■ 心理学本下巻に向けての考察-195:「未知」への意志と信仰-87 / しまの |
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No.1452 2008/01/29(Tue) 00:23:00
■べきはず論理-3:「心」の感情層における「べき」「はず」
信仰思考の第2類型である「自分の絶対化信仰」は、「べき」「はず」という論理性の3つ目の心理層によるものです。
これは一言で、「心の感情層」によるものと言えます。心の知性ではなく、魂の感情でもなく、心の感情。 いわゆる「感情」ですね。「感情的」な「べき」「はず」です。論理性のない、感情的な「べき」「はず」。こうあるべきだ!こうなるはずだ!なぜそうでないんだ!と。
もちろんこの感情的な「べき」「はず」は、先に説明した知性思考のものおよび魂の感情のものと、重なる部分があります。 というか、健全形における人間の心の成長は、「べき」を含んだ「魂の望み」を「心」が素直に受け取り、「現実」への窓口としての「心」がその実現形を具体的に描き望むことにおいて、まだ未熟で稚拙な対処論理が「はず」という期待感情に支えられることで、その願望の強さに応じて恐怖を超えて行動化することになります。
そうして「魂」と「心」が手を取って「べき」「はず」という感情で「現実」へとぶつかっていき、その通りに行くかそれともそうはいかずに果てるかという「体験」の中で、この者は身をもって「現実則」を知り、それを合理的知性における「べき」「はず」へと置き換えると同時に、「魂の望み」は一段階成熟したものへと変化します。 成熟した「魂の望み」においては、「べき」の感情は薄れます。なぜなら、望みに向かう体験を得たこと自体が、望みが叶えられるかどうかに関わらず、何らかの満足と望みの成熟変化をもたらすからです。つまり、一歩成熟した「魂の望み」は、もはや望むことそのものにおいて、既に満たされている性質を獲得しています。だから「べき」「はず」という感情がもういらなくなるのです。
その点、「べき」「はず」という感情は、基本的に、望みに向かう成長の未熟と稚拙の現れであり、さらに直接的には、願望と現実の亀裂、そしてフラストレーションの現れであり表現でもあるものです。
取り組み上は、こうした比較的単純な未熟性稚拙性としての「べき」「はず」感情は、まずは「感情と行動の分離」という基本から始め、とにかく外面への思考法行動法における向上に向かうのが良いことです。 つまり、「べき」「はず」のできるだけ多くを、合理的知性における現実則へと収めていくことです。それで解決する範囲については、感情的な「べき」「はず」は、魂と心という深さの違いを超えて、収まっていきます。 これは「前期」段階の取り組みと言えるでしょう。
そうして合理的現実則で解決する「べき」「はず」感情は、もともと日常的で「境界の明瞭化可能」な恐怖に関連する「べき」「はず」論理性ということであり、今論じている「信仰思考」の問題にはあまり踏み込まないものと言えます。
■「存在の善悪」が結びつく「境界不明瞭な恐怖」
一方、「境界の不明瞭な恐怖」に対しては、合理的な現実則はあまり役に立つものではなく、そこに「信仰思考」の領域に踏み込む「べき」「はず」が出てきます。
そこでの境界不明瞭な恐怖の対象とは、たとえば人間の歴史を通しての典型的な話としては、防ぎようのない自然災害や病苦、さらには老いや死への恐怖といった実体のあるものから、「将来への漠然とした不安」といった実体の不明瞭なもの、さらには「幽霊」や「心霊現象」への恐怖といった非科学的なものがあります。 一方、現代社会のメンタルヘルスにおいては、「人の目」や「人間関係の悪化」や各種の「ストレス」への恐怖といったものが、実はこの「境界の不明瞭な恐怖」の主内容となっていると言えるかも知れません。
そして、こうした境界不明瞭恐怖を解釈する理由づけに、「存在の善悪」が結びつくのが、人間の心の問題の基本メカニズムだと考えることができます。 何か良く分からない理由によって、「存在の善悪」が審判され、その結果として、そうした恐怖の対象が「罰」としてもたらされることになるのだ、という論理になるでしょう。
それらの境界不明瞭恐怖の対象にしても、科学的で合理的な理解の努力によって対処可能なものへと変化するものも出てくるでしょう。 しかし、まさにそうした理解努力が必要になるところにおいて、対処可能と変化しない限り、別の論理がどうしてもそこに結びついてくるということになります。別の論理とは、「存在の善悪」です。
かくして、「存在の善悪」は、それによってひいきされたり無視されるといった人間関係における困苦に結びつくのみではなく、病気や自然災害や全くの偶然ごとさえにも結びつくと言えそうです。「何か日ごろの行いが..」という観念ですね。
■「存在の善悪」における「べき」「はず」としての「自分の絶対化信仰」
さて、話をまた少しサマリーしますと、境界不明瞭な恐怖への対処思考として「信仰思考」を位置づけ、まず最初の類型として「偶像化信仰」を出しました。 これは自分の外部に、その恐怖を払いのけてくれる偉大なる存在を描き、それにすがろうとするものです。
次に、「べき」「はず」が「自分の絶対化信仰」だという話を始めたのですが、全ての「べき」「はず」がそうではなく、合理的知性としての「べき」「はず」ではどうしても取りこぼしてしまう恐怖の話であり、それが「存在の善悪」という理由づけと結びついてしまうのが問題になるという話をしました。
つまり、そうした恐怖への対処思考として、「存在の善悪」について自分で「べき」「はず」の絶対的法則を抱くのが、「自分の絶対化信仰」ととりあえず呼ぶ、第2の信仰思考の類型になるということです。
つまり、「存在の善悪」思考が、境界不明瞭な恐怖への対処思考になっているわけです。 これは実は第1類型の「偶像化信仰」においても実は同じです。その偶像を崇拝することにおいて、自分が「存在が善」になるという論理が働いているのです。
第2類型の「自分の絶対化信仰」では、そうした偶像崇拝と同じ重みが、自分の感じる「べき」「はず」に置かれている、といことです。 この同等性をもって、この「べき」「はず」を「信仰思考」だと位置づけているわけです。
■「信仰」とハイブリッド実践
まあこの説明は僕自身としても今いちかみ砕けておらず、分かりにくい話ですが、とにかくは「信仰」という論理抜きの絶対性の重みが、まず外部の偉大な存在に、次に自分の感じる「べき」「はず」に、という焦点の変化があることを、ここでは説明しています。
それに応じて、感情の基本方向性が変わってくるわけです。 第1の類型では、自己卑下と、欲求と善悪の対立というものが引き起こされる。 第2の類型は、とにかく「破壊」が引き起こされる事態になります。
まずその辺の話を次に。そして第3の類型が、同じ絶対性の重みにおいて「未知への信仰」があることを説明します。 そこまで説明して、あくまで「信仰の類型」の話です。 それを踏まえて、「心の治癒と成長」がこの3類型におけるどのような焦点の変遷から成り立つのかの説明をします。
一言でいうと、「信仰における自立」になるわけなのですね。
ちょー難しい考察整理ですが、出版本向け原稿に踏み切れる前の、まずは僕自身の整理という感じの話になります。 読者の方においても肝心かなめになるのは、それを踏まえて、「2種類の感性土台の違い」を足がかりに何が起きるかを説明する話になるという段取りです。それが「否定価値の放棄」への道筋になるということで。 |
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