No.389 2011/11/04(Fri) 20:12:40
最初の道標をまだ通っていない者です。 10月26日投稿分のレスありがとうございます。 理論編からほぼそのまま抜粋しただけでしたが、文脈構成を変えただけで、理解の浅さが浮き彫りになったようですね。
さて今、11月1日ブログのうち、怒りを実際に捨てる1)〜5)のステップ近辺を見ています。 自分の身に起きた、誰にでも起こりうるような以下の事例について具体的に解説いただきたく、投稿します。 【事例】スーパーマーケットで、レジの列に並んでいたときのことです。 レジは3台で、並ぶ場所はフォーク並びで簡易仕切りが置かれています。並ぶ方向とレジの位置はT字型にはなっておらず、先頭に並んでいる私の位置からレジは2台しか見えず、残りの1台は後ろを振り向くような位置にありました。 このような状態で私から見えないレジが空き、私の後ろに並んでいた人が進んでいって、レジ係の店員も何も言わずに会計をし始めました。 なので私は、その客に「並んでいるんですが」と言ったのですが、私の顔を見るだけで無反応、レジ係の店員には「次にやりますから」と言われました。予想外の2人の反応に私は、二の句が告げず言葉を失いました。 結局買って帰りましたが、腹が立って仕方がありませんでした。
私がこの後考えたことは次のとおりでした。 @どう考えても私は間違っていない。割り込んだ客と店員に落ち度がある。 A私は買い物カゴを持たずに並んでおり、タイミングやその場の状況的に考えると、割り込んだ客は、もしかしたら私が列に並んでいると認識できていなかったかもしれない。だから何が起きたのかわからなかったのかも知れないし、その反対に確信犯かも知れない。 Bレジ係の店員の「次にやりますから」の発言はあまりにもひどい。普通は、「では先にやります」とか、最低でも「申し訳ありません」くらい言うべきだ。 Cこれまでにもこのスーパーで、数回不愉快な思いをしたことがあった(一度は正式に苦情を申し入れたことがあった)ので、店当局としての販売姿勢に問題がある。 Dこんな理不尽な目に会うのは、私の過去の行為に意識無意識に関わらず「悪」があったからであり、因果応報の法則(仏教)によるものだから仕方がない。 Eこのように存在を無視・軽視されることがこれまでの人生で何度もあり、この世の人間社会で生きていくことさえ、ますます嫌になった。 Fこれからは、このスーパーで買い物をする物は、こちらから頭を下げて売ってもらいたいものだけにしよう。それならぞんざいな扱いを受けても怒らないだろう。 Gその場で冷静にとくとくとレジ係の店員に対して苦情を言い続ける方法もあったし、買わない方法もあったが、そのときは思いつかず、疲れていたことと、余分な時間を使うだけなので、大人しく買って帰った今回は、これでやむを得ない対応だった。 Hこんな小さなことでこんなにも腹が立つのは、自我の執着が強いということで、悟りの境地たる無我には程遠いな、と思った。
このことを、ステップ1)〜5)と対比させてみると、1)〜4)までは、自分なりにできていると思います。
>4)それら「怒る理由」と「怒る行動」というものに対抗し得る、「怒りに頼らない行動法」を具体的に持つこと
このとき4)に対応する具体例が私の場合Fだったわけですが、こんな思考で、怒りを持たない成長した人間への過程になるのでしょうか? これだと、このスーパーという極めて限定された場面でしか役に立たないような気がします。よろしくお願いします。 |
|
No.391 2011/11/15(Tue) 15:32:31
その後のブログでは「怒り」に関する抽象的な記述がありましたが、この具体例については、お答えいただけないか、遅れているようですね。 なので一人語りにて完結いたします。 これは「ただ運が悪かっただけ」の話です。 そしてそれに伴う怒りは、自然の感情であり仕方のないことです。 昔祖母に言われた「怒った自分が損するだけ」という認識だけ持っていれば、それでいいと思います。 【事例2】通勤途中に上からカラスの糞が落ちてきて頭と肩に浴びてしまった。 先の事例もこの事例2も同じく運が悪かっただけの話です。 しかし、先の事例が人為現象なので怒りを伴うのに対し、事例2は自然現象のため、悲しい気持ちにはなりますが、怒りは伴いません。怒りの矛先は人間にしか向かないからです。 人為現象も自然現象のひとつとしてただ単に運が悪かったと考えることができれば、怒りは収めることができるのでしょうが…。 人生の中で日常の中で、運が悪くて、悲しいあるいは憤りの思いをすることは、たくさんありますから、仕方のないことです。 しかし、ここであえてハイブリッド心理学は「怒り」をとりあげて語っているわけです。
