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2007.11


心理学本下巻に向けての考察-133:「未知」への意志と信仰-25 / しまの
No.1386 2007/11/30(Fri) 11:48:36

■「嫌悪と悪意のメカニズム」

先のカキコまでで、「否定価値感覚」の成り立ちとして、「自立の置き去り」に由来する「4つの幻想」というのを説明しました。
これはさらに、そのさらなる由来である「根源的自己否定感情」その受け取りを拒否した「心」という、「魂と心の分離」の大局構図において、その実際の挙動メカニズムを理解することができます。

これは心を病むメカニズムにおいて自他への「嫌悪」、そしてその中でやり取りされる「悪意」の、大きな構造になります。
この点、心を病むメカニズムの中で人が最も翻弄され動揺する感情の根源メカニズムが、今ようやっとハイブリッド理論としての最終形が完成するということになるかも知れません。
「嫌悪と悪意のメカニズム」と呼んでいいものになるでしょう。

つまり、幼少期に植えつけられるに至った「根源的自己否定感情」を、分離していく「心」は受け取ることができず、そんな「魂の挫折」などないものという顔をして生き始めるという大きな構造の上に、先の「4つの幻想」が発達するわけです。
その中で人が向う思考と感情は、全く皮肉とも言える、良かれと考えて向う先がことごとく悪しき状況を積極的に招く歯車を、自ら一生懸命回す姿になります。

「否定価値の放棄」は、4つの幻想とは全く別世界となる「心の自立」そして「未知への信仰」という方向性を理解し、実践を通した体得を得る中で、この実に不実な「嫌悪と悪意のメカニズム」を理解し、その根核となる「人間価値基準の絶対性幻想」の放棄を問うことによって成される。
これが「否定価値の放棄」への最終的方法論となるかと。

この「嫌悪と悪意のメカニズム」として、今のところ2つの大きなメカニズムが浮かんでいるところです。
一つは「被軽蔑感情の必然メカニズム」とでも呼んでおきます。これは、「こう見られたい理想像」と掲げることで、まさにその理想像を基準にして自分が人から軽蔑されるという感情が起きるメカニズムです。まさに「軽蔑されるための理想」になるわけですね。
もう一つは「被悪意感覚の必然メカニズム」と呼んでおきます。これは、善意により愛されようとすることが、その偽り性を疑う悪意に迎えられるという感覚の必然性メカニズムです。「善意が悪意に出会う必然性」のメカニズムと言えます。

両者とも、全てがこの人の心の中で自動的に起きます。他人は一切何をする必要もありません。ただそこに立ってこの人を見れば、この人は、自分がある理想基準から軽蔑されていると感じるし、自分の善意に相手からの悪意が向けられると感じるのです。


■「被軽蔑感情の必然メカニズム」

まず「被軽蔑感情の必然メカニズム」ですが、説明がやや遠回りになりますが、僕自身が「否定価値の放棄」に至った状況が、このメカニズムを解明するヒントになっています。

つまり、1997年の年末、僕はかなり「現実において生み出す」行動への習熟に伴い、仕事での成果も結構あり、年末人事考課では最高ランクの評価を期待していた。しかしちょっとしたリーダーシップ不足を見られ、そこそこの評価で終った。で僕は「結局自分は何の役にも立たない人間」かという自己否定感情に、ようやく真正面から向き合うことになったわけです。

これが「否定価値の放棄」への転機となったと言えるのですから、これは実はそれで良かったことであるようにも、今としては思える次第です。これは負け惜しみ的な感覚を含まずに、真剣な話としてそんな気がします。もしそのちょっとしたリーダーシップ躓きがなければ(つまり性格に難のある女性メンバー参加という不運^^;がなければ)、僕は最高ランクで評価され、その調子で仕事に一直線に向うので良いのだと考える人生へと進んだかも知れません。そうなったら今の僕はなかった気がする。

そんな経緯があるとして、要は、僕はその直前まで、人に「こんな人間として見られる」ことによって自己肯定ができるようになるのではないかという幻の中にいたということです。これは「自分幻想」です。空想の自分、特に「人にこう見られる自分」という空想を「自分」と感じるという幻想です。
それが解け、というか破れ、ようやく、本当には自分は自分のことをどう感じているのかということを、問えるようになった。

その結果はっきり自覚したのは、自分がある特定の理想基準から、自分を駄目だと断じている、それはもうただそうであることとして、逃れようのない事実としてそうである。それがはっきりしてきたわけです。
僕が否定価値の放棄をしたのはその直後でした。

これはつまり、根底では自己否定しており、その上で「人にこう見られる」ことに依存した自尊心を抱こうとしているという構造です。そのために、「こう見られたい理想」を抱くわけです。
しかしこれは、「人にこう見られる」をとっぱらったらどんな構図になるかと言うと、「こう見られたい理想」を基準にして根底では自己否定するという構図になわけです。
しかし本人はただ「人にこう見られる」ことだけに意識が向くことにおいて、この結果はほぼ必然的に、「こう見られたい理想」を基準にして自分は他人に軽蔑されるという構図になるということです。


実にバカげたとも言えるほど皮肉なことであるのを感じます。人に良く見られたいために掲げた理想像において、まさに人から軽蔑されるという意識を作り出しているのです。

なぜこんなバカげた事が起きるのかというと、「本当は自分では自分のことをどう感じているのか」が全く見えなくなっているという論理欠損がまず原因です。
しかしそれを問えばこれが解消するというほど生易しい問題ではありません。その底には幼少期から抱えた「根源的自己否定感情」および「感情の膿」の直接体験というドグマが控えているからです。これは「心」の「命」つまり「魂」の根幹を揺るがす事態です。

ですから、ここでまず見えてくるのは、否定価値の放棄への道筋として、最後に「自分幻想」を解いた先に「人間価値基準の絶対性幻想」を解くという順序が考えられるとして、これが成せるためには自分を根源的自己否定感情と感情の膿から守るための内面の強さ豊かさが十分に準備されていることが必要である、ということです。
この準備とは、何よりもまず「破壊幻想」を捨て、「現実において生み出す」という生き方と行動を歩むことになるでしょう。


それによって内面の「論理性のない」根源的自己否定感情に充分に対抗できる「論理性のある」この社会を生きる自信を天秤にかける中で、「目指すべきもの」として掲げる「人間価値理想」の「掲げ方」の根底にある根本的な「不実と傲慢」の正体が見えてくる。
これが「人間価値基準の絶対性幻想」であり、これを根底から捨て去るという最大の選択肢が見えてくるということになります。


次に「被悪意感覚の必然メカニズム」について概観し、「否定価値感覚」の成り立ちその放棄についての最終結論へと進めます。


心理学本下巻に向けての考察-132:「未知」への意志と信仰-24 / しまの
No.1385 2007/11/27(Tue) 14:13:43

■「否定価値感覚」によって得るもの

話を「否定価値感覚」の成り立ちから、その放棄を行わせるものへと移します。
これは大枠では、否定価値感覚によって得るものと、その代償として失っているものを実感的に理解することであり、それと、否定価値を放棄して得られるものを理解した上で、両者を天秤にかけるということになるでしょう。

否定価値感覚によって得るものは明白です。「自分は正しい」という感覚です。
自分はあるべき姿をちゃんと知っているのであり、それに満たないものを怒ることによって、あるべき道にあるのだという感覚を得ることができます。

しかし、「正しければどうなる?」という問いの先にある、心の水面下での情動は、そこでは隠されています。
間違いなく、正しく、怒るならば、世界は良くなるはずなのです。しかしそうはなっていないので、怒ります。怒れば、良くなるはずなのです。しかしそうはなっていないので、怒り..。
この感覚を維持して、ずっと怒ります。それが、この人の心を支えるのです。これが人間の心の一つの世界なんですね。

一方、この「正しい怒り」の中にある人を見た時に実に印象的なのは、自分が持つ恵まれた境遇の側面への、見事なまでの感覚の麻痺です。
当然です。その恵まれた境遇の側面は、与えられて当然のものなのです。なぜなら自分は「正しい」のですから。
そうして与えられた境遇の良い側面は当然のこととして、やはり未来を向けば望みが出てきます。意識が未来に向くのであれば、次にそれは自分が正しいことによって叶えられるなずなのです。でも現実は大抵そうではありません。
だから、怒ります。正しいのに与えられないものを見続けて、怒り続けます。

かくして、「自立の置き去り」という、ハイブリッド取り組みの「中期」の後半に射程圏内に捉える内面課題は、ハイブリッド心理学が着目する人間の奇妙に不幸な姿という振り出しの問題を、真正面に捉えるわけです。
「私は正しく、そして不幸だ」という、怒る人間の姿です。

事実、この「否定価値感覚」人生の主原動力として生きた時、そこに現れるのは、不平不満が化け物のように膨張する姿でしょう。


■なぜ「怒るべき悪」は消えないのか

「怒りの有害性」については、ハイブリッド心理学を読んだ大抵の人が実感し、怒りの強度と頻度を大きく減少させた生活へと向っておられます。
しかし根本的に怒りを捨てた人は稀です。実際それについて、現状ではどれだけの人がそこにまで至ったとは言うことはできず、そもそもその段階に至っていれば人生を一人歩きしているので、そのことがもう僕の耳に入ることもない可能性も高く、感触で言うなら「ゼロではないようには感じる」程度の話です。まあハイブリッド自体がまだ駆け出し心理学で世にはほとんど出ていない揺籃期ということで、ハイブリッド心理学の効果実像が見えてくるのはまあ半世紀後(^^;)くらいかとのんびり構えている次第。

まそんな話はどーでもいいとして、ハイブリッドを学んだ多くの方は、「激しい怒り」をなるべく持たないようにと変化します。そして、自分は怒りの無益さを理解したと感じるところまでは行きます。
しかし「穏やかな怒り」については、もうそれをはっきりと「怒り」とは自覚しないまま、その中で生きる生活が、やはり続くことになるのが基本パターンのように思われます。

まあ実際、「怒りが基本」(^^;)である人の様子を実感として感じるのは、日本のTVドラマが流れているのをちらっと見かけた時などですね。「ごく普通の家族の会話」が、何かを真剣高飛車に、何か怒っているように喋っているのが、そのドラマとしての何の出来事でもない背景場面として流れるわけです。僕としては思わず「れれー^^;」と画面を見る次第。
参考例として普段の僕の生活雰囲気など言いますと、ほとんど誰と直接接することもない一人で生活するなかで、口元が緩んでいるのがどうも基本であるのに時に気づきます。あれ僕笑ってらーという感じ。何もないような事柄で結構うすら笑い(^^;)してますね。それだけ見たらちょっとキモいかおバカに見えるかも。アハハ..まこれはどーでもいい話^^;

そして僕にとり、「悪」というものは存在しない。これは重要な論理転換がしっかりあるので後で説明します。

いずれにせと、「穏やかな怒り」がもう「怒り」であることさえ感じないまま、その中にいるのが基本であることと符号して、いつか必ず、「怒り」がそう捨てられるものではないことを自覚すると思います。怒る以外にどうしようもない「悪」というものに出会うことで。
そしてハイブリッドが言う「善悪の完全なる放棄」疑問を抱くでしょう。そんなことが人間として成立するのか、と。この感覚は分かります。ちょっと後にさらに説明を加えますが、「否定価値の放棄」を成してからまだ少しの時期の時、僕自身が「これでいいのか?」と自分で疑問を感じたような面がちょっとありました。

否定価値の放棄」では、そんな基本的な「悪を怒る」という感覚さえ、崩壊するのです。


■最後まで残る「庇護幻想」

一方、なぜ「怒り」「悪」がそこまで人間にとって骨の髄にまで染み込んだ基本感覚であるのか、それを支えるメカニズムがあります。
それは「庇護幻想」の強力さです。自分が基本的に「人の目」によるつながりの中にあるという感覚が、無意識下で人の心を支える強力さです。

これがある限り、人の目の中で、「あるべき姿」をちゃんとわきまえ、それに従うことで生活し、それを損なったものを怒るということは、実に自然なことになると思います。だから「善悪」の感覚があり、正しければ怒るわけです。怒れば、「人の目」によってつながっている世界が、良くしてくれるはずです。しかしそうは現実がなっておらず、怒るわけです。
話が戻りますね。とにかく、正しく不幸でいるのが良いことなのです。

事実僕がこの「庇護幻想」を捨てたのは、ごく最近です。話が膨らむのがまだまだ続くよーという感じですが、その場面の日記を下に紹介しましょう。

つまり、「自立の置き去り」の先に、「人間価値基準の絶対性幻想」の中で、怒ることに価値を感じる「否定価値感覚」が生まれたのですが、それが生み出す怒りや自己嫌悪感情の膨張というマイナス側面を脱する転換として「否定価値の放棄」が成されるとして、これは「自立」を目指すベクトルを原動力にするものではない、ということです。

かくして話は極めて難解になります。実際、それを体験した僕自身が、自分が一体何でこんなになってしまたのかと(^^;)、その理屈が良くつながらずにこうしてあーでもないこーでもないと整理を続けているありさまです。
ただこれはこの先に見えてくる命題も視野に入れれば、おぼろげなまま納得感を帯びた何かが近づいてくるのを感じます。人間の心の成り立ちの構造極めて重要な一面が見えないまま、それを除いた残りで全ての事柄の説明をしようとするから、難解になるのではと。

こうして見て来た人間の心の成り立ちとは、まず「」「自尊心」「恐怖」であり、次に、「自立」とその置き去りの話が出ました。
その先にあるのは、「空想と現実」であり、「善悪」と「神と人間」であり、「不実と傲慢」そして「罪と罰」と「許し」という、人間の心の深奥の世界です。
「自立」が人間にとって結局は不完全なものであり、「庇護の幻想」が最後まで受け皿としてある中で、問われるのは別の命題になってくるということです。


■消えて初めて気づく「庇護幻想」の存在

ここでは「庇護幻想」そのものが消える場面の描写例を、僕の比較的最近の日記から紹介しましょう。
それを紹介するのは、そうして消えたことによって、初めてその存在が分かったような代物だからです。

以下に紹介するのは2005年6月のもので、5月下旬に「渡りに舟」的な早期退職キャンペーン(^^;)に乗り電光石化起死回生的な退職を決め、残りの有給を消化するために6月中旬に定常勤務を終え、ノンサラリーマンモードに入った直後のことでした。
そのあまりに「自由」の生活感覚に、僕自身がちょっと面食らった面があったわけです。それで、これはどーゆうことかと感情分析した次第。

なお、退職を決めた瞬間は、友人で自分で会社を作るに転じた者は「自分が鳥になったような自由な気分を感じたけど、直後に急に恐ろしくなってきた」とか言っていましたが、僕はそれはなかったですね。まあかなりの覚悟の上だったこともあり。
とにかく「僕は野に放たれた」という開放感で一杯だった。
で、一人で自由な生活が本格的に始まった時、あり続けた「庇護幻想」が消える変化が起きたわけです。

2005.6.13 (月)
 今日から
ノンサラリーマンモードの生活が始まったという感じだ。それで少し泣き感のようなものがあった。“何ともつながりがないという感覚を抱えた自分”という感覚が少しあったと思う。喉の詰まり感が少しあり、夕食を準備する頃から、僕はしきりに発生練習を始めていた。風呂に入る頃には声の通りも良くなり、泣き感を伴う感覚は消えていた。

2005.6.15 (水)
 (略。前日火曜に六本木の歯医者や新宿のカイロプラクティックに出かけ、夜は息抜きモードでビールをかなり夜更かしして飲んだことを書いています^^;)
 今日起きたのは10時過ぎ。起きてから、お腹のむかつきと、
世の人達が普通に働いているであろう午前の時間が、そうして何もしないまま消えている自分の状態に、少し情けないものを見る感覚を覚える。これがあるいは実に久しぶりの「自己嫌悪感情」かも知れないと考えたりする。
 遅い昼食の後、メールのフォルダー整理などしている内に、午後3時が近づき、掃除を始めながらこのメモを書いている。
ちょっと泣き感が流れていることもあり、だ。
 この
泣き感は、人や社会につながるような意欲に後押しされた行動の中にある自分、という心の世界のようなものがあり、その中にいるべきところを、自分の不注意か何かのうちに、気づいたら外の場所に出てしまっている自分、という感覚なのだ。思い出すのは、中3か高1の頃だが、大したこともない体調不良で、家で寝ていた時の感覚だ。皆が学校にいるその時間に、何もない家の空間の中で、天井を見ていた自分今の感覚、そしておとといの感覚の中にも、そんなものがあった。
 逆に、そうでない方にあったのは、
「皆と同じことをしている」という感覚だったと思う。あくまで行っている行為は自分の目の前のことなのだが、そうしていることにおいて自分がある集団の中にいるという感覚だ。そして、そうして目の前の作業をしていても、回りに仲間達の姿や気配がなくなると、その人間は作業をしていることはできず、自分がその中にいるべき集団を見つける方に心が向わされる。いつも群れの中で回りと同じことをすることに安心しようとする羊を思い出した次第。

ここで自分の中で浮き掘りになった感覚を「まるで羊」と感じたことが、もはやそれを不要として捨て去る変化が僕の中に起きていたことを表現していると思います。


■「人の目幻想」のさらに先へ

自分がその中で「ちゃんと生きている」と無意識の中で確認してながら日々の生活を送っているような、集団所属幻想があるということになりますね。それは結局のところ、自分が「人の目の中にある」という深層感覚なのだろうと思います。
それは僕の場合も、「否定価値の放棄」もはるかに過ぎたこんな時期まであったということになります。

今ではそんな感覚もなく、少し前に書いたように、無人島の牢屋で自然とたわむれることができれば日なが一日もの書きしているようなのと大して変わらない、大自然の中で一匹の動物が好きな時に起き好きな時に眠るような感覚で生きる今となっている次第です。

それだけ、強力な「庇護幻想」そして「集団所属幻想」、つまるところ「人の目幻想」というものが、人間にはある。
その中で、本当の自分とは別の人間になろうとする自分の嘘を、人は自分で気づくことができなくなる。その中で人間の価値の絶対性の感覚の中で、何ものかに成ろうとする「望み」の中に、人は不実と傲慢を抱えることになるわけです。
そしてその下に、魂が深めた原罪を..。

「否定価値の放棄」とは、それを解消するものではありません。

言えるのは、「否定価値の放棄」を成す前は、逆に、その自らが抱えた不実と傲慢が暴露される恐れによって、「望み」に向うことができなくなることです。そして自ら望むのをやめ、人の目を通して望むという生き方の中で、他人の傲慢を怒るようになるわけです。自分は「あるべき姿」を知っていると。そしてその「あるべき姿」の絶対性が自分に向かい、自分を責めて生きるわけです。
ここに真の不実があるのを感じます。


「否定価値の放棄」とは、これを解消するのではなく、人間の不完全性としての「許し」を用意するものです。
その結果「魂」「望み」に向い、そこで自らが塗り消した自らの不実と傲慢に出会うのです。魂は原罪に打たれ、危機を迎えることになります。しかしそこに全ての答えが出されるわけです。

何か、2重の大どんでん返しが用意されている。そんな印象ですね。
まず最初の大どんでん返しである「否定価値の放棄」を成させるベクトルの正体へと次に目を向けます。


心理学本下巻に向けての考察-131:「未知」への意志と信仰-23 / しまの
No.1384 2007/11/27(Tue) 00:00:28

■「人間価値基準の絶対性」幻想

「自立の置き去り」が生み出した「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」という3つの土台幻想が生み出すのは、「庇護の目の中で怒ることができ愛される自分」とでも言える、人間の生き方における一つの「自己の方向性」のイメージです。

そして「一体化の愛」を願って生まれた魂が、願う通りには愛されなかった怒りというものが、現代社会人の広範囲に避け得ないものとして起きていることを考えた時、この「自己の方向性」が、幼少期に起きた「挫折」の程度に応じた破壊性を帯びて、人の心にまず生まれることになるのでしょう。

一方、それとは異なる、健康な心として回復向上するための「自己の方向性」とは、ありのままの現実を受け入れ、「望み」に向い「現実」にぶつかって行く中で、生み出す知恵とノウハウを学び、全ての可能性を尽くすというものです。

そしてこれが幼少期に植えつけられた「根源的自己否定感情」と「感情の膿」という自己内部の脅威、そしてそれを生んだ不遇が必然的にもたらしている外面的困苦を前に、人間の幼い素の思考では、自分の心に起きていることを心理学の目で理解し、自らを回復へと導くことなどは到底不可能です。

つまり、何の抵抗を受けることもなく、「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」という3つの土台幻想を背景とした人間の思考は、人間の究極的な業ともいえる最終的な幻想へと収束し安定化するように思われます。
それが「人間価値基準の絶対性」幻想です。

これは定義としては、人間そのものが帯びる価値として望ましいと考えられるもの、例えば美しさや能力や性格人柄といった個人価値、さらに人と人の繋がりの姿や家族友人の豊かさといった人間関係の価値、地位や財産や身につけるものや所属する集団などのステータス・シンボル、最後に「人生を生きる姿」といった自己像の高さなど、その「価値内容」のどれに強調が置かれているかはかなりの千差万別において、そうした「人間の価値」が、愛されるための、そして自分を肯定でき自尊心を持てるための条件なのだという、「人間価値」の「基準」についての「絶対性」の確信の感覚です。


■「魂と心の分離」で置き去りにされた命題の合流

人間価値の基準についての絶対性感覚という要素だけを純粋に考えるならば、これは「自立の置き去り」がもっぱら生み出すものとは必ずしも考える必要はなく、自ら望みに向うという方向性においても、「人間の価値」は間違いなく「望みが目指すもの」であり、それが熱狂的な絶対性を帯びるだけの話です。

問題はむしろ、「自立の置き去り」にまつわる、幾つかの根源的命題との結合です。

一つは「庇護」を与えられる条件としての意味合いです。愛され守られるために、その人間価値が絶対的な条件になる。その理想を損なった者は、逆に庇護を剥奪されます。つまりその人間価値は、「愛される資格」条件になるわけです。

これが、「魂の挫折」からつながっています。「魂」は本来、「無条件の愛」を求めたのであり、条件によって愛されるような愛を望んだのではありませんでした。
しかし根源的自己否定感情という受け入れ難い内面を抱えた「心」は、そんな「魂の挫折」を飲み込み、「無条件の愛」を願った悲しみを、人よりも特別な愛を手に入れる「愛への復讐の愛」への野望によって塗り消しました。

しかしこの時、「魂」は深い「原罪」を抱えることになりました。

「自立の置き去り」が残した、大きな命題がありました。「善悪」であり、「あるべきもの」です。
その「人間の価値」があるべきものです。それによって、自分は愛されるべきなのです。
しかし現実にはあまり愛されていません。そして自立を置き去りにしたこの者の「愛」は「怒りに変わる愛」です。怒ることが「愛」と化している傾向があります。


■「否定価値感覚」の誕生

こうした置き去りにされた根源命題を背景にして、人間の不完全性が必要とする「信仰」のために用意された脳の思考領域が、一つの不実な思考を、まるで結晶のように生み出したように思われます。
それが「あるべき姿を損なったものを怒るべき」だという感覚です。

これで、「魂と心の分離」にまつわり、ばらばらな形で宙に浮いたような根源のベクトルが、一つに収束します。
「あるべき姿」とは、健康な姿においては、魂が望む輝きであり惹かれる魅力価値でした。「望み」の感情が殺されたまま、求めるものが形を維持することになります。
それが「あるべき」ものとして掲げられるのは、自立を置き去りにした「庇護幻想」の中で、守られ愛されるための資格だということです。それが満たされれば愛されるべきであり、それを損なった時、愛を剥奪されるべきなのです。
怒りが愛と自尊心になるという「破壊幻想」がここに結びつきます。これは心を病む度合いに応じて破壊的になってきます。
「自分幻想」がここに結びつきます。自分はこの価値基準を知っている。この人間価値基準を知り、それを損なったものを許さず怒るのが自分だ。

かくして「否定できることに価値を感じる」「否定できる自分に価値を感じる」という「否定価値感覚」ができあがります。これは「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」を同時に満たします。

最後に、「信仰の思考」がこれをそのはけ口として選択するわけです。「信仰」とは自己の不完全性を補う、無限で永遠なるもののへの観念です。
その無限と永遠を、自らが選んだその「人間価値」の「条件としての絶対性」に込めることが、この者における「信仰」になるのです。

つまりこれは、人間の不完全性「神」という観念を不可避的に生み出すものである時、自らが神になるという信仰です。自分の思考が絶対であると。ここに「傲慢」が生まれたように感じます。

「信仰」に基本的に2形態があるということになります。
自ら全ての努力と可能性を尽くし、後は神に委ねるという信仰。
もう一つは、自ら努力と可能性を尽くすのではなく、自分が神になるという信仰。


■「人間の価値基準」の一人歩きと遊離蔓延する「怒り」

「否定価値感覚」
とはこのように、「自立の置き去り」が生み出した「庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」を背景にして、「自分は人間の価値基準を知っている」という感覚におけるその絶対性が、「信仰」的な無限の価値を帯びたものというのが、ハイブリッド理論としての結論になるのではないかと考えています。

そのような成り立ちが考えられる一方、成立した「否定価値感覚」は、もはやその成り立ち背景から独立し一人歩きした、実に人間に根源的かつ究極の幻想感覚であるように感じます。

実際僕としてはこの考察を、人が「あるべき姿」というものを抱き、そうでないものは怒らねばならない、と感じる感覚の実に独立した自然さを思い浮かべることから整理して行きました。そこにはもう、それによって「庇護」がどう与えられるかという観念も、「愛」がどうなるか、「自尊心」がどうなるかという観念も、意識の前面には見えなくなっています。

しかし、人がある理想を損なった姿である時、それをことさら怒る必要は、論理的には全くないはずです。少なくともそれによって自分が何の直接の危害をこうむらない限りは。そして実際怒ったところで何も向上しないのであれば。
しかし、人々はまるで惹きつけられるように、「理想を損なった姿」に目を向けます。そして、怒るのです。

その感情の水面下をじっと見つめると、そこに、愛されない悲しみから変化した怒りと、自らの幸福への願いを全てその「人間の価値の基準」に賭け、その姿通りになれば世界が自分を幸せにしてくれるはずだという、出生の来歴における挫折を見返そうとした情念が透けて見えるように感じます。

そんな中で、人間の望みの象徴である「人間の価値」が、その価値意識を抱くことにおいて自分が何ものかでいるという感覚と、悪しきものを破壊すれば良くなるという幻想が結びついた、究極的な人間の業の感覚が、もはや単独感覚化したのでしょう。

それが心の骨の髄にまで染みつきながら、暴走を始めるわけです。「人間の理想価値」イメージだけがその融通の利かない絶対性を帯びながら成長する中で、それに満たないもの全てへの破壊の怒りが自動的に起きるという強力な心の歯車の誕生です。
当然それは自分自身にも向けられることになります。「自己嫌悪感情」です。
これはまさに人間の心の悲劇とも言える業のように思われます。

話を、この不実を自覚し脱却するための視点へと移しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-130:「未知」への意志と信仰-22 / しまの
No.1383 2007/11/26(Mon) 18:49:45

■「自立」を置き去りにした幻想世界

ハイブリッド取り組みの「中期」としては、「魂感性土台の体験」を足場にして、「成長」の根底軸である「自立」へと向う歩みが、やがて「治癒」の根底軸である「空想から現実へ」という転換へと向います。これが成されるのが「否定価値の放棄」です。
この2つの根底軸をつなげるものを整理しましょう。

これはずばり、「自立」という全ての生きるものの摂理命題を置き去りにした心に現れた幻想世界、という話になります。
「自立」という命題を置き去りにしたまま、庇護の下にあった世界の論理を、自立していくはずの世界に向う論理として抱くようになった。
そこに、この人間の心に、「自立」未満の世界にあった論理を映した、幻想の世界が現れていることになります。
「中期」の実践として説明した、「健康な心の世界」を念頭にした思考法行動法は、この内面の幻想世界とはいったん切り離して、外面現実に向う思考法行動法を考えましょう、という話でした。

「自立」を置き去りにした内面の幻想世界と、なんとか「自立」していく「現実世界」という外面。この2つの世界を同時に見据えた時、「否定価値の放棄」を成立させる、極めて重大な心の選択が成される、と考えています。


■3つの土台幻想と1つの究極幻想

この「自立」を置き去りにした幻想世界を、3つの「土台幻想」1つの「究極幻想」という構図で捉えたいと思っています。つごう、4つの幻想からなることになります。
3つの「土台幻想」とは、「庇護幻想「破壊幻想」「自分幻想」です。
1つの「究極幻想」とは、「人間の価値基準を知る」ことにおける「絶対性」の幻想です。これがまさに自己操縦心性を発動させたものの正体であり、「否定価値の放棄」はこれを捨て去ることで成されます。

1)庇護幻想

「庇護幻想」とは、自分が何かの庇護の下にあるという幻想です。

この庇護を用意するために、自分を見る「目」が向けられているという感覚を伴います。これは「人の目」さらに「神の目」というイメージになります。
「善悪」はこの「庇護幻想」ととても強い結びつきがあります。「善」であれば、その庇護が与えられます。「悪」であれば、剥奪されます。

これは3つの土台幻想の中においても最初に位置づけられる、基本的な土台です。「自立」が置き去りにされることの直接的な結果と思われるからです。
そして人間の不完全性は、完全な自立というものがなく、最後には「神への委ね」なりの庇護幻想が、むしろ健康形でもある得るものとして脳にプログラムされていると考えるわけです。
この人間の不完全性が、この後の心を病む方向での幻想への基本的な通り道を用意しているとも言えるでしょう。それだけ、次の幻想、特に最後の「究極幻想」が、人間の一つの業になったという印象を感じます。

2)破壊幻想

「破壊幻想」とは、「怒り」「破壊」が解決になるという幻想です。

これは2つの位置づけがあります。一つは、行動様式としての「破壊」を過大視するという、人間の基本的な愚かさから生まれます。
これを端的に表現したストーリーが『デス・ノート』だと言えるでしょう。まだ見てないんだけど^^; 悪人を抹消していけば世界は理想的になるという発想。しかし現実にこの発想をする者ができるのは、新たな殺人を増やすだけのことでしかありません。

もう一つは心を病むメカニズムにおいて、「荒廃化」を背景にして「破壊」が実に強力な解決策としての価値を帯びてしまいます。
それは他人を打ち負かすという勝利での、「自尊心」の供給源になります。
そして荒廃した心においては、「破壊」が「愛」と化すわけです。この最も原初的な姿は、愛されない悲しみが怒りに変わった猫の話や、愛されない怒りの中にいる幼い子供が癇癪を起し、泣きながらものを壊しつづけるような姿に示されます。

「一体化の愛」への絶望が強固であればあるほど、「愛」対等な一体化ではなく、力づくで得るものと化し、愛されない屈辱が激しいほど、相手もしくは自分を傷つけ破壊することが「愛」を意味するという要素を帯びてきます。
愛されない怒りを直接相手にぶつけることが「愛」であり、自分を傷つけ、自分を見る「目」に罪悪感を抱かせることが「愛」になるのです。
これは基本的に自立が停止され庇護の中にあるという文脈で起きることです。

かくして、相手を怒り破壊することが、「愛」と「自尊心」の「統合された」解決策になるという、人間の心の業の大きな一面が生まれます。

3)自分幻想

「自分幻想」とは、「これが自分だと感じられる空想」を自分そのものだと感じる幻想です。

ハイブリッド理論をじっくり読んできた方なら、これが感情の膿が人格に組み込まれることで起きる「現実離断」において、つまり「現実覚醒レベル」が基本的に低下した意識状態の中で、「自己像固執」という意識状態として起きるものであることを、容易に理解できると思います。
(自己像固執については2006/03/14「自己操縦心性の成り立ち-45:現実離断とは何か-14」など参照)

まあそんな難解なメカニズムがどの程度入り込むかはケースバイケースとしても、人間の不完全性ということでもはや何人たりとも免れないのが、人にどう見られるかの空想に対応した自己像というものです。
結局我々人間は他人との関係の中で生きているのであり、その中で自己の重心を損なった程度に応じて、人にどう見られるかによって自分の感情が変化してしまいます。そして「こんな感情を抱く自分」というのがやはり自己像の一部でもあることにおいて、人にどう見られるかの期待や空想に対応して、「自分はこんな人間だ」と感じる「自分」そのものが変化してしまいます。

これを問題視してどうにかしようと考えることは不毛です。これは人間の本質的な一側面なのです。
問題は、人にどう見られるかが自己像の一部になるという正の側面ではなく、その裏に、根本的な自己否定があり、これをそれで塗り消そうとして、「現実の自分」というものを見ることができなくなるという、負の側面の存在です。


この負の側面を持たない状態とは、魂の感情で生き、自己評価は人の目イメージよりも客観的な実績で行うというものです。
しかしこれだけで生きる完璧人間とは、むしろ「成長」というものを全くとっぱらって最初から完璧な姿で生まれるという化け物です。
健全な姿は、「これができれば人にこう見られる」といった「空想」を本質的一面とする「望み」に向って現実の行動へと向う中で、身をもって自分の現実というものを知りながら豊かにしていくという成長のサイクルです。
問題は、これを止めるものは何かということです。


次の「究極幻想」がその答えになります。それによって、身をもって自分の現実を知り豊かにしていくことをやめる「不実と傲慢」に陥りながら、意識の表面においては自己嫌悪感情と怒りばかりが膨張していく結果が、それによって生み出されます。
この究極幻想のメカニズムとそこからの脱出である「否定価値の放棄」について、説明を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-129:「未知」への意志と信仰-21 / しまの
No.1382 2007/11/26(Mon) 11:59:03

先のカキコに続けて書き始めていたものの、う〜んこれじゃ話がつながらんということでまた整理に数日を要した次第^^;


■「治癒と成長」における「否定価値の放棄」の位置づけ

ということで3日間ほどプリント裏紙のメモを何枚も書きながら結論として見えてきたことは、ハイブリッドの道のりにおける「治癒と成長」の根底軸における「否定価値の放棄」の位置づけです。

「魂感性土台の体験」を足場にして進む「中期」の取り組みは、まずは「自立」という、「成長」における最大摂理と呼んでいるものに沿った、実践の洗練を主眼にするというところまで来ました。
それは自分の脳の中に全く別世界の心の基盤があるという体験的実感を踏まえて、「人の目イメージ」を前に翻弄される自分の今までの感情と自動思考とは、全く異なる思考法行動法を探っていく取り組みです。これは一言でいえば「健康な心の世界」そして「健康な心の人」を目指すことを動機として進むのが良いということになります。

「健康な心の世界」とは、「人の目感情」を向け合わない世界だと書きました。「人の目感情」とは「人の目」というイメージを前提にして飛び交わされる感情です。対照となる「魂の感情」「人の目」を全く前提にすることなく「この感情において生きる」と感じることのできる感情であるのと、全く対照的な、自己の重心を失った感情です。
そうした「人の目感情」は、人に向けない。また向けられても反応しない。自分が「どう見られるか」には心を惑わさずに、「生み出すもの」に意識を向け、それにおいて人とのつながりを持っていく世界です。

