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2013


自己イメージについて / green
No.743 2013/12/16(Mon) 21:41:18

自己イメージというのは外から見える自分についてのイメージですので、他人からどう扱われるかということに関係するのではないかと思います。したがって、他人に依存する中で自己イメージは重要になってくると思います。そうだとすると自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向にあるという理解は合っていますでしょうか。自立に向かう中で自己は形を失い未知になっていくのでしょうか。


 
「自己イメージ」 概説^^ / しまの
No.747 2013/12/22(Sun) 16:24:42

「自己イメージ」 概説

「自己イメージ」には、正常な機能として必要不可欠部分もありますね。
心理学からは、およそ以下3段階構造のようなものとして考えられるかと。

1)基礎的自己イメージ(健全形)
人間としての日常生活必要不可欠となる、基本的機能(記憶認知)による自己イメージ性別、おおよその身長体重容貌の特徴など。
これがない男女別のトイレやお風呂正しく行けないですね^^; 「性同一性障害」性別における自己イメージ混乱とも言えるでしょう。「相貌失認」という脳の障害があると、人の顔をうまく見分けられないのみでなく、鏡に映った自分の顔も自分と認識できなくなり、家の中ふと鏡に映った自分驚き「誰?!、何してるの!」と叫んでしまったといった事例を先日TVで見ました。

2)評価づけした自己イメージ(健全形)
「自分はこれができる」という、能力的評価加え自己イメージ急いでいる時、走れば何分で着ける、自転車に乗れるといった身体的能力面での自己イメージ実際その行動をしてうまく行かない場合、体の具合が悪いことがわかり対処できたりします。
自分はこれこれの仕事ができるといった社会的自己イメージ。これがあって、会社に勤めていれば毎日同じ席に座り、自分の仕事に向かうといったことが可能になります。社会生活維持必要不可欠です。
自分はこんな生き方、人への接し方をする人間だという自己人格イメージ僕の場合は、人生執筆に注いで生きている人間「怒り」使わずに人に対処する。この辺はもう揺るがなくなっている次第です^^)v (Vマーク余計^^;)
これらの自己イメージ揺らいでくると、自分の生き方や人への接し方に悩む、という現象になるわけですね。

3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)
これは厳密にはただ「自己イメージ」であるのみでなく、「人の目」「人の心」の空想イメージでもあります。それが自分をどう見るかイメージ。つまり人が自分のことをどう空想しているかを空想するという複雑な意識であり、その分「心の病み」の傾向つながりやすい意識だと言えます。
病みの傾向の深刻さにもかなりバリエーションがあり、比較的健康なのは、特別なものを持つことで人にちやほやされる期待イメージスキーゲレンデに立つと、滑りのうまさで注目浴びるという自意識過剰気分ちょっとなることもあります。あはは^^; いやーまだまだだと、すぐ練習の方に意識転換修正しますが^^。これは「煩悩形」^^;
「惑い形」は、自分でうまく自分の評価ができず、人にどう見られる、どう言われるかに頼ることで自己イメージを持つもの。当然人の言葉に振り回され、次の「病み形」にもつながりやすい
「病み形」は、心の底での深い自己イメージと、意識の表面の「人の目の中の自己イメージ」に、病んだ食い違いがあるものです。つまり、心の底で深い自己否定感情があったまま、それを否定し去るための、人の目の中で燦然と輝ける自己理想イメージ抱くといったもの。この自己理想イメージをめぐって、「人の目」の空想「賞賛」「軽蔑」、その傲慢さ「見せかけ」への「嫌悪」といった、混乱に満ちた、病んだ意識へと向かってしまいます。


「依存と自立」と自己イメージ

とうことで、

>他人に依存する中で自己イメージは重要になってくると思います。そうだとすると自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向にあるという理解は合っていますでしょうか。

については、実はちょっと逆とも言える感じで、「依存」自分で自己イメ−ジを確立できない「自立」自己イメージを自らしっかりと築く方向に向かう、ということになると思います。

上記3種類について言いますと

「基礎的自己イメージ」は、依存自立かに関わらず正常な日常生活の維持のために必要なもの。

「評価づけした自己イメージ」は、
「依存」だと自分でうまく築けず、人の目人の言葉に頼る。結果、意識自ず「人の目の中の自己イメージ」移る
「自立」だと自ら自己イメージをより高めるための努力をし、高められた自己イメージは揺ぎなく安定する安定するごとに、日ごろあまり意識されるものでなくなる

「人の目の中の自己イメージ」は、
「未熟」から歩み始めることにおいて、誰もがまずは持つものと言えると思います。また、来歴の中で心の病みの傾向を抱え、そこから克服へと歩み始めることもあるでしょう。
そこから、
「依存」とどまることはその自己イメージの病みの傾向ただ深める方向と向かわせ
「自立」はそれをより健全「評価づけした自己イメージ」へと修正していく方向へと向かわせる、
ということになるでしょう。

それは結局、「自己イメージ」位置づけが、
「依存」においては、人の力で自分を幸福にしてもらう、そのために自分は人の目に愛され賞賛される存在になる必要がある、その結果絵に描いた理想が描かれ、それをめぐって揺れ動く自己イメージが抱かれる、というものであるのに対して、
「自立」においては、自ら幸福へと歩む、そのためありのままの自分を受け入れ、現実世界を生きる知恵と能力を獲得していく、その達成状況について自己イメージが抱かれる
という根本的な違いによるものです。

また、自己イメージ内容段階がどのようであれ、
「依存」においては、「自己イメージ」行動場面で「演じるための基準」(^^;)として「使われる」ものである一方、
「自立」においては、相手の実際の様子に対して、どんな「行動法」対処するか重要になり、実際の行動場面では「自己イメージ」はあまり「使わない」ものになる、と言えると思います。総じて、自己イメージそれ自体をあれこれ意識するものではなく、しっかりと心の土台に安定して存在するものになる、と言えるかと。内容的にも、「人にどう扱われるか」よりも「自分がどう人に対処できるか」イメージになる、と言えると思います。

ですので、
>自立に向かう中で、自己イメージというのは重要性を失う方向

一言で、「重要性を失う」のではなく、
「自ら築き高め、揺らぎなくなるごとに、意識する必要もなくなってくる」ものだと言えますね。
「重要性」なくならないと思います^^。とっても重要


「未知」への変化と自己イメージ

>自立に向かう中で自己は形を失い未知になっていくのでしょうか。

「未知」というのは、「心の成長」について、特にそこでの「心のあり方」について言っているです。成長した心は、まだ成長していない「今の心」からは、いかなる形においても「未知」なのだ、と。「今の心」で分かる心のあり方とは、結局「今の心」の中でイメージできる、「今の心」をちょっと変えたバリエーションに過ぎないですね。

ですので、成長できた自分どんな自己イメージを持って生きるようになるのかも、「今の心」からは「未知」だと言えますね。

また、「自己イメージ」はあくまでその時その時の心の状態において持つものですので、「自己イメージ」をどうこう変えることで「心の成長」はできない、とも言えます。あくまで「具体的な思考法行動法」に取り組み、「望み」に向かう人生の体験の中で、心が成長します。
「自己イメージ」をうまく操縦することで心が成長できるというようなことを言っている心理学カウンセリング世には沢山ありますので、それとは大分違う考え方になります。この点は結構重要ですね^^。

「依存」の中にある心は、「自立した心」をイメージすれば自立できるわけではない、ということです。「自立した心」イメージするのではなく、自ら幸福に向かうための、具体的な思考法行動法を学び、実践することです。その中で心は自ず「依存」から「自立」へと成長し、成長できた自分は、「依存」の中にいた自分からは「未知」のものであったことを、感じるでしょう^^。


 
Re: 自己イメージについて / green
No.752 2013/12/24(Tue) 22:43:54

心が依存にあるときの自己イメージの持ち方と、心が自立したときの自己イメージの持ち方が異なることがわかりました。ありがとうございました。


仕事について / レース
No.746 2013/12/19(Thu) 21:00:11

 就業の中で、昇進などでは業務量など多くなり、やりがいやまとめようとする責任も加わると感じます。仕事の中で、昇進など何を求めるかは自分自身が決めることであり、その方の生き方であるとも感じています。
 仕事では、昇進を目指すよりも、あまり負担の無い範囲で行い、帰宅後は島野さんの心理学などの自己学習の時間を持ちたい。仕事は、帰宅後の自分の時間が少なくなるため、できれば短時間であればもっと良いなと感じています。
 仕事は、必要な学びでもあります。また、生き方が変わってから職を変える方もいるということも分かります。

 島野さんは、昇進についての捉え方はどうだったのでしょうか。また、現在の考え方は。


 
「昇進」「出世」^^ / しまの 引用
No.748 2013/12/24(Tue) 10:06:42

会社人時代は、とにかく上に登りつめようという出世願望などはありませんでしたが、「自分が認められた証」として、そこそこの昇進を望む気持ちはありましたね。まあ管理職にならない程度、という感じで^^; で実際その程度には昇進した感じでした。
でもそれは心の充実や満足つながるものではなかったですね。結局、会社の仕事「自分が生み出す価値として一番重要なもの」なかったということです。

その後心の成長体験を経て執筆に向かうようになり、会社も辞めた次第です。にとって執筆が結局「自分が生み出す価値として一番重要なもの」であったわけです。

「昇進」すると仕事の内容も難しく、責任も大きくなり、その分給料も良くなるかも知れませんね。
でも実際「昇進」して意味がある、つまり人生の満足と充実につながるのは、その仕事での「生み出す価値」にいかに情熱を感じているか、そして共に働く人全員への愛情を感じることができるか、というのが要因になると思います。
そうであれば自然と昇進もするでしょうし、そうでないなら、必要に応じた程度の仕事をすればいいという話になりますね。それはもう
>自分自身が決めることであり、その方の生き方
という、その通りだと思います^^。

今の僕残りの人生、どのように有名なれようがなれまいが自分の心理学を書き尽くすことに充実と満足を感じていますので、「昇進」「出世」あまり関係ない、関心ないという感じです^^。


 
Re: 仕事について / レース
No.749 2013/12/24(Tue) 20:09:08

 仕事を生きがいと感じている方の場合も、やりがいを持っていつまでも働いていたいと話を以前島野さんも書かれていました。

 仕事は、自分が生み出す価値ともなる場合もあるのだろと言えます。
それから、自分を作る部分もあると実感します。ただ、島野さんのようにもっと自分の時間が取れるのが理想です。

 本屋に寄ってみると、たくさんの心の持ち方など似たような書籍がたくさんあることを見ました。
 
「昇進」すると仕事の内容も難しく、責任も大きくなり、新たな自信にもなるとも考えられます。

 必要に応じた程度の仕事を、こなすこともひとつの捉え方とのこと。

 島野さんは、自分の心理学を書き尽くすことに充実と満足を感じていますとのことで、すばらしい時間であること。

 自分が生み出す価値、自分の心を変える取り組みについて考える時間が一番取り組みたいことです。

 島野さん、ありがとうございました。


 
Re: 仕事について 2 / レース
No.750 2013/12/24(Tue) 20:30:50


 仕事の向き合い方は、他人との比較競争意識や、社会での評価といった「自意識」の惑いなど影響を考えながら、それらをただ自分にできることを精一杯に行っていくという考え方も含まれる。


人間関係について / にーな
No.710 2013/11/27(Wed) 00:03:27

島野さん、こんばんは
読者広場での皆さんの質問、参考にさせていただいています。
私も身近な具体例が出てきましたので質問させてください。

日常生活の中で、なんとなく苦手な人がいます。最初から苦手と感じたり、途中から何かをきっかけにそう感じたり、状況は様々ですが、自分の中に相手に対して何かしらのストレスを感じることが内的に起きています。 さらに自分の心の中を見ていくと、その人の言動や行動に対して否定的な感情があります。それをただ流すことはできます。そして、ストレスを溜めない程度の適度な距離を作ることはできます。
ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。相手を否定することによって「自分は正しい」という傲慢な気持ちもあるようです(自分が神になる…でしょうか?)。また、その相手から自分も疎まれているような気もします。疎まれていることについては、ストレスを溜めてまで付き合いたくないので、別に構わないと思います。しかし、自分が嫌っていない別の人物からちょっと距離を置いたような態度を取られると、「そういうこともある、嫌われているかどうか断定できるものではないし、第一嫌われているとして、自分の生活全体に影響を及ぼすものではない」と表面の意識では納得しつつ、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか教えていただけないでしょうか?


 
内面感情ではなく「場面」に取り組む^^ / しまの
No.720 2013/12/03(Tue) 09:28:16

取り組み実践の手順

>このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか教えていただけないでしょうか?

取り組み実践は、どのような状況においても、
『入門 - 3.取り組み実践』
「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践
で説明した、
1)「心の健康と成長に向かい得る行動法」の理解
2)それについての自分の納得、および内面感情への向き合い
3)それを踏まえての行動の結論検討

という手順で進めます。

多くの人ありがち、というか大抵の人そうなるのが、上記1)のステップが抜けてしまうものです。ハイブリッド心理学の方向性に沿った、「心の健康と成長に向かい得る行動法」良く分からないまま、内面に向き合おうとします。そして自分の「気持ち」「感じ方」のどこが悪いのだろうと考え始めてします。
するともうもう全く違う方向、今までの思考の繰り返しになってしまいます。3)の行動結論も、出ようもない。

書いて頂いた内面向き合いも、ちょっとそんな感じかもですね。


否定価値はどう働くか・・

まず以下についてコメントしておきますと、

>ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。相手を否定することによって「自分は正しい」という傲慢な気持ちもあるようです(自分が神になる…でしょうか?)。

「否定価値」まああるのでしょう。それをもし脱しているようなら、こうした問題とうの昔に解決可能なものへと解きほぐされると思います。

ただ、上記引用「否定価値」どう働いているのかを言うならば、相手への否定感情湧くことよりも、「自分が根本的に間違っているような気持ち」というのが、「否定価値」直接働いている部分なんですね。
また少し後の、
>内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
という部分。それが、まさに「否定価値」働いて、意識の表面に現れているもののように見えます。

それに比べりゃー相手について否定的感情湧くのは、書いて頂いた状況ではむしろ恐らく健康な話で、実際相手に何か嫌なところがある(^^;)からだと思います。それを無理してつき合っているのが問題・・行動結論まで安直に進めるとまた元も子もないので、上記のような取り組み実践手順しっかりと踏まえましょうというになるわけです。


「楽しみの共有」vs「友達約束同盟」

するとどうなるかごく手短に書いてみますと、問題場面は恐らく仕事場面ではなく交友として、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法」とは、
これも『入門 - 3.取り組み実践』の中の『「学び」の主要テーマ』の中では、
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
で書いた、
==================
「愛」 ・・・ 「分かり合い認め合う」というものではなく、より純粋「喜びと楽しみの共有」として位置づけ目指す
==================
という、最も基本的な話該当します。交友であれ恋愛であれ、さらには家族関係であれ、これが基本になります。

書いて頂いたのは、多分「分かり合い認め合う」という姿勢モードでの、交友だと思うんですね。
「友達なんだから、こうするよね」というモードそうならない時、「嫌いなの?」という、本来プラスの世界のはずの「交友」が、マイナスの世界の「もめごと」のようなものと化してしまいます。「友達約束同盟」姿勢と呼べるものですね。

そうではない、「楽しみの共有」として交友を築く姿勢を、まず「選択」するか問いのテーマになります。
それは、楽しくないのであればつき合わない、というか一緒の行動を特に無理にしない、という姿勢であり行動法です。
さらにこれをカドを立てることなく実現するため、「言葉の使い方」極めて重要になるものとしての、
3.行動学
具体的実践も出てきます。
ごく入門的な例を言えば、「私はそれには参加しません」という否定形の言葉ではなく、「私はその日はこれに行く予定です」といった肯定形の言葉のみ使う
どーでもいい話ですが最近会社時代親友遊びに来た時、事前の連絡時親友そうした言葉の使い方をしているのを見て、続く友達っていうのはやはりそうなんだなーと感じたひと駒がありました^^。


「内面」ではなく「場面」に取り組む

そうした観点から、「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解する」ことに取り組むということです。
上に書いた手順の通り、具体的場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」が、ハイブリッド心理学の方向性からは具体的にどうなるかを、知ることからです。
そしてそれについて自分の理解納得を問うことから、自分の内面感情理解することが始まります。

そのようなものとして、まず「場面」取り組みます。
これは蓮さんへのレス
『課題は「離反」ではなく「依存」^^』 しまの No.712 2013/11/29
でも書いた
最初から「内面」に取り組むのは、誤った取り組み法です。それは船の碇を下ろさないまま、海の上の作業をしようとするような話です。感情という海流流されたまま、その感情どこからどの方向に流れるのか、どう役立てればいいかもつかめなくなります。
海の上で作業をしたければ、まずをおろして自分の思考と行動を安定させることが必要です。根本的な目的海流つまり感情把握し、それを役立てることだったとしても、自分という安定していないのであれば、まず思考と行動に取り組むことだけを、先に行う必要があります。

ということで、
>このような状況における、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみにする」学び・取り組み実践は具体的にはどういったことになるか
は、

>最初から苦手と感じたり、途中から何かをきっかけにそう感じたり、状況は様々ですが、自分の中に相手に対して何かしらのストレスを感じることが内的に起きています。
さらに自分の心の中を見ていくと、その人の言動や行動に対して否定的な感情があります。


というのが、いったいどのような内容「場面」のことなのかの、正確で詳細な把握理解からです。その一つ一つについて、ハイブリッド心理学から「心の健康と成長に向かい得る行動法」を言えます。そしてに、それについての理解納得を問うことから、「内面」への取り組みが始まる。

「状況は様々」なのを、一つ一つどういう状況なのか詳しい把握からです。そこに、それが自分にとってどういう意味の出来事であったのかの、まさに「分析」始まります。
具体的場面内容ありきの取り組み開始になりますので、差しさわりない表現範囲詳しい場面状況など一つ一つ取り上げて頂ければ、それぞれについて具体的アドバイス返していけますので^^。


動揺根本消滅までの道

補足として、こうした動揺根本的にゼロへと消滅するまでの道のり大まかに書いておきますと、まずは
1)「楽しみの共有」行動法への納得を問う段階
2)その実際の実践を問う段階

を通して、実際他人との間で、外面においてはもう完全にカドが立つことなく交友行動を行うもしくはやめるの判断決断ができるようになることのは、最後
3)実際自分が相手をどう好きかそうでないかの「望み」に向き合い、そうした行動法を携えて向かう中で、「望み」そのものが成熟していく、つまり相手をどう好きかによってどんな交友を続けるかの結論が、次第にブレのないものになっていく。

という道のりになると理解しておいて頂くといいでしょう。
「感じ方」について、「正しい」「悪い」という尺度で取り組むことは、そこにはないのだ、というになります^^。

またこの文脈「否定価値の放棄」には、まずは触れることはできません。他の取り組みも含めて、自分「強く」なったことを足場に、ものごとの悪い面に目を向ける衝動向き合う作業として取り組みますが、「神的なものへの思考」などといった哲学宗教的なテーマかなり本腰を入れて取り組む作業になります。道順としては、上記2)3)あたりです。


 
Re: 人間関係について / にーな
No.727 2013/12/06(Fri) 00:55:14

>ただ、上記引用で「否定価値」がどう働いているのかを言うならば、相手への否定感情が湧くことよりも、「自分が根本的に間違っているような気持ち」というのが、「否定価値」が直接働いている部分なんですね。また少し後の、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。という部分。それが、まさに「否定価値」が働いて、意識の表面に現れているもののように見えます。

これ、目からウロコでした^^;。自己処罰ですよね?
他人に嫌な感情をもっちゃいけないと自分に強いていたようです。でもそういう感情も自然なことなんだと理解できたことで、なんだか肩の荷が下りたというか、楽になりました。
同じようなシチュエーションが子供の頃ありました。私が姉に対して何か気に入らないことを言ったのだと思いますが、「そんなこと言っていると人に嫌われるよ」と言われました。内容は思い出せませんが、まぁ意地悪なことを言ったかもしれないとして、その時点ではそれを嫌っているのは姉であり、他人が本当はどう思うかはわからない、千人いれば千差万別の受け取り方があると今の私なら思います。もしかしたら、自分の都合のいいように動いてくれない妹に対する姉側の意地悪であった可能性すらあります。でも幼かった私にその言葉は何かの刻印のように感じられ、それ以降、何か言葉を発する時は他人の気持ちを逆なでしないか勘ぐり、合わせるようになっていたという記憶があります。それでも逆なでしてしまった時には、何か自分が悪いことをしたんだというお決まりの思考の流れでした。

>具体的場面の内容ありきの取り組み開始になりますので、差しさわりない表現範囲で詳しい場面状況など一つ一つ取り上げて頂ければ、それぞれについて具体的アドバイス返していけますので^^。

今回課題となっている場面・状況について書かせていただきます。
ある趣味を共通とする女子会のような集まりがあり、その日は7名程度が参加しました。
その中に初参加の方が2名程いたため、端から自己紹介をしようという流れになりました。
ところが、1人目の方が自己紹介をしているうち、発言者もしくは外野からの質問などで、どうしても自己紹介が頓挫してしまい、一人が終わるのに長い時間を要していました。どちらかといえば、既参加者の方からの新参加者への質問によって反れる事が多かったです。最初はそういった状況に対して可笑しさもあり、爆笑のムードでもあったわけですが、3人目の時に全くそういった流れが改善されなかったため、私は、「もういいんじゃない、話しているうちにお互いにわかってくるし」と笑いながら言いました。場は穏やかな笑いのムードであり、私の発した言葉はその雰囲気にも乗るような違和感のないものだったと自分では感じます。自己紹介をそこでストップさせようというような強い意図もなかったです。あまりにも頓挫するので、ついポロッと出てしまった…という感じでしょうか。名前と出身地程度の紹介は事前に全員終わっていたという背景もあります。すると、その会をどちらかといえば仕切っているタイプの一人の方から、「にーなさんは知っているからいいかもしれないけど、初参加の人がいるんだから、どうしてそう自分のことしか考えないのかな」と感情的な強い口調で言われました。それ以来、彼女のことが苦手となりました。
その後、しばらく疎遠になっていたのですが、ある日、パソコンの調子が悪いから教えてくれないかというメールが来たんです。それをきっかけにまた元の楽しい関係が戻ったように一瞬見えました。それでもその方との付き合いについては慎重になるべきだったのに、また自分を苦しめるようなことをしてしまいました。ちょうどメールをもらった同日にある有名歌手のライブチケットに当選し、チケットに余りがあったため、つい彼女を誘ってしまったんです。その日メールが来なければ誘わなかったと思います。その後、やはり別のことで彼女のことを嫌だなと思うことがたび重なり、手に入りにくいチケットだから、もっと自分が一緒にいて楽しい人を誘うこともできたのに、なぜあんな人を誘ってしまったのだろうと今は後悔しています。

ざっと、今回のストーリーになります。
せっかく楽しみにしていたライブが少し台無しぎみです。ちなみに2人きりで行くわけではないので、そんなには悩んでいません。チケット代は払ってもらうんだし、ライブはライブで楽しもうというのが今できる建設的思考行動法でしょうかね?
今はライブを最後にもう個人的には関わりたくないという気持ちです。どうして自分で自分の首を絞めることをするのだろうと自分のバカさ加減がほとほと嫌になります。島野さんが示してくださった「動揺根本消滅までの道」の途中のブレている状態に今はあり、過去の過ちに対する後悔よりも、今後、望みへ向き合っていく中でブレないものとなっていくと思っていてよいでしょうか?
相手に嫌悪感を抱きながら、少し関係が和らぐ雰囲気があるとまた近づくという不安定な行動を取ってしまう根底には、人と関われない時に感じる「空虚感」を恐れているからではないかと思います。これは、愛情要求症候の消極形でしょうか?
周りから誰も居なくなること覚悟で(実際には家族もいるし、そういうことは考えられませんが)、この空虚感を受け入れる以外無いと思われますか?


 
「まずは原理原則行動法でイザコザを回避」から^^ / しまの
No.733 2013/12/10(Tue) 11:17:36

「交友行動をあるべき姿で律しようとする」という問題・・?

これは問題かなり明瞭で、ずばり、「楽しみの共有」としての行動を取れていないケースになりますね。

まずごく外面の行動内容を見ますと、ちょうど昨日チェンジさんへのレス
『Re: 愛想笑い』 しまの No.728 2013/12/07
で、
「こうした方がいい」という比較的肯定的な言葉を使っても、相手が自分で何も問題を感じていないのなら、まずは相手の否定になる、というのが当てはまります。そこにどんな問題があるのか、それを相手に指摘する必要があるのか、から検討するのが良い、と。

>「もういいんじゃない、話しているうちにお互いにわかってくるし」と笑いながら言いました。場は穏やかな笑いのムードであり、私の発した言葉はその雰囲気にも乗るような違和感のないものだったと自分では感じます。

についても、笑いながら言ったとしても、かなりの否定行動として受け取られる危険があると思います。この辺「言葉の慎重さ」は、人生を通しての勉強課題にしたいものです。
ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。「もうコンサート始まっちゃうよ」なら、カドは立たないですね。ではこの場合にーなさんなぜ止めようとしたのか。

そこから言えるのは、交友行動が、「楽しみの共有」ではないものになっている、というかより正確的には、交友行動が「楽しみの共有」だとして、それが「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じておられるのではないか、ということです。
もちろんそうした側面「団体行動」にはあるものであり、その場合はそれなりの「組織化」「規則の明確化」が、具体的行動場面先立って必要になってきます。「幹事」明示し、仕切るための発言権を与える、イベントの際に先立ってスケジュ−ル表を作り、時間の制約があるのであれば、「自己紹介は一人3分以内にて」添えておいたりする。そこまですれば、あとはもう「時間切れ〜」笑って言えることになってきます。
そうした前提条件なしに、ただにーなさん自分の心の中「自己紹介はスムーズに回るべき」と考えていただけの話であった場合は、にーなさん自分の考えだけでものごとを動かそうとしていると見られても仕方がなくなってしまうと思います。
文章を拝見する範囲では、その場はまだあまり規則立てた団体行動ではなく、時間が許す限りいくらでも脱線していてもいい場のような・・。となると、「場は穏やかな笑いのムード」を維持したようですが、内心ではかなり引いていた、あるいはショックを感じた人さえいた危険もあると言えるように思います。


「あるべき姿からの他人への否定」に取り組む

そうして前後に書いて頂いた内容を見るに、感じられるのは、こうした問題が、かなり根が深く、広く、人生の中で起きているらしい様子です。ちょっとこんな表現ご容赦ですが、印象として、まあそれほど重くないものだとして、自分で気づいていない病気を人生の中で持っている、という印象
まあその病気(^^;)とは、交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んで、そもそもの「楽しみ」を破壊してしまう、というもの。
実はそうした「あるべき姿」があって、

>少し関係が和らぐ雰囲気があるとまた近づくという不安定な行動

取るのかも知れませんね。

ですので、まず取り組むのがいいのは、ずばり、「あるべき姿からの他人への否定」になると思います。
それを自分はどう心の中で他人に向けているか。そして場合によりそれを行動化してしまっているか。お姉さんとのから察するに、小さい頃はそれをふんだんに行動化してしまっていた可能性が高いと思われます^^; はそうではないと思いますが・・。
その否定行動の強さが深刻というよりも、その否定行動が自らの欲する他人との親愛を自ら破壊しているものであることに、自分で気づいていないならそれが深刻な問題、という感じがします。右手がしていることを左手が知らないというやつ^^;

それを行動化してしまったら、あとはもう後の祭りというか、相手がそれを見逃してくれるかどうかの運不運になってきますね。
その点、今回その友人は、にーなさんと同じく「こうあるべき」という観念からの否定行動を持つ人であるように思われます。つまりにーなさん似た者同士なんですね^^; そうした相手が、どうもにーなさん苦手とする相手であるように推測できます。


「行動法」と「価値観」への取り組み

ですのでそこからまずは、やはり「建設的行動法」への取り組みですね。
内面何をどう感じるかはさておいても、外面行動として「破壊」になるのではなく「建設」になる行動法、言葉の使い方、話の持って行き方取り組む相手の行動をやめさせたいのであれば、まず相手に問題をどう認識させるかから、というように。そこでもまた言葉を慎重に選ぶことを学ばねばなりません。さらに言えば、それが問題だと感じる自分の感覚が本当に妥当なものなのかも、確認しなければならないでしょう。
そうして、結局のところ自分を窮地に陥らせる行動を、まずはいかに事前に敏感に察知し踏みとどまれるようになるか。

それによってしっかりと安全弁を用意しつつ、という話になると思いますが、「価値観」本格的に向き合う必要がありますね。
交友行動が「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じている感覚思考がないか。あるいははっきり信念のようなものがあるかも知れない。『実践詳説』で書いた「道徳の授業型人生観」でもありますね。正しい自分が愛されるべき、と(P.123「人生観」の学び
さらにもっと直接、広く目を向けてみるものとして、自分がどのように人への批判否定の感情や思考を向けるているかを、しっかりキャッチするのがいいでしょう。おそらく、「こうあるべきなのに」という観念を伴いながら抱くであろうものとして。

これはつまり結局前の方での
>ただ、これが自分の中にある「否定価値」から来ているのだろうか、自分は相手を否定しているのだろうかと思うと、
というのが、実際その通りだということになるでしょうが、それをまたさらに
>なんだか自分が根本的に間違っているような気持ちになります。
と感じるのがまた否定価値働きであり、問題の克服には全くつながらないわけです。そして
>自分の生活全体に影響を及ぼすものではない」と表面の意識では納得しつつ、内面では「どうせ自分なんて」という落胆と悲しみを感じます。
が、もう問題解決からは遠く離れた谷底甘い自己嫌悪耽るというものになってしまうわけです。


まず「行動学」を学ぶことから

取り組み実践としては、まずは「行動学を学ぶ」一言につきます。

上に書いた「団体行動」「組織化」「規則の明確化」と言った話は、「原理原則行動法」です。「楽しみの共有」という「建設的対人行動法」ができるためにも、まず楽しみ以前トラブル防止できるためにhも、「原理原則行動法」必須になります。

これからの対人行動場面のちょっとしたイザコザなどを、全て、まずは「原理原則行動法」で解決できるようにする。まずはこれが目標になるかと。
その取り組みの中で、「価値観」についても、自ずと分析できると思います。「原理原則行動法」としてはこう、という基準ができれば、後は、それとは違うものとして動く自分の思考も感情も、即座にピタリとその歪みが測定できるという次第です。それが前コメントで言った、海の上で作業するためのです。
上に、交友行動が「あるべき姿」として律せられるべきもの、律するべきものと感じている感覚思考、また自分がどのように人への批判否定の感情や思考を向けるているか、という検討課題を書きましたが、これを先に意識するとまた否定価値で自分を否定する繰り返しだけになる可能性がかなり大きく、まずはあくまで「原理原則行動法」の習得が先だとするのが良いでしょう。
情報としては、まいどのリンク掲載ですが以下などから。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)
より本格的に学ぶなら、「ハイブリッド心理学指定の必読書」として
ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)

まあ推測できるのは、僕自身経験ありなのですが、「自分は正しく、皆間違っている、このままでは駄目になる」という、中身をあまり問わない宙に漂うような感情流れており、それがちょっとした出来事を捉えて他人への批判否定観念生み出す、というのが起きているかも知れませんね。
いずれにせよそうしたものどう「分析」「反省」したところで、それは克服できません。それの代わりになるものを築かなければ。血が悪くなる病気治療として、悪い血を抜き出すとして、そこに替わりとなる健康な血がなければ、また悪い血が生み出され体を満たしてしまいます。健康な血を用意しておき、悪い血を抜き出したらすぐに健康な血を埋めることで、やがて根本の造血機能健康化されるという次第です。

ということで、

>過去の過ちに対する後悔よりも、今後、望みへ向き合っていく中でブレないものとなっていくと思っていてよいでしょうか?

Noです。まず、自分から望みを妨げる行動法克服するのが当然先です。過去の問題についても、そこにどのような行動法の誤りがあったか、正解はどうだったかという答えを出せることが条件になります。
そうした妨げを克服しないまま望みに向き合おうとしたところで、まず起きるのは、今回の話で言えば、「親愛」の「望み」を向けることのできる相手に、何かの歪みを伴った限定が生まれることです。「この相手でなければ」と。ここでが、当初のご相談内容にも見事に重なってきますね^^。

>周りから誰も居なくなること覚悟で

は、もうまさに、自分の問題の克服を知らないまま、問題に加担する発想過去に成立した愛への病的な執着後悔にもつながってしまうものです。

ということで、「まずは原理原則行動法でイザコザを回避」することからですね。それが全ての足場、そして自己分析の糸口になると思います。
心の惑い動揺があるほど、心ではなく客観的場面内容に取り組むのが近道です。「自分」「相手」「どっちが正しい」といった思考法で、全てが惑い動揺の繰り返しになりますので、それにはまらないようしっかり目を配りながら「この場合の行動法は?」という思考取り組んでみて頂ければ^^。


 
Re: 人間関係について / にーな
No.740 2013/12/14(Sat) 23:25:39

島野さん、レスありがとうございます。

>ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。

前のレスにも書きましたが、止めようという意図は全くなかったんです。もし私が「こんな進まないのもう止めようよ」とはっきりと止めようとしたら、あの反応は理解できるのですが、他の人は聞き流してしまうようなつぶやきのような言葉にあんなに激しく反論されるのは、いまだに正直理解できずにいるところがあります…特に最後の「なぜ自分のことしか考えないのかな。」という言葉が無かったら私は不快に思わなかったでしょう。そんなことない、他人のこともちゃんと考えているし、みんなが続行したいというなら全然構わない、と本心では思っていたからです。その本心を伝えた方が良かったのでしょうか…?現実には、彼女の勢いに自分が固まってしまい、反射的に何も言えませんでした。
ただ、止めようとする意図はないにしても、言葉に出してしまった時点で破壊行動になっているということは理解できました。特に馴れ合いがある私的な場面では盲点となることかと思い、改めて考えさせられました。公私にかかわらず「建設的行動法」が大事であるということですね。無意識にやってしまっていたということは、島野さんが推測されるように、恐らく生育からくる根の深いものかもしれないです。
実際には、自己紹介はそこで終わってしまい雑談の流れとなったので、自分はつぶやきのつもりでも、影響は大きかったのだなと今さらながら感じました。
後日談ですが、その相手とは現在は普通に交流が復活し、共有できる楽しみはやっぱりあるものだなぁと今のところは感じています。そして関わりの中で良い面が見えてくるようになりました。ただ、彼女と関わる時に、自分の中に以前には無かったちょっとした緊張感が流れます。自分の心にどんな変化が起こるか、もう少し様子を見ていこうと思います。

ひとつ疑問があります。貼ってくださったリンク2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)のマンション購入具体例についてですが、この場合の原理則立脚型行動法は、@相手に対して常に肯定的であること A契約前であるから申し込みを取り消す権利がある…等になるのでしょうか?ストーリーを拝見する限り、担当者は感情を害しているし、荒げていると見受けられます。そうすると、原理則立脚型行動法というのは単に相手の感情を荒げないような行動をするのとは違いますよね?そんな風に生きなければならないならストレスフルです。自分の今回のケースを擁護するものでは決してありませんが、相手側の問題があるため、その場に順応する言葉に対しても過剰に反応する人がいるということはないでしょうか?

>まあその病気(^^;)とは、交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んで、そもそもの「楽しみ」を破壊してしまう
>その否定行動が自らの欲する他人との親愛を自ら破壊しているものであることに、自分で気づいていないならそれが深刻な問題


これを読んだ時、あまりのショックで動揺してしまいました。「相手だって嫌なこと言っているわけだし、自分ばかりが悪いんじゃない、なんで島野さんはこんなことを言うのだろう」なんて的外れな思いが出てきたりして(すみません)… でも、いろんな場面を思い出しているうちに、これが自分を苦しめてきた大元なんだという理解に至りました。そして、そういう行動を取っている他人の姿もわかるようになりました。関係性の中で何が起きているかが見えてきて、否定行動で出てきた相手に否定行動で返すことがいかに愚かなことか、エネルギーの無駄かがわかりました。家族や続いている友人は、自分のそういった部分を見逃してくれていたんだなと思うと、ありがたい気持ちにもなりました。
これまでの取り組みの中で閉塞感を感じていたのには、学んでいるようでいて、実は「そのように感じるようにしてみる」といった「当てはめ」をやっていたことにも気付きました。 本当の意味での「原理原則行動法」「建設的対人行動法」を意識してここ数日過ごしたところ、感情の基調が少し上がってきたような気がします。

交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んでと思われるエピソードとして先日こんなことがありました。
最近、婚活で知り合った男性がいまして(お付き合いはまだですが)、私の女友達を誘い3人で飲みに行きました。その女友達を誘った理由は、二人きりじゃない時の彼を見てみたいというのもありますし、その男性と女友達には共通の趣味もあり話が弾むのではと思ったからです。女友達は既婚者です。ところが二人の話が弾みすぎて、自分が中に入れないような雰囲気が何度かあり、「彼はもしかしたら彼女に興味を持ったのかも?自分より彼女の方をいいと思っているんだ」という卑屈な感情が何度か流れました。これは、「その男性は当然自分に興味を持つべき、自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情と言えるでしょうか? また、こういった場面での原理原則行動法を教えてください。この日私が取った行動は、わからない話題であれば「私は知らないなぁ」と正直に言って聞き役にまわり、卑屈感で内面的動揺が起きた時は、席を外してトイレに行くことで気持ちをリセットしました。あとは、まぁ、全体的には普通に会話に参加していたと思いますが、卑屈感が流れているために内面は会話に集中できていない上の空な時間が多かったです。


 
「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する^^ / しまの
No.745 2013/12/18(Wed) 16:43:23

原理原則行動法

>ひとつ疑問があります。貼ってくださったリンク2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)のマンション購入具体例についてですが、この場合の原理則立脚型行動法は、@相手に対して常に肯定的であること A契約前であるから申し込みを取り消す権利がある…等になるのでしょうか?

まず「学び」をおさらいしますと、

根本として、「破壊」から「自衛」「建設」へ。

行動法は、喜び楽しみと向上を共有するという「建設的対人行動法」、相手への意見を言うのではなく原理原則を言うという「原理原則行動法」相手を勝たせて自分も勝つという「ウインウイン行動法」。

価値観は、「愛」「分かり合い認め合う」ではなく「喜びと楽しみの共有」として向かい「自尊心」「相手を打ち負かす」「人に認められる」ではなく「現実において生み出す」ことにおいて築くものとする。

行動法として重要なのは、相手への「否定」「破壊」基本的に用いないことです。
これはりょうたろうさんへのレス
『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744 2013/12/17
でも、こう書いた通り。
========
キモは、我々の「行動」全てを、「破壊」ではなく「自衛」「建設」のものにすることを、目標にすることです。
すると、「楽しみ」共有するというプラス行動「建設的対人行動法」となり、それ以外の、与えられた問題課題達成や、マイナスの状況への対処は、全て基本「原理原則行動法」になるということです。これで、内面「怒り」「怖れ」などのマイナス感情は、行動の原動力として役目を持たなくなります。
========


ただし「相手を肯定する」というのは、あまり前面に出るものではありません。「楽しみや向上を共有する」のであり、「原理原則について言う」のであって。
まあ総じて、行動法としては「相手の肯定」ことさら取り上げない行動法だと言えますね。「相手の肯定or否定」というのは、どっちかというと内面感情の問題として取り組むものになるかも知れませんが、なるべくそれに左右されない、安定した行動法を行うようにします。

ちょっと注意する必要があるのが、「相手に対して常に肯定的」といった観念が、「何でも相手の言うとおりに」「常に暖かい気持ちを向け」「常に笑顔で」というような、固定的な「気持ち」「表情仕草」の枠はめ強制を行おうとするストレス内面にあるという、別の問題を示している可能性です。
そうした内面ストレス影響を受けない行動法として、上記のようなものがあるということです。

それに留意の上、上記で参考頂いたのマンション購入事例では、相手に対して肯定も否定もなくニュートラル「取消権利がある」その通りですね。

>ストーリーを拝見する限り、担当者は感情を害しているし、荒げていると見受けられます。そうすると、原理則立脚型行動法というのは単に相手の感情を荒げないような行動をするのとは違いますよね?

もちろん相手感情を害しており、だからこそ原理原則行動法登場になります。重要なのは、相手が自らをそれに従っていると認めるような原理原則を言えることです。つまり、相手が自らをそれによって納得させてしまう、自らの感情収めてしまう。そうした、強力な原理原則というのが重要になります。
その例では「権利」ですね。そのは一応ビジネスの場であり「権利」という言葉それだけのパワー発揮することはもう間違いない状況ですので、としてはもう何の動揺もなくその言葉を使い、実際それで収まったわけです。

原理原則行動法では、相手の感情を取り上げず相手が重視するであろう原理原則、もちろんそれによってこっちの思う方向に持っていく原理原則を、取り上げます。相手見定めることがかなり重要になります。

>その場に順応する言葉に対しても過剰に反応する人がいるということはないでしょうか?

場と相手に応じた原理原則出せるように取り組みます。この辺はちょっと上級編^^「知識」「言葉の選択」さらには「相手を見究める目」問われる場面もあり、まさに長期的な学びと実践の積み重ね重要になります。

そうして、相手の感情をなんとかなだめなければ、そのために相手を肯定しなければ・・といったストレス無用な形で、問題を解決する行動法だということです。
よろしいでしょうか^^。


「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する

>交友を「楽しみの共有」としようとしてはいるが、そこに「あるべき姿からの否定感情」がすぐに入り込んでと思われるエピソードとして先日こんなことがありました。
>「彼はもしかしたら彼女に興味を持ったのかも?自分より彼女の方をいいと思っているんだ」という卑屈な感情が何度か流れました。これは、「その男性は当然自分に興味を持つべき、自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情と言えるでしょうか? また、こういった場面での原理原則行動法を教えてください。

それは「あるべき姿からの否定感情」というより、ただいじけてしまった気分であるような・・^^;
原理原則行動法は、「問題」「課題」はっきりとある場面に対して用います。その場面は、原理原則行動法によって解決すべき問題がある場面というものでは、特にないように感じます。
「自分ともっと話すべき」というあるべき姿からの否定感情」言えるかどうか、というより、実際「自分ともっと話すべき」と感じたのかどうかですね。

それが必ずしも不合理な「あるべき姿からの否定感情」だとは一律紋切り型には言えず、たとえばその相手すでに交際を開始した相手で、一般的なパーティでそうであれば、むしろ当然な話になるかも知れない。
ですのでその場面についてはむしろ、なんでそういうメンバー構成で会うことにしたのか、になると思います。

いずれにせよ、ここから先(細かい思考内容)は僕の方であまり先走りアドバイスするのではなく、『実践詳説』繰り返し指摘している
「目的思考」(P.46、思考の素地 「目的思考」
「自分自身への論理的思考」(P.64、自分自身に対する論理的思考
で、
自分は何を意図(何を目的に)して、どんな(その)行動を行ったのか。それによって事がどのように運ぶと考えたのか。
という自らへの問いをして、自身の思考法行動法を確認することから始めるのがお勧めになります。

重要なのは、それぞれの行動によって、自分が幸福になるように自ら向かうという思考と行動に、なることです。に言えば、自ら自分の幸福に向かうのとは違う行動を、取っていないか。そこに「あるべき姿からの・・」といった問題明瞭になるかも知れません。
いずれにせよ、まずは現状での自分の思考詳しく確認、からですね。

>>ともかく「行動学」的に分析するなら、なぜそこで止めようとしたのかです。
>前のレスにも書きましたが、止めようという意図は全くなかったんです。

についてもそうですね。ではどんな意図で言ったのか。ごめんなさい、前のレスでもてっきり何か問題を感じて止めようとしたとしか読み取れませんでした。
「自分はこれこれを意図して、こうなればいいと思って言った」というのを明確にすることで、そこにある思考の問題点への取り組みできるかも知れません。

これは「目的思考」とあわせて、
「現実を見る目」(P.49、「現実を見る目」という全ての始まり
という一番基盤となる取り組み項目になります。自分がこう行動したら、人はどう反応すると思っていたのか。そうした「現実を見る目」歪みがあれば、当然行動法もそれに巻き込まれて歪んでしまいます。

に、「目的思考」「現実を見る目」しっかり取り組むことで、行動法自ずと、ストレートに自ら自分の幸福に向かうものへと変えていく、そのため上述のような行動法検討する、という道順になります。


歩み方への納得 / りょうたろう
No.739 2013/12/13(Fri) 21:05:28

こんばんは。先日はアドバイスどうもありがとうございました。
正直に言いますと、島野さんからの返信の文面を見て「なんだか冷たい」「自分はこんなに苦しんでいるのに、慰めの言葉もない」と最初は感じました。しかしよく考えてみると、苦しかったねと慰めてもらって満足して、それで何になるのか、結局何も改善していないではないかと納得しました。それでアドバイスの通り、あくまでも現実の場面を出発点に行動法の検討と内面向き合いを進めていくことにしたのです。私が実際に行ったことを以下に述べます。

私は経営学部に所属しているのですが、来年から始まるゼミの申請が先日ありました。ハイブリッド心理学でいう原理原則のようなものを学びたいと思い最初は人的資源管理のゼミに応募したのですが、私は選考に落ちてしまいました。落ちた時の第二希望など考えた上での選択ではありましたが、やはりその時は大きな失意の感情が湧いてきました。そこで考えました。なにもゼミが全てではなく、学びたいなら自分でいくらでもやりようはある。それに近いことが学べる講義や本など、具体的に案も思い浮かぶ。しかしそれでもなお残っている感情というのは、プライドが傷つけられたという気持ちや今までの成績により選考に不利になってしまったという後悔、もっといえば望んだのに拒まれたのが単にショックだったのか、と。ただ、感情についてなんとかしようとするのは間違っているという納得はすでにあったので、結局出た外面についての答えは「この状況からでも、自分にとって最大限利益になることをしよう」というものでした。最終的には会社法やCSRについて扱うゼミに決定し、企業の価値の生み出しの視点が学べるかなと思っています。

そして、今まで成績が悪かった理由も分かっていました。いざ教科書を開いて勉強しようとすると「こんなにできっこない、ああ駄目だ全然わからない」と軽くパニックになってしまう勉強恐怖症とでも言えるような症状があったのです。この勉強に対する不合理な恐怖を克服するため、まずこの章だけをやると決め、書いてあることをじっくりと読み、少しでも引っかかりを感じたら時間を惜しまずに別の媒体で調べてみる、といったふうにして勉強をしてみました。「こういうやり方をすればこうなるだろう、それはこういう意味で自分にとっていいことだ」と一つ一つ納得しながら勉強のやり方を決めていく亀の歩みのような作業でしたが、気がついたら今まであまり感じたことのなかった、主体的に勉強に取り組んでいるという実感が芽生えていました。それは私がこうあらねばならないと思っていたような姿(例えばあっという間になんでも憶えられるとか、何時間でも勉強し続けられるとか)とは全く違うものでしたが、むしろそれらがいかに現実を無視したものであったかと思い知りました。実際にそういった芸当をやってのける人もいますが、それはあくまで私がやったようなことを限りなく習熟していった先にあるもので、単に最終的な姿だけイメージしたものとはだいぶ違うことを実感しました。

以上のようなことを通して学んだのは、具体的な行動を検討していく中でそれまででは想像しようもなかったものが見えてくる、ということです。島野さんが繰り返し強調しておられたハイブリッド心理学の基本的な歩みに、自分もようやく乗ることができたかなあと感じています。

そしてやはり島野さんの言うとおり、私の心は今でも変わらず事あるごとに動揺します。ただ今までと違うのは、それを私が存在として劣っているというような話ではなく、ただただ未熟なだけであると考えることができるようになったことです。心の問題の解決というのは今の時点では想像できない形になるという確信を胸に、これから現実に向かって行こうと思います。なんだか生まれたての赤ん坊のように一つ一つ確認していくようなかたちで、周囲の人が当たり前に習得し終えているようなことを自分は学んでこなかったという後悔が湧いてくることもあります。しかしどうしたいかと自分に問えば、結局はここから前に進みたいという答えになります。ですから後悔しながら前に進むことを選ぼうと思います。

前回の自分の投稿を見直してみますと、こいつは何を言っているんだと猛烈に恥ずかしくなります。ですが、そこからの進路変更が自分の成長につながったのだと思うとやはり意味があったと思います。こうして自分の利益に注目することが、いずれ恥という感情の克服になっていくのでしょう。今はやっぱり恥ずかしいですが^^;

ここから質問になります。島野さんは長い社会人生活で社会を生きるノウハウを学んでこられたということですが、私がそれをどうしたら効果的に学べるでしょうか?(もちろんこの読者広場も利用させていただこうとは思いますが)経営学部というなかなか恵まれた環境にいるので、会計学、ファイナンス、マーケティングなど様々なことが学べます。そういったものの中で特に役立つようなものはあるでしょうか。また社会で勝てる原理原則などは、実際に社会に出て学ぶか、この読者広場で場面に応じて質問するかぐらいしか無いものでしょうか。お聞かせください。


 
「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^ / しまの
No.744 2013/12/17(Tue) 14:30:14

「感情と行動の分離」と「一歩一歩の向上」の第一歩^^

>ハイブリッド心理学でいう原理原則のようなものを学びたいと思い最初は人的資源管理のゼミに応募したのですが、私は選考に落ちてしまいました。
>しかしそれでもなお残っている感情というのは、プライドが傷つけられたという気持ちや今までの成績により選考に不利になってしまったという後悔、もっといえば望んだのに拒まれたのが単にショックだったのか、と。ただ、感情についてなんとかしようとするのは間違っているという納得はすでにあったので、結局出た外面についての答えは「この状況からでも、自分にとって最大限利益になることをしよう」というものでした。最終的には会社法やCSRについて扱うゼミに決定し、企業の価値の生み出しの視点が学べるかなと思っています。

外面答え検討内面感情を冷静に分析それぞれを別々に、いい実践ですね^^。それが「感情と行動の分離」外面内面2軸の実践の、基本形になります^^。
「人的資源管理」のゼミ落ち「会社法やCSR」のゼミ決めたというのは、まあはその専門ではない上での社会経験からの個人的意見ですが、大差ないと思いますヨ^^。
経営について知るためには、どちらいずれ習得せねばならない一環の中の一つだと思います。その上で、「人的資源管理」知識より実務技術重要になり、「会社法やCSR」学習時間を要するしっかりした知識重要になると思いますので、大学のゼミで専攻するなら後者の方が有利なような気がします。

>この勉強に対する不合理な恐怖を克服するため、まずこの章だけをやると決め、書いてあることをじっくりと読み、少しでも引っかかりを感じたら時間を惜しまずに別の媒体で調べてみる、といったふうにして勉強をしてみました。・・(略)・・亀の歩みのような作業でしたが、気がついたら今まであまり感じたことのなかった、主体的に勉強に取り組んでいるという実感が芽生えていました。それは私がこうあらねばならないと思っていたような姿(例えばあっという間になんでも憶えられるとか、何時間でも勉強し続けられるとか)とは全く違うものでしたが、むしろそれらがいかに現実を無視したものであったかと思い知りました。実際にそういった芸当をやってのける人もいますが、それはあくまで私がやったようなことを限りなく習熟していった先にあるもので、単に最終的な姿だけイメージしたものとはだいぶ違うことを実感しました。
>以上のようなことを通して学んだのは、具体的な行動を検討していく中でそれまででは想像しようもなかったものが見えてくる、ということです。島野さんが繰り返し強調しておられたハイブリッド心理学の基本的な歩みに、自分もようやく乗ることができたかなあと感じています。


これは上記「感情と行動の分離」実践とあわせ、大きな第一歩ですね^^。それが「一歩一歩の向上」という全ての基本であり、「成長」に向かうとは最終形をイメージすることとは全く違う。
参考までこの場で、最近読んでいい本だと思った
スマイルズ『自助論』
から、そうした「自己修養」について述べた部分など引用しておきましょう。
==============
われわれは、何ごとも徹底的に、しかも正確に学ぶ姿勢を基本に据えなくてはならない。・・(略)・・
・・(略)・・
かつてレナーズは、自分の学習法の秘訣をこう語った。
「法律の勉強を始める時、私は決心したのです。“学んだ知識は完全に自分の血肉にしよう、そして一つのことがらを徹底的にマスターしないうちは、絶対に次へ進んではならない”と。ライバルの多くは、私が一週間かかって読む本を一日足らずで片付けていました。けれど、一年もたつとどうでしょう。私の知識は、それを覚えた日と同じように鮮明に残っていましたが彼らは学んだことをすっかり忘れていたのです。」 (P.206)
==============

まあこの本真に優れた人間とはどのような様子かという幅広く説いているもので、そうなれるための具体的実践についてはあまり書いていないためハイブリッド心理学からの「必読書」するまでにはいきませんが、それでもかなりハイブリッド心理学の精神同一のものでありお勧め書籍です。


「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ

>私の心は今でも変わらず事あるごとに動揺します。

動揺本当に消えるようになる、さらには自分から消せるようになるのは、実際社会に出て、社会で生きる自信という心の足場得てからになります。
それまでは、動揺を安直に消す方法を探し求めるのではなく、内面感情の動揺にあまり左右されることのない、強い行動法知っていくこと、内面動揺によってそれが影響されないことを感じ取り動揺ただ流すというのがまずはアプローチになると考えておくと良いかと。

「原理原則行動法」がそうした「強い行動法」王道だと言えますが、

>ここから質問になります。島野さんは長い社会人生活で社会を生きるノウハウを学んでこられたということですが、私がそれをどうしたら効果的に学べるでしょうか?(もちろんこの読者広場も利用させていただこうとは思いますが)経営学部というなかなか恵まれた環境にいるので、会計学、ファイナンス、マーケティングなど様々なことが学べます。そういったものの中で特に役立つようなものはあるでしょうか。また社会で勝てる原理原則などは、実際に社会に出て学ぶか、この読者広場で場面に応じて質問するかぐらいしか無いものでしょうか。

については、一言こう言えるかと。
「勝てる原理原則は、人生の駒を動かした先全てにある。人生の駒を動かした先全てで学ぶ」と。

まあ社会出る、またその前においても「望みに向かう」という人生の前進全て「勝てる原理原則」があり、そうした場学んでいくものである一方、そうした前進なしに全て学べる特別な研究室のようなものなどない、ということですね。
たとえば先日にーなさんへのレス
『「まずは原理原則行動法でイザコザを回避」から^^』 しまの No.733 2013/12/10
アドバイスしたのも、ごくプライベート交友行動の中で起きたいざこざへの原理原則行動法からの考え方です。

キモは、我々の「行動」全てを、「破壊」ではなく「自衛」「建設」のものにすることを、目標にすることです。
すると、「楽しみ」共有するというプラス行動「建設的対人行動法」となり、それ以外の、与えられた問題課題達成や、マイナスの状況への対処は、全て基本「原理原則行動法」になるということです。これで、内面「怒り」「怖れ」などのマイナス感情は、行動の原動力として役目を持たなくなります。
それがしっかり生活と人生の全般身についたという「自分の強さ」への自信芽生えてきた時に、上記最初にも触れた内面感情の分析が、劇的にマイナス感情の根本消滅へとつながるようになってくる、という次第です。

ということで、お勧めは、ずばり大局的視点から、
大学生活を、「社会に出る前に」としてすごすものではなく、「社会に出るということが、もう始まっている」ものとしてすごす、という姿勢考えていくことです。

ということは、まず具体的に言えるのは、大学後の進路具体的に考える。経営学部と言って、すぐ会社の経営者になることはまずなく(学生起業というのもありますが)、アクセンチュアのようなコンサル系会社への就職、そこにさらにIT技術も加えたりするのが一番間口が広くかつ高給(^^)分野になると思います(「SE」というのは体力労働的側面もある点ちょっと留意)。そうした具体的な検討を始めるのは、いくら早くても早すぎることはないでしょう。就活まだ先であっても、そうした具体的検討に応じて具体的情報増えてくれば、勉強すべきものとして追加すべきもの具体的に出てくる。インターンシップで実際の経験得るなんてことも可能でしょう。

そうして勉学という本業も、卒業後の就職も、「社会に出るということが、もう始まっている」ものとしてのぞむ
また交友についても、教室という与えられた枠の中でどう仲良く、といった「社会に出る前」モードのものではなく、趣味なり異性交際なり、目的を明確にしたオープンな場の交友という、「社会に出て」のモードを、今から模索し始めることです。
そうした場で、「勝てる原理原則」具体的場面という材料を得て、検討ができます。

まあ要は、「社会に出る」という姿勢実践をする。それで自ずと、「勝てる原理原則」学べる状態になる。


「勝てる原理原則」のための基本的思考法

で、そこで出てきた具体的材料については、どうも分からない場合また質問頂くのもいいですが、結構そのための基礎的思考というのがありますので、まずそれが身につくと何でも応用が利くようになる、と理解しておくといいですね。何でも聞かないとどうも分からないという場合は、基礎的思考できていないという課題があるということになる、と。

でその基礎的思考については、まずはハーバード流必須勉強項目。上記にーなさんへのレス中のリンクなど参照。
あとは、今後『詳細情報リンク集』などまとめる時これを含めようと思っているのですが、
過去掲示板2006.2
掲載
2006/02/03 ハイブリッド推奨 人生勝利の原理原則10則-1-2-おまけ
など一読して頂くと良いかと。
ここで書いているのがまさに、20年の社会人生活を経て「看破」した(ちょっとオーバー^^;)と言える、「勝てる原理原則 虎の巻」ですね^^。

ということで、
1)「社会に出るということが、もう始まっている」という姿勢と実践
2)「勝てる原理原則」を考える基礎思考への取り組み
3)人生の駒を動かす場の全てで「勝てる原理原則」を考えていく

という順番で取り組むとよろしいかと^^。


言葉の意味について / レース
No.738 2013/12/13(Fri) 20:36:49


「否定価値の放棄」の根本的選択の項目について

テーマを通して、具体的な思考法行動法において「建設」へと向かい、「強さ」を得ることで外堀を埋めるような形で、心の奥底にあるこの衝動に気づき、捨て去るのが「否定価値の放棄」であり、「心の業」の捨て去り克服に位置づけられます。


 強さを得ることで外堀を埋めるのは、良いことなのかどうか。
 
 私は、分かりにくかったためよろしくお願いします。


 
「外堀を埋める」^^ / しまの
No.741 2013/12/15(Sun) 15:16:20

「外堀を埋める」とは、ネット辞書とか見ますと、
「敵の城を攻めるには、まず外側の堀から埋める。転じて、ある目的を達成するためには、周辺の問題からかたづけていく」
とありますね。

ハイブリッド心理学「否定価値の放棄」は、「習得達成目標」とも位置づけているものですが、宗教哲学での「悟り」に似た、かなり難しいテーマです。心の奥底にあるものを転換するというテーマ
そのために、その周辺つまり目の前の日常生活や人生のさまざまな問題課題への対処法学ぶことを、まずしっかりと行うということです。
それによって、この現実世界を生きる「真の強さ」得ていくということです。
それができたら心の奥底向き合い「悟り」とも言える「否定価値の放棄」取り組むという順番だということです。これも「流れ」ですね。

