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2008.01


2/1(金)まで不在 / しまの
No.1453 2008/01/29(Tue) 12:13:29

スキーがてらの帰省にて。
ちょっと変則スケジュールですが^^。


心理学本下巻に向けての考察-195:「未知」への意志と信仰-87 / しまの
No.1452 2008/01/29(Tue) 00:23:00

■べきはず論理-3:「心」の感情層における「べき」「はず」

信仰思考の第2類型である「自分の絶対化信仰」は、「べき」「はず」という論理性の3つ目の心理層によるものです。

これは一言で、「心の感情層」によるものと言えます。心の知性ではなく、魂の感情でもなく、心の感情
いわゆる「感情」ですね。「感情的」な「べき」「はず」です。論理性のない、感情的な「べき」「はず」こうあるべきだ!こうなるはずだ!なぜそうでないんだ!と。

もちろんこの感情的な「べき」「はず」は、先に説明した知性思考のものおよび魂の感情のものと、重なる部分があります。
というか、健全形における人間の心の成長は、「べき」を含んだ「魂の望み」を「心」が素直に受け取り、「現実」への窓口としての「心」がその実現形を具体的に描き望むことにおいて、まだ未熟で稚拙な対処論理「はず」という期待感情に支えられることで、その願望の強さに応じて恐怖を超えて行動化することになります。

そうして「魂」と「心」が手を取って「べき」「はず」という感情で「現実」へとぶつかっていき、その通りに行くかそれともそうはいかずに果てるかという「体験」の中で、この者は身をもって「現実則」を知り、それを合理的知性における「べき」「はず」へと置き換えると同時に、「魂の望み」は一段階成熟したものへと変化します。
成熟した「魂の望み」においては、「べき」の感情は薄れます。なぜなら、望みに向かう体験を得たこと自体が、望みが叶えられるかどうかに関わらず、何らかの満足と望みの成熟変化をもたらすからです。つまり、一歩成熟した「魂の望み」は、もはや望むことそのものにおいて、既に満たされている性質を獲得しています。だから「べき」「はず」という感情がもういらなくなるのです。

その点、「べき」「はず」という感情は、基本的に、望みに向かう成長の未熟と稚拙の現れであり、さらに直接的には、願望と現実の亀裂、そしてフラストレーションの現れであり表現でもあるものです。

取り組み上は、こうした比較的単純な未熟性稚拙性としての「べき」「はず」感情は、まずは「感情と行動の分離」という基本から始め、とにかく外面への思考法行動法における向上に向かうのが良いことです。
つまり、「べき」「はず」のできるだけ多くを、合理的知性における現実則へと収めていくことです。それで解決する範囲については、感情的な「べき」「はず」は、魂と心という深さの違いを超えて、収まっていきます。
これは「前期」段階の取り組みと言えるでしょう。

そうして合理的現実則で解決する「べき」「はず」感情は、もともと日常的「境界の明瞭化可能」恐怖に関連する「べき」「はず」論理性ということであり、今論じている「信仰思考」の問題にはあまり踏み込まないものと言えます。


■「存在の善悪」が結びつく「境界不明瞭な恐怖」

一方、「境界の不明瞭な恐怖」に対しては、合理的な現実則はあまり役に立つものではなく、そこに「信仰思考」の領域に踏み込む「べき」「はず」が出てきます。

そこでの境界不明瞭な恐怖の対象とは、たとえば人間の歴史を通しての典型的な話としては、防ぎようのない自然災害病苦、さらには老いへの恐怖といった実体のあるものから、「将来への漠然とした不安」といった実体の不明瞭なもの、さらには「幽霊」や「心霊現象」への恐怖といった非科学的なものがあります。
一方、現代社会のメンタルヘルスにおいては、「人の目」や「人間関係の悪化」や各種の「ストレス」への恐怖といったものが、実はこの「境界の不明瞭な恐怖」の主内容となっていると言えるかも知れません。

そして、こうした境界不明瞭恐怖を解釈する理由づけに、「存在の善悪」が結びつくのが、人間の心の問題の基本メカニズムだと考えることができます。
何か良く分からない理由によって、「存在の善悪」が審判され、その結果として、そうした恐怖の対象が「罰」としてもたらされることになるのだ、という論理になるでしょう。

それらの境界不明瞭恐怖の対象にしても、科学的で合理的な理解の努力によって対処可能なものへと変化するものも出てくるでしょう。
しかし、まさにそうした理解努力が必要になるところにおいて、対処可能と変化しない限り、別の論理がどうしてもそこに結びついてくるということになります。別の論理とは、「存在の善悪」です。

かくして、「存在の善悪」は、それによってひいきされたり無視されるといった人間関係における困苦に結びつくのみではなく、病気や自然災害や全くの偶然ごとさえにも結びつくと言えそうです。「何か日ごろの行いが..」という観念ですね。


■「存在の善悪」における「べき」「はず」としての「自分の絶対化信仰」

さて、話をまた少しサマリーしますと、境界不明瞭な恐怖への対処思考として「信仰思考」を位置づけ、まず最初の類型として「偶像化信仰」を出しました。
これは自分の外部に、その恐怖を払いのけてくれる偉大なる存在を描き、それにすがろうとするものです。

次に、「べき」「はず」「自分の絶対化信仰」だという話を始めたのですが、全ての「べき」「はず」がそうではなく、合理的知性としての「べき」「はず」ではどうしても取りこぼしてしまう恐怖の話であり、それが「存在の善悪」という理由づけと結びついてしまうのが問題になるという話をしました。

つまり、そうした恐怖への対処思考として、「存在の善悪」について自分で「べき」「はず」の絶対的法則を抱くのが、「自分の絶対化信仰」ととりあえず呼ぶ、第2の信仰思考の類型になるということです。

つまり、「存在の善悪」思考が、境界不明瞭な恐怖への対処思考になっているわけです。
これは実は第1類型の「偶像化信仰」においても実は同じです。その偶像を崇拝することにおいて、自分が「存在が善」になるという論理が働いているのです。

第2類型の「自分の絶対化信仰」では、そうした偶像崇拝と同じ重みが、自分の感じる「べき」「はず」に置かれている、といことです。
この同等性をもって、この「べき」「はず」を「信仰思考」だと位置づけているわけです。


■「信仰」とハイブリッド実践

まあこの説明は僕自身としても今いちかみ砕けておらず、分かりにくい話ですが、とにかくは「信仰」という論理抜きの絶対性の重みが、まず外部の偉大な存在に、次に自分の感じる「べき」「はず」に、という焦点の変化があることを、ここでは説明しています。

それに応じて、感情の基本方向性が変わってくるわけです。
第1の類型では、自己卑下と、欲求と善悪の対立というものが引き起こされる。
第2の類型は、とにかく「破壊」が引き起こされる事態になります。

まずその辺の話を次に。そして第3の類型が、同じ絶対性の重みにおいて「未知への信仰」があることを説明します。
そこまで説明して、あくまで「信仰の類型」の話です。
それを踏まえて、「心の治癒と成長」がこの3類型におけるどのような焦点の変遷から成り立つのかの説明をします。

一言でいうと、「信仰における自立」になるわけなのですね。

ちょー難しい考察整理ですが、出版本向け原稿に踏み切れる前の、まずは僕自身の整理という感じの話になります。
読者の方においても肝心かなめになるのは、それを踏まえて、「2種類の感性土台の違い」を足がかりに何が起きるかを説明する話になるという段取りです。それが「否定価値の放棄」への道筋になるということで。


心理学本下巻に向けての考察-194:「未知」への意志と信仰-86 / しまの
No.1451 2008/01/28(Mon) 11:56:39

■最終的な答えへの鍵

ハイブリッド心理学による「人間の思考」の整理は、今まで取り組み対象には入らないものとして「その他残り」的な扱いをしていた広範囲の思考領域を、「信仰思考」という明確な位置づけのものとして、はっきりと取り組み上の重要な位置づけのものとするに至りました。

どう位置づけるかと言うと、人間「空想力」「自意識」によって、空想と現実、自己と他者の境界が不明瞭な恐怖を抱える存在であり、「望みに向かい現実に向かう」ことの中で「恐怖の克服」を成す「自立」において根本的に不完全な存在である時、現実の中で論理性を問いながら進める合理的対処思考とは別に、明晰な論理性を捨て何か絶対的なものに委ねる思考が、まさに不完全性の中における「恐怖の克服」にとって本質的なものになる、ということです。

こう書くと、最終的な答えへの鍵が、同じ地平上に次第に揃ってきているのを感じますね。
不完全性の中の成長」が答えです。それに向かう時にまず克服しなければならないのが、「境界の不明瞭な恐怖」であり、さらに、その答えを脳の構造レベルで見えなくさせるのが「感情を超えた恐怖」です。それが解消克服するのは、「感情を超えた望み」である「命が望むもの」が見出され2つのぶつかり合いが「現実」の中において起きた時です。

「感情を超えた望み」がいかに見出されるかが問題になるでしょう。そこに「不完全性の中の恐怖の克服」が出てくるわけです。これは「信仰思考」の領域です。ハイブリッドが最大の転換と位置づける「否定価値の放棄」は、人間の「信仰思考」における3類型の3番目によるものです。

その扉が開かれた時、我々は人間の心の真実をありのままに見ることになります。それが終わりではなく、始まりになるのです。

そこにあるのは、「感情としての望み」があり、「人間の価値」への幻惑と惑いがあり、漠然とした「魂の望み」が進む先の道標になるとして、そこに向かう時、「魂の恐怖」も同時に現れることになります。
その先に向かわせるのは、「命が望むもの」になります。この先には、意識が崩壊する闇があります。その闇の先に、「未知」の新しい世界があります。それを通った時、闇の手前にあるパズルを解く答えはないまま、闇の手前にあるパズルの全てが同時に消え、全てが一体となった、まっさらにこの世界と一体化した人間の心の状態が現れます。

最後のパラグラフの描写は、もはやイメージしてもらうことさえ及びようもない、実際に通った者のみが知る、人間の根底からの変化の世界になります。
まあ、ハイブリッドが人を導きたいのは、その手前の「否定価値の放棄」までです。その先は、それぞれの「人生における出会い」が導くことになるでしょう。

ということで、「信仰思考」の残り2つの類型。


■信仰思考の3類型-2:自分の絶対化信仰

「不完全性の中の成長」という答えを見えなくさせる、「境界不明瞭な恐怖」への人間思考である「信仰思考」2つ目の類型は、「自分の絶対化信仰」です。

先の「偶像化信仰」は、自分の外に、何かすがれる絶対的な存在を描いてすがる、というものでした。
でもこれは「恐怖の克服」という目的にとって、利にかなったものでない。それは自分と本来対等と見ることが「心の自立」に沿ったものであるところの、自分と同列の存在でしかない「誰かの他人」を絶対化するような、自己否定的で自己卑下的な弱さへと一直線に向かいがちです。
また善悪規範が自分の外部にあり、自己内部の願望は一方的に悪と感じるような、「善悪vs欲望」という内面対立を引き起こしやすい。実はこの信仰の自己否定的側面がまさに「望みの停止による荒廃化」メカニズムによって内面願望の貪欲化を引き起こしている上でです。

「自分の絶対化信仰」は、その逆であり、自分の内部に、絶対的な観念を抱く、というものです。

ずばり、「べき」「はず」の思考がそれになります。
主に、「あるべき姿」に関したものであり、それをどう満たすか損なうかの状況において、自分と他人そして世界がこうなる「はず」だ、という類の思考です。


■「べき」「はず」型論理の3つの心理構造

ここで、「べき」「はず」型の論理が動く人間の意識機能について、3つの層があることを説明しておきましょう。この3層に対してそれぞれ、ハイブリッドとして選択したい方向性全く異なるものになってきます。

実はハイブリッドの取り組みのごく最初から、この3つの層を切り分けるという指針が働いていることになります。従って、このメカニズム的な理解も最初から意識して頂くと、なお良いものになります。


■べきはず論理-1:「心」の知的思考層における「べき」「はず」

まず「心」の層での、ごく知的思考の論理的な「べき」「はず」思考があります。

そこでは「べき思考」は、「原理原則思考」として、法律スポーツにおけるルールと罰則のような役割で、自分自身が守るべきことを考える思考です。
これは社会をうまく生きるスキルとして、「それが結局自分に都合の良いこと」だという極端な「自己の重心に徹した」思考法をするだけではなく、社会を向上させるための技術として「道徳」のあり方を考えたりすることが、最終的には自分に正直な思考法になるでしょう。

一方知的思考における「はず思考」は、十分な論理性をもって結果を予測できる思考であり、社会を生きる上での知恵とノウハウや、自分の健康のための医学的な知識など、要は広く言って現実的で科学的な論理思考としての「はず」という思考です。
これはとにかく、学び、「現実」においてそれを確かめ検証することの積み重ねを通して、自分を豊かにすることにつながるそうした役に立つ論理的知識つまり成功則を、いかに豊富に獲得していくかがあるのみです。そうした確かな知恵が多ければ多いに越したことはない。

重要なのは、こうした論理的な「べき」「はず」が、「なぜそうなのか」「なぜそうなのか」と突き詰めていく中でも、最後まで同じレベルの現実的で科学的な論理で完結できることです。気分での「べき」「はず」を介入させることなく。

たとえば「子供のセックスは良くない」とという「べき」を言うのであれば、弱年齢での妊娠が医学的にも問題があること、また刺激が強すぎて頭が飛んでしまって(アハハ)他の事が損なわれる問題などと、一応道徳感情的な問題とは別の話として、ごく科学的で現実的な思考をすることができます。
まあそれで話が全て片がつくかどうかは別問題として(^^;)、ごく「心の知性思考層」に分類されるのが、そうした思考だということです。


■べきはず論理-2:「魂の望み」に本性的に含まれる善悪感覚

次に、「魂」本性的善悪感覚を持っています。これについては「魂は自明論的に性善である」といった考えを既に説明しています。
「魂の望み」に向かうことは、我々の感情を「浄化」させる作用があります。一言でいえば、「魂の望み」は純粋な愛を志向し、そこから道をそれた、荒廃化した情動について「罪」の感覚を抱く、ということが言えます。

「罪」という感覚があるところに必ず伴うのが、「罰」です。人間は「魂と心の分離」の過程で、望んだ一体化の愛何らかの他者によって妨げられた怒りと憎しみと同時に、自らの自意識によって自らそれを壊したという「罪」を抱え、「罰」に怯える、という構図をほぼ不可避のものとして持ちます。
これがハイブリッドにおける「原罪」の構造の定義になります。

その「罪」がどう許され、どう「罰」が下されるかについての答えは、人間の素の思考による成長だけでは出ません。それを模索し続ける存在であるのが、人間の「さが」であり「業」なのです。だから人類の歴史を通してこれほど宗教哲学というものが論じられてきた。ハイブリッドは、その端くれとして一つの思想を示す心理学になると言えます。

いずれにせよ、そうした「魂の本性的善悪感覚」と「原罪感情」において、「魂」には不完全な「べき」の論理があります。論理としての「べき」というよりも、それが「魂の望み」なのです。論理としての「べき」があるのではなく、望みと願いがあり、喜びがあり、あるいは怒りと憎しみがあります。
魂は「はず」という論理性は持ちません。そもそも魂は論理をつかさどるものではなく、命をつかさどるものです。

ですから、人間が抱く「べき」「はず」という論理性と情緒において、「魂」論理性の不完全な「べき」を、論理思考というよりも「望み」として持つというのが結論です。
さらに重要なのは、あくまでこれは出生の来歴における望みであり、魂がまだ未成長で未熟な段階を前提にして言えることです。


魂が成熟した時、不完全な論理性の「べき」を含む「望み」はどのように変化するのか。これは未知の先にあります。そして人類はいまだかつて、この魂の成熟を前提に入れた議論をあまりしていません。ここに何か根本的な見誤りがあったように感じます。


■人間における「自立」と「信仰思考」

ハイブリッドとして言えるのは、まずここまで述べた「心の知性思考層」における合理的な「べき」「はず」の習得と、「魂の望み」に向かうという2面で構成される方向性が進む道になるということです。
それが、ハイブリッドが根本指針とする「自己の重心」の方向性です。「人が」という思考から、「では自分では自分をどう感じ考えるか」を真正面に見据え、次に、「では自分は何を望むのか」を問う。そしてそれに、現実則社会における原理原則を実現化の手段として向かうことです。そこに望みを阻むものがあるのであれば、その現実にありのままに心を晒すことです。

それがまた、人間における「自立」の姿でもあります。「望み」により「恐怖」を超え「現実」へと心を晒す。「自立」の中におけるこの過程によって、心に根底からの変化と成長が起きるのです。

一方、どう「恐怖」を超えるのかの話は、そこには出ていませんね。そこに「信仰思考」が出てくる、というのが今整理している話です。
話を戻しましょう。先のカキコで説明の第1類型「偶像化信仰」では「恐怖の克服」はできませんというのがハイブリッドの考えです。
第2類型「自分の絶対化信仰」は、「べき」「はず」という絶対論理です。ただし「べき」「はず」という論理性の全てが「自分の絶対化信仰」であるわけではなく、「心の知性思考層」における合理的な「べき」「はず」は、「信仰思考」ではなく、建設的思考法行動法として多いに習得するのが良い。における不完全な「べき」も、「信仰思考」ではなく、むしろ「望み」として向かい、その成熟に委ねるのが良い。

でその前に立ちはだかる「境界不明瞭な恐怖」への対処として、次の3つめの心の層における「べき」「はず」に流れると、そうした人間における自立への方向性からそれた、別の世界へと向かってしまうことになります。


心理学本下巻に向けての考察-193:「未知」への意志と信仰-85 / しまの
No.1450 2008/01/27(Sun) 00:33:23

■「望み」と「自立」と「信仰」

信仰思考の類型の残り2つですが、話の流れをサマリーしておきましょう。

まず「心の成長と幸福」の基本原理は「望みに向かい命の限りを尽くす」ことにあります。
一方、望みに向かうことを妨げるものとして立ちはだかる基本的なものが「恐怖」であり、「望みに向かう」という成長が起きる過程の実像は、まず「恐怖」を差し置けるだけの「望み」が生きる個体を動かすことが、「自立」という摂理が作用する中で起き、さらに「現実」にぶつかっていくことにおいて、「望み」が叶うかどうかのバリエーションを超えて「心の成長」が起きる、というのが、人間以外の動物も含めた基本原理になります。

一方、人間においてはこの構図が見失われる、心を病むメカニズムという側面が、もはや本性の一面として課せられている。それは「空想力」と「自意識」に由来し、空想と現実および自己と他者の境界が不明瞭な恐怖という、他の動物にはない恐怖のため、恐怖への日常思考的な範囲での合理的対処の側面だけではなく、恐怖に向かい得るような何か絶対的な支えを思考する、「信仰」という思考領域がもはや軽視できない役割を持つものとして位置づけられる、という流れでした。

つまり、「心の成長と幸福」への基本原理は「望みに向かい命を尽くす」ことであり、それを阻む「恐怖」の克服は、人間の場合「心の自立」と、その根本的不完全性を補う「信仰」に役割があるということになります。

その最初の類型「偶像化信仰」で、自分の外側に、「神様」に代表されるような、何かすがれるものを描いてすがるというものです。
これはまさにその「偶像化」の側面非現実的で不合理な対処思考を生み出しやすく、「恐怖の克服」に結局実を結ばないものとして、お勧めできるものでないというのが、先のカキコで説明したことでした。


■「望み」は誰のものか..?