それが「心の自立」でもあるわけです。「自ら守る」「自ら与える」そして「自ら愛する」へと。
そして「弱さを認める強さ」を目指す先に、やがて相手の中に弱さを見て、それを思いやれる「愛」が芽生えてくることあたりをもって、「愛における自立」がひとまずできた段階だろうという話をしました。
その次に、「否定価値の放棄」が来ると。その「弱さに向けられる愛」によって「不完全性の受容」ができるのだと。

しかしこの話では不十分さが残ります。これらの流れは主に「成長」の側面を述べたものであり、その先にある「否定価値の放棄」とは、最大の妨げが解決解消する転機になるものだからです。つまり上記の「成長」を妨げる最大の問題が、上記の「成長」の先に解決解消する時が訪れるという話です。
これは一見話が矛盾します。

まあこれは「治癒」と「成長」のどっちが先かという、いたちごっこの話でもあります。実際このいたちごっこがあるので、成長に向けないと治癒が起きず、成長ができないとい悪循環と、その逆である好循環というのが基本的に底流にあります。
むしろより正確には、「成長」に完成はないという「終わりなき向上」という視点から、「成長」が常に不完全なものであるという視点を持つのが正解のように思われます。つまり、「成長」を目指す心の動きが「治癒」を生み、それが「成長」を前進させると。当然、ここでさらなる「成長」を目指すことが、さらなる「治癒」を生むという、終わりのないサイクルが考えられるということになります。

こうした終わりなきスパイラルでの治癒と成長として、最小の単位としては、「次はこんなことしてみよう」今までの自分を超えるものを目指す思考法をして、そして実際にその行動に出る体験の中で多少の感情動揺を経る治癒が起き、そして「未知の増大」を得てさらに思考法が変化していくという成長が起きる、というものを考えることができます。

一方、このスパイラル向上の全体を一つの大きな変化過程で見た時、「成長を目指し治癒が起き成長が進む」という流れにおいて、「否定価値の放棄」最大の治癒節目になる形で、前期−中期−後期という流れになると考えることができるように思われます。

「最大の治癒節目」であるとは、事実、心を病むメカニズムの中に起きた決定打、「自己操縦心性の発動」が思春期に起きたであろうことを逆へと戻すという大きな転換が、「否定価値の放棄」で起きるということです。
ここに、ハイブリッドの「障害メカニズム−治癒メカニズム」という話としても一貫とした完結にできるものであろうと、今回整理するに至った次第です。


■「心の自立」への成長を妨げる「空想を生きる生」からの脱出へ

具体的な話としては、上記の「心の自立」への「成長」という視点では不十分だといったものを埋める話です。

「人の目イメージ」そしてそれを引き金に動く「人の目感情」「心の自立」を妨げるものとして、どんな妨げなのかの先の話があり、今までの話としてはそれが「人間の価値」を問う中にあるものだという話でした。
なぜそんなことが起きたのかの起源を探る中で、「」「善悪」「愛されるべき思考」などが出たわけです。

その先に、「人間の価値基準」への「絶対的確信」とも言える人間の観念が存在します。「否定価値の放棄」とは、それを捨てるものです。
これは同時に、「空想を生きる生」という、自己操縦心性がもたらした基本的な存在様式からの脱却でもあります。

つまり、「魂完成土台の体験」を足場に、全く別世界の「健康な心の世界」への「心の自立」を目指すというのがまずある。それは外面での思考法行動法について「弱さを認める強さ」という視点を中心に学ぶ。

一方、内面向けには、それを妨げた「人の目感性土台」の根底にあった自分自身の「空想を生きる生」の本質を理解するという感情分析が実践となります。
まあとにかく、外面においては建設的であること、内面においては感情の開放自己理解という、最初からの基本枠の一貫ですね。
こうした外面と内面への切り離された実践において、この先にそれがクロスするのが「否定価値の放棄」ということになります。

この最後の部分がまだつながっていないのを埋める話を、具体的にしていきます。


心理学本下巻に向けての考察-128:「未知」への意志と信仰-20 / しまの
No.1381 2007/11/22(Thu) 21:30:15

■3つの脱出ポイント

「3つの脱出ポイント」とは、結局のところ根本変化への転換がどこにあるのか、という話です。
感情と行動の分離」に始まる「前期」、そして「心の自立」という視点で前進する「中期」として説明したのは、「実践」であり、トンネルを掘るためのつるはしやスコップという道具とその使い方の技術の話です。それはそうとして、では今目の前にある、「心を病むメカニズム」という錯綜した岩脈と土壁のどこに、向こうに通じる穴が掘れるのか

これはもう難解な話はなしです。実感的な話です。ただそこに突入すれば、根本変化へ通じる道が掘り進み始めます。
またこれは、ハイブリッド取り組み自体が得てして「人の目の中でこんな人間に」という動機の中で進められ、まるでその期待とは違う方向に必然的に行くことになる中で、「もうどうしていいか分からない!」とサジを投げるような状況でまさに見えるものになります。

それが、人生をかけた転換への3つの入り口になるわけです。あとはそれを好むかどうかの選択が現れることになります。ハイブリッドの細かい説明は、それを支えるものであるに過ぎません。また相互に掛け合わせが出てくるのが複雑なだけです。
」「自尊心」「苦しみと恐怖」にそれぞれ次の転換

「愛」においては、幼少期において「生からの拒絶」を受けた悲しみと嘆きを、そのまま開放し流すことです。怒りは行動化せず、ただ見つめることです。これを通ることなしに「愛」の変化を考えることは不毛です。
これは「開放」という、自然治癒力自然成長力への触媒です。

「自尊心」においては、自分を脅かすものへの反撃攻撃ではなく、できるだけそれには反応せずに、「現実において生み出す」ことに生き、その中に自尊心を見出すことです。
これは「成長」基本方向性です。

「苦しみと恐怖」においては、自分を本当に脅かしてるいるものは何かを見極めることです。それは間違いなく自分自身です。間違いなくというか、その事実が見れるようになるための手助けをハイブリッドは提供するわけです。
自分を本当に脅かしているのは自分自身であれば、もう自分で立ち上がってその脅威と戦うしかありません。
これは「自立」という根底命題です。


今まで「根本変化」どんなものかという話は結構してきたと思いますが、その結果イメージ取り組み実践の話がちょっと離れており、いたずらに根本変化の結果ばかりを追う轍がありがちですが、この3つが入り口という話は分かりやすい整理だと思いますね。
結局この3つを通らないと、変化が起きない。

なぜそうなのかというメカニズム、どのようにしてという実践、実際これが起きる前後状況といった諸々はさんざん書いてきたのでここでは省略。あとは本の方で全体整理します。

こうした根本変化の入り口の先に、「否定価値の放棄」でテーマになる一連の論理転換があるということになります。
何とか最終結論を出せるかと。それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-127:「未知」への意志と信仰-19 / しまの
No.1380 2007/11/21(Wed) 23:40:11

ハイブリッド理論最終構図をざっと説明するのと、説明未了の解説。


■「魂の挫折」が見えなくなり現れた「存在への否定攻撃」世界

まずハイブリッドが何を問題として取り上げるのかと言うと、「魂」が受けた「生からの拒絶」という、幼少期の根源から始まる諸々の心の問題です。
一体化の愛」を願って生まれた魂は、「生からの拒絶」を受け、悲しみと嘆きと怒りを抱きます。同時に、根源的自己否定感情感情の膿が、もはや意識がそれに触れることから逃げるしかない、自らの中に抱える本当の脅威として心の底に植え付けられたわけです。

しかしもの心ついた学童期になった時、それはもう見えなくなり、それが起きたということさえ分からなくなっているような心の平静が、「魂の挫折」とはまるでつながりのない形で現れます。
その代わりに、もの心ついた幼い「心」は、この世界には何か「人間の価値基準」があり、それに劣った時「存在への軽蔑と怒り」が向けられるのだと解釈する意識を抱きます。一方その「人間の価値基準」を満たした時「存在への賞賛と愛情」が向けられるのだ、と。

「愛されない屈辱」の度合いに応じて、この子供の心に、自分がこうむった苦しみを他に与えることに快を感じる「荒廃化」が起きていることが考えられます。理想通りになることをしくじって、「存在への軽蔑と怒り」を向けられる他者を見ると、「いい気味だ」と感じます。自分にそれが向けられるのは恥辱です。

全てがここでもうすでに始まっています。
この世界「存在への否定攻撃」が向けられるか、「存在への許し」が向けられるかの戦争の世界です。自分より劣った者に「存在への否定攻撃」を向けることのできる力を目指します。しかしこれを目指した者は、それを必ず自分自身に向けるように定められているのです。

回りの人間からは、この子供が心を病み始めているとは分からないまま、見えるのは、「理想をめぐる賞賛と軽蔑」という人間にとりごく自然なテーマへの、健康な心の過程にある者と、病んだ心の過程にある者との、大きな違いです。
前者は理想に近づくことを、向上への努力として楽しむのですが、後者は、まるで絞首刑への審判を受けることであるかのように、ストレスを感じ、それに耐えられずに自らそれを放棄してしまいがちです。そして理想に近づくことのできない自分に、世界から「存在への軽蔑と怒り」が向けられてくると感じます。

なぜこんな違いが出てくるのか、本人は最初は「性格」の違いだと考えます。そしてそんなマイナス性格になったのは、親に愛されず否定されて育ったからだ、と親と世界を憎むようになってきます。しばしば世の心理学が、「悪いのは親」と、この憎しみを支持するかのようなありさまです。


■「愛されるべき・はず」の破綻とターニング・ポイント

「愛されるべき」「愛されるはず」という絶対思考メカニズムを、この「存在への否定攻撃世界」という意識枠で説明します。
障害メカニズムの話は手短にして、話をすぐ解決への方向性へと移しましょう。

「愛されるべき」だと感じるのは、まさに「愛」を気高いものとして求める気持ちにおいて、「愛されるべき」だと感じるというメカニズムになるようです。
これは一面では真理に基づいています。確かに「愛」はそれを求めるもの同士の間において基本的に生まれるからです。
しかしそこに「べき」という絶対性が加わった時、どこかにズレが起きています。愛を願って得られなかったこの世界において欠いているものを、この自分が求めている。そこにおいて、愛を求める自分はそれを求めない他人よりも気高い存在なのだと感じます。だから、他人は自分を気高い存在として、賞賛し、愛するべきなのです。

そして人との信頼関係への「気高い意志」を自分が持てていると感じた時、それによって自分が「愛されるはず」だという空想が描かれます。確かにそれによって人に近づくことが可能になるという面もあります。
しかし期待したような暖かい反応が人から返ってきない時、「なぜ愛されないんだ!?」と、得体の知れない悪意に出会ったかのような感覚に襲われるわけです。それは自分に、人から愛されるに値しない根本的欠損があるという不安を、相手が悪意で突いてきたのを見るかのようです。

もしこれが相手の悪意ではないとしたら、自分が何か間違いを犯したということになります。それともやはり相手にひどい悪意があるのか。
自分への相手の態度にあからさまな拒絶や軽蔑が含まれていた場合、それは自分に対し「存在の消滅」を命じる声であるかのように意識にまとわりついてくるかもしれません。それは自分の存在にかかわります。自分を守るためには、逆にその声の主を消滅させなければならない。そうして世の中で心の荒廃を示す事件が表面化します。

そこまで破壊的事態に陥らなくとも、やがて「不信」という冷めた感情の中に落ち着くかも知れません。信じられないのが他人であるにせよ、それとも自分の中に根本的に人に嫌われるものがあるにせよ、自分から愛さなければこんな嫌なことを味あわずに済む。「もう愛さなければいいんだ」と。

もう少し穏やかな心境としてであれば、自分が思う通りに愛されないのは、精神性が低く粗野な他人のせいになのだと自分を納得させるように考えるかも知れません。
そして「相手に多くを求め過ぎないことだ」という、これまた真理でもある結論へと落ち着くかも知れません。人は人、自分は自分。
確かにそれはその通りです。

かくして、問題が何なのかが見えなくなります。
何も問題はなかったかのように他人との適切な距離を保つという、健康な心の成長と外見は似たまま、失われたものが何なのかはもう自分でもよく分かりません。それを再び蒸し返そうとしてもまた苦しくなるだけのように見えます。
これが人生なのだ。現実などというものは、どうせこんなものなのだ。


■「否定価値の放棄」へ

全ては、この世界に「人間の価値基準」というものがあり、それに劣ったものには「存在への怒り」が向けられるのがルールなのだと解釈する中で、「生からの拒絶」を受けた魂の悲しみと嘆きと怒りを飲み込み、何もなかったかのような平静を作った時に、起きていたのです。

その中で、自分が求めた愛を気高いものだと考え、自分は良い者として愛されると共に、あるべき愛を損なったような悪を決して許すまいと考えた、実に自然で健気な幼い意志の中で、愛を損なった大人たちとまるで同じように、彼彼女の中で自然な愛が失われます。
空想の中で、こうであれば愛されるという「愛される資格」絶対性を帯びるごとに、彼彼女の心の中で何か重要なものが損なわれているのです。

やがて彼彼女は空想の中で抱いた「愛される資格」を基準にしてものごとを考え始めるようになります。まず目に入るのは自分のことよりも、その基準を損なった他人が人に怒りを向けられる場面かも知れません。
自分の空想した「愛される資格」を確かめることででもあるかのように。いい気味だ..この悪魔のような感情が自分の中に流れていることに、最初は気づかないままかも知れません。自分はあんな目に合わないようにしよう。自分はちゃんと知っている。自分は愛されるはずだ。

ところが「現実」はそうはいきません。「愛への良い意志」を持つ自分を愛さないという「悪」に出会うのです。悪意によって「存在の否定」を向けられたのだとそれを見ます。その悪意を決して許すわけにはいかない。存在が否定されるべきは、向こうだ。
自分のこの怒りに対して、人から嫌悪の目が向けられのも感じます。誰よりも良い意志の持ち主であるはずの自分が、現実にできていることは、怒りの苦い空気を発散しているだけ..。悪いのは相手なのか、自分なのか、よく分からなくなってきます。

一体何が「悪い」のか、と考えるかも知れません。自分はこんなに一生懸命、悪いことをやめ、良くなろうとしているのに。

まさにその姿勢が問題を引き起こしているわけです。善と悪を区別し、悪を否定することによって善になろうとする姿勢が。
悪を否定することによって善になれる。これは実に「不実」な錯覚であり、大きな勘違いです。この「否定できることに価値がある」と感じる感性を、「否定価値感覚」とハイブリッドでは呼んでいます。

否定するというナイマス性「悪い」のでしょか。
ループしていますね^^; 否定することが問題だと否定するよりも、本質はもっと深いところにあるようです。
否定することが問題なのではなく、その裏で失われているものが問題です。

何が失われているのかがしっかりと見えた時に、「否定価値の放棄」が見出されると言えるでしょう。
「3つの脱出ポイント」は、否定価値感覚の裏で失われたものを回復する進路だと言えます。それを失う代償として選択した「否定価値感覚」が、実はそれに見合う価値を何らもたらしていないことをはっきりと自覚した時、「否定価値の放棄」はもはや頭で考える思考としてではなく、全人格的な直感として生まれるのではないかと思われます。

「3つの脱出ポイント」について次に。


心理学本下巻に向けての考察-126:「未知」への意志と信仰-18 / しまの
No.1379 2007/11/21(Wed) 11:27:16

■終章-7:ハイブリッド最終理論(^^:)

人間の思考型を一通り整理したところで、「魂と心の分離」という根源メカニズムから再度全てを整理ということで、また1日半ほど時間を食いましたが、今度こそ(^^;)下巻のベースにできる理論図式を出せるのではないかと期待。

ちょー大局的に言うと、「魂と心の分離」(「心と」..とどっちに言葉統一するか課題ですが..^^;)に始まる心を病むメカニズムがあり、そこにおいて3つの脱出ポイントがまず出てくると言う構図を考えています。
その3つの脱出ポイントが合流するところに、「否定価値の放棄」が来る。ここまでが「中期」であり、その先は「後期」として「魂の望みへの歩み」となり、最終解決である「原罪への向き合いと許し」の先にまっさらな未知が現れる、という全体構図になります。

1)「中期」まで

これはまるで目の前の大きな山肌を前に、この山の向こうにある光溢れる世界への歩みとしてイメージされます。まず掘り進めるポイントが3つだけある。それ以外はどう掘りんでも、迷路のように戻ってきてしまう。3つだけ、掘り進める。
それらは最初相互に全くつながりがないが、断片的に掘り進むうちに、相互に掘り進んだ分が磁石で引き合うように、さらに前進できるようになってくる。
そして3つの進路が合流するところが現れるわけです。

3つの進路とは「愛」「自尊心」「恐怖と苦しみ」における脱出ポイントです。スコップを当てるポイントは「開放」「生み出すこと」「正体を知る」と言えるでしょう。掘り進むベクトルは、「心の自立」です。

3つの進路が合流した時、この進む道が何なのかという、もう一つの合流したベクトルが見出されます。それは「不実と傲慢」から「真摯と堅実」へです。これが、心を病むメカニズムを全てその上に維持させていた、「空想への立脚」を捨て去ることとして、「不完全性の受容」として「否定価値の放棄」が成されます。

2)「後期」から

これは出生の来歴において挫折し置き去りにされていた魂という構図を回復させ、「人の目」の重みを凌駕する「魂の望み」を湧き出させ始める一方、魂がその望みに近いづいた時初めて、置き去りにしたままの挫折の正体が露わになります。
これは「魂」の危機を意味します。しかし「心」はそれを救う力をもうこの時得ています。「心」が全ての善悪観念を放棄し、その判断を「未知」に委ねることにおいて、「生からの拒絶」に怯える「魂」を救うのです。この姿勢を「未知への信仰」と呼びたいと思います。
そうして魂がありのままに「原罪」に向き合う中で、魂の挫折は看取られ、荒廃の浄化を経て豊かさを得たまっさらな魂の感情が現れます。

最終的に見出されるのは、「魂」の世界の豊かさです。それが「心」に「命」を与える一方、その先はただ「未知」となり、他方で「心」はこの「現実世界」を生きる。この2つの世界を持つ自己の構図において、自己は魂の望みを果たすために現実世界を生きる存在であることが見出されてきます。
でも魂は自己ではありません。これは自己が自己の望みを叶えるために生きるというよりも、別の存在のために生きている、「自分」というもの自体が一つの「かりもの」なのだという感覚さえ生み出すようです。

しかしそうであれば、もはや何も恐れる必要もなく、望みを満たさなければと躍起になる必要さえなくなってくるということであり、実に平安で充実した心でいることが可能になるようです。自分は自分の望みを叶えるためというより、未知の魂という他のもののために生きることにおいて、叶えられる必要もなく満たされてくるということです。
これが、人間が太古から自らの不完全性と共に生きる中で得て、そしてDNAに刻んだことでなかったかと、ハイブリッドとしては考えるわけです。

以下、この全体を、「愛されるべき」思考など説明未了のものも含め手短に説明し、考察シリーズを締めようかと。


心理学本下巻に向けての考察-125:「未知」への意志と信仰-17 / しまの
No.1378 2007/11/19(Mon) 13:48:19

■破綻の始まり 「愛されるべき」

「愛されなければならない」という切羽つまった感情がやがて破綻を向かえるよりもずっと以前に、「破綻の始まり」はこの本人が全く自覚することもないまま、その思考の中に明瞭に始まっていたことが考えられます。
それはまず「愛されるべき」という観念であったろうと思われます。

確かに、愛されることは人間にとってとても心地良いことです。自分が愛情を得ていると感じることそのものにおける気分の良さもさることながら、愛されることの副次的な報酬(?^^;)として、人はかなり沢山の利益を得るわけです。文字通りそれは金銭経済的な利益であったり、性愛の満足であったり、その他相手が直接自分に与えてくれる生活や楽しみ事における便宜なり、さらに相手の魅力に応じて、その相手との関係を持つ自分へのプライドなどです。
これらを含め、相手が自分に感じさせる外面内面で魅力を感じるものを、「愛される」ことによって自分が得ることができる。それはそうした存在としての相手そのものを「所有する」というニュアンスもある満足感を与えてくれるかも知れません。

ですから、「愛されたい」と思うのは実に自然な話です。


■「愛の成立」の健全形

ただし現実というものは、そうは簡単に問屋が卸すものではありません。基本的に言って、人は「愛されたい」と思う欲求によって愛されるのではあまりないわけです。

自分が誰かに愛されたいと思うのと同じように、自分が相手からも「この人に愛されたい」と思われるような魅力や価値を持つ人間であることにおいて、そしてさらに重要なこととして、「愛されたい」という感情とは別の感情としての、自分から相手を「愛する」という感情を抱けることによって、人は相手に愛されるようになるのです。これが最も自然に、愛し愛されることつまり「相思相愛」が成立する姿です。

多少話が膨らみますが、愛は「成立」から「成熟」へとその成り立ち内容をかなり変化させることも理解しておくことができます。ただしまあハイブリッドで主に取り組み課題とするのは愛の成立までの困苦や障害の克復であって、掛け値なしに成立できた愛のその先については、もう他の心理学なり文芸なりにお任せの気分。
それでもその基本的な変化を言うならば、「成立」においては内面外面なりのはっきりした価値魅力に惹かれ合ってという引き金があり、一方その後愛は育み成熟することによって、間違いなく、相手がその相手であることにおいて「無条件」のものへと変化するはずです。

実際、最初の「成立」の時の価値魅力間違いなくその後枯れる運命にあります。しかし同時に、人の心の中で、成立した愛を生きることにより、「無条件の愛」を抱く能力も、その愛の質に応じて成長を始める。その結果、この人間は相手の価値魅力に関係なしに無条件に人を愛する感情を持つようになり、その最も強いものは、まさにその感情を彼彼女に芽生えさせた相手である他方へと向けられる、というメカニズムが感じられます。

こうした「愛の成熟」メカニズムは、案外、「愛の成立」段階においてすでに作用するものであり、安定した恋人関係や結婚といった外面的な絆の成立の段階で、一方が他方に一方的に感じさせる価値魅力は重みを減らしていることも考えられます。
つまり、相手がその相手であることにおいて、それだけで自分から相手を愛するという感情の共鳴が、最後には決め手になるのではないかということです。


■特定相手への「自分から愛する」とは

これはなかなか敷居が高い話であり、まず大抵の人は、その中の一部を損なっている状況から始まります。
多くの場合、「自分から相手を愛する感情」をなかなか持てません。

「自ら愛することのできる人」という話をしました。それは「愛を願う気持ちが自分の中にあることをはっきりと認めることのできる人」であり、自らの「愛」に嘘をつかない人だと。(11/4 心理学本下巻に向けての考察-103:「心」と「魂」の原点へ-12)

これがさらに特定の相手に関して「自分から愛する感情」であるとは、
1)自分が相手の何にどのくらい価値魅力を感じているか。
2)相手に実際どのくらい近づけることを望んでいるのか。一方的な憧れで満足できる話なのか、少しでもお近づきになれれば嬉しい程度の話か。それとも互いを最も大切な相手とするカップルになりたいのか。
3)そのような相手との関係の中で、実際自分は相手と一緒に何をしたいのか。趣味活動やデートを楽しめればいいのか。生活を共にしたいのか。子供を産み育てたいのか。どれもかなり話が違ってきます。
これらを自分自身ではっきりと感じ取れることを言います。

最も堅実に他者との愛情関係が築かれるのは、上記2)3)が互いに共通一致した場合です。
つまり、互いに相手とどれだけ近いづきたいのかの気持ちが一致し、かつそのように近づいた上で、一緒に何をしたいのかも一致する場合です。

これは別の表現をすれば、現実の関係というのは、互いを愛する気持ち、互いに近づきたいという気持ちだけでは成立持続しない面が多々あるということです。
かくして相思相愛のように始まりながらも、すれちがいというのが実に多くなる。これはもう人間という動物がそうなっている、さらに現代社会では、一昔前のように「家庭」ありきで生活が維持される時代ではなく、一人でも十分に快適な生活が送れる可能性のある時代です。「愛し合っていれば一緒に暮らすもんだ」という固定観念はもうあまり意味を持たない、多種多様な生活スタイルの時代であり、その中で各人が自分の人生の最適解を探求し続ければいい。

人は愛のみによって生きるのではない」というのも事実です。「愛とは別」の人生領域にも目を向けることがとても大切です。
それが、「愛だけ」ではどうしても不安定になる愛情関係を育てる上での、良い下支えになるわけです。
愛だけに見入ると、逆に愛は見えなくなる。愛だけに見入ることなく、人生と社会の全体を見る。一方で、求める愛があるのであれば、それに背を向けることなく真正面から向き合うことです。
この両面を探求し続けた先に、やがて、「生きる」ことそのものが「愛する」ことなのだということが見えてくる、心の成長がある。これがハイブリッドの見出した最終的な方向性だといういことになります。

「否定価値の放棄」によって、揺らぎなくその方向性への歩みが始まるのが、「後期」だということになります。


■「自分から愛する」ことにおける不完全性

上述のような方向性妨げるものを見ていきましょう。

まず、心の未熟段階、さらにはその先においてもこの方向性における完全な達成というものは考えにくい、人間の不完全性があります。
これは「妨げ」ですらありません。むしろこの未熟性や不完全性を受け入れられない時、そこに「生きることは愛する」ことを根本的に見えなくする、自ら愛を破壊する「自己破壊」が生まれてくるように感じます。

この未熟性不完全性とは、「自分から愛する」ことの前に「どう愛されるか」が先に意識の制御権を持ってしまうような心の状態です。
これは当然、空想と現実が混沌とした事態の中で進みます。自分が相手にどう愛されるかのイメージや、それを示す実に些細な出来事によって、相手に対する自分の感情がまるで別人に対するものであるかのように動揺してしまう。これは苦しいことです。なぜならその中でおうおうにして、今まで触れることを避けていたような、心の底の情念の膿のようなものに触れることになってくるからです。

そうして愛を得たい相手から自分がどう愛されるかのイメージによって湧き起る、自分の心の底の情念の膿のようなものも含めた感情動揺に対して、どのような向き合い方をするかが、この人間が心の成長を成すか、それとも自ら愛と人生を見失っていくかが、分かれることになります。
向き合い方の構成要因とは、ハイブリッド取り組みの全てです。外面においては怒りに頼らない思考法行動法を実践し、内面においては、そうした行動でも愛が得られないことへの自分の感情にありのままに向き合い、心理学の助けを借りて、自分の心に何が起きているのかを理解することです。そして心には「自立」という課題がDNAのレベルで刻まれており、形を取りえない「愛への願い」においてはそれに身を委ね看取るだけができることであることを知ることです。

その時、心には「未知」の変化が起きています。その「未知」の自分に立って、相手との関係に再び目を向けてみるのがいいでしょう。その時、もはや以前の自分とは別の自分としてそれを見ることのできる自分を見出すはずです。


■「自ら愛する」ことの「不完全性の受容」の先にある「自ら愛せる」成長

「どう愛されるか」に揺れる感情、つまりこれは「人の目感性土台」であり「自己操縦心性」でもあるのですが、この状態の存在「妨げ」ではありません。この人間の業とも言える不完全性を持ちながら、この状態を受け入れることができず、そんな未熟性や不完全性など自分は持たないと主張するかのような心の動きが、「妨げ」なのです。それは何かのシナリオを描き、それに沿わない他人や自分を破壊しようとします。

この破壊性をもはや意識コントロール不可能な形で組み込んだのが、「人の目感性土台」であり「自己操縦心性」です。
パラドックスです。まさに「人の目感性土台」と「自己操縦心性」が、「人の目感性土台」と「自己操縦心性」を軽蔑します。
この構造の最も根幹にある、破壊性の歯車への対処姿勢を確立するのが、「否定価値の放棄」だとも言えます。それは心の底から破壊衝動が都合良く消え去ってくれるのではなく、意識コントロールを外れて生じる破壊衝動に対抗し得る前進の方向性が、この人間の意識コントロールの嘘のない首座になるということです。

その妨げとなる、自らの未熟性不完全性を認めない心の動きと、その根底メカニズムを説明し、「否定価値の放棄」根本転換の本質説明を続けます。
妨げとして、「愛されるべき」思考から説明して行きます。


心理学本下巻に向けての考察-124:「未知」への意志と信仰-16 / しまの
No.1377 2007/11/18(Sun) 13:09:46

■終章-6:病理思考「愛されなければならない」「愛さなければいい」

人間の思考の形態を整理してきたわけですが、論理性を失った、何か絶対的な観念として、「非健全形」として「愛されれば」「べき・はず」がありました。前者は自立の喪失放棄、後者は一般的な論理ミスとして起き得ます。
そしてこの2つが合体した「愛されるべき」「愛されるはず」が、かなり明瞭に、「病んだ心」に特有の思考として浮かび上がってきます。

これをさらに、病んだ心に「特有に伴う」ことを越えて、病んだ心の「症状」そのものとして、「病理思考」として起きるものがあるように思われます。
まずそれは「愛されなければならない」です。これがこの人間の心を壊すかのような感情動揺を引き起こし、何とか沈静化した時、それは「愛さなければいい」という思考へと終るという流れがかなり典型的なものとして考えられます。

先のカキコでは「思考の病理」としてはっきり現れるのは「心理障害」段階ではなく「精神障害」段階だと述べましたが、この「愛されなければならない」と「愛さなければいい」は、「心理障害」段階でもおおいに現れるのみならず、比較的健全に見える一般の心の悩み段階でも十分に見られるものです。
しかしこれは病理です。なぜなら、これは「現実」ではないからです。もう完全に幻想の世界です。

その点で、この2思考、その中でも始点となる「愛されなければならない」は、心の健康から病理までも連綿とつらぬく、一本線の支柱のようになる病んだ思考だと言えるでしょう。

これらの思考に意識が占拠され、知性思考がそれを疑うことができなくなる度合いをもって、「病理の重篤度」と考えることができそうです。病理として深刻なほど、知性思考でもそれを疑うことができなくなります。
取り組み実践上は、この思考を疑い、それとは異なる「現実」をどのように考え理解することができるかが、基本的なステップになるでしょう。障害が深刻であるほど、この「現実からの乖離」が大きいので、それだけしっかり自分の思考を疑えることが重要になってくるのですが、障害が深刻であるほど、自分の思考を疑えないどころか逆に確信的になってきます。障害が軽く健全に近いほど、自分の思考を真剣に疑うようになってくるのです。これは皮肉で厄介な隘路です。

ただし自分の思考を疑えること以上に重要なのは、その先にある答えを理解することの方かも知れません。

これが下巻原稿の全ての結論とも言えるかも知れない重要な観点に近づいているいる話です。
全ては、人間が愛を望む気持ちが満たされ得るものと考えたところに始まっていたように思えてきている次第。愛が満たされるものだとし、そこから、どうすれば「愛される資格」が得られるのかと考えたところに、「不実と傲慢」が忍び込むというメカニズムになります。それがこの人間に、愛を完全に見失わせます。
答えは、愛を満たされ得るものとすることなく、それに向うことです。それにおいて、満たされるのです。全くのパラドックス。しかしこれが「魂と心の分離」という根源にぴったりと符号する答えなんですね。

順次、この病理思考答えの合間を埋めるものを説明していきます。


■「愛されなければならない」という意識破綻と心性崩壊

まず、「愛されなければならない」という思考がどのように病理かの説明。

実際この「愛されなければならない」が問題になる時は、思考として問題になるよりも、感情として問題になります。「愛されなければならない」という切迫した感情に駆られるわけです。
それに対して、「それは現実ではありません。愛されなければならないことなんてないんです」と説明したところで、あまり意味はありません。もともと思考論理が問題なのではなく、感情としてそうだということです。その感情を思考として表現すると、そうなるのです。

ですから、他人がどう「愛されなければならないことなんてないんですヨ!」と言ったところで、この人は自分が「愛されなければならない」と感じます。
それはまず恐怖のためです。人に否定され嫌われることへの恐怖が、まずあります。だから、愛されなければならない。

冷静な他人がその様子を見て、「別に愛されなければならないことなんてないんだけど」という時、この冷静な他人が見ている「現実」とは、この人が「愛されなければならない」というほとんどパニックに陥っている一方で、誰がどうその人を愛せばいいのかという話が、「現実」をどう見回してもない、ということです。
僕が愛せばいいのかな?それともA君かなBさんかな、と考えてあげることはできます。パニックを鎮めてあげるためにです。ただこれは本当に「愛する」こととは大分別のことです。

もし「愛されなければならない」という思考が特定の身近な相手に向うものである時、それはまあ大抵出来かけて壊れかけている関係でしょうが、この人の「愛されなければならない」と相手にしがみつくストレスはまさに、相手がこの人をとてもではないが愛せない、逆に自分を守るために離れる必要性を感じるという結果を招くものです。

こうした状況をこの人自身が視野に入れることは、基本的に「意識の破滅」を意味します。この「愛されなければならない」は、行き所がない情念として、宙に浮き、はじけ散り、後にはただ意識が崩壊した自己が残ります。

実はこれは「自己操縦心性の崩壊」として起きることそのものです。
ですから、心性崩壊治癒現象としてのそれと、悪化としての精神破綻と、一見して区別がつかない両刃の剣のような精神の峠だといえる状況があります。

ただし「治癒としての心性崩壊」と「悪化としての精神破綻」の
境目があります。
「悪化としての精神破綻」は、「愛されなければならない」が「どうにもならない」という意識破綻で終らせずに、「相手の悪意」としてこの事態を捉え始めた時、その先はもう「治癒としての心性崩壊」の意味は消え、あとは事態に任せた収拾もしくは現実的な破局をこうむるかという流れになります。


これが「愛されなければならない」という病理思考の流れの最終表面に見えることですね。
ではなぜこの「愛されなければならない」が生まれたのかの由来メカニズムと、それが生み出した必然的破綻構造を説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-123:「未知」への意志と信仰-15 / しまの
No.1376 2007/11/17(Sat) 19:08:18

■「法律」も「べき」もない人々

人間の思考型として最後の「べき・はず」という心を病むメカニズムの根核歯車を考察する前に、それを全く持たない人々というのを考えたいと思います。
ハイブリッドでは「べき」思考はまず法律などの「原理原則」思考に置き換えるのを推奨するとして、「法律」さえも持たずに生きている人々です。

これはまず現代文明社会では考えるのは難しく、未開部族の類になります。
首狩族人食い人種の話ではありません。アハハ。まあその言葉が浮かび、それもちょっと考慮すべきかと一瞬考え、ネットで見たりしたところ、良くわからん..というかそんな言葉があるのはやはりそうゆう民族がいたのも十分あり得ることでしょう。人間は他部族や他人種を自分と同じ人間と考えない思考の中で、結構残酷なことをしてきた歴史があります。近代戦争もその一つでしょう。

