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2007.12


年末年始の予定など / しまの
No.1430 2007/12/28(Fri) 12:09:58

今日から帰省し1/3(木)に戻る予定です。
なお帰省中も1日1回はメールチェックし、時間があれば返答も可能かと。

その間掲示板の方もちょっとはカキコしたいですね^^。


心理学本下巻に向けての考察-175:「未知」への意志と信仰-67 / しまの
No.1429 2007/12/27(Thu) 13:30:03

■「家の中人生」

「人生」が見失われるもう一つのベクトルが、「家の中人生」です。
これはそのまんまですが、「人生が家の中にあるもののように感じられる」ものです。より情緒的な表現としては、「人生が親の目の中にあるというのとほぼ同じように人の目の中にあるものとして感じられる」ものです。

つまり、先の「見せつけ人生」は、同じく「人の目の中の人生」という感覚である中で、「飾り見栄え」として人に勝てるカッコ良さを見せつけることができるかという感覚を帯びるものです。
一方「家の中人生」は、人生が主に「善悪」としての良し悪しを見られるという感覚です。まるで親の目にそう見られるであろうように、自分の人生が良いと誉められるか、駄目だと叱られるか、という感覚の中にあるわけです。

世の多くの人が、この「家の中人生」の構図の中で、「仕事」をするように感じます。
つまり上司は親です。さらに視線を上に上げると、社長が父で、専務が母、というような^^;
そうやって、最後まで、人生で自分がすることが、「家の中」にあるような構図になる、というものです。

これが「人生を見失わせる」という危険を孕む要因は、「家の外」への感覚が薄れ、やがて麻痺することです。
「家の外」とは、ハイブリッド的に言えば、「善悪」のない世界です。大自然の荒野です。まあ基本的にはサバイバルの世界です。


そうした大自然に自分が放たれ、自分が生まれ持った「命」の本性をありのままにほとばしらせ自由に生きるという、「生命の力の感覚」を、人は「家の中人生」で見失っていく危険があります。


■「自分を枠に当てはめる」という基本的生き方

先に出したのと同じく、「人生とは何か」グーグルに入力して最初のページに出てくるのに、『普通の人生とは何か〜常識を頼りに生きて行く〜』なんてのもありました。
僕からすればそれは見た瞬間ジョークかと思え大うけでしたが(^^;)、ところがどっこいそれがかなり真剣な人生論のようで。中にこんな一節がありました。
---------------------------------
「結婚しないとまずい!」
なんか知らないけど、周りがそういう雰囲気だ。親がそういう目でみる。となりのおばちゃんがそういう目で見る。
---------------------------------

そんな風に、「人の目の中にある人生」ですね。

そうして「人生」さえもが人の目の中にあるという感覚の先にあるのは、ハイブリッドが最初に出す話です。「人の目」の中に浮かんでくる、何かの枠に、自分を当てはめるという、基本的な生き方。すると「心を解き放つ」ことが見失われていきます。
やがて「命のエネルギー」というものさえ、なかったかのような、「自動生活機械」と化した現代社会人の一面があります。「命のエネルギー」って何?..そんなものあったっけ、というような。


■「見せつけ人生」も実は「家の中人生」の一バージョン

「見せつけ人生」についての先のカキコの終わりでも書いたように、「見せつけ人生」も実は「家の中人生」の一バージョンとしてあります。
つまりそれもやはり、自分を見る親の目同胞の目という構図の中にあります。

多くの場合、それは意識してか意識しないままかに関りなく、同胞との間で親の愛情を奪い合うという構図が生み出した幼少期の競争心を、そのまま社会での人生へと持ち込んだ形で、自分の人生を他人と競い合うという感覚になるでしょう。
凄惨な反社会的事件の多くが、親に愛されなかった恨み憎しみを、社会に対してそのまま持ち越すような、破壊的結末を大々的に演じます。バージニア工科大学の事件のチョ容疑者がそうでしたし、ごく最近では佐世保の猟銃乱射事件の馬込容疑者がそうでした。


■ハイブリッド取り組みにおける「人生」

そのように「人の目の中の人生」という問題ですが、既に述べたように、社会で用意される「人生の枠組み」そのものを否定し始めると話がおかしくなります。

現在の実に整備された社会には、確かにそのような「人生の枠組み」があるのが一つの事実です。それに反発して、社会が用意した枠を否定した人生なんてものを考えることは、恐らく大抵の場合、反抗期の子供が親に反発するのと全く同じ構図で、社会に反発を感じることの表現でしかないでしょう。
つまり「社会への反発」自体が、多分に、「家の中人生」「反発バージョン」になるのではないかと^^;

問題は、外面ではないわけです。問題は内面です。
心を病むメカニズムによって、「人生」がどのように変形を帯びて心に映されていたのか。


事実、ハイブリッド取り組みにおける「人生」は、「魂感性土台の体験」を節目にする前の「前期」と、その後の「中期」および「後期」とで、やや奇妙な、話題としての現れ方の変化をします。
これは比較的深刻な状態から本格的な取り組みをされた相談事例などで顕著で、「魂感性土台の体験」あたりの、節目を迎える段階において、「人生」は一度リセットされたまっさらな白紙として、これから向うような形になります。まあ完全な白紙というよりも、まだまだ淀んだ色彩模様の入った、マイナスからのリセットスタートのようなものになりますが。

そこで僕自身がちょっと奇妙な感を覚えながら思い返される例などは、「前期」の深刻な時期に、実に真摯で高い問題意識の中で「人生」を問うていたような本人の意識が、「中期」を迎える段階だと僕から見るような状況で、「人生への問題意識」そのものの低下とも言える状況が起きることです。
今まで余りにも力んで「人生」を考えていたのが、ややどっちでもいい的な感覚が混じりこんでいる自分を感じる、とでも言いましょうか。まあこの場合は、僕としてはこの後述べる、人生へのより積極的な意識を自らに喚起するのをお勧めするところですが。

「人生の構造図」では、その辺を表現していますので、再度参照頂ければ。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg

実はこれは深刻なケースでは、必然的とも言えるメカニズムになります。
「人生」が、あまりにも絶望的な愛情要求や、他人への復讐心のための材料化していたわけです。「自分」そのものが、あまりにも強烈に「見せびらかし品」と化しています。そしてそれに向けられる他人からの視線に、苦しむわけです。
さらにその底には、自分を見せびらかし品化したことへの深い「原罪感情」が、絶望的な濃さで淀んでいます。しかし人の目に向けた感情にあまりに翻弄され、心の奥深くにある原罪感情はもはや目もつぶされ見えない状態のまま、身を削る罪悪感を水面下に満々と控えた薄氷の上で、自分を人の目の中で何とか操ろうと苦しんでいたのです。

「魂感性土台の体験」は、そうした全てから解放される脳の領域が、自分にあることを、本人に伝えるものになるでしょう。

ですからここから先の実践は、「魂感性土台」に立って行います。多くの場合、まだ「人の目感性土台」へと一気に感情や思考が戻ってしまう状態が続きますが、それらは何とかやり過ごし、愛情要求自尊心要求など、人の目感情の論理の深い意味の自己理解を今まで同様に進めます。
その一方で、「魂感性土台」を何度でも思い出し、その先にどのように全く別の発想や行動があり得るのかを、考え始めてみるという実践になります。

それらは全て、「加算法」の思考として行います。「これがいけない」という減算法的否定思考は、不要です。否定思考が動く場合は、否定思考そのものの意味に、引き続き前期の実践として取り組みます。

そうした全く別の視点としてどんなものがあるかを、次に具体的に説明します。
そこから、ホーナイの言葉を借りれば、「自分を駄目にしてきた人生の再建」を、探っていくのです。


心理学本下巻に向けての考察-174:「未知」への意志と信仰-66 / しまの
No.1428 2007/12/24(Mon) 18:18:09

■「人生への意識姿勢」4態

まず、世の人が「人生」について何をどう考えるかの意識姿勢をざっと概観しますと、およそ4態があると言えます。
1)あまり意識しないまま、向うもの
2)あまり意識しないまま、失うもの
3)強く意識して、獲得に向うもの
4)強く意識して、破壊に向うもの

まあ実際、ことさら「人生」というものを意識しないでも、自然にそれに向っており、それを得て行く人々がいます。これは比較的恵まれたマイノリティになるでしょう。生まれ持った資質や環境に押し上げられるように、自分の関心が向く先に向うことで、自然に社会でのいいポジションを得て行くような姿。
一方、「人生」について真剣に考えることのないまま、時間に流されるように「人生」を失った人生を送る人々が沢山いるように感じます。まあ先に述べたようにこれは外見だけでは分からない話ですが、結構現代社会のマジョリティになるかも知れませんね。

一方、「人生」を強く意識し、問うことが、それだけで必ずしも良い結果を生むとは限らず、逆に人生を強く意識ししてそれを失っていく姿が時にあります。
これは概して、人生が人に見せつけるためのシナリオのようになるケースです。その根底で、魂は葬り去られているようなケース。詳しくはこのあと説明して行きます。
あるいはそうして人生が見せつけシナリオの性質を帯びた後にそのストレスから退却するケースも実に多い。するとあれこれと人生を見下す思考が展開されるようになります。先にネットから拾ったその手のものはまずこれですね。

「人生」を強く意識し、努力の先にそれをつかむ姿ももちろんあり、それが人生の先人として人の目に知られることがあります。しかしこれは並大抵ではない努力と、しばしば普通でない境遇を背景として至るものであり、我々凡人としては(^^;)あまり参考にできないことが少なくないかも知れませんね。

ハイブリッド的には、これら4態のうちどれがいいかなんてことは話しようがないです。「失う」より「向う」方がいいに決まってます。
そして「心を病むメカニズム」人間の心の一側面と位置づけて、それへの取り組み方法を考えるものであることにおいて、意識せずに向かえる姿をどう考えたところで、多少の参考になる以上のことはなく、「意識して獲得に向う」ための実際の方法内容を考えるのが、「ハイブリッド人生心理学」であるわけです。


■「前期」段階での自己理解課題:愛と自尊心要求による席捲

「人生の構造図」
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg
に示したように、「人生」について何を理解し検討するかについて、ハイブリッド取り組みの「前期」と、「魂感性土台の体験」を節目に進める「中期」および「後期」で、かなり様相が異なります。

まず「前期」「怒りの非行動化」を主眼とする建設的行動法という外面実践と、感情の解放と自己理解を主眼とする内面実践が中心です。
そこで「人生」は、外面向けにはまだあまり具体的な方向転換を考える余裕もなく、まずはもっぱら内面感情の自己理解として、「人生」というものが「愛情要求」と「皮相化荒廃化した自尊心」の感情によっていかに脚色変形されたものに映っているかを自己把握することがメインです。

図に書いたように、これは主に2つのタイプがあります。「見せつけ人生」「家の中人生」
これはより正確には、2つのタイプというより、「人生が見失われる2つの基本軸」とも言うべきものであり、この2軸によって「人性が見失われる姿」のバリエーションが生まれるということになります。


■「見せつけ人生」

「見せつけ人生」とは、「人生」というものが人に見られる飾り見栄えのような様相を心において示すようになるものです。どんな生き方をしているかが、人に見られ品評されるものとして位置づけられるようなありさまになるわけです。
人の目感覚の全くない「この感情において生きる」という魂の感情に立って設計された人生とは、まさに対極の位置づけになります。

「人生」他人の目を意識した「見せもの」化することによって、この人間の日常生活のあらゆる場面全ての一挙手一投足までもが、自分の人生が人にどう見られるかの材料化し得ます。ごく些細な喜びや苛立ちさえもが、自分の生き方が他人にどう見られるかという感覚によって、見せつけと勝ち負け感情や嫉妬の引き金となり、湧き出たままの純粋さを失い自意識におおわれた屈折した感情になってしまいます。

深刻な心の障害では、「生きること」がそれだけで「見せつけ」化します。単に息をすることや、ものを食べることさえもが、そうなってしまうのです。「前向き」を期待する他人への迎合への自己反発は、しばしば全面的な生理的不活性状態を引き起こします。同時にそんな自分への自己処罰がまず引き起こされるのは免れません。これは深刻な「うつ」や「引きこもり」のメカニズムを最も良く説明できるものになるかも知れません。

「見せつけ人生」のベクトルは、しばしば熱狂的な野心を生みます。人は時にこれによって実際に生産的な人生の時期を過ごす場合があります。
しかし大抵それは、蓄積する疲労が一定段階に達した時、全てが崩壊し頭が真っ白になるような状態へと転機を迎えます。これは本人にとり良い人生の見直し契機を与える可能性がある一方、「人生の品評処罰」感情が強いケースでは一転してうつ状態が現れるのが火を見るより明らかな(?^^;)必然的な流れです。しばしばここから、本人の自覚が促され、本格的な治癒への取り組みが開始されるわけです。


■「人生の混乱と喪失」をまず「人間の不完全性」として受け入れる

こうした、過剰な自意識を伴う側面は、本人や援助者つまりカウンセラーなどによって、比較的自覚把握されやすいものです。
しかし、当然のことながら、この自意識過剰を「これがいけない」と考える自己叱責的なアプローチは、微塵の効果も生まないどころか、問題の正しい理解にさえ近づくことを妨害するものです。

ハイブリッドから言えるアプローチは、「感情と行動の分離」の原則から実直に進めることです。まず怒り破壊を非行動化し、内面感情を解放させるとともにその自己理解を進めることです。
その中で、自分が人生で成した大きな間違いを自覚するのであれば、まずそれをこれからの成長の原点として受け入れることです。これは下巻原稿「5章 自己の受容・未知への選択」で書いたように、気休めの言葉ではなく、深い人間理解に立っての言葉のつもりです。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/b05.htm

そしてその先、外面行動においては、「価値を生み出す」という確かな答えがあることを学ぶことです。これが「中期」の実践になります。
内面においては、「見せつけ人生」を生み出した愛情要求自尊心要求が、病理ではなく人間の弱さであることを深く理解する方向に向うことになります。真の問題は、そうした「人間の不完全性」を許さない思考論理が生まれたことにあります。それが全てを狂わせたのです。それを解くのが、根本解決への答えになります。


次の「家の中人生」のベクトルを見ると、そうした「人間の弱さ」の側面がより明瞭に理解できます。「見せつけ人生」も本質的には「家の中人生」のベクトルの中で描かれるものに過ぎません。


心理学本下巻に向けての考察-173:「未知」への意志と信仰-65 / しまの
No.1427 2007/12/24(Mon) 10:21:41

「人生の構造図」を参照頂きながらの解説。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg


■「人生 概説」^^;

「人生」という心理テーマを真正面にした場合、ハイブリッドとして世の人に何をお伝えしたいのかを、改めて整理しましょう。この形での整理は案外これまでしてなかったような気がする。

で改めて「人生とは何か」と問われて世の人がどう考えるかをネットで探ったところ、実にさまざまなものがありますね。
グーグルでその問いの言葉を入れて検索してみると、「そんなに格好付けて生きている訳でもなく、人生とは“時間の使い方”ということにしませんか」という感じで何とも味気ないものが上から2番目にあったりします。

もうちょっと眺めると、『はてな』というネット上の問答サイトの「人生とは何ですか?」というコーナーがあり、いろんな発想があるのを見ることができます。
http://q.hatena.ne.jp/1174391683
列挙しますと、
・重い荷物を背負って遠い坂道を登っていくようなもの ・何者にもこびず己を磨くこと ・ゲーム ・人が生まれてから死ぬまでの事 ・遊ぶこと ・『今日』のことです ・『恋と革命』 ・苦しみ ・意味はないと思います
とちょっとしんみりしてしまうものもあれば、結構笑えるものも出てくる。
・欲望との戦いで我慢である ・シャットダウンはできてもリブートができない ・「人生が嫌な奴は出て行け!」って知り合いがいっていました。とんでもない野郎でした
あっはっはー。と後を見ていくと、
・一生をかけて解く問題 ・登山 ・学び ・経験と感動 ・魂の修行
とこれは一見ハイブリッドに近いが、「修業」じゃーないですねぇ^^;
・人生とは旅 ・ギャンブル ・人生とは選択である ・幸せな毎日を過ごすこと ・ひまつぶし ・心を成長させる期間
とこれも一見ハイブリッドに近いが、「心を成長させる期間」が人生というより、人生のために心を成長させるわけですね。やや本末転倒的。そして、
・おそらく明快な回答は無いでしょうね
とやはりなる。これが一番安直な分かったふりになりがち。

そこを、ハイブリッドとしては明確な答えを出すわけで。
「人生」とは「魂の成長の変遷」です。
そしてハイブリッドが世の人に伝えたいのは、そのためのノウハウです。どうすればそれをより「生きる喜び」に満ちた、充実したものにできるか。
かなり明瞭な方法論があると考えているわけです。

この、「人生」の方法論というテーマにかなり特化した実践が、「価値の生み出し」です。
なぜこれが人生の方法論に特化したものになるかと言うと、本人の意識において、これは「愛」とも「自尊心」ともいったん関係ないこととして行うからです。自分のことを何とかするという意識からいったん離れて、自分の外に広がる「社会」を、「自意識」には全く巻き込まれない素直な視線で見ることによって、それを行うのです。

世の人が「人生」に向ける意識の類型の話から、この「価値の生み出し」という方法論まで、じゅんぐりに説明していきます。


心理学本下巻に向けての考察-172:「未知」への意志と信仰-64 / しまの
No.1426 2007/12/23(Sun) 15:40:44

■恐るべき「人生の委ね幻想」

「人生の委ね幻想」については12/21「未知」への意志と信仰-61で簡潔に触れましたが、先の僕自身の例で紹介した、「本格就職する気はないのにその場面空想が現実味」を帯びた時に流れた気後れ感卑屈感として、その具体的な姿が端的に示されます。

これは恐るべきことなんですね。
どう恐るべきかと言うと、その後すぐ意識を切り替え、自分が人生で何をするかを確認し生活設計思考を自己掌握下に戻した時の、実に解放感溢れる精神安定感に比べ、その閉塞感溢れる障害感情とも言えるものが、こうして実に僅かな気の緩み(?)で起きてしまうという、その強力さです。

何のことはない、世の人々はその幻想の中で「人生」に追い立てられているわけです。

「人生の委ね幻想」とは、改めて定義すれば、「何かが人生将来を象徴するものになり、それが他人に委ねられ依存していると感じる」幻想です。

この「人生将来を象徴するもの」の最たるものは、「お金」です。次に、「地位」もそれになるでしょう。ここでの「地位」には、会社での肩書きとか、誰々と結婚しているとか、自分が所属すると感じる集団地位たとえば「勝ち組負け組」「セレブ」さらには居住地域人種出身地国籍、身に付けるものの地位象徴性つまりブランド品など、結局のところ人の生活ぶり人生の生き方ぶりを外から眺めて見える何かの象徴物の全てに渡ります。

そうしたものを得ることが、「人生」そのものであるように感じられてくる。
そしてそれをどう自分に与えるかを決める他人がいる。こうなるとその相手に自分が「どう評価されるか」が、自分の人生を決定するようなものに感じられてくる。
かくして、そうした「自分への評価」を追いかけることが人生の全てであるような感覚が生まれてくるわけです。
そしてその先には、その他人がその「人生の象徴物」によって自分の人生をコントロールしようとしてくる、という病んだ幻想感覚が人の心に生まれてくる芽があるように感じます。

それと、先に「人生での覚悟」として説明した、「魂の感じる価値とそれを支える生活」という極めて具体的、自己完結的な人生の生き方との極端な対比を、ここではまず把握頂きたいと思います。


■「人生の委ね幻想」によって起きる「失われた人生」

恐るべきことは、僕自身の例が示すように、「人生の委ね幻想」ちょっとした気の緩みでも気が取られる強力さがある上に、思考がそこに流れた時、「魂の感じる価値を支える人生」が見事に見えなくなる心理状態が生まれることです。
僕にして一瞬なりともそんな状態が起き得たことに、その恐るべき強力さを感じるとともに、僕のように「魂の感じる価値を支える人生」なんて思考を強く持たない時、人の心は「人生の象徴物」を追い求めることが人生そのものだという感覚に完全に覆われ、「魂の感じる価値による人生」なんてものは最初っから完全に視界の外に追いやられたまま生きるであろうことは、火を見るより明らかです。

そして僕自身がもしその「人生の委ね幻想」にまんまと引きづられて、月収ウン十万の満足できる安定収入というものに人生ありきと考えるような方向に向っていたら、これはもう「人生」がぽっかりと失われる状態を意味します。
事実そうして僕は自分の人生の中に、時間が止まったままの人生の時期を幾つか経験しています。まあ『悲しみの彼方への旅』「失われた20年間」と書いたものを改めて評価するなら、まあ4、5年くらいの意味程度だったような気がする。


■「人生の構造」を理解する

一方世の人々を見ると、「人生の象徴物」を追うことを「人生」と考える一生を送る。それはもう「人生」がないまま生きるということとかなり近いことのようにも感じられる。

しかしこの論調は実は公平性を欠きます。そうした「人生の象徴物」はあくまで外から眺めたものであって、それに向うことの中で人々が人生を見出していくという側面も、やはりあるからです。
つまり、人生を外面から見たものと、内面から見たものは、完全に一致するのでも、互いに排斥するものでもなく、少し切り離された形で平行したものとしてあるということです。


事実、「魂の感じる価値による人生」が「唯一無二の人生」への方向性だとして、これを社会がレールのように用意している「人生」とは全く異なるものとして設計しようとすることは至難の技であり、それこそ絵に書いた餅の話になりかねん。

「人生」とは一体何なのか。それは用意されているものなのか。自分で作るものなのか。

整理できそうです。を書きましたので出しておきましょう。引き続き要点を説明します。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro18.jpg


心理学本下巻に向けての考察-171:「未知」への意志と信仰-63 / しまの
No.1425 2007/12/23(Sun) 14:14:03

「人生での覚悟」と、それとの対比となる「人生の委ね幻想」について簡潔に説明し、「人生」という視点で理解したい事柄の要点をまとめます。
まあこれは「心理メカニズムの理解」という、ハイブリッド取り組みの最も基礎的な実践における、「人生」という側面になりますね。それが「魂感性土台の体験」を節目に始める「中期」の段階に相応しいものになると思います。


■「恐れるもののない心」へ

ということで、まだ本格的求職の段階ではないという前提をぼやかしたまま、本格的就職に面する自分の空想が成立するにつれ、平常心とは違う感覚が起きたことに、こりゃちょっと変だと僕としては自覚したわけです。

そこで僕が行ったことは主に2つあります。
一つは、「魂が感じる価値」を「人生」というレベルで明確化することです。
そしてもう一つは、それを支えるための生活設計を考えることです。これは極めて現実的具体的な話になります。

1)魂が感じる「価値」を見定める

まず「魂が人生で感じる価値」の明確化のために、自分に問うわけです。
「自分は人生で何をしようとしている人間なのか」。また「もし自分の命があと1年だとしたら、何を優先させるか」

ただしそう問いて答えが簡単に出るのは恐らく稀です。
今回の僕の場合言えるのは、とにかく今度の心理学本を出す先にしか、これからの自分の人生は考え得ないということです。それをしないまま、月収何十万円の安定した生活なんて考えても、何の意味もない。
ただしその先は、僕自身分からないのが正直なところです。どこまで書き続けられるかは、生活のための収入という面と、あと社会が僕の心理学をどう必要とするかの状況に依存する。それが大きければさらに書く意欲は増すだろうし、一方僕にはそれとは別にやっぱ家庭を持ち子供をぜひ育てたいという願望も日増しに大きくなるのを感じるこの頃。
だから、まずはとにかく今は、書きたいことを出し惜しみすることなく書き尽くした本を出版することが、今当面の僕の人生課題なわけです。

まあ上記のような問いを出して答えがそう明確に出るのは難しいですが、そう問うことが重要ですね。
特に、「死」というものに向き合う「現実感」「現実性刺激」重要な役割を果たします。現実に「死」を突きつけられることによって、逆に生きることの価値を感じ取るという人間事例が実に沢山あります。TVで流れる感動ドキュメンタリーは大抵その形になっているとさえ言えそうな気がするほど。
最近で印象に残るのとしては『余命1ヶ月の花嫁』なんてのがありましたね。進行性の乳がんが肺に転移して気づいた時手遅れだった例。自らの姿を、生きる我々へのメッセージとして伝える中で語った言葉とは、「みなさんに明日があるのは奇跡です。 それを知っているだけで日常は幸せなことばかり」と。

まあ実際そうした状況に置かれた心は、生きているだけで奇跡であり喜びであるようなものへの、変化の可能性を持つことになります。で僕としてはそうした心の変化効果を、健康でいる時間において活用しない手はないと思うわけです。

まあこうした「死に向き合う」想定思考は、深刻なケース希死念慮自殺願望が旺盛な場合の、取り組みの初期段階では不適です。その段階では「未知への選択」など別の実践がまず必要です。
一方、魂感性土台の先に向う「中期」あたりからは積極的に取り入れるのをお勧めするものになります。

2)魂が感じる「価値」を支えるための生活設計

ということで、とにかく自分が人生で感じる価値について、「人の目」が全く消えるような想定下で考えて見ることが重要です。
それが「魂が感じる価値」であるということです。

あとは、それをどう支えるかの、現実的な生活設計の問題が出てきます。
僕の場合は、とにかく本の原稿を書く間の生活資金と、本の出版にかかる費用とのかね合いで、いつ時点から本格的なITの仕事をする必要があるかと計算するわけです。まあ原稿を一通り書き上げる分には問題ないでせう。あとはそこから出版までを集中専念するか、二足のわらじモードでするかで、若干出版時期に変化は出るだろうが何とか来年中にはという計画だすな。


■「恐れるもののない心」の成り立ち

ということで、「魂が人生で感じる価値」を見定め、それを支えるための生活設計をするというのは、極めてちょー具体的で現実的な作業になってきます。
そして、実際それを定めることができ、それを支える生活が設計できた時、人生がほぼ完全に自分の意志と能力によって自己完結的に自分の掌握下に収められることになります。
これは事実、人生で恐れるものが何もない心の状態を生み出します。


少なくともそこには、「人の目」に由来する脅威の類は微塵もない状態になるわけですね。
「恐れるもののない心」というのは、そのように、「心の持ち方」「心の姿勢」なんて小手先のものではなく、大掛かりで現実的具体的な実践の上に成り立つ、極めて具体的な形を取るものだということをご理解頂ければ。

まあ僕個人について言えば、そうした心の状態のはしくれ段階(^^;)ですね。先はまだ長い。
でもまあ概して「恐れるもの」はないですね。新しい場面や行動に際して不安感緊張感が流れるのはあるでしょう。それは感情の膿がある限りそうなります。
ただしそれが成長への通り道であることにおいて、そうした全体が「恐れるもの」ではなくなるわけです。つまり僕はもう「恐怖を恐怖しない」ということです。

一方、人が恐れ、それにより人生を見失うのは、「恐怖を抱く自分」であったりするでしょう。恐怖を恐怖するわけです。何よりも、恐怖によってコントロールを失う自分を恐れます。そこから逃れようと、現実的なコントロール能力など生まれようもない非論理的観念に頼り、現実から遠ざかり、コントロールを失った現実によって脅威に晒されるわけです。
またTVで報道されている「霊感商法」しかり。「人の目」しかり。
根底にあるのは、自分自身の中に抱えた脅威だということになります。

その正体を解き、根本解決への答えを得る扉を開けるための、最初の「鍵」である「自立」の、最も先の姿をここでは説明しました。
もう一つの「鍵」は、「自立」を妨げる要因についての鍵であり、一言でいえば「幻想」です。
「人生」という側面でのその表れ方を次に。


心理学本下巻に向けての考察-170:「未知」への意志と信仰-62 / しまの
No.1424 2007/12/22(Sat) 14:49:43

■終章-11:人生とは何か

さて「心の自立」について、視点をその結果姿から、より内面の意識へと移して詳しく考察を始めたのですが、「覚悟」という心の行為の形に、基本心理学としての「恐怖の克復」とはまた次元を異にした、「人生における覚悟」というのがあるという話にまで来ました。

これについて整理することは、どうやら「人生とは何か」という、ハイブリッドを「人生心理学」と位置づけるからにはそれこそ本題だと言えるテーマについて、かなり明瞭な答えへと導くようです。

結論を言うならば、人生とは、「魂の成長の変遷」です。これがかなり明確な答えです。
それを感じ取ることにおいて、我々は「人生」というものを感じ取ることができ、また揺らぎない方向性を手にすることができるように感じます。


その過程においてしばしば成されるのが望ましい「人生での覚悟」とは、もはや「恐れの克復」という消極的側面を越えて、「何も恐れるもののない心」への旅立ちなのだとも言える姿になってくる。
そんな印象を感じます。

幾つかの視点から詳しく説明しましょう。


■すこぶる身近な「人生での覚悟」の例

ここではまず、「人生での覚悟」とはどのようなものか、具体例を出して説明します。
それはすこぶる具体的で、身近なものです。

まあ例により手前味噌な僕自身の例ですが、今の執筆三昧生活を今度の心理学本が出版されるまで続けることは、本の経費も含め総合的に計算するとまず不可能であり、ころ合いを見てまたITの仕事を自宅SOHOなどで始めたいと思っています。
で準備を、まあ勉強が主ですがこつこつと始めており、先日当初予定範囲の勉強が終ったので、執筆の傍ら足慣らしにでも始められる仕事がないかとネットでSOHO求人情報など眺め始めたわけです。

まあ多少はそうした求人があるのですが、執筆と両立という目論見に合いそうなのはそう多くはなく、先日見た時はちょっと時期を逃したのがあった程度。
でやはりある程度本格参戦(?)モードで当たらんと駄目か..という感覚で、他の求人情報なども見ると、常時勤務のものなど色々あるわけです。ま要は普通の就職と同じですね。年齢制限にかかりそうなものとか(^^;)、「やる気を重視します」との言葉など..
で僕の思考は現実的算段を回しており、マジにこれで生計を立てる場合はやはり40万程度は欲しいとか考え出すと、向うに浮かんで来るのは本格就職の場面という感じになってくるわけです。


