源的な観念がそこに現れ、全てが終わり、まっさらな「未知」が生まれる。

こう書いていて、実に胸が熱くなります。多分それが、この心と魂の「あり方」が、人間の心のDNAに刻まれた本性なのだろうと、ただ本性に従って生きるのを旨とした僕としては感じる次第です。


ということで、このカキコを序説とし、サブタイトルはそのままでもいい内容ではありますがとりあえず『「心」と「魂」の原点へ』として、次のカキコから、ちょっとサマリー的になりますが最終整理を書きましょう。
「魂の挫折の原点が露わになる最終解決」については、僕の日記からまた例を一つ出します。

その整理が一通り終わってから最後に、「信仰」の領域の話について『未知への意志と信仰』とでもサブタイトルして、手短に書いてこの考察シリーズを締めとしようかと。
これは「つけたし」ではなく、かなり本質的な話で、これが出てようやく全ての話が完結することになります。

それで下巻原稿に入りたい段取り。


心理学本下巻に向けての考察-91:「人間の価値」と「原罪」-16 / しまの
No.1342 2007/10/28(Sun) 14:28:04

■「否定価値の放棄」と「感性土台」の構造

さて、「未知への知」思考という観点を踏まえて、「否定価値の放棄」本質とその実践について最終的な考察(になれるか?^^;)をしたいと思います。

それにあたり、「感性土台の構造」という話をしておきたいと思います。と言うのも、「否定価値の放棄」前後にある変化は、イメージ感性・感情・思考というその基本構造において、どの層が変化するかに段階的なズレがあるからです。一緒に根本変化するのではない。
これはつまり、何の変化が何の変化を導くのかという、根源的なメカニズムがあるということで、それを踏まえた実践論が最終的なものになるのではと考えられるからです。

「人の目感性土台」で言うと、次のような構造になります。
まず「人の目イメージ」が基盤になります。「人間の価値」を見る人の目です。それを前にした自分のイメージ。なりたい自分。なれている自分。なれていない自分。それによって自分に向けられる「人の感情」イメージがあります。
次にそれを引き金にした「人の目感情」が流れます。怖い。愛されたい。怒り。
それを表現する「人の目思考」が展開されます。人はどうせこれこれの良し悪しを重視するのだ。それに対して自分は..。現実は何と不公平か。自分はこんな気持ちなのだから、人は自分をこう扱うべきだ。あの人間のこんな目を何とかしなければ。
つまり、イメージ・感情・自動思考という基本構造です。

ハイブリッド取り組みの前半段階の中で、やがて「魂感性土台の体験」が起きます。
これはまだかなり断片的なものです。「人の目」イメージが一瞬消えたような谷間の時間。つまり基本的にイメージがあまりない感性土台です。魂が惹かれるもののイメージがある時、それは感情カラーセロハンの貼られていない、漠然としたイメージです。
魂の感情」として、「この感情において生きている」と感じられるものが流れます。
「魂の思考」と言えるようなものは、もうあまり見えません。実際のところ、「魂」そのものには「思考」というものがあまり存在しないようです。思考はあくまで「心」によってつかざどられるのでしょう。


■「否定価値の放棄」では「イメージ」がそのままで「感情」が変化する

「否定価値の放棄」を成しても、「人の目感性土台」は大体そのままだ、と先のカキコで説明しました。「人の目」イメージは相変わらずだし、それを前にした自分イメージに応じて流れる感情もやはり流れています。それに応じた自動思考が展開されます。

大きく変わるのは、その全体への入れ込み具合です。これが大きく減少します。つまり人の目感性土台の中で揺れ動いた問題がどう解決したかの答えはあまりないまま、ただその全体がもう自分には影響しないことだという感覚が増えてきます。より正確には、それが持つ自分への影響力が減じたというより、そもそもその影響を取り上げる意味さえない、別の存在へと自分が変化していくという形になると思われます。

そのように全体の入れ込み度が減少するとして、では「人の目感性土台への入れ込み度減少」とは、イメージ・感情・自動思考という3層構造において均一に減少するということか。

そうでもなく、やはり一番大きな減少影響があるのは「感情」ですね。人の目イメージあまり変化を実感できません。だが感情はかなり変化しています。なぜ今までの自分はそうした人の目イメージであんなことを感じ考えたのだろうと疑問さえ抱けるほどに。自動思考はほとんど感情の表現展開なので、感情が消えるのとほぼ同調して消えます。

そしてその「感情の変化」は単に強度の変化ではなく、質的な変化でもあります。何よりも、「これだけは」「どうしても」「絶対に」といった緊迫感が消えます。人の目感情は、もう流れるとしても、一歩踏み止まって眺め、考えることのできる性質のものに変化します。
同時に、「全てを許すことができる」という別の感情が流れ始めます。これは「魂の感情」からの流れと思われます。


■「純粋知性思考」と「意志」と「信仰」

こうした「イメージ」と「感情・自動思考」での層的なズレのある変化というのは、この出来事全体が「感性土台」という範囲で起きているのではなく、「感性土台」とは別の心の機能、脳の機能が働いて起きていると考えるのが分かりやすく、実体を示すものになると思われます。

別の心の機能として考えられるものとは、「純粋知性思考」「意志」そして「信仰」です。

ちょっとまた準備整理的な話の流れになりましたが、いったんカキコしてその役割の考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-90:「人間の価値」と「原罪」-15 / しまの
No.1341 2007/10/27(Sat) 14:36:14

■「自立」としての「否定価値の放棄」

「未知への知」という新たな大要因を踏まえて、「否定価値の放棄」が成される流れを考えます。
これは同時に、「人の目感性土台」どう克服されるかの問題でもありました。

「未知への知」に僕が焦点を当てたのも、この2つの関係を考えてです。
つまり、まず「人の目感性土台」で動く心の状態があります。その中で、「否定価値の放棄」へと向うわけです。
それは「人の目感性土台」がどう克服されるということか。その克服を生み出すものは、「否定価値の放棄」とどう関係するのか。
そう考えたわけです。

それで言いますと、まず、「否定価値の放棄」が成される時、「人の目感性土台」は、克服されません
大体そのままです。


これは僕自身の否定価値放棄体験の流れを詳しく追って分かってきたことです。僕の場合、「人と自然に打ちとける」ことのできない自分の人格上の「欠損」を、「人間の価値」として容赦なく弾劾する「人の目感性土台」の心の動きがありました。
そしてそれが「否定価値の放棄」を境目にどう変わったかというと、あまり変わっていません。相変わらずに、「人と自然に打ちとける」ことのできない自分の「人格の欠損」を感じ、それが人の目には「人間の価値」を損なったものと映るであろうことを感じ、それを落胆する感情が流れます。

大きな変化が一つありました。それは「自分を許す」というのが出てきていることです。これは一応「感情」面の変化です。
何を許したのかが、「不完全性の受容」ということになるでしょう。

ただし得てして「不完全性の受容」というと、読者の方がまず意識を向けるのは「自分の不完全性の受容」には大いに関心があるようですが、「べき」「はず」にはあまり変わりない思考の中におられるのを良く見ます。
「否定価値の放棄」における「不完全性の受容」は、そうしたのとはちょっと違いますね。
ちょっと違うというか大いに違っており、「べき」「はず」が完全に崩壊した全く別世界に移行するという感じでの、「不完全性への許し」です。それはもちろん自分の不完全性でもあり他人の不完全性でもあり「現実」の不完全性でもある。
全てにおいて「許すことができる」という感覚の出現です。

一方で、今までの「人の目感性土台」のイメージ・感情そして自動思考は、あまり変わることなく、やはり心には流れます。

これは要は、「人の目感性土台」は「克服」はされない、という結論を僕に感じさせます。それは「克服」されるのではなく、ただ、それに影響を受けない、全く別の存在となる心の領域が生まれ、そして増えていく。そんな感じです。
これは芋虫が蝶へと変化する変化と同じような話としてイメージされます。芋虫時代には、蟻の攻撃に煩わされます。蟻が自分をどう見るかが自分の安全に関る問題でもあるので、気になります。そんなものある「べき」ではないという感情が流れます。
しかし成長して蝶として飛び立った時には、その全てが自分にあまり影響を与えるものではなくなっています。もし自分が芋虫のままだと「空想」したら、同じように、蟻の様子が気になってしかたない感情が流れるかも知れません。しかし「現実」は、自分はもう蟻を眼下にして空を自由に飛ぶことのできる存在です。

書いていて、「病んだ心」からの治癒成長も、まるっきり同じ話のように感じますね。「既知への知」の中で、「空想の中の自分」を「自分」と感じ、「べき」「はず」という思考に閉ざされ、自分が蟻に攻撃される芋虫だと感じる心の世界に、とどまり続けているわけです。


■「心」の導き準備によって開放される「魂の自立」

ですから、「否定価値の放棄」は、何よりも「自立」命題によって捉えられるわけです。
人間の価値」、それを見る「人の目」、自分がそれをどう考え感じるかという思考と感情。それらの内容全体が別に大して変化するわけでもなく、ただ、それら全体をもう離れて別の存在になっていく、別の自分が生まれる。

そうゆう感じです。そうゆう「未知」になるのだとしか、説明できません。
あとは、明らかに、それを「心」が主導的に導けるような思考の役割が出てくるということです。

それが「未知への知」です。
僕の否定価値放棄体験を振りかえっても、その流れの中で僕の中にあった人の目感性土台のイメージ・感情・自動思考は、否定価値放棄をしないままの多くの方の場合のものと、ほとんど変わりがないんですね。日記に書かれたもの自体は、もうそのまんまでしかないわけです。
そこで「審判基準を放棄する」といった消極的側面をどう実践して頂くことを検討しても、どうも何か否定価値放棄をさせた根本が足りない気がしていたわけです。

一方僕の中に最初から他の人と違うように見受けられるものとして存在したのが、「未知への知」でした。
あったのはそれだけです。その時の僕の「未知への知」は、ハイブリッドも当然なかった当時ですから、「治癒成長としての未知」があるという「未知への知」ではありません。
ただ、「現実」には「べき」も「はず」もない。そんなもの分かったもんじゃない、というごく基本的な思考があった。
それだけです。

だがそれだけ「未知への知」思考が根本的に重要になってくるということですね。さらに「治癒成長としての未知」を知っていれば、僕の変化は遥かにもっと人生の早期に起きていたと確信しています。その点僕もまだかなり成り行きまかせの受け身で変化して、今に至ったわけです。

「人の目」はこんなイメージだし、自分はこう感じるし、というのはそのままです。
ただ、「現実」は分かったもんじゃない。人の感情なんて分かったものじゃないし、自分がどう変化するかなんかも、分かったものじゃない。
ただそんな風に、自分から「未知」をブロックしなかっただけです。すると「未知」は多分、向うから誰にでもやってくるのでしょう。
逆に、いかに世の人が「未知ブロック思考」の中で生きているかと感じる次第。ロシアの女子バレーボールチームのブロック並みに、それは鉄壁なブロックかと^^;


「未知の存在」への自立。これが「否定価値の放棄」として、その「自立」とは根源命題におけるどのような転換であるのかを、ここまでの整理から明確に言えるようです。それを視野に入れた「未知への知」が、もっとも良くこの変化を導く思考様式だということになるでしょう。
その根源命題における転換を整理します。それが「否定価値の放棄」の後「魂の挫折の原点への向き合い」の意味を明瞭化すると思います。


心理学本下巻に向けての考察-89:「人間の価値」と「原罪」-14 / しまの
No.1340 2007/10/27(Sat) 11:53:44

■「既知への知」が阻む「自己の理解」

「既知への知」vs「未知への知」という基本思考モードが影響する、「否定価値の放棄」以前の問題。

先のカキコで言ったのは、「既知への知」モードでは、基本的に病んだ心の強い維持への力が働くという全般的傾向でした。
これを「感情と行動の分離」という基本で、外面問題内面問題と大きく2つに分けて考えることができます。

外面問題について言えば、重なる話ですが、「既知への知」モードだと基本的に「知」が不正確です。つまり現実世界を生きるノウハウという面で、勘違い無知が多くなるという基本的傾向です。
これは「既知への知」が好む(^^;)「べき」「はず」が特に道徳的思考になる一方、現実社会は道徳の授業ではないということで(^^;)、特に社会行動における勘違いや見識不足を招き易いという一般的問題。

これもまあ具体的な話を出したらきりがない話で、とにかくこの後の話も含め、「未知への知」モードへの思考様式転換を考えて頂き、それでいかにこの世界のことについて別の考え方をできるかの広大な能性性が開かれることを感じ取って頂くことが、実践になると思います。

内面問題について言えば、基本的な実践は「内面感情の開放」と「自己の理解」ですが、後者つまり「自己の理解」に、大きな妨げが出てきやすいように思われます。
どんな妨げかというと、「現実の自分」を見ることができない傾向です。「空想の自分」を「自分」と感じて生き続ける傾向です。

ここで言う「空想の自分」とは、主に「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」という3つです。この構図の中で「現実の自分」と指摘すると、得てしてその人は「なれていない駄目な自分」を見ろと指摘されていると感じるかも知れません。
そうではありません。それも「空想の自分」でしかありません。

ハイブリッドの視点からの「現実の自分」とは、「自己操縦」の構図にある自分の全体のことを言います。
心の底に魂の挫折を抱えた一方、もはやそんなものがあったこととどんな関係があるのかなど分からないまま、「人にこう見られる自分」を追うという構図にある自分です。


もちろんこうした構図は、ハイブリッドなどの心理学を学び、しっかりと自分に向き合ってこそ見えてくるものです。
そうした自己理解を、「既知の知」モ−ドは基本的に妨げます。自己操縦の構図の中で、「こんな自分に」という、「自己操縦される自分」を「自分」として見るだけの視界によって、「意識の狭窄」が起きてしまいます。「どんな自分」という「空想」のスクリーンに映っている自分しか、見えなくなるのです。
しかし「現実の自分」は、むしろその「空想のスクリーン」を前に操縦席もしくは観客席にぽつんと座っている、「自分」の方です。
本人の意識がいかに「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」の間だけで揺れ動いていても、自己操縦の構図全体にある一人の人間の姿が、「現実世界」にはあります。

そして本人がその構図で自分を自覚しなくても、「現実世界」は、「自己操縦している一人の人間」というありのままの姿で、その人を扱います。その人間が「なりたい自分」「なれている自分」「なれていない駄目な自分」の間でどう感じているかによって、その人を扱うのではありません。


■「魂の世界」を取るか「人の目の世界」を取るか

まあ「選択」ですね。
もし今の自分の人生が大体において満足の行くものであれば、今の自分に見える「自分」を見るというそのままでいいと思います。
しかし、今の自分の人生があまり満足の行くものでなく、それが何か自分自身の内面によって根本的に妨げられている面があるのを感じるのであれば、今の自分に見える「自分」で考えるのではなく、そう見る「自分というイメージ」によって自己操縦しようとしてる、自分の全体への視線を考えてみることです。
それがハイブリッドとしての提案です。

そしてその自己操縦の底にあるのは、「魂の挫折」を抱えたままの内面があるかも知れない。これがハイブリッドからお伝えできるガイダンスになります。
ハイブリッドとしては、自己操縦そのものを問題視するのではなく、現に「挫折した魂」が存在するのであれば、それに視点を向けます。別にそんなものなければ、自己操縦も大いに結構。
でも「魂の挫折」を置き去りにしたままどのように自己操縦しようとも、問題の解決はないのだと。


まあ「問題の解決はない」消極的表現ですね。
ハイブリッドとしては、置き去りにした「魂の挫折」に向き合う先に、どんな解決があり、それによってどんな人生が開けるのかを、明瞭にしていきたい。
それと、今の人生を「選択」の天秤にかけるのがいいでしょう。選択は自由です。

「魂の世界」を取るのであれば、まず次のように自分の全体を理解することです。
自分や他人を「どんな人間」「どんな振舞い」「どんな感情」という風に、何かの基準から見ているということです。
そして、それが「こうであれば」、こうである「べき」「はず」だという思考法をしているということです。

シンプルなその2つの文章の視点の底に、病んだ心の「根源」と「根源の根源」が横たわっています。まあこの2つの区別はまだあまり厳密ではありませんが^^;
「根源」とは、意識世界上の問題の根源であり、「怒りに変わる愛」です。「べき」「はず」という思考がここに絡みます。「べき」「はず」は怒りの表現です。
また「根源」にはもう一つ「自立」という命題があります。「怒りに変わる愛」という根源命題を背にして、「怒り」ではなく「愛」を選ぶことは、「自立」とどうやらイコールのようです。

「べき」「はず」思考法であり、「怒り」「愛」感情です。「自立」は思考でも感情でもありません。「存在」そのものの、「未知」への旅立ちです。
う〜ん深遠ですね^^; それを「選ぶ」とはどうゆうことか。まず考え、意識することです。そして実際は「選択する」のではなく、それを阻むものを捨て、「開放」するのです。まあそれがこの後の「否定価値の放棄」以降の段階の話になります。

「根源の根源」とは、「根源」のさらに意識下の根源です。「人間の価値」「審判の基準」そして「自ら神になる」「何かの基準」から自分や他人を見る視線に、それが表れます。


■「否定価値の放棄」への第3の根源命題「現実」

このような文脈からは、「否定価値の放棄」より前の、ハイブリッド取り組みの前半段階の実践の本質は、「人の目の世界」から「魂の世界」へと近づく歩みだと言えるでしょう。

「人の目」を前にした「こんな自分」というイメージの中で思考する世界から、その底にある自己操縦と、その根底にある魂の挫折にしっかりと向き合う歩みです。「こう見られる」という思考と感情に終始した自己理解から、「では自分ではそれについて心底ではどう感じているのか」に向き合う歩みです。
その中で、「怒りに変わる愛」「人間の価値」「審判の基準」そして「自立」といったさまざまな命題で、自分が自分について、そして他人と世界について感じ考えていることを、何度でも捉え直す歩みです。

それは先にも言ったように、次第に「感情の改善」という尺度動機にできるものではなくなり、「知」の基本形態における動機にかかってくるように感じます。
そして「既知への知」志向では、基本的に、進めない

もはや「感情の改善」という尺度ではなく、「全く別の世界」というものに向うという動機が決め手になってくると思います。
そして「知」の基本様式が「未知への知」に向くことで、それが可能になると感じます。

ですから、「既知への知」モードの影響を考えるに、それだと基本的に「初期向上」だけにとどまると言えるようなものになりそうです。「初期向上」とは、怒りの有害性を理解するなど、今まで生き方をがあまりにも心の健康にとって誤ったものであったことを理解することで、誰でもほぼ例外なく得られる最初の多少の感情安定です。
あとは、感情の流れをとにかく自覚する初歩的な感情分析の結果、自己操縦心性の崩壊が何度か起きての意識土台の向上が受身的に起きます。
「既知への知」モードだと、ずばりそこまでだと思います。

その先に行きたい場合は、「未知への知」モードによって、基本的な思考において「全くの別世界」をかなりふんだんに視野に入れることが必要になる。
これが、「否定価値の放棄」のかなり前の段階の話になると思います。

では「未知への知」モードだとなぜ「全くの別世界」がふんだんに視野に入ってくるのか。
それが「現実」だからです。つまり「現実」そのものが「未知」として捉えられるようになるということです。また、「現実」そのものを「未知」として捉えられるようにするのが、「否定価値の放棄」への準備段階のかなり本質と言えるものになってきます。

かくして「現実」は、「怒りに変わる愛」「自立」と並んでの、第3の「根源命題」だと言えるでしょう。
そしてハイブリッドはその「現実とは何か」について、ある特有の思想を提示します。それが「自ら神になる過ち」に関係します。

そうなって、「否定価値の放棄」が結構射程圏内に入ってくる。
その辺の詳しい話に移します。


心理学本下巻に向けての考察-88:「人間の価値」と「原罪」-13 / しまの
No.1339 2007/10/26(Fri) 21:53:35

■「既知への知」志向による障害感情の基本的維持

さて、基本的な思考の形態としての「未知への知」という要因を踏まえ、「否定価値の放棄」やその先の変化が成される背景を考察しようと考えたのですが、この思考の基本形態という大要因の影響範囲を考えると、それどころの問題ではないという感がしてきている次第です。
ですからここで、ハイブリッド取り組みの最初の段階から「未知への知」を考慮した治癒成長への要点を改めて整理してみましょう。

基本的にやはり大きく3段階です。「否定価値の放棄」以前。それが成される段階。そしてその後の段階

まず「否定価値の放棄」以前の段階の問題として言えるのは、強い「既知への知」志向があると、どうしても障害感情全般を維持する強力な力が働くことです。
これは当然です。基本的に「病んだ心」が今までの人生で生み出した思考内容「既知」として、今の自分の目の前のことについて「自分は知っている」という感覚を維持する力が働くからです。
つまり、病んだ心の論理通りに物事を考えようとする傾向が実に強固になってきます。

「人間の価値」としてこれこれが基準になるのであり、人はこうゆう目で人を見るのであり、それに満たない自分はこう扱われるのであり、それによって自分はこう苦しむのであり、それはこう恐ろしいことなのであり、恐ろしければこんな行動できるわけもないのであり..。
まあ一言でいえば「決めつけ」思考ですね。それが病んだ心の論理による決め付けであれば、当然病んだ心はしっかりと維持されるわなと。これは実に単純なことです。


■「既知への知」はどんな思考?

ここで、もらった相談メールにさっそく「未知への知」に触れたものがありましたので、ごく基本的な説明をしましょう。
前カキコの話ではちょっと抽象的に感じたとのことで、より具体的に「未知への知」とはどんな思考形態なのか

まず、自分が基本的に「既知への知」モードか「未知への知」モードかは、簡単に判定する方法があります。
「既知への知」は、「知っている」となれるのを目標にする。
「未知への知」は、「何を知らないか」を知るのを目標にする。
前カキコで書いたこの基本的定義で、この2つの違いが実感として分かるのであれば、「未知への知」モードがある人です。その話ではよく分からないのであれば、「既知への知」モードが強い人です。

まあこれはスポーツの技術でも同じことが出てきます。ある技術を習得した人は、別の人がその技術を習得しているかを、見分けることができます。一方その技術を頭で知っただけで実際にはまだ習得していない人は、人の演技を見てその人がその技術を使っているかどうかを、見分けることができません。
これは外見では一見同じに見えても、微妙な身体運動の流れに、それと分かるかなり特徴的なものが現れるからです。これは実際にその技術を習得して、自分がどんな風に骨格や筋肉を使うかを体得することで、他人の演技に現れるそれも直感的に分かります。

まあそんな話はどーでもいいとして、具体的な話をしましょう。

まず総論
何かについて「知らない」と言うことは不面目か恥ずかしいように感じる感覚がある人は、間違いなく強力な「既知への知」志向型です。
「知らない」と素直に堂々というのを楽しいと感じる感覚がある人は、「未知への知」志向型です。

各論
「既知への知」志向型の思考では、次のような言葉が良く使われます。
当然」「常識」「絶対に」「どうしても」「ありえない」そして「べき」「はず」。

まあ「未知への知」を自認する僕でも、「当然」などは良く使いますね。ただ僕の感覚だと「当然」を使うと、まるで枕言葉のように、その次に「なぜなら」という論理展開の言葉が自分でも意識しなくても出てくる感じがあります。
つまり、ものごとの論理を、「なぜなら」とどこまでも追求して、「ここまでが分かる範囲。この先は知らない」という境界がはっきりしているのが、「未知への知」です。

まあこれも多少抽象的な説明ですが、まずはとにかく、「べき」「はず」「当然」という感じで自分が言う論理の次に、「なぜなら」論理の掘り下げをするエクササイズをして頂き、「どうしても!」(^^;)と論理でない情緒が出てくるケースは、間違いなく「既知への知」モードですので確認あれ。

「否定価値の放棄」以前について、もう一つ考慮点の解説を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-87:「人間の価値」と「原罪」-12 / しまの
No.1338 2007/10/26(Fri) 11:14:48

■「心」が向かい得る「ある特定のもの」とは「未知への知」

「根源の根源」が解決する時、「魂」は「愛への復讐の愛」「原罪感情」というその「挫折の原点」へと向かう。
「心」はその時すでに「人間の価値」「審判基準」命題を放棄している。この放棄は、これより先に「否定価値の放棄」として成されているものである。
では「心」がそうした「放棄」という消極的側面の一方で向っている、積極的なものは何か。

これについてじっくりと考えた結果、答えは「未知への知」であるように思われます。
つまりこれは「思考」の側面です。ハイブリッドで今まで主に言っていた治癒成長としての「未知」ではありません「現実」全体を基本的に「未知」のものとして捉えようとする思考の形態があるということです。

これに対し、「現実」を基本的に「既知」のものとして捉えようとする、もっと分かりやすい言葉としては、「既知」のものとして「収めようとする」思考の形態があります。

この両者は、感性土台の違いと匹敵する、人間の心の全く異なる世界です。
それだけ別世界の違いが、「思考」という領域においても、やはりあるということです。「否定価値の放棄」を成す者と成さない者の違いはここに起因するとも言っていいとも言える感があるほど、これは大きな違いです。


■人間知の基本モード「既知への知」と「未知への知」

この「思考の基本形態」として「未知への知」というのがあると昨日夜考えていて気づいた時は、久々に自分の考察作業で興奮を覚えた次第です。というのも、これは心理学にとどまらない、あらゆる「人間知」に言える、大きなことだからです。

つまり、人間の行動様式に「破壊」「自衛」「建設」という基本3モードがあるのと同等に、人間の「知」には基本的な2モードがあるということになります。
「既知志向」つまり「既知への知」と、「未知志向」つまり「未知への知」です。

これがどれだけの違いになるかを考察するに、まず印象として感じるのは、僕自身が今までの人生で人が何かについての「知」を語る時に、何か「知を極めている」という尊敬感を感じられるものと、そうではなく何か自己満足的であまり「知」として当てにならない短絡感を感じるものの2種類があるのを感じ続けていました。
その根本的な要因は、前者「未知への知」として、後者「既知への知」として展開されているというのが、どうも根本要因だったと分かった感があります。

なぜなら両者では、「思考」が何を目指して回るか、その最初の時点で目指している方向が全く逆になるわけです。
「既知への知」では、「自分はこれを知っているぞ」と言えることが目標です。「未知への知」では、「自分はこれを知らない」さらには「人間はこれを知りえない」ことは何かを、極めることを目標にします。

人間において「知性」が自らを変革させ得る、他の動物において基本的に自己を動かすものである「感情」を根本的に変化させ導くものになり得る。それは「未知への知」として思考が働いた時であるように感じます。
なぜなら「既知への知」「自分は知っているぞ」と言える満足感や優越感のような、「感情」といういわば賄賂に影響を受ける思考のように思えるからです。「自分は知っている」と思えるためには、知っていることが全てだと論理をショートカットしてしまえば、簡単にできるからです。

「未知への知」の場合は、「知」が純粋に極められるように感じます。なぜなら「自分はこれを知らない」と言えるためには、まず自分が何を知るかから始めた上で、何を知らないかを知っていくという、終結がほとんど見えないような方向へといつまでも続けられる思考になるからです。
当然、「自分はこれを知っている」で終わる思考よりも、「自分はこれを知っているがこれは知らない」と正確に言える思考では、後者の方が遥かに正確性が増すと同時に、「知の拡大」への展開性が開かれます。

僕が独力で心理障害を抜け出せたのは、科学図鑑を隅から隅まで眺めるのを楽しみにしていた子供時代が培ってくれた科学思考によるものが大きいと感じるとよく書いていますが、その本質もそこにあったのだと思います。また僕は人生で、頭を回すことについては基本的に何でも実にうまく行ってきました。それはそうした子供時代の影響で、思考が基本的に「未知への知」として動くようになっていたからだと、今にしてその要因が分かった気がします。
自分の科学的思考の徹底度については、世の一般の人とどうも次元が違う気がするとも書いてきましたが、これがその答えなんですね。はっきり言って、同じ脳みそでも、頭の回し方が最初から逆と言えるほど違うんですね。

最初っから、「自分は何を知らないのか」へと働く思考。これが「人生」「現実」そして「」という観念へも大きな影響を与えるわけです。
こうした「未知への知」思考モードが、やはり心の問題に限らずお勧めですね。感情を克服したいという課題について言えば、「思考」が使えるものとして、そうであるためには「思考」が基本的に「感情」に流れるようでは、「思考による感情の克服」などあり得ないものと言えるように感じます。賄賂で動く役人の仕事など、当てにできませんよね。

ではそうした心の問題を超えた「未知への知」姿勢が、僕の場合なども含め、「否定価値の放棄」やその後の「魂の挫折の原点への向き合い」をどう支え導くのか、その本質を考察したいと思います。


心理学本下巻に向けての考察-86:「人間の価値」と「原罪」-11 / しまの
No.1337 2007/10/25(Thu) 14:20:35

■「現実に向かう」とは何か

「根源の根源」は、「魂の世界」においてはその挫折の原点へと還ることが解決になる。
その時、「心の世界」において心はどこに向かっているのかを浮き彫りにしていきたいと思います。

言えるのは、そこに向かう中で、「心」主導的な役割を果たして「否定価値の放棄」が成されることです。それは「人間の価値」における「審判の基準」という命題が放棄され、同時に、愛をつかさどるものとしての「魂」がこの不完全なものとしての「現実」に向かって開放されます。
この表現からも大枠は分かると思います。「心」は強力に、「現実」へと向かっています。そこにおいて「審判の基準」を放棄し、「魂」を「現実」へと開放させたわけです。

ではその「現実」とは何か。その「捉え方」が、最終局面へと自らを導くために「心」が向かう「ある特定のもの」となります。

この話はハイブリッドの基本理念としてはこれまでも何度も話してきた、「現実を生きる」という命題でもあります。
それを、魂論と根源命題という最新の枠において、より正確に定義したいという話になります。「現実を生きる」とは、より具体的に何をどう捉え、何に向かうことを意識するということなのか。


■変化できない典型思考1:「ハイブリッドでこうなれた自分」イメージ

それを考える上で良いヒントとなるであろう、「変化できない思考パターン」をまた幾つか取り上げます。
ここで取り上げるのは、ハイブリッド取り組みそのものがその「変化できない思考パターン」の中で目指されるという、最も典型的なものです。つまりハイブリッド取り組みの動機そのものが、ハイブリッドが目指すのとは逆を向いているというもの。当然、多少の効果が最初は出た先に、それが妨げになって、ぐるぐる同じところを回るような袋小路に行き当たります。

その袋小路から抜け出すための、根本的に異なる方向がある。
それを明確にして行ければ。

「変化できない思考」そのものは何度か話していることと重なる部分もありますので、簡潔に説明しましょう。
2つのパターンを説明します。

まず一つ目は、「ハイブリッドによって変化できた自分」という結果イメージを求めるもの。つまり、変化への「過程」よりも「結果」に意識が向くものです。
その結果起きがちなのは、「実践」として説明しているもののについて、終わりの方のものから実践を試みようとするようなものです。
自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」そして「否定価値の放棄」などがその代表になるものでしょう。

ただまあそれはハイブリッドの説明の分かりにくさにも一因があります^^; もともと、まずそうした「治癒現象」を見出したことから理論整理が始まり、そのメカニズムの考察、そしてそれに向かうための意識実践という順序で、僕自身の整理が進んでいます。
それでも「感情と行動の分離」とか「建設的に生きる」といった基本の基本を自分がどれだけ分かっていないかがすっかり視界から消えてしまった状態で、「否定価値の放棄」などに至れない自分を嘆く思考をするのを見かけることがあります。


