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2008.03

心理学本の原稿編集の都合により、4/3分まで入れてあります。


「愛」と「命」に導く「人生への向き合い」 / しまの
No.1530 2008/04/03(Thu) 15:01:41

ということで、「下巻のための考察」と銘打ったシリーズは先にて完結ですが、書き漏れた話やちょっとした思いつき話題など、今後とも書いていきます。

まずは最後の方の、「愛とは命そのもの」というような話の流れの中でちょっと書き漏れていた話


■「愛に向う」という「現実性刺激」による治癒体験

まずこれは最後の「愛と命に向う」という局面の、より正確な定義です。

それは、「今まで行わなかった愛への接近行動」によって、それが「現実性刺激」の引き金となり、「現実動揺治癒体験」として一般形を説明したものにおける、「愛への望みの看取り」「自分への嘘の暴露」「感情の膿の放出」という治癒3効果より純粋な形で起きるもの、と定義できます。

一般形の「現実動揺治癒体験」
との違いは、一般形は日常の対人行動や社会行動全般で起きる動揺体験が治癒体験化するというもの。
「愛と命に向う局面」は、自ら今までの日常を破るような「愛への接近行動」をするのがその引き金になる、という違いです。

それに応じて、本人が感じる治癒成長効果も異なってきます。
「現実動揺治癒体験」では、心がより健康なものとなり、現実を生きる強さが増し、ストレスを感じるころが減ってきます。
「愛と命に向う局面」では、「心が健康になる」というのを越えて、自らの人間性の根底から成長へ、そして「魂の成長」へと向うという感じになってきます。


■「普通」という基準を捨てて「愛」へ

一方、「今まで行わなかった愛への接近行動」とは書きましたが、「一般的な現実動揺治癒体験」にも、多少はそれが入っています。特に、「愛本来の感情と行動」が今まで大きく妨げられていたケースにおいては、まずは良い意味でも悪い意味でも、その「普通」の行動ができるようになるのが課題になるでしょうと。その範囲でも、「今まで行わなかった愛への接近行動」というのになってくるわけです。

ですから、一般的現実動揺治癒体験と「愛と命に向う局面」違いは、やはり後者が「普通という曖昧な基準」を捨てて「愛」に向うということに、本人の意識面の違いのかなり重要な点があります。

それは先の説明で言った、「真に望むがゆえに近づくのが恐かった愛」だけではないのが正解です。逆に、「真に望んだ愛」とはまた別の「愛」を、自分の人生における決断として選ぶ、というのもあり得ます。
事実、「愛と命に向う局面」の実例として出す僕の体験談は、「真に望んだ愛」的な初恋女性向け体験の他に、自分の人生設計としてもっと妥協的な(と言っちゃいけない^^;)というか現実的な結婚という生活感のある相手探し行動というのも幾つか出します。

そうゆうのでも、そこにやはり「魂の愛への望み」がある部分、そして「自意識の罪」がある部分が、そうした行動化によって、「愛と命に向う局面」特有の、愛と自意識の根源問題が前面に抽出される治癒成長体験が起きる、ということになります。

ですから、要は何が言いたいのかというと、「愛と命に向う局面」のような「魂の成長」を自分がしたいと考えたところで、僕のケースでの初恋女性のような、何か「特別な愛の対象と体験」が必要だと考えてしまうと、ちょっとそれは本末転倒の真似事になる危険を、まずここで指摘させて頂こうかと思います。

まあ僕の初恋女性向け体験みたいなのは、幸い話として結構ドラマ仕立てしやすい(^^;)というのはより多く読んでもらう上で都合がいいだけの話であって、「愛と命に向う局面」として本人の意識面で重要なのは、そうした結果的な「愛の見栄え」ではなく、まずは、「普通という既製服」を捨てて「愛」に向き合うということになってきます。


■「愛のニセ放棄と真の獲得」

これは実は、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」に似た内面の切り替わり変化が、「愛」においてもある、という話でもあります。
実際のところ、自分がどんな「愛」を抱く人間であるかというのは、「自己アイデンティティ」のかなり大きな領域に影響を及ぼすものでもあります。そうした「自分の人物像」に取り組むことが、「愛本来の感情と行動」から出てくるという話をしましたね。


■「命」が関わった状況で出会う「愛」

それに関連して、一つの視点を言うことができます。これは人それぞれにおいて、そうしたものに向き合う機会が得られるかどうかは、「出会い」として違ってくるものであり、そうした「出会い」がない、ということはつまりはむしろ比較的安定した生活歴の中にあったということでしょうが、一つの心理学知識として知っておくのはいい話になるでしょう。

それは、「命」が関わった状況で出会う「愛」は、そうでないものとやはり深さがあまりにも違ってくるという、心理学的な定理のような話です。

これは心が健康心を病む中にあるかに関わりなく、またそんな機会があるのがいいか悪いかなんてことを考えたところでどうにもならない話として、「愛」というものはそうゆうものだと、そのように「命」とつながりのあるものだという心理学的知識を一つ心に入れるのがいいでしょう。

最近『アンビリバボ−』で見た話に、孤児院で出会った9歳少年と11歳少女の初恋が、45年の月日を経て結婚へと結実した、なんてのがありました。
その初恋が生まれた時、それは間違いなく、それが互いの「命」を支えるものになっていました。一方、孤児院内での恋愛禁止に反した結果、少年の方は他の孤児院へと追われ、脱走を繰り返す中でより厳しい環境へ。少女の方は、「少年は里親に引き取られた」との嘘を聞かされ、それで彼が幸福ならと彼への思いを諦めていく。
そうして互いがすれ違う45年の人生を経て、幾つかの偶然が再会へと導き、結局二人とも他の異性を人生で本当に愛することができなかったのを知る、というストーリーです。
まあ実際、手前味噌ですが僕の初恋も、僕自身の内面が分断された少年時代において、僕の「魂」を救ったものであったような感慨を、しみじみと感じるわけです。

そうした視点を、「愛」を既製服で考えるのを脱することに、役立てて頂ければと思うわけです。


■「愛と命」を見失わせる「普通にできることを競う愛」

僕が「現実的生活感」という目標で相手探しをした中で、相手女性にちょっと僕の初恋話などしたことがあり、結局30年以上に渡って恋心を抱き続けていたということについて、ちょっと皮肉そうな笑顔で言われたことがあります。「それってちょっと危ないんじゃないですか」と。
そうゆうもんじゃない。まあ確かにそうした構図だけを考えるのも可能でしょうが、別のものも見る目も持たないと..。

「災害遭難で出会ったカップルはそうでないものより長続きする」なんて話が、「ナントカの法則」とか呼ばれてもったいぶったウンチクのように語られるのを見た記憶があります。
「命」を支えあった「愛」がそれだけ深いのは、当然のことなのです。それを「恋愛長続きの法則」という皮相な視点で語る人々..という話になるでしょうか。

どーでもいい話ですが、夕食でいつも食べている、レンジでチンするパックご飯を、カロリーコントロールのため半分づつにして食べるようにしたのですが、残り半分の保存方法はどうするのが良いか情報など見ようとネットを検索していたところ、2ちゃんねるパックご飯話題スレに入り、こんな言葉が出ているのを見ました。
「とりあえず、常用してる女は彼女にしたくないな」。まあパックご飯を、ということですね。

僕はその言葉にとても違和感を感じ、メモッておいたのですが、そこに感じたのは、この男性にとって、「彼女にする条件」を掲げて女性に向うことが「愛」になっているのだな、という印象でした。
かたや、一度「命」を支え合った後、人生で出会う他の異性を結局愛することができなかった二人の人物。
そこに、表面では同じ「愛」に見えて、根底ではあまりに違うものがそこにあるという印象を感じた次第です。

「命が命を望む」ことが「愛」となる。それが本来の姿として、そこにあるものは..。
まあそれは、「これが愛」という既製服を、自分がいかに「普通」に着こなせるかを競う、つまり自分がいかに「愛」を普通に自然にできるかと、人に見せるためのものになっているということでしょう。実はその根底にあるのが、「命としての愛」に挫折した、「根源的自己否定感情」だというメカニズムが考えられます。
それが「人工的自己アイデンティティ熱症」として説明したように、「これが自分だ」という「自己アイデンティティ感覚」だけはまるで真のような熱を帯びる。本人はそれを「愛」と感じる、というメカニズムが起きてくるのでしょう。

だからこのハイブリッドの取り組みにおいては、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」と同じものが、「愛のニセ放棄と真の獲得」としてあり得るようになる、という話になります。


■「人生」と「命」に向き合うことが自ずと「真の愛」を導く

いずれにせよ、より「真の愛」に向う歩みである、「愛と命に向う」という局面進むための意識姿勢について、明瞭な答えを言うことができます。上記でまず言ったのは、ともかく「特別な愛の対象と体験」が必要だと考えるのは誤りだというと。

では何が答えかは明白です。「愛」について考えるよりも、まず「人生」「命」に、しっかりと向き合うことです。そして、何か「自分を変えてくれる」ような「特別な愛」を探すのではなく、それぞれが今目の前に持つ「愛」に、その姿勢によって向うことです。

それが自ずと、全てを導きます。


心理学本下巻に向けての考察-267(End) / しまの
No.1529 2008/04/01(Tue) 17:56:57

これでこの考察原稿ようやっと終了(!)です。
お知らせというほどではありませんが、この後出発し、今夜実家に泊まって明日スキーしてまた千葉に戻る予定。
その後は、突貫工事で心理学本原稿へ。初稿の段階でまた載せていきますのでこうご期待です^^。

ということで、本の締めとして今のところ使おうかとメモった文章はこんな感じです。
では心理学本の方へ、レッツらご〜!


「ハイブリッドの世界」を生きる

人間の心の世界を探求する私の歩みが、こうして一段落しました。

PCの音楽プレーヤーのボタンをマウスでクリックすると、少し哀愁を帯びた情感あるメロディを、テンポの良いビートに乗せていつまでも繰り返す、私の大好きなトランス・ミュージックのサウンドが流れ始めます。
私の中で、何かが生きることの喜びを奏で始めます。明るい日差しを浴びた部屋と、ベランダの窓越しに見える何気ない光景が、輝き始めるのを感じます。

2つの世界があります。
この「現実世界」と、それとは決して交わることのない、「魂の世界」。

それに感じ入るごとに、私は不思議と、この「現実世界」が輝きを増すと同時に、自分が何か大きなものによって生かされ、何も恐れる必要はないことを感じるのです。

「現実世界」と「魂の世界」。最後まで交わることのないこの2つの世界を、いつまでも生き続ける。
それが、「ハイブリッドの世界」なのです。


心理学本下巻に向けての考察-266:「未知」への意志と信仰-158 / しまの
No.1528 2008/04/01(Tue) 17:44:51

とりあえずこれでこの考察シリーズ終わり〜\(^^)/
あともう一個、本の締めに使う文章としてメモったのを次で。


■人間の心の真実

さて、これが全ての結語になります。

ハイブリッドでは、心を成長に導き、心を満たすものとして、「望み」というものを取り上げ、それに向う心の治癒と成長の過程を詳しく論じてきました。
そこで見出されたこととは、手短にいうとこうゆうことです。「望み」の感情として、最も我々の心を大きく成長に導き、心を「生きる喜び」に満たすものとは、「この感情において生きる」という感情の深さと、自他未分離で漠然とした対象イメージとを特徴とする、「魂の感情」であると。そして「魂の感情」とは、全てが「愛」についての感情であり、それが最も大きく心を満たす時、「愛」が「命」そのもののように体験される、ということです。

これが、「魂と心の分離」などという神秘的なメカニズムの上にあり、「魂」というのは通常我々が「心」として感じ、その上で感情を感じたり思考をするものとはどうやら別の、独自の人格を持つなにかのように振舞うという仕組みの上にある。

これを考えた時、次のような結論が見えてくるわけです。
つまり、心を成長に導き心を満たすものとしての「望み」とは、それが本当に帰する発信源は、「心」ではなく「魂」である。さらに、「魂の望み」である「愛」が最も大きく感じ取られる時、それは「命」そのものとして感じ取られる。ならば、真の「望み」とは、「魂」を通り道として、さらにその先の「命」というものそのものに属しているのではないか。
そんな考えを抱かせるに至った次第です。

これが「」と「」にさらに「」を別の実体として加えた、「魂と心の分離」の三元論になります。

つまりそこでは、「魂」は、「命」の「望み」を伝える、いわば「伝令体」として機能している、ということになります。
「命」というのはそれ自体が一応科学的実体のあるものであり、「心」も一応そうだと言えます。脳の機能として直接分かるものです。
「魂」の位置づけがやはり難解になってきます。それは「命」によって運ばれるもので、「命」と「心」の間の伝令をつかさどるものである。ちょースピリチュアルなイメージですね。

ハイブリッドが見る「人間の心の真実」とは、「真の望みを抱くのは命」であるということです。そして「命の望み」とは「命」であり、「命」が「命」を望むのが、人間の心において意識として体験されるものが「愛」だということになるのでしょう。


■「感性の成熟」のメカニズム

この「魂と心の分離」の三元論から導き出される最終的メカニズムが、「感性の成熟のメカニズム」とも呼べるものになります。
心の成長そして心の成熟とは、このメカニズムによると、最終的に言えることになります。

それは、「心」が、「命からの望みの伝令」を「魂」から受け取るというのが、このメカニズム機能の一回の完結として働き、「魂」はその都度この役目を果し消えると同時に、「心」には「感性」に不可逆的変化、つまりあと戻りのない変化が起きる、というメカニズムです。
「魂の感性」は、「心」がこの「魂」の存在を受け入れた時、生まれる。
「命の感性」は、「命の望み」の本体までが、「心」によって受け取られた時、生まれる。
そう言えそうです。


■人間の存在と「人間の心の真実」

この結論は、「望みに向う」ことを最大の基本原動力としてその過程を追ってきた先で、やはり多少どんでん返し的な結論へと至るものでもありました。
「望みに向う」ことに成長がある。しかしその先に見出される、パラドックス的な結論があります。

人間とは、自ら望むことはできない存在だということです。

しかしこれが実は、答えとして全てが符号する話になってくるわけです。
人間は自ら望むことはできない存在であるとは、「自分」とは異なる別のものが「望む」のであり、それによって生かされる存在だということです。

これで全てが符号してきます。人間の歴史を通して示されてきた、さまざまな人間の姿が。

我欲を追うのではなく、「自分」というものを越えた何か大きなものによって生かされているという姿に、人々はしばしば最も心の平安と、心の充実同時に果している姿を感じ取ります。事実、人間が本来自ら望む存在ではない時、それが利にかなっているわけです。
事実、自分が何か「自分」というものを越えた大きなものに生かされる時、「自分」は一種の「仮りのもの」になります。もう自分の望みを叶えなければと躍起になる必要はありません。「自分」が望んでいるのではないのですから。でもそれで満たされている。
事実そうであれば、この者はもう、恐れるものを持たないことになります。

そのようなものとして、「自分」とは別のものが望むという、その主体とは、「命」であるのが本来の姿です。

人間の心の業は、この真実を見失い、「自分が望むのだ」と錯覚することから始まるようです。
そう考え、一時的に心に湧き出る「欲求」「衝動」を見て、それが自分の望むものなのだと考え、それが叶えられ満たされなければならないと考える。さらに自分の欲求がどう満たされるかが、「自尊心」化さえする。
その先にあるのは当然、フラストレーションと嫉妬、そして「生きる」ことへの不明の世界です。
しばしば「人間は自らの欲望をコントロールすることができず..」という言葉で語られるように、人間がこの地球上で道をそれた行動をしてきた根源も、そこにあるのでしょう。誰かが「これが我々の望むことだ」と言うと、そんな気がしてきてしまうんですね。そうして、時に人類は大量虐殺を犯してきた歴史があります。


■「人間の心の真実」から学ぶ

我々はこの「人間の心の真実」から、何を学ぶべきなのか。

人間とは本来、自ら望むことのできる存在ではない。そう聞いて、欲を捨て、望みを捨てるのがいいと考えると、「心」というのは、「人の目」を通して望み、やがて「傲慢で利己的な善」を通して望むという罠に、極めて簡単にはまる性質があるようです。そしてまさに、人間の心の真実を見失った道へと、それていくのです。
望みに向き合い、それに向うことに、「望むのは自分ではない」という真実が見えてきます。パラドックスです。

そしてこの人間の心の真実から、「あるべき姿」からの「怒り」という、ハイブリッドがその有害性を指摘することを話の始まりとした課題に対して、最後の説明をすることができます。

「命」の望むものが「愛」である時、「愛」とは本来、「命」があることにおいて無条件なものとなります。これが本来の姿です。
一方、人が「あるべき」姿を掲げ、それに満たないものを怒る時、それは「愛される資格がないという宣告」を、その問題対処のために使っているということです。
それは結局、「命」への否定なんですね。

ですから、人がその外見においては実に真摯で高潔な意識の中で、「あるべき」ものを考え、それをそこなったものを怒る時、それが「命の否定」などとは、誰の目にもつゆにもみえません。
しかし、その人自身が自ら掲げたその「あるべき」ものになれなかった時の人の様子について、世の人はその原因がまるでわからないかのように、見ることになります。
それは「死の衝動」にとられた姿です。世の人はそれを「うつ病」と呼んだりします。

原因は明白です。「命」があることにおいて「愛」があることに自ら背を向けた時、それは自らが「命を否定する者」となる階段を、上り始めた時だったのです。
ぜひこの視点を、「否定価値の放棄」までをひとまずの道標とする、ハイブリッドの実践に役立てて頂ければと思います。

もちろんそれは、「これがいけない」という否定論法もしくは減算法思考の繰り返しではありません。
実践するのは、「自己の重心」から始まる、ごくシンプルなものだけです。


心理学本下巻に向けての考察-265:「未知」への意志と信仰-157 / しまの
No.1527 2008/03/31(Mon) 15:54:06

■「自分の感情」ではない「魂の望み」

さて、お伝えすべきことの残りももう僅かです。
「魂」「心」とは独自の鼓動を打つようになる「パラレル・スパイラル前進」について、最後に詳しく展開する運びとなりましたが、この話を僕は「望みがどう見えてくるのか」という話の流れで考察することになりました。

まずはごく身近な「生活の豊かさ」という、「心の望み」もしくは「中立的な感性での望み」に向うのがいいでしょう。その中で「価値の生み出し」が分かってきた先に、「否定価値の放棄」を問うことのできる時が訪れるでしょうと。
そこから、人それぞれにおいて異なる形で、全く異なる段階が訪れますと。

それが「魂感情の看取り」「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」そして「愛に向う」というパラレル・スパイラル前進へと向った時、「望みの見え方」について、この「魂の独自の挙動」というメカニズムに基づく、実に基本的な特徴が現れてくるのを、言うことができます。

それは、この「現実世界の日常」の中で自分が通常抱く「感情」とはちょっと異質な、それはもうまるで「自分を超えたもの」が「自分」の中で何かを望んでいるという、「自分」という感覚が薄れた、「望み」の感情が現れるようになってくる、ということです。
この「自分という感覚の薄れ」は、実に「魂」の成り立ちと符号する話です。それは自他未分離なのですから。

もう一つ、「望みの見え方」についてお伝えしなければならない話があります。これは読者の方にはちょっと意外な話かも知れません。
パラレル・スパイラル前進の中で姿を現す「魂の望みの感情」は、瞬間的です。そしてこうした節々で体験した「魂の望みの感情」によって以後心が満たされるという形には、少なくとも僕の体験では、なりませんまたそれがハイブリッドの「魂と心の分離」メカニズムから言っても、そうなるようです。
なぜなら、「魂と心の分離」メカニズムにおいて、「自分」とはやはり「心」の方だからです。「魂」は「自分」ではないのです。


■「感情の変化」を越えた「感性の変化」

パラレル・スパイラル前進の節々の体験の中で、「魂の望みの感情」は、一瞬「心」の中に姿を現し、そして消えて行きます。「魂と心の分離」の中で人間の心が抱えた業からの回復としてこれがある限り、「心」の中に姿を現した「魂の望みの感情」は、「愛へ向う」局面で説明したように、まず看取られる形でその命の鼓動を終えるように感じられます。

では何が変わるのか。何がどう心を満たすようになるのか。
「感性」に変化が起きます。
「感性」とは、基本的には「感情」が湧き出る土台そのものの意識傾向というような定義ができるでしょう。
ですから、「感性の変化」は、湧き出る感情という水そのものがどう変わったかという範囲を越えて、意識のあらゆる側面全体に及ぶ、意識感覚の変化を訪れさせるわけです。

事実、この「感性の変化」の影響範囲の大きさは、ハイブリッド取り組みの「中期」段階開始の目安である「魂感性土台の体験」として、それがもう全く異なる脳の構造とも言えるような違いであることがお分かりになるのではと思います。

そしてこの「感性の変化」は、「心」で起きることです。
そうした「感性」のレベルにおいて、心が満たされたものに変化していく、ということです。

改めて振り返れば、「人の目感性」「魂感性」の違いが、この違いを既に示していることが言えます。
「魂感性」がこの先どう成熟するかはさておき、「人の目感性」というのは、「感性」において、やはり「心が満たされていない意識土台」と言える代物ですね。


■「命が望むもの」へ

「魂の感性」というのと並んで、「命の感性」という言葉を、最近言うようになりました。「心」「魂」という二元論にもう一つ「命」を加えた、ハイブリッドの「魂と心の分離」三元論的な最終版になります。

「魂の感性」と「命の感性」は、またちょっと違います。
「命の感性」になると、「命」の感覚が、直接つながってきます。だから「心」において、「命」を基準にした思考ができるようになってくる。もちろん単なる思考法を越えた話です。

そうした違いが出てくるという理論的考察へとごく最近至ったとして、僕自身にそれを芽生えさせた節目体験は、やはり『悲しみの彼方への旅』の出版を果した2006年春前後のことでした。この本の出版が、やはり僕に、もう自分の全てを隠すことなく世界に示すことができるという、堅固な自己肯定感を与えてくれたと思います。それが、恐れの中で置き去りにしていた、「魂」の根源的な望みの感情を解き放つ支えになったのだと感じます。

この辺の話はすでに出していたもので、それを心理学本下巻ではこの考察の後ろの方ほど使う感じで、配置し直すことになります。今だ残されていた初恋女性への思慕の中で生きていた、魂の望みの感情を感じるような体験です。

いずれにせよその中で僕が体験したのは、「愛が、命そのものなのだ」という感覚でした。
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彼女からの返信が来ない..それで心を埋めていたものの一部をぽっかりと失うような感覚、と共に感じる反応ということか。それは自分にとっての「命」が失われる感覚とも言えるのだろう。「愛は命そのものなのだ」 そんなことを考えたりした。
 ・・(略)・・
その後僕の中に一瞬現れたのは、何かあまりにも大きな輝きを見るような思いの対象としての、彼女のイメージだった。それは僕が人生をかけて求めた夢..もしくは闇の中で取り戻した命..そんな感動にも似たイメージだった。
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(2006/08/29 魂の成長の成り立ち-40:魂が求めるものへ-1)

下巻本原稿では、もう少し状況が分かるよう書いておきます。ともかく僕はこの時、本の出版の話をすることもかねて初恋女性とまた会うことにしていました。それを前にして、また心に流れるものを見つめる時を過ごしたのです。
魂が来歴の中で追い求めたものと、別々の人間として存在する、「現実世界」のありのままの姿..。
そんなものを見つめながらシーズンも終わりに近づくOB参加合宿で八方に向う車の中、僕の中に現れたのは、恋こがれる相手と結ばれないことで自らの命を絶とうとする少女のような、自分とも他の誰ともつかないイメージでした。「生きる喜び」と書いた自分が、こんなイメ−ジを抱くとは..と感じながら。

そして夜遅く宿に着き寝床についた僕の中に、幻想的な嫌悪の感情が、もうそれは実際の苦しみとは言うほどもないごく薄いものとして、それでも人生で体験してきたそうしたものと全く同じ色彩で、流れるのを感じます。それが本来「苦しい」ものと感じるには十分なものであることを感じながら。
そして翌日、八方で滑る頃、僕の中で全ての感情が消えています。自分がもう初恋女性への恋心を卒業すべき時に来ているという思いを抱きながら..。


■「命の感性」の獲得

解説の締めは次に回して、体験談部分だけ再度出しておきましょう。最近日記の読み返しをした中で、僕の中で「命の感性」が獲得された節目はこれだと思える出来事が、それからまた1年後くらいに起きました。今からも1年前くらいですね。
まあ先方も竹を割ったような健康な心の人物ということもあり、初恋女性とまたご飯でも食べに行こうかという連絡を交わしていた時の話です。

まだちょっとは思いが残る(^^;)という心の中で、実際の相手との対面を前にして、何か怯えているものが自分の中にあるのを感じたわけです。それは「こうあれている自分」というものが何か壊れてしまうことを、「魂」が恐れているようなことのように感じられました。
そして再びそれに向き合ったわけです。

これは同時に、僕がこの人生で体験してきた「恐怖」とは、結局一体何だったのかという、とても大きな振り返りになったように感じます。
それはハイブリッドの理論考察に直結する話でもあります。「恐怖の克服」について、「現実世界」においては、その正体を知り、科学対処という答えがある。僕はそれでこの「現実世界」での「恐怖」はもうあまり持たないことに、かなり自信を持っていました。
でもこの「魂が感じる恐怖」は、それによっては克服できない。

その答えを探す思考が僕の中で展開されたわけです。そして、答えが見つかります。
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 我々にとって「恐怖」とは、結局何なのか。それは「自己像」をめぐるもののようだった。そしてその根底には、魂が抱く、愛が失われることへの恐れがあるように思えた。
 「心」が抱く怖れは、科学によって克服する。だが
「魂の怖れ」は、科学では克服できない
 それは何によって克服できるのか、と考えた。すぐには答えは見つからなかった。
事実僕はその答えが分からないまま、魂が抱く恐怖の中に晒され、ただ耐えるだけの体験を持っていた。
 それは
救いのないことのように思えた。だが、何かが救えるはずであることも感じた。だから今僕がいる、と。
 「神」に救いを求める、というのも浮かんだ。だがそれは僕が使う観念ではない。

 あとは..
「命」..か、と思えた。「命」が守られれば、「愛」が守られる。「現実」がどのような形になったとしてもだ。
 そこにおいて「怯える必要はない」と魂をなだめる役割が「心」にはあるように思えた。では「命」が消えた時どうなるのか。
「命」を看取った時、魂に魂が宿る。そこにおいて「愛」は永遠となる。
 そう分かった時、
僕は泣いた。そこには、まだ僕の中で怯えていた魂の安堵があったのかも知れない・・。
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(2007/05/15 魂の治癒成長への実践-67)

僕としては、これを境に、「恐れるもののない心」というものが少し見えてきたような気がしている次第です。


どうゆうメカニズムになっているのかというと、「心」に生命力を与えるものとして「魂」があり、「魂」の感情は基本的に全て「愛」の感情であるということの先に、その最も根源的なところにおいては、「愛」が「命」そのものとイコールになるという次元があるということになります。
それがまあ、「命」というものがそもそもその存在において「愛」のためにあるという、どこかで聞いたチンプな歌謡曲の台詞(^^;)のような話も浮ばせるわけです。

ただしそれが「魂と心の分離」という「心の構造論」と組み合わせると、一つの大きな結論が見えてくるわけです。これも多少大どんでん返し的な話です
「望み」を抱く本体は、実は「命」だということです。そしてそれは「魂と心の分離」において、「自分」ではない。

そこに、人間の歴史を通して言葉を変えながら語られてきた何かの真実と、完全に符合する結論が、ハイブリッドからも出されることになります。それがハイブリッドの考える「人間の心の真実」です。


心理学本下巻に向けての考察-264:「未知」への意志と信仰-156 / しまの
No.1526 2008/03/31(Mon) 12:03:04

■「自己操縦心性の崩壊」との共通点と相違点

こうして説明してきた、「愛に向う」という行動化「現実性刺激」の引き金にして起きる「毒の放出」までの過程は、「自己操縦心性の崩壊」として今まで説明してきた治癒現象の中で起きていることを、そのまま説明するものでもあります。いずれにおいても、「あるべき自分」という空想によって保たれていた、自に嘘をついた幻想的自尊心が崩壊します。

ただしそこには共通点相違点があります。

共通点は、今言った通り、「現実性刺激を引き金にした空想的自尊心の崩壊」です。
「自己操縦心性の崩壊」では、主に高い理想意識を抱いているということでの自尊心が、現実に何も得ることのない自己の現実へと晒され崩壊するという面が特徴的です。
今回の流れでは、自らは望まない慎ましさとして残り保たれていた空想的自尊心が、「利己的自意識という罪」に直面し、もはやほとんど価値のない空想的自尊心であったものとして、崩壊します。

そして両者の共通点として、「現実を生きる生」という意識土台増大します。

一方、相違する点がかなり出てきます。

まず「崩壊するもの」として今述べた「空想的自尊心」の重みに、最初の時点でかなり違いが出てきます。
「自己操縦心性の崩壊」においては、この「空想的自尊心」が、この人間を支えるもののほぼ全てです。もちろん自己の能力資質などについての現実的な自尊心もそれぞれの状況において存在はするでしょうが、実際それはこの心性崩壊に際して何の支えにもなれない、この人の人生にとっては副次的なものでしかありません。例えば僕の場合学歴的な形での「頭の良さ」はほとんど心の係争ポイントにはならなかった。

今回の流れでは、「空想的自尊心」はもはや最初から重みをあまり持たず、さらに、自らそれを捨て去る一歩として、今回の流れは成されるわけです。


■自己操縦心性の「現実覚醒崩壊」と「自浄崩壊」

次に相違点として、「魂が危機に置かれる」と書いたような状況における違いがあります。

どちらも、「おぞましい自分」という毒のような感情が流れることにおいて、この危機的な心理状態が起きることは一緒です。
しかし違うのは、自己操縦心性の崩壊においては、心性崩壊後の無垢な人格部分を責め、否定攻撃するのは、同じこの人間の残った心性部分なのです。つまり、心性崩壊においてはいかなる意味においても、これはあってはならない事態が起きたものとしてしか、本人は体験することができません。
「おぞましい自分」という毒のような自己否定感情も、ここではまだ「見下し嫌悪」と「原罪」が混ざったものであり、「原罪」が単独に晒された時に起きる「浄化」は、ここではあまり起きません。「人間性の根底からの成長変化は否定価値の放棄から始まる」のはそのためです。「おぞましい自分」とは「今の自分」のこととして体験されるわけです。

一方、今回の流れはその点かなり異なります。「原罪感情」が単独に晒され、「魂の浄化」がまさに起きている中で、「今までの自分がおぞましい存在であった」という毒のような幻想的嫌悪感情が流れるという形になります。
しかもそれは「現実世界」でのことではありません。「魂の世界」で起きていたことなのです。「心」はこのことをわきまえており、「魂」はこの「原罪」を越えて自分が進むべき方向を、もう持っています。「心」と「魂」がこのように手を携えて共に進む歩みが、「否定価値の放棄」によって歩み出されていたからです。

ですから、この「魂が置かれる危機」という側面については、心性崩壊を表現する言葉として「魂が神との単独の対話に置かれる」といったイメージを言ってきましたが、これはやはり心性崩壊の際の話であり、この「この愛に向う」局面では、既に神との対話は成された後の、自立した歩みとして、「魂」が自らこれから進む先を選択するというようなイメージが当てはまるものになってきます。

だから心性崩壊に際しては、「神」との単独の対話に置かれた「魂」に対して、明確な声を示す必要が出てくるわけです。それを神が指図したものとして。
「生き続けなさい」と。

これは「現実世界」の側では、心性崩壊に際しては原則的に第三者の介入がやはりかなり必要になってくるということでもあります。本人ではもうそれを単独で支えることができないのです。
ですから相談事例においても、心性崩壊の際にはすかさず、それが治癒現象であることと、「ただ実存を守れ」という指示をメールで伝えるということを僕としてはしているわけですし、完全に自己取り組みの形で深刻な心の障害傾向から始まる道のりにおいても、この心理学の存在そのものが、この支えの役割を果たしてくれることを期待する次第です。
ハイブリッドがまだなかった、僕のかつての事例でも、やはり同じ状況が多々あった訳で、「2度の偶然」によってこの第三者の介入的状況が起き、なんとか「生」につなぎとめられていたという、ヤバイ状況(^^;)があったわけです。

このような、心理状況の構造的な違いというのが、「否定価値の放棄」以前のいわゆる「自己操縦心性の崩壊」と、「愛に向う」局面での心性崩壊側面の、治癒成長過程としての役割意義の違いという基本的な相違を生むものになります。
一言でいえば、「自己操縦心性の崩壊」の方は、「現実覚醒レベルの改善向上」という、もっぱら「病理状態」の中における改善変化という話になります。
「愛に向う」局面として起きるこの流れは、同じ心性崩壊のメカニズムを含みながら、この全体が「魂自らによる自浄崩壊」という位置づけになってくる。かくしてこれが「人間性の根底からの成長変化」になるわけです。


■「罰」としてではなく..

ただしそれは、「病状改善」(^^;)という側面の少ない、純粋な「魂自らによる自浄崩壊」であれば一般に「魂の危機」とまではならない、ということではありません。

それだけ、「魂」がその本性的本来的な「愛への願い」の感情を大きく回復させた時の「浄化」の強さを理解すると同時に、「浄化された魂」がそれ以前の「荒廃していた自己」への「罪」の意識が深くなることを理解する必要があります。
そして事実この「浄化の強さ」が、ここで「魂」に一つの危機的事態を訪れさせるのです。

この先はケースバイケースです。事実この人間がその荒廃した心の中で成した「罪」があまりに重い時、「魂」はもうその「罪」の重さに、もう前に進むことを選ばないことを、自ら決断する可能性があるのです。
それを示した事例が、マリー・ヒリーの事例でした。生まれて始めて接した純粋な愛に、彼女の魂の「愛への願い」が純粋に回復した時、真に清らかな心を取り戻す中で、「現実世界」においてはそれを得ることを許された、自らが願った「愛」を手にすることなく、自ら死に向わざるを得なくなったのです。

それはもはや「罰」ではありません。「魂」が自らの歩みとして、選ぶものなのです。マリー・ヒリーの場合は、「罰」としてではなく自らが選んだ「補い」として..。

事実彼女の場合は、「現実世界」で犯した罪は、複数殺人にまで及ぶあまりに重いものでした。ハイブリッドに取り組まれる方におかれては、まずそれと比較するに及ぶものはまずないでしょう。


■解かれていく魂の望みと原罪-4:全ての消滅

それでも、ここで通る道は、全く同じものなのです。その重みを、我々は理解する必要があります。それはもう現実がどう「こうなれれば」という空想に近づくのかという話などではなく、そうした空想の中で抱えた現実との亀裂の彼方にある、意次元の心の世界への旅立ちとなるのです。

「魂」はまずもって、「こうなれれば」という空想の中にこめられた「愛への望み」も、もはや捨て去るでしょう。「罰」としてではなく。それが「魂」の自ら進む道になるのです。

引き続きこの局面の流れの説明に戻りましょう。
自分への幻想的な嫌悪イメージが毒のように流れる、最も苦しい時間がしばらく起き、それは一定時間を過ぎた時、明瞭に消失します。この辺が最も、脳内の物質的変化を感じさせる終わり方になります。それははっきりと、ぱたりと、消えます
「今終わった」と明瞭に分かる形で。

そして全ての感情が消え去ります。
まっさらな「現実」だけが自分を取り囲んでいるのが見えます。

一つの「思考課題」がここで発生するかも知れません。何らかの形において、現実の相手に対して「嘘をついていた」部分がどうあったか、それともなかったかです。もう自分は、この短い時間において、前の自分でいることはできません。
まあこの段階に来ていれば、それはもうあまり難しい行動課題ではなくなっているでしょう。まず「自分に治癒が起きた」なんて、世にはまだ理解されない難解な心理メカニズムの話をするのは無用です。適当につじつま合わせの話をできればよろしい。現実外界においては別に何も起きていないものとしても、何の問題のないことが実際には多いでしょう。


■解かれていく魂の望みと原罪-5:新たなる「未知」へ

やがて多少の時間を過ぎる頃、まあ数週間頃が目安になります、ということはこの出来事の心理的影響も忘れる頃、自分の内部に起きている積極的な変化に気づきます。

それは「イメ−ジのない意識世界」だと言えるでしょう。「こうなれれば」という空想は伴わず、魂の感情として、浮ついたものの全くない「愛」の感情が自分の心から湧いてくるのを感じます。それを直接人に向ければいい。というか、それはもうことさら「人に向けることを意識」する必要のあるものとも感じられない、「この感情において生きる」ことにおいて、全ての他の魂とのつながりを増大させている感情になります。


ここで説明したような「愛に向う」局面は、「魂感情の看取り」「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」を併せた「パラレル・スパイラル前進」として、「魂」がよりその独自の命の鼓動を強める変化として繰り返され得るものになります。
やがてその「魂の感情」はより大きなものとなり、「命」そのものへとつながる段階が訪れます。

その積極的側面に、ハイブリッドが「人間の心の真実」と考えるものが示されることになります。


心理学本下巻に向けての考察-263:「未知」への意志と信仰-155 / しまの
No.1525 2008/03/30(Sun) 23:32:05

■解かれていく魂の望みと原罪-3:「毒」の放出

「のぼせ上がり」「根源的自己否定感情」によって冷却されると同時に、心には「得体の知れない恐怖」が流れてきます。

「人の目感性」の中では、それは相手からの「拒絶への恐怖」として体験されます。

「人の目感性」が解体され、「魂感性」が優勢になってくると、それははっきりと別の形で体験されるようになってきます。
まずはっきりと分かることがあります。これは「現実における拒絶への恐怖」ではない!
「心」は今、その問題になっている相手からの「拒絶」にも、十分絶える強さを持っています。それに動じず、大人として行動する方法を、十分に心得ています。

それは「現実世界」の何かの「恐怖」ではないのです。それは「自己の存在」における「恐怖」なのです。
これは、「魂」「愛」をつかさどるものであり、「魂」にはもともと自分と他人という区別があまりない自他未分離意識が成り立ちであることを考えると、「魂」が「愛を失う恐怖」を「自己存在における恐怖」として感じ取っているもの、と解釈することができるでしょう。

ハイブリッドのような取り組みにない場合、ここからはもう「全破壊衝動」を伴うような「意識の破滅」的な事態を、人がどう捉えるかという、結末の見えない話になります。当然、自他への破壊行動の危険が増すでしょう。
ハイブリッドの実践においては、これを「感情分析」の姿勢で、心に流れているものが何かに向き合う作業として、その具体的内容が次第に心のスクリーンに映し出されてきます。

またここからは、まるで脳の中に蓄積された毒が流れ、それが意識に映るという、何か物質的なメカニズムを思わせる経過をたどるようになります。


■流れ出る「自意識の罪」への毒

もはや「現実世界」とは全く切り離された、心の中の幻想の世界で起きていることであるのが分かる。しかし、この「得体の知れない恐怖」が、実際にこの「現実世界」に身を置く自分に起きているのであり、そしてその先には、「現実」の他者相手がつながっている。
この事態がもたらす目まいのするような悪寒の中で、心に次第に映ってくるのは、まずこの事態が、自分の意識世界の中で「あってはならない」何かを、そこに起こしてしまったものという感覚です。

その「あってはならない」何かという、闇の穴のようなものを中心にして、やがて得体の知れない波紋の広がりに触れて変貌したかのような相手のイメージが現れてきます。
それはこの「あってはならない」何かをもたらした自分への、嫌悪の目です。体験し得る、最も嫌なものへの嫌悪。「生まれてから一番嫌なこと」だと言う相手のイメージ。「うじ虫」という言葉を投げつけられるイメージ。

そうした悪辣な嫌悪の理由となる構図が、相手との間で望んだ「愛の実現イメージ」に応じて現われてきます。それは、自分が卑劣で醜い偽善の構図の中で相手との関係を求め、それにかろうじて免罪符を与えたものであったかのような「愛の感情」が自分の中からぽっかりと抜け落ち、完全に言い訳のできないニセの自分を、人々の目の中で晒す。そんな幻想的イメージです。
自分から「愛」を差し出しながら、まるでガソリンが切れた車のように動けなくなった自分という、「見掛け倒し」にさえならぬ「見せかけ倒れ」の自分の姿。

相手への接近行動がごく軽い中で「のぼせ上がり」空想が展開したようなケースでは、この毒の意味がより明瞭に分かってくるかも知れません。
それは、「相手の心を自分の空想に利用した」という意識のあり方への嫌悪です。人の心を材料にして、人の心を弄んだ自分の意識への嫌悪です。


■「魂」が抱いた「罪」の正体

もちろん、全てがこの人の内部で起きています。何よりも理解すべきは、この事態を迎える直前まで、この人が「愛」に近づくことに抱いた恐怖は、表の意識においてはもっぱら、「自分が果たして相手に叶えるだろうか」という「なりたい自分」の理想と比較しての慎ましさのように体験されていたことです。

しかし実はそれはカモフラージュです。「魂」「一体化の愛」を願う中で「愛」を望んだ時、「魂と心の分離」の中で「心」が抱き始めた「自意識」の傲慢な利己性が、「魂」にとり最大の「罪」となり、「魂」はそれへの「罰」を恐れるようになる中で、人間の心はその歩みを始めました。
「心」が抱いた「自意識」の傲慢な利己性は、「魂の挫折」を否定し塗り消すために使われました。「存在への拒絶」などを受けた自分などというものはない。そう言えるための、「なりたい自分」になって人々に愛され賞賛されることで、「一体化の愛」における挫折などない自分になる。
それはこの「自意識」の過程全体がない、「自意識」などというものに足をひっぱられることなく、世界で輝いている自分です。自意識という恥ずべき罪のない自分を、自意識が描きます。パラドックスです。

自己理想に満たないことは、「魂」にとって「罪」ではありません。「魂」はむしろその「理想」と「現実」の両者へと、ありのままに向おうとします。
むしろ「罪」は、「生から受けた拒絶」を抱えたありのままの自分に嘘をつき、人の心を利用して何ものかになろうとした「自意識の傲慢な利己性と自己中心性」にあります。これは「魂」が自らにおいて明瞭に抱いた「罪」です。

「生から受けた拒絶」そのものは、何かの「罪」への「罰」なのか?
ここに全ての始まりへの鍵があると言えるでしょう。なぜなら、これを「罪」に対して与えられるべき「罰」だと受け取ったことから、全てが始まったからです。
これについて、「魂」には答えが出せません。
「魂」は「神」が示す答えを待っています。しかし「神」は何も語りません。「心」が、「神」の声を「魂」に伝える役割を担う必要があります。

もちろんこれは「魂と心の分離」において人の心に等しく起きる事態ではなく、「生から受けた拒絶」という「魂の挫折」の深さに応じて不可避的に起きるメカニズムになります。事実、これがこの人の心に起きた時、この人自身がこうむった不遇の中で、自分に向けられた他者の「傲慢な自意識」への嫌悪感がまさにこの人自身にこのことを学習させたかのように、自らの「自意識の傲慢な利己性と自己中心性」が、この人自身にとって、「人の心への寄生虫」とでもいうべきおぞましいものになるのです。

それへの「罰」が、「魂」「魂と心の分離」に際して自らに刻み込んだ、「真の恐怖」です。

「なるべき自己理想」は、まずこの全体を塗り消すために描かれました。それはこの「恥ずべき自意識」などない自分の姿です。やがてこの自己理想が絶対性を帯び、それが実現さえすれば全てが栄光の中に帳消しになるという幻想の中に、もう一つの根源が組み込まれます。
それは現に自分が愛されなかった怒りと憎しみです。ここに全てを「悪魔との契約」の中で転換させるターニングポイントが生まれています。自分はもう「愛」などを求めてはいないという、「自らについた嘘」の決定打です。

そうして、絶対性を帯びた理想から現実を叩き否定破壊することに自尊心を抱くという「心性」が、この人間の心の中で、「悪魔との契約」によって成立します。
「魂」はそこで、もはや帰る場所を失ったように、「罪」を深めることになります。


■「人間の心に住む悪魔」との闘い

こうして、解き放たれた「魂」の「愛への望み」は、同時に、「魂」が抱いた真の恐怖を暴露することになります。
「魂」は危機に晒されることになります。そこに明らかな自らの「罪」があり、「罰」が問われるからです。「罰」は「存在」に向けられた「罰」であり、これは「死」に強く関連します。

そこに、「命」という命題が現れます。「望み」を入り口として、「罪」「罰」という通り道を通って、「命」へと還っていくわけです。
「命」へと通さざるか、通すか。そこに人間の「選択」が出てきます。そこに「人間の心に住む悪魔」の囁きが出てきます。「神」は何を指図したのか?