詳しくは、ハイブリッド心理学の本じっくり学んで頂くものになってきます。まずは日常生活や人生のさまざまな問題課題への対処法学ぶのと平行して、日ごろから時間の折に本を読んで心の懐を増やすというのを、生涯の学びとして続ける先に、「否定価値の放棄」という難しいテーマにもやがて取り組める、という道のりとして考えて頂ければと思います^^。


 
Re: 言葉の意味から学習へ / レース
No.742 2013/12/15(Sun) 18:02:46



この現実世界を生きる「真の強さ」を得ていくということ。

否定価値の放棄とは、どういうことかと気づきました。島野さんの本は、内容が濃いので躊躇して、じっくりと読むことから離れていました。しかし、ハイブリッド心理学の本でじっくり学んでとの助言と自分の調べたいという気持ちが芽生えました。

日々、時間を作り、また年末に少しゆっくりできる時にでも、ハイブリット心理学の本を読んでいこうというきっかけを得ました。

島野さん、ご説明・ご助言をありがとうございました。


交友 / レース
No.732 2013/12/07(Sat) 22:30:21

出かけた時、若いカップルがたくさんいました。この方々を目にして、充実していて深刻な悩みなんて無い時期なのだろうと感じました。

悩みは、人それぞれではありますが、例えば恋愛時期には楽しく悩みがあまり無く、結婚してだいぶ経過してからや、子供を育てている時期などに悩みが出てくることが一般的に多い気がしますがいかがでしょうか。これは、いろいろな経験をする中で、知識が増えたり何かの課題が出てくるからであると感じます。


 
Re: 交友 / しまの
No.734 2013/12/10(Tue) 14:25:19

いやまあ「恋愛」というのは一般的に言って、「悩み多いもの」だと思いますヨ^^。うまく行っている間は悩みも消えるかも知れませんが、なかなかそれだけではいかないかと。うまく行った場合の喜びが大きい反面、そうでない場合の辛さ苦しみも大きいかと。

恋愛、交友、進学、就職、結婚、子育てといった人生の主要イベントには、悩みつきものですね。心と人生について学びながらしっかりと向かい、一つ一つの「課題」「望み」を消化していく中で「成長」し、心も豊かになっていき、人生後半にることにはもう悩み惑いなくなってくる、という流れをまずは目指すのが良いかと思います^^。


 
Re: 交友 / レース
No.735 2013/12/10(Tue) 20:24:55

 恋愛、交友、進学、就職、結婚、子育てといった人生の主要イベントには、悩みはつきものであること。
 心と人生について学びながらしっかりと向かい、一つ一つの「課題」や「望み」を消化していく中で「成長」し、心も豊かになっていき、人生も後半にることにはもう悩み惑いもなくなってくる、という流れをまずは目指すのが良いと。
 返答ありがとうございます。

 毎日、学びを感じます。流れをまず目指すとは、長い道のりのようでなんか難しく感じます。

 今日は、相手の不満ばかり言い、自分の思い通りに事を運ぼうとする方を目にして、そういう方が多いと感じました。そして、あの方が悪いからと不満を言いふらすことで、相手を追い込もうとして、大きい顔をして楽しそうにしている様子がありました。
 
 私だったら、あの方はそういうところがあるとの話し合いはするかもしれませんが、悪口を言いふらすことはしません。悪口を言うことで、自分の心を汚したくないからです。

 不満を言いふらすことで、優位に立ちたいという気持ちや、不満の発散と仲間をつくるためなど感じますが、いかがでしょうか。
 


 
Re: 交友 / しまの
No.736 2013/12/13(Fri) 10:58:37

>流れをまず目指すとは、長い道のりのようでなんか難しく感じます。

心の成長人生を通しての長い道のりになりますね。それはに言えば、今すぐ完成された人間になる必要など全くないということで、今目の前にあることがら一つ一つ対処して学んでいくに、人生後半豊かさも生まれるという話ですね^^。

>私だったら、あの方はそういうところがあるとの話し合いはするかもしれませんが、悪口を言いふらすことはしません。悪口を言うことで、自分の心を汚したくないからです。

もちろん、悪口言わない方がいいですね^^。具体的問題があれば建設的行動法で対処^^。

>不満を言いふらすことで、優位に立ちたいという気持ちや、不満の発散と仲間をつくるためなど感じますが、いかがでしょうか。

そうですね。それに対してハイブリッド心理学では、
入門 - 3.取り組み実践 - 「学び」の主要テーマ

4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
==========
「愛」 ・・・
「分かり合い認め合う」というものではなく、より純粋「喜びと楽しみの共有」として位置づけ目指す
「自尊心」 ・・・ 「人を打ち負かす」「人に認められる」よりも「現実において生み出す」こと、そこにおいて生み出す価値の、自分自身にとっての大切さにおいて獲得し築く
==========
と説明しているように、
「人への優位」「自尊心」テーマ「仲間を作る」「愛」テーマとして学び向かうものになります^^。


 
関係性 / レース
No.737 2013/12/13(Fri) 20:29:10


.今すぐ完成された人間になる必要など全くないというこ今目の前にあることがらに一つ一つ対処して学んでいく先に、人生後半の豊かさも生まれるということ。

・「人への優位」は「自尊心」のテーマ、「仲間を作る」は「愛」のテーマとして学び向かうものになる。

 考えさせられる言葉です。ありがとうございました。

また、悪感情そのものについては、その意味を理解するまでとして(必要に応じ自己分析を活用)、あとは「ただ流す」さらには「放置する」のが、心の健康と成長からは正解ということ言葉も、再認識しました。


交友 / チェンジ
No.731 2013/12/07(Sat) 22:28:55

出かけた時、若いカップルがたくさんいました。この方々を目にして、充実していて深刻な悩みなんて無い時期なのだろうと感じました。

悩みは、人それぞれではありますが、例えば恋愛時期には楽しく悩みがあまり無く、結婚してだいぶ経過してからや、子供を育てている時期などに悩みが出てくることが一般的に多い気がしますがいかがでしょうか。これは、いろいろな経験をする中で、知識が増えたり何かの課題が出てくるからであると感じます。


「怒り」から離反傾向への課題変更 /
No.701 2013/11/22(Fri) 17:38:24

こんにちは、お久しぶりです。
あれ以来、一部の場面を除き、怒りの頻度や強度はかなり減ったように思えます。
基本的に内面の問題に関して、ひとつの怒りの課題が片付いたら別の怒りが生えてくる感じでしたが、最近は怒りの根っこにあるものが視野に入ってきた感じです。
やはり根本的に、離反型の人格から派生した怒りはかなり根強い感じがしています。
「自由」と「安全」への望みが非常に強く、そのために愛や豊かな生活を放り投げる思考パターンが自分の中に存在しているようです。

人生全体から考えた時、先々の仕事に関しては特に問題ない思考は出来ていると思います。
「より得意な分野に鞍替えした方が有利である」という至極当然の結論に辿り着いたため、それについては問題ないですが、残念なことに住んでる地域ではそういう求人が今のところ見当たらないため、情報集めに徹しています。
ただ、「人生のパートナー」という課題に関しては、「自由」と「安全」への望みが強いためか、異性への恋愛感情すら芽生えない状況。極論すると「現実の異性なんて信用できるか!」というところでしょうか^^;
そういう望みが強いのも、人間関係であんまりロクな目に遭ってないため、既に人間不信に陥っていることが原因なところまでは自覚しています。

考えてみると、生まれ育ちの環境の悪さもですが、ある程度育った後にも原因はありそうです。
趣味に関して、特に学生時代は、「自分の都合、自分の勝手に進めることができるのがまずは基本。」というのとは真逆の環境に居たのを思い出しました。
周囲の「こうあらねば」に振り回され、心身ともに消耗し、肝心の勉強が疎かになってしまうという状態もあったように思えます。
しかも、それに対して自分自身も何の疑いも持たない状態。
自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。
社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
それに完全に懲りて、いつの頃からか仕事以外の人間関係から随分と撤退してしまい、傍観者の立場を決め込んでいます。職場での雑談などは普通に出来ているのですが。

先日のイベントで行動を起こした時もそうですが、最近のマイブームでもあるカラオケも、だいたい単独行動。
最近は一人カラオケ対応のお店も結構出てきて、便利な世の中になったなあと感じています。
自由と平穏だけで人生を終えるならそれでも良いのかもしれませんが、全体的に調和がとれた状態を目指すのであればやはりいろいろ不足していることにはなる。
だとすれば、離反型の傾向も、取り組んだ方がいい課題ではあるんだろうなあと思います。
目の前の出来事においての課題としても、幾つか挙がってきたようです。

「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
ギリギリの出勤でも間に合えば問題ないんでしょうけど、アクシデントが起きてしまえば遅刻してしまうでしょうし、出来れば改善したい点ではあります。
似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。

あとは、人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
トラブルが起きても、上司に相談したりお任せしたりすることで最悪減給や解雇もあるかもしれない、と猜疑心が湧くことが多く、対処して報告した後に店長から「その場で連絡入れてくれればよかったのに」と言われる場面もありました。
それ以外でも、作業の幾つかについて、他のスタッフにやらせるより自分でやった方が早いと考え、ついつい自分だけで済ませてしまうこともかなりあったのを思い出します。

以前ご相談した「組織でうまくやっていけない」というのも、「窮地になっても誰も信用できず、頼るに値せず、強烈なストレスを感じる」という感覚が多少あったのかなあ、と思います。
過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。
「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;
今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。

 ちなみに、ハイブリッド心理学の内容を拝見する中で、過去の原稿が参考になることが結構あるのですが、離反型の態度に関する表記で、「これ、丸っきり俺じゃないか^^;」と思った部分がありました。

>不完全な迎合追従で生み出される離反退却の中で、比較的感情の豊かさが保たれている場合、彼彼女は現実世界に対して概して幻滅感を抱き、夢や空想、マンガや文学の世界を自分が
>感情的に生きる世界と考えたりします。
>このように軽度な迎合従順と離反退却がバランスを保つようにしてできた人格といのは、従順迎合が近代のマジョリティであるのに対して、現代のマジョリティとまさに言えるものでしょう。

 自分がオタクになったキッカケは中学校に入ってからだったと記憶してますが、家でも学校でも、家庭内不和やイジメに巻き込まれて人間関係が面倒くさくなり、その頃に読み漁ったライトノベルなどの世界に完全に没頭していたのを今でも明確に覚えてます。また、人間関係の面倒くささは小学校に入ったあたりでも漠然と感じており、登校中などに「死ぬまでこんな面倒臭い人生がずっと続くのかなあ…」などと、小学生らしくないことを考え、ゲンナリしていたことも結構多かったように記憶してます。一方で、学校で習った道徳教育を、国語算数などの科目と同じように完全に鵜呑みにしてしまい、表面的にはその通りに振る舞うよう気を付けていましたが(今になって考えると、道徳が小学校の科目の一つとして存在していたことにより、「正しいこと」だと勘違いしやすかったのかもしれないと思います。勉強に真剣に取り組もうとしてる子供にとっては、その辺は避けがたい罠なのかもしれないなあ、と)。
考えてみると、怒りに覆われてる時も、「こんな世の中生きてても何も面白くないし、親の弔いが終わったら俺の役目は何もなくなるから死んでもいいや」という自暴自棄な思考を日常的に持っていたのを記憶しています^^;

 離反退却の態度が課題になる場合、特に気を付けることなどをご指摘お願いします。


 
課題は「離反」ではなく「依存」^^ / しまの
No.712 2013/11/29(Fri) 14:58:51

課題は「離反」ではなく「依存」

これはずばり、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」かもですね^^。

つまり、まだ「人に与えられた枠の中で生きる」という生き方姿勢と行動法にいるために、行動様式「服従か反発か」というものになってしまっています。これは基本的に「依存」の中にいるからです。

「破壊」「自衛」「建設」という行動様式を言っていますが、その選択問えるようになるのは、「自立」からです。
「依存」では、行動様式「服従」「反発」という別の話になります。そこで「服従」か「反発」か選択問うことは、あまり成長に向かうことではありません。後者を「選択」したとしてもです。
まず「依存」を抜け出すことです。それが課題です。

書いて頂いた内容印象を一言でいえば、「人に教えられた誤った生き方を引きずって、自分からハズレくじばかりを引いている」というもの^^。
まず、人に教えられた誤った生き方から、抜け出すことです。そうすれば、当りくじハズレくじがあるのが、見えるようになります。そしたら簡単です。手を伸ばして、当りくじをつかめばいい。

いずれにせよ「取り組み実践」としては、『入門』
「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践
で説明しているように、
1)課題場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」は具体的にどのようなものになるのかの理解
2)それについての自分の理解納得、および対比としての内面感情への向き合い
3)それを踏まえて今取るべき外面行動の結論検討

進めるものです。
重要なのは、1)「心の健康と成長に向かい得る行動法」が、「健康な心の世界」前提にすることです。「健康な心の世界」における「心の健康と成長に向かい得る行動法」を、まずはどう想定できるか。
それにまず取り組みます。

書いて頂いたものにはおおよそ5つほど題材があるかと思いますが、それぞれ手短に書いてみますと、

1.
>ただ、「人生のパートナー」という課題に関しては、「自由」と「安全」への望みが強いためか、異性への恋愛感情すら芽生えない状況。極論すると「現実の異性なんて信用できるか!」というところでしょうか^^; そういう望みが強いのも、人間関係であんまりロクな目に遭ってないため、既に人間不信に陥っていることが原因なところまでは自覚しています。
これはに、どうであれば「信じられる」という話なのか一度持てた間柄は何があっても変えないことを約束してくれることを求めているようなことはないか。

2.
>自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
そのような閉鎖束縛的ではない、オープンで自由な交友の和を、具体的にどう考えることができるか
「自分を含め」となると、「人間不信」とはちょっと自分を棚に上げた話ではないかということになってくるかもですねぇ^^;

3.
>「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
>似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。
これはもう書くまでもないですね。自分としてはどんな行動戦略を持つか。それがまるでなしですね^^;

4.
>人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
>過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;
今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。

これは具体的なコミュニケーション技術課題ですね。言葉の使い方一つで事態が変わります。

5.
>登校中などに「死ぬまでこんな面倒臭い人生がずっと続くのかなあ…」などと、小学生らしくないことを考え、ゲンナリしていたことも結構多かったように記憶してます。
>考えてみると、怒りに覆われてる時も、「こんな世の中生きてても何も面白くないし、親の弔いが終わったら俺の役目は何もなくなるから死んでもいいや」という自暴自棄な思考を日常的に持っていたのを記憶しています^^;
まあこれは過去の話として、「ではどうであればいいか」の具体的思考がないままの感情という、総合的な表現ですね。

ということで、問題は全て、自分としてどんな行動法が取れればという戦略がないまま、与えられた枠への不平に流れる、というものになっていると思います。
僕からは、言葉の表面印象以上に、まず良い環境が与えられることを求めている、子供の心がある・・というか働いているという印象
そんな話として、取り組み課題は「離反」ではなく「依存」だというです。
まず課題は、「自分としての行動法の戦略を持つ」ことです。


「自分」ではなく「場面」に取り組む

「取り組み実践」上述のように、まずハイブリッド心理学からの行動法の答えはこうだというのを、知ることからです。で、それについて自分はどう感じるかに向き合うことから始める

そこで取り組み課題材料にするのは、「場面」です。「自分」ではありません。
「場面」に応じて心の健康と成長に向かう行動法があり、それに取り組むことで、「自分」における取り組み課題が分ってきます。そこからさらに詳しい分析取り組みもできます。

「自分」最初から「課題」に考えるのは、結局、「自己理想像」にそぐわないものを取り上げるという取り組み姿勢になります。
「自己理想像」とっかかりとして取り組むこと自体悪いことではありませんが、それだけでは心は固定化されます。成長に向かうことなく、長い目では心は停滞と貧弱に向かってしまいます。

また「離反」一般的に言って、取り組み課題にはできません「離反」は、「場面」への対処がうまくできない場合に、最後に自分の心を守るための、比較的健康な反応だからです。
取り組むべきは、「場面」への対処を知らないでいる状態克服です。
さらには、「離反」に覆い隠された、「望み」が、取り組み課題になります。

ということで、まずは上記引用番号を振った、2、3、4あたりから取り組みになりますね。ハイブリッド心理学からの答えどんなものか、見当つきますか。分からなければまたご質問頂ければ。
そうして、まずは社会で自分が生きるための、自分から持つ行動法への自信というのが、異性とのおつき合い足場になるという順番として、やがての話にも取り組めるようになる、という道順です。
そうした道順有無で、話が全く変わります。現状の、自分としての生き方および行動法の戦略をあまり持てない状態のまま、異性への望みを考えても、一体どんな完璧無比の異性を求めるのか、ちょっと見当もつかない^^;

ちょっと辛口アドバイスだったかもですが、検討あれ^^。


 
Re: 「怒り」から離反傾向への課題変更 /
No.723 2013/12/05(Thu) 14:25:30

アドバイスありがとうございます。
あと、非常に申し訳ありません!
改めて読み返してみると内容が非常に混沌としていて、過去の問題と現在の問題をごちゃ混ぜにしているところが多く存在してます…

まずは、必要以上に過去の心境を絡めないよう気を付けながら設問について考えたものを挙げます。

2.
>自分を含め、一緒に行動している人同士が互いに運動部の顧問のような目を向けている状態だったのを思い出すと、今でも気持ち悪さを感じます。社会人になってからも、プライベートで人と接するときにそういう環境が多く、かなりゲンナリしました。
そのような閉鎖束縛的ではない、オープンで自由な交友の和を、具体的にどう考えることができるか。
「自分を含め」となると、「人間不信」とはちょっと自分を棚に上げた話ではないかということになってくるかもですねぇ^^;

「自分を含め」ていたのは、学生の頃と、社会に出て間もない頃でした。むしろ今はそれに懲りて、仕事以外で人と関わることを忌避し「こんな歪みを正常だと考えてる連中など信用できるか!」と考えている状態、ですね。
むしろ、当時の自分と今の自分が会うことがあれば、説教してやりたいと思うぐらいです^^;
散々懲りた結果、「人と接するなかでは当たりくじを引けない。ならば必要のないところでは人と接するのは止めるか。必要なところでだけ人と接すればいい」と考え、一人でいることを楽しめるようになろうと方針転換を行いました。
当時の人間関係の中で「さっぱりした交友関係を作れそうな機会がなかなか見つからない!」という嘆きを感じた記憶はあります。
今思えば、何故若い頃に、今のように一人でいることを楽しめなかったのだろうか…と思うことならよくあります。
「オープンで自由な交友の和」については、出来ることならばそういう場所の方がいいですが、それに出会うのは天文学的確率だろうなあ、というのが今の本音です。
封建的な風習か、その集団の中での恋愛問題が拗れてワケの分からん面倒なもめごとに巻き込まれるか、そのどちらかは確実に存在するので、バカバカしく思えることばかりでした。

それがハイブリッドに逆行する考えだというのは拝見していても、「人と深く関わることはバカらしい」という感覚があるのが偽りのない現状のようです。

3.
>「いつもギリギリに出勤してしまう。余裕をもって出勤しようとしても内面で強烈に拒絶してしまう」
>似たようなことで、同僚から「減量したいなら徒歩で通勤してみては?」と提案されたのですが、「こんなトラブルまみれの職場のために、何時間も移動時間を割くのは嫌だなあ…」という感覚が湧いて、適当にやり過ごすだけにとどめた、ということもありました。どうやら、登校拒否の中高生のような心境に陥ってる模様です。

これはもう書くまでもないですね。自分としてはどんな行動戦略を持つか。それがまるでなしですね^^;

返す言葉もありません。
ただ、全くいい策が見当たらず、何をどうすればいいか全くわからない、という感じではあります。
勤務地に早く到着できるよう、その場所で何か楽しいものを見つければ少しは変わるだろうか、というのを試してみたものの、最近は休みの日に勤務地に近寄ることすら嫌になってきたのを実感しています。もう、その場所自体が大嫌いになってきたというか。
たぶん、今の仕事で生み出す価値に共感できないところが強いからなんでしょうけど、店のPRというのは運や相手の意思によって結果が左右されることもあり、なかなか安定した業績を出しづらいところがあるため、きちんと価値を生み出せているという認識がしづらく、揺るぎない自信を得るのが難しいものだと改めて実感することが多いですね。
あとは売上とは関係のない対応(酔っ払いやチンピラ、構ってチャンなど、店を使う気ゼロな人々、あるいは店を使わせたら条例的な問題が生じる人々への対応)、観光案内紛いな対応など。
これでは店が期待してる価値など生み出せてないよなあ…という感覚にしかならず、徒労だけで日々を送ってるように思えてきます。
幸い最近は店内のパソコンを整備する作業もたまに指示されるため、そういう時間だけは安心して作業に集中でき、価値を生み出せているという実感を得られています。せいぜい、週に1時間かそこらしかありませんが…。
いずれにしても、ハードウェアの知識を使うような、工場のような場所での求人があれば、と思い探してる最中なので、それを見つけて就職できれば、というのが現状です。

4.
>人を頼るのが苦手な傾向に気付きました。
>過去の職場でも、他の部署から急ぎの作業をいくつも振られた時、のんびりやってる他の先輩たちを尻目に一人で焦って錯乱する場面を何度も経験したのを記憶しています。急ぎの作業が増えたのでお願いしますと頼んでも、じゃあやっといて、の一言で済ませられてしまうこともしばしば。「なぜ自分だけ追いつめられてるんだろう」と精神的に疲弊し、仮病を使って数日欠勤したこともありました^^;

今考えてみると、人間不信がいろんな場面に悪影響を及ぼしてきたなあと。
これは具体的なコミュニケーション技術が課題ですね。言葉の使い方一つで事態が変わります。

これも、過去の職場での内容でした。そこも体育会系で儒教精神が重んじられる環境だったので、自己犠牲の強さが当たり前の現場でした。

まあ、今の職場でそういうことが起きることはほぼ無いですが、当時のそういう出来事のために、今も上司を頼れないのが問題になってるところはあります。
「目上の人間というものは、自分の仕事を増やすような報告を「言い訳」と一蹴し、気に入らないやつには懲罰や解雇という粛清を加えるものなのだ」という感覚がなかなか抜けないというところです。
先日書きこんだ内容のうち、態度の悪い警官に絡まれた件についても、解雇を恐れて一人で対応し、店ではなくて自分自身の個人情報をごっそり抜かれ、事後報告した後店長から「なぜそこで連絡してくれなかったのか」と宥めるように注意されたのですが、未だにそれを鵜呑みにしていいものかどうか疑わしいモンだと考えます。

やはり、改めて再考してみても、過去の出来事に懲りて今は人を遠ざけて過ごしたがっている、というのが、調和のとれた状態を目指す中では問題になるんだろうな…という感じになります。

また、今回、自分自身で意識していなかった問題が浮かび上がってきました。
ひとつは、特にプライベートで、人に何かを説明する際に意味不明な焦りを感じていることがたまにあり、そういう場面では纏まりが無くなる点。
仕事上では殆ど見られない傾向なので、今のところは助かってますが…。
とりあえず、焦りの解除については、具体例が書かれている場面以外では未だにコツが掴めていないところがあるので、どうにかコツをつかみたいところではあります。

あとは、極度の面倒くさがり、という問題点。
公私を問わず、物事にはメリットの数倍、あるいは数十倍のデメリットが必ず存在するという感覚が強く、それを考えると何を行うにも大きな面倒臭さを感じるようです。
問題が発生した時に真っ先に頭に浮かぶのが「めんどくせえ…」なので^^;
別のカウンセラーの方が説明されてたのを偶然見つけたのですが、面倒くささには「完璧主義」が背景にあるのではないかという記述があり、「そういう可能性もあるのかなあ」とは思います。これも充分に問い直してみる必要はあるかもしれません。


 
Re: 「怒り」から離反傾向への課題変更 / しまの
No.730 2013/12/07(Sat) 22:27:23

>「オープンで自由な交友の和」については、出来ることならばそういう場所の方がいいですが、それに出会うのは天文学的確率だろうなあ、というのが今の本音です。

もしこの辺について取り組むとしたら、ハイブリッド心理学取り組み実践としては、
1)「楽しみの共有」として交友行動に向かう姿勢と行動を、自身がどう持てている、取れているか
2)交友の場の状況
3)そこで取られるコミュニケーションの具体的内容

を、具体的に取り上げての検討になりますね。
他の話についても、さらに取り組む場合は、「場面」かなりの具体的分析からになると思います。

まずご自身として、何を克服したいと思うか、からになると思います。それについて、そうした具体的検討進むというのがよろしいかと。
まずはこれをなんとか、というものを絞って頂くと(僕の方ではざっと読んで絞れず、全部に返すのは無理^^; 申し訳ない^^)、僕の方でもアドバイスを返せるかと思いますので、そうした具体的場面検討として挙げられそうなものがあれば、また新規トピックにてがいいですね^^。


愛想笑い / チェンジ
No.721 2013/12/03(Tue) 23:15:32

 私は、笑顔が好きなためか、笑みで会話をする習慣があります。しかし、それは嫌と言われた時もあります。

 愛想笑いの場合、笑みで対応したほうが相手は、話しやすいかなと感じてきました。
しかし、笑みで対応すると言語数が減り、言語力が弱くなります。

 これからは、笑みでの対応を止めて、目で聞き、しっかり思考を働かせて、その会話に対し言葉で返し、普通に接していこうと決めました。

 それから、肯定で会話すると良いとのここから、〜より〜した方が良いよと話をした時、それは否定とも受け取れたと言われました。それは、〜よりと言う前に、相手の会話に対して、そうかもしれないねと受け止めることが先決かと感じました。

 島野さんの視点は、いかがでしょうか。


 
Re: 愛想笑い / しまの
No.728 2013/12/07(Sat) 17:15:28

どんな表情仕草がいいかというより、行動全体として肯定的建設的になることが重要だと考えます。

表情仕草は、その中でごく自然に、がまずはよろしいかと。
話の内容と食い違う笑顔などはやはり違和感を感じさせてしまうと思いますので、常に意識するのであれば、例えば「いつも口角を少し上げる」程度などがよろしいかと^^。

>それから、肯定で会話すると良いとのここから、〜より〜した方が良いよと話をした時、それは否定とも受け取れたと言われました。それは、〜よりと言う前に、相手の会話に対して、そうかもしれないねと受け止めることが先決かと感じました。

これがそうした、行動全体として肯定的建設的かという話で、もし相手が自分で何も問題を感じていないのなら、〜より〜した方が良いよと話をするのは、まずは相手の否定になりますね。その場合は、そこにどんな問題があるのか、それを相手に指摘する必要があるのか、から検討するのが良いかと。

ともかく、一律にどんな言葉を返すのがいいかというより、内容いかん行動法言葉の使い方問題になると思います^^。


 
仕草 / チェンジ
No.729 2013/12/07(Sat) 22:15:15

「いつも口角を少し上げる」程度などは、良い案と感じました。それから、目はよく開いてを付け加えようと思います。

相手が自分で何も問題を感じていないのなら、「〜より〜した方が良いよと話」をするのは、まずは相手の否定になりその場合は、そこにどんな問題があるのか、それを相手に指摘する必要があるのか、から検討するのが良いかと。
内容いかんの行動法や言葉の使い方の問題になると思いますとの言葉、参考になりました。

ありがとうございました。


ドライな人 / コジマ
No.717 2013/11/30(Sat) 13:47:03

こんにちは^^いつもお世話になっております、この前ふと思ったのですが、ドライな性格って具体的にどのような事を言うのでしょうか?島野さんのご意見をお聞かせ頂けたら幸いです。


 
「ドライな人」^^ / しまの
No.725 2013/12/05(Thu) 18:10:53

「言葉」使い方については、辞書の活用有効ですね^^。ネットで見られる便利な時代です^^。

「情にほだされない様子」とのこと。それでいいと思います^^。
「ほだされる」とは「情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる」とのこと。
つまり、情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られるようなことがないのが「ドライ」

「原理原則行動法」は、外面においては結構ドライな行動法でもありますね。
ただしその内面においては、相手の情に深く打たれている場合もあるでしょう。この場合は、この人自身ドライではない。
内面においても、人の情にあまり反応しないのが、正真正銘ドライな人、ということになると思います^^。


 
Re: ドライな人 / コジマ
No.726 2013/12/05(Thu) 19:47:33

なるほど^^ご回答して頂きありがとうございました!!


人生の前進 / masa
No.711 2013/11/28(Thu) 00:11:11

この間視線恐怖について質問させて頂いた派遣社員24歳です。
以前アドバイスをいただいた人生のイベントのテーマで掘り下げてみました。

交友
@自分の話以外、興味があまり湧かないため、皆が楽しく話していても自分は心から楽しめないし、楽しく振舞おうとするため疲れる。
A友達といて楽しいときもあるが、楽しめないときの方が多い。人といると疲れてしまうので、一人でいる方が楽だけど寂しいという矛盾が苦しい。
B団体でいるときなど、話してる人が自分に視線を送ってくれるかどうかすごく気になってしまう。
C何人かで話してるところへ入るときは、煙たがられるんじゃないか、わざわざ入っていっても楽しめないんじゃないかと萎縮する。
D能力や見た目で付き合う友達を選んでしまう。他の人と話すときは無駄だな、何か他に有意義な時間の過ごし方があるんじゃないかと感じる。
Eコミニケーションが下手な人といるときは天狗気味で、堂々としている。内弁慶な感じ
F自分の友達が他のコミニティーで楽しくやっていると嫉妬してしまう

恋愛
今交際している女性がいるのですが、4.5年前までは、他の男性と話したらいけないなどと、束縛をすることが多かったので、相手のことを尊重するように意識しています。「ありのままでいいよ」など、自分なりに考える無条件の愛に沿った言動をしているのですが、気持ち的には何もストレスは感じません。

仕事
コールセンターに勤めているのですが、威圧的な態度をとられたらこっちもそうしたり、お客様のスタンスによって自分も冷たくなったりして、そんな対応をする自分に対し自己嫌悪しています。


現在芸人を目指していて、仕事をしながら週3日間学校に通っているのですが、あらためて思うと、そこでのコミニケーションが上手くとれず悩んでいます。成功を望む気持ちが強いので、いままでその勉強を理由にコミニケーションに時間を割くことを避けていました。
友達に囲まれているという理想の自分と、友達が少ないという事実とのギャップを受け止められていない感じがしました。
また、全体を通して、母親から愛情をあまり受けられなかったことが元々の原因なのではないかと感じています。
具体的な取り組み方のアドバイスが欲しいです。よろしくお願いします。


 
Re: 人生の前進 / masa
No.722 2013/12/03(Tue) 23:20:08

「人生の前進」というテーマで自らを振り返ってみるというアドバイスを受け、こういった内容を書かせて頂いたのですが、的を得ているのか不安です。まだハイブリッド心理学の理解が甘いため、浅はかな質問で申し訳ありません。

改めて自分の質問を読み返してみると具体的場面について具体的に書かれていないのでそれぞれ改めてレスさせて頂きます。


交友 
@飲み会や、団体で話している場面など。
A団体でいるときでも数人でいるときでも。
B年の近い人といるときはほぼどんなときでも。
C特に学校の休み時間など。いくつかのグループが出来ているのですが、僕は完全に孤立しています。輪に入りたいけど無理して入っても楽しめないだろうなと感じます。自分が想像している交友関係の理想が、「皆に囲まれている自分」、なのと、皆と同じことをしていない不安、また、人間関係に対してハードルが高いという思いこみから、そんな矛盾を感じるんじゃないかと思います。
D学校でも職場でも仲のいい人と話すとき意外は常に。
E主に学校であまり仲のよくない人と話しているとき。
F友達のフェイスブックを見て、自分がいないグループで出かけている場面や、楽しんでる場面の写真を見たときなど。


具体的な状況を挙げましたが、これ以外に一人でいるときも気分は常にすっきりしません。常に悩んでいる状態というか、勉強をしなければ、ハイブリッド心理学での今出来る行動をとにかくしたいと焦っています。
そもそも問題として僕が捉えている内容は、ハイブリッド心理学で言うところの具体的な問題場面状況に沿っているのか不安です。上記は感情の動揺の大きい場面ですが、また治療そっちのけの質問をしてしまっているのではないかと。
以前解答して頂いた、「白い目で見てくる人にどう対処するかよりも、癌の治療そして火傷の治療に、まずは最善を尽くすことです。そこで人の目にどう対処するかという悩みに心が占領され、治療がそっちのけになったら、もう完全に本末転倒です。」という事は理解はできるのですが、具体的な問題場面状況との線引きがよくわかりません。

僕が挙げた問題場面には、僕の「愛情」の認識が、「分かり合い認め合う」ことになっているから生じることも含まれていると思います。そのため友人に対しての独占欲も強く持っているとも思います。
愛情は「喜びと楽しみの共有」がハイブリッド心理学での学びということを基準に考えると、楽しい事を探すことに意識を集中させる、などになるのでしょうか?

また、ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説、4章学びへの理解では、友人をどう増やせるかの前に、まず自分が本心から楽しいと思えるものを探す。という風な事を書いてらっしゃいますが、この答えはどの様な導き方から出るのでしょうか?


 
「成長と成功を知り、覚悟と共に自分の望みを問う」^^ / しまの
No.724 2013/12/05(Thu) 17:49:40

問題課題の把握

>そもそも問題として僕が捉えている内容は、ハイブリッド心理学で言うところの具体的な問題場面状況に沿っているのか不安です。上記は感情の動揺の大きい場面ですが、また治療そっちのけの質問をしてしまっているのではないかと。

まずは問題課題場面の把握としてはokだと思います^^。視線恐怖でケンカ売ってくるように見える相手どう対処すればいいか、だと治療そっちのけになってしまいますが、なぜ視線恐怖になるかの心の衰弱状況そのものに、問題課題移すということで^^。

で、まず前の方で書いて頂いた内容を見れば、視線恐怖になるのもうなずける背景が見える感じです。
まあ一言でいえば、
・人との親愛コミュニケーションがうまくできない
・「能力」や「見た目」が、人を見る際に重みを持っている

という一方で、
・「芸人を目指して」いるとは、不特定多数の人の目を意識する面かなりあると思いますので、
こりゃー視線恐怖にもなるわな、という感じ^^。


心の成長への土台を築く

それに対するアドバイスは、まずは、一言「心の成長への土台を築く」ということです。
20代半ばという若さ、また「気分は常にすっきりしません。常に悩んでいる状態」といった、広範囲な心の問題課題状況があることに対して、テーマ特定の話いいのですが、テーマに関わりなく言える基本への取り組みなお重要になると思います。

「心の成長の土台を築く」とは、一言で、

「成長」と「成功」を知り、自分の「望み」を問う

ということだと言えます。
そのような姿勢意識、そして思考を、築くことです。これこれについて、「成長」このようにあり、「成功」こうであれば可能になる。ならば自分今何を望むのか、と自分に向き合う姿勢です。そので、次の行動を考える。
これがやはりまあ、先のにーなさんへのレス
『内面感情ではなく「場面」に取り組む^^』 しまの No.720 2013/12/03
で、
============
取り組み実践は、どのような状況においても、
『入門 - 3.取り組み実践』
「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践で説明した、
1)「心の健康と成長に向かい得る行動法」の理解2)それについての自分の納得、および内面感情への向き合い3)それを踏まえての行動の結論検討
という手順で進めます。
============

という、
「外面・内面・外面」の向き合い姿勢の、総合版でもあるわけです。


「成長」と「成功」への正しい答えを知る

そこでテーマが「心の成長」一般であればハイブリッド心理学から答えがありますし、テーマ具体的な実践的目標であれば、どうすれば「成功」できるかの、良質の答えがまたそれなりに出てきます。
そうした、「成長」「成功」について、まず正しい答えを知り、それを踏まえ自分の「望み」を問う。そうした姿勢、またそうした手順で考える思考を、築いていくことです。

まあそこで得てしてには間違った答え、勘違いの答え結構溢れていますので、見分けていくことが重要になりますね。
まあこれも一言で言えば、正しい答え長い向き合いの中で、残ります。間違った答え、勘違いの答えは、それを聞いた時は「そうか♪」と分かった気分を安直に感じさせる一方で、うまく行かない消えて散ってしまうものです。
正しい答えは、うまく行かない場合にも、なぜうまく行かないのかの「教え」をもたらします。それは時に「痛み」でもあります。しかしその「痛み」自分を成長させるものであることが分ってきた時、「痛み」など無縁を装う安直な教え全てが、誤ったものであるのが分ってきます。
この違い早く見分けて、次第に、勘違いの答えすぐ捨て正しい答え蓄積していくようになれるのが、これまた「成長」です。


「覚悟」と共に「望み」を問う

ですので、「心の成長の土台」として「成長と成功を知り、自分の望みを問う」ことにおける「自分望みを問う」とは、

「覚悟」と共に「望み」を問う

ということだとも言えます。「成長」「成功」への正しい答えとは、そこには必ず「痛み」を経るがあることを教えるものであろ、それを知った上で「望む」とは、必ず「覚悟」を伴うものになる、ということです。
「覚悟」という心の働き重要性は、
『詳説』でも『5章 基本的な妨げへの取り組み』「2つの心の世界を持つ」などでも書いていますが(P.108)
「心の依存」「心の自立」分ける、意識面における最も根底の違いは、この「覚悟」という姿勢持てるか持てないかの違いではないかと、僕としては考える次第です。

だから、「覚悟と共に望む」ということが、成長への原動力の、本質だということです。
覚悟のある望みが人を成長させ覚悟のない望みが、人を未熟にとどめる、さらには堕落させる、と言えるかと。


「望めるもの」の答えは「覚悟」の先にある

まずはそれがテーマに関わりなく言える、心の成長土台作り取り組みとして、あとは各テーマに応じた「成長」と「成功」答えを知り、それについての自分の理解納得向き合う
さらにそれを足場に、「場面」に応じた具体的行動法を考える場合は、さらに詳しい状況に応じてというになりますが、まずは各テーマについての答え考え方向き合うことからということで良いかと思います。

でまず「交友」については、

>僕が挙げた問題場面には、僕の「愛情」の認識が、「分かり合い認め合う」ことになっているから生じることも含まれていると思います。そのため友人に対しての独占欲も強く持っているとも思います。愛情は「喜びと楽しみの共有」がハイブリッド心理学での学びということを基準に考えると、楽しい事を探すことに意識を集中させる、などになるのでしょうか?

その通りですし、「この場合の答えは?」という情報自分から探しにいく実践、いいじゃないですか^^。しかも質面倒くさ『実践』を読んでとなるとなおさら^^。

>また、ハイブリッド人生心理学の取り組み実践・詳説、4章学びへの理解では、友人をどう増やせるかの前に、まず自分が本心から楽しいと思えるものを探す。という風な事を書いてらっしゃいますが、この答えはどの様な導き方から出るのでしょうか?

自分から楽しいと思えるものに向かうことのない交友は、やがてただの束縛になり破綻します。自分から楽しいと思えるものに向かうことなく、ただ友達関係だけ欲する人は、誰も同じ苦しみを体験することになります。前の方「交友」について書いて頂いたようなものですね。僕ももちろんそうでした。
そこで、「自分から本当に楽しいと思えなければ、駄目なのだ」「形だけの友達関係では駄目なのだ」気づく。それとも、「友達でいる約束」のようなものに、しがみ続けるか。前者の人間自分の可能性の解放に向かって変化し、後者の人間閉塞感の坂をただ下りていきます。
について学び人の心自分の心様子良く観察すれば、すぐ分かることです。

それともご質問「自分が本心から楽しいと思えるもの」が、どのように導き出されるか、ということですかな。
こっちはすぐに導き出せる答えではなく、一言でこう言えるかと。

「覚悟」の門を通って、自分の足で歩いていく中で、向こうからやってくる
ものだ、と。

「覚悟」とは、「成功」への答え示す条件自分に足りないのであれば、自分はこのままでは成功しない、ということを覚悟するということです。
「交友」テーマであれば、もし自分が心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れることを、覚悟するというです。
「諦める」ということではなく。このままでは自分成功しない。その「覚悟」持った上で、それでもなお「望む」のであれば、自分が変化していく可能性に向かって、そこから歩き始めることです。

そうして「覚悟」を通ることで、心に変化が起きます。ただしそこで「楽しめるもの」「望めるもの」すぐに導けるようになる、という安直なものではありません。
まずは引き続き設定した目標に向かって、歩いていく。するとその先のどこかで、「あっこれは楽しい」というものが訪れる時がやってくる。「自分で導く」のではなく、「向こうからやってくる」ものとして。
だから、歩き続けなければならないわけです。まず行動してみる。自分にとってそれが楽しめるものかどうか分かるのは、後のことです。あるいは、自分にとってこれは根本的に、楽しめないものなのだ、という自覚訪れる可能性もあります。ただまあ年齢若いほど、性急な結論は必要なく、沢山の揺れ戻りを経るものと考えておくのが良いでしょう。


人生の主要テーマの全てに向かう

そういった向かい方を、「交友」「恋愛」「仕事」といった、人生の主要テーマ全てにおいて行うことが重要になります。
また、「趣味」も含めた、さまざまな領域で、そうした向かい方することです。

なぜなら、一つの領域で得た「成長」が、他の領域での「成長」に波及する、役立つという、相互連鎖があるからです。
これが分ってくるのもまた「成長」^^。
「交友」において心の健康と成長に向かい得る行動法分ってくることは、当然、「恋愛」「仕事」においても行動を健全化させていきます。
「仕事」において得る自信は、何よりも「恋愛」において大きな足場になります。これがあるないとでは、「恋愛」全く違った話になってきます。これは先日蓮さんへのレス
『課題は「離反」ではなく「依存」^^』 しまの No.712 2013/11/29
でも触れた話。

ということで、他の領域ざっと見てみますと、「恋愛」については、
>4.5年前までは、他の男性と話したらいけないなどと、束縛をすることが多かったので、相手のことを尊重するように意識しています。
とのことで、不健全パターンだった(^^;)のが健全化に向かっているということでいいとして、

「仕事」については、
>コールセンターに勤めているのですが、威圧的な態度をとられたらこっちもそうしたり、お客様のスタンスによって自分も冷たくなったりして、そんな対応をする自分に対し自己嫌悪しています。
については、『詳説』を読んで学ぼうとする姿勢があるのなら、いくらでも自己嫌悪に陥るだけではない対処法取り組めると思います。
「学び」テーマとしては、『入門 - 3.取り組み実践』で言うと、「「学び」の主要テーマ」
3.行動学
であり、その中の「原理原則行動法」が、コ−ルセンタ−業務ほどそれが活用できる仕事はないとも言えるものになると思います。
情報としては、この掲示板でよくリンク載せていますが以下など。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)
より本格的に学ぶなら、
ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)
などは「ハイブリッド心理学指定の必読書」と。

また
>現在芸人を目指していて、
についても、そうした向かい方つまり「成功を知り望みを問う」という向かい方重要、というか、でないと現実の地に足をつけた前進できようもないと思います。
「成功を知る」とは、成功した人の姿を知るということではなく、成功の条件は何か知るということです。「成功を望む気持ちが強い」のはいいのですが、そうした視点あるかどうか。
「芸人」であれば、まずはユーモア好きで、基本的人に接するのが好きであることといった「条件」、そして日ごろから「ネタ帳」を書くなどの積み重ね重要になると推測しますが、

>楽しく振舞おうとするため疲れる。
となると芸人目指すというのはちょっと違和感を感じますが、まあこれも「交友」「仕事」などさまざまな領域上述のような向かい方をする中で、なぜ、そしてどんな芸人を目指すのか向き合いも、地に足をつけた検討の前進ができるようになると思います。


ということで、まずは「成長と成功を知り、覚悟と共に自分の望みを問う」という心の成長への土台培うことに向かい、さまざまなテーマでその同じ向かい方をする。
そうした人生への向かい方始めることで、自分成長の変化が始まる。まずはそれをつかめるかどうかだと思います。そのに、各領域でのさらに細かい話も出てくるということになりますね^^。


人生の課題について / serori
No.700 2013/11/21(Thu) 22:39:26

いつもお世話になっております、seroriです。
今回は「仕事と生活について / ピヨさん(No.688)」にも関連する内容について、ご質問させていただきたいと思います。

 かねてから、具体的には物心ついた頃から、私には「人生の課題」とも思える、なぜだか分からないけれど「成し遂げなければならない」と思われることがあります。ただ、それは上手く説明できないのですが、理性でとか、好きだからとか、お金が稼げるから、とか、そういうものではなく、何故か「そういうものだからやらなければ」というか「やりたい」というか、そんな感覚として染みついているものであります。

 その内容は「何かを創らなければならない、創りたい」という漠然としたものなのですが、今、確実にそこへ向かっている感があります。特に、島野さんの提唱するハイブリッド心理学を学んでからは、そこへ向かう力が加速しているように感じます。

 そこでご質問は、人生の課題とは、このような漠然としたテーマへ向かっていく、ということなのでしょうか?ということです。おそらく、島野さんからの回答がどうであれ、向かってしまうような気はするのですけれど……。

 いまいち自信がありませんので、もし、その感覚を言葉にできたり、島野さんの体験談(著書のご紹介なども含み)などありましたら、ご参考までにお聞かせ願えれば幸いです。人生の課題に取り組む際のアドバイス等もありましたら、いただけたら嬉しいです。


 
「人生の課題」^^ / しまの
No.706 2013/11/25(Mon) 16:09:17

>そこでご質問は、人生の課題とは、このような漠然としたテーマへ向かっていく、ということなのでしょうか?ということです。

いや、「人生の課題」は、テーマとしてははっきりしていると思いますヨ^^。
「自尊心」「愛」、そして「人生」そのものが、「人生の課題」テーマです。それをどうつかむか。その答えを見出すことが、この人生生まれた瞬間我々課せられる、宿題なのだと。それがハイブリッド心理学の考えです。

その答えが、「成長」の歩みの中で、漠然と見えてくる、というにはなるかも知れませんね。

>その内容は「何かを創らなければならない、創りたい」という漠然としたものなのですが、今、確実にそこへ向かっている感があります。

というであれば、まずは「自尊心」そして「人生」というテーマへの答え漠然と見えてきたということであり、
今掲載中の原稿としても、『入門 - 3.取り組み実践』の中で
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
という最も根幹となる「価値観」として、ハイブリッド心理学指針とする「現実において生み出す」という方向性が、「何かを創る」ということへの衝動として芽を吹き出してきたものかも知れませんね^^。

アドバイスとしては、
「創る」ということについては、まずは
・「創る」ものの内容が決まれば、必ずそのための知恵とノウハウがあるので、まずそれをうまく仕入れるのが良い。知恵とノウハウを得ることに不効率があると、向上が遅くなり、得てして意欲がそがれ辞めてしまいがち。
・特別な活動を考えなくとも、日常生活の中に創意工夫で「創る」ものがある。まずその姿勢を持つことが大切。

といったがあると思います。

「人生の課題」への向かい方姿勢としては、最も大きな次元では、
・「命」をかけて向かうものを見出す
・人生で最も愛する相手に向かう

という2つ大きな課題であることを、
『実践詳説』などで書いていますね(P.259)。

それへの向かい方については、もうハイブリッド心理学の全てがそれを書いているものだという話になりますが、

>もし、その感覚を言葉にできたり、島野さんの体験談(著書のご紹介なども含み)などありましたら、ご参考までにお聞かせ願えれば幸いです。

というで言えば、僕の場合は何を置いても執筆に専念するために会社を辞める判断をした時のが、体験談になると思います。
これについては『入門編下巻』「8章 人間の真実「人生」」で書いています(P.248)この章恐らくは、ご関心のテーマについて一通り書いたものになるかと思いますので、一読もしくは再読頂ければ^^。

まあいずれにせよこれも、
>今回は「仕事と生活について / ピヨさん(No.688)」にも関連する内容について、
トピック
『「仕事」と「趣味」・「職業の選択」』 しまの No.697 2013/11/21
で書いた、「広い視野から総合的に決断」ということですね。

まずはこんな話アドバイスになりましたかどうか^^。


 
Re: 人生の課題について / serori
No.708 2013/11/25(Mon) 20:26:28

 アドバイス、ありがとうございます。

 『入門編下巻』の「8章 人間の真実「人生」」(P.248)を拝見して、どのようなことか、感覚的に理解できました。

 まさに、鬱病から脱却した(と思われる)時の私がその片鱗のようなものを感じていました。そして今、島野さんからのアドバイスをいただいて、はっきりと感じました。私の場合は、「世間の遊撃手のような位置づけで、その時出会った物事に対して『私が創ることで価値を生み出せる』場合に、適当な何かを創る」ことが人生の課題なのだと思います。「漠然」ともとれるくらい広義に「何かを創る」ことが、私が命をかけて生み出したいと思える価値のようです。

 「命をかけて向かうもの」とは、漠然とした何かとは違うのかな?と思って質問させていただいた次第なのですが、私の場合には「漠然であることが価値をもつ」という確信を得られました。もしくは「漠然としたところから絞り込んでいって価値のある何かを創り、私の『創る』役目が終わったと感じれば、また漠然とした視点に戻り、新たなものを創り続ける」という感じです。

 これを基軸において、また現実へ向かってみようと思います。


 
Re: 人生の課題について / serori
No.709 2013/11/26(Tue) 00:10:56

 追記で失礼いたします。

 上記の「漠然と」というのは、具体的に「何を創るか」は分かっていないけれど、「自分が創れる範囲のもの」という意味ですので、行動法としては「自分が創れるものを増やしていく」「創れるものの精度を増していく」という方向を目指す、というものであります。ですので、今後の具体的な行動としては「興味のあるもの・楽しいと思えるあらゆるものを、創れるようになる」「既に習得したスキルの中で、その時々に興味を持ち得るもの・楽しいと思えるものの創作スキルを伸ばしていく」「創ることを求められた場合、それを創るスキルを短期間で習得する」という感じで考えています。

 ですので、「漠然と」何をしたらいいのかわからないけれど、その方向へ向かっていく、というのとは、多少異なるかな、と考えております。


 
Re: 人生の課題について / しまの
No.718 2013/12/01(Sun) 07:50:50

「感じ方」「成長」に伴い変化するものでもありますので、まずは「生み出していく」という方向性向かうということでノープログレムだと思います^^。
あとは仕事的な「創る」ものについては、専門性などもあり選択して絞り専念していくことが大切になることなども、考慮しておくと良いかと思います^^。


 
Re: 人生の課題について / serori
No.719 2013/12/01(Sun) 20:59:21

 再度のアドバイス、ありがとうございます。

 コメントいただいた通り、まずは「生み出していく」という方向性に向かってやってみようと思います。

 不思議なことに、「その時々で自分に創れるものを創りたい」という方針のもとに動いていたら、「仕事かそうでないかに関係なく、今の自分に必要なものが得られる場所へ自然と向かってしまう」という現象に出くわし、ああ、こんな生き方に落ち着くんだろうなあと実感しております。

 「今の自分が創るべきもの」がある場所が仕事の中であれば、自然とその職に就くことになり、それが家庭の中であれば、自然と仕事を辞めて家庭に入り、生きる糧は家族から得ることになり、今現在は、実家を継ぐことになっております。今まで学んできたことが蜘蛛の巣状に繋がり、家業の発展に貢献できそうなことから、ああ、またそういうところに落ち着くのだなあと不思議な思いでおります。

 今後も、まずは自分が「学びたい」と思ったことを学び、「行きたい」と思った方向へ向かってみたいと思います。


仕事と生活について / ピヨ
No.688 2013/11/13(Wed) 21:02:03

 島野さん、いつもコメントありがとうございます。

 前回の言葉、「仕事に身をすり減らして一生を終えて満足か。など」について。

 たしかに、正社員ですと特に、支度も含めると何時間も取られることや、人間関係の場と仕事をこなすことで疲労となります。
 仕事は、大変なことではありますが、人との関わりやいろいろな勉強となります。特に、なりたい仕事に就いた場合、辞めたくないとも感じるものです。
 
 身をすり減らしてという、表現もとても分かります。働き続けること、何かを続けることは大変なことと感じます。
 しかし、身をすり減らしてという言葉と、正社員で働き続けることは、ある意味イコールと感じますし、しかたのない部分と感じます。

 仕事をすること、人を思うこと、どちらも大切なことと感じます。

 そして、その生活の中で、どのように幸福になれるのかを考えながら毎日を送りたいと
感じています。

 仕事と生活についても、考えさせられるテーマなので、島野さんご助言ありましたら参考にさせて頂きたいです。


 
仕事に向かう姿勢の指針^^ / しまの
No.692 2013/11/16(Sat) 11:23:49

「仕事に身をすり減らす」

まず「仕事に身をすり減らす」というのは、まずは「大変な労力をかける」「生活時間の大半をそそぐ」といった、楽なことではない様子を指す、一般的な表現と考えて頂いて良いと思います。

それで言うなら、「仕事」というのは基本的に言って、身をすり減らしてやるものですね。身をすり減らさずにやる仕事なんていう、楽で都合のいいものはあまりない。もしくはあまり価値のある仕事ではないと言えるかも知れませんね。
ちなみに島野の執筆も、それなりに身をすり減らしてやっている所存^^。

ですので、「仕事に身をすり減らして一生を終えて満足か」というのは、「そんなのやめちゃえば?」というよりも、「身をすり減らしてやるだけの価値を、自分から見出したい」というのがそのココロです。ただ回りを見回して流されるように仕事をするのではなく。
「満足か?」は、そのための「問い」表現ですね。「満足だ、なぜなら・・」というのが、嘘偽りなく心底から出てくるのであれば、そこに「答え」見出されたという話になる。


「仕事」に見出す価値

そんな話として、実際我々「仕事」にどんな「価値」感じることができるかについては、ハイブリッド心理学からは、
「仕事」に、より大きな価値を見出す、そして生み出すことができるようになるのが「成長」
だと言えます。

大よそ、3つの段階で、「仕事」「価値」感じるようになれるのが「成長」道筋と言えるかと。
まずは、自分が生きることを支えるためのもの。
に、愛する人と共に生きることを支えるためのもの。
最後に、自分が何か世界の全ての人に役立つことを出来るという充実を、見出すもの。

ハイブリッド心理学からは、「行動学」「仕事の普遍的スキル」習得として「仕事」向かうことが、こうした「成長」のための最短の道だというのがノウハウになります。


仕事に向かう姿勢の指針

一方、こうした「成長」に向かうことができなくなるのが、「働かざるもの食うべからず」といった道徳的な感覚で仕事に向かう姿勢「こんな歳で就職できないなんて」とか、「勝ち組負け組」といった「体面」として仕事に向かう姿勢があります。

道徳や体面で仕事に向かう価値観見直し「何のために仕事をするのか?」という「問い」常に向き合いながら、「行動学」「仕事の普遍的スキル」習得として「仕事」向かう
これがハイブリッド心理学からの指針と言えますね^^。


 
Re: 仕事と生活 / ピヨ
No.693 2013/11/16(Sat) 18:20:17

 「仕事に身をすり減らして一生を終えて満足か」については、
 
 心身の疲労となる仕事は、それだけで一生を終えてしまって良いのかという意味なのかと思い、考え込んでいました。

 実際、仕事はしていたいが、半日で終わるくらいが疲労や時間的な負担とならないと感じたり思う時はあります。

 「身をすり減らしてやるだけの価値を、自分から見す問い」だったのですね。

 そして、「満足だ、なぜなら・・」というのが、嘘偽りなく心底から出てくるのであれば、そこに「答え」が見出されたという話になると。また、「何のために仕事をするのか?」という「問い」に常に向き合いながら。
 
大よそ、3つの段階で、「仕事」に「価値」を感じるようになれるのが「成長」の道筋
まずは、自分が生きることを支えるためのもの。
次に、愛する人と共に生きることを支えるためのもの。
最後に、自分が何か世界の全ての人に役立つことを出来るという充実を、見出すもの。

「行動学」「仕事の普遍的スキル」の習得として「仕事」に向かうことが、こうした「成長」のための最短の道だということ。

@生きることを支えるものとしては、経済的なことの他では、仕事ではなく趣味や生きがいとなる別の物でも代用できるのではないでしょうか。

 また、主婦・育児休暇などで就労から離れていて社会から取り残された気分になる方・病気で働くことをストップされている方・定年後の方で仕事が無い喪失感の方・仕事が見つからない方・働くことが困難な方・育児のためパートなどに変えたなどの場合もあると思います。

 A職業の選択は、入社できそうな所・興味のあるもの・出来そうなもの・自分に合ったものが適していると言えますか。

 私は、学生の時になりたいものを選びました。

 B私は、どちやかというと収入(お金)よりも自分の時間が欲しいと感じます。しかし、仕事は自己実現や自分の成長や課題にも大切と感じてもいます。

 島野さん、貴重な深いご意見をありがとうございます。

 @〜Bについて、もう少しご意見お願いします。


 
「仕事」と「趣味」・「職業の選択」 / しまの
No.697 2013/11/21(Thu) 09:28:34

「仕事」と「趣味」の本質的な違い

>@生きることを支えるものとしては、経済的なことの他では、仕事ではなく趣味や生きがいとなる別の物でも代用できるのではないでしょうか。

「仕事」「趣味」本質的な違いという話から言うならば、次の3点になると思います。

「仕事」とは、
1)「必要」に応じて行うもの。生計のための就職だけでなく、「家事」もそうですし、災害ポランティアもそうですね。「必要」があって行う。
2)「対価」を得ることが前提となって行う。働けば「給料」を売れば「代金」「対価」を求めない場合その旨を明示して仕事をするのが「ボランティア」「NPO」の活動ですね。「家事」自分のため、身内のため「仕事」であり、対価の授受は省略していると考えることができるでしょう。
3)自分の都合では事を運べない、自分勝手には進められないもの。相手の都合、社会の都合に合わせなければならないのが基本となるもの。

「趣味」その反対ですね。
1)「必要」はなく「楽しみ」で行うもの。
2)「対価」を得ることは基本的に目的にしない
3)自分の都合、自分の勝手に進めることができるのがまずは基本。

我々「仕事」というのを考えると、まず2)の「収入」を得るという面目が向きますが、心が成長成熟するごとに1)と3)の面「収入」によらずに重みを帯び、自分にできる、人と社会に役立つことを尽くすという姿になると言えると思います。

「心の成長」にとって、そうした「仕事」どう自分が向かうことができるかが、この世に生まれた時に誰にでも出される一つの宿題のようなものだと、としては考えています。
特に3)自分都合自分勝手には進められない、という面に対して、いかにうまく対応できるようになるか。そのためには、人を知り社会を知ること、そして「行動学」や「仕事のスキル」を習得することが重要になります。
それによって、「社会で生きる自信」という、人生の大きな宿題達成される、と。
この点、セレブ家庭に生まれて、何でも自分勝手にできる人は、得てして心の底では「社会で生きる自信」を持たないであろうまま、ろくでもない人間(^^;)になってしまうケースがあるのは、ワイドニュースなどでしばしば耳にする通りですね。