■「こうなれた自分」イメージをむしろ明瞭化させる

そのような轍については以前、「まず建設的に生きる時間が必要」という指摘もしましたが、最新の考察枠組みでさらに話を前進させましょう。

ハイブリッドの言う通りに変化できない自分への嘆きを感じた場合、そうした「基本の見直し」の前に、はっきりとその「嘆き」の中にある、一つの命題を見据えるのがいいでしょう。
それは、結局のところ自分が、「こんな人間」というある特定の自己イメージを掲げ、それを自分に当てはめるという心の使い方の中にいる、ということです。
それを「そうしてはいけない」と反省するのではありません。そうした「反省」がまさに今言っている轍の焼き直しになります。ある自己像を自分に当てはめていることを反省するのではなく、その自己像の価値を、より明確に把握することです


たとえば「否定価値の放棄」ができた自分とは、どんな自分をイメージしたのか。
それは自意識に捉われた感情が消え、人に向かって素直に感情を向けていける自分。多分そんな類のものでしょう。あるいは、何か人間的で精神的な価値を達成した自分が、人に賞賛され愛され、人に勝るというイメージがあるかも知れません。

そうしたものを、とにかく明確につかむことです。つまり実践としては感情分析です。

ではそうしたイメージを抱いている自分について、どうするのか。
何もしません。
感情はただありのままに把握するまでが実践であり、感情を小手先でどうこう変えようとはしないのがハイブリッドの基本です。
つまり僕の感覚で言いますと、自分がそうしたイメージを抱くことについては、「放置」します。

ただそれだけではどうも積極的に向かう方向性が乏しいので、それを明瞭化します。次のパターンも踏まえて。


■変化できない典型思考2:ハイブリッドの言うように「感じられるか」を問う思考

変化できない典型思考2つ目は、ハイブリッドの実践習得を、「どう感じられるか」で考えているものです。

取り組みの初期においては、これはまあそれでいいというか、とにかく長い目で考えることが重要であるにせよ「感情の改善」が目的で始めることでもあります。そのために、小手先で感情を弄そうとする誤りを捨て、感情が湧き出る心の基盤の向上への実践をします。
その習得結果は、悪感情に揺るがされる度合いが総合的に減少し、プラス感情が増えてくるという変化として実感するのでいいでしょう。

しかし、「魂感性土台の体験」あたりを境に、ハイブリッドが目指すものとして示したいと考えるのは、それとは大分様相を異にしてくる、というのが僕の実感です。
事実ここから先は、先にも述べたように、意識世界論神の観念など、ごく実践的な心理学行動学とは次元の異なる領域について、ハイブリッドとしてかなり明確な「思想」を打ち出したいと考えています。ごく実践的な範囲だけ集めたハイブリッドというのを作ったとしたら、それとはもう全く別の心理学になるかのような話でもあります。

つまり、「魂感性土台の体験」あたりから先は、もう「どう感じられるか」とは全く異なる視点で、ハイブリッド実践の習得前進というものを考えて頂きたい、ということになります。

たとえば、有能さ容姿の美しさ性格の良さなどが、「人間の価値基準」として社会にはあるように感じる。そうゆう目で見られるイメージがあるし、ある理想を基準に自分をどう感じられるかで、極端に落ち込んだり高揚したりする。それが自分を苦しめている。
で僕としては、それが必ずしも社会でそれだけの重みがあるとは限らないというアドバイスをしたりします。

しかし、そうした「現実思考」「原理原則思考」の習得によって、そのように動揺する感情とは違う見方でそうした「人間の価値基準」に捉われなく「感じられる」ようになるのが、ハイブリッドの進む道かというと、そうゆうものではないのです。
まあこの辺は、ではどこに進むのかを、僕はほとんど言わないままであったような気もする^^; まあそれを言うだけの整理がなかったということで。

同じように、これからの仕事や人間関係などでの重要なことを前に、それについて「こう感じられるようになれば」というように、「どう感じるか」の将来目標を定めようとしているかのような方を見かけることがあります。
それは誤りです。それではいつまでも「現実を生きる」ことはできません。


では何に向かうのか。次のカキコから具体的に書いてみます。


心理学本下巻に向けての考察-85:「人間の価値」と「原罪」-10 / しまの
No.1336 2007/10/24(Wed) 22:02:07

■「心」が向かい得る「ある特定のもの」序論

「根源の根源」は、「愛への復讐としての愛」「原罪感情」にありのままに向き合うことで消滅に向かう。これはいわば「魂の挫折の原点」に還るということです。その時「愛への復讐の愛」と「原罪感情」の両方が同時に消え、まっさらな「未知」が現れる。
これは「魂の世界」で起きることです。

一方その時「心」は、「人間の価値基準」という、「根源の根源」において掲げられた命題にはもはや支配されていない、ある特定のものへと明確に向いていることが必要です。この「ある特定のもの」をこれから明瞭化していきます。

つまり、「魂の挫折の原点」と、そこから一歩踏み出した、「人間の価値基準」というものを審判の命題であるかのように掲げた人間の意識行為の間に、極めて大きな一線があるということです。
にすると以下のような感じ。

================================================================
<心> 「人間の価値の審判基準」
--------------------- 
↑この一線を超えることで人間は自ら掲げた審判基準により内面の地獄へと落ちる
<魂> 「愛への復讐の愛」 「原罪感情」

================================================================

「内面の地獄」という表現をしているのは、ホーナイにならってです。実際この根源命題をすでに見出していたのがホーナイであり、僕自身も「否定価値の放棄」を成した時、ホーナイの言葉が頭の中に浮かび続けていました。自分はある「人間の価値基準」により、自分自身を叩きのめしている。「絶対なるもの」を求める人間の過ちによってそれが始まったのだとホーナイは言った。自分の中にある「ここまで劣っては」という感情の論理のどこにその過ちがあるのか..
そうした思考の先に、僕は自分が神になろうとしていた過ちを、頭でというより魂で感じ取ったという感じです。

そのホーナイの言葉は、
2006/07/16 魂の成長の成り立ち-8:「神の国」から「放たれた野」へ-5
でも引用しましたが、もう一度ここに引用しておきましょう。
--------------------------------------
「自己嫌悪とその破壊的な威力を概観してきたが、そこに大きな悲劇があることに注目せざるを得ない。それは恐らく人間の心にとって最大の悲劇だろう。
人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない。」 (『神経症と人間の成長』
P.196)
--------------------------------------


つまり、「人間の価値」について何かを「審判基準」のように掲げるのを放棄することが、「否定価値の放棄」です。それは不完全な存在である人間が成せるものではない。
それが頭の中の思考のレベルではなく、「魂が現実へ開放される」節目として起きるのが「否定価値の放棄」だと説明をしてきました。それを促す「魂の成長」の原動力になるともう未知の世界になると。

一方、その時「心」が向かっていた「ある特定のもの」を浮き彫りにしようとしています。絶対なるもの「捨てる」審判基準として掲げるもの「放棄する」と言った消極形ではなく、その代わりに向かう、積極形で言えるはっきとしたものがあることが分かって来ました。

それを明瞭にするために、「否定価値の放棄」のような変革を成せないままでいる轍のような思考パターンを幾つか次に見てみます。それは「人間の価値基準」が根本で結局捨てられないでいる姿です。
そこから、「人間の価値基準」として掲げられるものの本質は結局のところ何なのかという内容の話が出てきます。その本質において、異なるものへと「心」が転換する先というのが、「ある特定のもの」になります。


心理学本下巻に向けての考察-84:「人間の価値」と「原罪」-9 / しまの
No.1335 2007/10/24(Wed) 16:07:27

■大局的整理1:問題の理解

「問題」について根源の根源という話が出、「解決」について駆動力のさらに根本という話になっているということで、ここでまたいったん最も大局的な、今までの話の整理をしておこうと思います。

まず「問題」については、上巻原稿「心の病理」の本質特徴として「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」「論理性の歪み」という4つを述べることにおいて、ハイブリッド理論がスタートすることになります。そしてそうした「心の病理」全体を駆動するベクトルとして、「自己の重心」の喪失という方向性が働いていることを指摘しました。

そうした「心の病理」が生まれるメカニズムとして、今回の原稿では、「幼少期」における「自他未分離意識」から「自他分離意識」そして「自意識」への推移に、極めて大きな位置づけを置いているのが主旨になります。
「心を病む過程」においては、まず幼少期に適切な愛を与えられないことが問題の引き金となり、「生から受けた拒絶」が「根源的自己否定感情」として心に植えつけられ、やがてそれが「感情の膿」となり、その恐怖の圧力からの防御構造として、「空想と現実が逆転」した「自己操縦心性」という意識土台が発動する。

そうした意識外枠の変形の中で起きているのは、自他未分離意識の中で与えられるべきだった「宇宙の愛」が損なわれたことへの深い挫折と、そこに置き去りにされた「愛への願いと憎しみ」でした。やがて「自意識」の中で「愛されることに依存しない自尊心」が心の課題となる一方、「愛されること」で自尊心を感じようとする「愛情要求」と、一方で愛を叩きつぶすことで自尊心を感じる感情が、完全に矛盾と混乱を起こし、もはや収拾のつかない事態に陥ります。

最後に人がすがることができるのは、「苦しみ」と「嘆き」によって自分が高貴な存在だと感じる幻想になります。それはやがて、苦しむために現実を破壊し、破壊された現実によって苦しむという泥沼の悪循環へと人を陥れ、もしこのメカニズムに全人格的に飲み込まれた時、太宰治の『人間失格』が描写したように、人を容易に「廃人」化させ、そこでようやく沈静するという結末に至ります。

解決への方向性について上巻原稿では、「望みに向かう」ことに心の治癒と成長への基本的な鍵があることを説明し、「望み」について我々には「現実世界」に向かう心と、あともう一つ、置き去りにされた「魂」が生き続けている、その2つの世界に向かい続けるというハイブリッドの基本的方向性を説明したわけです。


■大局的整理2:解決への実践

下巻原稿では、解決への実践をまとめると同時に、その解決がなぜそのように起きるのかという、根源のメカニズムに焦点を当てます。

すでに最初の方をUpしていますが、実践の基本は「感情と行動の分離」です。感情を克服したいので、まず感情を鵜呑みにしない思考法行動法を確立するわけです。
まずその大枠は、外面については「建設的であること」。内面については「自己の受容」と「内面感情の開放」そして「自己の理解」です。それぞれのより実践的方法として、行動学悪感情の軽減姿勢感情分析があります。

それをある程度積み重ねると、やがて一つの転機のような形で、「魂感性土台の体験」が起きます。これによって、頭で理解するのではなく実際の体験として、自分の脳に全く別の世界があることを知ることができますので、これを足がかりにしてより詳しく正確に根本的変化への道のりを見ることができます。

感情と行動の分離」という実践の枠に変わりはないまま、その内容には、向かうべき「別の世界」という視点が入ってきます。
つまり、ここまでの実践では、「感情そのものではなく感情が湧き出る土台の改善向上」というのが基本視点だったと言えます。そこに、人間の心をめぐる幾つかの「世界」という視点に移ってくるわけです。これはもはや「感情」とそのための「心の基盤」という一元的な視点の世界から、心が遷移する幾つかの「世界」という、多元的で高次元の視点に、話が変わるわけです。

かくして、話はごく実践的な心理学と行動学から、意識の哲学意志と信仰そして神という観念の問題になってくる。そこに、今回のハイブリッド理論が全ての根源として取り上げた「自他未分離意識世界」から「自意識」への遷移という節目に、何が起きていたのかの根源を絡めた実践の話になってきます。

そうした視点で、「否定価値の放棄」という最大の道標も捉えられることになります。
その最後の解明に向かおうかと。


■大局的整理3:人間の心の世界と根源へ

「向かうべき別の世界」という視点をまず取り入れた実践として、行動学の一段階前進を考えることができます。2種類の人間像を想定した行動学であり、「健康な心の世界」「健康な心の人」を目指すことが主旨になります。それは「人の目感情」は向け合わない世界です。

「恐怖の克服」が、外面への行動法と内面向き合いを総合した、取り組み全体を駆動するものとして前面に位置づけられるようになってきます。
そのためにまず、「愛されれば安全」という感覚の誤りを自覚し、「どう見られるか」を超えて「どう見られてその先どうなる」までも計算に入れるような、「人の目掌握思考」が、原理原則型や建設的な行動学をより強力にするものとして重要になってきます。

内面への向き合い、それは感情分析を活用した「自己の理解」ですが、それは最初の段階では愛や自尊心や恐怖をめぐり、まずは自分の中にどんな感情があるのかをしっかりとつかむこととして行われます。それがこの「別の世界」を視野に入れた段階では、そうした一つ一つの感情の内部の「根源」を感じ取るというものへと前進します。
かくして話も「根源の世界」に移ってきたわけでした。

「別の世界」をまたがった底にある「根源の命題」として、2つのものを言うことができます。

一つは「怒りに変わる愛」愛されない悲しみがやがて怒りに変わるという、猫にも見られた原初的な情動の流れの上に起きたのが、上巻原稿でも書いた愛と自尊心の矛盾と錯綜の混迷でした。人間において、まず自尊心は「愛された自尊心」を足場にして「愛されることに依存しない自尊心」へと成長するという構図があることにおいて、その移り目に「愛されないことが屈辱」という心理が生み出されたわけです。その屈辱を見返すために、愛を破壊できることに自尊心を求めた時、自ら愛を破壊することで再び「愛されない屈辱」へ戻るという、まるでメビウスの輪のように永遠に続く隘路が生み出されたわけです。

もう一つの根源命題が「自立」です。これはまず、「愛されれば安全」という感覚から、「自らを守る」意志への変化と言えます。
これはまず「恐怖の克服」のあり方に直結する話になるでしょう。自立していない時、恐怖は基本的に自分で克服するものではなく、誰かに解決してもらうものです。だから「人の目」「人の感情」が思考の終着先であるかのようになるわけです。これでは自尊心は育たず、自分から他を愛することはできません。

「自立」という命題の先に、さらに「根源の根源」があるように思われます。「怒りに変わる愛」も、「自立」の先に、全く別の世界が開かれることが、ここでおぼろげに見えてくるでしょう。

それは何か。「根源の根源」として浮かんでくるのが、「人間の価値」という命題でした。それは「愛への復讐としての愛」を求めるようになった時、「原罪感情」を心の底に隠したまま、掲げられるようになったものです。それは「心」がなした「神の国への謀反」であり、「魂」を抱き込み「祖国への裏切り」であるかのように「原罪」を確定させることになったわけです。

先のカキコまでで、この「根源の根源」は、そのありのままの原点に戻ることが最終解決になると述べました。つまり「愛への復讐の愛」「原罪感情」を、そのままの単独純粋な形で体験することです。すると、その両者が同時に消え、まっさらな「未知」が現れます。これが「浄化」のメカニズムでもあります。

重要なのは、これが起き得るような、この時「心」が向かっている方向性です。その「根源の根源」が生み出した「人間の価値基準」という命題に心が支配され、その基準の上でどう自分があれるかどう人に見られるかに心をやつしているだけの状態の時、やはり「愛への復讐の愛」と「原罪感情」は意識に流れはしても、心を病む生き方がそのまま続くだけです。

では「心」はその時、何に向かおうとしているのか。本人の意識実践として、最もその本質となるのは何なのか。
それを明瞭化する考察になっているという次第。

「人の目感性土台」が結局どう克服されるのかもその話になってくるのですが、あとちょっと材料の話で出しておきたいものを幾つか出して、結論へと進めていきます。


心理学本下巻に向けての考察-83:「人間の価値」と「原罪」-8 / しまの
No.1334 2007/10/23(Tue) 14:10:34

■「魂の挫折の原点」に戻り向かうことのできる心へ

先のカキコでは「愛への復讐の愛」と「原罪感情」にありのままに向き合う「最終局面」への準備過程について、方向性を説明しました。

これはその「最終局面」「魂の挫折の原点に戻る」ことだと捉えられる一方、魂の挫折にはもう巻き込まれない心によってそれに向き合うということです。
問題の根本解消はそれによって、もはや意識努力で生み出すものではなく、「魂の自然治癒力」によって生み出されます。

ですから、意識努力で向かうべきは、まず「魂の挫折に巻き込まれない心」です。

それは魂の挫折に端を発する内面世界とは全く別の、この「現実世界」という外面に向かうための、「愛への復讐の愛」「原罪感情」にはあまり揺るがされない思考法行動法を習得することです。
一言でいえば、大人として生きる今、現実世界は幼少期の心の世界とはもう別の世界として動いているのだということを、しっかりと見ることです。
それはもう「愛されれば安全」という命題が成り立つ世界ではない代わりに、愛されるためにありのままの自分とは異なる別人を演じるストレスも、もはや必要ではない世界だということになります。

まあもっと積極的な捉え方もまだ必要ですね。実はそれが僕としても十分に表現し切れていないものでもあります。
上記のように「揺るがされない」「成り立つ世界ではない」「必要ではない」という消極的表現ではなく、もっと積極的表現で書けるもの。
それがまずは「現実則」であり「自らを守る」という「恐怖の克服」という課題をまず考えるという話なのですが、ではその「課題」に対する「答え」についてのハイブリッドの本質がまだちょっと説明が残されています。
あと少しこの明瞭化をしておきたいと思います。

もちろんその最大の本質は「未知」なのですが、「未知に向かう姿勢」の本質というものがやはりあるということです。


■「人の目感性土台」として残るもの

そうした「未知に向かう姿勢」を浮き彫りにするために、まず以下の状況があることを言えます。

1)「未知」はまず「感性土台」の違いとして体験することができる。人の目感性土台魂感性土台の違い。
2)ただしそれはかなり断片的なものであり、「現実」に向かおうとする時、
我々はやはり人の目感性土台で他人や自分をイメージすることから思考が始まる。と言うかその部分が取り組み対象となる。魂感性土台で見えることにはそのまま向かえば良い。
3)人の目感性土台ではさらに、
「愛への復讐の愛」「原罪感情」による感情動揺を底にしながら、「人間の価値基準」を掲げての「存在への怒り」応報へと向かうような感情さらには思考までも、自動的に起きる。
4)そうした「自動思考」とはいったん別の、
「知性思考」というのをどう持つかがまず鍵になる

つまり、「人間の価値基準を掲げての存在への怒り応報」が、感性から感情そして思考までは、自動的に起きる状態がまずあると言うことです。それが「人の目感性土台」というものなんですね。

ですから「未知」への方向性のために使えるのは、まずは「知性思考」です。

つまり、感性と感情そして自動思考まで、「魂の挫折」に巻き込まれたものが動くということです。それが「治った」状態を自分に当てはめてみることは、方向性を誤ります。どう誤るかというと、「そうなれた自分」イメージから、そうではない「現実の自分」を叩くことにしかならない、ということです。

感性・感情・自動思考まである方向に向いているのを自分の中に見ながら、それとは全く違う方向に歩む姿勢が必要になるわけです。
それを生み出すのは、「知性思考」がまず使えるとして、やはりそれだけでは足りないものが出てくる。
あと必要になるのは「意志」と、さらに「信仰」としか言えない領域が出てきます。これは「未知への意志と信仰」としてもう少し後に説明します。

ここではまず、「人の目感性土台」とはそうゆうものだという認識をして頂くことを主旨としましょう。
取り組み方向性要素を色々説明しましたが、結局「人の目感性土台」がどう克服されるのかを、感性・感情・自動思考というレベルで、何をどう考えるかという話にはなっていませんでしたので、その視点で考察を書いておきます。

いったんカキコして。


心理学本下巻に向けての考察-82:「人間の価値」と「原罪」-7 / しまの
No.1333 2007/10/22(Mon) 13:27:12

今回の考察レベルで解決への方向性をまとめると、次のようになります。


■「人間の価値基準」と「原罪」克服への準備過程

「心と魂の分離」に由来を持つ、これまで述べたような問題についてハイブリッドが見出している方向性とは、その最終局面においては、「愛への復讐の愛」と「原罪感情」に向き合うことが一つの重要な通過点になるというものです。これにより「魂」の大元の本性が開放され、「魂の望みへの歩み」という最終段階への歩みが開かれます。

より実践的な観点から重要なのは、それを可能にする「心」の状態に、いかに向かうかです。
つまりその時、「愛への復讐の愛」「原罪感情」は、もはや「現実世界」とはまったく別の、「魂の世界」の出来事として、「魂」がそこに還ることを支えることができる心の状態が必要になる、ということです。

これは要は、「現実世界」においては「愛への復讐の愛」および「原罪感情」には揺らぐことのない、「現実世界」向けの建設的な生き方と思考法行動法を確立し、「魂の世界」とはいったん別の「現実世界での強さ」を獲得する必要がある、ということです。

これの逆を言うと分かりやすいかも知れません。上記のとは、「現実世界」において、「愛への復讐の愛」を目指す生き方を続け、その裏で原罪感情に脅かされている心の状態です。
「べき」「はず」という思考法をして、「人間の価値基準」によってこの世の人々の「勝ち負け」が決まるのだと感じ、日常思考をそれをスタート地点にしている心の状態です。


従って後者から前者への転換は、まず次のように言えます。
「べき」「はず」という思考法から、それを使わない思考法へ。「現実」に立脚した科学的、原理原則的思考へ。
「人間の価値基準による勝ち負け」というものとは異なる、「現実世界での強さ」へ。これがちょっと難しい話でもありますね。僕としてもあまり強調して説明できていない部分でもある。「自分の弱さを知る強さ」というものがとても重要になってきます。これはやはり人間が不完全な存在であることから、極めて重要になる事柄です。

意識的に変えるのはそれです。
「愛への復讐の愛」「原罪感情」は、意識努力で「変える」ことはできず、最終局面で向き合うことに委ねます。
ただしそれに足元をすくわれない方向性の獲得が重要です。これも基本的には上記の転換が支えてくれます。

まず「現実世界での強さ」を目指すことが、「愛への復讐の愛」とは別の人生目標になるでしょう。これは精神論ではなく、「現実における強さ」とは何かという命題を、人生を通して考え、社会で生きる中で学ぶことが重要です。

科学的思考原理原則的思考は、「現実世界での強さ」へのツールになると同時に、「原罪感情」に打ちのめされることを防いでくれるはずです。「原罪感情」はあくまで魂が感じている罪であって、現実社会で罪を犯しているわけではありません。
こうした「感情」と「現実」を、しっかりと分けることです。


■「感情と行動の分離」の基本から

結局それは、「感情と行動の分離」という基本に何の変わりもない話です。内面世界と外面世界をしっかりと切り分け、外面世界については「現実則」に立った思考を築くことです。内面感情に関りなくです。
それは「べき」「はず」はもうない世界です。

「現実世界」という外面は、「愛されるべきだった」という、人それぞれの幼少期の心に起きた出来事をめぐっていた感情の論理とは、違う論理で動いています。それをしっかると見るしかありません。またそれはしっかりと見れば、内面感情の変化への歩みよりははるかに短期間で分かるはずです。まずはそれを考えてみることです。

幼少期の子供が親に愛されるべきだったと思うのと同じ命題で、対等な個人同士としての人が人にどう愛されるべきかという命題は、もう現実世界の中にはないということです。愛されるべきだという命題にどうかなっているかと相手を評価する目では、もう人は人を見てはいないということです。もちろんそうした目で人を見る人はやはりこの現実世界にいます。しかしそれは同じく幼少期からの心の問題を抱えた人です。

「健康な心の世界」では、大人になった者同士は、「愛されるべきだ」という命題に人がどうかなっているかではなく、お互いの生活とこの社会全体を支えるために、立場に応じた役割をどう遂行できるかで相手を見ます。それはもう「愛されるべきだ」という命題にとっての「人間の価値評価」とは、全く別のものなのです。どうそれを習得できるかは、社会における自分の位置とそこでの役割をごく知的実務的に理解すれば、答えはすぐに出ます。まずはその習得に励むことです。

それはプライベートでも同じです。人々は「愛されるべきだ」という命題にどうかなっているかによって、集まっているのではありません。そこで行われている活動への「楽しみ」「喜び」という役割を共有することによって集っています。もし孤独から逃れたいために人と交わろうと考えても、それを楽しむことができないのであれば、繋がりは続けていけるものではないことを心得る必要があります。その場合はつまり、孤独を受け入れるべきだということです。それが「けじめ」として、つまり「健康な心の世界」に向かう意志としてです。

では孤独はどう解決するのか。
それを、これからの「未知」への内面変化に委ねるべきです。そのための実践を説明しています。
内面感情については、まずありのままに開放する。そして自分が何を感じているのかを理解することです。

「孤独」がどう解決するか。ここで意識的実践として一つだけ言えることがあります。「怒り」よりも「悲しみ」を選択することです。そして「悲しみを看取る」ことです。
これが「魂の成長」につながります。なぜなら魂の願いを看取った時、魂が一つ豊かになるからです。これが魂の成長になり、魂の成長の先には「未知」があります。

この、「外面現実の世界」と、「内面の魂の世界」を、全く別の世界として、歩み続ける。それだけです。
まず内面感情にはかかわりなく「べき」「はず」のない「現実則」というものを見る目とスキルを身につける。それが「内面の強さ」を促し始めます。内面の強さは「恐怖の克服」につながり、それが生み出す「心の安全」によって、「楽しめるもの」が増えてきます。
そうして上述した「感情と行動の分離」の実践は同じまま、心に現れるものは変化し続けるのです。


■「否定価値の放棄」という「未知」

それがやがて「否定価値の放棄」として、「人間の価値基準」という命題そのものを自ら崩壊させる節目につながるかも知れません。

この考察の文脈で「否定価値の放棄」のメカニズムを考えても、やはりここで一度論理のつながりが切れる空間があるのを感じます。
まずいえるのは、「否定価値」が、「愛への復讐の愛」への積極的に向かおうとした心が、自ら神になろうとして抱かれたものであることです。
一方、「否定価値の放棄」でそれを誤りだと自覚するのは、自分が「愛されるべき側」である存在から、「愛すべき側」に移ったのだという、「魂」の深い自覚が前提になることです。
その自覚を前提に、「否定価値」「人間の価値」に基準をおき、それを愛を剥奪すべき、つまり「存在への怒り」を向けるべき、何か許すべきではないものを切り分ける「基準」として、自分がそれを定め得るという感覚に、根本的な誤りがあるという感覚と共に、それは成されるのだろうと思います。

そしてそれを支える「自分が愛すべき側に移った」という魂の自覚を生み出すところの、「魂」の成長変化がどう生み出されるかのメカニズムは、やはり「未知」なんですね。
「魂の成長」について、結局我々は「未知」です。我々にできるのは、「未知」に自分から蓋をして閉ざすのをやめ、「未知」を開放させる努力です。あとはその努力と共に「生きる」ことが、「魂の成長」を導きます。

ということで、一言でまとめると、「現実に向かい、内面を知り、未知へ向かう」と表現できるでしょう。

あと少し留意点を説明してから、「愛への復讐としての愛」「原罪感情」の中で捨てられるという最終局面の例など交えた説明をします。


心理学本下巻に向けての考察-81:「人間の価値」と「原罪」-6 / しまの
No.1332 2007/10/21(Sun) 18:08:48

■「人間の価値基準」の由来から「否定価値の放棄」まで

先のカキコで説明した「人間の価値基準」が生まれる経緯から、「否定価値の放棄」までの流れを引き続き考察します。
どんな問題が起き、どう解決されるのか。ここでは特に「自己嫌悪感情」の発生とその解決に焦点を当ててみたいと思います。

まず「心」「愛への復讐の愛」を求めるようになり、同時に「魂」が深い「原罪感情」を感じるようになる、というのが最初の状況でした。
実は、この両者がそれぞれこの単独形で同時に心に体験されるのが、治癒になります。この具体例はあとで紹介します。
つまりそれは、「愛への復讐の愛」を捨て、原罪感情に出合う中で、大元の魂の愛に戻っていくという方向になるということです。
ただしそれは「否定価値の放棄」成された後の話です。

心が病むメカニズムにおいては、「愛への復讐の愛」のために、「比類なき人間の価値」が掲げられるようになります。それが、自分が排斥された「神の国」で安住できた人々への、復讐のための武器になるわけです。
それがあれば、他人を見返す勝利と、得ることができなかった愛を超える愛を手にすることができる。この願望に潜む、他人を踏みつけ踏みにじる破壊性を帯びた感情の強度が、「荒廃化」の度合いを示すことになります。

荒廃化が強ければ強いほど、「魂」が抱く原罪感情も深さを増すことが考えられます。それは「神の国」という祖国への破壊的な裏切りだからです。
原罪感情を抱く「魂」を抱き込むために、「心」は「魂」に、「悲しみを捨て怒れ」と囁きます。
そして悲しみを捨てる代償として、怒りを向ける対象を用意する。「人間の価値」です。「人間の価値」に、怒りを向けろと。


■「べき」「はず」に移っていく自尊心の力点

ここにはもう少し細かい内部メカニズムがあるようです。

というのも、「心」にとっては本来、「愛されることに依存しない自尊心」が課せられているからです。「愛への復讐としての愛」を勝ち取りたいにせよ、「自分から愛を求める」という感情要素はなるべく感じたくない事情があります。

ですから、「自分から愛を求める」という感情は感じないまま、前カキコで書いたような、「比類なき人間の価値の前に万人がひれ伏す」という栄光の構図が、何よりも求めるものになるわけです。
大元に愛への挫折と枯渇を埋めようとする衝動があることなど、感じてはならないのは無論です。

ですから、「心」「自尊心感情」は、次第に「愛」とは別のものに焦点が移ってくることが考えられます。
それが「べき」「はず」という「尊大な知の感覚」です。
「尊大な知の感覚」という言い方をしたのもここが始めてだと思いますが、実際のところ、「べき」「はず」とは実に尊大で自己誇大的な観念なんですね。

ここに「心」が「魂」と分離する際に介入した、「荒廃化」「病理」の本質を感じます。
「荒廃化」は、世界への復讐として自らが神になる力を獲得するという傲慢性になります。これが「べき」「はず」観念です。まあ「べき」「はず」を傲慢と感じる感覚は、誰にもあまりないのが実情でしょう。もともと「傲慢性」を情緒としては感じないままに世界への復讐の力を得るものとして格好の手段になるのが、それなのですから。
「病理」はその「空想性」にあります。「べき」「はず」は実際のところ、「空想」の中でのみ存在し得ます。「現実」の中に、それはありません。
つまり、「べき」「はず」は基本的に、空想の世界で自分が神になり他人を踏みつけた高みに昇るための思考法です。


■自己嫌悪感情の発生

「人間の価値基準」も、それによって愛される「べき」「はず」であり、それを損なった時には軽蔑され嫌われる「べき」「はず」ものとして掲げられます。

まず最初は、こうした「尊大知」そのものを自分が持っているということにおいて、それも「人間の価値基準」となるでしょう。「べき」「はず」を心得ている自分は他人より優れており、愛される「べき」「はず」という感覚を生み出しているでしょう。それを持たないであろう他人を軽蔑します。

「べき」「はず」通りになることに自尊心を感じ、その通りにならないことに、憤懣を感じます。「人間の価値基準」を損なったものを自分の中に見出した時、自らを軽蔑するべきです。その通りにならない「べき」「はず」を持ち憤懣を感じることも、そこでは「人間の価値基準」を損なったものの一つとして取り上げられるでしょう。それが自分であれば、自分に怒りと軽蔑向けるべきです。
かくして「自己嫌悪感情」というものが生まれると考えられます。

「自己嫌悪感情」には大きく3つのメカニズムがあります。「自己理想からの見下し(自分自身への優越感)」、「原罪嫌悪」、「現実的な自己不満」。
そこで「自己理想からの見下し(自分自身への優越感)」について、魂論からのより微細なメカニズムが言えるわけですね。
それは魂の挫折と「愛された自尊心」の損傷を見返そうとした「心」が、「神の国」に背をむけ自らが神になろうとして抱いた、「人間の価値基準」と「べき」「はず」という尊大知による自尊心からの、自分への見下しということになります。