■自分の意志確認なきままの「人の目」空想は必然的に卑屈感を生む

でここで自分の中のスタンスにブレがある、つまり「人生での覚悟」しないままの思考領域があると、おかしなことになってくるわけです。
僕は自分がどうも気後れ感覚、いじけた感覚を感じ始めているのを自覚する。
まあこれは、そもそも僕自身そこまでの参戦意図を持っての話ではなく、つまりそうした本格就職に今応募することを考えて求人情報を見始めたのではないにも関らず、就職審査の目の前に立つ自分という構図の空想は成立しているという、一種の思考ミスが原因です。

この思考ミスに気づかないまま、自分が果たして採用されるかという結果空想まで回し始めると、これはもう必然的に「自分では..」という卑屈感気後れ感の歯車が回るというメカニズムになります。
なぜなら、そもそも自分はそれをやるは気ないのですから、自分で考えても採用者の目に叶う状況ではちょっとないんですね。無意識裏にそれが分かっていながら意識の表では採用者の目に自分が叶うかどうかという意識が働くという、奇妙なことが起きているわけです。

まあこれは実はかなり人間の思考におきがちなミスのように感じます。自分自身がどうしたいのかを確認することをちょっとサボった思考のまま、相手にどう見られるかだけが先走りし始めるわけですね。


■「自分の内面無視の人の目空想」という問題の根の共通性

「人生での覚悟」の実例ということで、僕の例で卑屈感気後れ感が起きたメカニズムのところまで説明しましたが、このメカニズムは実は、心を病むメカニズムが起す問題の共通構造とも言える、根本的なものを示しているかも知れません。

それは自分の内面を無視した形で「人の目」を空想するという構図が引き起こす問題です。
「人の目」を空想することにおいて、我々は人に良く見られる自分への願いを持つのですが、そう願って人の目の前にある自分をイメージした時、それは一人歩きをして、自分自身の内面を無視するものになる。
しかし内面を無視したものになることにおいて、自分はその目に叶うはずもないと、心の底では確信とも言える深さで実は感じているのではないか。

そして無視された内面においては自分が人の目に叶うはずがないことを、心の底で分かっているのが消し去られた形で、人の目をイメージすることにおいて、必然的に、人の目は自分を否定するものとして心に映ることになるのではないか。

これは少し前に、根底での自己否定を抱えたまま抱く「こう見られたい自己理想像」が、実際においては「それを基準として自分は軽蔑される」という意識を必然的にもたらすだけの機能しか果たさないと言ったこと、つまり「軽蔑されるための自己理想」にもつながる話です。

これを解く原理そのものは単純明瞭です。
自分の内面の現実に、意識を切り替えることです。


まあそれが、内面が充分に進歩を遂げていれば、この思考ミスに気がつく程度ですぐ問題解決できるレベルと、根源的自己否定感情と感情の膿への向き合いを余儀なくされる取り組み段階のレベルという大きなバリエーションが出てくる。
それだけのものでしかない、極めて明瞭な共通問題構造ということになりそうです。

まあ僕の場合は思考ミスと気づき、思考を切り替えるわけですが、それが「人生での覚悟」としてどんな積極的プラス側面を生むのかの説明を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-169:「未知」への意志と信仰-61 / しまの
No.1423 2007/12/21(Fri) 14:04:25

■「人生における覚悟」

庇護の幻想からの抜け出し」「覚悟」「現実を生きる強さと自尊心の増大」。

この「自立の構造」は同じまま、人生心理学の視点からは、「人生における覚悟」としてかなり特別な話を加えることができます。かなり特殊特別であり、また重要な話。「唯一無二の人生」という観点にとり決定的なものになるからです。

ですからこの「人生における覚悟」の実際の実践「後期」段階のものに主になるように感じますが、それを妨げるものの理解取り組みは、「心の自立」を目標像に加える「中期」として格好のテーマになると感じます。

「人生における覚悟」というのは、その「現実形」を築くのはなかなか長い取り組みになると思いますが、覚悟して抜け出たい土壌は、至るところに蔓延しています。
それは「人生の委ね幻想」とでも言うべきものです。 これは「庇護幻想」の一貫で生まれる、特別バージョンと言えます。

まずはそれを捉えることからですね。まあ我々はどうしてもその中にぬるま湯の中で安住する面を持つのが現代社会人でもあります。
それを踏まえた上で、そこで陥り易い心の錯覚の弊害を理解しておく。それに足を取られないようにすることで、同じ外面生活においても、異なる内面の強さを持つことが可能になる。
こうした方向性をまず考えたいものです。


■「人生の委ね幻想」

「人生の委ね幻想」とは、文字通り「自分の人生の将来が何かに委ねられていると感じる幻想感覚」と定義できます。

これは2つの側面があります。
1)何かが自分の人生の将来を象徴するものになる。
2)それを自分ではなく他人がコントロールするものと知覚される。

この結果、何か特定の事柄が自分の人生将来を決めるもののように感じられ、かつそれを他人が支配するのですから、その他人に対して極めて卑屈で服従的な感情が起きやすく、かつ自分の人生がその他人によって破滅に向わされるという幻想感覚も起きやすく、この先にかなり破滅的な感情や、事実破滅的な人間関係破壊が起きる素地が生まれる。
そんな心理メカニズムです。

これは実に広範囲に、この社会で見られるものです。
この心理メカニズムそのものは、健康な心においても働くものであり、その範囲においてはもはや取り組む余地も少ないかのような感覚が起きるほど、強力なものであり、一方、心の荒廃を示す事件もまず間違いなくこのメカニズムの中で起きているこことが考えられます。
従ってこれがまさに「現代人の心の課題」として、社会的見地からも筆頭にあげられるもののように感じます。

ちょっと短いですが課題取り上げとしてカキコし、細かい分析考察を続けます。


心理学本下巻に向けての考察-168:「未知」への意志と信仰-60 / しまの
No.1422 2007/12/21(Fri) 11:10:51

■「覚悟」と「心の自立」の基本構造

さて「未知」への意志と信仰-59では、「心の自立」とは内面意識においては「覚悟」変化の要ポイントにしたものだと書きましたが、改めてその位置づけを、こう結論づけられるように思われます。

「心の自立」とは、庇護や依存から抜け出るという方向において、「覚悟」を伴って成される一歩であり、その結果「現実」をより直接的に生きることのできる強さが得られることである、と。

「現実をより直接的に」とは、庇護や依存の中で生きる時、自分が「現実」に直接接するのではなく親を通して接するというような形であり、そして時間の流れとともに実際のところ庇護はなくなっていく宿命がある時、そこにとどまることは「幻想」の中で生きるという構図を生み出すようになる、ということです。
つまり「覚悟」を要とする「心の自立」がない時、「現実」においてはもはや存在しない「庇護の目」の中で自分が生きているという「幻想」が生まれてくる、ということです。

これは注射を恐がらなくなくなるという過程で言うと、注射を恐がる時、そこには恐怖におののき恐怖を強調すれば免れる手が差し伸べられるというような「空想」が存在するということです。
まあ本人の意識では「恐れを強調すれば免れる」と今現在ははっきり空想してはいないとしても、過去にその中にまどんろんだであろうその空想を、今断固としてはねのける意志を持たないという形で、その空想に基づいた心の状態を維持し続けている、ということになります。
これは「恐怖すれば救われる」という「無意識の空想」が存在する状態とも言えるでしょう。

それを、「恐怖しても恐怖が解決しないのなら、もう恐怖するのはやめよう」という「意志」である「覚悟」という心の行為を踏むことで、恐怖が消える
まあこれがどれだけの場面に適用できるかの限界は人それぞれにあるかも知れませんが、こうゆう機能が脳にはある程度あるということです。

恐怖が消える」という消極的側面だけではなく、そこで得るもっと積極的側面の理解が大切ですね。どんなメリットがあるのか。
これがやはり「強さ」であり「自尊心」の増大ですね。同じ現実を前に、恐怖に足を取られずに思考を働かせることのできる強さ。またことあるごとに恐怖に怯える自己というのは、やはり自尊心を除々に低下させます。恐怖が全般的に減ることは自尊心の増大につながります。

このように、「庇護の幻想からの抜け出し」「覚悟」「現実を生きる強さと自尊心の増大」という3つがセットになること。
これが「心の自立」の基本構造だと言えそうです。



■ハイブリッド取り組み「前期」からの「覚悟」の作用

こうした「覚悟」の作用は、実はハイブリッド取り組みなどでも「前期」段階から広範囲に始められているものでもあります。
恐怖は必ずしも現実の脅威を示すものではないと考える「感情による決めつけの解除」、感情をただ流す姿勢。また、心理障害メカニズムについて理解することは、漠然とした「庇護されるべき世界で心を損なった自分」というような広範囲な恐怖感覚を減少させることになると思います。

いずせにせよ、「感情の強制」とは違うものとして、「恐がってもしかたないものはもう恐がるのはやめ!」とする心の機能があることを、折りに触れ意識してもらうのは良い実践だと思います。

一方、「恐がらない」が「感情強制」の問題になってしまうのは、「何を恐がるか」の現実対象ではなく、「恐がる自分」「恐がらない自分」という結果を外から見た見栄えだけが一人歩きした意識対象になる場合です。
この場合は、もうその恐怖をどう捉えるかもどう対処するかも、思考が全て無駄だと考えて正解です。まず一人歩きしたその自己像をめぐって、自尊心に関る感情が動いているという不合理で不毛な状況を把握するのがまず先です。
つまりこれは「恐怖の克復」でも「覚悟の問題」でもなく、「感情分析」の実践をするのがいいということです。

まず「恐怖する自分」という一人歩きした自己像を捉える。
で次に、「では本当に自分が恐怖しているものは何か」を捉える。結構これが明瞭な形を取らないことがあります。
そうした中で、なんとか明瞭化された恐怖対象について、「覚悟」というものを考える。
もちろん、「現実の脅威」に対しては建設的な対処を尽くした上での話になります。

こうした取り組み実践の流れは、もうハイブリッドの最初から最後まで続くものになります。意味が分からない恐怖も、かなり最後まで続く。
感情分析・建設的対処・そして覚悟。これがかなり基本的なサイクルとして、スパイラルの中の向上が終ることなく繰り返されることになります。

以上も、話は主に「恐怖の克復」に関連する、一般心理学からの「覚悟」の位置づけになります。
人生心理学からは、人生心理学からと言えるだけの、特殊特別な話が出てきます。それを次に。


薬害肝炎訴訟への政府対応に考える原理原則 / しまの
No.1421 2007/12/21(Fri) 08:00:26

珍しく政治問題に口を出す(?^^;)カキコですが、今回の薬害肝炎訴訟への政府対応は、はっきり言ってNGだと思いますネ。
ただこれはかなり「原理原則論」としての勉強材料でもあります。
何を原理原則として考えるかですね。

手短に言えば、そこに出てくる原理原則の一つ「責任と補償」です。被害を受けた者がおり、それに責任を負う者が、補償をするべきである。で今回も、企業と国の責任をめぐる話が主に取り沙汰されているわけです。

しかしもう一つ考えねばならない原理原則とは、国民が幸福を妨げられた事態をどう国が救えるかという、「国家の機能」なわけです。これはもう「加害責任」とは全く無関係な話。
そうした話で「責任」と問うなら、自然災害について国は責任を負わないので、何の支援もしないなんて話が、論理として同じものになるわけです。

もちろんこの「支援救済」という原理原則の先に、その対象にするものはどんな出来事かという原理原則がまた出てきます。
まーここでまた議論が出るだろうけど、ここまであからさまな「健康への破壊」となる「薬害」というのは、「公害訴訟」の中でも最も深刻な被害が発生したものの事例と同じく、国が「支援救済」できてこそ「国家の機能」だと考える次第。

僕として嘆かわしく感じるのは(まあ感情としてはやはり怒り嘆き感情というのは持ちませんが)、こうした整理された原理原則論をする人がほぼ表の人々に皆無なことです。
その点、原告団もちょっと感情に流れているばかりの感があり、原告団がこうした原理原則論をしっかりと出せば、ちょっと展開が違ってくると思うんだけどなぁ。

まとにかく、責任問題ではない原理原則に則って、予算の考慮も確かに必要はあるだろうけど、基本的には「一律全員救済」に賛成ですね。


心理学本下巻に向けての考察-167:「未知」への意志と信仰-59 / しまの
No.1420 2007/12/20(Thu) 13:35:57

「根本解決への答え」を開ける第1の鍵である「心の自立」について、幾つかの側面を見ていきます。

ここではまず「覚悟を決める」という心の動きの重要性について説明します。


■「心の自立」の外側からの姿と内側からの意識

「心の自立」については、ここ最近の解説において、まずそれが成される姿を、どちらかというと外側から眺める目詳しく分析することから始めました。そこにはまず「守られるから自ら守るへ」「与えられるから与えるへ」「愛されるから自ら愛するへ」という3つの要素があると。
そしてそれを妨げる自立の置き去りによる3つの土台幻想「破壊幻想」「庇護幻想」「自分幻想」がある。ただしこれらは根本では病んだ幻想としてよりも、人間の不完全性としてあるものであり、人間の成長はその中にあると。
そこに「存在の善悪幻想」が加わった時、成長への論理が一気に心を病むものへと一変することを見出したわけです。

ただそこまでの話では、話の全体が、「あるべき姿」を考えるという、今までと同じ思考法の中で受け止められる嫌いが残る話です。
「心の自立をできた人間」にならなければ、と同じ思考の轍が続くかも知れません。
「存在が善」になるために、です。

一方、「心の自立」を目標に掲げる「中期」の取り組みを、今度は本人の意識の内側から仔細に見るならば、まず課題となるのは「価値の生み出しを知る」ことだと書きました。
そしてそこに至るまでの心理過程をたどり始めていますが、そこにあるのは「魂感性土台の体験」「人の目イメージの消失」「自分で自分を守る感情」「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める」「ただ生きるという現実感」といったものです。

ここまではおさらい


■「心の自立」とは「覚悟」なり?

で、そうした「心の自立」外側から見た要素なり内側から見た動きなりの中で、「人間を変える」決定ポイントとなる一つの場所が、僕の感覚としては浮かび上がります。
それは「覚悟を決める」というポイントです。

「心の自立」とは、「覚悟を決める」という人間変化の節目を中心にして、その材料収拾から始まり、「覚悟」という一点に収束によって変化が起き、「ただ生きる現実感」へと新しい世界が広がる
そんな印象を感じます。

それだけ「覚悟を決める」という心の動き、心の使い方が重要になるわけですね。
ここでちょっとその一般心理学を説明しておきましょう。


■「覚悟を決める」が「感情強制」に陥らずに障害感情を唯一直接除去する

まず一般心理学的に言えば、「覚悟を決める」という心の動きが、各種のマイナス感情、つまり基本感情としては「恐怖」「怒り」「悲しみ」などを消滅させる、直接的な心の機能だということです。

これは「感情は直接変えようとはしない」「感情は正さない」「感情そのものよりもそれが湧き出る土台を向上させる」というのを原則としているハイブリッド心理学思想の中で、唯一、意識行為が直接的に感情を良い方向へと変化させるものだと言えるような話になりそうです。

これ以外にも比較的直接に感情を良くする意識行為としては、「プラス思考」が一応あります。何らかの失敗に面して、損失よりも、学べる面に意識の焦点を向けることで、かなり感情が変わってきます。
それでも、そこでどれだけ感情がプラスになるかは、もう意識ではどうこうするべきではなく、ハイブリッドとしての指針は、損失と得る学びなど全てを見据えた上で、その出来事についての自分の感情をあるがままに晒すことです。基本的には痛みを痛み、その中で学ぶことです。
ですからプラス思考も、別に感情を良くすることが必ずしも主眼ではないのです。

「覚悟を決める」は、そうではなく、我々が不完全で誤りの多い危険回避システムとして生まれ持った「恐怖」という足かせから解放させるために、自立の過程において断固として成さねばならない、心の行為なのです。

「覚悟」「恐怖の克復」において決定的な役割を果たすことは、注射を恐がらなくなる過程として観察することができるでしょう。
3、4歳の子供では、まだ注射を恐がるでしょう。注射の痛みが嫌なので、何とかそこから逃げようと、「恐怖の克復」とは逆の「恐怖の強調」をして、泣きわめき、親がなんとか注射を断念することを求めるわけです。

小学生くらいの中で、大抵の子供は「覚悟」ができてきます。もう逃れられないと諦める。で「恐怖の強調」はもうやめる。すると、大して痛くないじゃん、という話にもなってきます。

一方「覚悟」という心の使い方が基本的に不得手な人々が時にいます。大人になっても、注射を恐がり、血を見ると失神してしまうようなことさえ出てくる。
まあこれは単純に「覚悟の欠如」だけではなく、「対人感情」という一見無関係なところから含めた、本人の自意識が関係していると、僕としては踏んでいます。つまり心の障害全体の話になってくるということです。

「覚悟」は時に、「死」に直面するような場面で、人間の態度振舞いを両極端に違うものにします。
ある者は覚悟を決め、恐れることをやめ、冷静さを取り戻すことで、案外道が開けたりする。
ある者は恐怖におののきパニックになり、あらぬ方向へと走り、自滅したりします。

「覚悟を決める」というのは、それだけ決定的な心の機能なのです。
まああとは、「覚悟の内容」の合理性が問題になってくるでしょう。ハイブリッドで心理メカニズムを正しく知ることは、自分の心の動揺について理解し、覚悟するということでもあります。


こうした話を「覚悟」一般心理学として、次に人生心理学からその役割を説明します。
人生を大きくする歩みは、やはり「覚悟」を基本的なステップにするということになります。


心理学本下巻に向けての考察-166:「未知」への意志と信仰-58 / しまの
No.1419 2007/12/20(Thu) 11:06:11

■「覚悟」と「現実感」と「魂感性土台」

先のカキコでは、「魂感性土台の体験」として「人の目イメージ」が消える感覚の先に、「自分で自分を守る感情」「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める」「ただ生きるという現実感」といった心理状況があることをサマリーしました。

これはもちろん、取り組みの道のりにおいては、「魂感性土台の体験」をしたらあとは自然にそうした心理状況が湧き出てくるという話ではありません。
言えるのは、そうした心理要素が連鎖的に促されやすいということです。それをどう人生に役立てるかという話になってくるでしょう。

中でも特徴的なのは、「覚悟を決める」から「ただ生きる現実感」が生まれること、そしてこの状況が魂感性土台ととても親和的なものであり、覚悟を決め現実を感じ取る中で、我々は魂の感性に戻るということです。自分が何のために生きているのかを強く感じ取る状況が、そこに生まれるということです。
一方、「人の目」を前提に思考が働き始めた時、これらのどの部分から崩されるという話ではなく、全てが全く別のことになってくる。そんな印象を感じます。

これは意識の外枠の話です。

これをより具体的に、意識の内容コンテンツに焦点を向けて見ていきましょう。我々の日常生活の中で、何をどのように考えることで、このような心理状況の違いが生まれ得るのか。
その延長上に、我々が生きることに感じる価値と意味をどのように増大させていくことができるのか方法論が浮かんできます。

ここではまずその序論として、ついきのう書いた返答メールを紹介します。

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■「嘆かない」までをシミュレーションしてみる

まずは、

>四面楚歌でも、目をつぶって一人で空想の世界に浸っていれば、その痛みを自覚せずにすむものを…と。

こう言った不合理な不毛思考をできるだけやめちゃうことですね。結局、それでは済まないのが現実という以外にはもうないわけで^^;
で、

>けれど「嘆かない自分」という姿を当てはめると、感情の強制になり意味がないのですね。どうしても自分がそうなっているのを感じます。嘆くまいという意志は、自然と湧き出てくるものなのでしょうか。

これはまずメカニズム理解をしておくのがいいと思います。自己理解はまず何につけ感情メカニズム理解ありきだと考えてまず正解です。
これについては今日(12/19)Upした解説の通り、

人の目イメージが消える」→「自分で自分を守る感情」→「嘆くのをやめる」「答えを出す」「覚悟を決める

という感じになります。
「嘆かない意志」は単独で考えると感情強制にもなり得ますが、感情強制にならないパターンもあります。
まあ前者は「あるべき姿」といった漠然とした動機の場合であり、後者は「現実的必要性」に駆られてということが言えると思います。

シミュレーションしてみるといいと思います。これはまず、例えば火事に遭遇して、自分の回りから人がいなくなって、自分でどうにかしないとならない、というような状況ですね。
もう嘆くのやめて自分でなんとかしないとどうにもならない、という状況です。

ですから、「人の目」を前にして「嘆かない意志」をどう考えられるかとは、大分違う話になります。良い悪いの話ではなく、全く別の話。


■とにかく「加算法」型思考が正解

で、\(^_\)その話は(/_^)/いったん横に置いといて(アハハ^^;)、

>前回書いた嘆きの理由よりも、会社における人の目恐怖・圧迫感から逃れたいというのが大きいです。
>会社にいるときは、まさに目をつぶっている状態です。本当はそれをどうにかしたい。でも、どうすればいいのか分からない。できることは、それが今の自分の現実なのだと理解することでしょうか。

これは明確な答えがあります。
「それをどうにかしたい」「どうすればいいのか」というのはまさに全く別のことを、「加算法」的に考えることです。

「これがいけない」「これをどうにか」的な、「減算法」的な思考は、結局元に戻ります。「成長」という前進要素を何も生まないからです。

ですから、人の目の恐怖感圧迫感も、それから逃れたいという感情も、全部含め、全く別のことを考える思考を立てる、というのが解決法になるわけです。
もちろんそれを立てただけでは解決完了にはならず、それを実践に移すという先の話が出てきます。

でその「全く別のこと」を、上述のシミュレーションの先にある「自分でどうにかしないとどうにもならない」という内容を、持ってくるわけです。


■「人の目どころでない状況」を設定した思考

ではその内容とはどのようなものか。
火事場から自分で逃げなければどうしようもない、という例は、その先が分かると思いますが、そのように「人の目どころではない」という話が、「職場」だとどうなるかですね。

まあこれも分かりやすい状況設定をしますと、会社が間もなく倒産するという状況です。まあ実際そんなことはないと考えるのはいいとして、実際そうであった時に、Aさんはどう行動しますか。社長から、「悪いけど今月の給料で終わり♪」と言われた状況です。

望ましい形を言っておきますと、即座に別の会社に移るなどできることです。
そのためには、自分がどんな業種でどんな仕事ができるかを知っておかなければならないし、そのために必要なスキルを自分が持っているかを、自己評価自己管理できなければならないし、そのためには具体的な課題においてどんなことをできなければならないかが分かり、実際にそれをこなせることが必要になります。

そうゆうことができるとは、会社が間もなく倒産なんてことにならない今も、人の目なんて気にせずに、人の目にも叶う行動を目の前の課題について行えるということです。


■「自立」はあくまで「根本解決の答え」への鍵

上記の話は、ちょっと考えると分かると思いますが、というか書いていて僕がまず感じたことですが、心理障害の治癒とは本来全く関係のない話です。まあ「会社の倒産に備えた仕事の仕方ができる」ことと、「心理障害の治癒」じゃー実際話が一見全然つながらないですね。

一方それは、「人の目」には揺らぎない自己確立に向う、「心の自立」のかなり高度な姿です。
そうした方向性をしっかり持つことで、それに向う歩みの中で、感情の膿を流す内面動揺を越え、心理障害も克服に向うという方向性は言える。

ただそれはやはり「根本解決の答え」そのものではないです。「根本解決の答え」がその中で現れやすい状況という話です。
「根本解決の答え」の先に「感情の膿の克復除去」という治癒があるのなら、別にそこまで自立など考えなくとも、健康な心というのは共存できる。

そもそも「自立」そのものが不完全なのが人間だという話をしています。大して心の自立をしていないままの、心の健康な人間というもの充分あり得ます。

だから、心の障害傾向の苦しみから解放されたいと考えても、わざわざ極端な心の自立思考など考えないのが人情というもので、すると「根本解決の答え」が現れる状況も作られないままなので、結局苦しみの中にとどまることになります。


■まずは「根本解決の答え」への扉を開ける鍵の獲得から

まあすっきりとしない説明ですが(^^;)、「心の自立」そして「嘆かない意志」とかは、「根本解決の答え」そのものではなく、やはり「鍵」なんですね。

話は上巻原稿の終わりの方の論調に似てきます。
「根本解決の答え」が、ある扉を開けたところにある。まずそのための鍵が幾つか必要になります。
「心の自立」は、ハイブリッドの前期取り組みの先にまずつかむ、第一の鍵とも言える位置づけです。

それ自体が答えではない。だがまず、その鍵をしっかりと手にしないと、答えのあることろへの扉は開けないという形です。だから「心の自立」自体は、一度心底に響くレベルで理解すれば、その先実践する要件はあまりないような話にさえなるかも知れません。

そんな感じで、まずは「鍵」の特徴を良く知ることからですね。
この先は掲示板で説明します。

でその後に、「存在の善悪幻想」次の鍵になり、扉を開けた先にある「根本解決の答え」はやはり「否定価値の放棄」に相当するものです。
だが最後に開ける「扉」そのものは、「信仰」になるかも知れません。ハイブリッドの場合は科学と近い信仰ですが。

いずれにせよ、ここ当面の懇切詳細レベルで、「否定価値の放棄」までどうつながるかを書いていきますので。
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心理学本下巻に向けての考察-165:「未知」への意志と信仰-57 / しまの
No.1418 2007/12/19(Wed) 12:36:53

■「中期」の最初の実践-2:「人の目」を通さずに社会を見る

ハイブリッド取り組みの「中期」は、まず「魂感性土台」において「価値の生み出し」を見出すことが目標だという話から始めましたが、これをどのような心理状況の中で進めるかの前提が、かなりはっきりしてきたのではないかと思います。
単に「魂感性土台に立って価値を生み出す」だと、魂感性土台を体験した内容で、人に向うための思考法を考えてみるというような感じに解釈される嫌いがあると思いますが、かなり話が違ってくることになります。

つまり、「魂感性土台の体験」を含め、次のような心理状況変化がある。その先の話だということになります。
1)魂感性土台を体験し、「人の目イメージ」が全く存在しない視界を前提にした思考法があり得るという可能性を感じ取る。
2)自分で自分を守る感情を感じ取る。
3)嘆くのをやめる意志を持つ。その代わりに「答えを出す」のと「覚悟を決める」ことをする。
4)嘆くのをやめた時に現れる「ただの現実」に心をしっかりと晒す。そこに「喪失」が含まれるのであれば、失うものと同時に得るものにしっかりと目を向ける。
5)「ただの現実」を「ただ生きる」という「現実感」をしっかりと受け入れる。これは先のカキコで書いたように、「生きる喜びを見出す」というより、「死ぬことのできない現実」を痛みと共に受け入れるというような姿勢をイメージする方が、この段階の話としては実情にあったものになるでしょう。
下線を引いた項目を数えると8つになりますね。これだけのことが、スポーツで言うと「運動要領」のようなものとしてあるわけです。「心の動かし方の要領」ですね。

これは「イメージを引き金にした感情による操り人形状態」の世界から抜け出し、過剰な空想の解けた現実世界へと、「ただ生きる」ことへの内面の力を回復した状態とも言えます。これは心の障害からのいったんの治癒が完了したとも言える状態です。
それが、ハイブリッド取り組みにおける「中期」開始状況だということになります。

ですからこれは「そうしよう」と考えてできる話では必ずしもなく、ひとえに「魂感性土台の体験」につながるまでの「前期」取り組みの成果いかんがあり、さらにその上に本人の先に進む意欲と努力という、「実践結果」「実践努力」総合的な段階になってきます。

一方、「中期」から先の話についても、まず頭でできるだけ理解し、イメージを持ってみるということは、最初の段階から可能であり、そうしたイメージに照らし合わせて、現在の自分をより充分に理解することにつながるでしょう。
さらに、「中期」から先の実践を妨げるものについての説明は、「前期」の中心課題である「自己理解」としてまさに重要な内容になるでしょう。

ということで、この先の話も全ての人において重要になるということで、まず理解ありきを考えて頂ければ。
実際に進むのは、頭で考えてではなく身をもって変化する中で、ということで区別して頂くといいでしょう。


「ただ生きる」という内面の力を見出す先に目を向けて頂きたいのが、「人の目を通さずに社会を見る」ということになります。
あるいは「人の目を通さずに生活を豊かにする」という観点でもいいですね。

ちょっと短いですがここまでの全体整理としていったんカキコして、中期の具体的な実践説明へ。


心理学本下巻に向けての考察-164:「未知」への意志と信仰-56 / しまの
No.1417 2007/12/18(Tue) 15:40:55

■「ただ生きる現実」につながれていく「魂の絆」

「嘆くのをやめる」先に開かれる「ただありのままの現実」に、心を晒す。その時「魂」は、その変化が全く見えないまま、一歩「強さ」へと前進します。
そうした「ありのままの現実」に自らを晒した心が生み出す、「目に見えない」まま起きる「魂の成長」についての締めの話として、1年間の「忘却の日々」を経て僕が再開した日記を紹介します。

失うものは良く見えるが、その時同時に得るものは見えない。
そうした類の「魂の成長」になりますね。それは僕自身にとっても、逃れられない自分の心の混迷に、「こうなれていた自己理想」を失うような感情の中でのことでもありました。それでも、その中で強さを増す魂は、見えないままでは済まず、僕にあることを強く伝えるものでした。

それは「生きる喜び」などという絵に書いた餅ではありません。それがどのように得られるのかは、この後に始まる「価値の生み出し」への模索から始まる歩みの中で見出されるものです。
その前段階です。その時、魂は、この現実を生きていくしかない自分の存在というものを、強烈に伝えるのです。

