読 者 広 場   
過去ログ
2014


裁量 / コト
No.1004 2014/12/03(Wed) 19:24:34

 職場で主導権を握っているような方がいて、異議を申し出る方がいません。上司というよりは、勤続が長いということと、行動力から、その方の独断で業務を割り振っています。私は、どちらかというと、その方の独断で決めることではないと、感じる方であります。
 大勢で決めると、まとまらないということがあると思いますが、その方の思い通りに事を運ぼうとして、それが通ってしまいがちで、事が終われば良いとの感じです。
 そして、その水面下の不満などからか、別のことで小言を言う方が多いです。
 小言を言っている方が多いことと、言われたことを淡々とこなす事が求められることを考えると、長年組織で働くという事は、大変なことであると感じました。
 そのことを不条理と感じる中でも、その波に乗り、こなすことで、自分の中の許容範囲も広がるのかとも感じます。
 ただ、自分の価値観は、持ったままにです。
 また、視点を移し、自分の業務との兼ね合いをつけながら、突発の業務に対応できるようにとの姿勢でいれば、滞ることはないと考えます。
 島野さんも、会社の経験では、いかがでしたでしょうか。


 
Re: 仕事 / コト
No.1005 2014/12/04(Thu) 18:24:43

仕事は、疲れるものであると思います。周りの人も、疲れたと発言することを聴きます。
 仕事は、大切なものですが、最近は忙しさから、あくせくとして、やりがいどころか、こなす事で疲労で、毎日を終えていると感じがしています。
 収入が足りないと、生活が大変になるなどや、なりたい職業を全うする姿の尊敬など、
長期的な視野で考えれば良いのかと感じます。
 


 
Re: 裁量 / しまの
No.1007 2014/12/06(Sat) 16:52:26

>職場で主導権を握っているような方がいて、異議を申し出る方がいません。上司というよりは、勤続が長いということと、行動力から、その方の独断で業務を割り振っています。私は、どちらかというと、その方の独断で決めることではないと、感じる方であります。

集団での行動秩序統率保たれるためには、「リーダー」必要不可欠になると思います。
仕事場面で言えば、社長部長など明示的に任命されたリーダーや、その下で経験の長さなどから暗黙的にリーダー的になっている人などが出てきますね。

もちろんリーダーの言うことが全ての場面で常に最善とは限らないでしょうが、全ての場面「全員で話し合い」を始めると文字通り仕事にならなくなってしまいますので、まずはそうしたリーダー裁量に任されるということになると思います。
もちろんもしリーダーの言うことが本当に間違っている場合は、対処必要になりますね。また間違いばかりしか言わないリーダーであれば、自然リーダーを他の人に代えようという雰囲気が出てくると思います。

ということで、まずはリーダ−主導権を持つのは良し問題があれば具体的内容に応じ対処、ということになると思います。問題対処については一般論ではなく内容に応じた個別知恵とノウハウになると思いますので、ヒント欲しい内容があれば言って頂ければ^^。

>長期的な視野で考えれば良いのかと感じます。

そうですね。長期的な視野目の前の問題課題への対処の学びという、二頭立てが良いと思います^^。
長期的な視野については、
『生活』 コトさん No.997 2014/11/03
へのレス
『「仕事」への向かい方の3段階^^』 しまの No.998 2014/11/06
僕からの考えということで^^。
目の前の問題課題への対処については、これもやはり内容に応じた個別知恵とノウハウになると思いますので、ヒント欲しい内容があれば言って頂ければ^^。


 
Re: / コト
No.1008 2014/12/06(Sat) 19:54:10

「もちろんもしリーダーの言うことが本当に間違っている場合は、対処が必要になりますね。また間違いばかりしか言わないリーダーであれば、自然とリーダーを他の人に代えようという雰囲気が出てくると思います。」との話が、印象的でした。

 そのような雰囲気になるかは、遠い話の気がいたしますが、しばらく自分のやることに専念して、静止していようと思います。

 ご意見、ありがとうございました。


学生時代に置き去りにしていた問題の発見 /
No.1003 2014/12/02(Tue) 01:33:02

 こんにちは。

 物理的変化として、混沌としていた自室があらかた片付きました。
 参考にしたのは、TVにも結構出演されていた近藤真理恵さんの著書などですが、よく言われている「物を大切にする」という言葉の意味合いを考え直すのにもずいぶん役に立ちました。少なくとも、自分の役には立たないような物を嫌々ながら収納に押し込んで持ち続けてる状態は、決して物を大切にはしていないのではないか、と。自分に必要な物や持ってて嬉しくなるような物など、残す物を厳選してそれを大切にするほうがよほど精神衛生上良くなることに気づきました。
 他には、余所のサイトで勧められていた精神世界系の著書を読んでみました。感情と行動の分離を理解する手助けになるとともに、先生の説明の中で「他の取り組みも本質は同じ」ということを仰られてましたが、それを実感するような記述もありました。その著書の内容に沿って考えると、私の場合は、思考や感情を自分そのものだと思い込んでそれを前提にあれこれ考えていたことも感情と行動の分離が捗らない理由の一つに挙げられるように思えました。

 最近は、何かを変えないといけないという目的不明な焦りではなく、もっと大きな流れから考えるように気を付けながら過ごしています。それに沿っていくと、何かの行動を起こす場合に他の人との関わりを増やす必要がある、という感覚はだいぶなくなってきており、その方が自分にとってしっくりきている実感があります。これまでの行動も考えてみれば一人での行動が起点になっていましたし、今は一人で楽しめるものを増やす、あるいは一人で行動できる範囲を広める時期なのかもしれない。と感じてます。たまに一人で遊びに行ったとき「この面白さを共有できる人がいれば尚良いかもしれない」と思うことはありますが、同じことに興味関心を持ってる人が周囲にいるならともかく、残念ながら今はそういう人が居なくなってるので、それなら無理をする必要もないか、という感じでいます。勿論、自分も周囲も興味関心が移り変わる可能性はあるので、その時はその時でまた考えるとして。

 大きな流れで考えている間に、大学以降自分の人生の進み方に芯が無くなったのを自覚しました。その原因を考えてみると、ここ数年は人間関係に懲りまくっているものの、在学中や社会に出て間もない頃は人との関わりを増やすことを考えすぎており、特に在学中は、人の輪に入る度に上手くやっていけないことを大学の勉強も将来の進路もそっちのけで悩み続けていた、というのを最近思い出しました。親類や学外の知人などから「勉強だけではダメだ」と言われたのをバカ正直に受け止めすぎたのもあり、だんだん勉強は悪いものなのだという感覚を持つようになっていったことも記憶しています。道徳思考の中でお金は汚いものだと言ってる人が巷には少なくないため、この辺は「学歴」や「勉強」を「お金」に置き換えると非常に考えが纏まりやすかったのですが、そういう周囲の道徳思考に流されて自分の進路について自分の頭で考えることを怖がっているところもあったかもしれません。「このまま勉強で進路を決めていったら周囲が敵だらけになる!」と思いつめていました。大学受験の直前に叔父や叔母から呼び出されて「受験したくないならしなくていいんよ?」と言われたり、在学中には「普通に生きなさい」と言われたりしたのをよく覚えているのも、そういう話の象徴だったように思えます。冷静に考えれて学内に目を向ければ、公務員だの国家資格だのを目指そうと真剣に目標を立てている人もかなり多かったし、敵しかいなくなるとは限らなかったにもかかわらず。
 そういうものを思い出しているうちに、自分には無いと思い込んでいた学歴に関するプライドは、ただ抑圧されていただけだということに気付きました。最初にご相談させて頂いた内容の通り、特に仕事中は気が短いことが多いですが、抑圧されていたプライドによって「何故この俺がこんなことで糊口を凌がなきゃならないんだ!?」という感覚も水面下に存在したことに気付きました。これに対する答えは上記のように既にハッキリ出ており、強烈に凹んだ感情を流すことになりました。その後、「確かに在学中は他人に流されすぎて、大学に行ったことが無駄になってしまった。ならば、もし自分が真剣に勉強したらどれだけのことができたんだろうか?」という疑問が湧いてきて、「それならば今試してみようか」という結論に至りました。
 参考書を調べてみると評判の良さそうなものがあったので、ためしに1冊買って読んでみると、意外にスラスラ読み進めることができました。あるいは、断片的な記憶はあったので、たまに懐かしさを感じたりしました。少し前までそういう行為や願望こそが偽物だと決めてかかってたのが嘘のようです。資格試験を目指すかどうかはさて置き、学生の頃に全然身につかなかったものを取り戻したい、少なくとも母校を出たのに見合う程度のことは吸収したいと感じています。まさに、十ウン年前の忘れ物を取りに行くような感じだな、と。

 とりあえず、勉強への推進力が付きそうなものが見つかったのは大きな前進のように思えます。反面、当分の間は仕事中に流す感情が増えそうですが。
 最近までの進み具合として、ご報告させていただきます。


 
Re: 学生時代に置き去りにしていた問題の発見 / しまの
No.1006 2014/12/06(Sat) 16:48:28

具体的問題での前進があるようで、なによりです^^。

具体的問題での前進積み重ねの中で、心の基盤強くなり、それによって、「価値観」「人生の前進」といった大きく長いテーマについての考え方にも変化が起きてくる、ということになるかと。
そうした前進向き合い生涯続く、という見通しでまずは向かうとよろしいかと^^。

>最近は、何かを変えないといけないという目的不明な焦りではなく、もっと大きな流れから考えるように気を付けながら過ごしています。

これはどんな問題があって「何かを変えないと」と感じたのかをより明瞭化することで、ハイブリッド心理学からのアプローチも出てくるかも知れませんね^^。

長いテーマへの取り組みについては、進み具合について僕からコメントなどおよばないものになると思いますが、問題の状況に応じた歩みの道のり中長期的な視野などについては多少アドバイスできることもあるかと思いますので、質問などあればまた何でもお寄せ頂ければ^^。


生活 / コト
No.997 2014/11/03(Mon) 12:00:14

 長年その職業を全うされ、定年を迎えた方が、その後何をするかは自由である時間を、特にやることがない、という方もいます。
 長年働き、その仕事で身につき、学んだことなどたくさんあり、尊敬いたします。
そして、自分と違う分野の職業を長年されていた方と話をした時、その方が何もすることがないというのは、もったいないなと感じました。そして、そのような方の話を聞きたいと思いますし、本を出版していれば読むこともできます。ただ、どの職業でも、たくさんの定年者がありますから、特別なことではないかもしれません。

 それから、働くということは、大変なこともあり、どのような仕事が良いのかと、立ち止まってしまうこともあります。

 また、自分の生活の中で、何をしていきたいのかは良い視点かと感じます。

 

 


 
「仕事」への向かい方の3段階^^ / しまの
No.998 2014/11/06(Thu) 14:01:19

「仕事」への向かい方は、人生を通して以下3段階になる、というのが僕からの意見およびアドバイスになります^^。

第1段階「収入のため」 ・・・ 欲しい収入、必要な収入を得るために、とにかくできることから始める。僕の場合学生時代アルバイトからこれがスタート

第2段階「自己の能力探究」 ・・・ 自分この社会どこまで行けるかの、能力発揮の追及へと邁進する。僕の場合社会人時代がこれに該当しますね。行きたい会社その中での自分のポジションどう高められるかへと向かう。

第3段階「本当のやりがい」 ・・・ 文字通り、本当のやりがい向かうこととして仕事向かう僕の場合はこの執筆活動です^^。

細かい説明省き僕の場合の例説明としましたが、およそそうした大きな3段階があるというのは何となく分かるのではないかと思います。
そこで重要なのは、この3つの段階というのを順に積むことで、最後の第3段階「本当のやりがい」としての仕事の向かい方見えてくるだろう、ということですね。「本当のやりがい」という仕事の向かい方望ましいものであるのは誰にとってもそうだと思いますが、上記第1段階第2段階すっとばして、最初からそれを望んでも、「本当のやりがい」として仕事にしたいものの内容そのものが、見えてこないと思います。

人生を通して、上記の3段階があるという長期的見通しを持った上で、10年、20年かけて「本当のやりがい」にできる仕事を見つけていく、という向かい方良いと思います^^。

書くというのは、「本当のやりがい」として見出したもの他に例がなく、人に伝えることに意味があると感じた場合になると思います。「本当のやりがい」の段階にまで行ければを書くかどうかあまり大きな違いではなくなると思います。

ごく手短に、そんな意見およびアドバイスになりますということで^^。

参考:
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01
トピックでのコメン
『「選択肢の正しい立て方」・「仕事」への入り方』 しまの No.877 2014/05/05


 
Re: 仕事 / コト
No.999 2014/11/06(Thu) 20:02:04

回答ありがとうございます。

 群馬の山の写真、紅葉きれいですね。雪で、寒さも感じました。

 「本当のやりがい」について、考えさせられました。

 定年後の方であれば、自分のやりたいことに専念するということかと感じました。

 「本当のやりがい」は、仕事だけに見いだすのではなく、仕事は生活のためとして、それ以外の自分の時間でやりがいに取り組まれている方も多いかと感じました。

 「本を書くというのは、人に伝えることに意味があると感じた場合」とのこと。

 また、自分の考えをまとめたり、深めたりする場合は、文章に書いてみることや、文献の参考を加えたりして、論文を書くこともあるかと思いました。

 働いていると、会社としての忙しさがあります。やりがいはありますが、あれもこれもと業務が増えていき、燃え尽き症候群ではないですが、この業務量で良いのだろうかと疑問に思えることもあります。ただ、忙しさは会社全体に言えることで、業務をこなすことで少しずつでも仕事がはかどり、自分の成長ともなると言えます。しかし、その流れに乗れないのであれば、悲観的になることもあるし、責任の軽い職に転職するなどがあるかと感じます。
 
 また、生活の為に仕事を変えられない方もいると思われます。それから、その仕事を全うすることを選ぶ方も多く、定年して仕事を時間していた時間が自由時間となり、何もやることが無いという方も、いらっさるのかということかと思われます。

 今日は、また新しい業務が増えて、行う業務が重なり、気分的に疲れました。
 この忙しさが重なったことや、新しい業務をやってみる今後の不安もあり、疲れることはあります。
 
 しまのさんは、考え執筆されることは、やりがいとのこと分かります。
 私は、毎日の目にしたことや、考えたことや感想は、いきがいの要素と言えます。

 例えば、今日は、なぜあの方は悪口を言いふらし、根回しをしているのだろう行動を目にした時、「あの方は、被害者だと思われたいことや、不安であるからなのだろう」など、感じました。そして、人の生き方を考えさせられたり、自分の生き方は〜すると答えにつながります。

 社会からいろいろなことを求められており、会社自体が忙しくなっていると感じます。

 忙しさに流されず、また業務をこなすことを基本に考えながら、悲観的から抜け出して、進んで生きたいと考えています。その中で、生きがいについても考えて行きたいです。

 再度、ご意見お願いいたします。
 
 

  


 
Re: 仕事 / しまの
No.1000 2014/11/12(Wed) 14:47:38

次の3つのパターン人それぞれということになりますね^^。
 A)「本当のやりがい」として仕事に向かう
 B)仕事以外でやりがいのあることを持つ
 C)定年になり、やりたいことが見つからない

一番幸せなのはまあまあ避けたい、という感じかなと^^。

になるのは、上記コメントしたような3段階を経て、というのが僕の考えになりますという話。仕事については第1段階「収入」もしくは第2段階「能力探究」までの向かい方にとどまり第3段階「本当のやりがい」として向かうまでにはならなかったケースだというになりますね。
いずれにせよ、にならないよう、定年以前から自分のやりたいことを模索する姿勢重要だ、というになると思います。


>今日は、また新しい業務が増えて、行う業務が重なり、気分的に疲れました。この忙しさが重なったことや、新しい業務をやってみる今後の不安もあり、疲れることはあります。

この辺一過性で収まらず問題を感じるようであれば、具体的対処検討するのがいい話にもなり得ますね。知恵とノウハウというものが、かなり具体的問題内容ごとに出てきます。
何かヒントなど欲しいものが出たおりは、新規トピックなどで何でもご質問入れて頂ければ^^。


 
Re: 仕事 / コト
No.1001 2014/11/12(Wed) 20:35:37

 「自分のやりたいことを模索する姿勢」と、考えさせられます。

 比較的のんびりしている職業もあると思われますが、社会で求められている情報量や貢献度などから、毎日必死に仕事をこなしている職場の多いと感じます。多忙の職場は、どんどんやることが流れ作業的というか、舞い込む気がいたしております。

 より良い向上、社会の仕事を考えることは、やりがいにもなることです。

 自分のやりたいことを模索するとは、業務の向上もありえると言えます。

 外的な出世や優雅な生活としてではなく、いろんな対人の中で、働くのであるから、対人場面からの自分自身の心身の向上に取り組むことが、自分のやりたいこととも言えます。
 しかし、これは誰もが毎日対人場面があるのだから、当たり前の喜怒哀楽であるからとなりますか。また、やりたいことの模索に対してのレベルは高くはないとなりますか。

 自分の内面から、向上させる取り組みが、生きること。そして、やりたいことそのものと感じます。


 
Re: 生活 / コト
No.1002 2014/11/13(Thu) 20:24:51

 本日感じたこと。

 人は、毎日何かしら、いろんな場面があり学んでいると感じます。しかし、人はそんなには変わらない部分があり、毎日同じ会話場面を見ます。

 そして、自分は相手に流されずこういう自分でいようと考えたことを、日々しているとも考えます。そのことを、日々確信していきます。

 ですので、自分自身の向上とは、ありのままの自分であるとも考えると、やりたいことというのは、自分そのもの姿であると感じました。

  相手との違いを、当たり前に見れることでもあると言えます。 
  ありのままの自分でいて、相手からの不快にも、気にせずにいられること。

  このような中で、やりたいこととは、自分の心身の向上と考えると、仕事からのやり がいというのは、職場を通して自分の心身の向上の実践ということなのか。

  まだ、答えが出ません。


(No Subject) / こたろう
No.989 2014/10/13(Mon) 10:38:51

新規トピックで失礼します。

もちろん、打ち負かすことに自尊心を持ち、
わかり合う事に愛を求めれば、その姿勢で関わる人にとって迷惑になるのは目に見えています。


しかし、人生の姿勢にかかわりなく、
この場所には自分よりももっと生来的に愛情を
持てた人間がいるほうが良いとか、
このチームにはもっと実力がある人が
入ったほうが良いとか、こういう迷惑に
なってしまうという感覚は起こってくると
思います。


例えば、明らかに自立した愛を持てずに、
依存的な愛になってしまう人が、
自分でそれをわかっていて、
なのに誰かと結婚をしようという
発想になる事自体が、どうなってるんだ?
と感じます。


相手のただ一回の人生の一部分に、
愛情を持てない人間と結婚する時期を作って
しまう事に後ろめたさや罪悪感はないのか?
と思います。


成長する存在として自己を見るならば、
少なくとも外面的には共有部分を楽しむという
姿勢で結婚生活を送るなら良い、
という事になると思いますが、
それでもなお、健康な愛情を感情レベルで
持った人と結婚した方が絶対に幸せだし、
仮に子供が産まれても、心理障害を持つ事は
考えづらい、という事は事実でしょう。
それなのになぜ自分を相手に
勧められるのか?


交際ならば、20代を過ぎれば、
結婚を前提にしている人も多いのに、
心に欠陥を抱えた人間と付き合って大事なチャンスを得られる時間を浪費させてしまう、という発想はないのかな、とか。



この「もっといい人がいる」という
発想は、歪んでいるとは思うのですが、
事実じゃないか。という気持ちの方が強いです。


しかし実際は、(特に心が健康な人は)
自分が相手に一番ふさわしいとか、自分よりも
良い仕事ができる人がいるというのは
事実だとしても、恋愛はするし、スポーツのチームであれば
最大限自分に出来ることはするし、
仕事もしますよね。



合理思考がすっきり整理できればと
思いますが、どういった言葉になりますでしょうか。


それと地続きに、
望みについても疑問があります。


内面では望みを解放する、という
事ですが、
上記のような発想になってしまうため、
望みを描こうとすると、どうしても上手くいきません。
というのは、自分の性格を考慮した、望みの
ビジョンは、現実感がないわけです。

そこで、現状の性格の障害をクリアした理想自己像が描かれて、
その自分が例えば女性を幸せにしていたり、
仲間と笑っていたり、子供をあやしていたり、というビジョンになります。
これだと、その望みのビジョンに矛盾が感じられなくなり、描きやすくなります。


つまり、自分がなにをしたい、誰とどうなりたい、というのではなく、
こういう風な自分が、こういう風な雰囲気でこんな言葉を発して、その自分に誰かがこんな感情をもったりする、とか、
こんな自分が、このスポーツをしていて、
その自分に誰かがこんな感情を抱く、という望みになります。


「受け身の愛」という望みを解放するとして、
今のダメダメな、臆病で人に気を遣えない
自分が、それでも特別だから一方的に愛される、といった望みもある事は自覚しました。
一方、その望みを描いた後で、これは現実にはありえない事だ、という認識が出て、
女性を喜ばせたり、気を使えて、自分を持っていて、という自分が、自分を好きになる、
といったイメージを描き直す、という
感じです。


 
Re: / こたろう
No.990 2014/10/13(Mon) 11:32:53

女性を喜ばせたり、気を使えて、自分を持っていて、という自分が、自分を好きになる

→という自分が、女性に好かれる


に訂正です。


お聞きしたいのは、
望みの描き方は後者でいいのか、
という事です。


後者は「嘘をついた自分」になる
のでしょうか。

嘘をついた自分というのは
愛されるためにこうでなければならない
というあるべき姿を当てはめる事だと
理解していますが、
愛されるためにというよりは、
そういう自分でいる事が気持ち良い、
そういう自分が愛される事が気持ち良い、
というイメージなんです。


またこの全てが、
愛され自尊心、または受け身の愛の
ベクトルにあるのはわかるのですが、
まずは内面ではその望みを解放するという
事ですよね?


内面の健康な成長として、またそれに向かう外面行動としては生み出す自尊心に向かう。

生み出す自尊心は、それによって愛される事を
結局望むことになるのではないか?
といったテーマの記事が、過去原稿にあったと
思うのですが、場所を見失ってしまいまして、
もしわかればいつの記事が教えて頂きたいです。


 
「望み」は「行動法」を携えて向き合い描く^^ / しまの
No.991 2014/10/17(Fri) 11:57:44

「望み」は「行動法」を携えて向き合い描く

これは学びのテーマとしては、まずは「望みへの向かい方」であり、

・「望み」は「行動法」を携えて向き合い描く

という指針言えるというになりますね。
これは特に若い年齢において、長い人生の歩み視野として重要な指針になります。

>女性を喜ばせたり、気を使えて、自分を持っていて、という自分が、自分を好きになる →という自分が、女性に好かれる に訂正です。お聞きしたいのは、望みの描き方は後者でいいのか、という事です。

まず「内面感情はただ流し理解する」という内面側指針として、「ありのままに流す」としてはそれで良いと思います。
一方ハイブリッド心理学「感情と行動の分離」指針としては、外面側行動法があり、それを学び実践しながら、「望み」への向き合いも生涯続ける、というものになります。
まあただ「望み」を解放すればいいという話ではなく、と。

この辺は、最新『概説』では、
4.心の成長変化  (2)「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
・「感情と行動の分離」の両輪による「魂の望み」への前進
で、
========
まずは外面の軸主輪として、まずは今望むもの向かうための、建設的行動法行動学学び実践するのです。それがまずは、私たちが望むものに近づくための能力向上させると同時に、「望み」内容惑いと邪心に満ちたものから、より洗練されたものへと「鍛え上げて」もくれるでしょう。
========

などと述べている通り。

また『実践詳説』では、
9章 「成長の望み」と「真実の望み」の導き
「否定価値の放棄」の扉はどう見えるのか (P.154)

で、
========
順番としては、まず「成熟」の変化へと向かい得る心の基盤を先に用意してから、「望み」を次第に「開放」していくという流れになります。
これをに考えないことが極めて重要です。とにかく望みを開放できればいいという話とは、大違いです。例えれば、ぬか床に用意してから、野菜を入れるということです。これをとにかく野菜を容器に入れてから、ぬか床を作ろうと必要なものを探し始めようとしていたのでは、野菜腐ってしまいます。そうした心の基盤をまず築かないと、「望み」腐ってしまうのです。人生腐ってしまうのです。
========

とか喩えて書いた通り。


「社会を生きる自信」を手土産に「愛」に向かう

そして「異性に愛される」という「望み」について言えば、

・「社会を生きる自信」を手土産に「愛」に向かう

という大きな人生の歩みへの視野を持つ、というのがハイブリッド心理学からの指針です。
それなしに、ただ「望みを解放しよう」としたところで、

>内面では望みを解放する、という 事ですが、上記のような発想になってしまうため、望みを描こうとすると、どうしても上手くいきません。というのは、自分の性格を考慮した、望みの ビジョンは、現実感がないわけです。

「愛」という「望み」へのビジュンを明確にしたければ、まずいったん「愛」ばかりに見入るのをやめ、人生の全体に目を向けることです。
学生であれば、やはり就職中核にした生活設計など。そのあかつきに、多少婚活などもやってみて、自分がどんな異性への向かい方ができるのか模索する、ということになるかなと。
それをしないまま、今あれこれ考えても、ちょっとぞんざいな表現ですが、ちょっと無駄^^; と。またそうした人生行路という大上段アプローチなんて面倒なことではなく、異性に好かれる言葉や仕草なりナンパ術(^^;)なりのアプローチ法というのも世に存在し得ると思いますが、それはハイブリッド心理学取扱いメニュー外になりますのでご了承あれ^^。
ハイブリッド心理学はあくまで、「命の生涯」という視野の下における、心の成長の歩みとして、あらゆるテーマを扱います。


「望み」のための「行動法」の各種学び

とうことで、色々書いて頂いたご質問へのアドバイスは、まずは上述のような大きな視野ありきの話になりますね。
「望み」を内面においてありのままに解放するのはいいとして、まず「望み」に向かうための「行動法」の「学び」積み重ね、それを携えて再び「望み」に向き合う。これを人生で続けることです。いますぐ答えは出ないのを受け入れて。
ここで言う「行動法」とは、もちろん単に表面の行動法だけではなく、それを支える価値観人生観や、社会行動の良識的、常識的なルール理解などの学びといった全てを含みます。

とりあえずご質問へのアドバイス手短に書いてみますと、

>相手のただ一回の人生の一部分に、愛情を持てない人間と結婚する時期を作って しまう事に後ろめたさや罪悪感はないのか?と思います。
>この「もっといい人がいる」という 発想は、歪んでいるとは思うのですが、事実じゃないか。という気持ちの方が強いです。

まずはそれぞれの人が自身の人生をしっかりと考え、それぞれに合った相手を自ら選べばいいことですね。外野の他人がとやかく口を挟む問題ではない。
スポーツのチームにしても、どんな人が参加してい良いかは、そのチームの人が考え判断する問題です。プロを目指しているチーム趣味の集いでは全然違ってくる。一律な基準などない。

>後者は「嘘をついた自分」になる のでしょうか。

「嘘をついた自分」なるかどうかは、自分で向き合って判断するしかないです。
まあ一般的に、「こんなキャラを演じる」という姿勢は、「嘘をついた自分」になる危険がかなり高く、一方上述のような人生設計アプローチには、「嘘をついた自分」になる要素はあまりないですね。問題描いた人生設計がそううまく行く幸運は少なく困苦を受け入れ、人生設計を模索し続けることが重要になりますね。

>生み出す自尊心は、それによって愛される事を 結局望むことになるのではないか?といったテーマの記事が、過去原稿にあったと 思うのですが、場所を見失ってしまいまして、もしわかればいつの記事が教えて頂きたいです。

まず理解手短に言うと、
「愛」という望みが我々にある限り、それは「愛されること」への望みでもあります。愛されることを望むことにならない、「愛」への望みなどない。そして人間「望み」本流は、「愛」です。
これがハイブリッド心理学人間理解です。

次に、愛されることへの望み支えるものとして、自分としては自分をどう尊敬できるかという「自尊心」持ち方に、いくつかの分かれ道が出ててくる。
「打ち負かし自尊心」は、愛される望みバッティングし、相手を打ち負かし自尊心を得ても、その相手からは愛されなくなる
「愛され自尊心」は、愛されないと自分に自信が持てなくなる。結果愛されたい望み「不安」つきまとい、やがて自分に自信を失い、愛されたい相手に向かえなくなる。
「生み出し自尊心」は、まず自分は自分で支える。それによって、「不安」超えて「愛されたい望み」に向かうことが可能になり、やがて「望み」に向かう成熟によって、「愛されたい望み」そのものが、「自ら愛する望み」へと変化していく、という流れになります。

これは単独の記事で扱っているような話ではなく、ハイブリッド心理学全ての本がこの人間心理理解に書かれていると言えるものになりますが、とりあえず
ブログ記事書籍No.2 愛と能力の成長課題
収録
『「愛」と「能力」の人生課題』シリーズ
など読んで頂くと、「能力」という現実課題「愛されたい望み」の2つに、実際どう向かうのが良いか考え方など書いていますので参考になるかと思います。

あとは
1)目の前の問題については「読んで解決」ではなく「今取るべき外面行動の答えを出す」ことで対処。
2)心の懐を肥やす作業として、定常的に読書

という二頭立て実践で、理解を深めていって頂ければと思います^^。


 
Re: / こたろう
No.992 2014/10/26(Sun) 23:24:47

ありがとうございます。

つまり、最初は望みの感情を明確化するより、
全般的な関係で、うまく行動する事の技術を
磨くという方針なんですね。


その後の価値観については、
「自分がいいと思う相手を選べばいいだけで、周りがどうこういう問題ではない」という事ですが、
もう少し具体的に合理思考をいただけないでしょうか?


周りがどうこうというより、
本人の意識としてはどうなるのかなと
いうことです。

前記事に述べたような事が事実だと
感じられるとして、それでも自分がそうしたいから、
それで良い、という事ですか?

恋愛関係において、チーム活動において、
仕事において、自分よりも絶対にふさわしい
相手がいる。でも、自分はその女性が好きだし、
そのチームでそのスポーツをやりたい、その仕事をしたい。という状況です。

例えば、自分ではなくもっと心の健康な人が
チームにいれば、休憩時間ももっと皆愉快に過ごせたはず。仕事でも、飲み会で上司に気に入られ、チームで円滑に意思疏通が出来ていたはず。

そういう、「有り得た良き現実」を
心を病んだぎこちない人間である自分が、
壊してしまう恐怖感。

所属の条件というのは最低条件という
イメージですね。自分がその条件は満たしていても、
もっと良い人が、もっと愉快な人が、という
事が発想として出てきてしまうんです。


健康な思考だとどうなるのでしょうか。

足を引っ張らないように努力するのみ、
という風に努力する人もいれば、
そんな事かんけーないね、俺がやりたかったんだから。
という風に見える人もいますが。


そもそも人に不快感を与える事に、ついて、
相手に報復を受けないように、という目的に応じて
ハーバード交渉術のような行動法があって、
不快感を与える=迷惑をかけてしまう、申し訳ない。
という発想自体がないのでしょうか?
善悪観念に根差しているから?
相手に配慮するのもただ自分が生き残るための戦略、という扱いなんでしょうか?


相手の感情にまで責任をおいすぎているんでしょうか?


 
Re: / こたろう
No.993 2014/10/26(Sun) 23:49:42

前回スレッドの内容とかなり重複してしまっていましたので、
もう少し細かい質問になるように補足します。
最後の部分を引用させていただきます。

>自己の幸福をどんな行動法と価値観によって築き支えるかに取り組みます。
「愛」は「分かり合い」ではなく「喜びと楽しみの共有」、「自尊心」は「打ち負かし」ではなく「現実において生み出すこと」で。
心底からそれに立った時、こんな人間は消えた方がといった観念はなくなる、という流れになります^^。



「喜びと楽しみの共有」を目的にするとしても、取り組みがすすんで感情が良好になるまでは、
自然な愛情を持っている人間の方が
より相手にとって、楽しい、あるいはくつろいだひとときになります。
つまり、より良い喜びと楽しみの共有があるはず、自分は挙動不審でも
共有できる楽しみがあるから参加していても、相手にとってはそんな人と一緒に
いる時間は楽しみではない可能性が高い。


「現実において生み出すこと」を目的とするとして、
感情があまり関与しない生み出すもの(仕事でいえば、裏方でコツコツやるようなものや、事務作業など)であれば、一定の能力を得られるまでは自分よりもふさわしい人間が確実にいるという発想になりますし、
感情が関与するもの(販売接客業、なにかボランティアなどでの活動など)であれば、
生来的に他人への愛情を持てた人間の方が確実にふさわしいという発想になります。



つまりこれらを目指しても、やっぱり心理障害の人間は、比較するならば
健康な人間と比べれば、どんな場面にも入らないほうが良いという結論には
なってしまう気がするのです。


しかし、これでは全然、現実に向かえません。


 
「健康形」「成長形」を基準にした行動法検討^^ / しまの
No.995 2014/11/02(Sun) 10:43:05

>例えば、自分ではなくもっと心の健康な人がチームにいれば、休憩時間ももっと皆愉快に過ごせたはず。仕事でも、飲み会で上司に気に入られ、チームで円滑に意思疏通が出来ていたはず。
>健康な思考だとどうなるのでしょうか。

「あまり重要なことではなく、あまり気にしない」になると思います。「休憩時間」「飲み会」であれば。
実働時間、業務時間において円滑なコミュニケーションを持てることは重要になりますね。

ただしそれは「愉快」というのとはちょっと違うと思います。趣味の集いだけではなく本格的技術向上などを求めるスポーツなど団体行動も含め、「仕事」というものであれば、「愉快」を求めるものではなく、「達成感」「成果」を求めると思います。それは基本的に厳しいものであり、愉快になれるというより、困苦の克服を共にするというものが団結への方向性になると思います。
それが「健康形」であり「成長形」になりますね。

>そもそも人に不快感を与える事に、ついて、相手に報復を受けないように、という目的に応じて ハーバード交渉術のような行動法があって、不快感を与える=迷惑をかけてしまう、申し訳ない。という発想自体がないのでしょうか?善悪観念に根差しているから?相手に配慮するのもただ自分が生き残るための戦略、という扱いなんでしょうか?
>相手の感情にまで責任をおいすぎているんでしょうか?