■「魂」の怒りの「抱き込み」の完成

「魂」が「悲しみを捨て怒りを選ぶ」ように仕向けるという「抱き込み」も、「べき」「はず」の「尊大知」によってこそ、しっくりと行くように思われます。

「魂」が今だに「愛されること」を求めていることにおいて、「心」はこの「尊大知」を「魂」に振りかざし、「人間の価値基準」によって愛される「べき」「はず」だと誘惑するわけです。
「魂」は、そうした「人間の価値」が、「与えられる愛」という今だ心を引きずるものが約束されるものとして、そうした「人間の価値」を「持つ者」に、文字通り魂を吸い込まれるような感情を感じるようになるかも知れません。まあ多少これが「心」にとってはまた足手まといになることも出てきますが。

一方、「現実」はそうした「べき」「はず」の通りの世界ではありません。これは約束された「与えられる愛」が得られないということです。
まさにそれが、「心」が「魂」に、怒りを向けるべきものとして囁いたものです。この、あるべからざる「現実」を、神の国に排斥された憎しみによって、怒るのだ


こうして、まず「心」「べき」「はず」の尊大知によって自ら神になろうとし、その中で「人間の価値基準」を抱いた、という形になります。それによって世界への復讐を勝ち取る。
「魂」は、自らを神とした「心」について行く形で、「べき」「はず」通りでない「現実」への怒りを開放させるようになります。ただしそれは「神の国」という祖国への裏切りであり、原罪感情を裏で深めていることになります。


■「敵対感」が「人間の価値基準」を損なうという結末

これが問題の状況になります。

これらのメカニズムの結果、意識の表面でまず必然的に生み出されるのは、全般的な「敵対感」の蔓延です。
これはまず、「べき」「はず」観念が基本的に自ら神になり他人に優越しようとする観念であることにおいて、「敵対感」を生み出します。
しかしこの「敵対感」が、同時に抱く「人間の価値基準」としてまず含まれるであろう「感情の豊かさ」「信頼関係」「安定して人とつながれる心」などを損ない、自己嫌悪感情と、愛が損なわれたことへの魂の怒りを生み出します。

「心」が自らそうなるように仕組んだシナリオ通りであることなど、本人の意識では感じ取られないままにです。
もちろん硬直した「べき」が自分の感情を硬くしていること程度は感じることができます。だから「べき」を捨てようとは考える。
しかしそれがまたこのメカニズムの歯車の回転そのままで思考されるわけです。「べき」をすてる「べき」だ。それによって「人間の価値基準」を叶えるために。それができれば愛される「べき」「はず」だ。
基本的に思考がループします。


■解決への視点

この考察レベルでの、解決への流れに視点を移しましょう。

まず言えるのは、最終的な解決は、「心」と「魂」それぞれにおける、この問題の起点における感情をそれぞれ単独に並列のまま体験することにある、という最初に書いたことです。
つまり「心」においては「愛への復讐の愛」が抱かれたこと。「魂」においては原罪感情が抱かれたこと。

そこに戻ることです。そして今度は「魂」側が主導になって、「心」が抱いた「愛への復讐の愛」を原罪感情の中で捨てていくというのが、ハイブリッドとして見出している方向性になります。
それによって、そこに閉ざされていた「魂」の本性を開放することです。


そのために何が必要か。より実践的な視点からの考察を次に。


心理学本下巻に向けての考察-80:「人間の価値」と「原罪」-5 / しまの
No.1331 2007/10/20(Sat) 12:41:16

■「心」による「魂の愛への願い」の阻止

「心と魂の分離」にまたがった「荒廃化」のメカニズムは、幼少期における愛の損失に対する、「魂」と「心」の微妙な反応の違いにまず端を発するようです。

「魂」は、「自分が愛されていない」ことにまず「悲しみ」を感じ、やがてそれが「怒り」に変わります。
「心」は、「自分が愛されていない」ことを「軽蔑されている」と感じ、つまり「屈辱」を感じ、やがてそれが「見返し」つまり「復讐」への衝動に変わります。

問題は、もの心がつき自我が活発になるにつれ、「心」の側の自尊心への要求が前面になり、「魂」の側の愛への願いは影に回ることです。
「心」からすれば、「もう一人の自分」である「魂」が、自分をさしおいて引き続き「愛への望み」を願い出ることは、何としてでも阻止しなければならない状況があります。なぜなら、実際のところそれがまた表に出たところで、それはもう叶えられる状況は「現実」の中には失われているからです。

これは2つの理由があります。
一つは、それが本来自他未分離意識の中で叶えられるべきものであったことにおいて、事実もう時期を逸していること。
そして幼少期にそれを損なわせた環境というのは、やはり今も引き続き愛を損なう環境である可能性が高いこと。

この2つの理由により、「魂の愛への願い」がもし顔を出したら、それは誰にも受け取られようもなく宙に浮いてしまうものになってしまいます。しかもこの「魂」ときたら、「愛への願い」を差し出して叶えられない時、まるで無力で空ろな無様な姿を示すわけです。これはとても「愛されることに依存しない自尊心」を課題にして分離し始めた「心」には、受け入れられるものではありません。
かくして、「心」は、そんな「魂」などないという顔をして、生き始めるわけです。


■空想の中で抱かれる「人間の価値基準」の絶対的威光

一方で、「愛された自分」という自尊心を与えられなかったことを見返すための、「空想」をふんだんに使った心の動きが始まります。
「感情の膿」への防御もここで働き始めます。「現実」とは、何かの「あるべからざるもの」を潜ませた世界であり、それを免れるために、完璧な空想を描き現実をそれに合わせることが最善の「生き方」なのだという決めが成されるわけです。また「現実にあった」その「あるべからざる」ことに受けた心の傷はあまりに破壊的なので、「魂の挫折」は記憶もろとも否定されます。

かくして、幼少期において挫折した魂の存在を否定し、「愛された自尊心」を損なったことを見返そうとして、「普通に」得られていたであろう愛を超える「愛」を、自分は獲得するのだという勝利へのシナリオが、空想の中で描かれます。
それは比類なき「人間としての価値」を自分が帯びるという形を取るのが基本になります。つまりそこでの復讐性「万人をさしおいて自分が特別に扱われる愛」を得ることにあるのですが、それを自らが強欲に奪い取るような姿になってはいけません。それでは自分が最初に挫折しているからこそそんな衝動を抱いていることがばれてしまうからです。ですから、自分が比類なき「人間としての価値」を帯びることで、自分からは手を下さなくても、人々が無力に自分の前にひれ伏すようにならなければならないのす。

こうしてこの人間の心に、絶対的な威光を持った「人間の価値基準」が抱かれるようになります。
この人は、その「人間の価値基準」が実際のところ、この世界の人間の「勝ち負け」を決定する基準なのだと感じます。実際にはそんな基準にはあまり心を動かされない人間が多数いることなど分かりようもなく、自分が感じること疑うことができません。なぜなら実際自分がその「人間の価値」を前にすると、打ちのめされた敗北感を感じるからです。

かくして、「人間の価値基準」が、それがこの人間においてなぜ抱かれたのかの経緯を離れて、一人歩きの暴走を始めるわけです。「人間の価値基準」は、それを携えて世界へと宣戦布告する武器となる一方、やがて自分自分に下される「審判」へのストレスとして、この人間を苛むようになるわけです。


■「神の国」に背を向けた「心」の抱き込みに罪を深める魂の原罪

そうして「心」が「人間の価値基準」への幻惑と圧迫に揺れ動く影で、「魂」は何をしているのか。「心」によって出生における挫折を否定されたまま、眠りについたようにその活動を停止させたのか。
どうやらそうではないです。事実「心の生命力」が「魂」にある限り、「心」は「魂」からのエネルギーを必要とするのであり、ただ切り離すだけでは収まりがつきません。

どうやらそこで、「心」による「魂」の「抱き込み」とでもいうべき事態が起きたようです。

幼少期において与えられなかった「一体化の愛」を見返すための、「愛への復讐としての愛」の獲得を抱いた「心」。それは「神」に守られた世界で「一体化の愛」が与えられるはずであった、「神の国」に背を向ける動きであったように思われます。それは「神の国」への離反であり、謀反であり、「神の国」への見返し復讐であったように思われます。
「神」の大きな目の下にあった人々を見返す優越。それは自らが「神」の権限を手にすることです。それが「人間の価値基準」の威光です。これが「神の国」全体への復讐です。

そうして「神の国」に謀反を起こそうとする「心」は、「魂」もこの動きに同調させようとします。そのためには、「魂」が「一体化への愛」への引きずる思いを捨てさせなければなりません。
それが可能になり得る感情の動きを、「魂」がすでに示していました。「悲しみ」「怒り」に変わるという流れです。ならば「悲しみ」を捨てさせる必要があります。「悲しみ」にはまだ「一体化の愛への願い」が含まれるからです。それが「怒り」に変わった時、もうそこには「一体化の愛への願い」が見えなくなります。

かくして、「心」から「魂」への「ささやき」が成されたようです。悲しみを捨て、怒れと。
それによって「心」は、「魂」さえもが「神の国」に背を向けるように仕組んだようです。悲しみを捨てる代償として、魂に怒りを向けさせる対象を用意してあげるのです。
それがまさに「人間の価値」に他なりません。「人間の価値」に対して、怒りを向けるのだ。

「魂」がそれに向かってしまうのも理由があります。なぜならそこに「あるべきもの」という「神の国」の命題そのものが保たれるからです。あるべきだった愛。それが奪われた怒りをそのまま、この「心のささやき」によって生かし続けることができる。

しかしこれは「魂」の深い心においては、「悪の囁き」であったようです。それは神の国への謀反なのですから。人間に「悪」という観念が生まれたのは、恐らくこの瞬間でしょう。神の大きな目の下で、「一体化の愛」に満たされるべきであった自分が、復讐のための「禁断の愛」の誘惑に屈した。
「魂」が抱く「罪」は、ここで深まります。「原罪」とは、恐らくここで確定した罪を指すのでしょう。

「魂」はもはや、「神の国」に素直に戻ることはできなくなります。なぜなら、自分はもう、一度そこに背を向け、裏切った者だからです。
いわば「祖国を捨てた者」です。帰る国を失った「魂」はもはや根なし草のような無力感を抱え、「心」について行くしかありません。「原罪」深い罪悪感を心の一方に抱えたままにです。

容易に想像できると思いますが、これはキリスト教における「原罪思想」そのものと同じです。
キリスト教の「原罪思想」では、そうして「人間は罪深い存在」と定義しているようです。
ハイブリッドでは、こうして「人間は罪深い存在」と感じる、脳のメカニズムがあるという考え方をするわけです。メカニズムとして理解するということは、「実際人間は罪深い存在か」という問いはもうしないことになります。

ただしそうして「魂」が抱いた原罪にどう向き合うかの話が、キリスト教とハイブリッドで全くの正反対になってきます。
この話を次にしましょう。


■「人間性崩壊」のメカニズム

親殺しにまで発展するような「怒りの爆発」のメカニズムについては、「魂」の「自分を愛すべきであった者への怒り」「心」の「自尊心損傷への怒り」という単独要素の素直な合算では説明が難しく、こうした「心による魂の抱きこみ」という複雑なプロセスが介在して起きることが考えられます。

ここでもその考察をフルバージョンとして書くには、まだちょっと時間が足りない感があります。ただかなりその本質に近づいたと思っています。
そこには、「心による魂の抱きこみ」という目論見が妨害されることへの、まるでマフィアが身内に警察の犬を見つけた時のような、人間性を崩壊させるような憎悪の構図が生まれるように感じます。
「悪く言われたことへの怒り」親や祖父母殺しにまでなるような事態の裏には、そうした何かのシナリオが崩されることへの破壊的な怒りの様相があります。それは「神の国の犬」を前にしたということになるのかも知れません。

この辺は、いずれもっと時間をかけて感情論理をもっと精緻に追う機会もあるかと。
一つ触れておくならば、こうしたメカニズムが絡む怒りの一つの典型は、「自分に怒りを抱かせたものへの怒り」「自分に憎しみを抱かせたものへの憎しみ」という形になるらしい、ということです。
これは単純な愛情要求損傷反応でもプライド損傷反応でもなく、「原罪」を塗り消そうとした「心による魂の抱きこみ」シナリオのほころびへの反応という、複雑なメカニズムがありそうです。また自己循環膨張によって一気に爆発の一線を超える性質があることも、「怒りを抱かせた者への怒り」という表現からも容易に想定できるでしょう。


「否定価値の放棄」とは、こうして「心による魂の抱きこみ」の中で掲げられた「人間の価値基準」が崩壊する転換ということになります。
この視点での考察を次に。


心理学本下巻に向けての考察-79:「人間の価値」と「原罪」-4 / しまの
No.1330 2007/10/19(Fri) 14:54:57

■向かい得る心理要素

先のカキコで出した心理要素を列記すると、
「魂」の側においては、「愛への願いと憎しみ」そして憎しみに伴う「原罪感情」がありました。
「心」の側においては、「愛情要求」と「見られることによる自尊心要求」。
ここまではあまり有害ではない。つまり、そうした心理要素の中にはそれぞれ「望み」の要素が含まれており、それに向かうことに心の治癒と成長があるということです。

多くの方は逆に、それらをどう除去克服し、そうしたものを免れた自分をどう実現できるかが目標のようにイメージしておられるかもしれません。それは逆です。上記の要素に、むしろ向かうことに、進み得る方向性があります。
同時に、向かい方が重要になります。向かうことによってそれらを卒業するために向かうとでも言うのが分かりやすくなるでしょう。

つまり除去克服すると考えるのも違うし、どっぷり入れ込むのも違う。あくまで「生」の転換を成すために、向かうのです。

その「転換」は、次の心理要素の不実さを知り、それについては明瞭に脱する意志を持つことが、上記の「卒業するために向かう」という方向性を確かなものにしてくれると思います。


■「荒廃化」の核となる「愛の変形」

害のある残りの心理要素とは、やはり「荒廃化」の部分です。そしてこれは「望みの停止」の度合いに応じて必ず起きます。上記心理要素に向かうことをやめることにおいても、それは「望みの停止」であり、「荒廃化」の増大に寄与していることが考えられるのです。

上巻原稿での基本的メカニズム解説では、「荒廃化」を「破壊に快を感じる情動」の発達度合いとして説明しました。またこれは「敵対攻撃」への姿勢の強度とも言えるでしょう。

先のカキコでは、「魂」の抱いた「自分を愛すべきであったのに愛さなかった者への憎しみ」や、「心」「見られることでの自尊心」が妨げられた怒り反応は、それだけでは、同等の強度になる「愛」の側の要素によって相殺中和されるので、一方的に怒り憎しみ側が膨張することはない、と説明しました。
そこに「荒廃化」が加わることによって、怒り憎しみ側が一方的に膨張する事態へと変化する、ということになります。

ここではそれを「魂」と「心」の2者関係の中で何が起きているのかを説明するのが、新しい話になります。

「荒廃化」基本的な命題は、やはり「復讐」「見返し」です。
これは「魂」と「心」において、その始まりはどっちが主体とも言えないものに感じます。「魂」においては「自分を愛すべきであった者への憎しみ」が既に「復讐」という意味合いを帯びています。「心」においては、そんな「魂の挫折」をそのまま受け止めることができず、挫折を見返せるような「なるべき自分」をまず描くことになります。

「荒廃化」が「荒廃化」となる決定的な核は、「愛の変形」にあると考えています。
そもそも、ここまでのメカニズムはやはり「愛」がスタートになっています。まず「魂」が「一体化の愛」を願ってこの世に生まれ、分離していく「心」が課題とする「自尊心」は、まず「愛された自尊心」を踏み台にして、「愛されることに依存しない自尊心」へというのが全体の流れとなる。
その全ての始まりである「愛」に、変形が起きる。

なおこの視点自体は既に「魂の荒廃」として話しているものです。
年初の頃の魂論では、「復讐心」「魂の荒廃感情層」「魂が魂についた嘘」などととして説明していました。
(2007/02/20「魂の治癒成長への実践-16」 2007/02/23「魂の治癒成長への実践-18」)
でも魂自体が荒廃してしまうのでは、どうそれを「浄化」できるかが分かりにくくなってしまいますね。荒廃化してしまった魂にそれを任せるとという話ではどうも悲観的な見通しも出てきてしまう感もある。

そうではなく、「心」の側が「荒廃化」の主役であり、「魂」の側に「浄化」への力が残るという構図であれば、さらに分かりやすく、浄化への克服の方向性もはっきりしてくるように思われます。
そして今回、「命における魂の自立」命題を組み入れた考察の結果、そうであることがかなり見えてきた。


■「心」が求め始めた「愛への復讐としての愛」

とまあ読者の方にはどーでもいいような整理の話ですが、「愛の変形」の核について、次のように考えます。

それは「愛への復讐としての愛」です。
これはまず、「神の国」における「一体化」の愛を得られず、「愛された自尊心」という最初の基盤を得られなかった「心」が、それを屈辱と感じ、それを見返せるような特別な「愛」を求めるという状況として理解できます。

もう「普通の愛」では駄目というやつですね。
この話はサイト掲載の感情メカニズム理論では、「報復的愛情・魔術的愛情への要求」として書いていましたね。その後この感情要素はあまり独立した話としては説明していなかった面があります。
http://tspsycho.k-server.org/mech/mech02-012.html

「報復的愛情」にせよ「魔術的愛情」にせよ、本質はやはり「誰よりも自分が特別に扱われる」ことを求める愛情要求であることです。それが「人を踏みにじってでも」という破壊的な攻撃性を帯びるにつれて、それは「荒廃」の度合いを深めることになります。
これが「愛されなかった屈辱への復讐」である時、本来、この「本来」とは「自然な論理としては」という意ですが、「愛」ではなく「怒り」であり「憎しみ」であるように感じます。それはまさに「愛の形をした憎しみ」です。

それが「愛」として知覚されることに、「心の病理」が介在してくる面があるのでしょう。
あくまでそれは「愛」として感じられなければならないわけです。なぜならもともと愛の損失を屈辱として、その復讐なのですから、愛を獲得し返すことでなければなりません。そのままの怒りや憎しみであってはいけないのです。もし愛されないことへの怒り憎しみを感じるとしたならば、それはこの復讐への動きにおいて負けを意味するように思われます。

かくして「愛への復讐としての愛」というものが、人間に生まれた。
これは猫にも見られた、愛が怒りに変わったようなものとはその複雑性の次元を異にした、人間にしかない感情のように思われます。


■「愛への復讐としての愛」への「心」と「魂」のギャップ

「心」と「魂」の分離メカニズムからは、これはまず「心」においては「愛された自尊心」の挫折を挽回するために獲得する勝利という位置づけになると考えられます。

次に「魂」にとっては、それが出生において求めた「宇宙の愛」との類似性を感じさせるものでもあります。「宇宙の愛」に囲まれることが、自他未分離意識の中での「一体化の愛」を意味したからです。

しかしこの「愛への復讐としての愛」はもう「一体化の愛」ではありません。それは一方的に与えられ奪い取り獲得するものとしての「愛」です。
従って「魂」はそこに自らが追い求めたものの幻影を感じる一方で、「一体化の愛」ではない「愛への復讐としての愛」は望んでいないというギャップがここに生まれるようです。


魂が実はそれを望んでいないというのが、「浄化」への鍵になるわけです。これは後で実際の僕自身の分析例で示します。

いずれにせよまず、この「愛への復讐としての愛」への「心」と「魂」のギャップという状況までが、心を病む「荒廃化」の駒が揃った段階と言えます。
揃った駒を前に、「荒廃化」の決定打が打たれるメカニズムを次に。


心理学本下巻に向けての考察-78:「人間の価値」と「原罪」-3 / しまの
No.1329 2007/10/18(Thu) 11:47:59

■「魂が抱いた憎しみ」と「原罪感情」の相殺中和

「悪く言われての激昂」親や祖父母殺しにまで発展するメカニズムですが、それを考えるのに昨日丸一日を要したような、難しい話があります。まずこの問題状況を説明しましょう。
もちろんこれは、「魂」と「心」の分離という根源状況を踏まえての、正確な理解を試みたときに浮き上がってくる難しさの話です。

まず、そうした激昂が、肉親を相手にしてこそ激しくなる基本的なメカニズムがあります。
これは「魂」に属する感情です。「誰よりも自分を愛すべきであった者がそうしなかったという怒り」です。
これはかなり「原初的」な情動です。つまり動物的です。飼い主に置き去りにされた猫の哀しみが怒りに変化した事例でも示されるように。

この「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」の感情は、僕自身も幼少期の感情分析で観察したものですが、特徴的なのは、全ての記憶が「怒り」から始まっていることです。なぜ怒る状況になったのかという、「怒り」以前の記憶はありません。
多分これはまあ、「一体化の愛」が妨げられて「怒り」に変化したのですが、それがまだ「自他未分離意識」の世界であったことにおいて、記憶が定着しにくいという状況が考えられます。
記憶は、もの心がつき「自他分離意識」の発達とともに活発になります。かくして、何も見えない混沌の中から、ただ「怒り」から明晰意識が始まるわけです。

いずれにせよ、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」には、同時に「原罪感情」が伴うように思われます。自分を愛すべきであった者への怒りを抱くと同時に、自分を愛すべきであった者に怒りを抱く自分への罪悪を感じるわけです。
ですから、この両者が相殺中和されることで、怒りはあまり表に行動化されないのが基本的な形になることが考えられます。

つまり、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」が親殺しにまで昂進することは、それだけでは考えにくい。
もちろん「心」の側のメカニズムも、すぐ考えることができます。


■「魂の自立を基盤にした自尊心」が遮断された心の状況

「心」の側では、自他未分離の一体化の中で「愛された自尊心」を基盤に、さらに「愛されることに依存しない自尊心」を獲得することが課題になるというのが、基本的な流れです。
上述の「誰よりも自分を愛すべきであった者がそうしなかったという怒り」がある状況とは、同時に、この2段階自尊心でおいて、最初の段階に躓きが起きているということです。それを引きずりながら次の逆の段階がまた要請されるという、基本的に収拾がつかない状態になっているのが実情です。

心の表面には、2つの基本感情が顕著になってきます。

一つは「愛情要求」です。これは「一体化の愛」への望みとはもう別物で、「自分に向けられるもの」「与えられるもの」としての愛情への欲求です。自分の心の側にはそれを必要とする困窮があり、一体化への共鳴は崩れた構図の愛情要求です。

自尊心への要求も、「人の目に見られること」を基盤にした欲求になります。高く評価され、必要とされ、愛されることが自尊心になります。
もちろん、高く評価され必要とされ愛されることを自尊心に感じるという積極的側面自体は、別に病んだ心理ではなく健全な心理にもあるものです。問題は、それを表にした裏に控えている、妨げられ閉ざされた感情の存在です。それは魂が抱いた愛への願いと憎しみであり、根源的自己否定感情であり、愛情要求であり、「愛されなかった自分」という実際のところ損傷を受けた自尊心の存在です。

かくして、問題の程度に従ってあるのは、評価され愛されることを自尊心に感じる表に隠された、淀んだ内面の存在です。それを隠しながら、表では別の顔をして、評価され愛されなければならない。
これは身を削る浅薄感や、「見せかけが破綻する恐怖」という、原罪感情にさらに味付けしたような隘路を生み出し、欲する自尊心に向かうことに自らブレーキをかける要因になります。

もう一つ状況として加える必要が出てきたのは、「魂」の成長が、「心」がその責任を拒否することによって停止させられている状況です。
これは逆に言うと、健全な心の成長においては、「命における魂の自立」というようなものがある。これが先日の「否定価値放棄」の考察から言えるようになってきたことです。
これは感性の極めて深いレベルで、自分が「与えられる側」「守られる側」「愛される側」から、「与える側」「守る側」「愛する側」に変化したことを感じる、存在様式の根本転換だと言えます。

ですから、ここまでの状況において「心」の側にもたらされている問題とは、愛情要求の膨張や、「見られることによる自尊心」を追いながらも同時に自らの内面によって妨げられる状況に加え、「命における魂の自立」を基盤にした自尊心という世界が全く遮断されていることがある、ということになります。

「命における魂の自立」を基盤にした自尊心とは、自らが与え得ることへの自尊心であり、自らが守れることへの自尊心であり、自らが愛することができることへの自尊心です。
実は、これが「命における魂の自立」をしていない心において「見られる自尊心」のための自己理想像に掲げられることに、問題がややこしくなる状況があります。「人に好かれたければ、まず自分から人を好きになることだ」などと世の人は良くいうものです。実際最初からここで話している問題が軽く、思考法の転換で掛け値なしに「自分から人を好きに」なれるのならいい話ではありますが、ここで話しているような問題を前にしてそんなことを言っても、全く同じことの繰り返しにしかならず、びくともしない壁にはね返されるようなものでしかありません。

課題は、こうした錯綜した問題の積み重ねをほどいた先で、魂を「命における自立」へと開放することです。


■「人間の価値」と「原罪」をめぐる「心」と「魂」のやり取りへ

「悪く言われての激昂」のメカニズムの話に戻ります。
まず「魂」の側でそれについて存在するのは、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」でした。ただこの「憎しみ」は「原罪感情」と相殺される面があります。

「心」の側では、「愛情要求」「人の目に見られることによる自尊心要求」が顕著です。
「悪く言われる」ことは、当然この両者を同時に損ないます。愛情要求は悲哀を起こし、自尊心要求はその損傷反応としての怒りを起こします。

ここでも、愛情要求自尊心要求相乗的な姿を示します。問題が激しいほど、愛情要求は激しく、自尊心要求は絶望的に「見られる」ことに依存するようになってきます。
「悪く言われる」ことへの怒りが激しいとは、実はそれだけ相手の愛情を求めているからとも言えます。肉親に言われることが他人に言われることよりも激しい怒りを起こすのは、絆があるからこそ相手に見られた自分を自分と感じる「一体化」が働き、「言われた」ことの影響力が強いとも考えられます。

しかしこの構図では、やはり「愛情側」にある相殺力も強くなるはずです。一方的に愛情側が消去され、怒り憎悪側が膨張するという構図は、ちょっと異なる質になってくるように思える。

まあそんなことを、昨日はつらつらと考えていたわけです。
そして実際ここまでの問題要素は、実はあまり有害性が高くないというのが僕の見解です。「愛情要求」と「見られることによる自尊心要求」そのものは健全な心理発達にも含まれてくるものであり、ハイブリッド取り組みとしても、それはあまり「取り組むべきもの」と位置づけていません。そうした感情にある一片の建設的要素を後押しするのが建設的行動法です。

ここでまだ出ていない要素が、全てを狂わせる根源の根源になるということになります。それが実に破壊的なものとなる。
それが「人間の価値」と「原罪」をめぐる「心」と「魂」のやり取りの中にあるというのが、見えてきたことです。
「心」「魂」が、全く別の人格として、まるで2人の人間がやり取りする動きが起きる。

いったんカキコしてその説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-77:「人間の価値」と「原罪」-2 / しまの
No.1328 2007/10/18(Thu) 09:11:57

■「負の攻撃性」と「原罪」における「人間の価値」

「負の攻撃性」「原罪感情」つながりから、「根源の根源」について考察していきます。

定義ですが、「負の攻撃性」とは、「他人に攻撃されるという前提イメージを持つことにおいて自らの攻撃性を発揮」する心理メカニズムです。その表れは激情的憎悪(^^;)から感情を伴わない空想まで、多岐に渡ります。

「原罪感情」とは、「あるべき一体化に背を向けた自分の心の荒廃への罪悪感」とでもここでは書いておきましょう。「自分の心の荒廃への罪悪感」であることにおいて、これが「荒廃化」の治癒である「浄化」への鍵になるわけです。
これは意識表面においてもっともポピュラーなのは、「まがいものの自分」という自己嫌悪です。またこれを背景にした恐怖感情は、「見せかけが破綻する恐怖」となります。

「原罪感情」は、ハイブリッドの取り組み初期においては、「理想からの見下し嫌悪軽蔑」の中に混ざって体験されるものと位置づけられます。とにかく理想からかけ離れた駄目な自分。
「魂感情土台の体験」と前後して、「原罪感情」「理想からの見下し嫌悪」から分離されて体験されるようになってきます。もはや理想にどう近いか遠いかではない。理想を掲げそれを蓑にして人の前でなにものかに成ろうとした、嘘のある人間。そんな毒々しい嫌悪が自分に向かってくる感覚です。
これがもはや通常の「感情」の範囲を越えた恐怖や嫌悪である、「感情の膿」のように体験されるものを「アク毒」と呼んでいます。「おぞましい自分」という毒々とした自己非難感情と恐怖の感覚。まあちょっと気が狂いそうな気がしてしまうようなシロモノですね^^;

そうした「負の攻撃性」「原罪感情」ですが、意識体験上は、まずは全くつながりがありません。

しかしそれをつなぐ、大きな命題があります。「人間の価値」です。
そして実際のところ意識体験としては全くつながりがないまま、「人間の価値」について両者が全く異なる角度で接していることが、人間の心が病む根源のさらに根源を理解する上で重要な鍵になると思われます。

その「全く異なる角度」とは、こうなります。
負の攻撃性」においては、「人間の価値」について掲げた「基準」が、攻撃のために使われます。
原罪感情」においては、「人間の価値」について「基準」を掲げたことの中にある罪悪が体験されます。


■「攻撃」とは「人間の価値」への否定攻撃

問題を解きほぐしていきます。

まず、「負の攻撃性」で他人から向けられるとイメージされる「攻撃」とはどんなものか。

それは言われなき「人間の価値」の糾弾であり、不当に向けられた「存在への怒り」という位置づけが考えられます。それを受け入れるとは、自らが自分自身の「人間としての価値」を否定し、自らの存在への怒りを抱かねばならないということになってしまう。
ですから、少なくとも自分に向けられた「攻撃」を鵜呑みになどできない限りにおいて、その人は「自らの存在をかけて」相手に反撃しなければならないという感情の論理になるわけです。

「反撃」はやはり、相手の「人間の価値」を否定し、「存在への怒り」を向け返すということになるでしょう。
かくして、世の中で近親者の間「自らの存在をかけた相手の存在への怒り破壊」を向ける出来事が溢れるようになります。

「近親者の間」でと状況を加えましたが、「価値の否定」「存在への怒り」最も悲劇的に破壊性を増すのが、近親者間になるという状況があります。

この最も鮮烈な事件として記憶に新しいのは、今年の1月に渋谷区の歯科医師の家族内で起きた、兄による妹のバラバラ殺人事件です。あまり詳しい話は調べていませんが、殺された妹は攻撃的な性格、兄の方は比較的おとなしい性格だったようで、妹に「夢がないね」などとなじられての行動だったとのこと。
それ以外でも、しばしば目にする、子供が親や祖父母を殺したという事件は、大抵、自分をなじられる言葉に激昂してのものであることを、報道から知ることができます。

ただしこの心理メカニズムかなり難解だと感じます。何が難解かと言うと、自分を悪く言われて感じる不快という、実に日常的にも理解できる人間心理としてその基本的構図は全く同じながら、それが親や祖父母殺しという極端な行動に駆り立てるほどの強度を獲得するメカニズムを、今まで、何かまだ未解明の事柄が残されているとい感を感じずに理解できたことは、僕自身どうもなかったような気がします。

それが「人間の価値」そして「原罪」という概念を鍵にして、ようやく見えてきた感があります。

それを頭の中で整理するのにちょー時間食ったということで、いったんカキコ。


心理学本下巻に向けての考察-76:「人間の価値」と「原罪」-1 / しまの
No.1327 2007/10/16(Tue) 12:22:12

先のカキコで、の攻撃性」について対策考慮点を、と前触れておきましたが、これについて考えていたところ、「人間の価値の審判」という根源問題とつながりが見え、「根源の根源」への答えがかなり見えてきた感がありますので、副題もその話と明記して書いておこうと思います。

題して「人間の価値」と「原罪」。どうやらこれが「心を病むメカニズム」の根源のさらに根源になりそうです。

この話は、10/12「否定価値放棄への道-15」で、「人間の価値」という根源パラドックスについて、「人間が人間の価値を問い始めた時愛が破壊された」という根源パラドックスについて触れ、この根源の根源についてはあとで考察したいと言った話です。


