■ 心理学本下巻に向けての考察-133:「未知」への意志と信仰-25 / しまの |
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No.1386 2007/11/30(Fri) 11:48:36
■「嫌悪と悪意のメカニズム」
先のカキコまでで、「否定価値感覚」の成り立ちとして、「自立の置き去り」に由来する「4つの幻想」というのを説明しました。 これはさらに、そのさらなる由来である「根源的自己否定感情」とその受け取りを拒否した「心」という、「魂と心の分離」の大局構図において、その実際の挙動メカニズムを理解することができます。
これは心を病むメカニズムにおいて自他への「嫌悪」、そしてその中でやり取りされる「悪意」の、大きな構造になります。 この点、心を病むメカニズムの中で人が最も翻弄され動揺する感情の根源メカニズムが、今ようやっとハイブリッド理論としての最終形が完成するということになるかも知れません。 「嫌悪と悪意のメカニズム」と呼んでいいものになるでしょう。
つまり、幼少期に植えつけられるに至った「根源的自己否定感情」を、分離していく「心」は受け取ることができず、そんな「魂の挫折」などないものという顔をして生き始めるという大きな構造の上に、先の「4つの幻想」が発達するわけです。 その中で人が向う思考と感情は、全く皮肉とも言える、良かれと考えて向う先がことごとく悪しき状況を積極的に招く歯車を、自ら一生懸命回す姿になります。
「否定価値の放棄」は、4つの幻想とは全く別世界となる「心の自立」そして「未知への信仰」という方向性を理解し、実践を通した体得を得る中で、この実に不実な「嫌悪と悪意のメカニズム」を理解し、その根核となる「人間価値基準の絶対性幻想」の放棄を問うことによって成される。 これが「否定価値の放棄」への最終的方法論となるかと。
この「嫌悪と悪意のメカニズム」として、今のところ2つの大きなメカニズムが浮かんでいるところです。 一つは「被軽蔑感情の必然メカニズム」とでも呼んでおきます。これは、「こう見られたい理想像」と掲げることで、まさにその理想像を基準にして自分が人から軽蔑されるという感情が起きるメカニズムです。まさに「軽蔑されるための理想」になるわけですね。 もう一つは「被悪意感覚の必然メカニズム」と呼んでおきます。これは、善意により愛されようとすることが、その偽り性を疑う悪意に迎えられるという感覚の必然性メカニズムです。「善意が悪意に出会う必然性」のメカニズムと言えます。
両者とも、全てがこの人の心の中で自動的に起きます。他人は一切何をする必要もありません。ただそこに立ってこの人を見れば、この人は、自分がある理想基準から軽蔑されていると感じるし、自分の善意に相手からの悪意が向けられると感じるのです。
■「被軽蔑感情の必然メカニズム」
まず「被軽蔑感情の必然メカニズム」ですが、説明がやや遠回りになりますが、僕自身が「否定価値の放棄」に至った状況が、このメカニズムを解明するヒントになっています。
つまり、1997年の年末、僕はかなり「現実において生み出す」行動への習熟に伴い、仕事での成果も結構あり、年末人事考課では最高ランクの評価を期待していた。しかしちょっとしたリーダーシップ不足を見られ、そこそこの評価で終った。で僕は「結局自分は何の役にも立たない人間」かという自己否定感情に、ようやく真正面から向き合うことになったわけです。
これが「否定価値の放棄」への転機となったと言えるのですから、これは実はそれで良かったことであるようにも、今としては思える次第です。これは負け惜しみ的な感覚を含まずに、真剣な話としてそんな気がします。もしそのちょっとしたリーダーシップ躓きがなければ(つまり性格に難のある女性メンバー参加という不運^^;がなければ)、僕は最高ランクで評価され、その調子で仕事に一直線に向うので良いのだと考える人生へと進んだかも知れません。そうなったら今の僕はなかった気がする。
そんな経緯があるとして、要は、僕はその直前まで、人に「こんな人間として見られる」ことによって自己肯定ができるようになるのではないかという幻想の中にいたということです。これは「自分幻想」です。空想の自分、特に「人にこう見られる自分」という空想を「自分」と感じるという幻想です。 それが解け、というか破れ、ようやく、本当には自分は自分のことをどう感じているのかということを、問えるようになった。
その結果はっきり自覚したのは、自分がある特定の理想基準から、自分を駄目だと断じている、それはもうただそうであることとして、逃れようのない事実としてそうである。それがはっきりしてきたわけです。 僕が否定価値の放棄をしたのはその直後でした。
これはつまり、根底では自己否定しており、その上で「人にこう見られる」ことに依存した自尊心を抱こうとしているという構造です。そのために、「こう見られたい理想」を抱くわけです。 しかしこれは、「人にこう見られる」をとっぱらったらどんな構図になるかと言うと、「こう見られたい理想」を基準にして根底では自己否定するという構図になわけです。 しかし本人はただ「人にこう見られる」ことだけに意識が向くことにおいて、この結果はほぼ必然的に、「こう見られたい理想」を基準にして自分は他人に軽蔑されるという構図になるということです。
実にバカげたとも言えるほど皮肉なことであるのを感じます。人に良く見られたいために掲げた理想像において、まさに人から軽蔑されるという意識を作り出しているのです。
なぜこんなバカげた事が起きるのかというと、「本当は自分では自分のことをどう感じているのか」が全く見えなくなっているという論理欠損がまず原因です。 しかしそれを問えばこれが解消するというほど生易しい問題ではありません。その底には幼少期から抱えた「根源的自己否定感情」および「感情の膿」の直接体験というドグマが控えているからです。これは「心」の「命」つまり「魂」の根幹を揺るがす事態です。
ですから、ここでまず見えてくるのは、否定価値の放棄への道筋として、最後に「自分幻想」を解いた先に「人間価値基準の絶対性幻想」を解くという順序が考えられるとして、これが成せるためには自分を根源的自己否定感情と感情の膿から守るための内面の強さ豊かさが十分に準備されていることが必要である、ということです。 この準備とは、何よりもまず「破壊幻想」を捨て、「現実において生み出す」という生き方と行動を歩むことになるでしょう。
それによって内面の「論理性のない」根源的自己否定感情に充分に対抗できる「論理性のある」この社会を生きる自信を天秤にかける中で、「目指すべきもの」として掲げる「人間価値理想」の「掲げ方」の根底にある根本的な「不実と傲慢」の正体が見えてくる。 これが「人間価値基準の絶対性幻想」であり、これを根底から捨て去るという最大の選択肢が見えてくるということになります。
次に「被悪意感覚の必然メカニズム」について概観し、「否定価値感覚」の成り立ちとその放棄についての最終結論へと進めます。 |
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