それが「生への魂の絆」の、最初の芽なのかも知れません。

1986.4.1 (火)
 この日記を書くのは本当に久しぶりのことだ。
 というより、僕はこの日記を書かないつもりでいた。もう2度と書かないつもりでさえいたのだ。
 自分の内面を内省して、日記を書くという行為自体に、何となく嫌悪感、いや軽蔑感のようなものを感じたのだ。
 仕事に関して言えば、これ以上僕に合った仕事はないだろうと言ってよかった。日々の仕事を通して自己を発揮し、ひとかどの人間になれれば・・・もう以前のような自意識に悩むことはもう済んでいいことではないかと思えた。
 しかし、僕はまた
孤立感と、自分の行動のちぐはぐさに、そして他人から受ける嫌悪感に、悩まされ始めた。自分のちぐはぐな態度のために、会社の、特に僕にとって重要だと潜在的に思っていた人々の自分への感情は、完全に冷やかなものになってしまったと思えた。
 そして、
もうこれ以上混乱に悩まされるのは厭だし、これからどのように生きていけばいいのか、分からなくなった。完全に開き直って、他人を無視し、誰とも何の関係も持たずに生きることも考えた。そうしようとしても結局は、他人への期待と苦しみを感じざるを得ないかも知れない将来を思うと、完全に自ら死ぬことを決意する気持ちになった。
 
それでも、結局は、死ぬことはできないのだった。家族のこと、少なくともまだ結婚もしていない妹のことを考えると、どうしても自殺をすることは、それ自身が僕には別の苦しみにならざるを得なかった。

 
それは、はっきりとした、『Human Bondage』なのだ。
 それは、僕の足にはっきりとつながれた、決して切ることのできない、重い鎖なのだ。

 僕は、「人間の絆」から、自分が、徐々に解放されていくのだと考えていた。だが、実際には、僕は初めて、それに気づいたのだ。
 恐らく、それが、今の僕にとって、最大の「生きる理由」なのだとさえ、言っていいような気がする。少なくとも、それは、僕が自ら死ぬことを許されない最大の理由なのだ。少なくとも、それがあることにおいて、僕にとって「生きること」は義務なのだ。
 人間は、自ら死ぬことを、自由意志によって許されると、今までの僕は考えていた。


まあ、かつては、冷徹な知性の中で自殺念慮を浮かべ、「これは僕の生活の問題なのだから。自殺も“生き方”のひとつなのだ。それ自体を絶対的に否定しようとしたって無理なことだ」と、家族の悲しみさえも強引に踏みにじろうとする思考に陥った、別の自分があったという感慨を感じます。『悲しみの彼方への旅』P.159)

なお文中の『Human Bondage』とは「人間の絆」ということで、当時読んだサマセット・モーム『人間の絆』を引用して書いたことです。
これに人生についての感銘を受けた人は少なくないでしょうね。ネットで読者レビューを見たらこんなのありました。
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”人生に意味なんてものはない。いわば人生とはペルシャ絨毯のようなものだ。この絨毯の刺繍のように、おのがめいめい、それぞれに、自分の人生を紡いでいけばよいのだ。それぞれの人生は、だから、紡ぎ上がった時点で、過各人各様の様々な模様になる。人生には使命や意味、そして意義はない。それでいいのだ。”と。私は、この主人公の思念によって、これはいわばモーム自身の魂の遍歴の結果なのですが、自分の人生を救われました。私は大粒の涙とともに、それまでの苦悩がすべて昇華され、大いなる歓喜にひたり、そして大きな心の変動なく、現在40歳にいたっています。私は本著によって本当に救われました。また世界の多くの人々もきっと”人間の絆”によって救われていることであると信じます。
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■「価値を生み出す」ことから歩む「人生」

まあモームの『人間の絆』には僕も当時結構感銘を受けたと思いますが、それは引用した読者レビューのように明瞭なものではなく、「ただ生きる現実がここにある」という感覚の強烈さ自分で受け入れるというようなことであったと感じます。
その裏で、「魂」ははっきりと、その先を見据えて動き始めていたのかも知れません。

「人生に意味はない」というのは、ハイブリッドではもうかなり違う思想になってきますね。

いずれにせよ、その時の僕に、今の僕なら何を伝えるだろうか、とちょっと考え、すぐ出るのは、「ハイブリッドの全て」だということです。魂と心の分離があり、それを取り戻すための道のりがあるということです。

「価値を生み出す」ことを学ぶことから、それが始まります。
同時に、「自殺そのものを否定しようとしたって無理なことだ」と冷徹な知性へ囁いた、悪魔の思考の正体を解く道へと、歩み出すわけです。


心理学本下巻に向けての考察-163:「未知」への意志と信仰-55 / しまの
No.1416 2007/12/18(Tue) 13:48:41

■「中期」の最初の実践-1:「嘆きの空想世界」から「ただ生きる現実」へ

「嘆くのをやめる意志」「前期」の仕上げ的なものとして見出したい、という話をしていますが、これをさらに、「中期」の始まり的な位置づけとして、より積極的な側面から見ることができます。

それは、「嘆き」の中で我々はどっぷりと「空想世界」に浸る一方、「嘆くのをやめる意志」の先にあるのは、その空想世界をとっぱらった、「ただの現実世界」が広がるという意識転換です。

これも良く考えれば、同じ外面世界に対して全く異なる内面があるという、端的な局面です。
「あるべきでない」ことを嘆く時、我々の意識は「あるべきだったこと」と、それが「失われたギャップ」を頭いっぱいに描きます。一方「嘆くのをやめた」時、それらの映像はただ消え、これから自分が生きる「ただの現実」がそこに現れます。

この転換はあまりにも鮮明であるため、人は時に戸惑いを感じるかも知れません。失ったものを嘆くのをやめた時、それは「あるべきもの」の映像さえ消えてしまうことを意味するので、自分の自尊心を支えていたかも知れない何か重要なものを、自分が手放してしまうことであるかのように感じるのかも知れません。
かくして時に人は、過去に失ったものを嘆くことだけに、時間の止まった人生を向けることがよくあるわけです。

ここにも決定的な「選択」があることになりますね。「嘆きの空想世界」を取るか。それとも「これから生きるただの現実」を取るか。
明らかに、どっちも可能です。前者を取っても、それほどおかしくならない(^^;)まま生きていける脳の構造を、人間は持っています。
そしてこの選択のどっちが「正しい」か、さらにはどっちが「より豊かへと向う」かさえも、判定するための論理はありません。嘆くのをやめて、ただ生きることを選択したところで、実際そこにはまだ何もないのですから。

ですからこの「選択」をガイドするためにハイブリッド心理学などができるのは、「ただ生きる」ことを選択した方向性の先にどんなことがあるのかという長い目を説明するだけです。これはハイブリッドだけではなく、人類の歴史を通して先人が人生について色んなことを言ったのが、そうなのだと思います。


■切り替え論理のない「嘆き空想」から「ただの現実」への転換

ここではその「嘆きの空想世界」をまた出しておきましょう。その直後に、12/13「未知」への意志と信仰-47で紹介した、「嘆くのをやめる意志」が生まれたちょっと前のものです。

大学院を出て、中堅システム開発会社に就職して、ホントのホントに「新たな人生」の始まりのような感じの、入社日のものです。
この後紹介したいものを探していて目にとまったのですが、自分で呆れて笑ってしまうような内容なんですが、これが成長の始まりなんですね。
「どう見られるか」ありきの世界の中に、心があるわけです。

メカニズム的には、その底に愛情要求自己否定恐怖があるということになります。
それがこの後どのように根本解消されるかに、「価値の生み出し」「否定価値の放棄」「魂の望みへの歩み」などがあるのですが、ここで紹介する「成長の始まり段階」では、そうした根底が関る以前での、「空想の一人歩き」を解除するという単独側面が、どうしてもあるように感じられます。
これはもう理屈ではありません。ただ、「嘆き空想」から「ただの現実」へと、自分の体の向きを変えなければならない時が、人生には何度か訪れるのだと思います。強固な意志でです。

やや先走った説明までしておけば、そうして「嘆き空想」から「ただの現実」へと体の向きを変えた先に、「失われたものへの嘆き」を切り捨てるのではなく、そこに自分が向けた「望みを看取る」ということが出てくるわけです。
「望みを看取る」というのは、実に両面的なんですね。ただ喪失に見入るだけではできないし、それを意識から振り切り前を向くだけに徹しようとしても、できない。

多面をそれぞれ、一つ一つ踏まえていく必要があります。一つ一つ身を晒していく必要があります。それによって心が根底から一つ一つ変化し、次に両面を同時に見ることで起きる変化に、身を晒すことができるのです。
それを頭で最初からこうだと決めつけて進もうとすると、成長が見失われます。

では頭ではどう考えればいいのか。これは「前期」取り組みでもう言っている指針です。感情は強制せずに、湧き出るままに開放することです。その中に、多面の中のどれかを示す手がかりがあります。それをしっかりと見ることです。どう見るかは、もうさまざまに説明していますね。

そんな訳で、新しく人や社会に出る場面に向うと、やはり心は「人の目」ありきに向かいます。湧き出る感情がそうなっています。
それをありのままの自分の中に見るのも、一つの「自分の心の現実」に身を晒すことだとも言えるでしょう。
そしてそれが幻想世界であることを自覚し、それを脱する意志を持つ。こうしたステップの繰り返しも、やはり最後まで続くスパイラルの外枠の一面です。

1985.4.1 (月)
 今日は
会社の入社式と歓迎会だった。今日そこで僕は、思いもしなかった大きな精神的動揺を味わった。
 入社式が終って、20人くらいか、喫茶店「ルノワ−ル」へ行き、そこから出て帰る時だった。僕はその時までは、皆に積極的に接しようとしていた。
自分が緊張しているという浅薄感も少しあった。
 ルノワールを出て、どうしようかと皆が迷っていた。飲みにでもいくのか。僕も、表面では隠そうとしながら、
内心は優柔不断そのものだった。“イニシアチブを装う”ことに疲れを感じていたのも事実だった。
 少しして、僕と同じく
もう一人の院卒のKくんが帰ると言った。僕もあわててそれに同調した。集団に「じゃ、お先に」と言って。少し歩いてから、僕はものすごい後悔に襲われた。この会社における“安全”を確保しておくために、せめて今日は皆と一緒にいるべきではなかったろうか。僕は自分が“大失敗”をしたように思った。“皆を怒らせた”そう思った。これでずっと、僕はこの会社の中で嫌われて過ごす。そう感じた。その事実に、恐怖さえ感じた。

*補記*
読み返して思わず「我ながら、ハァ〜〜」と深いため息が出る感^^; 「その事実」と、「事実」をカッコでもクオーテーションでも囲まずベタの言葉で書いているのが、この「空想世界」が当時の僕にとってのリアリティを示しているかと。

 Kくんとあともう一人と一緒に歩きながら、僕は“戻って皆に謝ろうか” そんなことを考えた。“最悪の事態だ” そう考えた。何よりもマズかったのは、初めに皆に示した、親しさを装った態度と、これから自分が取るであろう、おどおどした自閉的な態度との、激しい格差だ、と思えた。それに対して、皆が怒りを向けるように思えた。“もうあいつの言うことは何も信じられない” そんな非難を向けられるのを空想した。
 僕の
心の中が少し楽になったのは、明日あたりにあるであろう自己紹介スピーチの時間に、“心理学を学んだのは自分の性格を変えたかったから”ということを喋ることを考えついてからだった。それが、もう自分を装う気疲れなしに、真の自分の姿を知ってもらえる唯一の手段だと思えた。またそこには、同情を求める気持ちもあった。
 またそこで重要なのは、
“悩む自分”を自分自身で許容したことだった。親しさを装うとやっきになっていた時は、僕はむしろそれを排除しようとしていた。

 “情緒不安”とか“自閉的”とかへの、嫌悪、軽蔑、非難を受ける不安を柔わらげるための、強迫的な親愛行動。まさに僕はそれにとりつかれていたのだ。



■「感情の放置」によって近づく「現実の生」

こうした心理状態について、まずメカニズム的に言えることは、本人の思考法の問題以前に、この人間を圧迫している情動の塊が、この人間自身の心の底にあるという事実です。
それは愛情要求であり、自己否定感情であり、恐怖であろうとして、さらに明らかにあるのは、人の性格振舞いについてある容赦なく厳格な理想基準に支配された「存在の善悪幻想」世界がその頭の中にあるのであろうことです。

それに対して、ハイブリッドもなかった当時としては、僕としてその幻想を解こうとした意識努力があったわけでもありません。一応日記の最後の方に、「自己受容」の視点が出ている程度で、あとはものこの感情動揺については「思考の断絶」になったような感じです。

それで正しいんですね。感情動揺を解いて霧散させようとする意識努力は、むしろ感情動揺を増加させることに大抵なります。感情動揺を生み出す大元であるところの、感情動揺がない自分という絵に書いた理想への駆り立てに自分から向うことになるからです。

では最新ハイブリッドで進歩した視点は、どう役に立ってくるのか。「感情の論理を解く」のにさらに役立ちます。
これは「感情の開放と理解」の範囲でやることです。あくまで「理解」の範囲で、自分でも不明な「感情論理」を解くと、変化の可能性がかなり出てきます。
感情そのものを解消するというニュアンス「感情を解く」という意識になってくると、これはむしろ感情強制になってきます。
まずこの違いを見分けていくのが、「前期」的な段階での中心課題になりますね。

そうして開放し理解したら、自己受容の姿勢で、もうそれ以上その感情を追わない。これが正解です。
事実僕の場合も、上記の翌日にはまた何ごともなかったように入社2日目が始まり、そして同じように感情の昇降はあれど、その中で何ごともなかったように続いている「ただの現実」を前に、はっきりと僕の中で「嘆くのをやめる決意」が成されたわけです。

自分の感情を開放し理解し、破壊の非行動化をしたら、あとは「感情を放置」する。これが基本的な治癒の方向性です。その時、治癒の内容としては、「ありのままの現実を生きる」ということへの近づきが起きるのだと考えられます。
魂がさらに強くなっていくわけです。

でその次には、「価値の生み出し」「否定価値の放棄」へと続け、「望みの看取り」なり、より根本的な実践に向うのが望ましいのですが、当時はそれを教える心理学もなく、僕はただ外面に向う「忘却の日々」に入った次第です。
心の底にある情動の塊は、消えてはくれません。1年後に、それを逃れられない自分をはっきりと自覚するわけです。

そこでまた、「生きる喜び」などという絵に書いた姿とは別の形での、魂の成長が起きます。
その紹介を次に。


心理学本下巻に向けての考察-162:「未知」への意志と信仰-54 / しまの
No.1415 2007/12/18(Tue) 11:06:40

■「現実」へとつながれていく「魂の感情」

先のカキコでは、「魂が感じる価値」を中心に据えた時、それを支えるための生活設計や人生設計というものが実に具体性を帯びてくる、という話をしました。

そこでは「夕日を眺める感動」だけを生きる価値にした時、年収2桁の生活という「現実形」が生まれるなどという例も出しましたが、それでは実際のところは「世捨て人」のような話になってきますね^^;
もしくはこの人がもうかなりの年齢で、若い時代にさんざん望みを尽くした経歴の持ち主であれば、もはや人と交わることのない生活の中で、満ち足りた残りの生涯を送るなんてことも考えることが可能になってくるのかも知れません。そんな人間にとっては、「千の風になって」で歌われるように、朝の光から夜の星々まで、そして空を飛ぶ小鳥から川面をはねる魚までの全てに「魂」が宿っているのを感じ、それに触れ合うことで満ち足りた生活を送るということが出てくるのかも知れません。これは遠い昔の人類において、何か実際にあったことのようにイメージされます。

「魂の成熟」とは、そして「魂の豊かさ」とは、そうゆうものです。

しかしそこまで人生を極めた後の話ではない我々現代の一般人としては、世を捨てずに社会の中での自分の生活と人生に向おうとした時、一挙に「人の目」に心が翻弄されることになるわけです。

それでも方向性は同じです。我々は魂が感じ取った「価値」で、「生きること」に真につながれます。魂が感じる「価値」でつながれた「生」は、無条件のものになります。もはやそこでは「生きること」が微塵の疑問も抱く必要のないものになるわけです。

「人の目」が気になった瞬間、「こう見られれば」という空想を基準として、「現在」は「仮」の姿と化します。「空想」が基準になるのですから、「現実」における「生」は、しっかりとつながれていない、脆いものになります。「こう見られる自分」になれない時、「生きる意味」が見えなくなったりします。


■「現実にありのままに心を晒す」ことによる魂の萌芽

そんな中で、「魂の感情」はどう豊かさを増していけるのか。どうすれば「魂の感情」を豊かにでき、生きることに確信と充実と喜びのある人生を始められるのか。

それがまだ見えない段階において、明確に指摘したい一点とは、「現実」です。「現実」に、どうありのままに、ダイレクトに、心を晒すかということだと言えるでしょう。
「理想と現実」という構図ではなしに、です。理想を基準に現実を見ると、現実が時に色あせて見えます。逆に、現実を理想通りだと思い込もうとすると、現実を虚構で粉飾して見る錯覚に陥ります。
そうではなく、「現実」をただ「現実」がそこにそのようにある。それをそのまま心に晒すという、心の機能があります。その時、「心」の表面よりも、「魂」に変化が起きるのです。

人の目感情に絶望的に翻弄される状況を何とか脱し、「魂感性土台」を知った段階、もしくはそれに相応する段階からハイブリッド取り組みを始めようとされる方に、まずお伝えできるのはそれになるかも知れません。

それ以前の深刻な心の障害傾向からの取り組み開始段階においては、「現実にありのままに心が晒される」ことは、往々にして「自己操縦心性の崩壊」を意味します。心の表面完全なる絶望感情と、しばしば希死念慮におおわれます。
しかしそれを越えると、魂の感情が萌芽します。これはもう例外なくそうであることが、相談事例においてもそろそろ両手で数え切れない数の段階に達しています。

そうした「魂の成長変化」は「こうなれれば」「こう見られれば」という「理想」に意識が取られた時、まったく視界に入りません。しかしそれは常にそのように、起きているのです。それにしっかりと目を向けることです。しっかりと目を向けることで、その魂の変化が心に定着します。しっかりと目を向けない時、「魂」の変化は「心」によって無視され、逆戻りさせられてしまうかも知れません。


■「喪失」の中で成長していく「魂」

「現実にありのままに心を晒す」ことによる「魂の成長変化」は、人生において不可避であるさまざまな「喪失」の体験の中でも起きているという、より一般的なことも言うことができるように思われます。
「心」はその時、「喪失」の側面しか見えていません。しかし「魂」「喪失を越えて豊かになっていく」ことが、DNAに刻まれた設計なのだと感じます。これは上巻原稿で書いたように、「望みを看取る」ことで「魂に魂が宿る」というメカニズムによってです。

ですからその点、世の人々は、あまりにも「喪失」を「あるべきことでない」と嘆き過ぎるように、僕としては感じるのですが..。まあこれをあまり表立った事件などに際して言うと、ちょっと道徳心の欠如を糾弾されてしまう嫌いがあり、とりあえずは、「世の悪事を断固許さない原理原則的対処」は別途あると言っておきましょう^^;

以前銘の言葉として次のようなものを思い浮かべたままでしたが、ここで書いておましょう。

「失うものは良く見える。しかしその時同時に得るものは目には見えない。その見えないものを見る目を持つ必要があるのだ」、と。


こうした局面での「魂の成長変化」についてちょっと実例も出そうかと思いますので、いったんここでカキコ。


心理学本下巻に向けての考察-161:「未知」への意志と信仰-53 / しまの
No.1414 2007/12/17(Mon) 14:03:49

■魂感性土台で見出す「価値」とそれを支える生活へ

先のカキコでは、「中期」取り組み2面だと書きました。
1)魂感性土台において価値を見出し生み出して行く
2)人の目感性土台において掲げられる「理想」が脆い根底理由を探る
まず最初の側面について、実情に即した説明をしましょう。

「魂感性土台」はまず、自分に向けられた強い感情のイメージを伴う「人の目イメージ」が消え、一瞬心がまっさらになったかのような、日ごろの日常生活とはむしろ切り離された時間のように体験されると思います。
それは大きな空に沈む夕日の美しさに感動し、常日頃人間関係で実に些細なことをめぐって神経をすり減らしていたのがバカらしいように感じられるような一瞬であったり、「千の風になって」のような深い愛への情感のこもったメロディーに耳を傾けたときに、思わぬように自分の中に湧き上がる、何か子供の頃に失われたものを希求するかのような、あまりにも濃い感情として、体験されると思います。こうして思い浮べただけでも、ちょっとジーンとくるものがある^^;

そこには何かの「感動」があると思います。そfれはもう「人の目」には全く依存しない「感動」です。その瞬間、自分が「この感情において生きている」と感じることのできる状態になっていることを、分かると思います。
事実そのように、「魂の感情」に身を委ねた時、我々は「生きる理由」など考える必要もなく、「魂の感情」によって、生かされるのです。

このような「魂の感情」が向う先、つまり「魂の感情」が求める先にあるのが、「魂が感じる価値」です。
それはもうそれが何なのかと言葉で定義して納得する必要さえない「価値」です。それを敢えて言葉にすれば、「無条件の愛」であったり、「自然との一体化」であったりします。


■「生きていける」最低ライン..

「魂が感じる価値」はそのように、他者に依存することなく、極めて自律的「自分がこの感情において生きている」という充実状態を生み出すものであり、人生において全くブレのないものになります。

従って、このように「魂が見出す価値」を知り、それを別の視線から見下す(これはこのあと説明します)ことなく、大切なものと尊重した時、「魂が見出す価値」の体験を支えるための生活行動を考えるという発想が可能になってきます。
これは「魂感性土台で価値を見出し生み出す」ことそのものではなくなってきますが、それを支えるための行為として、「魂での価値の生み出し」に準ずる行動と位置づけることができるものになります。

例えば大自然の中で沈む夕日に感動するという「魂が見出す価値」を支えるために必要なものとは何か。
これはとにかく生きていければいいという、最低限の生活費を稼ぐ、という話になります。また、その風景を見るために遠くまで出かける必要があるのであれば、そのための必要事項を賄うことが必要です。

ここから話が実に具体的になってくるわけです。実のところ大自然の夕日に感動する体験魂の価値として持ち、それ以外の雑多でブレの多い「人の目の中の価値」に心を惑わさない人間がいたとすれば、3桁に満たないような年収の仕事を細々と続けて生きることで、もうそれだけで幸せな人生生活になるという、「現実形」が考え得るようになってくるということです。
まあ夕日に感動するのが人生の全てとする訳にはちょっといかないのが現実の我々ですね。


■「支えるべき魂の価値」を知った時無意味な仕事が意味を持つ

しかし考え方はまさにそうなのです。我々は一体どれだけの「価値」のために、日々の生活を送っているのか。我々が生活の大きな時間をそれに当てる「仕事」とは、どれだけの「価値」に本当に対応しているものなのか。

全てが「魂の価値」に直結するものになるのであれば、これはハイブリッドが考える理想形になります。例えば僕が執筆だけで生活できるのであれば、これはかなり僕としても理想形に近くなると考えています。
しかしそうは問屋が卸さない。「現実」というのはそうは安々といくものではありません。で僕もまたITの仕事で収入を得ることを考えている。これについては僕自身かなりその現実解を描くのにブレがありましたが、最近かなり現実的な着地ポイントが見えてきました。この技術分野でこの程度の収入で、執筆とどの程度両立できるかとか。

でそうした「生活設計」を、「魂が感じる価値」をしっかりと中心に置いて描くことができれば、結果の外面においては魂などないという顔をして仕事してた時と同じように、結構面白く打ち込める自分を感じてもいる次第です。これも案外楽しいじゃん♪という感じ。
しかしかつての僕がそうであったように、ITを天職のように捉えその中で人の上に立てる技術を極めることを自分のアイデンティティであるかのように考え始めた時、何かが失われる。

失われた結果の姿を、僕はもう充分体験しています。組織で認められることの中に自分の人生があるかのように感じていた、思い返すと別人の自分がいます。ほんの5年前までです。
さらに20代も終る頃まで時間を遡ると、中規模システム開発会社から大手コンピュータ企業に移り、格段にデカいプロジェクトで仕事をするようになった自分がいました。分刻みのスケジュールの中で時に打ち合わせ場所の移動のために短距離走のように走る自分に、バリバリの有能な人材という自己像に酔った時も。

しかしそんな中のある日、突然目の前の仕事の全てに全く意味感を感じられずに頭が真っ白になっている自分を、見出すわけです。いったい僕はなんでこんなことをしているのだろう。僕の人生はいったい何でここに来たのだろう。
そしていたたまれない気分になり、職場を抜け出して、おだやかな日差しの中、公園に接する街路をゆっくりと歩きます。仕事のことなど微塵も考えることができない僕の脳裏に映り流れていたのは、やはり小学校時代の漠然とした映像であったりしました。こんなことしてない自分という人生も、本当はあったのかも知れない..と。そうして30分ほど時間をつぶし、仕方なく職場に戻り、ただ淡々と仕事を続けた。
思い出すと目頭が熱くなる感がありますね..

ということでちょっと余談が入りましたが、「魂が感じる価値」を中心に置いて生活設計や人生設計をするというのは、実に具体的で現実的な検討事だということです。
そして、「魂が感じる価値」を支えるためのものと位置付けることができた時、全ての行動に意味が感じられます。


我々が携わらねばならない「仕事」とは、それ自体に魂で価値を感じていくなどというのは、まず無理であるのが現実だと思います。しかし魂で感じる価値を持ち、それを支えるためにしているものである時、やはり仕事に魂がこもるという姿になるようです。
この辺、仕事に打ち込む人なんでそんなことにそこまで意気込めるものかと冷笑的な観念を抱く時、何か見誤っているかも知れませんね。

ただしまあ、魂を見失った結果仕事中毒というのが、現代社会の大きな問題なわけで^^;
夕日に感動する時に「魂が感じる価値」自律的なものであることは分かっても、それ以上に人生で求めるものを考えた時、それはやはり「人の目」の中にあり、「どう見られるか」ありきの感情動揺の世界に戻ることになる。
その段階での視点を次に。


心理学本下巻に向けての考察-160:「未知」への意志と信仰-52 / しまの
No.1413 2007/12/17(Mon) 10:59:10

■「魂感性土台」で見出す「価値の生み出し」

ハイブリッド取り組みの「中期」でまず目標にする「価値を生み出す」ことは、「魂感性土台」の上で実践します。

「人の目感性土台」の上では行いません。「人の目感性土台」の上での心の動きについて行うのは、全て「前期」のものだけです。つまり破壊の非行動化自己理解のみです。これは最後までその形で残ります。
「中期」「後期」では、全く異なる心の領域を使った歩みを取り入れます。

これは深刻な心の障害傾向から取り組みを始めたケースにおいては、「中期」は、本人の意識においては今までと全く異なる、新たなる人生に向うような心づもりが生まれている状態であるはずです。僕の『悲しみの彼方への旅』では大学4年を終え大学院へ向う時のように。
一方「中期」から合流してこられる、人間関係でストレスを抱えやすい程度の一般のご一行様におかれましては(^^;)、「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いを充分に理解して頂くことをもってスタート条件とします。

その上で、今までと全く異なる「心の使い方」として、「魂感性土台で価値を見出し生み出していく」ことを方向性として実践して頂くわけです。


■まず「人間関係には一切関らない視野」で

これは実際のところ、その最初においては「人間関係には一切関らない視野」にて行うとでもいうような内容から始まる形に、かなりなってくるかも知れません。

それと言うのも、人間関係が関係すると、どうしても人間関係を良くすること「価値」と感じ、今まで考えた「人間関係を良くする方法」の延長で「価値の生み出し」を考えてしまう轍が考えられるからです。

今まで考えた「人間関係を良くする方法」に根本的に誤りがあるのを、ハイブリッドとして軌道修正したいわけです。
はっきり言って、人間関係を良くしようとする思考法が、人間関係を悪くしています。真に人間関係を良くする方法は、人間関係に全く依存しないところに価値を見出し生み出すことが、共通目標共通利益になる所にあります。
これは当然なんですね。脆いものをつなぐために、同じく脆いものを使っていては元も子もありません。揺らぎないものによって脆いものがつなぎとめられた時、全体が一体となり輝く調和が生み出されます。

ですからハイブリッド「中期」の取り組みも、大きく2つの面を持つことになるわけです。
一つの面は、魂感性土台において価値を見出し、生み出していくことです。魂感性土台において見出された価値は人生において微動だにしない安定性があります。
一方、人の目によってつながれた価値は、ガラス細工よりも脆いものです。この脆さの根底の原因を理解していくことが、もう一つの面の取り組みです。それにより人の目由来の価値が破綻の中に飛び散った時、魂が見出す価値が増大しています。


■「あるべき理想」vs「価値の生み出し」?