そうゆう話ではなく、今も生きている未開部族です。これはまず攻撃性の少ない人々だと僕は認識しています。なぜなら、攻撃性が高い場合は、対外接触が多い結果、未開部族の原形がとどまらなくなる。また対外接触が少なく内部での争いが多いと、その集団自体が消滅に向います。
ですから、今も未開部族として時おりドキュメンタリーなどで紹介される未開部族は、大抵、実に温和です。

記憶に残るのは、『たけしの万物創世記』だったか、「色」にとても敏感な人々の部族の話だったか。実に微妙な色の違いに別の言葉が用意されており、人々は自分のカラーを持っている。色への敏感さがどう関係するのかは分かりませんが、実に温和で感情豊かで、ちょっと狩りだか畑仕事だか、仕事を終えると大人が子供に混ざって日なが一日ワーワー遊んでいるという生活。
彼らは、時おりやってくる現代文明人を、ちょっと不思議そうに、自分達とはべつの動物というか人種と考え、自分達を呼ぶのとは別の言葉で指したとのです。

でその現代文明人を指す言葉の語源は、どうも「感情が乏しくワシら人間に満たない人間」というような意味だったという話だったような記憶があります。

これは先のカキコの冒頭でおさらいした、人間の思考の健全形でほぼ充足した姿のように感じます。
魂には善悪感情があり、本性的に開放されていれば自明論的な性善説的に機能する。あとは科学が未発達な中でも自分達の知恵で生き、自らの限界を超えたものを神に祈り神を敬って生きる。
ここには、「法律」もなければ、「べき」の思考もない「自然人」の姿があるのかも知れません。


■「善悪」の「感情」と「思考」

「べき」のない未開部族の話に触れたのは、「魂の善悪感情」は、明瞭に意識しなくても機能する、ということの確認です。

つまり、我々人間は、「魂」と「心」の区別は置いといても、「善悪」についての「感情」を持つということです。ハイブリッドではそれを「魂」起源だと考えるのですが、先にこれを「魂の善悪感覚」と呼びました。これはやはり「感覚」というより「善悪感情」ですね。「魂」は「感覚・観念・思考」といった細かい意識階層は持たないので。

そして、「魂の善悪感情」開放され機能している分においては、情緒豊かな未開部族の姿が示唆するように、それはあまり心で意識する必要もなく機能するものだということです。それは善悪そのものを意識した感情として機能するのではなく、行動を導く「望みの感情」がすでに善悪感情を含んでいるということです。

それとは異なり、明瞭に心で意識され、善悪そのものをことさらに意識した感情があります。これは「心」の側で展開されるものと考えていいかと。
「罪悪感」「正義感」です。後者はよく「義憤」の形を取ります。そして善悪をことさらに意識した感情と対応して、善悪を意識した思考が出てきます。それが「べき・はず」です。

これら「善悪感情」「善悪思考」そのものの発生自体は別に問題のあるものではなく、多種多様な人間から成る多種多様な集団内外での秩序と平和を守ろうと、それが大きく展開したのが人類文化の一面でもあります。
ただし、「罪悪感」「義憤」などは、それが強度持続性を増すごとに、心のバランスを崩し、心の健康を失っていくベクトルの影がちらつき始めます。

かくして、「善悪」についての感情と思考は、人間の心の健康にとってのいわば鬼門になってきたという、人間の脳と心の進化の歴史があったと言えるのではないかと。
大きくは社会統制の原理、そしてやはり宗教の中で、時には血を流す抗争の中で、人間にとっていかなる善悪の原理が利にかなっているかを淘汰する年月が費やされた。
社会統制原理としては、絶対君主制社会共産主義があり、やがて自由民主主義が人類をリードするようになった。そこでは感情や非科学観念から独立した、明文化された「法律」によって、「善悪」という原初的な概念そのものさえも用いない方向へと発展してきたわけです。

今ではもはや、「善悪思考」というものそのものの意義自体が、人の心の中で混乱を起こしているようなありさまです。
かくして、もう意識思考においては「善悪」を完全に放棄し「原理原則思考」に徹し、一方で「魂の感情」を開放しましょうというハイブリッド心理学なんてものを言い出す人間が現れた。僕ですけど^^;


■病んだ心独自の思考型:「愛されれば」と「べき・はず」の合成

戯言は置いといて(^^;)、問題を整理しましょう。
魂の本性的善悪感情」「心の論理思考」「神の観念と信仰」そして「善悪の感情と思考」という風に、人間の思考の形態を整理してきましたが、ここまでは、その内容にはかなりの混乱と淘汰の歴史がある中でも、「病んだ心」を決定づけるものはまだありません。

「愛されれば」は、「自立の喪失」という点で、論理性を放棄した一種の絶対思考でした。だがこれだけでもまだジリ貧傾向だけでとどまります。

「べき・はず」、特に科学的論理性を欠いた「べき・はず」はまさに絶対思考です。
社会統制や宗教の抗争において、「べき」が人の心に及ぼした圧迫は、社会的な問題であって「心を病むメカニズム」の問題からは外しておきましょう。
「べき・はず」はあとは、生活の中で恐怖から逃れ望みを叶える非論理思考として使われます。「占い」「おまじない」の類。この一般形も、とりあえず科学の遅れとして、考察から外しましょう。

「べき・はず」が、「病んだ心」の実に典型的な絶対思考として焦点を浴びるものが浮かんできます。「愛されれば」と結びついたものです。
「愛されれば」の前段に「べき・はず」が来るというものです。「愛されれば」の前の、「愛される」に。
つまり「愛されるべき」「愛されるはず」です。


人間の思考形態の整理としてはざっとそんなもんでいいでしょう。
このように、人間の思考はもともと論理思考と非論理思考が混在しながら、それなりに人々が「望み」に向かいがむしゃらに生きることを支えてきたわけです。
それが、全く道をそれた、「自己破壊」へと転じる思考型は、「愛されれば」という自立阻害と「はず・べき」という絶対思考の結びつきに至りようやくその姿をはっきりさせるように思われます。

思考論理というその表面の底にあるメカニズム、そしてその解決への転換となる「否定価値の放棄」のメカニズムの考察を、その思考に焦点を当てて続けます。


心理学本下巻に向けての考察-122:「未知」への意志と信仰-14 / しまの
No.1375 2007/11/17(Sat) 12:12:52

■終章-5:非論理思考「愛されれば」「べき・はず」

さてここまでの話をまとめると、

1)魂には「あるべきもの」という善悪の感覚があるようだ。
まずそれは、それを自らが損なった「原罪感情」に表れる。しかしさらに以前に、魂が抱く「愛されない怒り」において、すでにそれは表れていたことが考えられます。魂はまず愛を願って生まれ、愛されるはずだった「神の世界」を生きたわけです。愛されなかった時、悲しみはやがて憎しみに変わった。

2)「心」現実世界へと接することに向う。ここでは科学的で現実的な思考が強く推奨されるものになる。ただし科学も限界があり、かつ時代の進歩にも依存する。それが及ばない範囲において、人は「神頼み」的な非論理的思考を使いがちである。

3)根本的に科学を越えた世界もあり、「命」の外側がそれだと言える。ここで「信仰」の思考が現れて人間の不完全性、特に、他の動物にはない「自意識」を持つがゆえに抱くようになった「死」やその他避け得ない困苦への恐怖から、「信仰」の情緒により開放されることは、その思考内容が科学や現実と矛盾しな限りにおいては大いに利にかなった結構なことである。

という感じ。まあこれが人間の思考「論理性」という視点からの整理になりますね。

そのように、人間の思考はもともと論理の妥当性についてはかなり不完全であり、特に上記2)「現実世界」向けの思考においても、かなり個人差や時代差のある中で、非科学的、非論理的思考が幅をきかせる事態があります。

でもまあそれでも、これで健全形として大体問題ないわけです。「心の健康」としては。
特に時代を遡り非科学思考の神頼みが大手を振るっていたとしても、その中で人々は生きる中で「望み」に向かい、死に物狂いで生きてきたわけで、それで「心の健康」には大した問題があったわけではなかった。
論理思考と非論理思考を混在させながら、それらは「望み」に向かうものになっていた。

それが、やはり同じように不完全な論理思考が混ざる人間の思考形態において、非論理思考の配置が微妙にズレて、同じように論理思考と非論理思考を混在させながら、全く異なる反対の方向に向う結果が起きてくる。
向う方向とは、「自己破壊」です。それはまるで「怒るべきだ」とういう「信仰」を頂点として編成されているかのような思考です。
そして他人と現実を、怒るわけです。次に、そうして怒った自分を怒ります。

これは残りの非論理思考形が関係するものと思われます。
それが「愛されれば」と、「べき・はず」になります。


■「愛されれば」「べき・はず」の思考

人間の不完全性への補いである非論理思考として、「善悪」「」「信仰」というのをまず「健康形」として説明しました。
残りの非論理思考である「愛されれば」「べき・はず」が、「非健康形」になります。

まあ「病理形」にまではまだなっていない。「思考」としての「病理形」は、心理障害ではなく精神障害の世界です。現実が瓦解した空想が現実をおおう思考です。
それに比べれば「非健康形」である「愛されれば」「べき・はず」は、まだその一線は保っています。
しかし論理の崩れは明白です。それが本人でも分からなくなってくるところに、限りなく病理へと近づく潜在性を潜めていると言えるかも知れません。

その一方で「愛されれば」「べき・はず」かなりの広範囲で、比較的健康な心にも浸潤する思考です。僕自身の比較的最近例もあとで説明しましょう。
そこに、「心が健康であること」自体において、人間の不完全性が見えるような気がします。「否定価値の放棄」を生む「不完全性の受容」とは、まさにこの「心が健康であること」における不完全性の受容なのです。


■自立の喪失形としての「愛されれば」

「愛されれば」という「非論理思考」としては、すでに「愛されれば安全」という勘違い思考(^^;)を説明しています。
これは現実社会生活でそれが出てくると、完全な勘違いであり、自分で自分が守れなくなり、生活と人生が自分で切り開かれる推進力を失い、どうしてもジリ貧になっていく方向性を「獲得」してしまいます。

まあこれが心の病として表面化したのを氷山の一角とするように、現代人の広範囲にあるのが現実ではあるかと。だから現代人のマジョリティ年取るとわびしい生活が「普通」という雰囲気さえ出てくる。そうなる前に「心の自立」をして生きた人間であれば、逆に歳取るごとに人生が豊かさを増す方向性さえあり得ると思うんですけどね。

いずれにせよこの「愛されれば」「非健康形」であるゆえんは、「自立」という全ての生きるもののDNAに刻まれた命題への、自らによる逆行が起きていることです。
逆に言えば、子供の心においては、「愛されれば」はもともとかなり強力に作用する思考のベクトルです。とにかく他人の庇護の下で生きる時、「主人」に愛されるかどうかはかなり影響の大きい話です。

これが大人になっても持続することは十分にあり得る。「非健康」とさえならない形で。
つまりはっきり自覚して他人の庇護の下で生きる大人の場合ですね。権謀術数図ってご主人さまに愛されるのがいいでしょう^^;

実はこれはまだ「心の自立」をしているケースでさえあるんですね。自らの望みと意志として、うまいこと強く豊かな人間に取り入って、その庇護の下で豊かで楽チン人生を享受する。自分自身の目を頂点として、眼下にある豊かな他人を餌として、自らの原理原則として、自らの意志としてそれに取り入るために全力を尽くす。
ハイブリッドが考える「健康な心」として、これは全然オーケーです。

「心の自立」が損なわれた姿とは、そうゆう外面姿の問題ではなく、「自ら望む」「自らの意志によって」というのが消え、「望み」を他人に依存するようになってくるのが、まず第一特徴なわけです。
人から求められれば望める。相手から愛されるのであれば愛せる。

ただここで終れば、それはまだ「病んだ心」にさえなってはいません。人生がジリ貧にはなるでしょうが、その中に安住できるのであれば、それはもうそれで良しとすることもできるものです。
「病んだ心」とは、それでは終らないものです。自立を喪失するだけではなく、依存しながら、依存する相手が完全でないことを怒る形になります。完全な相手はいないので、これは、他人に依存しながらその相手を破壊することになります。これは一直線に「破滅」へと向う道になります。

そうなる形へと加わるのが、次の「べき・はず」になります。


■「愛への依存」の健全形としての「委ね」

「自立」が命題だとして、そこにも人間の不完全性があるという話をしています。
最後には、誰かに助けられる、誰かにすがる、ということも出てくる。これは「依存」と言えばそうではあります。

そうした「依存」が、「健全形」として論理思考の中で生きた人間においても、自己の不完全性を受容し、自己の限界を受け入れる姿勢の中で生まれる時、ハイブリッドはそこに人間の一つの真実の感情がやはり見出されるのを感じます。
それは「委ね」の感情です。これが「信仰の情緒性」の実体だとも言えるかも知れません。

これはやはり「愛」に関連します。でも「愛されれば」ではありません。「愛されれば」では、そうなれば「どうなる」が続きます。そこに、非論理性非現実性が生まれ得る。
「愛への委ね」は、「自ら愛する」感情への「委ね」です。この先には論理がありません。ただ、「愛」に身を委ねるのです。これはもう論理も非論理もなく、現実も非現実もありません。


■「愛への委ね」は「愛における自立」への脳内ホルモン?

「愛への委ね」は、僕自身の体験的実感としても、「病んだ心から健康な心への道」における極めて大きな役割を果たす感情です。
それは明らかに、魂の感情です。
そしてそれを「心」が認め、受け入れることの中に、その前後においてかなり淀んだ色彩の感情の存在を暴きながら、心の治癒への根本的なものが起きるという印象を感じます。
これは僕が『悲しみの彼方への旅』で描こうとした主題そのものとも言えます。

「心」に「命」を与えるのは「魂」であり、「魂」が「愛」をつかさどるものであることにおいて、「愛への委ね」は「魂」自身の命のサイクルの一つの成り立ちを示している。そんな印象さえ感じます。
僕はこの「愛への委ね」の感情を、それを感じる魂をイメージしただけでも、目が潤むような感情が起き鼻水がたれてくるのを感じます。アハハ。
これは「魂の願いが看取られる」時の感情であるように思われます。ですからこの感情は「死」にとても関係が深いです。願いが看取られ、消えていくのですから、その先には意識はありません。ただ愛の感情に身が委ねられ、そして一定時間後に消えていきます。その時「魂」が一つ豊かなものへと成長している、というメカニズムがあるのではないかと。

これが、「愛における自立」を生み出す、心の自然治癒力自然成長力の正体にかなり近いものであるように感じます。なぜなら、この「愛への委ね」において、「愛される」という前提が消えた「愛」が起きるからです。
そして一つ成長した魂からは、「愛されることに依存することなく愛する」感情が湧き出しているようになっている。

これが脳のメカニズムなのではないかと。「心」がそれを受け取り、「愛への委ね」の感情に身を任せた時、多分脳の前頭前野を発信源として、脳の広範囲に電気信号の飽和が起き、癒し物質が大量に放出され、一定時間後に電気信号の鎮静化が起きます。そしてストレスが消失している。

そして人間の根本的な不完全性において、自己の限界を受け入れる最後には、「神の愛への委ね」が起き、それは「死の恐怖」を凌駕するものになる。これは実に利にかなった脳のメカニズムです。
こうした「愛への委ね」の感情を持つ者が、死を前にして恐れない姿が、映画『タイタニック』などでも描写されている話をしたことがあります。(2006/09/09 魂の成長の成り立ち-53:魂が求めるものへ-30)


■宗教文化と魂の成長

それはアメリカ人キリスト教が浸透しており、日本人とは比べ物にならない自然な思考として「神の愛への委ね」が抱かれている姿でもあったと思います。
その点キリスト教は、ハイブリッドが考える魂のメカニズムからしてもかなり利にかなった宗教です。だから他の宗教と比べその普及力は一歩抜きん出ており、地球の宗教の代表選手としたらやはりキリスト教になるのではと。
ハイブリッドとしては、やはりまあその擬人化の花盛りはあまりいただけない非科学思考ではありますが..

それに比べ、日本の第一宗教(?)である「仏教」は、そもそもそれがお葬式宗教(^^;)と化している現状もさることながら、やはりどうも人間の心に寄与するその本質がどうも不明瞭難解であり、現実的に言って日本人の心の健康にはあまり役立ってはいないのが現状ではないかと。

同時に、「神」の観念を抱く日本人少数派です。どーでもいい話ですが、結婚相手募集というとしばしば「特定宗教はお断り」というのが出てくるかと^^;
その点僕自身は日本人の平均よりも「神」の観念を抱く人間であるようにさえ、今は至っている感があります。今の命が終ったら、「神の国」に帰って守られるのだ、と深い情緒として感じるわけです。この情緒だけ見れば、変な宗教家(^^;)よりもよっぽど信仰心があるのではとさえ感じる次第。

で、神など考えないというポーズが主流の現代日本人の人生が、ことあるごとに神を持ち出すアメリカ人に比べて、心が健康かというと、言わずもがなですが全く逆なんですね。「神」を認めなくても、この事実は誰もが認めるでしょう。
これは一体何なのか。


日本人においては、「神」が消えた代わりに「べき・はず」が蔓延してきた、と言えるかも知れませんね。
ハイブリッドとしては、信仰心の喪失を嘆くのではなく、その底に潜むメカニズムへの着目をお勧めしたい次第です。


心理学本下巻に向けての考察-121:「未知」への意志と信仰-13 / しまの
No.1374 2007/11/16(Fri) 21:44:56

「神」についてあと少しというか「信仰」という心の大きな領域について触れてから、「べき・はず」思考の問題など取り上げましょう。


■終章-4:「科学と信仰」

科学思考最大基盤とするハイブリッドとしては、この「現実世界」にかかわるあらゆる事柄を、まず科学思考によって対処することを強くお勧めするものです。
もちろん科学にも限界はありますが、我々個々人が科学全体を追い越すことはまずなく(^^;)、日々の問題解決において新たな科学知識を学びながら対処を試みることは、生涯続くものと考えるのがいいのはもう言うまでもありません。

ここで言う「科学」とは、もちろん物理自然科学のみならず、医学社会経済学人文科学芸術やスポーツの理論、そして心理学など、総合的に言っています。
そこに確実な知識と知恵があるのであれば、我々はそれを学び、日々の生活において当てはめ実践し、技術として習得すれば、必ず問題は解決でき、恐怖から開放され、望みを叶えることができるわけです。これは何の猜疑を抱く必要もないことです。

ところが、そうした科学の思考が不得手、もしくは自ら好き好んで科学思考とは別の思考を取る人が、世にはまだまだ沢山います。この基本的なものをこのあと整理します。

一方、先のカキコでも書いたように科学には根本的な限界線があり、それを超えたものについて人が取り立てて考えを持つことは、「信仰」という領域として位置付けることができます。
つまり、「思考・意志・信仰」という言い方をすることもありますが、より正確にはこれを並列で並べるのではなく、「思考」の内容として、かなり特殊な領域があるという構図になるのでしょう。まあこれはどーでもいい話。

「科学」と「信仰」は共存できないようにイメージされる方もおられるかも知れませんが、それは「宗教信仰」の場合ですね。
「宗教信仰」となると、物理自然現象を非科学的に説明し、それを信じることを強制する儀式のようなものが出てくるので、かなり科学とは両立できない部分が出てきます。

一方。科学の境界線を極めるようなことをしている人々には、かなり「信仰」というものが出てきます。これはまさに科学の及ばない範囲を、科学を極めたからこそはっきりと視界に捉えているものであり、そこでは「科学と信仰」はむしろセットのようになってきます。


■最も妥当(?)な「命への信仰」

そんな意味で、「最も妥当」な信仰を言うならば、まず「生命」についてのものになるでしょう。

「生命」がなぜ生まれ、この世に生まれた命となる前後になにがあるのかについて、科学は何も言えないという事実が人間の歴史としてもほぼ確定的になり始めているように、僕としては感じています。

福岡伸一さんという分子生物学者『生物と無生物のあいだ』という本を読んでいる途中ですが、最後の方のページをめくって結語と思われるのを読むと、こんなのが出てますね。
「結局、私たちが明らかにできたことは、生命を機械的に、操作的に扱うことの不可能性だったのである。」
「私たちは、自然の流れの前にひざまずく以外に、そして生命のありようをただ記述すること以外に、なすすべはないのである。それは実のところ、あの少年の日々からすでにずっと自明のことだったのだ。」


ただこれをどう「信仰」するかにおいて、道徳でありがちな「どんな命も大切に」「命の尊さ」というのは、僕はあまりいただけない。どの命がどう大切かは命同士のせめぎあいの中にあるのであって、はっきり言って粗末に扱う命もあるし、自らを尊く感じられないでいる命があるのも現実です。

「信仰」という時、そこにはやはり「あるべきもの」という「情緒」が出てきます。「善悪」命題です。
これがもはや科学的論理性を問わない時、「信仰」と言えるのでしょう。自分としては、これは守らねばと感じる。そのかわりそうすればこんないいことがある。
それがもう科学や現実として確かめようもないもの。

それで言うのであれば、科学そして「現実」との矛盾を起こさない「信仰」としては、「どんな命も大切に」ではなく、自らの命については自ら全てを尽くす。そうして自らの命を尽くし、命が終ったら、神に守られる平安がある。こう考えて、科学でも対処不可能な、現実的な災害や病苦、そして誰にでも訪れる「死」への恐怖から開放されるという「情緒」が成り立つのであれば、それは利にかなったことだと考えます。

事実それが人間の脳のDNAに刻まれたことではないかと、僕としても考えるわけです。

つまりぶっちゃけた話を言えば、ハイブリッドとしては、「信仰」は科学や現実と矛盾しなければ、「情緒」として結果が良くなるものであれば勝手に考えていいものだ、ということです。
そうゆう風に脳に用意された思考領域なのだろうと。


■「負の信仰」としての「否定価値感覚」

ただし誤解なきようはっきり述べておくならば、そうした「信仰」のプラス側面は、僕の考えでは、心の障害の治癒克復への効果は全くなく、障害の破壊性を防ぐにはほとんど無力です。良くてせいぜい、障害の構造を維持した中での安定化をもたらすかも知れない。しかしこれもかなり僕は懐疑的です。実際において「信仰」と言うと、宗教の硬直思考のマイナス面をどうしても引きずりがちだからです。

そして実のところ、ここで「信仰」のメカニズムを出しているのは、その治癒効果を説明するためではなく、逆に、このように脳の機能として認知できるだけの思考領域が、心を病むメカニズムの一部として機能していることを、これから理解するための前段として説明しています。
つまり、心を病むメカニズムにおいては、こうした「信仰」のメカニズムががやはり巻き込まれ、「負の信仰」とも言うべきものができあがるわけです。


何のことはない、それが「否定価値感覚」です。これは本来「信仰」に使われるための思考回路が、「怒り」へと用いられるようになったというメカニズムがあるようです。これをこの後考察説明します。

「否定価値の放棄」は、それを放棄するものです。ですからハイブリッド実践としても少なくとも「中期」までのうちは「信仰」は出てきません。ひたすら合理的思考を学び、信仰の負の変形を、一度捨てるのです。


■「信仰」と「愛」

ハイブリッドでは「神」を、「人間の不完全性を補う存在」と位置づけるのですが、正確な科学思考で捉える必要があれば、それはやはりまずは「現実世界における実体」のあるものではなく、人間が人間自身のために持っている「観念」です。

それでも、科学の限界線を認めることにおいて、「現実世界」とは「別の世界」の存在を、やはり科学思考において、認めるわけです。一つの表現で言えば、それは「命」が生まれる源泉の世界であり、我々の「今の命」の外部の世界です。それは完全に「未知」でしかあり得ません。

ですからその範囲では、「神」を人間のような生きもののようにイメージするのは、もう現実世界を無用にアナロジーとして当てはめたものでしかなく、本体「未知」でしかない「神」を知るかのような誤りだということになります。

それでもやはり、「神」が人間のようにイメージされ、「神の愛」という観念が抱かれる理由となる、「人間の不完全性」のさらなる特別な側面を言うことができます。
他でもありません。「心と魂の分離」です。そこにおいて、「魂」が愛をつかさどるものであり、我々が直接意識するのは「心」の方であることにおいて、そして「心」は「現実世界」に接するものであることにおいて、「心」が「現実世界」に接する中には「愛」がどうも不明瞭になるという宿命が生まれたように思われます。
その結果、科学的現実思考とは異なる思考に、「愛」の問題が結びつくという構図になってきたのではないかと。

健康な形において、それは「魂」の豊かな感情の先に、「魂に魂が宿る」という感覚、そしてその先に人間のようなイメージ神の大きな愛がある、それに守られるという情緒は、それはそれで良いものであるし、実際ハイブリッドの「後期」の先に見出されものとして考えているのも、そんな情緒です。

では心を病むメカニズムにおいてはどのような形になるのか。それを考察していきます。


心理学本下巻に向けての考察-120:「未知」への意志と信仰-12 / しまの
No.1373 2007/11/16(Fri) 13:22:17

■終章-3:「神」とは何か

人間において「善悪」が生まれたメカニズムを説明する前に、「神」がどう生まれるのかのメカニズムを説明しておきましょう。「善悪」が生まれる際にそれが合流してくるからです。
「神がどう生まれるのか」とは何とも大胆不遜な命題かも、と上の文を書いてちらっと浮かんだ感。まあ「神のメカニズム」ですね^^;

ハイブリッドでは、「神」を、「人間の不完全性を補う絶対的な存在」と定義しようかと思います。

これは実は、「神」の「存在」について、ハイブリッドではかなり肯定的な考えを取っていることの表現です。
なぜなら、ハイブリッドでは人間を基本的に不完全な存在だと考えているからです。完全な人間というものは存在しない。ならば、人間は必ず「神という観念」を必要とするということです。「神という観念」は人間にとってかなり本性的本能的観念であると。

だから、そもそも「神などいない」と主張する「無神論」なるものも成り立つわけです。もし「神」が人間にとって根本的で本能的な観念ではないならば、地上のどこかに「神」に相当する観念を全く持たない民族が出てもおかしくない話であり、「神」と「紙」の違いが良く分からない日本人(^^;)も結構いていいはずなのですが、そんな話は聞いたことはありません。
誰もが、「神」というと何のことかはすぐ分かる。ただし、正確にそれが何かと問うと、てんでばらばらの考えを人々は持っている。まあそこにまた人間の不完全性の一つの表れがあるのでしょう。

神の手を持つと言われる「スーパードクター」のドキュメントを必ず見ていますが、その誰もが実に謙虚なのが印象的です。決して自分の技術におごらない。そして患者を助けるのは患者自身であり、自分はその手助けをしているだけ、とその誰もが感じている雰囲気。
であるスーパードクター。超難関の手術の中で、思わず、「神様..!」という言葉。成功裏に終った術後のインタビューで、その言葉について「思わず出てしまいますね。僕は無神論者ですけどね」と。面白い話です。

「神」は、結局、人間の思考のいたるところに出てくる、と感じます。これはもう逃れられないのではないかと。
2006/10/08「神、神、神..^^; & 「広義の原理原則」」
でもそんな話をしましたね。


■ハイブリッドでは「神」は「未知」

上記はもちろん、「神様は本当にいるか?」という設問にYesという考えを提示するものではありません

ハイブリッドでは、「神はいる」とは言わず、強いて言えば「神はある」という言い方ならできると考えています。つまり「いる」という言い方をすると、それが人間のような何か、もしくは何かの「生きもの」(^^;)として神がいるという話になってきます。
しかしやはりそんなものは科学的に確かめられてはいませんね。

「科学的に」という言葉をここで出しました。実は「神」は、科学的に「確かめられて」はいませんが、科学的にその位置づけを言うことがかなりできるシロモノです。
逆に言えば、科学理論の中にはかなり明瞭な限界線があり、その科学の限界線を正確に理解することにおいて、その限界線を超えた世界を「神の領域」と呼ぶのであれば、「神の領域」がかなり科学的に定義できる、ということです。

まあこれは詳しくは僕の専門ではない話ですが、かなりハイブリッドにとっても根本的な話と感じています。どう根本的かはこのあと考察説明。
で僕の専門ではない「神の領域の科学」は、かなり沢山の研究者膨大な書物がある世界であり、それだけでも昼夜が過ごせる面白い領域です。
3つの領域があるかと。「生命」「宇宙」「素粒子」です。

中身の話をするともう完全に心理学とは関係なくなりますので、先に分類を書いた「人間の思想」という大きな枠での話を言いますと、「心(意識)があり、それが映し出した「もの」(物質)がある」という二元論が、もうその成り立ちからして「神」なり何なりの、二元を越えたものの存在を暗示しているわけです。
つまり、「唯心論」に立ち、「もの」は心が映した「ただの幻想」だなどと考えない限り、「心」が「もの」の根源実体の全てを余すところなく捉えていることはまず考えられず、「心」は「根源実体」のごく一部を不完全に捉えているに過ぎないと考えるのがまず妥当です。

まあそんな哲学的表現はどーでもいいとして、平たく言うと、人間は自らの五感による「知」を基本的に不完全なものと心得ており、人間自身の「知」を越えた「知」があればいーな〜と願う存在だということです。
それを持っていらっしゃるらしい存在として、「神」というのが誰ともなく観念に抱かれるようになった。

そこまではもう人間の本性本能なんでしょうね。ただその後が、てんでばらばらの神がいるだのいないだのの思考が展開されるようになった。


■「恐怖からの開放」「望みを叶えるもの」における不完全性の補い

まあそうした哲学的論理としての「神」の由来よりも、人間の日常思考におけるその役割が、心理学的には重要ですね。

それで言いますならば、「神」は人間の不完全性を補うものとして、「恐怖からの開放」そして「望みを叶えるもの」として役割を担う、なにか絶対的な存在として人々の心に抱かれる、というメカニズムを考えることができます。
まあ「苦しい時の神頼み」ですな。

このような捉え方をすると、まず言えるのは、人は「神」という観念をそのまま使うにせよいったん否定するにせよ、どうもかなりの範囲において、自らの「現実」への対処能力の不完全性を補う、何かの絶対的な観念を使って日々思考しているということです。

この視点から、「神」とはまた別のそうした思考の形態を整理することができます。
2つになるかと。「愛されれば」「べき・はず」です。

これを整理して、「善悪」のメカニズムを考えます。


「人の目掌握型行動学」と「依存の格上げ」問題-2(End) / しまの
No.1372 2007/11/15(Thu) 21:45:22

■「善悪」とは別世界へ向うハイブリッドの行動学の世界

先のカキコで説明したように、ハイブリッドの「中期」としてその洗練を図りたい行動学は、次第にその内容は「善悪」というものとは思考がもはや別世界になってくるものであることがお分かりかと思います。

でそれが「人の目感性」を超越し抜け出る方向であることを考えた時、「人の目感性」と「善悪」がセットになり、上記との対極になるという構図がちょっと浮かぶのですが、これはまだ正確ではありません。
というのは、まず「人の目感性土台」主体の場合は、「愛されれば安全」的な思考から、まず「追従迎合」型の行動法、まあこれは「行動法」と呼べる段階にもならないようなものが生まれ得ます。

これはまず自己軽蔑も引き起こしますので、まだ話が簡単です。つまりハイブリッドの前期から中期への「自立」という基本課題の軸において、やはりまず「自分がない」追従迎合から、自分の考えをしっかり持つことから始めましょうという話になる。

しかし「中期」からやがて「否定価値の放棄」というひとまずの完結で命題になってくる、「善悪」という命題が、やはりここで別の軸としてクロスしてくるので、話がややこしくなります。
つまり本人は「人の目感性」からの独立を目指す意識の中で「自分としての考え」を持とうと努力するのですが、それが「善悪の観念」に「巻き込まれて」いる場合は、やはりハイブリッドの行動学とは完全に方向違いのものになります。

「否定価値の放棄」とはそのように、「自分の考え」確立という自立命題と、もう一つ別の大きな話が「自分の考え」そのものの中に加わったものなのですね。その最後の定義を今考察シリーズで説明している次第。

なぜ「自立」に「善悪」が加わってくると話がややこしくなるのか。
それが、「依存の格上げ」が起きるという話です。依存できる姿が自尊心になってくるというものです。そしてそれを自立した自尊心のように抱こうとする。実に変な話になり、結局これは羊頭狗肉のように現存しえない動物になろうとするような、つまり結局破綻に向うしかない方向に向っていくということになります。


■現代人に蔓延した「依存の格上げ」

「依存の格上げ」とは、一言でいえば、「依存が自尊心化」する現象です。
これが極めて広範囲に、現代人に蔓延しているのを感じます。この傾向を持たない人間むしろ極めて稀です。ハイブリッドは、その姿を目標像として目指すものだといえます。

依存が自尊心に格上げされる姿は、その最も原初的なものは、親の愛をめぐって起きる兄弟間の争いに見ることができます。
それはしばしば、親の愛を得るために、自立とは逆行する「退行」の現象を引き起こすという心理メカニズムがあります。幼児がえり。病気をすると親が優しくなるので、一種の病気状態が慢性化するなどという事例もあるかも知れません。

親の愛をめぐる兄弟の争い」という原初形が示すように、この「依存の格上げ」では、最初は愛情要求として自覚されていたものが、やがて争う対象との敵意が前面になるようになり、やがて愛情要求というその根元とは似ても似つかない敵対攻撃性へと花開く(^^;)という特徴があります。

それを踏まえて、ハイブリッドの「人の目掌握型行動学」という極めてサバイバル的な行動法と、それとの対比となる現代人の善悪思考型行動法を考えてみましょう。

「人の目掌握型行動学」は、前カキコで具体的に説明した内容から分かると思いますが、そこで起きる事柄を見る目の頂点は、自分自身の目です。自分の目で、全ての人々の「人の目」「人の感情」を掌握し、それを自分がその中で生かされる舞台としてではなく、この社会をいわばジャングルの森林と荒野の大自然と見るかのように、自分自身の知恵と意志で進む思考法行動法です。
そこに「善悪」などという観念はあまり出てきません。出ても、それは自分の思考ではなく、人の思考として、どうそれを利用したり裏をかいたりすればいいかを考える、サバイバル世界の一つの石ころでしかないのです。
だから、「正義」などとはあまり言わないわけです。

一方現代人に蔓延している「依存の格上げ」の表れとして僕が感じるのは、恵まれた「お膳立て」をあまりに当然と感じることをスタートにしている思考です。
この「恵まれたお膳立て」はしばしば「平等」という言葉で呼ばれます。その通りであることが「善」であり、それを妨害するもの、特に自分への「恵まれたお膳立て」を妨害するもの「悪」とする思考法です。

この具体的な例として起きた事件が、先日長野で起きた、兄嫁による妹の殺害事件でした。妹が兄嫁の子供がうるさいとなじり、兄嫁はその妹の存在を許せず、事件が起きたわけです。
この実に些細なことから起きた殺人事件も、双方において、僕からみると「恵まれたお膳立て」を当然とし、それを損なうものを「悪」として破壊しようとする、という思考が生み出した事件です。