職業の選択

>A職業の選択は、入社できそうな所・興味のあるもの・出来そうなもの・自分に合ったものが適していると言えますか。私は、学生の時になりたいものを選びました。
>B私は、どちやかというと収入(お金)よりも自分の時間が欲しいと感じます。しかし、仕事は自己実現や自分の成長や課題にも大切と感じてもいます。

「職業の選択」は、まずは「広い視野から、総合的に、自分で決断する」ものと考えるので良いかと思います。
「広い視野」とは、自分の能力資質や性格、趣味傾向、資金、つてやコネといった自分の条件世の中どんな職業があるかの知識、そして上述のような、「仕事」「成長」関係、そうした沢山の視野を持って判断するほど、自分の幸福につながる選択ができるようになる、と。

>また、主婦・育児休暇などで就労から離れていて社会から取り残された気分になる方・病気で働くことをストップされている方・定年後の方で仕事が無い喪失感の方・仕事が見つからない方・働くことが困難な方・育児のためパートなどに変えたなどの場合もあると思います

職業の選択にあたって、さまざまな「制約」が出てくるというケースですね。同じで、それをさまざまな条件の中の一つとして、「広い視野から総合的に決断」しなければなりませんね。

全ての人において、「これで決めればいい」などというものではなく、人それぞれ人生の歩みそのものとして、選んでいくということになりますね。
もしそれぞれについてアドバイスするとしたら、それぞれ人生の歩み全て聞いてからだという話になると思います^^。


 
Re: 仕事と生活について / ピヨ
No.699 2013/11/21(Thu) 17:43:48

 島野さん、たくさん説明して下さりありがとうございました。

 特に、仕事から社会で生きる自信という、人生の大きな宿題が達成されること。

 また、人それぞれの人生の歩みそのものとして、選んでいくということになるということが分かりました。。


 
高齢時について / ピヨ
No.702 2013/11/22(Fri) 21:49:46


「仕事」とは、「必要」に応じて行うもの。生計のための就職だけでなく、「家事」もそうですし、災害ポランティアも。「必要」があって行う。

「趣味」は「楽しみ」で自分の都合で行うものとのこと。

 職業としての仕事について、自分が仕事を続けていく中で、高齢になった時は職業を退くのかと思います。そして、その場合、自分のことをできる時間が増えることになるため、家事や家のこと。それから、趣味の時間が増えるため、このような生活も楽しみと感じます。また、短時間でも社会で何歳になっても働きたいと考える方もいると思います。
 
 高齢になった時は、それなりに職業に従事しない自分を受け入れることも必要なのだろうと感じます。仕事がある内は、働くところがあると思います。

 島野さん、高齢時の考え方についても回答下さい。



 
 2つの大きな課題から / ピヨ
No.707 2013/11/25(Mon) 18:16:49


 島野さんの投稿を読み、本日感じたことがあり、繰り返しになっているかもしれませんが、投稿しています。

 職業の選択は、学生卒業頃では、自分自身視野がそんなに広くなかったと感じます。そして、大人になってからいろんな仕事を目にすることがあり、あの時もっと勉強して、なりたい仕事の選択幅が広くなるようにしていれば、違った職業に就けただろうと感じます。もう、過去であり今の自分はその時の自分では無いのは分かっていますが、こうすれば受験に合格するとかの本を目にすると、自分の過去や現在の視点を見つめると、自分にとって「命」をかけて向かうものを見出すことはできるのだろうか?と感じました。
 
 今、自分にできる職業から見出していくことは可能と感じます。また、職業からだけではなく、自分の時間を使った生き方全体として、島野さんのように学ぶことも含まれると感じています。


 それから、人生で最も愛する相手に向かうという2つが大きな課題であることとのこと。これは、親の反対を押し切ってとか、世間体で躊躇する方などの選択でも、自分自身を基準によく考えて、選ぶという考えということでしょうか。

 


 
高齢における就労・2つの大きな課題 / しまの
No.713 2013/11/30(Sat) 09:28:54

手短に^^。

高齢における就労

>短時間でも社会で何歳になっても働きたいと考える方もいると思います。高齢になった時は、それなりに職業に従事しない自分を受け入れることも必要なのだろうと感じます。仕事がある内は、働くところがあると思います。

高齢になってからは、生計のために働かなくてはならないという「必要」からの就労は、まずは必要なくなるように、なるべく若い頃から計画を立てるのが、まずは「人生設計」ですね。「年金」といった社会制度考慮の上。
そので、「必要」からではなく「生きがい」のために、何か仕事を続けるというのが、理想ではないかと思います。

最近新聞で、「いきいき生きることがゴール、就労はその手段にすぎない」といった言葉を見かけましたが、まさにその通りだと思いますね^^。その記事特に高齢を取り上げたものではありませんでしたが、高齢においてこそそれが言えるのではと思います。

2つの大きな課題

>あの時もっと勉強して、なりたい仕事の選択幅が広くなるようにしていれば、違った職業に就けただろうと感じます。もう、過去であり今の自分はその時の自分では無いのは分かっていますが、こうすれば受験に合格するとかの本を目にすると、自分の過去や現在の視点を見つめると、自分にとって「命」をかけて向かうものを見出すことはできるのだろうか?と感じました。

「命をかけて向かうものを見出す」とは、どんな仕事の選択ができるかという話よりも、これから生きる上で自分にとって一番価値があるものを見出すといことです。
ですので、
1)自分に「何ができるか」を広げていく
2)その中で自分にとって「何が本当に価値があるか」に向き合っていく

という2つのステップ繰り返し模索していくものになると思います。
まあそこではよく1)過去を悔やむのですが、過去を悔いても始まらないので、「今からの向上」目線を切り替えるのが大切ですね。人生最初から完璧に行ける人などそういませんので^^。

>それから、人生で最も愛する相手に向かうという2つが大きな課題であることとのこと。これは、親の反対を押し切ってとか、世間体で躊躇する方などの選択でも、自分自身を基準によく考えて、選ぶという考えということでしょうか。

「人生で最も愛する相手に向かう」という大きな課題は、「社会を生きる自信」をしっかりと築き、それを足場にして向かうのが良いハイブリッド心理学では考えています。
つまり、『入門 - 3.取り組み実践』で取りあげた実践テーマの中で、
3.行動学
などを、まずはしっかりと習得することが重要だと考えています。それが、「人生で最も愛する相手に向かう」という大きな課題への、強固な足場になります。

それで言うなら、「親の反対を押し切ってとか、世間体で躊躇する」とかの揺れ惑い状況には、まずはならない、もしくはそれを脱するのではと・・^^;
取り組み実践するならば、まずはしっかりと親を説得できる、そして世間体なんていうつまらない価値観卒業するというのが方向性になると思います^^。


 
Re: 就労と課題 / ピヨ
No.716 2013/11/30(Sat) 10:39:42



 いきいき生きることがゴールで、就労はその手段にすぎないこと。「生きがい」のために、何か仕事を続けるというのであれば、理想ということ。

 どんな仕事の選択ができるかという話よりも、「社会を生きる自信」をしっかりと築き、それを足場にして今からの向上に目線を切り替え、自分に何ができるかを広げていく。その中で、自分にとって何が本当に一番価値があるものを見出すといこと。

 また、世間体なんていうつまらない価値観は卒業するという方向性ということ。

 島野さん、とても方向性を知ることができました。

 昨日も、自分は何十年後は、仕事をするかどうかを考えていました。まだ、先の話なので考えなくても良いのですが、何も考えないで今の年代を過ごすよりも、先のことも考えて見たくもなります。

 今からの向上に目線を持ち、過去は考えるのを終わりにしようと感じました。

 ありがとうございました。


欲について / ジン
No.696 2013/11/20(Wed) 18:42:30

 島野さんの、本と身近で聞いたことについて

 島野さんの、「自己の重心を損なった空虚や、愛情の欠如への代用品として、意識よりも深いところでエネルギーが0衝動にバイパスするような現象が起きる。

 自己の重心の喪失と愛の欠乏が減少した時、0衝動よりもより健康的な姿を示すようになる。まず、欠乏を埋めるための代用品という、麻薬のような誘惑がなくなっていく。同時に、望まない0行為が破壊行動であることへの感受性が回復する。」の文と。

 男性は、相手がいない場合など、解消としてそのようなサービスを受けるとの話。

島野さん、人間の欲、本能としては、0欲は、自然なことからの視点は、どうお考えでしょうか。 

 心が、回復するとさびしさや、無いものねだりの気持ちが減少して、埋めるための0欲が軽減するとは、理解できます。

 


 
「自然の性」からの考察^^ / しまの
No.704 2013/11/24(Sun) 11:26:20

>島野さん、人間の欲、本能としては、0欲は、自然なことからの視点は、どうお考えでしょうか。 

「自然の本能」としては、たとえば「食欲」動物自身の生存維持のために極めて基本的な欲求衝動として起きるものであるのと、同じものと考えることができると思います。
つまり我々は、自分の体を維持するために食べることが必要であり、それを頭で理解することで「ならば食べよう、食べたい!」と感じる以前に、思考など働く必要もなく腹が減れば食べたくなるという、体のレベルでの欲求衝動を感じるようにできているわけです。
そうであるから、生き物生きながらえるわけです。そうした仕組みがなく、自分で食べることが必要であると頭で判断しないと食欲が起きないようであれば、生き物とうの昔に滅んでいたでしょう。

「性欲」同じで、理科で習ったと思いますが「種の保存」、つまり子供を生んで子孫を増やすという生物の根本的仕組みとして、子供を持つためには性交渉が必要だ。ならばそうしたい!と頭で考える以前に、異性目の前にすると交わりたいという欲求衝動体のレベルで起きるという仕組みがある。でないと、生き物はやはりとうの昔に滅んでいるでしょう。

一方で、「食欲」が、その起きるがままに食べていたら健康を害するであろうと同様に、「性欲」も、起きるがままにそれを追い求めていたら、心の成長と健康を害する、人生の豊かさを害するというがある。
同じように、より豊かな健康へと自らを導くために、知恵とノウハウそして自己コントロール、自己管理重要になってくる、ということになりますね。

まずはこれが入り口になるかと。で具体的にどういいうことかとして、引用頂いたような話も出てくるという次第ですね^^。

>男性は、相手がいない場合など、解消としてそのようなサービスを受けるとの話。

まあこれも、解消の方法暴走しないたいのコントロール手段の一つと考えられますね。

より細かい話については、まあハイブリッド心理学ではあまり展開していないのが現状です。というのは、心の健康と豊かさ向かうごとに、性の問題テーマとして重要でなくなってくるからです。
検討テーマとして出てくるのは、心を病んだ時それがどう歪んだ重みを帯びるかという問題になりますが、僕の執筆活動焦点が、より豊かさに前進する局面向かっているため。

とりあえず関連した話として書いているのは、以下あたり該当しますので、関心あれば読んで頂ければ^^。

『入門編下巻』で書いた「愛を外面の形で追うごとに、内面の愛の感情は貧弱化していく」という話(P.284)性交渉を「愛」の実現と考えると、この極地に向かうと思います。その点、とにかく性交渉がすぐ出てくる、昨今の著名な小説家のものなどちょっとウンザリの感・・^^;

あとは、サイトの『過去原稿』に収めていますが、
『心理障害の感情メカニズム』
に収録の
3.1 愛のメカニズム - (2)愛の誘因の増大
終わりの方に、性愛心の病みの傾向によってどんな変形を帯びるかの、キーワードのレベルでのサマリーを書いています。
まあこれも、あまり詳しい分析をするより、心の健康と成長への取り組みの中で、自然と、性衝動ごくシンプルで自己コントロール可能な身体的衝動に落ち着いていく、という理解を持っておくのがいい話になります。


 
Re: 欲について / ジン
No.705 2013/11/24(Sun) 20:52:46


 心の健康と豊かさに向かうごとに、食や性の問題はテーマとして重要でなくなってくるのは、分かります。

 あまり詳しい分析をするより、心の健康と成長への取り組みの中で、自然と、性衝動もごくシンプルで自己コントロール可能な身体的衝動に落ち着いていく、という理解を持っておくのがいい話になるとのこと。
 
 あまり、考えなくても良いということに収めることができました。
ありがとうございました。

 過去原稿を紹介してくださり、ざっと目を通すことができました。

 その中で、内面的な自信は、現代社会人にとって外面的な自信以上に大切な課題とも言え 人間関係や様々な活動においても、良い結果を出せるような行動はあるものです。積極性とか明朗さとか、親しみ安さとか。内面に湧き出る感情に任せられるということであり、自発的欲求に基づく行動であること。

 人間の内面的な自信の源泉は、真の自己による、不安からの回避という性質のない、自発的感情です。

 積極性や明朗さなど、自発性があっても、他者への不満を持って生きている方もいると思います。また、人のせいや不平を言っている方の方が、世の中で多いと感じます。

 それから、建設的に心理的成長を行っていくことは、豊かに生きれる重要な取り組みとは逆に、この取り組みを知らなかったり、生きがいを喪失したり、自分はつらいと嘆いて人生を過ごす場合は、病気を抱えたままこの世を去ることになるという考え方以外、何が考えられますか。

 ご意見、お願いします。


 
Re: 欲について / しまの
No.714 2013/11/30(Sat) 09:36:53

>それから、建設的に心理的成長を行っていくことは、豊かに生きれる重要な取り組みとは逆に、この取り組みを知らなかったり、生きがいを喪失したり、自分はつらいと嘆いて人生を過ごす場合は、病気を抱えたままこの世を去ることになるという考え方以外、何が考えられますか。

これは「ハイブリッド心理学の取り組みをしない場合、心の病みの傾向を抱えたままになってしまう」ということですかな。それ以外にはないのかと。
僕からコメントできるのは、ハイブリッド心理学の取り組みをすることに関連した話だけになります。ハイブリッド心理学の取り組みをしない場合の話は、ハイブリッド心理学からは言えないです^^;
ハイブリッド心理学以外にも沢山の心の取り組み法がありますし、人生のさまざまな出来事で、変化し得ますね。ハイブリッド心理学は、その中の一つです。

返答になりましたかどうか^^。


 
悩みについて / ジン
No.715 2013/11/30(Sat) 09:48:36



心の病みの傾向を抱えたままになってしまうということ。

人生のさまざまな出来事で、人は変化し得るということ。

島野さん、上記の回答ありがとうございました。


視線恐怖症なのでしょうか / masa
No.691 2013/11/16(Sat) 06:41:44

24歳、派遣社員、男です。
僕は昔から、常に何かにビクビクしている様な性格なのですが、島野さんの心理学を拝見して勇気をもらっています。
ハイブリッド心理学の実践をしたいと思い、ここ四ヶ月程、空き時間に学びを学習している最中です。同時進行でここ二ヶ月間程、悪感情を感じた出来事を日記につけると言う作業を行っていたのですが、その中で多く感じた部分についての質問です。
路上や駅で人とすれ違うたびに見られてるなと感じ、ハラハラしたり、喧嘩をうってるのかと感じてしまうことが多いです。おそらく怖いんだと思います。頭では自意識過剰になっているから気にすべきではないと思っているのですが、ほぼ毎日このことで辛いです。対処としてはどの様な建設的行動が選択肢としてあるでしょうか?


 
「症状」ではなく「人生の前進」に取り組む^^ / しまの
No.695 2013/11/19(Tue) 22:04:26

これは100人のカウンセラー相談したら100通り答えが返ってくるようなご相談かもですが、
ハイブリッド心理学からの基本指針を、まず一言でいうとこうなりますね。

「症状に取り組むのではなく、人生の前進に取り組む」と。

つまり書いて頂いたような「視線恐怖」もしくは「関係念慮」「関係妄想」というのは、まずはでも心が弱くなった時に、そうでなければならないようなものに、まあ風邪でも引くようになってしまうものだと言えると思います。
たとえば、心がごく健康であった人でも、病気怪我たとえば癌の抗がん剤治療頭髪が抜けてしまった、火傷をして大きな皮膚損傷をしてしまったなどの時、人目が気になり、視線恐怖的状態にも陥るかも知れません。
しかしそこでやるべきことは、白い目で見てくる人にどう対処するかよりも、癌の治療そして火傷の治療に、まずは最善を尽くすことです。そこで人の目にどう対処するかという悩みに心が占領され、治療がそっちのけになったら、もう完全に本末転倒です。

それと基本的には、全く同じことだと言えると思います。心が衰弱し、心が元気な時にはかかりもしない風邪にかかったように、

>路上や駅で人とすれ違うたびに見られてるなと感じ、ハラハラしたり、喧嘩をうってるのかと感じてしまうことが多いです。おそらく怖いんだと思います。頭では自意識過剰になっているから気にすべきではないと思っているのですが、ほぼ毎日このことで辛いです。

という心理状態になった。そこで、

>対処としてはどの様な建設的行動が選択肢としてあるでしょうか?

というように、そうした場面を対処課題と考え始めると、上述のような本末転倒近くなってきてしまいます。

つまり考えるべきは、そうした場面はひとまず置いといて、「人生の前進」という大きな課題に、自分が今どのような向かい方ができているかの確認から始めることです。
「人生の前進」とは、要は仕事交友恋愛といった人生のメインイベントへの向かい方ですね。

そこに、なぜそうした視線恐怖的状態になったのかの理由となる、心の衰弱状況どのような内容のものであるのかが示され、それに対する克服アプローチ検討始めることができます。
まず言えるのは、それが入り口だといこうとまでですね。そのは、そうした「人生の前進」というテーマ自らを振り返って出てきたものがあれば、それについて具体的アドバイス始められるかも知れません。

付け足せば、「喧嘩を売ってるのかと感じてしまう」というのが、どのように「関係妄想」であるのか把握も、それと併せて必要ですね。
まず言えるのは、「外見」や「性格」「自意識過剰の有無」などを基準にした勝ち負けや賞賛軽蔑の感情他人に投影されているのではないかと。

で結局アプローチとしては、上述「人生の前進」を、そうしたものとは全く違う、建設的な行動法や価値観による「自尊心」と「愛」への向かい方にするとはどういうことかを学び、それについての納得理解を自分に問うということをします。
これは結局、
『入門 - 3.取り組み実践』
で説明している一連の実践を、仕事交友恋愛といったメイン材料行うという話です。

まずはこんなところで。検討してみて頂ければ^^。


 
Re: 視線恐怖症なのでしょうか / masa
No.703 2013/11/23(Sat) 18:04:47

先日は回答ありがとうございました。
課題自体を捉え違えていたということなんですね。早速実践してみます!今後も質問することがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。


苦しみの中にいます / りょうたろう
No.694 2013/11/18(Mon) 22:29:50

こんばんは。先日はコメントありがとうございました。

進展、と言えるのかもしれませんが、現在私は今までで最大の苦しみの中にいます。そこまでの経緯は色々あったのですが、結論から言うと「私はあまりにも醜い」という考えに至ったためです。今までの自己不全感や、身体的なコンプレックスや、対人関係の悩みなどが全てこの「私は醜い」という一つの苦しみへと純化されたような感じです。

何が醜いかというと、やはり不実と傲慢ということになるでしょう。自信がないという素振りを見せながら、内心では全ての他人を見下していたこと。他人というのはただ私を褒め称えるためだけに存在していると考えていたこと。そして、自分自身の感情に対してあまりにも不誠実であったこと。内面向き合いの末にこれらのことが、もはやごまかしようのないものとして浮き彫りになってきたのです。今はおぞましくて鏡も見られません。

テレビを見ていたら、幸せそうな家族や、目標に向かって努力している人や、好きな仕事や趣味に囲まれている人が出てきます。そして思うのは、自分はあのような光の中にはいられないということです。「いてはいけない」という道徳的な考えも混じっているかもしれませんが、そもそもこの罪人のような気持ちのまま幸せになるなんて不可能だと感じます。そしてそれに気付いた後でもなお、呼吸するように新たな嘘が私の中に生まれてきます。嘘だらけの自分が嫌で嫌でたまらないのに。

そして、もうどうしたらいいのか分からなくなりました。不実と傲慢が「罪」であることはもう感覚としてそう思います。償いというものがあるなら償いたい。
「どうすればいいでしょうか」とは、自分自身に聞くべきことかもしれません。しかし、どうか島野さんの考えをお聞かせください。


 
「外面・内面・外面」の取り組み実践の検討を^^ / しまの
No.698 2013/11/21(Thu) 11:44:36

これはアドバイスとしては、まずはごく単純明快シンプルなものになりますね。

手順通りに、「取り組み実践」を進めてみることをお勧めします、ということです。
今回『入門 - 3.取り組み実践』
で説明しているもの。
特に、
外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践
で説明している「外面・内面・外面の3段階ハンドルさばき」ですね。

書いて頂いた内容は、まずは「内面」だけになっていると思います。
それを、具体的行動場面しっかりと想定して、
1)まずハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法」としてはどうなるかの把握理解
2)それについての理解納得、およびそれを踏まえての内面感情へのありのままの向き合い
3)再び具体的行動の結論への向き合い

という順序進めます。

>テレビを見ていたら、幸せそうな家族や、目標に向かって努力している人や、好きな仕事や趣味に囲まれている人が出てきます。そして思うのは、自分はあのような光の中にはいられないということです。「いてはいけない」という道徳的な考えも混じっているかもしれませんが、そもそもこの罪人のような気持ちのまま幸せになるなんて不可能だと感じます。

というであれば、仕事、趣味、家族その他の目標に向かうための、建設的行動法によるアプローチが出てきます。
それは内面感情はいったん置いといても、習得向上が可能なものです。特に「原理原則行動法」「仕事の普遍的スキル」など。それをどう学ぶか。
趣味も、まずは他人とは無関係に、自分で楽しみを持つことからです。それをどう探すか。
そうしたアプローチについて、自分はどう理解納得し、それを選択したいかどうかを、自分に問うことからです。
この理解納得状況がどんなものかを踏まえないと、何も言えないわけです。

まあ心底から選択したくなれば、「自分の不実と傲慢」といった感情も、多少感じ方変わるでしょう。そうしたアプローチすぐ意識が回らないようであれば、まずそうしたアプローチどうイメージできるかに、取り組んでみることからになるでしょう。

一方で、自分今まで、そして今どんなことによってそうした人生の前進にアプローチしようとしてきたか。しようとしているか。
そこに、

>自信がないという素振りを見せながら、内心では全ての他人を見下していたこと。他人というのはただ私を褒め称えるためだけに存在していると考えていたこと。そして、自分自身の感情に対してあまりにも不誠実であったこと。

というのが、ただ自己嫌悪にふける(^^;)だけではない、自分の根本的な誤りの自覚とその捨て去りへとつながるような、変化起き得る道が出てくると言えます。

>償いというものがあるなら償いたい。

という言葉について言えば、「自己嫌悪」であれば他人への償いの問題ではないですね。他人への償いというテーマであれは、客観的に他人に与えた害という、原理原則的な思考を持つことが重要です。

ということで、まずは「外面・内面・外面」という向き合い方法における、「外面」部分の取り入れですね。
まあサンドイッチのようなものです。それがハイブリッド心理学の取り組み実践です。外面向けの2枚のパンではさんだ、内面感情という具がある。外面向けの2枚のパンではさむからこそ、内面感情の具うまく消化吸収されるという按配です。
もちろん具だけ食べたいというのは自由ですが、それはハイブリッド心理学でない別料理ですね^^。

そうした取り組み実践方法を、検討してみて頂ければ。
具体的行動場面想定の上、
「学び」の主要テーマ
であげた
2.「破壊」から「自衛」そして「建設」へ
3.行動学
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
5.悪感情への対処

といった視点からだとどうなるか検討します。まあちょっとした受験勉強並みの思考作業量になると思いますが、それをやるのが「取り組み実践」ですので^^。

具体的行動場面想定材料など出して頂ければ、具体的アドバイス可能です^^。


対人行動について / レース
No.680 2013/11/09(Sat) 09:57:12

 職場での対人行動について

 仮にKさんとします。Kさんは、行動力があり職場の中心のように活動的です。
いろいろな仕事も手にかけています。しかし、自己主張が強く、自分を立ててくれない同僚を煙たく想い、そのことを上司に感情的に強く訴え相談して、同僚を移動させてほしいとか、それができないなら自分は病院にかかるようなことになってしまう。また、仕事を辞めますとまで言う。仕事が、できるKなので、上司はこの方の思いを優先してしまいがちです。
 私も、Kさんのペースに合わせるとコントロール力が強いので、自分じゃなくなる気がしています。しかし、Kさんの思いで人事が決まることは、言ったもの勝ちのようで不利益感があります。
 人は、本人の思いどうりにはならないこと。
 
 建設的行動の前に、周囲の人間は、何を考えれば良いのでしょうか。
 


 
「問題の始まりに対処できれば人物の問題は起きない」^^ / しまの
No.681 2013/11/10(Sun) 10:55:42

これはまず格言的一言でいえば、
「問題の始まりに対処できれば人物の問題は起きない」
とでも言えますね。

つまり、まず一つ一つのものごとうまく対処できるかどうかという、問題の始まりがあります。そこでは、一つ一つのものごと問題課題です。
それがおおよそにしてうまく行かないと、問題「人物の問題」へと変貌していきます。
まあ仕事の場でも、今ちょうどその時期を迎えている、プロ野球人事にしてもそう。まず「この仕事をどうするか」「このプレーはどうか」といった、一つ一つのものごと問題課題にしているのが、おおよそにししてうまく行かない場合に、「この人をどうするか」「誰を戦力外通告にするか」といった、「人物の問題」になってきます。

まずはそれと同じかと。

>Kさんは、行動力があり職場の中心のように活動的です。いろいろな仕事も手にかけています。しかし、自己主張が強く、自分を立ててくれない同僚を煙たく・・

ということであれば、まず行動力あり活動的なKさんとの協働作業という一つ一つの課題に、うまく対処できれば、残り「自分を立ててくれない同僚を煙たく・・」以降のように、「人物の問題」へとエスカレーションすることもない。

>私も、Kさんのペースに合わせるとコントロール力が強いので、自分じゃなくなる気がしています。しかし、Kさんの思いで人事が決まることは・・

についても、自分を失うことなくKさんとうまくやっていく対処ができれば、残り「Kさんの思いで人事が決まることは・・」という問題なくなりますね。というか、有利な話になるかも知れない。

ということで、まず僕からアドバイスできるのは、Kさんと協働作業をしようとする時に最初に起きる問題に、どう対処するかという持つ、ということです。
その答えは、むろん「行動学」です。「建設的対人行動法」「原理原則行動法」「ウインウイン行動学」3セットです。
自分を見失うことなく、強引な相手にストレスを感じることも、自分を卑下するような姿勢に陥ることなく、うまくやっていける、まさにそこにこそ揺らぎない自己の確立を見出すことができる、そんな行動法というものがあります。まずは以下など参照下されば。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)

具体的場面状況など書いて頂ければ、より具体的アドバイスも可能かと^^。

まああとは仕事場面考え方として、職場基本「より出来る人間を基準に」というものですね。でないとそもそも職場全体としてどーしようもない。そして実際「人物の問題」としてコトが人事問題エスカレーションしてしまった場合、僕も仕事時代はそうでしたが下っ端の人間にはもう手が出さなくなり、自分が取り上げられるのならもう建設的もへったくれもなく、まずはまな板の上の鯉になるだけです。出来る人間の声が優先されるのもどーしよーもない。
まあまずはいかにしてそんな状況にならないか知恵ノウハウですね。
まずは上記視点からの検討を^^。

以下なども参考になるかと。これも問題の構造全く同じで、「うまく合わせられない相手」どう対処するかという問題として捉えていたのが、結局「より出来る人間に合わせる自分の能力」問題へと噛み砕いていったものですね。
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピック


 
問題の始まり / レース
No.683 2013/11/10(Sun) 17:07:02

 問題の始まりと書かれ、考え込んでしまいました。なぜなら、対人としての性格の違いが大きいからこうなるのであって、こちらが変われば良いということなのかもしれません。

 また、原理原則行動法は、相手に感じたことは一切言わず、原理原則だけを言うとありますが、相手は、相手に感じたことを言っているから、人事の話になってしまうのではないでしょうか。これについては、島野さんはどうお考えでしょうか。やはり、こちらがキチンとしていれば良いことでしょうか。

 しかし、相手の問題というか、相手も変わらなければならない部分があると思えるのに、仕事ができるから良しと思われてしまうのは、微妙と感じました。

 これまでの、自分の未熟な部分からの、捉え方も作用しているとは感じます。

 社会に出るとは、対人問題を避けて通ることは出来ないですし、前進をしていくために考えていかなければならない。

 また、人は妬みなどで人を見る行動をする方もいます。
 
 


 
Re: 問題の始まり / しまの
No.684 2013/11/10(Sun) 17:53:48

どんな課題場面で、まずはどんなことができた、それについてどう言われたといった具体的内容を書いて頂ければ、実際の対処方法についてより具体的アドバイスができるかと思います^^。
具体的なノウハウ積み重ねになってくると思います^^。


 
Re: 対人行動について / レース
No.686 2013/11/12(Tue) 20:12:19


島野さん、回答ありがとうございます。

 どんな課題場面で、まずはどんなことができた、それについてどう言われたといった具体的内容ということなのですね。

 実際の対処方法についてより具体的アドバイスと、
 具体的なノウハウの積み重ねとのこと。

 
 ただ、直接言ってくるのではなく、上司に言っています。

 すべて気になる相手の行動に不満な方なのだと思います。


 
「人ではなく仕事を相手に仕事をする」^^ / しまの
No.689 2013/11/14(Thu) 21:32:15

>どんな課題場面で、まずはどんなことができた、それについてどう言われたといった具体的内容ということなのですね。
>ただ、直接言ってくるのではなく、上司に言っています。すべて気になる相手の行動に不満な方なのだと思います。

具体的内容をお聞きしてどんなアドバイスになるかをごく簡潔に言いますと、一言では
「人ではなく仕事を相手に仕事をする」
とでも言えるものになります。

つまり、まず「どんな課題場面で、まずはどんなことができるか」段階で、「原理原則行動法」中心として、与えられた課題について最大の効果を生み出せる行動法を取る。
それができれば、相手にとっても一緒に仕事をして有益なので、その後の「どう言われる」という問題はもう起きなくなります。

「仕事」というものには、そうした「どう言われる」ということなど全く心配無用になる答えがあるということですね。それが「仕事のスキル」というものでもあります。

で、まずはそれはどういうことかを説明するのに、具体的内容になってくるという次第です^^。


 
仕事について / レース
No.690 2013/11/15(Fri) 20:18:56


 島野さん、具体的な回答をありがとうございました。

 理解することができました。

 この回答の言葉をよく考えて見ます。


生活について / ピヨ
No.671 2013/10/27(Sun) 21:48:44

 晴天の休日、家の掃除と物の整理をして片付きました。
また、自分の予定、読書や買い物等やりたいこともやることも済ませ快適です。
仕事も、順調にこなしています。
 それから、食事のありがたさ・晴天のうれしさ・夜の睡眠のうれしさも感じています。
その後、「何をするために生きているのだろう」と感じました。
 その日のやることを、行い快適であること。
 話は、変わりますが、人口動態や社会問題にも目を向けてみると、人口推移では、60才以上になると、男性が減っていることを見ました。

 生きることは、楽しむことと、自分の弱点の克服ということも分かりますが上記のように、快適であるとそれだけでうれしい気持ちになり、悩みや弱点を忘れるような気分になりました。

 そして感じたことは、快適の上で「健康で生活する」ことが目的にしようと感じました。健康の保持と、加齢からくる老化や自分の弱点からの症状などは受け入れながら、回復や目的と発想を目指すということになるのかと感じました。また、絆を考えながら。

 島野さん、別の見方がありましたらお願いします。
 

 


 
「何のために生きるか」という問いが消える歩み^^ / しまの
No.672 2013/10/30(Wed) 09:36:49

>その後、「何をするために生きているのだろう」と感じました。その日のやることを、行い快適であること。
>生きることは、楽しむことと、自分の弱点の克服ということも分かりますが上記のように、快適であるとそれだけでうれしい気持ちになり、悩みや弱点を忘れるような気分になりました。そして感じたことは、快適の上で「健康で生活する」ことが目的にしようと感じました。

「何をするため、何のために生きるか」という問いに対しては、いろいろな表現ができると思いますが、
まずは「幸福になるために生きる」というのが素朴で素直な話になると思います^^。

ハイブリッド心理学「取り組み実践」としては、昨日アップした『入門』『3.取り組み実践』でも書いていますが、
「感情と行動の分離」の姿勢と実践を携え、自らの「望み」に向き合い、「望み」に向かって全てを尽くして生きる。
というのが、「何のために生きるか」というか、「どう生きるか」という、ハイブリッド心理学からの「生き方」の答えそのものになります。

そこで「幸福」とはか、「望み」とはかという具体的な話になってきて、それはまずやはり「楽しみ」「快適さ」「健康」といったものであるのが、自然な姿として良いものと思いますね^^。「絆」もですね。

ハイブリッド心理学としては、そこからはさらにそうした「幸福」「望み」に向かうための、より具体的な思考法と行動法や価値観への取り組み重視しています。そうした具体的なものにおいて誤った方向に向かうと、なかなか「幸福」に近づけず、「何のために生きる?」という問い嘆きを含んだものになってしまいがちです。

また、そうして「幸福」「望み」に自ら向かう思考法行動法積み重ねを通して、「望み」そのものが、より惑いなく、「結果」をあまり問うことなく「幸福感」増えていくもの変化するよう、「成熟」道のりがあると考えているのがハイブリッド心理学です。
その先に、「自分」というのは大きな「命」のつながりの中の、ほんの断片、ほんの仮りの姿感じるようになるという「永遠の命の感性」に至った時、「何のために生きる?」という問いそのもの消えている、という心の成長歩みがある、と。

この辺の話手短にまとめたものを、『入門』引き続き書いていきますのでご参考にして頂ければ^^。


 
物思い・恋・生活について / ピヨ
No.675 2013/11/03(Sun) 10:30:48

・「幸福になるために生きる」
・「望み」に向かって全てを尽くして生きる。
・「楽しみ」「快適さ」「健康」「絆」。

島野さん、コメントありがとうございました。上記は、素敵な言葉であると感じました。

 ハイブリッツト心理学の考えを進めていくと、一時期体調が悪くなると書かれていたことについて、私は最近身体と頭部もスッキリ快適ですが、頭がボーッとして物思いにふけっているような時があります。これは、関係あるのでしょうか。

 最近知人との話の中で、「恋をする気持ちを忘れたらおしまいだよ」とありました。
たしかに、心から想う方がいる時は、その方に言葉や関心を向けることが自分の望みそのものとなり全力を尽くして生きているといえます。

 しかし、本能である性を満たしたいから・取り残されたくないから・寂しいからなど、自己満足のためという部分というかそういう観点の場合の恋愛の形も考えられるケースがある。

 それから、失恋中とか・子供等を養うために仕事だけの生活で恋どころではない・恋する方がいない・勉強や趣味で時間を使っている・治療中などと生活は、恋をすることだけではないと想います。


 恋も、楽しみ・健康に含まれると思いますが、島野さんの考えからは、恋は望みとなり必要なものと考えるのか、人を愛し絆に結びつく過程と見るのか。それとも、恋だけの一対一の関係ではなく、人類を愛することが幸福と見るのか。

 コメントお聞かせ下さい。


 
「恋」が「愛」に変化する道への目^^ / しまの
No.676 2013/11/04(Mon) 17:19:56

体調悪化を伴う治癒

>ハイブリッツト心理学の考えを進めていくと、一時期体調が悪くなると書かれていたことについて、私は最近身体と頭部もスッキリ快適ですが、頭がボーッとして物思いにふけっているような時があります。これは、関係あるのでしょうか。

『理論編下巻』の
4章 「未知」への大きな前進−1 −「自己操縦心性の崩壊」という根本治癒−

などで説明している、特別な治癒過程についてのかと思います。
一言でいうと、病んだ心の底には、普段は蓋をされた、不安定な感情の塊があり、何かの衝撃的な体験の中でその蓋が取れて、不安定な感情の塊が一度どっと吐き出された後に、すっきりと健康になった心が現われることがあるという話ですね。
心理療法の世界では「カタルシス」と呼ばれているものの一種と言えると思います。その中には、不安定な感情の塊どっと吐き出される時一時的に体調悪化が起きることもありますが、心配はいりませんというですね。

ですので、「頭がボーッとして物思いにふける」といった状態は、まずは全く関係ない話になると思います。まこれは誰でも時にはあることということで^^。


「恋」が「愛」に変化する道への目

「恋」はまずは、
『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20
お答えした話の中での、

「恋愛」同義語という話で良いかと思います。「愛」よりも「欲」比率が高いもの。

>しかし、本能である性を満たしたいから・取り残されたくないから・寂しいからなど、自己満足のためという部分というかそういう観点の場合の恋愛の形も考えられるケースがある。

というように。

一方、「恋」「愛」入り口とも言えますね。まだ「愛」にはなり切れてないとしても、その先本当の「愛」見出されるかも知れない。
「恋」→「愛」→「絆」(つながりが保たれる)
という過程がある、というになると思います。

ということで、僕からの意見としては、人生の大きなテーマとしてあるのは、一番太い「愛」と「絆」ですので、それに向かう途上過程について言うならば、

>最近知人との話の中で、「恋をする気持ちを忘れたらおしまいだよ」とありました。

というのは、まあそうだと言ってもいいかも知れませんね。
でももっと大切なのは、「恋をする気持ち」「本当の愛」へと変えていくもの何か見る目だという言葉を添えたい^^。
でそれは何かと言いますと、ハイブリッド心理学からは、
「愛」外面行動としては「分かり合い認め合う」ことではなく「喜びと楽しみの共有」として向かう
「愛」「欲」まだ混ざっている場合には、「欲」の部分はいずれ自分を豊かにするのではな惑い悩ませ、心を貧しくさせるものになる、というを持っておく。

この2点を踏まえて、あとはもう「恋」という「望み」に向かって全力を尽くすことだ、と。そうして多少悩み苦しむ体験経る中で、「恋」が「愛」に変化していくとはどういうことかが、分かってくる、と。これはもう長い人生の道のりそのものになりますね。

>それから、失恋中とか・子供等を養うために仕事だけの生活で恋どころではない・恋する方がいない・勉強や趣味で時間を使っている・治療中などと生活は、恋をすることだけではないと想います。

これはまあ、仕方ないこともあるとして、もったいないことだという話になるかと。まずは自分「こんな状況では無理」と決めつけないで、心をオープンにしておくことから、というになるかと^^。


「人類愛」

ということで、

>恋も、楽しみ・健康に含まれると思いますが、島野さんの考えからは、恋は望みとなり必要なものと考えるのか、人を愛し絆に結びつく過程と見るのか。それとも、恋だけの一対一の関係ではなく、人類を愛することが幸福と見るのか。

への返答としては、
「恋」「愛」への入り口としては必要。ただし、その入り口に入ったら、いつまでもその入り口を見ているのではなく、その先「愛」目を向けたい。

また一番太い「愛」と「絆」は、あくまで一対一で直接相手にできる者へのものだと思います。
ですので「人類」という全体自分が相手にするものとして本当に「愛」の感情を持つというのは、一般的な人間ではちょっと難しいと思うのですが・・。嘘偽りのない「人類愛」持つ可能性のある人としてまず考えられるのは、たとえばローマ法王とかダライ・ラマといった人物が浮かぶのですが。

ちなみに自分の執筆を、「人間のための仕事」と感じる感覚でやっているのですが、「人類愛」となるとどうも・・という感じですね^^; 自分が「愛」を向ける相手とのしての人類全体なんて、とてもじゃないけど僕のイメージ能力の中には入らない。
島野はあくまで俗人凡人ということで・・^^ゞ


 
生き方について / ピヨ
No.677 2013/11/04(Mon) 20:45:24

 島野さん、回答ありがとうございます。

「恋」という「望み」に向かって全力を尽くすのは、愛を得られる過程となり得るからということ。

 恋の、「欲」の部分はいずれ自分を豊かにするのではなく惑い悩ませ、心を貧しくさせるものになる、という目を持っておき、その先の「愛」に目を向る。
 また、一番太い「愛」と「絆(つながりが保たれる)は、あくまで一対一で直接相手にできる者へのものであり。「喜びと楽しみの共有」として向かう。


「人類愛」とは、表現の仕方に語弊がありました。
島野さんのように、人間の大切なことを教える方の活動のことを言いたかったのでした。「人間のための仕事」とありました。
 話は変わりますが、いろいろな職業がありますが、ほとんどが人間のための仕事と感じますが、島野さんは、「生き方を教える人間の基本の心の仕事」と感じます。

 家族や同僚や友人以外でも、異性の友人・同僚とも、愛・絆を作ることは、良いことと捉えても良いものと感じます。しかし、配偶者がある方は、他の異性とは親しく絆をつくることを不倫とかとらえたり、タブーと見る方もいます。

 また、乳幼児や友人・同僚に対しては、同性・異性に関わらず、必ず恋から始まるものだけではなく、関心や尊敬などから愛・絆となると感じます。

 それから、自己の価値を持つことは基本ですが、家庭や職場の人間同士の違いで体調を崩される方が多いと感じますが、その方の行動を見て感じること(なぜ相手は、否定的な感情の方なのだろう。周りが振りまわされて、逆にこちらが疲れるなど)がこちら側の人間の生き方の学びになります。
 そして、この中での疲労感は、自己こちら側の未熟・弱いな部分であったり、自信が無い時に出やすいこともありえるえとも感じます。

 人の行動や症状は、個別のものであるから、その人間の集団の人間関係の中で、感じる疲労感は自然なこととして受け止めて、そこから学ぶことで、なりたい自分を作っていくことにつながるとも感じています。
 
 島野さんのコメントを聞かせて下さい。
 


 
Re: 生き方について / しまの
No.678 2013/11/06(Wed) 18:10:50

>家族や同僚や友人以外でも、異性の友人・同僚とも、愛・絆を作ることは、良いことと捉えても良いものと感じます。しかし、配偶者がある方は、他の異性とは親しく絆をつくることを不倫とかとらえたり、タブーと見る方もいます。

これも、
『「愛」と「欲」と「絆」』 しまの No.664 2013/10/20
(↑クリックして表示される最後の記事)
で言った、太い絆細い絆になりますね。絆を作ることは良いことですが、本当に太い絆数に限りがあるものになると思います。
配偶者を本当に大切に思うのであれば、他の異性と過度に親密になるのは避けるのが「誠実」だという話になるかと^^。

>また、乳幼児や友人・同僚に対しては、同性・異性に関わらず、必ず恋から始まるものだけではなく、関心や尊敬などから愛・絆となると感じます。

「恋」から始まるのは異性相手愛と絆の場合ですね^^。

>人の行動や症状は、個別のものであるから、その人間の集団の人間関係の中で、感じる疲労感は自然なこととして受け止めて、そこから学ぶことで、なりたい自分を作っていくことにつながるとも感じています。

対人行動社会行動での「学び」になりますね。これはもうハイブリッド心理学「取り組み実践」として、「建設的行動法」など具体的「学び」用意していますので、何か具体的材料などあれば個別新規トピック質問頂くと良いかと思います^^。


 
Re: 生活について / ピヨ
No.679 2013/11/06(Wed) 19:48:15

絆を作ることは良いことですが、本当に太い絆は数に限りがあるとのこと。
配偶者を本当に大切に思うのであれば、親密な異性は避けるということ。

 対人行動や社会行動での「学び」。
具体的材料などあれば個別に新規トピックで質問頂くとのこと。

 分かりました。

 島野さん、コメントありがとうございました。


 
/ ピヨ
No.682 2013/11/10(Sun) 16:47:14


 島野さんの文2010、1、21 命の生涯より、

(全ての人に愛される愛を手にする「心の強さ」を支えに、もう一つの命の望み、「ただ一人の相手と愛し愛される」という「愛への望み」に、向き合うのが良い。
これは人により、これからの実際の外面目標にする場合もあるし、人の心におけるその位置づけについて改めて内面考察をするだけの形になる場合もあるでしょう。)について。

 (1)実際の外面目標にする場合もある。

 (2)人の心におけるその位置づけについて改めて内面考察をするだけの形になる場合    もある。

 上記、(1)・(2)について、もう少し、お聞きしたいと感じます。噛み砕いて、例えば〜などとコメントを望みます。


 
「ただ一人の相手と愛し愛される」という人生テーマ^^ / しまの
No.685 2013/11/12(Tue) 09:50:31

2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
書いたものですね^^。

「ただ一人の相手と愛し愛される」という「愛への望み」について、

(1)実際の外面目標にするケース
これは現在恋人がおり結婚模索している、あるいは今は相手がおらず婚活などで相手探しをする、といったものが当てはまりますね。
またすでに結婚している場合も、夫婦をより深めることに努力する、など。

(2)人の心におけるその位置づけについて改めて内面考察をするだけの形になるケース
受験就職恋愛どころではないという場合も、そもそも何のために進学、そして就職するのか、といった「人生観」への向き合い大切です。一流大学一流企業に行けたとして、どのように幸福になれるのか。ただ仕事に身をすり減らして一生を終えて満足か。
するとそこには必ず本当に愛せる異性を得て家族を作るといった人生の目標テーマが出てくると思います。一流企業は、そのためのほんの一つの手段に過ぎないかも知れない。まあもちろん異性獲得が目的の全てではないとして。
というように、今は恋愛結婚に向かうのではないとして、まずは「内面考察をするというものです^^。

「晩婚活」なんてのも昨今はあるようで、にとっても、人生のテーマになるという話ですね^^。


 
Re: 生活について / ピヨ
No.687 2013/11/12(Tue) 20:48:30


 仕事は、異性と出会うためという選択より、〜になりたいう職業・自分の希望があり選んでいる比重が高いと感じます。

 また、その仕事から得られる経験と能力の向上・誇りなどが得られるとも感じます。
快適な生活の質を高めることにもなります。しかし、過労や人間関係など心身の負担も伴うとも感じます。
 
 家族が仲良く暮らしていない家庭も多い気がします。なんかしらの悩みもあるとも感じます。自ら、一生独身を選択する方もいると思います。そういう生き方もあると思います。

 本当に愛せる異性を得て家族を作るといった人生の目標は、素敵なことです。

 内面考察は、人生観に大切と感じました。


初めて質問させていただきます。 / ミクラス
No.673 2013/10/31(Thu) 12:50:30

こんにちは。ミクラスと申します。
以前にも一度、コメントさせていただきました。

わたしは今までの人生の中で、悩み苦しみが非常に多かったため、その苦しみを軽減するために真理を追求してきました。そして色々な宗教や哲学、自己啓発法などを学びましたが、いまではこの島野先生の心理学こそが終着点であると、信じています。

まだ、入門編の上下巻を読んでいるのみですが、読むスピードもゆっくりで、熟読して内容を十分理解済みとは言えないと思いますが、無礼を承知で質問させて頂きたいと思います。

手短に話しますと、私は今ブログを書いていますが、読者の反応が悪かったり、コメントが来なかったり、こちらのコメントに返信がなかったりすると、がっかりしてしまうことが、度々ありました。

それでも、自分の中で書きたい思いがあるのだから…と、書き続けてきました。また、自分もコメントをもらったら嬉しいのだから、みんなもそうだろうと思い、できる限り他のブログにコメントをしたり、悩んでいそうな人には励ましのメッセージを送ったりしてきました。それは自分の中に、そうしてあげたい。愛したい衝動というか思いがあるからこそ、そうしているのだと思っていました。

しかし今日、それは結局、自分が愛したいのではなく「愛されたい」思いの裏返しに過ぎないということに気づいたのです。ブログのランキングとかを気にするのも結局は自我で(島野先生は違いますよ。ご自分で素晴らしい教えを確立されたのですから、それを多くの人に広めるのは素晴らしいことです)、自己満足の道具に過ぎないと思うようになりました。

そんなこんなで、ブログに対する熱も急激に冷めつつあります。その一方で「不完全性の受容」という観点から見れば、そんな自己の不完全性を認めつつ、自分の本当の願いを求めて行くべきなのかとも思います。ただ、その自分の思いが、結局は自分自身を不幸に追い込んでいくものだとしたら、そうすべきではないと思うし、そのへんの答えが、自分の中で見つからない状態です。

島野先生のご著書をもう少しじっくり読み込んで、腹に落とし込んでいけば自ずと解決する問題かとも思いますが、差し支えなければ良きアドバイスを頂きたいと思います。

よろしくお願いいたします。


ミクラス


 
「応用の学び」と「向き合い」の例として^^ / しまの
No.674 2013/11/01(Fri) 12:08:25

学び方

>まだ、入門編の上下巻を読んでいるのみですが、読むスピードもゆっくりで、熟読して内容を十分理解済みとは言えないと思いますが、無礼を承知で質問させて頂きたいと思います。

これについては、ぜひ先日アップ
『入門 - 3.取り組み実践』
に書いた進め方頭に入れておいて頂ければればと思います^^。

「3ステップ」として書いた、後ろ2つ「応用の学び」「向き合い」というのがとても重要になってきます。その積み重ねが、ハイブリッド心理学への取り組みの歩み前進です。
一方『入門編』などは最初「基本的な学び」教養科目的な部分になりますね。

ですので、『入門編』もまずはざっと読めるところまで読んだら、「応用の学び」どうなるのか重点を移していくのが良いかと。まあそのための材料読みやすく提供するのが、これから着手予定『メール相談事例集』とかなんですけどね。この掲示板で質問頂くのもウエルカムです^^。

そうして「応用の学び」「向き合い」ステップ実践していく中で、また再度『入門編』など時間の折じっくり読んでみて、自分の理解納得度を確認してみる、といった長い取り組みを考えていくのが良いかと^^。


「応用の学び」と「向き合い」の例として

で、書いて頂いた話について言えば、「応用の学び」として重要になってくる題材は、

>今までの人生の中で、悩み苦しみが非常に多かったため

と書いておられる「悩み苦しみ」場面そのもの他ならなくなると思います。もちろん解決済みであればいい話として^^。
それに比べれば、今回の話は比較的「周辺的」な話かも知れませんが、「応用の学び」「向き合い」としてはどんな話になるかのとして、ちょっと書いてみますと、

まず取り組みの指針は、
「外面行動は建設的なもののみ、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」を携え、「望み」に向き合い向かう。
ですね。

外面行動については、ブログを書く、他の人のブログにコメントを書く。それらは建設的な行動として良いと思いますヨ。中傷などを書くのでなければ。
一方内面感情については、コメントがないとガッカリする、人を愛したい気持ちからコメントする、実は自己満足であったことに気づく。それで自然だと思いますヨ。人との関係への行動とは、まあそんなものからだと思います。誰だってそう最初から心が純粋で統一できているわけではない^^; そうした自分の「望み」に含まれる、さまざまな感情の要素を、ありのままに感じ向き合う中で、次第に変化していきます。より嘘のないのへ。
こうした揺れ動きの中で、自分の本当の「望み」を見極める姿勢を持った上で、そうした揺れ動きにもなるであろう体験に、むしろ積極的に向かうことの方がむしろ重要です。

そうして外面行動建設的なものの範囲内で行い、内面感情にも向き合う中で、変化したなら、再びそこから歩み始めればいいわけです。新しい自分として。
「感情と行動の分離」を携え、「望み」に向き合い向かうという、一貫した歩みとしてです。
そこにおいて、

>自分の本当の願いを求めて行くべきなのかとも思います。ただ、その自分の思いが、結局は自分自身を不幸に追い込んでいくものだとしたら、そうすべきではないと思うし、

で言えば、「本当の望み」探求し続ける「べき」でしょうし、自分を不幸に追い込むのは、むしろそれ、つまり「望み」の探求やめてしまうことです。
そうして「本当の望み」探求した結果ブログを続けるのかそれともやめるのかのどっちに転ぶかには、「べき」などありません。心が変化する中で、今本当にやりたいと思うことであればやればいいし、嫌気が勝るのなら放っておいても問題は何もないと思います^^。
どうするのが正しかというよりも、こうした体験を通して自分が成長するとはどういうことかをつかむのが重要になってくるということですね。

まずはこんなところアドバイスになりましたかどうか^^。
多少追加の着目点など書いておきますと、
>その自分の思いが、結局は自分自身を不幸に追い込んでいくものだとしたら、そうすべきではないと思うし
とは、自分の何をどう律しようとしたのか、その「律し方」に誤りがあるかも知れないというのは、もう少し詳しく検討する価値があるかもしれませんね^^。


自己の重心 / りょうたろう
No.668 2013/10/25(Fri) 22:29:30

こんにちは。前回はアドバイスありがとうございました。

今回、新たな躓きと気づきがあったので質問させていただきます。
まず外面についてです。前回の投稿をしてからは、大学で民法や経営の講義を受ける中で、社会の中に生きる存在としての自分を感じるようになりました。自分は権利を持った存在であること、様々な契約の束の中にいること。そういった世の中の仕組みについてよく知り、権利や契約を使ってしっかり身を守りながら生き抜いていく。そのように考えると何だか社会を無人島に見立てたサバイバルのようで、少し楽しさを感じます。私がやっている皿洗いのアルバイトでは、お客様に料理とサービスを提供することを全員で目指しているのであり、そのうち一部を自分は受け持っているのだと考えるようになりました。同じ職場の人達は共通の目標を持ちそれぞれの役割をもった人たちだと思うと、今まで仕事中に感じていたストレスのうち多くが軽減しているのを感じます。

外面はこのような感じなのですが、内面については大きな躓きを感じています。前回のアドバイスの通り「ちやほやされる」という空想を思い切り解放してみようとしてみたのですが、なんというか奥行きのない絵画のように、なんのイメージも掴めないのです。普段はこの空想が頭の中を占領しているといってもいいくらいなのに。
そこで思ったことは、ちやほやされることを私が望んでいるというより、そもそも他人の目の中でしか自分というものをイメージできないのではないか、ということです。

別の機会にじっくりと自分の子供時代を思い返してみたのですが、どうも記憶の続く限り遡ってみても自分はすでに自らを監視し制御しようとする心の動きを持っていたようです。親に気に入られようとして異なる自分を演じようとする子供の姿は別段珍しくもないのかもしれません。しかし、当時の私自身は何か、何かが他人と違うと感じていました。自分という存在がいて、念じれば手足が動くし考えることもできることを不思議に思っていましたし(この感覚についてはうまく表現する言葉が思いつきません)、叱られた時の自分の傷つきやすさはちょっと異常だという意識さえありました。親などに叱られた時は、言い訳も謝罪も言うことができず硬直していて、「とてつもなく恐ろしいことが起きてしまった」という思いが頭の中をぐるぐる回っていました。叱られることに対する異常な恐怖は今でも変わらず続いていて、激しく糾弾されている人をみると「自分がもしあれほどの怒りを向けられたら、死んでしまうのではないか」とさえ思います。それから今思い出したもう一つのエピソードは、私の財布か何かを買いに行った時の話です。「好きなのを選んどいてね」と言って母親は別の売り場へ行ってしまったのですが、一人になるとどれを選んだらいいか分からず戻ってきた母親を呆れさせました。そう言えば「呆れられる」ことも大きな恐怖の対象ですね。

とにかく、自分に対して演技をしているような違和感は、もはやいつから始まったのか分からないほど慣れ親しんでいます。そこから、周りの人たちは「当たり前に生きている」のに自分はそうではない、という拭い難い感覚が生まれたように思います。

これはハイブリッド心理学でいうところの「自己の重心」の話だろうと思います。今現在悩んでいるのは、何か精神的に動揺することがあると「自己操縦モード」に切り替わり、何時間でもネットサーフィンをしたり空想にふけったりしてしまいます。そうしたいという積極的な気持ちはなく、何かから逃げるような不安感だけがあります。そして「自分を持てない」ことが時として死にたくなるほどの惨めさという形でのしかかってきます。

自己の重心を失った今の状態を受け入れて、現実の問題の解決へ向かうということしか私には思いつきませんが、どう思われますでしょうか。


 
Re: 自己の重心 / りょうたろう
No.669 2013/10/27(Sun) 16:41:36

この投稿をしてから、しばらく頭の中の雑音が消え去って現実感が戻ったような状態になりました。その時の私は、ギュッと身を固くして、何かに怯えるような心境でした。現実のすべてが自分を押しつぶそうとしているように感じられ、いつしか私が空想の中で生きるようになったことも無理もないと思えるほどでした。

同時に、ハイブリッド心理学に出会ってから、現実に向かって生きていこうと「決意」したことも嘘っぱちだったと思いました。現実を改善するくらいなら空想の部屋に逃げ込んでしまった方が楽だ。それが私の一貫した姿勢であったと思います。実際には全く楽などではなく、常に現実がドアを叩いてくるのに怯えなければなりません。時折それに対して「もう耐えられない」となるのですが、それでもやはり抜け出ることができませんでした。

自分は何かから逃げ続けるために生まれてきたのだろうか、そんなはずはない、と考えずにはいられません。しかも自分の意志で逃げているというより、足が勝手に動いていて私はそれを見ていることしかできないような感じです。

読み返してみると、誰が書いたのかと思うような病んだ文章が出来上がっていたので少し驚きました。白状すれば、私はこの掲示板で「物わかりのいい生徒」を演じようとしていましたし、今回は苦しみを見せつけて同情を引こうという気持ちがあります。しかし島野さんなら、私がいくら喚いてもブレない存在でいてくれるだろうという予感もあります。
正直なところ今ここに書いたことすら真実なのか分かりません。頼むから何か確かなものをくれ、と叫びたい気分です。

今の私に何かアドバイスはあるでしょうか。


 
「自己不全感覚」は「取り組むことなく消える道」へ^^ / しまの
No.670 2013/10/27(Sun) 18:27:45

社会生活の前進^^

>そういった世の中の仕組みについてよく知り、権利や契約を使ってしっかり身を守りながら生き抜いていく。そのように考えると何だか社会を無人島に見立てたサバイバルのようで、少し楽しさを感じます。

まさにそれ
「人生観」の学び
で言った「大自然を生きる一匹型人生観」ですね^^。前回投稿頂いた『大人になりたくなかった?』とかの感覚からは大きく前進かと^^。

>私がやっている皿洗いのアルバイトでは、お客様に料理とサービスを提供することを全員で目指しているのであり、そのうち一部を自分は受け持っているのだと考えるようになりました。同じ職場の人達は共通の目標を持ちそれぞれの役割をもった人たちだと思うと、今まで仕事中に感じていたストレスのうち多くが軽減しているのを感じます。

ちょーGoodな前進ですね^^。まさにその方向の先に、「仕事の普遍的スキル」(*)などもありますので、大学の授業などもいい情報源として、「権利」「契約」など「原理原則」さらに実践的な面への視野広げていくと良いと思います^^。

(*)最近よく参考にあげていますが以下など参照^^
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20
のトピック
の中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586
2013/07/23



「望みの開放」

>前回のアドバイスの通り「ちやほやされる」という空想を思い切り解放してみようとしてみたのですが、なんというか奥行きのない絵画のように、なんのイメージも掴めないのです。普段はこの空想が頭の中を占領しているといってもいいくらいなのに。

については、「望みの開放」は、「あれば、ありのままに、なるべく思いっきり、開放する」取り組み実践です。「あれば」そうする「なければ」それだけの話^^;
普段は頭が占領されるとのことですので、そうしたに、「なるほど自分の望みはこんな絵か」と、「記録」するように自覚確認するのがいいですね。それが引き続きの向き合い良い材料になると思います。