実はこうして話の流れをサマリーして、すでに奇妙なことが起きているのに気がつきます。
原動力の大元であったところの、「望み」への視界が消えていることです。「信仰」「望み」を妨げる「恐怖の克服」のために、本来はあったのだとしても、「信仰」の中身を問うごとに、「自らの望み」の視界が消えていきます。

パラドックス的ですが、必然的本質でもあります。「自立」することによって「自ら望む」ことが可能になるのですが、人間においては「自立」の根本的不完全性のために、「信仰思考」が大きな役割を果たすことになりました。それは自ら望むことよりも、何か絶対的なものへの委ねを、その内容とします。

「望み」を妨げる「恐怖」の克服のために「信仰」があるのですが、「信仰」はもう「自ら望む」ことを、やめてしまうのです。

実はこれは本質的なことでもあります。
つまり、人間は「自立」が不完全であることが根本的であることに対応して、「自ら望む」ことについても不完全な存在だということです。
そして、「信仰」は、自分自身ではない何かが望みを築き、自己はそれに従うことを定義することになります。


これはそれでいいんです、というか、その「自分自身ではない何かが望む」形の定義が、3つの類型になるということです。
極めて抽象難解な話かも知れませんが、これがまさに根本的な答えを示唆する話になってきます。

ごく手短に書いておきましょう。
偶像化信仰では、何か偉大な存在が望み、自己はそれに従う、という自己犠牲の形を意味すると思われます。これは大元の「自ら望む」命題と矛盾対立を起こします。
自分の絶対化信仰では、一見すると望むのは自分に見えます。しかしそれは実は自分ではないのです。信仰思考であることにおいてです。そこに自分への嘘と、自己破壊が起きるようになります。
未知への信仰では、望むのは自分なのか、他者なのか、それとも神なのか、全てが渾然とした「未知」に向かいます。しかしこれが、「魂の世界」に沿ったものになると、ハイブリッドでは考えます。魂はもともと自他未分離の世界に生きたので、そこに還るという方向性を、未知への信仰は意味することになります。

そこに、以前書いた、「自分の望みを叶えるというよりも自分というものそのものが仮のもの」として「魂の望み」に向かう、という感覚がつながってくるのではないかと。
それが「感情としての望み」ではない、「命の望み」になるわけですね。

あともう一つ見えなくなっているのが、「感情を超えた恐怖」というメカニズムです。
「信仰」があり「命の望み」がある先に、それが遠くつながり始めます。「感情を超えた望み」である「命の望み」が「感情を超えた恐怖」を超える役割を果たします。
それがどう「感性土台の違い」を足がかりにした意識変遷の先にあるのかがつながったら、この考察が完結です。そのつながりの中心にあるのが「否定価値の放棄」です。

まだつながっていない、そうした背景があるとして、信仰思考の残り2つの類型の説明を。


心理学本下巻に向けての考察-192:「未知」への意志と信仰-84 / しまの
No.1449 2008/01/26(Sat) 19:02:38

■「恐怖の克服」と「信仰」の思考領域

ハイブリッドにおいて「信仰」とは、「空想力」と「自意識」によって人間が抱えるようになった、通常の日常思考では対処のできない、空想と現実および自己と他者の境界が不明瞭な「恐怖」に対処するための思考として、その大きな役割を獲得するにいたった思考の領域として定義されます。

つまり、我々は目の前の事柄について、ごく論理的で科学的な観察と分析をして、ごく合理的な対処の知恵を学び実践することができます。それが実際に問題の解決に役立つごとに、我々は「安心」「自信」を増やし、より大きな「望み」に向かって努力を尽くすという、心の成長と幸福への歩みとつながります。
しかしそうして目の前の問題にごく論理的で科学的な理解と対処をしようとするその瞬間においても、やはりどうしても、それだけに収めることのできない、「何かわからない」不安や恐怖が残るということです。

これは僕自身の治癒成長の歩みを振り返って考えても、必ずその形になります。科学思考と、社会を生きる知恵とノウハウを適用して、新たな問題課題に向かおうとする。そのとき、そうして自分が考える対処行動に安心して、恐怖や不安や緊張が消えたことによって前に踏め出せる、なんて都合の良い形でできたことなど、一度もありません。そうできた場面というのは、むしろ成長後の単なる同じ行動の繰り返し場面の話だけで、そこにはもう治癒も成長もない場面の話になります。

頭では、自分が向かう行動と姿勢はもうこれしかない、とハイブリッド取り組み実践の内容を具体化したものを考える。
それがその行動場面での恐怖を減らしてくれることなど、何もありません。恐怖はそのままです。恐怖の中で、正しい対処行動をし、実際に問題解決に終わった時、心の根底で「もうここで体験した恐怖は不要だ!」という、頭で考えてではない、感情が湧き出る根底基盤における「恐怖の破棄」そして「強さの獲得」が起きるわけです。

この考察は、「恐怖の克服」のメカニズムについて今まで考えたものに、実際のところかなり大きな抜けがあったという感を、僕に感じさせるものでもあります。
今まで考えた「恐怖の克服」のメカニズムとは、基本的には、
1)恐怖の対象と正体を知る
2)正しい対処法を知る
3)恐怖に突入する中でそれを実践する

という3段階で成るものです。

実際にはそこで、「対象正体と対処を知る」における内容の妥当性という意味での成功が、まず「恐怖の克服」のために基本的に機能するものとして、もう一つの面においては、「恐怖への突入」を支えるための思考が機能する面があるということになります。それはまた、結果がどうなったかの評価思考も、それに応じて違ったものになってくる面もあるでしょう。

つまり、上記3段階を「恐怖への合理的対処」の側面として、実際の「恐怖の克服」はそれだけではない思考の側面が関わるということです。
それに応じ、「恐怖への合理的対処」の側面は同じでも、「恐怖への突入を支えた思考」という背景側面が違うことで、全体に多少異なる結果が生まれることが考えられます。対処行動の成功失敗という外面における結果が同じとして、それを受けての心の成長という内面の結果に違いが起きる。
それが「信仰」の思考領域によるものだということになります。

つまり、「恐怖の克服」とは、「恐怖への合理的対処」における向上成長と、「信仰思考」における変化成長という、2面から成る、という話になります。


■「信仰思考」の3類型

そんな位置付け考察として、もう少し話が具体的になる、「信仰思考」の類型の話をしましょう。その類型に応じて、同じ外面結果でも異なる内面結果が起きるというパターンも考えることができます。
どれも、空想と現実および自己と他者の境界不鮮明な恐怖への対処思考として、この世界を支配する何か絶対的なものを浮かべ、それに任せ委ねるという思考形態と言えます。

先のカキコの最後に触れた言葉から若干変更し、「偶像化信仰」「自分の絶対化信仰」「未知への信仰」という3類型


■信仰思考の3類型-1:偶像化信仰

「絶対的なもの」を何か目に見えるようなものとして偶像化し、それを信奉するもの。
まず「神」人間のような「いきもの」(^^;)として描き偶像化する「神様崇拝」がこの代表になります。「いきもの」的な色彩が薄れてくると、「天の恵み」「天罰」といった類がある。
世で一般に「信仰」と呼ばれるのは、こうした何か絶対的で偉大なる存在を描き、それを崇拝信奉する思考ということになりますね。
さらに「偉大な存在」という色彩も薄れ、とにかく論理性抜きに頼る絶対法則みたいなものとして、「占い」「縁起」といった類がある。これもハイブリッド的にはれっきとした信仰思考になります。

つまり、どれも自分の外部に、何かすがれるものを描いてそれにすがる、という形になります。

この類型の信仰思考の問題点は、やはり何といっても、「恐怖の克服」における合理的対処という基本側面を妨げる傾向があることでしょう。合理的対処というより迷信による対処のような行動に走り、結果として当然、はなはだ芳しくない結果になる可能性がある。霊感商法などの被害に遭うといったことも出てくる。

またこの偶像化信仰の思考は、感情情緒としては依存感情卑下感情と結びつきやすい傾向があります。つまり自分を弱き存在と位置づける感情です。
それでもって結果もあまり芳しくないとなると、「恐怖の克服」には全く逆行し、人生を自ら貧困化に陥れるようなことになりかねない部分があると言えます。

一方、偶像化信仰の中に見られる、ハイブリッドからも注目できる積極的効果は、何らかの真摯性誠実性といった、人間性を豊かにする側面です。ただしこの「真摯性」「誠実性」そのものは必ずしも偶像化信仰だけが生む本質的なものではない。

そんな中、キリスト教における「愛」は、「魂が望む愛」とかなり重なるものがあり、この部分については、実は「恐怖への対処思考」というよりも、「望みvs恐怖」の対決構図による恐怖の最終克服という、「望みを妨げる恐怖の克服」段階からさらに一歩進んだ、治癒成長にとり本質的な段階のものになるのではないかと考えています。

いずれにせよそうした「愛」に関連する特別な部分を除き、「恐怖の克服」としてこの「偶像化信仰」が出てくると、やはりもう単なる非科学的で非現実的ないわゆる「信仰」となり、お勧めできるものではなくなります。


残りの2つの類型は、一般的には「信仰」とは呼ばれませんが、ハイブリッドからは同じ役割の並列した位置づけで捉えられます。


心理学本下巻に向けての考察-191:「未知」への意志と信仰-83 / しまの
No.1448 2008/01/25(Fri) 19:19:36

■「心の自立」を目指し「人間の不完全性」を知る

先のカキコで説明した通り、「心の自立」がまず目指す方向性だとしても、その完全な達成はなく、そこに「人間の不完全性」が大きなテーマとして現れることになります。
「否定価値の放棄」という大きな扉が、そこに開かれることになります。これはもはや内面の開放と理解でも、外面の建設的思考でもなく、「信仰」の思考領域のことになります。
そこに、「望みに向かう」という心の健康と幸福への、基本原理に忠実な歩みが始まるという段取りです。

「心の自立」が険しい道のりとしてまずあることは、もはや確実なことです。たとえそれが完全な達成はないのがむしろ本質のことだとは言っても、だからと言って最初から「心の自立」への上り坂に目を向けるのをおこたった時、「人の目への依存」の中で揺れ動き人生を見失う坂道への一直線の転落に戻ることは、大いに請合えます。請合ったところで何にもならない話ですが^^;

どうせ不完全なら、別に自立など考えなくても人目頼みでもいいのではないか。この発想もできると思います。
これは単純に元のままそのまんまです^^; まず「心の自立」に向かうことを省略して、その先のいいとこ取りへ向かうことはできない
なぜなら、「心の自立」に向かうことなく、「人間の不完全性」を理解することができないからです。これは頭で知的に考えることではなく、身をもって体得する類の事柄です。なぜなら、「身をもって体得」するという、「現実の中での体験」の積み重ねがないと、「こう考えればいい」なんてことが幾ら分かったところで、「こう考えればいい」と考え良くしたい目的である、そもそもの「感情」がついてこないからです。

「現実の中での体験」によって、我々は「感情」というものが、そう容易に「こう考えればいい」と考えた通りにはてんでならないことを、身をもって知ります。そして自分の感情を変えるためには、「こう考えればいい」以前に、まず現実の自分というものが一体どうゆうものなのかを分からなければ、何も始まらないことを知るわけです。
「人生」というのが、そこから始まるんですね。頭だけでの「こう考えればいい」的な思考にとどまっているうちは、まだ人生の始まっていない子供の段階です。

で、そうした「現実の中での体験」の中で、自分自身が自立した存在になろうと努力した時始めて、「人間の不完全性」というものが、もはや頭でではなく、心の根底の琴線へと伝わるわけです。なぜなら依存する存在ではなく自立する存在として、自ら何ものかに成ろうとすることで、自分が成ろうとした通りに完全になれることがいかにないかを、身を持って知るからです。
依存した存在である時、何ものかに成るべきは、他人です。他人が完璧であることを望み求めることだけなら、とても簡単であり、それこそ失敗のない話です。とにかく他人に完璧さを求め続ければいい。そして、怒り続ければ、いちおう「依存の中で他人に完璧を求める」は貫き通せる(^^;)からです。

自立を目指し、人間の不完全性を知る。これが通り道です。
この「自立を目指す」部分も、単なる精神論ではなく、具体的な実践と技術が出てきます。それが「価値の生み出し」です。これは社会を生きるスキルとしても、ある程度の段階までの習得をぜひ目指したい。そして習得できることなのです。「どうせ不完全」で終わらずに。
それが生活基盤を豊かにする最短の方法でもあります。キモの話を後でします。


■人間の不完全性に対応した「信仰」の大きな思考領域

より実際の意識面に踏み込んだ説明はこの後するとして、流れの説明をまずしておきます。

そのように「心の自立」を、まずは単なる精神論ではなくある程度の実践的習得に至ると同時に、「人間の不完全性」というテーマに真正面から向き合えるようになると考えています。
そこで、「信仰」という思考領域の役割が、はっきりとその位置づけを露わにするでしょう。

「信仰」についてはすでに、「神」という観念がもう、信じる信じないの議論以前の問題として人間にとって本能的な観念であろうこと、そこにおいて「神」とは「人間の不完全性を補う絶対的な存在」と定義できる観念であること、また科学を極めるほどに科学を超えた領域がより鮮明になることなどを話ました。
つまり、ハイブリッドが基本的に徹底的な科学思考にまず立つとしても、また徹底的な科学思考に立つからこそとも言える形で、「信仰」という思考領域の役割をもう無視できないことを言いました。

それがこの最終整理に至り、人間が「空想と現実および自己と他者の境界が不鮮明な恐怖」を抱く存在だという考えにおいて、「信仰」の思考領域は、それどころではない広範囲なものだという位置づけを考えることができるようになってきます。

つまり「空想と現実および自己と他者の境界が不鮮明な恐怖」の克服において、まずはその境界をできるだけ正確に見分け分離し、より現実的より科学的な対処ができることが、恐怖の克服への近道となる。これは問題のない話だと思います。
しかし、それが取り組み実践であるということは、常に、それが及ばない広範囲の「空想と現実および自己と他者の境界が不鮮明な恐怖」が、我々の回りには絶えることなくつきまとっているということです。

そしてそれに対しては、どうしても自他と空実の境界が不鮮明なまま、ということはもはや論理的合理性を厳密にステップステップで踏んでいくようなものとは違う思考を、至るところで用いているわけです。
それが人それぞれで、一定の方向性を持っている。

そしてそれが「空想と現実および自己と他者の境界が不鮮明な恐怖」の克服に関わっている時、それは「神」の観念を代表とした「信仰」の思考だと、まさに位置づけられると考えられるわけです。

かくして従来の「信仰」というニュアンスとは多少違った形で、そして遥かに広大な思考領域としての「信仰」の形を、定義することができるようになります。

その類型を次に説明します。3つあります。
「偶像化信仰」「神の否定信仰」そして「未知への信仰」です。


心理学本下巻に向けての考察-190:「未知」への意志と信仰-82 / しまの
No.1447 2008/01/25(Fri) 16:10:23

■「自立」から「信仰」へ

ハイブリッドが「信仰」という思考領域をどのように位置付けているかの説明をしましょう。

まず、きのうのカキコで説明した通り、ハイブリッドでは人間を、他の動物とは異なり、「空想と現実および自己と他者の境界が不明瞭な恐怖」を抱える存在であると位置付けています。これは「空想力」と「自意識」が引き起こした隘路としてです。

ですから、「心の成長と幸福」にとり基本的原動力である「命を尽くして望みに向かう」という過程において、これまた基本的妨害となる「恐怖」の克服という基本課題において、他の動物のように単純な生活能力における自立とは異なる、「人の目からの自立」というのが、まず「自己と他者の境界が不明瞭な恐怖」の克服のための基本的な方向性になる、という話をしました。

ですから、まずハイブリッド心理学は、「人の目からの自立」のための心理学とも位置付けられたわけです。

実際のところ、この5年間弱を通して整理してきたことの全てが、それを要に編成されたものと言えます。「自己の重心」そして「自己建設」という基本理念にしてもそうですし、「感情と行動の分離」に始まり、内面においては感情の開放と理解外面においては建設的な思考法行動法という取り組み実践も、「人の目」という、現実か空想かが不明瞭であり、かつそれがほんとうに他者の目なのかそれとも自分自身の目を映し出したものかが不明なものの中で、揺れ動き追い詰められる感情を克服し、根本的に「心の成長と幸福」に向かえるような、我々自身の心についての考え方を確立しこうという歩みだったわけです。この一文長っ^^;

なお世の中には、これと異なる、心についての考え方や取り組み法も沢山言われています。それについては、ハイブリッドでは特に何も言いません。ただ、ハイブリッドが行うのは別のものですと。

「人の目」の中で生きることを決め込んだ中で、どうすれば「人の目」にどう見られる自分になれるかの「方法」を言うのが、世の中には山のようにあります。世に出てる心理学のほぼ全てに近いものが、実はそうかもしれません。それができるのであれば、別にそれはそれで良いと思います。本人がそれを望み、実際そうできるのであれば。
しかし「人の目」の中で生きようとし、「人の目」を目当てに自分に嘘をつき始めた時、我々は自分を見失います。そして真に愛することができなくなります。自分に嘘をついて、それにより愛されようとした相手さえ、愛せなくなってしまうのです。相手からも愛されることも、まずないでしょう。そうして幸福を見失います。

だから、ハイブリッドは一度、自分が本当に自分をどう感じ考えているのかに、「人の目からの自立」の中で真正面から取り組む、という道を、まず示します。

ハイブリッドの取り組みの全てが、「心の自立」のための方法論です。世にはこれとは異なり、まず愛されることが大切であり、心の成長のためにはまず幼少期が肝心であり、もしそこに問題があるのであれば、幼少期に満たさなかった「無条件の愛」を、何らかの形で今与えられることが必要であり、そうした気持ちを理解する優しさこそが一番大切だという心理学も、沢山あります。