子供がうるさい。自分の子供がうるさいと文句を言う人間がいる。
どれも、ジャングルの森林と荒野の大自然で生きる上では、千ある障害の一つと取り上げるにも満たないような、雑音でしかないわけです。
しかし、この平和な日本で恵まれた社会安全を与えられることが、もはやその思考の中ではあまりにも当たり前の「善」になっているのでしょうな。それを自分の自衛能力課題とは考えないらしい。
これは「善悪」だけがあり、そして敵対破壊があるという例です。

発端にちょっと「愛情要求」の片鱗が残っている(?)ものとしてあげられるのは、親の遺産をめぐる兄弟親戚間の骨肉の争い(?^^;)です。これもやはり、その不平等への不満に端を発した殺人事件はもう歴史を通して頻発しているでしょう。
そもそも親の遺産があること自体からして、サバイバル世界では例外なわけです。
これは親の「愛」があり、それがどう与えられるべきかの「善悪」があり、そして「憎しみ」があるという世界。

どちらの例も、自分では何の能力も発揮することなく与えられるものに自尊心を求め始めた時、そうはいかない現実を前に自らを破滅させる道に向うというものと言えるでしょう。

3つ目の例。これはもう現代人の「社会での自尊心」そのものが、親に見られ誉められるのを求めるのと同じ感情の中で抱かれるものになっている、という構図です。
TVで自殺未遂男性のインタビューが流れてました。「どうしても、自分より可愛がられた兄より偏差値の高い私立高校に行きたかった。しかし親から金がないので駄目と言われた」と「過去の挫折」を語り泣き崩れているのを見ました。

同じ心理構造の中で、人々は一流大学、一流企業へ、そしてランク付けされた恋愛や生活ぶりへと心を向かわせるのでしょう。
その先にあるのは、良くてプライドを維持しながらもなぜか空しさが続く人生、悪ければ敗北感。
ここでは「善悪」はあまり出てきせんが、「人の目」という「愛」があり、そしてそれを損なった時に向けられると予期されている、「存在への軽蔑の目」というのが出てきます。

これらの例を通して、「頂点となる目」は、漠然とした他者の目です。
「存在への賞賛」もしくは「存在への軽蔑」の目。これはほぼ対等な他者です。親の愛を争う同胞のように。
「善悪」が出る時は、何かの大きな目が頂点となります。非平等や理不尽への怒りを抱いた時、その「大きな目」がそれを見ていて、期待するお膳立てをしてくれるかのように。これは「神の目」というイメージに近くなってきます。


■「依存の格上げ」のメカニズム

ちょっと前に男女性差の話をしたことがありますが、大抵の社会文化において、女性は子供を産む必要性から、守られ愛される存在であることに自尊心を感じる面が男性より異質に大きいという考え方も出るかも知れません。
しかし僕はそれはあまり本質的な違いではないように感じています。

たしかに表面的には、「依存の格上げ」は女性の方に起きやすいように一見見えます。「おしとやか」「か弱く繊細」といった「依存」に適した(?^^;)性格理想像になり得る。
しかし、「依存の格上げ」の問題の本質は、実はそうした自尊心の内容という正の側面ではなく、その裏に控える負の側面にあります。それは、
1)「存在への否定競争」というものがこの人間の心の中に起きており、庇護的愛を得ることが勝利となり、それを得ない他人を打ち負かすという意味を帯びていること、
2)まさにそれが帯びた敵対攻撃性によって、「自分を愛する目」を向けてくるものとして渇望する他者から、「許されざる存在」だという怒りの目が潜在的に用意されているという、自己否定の恐怖に悩まずにはいられなくなること、そして最後に、
3)「依存できることに自尊心」という内容が、現実においては維持されようもなく、どうしても必ず貧困化、さらには破滅の方向に向うことです。その時、心の病理が表面化します。

つまり、これらのメカニズムとは、「愛への復讐の愛」そして「原罪」、さらにその中で掲げられた理想基準が現実から乖離した幻想になってくるという、心が病むメカニズムの根源そのものです。
つまり、「依存の格上げ」はそれ自体が単独のメカニズムではなく、心が病むメカニズムの根源の全体が、豊かに整った社会環境を背景にして具体化した典型そのものだということになります。

ですから、「守られ愛され自尊心」という表面の分かりやすいものとして、陰湿なイジメバトルに表面化するというのはやはり女性の方に多いかも知れませんが、それはそれが見えやすい舞台が場になるというだけのことであり、一方男性の方に多いであろう過労死なども、その本質は全く同じです。
さらに、「善悪観念」そのものが、かなり同じ構造の上にあるということです。


■答えは「生み出すこと」に

依存できることに自尊心を置くことを脱する先には、「人の目」を全く必要としない生き方の世界があります。

一つのイメージで言うと、まあ人間は不完全なので実際には多少のボロは出ると思いますが、僕は今自分が一生牢屋に入れられ、一生他人との接触を断たれるという状況になっても、精神安定を保って生きていられる自信があります。
まあペン、できればPC一式(^^;)と、あと自分の日記があればいい。それを小説化する作業で、後は何もなしに一生を終えても本望です。あとトランス音楽^^; それに牢屋の外に自然があり特に海があり出れるのであれば、もう「幸せ」の方になってきます..って今の生活がそんな感じに多々ある^^;

ただしこれは「姿勢」で生み出すものではなく、手前味噌な話ですがすでに自分の命を問う重みのある思考を、実際には命がかかるような場面など特にありませんでしたが(^^;)生活場面を通して追求し、選択と行動、そして自分なりに「魂の望みへの歩み」を遂げた積み重ねの自然の変化結果なのです。
そのためには、「依存の格上げ」の根源となる問題をいくら突き詰めても答えはなく、それとは全く別のことに、「生み出すこと」に意識を向けることにあります。
これがどう全ての解決につながっていくのかは、かなり明確になってきましたが、はっきり言ってかなり難解です。「解決できないという不完全性の受容の先に解決がある」というような。

とにかく考察シリーズでそれを続けましょう。

一点加えておけば、「依存の格上げ」との対照となる「人の目掌握型行動学」根底に流れる精神は、基本的に「ゼロ・スタート」です。何もないのをベースにして、自分が何を生み出せるかの戦略を練る思考法です。与えられた好条件は、基本的にラッキーです。
一方、「依存の格上げ」「与えられるもの」をベースとして、あとはそれが損なわれることへの怒りの世界になります。

「社会でうまく生きる」という時、実際はこの「人の目掌握型行動学」「基本」になると思います。その点、「建設的対人行動法」や「原理原則立脚型行動法」は、初歩から始めるという時に、その内容として頂きたいものということになります。
社会で本当に成功している人、この「本当に成功」とは、レールのような出世レースの中を昇ったというより、時代を先読みして独自の価値を生み出していったタイプの人を指しますが、間違いなく「人の目掌握型行動学」を旨としたはずです。

そのようにして社会の上に行った人達は、与えられるものへの要求水準が低いゼロ・スタート思考、常に無人島に一人で放置された状況をスタートにするような思考法でものを考える一方、お膳立てされた平等など要求水準の高い人、豊かな現代日本での「普通」を「平等」と考えそれへの権利を主張するような思考の人は、なかなか社会で上の方に行けなくなる。これは皮肉な話です。

この「ゼロ・スタート」思考が、積み重ねの結果自然に身につくかと待っていても生まれるものではなく、明確な決意によって「選択」する、全ての始まりの「姿勢」として取るものになります。


「人の目掌握型行動学」と「依存の格上げ」問題-1 / しまの
No.1371 2007/11/15(Thu) 11:42:51

「善悪」の話にも終わりの方でつながって行く話ですが、ここでちょっと ちょっとワンポイントで、行動学アドバンスド編サマリーを入れておきます。これも下巻には入れたい話として。
そしてそれに関連する問題課題を説明後、「善悪」のメカニズムの話に戻ろうかと。


■「人の目掌握型行動学」3態

ハイブリッド推奨の行動学として「建設的対人行動法」と「原理原則立脚型行動法」を2大基礎行動学とでも位置づけられますが、この上にさらに高度化したものを考えることができます。

それが「人の目感性土台」から抜け出る方向性という、より洗練された視点を追加する「中期」から検討できる行動学としたい、「人の目掌握型行動学」だと言えます。
「愛されれば安全」という、人の目人の感情を終着にするかのような思考とは対極の、人の目人の感情を始点にしてそれを逆手に取ってうまく切り抜けるような、実に「策略的」なものになってきます。

ざっと考えると、今のところこれが3態あるかと。
策略型行動学」「はぐらかし型建設的行動法」「正義隠蔽型行動法」。最後のが新しい話になりますね。


1)策略型行動学

まず上記の言葉そのままの王道と言えるのが「策略型行動学」
これはとにかく「人の目」「人の感情」さらにはその結果としての「人の振舞い」を何歩も先手を読んで、その裏を書くような策略を練る行動法です。

この代表は小泉前首相です。政治に多少とも関心を払っていれば、前回の衆議院解散総選挙が、郵政民営化法案の参議院否決を先読みした上で先手をかなり打っていた、実に策略的なものであったことを理解できるかと。
その反面ちょっと策略性が不足していたのが安部前首相ですね。安部さんは原理原則立脚型の好例としても触れたことがありましたが、やはり政治家は原理原則立脚型だけでは不足すると思いますね。

2)はぐらかし型建設的行動法

これは10/12「さすが福田首相の「はぐらかし型建設的行動法」」で説明しました。
これは自分が何か劣勢に立たされた場面での切り替えし法とも言えるかと思います。まともな反撃的行動法ではやはりしっぺ返しが必ず来るので、そもそも自分が反撃していることさえ一見して分からないような、ちょっと方向外れでありながら実は相手の攻撃を完全にとも言えるほどにかわすような、推進力に富んだ行動をします。
「推進力に富んだ行動」とは、自分がその環境において前進力を持っていることを示すようなムードをかもし出す行動ということです。

福田首相が田中真紀子議員に“安部康夫内閣”と揶揄されたのを「励ましと受け止めた」と切り替えした例を出しましたが、これはまあ文字通り「建設的」です。
一方その後の記者インタビューではさらに、これはもう「建設的」という感じではないですが、さらに反撃を「はぐらかし型」でしていたのが面白いですね。記者の「“安部康夫内閣”と言われてましたが..」に、ちょっと笑みを含みながら「間違ったんでしょう」と。
これは言外に「まともに反撃するにも値しない」ということでもあり、実はまともな反撃よりも一枚上手の反撃とも言えます。
田中真紀子議員本人がいる議院上では上述の言葉、そこを外れてこの言葉と使い分けているのも、僕としては関心した次第。

3)正義隠蔽型行動法

今回このカキコを思いついたのも、新たな話としてこれが浮かんだからです。
「正義」のようなものに従った行動をする時は、なるべく自分が正義に従った行動をしているというのを隠す行動法をします。
これはかなり基本であり、かつ「自衛」においてクリティカルな結果を左右することがあります。

なぜなら、自分の「正義」の解釈が万一間違っていた場合は、かなりバツの悪い結果となり、多大なる収拾作業に追われることになりかねないからです。その場合は、自分の見識不足がバレて恥をかくだけでなく、その勘違いの中で批判攻撃した相手などに、平謝りしなければならなくなります。これは最も神経をすり減らさねばならない事態の一つです。

もう一つ、正義を盾にして人を批判攻撃した場合、間違いなく相手の恨みを買います。これは相手が心を病んでいない、比較的健康な心の人であってさえ、そうです。
なぜか。「正義を盾にする」にするのと「攻撃する」のと同時にすると、相手を「正義を知らない人間として軽蔑攻撃する」という形になるからです。これははっきり言って、「人間性への軽蔑攻撃」です。どんな正論であったとして、そんな態度を自分に示した相手を、人はもう好意的に見るのはちょっと不可能というものです。

だから、原理原則立脚型行動法では、相手については何も言うことなく、原理原則だけを示す行動法をするわけです。「私はこれが原理原則だと考える。あなたはどう考えるか?」と。
答えは相手に言わせます。後は相手が自分で進んでそれに従った行動を行います。
決して、「こんなことも分からないのか!?」といった、相手そのものについての自分の認識評価に関るコメントを発してはいけません。一言もです。
これは相手の恨みを買うのを避けるという戦略上の意味に加えて、上述と似たように、自分の原理原則認識が誤っているケースがあるからです。その場合は相手に対する自分の認識も誤りです。これはやはり神経をすり減らす後始末が必要になります。


■「正義を盾にすると墓穴を掘る」鉄則

で今日この話が浮かんだきっかけが、最近とみに騒がしい食品の賞味期限偽装問題の一つ、「船場吉兆」で新たに判明した、その組織ぐるみおよび従業員への口止めという実態。
船場吉兆側はこれまで、「パートの販売責任者がやったこと。会社としては断じてやっていない」と、僕もその会見様子は見ましたが実にきっぱりと語っていた。ところがこれがどうやら大嘘だった可能性大。

で報道によると、パート女性は「すべて自分の判断で改ざんしたとする内容の文書を会社役員から示され、署名するよう要求され、拒否した」とのこと。
僕がこの「正義隠蔽型行動法」の話を浮かべたのはここです。この女性の行動は実に正しいのだが、ちょっと損をしていると。
まあ多分、この女性は正義に立ち、口止めを拒否したのでしょう。しかしこの状況は、相手が悪いと結構身の危険をもたらす行動になります。まあこのケースでは及ぶことはないでしょうが、同じ構図で相手がヤバイと殺されることがあります^^;
この女性も、「自分を守るのではなく会社を守れ」と言われたとのこと。

僕ならどう行動したか。
まず自分が正義に立つという姿勢を、隠すわけです。ちょっと戦略を練る余裕があれば、逆の態度を見せるかも知れない。まあ余り行き過ぎはまた危険。
とにかく、相手を油断させるわけです。そして最善なのは、自分はこの件には関らないという素振りで切り抜けることですね。
このケースではこの女性、「店舗で事実上軟禁状態」にされたとのことで、そうなってしまうともうかなり難しいシチュエーションではあります。まあまず学べるとしたら、このように上が犯罪に絡むケースになったら、早めにそれを察知してもう身を隠すことですね。このケ−スでは「都合により辞めます」とだけ伝え、もう行かない。

まあ相手が正真正銘の極悪人のケースまで想定してくると、次第に話があまりに特殊状況になってしまいますので、あくまで一般の社会行動の話に戻しましょう。
原理原則についても、我々は常に学び続ける途上にあります。「正義」なんてものをそう白黒つけて言えたものではありません。
「正義を盾にすると墓穴を掘る」 これは鉄則とするのがいいかと。

ここから「善悪」のメカニズムまでつなげていく考察を次に。


心理学本下巻に向けての考察-119:「未知」への意志と信仰-11 / しまの
No.1370 2007/11/14(Wed) 12:34:00

■「善悪」とは何か

ハイブリッドにおける「善悪の完全なる放棄」は、「心」が取るべき姿勢として推奨するものです。
つまりそれは「魂」まで踏み込んで言うものではありません。一方、我々が「魂」について知るのも、あくまで「心」を通してであり、「魂」からの感情が「心」に届いてそれに耳をすませることにおいてしか、知ることはありません。

結果、「善悪の完全なる放棄」は、我々が「意識」においてはやはり「善悪」という概念や感覚を完全に放棄することを、ハイブリッドとしては目指す方向性として示すものになります。
繰り返しますがそれは「善悪」というものの「存在」を脳のメカニズムとして否定しているのではありません。それはやはりあります。ただし我々はそれについて「知る」ことはできず、「未知」として向うものになり得るということになります。


そもそも「善悪」とは何か。

それは人間の脳において、「善」とは「あるべきもの」であり、「悪」とは「それを損なったもの」のように思われます。
では「あるべきもの」とは何か。


■魂は善悪を知っている..?

11/11「「未知」への意志と信仰-6」で紹介した僕自身の「魂の挫折の原点」向き合い事例が示すように、「魂」はそれを知っているように見えます。

つまり「魂の挫折の原点」において存在するのは、「悪への復讐の愛」と「原罪感情」です。
一体化の愛」を本性とした「魂」の祖国は「神の国」であり、そこでの出生の来歴における挫折への見返し復讐として、誰よりも特別な愛を手に入れる復讐的勝利を目指した「愛への復讐の愛」が抱かれる。そこにおいて、「魂」は「神の国」に背を向けた自分自身への深い「罪」を感じるようになる、という構図です。これが「原罪」です。

なぜこれを「原罪」と呼び、他の一般の「罪」とは一線を引いているのかというと、それが「知る」ことを前提にしない、つまり誰に指摘糾弾されることもなく、自らにおいて「罪」になっているというそのあり方の特別性です。
つまり「原罪」とは、自明的な「罪」であり、誰に指摘されて知るものでもなく罪であるとは、基準がある訳でもなくそれが「罪」であることにおいて、絶対的な「罪」である。そんなものだと言えるでしょう。

一方、紹介した僕の事例において、「愛への復讐の愛」に対して、「それは自分が求めたものではない。それは自分が望んだものとは違う」という言葉が出されたように、魂が原罪感情を感じ取るとき、それは本性的な望みと渾然一体のものになります。本性において魂が望んだものがあり、それに反するものに背をむけた自己という罪が、「原罪」なのです。
そこにおいて「本性において魂が望んだもの」とは、それに反することが「罪」として体験されることにおいて、本性において魂が望むものの先には、「善」があるという構図を考えることが可能でしょう。

そしてその先には、やはり「神」という観念が現れる構図となります。
「神」という観念が人間の脳でどんな位置づけにあるのかの考察はあとで説明します。ここでは、一応その概念を採用した場合は、「魂の関係性」として「魂」が「神」との関係性を持つようになるというメカニズムを指摘しておきます。

その構図においても、「魂は善悪を知っている」という構図になってきます。


■魂は性善..?

上記は、魂が本性として持つ望みは「善」を志向するという考え方です。

これは「魂」への「性善説」に位置づけられるとも言えます。人間の本性は開放された姿において「性善」であるという考え。
ただし「性善説vs性悪説」という議論の構図はしばしば不毛のように思われます。命題の設定があまりに一致しないことが多いからです。

ハイブリッドが「魂は性善」だと考える時、それは「自明論的性善説」であって、世の一般の「性善説」はちょっと別の話になるかも。
「自明論的」とは、そもそも「本性的に望ましいもの」を「善」と定義するのであれば、「本性が向うものは善になる」という、はっきり言って言葉の繰り返しだけの話です。

その点、「性悪説」は、自明論的に言って矛盾を孕んでいます。攻撃破壊性が人間の本性である、だから人間の本性は悪であるという時、本当に攻撃破壊が本性的に望ましいように脳がプログラムされていれば、それを「悪」とわざわざ位置づける観念すら生まれないはずなのです。森林で広いなわばりを持っていきるトラが攻撃性を本性として生きているように。

これは、「心と魂の分離」がない動物においては、そもそも「善悪」がないということです。その場合はただ本性に従って、ほとんど迷うことなく行動し、それが親愛破壊かになるとして、どっちにしても本性の発露であり、そこに「善悪」が出てくるとしたら、彼ら動物自身は全く意識することでもなく、人間が勝手にその姿を見て考えているだけです。

自らの本性への迷いが原罪である。そんな言葉も浮かびますね。

「心と魂の分離」をめぐって、人間に「善悪」というものが生まれる。
それは「一体化の愛」を願いながら妨げられた挫折という、恐らく人間の業と言える宿命が生み出したものだと。
なぜならそこで、自らに向けられた「存在への怒り」というものが学習されるからです。「魂」はこの挫折を論理的に受け止めることはできません。一方で分離していく「心」は、それが、優れた姿を損なったものに向けられるという論理で解釈したことに、全てが始まったように思われます。

そこに「善悪」というものと、人間の「不実と傲慢」、それによって蓋をされ固定された「原罪」という構図が生まれる。
この詳しいメカニズムを次に。


心理学本下巻に向けての考察-118:「未知」への意志と信仰-10 / しまの
No.1369 2007/11/13(Tue) 13:56:12

■終章-2:「神」と「善悪」と人間思想

僕は哲学を専門的に勉強したことはないので、人間の「思想」というものがどのように定義分類されているのか知りませんが、僕なりにそれを定義するならば、「自己が生きる上で知り得る全ての事柄の最も根本的な成り立ちの考え方」とでも定義できるでしょう。

そして僕なりにその分類を考えてみると、こんな感じ。

まず「唯物論」というのがあり、そこでは全てを「物質」の物理現象として考える。この思想を採る人は、哲学思考として自覚してそう考えている人と、自分では科学的思考だと感じながら唯物論的思考をする人という、大体2種類がいると思います。
前者はあくまで専門哲学思考をする人の話で、後者はそれ以外の一般の知識人という感じ。まあ頭の良さがプライドに関連している人にありがちかと。
その2種類以外で、取り立ててそんな話に関心ない人が、普通の思考において唯物論になることはまずないように感じます。

「唯物論」の反対には「唯心論」というのがあり、そこでは全てを心が映した「だけ」のものと考える。全ては意識が映した幻であり実体などない。
まこれはあまり論理として成り立ってないような気がしますね。確かに意識が映すことで我々は物を把握するわけですが、それを「ただの幻」ではなく実体のあるものという前提で理解することの上に、科学があるわけで。

ということで、その多大勢(^^;)の「思想」は、基本的には「物心二元論」の範疇になるのではと。この世界の事柄は、「もの」と「心」という二元でまず生まれる

そして「心」の次元では、人間の思想は「善悪」をどう考えるかで分類されてくることになるかと。

正確なことは知りませんが、「契約論」とかだと、「善悪」とは「契約」つまり当事者間の約束取り決めのことでしかないと。それ以外に「善悪」などというものは別に本性としてあるわけではない、と考えるのかな。
ハイブリッドの「原理原則」はこれに近い概念でもありますが、別に「原理原則思想」じゃないです。あくまで社会行動という土俵の決まったところでのノウハウであり、「思想」ではない。

であとは、大体「善悪」がどうたらこうたらと言う「思想」になってきます。そして善悪が単なる契約と言い切らない限り、「神」というのがやはり出てくる。単なる契約でないとは、人間を超えた目が見る善悪があるという考え方というか気分(^^;)になるわけで。
であとは「神」をどう考えるかで色々分かれてくる。まず有神論無神論。そして有神論にさまざまな宗教の世界。

こんな定義分類になるかと。


■ハイブリッドの基本は「メカニズム論」

僕の、つまり「ハイブリッドの思想」として明確化したいと思っている考えは、やはり物心二元論です。何かの実体があり、意識がそれを映したものを物質として理解する。

善悪の完全なる放棄」なんて言葉からは、「善悪」「神」の根源的存在を否定する思想になるかと想像された御仁もおられるかも知れませんが、そうではないです。
ハイブリッドの「思想」は結構難解かも知れませんが、僕自身としてはブレがなく明瞭だと感じています。

ハイブリッドの「思想」の基本は「メカニズム論」です。
つまり「心」については「脳のメカニズム」として考えます。その延長で、「善悪」「神」が脳の機能としてどんな位置づけかを考えるわけです。
そしてメカニズムとしてこうなってますと言うまでを自らの守備範囲と考えるわけです。それを知ってどうするかは人の自由に任せると。

これは医学と同じですね。「十分な睡眠」が健康に良いとまで言います。でも「人間は十分な睡眠を取るべきだ」とは言わない。それは好き勝手です。

「善悪」「神」も同じです。人間の脳は、「善悪」「神」をこのように感じるようにできているようです。言えるのはそこまでです。
ただし上記の睡眠の例が暗示するように、メカニズムに沿ったものが幸福にとり良いという考えがあります。

結果、「善悪」「神」についても、ハイブリッド独自の推奨の思考が出てくるわけです。
それがかなり限定された、今までなかったものであり、それをもって「ハイブリッドの思想」としたいなと。
それが「未知」思想になるわけだすね。

より具体的に。


心理学本下巻に向けての考察-117:「未知」への意志と信仰-9 / しまの
No.1368 2007/11/13(Tue) 11:39:02

■終章-1:「中期」は「自立」とその不完全性の受容

さて、考察がどうらや締めに行けそうに整理できてきました。
終章として大きなテーマに番号振りながら説明していこうかと。

まず、「否定価値の放棄」とは何なのかという僕自身の考察未了感があったわけですが、事実そこでハイブリッド全ての話が収束交差するポイントが訪れるわけで、実際のところハイブリッドの全てのテーマが出てきて分かりやすく配置整理されないとならないわけです。
一応それが見えてきたということで。

まず「中期」過程の方向性主な内容から見ていきますと、それは「心の自立」への歩みなのですが、同時に、そこにおける人間の不完全性というものが出てきます。「否定価値の放棄」では、その不完全性を受容するわけです。
つまりこれは、歩みの実践内容でもあり、その達成結果でもあり、そして最後に、この歩みが何なのを見る目を確立するということでもあるということになります。

これは「心・技・体」における方向性の確立です。「心」はここでは理屈を知り「技」はその具体的な方法を獲得し、「体」としてそれを頭で知るのみでなく実際の体得として得ることです。
そうして揺らぎない歩みとなって進むのが「後期」「魂の望みへの歩み」になるという次第。

この歩みが何なのを見る目とは、「中庸」です。常に2面を見つづける目です。

「それは真なり。ならば逆も真なり」 その2面を常に見つづけることです。「本質」は常に多面を持つ一つの「未知」であり、その中の一面だけを取り上げてそれを真実だと考えた時、本質が見失われます。
ただし一度に見ることのできるのは、一つの側面です。だから、どうすれば「同時に多面を持つ一つの本質」が見えるかという安易な近道を考えるのも誤りだということです。一度に見ることのできるのは一つの側面であり、それを続けることにおいて、その一面について「知る」ことが向上します。
それが2面双方においてある一定のものに達した時に、「本質が見えてくる」のでしょう。それがいつのかをあらかじめ知ることはできません。
だから、最後まで、2面を見続けるのです。それが「ハイブリッドの世界」なのだ、と。

その言葉を下巻の締めに使いたいような気がしているのですが、まあどうなるかはさておき、まず「自立」についてサマリー追補から。


■「自立」の多側面と最終的な不完全性

「病んだ心から健康な心への道」において、「心の自立」とは、「自己破壊」から「自己建設」そして「自己創造」への転換として位置づけられます。

なぜなら、「自ら生み出す」という転換である「自立」全ての生きるもののDNAに刻まれた設計である時、それを否定するかのように「与えられる」存在にとどまろうとすることは、結果として自らを貧困に陥れる自己破壊を意味するものにならざるを得ないと考えるからです。
特にそれがより辛く苦しい者に向けられる「愛」を目当てにするものになった時、「愛される」ことを求めて自らを貧困化させ苦しめていくという自己破壊への道が確定的とも言えるようになったように思われます。

ハイブリッドの道のりにおいて、「自立」への回復は、内面の開放として生み出されます。つまりこれは「未知」の開放によってもたらされるもののだということです。それは何の人工的な意識努力が生み出すものでもなく、心の自然治癒力と自然成長力が生み出すものです。
それを促すにおいて、「破壊」から「自衛」そして「建設」へという行動様式の転換は、「自己破壊」から「自己建設」への転換を意味します。しかしそこに終るのではなく、この歩みが「未知」の開放を基本とすることにおいて、「自己建設」はさらに「自己創造」へと進化するという方向性を考えることができます。

この歩みは「既知」から「未知」へというのを基本的な方向性とし、心の機能の大枠として「意志」というものの未知の役割を見出していく過程とも言えるでしょう。
この結果は、この人間の心の姿としては、「感情による操り人形」から「知性と意志による自己への覇権」へという転換だと言うことができます。

これは「感性土台」の影響の変化として理解することもできます。「人の目感性土台」では、人は「人の目」によって心に命が与えられるような感覚になり、まるでピンボールマシンのボールのように、回りからの影響に反応してせわしなく生きる生き方になります。
これは見方によれば、それによって世界とのつながりを持っているという、「負の一体化」とも言えます。

「心の自立」では、そのように「感性土台」による操り人形状態を脱し、「知性と意志」によって自己を導く姿に転換するわけです。
ここにおいて個々人は独立し、今後はその対等な独立によって人々が相互にそして世界とつながるという別の一体化へと変化します。
つまり「独立を通しての調和」になるわけです。


■人間の弱さと不完全性へ

このように多面を持つ「自立」は、総合的には、「自尊心における自立」の問いへとつながります。
人の目に依存するのではなく、自分で自分の考えをもち、それがうまく行くことにまず自尊心を見出すことが大切です。それが他者に依存する自尊心ではなく、自らによる自尊心への自立になるわけです。

「人間の弱さと不完全性」の命題の真の姿は、この段階で見えてくるでしょう。
「自尊心における自立」という命題を問い、他に依存しない自尊心と言ったとき、その完全な姿とは一体何なのか。他者の世界から完全に超越した自尊心などというものも、考えるのは困難です。
「自尊心における自立」は、やがて「自己の価値」という命題になります。「自己の価値」を自分自身だけで決められるとはどうゆうことか。愛されることに全く依存しないそれとは何なのか。

これは「自立」という命題全体にも言える話です。他の動物と同じ「自立」の命題を考え、自らによって守ることを是としたとせよ、人間がそのために発達させた「空想」および「自意識」の力は、逆に人間を、さまざまな精神的な「恐れ」を持つ存在へと化したように思われます。現実には存在しない危険への非現実的な恐怖のみではなく、潜在的に存在するさまざまな困苦への、そして必ず訪れる老いと死への。人間のような空想能力や自意識を持たない他の動物においては、それに怯えることも悩むこともなく自分の命を尽くせる一方でです。

ここに、人間の根源的な弱さと不完全性があるのだと、ハイブリッドでも考えるわけです。人間は完全な自立としての「恐怖の克復」はなし得ない。人間は、自らの存在価値を完全に自己のみによって支えることはできない

人間の宗教と思想の歴史は、この人間の不完全性への答えを模索し続けた歩みだと考えられます。そしてそれに対する答えを見出そうとする中で、「不実と傲慢」に陥り、「原罪」を深くする中で、再び答えのない混沌へと戻る。この繰り返しだと言えるでしょう。

ハイブリッドも、それに対する一つの「思想」を示そうとするものになると言えるでしょう。
それがやはり「否定価値の放棄」を成り立たせる論理転換になるわけですね。

ですから「中期」の過程は、「心の自立」をまず主方向性とし、その中で同時に「不完全性」への目をも持つことで、一つの締めとなる最大の転換を成すものになるわけです。
それが「否定価値」から「否定価値」への転換です。その結果、「人間の価値」「善悪の審判基準」から「魂が近づく輝き」へと変わる。そして、「後期」として「魂の望みへの歩み」になるという段取り。

かくして、そこで問われるテーマは「人間の不完全性」をめぐって生まれる命題として捉えることができるわけです。
「善悪」「罪」そして「神」
その最終整理へ。


心理学本下巻に向けての考察-116:「未知」への意志と信仰-8 / しまの
No.1367 2007/11/12(Mon) 12:11:51

■「遊離した悪意」という根源メカニズム

「善悪」にも絡んだ「不実と傲慢」のメカニズムの最終考察をするに当たり、その前に、つい今明瞭になってきた根源メカニズムを説明しようと思います。
これは「不実」なメカニズムでも、「傲慢」なメカニズムでもないですが、「善悪」に大きく関連します。
それは一種「真実」の、つまり人間が根源的に持つ情緒ということで他に帰しようのないものとして、「真実の感情」のメカニズムのようです。
それだけ、影響が大きいものと言えるでしょう。

それは「遊離した悪意のイメージ」です。
他者の中に、ただ、「悪意」があると感じるというメカニズムです。どのように「悪意」なのかという論理はありません。ただそれがまず知覚されます。そして「心」が、それに理屈づけをして、さまざまな連鎖感情が発生する、というメカニズムになるようです。

これはメール相談に書かれた感情内容について、表面には表れていない部分がどーも変な流れとしてあるようだと、僕自身の似た体験を再度感情分析シミュレーションをしていて、浮き上がってきたものです。
相手が(このケースでは上の立場の人間)、自分に期待したようなひいきの行動をしないのを見た時、というかそれとは逆の反ひいき的な行動をした時、相手に「悪意」があるのを感じます。

今これが浮かび上がって来たというのも、そこで追想した僕自身の当時体験でも、連鎖感情の方がすぐ意識をおおっていたので、その「悪意イメージ」の単独性が明瞭でなかったからですね。
今感情分析すると、その「悪意」実に論理のない、漠然としたイメージでただ浮かび続けているのを感じます。


■「遊離した悪意」に解決はなく消滅する

この遊離した「悪意」イメージの単独性は、これには「解決」がない、という特徴でも他とは一線を画するものとなります。

ただそこにある悪意」として知覚されたそのイメージは、最後まで、「解決」することはありません「遊離」という表現をしているのもそれが一つあります。その「悪意」はもう、それを生み出した原因であろうものからももはや遊離しているので、原因を取り除いて解決するということすらなくなっているような、そんな「悪意」イメージです。

ではどう克復解消するのかと言うと、これを生み出す背景メカニズム全体の減少に応じ、それは内容姿を全く変えないまま、次第に薄れていき、やがてまるで蜃気楼の亡霊が消えていくように、なくなります。
背景メカニズムとは、基本的に「感情の膿」と考えていいでしょう。そもそもこの「悪意」イメージは、「感情の膿」の基本的色彩である「異形なる他人」「異形なる自分」という感覚の人物像から発散される「気」として観念される直接的なイメージでもあるように思われます。


■「悪意」イメージの2大源泉「感情の膿」と「攻撃性」

「発散される気」とは、「恨み」ということになるでしょう。
これは一般心理メカニズムとしては、何かの不満や苦しみをこうむった者が、それへの反撃復讐を意図しようとした瞬間にまず起きる最初の「気」の変動とも言えるような「情動の揺らぎ」であり、「攻撃性」というもの一般がまずそれで始まるものだと言えます。
それが具体的な形をとったものが、「復讐」「報復」「攻撃」になるわけです。
ですから基本的に攻撃的行動法を取る人ほどは、この「悪意イメージ」の源泉となる「恨みの気の揺らぎ」に意識がおおわれており、何かにつけ他人に「悪意」を感じ取りやすいと言えるでしょう。

つまり「悪意」イメージには「感情の膿」と「攻撃的行動姿勢」という2つの基本的源泉があると言えますね。
前者は意識的にはもうどうしようもないものです。後者は変更が可能です。ただし「悪意」イメージは残る。後者の攻撃的行動姿勢も維持されやすい。厄介です。


■「悪意」は意識がそれを取り上げると「悪化」および「現実化」する

「遊離した悪意イメージ」に「解決」はない一方、意識がそれを「何とか」しなければならないものとして取り上げると、「悪化」「現実化」が強烈に起きるというメカニズムがありそうです。

