■ 「愛」と「命」に導く「人生への向き合い」 / しまの |
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No.1530 2008/04/03(Thu) 15:01:41
ということで、「下巻のための考察」と銘打ったシリーズは先にて完結ですが、書き漏れた話やちょっとした思いつき話題など、今後とも書いていきます。
まずは最後の方の、「愛とは命そのもの」というような話の流れの中でちょっと書き漏れていた話
■「愛に向う」という「現実性刺激」による治癒体験
まずこれは最後の「愛と命に向う」という局面の、より正確な定義です。
それは、「今まで行わなかった愛への接近行動」によって、それが「現実性刺激」の引き金となり、「現実動揺治癒体験」として一般形を説明したものにおける、「愛への望みの看取り」「自分への嘘の暴露」「感情の膿の放出」という治癒3効果がより純粋な形で起きるもの、と定義できます。
一般形の「現実動揺治癒体験」との違いは、一般形は日常の対人行動や社会行動全般で起きる動揺体験が治癒体験化するというもの。 「愛と命に向う局面」は、自ら今までの日常を破るような「愛への接近行動」をするのがその引き金になる、という違いです。
それに応じて、本人が感じる治癒成長効果も異なってきます。 「現実動揺治癒体験」では、心がより健康なものとなり、現実を生きる強さが増し、ストレスを感じるころが減ってきます。 「愛と命に向う局面」では、「心が健康になる」というのを越えて、自らの人間性の根底から成長へ、そして「魂の成長」へと向うという感じになってきます。
■「普通」という基準を捨てて「愛」へ
一方、「今まで行わなかった愛への接近行動」とは書きましたが、「一般的な現実動揺治癒体験」にも、多少はそれが入っています。特に、「愛本来の感情と行動」が今まで大きく妨げられていたケースにおいては、まずは良い意味でも悪い意味でも、その「普通」の行動ができるようになるのが課題になるでしょうと。その範囲でも、「今まで行わなかった愛への接近行動」というのになってくるわけです。
ですから、一般的現実動揺治癒体験と「愛と命に向う局面」の違いは、やはり後者が「普通という曖昧な基準」を捨てて「愛」に向うということに、本人の意識面の違いのかなり重要な点があります。
それは先の説明で言った、「真に望むがゆえに近づくのが恐かった愛」だけではないのが正解です。逆に、「真に望んだ愛」とはまた別の「愛」を、自分の人生における決断として選ぶ、というのもあり得ます。 事実、「愛と命に向う局面」の実例として出す僕の体験談は、「真に望んだ愛」的な初恋女性向け体験の他に、自分の人生設計としてもっと妥協的な(と言っちゃいけない^^;)というか現実的な結婚という生活感のある相手探し行動というのも幾つか出します。
そうゆうのでも、そこにやはり「魂の愛への望み」がある部分、そして「自意識の罪」がある部分が、そうした行動化によって、「愛と命に向う局面」特有の、愛と自意識の根源問題が前面に抽出される治癒成長体験が起きる、ということになります。
ですから、要は何が言いたいのかというと、「愛と命に向う局面」のような「魂の成長」を自分がしたいと考えたところで、僕のケースでの初恋女性のような、何か「特別な愛の対象と体験」が必要だと考えてしまうと、ちょっとそれは本末転倒の真似事になる危険を、まずここで指摘させて頂こうかと思います。
まあ僕の初恋女性向け体験みたいなのは、幸い話として結構ドラマ仕立てしやすい(^^;)というのはより多く読んでもらう上で都合がいいだけの話であって、「愛と命に向う局面」として本人の意識面で重要なのは、そうした結果的な「愛の見栄え」ではなく、まずは、「普通という既製服」を捨てて「愛」に向き合うということになってきます。
■「愛のニセ放棄と真の獲得」
これは実は、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」に似た内面の切り替わり変化が、「愛」においてもある、という話でもあります。 実際のところ、自分がどんな「愛」を抱く人間であるかというのは、「自己アイデンティティ」のかなり大きな領域に影響を及ぼすものでもあります。そうした「自分の人物像」に取り組むことが、「愛本来の感情と行動」から出てくるという話をしましたね。
■「命」が関わった状況で出会う「愛」
それに関連して、一つの視点を言うことができます。これは人それぞれにおいて、そうしたものに向き合う機会が得られるかどうかは、「出会い」として違ってくるものであり、そうした「出会い」がない、ということはつまりはむしろ比較的安定した生活歴の中にあったということでしょうが、一つの心理学知識として知っておくのはいい話になるでしょう。