「自己不全感覚」は「取り組むことなく消える道」に取り組む

>今現在悩んでいるのは、何か精神的に動揺することがあると「自己操縦モード」に切り替わり、何時間でもネットサーフィンをしたり空想にふけったりしてしまいます。そうしたいという積極的な気持ちはなく、何かから逃げるような不安感だけがあります。そして「自分を持てない」ことが時として死にたくなるほどの惨めさという形でのしかかってきます。自己の重心を失った今の状態を受け入れて、現実の問題の解決へ向かうということしか私には思いつきませんが、どう思われますでしょうか。

残りのこうした話「自己不全感覚」とか呼べる問題と思いますが、ハイブリッド心理学から言えるのは、それを直接どうこうして治すような「治療法」はない、ということです。
「自分を持てない」ことをどうするかではなく、「これが自分だ」と思える確かなものを持つようにしていくことです。それを一つ一つ積み重ねていくことです。その先に、「こんな自分を持てない自分は・・」といった「自己不全感覚」は、やがて波間に消えるように、自ず克服されていきます。
たとえば、

>叱られることに対する異常な恐怖は今でも変わらず続いていて、激しく糾弾されている人をみると「自分がもしあれほどの怒りを向けられたら、死んでしまうのではないか」とさえ思います。
>そう言えば「呆れられる」ことも大きな恐怖の対象ですね。

というであれば、「怖れの克服」という課題地道向かう。まず言えるのは、本当に死んでしまうのは甚大な物理身体的危害がある場合です。そうした「現実」を見る目と、自分の思考感情不合理向き合う。もちろん問題対処の行動法習得することの上でです。
そうした、具体的材料ベース「これが自分の考え」という確かで信頼できるもの積み重ねに、「自分を持てない自分」も、いなくなっていることに気づく、という道のりになると思います。

ですのであとは、そうしたさまざまな「自己不全感覚」あまり深刻に取りあげないことですね。「これをどうにかしなければ」という意識集中によって、さらにヘンに(^^;)なってしまう。今すぐにはどうこうしようもない見据え上述のような取り組み向かうことです。

>私はこの掲示板で「物わかりのいい生徒」を演じようとしていましたし、今回は苦しみを見せつけて同情を引こうという気持ちがあります。しかし島野さんなら、私がいくら喚いてもブレない存在でいてくれるだろうという予感もあります。

この点については、ハイブリッド心理学は基本的に自己取り組み心理学であり、その上で役に立つことだけ僕からはコメントしますのでご安心ご了承(?^^;)あれ^^。


質問です。 / ピヨ
No.649 2013/10/09(Wed) 21:00:53

記事の中に、「合わない方とは、距離を置く」とありますが、職場でも同様ということですか。


島野さんは、毎日がゆったりしていると感じますか。それとも、早いのでしょうか。
私は、早いです。

 怒りで生きている方の場合、怒りをもったまま亡くなる方の場合、島野さんからはどのような意見があるのでしょうか。

 よろしくお願いします。


 
Re: 涙について / ピヨ
No.653 2013/10/10(Thu) 21:20:37

 泣くということは、感動した時と逢いたいと深く感じた時かと感じます。

 満たされない子供心が、親に逢いたいと苦しみもがく時の心境かと感じました。
人を心の芯から思う心。

 大人であれば、やはり満たされない心があった時にシクシク泣きの感情に浸るということかと感じます。

 感情の発散という考え方よりは、人を想う気持ちの時と感じますが。

 島野さんの考えをお聞かせください。


 
「交友」と「仕事」で切り替える^^ / しまの
No.655 2013/10/12(Sat) 11:59:47


『小学生時の怒りについて』 ピヨさん No.628 2013/09/25のトピック
の中でお答えしていない質問について^^。

>記事の中に、「合わない方とは、距離を置く」とありますが、職場でも同様ということですか。

「交友」「仕事」全く話が異なり、「合わない相手とは距離を置けばいい」と言えるのは「交友」場面ですね。ま無理をする必要はないという話。多少改善が見込めるのであれば、多少無理をして近づく試みをするも良し。まずは「自分は何を望むか」への向き合い重要になる場面です。

一方「仕事」は、そもそも「合う相手」「合わない相手」という違いをなくすことが重要課題になります。なぜなら「仕事」個人と個人の交友の場ではなく、「社会」に対して「価値を生み出す」という「役割」を遂行する場だからです。人を相手にするのではなく、「役割」などの「原理原則」を相手にします。もし相手無理難題や難癖をつける人間であれば、それに対してうまく対処するための「原理原則」が出てきます。つまりどんな相手にもうまく行動できる答えがあるということです。それを学ぶことが重要です。
それができるようになると職場での人間関係も、まずは安定したものになります。
そこからさらに休憩時間や仕事の後のつき合いをどうするかは、「交友」問題であり、上述の通り。相手同じ人間であっても、「交友」「仕事」向かう姿勢や気持ちをしっかりと切り分けることが大切です。

そうした、人を相手にするのではなく、「役割」などの「原理原則」を相手にする行動法については、まずは
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピック
の中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23
など読んで頂くと良いかと。とりあえずこのトピック全体を読んで頂くと、そうした「切り分け」意識の流れが分かると思います^^。

>泣くということは、感動した時と逢いたいと深く感じた時かと感じます。満たされない子供心が、親に逢いたいと苦しみもがく時の心境かと感じました。人を心の芯から思う心。大人であれば、やはり満たされない心があった時にシクシク泣きの感情に浸るということかと感じます。感情の発散という考え方よりは、人を想う気持ちの時と感じますが。

泣くということ、そして「悲しみ」というのは、結局のところ「失った愛に向き合う」という心の営みだ、と考えますね。それに向き合うことで、逆に「取り戻す」ことにもつながることもあるものとしてです。
「怒り」「悲しみ」一見近いマイナス感情に見えるかも知れませんが、「怒り」心の豊かさにつながらない感情であり、「悲しみ」心の豊かさにつながる感情として、ハイブリッド心理学では位置づけています(『入門編上巻』P.20など^^)。


 
Re: 質問です。 / ピヨ
No.656 2013/10/12(Sat) 18:46:11

島野さん、ありがとうございました。職場の人間関係について、考えさせられました。また、ヒントが得られました。

 泣くと言うことは、悲しみであり「失った愛に向き合う」という心の営みというのは、
幼少時に愛を失っていたものが、根っこにあるから、辛い時にシクシクと泣きの感情がでるということと理解しました。

 また、現在親身に考えてくださる友人などのありがたさを受けて、辛い時に思い出して、うれしくて涙が出ることがあります。

 日常怒りを出している方や、自分自身に向き合うことなく生活している方を見ると、
私は、自分について向き合って過ごしている・考えている時間が多いことと、比べて考えると生き方の違い以外の、これまでの心の使い方を振り返り、これからの自分を考えているのだと思います。それゆえ、休日は友人と楽しくショッピングなどや買い物をすることより、心理学などを学ぶ自己学習の時間を優先になっています。

 自分の心について、向き合って生きている生活は、私は有意義です。
島野さんのご意見だったらどうでしょうか。

 怒りP20から、呼んでみた中で、思い出しました。
幼少時に、家族で自動車で旅行した時、車酔いで吐いていた時、吐くこと自体嫌なことであるし、泣いていました。それを見た、身内の人ですが、「いつまで泣いているんだ」と怒鳴られたことが今も覚えています。
 人は、イライラしてしまったとき、怒ることがあるのは分かっていますが、その時は、やさしく言って欲しかったと感じました。私自身も、言い返すようなタイプではなかったので成長につながらなかったのだと感じています。

 この件について、島野さんのご意見をお聞きしたいと感じています。

 

 


 
外面行動と内面向き合い^^ / しまの
No.658 2013/10/15(Tue) 22:38:50

>また、現在親身に考えてくださる友人などのありがたさを受けて、辛い時に思い出して、うれしくて涙が出ることがあります。

これも、「見失われていた愛」に向き合い、心に取り戻すということですね^^。

>それゆえ、休日は友人と楽しくショッピングなどや買い物をすることより、心理学などを学ぶ自己学習の時間を優先になっています。自分の心について、向き合って生きている生活は、私は有意義です。島野さんのご意見だったらどうでしょうか。

外面に向かって行動することも、内面に向き合うことも、まずは両方とも有意義だと考えて良いと思います。
まあ我々はとかく外面において流されやすい存在で、単に惰性で続けるような、有意義さが減っている外面行動にとらわれがちなので、そうした時しっかりと内面に向き合い、自分にとって本当に大切なもの、価値があるもの何か問う。そうして大切なもの見えてきたら、積極的にそれに向かって行動する。
この、内面向き合い外面行動の、交互の繰り返しになるというのが僕自身向き合いイメージです^^。

>人は、イライラしてしまったとき、怒ることがあるのは分かっていますが、その時は、やさしく言って欲しかったと感じました。私自身も、言い返すようなタイプではなかったので成長につながらなかったのだと感じています。

「やさしく言って欲しかった」と、自分が感じる気持ち明瞭にしたことは、これから自分怒りを使わない行動をできる成長へと向かうための、第一歩になると思います^^。
「怒りを使わない行動法」とはどういうものかの、これからの具体的な学びこそが大切になってくると思います^^。


 
Re: 質問です。 / ピヨ
No.659 2013/10/16(Wed) 20:03:46

島野さん
 
 回答、ありがとうございます。

 「やさしく言って欲しかった」という気持ちは、言われたときの不快が大きかった
ことと、これまでずっと心のトラウマになっていたことですので、以前から自分が感じる気持ちは、明確ではありました。

 おばあちゃん子であったため、離れて暮らすようになってからも、夜に祖母を思い出した時は、「祖母に会いたいよ」と号泣することがありました。現在は、そのような気持ちで泣くことは無くなっています。

 大好きな祖母に会いたいと思う強い気持ちは、「見失われていた愛」とはニュアンスが異なると感じます。
 もしくは、愛のありがたさを思い出しているということになるのかなと感じました。

 入門編(下)P194
 「この人とはいつまでも一緒にいたい、という感情を感じる。はっきりとした理由を問うことなく、ただその人が自分にとって大切な存在であると感じ、その気持ちにおいていつまでも絆が守られる。」について

 これは、異性・同性に関係なく、そう感じるということでしょうか。
 自分のことを親身に話をきいて下さる方などの中で、なんとなくそう感じる方もいる場合、絆と言えるのでしょうか。
 また、そう思える方の場合、例えば前世から知り合いだったなどは関係ありますか。

  


 
Re: 質問です。 / ピヨ
No.660 2013/10/16(Wed) 20:08:00

 続き

 その親身になって下さる方は、自分に特別にそうしてくれていると言うよりは、
その方がそういう関わりが上手であったり、社交性やコミュニケーション力が高いのかとも思われました。

 それから、一対一でのコミュニケーション力があっても、大勢の前では上手に話すことができない方もいるとは思いました。


 
「真の絆」^^ / しまの
No.661 2013/10/18(Fri) 09:52:46

>大好きな祖母に会いたいと思う強い気持ちは、「見失われていた愛」とはニュアンスが異なると感じます。もしくは、愛のありがたさを思い出しているということになるのかなと感じました。

そうですね。そうした表現合うと思います^^。

>入門編(下)P194 「この人とはいつまでも一緒にいたい、という感情を感じる。はっきりとした理由を問うことなく、ただその人が自分にとって大切な存在であると感じ、その気持ちにおいていつまでも絆が守られる。」について これは、異性・同性に関係なく、そう感じるということでしょうか。自分のことを親身に話をきいて下さる方などの中で、なんとなくそう感じる方もいる場合、絆と言えるのでしょうか。

「真の絆」になりますね。
その通り、同性異性に関わりなく言える話です。
「真の絆」とは、
1)相手がどう自分を感じるかよりも、自分からいかに相手を大切な存在と感じるか
2)生涯を通して、つながりを保つことができるという現実行動

2つポイントになるものと僕は考えています。

ですので、「親身な人になんとなくそう感じる」程度だと「絆」にはちょっと不足するかも知れませんね。

>また、そう思える方の場合、例えば前世から知り合いだったなどは関係ありますか。

「前世」のことは僕は専門外で、何も分からないです^^; ご了承あれ^^。

>それから、一対一でのコミュニケーション力があっても、大勢の前では上手に話すことができない方もいるとは思いました。

「自分からいかに相手を大切な存在と感じるか」ポイントですので、これも「絆」にとってあまり関わりのない話ですね^^。


 
絆について / ピヨ
No.662 2013/10/18(Fri) 22:13:32

 島野さん 回答ありがとうございました。

 絆の話の説明が、p194だったのですね。

 恋愛中の相手を思う心は、絆の2つのポイントと同じ内容と言えますが、恋愛は、絆というより「愛」が妥当かなと感じています。

 絆は、親子・家族など以外でも、2つのポイントを感じる方と出会い、絆と言えると感じました。

 絆は、人により、何人もいる方もいると考えられます。それから、寮より質というように、大切な方がいることは、一人だけでも心の満足感は持つことができますが、心の成長によっては、何人か増えていくことも考えられ、より生きる喜びが増えるように感じました。

 島野さん、恋愛中は絆より愛の比率が高いでしょうか。
また、絆の人数についても聞かせて下さい。


 
昨日の追加 / ピヨ
No.663 2013/10/19(Sat) 18:02:28

 〜依存症という疾患名がいろいろ耳にする言葉があり、
その中で人間に対しては、共依存や人間関係、(家族・上司など・・)に依存するものがあると言われています。

 上記の2つのポイントは、健全のものと考えられますが、
疾患となる依存でも、自分のことよりも相手のことを尽くしてしまうなど、不安からくる過度の相手へなどと心配してというポイントが異なりますが、真の絆の考え方と一部重なる部分があると思います。

 島野さんの言葉で、何か違いを一言で表すとどう言う捉え方が考えられますでしょうか。

 


 
「愛」と「欲」と「絆」 / しまの
No.664 2013/10/20(Sun) 12:03:07

まず言葉定義としては、

「愛」・・・相手を大切に思う気持ち
「絆」・・・「愛」によってつながりが保たれる様子

とするのが良いと僕としては考えています。
「愛」それぞれの人内面の気持ちの話。「絆」は、内面「愛」という気持ちがあった上で、外面現実において実るもの、という話。
まずは言葉使い方としてですね。

一方人と人のつながり生み出すのは「愛」だけでなく、相手を大切に思うのではなく、とにかく自分が大切で、相手を自分の「欲」のための利用するものとしてつながるものもあります。これは「絆」とはあまり呼べないと感じます。外からは一見そのように見えてもです。

まず言葉定義をそうするならば、

>恋愛中の相手を思う心は、絆の2つのポイントと同じ内容と言えますが、恋愛は、絆というより「愛」が妥当かなと感じています。
>恋愛中は絆より愛の比率が高いでしょうか。

については、「恋愛」「愛」よりも「欲」の比率が高いと感じますね^^。

>また、絆の人数についても聞かせて下さい。

「絆」には太いものと、細いものがあると思います。
一番太いものは、親子関係と、生涯を共に生きる相手だと思います。つまりまず「通常」というか単純に数えてみると、まずは親2人、生涯のパートナー、子供と、せいぜい片手で数えられる前後のものですね。
いつまでも年賀状を送り合うような相手も、「絆」一つではあると思います。これは細い「絆」で、数的にはもう人それぞれですね^^。
ただfacebookで友達3ケタなんてのは、もう「絆」とは言えないものもかなり出てくると思います。

>疾患となる依存でも、自分のことよりも相手のことを尽くしてしまうなど、不安からくる過度の相手へなどと心配してというポイントが異なりますが、真の絆の考え方と一部重なる部分があると思います。

「依存」はどっちかち言うと「愛」よりも「欲」によるつながりと言えるかも知れませんね。相手に尽くすというのも、相手を自分のものにしたいからというのであれば、「欲」の話になってくる。

もちろん、相手を大切に感じるから相手を自分のものにしたくなるというように、「愛」「欲」重なってしまうのも、心が若く未熟であるほど起きてくることだと思います。
それについては、内面の気持ち「愛」「欲」見わけるというに、つながりの行動を「喜び」と「楽しみ」の共有においてのみ行うという外面の行動法重視しているのがハイブリッド心理学です。そうした外面の行動法があった上で、内面自己分析時に役立てることで、「絆」になり得ない「欲」自ずと淘汰されていきますので^^。


 
絆の考え方ついて / ピヨ
No.665 2013/10/20(Sun) 13:52:18



・「愛」・・相手を大切に思う気持ち。
・「絆」・・・「愛」によってつながりが保たれる様子。
・「恋愛」は「愛」よりも「欲」の比率が高い。
 ・「絆」には太いものと、細いものがあると思います。

 ・絆、親2人、生涯のパートナー、子供と、せいぜい片手で数えられる前後のもの。

              
 ・「依存」は「愛」よりも「欲」によるつながりと言えるかも知れませんね。相手に尽  くすというのも、相手を自分のものにしたいからというのであれば、「欲」の話にな  ってくる。

 ・内面の気持ちを「愛」と「欲」で見わけるという前に、つながりの行動を「喜び」と 「楽しみ」の共有においてのみ行うという外面の行動法を重視しているのがハイブリッ ド心理学です。 
 そうした外面の行動法があった上で、内面の自己分析も時に役立てるこ とで、「絆」 になり得ない「欲」は自ずと淘汰されていきます。
 など。


 島野さん、上記、詳しい回答をありがとうございます。少し、難しくゆっくり考えてい こうと感じました。


 @親であっても、関係が良くない場合は、絆が強いとは、言えないこともあると感じま す。

 Aまた、夫婦関係でも諸事情で、尊敬する方など、別の方に絆を感じることなどにより、絆が細いと言える形もあると思われますし、人によっては、いろいろな形の絆があると感じます。それゆえ、夫婦が強い絆と言えないケースもあると思われます。

 @・Aについて、一番太い絆とは言えないと思われますがいかがでしょうか。

 


 
re:絆の考え方ついて / しまの
No.666 2013/10/20(Sun) 17:41:44

>@・Aについて、一番太い絆とは言えないと思われますがいかがでしょうか。

これはその通りですね^^。親子夫婦であっても関係が良くなければ、それはあまり太い絆ではなくなってしまいますね。

一方、親子生涯のパートナー同じように太い絆は、他の関係たとえば友達関係では築けない、というのが僕の考えというか人生経験から感じていることです。
よく言われることですが、「家族の絆」他では代えられない、という話ですね。自分が生まれた家族がどうだったかというより、自分から作る家族というのが、やはり人生の大きなテーマになると思います^^。


 
絆の回答から / ピヨ
No.667 2013/10/20(Sun) 22:37:56

 自分から作る家族や、自分の生き方が人生の大きなテーマと、そのとおりですね。

現代は、多様な生き方が可能であり、家族を持たないこともあると思います。

 家族だけではなく、広く社会での自分のあり方を追求すること。


 島野さん、学びのご対応ありがとうございました。


 また、何か気がついたこと、疑問がある時は、発言いたします。


もう繰り返したくない / chie
No.645 2013/10/07(Mon) 02:12:38

島野さま

はじめまして。自分の心を知りたくてネットをうろうろしていたらこちらに辿り着きました。

過去原稿にある「プライド防衛・怒りと憎悪のメカニズム」に書かれたことを正にその通りに辿ってきました。もう二度と繰り返したくありません。もしまた同様なことが起こったら、本当に自分が壊れてしまう恐怖を感じています。

島野さまのサイトをあちこち読んだのですが、何から初めればよいのかわかりません。
アドバイスをいただけないでしょうか。


以下に、私の心に何が起きたか、島野さまの文章を引用させていただきながら、もう少しお話しします。

ある人の言動がきっかけで、私は悲しみで一杯になりました。でもその裏には恐らく「屈辱感と怒りとフラストレーション感」が溢れていたと思います。冷静に考えれば、その人に落ち度があったわけではなく、私の思い通りにならなかったことでプライドが傷つけられただけだったのです。
そして次に私が取った行動は「苦しみの見せつけ」です。

実は似たような行動は、何年も前のことですが、別の人に対しても取ったことがあります。その時は、ここまでで済みました。理性で気持ちを抑えることができたのです。

でも今回は自分を止められませんでした。「苦しみの見せつけ」が相手に通じないと分かったとき、怒りと憎悪が表層に出てきて瞬く間に巨大化して「怒りの決壊」を起こしました。 幸いなことに、言葉による暴力で終わりましたが、危なかったです。

相手は何も悪いことをしていないのに“謝罪”してきて、それに対して私の中では“勝った”という意識が生まれ(自分が愚かなこともその時点で分かっていました)、怒りが氷解するように感じ、自分を収めることができました。ほんの10日ほど前のことです。


まだその時の悪感情は生々しく、忘れようと思っても当時のやりとりを一言一句なぞるように思い出す毎日です。こんな日々が続いたら本来の(表向きの?)私が壊れてしまいそうです。

何を、どこから、始めればよいのでしょうか。
宜しくお願いします。


 
「心の成長」にどう取り組み始めるか^^ / しまの
No.651 2013/10/10(Thu) 13:39:39

>何を、どこから、始めればよいのでしょうか。

これは先にアドバイスを入れた
『初めまして、悩んでおります』 みゅみゅさん No.641 2013/10/04のトピック
でのアドバイス大体同じで、

自分の「心の成長」というものにどう向かうか、という全体の話になると思います。決して「とにかくこれだけ心がければ、こうした行動だけやればいいですよ」といった付け焼刃アドバイスではどうなるものでもなく。

なぜそのような感情悪化状態に陥るのかと言えば、結局のところ、その相手に対する姿勢というよりも、その相手以外の、生活と人生に対する向かい方の不足の全てが、その相手との関係におけるそうした感情悪化として結実(悪い意味で)するということだと思います。
まず言って、それは自分から幸福に向かうという姿勢と、そのための具体的な思考法と行動法のノウハウの不足、ということになると思います。
自分から幸福に向かう姿勢と、そのための行動の能力身につけた時、そうした感情悪化の詳しい心理メカニズム分析などもうする必要もなく、そこから抜け出る道を、心が見出すと思います。

そうした「心の成長」向かうための姿勢や思考法行動法をまとめたのがハイブリッド心理学「取り組み実践」なのですが、その膨大な内容をようやっと整理して『取り組み実践詳説』としてまとめた段階で、これをさらに手短に読んで頂けるものかみ砕いていくのがこれからといことで、ちょっとどこから読んでいいかとご不便をかけている状況ですが、ごく概略としては、

1)基本的意識姿勢や「愛」と「自尊心」といった重要テーマの考え方とそのための思考法行動法などの「学び」
   ↓
2)具体的問題場面における「心の健康と成長に向かい得る行動法」としての、ハイブリッド心理学からの「行動法の選択肢の答え」の理解
   ↓
3)2)で示されるものと自分の内面とのギャップへの向き合い


という、およそ3つのステップになるものです。

そこで
1)長期的で継続的な読書によって心の懐を肥やしていくものである一方、
2)についてはかなり即座に、ハイブリッド心理学からの答えはこうだというのが出てきますので、これを手早く知るようにするのが近道になります。これについては適宜この掲示板を利用頂くなり、今後『メール相談事例集』を掲載予定^^。

書いて頂いたような状況であれば、「心の健康と成長に向かい得る行動法」の選択肢として出てくるのは、まずは単純な話で、
「そうした動揺行動からは、まず身を離すことを覚えよ」といったものになると思います。
まあ問題は、それをどのような1)「学び」理解、そして3)内面ギャップへの向き合いとして、向き合っていけるかになりますね。

生涯を通してのその取り組みを、するかどうかです。
整備途上でご不便かと思いますが、『本』として掲載している内容にどんなものがあるかなどざっと眺め、興味持てる話からでもいいと思いますので、始められると良いかと^^。


 
返信ありがとうございました。 / chie
No.657 2013/10/12(Sat) 20:10:17

繰り返し読ませていただきました。
特に「感情を鵜呑みにして考えない」「外面行動は建設的なもののみ」「感情と行動を分離する」といった言葉にはっとさせられました。

こうしたことを分かっていたら、あるいは意識していたら、私は大切なものを失わずに済んだかもしれません。でも、大切なものを失ったからこそ、ここに辿り着きこれらの言葉に触れることが出来たとも言えます。

お返事をいただいた日は奇しくも私の誕生日で、助言をプレゼントとしていただいた気持ちになりました。地道に勉強して実践していきます。
まだ悲しさ、寂しさ、怒り、悔しさ、喪失感、そうした感情が手放せずにいますが、同時に前を見ていきたいと思います。

何か分からないことや壁にぶつかったらまた教えてください。宜しくお願いいたします。
ありがとうございました。


前トピックへの質問とお礼です / にーな
No.646 2013/10/07(Mon) 14:43:10

島野さん、こんにちは。
長くなりましたので新規トピックを立てます。

私の希死念慮は、「望み」にも沿う「こうならねば」が膨張する流れとして起きていたのだと理解できました。一見、的はずれのことをやっていたように見えますが、私の20年間は自分を高めようとする行為でした。無意識でしたが、彼と釣り合う人間になろうと努力していたんですね、現実を無視したままに。

「受け止められる側の心」「受け止める側の心」について明確にイメージすることができませんでした。「受け止める側の心」については、” 培い築くのにざっと2〜3年 ” ということは、行動法と生き方の学びから育つ心という理解でよろしいでしょうか?「受け止められる側の心」については、「受け止める側の心」の変化によって浄化される魂からの感情という理解でよろしいでしょうか?

>「命」にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。
頭ではすごくよくわかります。他人にだったらそうアドバイスできるでしょう。でも、今の自分には ”この世に生まれてきた意味を失った” と感じます。 幼いのかもしれませんが、正直な気持ちです。 諦め切れないんだと思います。現実にあざ笑われているような気がします。「人間は一人で生まれ、一人で死んでいく」、事実だと思うし、好きな人と一緒にいたって本当にそうなんだから、一緒じゃなくてもいいんだと思えます。でも、そう思った時に心に力みと悲しみが流れます。これまでは、その力みと悲しみにすら気付かず、仕事の功績に喜びを感じていたような自分でしたが、今はそうはいきません。
踏ん張りどころなのかもしれませんね、安易に穴埋めの愛に走らないためにも。

どうもありがとうございました。^^


 
「向き合い」への道^^ / しまの
No.654 2013/10/11(Fri) 12:01:56

>諦め切れないんだと思います。現実にあざ笑われているような気がします。「人間は一人で生まれ、一人で死んでいく」、事実だと思うし、好きな人と一緒にいたって本当にそうなんだから、一緒じゃなくてもいいんだと思えます。でも、そう思った時に心に力みと悲しみが流れます。

「諦められればいいという話ではない」今回のアドバイスですね^^。
>>「命にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。
というのは、諦められるようになるという話ではなく。

書いて頂いたのは、

諦めたい心 ←→ 諦められない心
という葛藤があるように察せられますが、取り組みの方向性とは、

受けとめられる心 ←→ 受けとめる心
という「向き合い」にあるというになり、

>「受け止める側の心」については、” 培い築くのにざっと2〜3年 ” ということは、行動法と生き方の学びから育つ心という理解でよろしいでしょうか?

というご質問で言えば、今回の話でのテーマとしては「行動法と生き方の学びから育つ心」という表現だとまだ範囲が広すぎ今回のテーマに対するかなり限定された方向性が、こうなると思います。

彼しか愛せない心 【受けとめられる心】
   ↑
   ↓
彼以外の人も愛せる心 【受けとめる心】


そこで「彼以外の人も愛せる心」どう培うかに、「ざっと2、3年」という話です。それで完了というより、何かをつかみ始めるのを感じるまでに、ということになると思います。その先「向き合い」は、もう生涯ものだと思います。
で、「彼以外の人も愛せる心」どう培うかは、もはや彼への感情への向き合いではなく、むしろ彼以外の人にどんな目線を向けて生きているかという話、そして彼との関係以外の、日常生活と人生への向かい方全てに、取り組むことによってになると思います。
その内容実際どのようなものなのかは、今回のお話ではまったく情報がありませんので、全てこれからの新らしい取り組みになるでしょうし、その先上記のような「向き合い」始まり、そして続けられた時、最後に出される答え予想だにつかないものになるのではと、推察します。

>「受け止められる側の心」については、「受け止める側の心」の変化によって浄化される魂からの感情という理解でよろしいでしょうか?

これはYesで。それが最後に何を示すのかは、恐らくは予想だにつかないものになるだろうと。

僕に今言えるのはそこまでです。その取り組みをすることを、つまりまずは「彼以外の人も愛せる心」を、まずはご自身が望むか否かですね^^。


小学生時の怒りについて / ピヨ
No.628 2013/09/25(Wed) 20:06:39

 島野さんの本を読み進めている中、自分の小学生時の怒りについてふと気づきました。

近所の小さい子供や、いとこの面倒を楽しく自分から行っていました。小さい子は、かわいいと感じ遊んでいました。

別の場面では、自分がしっかりしているためか、妹や、いとこがきちんと行っていない時には、「何でできないの。ちゃんとして。」と、何度か怒りながら注意をしていました。

自分は、しっかりしているから、タイプの違う妹などがしっかりとやらないが気になるのか。私は、祖母が昼間面倒を見てくれて、けっこうなんでもやってくれるため、自分でしない環境もあったと感じます。また、母親はしつけとして、お箸の持ち方や鉛筆の持ちかたなど注意する方でした。

母親が注意をする方だったので、自分も似たのかどうか。しかし、幼少時から怒りで接することがあった自分を良くないことと感じました。

なぜ、怒りで注意をしていたのか。
ご助言よろしくお願いいたします。


 
Re: その2 / ピヨ
No.633 2013/09/28(Sat) 16:54:17

 島野様
 
 趣味について

 何もすることが無く、「何も趣味が無く、毎日暇」と話す高齢者の話を聞いたことがあります。
 
 島野さんのプログ等の活動は、趣味に含まれるものなのでしょうか。

 私は、島野さんのプログなどを読んだりの読書・自分について考える時間は学習したいことであり、自分で選択している趣味の時間になるのかな?と感じました。
 
 仕事・家事・支度時間以外の時間は、そんなに多くは無いと考えると、やりたいことが限定と言いますか、優先順位となります。

  


 
Re: その3 最近の気持ち / ピヨ
No.639 2013/10/03(Thu) 21:52:34

 島野さんの本を読んでから最近、「何かを生み出さないと」という気持ちがしています。しかし、毎日が過ぎることがとても早く感じるため、毎日がどんどん過ぎます。そのため早く、その感じている何を生み出したいと感じています。

 仕事では、その日の仕事に集中し、人間関係では、感情的になる方などと接して、疲れもあります。

 何かを生み出したい、何かを見つけたいという気持ちは、そんなに簡単には見つけられないものと捉えられるものでしょうか。


 
まずは「目の前の問題」から「生み出す」ことを学ぶ^^ / しまの
No.643 2013/10/06(Sun) 10:33:26

前回
『(No Subject)』 ピヨさん No.623 2013/09/20のトピック
アドバイスした
『建設的行動法^^』 しまの No.631 2013/09/28
踏まえて、引き続き次のようにアドバイスできるかと^^。

>なぜ、怒りで注意をしていたのか。

これは単純ですね。怒りで注意する行動の方が簡単だからです。「それでは駄目」と否定する行動法ですね。
一方、怒りを使わない行動法のためには、上記トピックコメントした通り、「こうすればいい」という解決のためのさまざまな知恵とノウハウを、まず自分が持たねばなりません。これは時間や手間がかかることです。
それができていない人が、人に注意するとしたら、「それでは駄目」と否定する行動しかできません。ですから人はまず「怒り」で行動します。成長するごとに怒りを使わずに行動できるようになります^^。

>島野さんの本を読んでから最近、「何かを生み出さないと」という気持ちがしています。しかし、毎日が過ぎることがとても早く感じるため、毎日がどんどん過ぎます。そのため早く、その感じている何を生み出したいと感じています。仕事では、その日の仕事に集中し、人間関係では、感情的になる方などと接して、疲れもあります。

これについての指針は、『取り組み実践詳説』
「自己分析」と「見通しづけ」の導き
で、次のように述べている通りです^^。
まずは目の前に置かれた日常生活と人生の「問題」と「課題」に対処するための、知恵を学ぶことです。それを手にしたあかつきに、思う存分、自らの「望み」を描くが良い。目の前に置かれたレールなど、多少とも捨て去ることも視野に入れて。

つまり、もし毎日の生活や仕事に追われて「自分から生み出す」ということが感じられないという問題であれば、まずは他ならぬそうした毎日の生活や仕事の中で「自分から生み出す」とはどういうことかに、取り組むことから始める良い、ということになります。
さまざまな「工夫」考え「効率」良くしていく。また疲れる相手や場面で、疲れる度合いをより減らすための知恵とノウハウ取り組む
そのためのハイブリッド心理学から学びとして、前回「肯定形」「破壊から建設への選択」といった基本姿勢からさらに一歩進んだ、「行動学」「仕事の普遍的スキル」といったものになってきます。
これについては、の、
『はじめまして。相談があります。』 ようすけさん No.625 2013/09/22のトピック
での
『まず「社会」について正しく学ぶ^^ 』 しまの No.635 2013/10/01
詳しい情報へのリンクなども載せ一通り説明していますので参考頂ければ。

そうして、まずは日々の生活と仕事よりスムーズにできるように取り組み、その中「自分から生み出す」とはどういうことか学んでいくのと同時に、自ず「空き時間」というものも増えてくると思いますので、そこでさらに趣味なり考えてみるのも良いかと^^。
そしてその先に、そうした中で自分にとって人生で本当に価値があると感じるもの、本当に楽しく感じるものより多くの時間向けることができるよう、生活全体のあり方変える検討もできるかも知れません。
いずれにせよ順番は、「まず目の前の問題から生み出すことを着実に学んでいく」というものが大切です。これが1番目。そして2番目に、自分にとって人生で本当に価値があると感じるもの、本当に楽しく感じるものへ。
そしてさらにその先3番目に、

>島野さんのプログ等の活動は、趣味に含まれるものなのでしょうか。

関係すると思います。僕の執筆「趣味」というより「使命」「天命」といった言葉が当てはまるような感覚で取り組んでいるものです。これについては、
エピローグ・学びの深まりは「心と魂と命」の生き方へ
最後の方に、僕の執筆に向かう姿勢をちょっと書いていますので、興味あれば読んでみて頂ければ^^。

まずは上述のような順序で考えてみて頂ければ^^。


 
問題について、生み出すことについて / ピヨ
No.644 2013/10/06(Sun) 18:07:31


 島野さん、回答ありがとうございました。

「人はまず「怒り」で行動します。また、簡単だからと。
それから、成長するごとに怒りを使わずに行動できるようになります」とは、考えさせられました。
 
 まず目の前の問題から生み出すことを着実に学んでいくと言うことが、まだ見えていません。問題について、自分で発想し行動していくということでしょうか。


 仕事では、疲れる相手や場面があるのは、それが仕事の人間関係のひとつであると感じます。学ぶことも多いと考えると、前向きになれます。

 島野さんは、毎日がゆったりしていると感じますか。それとも、早いのでしょうか。
私は、早いです。

 怒りで生きている方の場合、怒りをもったまま亡くなる方の場合、島野さんからはどのような意見があるのでしょうか。


 


 
一歩一歩生み出す^^ / しまの
No.650 2013/10/10(Thu) 09:32:19

新たに入れて頂いていますが、まずこちらの方で^^。順に返答返していきますので^^。

>まず目の前の問題から生み出すことを着実に学んでいくと言うことが、まだ見えていません。問題について、自分で発想し行動していくということでしょうか。

目の前の全ての問題に、知恵とノウハウがあります。それを学び、ものごとをよりうまくできるようになることで「喜び」「楽しみ」感じられるようになります。
自分で発想するというより、まずは人が持っている知恵とノウハウを仕入れることから始めるというのが多いと思います。インターネットはそのための、実に便利なツールですね^^。

そのための姿勢としては、以下のブログ記事など参考になるかと思います^^。
2010-01-28『「一歩一歩の向上思考」-1』
2010-01-28『「一歩一歩の向上思考」-2』
2010-01-29『「一歩一歩の向上思考」-3』

>島野さんは、毎日がゆったりしていると感じますか。それとも、早いのでしょうか。

執筆中心生活ですから、まあゆったり基本ですね^^。

>怒りで生きている方の場合、怒りをもったまま亡くなる方の場合、島野さんからはどのような意見があるのでしょうか。

怒りで生きる分、「喜び」「楽しみ」生きる時間減ると思いますので、もったいないことだと思いますね^^。


 
Re: / ピヨ
No.652 2013/10/10(Thu) 21:06:40

島野さん、ためになりました。

ゆっくり、方策を考えていきたいです。


初めまして、悩んでおります / みゅみゅ
No.641 2013/10/04(Fri) 22:09:46

はじめまして。22歳、大学生です。
大学生になってから対人関係や自分の考え方について悩みが出てきたので相談させていただきたいと思います。
親に屈託なく接することが出来ません。大学に入った頃から親に悩み事や自分のやりたいことを素直に言えなくなってしまいました。自分のやりたいと言ったことにそれは無駄だ、もっと大学生としてやっておくべきことがある、などと言う親に萎縮して結局は自分のやりたいことは親に隠れてやったり我慢してしまいます。親が自分のことをどう見ているかが不安で、自分のダメな面をさらけ出すことができません。
また、人を自分のことを好きになってくれるかどうかで見てしまいます。自分に対して好意を抱いてくれそうな人には自然に惹かれますしそうでさそうな人とは距離を取ろうと思ってしまいます。なのでもし人を好きだと思ったとして、それが本当に親愛の情なのか好意につられているだけなのかわかりません。
そして何をするにも承認欲求を抱いてしまいます。正直な話、自分に対する贔屓の目を抜いてみても自分より劣っていると思われる他人が自分よりもちやほやされているのを見ると不快になり、自分より優れているものを持った人の自分より劣っている点を探さずにはいられません。
こんな感情を制御して親とも他人とも正常な関係を築くことが出来るようになるのか、そうなるためにはどうすれば良いのか悩んでおります。
お忙しい中とは存じ上げますが、何かアドバイスをいただければ幸いです。


 
「自分の成長」という観点からまず何が問題課題かから考える^^ / しまの
No.648 2013/10/09(Wed) 17:46:58

まずはごく入門的アドバイスをしますと、

まずは何が問題であり課題か、から考えよ。自分の成長という観点から。

ということになると思います。
そこで「成長」とは、「自らによって幸福になれる能力の増大」を言います。これは『入門編上巻』で言った話^^(P.45)
必ずしも親にとっていい子であることが「成長」ではないですね^^。場合によってはその逆「成長」だったりします。

そうした「成長」向かうための重要な心のテーマ「愛」と「自尊心」があり、ハイブリッド心理学では、「愛」「分かり合い認め合うこと」ではなく「喜びと楽しみの共有」位置づける姿勢、そして「自尊心」「人に優越し打ち負かす」ことによってではなく「現実において生み出す」ことによって培い築く姿勢で、自身「望み」に向かって全てを尽くして生きることで、そうした「成長」へと向かうことができる。これがハイブリッド心理学考え方です。

そのために私たち自身が実践することとして、「動揺する感情を克服したいのだから、まず感情を鵜呑みにして考えない」という自明の指針の上に、「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみ行う」という「感情と行動の分離」と呼ぶ基本姿勢と、その上での外面のさまざまな行動法と、内面感情への自己分析などを行うのが、ハイブリッド心理学「取り組み実践」になります。

そうしたことを踏まえて、そもそも何が問題であり課題か、から考えるという話になります^^。
それでまずはこうなるというアドバイスなど書いてみますと、

>親に屈託なく接することが出来ません。

そもそも「親」というのは大抵、屈託なく接することができるような相手ではありません。大抵子供に自分の考えの枠を押しつけようとする、成長を妨害しがちな存在というのがというものです^^;
ですので、親に接する望ましい姿勢とは、「屈託なく接する」なんてものではなく、「十分に作戦を練って接する」というのが望ましいものになると思います。

>親が自分のことをどう見ているかが不安で、自分のダメな面をさらけ出すことができません。

必ずしもさらけ出す必要などありません。
親との関係において何を生み出すか目的ありきの問題になりますね。「ダメ面」な面がたとえば何かの病気になってしまい高額な治療費が必要親の援助を得たいということであれば、それをさらけ出すのは有益なことでしょう。
親との関係において何を生み出したいのか、から考えてみて頂ければ^^。

>自分に対して好意を抱いてくれそうな人には自然に惹かれますしそうでさそうな人とは距離を取ろうと思ってしまいます。

これは自然なことであり問題ではないと思いますヨ^^。僕だって友人にするのは僕を好いてくれる人です。僕を嫌いな人とわざわざつき合おうなんて思いません^^。

>そして何をするにも承認欲求を抱いてしまいます。正直な話、自分に対する贔屓の目を抜いてみても自分より劣っていると思われる他人が自分よりもちやほやされているのを見ると不快になり、自分より優れているものを持った人の自分より劣っている点を探さずにはいられません。こんな感情を制御して親とも他人とも正常な関係を築くことが出来るようになるのか、そうなるためにはどうすれば良いのか悩んでおります。

それが今の未熟な心だとして、これからどのように心の成長に向かうかだと思います^^。
上述「愛」「自尊心」というテーマでもあり、まずは自分の価値観を確認することからになると思います。
人生を通して歩む成長であり、ここで「こうすればいいですヨ」と付け焼刃なアドバイスで済むことではなく、「愛」「自尊心」というテーマへの自分の考え方、そして日常での思考法行動法全て、そして「日常生活と社会生活の向上」といった人生の全般的テーマに、どう向かうか。それらの全てが、人との関係のあり方結実しましす。

ですので、「生涯の学び」として、手ごろそうなもの(『ブログ書籍No.1ハイブリッド人生心理学の紹介』あたりがいいかも^^)から、継続的な読書をすると共に、具体的な場面「この場合はどう考えれば?」という実践的な取り組みを、今後検討されると良いと思います。
具体的な思考法行動法については、まだまだ情報が散らばっており「まずこれを読んでみて♪」と言えるものがない点ご不便かと思いますが、もうじきしたら『メール相談事例集』など掲載開始予定ですので^^。

具体的場面での思考法行動法については、差しさわりのない範囲具体的内容を書いて投稿頂ければ、懇切にアドバイス返していきますので^^。


はじめまして。相談があります。 / ようすけ
No.625 2013/09/22(Sun) 12:55:27

現在会社を休職中の26歳です。原因は就職前に少し時間ができたので新しいバイトをしたのですが、そこで解離性障害の一種の離人症となりました。燃え尽き症候群とも言われました。
小学校6年で転校をし、そこでうまく馴染めず自分を抑圧してきました。しかし勉強やスポーツに秀でてたため、それで受け入れられるようになりました。そのため、能力向上ばかりに自分の思考が向きました。ある一定の組織の中で上に行くことばかり考えるようになりました。
大学でも同様の価値観で進み、人を上下でわけるようになりました。しかし、知り合いや後輩も増えていき、そんな自分は隠してきました。しかし、やはり下に見ている人間に自分に危害を加えられると(ひやかし等)全力で殴ってしまいたい衝動にかられるので、笑ってごまかす日々が続きました。   
大学も終わりにさしかかったときに知り合いの元でバイトをすることになったのですが、元々以前のバイトではよく仕事ができていたので、いい仕事をしてやろうと意気込んでました。
しかしいざ始めると、新人のため何もできず、周りの人間にも相手にされない現実がありました。急に自分が何者かわからなくなりました。さらに、その知り合いが、自分が下に見ていて危害を加えてくる人間と繋がっていたため、自分の弱い部分につけこまれる、そしてそうしたら自分を抑える自信がない!と、猛烈にストレスを感じ、始めに書いたような症状となってしまいました。

そのまま就職したのですが思考が働かず、現実感もなく体も限界にきて、半年前に休職しました。

まだ働くことのできる状態ではないので、自分の精神状態や体のことを考えて退社しようと考えてます。また、まだ決めかねているのですが、学生時からギターの腕をプロの方にも買われていたので、ギターの講師、サポートミュージシャンをしたいなとも考えています。ギターを弾きながらも人と心で関われる人間になりたい望みがあるからです。しかしギターを弾くと、能力向上を考えてしまい人と心で関われない自分がでてきてしまい、葛藤してしまいます。また、会社をこんなすぐやめる自分を許せないので、ギターを弾くにも、それを取り返すために結果重視になって自分を苦しめてしまうのではないかとも考えます。
他人の目や承認欲求や自分に振り回されてしまいます。



長文且つわかりにくい文章ですいませんが、子供の頃から続く心の状態の整理、これからの自分のもっていきかた等についてアドバイス頂ければ幸いです。


 
まず「社会」について正しく学ぶ^^ / しまの
No.635 2013/10/01(Tue) 11:01:37

起きている問題理解から克服までの視点をざっと^^。


「解離性障害」「離人症」

まず、「解離性障害」「離人症」は、自らの心の動きが自らの許容範囲を超えてしまい、心が心自身を切り離すことによって平穏化を計ろうとする心の防衛機能が働いた状態、などと理解できると思います。まあがいったん自分自身を断絶状態にしたもの。
その結果
>急に自分が何者かわからなくなりました。
といった異常感覚起きるものであろうと。

そうして自らの許容範囲を超えてしまう心の動き材料になるものとしては、まずは「怒り」「絶望」「恐怖」などが考えられ、あとはそれに対する本人の姿勢における「矛盾」「葛藤」が、そうした「解離」「離人」引き起こす背景になると考えられる、という話になると思います。
まあたとえばでは平和論怒り、そしてあいそ笑い、といった矛盾が、もう心の平常機能の許容範囲を超えてしまう、という状態
ですから、その治癒克服は、
・悪感情の克服
・自己矛盾の克服

という2つの観点から、まずは取り組むのがよろしい、というになると思います。


心の問題の根源と克服

そうした取り組みのために、そこでの「悪感情」「自己矛盾」といった問題が、さまざまな「心の障害」「心の病」症状引き起こすほど深刻化する、根源的な原因と、その克服についての大きな視野を持つことが大きな助けになると言えます。
この場を借りて、そうした心の問題の根源と克服についてのハイブリッド心理学の考えを、最新の平易な言葉で書いてみようかと。
(サイトの新しい『ハイブリッド人生心理学とは』ページの内容下書きがてら^^ゞ)

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根源
その根源とは、やはり「幼少期からの自己否定感情と孤独」というようなものであるように感じます。
それを心の底に抱えたまま、「どう人に見られる人間か=自分」という、誰もが足をとられがちな心の轍足を取られるのと、「幼少期からの自己否定感情と孤独」という妨げによって、人生の原動力となる「望み」が、の中閉ざされたり、またはすさんだものへと歪んでしまうことが合わさって、人との関係が、心の中で、悪感情の動揺に満ちたものへと向かってしまうのです。

克服
克服は、「どう人に見られる人間か=自分」という万人の心の轍からも抜け出るような、自分から前へと進む建設的な人生の生き方を学び実践して歩む道のりが、そうした心の問題を深く抱えたケースにおいても、自ずと生み出すものと言えます。
それについてのハイブリッド心理学から答えは、「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみを行う」という「感情と行動の分離」の姿勢と実践を携え、「望み」に向き合い、全てを尽くして「望み」に向かう人生の歩みが、心の成長と治癒と豊かさの全てを生み出す、というものになります。

歩みの道のり
歩みの道のりは、「感情と行動の分離」姿勢実践によって、さまざまな悪感情への対処を学び、その軽減図りながら、日常生活と社会生活の向上への前進へと歩み、さらにそれを足場にして、自分本当の「望み」への向き合いへと向かう、というものになります。

「魂」と「命」のゴール
「本当の望み」が、「本当の自分」です。その中でさらに最も惑いのない「望み」の感情を、「真の望み」と呼んでいます。
外面における建設的行動法と、内面への深い自己分析に、「真の望み」に近づいた時、私たちのに、「自分」という惑い完全に消え去り、「自分」を超えるような「望み」の感情体験されます。
それをハイブリッド心理学では「魂」の望みの感情と呼んでいます。
それとの向き合いは、私たちのに、「現実の世界」「魂の世界」という、2つの心の世界生み出します。そしてその2つの世界への向き合いによって、やがて「永遠の命の感性」体得することで、私たちは「揺らぎない自尊心によって支えられ、愛によって満たされ、もはや何も恐れるもののない心」 という、心の成熟ゴールへと向かうのです。
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まず「社会」について正しく学ぶ

ということで、ようすけさんの場合、まずは上記「歩みの道のり」で書いている「社会生活の向上」どうなるかというのがポイントになるかと^^。
それを一言でいうなら、こう言えると思います。

まずは「社会」について正しく学べ。自分の心に向き合うのはその後でいい、と。
関連テーマとしては、まずは以下3つ程度かと。

・社会における人間の「上下」
これについてはここ考え方簡潔に書いてみますと、
社会における人と人の関係は、決して「上下」という皮相なものではなく、「生み出す価値」に応じた「役割」にあるものです。組織で上に行くとは、何かの能力で人を打ち負かし勝利する結果などではなく、その組織生み出す「価値」への情熱と、それに向かって組織向上メンバー導きをすることへの「意志」によってです。
ですので、「人を上下に分ける」といった姿勢とても未熟で愚かなものであり、そうした衝動自分の湧く場合は、ハイブリッド心理学からは、その感情を心の中で押さえつけ振り消すような姿勢ではなく、以下のような「学び」を踏まえての精緻な自己分析を携えての向き合いをするのがお勧めになります。
まずは、その「上下」とはどんな基準における上下なのか、ですね。それで自己分析すれば、まず言ってそれは理屈にもなっていない不合理なものであるのが、自分自身で分かるのではないかと。それを実感するごとに、その衝動自ずと弱まり、やがて消えていくという流れが考えられます。

・行動学(建設的対人行動法/原理原則行動法/ウインウイン行動法)
まずは以下など参照^^。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)
より本格的に学ぶなら、
ハーバード流交渉術
(知的生きかた文庫)

などは「ハイブリッド心理学指定の必読書」です。

また、
『実践編上巻』 9章 価値観と行動学
にもより本格的な解説があります^^。

・仕事の普遍的スキル
まずはこの掲示板最近のものとして、
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20
のトピック

の中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586
2013/07/23

など。
この手の情報結構あちこちに散在しているので、今後うまくインデックス整理するよう計画中です^^。

こうした、「社会についての正しい学び」踏まえて、「人を上下で分ける」といった内面感情への向き合いをすると共に、
真の強さを体得する
といった視点にも向き合うのがいいですね^^。


進路選択の基本

まずはそういった「社会についての正しい学び」「真の強さ」といった価値観への向き合いをすることで、心の状況はもう全く違うもの向かっていくと思います。
これからの進路選択も、それを踏まえて検討していくと良いでしょう。

そこで鉄則になるのは、心の内面的な課題の問題と、自分の外面的な客観的能力資質の問題を、分けて考えることです。
>しかしギターを弾くと、能力向上を考えてしまい人と心で関われない自分がでてきてしまい、葛藤してしまいます。また、会社をこんなすぐやめる自分を許せないので、ギターを弾くにも、それを取り返すために結果重視になって自分を苦しめてしまうのではないかとも考えます。他人の目や承認欲求や自分に振り回されてしまいます。
一言でいえば、そうした内面的な問題課題は、どんな職業に就いたとしても出てくる問題です。全く同じ姿で。ですからそれを職業選択の基準としてあれこれ考え惑うことは、かなり無駄なんですね。どんな職業を採った場合も、自分はその問題に立ち向かわなければならないと腹を据えるのがお勧めです。
また、その克服への視点を持っておくことです。上記「社会についての正しい学び」が、その良い足場になり、上述「心の問題の根源と克服」が、その大局的、最終的な道のりを述べたものとしてです。

そうした内面課題問題は、いったん置いといて自分の能力資質について客観的な自己評価の上で、進路選択検討すると良いでしょう。もちろん「社会についての正しい学び」踏まえてです。


また、休職中であれば、「焦り」厄介な問題として現れると思いますので、似たような状況を扱ったものとして、
『実践編上巻』5章から8章にかけて取り上げている「D男さん」の事例など参考になると思います。復職までの過程『下巻』完結するのですがまだ執筆手付かず^^; まずは上巻部分でも十分参考になるかと^^。

あとは、長い自己取り組みをするなら、『取り組み実践・詳説』時間の折日々読んで、「人生の学び」として自分の意識過程じっくり取り組んでいくのがお勧めになります。
まずはざっとこんなところで^^。


 
Re: はじめまして。相談があります。 / ようすけ
No.637 2013/10/02(Wed) 22:47:12

返信ありがとうございます。
アドバイスは非常にありがたく、今後の参考にできそうです。
しかし申し訳ないことに、休職の期限が来てしまい、迷ったのですが退職という形をとりました。体がまだまともに働ける状態ではないというのと、現実感のなさがきつすぎるので、一旦実家に帰ろうと考えたためです。

現在実家にいるのですが、学生時代の友人等も自分がこのような状況になっていることを知っています。
そこで、家にいて母親と会話する時や友人と話すときも、なんだか自分が丸裸になっている気分で、世間にさらされている感じがします。思えば今まで、部活や勉強やサークル等で自分を埋めて自分の精神的な逃げ場にいつも逃げていた気がします。それらがすべてなくなったので、他人と関わるときに自分の全てを見られているような感じがして、落ち着かないというか、自分がさらされているただのモノのようになってしまいます。常に「これをしていればいい」「これをしていれば自分が正当化される」というものに無意識にしがみついてたため、他人と心で交流することに恐怖を感じます。

もともと他人の手本のような存在であった(それを勝手に期待として受け取ってしまい演じていた)り、他人にアドバイスや助ける立場が多かったため、今の自分がどう他人と接していいかもわからない感もあります。ダメな自分を受け入れれてないということかと思いますが。

このような場合においても、上記のような実践を重視していくべきでしょうか?
すいませんがアドバイスお願いします。


 
Re: はじめまして。相談があります。 / ようすけ
No.638 2013/10/03(Thu) 01:44:00

追記で失礼します。


現在の状況で新たな人との交流、新たな事をしたりするのが、どんどん自分が自分でなくなってしまう感じで、それが恐怖なんだと思います。元々自己執着が強い傾向はあるかと思います。例えば、サークルの人達とはある一線を引いて付き合ってて、プライベートは別で自分には進む人生があるという感じだったのですが、今のありのままの自分で接することで距離感がつかめなく、今までの関係とか色んなものが壊れていく感じがします。
もし自分が立ち直った時、この関係がまたどうなるのかとも考えてしまいます。
しかし、今のようにありのままで接するところから、どんどん成長に向かっていくのかとも思ってます。

また、母子家庭なのですが、大学に入ってからは特に精神的な親子関係は逆転気味ということもあり、それに共依存してしまって、母子分離ができてないことも原因かと思います。


 
Re: はじめまして。相談があります。 / ようすけ
No.640 2013/10/04(Fri) 13:06:07

連続ですいません。
本当に自分が何をしているのかよくわからなくて、社会や人の目からとにかく逃げていたい気持ちです。死にたいのですが、そんな勇気もないしそんな親不孝もしたくないのですが、どうしたらいいのかがわかりません。大学時代の友人が割と人をバカにするタイプなのですが、すごく楽しそうに生きてて、そいつらにも見下されて見放されるのが嫌で身動きがとれないです。
自分だけが社会から切り離されている感じで、何をしても満たされないです。
お勧めしてもらった記事のD男さんの例とかなり似ている感じはあります。自分の過去がすべて無駄になったかのような感じです。また、恨みが過去にむいてしまいます。
まずは積極的休息をしてから行動すべきでしょうか?


 
「人の目を気にしないように」ではなく「自分として本当に確かなこと」へ^^ / しまの
No.647 2013/10/08(Tue) 11:44:24

>このような場合においても、上記のような実践を重視していくべきでしょうか?

そうですね。上記のような実践重視すべきというか、それがハイブリッド心理学としての実践になります^^。

追加で書いて頂いたような心の状態は、そうした社会についての正しい学びを持たないまま人や社会に向かおうとした結果としての、心の混乱とも言えると思いますので、まずは心の混乱そのものを早急に解消ししようと焦るのではなくいったん目線を自分の心から、心の外部のさまざまなものごとに切り替えて、社会についてじっくり学び直してみるのがお勧めになります^^。
「人の目を気にしないように」ではなく「自分として本当に確かなこと」を見出していくことが大切です。人を気にする心の動揺は、ただ心の中流す「自分として本当に確かなこと」築いていくごとに、人を気にする心の動揺自分で治そうとすることなく消えていきます。

まずは、「D男さん」の場合にもまずは目標としたように、「これならできる」という最低ラインを見出すことからになると思います。落ち着いた生活リズムをまずは回復することとしてですね。

>まずは積極的休息をしてから行動すべきでしょうか?