相手の感情にまで責任を置きすぎることに問題があるというようり、相手の感情として空想する内容が誤っている、ということになると思います。
もちろんさまざまであり、我々が空想した他人の感情が、実際そのように抱くようなタイプの人もいるし、全くの杞憂であり何も気にしないようなタイプの人もいる。
そうした中で、「健康形」「成長形」での感じ方を基準に、人の感情についても配慮する行動が、当然心の健康と成長に向かうものになります。病み形未熟形を基準にして配慮する行動法だと、心の病みと未熟のままでいるものになります。
ハイブリッド心理学としては、その前者道を行く、ということになりますね^^。

>つまりこれらを目指しても、やっぱり心理障害の人間は、比較するならば 健康な人間と比べれば、どんな場面にも入らないほうが良いという結論には なってしまう気がするのです。

上述のような、「健康形」「成長形」を基準にした行動法として、一つ一つの場面について向かい方を検討するというのが、取り組み実践になります。
一つ一つの具体的場面ごとにです。どれとして厳密に同じものはありません。

もちろんそれは「健康形」「成長形」で感じられるようにならなければという話ではなく、自身の内面感情としては未熟形病み形流れるとしても、それに完全に呑まれるのを踏みとどまり、健康形成長形のあり方を想定し、とにかく外面行動はその方向において行うということを目指す、ということです。
それが「感情と行動の分離」であり、その積み重ねの中で、内面感情あと追いの形で健康形成長形へと変化を始める、というものになります。
そうした「健康形」「成長形」想定について、まずはぜひ取り組んでみて頂ければ^^。


衝動 / マリノ
No.986 2014/10/03(Fri) 12:48:48

こんにちわ

現在、島野殿の心理学を人生の羅針盤とさせていただいております

現実ではなく、イメージに反応してしまう自意識
それを直したく、
本当にそうなのか?という確認作業をつづけております
人が怖い、場が怖い、などです

なぜそうなったのかについて
自分なりに掘り下げを行ってきましたが
1つの原因らしきものがありました

幼少期に2回の転向を経験し、学校では物理的に孤独な日々を
過ごしました
悲しみと寂しさを誰にも打ち明けられず、
表面では何事もないふりをして、内面の激しい混乱を隠していたことです

子供を保育園、小学校へかよわせております
それだけでも心配はつきませんが
それを見ていると、自分が経験したことはそれなりに過酷な経験だったような
気がします

小さい子供なら、その依存心から
かまってほしい、ちやほやしてほしい、自分の面倒をみてほしい
という気持ちがあるはずです
それをかなえられない
絶望と直面し、人、場を見下し、憎み、怒りをためこんでいたようです

負けず嫌いもあり、自分からうちあけられない、助けをもとめられない
学生時代は「幼稚園からやりなおしたい」という気持ちが
意識の底にありつづけました
依存心をかなえられないのに、大丈夫と行動する
自分の嘘が自分を苦しめていると、その時はわかりませんでした

高校からは、物理的に絶対孤独にはなりたくない
為、片っ端から誰にでも話しかける行動をとり
現在仕事の面でそれが役に立っている面もあります

ただ、内面のネガティブな感情はつねにくすぶり
些細なきっかげで、怒りという形で爆発します
心に潜む獰猛な獣の存在には、気づいており
それを隠す為にくたくたになる日々でしたが

以前そこに気づきがあり、投稿させていただきました

世界の現実は
自分中心ではなく、70億分の1人として
自分があり、
自分だけちやほやしてもらう、かまってもらう
面倒をみてもらう
ということはなく、それを頭で理解し、周りをよく見て
やっとそれを腹の底から納得することが
できました

そして、理不尽に周りを見下し、憎しみ、怒る
ことも減り、
あとは自分の望みはなんなのか?自分はなにがしたい?
それを問い続けております

そこで現在の結論は
幼稚園までさかのぼり、
自分の望みは、人の目からの自由、心の自由です

それに対しては恐怖心があります
@自分の依存心を隠し続け、ニセモノの自分という
イメージが固定されています
A怒り憎しみを向けていた周りは、敵だ
というイメージが固定されています

そこで冒頭のイメージが正しいかどうかの
確認作業となっており、それを続けて行こう
と思っております

今、島野さんへ相談したかったのは
自分自身に動揺する体験があったからです

先日のことですが
幼少期に経験した気持ち「とてつもなくさびしい、かなしい」
が、鮮明な映像としてよみがえりました
タイムカプセルのようにリアルに、時を超えて蘇る驚きとともにです

そのときは苦しさで、のたうちまわり、
ゴジラが火を噴くように、その感情を吐き出しました
その感情は尽きることなく湧き上がります

この状況で、その感情は
ただ流せばいいのか、ほかに何か手を打ったほうがいいのか
自分に起こった変化が大きく、動揺しております

何かアドバイスあれば、よろしくお願いいたします


 
心の豊かさへの視野の下に「ただ流す」^^ / しまの
No.988 2014/10/05(Sun) 18:33:32

あさってから秋の北アルプス登山に出かける計画のため、手短早めに^^。


内面感情は「直さない」

まずはいかなる問題場面内容についても、「感情と行動の分離」一貫した実践になりますね。
それで言うなら、

>現実ではなく、イメージに反応してしまう自意識 それを直したく、本当にそうなのか?という確認作業をつづけております人が怖い、場が怖い、などです

これは「直さない」です。「イメージ」「内面感情」側の話だからです。「ただ流し理解する」
「それとは別に」、「外界現実の客観的な内容」に対して、行動の反応をできるようになればいい。「イメージ」とは別に、「外界現実の客観的な内容」についての思考どう築くか、というになりますね。
イメージ自意識が反応してしまうのはいいんです。イメージ自意識内面感情側。それがイメージ行動が反応すると、まず建設的でない行動になってしまいます。これを踏みとどまり、「外界現実の客観的な内容」に対する、建設的行動法を学び実践していく、ということになります。


「感情の膿」を「ただ流す」

ということで、

>先日のことですが 幼少期に経験した気持ち「とてつもなくさびしい、かなしい」 が、鮮明な映像としてよみがえりました タイムカプセルのようにリアルに、時を超えて蘇る驚きとともにです そのときは苦しさで、のたうちまわり、ゴジラが火を噴くように、その感情を吐き出しました その感情は尽きることなく湧き上がります
> この状況で、その感情は ただ流せばいいのか、ほかに何か手を打ったほうがいいのか 自分に起こった変化が大きく、動揺しております

については、「ただ流す」というのがまずはやはり答えですが、重要なのは、どんな目線視野の下に、ただ流すかです。

それで言いますと、まず言えるのは、そうしたリアルに蘇り噴出す感情というもの自体は、いいことなんですね。
そうしたのは「感情の膿」などと呼んでいるものでもありますが、身体症状の「膿」と同じで、埋もれているものが、見えないまま慢性的な疼きを引き起こします。慢性的な鬱屈感情ですね。それが、身体症状において「膿」表面化し流れた分だけ快方に向かうように、においても「感情の膿」流れた分だけ、心が軽快化します。ま一度に起きる変化微量なため、過度な期待はしない方が(?^^;)いいとして。


心の豊かさへの視野の下に「ただ流す」

まず耐え難い感情の湧き出しについてはそうした目線で何とかやり過ごすとして、さらに重要なのは、「イメージに自意識が反応」といった、より日常的な心の動きを、どんな目線視野の下に、ただ流すかになります。

それは一言で、心の豊かさへの外面内面目線視野です。
「幼稚園からやり直す」といったのとは(^^;)全く別世界に、それがある。

外面においては、先日
『対人関係』 リュクスさん No.960 2014/09/06
トピックでの
『「対人恐怖」「悪口妄想」の克服^^』 しまの No.976 2014/09/27
でも書きましたが、
まず何よりも「一人になれる」「一人で行動できる」「一人で楽しめる」ことにおいて、「自分自身において嘘のない、純粋な楽しみと喜び」を見出す。次にそれを人と共有するものして親愛行動に向かう。

内面においては、「魂の愛への望み」の感情を、自分自身で受けとめる
この辺については先日アップした
・「愛」という本流の「望み」への妨げ
以下を読んで頂ければ概要になりますので^^。

この2面に、長い人生の歩みを通して、心が豊かになる。
これがハイブリッド心理学の考えです。


以上、ざっと考え方など。じっくり「学び」を進めながら、目の前の問題への建設的対処と、長い目での向き合い向かってみて頂ければ。
なるべく具体的場面における、こうした方向性に沿った具体的行動法への引き出し増やすのが一番いいですね。それとの対比で、「幼稚園からやり直す」といった観念の不合理感じ取るという方向に向かいたい。

上記内容への質問等あれば引き続きレスで、具体的行動法質問などあればまた新規トピックなどで入れて頂ければ^^。


(No Subject) / こたろう
No.957 2014/09/03(Wed) 23:37:09

仕事やアルバイトの向かい方に関しては、
業務の価値に応じて、自分の役割を理解して、ノウハウを使って
取り組む事、コミュニケーションにおいては
一貫して「業務内容や目的について、価値言葉を使って話せる事」というのが
アドバイスになっています。

これに関しては、業務中に関しては理解できます。
もちろん、業務内容についての構造的理解があり、論理的なつながりを
理解できていることと、人とその理解を共有できるような
コミュニケーションがとれる能力が大前提になるでしょうし、
それが出来れば「仕事がうまくいかない」事による居辛さは
なくなるでしょう。


原則、明示的条件としては
それが出来ることが仕事場にいる事の条件になると思います。


しかし、その条件を充分に満たせているのにいづらいケースは
多いと思います。


「気持ち」や「やる気」はどちらかというと、業務内容に対してというより
そういったコミュニケーションを業務外の人間関係、飲み会なども含めて、そういった
場面で求められるものではないでしょうか。


例えば、自分がアルバイトをしていた店舗は、スーパーなど、
働いている人の趣味や休日の過ごし方がバラバラであると考えられる
ものではなく、
むしろその休日の過ごし方自体のサポートが業務でした。

例えて言うなら、ダイビングショップの様な感じですね。


そもそも、それに興味が無い人はなかなか働きにこないわけです。
高給でもないですし。

最初のうちは、まだお互いに打ち解けていない事もありますし、
店長が、同じ店舗の人とは一緒に休日を過ごさない人でした。
一部の人は、一緒に行ったりしていましたが、そうではない人も多かったです。
一定数そういう人がいれば、別に気になりませんでした。


しかし、徐々に打ち解けはじめると、趣味が共通しているので、
店舗内で一緒に海に行こうという人が増え、自分も誘われる事が出てきます。


例えば、これがスーパーのアルバイトで、
「私たち、今度ディズニーランドにいくんです。一緒にどうですか?」というお誘いなら、「自分は苦手なので、ごめんなさい、結構です!」と言えます。


つまり、内容を楽しめないから、行かないという事が言えるわけです。
これの何が良いのかというと、「あなたを嫌っていたり、苦手だと思っているわけではない」という風に相手が理解することが出来ることです。


しかし、やりたいこと、好きなことが、共通している。


こうなると、「なぜ一緒にいかないのだろう」という目を相手が向けているという
外圧を感じるわけです。


これが50代の主婦の方だったとします。
そうすると「若い子はオバちゃんといても楽しくないもんね〜」という
認識をされていると思えるので、まだ良い。


これが、同世代で趣味が共通しているという条件があるのに、
断る。となると、「私が嫌いだから来ないんだ、私が苦手だから来ないんだ」
という風に、相手が考えるだろうと感じられる。


そうすると、次会うときからは「この人は私とは話したくないのだ、私と一緒にいるのは
苦痛なのだ」という目で見られているという感覚がつきまとい、
苦しくなります。仕事中も話していて、そう思われていると感じると
もう苦しくて、業務に集中できない。


もちろん、建設的行動法としては「その日は〜をするので、すみません」という
言葉を使うのが良い、ということになると思うのですが、
時々しか会わない友人などならそれでも納得できると思います。
しかし、何度も会う人、何度も誘われる人にそうやって断るのは、相手も納得できないでしょう。


それに、「来月であいている日があったら行かない?」と誘われた場合は
どうするのでしょうか。
来月開いてないならその次は?といわれた場合には。
日取りをあわせるから今月中であいている日を教えてくれ、という誘われ方も
ありますよね。


休憩時間もそうです。休憩時間まで、業務内容についての会話ばかりする人は
むしろ少ないと思います。ある程度はあると思いますが。
あるいは、入りたてでわからない事だらけの時ならば、疑問だらけで
当然なので、業務について質問するのも変ではない。
でも、慣れてくると、「この人は自分の話全然しないなぁ。壁を作られている」という目で見られるようになってくる。
幸い、当時のバイト先はショッピングモールだったので、
休憩時間に外出する事が不自然ではありませんでした。
さらに、休憩時間がズレていたので、同時に休憩をするとしても2、3人ほどまで。
そのため、余裕のあるときは店のバックルームで同僚と休憩を共にする事もあれば、
無い時には外出して食事をする事も多かったです。
帰りも、アルバイトよりも社員の方が、レジ閉めなどがあるため帰りが遅く、
時間がズレていたため、あまり人と一緒に帰るシチュエーションが無かったです。




しかし、会社となるとそうもいかないことが多いでしょう。
昼食の休憩は一定のタイミングで、よく何人かで食事にいく人をみます。
周辺にそういった場所がなければ社員食堂しかないでしょう。



会社に勤めるにあたり、明示的な条件としては「仕事が出来る事。業務上のコミュニケーションがとれること。」が原則だと思います。

しかし、非明示的な条件(条件という言葉はふさわしくないかもしれません。空気、周りの見方、という感じ)は
それぞれの職場で違うなりにあるでしょう。
会社の規模によっても傾向があるはずです。


ドライな職場とか、ウェットな職場とか、よく言いますよね。

知恵袋などでも、自分は仕事は仕事だと割り切りたいけど、ウェットな職場なので
社員旅行やバーベキューなどが頻繁にあって、困る。

といった内容の相談をよく見ます。



職場は愛を求めるものではないというのは原則としてはわかるのですが、
心の健康な人であれば、自然と職場でも愛や友情は芽生えますよね。


そういう人たちの中で、愛を求めない事は、
ドライで職務遂行と事務的会話のみに徹するような職場で
愛を求めない事とは遥かに難易度が違うはずです。


やはり周りがそうだと、「そうできない自分」というギャップに苦しめられます。
これは、仕事場面問わずでしょうが。


そうして、「愛のない」あるいは「明るくない」輪の中にしか行けないという
ことになっている。



こんな基準で、仕事やアルバイトを選ぶと、自分の取り組みたい事に
挑戦できなくて、苦しいです。特に、アルバイトでは飲食店などのチームプレーが
中心であることもあり「和気藹々」がデフォルトな感じがします。
高学歴なのに、トラックドライバーになったり、
会話の少なくて良いライン作業を仕事とする人が増えているといった記事も見ました。


 
嘘について / こたろう
No.958 2014/09/04(Thu) 21:25:02

こちらの方が急ぎの相談です。
早めにアドバイス頂けるとありがたいです。

アルバイトをはじめたいのですが、
2年間の社会的なひきこもり期間での
休学をどう
説明すべきかがわかりません。


一般的にいって、留学やなにか取り組みがあっての休学というのならば自然だと受け止められるでしょう。

自分は対人恐怖性で休学したというのが
実情で、その後のアルバイトも派遣しかしていないため、説明できません。


いつやめるかわからないとか、精神病だとか
思われてしまうと受からないでしょう。

まずは面接を通過するための嘘が必要です。


通ったとしても、その時の事を聞かれる可能性があります。あからさまな嘘をつくのはその点後々面倒です。
アルバイトならまだ、そこまで徹底した理由を話す必要もないと思われますが、後々就職活動するときはさらにどう説明するか迷います。


以前、大学で友人に空白期間になにをやっていたのか聞かれた時には、その話にならないようにうまく回避する言葉を使うというアドバイスでしたが、聞かれたことに正直に答えないのは嘘をつくことと同じ感覚があります。

こういうのが、必要な嘘を自分に許すこと
という物になってくるのでしょうか。


 
Re:嘘について / しまの
No.959 2014/09/05(Fri) 10:40:54

ではこちら取り急ぎ先に^^。

まず基本的に言って嘘は言わないのが健全ですね。病みの始まりです^^。
また「嘘を許す姿勢」は、隠された嘘表面化させなくしていくための姿勢という中での話です。嘘をなくす姿勢総論で、その中細かい各論的話^^。
その上で、「ついても問題ない嘘」という行動法の知恵とノウハウ出てくると思います。ただし些細で軽微なものになるでしょう。たとえば面倒な勧誘の電話があった時、思いっきり暇な時でも「今仕事中なので」と言うように^^;

で書いて頂いた2年間休学となると、嘘はマズイのでは・・と思います^^;
表現を工夫することはできると思います。「精神的な問題で体調を崩しなかなか復帰できなかった」とか。
こうした場合どのような対応が良いのかは、ちょっと僕の引き出しの中にはなく申し訳ないのですが、むしろ大学の就職課とかに相談した方が、似たような境遇の生徒さんも結構いるでしょうし、結構常套的なやり方が分かってきているかも知れませんね。とりあえずまず情報として得ておくと良いのではと^^。

いずれにせよ、まずは休学の件関係なしに、今これからとして向かうことのできる就職への姿勢というものを見出し、次にそれでさらに休学の件をどうカバーするかという構え向かうのが良いと思います。
先に書いていただいた質問の方が、今これからとして向かうことのできる就職への姿勢というものに関係すると思いますので、またちょっと後で^^。


 
「業務外の人間関係不安」の克服^^ / しまの
No.961 2014/09/09(Tue) 14:20:46

では引き続き前の方の話について^^。

アドバイスとしては2つのテーマになりますね。
・就職はマイナス材料ではなくプラス材料で検討する
・「業務外の人間関係不安」は「健康形」を基準に克服に取り組む



就職はマイナス材料ではなくプラス材料で検討する

就職は、「苦手なこと」などマイナス材料ではなく、「得意なこと」資格などプラス材料で検討するのが、まずは良いというか答えが出る検討法です。マイナス材料で考えても、方向が見えようがない。
また、そうすることで自ずと、マイナス材料直面する必要のない範囲というのも、最初の答えが出てきます。

たとえば、
>高学歴なのに、トラックドライバーになったり、会話の少なくて良いライン作業を仕事とする人が増えているといった記事も見ました。
というであれば、
車の運転に自信がある、給料が目標に合っている、といったプラス材料からそうするのであれば大いに結構。一方その人人との会話が苦手というマイナス材料について、当然、営業の仕事よりは大分支障が少ないですね。
つまり、プラス材料で検討することによって、それが同時に、マイナス材料の可能な回避の答えにも、大抵なるということです。
そうした検討手順を踏まず、ただマイナス材料への怖れから考えても、方向性と答えが出ようもない、という
これはよろしいでしょうか。とにかく自分プラス材料把握することからですね。

今回マイナス材料「業務外の人間関係、飲み会が苦手」といったことについても、まずはプラス材料で就職を考えれば、自ずと避けられる、というか強くは求められない程度という答え多少出ると思います。
たとえば休日にレジャーに誘われるのが嫌というマイナス材料がある人が、プラス材料から考えていって、それがどこよりも求められてくるであろう職場、たとえばダイビングショップという話になることは、あまり考えられない会話が苦手な人プラス材料で考えれば、その結果は、何よりも会話能力が重要になる職種には、多分ならないですね。
この理屈はよろしいですかな。まあとにかく自分プラス材料あげて考えてみることですね。


「業務外の人間関係不安」は健康形を基準に克服検討

その上で、「業務外の人間関係、飲み会」といったものがない職場というのは、基本はないと思います^^; どこでもそうしたのはある考えて臨むのが正解
それは就職考える上で、材料になるものではない、ということですね。

ではどうするかについては一言で、
「業務外の人間関係不安」「健康形」「成長形」を基準に克服に取り組む
というアドバイスを言えます。

つまりまず、業務外で飲み会や休日イベントに誘われた時の対処に、「行くべきor断って良い」などの一律の答えなどなく、これはもう仕事場の行動法の問題というより、個々人の人生全体における人との交友行動全般における心の健康と成長問題だと言えます。

ハイブリッド心理学からの指針は、
・親睦交友行動の「健康形」「成長形」についての理解納得を足場に、「外面行動は建設的に、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」の姿勢および実践で臨む
というものになります。

親睦交友行動「健康形」「成長形」とは、まずは
・相手との無用な衝突をすることなく、自分をより豊かにするものという基準において、特定の交友行動を行う行わないの判断対処を、自分自身でできる
といったものになりますね。
興味があれば参加する、なければ無理には参加しない。飲み会職場の忘年会新年会や歓送迎会など業務に近い性質もあり所用なければ参加など、常識的な範囲まず参加するとして、あとは好きにすれば良し
そうした柔軟性があるものを「健康形」として、体験を通して自分なりの行動を動揺なくできることへと向かっていくのが「成長形」だと言えます。

それに向かうための取り組み実践とは、

1)上記「健康形」「成長形」への理解納得を問う
これがまず足場固めになります。理解納得ができなければ、ではどう理解納得できないか取り組む必要があります。そんなこと絵空事、なぜなら・・というように自分の考えを明瞭化する。明瞭化できれば、その不合理病み分析取り組みできるかも知れない。

次に、理解納得が持てればとして、
2)具体的場面における自分の行動選択検討
うまく判断できず、流されて参加する羽目になるのも、まずは良しとするのがいいですね。重要なのは、参加したくない時どう断るかよりも、参加しないとして何をしたいかを自分に問うことです。それがあれば断る方法も見えてくるし、なければ流されてしまうのも多少自分に許す

3)具体的場面における内面の妨げ感情の分析
自分は何をどう怖れ惑っているのか。
これは結局
>そうすると、次会うときからは「この人は私とは話したくないのだ、私と一緒にいるのは 苦痛なのだ」という目で見られているという感覚がつきまとい、苦しくなります。
といった話になるでしょうが、上記2)まで行くことで、そうした怖れへの視線変化が起きるということです。それはその不安自体が杞憂であり不要と感じることになるかも知れないし、そうした空想と怖れは消えない、ただ自分の外面行動としては健康なものをできた、という足場によって、「ただ流す」ことが可能になる、といったものになるかも知れない。
いずれにせよ、そうした具体的体験の中での模索積み重ねることで、「自分なり」が見えてくるし、怖れ惑い次第に減少していきます。模索する体験を経ることなく、あらかじめ怖れ惑いがなくなる考え方などを求めると、答えは出ないと思います。

以上、今回のご相談内容への、ざっとアプローチ手順になりますです。検討してみて頂ければ^^。


 
Re: / こたろう
No.968 2014/09/11(Thu) 17:58:52

これは空想ですか?
共有内容が楽しめるのに、その人と行動をしないという事が相手にわかれば、その人といることそのものが嫌なのだと相手は受けとりますよね?



これは健康な人だと、一緒に行動するほどの
仲にはお互いになりたくないんだなという
納得のもと、絶妙な距離に落ち着くという
感覚なんですかね?



自分が嫌われるのが怖いという強度で、
相手も嫌われるのが怖いのだという感覚になってしまうから、必要以上に相手を傷つける事を恐れているのでしょうか?


相手を傷つけたり、不快に感じさせてしまうことに恐怖があるんです。


 
Re: / こたろう
No.973 2014/09/19(Fri) 22:46:09

アルバイトをはじめるにあたって、もう一つ大きな壁となっているのが、
「自分という欠陥商品を、外装だけある程度の見栄えに仕立て上げて、
相手に売りつけようとしている」という感覚です。


何かに参加するというときに
「その場所は自分がもしもいなかったらもっと良い時間、結果になっていたに違いない」
という思考になってしまう。


この人の人生にわずかでも自分が登場することはデメリットだ。


乱暴な言い方をすれば、自分よりも低俗な人間ばかりがいる場所ならば、
自分が入る事はメリットになるので、入っても良いと思える。



これが「望む資格」と考えていいのでしょうか?
人に許可されれば、望んでも良い。確かに、こういう姿勢自体に
精神的優越感を感じる感覚があります。



これが高じて、自分はこの世界の向上を考えるならば
居ないほうが良いとかいう思考に帰結する。


例えば面接であれば、
自分の欠点を全て赤裸々に話して、それでも雇っていただけるのならば
雇ってください、といいたい衝動にかられます。


そうじゃないのならば相手を騙していて、詐欺をしている。という
感覚。


多くのバイトの募集では「明るい人募集」とか「人と接するのが好きな人」とか
書いてあります。




内面感情を問わず、したたかに生きる、という姿勢が克服には
必須なのですが、
これは「嘘」にはならないのでしょうか?


 
「一緒にいたいと感じない」のがベースの交友行動法^^ / しまの
No.975 2014/09/24(Wed) 11:07:05

またちょっと遅くなりました^^ゞ

「一緒にいたいと感じない」のが基本

まず9/11に入れて頂いたもの。
>共有内容が楽しめるのに、その人と行動をしないという事が相手にわかれば、その人といることそのものが嫌なのだと相手は受けとりますよね?

「健康な成人」場合
・共有できるものが楽しめるのにそうしないのは、相手は自分と一緒にいるのが嫌なのだと傷つく。
ではなく、
・大抵の人はすでに「一緒にいる相手」が多少ともできて(あるいは一人でいるのが好きなどの個性ができて)おり、新たに出会う相手とことさら一緒にいたいとは感じないのが基本であり、それを心得てもいる。従って互いが相手に関心を持たないことに、特に傷つきもしない。
というものになると思います。
まずはこれが想定できるかですね。

あとはそれをベースとして、もし新たに仲間になりたい相手が出たら、自分から積極的にその気持ちを表明し誘う行動をする。それでうまく行けばいいし、趣味嗜好や性格の不一致でうまく行かなければ仕方のないこと。
それで別に「傷つく」必要もないですね。
「傷つく」というのは、自分が労せずして誰にでも愛され評価されるはずといった、不合理な自己愛根底にある場合、という心理メカニズムが考えられますので、「傷つけてしまう」「傷つけられる」といった話の全体が、心の健康と成長とは別方向の中である、という理解大切です。
つまりそうした感覚は、ただ内面で流し、行動判断の材料にはしない、という指針になります。


「見える」かのように感じる他人の内面は「外化」「投影」

また
>これは空想ですか?
については一般に、

・「見える」かのように他人の内面の気持ちを感じるのは、基本的に自分の内面が映し出された「外化」「投影」のメカニズム。
です。
これは心を病む傾向深刻さに応じて、その強さも激しくなってしまいますので要注意ですね。
・「見える」かのように感じる他人の内面はあくまで自分の内面を映したものと心得、「行動」はあくまで実際に相手が行う言動の客観的内容に対して行う。
というのが重要になります。

「実践」としては、
1)上述のような「健康形」の理解
2)それを基準に、自分の中に流れる感情の分析理解。健康で合理的な感情(行動の材料にできる)と、病んで不合理な感情(行動の材料にできない)の区別。
3)最終的な行動判断

という3ステップじっくり取り組むものになりますね。

まあ最終的には「何もしない」というので問題ないと思います^^。1)と2)の段階での理解重要になりますね。
検討頂ければ^^。
9/19に入れて頂いた方についてはまた後日^^。


 
「望む資格思考」vs「原理原則思考」^^ / しまの
No.981 2014/09/28(Sun) 15:29:47

では9/19に入れて頂いた方^^。

「望む資格思考」というのは、「望む」という感情そのもの「資格条件」を設け、それに満たないのであれば「望む」という感情そのものを押し潰し抹殺しようとする観念衝動、と定義できますね。例えば「美男美女だけが恋する資格がある」とか。ひでえ話だ^^;
一方、

>この人の人生にわずかでも自分が登場することはデメリットだ。乱暴な言い方をすれば、自分よりも低俗な人間ばかりがいる場所ならば、自分が入る事はメリットになるので、入っても良いと思える。

というのは「場面に加わる」という外面行動のことをまずは言っていますので、厳密にはぴったり「望む資格思考」の例というものではないですね。
でもまあその内側には、十分「望む資格思考」一緒に貼りついて(^^;)いると思います。

ハイブリッド心理学からは
・原理原則思考
がその対案思考として検討するものになります。

そこで言う「場面に加わる条件」とは、具体的にはどのような内容のものか。それが社会行動全般、そして個々の場面状況における「原理原則」として妥当かどうかの検討を行います。
ですので、まずはどんな尺度として、欠陥うんうん低俗うんぬんという思考になるのかの、具体的内容明瞭化をした上で、原理原則思考との対比検討などがお勧めになります。

>多くのバイトの募集では「明るい人募集」とか「人と接するのが好きな人」とか書いてあります。
>内面感情を問わず、したたかに生きる、という姿勢が克服には 必須なのですが、これは「嘘」にはならないのでしょうか?

例えば居酒屋のバイトでは「明るい人」「人と接するのが好きな人」と出るでしょうし、実際それが必要な仕事でもあると思います。ですので、実際は自分はそうでないと感じている場合、「嘘」になるからどうこうという話よりも、実際やってみてもたない可能性がありますので、別の条件のバイト探しておいた方が賢明、というにはなると思います。「手先が器用な人」とか「パソコンができる人」とか。
いずれにせよ「嘘」基本的に無用なものですね^^。

追加質問ありましたら、そろそろ長くなったので新規トピックで入れて頂ければ^^。


 
Re: / こたろう
No.984 2014/09/29(Mon) 12:22:47

ありがとうございます。
具体的場面状況の問題よりも、もっと根本的な価値観かな、と
思いました。


世の中にとって、全体にとって、という
思考が先立つ場合と、
自分にとって、が先立つ場合があると
思うのですが、全体にとって、と考えてるときに
腹の真ん中に「ないがしろにされた!」と
怒りを露にする女の子のようなイメージを
感じました。

人はどう思うのかor自分はどう思うのか、
という対比で、自己の重心が語られる事が多いと思うのですが、僕が分岐としてよく感じるのは
全体の幸福なのか、自己の幸福なのか、
という、より下の層の対比状況だという
気がしました。


というのは、例えば、望みの状況を
考えたときに、おそらく自己の幸福を考える
価値観がベースなら「この人たちと一緒にいたいけど、嫌われたら怖い」という発想になると
思うのですが、僕の場合は
「この状況にとって自分は有用かそれともいない方がいいのか」という思考が第一にきます。

ハイブリッド心理学は、なによりもまず自己の幸福を、
という価値観がベースにありますね。というか一貫してそれを目的にした言葉しか並んでいないので、それに図々しさを感じている自分に気がつきました。


全体の幸福を、と考えると愛のない人間は消えた方がいいという発想になっても不思議ではありません。


で、実際にそれを先に考えた場合に、
この腹の真ん中にないがしろにされたと怒る少女の
ような存在を感じます。


例えば、就活でグループディスカッションが
ありますが、グループに誰がいるか、という事が
その人の合否に直結することが充分ありえます。
自分がエントリーしたせいで、同じグループになった人が落とされたら、それは人の人生を潰してしまった事になる、という恐怖。
こういう様に、他人に迷惑をかけないために、自分の欲求を
潰す、というパターンです。


団体競技は、自分が失敗したことが
人の人生の一部分を壊してしまうという
恐怖感。

なによりもまず他人に迷惑をかけないことがスタートという思考の起点。

他人に報復を受けないように、自分が
やっかいごとに巻き込まれないように、という目的で
迷惑をかけない方法を考えるのではなく、
幸福な人間になることも、それによって
人に迷惑をかけない存在になれるから、といった
感覚。

ある意味、入らない、関わらないことが
最大限できる価値の産み出し、みたいな。


合理思考だと、
人に迷惑をかけるのは当たり前、
自分の幸福を第一に考えた先に、
他人に向けられる愛が手に入る、
それから産み出される価値が真に他人に幸福を与えられる、、、といった感じでしょうか。

しかしこれもまた自分よりも全体を第一に考えている思考で、ハイブリッドとは馴染まない気もします。


 
行動法と価値観^^ / しまの
No.987 2014/10/05(Sun) 18:31:49

一応念のため、

>ハイブリッド心理学は、なによりもまず自己の幸福を、という価値観がベースにありますね。というか一貫してそれを目的にした言葉しか並んでいないので、それに図々しさを感じている自分に気がつきました。
>全体の幸福を、と考えると愛のない人間は消えた方がいいという発想になっても不思議ではありません。

自己の幸福どんな行動法と価値観によって築き支えるかに取り組みます。
「愛」「分かり合い」ではなく「喜びと楽しみの共有」「自尊心」「打ち負かし」ではなく「現実において生み出すこと」で。
心底からそれに立った時こんな人間は消えた方がといった観念なくなる、という流れになります^^。

追加質問などありましたら新規で入れて頂ければ^^。


基本から再確認した結果 /
No.970 2014/09/12(Fri) 15:38:07

お久しぶりです。

先生の書籍原稿について、3〜5巻は比較的よく目を通してたのですが、1巻、2巻は基本的なものだろうと考え、数回ざっと流し読みしたままになっていたのを思い出し、最近また読み返しました。改めて読んだとき、自分の幸福のために、という前提がかなり自分自身の中で希薄になっていたことを確認しました。
仕事にストレスを感じての暴飲暴食がやめられないことを問題として挙げてましたが、「油が回って値引きされた惣菜をつまみに安酒を飲むのが自分にとっての幸福なのだろうか?」という感じで、自分のやってることに対する問いかけが浮かんだり、酒無しでそういう惣菜を食べてみると非常に不味かったり、知り合いの美容師さんから髪に対する睡眠の重要性を聞いた時、酒で寝るのは寝たうちに入らないことを聞いたりと、従来とは違った物の見方が増えてきた感があります。自然と酒を飲む頻度は多少なりとも減ってきましたし、酒を飲んで寝て起きた後の心地の悪さというのはやはり実感せざるを得ない。こういうのを実感しながら自然と減っていくのが、自然な感じなのかもなあ、とは思います。

或いは、次第と、知らず知らずのうちにハイブリッドを善悪の基準にしようとしている自分が見えてきました。自分もまだ全然出来ていないにもかかわらず、あからさまにハイブリッドとは正反対の生き方をしている人を見て「ああいうのは駄目だから関わってはいけない」と。「建設的でないものを周囲から全て無くしてしまわないと自分が建設的になれない。建設的になろうとするのを邪魔されてしまう」という感じでしょうか。
また、「死」についての、自分にとっての嘘偽りない感覚では、健康型の残された時間の認識でも、それとは反対の見せつけ復讐型でもない、生きる中で背負わされるあらゆるしがらみからの解放とか、永遠の休息とか、そういう、いわゆるご褒美のようなものだと感じているようだというのを自覚出来るようになってきました。以前生じたことのある自分の自殺願望は、早く人生を終わらせて永遠に休みたい、というものから来るのかな、というのも見えてきました。
まずは実際に自分が嘘偽りなく考えていることや感じていることを認識することが重要なようなので、このようなものが出てきたのは前進・・・とまではいかないにせよ、妨げが明らかになっているということなのかもしれません。

「不完全性の受容」については、まず、前回ご報告した、相手を説得するのに成功した内容を元に「不完全な人、物について、それを計算に入れた行動が取れるようになることが必要」という閃きはありましたが、「自分のためとは言え、周囲の尻拭いをする羽目になりかねないのがなあ…」という抵抗感は拭いきれず、現実で何か関連する問題が生じた時にまた向き合うことになるだろう、ということで考えを止めてます。

ここのログもかなり参考になっているのを感じています。たとえば。

>「組織の規則」「参加の条件」は、ただ単に所属のための条件やルール。そうでなければ、その組織や集団からは抜ける必要があるが、その先にどう生きるかは自由。
>「存在の規律」は、そうした自由さえも認めないものです。

このあたりを読んでる時に「もしかすると、自分の「人と接するとトラブルが増えるばかりだから一人で生きた方がいい」というスタンスは、かえって逆効果なんだろうか?」という閃きがありました。
開かれた世界を生きる人ほど、「一人で生きたい」という人にも寛容であり、「あの人は一人で過ごすのが好きみたいだから、こっちからはそっとしておこう」という感じで居てくれるようですが、閉ざされた世界で生きる人は逆に「そんな生き方は駄目だ!そういう嗜好は間違っている!そういうさびしい生き方はしてはいけない!」と、向こうから勝手に干渉してくるものなのかもしれない、と。従来のやり方は、単に開かれた世界を生きる人を遠ざけ、トラブルの素ばかりを引き寄せてるだけなのかもしれない、と。
まあ、だからと言っていきなりむやみに人の輪の中に入る、というのもどうかと思うので、興味のあるものがあれば入っていく…入るのが怖ければその怖いという感情を認める。興味がなければ無難な対応を続ける、という感じでいこうかとは思います。

望みに関しても、おぼろげに見えてきている気はします。
去年、法律系の資格取得に関して再び目を向けつつも、やはりやめておこうと考えた時期がありましたが、その「やはりやめておこう」が、周囲の人の言葉を自分にとって都合の悪いように無意識に汲み取って自分の望みを抑圧するようなものだったようにも思えます。従来の「人生の望みってどうやって見つけりゃいいんだよ!」という状態は、最初から成熟した望みが出てくるよう、未熟な望みに蓋をしたかのような感じだったように思えます。
動機はいろいろと褒められたモンではないので微妙なところはありますが、それも「望み」であることには変わりなかったな、と。ならば、それに向けて真剣に、出来る限りのことをやっていく方がいいだろうと思いました。今の職場では、いろいろと問題や不満が多いとはいえ、バイトとしては割と月収はある方ですし、仕事をしながら資格取得を目指してる人はそれこそ山のように居るご時世ですし。

いろんな気付きが最近いろんな場所で得られ、むしろ何から手を付けようかと戸惑ってる自分もいますが、必要な場面に出くわしたら、改めてしっかり向き合おうと思います。


 
取り組みテーマ項目ごとの確認解きほぐし^^ / しまの
No.977 2014/09/28(Sun) 11:47:05

とりあえず気づいた点など^^。


>或いは、次第と、知らず知らずのうちにハイブリッドを善悪の基準にしようとしている自分が見えてきました。

善悪道徳思考から卒業することから始まるのがハイブリッド心理学ですね^^。


>開かれた世界を生きる人ほど、「一人で生きたい」という人にも寛容であり、「あの人は一人で過ごすのが好きみたいだから、こっちからはそっとしておこう」という感じで居てくれるようですが、閉ざされた世界で生きる人は逆に「そんな生き方は駄目だ!そういう嗜好は間違っている!そういうさびしい生き方はしてはいけない!」と、向こうから勝手に干渉してくるものなのかもしれない、と。

この辺は、まず「自己起点」にて、自分では何をどう考え感じているのか明瞭化取り組みになりますね。「自己の重心」です。
「言葉」による実践の推進
よってですね。
まずそれは何のテーマなのか。実際に他人に何かを言われたことへの対処行動法か。それとも、「生き方自己像」をめぐる、人からの軽蔑の感覚問題なのか。
それぞれについて、ハイブリッド心理学からは指針出てきます。それについて、自身の考えを明瞭化させることが「実践」になります。まこの辺文面にはあまり出てないだけで実際やっておられるかもとして^^。


>「不完全性の受容」については、・・(略)・・「自分のためとは言え、周囲の尻拭いをする羽目になりかねないのがなあ…」という抵抗感は拭いきれず、現実で何か関連する問題が生じた時にまた向き合うことになるだろう、ということで考えを止めてます。