「否定価値の放棄」は、これに対して先回りに答えを用意するものだったのです。そこに「許し」という、見慣れた顔ながらその真意が曖昧だったものの、真の命題が現れます。
その先に、人間の心の真実があります。それを見る目を、我々は持つ必要があります。


心理学本下巻に向けての考察-262:「未知」への意志と信仰-154 / しまの
No.1524 2008/03/30(Sun) 12:16:10

■解かれていく魂の望みと原罪-2:「恐怖」と「愛の消失」

真に望むがゆえに近づくことが恐く、自らは望まないものとするしかなかったような「愛」
「魂」が「心」とは独自の命の鼓動を打つようになる「パラレル・スパイラル前進」の中で、内面外面ともに強さを増した自己肯定感が、やがてこの人間に、今までの自分の殻を脱ぎ捨てる一線を超えさせる勇気を与えます。

現実の中で自ら歩んだ一歩が、「現実性刺激」として、この人間の心に封印されていた「望み」を、まず空想の中で大きく開花させます。それは相手も喜んで愛を返してくるという「仮定」の上での、「望むことができる自分」の大いなる空想です。愛に基づくさまざまな行動を提案している自分の姿。相手との間で奏でられる、愛のハーモニーの空想。
まあ一言でいえば、「のぼせ上がる」わけです。

しかしこの「のぼせ上がり」沈静化する頃、心の中に全く異なる様相のものが流れ始めてきます。それはまず間違いなく、この「愛への接近行動」とその直後の「のぼせ上がり」が帯びていた、そしてそれを承知の上で行動化をした、何か「着実感の不足」のような自分の心もとなさの感覚の有無の量と比例して起きてくる事態のような話になるでしょう。

心に流れ始めてくるのは、「得体の知れない恐怖」の感覚です。何が恐いという意識がありません。それでも、ただ「恐い」という感覚が身体を流れているのを感じます。心が恐怖を感じているというよりも、体が恐怖を感じています。

これが「現実」の何かについての恐怖ではないことは、良く分かっています。少なくともハイブリッドの道のりにおけるこの局面段階であるのなら。それだけ、この人は「現実外界」への行動法を習得し、その自信の上にこの事態を迎えたのですから。
それでも、この「得体の知れない恐怖」が、「現実」とも何か接触したものであるような感覚が、やがてこの恐怖に目まいのするような悪寒を加えていきます。


■「根源的自己否定感情」による「のぼせ上がり冷却」のメカニズム

「愛への行動」がこのように、「のぼせ上がり」から一転して寒々とした感情動揺へと移り変わるのは、実は人が心の底に「根源的自己否定感情」を隠し持っていた場合の、共通メカニズムです。「魂」がその出生において、「一体化の愛」を願って生まれながら、「自分の存在に向けられた拒絶」という「生から受けた拒絶」によって、深く心に刻まれた自己否定感情です。

なぜ寒々とした感情動揺へと移り変わるかの理由は、この「根源的自己否定感情」によって、「自分が本当に愛されるはずがない」という感覚の分子が心の底にあるからです。

「愛への行動化」「現実性刺激」はまず、この根源的自己否定感情を塗り消すためのものとして構築されてきた「なりたい自分」「なるべき自分」による「望み」の実現イメージを刺激し開花させます。
そしてこの熱が冷める頃、「現実性刺激」はまさらにその底にある「根源的自己否定感情」の層へと、達するわけです。
自分が本当に愛されるはずはない。相手は本当は自分を愛してはいない。

だから、相愛成立のケースでは、一転して相手への疑心暗鬼が、相手の人間性への軽蔑感を伴って現れるわけです。相手は自分の都合のためにこの愛を演じているのだ。
実は、この利己性自己中心性は、まざに「のぼせ上がり」の中で本人が描いた空想に示されるような、本人自身の利己性自己中心性とまさにイコールの濃さで描かれたものです。


■「人間性」への他責と自責の狭間へ

本人はその「のぼせ上がり」の中では、自分自身の利己性自己中心性を自覚できません。それはただ「愛の望みの感情」とだけ体験されます。それが冷却されてきた時に、実は自分自身の中に利己性自己中心性がどうあったか自覚できるか否かに、多少個人差が出てきます。

害して、心の芯まで利己性自己中心性に侵食されるほど、自分の利己性自己中心性を自覚できなくなってきます。代わりに、全てが愛情要求と善悪の問題に化けていくわけです。自分の内面はきれいだと思い込もうとする一方、心の現実としては人間性を低下させていく、心の悪魔との契約の道を下っていくという姿が浮んでいます。
自らの人間性への感受性と向上心を保ったケースでは、ここで自分の心に罠があるという感覚と、そこから抜け出すことへの動機が、ここで生まれ得ることになります。そしてハイブリッドなどの取り組みの門を叩くというターニングポイントが訪れ得ます。

いずれにせよ、治癒成長への取り組みが進んでいない限り、「のぼせ上がり」根源的自己否定感情によって冷却されると同時に、全てが「人の目感性」での愛情要求と自尊心の問題へと化します。
自分が一度差し出した愛に、相手が答えるかどうかは、自尊心の問題になります。それが脅かされる不安が強くなると、一転して愛情要求が前面に出ます。「得体の知れない恐怖」は、「拒絶への恐れ」として体験されます。

厄介なのは、「自分が本当に愛されるはずがない」という「前提」によって相手の中に映し出された利己性や自己中心性が、互いに向け合う拒絶に上乗せされ運ばれることです。つまり、相手は本当に自分を愛するのではなく、その利己性自己中心性によって愛を演じ、自分の心に土足で入り込み利用し踏みにじるようなことをして、自分にこの得体の知れない恐怖まで味合わせている、得体の知れない悪質な人間性の者なのだというイメージにさえ発展し、拒絶感情は全破壊衝動と化し、修羅場(^^;)を演じるようになるケースです。
そうして、安易な出会いで実に安直にくっつきながらすぐに修羅場を迎え、やがて殺傷事件として報道されるような、世の男女の姿があるわけですね。


■「心の手術」の執刀開始

ハイブリッドの歩みにおいて、この後が全く異なる様相になるわけです。メカニズムとしては、「人の目感性」がもう解体解消の方向にあるので、「魂」が深く抱えた根源的自己否定感情をめぐって動く歯車と、「現実世界」に向けた「心」の感情と思考が、もはや相互に影響や混同を起こすことなく、単独に意識の中に現れて来るということです。

それが「現実」とはもはやつながりのない、心の中でのみ起きていることなのだという理性を十分に保ちながら、それでもそれが「現実」とも接触しているという悪寒に目まいを感じながら、心に流れるものはいよいよその幻想的恐怖の内容を浮かび上がらせるものへと変貌しています。

極めて苦しい時間が訪れます。それはまさに「心の手術」です。
これを何度か経た者であれば、はっきりと、「今心の手術が始まった」と分かるようなものになるでしょう。課題はただ一つ、「何もせずにやりすごす」ことだけです。


心理学本下巻に向けての考察-261:「未知」への意志と信仰-153 / しまの
No.1523 2008/03/29(Sat) 14:05:33

■解き放たれる「魂」の「望み」と「恐怖」

「心」という一元世界を越え、「魂」がその独自な挙動を示すようになる「パラレル・スパイラル治癒成長局面」において、他の2局面の支えによって内面外面共に強さを増した歩みは、やがて「自らは望まない」ことのみによって直面を免れていた、「恐怖」正体を知る段階を、何らかの「出会い」において迎えます。

この「愛と命に向う」という最終局面が、実際どのような「出会い」によって訪れるかは、もうケースバイケースです。それは異性愛に関連するかも知れないし、しないかも知れない。性愛の感情要素を伴うかも知れないし、てんで関係ないかも知れない。

そうしたケースバイケースの動揺体験において、「魂が愛を望む」という「魂の感情」の側面大きく現れてくるのが、ここでの特徴です。そして魂の感情が本来自他未分離であることからしても、この「魂の愛への望み」の感情は、性愛の要素からは実際のところ離れた別のものであることが明瞭になっていき、さらには相手が異性であるか同性であるかという区別さえもあまり関わりのない、「魂」が「愛」を望むことそのものにおける感情色彩が、より濃く心に流れる体験となります。

以下に述べるのは、それを5段階感情連鎖過程として説明します。
実質的には、上の3段階メインであり、残り2つ後の流れということになります。
1)「愛への望み」の開花
2)「恐怖」の表面化と「愛の消失」
3)「毒」の放出
4)全ての消滅
5)新たなる「未知」へ


これはフルセットです。つまりその特定部分が断片的に流れるだけのものもあります。それは主に、最初の動きである「望みの開花」の性質に大体拠るようです。
「望みの開花」的な要素はあまりなく、ただ「毒の放出」だけが前面に現れるようなものもある。その場合、後から「望み」要素がこれだったのだと自覚されてくるような形になります。
一方、「開花した望み」人生で望むものの大きな範囲を巻き込むごとに、このフルセットの様相が濃くなってくるのではないかと。
こうした現れ方のパターンについても、それぞれの段階説明の中で少し考察しておきましょう。


■解かれていく魂の望みと原罪-1:「愛への望み」の開花

この局面となる出来事は、今まで「真に望むがゆえにむしろ望みを否定せざるを得なかった愛」というような感情を向け得る、そんな相手対象が存在することの知覚から始まると思われます。それが何か危険なことであるような感覚を伴いながら、その対象に強く惹かれる自分の感情を自覚することから、それは始まるでしょう。
それは自分の中で、もう人生において封印した、もしくは葬り去ったような、愛への憧れや希求の感情であるかも知れません。かつて「どうせ自分になんて」という思考の中で。
それが自分に湧き出るのを感じます。それは「自分が今こんな感情を感じるなんて..」と感じるような感情になるかも知れません。

その相手対象への接近は、まずかなり敷居が高いのが事実のはずです。まず何よりも、「恐怖」がその前にはだかるのが見えます。
そこを、今までの成長過程の中で得た行動学や、原理原則思考によって対処するわけです。内面外面ともに強さを増した自分の現実をじっくり吟味する形においてです。
自分はどうその相手に近づき得るのか。道を外れた行動や、相手に不快を与える失礼の危険はないか。またこの感情はいったん脇において、行動を共にする建設的行動というものがある相手かどうか。

はっきりした接近衝動の行動化なる場合ならない場合もあります。後者であれば、ただ同じ場所に近距離でいるというだけのことをめぐって、この後の連鎖へと向うこともあります。

行動化に向う場合は、この「愛への望みの感情」に従って、自ら相手への接近行動に出ることになります。ここでまず、理屈抜きの恐怖を超えることになります。
とにかくこの一歩を踏み出す強さを、この人はもう身につけた段階に来ていたのです。もうその前で踏みとどまることは、この人の歩みにおいては選択肢になりえない段階が来たのです。

そうして、自分がその中にとどまっていた「空想を生きる生」という巣から飛び出す、もう戻ることのない一線を踏み越える時が訪れます。


■「現実性刺激」が「空想の中の望み」を解き放つ

かくして、「愛に向う行動」において、今までの人生での「空想を生きる生」からは抜け出る一線を越えるのですが、これが「現実を生きる生」になるという、簡単な話ではありません。

まず、行動化が「現実性刺激」の役割を果たし、この者の心に封印されていた「望み」の思考と感情一気に開花します。

それは多分に空想的であり、幻想的でさえあります。不可避に起きているのは、自分が行動化できた「愛」を、自分自身の内部において過大視することです。自分が指し出したこの「愛の行動」を、相手が高く評価し、大きな喜びによってそれを受けとめ、相手も「愛の行動」を返してくる。そんな空想が一気に花開きます。興奮状態が起き、落ち着けなくなってきます。
それは「世界最強の愛」とでも言うべきものに描かれるかも知れません。その相手との愛を実現した自分が、あまりにも特別に輝く存在として、この世界に君臨する。

事実こうした心理過程は、病んだ心を抱えた人の人生において、治癒成長への取り組みをしないまま、同じものを求める相手との出会いによって、偶発的に実現したかのような熱狂の事態が生まれるケースがあります。
治癒成長への取り組み途上においても、それは同じです。相手がこの者の「愛の行動」を受け入れ、求めに応じた場合、この者の空想世界が実現したかのような事態が、事実起きることになります。

そうした「成立」ケースにおいては、関係が維持され、愛がより成熟していく治癒成長の過程が、これまでの局面と同じ形で繰り返され、より着実な愛情関係へと成長する道があり得ると考えるのがいいでしょう。まあ多少の幻滅動揺体験などへ、これまでの取り組み同様に対処していくことで、愛情がより成熟したものに育っていくはずです。
ただしこれは事実、「魂」の問題があまり深くない段階のケースという話になるでしょう。

「魂」の深い問題を深く残したケースにおいては、「現実外界」における「愛の成立」をそのまま置き去りにしたまま、この者の内面は音を立てて異なる様相へと向い始めます。
基本的な流れは、「不成立」ケースも同じです。「現実」を巻き込まない点、こっちの方が多少安全ではあります^^;
多少の違いとしては、「成立」ケースでは、まず相手への軽蔑感が現れてくるのが避けられないというのが、このメカニズムです。

そして両ケースにおいて、「恐怖」が流れ始め、見る間に「愛の感情」が消失していきます。
真の「恐怖」は、「行動化」に際してあったものではなく、それなのです。


心理学本下巻に向けての考察-260:「未知」への意志と信仰-152 / しまの
No.1522 2008/03/29(Sat) 10:37:08

■「これが愛」という既製服を捨てて..

「こうなれれば幸福」という既製服をどう身にまとっても、「魂」の挫折を置き去りにしたまま「これが自分だ」という自己への真の確信を持つことはできない。
同じように、「これが愛」という既製服をどう身にまとっても、「魂」の挫折を置き去りにしたまま心が真に満たされるものを知ることはできない。そう言えるかも知れません。
「こうなれれば幸福」という既製服を過ぎ捨てた時、人は真の自分を見出す。
同じように、「これが愛」という既製服を過ぎ捨てた時、人は真の愛を見出すのかも知れません。

全ての解決は、自分の感情を自分自身が受けとめるという「心の自立」の先に、「魂」がもはや「自分の感情」とは思えないほどの深さ強さでその命の鼓動を打ち始める、ハイブリッドの取り組み道のりの最後の局面でもたらされます。


■真に望んだがゆえに近づけなかった「愛」へ

「愛と命に向う」というこの最終局面位置づけについて、より本人の実践意識面から、次のように言うことができます。

それは「否定価値の放棄」から始まる右肩上がりの治癒成長過程において、基本的には「現実動揺体験」そして「愛本来の感情と行動」延長上にあります。
つまり、それは「愛」をめぐる動揺体験として、さらなる治癒と成長への歩みになるものです。

それがそこまでの段階と異なってくるのは、それが動揺体験になる意味が違ってきます。

これまで、この人にとって、「愛」は大きく妨げられ、その本来の感情と行動が分からないでいたことが、この人の社会性の成長を妨げ社会行動や対人行動に大きな制限を課していたものになっていました。
それが今や、数々の現実動揺体験を重ね、その中で「人の目」には依存しない自尊心を足場にして、「愛への願い」を純粋に抽出し看取っていく歩みが、やがてこの人の「愛の感情」より穏やかな大人の感情へと成熟させます。それがこの社会を生きることについての恐れをもはや不要とし、「心の治癒と成長」という一元的な世界においてはほぼゴールと言えるほどの安定感を生み出すようになります。

従って、この先においてさらなる成長の一歩となるような、さらなる「動揺体験」とは、もうこの人が「普通」の社会行動において「普通」の「愛本来の感情と行動」ができないというこれまでの悩みとは、全く異質な困苦に向うことにおける「動揺体験」であるという様相を示すようになってきます。
それは、この人の向おうとする「愛」が、その価値の高さゆえにこの人に動揺をもたらすような、そして恐くて近づけなかった、そんな「愛」への接近です。


■「自らの成長」のために「愛に向う」ことが必要になる時

これはもし人が「魂の挫折」を体験することからその人生を歩み始め、自らの心の治癒と成長への真摯な歩みを続ける先に、やがて外面においてはごく普通に、もしくはごく順当に社会的にうまく行く生活を送りながらも、引き続き今だに満たされ得ない内面に向き合い、自らの人生を模索し続けるのであれば、あとは何らかの「出会い」が、彼彼女を自然とこの局面へと向わせることになるでしょう。

つまり、現に今だ未解決の、置き去りにされた「魂の挫折」あるのであれば、その価値の高さゆえに動揺となる「愛」に出会った時、もはやこの取り組みにおいては、それに向わずにいることで得る「安定」を捨ててそれに向うことを選ばずにいる理由を、もうほとんど持たないということになります。

逆に言えば、この局面とは、あくまでハイブリッドの取り組み道のりにおいて、「価値の高さゆえに動揺となる愛への向き合い」以外についてはもうほとんど問題を感じなくなった段階がまず前提であり、その上にさらなる前進があるという話です。

一方、世の人が「普通」を捨てて「特別な愛」に走るというさまざまな姿場面に、ここで説明するような成長の意味があるかどうかなんて話は、僕にはてんで言う気になれない話です。
また病んだ心において、「心の自立」に取り組まないまま、「普通」へのアンチテーゼのように「特別な愛」にのめり込もうとする自己陶酔的なケースもあります。もちろんそこでは、ここで説明するような治癒と成長は、あまり問うべくもありません。

しかしそれでも、ここで説明する歩みの中に見出される人間の心の真実が、そうしたさまざまな場面で働いているのかも知れません。あとはそれを人がどのような視線で捉え、自らの人生と命をより有意義なものにすることに役立てるかという話になるでしょう。


■「魂」の「望み」と「恐怖」の根源へ

メカニズム論の観点からは、「自らは望まないことで避けてきた恐怖」という根源問題への対面と言えます。「自ら望む」ということ、そしてそれが純粋に含む「恐怖」という根源です。

「心を病むメカニズム」は、そこから始まっていました。その恐怖のために、自ら望むことができず「人の目」を通して望むようになり、そのために「なるべき自分」が必要となり、すると今度は、その「なるべき自分」から、現実の自分や他人を容赦なく叩き下ろすようになります。そして本来望んだはずのもの全てを、破壊するようになるのです。
ハイブリッドの取り組み道のりを通し、まず「あるべき姿」の絶対性と、それにまつわる怒り破壊を捨てた先に、これを生み出した「自ら望む恐怖」という根源へと近づくことになります。

そしてそれに近づくための強さを、この「心」という一元的な世界を越えた「パラレル・スパイラル」の治癒成長における、他の2局面が与えてくれる形になります。
「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」においては、この現実世界という外面を生きる自己確立の確信的な強さの増大として。
「魂感情の看取り」においては、自らの「人間性」根底における浄化の中で、もう惑うことなくその成長と向上の過程にあるという、内面における揺ぎない自己肯定感の増大として。

一方でこの人間が今だ人生の真の充実を心の一部で欠いている状況に、今だ残された「病んだ心」の残骸が影を落としている姿があります。それが、「心」によるいかなる現実外界向けの「恐怖の克服」によっても解消されずに残されたまま、「自らは望まない」ことでその活性化を免れていた、「魂」が根源で抱く「恐怖」だということになります。

それに近づこうとする歩みが、今、「魂」が自らその「望み」を開放することにおいて、成されるわけです。

かくして、この「今まで恐くて近づけなかった愛」に近づくという最終局面は、本人の意識面においては、自らの「人間としての成長」を視野に入れながらも、「愛の魅惑」に惑う自分の心と共に、残された自らの「心の闇」へと向うような、何かの覚悟を含んだようなものになるでしょう。

「愛の魅惑」は、残された「病んだ心」の残骸を反映して、その内容は混沌とします。そこには、ごく純粋な「楽しみ喜びの共有」という健康な要素によって支えられながらも、「愛される栄光」という傲慢、「愛される利益」という自己中心性、そして性愛の魅惑、最後に、「魂」が根底で抱いた、「愛の望み」..。


いいかげん状況説明はこんなところにしておいて(^^;)、そうして一歩を踏み出して起きる心の動きの説明へ。


3/27(木)まで不在 / しまの
No.1521 2008/03/25(Tue) 13:19:44

また帰省&スキーです^^。


心理学本下巻に向けての考察-259:「未知」への意志と信仰-151 / しまの
No.1520 2008/03/24(Mon) 13:29:01

■「普通」を超えて「愛」へ

「魂と心の分離」の狭間で残された問題への、ハイブリッド道のりの最終局面としての歩みは、「普通」では済まない「愛」への願望が刺激されることをまず基本的契機として始まると考えられます。

この局面が、基本的には「愛本来の感情と行動」の延長であることを述べました。そしてまず「愛本来の感情と行動」ができるようになってくるとは、良くも悪くも、その「普通」の行動ができるようになることだ、と。アハハ。

それで終わらないとは、「普通ではない愛」になってくるわな。これが。
まずちょっと笑いをこらえながら書くに(^^;)、この「普通ではない愛」が、皮相化荒廃化の進行した変態性欲(アハハ)や、利己性や自己中心性そして貪欲性において「普通ではない愛」については、もうここでは全くの論外であって、そうした「普通ではない愛」の側面については、ここに至るまでの段階で浄化や克服をもうかなり終えていることを想定しています。
逆に言えば、そうしたすさんだ側面がまず感情動揺の前面に出るのは、結局心の障害がかなり深刻であり、克服取り組みとしてもまだほとんど初期段階の話だということになります。

ですからこの「愛と命に向う」という最終局面が起きる契機とは、「普通ではない愛」(^^;)というよりは、「普通を超えた愛」との言葉を使うのが適切でしょう。否、その「愛」が「普通でない」という話ではなく(^^;)、「愛」を求め向う姿において「普通」という曖昧な基準を超えたものであることに、ここでの意味があります。

一方それがやはり「病んだ心」からの治癒成長の話として観察する限り、やはりそこに、「病んだ心」の最も奥底に隠されていた問題が明るみになる。そのような心の出来事のことを、ここでは説明します。
そしてそれが同時に、そこそこ健康な心の中ではあまり知ることのできない、人間の心の真実を見ることができる、そのような体験の話だということになります。


■自分の中の「本当の愛」を探して

ですから、この最終局面の歩みとは、別の表現をするならば、「普通」という曖昧な基準の中で自分が人々と「愛」を交わすことができるようになった状況において、それでも今だ何か「失われたもの」の感覚を心の片隅に感じながら、自分自身にとって「本当の愛」と言えるものを探す、まずは内面の歩みとして起きるものと言えるでしょう。

そして外面においては、社会における自分の位置づけにそれなりの安全感を与えたものがその「普通」という曖昧な基準であるのならば、それを超えた「本当の愛」を探す歩みとは、それが現実的に叶えられることの難しさを自分でも重々感じるような、強い思慕や熱情自分自身の中に静かに見るような体験として、まず始まることになるでしょう。

具体的にその対象は、異性愛に限られる必要はありません。まあ異性愛に、この残された問題が最も焦点が合わさりやすいのは確かでしょう。
事実、心の障害は往々にして、異性愛の中でその劇的な動揺の絵巻を繰り広げます。その多くにおいて、治癒には残念ながらつながらないまま、この局面で見出されるような心の真実が実は働いているのでしょう。
同じ心の真実が、異性愛に限らず、友情関係や、仕事の場面、さらには宗教的な愛の模索の中で、「自分にとっての本当の愛」へと向かおうとする心の動きとして、起こり得るものになってきます。


■「魂」と「現実」の両面へ

何が起きるかの心理メカニズム過程について、詳しく説明しましょう。

それはまず、「魂の感情」の役割が明瞭になってくる3局面、つまり「魂感情の看取り」「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」そしてこの局面という流れにおいて、前の2局面の特徴を合わせ持ったような形で起きます。

つまり、内面においては自分の感情とは思えないような「魂の愛への望み」の感情を感じると同時に、自己像の切り替わりを伴うような形で、外面において「本当の愛」を向ける外部対象を視野に捉える。そんな心理過程として始まります。
ただしこの局面の最初の頃においては、これはほぼこれまでの現実動揺体験にもかなり近いものです。「より本当の愛」へと惹かれる自分の感情は、やはり「自分の感情」であって、それを感じると同時に自分の中に現れるのはやはり今までに悩んだ「人の目」であり、この事態全体が、今まで格闘してきた心の障害への取り組み場面の繰り返しのようなものでもあります。

それでも違ってくるのは、この人がもはや「普通」の社会行動においては十分に行動法を心得、道を踏み外さない自制心についてはほとんど不安はないことです。さらにこの人は、「否定価値の放棄」を成す中で、自らの「人間性の成長と向上」について、人に評価されたり、何か絶対的な「あるべき姿」と比較するのではない、内面における方向性を、恐らく言葉では表現できないようなまま、獲得していることです。

かくしてこの事態は、この人自身が、自らのさらなる前進のために、そこに何かが見出されるものを模索するためであるかのように、何かの危険と恐怖を踏み越えて向う価値のあるものとして、この人の心に映ることになります。
もしこれが自己成長の機会とは見えないような動揺として起きる場合は、結局この段階の話ではなく、ハイブリッド取り組みの初期段階を思い出すべきということになるでしょう。つまり、ごく基本的な「自己の重心」から考えなければならない部分です。愛されることによって、自分は何を求めているのか。またこうしたごく初期的な問題が、実は最後の最後まで多少は残り続けるのが、人間の不完全性であり、「依存幻想」と「自分幻想」の恒久幻想という話になるでしょう。
そうした、自分の心のごく基本的な弱さも認めた上で、そこに向うことに、自分の成長にとって意味のあるものがあるのを感じる。

そうして、その「自分にとって本当の愛」と感じるものへと、現実において向おうという心の動きが、「現実性刺激」となって、この人の心に今だ隠されていたままであったものを、暴露させることになるのです。

暴露される心理要素を次に。


心理学本下巻に向けての考察-258:「未知」への意志と信仰-150 / しまの
No.1519 2008/03/24(Mon) 10:15:44

■「原罪」の克服へ

さて、「愛と命に向う」という最終局面について、取り組み道のり全体における位置考察から、よりその内部へと考察を移します。

これは一言で、「原罪」の克服局面という位置づけを言うことができます。

「否定価値の放棄」から始まる本格的かつ右肩上がりの治癒成長として、まず「現実動揺治癒体験」によって「人の目感性」の解体治癒と言える基本的向上が起き、「愛本来の感情と行動」によって、ほぼ健康な心へと向います。
より深い「魂」の問題は、「魂感情の看取り」によってその荒廃感情が浄化へと向かい、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」によって、「自尊心」が「命」ともつながってくる確信の強さへと成長します。

これらは一言でいえば、「魂」がその出生において受けた「生からの拒絶」という根源的な躓きを原点として展開された、さまざまな心の問題がほぼ解決克服へと向った姿です。
基本的感情テーマの視点で言えば、「愛」「愛されない悲しみがやがて怒り憎しみに変わる」という荒廃化からの回復と浄化へと向かい、「自尊心」「愛される自尊心」が得られない屈辱から「愛を破壊できる自尊心」へと走り、愛と自尊心を連鎖的に全て破壊していく泥沼から、「人の目」には全く依存しない自尊心を足場にして、「愛することのできる自尊心」まで射程視野に入れ始める段階へと成長します。これが同時に、この社会を生きる上での「恐怖」を、ほぼ克服へと至らせることになります。

たった一つ、未解決のことがあります。
全ての始まりが何であったのかです。


事実、心の障害を体験した人において、幼少期の記憶は、この全ての始まりが、終わった後から始まります。それはただ悲しみと怒りの中に置かれた自分の記憶です。
なぜそうなったのか、記憶の中でそれを遡ろうとしても、その先には映像の消えた空間だけがあります。自分の体験した感情の記憶を反芻しても、なぜ自分が悲しみと怒りからこの人生を歩むことになったのか、分かりません。

ただ言えるのは、確かにその時の外界には、何か失われたものがあったのです。そして同時に、自分の中何かが損なわれた。分かるのはそれだけです。
全てが、そこから始まっていました。


■「原罪」とは何か

ハイブリッドの取り組み道のりにおいては、その克服解消の姿が不明瞭なまま軽減化にたどり着いてきた、根源的な自己否定感情があります。
それは「魂感性土台の体験」前後から意識に明瞭化されてくるもので、その根源的な自己否定感情のことを、「原罪感情」と呼んでいます。

ここまでの説明において、それは、「人の目感性」の中で「こうなれれば」という絶対的自己理想から現実の自分の姿を容赦なく叩き責める「見下し自己嫌悪」とはちょっと異質な自己嫌悪感情として説明しています。それは意識を保つことができなくなるかのような、幻想的な恐怖感を伴う自己否定感情であり、やがてその内容は、「こうなれれば」という自己理想に叶えるかどうかの問題ではない、「こうなれれば」という自己理想を掲げてこの世界と人々に向おうとした自分の存在のあり方そのものに向けられた、何か「おぞましいもの」への嫌悪、というようなものであることが次第に明瞭になってきます。

上述までのハイブリッド道のりにおいて、「もうほぼ健康」な心へと治癒成長を果たした段階において、それはより根本的な正体と解消解決の姿は不明なまま、心の中に見えなくなっています。もうこれでいいのかも知れない。

しかしそれが今だに「魂と心の分離」の狭間で何かの問題を残した、生きることの真の充実を得ていない仮りそめの「心の健康」にとどまっていたものである場合、これに取り組む本人の、より先へと向おうとする動機意志と、あとはこの人間の人生における何らかの「出会い」の中で、それが解き明かされる局面が残されていることを、ハイブリッドでは見出しています。

そこで焦点となるのが、「原罪」であるわけです。
この最後の局面を踏まえて、「原罪」とは何かと最終的な定義をするならば、それは実に明瞭な位置づけを持ったものです。

「原罪」とは何か。
ずばり、「自意識の罪」です。

自意識の何が罪なのか。どのように罪なのか。
そして人は心を病む中で、それに対してどのような「罰」が下ろされるという恐怖に怯え、そしてそこからどのように逃げようとするのか。

この局面の始まり特徴から、局面内容そのもの説明をしましょう。


心理学本下巻に向けての考察-257:「未知」への意志と信仰-149 / しまの
No.1518 2008/03/23(Sun) 18:11:54

■「命の望み」への過程-5:「愛」と「命」に向う

否定価値の放棄」を過ぎて右肩あがりに進むようになる治癒成長の過程は、まずは「現実動揺治癒体験」「愛本来の感情と行動」というおよそ2つの局面繰り返しスパイラルによって、「心」という一元的な治癒成長の姿をほぼゴールへと向わせます。

それでも終われない、「魂と心の分離」にまつわる問題を深く抱えたケースにおいては、まず「魂の世界」意識前面にして起きる「魂感情の看取り治癒」、そして「現実世界」意識前面にして起きる「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」という、「魂」「心」との二元的なパラレル・スパイラル前進の様相を示すようになります。

そして最後に、人間の心の真実を如実に示す治癒成長の体験が、、「魂の世界」「現実世界」の両方が、交わることのないまま共に前面となり起きる、「愛と命に向う」という心の体験として現われます。

この二元的なパラレル・スパイラル前進のうち、「魂感情の看取り治癒」は多分、心の障害傾向を持ったケースに特有の、不思議な治癒現象です。
一方、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」は、心の障害傾向とは全く関わりなしに、それを人生の中で経る人々がいます。
最後の「愛と命に向う」という心の体験に至り、それが心の健康度とどのように関連して起きることなのか、それはより健康な心に向うために必要なことの話なのか、それともそれは心を病むという問題が特別に垣間見させる心の世界の話なのか、ハイブリッドとしてはあまり言うべき言葉を持っていません。

ただそれはやはり、ほどほど健康な心で、そこそこ幸福な人生の中では、あまり見ることのない、そして見る必要もない、人間の心の業と真実が同時に現れる出来事なのだと感じます。それが「魂」と「心」の分離の中で置き去りにされた、人間の心のちょっとした狭間の中に存在するということなのでしょう。

そして言えることとは、そこに示される人間の心の業と真実を、自らが身をもって直接見る体験を経るにせよ、直接その痛みに心を晒すことを免れた人生を送るにせよ、そこに示される人間の心の真実を心に刻むことが、これからの人生と、自らが持って生まれたこの命を、より有意義なものにすることに役立つのではないか、ということです。


■「愛本来の感情と行動」のための行動学

この「愛と命に向う」という最終局面は、基本的には先の「愛本来の感情と行動」の延長にあります。つまり、「人の目」の中で、「愛される」ことをさまざまな表現形において、身構えた心の中で期待するのとは異なる、相手と一緒にいて、楽しみ喜びを共有したいという、他に目的を持たない、内側からほとばしる感情を、どううまくこの「現実世界」における自分の行動へと適用させていくかという歩みの中に、あるわけです。

まあ、「愛本来の感情と行動」の局面においてそれがうまく行くとは、良くも悪くもその「普通」の行動(アハハ^^;)ができるようになるということでしょう。

自分の中に初めて湧いたその感情に、喜び勇んで人に交流を持ちかけても、まずは期待通りに行かないのが通例です。
まさにそこを補う行動法を、最初からハイブリッドは実践メニュ−に入れています。
「建設的対人行動法」です。共通目標共通利益にのみに着目して、行動することです。自分がどう見られるかではなく。
同時に、「愛本来の感情」だけで人間関係がうまく行ものではないことを、学ぶ必要があります。なぜなら、この社会においてそれぞれの人が、その共通目標共通利益のみではない他の人生の領域を持つ存在だからです。また、人は「愛」のみによって生きる存在ではないことも事実です。「愛」には多少、「心の独立と自由」という、人間の心が求めるもう一つの真実を、時に多少妨げる側面があります。これらの事実も尊重できる行動法が重要です。
ここで「原理原則の習得」というのが重要になってきます。共有できるものと、共有できないものを同時に持つ個人同士が、どんな原理原則によって行動を律するのが良いかを、大いに学んで下さい。


■愛の変貌視点-1:「愛情要求」と「愛」

こうした「愛本来の感情と行動」の局面を基本と考え、それ以前の段階、そしてそれを超えた「愛と命に向う」段階で、どう「愛」というものが変貌を遂げるのか2つの視点を言うことができます。

まずは「愛情要求」と「愛本来の感情」の違いです。
これはもう全く別物です。まあ文字通り、「愛情要求」というのは、「愛情」「要求する感情」です。まあまず言ってこれは単一感情ではなく、合成品です。意識の前面にあるのは、「愛情」のイメージと、それを要求する、もしくは手に入れようとする、皮相化と荒廃化の色彩がさまざまな衝動です。
それでも人がそれを時に「愛」の感情だと感じるのは、ここにもう一つ、正真の愛の感情が、ここでは「魂の愛への願いの感情」が、含まれてくる場合です。

ハイブリッドが考える治癒成長メカニズムにおいては、この合成品が解体され、「愛情要求」という表面の合成品は消失し、「魂の愛への願い」が看取られることによって、魂の愛の感情に成熟が起きます。それはもう心の表面とも何の亀裂摩擦も起こさない感情であり、それがそのまま「愛本来の感情」として、この人間の「存在全体が持つ感情」として一本化されるというメカニズムになります。

合成品を構成した他の部品はどうなったのか。

「人の目」の中の自尊心部分は、「人の目」に全く依存しない「価値の生み出し」による自尊心によって、衰退へと向います。心の障害傾向があまりないケースでは、これだけでもうかなり純粋無垢になります。
心の障害傾向があったケースでは、魂の感情のレベルから帯びていた荒廃化色彩は、「魂感情の看取り」によって、静かに浄化へと向います。

そしてもう一つのメカニズムが、最後に焦点を当てられることになります。「自分への嘘の暴露」「感情の膿の放出」「原罪とその許し」といった側面が、「現実動揺治癒体験」の中で起きている部分です。
これは「愛本来の感情と行動」が「現実動揺治癒体験」化するスパイラルの中で、この治癒体験の全体に埋もれたまま、起きています。問題が軽い場合は、これが現実動揺治癒体験の中の最も耐えがたい悪感情やストレスの部分として、その正体が本人には分からないまま、克服解消に向う形に、まずなります。

これで大体済むのが、「心の治癒と成長」という一元的な様相での、おおよそのゴールです。


■愛の変貌視点-2:「愛の深度」

それで済まない部分とは何か。難しいパズル問題ですね。もちろん読者の方に出すような問題ではありません。僕自身の整理で、最後に解かれるパズル部分はどこかの話です。

こうゆうことになります。

それは「現実動揺治癒体験」の中で分解され、克服消滅に至るものの中で、「自分への嘘の暴露」「感情の膿の放出」「原罪」といった最も堪えがたい側面が、意識の前面になる体験です。「愛本来の感情と行動」における「現実動揺治癒体験」の中でも、そんな特別形になってくるということです。
それは、「価値の生み出し」による自尊心でも、「魂感情の看取り」によっても、克服され得ないものとして残されたものです。

何がそれを克服に向わせるのか。
そこに、「愛の深度」という、「愛の変貌」もう一つの視点が出てきます。

どうゆうことか。
我々は、というか「魂」は、置き去りにされた自己否定を抱えた時、真に愛するものへと向おうとする時に、真の恐怖を抱くということです。
それを超えさせるものは、その愛の強さと深さそのものになります。その恐怖を、愛そのものの強さと深さ以外の、「心」による自尊心やありのままの受容によって克服し消し去ろうとしても、決して消し去れるものではないものの、克服なのですから。

これは「心の成長」の原点である「望みと恐怖」というメカニズムにおいて言えることです。「望み」に向うためには、「恐怖」の克服が必要です。そのために、望みに向う中で起きるであろう恐怖に何とか先手を打って、「こうすれば大丈夫」だと恐怖を減らすことが可能です。
しかし、それでも本当に「望み」に向う時、恐いのです。それを超えさせるのは、ただ、その「望み」そのものの強さだけしかありません。そしてその時、恐怖を生きるまま前に進むことで、「自立」を果たすのです。