■特効薬のない「負の攻撃性」

まず「負の攻撃性」について改めて定義を書けば、「他人に攻撃されるという前提イメージを持つことにおいて自らの攻撃性を発揮する心理」と言えます。
その際に伴うこととして実に特徴的なことを言っておけば、そうして自分を攻撃する他人に「悪意がある」と知覚されること、そしてそれへの自分の反撃が「実に正しい」という感覚が伴うことです。

この「負の攻撃性」は、本人がまったく自覚しないまま一直線に「病んだ心」へと向かわせる、最大のメカニズムだと言えます。
本人はそれが「病んだ心」への歩みだと自覚するどころか、そうするのがあまりにも正しいという確信の中で自動的に他人との敵対バトルの世界に向かい、神経を使い果たし、大抵はまるで世界全体を敵に回したかのような敗北の感情という事態へと陥り、精根が尽き果て、同時に、心の一方で抱く他人への愛情要求が完全に遮断された絶望感に陥るという、このメカニズムにとっては何か必然とも言える歯車の回転が全て回り終わった後で、初めて自分の心が病んでしまったことを自覚するわけです。
そしてしばしば今後は、そうして自分の心が病んでしまったのはその他人のせいだと、また「最後の反撃バトル」に入ります。そして似たような歯車がまわり、事態はもう一段さらに悪化した結果に落ち着きます。はっきり言ってこのメカニズムに完全に支配された時、「廃人」とも言える状態まで行ってようやく止まるわけです。

このようにとんでもないメカニズムでありながら、その深刻性を人が自覚しないのは、何か奇妙な感覚も僕としては感じさえします。
なんのことはない、それが実に深刻に心を病むメカニズムでありながら、これは人間のごく日常思考にまで侵入している根源的なメカニズムであり、あまりにもこの心理現象が人間の日常に溢れているので、それが特別な事態だという感覚が薄れている。それだけのことです。
一方で、これが「病んだ心」に実にポピュラーな心理現象であることを、人々は同時に本能的に感じ取っています。
かくして「被害妄想」というのがかなり日常用語的に理解されるわけです。

ですから、「恐怖の克服」こそが治癒成長への基本的な駆動力だという話をしていますが、「負の攻撃性」こそが心を病む基本的な駆動力だと言えるでしょう。


■「負の攻撃性」から「否定価値の放棄」まで

それほど強力なメカニズムなので、「対策の考慮点」という話になったわけですが、まずは特効薬はないというのが最初に浮かんだことです。

考えられることとしては、「他人から攻撃される」という感覚の中で感情が揺れる時、いかにそれを他人の攻撃性の問題ではなく、自分の攻撃性の問題として意識して取り組めるかになってくる、ということです。

それを自分の攻撃性の問題として認識できるためには、まずそれなりの人間観が求められますね。先に紹介した返答メールでも書いたように、「いじめるのが普通」ではアウト^^; もちろん「いじめるのが普通」的な場もあるでしょう。しかしそれは「そこそこ健康」という意での「普通」ではもはやなく、単に大多数の意、つまりその場は心を病んだ人の集まっている場だということになります。
課題はまずは「どう反撃するか」ではなく「どう抜け出すか」を考えるのが得策でしょう。それもできないなら、戦うしかないとは思いますが。

そうして、まず「攻撃性」というものを、他人のものであれ自分のものであれ、「病んだ心」の問題として認識できるか。
そう認識できたら、それへの取り組みは、ハイブリッドの全てになります。感情と行動の分離に始まり、建設的思考法行動法、そして感情分析行動学について言えば、どんな「攻撃」も100パーセントの悪意などというものはまずないので、その中の一片の「現実において生み出す」要素に着目して、相手の悪意さえも善意に変えてしまうような行動学というのがあるものです。

そこまではまず外面に対する「恐怖の克服」になるでしょう。外面において、他人との間に起きる攻撃のやり取りをまずゼロにする
この「ゼロ」は文字通りの「ゼロ」にするのが極めて望ましい。零コンマ幾つというレベルでも、他人との関係を「攻撃のやり取り」として処理するようでは、基本的に「健康な心の世界」に向くのは難しいです。それを残したまま「否定価値の放棄」のような本格的内面変革ができるというのは、僕は知りません。

そうやって、他人との間での攻撃やり取りをゼロにすることで、「攻撃応報のイメージ」がただ心の中のイメージとして、明瞭に「建設的な外面」と分離されます。
そうなって初めて、「否定価値放棄への道」で説明したように、自分を脅かすものの正体が「人間の価値への審判」という命題であり、それを抱いていた自分の思考の中にある過ちを自覚する「不完全性の受容」へと進むことができるのだ、ということです。



■「人間の価値」命題と「魂の自立成長」

より実践的な意識手順を書きましょう。

「攻撃のやり取り」を、まず外面においてゼロにする。それを「イメージの世界」だけに分離する。
そして自分が自分の何を攻撃されると感じているのかを感情分析する。それを自分では本当はどう感じているのかを感情分析する。
それは間違いなく、誰よりも自分自身が、「人間の価値」として自分および他人に問うているものであることが、次第に分かってくるでしょう。

先の「否定価値放棄への道」の考察で分かったことは、ここでいったん話が途切れるということです。自分が「人間の価値」を掲げることにおいて、同時に自分を苦しめていることが分かるまでが、それです。
だが僕自身の例が示した通り、そこから逃れようとして思考を転がしても、それはすぐ解けるほど生易しいものではない。

もしそこに不合理なパラドックスがあり、実際に自分がそれを自分に問う必要がもはやないほどに、現実において自分がその「価値」を身につけているのであれば、そのパラドックスが消えて感情が楽になるかも知れません。でも何の「現実における向上」への努力をしないまま自己嫌悪感情から逃れようとするだけでは、どんな思考をころがしても「絶対に」自分へのごまかしにしかならないでしょう。

全てを尽くして「現実において生み出す」努力をすること。それによって「生きる」とはどうゆうことかという、身をもっての体得、「魂」がそれを感じ取る体得というものが、「人間の価値」という命題がいったん途切れた先に介在しなければならない。そんな印象を感じます。

その上で、「人間の価値」を問う審判が、神になろうとする過ちであるという自覚が可能になる。
これは「心」が「魂」を守る強さを獲得した上で、「心」の導きによる、「魂」の自覚であるように感じる次第です。
そうして「不完全性の受容」は、「魂の成長」の一つの節目として起き、「魂」が「現実世界」へと開放されるのだと。

やはり論理としてどうしてもつながりのない切れ目が介在します。
しかしこの「つながりのない切れ目」は、実に「命の本性」として、我々が本能的に分かることなのです。それが「人間の価値」という命題にどう合流するかの話なのです。
それは「守られる」側から「守る」側へということであり、「愛される」側から「愛する」側へということ、つまり基本的に「与えられる」側から「与える」側へという、「命の本性」にとって根本的な推移変化です。
「自立」の命題ですね。

まあこの「命の本性」レベルでの「自立」は、もう現代社会では感覚が麻痺させられる状況が多々あると感じますね。いかに内面でそれを考えるかになるでしょう。サバイバル世界観人の目掌握思考など。

いずれにせよ、「神になろうとする誤り」を問える条件がある、ということになります。その条件がなければ、神になろうとする自分の誤りを問うことができない。
それは「自立」を成そうとしている時です。自分が「与えられる」側から「与える」側として、なにものかに成ろうとしている時「自分が神になろうとしている」過ちを知ることができる、ということになります。

「守られるもの」でい続けるならば、この問いは問えない、ということになりますね。
そして「人間の価値」という命題に、苦しみ続けることになる。



というのが、「負の攻撃性」というテーマから、今までの話を再度つなげてみた話になります。
ここにまだ僕の頭の中でもつながっていない、一群の命題が浮かび上がって来ているところです。

それが「原罪」です。これは「否定価値の放棄」とはまた別側面のように現れている「浄化」の基本メカニズムの話です。
そしてこれは「アク毒の放出」として、「否定価値の放棄」以前にも観察されます。

そこにやはり「人間の価値」命題が関ってくる。「負の攻撃性」から、これがつながってきます。
その流れを次に説明します。最後に何がどうつながるのか期待ですね。


心理学本下巻に向けての考察-75:実践上の重要ポイント残り-3 / しまの
No.1326 2007/10/15(Mon) 14:15:41

■闇の海に身を投げ出す先 「健康な心の世界」

理屈の方は色々あるのですが、実際の進む先は、「魂の感性に碇をおろして、人の目感性が破滅する闇に身を投げる」という感じになってきます。
それが根本的治癒成長の変化への道です。

もうひとつ加えたいのが、そこで「身を投げる先」として、「健康な心の世界」へとしっかりと向きたいということです。
つまり、「魂の感性に碇をおろして、健康な心の世界に向かって、人の目感性が破滅する闇に身を投げる」ということになりますね。
「健康な心の世界」の考え方については説明をしました。「人の目」をベースにした「人の目感情」を向け合うことのない世界

逆に言うと、「人の目感情」を向け合うことの中に何かの魅力を感じている時、それは「病んだ心の世界」の方に向くことです。
そうした中に「」や「自尊心」があると考えている場合、ハイブリッドが考える方向には行けません。

社会で生きるノウハウの観点からは、「人の目感情」の向け合いの中で「愛」「自尊心」に躍起になっている姿は、「健康な心の人」からはやはり「自分を見失った人」として分かります。ですから結局、人からの信頼を得ることができず、「愛」と「自尊心」の両方を失っていくことになってしまいます。
だから、そうしたのとは別の世界に方向を定めて、人の目感性では思考が破滅してしまうような方向に身を投げ出すのが、進み得る先になるわけです。


■「不の攻撃性」問題

そうした方向に進むのを妨げる、最大の心理について説明します。それが返答メールの続きです。
これを「不の攻撃性」と呼んでいます。

心を病むメカニズムの結果、「人間の価値の審判」として「存在への怒り」を抱く攻撃性が必ず生まれるのですが、本人意識としてはこれを自分が持っていることをあまり自覚しないまま、主に他人からその攻撃が自分に向けられると感じる心理です。

これがどんな妨げになるか。
まず、「他人から向けられる攻撃」が恐怖になります。そしてその恐怖に足元をすくわれることで、思考と感情が全て人の目感性に逆戻りします。そして攻撃への反撃として、非建設的感情を行動化します。
「恐怖の克服」「健康な心へ向く」「外面における建設性」という3つの基本への、トリプルパンチになるわけです。


先に紹介の返答メールの残り部分で、その基本的な説明をしています。
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(続き)

■最大の妨げ問題「負の攻撃性」

まず解きたい「不合理な脅威」は、「負の攻撃性」とも言うべきものです。Aさんの場合これがかなり発達しており、最大の妨げ問題と言えます。

これは上巻原稿では「情動の荒廃化の反転」という言葉で説明しましたが、取り組み実践の上で自分が自覚するためには、「負の攻撃性」といった方が分かりやすいと思います。

つまり、攻撃性が発達しているという問題です。
それが、本人は自分が攻撃性の持ち主だとはあまり感じないまま、「人に攻撃される」と感じることを通して、攻撃性を発揮する、という心理です。

Aさんの場合、これがかなり強い。まずこのことをどう自覚できるかを確認して頂くのを、今回の主な実践にしましょうか。

「負の攻撃性」の場合、自分が攻撃を仕掛けるのではなく、まず攻撃を仕掛けられるという「意識前提」を持つような感じになります。
それへの反撃という大義名分を持って、大いに攻撃性を発揮します。
確かAさんが最初に送ってくれた記録でしたか、「悪者探しがこんなに楽しいとは」とかいう言葉があったような..。


■「荒廃した世代」を超えるための目を

ただ僕としても、それがAさんの内面だけの問題ではないことを、認識しています。
Aさんの世代の問題とも言えるでしょう。

病んでいると思います。とても病んでいます。
まずAさんがそれを見る目を持つかどうかが、この先の分かれ目かも知れません。自分がその一員として生まれた世代の狭い目にとどまるか、それとももっとずっと広い、「人間」というものの真実を見る目を持とうとするか。

これも率直に伝えておきます。昨日のメールを読んでの感想です。「愛されても安全ではない」自覚など、全体としては引き続き前に進んでいるので問題はありませんが、それでもAさんが何気なく書いていることを読んで、僕は驚愕していました。

>こんな記憶が出てきました。中学時代に復学したとき、普通ならイジメられるところを、楽器演奏ができたため、音楽バンドに入りました。楽器演奏できて凄いとなり、安全に過ごせました。

この「普通ならイジメられる」ですね。
とても病んでいると思います。僕の感覚では、「普通」なら、「暖かく迎えられる」です。少なくとも、僕の少年時代ではそうだった。
ただまあ実はそれは僕の世代全体の話ではなく、結構特別にすこやか健全な学校だったようで、本に書いた初恋少女も、結構上流家庭のその親がそれを見て通わせた事情があったという余談がありますが。

多少のイジメはありましたが、明らかにイジメられる側に特殊性があり、イジメもあまり陰湿ではなかったですね。そして最近報道などから良く見られるように、「誰もが被害者にも加害者にも」というのはまず考えられない、つまり優しく仲良いのが基本でした。

今の中高生達は、そうではない時代を生きているようですね。
「ライフ」という壮絶イジメドラマがありましたが、たまたま流れているのを目にして以来時折見ましたが、僕はそれをジョークのように感じ、「あり得ねー」とか笑いながら見たりもしましたが、案外それがマジな現実の面もあるような雰囲気もあり、ちょっと暗澹たる感もという感じですね。

まあ話が時事的になりましたが、そうした世代に生きた人間自身が、それをどう見る目を持つかが問われると思いますね。

イジメを悪として糾弾する「正義」という目を持とうとするか。
それとも、それを「心の病」として見て、別の世界を見る目を持とうとするか。
前者を取った時、人は糾弾する相手と同じ姿に、やがてなって行きます。絶対に許せないとした、まさに同じことを、自分自身が行う側に回ります。

それが「負の攻撃性」ですね。
「負の攻撃性」は、他人の攻撃性への反撃として生まれるのではありません。もとから攻撃性を育てた心が、他人の攻撃性を、自らの攻撃性を開放するための引き金に使うという形になります。
これは「実際にイジめられた側」の人々でさえも、そうです。

最初の攻撃性はどこに生まれたのか。それが「生から受けた拒絶」です。この世に生まれて大きな愛に守られるべきであった自分が、そうではなかったという怒りです。
それに向き合うことから目をそらせた結果が、イジメの世界になるわけです。


まあまずは考えてみて下さい。
Aさんの世代がその中で過ごしたらしい「攻撃性」を、「普通」と考えるか、それそも「病」と考えるか。
「普通」ではないとしても、「世代」ではあったのか。それとも実はAさんの心だけに攻撃性があったのか。

「4)進む動機への向き方」はその後の話になりますね。
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対策考慮点を次のカキコで手短に書きましょう。


心理学本下巻に向けての考察-74:実践上の重要ポイント残り-2 / しまの
No.1325 2007/10/15(Mon) 12:21:43

■「人生を危うくしている恐怖への突入」を主課題とした返答メール

魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いを足場にして先に進むための一つの要が、「魂感性に碇をおろした上で、人の目感性が破滅する闇の海に身を投げ出す」ことになる。

そうした文脈での返答メ−ルを紹介します。
ここでは「恐怖への突入」を主に説明している部分。
ただし、そもそも「恐怖」の原因について、重要なものが解くべき課題としてあるという話が続きます。

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Aさん、こんにちは。

1)進む方向の基本
2)それを妨げているもの
3)妨げているものへの取り組み
4)進む動機への向き方


という形で説明しようと思います。

まずは「妨げているもの」への取り組みですね。それが必要になります。
そしたら次は、「動機」が必要になります。なぜこんな辛いことをしなければならないのか、というのがやはり一歩を踏み出す直前に出てくると思います。

やや長めになりますが、ざっと説明しましょう。


■基本方向は「内面の破滅の向こうにある未知」

9/23
>長年親しんできた方法論へのしがみつきなのか、人の目土台や心性がそう思われているのか。受験も就職も、人の目土台ではなく、現実に基づいた思考でクリアしたのか。なにが現実で、なにが空想なのか。
>恐怖の克服とともに、理想へのしがみつきの解除も課題です。
>このように言葉にすると、センチメンタルな感じですね。(別れる女に未練タラタラ)このしがみつきも心性崩壊と膿の放出で看取るのかな。未知です。


何となく向かう方向はおぼろげに分かってきている感じだと思います。ところが、どこに踏み出して良いのか分からない。踏み出したとたん、そこに足場はなく奈落に落ちてしまうのでは、というような。

まあ、こうゆう状況になると思います。
「人の目感性の上で、人の目感性ではない自分を理想像として掲げ、どうすれば人の目感性の自分が人の目感性でなくなることができるかと思い悩んでいる」

つまり、どうしようもない矛盾の中にあるわけです。
ずばり、答えはこうなります。

「魂感性土台を支えにして、人の目感性である自分のありのままの姿を晒し、人の目感性の心の内面のみにおける破滅を迎える。その向こうに魂感性土台の未知が増大する」

具体的には、先日9/20の『人の目土台のビクビク感情 行動療法結果の分析エクササイズ』での、

>電車の中で考えたことは、まず知り合いに出会わないかの心配です。出会ったら、どんな会話をしよう。変な印象は与えたくない。どんな会話がいいのか。
>どうやって対応するのか。失敗して後悔はしたくないから、事前の想定問答は必要かもしれない。想定外の会話がきたら、戸惑う自分は情けない。相手も唖然とするかもしれない。恥だ。


の通り、まともな会話できなくなって、変な印象を与えるんです。戸惑って、唖然とされ、恥をかくんです。
それが答えです。


まあもちろんそうすれば良くなるという、「街頭で歌歌うのが対人恐怖克服訓練」(^^;)式の行動療法の話ではなく、「自己の現実」を受け入れると同時に、「空想の中の人の目のイメージの重み」の不合理性を身をもって知っていくという、内面における転換がその本質です。

まあまだそれは「恐すぎる」かも知れませんね。ハハ..
「妨げ」があるからです。で、まずそれに取り組みます。


■脅かすものは外部ではなく内部にある

最大の妨げは何なのかを説明するために、上記9/20メールを読んでの率直な印象をお伝えしましょう。
Aさんの場合ショック療法が結構役立っているようなので(^^;)、こんな話は他の人にはまず出さないことですが。

上記に続いての、

>また、あのような事態になるのか。なんとかしなければ。でも、何の対策も浮かばない。俺はダメなんだ。チクショー。最低だ。生きる資格がないんだ。邪魔な存在だ。
>他人に重心が置かれて、スマートにできない自分はみんなのお荷物。なんかとか、回避したいが、案が浮かばない自分に怒りを覚えてくる。大きな失敗をする前に、すべてをやめてしまえば、迷惑がかからないし、恥もかかない。


といったのを読んでの率直な感想ですが、「こりゃ駄目だ」という感じでしたね。ハハ..^^;
まあまずこの状況ではどこに行ってもやって行けない。前回復職しようかとして恐怖に躓いた時は「会社辞める」なんて発想も出たようですが、「楽な」ところを探したところで、何も変わりはないでしょう。相手となる会社がどんなかが問題ではないわけです。

なぜなら何よりも、Aさんを脅かしているものは、Aさん自身の中にあるからです。それが外部にあるかのように感じてどこに行こうと、それは変わることなく一緒についてきます。
そのことがそろそろ実感できる頃ではないかと思いますが、いかがでしょう。

まず、「自分自身の内部にある脅かし」の正体を知り、その克服解消について理解することが重要です。

「脅かし」は主に2つあると思います。
一つは、その脅威がどうしようもないもの。そのまま向かうしかないもの
もう一つは、その脅威が不合理なもの。そのまま向かうより、まずその不合理性を解きたいもの


■最終的な根核は「論理性を失った根源的自己否定感情」

まず「脅威がどうしようもないもの」の方から先に説明します。

基本的な「恐怖」とその解消のメカニズムをまず理解して頂くのがいいと思います。これは上述で「心の内面のみにおける破滅を迎える」のが答えだと言った話のメカニズムでもあります。

これも同じく9/20メールですが、

>魂感性土台から見ると、実に滑稽だ。他人は何もしていないのに、1人で勝手に破滅している。私は電車の中で通勤練習。他人は私のことは気にしていない。単なる乗客。
>重心を他人に置いたことで、より破滅度を増しているのではないか。自分に重心を置けば、感性は安定になるのはないか。誰かに重心を置いたり、何かに依存すると、脳(感性)は本人に治す意志がないと感じてよりひどく暴れるのではないか。
>そう思いながらも、何もできずにひとり相撲をしている私に嫌気が差している状態です。


という風に、Aさんとしては「破滅の恐怖」の正体を分析し、その不合理性を発見することで、破滅感から何とか開放されようとしていると思います。

それはこの後に説明する「不合理な脅威」については多少有効ですが、最終的には、それがもう効かないものが残ります。

それが全ての恐怖の根核にある、「根源的自己否定感情」ですね。「生から受けた拒絶」への恐怖です。
自己操縦心性は、それを自分が体験する事態を、何よりも恐れています。そして、それを体験することを何とか否定し誤魔化そうとするわけです。
自分が恐れているのは、「生から受けた拒絶」という根源的なものではなく、もっと具体的な、他人との関係や何かなのだと。


本当に恐れているものから目をそらすために、別のものを恐れていると思い込もうとする。そうゆうメカニズムになっています。


■根源的自己否定感情は「突入する」ことだけに解消方向性がある

「別のものを恐れている」ということになってくるのが、「人の目」ですね。
一方「人の目」が恐くなるのには上述のもう一つの「不合理な脅威」もあり、それを解くのが先にはなります。その話はすぐ下で。

「不合理な脅威」は解くとして、「根源的自己否定感情」は、解けないまま残ります。それはまあ「自分が怯えることに怯える」というような形になり、では大元で何に怯えているのかと問いても、もうそれは「論理」では捉えられないものになります。

それ以上「どんな論理か」と把握しようとしても、無駄というか、論理があるものとして把握しようとすること自体が、誤りになってきます。
「人に気にされると感じているから」でもないし、「重心を他人に置いた」からでもないし、「ひとり相撲」だからと考えてなくなるべきものだと考えたところで、どうにもならないものがある。
まずこれを認識しておいて頂ければ。

それについては、そのまま「突入する」ことだけが答えになります。

逆に言えば、逃げていることが恐怖を生み出す。それが次に説明する「不合理な脅威」とも相まって、「人の目」への恐怖をとんでもない程のものにしている、というメカニズムがあります。

これは「恐怖」の根源的な発生メカニズムの話でもあります。
「恐怖」はまず、何かの事柄についての「不安」から始まります。安全でないことを感じ取ることですね。それに対して、解決方法を携えて向かうことで、我々は恐怖に怯えるのではない形で、それを解消へと向かわせます。

それをやめ、逃げ始めた時、「不安」は「恐怖」に変わります。

だから、最後は「突入する」しかない。
ただしその前に、解いておくべきものがあります。これが結構深刻ですね。まあ問題のオンパレードという感じではありますが^^;

(続く)
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心理学本下巻に向けての考察-73:実践上の重要ポイント残り-1 / しまの
No.1324 2007/10/15(Mon) 11:55:02

さて、全体の流れのさらに分かりやすい整理は下巻原稿の方に譲り、幾つか最近の返答メールなど紹介して、実践上で押さえておきたい重要ポイントの説明などして、この下巻原稿向け考察を締めたいと思います。

多くの方にとってやはり重要なのは、「魂感性土台」と「人の目感性土台」を実際の体験を通して分かるようになってから、その違い感覚をどう足場として先に進むかになってくると思います。
これから紹介する返答メールはどれも、その観点で比較的大きな視野をまとめたものであり、多くの方に参考になると思います。

その紹介と同時に、ここまでで説明がちょっと不足しているような、重要ポイントについて説明を加えたいと思います。


■「人生を危うくしている恐怖」への突入

まず紹介しますのは、就職結婚など、「人生の全体」にも関るようなイベントを前にしての、「恐怖の克服」というテーマのものと言えます。
「結局前進を駆動するのは恐怖の克服だ」というのが、これまでの全体を最も大きく俯瞰して言えるような話でもあるわけです。「愛」「自尊心」は、その駆動の結果としてどこに向かうかという、ハンドルさばきとなる。

「恐怖の克服」は、人の目感性土台に立って考えるか、魂感性土台に立って考えるかで、かなり話が違ってきてしまいます。まずこれを概観しましょう。

人の目感性土台で「恐怖の克服」を考えると、いかにして人からの「白い目」を避け「暖かい目」を向けてもらえるかの画策をすることが、「恐怖の克服」であるかのような感覚になってしまいます。そのために自分はどんな人間のように振舞い、どう見られる必要があるかと、すっかり「外から見た姿」だけが意識をおおい、「感情」はそれを基準に強制すべきものとなり、それによって失った内面への不安定感が、さらに「外から見た良い姿」になることを妨げ、緊迫の度合いが増します。

これはまあ、人の目感性土台にとって人から「白い目」を向けられることが恐怖であるからです。これはもうどうあがいあても、そうなっています。
一方目感性土台は、「白い目を向けられる恐怖」を認めまいと躍起になります。人に恐怖している自分の姿は、どう見ても人から暖かい目を向けられるために演じるべき自分とは逆だからです。
かくして、自らの恐怖を否定するための自己暗示などの感情強制や「気にしない」といった自己切り離しなど各種の自己操縦が行われます。これは心理障害の重篤化の方向性になります。

魂感性土台は、むしろそのような「恐怖」をありのままに流し、精神的破滅をしたかと思えるような谷間を越えた後に、「人の目」イメージが消えた開放感が生まれるような形で体験されることを、思い出して頂くのが良いと思います。
実際そうした「開放感」の中で、自分が「未知」の状態へと成長しているのを知ります。

ハイブリッドでは、その「未知」における「豊かさの増大」を、治癒成長への基本的方向性と考えています。

従って、魂感性土台で「恐怖の克服」を考えるとは、そうした「人の目」イメージが消えた状態で、自分の人生の豊かさをどう捉えるかによって、かなり話が違ってきます。

人の目感性土台で今までやってきた人生が結果的にはそれなりに豊かだと感じるのであれば、まあ取り立てて「恐怖の克服」を至急課題とする必要はないでしょう。思考法行動法の改善なり感情分析なり、今の生活の中で取り組めばよろしい。まあこれは最初から比較的問題が軽いケースの話になるかも知れません。

そうではなく、魂感性土台に立って自分の今現在の人生に不足を感じるものがあるのであれば、「人の目」「人の感情」の中で生きようとした今までの生き方そのものが、自分の人生を危うくしているものであることを感じ取ることができるのではないかと思います。
就職結婚など具体的人生イベンにト向かう状況に実際置かれていなくても、「人生の全体」というより大きな枠で自分を見ることが大切です。それになにかジリ貧のような不足感があるのであれば、「人の目」「人の感情」に右往左往した自分の生き方こそが、自分の人生を危うくしていると考えるのが良いのではないかと考える次第です。

もしそう感じ取れるのであれば、向かうべき方向性は、実践意識上でもこう表現できます。
「魂感性に碇をおろした上で、人の目感性が破滅する闇の海に身を投げ出す」のだと。

「恐怖の克服」の最も本格的な枠組みは、それになります。
まず最初に紹介する返答メールは、そうした文脈にあるものです。前説だけでちょっと長くなったので、いったんカキコしてから。


心理学本下巻に向けての考察-72:唯一無二の人生へ-3 / しまの
No.1323 2007/10/15(Mon) 00:29:58

■「唯一無二の人生」への踏み出し「現実への立脚」

さてこのカキコでの日記紹介を、いよいよこの考察シリーズでの最後のものにしたいと思います。
僕の中で、いよいよ「唯一無二の人生へ」という感覚が大きく芽生えるものです。

結構印象的な文章が書かれていますね。特に2つ目など。
まずは見て頂き、そこに起きている変化の本質意味を考えましょう。

先の日記から数日後と、「ありのままの自分」という感覚から連続しているものです。

1998.5.26 (火)
 久しぶりに
嶺村さんの夢を見た。いくつかの写真の中の彼女が、いかに自分の中の彼女のイメージに合っているかを確認しているような感じだった。あるものは似つかなくて、きれいではなく、変な感じがした。別のものはまさに自分の中にある彼女のイメージで、僕が今だに探し求めているものだった。

1998.6.7 (日)
 自分と回りの人々をつないでいた糸が、プチップチッと音を立てて切れていく。そんな感覚だった。
 
自分は寂しいんです。では寂しさをなくすように人々に積極的に接していけばいいのではないのですか? 自分にはそれは楽しいことではなく、そうすることもできないのです。僕は自分の中でカウンセラーと自分との対話を想像してみて、次にカウンセラーが言える言葉を探した。
 一人では寂しい。でも寂しさをまぎらすよう人々に接していくこともできない。
ではいずれにしても救いがない訳ですね。ではもう孤独を受け入れるか、まぎらすかの“けじめ”をつけるしかないのではないですか。
 悲しみの気分は残っていたが、ずっと嘆いているのではなく、嘆く自分と戦おうという気力のようなものが生まれていた。自分が今のような“レベル”の生活をしていることを受け入れ、そのようなレベルではなしに“人々と接しながら生活している人々”といたずらに自分を比較しないで、自分なりの生活を続けていくこと。


1998.6.12 (金)
 新しい仕事の始まりや技術フォーラムでの発表など、
人相手の作業が増えているせいか、神経が少し高ぶっている。きのうは3時前に一度起きてしまった。
 おとといは後輩Tくんが出稼ぎ仕事をした他部の秘書さん達とこっちの独身連中をセッティングしたコンパに出た。とりあえずokだったというところ。まあ初対面かつ今後も会わないかも知れない相手ということで、気楽だったと言える。そんな場では、僕はとりあえずは相手の方を向いていられる。
 それに比べると、同僚内にあっては、僕は
会話などはしないという姿勢が、既得の事柄のような場ができてしまっていると思えた。

 だがきのう会社にいて、
会話がないと言っても実際のところそれが不要だと感じる部分も自覚した。仕事が忙しいときは時間が無駄にもなる。
 そこには、
一種の開放感もしくは自信のようなものがあった。

「現実との和解」をした「ありのままの自分」とは、やはり来歴の不遇を引きづった、何らかの困窮を含むものでしかない..。
「現実」にはあまり変わりはありません。しかし「魂」の「命」が開放され始めた時、変わらなかった「現実」に対する、内面の「未知」なる変化が生まれ始めます。

それはまずは、「空想」の中で静止画のように描いた「理想像」が意味を失ってくるという変化として、意識の表面では体験されているのが上記の日記になります。

なぜ「静止画の理想像」が意味を失ってくるのか。
単純です。「現実」はそれとは違うからです。
「静止画の理想像」には、まるで中世の聖母のように微笑む姿や、群集を前にした栄光にある英雄の姿が描かれているかも知れません。しかし「現実」は、あくまで今目の前にある風景でしかないのです。そしてその中にぽつんと一人でいる自分でしかないのです。

それが今まではどのような「幻滅」の体験になったかは知れません。しかし、「現実との和解」を経て開放された「魂」は、ただありのままのその「現実」を向かう先として、「命」のエネルギーを湧き出させ始めるわけです。


■「ハンディからの前進」という人生へ

..と話が抽象的で中身がなくなっている感もあるのはビール飲んだ後のせいかも知れませんが(^^;)、とにかく今回紹介しようと思った日記部分の最後

「中身がなくなっている感」というのも、実際ここからは「魂の感情」が全てを導く歩みになるわけです。
今年になって展開した魂のメカニズム論は、ここから先のことをかなり詳しく論じたものです。多分読者の方にはそれをここからのつながりとして浮かべることはよーできんと思いますが、それを含めた流れの分かりやすい説明は下巻原稿に移って行いたいと思います。