「落ち着いた生活リズム」というのがまず取り組みテーマになると思います。心身疲労の蓄積があればもちろん多めの休息からですね。回復に従って、これから疲労を蓄積させない生活リズムとはどんなものか模索へ、という順番になりますね。

「学び」の個々のテーマなどで疑問などあれば、また何でも新規トピック立てて質問頂ければ^^。


「脅し」というキーワードと、取るに足りない小さな望みへの踏み出し /
No.627 2013/09/25(Wed) 03:43:29

こんにちは。
まず、先日のアドバイスを拝見した前後から、自分の内面に関して「脅し」というものがキーワードになってそうに感じました。
幼少の頃、教育にせよ、いじめにせよ、脅しの下で行われていたことを思い出し、それ以降も、脅しや圧力だと感じたものに対して過剰反応を起こす自分に気付きました。
たとえば時事問題で国民に何らかの規制をかける法案が報じられた時、あるいは上司から注意を受けた時、あるいは今までの怒りを感じてきた場面。などなど。
下手すると、今までの人間関係の大部分で、脅しや圧力を感じながら(ある程度の割合で錯覚しながら?^^;)過ごしていたかもしれません。
こうして見ると、「自分は社会全体から脅しや圧力をかけられ、それに何とか抵抗しながら日々を送っている!」という感覚があり、それを漠然としか自覚していなかった感じでした。

決め手は、しまのさんからのアドバイスの中で
>「感情による決めつけ」であることに加えて、それらが「道徳の授業型人生感」の思考だということです。
>「こうでなければ生きていけないぞ」と、画一的な「あるべき姿」を掲げて脅すというやつ。

という部分を読んだとき、「脅し」というものがキーワードになっているのはほぼ間違いないと感じました。
そして、社会から脅しや圧力をかけられている、という感覚が、来歴の中で自分の内面に取り込んだ「脅し」の外化ということになるのだろうか、と感じられました。
まずは、理屈の上でそれを知るだけではどうにもならないので、脅しや圧力を感じた場面ごとに、先日のアドバイス通り「それは具体的にどういうことなのか」を問い直すようにしています。あくまで一部の場面ではありますが、少しは踏みとどまる力が出てきた気がします。まだ、そういう気がする、というレベルですが。

あと、これは娯楽の類での場面ですが。
取るに足らないものではありますが、一応の小さな望みに真剣に向かって行けたような気はするので、そのご報告です。
興味あるジャンルのイベントで、ちょっとしたことを行ないました。
従来は、やってみたいと思っていたけど尻込みし続け、ただ会場に足を運んでいろいろ見て回るだけでした。
尻込みした理由は、会場で入場前にも浮かんだ「自分なんかがこういうことをするのはおこがましい。場違いな感じがする」という感覚が主なものでした。「具体的にはどういうことなのか。誰かに実害があることなのか」と問い直し、「ルール違反や大失敗で誰かに迷惑をかけない限り大丈夫なはず」と自分に言い聞かせながら参加しました。
準備中に見回してみると、質も内容もバラバラで、実は自分が心配していたほどのものではなかったかもしれない、と思うと少しは落ち着いてきました。
結局は誰かから直接評価されることもなく、自分で見ても成功とは言えないものではありました。従来何かに取り組んだ時なら「もう二度とやらねえ」「やっぱり俺が何か行動してもろくなことは起きない」といういじけた気分で覆われるところでしたが、今回は、イベント中や帰りに、いじけた気分だけでなく、冷静に改善点がポンポン出てきて、従来とはちょっと違う感覚を味わいました。
後日、経験者である知人たちと(内面の話は伏せて)その話をしたところ、「いいスタートが切れたのでは」とか「最初は絶対失敗するモンですから」という言葉が返ってきて、共通の話題で盛り上がりました。

その後のバイトで、まだイベントでの疲れは大いに残ってたのに、気分は何だか分からないけど多少軽い状態で作業に取り組めました。
どういうことなのか考えてみると、それまでは通行人に割引券を配るときに、多かれ少なかれ気後れを感じていたようで、それが若干減ってるように思えました。
これから、再挑戦するかどうかはまだわかりませんが、これが望みに向かった効果であるのならば、趣味のレベルまで昇華させるのもいいなあ、と思いました。


 
後日談 /
No.634 2013/10/01(Tue) 08:02:01

その後、価値の生み出しに関する定義についての理解が曖昧だったことを自覚してサイトを調べて回り、掲示板のログを見て、やはり意味をはき違えていたことを自覚し、大いにズッコケる、ということがありました。(「心理学本下巻に向けての考察-224:「未知」への意志と信仰-116」より)
確か以前も拝見してたハズなんですが、当時は、大小を問わない成功経験のことを指すようにしか感じられなかった記憶が。そういう解釈では、なおさら心が荒れるのもおかしくないよな…と。少なくとも自分にとって、病んだ心の領域というのは、読解力にも悪影響を及ぼすのかもしれないな、と感じました。

その際に前後の記事も拝見し、「望む資格思考」について読んでいるうちに、もしかすると、先日のイベントでは、自分の「望む資格思考」に初めて打ち勝ったのではないか、ということに気付きました。

実際、あれ以来、自分の悪感情が全体的に減少しているようにも思えました。
まず、イベント内で同じようなことに取り組んでいた人々に対して、クオリティ面での批判的な目を向けることが全く無くなっていました。
当初は、自分が同じ経験を持ったことにより、「他人を批判していいのは自分が批判される覚悟がある奴だけだ」と感じていたのだろうと思っていたのですが、実生活に戻った際に他者への批判的な姿勢が目に見えて減少しているのに気付いた時、それだけでは説明がつかないように思えましたが、望む資格思考に打ち勝ったのが原因であれば、確かに他人に対しての態度が緩くなるのも頷けると思いました。

正直、娯楽系の一つのイベントで行動を起こしたぐらいでこのような変化が起きるとは思いもしなかったので、どちらかと言えば戸惑いの方が強いですが、それだけその行動に対する望みの深さがあったということなのかなあ、と。

その後、バイト中などに価値の生み出しへの意識を集中しながら作業をしている間に、よく原因の分からない軽い苦しみを二回ほど通過しました。想像の域を出ない推測ですが、従来の感覚では上手くいかないことを内面で感じ取った結果なんだろうなあ、と思います。

しばらくして、来歴で受けた仕打ちなどが頭に浮かびました。
「良くて汚れ役、悪くするといじめられ役。「こうあらねば」という押し付けを守った報酬がこういう仕打ちだったなあ」という感想は従来通りでしたが、従来はそういう時に怒りや憎しみで完全に覆い尽くされるのが常だったのに、今回は泣くのを必死で堪える羽目になりました(仕事中だったので^^;)。まるで、自分の来歴に自分自身で同情の涙を流そうとしてるかのような、今までに経験したことのない感覚でした。従来よりは、自分で物事を受け止めることが出来た現象なのかなあ、と。

それまでの取り組みでは、反面教師的な人を見たり思い浮かべたりした後、「じゃあ自分はどうなんだ?」という感じで進めてきた感が強かったですが、今回の出来事で望む資格思考に向き合ったと思われる取り組みは、意外と広範囲に影響を及ぼしてくれたように感じました。
「大自然を生きる一匹型の言葉」で頂いたアドバイスがここまでの進展を生むとは想像もしていませんでした。
まだ「望む資格思考」が消滅したとは思えませんが、今後望みの妨げが出てきた時にも生かせそうな経験になったとは思います。
重ね重ね、本当にありがとうございます。


 
「匿名性における価値の生み出し」という重要転換^^ / しまの
No.642 2013/10/05(Sat) 18:13:13

>「自分なんかがこういうことをするのはおこがましい。場違いな感じがする」という感覚が主なものでした。「具体的にはどういうことなのか。誰かに実害があることなのか」と問い直し、「ルール違反や大失敗で誰かに迷惑をかけない限り大丈夫なはず」と自分に言い聞かせながら参加しました。
>従来何かに取り組んだ時なら「もう二度とやらねえ」「やっぱり俺が何か行動してもろくなことは起きない」といういじけた気分で覆われるところでしたが、今回は、イベント中や帰りに、いじけた気分だけでなく、冷静に改善点がポンポン出てきて、従来とはちょっと違う感覚を味わいました。

これは取り組みの前進としては、前回
『近況報告です。』 蓮さん No.604 2013/08/17のトピック
からの流れとして、

「感情による決めつけ思考」の見直し
   ↓
「道徳の授業型思考」から「大自然を生きる一匹型思考」による見直し
   ↓
原理原則思考を中核にした「望む自由・自己能動・価値の生み出しの思考と行動」


という風に前進しているものと言えますね^^。

>その後、価値の生み出しに関する定義についての理解が曖昧だったことを自覚してサイトを調べて回り、掲示板のログを見て、やはり意味をはき違えていたことを自覚し、大いにズッコケる、ということがありました。(「心理学本下巻に向けての考察-224:「未知」への意志と信仰-116」より)  確か以前も拝見してたハズなんですが、当時は、大小を問わない成功経験のことを指すようにしか感じられなかった記憶が。そういう解釈では、なおさら心が荒れるのもおかしくないよな…と。少なくとも自分にとって、病んだ心の領域というのは、読解力にも悪影響を及ぼすのかもしれないな、と感じました。

これは何とも大変な資料の山から読み返すご足労だったかもですが、
過去掲示板ログ2008.02
収録
『心理学本下巻に向けての考察-224:「未知」への意志と信仰-116』 しまの No.1483 2008/02/25
で書いた
===============
誤解されがちなのは、「価値の生み出し」が、「建設的思考法行動法」の先で人に賞賛され自尊心にもつながるような、何か素晴らしい生産的行動をするという、建設的行動の一段の向上のこととして考えるものです。===============
という誤解だったということかと。
そこで言っていることキモは、「人物を問わない」という「匿名性における価値の生み出し」という姿勢そして思考と行動が、「人の目」の檻の中でしかものごとを思考できない「心の依存」からの抜け出しのため、最も内実のあるツールになる、というようなですね。
それを、「人の目の中での成功」という圧迫の中にある心読んだため、そうしたキモが見えなかったという経緯かと。まあ確かに心の状態が読解力にバイアスを生み出してしまうという、なかなか厄介な問題があるのが誰の場合実情であり、「これは今の自分には分からない話だ」という自覚を携える読書が、
「学び」とのギャップを生きる
ことで成長変化が「準備」されるために大切になるという話だと思います。
まあ蓮さんの場合、それでも何とか「準備」心の中で起きていたという話になるかと^^。でになって、そうした話「体得」段階のものにできる時を今迎えることになった^^。

>その際に前後の記事も拝見し、「望む資格思考」について読んでいるうちに、もしかすると、先日のイベントでは、自分の「望む資格思考」に初めて打ち勝ったのではないか、ということに気付きました。
>実際、あれ以来、自分の悪感情が全体的に減少しているようにも思えました。まず、イベント内で同じようなことに取り組んでいた人々に対して、クオリティ面での批判的な目を向けることが全く無くなっていました。
>正直、娯楽系の一つのイベントで行動を起こしたぐらいでこのような変化が起きるとは思いもしなかったので、どちらかと言えば戸惑いの方が強いですが、それだけその行動に対する望みの深さがあったということなのかなあ、と。

行動の仕方ちょっと変えたことが、ご自身で思いもよらぬ感情全般の良い変化につながったということになると思いますが、そうなって何の不思議もないようなものとして、「匿名性における価値の生み出し」というのは大きな転換テーマです^^。
それは「望む資格思考」打破直結するものであり、上記の流れサマリーに書いたように「自己能動」という、感情全般の積極性と力強さ生み出すものであり、さらに言えば「否定価値の放棄」というハイブリッド心理学最大の転換テーマにも、多少「接触」しているかも知れない。

だから「魂の開放」にもつながっているものであり、で、

>従来はそういう時に怒りや憎しみで完全に覆い尽くされるのが常だったのに、今回は泣くのを必死で堪える羽目になりました(仕事中だったので^^;)。まるで、自分の来歴に自分自身で同情の涙を流そうとしてるかのような、今までに経験したことのない感覚でした。

といった変化も^^。

なおこの「匿名性における価値の生み出し」について心理学本で述べたものとしては、
『入門編下巻』では、
8章 人間の真実 「人生」

「心の自立」への礎
===========
 「破壊」から「建設」への基本行動様式の選択に立ち、「価値言葉」を使いこなすことで、社会で優れた行動ができるようになる能力向上を、積み重ねることです。それを、「人物を問わない」という「匿名性」において歩むことが、「魂」の広い「愛」の感情に馴染みます。
 これが、社会で全ての人を相手に建設的な行動ができる、心の自立した人間へと成長するための、ハイブリッド心理学が自信を持って人々にお伝えできる、「人生の方法論」です。
===========

という短文(P.233-234)

あと
『実践編上巻』 4章 ハイブリッド心理学の実践と道のり概要

「心の自立」「価値の生み出し」という本格的前進

そして
『理論編下巻』 7章 人生の答え−2

「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩
があります。
ここで書いている
===========
 これがひいては、足手まといの「自己顕示欲」によって動揺する自分を抱えながらも、それに惑わされずに安心して人と接することのできる、しっかりとした方向性を私たちに与えてくれるのです。
===========

という部分は、今読み返して、かつての僕自身を救ったものとして、じんと来る感覚がありますね^^。

ということで、外面内面双方かなり方向性が出てきたと思いますので、今後自分にとってより大きな価値のものに向かう人生の歩みとして、取り組みの洗練と深まりもさらに出てくると思います^^。


大人になりたくなかった? / りょうたろう
No.626 2013/09/23(Mon) 23:48:24

こんばんは。二度目の投稿をさせていただきます。りょうたろうです。

これまでも何度か投稿しようとした事があったのですが、そのたびに何だか嘘を書いているような気がして「これはもう少し自分で考える必要がありそうだ」となり先延ばしにしていた次第です。

さて、今のところ一応進展のようなものはあり、最近では自分の中の「こうしろ、そうすれば幸せになれるぞ」という声に対して一つ一つ疑いの目を向け、時には逆らってみて結果を検証するという姿勢を心掛けています。まだかなり流されがちではありますが・・・

そして今日はブログ記事の「愛と能力の成長課題」の章を読んでいて一つ自覚したことがあります。それは、もはや可愛い子供ではなくなってしまった自分に対する絶望感と、自分と他人両方に対する怒りです。中学校に上がろうとする頃のことだったか、自分の子供時代が終わりつつあるのを感じて絶望に打ちひしがれた日があったことを思い出しました。一人呆然とお風呂の水面を眺めていたことを今でも覚えています。今にして思えば、愛されなくなるのではという恐怖があったのでしょう。それでもその後中学では成績もトップで、何とか「いい子」でいることができました。その頃のことは私の中で黄金時代として記憶されています。しかし高校に入ってそうはいかなくなってから、いよいよどうしたらいいか分からなくなってしまいました。自分、他人、物など何に対しても「好き」という感覚はあまり持っていなかったように思います。そして大学生の今に至ります。

小学生のあの日から目を逸らしてきたものに今私は直面しているのだと感じます。もはや私をちやほやしてくれる人はいない。抜きん出た存在でいることもできなくなった。そう思うと今更ながら動揺している自分がいます。子供のままいきなり大人の環境に放り出されたような。周囲の人たちはどうやって人間関係を築いているのか、何であんなに自信を持って趣味なり目標なりに向かっていけるのか、何も分からない・・・と。

明日目が覚めたらまっさらの自分から再スタートだ、というわけにはいかないだろうという予感はあります。相変わらず愛されたいとは思うでしょうし、自分も他人も嫌いなままでしょう。だから実践することは特に今までと変わらないかな・・・と思っています。

今回は自分で考えを整理する意味も込めて投稿させていただきましたが、何かアドバイスがあればぜひお願いします。


 
「心の成長への視線」を先に^^ / しまの
No.636 2013/10/01(Tue) 17:56:14

>最近では自分の中の「こうしろ、そうすれば幸せになれるぞ」という声に対して一つ一つ疑いの目を向け、時には逆らってみて結果を検証するという姿勢を心掛けています。

その実践okです^^。

>もはや私をちやほやしてくれる人はいない。抜きん出た存在でいることもできなくなった。そう思うと今更ながら動揺している自分がいます。子供のままいきなり大人の環境に放り出されたような。周囲の人たちはどうやって人間関係を築いているのか、何であんなに自信を持って趣味なり目標なりに向かっていけるのか、何も分からない・・・と。

これについては、自分に何かを説教するようなものではなく、

1)「ちやほやされる」という願望心の中でむしろ思いっきり開放し、それが満たされた自分の姿を描き、願望の見極めをする。
できるだけその結末まで。ちやほやされて、その後どうなるのか。働かずにお金がもらえる・・? 自分では何もせず魅力的な異性に言い寄られる・・? 本当のところどの辺に自分は願望を抱いているのか。

2)成長する心における行動法学ぶ
これは
『はじめまして。相談があります。』 ようすけさん No.625 2013/09/22のトピック
で、
『まず「社会」について正しく学ぶ^^』 しまの No.635 2013/10/01
説明した「行動学」「仕事の普遍的スキル」といったものに他なりません。それを習得実践できている人が、まずは人間関係を築き、自信を持って趣味や目標に向かっていけます^^。
これらは、今読んで理解すれば実践できるといった安直なものではなく、まず知って、これからの人生の中で、さまざまな「体験」の中で、自分としてそうした行動法どう納得するか、それを妨げる感情としてどんなものが心に湧くか、といったものに向き合っていくものです。その向き合い「心の成長」生むわけです。
上記トピックでのアドバイス全体が、りょうたろうさんの場合も結構参考になると思いますので、ぜひじっくり参考頂ければ^^。

3)「ちやほやされなくなることへの絶望」対極と言える、成熟した心の豊かさというものについて問う
これもまず知って自分としてどう考えるかに、人生を通して向き合うものです。
「成熟した心の豊かさ」については、
「望みの成熟」の2つの道
などで書いているものを参照

ようすけさんの場合同じように、まずそうした視線持つことからですね。自分の心向き合うのは、その後でいい。
そこから、「学業でトップ」なんていう話も、果たしてどんな意義があったか向き合うのも良し。ま一言おまけですが、学業でトップなんてのよりも(実はちやほやされる材料にもあまりなってないのではと?^^;)行動学の探求姿勢においてトップになる方が、よっぽど人生役に立つかと。

とにかく今の心の中だけで考えず、未知の心への成長変化を迎い入れられるよう、自分の意識過程取り組むのが良い、という話になると思います^^。


(No Subject) / ピヨ
No.623 2013/09/20(Fri) 21:52:52

 内向的とは、固定観念であり、人は変われるとのアドバイスをいただきました。

 とてもおしゃべりな方・静かな方などの違いは、生まれ持った気質と育った環境が大きいのだろうと感じてきました。

 私は、自分を振り返り、どちらかと言えば内向的のパーセントが多いと感じてきました。そして、なぜなのかなと考えた時、生まれ持った性格と育った環境の中で、言葉を発する経験。例えば、親が過保護で何でも話し、子供はうなずくだけでよく、子供に質問して自分の言葉を出させる会話をさせる親では無かったために、自発的が少なくなってしまったのかなと感じてきました。また、過ぎたことは仕方が無いから受け入れて、これからのことを考えるようにしようと感じてきました。

 最近、保育者の子供との会話のやりとりの本を読みました。
そして、共感的な会話のやりとりが自発的を促すなど書かれていました。
会話のやりとりなどを学ぶ時期は、幼少時で職業としては、保育者。それ以外での、会話のやりとりを学べる職業は00と限定されるものではなく、何才の時でも人は変われる・学習できる。どんな職場でも何才になっていてもと感じますがいかかでしょうか。

 私自身は、自分のこれで良いという部分と、もっと自発的な関わりを持つことを必要と感じますが、納得してからではないとそう簡単には取りかかれません。


 また、相手にずばりその方の弱い部分を指摘することは、その方が内面に向き合うために必要と感じますが、それを受け入れることができなくて、高圧的な態度を取る方の場合、指摘はせずに肯定的な会話を作っていくほうが建設的でしょうか。

 よろしくお願いいたします。
 


 
建設的行動法^^ / しまの
No.631 2013/09/28(Sat) 10:20:15

>会話のやりとりを学べる職業は00と限定されるものではなく、何才の時でも人は変われる・学習できる。どんな職場でも何才になっていてもと感じますがいかかでしょうか。

その通りだと思います^^。
基本的な理解とアプローチなど書いてみますと、

「内向的」「外向的」は、前者気持ちが自分の内側に向きやすい傾向気持ちが沈んだり、自分を責める傾向など。後者気持ちが外に向く傾向ですね。一般的に言って後者やはり健康的と言えると思います。
一方「おしゃべり」「無口」はまた話が多少別で、「無口」であっても「外向的」というのもあり得ると思います。「内向的」な「おしゃべり」あるかも知れませんね。人に話しているように見えて独り言というような・・?^^;
文字違い「外交的」になると、人と積極的に交わる行動傾向ということで、多少ともお喋り上手ということになると思います。

ハイブリッド心理学からのアプローチとしては、「自分もこんな外向的な人間に」といった、外から眺めた人物印象を自分にあてはめ押しつけるのではなく、一つ一つの行動場面において、建設的な行動法を学ぶと共に、自分の本心からの「望み」に向き合い、それに向かって全てを尽くして生きることの先に、自分の本性つまり自分の潜在能力として持っていたものの全てを開花させた、成長した人間になるというものです。
まあそれがどれだけ「おしゃべり」になるかは、もう人それぞれですね。あまり「おしゃべり」良いものとばかり考えるのも避けたいものです。無駄なお喋りが豊かな時間を台無しにするというのが実によくあることですので。


ということで具体的行動場面学びとして、

>また、相手にずばりその方の弱い部分を指摘することは、その方が内面に向き合うために必要と感じますが、それを受け入れることができなくて、高圧的な態度を取る方の場合、指摘はせずに肯定的な会話を作っていくほうが建設的でしょうか。

については、相手どんな人物であろうと、否定的な言葉は用いず、肯定的な言葉を用いて接するのが、まずはお勧め建設的行動法になります。
「それでは駄目」と言うのではなく、「こうするといいよ」言うという話し方です。もちろんそのためには、問題意識を持つだけではなく、解決のためのさまざまな知恵とノウハウを、まず自分が持っていくということが重要です。「こうするといい」というえを自分が言えないのでれば、最初から何も言わないでいるのが良いかも知れません。
相手の問題を指摘するだけなら、誰でもできることであり、成長ではありませんね。問題の解決と向上のための知恵とノウハウ得ていくことから、成長始まります。

参考:
2010-01-17『「肯定形文法」で思考する』
『(1)プラス思考』カテゴリー (↑の記事を含む)


 
Re: / ピヨ
No.632 2013/09/28(Sat) 16:40:13

島野様

 回答ありがとうございました。
 「参考:」も読むことができました。

 おしゃべりの方は、いつまでも話をしていて、また他人について陰口が多い時や干渉しすぎの会話の方の場合、そのことがおしゃべり上手とひとまとめにされると疑問をかんじました。

 相手の問題を指摘するだけなら、誰でもできることであり、成長ではありませんね。との言葉は、考えさせられました。こうした方が良いと伝えることが良いとの言葉は、大変参考になりました。


根源的自己否定感情、その他質問 / にーな
No.609 2013/09/06(Fri) 13:18:26

島野さん、お久しぶりです。
内観法についてのアドバイス、ありがとうございました。
結果から言いますと、内観法には行っていません。
島野さんのアドバイスも加味してよく考えました。学びの姿勢が『他力』本願であること、本当にわかるとは遅かれ早かれ『自力』になるだろうと直感的に思うこと、行かないことで節約できる…等々で出した結論です。

ここのところ、島野さんのサイトの執筆のほとんどを繰り返し読み直しています。かなり苦戦してますが(笑)、大筋は理解できているつもりです。
そこで「根源的自己否定感情」について質問させてください。
*この感情がどれ位の強さで自分の中にあるかを、推し量る方法はあるのでしょうか?*  
私は女・女・男の中間子として生まれ、幼い頃から姉との比較で自分は可愛くないと当然のように思って育ってきました。幼稚園〜小学校低学年にかけては、自信がなく大人しく、学芸会の主役に抜擢されても泣いて嫌がるような子供でした。子供心に自分にはお姫様などの女の子らしいものは相応しくないと思っていたんです。学年が上がるにつれ、勉強や容姿にも少しは自信を持てるようになっていきました。そんな中学時代のある日、学友に言われたある一言がきっかけで、どうあがいても抜け出せない心理的トラウマを抱えるようになりました。島野さんの心理学を読むようになって気づいたのは、それはどう考えても現実にそぐわない破壊的な苦悩であったと思います。私は現在は、通常の物事に関しては論理的に考えられる方だと思いますが、この苦悩がつい最近まで続いていた理由は、おそらく、このことに関してだけは感情にまかせて考えていたのだろうと思います。

ひとつ思うのが、*もし自分に「根源的自己否定感情」が無い、もしくは程度の軽いものであったら、中学時代に友達に言われた一言がトラウマとなるようなことは無かったのだろうか…*ということです。その一言が私の中で「望む資格思考」に発展してしまったようなかんじでした。

心理学的素養もない親に、4歳以前の育て方が間違っていたなどと責めても、親は戸惑うばかりです。島野さんも過去原稿「心理障害の感情メカニズム」の中で言われているように、*“何が悪かったと細かく見ようとしても、本質は見えない”、従って、親にクレームをつけるのは間違っているのですよね? 間違っているというより、そこからの成長はあり得ないから、といったところでしょうか?*

私は20代の前半に島野さんの下級生の子と被るような恋愛経験をしました。もう少しは近い関係だったと思いますが、結果的に私は逃げました。今思えば、自分に嘘をつき続けなければならないことに、とても耐えられなかったんだと思います。以前メールの方に書かせていただきましたが、その後仕事を頑張り、仕事に限っては夢を叶えたと思っています。ところが今年の5月頃、「自分は何をやっているんだ、生き方が間違っている」という気持ちとともに、自分が成し遂げてきたものに罅が入って崩れ落ちていくような感覚になりました。覆いかぶされていたものが剥がされ、20年前の彼への感情が蘇ったのです。背景としては、ちょっとしたきっかけで彼の近況を知った、ということが多分に影響していると思います。

これは、自己操縦心性の崩壊であったと思います。
こんなちっぽけなキャリアを積んでいる暇があったら、心理学を勉強している暇があったら、なぜダメ元でも彼という望みに最大限の努力をしなかったのだろうと大泣きしました。
自分はもう大丈夫、人生において最も大切なことがわかった、とその時思いました。
島野さんの心理学に出会う前のことです。

それでも数日、数か月してみると、望む対象がもう望めないものであること、取り返しのつかない悲しみに心が張り裂けそうになります。それと共に、問題のない子供に育ててくれなかった親への憎しみも出たり消えたりしています。頭では「自立」しか道がないことがわかっているので消えるのだと思います。”痛みをただ流す”といいますが、感情の基調はまだ低く、こんな空虚な人生なら死んでしまいたいと思う時があります。「死」は私にとって、ひっそりと消え入るようなイメージです。他人に見せつけたいとは思いません。死ぬなら会社を辞めて、できるだけ人と疎遠になった上で、迷惑が最小限で済むような形にしたいです。*「自死はいけない」ということについて、もう少し詳しく解説してもらえませんか?*
“死にたい”というより、”生きていても意味がない” という方が自分にはピッタリくるかもしれません。こんな思考しかできない自分だから、彼とも駄目だったと、自己処罰感情にループします。*この気持ちは「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が本当の意味でなされた時に消えるのでしょうか?* 今だ、「望む資格思考」に苦しめられる感覚が残っているので、まだ完全にはこの2つは成されていないと思います。頭ではわかっています。好きな人と結ばれないことも、世界が不完全なるが故ということは。

長くなってしまい、すみません。
今の状況にたいして、アドバイス(特に*印で囲った部分)いただければと思います。


 
「失った愛への後悔への向き合い」など^^ / しまの
No.611 2013/09/12(Thu) 11:08:00

一通りじっくり説明書いてみましたので、ご参考あれ^^。


「根源的自己否定感情」

>そこで「根源的自己否定感情」について質問させてください。*この感情がどれ位の強さで自分の中にあるかを、推し量る方法はあるのでしょうか?*  

「根源的自己否定感情」定義など、最新の言葉で書いてみますとこうなります^^。
「こんな自分にならねば」というストレスが、それを否定し去るために駆り立てられ、まさにそれによって自分で意識できなくなる、「ありのままの自分では駄目」という自己否定感情
だと。
まあさらに短く言えば、「支配され、意識できなくなる自己否定感情」ですね。

『理論編』など読んで頂いていると思いますが、そこでは幼少期からの心理メカニズムを説明しており、幼少期での否定感情体験というのは大抵、そのように自分で意識できないまま支配されてしまうという形になっていくという話ですね。
成人以降においては、自分ストレスに駆られている場合に、そのメカニズムが働いていることを感じ取ることは、ストレスを脱し、心の健康と成長に向かい得る方向へと自分を軌道修正するのに役立つ、という話になります。
具体的問題取り組む中で、また具体的問題内容に応じて、その自覚把握の良い形どんなものかという話が出てきます。ですので何もないところで計る、もしくは一律杓子定規な測定法というような話はちょっと無意味になってきます。

またその克服は、「これが悪い」と自分の中の感情、およびその原因となった可能性のある自他の言動などを責めることは、全く無意味であるのは言うまでもありません。根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直しになることにも注意すると良いでしょう。
克服は、「感情と行動の分離の姿勢と実践を携え、全てを尽くして望みに向かって生きる」という成長の歩みの中で自ずと生まれるものです。
より具体的には、その歩みの中で、
「学びの一覧表」
掲載した、「4 悪感情の克服」の中に、「根源的自己否定感情」も、複雑な深層において含まれるものということになります。具体的には「恐れ」「自己嫌悪」克服あたりが最もになります。
重要なのは根源的自己否定感情克服がどなるか以前に、そこで示した克服方向性自分がどう納得理解するか、から始める必要があります。

ですので、「根源的自己否定感情」について、自分の過去の心の経緯を理解することは、無意味ではないとしても克服につながるものではなく、あくまで今、そしてこれからの自分の生き方に取り組む中で、その克服を織り込むような取り組みテーマが何かを見出すのが重要になってきます。このアドバイスできるものに記述しましょう^^。

ということで、
>もし自分に「根源的自己否定感情」が無い、もしくは程度の軽いものであったら、中学時代に友達に言われた一言がトラウマとなるようなことは無かったのだろうか…*ということです。その一言が私の中で「望む資格思考」に発展してしまったようなかんじでした。
とうことで、「根源的自己否定感情がなかったら人の言葉がトラウマになることはなかった?」については、「まあそうかも知れない」ということになると思いますが、そもそも根源的自己否定感情自体が結構誰でも程度の差こそあれ持つものです。で、人に言われたちょっとした言葉トラウマになるなんてのは、子供なんて大体そんなものだ程度(大雑把^^;)のことでもあります。
むしろそうした心の動きをすぐ脱することが可能になるような思考「学童期」に築かれるかが、重要になってくる『理論編』で書いた通り。この点でも過去を問うのは意味のない話だということになってきます。

>*“何が悪かったと細かく見ようとしても、本質は見えない”、従って、親にクレームをつけるのは間違っているのですよね? 間違っているというより、そこからの成長はあり得ないから、といったところでしょうか?*
上述の通りということでよろしいかと^^。


「生きること」そのものへの肯定と否定

>*「自死はいけない」ということについて、もう少し詳しく解説してもらえませんか?*
その表現「道徳」であり、ハイブリッド心理学では使わない表現ですね。
これに関連する話ハイブリッド心理学で書いているのは、以下の一箇所だけだと僕自身では記憶しています。
『入門編上巻』P.56
==================================
 自殺願望のある人に、「生きていればいいこともありますよ」と言っても、決して理解してもらうことはできません。
 なぜなら彼彼女は現に今は、不幸な生を生きる心なのですから、それとは違う伸び伸びとした心の状態を幾ら説いても、「今の心」の中で考える彼彼女が新しい心を「理解する」ことはあり得ないのです。
 ・・(略)・・
 ですから、本当の心の成長を望む場合に、知って受け入れるべきことは、こうなれればいいという姿ではありません。
 全く未知の状態に自分が変化し得るという事実を、受け入れることです。
 あとは、心を解き放って、現実の中で生きるだけです。
==================================

まあとにかく、「生きるのが辛い」という問題であれば、「今の心」どうこう考えるより、違う心へと成長する取り組みするかどうか問題だという話ですね。外面状況にも問題があれば、同じ外面状況でどう考えるかに、変えることができるものは何か考えるという話。
まあ人間には自殺もアリな極限状況というのはあると思いますヨ^^; 戦争で野蛮な敵に捕まっておぞましい人体実験の材料にされる事態を前にした場合とか^^; ハイブリッド心理学はとりあえずそうした極限ではない生活範囲守備範囲にしております点ご了承下さい^^。


ハイブリッド心理学の取り組み手順概要

そうした違う心へと成長する取り組みする場合重要なのは、取り組み方法自体を「今の心」で解釈してしまわないことです。
ハイブリッド心理学の取り組みをするなら、ハイブリッド心理学取り組み実践として説明している手順を、納得の有無に関わらず、とにかくやってみないと、成果についてはもう何も言えないです。関心納得した部分だけ力を入れるというものではなく。
まあそれを今まで分かりやすく整理して説明できておらず(^^;)、今回の解説でまずはその全体詳細整理した次第。今後より完結明瞭手短「こうします」という説明を出していきたいと思っていますが、上述の、

「感情と行動の分離の姿勢と実践を携え、全てを尽くして望みに向かって生きる」
という成長の歩みを、以下のような手順実践するわけです。

【自分の心の外に視線を向けた向き合い】
(1)取り組みテーマについて心の健康と成長に向かい得る外面行動法の「学び」を得る
   ↓
表面の行動法だけでなく、それを支える内面姿勢も含む
(2)それについての自分の納得度に向き合う
   |
納得度が低い場合、自分がハイブリッド心理学と違う道を選んでいることを覚悟する
   ↓
次の(3)は納得度が高まるにつれて可能になる
【自分の心の内に視線を向けた向き合い】

(3)(1)に照らし合わせての自分の内面への向き合い

   ↓
心に変化が起きてくる

重要なのは、自分の内面に取り組むに、まず問題テーマについての行動法や生き方の「学び」を持つことです。
それがおろそかなまま心に取り組もうとする、「逆の取り組み姿勢」がありがち、というか大抵の人がまずこの誤りからスタ−トしますので、こうした基本姿勢見直し確認からすると良いでしょう。
参考:2011-12-07『成長の道標への歩み方-13・取り組み姿勢の正誤』

またそこで、「心の健康と成長に向かい得る行動法(およびそれを支える内面姿勢)」というものですが、ハイブリッド心理学多少学び初めた段階では、具体的問題になるとなかなか自分では考えられない、もしくは考えても誤ったものになりがちですので、適宜質問頂くか、今後整理する『事例集』など広い情報を得るなどして、正しいものを自分で把握できるようになるまでかなり長い学習が必要になると考えて頂くのが良いと思います。
これは
基本的な流れ
で説明した通り。


「失った愛への後悔」への向き合い

今回課題テーマは、「失った愛への後悔への向き合い」などど言えるかと。

まず「後悔」というもの全般について一般的指針として言えるのは、
1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し

これを、本当満足が行くまで、徹底して行うしかないということです。場合によっては、一生続けるものとしてです。それが「全てを尽くして望みに向かう姿勢」なんですね。
この点、世に良くあるアドバイスが得てして「もう忘れましょう」というのとは正反対であるのがハイブリッド心理学の道です。
「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力
で、「気にしなければいい」「典型的に誤った克服方向性の発想」指摘したのと同じ話

これは過去の恋愛での後悔同じ話で、「失敗から学ぶ」というのはまあ分かるであろう課題として、おそらく多くの人が取ろうとする対処姿勢なのは、「後悔の気持ち」そのものがうまく収まるようにという姿勢で、自分の心に向き合おうとすることです。
なんですね。むしろ逆に、思いっきり、収まりつかなくほど心を解き放つ感じで、上記1)の「価値は何だったか」への向き合いをするのが正解だということです。
つまり平たく雑な言い方をすれば、相手が本当に自分にとって価値ある相手だったとしたら、思いっきり、「こうなれていたら自分はこんな幸せに」というプラス面の妄想にふけり、逃がした魚が大きかったと(^^;)一生悔しがればいいんです。投げやりアドバイスではなく^^;
それが「全てを尽くして望みに向かう姿勢」であるわけです。

そこでより実践的には、相手が自分にとってどんな価値があったということなのかを、精緻に自己分析向き合いをすることです。
「実はそれは愛ではない」という部分があれば、それをしっかり見据えるのが重要。たとえば相手の財産とか^^;
「愛ではなく依存」部分も、しっかり見据えなければならない。自分から愛に向かうことができないほど、過去に成立した愛を失ったことに精神的バランスを崩すことになる、というのがまず言える心理法則です。
するとここで分岐路が現れます。取り組みテーマが、過去の愛の喪失というものから、今、自分から愛に向かうことができる人間へと成長するとはどういうことか、へ。
そこからは、日常生活と人生の全て取り組み材料になると言えますね。
そうして
「学び」の流れチャート図
のような流れ始まる、と理解頂くと良いかと。

ここまでに書いたような取り組みを、まずはざっと3年、と考えると良いと思います。解決克服までに、ではなく、心の成熟変化の入り口に立つまでにです。そこからさらに本格的変化という先に、規模の次元が違う変化への歩みがあるという按配。
あとはまあ相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないというを持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可ということになるでしょう。


「否定価値の放棄」への歩み

あと残りのご質問ですが、

>“死にたい”というより、”生きていても意味がない” という方が自分にはピッタリくるかもしれません。こんな思考しかできない自分だから、彼とも駄目だったと、自己処罰感情にループします。*この気持ちは「否定価値の放棄」「不完全性の受容」が本当の意味でなされた時に消えるのでしょうか?*
今だ、「望む資格思考」に苦しめられる感覚が残っているので、まだ完全にはこの2つは成されていないと思います。


「こんな思考しかできない自分だから、彼とも・・」といった思考「今の心」でのものとして、まず別の心へと成長変化する取り組み上記のようなものになりますので、まずそれに取り組むかどうかです。取り組み始めれば、それは上記のような取り組み視点へと変化し、もうその思考の形そのものは存続しないと思いますので。
「否定価値の放棄」は、ちょっと今回のテ−マだけでは問えず、テ−マそのものかなり距離があるという感じです。上記のチャート図に示すように、日常生活と人生への向かい方の全て取り組み直す中で、
ハイブリッド人生心理学の「未知への信仰」
で書いたような哲学宗教的テーマにも心底から興味を持って取り組むと、見えてくるかも知れないというものになります
「生きていても意味が」云々は、それよりずっと前の段階で、今回説明の取り組み開始が軌道に乗った段階で、問題そのものがどうあったか結構消えている、という形になると思いますので^^。


 
Re: 根源的自己否定感情、その他質問 / にーな
No.621 2013/09/20(Fri) 16:25:13

島野さん、丁寧な回答をいただきありがとうございます。
ひきつづき、いくつか質問があります(**印)。長いですm(_ _)m。

>根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情 の焼き直しになる
*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*
*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 – 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る → その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた ”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*

>根源的自己否定感情自体が結構誰でも程度の差こそあれ持つものです。で、人に言われた>ちょっとした言葉がトラウマになるなんてのは、子供なんて大体そんなものだ程度
島野さんにこう言われて、親の間違いを探し、指摘し、責める姿勢の勢いが弱まった気がします。母がよく言う「そんな完璧な親はいない」という言葉も受け入れる余裕ができました。本当は自分も辛かったんです。子育てに問題が無かったとは言えないけれど、娘の幸せを思う気持ちには嘘は無いというのがわかるからです。ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。 私が思うように私の心を理解してもらうことをどんなに求めても満たされることはないし、その必要もない、それが分かったから、私は心の自立に向かおうと思います。怒りの感情を無きものにしようとするのではなく、ありのままに感じ取り、行動はあくまでも建設的にですね。

>そうした心の動きをすぐ脱することが可能になるような思考が「学童期」に築かれるかが、重要になってくると
残念ながら「学童期」に築かれてなかったのだと思います。残念です、こんなに長引いてしまったなんて。正直、人生を失ったと思いました。でも、島野さんの心理学に救われました。そして、脱せなかったことを嘆き続けるのではなく、今脱することが大切なんだとやっと思えるようになりました。


「自死はいけない」というのは確かに、考えてみれば「道徳」でした^^; 。島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ = 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?* Wikiによると、「実存」というのは「本質存在」ということですから、言葉通り、自分の本質、もしくは主体といったことでしょうか? その場合、島野さんが例をあげた極限状態では、己の実存を守るために自殺もありなのかな、と思いました。


取り組み手順については、ブログに目を通させていただき、”内面姿勢” に取り組みながらも、基軸はあくまで ”外面行動” という理解をしました。 まだ学びの初期段階ですので、行動法や生き方の学びについては具体的な材料が出てきた段階で、事例集などサイトの中から探す、もしくはこのページで島野さんへ質問をさせていただくことで、確認を行いたいと思います。あまりハイブリッド心理学の理論に則っているかどうかに神経質になると、枠はめ法に陥る罠もあるかと思いますので、その辺りは自分の直感も信じて、楽しく学んで行くつもりです。


「失った愛への後悔」への向き合いの1) 2)について、自分でもここ数カ月考えていました。

>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ  (4. 人生: 一緒に生きること)
島野さんが ”愛ではないもの” の例であげた ”財産” はまず無いな、と思いました。ただ、容姿はかなり好みだったこともあって惹かれた理由のひとつになります。それと、安定した職業や学歴なども多少なりともあったかなとは思います。しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる “純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。4に人生としましたが、これは3の延長線上に来ると思うので、失った価値としてはかなり不確定と感じ()閉じとしました。依存したい気持ちがあったかどうかわかりませんが、あの精神状態の自分が実際に彼と付き合い続けた場合、間違いなく依存の関係になったであろうと思います。
従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*

>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し
心については、怒りや劣等感が入り乱れたグチャグチャ状態だったと思います。人に相談したり少しは向き合おうという気配は見せましたが、若かったこともあり、ストレスを溜めなくていい他の道へと方向転換をしました。具体的には仕事や、もっと楽な異性との付き合いでした。望みを見失ったまま、完全に穴埋めの行動に走っていたと思います。仕事については、それなりに成果を出せたこともあり達成感も得ました。異性については、心はむしろ病んでいったと思います。この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。

上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。


>思いっきり、「こうなれていたら自分はこんな幸せに」というプラス面の妄想にふけり、逃がした魚が大きかったと(^^;)一生悔しがればいい
これもわかりますし、実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。
*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*
また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。20代前半の恋愛は人生において最も大切なものと思えるのですが、そこには初恋の感情の焼き直しがあったと思いました。初恋の時は相手から好意を示されたにもかかわらず、それに答えることができませんでした。相手は単に振られたと思ったかもしれません。私にしてみれば、相手が素敵すぎて自分には資格がないと思い動けなかったんです。偶然にも島野さんと同じ小6の頃の体験で、その後は視線恐怖ならぬ赤面恐怖に怯える中学時代となりました。心を解き放って付き合っていたら…違う青春があったのか…。 実際には親や友達いろんな人が関わってくるので、あのような弱い心ではその後に襲ってくる試練を乗り越えられたか自信がありませんが^^;、ひとつ望みを乗り越えて強い精神になれたと仮定し(というか今の精神状態を借りてきて)プラス面の妄想にふけってみました。少女マンガの世界を超えるような満足感がありました。私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*
私は実は初恋の失敗以来、あの時感じた「透明な感情」、初恋の少年と見つめ合った時に感じた「世界が止まったような、突き抜けるような何か」に触れることができなくなった…という喪失感をずっと抱えていました。おそらく、あれは魂からの感情だったんだと思います。普段は日常生活に追われて忘れていましたが、好きな異性の目をバリア無しでは見詰められなくなってしまったような、分断されたような感覚が続いていました。妄想にふけることで、あの透明な感情が自分に戻ってきたと感じました。「今、愛へ向かうことができる人間へと成長できているかどうか」は実際に対象が現れなければわかりませんが…恐怖はまだあると思います。

>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておく ことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」 という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可
*これは、多面を同時に見るということでしょうか?
相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*


 
「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^ / しまの
No.630 2013/09/27(Fri) 20:52:16

少々時間を食いましたが、またじっくり^^(事例集にも乗せられるよう^^)


「根源的自己否定感情が働く心の動きになるまいという姿勢がまさに根源的自己否定感情の焼き直し」

>*これは、あるべき理想を抱いて圧力を掛ける(例えば、暗い自分ではダメだからと無理に明るく振る舞うなど)ことが、さらなる恐怖の蓄積を生み出し、本当の自分(ありのままの感情)は置き去りにされることで、つまり見放された感覚はちっとも無くならない、というような状況を言っているという理解でよろしいでしょうか?*

いえ・・それは「焼き直し」の話ではなく、根源的自己否定感情働く様子そのまんまですね^^。
「焼き直し」になってしまうとは、そうした根源的自己否定感情悪影響理解するのは最初の学びとして、そこから始まる心の成長への取り組み実践においては、根源的自己否定感情についてはあまり取り上げることはできないものになります。意識できないものですので。
取り組み実践は、根源的自己否定感情を克服しようという意識ではなく、あくまで「望み」に向き合い「望み」に向かうという意識の上に前進するものになります。
そうした状況で、根源的自己否定感情について理解した後に、それがなくなる自分を理想像にしたり、その克服をしようとことさら考えることが、まさに根源的自己否定感情が再び働いている焼き直しになるということです。

で、それではいけません・・ではなく、それもある程度仕方ないこととして、取り組み実践は、それとは別のものとして、「望み」に向き合い向かうことを軸としたものとして進める必要があるということになります。
その話のような例で言えば、自己否定感情の上に「無視に明るく」しても「見放され感」がなくならないというのを、今までの自分の心への理解として、次に向かうべきことは、そうして「無視に明るく」しようとした状況で自分が何を望んだのかを、そしてこれから何を望むのかへの、向き合いから始めるということです。その先に、無理にではなく明るく振舞えることを模索するのが、あるいは自分をいったんそうした場から離すことが、今できる最善の行動になるかも知れない。
それが、「望み」に向き合うと共に、心の健康と成長に向かい得る行動法の選択肢を学び、自らの幸福に向かうための選択を模索するという、この心理学取り組み実践になるわけです。


根源的自己否定感情はどのように克服されるか

>*「恐れ」「自己嫌悪」の克服あたりが最も軸になる” とのことですが、具体的な克服法としては、恐怖、自己嫌悪を感じる時がまさにチャンスとなるでしょうか?* *恐怖、自己嫌悪を感じる場面に直面した時、「学びの一覧表 - 内面向けテーマ- 悪感情の克服」の項目に真摯に向き合い納得理解し、建設的な行動を取る
→ その結果、心に変化が起き「根源的自己否定感情」に駆り立てられていた
”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)ことが直接感じ取れる感情としては実感できる、というような流れになるでしょうか?*


全ての悪感情が、「学び」チャンスです^^。
その中で、根源的自己否定感情に駆り立てられた「こうあらねば」ストレス消える流れを考えるならば、
1)硬直した善悪思考による「こうあらねば」を、「目的思考」による合理的な「これこれのためにはこうできれば」という思考置き換える。これは行動以前のもの。
2)自分の「望み」に沿う合理的な「こうできなければ」という目標について、合理的な知恵とノウハウ学び実践し、実際にできるようになる。
3)合理的な「こうできなければ」という目標について、そうあれない自己の内面に向き合い、「心の死と再生」を経る。
という大きく3つの通り道があると理解しておいて頂くと良いと思います。
これは、
「学び」とのギャップを生きる
心が進む道
などで、そうした3つの通り道があることを言っている通りです。

ですので、「建設的な行動を取る →”こうあらねば” という感情が無くなる(または、弱まる)」という流れは、厳密にはないように僕としては感じています。行動以前に、不合理だったものとして捨て去られるか、行動して「実際そうなれた」ので、「ならねば」とはもうあまり感じなくなる(これは当然^^)
3つめの通り道について留意しておきたいのは、「こうならねば」というストレスのが「望み」にも沿うものとして、むしろ膨張し、呑み込まれてしまうという流れになることです。取り組み実践の中で、そうなる流れがあります。そこで場合により希死念慮も起きる可能性もある。この場合は、それをただ流す先に「心の再生」があることを心得ておくことが大切です。

いずれにせよ、「こうあらねば」ストレス「望み」具体的内容によって、ハイブリッド心理学からの「心の健康と成長に向かい得る行動法とそれを支える内面姿勢」の具体的内容が出てきます。まずそれを学んで頂くのが道順になります。この具体的内容抜きに、あまり克服への流れを考えても取り組みはあまり前進しません。
ま例によりその具体的内容の情報提供整備がこれからなんですけどね^^; というか今からここで書きますのでという話^^。

根源的自己否定感情克服そのものを言うならば、そうした取り組みによる前進全てが、徐々に貢献します。
そしてさらに、そうした地道な成長の積み重ね足場に、「自分が神になる衝動」という哲学宗教的テーマにも向き合うことで「否定価値の放棄」を成すと、根源的自己否定感情克服としても大きな節目になります。そしてそれでも残る根源的自己否定感情克服の、最後の大きな節目「命の開放」として述べているものになるというのが、ハイブリッド心理学の登山ルートだという次第です。


「実存を守れ」

>島野さんは、執筆のどこかで「実存を守れ」という言い方をされています。実存を守れ= 自死否定 と私が捉えてしまったと思います。*ちなみに、「実存を守れ」というのはどういう意味で使われたのでしょうか?*

『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択
『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1
ですね。
「自己操縦心性の崩壊」に際しての心得として、その言葉を使ったものです。自殺の否定といった一般的な話ではなく、取り組み実践かなり限定された場面の話になります。

「自己操縦心性の崩壊」とは、根源的自己否定感情原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態が、「空想通りではない現実の知覚」あるいは「空想に生きている自分の誤りの知覚」によって崩壊すると言えるような現象です。その時、こうした意識状態つまり自己操縦心性裏返しと言える、今まで隠されていた「自分は駄目だ」という感情表面化希死念慮が起きることがあります。これは上述3つ目の通り道、つまり「望み」にも沿う「こうならねば」膨張する流れとして起きる可能性もあります。
その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。

さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、死ねばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。
「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。
実はこれこそ飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。
視野その2・「成長の望み」

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それを意識してからは、変化のスピードが加速度的にアップしました。自分からそのような心の中の行き止まりに積極的に意識を向け、自分で「意識がうまく死ねる」ようになってきたからです。
================

と書いたものや、
2010-04-12『「絶望」の名手になれ』
で書いているものも、この心の仕組み自分から積極的に突入するような姿勢のことを書いている次第。

いずれにせよ、まずはそんなこともある心の片隅に置いといて、取り組み実践の本道はあくまで、まず「望み」への向き合い具体的な学びからです^^。


「現実において愛を育てる」ことへの学び

>>1)失って後悔している「価値」とは何だったかの見極め
>1. 外見とか 2. 純粋さ 3. 一緒に過ごす時間、楽しみ  (4. 人生: 一緒に生きること)・・(略)・・しかし、何よりも、ふざけ合っていた交流の中で時折見せる“純粋さ” “優しさ” “繊細さ” が好きでした。そして、失って後悔している最大の価値とは、島野さんが愛の定義としてあげている、「喜びと楽しみの共有」であったと思います。私の出方ひとつで、もっともっとそういう時間を共有することができたのに、という後悔です。・・(略)・・従いまして、好きな気持ちが止まらない反面、*あんな精神状態の自分とは付き合わなかった方が彼にとっては正解だった、という気持ちもあります。でも、これは「後悔の気持ち」が収まるようにという姿勢になるのでしょうかね?*
>>2)「失敗から学ぶ」という行動法の見直し
>この経験が、結果を問わず好きな相手に向かうことがどんなに大切なことかを逆に教えてくれました。姉に言われた「にーなは幸せをつかもうとしていない」という言葉が、自分が全く行動を起こしていないことを自覚するきっかけともなりました。
>上記が現在思う限りですが、これを徹底的に行うということですね。引き続きやってみようと思います。

ということでこれが本題になると思いますが、それらがまずは「今までの心」だとして、それとは違う、心の健康と成長に向かい得る行動法と姿勢は何かの学びから始めるということです。
ここで書いて頂いたものは、その学びをまだしていない段階で、「今までの心」のまま、「失った価値への向き合い」「失敗からの学び」を試みているもののように多少感じられます。ですから後悔を収めようとする姿勢になるかどうかも、それを徹底的に行うも、まずは学びを得てからの話になると思います。

ここで学びになるものとは何かとは、ずばり、「現実において愛を育てる」ということはどういうことか、になると思います。
それで言いますと、これは多少僕の個人的意見も入ってきますが、そこでその男性に価値を感じた感情と、それを元にしてもし自分がこんな出方をしていたら・・といった思考全体が、「魂の世界」において何かの琴線に触れるものとしてあり得たとしても、「現実の世界」において愛を育てるものには、あまりなり得ないように感じます。
自分が相手をどう好きかという互いの感情の交流だけでは、現実の愛はあまり育てられない。

「現実生活」というものがあります。それをしっかり成り立たせるものとしての愛を、模索しなければならない。どんな結婚生活子育て、そして老後を送りたいか。そうした「現実生活」ベースの「共有」をしっかりと支えにした「愛」が、「現実の世界」において育つ「愛」です。それがしっかりと見出せないならば、互いが好きという気持ちの交流だけあったとしても、むしろ別れていることを選ぶというのが、現実の賢明な選択になり得ます。
またそうした気持ち(フィーリング)ベースだけで向かう姿勢の時に、互いが好きと思ったのが実はそうではないという状況が、しばしば「恋愛詐欺」の形で起きる背景になるという知識へのも持つといった、視野の広さが大切です。
こうした指摘不愉快に感じるならご容赦ですが、ふざけ合っていた時の気持ちの交流惜しむというのは、とびきり気に入ったペットを買い損なったという後悔と、範疇が一緒なんですね。ペットへの愛も時に命の重みを持つとしてです。しかしそれは互いが別の人格であることを認められる上に培い育てる、成長する人間同士の愛とは違うものです。この姿勢からの後悔があるとすれば、相手の魅力がどうだったかというより、相手がいかに自分を大切に思い自分と共に生きようと思っていたかの相手の「意志」を、感じ取ることができなかったことへの後悔といった話になるかも知れない。

そうした「現実生活を共有するものとしての愛」という視線を持たない恋愛が、ティーン少女マンガの世界であり、そうした世界の中だけで考えていないか、という問いになります。
もちろんそうした世界の中にある、互いが好きな気持ちだけで結ばれることの、あまりの輝きを否定するものではなく、逆にその輝きを純粋に心の中で、「魂の世界」のものとして守るためにも、「現実の世界」において道を踏み外すことなく絆を育てることへの洞察が、重要になってくるわけです。自分がやがて老い、そして死をどのように迎えるのかという大きな視野の下にです。

あるいは、そこにはそうした「相手の魅力への愛」「現実生活を共有する愛」というベクトルにも収まらない「愛」があったかも知れない。それは「魂の世界」の愛だと言えます。自分の中で失われた「命」を取り戻すために、その相手が、自分の人生に遣わされたとも言えるようなものとして・・。そうであるならば、それは間違いなく、一生向き合い続けるべきものです。でなきゃー嘘です。


「2の心の世界」の歩みへと向かう

そうした、まずは「現実の愛」についての学び主軸を置いた向き合いによって、

受けとめられる側の心
   ↑
   ↓
受けとめる側の心


という2つの心の世界自分自身の中に持つのが、ハイブリッド心理学歩みの道のりです。
2つの心の世界を持つ
として説明したように。
そうして2つの心の世界を持つことで、互いの心の世界に、神秘なる変化始まるわけです。「命」の力によって。決して一頭立ての心のままでは起きないような、神秘的な変化がです。

で、「受けとめる側の心」培い築くのに、時間がかかるわけです。前回「まずはざっと2、3年」と言ったのはそれです。決して、今の心でそのまま2年3年向き合えば変われるという話ではなく。
今までとは全く違う、「愛」への向かい方、行動法と姿勢、それをまあ具体的に言えば「婚活」自分としてどう位置づけるかとか、そこで男性を見る目再構築といった具体的テーマに取り組む中で、自分の中に変化が生まれてくるのと平行して、上述のような向き合い過去の「愛」への感じ方についても、次第に心を変化させる意味を帯びるようになっていきます。

それがどのように変化させるようになるかと言うと、「受けとめられる側の心」が、より純粋化するとお伝えしておけます。
そこで見えてくるであろうものを言うならば、たとえば「自分では彼に見合わない」「資格がない」といった気後れに、恐らくは「存在の身分としての恋愛」という大いなる「愛の汚染」『入門編下巻』P.266)が起きていたのが、間違いない事実であろうと。これはもう親による子供の育て方うんぬんなど関わりなく我々が陥るなんですね。その点、

>ただ子供を幸せに導く術を知らなかっただけだと…残念ながらいまだにですが、それを突き詰めると怒りがぶり返し、メビウスの輪のように止まるところを知りません。
といったものは、自分を妨げたもの本当に何だったのかがまだ分かっていないからこその、ちょっと的外れの怒りだったりするように多々見える次第。
最大の妨げは、間違いなく「存在の身分としての恋愛」といった心の動きにあったと思います。それを浄化することで、「互いが好きな気持ちだけで結ばれる輝き」といったものも、純粋なものとしてさらに鮮明に心に蘇るという流れになるでしょう。我々の不完全な「現実の世界」ではあまり求められるものではなく、「魂の世界」のものとしてです。

いずれせに数年先の話として、そうした向き合いが進んだ時、内面感情現実の行動も、もう今からは予測もつかな別世界のものになります。


「愛」の裏にある「強さ」「自尊心」の価値観に取り組む

また取り組みテーマになるものとして極めて重要で必須になるものの話を加えておけば、「愛」への姿勢および感情にある、「強さ」「自尊心」への姿勢や価値観です。
これについて具体的な視点を説明し始めると話が長くなり過ぎますので割愛しますが、まずとっかかりのポイントを言っておきますと、「命」にしっかりと根ざす「強さ」「自尊心」を得た時、「愛」が得られないことで「生きていても仕方ない」とはそう簡単にはならないんですね。仕事得たもの無意味のように感じてしまうことにに、人間としての真の強さや自尊心といったことに実は心が向いておらず、心底は心の芯を失ったまま「愛が全て」「愛があれば全てが解決(という幻想)」というあり方になっていたのかも知れない。
真の強さや自尊心といったテーマに、それを単独純粋に取り上げ自分がいったい「本心」でどんな考えを持っているのかから、取り組む。真の強さや自尊心を経てこそ、「愛」あり方根本的に変化します。「愛」だけに向き合っても起きない変化としてです。
これが上記「受けとめる側の心」築くための、主軸になると言えるものです。


「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕とは

以上が取り組み方本題として、あとは周辺的な話になると思いますのでなるべく手短にコメントしておきますと、

>実際この2〜3か月程妄想にふけってみました。付き合っている状態が夢に出てきたこともあります。心が満たされる効果はあると思いました。*ひとつ心配なのが、これを長い期間続けることによって、心が固定されストーカー化したりはしないのでしょうか?*

人を終生愛し続けることがストーカーであることなど断じてありませんストーカーあるなしは、まずは相手に不快や恐怖を与える「つきまとい」行動の有無で分かれます。また内面的には、ストーカーつながるのは「所有欲」であって「愛」ではありません。まあ心が若く未熟であるほど、「所有欲」「魂の愛」重なってしまうので、まさに向き合いと踏ん張りどころです。

>また、余談ですが、この過去の恋愛に向き合ったことが、自然と初恋の感情を呼び起こすこととなりました。
>私はいつも少女漫画を読むと、自分がキラキラした世界から取り残されたような悲しさを感じていました。でもそれがもうありません。*自分がそういった青春を過去に持っていて、懐かしむような愛しい気持ちです。体験していなくても体験したような感覚です。これが実体験を凌駕するような、ということでしょうか?*

「収めようとする」ではなく「とことん開放する」へと軌道修正したことの、まずは効果だと思います^^。
「魂の世界」による「現実の世界」の凌駕と言っているのは、
1)叶えられなかった悲しみ受けとめ尽くす先に、むしろ叶えられていたかのような心の豊かさの感覚が生まれる
2)「現実の世界」ではあり得ない輝き帯びた感情として、「魂の世界」における「望み」の感情(「魂の愛への望みの感情」)体験される
という主に2パターンになると今考えています。
書いて頂いたものは、まずは1)該当するかと。
2)該当するものは、上述の「2つの心の世界」の歩みに向かう中で、「受けとめられる側の心」次第に浄化される中で、やがて体験されるかも知れない、と心の懐にいれておいて、自分自身の感情へのアンテナ研ぎ澄ませていくと良いと思います。

一言でいえば、「愛」「現実世界」において基本的に極めて不完全です。「現実世界」ではもう一つ「自由」という重要な心の課題があり、「愛」がそれを妨げる、つまり「愛」とは基本的に「不自由」である。これが「現実の世界」です。
ですので、「現実の愛」模索して見出し獲得していくものと、それと切り離された「魂の世界」見出し獲得していくものが、次第に互いを妨げることなく2つの峰のように育つことになります。そして最終的には「魂の世界」の方がより強く大きなものとして、「現実の世界」支えるようになるというです。ただし我々の「心」あくまで「現実の世界」に立脚したものとして前進しなければならない。これが最後まで難しいところです^^。


人との運命は最後まで分からない

>>相手にせよ自分にせよ、どんな運命の変化があるかは分からないという目を持っておくことですね。再び相手に近づく行動を考えるのも良し。ただし「外面行動は建設的に」という指針の上でです。相手が家族持ちであれば、相手にも分かるような行動は不可
>*これは、多面を同時に見るということでしょうか? 相手にも分かるような行動は不可とうのは、会うための連絡を取ること自体が不可ということでしょうか? 私は自分に友達以上の好意がある以上、会うことはもう無いと思いますが、相手に近づく行動というのは具体的にはどういったものになるでしょうか?*

「多面を同時に見る」は、とりあえず
島野が通った主な転換の流れ
バーンズの言葉流用して述べた「真の自尊心」への姿勢
そして生きることそのものを「現実の世界」「魂の世界」として見ること、そして2つの心の世界持つことなどに関連します。特定相手への行動法にはちょっと出てこない話かと・・。

まずそこで言ったのはごく一般論なので、相手に近づく行動というのが具体的にどんなものになるのかの具体的アドバイスは、さらに詳しい情報がないとできません。
まず一般論として言えるのは、相手の今がどうなっているのかの情報へのアンテナを持つことからになるでしょうね。
運命は分からないというのは、例えば互い別の相手と結婚しても、互い相手と死別したあと再会してまた一緒になるといったストーリーも世にはあるというような話です。今分からないそうした未来を、今切り捨てることはない。
相手に実際に会いたいなら、控えめに偶然を装って出会える状況を目論むことは、まあ許されるでしょう。
そうした全てが難しい場合でも、本当に魂から相手を愛するのであれば、自分の心の中だけにおいても、その人と生涯生きることを決意することです。このレベル道を誤ることこそが、生きる意味を見失う最大の原因です。現実世界では他の男性と結婚した上でも、それはアリだと思いますヨ^^。
生きるとは、結局、自ら愛に向かうことです。自分からそれを捨ててしまうことは、まさに生きることそのものを、「命」を、自分の中で失うことなわけです。


ということで、このご相談「人生で最も愛する相手に向かう」という、心の成長歩みにおいても山の頂き該当するテーマを扱ったものになっています。それでも頂きには裾野が広がっており、山の頂きかいま見えたとしても、歩みの道のり広い裾野からのものを一通り通らねばなりません。
そのポイント一通り説明したものということで^^。

追加質問などもあるかと思いますがかなり長くなりましたので、何かあれば新規トピックを立ててお寄せ頂ければ^^。


少々お待ち頂いています^^ / しまの
No.629 2013/09/26(Thu) 12:20:51

手と頭が共にやや忙殺されており返答レス少々お待ち頂いています。ご了承あれ^^。


近況のご報告 / serori
No.612 2013/09/13(Fri) 00:38:46

こんばんは。
以前からご質問等させていただいております、seroriです。
最近、また少し進展がありましたので、感謝とご報告の書き込みをさせていただきます。

ようやっと(早い遅いに意味なんてないでしょうから、自分の中の悩み時間の度合いですが^^;)、自分の望みが分かりかけてきました。
即ち「自分が楽しくて、自分と楽しみを共有できる周りの人も楽しくなれれば、幸せ。その”楽しさ”を、自分が創れたら、もしくは創るきっかけになれたら、もっと幸せ。そんな幸福を追い求めたい」というような感じです。(うまく言葉に表せたか分かりませんけど)

金銭にも、一般的に価値があるとされる金品にも価値を見いだせず、仕事をすることの意義も分からず、かと言って自分から積極的に新たな行動を起こすのも面倒で、とにかく面倒事は避けたくて、生活能力なんて皆無で暮らしてきましたが、それらを求める”心”を受け入れてからは、人を最大限頼って感謝をし、仕事もそこそこ、なるべく自分の楽しいと思うことをやり、楽しみを共有できる人を探し、できれば楽しいこと自体を仕事に(価値に変換)できる方向を探りつつ生きることができるようになってきました。
「自分にとって、一番価値のある(心が喜ぶ)こと、幸せになれることは何か?」を求め続けた結果であります。

その経過において、最も大きな障害は「自分本位ではいけない」「健康でなくてはいけない」「自己を犠牲にしなくてはいけない」そして何より「生きていかなければいけない」という価値観でした。ですが、それらを最初からそれを何となく分かっていたのに、自分は嫌々従っていただけだった、ということを認めました。

そのために受け入れたリスクは、一般的にはおそらく、低賃金・不健康・不安定と三拍子揃ったものでありましたが、最近は、それすらあまり気にならず、ただただ命を尽くして「私と同じようなものに楽しみを見いだせる人と、楽しみを共有したい」という気持ちに落ち着くようになりました。いつ死ぬかも分からないし、そんな生き方もありかな、と納得できるようになってきました。
「次の瞬間に死んでも、後悔しない」という感覚です。

今後もまた、今と環境ががらっと変り、新たな試練(自分の心と向き合う機会)に出くわしそうですが、まずは一つ山を越えた感じです。新たな環境で、未知の自分に出会えるかもしれないことに、わくわくしております。
これを機会に、またハイブリッド心理学を最初から読み返し、次の山に備えたいと思います!