意識がそれを取り上げるとは、「遊離した悪意」を意識がキャッチして、そのきっけかけとなった相手の行動内容の論理的客観的悪意性を知的に十分把握することのないまま、「自分に攻撃が向けられた」と感じることです。

これは人間の「素の思考」ではまずそうなります。まず相手に期待する自分ひいきの態度イメージがある。これは感情の膿がある分において愛情要求になります。それに反した相手の行動は、「遊離した悪意」イメージを浮かび上がらせる。
これはまず「自分に攻撃が向けられた」と体験されます。愛情要求を背景にすると、自分が特別に愛されないことが、愛情要求の強度に応じて、「攻撃された」こととして体験されるというメカニズが考えられます。
思いを寄せた高一の女子高生が自分を無視するようになった結果殺害に及んだ、町田市の男子高生の事件が思い浮かびますね。

これはかなり広範囲におよぶ人間の心理メカニズムのように思われます。「思いやり」と称する自分の想念に相手からの見返りがないと怒りに転じる心理。
心理学本上巻ではこれを「バニラ・チョコ・クッキー現象」(^^;)として、「愛」で始まった意識が「自尊心」に化けているというメカニズムとして説明しました。これもかなり広範囲な心理メカニズムとして、そのさらに一枚下に敷かれているメカニズムがあるということになるでしょう。

ですから「意識がそれを取り上げる」形として最も典型的になりがちなのは、そうした「他人の悪意イメージを抱く自分」というものが自己理想像を阻害する形になるものです。
この場合の自己理想像とは間違いなく、「暖かい信頼関係の中にいる自分」です。相手は悪意によってそれを壊しにきている。

そのように「自分に向けられた攻撃」と知覚したものへの反撃姿勢をとったら、もうアウトです。
相手もまたそれに反応するからです。
かくして「遊離した悪意」という形を取らないものは、相手の何らかの自分への敵対的行動という現実の形を招くことになります。心が健康な相手で、良くて、「穏やかな敬遠」。大抵は、「あからさまな拒絶」です。


■「悪意」を取り上げない「心の技術」を

これがもう誰も免れ得ない、人間の心のメカニズムなんですね。

ハイブリッドとして示せるのは、「遊離した悪意」の層と、相手に期待した行動が自分の自尊心の問題になるという層の、それぞれでの対処姿勢です。

「遊離した悪意」については、ただそれを見るだけで、反応しないことです。
これはもう何らかの困苦や損失や不遇を抱える人間が業として抱く、根源的なイメージです。ただそんなものがあるということを認識する心理学の目で、ただそれを見つめるだけが、人間にできることです。
何もせずに。ブルース・ウィリス主演の『12モンキーズ』で、彼演じる主人公の子供の頃の映像が流れ、その中でタイムスリップしてやってきた未来の大人の自分銃に撃たれて倒れるのを、同じ子供の自分がただじっと見つめている、そんな目で、人間が抱えるこの「怨念」というイメージをただ見つめることしかできません。..てこのシーン分かる人いるかな^^;

それ以前にまず課題になるのが、相手の振舞いが自分の自尊心の問題になるという基本的傾向への取り組みになるでしょう。
特に論理性のない「物腰振舞い」「態度雰囲気」を口調や仕草などで問題にするケースが最悪パターンになります。これはもう心理障害まっしぐらパターン。その中で「暖かい信頼関係に応じない姿勢」なんてのを相手に見るというもの。

そうではなく、ものごとの論理的内容に立ち、自分で自分の考えを持って行動する、それがよりうまくできるようになっていくということの中に自尊心を求める方向でしか、こうした根源的なメカニズムから脱する道はないと思います。
もし心理障害を来歴の中でこうむっていなければ、こうした課題には適当でも人生をやり過ごせるでしょう。しかし心の障害傾向という誰もが免れないものの度合いに応じて、それを脱するための根本的な別思考を身に付ける努力をするしかないと思うのです。これはもうハンディを持った時の宿命です。

この2面での対処姿勢を大枠で、いかに「攻撃」という行動様式を脱するかという一般課題と言えます。
「遊離した悪意」ではなくとも、世には実際に悪意を持った人間がいます。しかしはっきり言いますが、そうした人間の行動を冷静的確に観察して「悪意」を見抜くことと、ここで書いてきた「自分が攻撃される感覚」「悪意あるイメージ」の知覚は、まったく別物です。この点、「悪意イメージ」を「現実の悪意」と混同することによって、「現実の悪意」に対し自衛能力のない無防備になることを副次的にもたらしているという問題も考慮する必要があります。

それら全てが、まず自分自身の「攻撃」という基本的行動様式を見直すことから始められます。
これは相談事例を通してそうなのですが、自分自身の怒りに悩む方も、他者の怒りへの恐怖に悩む方も、そうした自分の悩む感情について一所懸命考える一方で、事実か空想かに関らず、自分に向けられた「攻撃」には同じ力づくの「攻撃」で反撃対処するという根底的な姿勢を見直す姿勢を示す人はほとんどいません。しかしまずそれを根底から見直す必要があるわけです。
その点、ほとんどの方がこの点について見直し感覚が麻痺しておられます。


「なにおっ!」でもうアウト^^; これを見直す。

まあ多分そこで「攻撃姿勢を見直す」とは、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」的な、やはり非論理的なものしか浮かばない状況があるかも^^;
そうではなく「知恵」を使う行動学として、建設的対人行動法た原理原則立脚型行動法をハイブリッドでは採っているわけで。

いずれにせよ、「悪意」というイメージ人間の根源的感覚の一つであり、この極端な表れは「怨念」を抱き現れると想像されている「幽霊」という空想です。それはまさに「恨み」という感情の象徴であり、それは救いを求めて現れ、自分がそれを助け損なった時、その怨念が今度は自分に向けられるものとイメージされるものです。
それがただ人間の業とも言える心理メカニズム現象だという心理学の目を保ち、反応しないままでいる。するとやがて幽霊も物足りなさそうに(?^^;)消えていくでしょう。

生物が本来的に生まれ持った機能でも、生育途中で根本的に別のものに取っかえないとマズイものというのがあると思います。
人間においては、先日触れた「人間の寿命には知恵の獲得伝達が盛り込まれている」という説が示唆することの一つとして、この「悪意への反撃」というのがそれのように思えるんですけどね。


心理学本下巻に向けての考察-115:「未知」への意志と信仰-7 / しまの
No.1366 2007/11/11(Sun) 18:11:51

■否定価値放棄の心理7:「生きる」ことが「愛する」ことへ

まず「心」が主導して、「強さに立った愛」にまで「魂」を育てる。その「強さに立った愛」により「不完全性の受容」を成すとともに、これから始まる「魂の望みへの歩み」の中で魂が出会う「原罪」への許しが用意されます。それが「否定価値の放棄」
そして、「魂の挫折の原点」への向き合いの中で、原罪感情と共に「愛への復讐の愛」は消えていきます。

その後に、「まっさらな人間」の姿が現れます。
そうゆう流れ。

「まっさらな人間」においては、「生きる」ことが「愛する」ことになります。
この辺の流れはすでに魂論の中で出しており、後はもう下巻原稿への再整理に任せますが、「魂の望みへの歩み」において、「魂の望み」とはやはり「愛」であり、「魂」が結局「心」に「命」を与えるものであることにおいて、「魂の望み」が開放された時に見出されのは、「命とは愛」なのだ、という感覚でした。

最後の例として紹介するのは、ごく最近のものです。
まあごく最近の日記で個人的なことなのでどう人に見せるかも難解(?)ですが、『悲しみの彼方への旅』を読んだ方なら、僕にとり初恋女性が人生でとても重要な存在になっていたことをご存知かと。「再会」の後にも多少続きがあったことになります。
とにかく、人生のはじめの頃にあった、「人の目」を完全に凌駕した「魂」の感情に出会い、それが「病んだ心から健康な心への道」への歩みを導く中で、一度は切り離された「望み」が、まるで完全に葬り去られたようなものから、雲の上の世界を見るような羨望と嫉妬みたいなのも経て、それに近づこうとする歩みの先に、全く対等な存在として共鳴を感じる心が見出された、という経緯になります。
それを自覚した時、僕自身にとても印象深い感情が流れたということで、それを書いたもの。

なお状況説明ですが、女性ヴォーカリストは初恋女性の親友で、そんなこともありちょっと別の世界の人達的な遠い感覚から始まったという経緯でした。

2007.7.1 (日)
 日記を書く頻度が減っている。とにかく心理学本原稿に向う日々が、もはやほとんど迷いのない感情の中で向う形で続いているという感じだ。
 書くほどのことでもないが、昨日の新聞に××キャンペーンとかで,☆☆がパーソナリティの一人として出ていて、何となくイメージにあったよりもまだ変わらぬ若々しさなどに惹かれ、HPを覗いたりした。そして流れる歌声にしばし聞き入る。そのクセのない美しい歌声の先にある、最も華やいでいながら落ち着きのある、輝く女性達の世界という象徴の感覚と共に、そこに流れる“愛せたことに誇りを感じる”と言った歌詞の中に、自分の心の最も中心にある琴線が共鳴する感覚に、少しときめく感覚の中で感慨を感じる。
今までで最も純粋に、その輝きを素直な心で見上げ、喜ぶことのできる心が自分の中にあるのを感じる。CDのジャケットに映された☆☆の笑顔が、溢れる愛と喜びの表現として、それを受け取れる感情が自分の中にあるのを感じる。同時にそれが、Kちゃんのいた世界なのだ、という感慨と共に。

変化の現れ節目の事例として2つほど追加した次第ですが、留意頂きたいのは、このような結果としての変化が間違いなく目指す目標動機になり得るとして、意識実践努力「否定価値の放棄をしたい」「まっさらな人間になりたい」と考えたところで何も進むものではなく「弱さを認める強さ」「望みへの歩み」というまずは2つを意識上は目指して歩み続けるしかないということです。この方向性においては、もはや「どうなれれば」という自己像も、「いつこれがあれば」という通過道標も、もはや意識する必要さえありません。

問題は「弱さを認める強さ」「望みへの歩み」を見えなくしたもの、さらにそれに逆行しようとしたものです。
それが「不実と傲慢」のメカニズムとして、人間の心には存在する。それは幼少期の魂の挫折の中でこうむった「存在への怒り」を他に与え返すという報復として始まりながら、やがて人は「善悪」の中にそれを込めるようになります。
その結果が、「正しい怒り」「望む資格」「嘆く優越」という癌細胞思考にもなる。

そこに出てくる、「悪」という観念が、最後には最も破壊的な位置づけを持つようになるでしょう。
人は神のごとき「善」になろうとする傲慢によって、自分の中に「悪」を生み出すわけです。パラドックスです。
このメカニズムの最終考察に、あとちょっと頭をひねろうかと。


■愛は「苦難を越えた成長」の中で

ちょっと余談的な話もつけ加えておきましょう。

上述のように結構最近の話も出した経緯として、僕の心の成長の歩みにおいて、やはり『悲しみの彼方への旅』を出版したことが最終的な段階への援軍になったと感じます。あの本を契機にして、僕はまだ果たされていなかった人生の問いへの最後の前進を進めたという感じです。
結局そこで大きかったのは、自分がどんな人間なのかの全体をありのままに世界に晒すということをできたことだと。初恋女性にももちろん本は読んでもらいましたし、「あの下級生の子」とも連絡が取れた。

そうして、「おまけ」のように(?)分かってきたのは、そうしたかつての僕にとって、何の悩みもなく恵まれた育ちによって輝いていたと感じた女性達も、実は今にしてそれは実像ではなく、例えば初恋女性は僕の考え得る最も心の健康な人間の一人ですが、その華やかな世界に青春を生きたのとはちょっと雰囲気の違う、苦難を糧にした成長を旨とする人間であることを知り、「あの下級生の子」内面に悩み苦しみを持ち心理学に興味を持った一人であったことを、今になって知ったりしました。

そんなこともあり、それだからこそ、僕にとって輝く人間的魅力のある人というのは、ただ恵まれた生い立ちが生み出すものなどでは全くなく、あくまで誰もが苦難を越えて成長しているという感覚の中で、人に人間的魅力を感じるわけです。それを否定するような、「恵まれ愛され自慢」的な感じがある時、どんな美人や才能人でも、色あせて見える次第。

まあこんな話も下巻のどっかに入れときたいですね。


心理学本下巻に向けての考察-114:「未知」への意志と信仰-6 / しまの
No.1365 2007/11/11(Sun) 15:44:25

きのうの「「未知」への意志と信仰-2」で、
5)「心」が魂を救う「原罪への許し」の役割を担う
6)「生きる」ことが「愛する」ことへ

と書いておきましたが、間に、
6)「魂の挫折の原点」への向き合い
と追加しておきます。


■否定価値放棄の心理6:「魂の挫折の原点」への向き合い

「否定価値の放棄」によって、「心」が善悪の観念を放棄する。これはこの人間において、「善悪感覚」が全て消失した何でもオーケー的な無秩序無思想を生むものでもなく、自らの「善悪感覚」を「善悪」の「判断」を越えた魂の未知の世界に委ねようとする姿勢を意味します。

やや雑感的概観
人は、「これは許せない」という感覚をしばしば「良心」だと感じます。そしてその「良心」によって、しばしば自分が愛されるべきだと感じます。
ここにはハイブリッドが捉える「傲慢」があります。そこにおいて、「魂」は「原罪」を抱えることになります。そして「心」が「許してはいけない」という善悪思考を持つ持つことにおいて、この人間は自らにとって許されざる者になるのです。そして自らの愛を妨げます。

すでに述べたように、「否定価値の放棄」では、「原罪」への「許し」が用意されます。この「許し」の本質の考察をあとで行います。
ただしこの「許し」「許しの判断」ではなく、判断を放棄することです。その代わりに、「魂」が持つ「原罪感情」そのものに、「罪」への対処を委ねるという形になります。
もちろん原罪感情強い痛みを伴う感情であり、それ自体が「罰」になるからです。

心が善悪判断を捨てた時、そこに「罪」と「罰」のありのままの姿が現れます。
心が善悪判断を自ら成し得ると考えた時、そこには「傲慢」が生まれます。そしてやがて自らが定めた「人間の価値基準」により、自らに責め苦を与えることになるわけです。

「否定価値の放棄」の前後の転換を、一言で次のような命題として捉えることができます。
「傲慢と責め苦」から「罪と罰」へ。ドストエフスキーの世界ですね^^;

ですから、「否定価値の放棄」の次は、「魂の挫折の原点への向き合い」に行くわけです。「魂の望みへの歩み」で、これが起こります。
これは10/25「心理学本下巻に向けての考察-85」で書いた下記図における、「心」の層が取り去られた状態になるということです。
================================================================

<心> 
「人間の価値の審判基準」
--------------------- ↑この一線を超えることで人間は自ら掲げた審判基準により内面の地獄へと落ちる

<魂> 「愛への復讐の愛」 「原罪感情」
================================================================


ここでは、「愛への復讐の愛」「原罪感情」という「魂の挫折の原点」が露わになった例として、僕の日記から紹介しましょう。
それらの原点感情をどうしようという意識はもはやなく、ただそれをありのままに見つめる時間が訪れたわけです。

なお「魂の挫折の原点への向き合い」は、これまでにも魂論の流れで僕自身の日記から例を沢山出しています。心理学本下巻では、流れに沿って重要なものを整理し直して載せる予定。
ここでわざわざこれを追加するのは、「魂の挫折の原点」としてのその感情論理が実に分かりやすいものとしてです。

僕の「魂の望みへの歩み」は、その全体としてはやはり初恋女性の存在に導かれたものが「本流」で、ここに紹介するのは「傍流」の中での、ごく断片的な感情分析です。
それでも結構濃い感情分析であり、具体的な対人出来事を必要としないで内面変化を導ける感情分析の良い例でもあります。
当時(と言ってもまだ3年前ですが昔日の感..)の日常生活場面では、明るく前向きに交際相手探し(^^;)などもしている一方で、心には別世界の「魂の挫折の原点感情」が流れたというものになります。ちょっと他人事的な感覚の中で、今読んでも深く印象的ですね。

2004.8.23 (月)
 ・・(前日日曜のことを書いている。略)・・
 それから髪のカットを済ませ、ジョギングに行って、海岸の砂浜で僕は大きなシートをたたんでいる4人ほどの男女を見た。
 
僕は一人の女の子に惹かれ、注目した。髪をポニーテールに束ねて、細い肩ひもの白のタンクトップに、黄色のスカート、色白できれいな二の腕という姿は、僕の中にある女性像に近いものがあった。僕はその子の顔が見れるかと、波打ち際から少し陸地側へと進路を変え、振り返ったりしながら走っていたが、あまり良く見ることはできなかった。
 同時に僕の中に、何かの感情の物語とでも言うような情景が流れ始めていた。その女性に惹かれる自分の感情に伴う、微妙なイメージを感じた。それは
その女性が今いるこの世界に、自分がいることへの違和感のようなものだった。彼女と一緒にそこにいる男の子には、この違和感はあってはなならないものだという感覚があった。そして、そんな感覚の中でその女性に惹かれる自分の感覚の先にあるのは、そんな女性を自分の手に入れようとすることは、閉ざされた自分の世界にその子を連れ込むことなのだ、というイメージだった。そして僕はそれを望まない。それはもう僕が追い求めたものとは違う。僕は自分が惹かれる女性が、自分のような邪悪な存在と結ばれることを望んでいない。その先にあるのは、女性を前にふさぎ込む自分のイメージだけ..。
 そこには、「望むものは得られない」という構図があった。ジョグングで海岸を折り返す頃、僕は心の中で泣いた。


こうして自分の内面に見える感情について、もはや「どうにかする」という意識姿勢完全に捨て去られている姿勢の中にあることを留意頂ければ。
感情はこうして、「どうにかする」ことも全くないまま。ただ流れ、そして消えていきます。

その後に、「まっさらな人間」という心の姿が現れるわけです。
これもちょっと自分でも印象的な日記を最近書いてますので紹介しませう。


心理学本下巻に向けての考察-113:「未知」への意志と信仰-5 / しまの
No.1364 2007/11/11(Sun) 12:32:30

■否定価値放棄の心理5:「心」が魂を救う「原罪への許し」の役割を担う

とにかく先の流れを説明しましょう。

「否定価値の放棄」によって、「善悪」が完全に捨て去られます。
それはこの人間の心において「善悪」のベクトルが完全に崩壊したということではなく、「心」がつかさどる明晰意識での「善悪」という思考が完全に放棄されたというこです。

「心」の側における「善悪」は、「原理原則」だけにもう任されます。これは「感情としての善悪」ではない、純粋な知性思考としての、スポーツのルールと罰則思考の世界です。それを守るのが基本的に得なことですが、サバイバル世界においては、それはもう「大きな目」の下で自分が善人であることを望む「良心」ではなく、あくまで社会を生きるノウハウとしての、そして自分の人生を生きる戦略として、「利用」するのです。場合によってはそれを破るという可能性も、はっきり言ってこの思考においては「アリ」です。

繰り返しますがそれはこの人間において「善悪」のベクトルが、さらに言えば「善悪の感覚」が完全に消えたのではなく、実はまだ残っています。
否、「残っている」どころか、「心」において「善悪思考」が放棄されたことにおいて、「魂」において「善悪」をめぐる感性がその純粋な形で機能をするようになる、と言えるようです。

意識的な善悪思考をすることにおいて、逆に人間は本性としての善悪感覚を見失うということになりますね。その結果は、「人間性を損なう」という姿に表れるように思われます。


■人間にとっての最終的な「善悪」とは..

ここで参考まで、僕の最終的な「善悪感覚」を言いましょう。一方で「善悪の完全なる放棄」を言い、一方で「本性としての善悪」や「心の浄化」を言い、その総合結果はどんな感覚なのか。これも実は今まであまり書いたことのない話です。

まあ僕自身の最終的な善悪感覚というより、人間にとっての「善悪」とは一体何かという大きなテーマについての、ハイブリッドの思想とも言える話になるでしょう。
「人間にとっての善悪」は、結局、「心」と「魂」での2枚岩のものになり、「心」の側では原理原則思考をすればいいし、一方「魂」における「善悪」には答えはなく、それは魂自身に委ねるしかない、そして「魂」というものが基本的に「未知」であることにおいうて、「魂」にとっての「善悪」は「心」が関与するべきではなく「未知」に委ねるべきものなのだ、というのがハイブリッドの考えになります。
この方向性を獲得するのが「否定価値の放棄」でもある。後でこの視点で詳しく考察しましょう。
また「未知」に委ねるべき「善悪」という方向性の先に、「神」という観念が出てきます。これもまた後で。

例えば、「夜回り先生」で読んだ本には、「私は、少女たちのからだを買う大人たちが許せません」といった言葉がありました。
僕はそうした「売春行為」については、両者合意の上であればそれはもう「需要と供給」が成り立ったということであり(^^;)、それが「悪」だという感覚もあまりありません。ただまあ社会的に望ましくないこととして、法律で禁止している。それを犯した者はそれで罰せられればいい。
これは「心」における「原理原則思考」です。

一方、自分自身として、そんなことをしたいともてんで思わない。ローティーンくらい以下の少女を「性の対象」として感じられる感覚自体が、もう抱けないんですね。これは「子供への愛」の感覚が、そうした「感性」の根元のところで性欲とはバッティングを起こすので、根底でブロックされるという本能的なメカニズムが働いているように感じます。

つまり、僕自身の行動指針としては、知的原理原則思考と、あとは自分の基本的な人間性感覚という2枚岩の総合結果として、最終的な「善悪感覚」を持っているということになるかと。

こでで「基本的な人間性感覚」と書いたのは、それ自体を「望み」に置き換えてもいいものです。知的な原理原則思考があり、あとは自分の望みに向うだけだと。「善悪」は「望み」に反映していく形で、「望み」自体が浄化されたものになる方向性があると。

ただこれだけでは話が大きく不足します。
「望み」自体が浄化された方向性になると言っても、それ以前の段階では、「望み」に「荒廃性」が起きているのであり、そこにおいて生まれた「罪」を、どう捉えるのか。


やや話にまとまりがないですが、この辺がやはり「否定価値の放棄」に根本的に関ってきます。

「売春」なんて例を出しましたが、「望まない性」は「暴力」であり、それは幼い心に与えた攻撃である時、新聞でそんなテーマで特集が組まれているのを読んだことがありますが、「魂の殺人」にさえなり得るものです。これは「売春」よりも「性的虐待」の世界です。
この時、「法律」はそこで成された「罪」に見合う「罰」というものを提示し得ないでいるのが現状でしょう。

そこに、「絶対的な悪」があるという感覚を、人はやはり抱くことになる。
深い話です。そしてその深さにおいて、「否定価値の放棄」では、それを放棄するのです。そして、「未知」に委ねます。「神に委ねる」とも言えるでしょう。
かくして話は「信仰」の領域になってくる。そして「神」を「未知」とする。ここにハイブリッドの「未知への信仰」という話が出てきます。それが「未知への意志と信仰」になるわけです。

ここではとりあえず実直なメカニズム考察として、「原罪」とそれへの「許し」が出てくる次の流れへ。


心理学本下巻に向けての考察-112:「未知」への意志と信仰-4 / しまの
No.1363 2007/11/11(Sun) 10:17:02

■否定価値放棄の心理4:「魂」主導による魂自身の挫折の回復へ

「否定価値の放棄」とは、それを節目として始まる「魂の望みへの歩み」において、魂が出合う「原罪」への「許し」が用意される転換でもある。
これは、「魂の挫折を置き去りにした心」という根源的問題において、1)まず「心」が主導してその回復へと歩み、2)「否定価値の放棄」を境目にして、3)今後は「魂」が主導して全ての回復への歩みを導くという構図の中に起きる、極めてパラドックス的な解決の姿に関連します。

う〜んとても難解ですねぇ。
問題の発生解決への方向転換を再度おさらいすると、魂の挫折を心が否定し去ると共に、「一体化の愛」が得られなかった屈辱への報復としての「愛への復讐の愛」を求めるようになり、それが「神の国」への謀反として「魂」に深い「原罪感情」が刻まれた、というのがまず問題の構図です。

そこでは、「誰よりも特別に愛される」もしくは「誰よりも特別な愛を手に入れる」ことにその復讐性が込められる一方、その裏には自ら与え自ら愛することをやめ、何かの「人間の価値」によって圧倒的にかつ一方的に愛されることを求め始めた人間の心の不実が潜んでいます。

そうして自ら愛することを忘れた時、人はやがて「人の目」の中で生きるようになり、自分の存在の価値を自分で支えることができなくなる。愛されることに成功した時全てが叶えられるという幻影によって、その不実の中で自分が全てを失おうとしていることが見えなくなるのです。ここに人間の根源的な弱さと不完全性があるという話をしたのが、11/3「心理学本下巻に向けての考察-101」でした。

..とまた昨日ここまで書いて、僕としてはまた立ち止まって、トンネルをどう掘ろうかと思案をめぐらせた状況があります。
まず「心」が主導して、次に「魂」が主導する、それでは終らずに、最後に「魂」を「心」が救う必要がある。この難解な流れの中に、今まで明瞭化されていなかった何か極めて重要なことがあるようなのですが、それに関連するらしいこととして、「不実」を伴う人間の根源的な弱さと不完全性という話を再度ピックアップした次第。

そして「不実の中で全てを失っていく」という、書いていて自然に出てきた言葉が一体何を意味するのかと考えた次第。事実、「魂の挫折を置き去りにした心」の構図の先に求められるようになるのが「愛への復讐の愛」や「存在への怒り向け合い競争における勝利の栄光」だとして、それが「不実の中で全てを失っていく」ことだというのは、一瞬何かつながらない感覚を感じました。それは表面はまだなにかを追求している姿であって、失っている姿ではない。

でしばし考えたのですが、そこで「失う」ことの深刻さは、今これから失うという問題よりも、すでに自分が失ったものへの激しい嘆きや悲しみを「失った」ことにあるのではないかと考えた次第です。もしそれをありのままに晒せば、おのずと何を取り戻すことに向うかは導かれるからです。
つまり、「愛への復讐の愛」や「勝利の栄光」といった心理の中で何を失うかというと、自らの喪失を失うのだ、という構図になります。
これが「不実」の本質と言えるでしょう。

それは自分で自らに「失わさせ」る心の動きです。それは同時に、自分が何を失っているのかを分からなくさせながら、自らに「失わさせ」ていくものです。結果、この人は全てを失い続けていくことになります。

かくして、やはりテーマとして今までとまったく次元の異なる話が出てきます。
どうゆうことかと言うと、「挫折からの前進」としての「心の自立」という流れで今まで説明してきたのは、「容赦ない現実」の中で人が現実においてこうむった不遇で起きたことからの回復という視点からのものでした。
テーマは「」「自尊心」「恐怖」がありました。

それとは異なる、「現実の不遇」ではなしに人が自分自身で失っていくという「不実」という側面「心を病むメカニズム」にはある。「否定価値の放棄」で主テーマになるのはそれであり、同時にそれが「自ら神になろうとする」という「傲慢」の放棄であるという時、ここで出てきた異次元のテーマとは、一言でいってこうなりす。
つまり、「不実と傲慢」という心のテーマだと。

今まで「否定価値の放棄」について自分自身で説明に終結感が感じられなかったのは、このためだったんですね。
「不実と傲慢」というテ−マは、これまでメカニズム論ではあまり独立した歯車要素としては取り上げていませんでした。ただ心を病む過程で生まれる幾つかの「癌細胞思考」というのを言ってきた。
3つあります。「正しい怒り」「望む資格」「嘆く優越
(2006/02/27「皮相化荒廃化した欲求の浄化技術-4」など参照。言葉を多少修正)

どれもやはり「善悪」に関連します。
それが「魂」と「心」をまたがった、「心と魂の分離」のメカニズムで捉えられそうな気配。「不実と傲慢のメカニズム」ということになりますね。
ハイブリッドの道のり論が、「否定価値の放棄」あたりまで来で、ようやく終わりになると感じた所が突然難解な始まりになるというのも、この異次元メカニズムが交差してくるからということになるでしょう。

ここではとにかく、その「不実と傲慢」が「否定価値の放棄」により捨て去られることで、「魂」が主導しての、魂自身による「魂の挫折」の回復取り戻しに向う段階に行くという流れだけお伝えしておきます。

「神の国」への復讐謀反を捨て、祖国に戻るということが、ここで成されるわけです。「もうやめようよ」という「魂」の声に、「心」「分かった、祖国に帰ろう」と同意をする。
もちろんそれでハッピーエンドになるのではなく、ここから「魂の挫折」の真の回復への歩みが始まるということになります。
「魂」は失意の中で「神の国」に帰るわけです。

そして「愛」を望む時、「原罪」のありのままの姿に出合うことになります。


心理学本下巻に向けての考察-111:「未知」への意志と信仰-3 / しまの
No.1362 2007/11/10(Sat) 14:23:29

■否定価値放棄の心理3:「心」が「善悪」を放棄し「魂」に委ねる

「魂」から分離しつつある「心」には、自分に起きていることが全く分かっていません。ただ、この世界には「存在への怒り」を向け合うというのが基本的にあると感じます。
そしてやがて、この「存在への怒り」を、自尊心のために利用するようになるわけです。このメカニズムは簡単です。「愛されることに依存しない自尊心」心の課題として作用し始めています。相手を破壊攻撃する衝動という、「存在への怒り」であれば、その格好の材料になります。

子供は、「存在への怒り」を他に向けることができれば勝ち、逆に他から自分に向けられることに甘んじた時が負け、と感じるようになるでしょう。この「存在への怒り」というのは、どうやら片方だけにやじりのついた矢として人間の心に体験されるようです。自分に矢が向けられたら、力づくでそれを相手に向け返すわけです。この力比べになってきます。

自己操縦心性はすでに働き始めています。魂の挫折などなかったかのように、これからの「存在への怒り向け合い競争」における勝利の栄光を描き、他人を破壊できる燦然とした自分の姿が愛されるという、辻褄の合わない自己理想像が描かれます。
一方で、これらが激しければ激しいほど、この人間は愛情に飢え人に「見られる」ことを必要とするという事態が起きています。結果、愛情に飢え人に「見られ」ようとする中で、他人を破壊し、期待する愛とは丸っきり逆の、他人に嫌われるような結末に出会い、激しい怒りと絶望を抱くというのが典型的な感情の流れになってきます。

この人間の進む先は、2つの要因によって変わってくるでしょう。

まず魂の挫折の度合いです。それが大きければ大きいほど、「存在への怒りの向け合い」しか見えなくなります。一方で、それには巻き込まれていない、開放された魂の部分がどれだけ残されるか。開放された魂の部分においては、それとは全く別の、「楽しみ」「喜び」をベクトルにした事柄によって、自尊心を見出す方向が生まれます。

もう一つは、「弱さを認める強さ」という知恵を、ここからの来歴を通してどのように得るかです。
まず、「破壊できる勝利」はそもそも「勝利」ではなく、「現実において生み出す」ことのできる者が最後には勝利を得ることを、どう理解するか。怒り破壊は必ずしっぺ返しを生むこと。いかに怒りを使わずに、「破壊」ではなく「自衛」と「建設」という行動様式を習得するか。
これは自然と、「心の自立」の方向性とも一致するようになります。「弱さを認める強さ」が十分に獲得されてきた時、もはや自分を愛さない、かつて「敵」と感じられていたような相手さえ、そこに「弱さ」を感じ取る感覚が生まれます。もう自分を愛さない相手さえ、自分から愛せること、それによって相手も変化することが、分かってきます。

また状況説明が長くなりました。これらは、「存在への怒り」を、この人間がもはや外界に対処する上で、「自尊心」「恐怖の克復」のためにはほぼ全く使わなくなった状態です。
「愛」まだ希薄です。それはまだ、「怒る必要はない」という程度の色彩にしかなっておらず、あまり輝いていません。
そして僕自身の例が示したように、「愛」へと向おうとした時、自分自身の内部で、「存在への怒り」が刺激される痛みが起きます。

こうした状況において、「否定価値の放棄」が成されるわけです。
それは「存在への怒り」を向けるべき「悪」という感覚そのものが、自分が神になろうとする誤りなのだという自覚として成されたのが、僕の体験です。
自分は神ではない。それはつまり、「悪」などというものをそもそも自分が見分けることなどできないのであり、それでいいのだという心底からの転換が起きたということです。
この結果、心の風景はがらりと変わり、冷たい風が吹きすさぶ無機質な北の街から、南国の陽気な天気の世界へと一変した。

ということで、この長い状況説明が、先のカキコでの、「悪」というものが魂の挫折において自らこうむった「存在への怒り」の報復を、「心」が自尊心のための利用するようになったという流れと、その放棄「否定価値の放棄」だということです。


■「否定価値の放棄」は「自己嫌悪を免れる方法」ではない

話を進めます。

話を進めるためにまず理解いただきたいのは、「否定価値の放棄」の説明からは、それによって「自己嫌悪感情を大きく免れる人間になれる」という理解をされた方が多いと思います。
それは一面では確かにそうなのですが、本質においては「否定価値の放棄」の本質は、「自己嫌悪からの開放」とはかなり別のものであり、一面においてはその逆ですらあるということです。

逆の面とは、先に言っておきますと、「原罪感情」です。これは「否定価値の放棄」では消えません。逆に、そのありのままの姿がはっきりと見えるようになります。
そしてこれも先に言っておきますと、「魂」それに打ち震え、自己存在への危機を迎えます。「心」は、それを救うための「許し」を用意する必要があります。つまり「原罪への許し」が準備されるのが、「否定価値の放棄」です。

これは不思議な流れであり、「否定価値の放棄」で用意される「許し」が、一体何を許すための許しなのか、その時には見えていません。その後に、「魂」が主導して自ら「魂の挫折」の回復へと向う歩みの中で、始めて「罪」が露わになるのです。それを、「心」による「許し」が救うという構図になります。

自己嫌悪感情の解決について言えば、3つの源泉から言うことができます。

まず「自己の現実への健全な不満」、これは上記状況説明で書いた、「弱さを認める強さ」への歩みがその答えです。これは社会生活でかなり実質的な内容をこなす必要があります。
「理想からの見下し嫌悪」。これが否定価値の放棄によって消失します。まあこの結果は実際、かなり劇的に自己嫌悪感情の減少になります。
「原罪感情」。これはこの後説明します。まだ未解決です。

自己嫌悪感情の大幅な減少となる「否定価値の放棄」は、少なくとも僕の体験では、意識上は「自己嫌悪感情を脱しよう」とする思考とはかなり別の思考です。
言えるのは、「弱さを認める強さ」への歩みがあり、「強さに立った愛」が芽生えてこそ、それが「不完全性への受容」につながるという流れであり、意識努力の方向性としてはまず「弱さを認める強さ」でしかないということです。
さらに、僕自身が振り返っても、「否定価値の放棄」を成した時の自分の思考は、「神になろうとする過ち」といった実に抽象的な思考であり、どうもその抽象的なこと自体に本質があるようです。だから今まで何度も「否定価値の放棄」の説明を書きながら自分自身で納得できず、こう考察を繰り返している次第。