なぜ人間関係を良くしようとする思考が、逆に人間関係を悪くしてしまうのか。

これはもちろん「人間関係を良くしようと考えなければいい」なんて話ではなく、「人間関係」という領域においてもここでテーマにしている思考法行動法が問われるということです。
つまり「価値を生み出す」ということです。「良い人間関係」は間違いなく「価値」となるものだと思います。人間関係を良くしたければ、人間関係における「価値」を生み出すという思考法行動法が望ましい。

それがそうではなくなってしまうのが、「価値を生み出す」ではなく「あるべき理想」という思考法になります。
事実、「あるべき理想」を抱くことと、「価値を生み出す」ことは、思考法行動法としては全く別世界のものになります。

実際、「価値を生み出す」ことをあまり知らないままでいる方、これはイコール人生の生き方をあまり知らずに人間関係でもストレスを抱えやすい方ということになるほどの大局的な話になるのですが、そうした方々の様子を見て感じるのは、「理想」というものが果たしているらしい、あまりにも皮肉な機能とでもいうべきものです。
人々は「あるべき理想」を自分がちゃんと知っているということに自尊心を感じているのですが、「現実」の中においてできているのは、その「理想」から自分を処罰し、他人に怒ることです。そしてこの自己処罰し怒る姿において、「理想」とはまるで違う姿になってしまっています。

なぜそんなことになるのか。「理想」そのものには確かに間違いはないのですが、何かを根本的に誤っています。
「思いやりが大切」と人は良く考えるのですが、それを強調する人に限って、見るとどうも思いやりがないように見えることがしばしばあります。これは当然と言える事態が、実は起きています。この人は「思いやり」を思いやっているのであって、相手を思いやっているのではないんですね。

僕自身「思いやりが大切」なんて思考はてんでしませんが、自分を見ると実に最大限に人を思いやっているかもと思えます。まあ手前味噌ですが^^;
なぜだろうか。僕は人と人との間での「思いやり」を見ずに、全ての人の中にある「命」を見ますそのせいだろうと思います。「命」を見た時、そこには必ず、不完全な存在としての人間の弱さが見えます。弱さが見えた時、自然とそれを思いやる思考法行動法になるように感じます。

とりとめのない話になっていますが、そのように「価値を生み出す」とは、「あるべき理想」を掲げることとは全く相容れない、人間の心の2つの別世界を示しているように感ます。
それがひいては「否定価値の放棄」につながっていくのであろうと。
「否定価値の放棄」については、今までの説明がどうも「否定価値感覚を捨てる」という、「これをやめる」という消極形でばかり説明を試みた嫌いがあり、僕としても納得感に至れなかった面があります。本当に重要なのは、代わりに何があるのかという積極的な側面になるのでしょう。

それが「価値を生み出す」ということです。これを知った時、「否定価値の放棄」は自然に導かれる方向に向うのかも知れません。

「価値を生み出す」ということがどうゆうことなのか、より具体的に。


心理学本下巻に向けての考察-159:「未知」への意志と信仰-51 / しまの
No.1412 2007/12/16(Sun) 18:49:16

■「価値を生み出す」とは

例により定義から始めますと、「価値を生み出す」とは、文字通り「価値」を新しく作り出すことです。

「価値」とは、「喜び「楽しみ」「感動」を生み出すものであり、「あらゆる向上」です。それを、自ら新しく生み出していくのが、「価値を生み出す」ということです。
例えば、料理の新しいレシピを作ったり、感動した風景の写真を作ったり、友人とのお喋りの中で単なる世間話を超えたテーマに関心を持ったり、喜びのある家庭生活を送ったりといった全てが、「価値の生み出し」です。

先に書いたように、こうして「価値を生み出す」ことが、「生きること」の重要な部分になると同時に、「自尊心」の基本的な源泉の一つになります。

「自尊心」の源泉4つ言いました。心を病む方向においては、「依存の格上げ」という背景の中で、「人に打ち勝てる自尊心」「愛される自尊心」
まあ「人に打ち勝てる」は一見して「依存」とは関係なく、例えばスポーツにおける勝者の栄光のように自然で健全なものに感じられるかも知れませんが、「価値の生み出し」を伴わない、「人に打ち勝てる」ことだけに向けられた自尊心は、次第に病んだ性質を帯びるのは何となく想像できると思います。
まあそれは「愛される自尊心」も同じ話で、心を病むメカニズムが入り込むのが人間の不完全性であることにおいて、こうした「相手依存」の自尊心の側面多少はあるのがむしろ自然です。その中で、「価値の生み出し」を伴わずに一方的に愛されることを求める様相が強くなるに従って、病んだ性質を帯びてくる。

「成長」が「弱さ」から「強さ」に向うことと考えても、まず「弱さ」において「人に打ち勝てる」ことと「愛される」ことで自尊心を支えようとするベクトルが強い状態から始まります。
しかしそれでは本当の自尊心が得られないことを、人生の体験の中で身をもって学び、「価値の生み出し」の方にこそ真の自尊心を築きあげることができるのを知っていく
これが健全な心の成長の姿と言えるでしょう。

「人に打ち勝つ」ことや「愛される」ことが「喜び」である。これは「価値」ではないのか。
まあそれも「価値」ですね。しかしこれは「与えられる」形における価値です。「価値」を自分で作り出すことはできない形での「価値」です。
また、「人に打ち勝つ」ことや「愛される」ことを「価値」とした時、それを「期待」して相手に向うのですが、相手に向うこと自体は「価値」を生み出すものではなく「期待」したものが与えられるかどうかの形になることにいおいて、新しく生み出される価値というより、既知の価値の再現充足を求めるというような、やはり過去向きの価値になります。

「喜び」「楽しみ」「感動」そして「あらゆる向上」そのものに価値を置いた時、それに向う行動そのものが価値を帯びるものとなり、生み出される価値は常に新しいものになります。
僕はスキーを楽しみとしますが、これが生み出す「楽しみ」はたった一つとして「同じことの繰り返し」であるものはありません。実際「同じことの繰り返し」内容である場合は、「楽しみ」はもうかなり減少しています。スキーでは二つとして、同じ斜面を同じシュプールで同じスピードで滑るなどということはあり得ません。全ての滑りが「唯一無二」のものになるのです。だからいつまでも飽きない♪

「価値を生み出す」とは、そうゆうことです。


■「価値の生み出し」を妨げる基本要因

「価値を生み出す」ことを妨げる最も基本的なものは、「怒り」「恐れ」です。

「怒り」「破壊」であり、「価値」についても基本的には破壊の方向で作用します。つまり「価値の破壊」です。
「怒り」が遠回りに「価値」につながることも、僕は認めるにやぶさかではありません。確かに「怒り」だけがエネルギーのように感じられる人もいるでしょうし、「怒り」が実際に望ましくないものを取り除けば望ましいものが生まれることにつながる可能性も出てくるでしょう。
しかし「怒り」そのものが直接「価値」を生み出すことは、全くありません。できるのは準備段階までです。しかも負の方向性での準備です。
「怒り」が「価値」を生み出すと感じるのであれば、それは全くの錯覚です。

「恐れ」「喜び」「楽しみ」を麻痺させます。心が危険に脅かされている時、楽しむことはできません。「恐れ」によって、心身に「縮こまる」という萎縮圧迫が起きた時、「向上」を生み出すための行動も実際妨げられます。


これを基本知識として、「魂感性土台」で「価値を生み出す」ことを見出していく、という「中期」本論を次に。
心は「人の目感性土台」との混合の中にあります。それをどう考えていけばいいのか。
それが実践になります。


心理学本下巻に向けての考察-158:「未知」への意志と信仰-50 / しまの
No.1411 2007/12/16(Sun) 12:44:25

■「中期」の基本目標「価値を生み出す価値を知る」

「前期」の節目となるのは「魂感性土台の体験」であり、その上において「自分で自分を守る」という感情を見出し、「嘆くのをやめる」という意志をつかむのが、「中期」への移行を節目づけるものになります。

こうした大きなくくりにおいて「中期」でまず基本的な道標になるものを言うことができます。
「価値を生み出す価値」を知ることの体得です。

これをさらに大きなくくりから表現することもできるでしょう。「前期」とは「動揺からの脱出」であり、「中期」とは「新たな生き方の模索」であり、「後期」とは「命の見出し」です。
前期はマイナスを減らし、後期でプラスを得ます。この大きなくくりにおいて、プラスとして得るのが、まずは「価値を生み出す」ことの価値を知ることです。

「中期」としてはこれまで、「健康な心の世界」「心の自立」を言いました。これは主に外面行動の枠にしたい指針です。「3つの土台幻想」と「存在の善悪幻想」は、それを妨げる内面理解の指針です。
そうした外面行動と内面理解を携えて、「価値を生み出す」という価値を体得するのが、「中期」でまず目標になります。


■「自尊心」と「今を生きる」視点から

自尊心のあり方からも、大きな整理をすることができます。
今までの生き方、まあ「心を病む方向」と言える生き方においては、「人に打ち勝てる」ことと「愛される」ことにおいて自尊心を感じます。
新たな生き方「健康な心の方向」においては、「価値を生み出す」ことと「自ら愛する」ことにおいて自尊心を感じます。

これは自尊心の形について4種類を言う整理になりますね。以前、「人を打ち負かす」「調和」「価値の創出」といった3種類という整理を言ったことがありますが、それよりも上記の2方向それぞれに2つというのが分かりやすいと思います。

心を病む方向での「人に打ち勝てる」「愛される」という2つの自尊心は、「評価」というのを、それが得られるかどうかの媒介にする形におよそするようです。自分の方が上だと相手を見下す「評価」。相手が自分を「評価」して、愛してくれる。
これは時間が過去向きになる自尊心ですね。過去の結果としての評価で、決まるという形。

健康な心の方向の自尊心では、時間が未来に向きます。生み出すこと、そして自ら愛することが、そのまま自尊心になります。
これによって「今を生きる」ことがその真の意味を持つようになります。
一方、「評価」という時間が過去に向う自尊心においては、「今を生きる」ことが失われていきます。もちろんこの先には、「評価」されるべきものそのものがジリ貧になっていくという隘路が当然生まれることになるでしょう。

もちろん「価値を生み出す」ことにおいても、「評価」というチェックポイントはあります。きちんと価値が生み出せたのかどうか。それによって、次の「価値を生み出す」行為がより効率的に、より着実になります。
それはそうですが、あくまで「価値を生み出す」ことの効率性と確実性のための評価であって、この「評価」自体はもうあまり自尊心の対象ではありません。

「自ら愛する」ことができた時の自尊心には、「評価」もへったくれもありません。ただそれだけで自分の心が満ち足り、自己肯定ができる形になります。
ですからハイブリッドにおける自尊心の完成は、「価値を生み出す価値」を助走のような形にして、「自ら愛することができる」という自尊心を見出すことだと言えます。

「今を生きる」中に見出す自尊心を知った時、時間が過去に向いた形でなぜ自尊心を感じることなどできるのだろうと、むしろ不思議な感覚さえします。
まあそれが病んだ心のメカニズムになるのでしょう。「依存の格上げ」の結果、そうなるのだろうと。より多くの庇護を与えられることに自尊心を感じるというものになる。


■あらゆる障害感情への対抗打となる「価値を生み出す価値」

「価値を生み出す」ことの大まかな位置づけの最後に、それはあらゆる障害感情への対抗打となり得るものです。

自己処罰感情と抑うつ、空虚と無気力、不安と恐怖、そして嫌悪と怒り。障害感情はさまざまあれど、それを健康な感情へと切り替えるための心の源泉はただ一つです、とさえ言えるような気がする。
それが「価値を生み出す」ということです。
これが、「喜び」「楽しみ」そして「勇気」「気力」を自然に引き出すわけです。

「価値を生み出す」ことが、「生きる」ということそのものだとさえ言えるかも知れません。
その先に「自ら愛する」という最後の道標があるわけです。


そんな大まかな位置づけとして、「中期」の始まり段階から、「価値を生み出す」ことへの具体的方法論などを次に。


心理学本下巻に向けての考察-157:「未知」への意志と信仰-49 / しまの
No.1410 2007/12/15(Sat) 13:59:03

時間をかければかけるほど僕としても明らかに視点が洗練されてきており、本の方もまだまだじっくりでいいかなーという気も起きている今日この頃^^;
そろそろ収入仕事の傍らで執筆するパターンに移行するかも。えへへ。



■「人の目」とは別の世界への歩み

先のカキコでは最新視点から「前期」のまとめをしましたが、つまるところ、「魂感性土台」を知り、「自分で自分を守る感情」を知り、「嘆くのをやめる意志」を知るまでがそれだということになります。
「中期」の実践は、その心の先で行うものです。つまり嘆くのをやめ自分で自分を守るために人の目のない心の視野において、社会での生き方を探る歩みになります。

この前提なしに、「中期」の主実践である「現実において生み出す」方向性などを考えると、話しがおかしくなります。人の目の中で、現実において生み出している自分の姿という話になってくる。
これは間違いなく行き詰まります。

なぜ行き詰まるのか。「前期」の取り組みへと戻れば分かるでしょう。とにかく自分を理解することです。
「人の目」の中で生きようとする時、我々の心は人の心の中で自分がどう位置づけられているのかという、「人の空想を空想」する意識におおわれます。その姿そのものが、人の目の中で人の目を気にすることなく伸び伸びと生きて人と接している自分という「あるべき姿」を阻害しています。そして容赦ない自己処罰へと、戻るわけです。

なぜこんなことになってしまうのか。根本的に、魂の感性とは別の道に歩んだ根源に原因があります。「生から受けた拒絶」への悲しみなど飲み込み、そんなものなどないという顔をして生き始め、自分がこうむった「存在への拒絶」をこの世界を生きる上でのルールにまで格上した、「存在の善悪バトル」に生きようとした道です。そうして「存在の善悪」を選り分けようとする「人の目」の中で生き始めたわけです。
その中で、「存在が善」になるための絶対的な基準を求めるようになる。それをめぐって、「善になる」ことを求める心は、自分でも分からないままに利己性攻撃性を帯びてきています。そして激しさを増す「存在の善悪バトル」の中で、疲れ果て、怯えるしかできなくなった自分を見出すわけです。

それが「人の目の中で生きる」ことだという、全体を理解することです。
この新しい説明が、「前期」自己理解の取り組みになります。

「前期」は主に深刻な心の障害傾向の方の場合に、じっくりと時間を要しながらの実践が必要になるものと位置づけています。
そこでは、「絶望」がかなり大きな役割を果たすことになるでしょう。今までのこの生き方が全く進む先を持ち得ないことを心底から自覚する一方で、魔法のように新しい生き方が与えられるわけではありません。
ただ「未知」だけが灯台の灯りとなり、実際そこに向うことで、やがて、魂の感性土台と、自分で自分を守る感情と、嘆くのをやめる意志という「未知」が見えてきます。

全てはそこからです。


■「魂感性土台」において「生み出す価値」を探す

「中期」はまず、「現実において生み出す」という方向性を主眼とします。これは「魂感性土台」の上で実践します。

この言葉は、ハイブリッドに取り組んでおられる方の多くにとって落胆を感じさせるような、道のり上での自分の位置認識を一気に戻してしまう話になるかも知れません。
つまり実際、「人の目」意識を対象にして行うのは、全て「前期」段階です。破壊の非行動化を心がけ、自己理解を行って下さい。

その先にあるのは、「人の目感情の破綻」しかない。そんな結論さえちらほら浮かんできますね。その絶望の先に、上に言った「未知」が現れる。その先に、「中期」「現実において生み出す」実践がある。

「中期」歩みはじめ段階としては、人に面すると「人の目感性土台」に心がおおわれてしまう、一方でそれが幻想の世界であることも自覚できる、というようなレベルを考えています。
また心理障害とまで言わなくとも、対人関係などでストレスを感じやすい方、まあこれが大量読者層を狙いたいところですが(←ちょー打算的〜^^;)、そうした「心の悩み」程度の方の場合も、しっかりと「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いを理解して頂いたことをもって、「中期」から本格的実践を始めて頂くという段取りを考えています。

ということで、最新視点からの「中期」まとめへ。


心理学本下巻に向けての考察-156:「未知」への意志と信仰-48 / しまの
No.1409 2007/12/14(Fri) 12:15:11

■「前期」の目標サマリー

「前期」取り組み内容と目標をサマリーしますと、感情の動揺に翻弄される状況から始め、まずはそれに対し今までの問題悪化姿勢を脱し、外面においては破壊の非行動化、内面においては開放と理解を進めることで、やがて人の目に翻弄された今までとは全く異なる脳の領域つまり「魂感性土台」が自分の中にあることを、実感としてつかむことを、まずは目標として掲げたいと思います。
そして自分を自分で守るという感情を自分の中に見出すことです。一方その時、脅威は自分自身の中にこそあることも分かる形になるでしょう。

つまりこれは一言でいうと「一人立ち」の始まりです。そこまでを、前期の目標としたい。

そして「自分で自分を守る」という一人立ちにおいて、「嘆くのをやめる」ということがとても重要な心の決意になるということを、学んで頂きたいと思うわけであります。
「嘆き」とは、「誰かに依存する」という基本姿勢です。ぼくちゃん嘆く役、だれか解決する役と^^; そして嘆きの甘い気分に浸ります。
嘆くのをやめるとは、「自分にできること」をはっきりさせ、ただそれを行うのみと意識を決め、そしてあとは「覚悟」を決めるということです。


■「健康な心の世界」に向うための心得:まず「原理原則的な見識」を高める

一人立ちする先の世界に、「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」があることも、この時に学んでおきたいことです。

「病んだ心の世界」とは、「存在の善悪」という目で相手を見る世界です。これは「幻想」です。そしてこの幻想のベールが取り去られ、フェアなスポーツのように誰もが同じ「今を生きる」というスタートラインに立つのが、「健康な心の世界」です。存在に善悪があるとは、過去の何かで存在が決まっているという、「今を生きる」ことのない世界です。

一方で、「存在の善悪」という目で他人を見る人は沢山います。また自分自身が、人を存在の善悪に選り分ける感覚に駆られ、人に選り分けられることに怯える感情を抱えてもいるでしょう。

それについてまず言えることは、そうした「存在の善悪感情」については、流されることなく、またそれを「誰とでも親しくなれる」とかの絵に書いた餅の理想像から咎めることもなく、そのまま流れるに脇に放置した一方で、「健康な心の世界」側でものごとを処する技術を学ぶことです。


■「感情と行動の分離」の「積極形」で社会へ

これについて、多くの方がループに陥ります。自分で自分を守るという感情を見出し、自分を脅かすものが「存在の善悪という視線」であり、それが自分自身の中にあることを自覚した先に、それがなくなった自分を求めるというものです。自分が自分自身にとって存在が善になるために。

これでは全くの同じことの繰り返しです。全く「現実」というものが見えていません。「現実」とは、スポーツにおけるフェアなルールと罰則の世界であり、その中で各人が、、どのような技術修練をして活躍しているのかです。これに対して、誰々が、そして自分が、誰の心の中で、そして自分の心の中でオーケーだと見られているのかという懸念は、もう完全に「空想の世界」でしかありません。
事実それが、「“人の空想”の空想」なのです。

そこまでも分かるでしょう。そして「空想の空想」をしている自分では駄目だ、と考える。「空想の空想」などしない自分にならなければ、と考える。
同じことの繰り返しです。

自分がどうなれるのかでは、ないのです。一人立ちした先の世界には、必ず「課題」があります。その「課題」は、その「課題」のための、その「課題」自身による(どこかで聞いた言い回しのような^^;)、「答え」を求めています。「自分がどうなれるか」とは全く無関係に。
それを学び、実践していくことです。


まあこれは「感情と行動の分離」の新たなるスタートと言えるものになるでしょう。
まずそれは「感情を鵜呑みにしない」ことで始めてもらいました。これはまだ「消極形」と言えます。
一人立ちする先の「感情と行動の分離」は、「現実において生み出す」という、「積極形」における感情と行動の分離です。

まずはこの姿勢の獲得をもって、「前期」をほぼ完了し、次の「中期」へ歩むものとできるかと。


■「前期」における谷間の役割:「現実」への向き合い

それができない。「現実において生み出す」ということにおける「価値」が分からない。この場合の考え方も説明しておきましょう。
これはやはりまだ「前期」段階での取り組みが大幅に残されているケースです。破壊の非行動化と、感情の開放と理解を引き続き進めて下さい。

「前期」で実践することの内容についてはおよそ分かるものの、上述のような完了段階には至れない。この場合の脱出ポイントは、「現実への向き合い」にあります。

根本変化への脱出ポイントは結局3つになると先日書きました。
「愛」においては「生から受けた拒絶への嘆き悲しみをそのまま流す」こと。これは「存在の善悪幻想」そのものの解除につながっていきます。
「自尊心」においては「現実において生み出す」こと。
「恐怖」においては、自分を脅かしているものの正体を知ること。それは自分自身であること。

「一人立ち」という「前期」完了未満の状況では、前の2つはまだ見えません。できるのは、最後の、自分を脅かしているものの正体を知ることです。まずそれが課題になります。
それと、「現実において生み出す」ものの「価値」が分からないということの関係があります。
それはやはり、愛情要求が全てをおおいつくしていることです。愛情要求そのものもさることながら、自尊心も「愛される優越」だけしか見えず、「恐怖の克復」も「愛されれば安全」しか見えない。

これは、「現実」をどう考えるかの問題になってきます。そのように「愛されることが全て」と考えるか。そして、そう考えて生き続けて、実際愛されるだろうか実際に愛される人間とは、まず愛情要求が全てではない人間です。愛情要求が全てだと、逆に愛されない可能性が高い。
でも愛されないと、「現実において生み出す」という「価値」がそもそも感じ取れない
もちろんこれは、深刻な心の障害傾向において生まれる状況であり、生きる先が見えない絶望につながる可能性があります。

しかし最後には、「死」を天秤にかけて真剣に生きることを問う谷間が、脱出への根本的な役割を持ちます。結局、頭で「こう考えられれば大丈夫」などというのは、嘘です。身をもって「現実」に心を晒した時、「頭で考える」ことの中には生まれない、「生」へのエネルギーが心の根底で引き出されます。絶望の谷間を越えた先にという形になるかも知れません。
ここではがやはり「未知」が進み得る唯一の明かりになります。

ちょっと余談ですが、TVのワイドニュースにちらっと織田裕二がインタビューに答えていて、何と彼も一度自殺念慮を持ったことがあり、その時の開き直りがあって今があるとのこと。やはり人は「恵まれた条件」などで豊かになるのではないんですねー。

そこに「ただ生きる」というエネルギーを見出した時、「自分で自分を守る」「嘆くのをやめる」そして「現実において生み出す」ということの意味そして「価値」が見えるということになるでしょう。


これが「前期」の完了です。これは今までの心理学から考えれば、もうほとんど心理障害の完全脱出に近い話になると思います。新たな人生の始まりですね。

だがそこから「否定価値の放棄」までがまだかなり距離がある。何があるかを見ていきましょう。


心理学本下巻に向けての考察-155:「未知」への意志と信仰-47 / しまの
No.1408 2007/12/13(Thu) 22:47:57

■ハイブリッド道のりにおける内面姿勢のギヤ

ハイブリッド実践において、内面感情について直接意識して取る姿勢には、5つしかないということになります。
感情の開放と理解」「嘆くのをやめる」「怒りの放棄」「楽しみの追求」そして「愛への願い望みを自分で受け止める」。

これ以外は、「湧き出るに任せる」です。さらに言えば上記においても全て、まずは湧き出るに任せることから始めます。上記は、その中で敢えて意識して感情が流れる方向を自分から変えていくということになります。
これが、「感情と行動の分離」から始まる外面向けの思考法行動法と結びつくことになります。また結びつかないとできない面が多々あります。
それを整理すると、以下のようにサマリーされます。

「前期」..「感情と行動の分離」
「感情の開放と理解」
 ===> 「魂感性土台の体験」「自分を自分で守る感情」
「嘆くのをやめる」

「中期」...「健康な心の世界」「心の自立」
「怒りの放棄」
「愛への願い望みを自分で受け止める」
 ===> 否定価値の放棄・不完全性の受容
「楽しみの追求」

「後期」...「魂の望みへの歩み」


■「前期」の内面姿勢

「感情の開放と理解」という基本枠の開始です。感情の強制をキャッチし、それを解除することを学んでいきます。頑固な感情強制は、感情分析の進展の中でキャッチできるようになっていきます。

なお「感情分析」が何かについては、結局「自分を理解する」というそのままの話であり、それを感情メカニズムの理解を補助にするというだけの話として、あまりそれ以上の説明は本ではしない見込みです。「洞察効果」の特殊性くらいかな。治癒が感情分析に依存するという論調はもうやめ、魂論をベースにして何をどうするかをはっきり言うようにします。

感情の開放自己理解が進むと、深刻なケースでは多少の心性崩壊も経ながら、「魂感性土台の体験」が訪れ、「自分を自分で守る」という感情が見えるようになります。

これをもって次の「中期」と考えるのでもいいのですが、「前期の仕上げ」的なものとして、2つ目の内面姿勢をぜひ心に刻み込んでいただきたい。
「嘆くのをやめる」というものです。

「嘆くのをやめる」とは、「悲嘆衝動」に耽るのをやめるということです。「悲嘆衝動」とは、気に入らないことを目の前にした時に、不満を強調し嘆く甘い感情であり、親からはぐれた雛が親を求めて鳴き続けている時の感情とほぼ同じ位置づけのものです。
人間の大人の場合、もちろん嘆きを強調して親が飛んでくることを想定してはいないでしょうが(^^;)、その「耽美的」とも言える「甘さ」の感覚が一人歩きしており、嘆くと何となくその感情にどっぷり漬かるという、奇妙な心理状態が起きるものです。

これは「庇護幻想」が背景にあるものと言えるでしょう。「誰かが助けに来てくれる」という感覚が、明晰意識ではないまま背景にあるわけです。

この「嘆くのをやめる」「前期」の仕上げとして位置づけられるとは、どうゆうことか。
「魂感性土台の体験」と「自分で自分を守る感情」の上に、これが成されるということです。

つまり、「人の目イメージ」が消えた感覚の中で、「自分を自分で守りたい!」と願った時、「嘆くのをやめる」ことが真の意味を持つということです。決して、嘆かない自分が人に良く見られることを期待するということではありません。

「嘆くのをやめる」とは、嘆く代わりに答えを出すということです。答えはありますので。
この「答え」は、自分が自分を守るという姿勢において、「何ができるのか」の答えです。それによって嘆いた事態が消えるとは限らない上での「自分にできること」には答えが必ずあります。嘆く代わりに、それを考える姿勢を取るということです。

それでは思いが叶うとは限らないでのはないか。その通りです。「現実」がそうであるのであれば、「現実」がそうであるという、ただそれだけのことです。それを受け入れるという姿勢が、「嘆くのをやめる」姿勢です。
つまりここには「覚悟」というものが出てきます。
「自分にできることをする」そして結果については「覚悟」をする。これで、「嘆き」はなくなります。

これは「選択」です。「魂感性土台」が実感として分かり、「自分で自分を守る」という感覚が分かった上で、成せる「選択」です。
「中期」の実践については、この上にあるものとして、「嘆くのをやめる」ことを成した範囲から先に進むものとして、取り組んで下さい。そうでない範囲については、再び「前期」の、基本的な自己理解や自己受容の取り組みを検討して下さい。



■「嘆きの基本姿勢」を脱する

「前期の仕上げ」として「嘆くのをやめる」を位置づけることの主旨は、「嘆くことが基本姿勢」というのがやはり最初にはありがちであり、「魂感性土台の体験」を足場にして、一度かなり大きな決意として、広範囲な自分の嘆き傾向をやめようとする姿勢を取ることが、一つの節目になると考えています。
「中期」の取り組みは、その後に本格的に始めることができるでしょう。

ここでは僕自身のそんな決意をした時の日記を紹介します。
これは一度、2006/10/30「心の表と裏のメカニズム-7」で紹介したもの。ちょっと文字の色を変え再度載せます。

1985.5.6(月・振替休日)
 この1か月、ちょっとした憂うつや孤立感を感じることはあっても、けっこうすぐに立ち直り、けっこう元気にやってきた。
 だがここ最近は何となく悪い、というよりも
下降の方向に向かっていたように思える。心の中で、自分から他の人達への疎外感を抱いていき、そして自分は嫌われているという感情の中にいる自分を見られていると思い、“どうせ自分ははぐれ者だ”という退廃的な感情を抱く。人を積極的に愛する心が自分にはない、という思いが、僕を苦しめた。自分が自滅的な思考に陥っていることを分かりながらも、「愛のない自分」への自己嫌悪感をどうすることもできなかった。
 今日になって僕は、“以前よりも人と一緒にいることができる”かどうかを思案している自分を自覚した。だが
こうして“以前よりはいい”と考えることができるだけのままでは、もう不毛に思えた。今すぐにでも自分を変えない限り、全てが同じことの繰り返しに思えた。

 午後、一人で壁打ちテニスに行く頃になって、僕は自分に疑問を突き出した。
“自分はのけ者だ”という感情に悩みながら、本当にその感情をなくす気があるのか?“自分はのけ者”という感情にいつまでも浸りながら、その上で自分がどれだけこの社会でまく行けるのかと眺めているだけはないのか?
 それは僕の心の中にあった霧を、消したような思いがした。
 
もう一度自分に対して確認する。“自分はのけ者”という感情を抱かずにいる意志を持っているのか?