今ここで言いたいのは、「現実との和解」を成し、困窮を抱えたままの現実を歩み始めるわけですが、それは「ハンディからの前進」になるということです。

1998.10.12 (月)
 午前のうちはまだ先週の仕事の感覚が残っていて、
それなりに外向的な感覚が保っていられた。しかし午後から再び、「休み明けの悲しみ」があるのを自覚する。
 そこには漠然とした、
自分の性格に対する低い自己評価の感覚があった。自分の基本的な人に対する感情の流れや、人との対応での親しみやすさ前向きさ..等々。そのような具体的なテーマもあるが、それ以前に、自分が今まで自分自身を慰めながら一人で生きてきたような生き方しかできなかった人間だという感覚があった。そして今でも、自分自身のことを人前に出せる人間ではないという感覚がある。

1998.10.13 (火)
 きのう僕が最終的に落ち着いていった感情は、自分は精神的な障害者または不具者なのだ、という感情だった。人と親しくなることのできない、馴染むことのできないという障害を持った人間。そう考えれば、人と親しくなれるという点での自分の成長を期待し、毎週休日明けに、期待通りになっていない自分を自覚して苦い思いをする必要もない。そんな安心感のようなものもそこにはあった。

1998.10.14 (水)
 
嶺村さんの夢。何かの集まりで、彼女も来ていた。彼女は他の人たちに笑顔を見せていて、僕も彼女に笑顔を見せて、彼女からの笑顔を期待すると、彼女はそれにちょっと嫌悪感を感じたようで、それをにじませた真顔に戻ってしまった。そんな夢だった。

 悲しみも気後れもない状態になるのを期待するのではなく、それがあるものとして考えてしまった方が良いのではないか、と思えるようになってきている。

「根本変化」への歩みは、ここから始まります。
これは、今年になって展開した魂論「魂の治癒成長への実践」で言った、「メルト人格状態」に、この段階でなったということになります。
そして2007/04/11「魂の治癒成長への実践-28」で言った、
============================
最終的な解決としての根本変化は、「メルト人格状態」になることで、あとは自然に「生きる体験」の中で起きる形になります。
============================

として説明した一連の過程が続く。それを改めて整理するのは、下巻原稿の方で。


■「障害」をハンディとして受け入れた時「障害」が終わる

とりあえず僕自身の材料出しが、説明がかなり未了のまま(^^;)ほぼ完結したので、あとはとにかく出せる材料を適宜出すようにしときます。

今回は「否定価値の放棄」という最大中間道標への心理過程を詳しく見たわけですが、上記日記の「自分は障害を持った人間」という自覚が、この大転換過程の締めくくりとなり、この後に「魂の望みへの歩み」が続く形になります。

ただこの「自分は障害を持つ者」という自覚は、同じ言葉がこの大転換の前と後とで180度違う意味を持つように感じます。
一言でいえば、かつてそれは自らが前に進むのを叩き潰すという心の動きとして使われ、今は、自分がそこから前に進むものとして使われていることです。

そして今の僕の実感から言えば、現実が不完全なものであることにおいて、何らかの障害を持つのが実は「普通」なのだというのが実感です。それが「人の目」イメージの世界で、互いの不完全さを見逃すまいと攻撃し合うような人間像とはもう全く異なる、全ての人が何かの障害から前に進んでいるという人間観を僕に与え、それが世界の全ての人への穏やかな愛情感を生み出しているのを感じる次第です。

実際、上記93年10月13日、僕が「自分が障害を持つ人間なのだ」という深い自覚を成した時、僕はもう心理障害にある者ではなくなったのだ、という実感ですね。


心理学本下巻に向けての考察-71:唯一無二の人生へ-2 / しまの
No.1322 2007/10/14(Sun) 12:37:24

■「否定価値の放棄」までのサマリー

話が進展した時によくやってますが、今までの話のサマリーから。

「生からの拒絶」に出会い挫折した「魂」と、そんなものなどなかったという別の顔を演じることの中に、自分を排斥した世界への復讐的な自尊心を得ようとした「心」

そうして始まった「心を病む過程」治癒と成長への転機を迎えるのは、自らが向かったその「人の目」「人の感情」を対峙世界とした自らの生き方こそが、自分を今現実において危機に陥れようとしている最大の脅威なのだという自覚をする、今までよりも一段階高次元の思考の獲得によるものであると思われます。
ハイブリッドとしては、この「高次元の思考」を、道徳でもなく宗教でもなく、科学もしくは医学の姿勢が生み出すものと考えています。

そしてその科学や医学の姿勢において、自らの心のありのままの姿を知り、制御不可能な「人の目」「人の感情」を自分の生きる舞台と考えるのではない、「人の目」が単なる一つの駒としてその中にある広大なこの現実世界を相手に、自らの人生へのコントロールの獲得を成そうとする「恐怖の克服」の過程を通して、次の大きな転機が訪れます。

それは「恐怖の克服」を通して「魂」が「心」に守られるようになり、「魂」において回復した成長が一定度に達することにより、それまでの「病んだ心」が自らの生きる糧であるかのようにした「人間の価値の審判」という命題を突き破るように、「魂」のエネルギーが「現実世界」へと開放されるという転機です。
これが「現実との和解」とハイブリッドが呼ぶ転機です。これは「現実」というものの全てへの「愛」が芽生え始める転機でもあります。なぜなら「魂」が「愛」をつかさどるからです。

こうした転機を支え導くために、「知性思考」に大きな役割が求められることになります。
「正しければ世界が自分を幸せにしてくれる」「愛されれば安全」といった道徳的世界観ではなく、大自然と社会を支配する原理原則を見出そうとする科学的世界観へ。そもそも「善悪」とは何なのか、そして「現実」とは、「命」とは何かという、科学哲学の思考がかなり重要になってきます。「空想」と「現実」と「意識」の関係はどうなっているのか、など。

もちろんそこで重要なのは、学問的な洗練度ではなく、実際の日常生活においてどんな思考によって「恐怖の克服」が成されているかという、実に卑近な事柄の中にその重要性があると考えています。「幽霊」をどう考えるか。注射高所などへの恐怖をどう克服しているか。

そうして「心」が「魂」を守り得る「強さ」を獲得していくとともに、「絶対なるもの」という「価値の基準」命題「神になろうとする過ち」だという「不完全性の受容」思考に導かれ、「魂」と「心」の関係における大きな転機としての「否定価値の放棄」が成される。これが同時に「現実との和解」でもあるわけです。

これがハイブリッドの実践道のりひとまずの到達目標になると考えています。


■「人間の価値基準」から「現実を生きる中の望み」へ

そうした「否定価値の放棄」転換から先の心理変化過程を、またざっと確認していきます。
先のカキコでは、成長した「魂」によって「和解」が回復した「現実」とは、やはり来歴の不遇を引きづった、何らかの困窮に依然としてあるという話です。

これを、「否定価値の放棄」をして現実を愛せるようになった自分が人から「愛情の目」を向けられ、願っていた「なりたい自分」の世界が実現するのでは、という一時的躁気分もまあ間違いなく起きるのですが、それがまさに、この先の成長過程の話ではなく、今まで乗り越えた問題の残りがそこに表れていると考えるのが正解になります。それがまた崩壊することが、また前進になる。

では、そうした動揺が今後も繰り返される中にある、成長の本質として起きてくることは何か。

まずあるのは、「人間の価値」への「審判基準」としてあった「理想」が、「現実を生きる」ことの中における「望み」という、その本来の健全な姿へと性質を戻していくことのように思われます。

とにかくそれが表れている、その後の日記を紹介しましょう。
ポイントは、「理想」というものへの感覚の変化になると思います。それが「現実」というものを反映するようになってくる。これは「諦め」というニュアンスを持つ「現実への妥協」としてしばしば人の話に出される変化とは、ちょっと違います。
そもそも「現実」を無視した「理想」という特別品があったわけです。それが前提になると、「理想への信念」「現実への妥協」かという話が出てくる。
そのどっちでもないものが見えてくる、ということだと言えるでしょう。

1998.5.14 (木)
 ・・(略)・・
 部が同じYさん、Nさんと2件同時の結婚祝いの会の案内を見た時、僕は自分の
宴会恐怖症がまた現れるのを感じた。何も話せないのにそのような場に出なければならないことが、怖いと感じた。
 それと関連する話だが、きのう
同じ課のAさん(後輩女性で結構美人だが男のような明るさの性格)が、訪れた外人関係者への接待的飲み会を非常に嫌がっていた。「行っても石のように黙ってる!」とか言っていたが、宴会を嫌がる心理としては同じことなのだ。ただ彼女の場合は、苦手な英語を話さなければならないという問題があってのことなので、同じとも言えない。なぜ自分は話せないのか。
 そう考えて僕はまたループ状態になっているのを感じた。
恐らく、「なぜ自分は打ち解けて話せないのか」と考えているうちは、僕は話せるようにはならないだろう。自分が打ち解けて人と話せない、話さなければならない、と考えている限り、まさにその自己圧力が自分への脅威になるのであり、僕にとって恐らく一人でいる安堵感が重要なものであり続けるのだろう。

1998.5.18 (月)
 久しぶりに、かなりはっきりとした形で
“休み明けの悲しみ”を感じた。
 これが現れると、仕事の方での頭がうまく働かなくなる。声がかすれ気味で、何より、
この悲しみが存在するという状況が、全般的なブレーキになっているのだ。
 その感情の下にあるのは、人々の間にある時、
自分には楽しみの場がないという観念、そして悲しんでいる自分がいるという観念だ。そして誰もこんな自分の味方にはならない、という観念。

1998.5.19 (火)
 僕は
『赤と黒』のジュリアン・ソレルとか、『ラブ・シミュレーション』という短編ドラマで風間トオルが演じた主人公といった人物を思い出した。
 表面上は全く問題のない、それどころか優れた面ばかり持っているように見える彼らが、
内面は孤独で、人間世界への復讐という複雑でアンビバレントな心理を持ちながら、女性を自分のものにしていった。しかしそれに成功した時、彼らは自分の絶望感にのたうち回るという状況になったのだ。
 彼らのような人物が自然に生きて行けるようにならないかと考えた時、僕は最初、それが
気質のようなものとして、もう変えられないのかとも思った。というか、気質のように変えられないものという考えから、僕は彼らの話を思い出した。
 それでも色々考えているうちに、謙虚に自分を自覚して、そしてとにかく自分とは別の人間になろうとしないことだ、と思えた。

感情の基調としては、「怒りはなくなった。だが悲しみはあり続ける」という感じですね。

そしてこの日記で表れているのは、「理想」への「望み」がどう意識変化しているかよりも、その前に、「ありのままの自分として」という命題の前面化ですね。「人間の価値の審判基準」として「理想」があったのであれば、「ありのままの自分」という命題は薄れざるを得なかった。

「理想」に目をそむける必要はありません。でも同時に、「ありのままの自分として」というもう一つの大きな命題も、しっかりと正面から見つめる。
この2つの間を無理に埋めたり偽装したりする必要はありません。その別々の2つを、別々のこととして、同時に見続けるのです。

これもハイブリッド的ですね。2つを同時に見つづけた時に、その間に「未知」が現れるわけです。
どんな「未知」が現れるのかを、引き続き見ていきます。


心理学本下巻に向けての考察-70:唯一無二の人生へ-1 / しまの
No.1321 2007/10/13(Sat) 19:27:58

ということで、あとは「否定価値の放棄」から先の残りの心理過程について、重要なポイントを駆け足で実例を交え説明し、心理学本原稿のまとめに移ろうかと。


■「存在への怒り」から「望みに届かない悲しみ」へ

さて1997年12月16日に僕に起きた「否定価値の放棄」体験の直後、僕はそのあまりに開放感に溢れた心の状態に、ちょっとした躁気分になり、「もっと若い時にこうだったらどんな女の子とでも..それが悔し〜」なんて妄想思考さえ起きているのですが、そうはどっこい問屋が卸さないということで、「現実」というのものはそんなものではないということを、この後人生をかけて知っていくことになるわけです。あっはっは〜。

まそれはどーでもいいとして(^^;)、そうした直後の一時的浮かれ気分の中で、全ての心の問題が解決した積極的人間に自分がなるかのような錯覚が起きるのもまた必然的な感もあり、これはまだかなり残っている自己操縦心性が、開放された気分を逆手に取っての自己理想像焼き直しをしているわけです。

そうした「全て解決したかと思える自分」イメージは、すぐ幻滅に変わります。これはもう自己操縦心性の崩壊が成され始める最初の段階から、この後も含めての最後の最後まで、似たようなことの繰り返しになります。最後まで、「これでイメージを完全に脱した完成形の自分」になるなんてことはありません。
というかまさにそんなものを描くのが、自己操縦心性なんですね。

事実は、「イメージ」と「現実」の混合の中に最後まであります。「望み」とはもともと、「イメージ」と「現実」が未分化なものとして始まるのです。そして「望み」への歩みとして「現実」に向かう行動の中で、「イメージ」と「現実」は明瞭に分離していきます。その下で、「心と魂」に成長が起き、「未知」が生まれ、「望み」がさらに成熟変化し、そして再び変化した「望み」に向かうのです。
人生は最後までこの繰り返しです。

ということで、「否定価値の放棄」直後の躁気分が再び停滞感に向かったのが、先の17日日記からすぐ次のものです。それを紹介しておきましょう。

1997.12.19 (金)
 16日の変化以来、一種
新しい人生が開けたかのような軽さが生まれたのは事実だった。
 だが今は、会社から帰る頃、
気分が閉じていくような感情がまた現れた。そこには以前あった自棄的な自己嫌悪感のようなものはもうないけれど。
 システムで誤ったデータが作られたトラブル。復旧作業中にも一度壊れたデータを作ってしまったミス。それで金曜の仕事での習慣としている、スポーツジムに行けなくなってしまったこと。後輩のY君が来ていて、彼と違い同僚との接触を持たない自分を意識したこと。どれも大したことではなかったものの、
何となく悲しみ感を感じたことが悲しい、という感じだった。


■魂を羅針盤に「不完全な現実」を生きる歩みへ

ということで、自分の中に何か閉ざされた心の問題がある、という構図は、あまり変わることなく続きます。
では何が変わったのかというと、あるべき理想の姿から見下し審判をすることそのものに積極的価値を感じる感情の消失です。まそれが「否定価値感覚」の消滅ということなんですけどね。

それまであったのが、「存在への怒り」という命題でした。これが「魂の挫折」を背景にして、存在していたわけです。
そしてなぜ「存在への怒り」を抱えざるを得なかったのか。それは魂がその出生の来歴に受けた「生からの拒絶」が、自分の「存在への拒絶」であるかのように受け取られたという状況があったのでしょう。

そうした妨げられた「愛」が、やがて怒りに変わったわけです。これはかなり本能的な流れです。飼い主の男子高生に置き去りにされた猫の悲しみが、やがてその男子高生を積極的に傷つけようとする怒りという「望み」に変わったように。

そうして、自分を愛すべきだったものを積極的に破壊しようと欲する「魂」の情動と、自尊心を課題とする「心」の欲動が、意識の表面では結びついたわけです。
かくして、自らを高みに上らせると同時に、自分を愛すべきだったものを断罪するために掲げられたものが、「人間としての価値」だったわけです。それを掲げ、自分が受けたのと同等もしくはそれ以上の「存在への拒絶」「存在への怒り」を与え返す
もちろんその「審判」は、結局のところ誰よりも自分自身に対して向かうことになる形でです。なぜなら、それは自らが神になろうとする過ちだからです。


「否定価値の放棄」に至るハイブリッドの取り組みとは、「心」がその自らの過ちに気づき、「魂」の挫折を受け止め、なだめ、癒し、怒りの放棄へと導く道のりです。

一方、「心」が「神になろうとする過ち」を捨て、「魂」が怒りを捨てた先にあるのは、変わることなく抱え続けている内面外面の何らかの不遇という「現実」です。これからは、その「現実」を何よりも自分が向かうべきものとして、「魂」と「心」のありのままの本性に従って生きる道のりになります。
この道のりがどんなに特別な不遇として始まっていようと、それぞれが抱えた苦境への、神による特別の計らいは、ありません。なぜなら全ての生きるものが生きるこの「現実世界」が、最初から不完全なものだからです。不完全な現実を歩む。その本来の姿に、ただ、今戻った。それだけです。


置き去りにされた「望み」があり、「不完全な現実」がある。
その「現実」をどう捉えるべきか。ここまでの道のりでハイブリッドがそれについて言ったのは、ただ「現実世界をうまく生きる知恵とノウハウというものがある」。それだけでした。それは基本的に科学に基づくものであり、これまでは主に「恐怖の克服」を羅針盤にしました。

「魂」が開放された時、今度は、「魂」そのものが羅針盤の役割を果たしてくれるようになるようです。そこには、もう「頭」であらかじめ知るべきことも、知っておけることも、あまりなくなってくるようです。
ただ「現実世界」へと開放された「魂」が、行くべき先を指し示してくれるようです。

意識の表面でどんな変化が始まるのかを、引き続き説明します。
思考法だけでは進めないとしても、思考法においては迷いをなくすために、ですね。


心理学本下巻に向けての考察-69:否定価値放棄への道-16 / しまの
No.1320 2007/10/13(Sat) 13:25:05

■「治癒成長体験」でもあり「実践」でもある「否定価値の放棄」

さて、「否定価値の放棄」という「ハイブリッド道のりの最大の道標」とは何なのか、その本質を考察しましょう。

「本質」が何かとは、抽象的な話ではありますが、それは「治癒成長」の結果としての「体験」なのか、それとも、それに向けての「実践」なのか、というのが基本的な考察視点になります。
どうやら、「否定価値の放棄」とは、その両者、つまり治癒成長の「体験」でもあり同時に「実践」なのだ、と言えそうです。
それがひいては、最新ハイブリッド理論での「心が病むメカニズム」そのものがひとまず解決された姿そのものと言える、大きな位置づけになりそうです。


いままでの解説では、主にその「思考」の「実践」の面を説明してきました。「否定価値放棄への道-15」で述べたように、それは僕の場合は、「人間としての価値」への「審判の基準」の「絶対性」を否定放棄するという、「不完全の受容」として成されたわけです。
しかし同じような思考検討が、この時以前にも「実践」されていたにも関らず、あまり意味はなかった。

それを考える時、「否定価値の放棄」として起きたのは、そこでの「思考の転換」の役割をどう考えるかはさて置き、実に大きく単純な変化が心の根底で起きたという印象を感じるのが、こうして実際の過程を見ての印象です。
その「大きく単純な変化」とは、「人間の価値」を審判し駄目出しをしようとする心がそれまではあったのであり、その時それはなくなった。というただそれだけの単純な変化だったと。

それは「思考」の違いでも「感情」の違いでも「感性」の違いでもなく、そうした個別側面のどれかの違いではなく、「心」そのものの全く別物への違いなのだ、という印象を感じます。
そうした意味で、そこにあったのは実に「単純」な違いなのだと。まあ脳の中で心の領域が大きく2つあり、その違いを越えた、という感じ。


■「魂の巣立ち」である「現実との和解」

そうした大きく単純な「心の変化」が、ハイブリッドの取り組みのひとまずの結実として、極めて大きな位置づけになる。
それは、最新ハイブリッド理論での「心と魂の分離」をめぐって起きていた問題への解決が成された姿だということになります。これが否定価値放棄の過程を改めて詳細検討した現在の結論です。

それは「魂」という、「心の生命力」において起きた根本的転換だということになります。
「魂の巣立ち」とでも言えるようなものに感じられます。

「心と魂の分離」において起きた問題とは、「生からの拒絶」を受けた「魂」の挫折から始まっていました。そこには魂の抱いた愛への挫折と憎しみがありました。
一方で、「魂」から分離していく「心」が、そうした挫折を抱えた「魂」の成長責任を放棄する事態が起きたわけです。「心」は、そんな「挫折した魂」なんてものは自分の心にはないという顔をして生き始める。「心」に置き去りにされた「魂」は、もはや成長することなく、失わされた愛への渇望と怒りと恐怖の中にあり続けます。

一方、「心」には、「魂」の「望み」のエネルギーを受け取り、それによって「現実世界」を前進し、「恐怖」を克服し、「自尊心」を育て「愛」を獲得するという役割があります。
「心」は、「魂」の成長をもはや放棄したまま、置き去りにされた「魂」が湧き出させるすさんだ愛情要求と世界への怒り憎しみを原動力として、「現実世界」を見返すことを自らの生きる道とするような「生」へと歩み出します。

そこには、自らが迫害された「神の国」への、ひきずる思いと復讐への怒りがありました。「あるべき姿」。これがそうだったのではないか!と。そうして他人と自分自身を破壊する「生」が残されたわけです。

ハイブリッドの取り組みは、「心」が「魂」を守り得る「強さ」を獲得する「成長」への歩みと位置づけられます。
それは「現実世界」への科学的合理的な生きるノウハウの習得を通し、「恐怖」を克服する強さの獲得の中で、「魂」が抱えた挫折をありのままに受け止め、それを癒すことを、その始まりと位置づけることができます。
自らの「心」に受け入れられた「魂」は、「安心」を獲得するとともに、閉ざされていた成長への歩みを回復し、やがてそのほとばしるエネルギーを開放させていきます。

そうして成長を回復させた「魂」が、その「魂」自体が本性として持つ、何の人為的操作でもない自然成長力の結果として、「魂」自身のある「成長の節目」を迎える。「魂」が今まで思いを引きずっていた「神の国」から、「魂」自身が、「放たれた野」へと巣立つのです。

なぜそう感じるのかと言うと、「病んだ心から健康な心への道」への命題の全てが、どれを取ってもここで転換を迎える収束点のようなものになっているからです。
思考の論理しかり。今までは主にそれを説明しました。
感情の論理にも、この「心理学本下巻に向けての考察」を始めるにあたって最大の根源としたものが、ここで転換を迎えます。
それは「怒りに変わる愛」から「怒ることのない愛」、です。

感情の論理という内側を見なくとも、「人生が一変したかのような気分の変化」という意識の表面に現れたものが、ここで何が起きているのかの大きな構図を示唆しているように感じます。
それは、今まで「心」の下に閉ざされていた「魂」が、「現実世界」へと開放された、ということです。
だから、「現実世界」の全てが肯定できるような、開放的な気分が現れているわけです。「魂」が本来、「愛」をつかさどるものだからです。それが「現実世界」へと開放された。
だからこれが同時に、「病んだ心から健康な心への道」において、一度敵対関係になった「現実との和解」にもなるわけです。

ですから、「否定価値の放棄」として今まで言っていた、「評価基準の絶対性の否定」という思考論理側面は、あくまでこのごく一面に過ぎず、根本はもっと大きな、魂自身の成長転換だということになりますね。
「善悪の完全なる放棄」も同じです。それは思考論理としては善悪観念の「放棄」という消極的な姿ですが、その裏に「愛をつかさどる魂」が「現実世界」へと開放されるという積極的な実体があってこそ、その真の意味を持ちます。


■「心」の主役割「恐怖の克服」

ハイブリッドの取り組みで何が起きるのか。これで一番大枠の説明になったと思います。
「魂の巣立ち」です。「魂」自身が、心を引きずっていた「神の国」での挫折から、「放たれた野」へ旅立つ。

この変化そのものは、人為的努力としてではなく、自然治癒力自然成長力の現れとして起きます。
従って、「否定価値の放棄」そのものは、「実践」として成すものとはあまり言えないようなものになると考えるのが正解でしょう。それは「感情と行動の分離」や「内面感情の開放」のように、意識努力姿勢がすぐに心の変化を表すようなものとして成すのではない。
そうした実践の全てを通して意識の底で進行する、「魂の治癒と成長」の一つの結実の節目として起きる。

ですからこれがやはりハイブリッド実践の一つのゴールとして考えても良い。そんな位置づけになると思います。

そんなことが起きると、ハイブリッドでは説明します。あとは、それを選択するかです。
もしそれを選択するのであれば、「心」にはかなりの役割が求められることになります。

まず「現実世界」に対して、科学の合理的思考で対処できる「強さ」です。その「強さ」によって、置き去りにされた「魂」の挫折に向き合い、それを受け止め、自らが癒し「巣立ち」へと導くか。あとはハイブリッドを読むそれぞれの人に委ねます。

最も分かりやすい話とすれば、基本的な推進力は、「恐怖の克服」になると言えるでしょう。それがエンジンと車輪の回転として、前に進みます。どんなハンドルさばきをしてどこに向かうかが、「自尊心」「愛」のテーマになってくるということになるでしょう。

そして「恐怖の克服」は、科学的合理思考を基本として、「命」そして「死」に向き合うことで培われると考えています。
「心」が「恐怖」に打ち克つ強さを獲得することで、「恐怖」を抱えた「魂」に近づくことができるのです。そしてやがて「魂」が開放される。それがここまでの過程です。

これをハイブリッド実践の一つのゴールと考えられると同時に、新たな歩みのスタートになります。
「魂の望みへの歩み」が、ここから始まるわけです。するともう一つの命題転換が起きます。
ここまで「恐怖の克服」を通して「魂」に近づいてきました。そして「魂」が開放された先に、今度はさらに、「魂」によって「恐怖からの完全なる開放」へと導かれる歩みが始まります。

この辺が「下巻」最終考察の話になってきます。「上巻」の終わりと同じく、かなりスピリチュアルになってきます。
今までの話のより分かりやすい整理も含め、あとは心理学本原稿の方でしようかな。

ここでは引き続き、「否定価値の放棄」でもあり「不完全の受容」でもあり「現実との和解」でもある「魂の開放」というハイブリッド実践の一つのゴールから新たにスタートする、次の段階についてこれまで説明できてなかった要点部分を書いておきます。

「唯一無二の人生へ」。それがここから始まります。「真の未知」もここからです。
それが「魂の望み」へと歩むこととして成されます。
タイトルも新たにして説明を続けましょう。

p.s
「否定価値放棄」までの過程図も更新してありますのでご参考あれ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg


さすが福田首相の「はぐらかし型建設的行動法」 / しまの
No.1319 2007/10/12(Fri) 14:02:20

ちょっと時事ネタワンポイント行動学講座^^;

先日と今日TVで見た、国会での福田首相の答弁を見て、さすが企業でも長く活躍した中で培ったものかと関心したのがありますので紹介。

一つは野党議員から、「領収証名義書き換え」について厳しく問われた言葉への返答。
さすがにちょっと答えに困った様子福田首相が、民主党小沢党首の方もかなりグレーな問題が指摘しているこの最中、どう切り返すかと眺めていたら、「与党野党含め色々問題が出ていますが、ぜひ協力していい政治を作っていきましょう」

これは恐らく与野党含め、議員の誰もがおおわれた緊迫感が、ちょっと拍子抜けにかわされたような中身のない答弁ではあります。
しかし恐らく与野党含めほっとした議員が多かったようで、直後に大きかったのはヤジではなく拍手でした。

もう一つは今日。田中真紀子議員から「閣僚がほとんどそのままで“安部康夫内閣”とでも言うものですが、これでやっていけるのでしょうかね」とかの厳しい言葉に、これもまた反論するかと見ていたところ、「その言葉は私への励ましと受け止めております」と。
これもかなり意外な言葉として緊張を和らげていたものでした。それを受け「もちろん励ましでありますし、..」との続きを述べる田中真紀子議員自身の表情が何か柔らかくほっとした中にあるように見えた次第。

こうゆうのは「はぐらかし型建設的行動法」とでも言えますね。
つまり対処が必要となる、相手の攻撃的言動が、元からあまり論理性を欠いている場合です。何かにつけて難癖イチャモンつけるという類。もしくは、こっちの言動が何か相手の勘に触ったようで、言葉尻を取られて攻撃されてしまうようなケース。

こうした時、ハイブリッドの「合理性追求」からは、そうした攻撃の非論理性に反論するのが正論ではと浮かべる方もおられるかも知れませんが、それはハーバード流じゃないですね。いかなる形でも、まず相手の批判をしないのが戦法になります。

相手の攻撃が論理性をちょっと欠いている場合には、やはり論理性を欠いて見当外れなような形で、むしろ相手を持ち上げるのがいい戦法になります。
これは批判には同意しないという自分のポジションを守った上で、相手の攻撃感情だけを和らげる結果を、まず例外なく得ることができます。

僕も会社では使ったことがありますね。僕のちょっとした言葉尻に相手が猛烈に怒ってしまった時。相手はやや上の立場。それに対して、その怒り批判とは全く関係ないような話で、相手への味方姿勢を大げさに強調するような言葉を返す。一見僕の言葉は要領を得ていない内容なのですが、相手はただ何となく戦意をくじかれており一見落着。

ただしこれは、話の論理内容が重要ではないことを十分に見極められないと、逆効果にもなる可能性もありますね。その点、結構高度ですが強力で役に立つ行動法です。


心理学本下巻に向けての考察-68:否定価値放棄への道-15 / しまの
No.1318 2007/10/12(Fri) 11:38:12

■「否定価値の放棄」への思考転換

前カキコで紹介したような、僕自身の「否定価値の放棄」の瞬間があったわけですが、日記には書かれていない、その時の思考過程を考察します。

ただこの後説明するように、「否定価値の放棄」で起きたことの本質は、どうやら「思考法」の転換ではなく、「思考法」はごく補助に過ぎないと言えそうです。その代わりに、表面の思考転換の底で起きている変化は、ハイブリッドの道のりとしてやはり極めて決定的な節目になっているようです。

まずは表面の思考の変化を説明しましょう。

まず直前に僕の心の中で明瞭になったのは、自分自身の「人間としての価値」への審判の視線とでも言えるものでした。
そこには「原罪感情」にも位置づけられる感情が含まれています。「あるべき一体化に背を向けた罪深き自分」という感情であり、それがひいては、自分が「人間としての価値」を損なった存在だという視線でもあるわけです。
自分には嘘がある。人への好意は虚栄心と安全感のためだけ。実は人とつながれることはない。それが暴かれた時、自分は役立たずの異物として人の目に晒される..