例えば文学など芸術では、感性が重要であって、論理は重要ではありません。 既存宗教では、論理矛盾は権威によって沈黙させます。 反対に哲学では、論理によって真理を解明するものなので、論理矛盾・破綻が広く指摘されると、その哲学者の価値は、ぐんと下がってしまいます。 この点当該心理学では、理論・論理・理屈を重要視しています。 しょうもない事例であることは最初からわかっております。 一般的にはまともに問題視すること自体が幼稚なことです。 が、当該心理学では、どう論理的に答えてくれるのか、聞いてみたかったわけです。 当該サイトでは様々なところに論理破綻が見られます。しかしブログ等は正式な書籍にする前の試行錯誤の推敲の場だと考えておられるようなので、このサイト内でどんどん間違えて、推敲を進めていって、論理の一貫したハイブリッド心理学を作り上げていただければよいのかと思います。 全然成長に繋がる思考ができていないと言われるだろうな、しかも納得のできる論理的な回答がいただけることは難しいだろうなと思っておりました。 |
|
|
□ Re: 「怒りの放棄」について / しまの |
|
No.393 2011/11/15(Tue) 16:38:05
レス遅れておりすいませんです^^; 今ブログで解説し始めた「歩み方ガイド詳細」を踏まえて説明すると分かりやすいと思いますので、あと2、3程度の記事を書いたら書けるかと思いますのでちょっとお待ちあれ^^。 整備途上の心理学ゆえ多々ご不便をおかけしている面ご容赦頂ければ。申し訳ないです^^ゞ
ちなみにあと9/10のRyotaさんさらに7/1(^^;)のB子さん質問へのアドバイスも保留中で、「歩み方ガイド詳細」を踏まえてあとで簡潔にポイント書きますです^^。 |
|
|
□ Re: 「怒りの放棄」について / しまの |
|
No.397 2011/11/22(Tue) 11:45:00
これはまずは島野の考えをお伝えしてみましょう。そのような場面でどう考えるか。
まず、レジ順序の厳密度は、その場合はやや低いと思います。 そもそもフォーク並びの設定はお店に任されている便宜性ですので、どこまで厳密なものかはお店によると思います。しかもお聞きする配置ですと、hideさんは前方のを待っていたようなので、後ろの人は空いた別の方に行ったという構図も成り立ち得るかと。 これが徹夜で並んだチケットの購入で後ろの人に抜け駆けされたとなると、話が全然違ってくる。大いにクレームすべき事態^^;
これはまずは、外面行動の「原理原則」をどう考えるかという、「原理原則行動法」のテーマになります。ここでは、「厳密度」といった視点を入れているのが、hideさんが考えたことに対する新しい視点と言えるかと。
それを1つ目の視点として、2つ目の視点は、自分の能力の問題として捉えるということになると思います。後ろのレジにも抜け目なく空いたらすぐ行くぞという姿勢を、どう見せられるか^^;
つごうまずは2つの視点ですね。原理原則行動法の視点、そして全てを自分の能力の問題として捉え、常に学ぶ姿勢。 そうした視点に、理解納得できるか。道徳的な思考とは対極のものになると思います。
その上で、本心から怒りを捨てることを望むかですね、。
怒りを本当に捨てるのは「否定価値の放棄」によるものであり、それは全ての視点においてハイブリッド心理学が取るものと一致することによって至るものと考えています。視点は沢山あり、一つでも違うものを取るならば、心底から怒りを捨てることにもならないと思いますので、幅広い材料で取り組んでみて頂ければと思います。
今回は「自分がどう扱われたか」という受け身の出来事が材料となっていますが、仕事や家庭生活など人生課題において、自分から何にどう向かうかが、取り組みの材料として特に重要です^^。 |
|
|