 
それがあれば僕はそれを抱かずにいるだろう。それがないとしたら、今までと同じことの繰り返しだ。


心理学本下巻に向けての考察-154:「未知」への意志と信仰-46 / しまの
No.1407 2007/12/13(Thu) 16:53:58

■結局、内面はどう変えられるのか

先のカキコで、「無条件の愛への悲しみを流すと存在の善悪幻想が消える」という定理を書きましたが、その後で話は「内面の現状理解」へと離れていきました。
というのも、そうした根本的な内面変化が起きるにも、道筋があるからです。

外面の思考法を変えるにも、内面の現状を踏まえなければならない。およそ3つの内面状況の段階があることを説明しました。
ではそれぞれの段階だと、外面思考をどのように変えることができるか。
何が内面状況の段階を前進させるのか。

それらが分かって、ハイブリッドの取り組みの地図と、乗り込むという、必要なものの全てが揃うことになります。
その点、まだまだ揃っていなかったんですねー。地図が欠けていたり、足がなかったり。これではなかなか考察の終結感にたどり着けなかったのも無理はない。

地図とは障害および治癒成長のメカニズムであり、「感情と行動の分離」に始まる取り組み実践の話は、車のハンドルの回し方として、主にどの方向に向うかの話になります。つまり外面向けの話が主体です。
「前期」建設的思考法行動法内面の開放理解、「魂感性土台の体験」を道標にして、「中期」は「健康な心の世界」での「心の自立」型思考法行動法へとハンドルを回し、「3種類の土台幻想」と「存在の善悪幻想」はそのためのさらなる詳細地図の役割になります。

残った話とは、アクセルをどのように踏み込むのか、そしてギヤをどのように変えるのかです。実際車の運転でも、ハンドル回すのまでは子供が良くしているように真似事でできますが、アクセルとギヤ変更の加減だけは、もう実際の運転の中で習得する必要があります。
ハイブリッドの内面向け実践も、どうやらそんな話になってくる。

地図の上には何十何百もの道路や町が書かれていますが、ギヤの種類ごく僅かです。僕の車はフルタイム四駆のオートマ車ですが^^)v(大した車ではない^^;)、走らせるギアは4速とバックの5つしかありません。
どうやらこれと同じような話が、「内面向け実践」になってくるようです。


■「内面感情の直接選択」は僅か5つ

「感情は直接変えようとはしない」と常々言っており、実際「感情を正す」という姿勢は、「感情強制」という、治癒成長とは逆向きになります。
実はそこにおいて、「内面感情」について直接何らかの「選択」を言っていることになります。ここでは「感情強制」から「感情の開放と理解」へです。「理解」の中で何をどう理解するかは、感情メカニズムは沢山あれど、もう感情をどうこうすることではない、あくまで「理解」の内容の話になります。

そのように、「内面感情」について何らかの「直接選択」というものがごく僅かな数で存在し、ちょうど四速の車のギヤと同じ、5つになりそうです。

これをまず整理しましょう。まず上述の通り「感情の開放と理解」があります。

次に3つの、基本的な「感情の直接選択課題」があります。
「外面は建設的に」という時、内面感情は一切不問です。そうではなく、内面感情における、基本的な選択がある。それを、感情の強制ではなしに、感情論理を問う形で感情の選択を導くというものです。「思考法」がそのための補助になります。
その3つとは、「嘆くのをやめる」「怒りよりも悲しみを選ぶ」「楽しみを追求する」になります。

そのようにまず「開放」があり、「嘆き苦しみ」「怒りと悲しみ」「楽しみ」というごく基本感情における比較的単純な姿勢選択がある。
最後に、単純ではない深さを持つ選択姿勢が出てきます。「愛への願い望みを自分で受け止める」というものです。

続けて説明を書いてもいいのですがキリがいいのでいったんカキコし、この5つのギヤがハイブリッドの実践道のりにおいてどの段階どのような役割として使われるかを整理します。

考慮ポイントは、「魂感性土台の体験」とほぼ同期して現れる、「自己の積極的保護」つまり「自分を自分で守る」という感情で、どれができるかが変わってくることです。「愛への願い望みを自分で受け止める」とは、明らかにそれを土台にしてになります。
これと、他の感情への姿勢の関係を整理することで、かなり何かが分かってくるのではと。


心理学本下巻に向けての考察-153:「未知」への意志と信仰-45 / しまの
No.1406 2007/12/13(Thu) 12:19:43

「存在の善悪幻想」にブレない行動法を考える上でも必要になってくるものとして、視点を内面へと、より精緻にしていきます。


■「存在の善悪幻想」への対処-3:無条件の愛への悲しみを流す

対処-2までは、主に「感情と行動の分離」における外面向けの話を中心にしました。
まずは、現実社会における、「存在の善悪」関係とは全く別世界の、「目の前の課題が求める価値の生み出し」について探求し、学び、実践していくことです。そうした技術的な実務のために、対人行動を用いるという考え方がお勧めです。もちろん建設的にです。
最初に「対人行動をうまく」があって、そのために良く見られるような実務をする、という今までの考え方とは考え方を逆転させてみて下さい。

そのように外面は建設的にすることにおいて、内面の「存在の善悪」への衝動はただ流れるに放置します。それを正そうとしてその衝動を問い詰めてははいけません。正そうとすると、逆に膨張します。
外面は建設的にすることにおいて、内面感情の善悪は問わない。これが大原則です。

では「存在の善悪幻想」とそれにまつわる感情を根本的に克復解消するためには、どうすればいいのか。

明確な答えがあります。まず次のメカニズムを理解して下さい。


「存在の善悪幻想」は、無条件の愛を得られなかった悲しみと嘆きを飲み込み、それがなかったかのような顔をした時に、心に悪魔が巣くうような形で人の心に生まれます。そんなものはもう忘れろ。代わりにお前が目指すものはこれなのだ、と言うように。実はその時、心の悪魔は「その代わりに人間の心をなくすがな」と鋭い笑みを浮かべているわけです。

逆に、無条件の愛を得られなかった悲しみに戻り、それを流した時、流した分だけ「存在の善悪幻想」と関連する衝動が消えていきます。

これはつまり別の表現で言うと、「存在の善悪幻想」は「無条件の愛の喪失」のかなり直接的な表現である、というような公式が成り立ちます。


■自分の内面理解あっての「感情と行動の分離」

ただし、「無条件の愛への悲しみを流すと存在の善悪幻想が消える」と聞いて、「それは良さそうだ♪それをしよう」と考えるとすると、話がおかしくなります。
そもそも、「存在の善悪」を克復しようと考えるのは、先入観と偏見で人を見るような陰険な感情のない、人を分け隔てなく愛することのできる人間になりたいと欲してであると思います。
「存在が善」である人間になるため、ですね。話がループするわけです。

これがやはり、「最初に何からする必要があるのか」をしっかり理解せず無視したまま、結果だけを先に求めるという、ハイブリッドの取り組みで多くの人が陥る轍の問題になります。
これに対する視点は外面向け内面向けとでやはり2つあります。

外面向けとしては、やはりまず存在の善悪などというもののない対人思考をどう考えられるかがテーマです。このためには、
1)そうした考えもあることを、まず理解できるか。次に、
2)自分はその点でどっちの論理で考え感じているのかを、自分ではっきり自覚できるか。次に、
3)存在の善悪的な思考を原理原則的な思考へと修正するという、具体的な内容が分かるか。存在の善悪的な情緒感覚とは関係ない建設的な対人行動をする原理原則思考ということになるでしょう。次に、
4)それをする気になれるのかどうか。
こう書いただけでも4ステップです。この順序でしないと意味のない4ステップです。

それを、途中を抜かして「建設的原理原則思考をしている自分」という姿への自分の当てはめをするという短絡姿勢だと、話が変になります。内面を無視したまま外面を当てはめるという轍。
このように自分の内面理解をしっかりしないまま「外面では建設的に」と考えるのは、得てして「感情強制」に陥る点ご用心ですね。

ハイブリッドの取り組みでは、まず外面行動についての答えを先に考えてもらうように大抵しています。外面行動については答えがすぐ出るからです。内面取り組みは時間を要する。
その外面検討においても、やはり内面取り組みが一定範囲で必ず含まれることになります。「内面の現状理解」という範囲でですね。
そして、内面の現状が許す範囲で、外面をなるたけ建設的にするしかない。


■「存在の善悪幻想」の感情分析

「存在の善悪幻想」について、現状の自分にそれがどのように存在するのかの理解のための視点を簡単に説明しましょう。
ここでは最も基本的なものを説明し、さらにバリエーションを後で説明します。

「存在の善悪幻想」の基本的な働き方は、他人から自分に向けられる方向と、自分から他人へ向ける方向、さらに自分から自分へ向ける方向という、3つのベクトルになります。

1)「他人から自分へ」優勢型の表れ

「他人から自分へ」としては、人が「存在が善」「存在が悪」という風に、人を選り分ける視線を持っていると感じる感覚の有無として、まず現れます。
まあ実際この視線を持つのが現代日本人のマジョリティかも知れませんね。それだけ、「存在の善悪幻想」は強力です。実際のところ存在の善悪幻想が意識表面で消えるのが、「否定価値の放棄」になりそうです。これを整理していきます。

問題は、「人は他人の存在を善悪に選り分ける視線を持つ」という「他人イメージ」の強度と執拗性です。人に向おうとする時、または人に向うことを考えた時、それが意識にまとわりつくような場合は、心理障害傾向がまだ活発な状態です。というか、これ自体が心理障害の一症状と言えます。まあ「診断」を受ければ「対人恐怖症」と分類されるものということになるでしょう。

このケースでは、「自分から他人へ」は、「選り分ける視線」はあまりはっきりしないかも知れません。「自分から他人を選り分ける」どころの余裕さえなくなっているわけです。敢えて言えば、「他人」とはそもそのの存在からして、「自分にとって悪」という感覚になる可能性が高い。

2)「自分から他人へ」優勢型の表れ

「自分から他人へ」「存在の善悪感覚」が明瞭に意識されるのは、「生理的に嫌いな人間」という類です。これは心理障害傾向は表だってはおらず、時にストレスを抱えやすいというレベルが当てはまってきます。
「嫌いな相手」とは、「自分にとって存在が悪」という選り分けが働いた相手です。これはまず、この相手が何らかの自己嫌悪感情を刺激する相手である可能性が高いというか、必ずそうであるはずです。「悪意でえぐるような目」を向けてくると感じる相手です。

あからさまに嫌な思いをさせられた出来事が始まりである場合も多いでしょう。そして「嫌な人間だ」と感じ、「あの人のことはもう決して良く見てなんてあげない」「決して好きになってあげない」と、自分自身の「愛」を操縦する硬い思考を行うわけです。
当然ここに、「無条件の愛」などというものとは全く逆の、「愛の剥奪宣告」とでもいえる心の動きが、その本質は良く見えないまま現れることになります。
この「愛の剥奪宣告」の本質を整理して行きましょう。

こうして「刺激される自己嫌悪」の本質が何であるのかは、すぐに見えなくなります。自己嫌悪を感じたこと自体が「あるべきでない事態」であり、怒りが起きるからです。そして怒る自分がさらに自己嫌悪の対象となり、その引き金となった相手への嫌悪感が増します。
かくして、否定的感情の根本がどこにあったのか分からないまま、「とにかくもう生理的に嫌い!」となるわけです。

2)「自分から自分へ」の「存在の善悪」

自分から自分自身に対して、「存在の善悪」を問うことが純粋に行われる場面とは、何か深い人間の心の行為のようなものをイメージさせます。
それはサラ金地獄に疲れ果てた人間(^^;)が自殺を図る時のことでもあるだろうし、自己操縦心性が崩壊し他人の目のイメージが消え去った中で、自己の「生」を問う瞬間のことでもあるでしょう。
そしてまた、「否定価値の放棄」を問うのも、純粋に「自分から自分への存在の善悪」を問う時に、それが成されることになります。

つまり2つの事柄がそこで起きるということです。

まず、人の目が消えて自分で自分の存在の善悪を問うとは、どのように起きるのか。これは当然、人の目を通して自分を見るのではなく、ありのままの現実を見る中で自己存在の善悪を問うという事態が起きるということです。
これは「人の目の中」という幻想が消えて、「ありのままの現実」が見えるという、一種の「幻想の破綻」を意味するように思われます。これは一つの治癒ではあるのでしょうが、これだけではその後のこの人間の生き方にとって良いものとも悪いものとも限定がつかないものです。

そしてもう一つが、人の目が消えた先に、「自己の存在の善悪」という問いが消える時が訪れるという事柄です。これが「否定価値の放棄」です。当然他人についての存在の善悪という問いも消えるものとして。
つまり「否定価値の放棄」とは「存在の善悪」という命題がほぼ消滅することを意味します。その命題がある限り、否定できる価値があり続ける。


「内面の現状」としてだいたい3段階を書きました。
次にこれを踏まえ、「存在の善悪幻想」に巻き込まれない思考法という課題、その先にある「否定価値の放棄」への道筋を整理します。


心理学本下巻に向けての考察-152:「未知」への意志と信仰-44 / しまの
No.1405 2007/12/11(Tue) 16:30:49

■「存在の善悪幻想」への対処-2:「存在が善」とは全く関係のない対人行動への道

「魂の感情の開放」について説明する前に、もう少し外面への思考法行動法について付け足しておきましょう。

特定の人ばかりが他人に愛され重用されるのを見て、どうすればその人のようになれるのかと考えたことがあるかも知れません。
「存在が善」になるような、何かの能力条件があって、それに「合格」すると、以降はひいきしてもらえる。「存在の善悪幻想」があるとそのような発想が生まれてくるかも知れません。まるで他人の養子になる審査で合格するようなイメージですね。
あるいは、人は一度人が他人に与えた評価を踏襲するだろうから、安全のためには絶対に誰かしらから「存在が善」だと見てもらうことが必要だという、絶望的な渇望にとらわれることがあるかも知れません。特にそれが既に「存在が善」という周知の人なら確実に安全だ。「存在が悪」だという攻撃の標的がこっちに来る前に..。

まず、そうした「存在の善悪」目当ての感情でしか人に向うことしかできない自分を感じたとしたら、まずはそれについては何もしないことです。「これがいけないんだ」という、今までの人生で使った「減算法」の主思考ではなく。
そうではなく、それはまあそんな感情があるものともう覚悟して流し、「加算法」で別の対人姿勢を追加してみることを考えてみて下さい。

それが、いったん自己理想やら今までの対人関係思考やらを全て脇においてみて、目の前の課題が求める「価値を生み出すこと」が何かを探り、それを実践するという、きのうの「未知」への意志と信仰-41で書いた内容です。
「存在の善悪幻想」が浮き彫りになったインパクトが強い方の場合は、多分その内容をもうほぼすっかり忘れていると思いますので(^^;)、もう一度読み返してみて下さい。

それはとにかく「技術的」なものになると思います。対人技術ではなく、物作り技術とか、事務的管理技術とか。
そうした、ごく淡々とした「現実において生み出すこと」に意識集中専念する人生の時期があることは、必ず人生についての何かを与えてくれるはずです。
もちろん重要なのは、そうした淡々とした技術的な「生み出す」世界で、建設的であることです。

これは次第に、一つの答えを浮かび上がらせてくると思います。これは僕が実際に「存在の善悪」にすがるような対人感情を脱する頃に、進む道として見えてきたごく実感的なものです。
それは、「愛のないところにおいて人と交わる」ということです。これが、愛を生み出す虎の穴的極意(?^^;)です。

まあメカニズム的には、愛ありきで人と交わろうとすると、まさに「存在の善悪幻想」にはまって悪魔的に変化する感情の渦に巻き込まれる危険が大きいということになるかと。
実践面においては、その危険に充分気を配る、必要さえありません。それでは意識が元に戻るだけです。あくまで「加算法」で、全く別のものを意識してみて下さい。

「存在が善」という黄金の名刺を獲得し、それがない他人を見下そうとするような、傲慢な衝動をはっきりと自覚した時、何か自分が「根本的に人と対等につながる心を欠損させたでき損ない」だというような気分が現れるかも知れません。
まあそれも一つは「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」という治癒として、ただ流すことしか頭が働かない時間が多少現れるのも、問題が深かった場合確実に治癒への通り道の一つであることを心得て頂ければ。

相談メールでもさっそく、「この感情を許すのが難しい」という感想も頂きましたが、言えるのは、いまさら駄目出ししても今までずっとあったもの(^^;)なので、今駄目出ししてもあまり意味はなく、まずはあったまま分からなかったものが分かるようになったことを良しとするのが良いかと。こうした苦肉のプラス思考(?^^;)が、物事の良い面を見る人間の明るさを生み出す本質だったりしますので。


一方、対等な愛が根本的に見失われていたことへの深い悲しみが見える場合は、またそれに大きな意味があります。
その深い悲しみが消えて「存在の善悪幻想」が現れるという、意識表面には奇妙につながりのないメカニズムがあります。それを踏まえ、「存在の善悪幻想」が生まれる前「魂の感情」に着目する視点を、次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-151:「未知」への意志と信仰-43 / しまの
No.1404 2007/12/11(Tue) 10:24:11

「存在の善悪幻想」への対処について説明しながら、さらに細部メカニズムなども説明していきます。


■「存在の善悪幻想」への対処-1:まさに「感情と行動の分離」の基本

「存在の善悪幻想」への対処は、まさにハイブリッドの実践の基本構図になります。
「感情と行動の分離」の大原則です。克復したいものがその中にある限り、感情をまずは鵜呑みにせずに、純粋知性を働かせる思考をまず擁立してみることからです。

1)外面への留意点

外面への思考法行動法については、とにかく自分自身を不利にしない、利にかなったものを考えてみることです。
「存在の善悪幻想」による思考がどう利にかなっていないのかは、主に2面があります。

一つは、社会見識に合っていないことです。存在の善悪という感覚で行動すると、各種の場面勘違い的行動を引き起こし、人に「??」と思われてしまいます^^;
まあ「荒廃した群集心理」的に「存在の善悪幻想」が働く場もありますが(例えば「学校裏サイト」)「健全な」社会集団では人の存在そのものを善悪に振るい分けていくという原理ではなく、誰においても見識の良い、向上を生み出す行動を高く評価します。
実際のところ、存在の善悪という思考は、限りなく人類の悪い意味での過去に向いた思考法です。人が生まれもっての身分により峻別される身分制度奴隷制のような。人種間や民族間差別を生み、障害者への偏見を生む、人間の心の悲劇の源泉です。

僕は今まで相談対応の中で、存在の善悪思考が明瞭に表明されている時、それが不合理な思考であることをはっきり指摘しなかった面が多々あります。不合理であることは言わずもがなで本人もはっきり分かっていると、何の心配もなしに考えていたからです。
案外それはミスだったかも知れません。存在の善悪という思考が、いかに論理性を欠いた思考であることを確認してもらう実践をする必要があるのかも知れません。


僕個人としては、自分の心理障害との取り組みの中で、存在の善悪的な感情論理が自分の中に現れるのをキャッチした時は、最初からそれが不合理なものであることを迷うことなく認識していました。だから外面行動には問題が出なかったし、やがて独力で克復する上での基盤の一つだったと思います。
でこの基盤とは、やはり科学思考だと思うんですね。存在に善悪をつける根拠は、科学的には皆無ですので。

存在の善悪思考が利にかなっていないもう一つは、この感覚の中で行動すると、自分を危める結果になります。これをこの後詳しくパターン分析して考察します。
一言でいえば、存在の善悪感覚の中で「善」を目指すと、「悪」になります。「善」を目指せば目指ざすほど、心の中に悪魔が現れてくるような感じになります。というのも、存在の善悪という論理は、「善」に熾烈な「利己性」「攻撃性」を伴うからです。自己中心的で貪欲な「善」なんですね。まさに「悪魔との契約」です。

これが自分を危めると言うのは、対人関係や人間関係で信頼を失う危険というのはあくまで上述した通りで、もう一面というのは、「善」を目指すと自己嫌悪罪悪感が出てくるという側面です。善を目指す意識には確かに真摯な側面もあるでしょう。しかし深層メカニズムとして存在の善悪が働くのであれば、心の深層はそれが利己的な攻撃性であることを知っているので、まさに表の意識の「善」と矛盾し、罪悪感を引き起こすというメカニズムです。

こうして「善を目指しながら感じる罪悪感」は、この人を今度は一転して自己卑下的にする可能性もあります。全て自分が悪いんです。謝罪が含む「善性」に、藁にもしがみつくような形です。当然これは実際の悪人の格好の餌食になります。かくして「善人」ほど悪徳商法の餌食になりやすいという傾向が生まれるのかも知れません。

これら全てが、社会行動として無駄です。「善悪」という曖昧な観念には頼らず、スポーツにおけるルールと罰則と同じ思考法で、人間の行動の客観的な事実だけを正確に観察し、原理原則で善悪を判断する対処行動することが、外面において強く推奨されるゆえんです。

2)内面への留意点

内面において目指すべき方向性をはっきり一言でいうとこうです。
自分の中に現れる悪魔の感情を、許すことです。もちろん非行動化したことにおいてです。
存在の善悪幻想を持つのが、まさに人間の不完全性です。それをはっきり認め自分の弱さとして許した時、それは減少に向います。自分の中に現れる悪魔の感情を許さず、それを叩き消滅させようとした時、もう一匹の悪魔が心に取り付くのです。

パラドックスです。

それを心に抱えながら、先のカキコで書いたような、地道な「不完全性の中の成長」を歩むことです。

なぜ自分の中に悪魔的感情が現れた時、それを否定しようとしてはいけないのか。
それがまさに「否定価値感覚」の姿勢だからです。「存在が善」になるための理想に届かないものを叩き見下すという、基本姿勢。

「存在の善悪幻想」は、しばしば現れるループ思考の、まさに根源核のような形になっているかも知れません。「存在が善」となるために自分はどうなれればいいのかと思案するのですが、その思考を生み出す衝動の存在がまさに「存在が悪」と本人が振る分けるものになるという始末です。
誰にも分け隔てなく親しくでき、心の広い人間になること。これが「存在が善」の基準だ。まさに自己撞着矛盾なんですね。

こうした自己撞着矛盾の状況を心底で認識することは、一種の自己理想像破綻を引き起こす可能性があります。実はこれが「自己操縦心性の崩壊」のかなり本質的な部分と言えるかも知れません。つまりこれは治癒として作用します。
外面で原理原則思考を習得することを杭(くい)として、この自己像破綻をただ流すという実践が時に必要になることもあるでしょう。

ですから、先のカキコで、ここまで話が明瞭になれば今まで考えたよりも早期「否定価値の放棄」が問えるかも知れない、とも考えた次第ですが、深刻な心の障害傾向との取り組みではやはりそれは難しい面があるかも知れません。
「否定価値の放棄」が「存在が善になる自分」の理想像のように掲げられるという轍です。「怒りや自己処罰に駆られない自分」という結果を得ようとして、「否定価値を放棄しよう」「存在の善悪思考を捨てねば」と考えることは、全く実践の意味を成しません。

結局、「こうなれた」という結果から先に考える思考は、進歩をほとんど生まないです。最初に何からするのか、なぜその順序が必要なのかを、ぜひ理解して下さい。それを理解することは、その最初の段階に一歩踏み出す進歩を生みますので。そして、実際に自分が体験した前進状態を次のスタート地点として、次に何が必要か、それはなぜその順序になるのか、を理解する。これが次の一歩です。
この積み重ねになります。


全ての始まりは、外面向けに言った、「存在に善悪などというものはない」ということを知的に考えられるかどうかからです。そこから全てが始まります。まあ知性でも疑えないといいう場合でも、感情分析での心性崩壊は起き、治癒効果はあり得ますが、効果は微々たるものにとどまります。まずは知性思考を築きましょー。

次に考慮したいものとして、「開放」から説明しましょう。もちろん「魂の感情」の開放です。


心理学本下巻に向けての考察-150:「未知」への意志と信仰-42 / しまの
No.1403 2007/12/10(Mon) 19:04:30

「存在の善悪幻想」が浮き彫りになったことで、また全体の流れががらりと変わりそう^^;
でももうこれで完結ですね^^。


■終章-10:「存在の善悪幻想」が失わせた「人間の心」

さて先のカキコでようやくその明瞭化をした「存在の善悪幻想」が、やはりちょーインパクト大ですね。

「存在の善悪幻想」とは、定義すれば、「存在について下された善悪に応じた扱いを受ける」という人間世界観とでも言えるでしょう。
いや、それは「人間世界」の話なのだろうか、とふと浮かびます。
「存在の善悪」を決める基準は、少し曖昧です。何かがそれを決めたのです。それにより、「存在が善」である者と、「存在が悪」である者が生まれ、この世に生き始めた。そんな幻想の世界です。

確かにそれは、我々の心が病む起源に、あったものでした。「愛」を願い生まれながらそれを得られなかった「生から受けた拒絶」とは、自分の「存在」に向けられた拒絶であり、自分が「存在において悪」であるかのような感覚を与えたわけです。
確かにそれは人間の世界に存在するようになった、出来事です。親が子供を愛さないという、「出来事」です。

その「出来事」が、これから自分が生きる世界では、「存在」について「善と悪」が下され、それによって同じ行いでも「存在が善」である者の場合は喜ばれ「存在が悪」である者の場合は嫌われるという論理を、この人間に与えました。
事実はそうではなく、事実としてあったのは、この人間の出生の際に、この子供に「存在が悪」だというような仕打ちを向ける大人がいたということです。「現実社会」がそうゆうものであるのではなく、です。

しかしこの人間が、自分がこれから生きる世界がそのようなものなのだと考え、その中で自分は「存在が善」となり、「存在が悪」である他人を見下すという勝利を得るために、何か絶対的な基準を求めようとした時に、心の全ての歯車が狂い始めたわけです。


■「3つの土台幻想」の全てが「人間の不完全性」

今までの話を整理しますと、「自立の置き去り」に由来する「3つの土台幻想」というのをまず言いました。
「破壊幻想」。「怒りに変化した愛」が由来でした。怒りが、愛されない不満の表現と、愛を破壊できる自尊心という、自己撞着的な結合をしたものです。
「庇護幻想」完全な自立がないという人間の業が生み出した幻想であり、「人の目神の目」という受け皿があるという幻想です。
「自分幻想」自意識という人間の業が生み出した幻想です。現実がそうであるよりも、空想した自分が自分であるように感じる幻想です。

これまで、この「3つの土台幻想」の先に帰結するようなものとして、「人間価値の絶対性幻想」が生まれるという説明の仕方を試みていました。どうも僕としても決着感がないままに。

つまり「自立の置き去り」の中に「心を病む」という問題の起源があるという視点で、「魂と心の分離」構図の問題を、この年初以来考えようとしてきたわけです。
しかしこうなるともう、「自立の置き去り」は「人間の不完全性」として、その全ての中における成長が「健全形」になってくるのです。

怒りに変わる愛を抱えるのが人間なのです。それを、建設的な思考法行動法で、地道に修正していかなければならないのです。人に良く見られることが自己肯定の条件だと感じてしまうのが、人間なのです。それを、自分の目で社会を広くみて自分の考えをしっかり確立して、それによって自己評価できるように、地道に学んでいかなければならないのです。空想の中で思い上がってしまうのが人間なのです。それを、現実の中で失敗や喪失を痛む中で、現実と調和した自分を地道に築いていかなければならないのです。

だから「不完全性の中の成長」は、「理想と現実」「自立と依存」「嘘と真実」の中の歩みになるわけです。
「望み」「嘘と真実」の混合の中に始まり、愛されようとして「見せかけ」に陥り、自分に嘘をついては愛することができないという痛みを知ることで、ありのままの自分に戻るという自立を、同時に得るのです。


■「不完全性」を「病んだ心」の次元に変える「存在の善悪幻想」

何かの人間価値によって「存在の善悪」が決まる。人間はそれに応じた扱いを他人や社会に受けるようになる。
この「存在の善悪幻想」が、全ての論理をがらりと変形させます。「不完全性の中の成長」のための地道な論理は一瞬にして消え去り、「存在の善悪」を決しようとする熱狂と絶望と憎悪の世界へと変化します。

従って、メカニズム的には、「存在の善悪幻想」は、「3つの土台幻想」とは一線を画した、単独要素的なものとして、「不完全性による幻想」を「病んだ幻想」へと一変させるという位置づけになります。

この変形の構図を要約すると次の形です。本来はこれをじっくり解説する形がいいのかも知れませんが、本の方で考慮しましょう。

「破壊幻想」は、「存在が悪」だと他を断罪する攻撃か、それを自分に向けられる「悪意」への反撃になります。
「庇護幻想」は、「資格思考」を生み出します。「望む資格」さらには「生きる資格」です。また「選民感覚」というのが出てきます。生まれながらにしての勝者であることへの衝動。人を選り分ける思考。
「自分幻想」は、「存在の善悪」を決める理想基準についての空想が、次第に「自分そのもの」になってきます。


■「自分が神になる幻想」である「否定価値感覚」

このようにして、「存在の善悪幻想」によって病んだ幻想へと一変した「破壊幻想」「庇護幻想」「自分幻想」が生み出すのが、「否定価値感覚」です。
それは、自分が「存在の善悪」の基準を知っているのであり、そこから「存在が悪」とされるものを見下し破壊する、という基本的な衝動です。


これが、やはり「自分が神になる」ということなんですね。
うん、ようやっと自分で納得終結感ある定義ができた感じ^^。

「否定価値の放棄」とは、この思考の過ちを心底において自覚し、それを放棄することです。

「存在の善悪幻想」が一体何を生むのかを、ポイントを押さえて次に説明しましょう。それが見通せた時、「否定価値の放棄」の選択が見えることになるかと。これが、僕が今まで考えたよりも早期段階で問える可能性に期待です。

一体何を生むのかが、僕に「否定価値の放棄」を成させたホーナイの言葉に示されるんですね。
「人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない」と。


心理学本下巻に向けての考察-149:「未知」への意志と信仰-41 / しまの
No.1402 2007/12/10(Mon) 13:11:30

いよいよ完結になりそう..?^^;


■「価値を生み出すこと」を知った時根本的に問えるもの

先のカキコでは、ハイブリッド「中期」の取り組みとして「価値を生み出すことを知る」というのを「自己理想」とはもはや別のこととして考えて取り組んで下さい、ということを書きました。つまり、今までの人生で考えた「こうなれれば」「こうならねば」は一端脇においても、この社会と生活の場面自分がどんなものを生み出していけるかを、行動学などを支えにして学んで下さいと。

要はこれは、病んだ心の部分にはとりあえず一切触れない心の領域、「自己肯定への芽」を培っていく実践になります。

一方これは「自己理想」を脇においてこそ可能になる面が多々あると思います。「自己理想」を起点に考えると、あまりに感情が動揺してしまうからです。いかにこれを切り離して坦々と外面行動スキルを向上させるかが鍵になります。
そうして、「否定攻撃する価値」全く別世界となる「価値を生み出す価値」を、まず体得する。これによって、「否定攻撃する価値」の「価値」を、本当に問えるようになるわけです。

今まで、こんな自分になることで人を見返し愛されるような勝利を得る自分を描いていた。それは同時に、そんな自分に「まがいもの」を疑う目に攻撃される恐怖に翻弄される世界でもあった。
できるだけそれは心のイメ−ジだけの世界として脇において、今目の前に何か課題を置いてもらい(「人生」に置いてもらいます^^)、その「課題」がとにかく求めているノウハウの習得と実践を行います。

これはその課題の実践が人にどう見られるかへの対応でさえありません。それではまだ自己理想をめぐる翻弄の中にあります。
課題の実践が人にどう見られるかでさえなく、その「課題」そのものがどんな「価値の生み出し」を求めているのかを、技術的に探求し極めることです。
もの作りにおける技術の本質。これはスキル習得の話などでしました(主に返答メールかも^^; 本では紹介しますので)。サービスの中で相手に提供するものの本質。

そこで体得して頂きたいことは、人に良く見られるために価値を生み出すのではなく、価値を生み出すことができれば人の目が必ず変わることを知ることです。
これを「人に良く見られるために」を意識していると、「価値を生み出す本質の見極め」ができなくなってしまいます。人の目によってもういいかどうかを判断してしまうからです。そうではなく、目の前の課題とそれが生み出す価値という、「人の目」よりも「時代の目」というような視点で探求する。

絶望感におおわれ、そんなことを考える気力も起きない。この場合は「前期」の取り組みになります。ただ絶望を流す自己の受容など。
絶望感を脱し、前に向くエネルギーが見えてきたら、今まで「こうなれなければ」と考えていたのとはちょっと別の、「ただ目の前に置かれる課題」において、「人の目」をやがて越えられるような、「価値を生み出すことの価値」の基本形を学ぶのです。