■「人間の価値」という根源パラドックス

ここでの感情論理には、一つのテーマがあります。
「愛に近づけるもの」が、「人間としての価値」として評価されるというテーマです。

事実は、パラドックスです。人間が「人間の価値」を問い始めた時、愛が破壊されたのです。これが全ての問題の根源です。
「人間が人間の価値を問う」。この不実と傲慢が全ての心の問題の根源であり、この根源がなぜ生まれたのかというさらに根源は、できれば後で考察をしたいと思います。

言えるのは、「否定価値の放棄」は、この根源から始まった問題が解かれた姿なのだということです。
とにかく、解かれた時の思考の流れを見てみましょう。

人間が「人間の価値」を問い始めた時、愛が崩壊を始める。人間が「人間の価値」を問いて怒る。その問いが当然自分に向けられた時、人は自分自身の存在への怒りを抱える存在と化す。
そのことに気づかないまま、人の心の表面では、まさにそれとはネガとポジの関係にあるよう、「人間の価値」への信念思考が動くことになります。

「人間としての価値」を持つものは愛され、そうでない者は「存在への怒り」を向けられるのだ。なぜならその「人間としての価値」が、「あるべき姿」だからだ。「あるべき姿」でないものに怒りを向けなければ、自分は「あるべき姿」を知らない人間ということになってしまう。だから、相手が他人であろうと自分であろうと、「あるべき姿」でないものに怒りを向けざるを得ない。

しかし、それが生み出す「怒り」「自己否定感情」は、明らかに望ましい感情ではない..。

そうして人は、心のもう一方にある「心の自由」の魅力に惹かれることも手伝って、さらには、「愛されない屈辱」への見返しとしても、「人間としての価値」として自らが定めた「愛に近づけるもの」に、「そんなもの!」と自ら目を反らす思考をしばしば取ります。
これはもう自分への単なる嘘か、もしくは人格の分裂を引き起こすものでしかなく、何の解決にもなりません。

解決は、「自己の真実」へと向かう先にあります。つまり、まず自分への嘘や分裂を一つ一つ解いていき、まず自分の心に本当には何があったのかを、ありのままに向き合って味わうことで知る過程が必要になるということです。

まあこれももどかしい話ではあります。それはかならず感情の悪化を意味するからです。自分への嘘をついてまで逃げようとした根源に、また向き合うのですから。
でももろろんその悪化側面治癒効果があるのでは全くなく、重要なのは、何を通ってどこに向かうかです。それは必ず通らねばならない。でもできるだけ一瞬で済ませられればそれに越したことはない。まあトレード・オフ・バランスの中にあることを心得て、あとは心に任せるしかないでしょう。


■自己存在を評価する「基準」の崩壊「不完全性の受容」

思考の表面における転換は、そうした「人間としての価値」を評価する「基準」の考え方にあったのが、僕のケースです。

僕はそれを、この「否定価値の放棄」に至るより半年前に、すでに試みていました。しかしそれはあまり意味がありませんでした。
10/9「否定価値放棄への道-12」で紹介した日記です。自分を評価する理想からの「良い面」「悪い面」は、相対的なものでしかない..
これはまあ、「不合理なもの」を見出そうとする意識努力思考として行ったものの、「思考を表面でころがしただけで心の底にまで達していない」ものと言えるでしょう。
これは「失われたもの」「人間としての価値」命題が浮き彫りになる途上でした。まずはそれをありのままに味わう時間が必要だったということになります。

これは「遡り」が起きているものとしても理解できます。

まず「失われたもの」が見える。次に、「失わせたもの」が見えてきます。それが「人間の価値」という命題であり、それを問うた「審判の基準」があった 僕は一度その「審判の基準」への問いを持ったが、まず「審判の基準」が生み出した「人間の価値」という命題を、まざまざと味わう必要があった。
そうした「遡り」を経て、「人間の価値」を判断する「審判の基準」とは一体何なのか、という問いに真正面から向き合ったわけです。

そしてその「審判の基準」が崩壊します。
これは思考の論理としては、「不完全性の受容」に立脚します。人間は不完全な存在である。

それを真正面から問う状況が整ったと言えるでしょう。
結局、自分はまるで役に立たない厄介者でしかない、というこの感情。これはどう不合理なのか。実際、結局人はこの感情論理と同じ通りに、自分を見ていたのかも知れない。
それでも、この時の自分は、もう社会で役に立たない厄介者などではないと言っても当然全く問題はないことを、僕の心は同時に感じ始めてもいたと言えます。

何をどう捉えるべきか。何にどんな目を向けるべきか。
心の根底にある、全ての根源を決める小さな核の歯車の向きの転換を決する時が訪れた、ということになるのでしょう。


その時の僕の思考内容はこうです。既に何度か説明したものですが、多分この時だったと思います。

「完全なるもの」が存在すべきだという思考の誤りがある。「完璧」というものは現実には存在しない。
もちろん完全完璧などというものは現実には存在しないし、評価というものは相対的なものでしかない。しかしあまりに「あるべき姿」からあまりに見劣ったものは、「審判の基準」にかかり、否定弾劾すべきものとなる。これは仕方のないことではないか..。

しかしそれでは、「ここまで見劣ったら否定すべき」という何か絶対的な「基準」があるという話になる。その「基準」は、果たしてどれだけ「完全」であり得るのか。もし現実が不完全なものであり、人間が不完全な存在だとしたら、そうした「こうまでなったらいくらなんでも」という「否定基準」を定める能力も不完全だということになる。それにも関らず自分がそれを「ここが基準だ!」と絶対的に定め得ると考えるとしたら、自分に「完全性」があると考えているということになる。

これは自分が神になり得るという考えなのだ。これは間違っている!

かくして、「何でも少しは役に立つものだ」という「気持ち」が僕の中に溢れ始めた、という次第です。自分は別に「何の役にも立たない厄介者」なんて考えは、もういらない。

「気持ち」と強調しましたが、それは、これが半年程前に試みられたもの「思考」としてはほとんど同じであった一方、前回は意味がなく、今回は人生が一変する変化となったという違いです。
この違いの底にある本質を次に説明します。

「否定価値の放棄」というものが、今まで考えた以上に、ハイブリッドにおける大きな位置づけを示すことになりそうです。


心理学本下巻に向けての考察-67:否定価値放棄への道-14 / しまの
No.1317 2007/10/11(Thu) 11:27:56

■否定価値放棄への道6:島野が「否定価値の放棄」を成した瞬間

外面では仕事に充実した時間を送りながらも、ときおり心の底を叩くような「失われたもの」そして自らの「人間としての価値」を問う冷たい叫びを聞く生活の中、1997年も暮れが近づいた頃、僕の中で「否定価値の放棄」が成されます。

その時の日記は、とにかく自分が直接感じたことを手短に書くだけで、そこに至る思考過程の考察なんていう今僕が書いているようなことまで書く意識がなかったようで、実に短い記述しかないです。
先の11.20(木)というやつの後にあるもの全てを通して、以下だけ。

それでも漠然と記憶にある「不完全性の受容」を見出した思考の瞬間の時期とも大体符号しており、多分これが、僕が「否定価値の放棄」を成した瞬間と見ていいと考えています。

それをこの時に見出した現実的背景がちょっとあったようです。それを説明しておきます。
この年の人事評価です。この年に僕が開発した社内向けのシステムはかなり先進技術を使った上でうまくできたもので、今から考えてもこの年は「A」評価をもらってもいいような成果だった。

ところが一つ、ちょっとした躓きがありました。自分がリーダーの開発チーム内に、ちょっと性格に問題のある女性がおり(^^;)、二言目には「それでは駄目だと思う」と実に頭越しに言うのを常としている感じで、客組織チームからも拒絶を食らった人だったのですが、僕もその女性を交えての進行にやがて耐えかね、マネージャーに彼女を外してほしいと訴えたという経緯がありました。
まあ実際その通りにはなりませんでしたが、僕としては鬱憤をマネージャーに吐き出したことで結構気が楽になりはした次第です。

でも、上の人からは、これはやはり僕の協調性やリーダーシップの不足問題だと見なされた訳です。人事面談では、成果を評価される話はあまり出ず、そのことが主話題という感じになりました。で評価はその問題を含み入れたとのことで、「そこそこ」という位置づけの「B」評価

こうした現実的背景の意味とは、次のように考えられます。
まずここに至る4年間ほどは、僕の中で「恐れていたものの正体」を見据えたことによるパラドックス的自己嫌悪が減少し、自分の性格や人間性の短所弱点への意識を抱えながらも、仕事にも身が入り、ハーバード流も学び、そうした外面での思考法行動法のスキルが自分の内面の短所を補う形で、自分が人に認められることへの期待も抱くようになっていたことが考えられます。
しかしその期待が少し挫折した感の状況があったわけです。人々は、やはり人間性や人格で他人を評価するのだ、と。

これは、僕の中にあり続けていた自己否定感情の根本に、より真正面から、より純粋な形で向き合う状況を作ったのだと感じます。
ここでの「純粋な形で」とは、「みじめに感じるのがみじめ」とか「何もできないという気分では何もできない」というような、パラドックス自己膨張の尾ひれを取り去った形で、純粋に「現実に存在する」自分の短所欠点をどう見るかという意味でです。

そして、その視線に根本的な変化が起きたわけです。
前説はそんなところにして、とにかく表面の流れを見てもらいましょう。

1997.12.8 (月)
 Iさん(中途入社同期男)から忘年会をしようとの電話があった。
 僕は話しながら自分が
うつな気分になるのを感じた。仲間との飲み会の場で、僕は悲しい気分を思い出す。楽しい気分になれないのだという、自棄的な気分を感じた。

1997.12.11 (木)
 きのう今年の
人事評価の面談を終えてから、僕は沈んだ気分を感じていた。チームワークに関してだが、僕の性格のことが話題になったりした。ビジネス・パフォーマンスよりも人格評価が多めであることに不満を感じたりもした。
 だが実際のところ、僕はそのように、自分の性格が評価されている、人が僕の性格について色々言っているという状況を考える時、
頭の中から消したつもりの一種の恐怖の感覚があるのを感じた。何か自分が基本的に非難されているような感覚。自分は人からは決して信頼されることはないのだ、という感覚。
 なぜ信頼されないのか..
自分の中には嘘がある。人に対する好意、それは結局自分にそう思いこませて虚栄心と安全感を手に入れているだけで、“人を好きになる自分”という自己賞賛をしていい気分になるだけ。実際は相手とのつながりはなし。
 
そんな自分が、自分の存在そのものが、歓迎されていないという感覚。

1997.12.15 (月)
 “人間を見る目ではなく、モノを見る目で僕を見る”回りの人々のイメージ
 自分が役立たずの異物だと見放されていく


1997.12.17 (水)
 きのう結局行きついたのは、
“何の役にも立たない厄介者”という怒りを向けられる自己イメージだった。

 だが、きのう仕事をしているうちに、
“何も役に立たないことなんかない。何でも少しは役に立つものだ”という気持ちが湧いてきた。
 
それから僕の気持ちは一転して軽くなった。人に接することへの嫌悪感が消え去った。今まで人に接することは、即自分への嫌悪を意味していたようなものだから、自分への嫌悪が消えたことで、人に接することへの嫌悪感が消えたのも自然に思えた。
 そして
気の軽さは、“もしもっと若い時にこうだったら、女の子誰とでも..それが悔しい”という考えや、嶺村さんにまた会う考えなど、少し躁的な気分を生み出していたのが、きのうの一日だった。

まあ仕事にかなり身が入っていた分、日記の方はごく表面を手短にという時期だったと思います。
それでも記憶の中では、日記の書かれていない16日に、自分の短所欠点をどう見るかのついての、心理学的かつ哲学的な問いが僕の頭の中で展開していたのを憶えています。

それが結局、「完全性」「完全なるもの」という観念持ち続けるか、完全放棄するかという意識命題だったわけですね。

それが、一瞬にして、“もっと若い時だったらどんな女の子とでも..”なんて能天気妄想(^^;)さえ起きるように、気分が一転した。
まあ『悲しみの彼方への旅』では、“一見すると時代の先端の青年のような、後の私につながる新たな自己がこの時始動を開始していた”という感じの表現を書いていますが、今回のは実際のところ、“今の能天気な私につながる自己がこの時始動した”とでもいう感じかと。アハハ..^^;

何が起きたのか、それに向かう実践の方向性とは何かを、次に考察します。


心理学本下巻に向けての考察-66:否定価値放棄への道-13 / しまの
No.1316 2007/10/09(Tue) 15:05:06

■「人間としての価値」

ということで、それから2か月ほどして、僕の中で焦点が移ってきたのは、「人間としての価値」という心理命題のようでした。

これが、根本中の根本、という感がありますね。
なぜなら、今までの「人の目」「軽蔑嫌悪」「怒り」「恐怖」といった複雑な心理構造体をかたちづくるものの根源を突き詰めていった先に、「もの」が分子に分解され分子が原子に分解され、原子がさらに素粒子元素に分解され、といった先に見出される小さな核のように、この「人間としての価値」という命題があるように感じるからです。
全てが、この目にも入らないような小さな物差しから、始まっていたのです。

それはただ小さな物差しのようにありながら、それが全てを支配するようなものとしてあるのを感じます。
なぜなら、もし人が人に「人間としての価値」を問うならば、もはやその「表現」が軽い敬遠になろうと、憎悪に満ちた殺意になろうと、知的な批判になろうと激情の中のなじりになろうと、本質はもやは同じだからです。

それがある限り、人間は人間を攻撃し続けることを免れないのでしょう。現実的には誰からも攻撃されていないにも関らず。
もちろん、自分自身をもです。

僕の中で、そのことが明瞭になってきたという感じです。

日記の方はこの頃かなりまばらで、先のもの以降も数件しかなく、まあ停滞の中で結構な安定があったという感じですね。仕事も身が入っていた。その時はそれだけに向かうことができた。しかしふと立ち止まった時、自分の中で解決していない大きなもの自分の心の底を下から打ちつけるような叫びを聞かざるを得なかった。そんな感じと言えるでしょう。

1997.6.11 (水)
 久々に
とても泣きたい気分。はっきりときっかけがあるわけではない。午前中に開催した勉強会の頃から、気分はクールダウンしているのを感じていた。午後、協力会社のTさん(男)が再度来てミーティングをした時、自分が元気を失って、表面上でそれを取り繕うような努力をしているのを感じた。
 それは次第に、
“弱々しく、おどおどしている自分”という感覚へと強くなっていった。“怯えて泣き出しそうな自分”という感じだった。
 そんな自分に対して、そうではない
回りからは嫌悪が向けられるような構図にいるのを感じた。現実に嫌悪を向けられる、という前に、向けられて当たり前だ、という感覚があった。
 
“自分は嫌われて忘れ去られるべき存在”になった。切り離され、無視されて、忘れ去られ、全くの孤独になるしかない存在になった。

1997.6.12 (木)
 駄目な自分。なぜ駄目なのかと問われたとしても、
理由を問う以前の問題として、自分が駄目な存在である、という感覚があった。自分には絶望感があり、回りと同じまっとうな人になることはできそうもない。自分は回りとは違う。自分には回りに馴染むための行動ができない。馴染めない自分は、全く駄目な存在となる。
 
「感情的な決め付け」というものがあり、自分がどう感じているかということが、実際にそうであるかのように考えるのは誤っている。そんな言葉があったが、回りと違って自分は駄目だという感情を持つことが、むしろ絶対的なことがらのように思えた。結局どのように感じ行動するかが「人格」なのだとしたら、そう感じること自体がまさに「人格」としての自分の問題なのだ。


■「失われたもの」と「人間としての価値」の彼方にあるもの

それから「否定価値の放棄」に至るまでの半年間ほど、まばらな日記の中に、「失われたもの」「人間としての価値」という2つのテーマが交錯して現れるような時期が続きます。何となく『悲しみの彼方への旅』「現実への帰還」で、僕が次第に心の底の地べたへと沈み込んで行ったのと似たような雰囲気が感じられるところです。

ただその先に巨大な崩壊を迎えるのではなく、逆に人生が一変する光が差し込む時が訪れるわけです。たぶんまあここでは、「緩やかな崩壊」が数か月という長い時間を通して進んだということになるのでしょう。
その様子を抜粋します。抜粋と言っても、他に書かれたものは少ない状況。

最初の日記に「鳩」というのが出てきますが、ちょっと説明しときますと、この頃から僕は住んでいた賃貸マンションのベランダにやってきたをまるで飼うかのように、ベランダに巣箱みたいのまで用意して、茶白のきれいな雄をあるじとしたつがいが卵を産み雛を育てる様子を眺める生活をするようになっていました。それが一つの心の癒しであるかのように。

1997.6.26 (木)
 鳩は何も僕に求めない。エサは別として。ただここが気に入ってやって来てくれた。
 人は僕に何かを求め、僕がそれに応じないと失望したり怒ったりする。
 僕はそのことが気に入らないのだ。それがとても煩わしいことのように思える。そのために自分を偽ったり装ったりしなければならなくなり、それがまた人との間で交わされる不信感を呼ぶ。「人を好きになれ」と言われても、結局それが自分の安全につながるからというだけのように思えた。

 きのう自覚した3つのテーマ。
 何も楽しむことがない。嫌なことばかり。
 
自分の中に上機嫌なものを見つけると喜ぶ。逆に不機嫌なものを見つけると叱咤嫌悪する。そもそも何でそんな感情になったかなど無視している、何という無配慮。
 
楽しい気分は勝ち。そうでないのは負け。根本には、回りは全て敵という感覚がある。

1997.7.15 (火)
 
久しぶりに嶺村さんの夢を見た。数人で遊んでいて、何かディスコの入口のような所もあった。良く思い出せない。
 何か、僕に「その気」が見えなくてよそに向こうとしている彼女に、自分が彼女を本当に好きだったと言って振り向かせようとしているような場面だった。
 場面が変わり、僕はかつての彼女の家があった場所にいた。そこはやがてかつての小学校にもなった。僕はそこで彼女が残していったものを探した。・・(略)・・・

1997.7.28 (月)
 
自分には人生というものはないのだ。
 
頑張っているのに、何も良くならないという感覚。“自分は駄目だ”という感覚に抵抗しようとしていた。
 仕事の忙しさの中では、いつしかそれなりに気分は良くなっていった。これも事実だった。それさえも無意味なものとして否定してしまうような感情が生まれていたのだ。

1997.8.11 (月)
 
自分が孤立している感覚。泣きそうな気分になっている自分。
 “一緒に仕事していて、なごむものが全くない”

1997.10.13 (月)
 
“今そこにあった悲しみ”という感じ。
 ・・(略)・・

1997.10.14 (火)
 
“生活を進めていくもの”が自分にはまるでないと感じていた。
 
自分は未熟なヒナのように引きこもった存在で、回りからは対等に接することを期待されながら話しかけられたりしても、自分にはそれに応じるための自分の感情や気分、動機のようなものが見出せないのだ。そして自分が外界に接する時にむしろ意識するのは、何かを装っている自分の浅薄感と疲労感と悲しみ。

1997.10.16 (木)
 
久しぶりに嶺村さんの夢を見た。何人かのグループの中で、誰と誰が隣になるかを決めようとしていた。・・(略)・・結局僕は彼女と一緒になったような感じだった。彼女は何かのテレビドラマの中に登場していて、それを彼女自身は知らなかったと、驚いたようなことを僕に言ったような場面があった。

1997.10.27 (月)
 いつものように、月曜になって僕は
下降している気分を感じた。自分がひどく弱々しく、進路が塞がっているような感覚があって、僕はこの感情につきまとわれることへの嫌悪感を感じた。
 ・・(略)・・僕は仕事以外の面では無力で何もないような自分を寂しく思い、それが消えるようなものが女の子とのつき合いで手に入るかのような観念を持っていたのだ。
 だがその中身は、ひどく静的で実体のないもののようだった。このまま冬を迎えてのクリスマスと考えた時のわびしさの一方、嶺村さんならと浮かべても、まだ自分にそれができるような気が湧いてこなかった。
相手を思う気持ちがあるという静的な自意識があっただけで、相手と共に何をしたいのかという、具体的なものは何もなかったのだ。
 一方で僕はそうした相手への思いを、
“ただ傍にいることだけを望んだ”と捉え、純粋で崇高なものと捉えてもいた。

1997.11.13 (月)
 
今朝の夢には嶺村さんが少し出ていた。何回か定期的に彼女と会うことになっていた場所に行くという場面。まるで年賀状のようにだ。次にまたそこに行った時、彼女は結局来なかった、という夢だった。
 小学校の頃、自分が彼女に抱いた、
ただ彼女の傍に近づけることを望んだ感情も、今では本当の愛情ではなかった、という気がしてくる。彼女の優しさに包まれていたいという、自分の要求の表れではなかったかという気がしている。幼い子供が母親に抱いた感情ではなかったかという気がしている。
 それに代わる感情の生まれないことの寂しさ。

1997.11.20 (木)
 “女性をリードできない”
 
“自分は普通の人間の心を持っていない”

という感じで、外面では仕事がごく充実した日々を送りながらも、内面は静かに奥底にある根底の命題へと向かっていた時間を過ごします。

「人間の価値」というのが、「否定価値放棄への道-4」で前触れした通り、「否定価値の放棄」そして「不完全性の放棄」への基本テーマになるのですが、こうして同時に僕の心で浮き彫りになった、「失われたもの」とは、何だったのか。そしてこの2つのつながりは何か。
この関連性は、こうした言葉で見えてくるのは当然今回が初めてですが、おぼろげに何なのかは分かるような気がします。

「失われたもの」とはもちろん「愛」であり、幼少期の「魂」が願った「一体化」の世界であり、それが「失われた」ことで、「人間の価値」が問われるようになったのです。
このことを考える僕の心に、不思議と強い情念のゆらぎが起きるのを感じます。怒りと悲しみのような..

「否定価値の放棄」が起きた場面の日記を紹介し、その「情念のゆらぎ」の意味を考察しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-65:否定価値放棄への道-12 / しまの
No.1315 2007/10/09(Tue) 13:09:49

■「自己を見る基準」

先の日記の翌日のものを紹介しておきましょう。他の紙に書いたのを大学ノート日記に後で写すというのが時折出てきており見逃しましたが、一緒に紹介しても良いような内容でした。

ただし一歩前進があります。自分の「抑うつ感情」などの障害感情の根本原因として、自分が何を基準に自分を見ているのか、というさらに根底の命題をはっきり意識したことです。
まあこうした「自分を見る基準」自覚は『悲しみの彼方への旅』でも出てきている一般的テーマですが、今紹介している93年頃からの転換のスパイラルにおいては、この時この命題を通過したということになるでしょう。

その時の僕の意識としては、まずは悪感情の原因分析です。
そして建設的思考法による克服も試みられています。しかしそれはあまり功を奏してはいません

まず日記を紹介。

1997.4.1 (火)
 人間が常に変化するもので、自分が
「感情による決めつけ」をしているのだとしたら、自分のこの感情の理由は、まず自分が厳しい基準で自分で抑えつけていることが考えられた。
 「厳しすぎる基準」ではないだろうが、
「情感をもって人と話す」ことについて、僕は自分をずっと監視し続けていた。そして思い描いた理想的な姿でない場合、自分の振舞い、感情、生まれ育ち、そして生活と生き方そのもの、そう言った全てが許せなかったのだ。
 そんな自分への対処は、前に
『いやな気分よさようなら』で感銘を受けた「自尊心」に関するところにあるように思えた。まやかしのプライドや優越感、全能感を感じることなく、自分の長所良い面を評価し、自己卑下や劣等感を感じることなく短所や悪い面にもスポットライトを当てる。
 引っかかるものを感じながら、“悪い面”と書いたが、“良い面”についても
相対的なものでしかなく、“何にとって”というものでしかないのだ。いつも明るく喋り続けているのが良いかといえば、

この日記はここで途切れています。まあ多分電車の中でのメモなどで、時間切れで続きも書かなかったのでしょう。
続きも書かなかった分、あまり感情を伴っていないまま、頭の中で「建設的思考法」をころがしてみただけで、あまり心の底に響くものでもなかったとの雰囲気を感じます。

一方、「自分がどんな基準で自分を見ているのか」という命題が、むしろじわじわと僕の心に静かにメスを差し込むような経過へと、この先向かったということになると思います。
そして、僕はむしろはっきりと、自分自身に下される弾劾の審判を自覚する方向に向かうのです。

実際この時の僕の「建設的思考法」にはブレがあります。その日記ではバーンズの言葉を“良い面”と“悪い面”という言葉を使って思い返しているのですが、実際のバーンズの言葉にそれはなく、あるのは“プラス面”と“弱い面”です。
実際その時の僕には、“弱さ”が“悪”に見えていたということになるでしょう。


■指針であり続ける「感情と行動の分離」

こうした経過は、取り組み実践論からは考察が難しい話になります。

意識的には「気分の改善」を念頭に行っている部分がこの時の僕にはあり、それについては効果が出るどころか悪化に向かうようなありさまなわけです。しかし大局的には、それで向かうべきところに向かっている、正しい方向性への前進だということになります。

今のハイブリッドから論じるとするならば、やはり「感情と行動の分離」の原則を、さらに極端にとも言える治癒メカニズムの中で理解して進めるのが正解になるでしょう。

心の障害の根源がある限り、根本治癒必ず闇を通ることになります。
一方で、現実外界については、建設的対処法のノウハウがあります。それを続けることです。それが「気分の改善」に即つながるのであれば、それはそれで良いことであるし、そうでないのであれば、何が起きているのかを理解することです。
闇が深ければ、それだけ、その先に「未知」が必ず訪れます。
この2面を、歩み続けるしかありません。

一方、ここで意識された「自分を見る基準」という命題が、後の「否定価値の放棄」において決定的な意味を持つことになります。
いわば、ここに伏線が張られたわけですね。

まずは「自分を見る基準」の存在のために、自分がどんな感情に置かれるのかを、ありのままに味わうことが先になる、ということになりますね。


心理学本下巻に向けての考察-64:否定価値放棄への道-11 / しまの
No.1314 2007/10/09(Tue) 11:07:31

■「失われたもの」

さて「恐怖の正体」が見えた瞬間に、それが「もはや無用なパラドックス」として消え去ってから4年
僕の中で「命」「死」に向き合いながらの「恐怖の克服」の歩みは、大きく2つの心のテーマにたどり着いた、ということになります。

またこれは、「人生」とは何かを探求する歩みとしても捉えられますね。それを真剣に問う姿勢が、僕には最後まで諦められることなくありました。やはり、そうゆうのなしに、「人の目の中でなりたい自分」を目指す歩みとは話が違うということになるかと。
そして「人生で努力して得られるもの」「得られないままのもの」というひとまずの実感が僕の中に獲得されてきた時ということでもあると思います。

こうした哲学的な命題は、単にエエ格好しいポーズとしての哲学(^^;)ではなく、実際のそれなりの人生体験積み重ねが、やはり必要だと思います。
4年というのは、それに費やした時間とも言えます。まあこれはもう少し短くても、次の問いに移ることは可能と思いますが、ハイブリッドもなかった当時ということで。

そうしてたどり着いた一つのテーマが、「失われたもの」だった。
まずはそれが描写されている日記の部分。

1997.3.10 (月)
 久しぶりに、
沈んだ気分で、人と話す時も声のかすれを感じた。仕事の疲れが出たのか、いくら寝ても寝足りない土日明け。
 それに何か
仕事以外のものへ向くような気分が残っていた。何が原因かと言って特にあるということでもなく、見た夢のようだった。
 一つはきのう見た
嶺村さん(初恋女性仮名)の夢で、彼女が96年に再び結婚していたということになっていた。相手は白人男性だった。僕は彼女の写真をブロマイドのように持っていた。彼女は何か外交官の子女のような有名な家の出で、夢の中では六本木だったろうか、彼女の家を訪問した。そんな内容の夢だった。
 夢の中の、
手の届かない彼女の位置と、目が覚めた時の、身近にいる友人としてただ僕が何も行動せずにいる現実とが、対比となっていた。
 もう一つの夢は今朝。長い睡眠時間の中で、長い夢を見ていたようだった。何かアラビアあたりの昔の物語の中で、僕は主人公に化けていた。性的な夢だった。

1997.3.11 (火)
 先週、今週と2週続けて、
仕事への意欲が湧かない状況で出社していると「うつ」な状態になる、という状況が続いている。うつな気分が表に出ているのは、人に対して、また自分に対して、こんな自分しか見せることができない、という気分だ。
 誰にでもこんなことはあるさ、と思えるのが良いのか。そう考えて次に浮かんでくるのは、
こんな訳もなく泣きたい気分に、たとえ時たまにでも他の人はなることがあるのだろうか、という問いだった。それはないように思えてくる。それは他の人には馴染まない、受け入れられないものだ、という気分。
 この気分になる時、同時に感じるのは、仕事の内容以外にこの気分を打ち消す楽しみというものを自分が持っていないことだった。
仕事の意欲が薄れれば、自分には何もない、という空虚感があった。とにかく行動を起こすことによって、たとえばどこかに出かけるなど、楽しみが得られるかも知れないと考えても、そう考えること自体が、自分には何もないという情けなさを示しているように思えた。

1997.3.24 (月)
 駆り立てられるような気力はない。それでも何をやるべきか思いつけた朝のうちは、まだ明るい気分でいられた。 
 だが他部門とのデータやりとりの件で気力がなくなっている自分を“まるで同じ自分とは思えない”と考えているうちに、次第に色濃くなって行ったのは、
自分にはできない、自分には積極性がない、という考えだった。気力が衰退し、泣きたい気分が現れていた。

1997.3.31 (月)
 先週月曜のメモの後に気づいたのは、
自分が“縮こまっている”という気分を持っていることだった。そんなブルーな気分を持った自分は何もしてはいけない、何もしない方が安全だし、何もしないのが正しいのだ、という感覚だった。
 その感覚を
自覚すると同時に、何か自己拘束感が消えた。それからしばらくはあまり自分を意識せずに仕事をしていた。

 *解説* この変化も、「無用なパラドックス」が消えたものと考えられます。ここでのパラドックスは、「何もしない方がいい。なぜなら何もしない方がいいという気分の中ででは、何もできないからだ」とでも言うものでしょう。アハハ。現実にはそんな気分とは無関係に、「できること」は沢山あるわけです。

 だが今週、僕はまた
泣きたいような気分が身を包んでいるのを押し隠しながら、声がかすれた状態になっていた。気力がなくなっていた。自分を縮みこませるような拘束感はなかったが、だた目頭が熱くなるような悲哀の気分が、こみ上げていただけだった。
 その時僕が感じていたのは、このブルーな気分を打ち消すための何も自分にはできない、ということだった。回りはお花見の話題などで盛り上がっているのを、僕は横で聞いているだけ。
 事実僕には
失われた哀しみのようなものがあり、それを打ち消すことはおろか、人が僕のこの感情の存在に気づいた時でさえ、誰もそれは打ち消すようなことは、できなかったのだ。
 僕自身にとってそれは打ち消すようなものとは感じられなかったから、それは当然のことだった。自分にとってあり得るのは、それを自覚するか、もしくは忘れているかのどちらかでしかなかった。感じていない時間は、それを忘れていただけであって、思い出せば、その哀しみは厳然とあり続けていたのだ。

この当時の「抑うつ感情」は現実的引き金の何もない、実に「体質的」なものと感じられたのが思い起こされます。こうした障害感情の根本原因が脳の病気ではなく幼少期の心理体験にあるにせよ、こうした結果はもはや脳に固定されたもので、一生変わることはないのでは、と結構マジにその頃僕は考えました。

事実はそうではなく、後に今の僕の、少なくとも「無気力」とは全く無縁な能天気(^^;)への変化があったわけです。
他の身体パーツと異なり、生きている限り変化し続ける臓器なんでしょうな。

いったんカキコし、もう一つの「人間の価値」というテーマへ。


心理学本下巻に向けての考察-63:否定価値放棄への道-10 / しまの
No.1313 2007/10/08(Mon) 13:03:45

■否定価値放棄への道5:「失われたもの」と「人間の価値」という命題へ

さて、次に紹介する日記は、先のものから4年間も経ってのものです。

斜めに飛ばし眺めしながら、雰囲気の変化で変わり目を追ってこの辺が目についてですが、実際この間は日記の分量も少なめで、「自分にとっての愛の形を探す」モードでの女性つき合いの幾つかのエピソードはありながらも、何となく自分の深層に向かう一方で、仕事の方もかなり油が乗ってきた時期でした。
そして僕の中で再び、自分の深層の核に再び近づく時が訪れたという感じです。

大きく2つのテーマが浮き彫りになってきているようです。
「失われたもの」そして「人間としての価値」です。

それが真正面からの命題になった。この変化の意味とは。これも考察がなかなか難しい話です。
まずここに至るまでに、まずあったのは、「人の目」「人の感情」を自分の生きる舞台であるかのように感じ、「人の目」「人の感情」の中をまるでピンボール・マシンのボールのように揺れ動く感情に突き動かされる世界でした。
そこからまずは、「みじめだと思うのがみじめ」というパラドックスを抜けたのが一つの成果だったわけです。「みじめだと思わなければ別にみじめでもない。それでいい」というまっさらな世界へのひとまずの脱出です。

こうした脱出の原動力は何か。
それを言うならば、ハイブリッドに取り組まれる方の多くにとって、自らがハイブリッドに取り組む動機そのものから問い直して頂くのがいいような話になってくるような気がします。

流れはこうです。
「人の目」「人の感情」舞台で「勢いでうまく」という生活への息切れ
自分の生き方に向き合い現実に向き合う
「自らのコントロール」という世界観へ
自らを脅かしている感情論理の把握
“みじめな状態”になるという恐怖の正体自覚