具体的行動法テーマになると思います^^。以前指摘しましたが、「不完全性の受容」「不完全さをもって害とはしない」ことであって、「実際にある害を放置する」ことではありません。周囲の尻拭いなどまっぴらなことをする羽目にならぬよう、「行動学」をどう役立てるか。これは具体的内容に応じ具体的アドバイス可能ですので^^。

「不完全性の受容」「否定価値の放棄」生み出す心理結果という位置づけになります。とりあえず「不完全性の受容」は、
「学び」の主要テーマ
にも書いていないように、それ自体が何か取り組みの中で意識する学びとしては位置づけていません。

まず「学び」テーマ項目レベルで、自分の考えを明瞭化する「実践」を進めていく。全てが揃った頃に、「否定価値の放棄」問える、という道筋になります。これは
2つの目標への歩み
など参照^^。
「学び」項目レベルで、自分の考えを明瞭化する。そこで自分はハイブリッド心理学の方向性とはどのように逆を取っているか、と自覚することことが前進につながる、
「パラドックス前進」
です。もし自分には自分の考えなどなく、他人依存なのだ、と自覚するなら、それも極めて前進になると思いますので^^。

「望み」については、まずは「必要なもの」の中からより良いものを選択するもの、という方向感で良いと思います。
「望み」の前に、上述のような取り組みテーマ項目ごとの確認解きほぐしが、まずはお勧め実践内容になりますね。解きほぐしが進むほど、「魂の望み」というさらに一段階深いものへの目線が、自然と生まれてくると思います^^。


 
Re: 取り組みテーマ項目ごとの確認解きほぐし^^ /
No.985 2014/09/29(Mon) 15:11:43

レスありがとうございます。

>まずそれは何のテーマの話なのか。
確かにこの辺を書き込んでおりませんでした^^;
面倒事を避けるために基本単独行動を好むわけですが、何故か知らないけど、喜び楽しみを共有できそうにないかまってちゃんばかりがやたらと寄ってくるのが鼻につく、という話でした。まあ、問題といえるほどのものでもありませんが、めんどくさいのは確かです^^;
それに関して、一人でいるから、かえって「一人でいるのはさびしいことなのだ」と言わんばかりに、閉ざされた世界のかまってちゃんばかりを引き寄せているのかもな、と考えた次第です。

「不完全性の受容」への取り組みミスのご指摘、望みへのアドバイスありがとうございます。参考にさせていただきます。

また、ほかの方へのアドバイスを見てて自分の日常生活に対するものの見方にズレがあるのを確認。
「まずはごく平凡な日常生活の中で見出す向上と楽しみにこそ、そのための材料があると言えます。炊事洗濯、料理、お洒落、美容、健康、防犯、などなど。」について。ん?楽しみ?という感じで目が留まったのですが、考えてみれば自分自身、そういうものに関して「やらなきゃ生活が続かない面倒くさいもの」という感覚しかありませんでした。
少なくとも「楽しむ」という感覚が起きるのは想定外で、みんなめんどくさがりながらやってるんだろうな、という意識しかありませんでした。
ちょっと何か工夫が必要かもしれないと思ったので、何か考えてみます。


行動法について / ぱん
No.962 2014/09/09(Tue) 19:45:27

 日頃、仕事で大勢の前で発言するような業務ではないことと、これまでもあまりおしゃべりなタイプではなく、じっくりと自分で考えることの方が好きでした。
 今回、挑戦したいと思っている職業があり、大勢の前で講義が伴う内容があるため、自分には勤まらないかなと躊躇もしています。
 不慣れな時期が、続いてしまうのも、困ってしまうのでと感じています。緊張することなく、話が出来るためにすることなど。
 その仕事ためなら、慣れるまで、緊張を緩和させる薬でも処方してもらうのもひとつの方法になるのかなとの考えも浮かんだしだいであります。

 ご意見、お願いします。


 
「人前で喋る自信」のつけ方ノウハウ^^ / しまの
No.965 2014/09/10(Wed) 17:57:22

「人前で喋る自信」つけ方としては、

1)まず「喋る内容」への自信を築く
何を話すか、何を伝えたいか内容とにかくじっくり練る話すこと内容価値があれば、多少しどろもどろの緊張(^^;)があったとしても、聞く側では関心してくれます。
テーマポイントといった、メリハリの利いた話の構成ポイント「3つ」というのが少なすぎず多すぎずお勧めですね^^。

2)次に「喋る自分」への自信を築く
これはまずは、必要に応じリハーサル練習をするといったものです。資料を使うなら、まずこれについてこれを話し、次に・・というように頭の中たどり、しっくり来るかの確認とか、挨拶スピーチであれば実際に声を出してリハーサルしてみるとか。言いにくく舌をかみそうな語句がないかのチェック。あればスムーズに口が回るまで徹底反復練習など。
僕の例など出しますと、3年前母の告別式後の法要では僕が献杯の音頭を発したのですが、そのわずか10秒程度(?)の挨拶のために2日間何度も練習して臨んだなんてのがありました^^ゞ

まずはこの2つを、順番をしっかり押さえてというのが、「人前で喋る自信」つけ方ノウハウアドバイスになりますね。
緊張をまぎらす薬とかのに、ぜひ検討してみて頂くと良いかと^^。


 
Re: 行動法について / ぱん
No.966 2014/09/10(Wed) 18:48:38

 ご意見、ありがとうございました。

  周囲に気に取られるのではなく、自分の話を伝えることに専念する。
 饒舌の方と、比べない。

  話のポイントを押さえていれば、長くしなくても良いと感じています。

  島野さんの10秒程度の練習で、2日間何度も練習と。練習の成果は、あったのだろ うと感じます。

  まずは、自分を鍛えるためにも、進歩するよう練習してみようと思います。


 
Re: 仕事について / ぱん
No.971 2014/09/16(Tue) 18:46:20

 再び、仕事について考えています。

 慣れない仕事に挑戦するもの、自分を成長させるには、新たな苦しみ以上の喜びも得られると考えます。
 また、難儀な仕事は選ばず、現状で少しずつの成長をしていくという方法もあります。

 慣れない仕事に挑戦するには、準備もした上で、緊張を緩和させる内服の方法も取り入れた法が、より挑戦できるとも感じると、どちらの仕事が良いのかを考えると、勇気が要ります。


 
職場の同僚 / ぱん
No.972 2014/09/17(Wed) 19:01:50

 仕事中、同僚のうわさを話して笑いあっている方を目にすることがあります。そのような時、聞いているだけで、同じ職場でこのような方がいると思うと良いとは思えません。
 また、どの職場でもこのような方は、いると思われます。このことから、何を学び、どう解釈するかで自分の考えが決まると思います。また、うわさの内容も、その方から見た意見であり、その方の考え方が良くないために、そのような話の流れになっていることも考えられます。
 島野さんの場合は、どのような解釈をされますか。


 
Re: 職場の同僚 / しまの
No.980 2014/09/28(Sun) 14:45:38

仕事の選択はもちろん、少しずつジャンプアップ、ということでいいと思います^^。

仕事場でのうわさ話については、まず「客観的な害」「仕事への客観的な支障」それによって出るものかどうかの判断というのを、まず行うというのがアドバイスになります^^。
うわさ話限らず人の言動が良からぬと感じた場合対処法一般的な指針として、まず最初にそれを考える

まあ「仕事への客観的な支障」がある場合というのは、たとえば「誰々と一緒に仕事をするとヒドい目に遭う」といった噂話この場合は、どんなヒドい目に遭うという話なのか、その真偽を確かめ、必要な対処を講じるのが望ましいものになります。
一方「仕事への客観的な支障」がない場合というのは、誰と誰がつきあっているとか別れたとかの類ですね。仕事には直接関係ない、どーでもいい^^; こうしたのは、まず対処する必要もなく、まずは聞き流すので良かろう、となります。

まずは基本的な指針としてはそんな感じになると思います^^。


 
Re: 行動法について / ぱん
No.983 2014/09/28(Sun) 18:02:23

 コメントありがとうございました。
 今後、個々の言動を観察して見ようと思います。


嘘つきに対して / かのん
No.978 2014/09/28(Sun) 14:24:04

正直に言っても何の実害もないと思うのに、保身のために?うそをつく人がいます。
そのため実際は物事がどうだったのか、わからなくなって混乱します。怒りを覚えます。
本当は、あなたがしたのではないか?そう出来たってことは、あなたは本当はもうそうすることができるほど回復していますね。と思うけど、とっちめることはしません。立場上出来ないわけです。
これまでも何度もそうでした。自分が知っている。自分がした。と、それを言わないのです。嘘つきだなと思っています。それで腹が立ちます。怒っちゃだめですか?


 
「行動学」^^ / しまの
No.982 2014/09/28(Sun) 16:04:09

怒っちゃダメダメ〜というより(^^;)、「怒り」自分の身体に有害な感情ですので、自分が損しますね。これは『入門編上巻』冒頭で述べ、まさにハイブリッド心理学その学びから始まると言えるものです。

そのためハイブリッド心理学では、「怒りに頼らない行動法」として「行動学」展開しています。
ごく簡略以下など参照
『概説 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ / 3.行動学』
ブログ記事2010.05.18 3つの「行動学」

内容は、具体的場面状況の内容いかんになります。差しさわりない範囲で書いて頂ければ、具体的アドバイス可能ですので^^。


対人関係 / リュクス
No.960 2014/09/06(Sat) 14:37:23

私は対人関係が長続きしません。自分で考えつく、あるいは人から言われた原因は、
1 小さいころから今までクラスなどで浮く存在、水をかけられたり、物を隠される軽度の嫌がらせあり(利己的な言動をしているから)でトラウマ化し  信用できない
2 距離の取り方が下手で自らの意思で孤立していくか、少数人に依存傾向になるか
3 自分ですら感情の振り幅に疲れる
4 言い方、伝え方が下手。変な所で馬鹿正直で生真面目
5 感情を顔や言葉に出しすぎる  すぐ泣く
6 ストレス耐性が低く、発散も苦手
7 相手の興味に関係なく延々しゃべってしまう、意見を押し付ける
8 場の空気や感情を読むのが苦手
9 無駄に高いプライド(友人でもかわいそうと思われていることに気づくと関係を切ってしまう)
10 上記のことを改善しようとし、途中で嫌になり放り投げる

今はすべてが面倒になり、極力関わりをさけています。これで良い気楽だと思う反面、寂しさがあります。友と思ってくれる人を寂しさを埋める都合のいい人として、最終的にお互いが傷つくよりはと思います。私はどこで折り合いをつければいいのでしょうか。


 
まず「自分自身において楽しみと喜び」から^^ / しまの
No.964 2014/09/10(Wed) 11:40:14

これは一言で、ずばり
・人との関係以前に、自分自身において嘘のない、純粋な「楽しみと喜び」を見出す。次にそれを共有することにおいて、人との関係のための行動に向かう
という姿勢指針になりますね。
純粋な「喜びと楽しみ」として、人と共有できるものがない場合は、「何もしない」です。
人それぞれが別個の人間であり、共有できない面も持つことを、受け入れることが重要です。

「友達ならこうするよネ」といった、間柄の約束同盟的な行動の仕方が、それとは対極の、お勧めではない、心の健康と人との関係を妨げるものになります。

参考になる相談事例など紹介したいところですがまだちょっと整理できておらず(今後『メール相談事例集』など整理予定)ちょっと不便かと思いますが、まず上記指針理解納得できるか検討頂き、「こんな場面はどうすれば?」といった具体的材料などあれば書いて頂くと、より詳しい具体的アドバイス可能かと思います^^。


 
RE:まず「自分自身において楽しみと喜び」から / リュクス
No.969 2014/09/11(Thu) 23:49:52

さっそくのご返答ありがとうございます。
 対人関係が続くうちに数人しかいない友達にすがりつくようになり、依存または甘えすぎてワガママをいって喧嘩になりなんどかやっているうちに関係修復できなくなり友がいなくなるというサイクルを延々続けていることに気付きました。
 また大学に入り、中・高校のクラスメイト(顔見知り程度の関係)が列車事故と自殺で亡くなりました。これらのショックに加え夏休みを終えて後期に入り友達が以前のようにまたいなくなってしまうという怯えにとりつかれ対人恐怖・常に悪口を言われているという被害妄想意識から抜けられぬまま大学を卒業しました。毎日が地獄で自殺衝動もありました、就職はいまだに出来ていません。卒業後の現在はひきこもり状態で外出すら怖くなっていますが自殺願望は薄れました。


まずは対人恐怖・悪口の被害妄想から抜け出る方法が知りたいです。次に自分自身において嘘のない、純粋な「楽しみと喜び」を見出していきたいです。参考になる資料があればお教えいただきたいです。



 


 
「対人恐怖」「悪口妄想」の克服^^ / しまの
No.976 2014/09/27(Sat) 13:48:49

たいへん遅くなりましたが、「対人恐怖」「悪口妄想」克服について理解しておきたいこと一通り書いてみましたので参考頂ければ^^。


「対人恐怖」「悪口妄想」の克服のための「実践」

ハイブリッド心理学が考える「対人恐怖」「悪口の被害妄想」克服は、まずはのような3ステップ「実践」積み重ねによる、というものになります。

1)心の健康と成長に向いた建設的な対人行動法の理解
建設的であることによって、
 ・人を恐れる必要のない行動法
 ・人に悪口を言われることのない行動法

であることに安心を持てるような行動法を、まず理解することが最初になります。
で言った、「純粋な楽しみと喜びの共有として行動する」といったものが、それになります。

2)自分の内面感情の理解(自己分析)
に対して何かの行動へと駆り立てる自分の内面感情が、上述建設的行動法から見て、
 a)建設的行動法に沿ったものであり、行動に移して良い感情 (ex.これこれを一緒に楽しみたい)
 b)建設的行動法に沿わず、行動に移すべきでない感情 (ex.自分を誘わなかったことを非難し理由を問い正したい)
どっちか検討する。
同時に、自分が感じているもの何をどのよう「怒り」「怖れ」「望んで」いるのかなど、自分の感情解きほぐす、ということもここで行います。

3)問題場面での自分の行動の最終判断
自分の感情解きほぐしを経て、最終的には「自分は本当に何を望んでいるのか」問い、それが「生み出す」ことにつながるのであれば、そのための建設的行動法最終判断して実行する、というものになります。
「生み出す」ものでなければ「何もしない」「感情をただ流す」答えになります。


対人恐怖・悪口妄想はどのように消えていくのか

のような「実践」によって、対人恐怖・悪口妄想どのように消えていくのかについて言うと、まず重要なのは、
・「建設的行動法」が分かれば、さらにはできれば、対人恐怖・悪口妄想が消える、という安易短絡的なものではない。
ということです。

そうではなく、
・自分が心の健康と豊かさ、そして本当の強さに向かっているという実感が心の中で形作られ、建設的行動法がそれを生み出しているという心底からの確信ができるに至り、それでも湧き起こる対人恐怖・悪口妄想を「心の中でただ流す」によって、流した分だけ、もはや二度と起きないものへと心の根底から消え去っていく。
というものになります。

従って、それに向かうためには、建設的行動法そのものの理解並んで、さらには増して心の幸福と豊かさ、そして本当の強さとは何か建設的行動法がそれにどうつながっていくのか、といった理解重要になってきます。


「取り組み実践」

そのため、ハイブリッド心理学活用を行う「取り組み実践」は、次の二頭立てで行うものになります。

1)目の前の日常生活および人生の場面への上記「実践」の取り組み。
2)人生を通して心の健康と豊かさに向かうとはどういうことかについての学びと取り組み。


この2つ相互依存関係にある取り組みだと言えます。
後者長い目があってこそ、目の前の場面感情に流された短視眼的な行動で道をそれず、成長に向いた行動をより確かなものとして行うことができます。
また、成長長い道のり別の人間のように変化していくというのは、頭で分かるようなものではなく、「実践」実際多少とも積み重ねる体験によって、「こういうことか!」と分かるようになります。これがさらに目の前の場面での行動成長に向いたものへと、確信の下で導くようにもなるでしょう。


学びの資料

ですので、
>参考になる資料があればお教えいただきたいです。
についても、

1)自身の悩みテーマにおける建設的行動法の具体的な学び
2)心の成長の歩み全体についての学び

という二頭立てで考えて頂くと良いと思います。

1)具体的学び
については、今後『メール相談事例集』整理予定で、それができるとこの辺読んでと分かりやすいのですが今はまだで、ちょっとご不便かと思いますがとりあえず、この掲示板「交友行動」とかのキーワードで検索(←クリックすると出ます^^)して頂くと何か参考になるトピックが出てくるかと思います。

2)成長全体の学び
これについてはハイブリッド心理学全て参考図書です^^。やはりまずは『入門編』からですね。


最初のアドバイス^^

ということで、まず全体としては以上のような話になりますという前提で、

>まずは対人恐怖・悪口の被害妄想から抜け出る方法が知りたいです。次に自分自身において嘘のない、純粋な「楽しみと喜び」を見出していきたいです。
について最初の具体的アドバイスとして、

・「自分自身において嘘のない、純粋な楽しみと喜び」を見出すためには、まず何よりも、「一人になれる」「一人で行動できる」「一人で楽しめる」ことが必要。
ということになると思いまず。まず一人で行動でき一人で楽しめる。そこで見出す「向上」「楽しみ」を、人と共有する。そうしたものとして交友行動もあるのが、成長形になります。

・「日常生活の向上」という基盤
まずはごく平凡な日常生活の中で見出す向上楽しみにこそ、そのための材料があると言えます。炊事洗濯、料理、お洒落、美容、健康、防犯、などなど。
そこで「占い」に頼るといった非論理的思考でなく、こまめにネットから情報を仕入れ自分でも試行錯誤し研究するといった知恵とノウハウの姿勢が、なによりも、まず自分で楽しめ、次に人と共有することで交友行動も生き生きすることにつながるものになるでしょう。

・「マイナスを消す」ではなく「プラスを生み出す」
>また大学に入り、中・高校のクラスメイト(顔見知り程度の関係)が列車事故と自殺で亡くなりました。これらのショックに加え夏休みを終えて後期に入り友達が以前のようにまたいなくなってしまうという怯えにとりつかれ対人恐怖・常に悪口を言われているという被害妄想意識から抜けられぬまま大学を卒業・・(略)・・
については、まずはそうしたマイナス出来事があるからどうこうする云々よりも、まずにおいて上述のような「プラスを生み出す」という姿勢と生き方、そして行動法を、見出すかになると思います。
それが確かなものになり、それでも流れるマイナス感情「ただ流す」ことで根底から消えていくという流れになるのは上述の通り。
来歴に躓きと妨げを抱えた場合マイナス感情克服については、『概説』全体説明しているようなものになる、というのがハイブリッド心理学考えです。ここでは手短に説明は不可能な、心の深奥の仕組みによって、ということになりますね。

いずれにせよ対人恐怖感悪口妄想は、「成長」の後で消えていく、という順番理解大切です。
我々弱く未熟な存在であることからスタートし、そうである限り、他人が怖いし、下手な行動をして悪口を招く可能性がある存在です。対人恐怖感悪口妄想は、身体の病気や怪我の際の「痛み」のように、自分に成長すべきものがあることを示すサインでもあります。それが最初から消えればこんな自分を演じられるのに・・といった発想すると、「成長」完全に閉ざされますので注意ですね。
>まずは対人恐怖・悪口の被害妄想から抜け出る方法が知りたいです。次に自分自身において嘘のない、純粋な「楽しみと喜び」を
という「次に」というのは順番が逆だということですね。それらが消えるのは、最後です。

まずはざっとこんなところで。検討頂ければ^^。

具体的場面での建設的行動法については、「こんな時はどうすれば」という具体的材料があれば、書いて頂ければ具体的アドバイス可能ですので^^。


(No Subject) / アランドロン
No.963 2014/09/10(Wed) 04:55:02


島野さんへ

数年前から、時々、サイトは読んでいました。
数年前は、憎しみで毎日が苦しかったです。
最近、また読むようになりました。

詳しくは、書きませんが、殺人とかも考えていました。
愛されない怒りと、自尊心が傷つけられたからです。
かなり本気で、最近まで考えていたんです。^^;

昨日と今日、何時間もかけて読みました。
もう殺人をする気は起こさないです。
心理メカニズムを理解したのが大きいと思いました。
ダウンロードしたのも全部、読んだと思います。
心理学のサイトは、沢山ありますが、魂が共感したり、震える文章は少ないです。


なんでアランドロンを夢を見たかと思いました。
島野さんの文章から、アランドロンを感じるんです。
アランドロンの顔を見るのと、文章を読むのが同じ感じがします。


 
「愛されない憎しみ」からの抜け出し^^ / しまの
No.967 2014/09/11(Thu) 11:46:41

>数年前は、憎しみで毎日が苦しかったです。
>愛されない怒りと、自尊心が傷つけられたからです。

通り道ですね^^。
僕もそこを通ったことは、『取り組み実践詳説』
12章 「否定価値の放棄」への道 - 島野が通った主な転換の流れ (P.208)
でも触れた通り。日記「そこにいる人間全てを、殺してしまいたかった」という言葉を見つけて驚いたという^^;

おさらいがてら、そうした「愛されない憎しみ」からの抜け出しポイントをまとめておくと、以下3点になりますね^^。

1)「誰にでも愛される必要がある」という衝動の自覚
一方的に、誰にでも愛される必要があるという、容赦ない衝動。まさに自分はそれには値しないという自己軽蔑において。それが他人からの容赦ない軽蔑の目として空想に映し出され、他人への憎悪が起きる。
これを自覚することは極めて苦しいですが、まさにその抜け出しとして、その心理メカニズムの全貌が自分の中に捉えられる、ということになります。上記リンクでも説明

2)「建設的行動法によって得る人からの信頼」への視野
「愛されない憎しみ」で抱いた、「愛されるためにはこんな自分でなければ」といった空想とは全く別世界にある、「建設的行動法によって得る人からの信頼」への視野持つ建設的行動法に習熟し、実際に人との関係において一切の否定的言葉を使わず行動できるようにもなった時、それが見えてきます。
これは僕の経験でも、上記1)の苦しい時点では全く見えず(教えてくれるものもなかったので)、大分遅くなってからになりましたが、いかにこの視野を早く持つかによって、憎しみからの抜け出し早く、そして心が楽になるものになると思います。

3)「心の依存から自立への転換」
上記2つ意識的向き合いだとして、実際そのようにして心が抜け出し変化することの根底に、もはや意識実践を超え「心の依存から自立への転換」その人どう起きているかという背景がある、という
これについてはここでは説明は良いかと^^。

ということで、これから2)の視野向かう歩みになるかと^^。


 
Re: / アランドロン
No.974 2014/09/21(Sun) 00:07:40


しまのさん、ありがとうございます。
書いて良かったです。^^


(No Subject) / フウ
No.952 2014/08/29(Fri) 18:59:37

 久しぶりに、読者広場等に目を通しました。
「開かれた世界」「閉ざされた世界」について、少し読者広場を見ました。

 島野さんは、このような深い内容を書かれていますが、これまでの経験で学び、自分で深めて言っているというような事を、以前読みました。
 今回思ったことは、このような学びの中、最近心理学関係の本を読まれていることは、ありますか。
 私は、興味を持った心理学関連の本を読んでいます。


 
最近の読書^^ / しまの
No.953 2014/08/31(Sun) 16:01:58

心理学関連の本は、最近はほとんど読まないですね^^ゞ

僕の執筆活動にとって役に立った本は、『過去原稿』に載せている参考図書のようなものですが、それらではまだ足りず経験そのものから学んだことを書いていますので、書くために何かを読むこともなくなっている今日この頃です。書くために読むなら、まずは過去の僕自身の文章♪

読書一般について言えば、就寝前の寝つけ薬がてら何かしら読むようにしており、心理学関係何か面白そうなものがあれば・・とたまには目を配っているのですが、どうも言っている内容が論理的でなかったり、「感じ方の押し売り押しつけ」みたいのだったりばかりで、とても読んでられない・・と感じるものが大抵のため、結局読むものがない感じです^^;

ちなみに今読んでいる本は、村山斉『宇宙は何でできているのか』新田次郎『孤高の人』(山岳小説の中で人気が高いもの^^)です。後者面白すぎ寝つけ薬にならず神経が興奮してしまうので、日中にちびちび読んでいる次第^^。


 
Re: 本能と人について / フウ
No.954 2014/08/31(Sun) 17:47:13

 島野さん、週末回答を読むことが出来ました。

 心理学の本も、昔からたくさんあることを感じています。そういった著者、大学教授など昔からあったことを最近になって出会います。

 島野さんは、最近は心理学関係は読まないとのことですが、以前は読んだのかもしれません。

 少子高齢化に関連して、人口減が言われていますが、本能として年齢を問わず妊娠してしまうことも自然に考えられることについて、やむなく中絶などがあるかと思われます。妊娠を予防することは、ある程度啓蒙できると思いますが、妊娠は授かり物という言葉を使う場合、何度も妊娠してしまう場合も授かり物であっても、何度も出産は環境的・体力的・経済的に現代は、余裕の無い社会とも感じます。また、結婚や出産ではなく、キャリアを持ち自己実現の生活を選ぶ生き方など多様です。
 私は、子供有無に関係なく、学ぶことはたくさんあると言えます。また、本能や家庭関係を寄り処というより、自分の学びたい学問に時間を使うことを大切にしています。

 妊娠、授かり物とのことについて、島野さんはどういう意見がございますか。
 
 


 
「妊娠」「授かり物」^^ / しまの
No.955 2014/09/03(Wed) 10:34:46

妊娠出産という女性身体の機能については、「命」をつなぐための、極めて基本的身体機能だと、としては考えます。それは心臓と同じように、基本的な身体機能だと。

でそれが人の人生どのような姿になるかとして、「授かり物」と感じられるような幸せなものもあれば、望まざる悲劇のように感じられるものもある。
いかにその前者に向かうかに、個々人の生き方姿勢と行動法問われる、ということになると思います。そこにさらに「運」も絡むので、「授かり物」と感じられるような姿になることもあるだろう、と。
お答えになりましたかどうか^^。

以下でも「知恵とノウハウそして自己コントロール、自己管理が重要」といったをしていますのでご参考^^。
『欲について』 ジンさん No.696 2013/11/20
でのレス
『「自然の性」からの考察^^』 しまの No.704 2013/11/24


 
Re: 以前のレスを見ました。 / フウ
No.956 2014/09/03(Wed) 19:32:57

それによりますと、
 より細かい話については、まあハイブリッド心理学ではあまり展開していないのが現状です。というのは、心の健康と豊かさに向かうごとに、性の問題はテーマとして重要でなくなってくるからです。
 あまり詳しい分析をするより、心の健康と成長への取り組みの中で、自然と、性衝動もごくシンプルで自己コントロール可能な身体的衝動に落ち着いていく、という理解を持っておくのがいい話になります。
 などありました。

 私は、様々ことに関心を持つことがあり、今回の質問もそうでした。
 
 生き方は、人それぞれであり、いろいろな方の生き方を目にすることがあっても、実際自分自身は何を選んでいくのかであること。島野さんの言うように、個々人の生き方姿勢と行動法が問われるとのことから、社会の関心というより、自分の確立に力を入る思考・行動に切り替えていこうと考えることになれました。

 ご助言ありがとうございました。島野さん、補足がありました時は、お願いいたします。


マンションの騒音について / oed
No.950 2014/08/17(Sun) 06:33:03

分譲マンションの隣人の騒音に対して、意見を伺いたく存じます。
隣人は日曜大工が好きなようで、越してきた当初から騒音がひどい感じでした。しかも夜中に壁にトンカチで何かを打ち付けたり、床に落としたり、窓の開閉も時によると煩く、音に過敏な自分は起きてしまい寝付けなくなります。

持ち回りの管理組合当番も無視するような非協力的な人です。
管理事務所に訴えて張り紙をしてもらいましたが、相変わらずです。こちらは自衛出来る限りはしていますが、防音壁の調査など数万円では済まないです。なぜ迷惑してる方が払うのか理不尽ですし、想像力のない隣人に怒りが湧きます。

ハイブリッド的には、どのような考え方ができますか。
管理組合ができることはせいぜい張り紙どまりです。突然カンカン音がするのを録音でもして、弁護士に相談でしょうか。言って聞く相手とも思えません。
下手すると逆効果です。

ひたすら怯えて精神安定剤飲んで耳栓でもして我慢する「自衛」は、ストレスがたまります。
どうしたら望ましい環境を「建設」できるのでしょうか。
睡眠不足になると非常に体調を崩すので、睡眠を騒音で邪魔されて怒りを感じるなと言われても無理です。下手すると殺意が湧きます。

ぜひご意見をよろしくおねがいします。


 
Re: マンションの騒音について / しまの
No.951 2014/08/26(Tue) 10:20:10

執筆の方でちょっと頭がふさがり気味で、遅くなりまして^^ゞ

また遅くなったのはアドバイスとしてもちょっと難しい案件であり、これは
「すでに望ましくない事態に出会った後」の対処法
問題ということで、
・いかに破壊的結末を避けるか
行動法として、「破壊」ではなく「自衛」「建設」という、「選択」「知恵」出てくる、というになると思います。

まず「選択」について言えば、「すでに出会った望ましくない事態」を、いかに望ましくないかの深刻さ度合い判断については、姿勢の「選択」、またそれに応じ多少の「知恵」出てくるということになると思います。

お勧めなのは、詳しい講釈(^^;)を省略手短に言えば、「様子を見る」のが良かろう、というものです。分譲マンションに来ての大工仕事騒音ということであれば、そういつまでも続くものではない。そのうち止むのを待つが良い、という^^;
これが単に騒音だけでなく、何かと因縁つけられ脅され金品要求されと、少し前刑務所内で自殺した、尼崎の連続不審死事件の角田美代子容疑者のような「攻撃的搾取者」に出会うという望ましからざる事態であれば、人生をかけていかに相手に意識されずに逃げるかが、対処法になるといったものになると思いますが、今回書いて頂いたものは、そこまでではないと察せられるかと。

もちろんそうした非反撃的姿勢取るかどうか「選択」であり、書いて頂いたような「善悪の怒り」で対処するも、自由です。その場合書いて頂いたような、録音し弁護士に相談、といった対処法も、違法でもなく可能かと思います。
しかし、まず言って反撃的姿勢で対処するのは、事態を悪化させる可能性かなり大きいと思います。生活騒音というのは裁判でどうこうなる部類ではあまりないかも知れませんし、相手を怒らせさらに悪化させる可能性も。

僕ならどうするか参考までに書いておけば、まず多少の騒音はもうこの世に生きている限り避けられない腹をくくりその相手に対しては、極力特別な意識を持たない友好的態度で接する、といったもの。そしてただ何もせず騒音は止むのを待つ相手同じ人間です。そういつまでも、人に不快な事態、ということは自分にも多少は不快な事態を、続けるものではない。

・・まあそう聞いてすぐ受け入れられる話では多分ないと思います^^; まず言えるのは、そうした「怒りを捨てた」行動法や生き方姿勢は、今回のような出来事に出会って、それへの対処を考える中で導き出せるようなものというより、もっと定常的な日常生活、社会生活の全てを通して、「学び」「選択」通して至るものだということです。

ではその「学び」「選択」とはどんなものか。それに関心がおありでしたら、「怒り」の根本的有害性説明している『入門編上巻』などから、まず読んでみて頂くとよろしいかと思います^^。

つけたし: (8/26 12:15)
ということで今回の話そのまま当てはめられるような話ではないかと思いますが、

『暴漢に襲われた友人』 コジマさん No.765 2014/01/22へのレス
『「事故に遭わないための姿勢と技術」^^』 しまの No.772 2014/01/28
など、「徹底的な自衛の精神と行動法」として多少参考になると思います^^。


「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう
No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47

*管理者メモ*
これは
『(No Subject)』 こたろうさん No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52
へのレス
『Re:』 こたろうさん No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59
として入れて頂いたものを、この
新規トピックとして移動させて頂きました。
今後も、
話のテーマが変わった場合新規で入れて頂くとよろしいかと^^。タイトルも適当に入れて頂くとなおよろし^^。


ありがとうございます。
仕事の部分の向かい方に関しては、まだ少しひっかかる部分があるので
また少し考えて見ます。


また、スレッドが長くなってきてしまっているのですが、
入門編下巻の前半部からの質問になります。


●開かれた世界
=自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


であるからして

●閉ざされた世界
=身内と感じられる人々の中で、自分が特別な存在になりえる閉ざされた世界に
惹かれつづけてしまう。
具体的な思考を見失い、再び人の顔色が基準になりはじめる。


●閉ざされた世界で惑う時・・・・
=問題は、あるべき姿にかなえないこと、に感じられるが、
実際は違う。本当の問題は、「閉ざされた世界」における「愛に」、「嘘」が混じることになる。
そして「嘘」が許せなくなる。それはあるべき姿にそぐいようもない、まがいものですから。


●愛と嘘の表裏一体の罠
=愛されるために、ありのままの自分を隠して、別の人間を演じようとする。
そこに「嘘」がはじまることになる。
「嘘」だけはどんなに心が健康であろうとやんでいようと、心の根が善人であろうと悪人であろうと
ほとんど変わること無く、人間が本能的な嫌悪を感じるものなのです。
かくして、愛されるために嘘をつき始めた心は、ほぼ必然的に破綻への道をたどります。

それは
●「あるべき姿」を演じるのが難しいからではなく
●愛されるためにでも「嘘を演じること」をしている、自分自身が嫌になってくるのです。

ありのままの自分を感じ取る感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは
愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、
そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに「自分への嘘」がつきまとい、自分がそれを
激しく嫌悪していることを、感じ取るかもしれません。


あるべきものがある世界では、自分に嘘をつかねばならない。

であるからして、それに絶望して、

開かれた世界へと旅立つ。

その絶望とは「自分に嘘をついて愛することはできない」ということ。
自分に嘘をついた時、私たちは自ら愛する事が根本的に出来なくなる。
それは、価値を感じなくなってしまうということなのです。


<勝手にまとめてしまっている部分もありますが、以上引用>


という事ですが、
疑問となるのが以下の部分です。


●自分だけに注がれる特別の目がない。なぜなら「人物」をあまり問わない世界だから。
価値ある行動をすることができれば、人物を問うことなく評価されるが、その場限りである。
人々は「身内」ではなく、「他人」なのである。
それぞれが別の存在として、それぞれが唯一無二の方角へ向かっている世界なのですから。


⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
定められた姿を守らなければいけない環境よりも、開かれた世界で自己の純粋な
個性を発揮できれば、元いた存在の規律のある世界の人々からは嫌われたり、
のけ者にされる事は考えられても、嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が
考えられる。
そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない
、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も
多いのでは?




⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
それは、価値を感じなくなってしまうことだ、と。
これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか?
それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?



⇒さらに、頻出する「嘘をついて愛される」について改めて整理したいです。
これは、「あるべき姿」を演じなければならないという事。


まず、集団は

@存在の規律のない集団(開かれた世界の集団)
A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団)

実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと
思いますが、こう分けられます。


存在の規律の濃い集団、はそれぞれ規律の内容が違います。


それぞれの
集団内において、愛される事を目的にした時に、
存在の規律に合致した条件を持つ人物は自分に嘘をつく必要はありません。
なぜなら、ありのままの自分で愛されるから。
一方、集団において、存在の規律に合致した条件を持たない人物は、自分を偽る
必要があります。


⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、
閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。
つまり、愛する事も出来る。

「偽る」というのは如何なるものか?