先手を打とうとも消えない恐怖を消す、もう一つの方法があります。それは「望み」を否定することです。
自分は別にそれを望んではいない。そう自分に言い聞かせることができれば、それ以上恐れに向き合わなくても済みます。
ただし、もちろんそうすると、この者は自分の真の望みと真の恐怖の両方を知らないままの「生」を生きることになります。それでも、そこそこの幸福に平衡を保った「生」が、そこには見える可能性が出てきます。それが真の望みと真の恐怖を通った後の平衡なのか、そこから目を逸らすことに成功した平衡なのかは、もう見分けがつかないのです。


「心を病む」という人間の業によって、人の心の中で「命」の重みが失われる時、「病んだ心」から「健康な心」への治癒と成長の歩みにおいて、「心」「魂」というものが異なる振る舞いをする先にそれが再び回復されることの中に、ハイブリッドでは人間の心の真実が示唆されていると考えています。

まずはその2つの心の構造の、一人の人間の中における挙動のあり方を、次に説明しましょう。


心理学本下巻に向けての考察-256:「未知」への意志と信仰-148 / しまの
No.1517 2008/03/23(Sun) 12:34:14

■「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」における「現実」からのベクトル

「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」について重要な点を書き漏れていましたので、追加しておきます。

今までの自分はニセモノだった。そうした自覚の中で、一瞬の間にあれよあれよと自己アイデンティティが確信の中で劇的な変貌を遂げる。
そうした事例を僕の事例など含め手短に出しましたが、そこに「命が心につながってくる」という内面過程と、ちょうど向かい合わせとして、「外界現実」側からのベクトルが伸び、この両方が一点につながるというのが、実際のこの心理過程になります。

これはまあ当然のことで、「魂」そして「命」からのベクトルという内面過程が勝手に動いたところで、そこで描かれた自己目標像がちょっと「現実」とズレているようであっては、この「確信の中の自己像変化」一時の錯覚で終わってしまうということになるでしょう。


■魂の根源問題を置き去りにした「人工的自己アイデンティティ熱症」

実はこれが案外、「人工的自己アイデンティティ熱症」として解説した「症状」のメカニズム説明になるかも知れません。

「これが自分だ」という「自己アイデンティティ感覚」を一生懸命追い求め、時にそれが得られたかという熱狂状態になるのですが、ふとした引き金で、まるでそんなものはなかったかのような虚無感へと、再び落ちる。そして「次の自己アイデンティティ感覚」を探す、ちょっと不毛な思案の歩みを続けます。

これがちょっと劇的滑稽さとも言える姿で描写されたのが、太宰治の『トカトントン』でしょう。
2006/09/03 魂の成長の成り立ち-47:魂が求めるものへ-24

また高野悦子『二十歳の原点』も、そうした「自己アイデンティティ追求」が、一見してあまりに真摯な人生への探求の思考として繰り広げられたものが、あまりにも虚無的な破滅へと果てた姿が示されているものと言えます。
2006/03/16 自己操縦心性の成り立ち-46:基本機能その3人生感覚-1

どこで書いたかを再確認し、再び目に入ったそのあまりに亀裂した心を示す言葉を、また出しておきましょう。彼女が自殺する直前のものです。
=======================================
 自己創造を完成させるまで私は死にません。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本を読む気なし。何でも入ってくるものはすらっと受け入れる純粋無垢の状態。封鎖でも何でもやってやる。しょせん死ぬ身。自殺?敗北か。
 大体、何でこんなこと書いているんだろう。サアネ、ワタシニモワカリマセンデスワ、オホホホ
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 自殺は卑きょう者のすることだ。
=======================================

そこに、こうして説明している「自己アイデンティティのニセと真」という問題のみではない、「人間の心に住む悪魔」の問題が、彼女の中で全く手付かずであったものが、こうして最後にその残忍な姿を現したのを感じます。

なぜ彼彼女らの「自己アイデンティティ探し」が不毛になったのかと言うと、それはかなり単純に、彼彼女らが自らの「病んだ心」の側面への対処克服アプローチ全く持っていなかったからと言えるでしょう。そうして自らが出生の中で抱えた魂の挫折を、目をそらし置き去りにしたまま、心の表面では異性との「愛」へもその模索の歩みをしたのでしょう。しかし本当の問題は、全く手付かずのままだったわけです。

「魂」の問題を置き去りにしたままでも、そこからの、そして「命」からのエネルギー「心」にとり必要であり、それをこの脆い心の構造のまま受け取ろうとして生まれるのが、こうした「人工的自己アイデンティティ熱症」だと言えます。

これは自己アイデンティティという「自尊心」側面と同様に、「愛」の側面においても基本的に起きるメカニズムであり、人はそこで「魂」のエネルギー「怒り」「憎しみ」の形でのみ受け取り、「怒り」だけに正真の「命の感覚」を感じることができるという結果になるわけです。
だから、怒りが有害なストレスになることが分かってはいても、ハイブリッドが示す「怒りの完全放棄」などには心底からは同意できない世の人々の姿があります。


■「唯一無二の人生」「現実との調和」「現実との一体化」へ

ハイブリッド取り組みの道のりにおいて、「現実」がぐっと身近になってくるのは、「現実動揺治癒体験」を経る中で「愛本来の感情と行動」が回復増大してきた頃です。
そこで人は、自分がどんな人間であり、人にどう受けとめられる人間であるのかの「実像」を、ブレのない自分の心と目で見ることができるようになります。
そして、より「現実」に合った、自分の行き先進路や行動方法を、考えていくことができるようになるわけです。

そしてそこでもまだ「魂」の問題が残り、ニセの自己アイデンティティの中で生きてきた人間が、確信の中で真の自己アイデンティティを獲得していくのが、ここで説明したような流れになります。

これがやがて「現実との調和」「現実との一体化」という、揺らぎない感覚を、この人に与えるようになります。それは、自分がこの世界の中で、唯一無二の存在であり、単にこの「世界」から「与えられる」だけの存在ではなく、自らもこの「世界」へと働きかける、「世界」と調和し、一体化した存在だという感覚を与えるようになります。
これは先の「魂の感情の看取り治癒」最後の段階として説明した、自分の心がこの上なく自由で暖かくて、これからは人に影響を与えられるものとして開放されたものになっているという内面向けの感覚と合わせての、外面向けの、同様にとても良い心の状態として感じられるようになってきます。


■調和し一体化するものとしての「現実」

ではそこでの「現実」とは何か。人はそこで何を見て、この「現実」における「唯一無二」の自分のあり方を定めることができるのか。

内面外面の全てです。

一つここで「不完全性の受容」の流れにある、重要な通り道を指摘すれば、自分の心に残る障害傾向についても、全てが「ハンディ」として受け入れられるようになることです。身体にハンディを負ったケ−スと全く同じ形においてです。

「人生は与えられた場からいかに前進するかにある」と言い、身体にハンディを負った人の話を出すことがありますが、それを聞いた人が、「むしろそれがうらやましい」と言うことがあります。自分もそんな前向きな心になりたかった

それが「ハンディ」なんですね。前向きになれない自分の心さえも受け入れて、前に進むことができるようになる。まあこのパラドックスは結局、自分の「心」そのものが、「魂」さらに「命」のための「かりのもの」という感覚が芽生えることと同期した話になると思われます。
自分の「心」さえも、「ハンディ」として受け入れる。その時「心」は、実は「ハンディの克服」どころではないさらに先へと、成長を始めるということになります。

もう一つ。「現実」とは内面外面の全てであり、それは実に多様です。人一人として同じものはなく、唯一無二です。
そこにおいて、「こうなれれば幸福」という既製服が実は自分には合わないことを、人が人生の中で自覚し、真の「唯一無二の人生」へと向うこともある。
世の人の生きる姿が、そのどっちの姿であるのかを見分けることは、もう外見からは分かりません。


■「命」からのベクトルと「空想から現実へ」のベクトル

この変化はつまり、内面において「魂」の導きによって「命」が自己アイデンティティへとつながっていくという側面と合わせての、「自己像」が基本的に「空想から現実へ」という歩みを続けることの、総合的な結果だと言えます。

「空想から現実へ」という歩みが、人間が最後まで残し持つ、「こうなれればそれが与えられるはずだ」という「依存幻想」の中で、「こうなれれば」という空想の中で自分を見失っていくことの自覚によってなされます。自分を見失った時、もう問題は外見において「こうなれるか」どうかではないことに、人は気づくのです。
その瞬間、「こうなれれば」の空想ははじけ、「現実」というものがありありと感じ取られます。それを自らが描く自己像に取り込んだ時、内面の強さと確信の感覚が、一歩前進します。

かくして、全くの私事ですが、今だに独身の僕結婚して子供を作り育てたい願望を持つ中で、自分の置かれた各種条件を考慮して可能な結婚相手というのはあると考え、それなりの相手探し活動もしてきています。
僕はそこで、自分が「結婚できない男」という不名誉な称号を持つ(^^;)ことに、ちょっと抵抗感があったのが事実です。その気になれば相手なんている、と。結婚願望だけが意識の前面になると、世の誰もがここまで結婚できている中で、この自分が今だにそうでないのは..という嘆きの感覚が一瞬自分の中に起きるのを見たこともあります。

一方で、行動が「現実化」つまり「現実性刺激」を帯びるごとに、上述の「依存幻想」がはじけ「現実」が近づくというのが、起きるんですね。
それは僕の女性から見ての魅力度という問題もあるし、僕の今後の著作の成功度という問題もある。まあとはそれを全て考慮して見てくれる女性がいるかという問題がある。それが本当に現実的な話かという話になる。
そして最後に、僕自身がどんな気持ちで、それを女性に提示できるのかという話が出てくる。実は「現実」の中でも特にこれが重要だったりする。ま詳しく話すと長くなりますのでここでは省略しますが。

そうした歩みに、あとハイブリッド実践としては、「原理原則思考」によって「世を知り社会を知り世界を知る」というのも生まれてくるわけです。
そうした総合的なものが、「現実」なのです。

それはもう、「こうなれれば」というものでは、全然ないんですね。

まあ詳しくは省略しておきますが、かくして僕は今、自分が「結婚できない男」なのだと、確信を持って言える気分を感じている次第です^^;
もちろんいつまでもそれに甘んじる気はありません。アハハ。
しかし、確信を持って「今は結婚できない男」なのですネ。


心理学本下巻に向けての考察-255:「未知」への意志と信仰-147 / しまの
No.1516 2008/03/22(Sat) 16:38:09

■「命の望み」への過程-4:自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得

「魂」というものが、この「現実世界」直接生きる「心」とは別もののように存在している。
それを感じさせる、2番目の治癒成長局面が、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」として、時に人の心に起きる劇的な人生の節目体験です。

これは定義するならば、人が「これが自分だ」として意識して人生を生きている自己像が、はっきりとした節目をもって劇的に異なるものに変わるような体験です。

ただしこれが「魂」のメカニズムを底にして起きるタイプのものであることを示す特徴、そしてそれが示唆する本質的な意味を解く糸口は、そうして明瞭な節目によって自己像が劇的に切り替わることそのものではなく、その変化に際して、人がそれ以前の自分の自己アイデンティティがニセのものであったことに気づくという事態の方にあります。

明確な自己アイデンティティ切り替わりというのは、これ以外のタイプのものもあるかも知れません。そうゆうのがあるというのが、まあ波乱万丈の人の人生というものでしょう。自分の成長と、外部環境の変化とのバランスの中で、ある時、人は別の人生を歩む時が来たという明瞭な節目を感じることが、何度かあるでしょう。こっちのタイプについてそれ以上の話は、ハイブリッドとしてはあまり立ち入るテーマではありません。
ハイブリッドでは、もしそれが、「今までの自分はニセモノだった」という自覚を伴いながら、その者が自分自身にとってより真実の感覚を増大させた自己アイデンティティを獲得する時、そこに「魂と心の分離」にかかわる何かの仕組みが働いているものとして、焦点を当てることになります。


■人の人生に広く起き得る自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得

また、このタイプの人生節目というのは、先の「単独想起の魂感情見取り治癒」がまずは心の障害傾向を持つケースにのみ、その治癒成長のかなり終盤にのみ起きる特殊な心理メカニズム現象であろうことを考えるのとは対照的に、心の障害にはあまり関係しないまま、時に人の人生に起きるものであることに、注目しています。

書いたことがあったか、ある高校球児だった男性が、甲子園の夢破れ大学に進み、男女交際の華やいだ輪の中で「これでいいんだ」という日々を送るも、次第に「これは自分じゃない」という感覚に居たたまれなくなくなり、再び、得始めていたものの全てを捨てて野球への情熱に戻っていく。そんな人物伝の再現映像をTVで見たことがあります。

心の障害とはもう全く関係ない姿において、人の人生にそんなものが起きる。
それが、「魂と心の分離」という心の構造が、深く広く人間存在へと影響しているという感を、ただ感じます。


■「自尊心」領域のメカニズムとしての「自己のニセ放棄と真の獲得」

そうした「自己像のニセ放棄と真の獲得」体験とは、何が起きたことを示しているのか。

まずざっと考察するに、僕自身の体験においてそれは主に2つの領域においてあったことのように思われました。

一つは仕事の面で。これは何度か書いた話を本ではここに持ってくるような感じになると思いますが、ITを天職とまで思ったのがいったい何だったの〜(^^;)と今では思えるようなのがそれだし、そんな日々にさえあった、「突然目の前の仕事の全てに全く意味感を感じられずに頭が真っ白になっている自分」といった体験も、それが働いていたことを示唆しているでしょう。

もう一つは恋愛や結婚観ですね。自分はこんな人間で、こんな人生送りたいを思っているんですヨ。どうですか。という風な意識を胸に、異性にアプローチを考えるわけです。そしてそれに相応しいと感じた異性が見つかると、頭がのぼせたように、その実現へと意識が膨らみ、相手へのお熱を感じるわけです。
でもなかなかそうは簡単に相手をゲットできない(^^;)中での思案を経ているうちに、感情が切り替わってきます。これは本当の自分のあり方ではない、と。そしてその相手を「愛せそうな自分」が自分の中からもう消えているのを自覚します。ことが相手からのokに運んだとしても、もう向う気になれない。ま大抵ok来ないんですけどね。アハハ。でもごく稀に..と言った話はやめときましょう^^;
まそうして僕の多少恋愛不能症候群的な歩みがあるわけで。

どーでもいい話にそれかけましたが(^^;)、本質的には上述の僕のケースでの2領域というのは違いのあるものではなく、結局はこの社会で自分がどんな人間として生きていく人間かを、「心」が舵をとって描いて航海しているという、「心」における「自尊心」の領域の話だと考えています。
それが僕のように仕事面と恋愛結婚面とで2領域化するケースもあれば、どっちか片方が焦点になるケースもある。その本質は大体同じと思われます。

一方、恋愛や結婚関係の流れの中では、この「自己像切り替わり」というテーマを多少伴いながらも、また別に、次の「愛と命に向う」という最後の局面の話も出やすくなってきます。
これは先にちょっと言っておきますと、かなり様相の異なるものになってきます。はっきり異なるのは、次の局面で、「原罪」が出てきます。それが最後に克服される局面の話を、そこでします。この3つの局面の説明にあたって、「あまりにも苦しい面があり、軽度な場合は心がそれに触れるのを避けてしまう」だろうとか書いたのも、その話になります。


■「命」がつながった「自尊心」

まとめると、ここで取り上げた「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」とは、人生の節目となるような劇的な自己イメージの切り替わり現象であり、その時、「今までの自分」がどうしてこの長い間そのままでいられたのだろうと、逆に不思議になってくるような、「ニセだった自分」の捨て去りと、「本当の自分として立ち上がる」ような節目が起きるという心理出来事、ということです。
そして「原罪」とその克服のような、「魂と心の分離」の最も深い根源問題は、含みません。

で、これは何なのか。
実はこれは、『悲しみの彼方への旅』のラストで僕に起きた「人生見出し体験」も、同じ仕組みの上に起きたことに思える次第です。
その一方、そのあまりに大きな体験について、僕はこれまでハイブリッド整理の中で、それを説明するメカニズムらしいものを、何も言ってなかったんですね。それは何かと考えました。

僕にとって大きな自己アイデンティティ切り替わりは、「島野アイデンティティの獲得」として、もう全て投げ打ってでも本名でのIT技術者ではなく、島野として生きると決めた、明瞭な節目がありました。その直後に渡りに舟の早期退職キャンペーンで急転直下会社を辞めたという、これも天のめぐり合わせ的な人生節目だったわけですが。
その直前まで、僕はどうも情けない気分で仕事をする数日を送っていました。経済的見通しが立たないうちは、これで行くしかないと。でも、それを受け入れようとして始めた感情分析の中で、逆に、もう今までの自分を捨てるべきことを示すものが、自分の中に既にあることを、自覚したわけです。
その後に僕に現われたののは、もはやその大企業さえも自分と対等なものでしかないという、内面の確信的な強さの感覚でした。

『悲しみの彼方への旅』のラストで僕に起きた「人生見出し体験」は、それと同じ、今までの自分を捨てさせ、この人生を生きるとはどうゆうことなのかと僕自身に伝える、何か大きなものが、「人生」という全体をテーマにして現れた。そうゆうことだったのではないかと、考える次第です。

それは何か。ごくシンプルな答えが浮んでいます。
それは「命」です。
思考法を越えて、「命」という何か実体があり、それがつながった。そんなイメージが実にピッタリと来ます。

「魂の感情」でそれを考える視点もできますが、「魂の感情」はもうちょっとじんわりと変化しながら働くものという印象です。看取り治癒で説明したように。
「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」は、そうした除々に進む「魂の感情の成長成熟」とは、どうもまた違ったものとして起きている印象を感じます。

それは「命」というものが「魂」というもののさらに下にあり、「魂」の導きによって、その「命」の何か実体部分が、「心」に接触しつながった。そんな構図を考えると、実にピッタリとくる、明瞭な切り替わり体験です。


実はこの考えは、次の、「愛と命に向う」という最後の局面の考察がほぼできた後に、考えるに至ったものです。
話を先に進めましょう。「心」「魂」という二者関係基本的な視点とするハイブリッド魂論は、最終的には明瞭に「命」という実体を加えた三者関係の構図へと至ります。

そこに、人間の心と人生への、ハイブリッドが示す答えが出てくる次第です。


心理学本下巻に向けての考察-254:「未知」への意志と信仰-146 / しまの
No.1515 2008/03/22(Sat) 10:34:04

■置き去りにされた魂の根源的な愛への願いが看取られる時

魂の感情の看取り」と「人の目イメージの色彩消滅」という「パラレル治癒現象」ついては、心理学本下巻では先のカキコでの4パターンに対応する例をそれぞれ再編集したいと思います。

最後の「根源的な愛への願いの看取り」「人の目イメージそのものの消失」については、今まで該当例を出していなかったと思いますので、ここに打ち込んでおきます。
僕自身のもので、『悲しみの彼方への旅』の出版も一段落した頃ということになりますね。そんな時期であることと符号した話なのかも知れません。

2006.9.24(日)

 今日は、今になってこんな感情が、と思える感情が現れた。
 日中はとにかくインテリアのアレンジと心理学本原稿の書きもので過ごしていた。ジョギングに出てからは、昨日とほぼ同じ気分を感じていた。
何かを求める願いの感情は感じないまま、ただ悲しみの気分だけがあった。それは、結局そうして一人でいる自分への寂しさの感情でもあった。
 海岸の桟橋ふもとの、いつも餌をあげている猫に餌をあげようとした時、一瞬それが別の、少しでも近づくとフーと怒った猫の方に見えたのだが、その様子が見えなかったので油断して手を差し出すと、やはりその猫だったようで、立てた爪で痛い猫パンチを食らう。何もそれが悲しいとは思わないが、それでもそれを寂しいと感じることが、今日の気分には合っていた。
 ジョギングの復路に向う頃、僕はそうして一人でいる寂しさを、結局一人で受け取ることしかできなかった自分の人生というものを、漠然と考えた。
そういえば僕は結局、人に甘えたということが、この人生で一回もないのだ..と思った。そして、それを何ともないことのように考えていながらも、本当は人の胸で泣きたかったのかも知れない、と漠然と考えた。やがて涙が出てきた。心の一方に、ただ人の胸で泣くというイメージがあり、一方には、ただ悲しみがあった。
 帰って、風呂の中で半身浴をしながら、これを思い出して書きとめている僕に、涙が溢れてくる。
膿のような悲しみの涙を、ただぼろぼろと流す。


■「魂の感情」は「自分の感情」ではない

何ともしみじみとした出来事でしたが、まずこれについて考察するに、3点ほど記しておきたい話があります。

一つは、こうして「単独想起の魂感情の看取り治癒」では、心に中に湧き出て見えてくる感情に、それが「自分自身の感情」という感覚が伴わないことです。それは「自分」が感じているのではない。自分の中にある別の存在が感じているという感覚が、そこにはあります。

まあ実際、その時の感情は、僕が人の胸で泣きたいと感じたという感情では、もう全然ないんですね。この日記の時の感情においても、実際そんなことしたいかと言うと、全然そうではないわけです。
まあ今も言えますが、人の胸で泣くというのを考えても、滅相もないしまっぴらごめんという感じ。それが、「自意識」というものによってまとまりをもつ「自分」というものをもはや迷いなしに持つこの自分が、むしろ大いに求める「心の独立」という価値なのだと感じます。

いずれにせよこれがつまり、「魂」は「自分」ではない、というような話になってきます。
これは「魂と心の分離」論の理屈からもそうなってくる話です。「魂」自他未分離であり、「心」「自分」と感じるものはあくまで自他分離と自意識を前提としたものです。となると、「魂」はやはり「自分」と捉えられるものと、ちょっと別物なんですね。

こうしたことを感じ取る姿勢が、自分の中に「自分」とはまた別の「魂」の存在があるという、ありありとした感覚を芽生えさせ増大させることにつながっています。それがまさに、「魂の感性」という人間の心の機能の一つになるわけです。


■「カタルシス治癒」の条件となる「自己の中の二者関係」

2つ目。これは心の治癒論的な話になります。

上述のように、想起される感情がもう「自分」の感情ではないという感覚を伴うことにおけるその体験というのが、この「単独想起の魂感情」の、そしてそれが治癒になるという現象の、独特な特殊性を示しています。
恐らくその時、「自分」「心」はもうその感情とは異なる、悲しみを超え自立を成した感情を、心の根核において獲得しています。「思考」のレベルではなくです。

でそうして自立した「心」が、いまだ挫折の中に置き去りになっていた「魂」を、迎え入れ受けとめるという、掛け値抜きの「二者関係」がそこに生まれているんですね。

これが、こうした「カタルシス」つまり「吐き出し治療」的な治癒を自分も起こそうと考えて、単に自分の淀んだ感情に没入して耽るというやり方では、結局恐らくは何の治癒変化も起きないであろうのとの、根本的な違いと言えます。またもう少し自然な感情のカタルシス的噴出についても、それが本当に治癒になっているのかは、心理学的に言ってもどうも千差万別で疑わしいことへの、一つの要因回答になるでしょう。

つまり、心に置き去りにされた子供の自分の心を、大人の自分優しく迎え入れるという「二者関係」が、単なる演出やその気のポーズを超えて成立することが、そうしたカタルシス的治癒の条件になるということです。
間違いなく重要なのは、「大人の自分」の側が、本当に大人に成りきれているかということになるでしょう。「大人に成りきれている」とは、ハイブリッドにおいては、心の強さ冷静さという外み的な見栄え様子のことではなく、自分の感情を人に見せることで良くしてもらおうという依存性を脱し、感情は自分で受けとめ、自ら幸福を目指せるという、「心の自立」が成されているということです。


■最後に消える「人の目イメージ」の無色圧感覚

3つ目に、先のカキコの最後に出した「魂感情の看取り」と「人の目イメージ色彩の消失」の対応関係ですが、最後に「魂の根源的な愛への願い」が看取られた時に消失する「人の目イメージ色彩」とはどんなものか、という話です。

僕はそこで、ただ「人の目イメ−ジそのものの消失」とだけ書きました。どんな色彩が消えるのかは書かなかった。
その直前、「魂の羨望感情」が看取られた時、「敬遠の色彩」が消える。ではどんな色彩が残ったのが消えるのか、と僕自身がそう書いたものを見て、考えたわけです。

最後に消えるのは、無色の「圧感覚」だけとして残っていたものが、消えます。
目をつぶって、机の上に置かれた一枚の紙をなぞると、そこにその存在を感じ取ることができます。そうしたレベルの、「圧」の感覚が、今まで人の姿に感じていた。それはつまり、自分の心に対して「圧」を及ぼし得るものが、そこにあるという感覚なのでしょう。
それが消えます。

その後に現れるのは何か。
それは、自分の心が、この上なく自由で、暖かくて、開放されていて、今までは人の心が自分の心に影響を与えていたのだけど、これからは、自分の心が人の心に影響を与えていくことができる、という感覚です。
言うまでもなく、これはとても良い心の状態として感じられるものです。


■「パラレル・スパイラル」前進へ

もちろん、こうした段階までへの変化は、この「魂感情の看取り」という局面だけの結果ではなく、次に説明する「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」「愛と命に向う」(←「命が望むものを知る」を改め)という、あわせて3つの局面が同時並行的に進む、スパイラル状の前進の結果です。

それはここで説明したように、「現実世界」と、もはやそれと交わることのない「魂の世界」において、双方が見えないつながりの中で同時に変化前進を遂げていく、「パラレル・スパイラル」とも言うべき前進の様相を示すものになるわけです。

余談ですが、村上春樹の小説に見られるパラレル・ワールドというのは、まさにこのパラレル世界の感性によって書かれているのではないかしらんなどと思う今日この頃..


心理学本下巻に向けての考察-253:「未知」への意志と信仰-145 / しまの
No.1514 2008/03/21(Fri) 17:37:43

■「命の望み」への過程-3:「魂」の感情の看取り

ということで、これまでの話をさらに一言にまとめると、「自己の重心」に立ち、「価値の生み出し」によって前進し、「否定価値の放棄」を経ることで、「心」明確な自己肯定と進む道を得ることになります。そこで「愛と自尊心の分離」姿勢によって動揺体験に対処すると、心の問題の病根のように置き去りにされていた「愛情要求」「感情の膿」が看取られ、心の安定と、より成熟した「愛」の感情が湧き出るようになってきます。

これがハイブリッドの一通りの「心の治癒と成長」の流れとも言えます。これは「魂と心の分離」にまつわる深い問題を免れた、「一般形」だと言えるでしょう。これで大体済むのであれば、それはそれで良いことだと言えます。

つまり、ここから先の局面は、それでは済まないケースであり、それはつまり、「魂と心の分離」にまつわる問題を深く抱えたケースの場合です。
一方、ここから先に行くことで、初めて見えてくることがある。それが人間の心の成長と幸福にとってあまりにも大きな命題を突きつけるものになるであろう時、一体「真の心の健康」とはどうゆうことなのだろうという感慨を、ただ感じるのみです。

それが人間の不完全性なんですね。そこそこ健康な心だと、見えないことがある。そしてそこそこ幸福に生きる中で何かを見失うと、その下に育つ心に病むという問題が生まれることがある。そして病んだ心に向き合うことで初めて見えてくるものがあり、それが次に育つ心を健康に導く。
まあとにかく、健康によって健康が導かれるという、受身の目だけではないものを見る目というものを、我々は持つ必要があるのではないか、という提起だけを言っておきましょう。


■単独想起による「魂の感情の看取り」の治癒

上述のような一般形での「心の治癒と成長」では済まない問題が、自分の心の中に残されている。
それに向う歩みは、まず上述のような「現実動揺体験」をそのまま治癒体験化するのとは異なる様相の治癒への道へと進みます。

「現実動揺体験の治癒化」とは全く対照的ということで、「単独想起による魂の感情の看取り」です。
前者とは好対照ということで、それは完全に「現実」からは切り離された心の世界で起きます。「単独想起」ですね。

「単独想起」という意識作業で想起されるものには、過去の実際の出来事場面も、そこにあった人の目のイメージやそれに反応しての感情の記憶も、明瞭な対象を持たない「魂の感情」もあります。つまりごっちゃです。
そうした「単独想起」体験において、「魂の感情」に届いた部分が、治癒効果を伴うというメカニズムを言うことができます。

この「単独想起による魂の感情の看取り治癒」は、実際はこの「後期」段階のみではなく、「前期」段階からも、起きるべき条件があれば起きます。『悲しみの彼方への旅』で僕が描写したのは、その最も大掛かりな例で、我ながらよくもまああんな事が起きたものだと思う次第です。
ただし、「否定価値の放棄」を過ぎないと、なかなか治癒効果にならない面が多々あります。つまり、想起できても、看取れないんですね。同じ感情のまま悶々とする結果で終わったりする。

これは「現実動揺体験」も実は同じ話です。それはもともと治癒になり得るのですが、感情の善悪を問う否定価値感覚が、現実動揺体験の全体を拒絶してしまう。心の底にちょっと治癒が染み込むという、外見的には一進一退のものが、「否定価値の放棄」を過ぎると一気に治癒体験化し、右肩上がりになるという次第です。


■実に不思議な「パラレル治癒現象」

「単独想起による魂の感情の看取り治癒」について、心理学本下巻では、詳しくはこの解説と既に出している実例をうまく配置して、おおよそイメージが分かるようにしたいと思います。

ここで解説したいのは、そこで起きる治癒効果の、実に妙なる現われ方です。
一言でいうと、「魂の感情」が内面において看取られた時、それに対応する感情色彩が、現実場面での「人の目イメージ」から消失します。
これを「パラレル治癒現象」とでも呼ぼうかと思っています。

これは前々からその奇妙な法則性とでも言うべきものに気づいていて、「心の表と裏のメカニズム」シリーズとかを1年半ほど前に書いたのもそれがあってですが、さすがにここまで考察整理を続けていると、この法則性がかなりはっきり見えてきました。

それは、「荒廃化」の段階に応じた、「魂の感情」と「人の目イメージの色彩」の組み合わせにおいて、見取りと消失が起きるというものです。
ざっと整理すると、次の4段階などがすぐ出せるものです。

魂の「憎悪」の感情が看取られます。一度出したかどうか、僕自身の例では、電車の中で、前に座った男女カップルの姿を前に、自分の中で、その場に崩れ落ち泣きながら地面を叩いて悔しがっている、自分の姿が映し出されました。僕はただそれを静かに見つめます。
その後、現実場面の中で「人の目イメージ」に含まれる。自分への攻撃的軽蔑の感覚が、消えています。

少し月日が経ち、現れたのは、復讐的な勝利への感情です。自分の外見を武器にして、女性を手にいれ、他の男達に勝つ。そんな感情ともイメージともつかないものが心に映されます。普段の生活ではそんな感情も思考も持たなくなっている段階であり、こんなものがあったのか..と僕は感じながらそれを見るわけです。
その後、現実場面の中で、特に女性の目に感じていた、自分への嫌悪の色彩のような感覚が、消えています。

魂の「羨望」の記憶。後輩の結婚パーティに出て、思い出しているうちに現れたのは、花嫁花婿を囲む輪の中にどう入っていいのか分からずに、泣き出している自分のイメージでした。現実場面では、ちょっとこうゆう場は僕は苦手だなぁ程度の、特に気にせず気分でしたが。
その後、現実場面の中で、人との対面で感じがちだった、相手の目に感じた自分への敬遠の感覚が、消えています。

最後に、魂の根源的な愛への願いの感情が現れ、看取るような場面が起きました。これはかなり最近のものになります。
その後、現実場面の中で、「人の目イメージ」そのものが、ほぼ消えました。現実場面において、「人」を視覚で見た像が今まで伴っていた、「感情を貼り付けた視覚映像」という感覚が、もう消えたのです。難解な表現かも知れませんが、心の障害傾向を持ったケースの人であれば、何のことを言っている話か感覚的に分かる思います。

こんな対応関係になります。饒舌な言葉を語らなくても、そこに見えないつながりがあることを、感じて頂けるのではないかと。
魂の感情     人の目イメ−ジ
--------------------
憎悪       攻撃的軽蔑
復讐心      嫌悪
羨望       敬遠
根源的な愛   − (人の目イメ−ジの消失)


最後のものの例の紹介など出しておきましょう。


心理学本下巻に向けての考察-252:「未知」への意志と信仰-144 / しまの
No.1513 2008/03/20(Thu) 18:54:08

■「魂の世界」へ

もし人間の心「魂と心の分離」などという構造が存在しないのであれば、ハイブリッドの話は先のカキコの内容で、ほぼ完全に終結していたでしょう。
しかしそれで終わらず、結構こうやってここまでだらだらと(^^;)心理学本の原稿材料を締めずに書き続けてきたのは、やはり結局それがあったからなのであって。

先のカキコで終わるとは、「心」というものが一つのまとまったものとして存在して、それでもって自らの「望み」に向い「現実外界」に向い、それがどううまく行くかによって幸福があるという、一元的なものになります。

これからの話は、全く異なる様相になってきます。
人はどうすれば、その世界を見るのだろうか、と漠然と浮かべました。それは一見して十分に満ち足りた生活があっても、なお心の中で何か「失われたもの」があるという感覚から目をそらさずにい続けた人が見る世界..そんな印象が浮びます。
それが逆に、人の心を真に満たすものが何なのかという、全く思いもしなかった答えを導くことになる。一方それが、人間の歴史を通して、さまざまに言葉を変えて語られた何かの真実と、実はまったく同じものを指しているという印象を、感じています。

社会というものが今の現代社会ほど高度に整ってくると、「人生」というものが、まるでプレタポルテの既製服のように、「こうなれれば幸福なんだ」と、用意されているかのような雰囲気が広がってきます。
その底で、本当に求めたものが、実は失われているのかも知れない..。

それを探しに行く旅が、ここから始まります。
それが得られた結果が、「こうなれれば幸福なんだ」という既製服と実際どう違うのか、もう見分けはつきません。
実際それは、見分けがつくものなどではなく、見分けるために交わるものでさえ、ないのかも知れません。


■「感情分析」のニュアンスの変化

ハイブリッドが見出したのと同じ真実を語った先人が、どのような意識作業過程によってそれを見出したのか、僕は良く知りません。
言えるのは、ハイブリッドにおいては、「感情分析」、つまりフロイトが創始した「精神分析」という心理学の流れの中で定式化されるようになった、人間が自分の心に対して行う特別な作業をうまく使うことで、神に指名された特別な才覚の者ではない我々凡人においても、この自らの心の真実に向う道へと、歩を進めることができそうだ、ということです。

「感情分析」については、ここでの文章が大体下巻本最後の方にやはり再編集されるとして、別途まとまった一章を結構前半の方に載せる予定です。「内面感情の開放と理解」という「前期」段階からの実践のためのツールとして。
それは「後期」のこの段階においても、同じように活用されるようになります。基本は、感情にじっくり感じ入り吟味する形において、その意味や連鎖関係などを「追体験」的に把握していく意識作業です。

「前期」から「中期」の段階では、主に自分の内面動揺感情を、ハイブリッド理論をガイダンスとして把握理解し、「今心の中にあるもの」を感じ分けていくという感じが中心でしょう。
それがこの「後期」になると、ちょっと様相が変わってくるという印象を感じます。「今心の中にあるもの」というよりも、「今までなかった感情」が現れてくるのを、感情分析の姿勢が積極的に引き出すという感じになってきます。現れてくる感情とは、間違いなしに「魂の感情」ですね。

この結果、心理学的な内面向き合い作業の中で、自らの心の真実が解き明かされていくと同時に、未知なる感情が行き先を示すという、極めて劇的な変化体験が起きるようになってきます。


■「魂の世界」への理解と出会い

これから説明する残り3つの局面「魂の感情の看取り」「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」「命が望むものを知る」は、どれも、そのように感情分析が補助になるものです。

一方、ここから先が見えるかどうかは、かなり人によって置かれた状況が異なることが考えられます。

まず言えるのは、そこそこ心が健康でいると、逆に見えてこない一面が、そこにはあるかもしれません。
それは一つには、そこで見えてくるものの中のマイナス側面があまりにも苦しい面を含む部分があり、心がもう敢えてそこに触れることを意識のはるか手前で避けてしまう状況があり得ます。また実際、それはもう自分からメスを入れて晒して見るに及ばない、軽度な問題として、誰の心の中にも多少は残り続けるものなのでしょう。

そのようなケースでは、自分の心の安定が、ここに示されるようなマイナス側面の問題を免れた結果であることを心に入れて頂くと同時に、プラス側面については、積極的にそれに耳をすませることによって、これからの人生がより意義深いものになる可能性というものを、心に入れて頂ければと思います。

一方、それが見えてくるとは、それが見えることを心が求めている状況が、そこにあるということなのでしょう。これがどんな心の健康の状態なのかは、もうハイブリッドとしては何も言う言葉を持っていません。
それは健康か障害かという区別を超えた、人間の心の神秘なる世界であり、同時に、それを見ることが必要になるような何かの「出会い」が、人の人生に中には時としてある。言えるのはそこまでです。

しかしそこに、我々人間が、我々人間自身の「心」、そして「命」について、その成り立ちを誰もが心に刻んでおくべき、大切な真実があると、ハイブリッドでは信じています。


とまあそのまま心理学本下巻に使うことを意識した文章ですが、多分これを最後から2番目の章の締め言葉に。
残りの3局面と、最後の「望み」についての結語を、うまく最後の章に収める感じで、要点部分の整理を引き続き。


心理学本下巻に向けての考察-251:「未知」への意志と信仰-143 / しまの
No.1512 2008/03/20(Thu) 14:54:25

■「豊かな生活」と「良い対人関係」を超えて

こうして説明してきた「自己の重心」から始まる取り組みは、「価値の生み出し」によって方向性を獲得した「心」が、「否定価値の放棄」によって明確な自己肯定へと転じ、挫折の中に置き去りにした「魂」の感情を迎え入れ、本来の「愛」の感情という、他者への肯定的な感情の回復へと結実します。
2種類の分離姿勢、「感情と行動の分離」、そして「愛と自尊心の分離」が、この道のりにおいて、それぞれ最初から使う、そして「否定価値の放棄」後に使う、車のギヤという位置づけになるでしょう。

これがひとまずの、「心」の層におけるハイブリッドの実践だと言えます。日々の生活をより豊かに、そして良い対人関係の中で、幸福に生きていく心の技術として、これを一通りのものと位置づけることも可能でしょう。

ここから先は、さらに深く、人間という存在に向き合い、人間の心の真実を探る歩みになってきます。「自分」とは何なのか。「愛」と「自尊心」の、人間の成長の究極的な先にあるものとは何なのか。
そこに、「命」というテーマが現れてきます。それがハイブリッドの最大の目指す道標である「唯一無二の人生」へと、つながっていきます。


■自己の人物像の変化・「身近」になってくる「現実」

話は引き続き、「本来の愛の感情」との取り組みを進める段階についてです。
それはごく外面向けの改善向上を超えて、自己の内面への、より深い向き合いへとつながっていくでしょう。これを2つの視点で説明しておきます。

まず、自分の「人物像」というものが、変わってきます。

まずそれは「変わってくる」というよりも、「分かってくる」という変化として始まるでしょう。何がどう分かってくるかというと、自分がどう人に好かれているのかいないのか、あるいは残念ながらどう嫌われているのか、そしてどう信頼されているのかいないのかと言った、「愛」を底流にした「親愛」「信頼」における自分の立ち位置が、自分で良く分かるようになってきます。

これはもちろん、「愛情要求」を通して、つまり善悪によって愛が与えられるべきものというメガネで自分の対人関係を見る目から、「本来の愛の感情の交流」によって見る目へと、変化してくることによります。そして「現実の」自分の対人関係とは、まさに後者をそのまま反映した、何のズレもない、そのままのものであることが分かってきます。

次に、それを足場にしてさらに対人関係の向上行動の幅を増やす歩みは、主に、自分がどんなタイプの人々とどのように付き合う人間かを最も端的な特徴とする、自分の人物像に変化を生み出し始めるでしょう。

つまり「自分が共に生きる人間集団の選択」というのが思考課題になってくるわけですね。まあこのテーマは取り組み初期にも出すことがありますが、その場合は苦肉の策(^^;)のような話となり、じっくり腰を入れてはここの段階になります。

この点で、「メンタルな人」は、「メンタルな人々の世界」と「一般の人々の世界」を二極的に捉えたイメージを自分の中に固定させ、自分が生きるのは片方の世界と決めつけてしまっている傾向を、しばしば悩む人の言葉などを覗いて感じます。まあそれは「理解してくれる人々」と「理解してくれない人々」というような意味合いに大抵なっているんですけどね。
そうした固定イメージを一度突き崩すような思考検討も、この過程で有用になってくるかも知れません。

こうして「自分の人物像」の浮き彫り化と変化は、自然と、「現実」というものが「身近」になってくるという心境変化をもたらします。これが自己人物像の変化に続く、大きな心境変化になります。
今まで、「こんな自分になれれば」という空想の中で抱いた、現実感のない世界が、今は、自分の行動能力によって自分の人物像を自らどう舵を取っていくかに、ぼんやりと道が切り開けるのが見えてきます。その先にあるのは、ありありとした「現実」です。


■時に必要となる人生の清算

ここで、一つの節目となる、辛いかも知れない選択が、人によっては訪れることを、書いておかねばなりません。

日常の生活場面の中で、長い期間に渡ってバランスを崩した心の状態で、特定環境回りの人に快いとは言えない行動傾向にあった場合、この先の努力親愛や信頼を生み出そうとしても、もう無理である可能性があります。人は一度深く嫌いになった相手を、好きになることはもうあまりありません。
その時は、もう思い切って、自分が新しい自分で生きていくことのできる、そしてそれを受け入れてくれる、新しい人間集団を、探すべきです。この判断は、この歩みにおけるこの段階の頃、それが必要な時が来たら、自分で分かるでしょう。