ハイブリッドは違います。人間は不完全な存在であり、幼少期における無条件の愛への挫折も含んだ形で、喪失を乗り越えて豊かさに向かう力が、人間の心には本性として備わっていると考えています。ハイブリッドが行うのは、それを開放することです。
ですから、満たされなかった愛を得ることにこだわり続ける気持ちは否定することなく認めた上で、あくまでもうそれとは異なる、「自ら愛する」とはどうゆうことかに目を向けることを、人に示します。
それはもう「求めるものとして愛」とは全く異なるものなのです。それに向かい目指すことに、「心の自立」があります。


■「人間の不完全性」と「信仰」

一方、最初から「人の目突入」型の心理学(^^;)に走る人々についてはもう手が回らない(^^;)として、ハイブリッド心理学に取り組むこと自体が、「人の目の中でこんな自分に」という、半ば無意識の願望とストレスの中で進められるケースもあります。
これはありがちというか、実のことを言うと本質的な部分でもあるのです。

なぜなら人間は不完全な存在だからです。「人の目からの自立」が方向性だとしても、「完璧な人の目からの独立」なんてものを考え始めると、無人島でのサバイバル生活術のようなとんでもない方向に話がそれるか、それとも化け物のような「成長した人間」を描く話になる。
もしくは、「人は人自分は自分」という、ありがちな言葉によって、ただ人の目に背を向けただけで、自分を築くこともせず、相手あってこその「望み」も切り捨て、冷淡な平静を一時的に獲得はできても、やがて身を削る空虚感に直面することになります。
なにも前進していないわけです。

ここ最近になって、僕の中ではっきりと、ハイブリッドが何を示すのかの完結が見えてきたのは、「不完全性の中の成長」です。
「人の目の中に始まり、魂へと向かう」。これが、日が東から昇り西に沈むように、「成長」の一つ一つのサイクルに、繰り返されていく。

ハイブリッドに取り組まれる全ての方において、目指して頂きたいのは、この「不完全性の中の成長」を見る目であり、それを歩む姿勢です。「不完全性の中の成長」で起きることの全てを、一度に視界にとらえることのできる目です。
それは「人の目」の中で生きることを選ぶのではなく、しかし「人の目」に向かう自分の「望み」の感情を認め、「現実」においてそこに向かおうとする時、「魂」が怯えるのを知り、それを守る「心」を築き、その全てが一点に収束した時意識は崩壊し、新しい世界が「未知」として現れることを知る目です。そしてそこに向かうという意志です。

これは何でしょうか。「心の自立」でしょうか。もう違うんですね。「心の自立」が不完全であることを認めているからです。
そこにおいて、はっきりと、進む道が示される。それはもう「完全な心の自立」に向かう道ではありません。

それが「未知」であるわけです。
「未知」とは未知であり、あらゆる「既知」によっても捉えることのできないものです。
それに向かうという意志であり、それがあるという理解です。
ですからこれはやはり「信仰」なんですね。

つれづれと浮かぶ話がそんなこととして、もう少し分析的に説明を続けましょう。


心理学本下巻に向けての考察-189:「未知」への意志と信仰-81 / しまの
No.1446 2008/01/24(Thu) 16:26:18

■「恐怖の克服」への2つの根源命題:「自立」と「信仰」

治癒メカニズム論の最終版における、一般意識論の視点からの説明を引き続き。

前述のように「現実と空想および自己と他者の境界の不明瞭な恐怖」という、他の動物にはないものを広範囲に抱えることになった人間にとって、「恐怖の克服」日常思考だけでは済まない課題になったと言えます。
そのための、特別な姿勢と思考というテーマが出てくる。

それは大きく2つになると考えています。「自立」「信仰」です。


■「恐怖の克服」における「自立」の位置付け

位置付けを簡潔に整理しますと、まず「自立」は、親に守られる側の存在であることから、自らを守ることへ、さらには新しい命を守る側の存在へと遷移するという、全ての生きるものに共通の、根本的な摂理です。

これは本来、個体本人は意識することなく作用する、意識の範囲より根底で働く、心を変化させる力です。「心の自然成長力」において、特別な遷移転換を生み出す力と言えるでしょう。
個体本人が「自立」を意識するのは、その力が働いて、心が既に変化への潜在力を準備させた後になります。かくして大草原に生きる若い獣は、ある日、自分が独力で狩りをする力があるという感覚と、もう親とは別々に生きる存在になるのだという感覚に、気づくことになるわけです。

一方、そのように「自立」への変化を生み出す根底の力そのものは本人がほとんど意識しないことから、「自立」への潜在力とまだ「依存」の状態にある現実という、多少のズレが起きてくることが、一般の動物においてもしばしば観察されます。
かくして、動物の親が子供に自立を促す行動というのが、よく観察されるわけです。時にそれは子供へのあからさまな攻撃行動という、厳しい姿を取るものもあります。

こうした、全ての生きるものの根本的な摂理として、「自立」という方向性と力は、「恐怖の克服」への基本的命題となるわけです。
もし「自立」に向かうことができないまま「依存」の中にとどまろうとする傾向が生まれたとき、その個体に「恐怖の克服」など期待するべくもないということになります。当然自らの「望み」に向かうこともできません。成長も起きません。
これはとても単純な話であり、事実それは人間以外の動物の場合、生存競争からの脱落を単純に意味するような話になります。

ただし人間の場合、話はそう簡単には済みません。


■基本的に「自立」は不完全なのが人間

人間の空想力と自意識は、この「自立」においてもやはり諸刃の剣の隘路を生み出したと言えるようです。空想力が高度な自立の能力へと手助けする可能性が生まれる一方、自分がいつまでも人や社会に守られるべき存在だという「庇護幻想」が、人間の脳に生み出されました。

ただし、この「庇護幻想」は一面においては幻想ではなく、現実でもあるのです。人間が実際のところ、もう他の動物のように大自然で独立して生きるような形での「自立」を考えても意味のない存在であるのが事実であろうことにおいてです。
大規模で高度な社会ありきで生きることが、僕の想像するにもう有史の数千年をはるかにさかのぼった、何万年、さらには何十万年、それどころか3桁の「万年」の歴史「社会化」が始まっており、それに応じた心の発達が脳に刻まれるようになったのではないかと。


■人間における「恐怖の克服」で問われる「人の目からの自立」

つまり、望みに向かい成長に向かうための出発要件とも言える、「恐怖の克服」への基本命題の最初として、まずこの「自立」を取り上げました。

その人間における位置付けは、「恐怖」というものが他の動物におけるそれと異なる様相のものであることとほぼ対応する形で、「自立による克服」のあり方も、他の動物におけるそれと異なる様相を持つものだということです。

「恐怖」他の動物の場合と異なるのは、意識が本当に目の前の日常現実だけに限定していれば、この高度な社会において恐怖に怯えるべきほどの事はそれほどない一方で、空想と現実、そして自己と他者の境界が不明瞭になった「空想力」と「自意識」に由来する、日常事としては済まない恐怖を抱える存在だということです。

従って、「自立による克服」も、他の動物のように基本的な生活能力における自立だけの単純な話とは、ちょっと様相の異なる話になってきます。

もちろん社会で収入を得て生活できるという生活能力における自立という基本的な話もあります。しかしこれは宗教や精神世界論が出る幕ではない、ごくプラクティカルな世界です。ハイブリッドではそれについても、行動学などの基盤を用意します。しかしそれはこの後出てくる「魂の世界」への、一つの補助輪のような位置付けになります。肝心かなめの話は別のものになってくるということです。

そうしたごく基本的な話もあるとして、人間において「恐怖の克服」のために重要になってくるものは、「空想と現実」そして「自己と他者」という境界の不鮮明問題に対応して、2つが出てくると言えるでしょう。

一つは、後者に対応して「人の目」からの自立です。
他の動物の場合、自立できないのは「生存競争からの脱落」だと書きましたが、人間の場合、そうゆうものではないのです。人間の場合、「生存競争における勝利」さえも、人の目の中にあるものと化すのです。そこに、屈折した姿での「依存」が現れます。そしてどんなに社会で勝者になろうとも、いつまでも恐怖から逃れられない、という人間の姿が生まれます。

こうして、「心の自立」ということが、重要な命題になってくる。
「心の自立」具体的内容については、かなり詳しく論じてきました。実は2002年にハイブリッドを整理し始めてからこの5年をかけて言ってきたことの全てが、ほぼこの側面における「自立」命題を根底にしたものだと言えます。
心を病むメカニズムの根本からして、それは「魂と心の分離」において起きた、自立の置き去りに由来するものだと。その結果、幾つかの「幻想」が人間の心に生まれた。取り組みは、内面においてはその幻想を精緻に自己理解し不合理性を自覚することと、外面においては心を自立した健康な心の世界を目指すことだと。

それでは終わらないもう一面が、「空想と現実」境界不鮮明において、問われることになります。
それが「信仰」の側面です。

ようやくこれを項目として真正面に出す時が来ました。「否定価値の放棄」が、これに関わります。
ただしその扉を開けるまでの話が、まだかなりある^^; とりあえず次に、この一般意識論からの大局整理のレベルで、「信仰」についてのハイブリッド定義を書いておきます。


心理学本下巻に向けての考察-188:「未知」への意志と信仰-80 / しまの
No.1445 2008/01/24(Thu) 10:35:17

■「感情を超えた恐怖」を持つ存在としての人間

「感情を超えた恐怖」である「感情の膿」が、「感情を超えた望み」である「命が望むもの」への歩みにより克服されるまでの、間にあるメカニズム取り組み実践について見ていきます。

まず、人間が「感情を超えた恐怖」を持つ存在であるということについて。
これは、人間が通常の思考や感情だけでは乗り越えることのできない「恐怖」を持つ存在だということです。

ここで「通常の」と言うのは、「日常の思考や感情」と置き換えてもいいでしょう。どんなに日常的には恐怖に悩むことのない人であっても、人生を生きる中で、そのように目の前の日常的な事柄を難なくこなすような思考や感情の延長で、全ての恐怖が克服できる人など、僕の知る限り人類の歴史において一人もいません。
時にちょっとした災難に出会ったり、さらには大きな困苦に直面することの中で、さらには何人も逃れられない病苦や死を前にして、日常事にすぐ答えを出せるようなものとしてではない、恐怖を乗り越えるための特別な姿勢や思考が、そこで問われることになるわけです。

ということで、まず人間とは「日常事としては答えの出せない恐怖」を抱える存在であり、それを乗り越えるための特別な姿勢や思考が、人間の心の成長と幸福にとり、人類の歴史を通して課題として模索され続けている。そんな存在であると言えます。

もちろん、そんな難しいこと考えるかどうかは、自由です。考えないで、適当に生きて、それなりの幸せを得る幸運な人もいることさえ、否定するものではありません。でも多くは、適当に生きていく中で、やはり日常思考では済まされない「恐怖」に押し流され、道をそれ、人生を見失っていくのが、また人間というものと言えるでしょう。

ハイブリッドとしては、あくまで本人の自由として、「日常思考では済まされない恐怖」の解決方向性学ぶ意思意欲がある場合の先の話をします。


■「感情を超えた恐怖」の基本的由来:「空想力」と「自意識」

まず「感情を超えた恐怖」の由来を知っておくのがいいでしょう。

心を病むメカニズムの基本的な解説は上巻原稿で書いたものとして、今述べている最も大局的な治癒メカニズム論の視点からは、「感情を超えた恐怖」の基本的な由来「空想力」と「自意識」にあると、ハイブリッドでは考えています。

その役割位置づけをごく簡潔に述べておけば、「空想力」においては、人間は他の動物とは比較にならない創造力をかねそなえた一方で、目に見えるものよりもはるかに広範囲な、恐怖の対象になり得る現実的な出来事を空想するにとどまらず、現実的な解決法など考えるべくもない、非現実的な恐怖の対象を空想するに至り、広範囲の「日常事として解決できない恐怖」を抱えることになりました。

「自意識」においては、自己の姿を知ることで弱みをカバーする能力を発達させることができ、人間を地球上の動物における勝者へと押し上げた一方で、自己像と現実とのズレという新たな火種と、他者および社会との一体感への何らかの阻害という新たな問題を抱えることになりました。
これは一言でいうならば、「自意識」「自尊心」においては諸刃の剣となり、「愛」においては何かが根本的に失われた部分を抱えることになった。それが人間という動物の「業」なのだと言うことができると思われます。

そうして錯綜化した心の世界に、人間の心は生まれ始める。
しかし幼い心はその全てを受け入れることができず、特に自分がその中で守られるべきであった「宇宙の愛」が失われ自分を見守るべきであった者がそれぞれの自意識の中に閉じた、「異形なる他人」の目に自分が責めさいなまれるという、あるべきでないことが起きた事実を、どう心に収めればいいのかなど、考える由もありません。
ここに、意識体験の許容範囲を超えた「恐怖の色彩」だけが、心から切り離されるという防御メカニズムが働きます。幼い心に刻まれた恐怖の傷はないかのような平静が心に現れ、その後の人生を生き始めます。別に何も起きていないんだ。普通にしていればいいんだ。

かくして、人間の心に、論理性を失った、不信と恐怖の塊のような感情が、心の底に、まるで脳に蓄積した毒のように存在するようになります。これを「感情の膿」と呼んでいます。
そんなメカニズムがあり、それがどのように解消克服されるかなどという医学的心理学的な思考など、人間の「素の思考」では考えるべくもありません。そこにあるのは、同じ外界現実に対して、極端に異なるストレス緊迫度によって心が反応するという違いだけです。人はそれを、自分が持って生まれた「性格」なのだと考えます。もしそれがあまりにも「普通ではない」度合いを高めた場合、それは「病気」なのだ、と考えたりします。

それは「性格」でも「病気」でもなく、「空想力」と「自意識」によって、ただのまっさらな現実に向かって望みを開放できる、他の動物とは根本的に異なる人間が抱えた、空想と現実、自己と他者の境界が混沌とした精神世界という業を生み出した、脳のメカニズムなのです。


■「生き方」を模索し続ける存在としての人間

こうして、人間は他の動物とは異なる、空想と現実そして自己と他者の境界が混沌とした精神世界の中での「恐怖」というものを持つ存在になりました。
これがどれだけ人間の意識に広範囲に影響するものであるのかは、それこそ空想によって推し量るのも難(かた)し、という感のある、深遠な広がりのものと思われます。何しろそれは、本来明瞭に切り分けられて基盤となるべき「自己」と「現実」があるところに、どこを向こうと絶えることなく接してくるのですから。

そうして、境界と終わりが不明瞭になった「恐怖」が、「望み」を基本的に妨げるものとして存在することになります。
かくして、人間というのは実に、「自ら望む」ことを不得手とする動物になったとも言えるようです。そして「心の健康と幸福」が見えなくなった。
人類の歴史を通して、宗教と哲学や精神世界論、最近では精神医学と心理学というものが論じられるという様相になったわけです。

いったんここでカキコし、引き続き一般意識論的な視点からの「恐怖の克服」への基本命題を次に。


心理学本下巻に向けての考察-187:「未知」への意志と信仰-79 / しまの
No.1444 2008/01/23(Wed) 17:20:52

■「成長」の原理:「望み」と「恐怖」と「現実」

先ほどの最も大局的な整理から、細かい内部原理へと一段階踏み込みましょう。まず単純な「成長」の原理を、人間以外の動物を参考にして考えることができます。

「成長」「状態」としての姿は「愛」「自尊心」「恐怖の克服」という大きな3要素で捉えられます。これが同時に、「幸福」の「状態」を示す内面要素とも言えるものになるでしょう。

一方、そうした「成長」「幸福」に向かう「過程」は、同じく3要素、「望み」「恐怖」そして「現実」によって構成されます。
「望み」は、それが愛についてのものか自尊心についてのものかはあまり限定されるものではなく、渾然とした形で心に現れ、一方それに向かうことを妨げるものとして「恐怖」が立ちはだかります。

「恐怖」に負け「望み」に向かうことができない時、この個体は「成長」を得ることができないことになります。それは同時に、「幸福」もあまり得ることができないことを意味するでしょう。

ですから「恐怖」を超えて進むために、「望み」の強さが問題になってきます。人間以外の動物では、感情としての「望み」が、やはり感情としての「恐怖」と対決し、「恐怖」を差し置けるほどの「望み」があった時、その「望み」のために「恐怖」を超えて「現実」に向かう、という構図になります。
もちろんこれで終わるのではなく、「現実」へと「望みへの行動」によって向かった時、そこには厳然とした「現実」があり、この者に幸運が舞い降りるか、それとも不遇が囁かれるかという、現実の気まぐれを免れる特権を持った者は存在しません。

それでも、そうして「恐怖」を超えて「望み」に向かい、全てを尽くして生きることが、この者を例外なく「成長」させるであろうことを、ハイブリッドとしては考えるわけです。
そこには必ず何らかの損失も起きる。しかしそれを乗り越えて、またそれを乗り越えてこそ、生きることの豊かさという感情へと成長する。それが限りのある「命」を持った、全ての生けるものの脳に刻まれた設計なのだと、ハイブリッドでは考えるわけです。

こうして、「望み」があり、「恐怖」があり、「現実」に向かうという「過程」の中で、もはや目に見えるものでもない「心の自然成長力」が発現し、この「望みに向かう過程」を過ぎた個体が、やがて以前とは根底から異なる心へと成長したことを、ある時目にすることになります。

ここに、ハイブリッドの治癒論として最終的な原理の考え方のキモの原型があります。つまり、「望み」と「恐怖」の衝突融合という構図に、治癒成長への最も根本的な原理がある、ということです。


■「感情を超えた」望みと恐怖という最終原理

上記の基本原理説明では、「望み」と「恐怖」に、敢えて「感情としての」という言葉をつけてあります。
これが最終的な答えにつながってきます。

つまり、結論部分を言いますと、人間の治癒成長の過程においては、「感情を超えた恐怖」と「感情を超えた望み」との対決構図が答えになるということです。

「感情を超えた恐怖」とは、もちろん「感情の膿」のことです。これが心を病むメカニズムの根源です。
これは「感情としての望み」では超えることができません。感情としての望み」で太刀打ちできるのは、あくまで「感情としての恐怖」です。それも安々ではなく危うい中でです。

「感情を超えた望み」によって、感情を超えた恐怖である感情の膿が、根底から乗り越えられるという構図になります。
この「感情を超えた望み」とは、「命が望むもの」です。

ですから、「望みに向かう」のが治癒成長の原動力だと言ってきた「望み」に、「感情としての望み」と「感情を超えた望み」という違いが出てくる。
これを見分けていくのが、先に出した「命の感性思考」になります。その時、「感情としての望み」は決して見栄えの良いものではなく、「望み」とは基本的にぶざまでいじけていて浅ましいものなのです。しかしそれが向かう先に、「感情を超えた望み」として「命が望むもの」がある時、「感情としての望み」を叶えるためではなく、命が望んだものを果たすために向かうという「勇気」が、人間に生まれ得る。