⇒「趣味?」「性格?」「キャラクター?」



ここで、存在の規律に合致しない人物は、
@集団内で自分を偽る事に成功する
A集団内で自分を偽る事に失敗する
のどちらかになります。

Aの場合は、集団内で愛される事が出来なくなります。
@の場合は、集団内で愛される事は出来るが、
いくら愛されても「偽りの自己が愛されている」だけなので、
自分から愛する気持ちは持てません。よって、愛されている事にも
価値を感じる事が出来ないし、
嘘をついて愛されようとする「傲慢さ」に無意識に苦しみます。


そこで、どっちにしてもその現状を打破したいという
欲求が出てきます。その時、嘘をつかずにいれる集団に入る事が
考えられます。

@「存在の規律」の条件が、自分の持っている条件に合致する集団に入る。
A「存在の規律」がない集団に入る。


@が成功した場合、その人は自分を偽らずに済むので、閉ざされた世界に
いながら、その集団の人を愛する事が出来ます。
Aの場合は、開かれた世界にいるので、人を愛する事ができます。


⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、
より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば
愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。
つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる
ということです。



●自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、
怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと
「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
いわゆる、学校で良い子ちゃんをしていたような人は少なく、
それぞれがそれぞれの趣味思考があって、芯があって。
「何をすればいいのか」という正解探しの姿勢では、浮いてしまう。
これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。
「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを認める」
ことが開かれた世界の性質だとすれば、上記のような感覚を持つ集団は
「開かれた世界」の集団ではないのかもしれません。

あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを
認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が
圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。



●嘘を許す姿勢が、重要な選択になってくる。

人が弱く不完全な存在である時、どうしても「嘘」をついてしまう場面が
出てくることになります。
嘘を決して許すまいとしたとき、人は「嘘」をさらに「嘘」によって隠そうとし
はじめるからです。「嘘」を許さない姿勢によって、「嘘」は深まるのです。


⇒上記、存在の規律、における「自分に嘘」をつく、
あるいはここの部分の「嘘」。「嘘」というのがよく出てきますが、
抽象的でわかりません。
ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
出てくるごとにバラバラなものを指しているのかもしれませんが、
「嘘」というワードになって漠然としてしまってわからない感じがします。



一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、
「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?
例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がし
ます。

というのは難しいかもしれませんが・・・・


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / しまの
No.947 2014/08/06(Wed) 10:35:53

「2つの心の世界」

まず言葉の理解から整理しますと、「開かれた世界」「閉ざされた世界」というのは、
『入門編下巻』「5章 3つの心の世界」
書いているものになりますね。

でそれが何を言っている話かと言うと、
・人と人との絆を得ようと、あるいは保とうとする仕方に現われる「病み」と、そこから抜け出すためにまず目を向けるべき世界
という、かなり特定テーマについてのだと理解頂くとよろしいかと思います。

そこにおける「病み」とは、
・「こうであれば愛してあげよう。そうでなければお前は生きる資格がない」というような「存在の規律」「存在の裁判」という心の世界
であり、
それに適うよう、自分に嘘をつくことで愛され生きようとする心の世界
です。これが「閉ざされた世界」

そこから抜け出すために、「開かれた世界」目を向ける、というになります。
それは人物を問うことなく、生み出すものにおいて尊重される世界であり、一方、自分だけに特別に注がれる目のない世界だ、と。

これはあくまで、「病みからの抜け出し」の際に目にするものを描写しているものであり、「病み」なければ(気づかなければ)、あるいはそこから抜け出そうとしなければ、特にそうした2つの世界対比意識することもないかも知れない、というにはなりますね。


「3つの心の世界」

さらにを話しますと、そうして「閉ざされた世界」から抜け出すために「開かれた世界の行動法」学ぶのですが、「開かれた世界」「自分だけに特別に注がれる目のない世界」であり、そこで「愛」得ようとし、「自分だけに特別に注がれる目」再び欲した時、「閉ざされた世界」再び向かってしまう、という流れ説明しています。

つまりこの「閉ざされた世界」「開かれた世界」という2つの世界行き来だけでは、答えが出ないというです。
そこに第3の心の世界現われる、と。
それが「魂の世界」になる、という話になります。

かなり難解かと思いますが、その先説明しているのが
・『入門編下巻』のその後の部分
・『概説 - 4.心の成長変化(1〜4)』

とうことで説明はそちらに譲り

実践面においては、重要なのは、
「閉ざされた世界」と「開かれた世界」の対比をしっかりと見据え、外面においては「開かれた世界」の建設的な行動法で生きる模索を始める
という部分になると思います。
それによって「心の成長」始まり「心の成長」によってその人の心における「閉ざされた世界」「開かれた世界」「魂の世界」勢力関係の全体変化していく、という流れです。「魂の世界」次第に優勢になる、とここでは手短に言っておけるかと^^。


「2つの心の世界」への疑問質問へのコメント

まずはざっとそんな話の全体だという前提で、ご質問にそれぞれ簡潔にコメントしますと、

>⇒開かれた世界が人物を問わないというのがよくわからない。
>嘘のない姿に惹かれる人々が出てくる事が考えられる。そうならば、そこで生まれるつながりは「他人」というほど遠くない 、むしろ特定の「人物」として評価を受けるし、それは一過性の評価ではない事も多いのでは?

「人物を問わない」というのは、「閉ざされた世界」からの「抜け出し」局面(言わば直後)において鮮明になる様相だと言えます。
もちろん、「新たな場」時間が経つほど、「人物への認識」強くなってきます。そこで嘘のない面で評価され愛されるのであれば、それに越したことはない。
しかしそれで済まず、再び「愛されるための自分への嘘」直面し、再び「抜け出し」必要になるかも知れない。その繰り返しです。
そこで重要なのは「抜け出し」とは必ずしも外面においてその社会や集団を抜け出すということではなく、まずは内面において抜け出すということです。自らに積極的に自分に嘘をつく姿勢から抜け出すその上で、その社会や集団建設的な関係を続けることを、まずは模索する。
こうした模索の積み重ねで、心が成長変化します。


>⇒続いて、自分に嘘をつくと人を愛する事ができないということについて。
> これは、嘘をついて演じている自分で関わらねばならない人を愛せないということなのか? それとも、嘘をついている自分がいる以上、他人全般、あるいは世の中のほかの様々な物に価値を感じなくなるということなのか?

両方です^^。


>まず、集団は @存在の規律のない集団(開かれた世界の集団) A存在の規律のある集団(閉ざされた世界の集団) 実際は相対的な違いなので、度合いの違いになるかと 思いますが、こう分けられます。

「存在の規律」と呼んでいるものと、「組織の規則」あるいは「参加の条件」というもの一般違いを、まず理解すると良いでしょう。
「存在の規律」は、「こうでなければ存在を許さない」というもの。
「組織の規則」「参加の条件」は、ただ単に所属のための条件やルールそうでなければ、その組織や集団からは抜ける必要があるが、その先にどう生きるかは自由「存在の規律」は、そうした自由さえも認めないものです。
「存在の規律」強い集団は、病んだ集団です。「カルト宗教集団」そうしたの多いかもですね。


>⇒つまり、存在の規律に合致した条件を持つ人物は、 閉ざされた世界にいても自分に嘘をつかないでいられるということになりますね。つまり、愛する事も出来る。

これはその通りで、上述の「病み」なければ(気づかなければ)」の(気づかなければ)≠ノ該当するということになるかも知れませんね。
ハイブリッド心理学では、あくまで本人が病みに気づき自ら抜け出すという段階からを取り上げていますので、それについて特に言うことはありません。


>⇒ここまで整理して、開かれた世界に行かなくても、より自分の性質に合致した閉ざされた世界にいれれば 愛されながら愛する事が出来るのではないだろうか?という疑問が沸く。つまり閉ざされた世界にいながら「嘘」の自分じゃない自分でいられる ということです。

それができていれば上述の通りハイブリッド心理学から言うことは何もありません。
現にそうはできない、というところから、ハイブリッド心理学としては取り組みを始めます。


>自分の経験として、開かれた世界を価値観として持った集団は、怖いです。なぜなら、そこではそれぞれの人が「何がしたいか」ということと 「自発性」を持って関わりあっていて、自分にはそれが欠けているからです。
>これは、僕には「自発性」「自立性」の「存在の規律」に感じられる。「存在の規律」を人に対して課さないという「存在の規律」みたいな。

正真正銘の「閉ざされた集団」の方が、ずっと怖いと思いますヨ^^; カルト集団とか、暴力で支配された集団とか^^;
いずれにせよ、「自発性」があって関わることができるというのは、「存在の規律」とか「参加の条件」以前の、人間の宿命もしくは摂理、もしくは自明の法則とも言えるもので、まず自分が何をしたいかというものを持つにそれが集団「参加の条件」合致しているのであれば、大いに参加を検討すればいい。合致しないのであれば、その集団への参加諦めなければならない。
そうして、まず自分が何をしたいかという「自発性」「自立性」によって、自らの進路を定め歩んでいく、ということになると思います。それができるのが自由であり健康ですね。

いずれにせよ実践的には、「存在の規律」見えていたものを、自分自身の内面でそう解釈しただけものであり、実際の外界には「開かれた世界」の面があることを、まず捉えることからです。そして「開かれた世界の行動法」学び実践していく、という順番になります。


>あるいは、「成長する存在であることを受け入れ、弱く不完全な存在であることを 認める」という性質を持っているのに、自分が勝手に人間として自分の方が 圧倒的に劣等だという見方をしてしまっているだけなのかもしれません。

そいういうことだと思います^^。で、そうした内面感情については「ただ流し理解する」のみとし、「生み出すことによる自尊心」へと、姿勢論精神論ではなく、日常生活社会生活における具体的場面取り組んでいくのが実践になります。いつかそうした具体的場面ベースでの自尊心が、人と自分の比較による優越感劣等感といったものを超えていく、と。


>ハイブリッドで述べられている嘘とは何なのでしょう。性格を偽ること?キャラクターを偽ること?思っているのと違うことを言うこと?自分の欲求をごまかすこと?
>一連の「閉ざされた世界」から「開かれた世界」への選択、「嘘」を許すというのはどんな時のどんな嘘をどう許すという事なのか?例えばある特定の人物のストーリーとして、対比的に描かれていればより理解できる気がします。

「愛されるために自分に嘘をついていた」自覚されるもの全てです。
「嘘を許す」とはそうして「嘘をついたこそ」そのものへの批判糾弾は、しないということです。嘘によって起きた「実害」そのものについては、しかるべき処罰があったとしても。これは『入門編下巻』P.171説明した話ですね。

ストーリー一つあげるなら、こんな感じ。ある若者が、友達に好かれるようなキャラを演じていたが、そこに無理があり次第に苦しくなる。そしてそのキャラが、自分への嘘であったのを自覚する。そして友人達の輪に入るのが怖くなり、できなくなる。
「嘘を許す」とは、この若者に対してその友人達が、「なんだお前は、いかさま野郎だったのか、許せない」と攻撃を仕掛けてくるようなことはせずこの若者輪に入らないことをただ黙って見守る、ということです。そしてその若者は、無理をして友達の輪に入ることからはいったん退却し、本当が自分が何をしたいのか向き合う日々に、嘘のない自分で人と接することへと向かっていく。
そんなストーリーになりますね^^。
もちろん、それがその友人達の輪再び入るという結末になるのか、それはもうなかったという結末になるのかは、人それぞれ唯一無二の未知になりますね^^。


 
Re: 「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問 / こたろう
No.948 2014/08/08(Fri) 17:12:27

下巻135ページより。


開かれた世界だけで生きる事に徹しようとした時、空虚となる。

深みを欠いた、刹那的、もしくは機械的で些末な事柄に心を奪われて生きるだけの繰り返しです。
それは人生を失うに等しいことです。


→なぜそうなるのでしょうか。
理由と具体例があればお願いします。


 
「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」^^ / しまの
No.949 2014/08/13(Wed) 12:04:57

「開かれた心の世界」とは「人物を問うことなく、生み出すことで尊敬される世界」であり、それは同時に、特定の相手との深いつながりは、まだない世界です。
ですので、「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようと」という表現使うような姿になった時、それは誰とも深いつながりは持たないという生き方なってきてしまいます。
それは「空虚」だ、という表現
これで説明になりましたかどうか^^。

具体例で言えば、前コメント「ストーリー」として書いてみた話で言えば、友達に好かれるよう演じていたキャラに無理があり、苦しくなり、いったん友達の輪から離れ自分をみつめる
そこから、「開かれた心の世界」の中で、自分に嘘を演じることなく人と親しくすることを学んでいければいい。そこから再び特定の相手との深いつながり模索へと向かうことになるだろう。
ところがそこで、もう特定の相手との私的な関わりは面倒、仕事だけして生きていければいい、といった生き方思考になってくると、そこで言う「開かれた心の世界だけで生きることに徹しようとする空虚」になってきますね、といった具体例を言えます^^。
これで説明になりましたかどうか^^。


(No Subject) / こたろう
No.931 2014/07/01(Tue) 17:20:52

実例はいくらでもあると思います。

例えばコストダウンによって
良質な衣服が貧困層の人々でも買えるように
なりました。
これは価値の産み出しといえます。
一方で、工場となる東南アジアでは
低賃金労働が問題になります。
あるいは機械が発達して労働が集約されれば
今まで働いていた人が失業するわけです。
明らかに産み出された価値によって生活が
破壊される人々かいるわけです。

豊かな食生活を送ることは
世界の飢餓人口を維持します。
肉に使われる飼料は人間と競合します。

サポート性の高い靴が足の筋肉を
劣化させます。

生活に関わる物事に家電やインフラが
整うことによって、家族の共同作業やそこから
産まれる喜びが破壊されるかもしれません。


マーケティングでは
いかにいらないものをいると思わせるか、
欲を煽るかという事が鍵になっていますよね。
必要がないものまで求めさせる事によって
資源や自然が余分に破壊されます。

そもそも生み出すためには何かを破壊
しなければならないはずです。


自分が望ましいものに取り囲まれるという事は
その分のものがどこかから移動してきているわけですし。


 
Re: / こたろう
No.932 2014/07/01(Tue) 17:36:47

いくら生み出す事をしている本人とその
価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で
必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。

これは事実だと思います。

しかし、もしかしたら全ての人や自然界や
物事にとって本当に幸福になれる何かが
あるのではないか、という完璧主義的な理想を
求めているのだと思います。
最大多数の最大幸福ですか。

これを高尚な理想として抱きながら、
安易に価値を生み出したと喜んでいる人々に
見下した目を向けてきました。
一面からみた価値を万物にとっての
価値のように思って、うわついている人を糾弾して
やりたいという欲求。
そしてこれが自己に向かい、生み出すという事に
向かえない一つの要因のようです。何かを破壊しているのに、
絶対的に良いことをした、
素晴らしいことをした、と喜ぶ自分が許せないからですね。


 
現実的で地道な「建設」から^^ / しまの
No.934 2014/07/10(Thu) 18:40:10

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「建設」の不完全性

これはまず
>実例はいくらでもあると思います。
の下書いて頂いたもの、そして
>いくら生み出す事をしている本人とその 価値を享受する人間が純粋な気持ちで幸福だとしてもも、一方で 必ずその価値が破壊する物事や人々の生活がある。これは事実だと思います。

これは、「ある幸福の建設」他の「不幸」の「遠因」なり得る、あるいは何らかの望ましくない副産物同時に生み出す、ということですね。
それはもちろん、ということになると思います。

そもそもこの世界のものごとは、必ずどこかでつながっています。それをたどっていって全てがつながるのだから、ある者が幸福になる建設は、ある者を不幸にする破壊だという思考が、成り立ち得ます。
その点、我々生み出し得るものは、かなり「不完全」なものだと言えるでしょう。


「基本行動様式」

一方、ハイブリッド心理学「基本行動様式」として「破壊」「自衛」「建設」言っているのは、そうした「不完全さ」さておきそれぞれの者何かしら「望ましいもの」判断した上において、それについてどんな行動モードをするかの話になります。
「破壊」は、「望ましくないもの」判断したものに対して、攻撃破壊する行動
「自衛」は、「望ましくないもの」判断したもの出くわさないよう、先回りして避ける行動
「建設」は、「望ましいもの」判断するものを、自ら生み出す行動

ですので、ここでの「破壊から建設への選択」は、「全てがつながっているから建設も破壊だ」とはならない点、理解頂ければと思います。これはよろしいでしょうか。

つまり2段階選択判断過程が、そこにはあるわけですね。
1)何を「望ましいもの」と判断するか。
2)どの行動様式の行動をするか。



現実的で地道な「建設」から

ハイブリッド心理学からの指針は、一言次のように言えるかと。
抽象的観念論に陥らないよう注意しながら、ごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組み、
その先に
「不完全性の受容」でもある「否定価値の放棄」を成す。
と。

つまり、
「それは望ましいことかどうか」
「そのための建設的行動法はどうか」

を、ハイブリッド心理学では、個別に学び取り組むものとして扱います。

例えばまずは、自分の部屋の掃除をすること。これがどう人の不幸につながる可能性があるという思考は、不要かと。この場合は、取り組みとしては掃除のノウハウへ。
例えば企業の生産活動何らかの「公害」を生み出している可能性がある。それについて検討したいなら、企業の生産活動とその「公害」と思われる現象の、人を納得させられるような、直接因果関係についての論理的思考検討する。

直接的因果関係ありそうであっても、社会全体がそれを選択していることを、まず認める必要があるものもある。
例えば衛生の向上が、アレルギー症の増加の、かなり直接的な原因であるという医学的見解最近出されるようになってきています。だから不衛生を選ぶかどうかは、多少個人の自由範囲がありがらも、社会全体を昔のような不衛生に戻すことが「望ましいこと」とは言いにくい

つまりこれはものごとに常に「良い面」と「悪い面」がある、その全体を見て、「選択」だということですね。
そこに、「良い面に目を向ける」という「姿勢の選択」も出てきます。

いずれにせよ、ハイブリッド心理学では具体的内容ベース検討します。
「一面からみた価値を万物にとっての価値のように」思うこともなくなると思いますので、その辺心配なくごく現実的で地道な「破壊から建設への選択」に取り組むと良いと思います^^。


 
Re: / こたろう
No.935 2014/07/10(Thu) 20:37:27

なるほど、望ましい物事というのは
各々が違う趣向があるとして、
ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。


全ての人や物事に対して
良いことを見つけなければいけない、
それをしなければいけない、
という思考がありました。


でもこれはきっと誰にも批判されたくない
からだと思います。

自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと
感じられる感覚が共有できる人々と、
産み出した価値の恩恵を直接、あるいは
間接的に受けられる人々に限られる。
その価値を生み出したことによって
批判も受ける。
それは各人の思い描く理想や各人のの利害に
食い違いがあるから仕方がない。その限界の中で、自分は何を生み出す価値だと思えるのか。

●そこで自分が価値を感じられないなら、
いくらそれに向かっても自信にはならないと
いうことでしょうかね。

ここがやっかいだと感じています。
価値ではないとは思わない。なくなったら不便だと思うし、あったら便利。だけどそれに関わることで生み出す価値は、すごく小さく思える。または替えがきく。そう思える物ばかり
といいますか。
だから、あっと驚く、常識を覆すような
価値にひかれる。
そのものの価値というよりは、
やはりそれに取り組む自分という
自己像が望みに思える分野も多々ありますが...


そうではないとインパクトがないというか、
価値を感じられない。
しかしそういうものほど市場が薄くて
仕事として選ぶのはリスクが大きい。

もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として
仕事をして社会で生きる自信を得たい!
という動機になるのになぁと、思います。
そう思えるヒントはないでしょうか。


アレルギーの話、以前牧場に行ったときに
聞きました。子供を牛舎に来させて免疫をつけさせる人もいる、と。
また近い話で、僕は二年以上せっけん、
シャンプー、歯磨き粉をやめていますが、
(常在菌の生態系を保つという意味で)
問題ありません。むしろ腹は下さなくなっていますし、風邪もひかなくなりました。
関係ない話失礼しました...


 
Re: / こたろう
No.937 2014/07/15(Tue) 16:00:29

具体的場面の質問です。

先日ティッシュ配布のアルバイトをしている時、
年配の男性に
「なんで帽子かぶらないの?」
と聞かれました。

自分としては帽子は逆効果だという
認識で被る必要がないと考えているので、
そもそも被ろうとする意思がなかったわけてすが、
炎天下の中で帽子を被らずに一日中仕事を
させられているという様にうつったようです。

しかし帽子が逆効果だとわざわざ言うと
そんな事はないと言われて口論になる可能性を
感じたので、

「そうですね、被った方がいいですよね」

とあわせておきました。

すると
「俺が上にいってやるよ、●●グループだろ?
株主だから」

と言われました。


咄嗟に、「いえ、自己判断で帽子は被っていないだけなので、大丈夫ですよ」と言ったのですが、
「俺がいってやる、上に言われてるんだろ」
の一点張りでした。


結論としては、そもそもその方が株主である
グループではなかったことがわかり、
「じゃーあだめだ」といわれて終わったのですが、
こういった場面での上手な行動方法はどうなるでしょうか。


後からわかったのですが、やはりスーツでの
配布とあってやはり会社(および親会社と業界全体)の規定で帽子は
禁止だったようです。知らなかったので、
自己判断で、と言うことになったのですが、
知っていたら正直に会社の規定で被れないんですよ、
と言っていた気がします。


なるべく嘘はつかないほうがいいという
漠然とした感覚でいるから、そうなるんですよね。

これを目的思考にして考えると、
会社で帽子が被れるようになることを仮に自分が
望んでいたとしたら、むしろその方が一言クレームを
つけて下さることが、ありがたい事にもなり得ると
思いますが、その場合にも下請けである配布会社の
アルバイトがクレームをつけたという話にすりかわれば、親会社から契約を切られてしまって、多大な迷惑をかけることになります。

今回はそもそもそれを望んでいなかったので、
とにかくその方の機嫌をそこねない事と、
親会社にクレームが入らないことが
目的となりました。

結果、帽子は被った方がいいですね、
と相手に合わせて、お気遣いありがとうございます、
今度は気をつけたいと思います、
といった言葉てやりすごしました。


そもそも今回の事は自分に対してのクレームではなく、
むしろよけいな気遣いへの
対処、という事になると思うのですが、
ほかにも頂いたものを使わなくなった時の
弁解に困惑することが多いです。


 
「仕事」と「価値」「魅力」「能力」^^ / しまの
No.938 2014/07/17(Thu) 15:20:22

>なるほど、望ましい物事というのは 各々が違う趣向があるとして、ハイブリッドでいう建設、自衛、破壊というのはそれを実現するための手段としての行動様式を指しているという事ですね。

その通りですね^^。

>自分が産み出せる価値が与えられる喜びは、それを価値だと 感じられる感覚が共有できる人々と、産み出した価値の恩恵を直接、あるいは 間接的に受けられる人々に限られる。その価値を生み出したことによって 批判も受ける。

何を価値と感じるかは人それぞれで、その人自身と、その価値を共有する人々に限られる。それはその通りですね。
それでいいというになると思います。まさにそれに価値があると。つまり「一番価値があるのは、価値を感じる心」ということですね。これはデイブ・ペルザーから学んだ言葉

一方「批判を受ける」というのは話が大違いで、実際社会において批判を受けるのであれば、実際そこに何か対処すべき問題があるということでしょうから(批判の方が誤っている場合も含め)解決への検討必要になりますね。抽象観念論ではなく個別検討要


「仕事」「就職」と「価値」「魅力」「能力」

>だから、あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる。そのものの価値というよりは、やはりそれに取り組む自分という 自己像が望みに思える分野も多々ありますが... そうではないとインパクトがないというか、価値を感じられない。しかしそういうものほど市場が薄くて 仕事として選ぶのはリスクが大きい。 もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのになぁと、思います。そう思えるヒントはないでしょうか。

「仕事」「就職」検討として、ここでは「価値」という言葉だけ書いておられますが、3つの面があると理解頂くと良いかと思います。
「価値」「魅力」「能力」

「価値」 ・・・ 何にとってどんな価値があるかという、多少とも論理的思考、およびそれを尊ぶ感情だと定義できるでしょう。多少とも論理的思考があるので、上記のように、「批判」には論理的思考で対処することができます。
にある「仕事」全てに、「価値」があります。違法な「仕事」でない限り。
一般に、人生体験を重ね心が成熟するごとに、人はより多くの「価値」を感じ認めることができるようになります。また一つ一つ「価値」大小を、あまり違わないもの感じるようになります。そして自分が生み出すことができる、ささやかな「価値」を生み出す地道な日々に、幸福を感じることができるようになります。

「魅力」 ・・・ 一つ一つ「価値」惹かれる衝動だと定義できるでしょう。これはもう理屈ではどうにもならず、ありのままに感じるしかない。
若く未熟であるほど、一つ一つ「価値」大小が、極端に違うものに感じてしまいがちです。そしてそれが得られなければ自分の人生は駄目だと早計な思考陥りがちですが、
・追い求めた「魅力」において挫折した時こそ、見えなかった「価値」が見えるようになる節目となる
という心の懐に入れておいた上で、まずは今魅力を感じるものへとまい進できるかどうか検討するが良い、ということになると思います。
ただし恐らくそれはすぐ次の話として現われるだろうということで。

「能力」 ・・・ 技能スキル行動力などにおいて、実際自分がその仕事なり職種なりできるかという現実的問題。当然若く未熟であるほどこの「能力」低く、一方「魅力」極端なものを感じがちなため、そこに途方もないギャップ現われなちです。
ならばそのギャップに、早いとこ向き合うのが正解です。
まず「社会に出る」という現実的課題が、猶予なく訪れます。「魅力」あるものなど手が届きそうになく、「価値」良く分からない、というところから、我々社会に出るわけです。
そこで重要なのは、「仕事の普遍的スキル」など、ごく実務的で着実な学びが可能なものを、まず身につけていくというアプローチです。


「現実解の模索」の積み重ね

以上3つの視点全て踏まえた上で、「今向かうべき現実解」模索へ、ということになると思います。

つまり、
>あっと驚く、常識を覆すような 価値にひかれる
については、目をそむけることなく、それはどんなものか具体的内容しっかり明瞭化することです。そのリスクも含めて。

>もっと色んな社会のスタンダードな物事に価値を感じられれば、様々な職種を選択肢として 仕事をして社会で生きる自信を得たい!という動機になるのに
「魅力を感じられれば」という問いにはもう答えがなく、感じるようにしか感じようがない(^^;)と思いますが、「価値を感じられれば」という問いであれば、「それはどういう価値か」について学ぶことができると言えます。
これについては『入門編下巻』以下のような(P.212)
--------
 「価値とは何か」について思考し、話すための、一大探究領域が、私たちの社会にはあります。「価値言葉」を使って、ものごとを思考し、人と会話をする練習をしてみて下さい。
 あの人はどうだ、この人はどうだ、という言葉の使い方をするのではなく、ここで生み出される価値とはこれこれです、これこれの価値を生み出すためにはこうすると良い、といった言葉の使い方をします。

 仕事、趣味、家庭と日常生活、その全ての場面にそれがあります。
 仕事であれば、「品質」や「効率」の向上、「お客様の満足」の向上、そのためのさまざまな工夫。「コンプライアンス(法遵守)」なんていう言葉がCMでも流れる時代です。覚えると良い言葉が沢山あります。
--------


そうした「価値」学び知っていくごとに、より広い職種選択視として視界に入れることができるようになると思います。動機づけにもなりますね。
ただしこれは実際仕事を体験する中で、「価値への知」増やしていく、というになるというのが、僕自身の社会人経験からも言えることです。

上述の通り、「価値」まだ良く分からず「能力」まだ低く「魅力」感じるもの自分の現実との、途方もないギャップ。そこからスタートするのですが、そこに「仕事の普遍的スキル」など、今まで学校で教わった「やる気」「協調性」とかの、実際に社会に出て役に立たない精神論とは違う、知恵とノウハウの正解を取り入れていくことに、前進の要素が出てきます。

そうしたものを全て込みにして、「今向かうべき現実解」を決めて向かうしかないわけです。
どれか一つを見ても進み先は分からない自分が関われそうな「価値」小さそうでつまらない、だから常識を覆すような価値惹かれる、だけどそれはリクス大きい、ならもっとスタンダードなものに価値感じられればいいのか、等々。
そうした思考の中で、どれか一つを見てうまくいかなそうなので、それを否定して別のものを・・という「取り消し思考」繰り返している間は、「成長」ありません。なぜなら、それは結局自分に嘘をつくことだからだ、と言えるでしょう。

それらが互いに矛盾し、対立し合っていたとしても、全部を、ありのままに認め、「多面を持つ見えない一つの本質」として、今自分が向かうべき道を決める
そこに「成長」始まります。全てをありのままに認めた上で成す一歩の歩みによってです。そして「成長」によって「多面」全体が、変化始めるわけです。「価値」少し見えてきて、「能力」一歩前進し、「魅力」がまた少し違った見え方をするようになる。

最後までそうした、「現実解の模索」の積み重ねになる、ということです。


まずは「能力」基準で

一方人生全体変遷としては、およそのような流れ見通しとして持っておくと良い、というアドバイスができると思います。
まずは低い「能力」にて「とにかくできること」で社会に出ることを始め、「能力」も高めていく中でより高い「価値」へと向かう、と。

「魅力」というのは、最後まで手に届く範囲にはならない可能性かなりあります。それが「仕事」というものだと思います。
まずは生計を立てるという「必要性」から始める。やがて結婚して家族を設けるという「望み」が加わるならば、「仕事」それ自体の「魅力」を動機にするというより、家族への「愛」のためのものとなる、というように。

いずれにせよ最初は、地味なものです(←断定調^^;)仕事とはどうあるべきかなんていう抽象観念論を回したところでどうにもならないようなものとして、どんな就職ができるかという地味な「現実」があります。ならば、できるだけ早くその「現実」うまく対処するための具体的ノウハウの方に、心のアンテナ切り替える方がいい。

「低い能力」始めなければならないことへの幻滅絶望もあるでしょうが(僕もそうでした)、それでどうやっていけるのか。その答えがあります。
社会それを受け入れる仕組みを、用意しているということです。その仕組みに、まずは素直に乗った方がいい。
高い能力を必要としない代わりに、給料も高くないという仕事からです。新入社員は皆そうしたところから始めるわけです。それ以前においても、まずはごく単純なバイトのようなものから、実社会体験の中で、学んでいくとよろしい。

まずはそんなものから現実的に始め、やがて20年といった先に、「自分が生み出すことのできる唯一無二の価値」といったものに目が向く時が訪れるかも知れない。
そうした見通し持っておくと良いだろう、ということになりますね。

そのように「とにかくできること」から始め「より高い価値へ」という向かい方流れについては、
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01
へのレス
『「選択肢の正しい立て方」・「仕事」への入り方』 しまの No.877 2014/05/05

仕事はまず実践スキルで選ぶ
というところで、人生の段階として別のものになるという主旨説明していますので参考頂ければ^^。


p.s
No.937 2014/07/15で入れていただいたものについては、また後日^^。


 
「肯定形の断り方」^^ / しまの
No.940 2014/07/22(Tue) 11:42:26

では引き続きNo.937 2014/07/15で入れていただいたものについて^^。

>これを目的思考にして考えると、・・(略)・・今回はそもそもそれを望んでいなかったので、とにかくその方の機嫌をそこねない事と、親会社にクレームが入らないことが 目的となりました。

「目的思考」実践ベリーグッドですね^^。
一言「波風を立てずに断る」のが目標になる行動場面、ということになると思います。今回「仕事場面」ですが、相手はっきり顧客にもなっていない、一般の通行人との接触ということで、出来事の重さとしてはそれほどでもない場面

いずれにせよ、仕事場面であれプライベート場面であれ、「波風を立てずに断る」ための行動法、ここでは言葉の使い方としては、
・「肯定形」で断る
というものが指針原則になりますね。一番基本的な例としては、お出かけ誘われたが断りたい時、「それには行かない」という言い方をするのではなく、「その日はこれに行く」「その日はこれをする」といった言い方実はその相手と一緒に行くのが嫌だというのが内心の理由であっても、まずそう言う^^;
これがあまりに度重なり、「その日は・・」という言い訳が難しくなってきた場合は、多少理由一般化した形で、それでもできるだけ「肯定形」なるような言い方を考える。当面節約のため外食は控えたい、とか。まこうしたちょっと状況が立て込んできた場合は、「肯定形の断り方」だけではない視点使う必要が出てくるかも知れませんね。

いずれにせよ、深い人間関係など絡まない一般的な場面においては、そうした「肯定形の断り方」基本で、さらにそこに
・ユーモアを加える
のが上級編となり、それで相手の機嫌を損ねることなく、相手の申し出を断るという行動かなり完成する、という感じになるかと思います。

今回のケースでは、「もう少し日焼けしてたくましい男になりたいので、いいんです♪」とかかなーと。

ともかくは、
・「肯定形」で断る、そこにユーモアを加えるとベスト
というものになりますね。

>ほかにも頂いたものを使わなくなった時の 弁解に困惑することが多いです。

についても、そうした指針で考えると色々と発想が出てきて面白いかと思いますが、まあ「頂いたものを使わなくなった」については、そうした話題に触れないで済めばそれに越したことはないですね^^。

いずれにせよ、以上のアドバイスは、「問題に深入りしないので良い」という場目状況であるのが前提です。問題をしっかり取り上げ、解決すべきものとして対処する場合は、「原理原則行動法」などが必要になってきます。


 
Re: / こたろう
No.941 2014/07/25(Fri) 17:48:59

*管理者メモ*
トピックが結構長くなっており新たな話のテ−マということで、
『「開かれた世界」「閉ざされた世界」に関する質問』 こたろうさん No.946 2014/08/06(Wed) 10:26:47
として
移動させて頂きました^^。


「学び」の奥深さ /
No.928 2014/07/01(Tue) 01:49:40

 こんにちは。
 前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。
 先生のサイトの説明の中でそういう話にも触れられていたこともあり、幸いそこで動揺したり混乱するということはなかったので、落ち着いて身の回りのことについて自分自身の考えを持つことに専念しつつ日々を送るようにしています。

 典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
 カラオケの採点機能でそこそこのスコアが出るようになったのを世間話で知人にした時、そのうちの1人が、カラオケを教えてほしいなどと結構執拗に頼み込んでくるようになり、面倒だなあ…と感じつつ、まず自分は一人でカラオケに行くのが好きなことを前提として話した上で、採点とカラオケの上手さは別であることを、上手さとは無関係にスコアを上げる方法(実際にやってみると、かなり不自然で気持ち悪くなります。実際私も、自分の歌声に意識せず歌ってた頃は、点数が上がることで上達してると勘違いしてました^^;)なども交えて説明し、更に歌の教え方など具体的にはわからないということなどを結構理詰めで説明し、他をあたるよう説得したのですが、どうやら「一人で歌うことは寂しいことだ」という考えで居るらしく、なかなか引き下がってくれずにいい加減イライラした、ということがありました。仕方ないのでアプローチを変え「勝手に上手いと決め付けてついてこられても困るし、プレッシャーになるだけだから」と、感情面での根拠も伝えたら何とか引き下がってくれました。そう言えば以前仕事上で常連さんから無茶な要求をされた時にも、「ルールですので」というだけではなく「ルールを破ると最悪クビになりますので」という言葉などで、若干情に訴えるニュアンスも含まれていたように思えます。確かに理詰めでだけでは、特に相手が感情で物を考える習慣の強い人であれば、まずその理屈を理解できずに話が平行線を辿る可能性もあり、最悪の場合、理屈っぽい奴だということで怒りを向けてくる可能性も考えられるな…と。単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

 前回ご提案のあった「オープンな交友関係について再び考えてみる」ということについてですが、実際自分が経験したものや周囲で見聞きしたものをあわせて考えると、大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、やはり「面倒くささ」に巻き込まれるのは嫌だなあ…という感覚は拭えませんでした。その後二つのことが思い浮かびました。
 まず1つは、「建設的な行動法について、今はまだ、人と接する場面ではそういう行動があんまり出来ていない。たとえば会話するときなどは、その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。
 もうひとつは、「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。今のところ大抵は一人で完結できるようなものへの関心しか持てていない分、そうでなければ「付き合いのための付き合い」にストレスを感じるのは避けて通れないだろう、と。いろんな場面を考えましたが、やはり自分は一人でマイペースに行動できることに魅力を感じるので、まずは人と関わることを避けられない場面で、必要な行動と並行させてどれだけ建設的な行動について考える頭を確保するか、というのが課題になりそうに感じました。とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。
 また、進展があったらご報告いたします。


 
「自らによる成長の歩み」へ^^ / しまの
No.933 2014/07/10(Thu) 14:57:09

執筆の方ちょっと手放せなくなり遅くなりました^^。


「自らによる成長の歩み」へ

>しばらく経つと「実はハイブリッドに関して何もわかっていなかった自分」を自覚する、という感じになりました。

それこそがまさに真の理解への入り口になるという、
「パラドックス前進」
ですね^^。

>前回の書き込みにおいて「本格的な学びに入ってきた」ということで、

「本格的な学び」は、まずは取り組み実践の進め方そのものを、
「「最初の一歩」から「自らによる成長の歩み」へ」
というギヤチェンジするということになりますね。
それを念頭に、今回の材料についてコメントするならば、以下のような感じ。


「単に理詰め」ではない「原理原則行動法」

>典型的にミスってたことを実感したものとして、たとえば相手を説得する場面についてですが、理詰めでやるべきものなのだと無意識のうちに思い込んでいたことでした。
>単に理詰めで説明して納得させるのではなく、その場に応じて、情理両面での材料が必要だというのを痛感しました。

これはGoodな前進ですね^^。
その通り、まあ「論理的思考」から始まるものの、それは「一方理屈だけで考えるのではない」ゆえに、話が長くなると昨日のブログでも触れた通り^^。
話が長くなるとは、「学び」沢山出てくるということであり、そのそれぞれについてまず自身の理解納得を問うことに「実践」がある、というになります^^。