以上、近況のご報告でした。


 
Re: 近況のご報告 / しまの
No.614 2013/09/16(Mon) 10:28:15

>なるべく自分の楽しいと思うことをやり、楽しみを共有できる人を探し、できれば楽しいこと自体を仕事に(価値に変換)できる方向を探りつつ生きることができるようになってきました。

まずは人生観レベルでの転換果たした感じですね。
はその具体的内容や、具体的場面での行動法のレベル取り組みになると思います。具体的内容思ってもみなかった方向に変化するという、「取り組み実践を超えた世界」のことも起きるかと^^。
具体的なヒントなど欲しくなった折は、また何でもご質問頂ければ^^。


 
Re: 近況のご報告 / serori
No.618 2013/09/18(Wed) 20:20:48

 レスをありがとうございます。
 具体的内容については、まだ考えあぐねているところなのですが、まずは考えるより先にいろいろ試して、それについてどう感じるか、どう感じ得るかを試している段階であります。
 おかげさまで、「新しいことを始める際の不安」は、十分な下調べと経験・事実に基づいた冷静な分析を不安がなくなるまで徹底的にすれば良い、と気付いたことにより、大分軽減されておりますので、命に危険がない範囲で、思いついた楽しそうなことを試せております。

 まずは、次の段階として、「楽しいことだけで生きていくには、どうすれば良いか」が私にとってのテーマです。それは「楽しいことをお金に変換する方法」や「お金がなくても生きていける方法」や「それは無理だ」と悲しんで諦める方法かもしれませんし、もっと別の方法かもしれません。あるいは、いろいろやりながら「時間が解決してくれるまで待つ」というのもアリかなあ、とも思い始めています。

 まずは、今の段階で致命的に困ったことはないような気がいたしますので、いろいろ試してみます。もし、アドバイス等がありましたら、コメントいただけると嬉しいです。


 
「価値を基準に向き合い、楽しみを基準に抜け出る」^^ / しまの
No.624 2013/09/21(Sat) 16:36:49

>おかげさまで、「新しいことを始める際の不安」は、十分な下調べと経験・事実に基づいた冷静な分析を不安がなくなるまで徹底的にすれば良い、と気付いたことにより、大分軽減されておりますので、命に危険がない範囲で、思いついた楽しそうなことを試せております。

Goodな前進ですね^^。

>まずは、次の段階として、「楽しいことだけで生きていくには、どうすれば良いか」が私にとってのテーマです。・・(略)・・まずは、今の段階で致命的に困ったことはないような気がいたしますので、いろいろ試してみます。もし、アドバイス等がありましたら、コメントいただけると嬉しいです。

人生の前進と「望み」への向き合い
あたりのになりますね^^。
まず基本的は指針は、その次のパラグラフの
「自己分析」と「見通しづけ」の導き
の終わりでサマリーしていますが、
実際に「人生の前進」に向かうための、最初の指針とはこうなるのだ、という話をすることができます。
まずは目の前に置かれた日常生活と人生の「問題」と「課題」に対処するための、知恵を学ぶことです。それを手にしたあかつきに、思う存分、自らの「望み」を描くが良い、と。目の前に置かれたレールなど、多少とも捨て去ることも視野に入れて、と。

というもの。

その点、「楽しいことだけで生きていく」というのは、ちょっと難しいかもですね^^;
「目の前に置かれた日常生活と人生の課題」というのは、あまり選り好みできず「そこにある」というものになると思いますので、まずそれへの対処の知恵とノウハウ得るというのをしっかり積み重ねると、その先自ずと、自分で進路を選り好みしていける心の世界が開かれる、ということになるかと。

格言的にはこんな表現ができるかと。
「価値を基準に向き合い、楽しみを基準に抜け出る」と。

向き合うべき問題かどうかは、楽しいかというよりも、「価値」をどう感じるかによる。向き合うことが苦しくても、向き合う価値のある課題もあると思います。
そこで幾つかの対処法選択肢を学んだら、最後には、「何が本当に自分にとって楽しいことか」によって、その選択を成すこととして、抜け出るのだ、と。

まこれはちょっと抽象的な話の範囲ですので、また具体的材料など出たら新規トピックなどで質問頂くと良いかと^^。


(No Subject) / ピヨ
No.619 2013/09/19(Thu) 19:19:55

 再掲載です。島野様 回答いただけたらと感じてます。

 現在は、大学の心理学科がたくさんあると感じています。

 図書館で自分の興味のある本を見つけて、学んでいくのも良いと思いましたが、
私自身も、上記の大学で学びたいと考え在学しています。
そして、様々なテキストを読む中、すばらしいテキストに出会えてることが多く、ありがたく感じています。

 島野さんの本も、数年前に購入してすばらしい本であると感じました。先週末、片づけをしていてその本を目にしてもう一度読みました。以前に読んだのに、今の自分に重要な本であるとその時以上に感じました。

 島野さんは、執筆活動等で収入を得ているのでしょうが、電子本の無料などまとまった収入があるのでしょうか。また、本の内容は深く、どこからその学びが出来ているのだろうと思いました。
 今回、メールに翌日に答えていただけることを知って、もっと早く知っていたらと感じました。

 職場と言うところは、楽しく仕事をしたい方が多いと思います。そのため、静かであったり、話が無いとつまらないと言う方が多いです。
 
 人間関係では、相性の中で、内向的や外向的が影響していると思いますがいかがでしょうか。

 知的障害や、発達障害なども、島野さんの話されている、愛の不足と関係はあるのかどうかもお聞かせ下さればありがたいです。

 女性は、子育てを通して、自分の子供の頃を思い出すことや、人の育ちを考えることにつながる傾向がありますが、男性は女性とはまた違った学びがあるものなのでしょうか。

 会社など、集団で働く職場は、人間関係が複雑ですが島野さんの仕事の環境では、集団の会社と比べて人間関係からは離れられているものでしょうか。


 
仕事と人間関係など^^ / しまの
No.620 2013/09/20(Fri) 11:16:23

>今回、メールに翌日に答えていただけることを知って、もっと早く知っていたらと感じました。

大抵2、3日手が空いてなかったり長いアドバイスになる場合は数日かけてという感じになりますので、基本のんびりお待ち頂ければ^^。


>島野さんは、執筆活動等で収入を得ているのでしょうが、電子本の無料などまとまった収入があるのでしょうか。また、本の内容は深く、どこからその学びが出来ているのだろうと思いました。

執筆では基本的に収入はありません。社会人時代の蓄えで生活しています^^。
学びは、人生体験そのものから得ています^^。


>知的障害や、発達障害なども、島野さんの話されている、愛の不足と関係はあるのかどうかもお聞かせ下さればありがたいです。

知的障害発達障害原因として、愛の不足というより、もっと全般的な悪い育児環境原因になるかも知れませんね。育児放棄的状況とか。また先天的な脳の障害なども関係すると思います。
いずれにせよハイブリッド心理学自己啓発のための心理学の分野になりますので、知的障害発達障害についてはあまり扱っていませんことご了解頂ければと思います^^。


>人間関係では、相性の中で、内向的や外向的が影響していると思いますがいかがでしょうか。

ハイブリッド心理学では、人間関係については「建設的対人行動法」学びを示しています。人間関係を、「楽しみと喜びおよびあらゆる向上の共有」として向かう姿勢です。
まずは以下のブログ記事などに簡単な説明書いていますので^^。
2010-05-18『3つの「行動学」』
「内向性」「外向性」というのは、人(他人や自分)を外から眺めた印象でレッテルを貼った固定観念だと思いますヨ^^。変化できますので、そうした言葉で考えてもあまり役に立つことはないと思います^^。


>女性は、子育てを通して、自分の子供の頃を思い出すことや、人の育ちを考えることにつながる傾向がありますが、男性は女性とはまた違った学びがあるものなのでしょうか。

ハイブリッド人生心理学が扱う「心の成長」については、男女の違いありません人間としての本質同じだと考えています^^。


>職場と言うところは、楽しく仕事をしたい方が多いと思います。そのため、静かであったり、話が無いとつまらないと言うが多いです。
>会社など、集団で働く職場は、人間関係が複雑ですが島野さんの仕事の環境では、集団の会社と比べて人間関係からは離れられているものでしょうか。

仕事人間関係のために行うのではなく、社会に対して価値を生み出す役割を遂行するために行うものです。人間関係がどうなるかという意識ではなく、「価値の生み出し」といった考え仕事を捉えるのがお勧めになります。
これについては、この掲示板最近のものとして、
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピック
の中で
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23
として説明しているのなどが分かりやすいと思います^^。


 
Re: / ピヨ
No.622 2013/09/20(Fri) 21:06:06

 島野さん、返信ありがとうございました。

 仕事は、一日の大半を費やすため、自分の勉強をする時間は貴重です。

 これからも、島野さんの経験を学んでいきたいと考えています。


(No Subject) / ピヨ
No.615 2013/09/17(Tue) 21:08:01

 島野さんは、心理学を学ぶために、大学ではなく、心理系大学院を選択されたということなのでしょうか。(大学院は、英語があるので入学を躊躇される方もいらっしゃると思います。)
 私は、通信の心理学科の大学生をしています。

 参考まで、お聞かせください。

 よろしくお願いいたします。


 
出身大学^^ / しまの
No.616 2013/09/18(Wed) 10:15:34

こんにちは^^。
自伝小説の『悲しみの彼方への旅』でも書いていますが、

大学1年・・・東京の中堅大学の一つ(社会学科)
大学3年・・・東京6大学の一つへ編入学(文学部心理学科)
大学院・・・早稲田大学大学院心理学科

という経緯になります。
大学進学はもう30年前くらいになりますので、当時は心理学を扱う大学も少なく、心理学を学ぶために、なるべく大きな大学へと進んだ感じです。
最近の大学事情とはかなり異なるかもですね。

なお僕の執筆は、上記を経て社会人になってからの人生経験も全て基盤にしていますので、大学や大学院の心理学にはあまり根ざしていないものになっています。

お答えになりましたかどうか^^。さらに関心ある点あれば可能な範囲でお答えしますので^^。


 
Re: / ピヨ
No.617 2013/09/18(Wed) 20:06:35

回答ありがとうございます。

 現在は、大学の心理学科がたくさんあると感じています。

 図書館で自分の興味のある本を見つけて、学んでいくのも良いと思いましたが、
私自身も、上記の大学で学びたいと考え在学しています。
そして、様々なテキストを読む中、すばらしいテキストに出会えてることが多く、ありがたく感じています。

 島野さんの本も、数年前に購入してすばらしい本であると感じました。先週末、片づけをしていてその本を目にしてもう一度読みました。以前に読んだのに、今の自分に重要な本であるとその時以上に感じました。

 島野さんは、執筆活動等で収入を得ているのでしょうが、電子本の無料などまとまった収入があるのでしょうか。また、本の内容は深く、どこからその学びが出来ているのだろうと思いました。
 今回、メールに翌日に答えていただけることを知って、もっと早く知っていたらと感じました。

 職場と言うところは、楽しく仕事をしたい方が多いと思います。そのため、静かであったり、話が無いとつまらないと言う方が多いです。
 
 人間関係では、相性の中で、内向的や外向的が影響していると思いますがいかがでしょうか。

 知的障害や、発達障害なども、島野さんの話されている、愛の不足と関係はあるのかどうかもお聞かせ下さればありがたいです。

 女性は、子育てを通して、自分の子供の頃を思い出すことや、人の育ちを考えることにつながる傾向がありますが、男性は女性とはまた違った学びがあるものなのでしょうか。

 会社など、集団で働く職場は、人間関係が複雑ですが島野さんの仕事の環境では、集団の会社と比べて人間関係からは離れられているものでしょうか。


近況報告です。 /
No.604 2013/08/17(Sat) 05:54:58

こんにちは。毎度アドバイスを頂き、本当にありがとうございます。
ハーバード流の著書を読み返してみました。
実は、ハイブリッド心理学を知った頃(当時は療法として知ったわけですが)に本自体は購入してたのですが、当時は頭に入らず挫折していました。

あれから、自分の真面目さが偽である可能性が浮かんだり、過剰な安全要求のようなものが出てきたり、「俺は誰にも望まれず生まれ、誰にも望まれず生きてきた」という思考が激しい感情とともに出てきたりと、細かなことがいろいろ起きたのが功を奏したのか、原理原則に立脚した手法に関する項目は頭に入り、ちょうど仕事で常連さんからされた無茶な要求をかわすのに使うことも出来ました。

その後、今まで手を付けようとして出来てなかったダイエットなどのことを考えた時、なかなか手を付けられないことに焦りを感じ始めていたのですが、つい先ほど、「手を付けられないのは、「こんな自分じゃダメだ!」という感情をバネに行動してるからじゃないか?」という考えが頭に浮かび、「第3巻 実践編(上)」のメール相談の事例を参考にしながら考えていきました。以前も目を通したことがあり、何となく印象に残ってたので、参考にできる内容があればと思いながら。

そういえば自分も自己処罰感情を結構使ってるなあ…と思いながら読み進め、自分の場合は自己処罰でどういうメリットを受けようとしていたか考え、「自己処罰感情に浸り、猛反省してるところを周囲にアピールすれば、「これだけ反省してるなら…」と、叱責やペナルティを軽減してくれるかもしれない」という、司法取引みたいな変な期待をしている自分に気付きました。が、ほぼ同時に、「それは言葉や行動で示すものであれば、わざわざ自分がその感情に浸る必要はないのではないか…?」と、その不合理性にも気付き、反省ってのは知性で行うモンじゃないかなあ…というところまで思考が進みました。

また、今までを思い返すと、高校に入って予備校や大学、資格の勉強や職場に至るまで、自己否定、自己処罰からの焦りで、勉強も仕事も落ち着いてやれた期間が殆ど無かったように思えます。適切な分量の参考書を何度も繰り返し、マイペースにやれた予備校の頃が比較的マシだったぐらいで。それだけでなく、人付き合いや恋愛も、自分にダメ出しすることに終始し、公私ともに追いつめられた気分で生きてきたことに気付き、笑えてくるような凹むような微妙な感じになりました。

とりあえず、物事に取り組む際の姿勢を見直すことになりそうですが、また自己否定に捕らわれないよう、いろいろと参考にしながら思考を改めていきたいです。


 
「人生」の視点からの取り組みへ^^ / しまの
No.605 2013/08/19(Mon) 11:13:12

外面および内面への向き合い双方前進力が出てきた感じですね^^。

>原理原則に立脚した手法に関する項目は頭に入り、ちょうど仕事で常連さんからされた無茶な要求をかわすのに使うことも出来ました。

これはベリーグッド前進^^。こうして階段を一段上る体験を得ると、今度どんどんより高いところが見えてくると思います^^。

>「こんな自分じゃダメだ!」という感情をバネに行動してるからじゃないか?」という考えが頭に浮かび、
>「それは言葉や行動で示すものであれば、わざわざ自分がその感情に浸る必要はないのではないか…?」と、その不合理性にも気付き、反省ってのは知性で行うモンじゃないかなあ…というところまで思考が進みました。
>自分にダメ出しすることに終始し、公私ともに追いつめられた気分で生きてきたことに気付き、笑えてくるような凹むような微妙な感じになりました。

この辺は、
「自己分析」と「見通しづけ」の導き
で書いた「熟達形」自己分析になってきていますね^^。「心の成長の前進に伴ってもはや自分には不合理と言える悪感情の要因を感じ取るといった高度な自己分析」というやつ。


「自己叱咤」の功罪

なお「こんな自分じゃダメだ!」という「自己叱咤(しった)は、それだけ取り上げ心の成長有益か有害か言うことはできず、それに先立ってあるのが、「ありのままの自分を成長させる姿勢」かそれとも「ありのままの自分を否定した何者かになろうとする」かによって分かれてくると言えます。
後者の姿勢の上での自己叱咤は、やがてストレスによって自分を破滅に追いやる、両刃の剣となる可能性がある。「両刃の剣」であるとは、その「自分への脅し」によって行動するというやり方が、実際何かの能力向上を生むこともある。ただしそれはまず言って、「幸福」にはつながることのない能力向上です。

「ありのままの自分を成長させる姿勢」さらに「ありのままの自分を成長させる技術」を見出した時、今までの自分の人生駆動してきた、後者の姿勢の誤り功罪同時に目にして、泣きたくなるような笑いたくなるような気分に取られることになります。
僕もそうでしたし、誰もが通る(?^^;)、人生の通過点一つになるかと^^。

なお「ありのままの自分を成長させる姿勢と技術」を見出したならば「自己叱咤」金輪際不要になるかというと必ずしもそうではなく、表の意識心の根底成長のリズムズレともいうものがいつの間にか起きており、どこかのタイミング「今の自分のままじゃ駄目だ!自分を変えなければ!」感じる時の訪れがあるのが、むしろあってしかるべきものだと心得ておくのも良いと思います。
これも結局は、「ありのままの自分を成長させる姿勢と技術」を持つことで、自ずと見えるようになるものです。


「人生」の視点からの取り組みへ

ということで、取り組み外面および内面ともに前進するようになったら、あとはアドバイスとしては、取り組むための基本的な視点を、目先の感情の良し悪しよりも、「自分の人生」というものに大上段から置くようにするのがお勧めになります。

つまり、「今の生活、今の仕事を一生続けることで満足できるか、今の状態で終わったとして、自分の人生として満足か」という問いの下に取り組むということです。
多分そうは満足できないという話になるでしょう。ならば何を望むか。外面においても。内面においても。
そうして「望み」向き合い「望み」描き、そこから、目の前の生活における目標設定し、問題課題分析向かっていく。

人生の前進と「望み」への向き合い
であり、そこで書いたように、「自分なりに多少とも満足もしくは納得ができるまでの経済的基盤への取り組みもあれば、パートナー探しという人生のイベントもある」というテーマまずはあるという話になると思います。自分の目の前にある社会のレールの上で、まずはどこまで行けるかと。

そうして、「人生」という視点取り組むことが、

>「俺は誰にも望まれず生まれ、誰にも望まれず生きてきた」という思考が激しい感情とともに出てきたり

といった「来歴における躓きと妨げ」についても、自ず転換を生むかもしれません。これからは、自分が、誰と共に生きることを望めるのかなのだ、と。誰に対して、自分が、その相手が生きることを望んであげられるようになるのかなのだ、と。

いずれにせよ、ここから「人生」歩みとしての長い取り組み始まりですね^^。


 
Re: 近況報告です。 /
No.606 2013/09/02(Mon) 16:36:40

ありがとうございます。
まだ「人生の望み」と言えるほど考えが固まったわけではないですが、原理原則というものを少しは意識に置ける状態になってきたので、それを踏まえて大学時代にモノにならなかった法律の勉強をやり直してみたら、当時よりも頭に入るのではないかと考え、また法律系の資格を目指してみるのもありかもしれない、という考えはあります。
以前はそれを、ほぼ間違いなく「腹いせ」「穴埋め」として目指していたところがあったと思いますが。
ただ、大学を出て以降、働く中でどうも会社などの組織の中ではうまくやっていけない自分を自覚せざるを得ず、そういう法律系の資格を持って独立したいという、「組織からの逃げ」の姿勢もあるため、これを望みと考えてもいいのだろうか、と考える自分も居ます(今のバイトで何とかやれてるのは、作業内容のほとんどが単独行動で、ノルマのようなものはほぼ無いから、というのはあります…^^;)。
とりあえず、バイトではなく就職して資格を目指すか、バイトをしながら資格を目指すか。組織との関わりを持つべきかどうかで判断しなければなあ、という感じになりました。

あと、怒りに関してですが、ある程度軽減した後はなかなか先に進まないなあという感じです。
仕事中のトラブル…今度は通行人ではなく、同僚が事実を歪めた報告を上司に行なったことにより上司から無駄に問い詰められたり、警察からの脅迫的な職務質問があったりと、運の悪いトラブルが立て続けに起き、積りに積もったものが溜まって久しぶりにブチ切れてしまいました^^;

とりあえず、最近のトラブルと来歴を合わせて考えた時、不完全性を受け入れることが大きな課題になって立ち塞がるようには感じました。
ただ、現状では、「不完全性を受け入れるとしたら、今まで俺をトラブルに巻き込んできた連中をヘラヘラ笑って受け入れなければならないのか…」「周囲はみんな好き勝手に生きてきたのに、なぜ自分だけが聖人君子にならなければならないんだろうか」という感覚も強く、非常に複雑な思いがするので、道は険しいなあ、とも感じました。外面行動がまだ未熟なので、その辺はまだ時期が来てないのだろうな、とは思います。
少なくとも、バイトをしながら試験勉強をするなら、バイトには深入りせず給料を貰うことだけ考えて働き、試験勉強に全力投球、かな…とは感じてます。

あとは、愛に関して考えてみましたが、自分が楽しいと思えるもの…趣味や娯楽の類はそれなりにあるのはあるのですが、だいたい自己完結してしまうので(パソコンを組んだり整備したりすることや、あとはいわゆるおたく系の娯楽)、今は孤独を受け入れて生きることになるのかなあ、という感じでした。


 
「人生の戦略」へ^^ / しまの
No.607 2013/09/05(Thu) 17:59:37

う〜んこれはちょっとタイヤバランスが悪くスムーズに走っていないという印象ですねえ。
取り組み意識の修正ポイント結構ありそうなので、手短に書いてみますと、

・「組織の中でうまくやれない」の正体を見極める
>ただ、大学を出て以降、働く中でどうも会社などの組織の中ではうまくやっていけない自分を自覚せざるを得ず、
>組織との関わりを持つべきかどうかで判断しなければなあ、という感じになりました。
社会での「仕事」は、「組織の中」で働かないという多少あり得ても、「組織と関わりを持たずに」働くというのは、基本的ありません組織が動くから、ものごと七面倒くさい動きをしており、それをなんとか御することとして、沢山の種類「仕事」というものが社会に生まれます。
ですから、「組織の中」で働かないケースでも、社会「会社」などの組織がどう動いているのかを沢山学ぶ経験あってこそのスキル向上があります。
「組織と関わりを持たずに」という観念仕事考えるのは、喉に刺さったトゲを抜かないまま、どんな食べものなら喉に快適かを探そうとするような話です。まずトゲを抜く必要があります。また、トゲを抜くことと、自分に合う食事を極めるのは、基本的には別の話と考える必要があります。

取り組み実践としては、「組織の中でうまくやれない」とは一体どういうことか分析取り組みが必要です。例えば「人前の緊張不安」であれば、それを流しながら行動する仕方の学び、「あまのじゃくな性格」なら性格から直した方がいい(^^;)とか。
そうして、仕事の選択は、「組織の中でうまくやれない」という問題度外視して(どんな仕事でもそれは克服課題と腹を決めて)自分の資質適性などから考えるのが良い姿勢です。

・「怒りの軽減」はまずは「怒りを用いない行動法の習熟」
>あと、怒りに関してですが、ある程度軽減した後はなかなか先に進まないなあという感じです。
>運の悪いトラブルが立て続けに起き、積りに積もったものが溜まって久しぶりにブチ切れてしまいました^^;
「怒りの軽減」は、まずは「怒りを用いない行動法の習熟」イコールになります。つまり、「怒りを用いない行動法の習熟」前進しないまま、「怒りの軽減」だけ内面で起きることを期待するのは間違いであり無駄です。怒りの軽減がうまくできなくてブチ切れたのではなく、ブチ切れる行動法を持っている事実が、怒りを軽減していないことを示しているということです。
「自衛能力」になるでしょう。その問題だと考えるか。もちろん相手にある場合もあるでしょう。しかしその場合は怒って仕方ないと考えるのは、怒りの軽減という目標自体を捨てるということです。相手にある場面を、どうかわすか。怒りを捨てるための行動能力向上への取り組みは、そこからです。

あとは、今回「ある程度の軽減」は、今までの人生を通して潜在的には可能であった範囲のものが、多少行動法の学び引き出されたもので、これから「さらなる軽減」は、さらなる変化がまず準備されるための歳月持つ必要があると思います。行動法の向上数か月費やしたら、内面の怒りの起き方について確認してみる時間数日間持つのは意味ある、という程度のものとして、外面行動法への取り組み優先です。それなし「なかなか進まない」と感じるのは、ちょっと「気持ちの持ちよう」など小手先の「気持ちの枠はめ姿勢」傾いていないか注意すると良いでしょう。

・「不完全性の受容」は建設的行動法のほぼ完全な習得後に問える
>とりあえず、最近のトラブルと来歴を合わせて考えた時、不完全性を受け入れることが大きな課題になって立ち塞がるようには感じました。ただ、現状では、「不完全性を受け入れるとしたら、今まで俺をトラブルに巻き込んできた連中をヘラヘラ笑って受け入れなければならないのか…」「周囲はみんな好き勝手に生きてきたのに、なぜ自分だけが聖人君子にならなければならないんだろうか」という感覚も強く、非常に複雑な思いがするので、道は険しいなあ、とも感じました。外面行動がまだ未熟なので、その辺はまだ時期が来てないのだろうな、とは思います。
確かに時期が来ていないでしょうし、どのように時間が経てば「否定価値の放棄」「不完全性の受容」を問えるかという問題ではなく、まず「実害」に対しても建設的に対処できる能力をほぼ完全に習得するのがになります。そのに、それでもまだ不完全性を受け入れられない感情に向き合い、その選択を問うことが可能になります。

「不完全性の受容」を、「何でもオーケー」の「害を放置したれ流す」姿勢と考えるのは、「建設的行動法」自分に押し付ける杓子定規の前向き姿勢や行動と考えるのと同じ、ハイブリッド心理学の学びよくある誤解ですのでご注意です。
「不完全性の受容」とは、「害を受容する姿勢」ではなく「不完全性をもって害とはしない姿勢」です。
例えれば「不完全性の受容」とは、ズボンの左右の裾の長さが1cm違ったのを「まっいいかー」とする姿勢つながるものではあっても、ズボンが破れてパンツ丸見えになったのを「まっいいかー」とする姿勢つながるものではないということです。
まずはトラブルを振り返って、上述した「自衛能力」からどう考えられるかの答え見極めるのが第1ですね。同時に、トラブルにあった、相手自分もしくは原因分析する必要がある。そこに、許せるものと、許せず対処すべきものという区別テーマになる。
そうした全ての外面的事柄全て答えが出た先に、それでも残る否定感情取り組むものとして、「否定価値の放棄」「不完全性の受容」というテーマが出てくる、という順番になります。まずは5年、10年といった先になると腹をくくるのが正解だと思います。

・対人関係上の根深い妨げに真正面から取り組む
>自分が楽しいと思えるもの…趣味や娯楽の類はそれなりにあるのはあるのですが、だいたい自己完結してしまうので(パソコンを組んだり整備したりすることや、あとはいわゆるおたく系の娯楽)、
それは「愛」というより「気晴らし」ですね・・^^;
>今は孤独を受け入れて生きることになるのかなあ、という感じでした。
これは上述「組織の中でうまくやれない」というとも根っこが同じ問題のように思えるのですが、言えるのはずばり、対人関係全般においてなにか深い妨げがあるように感じられます。それを、喉に刺さったトゲを抜かずにどの食事が・・模索しているという

この「対人関係全般における深い妨げ」こそが、内面側の取り組み課題ご本尊になると思います。
まずじっくり自分の中にある問題何なのか把握理解することからです。考えられるのは、う〜んまず問題として、人間関係全般からの退却起きているように感じられます。そうであれば、それが人生の来歴の中でどの頃あたりからだったか、その時自分の中に起きた感情の揺らぎはどんなものであったかなど考えると、多少糸口が見えてくるかも知れません。
そしてそれが、これからの取り組みを通してどのように解決克服されるのか、まずは頭で見通しを持つことです。実感ゼロだとしても。ハイブリッド心理学からは、そこにある問題「どう感じるようにすれば」ではなく、それに妨げられない「感情と行動の分離」姿勢実践の先に、今回解説している、
「魂の成長」の過程
のようなものになるかも知れない、とか。

そうして内面側克服10年かかるとして、外面「仕事」の能力をつけるのもどのみち10年はかかるわけです。すると10年後に、内面と外面の双方において克服と向上の成された、一つの自己完成像描けることになります。
そうした遠大な目標を持ってこその「成長」歩みですし、それが「人生の戦略」というものです^^。


 
Re: 近況報告です。 /
No.610 2013/09/07(Sat) 16:32:31

ありがとうございます。
まず、かなり端折った書き方をしてしまった部分があったのでお詫びします。
ブチ切れた状況についてですが、対応そのものは、大きな動揺を内心抱えつつもほぼ無難に乗り切ったのですが、帰った後に「めんどくせえ!」とブチ切れたので、一応、対人的に表面上は大きな問題を生じませんでした。

事実を歪めた報告が上司に届いた件は、どうやら「大げさに報告して上司の目に留まるようにし、原因になった人物に直接上司に説教してもらおう」という意図だったらしく、私はそれに巻き込まれただけであることを後日フォローされ、多少釈然としないところはあるものの、上司からはクロではないと早い段階で理解を頂いていたので実害が無かったと判断しました。
警官に関しては、最近警察を騙って金品や個人情報を持っていく話を結構聞くので、警官本人の態度に不審を抱いたのもあり、どちらかというとそういう可能性をぬぐえませんでした。一度帰宅して交番に赴き、そういう不安を話したうえで事後確認して事なきを得ました。こちらは実害がないことを確認するため、という感じでした。その場で名刺の一枚も貰っておけば手間はかからなかったかな、という反省点も浮かびましたが。

まあ、「めんどくせえ!」と感じたわけなので、人と接することへの妨げが原因なのはご指摘の通りでした。これに関して「人は不完全なのだから、それを受け入れることで怒りが減るのでは?」という思考が浮かんだため、それで先日の書き込みのような状態が起きた、という状況でした。

御指摘の点に関しては、来歴の中で人間不信気味な状態に陥ってそれを当たり前のように放置していたことに気付いたのと、他に、「孤独」という言葉が文字通り独り歩きしてないだろうか?今自分が置かれてる状況は本当に孤独なんだろうか?というものがありました。
まず、自分の嗜好が自己完結してるということは現実を見直すとどうやらそうでもないようで、職場の同僚・友人からのパソコンに関する相談に結構乗っていることやら、共通する興味ごとを話題にして話をしたり、それ以外の世間話も普通にやってることを見落としていました。

その後、一部でおたくに対して風当たりが強い事実はあっても赤の他人から見抜かれ非難されるというのは現実的ではない、という意識の下で、「このおたく野郎!」「気持ち悪い!」という非難を世間から向けられているという、現実とはややずれたイメージを、仕事中悲しみの中で流し、そもそも「組織でやっていけない」という考えこそ決めつけではないか?と、家族からたまに指摘はあったものの、たぶん初めて自分自身の思考で辿り着きました。

そこから、アドバイスのとおり、来歴のどこで躓いたか振り返りました。
20代の頃は中古パソコンの会社で技術系の部門に所属してましたが、そのころの上長がやたらと朝礼でおたくを叩いていたことやら、やたらとハードルの高いことを言って発破をかけてきたことで追いつめられた気分になり、内心「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という不安を抱えながら日々を送ってました。しばらくして営業に換わってほしいと言われた時も、当時の営業主任がコンプライアンスに反することを行ない、それを遠回しに指摘しても改善が無かったので、何か裏があるのでは?という疑いを持ちつつかわしているところでリーマンショックが起きてリストラ、という経緯があったのを思い出しました。

「やっぱりおたくは真っ当に生きていけない」という考えが、この辺から出てきたのかもしれません。今になって冷静に考えてみると、技術的な説明が出来る人材を営業部門に増やしたい、という考えなどがあったのではないか、という見方もできるよなあ、とも思えます。

 考えてみると、当時の会社で、評価自体は上長から結構されていたほうだったと思います。追いつめられた気分をバネにしていたとは言え、パソコンの知識や作業の効率に関して、かなり積極的に仕入れるようにし、作業の説明や進捗状況の報告なども丁寧だとよく褒められもしていたのを思い出しました。作業から離れても、支店内でカラオケをやった時、追いつめられた気分の中、もう引かれてもいいからバカやっとこう、と自暴自棄な開き直りで派手に弾けてみたら逆に金一封を頂くということもあったな…とか、悪くない記憶も次第と流れてきました。
 今のバイト先でも、一体何を具体的に評価しているのかはわからないものの、よく客を集めてくれてるからとシフトリーダーに祭り上げられていることを考えると、やはり「組織でやっていけない」というのは決めつけなのだろうか…というところまでは考えられるようになりました。

 関連して「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という当時の思考を考え直そうとしたとき、自分の怒りの根底に、今でもこういう悲壮感が流れていることに気付きました。「こんな罵声を浴びた!」「こんなに割引券の配布枚数が少なかった!」「こんな面倒なことが起きてしまった!」「もうこの環境に自分の生きていける場所など無い!」そういう悲壮感が起き、自暴自棄な怒りが湧いている可能性もありそうだ…と。
 並行して、これまで起きたトラブルの中で、実際それが尾を引いて大きな災いを招いたことは滅多になかったことにも気付きました。
「悔しいけどそれは認めざるを得ない」という感情が湧きながら…ですが^^;

とりあえず、怒りの裏にあった悲観的な思考に気付いたところまで進みました。
あとは、今後の現実の場で、これを現実的な考えに修正していけるように思考を直していければ、と感じています。


 
「大自然を生きる一匹型の言葉」で問い直す^^ / しまの
No.613 2013/09/14(Sat) 10:59:21

「感情による決めつけ思考」見直すという感じで前進ですね^^。

今後に向けてアドバイス追加などしておきますと、
>やはり「組織でやっていけない」というのは決めつけなのだろうか…というところまでは考えられるようになりました。
>関連して「もうここで自分は生きていけないのではないだろうか」という当時の思考を考え直そうとしたとき、自分の怒りの根底に、今でもこういう悲壮感が流れていることに気付きました。

といった思考「感情による決めつけ」であることに加えて、それらが「道徳の授業型人生感」思考だということです。
「こうでなければ生きていけないぞ」と、画一的な「あるべき姿」を掲げて脅すというやつ。

それを「それは何がどうなるという話だ?」問い返せるのが、「大自然を生きる一匹型人生観」思考です。
そしてそこで「何がどうなる」を、「愛」「自尊心(自分への自信)」ごく現実的問題(給料など^^;)分解して捉えるといい、という話になるわけです。
参照:「「人生観」の学び」「心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう」など)
そこで言えるのは、「道徳の授業型人生感」思考どっぷりでいるのは、まず言って「愛」「自尊心」において(まあごく現実的問題についてもそうでしょうが)、受け身でしかあれていないことです。それ自体においてもう「愛」「自尊心」育ち得ない

ということでアドバイスとして言えるのは、実際どのように見直しができるかはさておき、
「道徳の授業型人生観の言葉」による思考を、「大自然を生きる一匹型人生観の言葉」で問い直す
という実践です。
まず、感じ方考え方を変えようとするに、ですね。

こう感じた 【道徳の授業型の言葉】
 ↓
それはどういうことか 
【大自然を生きる一匹型の言葉】
 ↓
心の転換が見えてくる


まあそれで実際「大自然を生きる一匹型」になった心から「オタクでは生きていけない」なんて言葉に対して言うとしたら、こうなるんですけどね。
「余計なお世話だ」と^^; てめーらに愛されなくてもどーってことない、と。まそこで実は「愛されたい衝動」問題の根本であることが見えてきたりするかも知れません。
その時はまたその時心の状況に応じての視点の話になってきますね。まずは自分の感情の本質を把握できるための「言葉」の駆使できるようになることからです。
「自己分析」と「見通しづけ」の導き

「言葉」というものをしっかりと正確厳密に使うことで堅実にできるようになるということを、自分自身の感情の把握についても行っていくことです。
と書いたですね。我々人間は結局、「言葉」考え、さらには「言葉」感じ方を変える動物ですので^^。

でまた何か具体的材料など出たら、新規トピックなどで質問頂くとよろしいかと^^。


はじめまして / りょうたろう
No.600 2013/07/30(Tue) 21:21:27

りょうたろうと申します。私は現在二十歳の大学生なのですが、高校入学の頃から生きづらさを感じ始め、数々の心理療法や自己啓発書にあたってきました(そしてそのたびに挫折してきました)。そして数週間前にこのサイトと出会い、そのあまりにも深い人間洞察に驚くとともに、新しい生き方の模索を始めたところです。

改めて今までの生き方を振り返ってみて分かったことは、私がいかに「自分を幸せにする能力」に欠けていたかということです。自分自身の望みを無視した生き方を続けてきた結果、休日の朝起きても「どう過ごしたらいいかわからない」と途方に暮れるなんていうことがしばしばありました。

そしてこの数週間、心の自立と建設的な行動をテーマに生活してきて、印象的な体験をいくつかしました。それは簡単に言えば「子供の頃の感覚をふと思い出す」というものです。朝起きてベランダに出た時、食事の時などふとした瞬間にです。それはすぐに消えてしまうのですが、今までとは何かが変わっているという手ごたえを感じています。

と、こう書くと順調のようですが、やはり波があります。時折襲ってくる「自分は醜い」という考え。そして苦痛のなかで過ごしてきた年月の長さを思って惨めになるとともに、自分はまた変われないんじゃないかという絶望感。こういう時は嵐が過ぎるのを待つしかできません。そして数時間後、へとへとになって自信も何もなくなった自分がいる、というのがいつものパターンです。

やはり生き方を変えるというのは簡単なことではありませんし、自分には経験値が圧倒的に足りないとも思います。現実の問題に対して建設的な対応をすること。自分の気持ちを自分で受け止めること。望みに向かって生きること。どれも今までの人生で私がやってこなかったことです。これらを習得するには長い時間がかかるだろうということは私自身納得できているつもりです。

しかしここ数日、それとは別の根本的な問題が発生していることに気づきました。それは、いつの間にか自意識が先走って心のほうが置き去りになっているということです。これは今まで私が何十回と繰り返し嵌ってきた罠です。何か新しい心理療法や名言に出会って、「これこそ自分が探し求めていたものだ!これで自分は変われる!」と舞い上がり、実際楽にもなるのですが、やがて何も変わっていない自分に気づく。そして絶望する。今回もその状態になりかけていました。空想の中で舞い上がっている状態です。

この状況は親と子の関係に似ているな、と思います。子供の意見を聞かずに何もかも決めてしまう親が自意識。そして無力感から萎縮してしまっている子供が心。やはり私は、自分で自分自身を疎外してしまっているのです。

そしてこうも思いました。本当に生き方を変えるには、子供がちゃんとついてきているか確認してやりながら歩いてかなければならないだろうと。少し気を抜いたら私はまた望みを見失って空想の中に生きることになるだろうと。なんともわかりにくい説明で恐縮ですが、私にはこのイメージがしっくりくるのです。

私自身言いたいことが整理できていませんし、省いたところも多々ありますが、今の私に何かアドバイスがあればぜひお願いします。


 
「生き方」の前の「学び」^^ / しまの
No.601 2013/07/31(Wed) 12:05:00

>そしてこの数週間、心の自立と建設的な行動をテーマに生活してきて、印象的な体験をいくつかしました。それは簡単に言えば「子供の頃の感覚をふと思い出す」というものです。

心の豊かさへとつながっていく感情ですので、これからもそうした感じ取りをぜひ大切に^^。

>しかしここ数日、それとは別の根本的な問題が発生していることに気づきました。それは、いつの間にか自意識が先走って心のほうが置き去りになっているということです。
>今の私に何かアドバイスがあればぜひお願いします。

人生の歩みを、車を運転して向かう旅路によく例えるのですが、それで言いますと、まずは自分の車の装備と運転技術しっかりと確かめることからですね。入手できる新しいパーツがあるのであれば交換する。エンジンさえ変えられるかも知れない。外見飾るのも良し。フロントガラスをしっかりと磨いて視界良く、広くすることです。それができたと思えたら出発・・ではなく、まず運手技術習うのがいいでしょう。車の装備について、しっかりとした見識がある人再確認してもらうのも含めて。
そうして車の装備と学び準備ができたら、いよいよ自分の人生の目的地がどこなのかを模索しながら、出発するといいでしょう。

一方で我々は、20代の頃になった時、それをしないまま、自分がこれからの人生を生きていかなければならないのだと考えてしまうわけです。
親を始めとした回りの環境から与えられただけの車の装備と、親を始めとした回りの環境から向かされた車の向きのまま、です。車のハンドルさばきまだ良く分かっていないまま。
まず、そんなものを全て見直してしまことから始めるのがいいわけです。
に言えば、それをしないまま、あまり自分の「人生の生き方」はどうかと思案するのは、ちょっと無駄かも知れない。それは結局、縛られたまま、檻の中で思案することです。
まず行いたいのは、檻の外に出ることです。そこで視界ががらりと変わってから、自分がどこに行きたいのか考えることが、実際に人生の旅路の前進着実役立つようになる。

ということで、

>やはり生き方を変えるというのは簡単なことではありませんし、

について、まず「変える」もなにも、「生き方」というものを持つこと自体まだ先の話だと心得て、まずは心の足場と視界の洗練専念するのがお勧めです。
つまり人ぞれぞれの「生き方」という話をする以前の、「思考法」「行動法」「意識法」「姿勢」さらに「社会を生きる知恵とノウハウ」といった全てを、どんな生き方をしたいかにはまだ関わりなく役に立つ、普遍的なものを、日常生活と目の前の人生の課題という具体的な材料ベースで、学んでいくことです。

まずはこの読者広場掲示板今までのご相談やりとりなど読んで頂くと、多少は感触がつかめてくるかも知れません。もう少ししたら「メール相談事例集」などまとまったものが参考になるかと。
そんな感じで、何か具体的「学び」を得たい材料場面などあったら、また投稿頂ければ懇切にアドバイス返しますので^^。

参考まで、僕の経験から言えば、「自分の生き方」問えるようになるのは、30代の半ば頃からかなーという感じかと。それまで「行動学」などしっかり学ぶのが人生の近道という感じ^^。


 
Re: はじめまして / りょうたろう
No.602 2013/07/31(Wed) 21:12:00

返信ありがとうございます。

縛られたまま檻の中で思案する・・・これはズシンと来ました。私は少し焦りすぎていたようです。まずは地に足をつけることから、ですね。

私は今ハーバード流交渉術を本で学んでいます。まだ齧った程度ですが、色々なことに応用が利きそうだと感じています。先日も、バイト先で先輩から注意を受け、それに対して「そんなことは分かっているし、今からやる所なのに」と反発を感じたことがありました。しかしよく考えてみると、私は「分かっている」ということをきちんと表示していなかったのではないか、と思い至りました。そんな自分が相手からはどう見えたか。危なっかしくて注意せずにはいられなかったのではないか、と。この時は考え方だけで具体的な行動までは至りませんでしたが、人と問題を分離するという姿勢が少しつかめたように思いました。

今の私に必要なのはこういったことの積み重ねだと思うので、これから現実の中で試行錯誤してみようと思います。何か問題に直面した時はまた投稿させていただこうと思いますので、その時はアドバイスをよろしくお願いします。


怒りのミルフィーユ状態を自覚 /
No.592 2013/07/26(Fri) 05:08:19

長い道のりで、スパイラル状のものになると説明では聞いてましたが、いざ実感してみると、自分の心も厄介なモンだなあ、と感じる今日この頃です。

ただ、世の中でずれた怒りを露わにするような人の出来事、たとえばツイッターで「私は夏が好きだ」と呟いた人に「熱中症で苦しんでる人もいるのに不謹慎なことを言うな!」と噛み付いた人が居る、という話を聞いて、ひょっとすると人類の滅亡って、こういう「俺が正しいんだ!」という不毛な競争のなかでの潰し合いが原因での自滅…という形で起きうるんじゃないか、などという考えが頭に浮かび、早いところ不毛な怒りに別れを告げたいなあと思いました。

さて、本題ですが。
怒りがぶり返しました。
いろいろと思考を掘り返してる中で「敵対した相手を打ち負かして屈服させないと真の平穏は訪れない」などという物騒な感覚が湧いたのがキッカケですが、来歴からくる「世の中は危険なもので、万人の万人との戦争だ」という価値観から未だに抜け出せてないのも根本の原因だと思われます。

そういう危ない感覚を自覚した発端は、仕事にせよ、人とのやり取りにせよ、異常なまでに勝ち負けに拘る内心の態度を自覚したことです。「相手を言い負かせば勝ち。言い負かされたら負け」とか「自分は割引券の配布枚数が他のスタッフより少ないから負け」とか。ちなみに、割引券の配布枚数は少ないのに何故か店長からは集客力を評価されてリーダーを任されてるので、かなり不気味に感じてます…。

最初にご相談した、絡まれたりヤジられたり、というものへの怒りも、言い逃げされたから負け、みたいに感じる側面があったんだと思います。これについては、酔っ払いやヤンキーなどのヤバそうな人に無理して呼び込みしていたことや、割引券を受け取ってもらえないからといってむきになって作業していたことを自覚し、その辺を改善した甲斐があったのか、露骨に絡まれることは今のところ減ってるようです。

この戦闘狂のような?^_^;価値観や感覚について、対処するための取っ掛かりになるようなヒントを頂けたら幸いです。


 
(No Subject) /
No.593 2013/07/27(Sat) 12:44:07

ごめんなさい、自己解決してしまいました^^;

再び過去の出来事と照らし合わせながら考えているうちに、確かに子供の頃はそう考えざるを得なかったことを認めたうえで、実際のところ自分はその考え通り満足いくように「勝てて」これたのかと自問自答すると、「勝てた」ことなどほぼ無かったのを認めざるを得ず、逆に、変な基準で勝ち負けに執着するから事態が悪化してたのではないかという考えが頭に浮かんできた途端、スーッと何かが氷解した感覚が湧きました。
今回は苦しみを伴わないものだったので拍子抜けしましたが、何となく、心の中の大きな妨げが消えて行ったようには感じます。
一時的に心臓のあたりがフワフワするような感覚がありました。これまでも、前進のための苦しみの後に、心臓のあたりにつっかえてたものが無くなって風通しが良くなった様な感覚はありましたが。

改めて、問題にしてた「世の中は危険なもの」という観念を見直してみたところ、どこからともなく「世の中というのは、今の自分にとっては未知なんだ」というのが頭に浮かび、一番しっくりくる表現だというのを確信しました。
同時に、「危険」という言葉の定義が自分の中でずれてるのではなかろうか?という思いが浮かんできたので、どういうものが「危険」であるのか、じっくりと論理的思考をしていこうと思います。


 
「価値観」への取り組み^^ / しまの
No.599 2013/07/30(Tue) 11:37:27

「価値観」への取り組み

ちょっと事後アドバイス的になりますが、実はまさにこれを最初の足場にしてこれから取り組みということで、「価値観」への取り組みの話など^^。

まず、

>この戦闘狂のような?^_^;価値観や感覚について、対処するための取っ掛かりになるようなヒントを頂けたら幸いです。

との言葉については、読んでお伝えしようと思ったのは、
「自分の中にある価値観は、“対処する”ものではなく“見極める”もの、そして“問う”もの」だということ。

まずは道徳の授業で発表するような(^^;)、自分自身への建前思考をはがし、実際に自分の心と体がどう動いているのかから、自分が実はこれこれの価値観の持ち主だということを明らかにする。
次に、問う本当にそう考えているのか、と。それが人生で本当に重要なことだと?、と。

「そうだ!」返してくるのなら、もうどうしようもない。それで生きるのは自由。
そんな価値観の感情が流れている。しかしそれに疑問を投げようとする自分もある。ここから、「価値観への取り組み」始まることになります。

まあ今回は実際、その「問う」までが自ずと進み、「これはどうも不合理だ・・」と感じるところまで来た模様。まあ「価値観への取り組み」というのは、得てして、「自覚する時が抜け出す時」になりますね。

>「世の中は危険なもので、万人の万人との戦争だ」という価値観

などはまさに僕も通ったもので、定番コース(^^;)と言えそうですね。『悲しみの彼方への旅』の中でも、「この世界は万人の万人に対する競争なのだという攻撃性の哲学が自分の中にあることを自覚」「心の中が敵意と軽蔑のモヤに覆われていた」等々書いています(P.59)

ともかくこれから重要なのは、不合理を感じる価値観を見据えるだけにとどまらず、自分が進み得る別の価値観はどんなものかを、見出していくことです。
そのためには、まずは別の価値観にはどんなものがあるのかを、まずは頭で知ることからです。「価値観の学び」ですね。そのための情報を、下にリンクつけておきましょう。

で、そうした「価値観の学び」得ていくとして、実際の価値観の変化変遷は、人生の歳月の中での、体験の積み重ねによる成長と共に除々に前進していく、と心得ておいて頂くと良いかと。
決して、価値観の最終形を頭で知って、なるべくそれを持つように・・などど画一的にできるものではないということです。若ければ若いなりに、傾いてしまう価値観がある。ならばまずはその価値観の中にいても、そこから最大限心の成長に向かい得るような道を模索し、そこにおいて「望み」を描き、まずはそれに向かって全てを尽くして生きることです。
その「生きる時間」心を成長させ、心が成長した自ずと、今までと違う価値観を持てるようになっている自分自覚する。
まずはそうした道のりになるということです。


「価値観への取り組み」のスパイラル前進

それが、

>長い道のりで、スパイラル状のものになると説明では聞いてましたが、いざ実感してみると、自分の心も厄介なモンだなあ、と感じる今日この頃です。

という通り、「スパイラル」として長い道のりとして前進していく。
そしてそれが今回

>今回は苦しみを伴わないものだったので拍子抜けしましたが、何となく、心の中の大きな妨げが消えて行ったようには感じます。

という風になってきたことについて言えば、実は今回蓮さんが、「かなり昔、夕希という名前で幾度か投稿させてもらいました」投稿(No.565 2013/06/20)されてからここまでの期間が、一つの変化体験サイクルのようなものとしてある、ということです。
何かのきっかけ変化が起き始める。それに向き合い、何かが見えてきて、一つ別の自分になった出口へと抜ける

それは今回1か月程度かかっているわけですが、僕の経験からも、まずは大体そんなものだという話ができます。
一つの変化体験に、まずは1か月くらいはかかる。より本格的に成長変化するようになると、2、3か月かけて一つの変化体験を経る。大きな変化節目さらに長い時間をかけて、と。
それが、何十回積み重ねて、やがて全く別人の自分、という道のりになります。まあだから10年、20年といった話になるわけですね。

そうした変化の一サイクルについては、おおよそこんな感じだったというのが、僕の経験でも言えることです。
「苦しみを入り口として、確信を出口とする」と。
ちなみに今回の解説でも、
スパイラル前進に向かう「常に今からの取り組み」
で、
=======================
つまりこういうことです。何度でも同じような場面での惑い動揺に戻ることの中に、常に新しい向上、未知の自分への入り口、そして心の成長の入り口があるのだ、と。
もちろん同じ場面ではもはや動揺することなく、新たな行動に向かうという前進もあります。しかしこれは私の経験からは、むしろ心の成長の出口だという印象を受けます。
=======================

と書いたのも、大体同じことを指しています。

そんなものとして、「今回は苦しみを伴わないものだったので拍子抜け」というのは、前回と別の変化体験というより、一つの変化体験出口局面なってきているということですね。

そうしたものを一つのサイクルとして、道をそれることなく今後何十回と積み重ねていけると、10年後別人の自分になるという話になります^^。


「価値観の学び」の情報

ということで、「価値観への取り組み」とはそのように前進するものだという話がちょっと長くなりましたが、
「世の中は危険」「勝ち負け」といったものとは全く別世界になる価値観とはどんなものかについては、

まずは以下あたりを読んで頂くと、押さえるべきポイントがまとまっていると思います。ただこれこれの別の価値観があるという話というより、まず「自分に自信を持とうとする姿勢」の根っこにある誤りから解説していますので^^。そのから抜け出た上で、今までの心全く別世界をもたらす価値観おおよそこんなもの、という話の流れになります。

『理論編(上)』
6章 「自尊心」の混乱と喪失−1  −自尊心の発達と阻害の過程−
以下パラグラフ部分あたり
・・・
自尊心の重要性
自尊心への総合的な歩み
自尊心のための外面向け視点
科学的でない思考によって損なわれていく自尊心
科学的思考による「根源的自己否定感情」の克服
自尊心が尻すぼみになる「外面の合計=自分」思考
揺らぐことのない自尊心の最高次元
自尊心のための内面向け視点
「望み」の感情
・・・

7章 「自尊心」の混乱と喪失−2  −なぜ自信が定着しないのか−
以下パラグラフ部分あたり
・・・
高めても自信にならない「自尊心衝動」
なぜ自信が定着しないのか
「自信」と似て非なる「高い自己評価(プライド)」感情
「高い自己評価」「プライド」は「自意識」
・・・
「優越自尊心」の罠
・・・

まこの2つの章全体ざっと読んで頂くのも良し^^。

あとは、「価値観」基盤として「行動法」全く別世界のものになります。
ですので「価値観」だけでなく、さらに具体的「行動法」レベルで、「勝ち負け価値観」とは全く違う価値観底流にした行動法学ぶのが極めて重要になります。
それについては、この掲示板でも何度か出していますが、以下などハイブリッド心理学指定の必読書と言えますので、ぜひ入手して読んで頂ければと。
ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)

そうして「価値観」「行動法」をしっかりと互いに手を結んだものとして方向転換した時、自ずと、世界は危険なものというイメージ消え去っていると思います^^。


悪口の回避について / serori
No.583 2013/07/20(Sat) 18:56:40

 こんにちは、seroriです。
 今回は、「仕事上で悪口を言われる」という場面があったため、現実に価値を生む良いアドバイスをいただければ、と思い、ご質問させていただきます。


 ある仕事において、私にとっては初めての作業だったこともあり、いくらかミスをしてしまう場面がありました。その時、一緒に作業をしていた方が、私の仕事のできなさについて、隣の方と一緒に、あからさまな愚痴を仰っていました。