とにかくこの後の変化の段階を説明します。この前後の全体構造の裏に、重要なことが見えてくるのではないかと。


心理学本下巻に向けての考察-110:「未知」への意志と信仰-2 / しまの
No.1361 2007/11/10(Sat) 10:43:30

■「否定価値の放棄」のテーマはやはり「善悪」

トンネルの突き抜けへと掘り始めた現時点では、突き抜けるこっちと向こうまでの構造全体はとうてい見通せない難解なものなのですが、かなりはっきりしたことがあります。

「否定価値の放棄」においてテーマになるのは明らかに、「善悪」であり、これはここまでの「心の自立」までに出てこなかったテーマだということです。逆に言えば、「心の自立」までの流れを僕は「善悪」という観念を一切使うことなく、十分な解明感と共に整理できました。
しかしそれでは心の構図にあまり大きな根本変化が起きないままであるわけです。

「心の自立」までのテーマとは、「」「自尊心」そして「恐怖」です。「自立」とは、「守られる」から「守る」へ、「与えられる」から「与える」へ、「愛される」から「自ら愛する」へです。「心の自立」は、「弱さを認める強さ」によって最も有効にその獲得に向うことができます。
「善悪」は出てきません。

そして「心の自立」までは「挫折からの前進」という、人の歴史の中で言われてきた課題であることにおいて、ハイブリッドの思想は他の哲学や心理学とその本質において大きく変わるものではなく、方法論にちょっと独自性が出てきたものだと言えます。
しかし「否定価値の放棄」では、全く異なる次元での「転換」が起きるのであり、ハイブリッドが見出した「根本変化」は主にその後に始まるものであることにおいて、この全体構図の中で捉えられる「善悪」についての転換は、何か人間の歴史の中で語られることのなかった、新しい何かを言うものになるかもしれません。



■「否定価値の放棄」をめぐる心理テーマ

ここではとりあえず、「否定価値の放棄」をめぐって意識の表面に見えることを、大体時系列に述べていきます。
この説明だけでも、「否定価値の放棄」によって何が起きるのかの説明としてはかなり十分なものになると思いますが、その後にさらに、そうした現象の根底にあるものを考察したい。

それが、人間にとって「善悪」とは一体何なのかについての、ある決定的な命題が見出されるような気がしている次第。
「善悪」が、人間の「愛」「自尊心」「恐怖」の裏で一体何をしているのか、というようなことになるでしょう。

ざっと以下のような事柄です。
1)「否定価値の放棄」による「悪」の消滅
2)「悪」とは「存在への怒り」を向けるべき対象
3)「心」が「善悪」を放棄し「魂」に委ねる
4)「魂」主導による魂自身の挫折の回復へ
5)「心」が魂を救う「原罪への許し」の役割を担う
6)「生きる」ことが「愛する」ことへ



■否定価値放棄の心理1:「悪」の消滅

「否定価値の放棄」によって成される心理変化の最も直接なものとは、やはりかねがねからハイブリッド理論の中で最も質問等の多かった、「善悪観念の完全な放棄」です。
「善悪」という観念が、完全に、根底から消えます。

これは「思考法」のレベルではありません。思考法としては、「善悪」というのは結局、何に対して善なのか悪なのかという相対的なものでしかないと考えることができます。しかし、それが結局「私の気分にとって」という基準を定めれば、「善悪」は沢山出てくるのが大抵です。

僕の体験から実感として言えば、より正確に言って、完全に消えるのは、「悪」です。「善」についてはほとんど感覚の変化はありません。ただ「悪」が消えることにより、ことさら「善悪」という区別をつける感覚そのものがほぼ完全に消失するわけです。
ここでの「悪」とは、「許しようのないもの」であり、どうにかして破壊消滅させることが望ましいものです。それが自分とは距離が離れ、自分にはもう直接の影響はない離れた場所のものになったとしても、それはやはり許せない何かであり、破壊消滅させねばならないもの。
「悪」とはそんな感覚を起こさせるものです。

そうした定義において、「悪」というものが完全に消滅する。
「悪」なんてものは、もう存在しない。あるとすれば直接自分に関りのある、自分の利害には反する行動を行おうとする者があるとすれば、その直接の関りが発生したその瞬間において、その関りの中において、それは僕にとって「悪」になるかも知れない..否、そうでさえないわけです
そうした直接の関りにおいてさえ、「最後まで許しようもない」悪であるとは、逆に、僕のそれへの対処能力が不足しているということなのです。もし対処能力がもっとあれば、僕はそれを「善」に変えることができるはずです。
そうした感覚なので、やはり「悪」という感覚そのものが、もう根底からないんですね。

「善」の感覚にはあまり変化がないので、結果、「この世界のあらゆるものは基本的に善」という感覚が出てきます。
これは感情の基調は、まず率直に言って、かなり「能天気」になってきます^^; この転換が起きた心の範囲においては、もう「悩む」ことも「いらつく」ことも「何か嫌な気分」になることもない。ただ生きることに進む前進の感覚とその行動があるだけです。

ハイブリッドとしては、これが健康な心の本来の姿だと考えています。


■否定価値放棄の心理2:「悪」とは「存在への怒り」を向けるべき対象

そうした心理変化を踏まえて、改めて、「そもそも善悪とは一体何か」を考えてみます。
決定的な話が出てきます。

「悪」とは、「存在への怒り」を向けるべき対象として知覚されるものです。
そうとして、この「存在への怒り」は、明らかに、幼少期の「根源的自己否定感情」が起きた時にその由来があります。


自他未分離意識の中で、それを願って生まれたものである「一体化の愛」が得られなかったことは、「生から受けた拒絶」として体験されます。それは自分の何がどういけなかったのかという論理を持たない「自らの存在に向けられた拒絶」を意味します。

自分の何がどういけなかったのか、もしくは相手が何を損なってそうなったのか。そうした「論理」があるとは、まだ「存在」そのものへの拒絶ではなく、「存在」が示すあれやこれやの中の具体的な何かへの拒絶です。これはまだ、それを取り除くことによって、拒絶は解除される余地があります。
自他未分離意識の中で体験した自分への拒絶は、そのようには体験されないことが考えられます。それはもう自分や他人の何かという論理性はない、「生から受けた拒絶」であり、それはつまり自分が世界から拒絶されたことであり、同時にそれは、そうであるべきでなかった世界への拒絶を抱えるのが自己となるということです。

やがて自他分離意識が生まれ、もの心がついてくる。つまり「心」が分離してきます。
そうして明晰意識として「心」が抱く「悪なるもの」とは、明らかに、自分がこうむった「存在への怒り」を他に向ける報復の意味を持つように思われます。自分がこうむった同じ苦しみを他に与えてやれ、と。

これはあたかも、子供の喧嘩に親が介入し、親が相手の家族への報復を始めたような状況を浮かばせます。
子供達の仲たがいは、もはや「固定」されます。つまり、「魂」の「一体化の愛への挫折」が、固定されます。子供たちは本当は、もう仲直りしたいのかも知れないのですが..


心理学本下巻に向けての考察-109:「未知」への意志と信仰-1 / しまの
No.1360 2007/11/09(Fri) 18:26:37

「否定価値の放棄」とその後の「後期」本質を考察するのですが、まず例によりこれまでの概観です。
僕の考察作業というのはトンネル掘りのような思考作業でして、つるはし当てたり土を運んだり、立ち止まって眺めて次につるはし当てる所を考えたりと、とにかく言葉を何度も何度もあれこれ転がしながら進んでいくわけです。

トンネルもうすぐ突き抜けるところまで来ている感ということで、つるはしをどう当てようかと全角度から眺めてみます。


■「挫折からの前進」と「心の自立」

ということでこれまでの話を総合すると、ハイブリッドの「前期」から「中期」までの過程は、大枠においては「挫折からの前進」と位置づけられ、「心の自立」が目標として定められる、ということになります。

「愛における自立」が、「心の自立」のひとまずの達成として、「愛」についての混迷の中にある現代人にとって目指すべき大きな指標になるでしょう。それは「愛されることに依存することなく愛することができる」ということであり、愛が心を満たすものである時、「愛における心の自立」は、この人間がもはや他に依存することなく、揺るぎない人生の豊かさへと自ら向うことができる「強さ」を手にしたことを意味します。

「強さ」と述べた通り、「愛における自立」は、そしてもちろん「心の自立」という基本的方向性は、「強さ」を目指すことで生まれるものです。
一方で人間は不完全で弱い存在であり、「人間としての強さ」は、自らの不完全性と弱さを真正面から認め、それを補う知恵を獲得することに、その本質があるとハイブリッドでは考えています。弱さを認めることができずに強さの威だけを振りかざそうとする者は、実は最も弱くなる傾向があり、また強さを目指さずに弱さを盾にしようとする者も当然強くなりはしません。
「弱さを認める強さ」とは単なる姿勢や精神論だけではなく、生活の具体的場面においてその解法が求められる課題であり、ハイブリッドは建設的対人行動法原理原則立脚型行動法をそのために採用しているわけです。


■「関係性」への目に支えられる「治癒」

こうした方向性が、「心を病むメカニズム」において必ず生まれる、「愛」と「自尊心」の対立矛盾に対する、解決への答えともなります。
愛されないことに屈辱を感じ、屈辱への攻撃衝動を人に向け、愛されないことに戻るという、メビウスの輪のような心理メカニズムがあります。それを脱出する道は、なによりも、愛を求める気持ちをまず自分自身で受けとめ、そして向う他人が、まるで幼少期の親のように、自分がその目と感情の中で生きる、自分のことを見てくれるためだけに存在する者であるかのような感覚に巻き込まれずに、相手が自分と対等な別個の人格と別個の心の世界を持つ存在であることを認めるという、「関係性」の転換への目によって支えられるでしょう。

健全な「関係性」への目に立って自己と他者の現実の姿を見据えることは、「病んだ心」からの治癒と成長への歩みにおいては、時に愛の喪失への痛みや、人の目の中で何者かになる栄光の幻想が破綻する、意識の闇の谷間を訪れさせるものになるかも知れません。
しかしそれが心を病むメカニズムによって見失った自分の人生を救うための「自立」への歩みである限り、そこにおいて「心の自然治癒力」「心の自然成長力」が発現し、全く「未知の意識地盤」として、その解決が訪れるわけです。

「未知の意識地盤」に立った時、他者との関係を、さらに健全な「関係性」の中で見ることができるようになります。
その中で「弱さを認める強さ」を目指した行動法は、この人間の心を確実に成長させ、やがて、相手の中に弱さを認めそれを思いやることのできる「強さに立った愛」の感情を、初めて芽生えさせるでしょう。

ここに、愛における障害からその全てが始まった、心を病む過程のひとまずの解決を見ることができます。


■維持されたままの「心と魂の分離」

以上が「心の自立」「愛における自立」ひとまず成された姿として、ハイブリッドが考える「根本変化」は、本格的なものはまだ始まってさえいません。それはこの後の通過点となる「否定価値の放棄」を節目にして、その後の「魂の望みへの歩み」として位置づけられる「後期」から始まります。
これはどうゆうことか。

「関係性」という視点からは、「他者との関係性」と「自分自身との関係性」という全体構図において、主に前者における回復解決ができた姿、ということになるかと。「他者との関係性」という外堀が埋められて、これから「自分自身との関係性」における回復解決に向うという形が考えられます。

「心と魂の分離」の視点からは、「魂」の挫折を置き去りにし、「神の国」への謀反を起こした「心」という構図は、まだ基本的にはそのままにとどまっているということになるかと。
まだその構図は維持したまま「心」が主導して、「魂」を完全に無視した状態から、「魂」にも気を配るようになり、それがつかさどる「愛」を「強さに立った愛」へと成長させるところまでは持ってきた。

でもまだ「心」は「一体化の愛」の世界である「神の国」への謀反の先の、異国の地にある。「一体化の愛」に向かい心を満たす方向性を見出せないでいる。「心」はまだ満たされない自己を抱えているわけです。

というのがこれまでの状況。いったんカキコしとくかー。


心理学本下巻に向けての考察-108:「弱さを認める強さ」と共に「社会」へ / しまの
No.1359 2007/11/08(Thu) 14:20:33

さて、「否定価値の放棄」はやはり、それまでのハイブリッド道のりとはかなり次元が異なる転換が本質のようだということで、次から最後のサブタイトル『「未知」への「意志」と「信仰」』として、最終考察(と何度も言っているような^^; ハハ..)へと行きたいと思います。

その前に、これまでの過程について話を加えておきたい、実践上のワンポイントなど。
というか、これまでの過程を、最も大きな視点で総括不足した視点などを書いておきます。


■ハイブリッド実践における「自己理想像」

先のカキコでは、「否定価値の放棄」の一つ手前となる「強さに立った愛」の獲得までは、大きく言って「挫折からの前進」という古くから言われていることだ、と説明しました。

そのためのツールとして、これまでの全てのハイブリッド実践が位置づけられるとも言うことができます。
感情と行動の分離」に始まる「前期」では、外面においては建設的対人行動法原理原則立脚型行動法内面においては感情の開放と悪感情の軽減技法、そして感情分析による自己理解、「魂感性土台の体験」を節目にした「中期」では、「健康な心の世界」への「心の自立」へと思考と行動の洗練を図ります。

でここで述べたいのは、そうした全体を通した目標像を、「この人生で何をするのか」という大きな視野から、より積極的に描くことが大切だということです。

「描く」とは、要は「自己理想像」です。やはり。
ハイブリッド解説としては、やはり「人の目の中でこんな自分に」という「人の目感性土台」での自己理想像について、その弊害を説明することばかりにどうも傾いてしまった傾向があります。

その結果もし「自己理想像を捨てよう」というような思考をされた方がおられたとしたら、それは結構大きな誤解大きな方向違いになってしまいますということで説明。
もしそれがハイブリッド実践になるのなら、「自己理想像の放棄」とかちゃんと項目にして定義してますので。一応そう定義したことは今だかつてないですね。

自己理想像をきちんと描くことは、やはりとても大切だと感じます。僕自身でいうと5年ほどより先はもうかなり「未知」に任せますが、2、3年程度のスパンではそれを描いて、それに向うのが基本的な生き方標的策定術です。
そもそも「自己理想像を描きそれに向う」という心の使い方は、もう人間の基本的な脳の機能ですね。それを活用しない手はありません。


■「自己理想像」は「捨てる」のではなく「内容修正」する

一方で、人の目感性土台での自己理想像の弊害については、「自己操縦」の構図としても説明しています。
これは直近では10/27「人間の価値」と「原罪」-14で書きました。「既知への知」傾向が強いと、「現実の自分」を見ることができない傾向という問題が起きると。「空想の自分」を「自分」と感じて生き続ける問題。

そして続けて、「現実の自分」を見ることが必要だとまで述べました。
「現実の自分」とは、「自己操縦」の構図にある自分の全体のことだと。心の底に魂の挫折を抱えた一方、もはやそんなものがあったこととどんな関係があるのかなど分からないまま、「人にこう見られる自分」を追うという、その構図にある自分の全体です。
その「自己操縦」をどうすればいいかという話にあまり単刀直入の答えを言わないまま、「未知への知」の話に行ってたようで。

そんな自己操縦にある自分なんか嫌だ、と感じるまではいいでしょう。だからと言って、「なりたい自分」という自己理想像を捨てるというアプローチでは別に何も生むものでもなく、それどころか逆に単なる「自己放棄」になってしまう危険があります。
これは「自意識なく自然な感情で人と繋がることができる」といった自己理想像を実は無意識の内に維持しながら、「自意識のない自分」を演じようとするという、「現実の自分を見れない自己操縦」の最も端的なものに嵌るケースになります。

これをすると、「どう見られるか」だけにしか思考が働かなくなる、という人の目感性土台バリバリの状態に陥るわけです^^;

そうした「自己の現実」の全体を否定することなく認め、自己理想像を捨てるのではなく、「自己の現実」全体を受け入れた上で建設的なものになるように、「内容の修正」を図るのがいい方法です。

「自意識過剰な自分」というのが何よりも嫌に感じるという局面も、おそらく誰にでも出るでしょう。だからと言って、それを捨てようというのがまさに、そんな自分が嫌だと感じる「自意識過剰」の結果だという、ル−プになります。
そこで「自己理想像の内容修正」をするとは、たとえ自意識過剰で挙動が不自然でキモくてウザくてトロくても(とはちょっと行き過ぎ^^;)、仕事の場で生み出すものがあればそれを実行し、プライベートの中で楽しみを共有できるものがあれば共に活動するという、新たな自己理想像を描くことです。

そうした新たな自己理想像の内容を描く方法性として、建設的対人行動法原理原則立脚型行動法があるわけです。


■「自己操縦」への対抗打はやはり「自己操縦」

そうした新たな自己理想像に「合わせて」行動するわけです。そしてそれが成功する、つまり描いた自己理想像に現実が一致すれば、自尊心も高まるでしょう。思ったようにできなかったら落ち込むでしょうが、それを、最初に書いたハイブリッド実践としてまた取り組むわけです。この繰り返しです。

これは治癒論的に言えば、自己操縦心性さらに「自己操縦の構図」そして「人の目感性土台」、これらは結局同じものをメカニズム・本人姿勢・本人感性という別の角度から言っているものですが、それらは結局最後まで意識的努力で除去するものではないという話と符号する話です。
結局、それを持つのが人間の定めであり、治癒が済んでまっさらなものと、それとの混合が、最後まで続くわけです。

ですから実践論的に言えば、「自己操縦」への意識的対処は、それを除こうとするのではなく、逆に、新たな自己理想像に向っての、「意識された自己操縦」です。全力を尽くしてです。
まあ確かに紛らわしい話なので、「無意識の自己操縦から意識された自己操縦へ」とでもはっきり実践項目定義するのがいいかも知れませんね。


■劣等感を感じるものを激しく軽蔑攻撃するのは他ならぬ本人

ということで、「自己理想像の内容修正」が「自己操縦問題」で何よりも重要になる。
その「内容修正」特に有益なポイントを説明しておきましょう。

「修正前」の自己理想像では大抵、何か自分で劣等感を感じるものを否定した、輝ける自己理想像という形になると思います。劣等感を感じる短所欠点から一生懸命目を反らし、「そうではない自分」を演じ、そうではない自分に見られることだけに意識が向います。そしてそうは見られない現実に出合うと敗北感を感じ、そうは見なかった他人を憎みます。

これをどう内容修正するかにおいて、そうして目を背けたい自分の短所欠点の内容について、誰よりも激しい攻撃的軽蔑を向けるのは、実は本人自身なのだという心理メカニズムを頭に入れておくといいでしょう。
実はこれが分かるためにも、結構な「内面感情の開放」「感情分析」が必要になります。そのことが分かるとは、自分を軽蔑しているのは他人ではなく、他ならぬ自分自身だということが、明るみに出てしまうからです。これはもう防ぎようのない矢を全身に受けるような事態を時に意味します。これは自己操縦心性の崩壊が起きる可能性も含んでいます。

そうした取り組みを経て、何が重要かと言うと、そうした自分が劣等感を感じる短所弱点は、実は社会においては自分が感じるほどの軽蔑を受けるものではないという可能性への視野を見出すことです。

これはまず自己軽蔑が激しいほど、そしてそこからから逃れたいほど、軽蔑してくるのは他人だと思おうとする力が働きます。自己軽蔑が激しいほど、他人は実はそれほど激しく軽蔑などしてはいないという視野を持って欲しいのですが、まさにそれと逆への力が働くのがメカニズムだという厄介な隘路があります。
このケースでは、このメカニズムを踏まえた感情分析ができるかが鍵になってくるでしょう。

また逆に、他人との間での感情動揺を恐れるケースでは、「人は気にしてなんかいない。自分が気にしているだけ」と一生懸命思おうとすることになりがちです。これはもう自分が一体何を自分に感じているのか、そして他人のことを自分がどう感じているのかと言った全体が混乱し、もう何がなんだか分からないことに向かいかけているケースです。
この場合はもう、「感情と行動の分離」の基本から習得し、とにかく内面の安定を図ってからの自己向き合いという段取りになるでしょう。

いずれにせよ、そのように「激しく軽蔑するのは自分自身」であることが分かってきたら、次に重要なのは、「人は大して軽蔑しない」というのを確かめる、のではなく、そうした事柄とは全く別の、社会において重要な事柄を学ぶことなのです。
人と自然に打ち解けられないことに劣等感を感じたのであれば、社会で人はそれを軽蔑しないことを知ることが重要なのではなく、社会で実際に人と繋がっていくためには何が重要なのかを、学んでいくことです。

これは要は、劣等感とその解消と、実際の社会での向上は、ほぼ無関係だということです。
多くの方は、この点で2重の勘違いをしています。劣等感を感じる点が原因で社会でうまく生きれないと感じること。そしてその劣等感が解消するとは社会でうまく生きれるようになることだと感じること。どっちも大きな勘違いです。
劣等感や優越感というのは、そもそもとてもプライベートな内面だけの心理現象であって、社会でうまく生きることに直接の関係はありません。問題は、それとは無関係にある社会の原理原則を学ばない無知をそのままに維持して生き続けることです。これでは社会でうまく生きれるはずもありません。

まずは、劣等感とその解消の中で行ったり来たりを繰り返すことで自分が何か変化しているような錯覚に嵌ることなく、一貫してそれとは無関係に存在する社会の側のことを学ぶのに目を向けて頂ければと。
心理学本下巻では、こうした大きな方向性にあるものとして、建設的対人行動法原理原則立脚型行動法を具体的に解説したいですね。


■「挫折からの前進」の先にある「社会」

そして最後に、一番大きな視点から高く俯瞰すると、「プライベートな劣等感優越感」とは異なる「社会の原理原則」を学んで頂きたい、という先に、「人生」という一番大きな視点での「新たな自己理想像」の描き方というのは、やはり「社会に出る」「社会の一役を担う」ということの中に、「人生」を見出すための基本的な方向があるように、僕個人としては感じています。

「どう見られるか競争」の壇上としての「社会」ではなく、「命」が尽くされる場としての「社会」ということになりますね。この2つは物理外界そのものは同じものです。しかし我々が人生において内面に見出すその2つの「社会」とは、全くの別物なのです。
一方には男女入り乱れての、「どうみられるか競争」のような色恋沙汰恋愛の世界があり、ブランドファッションを身に付ける優越感の世界があり、「どうみられるか競争」としての出世レースの世界といったものがある。一方には、命をかけて支えあうようなの姿があり、魂を注いだ芸術の世界があり、人生をかけて生み出すものに生きる世界がある。

「心の自立」というここまでのハイブリッド道のりとは、大きくは「挫折からの前進」であり、それはつまりはそうした「命を尽くす場としての社会」を、自分が生きるものとして見出すという方向性になるのではないかと考える次第です。

この点今までの学校教育などの場で語られる「社会」というものが、単に義務と重荷と人の目評価だけのものであるように伝えられてきた弊害があると感じています。実際「団塊の世代」あたりまでの人たちは「人の目命」(^^;)で頑張ってきた人々でありそうなっていたのでしょう。そんな世界に生きる価値を見出せないのが団塊ジュニア世代における心の病の増加として表れているのでせう。

社会で自分を発揮するというのは、そうした「義務と重荷と人の目評価だけ」とはかなり違う、ゲームとしての面白さがあると思うんですけどね。これは僕のような40代あたりでなっているような若い社長世代から、ちょっと違った社会観がこれからの人々に伝えられるのではないかと期待している次第です。

そうした、「社会の中で自分が果たせる役割を見出す」というのが、ここまでの「挫折からの前進」の一つの結実になるものとして、目標に位置づけられると、僕個人としては考えるわけです。
そして社会が多様性から成り立っている限り、誰にでもそれは見出されるはずだと。例えばオーバーな例を出すと、治療法のない難病に苦しむ人であれば、まさにそれと闘うことに、社会で果たす役割を見出すわけです。そうゆうのも決して単独一人ではなく必ず同じ病をこうむる人間がいるのであり、それと闘うことが、やがて治療法の発見となり、後の同じ人を助けることにつながる。そうした自分の存在の意義を見出すことが、生きる力を与える。
まあこの例では逆に、人から特別な注目を浴びれる、恵まれた立場だと言うメンヘラーの声も浮かびますが^^;

まあとにかく、そうした「社会」を自分の中で見出す。これが「心の自立」という一つの節目になると考えます。
そしてそれが人間の心にDNAに刻まれたことなのだと。

「弱さを認める強さ」への知恵を見失った時、人は自らDNAに反した思考ミスを行う。
それが「否定価値の放棄」で突き止められる、人間の根源的な思考ミスです。
サブタイトルも改めそれへ。「魂の挫折の原点への向き合い」具体例もやはりそれを説明してから最後に紹介します。


心理学本下巻に向けての考察-107:「心」と「魂」の原点へ-16 / しまの
No.1358 2007/11/07(Wed) 12:12:53

■「弱さを認める強さ」という課題から魂の彼方への歩みへ

「弱さを認める強さ」というのが、とても大きな鍵として、ハイブリッド取り組みの道のりにおいてクローズアップされてくる感を覚えます。

事実、それが「感情と行動の分離」から始まるハイブリッド取り組み「前期」、そして「魂感性土台の体験」を節目として一段階ブラッシュ・アップさせ、「健康な心の世界」での「心の自立」という大きな目標へと舵を取った「中期」への歩みは、一言でいってこの「弱さを認める強さ」を獲得することとして、その長い歩みの一つの結実を得た感覚を、これに取り組む者に与えるはずです。

同時に、これが本当の「始まり」になるのです。
この「結実」から「始まり」の転換を説明しましょう。これは3つの層をまたがるように、人間の心のより深層へ向う歩みとなります。
「心」「魂」、そしてさらにそれよりも深いものです。

まず、「心」の世界。これは雑感的な話です。

「自意識」の登場が、人間他の動物との間に一線を画することになりました。

人間以外の動物の世界では、より強い者が勝ちより美しい者が異性を獲得するという強勝弱負の原理がかなり単純です。しかし「自意識」をあまり持たない動物は、自分が誰よりも強さと美しさに恵まれて生を受けなかったからと言って、前向きに生きるのをやめてしまったり、「うつ」になったりすることはありません。常に与えられた条件をスタートラインとして、自分自身としての「生」を思いっきり生きることで、その結果はさまざまとしても、その命を尽くすわけです。

人間においては「自意識」の結果、まるで未来の自分の姿がもう分かってしまったものであるかのように決め付ける思考の中で、最高に恵まれた生を受けることへのちょっとした躓きだけで、生きる意欲を失ったりする姿を良く見ることになります。
しかしこれは皮肉というか、不思議な話です。「自意識」は本来、人間がそれによって自らの弱さを認識することで、その弱さを補うものを生み出すことにより、動物の頂点に君臨する「強さ」の源であったはずだからです。

これはやはり、人間の「強さ」本能の延長ではなく「知恵」に大きく支えられていることによるのでしょう。
TVの科学ドキュメンタリー番組で、人間が子供を産み育てた後の「余生」は、他の動物に比べて異質に長いという話を聞いたことがあります。その理由として、科学的妥当性はちょっと定かではありませんが、知恵を伝達する必要性が反映されたのだとの考えが述べられていました。

実際、「知恵」をどう使えられるかで、「人間としての強さ」がかなり違ってくることになります。
人間は身体物理的な「弱さ」を補う知恵についてはかなり蓄積して来ましたが、心理精神的な「弱さ」を補う知恵についてはまだかなり未熟な段階にあるように思われます。ハイブリッドとしては、それを上述のようにまず「前期」から「中期」への実践として、そうした知恵の蓄積に微力でも貢献できればと。

まずは頭で、つまり「心」のレベルで、「弱さを認める強さ」への知恵が重要だと思います。自分の弱さから目を反らして強い人間のように人に見られることを求める者が、実は最も弱い者となり、自分の弱さをありのままにさらけ出し、それをスタートラインにして外面内面に表裏のない向上をする者が、最も着実に強くなることを、まず理解することです。
そしてそれを目指すことです。ハイブリッドの取り組みでは「自己操縦心性の崩壊」などの闇の谷間も含めた全ての「人間の弱さ」が、その方向を選択さえすればかならず成長へと変化するものであることを見出しています。



■「心」の主導による「置き去りにされた魂の自立」の回復

さてここからが肝心の未踏領域の整理です。

「魂感性土台の体験」で示されるような、「人の目イメージ」が消えた心の世界に碇を下ろした思考法行動法で社会を生きる経験を積み重ねると、かなりの「人間としての強さ」を習得できます。またそれが共通目標共通利益に着目する建設的対人行動法である限り、そこで培われてくる「人間としての強さ」は、同時に「強さに立った愛」を心に芽生えさせてくれるはずです。
とまあこう短く簡単そうに書いたことが、「ハイブリッド実践」のずっしり重いプラクティスの中核部分が内容として待っているんですけどね。

いずれにせよ、この「強さに立った愛」の芽生えは、「魂の挫折を置き去りにした心」と、そこで起きた「神の国への復讐謀反」という構図にとってどんな転換なのかをまとめると、以下のようになります。

まず「魂」がその出生の来歴において体験した「挫折」は、その根本解決状態がどうなっているのかはほとんど見えない一方で、阻まれていた「魂の自立」とりあえずその一端が成された状況へと至ったことになります。魂は愛をつかさどるものであり、「強さに立った愛」が芽生えたことにおいて、「魂」そのものの基本的な成長課題においては回復の道に確かに戻ったと言えます。

魂の挫折を否定し置き去りにしようとした「心」としては、「内面感情の開放」に始まるハイブリッドの過程を通して、深刻なケースにおいては心性崩壊による開放も経たりしながも、魂感性土台を萌芽させ、「強さに立った愛」の芽を見出したことは、「心」が自ら主導して「魂の挫折を置き去りにした心」という構図をおおよそ元に戻す回復を果たしたものと言えます。

これは僕のケースで言うと、社会人になった頃の話だと思います。自分がこれからはもう親よりも強い存在になっていくのだという感覚を持つようになり、それまで怒りを向けていた親達の側の世界のさまざまな問題を、人間の弱さとして見ることができるようになった。
しかしここから「否定価値の放棄」までにはまだかなり距離があったわけです。


■「心」に芽生える「神の国」への回帰機運

「神の国への復讐謀反」の構図においてはどうか。「愛への復讐の愛」「原罪感情」そして「心による魂の抱きこみ」はどうなったか。

「愛への復讐の愛」「原罪感情」といった「根源」は、まだほとんどその原点が見えていません。自立した心で自分の未来に向おうとしても、人々を前にすると屈折した感情が漠然と流れるのを感じます。

一方で、それを固定させ確定させた「心による魂の抱きこみ」が、ここで解除への方向を見せ始めます。何よりもまず「魂」がその生命力を回復させ「強さに立った愛」へと自立し始めたことにおいて、「心」が一方的に全てを仕切っていた状態から、「魂」の本来の声が「心」に寄せられるようになってきた状況が考えられます。

「魂」の心は、本来は「神の国」の世界でもある「一体化の愛」にありました。それは本来「愛への復讐の愛」を望んではいません。そんな「魂」を引き連れた「心」はいまだ、「神の国」とは異国の謀反の地にあります。
「魂」としては、「もうやめようよ」と「心」に言い始める。そんな状況が浮かびます。もう「神の国」、祖国に戻ろうよ、と。

また「心」にとっても、自らの来歴における「挫折」は、もうこれ以上の「復讐」を続けるに値するような「挫折」としての意味さえ失い始めています。
話を戻しますが、これはまず知性思考で、「挫折があってこそ真の成長が生まれる」ことを、社会におけるさまざまな人間事例を通して理解することが最初です。これはまず頭で理解する必要があります。それなしに感情がそうなってくれることなどありません。
そうした知性思考を土台にして建設的な行動法の実践を積み重ねる結果、「挫折があってこそ真の成長が生まれる」ということが心底まで浸透していくのが、「弱さを認める強さの獲得」なのです。
一方障害傾向が深刻なほど、復讐的な勝利にしか価値を認めることができない感覚が、知性思考にまで浸潤してしまう厄介な傾向があるようです。さまざまなハンディを持った人間事例が示すように、挫折が深ければ深いほど、その挫折体験が後に財産にもなるほどの唯一無二性を与えるのですけど..