ただし安易にこれを考えることの弊害もお伝えしておきます。まあこれを時期尚早に実行すると、同じ対人関係困難を、また一から繰り返すような無駄を作ります。あと一歩の内面改善の後なら最適な人間集団というのを逃す危険も出てくる。
まず今の環境での内面動揺に、本当に納得できるまで取り組むのがまずはいいでしょう。そのために、今の環境を勉強に利用すると考えてもいい。
対人関係をうまく向上させるとはこうゆうことなんだと、その環境とはどっちかと言うと別の対人場面などで十分に分かるようになることで、今のメイン環境がもうリセットすべきものかどうかの判断が、自ずとできるようになるということです。安易なリセットボタンは禁物です。

余談ですが、事実僕自身も、最初の会社から次の大企業に移ったのは、多少そうした面がありました。もうここでは自分は自分自身としていることができないと、判断したわけです。それだけ、病み上がりのちぐはぐ行動の僕と、親しみたい人々との間には、その段階の僕にはもう太刀打ちできない冷めた空気が存在してしまっていた。
ごく最近でも、その時の人間集団とまた接する夢を見たことがあります。記憶に残る、「自分を嫌った人々」という集団イメージの一人歩きした感覚というものを、しみじみと感じました。


ここに書いたのが、自分の外面生活についてほぼ自立した心によって歩んでいく姿になります。

人生への歩みは、さらに続きます。
新たな局面は、はっきりと、「魂の世界」に向います。


心理学本下巻に向けての考察-250:「未知」への意志と信仰-142 / しまの
No.1511 2008/03/20(Thu) 11:34:21

「命の望みへの過程」について引き続き、先のカキコ4)「愛」と「命」への行動としたものを、以下のように2)5)に分けた上で、引き続き説明します。
1)現実動揺体験(一般形)
2)「愛」本来の感情と行動
3)魂の感情の看取り
4)自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得
5)「命が望むもの」を知る



■「命の望み」への過程-2:「愛」本来の感情と行動

「否定価値の放棄」後、まず、これまでとあまり変わりなく起きる動揺体験の全てが、はっきりと治癒体験化します。そこで、「愛と自尊心の分離」姿勢を活用して、自尊心の問題は自らによる社会的自己評価に切り替えます。
すると「愛」単独に抽出されるようになってきます。
この人にとっての、「愛」が。

「愛」の、本来の姿においてです。

つまりこれまで、この過程に取り組む人の問題の深刻度の差にはほとんど関わらず、この人にとって問題になった「愛」とは、「どう見られるか」の問題として心を揺れ動かしたものでした。それは自分が相手にいかに高く評価されるかという意識であったり、いかに自分が相手と親しみのある態度振る舞いを交わせる人間になれるかという、「外見からの愛の形の実現」への意識だったと思います。

本人は、それが「愛」だと思っている。しかしこの人を外から見ると、実はそこに見えるのは、「硬い身構え」だけがそこにあります。本人は一生懸命「愛」について思考しているのですが、それはこの人の空想に閉じた愛であり、現実外界に向って「愛」として働きかけることの全くない愛なんですね。
そしてさらに、その人は今どんな気分でいるのかしら、とちょっと見てみると、そこに見えるのは「苛立ち」「嘆き」「悲しみ」「苦しみ」「嫉妬」、場合によって「憎悪」であることが、心が健康で感受性の高い人間には漠然と分かるような事態に、得てしてあります。

事実、それらは全て「愛の感情」です。それらは自立を置き去りにした「魂」の感情であり、「魂」の感情とは、結局全てが「愛の感情」なのです。
「魂」は、「愛」を願ってこの世に生まれ、願った愛が与えられることが「あるべき」ことである、「神の国」に生まれます。「魂」はまず、愛されないことが怒りに変わる「愛の感情」の中で、その変遷を始めるのです。

今、長い取り組みを経て、この「怒りに変わる愛」を、「心」が自ら受けとめることの始まりが、この魂の感情に、根底からの変化を生み出し始めます。それは自らの「心」が、この、挫折の中に置き去りにされた「魂」に「愛」を向けるという形において、怒りと憎悪に彩られた「愛」を、その本来の感情へと回復させるということなのだろうと感じます。


■純粋な「愛への望み」の回復

かくして、「愛」の本来の感情への回復は、まず動揺治癒体験の中で、「愛と自尊心の分離」姿勢によって、もはや自尊心とは重ならない形において、自分が愛を求めていることの自覚として始まります。それは同時に、「怒り」という愛の感情が、「悲しみ」という愛の感情へと変化する心理体験を、何度か経ることになるでしょう。
そして「怒り」蓄積する感情である一方、「悲しみ」癒えていく感情です。自己破壊が引き起こす自己憐憫などではない限り。そして自分が受けとめるものとして、人に見せるための演出(^^;)でない限り。

そして「悲しみ」も消えた頃、心に「未知」が現れます。

この人は、「愛」をその本来の感情において感じるようになります。
本来の「愛の感情」とは、他に目的を持つことなく、相手と一緒にいたい、楽しみや喜びを共にしたいという、それだけを目的にした、内側からほとばしる感情です。外見からのそうした姿を実現したいという自意識感情ではなく。
つまり、自意識はかなり薄れた、相手との一体化願望の感情というのが体験されるようになってきます。

こうして、この心への取り組みの道のりが、明らかにこれまでとは異なった局面に入ってきたことが明瞭になってきます。
これまで、取り組みはもっぱら、自分の内面の悪感情との格闘でした。ここに来て、はっきりと、自分の中に湧き出る、明らかにマイナス面の全くない、能動的積極的な感情を、どう現実外界へと適用させていけばいいのか、という、新たなる段階へと至ったのです。

これは深刻な心の障害傾向からスタートしたケースでは、生まれて初めて、人と人が親しくなるのは、こうゆう感情によってなんだ、と分かる気がしてくるでしょう。ああそうだったんだ、と、人生の一大回答が降りてきた感のものとなるであろうことが、僕自身の体験としても想像できます。
心の障害というほどではない一般ケースでは、自分に感情動揺をもたらした相手や、今まで「生理的嫌悪感」を感じた相手にさえ、親しみの行動に転じるという可能性イメージを、やや困惑を帯びながら心が映し始める事態となることが考えられます。

でそうした感情の行動化を試みるのですが、まずうまく行きません^^; まあ何事も、最初っからうまく行くことなどないのがこの世の通例です。建設的行動法原理原則立脚型行動法の学習機会として、行動法をじっくり、具体的に考えていくのがいいでしょう。


■動揺治癒体験の繰り返し

「本来の愛の感情」が実にマイナス面のないものである一方、現実行動においてそれがすぐにはうまく行かないのは、実はもう一つ重い理由があります。
それがまた一つのにもなってくるでしょう。ただしこの壁の越え方は、もう惑いの中にあるものではなくなるはずです。

それは、自分が内面において変化したとしても、人は自分を前と同じ人間としてしか、原則として見ないという「現実」です。
確かにこの人は、内面においては大きく変化しました。しかしそれは、まだ外部の他人からは、全く見えません。そして事実この人がまだ「本来の愛の感情」の行動化について、これから必要となる、これまた長い習熟の積み重ねをしていない限り、この人が人に対してプラスの感情を持っていることは、常人の心の能力をもってしては、どう頑張っても分からないんです。

もう一つ、これはすぐ分かるであろう状況があります。自分の中に「本来の愛の感情」が湧いたことを、自分自身が誇大視し、人がそれを高く評価し、自分を賞賛し愛するべきだという感情が、今だ残っている「自己操縦心性」の中でのうのうと動くということです。
つまり、また全てが「人の目」の中に逆戻りです。自分はどう見られるか。もうこの時点で、全てが「治癒前」の心の部分に切り替わっています。
結果はどうか。自分はこんな良い感情になったのに、人はまだ相変わらず自分を白い目で見る。理不尽だ。悪意だ。
そうしてまた他人への怒り憎悪に転じてしまうという罠が、残り続けます。

そこをまたふんばって、「価値の生み出し」による建設的行動に徹する。同時に、自分が高く評価した「本来の愛の感情」が必ずしも正真のものではなく、人から賞賛され愛される幻想を前提にして持ち得る感情だったという、錯覚の部分、そして自分の他人への本当の感情は、やはり距離を感じるものであるのが現実だったという、「自分についた嘘」がはがれる心理過程も起きるでしょう。

怒りが再び悲しみに変わり、悲しみが癒える頃、再び「未知」が増大しています。それは一つ前の「本来の愛の感情」が、実はちょっとがつがつと愛をつまみ食いしようとするような、幼児じみた愛情欲求だったことが、自分で比較して分かるようになります。
それが今度は、もっと穏やかな、大人の、親しみの感情へと、次第に変化していきます。


■硬い善悪思考と憎悪の下にあった愛情要求

ここでちょっとメカニズム解説を加えておきますと、このように「後期」になって「愛」の感情主テーマにして治癒成長右肩上がりに進むのですが、これが「中期」以前には起きなかった原因です。

それは、こうして魂の愛情欲求が開放されて、始めて本人がその感情の存在を自覚できるのですが、それがそのまま表出されると、それはあまりにも幼児じみて、かつそれが叶えられない時に起きる怒りと来たら輪をかけてみっともない姿であるのが多分事実です。とてもではないがそのまま表に出せる代物じゃーない。
この途上にある方の場合、まずこれを含み置いた上で、慎重に(^^;)行動方法を考えていくのがいいでしょう。

一方取り組み初期段階、特に深刻なケースでは、愛情要求は絶望的なほど強いのですが、その表出形があまりにも無様であるので、一方で発達する攻撃的自尊心とも完全にバッテインングし、自分の愛情欲求が酷く軽蔑されるという屈辱感があまりに強く、この人の意識表面に出るはるか以前の段階で抑圧されてしまっているんですね。
には、硬い善悪思考を伴う、他人と社会への憎悪だけが現れます。この共通メカニズム最も極端な表れが、バージニア大学での銃乱射事件のチョ容疑者のような姿になります。

だからと言って、「君が本当に求めているのは愛なんだ」などと言って「改心」を図ることは、まず無駄とは完全に言えないとしても、良い方法ではないでしょう。ごくアプローチ論的には、相手の屈辱反応に火をくべる恐れがあります。
ハイブリッドはあくまで自己取り組み心理学なので、人に対して治療を施すというような構図でのアプローチは用意していませんが、それでも、まず自分自身が自らの愛への望みを受けとめることが全ての転機であることを、他のさまざまなアプローチでも共通して重視して頂けるものとして意見できると思います。


■対人関係と人生の再建へ

ということで、自分の中に湧き出る愛情欲求については、まず自分で受けとめ、外面への表し方については、行動法としてじっくり向き合っていく。幻滅破綻の動揺が起きても、変わることなく建設的行動に徹する。

そうして自分の内面変化が人に認められる期待も持たなくなった頃が、実は回りの人のこの人を見る目が変わり始める時に、まずなるでしょう。皮肉な話です。あれっ彼って、おや彼女って、最近変わったよね。何か、感じ良くなってきたヨネ。
相変わらず自分を敬遠するような態度の裏で、こんど誘ってみようか、なんて噂が交わされているかも知れません。

こうした道のりの途上で、うまく相手と一致して親密が得られるケースについては、それはそれで良いことです。これは性愛の領域においてもそうです。
実際のところ、人生と人間の心大上段から見つめるのではなく、ごく目の前の対人関係問題などへの対処法としてハイブリッドに取り組むのであれば、この段階でかなりゴールが見えてくる感じになると思います。まあそれで終わらせるには、今回まとめるに至ったハイブリッドの全体はあまりに壮大ですが^^;

実際、僕がハイブリッドを整理し始めた頃、これを「心理療法」と位置づけて体系化したゴールは、大体この段階の心の状態で、この先うまく人生をやっていく。そんなイメージでした。

それで終わらないということは、一面、「終われない」心の側面があることに向き合い続けるということでしょうし、そこそこ健康な心で育った人は、恐らくこの先の、「魂と心の分離」への答えが出される、これまた長い道のりなど見ることもなく人生を幸せにすごすこともできるような気がします。そうした彼彼女らは、事実「幸せな人」です。

でもそうではない、「幸せな人」とはなり得なかった心を持って人生を歩むことになったからこそ、人間の心の真実が見えてくる面もある。それが次に生きる心を幸福に導くことに、役立つでしょう。
人間の心とは、そうゆうものなのだ。これを目が熱くなるような思いの中で、感じます。

話は次第にそうした局面に向います。


心理学本下巻に向けての考察-249:「未知」への意志と信仰-141 / しまの
No.1510 2008/03/20(Thu) 00:09:25

■人生の道なき道へ

まだ閑散とした南国の大地へと降り立った先の歩みに、目を転じてみましょう。

「あるべき姿」が大崩壊する中で歩むこの道は、人生の道なき道です。しかしそこに、人間の心の真実が見えてきます。
ざっと整理したところ、この歩みはおおよそ4種類ほどの心理的体験の形になりそうです。

1)現実動揺体験(一般形)..今まで避けたいとしか感じられなかった動揺体験がはっきり治癒成長体験化する。
2)魂の感情の看取り..純粋な内面向き合いの中で起きるもの。感情分析的な実践。
3)自己アイデンティティのニセの放棄と真の獲得..「これが自分」と感じるものの変化。
4)「愛」と「命」への行動..明瞭に「愛」そのものを目指す行動。「命をかけて」向うものの見出し。

順ぐりに説明しましょう。
心理学本下巻の方では、今までに出した実例紹介を、ここでうまく散りばめて整理する感じになると思います。ここでは、今までと重複した話は極力省略し、要点を中心に手短に説明したいと思います。


■「命の望み」への過程-1:現実動揺体験(一般形)と「愛と自尊心の分離」

これまでの過程と大差ない形で起きる、日々の生活での動揺体験「症状」への取り組みです。
今までと同じ実践を続けます。「自己の重心」に立って、「感情と行動の分離」で、外面は「価値の生み出し」による建設的行動のみにする。

一方新たに、明瞭に意識して頂きたい姿勢一つ加わってきます。
「愛と自尊心の分離」の姿勢です。これは何度か説明したものではありますが、取り組み道のりのどの段階でという話はどうも不明瞭でした。

これは、特に対人場面での動揺の話になると思いますが、起きた動揺について、「愛」の問題の側面と、「自尊心」の問題の側面を、明瞭に切り分けて意識することです。そして「自尊心」については、相手に依存することなく自ら築くという方向で、意識の切り替えを図ることです。
これは結果として、「愛」の側面の揺れ動きが単独で抽出されるという心理過程になってきます。

それが、先にまとめた治癒メカニズムへの、明瞭な入り口になってくるわけです。だけまた出しておきます。
http://tspsycho.k-server.org/img/kokoro20.jpg

人にこう言われた。それで動揺したのであれば、自尊心の動揺がもしそこに含まれているのであれば、相手の言葉によって自尊心を流されるのではなく、自分ではどう考えるのかという「自己の重心」からの取り組みの先に、その相手にどう言われようと言われまいと、自分自身の「見識」によって自己評価ができる段階に、ここでは来ています。

そのことを踏まえて、自分の動揺に振り返って向き合うのがいいでしょう。なぜ動揺したのか。
相手の言ったことを度外視して、自分で自分を評価することもできる。場合によって、相手は自分の自尊心領域について、全くの門外漢である場合もあります。それでも、言われたことにイラっとくるような心の動きが起きた。

まずあるだろうことは、相手に言われたことを、自己評価として「取り込んだ」からです。しかし冷静に考えるならば、その相手に言われることよりももっと確実な自己評価基準が他にあるはずです。例えば僕の執筆活動の自己評価は、今人につべこべ言われて動揺しても仕方のない話であり、この先数年数十年といった時間を通して、ハイブリッドがどう人々に浸透するかが問題なわけです。場合によっては、僕の死後という話にさえなってくる。そして僕はとりあえずそれに値するという自己評価があって、こうした執筆をやっています。
自分でそのように、人に言われても揺ぎ無い自己評価ができるのであれば、人に言われて動揺する必要は、ないんですね。


■「人の目感性」から分離されてくる「魂の愛への願い」

そこまで自己確認できれば、一種の心理トリックが自分の中に起きていたことに気がつきます。「愛への願い」底流にあり、相手と考えが一体化したいという感情が底流にある。それに乗るように、相手の言ったことが、まるで自分もそう考えよと言われたことであるかのような感覚が起きているんですね。「受動的自己アイデンティティ」が作用したものでもあります。
それは単に、相手がそう考えただけの話であって、自分はそれにどう同意しようと無視しようと、自由です。

これが「感情分析」として、起きている感情をしっかりと反復吟味する中での「洞察」として自覚されると、心の底に変化が起きます。

多分、「怒り」「悲しみ」に変化するでしょう。一体化への願いがあり、相手にも、自分自身が自らに下した自己評価と同じものを、相手も持っていて欲しかった。
でも「現実」はそうではない。それを受け入れるから、「怒り」が「悲しみ」に変化します。

ここでこの「受け入れ」とは、自分と相手が別個の人格を持つ存在であることを受け入れるという、「一体化幻想」の崩壊または脱却、そして「一体化の愛への願い」の「看取り」が起きていることを、ぜひ理解下さい。
そしてそれは、「自分の感情を自分が受け止める」という「心の自立」によって生まれるものであることを、ぜひ理解下さい。


■全ての動揺体験の治癒体験化

このようにして、「否定価値の放棄」を過ぎると、全ての動揺体験が、「愛と自尊心の分離」姿勢を良いテコにして、そのまま治癒体験化するようになります。

要点を繰り返しますと、動揺体験における「自尊心」の側面と、「愛」の側面を切り分け、「自尊心」については相手に依存せず自分で自己評価する意識に切り替える。これができると、感情動揺のかなりの部分が消失します。
そして、残る動揺の部分が、「看取る」ことが可能なものになってくるのです。より正確には、これは「愛への望み」と「感情の膿」の2つから成ります。前者は「看取り」となり、後者は「放出」となり、解消に向います。

なぜ「愛と自尊心の分離」姿勢は「否定価値の放棄」の後でしか持てないのか、理由があります。
結局、動揺体験をそのように分離して、自尊心部分を自分で支えられるとは、明確な自己肯定が生まれているということであり、それは「否定価値の放棄」を成さないと生まれないんですね。そして、なぜ明確な自己肯定が生まれているかと言うと、それが「自分が神になろうとするのをやめた」ということなのです。

もちろん、そうした「境界不明瞭な思考領域」における自己肯定に加えて、ごく現実的な自己評価について、「価値の生み出し」取り組みを経て、独り善がりではなく社会的に十分通用する自己評価のできる自信の確立が、こうした「動揺体験の治癒体験化」の前提です。

そう聞くと、「自分が神になるのをやめる」思考実践は簡単そうだが、「社会的に十分通用する自己評価」難しそうだ、と感じる方がおられることが予想されます。

果たしてどうか。言えるのは、「感情依存」があるとそう感じるかも知れません。そして、全てが前に進みません。
自分が神になるのをやめる」ことについては、「感情」であればそんな気分になるのは容易です。とにかく力を抜いて、何でも許す気分を作ってみる。

そうゆうことではないんです。まさに、「感情」以外の心の機能において、ハイブリッドでは実践をします。
日常思考に浸透している、実際のものごとへの自分の思考において、「神的」な絶対思考の有無に、取り組んで下さい。人や社会との間で、「威圧」「圧倒」「威光」「権威」といった理屈抜きの力になびく感覚の有無に、取り組んで下さい。そしてその脱却を目標にして下さい。
それはまず容易ではありません。そのために、「匿名性思考」に立つ「価値の生み出し」という具体的な対抗策を用意しています。
そうして、「神的」な「威圧」「威光」といった感覚心の芯から消え去ろうとする段階で、「そんな気分になってみる」のとは全く次元の異なる、人間の基本情緒回路における転換とも言えるものがあるというのが、ハイブリッドの「否定価値の放棄」です。

一言でいえば、それは、「価値の生み出し」前進力として、自分に「人間の成長」が起きているという実績と、それが自らの「人間性」の成長向上でもあることを、「心」自身が感じ取ったことにおいて成すことのできる、小手先の思考法とは全く次元の異なる、「心」が自らの進む道を確信の中で獲得した、まさに「心の自立」なのです。


■置き去りにされていた「魂」の迎え入れへ

「否定価値の放棄」を通過した後は、まずはこのように、これまでと大差ない動揺体験への対処を、引き続き積み重ねるのを本流と考えていいと思います。

それによって、「否定価値の放棄」の通過によって非連続的に好転上昇した感情基調も、目に見えて右肩上がりに上昇していくのが、時間を追うごとに明瞭になってきます。同時に、一つ一つの動揺体験の本格的な強度減少が、ここで進むようになってきます。自分に何が起きているのかが分かるので、一つ一つの通過の効果が、もはや取りこぼしなく心に刻まれ、次への糧になって行くという感じですね。

同時に次第に、この人が人間性の根底からの成長変化へ向うための材料が、次第に整ってきます。
「魂の感情」の成熟変化です。これはまずここで説明した一般的動揺体験の中で、「愛と自尊心の分離」によって、「愛」の部分に含まれる「魂の感情」が引き出され受けとめられるようになってくることで始まります。

この一般的動揺体験までは、この人の人生の原動力は、「生活を豊かにする」といったごく基本的な「心の望み」だと思われます。
次に、「心」に受けとめられるようになった「魂の感情」は、この人の人生の原動力そのものを変貌させる局面へと向うことになります。


心理学本下巻に向けての考察-248:「未知」への意志と信仰-140 / しまの
No.1509 2008/03/19(Wed) 11:02:57

■終章-17:「命の望み」への道

さて、これが当面の考察の最後のトピックになります。それ終えたら、さっそく下巻本原稿を手早くまとめ、出版社との調整に入るのだけど、同時に生活費稼ぐ仕事も始めねばならんという感じ^^;

「否定価値の放棄」後の過程を、ざっとまとめましょう。
その彼方先にあるのは、「命の望み」です。それが、この長いハイブリッドの旅路の、終着地になります。

その気になっただけのもの(^^;)ではない、正真の「否定価値の放棄」が「自分が神になるのをやめる」という「不完全性の受容」として心底から成されることで、心の風景が一変します。北国の寒風吹きすさぶ街路の風景から、見慣れぬ南国の大地の風景へ。この段階では少し閑散としたものですが。

日常の感情基調は、一気に好転上昇します。恐らく、人生の長い道のりの中で最大の、非連続面的な感情基調の好転上昇がこの時起きます。

ただしこれは必ずしも感情動揺や心の障害的な「症状」の軽減を、あまり意味してはいません。これはやや不思議な変化という印象を、実際にここを通過された方に感じさせるものになると思います。感情動揺や「症状」は、必ずしも、頻度においても強度においても大して減少していないかのような印象さえあるでしょう。

しかし、まずそれがない時の感情基調が、もう全く異なるものになります。まず言って、「生きることへの疑問」が劇的に消えます。日々の生活に、まっさらな気持ちで、目の前のことに向うことができる。
そして、動揺や「症状」がまた起きる時の、自分自身のそれに対面する姿勢や感情が、もう全く異なるものになります。

それによって、今までは一進一退の中でどうやら何となく自分は変化したようだと感じられていたようなのが、一気に、一つ一つの体験の中で、自分に何が起きているのかがありのままに見えるようになり、その中で身をもって学ぶものは着実となり、そこで起きる治癒と成長の効果はもはや疑いのないものとなり、短い期間のうちに過去の自分がどんどん昔日のように感じるような、加速度的な成長変化が始まります。

どのようなものになるのか、詳しく説明して行きましょう。


■始まってくる「あるべき姿」の大崩壊

まず、この人間の心の中で、ここからしばらくの時間をかけながら、「あるべき姿」の大崩壊とでも言うべきものが起きるように思われます。「あるべき姿」という感覚やイメージの全てが、徐々に大崩壊を起こして消え去ってしまうのです。

これは「否定価値の放棄」がもたらした、広範囲な波及効果だと思われます。

「否定価値の放棄」を問う選択そのものは、その人にとって最も懸案となっていた、その人自身にとって重要と思え、その上で自分を否定していた、特定の「人間性価値」の基準について、その絶対性を放棄するというものです。これはかなり限定的な内容であるのが実際です。

しかしそれは、否定価値感覚を使うための物差しを、捨てることを意味するわけです。今まで、この物差しを持っていたので、自分にとっての重要性に関わらず、この人はまずこの物差しでものごとや他人を見るという思考法と感覚の中にいたのです。
それが、もはやその物差しを捨て、「否定すべきもの」を見るためのその物差しを使ってものごとや他人を見るという思考法と感覚の全体が、なくなっていくわけです。

これは実際のところ、まあ僕の経験では言えることなのですが、「善悪基準」がかなり緩んでくる結果になるかも知れません。何がいけないの?別にいいじゃん、という感じ。大抵のものごとが。
今まで「善」とするためには、極めて厳しく高いハードルがあったのが、「善の基準」が大幅値下げの大放出(^^;)に引き下げられるような感じになります。
実際のところ、僕はこの自分の変化について、当時「これで本当にいいのか?」とちょっと疑問を抱いたことがあるほどです。

まあそうした疑問を感じるのも、「善の基準」の高潔さに自尊心を頼っていた面があったからなんですね。自分の「意識の高さ」が自尊心だったわけです。しかしそれは、「現実において生み出す」ことの、まるでない自尊心です。
そして、この変化が、「理想を捨てる」というようなものではさらさらなく、この人間が「意識の高さ」による自尊心の代わりに、行動の善悪社会行動の原理原則をしっかり学び、現実において価値を生み出すことのできる自尊心を獲得し始めた先に成していることであることを、十分ご理解頂く必要があります。
これは例えれば、永久歯がしっかり生えてきたことで、乳歯が捨て去られたという構図そのものなんですね

ですから、こうした変化への、「善悪の緩み」などへのちょっとした懸念疑問は、この人がこの自分の変化を見つめ、それが何の秩序放棄も無法化も是とする変化なのではなく、自分と、自分に関わりを持つ全ての人が、前に進むための選択なのであることを、しっかりと確認する中で、消えていくでしょう。


まあ正直な話を言うと、この段階の当時、僕は自分がもうメンタル問題など気にしない方向へと、これからの人生がうまく何でもオーライで行くことを期待した面が多々あります。「心の悩み」への共感関心なども、もういいや、という感じ。僕は僕の、健康な心の道を好き勝手に生きていく。それがうまく行く満足が人生なのだと。
まあこれで終わったら、とても人に人生の生き方を伝授させて頂くなんていう高尚な謙譲(?)も生まれようもないですね。そんな「これで全てがうまく行く」妄想を抱いたのも事実です。

ところがどっこいそうは問屋が卸さないもので、感情動揺「症状」は、期待とは裏腹に、今までと大した違いもなく自分を攻めてきます。
でもそれを受ける自分は、もう今までと全く違います。

そこに、今の僕のようになるとは思いもしなかった、人間の心の真実が、ありのままに見えてくる、心への真の取り組みが、始まるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-247:「未知」への意志と信仰-139 / しまの
No.1508 2008/03/18(Tue) 23:30:38

■自らの「人間性の成長向上」を見えなくさせたもの

攻撃破壊に快を感じるような、荒廃化した競争心も、「価値の生み出し」が分かるようになる頃には、自分の中で減少してきているのを感じ取ることができるでしょう。
単に強度の面においてのみではなく、根本的な質の面においても。

僕の考えるに、そのメカニズムが自分自身にどう起きたのかが分かるようになるのは、「否定価値の放棄」過ぎてしばらくして、それでもそこからあまり遠くない時期だと考えます。
これから話すメカニズムを理解していれば、その時分かることになると思います。あるいは、「否定価値の放棄」の以前でも、多少これが分かるかも知れません。
「そうだったのか!!..なんてこった!自分は何とバカげた無駄なことをしていたのか!!」という感じで。


■治癒メカニズム過程での「つながりのない谷間」を超える着地点とは

これは実は、「否定価値の放棄」というのが、「心の依存」から「心の自立」への内面変化過程において、つながりのないどこからどこへと飛んで着地することなのかという、僕自身が最終整理として出した問いへの、答えとして見えてきたことでもありました。

「心の依存」では、「存在の善悪」というのが、思考と感情を大きく巻き込むテーマになります。「心の自立」では、それは「行動の善悪」へと置き換えられます。
「愛情要求」「競争心」は、「価値の生み出し」自尊心と、「包含の愛」の感情へと成熟します。

そうした根本治癒成長は、大抵、「現実性刺激による治癒体験」としてもたらされます。その時、一体化の愛への願いを看取ることと、自分についた嘘が晒される痛みと、自らの「罪」への許しが、同時に起き、その後に嵐が過ぎ去ったようなまっさらな「未知」が現れます。

それが「病んだ心からの治癒と成長」メカニズムです。

「否定価値の放棄」は、そうした治癒メカニズム過程の中で、それ以前とそれ以後では全く異なる心の状況が現れる、つながりのない谷間をジャンプして着地することのように思われました。
では、それは、そうした治癒メカニズム過程どこからどこに飛んで着地するのか。

存在の善悪」から「行動の善悪」へか。
競争心」から「価値の生み出し」へか。
愛情要求」から「包含の愛」へか。
そのように、「心の依存」から「心の自立」への道のりでのどこかで、心に後戻りのない確実な一歩が成される場所がどれかということか。

それとも、「看取り」「嘘の暴き」「許し」が同時に起きる「治癒体験」が、それ以前では起きず、それ以降では起きるという、つながりのない谷間を越えるということか。

それを考えたわけです。


■着地点よりも前に全てが始まっている!

それを考え、答えが分かってきたのは、1月下旬に帰省に行く車の中ででした。

僕は理論考察をする時はいつもそうするのですが、さまざまな感情要素を、かなり映像的に浮かべて、パズルのように位置関係を探っていくことをします。これは自分が一度体験した感情というのは、その前後関係が記憶に刻まれるので、「こんな感情にある人物像」というのを浮かべることで、そこに流れる感情の仕組みが、最新医学装置による身体の3D映像のようにシミュレーションできるという感じでやっているわけです。まあ心臓外科医心臓の複雑な形状と血管の様子を、そうした映像的に完璧に記憶しており、手術の際には、ここをこうすると血液はこう流れるから..と分かるのと同じ思考作業ですね。

まあそんな話はどーでもいいとして、今も印象的な、その時の僕の確認イメージがあります。

「否定価値の放棄」を成して、ある場所に着地します。その先には、「看取り」「嘘の暴き」「許し」が同時に起きる「治癒体験」が起きる歩みが、はるか先にまで続いています。
ところが、その着地した地面を見てみると、同じ「治癒体験」は既に着地点よりも手前から、起きているんですね。つまり、地面は谷間がない、平坦なものが前から続いているのです。

で、これは変だと思ったわけです。これはどうゆうことか。つながりのない谷間をジャンプしたはずなのだが、地面はつながっている。

ハイブリッド理論決定的なポイントが分かる瞬間は、大抵似たようなことが僕の整理思考作業の中で起きます。あれっそんなはずではなかったはずなんだけど、と。
そうして、大どんでん返しが見えてくるわけです。それは例えば、「病んだ心」の核だと考えていた「自己操縦心性」が、実は苦境におかれた自分を救うための、「自分への愛」に始まっていたものだったというパラドックスを発見し、思わず涙を流した時もそうでした。


■「すでに起きている治癒」を「現実の中で自ら認める」という着地点

答えを言います。

「否定価値の放棄」とはどんな「つながりのない谷間」を越えてどこに着地することなのかと言うと、「すでに起きている治癒」を自分でそのまま認めることができるようになる、という着地点です。

逆に言えば、「否定価値の放棄」以前とは、自分の中ですでに起きている治癒体験を、自分自身で一生懸命に否認し、それを無効にしようと躍起になっている心の状態だということです。
どう否認するかというと、「現実の中で起きている治癒体験」の全体をごっそりと否定した、「空想の世界」を是とするという方法でです。

つまり、全てが「否定価値の放棄」以前から、「現実」の中では始まっています。上述の「心の依存」から「心の自立」への、心理要素の転換も、それが現実治癒体験として既に始まっていることも。
それとは別の「空想の世界」にいたものから、その「現実」へと飛び降りて着地するのが、「否定価値の放棄」なんですね。


■「症状」とは実は「治癒現象」

さらに分かりやすく言いましょう。
「否定価値の放棄」の以前から「現実治癒体験」は始まっている。それは具体的にどうゆうものか。

それは、人がまさに「そうなってしまってはまずい」と感じている、そして多くの人が「心理療法」や「薬」によって自分の中から消し去ろうとしている、「悪感情状態」です。仕事や人間関係でのそれから逃れたいと考えている、「ストレス体験」です。

それらは本来、自分の心の底に起きた不整合を、自らが修復しようとしている、心のサインなんですね。それをありのままに受け入れ、当然外面向けの思考法行動法は適切な軌道修正を図った上で、それにありのままに身を任せることが、治癒と成長への痛みとして、神秘なる心の自然治癒力と自然成長力を発現させるわけです。

特に「重要な悪感情」を列記してみると、「憂うつ」は、自らの心の姿勢が愛を妨げていることを心が感じ取り、その姿勢をやめるよう心が訴えているサインです。それが自分の中に断片的に起きた攻撃感情離反感情と結びついたものであることを自覚した時、愛への願いを純粋に感じ取る心の機能が、回復に向います。

パニック感理由の不明な恐怖感は、心の中で人工的に作り出した偽の安定の殻を、心が脱ぎ去り、ありのままに現実に耐える強さへと脱皮しようとしていることのサインです。もしくは、「感情の膿」として脳に蓄積した毒のような悪感情を、「放出」することで自らの治癒作用を働かせようとしているサインです。

ストレス体験は、自分が自分に嘘をついており、「人の目」を通して望もうとした結果、自らの本来の「命の望み」が塞がれている危機を、心が感じ取り、本当の自分に戻るために自分に向き合うことを求めている、心のサインなのです。
そうして「身をもって」ありのままの現実に身を晒し死にもの狂いになって自己確立へと格闘することで、人はもはや何ものにも揺らぐことのない、自分の生きる方向を示す羅針盤を獲得するのです。


■「感情依存」という基本問題

そのような「悪感情」についても、無理に「正そう」とすることなく、ただ流してやり過ごすことの大切さを、ハイブリッドでは取り組みの最初の頃に説明する段取りにしています。「悪感情への耐性」を心がける。悪感情はおうおうにして治癒の現れですので、と。

そうした実践上の心得をさらに超えて、「心の成長と幸福」を目指す姿勢全般について、明瞭に心に入れて頂きたいものがあります。これはハイブリッド取り組み以前の大きな問題です。

心には本来、自己回復力と自己成長力があります。「感情の善悪」を問う姿勢が、その全てを反故に、つまり台無しにして投げ捨ててしまっています。心が自ら自己回復と自己成長の仕組みを働かせようとしている時に、人間が感情の表面の良し悪しを問うことで、全てが全く別の話になってしまうのです。

その根底には、「感情依存」という基本的な問題があります。人がどんな「感情」を抱いたかという目で、その人物の内面と人間性を評価しようとし、自分がどうあれているかの内面と、人間性の豊かさという目標を、自分がどんな「感情」を抱けるかによって評価しようとする姿勢。
そして、行動を「感情」の勢いによって成そうとする姿勢です。

感情はそう都合良いものが簡単に湧いてくれるものではありません。感情の土台となる心の基盤を築くことをおろそかにしたままでは。
そして自分の感情に見入り、前に進む強さを見失い、自己への不信に陥り、人がどう自分を見るかに疑心暗鬼となる中で、「現実」の中では直接見ることのできない「他人の感情」が自分を取り囲む幻想によって、心のバランスを崩してしまいます。


■「感情と行動の分離」の完成へ

「内面感情の善悪を問わない」という指針は、「感情と行動の分離」の説明として最初に言うことでもあります。
しかしそれがなかなか難しいことであるのは先刻承知です。実は、そうした姿勢というものがあるという、今まで考えても見なかった発想をまず頭に入れて頂くことを狙っており、心の底でそれが達成されるのは、「否定価値の放棄」によってになるという段取りになります。

なぜなら、「感情」の代わりになる、より確かな内面の拠り所が、まだ得られていないからです。

だからハイブリッドでは、結局は感情を改善向上することが目的であるこの取り組みにおいて、「自己の重心」から「価値の生み出し」へと、長い道のりを通して、かつ、日常思考の隅々にまで至るその浸透を問う実践を用意しています。
そうでないと、心は変わらないんですね。治癒と成長の仕組みを一通り学んで分かった気分になるのは、運転免許更新の一日講習を受けて、その時だけ安全運転を頭に入れて、戻ると元のままというだけでしかありません。まこの例えはいまいちかも^^;

「感情」の代わりに、何が拠り所になるようになるのか。
それが、「感性」であり、「知性思考」であり、「意志」です。そしてハイブリッドにおいては「未知」を選択した、「信仰」です。


つまり人間の心の機能の、全ての局面をフル活用したものです。一貫した指針の下に。たった一側面、「感情」だけには依存することなく、です。
「感情依存」はまさにこの逆です。「感情」に依存し、心の他の機能の全てを局面を、それに巻き込んでバランスを崩します。


■「ありのままの感情の開放」というスタートへ

人が心の動揺の中で悩む悪感情は、このように実際は、本来は心自身の治癒への機能であるものを、人が「素の思考」では全く正しく対処できない上に、さらに「こんな感情になってはいけない」という否定価値感覚で輪をかけることで、自分で自分の首を絞める、あるいはそれ以上の自虐的事態によって起きているのが実情ということになります。

それを根本的に解除するのは、上述のように、しっかりと「感性」「知性思考」「意志」そして「未知への信仰」がスクラムを組んだものが、この者の内面を支えるものになる、「否定価値の放棄」の扉を開けた時です。

それでも、ここまで治癒と成長の仕組みが分かることは、感情を小手先の思考で良くしようとするのをやめ、ありのままに開放する、また湧き出る感情にありのままに心を晒すという姿勢への感覚を、ハイブリッドにこれから取り組もうとされる方に与えることを期待しています。

まだ出口が見えない苦しみの中で取り組みを始めるのであれば、かくして、明確に言えることがあります。
苦しみがあるのであれば、ありのままに、のたうち回って苦しむのがいいのです。痛みをありのままに痛むのがいい。それを、「こんな苦しみなどない自分」という幻想を是とした時、全てが罠の中で膨張する方向に回りはじめます。


そうして「ありのままの感情の開放」原点として学び始める積み重ねの先に、「感情と行動の分離」で始まったこの取り組みが、「否定価値の放棄」によって、その姿勢の真の獲得に至る時が来るでしょう。

これは、「感情」だけは除いた心の全ての機能を活用して、自分の「感情」は自分が受け止めるという、「魂」と「自分」との2者関係という新たなる「関係性」を、人の心に生み出します。

その後の流れを説明しましょう。「魂の成熟」があるという話はもう大体尽くしています。最後の話は、この後「望み」がどう見えてくるのかという話です。
そこに、ハイブリッドが示す「人生への答え」最大のエッセンスが示されます。


心理学本下巻に向けての考察-246:「未知」への意志と信仰-138 / しまの
No.1507 2008/03/18(Tue) 11:28:51

■「人間性における自立」としての「否定価値の放棄」

「否定価値の放棄」位置づけ説明として、最後に、それが「人間性における自立」でもあることを説明します。

「人間性における自立」であるとは、自らの人間性を成長させ豊かにしていくという歩みが、もはや自分の人間性を人に評価してもらったり、何か絶対的な「あるべき姿」と比較評価するのではない、自らその内面方向性を見出し向う歩みへと入ることを意味します。

これが極めて大きな位置づけになります。「自分が神になるのをやめる」という、その表の意識思考の位置づけの難解さの一方で、ここで「人間性における自立」が成されるという裏の位置づけが、「病んだ心からの治癒と成長」への歩みにとって、これがいよいよその歩みへと実質の歩を踏み出すことを、告げるものになるのです。

実際、「愛における障害」として始まった「病んだ心」は、その後「自らの人間性」への深い惑いと否定感情を残す心の状態として維持される道を歩み始めた先に、ここでその根底からの転換への方向を見出したことになるのです。
実はこの表の意識実践裏の位置づけを同時に見れば、それは実につながりのある一つの事柄なのだという印象も感じます。
つまり、自分が神になろうとするのをやめた時、人間としての本当の成長への歩みが、始まるのです。


■「心の自立」が促す「人間性の成長向上」

「自己の重心」という最大指針の中で始めたハイブリッドの取り組み実践は、「価値の生み出し」が分かり始めるようになった頃には、間違いなく、自分の人間性についても、すでに幾らかの成長変化が生まれ始めていることを、感じさせてくれるものになるはずです。
まずこの内面メカニズムを確認しましょう。それが、この先「人間性における自立」への一歩を確実なものにすることにつながるはずです。

この段階においては、それがまだ「人間性の向上」と言えるようなものであるのかは、本人の意識としても良くは分かりません。まあマイナスの度合いが減ったのを感じ取れるのは間違いないでしょう。
しかし、これだけは間違いないはずです。これはすでに生まれ始めている。それは「人間としての成長」なのだと。