そしてそれが「現実」に向かうこととして開放された時、「感情を超えた恐怖」と「感情を超えた望み」との対決構図の中で、上述の目に見えない原理が働く。
これがハイブリッドの治癒論最終版の核とも言えるものになります。

この基本原理から最終的治癒原理までにある大きな間を埋める、メカニズムおよび取り組み実践を説明して行きます。

しかしタイトルの番号がもうどーにでもなれという感の数字(?)になってきた..^^;


心理学本下巻に向けての考察-186:「未知」への意志と信仰-78 / しまの
No.1443 2008/01/23(Wed) 13:44:52

どーでもいい話ですがこの2日間ほど、メインPCの再セットアップをしている今日この頃。今も傍らで続いており、これはサブのノートPCで打っている次第。
何せ今回は、自分専用のPDセットアップ状態にいつでも別のHDDから復元できる仕組みを作っており。



■終章-12:ハイブリッド治癒論最終版

さて「中期」における具体的実践キモ部分の説明になるのですが、その前に、ハイブリッドとしての「治癒論」最終版とも言えるものを書いておこうと思います。スキーの合間に考えたのもまずこれであり。
そこから、次に具体的説明と言っておいた「人の目と自己内面の分離」などを何のために行うのか、という実のある理解が得られると思いますので。

「治癒論」とは、心を病むメカニズムをその本性的一面として持つ人間の心が、自らが生まれた人生において最大限に幸福になれるための基盤としての「心の治癒と成長」を、どのようなメカニズムと原理によって成すのかの考え方です。

これが人間特有の話として、他の動物ではただ「成長」だけを基本的に論じればいいのに対して、「治癒」というものが出てくるのは、人間はその悲しき「さが」として、心を満たされるための何かを根本的に損なって、出生における来歴を歩み始める存在であるという人間観を、まずハイブリッドとして採用しているということになります。
この「さが」は、昨年ハイブリッド理論を大幅に刷新した視点であるところの、「魂と心の分離」にまつわって起きているものと考えるわけです。


■「自然成長力」の原理

それでも最も基本になるのは、他の動物の場合と本質的に何の違いもない「心の成長」の原理です。
これは「望み」に向かい、「命」の限りを尽くして「現実世界」へと向かい歩むことの中で、何の人工的操作で生み出すものでもない「自然成長力」の発現が起こり、その個体は自然と「成長した存在」へと変化していく、というものです。

それを「心の成長」として、はっきりと外面的成長、例えば身体の成長や、向上した生活環境の獲得などとはまた別のこととして、内面における変化として取り上げる時、それは具体的には、同じ外界に対して「恐れ」より少なくなくなり、「愛」の感情がより豊かになり、そして自分がこの現実世界をうまく生きることのできる存在であるという「自尊心」の感情をより豊かに持つことができるようになる。そのような変化のことを「心の成長」と考えることになります。

つまりハイブリッドでは「心の成長」を、その具体的内容を「」「自尊心」「恐怖の克服」という大きな3つの要素で考えています。
そしてそれらは、「望みに向かい命を尽くす」ことの中で、「心の自然成長力」の発現の結果、自然とそうなるものだ、という考え方を最も基本としているわけです。


■「心の成長」を見失った現代社会人

「心の成長」についての上述の基本原理の視点から考えれば、現代社会人が「心の成長」を見失った姿はあまりに明瞭です。
それは「心の自然成長力」を開放させるというよりも、心に「あるべき姿」を定めその通りになろうとする、という基本的な方向に向いていることです。しかも、「望みに向かう」ことをやめてしまった中でです。
つまり、「心の自然成長力」と「望みに向かう」という、「心の成長」の最も基本的な2つの事柄に、見事に背を向けた生き方を選んでいるわけです。

これでは「心の成長」に向かうことができるわけもありません。そして「自らの人生の最大限の幸福」も見えてこない。これはあまりに明白なことです。


■「治癒と成長」という課題

しかしそのように「心の成長」が見失われ妨げられるのが、「心を病むメカニズム」という、これまた人間の本性的一面になるわけです。これを完全に免れた完璧なる人間は、存在しません。他の動物のように、ただシンプルな「成長」だけを当てはめようとすることは、それ自体がまた妨げになるという、轍の繰り返しになるでしょう。

かくして、人間においては「心の治癒と成長」というのが、切り離すことのできない基本的な課題になってくる。
これがハイブリッドにおける「心の治癒と成長」の最も基本的な考え方になります。


いったんここでカキコ。これが序論として、次に「障害メカニズム理論」「治癒メカニズム理論」が、この序論レベルの大枠とつながる形で大きく整理されたのが、ハイブリッドの治癒論最終版になるという按配です。
それを次に。


1/20(日)まで不在 / しまの
No.1442 2008/01/18(Fri) 17:37:43

スキーですが、今シーズンは休日はデフォルトというほど行かないので、一応お知らせ。

「人の目と自己内面の分離」について、具体例を出しての説明をさわりでも書きたかったところですがちょっと時間取れなかったので、また来週〜。


心理学本下巻に向けての考察-185:「未知」への意志と信仰-77 / しまの
No.1441 2008/01/17(Thu) 12:55:37

「価値の生み出し」のより具体的説明ですが、まずは内面準備的な話から。


■「価値の生み出し」を妨げる「人の目」という基本構図

ハイブリッド「中期」段階における「価値の生み出し」実践について、より心の実情に合わせた説明をしたいと思います。

「心の実情」とは、「価値の生み出し」に素直に向けない心の要素が、まだ強力に心をつかんでいるという、この段階の実情です。
これは深刻な心の障害傾向からスタートしてこの段階に至った場合も、心の障害傾向としてはそれほど問題のない、心の悩みレベルという一般ケースでこの「価値の生み出し」実践を本格スタートに考えた場合も、本質的な問題同じです。

つまり「人の目感性」と「魂感性」の並存状態の中で、前者つまり「人の目」が意識の足元から心をさらってしまう強さもしくは役割をまだ持っている状況だということです。

これは結局、「人にどう見られるか」から始まる心の動揺の中で、感情が悪い方にどんどん連鎖して、「価値の生み出し」などは考える余地もない状況に、やはり時としてなる状態です。
これが深刻な心の障害傾向のケースでは、その「人にこう見られる」という動揺の内容イメージが、「人生の落伍者」「人格の不具者」といった病的なイメージを伴うかも知れない一方、心の悩みレベルでは何か些細な出来事での道徳的非難といったごく日常的な内容のものか、という違いがあるだけです。

なお「こう見られる」イメージ病的色彩は、人それぞれの感情の膿の色彩として、全体としての治癒成長が進んだこの先においても、感情の膿が流れる時には大体似た様相のものが、結構最後まで残ると考えるのが正解です。
この構図が同じままの形で、それを乗り越える心の強さが一貫して増大し、心の感情基調全体が向上していくというのが、この先全てのケースにおいて言えると考えています。
やがて感情の膿は、それぞれの人ごとに、流れる時は大体同じ淀んだ色彩と苦い味のまま、それでも希薄なものへと、まるで原液の濃さから、やがて1リットルの水にたらした1滴の薄さへと減少して行きます。

そうした根本的な変化が実感できるのは、「後期」に入ってからかも知れません。今問題にしている、2種類の感性土台の並存段階では、「人の目」を引き金にする悪感情は、それぞれの人の問題の濃さにおいて、まだオリジナルの原液状態(^^;)です。
この「中期」段階の取り組みとは、それを薄めていくための純水のありかをまず探し、心のビーカーにしっかりと入れていく実践だと言えます。

そしてこの「中期」段階で用意した心の純水感情の膿の原液の間にある仕切りを取り去るのが、「否定価値の放棄」の扉を開ける時だということになります。


■まず「人の目」へのしがみつきを緩める実践を

さて上記の例えは「心の純水」「価値の生み出し」を指しているのですが、引き続きその例えを使って、何をしていくかの具体的内容を説明して行きましょう。

まず行いたいのは、心の純水を入れるためのビーカーを用意することです。まだ中は空っぽの状態でですが。
つまり、この段階のスタートにおいて、人は心の純水を入れるためのビーカーを手元に持ってさえいない状態です。「人の目」から始まる悪感情の原液をたたえたボトルを自分からしっかりと抱きしめて、それ以外のものは目にも入れようとしていない状態です。

それを、まずせめて片手だけでも離して(^^;)心の純水のためのビーカーを手にするという姿勢作りから、始めるわけです。
これは感情というものがそう簡単に根底から変えられるものではないことにおいて、根本変化のための実践が「感情そのものではなく感情が湧き出る土台に取り組む」というのが実に一歩一本の積み重ねの上にある様子を、比較的イメージしやすい話になると思います。

でそれを例えでなく実際の意識実践で言いますと、心の問題を全て「人が」で考えるのではなく、「自分は」で考えるということの実践です。
「人にこう言われる」「人にこう見られる」と、「では自分では本当のところ自分のことをどう感じ考えているのか」を、分けることです。

これはハイブリッドの最初の入門でつねづね話している、「自己の重心の選択」という根本理念でもあります。
それが、今ここで、はっきり明確な意識実践として問われるわけです。
それが本当に可能になるのが、人の目感性と魂感性の並列になる、この段階です。

逆に言えば、魂感性が見えずに、人の目感性にほぼおおい尽くされている「前期」的段階では、「自分では自分のことを本当にどう感じているのか」が、問えません。「自分」とは、人の目の中にあるものです。
この場合は、まず自分が置かれたそのような心理状況を、正しく理解することからです。それは、まずそれだけ愛情要求が絶望的に強い状況です。そして自分で自分を助け起す希望が見えなくなっているという苦境にある自己の現実を認め、それを原点として「唯一無二の成長」へ向うという解決があることを、まず学ぶことからです。これは「前期」における「自己受容」の取り組みと言えます。

そうした絶望状態を、「未知への選択」により何とか乗り越えるのを、何度か繰り返した後、どんなに深刻なケースでも「魂感性土台の体験」を見出すことができます。
そしてこの「人の目イメージが消える感覚」しっかりと足場にして、ここで説明している、明瞭な意識実践をしてみる。


■「人の目と自己内面の分離」

こうして「自己の重心」の真の意識実践が可能になる上での取り組みは、ハイブリッドの大枠レベル極めて重要なものになってきますので、実践項目としての名前をつけておこうと思います。
とりあえず「人の目と自己内面の分離」としておきましょう。

これは定義するならば、今見える事柄として主に2つの意識思考実践があります。
1)「人にこう見られる」に対して「では自分では本当のところ自分をどう感じ考えるか」を明確にしていく。これは「自己評価における人の目と自己内面の分離」です。
2)「人にこう見られる」ことが起す現実的問題と、それを引き金にした内面感情が起す問題を、分離させて考える。これは「現実対処における人の目と自己内面の分離」です。

これを具体的な例を出して説明しましょう。ちょっと長くなりそうなので、いったんカキコし。


心理学本下巻に向けての考察-184:「未知」への意志と信仰-76 / しまの
No.1440 2008/01/16(Wed) 12:13:43

■「中期」段階における「存在の善悪」から「価値の生み出し」への歩み

すでに述べているように、「価値の生み出し」とは、人が何か他人や社会に役に立つこと、つまり「価値」を生み出す行動において、それを「誰が」行ったかではなく、そこで「生み出された価値とは何か」を純粋に見る側面のことを言います。
ですからこれは「存在の善悪幻想」が得てして生み出しがちな、人への理不尽な否定や、逆に法外なえこひいきを、脱するような視線を我々に与えるものです。

つまり「価値の生み出し」とは、実際は2つの事柄を含んでいます。
一つは、価値を生み出す人間行動があるという「事実」です。
もう一つは、その「事実」において、我々が持つ「視線の向き」です。「価値の生み出し」と言う時、視線は「誰が」という人間評価から離れた、「生み出された価値」そのものが何であるかを見る視線へと変わるという、視線の向きの転換が、そこにはあり得るということです。

これは実際に思考実践をしてみると分かると思いますが、「そこで生み出された価値とは何か」と思考して答えを出す過程では、「誰が」は消えます。なぜならこの2つを同時に見ることはできないからです。おいしい料理と、それを作った料理人を、同時に見ることはできないように。
そして例えば「この料理はどのように美味しいか」を考える時、それを人に伝えるだけの「価値の把握」をするためには、かなり頭を働かせ「価値の分析」とそれを「言葉で表現」するということを行います。しっかりした歯ごたえと、とろけるような肉汁のうまさが口の中に広がるハーモニー..涎ごっくん、と。

ですからハイブリッド「中期」における「実践」として「価値の生み出し」と言う時、それは人を品評評価するのではなく、というか人の品評評価がどうなるかはいったん脇に置いて、そうした「生み出された価値そのものが何かを分析して見る目」を、より積極的に持って行きましょう、ということを言っています。
またそうした目を育てる結果、実際に価値を生み出すという「事実」が増えれば、それは喜ばしいことだ、といういことです。

ですから、「実践」としての「価値の生み出し」とは、まずはすこぶる「思考法」における実践です。感性の違いの話のことではなく、感情についてどうこうしようとすることでもなく。
「思考法」であり、つまりは「価値の分析法」というような話にもつながり、その分析論理が結構重要になってきます。

ですからこれは、「感情と行動の分離」という基本枠の中では、まず外面への思考法行動法について「建設的対人行動法」「原理原則立脚型行動法」を「前期」段階で出しますが、これをさらに洗練発展させるものになります。
「建設的対人行動法」が主眼とする「共通目標共通利益」とは、結局それが「価値」でもあります。
そして「価値の生み出し」では、それを単に相手と目標利益が「一致する」ことに着目するのを超えて、「そこで一致した価値とは何か」を、もはや自分や相手の評価から離れて考える。これは極めて原理原則的な思考になります。


■「魂感性土台」と「価値の生み出し思考」

そうした「価値の生み出し」が、「中期」段階あたりからはっきり意識して、というか腰を据えて、つまり落ち着いて考えることができるようになると考えています。
「前期」段階、つまり人の目感情に翻弄される動揺や、自己否定ありき思考があまりに強い状態だと、「価値の生み出し思考」などじっくり考える余地もない状況になるでしょう。

よりメカニズム的に考えるならば、「価値の生み出し」思考を十分に働かせることが可能になるための準備条件と言えるが、主に2つあると考えられます。

一つは「人の目イメージ」の圧力の一定の減少です。これは例えれば、料理を前にして、「おいしいと言わないと殺すぞ」料理人にピストルを突きつけられている状況です。もう味をじっくり吟味するどころではありません。料理人は厨房に戻ってもらい、その目を意識しない時、料理の価値落ち着いて吟味できるというものです。

もう一つは、「心の自立」の感覚の一定の増大です。これは目に見えない変化であり、捉えるのが難しいものです。
それでも「そんな歳ではものごとの価値がまだ分からないものだ」と言った表現を聞くこともあると思います。親の下で全て庇護される感覚を抜け出し、自分の目で「現実」を直接見る感覚の中で、「ものごとの価値」というテーマが、次第にはっきりと心の中で形を持つようになってくる。

この「人の目の圧迫の減少」「心の自立感覚の増大」は、「人の目感性から魂感性へ」という大枠方向性において、魂感性土台の強さの増大に伴う、後戻りのない治癒成長変化の側面でもあります。


■「不完全性の中の成長」と「価値の生み出し」

ただし、「価値の生み出し」もっぱら魂感性によるものと考えるのは誤りです。

まず、「価値の分析法」といった思考面は、もう「感性」という心の機能ではなく、「知性」という心の機能層の問題になってきます。「社会見識」といった領域になってくる。
また実際に自分がどんな価値に向う気になれるかは、感情面が関ってきます。そして今問題にしている「中期」の始まり段階では、魂感性土台はまだ社会生活の日常からは切り離された一瞬に現れるようなものでしかありません。
さらに言えば、「魂の感情」には、今だに「根源的自己否定感情」つまり感情の膿という側面もあり、これはまったく未解決です。

これらの問題を除外して、魂感性だけで「価値の生み出し」を論じるのが、社会を生きるノウハウを全く伴わない精神論の轍になると言えるでしょう。

そもそも、この「価値の生み出し」をあくまで無人島で生きるためのノウハウではなく(^^;)、この現実社会を生きるためのノウハウとして、つまり人生を生きるための王道として論じることにおいて、「価値」は人と社会にとりどのような価値なのかという視点を使わずに考えることなどは、あり得ません。
それが「価値の見識」とも言うものです。

そこで我々の心は、再び「人の目」「社会の目」に取られることになる..。
「価値の見識」とは、それとは異なるものなのです。「人の目」や「社会の目」のイメージのことではありません。それを超えるものです。

何をどう考えればいいのか。一面に捉われると、答えを見失います。つまり、ハイブリッドとしての答えは「不完全性の中の成長」にあるということです。
上述の「人の目の圧迫の減少」「心の自立感覚の増大」という成長側面についても、それを「人の目感性を完全に脱却した」「完全な自立」という極論を考えると、絵に書いた餅になります。それは人間ではありません。

「価値の生み出し」とは、そうした「不完全性の中の成長」をより確実にするための、心の使い方の方法論だとも言えるでしょう。


■「不完全性の中の成長」と「心の病」

「では人の目感性でも結局問題ないのか」。そんな疑問が出てくると思います。

問題根深いところにあります。もしそれがないのであれば、そもそもこんな心理学の思考を始める必要もなく、我々は成長に向って行けていたでしょう。
しかしその問題があるのであれば、人の目感性として目に見えるところではなく、見えない裏の負の部分に変形が起きます。そしてやがて、これがもはや人間の心の一側面と考えられるような形において、人の目の中で自分が本当に何者であるのかを見失った時、「人の目」が命の重みさえ帯びてくるという、奇妙なことが起き始めるわけです。
「感情の膿」に始まる、心を病むメカニズムとは、そんなものなのです。

その正体を見極め、それへの答えを探すのが、ここから始まる「中期」の段階と言えます。

先日ちょっとした人生訓のような言葉が浮かびましたので、ここで書いて起きましょう。見極めるべきものを明瞭に捉えるために、まず「健全形」を示す言葉になるでしょう。
人は人との関係がなければ生きていくことはできない。しかし人との関係だけで生きていくことも、やはりできない。
人は人との関係の中で生き始め、自分の魂との関係に向かうことで、真に生きることを見出すのだ。


それが「健全形」です。つまり、人の目に始まり、魂へと向う
これが、乳歯が永久歯に変わるような静的な成長変化ではなく、「望みに向う」という一歩の歩みの中で、常に起きる。最後までです。毎日、日が東から昇り西に沈むように。

それが、「感情の膿」に始まる心を病むメカニズムの中で、「人の目」の圧力の中で人間を静的に切り取って見る、偏った視線が生み出されます。そして人の目の中で自己を見失うか、もしくは人の目に背を向けつながりを見失う、仙人のための人生論のようなものに流れる。