僕がこう進んだ原動力とは、ひとへに、「現実」と「恐怖」への向き合いであり、その克服意志です。
結果として得られたかのような「人の目の中でみじめではない自分」を求めたのとは、丸っきり逆のようなことだったわけです。
「人の目」の中で生きるという「空想」世界が、自分の「現実」を一刻一刻と脅かしているという、迫り来る大局的な「現実」に促されて、こう歩んだという気がします。

そしてその大局的な「現実」とは、「命」に関ります。
人生には期間的な限りがあるという、微動だに変えることのできない「現実」です。
これも「科学的世界観」の影響のように感じます。これがとても大きい。「空想」の中で自分がどうなれたどうなれないと考えている間に、「現実」はどんどん通り過ぎていきます「いつか」への待ちの中に自分があるような感覚に中に居座った時、人生は1秒1秒と失われ始めます。

そうして自分の「現実」に失意を感じもするし、「死」を思う時もあった。しかしそれが逆に、僕の場合は「力」へと変わった気がします。
どうせ死ぬのなら、という思考はいつでもあったわけですね。それが「恐怖の克服の原点」でもあるような気がします。

これも恐らく、心理障害の重篤度によって話が変わってくるかも知れません。重度が高くなると、「現実感」が薄れて、「死」は逆に「恐怖」からの逃避先としてのイメージしか持てないような事態になり得ます。そうして実際に人が「死」を実行しようとするまさにその瞬間の「現実性刺激」が、障害を解くことが時にあります。

いずれにせよ、ハイブリッドから言えるのは、「命」「死」というものを常に前提とした「恐怖の克服」であり、その原動力において、自らが生きる心の世界を、全て自らのコントロール下に収めたいという、強力な動機によって進めるものと考えるものです。

そうした歩みが至ったものが、「失われたもの」であり「人間の価値」という命題だということです。
これがどうゆうことなのかは、最後に説明します。まあ状況はかなり浮き彫りになってきたかと。

いったんカキコし、その2つの命題具体的描写紹介を。


心理学本下巻に向けての考察-62:否定価値放棄への道-9 / しまの
No.1312 2007/10/08(Mon) 12:01:55

■「人の目感性土台」に巻き込まれない知性思考の重要性

先のカキコでの「ひとまずの治癒」起きた状況について、もう少し解説を加えておきます。

その日記に書かれた当時の僕の以下のような「こう見られるこう思われる」という懸念感情は、実に典型的というか、実は全てのケースにおいて同一の、心を病むメカニズムのにある一つの根底的な感情論理命題の、一つの表現になると思われます。この感情論理命題についてはこの後説明していきます。
------------------------------------------------
当たり前のことのようにコミュニケーションできるかという評価を、人が僕に対して下そうとしているという観念がある。僕の中には、そのような評価は自分が勝ち取らねばならないものであり、それによって自分が人から認められるか、さもなければあいつは駄目な奴だと見下されるのだった。また、それができた時、人から自分の人格が高く評価され、仲間として誘われる、というイメージもあった。
------------------------------------------------


で問題は、こうした感情の自覚もさることながら、それを迎えた姿勢です。

これは先のカキコで、「それなりの社会行動スキル蓄積があった」状況もあり「みじめな状態」が実体を失っていた面もあった、そうした方向性のためにも取り組みは2面になる、という「外面向けの方向性」のための、さらに背景的な姿勢の話になります。
それで言いますと、「外面向け」にはいかに「人の目感性土台」に巻き込まれない知性思考が体得されているかが重要になってくると思います。

当時の僕の感覚を具体的に振り返って見ましょう。
まず、「自然にコミュニケーションできるかという評価を人が下そうとしている」「事実」だと考えていたか、それとも「ただの空想」だと考えていたか。

これについて思い出しても、あまりはっきりしない面があります。どっちとも言えないような..かなり事実のように感じていた部分もあった一方、それが事実であろうとなかろうと自分が他人を見る目に何か不実なフィルターがかかっている、とにかくそれを解きたい、という動機が強かった。そんな感じがします。

さらに言えば、そうした「人の目」「人の感情」の世界この社会の一部にはあるであろうことは当然認識していた。だがそれを自分の生きる世界として心を「あけ渡す」ようなことは全くなかった。そうした「人の目」「人の感情」の世界に巻き込まれる自分の心を、冷静に見つめるもう一つの目があった、という感じがします。

「人の目感性土台」とは全く別世界に立った思考と感覚が、僕の場合は幼少期からずっと保たれていた気がします。それは「科学図鑑を隅から隅まで眺めるのを楽しみにした」子供時代、そして初恋の少女に抱いた純粋な愛情の世界が、その具体的な母体だったろうと。
そうして知性思考は基本的に魂感性土台の上で育てていたという気がします。

まこうした話は、「恐れているものの正体を知る」といった感情把握と合わせて、日常の知性思考面の見直しの参考にして頂ければと。
やはり知性思考まで、まず「人の目」「人の感情」ありきで自分のこと他人のことを考える思考になってしまうと、人の目感性土台の上で動揺する感情の克服なんて話は、まったく先の見えないものになってしまう気がします。


■「人の目」とは「人間としての価値」への視線

このことをより具体的に説明しましょう。
「自然にコミュニケーションできるかという評価の目」は、「事実」としてあるか。自分としてはすこぶる健康な心になったと感じる今の社会経験視点から言えること。

まず、「2種類の人間像」で言う「健康な心の人」、また一般的な社会行動学で言うと「うまく社会行動できている人」は、そんなものは皆無です。そうゆうものでは人を見ません。
一方、「病んだ心の人」「うまく社会行動できていない人」は、そうした「人の目」を気にする一方、自分が人をその目で見ます。

そうゆう形で、「それが事実かどうか」は、ケースバイケースです。そしてこの2種類の人々はやはり同類同士が集まるという傾向にあり、その結果、「病んだ心の人」が感じる「人の目」「人の感情」はどうしても「病んだ心の人」同士において「事実」に傾く傾向があると言えるでしょう。

もちろん接待業など「自然なコミュニケーション」が商品そのもののようになってくる仕事だと、そうした視点が評価基準になります。しかしそれは、あくまで「仕事に求められる役割能力」の有無を見るのであって、それを相手の「人間性価値」を品評するような目で見るのではない、ということです。

こうした「人を見る視線」のあり方の違いは、さらにこう言うと端的になってくるでしょう。
「人の目」イメージとして向けられる「人を見る視線」とは、その人がどう「愛するに値する」ような「人間としての価値」を持っているかを見る目なのだ、と。

魂感性土台に立った「健康な心の人」は、そうした視線を人には向けません。
もし仕事などで人の評価をする立場であれば、あくまで役割能力の有無を見ます。それは「人間としての価値」などどいう大それたものとは別物です。
そして「うまく社会行動できていない人」に対して低い評価を感じるとしたら、それは当人が「これが必要」と感じているものの欠如ではなく、その「これが必要」に心を奪われて、客観的な役割能力を考えることができなくなっている状況について、問題を感じるでしょう。

そうして「病んだ心の人」が、「これが必要」と心を奪われるものが、「人間としての価値」というテーマになるでしょう。

「健康な心の人」はそうゆう目では人を見ません。
では「健康な心の人」も、相手によってより愛を感じたり、愛を感じなかったりする。これはどう違ってくるのか。相手に「愛するだけの価値」をどう感じるかの問題ではないのか。

違います。完全に違います。
ここに、やはり、人間の心の歯車が狂った、全ての根源があるのを感じます。
「否定価値の放棄」そして「不完全性の受容」も、この根源にかかわるもののようです。

僕が「否定価値の放棄」に至った歩みも、この根源へと近づく変化の過程としてあったようです。
引き続きその具体内容紹介。


心理学本下巻に向けての考察-61:否定価値放棄への道-8 / しまの
No.1311 2007/10/07(Sun) 12:32:22

■否定価値放棄への道4:自分が恐れるものの正体を知る

さて、「人の目」「人の感情」というものから、「自分自身の感情論理」へと、僕の意識探求が強烈に推移してきたわけですが、この変化自体、それを促し導いたものは何だったのかという問いがあると思います。
実際、こうした意識変化治癒成長にとって根本的なものである一方で、「人の目」「人の感情」に延々ととらわれ続ける人が多いのが実際のように感じます。

これについてはあまり精緻な考察はできていない感もあるのですが、僕の実感としては、それはひとえに「科学的世界観」にあるような気がしています。
この点で、なかなか変化できない人と、そして世の一般の人を見ていて、僕自身との間に何か決定的な違いがあると感じるのが実感です。

これはまあ実に単純な話で、「人の目」「人の感情」ではこの世の現象を何にも説明できない。それだけの話とまず浮かびます。子供の頃から、多分普通でないレベルで、ものごとの原因を科学的に知ろうとする意識があったかと。
ですから、「人の目」「人の感情」によって動揺する心理障害を抱える一方、「人の目」「人の感情」がどうなろうと自分の問題はどうにもならないという根底意識もあったということになるでしょう。
で、「人の目」「人の感情」が自分の感情を動揺させるということの、さらに底にあるものへの探究心を持った。そうゆうことだと感じます。

この辺、「人の目」「人の感情」がこうなれば自分は幸せに..的な思考法をする人の場合、こうした段階の先どう変化できるかは、ちょっと分からない..とちょっと我ながら無責任のような^^;
「道徳的世界観」というやつですね。

問題は、そうした「科学的世界観」が人間の心に与える根本的影響の本質は何か、ということになるでしょう。
これは極めて大きな話になります。「科学」「哲学」そして「信仰」という「人間知」が人間自身の「心」に与える影響という話です。
これが下巻の結論になるでしょう。これはこの考察の最後に説明します。


■恐れるものの正体を知った時道が開ける

ということで、僕の中で意識焦点が強烈に「自分内部の感情論理」に移った先に、明瞭な変化が起きます。
実はこれは、既に「否定価値の放棄」として考えるハイブリッドの最大中間道標にまで、ほぼ達していると今見ても思われるような変化です。
ただ当時は当然ハイブリッド心理学もなかったので、僕はこの変化が何かをほとんど自分では把握しません。

つまり、意識実践は「自分が恐れるものの正体を知る」として、その先に起きた根本治癒はもはや意識実践ではなく、心の自然治癒力と自然成長力が起こした変化だったということです。
まずはその変化過程を見て、この変化の本質を考えましょう。

ちなみに内容は、今取り組んでいる方にとって実に当てはまる面が多いと思います。まるで今取り組んでいる人のための未来日記のようだと、ちょっとクスクスしながら写した面があります。

1993.3.23 (火)
 朝から何となく寂しい気分につつまれている。きのうスキー合宿から東京に戻り、後輩達と別れてからだ。
 何がそんなに寂しいという理由がはっきりあるわけではない。
“ファミリーな”彼らと自分との違いがあり、それ以上に、自分は本能的に一人でいることしかできない人間であり、彼らとも自然に行動を共にすることができない、という観念があった。それが喪失を意味しているようだった。
 そして次の合宿の車の乗り合い相手を探しているうちに、
自分が最後にはのけ者になる、誰も僕のことを考えてくれなくなる、という観念があるのに気づく。

 今週末の菅平への車の件でTさん(先輩男)とMさん(先輩男)と話をするのだが、心にひっかっかる緊張感のようなものがあるのに気づく。緊張感というよりも、
頭に血が昇るような臨戦体勢とでも言うような生理的変化か。
 これは
一般性のあることだ。会社の自分の席にいて、人から声がかかりそうな気配がしたとき、僕は同じようになる。頭の中では、これから話をする相手が、頭の中で僕のことをどう考えたかのイメージが駆けめぐる
 
当たり前のことのようにコミュニケーションできるかという評価を、人が僕に対して下そうとしているという観念がある。僕の中には、そのような評価は自分が勝ち取らねばならないものであり、それによって自分が人から認められるか、さもなければあいつは駄目な奴だと見下されるのだった。また、それができた時、人から自分の人格が高く評価され、仲間として誘われる、というイメージもあった。
 もう一つの不安。何かの頼み事をした後、
追加して頼み事をすることに屈辱的な状態に陥っている自分のイメージがある。“自分はその人に対して、そんなことを頼んだりする立場の人間ではない”。

 結局恐れているのは、自分が“みじめな状態”になることなのだ。
 そして“みじめな状態”かどうかを判断するのは、自分自身となる。これは全ての問題の大元なのだ。

 
“自信のなさ”が次第に僕の思考の中で焦点となっていた。人々の中で生活していくにあって、自分には自信がないというこの感情。人に働きかけていくだけの自信がないという感情に反論しようとしても、自分の中にはポジティブな要素が何もないように思えた。自分は“無”なのだ。自分は“Nothing”なのだと思えた。自棄的な感情が湧き上がってきていた。

1993.3.24 (水)
 “自分は駄目な人間だ”という観念とのいたちごっこ。

1993.3.26 (金)
 おとといのメモを電車の中で書いてから、
感情の変化があった。著しく「楽になった」のだ。何が変わったのかははっきりとは自分でも認識できず、無意識の中で起こったようだった。
 “自信のなさ”に関する思考をめぐらせているうちに、
自分は結局、根本的なところで何か自分に課した枠を捨てきれずにいたのだと思えた。それは何か、自分の感情のあり方を、人に対して自分を認めさせるためのもののように扱うことのように思えた。その内容をはっきりと認識したのではなかったが、僕はそこに何か不合理な無用なものがあるという感覚を得た。
 その瞬間、がらりと感情が変わったのだ。
 僕はこれを、これからの色々な場面の中で、つまりまだ残っている感情の動揺に対面しながら、見極めていかなければならないだろう。



■異なる2面取り組みの先に「未知」として起きる「治癒」

事実、この時を境にして、僕の中でまた人生の時期の変わり目があったような雰囲気がその後の日記には見えます。「人の目」「人の感情」で日常的に悩んで日記を書くものは激減し、ごく特定場面での特異なそれに限定されていきます。
「デートに奔走」時期はまだ続いていましたが(^^;)、それまでの「下手な鉄砲も」的モード(ハハ^^;)から、「じっくり自分の愛の形を見つめる」モードへ。その分、「愛の欠損」を見つめる僕の心は静かに心の深層へと向かう雰囲気に変わっていきます。

ここでの変化は、何が起きたのか。これはなかなか考察が難しいところです。なにせ、その時の僕自身がはっきりと、「何が起きたのか分からない」と感じているのですから。

まず言えるのは、これは「愛」そして「自尊心」への姿勢という面での「成長」という話とは明らかに違うということです。
むしろ「空想という病理」の解除が起きた、というのがまずは第一印象です。一種、夢がとけた瞬間だったということですね。『悲しみの彼方への旅』での「現実への帰還」のように。

結果としては、極めて良好なものが起きたわけです。自己嫌悪感情が見事に消失し「人の目」「人の感情」が消えたのですから。
ですから取り組み途上の人であれば、これを自分でも成したいと考えるでしょう。でもそう「なろう」として「なれる」ものではない。むしろ、「そうなろう」と考える自分の感情論理を、この例のようにとことん問い詰める意識探求の真剣さが、感情論理の底にある、全く無用と化したパラドックスポイントに到達してそれがはじけ消える。そんな印象を感じます。

「全く無用と化したパラドックスポイント」とは、この例ではこうゆうことになるでしょう。
「みじめな状態」になることを自分は恐れている。なぜなら「みじめな状態」とは、みじめな気分になるからだ。そして「みじめな状態」とは、人がそれを「みじめな状態」だと見るかよりも、自分がそれを「みじめな状態」だと感じるもののことだ。そう感じみじめな気分になるから、実際それは「みじめな状態」なのだ。

一体これは何かと笑えますが、案外単純な話で、「みじめだと思えばみじめだし、みじめと思わなければみじめではない」
実際そうなのでしょうが、そうして人が自分を「良くしよう」と「こう思えばいい」という「自己暗示法」的なものに走った時に、人生の歯車が狂い始める心の罠があります。
「自分に嘘をつく」という心の罠がです。

結局僕が長い心の旅で行ったのは、人生の初期にはまったその罠を、ごく単純に元に戻していった。それだけのことであるのが、ここで取り上げた結果なのでしょう。
「みじめだと思えばみじめだし、みじめと思わなければみじめではない」。そうなのですが、そうして自分が本当に自分の何をみじめだと感じたのかという、人生における深い挫折を、人生の早期において心の底に封印し、そんなものはないという顔をして生き始めるという、心を病むメカニズムがあります。
そうして「現実」から「空想」へと逃避した時、こんどは「人の目」「人の感情」という「空想」が自分を脅かすようになるのです。

僕が行ったのは、その「自分への嘘」元に戻していった。それだけです。自分が本当に自分の何をみじめだと感じているのかを、ありのままに向き合った。

そうすれば事が解決する、というほど単純な問題でもないと考えます。そうすれば事が解決すると考えるのが、「自分への嘘」という罠なのです。
そうして自分が本当にはどう感じていたのかに向き合う先に、その内容をさまざまにした、「人生の損失という現実」が控えています。

果たして人はそれを乗り越えられるのか。僕はそれについて何も言う気がありません。それはただ「命の本性」に委ねるべきことだと考えます。
成し得るのは、全てを「命の本性」に委ねるという価値観と姿勢を獲得することです。それが「科学的世界観」に関係します。
それがあって、「みじめだと思えばみじめだし、みじめと思わなければみじめではない」という実にまあ安直な人生の真実(?^^;)がその真の意味を持つのでしょう。

また、この当時僕が「みじめな状態」として恐れていたものが、それまでの僕のそれなりの社会行動スキル積み重ねによって実体を失っていたという状況もあると思います。
そうした内面変化や現実向上の全てが収束して、ここで紹介した変化が起きた。そうゆうことになるでしょう。

ですから、実践はやはり2面です。外面においてはひたすら建設的行動法の習得内面においてはひたすら自己の真実へ
根本治癒という結果は、もはやそれによって「こうなろうと」意識努力したものとしてではなく、2面の進歩を受けた心の自然治癒力と自然成長力という「未知」によってもたらされる、ということになります。


心理学本下巻に向けての考察-60:否定価値放棄への道-7 / しまの
No.1310 2007/10/06(Sat) 15:21:54

■否定価値放棄への道3:「イメージ」の底にあるものへ

「勢いで外面をうまく」から、「生き方」と「自己の現実」に向きあう姿勢へ。そして「制御不可能な他人の感情」という世界観を脱出する。自分自身へのコントロールを獲得する。

そうして踏み出した一歩は、まず自己の内面論理の把握理解になるでしょう。
「イメージ」を引き金にして動揺していく外面への感情に翻弄されるのではなく、それは自分が何をどう感じているということなのかという、「イメージ」から「感情論理」への翻訳転換とも言えます。

「イメージ」から「自分の感情論理」へという、この別に感情を良くしようとするものでもないこの転換が、「自己の重心」に近づくという治癒成長効果を持っています。
ただし、そこでまず見出されるのは治癒成長の結果ではありません。翻弄される「イメージ」を生み出した、自分自身の苦々しい「感情論理」なのです。

1993.3.10 (水)
 集団行動の中で、
自分の首を絞めているような自分がある。集団の中で、皆と一緒に行動しなければいけないのに自分はそうしていない、という感覚がある。そこでの自分は、自分では行動の選択をできず、“皆の行動に従うしか余地のない”依存的な人間に陥っていた。
 そこには、
内と外で敵に挟まれたような、身動きできない困難な状況があった。僕は依存的な感情に陥ると同時に、皆の行動に合わせなくてはという焦りを感じた。だが同時に、そんな自分の態度は自分にとってあまりにも軽蔑に値するものだったので、気分はさらに落ち込み、さらに自信をなくし、自分は何もできないという気分を強めていたのだ。
 大元の問題は、
集団の中で回りにとけ込めなければならないという圧力にあった。そうできないとき−それは自分の行動、態度、声の調子まで全てを含んでいた−、僕は自分が、協調性や礼儀を失った、親しみのない奴だという非難を受けるものとしてイメージしていた。

 ・・(略)・・

 疲れた一日だった。ずっと被注察感にとりつかれていた。
 最後まで残ったのは、
恐れだった。自信のなさそうな声で喋る時、見えないむちが自分に振り下ろされるのだ。僕はずっとそれを無意識下に感じ続けていた。それは身体生理的なストレスとなって現れていた。
 それは相乗効果を持っていた。僕は、
自信を持っていなければいけなかったから、それに反したことによる罰への恐れが、さらに僕の自信のなさを増幅した

 自分に問うべきことは2つある。一つは,
このような恐れに満ちたときの自分も、表面的な自信に満ちたときの自分も、大きな違いはないのではないかということ。
 もう一つは、自分が何を恐れているのか。そしてそれは
本当に恐れるに値するものなのか、ということだ。

こうして「イメージ」の一枚底にある「感情論理」は、まずは大抵、実に苦々しいものでしかありません。ここで次に進むための心理学視点の有無が明暗を分けるようになってきます。
僕の場合は、さずがにここまで実践を重ねてくると、それがすぐ出てきています。

まず基本的な視点は、「高揚した自己像」と「唾棄された自己像」奇妙なつながりないセットです。
「奇妙な」と言えるのにも多少心理学の知恵が必要ですね。ここで重要なのは、そうした極端に上下する自己像の違いがある一方、「現実」というものは変わらず一種類しかないということです。これは一体何か。

このことに疑問を感じる感覚というのも、実際に体験してみないと表現できない独特な感覚です。それは「空想に支配された心」という「病理」から、「現実を生きる心」という世界への、心の底が動き出し首をもたげている兆候を示しているのでしょう。心理障害の深刻度がまだ強い場合は、「空想から現実を審判する」ことがあまりに自然なことに思え、こうした疑問感が起きません。

一方、こうして自己把握を始めることが生み出す向上効果が、そうした「自己への疑問」を生み出すと共に、「自己への疑問」が精神分析を進ませる基本的な原動力になります。


■自分を脅かす最大のものは自分である

ちなみに、一連の日記読み返し作業中、僕はこの日記にこんなコメントを書いています。
この問いは正しい。「現実」に比べて法外な恐れの強さを減少させはする。ただし、まだ恐れを感じるべきでないものとしている。それが恐れを維持する。

「現実はこの恐怖に値するか」という問いを自らに出すことは、外面出来事への恐怖感を多少は和らげます。しかしそれは恐怖の根本的な解消にはなりません。
なぜなら、彼を脅かしている最大の張本人は、彼自身だからです。

「外面出来事は恐怖に値しない」という認識は、恐怖の解消ではなく、恐怖の真の正体に近づくための一歩だということになります。
実際、それが僕にも鮮明になってきます。

恐怖の真の克服、そして「否定価値の放棄」に至るためには、必ずそこを通らねばなりません。
ハイブリッドを携えることで、それはほんの一瞬で通過できればいいなと^^;


心理学本下巻に向けての考察-59:否定価値放棄への道-6 / しまの
No.1309 2007/10/06(Sat) 14:34:21

■否定価値放棄への道2:「制御不可能な他者の世界」からの脱出

先の日記での内面把握とは、「とにかく勢いで外面をうまく」という生き方の行き詰まりの自覚だと言えます。自分の内面をしっかりと見つめ、自分がいま取ろうとしている「生き方」と、「現実の自分」をしっかりと見つめる。そしてバーンズの言葉にもあるような「生き方のノウハウ」を取り入れる。

次は、そうした「とにかく勢いで外面をうまく」という生き方の中にある根本的な問題をさらに自覚し、それを脱出するという一歩のようです。
「内面へ」という姿勢の変化としては同じ流れにあります。重要なのは、「とにかく勢いで外面をうまく」という生き方が、単にもうそれではうまく行かないというだけではなく、「勢いでうまく」すまそうとした「外面」によって逆に自分が翻弄され自分そのものを見失しなう方向に向かうことへの危機感の自覚とでもいうもんです。

「外面」をうまくすれば人生が良くなると思っていた。でもまさにその「外面」が、今自分を押しつぶそうとしている。
そこからの脱出です。

実際それがどんな意識過程を経るのかを見てみましょう。頭で「外面だけが重要ではない」といった理性思考とは、かなり様相の異なる、独特な面白味のある意識世界の話と言えそうです。

前のものから3か月ほど後のもの。まだデートに奔走時期は続いています^^;
次の一歩の転機どんな意識自覚から始っているのかをまず見てみましょう。


1992.12.12 (土)
 ・・(略)・・
 彼女に電話しようという考えが生まれても確固としたものではなく、結局その気になれないのは、
彼女に電話するときの自分が一体何ものなのかが分からなくなっている感覚があったのだ。彼女が僕に何を期待するかによって、僕は自分が何ものであるのかに、一応はどれでも対応できるつもりではいた。しかしそれはあくまで幾つかある仮定のうちのどれか一つに過ぎず、現実には僕は何ものでもなかったのだ!
 感情の現象面としては、僕は彼女に電話するときの自分の気分や声の調子について、不安を抱いた。それは自分の中の混乱という暗黒に触れることへの不安だったような気がする。

1993.1.18 (月)
 朝起きた時、自分がかなり機嫌が悪いことを感じた。きのうの夜、スキーから帰る時、明日からまた日常生活だと考えた時、同じように嫌な気分になっていたのだ。
 自分の機嫌を悪くする要因は、さまざまとあった。・・(略)・・
 スキーの宿などでも、
何となく否定的で内容の悪い夢ばかり見ていたような気がする。職場で自分の悪評が広がり、中学のときの友人が出てきて、“俺なら1日でやることを1か月かけてやっている”と僕を批判する。自分を高く買ってくれていた以前の上司(実際の誰というのではなかった)から電話があり、そうした自分の悩みを話して何とか気をまぎらそうとする。その直後、自分がうっかり残した仕事の量に焦りを感じる夢。オートバイの事故が起きて、それが次々と電車や建物の破壊へとずるずる連鎖していく夢。
 その他にもさまざまな夢を見た。どれも劇画のようだった。何かの物語風に、場面が次々と変わっていった。家族に関するもの。性的なもの。自分を傷つけようとする他者など。内容はさまざまだったが、どれも、
僕に何か予想のできない出来事がつきつけられ迫ってくるという感じの内容だった。

 今朝僕が自覚したのは、自分は他の人々と親しく接することができるようにと振舞うことなんか、本当は嫌なのだ、ということだった。これはやや自棄的な気分の中でだったが。
 スキーでの相乗りの調整やクーポンの手配などの作業を行っていく中で、人々に接するたびに、僕の神経は疲れていた。疲れた、というよりも、何か自分の神経が細くなり安定性を失っているような感じがあった。その、
神経を震わせていた振動の主題は、自分が人々との対応や会話の中で、どのような雰囲気をかもし出すように振舞えたか、そしてその結果、相手や他者がどのような感情的反応を示したかだった
 そのような“場”の中で、僕はとりあえず“安全”を保つことに向けて緊張させていたのだ。
ちょっとした言動の失敗が、場の雰囲気を壊し、制御不可能な他者の感情的反応を誘発してしまう危険があるかのような緊迫が僕の中にはあった。
 そこでは、自分の感情や気分を左右するものは、外部から湧き出てくるさまざまな出来事として自分に迫り来ていた。僕は
自分が全く受け手にまわってしまっている弱々しい存在になってしまっているような気がした。

ここで生まれ始めている自覚とは、感情動揺や神経疲労の内容テーマもさることながら、「自分のちょっと失敗が制御不可能な他人の感情を誘発してしまう」という緊迫感であり、その中で自分が「全く受身の弱々しい存在」であるかのような感覚があることです。

これは基本的に、「自分と外界との力関係」についての自覚変化と言えます。自分はまるで荒波にもまれる小さな木の葉のような弱い存在だ。その感覚に自ら気づくとは、逆に、現実の自分はそんな弱い存在ではないはずだという感覚が背景に育っていることの現れであるわけです。

ですからここで起きる転換は、単なる思考法の転換ではなく、内面の自然成長力の発現と思考の転換が結びついたものです。
こうした方向性を意識することは、それだけでこの転換を成せるものではないとしても、それが訪れるのを自ら引き寄せる効果があるでしょう。


■「自らのコントロール」という世界観へ

そんな自覚背景は、僕に「世界観の変化」を起こさせたようでした。

翌日のもので、まだこれは「新しい世界観」としてはどんなものかは明瞭ではありません。ただ、今までの、まるで分厚いガラスを隔てた世界にいる自分を遠隔操作して、うまくいかずにどんどん外界が壊れていくというような世界観から、ありのままの自分に一歩近い、「自らのコントロール」を獲得しようとする世界観への変化ということになると思います。

関連性は良く分かりませんが、自分への味方をする夢が先導しています。

1993.1.19 (水)
 不思議な夢を見た。数日前までの何となく不吉な夢とは少し違った雰囲気の夢だった。
 これも劇画のようにさまざまな場面がストーリーとなって流れたものだった。細かいことはあまり良く思い出せないが、動物が主題になっていた。それは誰か人間の化身のようだった。彼がどのように暮らしていたのかを遡るようなストーリーだった。女の子がその動物のしっぽを切って宝物のように大切にしまっていた。動物は僕の男の友人の化身だった。僕は彼のように素直で親しみのあった友人はいなかったと思い、泣くような気分になった場面があった。

 
“世界観”が変わりつつある。と言うよりも変えつつある、のかも知れない。
 今まで僕は、
自分にはどうすることもできない外の世界で湧き起るさまざまな事象によって、自分のあり方が結局左右されると感じていたのだ。それは主に、他人の感情的な反応であったりした。僕自身からの積極的な関与がない上でのだ。だからそれは、あのオートバイの事故から建物の崩壊へと連鎖していった夢と同じように、自分にはどうすることもできない、外の世界なのだ。
 
それは、自分の感情が、その中で生きていく世界ではない。

自ら外界へと働きかけ、自らコントロールできる世界を目指す。また、そうできる世界を、自分が生きる場として探す。
そうした世界観になるでしょう。

自らコントロールするためには、まず自分を知ることから始める必要があるわけです。
こうして、内面に向き合うと共に、「コントロール不能な他人の感情世界」を抜け出る意志によって、この歩みが始まったということになります。


心理学本下巻に向けての考察-58:否定価値放棄への道-5 / しまの
No.1308 2007/10/06(Sat) 11:19:18

■否定価値放棄への道1:自己の内面把握へ

とにかく僕が「否定価値の放棄」という大転換をなしたまでの、主な心理変化を見てみましょう。

僕の場合「否定価値の放棄」1997年末頃にあったとして、それに向けた変化らしいものは1992年頃に始まったようでした。ま5年かかったわけですが、何の地図もガイドもなく行き当てたような話なので、ハイブリッドを学ぶ方はそんな膨大な時間が必要という心配は不要と思います。

社会人になり、全てがリセットされたかのような新たな人生が始まり、とにかく外面に専念した人生の時期が始まる。20代終わり頃から、何とか勇気をふりしぼって女性とのデートに奔走。しかし長く続くものはなく、僕は次第に再び自分の内面に向き合うようになって行きました。
デビット・バーンズ『いやな気分よさようなら』に出合ったのもこの頃です。それもあり、かつてのホーナイ精神分析にバーンズ流の前向き思考を加えた取り組みが始まったわけです。31歳の頃でした。

まずは、自己取り組み再開という段取りですね。

1992.9.23 (水)
 ・・(略)・・
 精神的には、少し変化があった。。先日の日記を書いた頃から、僕は自分の心理状態をまた細かく分析し始めた。多くの感情やイメージが消え去ってはおらず、お互いに絡み合っているように思えた。本格的な感情やイメージはそのうちのどれだろうと、また認知療法の本を読み返したりしながら、こんなメモを書いた。
 ・・(略。内容は心理メカ要点の列挙)・・