■「条件」のない「存在への肯定」の芽 vs 「存在への否定の目」

そのように「価値を生み出す価値」が分かってくると、「条件」のない「存在への肯定」という感覚の芽がつかめてくると思います。
「今までの人の目」がどうであろうと、「価値を生み出す」ことをした時、人は自分に感謝の目を向けるのが分かると思います。自分に「存在の肯定」への暖かい目を向けてくる。

それが、今まで人生の中で抱き続けてきたものを問える時の訪れを意味します。
それが「存在への否定の目」です。一度それが向けられた時、自分はもう何をしても肯定されず、感謝されることもない。何をしても嫌われるのだ..。そんな「存在への否定の目」というものを、その中で生きるものとて抱えていたと思います。

しかし今人は、そうではなく、「価値を生み出す」ことをすれば、「存在への否定の目」の中で下されたと感じていた「もうお前のことなど絶対に良く見ない」という「取り決め」を破るように、自分に「存在への肯定の目」を向ける。

これが分かると、問えるわけです。一体「存在への否定の目」とは何だったのかと。もちろん人に問うのではなく自分にです。
なぜなら、「存在への否定の目」を持ち続けていたのが、自分だからです。
「自己理想」を基準に、その目で自分を見ていたのです。それが「否定価値感覚」です。


■「人間価値の絶対性幻想」改め「存在の善悪幻想」

根本には、「存在」に「善悪」があるという感覚があるように思われます。
ある者は存在において「善」であり、存在が祝福され、ひいきが与えられる。
ある者は存在において「悪」であり、存在が忌われ、罰が与えられる。

まずその「幻想」がありました。「存在の善悪幻想」です。
それを決める基準として、「人間の価値」が出てきた。この順序になりそうです。どの価値がどのように重要かという問題の前に、「存在の善悪が問われる世界」の有無が、決定的な問題になってきます。

「存在の善悪」がある世界では、「人間の価値」は2段階的な意味を持ってきます。まず「人間の価値」には、魅力を感じる度合いの高低があります。
次に、ある一定の基準によって、「存在の善」「存在の悪」が分かれるのです。ある「価値」を持つことによって「存在が善」へと振るい分けられた者は、祝福され、何かと良いものを与えられる。
それをしくじって「存在が悪」へと振るい分けられた者は、存在を忌まわれ、迫害される。

「存在の善悪」がない世界では、「人間の価値」はただの一枚岩です。ある者がある者の持つ「価値」にどれだけ魅力を感じるか。それだけです。

「存在の善悪」がある世界では、他では同じような条件を持つ二者が、全く異なる扱いを受け続けます。ただもうその「存在」だけで違ってしまうのです。
「存在の善悪」がない世界では、「存在」そのものにおいては、皆同じです。

「否定価値の放棄」とは、「存在の善悪」がない世界へと旅立つことです。

「善悪」によって全てが狂ってくる。これは「存在の善悪幻想」が起点です。
この視点で今までの話を最終整理し、完結にいこうかと。


心理学本下巻に向けての考察-148:「未知」への意志と信仰-40 / しまの
No.1401 2007/12/09(Sun) 18:41:13

「不完全性の中の成長」についてより具体的にイメージできるよう細部説明し、それを妨げるものの明瞭化へとつなげたいと思います。


■「人間の成長」の細部-1:「人間の成長」と「自己理想」

我々は自分を高め人生をより豊かにしようとして、「自己理想」を描きます。
それに向う、不完全な存在としての「人間の成長」は、最後まで「理想と現実」「自立と依存」「嘘と真実」の軸の中にあります。これを受け入れた「不完全性の中の成長」を、ハイブリッドでは成長の「健全形」と考えます。

一方この健全な成長ができなくなる形とは、不完全性を認めないまま理想を絶対的なものとして追うことに駆られるものです。この試みはストレスに満ちたものになるか、ストレスを嫌う結果のもう一つの形を生み出します。そもそもそんな理想などないとすればいいという思考方法です。

ですから、人間の自己理想への向かい方におよそ3種類が生まれてくるわけです。
理想を絶対視して追うことに駆られるもの。
理想を否定し目を背けるもの。
この2つのどちらでもないところに、「人間の成長」があることになります。それは「理想」を描くがそれを絶対視はせず「現実」においてその「理想」に向かい全ての努力を尽くし歩む中で、その「理想」の自分にとっての「唯一無二性」を身をもって確認して行き、「理想」そのものの変化を受け入れていくという方向性です。ここでは「自己」と「理想」そのものが変化し続けていくことになります。

ただしこの3番目の道は、あらかじめ知ってから通れるような代物ではありません。実際にその道に乗った時に初めて、自分がそこに来たことを知るのです。そうゆう形にしかできません。

ハイブリッドの道のりも、そのようなものになります。外面行動についてのノウハウ自己の内面感情のメカニズムについて習得していく一方で、「理想」というものは、世の中の人々が素の思考でそうなるしかないのと同じ、圧倒されて奴隷のように駆られる(^^;)ようなものになるか、そのあまりの巨大さに目を背けたくなるようなものとして心に映ります。

ハイブリッドのアドバンテージはどこにあるのか?それがまずは外面行動についてのノウハウ自己理解の技術です。それによって、まずは少しでも理想に近づく方法を見出すことです。また内面的には、心理学的無知に基づく絶望を脱して、葬り去られていた理想をまず回復させることからの歩みになるでしょう。
最後まで「理想」は、圧倒されるか目を背けたくなるかとして映るのは、そのままです。そうでなく安心して向える理想のようなものが現れると考えたら、それはもう生きている状態ではないような話か、もしくは本当の理想ではないように思われます。


■「人間の成長」の細部-2:「価値を生み出す」ことを知る

「魂感性土台の体験」あたりから先をより具体的に見て行きましょう。今までおおい尽くされていた「人の目感性土台」が、それに比べいかに自分を不毛な翻弄に投げ入れるものであるか、実感として分かり始めるようになります。「人の目感性土台」に影響されない考え方とは一体どうゆうものかを問うことができるようになってくるでしょう。

ただし「魂感性土台で考える」がこの先の実践ではありません。むしろ感性には中立な「知性思考と意志」の活用を増大させていくのが基本的な方向性です。
「人の目感性土台」から「魂感性土台」へという移行よりも、「人の目感性土台で感情による自動操り人形」から、「2種類の感性土台の混在」を「知性思考と意志」で何とかやりくりして行く、という方向性です。

まず検討して頂きたいのは、「自己理想」が「人の目感性土台」に完全に支配されている状態からの脱出です。

「自己理想」が「人の目感性土台」に完全に支配されているとは、「人の目」に見られる見栄えを目的としただけの自己理想になっているということです。「存在への否定の目」をはね返し、それを見返すような「存在への賞賛の目」を勝ち取ろうとする理想です。
まあそうした要素が「理想」の強い情動源であるのはいたしかたないものとして流し、「その内容内実に純粋に大きな価値を感じられる理想」というものを、これからの人生で考えていく。
これがこの先の長い人生全体を通してのテーマだと考えて頂ければ。

それがはっきり見えるのは、まだ敷居が高い話かも知れません。それを埋める、人生の実践があります。
「価値を生み出す」ことを知ることです。

これは主に「社会」「生活」という2領域が主なものであり、加えれば「趣味」を考えるといいでしょう。
これは「自己理想」とはいったん別の話と考えるのが正解です。つまり、人はその置かれた時代に応じて、社会と生活の場面で「向上を生み出す」ための思考法行動法に、一定の答えがあるということです。
それをうまく見抜いて実践し、社会でうまく生きる能力を可能な限り高めることです。これは「自己理想」とはもう関係なしに、どこで仕事しようが生活しようが、習熟状態と結果が一目瞭然です。仕事をよりうまくこなし、収入を増やし、生活を豊かにするということです。「社会生活の成功」ですね。


■「自己理想」には関係ない「価値を生み出すことの習得」

注意頂きたいのは、これを「自己理想」とは関係ない話として述べていることです。

「デキる人間となり豊かな生活を手にする」が「理想」では、まさに「見栄え」だけの理想でしかありません。まあ取り立てて「理想」と言わずとも重要な人生基盤として可能な範囲で習得するということです。

もしそれが「理想」のように感じられているとしたら、それはまず本来の「自己理想」を見失っているか、誰にも愛されなかった挫折を見返す理想のようなものになっている場合です。
このようなケースでは、ごく一般課題としての「社会生活の成功」はそのまま目指すとして、他人を見返す衝動は、それと分離した内面感情として、感情分析などの取り組みをするのがハイブリッドのアプローチになります。

そのように、「社会生活の成功」は、「自分個人の理想」ではむしろないものとして習得することを考える。実はこの方が、変にドロドロした内面(^^;)に影響されることが減り、むしろより成功に近づけるかも知れません。
そして、「自分個人の理想」ではないものとして、そこで「生み出す価値」とは何なのかを、ぜひ考えるようにして下さい。これは例えば「より良い製品やサービスを提供して社会に役立てる」という「価値」であったり、「家庭を支えるための収入を得る」という「価値」であったり、また「利害対立をうまく調整する」や「良い対人関係を築く」という「価値」であったりするでしょう。

それら全てに、「自分個人の理想」がどうであるかに関らずに、一定の答えがあります。それを習得し、「価値を生み出す」ということの一般形を知ることです。
ハイブリッドが採用している2種類の行動学「建設的対人行動法」「原理原則立脚型行動法」はそのための基本基盤にできるものです。


■真の「自己理想」は「生み出す価値」の中で「本当に愛せるもの」

なぜこれを「自己理想」とはまず関係なしに考えてもらうかというと、極めて重要なことをそこにプラスアルファしたものが、本当の「自己理想」になり得るからです。
それはそうして「生み出す価値」の中の特定のものを、自分が本当に愛せるということです。この「愛せる」は人相手の「愛」ではなくもっと広い意味での「愛」としてです。

これがこの後の中心テーマになります。


さてここでは人間の成長における「理想」の位置づけについて説明しましたが、「魂感性土台の体験」から「否定価値の放棄」までの実践としては、こうした視点を持ってまず社会で生きることを模索し始める、最初の一歩を何とか進めるという感じが主になると思います。
「真の自己理想」はまだ遠い先です。まず「理想」以前の「価値を生み出す」ことからです。

それが何とか分かってくる頃、「真の自己理想」がむしろ「見えないことがはっきり見えてくる」かも知れません。それを妨げるものがはっきりと目の前にあるからです。
それが「否定価値感覚」に他なりません。

そのような段階になって、「否定価値の放棄」が本当に問えるようになってくると思います。
まずは「価値を生み出すことを知る」のために時間が必要なケースでは先の話になってしまかも知れませんが、できるだけイメージできるよう、この先の心の状況説明と共に問い方を説明して行きます。


心理学本下巻に向けての考察-147:「未知」への意志と信仰-39 / しまの
No.1400 2007/12/09(Sun) 10:57:12

■「人間の成長」の本質-5:結論:「依存と嘘」の不成立の受容が「唯一無二の人生」を人に与える

「嘘をついて本当に愛することはできない」。先のカキコで書いたこの命題が、ハイブリッドがそのための心理学と言える「唯一無二の人生」への最後の扉と言えそうです。この先には「魂の望みへの歩み」が終ることなく続くことになります。

このことをハイブリッド全体の中に位置づけると、「感情と行動の分離」によって始まり、「魂感性土台の体験」を足場にしてより洗練されたその道のりは、「健康な心の世界」での「心の自立」を目標として、建設的な思考法行動法を学び実践するとともに、自己を深く理解することの平行の中で進めます。

「魂の望みへの歩み」へと出るための最後の扉は、その成功体験というよりも、一見失敗体験のように見える、「庇護幻想」と「自分幻想」という恒久幻想が打ち破られる「現実体験」の中で見出される、ということになります。
その現実体験の中で、「依存と嘘」の不成立を受容するということです。

最後まで恒久幻想を持つ人間の不完全性は、同時に、最後まで何らかの「依存と嘘」を一部に持ち続けるということです。
それは自分を豊かにするために「自己理想像」を描き、その通りになれば自分が「人の目神の目」に愛されるという依存の幻想の中で、根源的自己否定感情を否定した、生き生きした自己像を守ることを可能とし、それが自分なのだという自己の幻想の中で人は生きることになります。
しかしそれは同時に、その幻想により守られる範囲において、感情の膿とともに魂の領域が切り捨てられており、魂の感情によって現実を生きるという、真に充実し満たされた人生から遠ざかった「空想を生きる生」の中に閉ざされていることを意味します。

従って、終わりなき成長へと揺るぎなく向う方向性は、1)「完全なる自立」と「完全なる真実の自己」には至り得ない不完全性を受容した上で、なぜならそれを認めないことは幻想を深めることだからであり、さらに、2)幻想を脱し現実を生きるという一歩がどのように成されるのかを心底から体得することとして、この人間に獲得されることになります。

この体得は、まず次のことを踏まえるのが前提になります。
1)心には「」というものがあり、「心」に「命」を与えるのは「魂」に他ならないこと。
2)ただし眠りに閉ざされたままの「魂」がどれだけ切り離され残されているかについては知り得ないこと。これは同時に、魂を置き去りにさせた「感情の膿」が、どれだけ残されているかについても知り得ず存在すること。
3)「魂」と「感情の膿」を閉ざしている部分に対応して、「自己操縦心性」が作り出す幻想の中で、「心」は生きていること。
これが最後までその中にある「人間の不完全性」です。

最後までその構図があるのであり、「人間の成長」は、その構図の中において「魂」の領域を開放し増大させていく一歩を歩み続けるという、終わりのないものになります。
それは「現実を生きる」ことによって幻想が破られ、その部分に対応して切り離されていた「魂」が開放され得るという一歩です。そして増大した「魂」によって「現実を生きる」ことが、「唯一無二の人生」を生み出すという積極的な側面をここに促します。
これが「不完全性の中の成長」です。

抽象的な整理が続きますが、これは「理想と現実」「自立と依存」「嘘と真実」という人間の成長軸において、成長の一歩は全てが同時に結合して成されるということになります。この一側面の軸だけ取り上げて成長を捉えようとしても、本質が見えないということです。
全てが同時にとは、現実に向い、「依存と嘘」が成立しないという体験により、身をもって、「自立と真実」が同時に現れる、ということです。



■島野が「否定価値の放棄」方法論にこだわる理由^^;

これに揺るぎなく向うための最後の扉である「否定価値の放棄」とは、この成長の本質を体得すること、ではありません
かなり話がややこしくなりますが、まあ出版本の方ではこうした話の前後行きつ戻りつはなしで、Up済み下巻原稿の調子を維持した実例ベ−スの分かりさすさで説明しますので。

「否定価値の放棄」を成すまでは、そして「否定価値の放棄」を成す瞬間においても、この「人間の成長」は見えないのです。上記はあくまで「否定価値の放棄」後に起きる成長の本質です。
取り組み実践は、これがまだ見えない中で一体何を本人は見ることができ、何を意識すれば何がその方向性に向わせるのかですね。

より実際的な話をしますと、「魂の望みへの歩み」において「魂の望み」がどのように引き出されるかは、かなり「めぐり合わせや出会い」などの人生状況によるものになってきます。僕の場合に初恋女性の存在が大きな役割を果たしたように。
ですから「魂の望みへの歩み」になって、人それぞれどんな魂の豊かさに至るかについては、もうそれぞれの人生ということに結論づける感じになります。

一方、「否定価値の放棄」はそのように「めぐり合わせや出会い」に依存することではなく、全ての現代人が自分自身の内面で回し続けているだけの、「不実と傲慢」の放棄です。これを成せば、同じ人生外面でも劇的に心の状態が良くなります。いったんそうなれば、その先状況が許せば人生の外面も劇的に変化させる日々が来るかも知れない。
だから、島野としては「否定価値の放棄」の方法論だけはかなり完全に近いものを定義することをもって、最初の心理学本の出版としたい次第なのです。でここまで時間かけて同じような話をあーでもないこーでもないと続けている^^;

ということで、さらに細かく具体的な詰めへ。


心理学本下巻に向けての考察-146:「未知」への意志と信仰-38 / しまの
No.1399 2007/12/08(Sat) 19:19:33

「魂と心の分離」構図以来の大きな命題を出します^^)v


■「人間の成長」の本質-3:「嘘と真実」軸の存在

「空想の中の愛と自尊心」の喪失が、「現実の中の愛と自尊心」の獲得へのステップとなる。

これはハイブリッドが考える「病んだ心から健康な心への道」「空想を生きる生から現実を生きる生へ」という基本テーマでもあります。つまり、ここには、空想したものを現実にぶつけることでそのギャップを知り、ギャップを埋めるための努力を講じるという、ごく基本的な「現実の向上」を超えた深いテーマがあります。
それは、「自己操縦」の中で、本当の自分とは異なる別人に成り切ろうとする、という人間特有の問題です。

これが「嘘と真実」という軸です。「どれが本当の自分なのか」と、心を病むメカニズムの中で人が混迷に向う問題です。
「自分自身についた嘘」という問題があり、「自分を見失う」という問題があります。

「嘘と真実」軸がなく、「自立と依存」だけが「理想と現実」軸に追加された課題である場合は、それは「人頼み神頼み」の脆さから、いかに自力で堅実に「生み出す」ことをしていくかの課題だけです。人に愛され認められるという外側からの見栄よりも、自ら愛し生み出すという内側からの内実に重点を移すという課題です。
そこに、「心を病むメカニズム」が加わることによって、脆さと堅実さの問題を超えた問題が起きてしまった。本当の自分とは別人になり切ろうとする。これではもはや「脆さから堅実さ」へと「生み出す」ものさえ見えてきません
ここに「嘘と真実」軸が生まれるわけです。

そしてハイブリッドはこれを、「感情の膿」「自己操縦心性」100パーセント免れた人間は存在しないという考えにおいて、「人間の成長」の基本背景であると考えるわけです。
「感情の膿」と「自己操縦心性」は、根本的に「嘘の構図」を作り出すメカニズムだからです。「根源的自己否定感情」などというものはないという顔をして生きるという「嘘」を。

「ありのままの現実を思い知る」こととして表現される「庇護幻想」と「自分幻想」の破綻は、この「自分についた嘘」を解除するために必要になります。
この原理一面はすでに何度も説明してきたものです。「自己操縦心性の崩壊」と「感情の膿」の話そのものです。「自分についた嘘」が解除され、代わりに感情の膿が流れて消えていく。虚構の自己が減りストレスが減る。

しかしこの「減る」だけでは、消極的側面だけです。
「本当の自分として生きる」という積極的側面を、それは説明してはいません。


「本当の自分として生きる」という積極的側面は、何が生み出すのか。今までそれを、「自然治癒力と自然成長力」とだけ説明してきました。その先は「未知」だと。
今回ようやく、その積極的本質の一つがはっきりと分かってきました。



■「人間の成長」の本質-4:結論:「嘘をついて愛することはできない」ことから知る「本当の自分」

結論を言います。「嘘をついて愛することはできない」ということです。
これを身をもって知った時、喪失の痛みと共に、自分についた嘘とそのストレスから開放されると同時に、「本当の自分として生きる」ことの積極的な意味がはっきと見えます。

それは、本当の自分として生きた時だけ、本当に愛することができる、ということです。


「空想の中の生」によって、我々は「感情の膿」が意識に触れることを免れた安泰を、事実手に入れることができます。それを敢えて意識破滅の危険さえある「現実」に向うことの意味を見出せるとしたら、これ以外には恐らくないでしょう。

僕は今までこのことを、はっきりとこの言葉では自覚しないままでした。しかし僕が結局「現実」に向かい続けたのは、このためです。
『悲しみの彼方への旅』でも、「あの下級生の子」への感情動揺を自分が乗り越えたとはっきり自覚したのは、「自分に嘘をついて愛することはできない」ということを身を持って体得したという、一つの達成を得たことをもってだったわけです。それが次のような言葉になった。
===============================
 今まであの子への感情は、彼女の好意を自分に向けるという目的のために生み出されていたような気がする。その時、自分が彼女に対して本当には何をしたいと望んでいたのか。それとはおよそ無関係に、感情は強制的に流れたのだ。(P.302)
===============================


この時僕に、「本当の自分として生きる」ことの意味が体得されたわけです。

おそらくこの命題は、「魂と心の分離」という構図を見出したことに匹敵する、ハイブリッド上の大きなポイントになるのではないかと。
この体得をめぐる前後の状況などをもう少し整理し、これを全く見えなくさせてしまうものとしての「善悪」そして「否定価値感覚」の結論へ。


心理学本下巻に向けての考察-145:「未知」への意志と信仰-37 / しまの
No.1398 2007/12/08(Sat) 15:57:06

■「人間の成長」の本質-1:必ず存在する「空想と現実」のギャップ

不完全な存在としての「人間の成長」は、「人の目神の目」の中という「庇護幻想」と、「自意識」という「自分幻想」の中に始まる、と言えます。
つまり、まず「望み」として「自己理想像」を描き、それを満たせば自分が人から、もしくは「神」から「愛情の目」を向けられるはずだと感じ、そうして「自分に向けられるはずの目」を先取りして起きる自分の感情を、「自分」だと感じて生きることから始まります。

「現実とのギャップ」はここですでに2種類のものが内包されていることになります。

一つは、果たして「現実の自分」がそうして空想した自己理想像、また人の目を先取りして抱いた自己像に、どれだけ実際のところそうなのかというギャップです。これは「自分幻想」が必然的に持つギャップです。

もう一つは、そもそも「人の目神の目」が自分に向けられるものとして実際にそのように存在するのか、というギャップです。
この点で、人間の未熟性から成熟への成長は、まず自分に向けられる目があることを過大視することから始まります。これはどんな目が向けられると想像するかに関らずです。小さな子供はまず親に「見られる」ことを自己の存在感のために必要とします。人は誰でもこの構図から成長を始めます。

ですから、人が自己理想像を描き、その実現へと努力しようとするならば、そこでほぼ必然的に、2つの面で「現実を思い知らされる」という事態に出会うことになります。
一つは、「現実の自分」が実際は自分の空想した自分とはあまり一致しないという事態。もう一つは、他人やさらには「神」が自分にそれほど特別な注目を寄せているわけではないという事態です。

つまりこれは、「庇護幻想」「自分幻想」が共に打ち破られる事態です。


■「人間の成長」の本質-2:「空想の中の愛と自尊心」から「現実の中の愛と自尊心」へ

生きることにおいて「理想と現実」という基本軸しか持たない他の動物であれば、この先にあるのは、「現実」を「理想」に近づけるために、全てを尽くすのみです。この結果、望んだ「理想」へのどの程度の接近になろうとも、この「全てを尽くす」努力は、まず間違いなく何らかの「向上」と「達成感」をこの者に与えるはずです。

人間が持つ他の軸は、他の動物の場合はありません。「自立と依存」においては、「自立」がもう既決前提です。そうでないとは生存競争にすでに敗れているということです。この先も、全てを自分で切り開いていくしかありません。
「善と悪」はありません。「嘘と真実」のへったくれもありません。話はかなり単純です。

「人間の成長」としてハイブリッドが「健全形」と考える「不完全性の中の成長」は、「理想と現実」に「自立と依存」「嘘と真実」が加わるものです。つまり最後まで「自立と依存」「嘘と真実」が伴うということです。

完全完璧な自立というものは不可能です。人間はやはり最後には他との関係の中で自分を位置づけることができる存在であり、他との関係に一切影響されない自分などと考えても不可能な話です。
自意識は常に願望によりバイアスを受けます。そこに、単に「自分という概念とその認識能力を持つ」範囲を超えた、「現実とのズレ」が生じえます。自分が現実にどうであるかとは別に、自分のことをこう思いたいという意識が、根深く働きます。これは一種の「嘘」が起きる素地があるということです。

そうした状況において上述のような「現実を知らされる事態」は、「庇護幻想」と「自分幻想」が打ち破られることを意味します。自分は特別に見られたわけでもないし、空想した「こうあれた自分」でもなかった。
これはつまり、「空想の中の愛と自尊心」が喪失に直面したということです。

ハイブリッドが「健全形」と考えるのは、この「空想の中の愛と自尊心」の喪失を、「現実の中の愛と自尊心」の獲得へと変えるステップにするものです。
このメカニズムを次に。


心理学本下巻に向けての考察-144:「未知」への意志と信仰-36 / しまの
No.1397 2007/12/07(Fri) 18:11:48

■「人間の生きる姿勢」の本質

我々人間は、我々自身が描く「自己理想」を、どれだけ自分にとって本当のものであるのかを、実際にその「自己理想」を描き全ての可能性を尽くし「現実」へと向うことなしには、知ることはできません。
同時に、それが「現実の条件」だけの問題だと考えても、それを知ることはできないのです。我々の心の底には、眠りに閉ざされた「魂」があり、我々が現実において何を望む存在であるのかは、その「魂」が知っています。しかし「魂」は、あくまで我々自身の心として完全に自分のものであるように扱うことはできず、我々ができるのは、いかにそこから届く声に耳をすませるかです。

ですから我々は、今自分が描くことのできる自己理想を描き、それに向うしかないのです。そして「現実」をありのままに見ることです。
するとこの「現実に向う」ことの刺激そのものが、「魂」の声を阻んでいた心の膿の方を同時に刺激し、我々は「望み」へと向う前には自分でも知ることのなかった、ありのままの現実の自分を知ることになります。


そこに、人間の生きる姿勢が問われるわけです。
どんな姿勢が何を決するのかを見て行きましょう。


■「人間の成長」の本質

以下の流れは、感情の膿の残量によって、その動揺度が変化します。それはごく短い思案の中で終るような話かも知れないし、本格的な精神的バランス喪失の事態をもたらすかも知れません。つまり基本的に心性崩壊と感情の膿の放出の構図になるということです。
しかし流れはまったく同一です。
事実僕はおとといこの流れをメモったのですが、その出来事については、ほんの30分ほど思案する中で「ああそうかー」程度に完結したものでした。しかし今まで紹介した僕自身のさまざまな変化体験も、さらには『悲しみの彼方への旅』で描写した、まる1年かけて巨大な動揺を経て起きた治癒成長も、全て、まったく同じ構図で起きています。

つまり、人間の根本的な変化への成長は、心性崩壊と膿の放出という基本的な構造の中にあるということです。あとは膿の量によって、心理学的な現象に見えるか、それともごく普通の人生の出来事のように見えるかの違いがあるだけです。
これが「人間の成長」なのです。


■「健康な心の世界」で人と人を繋ぐ「成長」

単に人から見て理想的に見えたり羨まれる姿になることではなく、自分自身として本当に満足できる充実した人生を歩みたいのであれば、そこに近づく「成長」は、決して親から与えられた資質のような条件として「与えられる」ものによって得られるようなものではないように感じます。与えられる形で「成長した人間」にしてもらえた人間というものを、僕は知りません。

どんなに恵まれた才能美貌の持ち主であろうと、満足できる自分の人生を見出そうとする時、それは「与えられる」ことではなく「自ら望み向う」ことの先にあるものを、まず「自己理想」として描くことから始まるはずです。やはり「与えられた」ものだけでは根本的に足りないものがある。「ローマの休日」のようなドラマで良く描かれる話ですね。
事実それは彼彼女が「すでに与えられた」ものとして持つものとは別のことであるはずであり、そこに、次に述べるような心の成長への体験が成されると、僕は考えています。

僕はこれを、何の悩みもなく恵まれたように輝いていた人々に惹かれ、僕自身が建設的に生きる中で、自分自身の持ち得る価値をなんとか高めていき、そうした人々と対等な視線を持てるようになるまでになった、この人生を通して知りました。
決して恵まれた条件が人に「人生」を与えるのではありません。その錯覚に足をすくわれない者が、それぞれの苦難を経て、自らの人生をつかむのです。

このことが分かってから、僕は人に対して、その外面にはあまり揺らぐことのない芯のような親近感を感じるようになりました。「人間の特定の価値」によって圧倒され惹かれてしまうという、かつての人生で体験したのとは全く異なる対人感情です。
もちろんその「人間の特定の価値」は、それ単独で充分価値のあるものではあります。それに惹かれ繋がり合うこともあるでしょう。しかし根底で人と人を繋げる芯になるのは、別種の感情の方だと思います。
それが「健康な心の世界」として、ハイブリッド取り組みの「中期」として目標像に置いて頂くのがいいものになると思います。

これとは別の方向に向ってしまうのが、人から見て理想的に見えたり羨まれる姿になることを「勝利」と感じて向ってしまうものです。これは後でまとめます。

「健康な心の人」は誰もが次のような道を通ることになります。


■「人間の成長」における「未熟性」と「自意識」

「自ら自己理想を描き望みに向う」ことが「成長」の過程として行われるのであれば、その「成長」における最初の段階であることにおいて、この人は不完全な人間としての何らかの未熟性の中にあることにあります。
この結果必然的に、「恒久幻想」としての「庇護幻想」「自分幻想」が働きます。つまり、理想像通りになることで人に愛される自分を空想する中で感じることが、「自分」と感じられるわけです。

次に、この未熟性が単に「理想と現実」という他の動物にもある基本軸だけで起きることではなく、「人間の不完全性」の中で起きることにおいて、空想した自己理想像の一人歩きという問題が出てきます。千差万別の動揺度の中で、必ず「自意識」が揺れ動きます。
ここに、「描き望んだ自己理想」と「現実の自分」とのズレという問題が出てきます。

単に空想しただけでなく、現実において向うというリアリティが、何かを変えていきます。「現実性刺激」と呼んでいるものです。
僕がほんの30分ほどの思案の中で見たのは、まずここで「現実の自分」を「空想像」に合わせようとする努力衝動が起きることです。
「未熟性」の度合いに応じて、これは次第に「理想像通りに振る舞う」ことの外面的成功に意識が駆られる状態になります。つまり、「自ら望む」という内側から外側へほとばしるエネルギーというより、外側から見た「姿」に自分を合わせることへの成功と失敗という意識になってくるわけです。

それがどう成功失敗するかどうかは、もはや前提のない唯一無二の人生の出来事になるわけです。そしてまず成長が未熟から始まるのであれば、まず失敗を体験するのが常道になります。