「原理原則行動法」などの「行動学」「単に理詰め」ではないことは、
・「場と相手に応じた原理原則」
重要になる、というのがまあ上級編(^^;)になってきますね。これについては、
『人間関係について』 にーなさん No.710 2013/11/27
トピックでの第3レス
『「目的思考」「自分自身への論理的思考」でまず現状の思考法行動法を確認する^^』
しまの
No.745 2013/12/18
具体例の中で、
======
場と相手に応じた原理原則出せるように取り組みます。この辺はちょっと上級編^^「知識」「言葉の選択」さらには「相手を見究める目」問われる場面もあり、まさに長期的な学びと実践の積み重ね重要になります。
======
触れていますので参考になるかと。まあこれが使いこなせるようになるのは、「成長の歩み」かなり後半になってからのように思います。それだけ沢山の経験積み重ねと、年季の先に、身についてくる。

まずは紋切り短絡でワンパターンにならずに、
「3種類の行動学」
どんな場面どれがベストかという学びと検討常に行うに、そうした積み重ねできる頭に入れておくと良いかと^^。


取り組みの方向

一方書いて頂いた後段は、「実践」始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。
まとにかくは何でもかんでも(雑な言葉^^;)手近「学び」実践法にせよ成長の理解にせよ、
・継続的読書 ・・・ 自分の理解納得を問いながらじっくり読む
・日々の「実践」 ・・・ 「問題・課題・望み」に対応する「学び」を正確につかみ、これもまず自分の理解納得を問う

という
「一貫した「実践」の歩み」
しばらく続けてみることが、前進要領つかむためにも最短になると思いますので^^。

書いて頂いた後段については、やや断片的になりますが、僕からはこんなコメントができるかと。
そうした断片的な話全体を通して、自らの取り組み一歩の方向どう感じ取るかは、ご自身委ねられるということになると思います。

>大抵の交友関係は、それぞれ千差万別な比率で「オープンさ」と、いろんなトラブル…はっきりした揉め事であったり水面下での陰口や誹謗中傷、不毛な争いのような「面倒くささ」をミックスしたようなものなんだろう、と、理屈の上で結論付けましたが、

ミックスはできないと思います^^; それはまるで海外旅行について自分の望みを吟味しようとうする際に、まず海外旅行とはスイスの絶景中東の危険さアフリカの灼熱ミックスしたようなものだ、と考えて検討に入ろうとするような^^; 結果、まずどーも面倒・・とだけになるのが必至かもですね・・。
それぞれ別個の人間関係事象として、それぞれについて建設的対処法の詳しい「学び」に進むか、ということになるかと。

>その話題に関することで頭がいっぱいになり、破壊型か建設型かをチェックしながら発言するということが出来ていないな」ということでした。平たく言えば「話題について考えながら建設型の文法を考える余裕が無い」自分が居る、と。

具体的状況内容ごとでの、一つ一つの取り組み積み重ねになると思います。詳しい具体的状況内容を言っていただければコメント可能かと^^。

>「そもそも、俺は人の輪に入ることありきで行動するのが好きな性分なのか?」という自分への問いでした。
>とりあえずは慣れが必要だな、と感じている次第です。

こうした「自分への問い」は、「望み」への向き合いと、それに向かうための視点の「学び」どう経ているかによって、前進役割の有無と意味合い違ってくるということになると思います。
書いた頂いた文面からは僕からはその状況は分からず、それを自身で確認すると良いというになりますね。
「慣れ」というのは得てして問題の明瞭化をしないままの現状維持を意味するので、やや要注意。この辺がご自身でもちょっと何かつかみ切れていない部分のような印象も。

そこで明瞭化すべき問題とは何か。そのための糸口は、例えば

>今までとは打って変わって本格的に前へ進めるようになる!という感覚のもとで過ごせることをまず期待するようになりましたが、

ここで「前に進める」とは、何がどうなると期待したのか。そうした自己分析が、何よりも「パラドックス前進」つながると思います^^。


 
Re: 「学び」の奥深さ /
No.936 2014/07/12(Sat) 17:43:04

アドバイスありがとうございます。

>後段は、「実践」の始まりとなる「何が問題、課題、望みか」が、またそこから始めるアプローチそのものが、ややつかみ切れていない印象^^。

読み返していると、確かに「交友関係」において何を望んでいるかがぽっかりと抜けているのを自覚しました。
一方、人の輪に入らないことで生じる問題も、嘘偽りなく考えると何も思い浮かばず、これじゃあ考えても何も進むわけがないですね。
今思い浮かぶのは、せいぜい、カラオケに関して、機械からの評価ではなく、自分は実際どのぐらいのレベルかという生の情報に僅かながら興味があるぐらいです。
より明確な「望み」が出てきたら再度考えてみます。

>ミックスはできないと思います^^;
んー…これについては、不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。
ちなみに、そういうものの標的にならない方法について調べても納得のいくものが見つからなかったので、「肯定型文法」から「建設的行動」まで身につけていく以外に今は手段がないのだろうな、という感じの流れにもなりました^^;

あと、「慣れ」については、「肯定型文法」への「慣れ」という意味合いでしたが、誤解させるような書き方で申し訳ありません。

>何がどうなると期待したのか。
自分の問題をガンガン解決していけるようになること、でしょうか。
あるいは、今までの取り組みでおそらく明確に出てこなかった「愛」へのアプローチも出来るようになる、とか。

このへんを考えるにあたり、最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。
「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。社会的によくあるのはスポーツ関連の報道ですかね。負けたら掌返してボロクソに叩く、というやつですが、それが身近な人間関係にまで蔓延しているのではないか、という恐れです。
まあ、「愛される」場面でなら、最悪の場合「あんたの妄想劇に付き合ってやる義理はない」と言って関係を断てば済む話ではありますが、仕事の場面で評価された場合、それで辞表を叩きつければすぐに文無しになってしまいますので、その辺は問題かもしれません。
まあ、意外なところから問題が浮上したので、どうアプローチしていけばいいか、再度調べてみようと考えてます。


 
Re: 「学び」の奥深さ / しまの
No.939 2014/07/17(Thu) 16:14:53

検討を進めるとのことで、とりあえず押さえておくべきポイントコメントしておきますと、

>不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものと全く無縁な集団などあり得ない、という感覚はどうしても抜けません。

「集団」として世に成立するものとなるとそうかも知れませんが、重要なのはその中における個々人の行動法の違いですね。自身交友行動検討も、その把握ありきで前進可能になると思います。
あるケースで不毛なもめごとや陰口・誹謗中傷みたいなものが起きるものが、他のケースでは起きないという違い想定でき、それが個々人のどのような行動法や価値観の違いによる、というものがまず理解できればいいと思います。
できるだけ具体例ベース検討すると良いかと。

>最近、「愛されること」や「褒められること」は危険である、という感覚が次第に浮き彫りになってきました。「愛される」「褒められる」というのは、そこに色眼鏡が入ることも珍しくなく、多少妄想に近いようなものも混ざってくるため、その分相手の妄想から外れないような振る舞いを強いられることになり、逸脱すると「そんなお前はお前じゃない!」という怒りを向けられるようになる、と。

これは「愛されていること」「褒められること」話というより「本当には愛されていないこと」「本当には褒められていないこと」の話というような^^;
相手を愛するではなく、自分の欲求の満足のために利用する。相手を本当には認めていないから、こっちの論理を押しつけるために褒める
これも、そうではない、本当に相手を愛する(愛される)本当に相手を認める(認められる)こととの違いというものを、まずは押さえてからの検討が良いかと^^。


運転トラブルの場面の建設的行動と反論の建設性について / wh
No.925 2014/06/27(Fri) 14:19:41

自分が正当だと考えている行為で、他人に怒られたり非難されると非常にストレスを感じます。ストレスを感じすぎて、相手を憎み攻撃したい衝動に駆られます。

今回質問をしようと思ったきっかけは、今日の自動車の運転の際のトラブルです。
片道三車線の道路の左側車線を通行しており、交差点を直進しようと黄色信号の段階で停止線を越え交差点に進入しました。すると、対向車線の相手でその右側車線から右折しようとしている車の運転手から、「信号を見ろ、赤信号だろう」というジェスチャーをされました。こちらとしては黄色で停止線を越えたつもりなのに一方的に非難されてしまい、怒りがおさまらずその車を追いかけて警察で話をしたい、こちらの言い分をいいたいという衝動に駆られました。

運転中のトラブル(こちらとしては相手方の危険運転と考えています)で怒りの衝動に駆られることが時にあり、怒りが収まらず相手を追いかけてナンバーを控え警察に連絡したこともあります。

こういう行動は破壊的だと感じる一方、何もしないと理不尽な思いでどうしようもなくなり攻撃する衝動も否定しきれません。

運転場面での相手方の危険運転トラブルにあった場合における建設的行動について、お考えを拝聴したいです。

また、この怒りを分析すると、自分にも言い分があるにもかかわらず非難されるとなぜか言い返すことができないという性格が子供の頃からあり、一方的に悪者扱いされても悔しいが言い返すことができず、そういう自分に対しても悔しくて泣いてしまうということが思い当たりました。

相手に反論するという手段を持っていないためか、相手に一方的にいわれることに対して異常な悔しさを感じてしまうのかもしれないと分析しています。


言い返すことは、自分を護る、自分の見方に自分がなるということを自分に示すためにも必要な、建設的行動でしょうか?子供の頃からの性格からか、相手に言い返さないと負けた感じがして、自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみが生じてしまう気がしています。


 
破壊型行動の「価値」と「勝算」を吟味するパラドックス前進^^ / しまの
No.930 2014/07/01(Tue) 12:04:54

「パラドックス前進」

これは先日アップした中の
『5.歩みの道のり  (2)真の前進へ』 ・「パラドックス前進」
良い例となると思いますのでじっくり説明しましょう。

遠く先に見据えるものとはむしろ逆の方向へと向かっていき、その結果その変化へと近づく
というやつですね。
つまり「取り組み実践」では、

・「学び」の内容の正確な理解
・自分がどのようにそれとは違うものを取ろうとしているかの自覚
が、極めて重要になります。

前進はこの2つが揃った時においてこそ生まれるさえ言えるように感じます。その時こそ、「今」「前進すべき未来」とのギャップはっきりするからです。
そうしたギャップなく「自分はこれでいい」という意識でいる時というのは、「学び」の理解が不正確で「そのつもり」という浅い思考の中で前進しないままでいるか、もしくは前進できた後の状態かのどちらかです。
今まさに前進する
という我々の意識は、「前進すべき未来」「それとは違う今」はっきり捉えるという状態になるわけですね。

ですので実践的にも、むしろ「自分はどう学びを納得できていないか、学びとは違うものに心が向かおうとしているか」にしっかり向き合うことこそが、前進を早めるものになると言えます。


「自分に味方する」と「建設的行動」

で、まず今回検討内容がどんな「学び」対応するかの整理から言いますと、

>言い返すことは、自分を護る、自分の見方に自分がなるということを自分に示すためにも必要な、建設的行動でしょうか?子供の頃からの性格からか、相手に言い返さないと負けた感じがして、自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみが生じてしまう気がしています。

まずここにある「自分を守る、自分の味方でいる」というのは内面姿勢のことで、もちろんそれは重要です。
時にこれが失われてしまうことがある。特に「善悪」の観念の中で、それを見失いがちだと言えるでしょう。で、「自分を責めてしまいます」なんて言葉をよく見聞きする。自分を責めたところで、何も良くならないのに。
まずそうした混迷の姿勢脱し「自分を守り育てる」ことをこれからの自分の進む道定める
これはもう全ての前提であり、『入門編上巻』でも「3章 自分を優しく育てる」タイトルに掲げたように、ハイブリッド心理学そのもの開始の宣言のようなものでもあります。

に、そのためにどうするかという、具体的「学び」テーマ出てきます。「自分を守り育てる」という姿勢についてはあくまで前提として、もうテーマにはならないものとして。
そこに、「破壊から自衛と建設への選択」とか「建設的行動法」といったテーマ出てきます。

ですのでまず、「自分を護る、自分の味方になる」という内面姿勢「建設的」という言葉を使うと、ちょっと言葉の使い方として混乱するので、話を分けるのがよろしいかと。
つまり自分を護る、自分の味方になることは全ての前提として大切
「言い返す」ことは、「行動法」としては破壊型の行動法。ま「言い返す」内容「相手の否定」として。
これはよろしいでしょうか。
これは「学び」としては
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 2.行動の基本様式の転換 および 3.行動学
該当します。

一方「相手に言い返さないと負けた感じ」は、「自尊心」という内面テーマになってきますね。「価値観」とも言える、内面姿勢テーマです。
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法

「自分でさえも自分の味方になっていないことにいいようのない怒り・悔しさ・憎しみ」は、「悪感情」という「症状」。これについても対処姿勢「学び」出てきます。
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 2.行動の基本様式の転換、5.悪感情への対処

なお「取り組み実践」では、こうした「学び」項目ごとに、一つ一つ「向き合い」を行います。外面の行動法はどうか。内面の価値観はどうか。湧いてくる悪感情その都度の対処はどうか。
全て自分を守り育てるためにです。

心が本当に変化するのは、このように外面行動法、内面価値観、湧いてくる悪感情への対処、まずこの3面全てが「学び」の方向へと本当に納得習得されてからです。
雨漏りするのであれば、家の濡れなくなるのは、その原因全てふさいだ後だというですね。屋根も。どれか一つふさいでも、どこかに抜けがあったら、そこからから水浸しになってしまうのと同じです。うんこれはいい喩え^^。


破壊型行動の「価値」と「勝算」を吟味する

ということで、今回書いて頂いた状況としては、
外面行動法 ・・・ こうした状況「破壊」ではなく「自衛」「建設」とはどのようなものか検討
内面価値観 ・・・ 現状「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」。それを「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」へという壮大な目標課題
悪感情対処 ・・・ 現状「流される」。それを、上の2つを足場自己分析解きほぐしによる解消ができるようにという、長い歩み
というまずは3面全体的な目標と言えると思います。

でまず手始め外面行動法ですが、最初に言ったように、「目指すべきもの」「それとは違う今」はっきり認識することが、「パラドックス前進」として重要になります。
破壊型行動「価値」吟味する、さらには「勝算」吟味する、という実践になってくるでしょう。

繰り返しますが「自分を守り育てる」という前提で、外面行動法「破壊」「自衛」「建設」という基本3様式が出てきます。
自分を守るための破壊型行動法として、「価値」があるというかもうそうするしかないのは、山でクマに出くわした時街で暴漢に襲われた時です。これはまごうことなく「自分を守るための破壊型行動法」課題になってきますね。「こらー!」とか大声を出して何でもいいから相手にダメージを与えられるようなもの投げつける、打ちつけるなど、そうした心の準備日ごろできているかが課題になります。「勝算」なくても、そうしなければならないということにもなってくるかと。

もちろんハイブリッド心理学「自衛と建設を100パーセントにまで」などど言っているのは、そうした特別な場面ではない、日常の社会生活においてのです。
今回の話も、この「ごく日常の社会行動場面」該当しますね。ちなみに昨日買い物で出かけたところ、一日で2度クラクション鳴らされるという珍しい羽目苦笑い^^ゞ


今回例の「原理原則行動法」からの考え方

そうした「ごく日常の社会行動場面」において、「破壊型行動法」にもなり得るものが、実はハイブリッド心理学「行動学」にもあります。
上記リンク「行動学」で、「3種類の行動法」として言っている中の、
・原理原則行動法 ・・・ 相手人物に感じたことは一切言わず原理原則について話すという行動法

つまり「この場面での原理原則はこう」というものを前面に押し出すことで、「貴方が間違っている」と、相手を否定する行動出るというのもあり得る

>怒りが収まらず相手を追いかけてナンバーを控え警察に連絡したこともあります。
というのも、その先「原理原則による裁き」あることを期待して、ということになると思います。

そこで重要になってくるのは、自分が「社会で勝てる原理原則」の側に立つことです。それを持つことです。
そうすれば、社会が自分の味方になってくれるからです。すると、自分が腕力振るったり大声を出したりしなくても、社会が相手を制裁してくれる。相手バカでなければそのことが分かるので、相手の方から折れてもくるようになる。
ですので、

>自分が正当だと考えている行為で、他人に怒られたり非難されると非常にストレスを感じます。
という時、まず「自分がどう正当か」「原理原則思考」重要になってきます。

今回
>交差点を直進しようと黄色信号の段階で停止線を越え交差点に進入しました。すると、対向車線の相手でその右側車線から右折しようとしている車の運転手から、「信号を見ろ、赤信号だろう」というジェスチャーをされました。こちらとしては黄色で停止線を越えたつもりなのに一方的に非難されてしまい、怒りがおさまらずその車を追いかけて警察で話をしたい、こちらの言い分をいいたいという衝動に駆られました。

について言うと、かなりびみょうー^^;
「黄色信号」というのは、基本的には「赤信号」準ずるもので、「赤」絶対的通過はNG「黄」そのための猶予を与えましょうという話かと。基本止まりましょうという話であって、基本まだ通っていいヨではない、というになるかと。
ですので、警察に話を持ち込んだとして、勝てる見込みは難しいような。「お互い注意しましょうね」終わればまだいいとして、「悪いのは止まれる黄色で止まらなかった貴方の方ですよ」と言われる危険さえあるように感じます。「そうではなかった、止まるとなると急ブレーキだ」主張しようにも、ビデオ判定でもない限り分が悪い。
まずはこの辺の考え方どうなるかですねー。

さらに考えられるのは、「相手が悪い」ケースつまり原理原則として相手が悪いという話ではなく、相手の人間としての質が悪いケースです。つまり一般の人でないケース^^; 警察を出るや首をつかまれ、「お前なめとんのか、落とし前つけろ」と脅迫されるというケース^^;下手すると・・と、いくらでもその先に起き得る人生の悲劇想像膨らませることができるようににもなってきます。

まずはそこまで全部踏まえた上で、あとは「選択」ですねー、というになると思います。

「破壊から自衛と建設へ」転換取り組みは、そのように、「破壊型行動」「価値」「勝算」じっくり吟味するという、パラドックス前進極めて重要になる次第です。


完全な「自衛と建設形」だとどうなるか

行動法についての視点としてはそんな話として、「自尊心」についての内面価値観取り組みも、かなりここで重要になってくるでしょう。

上記の通り、「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」求めているから、人からのちょっとした批判などに過剰に心が反応してしまう。それを、「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」へと、目指す方向軌道修正する、というになります。

具体的「問い」としては、
・今回の出来事の中で、自分がどのように「人にどう見られどう扱われるか」による「プライド」を求めたか、の自己分析
まあ意味はあるとして、それよりも、
・普段の日常生活と人生の大きな方向性として、自分はどのように「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」に向かうことができているか
という問い、およびそれに基づく実践
より有効なものになると思います。
非難された場面で起きる悪感情解きほぐしだけでは、心の変化たかが知れています。「自ら生み出す」ことによる「真の自尊心」向かい、それが獲得されてきた段階で、今回のような動揺心の根底からなくなってくる、という流れになります。

その先に、今回のような車の運転中姿勢どうなるかについては、
『暴漢に襲われた友人』 コジマさん No.765 2014/01/22
へのレス
『「事故に遭わないための姿勢と技術」^^』 しまの No.772 2014/01/28
など参考になると思います。抜粋すれば
--------
これは一言でいえば、「交通事故に遭わないための運転姿勢と運転技術の全て」といったになると思います^^。
過度なスピード控える一方、流れに合わせられるということも重要になってきます。急発進急停止、急な路線変更など「乱暴な運転」を避ける。信号進む場合も、交差する道路から車が突っ込んでこないことを確認してから進む路肩の車路地の陰から、人が飛び出してくる可能性を考える。狭い道すれ違う場合は、相手に譲ることを基本とする。譲られたお礼の動作をする。など、とにかく手合い頭相手に不快な思いをさせないよう気を配る。などなど。

--------


「原理原則行動法」によって「破壊型」も「建設型」に変化し得る

また付け加えておけば、上述のように「選択の中にあり得る破壊型行動法」として「原理原則行動法」があるわけですが、これは洗練していけば、こちらから相手を否定する行動というよりも、相手が自らの誤りに気づき改善向上するのを手助けする行動というモードへと前進し得ます。
そこにおいて、「自分を守り育てる」という前提の下に、「行動法」から「破壊」ゼロになっていくという流れになる、という次第


とりあえず今回の話考慮するといいのは、ざっと以上のようなになるかと。
「取り組み実践」としては、今回の話にどう心の収まりをつけるかの問題というより、今回の話を発端に示される以上のような「学び」に、これからの人生を通して取り組む、になると思います。
まずはそんなものハイブリッド心理学「取り組み実践」です、ということで検討してみて頂ければ^^。


(No Subject) / こたろう
No.889 2014/05/23(Fri) 14:07:47

前のレスが全く納得できていなかった
事がわかりました。
僕が立てた2つ前のスレッドの
行動における表情の1、2、3です。


まず、交友に関してではなく
全般的な関係においての質問でした。


今自分がどうかというよりは
感情と行動の分離において
建設的な行動法にでる場合の
心持ちがどうなのかを知りたかったわけです。


簡単に言うとこうです。

感情の強制なしに、
表情や外面印象を作ることは可能か?

表情や外面印象は建設的行道には
入るのか?入らないのか?


感情の強制→無酸素運動、続かない。
感情は流して建設的行動法。


という論理ですよね。


しかし、楽しみを生み出す事において
ぶすっとした無表情で建設的な行道を
してもそれはいい結果になるのか?
仕事などなら、まあわかりますが。



内面に感情を守ることが
感情と行動の分離ですが、
怒りが行動化するというのは
@肉体的攻撃
A否定価値をもとにした非建設的な批判
など、言葉の発言としての攻撃

はまず一つの安心材料になる。

表情にでるのはどうなのでしょう。


生物としてそこを完璧にというのは
厳しいと思います、
加えて否定言葉を使わずに肯定的な
発言をしているときの、声の調子や無理している
感じは伝わると思うのですが、
いかがでしょうか。


 
Re: / こたろう
No.890 2014/05/23(Fri) 20:59:39

●小競り合いは破壊か?

小競り合いは破壊に入るのでしょうか?

じゃれあいのような。
昔から憧れがあったというか、
すましてお互いに良いことを言い合う
ようなスマートな関係よりも、
漫才の掛け合いみたいな、
小競り合いのある関係にひかれるというか。


もちろん本気で言い合いをするのではなく、
「あんたバカ?」「ばかじゃないの?」
みたいなやりとりですね。


親はスマートなやりとりしかなく、
お互いの悪いことを言わないわりに
そうやってふざけあうような小競り合いも
ないし、なんか嘘っぽいなぁって感覚を
もって見ていた事が大きいかな、と。



こういうのに楽しみを感じるのは
実はそこに根っことしての攻撃性が
あるのかな?
って気もします。


一方で楽しみの創造だとも思います。



あとは、議論?というのはどうなるのかな、と。


お互いの意見がぶつかり合うことによって
自分に新しい考え方が生まれたりしますよね。

例えばアイドルで誰が好き?
なんてのも議論が白熱して楽しかったり
...楽しいというより必死になってる
だけなのでしょうか?

共通部分だけに着目すると
違うところはノータッチが基本になると
思います。

一方で欧米では聞かなくても積極的に自分の
意見を話す事が当たり前だとも言います。


ある意味、違いを確かめても
それが当たり前だという文化があるから
日常として成り立つのでしょうか。


「相手が自分を理解する事を強要する」
という要素が内包された形の議論が
問題であって、
お互いがわかりあえないから、違っているからこそ
相手と自分の立場や考えを表明するという
目的にあれば、意見が違うことを話すのも
いいのかなと思うのですが、ハイブリッド的には
そこも徹底ですかね?


内容の重さにもよるかなとは
思うのですが、、、


別の考えや視点に触れるという
意味で議論は楽しかったりするので。



日本ではオフィシャル的な議論の場で
なければ


 
Re: / こたろう
No.891 2014/05/25(Sun) 20:28:38

すみません、
途中で切れてしまいました。

<つづき>
議論をすることは
「お互いの違いを認め合う」というものでは無い
状況も多い気はするのですが、
健康な人の場合はむしろ意見が違うことを
違うものとして話すのも気兼ねしていないような感じもします。


 
Re: / こたろう
No.892 2014/05/25(Sun) 20:48:50

●感情の強制および理想からの見下し

自己処罰によって何を得ていたか。
様々な行動を、「しなきゃだめだろ!」に
頼っていたことがわかりました。
特にただ簡単にできて楽しいことではなく、
やらないと後々マズいことになる面倒なことたちですね。

そこで、攻撃することをやめて、少しづつ成長しようという
目を自分に向けてみると、
一気にやる気がなくなり、まったく行動する気が失せてしまいました。

何も努力したくない、それでも自分はゆるされるべき、
もう何もやりたくない。

同時に、「興味がある」という感情の強制によって、
勉強をしようとしてきた部分が大きかった。
これは「興味がある自己像」を強制せずに勉強ができるかを
試みて、リアルにわかりました。

ありのまま自分が本当に興味があるかを問うてみると、
すべてのことが「どうでもいい」「考えるのが面倒」に
なってしまって、こちらもまったく行動にうつせなくなってしまいました。


やらなければいけないこと、やらないとマズいことをやらないのは
やはり「覚悟」の欠如なのでしょうか。


一歩一歩育てる姿勢を向けようとすると
「こんなことはしたくない。面倒。」


何をやっても人の中に入らなければならない時に
破滅する。それに向かってただ時間だけが過ぎていく。
だから何をやっても無駄。という感覚が根底にあるのかもしれません。



またありのままの感情に向き合おうとすると
背中がはって吐き気がして、頭がしめつけられる感覚になり、
こんな状態で人に会ったらという不安で外を歩くのも怖くなり、
頭がしめつけられるような感覚では
活字を読んでいくのが苦しいので勉強も手につかず、と
すべてが悪循環になってしまいます。



やはりこうなると自分を鼓舞するために
感情の強制を使うことになる・・・。


力を抜いてしまうと、
この自分は何も苦労する必要がないという
自己が出てきてしまう。

それに対してその姿勢でいると
どうなるのかという現実を誇示してみても、

そんなこと知らん。


といった感覚。


進めません・・・。


 
Re: / こたろう
No.895 2014/05/29(Thu) 18:28:30

さらに重ねて質問失礼します。

望みの感情というのは、
少なからず幼少時代に
挫折を経験し、物心ついた時には穴埋めへの
望みになった状態であるという
事だったと思います。


しかし望みの成熟の結果、
出てきたより純度の高い望みというのは
自分の中に種として存在していた
というよりは生まれてからの
経験によって条件付けられるもの
だと思います。




島野さんの執筆への気持ちなどもそうでしょう。



こういう事を考えると、
時代が古くなればなるほど
選択肢が少なくなるので、
自分の望みへ向かえる人が少なかったことが
予想されます。
もちろんその時々の時代背景や
制度によってくるでしょう。

その中でも、そもそも未開部族のように
仕事の選択肢もない、娯楽の選択肢もないような
時代もあれば、
文明が進んで仕事や娯楽の種類は増えたが
身分制度などによって選択肢はほとんど
ないような時代もあったでしょう。


現代はその点で
それぞれの人がそれぞれの
興味や望みを追求する事がかなり容易になった
時代だと思いますが、
それがこれほどまでに心の病を量産している
のは現代のどういう部分がおもだった原因なのかなと。


親の宇宙の愛が欠如することによって
感情の膿が生まれるとして、
情緒道徳以外にも、宇宙の愛が欠如するに至る原因が社会の
仕組みや状況にあるのではないかと。


そう考えると、社会で産み出す価値が
むしろ社会の中の人間の幸福に対する悪しき
影響を持続させている事もある。


効率を追求して時間短縮する技術を買うために
金を払って、その金のために多大な時間を労働に使っている。ここにも、矛盾を感じたり。


そういえば
島野さんも学生時代は自分のような
心をやんだ人間を産み出した社会に
戦闘的な姿勢を持っていたという
記述がありました。
そこから社会人経験を積んで、
どうその価値観が転換したのか
聞いてみたいです。

上流階級にいくほど、
おおらかな心の持ち主が多かったという
記述がありましたが、
それ自体は社会というものは
戦闘的にみるほど悪いものではなかった
という説明にはなってない気がするのです。
そこらへんの話をもう少し聞いてみたいです。


 
「表情・外面印象」「小競り合い・じゃれ合い・議論」「面倒」「社会観」など^^ / しまの
No.901 2014/06/14(Sat) 10:03:22

一通りざっと手短に^^。


「表情」「外面印象」と「建設的行動」

まずこの辺の話。

>感情の強制なしに、表情や外面印象を作ることは可能か?
>表情や外面印象は建設的行道には 入るのか?入らないのか?

ハイブリッド心理学からの指針は、教科書文として書くと以下の通り。
−−−−−−−−−−−−−
「表情や外面印象の作り方演じ方」は、ハイブリッド心理学の取り組みにおいては、単独の実践テーマにはならない
まずは
具体的場面ごとの建設的行動法沿った形で、ごく自然にできれば良い。そのためまずは、 場面に応じた建設的行動法納得理解先の話になる。
その上で、「ごく自然」難しい場合に、「うまく乗り切るためのその場しのぎ法」としてのそれは出てくるが、あくまでこれは自身の緊張不安低減ためのもの程度となる。

一方
建設的行動法内容を欠いたまま「表情や外面印象の作り方演じ方」によって相手や場面に対処しようとする姿勢になると、「人の目の中でこう見られる人間に」というストレスによって心を病む傾向が出てくるため、これを抜け出し場面ごとの建設的行動法理解するのがまずは取り組み課題になる。
−−−−−−−−−−−−−

ですので、上記質問について言えば、
・建設的行動法を心底から納得しており、それに合う本心からの偽りのない感情があれば、感情の強制などなしに、豊かな表情で行動するのも可能になる。そうでないものは、行動を避ける、もしくは感情をあまり表に出さないのが無難。
・表情と外面印象には、建設的行動法に含まれてくるものもあればそうでないものもある。これはもう具体的場面ごとの細かい検討問題。

となります。
「全般的な関係においての質問」とのことですので、具体的場面など書いて頂ければ、さらに具体的な説明ができるかと思います^^。

「感情の強制」心の健康に害がありますので、まずそれをやめることが指針です。
一方健康な範囲に含まれる「感情の演技」というのはあります。これについては、「パーティ」「葬式」など具体例も出して以下で多少詳しい説明をしていますので参考頂ければ^^。
『実践編上巻』 8章 人生をかけた取り組み−4 −「感情強制」の解除・内面の解放−
中ほどにある
「感情の監視操縦」への視点のまとめ

「感情の監視操縦」の基本機能
部分です。

>感情と行動の分離において 建設的な行動法にでる場合の 心持ちがどうなのかを知りたかったわけです。

について総じて言えば、
「表情や外面印象をどう演じるどう見られるか」という意識から、「相手との関係にあるものの中身内容の向上を生み出す」という意識への転換が、成長の道のりだと言えると思います。
これについては、詳しく書いているものとして以下などありますので一読されるとよろしいかと^^。

ブログ記事書籍No.2 愛と能力の成長課題
対人行動と対人感情
「対人感情と姿勢」の4型-1 〜-4

ブログ記事書籍No.8 心の成長と治癒の過程
詳説・心の治癒成長メカニズム
「宴会恐怖」「人の和アンビバレント」が完全に消えるまで-1 〜-11

「表情や外面印象という意識」からの抜け出しについては、
『取り組み実践詳説』
序章 ハイブリッド人生心理学とは / ハイブリッド人生心理学のアプローチ
5章 基本的な妨げへの取り組み / 心を病ませる4つの心理メカニズムからの抜け出し
などでも詳しく扱っています。それがもう主題そのものですね。

またそのように、「表情」「外面印象」行動するというのは、自分を見失い自分の中身を貧弱に、時に病ませもする一方、一方人から見ても結局、何か無理があり不自然で中身がないように大抵見えてしまうという、役にあまり立たないものという視点からも、そうした意識からの卒業まず課題だと言えると思います。


「小競り合い」「じゃれ合い」「議論」

「小競り合い」「じゃれ合い」「議論」について。
これも「建設的行動」入るか、また「交友」のための行動法なるか、という視点からのご質問のようで、手短に言うとこうなります。

まず言葉の話になりますが、「競争」「場面状況」ことであり、「行動法」ことではないですね。
一方「小競り合い」は、「ことさら競争を強調」し「もめごと」のように振舞う行動であり、「建設的」ではなく「破壊的」入ってくると思います。
「議論」も同じように、まずは「場面状況」であり、その中でどんな議論の仕方をするかに、「行動法」として建設的かどうかが出てくる。
「交友」のための行動法ということであれば、「競争」「議論」をまず「交友」のための行動法として、つまり競争を持ち出し、あるいは議論をふっかけることで友達になるというのは、あまり一般的ではないと思います。あくまで、共に楽しめるものであることが明瞭であるもの持てるかどうかになると思います。

「じゃれ合い」というのは、「からかい合う」「ふざけ合う」「いたずらし合う」といった要素を含む親密さ様子、と言えるでしょう。
これは回、「喧嘩するほど仲が良い」といった言葉で言ったように、「様子」として魅力を感じるということであり、「行動法」にするのは無理があると思います。楽しみだと思ったとしても、相手によっては大きな不快感を感じる危険もありますね。また年齢を重ねるほど、いきなり「じゃれ合い」しようとするような態度を取ると、人は引いてしまうようになってくると思います。

>もちろん本気で言い合いをするのではなく、「あんたバカ?」「ばかじゃないの?」 みたいなやりとりですね。
これはあからさまな「破壊の言葉」ですので、本気か否かを問わず無論NGです。


「面倒」への対処

>そこで、攻撃することをやめて、少しづつ成長しようという 目を自分に向けてみると、一気にやる気がなくなり、まったく行動する気が失せてしまいました
>やらなければいけないこと、やらないとマズいことをやらないのは やはり「覚悟」の欠如なのでしょうか。
>一歩一歩育てる姿勢を向けようとすると 「こんなことはしたくない。面倒。」

この辺については、具体的内容による取り組みになってきます。何をすることについて面倒というか。
何か取り組みたい材料書いて頂ければ具体的アドバイスできるかと。
話の流れとして出ている話かも知れませんが、推測で話を始めるとキリがないため、お手数ですが都度書いて頂ければ^^。


時代社会と心の病

>現代はその点で それぞれの人がそれぞれの 興味や望みを追求する事がかなり容易になった 時代だと思いますが、それがこれほどまでに心の病を量産している のは現代のどういう部分がおもだった原因なのかなと。

たしかにというのは、戦争やら飢饉、疫病など大変な時代もあり、人それぞれ「望み」向かうことが難しかった時代もあったと思います。その点現代かなり恵まれていますね^^。
それにもかかわらず心の病量産されることについては、社会の何が生み出したというより、「心を病む」ということがもう人間の心のメカニズムとして備わっていると、としては考えています。外面の何がきっかけでそれが発動するとは、もう一律には言えないものだ、と。

『入門編下巻』ではそれを次のように書いています。(P.238)
-----------
 健康な心は、健康な心の下に育つのだと、私はこの心理学の整理を始めながら考えていました。しかし今では、それは間違いだと考えています。
 健康な心とは、必ずしも健康な心の下に育てば得られるというものではないのだと。
 順調に健康に育った心でさえも、時に人間と人生の真実を見失う。それが人間の不完全性なのです。そしてその下に育った子供の心が病むのです。
 自らの病んだ心に向き合ってこそ得られる、心の健康がある。その下で、子供の心は健康に育つことができるでしょう。この不定形の輪廻が、人間の心で続くのです。私はこれを思う時、なぜか目に涙が浮ぶのを感じます。
-----------


ですので、としては社会の何が原因、という考え方しないです。原因がどうだったというより、克服への歩みについて扱うのがハイブリッド心理学になります^^。

>島野さんも学生時代は自分のような 心をやんだ人間を産み出した社会に 戦闘的な姿勢を持っていたという 記述がありました。そこから社会人経験を積んで、どうその価値観が転換したのか 聞いてみたいです。

これは一言で、高校時代そうした姿勢から、大学進学心の破綻といった経験を経て、克服のために社会がどうというより心の仕組みそのもの関心が深く向かったというのが最初の流れです。
またその流れの中で、僕の中「心の自立」始まっていたということでもあります。「心の依存」の中で、まず人や社会の悪い面への不満ばかりが膨らみます。「心の自立」が始まることで、それよりもまず自分が成長しなければ、という意識になってくる。
そしてその先に、

>上流階級にいくほど、おおらかな心の持ち主が多かったという 記述がありましたが、それ自体は社会というものは 戦闘的にみるほど悪いものではなかった という説明にはなってない気がするのです。

という「社会観の変化」に至っということについては、
「社会に対し戦闘的」という姿勢は、上述のように「心」と「自分の成長」に意識が向いた時点で終わり
「現実の社会」それまでに考えていたものとは違う、というのは実際の社会人体験通してのことです。
一言で、「ノルマとストレス」で動いていると想像していたものが、「価値の生み出しと愛」で動いている、と。
これについては、これを読んでのことかと思いますが、結構具体的に書いていますので再度確認頂き、また疑問点などあれば質問頂ければと思います^^。
過去掲示板 2006.02
「太陽と惑星」の社会構造 No.909 2006/02/21