いずれにせよ、こうして「神の国への謀反」を思い直す機運が、「心」にもたらされます。


■「根源の根源」への問いへ

ここから先は、やはりかなり難解です。

大きく振り返れば、ここまでの過程は、「挫折を受け入れて前に進む」という、人間の歴史を通して言われてきた命題をほぼなぞった形になるように思われます。
それは多くの人生訓哲学心理学の中で語られたものでもあったでしょう。ハイブリッドのここまでの歩みは、多少独特なアプローチを採り入れているとして、その大枠の本質は同じものと言えるかもかも知れません。そして他の心理学や哲学と同様に、ここまでは成し得ます。

しかしハイブリッドにとっては、心が置かれた状況に、あまり大きな変化は認めるものではありません。根本的な変化は、この後始まるのです。
それを決定づけるのが、この先に成される「否定価値の放棄」になるのですが、それはつまり、「挫折を受け入れての前進」という命題とは、かなり次元の異なる命題における転換らしい、ということです。

ハイブリッドの「中期」の目標としてまず「健康な心」「心の自立」というものをあげたのですが、「心」が主導できるものとしてのそれは、「強さに立った愛」という「愛における自立」へと方向が取られたことにおいて、あげられた命題はもうほとんど片付いているのです。「人の目感性」はまだ依然として心に染み付いたままとして。

それらとは異なる次元の命題とは、「善と悪」であり「人間の価値」であり「罪と罰」であり「神」といった命題です。「根源の根源」などと呼んでいる命題です。

「心の自立」の先にそれが問われるとは、それが転換するとは、どうゆうことなのか。
この考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-106:「心」と「魂」の原点へ-15 / しまの
No.1357 2007/11/06(Tue) 13:01:30

■「強さに立った愛へ」という「愛における自立」

先のカキコの終わりで書いたように、「相手の中にある弱さを察知できることにある愛」というのが、「愛における自立」の本質だと言えるように思われます。
これは「自立」という生きもの命題にとりかなりストレートな話です。ただし人間の場合これでは終らない話が出てくる。これが「不完全性の放棄」につながるようです。

ここではまず生きもの命題としての「自立」の側面を見ておきますと、「愛」が「弱さに立った愛」から「強さに立った愛」に、その様式を変化させるわけです。
幼い雛にとって、自分は弱い存在であり親や世界の大人が強い存在であることは疑いようもないことであり、その構図において「愛」は「与えられる」ものであり、さらに「与えられるべきもの」になります。

一方、大草原へと自立した一匹の強い個体にとり、自己の分身とも感じられるような子供を宿し世に生み出した時、それとはもう全く異なる構図で、そして異なる感情として、自分の命を賭けて守るべきものとしての「愛」へと、「愛」は全く異なる様式の感情へと変化するわけです。

この「弱さに立った愛」と「強さに立った愛」は、もう全く別種の感情です。そもそも言葉が同じであること自体に、僕としては違和感を感じるほどです。
だが、人間の場合同じものに見えてしまう..のではなく、根本的に「強さに立った愛」という動物界で自然なものが、人間ではあまり獲得されないままで終る傾向があると考えるのが正解のように感じます。

基本的に「弱さに立った愛」で一生を終えるわけです。「与えられるべき愛」という様式の愛で。
人々はこのことをあまり自覚しません。というか、このような命題としてはあまり意識していません。その代わりに、「愛」を「見られること」の中において体験することの中にとどまるという形になると思われます。


「弱さに立った愛」は基本的に、強さや価値をもった相手「惹かれ」、その「惹かれる気持ち」に相手が暖かく応じる、という構図にあります。暖かく応じるとは、強さや価値をもった相手の世界に自分も招かれることで、相手が持つ価値の恩恵にあずからせてもらえるということです。「自分も幸せになれる」ということです。

人間の世界では、愛における自立を果たさないまま、つまり「弱さに立った愛」が固定されたまま、生活の形だけ大人になっていくのがとてもポピュラーです。
すると「強い側」としての「愛」は、「弱さに立った愛」の構図における「愛」をいかに自分が人から向けられるかというものになります。かつて弱い自分が価値ある人を見上げた感情でもって、いかに自分が人から見られるか。人は自分にどう「惹かれる」かしら。そのために自分はどんな「価値」をもっているかしら。
それが自尊心になるわけです。いかに見られるか。「どう見られるか競争」になるわけです。

そうやって、自尊心を得られた気分になったり、理想通りになれないと落ち込むこともあるでしょう。
どっちにしても、心の底には本人でも正体が分からなくなった、漠然とした浅薄感や空虚感を抱え続けることになります。まあ当然のように感じます。自らのDNAに反しているんですね。

「愛における自立」での「強さに立った愛」は、根本的に違うものです。それはもう「どう見られるか」なんて関係ありません。「どう見られるか」なんて意識さえない、自分の分身となる未来の命を守るための愛なのですから。「惹かれる」という気持ちの行き来とは、もう全く別のものなのです。
「弱さを固定した愛」が何よりも自らの存在意義として求めようとする「どう見られるか」なんてことは、もう大自然の草むらに落ちている石ころのようなものでしかありません。

これが生きもの命題としての「自立」における「強さ」の側面の話です。
もちろんその側面に徹する完璧などないのが、「人間の不完全性」です。


■「弱さ」と「強さ」の両面を知った時「不完全性」が見えてくる

「否定価値の放棄」において成される「不完全性の受容」のためには、人はまず「強さに立った愛」へと自立する必要があると、僕は考えています。
これはまずは体験的実感です。人間は不完全な存在だとして、最初の「弱さに立った愛」の段階で「不完全性の受容」ができるのであれば、何かとても楽なことのように想像します。でも、そうはできない。

そこまでは直感です。即座にそう感じる。
ではなぜか。これはすぐには出てこない。ちょっと考える。

ちょっと考えると結構すぐ出てきます。
なぜ一度「強さに立った愛」へと自立する必要があるのか。
その「強さに立った愛」によって、「不完全性」を受け入れるからです。自分自身の不完全性をです。そして現実世界の全ての不完全性をです。

「弱さに立った愛」では、「不完全性」には、怒りばかりが向う。

やはりパラドックス的です。弱さを知るために、人はまず強くならなければならない。そして弱さを受け入れた時、人は本当の強さを得るのです。

そして「強さ」とは、やはり「現実」に向うことが生み出すものです。「空想の中での強さ」では、心に成長は起きません。
だから、取り組み上も、いったん「愛」ではない切れ間が出てくるんですね。「愛とは別」の人生課題を学び、実践し、習得していくことです。「恐怖の克服」が重用課題になる。そうした人生の期間があって、自分に「強さ」が得られてきたことを感じた時、「愛における自立」が問えるのではないかと。


こうした「愛における自立」の、「心と魂の分離」構図における位置づけ結論と、「否定価値の放棄」の本質へ。


心理学本下巻に向けての考察-105:「心」と「魂」の原点へ-14 / しまの
No.1356 2007/11/05(Mon) 16:23:27

■「人間としての強さ」と「愛」をめぐる3命題

先のカキコは、「自ら愛せることへの望み」が、愛されることだけを求めた時につきまとっていた怒りや自己嫌悪や罪悪感などの、全ての根源を乗り越える転換を導くということです。一方で、「自ら愛せる」ことが「愛される」ための強力なツールであるかのように心に写り続ける、人間の心の弱さがある。

そうした人間の心の弱さの構図は、最後まで変わりません。
ですから、これから説明する「愛における自立」の命題は、「どれだけ本当に自ら愛したいか」の「純度」が重要になると考える必要はありません。それよりも、あくまで「心の自立」という転換全体にある命題としてそれを問うのであれば、あとは、問いへの答えはかなり深淵な命題を探ることになることを心得て頂ければ、取り組み上いつ自分が問えるかをあまり気にせずに、問える時に問うのでいいでしょう。その結果は前カキコのように、心の状況に応じてかなり異なる、それなりの結果になるということです。どれでもそれなりの前進にはなるということで^^;

もし「心の自立」への内面の準備全体が揃い始めていた時であれば、次のような論理命題が重要になってくると思います。
どれも「人間としての強さ」というもう一つの軸と、「愛」との関連性を問う命題になります。「人間としての強さ」については、いったん「愛」とは別の話として、「強さ」一般の話として考えることが重要です。それと、「愛」との関係を考える。


1)「強さ」としての「愛」

「愛される」ことを期待してのではない、たたそうできることを楽しみ喜べるものとしての「自ら愛することができる」とは、どのようにして生まれるものなのか。
「自ら愛せる」ということがどんなに未知で難解であろうとも、いくつかは既知として理解できることがそこに含まれていると思います。
それは、「楽しみ」「喜び」を持てるためには、心が安全でなければならないということです。心が危険に満ち、不安におおわれていたとき、楽しむことはできません。
ですから、それを楽しめることとして「自ら愛せる」ことができるのは、とても強い心の状態です。「自ら愛せる」ためには、基本的にかなりの心の強さが必要です。心が弱い時、自ら愛せません。
心が強いということは、「愛」とはいったん別の「恐怖の克服」に関係します。もちろん「愛されれば安全」という感覚ではなしに、自分で恐怖を克服できることが重要になってきます。

2)「人間としての強さ」とは「弱さを認める強さ」

「強さ」一般の話です。この現実世界を生きる上で、「人間としての強さ」とはどのように生まれるものか。
極めて重要なのは、「弱さを認めることから強さが生み出される」ということです。これは地球上の生きるもの全ての中で、人間だけに与えられたもののように思われます。自らの弱さを認め、それを補う方法を考えることで、どんな他の強い獣にも勝る力を、人間は獲得したわけです。まあそれが地球環境を破壊できるほどのパワーまで生み出してしまったのもまた人間の弱さであり、これをどう補えるかが、人間のさらなる強さへの課題として今試されているということでしょう。

それはこの社会で生きる上での成功にも、かなり本質的です。「偏差値教育」というものの弊害ということで、「とにかくランクが上の者が成功する」という感覚を持つ人が多数生み出されているようですが、実際に社会で成功している人は、自分の強い面弱い面も総合して、自分だけにできることを見出すという方向性を持った人です。
「人に勝る」ことだけに目が向いて道を誤った人を、我々はTVなどでよく見かけることができます。最近だと亀田家の次男の挫折がその例でした。まあいい人生の勉強になっているでしょう^^。

3)「べき」の影にあった「強さ」

「べき」は、「与えられる側」でいることに徹した(^^;)時、とても心地良く響く言葉です。当然です。「与えられる側」でいた時に世界が「こうあるべき」通りであるということは、自分では何の苦労もすることなく望みがかない豊かになれるということですから。つまり「べき」は基本的に「心の自立」をしない心が使う思考です。

「心の自立」への原動力がどう生まれるかは、「未知」です。というか、心の自然成長力と自然治癒力に任されます。
10代の少年少女「心の自立」について語った時、それがどう受け止められるかは、かなり個人差がある話のように想像します。そこには当然、心の障害傾向をどのように持っているかが、かなりの要因になると思います。

心の障害が深刻である場合、自分が一方的に「与えられる側」であり世界は「べき」の通りである「べき」だという思考は、本人がその論理的妥当性を疑うことができない、独特な意識状態が生まれます。これはもう「半夢状態」ということです。夢の中ではあまり論理のつながり妥当性が問われずにストーリーが展開することはご存知だと思います。
それと同じ意識状態が、目の覚めている状態で、人生を通して、続くわけです。

このような「べきを疑えない意識状態」が解決するのは、自己操縦心性の崩壊にほとんどを依存します。自己操縦心性の崩壊を何度か経て、本人自身が今までの思考からの変化を「何か目が覚めたよう」と感じられるようになって、初めて「なぜ“べき”なのか」という問いを考えることができるようになるでしょう。

心の自然成長力と自然治癒力が開放されることで、「心の自立」への感覚と思考の芽は、誰が用意する必要もなく、治癒成長の途上にある人の心に現れると考えています。それが、若鳥が教えられることなく巣から外に飛び立つ、心のDNAに設計されたことだからです。
その時、「べき」である通りであれるとはどうゆうことなのかと、それを自分自身がその立場に身をおいた問いとして、考えることができるようになるでしょう。


「べき」である通りにあれるということは、「べき」を「与える側」として成す者の立場から見れば、とても強さを必要とすることなのです。
これは「愛」においても同じです。自分を愛するべきだった者がその通りにあるということは、その者がそれなりの強い人間であるということです。


それを今度は、自分の身をもって問うてみるのがいいでしょう。自分はそれだけ強い人間か。
そして、「人間としての強さ」のためには、「弱さを認める強さ」が重要だと。



■「愛における自立」が成される瞬間

上述の、「人間としての強さ」と「愛」をめぐる3命題が出てくることによって、「否定価値の放棄」を成立させる論理命題がかなり揃ってくることになります。

まずここで、「愛における自立」が成される瞬間が用意されるようです。

実際にそれがそれぞれの人においていつ成されるのかは、そうした命題を算数ドリルのようにこなす節目としてではなく、「心の自立」への内面準備がどれだけ用意されているかによって、意識表面での問いの内容は同じであっても、異なる結果になると思われます。
内面準備とは、1)心の自然成長力と自然治癒力の発現度合い、2)半夢意識状態つまり自己操縦心性の強度の低下、3)知性思考として「べき」を疑える科学的思考、の3つが主なものになるでしょう。

そうした内面準備において、上述の問いが「愛における自立」での未来向きの問いとして、これと合わせて「なぜ自分は望む通りに愛されなかったのか」という過去向きの問いを、「復讐の放棄」というまたもう一つの基本的選択も含め、これら総合的な問いの結果、ある一つの事実が実感として見出された時、それが「愛における自立」が成される瞬間と言えそうです。

見出される事実とは、何度も言ってますし他でも聞いているであろうことです。問題は頭でそれをどう理解するかではなく、「魂の挫折を置き去りにし見返す愛を求めた心」という「心と魂の分離」の構図における根本的変化を起こすような転換として、心の根底に達する自覚が成されるかです。

その「事実」とは、なぜ自分が望むように愛されなかったのかと言うと、自分を愛すべきであったその者が、弱かったからです。

この「弱かった」というのを、なぜ「弱かった」のか具体的に理解実感できることが、これが「愛されなかった屈辱」を振り払おうとして自己暗示的に唱える念仏(^^;)にとどまらない、真の「愛における自立」のしるしになるでしょう。彼らは良い親であろうとしたストレスに負けていたのか。弱さを認めることのできない、虚栄心の持ち主だったのか。
そしてそれが、自ら今取り組もうとしている「人間の根本的な弱さ」と同じものであることが分かった時、それが「愛における自立」を成した瞬間を意味するであろうと考えます。

なぜなら、他者の弱さを察知することができることに、「愛」が現れ始めているからです。そこにおいて、「愛」は「愛される」ことに全く依存しない、これまでの「愛」とは全く異なるその様式を、この人に見せ始めると思われます。

これが「心と魂の分離」構図におけるどんな変化なのか。そしてこの先にある「否定価値の放棄」へと、どのような論理転換がさらに続くのか、考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-104:「心」と「魂」の原点へ-13 / しまの
No.1355 2007/11/05(Mon) 12:17:03

■「自ら愛せる」ことを「望める」までの過程

「自ら愛することができる」自己へと成長することを望んだ時初めて、人はただ愛されることだけを求めた時につきまとっていた、自己嫌悪感情と苦い嫉妬そして罪悪感の苦しみの正体を知り、それを克服する方向への道が開かれます。

これは「選択」であると同時に、これを望めるようになること自体が、治癒成長の結果として現れてくるように思われます。

取り組み初期での深刻な状態の時は、「愛されること」に固執する裏で生み出される自己嫌悪と嫉妬や罪悪感を塗り消そうと、さらに「愛される」ことにしがみつこうとする悪循環が強烈です。「感情と行動の分離」に始まる、そうした心理状態で生まれるものとは全く別の思考を学ぶ取り組みによって、何とか安定を取り戻し、やがて「魂感性土台の体験」をした頃、「自ら愛する」という、これまでの人生で思いもつかなかったようなテ−マに意識を向けることが可能になるかも知れません。

「頑健な妨げ」ともなり得るのは、「愛されること」が復讐的勝利の色合いを強く帯びているケースで、「愛されることが勝ちであり愛することは負け」という感情論理が成立しているケースです。
この時、「自ら愛する」という命題は、この人が人生で葬り去ろうとしている、弱々しい卑屈な感情の中で乞食のように愛情を乞う、強烈な自己軽蔑を向けた自分の姿を彷彿とさせる話かも知れません。

その時はまず、その屈辱に満ちた「自ら愛する姿」の是非を問う前に、自分が来歴においていかに願った愛を奪われ、自分が愛されないことに屈辱を感じたのかを、真正面から振り返ってみるのが一つの方法です。
破壊的衝動の非行動化」の原則を保ちつつ、心に爆発的な怒りと憎しみの感情が湧き立つのをありのままに流した後、心には多少の平静が訪れるはずです。
「自ら愛せる」ことを、自己卑下でも卑屈な愛情要求でもない、一つの自分の生き方のテーマとして静かに問うことができるようになるのは、その後です。

いずれにせよ、「自ら愛せる」という命題は、意識の全体が「愛される」という枠の中にある人の目感性土台の中で思考したところで意味はありません「愛されるために自ら愛する姿を見せる」というループにしかならないからです。

人の目感性土台の中でループ思考にしかなれない自分を感じた場合は、一つの方法としては、今の自分の生活課題全体の中で、「愛されること」が実際どれだけ重要なのかを問うてみることです。実際、人は愛だけで生きるわけでもなく、愛とはまったく無関係な課題が人生には山のようにあります。「愛される」ことへの意識がその足を引っ張っている場合は、毅然としてその意識を切り離し、「愛」とは無関係な人生課題に意識集中するという多少は乱暴な(?)心の使い方も、人生で大きな決断が求められる時には、時に役立つものです。

それでも「愛されなければならない」という命題が切迫して心に迫ってくるのであれば、そうして相手の心の自由を奪うように愛されようとする姿勢が、まさに相手からの拒絶を招くという「現実」を、しっかりと見据え続けるしかありません
これは一種の「意識の破滅」とも言える事態になり得ます。「自殺」という文字が頭を駆け巡り、思考は良く動かなくなります。
「自己操縦心性の崩壊」です。これが病んだ心が自ら崩壊する現象であり、「ただ実存を守る」ことだけが課題として残される時間が訪れます。これは必ず一定時間の後に、きれいに消え去ります。その後で、新しい脳の状態が生まれています。

そして、ここに書いた最初の検討に、戻るわけです。もし「愛における自立」への心の準備が一定度に達していれば、似たような思考の繰り返しから抜け出る道が見えてくるでしょうし、まだ内面の準備が不足しているのであれば、以前よりは抜け出せるような感覚を伴った思考の果てに、やはり似たような意識の破綻が訪れます。そしてまた、新しい脳の状態が生まれるわけです。

こうしたスパイラルが、最後まで続きます。
それは一貫として、「未知への歩み」とすることで、進む力を与えられます。あとは、意識思考が「未知」を捉えるか、意識土台が崩壊して「未知」が現れるか、その2形態のどっちかだけです。


■「自ら愛することを望む」先に見出されるのは「愛への答え」ではない

「自ら愛することを望む」。
この方向性は、それ自体がある程度の治癒と成長を必要とする難しいテーマであると同時に、この方向性によって初めて心を病ませていたものの根源的な正体を見出し、それを克服する、「全てへの答え」が出される段階へと向う原動力になります。

そしてその難しさの状況が、実は「自ら愛することを望めた」後にも続くのです。
最後まで、「自ら愛することを望む」と感じる一方で、それが本当に可能なのか、そこに嘘があるのではないかという疑念が、残されます。それが人間の心というものなのです。

そして「自ら愛することを望む」ことの先に見出されるものとしてハイブリッドが考える「全てへの答え」は、人が「自ら愛すること」が本当に可能なのかという問いへの答えを出すものではなく、その問いを必要とさせた別の問題への答えを出すものになるのです。
実にパラドックス的です。「愛」への答えは最後まで出ることはありません。それはもともと「答え」として「知る」ようなものではないのです。「愛」がそもそも、「知って」行うものではなく、「知る」ということ以前にある「生きる」ということそのものだからです。
それをやめて、「愛」を「知って得ようと」したところに、人間の弱さと不完全性があり、自らに責め苦を与えることになる「傲慢」への種があったと言えます。

ですからこの後見出されのは、「愛を知ろうとした心」が満足するような答えではなく、「愛を知ろうとした心」を生み出した、人間の弱さと不完全性への「許し」とも言える転換です。そして「許し」が生まれるところには「罪」があり、「罪」があるところにはそれを生み出した人間の弱さと不完全性がある。
やはりここに論理の流れが途切れた一枚の壁があるのを感じます。「罪」「罰」という命題とは論理のつながらない、「空想」と「現実」という領野があり、その領野においてなされたある選択が、再び論理のつながらない壁を超えて、「許し」として現れる。
「空想」と「現実」の領野にあるそのような命題とは、「神」「悪」になるでしょう。

まあ例によりちょー難解な文章ですが、要は、「自ら愛せることを望む」先に「否定価値の放棄」への転換が見出し得る。そこには人間の心の深淵の世界があり、それが見出されるのは「自ら愛せること」を求めてその答えが出るという単純な話ではないという、深淵さそのものを心得て進むのが、この先のアプローチとして最適のようだということです。

まあそんなことを踏まえた上で、「自ら愛せることを望む」ことがどう「否定価値の放棄」へとつながるのか、その本質にかなり近い論理転換を説明できそうですので、それを次に。


心理学本下巻に向けての考察-103:「心」と「魂」の原点へ-12 / しまの
No.1354 2007/11/04(Sun) 15:51:35

■取り組み初期には問うのが難しい「自ら愛する」

ということで、「健康な心」「心の自立」という目標像追加において、「自ら守る」「自ら生み出し与える」については比較的今までの延長で理解可能として、「自ら愛する」かなり難題な新天地のような課題として現れることを考えています。

これは逆に言えば、「魂感性土台の体験」以前では、「自ら愛する」というテーマはむしろあまり出したくない話でもあったわけです。というのも、何とか「心を良くしよう」とする悪あがき(^^;)の中に、恐らく「自分から愛すればいい」的な発想は誰にもであったであろうからです。

ハイブリッド取り組みではまず、それを「共通目標共通利益」という建設的対人行動法に置き換えます。「自ら愛する」的な観念の中で、その実体は「愛される見返りを期待した自己卑下や自己犠牲」であるものは、外面と内面をしっかり分けて、外面は建設的な行動学に任せて、内面において自分自身への嘘や自分の見失いが起きるのをまず脱しましょうと。

それは、深刻なケースにおいては途中で多少の心性崩壊を経ることはあるかも知れませんが、「愛されたい」という感情にはあまり起死回生の解決は見えないままでありながらも、外面に対してかなり心が安定化していくる変化へとつながると思います。

そして、「愛」についてはほとんど解決が見えないまま、「魂感性土台の体験」が起きる。
ここで始めて、「自ら愛する」というテーマを問えることになるわけです。
まずそれ以前では、どう考えても「人の目目当ての感情強制」にしかならないでしょう。今となり、人の目イメージが消える魂感性土台を知ったことにおいて、それを考えてもらうことができます。
つまり、ハイブリッドで言う「自ら愛する」は人の目感性の上にはまったくあり得ず、魂感性の上にあり得るものですと。

なぜなら、「人の目感性」は、脳の土台からしてもう「愛される」ことについて感情や思考が動くCPU回路だからです。この脳をどう回して「自ら愛する」ことを考えようとも、それは「愛されるためには」という形でしか働きません。


■魂感性土台で「自ら愛する」を考える..?

そうした固定した感性前提の消える、「魂感性土台」「自ら愛する」ことを考えたい。
..のですが、これもかなり難しい。「まず不可能」と言っていいほどに。

理由としてはまず、実際のところ2つの感性土台が並存で行きます。これはもう「最後まで」と考えてしまうのが正解です。結局「愛される幻影」人間の弱さとして心に映され続けます。
そしてもう一つの理由。実際のところ魂感性の先にある「自ら愛する」は、「未知」としてしか現れてこないです。

「自ら愛するとはこうゆうこと」と頭でイメージして自分に当てはめるという方法では、根本的にそれに向うことはできないのです。そうしようとする轍の繰り返しを避けるために、「魂感性土台の体験」まではこの話は除外して、ここから、感性土台の違いを踏まえて取り組んで頂く課題としました。

僕自身が何となくその片鱗が見えてきた「自ら愛せる心の状態」という結果の姿については、11/1「心」と「魂」の原点へ-7「愛されることを必要とせずに愛する」感情として、参考として書いてみたりしました。
ただそれだけを抜き出して考えると、やはり絵に描いた餅になります。僕自身、それはあくまで僕の心の中で「済んだ」部分に対応して変化した部分を抜き出しただけの話であって、これからの人生課題に向う上では、僕もやはり2つの感性土台の並存に向うしかなくなる。

ですから、「自ら愛する」というテーマへのアプローチを、「魂感性土台の上で考える」というのもやはり誤りです。
あくまで2つの感性土台の並存を前提として考えるのがアプローチになります。これが要は、「感性土台」のレベルで考えるのではなく、「知性思考」と「意志」さらには「信仰」のレベルで考えるという、「感性土台」よりも一次元高い心の機能を働かせるという話にもなります。



■目標とする「自ら愛することのできる人」とは

前段的な話はそんなところにして、ハイブリッドとして「自ら愛する」への具体的アプローチとして示せるものを説明しましょう。

「健康な心の人」という目標像によって外面行動を考えるのと同じように、「自ら愛することができる人」という目標像を、残された「愛」という大きな課題領域に役立てることができるでしょう。

ただ「健康な心の人」という一般的なものとしては、「人の目感情の応報はしない」「自立した心で」などを、基本的にはできるだけその完成形を考えてみるのが良いのに対して、「自ら愛することのできる人」というかなり的を絞った目標像としては、むしろかなり不完全形を考えるのが良い目標像になります。

具体的に説明しましょう。
「自ら愛することのできる人」とは、どんな人だと思いますか
「なりたい自分」イメージを引きずっていると、まあ大抵引きずっているわけですが(^^;)、ます浮かぶのは、「自分から人に愛情を与えることのできる人」という感じだと思います。暖かく表情豊かに、親しみと愛情で人に働きかけることのできる人

そんな絵に描いた餅のような自己理想像を描くから、自ら愛することができなくなるわけです!
少なくとも取り組み実践として、参考までの結果像を考えるのではなく、これから自分が向い得る目標像を描くのであれば、あくまで内面の問題を残した現状の自己を踏まえるものにするのが正解です。

それで言うならば、まず何よりも言えることは、「自ら愛することのできる人」とは、「愛を願う気持ちが自分の中にあることをはっきりと認めることのできる人」を指します。
そこから、より積極的な方向性や、不可避なマイナス側面への向き合いの話が出てきます。「自ら愛することのできる人」とは、それを目指し、向き合うことのできる人です。

積極的側面としては、愛を願う相手と共にいる時間を楽しむことができる。さらに、つながりを持ち続けたい、より強いつながりを得たいのであれば、必要に応じてその気持ちを真正面から相手に表明できることです。
避けられないマイナス側面としては、愛を望むことに含まれる恐れや悲しみも含めて、さらには「愛」をめぐって自分の心にある不整合に触れる苦しみも含めて、認めることのできる人です。

一言でいえば、自らの「愛」に嘘をつかない人です。
それがハイブリッドとして言える、「自ら愛することのできる人」です。まずはそんな人間像をぜひ目標にするのがいいでしょう。


ざっとこう書いて自分でも印象深く感じるのは、こうして「自ら愛することができる」こととは、実際の相手との関係よりも、自分自身との関係がかなりの面を占めていることです。まあこれが「魂との関係」に関るものであり、後に出てくる全てへの答えがここにつながってくるのでしょう。


■「心と魂の原点」の底にあるものへ

そうした「自分自身との関係」が見失われた時、「愛における不実」となる何かの狂いが、人間の心に生じるのでしょう。
これもざっと見ておきましょう。以下は理論的整理はあまりしないまま、浮かんでくることをそのまま書いたものです。

愛を望むことに含まれる恐れや悲しみや苦しみに向き合うことができず、自らの「愛」に嘘をつき始めた時、人の心の中に、全ての問題が消え、望みが叶えられるかのような「愛される姿」の幻想が映し出され始めるわけです。そして自ら愛することをやめ、人に自分を愛させるためにはどうすればいいのか、「愛される」ためにはどうすればいいのかという、不実な思考の虜になっていく。

そしてその中で、人は自分が自らの「愛」に嘘をついていることが自分でも分からなくなり、自分が人間として不実な傲慢さえ帯び始めていることに、気づかないままでいます。
当然です。なぜならこんなに苦しいんですもの。これが傲慢であるはずなどありません。それに比べたら、何の悩みもない顔であの明るい笑顔を他人に振りまいている人間と来たら..
こんな理不尽があってたまるものか。世界は、現実は間違っている。あの幸せそうなニセの顔をどうにかして醜い泣きっ面に変えてやりたい。
まあ気持ちは分かります^^; あるいは、そうやって自分が「堕ちた」ことに気づいた時、その引き金となった「幸せそうな他人」への憎悪が確定したのかも知れませんね。
しかし全てはそれよりもずっと前に始まっていたのです。自らの「愛」に嘘をつき始めた時に・・。

上記の文章は昨日の夜言葉が浮かぶままにメモしたものですが、人間の心の典型的な姿であるのを感じます。
愛されるためにはこんな自分に、というごく理解可能な思考の流れの中で、人は漠然と自分が何か人間性を失った傲慢を獲得しつつあるという、遠い雷鳴に不吉を感じるような感覚を覚えるのですが、それが何なのかはすぐ見えないものになります。やがて嫉妬の怒りの中で、自分があるべからざる心になっていることを知るのですが、なぜそんなことになったのかは分かりません。

根源は、「人間の価値」への基準を掲げた、最初の心の動きにあります。それが傲慢の正体です。人は同時にそれに罪を感じ始めるのですが、まさにその「基準」から自分を責め苛むことが、まるで罪に対する自らの罰であるかのように、相殺され中和された思考だけが意識の表面に流れるわけです。そして何も分からなくなったまま、何か自分が傲慢な嘘つきであるような罪悪感だけは、消し去ることができず心の底に染み付いています。

「自ら愛する」ことができることと、それができない心の違いの底に、こうしてあまりにも沢山の心の歯車が存在しているのを感じます。
その全ての回転が転換されるのが、「否定価値の放棄」になります。
引き続きそのメカニズムの考察を。


心理学本下巻に向けての考察-102:「心」と「魂」の原点へ-11 / しまの
No.1353 2007/11/04(Sun) 13:29:08

■ハイブリッド実践「中期」サマリーと「自ら愛する」命題

さて、「中期」について今までに述べたその位置づけをサマリーすると、以下のようになります。

1)「魂感性土台の体験」を足場にして開始する。「自己の積極的保護」も、この段階の始まりを特徴づけるものとして時に現れる。

2)それらの「体験」を足がかりにして、進む方向性に「健康な心の世界」「健康な心の人」そして「心の自立」という目標を追加する。
これらは、今までの「人の目感性土台」とは全く別世界のものとして考えてみる「未知への知」思考が重要。
この方向性は、「健康な心」というのは、より外面向け方向性に関係し、人の目感情では行動しない、より洗練された原理原則的、建設的な行動法につなげていく。
一方「心の自立」はより内面向け方向性指針となり、「自ら守る」「自ら与える」「自ら愛する」という命題における、自分の心の動きをより精緻に理解することにつなげる。

3)実際の生活場面においては、「感情と行動の分離」が変わることのない基本指針であり、まず外面では「健康な心の人」「心の自立」型の建設的、そして原理原則的な行動を心がける。躓きがあれば立ち止まって、外面内面ともに方向性の再確認検討をすると共に、自分の心のあり方現状について理解を進めれば良い。いたずらに完成形の自分を求めることなかれ。

感情に流され巻き込まれることから脱する上では、「愛と自尊心の分離」を「感情と行動の分離」に追加する良い指針とすることができます。相手に愛されたいという気持ちと、自分自身で自分をどう評価できるかという自尊心の問題を、明瞭に分離することです。
これはつまり、愛されることに自尊心の基盤を置こうとすると、自分自身では自分を評価することができなくなり、自尊心を根底から失っていく方向に向かうという巨大な罠が、「感情に流され巻き込まれる」ことの最大原因であるということになります。

一方で、このように「健康な心」「心の自立」型の外面行動に徹することは、「愛」については今だ未解決の状態に置かれることをほぼ確実なものとする可能性が高い。「愛されたい」という気持ちが人の心で決着を見せることは、そうあるものではありません。
だからこそ、「自ら愛する」ということがどうゆうことかというテーマが、この「中期」に一貫として取り組まれるべき課題としてその姿を現すことになると思われます。


■「愛」が現代社会の課題

まあこれはどーでもいい余談ですが、昨日夜TVで『恋空』という映画の宣伝などが流れており、若く美しいその主演女優の誰もが惹かれそうな様子や、いかにも「これが愛の話です」と言わんばかりの「愛が最大関心事」の極み的物語調に、一方で真面目腐った学者肌の中年オジン(^^;)となろうとしている僕がここまで「愛」をテーマに一生懸命書いていることに、一瞬なんか奇妙な感覚を覚えた次第です。1リットルの水にほんの1滴まぜた程度の「おかどちがい」かも感覚のような。

でもまあ、僕としては「現代社会」というものが、基本的にはかなりうまく行っていると感じているわけです。
ただ一つ、「愛」だけが、大きく狂っている。だからこんなことしているわけだ。現代社会が駄目と良く人が言うのも、その根底には愛への不明が関係していると思う次第。まあこれも最後の「信仰」の話に関係してくるでしょう。


ということで、ハイブリッド取り組みの全体としても、基本的な生活場面における方向性を次第に着実なものへとしていく中で、「自ら愛する」というテーマがまだほとんど答えの見えない大きなテーマとして浮かび上がってくるという流れを考えています。
それに取り組むのが、「中期」になる、という次第。

流れ整理カキコとしていったんUpしときましょ。


心理学本下巻に向けての考察-101:「心」と「魂」の原点へ-10 / しまの
No.1352 2007/11/03(Sat) 14:35:45

■「自ら愛することのできる人」を目指す

「愛における自立」「過去への向き合い」段階の次は、未来向きの姿勢を定める段階です。まあこの2つはきれいに分かれる2段階になるのではなく、実際は未来への方向性動機となって、過去を振り返る視点にも変化が起き、それが未来に向く内面の力をさらに生み出すという、スパイラル的な道のりになるでしょう。

「愛における自立」での未来方きの姿勢とは、「自ら愛することのできる人」を目指す、ということになります。

これは「魂感性土台の体験」を節目として始まるハイブリッド取り組みの「中期」において、取り組み推進のために自分が目指す心の世界を定めるということの一貫として位置づけることができます。
推奨する目標とは、まず「健康な心の世界」「健康な心の人」そして「心の自立」を言ったわけでした。

ただ「健康な心の世界」「健康な心の人」について、積極的な表現をしていませんでした。まず「病んだ心」の方は、「人の目感情」を積極的に向け合うものです。「健康な心」の方は、それをしないものです、と。
これはさらに「人間の価値を否定的に見ようとする目」を向ける心としても言うことができるでしょう。これが何か病んだ、もしくは論理的な袋小路を含んだ姿であることは直感的に伝わるのではないかと思います。なぜなら、「人間の価値」に否定的な目を向けようとするその者が、やはり「人間」だからです。その否定的な目はどこかで必ず自分自身にも向うことになります。
で、「健康な心」には、それはありません、と。

「心の自立」が、「健康な心」をより積極的に表現するものと言えますね。
つまり「健康な心」とは、「人の目感情」の向け合いをせず、特に「人間の価値」を否定的に見ようとする目というものはない世界であり、自分自身で恐怖に耐え乗り越える姿勢を持ち、「与えられる」ことだけを求めるのではなく、「現実における向上」を自ら生み出し他に与える潜在性を持てる人であり、「愛における自立」つまり「自ら愛することができる」という方向に向っている。そんな心の世界です。


■「心の自立」と「愛の目」「内容を見る目」の分離

これは逆に言うと、人は「心の自立」ができないとき、「人間の価値」を否定的に見ようとする目を抱き始める。そうゆう関連性が言えそうです。
このつながりはなぜか。
これは比較的簡単ですね。自分自身で自尊心を持つことができないから、他人を見下すことで自尊心を感じようとすることになります。また、人に「見られる」ことによって自尊心を感じようとすることになります。

「心の自立」つまり「自ら守ることができる」「自ら与えることができる」「自ら愛することができる」というのが自尊心を高めることにつながるためには、やはり自分から生み出すもの他人や社会に評価されて、自尊心が高まる。これはやはりそうです。
それが「人の目」による自尊心の感覚とどう違うと言うのだ。そう疑問を感じる人もいるかも知れません。結局人からの評価が重要になるのではないか。

それはその通りです。そして「健康な心の世界」で自尊心のためにやはり重要になる「人からの評価」とは、「人の目」とはまったく別のものです。実はこの違いが分からないという問題が、「人の目の世界」から抜け出せない人の最大の原因かも知れません。

一言でいえば、「人の目」と今までの文脈で言ったものは、はっきり言って「愛の目」つまり「愛情」の付与もしくは剥奪の目です。「内容」を見る目ではありません。
一方、「健康な心の世界」で自尊心のために重要になる「人からの評価」とは、「内容を見る目」の方です。
「内容を見る目」は、愛とはもはや全く無関係なのです。なぜならそれは人そのものではなく、人が生み出し、人から離れて形となった「もの」だけを評価する目だからです。