実際それは、「望ましいもの」さらには「あるべきもの」として我々人間が本能的に抱く「人間性」において、次のような向上成長が始まっていることを言うことができます。

3つあります。
1)建設性の増大
2)魂の感情の成長
3)皮相化荒廃化した感情の浄化


1)建設性の増大

外面向けの思考法行動法は建設的にするというのが、日々の積み重ねを通して心の芯にまで浸透してくるにつれて、それは単に外向けの建設性にとどまらず、内面の芯からして、建設的な性質が増大してきます。
まあこれはあまり説明するほどのものではなく、いくら何でもこれだけやりゃー心の底からそっちに行くよう自動化されてくるわな、という感じですね。

思考の全てを「肯定形文法化」するなどはこの良い実践になりますね。思考内容まで変えるなんていう難しい話ではなく、「〜では駄目だ」という思考を、とにかく「〜だといい」という、文法だけでも肯定形に変えればいいのです。自分でチェックするのもそれほど難しくはありません。それを100パーセントまで徹底させる積み重ねをする。これは特に人に向けて書いたり言ったりする文章が、まず徹底した実践対象にできるものになります。
それだけでも、怒る傾向がグっと減るものです。

2)魂の感情の成長

「匿名性思考」に立つ「価値の生み出し」は、「この感情において生きる」という自他未分離感情を旨とする魂の感性に、非常によく馴染むものです。
したがって、「自己の重心」から「価値の生み出し」への取り組みは、魂の感情を基本的に強化していきます。

ただしこの段階では、まだ魂の感情の質的変化はあまり見えません。「豊かな人間性」の根核となる「包含の愛」の感情などは、まだ言うべくもありません。
ですから実質的に、この段階で感じ取れる「自分の人間性の成長向上」において、魂の感情の成長役割はまだあまりないのが実情だと思われます。「心」の層において、何とか外面への思考と行動を建設的にするのが、どう芯にまで浸透するかがメインです。

それでも、「自分の感情を自分で受けとめる」というハイブリッドでの「心の自立」の、深さと広がりを、ぜひ心に刻んで下さい。それは他人との関係をどうするかという惑いとは全く別の、自分自身の「魂」との関係の世界を開くものになるのです。

自分の感情を人に見せるものとするのをやめ、外面行動においては互いが別の人格であることを尊重した行動を取れることをまず目指す。外面向けにはそうした位置づけがある一方、内面における深さと広がりがそこから始まります。
自分の感情を自分で受けとめる」ことを始めた時、その中に、「魂」という、自分の中に存在する、自分とは別の人格のような何かの存在が見えてきます。それが何を望んでいるかを感じ取る先に、それを伝える「魂」の感情が、根底から変化してくるという変化が、始まるんですね。

この後、この考察における最後の話として、「望み」がどう見えてくるのかの話をします。そこに、我々がこの人生を歩むための答えが出てきます。
「魂」が望むものを感じ取った時、それが我々を生かすものになる一方、「魂」は「自分」ではないことが分かってきます。つまり、我々は自分ではないものによって、生かされる存在になるのです。

そうした「心の自立」に、「現実世界」と「魂の世界」という、交わることのない2つの世界を歩み続けるという、「ハイブリッドの世界」への入り口があります。


3)皮相化荒廃化した感情の浄化

この段階で感じ取れる「自分の人間性の向上」の最後の側面は、「皮相化荒廃化した感情」の浄化です。

「皮相化荒廃化した感情」とは、今浮かぶものを言うならば、大きくつあります。
「攻撃性」攻撃破壊に価値を感じ、さらに快を感じる衝動です。
「競争心」他人との比較競争で人を負かすことに優越感を感じ、それを自尊心にする衝動です。これが中心となって、日常の思考が一気に薄っぺらい、「皮相」なものになります。競争心が帯びるすさんだ色彩濃度は、上記「攻撃性」がここに貼り付いたものとして生まれます。
「すさんだ性愛衝動」。性愛が、自己否定感情のへ麻酔と空虚を埋める麻薬のすさんだ色彩を帯びます。これは性愛を刺激されると同時に、内面の空洞が身を削る感覚となって表面化するという、歯車の動きが見える動きをするのもよく観察されます。そうしてすさんだ性愛が、皮相な競争心の中で栄光へと美化されるケースもあるでしょうし、人間性欠損の自己嫌悪感覚と結びついた結果、性愛が密室化した隠微卑猥な色彩を帯びるケースもあります。

僕の体験的考察では、「すさんだ性愛衝動」の浄化は、「前期」段階および「後期」段階で主に起きます。性愛衝動の荒廃化は、特に深刻な心の障害傾向ほど顕著であり、対人関係にまでそれが表に裏に影響を与えるのが、ハイブリッド「前期」段階の取り組みでかなり軽減化するのが一般的です。

で、かなりの落ち着きが出てきた「中期」段階では、性愛衝動の皮相化荒廃化軽度なものが多少残る一方、それはもうあまり対人行動に影響する問題ではなく、焦点はより根本的な人生の生き方と、他人や社会との関係へとなるわけです。心の障害というほどではない一般ケースはここから。

ですから性愛衝動の本格的な皮相化荒廃化とその浄化の話は、ちょっと扱いが別立てになる面が多々あります。まあ今回の心理学本ではあまり踏み込むものではなく、将来機会があればこれに焦点を置いた一冊を書くのもいいかという程度ですね。

「中期」段階軽い皮相化荒廃化を残した性愛衝動は、「後期」に入り、魂の感情が大きく開放されるにつれ、再び劇的なと言えるに近い浄化を起こすようになります。まあ基本的には、魂のすさんだ感情が、性愛衝動にもそのまま反映するメカニズムがあります。
「後期」では、魂が自らの歩みに向う過程で、自らの感情を劇的に浄化させていきます。それが性愛衝動の浄化にも反映されます。
そしてこの過程では、意識実践面では性愛よりも、より根本的な「愛」前面テーマになります。性愛衝動の話はおまけ的になってくる。で性愛衝動の荒廃化と浄化の話は、ちょっと2番手回しになる次第です。


■本人にはメカニズム不明のまま浄化され始める「攻撃性」と「競争心」

ですからこの段階で感じ取れる「自分の人間性の向上」の要素として、特に焦点を当てたいのは、「攻撃性」「競争心」です。それに焦点を当てた、自分の内面感情の理解と、「価値の生み出し」などによる別方向の模索が重要になるわけです。

ただし「価値の生み出し」思考実践などは、あくまで「思考」のレベルで行うものであって、心の根から自動的に湧き出る攻撃衝動や競争心の衝動を、塗り消すものでは必ずしもありません。また攻撃衝動であろうと競争心であろうと、感情そのものを「正そう」という取り組み実践は、ハイブリッドでは一切しません。
外面向けの建設性が心の芯に染みても、心の芯のさらに底から、まだ攻撃衝動や競争心衝動が多少湧き出るという状況が、この段階です。

それでも、その衝動は、間違いなく、以前の強度は減らしているはずです。それは単に心の中で優勢度が減ったのを超えて、その衝動にあえて身を置こうとしても、もうその味が自分にとって意味を成さなくなってきているという、質的根本変化が始まっているのを、感じることができるはずです。

これが、建設的思考が心の芯に浸透したことに加えての、「自分の人間性の向上」の実質的2番目の源泉になるでしょう。


しかし、本人は、こうして始まっている皮相化荒廃化衝動の根底からの浄化が、どんな仕組みで起きているのか、理解できていません。理屈の話よりも、実際の自分において、いつなぜ、こう変化したのかという点で。
自分で理解できない理由があります。同時に、それが取り去られるのが、「否定価値の放棄」になるわけです。

それがあまりにも決定的な話になります。それを知って、また小手先思考に陥る轍も多少は生まれるでしょうが、「否定価値の放棄」の扉をあける場所に近づくことを加速する、良いフィードバックになるでしょう。


心理学本下巻に向けての考察-245:「未知」への意志と信仰-137 / しまの
No.1506 2008/03/17(Mon) 18:17:15

■自己・世界・信仰

「否定価値の放棄」が成せる直前の心の状況というのは、恐らくハイブリッド心理学としても最も難しい話になってくると感じます。「病んだ心」から「健康な心」への過渡期の中でも、最もどっちつかずの段階というメカニズム考察としても難しい話だし、何を手がかりに「否定価値の放棄」という扉を開けるのかの、取り組み実践の意識としてもそうです。

この難しさは、基本的には、「自己の重心」から「価値の生み出し」まで、かなり日常出来事についての実践的思考をテーマにする流れで来たところで、「否定価値の放棄」では話がかなり「信仰」に関わってくるという、テーマの次元変化だと感じます。

実際、「否定価値の放棄」を完全に成した僕自身の思考と、世の普通の人の思考の違いを思い浮かべた時、僕の思考は普通の人からはちょっとブっとんだものかも知れないと感じる面が多々あります。例えば自分の生き方について、比較して考えてみる他者基準というのは、数100万年の人類の歴史が基本基準です。その点現代人の他人は、僕にとって生き方を考える上でかなり参考基準にならない^^; まあこんなラディカルな思考も「否定価値の放棄」を通り過ぎてから次第にはっきり持つようになってきた訳ですが。

でもそれって結局は「人間観」「社会観」であり「人生観」であり、こうした「価値観」の最も背景的大枠を決めるのは「信仰」になってくると思うんですね。

その点、「自己の重心」から「価値の生み出し」そして「否定価値の放棄」という、結局ハイブリッドにおける3頭立て指針となるものは、順に「自己」を、そして「世界」を見て、最後にその全てを総合しての「信仰」を問うという、思考法の実践としても大きな流れとつながりがあるものになると言えると思います。


■「愛」における「未熟性と依存性の隘路」

で難しいのは、そうして最後に出てくる「自分が神になるのをやめる」というバリバリ信仰問題が、「病んだ心」の克服メカニズムとは一見してあまりにも距離が遠いという点があると思います。根本にある問題は何で、「自分が神になるのをやめる」ことがどうその克服につながるのか。

どうなっているのかの、構図を言うことができます。
先のカキコの最後に触れたことから、話が始まります。「心の依存では、理想に届かないものは自分に危害を加えるものという位置づけになってしまう」という話ですね。

実はそれがかなり問題の根本にあるものです。まず、愛されないと、否定攻撃されていると感じてしまうという、かなり基本的情緒性においての問題があります。これは健康な心の発達においてさえ、かなり幼い段階ではそのような傾向があるという「未熟性」と、心を病む要因が介入して、自立を置き去りにした「依存性」が持つものです。

すると、愛されないことで、否定されると感じた相手への敵意の反応が起きるのですが、これを相手に向けることで、求めている愛が与えられないという決定打になるような破壊へと、自ら向ってしまうわけですね。
これは愛を求めている相手との間で怒り否定が頻繁にやり取りされるという姿であり、これを「未熟性と依存性の隘路」と呼んでおくのがいいでしょう。

理想に届かないものが自分にとって一種の危害のように感じられてしまうのも、こうした未熟性と依存性の情緒の上に咲いた花のような、派生メカニズムが考えられます。人に自分を愛させるために自己理想が描かれます。すると理想に満たない自分という「現実」が、自分への悪意攻撃のように位置づけられてしまう。そして、そんな自分を攻撃するわけです。
これは、「理想に満たない自分」「自分に愛が与えられることへの妨害攻撃」になるという情緒論理が働いているということになりますね。


■依存性と「与えられる自尊心」と怒りの蔓延

さらに未熟性と依存性を背景に、「理想に満たないもの」「自尊心への妨害攻撃」になるという情緒論理が生まれます。これは、理想的なものが与えられ理想的なものに囲まれることが自尊心になるという、「与えられる優越」に立った自尊心だからです。

これは自分のことだけではなく、他人のこと、さらには日常出来事の幸運不運といった事柄にまで及ぶようになります。自分に接してくる他人、さらには目に入る他人でさえも、「それが与えられること」に自分の一種の「所属感」の感覚が、依存性によって起きているんですね。ブランド品を身につけるように。でそれが理想に満たないことが許せない

かくして、あまりにも格下と感じる異性に愛を告白されて憤慨したりといった良く見る人間心理や、さらには自国のサッカー選手がオウンゴールしたことに腹を立てて射殺したなんていう、以前外国で実際にあったものとして記憶に残る事件などが生まれたりします。

そうやって、空気にさえも腹を立てるような、あまりにも広範囲の怒りに駆られる人間心理が生まれます。


■問題のたすきがけ迷路

克服の道のりに向けてのターニングポイントは、人がそうして自分や他人や出来事への蔓延した怒りにおおわれている自分を、自分でなんとか脱したいと感じるかどうかから、まず始まることになります。

まあこの段階ではまだハイブリッドが口を出せるものではなく、人それぞれの生い立ち背景などによって、自分の怒り否定傾向を克服したいという動機を持つかどうかという話です。自分が怒り否定を向けることが、愛を求めることと重なっていることを感じる人ほど、その動機は持ちやすいと言えるでしょう。

でここでハイブリッドが登場できるのですが、実に困った状態が起きているのが事実です。

何よりも、「愛を求め敵意を向ける」という隘路が、是が日にでも克服したいものにはなるでしょう。そのためには、まず「心の自立」解決方向性として理解し、愛されることに自尊心が依存している状態に何とか抵抗し、自らによって自尊心を築くことが、隘路を脱するための通り道になります。そのためにはまず、自己理想を「望み」として歩む中で、思考法行動法なども学ぶことです。

しかしその自己理想が絶対化した結果、理想に満たない自分を攻撃する自己処罰感情があまりに酷くなっているんですね。その結果、自己理想に向うことができない「望みの停止」が起きているわけです。これを何とかしなければならない。

ただし、理想の絶対化は、依存性の中で起きています。絶対なるものを手に入れることで、「与えられる」形での愛と自尊心が全て手にはいるという幻想の中にいるわけです。これは基本的に、依存性を全体として減らす必要があります。
そのためには、まず自己理想を「望み」として自ら歩む取り組みがあります。

話が戻っています。「愛を求め敵意を向ける」という隘路を脱したい(A)。
それは愛されることに自尊心を依存しているからです。まず自らによる自尊心を目指すことです。そのためには、まずは自己理想を「望み」として歩むことです(B)。
しかしそれは絶対理想が邪魔をしています。自己処罰への恐怖のため、自己理想へと歩むことができません。絶対理想は依存性と結びついて生まれています。依存性を全体として減らす必要があります(C)。

そのためには、まずは自己理想を「望み」として歩むことです(B)。
自己処罰への恐怖のため、自己理想へと歩むことができません(C)。
絶対理想を解くために依存性を減らす必要があり、まずは自己理想を「望み」として歩むことが必要なのですが、絶対理想からの自己処罰が恐くて進めません。絶対理想はなくしたいのですが、そのために自己理想に向おうとすると、絶対理想が登場します。


■たすきがけで閉じた蓋は全てを緩めた先に開く

これは結局、一つの問題を一つの解決法でこじ開けようとする思考の先に起きることです。こうした思考法の先には、答えは訪れないんですね。

実際、上述は綺麗な3つ巴からはちょっと変形していますが、Aを開けるためにはBをどかす必要がある、BをどかすためにはCをどかすと見た先に、Cの上にAがかぶさっているという、そんな事態にほぼ匹敵することが、心で起きているわけです。
ダンボール箱の底の蓋を、四辺をたすきがけにして閉じる方法を知っていると思います。それを後から開こうとする時、一辺だけを無理に開こうとすると、破れてしまいます。
ダンボール箱の内側から、四辺を同時にゆっくり押して開いてやると、簡単に外せるんですね。

それと同じことが、心の治癒と成長への大きな節目の扉を開けることについて、起きるわけです。
どんなたすきがけ構造かの説明は、ここではやめときましょう。話があまりに複雑になる^^; 言えるのは、それがたすきがけ構造であり、何もない空中から全てに働きかけるという、見えない支点からの作用が必要になるということです。

それがハイブリッドにおいては「信仰」であり、そうして蓋を開く瞬間が、「否定価値の放棄」だということになります。


まあこの考察は、「否定価値の放棄」の直前状態というものを、とりあえずイメージ整理したものです。結局、一つの問題を一つの解決法でという思考の流れでは到達できず、結局ハイブリッドの「前期」「中期」の取り組みスパイラルの繰り返しの中で、総合的に前進していった先に、ピンポイント「神になるのをやめる」という到達点があるというイメージを心に入れて頂ければと思います。

直前状況からの流れについて、もう一つの視点を次に説明します。それが「否定価値の放棄」で何が起きるのかの、治癒メカニズム最後の一枚という感じ。それがはがれて、いよいよ「後期」で全てが見えるようになるという流れです。


心理学本下巻に向けての考察-244:「未知」への意志と信仰-136 / しまの
No.1505 2008/03/14(Fri) 15:24:56

3/16(日)までスキー不在ということで、ちょっと書きなぐりですが、「否定価値の放棄」意識思考そのものまでを書きました。多少誤字脱字言い回しの崩れが残っているかも知れません。まとまった修正はもう下巻原稿の時にということで。


■「心理学的幸福主義」の3軸の交差先にある「否定価値の放棄」

ようやっと「否定価値の放棄」の意識思考そのものを説明できる時がきました。
それは「病んだ心」「健康な心」交差する直接対面の訪れです。それは、「健康な心」がどのような方向において進み、成長していこうとしているものであるのかを見ることによって、何が捉えられ何が捨て去られるものであるのかが、かなり明瞭になるでしょう。

「心理学的幸福主義」について、入門編では「善悪の解体」「自らによる幸福の追求」「科学的世界観」という順序で並べています。まあ話の流れとして、それでいいでしょう。
「否定価値の放棄」においては、その3軸が、これまでの実践を踏まえ、次のような応用形になった3軸というものを考えることができます。
1)「怒り」を捨てる意志
2)サバイバル世界観
3)神の威を借りる傲慢を捨てる


1)「怒り」を捨てる意志

自らによる幸福の追求」からの流れです。「怒り」を捨て、自ら「建設」へ向く意志です。
多くの人は、「怒らない自分」を望みますが、「怒りを捨てる意志」を持つことはなかなかしていないようです。そうして、「怒らない自分」を望み、自分を怒らせる他人を、怒ります
それをやめる意志があるかですね。

「怒るのをやめる意志」を持つとは、全ての事柄について、自分自身の進む先を、最終的に自らの自由意志によって選ぶという、心の自由と強さを選ぶということです。そうであるのならば、「これはあるべきでないことだ」と怒り嘆くのをやめ、それをありのままに受け入れた先の、「では自分はどうする?」という局面の意識を選ぶということです。「これはあるべきでないことだ」と怒り嘆く間、前に進むことはできません。嘆くのをやめた時、前に進むことができます。
自由と強さにおいて自分で前に進むことを選ぶのであれば、意識が切り替わる前の怒り嘆きは、最初っから捨てても同じことです。何があっても最初っから怒り嘆かなくとも、同じことであり、実際にそれは可能なのです。

これは「依存心」と対峙する関係にあります。「依存心」怒り嘆きはお友達です。
怒り嘆くのをやめるからには、自分で自分の進む先を決めることのできる、建設的そして原理原則的な行動ノウハウが必要になります。この習熟の前進によって、「怒るのをやめる意志」が次第に現実味を帯びてくるでしょう。

2)サバイバル世界観

「心理学的幸福主義」の3軸からの総合的なものでもありますが、「善悪の解体」と「科学的世界観」により強く関連があるでしょう。
どれだけの苦境や不遇について、「これはあるべきことではない」という思考を脱することができるか。

この辺で多少敷居が高くなってくるかも知れません。我々はあまりに恵まれた生活を当然と考える思考の中にあるように思われます。何億という地球の歴史何百万年という人間の歴史を壮大に眺める目がお勧めです。参考まで僕の思考では、水が好きな時に飲めることにおいて、かなりの幸運にあると考えます。いつか空気を奪い合う、人間が数を極端に減らす時が訪れます。その時は、こんな心理学をどう考えても、幸せでいるのは難しい。それに比べれば、今我々がどう幸福を感じ取るかは、我々自身の心の技術次第だ、と感じます。

「何でも感謝」というのは、ハイブリッドにはありません。「有難く感じるべきだ」とかも。
そもそもそれは、「与えられる」という依存心の思考なんですね。心の自立と歩調を合わせる世界観においては、全てが連鎖を成すものになります。自分はこの世界を享受する存在であると同時に、この世界を構成する一要素なのです。世界が自分に何をしてくれるという一方向思考は、まだ巣の中にいる雛の思考です。
巣を飛び出し、大自然に解き放たれる思考を持つ。

「社会」が、我々の大自然です。「これはあるべきでないこと」だと幾ら言っても、それが現実に起きたことなのであれば、それはあるという、それだけのことです。
一方社会には原理原則があります。それを良い武器ツールとして、この社会という自然で生き、自らの意志によって、自らの進む先を決める自由において生きる。

3)神の絶対性の威を捨てる

「神」というものをどう考えるかの、根本的、最終的な思考が問われます。「境界の不明瞭な恐怖」というものを抱える、不完全な存在としての人間の広大な思考領域を貫く、その人の根底姿勢としてです。

なぜハイブリッドがこれほど「神」という観念を重視するかと言うと、それは「命」に関わっているからです。そして「命」「愛」にかかわります。心の障害は、基本的に愛の障害です。

我々人間が不完全な存在である限り、「神」という観念が、「命」をつかさどるようなものとして存在し続けることになるでしょう。そして自らの「命」がなぜここにあるのか、そして自らの「命」そのものの「価値」を問う思考があった時、「神」がその人間の思考においてどう位置づけられているかによって、この人間が自らの「命」に感じるものが、かなり異なってくると考えられます。

「神」については3種類の信仰思考の形態があることを説明しました。神を偶像化するもの。神を否定するもの。神を「未知」とするもの。
ハイブリッドでは、明確に、その最後のものを、上述のような科学思考とも矛盾しない、連綿としたつながりのある思考空間を築きあげるものとして、採用します。
「神を信じるか?」という問いで「信じる」「信じない」という返答が出るのであれば、それが上述の信仰形態の1番目2番目に該当します。ハイブリッドの「未知への信仰」では、「神を信じるか?」という問いに、「私は神について何も知らない」とだけ答えます。前2者は、何か神について知っていると言っているようですね。

「自分が神だ」と言うとすれば、それはかなり傲慢なことであるのを誰でも感じると思います。自分を神だと感じるほどに、この人は人間性を損なっていくでしょう。人間の歴史を通して何度か起きた、大量虐殺の悲劇が教える通り。

「神を信じる」こと自体は、あまり「傲慢」という印象はないものです。「神を信じない」という無神論もまあ同じく。
しかしそれは微妙な話です。それは「神」について何かを知っていると言っているのですから。それはやがて、自分が神の代理人だと言うような、神の「絶対性」の威を借りる姿になってきます。それはやはり人間性を損なう姿になっていく可能性が高い。そうしてある教祖大勢の少女を性的な食い物にした事件などが、まだ記憶に新しいですね。

現実の中で、我々人間な不完全な存在であり、完璧や完全というものは、現実にはありません。この「不完全性」をしっかりとわきまえて思考し行動することが、「弱さを知る強さ」という、この社会と人生を生きるための、最も基本的な、人間の歴史を通して先人から伝えられた智慧なのです。
完璧や完全というものはない。「中庸の目」で多面を見て、そこから、生み出していくことです。


■「否定価値の放棄」で取り上げられる「人間性」への否定感情

「健康な心」が、このように前進をします。
そこに、いままでその中で人生を行き続けてきた「否定価値感覚」が、全く異なる2つの心の直接対面として捉えられる瞬間が、訪れます。
「否定価値の放棄」意識思考そのものも引き続き描写しましょう。これ自体はもうかなり単純な問いの検討になってきます。

それは依存心に基づく他人への怒りなどはもうすっかりと抜け出し、実益的な怒りの場面でもなく、優劣評価の基準が外面的な事柄として比較的具体的にあることがら、例えば容姿や能力や収入などのことではなく、「人間性」に関連して起きた自分自身への怒り否定の場面ということになると思います。

僕の場合それは、外に向って積極的に感情表現するような生き生きした覇気に欠け、自分の中に閉じているような、暖かい感情の乏しさ、さらに、人々に対してつながる心がなく、おどおどやびくびくを抱えるような心。そうした自分の心を前にして起きた、自己否定感情でした。
結局、自分は何の役にも立たない人間なのだ..と。


このように、「否定価値の放棄」ターゲットになるのは、「人間性」についての怒り否定です。
それは「愛」という底流を底にしての、「信頼」「忠誠」のようなものについての充足もくしは損ないを、高みから見るものです。


■「自分が神になる」のをやめる時

そうして、状況的には、自分が今までその「病んだ心」において自分に抱え続けることが残っていた最も中心的な自己否定感情が、他の側面においてはほぼ自己否定がなくなっている状態において、心に湧いた時、といいうことになると思います。
だから、この自己否定感情は一体どうゆうことなのか、という極めて大きな節目の、自分への問いになるわけですね。

イメージ的には、目の前のことが全て消え去り、雲の上に赴いた、特別な部屋に入ったかのようです。もちろん「人の目」イメージは完全に消え去っています。自分自身が自分を怒り否定したことだけが、そこにあります。

「神」が一瞬姿を見せます。「お前はなぜそれを否定するのだ?」。そして姿を消します。完全に自分一人に取り残されます。

そこで、自分が自らに下した否定の意味を考えるのです。自分は選択をしたのではないのか?
怒るのをやめ、前に進むことを選ぶ。
「あるべきことでない」ことなどはない。その不完全性を受け入れる。
自分が神になる「絶対性」を掲げるのをやめる。

なぜ「否定価値の放棄」という大転換がその時僕に起きたのかと考えるに、結局のところ、「神のような」という「威光」「威圧」「圧倒」になびく心という未熟状態が、僕のこの時の直前状態では、かなりあったというのが、実は最もピンとくる話です。まあ「DETH NOTE」の「キラ様」のように、自分さまさまかぶれの勢い衝動でものごとを処理しようとする感覚が、あったわけですね。

つまり、3つの視点が重なります。
自分自身の神さま自分さま勢い衝動
不完全性の受容という命題。

そしてもう一つが、自分がその中で苦しみ、不幸をもたらしていた、「自己嫌悪のメカニズム」です。
それが「完全」を求めるという過ちから来るものであるという理屈は、既に頭には入れていました。

「こうなれれば」全てが良くなるはずだ。そうした自己理想というものがあります。それはいいでしょう。確かにそれに近づくことができれば、人に愛され、それが人生を良くしてくれる。この依存幻想は、結局人間の不完全性が最後まで残し持ちます。その中で自分に嘘をつき、自分が壊れていく危機に身をさらして抜け出るのが、「心の自立」への、「不完全性の中の成長」なのです。


■「怒り否定を向けるべき」という基準は誰が定めるか

そのことを見えなくさせたものがあります。「絶対性」という感覚です。絶対なるものがある。自分がそれを決められる。

「お前はなぜそれを否定するのだ?」
何が問題なのかと言うと、「否定の怒り」をそれに向けることです。「それは破壊するべきだ」という感情です。この衝動自体は、「望みの停止」の結果生まれた、破壊に快を感じる荒廃化衝動です。このことはまだ見えていません。ただ、劣ったものへの破壊衝動があります。
またそれを生み出した「望みの停止」における「望み」「愛」であることも、ここではまだ見えていません。

破壊衝動は、この時点では仕方ないものとして存在する。あとの問題は、それを向けるべきだという基準を、自分が定め得るという感覚だけです。それだけが、ここで問えるものになるように思われます。

そして実際そこにあるのは、確かに、価値の低い、望ましくはないものであるのが事実なのです。ならば怒り破壊することが当然ではないのか。
別にそれは自分に危害を与えるものではありません。あまり美味しくない果物がスーバーに並んでいたとしても、わざわざそれを怒り破壊する必要があるのでしょうか。謝罪して代金を払うという、不益をこうむるのは自分自身ですよね。

確かにそれはそうだが、あまりにも程度という問題がある。あまりにも理想に届かないものは、怒るのが当然ではないのか。
ではその基準の境目を、お前は決めることができるというのか。ここまでは受け入れ、存在を善とする。ここから下は受け入れず、存在を悪として、破壊する。そうした境目があるということだ。不完全性の中で、程度においてそうゆう話になる。

ではその境目は、正確にどこにあるのか。それが正確にそこだと、なぜ言えるのか。
確かに自分は不完全だ。自分の考えるその境目は、多少正確さを外れているかもしれない。だがその境目はあるのだから、正確なその位置へと、見る目を良くするという問題だ。

ではその位置がそこだと、誰が決められるのか。人間が決められるのか。
...。


■「悪魔との契約」を破棄する

まあそんな思考過程ですね。

結局、ここで何が起きるのかというと、自分自身が苦しんできた自己否定嫌悪と、「こうなれれば」の先にある熱狂が、実は自分の掲げる自己理想が帯びた「絶対性」という小さな単一のボタンのようなものとして存在するという、直感的な洞察だと思われます。

結局僕を「否定価値の放棄」に導いたのは、ホーナイの言葉でした。何度か引用しましたが、また載せておきましょう。
「人間は無限と絶対を手に入れたいと思いながら、同時に自分を破壊し始めるのだ。栄光を与えることを約束する悪魔と契約を結ぶ時、人は地獄に、己自身の内部にある地獄に、落ちねばならない」

そして、はっと気づいたわけです。
これは、自分が神になるということなのだ!と。

理想を捨てるのではありません。自己理想はほぼそのままです。ただ「絶対性」の感覚だけが、ぽろりと落ちます。


「否定価値の放棄」について説明できるのは、ここまでです。おそらく、取り組まれる方におかれても、テーマ的にはこのようなものを視野にしてのものになると思います。

視点をこの後に移しましょう。まず、一気に「あるべき姿」そのものの大崩壊が始まるように思われます。この後に、人間の心の真実がありのままに見えてくる、これまた長い話が始まるわけです。文面はもう少なくしたい^^;

それを、「否定価値の放棄」が成される前後状況についての、一点だけ追加考察を含めて説明したいと思います。
「別にそれは自分に危害を与えるものではない」という部分ですね。上述では「まあそうだが」という対話が成されたものと暗示していますが、心の依存では、理想に届かないものは自分に危害を加えるものという位置づけになってしまうんですね。だからここでのような問いが成立しないわけです。

そこには、愛を求めた相手を敵として愛を破壊するという、全ての問題の根源を解決していくこの後の歩みと、同じ命題があるはずです。


心理学本下巻に向けての考察-243:「未知」への意志と信仰-135 / しまの
No.1504 2008/03/14(Fri) 11:35:27

■「病んだ心」と「健康な心」の直接対面

「否定価値の放棄」至る過程で見えるものを、ほぼ全て説明し尽くしました。
「否定価値の放棄」そのものを説明しようとした時、やはりそれがどう起きるものであるのか、なぜそのように起きるものであるのかを説明することは、とても難しい出来事であるかのように、それは僕の中にイメージされます。

「出来事」と表現しました。つまり、今まで説明した全てのことがらが心の歯車やその連鎖や、心の土台の種類やその成長変化の流れといったさまざまな「メカニズム」が、まあ一つの装置を目の前のおいて説明するように「それはこのようなものです」と言えるものであるのに対して、「否定価値の放棄」は、そのようにつながりあるメカニズムの話としては、やはり説明できないのを感じます。

それを「実践」として説明しようとしても、これ以外の諸々の「実践」の全てについては、上述のような特定の「メカニズム」の中で実践するものだと説明できます。
自己の重心」しかり。「病んだ心」からスタートするにして、とにかくその心の状態で「自己の重心」思考をしてみます。感情の開放と理解を、その時々の心について、行います。それぞれのつながりは置いといて、とにかくそれができる心の部分の中で、それを実践します。
建設的行動法そして「価値の生み出し」ができるようになってくると、それは「健康な心」の部分で実践するものという感じになります。

「否定価値の放棄」だけは、そのように一つの心の状態の中であるものではなく、言えるのは、「病んだ心」「健康な心」直接交差対面といういうのが起きる、一つの通過点なのであろう、ということです。

他の実践が何度でも繰り返されるものであるのに対して、「否定価値の放棄」だけは、その本当のものは、まあ「本当のもの」ということはそうではない錯覚は何度でもあるだろうがという話なのですが(^^;)、その本当のものは一生を通じて1回のみであることが想定されます。実際僕の体験でもそうでした。
そして、その前後で心のあり方があまりにも異なる。

まあそれが「心の自立」が成される大きな節目ということになるのでしょう。ごく一般的な話として「自立」というものは、存在のあり方がそのとで全く異なる、たった一度きりの変わり目を持ちます。それは必ずしも成したいと感じた時に思考法行動法として成せるようなものではなく、個体の成長の摂理という見えないものが働いた、一つの「訪れ」のようなものとして起きるものであることはイメージできるかと思います。


■「信仰」における選択転換

もう一つ、「否定価値の放棄」とはどのような「訪れ」なのかの側面を言いますと、それは「信仰」における選択転換です。

つまり「境界が不明瞭な恐怖」をめぐって我々がどう思考するのかという、広大な思考領域への姿勢として、それは問われます。実はこの領域領域は、我々の「境界が明瞭」なものごとへの思考としての日常思考よりも、実は大きな広がりがあるような気もしてきます。

「境界が明瞭」なものごとへの思考としての日常思考では、原理原則的な思考によって、建設的な方向へと具体的な思考を検討する実践が、何度でも繰り返されます。具体的な事柄については、思考法によって、マイナス思考からプラス思考に転換する実践が、何度でも繰り返されるでしょうし、何度でも繰り返すことが大切です。

それによって、「否定することに価値がある」と感じる感覚とは、根本的に異なる感覚が、我々の心に芽を出し、育ち始めます。
そして一つの訪れとして、後者が、前者である「否定価値感覚」そのものと、直接対面する時が、訪れます。

直接対面するとは、それはもうその「否定価値感覚」が対象にする具体的事柄についてのことではない、ということです。「否定価値感覚」は、目の前の自分や他人の何かについて、また「現実」について怒り否定を向けるでしょう。
そこに、新しい未知の感覚直接対面するとは、その目の前のことどう望ましくないかを「否定価値感覚」と討議するということでは、ないのです。「否定価値感覚」というものが存在することそのものを、問題にするのです。なぜ怒りに価値を感じるというお前はあるのか、と。


■「否定価値感覚」を捨てるのは「感情」でも「感覚」でもない我々自身

もう一つ、「否定価値の放棄」の選択転換のあり方を説明するならば、そこで「放棄される」ものは「否定価値感覚」として、「放棄する」側とは何かという話です。

それについて、何かいい言葉はないかと、何度か考えました。「肯定価値感覚」というようなものでは確かにあるでしょう。しかしこっちの感覚は、それが芽生え育った時、それはもう「感覚」とことさら呼ぶに及ばないような、心のあまりにも自然な状態そのもののことになるのです。「肯定価値感覚がある」と、ことさら言うような「感覚」があるわけでは、ありません。
その上にあるのは、「喜び」「楽しみ」「感動」といった、心の幸福の基本的源泉となる感情たちです。これは意識して「ある」ものと感じます。しかしそれを生み出す「肯定価値感覚」なるものがあるという感覚は、もうありません。ただ、自分が楽しみ、喜び、感動します。

逆に言えば、「否定価値感覚」は、「自分」とは別物として、存在するのです。「悪魔との契約」を交わして、手にいれた特別品と言えるでしょう。

それを「放棄する」側とは、それをことさら「肯定価値感覚」などと呼ぶようなものではない。
これはさらに、否定価値の放棄とは、否定価値感覚に対抗できるような肯定的な感情や感覚を、自分の中に見出し手にいれる、ということではない、ということです。

おそらく多くの方が、「否定価値の放棄」をそのようなものとしてイメージし、自分の中に肯定的な感情や感覚が湧き出ないかと、じっと見入っているかも知れません。
実はこれが「感情依存」という、問題の大きな根源でもあります。「感情依存」そのものは、病んだ心の歯車というよりも、まあ心の成長と幸福についての大勘違いのご本尊とでも言うべきものですね^^; そこに、否定価値感覚が結びついたところに、人生の道をそれて来た根源があったということになります。
この、人生を狂わせてきた齟齬(「そご」。かみ合わないこと。^^;)のあり方について、否定価値の放棄選択を見終えたあと、再度振り返ってみましょう。それが前進へのとても良いフィードバックになるはずです。

「否定価値感覚」を「捨て去る」側とは、「そうできるような感情や感覚」を自分の中に見出すということでは、ないのです。そう捉えている限り、自分そのものは変化の一歩を踏み出さないままです。

「否定価値感覚」を「捨て去る」側とは、我々自身です。それはもう「何か」として、捉えるものではないのです。あらゆる形において、「捉える」「見出す」ということに「主体と対象」という二極が生まれるのですが、我々自身であるとは、捉え見出す「対象」のことではなく、それを成す主体の根源です。捉える対象ではなく、捉えようとする、自分自身の主体なのです。敢えてそれを「捉える」ものを見る虫メガネで見たなら、それは「無」となります。まあ哲学的な話ですね。


そのように、「否定価値感覚」を打ち破れるような「感情」や「感覚」が自分の中に有難く湧き出るというのではなく、我々自身が、ある方向に向うことにおいて、「信仰」の次元において、「否定価値感覚」に対面して、それを捨て去る

向う方向とは、「心理学的幸福主義」の3軸です。そのそれぞれの側面を見た時、「否定価値の放棄」が、「信仰」の次元において「否定価値感覚」を捨て去ることだという位置づけが、おおよそ定義されるものになるでしょう。


心理学本下巻に向けての考察-242:「未知」への意志と信仰-134 / しまの
No.1503 2008/03/14(Fri) 00:53:45

■「怒りを捨てる」という原点へ

「怒りの有害性」という、現代人がその中で自ら「不幸になるための生き方」を選んでいる、「正しければ怒る」という巨大なる勘違いを指摘することから、ハイブリッドの長い話(^^;)が始まりました。

それは「自己の重心」と「価値の生み出し」というごく外面向けの実践を主軸とする「心の自立」への取り組みを経て、「怒りの根本放棄」という最初の課題へと、立ち戻ることになります。そして「否定価値の放棄」によって、ハイブリッドが示す歩みへの姿勢が、完成するのです。

この一大絵巻の流れがはっきり僕自身に見えたのは、結局それを突き詰めても「否定価値の放棄」は見えない、「怒りのタイプ」分類作業を再度してみてでした。
「依存心」に基づく他人への頻繁な怒りは、ここでの話には全くならない。「自己の重心」という振り出し段階の問題である。
「心の自立」へとまさに歩もうとした時に、自分の中に現れる怒り否定の中に、「否定価値の放棄」で根本的な放棄の対象になる怒りがある。それは何か。正真の敵を倒すための怒りはそれではない。


■「人に受け止めてもらう」怒り..