なお今回ご質問の全体が、やはり「心の依存から自立への転換」という大きなテーマの中にあると思います。
これについて『概説』昨日アップしたものがそれを主テーマにしていますので、ぜひじっくり読んで頂ければ^^。


 
Re: / こたろう
No.906 2014/06/16(Mon) 18:06:29

価値の生み出しと愛、という部分で、
それを目標に取り組む人そのものは
そういう意識だとしても、
現実に物事のニーズに応えていった結果
忙しなく、ゆとりのない時代になったと
感じます。
効率や利便性を追及していった先に
商店街がつぶれ、街の個性がなくなり、
といった
ローカルとグローバルの問題も
そうですが、失われていったものも
多くあるのではないでしょうか。


社会に価値を産み出すというときも
見方によっていくらでも何がいい、悪い
というのは変わりますよね。
自然破壊も深刻ですし。


これに関しては、
経済発展というものの
否定、というよりは自然を守るという
価値の生み出しという見方もできますよね。

なにかの価値を産み出す裏で
廃れていくものや壊れていくものが
ある
これは仕方ないのかもしれないですね。



あとはその廃れていく側のものに
自分が本当に興味をもっているのか
ですかね。
世の中の流れに反対勢力を
持っていたい、みたいな動機もある
かもしれないですし。


あと、島野さんの理論だと
田舎の閉鎖的な人間関係では人々は
精神的に成熟できないような印象を
受けるのですが、未開部族であったり
昔の自分の進路に選択肢がないような
コミュニティの人々は現代人よりも幸福な印象が
あります。
インディアンやアイヌの人々にも
心理障害は蔓延していたのでしょうか。
人間の仕組みとして病むことはわかるのですが、
どうせなら人が病まないような生き方ができる社会に向かっていく
ような価値の産み出し方を社会でしていきたいと
思うのです。


しかしふわふわと考えているだけで、
現実をみていない思考かもしれません、、。



やる気が全く起きなくなってしまうのは
勉強に関してが顕著です。
興味があるという自己像をおしつけて
勉強をしては、漏れ出すように本当はどうでもいい、
なんでこんな事を覚えなきゃいけないんだ、
どっちだっていいんだけど、、、
という気持ちが反動のように出てきて、
一気にスイッチが切れます。

ワークショップなどに参加してもそうです。
興味があると思って参加してみると、
興味がある自己像を自分に当てはめて、
まるで参加してる人と知識比べを
しているような会話になっています。
ふっとどうでもいいんだよなぁという
気持ちになります。


物事をうまくやることもそうです。
試行錯誤や探求心を持って取り組む人に
なりたいと思いつつ、たいしてこだわりを
持って技術を向上させるのが面倒になり、
てきとーでいいか、と。

楽器や、料理や、タスク管理や、
野菜栽培など、
とにかく興味をもって試行錯誤している
自己像を当てはめて取り組んでいるだけで、
しばらくするとふっと全部てきとーで
どうでもいいわ、という気持ちに負けるんですね。


ノウハウはいくらでも仕入れられるのですが。


 
「やる気」のための基本など^^ / しまの
No.911 2014/06/18(Wed) 18:05:20

>あと、島野さんの理論だと 田舎の閉鎖的な人間関係では人々は 精神的に成熟できないような印象を 受けるのですが、未開部族であったり 昔の自分の進路に選択肢がないような コミュニティの人々は現代人よりも幸福な印象が あります。インディアンやアイヌの人々にも 心理障害は蔓延していたのでしょうか。

時代と社会の影響については、僕自身あまり本格考察テーマにしておらず、前コメント程度以上にはちょっとノーアイデアです^^; インディアンやアイヌの人の状況も、知らないです^^;
心の問題への社会要因の影響については、ハイブリッド心理学としてあまりテーマにしておらず、他の心理学や社会学などそうしたものがあるかも知れませんね。この辺ご了承あれ^^。

>人間の仕組みとして病むことはわかるのですが、どうせなら人が病まないような生き方ができる社会に向かっていく ような価値の産み出し方を社会でしていきたいと 思うのです。

そうした視点とても良いものと思います。そうした視点からの社会活動、ボランティアなども結構あるのではと^^。


「やる気」のための基本

>やる気が全く起きなくなってしまうのは 勉強に関してが顕著です。興味があるという自己像をおしつけて 勉強をしては、
>興味がある自己像を自分に当てはめて、まるで参加してる人と知識比べを しているような会話になっています。
>試行錯誤や探求心を持って取り組む人に なりたいと思いつつ、
>楽器や、料理や、タスク管理や、野菜栽培など、とにかく興味をもって試行錯誤している 自己像を当てはめて取り組んでいるだけで、

これらはどれも「自己像」「こんな人」を自分に当てはめるという姿勢進めようとしているのが原因ですね。自分に当てはめ枠はめすれば、反発が起き、やる気が失せるのは自然な心の反応ですね。

「目指す人物印象像」ではなしに、自分が将来何をしたいかという「具体的な将来目標」から、今何が必要か、いずれ役に立つかといった視点から、必要性魅力度を検討するのが良いかと。
「やる気」のための基本ですね。
これは
『実践編上巻』 7章 人生をかけた取り組み−3 −痛みをただ流す・感情への知性の目−
などで、
「やる気」に頼らない行動習慣
として、メール相談事例結構具体的に説明していますので参考になるかと^^。


 
Re: / こたろう
No.915 2014/06/19(Thu) 08:05:34

そうですか、、、
現代は宇宙の愛が損なわれやすくなっている
という記述があったので
気になったのですが、やはり損なわれた
ものが少なからずある不完全な世の中で
自分の望みに向かうっていう
取り組みになるんですね。

産み出す、っていうことの
向上や楽しみっていうのが
一方で破壊するものがあるというのは
どうですか?


これに関しても善悪が相対的であるように
絶対的な価値はないということですよね?


ありかとうございます。
えーと、何度も読み込んでます。
具体的な目標を描けないので、
とりあえず就職、卒業を目指して
いるのですが、そこまで必要だと
認識しても行動が進まないから
やる気や自己像をあてはめてやるしか
なくなってるんですよね。


あと今の心で考えているから、
ってことになると思うのですが
電車などで若い社員と上司らしき人が
自然に会話しているのを聞いていると、
自分は借りに入社できても無愛想で、
ぎこちなくて、不快感を与えて邪魔物として
扱われ、すぐやめるんだろうな。
そしたらよけいに親を憎むんだろうな、
これ以上荒んでいくの嫌だな、
なんでこんな人を好きになれないっていう
でかすぎるハンデで糞みたいな人生を送らなきゃいけないのでしょう。
人と関わってみんな成長してるのに、
その機会が持てない、この年相応の
コミュニケーションもとれない、
どうせ無理なら勉強なんかしても意味ないし、
あーーー。


頭痛、、、っていう感じで、
具体的に将来ってのが
みえない、またひきこもるんだろうな、
と思いながら積極的に勉強はできないですね、、


最終的に到達できるはずだという
希望がないと具体的な行動にエネルギーが
わかないのは基本だと思うんですが、
未知というものを想定してそれを
目標?にしてそこからエネルギーを得る
と言う、ことでしょうか?


がんばれない人間はやはり
変わらないんだろうな、でも絞り出す意外に
どうやればいいのか、というところで
グルグルグルグルです。


 
「価値」と「選択」・「自己像あてはめ」でないもの^^ / しまの
No.920 2014/06/26(Thu) 11:51:51

「価値」と「選択」

>産み出す、っていうことの 向上や楽しみっていうのが 一方で破壊するものがあるというのは どうですか?これに関しても善悪が相対的であるように 絶対的な価値はないということですよね?

「善悪」相対的であるように、「価値」相対的。その理解良いと思います^^。
「善悪」は、何の目的のためには、という相対的なもの。ですので「目的」の明確化重要になります。「目的思考」ですね。
「価値」は、どんな時どんな場面で誰にとって、という相対的なもの。ですので人真似ではなく自らの「望み」に向き合うことが大切という

そうして絶対的ではなく相対的なものごとについては、「選択」になってきますね。そして「選択」は自由です。これがハイブリッド心理学基本的スタンス
その上で、どれを選択すると、その先にどんながあるというができます。
「破壊から自衛と建設への転換」も、「選択」であり、ハイブリッド心理学「建設の選択」先にあるを説明する心理学です。その行くかどうかは、もうそれぞれの方お任せするとして。

今回アップ以下部分該当する話になるかと^^。
『概説 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「実践」とは何をするものなのか
---------
1)「学び」への「自分の考え」をはっきりさせる
ハイブリッド心理学からの「学び」をできるだけ正確に、たとえば「感情に流されない」「理屈だけで行動する」ことかといった曲解誤読をすることなく正確把握し、それについて「言われた通りに」ではなく、「自分の考え」ではどうかはっきりさせることに取り組みます。
「これについて自分はそうは思えない」というのが明確になることは、むしろ前進につながります。
「パラドックス前進」として。
ただし「基本行動様式」として
「破壊から自衛と建設へ」という最初の基本テーマについては、心底からの納得ができることが、全て前進始まり前提になるでしょう。もしこれに納得できない、つまり「破壊こそ力」「怒りこそ力」といった考え本心からのものであるならば、つまり先の描写のようにそんな感情があるというレベルでなく、「生き方思想の主張」としてはっきりそう考えるような場合、それはもうハイブリッド心理学全体納得できないというであり、ハイブリッド心理学が言う心の成長道のり向かうこともないというになります。これはもう仕方のないことですが、それが「自分の考えをはっきりさせる」ことだったのならば、全てがそこから始まる、ハイブリッド心理学入り口選択になるとも言えるでしょう。
---------


また「破壊」価値を感じてしまうのは「心の依存」産物でもありますので、「心の依存から自立への転換」についてじっくり向き合ってみると良いかと^^。
『概説 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「心の依存から自立への転換」


「自己像あてはめ」でないもの

>具体的な目標を描けないので、とりあえず就職、卒業を目指して いるのですが、そこまで必要だと 認識しても行動が進まないから やる気や自己像をあてはめてやるしか なくなってるんですよね。

「やる気や自己像をあてはめる」のではない進め方説明したのが前のレスになります^^。
それでもうまく行かないのでまた別の方法・・というのはもうハイブリッド心理学から言えるものは残念ながらありませんので、『概説 5.歩みの道のり』説明の、より基礎的な思考姿勢などへの取り組みから、ということになってくると思います。上記「心の依存から自立への転換」なども。

>自分は借りに入社できても無愛想で、ぎこちなくて、不快感を与えて邪魔物として 扱われ、すぐやめるんだろうな。

社会に出るにおいては、これは以前も指摘したかもですがハイブリッド心理学からは「やる気」「外面印象」ではなく「仕事の普遍的スキル」「価値の生み出し」といった視点になります。
以下など参考
『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピックの中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23

>最終的に到達できるはずだという 希望がないと具体的な行動にエネルギーが わかないのは基本だと思うんですが、未知というものを想定してそれを 目標?にしてそこからエネルギーを得る と言う、ことでしょうか?

「未知」はあくまで想定しようもないものですので、そうしたものもあるというのを最後の心の支えとし、具体的な意識においては、目の前のことを一つ一つ前進させていく、ということになると思います。
「自己像あてはめ」ではなく、「そこにある課題への対処」積み重ねですね。


 
Re: / こたろう
No.922 2014/06/26(Thu) 17:20:09

ちょっと間違って伝わってしまっているかもしれません。
自分にとって、建設的、自衛的、破壊的だという
事と別に、


自分にとって建設的な行動であったり、
自分にとっての価値の生み出しが、
誰かにとって、またはなにかにとって、
長い目でみた社会にとって、は破壊であるという事は
往々にしてありえる、という事を確かめたかったのです。


あなたが自分の望みに向かって、
建設的に行動することによって、
苦しむ人もいれば、維持されつづける
世界の不幸もあるし、失われる誰かにとっての価値もある、と言っていただければ気持ちよいのですが。


 
建設的行動による不幸・・?^^; / しまの
No.929 2014/07/01(Tue) 11:38:35

>自分にとって建設的な行動であったり、自分にとっての価値の生み出しが、誰かにとって、またはなにかにとって、長い目でみた社会にとって、は破壊であるという事は 往々にしてありえる、
>あなたが自分の望みに向かって、建設的に行動することによって、苦しむ人もいれば、維持されつづける 世界の不幸もあるし、失われる誰かにとっての価値もある、

いえそれはないと思いますヨ^^;
「建設」ハイブリッド心理学では、自分幸福のために「望ましいものに囲まれる生活基盤を自ら築く」という行動様式
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ 2.行動の基本様式の転換

それが誰かや長い目で見た社会にとって破壊であるとは、それを「望ましいもの」と感じることに誤りがあるということになると思います。それは「反社会的行動」もしくは「社会行動として不適切」なものですね。
もしくは、誰かの建設的行動によって自分や社会が不幸になると考えるのは、「逆恨み」もしくは「曲解」という誤りになると思います。

具体的どんなことを言っているのか書いて頂ければ、それについて僕の考えお伝えすることはできると思います^^。
また新規トピックなどでがよろしいかと^^。


(No Subject) / ルベド
No.921 2014/06/26(Thu) 13:25:28

お久しぶりです。ルベドといいます。統合失調症でひきこもりです。三十代です。二十代で統合失調症になりました。高校を卒業してから仕事もバイトもしたことがないです。薬物療法とカウンセリングを受けていますが、効果ないです。建設的な行動は散歩と腹式呼吸などと喫茶店へ行って、20分くらい居ることです。でも、全然良くなりません。怖いです。望みに向かうといっても、やりたいことがないです。依存性と受動性が強いです。エネルギーがでません。毎日が不安です。どんずまりです。どうしたらいいんでしょうか?


 
「自分自身への論理的思考」で始める取り組み実践^^ / しまの
No.927 2014/06/29(Sun) 11:42:11

これはまず一言こういえるかと。

まずは身近なことから、一つ一つ「必要なこと」を片付けていく。その小さな一つ一つの積み重ねの先に、大きな不安の解消もある。
と。

身近なこととは、朝起きてから夜寝るまでの、食事、歯磨き顔洗い、洗濯、風呂、掃除、寝床の用意。これらをまず自分でスムーズにできること。
これだけでも我々にとって沢山「学び」「実践」が出てくるわけです。そこにおいて、何か惑い不安出てくるならば、複雑難解な心理分析など必要ではなく、その具体的場面において自分の思考と感情のどこに問題課題があるのか、その具体的材料見えてくると思います。
そしたらそれについて、ハイブリッド心理学「感情と行動の分離」の、外面内面への2面取り組みじっくり進めることができます。

もしそうした日常事には問題ないということであれば、
>効果ないです。
>全然良くなりません
というのが、何がどう問題かというのを、具体的場面ごとの問題として、材料として考える必要があります。ただ感情が悪いというだけでは取り組み材料にできず、具体的場面ごとでの取り組みになります。ですのでまずは日常事から確認するのが良い進め方です。

そこでまず最初に何よりも重要なのは、感情に流されることのない、また感情に頼って考えるのではない、「小学校で習う科学のような、現実において間違いなく確かなこと」の、「しっかりとした論理的つながり」で考える思考というものを、使えるようになることですね。
これを「自分自身への論理的思考」などと呼んでいます。
詳しくは、
『概説 - 5.歩みの道のり (1)5つの「成長の段階」』 ・前進を成すための2つの心の基盤
『取り組み実践詳説』3章 心の成長のスタートラインに立つ
あたりで説明しています^^。

そうしてまず「自分自身への論理的思考」という一番最初の心の基盤確認しながら、上述のようにまず身近なことから「必要なこと」一つ一つ「これはこうすればいい」と片付けていく。その中何か心の惑いや動揺があれば、それを材料「感情と行動の分離」による外面内面本格的2面取り組みへ。

まずはそんな進め方検討してみるのがお勧めになります。
その途上で何か不明点、そして惑い動揺材料など具体的に見えたら、また質問相談頂ければ細かいアドバイスもできるかと思いますので^^。


(No Subject) / りょうたろう
No.914 2014/06/18(Wed) 22:57:40

お久しぶりです。

私はハイブリッド心理学に出会ってから、内面の分析をし建設的な行動法を模索し、自分なりに何とか前に進もうともがいてきました。でも、そういったこと全ては、自己否定感情という「行き止まり」に気付くためのものでしかなかったのかもしれないと今は思います。

ある朝のことです。目を覚ますと、今まで自意識に占領されていたのが嘘のように頭の中が静かになっていました。あれほど悩まされていた頭痛と吐き気も無くなっていたのです。その前日に激しい煩悶でのたうち回ったせいかもしれません。
とにかく、これさえなければと散々思ってきたものがさっぱりと抜け落ちていました。そして・・・全く予想外のことでした。妙に静かな頭に浮かんだのは、「自殺しよう」という明確な意思だったのです。苦しいから死んでしまいたいというのとは違う、積極的に死のうとする意識です。
それが数週間前のことでした。


結局のところ私は、自意識で自分を無理やり立たせて生きてきただけなのかもしれません。物心ついた時から今までずっと。
「どうやって死のうか」「首吊りが楽そうだな」とあれこれ考える時、やっと素直になれたという気さえするのです。今までの前に進もうとする努力の方こそ不自然で窮屈なものだったと。


先日、久しぶりに街へ出かけました。人ごみの中を歩いていると、自分でも訳の分からない自己否定感情に襲われました。歪な出来損ないのくせに何食わぬ顔で買い物なんてしている自分、というような。たまらずトイレの個室に駆け込んでうずくまってしまいました。他人に見られることはもちろん恐ろしいですが、何より自分自身でそのことに耐えられそうにありませんでした。

この自己操縦心性が心の成長を妨げているとか、行動法をもっと習熟する必要があるとか、そんなことを今までは考えてきました。でも、もうそんなの有っても無くても一緒じゃないかと感じます。本当の問題は文字通り、生きるか死ぬかというところにありました。
これほどの自己否定感情を抱えながらも私は今まで生きてこられました。それが自意識のおかげだったのは確かです。自分自身を監視できる能力というのは、小中学校のような「他人の目」の世界ではまさに無敵の力のようでした。
そして今、もはやそれでは前に進めなくなった自分がいます。就職活動が現実のものとして見え始めてきたことが、心の変化の最も直接的な要因でしょう。そのことについて考えるとき、「もういいや、もう無理だ」とあっさり人生を終わらせたくなるのです。まさにメッキが剥がれるように、自分からは望むことができない姿があらわになってきます。

本当に何もかもが無意味になるような自己否定感情についに気づいてしまいました。本当に、人生に対して全く何も期待していない自分がいます。

根源的自己否定感情の成り立ちを直接思い出すことはできません。ただ今現在感じとれる不安や恐怖を極めて抽象的に表すとしたら、次のようになります。自分がこの世界に対して投げかける全てのこと(興味を持ったり、試行錯誤したり、楽しんだり)は拒絶される。というより、無視される。あるいは夢で見た感傷的すぎるイメージですが、次のようにも言えます。自分がこの世に生まれてきた時、誰も自分のことを見ていなかった、と。



自殺を決意するほどに悩みぬいた人が、悟りを開くように人生の意味を知る、といった体験談をたくさん目にしました。ハイブリッド心理学でも「心の死と再生」として説いていますね。
ただ、運なのだろうと思います。いろいろ思い通りにならないながらも健康な心で生きていく人もいれば、病んだ心からスタートしてやがて幸せに向かう人もいるでしょう。でも、やっぱり生きることが苦しすぎて死を選んだ人もいます。
それが理不尽だとはあまり思いません。私だってこの自分でこれから何年も生きていくなんてまっぴらだとしか思えないのですから。

通販で注文したロープが今日届きました。これからどうなるかは分かりません。
今もこうやって生きているのは「未知」がもしかしたら自分にもやってくるんじゃないかという期待からでしょうか。でも同時に、その期待さえも裏切られるんじゃないかという恐怖もあります。その時は今度こそ死を選ぶかもしれません。

今は怒りも悲しみも特にありません。ただ自殺という選択肢があることに少し安心しています。
こんなとき島野さんなら何と言うのだろう、と思い投稿させていただきました。もうアドバイスと言えるのかどうかわかりませんが、・・・よろしくお願いいたします。


 
Re: / りょうたろう
No.916 2014/06/22(Sun) 21:39:47

返信を今か今かと待ち続けています。
せめて、いつごろ頂けるか教えて下さいませんでしょうか?


 
Re: / しまの
No.917 2014/06/22(Sun) 22:43:14

できるだけ執筆の方を優先させて頂いている今日この頃です。次の日曜までには入れるように致しますのでお待ち頂ければm(_ _)m


 
Re: / りょうたろう
No.923 2014/06/27(Fri) 11:58:46

私への返信が後回しになっているのは、まだ時間がかかるという事なのでしょうか?


 
Re: / しまの
No.924 2014/06/27(Fri) 12:43:40

後回しではなく、入れて頂いた順返答返しています(上の注釈欄参照^^)
次になります。現在鋭意編集中p(^^)q

もとい、再確認したら入り乱れて順番一個間違ってたかもですね^^ゞ 申し訳ないm(_ _)m
内容的にも沢山になりますので時間かけていることもあり。 あとちょっと^^。


 
「心の死と再生」の理解と向き合い^^ / しまの
No.926 2014/06/28(Sat) 14:14:10

お待たせしまして^^ゞ

>自殺を決意するほどに悩みぬいた人が、悟りを開くように人生の意味を知る、といった体験談をたくさん目にしました。ハイブリッド心理学でも「心の死と再生」として説いていますね。ただ、運なのだろうと思います。いろいろ思い通りにならないながらも健康な心で生きていく人もいれば、病んだ心からスタートしてやがて幸せに向かう人もいるでしょう。でも、やっぱり生きることが苦しすぎて死を選んだ人もいます。

「心の死と再生」について、この場を借りて僕自身の考察整理も記した上で、実践面でのアドバイスなど^^。


「心の死と再生」の理解

まず「心の死と再生」についてのハイブリッド心理学の考えは、一言では、
「心の死」「心の再生」への通り道になり得る。
・一方で、
「再生」がいかになされるかは、「心の死」どう起きるかではなく、本人の心がいかに「成長」に向かおうとしていたかの、「背景」に依存する。
というものになります。

「心の死と再生」というのは、もともと極めて難解心の仕組みと言えると思います。そうちょっやそっとの説明で語れるような代物ではないと。
そこでこの場を借りて僕自身の理解整理しておきますと、
注・そんな理論面には関心ないということであれば、ここは飛ばし「実践面のアドバイス」行って頂いて構いません^^。

まずそれは2種類の、かなり毛色の異なる心のメカニズム関係して起きるものです。(下記参考資料1)

a)「成熟」の一般メカニズム
「心」がその大元の「命」からはがれた薄っぺらいものであることにおいて、「心」自らに絶望する「心の死」が起き、「命」新たな「心」再生させるというメカニズム

b)「自己操縦心性の崩壊」のメカニズム
「現実の見下し」によって「空想」の中で自分を支えるという、思春期発動する病んだ心の仕組み「自己操縦心性」が、自らを攻撃し自己崩壊を起こすというメカニズム。これにより「自己操縦心性」に伴う「現実覚醒レベルの低下」といった症状治癒する。


「心の死と再生」が起きる条件

どちらも、意識表面上の表現「絶望感」であり、しばしば「自殺念慮」などを伴います。
ただし、我々人間に生じる「絶望」「自殺念慮」全部こうした「心の死と再生」になるものとして起きるのではなく、
・単にものごとがうまく行かず自暴自棄
・外面状況への絶望とだけの意識

というのは、この「心の死と再生」のメカニズムには乗っからない
また、「心の死」が起きても「再生」質量共に貧弱な程度にしか起きないケースもあります。これについては下記参考資料1で以下のように書いている次第。
-------
「崩壊」治癒メール相談途上においても起きることがあり、何もせずただやり過ごすようアドバイスして乗り越えてもらった後には、例外なく、以前より動揺度減少した、「足元がしっかりして」きたような心の状態への、後戻りのない向上治癒が見られます。
一方、「崩壊」治癒による感情変化質的内容が、自他への肯定的感情さらには「生きる喜び」感情といったプラス方向への開放的変化へと結実するかどうかは、かなり個人差があるのが見られました。
それは結局その人以前からの姿勢が、いかに「破壊」ではなく「建設」という行動のあり方、そして自分から愛することができるといった「成長」心底から望んでいるかによる、というのが結論として言えるようです。つまり心底から「破壊」ではなく「建設」を、そして「成長」望んでいながら、病んだ心による歪み内面の壁となって前進阻まれていた時、今までの病んだ心「崩壊」が起き、そこからその人は、プラス方向へと開放されていく感情足場に、より本格的「成長」「成熟」へと歩むようになるのです。
一方そうではなく、以前からの姿勢がなかなか「成長」へと向いていない場合は、「崩壊」による治癒動揺度減少のみとどまるようでした。
-------


また下記参考資料5でも、以下の文章から下で、その「個人差」について結構詳しい考察を書いています。(今は僕もちょっと読み返し省略^^;)
-------
一方、この「心性崩壊」が、先に触れた「建設的絶望体験」の人々と同じような、生きる姿の根本変化を生み出すかどうかには、多少人により違いがあることが、最近分ってきました。
-------


そこで結局「心の死」を経て「心の再生」に向かうとは、一言「背景」と言ったものとして何があった場合かと言うと、次のようなものが考えられます。
まず以下必須のもの。この全てが揃うこと条件であり、どれか一つでも欠けると、「心の死と再生」起きない

1)現実を受け入れて前に進もうとする姿勢
2)「望み」に向かう姿勢
3)失意と絶望の体験
4)自分の今までの心のあり方の誤りの自覚

ここで重要なのは、まず「心の死」というのは3)この体験基本カテゴリーとして、その中4)起きるのが「心の死」だということです。上述単にものごとがうまく行かない自暴自棄など「心の死と再生」ならない大きな理由がここにあります。

その4つがまず必須条件であり、ハイブリッド心理学でなくとも「心の死と再生」を見る人生哲学などは、必ずこの4つ踏まえて生まれていると思います。
一方、ハイブリッド心理学ならではの、「実践的」な要因3つあり、これは「再生」への促しをするものと言えると思います。ま家庭用衣料染料で言えば(洋服好きの僕の趣味からの喩え^^ゞ)上記4つ染料剤本体次の3つ促進剤という按配です。

5)「心の死と再生」への理解 (ここで書いていること下記参考資料など全て
6)「ただ流す」姿勢
 (「ただ実存を守れ」下記参考資料4など)
7)「新しい感覚の現われ」への意識姿勢
 (下記参考資料2


参考資料

1.『概説 - 4.心の成長変化 (4)「心の死と再生」という特別形』
2.『概説 - 5.歩みの道のり (2)真の前進へ』 ・「パラドックス前進」
3.ブログ2010-04-12『「絶望」の名手になれ』
4.『実践編上巻』 3章 自己の受容・未知への選択 「ただ実存を守れ」
5.『理論編下巻』 4章 「未知」への大きな前進−1 −「自己操縦心性の崩壊」という根本治癒−


実践面のアドバイス

以上がまずは

>ハイブリッド心理学でも「心の死と再生」として説いていますね。ただ、運なのだろうと思います。
に対して、「心の死と再生」についてじっくり理解するならそんな話になりますという^^。まあそれ言うかはどうかは、には考えがないです。そこには運の面もあるだろうし、そうではない、自ら生み出す面もある、と。

ですのでに、

>今は怒りも悲しみも特にありません。ただ自殺という選択肢があることに少し安心しています。こんなとき島野さんなら何と言うのだろう、
に対しては、僕から運ではない、ハイブリッド心理学「取り組み実践」として自ら生み出していく面としてはどうなるかポイントお伝えするものになります。運の面については僕には手が出せない^^;

で、一言でいうとこうなるかと。
「心の死と再生」を最後の心の砦(とりで)として、一貫した「取り組み実践」に向かう。


まずは「実存を守る」

まず実際のところ湧いてくる自殺念慮については、当然「ただ流す」「感情と行動の分離」内面側実践です。
自殺衝動強い場合には、僕から心持ちの姿勢としては
・「実存を守れ」

という言葉使っています。

これいついては上記参考資料4など。
また比較的最近読者広場ご相談関連した話をしていますので、一読されると良いかと。
『根源的自己否定感情、その他質問』 にーなさん No.609 2013/09/06
第2レス
『「最も大切な愛」という頂きへの裾野からの歩み^^』 しまの No.630 2013/09/27
の中の
「実存を守れ」
ですが、う〜んちょっとトピック全体が長いので抜粋しますと、
---------
その時本人には、自分の心に何が起きているか良く分からない、つまり実際は今まさに心の健康化が起きる瞬間ではあっても「意識」はただ「今駄目になった」としか感じない形で起きますので、そのように自分の心に起きていることと、自分の体という「実存」をもう別のものとして見て、体の方は守ることをしなさいという話をしているということです。

さらに言えば、「実存を守れ」とは、死んでいい、死ねばいい、ということでもあるんですね。「今の心」においては。すると新しい心が再生されます。「実存を守れ」とは、そうした心の仕組みにおいて、自分の「心」は死ぬとして、「体」と、「心」のさらに根底にあって心を再生させる何かという全体は守れ、ということでもあるわけです。実はこれこそ飛躍的に変化させる、最大の原動力だと僕は感じています。
---------

また以前のメール相談で、比較的似た状況つまり就職を迎える人生時期において自殺念慮を持つ若い男性へのアドバイスとして使った言葉など言えば、
・今取れる心持ちとしては結局こうなるだろうというものを言うならば、「当面は屍になったつもりで生きる」
というものです。
まずそこから、それでも自分の体が動くもの、自分にできるものを、ゼロベースで探していくことからになる、と。
実はそれこそ「再生」向かうためのベストの姿勢であることを、僕自身何度もその姿勢を通った体験から感じる次第です。

内面取り組み

そこから、「感情と行動の分離」姿勢に立った、内面および外面への2面の取り組み進めるのですが、
まず内面取り組みにおいては、
「自殺念慮」については、上に述べたように「実存を守る」「屍になったつもりで生きる」といった対処をしたならば、もはやそれは向き合いの対象になりません。それはあまりに末端症状でしかないからです。

むしろ、「自殺念慮」至るまでの自分の感情の流れを、
『概説 - 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ
に出てくる具体的視点に照らし合わせ「自己分析」できることが重要になってきます。
特に
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
5.悪感情への対処

などの視点重要になるでしょう。
そうして視点で、自分は何をどう感じて、感情はどう流れた、というのを自己把握していく。


外面取り組み

一方外面取り組みとしては、当面の問題、それは上記内面取り組み明瞭化する感情の流れを生み出した、当面の外面問題ということになるでしょうが、それについて、それらの感情いったん置いといてハイブリッド心理学の上記「学び」テーマの中の
3.行動学
などからはどんな行動法の選択肢があるかを、まずは把握することが必須になります。

「就職」であれば、ハイブリッド心理学からは「やる気」「協調性」なんて精神論姿勢論ではなく、「価値の生み出し」「原理原則行動法」といった具体的ノウハウの習得武器に、それに向かうというものになります。
これについてはとりあえず、よく紹介しているものですが、以下など一読頂くと良いでしょう。そこに、内面向き合い見える感情の流れはまることなく、自分の行くべき道の方向感じ取れるか。

『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピックの中での
『「仕事の普遍的スキル」 ちょー入門^^』 しまの No.586 2013/07/23

『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========



「未知」は生涯をかけて模索していく

「取り組み実践」としては、ざっとそんなところになりますね。
それによって、まず当面「自殺念慮」については、きれいさっぱり解消するような歩みは、ハイブリッド心理学では想定していません。
その根底に何があるのか、その真の克服はどこにあるのか。それを、生涯をかけて模索する歩みになる、と想定します。そうした道のりを、今掲載中『概説』でも書いています。

「未知」が訪れるのも、まずはずっと先のことだと考えるので正解でしょう。そもそも「未知」は、期待して向かうものではないし、ましては期待して裏切られないものとして得るものではありません。それではバリバリの「既知としての解決」を求めるというになってしまいますね。
一方「自殺念慮」解消は想定していないとは言っても、実際それが向き合いテーマにはならず、上述のようなもの取り組み対象であることへの理解納得ができてきた段階で、実際のところもうもうそれは問題になるものとして湧くことはなくなると思います。
そして全ての解決は、人生も後半になった頃になるかも知れません。それでも余りある幸福後半の人生得られるようになってくる。そうした「成長」歩み探求しているのが、ハイブリッド心理学になります。

まずはざっとそんなものとして、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」取り組むことに興味を持てるかなど、検討してみて頂ければ、ということになりますね^^。
その取り組みにおいては、若いほど、
『概説 - 5.歩みの道のり』
で説明するような「心の基盤」について、自分ではどうかと、一つ一つ理解と納得を問う向き合い大切になることを、申し加えておきましょう^^。

取り組み実践の一つ一つについて、分からない点等あればまた何でもご質問頂ければ^^。


はじめまして… / 迷える子羊
No.900 2014/06/10(Tue) 06:53:42

はじめまして投稿させていただきます。
まず、私のお話から…
かなり小さい頃から、自己の中心がしっかりと確立されていて悩む事もほとんどありませんでしたが
両親の離婚などがあり、自分では悩まないように自分で自分を誤魔化して生きていたような気が途中でしてきました。感情よりも理性で考えるようにしてきたと言うか。
そして、自分の感情を素直に受け取るように心掛けてからの方が生きづらいと感じています。
例えば、苦手な人が出てきた、などです。
今までは、見て見ないふりが出来ていましたが、
自分の本心を覗いてみるとすごく相手に嫌な感情を抱いている事に気づいていたり。
本当に些細な事なのですが、言葉遣いが汚い、空気を読まず出しゃばる、人の物を勝手に覗き込む…など、これらは全て同じ人です、他人ではなく家族です。
嫌いだと思っても縁は切れません…些細な事で嫌う私の心が狭いのか、もっと成長出来れば気にならない事なのか‥本心では一緒に過ごしたくありません。否定価値の放棄というものが、このような人に対して受け入れるという事なのか、まだ分かっていません。
アドバイスよろしくお願い申し上げます。


 
追加です / 迷える子羊
No.907 2014/06/17(Tue) 09:35:09

*新規トピックとして No.902 2014/06/15(Sun) 12:54:42 で入れて頂いたものをこちらに移動しました^^。
by島野


私の主人は経営者で仕事としてキャバクラなどに行くことがあります。しかし、私にはどうも行く事の口実にしか思えず、お気に入りの女性がいるのではないか、私には飽きているので刺激を求めに行ってるのではないかと勘ぐってしまいます。いくら私が建設的に容姿を綺麗に維持しようと綺麗な女性は沢山います。現実問題、誘惑にのるのは嫌だけど、男の性として綺麗な女性と遊びたくなるのは仕方ないのかなとか、でもすごく嫌です。不安です。でも、自分ではどうする事も出来ないと感じてしまっています。主人を信用して傷つくのが嫌でキャバクラなどに行く人ではない人がいい、離婚したいとまで思ってしまいます。以前、居酒屋に行ったと言っていたのに実は内緒でキャバクラに行っていたという経緯もあります。その事について問いただすとその日は居酒屋の後にキャバクラに行ったのを言い忘れただけだと言われました。うちの父親も経営者で夜飲みにいったりする人で小さい頃から母に愛人の存在を教えられ、母は友達などには相談できなかったらしく、まだ小学生の私に生々しい話まで私に話していたトラウマなどもあるのかも知れないとも思ったりします。その話を聞くまでは何の問題もない幸せな家庭だと感じていたので
聞いた時、すごく悲しくて嫌な気持ちになったのですが、母も父も嫌いになりたくないという気持ちにもなりました。でも、安全な家庭に守られている安心感がもろくも崩れた思いでしたが、必死に明るく楽しく生きようとしていた気がします。こんな事に負けないぞというような…
自分には色々と育ってきた環境で傷ついた経緯があると思います。でも、その都度この経験をバネにしようと一生懸命糧にしようと気張って生きてきたような。私は強い、何でも乗り越えられると思いこもうとしていたような。心の声を聞かないようにしてきたような。
長々と意味のない文書でシマノさんに依存してしまっているような感じになってしまって申し訳ありません。
何か突破口が欲しいです。アドバイスお願いいたします。


 
「自分が何をしたいか」から問う^^ / しまの
No.908 2014/06/17(Tue) 09:51:40

これはずばり次のように言えると思います。

まず、次の問いを自分にするがいい。
これからの人生で何をしたいか。夢は何か。目標は何か。


そこにおいて考えてみるいいというになりますね。旦那キャバクラに行くことが、それに対しどう妨げになるか。それが具体的にあるならば、また具体的にそれに対処するための戦法考えられる可能性もある。
あるいは、そうした、これからの人生でやりたいこと、夢と目標に対して、キャバクラは別として旦那助けになる面はどうあるか。そこにおいては旦那感謝することもできるだろう、と。
いずれにせよ上の問いがスタートだということになります。

一方、次のような気持ちにおいて考えても、答えは出ないと言えます。
・相手を自分の持ち物(家もしくはインテリアのような)として、理想に足りない面への不満
・自分が相手に所属するものとして、相手もしくは自分への不満

この場合は、相手がどうという問題というより、その気持ちそのものが、自分を動揺させている原因だと。で上の視点意識を切り替える

なぜなら、互いが別個の人格の人間だからです。
自分の理想であれるために、相手は存在しているのではない。それを認めたところに、「行動法」の戦法が生まれ、それでもどうしても受け入れられない面については、相手が病気にかかったような出来事として、受け入れなければならない場面もあるかも知れません。それも無理であれば、別れることを検討するという最後の選択肢が出てくる。

いずれにせよ全てが、最初の問いの先に、答えが出るものだということですね。
「行動法」の戦法というのも、自分がこれからの人生で何をしたいかという具体的内容ベースのものになります。そこまで検討できれば、それについてまた具体的アドバイスもできるかも知れません。
まずは「自分が何をしたいか」の問い重要になってくると思います。検討してみて頂ければ^^。


p.s
あっあと補足で書いておけば、上の追加投稿入れて頂く前の時点書こうと思ったアドバイスは、
・特定相手の嫌悪感を感じるという問題について、それが起きた時それだけ問題として取り組むことはできない。むしろその相手以外の他人全般への建設的行動法がどうできているかに取り組む必要がある。
といったものでした。
他人一般への行動法力強く建設的なものにできれば、そうした特定相手への対処法も、自ずと出てくるだろうと。

一方「否定価値の放棄」については、こうした具体的場面の問題というより、心の奥底の「業」捨て去りという、多少とも哲学宗教的な、「悟り」とも言えるような取り組みになりますので、ちょっと距離があるテーマになるかと。建設的行動法などの習得がほぼ完全にできた先テーマになります。

いずれにせよ、相手がどうより、自分の人生の生き方課題だということになりますね^^。


 
Re: はじめまして… / 迷える子羊
No.909 2014/06/17(Tue) 14:05:33

アドバイスありがとうございます。
自分でも薄々気づいていた主体性のなさ…
自分が何をしていいか迷っている状態…
まだ子供が小さい事もあり、仕事も辞めてしまい、自分の人生とは何なのか…専業主婦という立場に困惑する日々でした。
お金を旦那から貰い生活をしていく事に何か後ろめたさ?のようなものを感じるというか。バリバリ仕事をしたいがその為に子供達を保育園に預けては可哀想ではないのか。(金銭的に働かなくてはいけない状況ではない為、私のわがままになるのではないかという気持ち)など、ああでもないこうでもないと答えが出ない流される忙しい日々…
毎日を生き生きと生きたいです。
>特定相手の嫌悪感を感じるという問題について、それが起きた時それだけ問題として取り組むことはできない。むしろその相手以外の他人全般への建設的行動法がどうできているかに取り組む必要がある。
>他人一般への行動法が力強く建設的なものにできれば、そうした特定相手への対処法も、自ずと出てくるだろうと。

このふたつについて他人への力強く建設的行動法とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
家族だけではなく他人一般全ての人に共通する事なのでしょうか?
分かりやすく教えていただけると助かります。


 
Re: はじめまして… / 迷える子羊
No.910 2014/06/17(Tue) 14:16:54

度々失礼します~_~;
トラウマ的な来歴についてはどうお考えでしょうか?ご意見お聞かせいただけると嬉しいです。


 
「力強い建設的行動法」と「トラウマの克服」^^ / しまの
No.912 2014/06/18(Wed) 18:07:51

>このふたつについて他人への力強く建設的行動法とは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?家族だけではなく他人一般全ての人に共通する事なのでしょうか?