 内面としては、私が仕事のミスをしてしまったのは事実であり、それがその人にとって良くないことだったのだから愚痴を言われてしまうのは仕方がなく、特に怒りもありませんでした。かと言って、今すぐにミスをなくせるかというと、ほんの数時間では私の能力上は不可能、ということもあり、それも仕方がないか、と諦めました。

 しかしながら、嫌な気持ちになることや、悲しいことには変わりなく、どうにかできるならば、どうにかしたい思いでもあります。(できなくても、諦めることはできますが……)

 とりあえず、今後、私がスキルを上げていく前提で、その方に対して仕事後に「一緒にお仕事してくださって、ありがとうございました。いろいろミスをしてしまって、すみませんでした」と言いました。こう言うことで、相手への悪印象を減らし、次回に悪口を言われてしまうことを少しでも防げるかな、と思ったためです。

 もし、このような場面で、考え方や行動法等のアドバイスがありましたら、いただければ幸いです。


 
「感情のフォロー」ではなく「問題そのもののフォロー」をまず第一に^^ / しまの
No.584 2013/07/21(Sun) 11:32:47

これはまず指針一言でいうと、
「感情のフォローではなく、問題そのもののフォローをまず第一にせよ」
ということになると思います。

つまり、自分がしたミスをめぐる、自分と人との間情緒的な揺らぎを取り上げ、どうすれば・・という話になると思いますが、仕事場面における行動法としては、自分と人との間の、相手への情緒的な揺らぎというものは、取り上げないのが最善の行動法です。
その点、

>とりあえず、今後、私がスキルを上げていく前提で、その方に対して仕事後に「一緒にお仕事してくださって、ありがとうございました。いろいろミスをしてしまって、すみませんでした」と言いました。こう言うことで、相手への悪印象を減らし、次回に悪口を言われてしまうことを少しでも防げるかな、と思ったためです。

といった言葉かけることができたことは、普通の人にもなかなかできることではなく、褒めることもできる行動なのですが、実はベストの行動法ではないと感じます。
まあ手短に言って、そうした相手への気遣いの行動法は、確かに「気遣い」としては良いのですが、そうした「気遣い」自体が、仕事場面としてはちょっと「気疲れ」になるものですね。

とにもかくにも、まずそうしたミスを、どうなくせるかだと思います。それが99パーセントと言えるような感じで。残りの1パーセントとして、気遣い行動法考えるのも良しとして^^。
つまり、

>今すぐにミスをなくせるかというと、ほんの数時間では私の能力上は不可能、ということもあり、

ということですが、何よりも重要なこととしてまず検討の俎上に上がるのは、ほんの数時間でミスをなくせないか、です。
それができないから愚痴を言われた可能性があります。重要なのは、その仕事が、ほんの数時間でミスをなくせることが、実際のところどの程度求められる仕事なのかの、判断です。これは結構社会経験も踏んで分かってくるものでもありますが。
そして社会経験を踏んで「仕事の普遍的スキル」を身につけると、かなりのことが、初めてでもすぐできるようになります。何よりも検討すべきは、そうした「仕事の普遍的スキル」自分はしっかり習得しているかですね。そうでないとしたら、何よりもまずそれを学ぶことです。それ以外はどうでもよろしいという感じで^^;

ですからアドバイスとしては、実際その仕事がどんなものであり、ミスがどんなものであったかの、具体的内容いかんになってもきます。おそらくそれを言って頂ければ、かなりびっくりするほど(ちょっとオーバー^^ゞ)その専門であるかのよう具体的アドバイスができると思います。それが「仕事の普遍的スキル」強さなんですね。

それが身につけば、「悪口を言われない行動法」といったテーマ自体が、まず消えてきます。その上で、

>嫌な気持ちになることや、悲しいことには変わりなく、どうにかできるならば、どうにかしたい思いでもあります。

という部分は、「愛情要求」の問題として、内面側のテーマとして別立て並行的に取り組んでいくことが考えられます。

ということで、まずはとにかく「仕事の普遍的スキル」への取り組み検討するのがベスト、という話になると思います^^。
具体的情報まだあまり整理できていない部分でもありますので、質問などあればなんでもどーそ^^。


 
Re: 悪口の回避について / serori
No.585 2013/07/22(Mon) 18:59:43

アドバイス、ありがとうございます。
「ほんの数時間でミスをなくせないか」というのは、全くの盲点でした。「仕事の普遍的スキル」についても、おそらく未習得だと思われます。ぜひ、ご教授いただけるとありがたいです。

 仕事内容は、差し支えのない範囲で書かせていただくと、お中元の商品を箱詰めするラインでの作業です。体力や、特別な技術は必要ありません。たくさん流れてくる箱の中から自分の担当の箱を選別し、そこに漏れなく商品を納める作業になります。

 ミスの内容は、自分の担当の箱を識別する際、時々頭が混乱し、自分の担当のものでない箱に商品を入れてしまった(自分の担当量の3%程度のミス)、というものです。ミス低減のため、混乱してきたら指さしで数を数える、そして作業リズムを作る、等の対策を行なっておりました。

 重ねて申し訳ありませんが、何かアドバイス等ありましたら、よろしくお願いいたします。


 
「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^ / しまの
No.586 2013/07/23(Tue) 12:14:29

「仕事の普遍的スキル」とは

いい機会かというこことで、改めて「仕事の普遍的スキル」とは何かなど書いてみましょう^^。

まずそれを一言定義するならば(今まで一言で定義してなかった^^ゞ)
「どんな仕事に置かれても、自分がすべきことは何か、そのために必要なことは何かが自分で分かり、必要なものを自分から得ていくことができること。そして特別の熟練や資質が必要なものでなければ、大抵の仕事を、初めてであってもすぐできること」などと言えるかと。

そしてなぜそれが可能になるのかと言えば、社会における仕事は、一種類しかないからです。
「ものを作り、お客様にとどけ、フォローする」というものとしてです。野菜から自動車からビルから化粧品から旅行から介護まで、それであるわけです。もちろん、「作る“もの”」とは物質的なものとは限らない「サービス」であったり「観念」であるものもあるでしょう。
そのように、(今の地球上の^^)社会における「仕事」まずはその一種類なので、「モノ」が何であったとしても、しっかりと仕事をこなす経験一度踏んで、その経験「仕事の普遍的スキル」体得したならば、「モノ」別のものになっても、大抵の仕事すぐできるようになります。

まあそれが本当に企業での本格的な仕事に発揮できるような、「本格版」「仕事の普遍的スキル」は、まずは企業の正社員として数年間働くような経験の中で築かれるものとして、今回話題になるような比較的単純な作業仕事領域においては、「簡易版」「仕事の普遍的スキル」というものを、あらかじめ頭で知っておくことで、バイトなりでも最初に経験する仕事の中で、「こういうことか」実際に体得できるようにしたい。
まそんな2つのレベルがあると考えると良いかと。


「仕事の普遍的スキル」 超入門

ということでまずは「簡易版」「仕事の普遍的スキル」習得のための、「仕事の普遍的スキル 超入門講座」など手短に書いてみますと、

まず「簡易版」レベル必要なのはこう言えます。
「自分に与えられた作業の目的が分かり、うまくこなすための視点を的確に把握できる」と。
ちなみにこれが「本格版」になると、「その組織における管理調整の仕組みを、自分から把握し、自らそれを改善向上するような行動ができる」といったものになります^^。

をまずは「簡易版」レベルとしますが、まず一番大きな心得は、
「気持ち」ではなく「価値」
「人の目」ではなく「ものごと」
「能力」ではなく「役割」
いった
仕事に向かう、一番最初の姿勢になりますね。一言でいえば、その場の「人」とどう良好な関係の中で仕事ができるか・・といった姿勢ではなく、そこにある「ものごと」に向かう姿勢重要です。
「重要」という言葉では物足りないほど重要。まず言って、その場の「人」とどう・・という意識は、その時点でもう浮き草の上のような、心の足場が不安定な姿勢です。

より詳しい説明またの機会『メール相談事例集』など^^)再整理として、今回の話について言える格言など出しますと、

ミスは「心がけ」ではなくせない。「手順」を定めよ。

つまり、ミスが根本的に起き得ないような、確認の手順段取りを作りなさいといことです。まず自分自身で。一人人間による確認能力では漏れの可能性があり、かつそれが重大なミスになる可能性のあるものは、必ず複数人で確認する手順を作ることが鉄則です。これができてない組織が、重大な事故を招きます。記憶に新しいものとしては、中央高速トンネル天井板の崩落事故など。

まあ今回は、
>ミスの内容は、自分の担当の箱を識別する際、時々頭が混乱し、自分の担当のものでない箱に商品を入れてしまった(自分の担当量の3%程度のミス)、というものです。ミス低減のため、混乱してきたら指さしで数を数える、そして作業リズムを作る、等の対策を行なっておりました。

というものであれば、上述のような普遍的仕事スキル意識希薄背景にあってかどうかはさておき、ミスをなくすための着眼点がどうもうまく機能していないもの、あるいは着眼点を持てていないもののように察せられます。
「自分の担当の箱」「自分の担当ではない箱」区別する特徴はなにか。大きさ色、何か目印。それをまず決める「数」はちょっとそれにはならない感じですね。「作業リズム」はもう別の話ミス低減より疲労低減の話と。

ということで、「間違えようのない手順」自分の中でまず持つことが必要になりますね。その話であれば、ミスはまずは1%以下にしたいp(^^)q
もし目印がないもの振り分けるという話になると、またちょっとさらに工夫が必要にはなってきますね。

ということで、具体的アドバイスとしては、「見分ける目印を決めよ」という、まずは単純な話からになりますが、実際のところどんなもんかと。
「時々頭が混乱」というのは、「人とどううまく・・」という意識駆られているの原因であることも考えられ、その辺をうまく心の中で補正する意識を持つと良いかと。

仕事場面でこうした対処思考ができるようになるのが、まずは「簡易版」「仕事の普遍的スキル」ということで、一通りの話を書いてみました^^。


 
Re: 悪口の回避について / serori
No.587 2013/07/23(Tue) 21:30:54

 とてもご丁寧なアドバイス、ありがとうございます。

 まずは「仕事の普遍的スキル」についてですが、私の認識は、おおよそ合っていたようです。(まずはその定義をご質問すればよかったなあ、と今更思いました^^;) もっとも、それが的確に把握できるかというと、まだ全然なのですけれど。

>「気持ち」ではなく「価値」
>「人の目」ではなく「ものごと」
>「能力」ではなく「役割」

については、心がけてはいるものの、やはり「気持ち」に偏ってしまうことが、まだ多少あります。もっとも、これは自分の気持ち、というよりは、普遍的に人は「気持ち」を共有できたとき、相手に対する親愛を感じることが多いように思われますので、あえて、相手の「気持ち」はどうか、と考えてしまう、という感じです。(できる限り、いろいろな人と楽しい時間を過ごせることが、私の楽しみでもありますので)
 しかしながら、「仕事」においては、やはり価値を重視したいと考えておりますので、あまり「気持ち」に偏り過ぎないようにしたいと思います。


 今回ご質問させていただきましたミスにおいて、「頭が混乱する」とは、「人とどううまく・・・」という視点ではなく、おそらくは、作業上の混乱だと思われます。
「自分の担当の箱」に目印がないため、数で数えるのが最も確実な方法だと思われたのですが、流れてくるペースに微妙な差があり、目視と行動の繰り返し作業に混乱してしまっておりました。

 細かい作業手順(私が把握してその場で作成したものですが)としては、「商品を入れる→次の商品を手に取る→自分が商品を入れた箱を確認する→そこから2つめの箱を見定める→商品を入れる」の繰り返し(たまに、別の作業も入ります)なのですが、実際にやってみると、コンベアーの速さに目視がついて行かず……。手順としていろいろ試してみたのですが、なかなか良い方法が見つからず、結局、最速に合わせて手順のリズムを作り、それに合わせてひたすら動く方法を取っておりました。(たん、たん、たたん……の「たん」で商品を入れ、次の商品を手に取り、たたんで待つ、というように)
 しかしながら、たまに箱の流れてくる間隔が変わってしまうと、その時に頭が混乱し、ミスをしてしまう、というような感じです。

>もし目印がないものを振り分けるという話になると、またちょっとさらに工夫が必要にはなってきますね。
 というアドバイスについて、「工夫」の部分で、もし何か良い案がありましたら、教えていただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。


 
「情報を自ら得ていく能力」^^ / しまの
No.588 2013/07/24(Wed) 09:27:47

>「工夫」の部分で、もし何か良い案がありましたら、教えていただけると嬉しいです。

まさにそこからになりますね^^。「仕事の普遍的スキル」とは。
与えられた状況だけではうまく行かない中で、いかに頭を回せるか。

まあ一言でいえば、「目印がないなら、作り出しなさい」という話になりますね。

「仕事の普遍的スキル」として一般的に言えるのは、「情報を自ら得ていく能力」です。
その場面で言えるのは、まず、そもそも「ミス」とはどうなってしまったものをそう判断されているのか。そこから原因考えるという思考の流れが、まず一つ取れます。
そしてコンベア流れ最初で、どう区別されているのか。そこに区別がないとなると、これはもう個人のミスというより、相互の調整ミスの話ですね。これはまた対処法違ってくる。
あくまで「数」区別であれば、自分の担当分区別しやすいよう、まずちょっと位置をずらすなどが考えられます。

情報が必ずあります。その情報に応じた、その情報を利用した、対処必要です。
これが得てして、仕事への姿勢の偏りによって、目がふさがれたままになりがちです。

この辺の目の鋭さと視界の広さが、まさに「仕事の普遍的スキル」への入り口です。
さてどんなもんかと^^。


 
Re: 悪口の回避について / serori
No.589 2013/07/24(Wed) 11:35:38

>相互の調整ミス
 周りの方たちはあまり問題と感じていないようで、「慣れでできている」と仰っていたので、何か自分のやり方に工夫が足りないのか?と思ってしまっていたのですが、よく考えてみると、これに該当するかもしれません。

 そもそも、私の作業上の誤りは「ミス」と言えるものだったのか?というところから、疑問に思えてきてしまいました。生み出すことが必要とされる「価値」としては、「全ての箱に、商品が入っている状態」であり、1箱飛ばしで入れようが、そうでなかろうが、「全ての箱に商品が収まっていれば」結果に違いはないので。(だからこそ、ラインの調整者は箱に目印をつけることをしないのでしょうし)
 しかし、2人1組で作業するため、「入れる箱は等分」というルール(暗黙のルール?)があり、そのルールのために、全く区別のないたくさんの箱の中から「自分の納めるべき箱」を見分けるという作業が発生していたように思います。

 それこそ、絶対に「1箱飛ばしで入れる」を徹底させるなら、ラインの先頭で2箱組にして流すとかしていただけたらいいし、取りこぼしがあったときのための2人1組なら、「1人目の取りこぼしに2人目が入れる」というルールにしてもらえれば……と思ってしまいます。
 しかし、派遣の立場上、それをライン担当者へ伝えるのも難しいところです。私以外の方は問題にしていないようなので、尚更……。


 上述の状況でどう考え得るかや、「相互の調整ミス」の解消法などについて、お知恵をお貸しいただけたら幸いです。


 
「目指すべき結果を生み出す最短の道を探せ」^^ / しまの
No.590 2013/07/24(Wed) 17:48:46

>そもそも、私の作業上の誤りは「ミス」と言えるものだったのか?というところから、疑問に思えてきてしまいました。

との言葉を見た瞬間は思わず「あはは」と口に出していましたが、まとめますと、
「間違いようのない手順」「目印」と来て「相互の調整」といったが出てきたわけですが、

「相互の調整」についても、一般的仕事場面として
a)事前にはっきり行う調整
b)その場の「流れ」として慣例的暗黙的なもの

があります。

>「相互の調整ミス」の解消法などについて、お知恵をお貸しいただけたら幸いです。

とのことで話が出せるのは、上記a)の場合です。今回はどうやらb)ケースではないかと。

こうなるともう、まずは「流れに合わせる」ことが求められるという話にもなりますね。まあ高速道路法定速度だけ考えるのではなく、流れに合わせることも重要になるというように。
その中で、区別判断するという話。
これは「人の目」という話ではなく、人の動きモノの情報一つとして、しっかり見れることが重要になります。
これは新たに入った人間としては、まずはすでにいる人の流れ合わせられるか課題になると思います。それ以外の方法などないという話が、最初の方の方法どれも当てはまらなければ結論になると思います^^;

また格言で言いますと、
「目指すべき結果を生み出す最短の道を探せ」。

そもそも結局のところ、商品がどうなっていればいいのか。そこから、要因としては以上のようなものがある。
どれが「どうあるべき」かというよりも、どれが「目指すべき結果を生み出す最短の道」か。

問題を感じた場面で、これらを一通りざっと考えて、答えを出してみて、まずはそれに意識集中してみる。それによって、ほんの数時間でミスをなくせるかどうか。
まあ方向が定まらない意識拡散こそが、ミスの最大の原因であることも考えられますので^^。方向定め、あとはチャレンジですp(^^)q

こうした要因分析思考一通りすぐ自分でできるようになるのが、「仕事の普遍的スキル」基本形習得と言えますね。検討してみて頂ければ^^。


 
Re: 悪口の回避について / serori
No.591 2013/07/25(Thu) 20:08:55

 ありがとうございます。ここまで詳細にやり取りしてくださったおかげで、「仕事の普遍的スキル」の考え方が、まずは知識として大方理解できました。

 とりあえず、ここまでいただいたアドバイスを元に、実践してみます!


ブログの記事を参考にさせていただきました。 /
No.581 2013/07/12(Fri) 17:48:04

先日の取り組み以来、他にも参考になる解説をブログで拝見し、気付いてみると、通常の怒りの感情がかなり軽減していることを自覚できるようになりました。完全に怒りを放棄するにはまだまだ遠いですが。
少なくとも、仕事中に受けたヤジや不快なリアクションが、火が点いたように怒りを募らせるほどのものかどうかを疑問視できるレベルには落ち着いた状態です。

とくに参考になったのが、「魔界の怒り」と「現実世界の怒り」でした。
元来の怒りっぽさの中に相手の言動に過剰反応するものが多かったことや、幼少の頃から両親の夫婦喧嘩を飽きるほど見てきたこと、親から向けられた怒りがどうしても納得のいかなかったものだったことなど、思い当たる出来事が沢山あったので、今までの人間関係で発した怒りが「魔界の怒り」(…自分の心の中でいうと「魔界の悪意」というほうがしっくりきましたが)への防衛反応だったのではないか検討してみました。
いくつも思い返すまでもなく、完全に該当してたのに気づき、以前の人間関係での過剰反応を自覚したとき、また軽い苦しみを味わって「やってもうたー!」と後悔しました。
この苦しみ、自分の心の中にある矛盾を暴き、自覚したら起きるモノなのかなあと思うと、昔流行ってた逆転裁判というゲームみたいでちょっと面白くなってきました。

怒りが落ち着いた中で、一度不快なリアクションを受けた時にちょっと悲しい感情が流れたのでしばらく心の様子を伺ってると、不意に「マトモな親の下で愛されたかった」という、自分でもなぜ今ごろ感じるのかわからない思いが湧いて物凄くビックリしました。
とりあえず、悪くない流れの中には居るようなので、お礼とご報告をさせていただきます。
ありがとうございます。


 
「感情と行動の分離」の実践と「望みの根本への回帰」^^ / しまの
No.582 2013/07/15(Mon) 17:00:15

>とくに参考になったのが、「魔界の怒り」と「現実世界の怒り」でした。

ブログ『「自己分析」虎の巻』カテゴリー収録の、
2010-12-30『「魔界の怒り」と「現実世界の怒り」』
ですね^^。
「人から向けられる怒り」の感覚取り組むためには必須と言える視点になりますね。

>とりあえず、悪くない流れの中には居るようなので、

そうですね。いい流れだと思います^^。
2段階的いい流れ
まず「怒り」への取り組みとして、現実世界の外面の行動法への取り組みと、「魔界の怒り」という内面の分析という、「感情と行動の分離」上級編的セット

それで「怒り」の問題軽減して、次に「魂の愛への望み」感情が現われています。

『悲しみの彼方への旅』でも、「失わされた怒りを捨て、本当に求めていたものへと還るのだ」なんて言葉が出てきますが(P.95)、そうした「怒りから悲しみへ」という、望みの根本への回帰が、「感情と行動の分離」実践の中で前進している。
これが一つのサイクルになります。この望みの根本への回帰起きるたびに、別の人間へと変化していきます。

全てこの繰り返しと言えます。「スパイラル前進」としてですね。
まあ怒り場面への対処についてはさらに行動学的積み重ねになりますね。
あとは「望みの根本への回帰」については、そうした積み重ねの中で、今回解説説明したような、「真の強さ」から「否定価値の放棄」へという節目があると、「望み」の開放度異次元の大きさになり、「望みの根本への回帰」大きさ異次元の大きさになるということで、基本として実践すること心に起きることは、これを最小セット一つのサイクルとして、生涯を通してのその繰り返し積み重ねになるという次第です^^。

解説続きで次は「「魂の望みの感情」と人生の歩み」なんてにする予定ですが、上記を踏まえてそれを読んで頂くと、ゴールまでの全体かなり把握できるかと思いますので^^。


お礼 / ケロッピ
No.578 2013/07/04(Thu) 13:57:23

数年前に「けろっぴ」で投稿させていただきました。

はじめは、島野さんの書いている内容を理解するのにいっぱいいっぱいでしたが、
この数年をかけて、
熟読しては実践をして、内容の理解ができたら熟読をしてと
自分の生活を通して徐々に理解を深めていきました。

こんな、文章をつづると、きっと「魂」やもしかしたら「命」のところまで
到達しているのかな。とお思いになられてしまうかもしれませんが。
今はまだまだ「未熟と闇の大海」からたまに顔を上げて「成長の大地」を仰ぎ見て、
また大海にもぐりこみ、
感情を客観視できずに、その感情で行動に移してしまったりと、スパイラルを続けています。

それでも、島野さんの心理学を読み始めた当初よりは、
少し海面に近づいてきたのではないかと思います。

ここ数日ですが、目次の一覧をみてなぜか涙ぐむようになりました、
なぜかは分かるような。。分からないような気がします。。。

島野さんのHPにたどり着けたことを本当にうれしく思います。
また、島野さんこれからも活動がんばってください!

感謝をお伝えしたく、
「読者広場」に投稿させていただきました。


 
Re: お礼 / しまの
No.580 2013/07/05(Fri) 10:21:38

>こんな、文章をつづると、きっと「魂」やもしかしたら「命」のところまで到達しているのかな。とお思いになられてしまうかもしれませんが。

10年20年、さらにはそれ以上の歳月を通してになると思いますので^^。一生をかけて取り組みですね^^。
ハイブリッド心理学自体がまだ整備途上という事情もありますので、の方頑張って書いていきますですp(^^)q


偶然ながら / 蓮(れん)
No.565 2013/06/20(Thu) 03:02:30

かなり昔、夕希という名前で幾度か投稿させてもらいました。
実際のところ、しまのさんの心理学は私にとって非常にレベルの高いものに感じられたので、ぶっちゃけ無理、と感じて使うのを諦めていましたが、先日偶然にも、しまのさんの心理学で説明されてたことに似たような現象が起きたので、参考資料になればと思い、投稿させていただきます。
まず、元々諦めていたということで、説明に倣って起きたことではないことを前提にご覧ください。自分の取った思考はかなりツッコミどころ満載だと思われるンで。

元々私は、殆どの建設的行動に出る際、三日坊主になる状況でした。
従来、これを、やる気のなさ、根気のなさによるものと考えるか、自分にはやりたいことなど何にもないンだという諦めで片づけてました。

最近、同僚の知り合いの、恨み辛みの感情の激しい人の奇行を耳にすることがあり、そこから、自分の世の中に対する恨み辛みの膨大さをリアルに実感しました。恐らく、投影とか外化とか言われてたものを勘で処理したンだと思います。
その人の奇行はさて置き、私の場合、恨み辛みの大きさのあまり、世間の言いなりになどなってやるものか!という気分から、自分にとって有益な行動すら拒絶し続けてきたのだと思います。
ただ、それを自覚した直後も、世の中の言いなりになる行為が、そのまま自分を苛め苦しめてきた連中を許すことに繋がると感じてしまい、「何で赦さなきゃいけねえンだ!?」という反発感が強まりました。
以前このサイトで聞いたことを生かした点と言えば、この反発感を力ずくで無くそうとしなかったことぐらいだと思います。
その後、「母親から酷い仕打ちを受けたこと」を言い訳に迷惑行為に走ってる別の人の話を聞いたとき、今の自分とその人が、心理的な問題について似たような構造を持ってるように感じ、自分の心に大きな打撃を食らうような感覚に見舞われました。俺はこいつと同レベルなのか、という意識が頭を覆い、その場でのた打ち回りたいという強烈な衝動が起きました。城でたとえるなら、天守閣をミサイルで吹き飛ばされたような感じでしょうか。何にしても、心の一部が派手に木端微塵にされたように感じられました。従来の心が死ぬ現象とはこういうモノなのかなあ…というものが体験できたのかもしれません。

それが静まってからは、従来の恨み辛みが軽減された感じがします。
私を苛めた連中を赦すかどうかについては、考える必要を感じないという感覚が強くなってるように思えます。
あとは、有益な行動に出る際の心境がどうなるか、ですが、何となく、以前より取り組みやすくなりそうな感じがしています。
久しぶりに拝見してみると外面的行動に関する説明が以前より分かりやすくなっているように見えたので、使うことを検討してみようかなあ、と思います。


 
Re: 偶然ながら / しまの
No.566 2013/06/21(Fri) 10:29:40

>従来の心が死ぬ現象とはこういうモノなのかなあ…というものが体験できたのかもしれません。

そうですね。邪念ある心澄んだ心変化するのは、そうした「苦しみ」経ることのみ可能にするというのが、僕の経験でもそうだったことです^^。気持ちの持ちようじゃ心はきれいにはならない^^;
まあがある時、自分自身も毒になってしまえばそうした苦しみを感じることなく平気でいられるのですが、自分の全体毒に滅ぼされてしまう。自分自身毒になりきれない時、自分自身の毒に苦しむのですが、それが「浄化」なんですね。

>久しぶりに拝見してみると外面的行動に関する説明が以前より分かりやすくなっているように見えたので、使うことを検討してみようかなあ、と思います。

外面の行動法については、まだ具体的な情報整理できた形ではほとんど出させておらずご不便をおかけしている状況ですが、まずは次の作業として予定している『メール相談事例集』あたりでようやっと参考にできるものが出せるように考えています。
それまではご面倒かと思いますが、具体的材料あればここで質問相談頂ければ懇切にアドバイス返しますので。

外面の行動法というのは、結局紋切り型「こうしなければ」というものではなく、今回の解説でも
基本的な流れ
で、
・心の健康と成長に向かう行動法とは、実際の場面での具体的行動として、全く異なる幾つかの選択肢として出てくるもの
・心の健康と成長とは、自ら幸福に向かうための行動の選択肢を知り、それを自分で選んでいけるということにある

と述べた通り、まず広い視野行動の選択肢知ることからになりますので、三日坊主になるもならないもないような感じになると思いますので^^。


 
Re: 偶然ながら / 蓮(れん)
No.569 2013/06/25(Tue) 21:53:05

お返事ありがとうございます。
しまのさんの説明を最近読み返してみて、以前無理だと思ってしまった最大の要因が、最初の取り組みについて盛大に解釈を間違えていたことだと気付き、非常に勿体ないことをしたもんだと後悔しました。
解釈ミスの影響で、「建設的行動を当てはめで行う」というミスを行おうとして挫折したように思えます。
当時はそういう読み違えをしてしまう精神状態だったのか、それとも単に読解力が凄まじく悪かっただけなのかは今となっては分かりませんが、ミスを修正しつつ、また見直してみようと思います。

今のところ、店のPRのバイトで客以外からヤジを受けたり絡まれたりすることからくる怒りや、それに伴うやけ食いヤケ酒が主な問題でしょうか。「チヤホヤされたいとは思わないけどバカにされたくはない」という感覚はかなり強いです。
ただ、今のバイトを辞めたところで、仕事上の怒りに苛まれるのはどこに行こうが変わらない気もします。実際、普段からキレやすいほうなので…。
とりあえず、怒りへの対処法や、掲示板のログで、ヒントになりそうなものを探してみようと思います。


 
「人生観」から「怒り」の克服へ^^ / しまの
No.570 2013/06/27(Thu) 14:17:25

>当時はそういう読み違えをしてしまう精神状態だったのか、

これはまあ確かに恐らくそうした面と、あとハイブリッド心理学自体がまだ整備途上であるのと、両面だと思います^^。まあ建設的行動法について「感情を無視して理屈で行動する」ものだと誤解する人が結構おられ、「当てはめ」「枠はめ」ではない耳にタコ(^^;)ができるほど書くようになってきたのも比較的最近ですので^^。

>「チヤホヤされたいとは思わないけどバカにされたくはない」という感覚はかなり強いです。
>怒りへの対処法や、掲示板のログで、ヒントになりそうなものを探してみようと思います。

これについては2点ほどアドバイスができるかと。


「人生観」への取り組み

まず、これは指摘されるのが意外かも知れませんが、基本的な人生観が、
「「人生観」の学び」
で説明している「道徳の授業型人生観」の中に、ほぼ100%あるのではないかと推察します。
この点すぐ前
『お礼と近況について』 seroriさん No.567 2013/06/21
ケースとやはり同じなんですね。
seroriさんの場合が自責的いい子タイプであれば、蓮さん反抗者タイプで、表面かなり違って根っこ同じであるわけです。
で、この人生観違い一番根底にありますので、まずこれを意識して取り組まないと、転換見えてこないと思います。

それが「大自然を生きる一匹型人生観」もしくは
心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し
で触れた
「人それぞれの人生型人生観」
になってくるとどうなるかというと、

まず「バカにしてくる相手」「キレてしまう相手」が、自分の人生にとってどんな重みがある相手なのかを吟味するというのが、結構重要なステップになってきます。
普段の日常思考を、seroriさんケースアドバイスしたように、「目的思考を欠いた善悪評価思考」から「目的思考」変えていくという、結構中身の骨のある実践合わせてです。
するとこの結果は、「バカにされたくない場面」「キレてしまう場面」への対処法が、それだけでもう紋切り型のものではなくなってくる、さらには、そもそもそうした問題自体がどうあるかから変化してくる、というものになると思います。


「「怒り」」の克服

まずはそのように、「人生観」全ての根底にあるということに取り組むのと2本立てという感じで、次に「怒り」への対処としての具体的な思考法行動法にも取り組むのが良いかと思います。

それについてはまずは、ブログ
2010/02/04 「怒り」を捨てる-1
2010/02/04 「怒り」を捨てる-2
2010/02/06 「怒り」を捨てる-3
あたりで、ごく入り口をしていますので一読されると良いかと。

「怒り」克服とは、「怒りを抑える」のではなく、「怒りの有用性を徹底的に見極める」のがまずはだと言えますね。ま結論は、徹底的に有用性がないのが怒りだという結論になるというですが。
あとは、仕事場面なり対人行動法なり、ハイブリッド心理学での全て行動法の学びが結局、怒りを使わないものへと向かっていきますので^^。


 
Re: 「人生観」から「怒り」の克服へ^^ / 蓮(れん)
No.576 2013/07/02(Tue) 16:39:33

 アドバイスありがとうございます。

 >この人生観の違いが一番根底にありますので、まずこれを意識して取り組まないと、転換が見えてこないと思います。
 
 これが見事に的中し、一週間ほど前に、また前に進むためのものと思われる苦しみを経験できました。

 アドバイスを頂く前後、こういう場合の行動法はどんなものが適してるのだろうかと、あれやこれや考えても、結局、ただ通過していくだけの人々が自分を野次らないようにする手段など見つかるわけもなく、あれこれ考える中でいろんなマイナス思考が浮かび、流していました。

 アドバイスを受けた後は、自分が今まで道徳思考にどう接してたか並行して考えるようにしました。
 道徳思考には、子供の頃は「よくわからんけど、従わないと酷い目に遇うものなんだな」と、目上の人から処罰されない為に従わなきゃいけないもの、という感覚で従ってました。
 親も教師も、脅しによる躾をしているようにしか見えず、苛めを受けていたことも大きく影響し、子供の頃から、自分以外は全て天敵に見えてたのかもしれません。
 メンタルサイトで、心が病む原因は生育過程で受けた酷い仕打ちだというのを見て、こちらで道徳思考の不合理さを目の当たりにした時、道徳そのものへの反感を膨らませてしまいました。そしてアンチ道徳、アンチ儒教に。
 苦しみを通過するまでは、そのことで発生した問題が見えてませんでした。

 最後に見えたのが、「不正なこともせずに働いて、なぜこんな仕打ちを受けなきゃいけないんだろう…」という思考で、仕事中の怒りの核はこれかなあ、と思いつつ、やはり怒りを鎮めるのは難しい、と考えながら、アンチ道徳な思考を巡らせているときに、不意に「正しければ危害を加えられないっていうそれ、アンタが嫌ってる道徳思考じゃね?」という考えが頭に浮かび、自分自身のバカさ加減に気付き、大いに苦しみました。
 仕事中でしたが、人のあまり通らない夜中だったのも幸いし、「うわぁ…」とか呟きながらも苦しみを何とか流せました。
 山場らしきものが過ぎた後、「自分に降りかかった出来事はしっかり受け止めんとアカンよなあ、やっぱ」という思考が浮かびました。
 結局、道徳を叩きながら、わが身に降りかかったことを自分で受け止めることは避けるという道徳思考は残存したままだった、という、あまりに笑えないオチになってしまいました。
 
 それからしばらく、「もう怒りを感じなくて済む!」と舞い上がってました。事実、通行人の嫌なリアクションを見た時の動揺はかなりへっていたので。ですが、仕事外も含めたアクシデントが連続して起きたとき、やはり怒りが浮かんでしまい、一時的に落ち込んだ気分になりました。その後、「そりゃ、一気に怒らなくなるわけないよな」、と苦笑する場面もあり。
 その後も、浮かんだ感情を流す場面にたびたび遭遇しています。

 今のところ、外面行動に関してはあんまり手が付けられてないので、今まで投げ出していた部屋の片づけやダイエットなどに手を付けながら取り組んで行こうと思っています。

 また壁に当たったらアドバイスをお願いすることもあると思いますが、その時はお願い致します。
 今回は本当にありがとうございました。


 
「不道徳から」がお勧め^^ / しまの
No.579 2013/07/04(Thu) 15:52:26

まあともかくはいい転換になったかと^^。

手短今後へのアドバイスなど書いておきますと、
道徳でもアンチ道徳でもないとなると、まず「不道徳」というものになります。結構そこからお勧めです^^。
何がどうあるべきという話の前に、まず現実とはどのようなものであるのかを見る。道徳基準にして「どうせ」とうそぶくのでもなく、現実がどうあるのか、そのありのままの姿をですね。

「現実を見る目」という全ての始まり
になってきますが、そうするとそれは大抵、「不道徳」な話からになると思います。「どうすれば野次られないで済むか」ではなく、「野次られるのが現実」だというように。
そこから、そこにある原因分析やらそれに応じた対処やらの「行動学」が出てきます。
全てが「学び」になってきます。

そこで一個踏まえておくと良いのは、「野次られる」というのは、得てして、アンチ道徳姿勢にある道徳姿勢が、他人の目に鼻につく可能性があるということです。それが実は盲点のように野次られる原因になっているかも知れない。

まいずれにせよあとは具体的場面内容に応じた話になってくると思いますので、何か材料であればまた新規トピックなどで質問相談頂くとよろしいかと思います。僕ならどう考えるかなどアドバイスでき、多分思いもつかない視点になると思いますので^^。


半年振りの投稿です。 / ゆうすけ
No.572 2013/06/30(Sun) 19:11:55

私は相変わらず、外面での行動は建設的に行えていません。

ですが、内面での力強さが増すような体験を何度もしました。

今回は、「他人から向けられる敵意、怒り」などの感情についての自己分析の結果でした。

ありきたりですが、当然のように、それは「私が世界へ向けた敵意、憎しみ」であったと自覚する事に到りました。

それは、過去の全てにおいて自らに起きた「痛みを伴う不遇」を私がどう捉えているかに起因するものでした。

私は人を恨んでいました。「全く関係のない、誰でもない全ての他人」を恨んでいました。
というよりも世界そのものを恨んでいました。

しかし、それは「理不尽に他人を憎んでいる自分」という現実を自覚し、崩れ去っていきました。

そして、この「不遇」は他の誰のものでもなく、誰のせいでもなく、何の理由もなく、
私に架せられた天命、なんだ!と私が元から持っている天命なんだ。と初めて、その不遇に対して、正当に向う事ができました。

「良くも悪くもこれが私なんだ!」

そして、それを受け入れて初めて、「前へ進む選択が現れるような気がする」と強く感じられました。

私は、また一つ大切な事に気が付く事ができた。
「より現実感、生々しさが増したように思う。より心は力強く、解放感すら感じられる。
自分への感謝が溢れ、とても幸福を感じられる。心は非常に豊かだと感じられる。
私は今とても心地良い時間を過ごしている、極楽・・極楽・・・。」
という感じ。

外面的な前進は、私にとって非常に大きな苦痛を伴うので、ずっと見送っていますが、(私なりの前進はしているのかもしれませんが。)それでも、少しずつ、前進、成長はしているのではないかと感じている日々です。

特別な大きな前進というものはありませんが、私は私なりにささやかながら幸福を感じ、前進しているのかもしれません。

島野さんが心理学を整理して世に広めたいという思いを持っておられるのは、こうした外面的な現実とは関係のない「心の中だけの人間本来の幸福感」さらにはもっと深い何か?(私にはわかりません><)を世の人々に感じてもらいたいからなのかな?と私は想像しています。あくまで私の想像なのでわかりませんが、そういう事なのかな〜と感じるような、今回の私の解放体験でした。


 
Re: 半年振りの投稿です。 / しまの
No.575 2013/07/02(Tue) 11:30:12

ちょっとした心の脱皮があったみたいですね^^。

>島野さんが心理学を整理して世に広めたいという思いを持っておられるのは、こうした外面的な現実とは関係のない「心の中だけの人間本来の幸福感」さらにはもっと深い何か?(私にはわかりません><)を世の人々に感じてもらいたいからなのかな?と私は想像しています。

僕が伝えたいのは、「心」と「魂」が織り成す成長と豊かさの過程だと一言では言えると思います。そのさらに深いところにあるのが「命」だということ^^。
そこには、外面的現実とは関係のない開放と幸福感もむろんあるでしょうし、一方それだけに見入っていると、それはまず言って2日ももたずに消えてしまうようなものでもある。(僕のような俗人凡人はそう^^;)
結局多面になりますね。支え合いながら、双方が豊かさを増していく「現実の世界」「魂の世界。これが僕の伝えたいものです^^。

ゆうすけさん自身歩みとしては、
島野が通った主な転換の流れ
で書いたようなものが、やはりどうしても大枠になると思いますので、そうした道のりにおいて自分は今どんな位置にあると自分自身では考えるか問うというのが、一つの取り組み法としてアドバイスできます^^。
もちろん何度も書いているように、終わりから当てはめるのではなく、最初の方から確認するほど最短になるというものとしてです^^。


 
ありがとうございます。 / ゆうすけ
No.577 2013/07/02(Tue) 18:30:33

そうですね、解放といっても本当に一瞬の話ですね。私は二日と持ちません。
それは、私自身もやはり外面的な豊かさの問題と思っています。

もう一度文章を読んでみます。

自分の考えを持てないという感じで、いつの間にかあてはめて考えてしまっている事は多々あると思いますが、もう一度じっくりと考えてみます。

ありがとうございました。


カレン・ホーナイ / mitinai
No.571 2013/06/30(Sun) 17:17:06

御書を拝読し、HPを読みあさっているうちにカレン・ホーナイに行き着き、先日図書館で
『自己実現の戦い』を借りてきました。…厳しいです(笑)。これまで読んだどんな本より
的確に自分の中の心の闇をえぐられ、自分の浅はかさを糾弾されるようで一ページ一ページ、
開くのが、怖いという状態。それでも読み終えた時、御書の時と同様、何かが変わる気がして
恐怖を勇気に変えて読み進めようと思います。良い(?)本を紹介してくれてありがとうございます。


 
Re: カレン・ホーナイ / しまの
No.574 2013/07/02(Tue) 11:14:22

>先日図書館で『自己実現の戦い』を借りてきました。

『神経症と人間の成長』ですね^^。
カレン・ホーナイは今ネットで見ても、ほとんど流通されていないようですね。文庫本にでなって幅広く読まれるに値するものだと思うのですが。

>…厳しいです(笑)。これまで読んだどんな本より的確に自分の中の心の闇をえぐられ、自分の浅はかさを糾弾されるようで

まあひたすら「心を病むとはどういうことか」メスを入れるものになりますので^^。
一方それがどう健康へと回帰するのかについては、やや手薄かと思いますので、その点をちょっと値引いて読んで方がいいかも知れませんね。あんまり自分の心に見入るような目線を、いったん前のクリアな空気に向けるようなものに、リセットする必要がある。

で結局心の健康と成長への回帰は、どんな意識姿勢意識実践にあるのかをまとめたのが、今回の解説になるという次第です^^。


お礼と近況について / serori
No.567 2013/06/21(Fri) 21:52:55

こんにちは、seroriです。
ハイブリッド心理学、更新がある度にじっくりと拝読しております。
おかげさまで、かなり生き辛さが解消されてきており、偶然か必然か、こんな素晴らしい考え方・生き方を知ることができたこと、知らせてくださった島野さんに、大変感謝しております。
ありがとうございます!
今回は質問ではなく、お礼と、私の近況のご報告です。
もし、下記の近況について、注意やアドバイス等がありましたら、いただければ幸いです。

近頃、新しい仕事に就いて、そこで新たな学びを得て、「仕事が長く続かないのは悪いことだ」「仕事をしないのは悪いことだ」というような、「誰にとって」「なぜ悪いことなのか」を抜きにした固定観念に囚われていた自分と向き合うことができました。
私が「仕事」にあたる際に多く感じていた「怒り」や「罪悪感」といったものの正体が分かったようで、かなり心が軽くなりました。

その正体は、私が子供の頃、周囲の大人たちから見聞きして作り出した「仕事とはこうあるべき」「仕事をしなければ、生きていてはいけない」という観念だったのですが、それがどうしても、私の心が求める「望み」とズレてしまっておりました。
すごくざっくりと言ってしまえば、そういう考えの下で仕事をしていても「全然、楽しくなかった」のです。
しかし、心が求める生き方をしようとすれば、固定観念を裏切ることとなり、自分を責めるか、社会に怒りを向けるかのどちらかしかできないでおりました。

しかし、ハイブリッド心理学を知り、学びを進めていく課程で、そのような固定観念は自分が作り出してしまったもので、摂理としては存在しないということが分かり、更に今回、新しい仕事に就き、そこがどんな職場であれ「私にとって」快適だったことで、「自分は自分の好きなように生きて良いんだ」ということが、はっきりと理解できました。

一つの職をずっと続けようが、職を転々としようが、あるいは職がなかろうが、自分の心の望みに向かっているならばそれでいい、というのは今まで考えもしなかったことなので、新しい選択肢が現れたことにわくわくしております。
今後は、もっと心を解放して自分の望みをはっきりさせる方向に向かいながら、外面・内面向け行動法の両方において、試行錯誤を繰り返していきたいと思います。


 
Re: お礼と近況について / しまの
No.568 2013/06/24(Mon) 14:54:03

>そのような固定観念は自分が作り出してしまったもので、摂理としては存在しないということが分かり、更に今回、新しい仕事に就き、そこがどんな職場であれ「私にとって」快適だったことで、「自分は自分の好きなように生きて良いんだ」ということが、はっきりと理解できました。

そうですね。 「こんな歳になって仕事にも」といった思考は、今回の解説でも「目的思考を欠いた善悪評価思考」として詳しく取り上げたものの典型的なものになりますね。
それをしっかり「目的思考」変えていくのが取り組み実践になります^^。生活できれば仕事しなくてもという話から始まり、生きがい自分自身のため人生設計といったものへ。

「摂理」を言うなら、「好きに生きればいい」がまさに「命」摂理^^。あとは「折り合い」になりますね。
「人生観」の学び
で述べたように。
「折り合い」としては、相手「仕事はこうあるべき」といった言動議論をふっかけるなんてのではなく(「目的思考」からは、何を目的にして議論するのかという話にもなります)、まずは納得しているような振りをして内心でペロッと舌なんて行動法を考えるのが得策ですね^^;

「仕事」というのはとにかく、道徳の問題ではなく「価値の生み出し」視点からのノウハウというのがハイブリッド心理学になります。
もうじき『メール相談事例集』で結構本格的なものも紹介しようと思っていますが、この掲示板比較的最近のものとして、
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
(↑クリックするとこの記事自身が出た下に出ます^^)
など参考頂けるかと思います^^。


 
Re: お礼と近況について / serori
No.573 2013/06/30(Sun) 21:13:15

 アドバイス、ありがとうございます。

 最近は、その「折り合い」が私にとって、相手との親愛を築く上でとても重要なものだと分かってはいても、やはり相手による「価値観の押しつけ」に反応して怒りなどを感じてしまい(後ですぐに、相手にとってはそれが正しいのだから、ここで怒るのは意味がない、と気付くのですが)、気を付けてはいても顔や態度に出てしまうので、なかなか難しいなあ、と思いつつ、試行錯誤しているところであります。
 もっとも、これに関しては「怒るクセがついてしまっているのだから、理屈では分かっていても、すぐには自分の目指す外面行動を取れないのだろう、仕方がない」と、すぐには変われない弱さを認めて諦めた上で、自分のペースで新たな考え方のクセ付けを進めております。

 闇雲に変われない自分を責めたり、変わらない周囲の人間を責めたりしているところから抜け出して、「変わらないものは変わらない、それは仕方がないとした上で、それらを『前提条件』として考慮し、生きていく」という選択肢を与えてくださったことに、とてもありがたく思います。

 現在は「自分の心が本当に喜ぶのは、どんなことなのだろうか?」を模索しながら、価値を生み出す視点、自分の内面を見つめる視点の両方から、いろいろやってみて生活しています。不安・恐怖・怒りを感じることはまだまだありますが、目指すべきところが「自分の望み(心が喜ぶ現実)」に至ることなので、そこまでの苦痛は何のそのです。むしろ、それを乗り越えることができると信じてやっていきたいと思います^^

また、行き詰まってしまってアドバイスをいただきたい時や、進展があった際には書き込みさせていただくかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします m(_ _)m


お久しぶりです / ホワイトホイップ
No.563 2013/05/03(Fri) 16:56:53

こんにちは、摂食障害のことで書込みをしていたホワイトホイップです。

体調を崩し、入院等ありしばらく間が開いてしまいました。
今年に入ってからは、大分過食嘔吐なしで日常をすごせる日も増えてきましたが、やはり一本調子では行く事は出来ないみたいで、今は調子悪い真っ只中です^^;

4月から主人が職場の移動で通勤も1時間かかり、ずっと残業が多い課に配属になったのもありほぼ平日は娘が寝た頃に帰ってきます。私一人で全部の家事や子どものことをやらなければいけない。と覚悟はしていましたが、やはり私もフルタイムで働いているので毎日イライラして娘に怒ってしまい自己嫌悪な毎日です。

「人は自分の思い通りにならない。」今までわかっていたようで、わかりたくなかったことです。多分随分と狭い枠の中で思い込みが激しかったので、融通が利かずに勝手に苦しんで来たのだろう。と思っています。

考えて見ると、思い通りになることなんてあまりないのかも知れないと思うこの頃です。

いつも人を自分の思い通りになってほしいと、思っていた自分がいました。

兄が滅多に実家に帰ってこない事にもいつも心は怒っていて、「長男なんだからせめて年に1回くらい帰ってくるのが普通なのに!!」と自分の中の常識??が正しいと思い込んでいたので、まわりの人に対してもいつも不満で怒っていました。

今、やっと思うのです。私が「普通は○○だよ」「○○するのが常識」だと思っていても人はどう思うかわからないんだと。

今日は娘が近所の友達遊ぶ約束をしていたし、あまり体調が良くなく、家でゆっくりしようと思っていたのに、主人が買い物で出かけた後に過食の虫が騒ぎ出しパンやお菓子を食べ始め足りなくて近所のスーパーへ買い物へ行きました。

でもスーパーに行ってもさほど食べたいものもなく、適当にパンやお菓子を買いましたが「パンやお菓子を食べたからと言ってもう駄目だ過食してしまえ!ってならなくていいんだよ、ここからどう行動するかなんだよ、いいんだよそのままで。」と思いました。
「駄目だ、駄目な自分と決めつけていたのは私なんだろう、でも駄目でもいいよ、それも私の一部で私のしるしなんだろう」と思い帰ってきて久しぶりにPCに向かっています。

今、調子は良くないですが、調子が悪いときほど「一歩一歩の向上思考」を読んで、しんどいけど、今出来る一番小さなことは何だろう?と考えるようにしています。


また、思い悩んだときは書込みさせてください。


 
「取り組み実践」のお勧め^^ / しまの
No.564 2013/05/07(Tue) 16:14:21

「取り組み実践」のお勧め^^

>やはり一本調子では行く事は出来ないみたいで、

そうですね。前回過食そのものへの対処としては、
1)買い置きをやめるなど、過食してしまうものを手に取るまでのハードルを高くする
2)過食してしまう時の感覚と、過食をやめる方向に向く感覚の両方をじっくり繊細に吟味し、後者に積極的に加担する姿勢を持っていく

という、外面行動内面向き合い2本立てになったと思いますが、身体生理的な面も絡む問題であり、かなり終わりのない長い取り組みと考えるのが正解だと思います。これは島野の場合ビール飲み過ぎへの取り組みも同じ^^; 一生続く課題かと^^;;;

ともかくそうした過食そのものへの対処の面では、
>でもスーパーに行ってもさほど食べたいものもなく、適当にパンやお菓子を買いましたが「パンやお菓子を食べたからと言ってもう駄目だ過食してしまえ!ってならなくていいんだよ、ここからどう行動するかなんだよ、いいんだよそのままで。」と思いました。

この辺ひとまずの前進成果状況として、あとは過食そのものではなく、精神的な背景への取り組みになりますね。

ポイントは、言った通り、食べること以外心を充実させるものをより多く見出すこと。
これは結局、過食への対処のためというよりも、日々の生活と人生を充実させるという、より包括的な目標になりますね。それが自ずと、過食傾向なども根元から消していくであろうと。

そのためには、
>今、調子は良くないですが、調子が悪いときほど「一歩一歩の向上思考」を読んで、しんどいけど、今出来る一番小さなことは何だろう?と考えるようにしています。

というのを、 大上段から教科書通り「取り組み実践」として始めるのがお勧めになります。
今掲載中『ハイブリッド人生心理学とは』で書いているような思考過程に、根本から取り組んでみる。それをするかどうかという話になりますです。島野からご提供できるお助けとしては。
この掲載原稿は、書き上がったら『詳説・ハイブリッド人生心理学の取り組み実践−心と魂と命の開放へ−』という(無料電子書籍)にするつもりで、結構な大作となり読むのが大変かと思いますが、これのサマリー入門版いずれ作ろうかと思っている次第。

まずは以下の主に3ステップによる「学びの設定」からですね。
1)今目の前にある問題課題はこれこれ、と「言葉」でしっかり把握することから始め
2)それについての「学び」は今何になるかを、「学びの一覧表」レベルの項目に、やはり「言葉」で落とし込めるようにする。ま大抵「2 思考法と行動法の基本」「3 日常生活と社会生活の向上」「4 悪感情の克服」になってくると思います。
3)それについて今役に立つ読書手にする。

これが取り組み実践として一貫として進める、
「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」
という外面の行動法および内面感情への向き合いという2本立ての意識実践(*)の、まずは外面行動法側になってきますが、それによって自ずと、内面感情への向き合いより解きほぐし効果の大きなものへと前進していくと思います。外面行動法「学び」というのは、決して感情を無視して理屈で行動するようなものではなく、心の内面メカニズムへの深い理解含んだものになりますので。
(*)下の方にある『「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」の実践解説^^』 しまの No.555 2013/03/20など参照^^


人を思い通りに動かすのが「行動学」

そうした「学び」一例を、ちょうど
>考えて見ると、思い通りになることなんてあまりないのかも知れないと思うこの頃です。いつも人を自分の思い通りになってほしいと、思っていた自分がいました。

について書いてみますと、そうした振り返り自分を変えようとする動き出始めた自覚として、まずはじっくりしんみりと味わうのがいいとして、その先にあるものへの視野持っておくのがいいと思います。でないと、そうした自省が得てして「前進なき反省」「進歩のない反省」(^^;)繰り返しになる恐れがある。

それで言いますと、人が自分の思い通りになることを期待したことの誤りというよりも、一体そこで期待した、人が思い通りになることの内容とは何かの方が、重要です。
人を思い通りに動かすのが「行動学」です。ただしそれは、人がどのようにこっちの期待通りに動くかについての、本格的な力学(←ちょっと難解表現ですが)まず知ることからです。
つまり、人が自分の思い通りにならなくて憂うつに、といった世界から、人はどうすればどのように動くか熟知し、それを駆使する行動法を学び、その先に、そもそも人がそうは動かないであろうものは最初から期待などしない、自分が動かせるものにおいて期待をし、そして着実にそのように相手を動かす、という世界へと向かうのが方向性です。

もちろんそんな世界いきなりワープなど(^^;)できませんので、それを上述1)今目の前にある問題は・・と言葉しっかりと捉えていくことから始める、5年10年といった心の成長の歩みの取り組みとして行うわけです。
その途上で、自ずと、内面感情についても大きな変化訪れると思います。それが上述のような世界どうなれるかはさておいても、まずは今の心とは別世界向かうものだ、と考えてよろしいかと^^。
それが、大上段から教科書通りに進める、「取り組み実践」になります^^。

なお場面ごとのアドバイス事例など今後整理する計画ですので、まだ「学び」具体的内容情報たどりつくのに一苦労の状況かと思いますが、
>毎日イライラして娘に怒ってしまい自己嫌悪な毎日です。

については、『実践編上巻』登場「A子さん」事例参考になると思います。
まずはメール相談開始から2週間で、子供さんへの対応において「今までの疲れ方はいったい何?」思えるほどの変化に至った流れなど、
1章 「感情と行動の分離」と「問題の切り分け」
2章 怒りと焦りの解除の基本
紹介していますので、時間の折にでも読んで頂ければ。その後の部分は10〜12章で載せています^^。

また何でも具体的場面などの材料があれば、「この場合の学びはこうなる?」というご質問相談頂くと、まず自分で考えてみる促しとしても良いと思いますので^^。

p.s
上に登校頂いた中に書かれていた県名は個人情報ということで編集入れて消しておきましたので^^。


(No Subject) / コジマ
No.561 2013/04/26(Fri) 17:49:17

こんにちは、私の友人で身長が低い事を悩んでいる男がいるのですが最近悩み方が尋常じゃないんです、理由を聞いてみたら自分の身長が低い事が理由で付き合ってた女性に振られてしまったみたいなんです、彼女いわくやっぱり身長が高い人じゃなきゃ一緒に歩いてて恥ずかしいらしいのです。(彼女の身長は157で友人は158)その事で友人は酷く落ちこんでしまい、自分は生きている価値が無いだとか男で身長が低い奴は恋愛出来ないだとか、とにかく物凄いコンプレックスになってしまったみたいなんです。彼は私にとって他とない大切な友人です、彼の悩みを少しでも軽くしてやりたい。彼にかけてやれる何か良い言葉は無いでしょうか・・・。突然申し訳ありません。


 
「問え。そして見極めよ」^^ / しまの
No.562 2013/04/27(Sat) 14:32:03

これはまず、にあるアプローチとしてありがちなものとして、「そんなことないよ。こう感じるようにすればいいんだよ」という「なぐさめ枠はめ」(ハハ・・^^;)ではないものをお求め場合、というアドバイスになります。島野から言えるのは、ですね。

なおそうした「なぐさめ枠はめ」アプローチ
事足りる場合もあり得ます。これはまずは相手思春期以前の幼少かつ問題の程度が比較的浅く本人の心の根も多少とも素直な場合です。(ならそんな相談出ないか。ハハ^^; いちおうアプローチ論として。)なら、そうした言い方の中で、建前奇麗事ではない、広い視野に立った「そんなことはないぞ。それはこれこれ・・」という知恵のあるアドバイスができたならば、効を奏する可能性十分にあると思います。
今回は、まずはそうではないと察する状況

ならば島野からのハイブリッド流だと、一言として言うと、こうなるわけです。
「問え。そして見極めよ。何が本当の問題なのか」。

まずは、本当にそう思ってるのか?ですね。背の低い男は存在価値がないと。
そしてこうも問うといいでしょう。お前にとって女性との愛とは、背の高い人じゃなきゃ一緒に歩いて恥ずかしいという女性(それってかなり浅い女性のような・・^^;)に気に入られるということだけなのか?、と。
何が本当の問題なのか。ここからはちょっと心理分析的になってきますので、話として好むかどうか人により違いが出てくるでしょう。とっつき易い視点としては、これこれの背が低い男をどう考えるか。たとえば漫画『ワンピース』に出てくる仲間たちの中の背の低いメンバー(僕は読んだことないので想像で言ってます^^)背の低さによって人間の魅力が全否定されるか?
多分違うでしょうと想像すると同時に、まあ僕自身の経験も含めて見えてくるのは、背の低いことそのものが問題というより、自分に自信がない男として女性に面することが、死にたくなるほど(^^;)メゲることなんですね。

まあこのアプローチ結論は、「本当の問題は別のところにある」というあたりになるのではと。
その先は、人生の生き方を、あるいは自分への自信を高めるためのアプローチを、根本的に学び直してみるのはどうか、といった話になるのかなと。で、ハイブリッド心理学の紹介するも良し。
多分一番効果てきめん克服役に立つのは、普遍的な仕事スキルと生み出す行動法で社会で生きる自信を高めることあたりになると思います。 そのための情報はこれ、とピンポイントに指すためにはもう少し事例集など整理しなくちゃですが、今後そちらに作業を進めていく予定部分
あとは、女性の側の断片的な好みにどう気にいられるかなんてことよりも、自分から愛する気持ちこそが、人間としての自分への自身の源になることを、ぜひ体得したい。

なお実際の伝え方としては、上記のような言葉直接言うのでも、あるいは「心理学のサイトに投稿したらこんな言葉が返ってきた」とかの言い方でも、しっくり行く方で行えばよろしいかと思います^^。


現実の受け止め方について / serori
No.553 2013/03/17(Sun) 00:27:19

 こんにちは、seroriです。二度目の質問、失礼いたします。

 前回アドバイスをいただいてから、仕事において建設的な行動法を少しずつ学習し、取り入れていくことにより、おかげ様で、徐々にではありますが不安や罪悪感なく行動できるようになってきております。ありがとうございます。