手がかりを探すのは難しいことではなく、身の回りで見聞きできる世の人の怒りを見れば、「否定価値の放棄」でまさに捨て去るようなものがすぐに浮かびます。
それは例えば、いかにも自分が良識の人間だという文調で、「怒りを感じます」「憤りを感じます」と締められた新聞の読者投稿です。でアナタはどうしたいの。自分でそのために箸一本でも動かす気があるの?と感じられるような類のもの。

似たものが、目の前のTVを見れば流れてます。深刻そうな顔をしたキャスターが、「持てる者が持たざる者へ分け与えるという心がないのか」、と。で僕は、えっ?と感じる訳です。そうゆうアンタは何かするの?と。明らかにそのキャスターは納税番付に載るような人です。まべつにいいんだけど^^;

別にいいんだけど、僕がもしそうゆう発言をするような場合、つまり「恵まれた者が恵まれない者に分け与えるべきだ」怒るほどに感じる話だとすれば、僕にとってそれは自分で血を流してその行動をするということなんだけど..とか浮かぶ。

別の番組では某宮崎県の東国原知事が(某はいらない^^;)、識者と、「怒らなければ!」「怒りますよ!」という真剣な会話をしています。これについては「否定価値の放棄」てんで方向違いな話のわけで。まあぜひ頑張って〜頂戴。


■「心の依存」をすると「自分」が壊れていく

ま上記はどーでもいいというか、そのまま本には載せようのないブログ調の散文ですが、書ける話は書いておくということで、考察整理の過程をそのまま書いています。
要は、問題になってくるのは、怒りの思考や感情という表面ではなく、その底に潜む病んだ何かの要因の有無のような話に、なってくるということです。

それが、「自分の気持ちを人に受け止めさせる」という「心の依存」の中で、それが「怒り」である時、それが極めて端的な濃さを帯びてきます。
「怒り」「憤り」という「気持ち」を人に見せる。人がそれを受け取り、この人の代わりに、足を動かし血を流すことを、それは求めているのです。そうして、「味方に向ける怒り」がある。

この構図を浮き彫りにするにつれて、それが僕を来歴の中で今の自分へと歩ませたものだったのだ、という感慨を、まず感じました。
僕は「怒り」が嫌いだった、と..。とても「怒り」が嫌いだった。この感情自体がまた「怒り」だという自己撞着を解くために、結局ここまで心理学を探求する結果になったという感なのですが、何よりも僕が嫌だったのは、「怒り」を人に受け取らせるとは、基本的に相手を傷つけるということなのですが、それが結局「愛」を求めることとしてあるという、あまりの不実ともいうべきものだったと感じます。

そして何のことはなく、それが自分の中にある苦しみが、最後まで自分を導いたのだと感じた次第です。
愛を求める相手に、敵への感情を向け、傷つけようとする感情という..。

「心の依存」に、その構図が基本的にあります。
先に、「心の依存」には出口のない心の罠があると書きましたが、それどころの問題ではないのが実は事実のようです。「心の罠」とは、それが「傲慢で利己的な善」につながるという話です。それどころではありません。
自分の気持ちを人に受け止めさせ、人に足を動かさせ血を流させるからには、その「気持ち」が「完全に正しい」気持ちでないとならないでしょう。愛されるためであるのなら、なおさらです。

そして、人に受け取らせるからにはこんな気持ちでいられなければと、「自己理想像」が描かれ、それがこの人を破壊し始めるのです。
人間の業である「自意識」が入り込むと、どうしてもそこに「嘘」が入り込んでくるのです。愛されるために、私はこんな気持ちなのですと言うのですが、それが嘘であった時、全てが破綻します。自ら求める愛を破壊します。それは嘘であってはならない。「自意識」が邪魔になる。自分の本当の「気持ち」が分からなくなってくるわけです。

つまりそうして、「心の依存」の中では、「自分」が壊れていくのです。


■真の「人間の心の業」はどこにあるのか

この人間の心の業と言えるメカニズムを知って、「心の依存は駄目だ」という思考が出てくるかも知れません。この問題を自分自身で抱えた経験のない、そこそこ心が健康に育った良識の人は、「心の依存じゃ駄目だ」と人を諭そうとするでしょう。

そうではないんです。全く逆なんですね。
自分が壊れていくことを救うのは、本人しかいないんです。そしてその克服力が、本性としてあるんです。本来であれば、それに委ねるのが望ましい。それが自然に現れる。それが「心の自立」になるのです。
それを、「心の依存じゃ駄目だ」と言われてそれに従うという心の使い方をした途端、まさに「心の依存」になるという、全てがパラドックスの自己撞着の中で、真の解決の方向性が完全に見えなくなります。そうして「自己破壊」が決定的になります。そして「自己破壊」を決定づけた相手に、憎悪を向けることになるわけです。

これは二者間の間の出来事として表現しましたが、これが自己の内部で起きているというのが、心を病むという問題の根核です。

なぜこんなことが起きてしまうのか。そこに、「人間の心に住む悪魔」と呼ぶべき不実と傲慢の心の歯車があるということになります。
大まかにイメージして頂くならば、人間の心の成長「心の依存」から「心の自立」への遷移という流れにあるとして、そのほとんど全てが病む要素のない、健全なものです。しかし「心の依存」の側に、ほんの一個だけ、ほんの小さな、おかしな歯車がある。そこに、人間の心に住む悪魔が巣くっている。仕掛けの動きが一度その歯車にかかると、一気に全てが逆転した闇の宇宙に飛んでしまう。そんなイメージです。


問題を知ることと、問題を克服することとは、大分離れたことがらのようです。それが全てにおける真理なのかは何とも分かりませんが、少なくともハイブリッドにおいては、そうです。
心に住む悪魔に、どんなに怒り否定を向けても、まさにそれが心に住む悪魔の思うつぼです。

答えはシンプルです。「否定価値の放棄」思考実践そのものは、こうして解説してきた諸々をその道のりとして踏まえて、「心理学的幸福主義」3つの車軸つまり「自らによる幸福の追求」「善悪の解体」「科学的世界観」によって成されるものになると思われます。
この3つの車軸の交差する場所に、それは捉えられます。あとはそれを選択するかどうかだけです。こ説明を次に。


心理学本下巻に向けての考察-241:「未知」への意志と信仰-133 / しまの
No.1502 2008/03/13(Thu) 12:00:04

■「心の自立」取り組みの完成

さて「否定価値の放棄」に至るまでの実践前進指標などの考察を全て出しつくした感がありますが、そうやって肝心要「否定価値の放棄」の思考実践そのものをじっくり考えたところ、それがやはり「心の自立」の歩みの仕上げ的な実践だと言えそうなのが、次第により明瞭になってきます。

つまり、ハイブリッドの実践とは「心の自立」への取り組みであり、大きな指針が「自己の重心」「価値の生み出し」そして「否定価値の放棄」と3頭立てになるものだということになります。
そして、「自己の重心」「価値の生み出し」が主に外面向けの思考法により重きを置いているのに対して、最後の「否定価値の放棄」が、いよいよ心の問題の根底からの克服転換として、内面向けの思考に重きを置くことになります。

仕上げとして至る内面向け思考とは、ハイブリッドの根幹を貫く、極めて単純な課題の達成です。
「怒りを捨てる」ということです。ハイブリッドの全ての話が始まる、「怒り」という問題へ、最後に再び戻り、その克服を完成させるのです。


■「否定価値の放棄」のターゲットになる怒り否定とは

参考まで、きのう夜やや寝付けないモードになる感じで「否定価値の放棄」の思考実践そのものを整理した流れを説明しておきましょう。
まず僕は先のカキコまでの流れを受け、「否定価値の放棄」のターゲットになる「否定価値感覚」というものを純粋に抽出するという実践の流れをまず考えることから始めました。

全ての怒り否定が、「否定価値の放棄」のターゲットになるわけではありません。
まず僕の体験上言えるのは、それは自分自身への怒り否定です。他人への怒り否定では、「否定価値の放棄」を問う以外の、あまりにも多くの尾ひれがついているんですね。でそれをまず切り分けることを考えてみた。

「否定価値の放棄」を問えるのは、自分自身への怒り否定におおわれた時だろう。ただしもう外面行動については問題はなくなった段階である。原理原則的にはもう問題ない。だが自分自身への怒り否定がある。それは人間として不満足な自分への怒り否定である。
ただ自分への怒り否定なら、もう全ての人のハイブリッド取り組みの入り口からしてあるわけで、「否定価値の放棄」を問えるものとそうでないものを切り分けるというのは、かなり難題になってきます。


■「依存心」による「怒り」

まあこのアプローチでは結局「否定価値の放棄」そのものまでは行けないのですが、「心の自立」と「怒りの克服」の関係を理解する上では多少参考になる話になりますので、書いておきましょう。

まず、他人への怒り否定は除かれます。
他人への怒りの多くは、「心の依存」つまり「依存心」によってもたらされます。これは直感的に分かるのではないかと思いますが、頻繁な怒りの中で生きる人というのは、まず依存心がとても強い人です。

「心の依存」つまり「自分の気持ちを人が受け取って良くしてくれる」という心の構図にある場合、人は自分を棚に上げたまま、人にばかり「あるべき姿」になることを求めるようになります。
心の表面には、自分の依存心は全く見えないままにです。その怒り否定の中では、ただ善悪の問題だけが見えます。そしてその善悪の問題を思考する自分の姿が、まるで心を自立しているかのように、立派に見えてくるわけです。
そして他人を怒ります。

思考の内容は、しばしばとても高尚になります。この上ない良識と、人間と社会への鋭敏な問題意識に飾られたその思考は、しばしば「心を病む」という問題をまったく含んでいないかのようにさえ見えることがあります。実際、世の人がそうして抱く怒り否定思考が、「心を病む」という問題を含むタイプのものか、それともそれのない純粋な社会意識のタイプのものか、僕の考える限り見分ける基準はありません

しかしもしそれが「心を病む」という問題を含むタイプのものである時、本当にそこにあるのは、人間と社会へのその問題意識が、実は本人自身にさえあまり重要ではなく、その根底にあるのは、その人が内面に見えない自己への絶望を抱え、この人の人生の全てを、この人自身の代わりに他人が良くしてくれないと生きて行けないという問題なのです。

それを本人が見分ける、というのはあまり実践課題にできる話ではありません。問題は、本人が自らを救う意志を持つかどうかなのです。

ですから、問題はやはり、「心の自立」への動機と意志を持つかになってきます。ハイブリッドはそこから始まります。

そして実際に「心の自立」へと向かい、依存心を減らしていくならば、他人への怒りは自ずと減るはずなのです。自分から愛することができるという「心の自立」を目指し、自分の気持ちを自分で受けとめること、自分を豊かにする道へと自分で歩むことに前進するほどに、他人の善悪はあまり問題ではなくなってくるのです。

依存心を底に持った善悪怒り思考特徴を言っておきましょう。「思考」の表面を見ただけでは分からないのですが、「感情」の表面から、その違いが少しづつ見えてきます。
依存心を底にした善悪怒り思考は、「嫉妬」と重なっています。それは自分が特別に与えられるという要求が叶えられないことへの怒りです。人が良い思いをしていることへの怒りです。
純粋な社会問題意識の場合、それはなしです。

そうした怒り否定思考を見つけて、「それがいけない」という減算法は、無意味です。
もしそれに取り組みたいのであれば、ハイブリッドが示す実践は、その問題はもう取り上げずに、「自己の重心」という最初の振り出しから歩むことです。そこから着実地道に、「価値の生み出し」を経て、「否定価値の放棄」を問う、「心の自立」へと。


■「否定価値の放棄」でも捨て去れられない怒り

「否定価値の放棄」でターゲットにはならない怒りについて、さらに参考まで言っておきましょう。
2つあります。

「実益」的な怒り。まあ山でクマに出会った時に用いる怒りですね^^;
また大まかにいって、クマに限らず(^^;)本当の敵に対処する時には怒りを使うことになるでしょう。完全にこっちを踏みにじることによって向こうの利益が成り立つという状況が、まず大自然では善悪抜きにありますし、人間社会でも犯罪被害などはそう。下手すると「仕事」においてもそんな場面があり得ますが、まあ大抵は原理原則を用いれば怒りを使うほどではないでしょう。

つまり、「怒り」は基本的に「敵」に向けるものです。
依存心では、「怒り」が味方に向けるものになります。そこに完全なる不実があります。これが実は否定価値の放棄、そして怒りの根本放棄につながってくる話になります。


その先のつながりはこの後として、「実益的な怒り」考慮点を加えておけば、それを味方に対して使うのが役に立つ、かなり特殊な状況があります。同じものが、自分自身への怒りとして実益となる場合があります。
それは自己破壊への怒りです。最後にはこれが必要になる場面があります。何をやっているのだ、と。

これは子供がわんぱくでものを壊したり暴力に及んだらやはりそうせざるを得ない時もあるでしょう。病んだ心への取り組みの場合、この怒りを用いる場面は、あっても生涯に1度か2度といった話になるでしょう。

僕が相談援助をしている中で、この怒りを使ったことが、一度だけあります。サイトの「ケーススタディ」で触れた、僕が押しかけ援助をした唯一の女性です。心理状況が悪化し、自分のすることの全てが無意味だと自棄的な嘆き思考に陥った彼女のブログに、僕はあからさまな怒りを見せる言葉を書いたわけです。自分が一体どれだけのことができたかを知っているのは、君自身ではないのかと。一体このブログをどれだけの人が見ていると思う?と。
まあその言葉は一瞬彼女の目を覚まさせることができたのではあるのですが、結局ハイブリッドもまだ体系化していない時期の話です。「救い得なかった魂」として、いつまでも僕の記憶に残る女性です。多少この話の続きを下巻に載せますので、その後どんな経緯だったのか興味ある方は、下巻原稿の方で。


■「ありのままの人間としての怒り」へと還る

ちょっと話が膨らみましたが、「否定価値の放棄」でターゲットにはならない怒りのもう一つは、「嘘」への怒りです。
これは「否定価値の放棄」の選択で除外するというより、「否定価値の放棄」を成しても、僕の体験を考慮しても、消えません
また、消えないことに大きな意味があります。

どうゆうことかと言うと、「病んだ心」の根底には「自分についた嘘」があり、それに対する自らの怒りが、この人の全ての自己否定感情の背景にはあります。
しかし本人は自己否定感情を塗り消すための自己理想を描き、それに成りきることに駆られている意識土台の中にあります。そしてそこに含まれる「嘘」への怒りに、苦しみ続けるのです。そこには完全に行き先を塞がれた袋小路があります。

「否定価値の放棄」は、この袋小路を塞いだ壁を、取り去る選択になるんですね。

袋小路を塞いだ壁とは、自らが自分に嘘をつき、自らそれに怒りを向け、その怒りから逃れようと自己理想を描き再び自分に嘘をつくという、出口のないメビウスの輪そのものではありません。このメビウスの輪をありのままに直視した時、それは痛みの中にパラドックスの崩壊を起こすのです。そして、全てが消え去ります。まっさらな「未知」が現れます。
それが、「不完全性の中の成長」なのです。

袋小路を塞いだ壁とは、それがメビウスの輪ではない、きれいな輪だと偽装して見せている、ちょっとしたトリックなのです。
それは「絶対なる理想」なのだと。それを追い駆ければいいのだと。そしてそれに成り切ることに成功さえすれば、全ての栄光が約束されるのだと。怒りに自己撞着などはなく、その絶対理想に届かないなら自分を怒れと。恐れている怒りは、その絶対理想に届かないお前を他人が怒っているのだと。それには反撃して、他人を破壊しろ、と。


■人間の心に住む悪魔との対話へ

ここに、全ての問題の根核があります。そこに、「心の自立」への「不完全性の中の成長」の道のりに、ほんの薄い目隠しをして、全く別の道へと人の心に囁く、人間の心に住む悪魔があります。

「否定価値の放棄」とは、人が来歴における躓きの中で行ってしまった、この「悪魔との契約」を、破棄する選択なのです。
だから、それは「自らが神になる過ち」を放棄するというような意識思考になってくる。

そうして自らが神になろうとするのをやめ、ありのままに、自分の人間としての望みを開放し、その中で自分が自らについた嘘を晒すことで、「自分についた嘘への怒り」という、ありのままの人間としての本来の怒りに戻ることで、それは痛みの中に消えていくのです。
「自分についた嘘」とは、自分を破壊するものだからです。上の「実益的な怒り」とつながってきますね。

そしてこれが「原罪」に関わってくるところに、「神」という観念が問われる根源があります。この先は「否定価値の放棄」意識思考そのものの解説で説明しましょう。


いずれにせよ、こうして怒りのタイプ分類する中に、かなり根核に迫るものが見えてくる一方で、それをいくら突き詰めても、「否定価値の放棄」の扉は開かれません。「絶対理想と怒りを捨てよう」などと考えた瞬間、全く同じ、心の悪魔が仕組んだトリックが再びかぶせられてしまうんですね。なんたる巧妙さという感じで。

成すのは、「心の自立」なのです。それ以外のことを考えた時、隠されたメビウスの輪に再びそれていきます。
その地道な最初の一歩がどこにあるのかを見据えた先に、初めて、人間の心に住む悪魔が仕組んだ巧妙な罠を解き外す、根本的治癒成長変化への扉を開けることのできる場所が見えてきます。


心理学本下巻に向けての考察-240:「未知」への意志と信仰-132 / しまの
No.1501 2008/03/12(Wed) 18:04:30

■「心の自立」抜きの「否定価値の放棄」はあるか?

「否定価値の放棄」に至るまでの実践、そしてその前進の指標を、大体説明しました。
一言でいえば、「価値の生み出し」によって自尊心が支えられるようになり、「競争心」が減り「善悪」について多面的な考え方ができるようになってきた段階です。

これはさらに一言でいえば、自分が人生で取り組んで来た「病んだ心」の部分が、もうそれはないものであるかのような顔をして生きることも可能かとさえ思えるように、自分の足でこの人生を歩くことができるようになった段階とも言えます。
しかしそれは消えてはいません。心はあまり満たされているものではなく、ごく実務的な面では人からの信頼を得ることができる自分を感じても、人間としては何か距離を置かれるようなものを、まだ人との間に感じる部分がある。そんな状態と言えるでしょう。

「自己の重心」「価値の生み出し」といった実践の根幹については、体得ができてないのを感じるのであれば、恐らくそれに取り組まない限り、先には行けないものと考えられます。それは基本的に、人生を生きるための自分の考えを持てていない状態です。

「否定価値の放棄」の命題そのものは、実は「自己の重心」「価値の生み出し」の前進状態は、直接は問いません「善悪」に関連した、とてもピンポイントの命題を問題にするからです。
しかし「自己の重心」「価値の生み出し」なしに、「否定価値の放棄」をするというのがどうゆう話になるのか、ちょっと僕にはあま想像できません。ま敢えて想像してみると、全て他人任せで全てオーケーというような話ですね。これは確かに人間の姿としてあり得るものではあるのでしょうが、まあ一種のペット状態で生きる姿であり、「病んだ心からの治癒と成長」というのとは大分違う話になってくるでしょう。


■人間の心の業の対岸としての「価値の生み出し」

ただしこの考察はあながち空論でもなく、例えば子供に対して「否定価値の放棄」的なものの見方考え方を教えることがあり得るか、という話も考え得るわけです。

大いにあり得るでしょう。ものごとの善悪を一面的に決めつけるのではない、柔軟な思考を、子供に育てさせたい。そして否定することではなく、価値を認めることのできる心に育って欲しい。その先に、自分から愛することのできる人間になる成長があると感じるわけです。

そう書いた表現の中に、「自己の重心」「価値の生み出し」は出ています。
「自己の重心」は、自分自身でものごとをしっかりと考えるということです。その中に、「否定価値の放棄」として、自分が神だと考える思考をやめるという、自分の思考としての選択があります。これはもう不可分です。一体です。

「価値の生み出し」はどうか。これは必ずしも「否定価値の放棄」と一体ではありません。「否定価値の放棄」自体は、「価値の生み出し」とはあくまでいったん別の命題として、「否定価値感覚」単独に取り上げます。

それでも「価値の生み出し」が、やはり「否定価値の放棄」がターゲットにする人間の心の業、「否定価値感覚」対岸にあるものとして、向うべき方向を示すものになる、という関係にあります。価値を否定するのではなく、認める心。そして生み出して行く心

ですから、「自己の重心」というのは、もうそれを前進させないと「否定価値の放棄」は話にならない。「人が」「人が」という思考にとどまるだけです。
「価値の生み出し」については、実践的には、どれだけ前進させる必要があるかは、何とも言えません。
まあ適宜、問えそうな時に問うのがいいでしょう。問えない状態を感じたら、やはり「価値の生み出し」という、「否定価値の放棄」で同時に向う対岸が視界にないから問えないという可能性を検討してみるのがいいでしょう。


と言うことで、「否定価値感覚」単独に抽出するというのが、「否定価値の放棄」の選択を問う作業前段となります。そこからの説明を次に。


心理学本下巻に向けての考察-239:「未知」への意志と信仰-131 / しまの
No.1500 2008/03/12(Wed) 10:44:12

■「心の自立」への歩みとして

「否定価値の放棄」直前段階までについて、ざっと押さえるべき話を書きつらねてみましたが、またちょっとまとめましょう。

まず、最も大きな方向性として、「心の自立」を目指すというのがあります。全てがその中にあります。「否定価値の放棄」という大きな節目も、その一つの仕上げのような形で存在するという全体イメージを、しっかりと持っておくのがいいでしょう。

「心の自立」への思考法として、「自己の重心」と「価値の生み出し」という大きな指針があります。
まずそれができていない状態からの取り組みとは、一体どのようなものかの実際を簡潔に説明しました。それは小手先の思考で感情を良くしようとするようなものではなく、死に物狂いになってでも、自分に動揺をもたらした出来事についての、原理原則的な分析をしながら、身をもって現実場面の重みに心を晒して、自分の進む方向を自分で決められるための、心の羅針盤を獲得していく、「成長」の積み重ねであることを説明しました。

そして実はそれ以前に重大なのが、そもそも「心の自立」を目指すという動機意志を持てるかだ、と説明しました。そしてこの最も重大な別れ道については、もうハイブリッドとしてはその分岐路をできるだけ分かりやすく説明するだけで、本人が「心の自立」を目指す気になれるかどうかについては、もう手出しができない、と説明しました。

「心の自立」とは、自分の気持ちは自分で受けとめることが、できるということです。それが内面であり、外面においては、自ら、自分の生活と人生を豊かにするために歩むことができる、ということです。
「心の依存」では、これが両方とも逆になります。自分の気持ちが人に受け止められ、「理解してもらう」ことによって、自分の生活と人生を豊かにすることがらが人から与えられる、という構図の中に生きる心の姿になります。

この違いをまず理解して、「心の自立」を目指すことがお勧めです。

「心の依存」には、出口のない心の罠が潜んでいます。「大切なのは気持ち」と、「外面よりも内面」と考えるまではまあいいのですが、「正しいのは自分なのに」と考えて怒りに駆られるような心の動きの底に、いつしか、「自分こそがいい思いをするべき」という、「傲慢で利己的な善」が歯車を回し始めるメカニズムがあるのです。それが、「大切な」はずの「気持ち」を、いつしか「なってはいけない気持ち」ばかりに変えてしまう。
そして自分を責めるのですが、自分を責めることにおいて「善」になろうとする裏に、再び「傲慢で利己的な善」が登場するという、出口のないループさえそこには存在します。最後には、怒り否定だけが心を洪水のように覆うことが必然となるメカニズムです。

「心の自立」には、全く別の世界があります。この2つの世界を橋渡しするための思考の歯車は、ありません。思考をどう変えるかの違いではなく、存在のあり方そのものをどう変えるかの話なのです。否、それはもう「どう変えるかで」さえなく、全ての「命」に設計された摂理として、心に働いている変化への力を、どう目をそらすことなく受け止めるかの問題なのです。

自分の気持ちがどう人に受け取られかという最初の歯車が回り始めたら、もう全てがその世界だけで動きます。自分がどんな「気持ち」でいられるかばかりに目が向き、ありのままの他者と社会そして自分自身を見る目が失われていきます。
「大切なのは気持ち」と考える中で、「ちゃんと自立できた気持ち」にならなければ、と考えるかも知れません。でも同じです。そんな「気持ち」になれれば、人が自分に良くしてくれて、人生が何か良くなるという漠然とした空想の中にいる限り、結局何も見えていないのです。
「心の依存」の中で、どんなに「心の自立ができた自分」を空想して、その通りになろうと考えても、実際に「心の自立」をした心がどんなものであるのかは、「心の依存」の中にある心は、知ることはできません。


■「心の自立」への実践

そうした、間に橋渡しのない別の世界を目指すための実践を、ハイブリッドではとても明確に定義しました。

「自己の重心」「人が」から、「では自分ではどう考え何を望むのか?」へ。そうした「自己の重心」に立った思考法の先で前に進むための具体的な思考法行動法として、「建設的行動法」「原理原則立脚型行動法」があります。

それを基本として、より積極的に「心の自立」に向う、それはつまりそれぞれの人がそれぞれの唯一無二の人生へと向うということですが、そのための実践が「価値の生み出し」です。「価値」を「人物」からはもう切り離して捉えていく。その中で自分で魅力を感じるものへと、向っていく。

そうした取り組み実践の歩みが生み出す成長変化の、幾つかの指標を言いました。
価値の生み出し」は、「見識」というものを得ることにつながっていきます。それが自尊心になってきます。実際に自分が価値を生み出すことができればさらに自尊心が増します。
「神的な」思考を脱することです。現実問題については、科学で確かめようのある観念だけを使う。「威光」「圧倒」「権威」というものにあまり影響を受けない思考を育てる。
「弱さを知る強さ」を知って下さい。「うまくできる」という物差しで先にいける距離が、「うまくできる」ことだと考えると、社会では失敗します。最近そんな例が某有名ボクサー兄弟の一人にもありましたね。自分の限界や弱点を人にも晒した上で生み出していくということの、ストレスのない効率性とでも言うものを、実際の体験を通して学んで下さい。まあこれを卑下に陥ることなく実行するのが、建設的行動法原理原則立脚型行動法を駆使した、かなり高度な習得課題になってきます。

どれも小手先の思考法や精神論ではなく、しっかりと中身のある内容になりますので、実際の対人行動や社会行動の場面で、実践を積み重ねてみて下さい。そうした思考法行動法で具体的に良く分からない場面などについては、メール相談などご利用下さい(←営業^^;)


■多面を持つ一つの本質としての「否定価値の放棄」

「否定価値の放棄」自体は、この後説明するように、その問いはとても単純な2つから成るように考えています。
神になろうとするのをやめる」そして「破壊を捨て建設だけを選ぶ」。

これがもう新たに出てきた思考実践ではなく、「心の自立」を目指した上述のような実践の全てを貫く、何かあまりにも決定的な思考の転換として、「心の自立」への歩みがある一定段階に熟した時に成される。
まず言えるのはそれです。

一方、そこで問われる「神になるのをやめる」「建設だけを選ぶ」という命題が変化を及ぼす心の範囲あまりの大きさについては、なぜそれがこうした特定段階においてのみ成され得て、なぜそれほど大きな変化の広がりを生むのかは、一つの心の視野だけではもう捉えられないものである感がしている次第です。

つまり、「否定価値の放棄」とは、思考法の問題でもあるが単にそれだけでもなく、信仰の選択でもあるが単にそれだけでもなく、内面変化状況の結果でもあるが単にそれだけでもなく、生きる姿勢の選択でもあるが単にそれだけでもなく、その全てでもあることだという、その本質核心を捉えることの極めて難しい心の出来事だという話になります。
まあそれが「多面を同時に持ち、目で見ることのできるのは一度に一面だが、一つとして存在する本質」という、「中庸の目」によって捉えられるものの究極のものということになるでしょう。


■「競争心」の減少

ここではそうした多面の一つとして、上述の「自己の重心」「価値の生み出し」「神的な思考を脱する」「弱さを知る強さ」といった実践的側面に加えて、「心の自立」へのハイブリッドの歩みの目安となるものを言っておきましょう。
それらの比較的外面向けの「実践」が生み出す内面に生まれる結果として、次のものがある程度生まれ始めていることが、「否定価値の放棄」を問う段階の目安になるというものです。

一つは、「比較競争心」の減少です。これは最初の内面取り組みである「感情の開放と理解」において、自己理解のための基本的な感情ベクトルである「」「自尊心」「恐怖の克服」における、その人の総合的なあり方を示すものと言えます。
上述のような取り組みの結果として、「競争心」は必ず減少します。なぜなら、愛や自尊心を得るための材料が、他人との比較競争とはまったく別のところで獲得され始めるからです。

「競争心」「気持ちが大切」という感覚においてはもちろん醜い部類に入るので、人はどうすれば自分の心から競争心をなくせるかと、しばしば一生懸命考えます。そして「思いやり」や「真心」が大切だと考えるでしょう。
人間の心は、そんな単純なものではありません。少なくとも「心を病む」という問題を業として抱える限り。
自分の心から競争心をなくそうという思考が、競争心の中で動くわけです。「気持ち」の表面だけは「競争心」の色彩を何とか薄めることに多少成功する形においてです。
しかしそれで本当に競争心が消えた訳ではないことが、この人の意識全体奇妙な変形を帯びていることに表れてきます。硬直した善悪思考や、不思議と怒り否定ばかりに動く思考として。

自分の心から競争心をなくしたい。大いに結構でしょう。ハイブリッドがそのためのものとすることは、上述のように決まっています。「自己の重心」と「価値の生み出し」を実践とする、「心の自立」への取り組みです。それは自分の心から競争心が消えないかと、じっと心に見入ることではありません。自分の外に目を向けることです。
「価値の生み出し」の実践までをすれば、必ず競争心は減ります。なぜなら、人と比較して勝てることよりも、はるかに魅力と価値のあるものが手に入るからです。


■「善悪思考」の変化

「否定価値の放棄」を問える目安としてもう一つ。「善悪思考」についても、中学生の道徳の授業のような道徳思考から、対等な個人の関係とそれぞれの人間を尊重する自由社会の理想に立った、「原理原則」による善悪思考へと、大きく舵取り変更が成されていることが指標になります。目安は、自分自身でこの違いがはっきりと分かることです。

昨日執筆の合間に眺めたTVでは、主に女性の生活トラブルを取り上げる『幸せになりたい』とかの番組で、こんなのが流れていました。

「正しいことははっきり言う」タイプの若い主婦。確かに言っていることは正しいものではあるのですが、言われた相手の気持ちを考慮したり、関係する人の意見も考慮すると言った、ハイブリッド的にはごく基本的な建設的行動ができていません。本人は自覚していないようですが、全ての言葉の冒頭に、常に「正しいのは私なんですけど、」と付けているような雰囲気の話し振りの人です^^;
で、表面ではしぶしぶこの主婦の言葉を聞いていた回りの主婦達が、やがてこの主婦に総スカンを向け始めます。子供達の集団登下校の送り迎えなどでも、この主婦の親子だけもうカヤの外にして行く。

その主婦は、困惑と苛立ちを感じ始めながらも、せめて自分の子供はと、近所の子供に「これからも○○ちゃんと遊んであげてね」と言うと、「もう○○ちゃんとは遊んじゃ駄目って、お母さんが..」と。近所の主婦達の自分への無視攻撃がついに子供にまでというこの事態を知るに至ったその主婦は、怒り心頭
ナレーションが『○○さんは一言言わずにはいられませんでした』とあったところで、僕としては「こりゃ駄目だ」と他のチャンネルヘ、という次第^^;
自らさらに関係を悪化させる怒り破壊の言動に行ったであろうことは、もう見届けるに及びません。

ハイブリッドの建設的対人行動法原理原則立脚型行動法で、この主婦のような状況が避けられることは、ここではもう具体的解説は不要かと思います(じゃないって?^^;)。
詳しい話は省略するとして、もう基本的にこの主婦がその中にいる道徳善悪思考と、ハイブリッドの原理原則立脚型の善悪思考は、ものごとの善悪判断そのものの違いよりも、それをどう建設的に現実の向上につなげるかという精神において、別世界にあるものになります。
この原稿が下巻本の終わりの方に出てくるとして、その違いを分かることが、この本で説明したことの実践が進んだことの目安になります、てな感じになります。


■「包括的な善悪思考」へ

一言でいえば、「包括的な善悪思考」ができるようになることが目標と言えます。
中学校の授業のような善悪道徳もいいでしょう。でも、それとは多少次元を異にする「原理原則」というものもあります。それは我々人間の行動をより豊かに、より洗練されたものにする役割を持っています。それは必ずしもものごとを白黒の善悪に区別するものではありません。

大自然の中では、中学校の授業のような善悪道徳の構図が当てはまらない面があります。そこに「善悪」というものはあまりなく、それぞれの命がそれぞれの命を尽くすことの中に、全ての理(ことわり)が生まれてきます。
しかしそこで「善悪」があまりないとは言っても、全くの「無法」の様子があるのではなく、全ての命に重みがある姿に、「善悪」の源泉となる何かがあることを、言葉ではどう表現したらいいのかは分かりませんが、感じ取ることができるでしょうか。

これら全てが視界に入ってくることが、目安になります。

「性善説vs性悪説」の議論について、どう考えますか?もし「攻撃性が人間の本性」だと考え、「自分は性悪説だ」と考えるのであれば、それはまず自分自身の攻撃性について対処できていない可能性が高い。
先に説明したような、自らの攻撃性を感情分析によって解きほぐし解除していくような実践が、通り道になります。
さらに行動法も加えることで、他人の攻撃性への対処感覚も、かなり変化してくるでしょう。最終的には、「攻撃的な相手」として生理的嫌悪感を感じていたような相手に対しても、建設的行動ができるようになってくることが、この段階の目安になります。

ハイブリッド自身は、「性善説vs性悪説」の議論については、最終的にはその議論そのものがあまりに視点が貧弱であり不毛なものと考えます。
一つは、「自明論的性善説」という話になります。本性が望むものを「善」とするならば、本性が向うものとは「善」だ。これはほとんど言葉の繰り返しに過ぎない話です。そもそも「本性は悪」という概念が自明論的にいって矛盾しています。
しかし実はさらにそれで話が終わらず、人間は自らの本性に反するものを、自らの本性の中に含み持っている。これが実は最終的な真実と言えそうです。人間は人間性において不完全な存在だというのが、そこから出てくる。

この、「本性に反する本性」「人間性における不完全性」のより細かい正体を、「否定価値の放棄」そのものの思考選択の説明でこの後明らかにします。


■「愛における自立」という根底軸

いずれにせよ、上述の主婦の例などで、善悪思考に関連して何よりも大きいのは、その人が「愛」を、「正しければ与えられる」ものとして、「怒り」の中で相手に要求するという心の状態にあることです。

それが「心の依存」にある時の、「愛」の論理になります。そこには、愛されなかった挫折がやがて怒りに変わるという、の話も出して触れた根源的問題と、「正しければ愛されるはずだ」という、「魂」がその出生の中で抱いた「あるべき世界」という論理の問題が、凝縮されています。

「心の自立」の中で、は別の論理の中で現れます。正しければ愛されるのではなく、自ら愛する者が、その愛と共鳴して起きる愛を得ます。
ただしこの表現はまだ誤解を招く要素を含んでいます。「自ら愛することによって、愛を得る」といような意識が実際にあるとすれば、それはやはり愛における依存の中にある心において動く意識です。

「愛における自立」では、「愛」は「得る」ものではありません。なぜなら、「愛における自立」では、「愛」が自分になるからです。だからその先それによって「愛」を「得る」という意識要素は、もうありません。
これは言葉で表現しても実に分かりにくい話であり、感性で理解する話になってきます。それでも、この後に「望みの見え方」について、さらに分析的な説明をします。そこでもう少し分かってくる話ができるかも知れません。


■「魂の自立」を支えるための「心の自立」を成す「否定価値の放棄」

そうして「心の自立」をめぐる多面をたどってきた中で、最後の「愛における自立」が、かなり「否定価値の放棄」根核に近づいてくるという印象を感じます。
「愛における自立」に近い、「愛」に関連してとても力強い立ち上がりとも言えるものが、「否定価値の放棄」の中で起きるのです。

ただし真の「愛における自立」は、まだ「否定価値の放棄」では成されません。
「愛における自立」が本当に達成されるのは、「魂の自立」によってです。これは「否定価値の放棄」から始まる「後期」つまり「魂の望みへの歩み」の中で、魂の愛への望みが開放され、その看取りと、自分についた嘘を晒す痛みと、原罪への許しが同時に起きる、根本的治癒成長体験を節目として起きます。

「否定価値の放棄」は、その「魂の自立」を、「心」が支えるための、「心」の旅立ちなのです。

それが「神になるのをやめる」「建設だけを選ぶ」こととして成されるとは、どうゆうことか。
否、より本質は、「否定破壊することに価値を感じる」ことが、「自らが神になる」ことだという、特定のマイナス側面をピンポイントにターゲットとするのが、「否定価値の放棄」になると考えています。

それは「善悪」に深く関係します。「否定価値の放棄」とは、我々人間が、我々人間自身の善悪を決めることができるという、「絶対性」の観念を、放棄することなのです。
それが「愛」とどう関係するのか。


この最後のつながりは、「否定価値の放棄」思考内容の説明の後に、再び考察しましょう。
実際、「否定価値の放棄」そのものは、これら全てのつながりが意識の表面には全く見えないまま、「自ら神になろうとする誤り」という、ここまでの流れからはまた距離を置いた、特別な単独の思考選択になるように思われます。

「心の自立」という壮大な流れを眼下にして、あたかも「心」「神」との対話をするために雲上へと赴く思考選択であるかのように。


心理学本下巻に向けての考察-238:「未知」への意志と信仰-130 / しまの
No.1499 2008/03/11(Tue) 12:10:38

■中期実践-4:「否定価値の放棄」を問う

「中期実践」として、ここまで
中期実践-1:「価値の生み出し」の実践と体得
中期実践-2:「自分が損なったもの」の明瞭化
中期実践-3:「神の威光」への依存性の脱却

と説明してあります。その流れとしてここでは「中期実践-4」と書いておきますが、実質的には、「中期」実践の大枠は、「自己の重心」に引き続いての「価値の生み出し」であり、そしてそれまでの集大成として「否定価値の放棄」があるだけです。

自分が損なったものの明瞭化」については、先のカキコのように、まず外面における建設的思考法行動法に習熟し、「価値の生み出し」に向えば、もし病んだ心にまつわる問題がないのであれば、人生は確実に豊かになり社会生活も成功に向うでしょう。
それでもなお残る問題がある時、それはより深い内面の問題が残されているということであり、また深い内面の問題を最初から感じるのであれば、そのように外面問題とは切り分けられるよう「価値の生み出し」までを学ぶのが順序ということです。

でそれは、外面行動についはほぼOKであるものの、人の目を前に動揺する感情とは、自分が何を問題と感じているのかを、「自己の重心」において把握する取り組みです。
であれば、それは自然と「自分が損なったもの」を自ら明確化させるものになるわけです。ですからこれはもう特別に実践項目としてあげるようなものではなくなってくる。


■「神のような」という感覚観念への取り組み再確認

「神のような」という感覚や観念への取り組みは、極めて重要です。ひとことで言えば、いかに「現実」というものをありのままに正確に見ることのできる目を持つか、ということにおいてです。

科学的な論理思考を捨てた、安易な「神頼み」的な思考や、「占い」「縁起かつぎ」的な、ものごとを非科学的に安易に理解しようとする絶対論理。そうしたものにおける情緒的な趣を求めることについてはあまり否定するものではありませんが、「現実」を自分が対処すべき相手として位置づけた場面においては、そうした思考法は致命的な、足元をすくうものになりかねません。
現実的科学的な知恵を失うという面と、「現実を生きる」ことを失い「空想に生きる」という心の基本的な健康からそれていく姿という、2面においてです。

「神のような」という観念をしばしば伴う「圧倒」「威圧」や、あまりの素晴らしさにひれ伏したくなるような感情といった、互いが対等な個人として接するのとは別次元の、人間の間の法外な上下関係の感覚や観念の有無に注意して下さい。
それは互いが対等な個人であることを尊重する、これからの社会理想に相応しくない、力による征服や、ご主人と奴隷といった隷従関係など人間性を損なったものを、対人関係社会行動に忍び込ませる基本的な心理的源泉です。

「威光」「威圧」そして「権威」というものに弱い人ほど、自らを容易にストレスに置きやすいという、一見つながりのないメカニズムがあります。
理屈によってではなく、「圧倒力」「勢い」によって自分が動かされると感じるのをそのまま、自分が他人や外界に対しても影響力を持つことへの期待が、意識するしないを超えて、もう身体レベルで働いてしまうのですね。
ストレスが嫌であれば、「理屈抜きに」という形で働く感覚という、ストレスの基本的な意識土台から丁寧に検討するのが克服への近道になります。

怒りに駆られる自分を、その姿については醜いからと自分を責める一方、実は怒りの威圧力で相手をねじ伏せることに大いなる価値を心底では抱いているのが、まず大抵の人の実態です。
優しさを重視する多くの人が、実に攻撃的に(^^;)その価値観を抱いています。「優しさがなければ生きていく資格がない」とか。その言葉が一番優しくないと思うんですけど^^; 人の攻撃性に怒る人は、その時自分がいかに攻撃的になっているか、自覚していないんですね。


■「現実場面」での現実科学的思考の徹底

現実場面の中で「神的な」感覚観念が出てくるとき、それはまず間違いなく、法外な怒り嘆き恐怖の感情と結びつくものになっています。世の中で起きる最も無残なテロ銃乱射などの事件を起こす人物には、大抵「神」についての歪んだ思考がつきものです。
そうした思考の先には、「心理障害」よりも一段階悪化した「精神障害」の世界が近づいてくることが、漠然とイメージできるのではないかと思います。

現実場面については、科学の思考に徹底することを、強くお勧めします。僕は子供の頃から人並み外れた科学思考だったと思いますが、それでも、30代半ば頃、自分の心の障害を根本的に克服するために、科学的思考のギヤを意識して徹底的に数段階高めたことを良く憶えています。
別に難しい科学のことではなく、日常生活で目の前のことについて、自分の中にある思考の歯車のうち、科学で確かめようのある観念のみで思考する歯車を使うという、ただそれだけのことなのです。


■自分の価値観思考の明確化

そのように、まずは日々の思考において、自分が一体どんな価値観と思考法によってものごとに対処しようとしているのかを、自分でしっかり把握するのは、「前期」段階からの取り組みでもあります。

まあ自分が一体何を考えているのかを、まず自分でしっかり把握することからですね。自己の重心が失われ人の思考にどう合わせるかばかりになっているケースでは、しばしば自分が一体何を思考しているのか、自分でも良く分かっていないまま思考しているような、支離滅裂な思考がしばしば現れます。これは比較的深刻なケースで観察されます。

深刻なケースも、あまり深刻でないケースも、ほぼ共通して見られるのは、自分で自覚していない攻撃性です。

これは人から悪く見られることへの懸念や恐怖を抱くところには、ほぼ間違いなく存在します。他人からの攻撃にただ恐怖を感じるのが心の表面に見えるのですが、実は「他人からの攻撃」をはるかに上回る攻撃性を、この人自身が抱いていることが明るみになるのは、本人の内面の力が増大し、他者からの攻撃への恐怖が減少した瞬間です。
突如、とんでもない攻撃的な自分の姿が、本人自身の意識に、ありありと映されます。これはハイブリッドの「感情分析」的な取り組み実践になってきますが、大抵本人も驚くようなものになります。

実は、他人の攻撃への恐怖大きな原因は、攻撃を受けた自分に出現する自らの巨大な怒り攻撃性によって自己コントロールを失ってしまうことへの恐怖という、深層心理メカニズムがあります。
また、他人から悪く見られるイメージも、何らかのきっかけで人からあまり良く見られないイメージに対して、一度内部で巨大な怒り攻撃性が生まれ、さらに他人がそれを見て怒り嫌悪で応じるというイメージ連鎖が、意識下で起きており、最後のものが最終的に本人の意識表面での、自分を悪く見る他人のイメージになるというメカニズムが正解です。