人間の成長は常に不完全性の中にあり、人の目に始まり魂に向うという一サイクルの、終ることのない繰り返しの中にあります。
心を病むメカニズムは、人の目に始まり、それとは違う道へとそれるものだと言えます。
この違いをしっかりと見据えるのが、「中期」の取り組みだと言えるでしょう。


「存在の善悪」から「価値の生み出し」へという思考の実践は、そうした「人の目に始まり魂に向う」という健全形への、良いガイドになるものと言えます。まずそれを習得する。
一方、それを違う道へとそらせるものも、やはりまだ残り続けることになります。この混合状態で実際その習得がどんな心の模様の中で進むことになるのか、そこでの留意点など、これまたガイドになるものを次に説明しましょう。

それが一定段階へと進んだ時、「否定価値の放棄」を問う「未知への信仰」の扉の前に立つことになる、という段取りになります。


心理学本下巻に向けての考察-183:「未知」への意志と信仰-75 / しまの
No.1439 2008/01/15(Tue) 12:06:02

■「前期」段階における「望み」と「存在の善悪」

治癒成長への基本的原動力である「望み」が、「存在の善悪」という命題によりどのような影響を受けるのかを整理すると、次のようになります。

深刻な心の障害傾向からスタートし、ひとまずの「人生のリセット」ともなるような動揺抜け出しを得るまでの過程として位置づけられる「前期」において、「望み」は、まず全面的な停止もしくは空想の中でのみ抱き得るものになります。

僕自身、そこ頃のことを思い返して、何よりも全般的な印象として感じるのは、「現実というものが存在しなかった」という雰囲気です。自分を支えるのはただ空想の世界のみであり、「現実」はあくまでそこから審判される、足手まといのものでしかなかった。
これは、この人間が空想の中で描く自己像が、どのように燦然と輝く自己像になろうと世界から追放される不遇の自己像になろうと、自分に「存在への否定」が向けられることは「既定」の事柄であり、もはやそれを問うべくもないとする前提の上に、それを見返すか甘受するかという文脈の中で、「望み」が描かれているということです。

この結果、「望み」「存在への否定」への見返し復讐もしくは卑下的諦観のいずれかの様相を帯びるのに加えて、もう一つ、屈折しながらもこの人間が自らを支える方向をその中に求めるようになる、極めて特徴的な「望み」への方向性が生まれます。
それは「自己否定できる姿」において愛や自尊心を得ようとする傾向です。自分を否定できることにおいて、人からの尊敬を得ようとし、その「精神的の高さ」において、愛され、救われることを求めるという「望み」の傾向が生まれます。
そしてそうはこの人を扱わない世界を前に、怒り絶望憎しみを抱くという流れが基本的に生まれます。

これを「望み」と位置づけるかどうかは別として、心の表面に吹き出る「衝動」皮相化荒廃化は顕著です。しかしこの段階では、「望み」の皮相化荒廃化をじっくり検討するべくもありません。自ら望んだ時の「望み」など見えるわけもなく、自分に向けられる「存在への否定」が全ての始まりなのですから。
そこにおいて、この段階での「望み」の純粋なベクトルを問うのであれば、「破壊が望み」とも言える段階です。


■「魂感性土台の体験」「人生のリセット感覚」節目

感情と行動の分離」という大基本枠で始まるハイブリッド「前期」の取り組みは、こうした内面傾向については「正す」という自己処罰的態度の焼き直しをするのではなく、外面と内面を分離し、相互が巻き込まれる悪循環から脱すると共に、内面外面の双方において治癒と成長への正しい基本的姿勢の習得実践を主眼として始めます。

深刻な心の障害傾向からスタートしたケースにおいては、特に「自己否定できる価値」の誤りを抜け出す「内面感情の開放と理解」が、実質的な変化の主原動因になるようです。つまり外面においては、本人自身がかなりの変化をこの段階においても自覚できるのですが、実は外面における変化は「前期」段階では微々たるものです。

そうして「前期」段階の取り組み結果は、「魂感性土台の体験」を節目とする形で、今までの自分の人生が全てリセットされるかのような、まっさらな心の状態が芽生え始める状態へと至ります。

これだけでも、他の心理医療心理カウンセリングにおける「治療完了」よりもはるかに先に進んだ段階になっていると言えるでしょう。なぜなら、「人生のリセット感覚」に至るほぼ少し前には、もはや誰に「それでいいですよ」と確認されるものでもないものとして、自分の人生を歩もうとする感覚が生まれているからです。これは時に、「ハイブリッド心理学の言う通りに」という追従感覚さえも捨てるという通り道を時に体験させるケースもあります。


■一般ケースでも基礎となる「前期」実践

こうして最初の根本的変化が揺るぎないものになるまでに、この「前期」段階でも心の障害傾向の状況に応じた、一定の取り組み期間が必要になります。これは単に障害の重篤度だけの問題ではないさまざまな要因によって、千差万別のものになります。

一方、心の障害というほどの問題はない一般のケースにおいては、「魂感性土台」と「人の目感性土台」の違いが実感として十分に分かることをもって、次の「中期」の実践段階すぐ進むという段取りを考えてもいいでしょう。
しかしこの場合でも、「前期」の取り組みとして定義している「感情と行動の分離」に始まる内面外面での基本的実践は、あくまでハイブリッド取り組みの最後まで続く基本枠になりますので、その基本姿勢の習得が大切です。

実際のところ、「気分」で判断する「素の思考」によって、心の健康と成長についてあまりにも多くの勘違いの中で生きているのが、現代人の「普通」の姿です。ひいてはそれが多少とも日々のマイナス感情を好んで生み出し維持しているような姿からの基本的抜け出しということで、「前期」段階の実践もしっかりと確認していくのがいいでしょう。

特に、たとえ心の障害傾向は本来ないようなケースにおいても、「自分に厳しく」が美徳といった理不尽な道徳思考によって、好んで自己処罰感情を生み出す一方、外面においても社会を生きる合理的なノウハウを習得しないまま生きているようなケースでは、深刻な心の障害傾向からスタートする場合にも類する、根本的な自分の変化を一度味わうようなところを通ることになるかも知れません。
まあこれは既に話していることの再整理ですね。


■「存在への否定衝動」の消えた世界を手がかりに

いずれにせよ、このような「前期」段階のひとまずの達成は、今まであまりに法外な価値を帯びていた「存在への否定」衝動がいったんまっさらに消えた心の状態を、脳に異なる領域があるというような実感レベルで分かることを意味します。
ただしこの段階で、「人間存在の善悪」についての抽象的な哲学や精神論へと結論を急ごうとすることは、ハイブリッドにおいては無用です。それは人間の根本変化を知らずに論じるものになってしまいます。

「中期」では、こうした「存在の善悪」が消える心の状態を一つの手がかりに、「外面」でのより実質的な変化を模索する段階と位置づけることができます。
そこにおいて「存在の善悪」がどのように位置づけられるものになるのかを、次に説明します。

ただしそこでもまだ結論は出ません。
こうして概観すると言えるのは、「前期」は主に「内面」が主眼、「中期」は「外面」が主眼となりその変化がさらに「内面」の変化を促すとして、最後の「後期」「魂」の根本変化成長が主眼に置かれるという風に、3つの局面が大きく位置づけられると言えそうです。

まずは、「人間存在の善悪」への答えがまだ保留したような形で、その命題がいったん消えるものとして、「中期」においてどこに向うのかを次に。


心理学本下巻に向けての考察-182:「未知」への意志と信仰-74 / しまの
No.1438 2008/01/14(Mon) 15:23:54

■「存在の否定バトル世界」からの抜け出し

さて「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」という視点で、「人生の推進」へもつながる具体的な話というところでしたが、金土日カキコが止まっていたのは、スキーに行ったからではありません^^;
ちょっと思考が前になかなか進まなかったからであり、こうゆうのは大抵、何か視点を変える必要がある時にあることです。

つまり「人の目感性から魂感性へ」という治癒成長の大枠の中で、「存在の善悪」は実は「人の目感性」のみならず「魂感性」でも動くものだということをまず話しました。
前者は「存在への否定攻撃」を向け合う衝動として。後者は、何かを損なった自分に罰が向けられるという、深い感情として。
これは当然、「魂感性で存在の善悪を抜け出す」という単純な形にはできない、ということを暗示しています。

一方それはハイブリッドの取り組み道のりについても、ある形を暗示するものです。
つまり、まず「存在への否定攻撃」世界を抜け出す
そこに、「罪と罰」の深い命題が現れるという流れです。

人の目感性での「存在の否定バトル」は、「存在の否定」がいわば前提での世界であり、「否定されるべきは誰だ!」という世界です。

「価値の生み出し」は、そうした「存在の否定バトル」からの抜け出しへの方法論でもあります。
しかしそれはそのバトルの中から、勝者として一抜けするということではありません。このイメージは、「存在の否定バトル」世界の中の思考にそのままとどまっていることを意味します。
「価値の生み出し」は、確かに「存在の否定バトル」の中でも勝者であれることに多少は寄与するものでもあるでしょう。「価値の生み出し」とは、実際我々の「存在の価値」高めるための方法論でもあります。しかしこの視点は、やはり「存在の否定バトル」世界にとどまるのを可とするものです。

ハイブリッドにおける「価値の生み出し」が向うのは、そうした、社会を生きるノウハウとしてごく実践的な内容も含みながら、「存在の否定」がない世界への転換です。
その転換を通る時、我々は、そもそもなぜ「存在の否定」というものが生まれたかの、根源に向き合うことになります。


■終章-13:「存在の善悪」と「望み」

で、ここで話をそうした「存在の否定のない世界」に進めようと舵を切ると、とたんに舟が推進力を失って停止しまうような感じに、僕の頭がなるわけです^^;
これはちょっと奇妙な感覚でもあるのですが、多分、ここにもまた何かの幻想世界があるのでしょう。「存在の否定がない世界」という。まあ、誰もが許される世界。それは魂の世界にある。それはそうと言うことはできます。

だが、話があまりに抽象的になるわけですね。ハイブリッドの治癒成長の道のりとしては。僕が通ったのは、そんなんじゃない。
多分これもまた魂が抱く幻想ということになってくるのでしょう。魂が抱く「罪と罰」の幻想に対峙するものとして現れるような。「神に許される」というものでもそれはあるでしょう。
ハイブリッドの道のりの先で、「存在への否定」の根源が問われた時、事実そうした「許される」という思考さえもふるいの対象となり、答えはそれですらないものになる。
まあそれが「未知への信仰」なんですけどね。

まあ何のことやらという感じですが(^^;)、とにかく何か視点を変える必要があるということで、何があるかというと、「望み」なんですね。
「存在の善悪」と「望み」の関係が、この先、つまり魂感性人の目感性並存状態から始まるハイブリッド「中期」において、重要なテーマになってくる。

人の目感性が見え、魂感性が見え、「存在の善悪」が見える。そこで「存在の否定のない世界」へと直接向かおうとすることは、根本的変化はもうしないままに、何か哲学的な問いをころがすことになるでしょう。現状維持の世界です。
それはハイブリッド以外の心理学なり精神論なりにお任せします。ハイブリッドは、根本変化に向います。
「望み」を問うことで、この静的な哲学動的な生きる変化の世界への道が分かれるようです。

事実、「存在の善悪」が問われた時、「望み」は見えなくなります。心が「存在の善悪の審判」の圧迫を前に、凍るからです。そして「望みの停止」という、問題の振り出しに戻ります。これでは答えが見えません。

ですから、「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」という視点で、ハイブリッドがもともと治癒成長の基本原動力だと言っていた「望み」が、ここから現実的な推進力を得る、という流れを考えるといいでしょう。

この視点で、「望み」「存在の善悪」によりどのような影響を受けていたのかを、次に説明します。


つれづれ行動学その1 / しまの
No.1437 2008/01/10(Thu) 18:28:58

ジョギングから帰ってつけたTV(トランスかけているので無音^^;)に流れたのは、「モンスター・ペアレントの増加」

学校に対して無理難題を押し付けつける親ということですが、さすがに先生方もお困りのようで、行動学の良い題材だと感じた次第。
ただ眺めるだけだと、こりゃ僕でも..という感も起きますが、ちょっと頭をひねるとかなり起死回生的アイデアが浮かぶもので、書いておこうかと。

ポイントは、以下のような理不尽な要求が出てくる裏で、「モンスター・ペアレント」が望んでいるのは何かを見抜くことです。そしてそれに対して全面的な支援の姿勢を示してあげる。すると相手の態度は一転して軟化するはずです。
もちろん無理難題要求をそのまま鵜呑みにするのではなく、逆の方向に行くように仕向ける形でです。

これは下巻原稿「4章 焦りと怒りの解除の基本」で、「相手が望むものの根本を考えること」と説明した話で、その具体例として「A子さん」「今までの自分は一体なに?」と感じたほどの変化をできた話と全く同じです。
http://tspsycho.k-server.org/books/n0707/b04.htm

例1:給食費を払わない母親
画面では再現演技など流れてましたが、その傲慢な態度の様子にはさすがにムッときちゃうかもと、眺めるだけだとなるのですが、マジに頭をひねる立場になればと考えるに。
ようは金を払いたくないわけです。お金にどう困っているかは別として。画面では、実は結構裕福そうな兆候があるという、怒りを誘う文脈。

そこを、相手はお金に困っているのであり、それに全面的に協力しましょうという態度を見せてやる。
「分かりました。大変お金に困っているご様子。ではお子さんの給食費は、クラスの皆でカンパしあって賄うように調整することを検討したいと思います」と言ってみる。
まずこれで慌てない親はいないでしょう。金に困っていることが事実である場合も嘘である場合も、この先にはかなり現実的な答えが見えてきます。

例2:娘が男子生徒と交際したのに腹を立て男子生徒を退学させろといきり立つ父親
これは具体的な答えは特に考えませんでしたが、基本は上と同じです。この場合は、娘を持つ父親の気持ちに、まず全面的な共感を示してあげることから始まるでしょう。
この先はちょっと考えるの省略^^; 上辺の言葉だけではなく、心理学を活用し人生論的な助言をどう父親にできるかという話にもなってくるでしょう。

とりあえず「その1」として、シリーズの続きあるかどうか..?^^;


心理学本下巻に向けての考察-181:「未知」への意志と信仰-73 / しまの
No.1436 2008/01/10(Thu) 13:01:03

■「価値の生み出し」 vs 「存在の善悪幻想」

命の感性思考」をどう活用することになるにせよ、「魂感性土台の体験」の先にまず目指したいのは、「価値の生み出し」です。「価値の生み出し」をまず知り、次に、それをより積極的なものへと推進していく。

「価値の生み出し」とは、内面感情の指標としては「喜び」と「楽しみ」、外面指標としては「あらゆる向上」を生み出すという人間行動において、その人自身の人間評価からはもはや切り離されることが可能なような、「生み出される価値」そのものの側面、とでも言うことができます。

ですから「価値の生み出し」は、「存在の善悪幻想」とは真っ向から対立する人間視点と言えます。

「存在の善悪幻想」においては、何らかの人間価値基準により、その人間の過去の何かに応じてその「存在の善悪」が審判され、以降はそうして審判された「存在の善悪」に応じた扱いを受ける、という意識世界です。
「病んだ心の世界」ではこれが飛び交い、「あいつはなになに」「誰がなになに」という「存在の善悪」を見る目のバトルの中で、その戦いにおける敗者(^^;)は誰からも笑顔さえ向けられる資格もない、人間以下の存在であるかのように扱われる、という感情論理が展開されます。

まあこれが他人をいたぶる快感を帯びた衝動の中で、その犠牲者探しに熱狂するのが、「学校裏サイト」とかの、現代社会の病んだ子供達の姿になります。
自分自身が内面にその荒廃した衝動と、それが自分に向けられることの恐怖の、絶妙なるハーモニーによって、「次は誰をいじめようか」という群集心理に洗脳されたかのように、興奮と恐怖の見分けがつかなくなった衝動にかられ、血走った目で携帯の画面を食い入る中高生達の姿..。まあ数の上ではあくまで少数だと思いたいものの、これが現代の心の荒廃した社会の一面ではあることになるでしょう。

そんな極端な姿でなくとも、「存在の善悪幻想」は我々の日常心理に、極めて頻繁に入り込む強力さを持つ意識世界です。
ちょっとした気分の害する出来事の中で浮かぶ、「もうあいつのことなんか..」という観念。そして同じような感情を、自分が何かヘマをして人に向けられることを懸念する感覚。

「価値の生み出し」は、そうした「存在の善悪幻想」を打ち破る、特攻弾として時に機能し得ます。「価値の生み出し」においては、もはや評価の視線人間そのもののに向けられるのではなく、その人間が生み出した価値、さらに言えばその人間が生み出したというつながりさえ視界から消えた、「生み出された価値」そのものに向けられるからです。

そうして「生み出された価値」何の先入観もない評価をした後、それを誰が生み出したものであるかを振り返った時、我々はしばしば「存在の善悪幻想」の中で人を決め付けたのとは違う人間像を、時に目の当たりにするのです。それは時に、自らが抱いた「存在の善悪幻想」の誤りを、自らの不実と傲慢を知る痛みと共に我々に知らしめることになります。これはもう具体例を出さなくとも、イメージがある程度浮かぶ話だと思います。
その時、人の心には一つの成長が起きると言えます。


■「存在の善悪幻想」と「善悪思考」

「存在の善悪幻想」に対する世の人々の「善悪道徳観」は、曖昧です。さらに言えば、ほぼ完全に矛盾しているとさえ言える面が多々あります。

「いじめはいけない」と大抵の人は言います。確かに、「いじめ」利己的で理不尽な「存在の善悪攻撃」という、人間性を損なった行動です。ハイブリッドから見ればそれはというより、病んでいます。

一方、「いじめはいけない」と言うその同じ人が、自分から見て「悪」だと思える相手に対しては、決して許してはいけない、その人間に利するもの、笑顔さえ与えてはいけない、という「善悪思考」を考えたりします。それが、自分が「正しくあれる」ための支えのように感じるのです。
これもやはり「存在の善悪」に基づく否定的態度を相手に向けるという、一種の「攻撃」であり得ます。

この2つの間には、もちろんそこで成される「存在の善悪攻撃」の引き金となった出来事の違いと、それが「存在の善悪態度」につながる妥当性理不尽性の印象の違いはあるでしょう。
しかしそこにある「論理」を純粋に抽出した時、それは完全に同一のものなのです。「存在の善悪」に基づいて、罰かひいきが与えられる。あとはそこに付随する感情の色彩が違うだけです。

事実そうであるからこそ、高潔な道徳心の持ち主ほど、「悪いもの」に対して硬直した怒りを抱く自分の姿が、何かの「悪」に似た醜さを帯びているような懸念に悩まされることに、得てしてなります。