 そこで、今回ご質問したいのが、行動法を実践する際、「現実をありのままに受け止める→考える(解釈する)→行動する」の一連の流れ、特に「受けとめる」「考える(解釈する)」のが遅くて、うまく行動できないことが多いことに気付きました。一言で言ってしまえば「頭の回転が遅い」ということなのだと思います。

例えば、

「ご飯を食べて行ってよ」と言われる→状況を考慮して「食べていくべきではないのでは?」と考えている(途中)→「どう?どう?」といった感じで急かされる(相手から新たなアクションが入る)→考えが追い着かず、適当に受け答えをしている

 そして、結果的に「適当な受け答え」が、後から考えると「ああ、あの時はこう言うべきではなかったのかな」「相手を不快にしてしまったかな」と後悔を伴ってしまうことが多々あります。

 こういった状況に陥った際は、

・後悔の感情をただ流す
・そういった状況の時、頭の回転が追い着かないことを認める
・次はどうしたらいいか、調査や読書により学習し、納得する

 というようにするのが理想的なのかな、と解釈しているのですが、これはハイブリッド心理学的には正しいでしょうか?
 行動法や解釈の仕方等について、もし、何かアドバイスがありましたらいただければ幸いです。


 
「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」の実践解説^^ / しまの
No.555 2013/03/20(Wed) 16:32:27

質問頂いたような現実行動場面検討に際しては、まず「この場合の学びはどうなるか?」という問いから入るのがいいですね。「現実の受けとめ方」というテーマも、その中の一つになるかもしれないということで。

実践の進め方について、今回更新中の解説で、
まずは「問題の捉え方」から
最後、および
「心を病む傾向」からの抜け出しの第一歩
終わりの方
「どう感じればいいか」ではなく、「今何を学ぶのか。そして今何を本当に感じているのか」。

だと書いていますが、その詳しい具体例解説という感じになりそうなのを書いてみましたので参考頂ければ。


まず「学び」は、心の健康と成長に向かい得る行動この場合どんなものか。
最初のうちとにかく自分で考えて答えを出さねばという話ではなく参考例(今後掲載予定^^;の事例集など)を見るなり、こうして質問頂くなりで良いと思います^^。

で、場面としては「仕事」ではなく「交友行動」「親愛」というテーマになりますね。これが仕事関係で食事に誘われるという話になると、また適切な行動の考え方変わってきます。これはよろしいかと。

実践的には、3つほどの考慮ポイントが出てくる感じです。

1)「目的思考」
「食事に誘われた時の善い行動」なんていう道徳的思考ではなく、「目的思考」から始めるのが実践になります。
それで言うならば、まず大きな前提として、その人とのつき合い育てる(続ける)という目的の下で考えるか、それともカドを立てずにつき合いをやめる(^^;)という目的の下で考えるかで、話が変わってきます。
今回はまずは前者ということで良いかと。

2)「親愛」への価値観と行動法
まずはこれが「学び」メインテーマになってくると思います。「親愛」への価値観行動法ですね。
これについては今更新中の解説の、最初
ハイブリッド心理学のアプローチ
でも、
==================
重要なのは、人や社会に接する外面においては、気持ち感情の良し悪しおよびその行動表現の良し悪しによる「人物印象」によってではなく、「現実において生み出す」という結果の向上において自分の価値を高めるという行動法を培い、「気持ちを分かり合い認め合う」というものではなく「喜びと楽しみと向上を共有する」ことを人との親愛とする行動法に向かうことです。
==================
と書いた通り、ハイブリッド心理学が考える「心の健康と成長に向かうための行動法」基本主題になるものです。
ここでは「人との親愛とする行動法」の話になりますね。

まずこの違いが、自分の行動場面分かるかになります。
つまり「親愛行動」仕方姿勢には大きく2種類があるということです。「閉鎖型」「開放型」とも言える。
「閉鎖型」は、「友だちならこうだよね」と、暗に「間柄の約束」を持とうとするようなもの。「それで友だち?」とかの怒りにつながりやすい。
これはまず「分かり合い認め合う」という美徳のよう感じる中で取られる姿勢なのですが、心の健康と成長とは実は反対を向いている姿勢であることの理解重要になってきます。
「開放型」は、その場その場「喜び」「楽しみ」の共有があれば行動を共にするし、なければしない友だちだからと言って常にこう・・なんて考えは取らない。一緒に行動するのが楽しくて行動を共にしている結果がその間柄という捉え方

まずは、その「閉鎖型」が心の未熟と病みに向いたものであり、「開放型」心の健康と成長に向いたものであるという考えを、どう理解納得できるかになると思います。
理解納得としては、「閉鎖型」「束縛し合い」「閉鎖的で相互依存的な友人関係」など不健全なものつながりやすい一方、「開放型」多少ドライな割り切りの場面があったとしても、互いが別個の人格であることの受け入れや、心の自由が守られるといった理解できればいいと思います。その上で、心底から「喜び」「楽しみ」の共有として行動できるのであれば、そこに豊かな親愛がある、と。
まずこれについての理解納得を確認する。

そこでもし「そうは言っても・・」とか納得できない、たとえば「開放型など奇麗事で、実際はみんな閉鎖型」とか感じるような場合は、多少取り組みテーマ変化してきます。問題がちょっと根深くなってくるケースであり、もうちょっと詳しい心理状況確認必要になりそう。

3)実際の行動法の振り返り再検討
上記の納得理解踏まえて、今回の問題について振り返り再検討を行います。
ここでは、「結局自分は何を感じ、何を気にしたのか。それを含めて、どう行動できたか」という問いをするのが良いでしょう。

なおそこで「納得理解を踏まえて」というのは、無理に「開放型の行動にするためには・・」とかつなげて考えるということではなく、取り組みの確認作業としてまず行っておくということです。
スポーツ競技ストレッチ行っておくような話ですね。心をときほぐして問題感情を見えやすくするということです。あるいはそこで、「体のここが動かない」というのが分かるかも知れない。
さらに、納得理解が最終的に、「こう行動できた」という発想へと自然つながってきます。

今回の場合、何を感じ、何を気にしたのかですね。
分かりやすい話としては、例えばもう夜も遅かったから躊躇したという話であれば、ある程度今後はこんな基準で・・といったものを考えられるかも知れません。
あるいはもっと全般的な話として、その場で食事を共に、結局したくなかったということか。自分がどうしたいという気持ちそのものが何か麻痺するような感じだったのか。


とりあえずこんな進め方で、そこで上記「分かりやすい話」のように、はっきりした答えが見えてくるものもあれば、「全般的な話」のように、答えが見えてこない場合もある。そこで答えが見えてこないのが自分の現実だ、と受け入れるという話も出てきます。この場合は、もう「適当に成り行きに任せる」出せる答えであったりするでしょう。
はっきりした基準が見える問題であれば、次の行動につながるでしょうし、そうでない場合も、こうした向き合い次の心の変化を準備していくものになる、という流れになります。「こうであればこう」といった思考がはっきり出ないとしても、次の似た場面で、少し違う感じ方をしている自分見えたりする。そこから、また同じ作業繰り返していくわけです。

その積み重ねの中で、自分で「こんな自分で・・」と意識するのを越えた変化が、起きていくという流れになります。

「結局何を感じたのか」見えてきたもの内容によっては、さらにアドバイス可能なものもあるかも知れませんので、何かありそうなら書いて頂ければ^^。


 
Re: 現実の受け止め方について / serori
No.558 2013/03/21(Thu) 15:21:24

アドバイス、ありがとうございます。

>「閉鎖型」と「開放型」
 私の場合は、「開放型」の方が楽しく生きられる方向に向かいやすい、という納得理解は得ているものの、「親愛を得たい相手に不快な思いをさせない(現実において害を発生させない)」ためには、相手の考え方が「閉鎖型」の傾向にある場合でも受け入れて、自分の行動を決めた方が良いこともある。と考えています。

 「結果として楽しくなる方向に向かわない(その相手と楽しみを共有できない)」のなら、身を引くのを基本としていますが、相手や状況に応じて「本音と建前」を使い分けることは、ままあります。
 実は、以前は「本音と建て前」を使うことにも少し罪悪感を感じていたのですが、ハイブリッド心理学を学び始めてから、それもなくなりました。現実において価値を生み出す、外面行動向けの便利なツールなのだから、好きに使えばいい、と。


>結局自分は何を感じ、何を気にしたのか
 今回は、「相手に対して何か言動をする」という場面全般において「頭がついていかない」と判断してしまったのですが、アドバイスをいただいて、それよりもまず、問題の切り分けから入る必要があるかな、ということに気付きました。

 まずは、自分の言動を振り返る際に「その場面で何を感じ、何を気にしたのか」が、はっきりと分かる単位まで、問題を切り分けて考えてみようと思います。


 
Re: 現実の受け止め方について / しまの
No.560 2013/03/21(Thu) 16:29:20

>実は、以前は「本音と建て前」を使うことにも少し罪悪感を感じていたのですが、ハイブリッド心理学を学び始めてから、それもなくなりました。現実において価値を生み出す、外面行動向けの便利なツールなのだから、好きに使えばいい、と。

そうですね。意識して本音と建前を使い分ける分には、心の健康においては問題ないと思います。意識できないまま本心と異なる気持ちに自分を駆るようになると、心の健康に良くないという話。
あとは妥協線の引き方どううまくなるか^^;

>まずは、自分の言動を振り返る際に「その場面で何を感じ、何を気にしたのか」が、はっきりと分かる単位まで、問題を切り分けて考えてみようと思います。

そうですね。そうして切り分けた問題への自分なりの対処を考えて「この場合はこう」といった答えを出していくことの、積み重ねとして、最終的には「頭の回転が早い」ように見える姿にもなる、ということだと思います。
そうした積み重ねなくして、いきなりどんな場面でもすぐ対処できる「頭の回転の早さ」なんてものは、よほどの天才のようなあり得ない話になるかと。
芸人の話の面白さとかも、そうした「積み重ね」だと思いますね。まこれはどーでもいい話^^;(いや結構「話の面白い人になりたい」というテーマは頻繁ということで^^)


報告と挨拶として書かせてもらいます。 / けん
No.556 2013/03/20(Wed) 19:03:41

こんにちは。
何カ月か前に書きこませてもらったものです。
この前言い足りなかったことを書いてみたいと思います。
自分のもののように使わせてもらって申し訳ないです。

少し進展がありました。

まず、おそらく自分は発達障害者です。
正式な診断ではないのですがセラピストに言われました。

その上で。

長らく僕は「親に対する、社会に対するサボタージュ」をしていました。
本格的にそういう行動に出たのは高校時代からだと思います。
つまり、「前向きな行動を一切とらない」「いいと思うことをあえてしない」というようなものです。
具体的に言うと「大学進学したくないのにする」や「一人暮らししたくないのにする」「自分の将来のためになると思うのにそれをやらない」ということです。

そういうことは徹底的に自分を痛めつけるようなことでした。
25才の今、精神的にボロボロです。

しかしこれまでそれをやめられませんでした。それしか自分のできることはなかった、というような気になってたんです。サボタージュというのは破壊活動らしいのでおそらくずっと家族や社会を破壊していたんでしょう。堕ちる快感のようなものにすがってやめられませんでした。
しかし、ようやく少し進展が見えて自分で就職の登録会に応募するまでになりました。
それも自分が思う自分にいいと思える方向の。
自分は進歩だと思います。まだまだですが。

そして。
島野さんのサイトか本のどこかに「どんなに深刻な状態にあっても、治癒の方向性はある」という一節があったと記憶していて、それが支えになっています。

質問というわけではないのですがどうしてもここに書きたくてきました。
よろしければ何かお言葉を頂けたらありがたいです。

島野さんに感謝していますし、またさらに学びたいと思っています。


 
自らによる成長と幸福への取り組み^^ / しまの
No.559 2013/03/21(Thu) 16:02:29

>島野さんのサイトか本のどこかに「どんなに深刻な状態にあっても、治癒の方向性はある」という一節があったと記憶していて、それが支えになっています。

その言葉そのものではありませんが、以下などその主旨のものになると思います。
「絶望」とは、問題の深さを示すものではなく、「未知」という解決の「無知」を示すものにすぎないのです。
『実践編上巻』
3章 自己の受容・未知への選択  −憎しみと絶望からの脱出−
最後文章

まあハイブリッド心理学では心の問題を、「病気」が「治る」かどうかというようなものではなく、思考と感情一つ一つの、選択と結果の深いメカニズムにあるものとして取り組んで行きますので^^。
取り組み実践は、心を治すというより、生活と人生の一つ一つの行動場面を材料にして検討していきます。
これについては、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10へのレス
『「逆の姿勢で取り組み開始」^^』 しまの No.543 2013/02/13
など参考頂ければ^^。

具体的材料などあれば何でもご質問頂ければ^^。
自らによる成長、そして自らによる幸福への取り組みになりますね^^。


幼児期の子供の心の病です / NN
No.554 2013/03/18(Mon) 20:10:57

島野先生
初めて書かせていただきます。私自身も2度欝になり、親も欝で困っております。そして、今4歳の子供の事で悩んでおります。ハイブリット人生心理学を見せていただいて、今我が子の状態が、よく分かりました。そして、じぶんの状態も当てはまっていてなっとくしました。母親である私が、子供の心の病の種をまいてしまったこと、いつも自分が怒っておちこんでいた、子供はじぶんのせいとおもっていた、今も人を避けたり、すぐ落ち込む、自分を殺して、他人に合わせています。内弁慶で、受身姿勢、歪んだ心、 
ホームページでよまあせていただいて、先生の、『学童期」における心の健康への取り組みこそが、その後の心の問題の克服に決定的な役割を持ち得ると考えています』という文に希望を持ったのですが、さしあたりどのように子供に対処していけばよいのでしょうか?希望はもてるのでしょうか? 私自身現在カウンセリングなどを受け自分を変えることに努めています。今、子供の心の病をどうにかしてやりたくおもいます。そして自分もどうしたら、かわれるのでしょうか?つたない文面で大変失礼いたしますが、」どうぞ、よろしくお願いいたします。


 
子供と一緒に成長する取り組み実践^^ / しまの
No.557 2013/03/21(Thu) 14:21:54

ご自身子供さん心の健康と成長への取り組みについて、一番基本となるものなどアドバイスしますと、こんな感じかと。


まずご自身心の健康と成長への取り組みについては、
「心を良くすることに取り組むのではなく、生活と人生の具体的問題場面での思考法行動法に取り組む」。

これは下の方にある、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10
へのレス
『「逆の姿勢で取り組み開始」^^』 しまの No.543 2013/02/13
ざっと読んで頂くと、読書法から具体的取り組み法までを書いてありますので参考頂けるかと思います。
自分の心に取り組むのではなく、心の外部にある問題に取り組むという基本的姿勢大切です。それが回り回って心を健康と成長に向かわせます。
ポイントは、そこで書いているように、「精神的ストレスに頼ることのない、行動学の知恵を用いた行動法を学ぶ」ことです。
まずは目の前の問題などで一番気になることなどから、具体的材料ベース取り組んでいくと良いかと思います。何かあれば書いて頂ければ具体的アドバイス可能ですので^^。


子供さん心の健康と成長への取り組みについては、まずはずばりこう言えます。
子供さんの心を評価したり、作り変えようとしたりするのを、まずやめて下さい。
評価したり作り変えようとしたりする代わりに、愛してあげて下さい。そのためには、今子供さんの心を心配するその気持ちだけで、十分です。
その上で、一緒に成長していくことです。

まずはそれを基本心得とし、にその「一緒に成長していく」ための取り組み法重要になってきますが、ここでもご自身心の健康と成長への取り組み同様心に取り組むのではなく、心の外部にある具体的問題への思考法行動法に取り組むという姿勢大切です。でないと、結局子供さんの心を評価し作り変えようとする姿勢に戻ってしまいます。それが何よりも、子供さんの心を萎縮させ、子供さんが心を病んでいくことにつながってしまいます。
そうなってしまいそうなのを踏ん張り、上記基本心得踏まえて、心に取り組むのではなく、心の外部にある具体的問題への思考法行動法に取り組む。この姿勢何度でも確認して下さい。

そこで子供さん一緒に成長していくために取り組む思考法行動法としては、何をおいても「頭ごなしの道徳思考」やめることです。
これが善いことだからこうしなさい、善い人になりなさい、という言い方やめる
その代わりに、こうするとこのように良くなる、これはこれこれのためにこうするという、「目的思考」による言葉に、変えていくことです。
「目的思考」今更新中の解説の以下など参考頂ければ。
思考の素地 「目的思考」

それが、
>ホームページでよませていただいて、先生の、『学童期」における心の健康への取り組みこそが、その後の心の問題の克服に決定的な役割を持ち得ると考えています』という文に希望を持ったのですが、
として読んで頂いたのはこれかと思いますが、
理論編上巻
2章 心が病むメカニズム−1  −「幼少期」の芽と「学童期」の発達−
==========================
 しかしハイブリッド心理学では、実はこの「学童期」における心の健康への取り組みこそが、その後の心の問題の克服に決定的な役割を持ち得ると考えています。
 一言で述べれば、確かに病んだ心の種は幼少期にまかれます。一方、学童期は、後の自らの心の問題への、自己克服力への種をまく時期なのです。


 事実、私自身がそうした条件の揃った、特異なケースであったように感じます。幼少期に植えつけられた病んだ心の種はかなり強力なものであった一方、学童期において、自らそれを克服する力への種を、同時に植え付けられたように感じます。
 それは一言でいえば、「科学の思考」「自己決断の重視」という思考であったと言えるでしょう。
==========================


この「目的思考」が、そこでの「科学の思考」にまずは相当します。

一方「自己決断の重視」については、そうした「目的思考」基本的な思考の習慣として培い育む中で、なるべく子供自身に考えさせる、そして選べるものの中から子供自身に選ばせるということが極めて大切です。選べるものはこの中からというのを、合理的な理由を言える形で用意するのは親の側の役目になりますね。

そうして、「頭ごなしの道徳思考」のない、「目的思考」環境の中で、「自分で決めていく」という習慣の中で、子供の心自然に成長します。
一方で、生育過程多少の病みの種を抱えるのは、もう現代社会では程度の差こそあれ誰でも起きることです。それを克服するは、もう親が関わり得ることではなく、成長後の子供が自ら取り組むもの考えるのが正しい姿勢です^^。

なお『実践編上巻』で取り上げた「A子さん」の事例は、子供への対応などが結構検討材料になっており参考になると思います。
2章および10〜12章に出てきます^^。


はじめまして。 / HI
No.551 2013/03/08(Fri) 06:22:16

島野さん、初めまして。臨床心理士を目指して大学院に通っているHIと申します。

昨日、森田療法の本を読んでいて、ふと自分の中にある「葛藤」が解決されていないことに気づきました。何とはなしに「葛藤」とgoogle検索したところ、島野さんの葛藤についての解説ページに辿り着いて流し読みをしたのですが、私が好きなカレン・ホーナイのことに触れているばかりか、これまで自分が理解していたこと以上のことが纏められておりましたので、とても感動しました。

そういえば、森田療法とカレン・ホーナイは交流があったのだということを思い出し、何だか偶然の出会いがとても嬉しく感じました。

早速、島野さんのハイブリッド心理学の著作を手にとってみようと思います。


 
Re: はじめまして。 / しまの
No.552 2013/03/08(Fri) 08:43:16

葛藤については、ハイブリッド心理学からはこう言えますね。一言心得として言うならば。
「葛藤は解決しようとするな。見極めよ。見極められた時、それは消えている」と。

著作の方は、一冊200円販売今日開始する予定ですのでよければご利用頂ければ。サイトアナウンスします。
ということで取り急ぎ^^。


はじめまして  / きてれつ
No.541 2013/02/10(Sun) 23:51:23

私は3、4年前にうつになり、仕事を辞めました。その後、地獄のような苦しみから何とか這い上がって普通に生活はできるようになり、次のステップとして仕事のことで葛藤しています。
仕事をしていない自分は情けないなど、相当な自己卑下の感情がありますので、
この度、アルバイトを探して面接を申込みましたが、面接の申し込みをした後から恐れや不安が増大して、まだ受かってもないのにやる前から心が苦しくなって、気持ちが沈み、簡単なアルバイトでもすごいプレシャーになってしまいます。
面接をして、結果は残念ながらダメでしたが、逆にホッとして気が楽になりました。

その要因を自分で探ってみると
うつ状態になるような思考や感情への対処法が自分の中でまだ腑に落ちてなく、
対処法が分からない状態でまたうつになったらどうしよう…と怖くて前に進むことが苦しくなっていました。
そんな状況でアルバイトのやる気が出ないのに経済的に自立できていないことへの焦りもあり、何ができるのだろうと葛藤している状況です。

また、今までの転職も含めて(いつもクタクタに疲れて辞めてしまい、仕事が長続きしない)自分の仕事のスタンスを見てみると、仕事を淡々とこなすというより、対人恐怖もあったので、常に人からの評価を気にして、仕事が出来ないダメな人と思われないように人からの軽蔑をすごく恐れていました。

いつも人から愛されることに焦点をおいて仕事をしていたため、仕事への意欲というより
いかに人から愛されるかという思いから、不安と恐れにエネルギーを使い、それで心が疲れ切ってしまうパターンでした。

心の根底にある存在不安から、心の中はいつも人から愛されたい!愛して欲しい!(ex.優しくしてほしいなど)と人に自分への愛の渇望をしている自分がいます。
そして人に拒絶される、見捨てられる不安がいつもあり、いいようのない不安感が心から湧き上がり、その不安感をどうすることもできないでいました。

また、もう一つの重大な課題として、
感情をありのままに受け入れるというのが、うまくいかず、
猛烈な怒りが湧いているときには怒りの感情をただ受け入れても、頭に血が上り、カッカして、身体もきつくなり、自分の苦しさなどに理解がない身内に暴言などを浴びせてしまいます。。

具体的に言うと
自分でお金を稼いで生活できていない惨めさに強烈な自己卑下の感情があり、
アルバイトを申し込んでも日常の溜まった怒り、抑うつ感、不安や恐れなどでバイトすら出来ない自分に苛立ち、更に日常の他人の言動や人が自分を見る目に怒りが湧き、(島野さんが言っている外化で)その怒りをうまく処理できないまま怒りが蓄積してしまって、
たまたま身内の言い方や言葉に馬鹿にされたように感じて、溜まっていた猛烈な怒りが我慢できなくなって一気に吹き出してしまう感じです。。

ブログを読ませていただいておりますが、
膨大な情報があり、いろいろ読んでいると頭がパンクしそうなので、こちらにご相談させていただきました。
長々と書いてしまいましたが、今の課題を乗り越える建設的な思考、行動への転換と
爆発的な怒りの感情(怒りが消化されないとうつ感情にいきますし…)への対処法などをアドバイスいただければ幸いです。


 
「逆の姿勢で取り組み開始」^^ / しまの
No.543 2013/02/13(Wed) 20:42:51

読書法

まずこれについてですが、

>ブログを読ませていただいておりますが、膨大な情報があり、いろいろ読んでいると頭がパンクしそうなので、こちらにご相談させていただきました。

実際かなり膨大知識体系今まだ整理工事中という感じでまだご不便をおかけする状況ですが、次のような順番読んで頂くのが一番いい感じになる予定(^^;)です。
1)メール相談事例集・・・悩み場面ごとアドバイス例。まずこれを今後整備するのが急務の今日この頃^^;
まずこれでそれぞれ「最初の一歩」つかむ
2)『ハイブリッド人生心理学とは 2012掲載版』・・・今後完成次第、電子書籍化などしていきます。
これで「取り組み実践」手順じっくり学ぶ
3)以降、適宜その他のブログ記事などを読む。

ということで、分かりやすく読書頂くための整備まだまだこれからなんですね〜^^;


「逆の姿勢で取り組み開始」

で、きてれつさんの場合の「最初の一歩」は、「逆の姿勢で取り組み開始」というものと理解頂くと良いかと思います。

つまり現状として、書いて頂いた文面拝見するに、心の健康と成長に向かうためのものとは全く逆の姿勢でおられます。
自分の心と感情について、何が問題であるかを取り上げておられる。ま大抵の人はこれが原因心の状態を悪化させて、心の医療や取り組みの門を叩くんですけどね。
それをまずはいったん姿勢を180度逆して、どんな行動場面で、どんな行動法を、心の健康と成長に向かうための合理的なもの考えるか、真剣に、具体的な学びから始めるのが正しい道になります。

これはブログ記事2011-12-07『成長の道標への歩み方-13・取り組み姿勢の正誤』で、「取り組み法間違い」「取り組み姿勢の正解」という2つのを載せていますが、現状では典型的「取り組み法間違い」の姿勢でおられると思います。
とにかく自分の心のあり方と感情に見入って、良くするよう努力しようとしておられるでしょうが、何よりもその姿勢が、心の状態と感情を、悪化させます。
これについては、
2011-12-16『詳説・実践のポイント3・いざない1・何をするのか』
あたりで詳しい解説をしています。

とにもかくにも、具体的行動場面の、かなり具体的状況に応じた、精神的ストレスに頼ることのない、「行動学」の知恵を用いた行動法学ぶことからです。
それによってまず外面行動を安定させてから、次に、それでも根強く残る悪感情について、内面分析的なアプローチ必要に応じ活用していく。これが正しい順番です。

たとえば今回のお話で言えば、「仕事場面」と「怒り場面」などをまず取り上げるならば、

「仕事場面」については、現状では「気持ちが大切」「仕事は気持ちで行うもの」といった感覚でおられるのではないかと察しますが、そんなものではなく、たとえば「言葉を駆使」できることなどがまず重要です。そのために、どんな仕事内容かに応じて、にまず結構な勉強をしてから向かう姿勢お勧めです。
スポーツの大会参加するのに例えれば、ルールも知らずに参加しようとしているような姿勢現状ではないかと。実際の試合の中でそこから教わるものと考えているかも。で、選手に選ばれるまず不安になる。選手に選ばれないホッとする。
これを、まずそのスポーツルール基本技能くらいは先に勉強しておいて、「どうだこれでokだろ!」という気分になれるくらいにしてから、実際にそこに向かう。これが理想の形です。これはひと昔前には考えられないことですが、インターネットなどの情報それが可能な時代であり、そうした新しい方法可能であることに目が向かないと、今回書いて頂いたような状況になりがちかと。

「怒り場面」については、怒りの感情をどう収められるかが問題なのではなく、怒りを発生させた現実状況を、客観的に改善させる合理的行動法というものを、自分としてどう考えるか真剣に取り組む必要があります。
決して一律怒りを爆発させるのが悪いわけではないわけです。暴漢や山でクマに襲われた場合は、それを最も適切な行動として取るしかない。そのように「合理的行動」というものを、自分はどう考えるか。

そのように、「心と感情に取り組む」ではなく、まず「外面行動法の知恵」取り組みます。それがひいては、心と感情良くしていくわけです。

で、 できてれつさんの場合さらに詳しくどんな行動法がいいかのアドバイスは、どんな業種どんな仕事どんな相手どんな会話の中で、といった詳しい状況に応じて、具体的に出てくるものです。
まずそうした「問題場面状況の具体的明確化」からですね。こんな場面という、より詳しいものを書いて頂ければ、それに応じた具体的知恵のアドバイス可能ですので^^。

その他の「対人恐怖」「存在不安」「愛情の渇望」なども、そうした「感情」に直接向き合ってどうこうするというのは、最初はできません。それぞれを感じる具体的場面に応じた、「心の健康と成長に向かい得る行動法」学びがあって、内面分析もあり得る、という順番になります。全部一度に取り組もうとするのは無理がありますので、あくまで「今の心の状態」に応じてではなく「今向かう行動場面」応じて取り組み材料一つ一つ取り上げていくのが良いと思います。行動場面の検討材料一つ一つ取り上げてからが、取り組み始まりです^^。


 
Re: はじめまして  / きてれつ
No.546 2013/02/16(Sat) 08:27:27

しまのさん

お返事ありがとうございます。
読書法についてもご親切にありがとうございます。

しまのさんのいう
「逆の姿勢で取り組み開始」ついて、
確かにアルバイトをするためにこの苦しい気持ちから解放されたい!
という心の力みを生み出していました。。

仕事場面については、
今回は簡単なアルバイト(100円ショップの商品の品出し)なので、
能力的には自分でできる範囲だと思い、申込みしました。

事前の行動法としては、例えば
・働くお店はどんな雰囲気のお店かを事前に把握。
(お店の雰囲気、スタッフの方がどういう感じで仕事をしているのかなど)
・電話での申込の際に仕事内容(勤務時間や内容、休日の取れ方など)について事前に確認する
・体力づくり(ランニングなど)
をして、そのうえで自分にできる範囲だと思ったので面接を受けました。

それでも面接受けてから、結果が出るまで猛烈な不安や恐れが出てきたために内面を見た次第です。

人から軽蔑されることへの恐れや
完璧思考で脅迫的にちゃんとやらなきゃいけない!(早く、きちんと!など)という重圧感から
またうつになったらどうしようという不安
そして根本の見捨てられ不安まで掘り下げてしまったのですが、、、

怒り場面については、
>怒りを発生させた現実状況を、客観的に改善させる合理的行動法というものを、自分としてどう考えるか

そうですね。。

今回書かせていただいた怒りは、基本的には仕事ができてない自分の屈辱感からくる怒りです。
それもあり、まずアルバイトをしようと思いました。

合理的な行動として自分が考えられるのは、
・相手のどの言葉に反応し、自分は何に怒っているのか明確にする

・相手を罵倒するきつい言い方を何とかやめて、自分の気持ちを言うように努める。
 「こういわれると自分は傷つく」など

 ただその怒りが猛烈に強いときは、建設的な言い方や行動をとろうと思っても意志の力ではなかなか難しく、
 相手を傷つけてしまう時があります。。

・怒りが猛烈に沸いたときは、その場をいったん離れ、外を走る。
(多少の効果あり。しかし、雨の時や深夜などのときはこれができない)

・走れないときはベランダで外の空気を吸うか、お風呂に入る。
(効果はいまいち)

などです。

他に猛烈な怒りが発生した時の合理的な行動法があれば、お聞きしてみたいです。


 
仕事場面への向かい方など / しまの
No.547 2013/02/21(Thu) 09:48:09

「取り組み実践」の仕方

まず「取り組み実践」仕方については、おとといアップ
「自らによる心の成長」の歩みへ
に、総まとめと言えるものを書いていますので参考頂ければ。

まずは「学びを設定する」という作業になりますね。今自分が悩み動揺しているのはこんなこと。それについてのハイブリッド心理学からの「学び」は、「学びの一覧表」これこれのテーマ項目がまず関係しそうだ。そこで言う話だとこうなる、というのを把握することから。
に、それについて自分がどう納得理解できるか向き合います。そこで多少分かれてきて、大きく言って「学び」沿って前進できるケースと、より深い妨げに取り組む必要が出てくるケ−スが出てきます。


仕事面・・悪感情でもokな客観軸を持つ

それで言いますと、
1心の健康と成長のための基本姿勢と基本実践
の、
「感情と行動の分離」の基本姿勢
というのはやはり必ず最初の頃の課題になりますね。

>仕事場面については、今回は簡単なアルバイト(100円ショップの商品の品出し)なので、能力的には自分でできる範囲だと思い、申込みしました。

こうして、「自分の能力範囲」といった客観的判断から入るのはグーとして、実際に向かうとなると、そこからどんどん客観的判断ではなく、内面の気持ちに流れてしまっている。

>人から軽蔑されることへの恐れや 完璧思考で脅迫的にちゃんとやらなきゃいけない!(早く、きちんと!など)という重圧感から またうつになったらどうしようという不安

と。

極端に言えば、「軽蔑されることへの怖れ」「うつ」現れても大丈夫なような、客観的にokな基準というものを、打ち立てる必要があります。
ただ「そんな怖れや鬱など気にせず」という話ではなく、
基本的な妨げへの取り組み
で書いているような、「パニックを感じる。しかし現実には何も起きておらず安全である」という思考築くということです。
それも「現実には何も起きておらず安全だ思えばいい」ではなく、何がどのようにできれば安全なのかという、具体的な基準「客観軸」をしっかりと持つことです。これはもう精神論ではなく、仕事の具体的内容関係してきます。

「仕事における客観軸」については、以下のブログ記事など読んで頂くとちょっと感触がつかめるかと。
2010-04-08『島野が神になるのをやめた時-5・社会を生きる自信』
これの
「仕事」は「気持ち」ではなく「客観軸」でする
以降のパラグラフメール相談事例などあげて説明していますので。

「100円ショップの商品の品出し」であれば、「自分の能力としてできそう」という最初の判断いいとして、そのに、対人感情の動揺や悪化にあまり妨げられずに、自分がそこで敬意を持たれるような仕事の進め方とはどんなものかを、多少具体的にイメージできると、今回書いて頂いた悩み克服につながるでしょう。
でそれは僕の社会人経験から具体的に言って、「商品の品出し」がどんな「手順」で行われているか、より効率的に商品の配置をするための方法一日に扱う商品量に対して、実際どれだけの時間がかかるかの見積もり、それによる時間の剰余や不足について、誰とどのようにコミュニケーションすればいいか、といったことを、人に言われる前に自分から掌握していく姿勢だ、という話になります。あっあと品出し担当でもお客からこの商品ありますか聞かれることが必ずあると思いますので、全ての商品を把握するというのが結構重要な課題になってくるのではと。

まあこうした具体的仕事術身につければ、自然「軽蔑されることへの怖れ」とかの問題そのものが消えているという流れになるかと。

まずはその線向かえそうかですねー。そうはいかず、内面不安に飲み込まれるようであれば、それだけ自分が弱い存在であることを認めることからだという、これもやはり
基本的な妨げへの取り組み
中ほどで、
「あるいはそうした決断もできないほどの精神疲労にあるというのであれば、その仕事を辞めることも選択肢に入れてもいいでしょう。ただし、自分がどれだけ弱い人間であるのかを、しっかりと認める中で」
と書いたような向き合い向かうという流れになります。


「怒り」への対処・・まず自分が知恵で行動する人間になること

もう一つ材料として書いて頂いた「怒り場面」について言えば、「まず自分が知恵で行動する人間になること」といったになると思います。それができないまま人に接すると、いくらでも心は怒りに流れます。
文面から察するに、仕事にどう就けるかについての、親との会話のようなものではと想像しますが、上述のような思考法行動法取り組むというで、そもそもそうした会話自体ちょっと無駄かも、と感じるのではというような^^;

まず自分が知恵で行動する人間になることで、無駄な怒り自分から駆られたり、人から吹っかけられることは激減します。それでも利害の対立悪意に出会うことで怒り駆られる場合は、またそれ相応の高度な行動法が出てきます。
これについては、『実践編上巻』の以下などざっと、とりあえずは心の懐を肥やすものとして読んでいくといいですね。
2章 怒りと焦りの解除の基本 −「マイナス思考」からの脱出−

当面はまずは上述の、仕事への向かい方検討になると思います^^。


 
Re: はじめまして  / きてれつ
No.548 2013/02/28(Thu) 17:45:19


島野さま

とてもご丁寧にお返事をいただきありがとうございます。m(_ _)m

島野さんが下線の青字のリンクをしていただいてる箇所を読みながら、
自分の中で解釈していくのに時間がかかり、お返事が遅くなりました。

まずは島野さんにアドバイスいただいた
何がどのようにできれば安全なのかという、具体的な基準、「客観軸」をしっかりと持つ
というのは、具体的に示していただいたので、とても分かりやすかったです。

今は、ほかのアルバイトにも挑戦してみようとアルバイト探しをしてますが、
その際も客観軸で考えるということ自分なりに考えてやってみます。

自分が弱い存在であることを認めるというのを感じていたら、それは認められずに
なんか怒りが出てきました。(^^;)

怒りの場面についても「自分が知恵で行動する人間になる」と決めて
怒りを用いない行動法と価値観のための行動(日常での言い方を変えたりするなど)
を自分なりに実践してみようと思います。

レスが長くなってしまいましたので、このくらいにさせていただきますが、
ありがとうございます。m(_ _)m


 
Re: はじめまして  / しまの
No.549 2013/03/01(Fri) 10:15:25

>自分が弱い存在であることを認めるというのを感じていたら、それは認められずになんか怒りが出てきました。(^^;)

これは「なにくそ!」という、悪くない怒りかもですね^^。怒り役に立つ数少ないものの中の一つです。「自己放棄衝動への怒り」とか呼んでいます。

また何かヒントが役に立ちそうな材料など出てきたら、また新規トピックなどで何でも質問頂ければ^^。


 
Re: はじめまして  / きてれつ
No.550 2013/03/01(Fri) 22:40:07


はい、ありがとうございますm(_ _)m


はじめまして / serori
No.542 2013/02/13(Wed) 16:39:09

 はじめまして、seroriと申します。
 当方、二年ほど前に鬱病と診断され、勤めていた会社を退職し、今は表面上問題なく生活できるため社会復帰しようとしたのですが、勤め始めたパート先で問題を起こし、すぐに辞める事になってしまいました。
 以前から、私の行動・言動が周りの人を不機嫌にしてしまうことが多々あり(理屈っぽい、糞真面目、生意気、等の理由による。自覚はしています…)その度に傷つく態度を取られることも多く、このままでは人も自分も傷つくばかりなので何とか変わらねば、と思っていたのですが、自分が変わろうとすることに対して何か「いまいち納得できない」ところがあり、なかなか良い方向に向かわずにいました。
 そんな折り、こちらのサイトと出会い、「ハイブリッド心理療法入門(2004.9.18)」を拝読したところ、「自分を傷つけていたもの」や「いまいち納得できない」の正体を知ることができ、変わりたいという気持ちを阻むものがなくなりました。ありがとうございました。

 そこで、本腰を入れて「ハイブリッド人生心理学」を実践してみようと決め、取りかかりの方針を以下のようにまとめてみました。お忙しいところすみませんが、何かアドバイス等ありましたらぜひお願いいたします。

-----
(1) 今考えられる(沸き起こってくる)自分の望み
a. 趣味の創作活動をする時間をたくさん取りたい(純粋に楽しいので)
b. 趣味以外の時間や、誰かといる時にも楽しい気持ちで過ごしたい。

(2) 現状
a. 創作活動を続けていくためにも仕事をしなければならないが、できればしたくない、という思いもある。
b. 今の性格のままでは、身近な人や他人に不快な思いをさせてしまっているのではないか?という思いがくすぶっている。気心知れていない人と接する際には、恐怖がある。
(最近は、パート先での人間関係で、自分が生意気な話し方をしてしまったのに、それに対して厳しい反応をされたことで傷つき、更に怒りをぶつけて逃げるように辞めてしまい、自己嫌悪に陥る出来事があった)

(3) 望みを阻んでいると思われるもの
a. 「仕事」に関わる対人関係への恐怖
(恐怖心が、極度の緊張や傷つけられたと感じた際の反発を生んでいると思われる)
・ 一度勤め始めたら、容易に「逃げられない」ことへの恐怖
・ 仕事や対人面で失敗し、敵意を向けられることへの恐怖

b. 理に適っていない行動をしてしまった際の罪悪感
下記のようなことを思ったとき、やらないほうが良い、と論理的に理解しているにもかかわらず、やってしまった際の罪悪感
・もっと寝ていたい
・もっと遊びたい
・もっと飲み食いしたい ※過食ではありません

(4) 上記を踏まえた上で、まずはどうしていくか
a. 「傷つけられた」と感じる原因(と思われる)「完璧」への執着、善悪の価値観解体を心がけ、なるべく傷つかない心に変えていく。
b. 読書等により対人スキルを学び、人と過ごす際の恐怖感を少なくしていく。
(仕事そのものは苦にならないため、仕事のスキルは後に回す)
c. とりあえず、仕事はやってみる。その上で、試行錯誤してみる。
-----

 長々と失礼いたしました。


 
「傷つけない・傷つかない行動の基本」^^ / しまの
No.544 2013/02/14(Thu) 10:57:51

問題・課題の整理ベリー・グーだと思いますヨ^^。まずは「対人行動スキルの向上」メインテーマになりますね。
あとは昨日きてれつさんにコメント(『「逆の姿勢で取り組み開始」^^』 しまの No.543 2013/02/13)したのと同様「問題場面状況の具体的明確化」からの、一つ一つの具体的検討あるのみp(^^)q

そこで今回は、「傷つけない・傷つかない行動の基本」アドバイスなどしておきましょう。

まずは今掲載中の解説の中の、
「学びの一覧表」
の中の、
4 悪感情の克服 - 罪悪感
で書いているのが基本ポイントになります。
相手に与えた「害」を客観的に判断する対処法を学ぶのが健全であり、自己理想を満たせないことや、相手の期待にそえないことを罪悪感に感じるのは別の問題になる、と。

「相手に与えた害を客観的に判断する」とは、もちろん器物損壊身体的暴力だけの話ではなく、それを言っちゃーいけないヨという言葉の暴力、さらには相手自身についてのマイナス表現なども、相手への「害」として避け同じ内容プラス表現で言うなどの工夫をしていくことが大切です。
たとえば、相手の作業がトロイ(^^;)時、「もっと早く」という言い方マイナス表現です。「こうするともっと早くなるのでは」とか、実際にどうすれば向上するかの答えを自分でも出せるなら相手言う現実において向上する結果に導けないのであれば、何もしない、黙っているというのがのが、まずはハイブリッド心理学推奨の建設的対人行動法としては基本になります。

これをしっかり押さえていくのがまずは「傷つけない行動」であり、それができるようになれば自然から「傷つける行動」受けることもなくなっていくでしょうし、実際受けた時対処が見えてくると思います。これはまずは自分からの行動を向上させてからの検討になりますね。

これらについては、やはり具体的言動内容レベルで、一つ一つ改善策を検討していくことが取り組みになりますので、具体的材料があれば書いて頂けれればさらに具体的アドバイス可能です^^。

そのように具体的向上策検討一つ一つ積み重ねていくことで、自分としてやってはいけない行動やって良い行動についての、しっかりした考え築いていくのが取り組みになります。それがしっかりして、にさらに内面分析加えられるようになるというのは、やはりきてれつさん向けコメントで言ったのと同じです。

そうして自分の考えを築く上で、特に、人に近づこうとする時と、反発感で離れたくなる時とで、やってはいけない行動やって良い行動についての考えが変わってしまうというのが起きていないかに、特に気をつけるといいでしょう。特に、反発を感じた時「やってはいけない行動」「やって良い行動」にコロっと変わってしまうなど起きていないか注意ですね^^。


 
Re: はじめまして / serori
No.545 2013/02/14(Thu) 11:03:28

上記の(3)-bについてですが、少し違った見方になったので追記させていただきます。

 先程ネットサーフィンをしていた際、何気なく第三者の目を意識して「あーあ、世間から見たら今の自分はぐーたらしてるんだろうなー」と思ったのですが、更にそんな自分を客観的に見ている自分が現れ「今の考えで私は苦しくなったよ!」という声が聞こえたようでした。
 そこで「え、なんで?当たり前のことじゃない?」と問いかけてみたところ「今のこれは、先へ進むための助走期間だよ」とまあ”言い訳”のような答えが自分から返ってきたのですが、そもそもこれが”言い訳”かどうかなんて、分からないじゃないか?ということに気付きました。”言い訳”というのは、絶対的に正しい(と言われる)行動に反してしまった時に使うものなのだから、絶対的に正しいものがなければ、それはもう言い訳じゃなくてただの「意見・意思」なのではないか?と。
 そう考えると「今だらだらすることは次へ進むための助走だ」と判断したことや、その結果が例え悪くても「駄目なことをやってしまったから結果が悪くなった」ではなく「そうしたからそうなったんだ」と傷つくことも恐怖することもなく受け入れられそうです。視界がすごく明るくなったようです。

 こういった考えを定着させていくためにも、(3)-bに関しては似たような状況で同様の思考をしていきたいと思います。


どうしたら前向きに取り組めますか / ホワイトホイップ
No.537 2013/01/04(Fri) 13:59:29

(島野メモ)新規トピック化のため No.535 2013/01/02 から移動しました^^。

あけましてでとうございます。
お返事頂いていたのに、間があいてしまい申し訳ありません。

12/8に書込みしてから、過食嘔吐はしていません。食べすぎは多々ありますが、過食するよりずっといいし・・・。と言う感じで「これこれしないと駄目だ、これ食べたらだ
め!」と言う物を自分に許せた感じというか、自分の固〜い枠が少しやわらかくなった感じ?です。

我慢はしていません。夕飯を食べても「お菓子食べたいなら食べていいよ」とチョコもせんべいも食べたりしてますが、「お腹一杯だし、そろそろ止めようか」と言う感じです。

>「今の生活の中」での行動法のあり方について検討するというより、そもそも自分の人生はこれでいいか(ちょっと言葉が大げさですが^^;)・・・・

視点を大きく構えなおす。これはまだじぶんの中で答えが出ません。今後の課題です。


>「心のいら立ち、不満の原因」ということであれば、一体どうなっていればそれがきれいさっぱり解消する状況になると、実は自分は絵に描いたような姿を前提に考えていたのかも知れない。しかし・・・

わかっていたつもりなのに「はっ」としました。生きていく中で毎日がすっきりとさっぱり晴天の日々ばかりではないのにそのような妄想?をしていたんだと。

実際、今過食嘔吐はなくてもバラ色の日々ではなく、毎日「あーあ」と思うこと、出来ない事が多く自己嫌悪になる日々も多いです。

今までは過食嘔吐がなくなれば・・・全てが解決するような気持ちでいました。

今と言うか前から毎日億劫で苦痛で、でもしなければならなくてどうしたら少しでも前向きに取り組めるのか質問したいことがあります。

長年の過食嘔吐で歯がボロボロで2年ほど前からネットで調べて「この先生に診ていただきたい」と思う先生の歯科医院に1時間かけて通院しています。

歯周病の治療はどんな良い治療をしても患者さんの毎日のブラッシングが熱心にできていなければ何にもならない。とブラッシングには大変力を入れている先生です。

先生には過食嘔吐のことは言っていませんが、「う〜ん、このお口の中からは様々なことが予想されますね。相当なストレスも予想されますね・・・。」と初診の時にいわれました^^;
「奥歯上下は毎日夜だけでも1時間のブラッシングをして歯茎を丈夫にしていかなければ自然と抜けるでしょう」と言われこの2年は朝、昼15分、夜1時間を過食嘔吐しながらも続け先生は歯茎を見て「すごいね〜ブラッシング熱心にがんがっているのがわかりますよ」と言っていただきましたが、なんせ重度の歯周病なので今年の夏1本は自然に抜けました・・・

良くなってきている箇所ももちろんありますが、まだまだ出血してブラシが触るだけでも痛くて痛くて出血する箇所も多いため夜の歯磨きは本当に本当に億劫でなかなか取り組むまでに時間がかかります。
汚い自分の歯を見ながらの歯磨きは情けなく痛くて痛くて辛いのです。見たくない逃げたいのです。

今までは夕飯を食べ、娘を寝かせるまで適当にお菓子も食べ、娘を寝かせて(10時過ぎから)から過食して12時過ぎに吐きそこから1時間くらい歯磨きをしていたので寝るのが2時くらいになり6時に起きるので睡眠時間を削って過食嘔吐、歯磨きをしていました。

最近は過食嘔吐はなくても夕食後適当にお菓子を食べ風呂にさっと入り(入れない日もあり)寝るまでに歯磨きをすぐ始めれば良いのですが、ここからが中々出来ないのです。
結局娘を寝かせてからゆっくり歯磨きしようと思いつつ結局寝てしまい「あーまたやってしまった・・・」となる日が週に2回くらいで。

これは自分が意思が弱いからなのか?精神論でやるしかないのか?やらなければいけないことなのにいたくて辛くて逃げています。どうしたら少しでも重たい腰を上げて見たくない自分の歯を見てブラッシングに取り組めるのでしょうか?

取り合えず一歩一歩の向上思考を参考にと「取り合えず20時10分になったら風呂に入り20時30分に上がって歯磨きを開始して21時30に娘と寝る」と娘と寝るまでに1時間を確保できるように決めて見たのですがこれも中々できずにいます。


 
「自分を動かす心の技術」 / しまの
No.538 2013/01/04(Fri) 21:22:38

>自分の固〜い枠が少しやわらかくなった感じ?です。

まずはそうして柔軟性を持たせてから、どこに行くかになりますね^^。

>実際、今過食嘔吐はなくてもバラ色の日々ではなく、毎日「あーあ」と思うこと、出来ない事が多く自己嫌悪になる日々も多いです。

まさにそこに、過食そのものとは別の取り組み材料があるんですけどね。まこれはおいおいとして、今回

>これは自分が意思が弱いからなのか?精神論でやるしかないのか?やらなければいけないことなのにいたくて辛くて逃げています。どうしたら少しでも重たい腰を上げて見たくない自分の歯を見てブラッシングに取り組めるのでしょうか?

についてアドバイスを^^。
これは「精神論でやるしかないのか」のではなく、に、どっちかというとまだ精神論で行こうとしているがために、「我慢を押して」というストレス感が起き、「逃げていたい」という気持ちも起きる、というものになっていると思います。


「自分を動かす心の技術」というになりますね。
これは大きく3つがあるという感じです。知恵を欠いたものから真髄へという順番に、

1)精神論・・・「やればできるはず」「願望実現イメージ」お勧めではないものです。ストレスと、自分への嘘だからです。

2)合理的動機づけ・・・「こうすればこうなれる」という合理的な知識と知恵を取り入れて実行する。その嘘のない着実さが、動機づけのエネルギー自然湧き出させます。自分目の前にうまくニンジンぶら下げてあげるということです。「一歩一歩の向上思考」もこれ。
ホワイトホイップさん今回学び始めているのもこれになると思います。つまり、実はまだ足りないものがあるんですね。
壁がない向上課題であれば、これでです。しかしそこかしこに出てくる課題となると、最終的「自分を動かす心の技術」必要になってきます。

3)選択肢に心を晒す
「こうすればこうなれる」という合理的な知識良しとして、それを一本ではなく、あらゆる可能性を踏まえた選択肢を知るというものに推し進めます。そのどれにしなければと自分を強制するのではなく、そのそのれぞれについて、自分はどう感じるかじっくりと向き合うわけです。これを繰り返す中で、しばしば「これがいい気がする」という心の動きにも変化起きる形で、次第に自分が成すべきこと決まってきます。あるいは、その覚悟がついてきます。
ですから、性急に結論を出さず、ある程度の期間の中で選択肢への向き合いを続けることが大切です。

今回のお話で言えば、毎日1時間のブラッシングというのは、やはりちょっとかなり面倒なものに僕も感じますね。問題は、それがどのような効果を生むのか、それが努力に見合うのかです。それが割に合わないのであれば、別の選択肢考える余地が出てくる。例えばそれを続けても歯が抜ける可能性があるのであれば、歯は抜ける前提口内より早期に健康回復させる治療法はないか。
歯周病でしたら、僕は以下の歯医者「GTR法」の手術を受けたことがあります。極めて高い技術歯医者ですので、もしいける場所であればお勧めできます。
六本木駅前歯科
ブラッシングはあくまで予防健康維持であり、「抜けそうな歯」となると話がもう違うような気もしますが・・。ネット「これ!」感じさせるというのはあくまで独自の治療主義のものである可能性もあると思いますので、あと少し幅広く調べるのも良いかと思います。

「見たくない逃げたい」については、実際のところ見ず逃げていればどうなるかという選択肢(^^;)入れなければならないですね。「逃げては駄目!」ではなくです。逃げてもいいわけです。結果を受け入れるのであれば。

苦しい問題かと思いますが、人生の中でしばしばある、ハンディからのスタートという課題の一つが、そこにあることになると思います。これを乗り越えることで、成長とは何かかなり見えてくると思いますので^^。


 
Re: どうしたら前向きに取り組めますか / ホワイトホイップ
No.539 2013/01/19(Sat) 15:35:22

こんにちは。
お返事ありがとうございます。

歯医者の件は次回かかった時に先生にも治療の事を話してみたいと思います。
(長年の不妊治療から医者というのは質問したりすると不機嫌になって気まずくなるという思いがあって質問など出来ませんでした。たまたまその先生が態度に出す方だったのかと思いますが)

>2)合理的動機づけ・・・ホワイトホイップさんが今回学び始めているのもこれになると思います。つまり、実はまだ足りないものがあるんですね。
壁がない向上課題であれば、これで可です。しかし壁がそこかしこに出てくる課題となると、最終的な「自分を動かす心の技術」が必要になってきます。

>最終的な「自分を動かす心の技術」
  今は全然わからなくて身動きがとれない感じです。

ただいつも思うのは、朝(出勤前)と昼(1時間の昼休み)は限られた時間のなかなのでなんとか15分は歯磨きの時間が取れるように急いで支度をして15分は歯磨きをしています。もちろん痛くて切ないです。

だけど、夜ができないのです。
今までは過食嘔吐があるので7時から夕飯を食べ始めだらだらとお菓子を食べ娘を寝かしつけてそのまま寝てしまったり、起きてもまた食べ始めて12時過ぎに吐いてから歯磨きをしてと言う感じで、過食嘔吐がなければスムーズに歯磨きに入れると頭では思っていました。が約この一ヶ月過食嘔吐がなくても夕食後、TVを見ながらお菓子を食べ、食べてから歯磨きと思うのですが、なかなか体が動かないです。

やはり絶対的なきまり(家を8時には出る、お昼休憩は1時間等)がないと自分に甘くなってしまっています。

夕飯を食べて「お腹一杯」なのにお菓子が食べたい。これは心の空虚感からくるのか、それとも長年の過食嘔吐で摂食中枢、血糖値等の異常からなのか、両方なのかわかりません。
ただ島野さんのハイブリッド心理学を学びながら、食事の内容、仕方等も学ぶ必要があるのだろうと思いました。


お正月も食べすぎることはありますが、過食の量とまでは行かずに嘔吐もなしで過ごしていました。
「食べ過ぎることは多々あるけど、今はこれでいい」と自分に言い聞かせていましたが、毎日夕食後に過食の量までは行かなくてもお菓子を食べているので痩せることはなく今の体系には不満がありました。

でもこの今の経過を飛び越えて理想になることはできないんだよ。と自分と対話していたつもりです。
前より太っているので、余裕のある黒の台形スカートをはいていることが多いですが、はけるけど以前より余裕の無くなったグレーのタイトスカートを1/7にはいて仕事へ行きました。

嘔吐はしなないけど、過食の量よりも少ないし、もしかして少しやせたりしていて?と心のどこかで少し期待もあったのでした。でもやっぱりパツパツで心はイライラ、もやもやで仕事中も気になってトイレに行くたびにガラスに映る姿が太っていて気になっていました。

その1/7の夜から食べ過ぎのラインを越えているのがなんとなくわかります。心のどこかで「吐こう」と思って食べているのです。娘を寝かしつけてから再度食べ、ソファでふて寝をして気づけば2時、3時で結局ベッドへ行って寝る感じです。
1/7から昨日まで2回吐いてしまいました。
せっかく少し前進したと思ったのに・・・

でも何となくきずいた事もあります。今までこんな小さな事(スカートが前よりきつい等)でも気になって(ストレス?)過食嘔吐していたんだろうな。と

今までは過食嘔吐は長年の癖になっているんだ。だから理由なんてないし、全くわからない。と思っていました。
でも毎日の中で起こる嫌な出来事や、スタイルの悪い自分、ちょっとでも太ったと思うといてもたってもいられない。いつも完璧でスマートでクールな人を演じようとしていました。
毎日毎日自分を否定し続けて生きて来ました。

「食べること以外で気持ちが充実するもの」今年は見つけたいと思います。

取りとめのない、長文ですみません。


 
長期の取り組みアプローチ法 / しまの
No.540 2013/01/22(Tue) 11:19:53

>長年の不妊治療から医者というのは質問したりすると不機嫌になって気まずくなるという思いがあって質問など出来ませんでした。

これはちょっと損視野の偏りというものだったかもですね。医者とはどんなものか。
やはり、説明を丁寧にしてくれる医者というのが、良い医者基本的な基準だと思います。まあ無口で無愛想な、技術の高い医者もいるのかも知れませんが、やはりそれは医者のあるべき姿(こうしたテーマ特定の下には「あるべき姿」というのは出てきますね)損なっていると思います。
その点、まず出会った相手で「○○とはこんなものか」という心の視野を作ってしまうのは、視野の偏りとしてになりますね。情報を広く取り入れながら視野を広くし、より望ましいものを自分から積極的に探す姿勢重要


>最終的な「自分を動かす心の技術」 今は全然わからなくて身動きがとれない感じです。

これについては、まず選択肢を知ることからになると思います。

>歯医者の件は次回かかった時に先生にも治療の事を話してみたいと思います。

それがいいかも知れませんし、前回指摘したようにその先生特定治療法に主義的に偏っている可能性がありますので、ネットなどもっと情報を仕入れるのがいいと思います・・・とこれはすでにやったのかな・・。

そうしてまず「視野を広げる」「選択肢を知る」ことから。にそれをじっくり「どれがいい?」自分と相談していくのが最終的「自分を動かす心の技術」です。これについてはとにかくまず「視野を広げる」「選択肢を知る」です^^。


あとは、過食してしまう時の「感覚」については、まず言えるのは、心は決して一本調子では向上変化しない、ということです。
過食に駆られる同じ感覚ぶり返すこともあるでしょうし、ぶり返しの中で今まで気づかなかった過食の原因感覚気づくこともあるでしょう。
その都度都度で、過食になる「原因」の感覚見極めと、「結果」がどうなるかの自覚を、しっかり心に、というか体に刻み込んでいく。これを繰り返していきます。
これは長期の取り組みです。2、3年さらにはそれ以上やるものと腹を決めるのがお勧めです^^。

またそうした長期の取り組みとして、もちろん、

>「食べること以外で気持ちが充実するもの」今年は見つけたいと思います。

といった、「過食ではなしに心を埋めるもの」模索すること、また以前にも指摘した「精神的遠因」への取り組み重要になってきます。


>夕飯を食べて「お腹一杯」なのにお菓子が食べたい。これは心の空虚感からくるのか、それとも長年の過食嘔吐で摂食中枢、血糖値等の異常からなのか、両方なのかわかりません。

後者の話は僕には専門外なので分かりませんが、「心の空虚感」はまず間違いなく原因になっていると思います。でないと、

>娘を寝かしつけてから再度食べ、ソファでふて寝をして気づけば2時、3時で結局ベッドへ行って寝る感じです。

といった行動には多分ならない^^;
また、

>いつも完璧でスマートでクールな人を演じようとしていました。毎日毎日自分を否定し続けて生きて来ました。

といった言葉を拝見するに、自分を見失った心の惑い取り組み材料が恐らく実はてんこ盛り(^^;)にあるということになると思います。
それに対する取り組み方法は、先日アップの
「望みに向かう姿勢」を問うまでの実践作業
分かりやすいかと思います。
そうした取り組み続けることで、まず心の基盤強くしていくことが、上述の方向性全て支えるものになります。

これは取り組み方法ごくさわりの説明になりますので、取り組み方法への質問などあれば引き続きこのトピックで、また具体的な心の惑い取り組み材料についてであれば新規トピックなどで(まどっちでもいいですが^^;)ご質問相談頂くと良いかと思います^^。


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