僕が30分の思案の中で見たのは、次のようなものです。
何とか努力すれば、理想像通りに振舞うことに成功するかも知れない。するとそんな自分に愛情の目が向けられるイメージが流れます。
すると今度は、自分がそうして向けられた人の目にきちんと応え続けられるかという問題が生まれてきているのを感じます。きちんと対応できている自己像を描きます。
しかしどうも気後れ拘束感が伴い始めています。自分自身の内側から湧き出る感情は凍って、一体相手はどう自分を見るかしらとばかりに意識が働き始めているのを感じます。

次第に明瞭になってくるのは、どう見られるかと硬い身構えの中に向う自分のイメージです。これは最初に描いた「理想を望む自分」のイメージとは大分異なるものです。つまりそこには何かの「嘘」があったわけです。


■不完全性の受容の分岐路

「不完全性の中の成長」への視点を持たない通常の素の思考だと、ここで先のカキコで書いた2つのどっちかになるでしょう。
「やはり無理だ。自分の望みが間違っていた」退却するか、とにかく理想像通りになることに駆られるか。そしてストレスが増大し、緊張状態が現れ、現実的にもうにっちもさっちもいかなくなれば一種の破綻状況が起きるかも知れません。恐怖症状のようなものとして。自己処罰感情が湧き敗北感につつまれるかも知れない。
それとも何とかやり通して、その場をしのげるかも知れない。

こうした動揺側面は、否定価値放棄後の「不完全性の中の成長」に迷いなく向う時も、そうではなく成長になかなかつながらないスパイラル繰り返しの時も、同じです。
そして同じように現れることとして僕に見えたのは、そうして一人歩きした理想像から自分を拘束するという心の歯車の回り方になっている時、感情がすさんだ色彩を帯びてくることでした。

分岐路は、これを「理想通りになれない自分」と捉えるにせよ、「望みにあった嘘」と捉えるにせよ、これを「不完全性」として自ら受容する姿勢を選択するかどうかで現れます。

もし「不完全性の受容」を成していなければ、これは単なる「失敗」です。次はこんなことがないように、「相応しい望み」をもっと考えなければ、と考えるかも知れません。

「不完全性の受容」を成している時「まっいいかー」と許せ自己処罰感情も免れる、ということではありません^^; 自己処罰感情はやはり「恒久幻想」由来の部分からやはり最後まで起き得ます。

「否定価値の放棄」についての勘違いを排すよう解説を加えておきますと、「否定価値感覚」では自己処罰が積極的な価値を帯びてしまう一方、自己処罰感情健康な心においても起きます。一言でいえば「コントロールなき損失」を自分が招いた時です。朝潮流や亀田次男のショック症状などはその例です。

ですから「否定価値の放棄」を自己処罰感情から免れる方法だと考えると、完璧に方向を誤ります。確かに自己処罰の積極的価値が消えるので、結果として自己処罰感情は激減します。だからと言って、自己処罰感情から免れたいから否定価値の放棄をしようという発想は、まさに否定価値感覚を生み出すものと同じ、絵に書いた餅の理想を掲げる姿勢なのです。

否定価値の放棄は、そうではなく、絵に書いた餅の理想を掲げるのとは全く異なる、次に述べる「人間の成長」つまり「不完全性の中の成長」をはっきりと知るということが、かなり本質的になってきます。それに比べた時「否定価値感覚」がいかに不実な傲慢であるかを心底から自覚することで、「否定できる価値」を根底から捨て去るのです。

それが同時に「人間の成長」を知ることであることにおいて、この人間は着実に「コントロールされた成長」へ向うようになります。その結果、「コントロールなき損失」に出会うこと自体が次第になくなっていき、やがて自己処罰感情が起きるような事態も皆無になっていくという流れがあります。またこの成長過程で起きる感情の膿の減少も、自己処罰感情の減少の本質要因になります。

ですから、「不完全性の受容」とは、「何でもオーケー気にしない〜♪」などという態度をうそぶくことではなく、自ら描いた自己理想に向い、現実の中で見えてきた自分の姿について、「理想と現実」軸におけるギャップを超えた「人間の成長」の真実を見る目を獲得することです。

ちょっと長くなったのでここでいったんカキコし、この「人間の成長」の真実とは何かから次に。


心理学本下巻に向けての考察-143:「未知」への意志と信仰-35 / しまの
No.1396 2007/12/07(Fri) 12:28:51

■「不完全性の中の成長」のメカニズム

「不完全性の中の成長」のメカニズムを説明します。
まず前提として明記したいのは、「感情の膿」が存在しており、それを根源として駆動している自己操縦心性が解除されるという作用も含む、「成長」であることです。

これは別の視点で言えば、「感情の膿」およびそれに始まる「心を病むメカニズム」の減少解除にはあまり関係しないままの「成長」について言うのであれば、「感情と行動の分離」における外面行動側の成長として、もう最初から言っていることであり、「根本変化」について説明している今、取り立てて出すような話ではないということです。

つまり、感情の膿と自己操縦心性によって、「魂」の成長が保留停止されているという基本構造を、もはや何人も免れない「心を病むメカニズム」という人間の心の一面と位置づける上で、この「不完全性の中の成長」を、「根本変化」への成長の基本形と考えるということです。

根本変化への成長とは、より大きな魂の領域の開放であり、開放された魂の感情によって現実を生き、それによって魂がより豊かなものへと成長することです。その結果、「この感情において生きている」という魂の感情のより豊かなものに満たされ、同時に「現実」と「自意識」のギャップの少ない調和へと向うことです。

それは感情の膿を前提とした「不完全性」を本質とした人格構造における、以下に説明するようなメカニズムとなる。

まずご理解頂きたいのは、感情の膿の存在とは、本質的に人格の中に何らかの「嘘」が起きていることを不可避としているということです。
感情の膿とは、論理性をもはや失った自己否定感情の塊です。その存在を否定する代わりに、我々は「これが自分だ」という、感情の膿の存在を塗り消した、「感情の膿の存在を考慮した現実の自分」とはちょっとズレた自己像の中にいることにおいて、精神的な均衡が保たれている状態にあります。

一方、感情の膿は魂の領域にあるものでもあります。感情の膿を多く抱え、そこから意識を離す必要度が大きい程度において、魂の領域が切り離されているわけです。
そんな状況にあって、自ら「魂の望み」の方向へと歩むことは、この人間に、自分の心の底に残されていた感情の膿の存在を知らしめる事態となります。それを受け入れ、「成長の痛み」を伴う時間を経ることを、ここではすでに積極的に受容する心の状態が用意されているものとします。

ですからこれは「否定価値の放棄」の後の、好循環へと至った段階の話です。
「否定価値の放棄」以前ではどう違っていくるのかも、少しづつ見ていきましょう。

次のようなことが起きるわけです。


■「自ら望むことができる自分」の幻想

それは基本的に自ら「理想」に近づこうとする行動を浮かべることから始まります。「理想と現実」の基本軸において、今の現実をさらにステップアップさせる可能性のある、「望み」が刺激されるわけです。

この最初の時点で、「否定価値の放棄」以前とはもう全く方向が違うと思います。「否定価値の放棄」以前では「自ら望む」ことの全体が閉ざされて良く見えない中にあります。
この場合の取り組み実践としては、ここで述べるような姿をいたずらに自分に当てはめて強制を試みるのは全くの誤りで、必要なのは、「否定価値感覚」とは、以下に述べる「不完全性の中の成長」とは異なる、どんな価値を求めどんな方向に向うものなのかを理解すること、それを生み出している幻想の論理を理解することです。
その幻想の論理が生み出す「価値」と、以下に述べる「成長」が生み出す「価値」を天秤にかける。これが「否定価値の放棄」を問う作業に他ならないものになるでしょう。

「望み」へと向かうその一歩は、「愛」「自尊心」における「理想」になれる自分への夢を見るような心の動きとして始まるかも知れません。そのためは自分はどうできたら良いのだろうかとあれこれ考えることに、再び未知の自分を感じながら惹き込まれていくエネルギーに、「魂の望み」が引き出されている側面を見ることができます。

そこに現れるのは、自己理想になることにおいて人に愛されるに値する自分、というようなイメージです。そしてそれを自分が望むことを感じるわけです。この、「自分がそれを望む」と自覚することにおいて、たとえ結果が思わぬものになろうと、前に進む勇気が持てるのです。決して一方的に「人にこう見られる自分」を自己操縦の中で演じようとするのとは違います。

実はこの「望める自分」像に、「自立と依存」軸における「依存」がやはり働いています。同時に「愛情要求」が、です。
つまり、本人としては、この「自ら望む」気持ちに偽りはないと感じるわけです。決して、真剣に自ら望む感情を欠いたまま、人に愛されることでいい思いやさまざまな報酬を見当てにしているのではない、と。

意識の表面としてはそうなのですが、意識下も含めた全体から言うと、実は少し偽りがそこに含まれています。
まず、根本的にこの人間が成長途上にあり完璧人間ではない不完全性を持つことにおいて、「庇護幻想」が働きます。「愛されるべき」「愛されるはず」思考です。
もちろんこの段階にある人間としては、「愛されるはず」などということは現実にはないことを知性思考では心得ていますが、思考コントロールを外れた感性のレベルでそれが働くわけです。つまり、「現実」よりも大分ひいき目に自分が見られる幻想感覚が起きているわけです。

この結果、ちょっとした錯覚が起きます。自分が自己理想像を描き、それを自分が望んでいると感じるという錯覚です。


■「理想になれる」が錯覚かそれとも「それが理想」が錯覚か

上記最後の文はちょっと奇異に感じた方がおられるかも知れません。

まず自己理想を描き、それを望むという始まりを言いました。そこで「錯覚」というなら、「絶対叶えられるはず!」という傲慢思考があるならそれが錯覚だという問題は言えるだろう。
それがそうではなく、「自己理想を望む」という最初の枠自体が錯覚の中に始まっているという話になってくるわけです。これがハイブリッド的視点です。

まあ多少そうした視点も、人々の素の思考の中で起きるかも知れません。ハイブリッドが見出した根本変化過程への視野を持てないまま、多くの人々の思考2つの方向のどっちかになるでしょう。
一つは、自己理想がおかど違いのかなわない夢だと、向うことなく捨ててしまうもの。
一つは自己理想にならねば負けと感じ、現実がそれにどう近づくかに躍起になるもの。この先にやがて「はず」の傲慢「どうせ」の退却の間で揺れ動くという、出口のないスパイラルが永遠に続くことになるかも知れません。

ハイブリッドが見出した根本変化過程とは、そのどちらでもなく、「自己理想」と「現実」の双方が、「未知」へと変化していくものです。

とりえあず「不完全性の中の成長」で起きる流れの先に進めます。それが起きた時、どんな錯覚の中にあったのかが明らかになります。


心理学本下巻に向けての考察-142:「未知」への意志と信仰-34 / しまの
No.1395 2007/12/06(Thu) 15:16:29

■「嘘」をめぐる「真摯」と「不実」

「不完全性の中の成長」は、「理想と現実」「自立と依存」「嘘と真実」という3つの大局軸をともなって現れます。

ここには、一つの選択が含まれます。「嘘と真実」における選択であり、「嘘を許す」か「嘘を許さない」かです。
他の2軸に「選択」はあまりありません。「理想」と「現実」は、ただそのようにあるものとしてあり、「自立」と「依存」は多少意識的思考が影響しますが、少なくとも「健全形」である範囲においては、「依存から自立へ」という最大の摂理が、この人間の心に意識を超えて作用しています。

「嘘と真実」におけるこの選択は、人間の生きる方向性として「真摯vs不実」という大きなベクトルを決定します。「真摯」とは、より真実に近づき、より真実を目指す人間の姿勢です。一方「不実」とは、真実から遠ざかり、偽りを増していく人間の姿勢です。

ハイブリッドでは、「嘘を許す」姿勢が、「真摯」への「選択」であるという「思想」を採ります。「思想を採る」とは、この選択においてどっちをとるかは実際のところ自由選択になるということです。
これは医学的意味での自由選択です。生まれついての利き手は自由選択ではありませんが、実際の生活でどっちを主役に使うかはかなり変えられるのと同じ意味で、「嘘を許す」考え方を採るのも「嘘を許さない」考え方を採るのも自由です。

一方、生まれついての利き手とその変更について神経的メカニズムを言えるのと同じように、「嘘を許す」か「嘘を許さない」かの選択が、人の心に及ぼす影響メカニズムを言うことができます。生まれついての利き手を変えることに、あまりに無理があるのであれば、生まれついての利き手の通りに生活することが医学的推奨になるのと同じように、「嘘を許す」か「嘘を許さない」かに推奨が出てくるということになります。

それで言うならば、「嘘」は、それが起きなければそれに越したことはありませんが、それが起きたことにおいて「嘘」として成立します。選択は、それに対してどっちの姿勢を取るかが問われるということです。つまり「過去の事実」への姿勢を問うているわけです。
ならば、「嘘を許さない」ことは、どうしても「嘘に嘘を重ねる」ことにつながります。嘘の存在を認めまいとすることになります。これでは「嘘を含む現実」という問題において向上を生むことはあまりできません

「嘘を含む現実」がそこにあるのであれば、まず「嘘」はどの部分にあるのかを正確に知り、必要があればその補い回復をすることで、現実における向上を生み出すことができます。同じ「嘘」を生み出さないことへの望みがある限り、こうやって一度「嘘」が生まれた時、それを真正面から認めることが、これからの「真摯」の増大のための第一歩になります。


■社会行動における「嘘」への現実的対処

もちろん社会行動や対人行動における「嘘」悪影響をもたらしますので、現実的対処ができることが大切です。

「善悪」について、「原理原則」「いわゆる善悪思考」「魂の望みに本性的に含まれる善悪感覚」という3層があるという話をしています。
上述の「嘘を許す思考法」とはこの真中の「いわゆる善悪思考」は持たないということです。それは必要ありません。

詐欺怠惰による約束違反など、客観的な実害のある「嘘」については、原理原則で対処できます。明らかな損害をこうむることであれば、法に訴え処罰することができます。

また、「嘘」を嫌うのは人間の本能です。別に法律に絡むようなことではなくとも、嘘をつけば嫌われます。これは「許す」「許さない」の話以前に、魂のレベルでそうだということです。嘘をついたことを正直に告白され、それを許すとしても、その相手を引き続き好きでいるか嫌いになるかは、もう知性思考ではどうしようもない話です。また自分で嘘をつくと、ばれる恐れからストレス下に置かれます。

ですからハイブリッドとしては、ことさら「嘘は決して許してはいけない」というような「善悪思考」は、健全な心の状態においては特に必要ないと考えるわけです。「健全形」としては、「嘘」は自分が損をすることとして、自然に捨てられていく。とりあえずこれを話の前提とさせて下さい。

このように、「嘘と真実」への姿勢としては、「嘘を認め許すことにおける真摯への方向性」を選択していることを前提に、「不完全性の中の成長」は次に説明するようなメカニズムとして成されます。


心理学本下巻に向けての考察-141:「未知」への意志と信仰-33 / しまの
No.1394 2007/12/06(Thu) 12:39:42

■「健全形」としての「恒久幻想」

「自立の置き去り」に由来する「4つの幻想」という話をしました。
庇護幻想」「破壊幻想」「自分幻想」「人間価値の絶対性幻想」です。

この内の2つは、人間の不完全性により、根本的には免れないものです。これを「恒久幻想」と呼ぶことができるでしょう。
「庇護幻想」「自分幻想」がそれです。
一方、「破壊幻想」「人間価値の絶対性幻想」は、免れない健全形であることを超えて、人間の心の一つの究極的な選択として、また心を病む姿として現れます。

1)庇護幻想

「庇護幻想」は、自己の不完全性を補うものとして、最後には何かに守られるという情緒的観念を持つことです。「神」は人間がこのために抱いた代表的観念です。
これは人間の「空想力」が業として伴うことになった「恐怖」が由来と言えます。

庇護幻想は、「自分はそれによって守られる」というはっきりとした情緒感覚の形をとらずとも、否、むしろ大抵の場合はっきりとした情緒感覚の形をとらずに、自分の心の状態を受け取るものが自分の外側を取り囲んでいるという、ほとんど無意識の感覚の形を取ります。

「人の目」がまずそれです。
これが「健全形」である範囲とは、主に自分の未来像を空想する時に現れるでしょう。こんな自分になればこんな風に見られる。この空想が、自己像そのものに影響を与えます。これはもう人間がそんな存在です。これがないとは、ほとんど生きるのを止めた状態です。まあ次の「病んだ形」が生むストレスから、自ら「人の目」を伴う心の動きから退却するとそうなるでしょう。
「病んだ形」とは、「存在への否定vs賞賛」という既定の感情カラーセロハンが張り付いたものです。

ただしこの「健全形」「病んだ形」差は微妙です。特に、ここでは「不完全性の中の成長」「健全形」として定義することにおいて、「不完全性」には「感情の膿の存在」も含んでいます。それが完全にゼロの人間はいません。これはどうしても「存在への否定vs賞賛」の「人の目」イメージを生み出します。

つまり、「庇護幻想」も「人の目イメージが起きる」という「感性」のレベルだけにとどまるならば、これは「健全形」、少なくとも「不完全性の中の成長」の中で並存し得るものです。前に書いた「2つの感性の並存」という話です。

「庇護幻想」が病んだ深刻さになるのは、「知性思考」にまで影響が及ぶものです。これは社会行動や日常生活での知性思考に変化を及ぼし始めます。
この典型を「愛されれば安全」感覚として指摘しました。思考が「人の目人の感情」を最終受け皿にするかのように変形してくるのです。
さらに核心を言いますと、社会行動に関する思考が幼少期の子供(自分)と親(他人)の形を取ってきます。特に、「愛されなかった怒り」を親にぶつけるのが許されることを求めるのと全く同じ構図で、自分の怒りが他人に許され愛されることを求める思考になります。

この「不完全性を超えた幻想」については、あとで全体をまとめます。
とにかく、「人にこう見られる」によって自己像が変化してしまう。これが「人間の不完全性」における庇護幻想の側面です。

2)自分幻想

「自分幻想」「人間の不完全性」として免れないのは、その定義である「空想した自分が自分」であるかのように感じる感覚そのものです。

少なくとも、我々が「望み」に向い、まずその行動準備として「こう行動できる自分」をイメージした時、それがうまく行けば、それが「現実の自分」になる可能性があるのです。ここに「自信感」が伴うほどに、あたかもその自分が半分実現したような気分になるかも知れません。
これもやはり、人間というのがそうゆうものにできています。

庇護幻想」が人間の「空想力」によって免れないものとなったのと対応するように、「自分幻想」は「自意識」によって免れないものになりました。
「自意識」とは、本来の役割においては、「理想と現実」という基本軸における、「理想」に向うことをより効率化するためのツールでした。本能に任せた行動の結果、運良くより幸福へと近づくのを待つのではなく、最初っから幸福を手にいれた自分を描き、それを基準にして「現実」を変えていくという、「画期的」な方法を人間の脳が獲得したけです。
ところがこれが、この「自己理想像」だけが一人歩きを始めて、今度はそれに満たない「現実」を怒りで叩き潰そうとするという、「病んだ心」への芽が生まれる両刃の剣になったわけです。


■「自己像」と「嘘と現実」

ここで根本的な問いを出すことができます。
我々が特定の自己像を抱く時に、それは「嘘」なのか、それとも「真実」なのか、です。


それは明らかに「実体」ではありません。あくまで頭の中で空想したものです。しかしそれが実際において何らかの「現実とのズレ」を含む時、この自己像が「嘘」のものであることを、一体我々はどんな存在として言うことができるでしょうか。この言い方は「自らが神として」というのを実は暗示していたりします。
まあとにかく、人間には「自意識」があるのです。それがないとは、脳の欠陥か、他の動物のことです。そして「現実実体」とはいったん別のこととして空想を保持する能力であることをもって、それを「自意識」と呼んでいるのです。

事実この問いが、心の闇につながるある本質的な混迷を示していると考えます。それに符号するのかのように、心の悩みを抱える大抵の人が、自分の自己像が「どこまで本当の自分」なのかと悩みます。そして自分が無意識のうちに身にまとっている嘘が暴かれるのを恐れるかのように、自分が見せかけの無様な姿に陥ることを恐れ、他人の中の見せかけを見ると今度は鬼の首を取ったかのように攻撃します。

ここには「善と悪」の軸が存在し始めています。「自意識」は明らかに、「悪しきもの」として映る一面があります。魂の願い「一体化の愛」にあった時、「自意識」はそれを妨げるものだからです。

そして多くの人々が、どうしたらこの「自意識」などという足手まといの厄介者が消えてくれるのだろうと、バリバリの自意識の中で考えるわけです。どうしたら、自意識過剰でないまっさらな心になれるのだろうと。

答えは、「不完全性の中の成長」にあります。これは上記「恒久幻想」の中で「現実」へと行動することがもたらします。
そのメカニズムを次に説明しましょう。ハイブリッドとして未解決の難題がそれに一気に解ける見込みあり。

一つだけ除外した大局軸が全てそこに現れます。「理想と現実」「自立と依存」そして「嘘と真実」。これで構成されるのが「健全形」です。
「善と悪」だけは除かれます。それが全てを見えなくさせるわけです。まず「健全形」の説明を終えて、その正確な隘路を説明しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-140:「未知」への意志と信仰-32 / しまの
No.1393 2007/12/06(Thu) 10:13:40

トンネルの完全開通近し^^)v 隙間から向こうの光が見えてきた♪


■終章-9:人間の不完全性における「恒久幻想」と「成長」

これは知的な探求をしている時に良くあることですが、一つの段階解くべき難題が幾つかあり、解けそうもないままにさらに別の難題があることさえ見えてくる。
これは一見して問題がさらに混迷の中に難しくなると思われる状況に見えるものですが、実は逆に、最後に上乗せされた難題が、全ての問題をたった一つの単純な原理によって解く解決をひらめかせることがあります。

これは僕がハイブリッドを整理し始めた時に、心理障害を決定づけるものが良く分からず、「全能感万能感」「二極思考」「執拗さ」がなぜ起きるのかというところに、「現実感」という僕自身の治癒体験が鍵となって、「自己操縦心性の発動」があるという結論が一気に全てを説明できたのも、その一つでした。

今回の最後の段階解明もちょっとそんな感じがあり、「理想と現実」という基本軸を混迷の中に落としやる難題として、「自立と依存」があり「善と悪」があり、どうも結論がすっきりしない中で、とにかくあと「嘘と真実」も入れねばと、さらに先が見えない感も一瞬感じました。

一方、話の先が見えなくなった時、僕は無理に書くのをやめ、今自分の中に見える、自分自身に書きたい気持ちを起させる人間の心理とは何かと、問い直します。そこまでの考察となるべく重ねながら。
そうすると大抵、さらに新しいものが見えてくるもので、昨日もそれがあった。これはちょっと書き物とは全く関係ないところでの、ちょっとした生活出来事がきっかけです。まあいつか小説の続きでも書く時には挿入するかも知れないエピソード程度の話で、内容は省略。

まとにかく、今の僕にも、自分自身の不完全性として持たざるを得ないでいるものを見た体験がまたあったわけです。
それが「嘘と真実」です。そして、そこに「成長」がまたあったのを見た。
これで全てが一気につながってきました。


■「健全形」としての「不完全性の中の成長」

まず、不完全な存在としての人間の心の成長について説明します。これが「健全形」になります。

今まで話の先が見えなくなることがよくあったのは、おそらく「全ての幻想が消えた完全形」最終座標として念頭に置いていたからかも知れません。「まっさらな人間」ですね。
確かにそれが向う先のベクトル像であるのは確かです。しかし100パーセントそうなるということは、そこで成長が止まる、あり得ない完璧のような気がします。そこには実は成長へのメカニズムがないのかも知れない。

一方、成長のメカニズムは、明らかに不完全性そのもの中に内包されています。
「否定価値の放棄」において成される「不完全性の受容」とは、この「不完全性の中の成長」のメカニズムを、自ら受容し、もう迷うことなくその成長へと進むことなのです。
一方「否定価値感覚」は、この「不完全性の中の成長」のメカニズムを拒否する心の動きです。そして「現実」においては存在し得ない、「完全への成長」を求め続ける「不実と傲慢」に陥ります。

ですから、この「不完全性の中の成長」のメカニズムを理解することによって、否定価値感覚の成り立ちと、その放棄への要件が、かなり正確に見えてくるのではないかと思います。

短いですが序論としてUpし、「健全形」としての「不完全性の中の成長」のメカニズムから。


心理学本下巻に向けての考察-139:「未知」への意志と信仰-31 / しまの
No.1392 2007/12/05(Wed) 18:17:18

■「理想と現実」の彼方にある人間の心の謎

どの通り道の話なのかを見失わないよう、また全体整理から始めます。
今までのよりもさらに壮大な大局の構図になってきます。今まで視野に入らなかったものが入ってくるからです。

「善悪」テーマが出てくるまでは、問題は大きく2つの軸で捉えられました。というか見ることができるように思われました。
これは「治癒と成長」という軸です。

「成長」は、「」「自尊心」「恐怖」がテーマになります。
「治癒」は、「空想」と「現実」がテーマになります。

この切り口は、ハイブリッド取り組み入り口となるものと言えます。上巻原稿も、およそこの範囲内で書きました。
まず、どんな問題が起きているのかを理解するのが骨子となります。なぜそんな問題が起きるのかの根底として上巻で示唆するのは、「自己の重心」であり、その根底に「魂と心の分離」があるという示唆までをしたわけです。

このように「」「自尊心」「恐怖」というテーマがあり、「空想」と「現実」というテーマがある時、これをさらに一つの基本的な軸として言い表すことができるように思われます。
それは「理想と現実」です。

事実、それだけであれば話は単純だったわけです。これは健康な心の発達における、ありのままの姿でもあります。「愛」と「自尊心」と「恐怖の克復」における「理想」を描き、「現実」へとぶつかっていく。そこで得るものがあれば喜び、得られないものがあれば悲しみ、失敗の痛みの中で学び、変化していく自己と共に望み続けることで、やがて望みは成熟し、生きることの意味を知る報酬がこの者にもたらされるわけです。

一方、ハイブリッドの道のりにおいて、治癒と成長は何が起きて成されるのかのより精緻な探求は、「魂感性土台の体験」という、全く異なる脳領域の体験的自覚を足場にして、「魂と心の分離」において一体何が起きたのかという、人間の心の深淵な謎の領域に踏み入ることになります。


■人間の心の4つの軸へ

ま仰々しいナレーション調概観ですが、実際のところ、歩いても歩いても進む先の道が消えて方向が見えなくなる地点が訪れる感があります。そしてこのように全体を振り返った時、実際のところ、こうして見えたことだけで考えた時、一気に目の前に真っ白な空間が現れ、一体「人間の心」というものが何に向って動いているのか見えなくなるという謎があるという深い感覚が、何よりもそこに真実が隠されてることを示唆しているように感じます。

とにかく、一気に話が複雑化するわけです。あともうちょっとでトンネルが完全に山の向こうに突き抜けるということで、最終的には全てが良く分かるように整理したい。

なぜ話が複雑になるのかというと、「理想と現実」という、「生きる」ことのありのままの基本軸の姿を混乱の中に見えなくさせていく、さらに3つの大局軸があるということになります。
「自立と依存」であり、「善と悪」であり、そして最後に入れなければならないのは、「嘘と真実」という軸です。

「魂感性土台の体験」を足場にして、それとは対極にある「人の目感性」の水面から深い先に、「理想と現実」という本来の基本軸を混乱の中に見えなくさせていく、3つの軸があるのを見ていくことができます。「自立と依存」という問題があり、その中で「善悪」が問われ、「嘘と真実」の狭間に視界が消えていく..。
そこに、「自立の置き去り」が生み出した幻想世界がまずあるということになります。答えは、この幻想の霧を消した時に現れる。

という全体整理をまた踏まえ、「自立の置き去り」が生み出した幻想の論理と、否定価値放棄への道筋説明が続く^^;


心理学本下巻に向けての考察-138:「未知」への意志と信仰-30 / しまの
No.1391 2007/12/04(Tue) 14:07:51

■「善悪」の表と裏

さてここまでの説明をまとめると、「魂の挫折」を、分離しつつある「心」が飲み込み、もはやそれが今の自分にとってどんな意味があるのかさえ見えなくなった仮りそめの平静の中で、「この世界には何かあるべきでないものがある」という「原初的善悪観念」が抱かれるようになる。これが始まりです。
この、「もう今の自分にどんな意味があるのか分からなく」なった、「魂の挫折」が心の底に置き去りにされたまま存在するという人格構造におけるギャップが、「心の病」の全てを生み出すようになるわけです。

そうしてもの心ついた「心」が、この世界を生き始める中で、大人達に教えられたりする中で持つようになる「善悪の思考」にとって、この根源がどれだけの役割を持つのかは、もはや心の表面ではほとんど見えなくなります。

事実、この先に「心」の側で展開される、「存在への否定攻撃vs賞賛獲得バトル」という「心」が自らの生きる場として認識した舞台の上で繰り広げられていく心理過程においては、それをなぞっている僕自身が、「魂の挫折」とは何だったのかの視界が失われた地図上の地点に立っているよな感覚を覚えるほどです。

「存在への否定vs賞賛」バトルの先に起きることとは、否定攻撃をはねつける賞賛の条件として掲げられる「自己理想」敷居が限りなく高くなっていくこと、「自己処罰感情」と「見せかけと自意識過剰への否定攻撃」への恐れから退却へのベクトルが生まれてくること、自己理想像がこの退却を反映して「浅ましさや卑屈さのない平静」というものに「下方修正」(^^;)される「離反」方向や、攻撃的自尊心と愛情要求の収拾つかない混乱から「嘆き苦しみ」に活路を求めるという、「心の障害」への歯車が回り始める姿です。

こうして真の問題がどこにあったのかが見えなくなります。
そして「魂の挫折」が自分にどんな意味のあったことだったのかが分からなくなった時点に獲得した思考に、戻るわけです。悪いのは他人か。それとも悪いのは自分なのか。いや、悪いのはこの現実世界そのものであり、人生なのだ、と。

真の問題は2重に起きています。一つは「魂の挫折」であり、もう一つはその心の問題から目をそらし、人間の心に業として潜む、ある不実なる想念の世界に向おうとした心の動きです。