ハイブリッド心理学指針とする対人行動法は、あらゆる相手と場面に一貫したものです。家族であろうと赤の他人であろうと。
『概説 3.取り組み実践』 「学び」の主要テーマ / 3.行動学
手近な説明としては以下ブログ記事など。
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)

そこで「力強い建設的行動法」キモとは、まず自分の楽しみ、自分の向上、自分の目標を持つことです。にそれを人とどう共有できるかという視点で、相手への対処を考える。
ですので結局全部同じ話なんですね。まず自分自身がどう人生と生活を前に進むか

>ああでもないこうでもないと答えが出ない流される忙しい日々…

大そうな岐路選択のようなものでなくても、まず料理の腕を上げるといった日常の向上からテーマにすると良いかと。大きな岐路選択もそうした日々の向上延長としてあると思いますので。

>トラウマ的な来歴についてはどうお考えでしょうか?

「トラウマ」というのは、本人にとって「回復不可能な心の傷や挫折」感じられるものを言うと思いますが、基本的にこれは、克服していない心において「回復不可能」感じられるだけの話で、克服成長すれば何のことはない、回復不可能と決めつけのは誤りのものであったと分かる、という流れが考えられます。
心が成長するとは、がもう別のものになってしまうかのように、ものごとの感じ方変化することですので、心の傷や挫折感じたものも、過去に乗り越えた苦労の一つの記憶程度へと、重みを失っていくことがあり得る、ということになります。
手前味噌ですが僕自身の体験としても、若い頃トラウマ的なものと感じた生育来歴のことなど、はもうなんも感じないあっけらかーんとした記憶に残る程度で、感情的に残っているものほぼゼロ状態

そうした「成長」全てまず自分からどう前に進むかへの向き合いから始まるわけです。
そのための「取り組み実践」は、誰の場合同じ進め方になりますので、まずは『概説』などでハイブリッド心理学全体ざっくり把握することなどから始め学び実践検討し始めてみるとよろしいかと^^。


 
Re: はじめまして… / 迷える子羊
No.913 2014/06/18(Wed) 22:17:54

お返事ありがとうございます。
日々の料理の腕の向上とありましたが、主婦ですので、掃除、洗濯、整理整頓、料理など家事に関してはいつもアンテナを張り色々情報収集しております。疲れたりしていても今までは完璧に…と自分を追い詰めるほどでしたが、最近は子供に手がかかることもあり家事に完璧を求め過ぎて気持ちに余裕がなくなるのも問題かと少しは自分にあまくする事もありますが、出来る範囲していると思います。ただ、その程度の事で毎日を過ごすことにこのままでいいのかという気がするのです。
家にいてこの狭い世界でお金も稼がず自己満足していていいのかと。その為に、昨年資格も取りましたが、切羽詰まった状況ではないのに仕事と家庭を両立する必要があるのか、仕事をして子供にさみしい思いをさせないか、子育てが落ち着いてからでもいいのではないのか、と。
掃除をきっちり、ご飯もバランスよく美味しく、整理整頓も引き出しの中まで見やすく、など全てやってもこのままでいいのかと分からなくなってしまうのです。外に出て自立して輝いてる女性を見るともどかしくなり、私だって出来るのに。のような気持ちになってしまうのです。なので、主人に対してもそういう気持ちもあり、夜飲みに行かれると不安になる気がします。
アドバイスいたたいた項目も全て読ませていただきましたが、そう感じている次第です。


 
一貫した「実践」のお勧め^^ / しまの
No.919 2014/06/25(Wed) 16:49:59

一つ一つの材料への取り組み

>日々の料理の腕の向上とありましたが、主婦ですので、掃除、洗濯、整理整頓、料理など家事に関してはいつもアンテナを張り色々情報収集しております。疲れたりしていても今までは完璧に…と自分を追い詰めるほどでしたが、
>掃除をきっちり、ご飯もバランスよく美味しく、整理整頓も引き出しの中まで見やすく、など全てやってもこのままでいいのかと分からなくなってしまうのです。

もちろん「主婦であれば料理の腕の向上に励めばいいんですヨ」といったおざなりアドバイスとして(^^;)言ったのではなく、そうした具体的テーマ、具体的場面状況一つ一つ材料取り組むことが大切です、というアドバイスである次第です。ちなみにそこで「料理」と出たのは、僕自身が今独身にて興味を感じている目標だったりして出た言葉という、ちょっと個人的理由もあり^^ゞ

重要なのは、というかハイブリッド心理学「取り組み実践」としては、そうした具体的材料において、
『概説 3.取り組み実践』 / 「取り組み実践」の3ステップ
説明している「学び」「向き合い」を、日々の日常生活と人生の場面の全てにおいて、一貫した実践として進めていくものになります。
ですので、

>アドバイスいたたいた項目も全て読ませていただきましたが

というのは今回テーマ一番関連しそうなもの幾つかピックアップしたものであり、無論それで話が終わるようなものではなく、こうした実践日々の日常生活と人生の場面の全てにおいて進めるために、
1)日常的な読書・・ハイブリッド心理学の著書の全てを通して、心の懐引き出しを肥やしていく
2)日々の実践・・目の前の事について、「学びと向き合い」を自ら進めていく

という2本立ての進め方よろしいものですと、常々お勧めしている感じです^^。

もちろんこう言っただけではまだ進め方が把握できないと思いますので、まずは『概説』などで全体を把握して頂くことから。
今回相談とアドバイスは、1回1回「学びと向き合い」サンプルを、お示ししたようなものということになります。


「目的思考」

「料理」というテーマ出したついでに、それについての「学びと向き合い」どうなるかと言うと、

・「目的思考」
という、思考法最も基礎的なもの取り組み課題になると言えるでしょう。
『概説 5.歩みの道のり (1)5つの「成長の段階」』 / 前進への基盤となる意識過程一覧表

「善悪」「評価」を「何のためには」という「目的」から考える思考
「何が問題・課題・望みか」からものごとに取り組む姿勢

記したものであり、対する未熟と病み形
「目的」を意識することのない「善悪」「評価」の思考
というものです。

料理の腕を、もっと美味しいものが食べたいから? 旦那に誉められたいから? もしくは子供のため、自身と旦那のため医学的考慮から栄養バランス面の向上
といった「目的」で考え、今何が必要か、目標はどんなものになるか、等々具体的に考える。
それで言うならば、

>全てやってもこのままでいいのかと分からなくなってしまうのです。

という惑いの原因少し見えてくるのではと思います。
まず言えるのは、「目的思考」ではなく「目的を意識することのない善悪評価の思考」で生きていることが、惑いの背景にある、と。

ただしそれが見えただけで、
>外に出て自立して輝いてる女性を見るともどかしくなり、私だって出来るのに。のような気持ちになってしまうのです。

霧散解消する訳には恐らく行かないでしょう。こうした「取り組み実践」日々の生活と人生の全ての場面で一貫して進めることで、
『概説 3.取り組み実践』 / 「学び」の主要テーマ
ざっと列記したような「学び」として広がり、深まっていくことが道のりになります。

それがどんなものになりそうかは、今の時点では何も言えません。一言でいって、一つ一つを積み重ねることなく、先は見えません。それが成長の歩みというものです。

そんなものとして、これからハイブリッド心理学の「取り組み実践」自ら取り組んでみることに興味を持てそうかどうか、検討してみて頂ければ、というになります^^。
実践の進め方一つ一つの材料ごと「学び」については、また質問頂ければ何でもアドバイスできますので^^。
その際新規トピックで良いかなと^^。


ノウハウの仕入れ方 / serori
No.897 2014/05/30(Fri) 19:05:26

お久し振りでございます。
今回も一つ、ご質問を投稿させていただきます。
お返事は急ぎませんので、お手すきの折りにお返事いただければ幸いです。

前回コメントをいただいた後も、

 問題分析→ノウハウの学習→問題解決に向けた行動→現実と、生じた感情の認知(余裕があれば、感情の根源の分析)

 という流れの繰り返しで、日常生活を送っております。おかげさまで、「自らの幸福に向けて、常に前進している」という自信がたくさん得られるようになり、人生って難儀だなあと思いながらも、楽しい毎日を送れております^^

 上述の「ノウハウの学習」の場面において、自分のやり方が適切な方法かどうか、また、他に良い方法があればお聞きいたしたく、ご質問させていただきます。近々、私の置かれる環境が大きく変わるため、大きな問題が生じた際になるべく煮詰まらないよう、できるだけいろいろな視点で問題解決への道が導き出せるようになっておきたいなあ、と思ってのことです。

 現在は、下記の方法にて、ノウハウの学習を行なっております。

 ・読書による情報収集
 ・インターネットでの情報収集
 ・親しい人に相談することでの情報収集

 どのように調べる際も、できる限り多角的な視点からのノウハウを得て、得たノウハウを実行した際の結末や感情を予想した上で、必ず自分の心で決めるように心がけております。

 具体的な問題についてのご質問ではないので、ご回答が難しかったら申し訳ないのですが、「ノウハウの学習方法」全般について、何でも良いので、ご意見、アドバイス、参考事例等いただければ幸いです。


 
「知恵とノウハウの仕入れ方」 概説^^ / しまの
No.904 2014/06/16(Mon) 12:12:43

>「自らの幸福に向けて、常に前進している」という自信がたくさん得られるようになり、人生って難儀だなあと思いながらも、楽しい毎日を送れております^^

何よりですね^^。

>「ノウハウの学習方法」全般について、何でも良いので、ご意見、アドバイス、参考事例等いただければ幸いです。

これについて、ポイントを一通り押さえるなら以下のような話になるかと。


「情報源」

>現在は、下記の方法にて、ノウハウの学習を行なっております。
 ・読書による情報収集
 ・インターネットでの情報収集
 ・親しい人に相談することでの情報収集


まず「情報源」としてはそんなところグーだと思います。ま「親しい人」というのは時にあまり知恵者でないケース結構あるかと思いますので、「頼る」という姿勢ではなく、「話題の中でヒントが出ることがある」という姿勢で、話題豊富に接するのが良いかと。

あとメディアとしては上記加え「テレビ」「新聞」ですね。
これについては
2010-06-24『自分の目で社会を見る(後)』
などでちょっと触れていますので一読頂ければ。
こんなことも言っています。ま「知恵とノウハウ」というより「社会を知る」というテーマで書いていますが、同じ目標の下にあるということで。この世界を生きる能力の向上ですね。
------------------
「新聞」であれば、朝日・読売・毎日三大紙のどれか、朝刊だけでも。
「TVの報道ニュース」は、自分としてどれを主番組にするか決めて、日課として見るのがいいでしょう。忙しさその他の理由でそれができないような生活は、何かが間違っています。
------------------



「アンテナ精度」

「情報源」そのようにあるとして、次に重要になってくるのは、そこでいかに「迷信」「偏見」といった誤り情報をつかむことなく、内容が正しく正確であるもの、そして自分に役に立つものを、すばやくつかめるかという、いわば「アンテナ精度」になってきます。
言えるのは、それにかなりの個人差があり、結果知恵とノウハウを豊富に手にしながら生きる人と、知恵のない生き方を続ける人というのが、かなり分かれてくるようだという印象

でその違いを生むのはかとちょっと考えたのですが、「自分自身への論理的思考」で生きているか否かが、一番大きいと思います。
そうであれば、正しく正確な、そして自分に役に立つ知恵とノウハウを、自然とすばやく手にするようになる。まあこれは何と言うこともない、「自分自身への論理的思考」が、正しく正確な知恵で生きるということそのものであり、そこにあける新しい知識の部分そうなるというだけのです。
一方「自分自身への論理的思考」生きていないと、誤った情報にも容易に惑わされ、結果うまくいかず、また何も知恵のない状態に戻る。最後までそれで行ってしまうことが考えられます。

何かのため新しい知恵とノウハウ仕入れるという以前に、普段の思考から「自分自身への論理的思考」をすることが決定要素だということになりますね。

「自分自身への論理的思考」説明としては以下など参照
『概説』 5.歩みの道のり / ・「自分自身への論理的思考」
『取り組み実践詳説』 3章 心の成長のスタートラインに立つ / 自分自身に対する論理的思考


「創意工夫、試行錯誤と現実における検証」

そうして正しい知恵とノウハウ仕入れた上で、また重要になってくるのが、「創意工夫」、「試行錯誤」と「現実における検証」です。
これは特に「自分に役立つもの」「自分にできるもの」として確定させるため必要になります。
どんなに正しい知恵とノウハウでも、自分には無理というものもある。例えば金がかかるものなど^^; (はがね)の筋肉素質のある人役立つトレーニグ法も、軟弱な身体素質の人(僕はこっちの方^^;)には無理になる。体に何か症状が出た時、同じもの(例えば頭痛)でも、原因によって正しい対処が必要になる。
結局幾つかの正しい知恵とノウハウから、「自分にできるもの」として「自分に役立つもの」を確定させるために、「創意工夫、試行錯誤と現実における検証」必要になってくるわけです。

その具体例として僕自身最近得たものなどあげますと、ちょっと恥ずかしい話ですが半年前くらいからお尻の肛門の周りが赤く腫れ強烈な痒み悩まされていたのですが、ネットで情報を見て「プリザエース軟膏」がいいらしいとのことで試すも、ちょっと利く感も錯覚程度で効果なし、もう医者に行くことも考えましたが、「単純なかぶれ」という原因の線も考え、下着に工夫し肛門周りにガーゼを当て皮膚同士の密着を避けるようにしたところ、これが効果てきめん1週間全快、という成果を得たなんてのがあります^^ゞ
まこれは「情報収集」から「原因結果の理論的思考」そして「創意工夫、試行錯誤と現実における検証」という一連の実践で成功した一つの例ですね。

こうした「自分に役立つ、自分にできるもの」というのは、生活習慣、食習慣、運動習慣といったものがまずこうした模索必要になるものでしょうし、対人行動、社会行動知恵とノウハウといったものも、結局自分の性格資質に合うものというのは、こうした試行錯誤も含めた模索が必要なんですね。決してうまくいっている人のものをそのままやってみればいいというわけにはいかない。


「自分を変えたい!」という気持ち

あとは最後つけたしですが、上述のような知恵とノウハウの入手活用先立ち「自分を変えたい!」という気持ちをしっかりと持つことが重要になりますね。これが結局全てのエンジンになる。
それを持ち続ける中で、情報収集から始まる上記実践の流れが、前進力あるものとして可能になる、ということになると思います。

ざっとこんなところで^^。
なお手前味噌ですが僕自身人生で必要な知恵については結構豊富に習得済みになれている今日この頃ですので、何か具体的に知りたいものあれば言って頂ければ手持ち範囲具体的アドバイス可能です^^。
なお最近僕自身がまだ不足しており欲しい知恵とノウハウとしては、料理の分野とかが筆頭なんですけどね・・。


 
Re: ノウハウの仕入れ方 / serori
No.918 2014/06/23(Mon) 19:01:24

アドバイス、ありがとうございます。

2010-06-24『自分の目で社会を見る(後)』を拝読させていただきましたが、まさにこの内容が、今の自分にとって大変重要であると思いました。
まだ起きていないミクロな問題への対処法を予測・予習するよりも、今あるマクロな問題への対策を講じる方が、大変効率的なのですね。
今は「わたしの考えた社会」を「社会」として捉えてしまう節がありますので、より現実に近い形で「社会」を捉える目を養っていこうと思います。

(御礼コメントですので、返信はどちらでも構いません)


罪と罰 / マリノ
No.899 2014/06/06(Fri) 07:49:41

島野殿

はじめまして
ハイブリッド心理学を知り、勉強させて頂いて1年たちました
先日不思議な体験をしました

ちやほやされたい、不機嫌な自分をなんとかしてほしい、世界の中心は自分というわがままな暴君凶暴な王子様が腹の底に感じられ、人に接する度に怒り、怒り狂い、憎しみ、憎悪が激しくなりました。1人になるとそれを忘れ、人に接するとまた暴れだします。
ある朝出勤途中、今日このまま心の地獄の中で仕事出来るだろうか。。。休みたい、ただマネージャーとしてやることは山ほどある。。信号待ちの間、周りを見ました。こんな自分の感情は、頭では理不尽と分かりながら、腹の底で意にも介さない王子様がいます。自分の存在とは関係なく他人は自由意志で動いている、とその時、2秒ぐらいでしょうか、腹の底から蛇がするすると逃げ出すように、王子様が忽然と消えてしまいました。もしかしてこれは、成長の節目なのか?1時の感情なのか?と思いながら1週間がたちました。今は心にあいた穴に、風が吹くのではなく、何か悠然としたものが収まっている気がします。今まで、その魂を痛めつけ、切りつけ、殺しつづけた殺人鬼としての自意識が受ける罪と罰という意味が分かってきたところです。人前では恐怖が全身に充満し地獄の責め苦を受けても仕方がないんですね。。未だにその苦しさとの戦いがのこりますが、そんな薄っぺらい自意識がのたうちまわっていても、腹の底には悠然としたものがあり自分を勇気づけてくれます。まだ道半ばですが、この状態が島野さんが示されている道しるべに沿っていることを祈りながら、この道をさらに進みたいと思います。


 
Re: 罪と罰 / しまの
No.905 2014/06/16(Mon) 16:17:09

>自分の存在とは関係なく他人は自由意志で動いている、とその時、2秒ぐらいでしょうか、腹の底から蛇がするすると逃げ出すように、王子様が忽然と消えてしまいました。もしかしてこれは、成長の節目なのか?1時の感情なのか?

間違いなく、成長通過点だと思いますヨ^^。
「心の依存」の中で、ちやほやされたい願望と、それが妨げられることへの怒り憎悪が起きるのですが、そもそも他人というのは他人自身のことで精一杯で、良くも悪くもこっちのことを注目の対象になどできていないのだ・・という「現実」感じる。その時「心の自立」への一歩を踏み出す同時に、「心の依存」の中で「意識」を超えて暴れていた何物かが、どこかに去っていく、ということになるのだろうと。

心の成長先日アップ
『概説』 5.歩みの道のり / ・「実践」とは何をするものなのか

実践では「心」を変えることはしない
書いたように、「意識」を超えて心の底で起きるものとして、それは時にかなりの不思議体験、神秘的体験として感じ取られることもあるかと思います。

引き続きぜひ、そうした「意識を超えた変化」に向かうための実践取り組んでみて頂ければ^^。


円滑な人間関係について / みどり
No.888 2014/05/22(Thu) 13:01:27

しまのさん、はじめまして。3〜4年程ハイブリッド心理学を参考にさせてもらっています。
21歳、女性です。

私は高校卒業後からニートだったのですが、先日からアルバイトを始めました。
デザイン系、2〜3人の少数で仕事をしています(私はその補助です)。環境としては、穏やかな人が多く、ルールもはっきりしているので、健康的な職場だと思います。
そういう職場で、円滑な人間関係を築く方法が知りたいです。
仕事のやりとりがスムーズになるような言葉遣い、声の出し方、ボディランゲージ、親交の必要性、、など。
内面は不安がおおかた占めています。

今まで積極的に人間関係を築いてこなかったので、些細な場面でどう行動すればいいのかわかりません。(分からないことを聞く時の声のかけ方など)よく協調性がないと指摘されます(_ _;)

質問の範囲が広いようでしたらご指摘ください。
それでは、よろしくお願いします。


 
広い視野から「人間関係」にアプローチ^^ / しまの
No.898 2014/05/31(Sat) 09:23:33

広い視野からのポイント^^

>質問の範囲が広いようでしたらご指摘ください。

まあ広ければ広いなりに、広い視野からポイントというのが出てきますね^^。
それで言いますと、一言で、

特定の集団での人間関係を良くしとうとするに当たっては、その特定の集団での人間関係を良くすることだけにとらわれずに、自分の人生の生き方の全てにおいて建設的な対処法を学ぶことを優先させ、その上でその特定集団での人間関係について検討するのが良い。
言えるかと。

まあこれもまた答えを聞く方範囲が広すぎると感じるかも知れませんが、それでもまさにそこにポイントがあるというになると思います。
つまり、とらわれて意識を狭くしないことが重要、ということですね。
とわられて意識を狭くすると、「うまく行かないのでは」という不安心の前面に出てきて、行動もこわばり、実際うまく行動できなくなってくる。で

>協調性がないと指摘されます(_ _;)
ということにもなるかも知れません。

ですので、ハイブリッド心理学からは、まずは「その集団での良い人間関係」にとらわれず「人生の生き方の全ての場面で建設的な対処法を学ぶ」というものから、まず意識して頂く、ということになります。


具体的場面での「建設的行動法」を幅広く学ぶ

とっつき方としては、「取り組み実践」というのは誰の場合も、
・日常的な読書で心の懐を増やす
・具体的場面での検討

2頭立て進めるのが良いというになりますが、

日常的な読書としては、
建設的行動法構成の把握「学びの主要テーマ」など)
・その具体的事例をなるべく沢山
 『実践編上巻』
 この読者広場(と言われても多すぎですね・・^^;)
  例えば 『悪口の回避について』 seroriさん No.583 2013/07/20 のトピック
 みたいに役に立ちそうなの結構ありますので、今後『事例集』として分類整理します。ちょっとまだご不便ご了承^^ゞ

そして具体的場面での検討としては、
まさに

>些細な場面でどう行動すればいいのかわかりません。
という「些細な場面」一つ一つについて、上記建設的行動法としてこうするといい、というのを学ぶというのを、日々積み重ねていくものになります。
そこで言えるのは、そうした「些細な場面」一つ一つについて、我々得てして勘違いなものを教えられて育ってくる面があります。「丁寧な論理的思考」で、一つ一つ検討し直していくことが大切です。
幅広く長い話になると思いますが、まずはそうした広い視点を持つことから始めて頂き、「些細な場面」一つ一つについてはまた何でも質問入れて頂ければアドバイス可能ですので^^。

>仕事のやりとりがスムーズになるような言葉遣い、声の出し方、ボディランゲージ、親交の必要性、、など。

については、そうした「建設的行動法」に応じて、ごく自然にできればいい、ということになると思います。まあそこで「ごく自然に」というのが一番難しい最初は感じるかと思いますが、「建設的行動法」学ぶのがその中自分なりのもの模索することで自然に見つかっていく、という道のり感でまず考えて頂くと良いかと思います^^。

そんな感じで、まずは「些細な場面」一つ一つ検討からになると思います^^。


本心を知って現実に向かいたいです。 / 今野
No.884 2014/05/15(Thu) 03:12:58

はじめまして、相談よろしくお願いします。

私は創作をしています。
漫画、小説、イラスト……わかりやすく言うとオタクです。(オリジナルの作品を作っています)
その、考えている、創っている途中の作品を完成させたいのですが、だいたいにおいて途中で投げ出してしまいます。

なぜなのか、ずっと考えて、どうにかならないかとあれこれ本を読み、感情を見据えようとしたり、自分に声をかけたりしていました。
けれどけっきょく、投げ出した作品に取り掛かることも情熱も取り戻すことは出来ませんでした。

そもそも私は報復のために作品を作っていました。
物忘れがひどく激しいのに加えて、子供の頃のことをあまり覚えていないのですが、思い出せる限りそう強く思ったことをおぼえています。
ただ、純粋にこんな面白い作品を自分でも書きたいと思って寝る間も惜しんで拙いものを書いていたこともあったんですが……なぜこうなったのかは思い出せません。

本当に創作が好きではないのかと聞かれれば、そんなことはないと言える程度には楽しんでいる自分もいる、とはいえ、こんな自分が創作好きと言っていいものなのかという想いもあります。
創作するのに資格も許しも要らないわけですけど……どうしても反射的にそう思います。
誇りや信念はあるんですが、それがまたまんまと自分を苦しめています。

私は、成功して自分をバカにした人間を見返してやろう!とか、この作品で真理を語り愚か者を攻撃、あわよくば目覚めさせてやろう!とか、その程度のクオリティの作品、私が真正面から叩き潰してやる!とか、そんな憎悪と軽蔑、優越感でものを作ってきていたのです。

気付いたいまとなってはあまりにも他者の存在に依存的で、本心のない生産行為だったなあと……
それで、他人からの評価に努力をつぎ込んで燃え尽きて、もう他人のために指一本動かしたくないとなったのが一つ。
そして優越感や攻撃性を端にした一時的な興奮で作っていたものに、批判される恐怖と批判的な自分が反射してきた完璧主義の自己批判で、「こんな面白くないもの書いて何になる」と途中で投げ出してしまうことが一つ。
(他人の作品のあら捜しをして貶す自称目利きどもを黙らせる作品を作ってやる!と怒りに任せて過去に選択してしまったらしいんですが、どうも詳しく思い出せない……)

そして、いざ作品を作り上げても自分の努力や成果を全く受け止められず、達成感や自信にフィードバックされないことが一つ。

自分を褒められないせいで私は何も書けていない、できていない、と思い込み、筆の早い人や多作の作者に尊敬と同時に激しい劣等感と嫉妬を覚えています。
これは、私は努力のできない継続性のない人間だ、と思い込んでしまったせいなのでは思っています。

あと、私の人格の問題点は、こちらでお書きになられている基本的不信の離反症状そのままです。とても自分のことを書いていると思いました。
基本的不信、というのはずっと感じていたのですが、それをどうすればいいのかよくわかりませんでした。
そしてイメージの中にいたままでは進めない、と書かれていたのを読み、なるほどと思いました。たしかに私は、問題探しばかりをしていたと思います。

けれど、建設的行動に出たとしても、気持ちは戻ってきませんでした。
この場合は、自分の満足のために作品を書き直すための草案を作り直すなど……、と解釈しています。

ノートを開く気にもなれず日がな別のことをしてしまう、開いてはみたものの何も浮かんでこない、無理に考えようとするとひどい抵抗感と疲労感で倒れてしまう……そしてどうしてこんなにだめなんだと自責が始まる。

それこそ、過去の傷や痛み、怨念を引きずっているせいではないか。
頑張ったのに報われない、評価されない、意味がない……あたりかと。
そう思い、最近はできるだけほとばしる思考を沈め、五感を感じてみたり、胸のわだかまりから湧き上がる感情を手招きしてみたりしているのですが、全く自分の本心が見えません。
そして、過去の感情もちっとも感じられません。いま自分が感じていることもわからず、自意識なのか感情なのかの区別もつかず困ってしまいます。

創作をすること自体も、あまりに評価されること、有能さをひけらかすことにばかり重きをおいてきたせいか、自分が本当はなにが描きたいのか、なにが好きなのかも無視して忘れてしまっているようなありさまで、いませめても心動かされるものを再び感じ取るように心がけ始めたところです。
さいわい少しは描いていて楽しい絵があるのでそれをぼちぼち描いたり、漫画を読んだりしています……

しかし、小説の方は本を読むことすら抵抗がひどく、元は活字の虫であったのに、よっぽど本心から好きなものでない限り読めなくなってしまいました。
これは、私がもう無理だ!!とキレてしまった原因が、小説の書き直しだったからだと思います。
そして、話は思いつくのに、どれもこれも退屈で、すぐに諦めるようになってしまいました。
漫画も小説も絵も、作業は楽しくもありますがとても辛く、今の自分の人格状態ではとても耐えられません。

私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。
そのために、本心と感情を理性につなげるようになって、建設的な行動に迎えるようになりたいです。
どうすればそうなれるのか、ぜひアドバイスをお願い致します。


 
島野の「創作」論・「本質」「技術」「職業化」^^ / しまの
No.886 2014/05/21(Wed) 14:40:26

ちょっとお待たせしました^^。
「創作とは何ぞや」というちょっと大上段テーマでの、島野の「創作論」など展開してみた次第^^。


「建設的行動」と「創作」

これはまず一言でいうと、一般的「建設的」という話ではなく
・創作活動の技術
というかなり特定テーマになってくると思います。

まず話の始めに、ざっと拝見しての印象を書いてみますと、「すでに答えが出せている感じですね^^」というもの。
つまり今まで
>そもそも私は報復のために作品を作っていました。

と、その結果
>気付いたいまとなってはあまりにも他者の存在に依存的で、本心のない生産行為だったなあと……
>そして、いざ作品を作り上げても自分の努力や成果を全く受け止められず、達成感や自信にフィードバックされないことが一つ。
ということであれば、
そうした要素抜きにして、純粋に自分自身で自らの創作に価値を感じることができる部分において、これからの進め方進み方を考えればいい
これがまず結論序段になりますね。

ところががそれから、
>けれど、建設的行動に出たとしても、気持ちは戻ってきませんでした。この場合は、自分の満足のために作品を書き直すための草案を作り直すなど……、と解釈しています。
>私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。そのために、本心と感情を理性につなげるようになって、建設的な行動に迎えるようになりたいです。
と、「建設的行動」「本心」といった言葉が出るにつれ、あれっと話がおかしな方向に流れているご様子^^;

もちろん外面において「建設的行動」徹すること、そして内面において「本心」向き合うことは、上述のような過去の振り返り踏まえて、これからの人生の生き方と行動法の基本的方向性と枠組みとするのが良いものになります。

一方、そこで「創作ができるように」というになると、がもう一般的な建設的行動法の問題ではなく、「創作活動」についての技術的ノウハウといった特定テーマになってくる。
一般に、ノウハウを欠いた行動をいくら「これが建設的」だと自分に強いたところで、それはうまく行くものではなく「建設的」見えて実は「破壊的」にさえなりかねません。
「ノウハウを仕入れることの重要性」というですね。これ自体「建設」という行動モード基本です。「建設」にはかならず「技術」が伴います。それがないと、精神論という誤りの方向性になってくる。


「創作の法則」

ということで、ここから「創作活動のノウハウ」「創作活動の技術」という各論、特定テーマになります。
また「職業としての創作はどう可能か」といったでもあるでしょう。
そこで手前味噌ながら、ハイブリッド心理学の執筆多少は「創作」であるという僕自身の経験を踏まえた個人的意見など展開してみると、ざっと以下のような感じ。

それを『概説』での「成熟の法則」といった呼び方にならい(話の内容的には関係なし^^ゞ)「創作の法則」言えるかと。
3つについて言うものになります。「本質」「技術」「職業化」について、答えを言うもの。

創作の法則

1.「創作の本質」 ・・・ 真の「創作」は、「技術」によってではなく、「遊び」によって生み出されるものである。

2.
「創作の技術」 ・・・ 創作ではない定型的なものに「創作」の衣をかぶせるものとして、「創作の技術」がある。
  また、
自分から創作を最大限に引き出すための意識法や作業手順などとしても、「創作の技術」があり得る。

3.
「創作の職業化」 ・・・ 上記2つの法則を踏まえ言えるのは、「創作の職業化」は、「創作の本質」においては本来不可能なものであり、「創作の技術」においてあり得る。ただし実際それが「職業」として成立するかどうかは、自分の努力でどうなるものでもなく、社会の需要とどうマッチするかによる。


職業進路としての創作の考え方

ご質問相談照らし合わせどういうこと手短に説明しますと、

まず言えるのは、「創作」というのは本来

>私はただ、もう苦しまずに創作ができるようになりたいです。
と、「できるようになりたい」と考えてできるものではない、ということです。「創作」なんてのは、できないのが基本^^;
今回の相談が、「創作ができるための方法」聞きたいという主旨になると思いますが、「そんなものはない」というのが答えだということです^^;
「方法」「やり方」分かってできるとは、「創作」ではなく「定型」もしくは「定常」の生産物だということです。
そうではなく、今までのものにはないものがあって、「創作」と言う。ならばそれが生まれるのは、「方法」「やり方」習得の中でそして先にではなく、「こうやれば」「こうやらねば」という「意識」とっぱらわれた「遊び」においてなんですね。

一方、一度「遊び」の中で生まれた自分の創作の、特徴的価値を把握し、それを「技術化」することはできます。音楽絵画などの芸術分野は、そうした「技術」かなりの幅広さ奥深さがあり、だから「職業」としてかなり成り立っていると言えるかと。
「技術」としての内実があり、社会的需要ともマッチしているから、ということになるでしょう。

一方ご相談の、

>漫画、小説、イラスト……わかりやすく言うとオタクです。(オリジナルの作品を作っています)

との「漫画」「小説」「イラスト」といった分野での「創作」は、「技術」としてはあまり際立つものはなく、いかに人に受けるかという不確定要素が大きくなると感じます。ま文章うまさという多少あるとして。
ですので、そうした分野でまず職業とすることができるためには、
・若くして鮮明なオリジナリティを生み出し社会的反響を得ることに成功した上で、それを多少とも「技術化」することができた場合
という、かなりレアケース限定されると思います。まず言って、なりたいと思ってなる職業ではない^^;
まあ「イラスト」については「創作」というより純粋な「技術」として扱えば、ウェブデザイナーなどの職業ありえるとして。(これは僕の知る限りもう創作というより力仕事に近くなるような・・)

ということで、「漫画」「小説」「イラスト」分野での「創作」については、まず僕の個人的意見としては、
・若くして成功し社会に持ち上げられる形で職業化するという経緯がなければ、基本は余暇の趣味として続けるのが良い。
というものになります。