それは、「命」が関わった状況で出会う「愛」は、そうでないものとやはり深さがあまりにも違ってくるという、心理学的な定理のような話です。
これは心が健康か心を病む中にあるかに関わりなく、またそんな機会があるのがいいか悪いかなんてことを考えたところでどうにもならない話として、「愛」というものはそうゆうものだと、そのように「命」とつながりのあるものだという心理学的知識を一つ心に入れるのがいいでしょう。
最近『アンビリバボ−』で見た話に、孤児院で出会った9歳少年と11歳少女の初恋が、45年の月日を経て結婚へと結実した、なんてのがありました。 その初恋が生まれた時、それは間違いなく、それが互いの「命」を支えるものになっていました。一方、孤児院内での恋愛禁止に反した結果、少年の方は他の孤児院へと追われ、脱走を繰り返す中でより厳しい環境へ。少女の方は、「少年は里親に引き取られた」との嘘を聞かされ、それで彼が幸福ならと彼への思いを諦めていく。 そうして互いがすれ違う45年の人生を経て、幾つかの偶然が再会へと導き、結局二人とも他の異性を人生で本当に愛することができなかったのを知る、というストーリーです。 まあ実際、手前味噌ですが僕の初恋も、僕自身の内面が分断された少年時代において、僕の「魂」を救ったものであったような感慨を、しみじみと感じるわけです。
そうした視点を、「愛」を既製服で考えるのを脱することに、役立てて頂ければと思うわけです。
■「愛と命」を見失わせる「普通にできることを競う愛」
僕が「現実的生活感」という目標で相手探しをした中で、相手女性にちょっと僕の初恋話などしたことがあり、結局30年以上に渡って恋心を抱き続けていたということについて、ちょっと皮肉そうな笑顔で言われたことがあります。「それってちょっと危ないんじゃないですか」と。 そうゆうもんじゃない。まあ確かにそうした構図だけを考えるのも可能でしょうが、別のものも見る目も持たないと..。
「災害遭難で出会ったカップルはそうでないものより長続きする」なんて話が、「ナントカの法則」とか呼ばれてもったいぶったウンチクのように語られるのを見た記憶があります。 「命」を支えあった「愛」がそれだけ深いのは、当然のことなのです。それを「恋愛長続きの法則」という皮相な視点で語る人々..という話になるでしょうか。
どーでもいい話ですが、夕食でいつも食べている、レンジでチンするパックご飯を、カロリーコントロールのため半分づつにして食べるようにしたのですが、残り半分の保存方法はどうするのが良いか情報など見ようとネットを検索していたところ、2ちゃんねるのパックご飯話題スレに入り、こんな言葉が出ているのを見ました。 「とりあえず、常用してる女は彼女にしたくないな」。まあパックご飯を、ということですね。
僕はその言葉にとても違和感を感じ、メモッておいたのですが、そこに感じたのは、この男性にとって、「彼女にする条件」を掲げて女性に向うことが「愛」になっているのだな、という印象でした。 かたや、一度「命」を支え合った後、人生で出会う他の異性を結局愛することができなかった二人の人物。 そこに、表面では同じ「愛」に見えて、根底ではあまりに違うものがそこにあるという印象を感じた次第です。
「命が命を望む」ことが「愛」となる。それが本来の姿として、そこにあるものは..。 まあそれは、「これが愛」という既製服を、自分がいかに「普通」に着こなせるかを競う、つまり自分がいかに「愛」を普通に自然にできるかと、人に見せるためのものになっているということでしょう。実はその根底にあるのが、「命としての愛」に挫折した、「根源的自己否定感情」だというメカニズムが考えられます。 それが「人工的自己アイデンティティ熱症」として説明したように、「これが自分だ」という「自己アイデンティティ感覚」だけはまるで真のような熱を帯びる。本人はそれを「愛」と感じる、というメカニズムが起きてくるのでしょう。
だからこのハイブリッドの取り組みにおいては、「自己アイデンティティのニセ放棄と真の獲得」と同じものが、「愛のニセ放棄と真の獲得」としてあり得るようになる、という話になります。
■「人生」と「命」に向き合うことが自ずと「真の愛」を導く
いずれにせよ、より「真の愛」に向う歩みである、「愛と命に向う」という局面に進むための意識姿勢について、明瞭な答えを言うことができます。上記でまず言ったのは、ともかく「特別な愛の対象と体験」が必要だと考えるのは誤りだというと。
では何が答えかは明白です。「愛」について考えるよりも、まず「人生」と「命」に、しっかりと向き合うことです。そして、何か「自分を変えてくれる」ような「特別な愛」を探すのではなく、それぞれが今目の前に持つ「愛」に、その姿勢によって向うことです。
それが自ずと、全てを導きます。 |
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