ハイブリッドでは、それを解くために「善悪」に注目するわけです。
それにはがあります。とは、良いものを増やし、自分と世界の人々をより幸福へと近づけようと願う、向上への側面です。これは「正」の側面とも言えるでしょう。
には、悪しきものを攻撃破壊し、抹消しようとする怒りと憎悪の想念があります。これは「負」の側面です。そしてこの負の側面がまるで正の側面の役割さえも奪い取るような形で、怒りと憎悪こそが価値を生み出すものだという観念が生まれ始めた時、人の心に、同時に「悪魔の思考」が忍び寄り始めるようになる。そんな印象を感じます。

この「負の側面」の底に、「魂の挫折」があります。「負の側面」の底に、悪魔の思考にまでつながる不実な想念の世界と、「魂の挫折」に再び還り、ありのままの人間として歩き始める分岐路があります。

「善悪」における「向上を生み出す」という「正の側面」は、つきつめるとひたすら「技術」化する性質があります。つまり感情にはあまり関係なくなってくるというとです。
ですからハイブリッドはそれを「原理原則」に置き換え、「正の側面」における「善悪」の役割をひとまず終了させるわけです。「善」の代わりに、生きる知恵とノウハウを生きる方向性の首座に置くわけです。

すると「善悪」には「負の側面」が残され、浮かび上がってきます。ハイブリッドはそこに、「心の自立」を置き去りにした「依存の格上げ」、さらには自らが神になろうとする「傲慢」を認めます。
それを見つけ出し、解除し、再び分岐路へと還る歩みは、表の「向上への歩み」とは全く切り離された内面の歩みとして成されねばなりません。
その過程を見ていきましょう。


■「力づく」の自尊心と愛

「存在への否定vs賞賛バトル」世界を前にして抱く「自己理想」がどのようなものとなり、現実の自分からはそのあまりの敷居の高さにむしろ「退却」方向を選ばざるを得ない者においても、あるいは幸運にも資質に恵まれ自らを自己理想と同一視する禁断の野望への可能性を抱く者においても、そこに忍び寄る「不実」の始まりは、「自尊心」も「愛」も「力づく」で得るものだという性質を帯び始めていることです。
その「理想像」通りになれることによって、です。

この「自尊心も愛も力づく」という性質は、しばしばそれを抱く本人が、それに気づかず、意識の表面では逆の思考を展開したりもします。
いわく。「力づく」などとははしたない。謙虚こそが人の輝きというものである。人を押しのける強引さ貪欲さは悪しきものであり、人に譲る精神と感謝の心が大切です。何ごとも大切なのは「気持ち」です。人は物の豊かさだけで幸せになるのではありません。

まあ確かにそれはそうです。しかしそこに、「心の病理」が誰にも見つかることなくしのび込んでいることに、人は気づきません。
上の文章は、そうして「心の病理」がしのび込んでいることに気づかないまま「善悪」を高尚に抱く人の様子をシミュレーションして、言葉が浮かんでくるままに書いたものです。
そこに、明瞭に「心の病理」がしのび込んだ言葉が出たことを、ハイブリッドは気づきます。
「大切なのは気持ち」です。ここに、「心の病理」が始まっているのです。

人はそうした思考の中で、「心の病理」が始まっていることに気づきません。ただ、こうした言葉が何かうっとりとした自己恍惚の中にあることに、他人や、場合により本人も気づくならば、何かが起こり始めていることに本能的に気づくかも知れません。

まあ心が病んでいる状況が明るみに出るのは、「気持ち」があらぬ方向に向った時ですね。「気持ちが大切」と考えた本人が、「強引で貪欲な他人」への怒りに駆られ、そんな人間になど良いものは与えられるべきではない、正しいのは自分なのであり、良いものが与えられるとするならば自分に与えられるべきなのだと、義憤に駆られるわけです。
しかしふとその「義憤」は、変な姿をしています。まるで、自分が怒りはじめたきっかけの「貪欲な他人」と同じように、貪欲な自分のような姿がそこにあります。
自分こそが否定されるべき存在の椅子にいつのまにか座ってしまっているかのようです。「気持ちが大切」と考えたことが嘘っぱちのような自己嫌悪がさらに加わってきます。思考がまとまらなくなってきます。全てが嫌になってきます。
そして、「うつ」が現れるわけです。前に進むエネルギーが自分の体から消えていることに気づくわけです。


■分岐路へのパラドックス

なぜそんなことが起きてしまうのか。
問題の根は深く、これを紐解くためには、「気持ちが大切」などと小手先を弄するような思考を排し、現実において向上を生み出すための知恵とノウハウを学び実践する中で、こうした「善悪の負の側面」を自分が抱えて生き始めることになった、来歴の原点へと還る必要があります。

原点を一言でいいます。「善悪の負の側面」は、「無条件の愛」への挫折に始まっています。「無条件の愛」に挫折した怒りだけが一人歩きを始め、ある理想的な存在になることによって強引に愛を得ようとする心の動きへと向ったことが、全ての始まりです。

答えは、「無条件の愛」への魂の願いとそれが得られなかった悲しみに還ることにあります。その時、「力づくの愛と自尊心」を凌駕する魂の感情が現れ、心に未知の変化が起き始めます。
分岐路は、これに還るか、それともある理想的な姿になることで与えられるはずの栄光の誘惑へと再びなびくかとして現れます。

自分は前者を間違いなく選ぶ、と考えるならば、それは再び誤った道に進むことを意味します。なぜならば人間はそんなことを完全には成せない不完全性を持つ存在だからです。
この不完全性をありのままに認め、理想へと向う稚拙な歩みへと死の物狂いで向うエネルギーに身を任せた時、人は始めてこの分岐路に身をもって立つのです。パラドックスです。

なぜこうしたパラドックスが起きるのかと言うと、我々はすでに、理想的になることによって力づくで自尊心と愛が得られるという「幻想」の中に生きているからです。これを免れる完璧な人間というものは存在しません。ここに人間の不完全性があります。
そしてこの不完全性ゆえに、人間は「神」というものを思い浮べ、現実的な論理の合理性を超えた思考を用いる「信仰」の領域を脳に持つようになりました。しかしこの「信仰」という思考の領域に、明らかに狂いが生じているのです。


かくしてハイブリッドの歩みは、「外面」への合理的思考と、「内面」への深い理解と開放というテーマを越えて、「信仰」という思考のあり方真正面から焦点を当てることに至ります。

答えやはり難解です。決して一筋縄では行きません。
こうして整理するに至った前に浮かぶのは、「力づくの愛と自尊心」であり、それが生まれる最初の原点である「無条件の愛への挫折」です。しかし「力づくの愛と自尊心」を否定しようとしたところで、どだい無理なのです。生きることを止めるのでない限り。そして我々の魂は「原罪」を抱えます。

この先に見えてくる「答え」とは、そもそも「答え」が知る得るものだとしたことに根本的な誤りがあったというようなことのように思われます。
つまり「答え」は「未知」そのものです。

まああと少しこの「未知」そのものが現れるまでの道筋を説明せねばなりません。
それが「未知のメカニズム」であり、そのDNAの設計通りに進む姿勢を取ることが、「未知への信仰」になるのでしょう。


心理学本下巻に向けての考察-137:「未知」への意志と信仰-29 / しまの
No.1390 2007/12/03(Mon) 18:38:52

引き続き「心の構造図」最終版で、いよいよ取り組み対象になる「感性と思考」領域の話。
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■「感性と思考」への取り組み

先のカキコで書いたとおり、「感情には一切手をつけない」一方、変えるのは「思考」です。「感性」と一緒に、「思考」に取り組みます

ここで「感性」とは、感情や思考が動く土台であり、感情や思考が動く前提となる「感覚」や「イメージ」がその具体的内容になります。
「感性」そのものは、「感情」と同じく、意識で修正することはあまりできません。それを無理にするのは、感情の場合「強制」というストレスを伴う方法か、感性の場合「イメージを振り払う」「気にしない」的な自己欺瞞を伴う方法となり、これ自体が「自己不明状態」を生み、心を病む原因の一つになってしまいます。

「イメージ」については、湧いてしまうイメージを振り払うのは無駄です。存在するイメージは、その意味位置づけを理解するのみができることです。これは「感情分析」による自己理解の一貫です。
一方、「イメージ」は思考法行動法という外面側でうまく活用するものでもあります。そもそもイメージは行動への準備機能があるわけです。イメージ・トレーニングなど。建設的行動法を検討する中で、その具体的な姿をイメージとして「追加」するのは良いことです。
「イメージ」は、「減算法」を試みるのは無駄。「加算法」が正解です。

「感覚」「イメージ」を内容とする「感性」は、思考の土台となり、人が心理学の知恵を用いないまま展開するに任せる思考を、「自動思考」と呼んでいます。これが得てして、利にかなっていないわけです。
心理学の知恵を用いることで思考を変えていくことができる部分を、「知性思考」と呼んでいます。「自動思考」は感性を支えにして展開される一方、「知性思考」は論理的合理性が命です。論理的合理性を追求することで、感性を支えにした自動思考で陥る「勘違い」「見当違い」を脱し、自らの幸福において利にかなったものを選択する。これは医学の姿勢が最も代表的なものです。

ただしそうして論理的合理性で利にかなった思考を選択すること自体は、「感性」が変化するというメカニズムを何ら示すものではありません。実際、医学の姿勢で健康によくない嗜好を抑えることはできても、その嗜好そのものを直すこととはまた別のことです。
つまり、論理的合理性によって感性に抵抗し現実的に利にかなった知性思考をすることが有用である一方、感性そのものを変化させるのはそれ相応の別のメカニズムが必要になるということです。別の言い方をすれば、感性からの根本変化を言うのであれば、知性思考の修正を超えたメカニズムを説明できなければ話にならないし、それを理解しなければ根本変化の理解にもならないということです。

まこれは抽象的総論です。

「心を病むメカニズム」という、全ての現代人に免れないとハイブリッドが認識している問題においては、「魂の挫折」に端を発した「自立の置き去り」によって、「4つの幻想」「感性」を特徴づける問題になります。

これをまず「知性思考」を変える試みをします。この現実世界を生きる上での論理的合理性に立ってです。
それがどう感性からの根本変化につながるのかが、今回の図のように複雑なメカニズムの全体の連鎖になるわけです。

いったんカキコし、「4つの幻想」について「善悪」視点を加えたポイントを説明し、「否定価値の放棄」への道筋と、その後の根本変化メカニズムの説明と続けます。
ダルビッシュの健闘を祈る。^^;


心理学本下巻に向けての考察-136:「未知」への意志と信仰-28 / しまの
No.1389 2007/12/03(Mon) 14:55:15

引き続き「心の構造図」最終版をご覧頂きながら、次に「心を病むメカニズム」成立段階のポイントを。
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■「存在への否定攻撃」自尊心

「感情」面については、特に新しい話はありません。
ただ重要なのは、「基本的攻撃性」の先に、「存在への否定攻撃」ができる能力に自尊心を置く傾向が、問題の深刻さに応じて発達してくることです。

これは「悪いのは誰?」という原初的善悪感覚を背景にして、この世を生きるとは、いかに自分に「存在への否定攻撃」が向けられるのを免れ、他人に「存在への否定攻撃」が向けられるようにできるかなのだ、という感覚です。
これが心の問題の深刻度に応じて、自分が安全でいたいという願望から、他人に「存在への否定攻撃」が向けられるのを見て快を覚える傾向になってきます。「いい気味」だと。当然これは自分から他人に「存在への否定攻撃」を積極的に向ける衝動の強さとなってきます。

「学校裏サイト」ではこれが花盛りですね^^; 「誰々がウザイ」 「キモイ」「皆に嫌われてるのに気づかないアホ」「男子の前だけ可愛くするブリッコ」等々。

このように「存在への否定攻撃」を抱くと、当然、今度はそれが自分に向けられることへの恐怖を感じるようになります。
これに対して人間の素の思考は、問題を大抵悪化させます。自分が向けられる前に人に向けられるようにと駆られる。そのための虚構を作り上げる。意識がそれに駆られる中で、心の底では自分がどんどん人間性を損なって行っていることを感じ取っており、自分が攻撃される恐れも当然増すことになります。

方向転換アプローチについては次のカキコ部分が主要部分になりますが、まずはこの「存在への否定攻撃バトル衝動」を、「感情と行動の分離」によってしっかりと分離することがスタートです。
で、重点アプローチ部分灰色にしています。それが示す通り、「感情」には基本的に一切手をつけません。感情はただ流し、知るだけです。

「存在への否定攻撃バトル」は内面に映されても、外面行動においてはそれは無視し、全く無関係に、「現実において生み出す」ことに目を向けます。これは完全に両者のつながりを切るのが正解です。「存在への否定攻撃をしない行動振舞い」ということを考えるのも誤りです。
「内面の攻撃衝動をどうなくせるか」と考えるのは誤りです。それがあるまま、外面では、それとは全く無関係に、「現実において生み出す」ものを模索します。内面衝動は手を加えず放置します。これが、この先に内面の破壊衝動が消えていく方法なのです。


■「存在への賞賛」獲得競争とそこからの退却

そのように「存在への否定攻撃バトル」があるこの世界というイメージを心に抱いた中で、大人へと成長しようとする少年少女は、「自尊心」「愛」への要請を満たすものを模索しようとします。
それは四方八方から向けられる潜在性のある「存在への否定攻撃」の矢を、容易にはねつけるだけの、「存在への賞賛」回りから受けることだと、まずはイメージされるでしょう。

そのために必要となる「自己理想」は、かなり敷居の高いものにならざるを得ません。それは一点の曇りもない美しさであったり、誰にも打ち負かされることのない能力です。もしくは人柄性格としての比類なき良さかも知れません。

そうした「存在への賞賛獲得バトル」から、今度は退却する方向を生み出す要因が主につあります。

一つは、自己理想へと実際に向おうとして、その高い敷居に躓いた時に起きるようになってくる「自己処罰感情」の苦痛です。これは実際のところ生理身体的な苦痛でもあるので、バードルに躓くのを恐れてもう走り出さなくなるということが起きてきます。

もう一つは、「存在への賞賛獲得意識」そのものが、しばしば「悪しきもの」に映ることです。実際それは自意識バリバリの自己顕示欲(^^;)なわけです。もし自己理想が「人柄性格」に関連していると、もうこれは完全なる自己撞着矛盾になるわけです。
そしてこの「自意識」「自己顕示欲」が格好の「存在への否定攻撃」の材料にされます。「ウザい」「キモい」「ブリッコ」と。これは実際に自己顕示欲がなくてさえ、資質に恵まれ人気を得そうな者に「生意気」だという攻撃がなされる陰湿を生み出します。
つまり「見せかけへの否定攻撃バトル」が一転して生まれてきます。

かくして、「存在への賞賛獲得」という「勝利」への衝動を抱えたまま、「自己処罰感情」と「見せかけのへの否定攻撃」を恐れて退却するベクトルも同時に起きるのが基本になります。
これは内面感情全体からの退却を生み出す可能性と同時に、これら「人に見られる」型の自尊心に「汚染」されない純粋な自己を見出そうとする、健康な心への回帰の芽もそこに生まれ得ます。これが「離反」の二面意味というターニングポイントです。

厄介なケースでは、離反によって平静を回復しようとしても、今度はそれが孤立不安につながり、これもできなくなります。
この場合は「嘆き苦しみ」に逃げ込む形にまずなります。苦しみが今度は「救われる権利」に転じるわけです。そして再び人の目の中バトルへ。勝利衝動恐怖退却を繰り返し、苦しみが増して「救われる権利」へ。これが循環して深刻化していくのが心理障害の典型になります。

「見せかけ」「ニセ」ヘの怒りは、今度は上記「離反」での「純粋な自己」への要求と結びつくことがあります。すると一切の「見せかけ」「ニセ」が許せなくなるという、病んだ心の方向へとお戻り(^^;)のケースになります。僕もこのケースだった^^;
まあ人間の素の思考ではせいぜいここまでで、根本的に脱するためにはやはり本格的な心理学の知恵が必要になる次第かと。

ハイブリッドで言える方向性としては、「存在への否定攻撃衝動」に巻き込まれず、それとは完全に切り離し無関係な視点での、「現実において生み出す」方向性が答えであるのは、「見せかけへの否定攻撃バトル」を前にしても同じ話です。それについての感情、つまり人の「見せかけ」への怒り攻撃衝動も、自分の「見せかけ」への他人からの攻撃への恐れも、それはただ内面に映る蜃気楼として流れるに放置し、それとは全く関係のない、「現実において生み出す」ことへ向うことです。

内面にどんなに稚拙な自意識や自己顕示欲があったとしても、現実において生み出すものがあるのであれば、内面感情は別問題として、それに向うことです。それが現実を豊かにし、問題全体から抜け出る原動力になります。


■「存在への否定vs賞賛バトル」と「否定価値の放棄」

ただしそうした「現実において生み出す」方向性が見えなくなるのが「否定価値感覚」です。現実において生み出すより、そこに含まれる一点の曇りや見せかけを否定攻撃することに価値を感じてしまう。
ですからこの後に概観する「否定価値の放棄」への取り組みとは、内面の「否定価値感覚」と天秤にかけるだけの重みを持つ「現実において生み出す」という思考を選択していくことが、その基本的本質です。

ハイブリッド取り組みをしておられて陥りやすい典型的な轍は、「怒りから開放された自分」イメージがまさに「存在への否定vs賞賛バトル」における勝利への理想像にいつのまにかすり替わっているものです。
まあこれは「否定価値の放棄」への取り組みがこの轍に陥りやすいというのではなく、最初っからやっていることがハイブリッドとは別方向のままだということです^^; 今までのままというだけの話であって、別に新しく難しい話が出てきた訳ではありません。


一方、「否定価値の放棄」への具体的方法論は明らかに今まであまり整理ができていなかったので、理想像の焼き直しに使ってもらった程度にしかならなかった部分も多々あったかと^^;
「否定価値の放棄」とは具体的にこれをしていくことですと、この後より分かりやすく整理しますので。出版本ではごく結論だけ分かりやすく説明したものとし、分量もあっけないほど少なく説明したい気がする。


つまり、ここで説明したこれら「感情」については、全部、一切手を触れません。それらは全て流し、知るだけにします。
感情と行動の分離」から始まって、これはハイブリッドで一貫していることなのです。

変えるのは「思考」です。
「前期」から「中期」への内面向け取り組み実践としては、「ただ流す姿勢」とかの「悪感情の基本的軽減」、「内面感情の開放」、「感情分析」による自己理解があったわけですが、「思考」についてはもっぱら外面での建設的行動法や原理原則思考に向けていました。
これが外面行動において「健康な心の世界」「心の自立」といった視点を追加するにつれて、それを妨げる内面要因へのより深い理解と、脱却への思考法という実践になるわけです。

それは感情をどうこうすることではなく、また感情がどうなれた自分を理想として焼き直すことでもなく、「自立の置き去り」から生まれた幻想の論理に真っ向から取り組むことです。
「否定価値感覚」の成り立ちも、「否定価値の放棄」も、この幻想の論理をどう理解し、それとは異なる論理選択するかを問うことが、実践の本質になります。


心理学本下巻に向けての考察-135:「未知」への意志と信仰-27 / しまの
No.1388 2007/12/03(Mon) 11:55:22

■「心の構造図」最終版

まず「心の構造図」最終版を作りましたのでご覧頂ければ。多分これで心理学本に掲載できるものになったかと。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro17.jpg
図が自動縮小され文字が見えない場合は、マウスポインタを図の上に置くと右下に出てくるサイズ変更ボタンをおして原サイズで見て下さいマセ。

以下でまず、「善悪」という追加視点を中心に、メカニズム上のポイントを説明しましょう。


■「原初的善悪感覚」と「基本的攻撃性」

全ての始まりは、自他未分離意識「魂」がこの世に生まれ、「生から受けた拒絶」を体験することにあります。「魂」はそれに対して、悲しみ嘆き、そしてやがて怒り憎しみを抱くようになりました。

もの心つきはじめた時、「心」漠然とした不満もしくは怒りにおおわれています。
「心」は自分のかかえる漠然とした不満や怒りがなぜ始まったのか、理解できません。僕自身の体験でもそうなのですが、「記憶」はただ怒りの中に置かれた自分から始まっています。この子供の姿はなんともしんみりした悲しいものです。

この段階で、「原初的善悪感覚」というものが、そしてそれに伴い「基本的攻撃性」というものが生まれているようです。

「原初的善悪感覚」は、「あるべきでないこと」がそこにある、という基本的な感覚です。
これはごく自然に、大人から教えられる「善悪」と結びつきます。この「あるべきでないこと」という感覚を自分に感じさせるものは、「悪い」ものだということだ、と。
この子供が見るものは、「あるべきでないこと」に満ちているかも知れません。子供は、それから一生懸命に免れようとして、ものごとを善悪の二極で考える思考を発達させるでしょう。ただこれが大人のいう「善悪」と重なるかケースバイけースです。大人の言葉に潜む「嘘」を、子供は敏感に察知するものです。すると「大人の言う善悪」そのものがこの子供にとっては「悪いもの」になり得ます。

この「原初的善悪感覚」の結果、人は「基本的攻撃性」を持つようになると思われます。
これは外見的な攻撃性とはほとんど無関係なまま、人の心にきわめて広範囲に蔓延している傾向です。多くの人は「攻撃性」を「悪しきもの」と考えますが、これもまず「基本的攻撃性」において、そう考えるという構図になります。「優しさが大切」という観念を、攻撃性の中で抱くという構図になります。

「基本的攻撃性」とは、定義としては、人間が「あるべきでないもの」という感覚によって、「本能的合理性」を超えた積極的な怒りを持つ傾向、とでも言えるでしょう。「本能的合理性」とは、身体物理的な攻撃への反撃として怒りが起きることです。
ですからまあ、「基本的攻撃性」とは、ハイブリッド心理学がまずその指摘で始まる、現代人が「怒りに頼る傾向」そのもののことですね。
ハイブリッドでは、「善悪観念」基本的に「怒り」として捉えています。だからそんなものは捨てましょうと言っているわけです。

「善悪観念」が「怒り」であることは、「ちびまるこちゃん」に出てくる、いつもえへらえへら笑っている「山田くん」が、てんで善悪観念など持っていないらしい様子などから観察できます。ただし「山田くん」も時に怒ります。それは理不尽な攻撃が自分に直接向けられた時です。
また「山田くん」意識思考では「善悪観念」をほとんど持っていない感じですが、実に無邪気で天真爛漫な行動の中に、「魂」が善悪感覚を「望み」に本性的に含んでいる様子も観察することができます。だから「山田くん」はとても優しく、残酷な仕打ちを受ける動物を見ると泣き、それを加えるものに怒り、それがなくなるとまたえへらえへら笑い始めるわけです。
そんな感じで、「山田くん」がいると回りの雰囲気が明るくなるので、クラスの人気者です。
ま要は「本能で生きている」感じですね。


■「原初的善悪感覚」と「否定価値感覚」

「あるべきでないもの」観念である「原初的善悪感覚」は、当然、「否定価値感覚」大きな源泉になっていることが考えられます。
ただし「否定価値感覚」を実際に成立させるのは、この後の「自尊心」関連や「自立を置き去りにした幻想」など、図で上の方の心理過程がほぼ自動的に連鎖してです。「否定価値感覚」を維持させるのもそれです。

これは別の言い方をすると、「否定価値の放棄」で「否定価値感覚」がなくなっても、「原初的善悪感覚」は残るということです。これはむしろどっちかと言うと「感情の膿」そのもののような振舞いになります。
つまり「感情の膿」が刺激されると、どうしてもそれは「あるべきでないこと」という感覚を伴い、拒絶的反応をしてしまいがちです。
それをぐっとこらえ、この「あるべきでないこと感覚」は心理メカニズム現象であって「あるべきでない現実」などを示すものではないという認識を保ち、それをただ流しやり過ごす体験を通して、「感情の膿」の減少と同期するように、「あるべきでないこと感覚」そのもののが根底から消えていく感じになります。

これが「否定価値の放棄」後「後期」過程ですね。この段階になると、そうした体験の一つ一つが、「生きる喜び感覚」を増大させる、良好な根本変化として回るようになります。

では次に、「否定価値感覚」成立過程へ。


心理学本下巻に向けての考察-134:「未知」への意志と信仰-26 / しまの
No.1387 2007/12/02(Sun) 13:43:13

「被軽蔑感情の必然メカニズム」に引き続き、「被悪意感覚の必然メカニズム」も同じ程度の簡潔さで書こうと思っていたのですが、やはりそうは行かなかった^^;


■終章-8:「善悪」への最終理論

「善悪」というテーマになるのですが、これは「根底の自己否定の上で掲げられた自己理想像」という被軽蔑感情の必然性構造と並列するような構造ではなく、もっと根底から全体をおおう構造になりそうです。

「善悪」とは、ひとことで言えば「存在への審判」であるように思われます。つまりある人間の「存在」が許されるか、それとも許されないかをめぐる感情や思考になるわけです。それにより「存在への賞賛」かそれとも「存在への怒り」が決定されるというものです。

これは「理想」を掲げる内容とそれへの距離というテーマである以前に、理想を掲げるといった「生きる前進」ができるかどうかにかかわる問題です。「存在」そのものが許す許されないの問題になるのですから。
特定の理想から劣る程度がはなはだしいと、「存在への怒り」が発動されるようになる。これがまさに「否定価値感覚」でもあります。理想から劣ったものが許せず、その存在そのものを許すまいという感情が起きるわけです。
ここでは、理想から劣ったもの「悪」になるという論理があるわけです。

「否定価値感覚」が放棄されても、理想とそれへの隔たりというテーマは当然存在し続けます。しかしそれは失意悲しみを起すものではあっても、「怒り」を起すものではあまりなくなります。
だから、理想に向う歩みがもうあまり迷うことなく行われるようになるわけです。それが「否定価値の放棄」に続く、「魂の望みへの歩み」でもあります。
そこでは「理想」は「望みが向う輝き」になります。否定価値感覚がある時、「理想」は審判の基準です。つまり、断罪の基準です。

さらに「善悪」は、理想内容への到達度さえももはやテーマにしないものが存在します。それが「根源的自己否定感情」が起きた時に発生しています。
それは「あるべき一体化の愛」を損なった、「あるべきでなかったもの」があるということであり、この時の自他未分離意識は、何がどう悪いのかという論理性を、そこに付与することができません。ただ「悪いのは他人」なのかそれとも「悪いのは自分」なのかという意識の中で、「心」が混迷の中で「魂」との分離を始めるわけです。そこで起きたことはもはや自他の区別がない世界に起きたことであることにおいて、「悪いのは全て」という意識も、間違いなくそこには生まれているでしょう。悪いのはこの世界であり、この人生なのだと。


■「善悪」が止めた魂の生

ですから、「善悪」がある中で生きるとは、もはや「生きる」ことを止めることであるような印象を受けます。「存在」そのものを問う中にあるのですから。

それはまるで裁判の法廷にいるという話です。これを読んでおられる方で、実際に被告もしくは原告として裁判所に行った経験のある方は、おそらくゼロに近いと思います。
裁判の中に置かれ、判決の審判が下されるまで、我々の生活は、そして人生は実質的にストップを余儀なくされます。それが終って、ようやく自分だけで自由に人生を考え、向うことができるようになります。

ですから、「善悪」の感覚があるとは、極めて由々しきことなのです。「人生」についての心理学であるハイブリッドとして、これが「善悪の完全なる放棄」という、誰もが理解に苦しむような(?^^;)極端な「思想」を打ち出していることの、今まででもっとも明瞭な主旨説明になるでしょう。

「自己理想」も、「善悪」がある時、人生においてあまり意味のあるものが見出せないような気がします。なぜなら、それはもう法廷の裁判のために用意するようなものになるからです。

だから「否定価値の放棄」が、ハイブリッドにおいて「唯一無二」の「人生の始まり」とも言えるほど大きな位置づけになるわけです。「根本変化」がそこから始まるというのも、それが理由です。

「魂」の治癒成長における位置づけを言うと、「魂」根源的自己否定感情の中で、「心」「悪いのは他人、悪いのは自分..」という混迷を抱いた時のまま、成長を置き去りにされた形になります。やがて「心」が「愛への復讐の愛」を追い求める中で、「原罪感情」を深めています。
「心」「善悪を放棄」した時、魂はこの置き去りにされた地点から、成長を回復し、「魂の望み」へと向う道が開かれます。そこに、「魂」が本性として持つ善悪感覚としての「原罪感情」が露わになり、善悪を捨てた「心」がそれに対する救いを用意することになります。これを「未知への信仰」として明瞭に定義したいと思います。

「原罪」から開放された時、「魂」ありのままの「望み」に向うことが可能になります。それは間違いなく「愛」であり、「生きる」ことの全てが「愛」を意味する豊かさへと、魂が成長を始めます。


■「善悪」の3層大局構造

ここでは序論部分を書いておきましょう。
ハイブリッドでは、「善悪」に関連する人間の思考と感情には、およそ3つの大局構造があると考えています。

「原理原則」。これは社会行動における技術として知性で考えるものです。原理原則思考。スポーツのルールと罰則と位置づけは同じであり、これを使うに際しては感情は原則として不要です。怒りに頼らない対処行動法としてハイブリッドで推奨するものです。

「善悪感情」いわゆる「善悪」として、「普通」、人々が「善悪」を考える思考と感情です。善悪道徳。これは基本的に感情を伴います。伴うというか、感情に帰結することに意味があるから、人々は「善悪」を考えるわけです。「善」誉められ愛情を向けられるものとして。「悪」怒り破壊を向けられるものとして。
だから人々は、「善を愛し悪を怒る」ことが、あるべき道だと考えるわけです。
ハイブリッドでは、この「善悪」の観念を完全に放棄することを推奨します。それを成すのが「否定価値の放棄」です。

「魂の善悪感覚」。これは「開放された魂の望み」の感情が本性的に含むものであり、「魂の望み」に向うことが自明論的にこの人間を善悪感覚において浄化された、まっさらな心へと向う原動力になるものとハイブリッドでは考えています。


これら「善悪」についての視点を加え、ハイブリッドとしての「心の構造図」の改定版をこれから書こうかと。これが最終確定版になれるか?^^;
それによる「否定価値の放棄」への道のり最終説明へ。


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