かくして、「存在の善悪」の論理について、世の人が取る態度が曖昧になります。というか、まず間違いなく2種類の態度を、同じ人間が持つのが「普通」であるような形になるでしょう。
「それはいけない。だが..」と。これは「怒り」というものへの世の人の態度の話とほぼ符号します。「怒りはよくない。だが..」と。あるいは「怒らなければいけない」と言いながら、怒りのストレスを嫌う、というように。

実のところ、「存在の善悪」という論理や「怒るべき」という論理を、まず「思考」というレベルにおいて完全に一枚岩で脱するのが、「否定価値の放棄」という心の大転換だと、僕は考えています。

あくまでそれが「思考」のレベルです。つまり「否定価値の放棄」とは、「思考」においては根本的に「存在の善悪」「怒るべき」という論理が崩壊消去した状態で、「感情」においては引き続き作用する「存在の善悪」「怒るべき」の歯車とが、心の内面において対決と融合を始めるという、人間性の根底からの変化への扉が開かれるものだということです。

「感情」において「存在の善悪」「怒るべき」根底から消えるのは、「後期」「魂の望みへの歩み」によってです。そこで「感情」においてもそれが消えるメカニズムは、ここで説明してることとがらりと違う話がまた展開される様相になってきます。なんと難しい心理学でしょう。^^;


■治癒成長における「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」

いずれにせよ、まずはそのような文脈として考察できる「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」というテーマは、ハイブリッドの治癒成長論の中では、次のように位置づけられます。

つまり、まず「人の目感性」「魂感性」が、脳のレベルで全く異なる意識機能として、前者から後者への移行が、治癒成長の基本方向だということになります。これはハイブリッド治癒成長論の最大枠とも言えます。この表現をしたのは初めてかも。

その治癒成長枠において、より本人の感情思考内容に踏み込むと次のようになります。

まず「人の目感性」では、「人の目」をスタートにした「愛」と「自尊心」が主題になります。「愛」は「人の目」の中で、「自尊心」は「人の目」に対して

一方、「魂感性」では「命の感性思考」が主題になっていきます。時間の有限性を自覚し、自らの命が今何をなすことを望むのかを自らに問うた時、「価値の重み」の序列が「人の目」をスタートにした時の「価値の重み」とは異なる序列へと、変化を始めます。この先に「唯一無二の人生」が切り開かれる、という流れです。

人の目感性に立つ思考では、「愛」と「自尊心」はかなり別方向のことで、場合により真っ向から衝突します。

「命の感性思考」においては、「愛」と「自尊心」はあまり別のこととして意識されず、その代わりに「命が望むもの」という、「愛」と「自尊心」がむしろ未分離な一体的感情に向うことになります。これは何か、我々の心が誕生した時の、全てが渾然一体となった未分離状態へと再び還っていく、というようなイメージを浮かばせます。
事実その時、「愛」と「自尊心」に、同時に答えが出るのです。それはもう分けて考える必要さえない、「命」であり、「愛」であり、「自尊心」でもあるものになる。


■「感性の根底構造としての信仰」における「存在の善悪」

そのような治癒成長枠の中で、「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」は、前者が「人の目感性」の歯車であり後者が「魂感性」の歯車であり、前者は使わずに後者を使うのが良い、というのがまず浮かびます。

実はそれは大枠においてはその通りなのですが、根本においては少し違います。「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」は、2種類の感性土台の並存を踏まえ、我々がどこに向うかという、感性・感情・思考の全てを総合したさらに上に来る、より高次元の心の使い方をどうするかという話になってくるのです。

感性・感情・思考ともさらに異なる心の領域という構造を考えるのが分かりやすくなってくる。
この「異なる心の領域」を、ハイブリッドでは「信仰」と呼ぶわけです。これは感性・感情・思考のさらに上位にあるというより、むしろそれら全てを超えて深い無意識下で我々を支配する根本方向性と考えるのがいいでしょう。

つまり、「信仰」とは「感性の根底構造」である、というような話になってくる。そのような位置づけで、「感性」のさらに一枚深い根底で働くものの存在をイメ−ジするのがいいでしょう。
でそうした構造において、「存在の善悪幻想」は、「人の目感性」と「魂感性」の両方を起点にして動く歯車の様相を、実は示すものであるということになります。

人の目感性においてそれは、「存在の善悪バトル」の中で、「人間以下」として攻撃する相手を求める病んだ衝動として動きます。

魂感性においてそれは、何かを損なった自分への罰が向けられるという、深いイメージとして動きます。これが「根源的自己否定感情」であり「感情の膿」です。なおこの2つの違いは、前者が意識的意味が体験されるもの、後者がもはや意識的体験というより身体的悪化状態の様相で体験されるものと理解頂ければ。まあ心の障害の重篤度に対応した違いです。
感情の膿は、魂に近いところにあります。

かくして、「存在の善悪幻想」は、人の目感性と魂感性をまたがったものになる。これはより実践的な話でいうと、自己嫌悪感情が大きく「見下し嫌悪」と「原罪感情」という2種類の異質な自己嫌悪感情の混在の様相になるという話とイコールです。


■「信仰」における転換「否定価値の放棄」への助走

こうした文脈において、「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」は、「人の目感性ではなく魂感性を選ぶ」という基本的姿勢をまず促すものである一方、さらに深い「信仰」領域における転換をその先に控えた方向性だということになってきます。

つまり、「人の目感性から魂感性へ」が治癒成長の基本枠だと最初に書きました。ただしそれはどちらかと言えば「結果」の話です。「魂感性土台の体験」が意識努力だけでできたものというより、しかるべき内面状況変化が生み出したものであったように。
結果を意識することも、方向性を促す上ではもちろん大切です。

では本当に「人の目感性から魂感性へ」という治癒成長結果を生み出すメカニズムの正体そのものとは何か。それを真正面に見据えてそれに向うとはどうゆうことか。
そこに踏み込み始めるのが、「存在の善悪幻想vs価値の生み出し」になってくる、ということです。

その先に、「否定価値の放棄」という転換があります。これは2種類の感性土台のどっちを選ぶという選択よりも、もっと深い「選択」です。魂感性にさえ存在する「存在の善悪幻想」に対して何かを成す転換です。
従って「否定価値の放棄」というのは、「感性」における転換ではなく、「思考」における転換ではありますが頭で考えるだけで成すような浅いものではなく、「感情」はハイブリッドにおいてあまり選択するものではなく、結局、「信仰」における転換だということになります。


■「罪と罰」というテーマへ

整理のためのちょっと難解説明がまた長くなりましので、この辺でいったんカキコしておきましょう。
こうして整理した先に出てくるテーマを完結に書いておきます。「信仰」における転換である「否定価値の放棄」とは、結局何をテーマにした転換なのか。それがかなり浮き上がってきます。

それは「罪と罰」です。これをはっきりとテーマとして記すことは、僕に何か涙を流させるような感情を湧き起すのを一瞬感じます。
ご存知の通り、それは「人類が生み出した最高の小説」と言うなら間違いなくその筆頭に上がるであろう、文豪ドストエフスキーの代表小説の、主題でもあるものです。
「罪と罰」。これが人間の心を、何かに向わせたのです。

人は罪を抱え、そこに罰が与えられると思考する。その先にあるのは何か..。
それが再び罪を生み出す..という言葉が浮かびます。
これが人間の「業」なのだと。「否定価値の放棄」はそれに対して一つの答えを、人間が生きる一つの道を、明確に示すものになります。

「存在の善悪幻想」は、人の目感性と魂感性の双方にまがたるものである一方、その違いは、「罪と罰」というテーマにより明瞭になってきます。
人の目感性では、自らが罪を断罪し罰を与える主体者になります。相手が他人であるにせよ自分であるにせよ。これが「否定価値感覚」でもあります。そこで人は自分が神になろうとするわけです。
魂感性では、自らは罪を抱え罰を与えられる存在となります。そして「許し」を模索する存在になるわけです。

このテーマが出た時、この考察も完結にかなり近づいた兆しでもあります。ただしハイブリッドではこれを解くために、まず、ごく実践的な心理学の視点と、それに基づく実践の積み重ね準備段階として考えているわけです。
それが「中期」「価値の生み出し」というものでです。
その具体的な対象領域が仕事におけるビジネス戦略であろうと、家庭における幸福な生活であろうと、「こう考えてみる」程度のポーズに終らない、「人生」の実際の推進力を持つものにするために、です。

まずそうしたごく実践的な視点を整理しておきましょう。


心理学本下巻に向けての考察-180:「未知」への意志と信仰-72 / しまの
No.1435 2008/01/08(Tue) 12:28:03

■「命」から「魂」へ

心の中から「人の目」が消え、「今この感情において自分は生きている」と感じることができる感覚に心が満たされる「魂の感性」の先に、単に今までの「人の目」の中にあったものと別の感覚切り離された形で体験することを超えて、この2種類の感性を並存させる我々の心の全体を通した、生き方の根本的な変化へと向う道が開かれます。

魂感性土台を足場にして現れる、その最初の道が「命の感性思考」です。命に限界があり、「時間」が有限であることを見据えた時、我々の心の中で「価値の重み」の序列が崩壊し再編成へと向うベクトルが、そこに生まれます。

これはつまり、「魂の感性」が「命」とまっさらにつながったものだということです。
ハイブリッドでは「魂」を、「心」における「生命力」の源泉として存在し、意識において通常の「心」からは若干切り離された形で存在する人格領域として定義しています。もちろん神秘的概念としてではなく、れっきとした脳の機能としてです。

そのように「魂」は「命」とまっさらにつながったものであるから、「感情」に命の重みを帯びさせ、その感性に基づいて自らの命の限界つまり時間の有限性を意識する思考が、価値の序例崩壊と再編成を促すという、神秘的で重大な影響をもつようになるわけです。


■「命」から「人の目」へ

一方、「人の目」をスタートとするもう一種類の感性土台の中で、我々は自らの「命」の直接的感覚を喪失します。「命」の感覚が単に切り捨てられ、麻痺するだけのことではありません。実に奇妙な、そしてこれも重大なこととして、「人の目」が「命の重み」を帯び始めるということが起きるわけです。

するとどんな問題が起きてくるのかを言っておきましょう。「人の目」を前にして「こうであるべき自分」という基準が宙に漂い始め、自分を圧迫し始めるわけです。それはその「人の目」が向けられる何かに、積極的な「やる気」や「明るさ」で向って行けている自分のイメージです。
そうなれません。なぜなら、「自己像は自分ではない」からです。自己像に合わせるため、自分に嘘をついた時、人はそうして向う対象を本当に愛することができなくなります。でも、「こうであるべき自分」の基準とは、それを明るく愛せている自分の姿です。

つまり、「人の目」に叶うために、自分が本心において何をしたいのかを無視した形で自分がどうあれるかとイメージし始めた時、必然的に自分は「人の目」に叶うはずもない姿へと変化を始めるのです。ここに、人間の心に巣くう悪魔が働いているような、罠の存在を感じます。
「人の目」は、冷めて、トゲトゲしいものとへ、心の中でその姿を変えていきます。この人は自分が嵌った罠の核心を理解していません。「人にこう見られる自分」という「空想」が、「自分」と化しているのです。それは前に進む先を失った、袋小路にある自分の姿です。どう生きていけばいいのか分からなくなってきます。

かくして、人の心に、「死の念慮」が浮かび始めます。
毎年多くの人が、この心の罠にはまった自分に気づかないまま、自らの命を断っています。


■「人の目の重み」との「直接対決」へ

ハイブリッド実践における「中期」、もしくは比較的問題の軽い人の場合の入り口は、この両者の感性土台が十分に視野に入る段階として始められます。
深刻な「死の念慮」に覆われる状況からは大体免れている段階です。もし何かのはずみで「死の念慮」にまで感情が連鎖するような出来事に出会ったとしても、「死」を現実的に意識する感性が自動的にその人を「人の目」から脱することを導くだけの力を、何とか獲得している段階と言うことができます。

しかしそこまでいかなくても、「人の目」がそれに近い形で、自分の心を圧迫してしまう..

ここに始めることができるのは、「人の目の重み」との「直接対決」ともいえる取り組み実践です。
単に2つの感性土台の違いを実感することを「感情と行動の分離」の基本枠の中で維持するのを超えて、この「人の目の重み」の正体が何であるのかを、心理学のメスを用いて真正面から解いていく取り組みです。これをハイブリッド理論として明確に定義したいと思います。

ここでは、こうした2種類の感性土台の並存状態を理解頂く参考として、深刻な心の障害傾向からの長い取り組みの先に、「価値の生み出し」の見出しにまでちょうど至った相談者の方への返答メールなど載せておきます。ちょうどつい昨日書いたものです。

そこで書いていますが、まずは「価値の生み出し」より多くの積み重ねになるでしょう。まずそれを補助するものとして、「人の目の重み」の分析視点などを取り入れていく。これをこの後説明を始めます。
ただしこの「人の目の重みの分析」もまだ、2種類の感性土台の分離の維持という中のものになります。

それが一定段階まで達した時、話ががらりと変わる段階が訪れます。もはや「分離」枠を越えた、全人格的に自らの魂との対話を行う段階とも言えるでしょう。完全に「人の目」を遮断した心の部屋へと移り、自らの生き方を問う段階です。その先に「否定価値の放棄」という、真の別世界への扉が開かれます。

まずは「価値の生み出し」への習熟が先です。このスタート段階をまず理解します。
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*頂いたメールとしては、「年始にリセット感があった」との報告です。こんな様子
>年末年始、母の実家で祖母たちと過ごしました。そこでまた何もしなくとも「この感情において生きている」という充実感に溢れた数日を過ごしました。人の目はほとんど視界から消え、悔いのないように高齢の祖母にもっと何かしてあげたい、という気持ちで一杯になりました。

今度のメールは読んで目が潤む感がありましたね^^。


■「価値の生み出し」と「真の自尊心」

>自分の生きる方向は確実にこちらにある、というものを感じました。私一人がどうなりたいかではなく、大事な人のために何ができるかという事が、すなわち私のやりたい事だという実感がありました。というが、楽しみ・喜びなどを生み出す事、そのために生きるんだという。

その通り、自分がどうなれるかではなく、自分が生み出したものが、どう自分から離れてさえ意味を持ち続けるか「価値」を見出した時、人はもう自分自身のことではないかのような自分自身への信頼を持つことができるようになります。それが真の自尊心であり、真の自尊心とはそのようにパラドックス的なものなのですね。

それが、「自分がどうあれるか」に見入ることの中に自尊心があるような感覚に取られた時、自尊心の崩壊へと遠くつながる道へと向うことになります。奇妙な仕掛けが見えないまま働いているかのように。

今回Aさんが感じ取ったのが、今までのただニュートラルな開放感という「未知」を超え、はっきりとプラスに転じた「未知」になると思います。
それが、「価値の生み出し」に導かれて現れたわけです。

人生を楽しむために旅を計画する。その現実的な内容を考える。煩雑な作業を伴う、りっぱな「価値の生み出し」です。

それを明瞭に「価値の生み出し」としてつかむとは、そうしたことができる自分がどう高く評価されたり愛されたりするかということとはもう別のこととして、生み出した内容の価値をしっかりと見る目を培っていくことです。
料金割安で安全なツアーはあるか。その先にどんな名勝があるか。

そうした現実的具体的な「内容」に徹する。それにおいて「ただ自分のできることを尽くす」。その結果が人の目にどう評価されるかという問題も当然後で出てきますが、それを今目の前にいる相手というより、同じような相手100人にこれから通用するものを見出そうという思考法で、自分のできるものの質を向上させていく。
これが「価値の生み出し」ですね。


■「錯綜対立する感情の世界」と「価値の生み出し」の分離

「中期」の主眼である「価値の生み出し」は、そうした姿勢を「感情と行動の分離」の中で保つのが、とりあえず実践方向性としては充分なものになってきます。
ただそれを維持するだけで、プラス方向への変化がさらに進みます。

一方内面で、それと異なる方向への感情も、まだかなり支配力を減らしていないものがあると思います。
それが、

>ただ、母の妹などが悪気はなく親切でやってくれている事が、何となく気に障ったりすることがありました。そんな時に、嫌な気持ちを抱いてしまう事に動揺しました。おそらくその叔母の容姿が美しい事による警戒心・嫉妬心・嫌悪感なんだろうと思っています。
>罪悪感とどうにかしないとまずい、という気持ちでしたがそんな感情が湧いてくるのが今の自分なんですよね。それはそれで痛い経験でした。そんな感情が湧いてきたときは、相槌を打つぐらいが精一杯でした。

相槌を打つ内容であれば相槌を打つのが建設的という感じですね。それで充分ok。
それが「価値の生み出し」を「感情と行動の分離」の中で維持することになります。

問題は、まだ残る内面の淀んだ感情達に対して、これからさらに揺らぎない視野と姿勢をどう培っていくかになるでしょう。

まずはっきり心に刻んで頂きたいのは、内面の淀んだ感情達は、その感情を「どうにかしよう」とする中で、幾らでも変形していくことです。
叔母さんの振舞いが気に障るのも、メカニズムは結構明瞭です。「価値の生み出し」への姿勢を持っても、我々はどうしても、それによって自分が人より評価され愛されることへの、自己中心的な衝動を心の底に同時に帯びてしまうからです。そしてその自己中心的な衝動への嫌悪と処罰感情を抱えます。

自分が建設的な行動への努力をする時、それは自覚されません。「アク抜き」のメカニズムですね。一方「建設的な行動」をする他人の中に、それにより評価され愛されようとする自己中心性の色彩を感じ取る。そしてそれに怒りを感じる。
あるいは、自分が行う「建設的な行動」が、「何様のつもり?」とでも言うように他人からの猜疑詮索を向けられている感覚を感じる。それを悪意に感じ怒りが起きる。
そうゆうメカニズムがあります。

それら全てを取り上げることに、方向性はありません。
それらの感情が刃の矛先を他人と自分の間で方向をくるくる換える一方で、「価値の生み出し」はまったく分離した姿を保つことができます。
まずはそれに徹することです。


■「分離」の先

外面向けはそこまでです。これは「後期」まで行ってももう変わりのない、一貫した外面での方向性です。
そしてその実践を積み重ね、プラス方向を増やす。

これだけでもすごい前進であり、まあ「中期」がはっきり軌道に乗ったとでも言えることになります。
一方、内面の淀んだ感情は、やはりまだ席捲力を持つ。

それを分離し続けているだけではなく、真正面に向き合うのが必要、というかできる時が訪れます。

淀んだ感情の世界」と「価値の生み出し」の分離をまず歩みの基本的方向性として確立する。
それを外面の安全弁として維持した上で、「淀んだ感情の世界」の核心へと向き合うのが、やがて通る道になります。
その向き合い方を定義しているのがまさに今で、引き続きの掲示板を参考にということで。
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心理学本下巻に向けての考察-179:「未知」への意志と信仰-71 / しまの
No.1434 2008/01/06(Sun) 22:10:11