これは「病んだ心」を自己把握するための、またちょっと違う角度を追加できる話でもあります。
それは人の「愛の目」と「内容を見る目」の判別をすることができない心の状態になっています。生活仕事などで、自分のやったことの出来が悪く言われると、「自分は愛されていない」と感じる状態です。誉められると、「愛されている」ような感じがする。

まあこれは子供の心そのものですね。子供はそれで自然です。だから子供は誉めてあげることがとても大切です。
でもそれと同じことを大人の人を相手に考えるのは..
もちろん大人相手でも、誉めることは大切です。コーチングの世界では、ですね。何かを学ぼうとする時、誉められると楽しくなり、さらに上達します。


■「人間の弱さ」の根源

まあそんなことをつらつらと考えて浮かぶのは、大人になって「愛の目」と「内容を見る目」が判別つかない状態になっているとは、自分の存在価値を自分で支えることのできない心の状態であることを意味します。
それは、自分の存在価値を感じられるために、何でもいいから人に必要とされ求められることに飢えて、行きずりの相手に自分の体を与えようとする女性の姿などを連想させます。それって何か、とても悲しい。
自分の存在価値を自分で感じることができないから、人に何でもいいから求められ必要とされること、何でもいいから高く評価されることを、自分で感じることのできない「自分の存在価値」の穴埋めとして求めるようになります。

なぜ自分の存在価値を自分で感じることができないのか。
自分から守ること、自分から与えること、自分から愛することをしていないからです。
それができれば、「自分の存在価値とは何か」なんて難しい哲学的心理学的な問いなどしなくても、自然と自分に存在価値を感じられるようになります。これは請合います。

ではなぜ自分から守ること、自分から与えること、自分から愛することをしていないのか。できないのか。
まあ2つの理由が考えられるでしょう。
一つは、恐いからです。
もう一つは、自分から与えるのではなく、守られ、与えられ、愛されることに自尊心を求めるようになったからです。全く皮肉な話です。自尊心を求め、それによって丸っきり自尊心を失うことになるのですから。

愛されることに自尊心を求めた瞬間は、そのことは見えません。なぜなら、愛されることに成功した時、全てが叶えられるという幻影が心を覆うからです。
これが「人間の弱さ」「人間の不完全性」の根源なんだろうと浮かびます。事実こうして心の動きをシミュレーションしている僕でさえ、「愛されれば全てがうまく行く」という幻影の先に、他の全てが見えなくなる心の断裂面が現れるのを感じます。

この「人間の弱さ」「人間の不完全性」に、人間は勝てない。そんなことが浮かびます。
まあ当然です。人間の弱さなのですから、それに勝つとは人間ではないものになるということです。
だって人間だもの、..とこれは相田みつお調^^;

そしてその「不完全性」を受け入れるのが、「否定価値の放棄」であるわけです。


■「失われたものへ向う自立」へ

こうしてまたちょっとつらつら考察をしていて感じ至るのは、人間には自らの存在価値を自分では支えることのできない、根源的な弱さと不完全性があるということであり、ハイブリッドの「中期」として位置づけるのは、それも含めた全てを視野に入れた歩みになるということです。

つまり、人間の心には、何かが根源において失われたものがある。それを探し続ける歩みと共にするものとして、「自立」があるということになります。
ただしこれで全ての話の符号が合ってきます。人間の「心」は、「魂」と分離したことにおいて、何かが根源において失われたものであり続けるということです。失われた何かを求め続ける歩みと、全ての命の摂理である「自立」。この2つの全くの別の世界を同時に見続けることの中に、人間の「心の自立」があるということになります。

2つの世界が重なるところにある、一つの本質。それはもう見ることのできるものではないということになるのかも知れません。それはただ「未知」として、最後まで位置づけられるのかも知れない。

そしてまた符号するというのは、実際ハイブリッドの「中期」から「後期」への変遷が、僕自身の歩みもそうであったものとして、まずその「人間の弱さ」「不完全性」を受け入れることとして、そして次にはその弱さと不完全性の根底にあるものへと近づいていく歩みとして位置づけられることです。

それは最後まで「失われたもの」を見出そうとする歩みであり、そうであることにおいて「満たされるもの」になるという、パラドックス的補完が、ハイブリッドの目指す道というものになるということです。これはどこかで、さまざまな形で見聞きした人間の心の根源テーマとやはり符号しますね。

それを見えなくしたものをまず突き止め、捨てる。それが「否定価値の放棄」です。
これらの文脈も踏まえ、「愛における自立」での過去から未来向きへの転換の中で、それがどう成されるかのメカニズム考察を引き続き。


心理学本下巻に向けての考察-100:「心」と「魂」の原点へ-9 / しまの
No.1351 2007/11/02(Fri) 16:32:05

結局この考察も100カキコを越えるわけで..-_-;;

■「愛されなかった心」の前に現れる2つの道

「愛することができる」ことは、「愛された」こととは必ずしも関係ない
この、万華鏡のように錯綜したさまざまな感情パズルを整理しているうちに見出された一つの命題は、僕自身かなり意外なことではありましたが、実際のところそれで混乱がかなり収まるという確かな実感を感じます。

「愛することができる」という自尊心は、「愛された」こととはかなり無関係であり、むしろ「愛されない」ことへの出会いの中において、なおも「愛した」ことに自ら豊かさを見出す感覚として育つように思われます。
これはかなり論理としてはすっきり筋が通る話です。愛されなくてもなお愛せたのでから、「愛することができる自尊心」になり得ます。愛されて愛しただけでは、できて当然じゃん、となる。

また、これは「魂」本性としてその方向性を持つことであると、ハイブリッドとしては考えます。
「魂」は基本的に愛をつかさどります。たとえ愛されなくても、「魂」は愛を願い求め続けます。一方、この愛が妨げられる度合いが一定限度を超えた時、魂は「愛への願い」を抱えたまま同時に「怒り」と「憎しみ」を抱くようになる。これもかなり本能的です。
あとは「心」がどうするかです。

「心」にこの時、全く方向の異なる、2つの道が示されるようです。

一つは、「愛における自立」へと向うことです。「愛されなかった」ことを受け入れ、それでも愛することを選ぶ。これが何かこの人間に大きな価値を与えるものになった時、人はその「愛されなかった」出来事の存在にむしろ感謝を感じることさえ出てくる、ということになるでしょう。
ただしこのためには、「愛されること」についての根本的な捉え方の転換が必要になります。これをこの後説明します。

もう一つの道は、「愛されなかった」ことを「あるべきでなかったこと」とする復讐への道です。「愛されなかった」ことを見返すために、誰よりも特別に「愛される」という、復讐的価値を帯びた「愛されること」を求める道へ。
ここでは、その理解可能な情緒の流れに加えて、もう一つの特別な一歩が介在します。「現実の否認」という、「空想の世界」への飛翔です。


■「愛における自立」への道1:過去への向き合い

「愛における自立」への道は、2つの段階からなるようです。
これは幼少期からの問題を抱えた心の障害傾向からの治癒成長の道のりにおけるそれも、そのような問題がない比較的健全な心理成長において人が精神的自立をなすときの道のりにおけるそれも、どうやら大枠は同じようです。

2段階とは、「愛されなかった」出来事の受け止めという、過去に向き合う過程と、「自分から愛する」ということへの、未来を向く過程です。

まず「愛されなかった」出来事の受け止めという、過去に向き合う過程を説明しましょう。

これは精神的な「自立」をする意志の有無によって大きく話が変わります。ここでは「愛における自立」への道筋説明ですから、あくまで「自立への意志」を持ってからという前提条件があります。
一方、幼少期の問題が深刻であればあるほど、恐怖の強度が増すため「自立への意志」が育たなくなるという隘路があります。
取り組み上は、この「愛されなかったことの受け止めの転換」を検討するとしたら、あくまで「心の自立」への意志が前提となるという点に留意頂ければ。


「愛されなかったこと」を「愛における自立」として受け止めるためには、具体的には3つの要素が必要です。そのどれもが、人間の根源的な心の選択にかかわります。

第1要素として、「復讐の放棄」をすることです。「愛されなかったこと」が「あるべきでなかったこと」という観念を捨て、「現実」として心底からの受け入れをすることです。そして「報復」「復讐」というごく本能的な感情について、心底からその有用性を否定する考えを持ち、報復や復讐は自分の行動原理として採らないという、確固とした生きる姿勢を確立する必要があります。

第2要素として、上記が「愛されなかった過去」の受け入れとして、さらに、「愛されない今の現実」の受け入れが必要です。これは基本的に、「愛されなかったことへの怒り」を今自分が抱えている状態である一方、結局人に愛されるのは、自分から愛する者であるのが「現実」であることにおいて、今現在の自分もまず愛されることはない、ということです。

これは、全ての思考が「どうすれば愛されるか」に傾いている人にとっては、あまりに受け入れがたい話かも知れません。ただハイブリッドがお伝えできるのは、これだけなんですね。それを受け入れた先に何があるかという報酬にしっかりと目を向け、選択を検討するのがいいでしょう。結果としては、愛されないことを受け入れた時、人は愛される人間に変わっていく変化をはじめるのです。

第3要素は、幼少期における「愛への願い」の「気持ち」に一度還り、それを開放することです。
上記2つの要素までは、世にある人生哲学でも言われることかも知れません。この3つめの要素が、ややハイブリッド特有の話で、「感情分析」の実践になります。自分がどんな気持ちの中で、「愛されなかったことへの怒り」を抱くようになったのか。その大元の「気持ち」を追体験することです。
これは「心による抱きこみ」によって、「魂」が捨てさせられた「愛への願いと悲しみ」の感情を開放するということで、「心に置き去りにされた魂」という基本的構造への治癒実践になります。


■「愛における自立」への「科学の思考」

こうして、「愛されなかったことの受け入れ」とは、要は過去の不遇への怒り恨みを捨て、避けようがなかった現実として受け入れるという、人間の心の課題として古くから言われていることを指すものになります。

問題は、それがどのような思考論理によって成されるのかになるでしょう。ハイブリッドの独自性もそこにあります。
僕としては2つを感じます。

まず、少なくとも僕の場合決定的になったのは、「科学の思考」です。

もともと少年時代から科学図鑑を隅から隅から眺めるのを楽しみにしていた自分としては、今から考えても関心するほど、僕は道徳観念のない人間として育ちました。ただしそれが非行傾向になるどころか、逆に道徳観念がなかったからこそ、人間性を損なうものごとへの本能的な嫌悪感にも敏感になる方向にあったと感じています。
それで言うと、道徳観念が強いと、明らかに、人間性を損なうことへの本能感覚の麻痺が生じる、と僕は感じるんですけどね。

いずれにせよ、そうして科学思考に徹していた僕にしてみれば、「現実」は基本的に「容赦のないもの」という感覚が最初からあるわけです。大自然では、生まれた子供が生き伸びる確率は何パーセント、という話が出てくるのはご存知かと。特に海の生物の場合、時に天文学的数字での低い確率でしか、生き延びることができない。
科学的思考においては、それが基本になると思います。その時、「愛されなかった」ことは、それが情緒においては本能的な怒りや憎しみを抱かせるものであることはそのままとして、「知性思考」においては「あるべきでなかった」という思考はしなかった..

と手が自然に動きますが(^^;)、そう言い切るとちょっと嘘があります^^; 僕も「あるべきでなかった」的思考はしたのを思い出します。大学進学当時ですね。「社会学」もそうした問題意識の先で関心を持ったものです。
でもまあ自分の頭の基盤は理系だという感覚ですね。

まあそれを振り返り、「愛されなかったことの受け入れ」として、「あるべきでなかった」という道徳思考ではなしに、科学思考が大きな意味を持ってくるのは、「なぜそのようなことが起きたのか」という自分および他人そして世界を知ろうとする思考ではないかと考えられます。
ですから『“It”と呼ばれた子』のデイブ・ペルザーも最後はその問いへの答えを見出すことで、自分を虐待した母を許し、「愛における自立」を果たしたわけです。「母さんは病気だったんだ」と..。

「自分は愛されなかった」という自らの思いに対する、「それはあるべきでなかった」という思考ではない、「なぜそのようなことが起きたのか」という論理的思考。
これは次の、未来に向く段階において極めて重要な位置づけを持つものになってきます。


■自分で答えを出し自分で答えを心に納める

「自分は愛されなかった」という不遇を受け入れるために、「なぜそれは起きたのか」という科学的とも言える論理思考。
その次に重要なのはその「なぜそれは起きたのか」への答えを、自分自身の目で見出し、自分自身で自らの心に収めるという姿勢です。
これは少なくとも「自立」をするための思考であるのなら、その姿勢があってこそ「自立」になるという当然の話です。

よくメンタル問題に悩む人が、親との対話の中で「愛されなかった不遇」への答えを心に納めようとする姿を見ますが、それが心の健康という一般論として正しい誤りかはさておき、少なくとも「愛における自立」の観点からは、それは単に自立をしない姿勢です。
親が子供の育て方を誤ったことを謝罪するとか、なんでそんなことになったのかを、親の説明を聞くことで納得したいと感じることにおいて、それはやはり親に依存しているということです。
それが良くないという話ではありません。ただ、自立は選択していない。それだけです。

自立とは、人の目を通して世界や自分自身を見るのではなく、自分自身の目で世界と自分自身を見ることです。そしてまずは良し悪しの評価をする以前に、なぜ何がどうなるのかの、現実の世界における理(ことわり)を自ら獲得することです。
なぜ自分は自分が望むようには愛されなかったのか。その正確な宿命の由来を知り、その上で、それを自分としてどう受け止めるべきかを問うことです。


さらに言えるのは、「愛されなかった理由」は、親やその他特定の人間との関係だけではなく、「世界」との関係、そしてこの世に生まれるという「死生観」として問われるのが、「自立」におけるその思考のありかたのように感じます。
実際僕の例で言うと、幼少期に自分の心に起きたことは、僕の「今の」親や同胞との間に起きたことではなく、僕の魂という「別の世界」で起きたことだという感覚ですね。だからなおさら親とかと自分の心の問題について話す気がしない。そして同じように、来歴の全ての人々との関係について、「愛される」ことをめぐって起きていたことは、現実の相手との間で起きていたのではない、心の世界の中だけであったことだと感じられるわけです。

「世界」との関係、そして「死生観」として、自分の過去に起きていたことの理(ことわり)を知る。
そこにはどうしても「神」という観念も出てくるでしょう。これについては最後の「信仰」の話で。


■「愛される」ことへの絶望という通り道

ということで、「愛における自立」のための前段階となる、「愛されなかった過去の受け止め」を説明しました。
それは、「恨み復讐の放棄」「今現在愛されないことの受け入れ」「愛への願いの追体験」を基本要素とします。

まず問題になるのは、「恨み復讐の放棄」「今現在愛されないことの受け入れ」が感情的に実際のところ不可能だという事態があり得ることです。感情は言うことをそう聞いてくれるものではありません。
それについてハイブリッドが言えるのはただ、「現実」です。現実がそうなのであれば、それが「現実」です。あとは、それを見据えるか、それとも空想の世界への飛翔を続けるかになるでしょう。

そして人間の不完全性は、やはりそれについても見通しを半ばにさせるのが現実と思われます。あまりにも心に受けた傷が深く、現実を受け入れる心の準備ができていないのであれば、自己操縦心性が空想の世界を守らせるでしょう。
そして現実を受け入れる内面の力が準備されてきた時、まず「現実の受け入れ」は、復讐の怒りを捨てることができず、明るい人間として人に愛され得ない自分の現実への深い絶望として現れるようにも思われます。
それが「愛における自立」への道にある通過点です。

「愛される」ことに心底から絶望した時初めて、人は「自分から愛する」という真の感情を自分の中に見出すことができます。
それが極めて大きな「人生の価値」であることが後になり分かった時、不遇にむしろ感謝するということが出てくるのだろうと。


「自分から愛する」という「魂」の感情の芽を開放するまでの過程が以上として、次に、さらに「心」積極的にそれを自らの生きる方向性として選択するという、未来への姿勢が必要になります。
これも「愛されるためには自分から愛することだ」などという精神論ではない、むしろサバイバル的な人生戦略の思考によってそれを成すというのが、ハイブリッドの独自な考えになります。


心理学本下巻に向けての考察-99:「心」と「魂」の原点へ-8 / しまの
No.1350 2007/11/01(Thu) 19:05:18

ややまとまりのない考察の中に、極めて根本的なものが見えてくる話を。

■最終的な「自尊心」は「愛」に依存する..?

「愛における自立」への答えが出てはじめて、「心と魂の分離」に際して生まれた「愛」と「自尊心」の錯綜混乱への解決が見えてくると思われます。
なぜなら、「愛されることに依存しない自尊心」「心」の課題となり、「愛されない屈辱」への見返し復讐がその内容になった時、自尊心のために愛を自ら破壊し、それによって「愛されない屈辱」へと戻るという、まったく出口の見えないメビウスの輪のような隘路が生まれていたからです。

「愛されることに依存している自尊心」だからこそ、「愛されないこと」が屈辱になります。そして一方で求められる「愛されることに依存しない自尊心」のために、自尊心を愛に依存しているからこそ、愛を破壊できることが必要だという感覚が生まれるのでしょう。
それは容易に成功します。そして、自分が愛されないという感覚を深めるわけです。つまり自尊心を損ないます。

解決への方向性として、「愛と自尊心の分離」という言葉を出しています。実はこれがあまり十分には説明できていません^^;
具体的に説明したものとしては、2007/05/15「魂の治癒成長への実践-65」で以下のように説明しています。
==============================================
ごく実践的な話について言いますと、相手の愛情を得たいという気持ちと、相手の意見などについて自分の考えでは本当にはどう考えるのかを、分離することです。後者は、前者とは無関係に、相手の意見だけではなく、世界全体を見る目と知性で考えることです。
==============================================


まあ実践的な話としてはそれでいいかも知れませんね。
ただそれではまだ、その「愛と自尊心の分離」の実践の先に「愛と自尊心の錯綜」の解決がどうつながるのかが見えてきません。

というのも、「人生における自尊心」の達成課題は、最終的にはやはりその内容がかなり「愛」に「依存」していると思われるからです。
この表現では事実話がかなり混乱してきます^^; つまり、「自尊心の達成」をここで本人の意識としては「自信」として感じられることとして言うと、事実、最終的な自尊心達成においては、間違いなく、「自分は愛される」という自信感が含まれるということです。
そして僕自身が実感として感じられることを言うと、その「自分は愛される」という自信を持てる原因は、「自分から愛する」ことができるからです。相手から愛されなくてもです。ここに「愛における自立」が出てきます。

愛されなくても愛することができる。そして自分から愛することができれば、相手からも愛されることについて、ほとんど不安感がないんですね。そして本当に「自分から愛せば相手からも愛されるか」という嫌疑(?)が出される時、この「自分から愛することができる」感情とは、もともと愛されなくても愛することができる感情なので、実際に自分から愛せば相手からも愛されるかと確認したいという感覚も、持たないわけです。
逆に、「自分から愛せば相手からも愛されるか」と相手を確かめたいならば、それなもうそもそも「自分から愛する」感情ではない、「愛されれば愛せる」という感情に切り替わっていることを意味すると思います。


■「愛における自立」は「正の輪廻」ではない..?

上述のだらだら考察(?^^;)は、「愛における自立」つまり「愛されなくても愛せるという自信」が、どのように獲得されるのかのメカニズムを考えていて浮かんだ事柄です。

最初僕はまず、愛において自立できた親が、子供に揺らぎない「宇宙の愛」を向けることで、子供に「愛されない屈辱」という状況が起きず、自分から愛せることができるようになる、という流れを想定しました。
つまりまず「愛された自尊心」を土台にして、「愛する自尊心」を築くという流れかと。それがまた子供に向けられるという、「正の輪廻」をまず「健全形」として浮かべたわけです。

しかし、どうも話が違うようです。
僕自身として今まで視界に入れた感情の全てをどうシミュレーションしても、「愛された」ことと、「愛することができる」ことが、つながらないんですね。


事実僕は、今まで「正の輪廻」については、「愛された自信」によって「愛する自信」が生まれる、という形の説明は書いてないです。ちょっと再確認したのですが、「愛された自信」を土台とはしても、いったん「愛とは別」のさまざまな問題に向う。それが充実の中に収められた時、子供に向けられる豊かな愛が湧き出てくる。「愛」にはいったん切れ間がある、という印象です。
2006/01/11 自己操縦心性の成り立ち-22:背景その3優越による自尊心課題-2
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ハイブリッド心理学では、人間の心理発達課題を、幼児期における基本的信頼の獲得ではなく、生涯を通じての「自尊心の確立」であると考えています。
人間の生涯の中で、その健康な心の姿においては、幼少期に親の「宇宙の愛」を受けることから、素朴な全能感万能感を土台にして、自発的な欲求に従い能動的に現実社会に向かうことで、全ての可能性を尽くして現実の壁にぶつかる体験を経て、世界における自分の居場所を見出すことで達成されます。
揺らぎない自尊心が確立された時、自尊心を求めて何かに向かおうとする欲求は消失し、代わりに「子供への愛」に満たされ始めます。そしてそれが新しい命へと向かう。この「正の輪廻」があります。
========================================


いったい何を言いたいのかというと、「愛される」ことと、「愛することができる」ことは、全く別のことだということです。

で結局、「愛することができる自尊心」がどう獲得されるかのメカニズムを考えていると、どうも「愛されたこと」がどうそれを生み出すかではなく、逆に「愛されない」という事態に出会い、それを乗り越える本人の転換というものが、「健全形」を考えていてさえ答えとして見えてくる。
実はそれが正解らしい根本的な理由があるんですね。全ての生きものにおいて「自立」は大抵、親との別れ、しばしば何らかの拒絶を含むそれを超えて生まれるものだからです。


ここに書いた話の前に、僕はすでに「病んだ心」から「愛することができる自尊心」までの筋道をおおかた整理しました。きのう出かけた電車の中でですが。
そして今日話の流れとして「健全形」をまず書こうと思っても、話が同じになってくる。これは変だと思いましたが、「自立」というのはどうやら根本的に、何らかの損失を超えることなのかも知れません。

結局「健全形」でも同じになる、その道筋を次に説明しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-98:「心」と「魂」の原点へ-7 / しまの
No.1349 2007/11/01(Thu) 14:25:24

■「愛における自立」と何か

まず、「愛における自立」とは何か、最もストレートな説明をします。
ハイブリッドがそれをどう考えるか、というより、僕自身がようやくごく最近になって分かってきた体験として言える話という感じになります。体験として分かったということは、ハイブリッドがどう考えるかといより、事実としてそうゆうものなんだろうと僕としては観察していることだということですね。

「どうすれば人に愛されるか」という問いは、多くの人が関心を持つテーマだと思います。
これの最も確実で単純な答えがあります。
自分から愛することです。そうすればまず間違いなく相手からも愛されます。実に単純。
がまあそう言われてそれができていればこんなハイブリッドの心理学も、その他世に溢れる心理学もいらないわけで^^;

一方、僕が自分自身も含めた観察結果として言えそうなのは、「愛における自立」とは、それが成された姿らしいということです。
つまり、「愛されることを必要とせずに愛することができる」のが、「愛における自立」です。

まあ「愛されたければ自分から愛することだ」なんて言葉は、案外僕もこの人生で耳にたこができるくらい(?^^;)聞いたり見たりしたような気もします。だが、「それができてりゃ世話はない」というのが率直に感じることである以上のことを、僕に教えてくれたその手の話はなかった気がします。
だから、『悲しみの彼方への旅』でも、それが分からない嘆きの叫びが出てきたわけです。「どうすればすれば自分に愛の能力があると確信できるんだ!」(P.171)

ハイブリッドとしては、まず「感性土台の違い」というのを足場にして、「自立した愛する感情」をイメージできる説明もできるかも知れません。これはすぐ下で。

いずれにせよ、「愛されたい」と感じる人が、「愛されたければ自分から愛すること」なんて言葉を聞いてイメージできるのは、せいぜい、自分が欲しい「愛されること」をまず相手にしてあげて、そのお返しに相手からも愛されるのを期待するという感じだと思います。
それでは結局やはり「愛されようとして」いますね。そうではないです。愛されたければ、愛されようとするのではなく、自分から愛するんです。
と聞いて、「愛されたいから」、どうすれば「自分から愛する」ことになるのだろうと考える。
思考が完全にループします^^;


■「愛されることを必要とせずに愛する」感情とは

ハイブリッドの取り組みを始めて、「魂感性土台の体験」ができた人であれば、「愛における自立」を果たした「愛されることを必要とせずに愛する」感情がどんなものであるか、多少はイメージできるかも知れない説明をできるかも知れません(ちょっと言葉変?^^;)。

明らかにそれは「魂の感情」として生まれます。「人の目感情」とは全くの別世界の感情です。

「魂の感情」が基本的に「この感情において生きている」という感情であり、その感情そのものにおいては、人からどう見られるかにはあまり関係ない自律的な感情であることは分かると思います。
そうした「この感情において生きている」という感情において、「もうすでに自分が世界から愛されて、それに嬉しさを感じてという感じで、全ての他者に愛情を感じる感覚」が湧き出ている感情です。

この表現は今の僕としてその片鱗がちょっと見えてきたものをごく直感的に描写してみたものですが、メカニズム論的に幾つか気づく点があります。
まず、これは気づくというか最大特徴そのものですが、自分がその感情において生きている感情なので、人からどう見られようと関係なしに、いわばこっちの勝手で人を愛するのを感じる感情という感じです。
またこれは逆の視点からは、自分がその感情において生きている感情なので、それを感情表現して相手からの愛情の返りを求めることが逆に違和感のある状況があります。まあこれは多少個人差があるでしょう。僕の実感を言えば、慣れない(^^;)「感情表現」のための各種身体運動(?)がはっきり言って面倒くさいし、さらには、こうした「誰でも愛せる感情」を人が見て賞賛するしないといったことは、はっきり言ってうっとおしいのです。

まあなぜ「うっとしい」かと言うと、「感情を賞賛される」というのは「心の外出し」、つまり「こんな心」というものをまるで人の身体から抜き出して陳列物のように置いて品評するという人間の心の動きの中にあるからです。
一方「人の目感性土台」がイメージする「人の目」とは、まさにそれをするものです。そこでは「感情」が「人間の価値」になるわけです。こんな感情を持つ人。それは素晴らしい人だ。あんな感情を持つ人。そんなのは愛される資格がない。

そうした「人間の価値を見る目」が崩壊した先に、「愛されることを必要とせずに愛する」感情が「魂の感情」として生まれ得る。


■「過去への感謝」(?)としての「愛されることを必要とせずに愛する」感情

一方、上の描写文章を書いて僕自身が気づいた点ですが、「愛されることを必要とせずに愛する」魂の感情は、「もうすでに自分が世界から愛された」という過去への感謝お返しのような感覚が結構あります。
これはつまり、「心の姿勢」さらには「魂の姿勢」という今現在時点の姿勢として生み出される感情ではなく、過去の積み重ねを受けての感情という性質をかなり帯びているのを感じます。

この話を聞くと、「過去への憎しみ」の中にある方は、「まさに自分には人は愛せないということか」と感じるかも知れません。
ところがどっこい、この「過去」とは「現実における過去」とは全く無関係であることがほぼ確かです。
では何を「感謝する過去」とすることなのか。これを書いている現時点でも僕には分かりません。この後の考察の先に、多分それを明確化すると思います。

そんなことを浮かばせた他の例として、僕と同じ出版社から同じ形態で出版された本に、こめだまなぶさんという人の『イジメから感謝へ』というのがあります。出版社からのDM誌で早々と増刷が決まったのを見て注目したもの。僕のはまだなんだけどー。(`ε´ブー)
まあすぐ人が手にしやすいタイトルものですね。僕のはちょっとタイプが違い、そう一気に売れることは難しい情勢^^;
http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-02912-2.jsp
より詳しくは以下など。
http://nihon-kenkou.holy.jp/profile.html#book

それによると、「原因不明の足の激痛が多くの人を恨んだ結果」であったことがわかったなど、結構劇的な内面変化の体験記のようで、自分をイジめた相手を殺したいとまで憎んだ人が、やがてどのようにそれを「感謝」とまで感じるようになったのか、そこにある論理の転換はどんなものだったのだろうと僕もちょっと興味あるところではあります。

まあその方の場合は仏教信仰がかなり影響したようで、宗教思考には馴染めない論理思考からは、「感謝が大切」だけではちょっと感情強制の焼き直しの懸念を払拭できない範囲でしか、その本質は書かれてないかも知れない。
それでも、その人にあった心理変化も、僕が体験したものも、恐らくは脳で起きているのは「魂」をめぐっての何かという本質は同じことなのではないかと。

そんな点でちょっと目を引いたのは、ご本人のHP掲載の新聞記事中にある、「許し」に関する話ですね。
寺の住職から「許しなさい、そして許してもらいなさい」と言われ、「許しなさい」は意味が分かったけど「許してもらいなさい」が分からなかったという話。
やはり本質がそこに絡んでいると思いますね。「原罪」です。

「原罪への許し」については最後の「未知への意志と信仰」で、ハイブリッドとしての「思想」を説明します。そこで全ての話が完結します。
とにかくここではちょーメカニズム論的に、「愛における自立」について引き続き見ていきます。


心理学本下巻に向けての考察-97:「心」と「魂」の原点へ-6 / しまの
No.1348 2007/11/01(Thu) 11:53:58

■「心の自立」の3要素と「自尊心」

「心の自立」心理メカニズムとしては、まず3つの要素があり、それを総合しての「自尊心」がある、という形を考えるのが良いと思っています。

3つの要素とは、「守る」「与える」「愛する」という3つにおける「与えられる側」から「与える側」への存在様式転換です。

「守られる側」から「守る側」へ。これは「恐怖」を人に解決してもらうものではなく、自分で解決するものとして、それに耐え、それを乗り越える力を獲得することです。また大きくは社会における身の安全や地位の安全を守る能力といえます。

「与えられる側」から「与える側」へ。これは生活一般において、人が生み出したものを与えられる側から、自分が生み出しそれを他に与える側になることです。これは生活の能力や生きる知恵一般の話として考えることができます。

「愛される側」から「愛する側」へ。これをこの後詳しく説明します。

最初の2つの「守る」「与える」における自立能力の獲得については、これはごく実践的に、社会を生きるスキルを身につけ外面現実の問題への解決能力を獲得していくということで、内容に応じて答えがすぐ出てくる領域です。社会を生きる中でそれを学び実践していくのみです。
ハイブリッドとしても、建設的対人行動法原理原則立脚型行動法として、また感情改善への基本的な思考技術などを用意しています。
この2つはまとめて「外面現実への対処能力」と言っていいでしょう。
これはもっぱら、「心」の側の問題です。

一方、「愛」において「愛される側」から「愛する側」への転換というのは、まさに「魂」と「心」のギャップによって大きく妨げられ、「心の自立」のあり方全体が混乱の中に見えないものになる状況があります。
そして現代社会が実際のところ大自然ではなく、外面現実についてはあまり大差はない一方で、「愛」がどのように生活の中で活用されるか現代人の人生での重みを増していることから、人生においてより深く長い取り組みとして「愛される側」から「愛する側」へという自立テーマが極めて大きなものになると考える次第です。


■「愛されることを求める」という誤り

さて「愛における自立」というものを考えていると、それが「守る」「与える」における自立とは異質の難しさを持つのが、どうやら人間の心というものだという感を受けます。

「心の自立」が妨げられている場合の「守る」「与える」、まあこれは「生活能力における自立」とまとめて呼べるかも知れませんが、これは「愛されれば安全」という大勘違いが自立の妨げを特徴づけるものになります。
ただ、これが大きな勘違いであることは、そう教えられてちょっと知性思考を働かせれば誰でも多少は分かります。どんなに愛されようが、自分自身がミスや不注意をすれば、危険に晒されることは世界に溢れています。愛されることとはちょっと無関係な話として、自分で自分を守る能力も必要だと。

しかし、「愛における自立」を妨げる大勘違いの誤りについては、人はあまり気づくことができません。それどころか、「命をかけて」その大勘違いにしがみつく姿さえ生まれるのが、人間のようです。
これはまあ、「愛されれば安全」といった勘違いは、実はまだちょっとした思い違いや思考のミスの話であり、愛における自立を妨げる勘違いが、「心が病むメカニズム」が介入する問題という大きな違いがあるのかも知れません。

「人生における3大勘違い」というものを言えそうです。

「正しければ怒って当然」。そう考えることで、人は「正しく不幸」な存在になります。つまり基本的に不幸に向きます。まあこれもかなり根深いものではありますが、怒ることで不幸に向くという問題の状況は、やはり教えられれば分かります。根本的に脱するのが難しいのは、このあとの「愛における勘違い」が影響して「愛されないことへの怒り」がどうしても残るからでしょう。

「愛されれば安全」。そう考えることで、人は自分で安全を確保する能力を育てることができず、どんどん危険に晒されやすい人になっていきます。これを自覚して方向転換を考えることはそれほど難しいことではないでしょう。

では「愛」における大勘違いとは何か。これは実に単純というか、上記2つのような、「こうであればこう」という論理の形を取ってさえいません。ただ一つの心理が、その存在そのものによって、人の人生を狂わせるものになります。
それは、「愛されることを求める」という誤りです。愛されることで何を期待するのが誤りという論理的ミスではありません。ただ「愛されたい」と求める感情そのものの存在が、人間を人生において方向を誤らせるわけです。
どうなるのか。「愛されること」を求めると、「愛」と「自尊心」と「心の安全」を失います。つまり、全てを失うわけです。

これに近いことはすでに、今年になってからの魂論で、5/4「魂の治癒成長への実践-50」などでも述べています。
ただしそこではまだ、「自尊心を愛に依存すると、自尊心と愛の両方とも、失われます」という風に、「愛されることに依存した自尊心」というテーマ感で書いていますね。その文脈において、「愛を必要なものと考えてはいけない」と、バーンズの言葉にも触れて書いています。

今回は改めて、もっと大きく、またもっと厳密に問題解決方向性を整理します。

事実、「愛」目指すものと位置づける一方で、「愛」求めてはいけない、では話が良くわからない。
実際のところ、はっきりと違ったものがあること、またその違いが分かってきた次第です。
「愛されること」「自分から愛する」ことが、全く別のことだということ。それが「心と魂の分離」をめぐってまるで敵のよう分離された上で、「心の病理」が絡んでその違いが分からなくなるという人間の心の不完全性

これもちょっと前説ですな。次から本説かと。

大枠を一言でいえば、
「愛されること」を求めてはいけない。「自ら愛する」のを目指すことだ。だがそれができないのが人間の不完全性であり、その不完全性を受容した時、「自ら愛する」ことが見えてくる。
詳しく説明しましょう。


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