このメカニズムを理解し、じっくりと自分の中に流れるイメージの中の攻撃性の応報膨張を取り外してしていき、ものごとの発端となったのは一体何かを探ると、それは実に些細なもの、もしくは他人との間で実際にあったことではなく、この人自身の中で自分に抱いた自己イメージが発端であることが判明したりします。

こうして、自分の思考過程やイメージの連鎖過程をじっくり把握するのが「感情分析」です。これは何よりも「自己不明」、つまり自分の心の動きが自分でも分からないことが、元からある悪感情にさらに上乗せする動揺を生むという、悪循環膨張を解除してくれます。
それだけでも、かなり内面の安定と内面の力の回復が起きるのです。


■生きる姿勢の心底からの選択問い

まずはそのように、自分が一体何を感じ、何を考えているのか、自分で知るというのが、基本中の基本
その上で、惑うことのない答え「価値の生み出し」にあることを問う歩みが、ここまでの道のりになります。

自分の生き方を選択する問いは、自分の感情をありのままに開放することに立って行わなければなりません。
それが人に「私はこう考えているんです」ポーズのように見せるための思考を練る作業になった時、それはもはや心の底に働きかける力を、全く持ちません。
自分が本当に何を感じているのかが分かってくる「自己不明の解消」が、それだけでも内面の力を回復増大させます。すると実は自分が実に攻撃的な、「この世は全て競争」というような感情を抱いていることを自覚する可能性が、誰においてもかなり高い。

その感情に立って、本当に自分の人生がこの先行くのかと、真剣に問うのです。
建前の思考は、この取り組みにおいてはなしです。「望ましい」方向へと自分の心が向いてくれないのを感じても、大いにオッケーです。そうした真剣な問いに心が置かれたこと自体が、実は心の底が他の方向性を模索し始めていることの兆しなのです。意識の表面にはそんな素振りが全く見えないままにです。

そしてやがて、全く未知の感覚が現れているのを自覚する時が来ます。そして再びまた、同じ問いを問うのです。すると今度は、全く異なる思考が可能になっている自分を自覚するでしょう。


■「弱さを知る強さ」へ

そのように、何度も似たようなスパイラルを繰り返す中で、内面は除々に変化していきます。この辺が多少時間がかかる部分であり、年単位自分の変化を自覚することが多少必要になるでしょう。

その中でしっかりと見据えたいのが、「弱さを知る強さ」です。
それが「価値の生み出し」とがっしりとスクラムを組む、相棒のような指針になります。なぜなら、「価値の生み出し」とは常に、「あるべき」完全な姿を描き、その高みから現実を見下ろすという形ではなく、ありのままの現実からスタートすることに、「生み出す」ものが現れるものだからです。そして、スタート地点となる「ありのままの現実」には常に不完全性があるからです。完全な強さはなく、我々は必ず何らかの弱さを持つということです。

そこにおいて、ものごとにうまく対処するとは、いかに自分がうまくできるか、いかに自分が強いかという、物差しの先へといく距離のことだと考えるか。それとも、弱点や欠点をありのままに晒し、その制約を示した上で生み出していくことに、「ものごとにうまく対処する」ことの真の姿を見出すか。

これは「仕事」場面においては鉄則とも言える話です。相手に良い顔を見せたいという思いだけに流され、「できます」「できます」という言葉しかいえなくなった人がじきにどうなるのかは、多少の社会経験をこなした人であれば、目をつぶっていても分かる話です。限界や制約を正しく認識せず、うまく行かなくなる。仕事を山のように抱えて、自分から潰れていく。いい顔を見せようとするがあまり、結局回りに迷惑をかけるようなことになります。

そんな中でさらに、「過労で倒れれば許してもらえるか」と考える人も世には沢山いるようです。
何かが根本的にズレています。その人は、人に「いい印象」を与えたいという、人の目を重視する思考にあるのですが、実は本当に人の目を尊重しているのではありません。あまりにも独り善がりの「自分のための人の目」になっているんですね。


■「自分のための人の目」という心の罠

まあちょっと話が寄り道になりますが、そうして気にする「人の目」とは、そこでの「仕事への人の目」というよりは、実はそうして「自分のための人の目」を抱いているという、この人の「偽りの自己中心性」という全体のあり方への怒り嫌悪の目だというような話になってきます。だから「過労で倒れれることによって許してもらう」といった発想が生まれてくるわけです。仕事の面での悪さを許してもらうことではなく、実は自分の人間としてのあり方を許してもらう必要があるという感情の虜になっているわけです。

回りの人には、その人が自分で勝手に仕事を抱え、自分から潰れていながら、その誤りさえ今だに理解していない、としか見えません。
当然です。この人が逃れようとしている「罪」は、もともと他人との間で、現実の世界の中で、起きているのではないからです。
真に恐れているもの、そして惑い続けている「罪」「罰」は、自分自身の内部にあるということになります。それがメカニズムです。

先日TVで見た「世界仰天ニュース」で、見栄を張り自分はWHOの医師だと自分の家族を20年に渡り欺いて生活していた男が、嘘で固めた生活が妻にばれ、妻と幼い子供2人を殺害して家に放火し自分はその被害者を演じた、なんて話が出ていました。
その男の語った言葉が、人間のこの心の闇のメカニズムあまりに強烈に象徴していたのが、決して忘れようもなく残っています。
「絶望される恐怖」。それに駆られたと言うのです。
相手に絶望されることが恐ろしくて、その相手を殺したのです。

人に絶望されるのが恐ろしいという前に、自分自身にとって自分はどうなのか。この「自己の重心」を回復した思考を一つでもこの男が真剣に問うたならば、おそらく事態は別のものになっていたでしょう。
もちろんそこには、喪失を原点として生きることに、心の神秘なる力があるという、心理学の知恵も添える必要が出てくるでしょうが。

根底には、人が通常の感情や思考意識体験できる許容範囲を超えた「感情を超えた恐怖」つまり「感情の膿」があったというのが、ハイブリッドからの解釈になります。
それは論理の通じない恐怖であり、「命」の根幹に触れる恐怖です。
その男はその脅威が自分の内部にではなく、「人の目」という外部にあるという「思考」を練り上げることによって、まあそれが人間の「素の思考」ということなのですが、「命」に触れるその恐怖から逃れようと、他の命を消滅させるという破壊へと走ったのです。


■つながりのない谷間を飛び越える

そこには、人間の心を、ただ「破壊」だけに駆り立てる、心の罠があります。
それが「感情の膿」という、「感情」という意識の形さえ取り得ない悪質な恐怖感情の塊が、脳の中で意識を歪めており、このメカニズムを理解した上でただそれを流す「感情の膿の放出」を経て、きれいに根本解消するものであるなどというメカニズムは、こうして流れを追ってきたこの段階では、全く見えません。

あるのはただ、「あるべき」ものがあり、それを妨げ自分を「破滅」へ向わせる「悪意」が、この世界にあるという切迫した感情が映された意識だけです。

一方、ハイブリッド取り組みの「後期」段階になると、全てが見えるようになります。「愛」「魂」の、さらには「命」の願いであり、それがまず願った「一体化」の愛を自分が妨げたという「罪」と、それに下される「罰」への恐怖があること。「命」の願いに対応する部分において、その恐怖はもはや「感情」という体裁さえ取らない、身体的な恐怖状態になるものであること。

しかしハイブリッドの「未知への信仰」において、「神」はこの「一体化の愛との分離」を「罪」ではなく、「自立」への旅立ちとして許し、この怯える魂に「生き続ける」ことを指図したものとして受け入れ、これをただ流した時、心に根本的な変化成長への歯車が同時に作用する。それがそのまま見えることになります。
それは一体化の愛の喪失と分離の悲哀と、自分についた嘘が晒される痛みと、それが愛のためにあった嘘であることが、一体化の愛への願いを看取ることの中で、ただこの人間の内部で消え去っていくという姿です。
その後に、「包含の愛」という未知の感情が現れます。

ただ「あるべき」ものと「破滅」と「悪意」が見えるこの段階から、そうした根本変化が起きる段階の間には、つながりのない谷間があります。
飛び越えるのは、こうした心のメカニズムが見えて、解く方向に行くという形には、できません。

飛び越えるのは、「破壊」と「建設」のどちらを選ぶのかという、ハイブリッドの基本的な問いへの、最終的な選択によってになります。


心理学本下巻に向けての考察-237:「未知」への意志と信仰-129 / しまの
No.1498 2008/03/10(Mon) 14:36:24

■終章-16:「ハイブリッドの世界」への旅立ち

さて、あとはもう最後の言葉まで一直線で書いて行きたいと思います。

「否定価値の放棄」とは、これまで流れを追ってきたハイブリッドの取り組み実践の、いわば集大成として、自らが歩むこの道が何でありどこに向うかのかを、心底において自らに刻みつける、「選択」なのだと言えます。
それが「否定価値の放棄」を説明する、最終的な位置づけにしたいものになります。

つまりこれまでの全ての取り組み実践が、「準備」の過程として位置付けられます。そして「否定価値の放棄」によって、ハイブリッドの示す世界への歩みが、いよいよ本当に始まることになります。
それが、「魂の世界」「現実世界」という、最後まで交わることのない2つの世界を歩み続けるという、「ハイブリッドの世界」への旅立ちになるわけです。

ですから、「否定価値の放棄」とは、決して善悪道徳についての一つの思想として断片的に考えるのではなく、あくまで、「人が」ではなく「では自分では?」という「自己の重心」、そして「人物」から離れて「価値」を捉える「価値の生み出し」という基本指針の中で、「破壊から建設へ」という生き方に取り組む実践として、問われるべきものです。
同時に、その歩みが自らの中に生み出し始めている「人間の成長」が、この先何に向うものであるのかを、はっきりと見据える「選択」として問われてこそ、意味のあるものになると言うことができます。

そしてそれが向う先とは、我々人間自身の「人間性」に関する惑いに対する答えになるものであるわけです。

ここではそれを、まず問いの内容テーマと思考選択という意識実践面について説明し、次にその治癒メカニズムとしての意味を説明し、それをさらに意識実践面にプラスアルファしてフィードバックするという、3段階で解説したいと思います。


■自らの「人間性」への自分自身の目

自己の重心」に立ち、「価値の生み出し」に向うことで、我々は「人の目」にはほとんど依存しない自尊心の獲得へと向います。

「人物」からは離れていく思考の中で「価値」を捉えることで、またそうして捉えた「価値」を自らが生み出していくことにおいて、もはや誰に依存することもなく、我々は「価値を認めることのできる心」を得ていき、そして現実において自ら価値を生み出すことに習熟するにつれて、自分自身が自分自身にとって価値のある存在だという、誰に認められることも必要としない自尊心を、心に芽生えさせることができます。

しかしこれが病んだ心からの治癒と成長の歩みの中にある時、根本的な問題ほとんど手付かずのまま残されています。
それは「魂」出生の来歴において受けた「生からの拒絶」にまつわる、魂の挫折の感情であり、根源的自己否定感情です。

これは、我々が対人行動社会行動のごく外面においては、揺ぎない建設的行動ができるようになり、そのあり方には自尊心も感じられるようになってきた一方、感情は必ずしも安定したものではなく、相変わらずの「人の目感性」による動揺感情が起き続けているような状態です。
動揺は、外面行動についてのものではなく、内面の何かについてのものであることが、より明瞭になってきます。

そうなってきた段階が、このハイブリッドの集大成となる選択を問う段階に近づいたことの目安であり、またそうなれること、つまり内面動揺はそのままでも外面行動には自尊心を感じられるような状況を、まずは目標にして「自己の重心」そして「価値の生み出し」の取り組み実践をして頂きたいということになります。

何度も言っていますように、これがになるのが、ハイブリッドの取り組み実践を実際にはまだほとんどしていないスタート状態です。
外面は駄目でも内面はきれいに、と、自分の感情が良くなるようにとじっと自分の内面だけに見入り、結局のところ、感情に動揺をもたらす他人を怒り、感情が良くならない自分を責めます。美しい内面を表すような振る舞いでいたいというその思いとは全く裏腹に、この様子の全体が、とても独り善がりで、その人自身にとって美しくない結果になるのが必然というメカニズムがあります。
そこを、「感情と行動の分離」によって、内面感情は問わず、外面において建設的であることから、始めるわけです。そうして、外面において建設的であることについて、まず自信といえるものを得ることです。そこから、いよいよ内面への本当の取り組みが始まるわけです。

これは、我々が我々自身の外面行動についての、人の目に依存しない自分自身の目を獲得することであり、それを心の安全のための碇としてしっかり降ろした上で、今度は、自分自身の内面についての、人の目に依存しない自分自身の目を持つことに向うということです。
自分自身の内面についての自分自身の目とは、自分自身の「人間性」についての目です。


■「心」よりも深いところにある「人間性」の根本源泉

これは一言でいえば、「外面はOKだが内面はNGであり、それを自分自身だけが見つめている」とでもいうような状況です。
実際のところ、「否定価値の放棄」の選択を問える状態としてこうして浮き彫りにした姿は、かなり特殊な姿です。

でも、それが僕をここまで導いたのだと、まずは感慨を感じます。僕の場合、最初っからそれがあった。
つまり、もう完全に「人の目」によって解決できない何かがあることを、僕は前半生の中で重い十字架のように背負った時間を経て、ここに来ました。
それはつまり、自分自身との間でしか解決できない何かが、あるということになるのでしょう。

世の人は、それとは違う姿勢の中で、人生を送ります。人にどう見られるかの外面だけを追い続ける人生か、重要なのは外面ではなく内面だと、内面の理想を描くばかりで、実際にはそうなれるわけでもなく、現実を怒る人生を送る。もしくは内面が重要だと、世を捨てるような生活を考える人も出てきます。
そうした姿をイメージして感じる印象とは、「人間性」というものについての根源的な心の領域から、ぶ厚い蓋をして触れることのない表層だけで生きているという印象です。

そんな「人間性の根源」というようなものがあるのか。どこにあるのか。
外面については「建設的であること」という答えがあります。ただしそれは内面の深いところ全てにまで及ぶものでは、あまりありません。そうして残る問題についても、「怒る」ことをやめた時、問題の根源が見えてくるのかも知れません。


■「人間性における不完全性」と人間の姿勢の矛盾

もう一つの視点で言うならば、世の人の「人間性」に対する、とても矛盾した態度にも、一つの鍵があると言えるでしょう。

我々人間には、確かに「人間性」として「あるべき」ものと感じるものがあり、それを「姿」として描こうとする、本能があるようです。「否定価値の放棄」はそれを捨ててしまおうとするようなものでは、さらさらありません。「人間性」というのはやはり「あるべき」もの、否、我々が望み続ける価値となるでしょう。

一方、人間は不完全な存在であり、完璧な人間というのは存在しないという話に、大抵の人は同意します。
それは「人間性」についても大体同じことです。「完璧な人間性」を備えた人間というのは、そうそういるものではありません。というか、存在しないような気さえします。つまり我々人間は、人間性においてかなり不完全な存在だということです。
だから、怒ります。他人や自分を。

しかし何とも変な話があります。我々人間が人間性においてかなり不完全な存在だということは、我々の中には、人間性を損なうものが何か、はっきりとあるということです。
しかし、自分自身の中で自分自身の人間性を損なっているものを、そのまま直視して認めるということが、人間には全然できていません。

そもそも大抵からして、人の人間性については怒るのですが、自分の人間性が悪く見られることについて、人は我慢できません。人から自分の人間性の欠点を言われ、それを「自己の重心」において自分の考えで、実際何がどう自分の人間性を損なっているものとして存在しているかと、認める思考ができないわけです。
これはおそらく意識努力を超えて、意識がその根本に触れる前にはじかれてしまうかのような姿においてです。
大抵の場合は、自分に向き合う以前に、まず自分の人間性の欠点を言った、相手の人間性の低さを怒ります。

自分の人間性についての自己嫌悪感情にとらわれる時、人は何が自分の人間性を損なっているのかを、しっかりと認識するということが、できていません。自分でも何か分からないような人間性の欠陥が自分にあるのだと、自分を責めます。そうして、このうえなく甘い「自分なんて」という「悲嘆衝動」に耽るかも知れません。

これは何ともおかしな話です。完璧な人間はいないということを頭では認めても、損なっているものを見ることができないんですね。
何のことはない。結局「完全」「完璧」というものを求め続けているということです。不完全性を受容していないわけです。


■「魂の世界」への入り口

いずれにせよ、問題の根源が何にあるのか、そしてそれを克服する歩みがどこにあるのかは、こうして説明してきた「自己の重心」そして「価値の生み出し」の先にのみ見出されるものと考えています。

なぜならそれは、「自分では」どう考えるのかを突き詰めず、「人にこう見られる」という意識へと変形することの中で、見えなくなるものであり、「人にこう見られる」ことや「否定破壊」に自尊心を得ようとした時に、我々がそれを見据えるための強さを失っていくものだからです。
そうして、自己内部の問題の根源から目をそらせ、自分を見失うことで、「弱さ」が増します。それがさらに「人にこう見られる」「否定破壊」に頼ることへと駆りたてられるという、蟻地獄のような心の罠にある問題だからです。

ですから、「自己の重心」「価値の生み出し」の先にある歩みは、内面感情だけを小手先の思考によって良くしようとする不毛な轍に何度も足を取られながらも、結局のところは、「現実において生み出す」という建設的な思考法行動法の外面的な習熟をまず最初に通るしかないと、ハイブリッドでは考えるわけです。
「外面は駄目でも内面は」と感じるのとは全く逆にです。

感情基盤の向上改善が、それによって多少生まれ始めます。しかしそれはまだ微力です。問題の根源が全く手付かずに残されているからです。
そして再び「自己の重心」「価値の生み出し」の方向へと歩む。現実場面の中で、人との間で、そして自分自身に対して、飛び交う否定的な目や感情の、根本的な正体となる論理をはっきりさせていく。

問題は次第に、外面行動からは離れた、内面の奥深いものになってくるはずです。ここに、「現実世界」とは別にあり続ける、「魂の世界」への入り口のようなものがあります。
そんな世界などない、と思考するのも自由です。しかし、心の来歴に根ざした問題があるのであれば、それはそこにあります。

「否定価値の放棄」問う状況の説明はそんな感じ。次に実践最終説明をしましょう。


心理学本下巻に向けての考察-236:「未知」への意志と信仰-128 / しまの
No.1497 2008/03/09(Sun) 11:53:14

■「価値が見えない心」から始める「価値の生み出し」実践

「価値の生み出し思考」がまだできていない心の状態から始める、「価値の生み出し思考」の実践を手短に説明しましょう。

それは例えば、「気が利かないねえ」といった言葉を言われ、怒り自己嫌悪感情におおわれるような姿です。

「暖かい信頼関係」人生目標であるかのような心の状況で言われたその言葉に、人の気持ちを理解しない相手への怒り自分の人間性を否定されたかのような感覚、それを言った相手の悪意という感覚、自動的に生まれる敵対感情、そして実際に自分が何もできていない人間なのかという、身につまされる暗雲の感覚。そしてこの構図全体が、あるべきでないものを現実化してしまっているという、挫折の感覚
こうした感情のセットで、あっという間に抑うつ感情が現れるというメカニズムがあります。

「人間性」に関わる自己懸念感や自己否定感に触れるにつれて、感情動揺論理の通じないものになってくるでしょう。血が下がるような、もしくは逆流するようなショック、そんな「ひどい結果」を(必ずしも「ひどい言葉」を、ではなく。つまり自分自身での受け止め方が、相手のせいになるんですね)、自分に与えた相手の言動という「悪意」への怒り。そうして相手への敵対感情に覆われている自分への嫌悪感罪悪感..。

そこでまず、「人が」「人が」という「自己の重心」を喪失した思考に流れる自分を立て直し、「では自分では一体この事態をどう考えるのか?そして何をどうしたいの望むのか?」という、自己の重心に立った思考に切り替える意志を持つかが、まず問題になるわけです。
そして、「心の自立」を成す意志があるのか。自分の感情はまず自分で受け止め、自分が進むべき方向を自分で見出す。嘆き怒りに甘く耽るのはもうやめる。

まあまずはこの選択一番大きな分かれ道になるのが、先のカキコの通りです。
「心の自立」をどうも選択できない自分を感じる場合は、これからの人生をどう生きるのか、そして「現実」というものをどう認識するのかという、大きな視点でその選択を問い続けるのがいいでしょう。


■「気にしなければいい」という最悪の対処思考法

「心の自立」を目指すという意志を何とか持てた先の話をしましょう。

まず言えるのは、「気が利かない」など内容の曖昧な批判を受けた時こそ、まさに目まいがするような感情動揺をするのは、僕自身の体験としても、重々ありがちなのは斟酌するものではあります。自分の人間性に問題があると見られたのかという、心の膿に触れるものになるわけですね。
しかしそこを「感情と行動の分離」によって何とかふんばり、自己闘争のための知的な思考に取り組まないままでは、もうお話にならない、ということです。

実際のところ、問題3つ発生していることになります。
相手との関係が損なわれたという事態。
まがりなりとも「気を利かせるべき」と人に言われる場面でそれができていないという問題。
感情動揺とストレスを感じているという問題。

こうした場面で最も悪い対処思考は、「そんな相手の言うことなど、気にしなければいい」というようなものです。
それでは問題の3つとも、何の解決もしません。相手との離反はもう既定事項のような形になります。対人行動や社会行動の現実場面での行動課題についても、何の向上解決もしていません。
感情動揺も解決しません。「気にしなければいい」と考えて感情動揺を消し去ろうとしても、それは問題場面の全体からの逃避であり、生活全体の退却を意味しています。同じ場面に出れば、また動揺する。

「気にしけければいい」という思考法は、そうして3つ発生している問題のどれも解決しないどころか、実はさらに問題を増加させています。3つの問題を、4つに増やすという結果になります。
それは自分に嘘をつくことを加えているということです。本当は「気にしない」では済まない問題であるわけです。この人の心にとってはです。
そして自分についた嘘が、心をすさみます。

そうして問題の全体が悪化します。それに対して、また「気にしなければいい」と考える。
この結末は、落ちるところまで落ちる破滅感情もしくは自暴自棄感覚の中で、ようやく止まるということになるわけです。


■問題分析の論理思考に全力を尽くす

ハイブリッド的にはどう考えられるか。

「普通の人間ならこんなことに動揺なんて」などという、不毛な「普通」基準の思考をやめ、問題の突き止めへと、論理的な思考の努力をするしかありません。
死の物狂いになってです。

「気が利かないねえ」と言った相手の人間性、そしてそう言われた自分の人間性という「人物評価」はいったん脇において、問題場面の客観的、原理原則的な分析と理解をすることからです。ここに「価値の生み出し思考」が始まっています。
これこれの場面で「気を利かせる」とは、具体的に何をどのように行動するということか。まあ相手をもてなすような行動ということになるでしょう。「松」「竹」「梅」の3コースが大抵出てきます。「優」「良」「可」ですね。

自分はどうできる人間なのか。自分ではっきりと自分の能力や適性を客観的に自己評価することです。空想的な誇大感や卑下感情とは距離を置いてです。
同時に、不完全性を受け入れる思考をはっきり持つことです。「否定価値の放棄」を成す「不完全性の受容」という心底の体験がまだであっても。一体完璧な人間はどれだけいるというのか。その中に自分がいるべきだと考えるのか。
今の自分にできないことであれば、それがどのくらい社会的に問題あることかについても、自分でしっかり客観的な考えを持つことです。そしてそれについてはもう腹をくくることです。

どんな対人もしくは社会場面でどんな「松」「竹」「梅」の候補があり、自分の現状でできるのはどれか。それを見定める。限界を受け入れ腹をくくる。最悪の場合は、「何もしない」を最低ラインとして維持できれば、それでいいんです。「破壊」にさえ走らなければ。
それを感情動揺を消すことばかりに駆られ、「気にしない」といった思考だと、そうした行動法候補を全く頭に入れないまま、人はその場面から逃避するだけなのですが、実はそうすると自分が「松」コースの賞賛を人を受けるイメージの期待ばかりは心で生きるというメカニズムがあります。
そしてそうではない現実を前に怒る。そうして最後は「何もしない」という最低ラインの維持どころではなく、怒りに駆られ「毒」コースを差し出してしまうようなあり様になります。相手が嫌がることをわざとするような。


■「身をもって」蓄積する「見識」が育てる「自尊心」

「気にしない」というごまかし思考に逃げるのではなく、自分に訪れたこの「現実を見据える好機」を、しっかりと味わうことです。まずそれは苦しいことかも知れません。しかし人間が根底からこの現実を生きることに習熟していくのは、こうした体験を通してです。
その時人は、自分の身に訪れてはいないことについて、頭だけで考えていたことが、いかに重みのないものであったかを知ることになります。

自分はこんな場面はこうすればいい。頭でそう考えて、「現実の生き方」が分かったと思うのは、錯覚です。「現実」が身に訪れた時、そこには、空想の中で思考した時には存在しなかった、さまざまな側面のそれぞれの「重み」が伴ってくるのです。それは自分の生活や将来に関する「重み」であったり、登場文物に関する「重み」であったりするかも知れません。

そしてその「重み」がいかに自分の感情と神経に重くこたえるものであるかを、その場面になって初めて知るのです。そして実際、そうして「重み」が頭で考えた皮相な思考をぬけて、心底の骨身にしみた時、人は初めて自分がこの「現実」の中でどの方向に向うのが良いのかの自分としての羅針盤を、心の中に獲得するのです。
このような姿を、「身をもって学ぶ」という言葉でよく表現します。

本で読んだり、耳で聞きかじっただけの知識ではなしに、このように現実体験の中で身をもって学ぶ知識を、「見識」と言います。
そうした「見識」の蓄積が、揺らぎのない自尊心につながります。「揺らぎない自尊心は、現実を生きることが生み出す」と言っていますが、この「見識の蓄積」がその実体の一つになります。

そしてその先に、「価値を生み出す」自尊心という、より高度なものが築かれる次第。


■「成長」なくして感情動揺を消そうとすることなかれ

まずはそうした客観的な問題分析が、3つの問題のうちの「現実課題」への取り組みになります。
一方、残り2つの問題、つまり感情動揺と、相手との関係悪化は、どんな解決の方向性になるのか。

向うべき方向性は、全て上述の中に含まれています。感情動揺他人との関係悪化の問題があるのであれば、「自己の重心」に立ち返り、そこで起きた事柄について自分では一体どう考えるのかを明確にし、社会における原理原則を検討し、その貴重な動揺体験の中で、しっかりと現実を生きることを学ぶことです。

そこに「成長」があります。そして成長が積み重ねられると共に、感情動揺も減り、他人との無駄な関係悪化もなくなってきます。

そうした「成長」を経ることなく、感情動揺を消そうと考えたり、他人との親密な関係のイメージだけを追い求めることに、根本的な誤りがあります。

「成長」は、自分の望みを知り、現実に向うことにあります。それが全てです。
それ以外のことによって、自分の心を良くしようと考えたとは、一体何を考えたということか。欲を追わず、感情動揺をなくして、いつも穏やかで朗らかでいられるようになった自分が、人からちやほやされ..
そうして人の目イメージの中で、皮相化荒廃化した望みの中にい続け、自分を見失い受身に与えられることだけに思考が回るようになり、自分だけが与えられない怒りに駆られ..
そうして全てが振り出しに戻ります。いつまでそれを続けるのか。

望みに向い現実に向うことが「成長」基本である一方、ここで取り上げたような状況とは、まだ「望み」があまり見えない状態です。見えたとしても皮相化荒廃化したものになります。
そうした状態から、望みへと向う実践を、ハイブリッドでは定義しているわけです。それが「自己の重心」であり、「価値の生み出し」です。まずは「価値」を、「人物」から離して捉える思考に慣れることです。
それがまずは単純な「心の望み」を促すでしょう。基本的には、自ら、自分の生活をより豊かにする知恵と努力を重ねるのがいいでしょう。その過程で、不完全な自分の現実をありのままに見据えることです。

そうしてまずは、「人の目の中でこんな自分に」というのに人生を賭けていたのとは、全く別世界の生き方に習熟していくことですね。人の目よりもまず自己の重心。そして価値の見出し生み出し
そうして人の目からは切り離れた自己の重心の世界で、自ら生活を豊かにする建設的行動の先に、やがては、生理的嫌悪感を感じた相手にさえも建設的行動が見えてきたり、嫌な相手への対応よりも好きな相手に近づくといった面により意識を持てる段階がくるでしょう。

同時に、「見識」の蓄積は、人のことをどう考えるかについても、感情動揺をもう起こさないような、クッションのようなものを自分と相手の間に持つようなものにしてくれるはずです。
「気が利かないねえ」と言った相手のことを言うならば、そもそもその言葉が、気が利いてないです。何か改善方法があるのであれば、具体的に「こうすればいい」というのがモアベターです。その人はそうゆう行動法のできない人なのですね。それではその人の人生もあまり豊かではないことが察せられます。

そう考えると、そうした相手にどう自分が高く見られるかに戦々恐々することが、ちょっとアホらしくなってくる。まあ自分が価値の生み出しの中で自らを高めることができる存在となってきた時、それ自体がもうかなりの揺らぎない、そして他人との比較競争など必要もない自尊心になってきます。
世の中の人は大抵それができていません。そうして世の人を振り返った時、いつのまにか自分がより「優れた存在」としてあることを、もう優越感のような無駄な感情さえ伴わずに感じるようになります。そうした「あまり優れてない存在」(^^;)の人々の言葉も、自然ともう重みを失ってしか心を打たなくなってきます。
これは「見識」の蓄積と共に、「人を見る目」も育ってきたと表現できるでしょう。


■生き方の根本に向き合う

そのように、「自己の重心」「価値の生み出し」という基本指針によって、外面向けの行動法を考えていくと共に、内面向けにおいては、その指針とは異なるものとして心の中に湧き続けているものへと、自らの生き方の根本を問う形で向かい続けるのがいいでしょう。

もちろん「感情を正す」ということはしません。内面においてはありのままに開放し、そしてそこに横たわる論理を把握し、感情連鎖のより大元にあったものを探り続けるのがいいでしょう。
そして、そのように自分の中に見えるものに対する、自分自身のこれからの姿勢を考えるのです。これはハイブリッドの全てを総合したものになります。

ごく簡潔にまとめれば、まず心を動かす基本的な感情テーマとして「」「自尊心」「恐怖の克服」があります。建設的な生きる知恵とノウハウを携え、そうした原動力を背景にして、望みに向かい現実に向うことが、心の成長と幸福への正道です。
しかしそこに「善悪」が入り込むにつれて、人間の心の業が迷路を生み出します。対等な個人対個人における「行動の善悪」が、現実を生きるためのものです。一方、「存在の善悪」という論理の中で、人は善になろうと欲する中で自己中心的で傲慢な姿へと人間性を落として行く罠があります。そして自分を責め、自ら望むことを禁じる。すると「欲」がさらに荒廃化し貪欲化するという隘路が見えてきます。そして全く出口が見えなくなります。

自分はどんな行動指針、そして思考指針で生きて行くかを、しっかりと問うことです。

「建設的であること」が、こうした全てのことがらを背景にして、惑いのない方向になります。建設的ではない思考や感情が湧いているとき、それがどのような論理で湧いているのかを、確認して下さい。最も不毛な論理は、人の問題を批判したり、他人を品評している瞬間に、自分がその相手よりも高みにあり優れた存在になると感じる、錯覚です。批判する相手が視界から消えた時、その人はただ貧弱な現実の中で怒りを持つだけの存在と化します。

そしてこうした生き方の根本に向き合うと共に、再び、外面への「価値の生み出し」に向う。

やがて自分の変化が見えてくるでしょう。これは少なくとも年単位で自己評価してみて下さい。1年前の自分を、どう感じるか。
あまり変わらないと感じるのであれば、このカキコで解説した実践のまだまだ入り口のあたりで、積極的な実践はまだほとんどしていないということです。
価値の生み出し」が分かるようになってくるにつれて、変化は明瞭になってきます。僕自身も、手前味噌ですが今だに1年前の自分を思い返すといつも昔日の感を感じます。


そうして自分の変化を感じられるようになった段階が、いよいよ「否定価値の放棄」大転換を問える時になってきます。
自分の変化とは、まだ「人間性の向上成長」なのかは何とも言えない。しかしこれだけははっきり言える。それは「人間の成長」なのだと。
一方心に最後に残るのは、「こうありたかった」という願いと、それを損なった現実と、「あるべきもの」という命題の下に流れる、怒りと嘆き..そして再びそれ以上は何も見えなくなります。

そうした段階で見える「人間の成長」本質を考察し、「否定価値の放棄」への最終結論を言いましょう。


心理学本下巻に向けての考察-235:「未知」への意志と信仰-127 / しまの
No.1496 2008/03/08(Sat) 13:15:35

■「価値」が見えない心への取り組み

さて、この帰省&スキーの合間に考えたことなどから話を再開しますと、「価値の生み出し」など考えようもない心の状態というものがやはりあり、そこからの「価値の生み出し」の実践までがどうなるのかという話です。

「価値の生み出し」など考えようもない心の状態とは、まあ、「与えられた人間関係の中で、いかに暖かい信頼を保つか得るか」ということでしか思考が回らない心の状態とも言えるでしょう。
「暖かい信頼関係」イメージだけが人生目標、とでも言うような状態です。そのイメージだけが自分を駆り立てるものとしてあるので、そうした対人関係の中で話題となる事柄における、「人物から離れて捉える価値」などはもう思考のしようもないような心の状態の人々の姿があります。

そうした姿で、「心の自立」を目指しようもない心の状態がある。自分の気持ちを気分で受け止めるのではなく、人に受け止めてもらう世界。受け止め合う世界。依存し合う世界ですね。

「心の自立」として、自分の感情は自分が受け止める。決して人に受け止めてもらうことを求めない。その先で建設的に生きて行く姿勢の中で、ものごとを「人に気持ちを受け止めてもらう」のではない、自分自身でうまく生きて行く知恵と技術として考えていこうとする意思の先に、「価値の生み出し思考」が意味を持つようになってきます。


■まずは「心の自立」への動機と意志から

まずは「心の自立」への動機と意志を持つことから、ということになるでしょう。
「中期」段階からは、それが始まりになります。それがまだの場合は、「前期」段階的な、ありのままの現状の自分を知ることから始めるのがいいでしょう。

「気持ちを分かり合えることが何よりも大切だ」と考えるかも知れません。それはそれでもいいんです。建設的な方向性においては。喜び楽しみを共有するのは大いに結構なことです。
しかしそれが全てで行けるものでは、「現実」はありません。はっきりと利害が対立する、最初から敵となる相手にも対処できなければならないし、仲間同士であっても、趣味思考や考え方の違いが良くあります。そうなると今度は一気に、「気持ちを理解しない他人」への怒りに駆られたり、生理的な嫌悪感と反発の中で、「人のことなんか」別の思考を始めたりする。そこに「人格の分裂」が起きていることになります。

建設的な方向性において分かり合えるのは、大いに結構なことです。問題否定的で後ろ向きの感情が現れる局面です。そもそも前者は問題ではなく、後者に取り組むものとして、こうした心理学があります。

怒りや嘆きなどの後ろ向きの感情が見えた時、そうした感情を人の目、さらには神の目に受け止められることによって何かが良くなることを期待する。そうした「心の依存」を脱し、自分の足で立って前に歩くことを決意するという、「心の自立」を目指す先に、「価値の生み出し」思考が意味を持つようになってきます。

そしてそうした「心の自立」目指すかどうかの選択は、もう自由です。
そしてハイブリッドからは、その選択の先に何があるのかを言うことができます。
それが「魂との関係性」「魂の成熟」です。


■「心の自立」が前提になる「魂の成熟」

否定的な感情が現れる局面において、それを他に受け止めてもらうことを決して求めない。その感情は自分自身で受け止め、前に進むことを選ぶ。
それがこの先の歩みにおいて決定的な意味を持つようになるのは、「魂」との関係においてになります。
2つあります。

まず「魂の挫折」を自分の「心」が受け止めることができなければ、「魂」は前に歩むことができません。「魂の挫折」の感情を他に受け止めてもらうことを求めた時、それは心底において、「魂の挫折」が自分自身の中では回復不可能であることを自らに宣言することになり、「魂の挫折」を「魂」自身に回復不可能だと宣告することになります。「魂」は「望む」ことができないままになります。
「魂の挫折」の感情を自分の「心」が受け止めた時、それは挫折であることを脱し、損失や喪失を超えた豊かさという、人生の真実へと変化するのです。そして魂が自らの望みを開放し始めます。

もう一つは、「原罪への許し」です。これを他に「許し」を求めたならば、それは自分自身の「罪」について、自分自身では答えが出せないということを意味します。そして罪の重さに惑い続けるでしょう。
答えは「心」が出す必要があります。

ハイブリッドは、「愛」「信頼」「あるべき」ものとし、それを壊したものを「罪」と受け取った魂の原罪に立ち返り、それを罪ではなく一つの旅立ちとして受け入れ、自らへの許しの中で、魂の愛への願いを看取り、「包含の愛」へと成熟する道を示します。その先に、もはや敵さえも愛の中に包み見ることのできる、成熟した心が生まれることを見出しています。
それに至る、「原罪への許し」は、「心」と「魂」だけの間での、「魂の関係性」における対話として成されなければなりません。

心の自立」が、そこに至る道への、大前提の入り口になるわけです。

ハイブリッドが最終的に示す、魂の成熟した心のような状態になりたいと考えることから、多くの人のハイブリッド心理学への取り組みも始まるでしょう。
しかしそうした魂の成熟した自分というのが、「暖かい信頼関係」イメージの実現のための手段として人の目目当てに描かれるという、轍がありがちかと。
それはハイブリッドの示す道を選択せず、全く元のままでい続けるものになります。でも結果だけハイブリッドの示すように、とはいかないですね。

この先の話も含めて理解することで、初めてハイブリッドの言う本格的な「心の自立」への動機が持てるようになってくる、ということも出てくるでしょう。
終わりが始まりとなる。このスパイラルを最後まで続けるのが、これまたハイブリッドの示す道になります。


ということでまずは「心の自立」への動機と意志が、なによりも分水嶺になるという感じにまずなります。
それを通過点として、「価値が見えない心」から「価値の生み出し思考」への過程を、より実践的に次に説明します。


3/7(金)まで不在 / しまの
No.1495 2008/03/05(Wed) 12:52:59

また帰省してOne Day Ski。
戻ってきたら、もうかなり残り僅かになる感じですね^^。


心理学本下巻に向けての考察-234:「未知」への意志と信仰-126 / しまの
No.1494 2008/03/05(Wed) 11:22:56

■「価値の生み出し」による「自尊心」の建設

さて、一番難しいあたりの話です^^;

「価値の生み出し」によって外面行動はもうあまり揺らぎなく建設的そして原理原則的な行動ができるようになる。
これはまず、そうした「価値の生み出し」が自尊心を大きく支えるものであることを知ることにつながるでしょう。それはもう他者との比較ではない形で、最終的には「優れた者」としてこの社会でいることのできる道というものを、おぼろげながらに感じさせてくれるものになるはずです。

もう一つここで確かめたいのは、「破壊から建設へ」という最も基本的な行動様式の命題への自分の立ち位置です。
「価値の生み出し」による建設的行動が、「建設」というものの真の姿です。

「価値の生み出し」という視点のない「建設的」行動とは、まあ良くて「良い対人関係の維持」のための、悪くて人の目目当てのポーズという、「互いの目」に結局帰着するものとしての、「建設的行動」です。
これは脆いものです。人に受け止められなければ、建設的行動としての位置づけは壊れてしまいます。

「価値の生み出し」による建設的行動は、もうそうした脆さを、全く持ちません。ただひたすら、生み出すことに向かうことのできる「建設的行動」になります。
もちろんそれは最終的には人の目による評価を受けることで、収入なり人からの信頼なり愛情なりに結びつきます。しかし「価値の生み出し思考」によって捉えていく「価値」とは、基本的に「匿名性」において価値となるものを捉えるということであって、これは精神論でも観念論でもなく、とても具体的な、「時代」に即した「価値」の把握実践になるのです。その点で、「価値を知る人」から学ぶことが重要にもなる。

ですから、基本的に収入信頼愛情といった、人生で望むものにほぼ安心してつながるものへと、もはや「人の目」というものにはまったく揺らがない目標物を、視界に捉えるということになるわけです。

ここにおいて言えることは、「自尊心」のために、「破壊」という様式の思考と行動が、完全に不要になるということです。
「価値の生み出し」がないとは、まだ比較競争での優位に、自尊心の材料があるということです。相手を負かす破壊攻撃が、本人が意識して望もうが望むまいが、自尊心のために意味を持つということです。
「価値の生み出し」によって自尊心を築く時、「破壊」という様式そして「怒り」は、もう何の意味も持ちません。100パーセントにおいてです。それが役割を持つのは、他に手がない背に腹変えられない事態だけです。これはもう怒りに頼らない解決法を自分が持たないという欠点短所もしくは弱さの話であり、とてもじゃないが自尊心につながる話ではなくなってきます。


■「人間性の成長と向上」への問い

もう一つ難しいテーマへの問いが、ここで見えてきます。
「人間性の成長」とか、「人間性の向上」とは、どこにあるのかという問いです。

ここまでの道のりにおいて、今でそれはまず、「あるべき」姿というものをしっかり持ち、それを守り目指すと共に、それを損なったものを決して許さないという、「あるべき姿ありき」のテーマであったのではないかと思います。