 そして結局気づいたのは、一番本質なのは、自己分析して見つかった個別の感情やイメージのどれかというよりも、自分の心理状態の中の悪い面ばかりを、自分が見ようとしていることだった。
 僕には、自分が結局、自分の性格を気に入らなかったのだと思えた。自分の中にある泣きたい気持ちは何なのかと問い詰め、楽しむべきときに楽しめない自分の心理の束縛を嘆く。そうしてやがて現れた苦しさは、自分の性格の不完全さを認めまいとしてただ攻撃しようとすることから生まれた焦りだった。
 
その自覚は、僕をかなり楽にした。自分の性格が気に入らなくて自分を攻撃するのはバカげている。自分の性格として陰気なものがあるとして、それが性格ならそれを受け入れればそれでいいことになる。他の人に比べて感情の華やかさは少ないかも知れないが、自分が満足した生活を送っていけるのなら何の不都合もないのだ。

 この月曜から、僕は少し不機嫌だった。仕事への意識が少し混乱していたこともあるし、社員証を落として拾い主と連絡した時の言葉使いの失敗などで、久々に仕事をしていて頭痛が来たほど疲れた。
 ・・(略)・・
 今日午後過ぎ頃まで、僕は何となく無気力状態だった。仕事のことが気になった。と言っても打ち込んで、というより、何か漠然と自分が追い立てられながら混乱しているような気がした。全てクリアーな形で進めることが不可能な状況で、自分に対する詰問ばかりが増えてくるように思え、気が重くなった。

 そんな状況の中で、自分がどうあるべきなのか、
デビッド・バーンズの『いやな気分よさようなら』の中の次の言葉が、僕に深い響きを与えた。「自尊心とは、自分自身の強さと不完全さの両方をしっかりと見すえた上で、自分で行う一つの主張なのです」
 やれることだけやって、あとは適当にごまかしながら逃げるといった今までの意識では、うまく行かない状況になっている。うまくやれていないことの方が、自分の問題に多くなりつつある。
問題があることをごまかすのではなく、それを認めた上で、自分にできることとできないことを、少なくとも自分自身に対しては明確にしておきたい。


■「勢いで外面をうまく」という人生時期の終焉

これは「とにかく外面をうまくすれば」といった一つの人生時期からの転換があった時のものです。結局それではうまく行かない。まあ男の20代後半というのは多くの人にとって「勢い」でなんとかなる時期でもあります^^; 女性の場合も、多少の時期のズレはあっても似た話が出てくるでしょう。
でもそれで人生が最後まで行けることなどないわけですね。

自分の内面を見つめ、「生き方」を考え、「自分の現実」とそれが整合性のあるものなのか、というのを確認しながら、「生き方」と「現実」の双方を調整していく。これが本当の「人生」の始まりです。

上記日記の頃は、僕にとって仕事が質的に変化してきた頃でもありました。それまでの、とにかく自分個人の能力にモノ言わせて、人間的な行動能力の欠如などを回りにも自分自身にもごまかそうという仕事の仕方をしていたと思います。それが、自分より人の作ったものを客に最終提供するような、利害に挟まれるようなポジシションが増えてきた。

そうゆのができることが、人間的な能力なんですね。それはもう「勢いで外面をうまく」という姿勢では駄目です。
僕もようやくそのことに直面する時期を迎えた。で内面取り組みの再開となったわけですが、上記日記で向上変化があったのは、建設的思考法の基本的な取り入れと考えて良いと思います。ものごとの悪い面ばかりを見る思考法の修正ですね。

もちろんそれだけで心の根底まで向上変化できるわけではなく、心の表面からより深いところへの取り組みは、これからになるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-57:否定価値放棄への道-4 / しまの
No.1307 2007/10/05(Fri) 13:57:34

■「人間の価値」という命題へ

もしこれを読んでいる人が比較的健康な心の状態にあれば、先のカキコでの「人相手の感情」と「現実状況相手の感情」の切り分けの後、「現実状況への建設的解決」の方にすぐ関心を向けることができると思います。
相手は自分そのものを糾弾するというより、相手にとって都合の悪い状況の原因に自分がなったというだけのことだ。ならばそれを解決させる方法を自分が用意してあげることができるかも知れない。それが無理なら率直に謝れば済むことだろう、と。

しかし病んだ心の傾向をまだ抱える方の場合、「自分そのものに向けられた怒り」イメージがより鮮明になってくるかも知れません。
それは「存在に向けられた怒り」というような話になってくるでしょう。お前はしてはいけないことをした。お前のような者は存在すべきではない。

かくして、「人間の価値」というテーマに話が移ると思われます。
..とこの大きなテーマに話をもってくるのはちょっと唐突かという感も我ながらしますが、結局ここにくるんですね。

「人間の価値」という大きなテーマが、「人の目」「人の感情」という「イメージ」に形を具現化させてきたわけです。そして思考が一度「イメージ」を起点にすると、それだけが一人歩きをはじめます。外から眺めた自分の姿ばかりが、追い求めるものになる。
そうして一度「イメージ」が追い求めるものになると、「イメージに合わせる」こと自体が目的化します。そもそも何が発端となってそのイメージを追いかけるようになったのかが視界から遠ざかる形でです。イメージに合うと、高揚を感じる。食い違いがあると、抑うつ感が起きる。抑うつの中にいる自分が、イメ−ジに合わないのに焦ります。どうしよう。薬を飲めばいいのだろうか。
そうして、「イメージ」の操り人形のようになった時、人はその代わりに「人生」を代償として失っていることに、やがて気づくことになるわけです。

「人の目」「人の感情」から「現実状況相手の感情」を切り分け、それについては何とか現実的対処をしたならば、あとは「存在に向けられた目」が抽出されるでしょう。
そしてそれを感情分析するとは、「自分はどう考えているのか」を明確にすることです。ただ「こんな目を向けられた!」ではなく、「では自分自身はその目を向けられた自分の何かについて、どう思っているのか」を明確にすることです。

それは「人間の価値」についての我々自身の思考を明らかにすることになるでしょう。
そしてこの先に、「否定価値の放棄」そして「不完全性の受容」という、我々人間の生き方を根本から変える、ハイブリッドの大きな道標があり得るわけです。


■「命の本性」への答え「否定価値の完全なる放棄」

さて「否定価値の放棄」というハイブリッド最大の道標について、いよいよ最も精緻な考察をしますが、まず言えるのは、これは小手先の思考法で成すことではなく、自らが生きるということについての根本を突き詰めるという探求の先に、「命の本性の開放」とも言えるようなこととして成されるものである。そんな印象を感じます。
つまり、「否定価値の放棄」そのものは思考法の問題ではなく、心の自然治癒力と自然成長力の一つの発現形態として起きるようだ、ということです。

これはここ2日ほど、「否定価値の放棄」への細かい道のり頭で考えてもどうも答えが見えず、自分の日記を読み返して「否定価値の放棄」に至った前後らしいものをピックアップしてみて感じたことです。
それを見ていくと、どうやら僕の場合1997年12月16日(火)にそれが起きたらしい。36歳当時ということで、社会人としての安定感出現も背景にあってのことのようです。

僕はその時「否定価値の放棄」なんていう概念を持たなかったので、実に目の前的な問題への発想転換があったことを実に短くメモしていただけで、それもあり今まで「否定価値の放棄」について書いた日記部分がないような奇妙さを感じていたのですが、確かにその一瞬に人生が一変したような雰囲気が書かれていました。

ということで、そこに至るまでにあった僕の内面変化をちょっと考察しておこうと思います。それが「否定価値放棄のメカニズム」序論的指針となり、これからの人が僕より早くそこに至れるようになるのを期待する次第です。

ということで、次のカキコから。


心理学本下巻に向けての考察-56:否定価値放棄への道-3 / しまの
No.1306 2007/10/05(Fri) 12:46:10

■「どうすることもできない」意識破綻の中に消えるのが「人の目」感情の解決

「人の目感性土台」で動く動揺感情への対処についての話です。
まず非行動化の原則ですが、その先についての理解が重要です。

「こう見られる」「どうしよう」「何とかしなければ」という破滅感を行動化してしまうと、まずほとんど例外なく、まさにその行動化によって、現実的に破滅的な結果を招きがちです。これはまあ、その「相手にもたれかかる」行動が相手からのさらなる嫌悪怒りを買い、さらなる非難を受け、さらなる精神動揺で、さらなる「相手にもたれかかる」行動に走る、ということになるからと言えるでしょう。

これを非行動化すると、一種の「自分は破滅だ」的感情が流れます。つまり行動化して現実を破滅させる代わりに、意識だけが破滅するような感じになる。
心理障害傾向が強いケースでは、これが「自己操縦心性の崩壊」として「巨大な絶望感」におおわれるという、根本治癒現象につながります。

意識土台が次第にしっかりとしてきた場合、また最初から比較的問題の軽い方の場合、より心理学的な知恵を使った対処法を考えてみるのがいいでしょう。
その本質は、自分が置かれた問題に対して、まず外面行動については人の目感性土台を使わない対処法を進めるということです。その一方、自分の中に見える人の目感性土台での心の動きはしっかりと感情分析して自己理解を進めます。そうして外面行動においては事態を解決に向かわせる一方で、出口のない人の目感情は心の中で破綻の中に消え去るのを看取る、というのが最終解決の姿になります。


■「抜けるが勝ち」の「人の目」感情世界

まず、「こう見られる」「どうしよう」と動揺する場面とは、いずれにせよ対処の必要な状況に置かれたのは事実なわけで、外面行動においては人の目感性土台を使わない建設的かつ健康な心を向いた対処をすることが大切です。

そのためには、まず「人の目」感情を向け合う世界から抜け出すことが重要です。「人が人に向ける感情」の応報世界から抜け出すことです。

なぜ抜け出すのが重要か3つの視点を、10/2「考察-53」2つ目まで説明したままでした。
そこでは心理学サイト掲示版でのやりとりなど例に出しましたが、「人の目」感情の応報は、大抵の場合、自分の愛情要求を高く評価し、相手がいかにそれに応えるかを批判のまなざしで見るという、病んだ構図になりがちです。

第三者がそれを「もっと大人の議論をしましょう」と諭しても、やはり変な方向に行きがちです。なぜなら、そこで問題になるのは、「人の心」がこんなものだと、「心」をまるで「もの」のように人間から取り出して陳列させ品評の目を向けるという、それ自体がイメージの一人歩きの病んだ空想世界につながっていくからです。
そこには、「心」というものをガチガチに硬直した静止画で捉える、病んだ思考の世界があります。

そうした世界からは、基本的に「抜けるが勝ち」というのが行動学です。もしそうした人の行動を方向修正させてあげたいとしたら、いったんその論議の場を抜けたあとで、一対一で話すのがいいでしょう。そしてそうすることが有益になるのは、かなり親しい間柄である場合だけに限られると思います。

なぜ「抜けるが勝ち」か。これが10/2「考察-53」で話し漏れた3つ目の理由です。

それは、そうした「人相手に向ける感情応報」の姿を、「心の健康な人」は黙って見ていて、そうした行動をする人への信頼感を低下させているからです。「心の健康な人」がそうした論議に加わらないのは、無神経さや鈍感のためではなく、加わることが心を病む姿であることを本能的直感的に感じているからです。そして、どうすることもできないのは多少もどかしく困惑しながらも、「人相手に感情を向け合う人」を、自分が共に行動する相手ではないという一線を引く姿勢を持つことになります。

ですから、「健康な心の世界」で生きたいのであれば、抜けるが勝ちです。
「病んだ心の世界」で生きたいということであれば、話は別^^; 引き止めはしません..ハハ^^;

ネットの掲示版「心の論議」がなされる場合、それは基本的に「心を病んだ世界」のように感じるのが僕の実感です。健康な心に向く話しが出ているのを見たためしがない。というか、健康な心に向くとしたら、そこを抜けている。
ですから、そうしたネットの掲示版の類を、「普通の人がどう考えるのか」の参考にするのはまず誤りです。普通の人はそうゆうの見ないの^^;


■感情応報の問題を「人相手の感情」と「現実状況相手の感情」に切り分ける

より実践的な行動学を説明しましょう。「抜ける」では済まない場面もあるわけで、感情応報もある問題場面に、「人の目感性土台」を使わない対処法をします。

キモは、取り上げられた問題、そして向けられた目や感情について、「起きた現実状況」に向けられたものと、「人そのもの」に向けられたものを、切り分けることです。
そして外面行動においては、「起きた現実状況」に向けられたものとしての人の目や感情には建設的な対処を心がけます。一方「人そのもの」に向けられた目や感情は、空想の中のイメージとして、このあと説明する感情分析を行います。


なぜ「人そのもの相手」と感じた感情は感情分析するのか。
内面のメカニズムがあるからです。自分自身の来歴を通して深く残り続けていた問題のメカニズムがです。その自己理解は治癒につながります。そして治癒が起きたとき、「人そのもの相手」と感じた感情が消えます。

それをするかどうかは自由です。「人そのもの相手」感情を「事実」と考え、どうそれに対処しようかと画策して、人に自分の目と感情を向け返し、何かの自分を演じるという、今までの人生でやってきたことをそのままやってもいいのです。
それとは根本的に違う世界があるのを、ハイブリッドでは説明します。それは脳が根本から変化し、この世界と調和することができ、人から向けられる理不尽な目や感情というものなど、最初から感じることもない世界です。
それを選択するかは自由です。


■「人相手の感情」と「現実状況相手の感情」の切り分け例

「人相手の感情」と「現実状況相手の感情」の切り分け具体例を説明しましょう。

これは相談メールへの返答アドバイスも兼ねてここに書いちゃいますが、「自分の失敗に人から向けられる怒り」を例にしましょう。こんな感想もらってます。比較的些細な、まあ自分がちょっともたついたような場面などの話として。

>>まず「失敗すると人から怒りを向けられる」は「空想」でしかないことをどう認識するかですね。
>100%事実かどうか分からない、でも空想とはとても思えない。限りなく事実に近い空想と考えます。

こうした「人から向けられる感情」イメージは、多少現実的な背景状況もあるので、まずその「空想病理」性を本人は疑うことができないのが大抵です。その点僕の「空想でしかない」という言葉はあまり本質をついていない^^;
実際そうしたイメージには何らかの空想病理性が含まれるのですが、その克服はかなり紆余曲折した取り組みの先で可能になります。

まずは「人相手の感情」「現実状況相手の感情」の切り分けです。
自分がちょっともたつく。エレベーターや電車の乗り降りとか。すると相手から怒りが向けられるイメージが湧いた。
まあ実際相手は怒ったかも知れません。

そこでイメージした「相手の怒り」は、自分が原因となった現実状況に向けられたものか、それとも自分そのものに向けられたものか。これによって、人間行動としての様相がかなり異なってきます。
前者の場合、相手は特別に急いでいたかも知れません。で「ちっ」と苛立ちを感じたようだ。ただそれ以上特に怒る様子ではない。
後者の場合、何か恨みのこもった感情を自分に抱いている。下手すると危害を加えられるかも知れない。

このように、単に「自分の失敗に怒りが向けられるイメージ」を取り上げても、それが「現実状況」に向けられるものと捉えるか、それとも「人そのもの相手」に向けられるものと捉えるかで、大分話が違ってきます。

「現実状況」に向けられるものと捉えるのが良い、ではありません。相手の様子でその区別ができるのが、健康な心です。感情の動揺を感じることなく、です。
もしそうした些細な事で恨みを抱くような人間がいたら、その人はかなり心を病んでいる可能性が高い。ちょっと距離を置くのが得策になるでしょう。
そんな様子ではないのだが、自分に恨みのような怒りが向けられる、ありありとしたイメージがある。この場合、病んだ心の部分が自分の中にあるのを分析することができます。

まずこうした「現実状況相手の感情」と「人相手の感情」の、「心の健康」という観点での大きな違いを意識することが重要です。
その違いを踏まえての実践の続きへ。


心理学本下巻に向けての考察-55:否定価値放棄への道-2 / しまの
No.1305 2007/10/05(Fri) 00:14:40

■「人の目感性感情」の非行動化

「感情と行動の分離」の大枠は、「感情を鵜呑みにしない」でした。そのため、外面行動と内面感情をいったん分離して、外面行動は建設的なもののみにする。特に、破壊的感情を非行動化する。その代わり、内面感情は開放する。

こうして「建設的であること」という基本的な指針に、今度は、「心の健康へ向かう」という指針を追加することができます。
「魂感性土台」「人の目感性土台」という、頭だけで考えての話ではなく、実際の「未知」の体験を基準にしてです。

「自分に向けられる人の目」「自分に向けられる人の感情」という強いイメージを引き金にした「人の目」感情は、鵜呑みにしない。また、非行動化します。

「こう見られるのでは」「こう思われるのでは」「どうすれば」という動揺の中にいる自分を感じたら、まずは「どうにもしない」ことです。
その「人の目」感情にはどうにもしない代わりに、この状況を一次元高くから把握する心理学思考で対処します。結構高度な実践になってきますね。


■「どうにもしない」意識破綻を流す

まず、比較的深刻な心理障害傾向から歩んできたケース向けに、一番手っ取り早い(?^^;)話からしましょう。

「こう見られるのでは」「どうすれば」という動揺の中で、「どうすることもできない」という袋小路の絶望感を感じるのなら、むしろ積極的にその袋小路に突入して、思考をそこで破綻させてしまうことです。そして思考をストップさせる。「思考の断絶」に入ることです。
これは「意識の破滅を見取る」という実践になります。

これは要は心性崩壊の谷間への突入です。

深刻なケ−スから「魂感性土台の体験」にまで至った人であれば、「未知」はほぼ例外なく心性崩壊の谷間を通過した後に訪れていることが、もう実感としても分かるはずです。
実際、脳のレベルでの根本的な治癒の原理はこれであり、これは最後までそうであり続けます。ですから、「こう見られる」という破滅感が深刻であればあるほど、むしろ早めに(^^;)その意識破滅を通って障害の軽減化に向かうのが望ましい話と言えます。

それが「望ましい」なんて言ってられるようなものではない、「精神の死」に向かうことであるのは重々承知です。もし頭が働くのであれば、次に説明する、より積極的なアプローチを試してみるのもいいでしょう。
しかし考えるべきは、今までの人生で「こう見られるのでは」と画策して自分を別人へと仕立て上げようとしたことが、どれだけ自分を窮地へと追いやったかです。

そうした不実なストレスの根源は、「意識の破綻」という形の中でしか解消しないメカニズムがあります。その意識破綻を避けようとして、「どうにかしなければ」と行動化することが、「現実を破綻」させてしまったのが今までの人生といえます。それを「どうすることもできない」ことを受け入れ何もしないことで、「現実」は維持されたまま「意識」だけが破綻します。その後に、「未知」が現れます。

今の自分は死に、自分の未来をその「未知」に委ねることです。

「人の目」感情の最終的解決はその形になります。あとは、いかにそれを自分で分かりながら迎え、より痛みが少なく通過できるようになっていくかです。
「人の目」感情を鵜呑みにしないという次の実践方法は、より頭が働く時に活用するものになります。それも結局は、「意識破綻の中に看取るべきもの」を見分けるというのがその本質になるのでしょう。


心理学本下巻に向けての考察-54:否定価値放棄への道-1 / しまの
No.1304 2007/10/04(Thu) 16:02:16

さて、「感性土台の違い」から見えてくることを詳しく考察してきましたが、この先の「否定価値の完全なる放棄」に至るまでの過程について、ちょっと駆け足モードにしたいと思います。そろそろ下巻原稿のまとめに移らねばということで。
「否定価値放棄への道」と副題つけて。


■「感情と行動の分離」新たな枠組

まずを更新しましたので、参照頂きながら説明しましょう。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro16.jpg

今まで体験しなかったような「魂感性土台」を知ったならば、そこから分かることを、ハイブリッドのスタートからの大原則であった「感情と行動の分離」に加味します。
「感情を克服したいのであるからまずは感情を鵜呑みにしない」において、どのように「鵜呑みにしない」のかの知恵を追加するわけです。
「人の目感性土台」で動く感情を、鵜呑みにしないようにします。

実践上は、次の3つの方向が言えそうです。
1)「人が人に向ける感情」の世界から抜け出る
2)「人の目」イメージに「どうすれば」と動揺する感情には「対処しない」意識破滅を流す
3)全ての感情を自分内部で起きているものとして感情分析する


ちょー短いですが、かなり錯綜する視点を整理の上言葉を選択しており、いったんカキコして、それぞれについて説明します。


心理学本下巻に向けての考察-53 / しまの
No.1303 2007/10/02(Tue) 11:16:55

「抱き続けた信念からの目指すものの変化」という骨子について、もうちょっと具体的な例を出して考察して行きます。
病理からの治癒」と「自立への成長」という2つのベクトルがクロスします。


■「心の自立」と「原理原則思考」

ここではまず「病んだ心の人」型の行動になるものと言える、社会への怒り批判具体例から紹介します。

以下は某有名な心理学サイトの掲示版より。
===============================
内館という人が朝青龍にやめろと言っているようです。 そうしてそれが普通の企業のやり方なんだそうです。
なるほどねえ。。。うつ病になったらポイ捨てですか。 そりゃあ自殺大国ですから!これが当たり前なんでね!
・・(中略)・・
日本が悪いのです!ということは?そう、あなたが死んでやるべきではないといっているのです!
===============================


ここに表明されている「信念」には、その50「病んだ心の人」の「知的思考」として指摘した、「自分の愛情要求と怒りを高い精神性として評価している」というのが表れていると思います。
親が子供を誰よりも大切にする様子を、個人と個人が対等であることを前提とした社会を見る基準にしています。「捨てられる」「死んでやる」が、親の目を前にした子供の感情を代弁する言葉であろうと。

これは「心の自立」が妨げられた思考の世界です。つまり「成長」というテーマの問題です。
「心の自立」が果たされ、「愛されれば安全」的な思考ではなく、「自らを守る」という思考においては、まあこの話は「捨てられる」ではなく「特定の処遇を受ける」という問題であり、「死んでやる」という問題ではなく(^^;)、「異議申し立て」の問題ということになりますね。

「2種類の人間像への行動学」は、「魂立脚の原理原則思考」だとも言っているわけですが、上記は「原理原則思考」という側面に該当します。


■「人の目感情は向けず受け取らない」という「建設的行動法」

今話している「行動学」は、「感情と行動の分離」での「外面は建設的なもののみ」という大枠に、「魂感性土台」を視点を加味したものという位置づけです。つまり「建設的」に、「健康な心へ向く」というのを加味しているということです。

「原理原則立脚型行動法」は、「社会で優れるため」の行動学でした。これに、「心の自立」の導きという意味合いが加わってきているわけです。
「建設的対人行動法」は、「良い対人関係」のための行動学でした。これに、「治癒」の導きという意味合いを加味したものが、この新しい段階で取り入れる行動学の完成形になります。
「治癒」は「イメージ圧力の減少」です。ですから、「人の目感性土台」を前提にした感情は人に向けない、また受け取らないというのが原則になります。

「受け取らない」というのは、「自分に向けられた感情」というイメージ感覚を振り払い否定しようとすることではなく、それを現実の他者との関係のことではなく、自分自身の心の中で起きていることとして扱うということです。

例として上に紹介した心理学サイト掲示板での言葉に対しては、ありがちですが、それがあまり前向きな言葉ではないことへの注意コメントなどがかかれ、自らの言葉を否定されたと感じた元の発言者がそれに反撃する、その様子を見た第三者が両者に注意コメントする、という、「批判応報の同心円的拡大」とも言えるものがちょっと見られました。

とりあえず雰囲気だけということで断片的抜粋ですが、
===============================
第2の人> 発言を批判したいなら“鬱病の人にそういう発言をしてはいけない”とか他の言い方もあると思います。
第3の人> 私は、だんだん第2の人に怒りの矛先が向かっていく場面で怒りの矛先が「すりかえ」られてきているんでは・・・という思いがよぎります 杞憂でありますようにと願っています
===============================


まあハイブリッド推奨の行動学では、こうした注意や懸念コメントの全体が、あまり有益なものではないと考えます。
主に3つの考慮点があるかと。

1)「病んだ心の世界」にしかならない場

まず基本的に、こうした論議の場は「病んだ心の世界」にしかなり得ないと感じます。大元が、心の成長にはなり得ない、「自分の愛情要求の高い評価」の表明が動機のような場です。心の自立をしてない自分の心を自慢するような場です。

こうした「場」に、誰もが持つ「病んだ心」の部分が惹かれるというメカニズムも理解しておくのが良いでしょう。「私はこんな理想を抱いているんです。どうです。すごいでしょう。ぜひ私を尊敬し愛しなさい」と言いたがるわけです。
それが今まで、何か人生のゴールを描いたかのような魅力あるものに感じた一方で、結局はそれが自分を「人の目」「人の感情」の圧力に押しつぶされる現実しかもたらさなかったことを、思い出すのがいいでしょう。

2)「病んだ心の世界」を「健康な心の世界」へと正すことはできない

そうした「心の論議」の場が、参加者にとって何かを学んだり癒しとなることがあれば、それはそれで良いことだと思います。
しかし、今考察しているような、「自らを守る」「人の目イメージからの脱却」そして「健康な心の世界」「健康な心の人」へと向くことを動機とする段階にあるのであれば、得るものを期待するのは難しくなるのを心得るのが正解になるでしょう。

それはまず上述のように、そうした「場」が持たれる動機が、今目指す方向性とはもともと逆方向にあるということ。
そして次に、「場」が話題にするテーマが「人が人に向ける感情」になることにおいて、それは「病んだ心の世界」としての色合いをいっそう強める方向性が強く働く、ということを知っておくのが良いことです。


■「心の外出し」から「魂の感情への回帰」へ

これも、「人が人に向ける感情」がある世界と、ない世界を思い出すのがいいでしょう。前者は「人の目感性土台」であり、後者は「魂感性土台」です。前者は「人の目」によって生きる世界であり、後者は「魂」によって生きる世界です。

「人が人に向ける感情」が実際にある時、その良し悪しを論議することは、何かとても真摯で望ましいことのように感じる人間心理があります。しかしその時我々の意識は、一気に「誰が誰をどう思っているのか」「人は自分をどう思っているのか」という空想の迷路の世界に向きます。誰がどう空想しているかと、空想するわけです。
これはそこで考えたことの良し悪しに関らず、「病理」へのベクトルになります。

何が「病理へのベクトル」か。「現実」と「空想」の区別があやふやになってくることです。
そしてこの「人の目のイメージ」の空想世界が、「愛されれば安全」という、心の自立を否定した世界に直結します。その結果ほぼ必然的に、その47で説明した「愛されず自尊心を損ない怯える」という感情の嘆きへと向かうでしょう。
上記例で、ごく温厚で中庸の姿勢のような「第3の人」も、そこに迷い込んでいるわけです。

これは「心の客体化」として以前言った話でもあります。「心の外出し」と言ってもいいでしょう。心の病理への基本メカニズムになります。
(2004/11/05 真実への欲求と能力・「心の客体化」と外化)

一方で、「人の目イメージ」のない世界「魂感性土台の世界」になった時、そこで起きていることはどう体験されるか。
恐らく、ただ「悲しみ」だけが流れるような気がします。あるいは、何か「あるべきだった世界」への漠然とした嘆き怒りのようなものが見えてくるかも知れません。
つまり、それは「現実の他人」との問題として起きている感情というよりも、具体的な現実世界とは別の世界で起きている感情という性質を強めてきます。
つまり「魂の世界」の感情になってくるということです。

そうして、問題を、「現実の他人」との間で起きていることではなく、「魂の世界」で起きている自分の感情というものへと捉え直す。
これは「人の目感情は向けず受け取らない」という「2種類の人間像への行動学」としての主旨を超えて、今その転換を論じている「魂への立脚」で成そうとすることの根幹です。

ならば呼び名をつけねば。う〜んということで「魂の感情への回帰」と言いましょうか。


いったんカキコし、「心の論議の場」が建設的でないという3つ目の考慮点を引き続き。
「魂の感情への回帰」という視点も踏まえ、「2種類の人間像への行動学」について話を締めようかと。


心理学本下巻に向けての考察-52 / しまの
No.1302 2007/10/01(Mon) 14:12:02

「2種類の人間像への行動学」のより精密な(?)考察。


■内面変化の前提

この行動学に考えるにあたって、「内面変化の前提」というものが極めて重要になります。
なぜならこれは、「命の本性の開放」のために行う思考の転換だからです。そうである限り、自分の中に「命の本性の開放」として起きる変化を、単に頭で考えてみるのではなく、実際の体験において知った実感を基盤にして考える作業になるわけです。

その「内面変化の前提」には2つがあります。「魂感性土台の体験」「自己の積極的保護」です。

前者は、「人の目イメージ」の圧力が消え、はっきりと他人や出来事を対象にするのではない、漠然とした世界および人々への感情として、「この感情において生きている」というような「魂の感情」において何か肯定的積極的なものが感じ取れた体験です。「開放感」がその代表です。

後者は、「まず理想ありき」から「まず自分ありき」への意識変化です。これは「安全」そして「恐怖の克服」というテーマにおける、自己のあり方の変化と言えます。
今まで、「人の目」を目当てにし、「人の目」の中で理想に近づくことが、自分の「安全」であり「恐怖の克服」だという感覚の中にいたかも知れません。しかし今や、まさにその心の世界こそが、自分の心を窮地に追いやろうとするものであることが感じ取られてきます。それはまさに、自らの「心の自由と自立」への内なる脅威なのです。


■「治癒」と「成長」における位置づけ

上記の「内面変化の前提」がそのまま、方向転換の「治癒」および「成長」における位置づけを示すものになるでしょう。

「治癒」においては、「イメージに支配された心」という病理の軽減です。2つの前提体験のどちらにおいても、まずは「人の目」イメージの圧力が減少し、今までのその疑問を差し挟む余地のない圧倒的な位置づけを減少させます。

「成長」においては、「自立」という命の本性のDNAに刻まれた命題が現れます。「愛されれば安全」と感じるような、親の用意した巣の中にいる世界の中で、「人の目」「人の感情」はあたかも人生における思考の終着先であるかのようでした。
しかし「自立」という全ての命に定められた命題は、どうそこから目を背けようと、「今ここにある自分の本性」として、誰に教えられるものでもなく、意識して目指そうとするものでもなく、現れ始めることになります。

あとは、いつ巣から出る一歩を踏み出すかだけです。そこには、「人の目」という巣を、もはやはるか下に小さく見るだけの、広大な未知の世界が広がります。


■「行動学」としての骨子

「治癒」と「命の命題」にも関る「成長」への根本的な転換にかかわるものですから、その上に立った「思考法」も、根本的な転換を成すものにならなければなりません。
つまりこの行動学の骨子とは、「人の目イメージ」からの開放という「治癒」の命題と、「自立」という心の「成長」の命題を先取り、その方向における心の根底からの変化を導くという役割位置づけを持つものになります。

今までの人生で抱き続けていた信念とも言える思考と、それは180度の転換とも言えるものになるかも知れません。

たとえば「自立」というと、得てして「親への反発抵抗」みたいな話が出がちですが、そもそも「親の目」を相手に自分の生き方をどう認めさせるかを論じていることにおいて、それはまだ「巣の中の思考」であるわけです。自己の自立を問うのであれば、相手は巣の外の広大な世界です。
多くの現代人が、この「巣の中の思考」をそのまま社会を相手に引きづったまま生きています。そして「親の目」に向かうものであるかのように、社会の理想を論じ、怒り、自分自身を見下します。

ですから、この行動学の骨子は、「抱き続けた信念」からの「目指すものの変化」と言えます。

「抱き続けた信念」とは、「あるべきだったもの」であり「それを見るべき人の目」です。そしてそれを生み出した背景が、「自分を守るべきであったもの」という命題になるでしょう。

「目指すものの変化」とは、「現実における向上」です。これが「空想の世界」からの脱却と、「自らを守る」という「自立」の命題を背景にします。

実際にはこの両者の並存になるわけです。人対人として。そしてまた自分自身の内部において。
そのかけ引きと戦いになる。行動学はそれを踏まえて定義できることになります。
その観点でより正確な詰めへ。


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