■「価値の重み」と「感情としての望み」

「命の重み」を前にした時、我々は「価値の重み」の逆転をしばしば目の当たりにします。
これはつまり、「命の重み」から遠ざかった時、「価値」はどうにでも暴走するということです。実際のところ、命の限界に直面した人ゲームセンターやカジノの賭博に興じているという姿を、僕はあまり目にしたことがありません。自分は「命」など全く問われる状況ではないと感じ、「時間」だけは無尽蔵永遠にあるという感覚の中で、人はもう一枚のコインを手にするためのゲ−ムに熱中し続けます。

しかし、「時間」に限りがあるという現実を目の当たりにした時、人の心の中で、「価値の重み」の優先序列が崩壊と再編成を始めることになります。
かくして、結構な数の人々がその時、今まで「日常」として自動生活機械のように続けていた「仕事」をすっぱりとやめ、自分に残された人生の時間でできることを模索する行いへと向う姿を目にします。

ここでは、「価値の重み」「望み」ほぼ対応することとして現れています。「価値の重み」があるものへと、人が自らの「望み」をシフトさせていくわけです。

同じように、人は自分の人生の時間が永遠に続くという感覚の中で、「人の目」の中で自分がどうあれるか「価値」を感じ、「望み」を抱く..
と話がなるようにも一見見えるのですが、そうはイカの塩辛というのが(←オヤジギャグ化?^^;)、心を病むメカニズムというものです。
つまり、心を病むメカニズムの中では、「人の目」が「望み」と化し、やがてそれが「命の重み」さえも帯びてしまうものになる。それが「病んだ心」の姿になる、ということです。

それを解くのが、「命の感性思考」になります。つまり人の目が「望み」となり、やがてそれが命の重みにまで化けるという流れで回す思考ではなく、最初っから人の目が消えた魂感性土台で「命」を基準に「価値の重み」を考える思考によって、何かを見分ける違いが感性の視界に入ってくる、ということです。


■「価値の重み」と「感情としての望み」の違い

この「何かを見分ける違い」とは、つまり、「命の感性思考で捉える価値の重み」と、「感情としての望み」に、ちょっと違いが出てくる、ということです。

これはとても微妙な差であり、心の病むメカニズムの中で人はまず「望み」を「空想」の中からスタートすることにおいて、まず不可避の形で、「人の目」が「望み」としてやがて「命の重み」さえも帯びてしまうメカニズムに取られることになります。これは心を病むメカニズムであるだけでなく、それがもう人間の不完全性の歯車だとも言えるでしょう。

それが「価値の重み」との違いふるいにかけられる事態が、ある状況において訪れます。「現実」においてその「望み」に向うという、「現実性刺激」です。「現実の重み」とも言えるでしょう。

その時、「人の目」の中で命の重みさえ帯び始めていた自分の「望み」が、何かの心の罠の中にあり、その罠こそが自分の「命の重み」そして「価値の重み」を反故にしてしまおうとしているものだという自覚が、目を覚まされるように生まれることになります。
ここから、「人の目」の中の「望み」という蟻地獄から抜け出す、それこそ命を賭けた挌闘が人の心に始まり得ます。これが人の心を成長させるのです。そして、心を病むメカニズムからの脱出が果たされた時、この人間は自分の心が一段階治癒と成長を遂げた別の人間のものへと成長していることを、知ることになります。

そのように、「感情としての望み」「価値の重み」違いが出てくる。それをあらかじめ見ることはできません。
できるのは、その違いを見るべき時に自分が至った時、それはつまり自分が心を病むメカニズムの蟻地獄にはまっていることを自覚した時といういうことになりますが、その時に、「感情としての望み」と「価値の重み」の違いを見る目を持つ準備となる、「命の感性思考」いかに日常生活の中で実践しているかです。


■「価値」と「望み」の違いの鍵:「自分にできることをし尽くす」

人の目命の重みにさえ化ける。その心の罠を自覚した時に、そこから抜け出る格闘を導く、蜘蛛の糸のように目の前に示されるその「違い」とは何か。
実際にそれを見出す目は、それぞれの人が「命の感性思考」によって培って頂くしかないとして、それが見えた時にはどのような「違い」が見えるのかの、核心は言うことができます。

ここで話そうとしていることは、「望みに向う」という、これまでハイブリッド取り組みにおいて治癒成長への原動力だと定義していたことについて、別の話を持ち出しているのではなく、「望みに向う中で見極められるもの」についてさらに精緻な視点を当てている話です。何がどう見極められるのか。
実のところこれが、ただ漠然と「望みに向う」という理解の仕方では根本変化への扉を見出せない、治癒成長メカニズムの核心になってくるような気がしています。

このあとさらに具体的な描写など書きますが、「命の感性思考」に馴れ、「自分の命が望むものは何か」と問うた時、そこに、「感情としての望み」とはちょっと異なる別の「望み」、これはもう「感情」の中における望みの違いというよりも、「感情」というものそのもの全体と異なる、何かを信じる意志のようなものとして、「望み」が変化するのではなく、並存的「感情を越えた望み」が現れてくるのです。

つまり、「感情としての望み」と「感情を越えた望み」の並存混沌状態が生まれます。ここに、人間が根本から変化する、まるで星がその中から生まれるプラズマ原子雲のような心の世界が出現するわけです。
なんとも壮奇な例えですが、この、感情とそれを超えた何かの混沌状態から根本変化した新たな人間が現れる。それを僕は『悲しみの彼方への旅』で描写したつもりなのですね。どの辺が一番それらしい描写になっているか、下巻原稿には入れませう。

「感情を越えた望み」「価値の重み」は、「自分にできることをし尽くす」ということに鍵があります。それが、「命が望むこと」として現れるのです。

これは余命僅かを宣告された人間が、自分の持つ財産を何につぎ込むかという話としても、多少想像できると思います。まず余命を宣告され、残りの財産を宝くじの購入につぎ込む人はいませんね。もし一等一億円が当たったとして、それを楽しむ自分はもういないのですから。それよりも恵まれない子供たちのための施設に寄付するとかいう話の方が、しっくりくる。

つまり、「今の自分」の望みというよりも、自分がいなくなっても自分がいたことを示せるものを残したい、というのが最も噛み砕いた表現になるでしょう。それが文字通りの外的表面で何かを残すということに限定されない、「自分にできることをし尽くす」ことの「価値」というものが見えてくる。
「命の感性思考」では、「価値の重み」がそうした軸によって序列崩壊し再編成に向うということです。


■「与えられる望み」から「命が問われた根源」へ

一方、基本的原動力として「望みに向う」と言っていることは、まずこうした「違い」が見えないところから、そしてむしろ「感情としての望み」がまず見えるところから、始まります。

それは心を病むメカニズム人間の不完全性において、自分ができることをし尽くす価値ではなく、「愛され与えられる自分」が実現する空想を行動化することを問うこととして始まるでしょう。それでいいんです。
そしてそれが「人の目」の中の幻想としてどうしても動くことの先に、「人の目」が「命の重み」さえ帯びて感覚されてしまう現象が起きてくるわけです。

なぜそんなことが起きてしまうのかと言うと、全ての問題の根源である「感情の膿」というものが、「望み」に近いところにあり、さらにそれは「命」に近いところにあるからです。
それは事実、「命」が問われた世界で起きた出来事に端を発したものでした。「生から受けた拒絶」という、自らの命が問われた挫折の感情が、そのインパクトだけを嫌い避けるメカニズムによって、眠りの中に葬り去られていたのです。
それが今、眠りから目を覚まされるわけです。

だから、命が問われるわけです。命を賭けて、問うべきことが起きているのです。
一方で、そんなことは起きてはいないという顔をし続けようとする、別の不実な因子が人間の心に働きます。

我々はその全てを見極める必要があります。それを見極めた時、プラズマの混沌雲ははじけ、まっさらな新しい世界が生まれます。

ここから先は次のカキコで説明しましょう。我々はそこで何を見分けるべきなのか。見分けることを損なった時、何が起きるのか。
それが、「魂感性土台による思考転換」と、それが無きままの人の目感性思考の罠の、具体的実質の話になります。


心理学本下巻に向けての考察-178:「未知」への意志と信仰-70 / しまの
No.1433 2008/01/06(Sun) 13:17:43

■「魂感性土台」から一歩前進する「命の感性」

先のカキコでは「魂感性土台の体験」「命の感性での思考法」と書きましたが、この「命の感性」というものを改めて説明します。

これは「魂感性土台」とはまたちょっと違うものです。実際、相談事例でも、「魂感性土台の体験」はしていても「命の感性」は見られないという中途段階があります。
その点、「命の感性」は、「魂感性土台」をより具体的思考に発展させる一歩前進したところにあるものと言えます。

「命の感性」とは、定義するならば、「命を基準にものごとを思考する感性」とでも言えます。
つまりこれは日々の具体的な出来事を思考する仕方についてのことであり、もう「夕日に感動」といった特定感覚にとどまらない、広範囲な「思考を支える感性」になってきます。

そうして、思考する対象とは、もはや夕日の美しさのことではなく、日常生活での出来事であり、些細な人間関係で神経を今まですり減らしていた同じ出来事をどう思考するかの話における、「感性」の話になってきます。
そうした日常生活の出来事を、「命」を基準に思考する感性です。

実際ここに至り、「魂感性土台の体験」までは大抵の人がするであろう中で、この「命の感性による思考」をする人間となると、グッと数が減ってくる印象を感じます。
これが実に明瞭な人がいます。その典型は、実際に命の限界を前にした人々です。
それを、別に命の限界などに直面していない基本的人生状況においても、ぜひしましょうというのが、ハイブリッドなわけです。


■「命の感性思考」が問う「価値の重み」

そのように「命を基準にした思考」である「命の感性思考」が実際何を思考するのかの対象を言いますと、それがずばり「価値」になるわけです。「命」を基準に、それは「価値」を問います。「命」を基準に、「価値の重み」を見極める思考です。

事実我々は、「命」が現実に関る場面において、「価値の重み」が今までと完全に逆転するような出来事を、日常生活の中でも時に目の当たりにします。
最も日常的にそれが起きるのが、身近な人が亡くなった時です。ずっと前のことですが、仕事場で席も近く、プロジェクトでリーダー格でバリバリ働いていた同僚女性が、ある時電話を受け、何が起きたのかを回りに伝えるため、涙声で「お父さんが亡くなった..」と語った場面が印象に残ります。彼女の上司はかつて良く一緒に仕事をした、僕より一つ年下の超有能な男でしたが、「片付けなくてもいいからすぐ帰りなさい」と命じ、彼女は気丈な表情に戻り部下達に少し伝達をしてそそくさとオフィスを出ていきました。

つまりこの時、そこにある「仕事」の全てよりもはるかに「価値の重み」のある出来事が出現したのです。逆に追えば、「仕事」の全てが、そこに現れた「命が関る出来事」よりも軽い「価値の重み」を持つものでしかなかったことが、そこで明らかになるということです。

そうして「命」を基準にして「価値の重み」が見極められる場面というのを、我々は日常の中ではほとんど持たない生活を送っているのが現代社会だと言えるでしょう。
それが現れる場は、むしろ「非日常」の場であるかのようです。身近な人が亡くなった時、我々は「非日常」の時間を過ごします。それがまるで別枠のように用意されているかのようです。
あるいは、自然災害人災事故によって大勢の人が亡くなる場を、時に我々は目の当たりにし、そこに「非日常」の、あまりにも「命」が重く漂う場を見ることになります。

しかし「非日常」とは、一体どっちのことだったのか。明らかにこの何億年という生命の歴史の中で、そして人間の脳が進化をしながら生きてきたこの数百万年の歴史の中で、「命」が問われるということへの感覚が薄れた現代社会の「日常」こそが、非日常なのではないかとさえ、僕には思える感が多々あります。


■「命の感性思考」の実践

いずれにせよ、そのように「命」というものが現実に問われる場面の中で、我々は「価値の重み」について、それまでの「日常」とは異なる感じ取り方をする、というメカニズムがあります。
それを積極的に「日常」にまで取り入れようじゃあーりませんかというのが、ハイブリッドの思想なわけです。


それがどう病んだ心からの、そして心を病むメカニズムという、現代社会において何人とも免れ得ないものとハイブリッドが認めている人間の業からの、治癒と成長にどう作用してくるのかのメカニズムは、この後詳しく説明していきます。

まずは、「命を基準にして価値の重みを問う」という「命の感性思考」の取り入れであり、日常におけるその実践をすることです。
これは「感情と行動の分離」の構図で言っている外面内面向けの基本実践にも並ぶ、ハイブリッドの大枠における「実践」項目になってくるわけですね。

「命の感性思考の実践」とは、「命」を基準にして「価値の重み」を考えるという、基本的思考法の実践です。

「価値の重み」を問う思考です。「命の重み」ではありません。
「命の重さ」「どんな命も大切に」という道徳思考は僕はいただけない、と前に書きました。それはあまり意味のない観念のように、僕には思えます。そこで言う「意味のない」とは、我々を変え得ない、ということです。
まず「命」があり、それがものごとの「重み」を感じ取ります。それが、「命」そのものの重さという時、話があまりに抽象的で観念的になります。「命」がその自分の「命」の重みをどう感じるかとは何とも自己撞着的な観念で、どーにでも脚色がありえそうな話だし、「どんな命も大切に」には嘘があると僕は思います。
いずれにせよ、「命の重さ」「どんな命も大切に」と考えて人間が根本変化の治癒成長をするというメカニズムは、僕は知りません。知っていることだけ、説明します。

はっきり変わるのは、「価値の重さ」なのです。
ですから、「命の感性思考」とすると、我々の「価値観」に根本的な変化が起きはじめるわけです。事実、今まで神経をすり減らしていた事々の重みが、根本的に変化してくる。
それが病んだ心からの治癒成長にどう結びつくのかのメカニズムは、単純ではありません。ここでも、「命を考えれば心が良くなる」的な安易な理解だけなきようご注意。根本治癒成長メカニズムの核心はこの後説明していきますので、それを正確に理解いただくことが全ての第一歩になります。


■「命の重さ」を感じる日常思考

そのように、命の感性思考によって変化させていくのは、「価値の重み」です。
「命の重さ」はあれこれと論じるべきテーマではありません。少なくともハイブリッド実践においては。
命の重さ」は問う問題ではなく、そこに既にあるものなのです。それを感じ取ることです。それが実践です。

いつ何が起きるか分からないわけです。いつ、どんな事故災害に遭ったり、どんな病気にかかり、「命」の限界を目の当たりにすることになるのか、分かったものじゃない。
それを、「何も悪いことしていないのに」なんていう道徳ファンタジーの世界の空想にひたるのを、ぜひやめることです。「現実」は道徳の授業ではありません。
実際に命の限界に直面した人々の心の中で、さまざまな「価値の重み」がどのように変化していくのかを、ぜひTVドキュメンタリーなどで積極的に見知って行くのがお勧めです。それが決して、「自分に限りそんなことは」なんていう論理的根拠のない思考をやめることです。


■サバイバル世界観の2つの意義

気づいた方もおられると思いますが、これはハイブリッド推奨の世界観である「サバイバル世界観」にも合致したものです。

サバイバル世界観は、「正しければ幸福に」という道徳的世界観ではなく、自らによる「自衛と建設」のための世界観です。
事故病気にかかることは、本人の日ごろの行いの善悪の問題ではなく(^^;)、しかるべき現実環境への自衛能力の問題です。そして人間が不完全である時、そうした不遇から完全には免れ得ないという限界が出てきます。そこでは必ず「命」が問われることになります。
ですから、サバイバル世界観は、「自衛と建設」という主に外面向け姿勢のためにまずある一方、「価値の重み」を問う「命の感性思考」という、これは主に内面向け姿勢のためのものでもあるという、2つの意味を持ってきます。

事故災害や病気などに準ずるものとして、世にどのような犯罪攻撃があるのかを良く知り、それへの自衛能力を心がけるのも、良い実践です。これも上記「自衛と建設」「命の感性思考」の方向性に合うものです。

ただし、「サバイバル」を「バトル」と考えるのは、ハイブリッドのサバイバル世界観ではありません。「バトル」として世の人々は蹴落とし合い足の引っ張り合いをするものだという「バトル世界観」は、ハイブリッドのサバイバル世界観ではありません。時おりそんな「バトル」を念頭にサバイバル世界観を考えているのを見かけることがありますので、ご注意頂ければ。
それは「病んだ心の世界」です。確かに病んだ心の人が集合するとそのような場が時に現れるかも知れませんが(^^;)、それが「現実」の全てではありません。まず「現実」を客観的に把握できることが、「自衛と建設」の第一歩です。


実際のところ、そうした世界観社会観、そして他人イメージのブレが、「人の目」意識に混入し始めた時、始まります。「バトル世界観」も、まずその内容は「存在の善悪バトル」です。それは「人の目」の中にある世界です。
ここでもう、「命の感性思考」とは別世界の、もう一つの「心を病むメカニズム」の思考世界に切り替わっています。「命の感性思考」により、「存在の善悪バトル世界」はむしろ消える、もしくはその「価値の重み」が劇的に薄れるのです。

そうしたブレを、「命の感性思考」による「価値の重み」の変化がどのように打破克復していくのか、その治癒成長メカニズムのより核心となる、内面外面それぞれでの思考の対比を次に説明します。


心理学本下巻に向けての考察-177:「未知」への意志と信仰-69 / しまの
No.1432 2008/01/05(Sat) 14:29:03

■魂感性土台による思考転換:「人の目」から「命の感性」へ

さて、この年末年始、正月ボケであまり回らない頭ではありましたが(^^;)、「価値の生み出し」への思考転換を説明できるような言葉を探していました。
しかしどうもピンと来るものがなかった。つまり「価値の生み出し」というテーマだけ単独に取り上げようとしても、それはやはり「人の目」の中の思考とどう違ってくるのかは、そこにはあまり出てこないということになります。

で身近な、自分自身の中に浮かぶ思考感情や、親とかとの対話で出てくる日常問題ごとへの思考法などを眺め、人間の思考法を根本的に変えるものが何なのかを漠然と考えたりしていた次第です。
そして僕自身が今、自分の人生の駒を何とか一歩動かしたいと感じる「望み」を前にして心に現れるものなどを見て、はっきりしてきたことです。

人間の「生き方思考」として根本的に違うものが現れる時、そこにあるものとして言えるものは「命の感性」とでも言うべきものであろうと。そしてその「命の感性」を前提とした「覚悟」によって、心には全くの別世界が現れる。
これがかなり明確に言えるように思われます。そしてこれがやはり魂感性土台に密接したものである時、ハイブリッドの「中期」取り組みにおける意識的実践としての思考法は、これを選択として強く意識するのがその具体的内容だと整理することが可能になると思われます。