しかし、「価値の生み出し」による自尊心の感覚が、頭で考えるだけではなく体に浸透してくるにつれ、それまでの取り組み全てを振り返って見えてくる自分の変化の中で、そうした「人間性」についての、「あるべき姿を守る」という方向性とは全く異なる、何か自分自身の「人間性」に関わる変化、そして成長と向上が起き始めているのを、感じ取ることができると思います。

それはまだはっきりと「人間性の向上成長」と言えるようなものであるのかは、僕自身のその段階の時の心理状態を振り返ってみても、はっきり言えるものではなく、本当に「人間性の向上成長」であるのかは少し分からないようなものになると思います。

しかし明確に言えることがあると思います。
それは「人間性」の向上成長と言えるかはまだ分からない。しかしこれだけははっきり言える。
それは「人間の成長」なのだ、と。それが自分に起きている。


そして僕自身のこの段階の心境を振り返るならば、事実この「人間の成長」は、どうも「人間性の向上成長」として今までイメージしたものとはちょっと違う、むしろ今までイメージした「人間性基準」を捨ててしまうようなものさえ、そこに含んでいることを感じ取るのではないかと思います。

これはその理由があります。
「人間性」として我々が普通感じ取り評価していたのは、「あるべき」ものというイメージをできるだけ明瞭化させた上で、それと「現実」を比較評価するという、いわばかなり「人工的」なものなんですね。

それに比較して、この段階で見えてくる「人間の成長」は、そうした人工的な意識も全て包含した上での、はるかに深い根底における、人間の変化です。
そしてこの変化がハイブリッドの道のりを経て生まれたものである時、それは「あるべき」姿を掲げて自分と現実をそれに合わせようとするというのとは、根本的に異なる、「あるべき」というものによって心を縛ることをやめ、心を解き放つことの中に起きているものであることが明らかであるはずです。

実際のところ、ここで「人間性の向上成長」について、問いを出すことができます。
そもそも、「人間性」について、「あるべき」ものを描いてそれを基準として監視評価するという姿は、果たしてどんな「人間性」のことを言っているのでしょうか。
それは間違いなく、人間性を損なった先に取られる、苦肉の策のようなものです。もちろん人間性を損なった先にさらに監視評価さえも捨ててしまったら、もはや野獣のような、否、大自然の動物よりも何かを損なっているような姿になるでしょう。しかし監視評価で縛るという方向を選んだことにおいて、もうそれは人間性を損なった世界をもう前提にしてしまったような話なんですね。


先にハイブリッドが捉える「人間性」とは、「破壊から建設へ」「魂の成熟」だと書きました。
ここでさらに、この段階においてすでに始まっている「人間性の向上成長」細かいメカニズムを明らかにした上で、「否定価値の放棄」とは何をするものであるかの最終結論を言うことができます。
それがまさに、この「向上成長」を阻んでいる最大の要因の放棄になるわけです。


心理学本下巻に向けての考察-233:「未知」への意志と信仰-125 / しまの
No.1493 2008/03/04(Tue) 15:39:19

■「価値の生み出し」と3形態の「望み」

先のカキコでは、「魂感性土台の体験」を足場にしたハイブリッド「中期」の取り組みが、「価値の生み出し思考」を中核にして、外面においては「自ら望むことによる行動」と、それをどう現実社会の中で律するかという建設的行動原理原則の習得があり、内面においては「存在の善悪」「望む資格」という情緒論理vs「行動の善悪」「望む自由」という原理原則の検討、そして「愛」「自尊心」「恐怖の克服」のために、どんな行動原則の人間たらんと望むかの検討という、総合的なものであることを説明しました。

これは一言でいうと、病んだ心の泥沼を脱し、心の自立をした人間として人生と幸福を目指す、新たな旅路への出発と言えるでしょう。

そしてこの道が何であるかの本質を心底において体得し、自分の進む先がどこなのかをはっきりと見据える節目が、「不完全性の受容」そして「否定価値の放棄」として成され、ここに「中期」取り組み、ひいてはハイブリッド取り組みひとまずの習得が完結し、以後「後期」と位置づけられる「魂の望みへの歩み」の中で、いよいよというかようやっとと言うか、心の根底からの、そして人間性の根底からの、根本的変化成長の道のりが、生涯終わることのないものとして始まる、という段取りになります。

そうした「否定価値の放棄」までの途上としてこの「中期」段階で「望み」がどのように見えるかをまとめると、人間の望み基本的な3形態を全て視野に入れる段階だと言えます。
人の目感性土台における皮相化荒廃化した望み、「心の望み」、そして「魂の望み」です。


■「価値の生み出し思考」による心の別世界への視界

ここではその3形態の望みの特徴の概説を繰り返すのではなく、「中期」実践である「価値の生み出し」思考が、どのように「望み」のあり方を変えていくのか、より実態を詳しく描写することにしましょう。

そもそも、「価値の生み出し」思考というのは、世の人はほとんどしない思考形態である可能性が多々あります。それを実践することで何が変わるのかから、ハイブリッドの本格的な道のりが始まるわけです。

「価値の生み出し思考」と対比となる「人物固着思考」は、大抵の場合、何か「持つ者」の存在とその目から始まるという形になるように思われます。
仕事においては上司や社長という権威や力のある存在とその目。恋愛色恋沙汰では(^^;)、誰か魅力を持つ人物と、その目にいかに愛されるかの修羅場の世界^^; 遺産相続では財産を持った者が残された者達に向けた目。そしてさまざまな日常の中で、運不運がそこにかかると人々が感じて生きている、神の目

そしてそうした「持てる者の目」に自分がどう見られるか、そして誰がどう見られるかという思考テーマの先に、「皮相化」「荒廃化」が、心を病んだ度合いに応じて展開されるというメカニズムがあるわけです。
「こう見られる」ために見失っていく自分。嫉妬競争心の中で失っていく人間性..。

それを、「価値の生み出し思考」では、全くの心の別世界を視界に入れる思考をするわけです。

仕事の場においては、上司が部下をどうひいきにそれとも冷たく見るかという人間関係模様に拘泥した思考から、上司が部下を評価するという営みの中で扱われている「価値」とは何かを、考えるのです。それは成果の量品質であったり、「お客様の満足」であったりするでしょう。それをさらに詳しく分析思考する。「品質」にはこれこれの面とこれこれの面の面があり、特に重要なのはこれこれの面であり..。「お客様の満足」とは、例えば「納期の早さ」であったり、「使い勝手の良さ」であったり、そして「使い勝手」とはより細かくは..。
そういった思考法。

友人関係恋愛関係においては、相手が自分をどう本当に好きかという思考ではなく、どんな「価値」を共有することによってそうした関係が築かれるのか、という思考にするわけです。親密そうにお喋りする外から見た姿羨む感情はただ流れるにとどめ、ではいったいそれはどんな話をしているのか、そして自分は本当にそうした会話の話題を楽しく感じるのか、という思考法をするわけです。
財産相続問題であれば、それが社会ではどのようなルールによって運営されているものかの法律慣例を学び、利害関係をうまく統制できる行動法はどんなものかを追求するという思考法をするわけです。
自分が、そして誰がどんな目にあっているかに向かう感情は別の問題としてです。

そうして物事を「人物」に帰着するのではなく、かなり抽象的な「価値」というものを思考する先に、視線が個別の「人物」からはむしろ離れていくような思考法をするわけです。
まずはそうした、世の人がほとんどしないかも知れない、結構特殊で、かつちょー具体的な思考をするかから、ハイブリッドの本格取り組みが始まるんですねー。

こうした「価値の生み出し思考」は先にも書いたように、細かい「価値内容」についてはそれを知る人から学ぶということもかなり必要になることです。
またそうした「価値内容」に頭が回らず、「どう見られるか」という思考しかできない状態がある場合、それはそれだけ絶望的な強度の愛情要求と、思考がすべて「人の考えにどう合わせるか」でしかなくなっている、自己の重心の喪失自己放棄があるということになります。これは「自己の重心」という取り組みの原点から、「前期」からの道のりを何度でも確認し直すのがいいでしょう。


■「価値の生み出し」思考による「心の望み」の浄化

そのように「人物」に帰着せずにむしろ離れていくような思考法の中で、「価値」を捉え、それに何らかの、それこそ自分にとっての価値や魅力を感じ、それに向かうこと、それを生み出していくことを望むのであれば、その「望み」皮相化と荒廃化をほとんど帯びないものになってきます。

「望みの皮相化荒廃化」についておさらいをしておけば、「望み」が「どう見られるか」から始まると、それは必然的に皮相化と荒廃化を帯びたものになっています。これを確認していくのがいいでしょう。
内面の否定感情を抱えたまま、表面だけで人に愛され自尊心を得ようとする薄っぺらさという、皮相性
そしてそこに「愛されることによって与えられる」という「依存性」の情緒論理が含まれ、さらに容赦ない「存在の善悪」「望む資格」論理が入りこむにつれて、望むことに「傲慢で利己的な善」たらんとする攻撃感情が含まれることになります。

これが心の障害の根底に潜む愛情要求と衝突するほどに、この人は「望む」こと全般において、自分の権利と「わがまま」と「慎ましさ」についてどう考えればいいのかについてほぼ完全なる混乱に陥ることになります。そしてその混乱の苦しみ辛さが今度は「望む特権」化する事態となるにつれ、混乱錯綜は決定的なものとなるわけです。
こうした錯綜によって、「望む」ことが苦しみ混乱を伴いながら貪欲に膨張するという、すさんだ荒廃性を帯びるメカニズムがあります。

「価値の生み出し思考」によって、そうしたものとは別世界にある、基本的に「人の目」にはあまり関係ないものという感覚において、「価値」に向かうという取り組み実践になります。

これをまず基本的な「心の望み」と捉えるのが良いと思われます。それは基本的に自分の生活をより豊かにすることへの望みということになるでしょう。一方それはもう人との競争の中でどうかとかの優越や劣等にはあまり関係のない「望み」になってくるはずです。
まずはこれを見出し、できるだけ増やしていくのを実践とします。まずは人間関係には中立な内容においての「望み」ということになるでしょう。でもそれを増やしていくことで、当然対人行動や社会行動の幅も増えることになります。


■「魂の望み」の芽と「人間性価値」への深い惑い

その結果向かう先は、もともと心の問題がほとんどないケースと、内面の問題を残しているケースで、およそ2通りになることが考えられます。

もともと心の問題がほとんどない健全な心の成長においては、「価値の生み出し思考」というハイブリッドのノウハウをプラスアルファすることで、「心の望み」がそのまま「魂の望み」へと発展し、揺ぎない人生の方向性を見出すことにつながることが期待できます。
これは先に述べた「魂の望み」の「健全形」であり、人間関係や人の目に拘泥しない、人生で生み出すものを見出した姿になります。仕事をこうした視点で進められることは、間違いなく成功につながるでしょう。「価値の生み出し」は心の障害の治癒解決へのノウハウであるだけではなく、人生の基本的なノウハウなんですね。

ただしそうした健全ケースはむしろレアケースとして、ハイブリッドはあくまで心の問題の解決への道のりを示すのがその旨とするものです。
するとどうゆう姿になるかと言うと、「現実において生み出す行動」がかなりできるようになる一方で、対人関係や社会行動でのストレスはそのまま、という姿になります。

つまり、まず心の中「望み」を、人の目にはあまり関わりなく「価値の生み出し」の視点で描けるようになっても、実際に人々の中で行動するという現実場面になると、とたんに「人の目感性土台」の再登場、というのが基本的な形になるわけです。
「価値の生み出し」を視点にした行動はできる。だが..、と。
自分を見る人の目に、やはり何か異和感を感じ、見えないガラスを隔てて、うまくやっている人々というのを見る場面というのが起きる。もちろんそこでも、問題の原理原則的な分析が大切です。自分と彼彼女らの違いは何か。役割立場か。考え方がどう違うのか。

やがて残り続ける問題は、互いの「人間性」「気持ち」つまり「感情」のあり方についてなのだということが、分かってくると思います。
またそうなるまで、ごく外面行動での建設性や原理原則についてはもう問題ない、となるまで、「価値の生み出し」の思考と行動の実践をするのが、「中期」の取り組みになります。


「否定価値の放棄」が成される直前の心の状態を想定している次第ですが、実際それはかなりさまざまな心のベクトルが並列する、混沌とした状態になると思います。
そこで見えないまま作用する治癒効果を踏まえて、「否定価値の放棄」の根核の部分の話へ。


心理学本下巻に向けての考察-232:「未知」への意志と信仰-124 / しまの
No.1492 2008/03/03(Mon) 12:09:12

■「自らの望みによる行動」という「心の自立」の一歩

引き続き、「病んだ心からの治癒と成長」の中で「望み」がどう見えてくるかの話。

とにかく「自己の重心」「価値の生み出し」による思考法転換が実践になります。それが、「望む」ことが人の目にどう見られるかから始まるという「心の依存」から、自ら生き方を模索する中で望みを知るという、「心の自立」という大きな方向性に向かうものになります。
その中で、「価値の生み出し」が、自分の人間性にまつわるさまざまな懸念の中で停止傾向にあった「望み」への芽を開かせるようになってくるでしょう。

これはつまり「価値の生み出し」が、「存在の善悪」とともにあった「望む資格」とは全く別世界の、「望み」への道があることを人に示すものになるということです。
それは「人物」を問いません。そこに生み出される「価値」があるのであれば、「人物」を問うことなくそれを尊ぶ感覚を生み出すものです。

「存在の善悪」による「望む資格」が、それとは別世界にあります。人間の「存在」に善悪があり、「存在が善」とされた者が望む資格があるという論理です。
この論理の中で、人は自分が「存在が善」と見られるかそれとも「存在が悪」と見られるかの「人の目」への依存状態に陥ります。それが心底でいかに自尊心や愛を、そして人生を損なっているのかに気づかないままにです。
もちろん、それらはトータルに、ごっそりと失われています。にもかかわらず、相変わらずその中で人が愛や自尊心を追い求めるとは、何とも人間の心は不実にできているものだ、という感を感じます。

いずれにせよ、「価値」というものを「人物」から分離して認識する思考の中で、「価値」を生み出す営み人物を問うことなく尊重されるものであり、「価値」を認めること、そして「価値」に惹かれ望むことは人物を問うことなく認められることだという感覚が生まれてくるはずです。
それは「価値を望む」ことは基本的に自由だという感覚を意味するでしょう。そしてもしそれが他者との共通目標共通利益になるのであれば、対人関係や社会行動の中でその価値を望む自分の行動も可能だという感覚が生まれてきます。

これが「自らの望みによる行動」ということであり、「心の自立」基本的な一歩だということになります。
もちろんそれが心の中での軋轢なくすんなりと行く段階には、ここではありません。


■「存在の善悪」「望む資格」vs「価値の生み出し」「望む自由」

「価値の生み出し思考」によって、「価値」というものを「人物」とは分離させて認識し、「価値」に向かう自分の「望み」を開放させていく。
それを実践とするのですが、心にはそれを妨げる淀んだ感情も流れることになります。「存在の善悪」による「望む資格」の感情ということになるでしょう。

この2つの別世界の感情を目の前に並べ、ハイブリッド理論の全てを題材に問うのが、この段階の実践だと言えます。
「存在の善悪」による「望む資格」どう不合理理不尽だと頭では認識するか。一方感情はどうか。
「望む自由」があるのならば、それは実際の社会行動場面においてどのように律っせられるものか。原理原則思考を考えてみる。
そうした検討を携えて、実際に自分の望みへの行動を考えてみる。それに面した時に自分の心に起きる感情の分析をする。恐れ。自分はこう見られるのでは。自分にそこに向かう資格はないのではないか。そんな感情が流れる一方、「共通目標共通利益」そして「原理原則」としてはどう考えられるか。
人の行動を見て流れる感情や思考についても同じです。あんな人間に..。それは自分は何を基準にして「存在の善悪」があると感じているということか。あんなやつのことなど..。そんな感情はあるが、共通目標共通利益や原理原則としては、どう考えることが可能か。

もちろんそうした検討の先に、自分なりに原理原則思考を築いていくこと、そして「現実において生み出す」ことへと、「存在の善悪」に打ち勝って行動を後押しするという方向性に、ハイブリッドとしては軍配をあげます。

僕自身がこうした局面で取った行動として今も記憶に良く残っているのは、会社のスキー部活動に参加し始めた頃の心境です。回りに打ち解け馴染むのが不得手で、変な自意識の中にもありがちな自分が、雰囲気を損ね、自分の存在が迷惑となり厭われるのではないか。
まあ僕の場合スキーへの熱がただならぬ強さだったという単純さもありますが、僕なりに原理原則思考の中で、スキーを楽しむという価値の共有があり、規則なども守る限り、そこにいる権利がある、等々かなり真剣に問いを重ねていた次第です。


■「愛」と「自尊心」のために「価値の生み出し」を選ぶ

こうした取り組みは、まず印象としては、心の中に水と油のようにまったく溶け合わず、両者を折衷した「中庸」などありようもない、2つの世界の軋轢を存在させたようなものになると感じます。
一つは「人物」に吸着するように揺れ動く感情の世界。もう一つは、「人物」から離れ「価値」だけに向かう感情の世界。

その2つの別世界の感情の論理を上述のように理解検討すると共に、自分にとっての「愛」「自尊心」そして「恐怖の克服」がこの視点からはどうなるかを検討するのがいいでしょう。
相手が誰かに縛られ、まるで4、5歳児のように人見知りをし、人の好き嫌いが激しい。そうした人物像を、自分の「愛」「自尊心」「恐怖の克服」の方向性として考え得るのか。それとも、分け隔てなく誰とでも建設的な行動に向かうことができ、誰に対しても穏やかな感情でいられるという人物像が、「愛」「自尊心」「恐怖の克服」につながるのか。
恐らく軍配は後者にあがるでしょう。

「存在の善悪」は、ここでもループを起こすかも知れません。そうした成熟した人格の人間に「望む資格」がある。自分のような未熟な人間には「望む資格」はないのだ..。
それがまさに「存在の善悪」「望む資格」思考なのであって、それとは全く別世界の、「人物」から離れた「価値」を見る思考の実践のことを言っています。またこのあと最後の核心を説明しますが、人間の不完全性を認めるという視点を持つ。
このループを何度も回す中で、ループの外から自分の2つの感情論理を見られる視界を探って下さい。


■他者への嫌悪と愛情要求と自尊心

「人物固着型思考」しかできない、とはっきり感じるケースもあるでしょう。これは答えを言うと、人への嫌悪感情という表面の底で、かなり強い愛情要求が抑圧されている状態です。
これはその嫌う相手への愛情要求なんて話を考えても全く何にもならず、全く切り離された形愛情要求が開放されることが解決になります。

これは具体的に言うと、僕の場合、他人一般との対人行動でのストレスが、初恋女性への自分の思いの展開取り組みの後に消失しているといった治癒現象の形を取っています。
つまり、他人全般との間の否定感情については、それについてどう単独に取り組もうと解決に限界があります。一方、それとは全く別の場面において、「魂の愛への願いの感情」が開放されるような出来事と、内面取り組みを経る。より広い言い方をするなら、否定感情に取り組むのではなく、望むに向かうことに取り組む、というのが必要になるということです。2つがばらばらなままにです。
すると、この2つの出来事での相手人物はもう全く切り離れた世界なのですが、前者の他人との間の否定感情が不思議と消えている。そうゆう経過を取るものになります。

ですから、他人への執拗な否定感情の底には、強烈な愛情要求があり、まずその開放が治癒になります。
でもそう聞いて、「自分の愛情要求を開放しよう」と考えても、そうはできないのですね。
なぜなら他人への否定感情を持つ背景にある否定攻撃性が、心の底の愛情要求をありのままの姿で開放させることを、強固にブロックするからです。できるのはせいぜい「思いやり」を美化し、それに応えない他人への怒りを抱くのが関の山です。そうして「他人への執拗な否定感情」に戻る。

心の治癒と成長は、今の心で考えるのとは、全く別の形で起きます。実践できるのは、心の全体を支配している感情論理を問い、方向転換することであり、結局それは意識努力でするのは「自己の重心」と「価値の生み出し」だけだというが結論なわけです。

これはつまり、心の障害の治癒は愛情要求の問題だが、それを支える自尊心の成長が問題になるということです。そして自尊心は、治癒出来事の中で問われるのではなく、日常の思考と行動で築くものです。
ですからまず、日常の思考と行動の中で、「存在の善悪」「望む資格」とは別世界の、「価値の生み出し」「望む自由」に基づいた建設的そして原理原則的な思考と行動を築くことがまず道順になるわけです。これは治癒取り組みというより、比較的健康なケースでの「成長」の課題にもなるものです。
かくして、心の障害傾向の程度によらず、ハイブリッドの道のりは同じ普遍的なものになる次第。

そんな風に、心の中に「存在の善悪」「価値の生み出し」の水と油を抱えたまま、何とか後者側の行動を取るようにしていく。読者広場でも書きましたが、嫌いな人間相手でも建設的行動ができるものを見出す、さらに好きな人に近づくというテーマの方に意識を切り替えるといったものが代表的なものになります。
これが心の治癒と成長への本格取り組みの、まずは最初の歩みになります。

その中で「望み」がどう見えるかの話を。


心理学本下巻に向けての考察-231:「未知」への意志と信仰-123 / しまの
No.1491 2008/03/02(Sun) 14:53:28

■「病んだ心からの治癒と成長」の中で見えてくる「望み」

人の目感性土台での「望み」見え方、それは「皮相化荒廃化した望み」になること、そして魂感性さらには命の感性での「望み」見え方、それは「この感情において生きる」という魂の感情感性が捉え、思考と意志によって「望み」へ具体化するものであることまでを、説明しました。
これが「病んだ心からの治癒と成長」においてどのように見え、捉えられるようになるのかを説明しましょう。

それは先に説明した「病んだ心からの治癒と成長」という「応用形」の中で、人の目感性の中に始まる望みから、魂感性での望みに向かうという、ここまで述べたもの全てが登場する一大絵巻の姿になります。

つまり、まず心に訪れる出来事として、自己像を目当てにした皮相化荒廃化した望みへと向かう中で、何らかの形で「現実性刺激」によって、人の目と自分のイメージという殻が崩壊し、その中に包まれていた全ての心理要素がばらばらに晒されるということが起きるようになります。
純粋な愛への願い。愛されることで得ようとした強欲。あるべき姿になろうとした。そして偽善の嘘の中で得ようとしたおぞましさ

そこにおいて起きている治癒とは、一体化の愛への願いが看取られ強欲と偽りはそれが晒される痛みにより身をもって心底から捨て去られるということが起きます。
自分のおぞましさという「アク毒の放出」部分だけが、そうした自分で治癒の意味が分かる克服が難しくなり、それをはっきりと治癒現象であると恐らく始めて指摘するハイブリッドの思想が、人にそれを乗り越える意志を与えるものと期待しています。

この、心に起きる出来事と、そこで起きる治癒成長は、ここに書いた構図を全く同じものにした動揺体験として、さまざまな対人行動や社会行動の中で繰り返されることになります。
そしてその中で治癒と成長が前進するにつれて、本人の意識に見えるものが次のように変遷することになると思われます。


■「開放感」で始まる「魂」の萌芽

深刻な状態から始めたケースにおいては、そうした治癒体験最初の頃はひたすら、耐えがたい動揺体験として訪れます。それを「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」という治癒のメカニズム現象であるという心理学的理解によって、何とかやり過ごすのです。ただその先に「未知」があることを信じて。

最初の頃は、そこに起きている治癒効果ほとんど分からないままですが、微妙に本人の思考がよりしっかりとしてくるのが感じられるようになってきます。感情に圧倒的に流される状態が減り、思考をちゃんと回せる状態が増えてくる。そんな中で、同じように動揺体験を何度も繰り返していきます。

治癒成長の動揺体験の意味がまず本人としても感じ取られるのは、それが「現実による幻滅と覚醒の体験」であることを感じ取るようなものになるでしょう。今まで、どうも自分が間違った思考とイメージの中にいた。それが現実によって突き破られた、痛い体験なのだ。その意味で、これはあるべくしてあったことなのかも知れない..と。
つまりそれは「成長の痛み」です。
これは心の障害というほど深刻でないケースにおいても、治癒成長に該当する体験はまずそんなものとして感じ取られるものだと言えるでしょう。

それでもやがて、自分に治癒と成長が起きていることは、まず「開放感」の増大として体験されるように思われます。全くストレスなくほとばしるような感覚が、自分の中から湧き出ている。
これはしばしば「こんないい気分は人生で初めてだ」と感じられるような開放感です。まあそれだけ、今までは見えない圧迫の中に生涯を通してい続けていたということですね。

これが「魂感性土台の体験」と呼んでいるものの最初の形態のようなものになります。これが何度か起きてくる中で、それは同時に何かのより積極的な感情を含むようにもなるかも知れません。自然の美しさへの感動。子供の頃の感情の想起。そこにあった、無条件の愛への願い..。
この段階では、まだそうした積極的な魂の感情は、現実生活にはどうつなげるかは見えないままです。

あるいは、これほどいい気分が心の全体に浸透したら、もう人生で全てがうまく行ってしまうのではないか。そんな錯覚さえ感じるかも知れません。しかし当然そうは問屋が卸さないのが現実で、開放感の中で「こうなれた自分」は再び現実による幻滅と覚醒を受ける動揺体験が続きます。

そんな感じで、まだ低調で動揺続きながらも、何とか人生を進められる安定状態を獲得する。これが大体「前期」完了段階になります。
それほど深刻でないケースも、ハイブリッドの本格取り組みはこのような段階からと考えていいでしょう。


■「価値の生み出し」による「心の望み」の促進

心の治癒と成長への本格的な取り組みが、ここから始まります。
深刻な状態から始めて、それなりの時間を経てここに来たケースの場合は、ゼロからのスタートと考えるのがお勧めです。かなりの根本的な思考法転換実践になるからです。いままでの経過でハイブリッドを習得したとは考えなさらんことがお勧め。

実践は「自己の重心」「価値の生み出し」による、根本的な思考法転換です。

「人が」から「では自分では?」という基本的な思考方向の転換。そして、「人」を問うのではなく、「価値」を問うという、抜本的な思考法の転換。
「価値」とは何なのか。自分や他人の評価や批判に流れる思考を、そこで問題になっている「価値」とは何かという、「人物から離れていく」思考に切り変えるのです。自分や他人を評価する必要があるのであれば、「価値がどう生み出されるのか」という「価値の原理」に立って、それに対する自他のあり方を評価するという思考に変えるのがいいでしょう。

これは日常の中で、かなり本腰をいれて取り組まないと、難しい実践です。また本人の意識努力だけでも不足し、「価値を知る人」の思考を学ぶというのが、極めて重要になってきます。心理学本下巻の方でもこれが具体的に分かってもらわないと意味がないので、僕自身のものなり何なりの具体的な話を手短にでも整理して載せたいと思います。

そうした「価値の生み出し思考」によって、まず「望み」が見える最初の形が出てくると考えています。
それはまだ「魂の望み」ではなく、「心」が感じ取る「望み」です。「心」が「価値の生み出し思考」を使い、それが導くものとしての「心の望み」が促されてくる。

これは比較的単純で基本的な我々の「欲求」に基づく「望み」ということになるでしょう。「魂と心の分離」という難しい問題を除外して考えられる、他の動物とも共通する仕組みにおける「望み」です。
より美味いものを食べたい。楽しいと感じられる趣味をしたい。旅行をしたい。異性とデートしたい。収入を増やし、生活をより豊かにしたい。


■「魂の望みへの成長」の「基本形」

ここでちょっと、そうした「心の望み」が「魂の望み」というより高次元の望みへと成長する過程の、「健全形」もしくは「基本形」と言えるものを考えておきましょう。

それがまさに「価値の生み出し」によってもたらされます。

「心の望み」は、ごく基本的な「欲求」を元にして描かれる自己理想像が、最も基本的な内容になるでしょう。
しかしこの「欲求」というのは、案外一時的で刹那的で、それだけで「望み」を描いていると脆いものになってしまいます。「欲求」を満たすことだけ考えるとやはり自己中心的になり、それが社会的な面での望みを今度は壊す方向に回ってくることになります。まあ基本的な「欲求と社会の対立」みたいな話ですね。

そんな中で、「価値の生み出し思考」に馴れ親しみ、「価値」というものを「自分」に縛られることなく感じ取るようになるとは、つまり、刹那的で揺れ動く「欲求」というものを超えて、自分がそれに向かうという揺らぎない「価値」を持つようになってくるということです。
ここに「魂の感性」が働き始めているんですね。

ここに、本人が意識することなく、「魂の望み」が扉をノックする音に促されて成長を始めるということが起きてくるのでしょう。
つまり自他未分離意識「魂の望みの感情」が芽生え育ってくるわけです。
それは「欲求」とはちょっと違う感情です。自他未分離意識魂が抱く望みは、自分が自分のために望むというはっきりした利己感覚を、もう含まないのです。魂は、魂のために望みます。それは自分の魂であり、つながっていく他の魂のために、望むものになるのです。

そうして、人生において何かを生み出し続けることに、もはや惑うことなく生涯向かう人の姿を、我々は時に見かけることになるわけです。
世の人の中には、そうした姿を「名を売るための行為だ」と見下そうとする人もいます。しかし本当に魂の望みによって生涯に渡り生み出すことに向かった人は、そうした中傷に耳を貸しません。耳を貸さないというか、ただ微笑んで、何も言い返すことなく、再び生み出す営みへと向かう。そんな姿になります。


そうした姿を、まずは「魂の望みへの成長」「基本形」と考えることができるでしょう。
ただそれを「健全形」と言えるかは、ちょっと僕としても疑問を感じます。この後「応用形」と言える、病んだ心からの治癒成長での魂の望みの成長過程を説明しますが、そもそも「魂の望み」というのは、ここで言った「基本形」の純粋なものであることは、極めて稀と思われるからです。

つまり、人間の心の「健全な成長」のそのままでは、もう「魂の望み」は得られないんですね。この制約が極めて根本的な話になりますんので、この後の「望み」を理解するための総括の中で再び説明します。

むしろ、病んだ心からの治癒成長に向き合ってこそ、「魂の望み」というのが見えてくる様相になる感もあります。
これが、そもそも人間が健全であるとはどうゆうことかという、感慨を含んだ疑問を僕に感じさせます。それが人間の不完全性という話になってきます。
病んだ心に向き合ってこそ、真の心の成長と健康が見えてくる。そこそこ健康な心は、逆にそれを見失う。それが人間の「さが」であるのではないかと。

ともあれ「病んだ心からの治癒と成長」における「魂の望みの成長」過程を次に。


心理学本下巻に向けての考察-230:「未知」への意志と信仰-122 / しまの
No.1490 2008/03/01(Sat) 11:52:30

■「魂感性」で見える「望み」

「魂感性」とは、「魂の感情」を感じ取る時の感性です。「魂の感情」とは、対象が漠然としている一方、「この感情において自分は生きる」と感じることのできるような、「心」に「命」のエネルギーを与えてくれるような感情です。
我々は、この「魂の感情」によって、基本的に「生きる」ことを知るわけです。

その時、その「魂の感情」が「求める先」「向かう先」は、「感情」として我々を動かすことが明瞭な「欲求」「衝動」とは、ちょっと異なります。
上述した通り、「魂の感情」対象が漠然としているんですね。でも、重みがある。

ですから、人の目感性で、と言うか「魂感性を使わずに」「欲求」を感じて「それが自分の望むもの」と思考するのとは、ちょっと違う様相が現われることになってくるわけです。
「魂感性を使わずに」と書きましたが、これは人の目感性に限らずに、ごく単純な欲求を感じる思考ということです。例えば食欲。それを感じ、自分が何か美味いものを食いたいと欲しているのだと思考し、餌をゲットしよう(^^;)と意志することは、そのまんまの心の働きです。これは「魂と心の分離」のない、他の動物における「望み」の仕組みだとも言えるでしょう。

「魂と心の分離」がある人間の場合、ちょっと違う様相が現われるわけです。
魂の感情を感じる。それは対象が漠然としているものです。
次に、そこに自分の求めるものがあることを思考します。ここでも、対象は必ずしも明瞭ではありません。ただし何らかの「観念」「概念」のように捉えられることになります。例えば「自然の美しさ」そして「無条件の愛」

そうした感覚において、「これが自分の望むものなのだ」と、「心に刻む」ということが起きるわけです。
これが「魂の感性」というものからさらに一歩前進した、「魂感性による思考」になるわけです。

すると何が起きるか。これも理屈の前に、人間の体験としてそうゆうものがあるという話からです。
良く言われる言葉ですが、「雑念が消え」ます。まあハイブリッド的には、ここで「欲求の浄化」や「人の目感性の消滅」が起きているということですね。
そして、心が満たされ、心に平安が訪れる時間を持つことになります。言うまでもなく、これは心の幸福にとってとても重要な状態になってきます。これはもう理屈がどうかの問題ではなく、そうゆうのがあるんですという話です。

そしてそれに「意志」が加わるものが、「望み」として明瞭に、大きく、この人間の人生を満たし支えるものとして姿を現すように、なるわけです。それは魂の感性によって見出したその「望み」を中心に据えて、人生の生活を構成していくという、極めて現実的な営みへとつながります。
まあ僕がこの執筆活動をしているのもそうゆうわけなのです。はっきりした成功基準を考える以前に、書けるものを書くことに、魂が望んでいるものがあるから、それをする。これは「感情」というものとは、ちょっと違う次元の心の働きでそうやっているという感じになります。


■「魂感性」から「命の感性思考」へ

そうした「魂の感性思考」によって「望み」を見出し、「思考」によって方向を定め、向かう「意志」を持つというあり方の、最も高度なものが、「命の感性」とハイブリッドが呼ぶものになってきます。

これは基本的に魂感性に属するものですが、はっきりと「命」を軸とするものになります。そして「命」がはっきり軸になるとは、「死」が見据えられているということです。
これが、ハイブリッドが考える「心の成長と幸福」を、「感性」の視点から捉えた到達点になります。到達点であるとは、それが最も人を幸福に導くものだと考えるということです。

これを示すような言葉に、今単行本となっている『余命一ヶ月の花嫁』でのこんな言葉がありましたね。「みなさんに明日があるのは奇跡です。それを知っているだけで日常は幸せなことばかり」と。
まあこれは実は多少美化があると感じます。日常は幸せなことばかりじゃーないのが現実^^;
でも、実際に「死」に面する「現実性刺激」が、人の心の中で、何かの留め金を外すことになるのです。そこから湧き出るのは、明らかに、「死」が自分には無縁だという「自分幻想」の中にとどまったのとは別世界のものになるのは間違いないでしょう。

こうした感性を自分の中で引き出すのは、まあ実際死に面するような事態を迎えることよりも、思考法の問題として取り組めればそれに越したことはない。これは実践的な話であり、思考法の問題になってきます。
まあいかに「自分に限って」なんて非科学的思考をせずに、この世界の不完全性に向き合うことだと言えるでしょう。
現代社会人においては、「死」に面することは大抵「非日常」です。しかし人間の歴史においては、むしろこっちの方が「非日常」なんですね。


こうした「人の目感性」「魂の感性」そして「命の感性」での「望み」のあり方を踏まえ、「病んだ心からの治癒と成長」の中で望みがどう見えるかという応用形を次に振り返ってみましょう。

一言留意点ですが、希死念慮自殺願望は「命の感性」ではありません。究極の「人の目感性」とも言える、命を自己像の道具化した、自己像への望みになります。

ただしその先に「死」現実性を帯びた時、そこに「命の感性」への留め金が外されるターニングポイントが、この人間の心に生まれる可能性が出てくる。そこに、「普通」の健康では知り得なかった「生きる」ことの意味を知ることが生まれる可能性がある。
「普通」に健康な心が必ずしも健康な心を生むとは言えない人間の不完全性の「さが」がそこにあるのに、ただ感じ打たれる感ですね。


心理学本下巻に向けての考察-229:「未知」への意志と信仰-121 / しまの
No.1489 2008/03/01(Sat) 10:47:02

■終章-15:「望み」とは何か

先のカキコの終わりで“どのように「自らが真に望むもの」が見えてくるのか”と書きましたが、そこでまたはたと考える時間を持ちました。
「望みはどのように見えるのか」。これはかなり難しい問題なんですね。
そもそも、「望み」とは何なのか。これを実ははっきり定義してなかったまま、ここに至った気がする^^;

「望み」とは、今定義するならば、「一時的な欲求や衝動を超えて人をそこに向かわせることができ、そこに向かうことが心を満たし充実と安定を生み出すもの」とでも言えます。

「欲求」「衝動」は、「感情」として感じる、人を動かす情動です。それ自体を「望み」とはハイブリッドでは指しません。
つまり、「望み」とは、「感情」を超えて人をそこに向かわせるものです。

では「望み」は何によって感じ取るのか。
そこに「感性」が出てくるわけです。「望み」は、「感性」によって感じ取り、「思考」によって方向が明確化され、「意志」によってそこに向かうことが決定づけられるものです。「望み」は「感性」と「思考」と「意志」によって成り立つものです。



■「人の目感性」で見える「望み」

人の目感性土台」と「魂感性土台」の違いが思考法の問題ではなく、ただそのように違いがあるものとして存在することを直接体験で知るのと同じように、「望み」がどのように質的違いのあるものが存在するかは、直接体験して知るものです。
より具体的に、どう「望み」が見えるかを説明しましょう。

「人の目感性土台」においては、「自己像」が基本的に望みとして見えるように思われます。つまり、何らかの願望を実現した自己像が描かれ、現実においてその通りになることが「望み」として感じ取られることになります。

「望み」は基本的に、この「人の目の中の自己像」として始まる性質があります。これはそれでいいんですというか、そうなっているので仕方がない
どう仕方がないかというと、「人の目の中の自己像」には大抵嘘が含まれることです。ありのままの現実の自分とは違うものを含んだものが描かれている。「自分幻想」ですね。
そしてそのギャップが、単に願望と現実のギャップではなく、心の底の自己否定感情を塗り消すための自己理想像という性質を帯びるにつれて、「自分自身への嘘」という病んだ要素が入り込んできます。

これがもたらす結末は、およそ3つの事態が浮かんできます。

一つは、「自己理想」自己の向上という本来の機能を失い、逆に呪縛となるような働きをする仕組みを帯びてきます。「自己理想」は自己否定感情を塗り消すために「なるべき」ものになるのですが、そこに含まれる「嘘」がこの者にストレスを与え、そのストレスが「自己理想」になることを妨げるのです。
こんな流れの中で、「自己理想」はもうただ「軽蔑されるための理想」として描かれるようなありさまになってきます。

二つ目に、その結果として「望む」ことに「恐怖」が伴ってくることです。何の恐怖かはもうあまり説明しなくても分かるかと。自己処罰感情への恐怖であり、自己像が破綻する「意識破綻」への恐怖です。
これは当然、「望みの停止」につながります。


■「皮相化荒廃化した望み」のメカニズム

三つ目は、「望みの停止」の結果として、「望みの皮相化荒廃化」が起きることです。これは「欲求」が皮相化荒廃化してくることと、「望み」が「欲求」+「思考」+「意志」で構成されることによります。

「欲求」皮相化荒廃化においては、上辺だけで人に愛され賞賛されたい衝動や、人を打ち負かし痛めつけたい競争心が生まれます。
そして次にその「欲求」を、それが自分の望むものだと「思考」し、向かう先としようという「意志」によって、「皮相化荒廃化した望み」が完成です。

その内容とはまず、競争心を満たす勝利を得た自分が人の目の中で愛される、というものになります。まあ心の荒廃した現代人の基本的人生エネルギーみたいな感じになってきますね^^;

この「欲求+思考+意志」での「望み」とんでもない方向に行くことは、例えば昨日見たニュースでも、「ブーツ泥棒」なんてのがありました。自宅から女性用のブーツが何十足と押収されたとのこと。
何でまたそんなものを..と、あるいは売り払って儲けようとしたのかしらんなどと眺めていたら、本人の供述、「臭いをかいでどんな女性か連想したかった」。あれま〜どひゃー。「臭いをかいで連想」が「望み」だったわけです。

まあ心理メカニズムは分かります。愛情要求が抑圧され性愛衝動の誘引が高まった状況で、臭いつきブーツ(^^;)がその象徴化している一方、それに惹かれる時に「内面の空虚化」が起き、空虚感を麻痺させる麻薬効果をさらに獲得するんですね。だから、そんなとんでもないものに人生を賭けて執着する異常な姿が誕生する。
基本的なメカニズムは、こうした表面の突飛性を超えて、共通した普遍的なものになります。ま僕の場合それが一応まだノーマル範囲の(^^;)「面食い」にとどまっただけの話です。一応もう収まった。アハハ..^^;

ちょっと下らん話に流れましたが(^^;)、「人の目感性」での「望み」はそのように、基本的に皮相化荒廃化したものになってしまう傾向があります。つまり、薄っぺらく深みに欠け、人の心を満たし安定化させるのではなく、逆にフラスレーションを起こし心を不安定にしてしまうものになるわけです。
それは「欲求」という「感情」をもって、それが自分の望むものだと思考してしまうからなんですね。そして意志して行動化してしまうと、現実を破壊することにつながっていってしまいます。


魂感性になると、「欲求」という「感情」をもって自分の望むものだと思考する、のとはちょっと様相が変わってきます。
「望みは人の目の中に始まり、魂へと向かう」。この一つのサイクルの中で、自分が真に望むものを知る、というのが「望みを知る」ことの基本形になります。


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