ここではこの「命の感性に基づく思考法」基本的形態を、
1)生きる方向性
2)内面感情
3)外面思考
4)信仰

という4面で簡潔に説明します。

ここで「3面」がさらに「4面」へと一つ追加されるのは、「3面」までが「心理学」の世界であり、最後の1面はもうそれを超えたものになるからです。で一応「信仰」の領域と言っています。
「3面」として説明する治癒成長の原理は、ハイブリッド道のりの「中期」まで、つまり「否定価値の放棄」をターゲットにした過程を説明するものになります。ここまでが、ハイブリッドを学ぶ誰でもがぜひつかんで欲しいものになる。

その先の「後期」つまり「魂の望みへの歩み」は、もうハイブリッドを「学ぶ」だけでどうなるものでもなく、各人の魂が人生において出会うものに依存してきます。
しかしハイブリッドが本当に主眼とするのはここなんですね。それがもうハイブリッドではどうすることもできないものになる。パラドックスです。でもここに、人間の心の世界がある。

これが「真実」なのだと感じます。『生物と無生物のあいだ』「生命」について述べられた言葉のように、僕のような心理研究家ができるのは、ただそれに打たれることだけです。
それは人工的に操作することができない。ただそのようにあるという重みに打たれるわけです。だから、そこに向うという歩みが、もう揺らぎないものとして見出されるということになるのでしょう。これがもし人工的に操作することができるようなものとしてある時、不完全な人間の行うそれは、極めて方向が不定な混沌に満ちたものになるでしょう。事実それが「心を病んだ」姿でなかったのかという感慨を感じます。


■命の感性による思考法-1:生きる方向性

まそんな雑感はさておき、「命の感性による思考法」具体的説明をしましょう。
まず最初の側面は、「生きる方向性」についての思考法です。

これは、生きる上でのさまざまな思考が、何を基準にスタートするかという、最も基本的な話になります。
それで言いますと、「人の目」を基準にしたものから、「命の感性」を基準にしたものへという違い、そして選択があります。

「人の目基準」では、主に2方向になります。「人の目の中で」という「愛」、そして「人の目に対して」という「自尊心」です。

「命の感性基準」では、「愛」と「自尊心」の境目があまりはっきりしていません。というか、ありません。
あるのは、「命の限りを尽くす」ということです。そしてそれが向うものが、「望み」でもあります。

ここではあくまで「思考法」の話として、意識的選択そして意識的努力ができることについて言っています。
ただしもちろん、この「思考法」を向けるべき材料がどう自分の心に現れるかについては、もう「思考法」ではどうにもなりません。それは「感性土台」として、心に現れる地殻変動のように、もしそれが見えてきたのであれば、「思考法」をここで説明するように「選択」を問うことが可能になってくる、ということです。

これを感性や感情まで含めて、「そう感じればいい」的な思考になると、これはもう間違ななく「感情強制」です。この場合は、ハイブリッド取り組みの最も初歩的な、感情の解放と理解という基本に立ち返るのが正解です。
そうして、「魂感性土台の体験」なりを経て、自分の脳にはっきりと別領域があるという実感を踏まえて、こうした思考法転換を問うという段取りになります。


■「3面の治癒成長原理」が生み出す「命の感性」

ではどうすれば、「命の限りを尽くす」という思考が意味を持つような、「命の感性」というものを感じることができるのか。見出すことができるのか。
それを「3面による治癒成長原理」として説明しています。

特に重要になってくるのは、「自己の内面感情の開放と理解」、そして「現実と真実」に向うことと言えるでしょう。

「自己の内面感情の開放と理解」は、「自己の重心」の選択を基本方向性として、ハイブリッド取り組みの第一歩として始められます。人にどう見られるかではなく、自分自身でいったいどう考え感じているのかを、明確にしていくことです。その思考と感情の論理を自己把握していく実践は、間違いなく、「人にこう見られる」ばかりに向っていた思考の流れを、「自分は本当にはどう考えているのだ?」という、自らの内面へと方向を転換させます。

そうした「自己の重心」へと近づくことが、人を「命の感性」へと近づけます。しかしここに隘路があります。そうして「自分では本当にはどう自分のことを感じているのか」の先には、大抵、直視することを人生において避け続けていた類のものが良く含まれるからです。
ここに「現実と真実」という方向性を本人が選ぶかどうかか関ってきます。

「真実」をどう選ぶかという話になると、「善悪」「神」といった哲学思考的なテーマも出てくるので、その選択は「否定価値の放棄」に際してじっくり考えてもらうのでいいでしょう。


■「現実」に向き合う「報酬」とは..

一方、「現実」というのは、本人がどうそれに向く選択をしようが、それともそこから逃げ続ける姿勢を残そうが、心の底は「現実」というものを何らかの程度において感じ取っているというのが心の構造です。これが完全に「現実」から意識が離れるものは「精神障害」という重篤度の問題となり、もうハイブリッドの範囲を越えたものになります。あくまでそこまで行っていない、人間の心の基本的側面としての「心を病むメカニズム」の範囲のことを取り上げています。

つまり、心の底が「認めたくない現実の自分という感情」を持ち、それを塗り消せるような別の意識を表面に映し出すという、内面不整合が心を病むメカニズムの基本構造です。
その「本当は現実の自分をこう感じている」を塗り消す意識の代表が、「人にこう見られる」なわけです。そこにおいて、自分が自分を本当にはどう感じているのかが、問題外となって行くのです。

こうした構造において、「自己の重心」を選択した自己理解は、この不整合が激しければ激しいほど、本人が望むと望まないに関らずに、不整合の断裂を衝突融合させるような、「現実への接近」をもたらします。
これは深刻な心の障害傾向からの取り組みの場合は、「自己操縦心性の崩壊」という現象になります。直視することを避けていた感情を直視するというような話ではない、巨大な悪感情の表面化になるわけです。しかしこれを過ぎると、例外なく、「魂感性土台の萌芽」が起きます。

深刻さが減少し、一般的な心の問題程度になってくると、本人の意識的な思考法選択がかなり鍵になってきます。「人にこう見られる」から、いかに「では自分では本当にはどう感じているのか」を問う思考へ。
いかにその「現実」に向き合う気があるか。それを決めるのは、「現実」に向き合って何を得られるのかという「報酬」をどう理解するかになるでしょう。それがないと、やはり「現実に向き合うポーズ」という感情強制になります。

ですから、「現実」というものの意味が、問われてくるわけです。これは深刻なケースでは「魂感性土台の体験」へと至り、マイナス状態の中でのいちおうの安定リセット感が現れた「中期」への移行段階、そして一般人(?)向けには2種類の感性土台の違いを理解頂いた入り口段階において、該当する話になってくるでしょう。

そこで分かる「魂感性土台」とは、まだ、夕日を眺めて感動し、人間関係で些細なことに神経をすり減らしているのがバカらしくなるような感覚程度かも知れません。そして次の日になると、再び人間関係で些細なことに神経をすり減らす日々が始まるわけです^^;

まずはそうした違いを鍵として、「命の感性による思考法」のより詳細を理解頂くというのが、ハイブリッド「中期」の実践になります。
その先に、「価値の生み出し」が出てくる。その先に、「否定価値の放棄」を成す「信仰」の領域の思考選択が出てくる。
自ら「現実」へと真に近づく歩みは、その後になります。


■「現実と真実」側面への魂感性土台の役割

ということで、ちょっとここでの説明は僕の頭の中の整理優先で、難解な内容だったかと思いますが、「3面による治癒成長原理」において魂感性土台の果たす役割を言うと、このように言えます。
まず「現実と真実」の側面についてです。

「前期」段階では「現実と真実」はあまり問うことができず、障害の動揺度自体が、本人がそれを選択するか否かに関らずに、それに近づく治癒への方向性を生み出す。
「中期」段階、また一般人向けには、魂感性土台を理解することに立って、「命の感性による思考法」についてまず頭で学ぶ。この先に「価値の生み出し」の実践がある。それを足場に「否定価値の放棄」を成す。これが同時に、「現実と真実」ハイブリッド的に体得したことになります。
「後期」は、そうして体得された方向性への、終ることのない成長の歩みがあるということになります。これが「命の限りを尽くす」という、命の感性での思考法の現実形となる。

まあもっとぶっちゃけた(?)表現をするなら、「感情と行動の分離」があり、「魂感性土台の体験理解」ができたら、次は「命の感性による思考法」だということですね。
ハイブリッド実践の大枠の図がそのようになるということです。それだけ大枠の話が今ようやっと明瞭化しているわけで^^;


ともかく次は「内面」「外面」について、命の感性による思考法具体的な説明を。これがより実質的な内容になります。
心理学本の方では、こうした理論整理はあまりもう表にあまり出さず、話の流れの枠に表現されることとして、話の内容は具体的な実践例など中心に書きますので。


心理学本下巻に向けての考察-176:「未知」への意志と信仰-68 / しまの
No.1431 2008/01/05(Sat) 10:05:05

やはり子供達(甥と姪)とビールとスキーに囲まれた年末年始では、考察原稿や返答メールに頭があまり回らなかった^^;
ちなみに今年の年賀状はこんなです♪
http://tspsycho.k-server.org/img/2008.jpg


■終章-12:魂感性土台での思考法

さて話は、「中期」の実践として、魂感性土台でどんな思考法ができるか、という話になります。
去年暮までの話は、ちょっとサマリーするのも面倒な感のある(アハハ^^;)、あっちに行ったりこっちに来たりの考察の中で、ハイブリッドの取り組み道のり上で着目できる、さまざまな心理要素について書いてきました。最後に書いたのが「人生」ということであり、魂感性土台の体験あたりで、人生というものにちょっとした白紙感へのリセットがあるという話までしたわけです。

「人生の再建」のために、これまでと全く違う思考法をしていく、という話をしたわけです。その具体的視点を次に、というところで終っていた。

これから書きたいのは、「人生」という視点に限定せずに、「魂感性土台での思考法」という全般的なまとめです。それを通し、「価値の生み出し」が見えてくる先に「人生」というものへの答えが出てくるという話に、また戻ります。
つまり、今までの話は、取り組み道のりで心に現れる状況要素の話であり、我々が思考する心の背景の話です。この心の背景を決める大局構造が、2種類の感性土台つまり「人の目感性土台」と「魂感性土台」の違いということになります。

で、そうした心の背景の上で、結局我々はどのような思考を持っていくことができるのかの、最終的なまとめです。それによって何がどのように何故変わるのかの説明もしたい。

これはつまるところ、我々の「生き方思考」を「魂感性土台」の上でどのように変え得るのか、という話です。
一言でいえば、「人の目」をベースにした生き方思考から、「命の感性」をベースにした生き方思考への転換です。

これがどのくらい、どのように別世界のものかを納得感もって説明でき、そしてその先に「否定価値の放棄」が納得感あるつながりの先に説明できれば、この考察シリーズはめでたく完結になります。いちおうその見込み^^;


■治癒成長原理の3面への魂感性の影響

ここでは説明を、ハイブリッド実践の基本側面に対して、魂感性が与え得る変化方向性という視点で整理します。

基本側面とは、「感情と行動の分離」で言う「外面」そして「内面」といった側面です。これは2面ということになります。

実はもう1面があります。外面と内面への別々の姿勢をいわば両脇に携えて、我々がどこに向うかという方向性です。
これを、ここでは「現実と真実」と言っておきたいと思います。

この「現実と真実」という第3の基本側面は、「前期」段階においては「外面」「内面」というようにはあまり明瞭に視点として出せない嫌いがあります。そもそも何が現実で何が真実かが分からなくなるのが、心の問題です。それを考慮した上で、まず見分けのつく事柄から心の整理をしてもらうわけです。
それが、「魂感性土台」によって、問えるようになってくる。問うことに意味があるようになってくる。それが心の治癒成長にどうつながるかに、ハイブリッドの治癒メカニズム論の核心が出てくるということになります。

つまり、心の治癒成長というのは、結局のところ「外面」「内面」「現実と真実」という3面への特定方向取り組みが生み出すものだというのが極めて明確なハイブリッドの治癒論になってきます。

ここではそれを説明した返答メールを紹介し、「3面で成り立つ治癒成長」概説にかえたいと思います。
でそれを踏まえ、魂の感性でその3面について具体的にどのような思考転換があり得るようになるのかという説明へと続けます。

話としては、ハイブリッド取り組み前期での「自己理解」というあたりの話から。

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■とにかく論理的に感情の正体を捉える

>何なんだと探ったところ、「みにくい存在」というものでした。これは正直少々驚きでした。他人から「みにくい存在である」と見られているんじゃないかということ以上に、自分で自分を「みにくい存在である」とたぶん見ているであろうことにショックを受けました。

さっそく動きがあったようですね。感情分析とはそうゆうものです。
まAさんの場合、僕からもあまり予測できるものがない状況だったので、やや意外な感はあるものの、まああってしかるべきものでもあるでしょう。

でその先は、見えてくる感情の論理を明瞭化していくことです。そこから、そこに含まれる感情要素をさらに細分化したり、不合理な感情を自覚したり、解決への具体的対処を考えたりすることにつながっていきます。
複雑な感情をいっしょくたに漠然と感じているだけでは、そうした克復解決ができようもないです。ただ「嫌な感じ」で終ってしまう^^;

「みにくい存在」とは、何がどう醜いということなのか。不潔で油ぎって臭いということか。アハハ。まそうではないと思いますが、そうと決まれば解決法は明瞭ですね。ちゃんと風呂入るとか。ハハ^^;
とにかくそうして「論理的に」把握することで、先が生まれるわけです。


■心の治癒成長解決への3つの方向性

一方、心の治癒成長の場合は、そうして感情の論理が明瞭化しただけでは、解決への道はなかなか見えてこない。なかなか見えてこないというか、それが見えようもなくなるのが、心を病むメカニズムという人間の心の一側面です。
治癒成長への解決は、医学と同じように、しっかりした知識に基づいて実践していくしかないと思います。素の頭でいくら考えても答えが見えようもない。
僕としてはようやく確かなことを言えるようになってきたと感じるわけです。それを改めて説明しましょう。単なる今までのサマリーではなく、最新説明として明確化する話が出てきます。

心の治癒成長解決は、3つの方向性の合成によって生まれる、という形になります。
1)内面においては自己の感情の理解
2)外面においては建設的思考法行動法
3)望みに向う・ありのままの現実と真実に向う


■自己の感情の理解

まず最初の2つについては大体分かるかと思います。「感情と行動の分離」として言っている2つの側面ですね。

Aさんの場合、今まで特に、自分のことを自分で良く分からないという面、やや自分の感情をしっかり見ることを避けていたような面が多々あったかと思います。それで今回も「ショックを受けた」なんてことになる。
しかしそれは今さらショックを受けなくとも、前々からあったわけです。恐らく人生を通して

まずショックがどうこうよりも、そうして自分で感じていることが自分で分からないまま生きることの弊害を、まず理解頂くのがいいいですね。
これは一言でいって、夢の中で生きている状態です。現実は障害を抱えて床に伏せって寝ているのですが、そこで見ている、障害がない自分という夢の中で生きているような感じです。
まず目を覚まして、自分の障害をしっかり見て、医学的姿勢で当たるしかない。

もちろんここで選択が出てくるのも事実です。目を覚まさないまま、夢の中で生きていたい。
これは自由です。ハイブリッドは選択について説明し、あとは任せるスタンス。
とりあえず、目を覚まして医学的姿勢で当たる選択をしたとして、先の説明をします。


■「ありのままの現実と真実に向う」という第3ベクトル

そうして目を覚ますように、自分の中にあった感情を明確化していく。これが一面。
次の「建設的思考法行動法」はここでは説明はいいかと思います。とにかく内面感情とはいったん切り分け、外面においてはできるだけ建設的にする。

問題はこの2面を切り離した形で行うというだけでは、やはり治癒成長解決の原理がはっきりしないことにあります。
事実それだけでは、治癒成長解決は生まない。これが今はっきり定式化できるようになった次第です。

内面と外面を分離して、別々に実践方向性を携えます。
その2面を両手に携え、どこに向うという動きの中で、治癒成長解決が生まれてくる。


そしてその向う方向というのが、今まで「人生での望みに向う」と言ってきたものに該当しますが、今そこに「ありのままの現実と真実」というのをより強調して入れたいと思っています。

つまり、内面外面というのは、その時その時の時点で考える、静止点における視野でしかないわけです。それを持っただけでは、前進を生まない。
どこに向うかの明瞭な方向性が必要になります。
それが今までは「望みに向う」と言っていたものでもありますが、「望み」は得てして見えないことが多く、さらに言えば「見える望み」はあくまで静止点における内面の視野に過ぎない面が多少あります。

そうしたものを越えて、向う方向というものが出てくる。
これを「ありのままの現実と真実に向う」という言葉で追加しておこうと。
この「現実と真実」とは、自分の方を向いて見えるものの話でもあり、社会や世界全体を見ての話でもあります。「信仰」的な領域の話も出てきます。


■一方向における実践は他の2面を伴った時治癒成長につながる

とりあえずここではそこまでの説明として、「ありのままの現実と真実に向う」というのがどうゆうことなのかの分かりやすい説明をするのが、下巻になるということになります。
まずは3つの方向性が必要になるという、治癒成長解決の原理を理解頂ければ。

その結果、取り組み実践としては、一時点で行うのはこの「内面」「外面」「向う先」という3面のうちのどれかになります。
いったん立ち止まって、「内面」「外面」への理解と検討を行う。自分への向き合いです。
次に、「向う先」に向う時は、自分の内面外面に向きあっている余裕はないです。人を前にして、また今まで同様の感情に、まず襲われます。でもそこで、内面外面に取り組んだことが、徐々に働き始めるわけです。

これを、まず頭で内面外面に向きあった内容で、「これで大丈夫」と片がつき、その通り次の現実行動場面がうまく行くなんて都合のいい形には、まずならないです。内面外面において何らかの自己検討があった上で、現実行動場面においては同じように動揺を体験する中で始めて、治癒成長への解決効果がじんわりと働き始めます。

その時は自分でもそれが分からないでしょう。そして同じように、その現実行動出来事を材料に、内面外面に取り組む。
変化が起きているのが自分でも分かるのは、その次の現実行動場面でです。

このように、ある時点で「内面」「外面」「向う先」のどれに向うとしても、他の2面があることで、変化が生まれます。内面取り組みも、外面を建設的にすることと、現実に向うことが伴って初めて、変化を生むものになる。外面での思考法行動法も同じように、内面取り組み実際の行動を伴うことで変化を生みます。


とりあえず、治癒成長への解決原理の説明ということを、この返答メールのメインとしておきます。
次は「みにくい存在」論理性を明確化するあたりが実践ですね。それが見えてきで、ここで説明した治癒成長への解決にどう乗ってくるかを、より具体的に説明できるかと。
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