そして趣味的に続ける中で、「創作の技術化」にも取り組み人生全体の流れとして「社会での仕事」についてはおおよそ自分にできることが見えてくるという40代50代頃に、残りの人生趣味的に行ってきたものに思い切って身を転じる、という転機向き合うこともあり得る、というものになります。
何かで「賞」を取れるようなことがあれば、もっと早めに検討することもアリとして。この場合も、結局まずは自分で選べるものではなく社会にどう受けるか受け身にしかなり得ない。
こうした人生の流れとしてのは、先日、芸人を目指しておられたmasaさんへのアドバイス同じものでしたので、一読されると参考になるかと。
『進路相談』 masaさん No.871 2014/05/01のトピック


創作の技術化

ということで、まとめると、
・まずは「創作」というのは、やろうと思って早々にできるようなものではないことを受け入れた上で、今まで自分が作ったものについて、まずは人にどう受けるか以前に、純粋に自分自身で自分の創作に価値を感じるのはどんな要素部分かの把握をする。
のがよろしい、ということになるでしょう。

まずはその結果次第ですね。どう進めるかは。
そこで「純粋に自分自身で自分の創作に価値を感じる要素部分」あるのであれば、それについて、多少定型的定常的に、多少バリエーションを変えたものを「創作」の衣をかぶせ作っていく「技術化」取り組みが、検討可能になります。

まずはそこまで話のメインになると思います。「創作」というのは、「建設的行動法」として自分に枠づけできるようなものではないこと、そしてまずは純粋に自分自身で自分のものに価値を感じれる部分どんなところかに、じっくり向き合う
そしてもし価値を感じられるものありそうであれば、そのさまざまなバリエーション自分から引き出すための、引き出しの豊富に持つようにしていくことですね。

それが「創作の技術化」部分になります。
引き出しそのものではなく、その創作引き出しの中というのは、もう「技術」ではどうにもならず、神様に任せるしかないようなもの(比喩表現です^^)になります。自分でできるのは、「自分」を超えて湧いてくる、たとえば言葉メロディ引き出すための、最初の導火線まず作ってあげることです。

そうした技術化できてくると、実際自分にどれだけの「創作」生産性があるのかも、見えてくるでしょう。
これはどんなに高めようとしても、「創作」そのものの話になり自分ではどうにもならないものになると思います。それに合わせるしかない。自分の尻を叩いたところで、創作は湧いてきません。鍵となる導火線用意するためにも時間必要だろうし、それを用意して「創作」本体火がつくのは、もう自分ではあまり努力してどうこうなるものでもなし、「待つ」という姿勢かなり重要になる部分出てくると思います。
先日ブログ5/17『概説』の続きについて「漬け込む時間」なんて表現をしているのもその一例^^。

そうして「技術化」までできると、自分人生生み出せる「創作」というものの全体像、それがどう金にできるものか否かといったことも含めて、おぼろげに見えてくる、という流れになるかと^^。
ちなみに僕の場合は金にはならないでオーケーという形でそれが見えてきた今日この頃^^。

いずれにせよ、まずは純粋な自分の楽しみ趣味として、上述一連の流れ追って取り組んでみるといいのでは、というアドバイスになります^^。


 
Re: 本心を知って現実に向かいたいです。 / 今野
No.887 2014/05/21(Wed) 22:31:03

返信ありがとうございます。
お待ちしてました。うれしいです。

しかし、申し訳ないことをしました。
とても考えてアドバイスくださったのに、私の書き方が悪かったり、私自身、意識の上の方の問題に囚われて、問題の認識を取り違えていたようで、誤解させてしまったというか……

島野さんの言葉はその通りだと思います。
だけど、それはもうすでに自分で一応「頭では」わかってるんです。
創作は楽しみから、遊びから生まれる。技術化についても、すでに取り組んでいます。
「自分が楽しめる小さならくがき」「いままでやりたいと思っていたけど、必要ないと思っていた小さなおもちゃ作り」「他人の作品を見ることによって得られる感動」「感動した時に、自分は何が好きでこんなに感動したのかという自己分析」などです。
(これは建設的行動に含まれると思うんですがどうでしょうか?違うのかな)

さらに言うと、これらに取り組んではいるものの成果があんまり見えません。好きなものの自覚がいくつか出てきてはいるので結果を早く求めすぎなだけかもしれませんが……
ちなみにそれらをやっていて生まれるのは「焦り」「不安」です。

私は創作を仕事にするかしないかは特に問題視していないんです。
それは書き込む前にmasaさんの書き込みとそれに対する返信をみて、「問題の取り違え」をしないように考えた結果でした。むしろ取り違えてた感満載ですけど。
仕事にするにしろ、余暇の趣味にするにしろ、私は物を描き続けます。何度もやめようと思いましたが、それこそ創作はやめたり続けたりといったものではないからだと思います。描きたくなったらどーあったって描いちゃいます。
その程度には自分が創作が好きなんだって自覚はここ数年でやっと出てきました。

しかし、このままだとどのみちほとんどの頭の中にある作品を描き上げることができない、ということが問題だと思っています。
私は形にしたいのです。それはいまのところ「すべき」も含まれてはいますが、それだけではなく。
頭の中でしかいなかったキャラクターが紙面上を駆け抜けていく感動は本当になにものにも代えがたく、これは数少ない「一応は完結した」作品を書いているさなか、一度だけ味わった、忘れないようにしている感動です。(鮮明に思い出すことができなくてとても悲しいのですが)好きだからこそ、形にしたいのです。
さらに言うと、その完結した作品は「完成してはいません」……途中まで楽しく作画してたんですがあまりの作業量の多さに嫌になり投げ出しました。作業ファイルを開いてもまったく情熱が戻ってきません。ほんの少し進めることができても、手応えがありません。

私は私の作品が好きです。ナルシシズムも多分に含まれていますが、それでも自分の努力や能力の反映、自分自身の反映、長年頭の中で想像を膨らませ物語を紡いできた愛着、好み、それらを含めて自分の作品が好きです。

けれど、それを形にしたとき、冷淡な態度しか取れないんです……
手応えも、達成感もない。仮にそのときあったとしても、忘れてしまって思い出せない。
そしてそれは、自分の中にある悪感情のせいだというのもわかってきたんです。
それは書き込ませていただいた、報復による生産活動の虚しさとか、そういうことだと思うんですが。
そもそも純粋な楽しみや趣味としてなにもできないのは、「私は下手(無能)ではいけない」からです。

……って書いててふと気付いたんですけど、これって鏡に映った自分に見とれる心理なのかもしれませんね。
私は『有能さ』の業を背負っています。自分の作った作品に、他人からの評価を持ち込んで見ては自己陶酔に浸っているんじゃないかと思います。
これじゃいくら他人のために書かないと思ってもダメなんじゃないかなあって。
自分の自分による自分のための視点、っていうのを取り戻せればいいんでしょうが……

そして前置きが長くなったんですけど、
創作ができるかどうかが問題ではなく、この有能さの業からどうやって抜け出すか?こそが本当の問題点なのだと思います。
なぜなら、傲慢さとっぱらうことができれば創作に向かった時に現れる悪感情を解消、そもそも出てこないと思うのです。
頭の中で階層として考えると、
創作について>有能でなければ価値のない自分>傲慢さ>基本的不信って感じでしょうか?

で。

私はつまり、「有能でなければ価値のない自分」というのに起因する悪感情にそもそも苦しんでいるのですが、頭ではすでにそんなことはないとわかっています、一応……。破壊的行為(嫉妬から他人に攻撃したり悪口を言ったり)もほとんどしてないつもりです。

悪感情を生む大元の記憶、傷つきや悲しみ、流せない感情の解きほぐしをしたいんです。
でも、私は自分の本心を探るのがどうもとても苦手です。
なかなか思い出せないし、あまり感じられない……。
ひとりでできるエンプティチェアメソッドとかもやってみたんですがダメでした。
ちょっとだけうまくいったことがあって、親に対する文句を言いながら涙を流したら「大卒」への嫉妬が随分楽になったんですけど……

基本的に自分の思考にも感情にも集中できないというか、なにかに邪魔されている気がします。考えていられなくて、すぐに別のところに考えが流れてしまう。
それでも徐々にいろんなことに気がついてここまで回復しましたが、まだなにか「すりガラスの向こうに重苦しいものが眠っています」。
ずっとひとりで悩んでたんですが、自分での気づきに限界を感じ、こちらに書き込ませてもらいました。
具体的なコツや、導きを得られないかと思って。

やっぱりこういうのって嫌な思い出とか来歴ごと相談するほうがいいんでしょうか?
あ、でも「有能でいなければ」、というのはだいたい父親のせいというか
父親との競争に負けたせいなんだろうなあっては思っています。
私は父にじわじわと馬鹿にされ続けてきたので。
子供の頃の自分は、それをひどく傷ついたと受け止めたんでしょうね。
(いまちょっと悲しさが浮かびました。うれしい)

あんまりだらだらと書いてしまうのもご迷惑かもと思うので、
いちどこれで相談させてください。
よろしくお願いします。


 
創作技術とハイブリッド心理学取り組み^^ / しまの
No.896 2014/05/30(Fri) 12:23:27

う〜んこれはやはり、
1)「創作」なんてもともとそう簡単にできるもんじゃないという素朴な話^^;
と、
2)心の成長一般の話

という2つ視点からになるのではと思います^^。

まず1)については、
「技術化」引き続き取り組みとして、自分で好きなのはどんなところかを把握するのとに、完成できない、形にしたとき自分で冷淡な態度というのは、どんな要素部分においてどう感じるということかを分析する。
「創作要素語」しっかり分析することが大切です。「言葉がうまくアレンジできない」といことか、「ストーリーが尻切れ」ということか。等々

一方、

>創作ができるかどうかが問題ではなく、この有能さの業からどうやって抜け出すか?こそが本当の問題点なのだと思います。なぜなら、傲慢さとっぱらうことができれば創作に向かった時に現れる悪感情を解消、そもそも出てこないと思うのです。

については、ちょっと詳しい状況が良く分からないです^^;
「傲慢さをとっぱらう」について言えば、ハイブリッド心理学からは、
『概説 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』
での
2.具体的場面での応用の「学び」
記したように、
 −日常生活、仕事場面、人生の進路選択
 −交友、恋愛、家族などの対人関係
 −心の病の傾向への対処

というように、生活そのもの、人生そのもの、そこでの対人行動や進路選択、仕事場面といった具体的材料ベース取り組むものになります。これはもう創作とは別の「現実場面」でないと取り組めないものになると思います。
そこで「傲慢」の克服というであれば、一言でいえば、
「傲慢さを取り去る」のではなく、それを超える建設的な思考法行動法と価値観を築く
という取り組みになります。
それによって自ずと、「傲慢」心の根底から去っていく、と。
長い取り組みであり、大よそ『概説』詳しく『取り組み実践詳説』説明しているものになります。

ともかくは、
・創作についてはあくまで詳しい具体的創作要素ベースでどんな悪感情妨げが起きているかの分析
・創作以外の生活と人生の場面について、これも具体的場面ベースで建設的行動法と価値観への取り組み

という2つのアプローチがあると理解頂くと良いかと。その2つ合流した時、創作への妨げ取り去られるかも知れない。
ただ創作というのは元々とても難しいものですので、何か妨げを取り去ればできるようになるというようなものではないかも知れず、あくまで
・創作の作り込み過程そのものへの取り組み
・長い人生での成長が、いつかまた創作を豊かにする

という2面への目持つのが良いかと思います。

ちょっと「ハイブリッド心理学で創作への妨げを除去」という感じのアドバイスにならない点もの足りないかも知れませんが、
・創作についてはあくまで創作技術検討
・ハイブリッド心理学については他と変わりない「取り組み実践」の手順検討

という形で、ハイブリッド心理学についてさらに関心持てそうか検討頂くと良いかと思います^^。


喜べる「多少の不運」とは? / (5/16に頂いたブログコメント)
No.893 2014/05/26(Mon) 10:20:16

さてこれもちょっと遅くなりましたがコメント返しておきたいと思います^^。
5/16に、ブログ
写真と言葉 2010-06-21『多少の不運は喜びましょう』
コメント入れていただいたもの。

ブログ記事言葉はこんなものでした。
幸運で生きていられるばかりだと、人間がふやけてしまいます。
多少の不運は喜びましょう^^。



頂いたコメントはこのようなもの。

人間がふやけた状態とは、たとえばどういうものでしょうか?

不運にも身体障害を負った私にとっては、不運に遭わなかった人たちがまぶしいです。

不運に遭わない人生よりも、取り返しのつかない不運に遭う人生のほうを選びますか?

「多少」の不運とは、どこまでのことでしょう。


 
答えは「命」が出します^^ / しまの
No.894 2014/05/26(Mon) 10:22:09

「人間がふやけた状態」

まず「幸運ばかりで人間がふやけた状態」というのは、たとえばちょうど今もその某事例騒がしいですが、芸能人の不祥事ニュースです。典型的なのはやはり違法な薬物ですね。
あとはお騒がせセレブなど。海外の資産ウン千億ウン百億円富豪のご令嬢などにおりますね^^;
これらについての詳しい話を書くのは不要かと^^。

そうした人の様子を見た時、「幸運ばかり」というのは実はあまりよろしいことではないのでは?という目線を、そうした「幸運ばかり」ではない我々一般庶民(^^;)としては持てるかも知れない、というになります。
上記の言葉はそれを表現したものですね。

ですので、「喜べる多少の不運」とは、まずはそうしたレベルでの「不運」だというになると思います。アイドルになれなかった、大金持ちの家に生まれなかったという「不運」^^;
ですので、もっとあからさまな不運、たとえば書いて頂いた身体障害のようなものへの向き合い方については、もうこの言葉の範囲ではないことを、ご了解頂ければと思います。


ハンディを原点とした生き方

それでも、その上で、もっとあからさまな不運さえも、後から振り返って見れば実はそれによってこそ自分は幸福を得た、と感じられるような人間の生きざま、人生のあり方もあることを見るのが、ハイブリッド心理学です。だからこそ、「多少の不運」については上記のような言葉が浮かんだ次第でもあります。

ではその「あからさまな不運」さえも、「それによってこそ自分は幸福を得た」後から振り返って喜べるものになる可能性のある生き方とはどのようなものか。
それはもうとてもではありませんがここで短い文章で説明することはできませんので、ハイブリッド心理学とはそうした可能性のある生き方全体探求している心理学ですという紹介に、ここではとどめさせて頂き、ご関心あればまずは『入門編』無料電子書籍版あります^^)など手ごろな読書から始めてみて頂ければと思います。

たとえば関係しそう文章として、こんな部分があります。さわりの言葉だけですが、こんな話をする心理学ですということで。
---------
 「もうこれでは生きていけない」という悲惨な状況に置かれて、逆に人生の喜びを見出した人の話も、示唆に富むものがあります。
---------

『入門編上巻』 P.267

は何よりも、ハンディがあることこそを基準、原点とする人生観ですね。
そうした例先日朝日新聞連載されている患者を生きる』シリーズで見かけたことがあり、健忘録がてら書いておこうと思ったものがあります。

5/17(土)朝刊生後まもなく目にできるガンで、以前なら眼球摘出しかなかったものの、今は温存する治療入退院を繰り返し、片眼の視力0.04程度という13歳の少年言葉
「自分は病気とともに生まれてきて、病気とともに生きてきた。だから、病気が自分の人生を妨げているとは思わないし、何かをあきらめたりもしない」

これを読んだ時は、としてもう〜んこれは唸って感服した次第


取り組み実践・「命」が出す答え

ただしハイブリッド心理学は、そうした言葉引き合いに出して、「こうは感じることはできませんか」「ぜひこう感じるようにしましょう」「感じ方」を変えようとすることに取り組む心理学ではないことを、ご理解頂ければと思います。
上記ブログの言葉にしても、「喜びましょう」とは言っていますが、ハイブリッド心理学そのものは、そのように「こう感じるようにしましょう」「感じ方」枠づけ枠はめするのとは、むしろ逆の取り組みをするものです。

ハイブリッド心理学実際に行う意識実践を、「取り組み実践」と呼んでいます。
これは一言で、
  *   *   *   *   *   *   *
「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」
という「感情と行動の分離」姿勢実践を携え、
自ら「望み」向き合い「望み」に向かって全てを尽くして生きる
  *   *   *   *   *   *   *
というものです。
『実践 - 3.取り組み実践 / ハイブリッド人生心理学の「取り組み実践」とは』
この
「取り組み実践」全体、そしてそれによる「成長」全体については、今掲載中『概説』などをまずは読んで頂ければと思います^^。

ですので、「不運」実際に出会った場合についても、それについて「こう感じるようにしましょう」ではなく、まずは上記「感情と行動の分離」内面感情側「ありのままに流し理解する」になります。

この点は、ブログ『写真と言葉』カテゴリーはもともとハイブリッド心理学そのものの説明ではなく、付録的手軽に楽しめる言葉集のようなものとして、あまりハイブリッド心理学内容を厳密正確に伝えるものではないことを、ご了承頂ければと思います。
もちろん全く違うことは言うものではなく、ハイブリッド心理学主旨合ったものとして。上記ブログの言葉については上述の通り。

では「あからさまな不運」について、ハイブリッド心理学取り組みからはどうなるのか一言でいいますと、こう言えます。
ハイブリッド心理学では、そうした出来事の一つ一つだけを個別に取り上げて答えを出そうとするようなことは行わず、あくまで、生き方の全体に取り組みます。この点では、いかなる人生の状況においても、取り組みの歩みは同じものになります。
同じ取り組みの歩みとは、私たち自身の中にある「命」を開放することです。
そして、自分が嘆いた「あからさまな不運」とは一体自分の人生においてどんな意味のものであったのかの結論は、この薄っぺらい「自分」ではなく、「自分」とは別のものとして私たちの中にある、「命」が出すのです。


まあこれが、「多少の不運」ではなく「あからさまな不運」をテーマにした時の、「言葉」になるでしょう。
そのようなものとして、関心を持てそうか、上述の通り手ごろな読書などから検討してみて頂ければ^^。

なお「取り組み実践」としては、上記例のような「ハンディから生きた人」情報沢山接することが、基本中の基本になります。
一方で、自分どんな人の姿羨望を感じているのかも、「ありのままに流し理解」することも。それを込みに、生き方の全て取り組むものになります。


次は別の人生を^^

あとこれについては、

>不運に遭わない人生よりも、取り返しのつかない不運に遭う人生のほうを選びますか?

最終的に「これがあってこそ自分は今の幸福を得た」と感じられることと、「もう一度生まれ変われるなら同じ人生を」と感じることとは、話が大分別だと考えていいと思います。

たとえば僕自身について言えば、身体の障害ではなかったですが心の面での障害によって結構苦労した人生ながら、まさにそれによって今の幸福があると感じています。
で、もう一度同じ人生を繰り返したいか問われれば、「もういい」というのが正直な感想です^^;
一つは、ほんとに幸福感が増えてきている今日この頃なのですが、そこに至るまで長い灰色の年月同じように、というのはもう面倒、という感^^;
ただまあ人の人生本当の幸福なんてのは、そんなもんだと思うわけです。自分では望まざる困苦先にこそそれはある。それを抜きに、最初から願い通りの境遇で生きることを望んだ時、まさに人間がふやけてしまうことが起きるわけです。
またこれが年齢を重ねる幸福だとも感じています。若さとは未熟であり、未熟とは苦しみです。若さを失うことで幸福が消えていくしばしば人は考えるかも知れませんが、それとはに、老いるほどの幸福がある。だから、今幸福だというのと、同じ人生を最初からまた歩みたいかというのは、話が全然違う

そしてもう一つ言えるのは、どんなものであれ十分に生き尽くせた、満足感のある人生というのは、次に生まれ変われるとしても同じ人生を、と感じるものかどうかは、どうもそうとは言えないように感じる次第です。
一言でいって、今の人生を生き尽くしたなら、もし次に生まれ変われるとしたら、またちょっと違う人生に挑戦してみたく感じるのではと。

これも関連してちょっと関心した言葉があり、某飲料製品でのザッケローニ言葉
「もう一度人生をもらえるとしたら、二十歳の時に病気で諦めたサッカー選手を目指すだろう。でももう一度監督をやる必要はない。何故なら、この人生で私は、すべてを出し切るからだ」
もし生まれ変われるとしたら、同じ人生というのはもういい。それは今の人生満足していないということではなく、全く逆に、今の人生で自分にできること完全にやり尽くした、という、最大限の満足表現している言葉ですね。

ということで、まとめれば、結局今を原点として全てを尽くして生きるしかないと思うわけです。幸運不運というのは確かにある。だがそれが自分の人生で本当にどんな意味を持つものになるのかは、全てを込みにして最大限に生きたにしか分からないということですね^^。


向き合い / こたろう
No.881 2014/05/11(Sun) 10:06:07

あらためて、向き合い、というのが
出来ていなかったなと感じます。

なんとなく理解して、そういうことだな、
じゃあそうしよう。という感じで、
自分の中の既存の価値観や反発を
聞いたふりをしながら
徹底して納得するところまで
新しい考え方や先行きの展望まで
と照らし合わせながら、考えていく。
こういう作業をしないで、感情が悪化するごとに
「人と打ち解けられない」など検索して、
それらしい答えをみつけて少しだけ感情が安定する。
こういうことを繰り返してしまっていました。


一つ一つ論理をおって納得するまで
説明されるという環境ではなかったので、
様々な部分で「こう思っておけばいいんだろうな」
という癖がついてしまっているんだと思いました。
まずはこういう論理をおって選択していくという
部分が土台として必要なんですよね。


疑問に感じた部分はとことん整理して質問
させていただきたいと思います。


向き合い、にかんしてですが、
「いまはこれしかない」という行動なり価値観は
自分の内面の感情が1つの方向に向かうような感覚
ではなく、感情の大きな部分は反発や恐怖感や逃げ出したい気持ちであっても、その底にある「長い目」で先を展望する部分が納得する、という感覚に
なるんでしょうか。


例えば、先のレスで
「打ち負かし自尊心」の話がありましたが、
打ち負かし自尊心と交友は共存できない、
という事を心に提示してみると、
納得しているけど出来ないという感覚なのか、
納得できない、例えばヤンキーであったり、男っぽくて
攻撃性が高いタイプの人は、交遊を持ちながら時に
相手より自分を大きく見せたいとか、競り合ったりとか
しながらそれでも友情を維持しているようにみえる人がいる。


それから破壊から自衛、建設へ、に
関しては、喧嘩するほど仲が良いという言葉が
あり、僕の叔父夫婦はこれを体言している気がします。
実際、やいやい言いあいをしていても逆にそれが
爽やかで、子供もあっけらかんとした性格に育っているケースがよくある気がします。
まあこれは、喧嘩しているからというよりは
お互いが信頼しあっていてリラックスしているのが
伝わるからという部分が、喧嘩している以外の時間に
みえるからかもしれませんが、
こういう例外?的なものが新しい価値観を学ぶ度に
出てきてしまって、心が一つの取り組みの方法に向かない事が多くありますね。
でもこういう細かいひっかかり感をその都度
見つめていかないと、自分の心に対する押しつけに
なるんですよね。


 
Re: 向き合い / こたろう
No.883 2014/05/13(Tue) 23:06:34

●自己の重心、価値観

価値観を見直すという作業で、
そうはいっても人は...から
自分はどう思うのか?
へ問いを深めていく、という事を
してみると、
価値観というのはほとんど
「そう思うものなんだな」
「そういうものなんだな」
で構成されている感じがしました。

本音がはっきりとわかりやすいのは、
それがどうであれあまり他者からの評価に
影響がないもの
(例えば好きな食べ物、虫が好きか嫌いか)


そうでないものは
社会的な客観性というのを自分なりに
解釈した上で価値観にしているものが多くある。

それを好きでいることによって
または嫌いであることによって、
人にどう思われるかという自己イメージに
大きく関わるもの(グロ映画好きとか、
自然好きとか、
動物嫌いであるとか、子供が苦手とか)


好き嫌いを越えて、それについて
どう思うか、というのも
同じく人にどう思われるかという
自己イメージに大きく関わるほど
本音が見えづらいですね。
(原発推進、戦争について、
障害者について、など)


こういったものは
自分はどう思うのか?ととうても、
それが自分の価値観なのか?
他人の価値観なのか?
よくわかりません。


こういった場合、
もしも他人一般(あくまで自分の接した世界から考えているだけですが)が自分の価値観や感じかたを評価するという目のイメージを廃した時に
自分はどう考えるのか?感じるのか?
という向き合い方が
「自己の重心」と考えていいでしょうか?


例えば怠惰な若者に怒りを覚える感情がありますが、
その感情が沸くときに「50代くらいの大人」のイメージがともなって、彼らがけしからん!だらしない!と怠惰な若者を評価するイメージが湧きます。
この時、自己の重心にもとづいて自分はその怠惰な若者をどう考えるのか、と思うと、もしもその50代くらいの大人のイメージが「気楽にやろうよ」といった怠惰な若者たちへの友好的な態度だとしたら、
自分は怠惰な若者に怒りを感じることはない気がするのです。


これは教室の中の依存世界思考そのまま
な気がするのですが、
ようはどう感じ考えるのが
評価される人間なのかという目線で
周りを観察してきた結果ですよね。
その価値観に論理的な根拠や
様々な価値観が同じような構図で自分の中に
あります。


で、先の自己の重心についていうと
もしも自分等の世代しかいなくて、
イメージとして、出てくる50代くらいの大人
が存在しなかったら...
とかんがえると、怠惰な若者に怒りを
感じないかもしれない。

でもこれは現実の社会に存在する
価値観を無視している気がするので、
なんか違う気が...


ようは自己の重心というのが
よくわからないというか、
自分がそう感じている、というのは
自分が受け入れられたい、あるいは
受け入れられることによって育った共同体が
そう感じている、というものばかりに
なる状況なのですが、
これをどう考えていけばいいのでしょう。


 
「本心からの価値観」への道^^ / しまの
No.885 2014/05/16(Fri) 11:20:50

前進への心の土台

>様々な部分で「こう思っておけばいいんだろうな」 という癖がついてしまっているんだと思いました。 まずはこういう論理をおって選択していくという 部分が土台として必要なんですよね。
>向き合い、にかんしてですが、 「いまはこれしかない」という行動なり価値観は 自分の内面の感情が1つの方向に向かうような感覚 ではなく、感情の大きな部分は反発や恐怖感や逃げ出したい気持ちであっても、その底にある「長い目」で先を展望する部分が納得する、という感覚に なるんでしょうか。

大体その通りです^^。ま理論を追ってというか、とにかく「自分にとって本当に確かなこと」積み上げによって「選択」をしていく、というのが土台ですね。今まで「これが本当に確かだ!」と感情で考えたようなことも、いったん解体するようなことも含め
まさにそうした「本当に確かなこと」積み上げをする目が、納得するものということになると思います。

>こういう例外?的なものが新しい価値観を学ぶ度に 出てきてしまって、心が一つの取り組みの方法に向かない事が多くありますね。 でもこういう細かいひっかかり感をその都度 見つめていかないと、自分の心に対する押しつけに なるんですよね。

これもその通り。ずばり、細かいひっかかり感じっくり向き合い分析することこそに、前進への鍵があるといえるでしょー(@_@)/ (←ちびまる子ちゃんに出てくる「まるお」君調で。いやおふざけ失敬^^ゞ)
でここでのひっかかりは、「本心からの価値観」「それとは似て非なるもの」というテーマになると思います。後者が混入すると、ちょっと混乱が生じる。


「本心からの価値観」と「似て非なるもの」の違い

ということで「本心からの価値観」「それとは似て非なるもの」違いについてざっと説明しますと、

まず「似て非なるもの」つまり「本心からの価値観でないもの」について書いてみますと、次のようなものがあるかと。
まず考えられるのは「建前思考」
・自分への建前思考 「こう考えるということにしておこう」
・人に賞賛されるための建前思考
 「こんな価値観の私どう?」

あとこれもちょっと違うというのは、「好き嫌い」「魅力感」ですね。スポーツたとえばスキー好きというのは、「価値観」というのとはちょっと違いますね。単なる趣味嗜好好き嫌い問題。一方「スキーのようなウインタースポーツこそ心身を強く健康にするものであり、誰もがするべきである」といった意見を持つとなれば、それは「価値観」言えるものになってくる。

そのように、「価値観」というのは、どう行動するのが良いかについての「意見」「考え」です。
それが「本心からの価値観」であるためには、やはりまず上述のように「自分にとって本当に確かなもの」を選ぶという心の土台があって、そこにおいて持つものですね。
「建前」でなく。ということは、それは実際自分が人生でどう行動するのかの、自分としての一種の「作戦」「戦法」になるということです。こうした行動法であればきっとうまくいく。それを確かなものと感じ、実際そのように行動する。そしてそれによって、実際「幸福」へと向かうことができる。そうした機能果たすものが、「本心からの価値観」です。
に言えば、そうした機能を果たすことなく、表面上は価値観の衣をかぶったものが、「似て非なるもの」ですね。


まず「似て非なるもの」から抜け出す

ということで、

>打ち負かし自尊心と交友は共存できない、という事を心に提示してみると、納得しているけど出来ないという感覚なのか、納得できない、例えばヤンキーであったり、男っぽくて 攻撃性が高いタイプの人は、交遊を持ちながら時に 相手より自分を大きく見せたいとか、競り合ったりとか しながらそれでも友情を維持しているようにみえる人がいる。
>それから破壊から自衛、建設へ、に 関しては、喧嘩するほど仲が良いという言葉が あり、僕の叔父夫婦はこれを体言している気がします。

これはまずは、「間柄の様子」ですね。多少ともぶつかり合える、喧嘩もできるというのが仲の良い魅力的な姿見える。まこれは理解できる話です。もそうした、互いに全てをさらけ出し合える間柄魅力感じた日々も、以前にはあったかも知れない。

だからと言って、「喧嘩できるのが仲の良いこと」考えるとなると、それは一種「価値観」となり、ホントにそれでうまく行くのかと、「選択」しなければならないものになってきます。
これについて分かりやすいのを「サザエさん」で見たことがあり、「喧嘩するほど仲が良い」という言葉を信じたタラちゃんが、仲良くなりたい相手ケンカをふっかけて嫌われてしまい泣くシーン

そんなものとして、「選択」しなければならないわけですね。「喧嘩するほど仲が良い」ホントウソを。「自分にとって本当に確かなこと」において。
僕の考えとしては、まず言ってそれはウソです。喧嘩ばかりする間柄度を越した時、夕方のニュースで流れる事件起きてしまうわけです。僕の行動法価値観としては、喧嘩もできるような姿理想とする要素は、微塵もなしです。

もちろん「選択」自由です^^。
まあ実際の話攻撃性破壊性多少ありながらも仲がうまく行くというのは、当人同士性格資質その他の条件薄氷のバランス、つまりその相手であれば「楽しみの共有」攻撃性破壊性何とかカバーできるというバランスによって、ごく限定されたその相手とだけはうまく行っているようだが、他の人間関係全般概して悪いということに、どうしてもなってしまうと思います。

あとはやはり、「建前思考」混ざって混乱という感じかもですね。

>価値観というのはほとんど 「そう思うものなんだな」 「そういうものなんだな」 で構成されている感じがしました。
自分への建前

>それを好きでいることによって または嫌いであることによって、 人にどう思われるかという自己イメージに 大きく関わるもの(グロ映画好きとか、自然好きとか、動物嫌いであるとか、子供が苦手とか)
人への建前。これは建前の価値観というより、建前のキャラというテーマですね。こうした好き嫌いの僕ってどう?と。

>同じく人にどう思われるかという 自己イメージに大きく関わるほど 本音が見えづらいですね。(原発推進、戦争について、障害者について、など)
これは「価値観」テーマになってきますね。

いずれにせよ
>こういったものは 自分はどう思うのか?ととうても、 それが自分の価値観なのか?他人の価値観なのか?よくわかりません。
分からないということは、自分の価値観ではない、ということになると思います^^;


「本心からの価値観」への道

ということで、まず「似て非なるもの」について、「本心からの価値観」ではないことを見分けていく。
同時に、自分の「本心からの価値観」はどんなものか?問うのが良いでしょう。
問い方としては、

>もしも他人一般(あくまで自分の接した世界から考えているだけですが)が自分の価値観や感じかたを評価するという目のイメージを廃した時に 自分はどう考えるのか?感じるのか?という向き合い方が 「自己の重心」と考えていいでしょうか?

というもので大よそokです^^。まあ人がどう見るかというのはあるとして、見られもしない自分の安全な心の部屋の中ではどう考えるか、とじっくり考えてみる。
人の手前では表に出さないけれど、実は自分ではこう思っている、とぺろっと舌を出して考えるようなものもアリとして。

そこで「自分の価値観」すぐにははっきりしないこともあると思います。その時はとにかく、「価値観の論理的意味」を自分としてしっかり理解することからです。

>例えば怠惰な若者に怒りを覚える感情がありますが、その感情が沸くときに「50代くらいの大人」のイメージがともなって、彼らがけしからん!だらしない!と怠惰な若者を評価するイメージが湧きます。この時、自己の重心にもとづいて自分はその怠惰な若者をどう考えるのか、と思うと、もしもその50代くらいの大人のイメージが「気楽にやろうよ」といった怠惰な若者たちへの友好的な態度だとしたら、自分は怠惰な若者に怒りを感じることはない気がするのです。

というものであれば、「だらしない」とは何をどのように損なっているということか、それはどのように問題があるという話か、といった論理的な思考しっかり把握する。

ここで「目的思考」vs「目的なしの善悪評価思考」というのが重要なポイントになります。
まず我々「目的を問うことのない善悪評価思考」植えつけられて育つ面がります。働くことが善、働かないのは悪というように。
そうした「目的なしの善悪評価思考」から「目的思考」転換することも、ハイブリッド心理学としては「価値観」への取り組みでの必須実践項目になります。

同時に、「原理原則思考」取り入れる学校の道徳の授業では「目的なしの善悪評価思考」ばかり話されますが、「現実の社会」に出ると「原理原則思考」勝つものになります。正しい「原理原則思考」ができることは、社会を知るということでもあります。
それで言うなら、僕の思考など例に出すと、働くも働かないも基本は人それぞれの自由、どうこう言うのは余計なお世話、働かなくても食えればラッキー、でもそうは問屋が卸さないので必要あらば働くという話ですね。まあ国の仕組みとしては働き手がいないと税の収入も途絶え年金制度なども危うくなりますので、皆が働くのはまあ良いことではありますね。しかし老いていく人間が働かない若者をだらしないと怒るというのは、結局自分の年金が心配だからというエゴかも知れない、といったになる。

そのように、「自己の重心」であり、さらに「目的思考」であり「原理原則思考」といった、今までとは違う思考法学ぶ中で、自分としては本当にどんな価値観を今持つのかに、向き合う
これは結局「自分にとって本当に確かなこと」選んでいくという「自分自身への論理的思考」一番基礎の土台として、その上「全ての学び」つまり

『概説 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ』
での各種テーマ項目
『概説 - 5.歩みの道のり / 前進への基盤となる意識過程 一覧表』
にまとめた心の土台

といった全ての学びの中で、次第に築かれていくものだということです。

ということで、一言
まず「本心からの価値観」と「似て非なるもの」を見分け、「本心からの価値観」に取り組み始めることが、同時に「成長」の始まりである。
そこで「本心からの価値観」は、「こう考えられればok」というものではなく、自分に問い続けることができることに意味がある。さまざまな視点で自分の「本心からの価値観」を問う歩みの中で、「成長」が目に見えないまま前進し、それによって心のあり方の全体が少しずつ変化する。そしてそれによって「本心からの価値観」として感じ取れるものも、徐々に変化していく。
「成長」とは、最後までこの繰り返しである。

言えるかと。(「一言」よりはちょっと多かった^^;)

それが
>自分がそう感じている、というのは 自分が受け入れられたい、あるいは 受け入れられることによって育った共同体が そう感じている、というものばかりに なる状況なのですが、これをどう考えていけばいいのでしょう。
への、ハイブリッド心理学からのまずは答えですね。

その長い道のり向かうということです^^。


進路について / masa
No.878 2014/05/05(Mon) 23:36:01

アドバイスありがとうございます。
コメントの文字が意味ごとに色分けしてあり、いつも見やすいです。

選択肢の挙げ方もやはり目的思考をベースにしていないからこうなってしまっているのでしょうか?

島野さんがおっしゃるとおり、僕は就職が嫌だと感じていたんだと思います。皆と同じことをして地味に生きたくない、自分は特別だ!という気持ちからなんだと思います。就職していく人を軽蔑していました。今は平凡な人生でもいいのでただ成長成熟したいです。

出来るのは社会を知ることからなんですね。
価値を感じることを探さなきゃと躍起になっていました。


芸人に対してのスタンスもやはり結果残せてから考えたいと思います。今は趣味の範囲でできればいいかなと感じます。
就職経験を生かせる職をピックアップしてみたいと思いますが、経験のあるコールセンター業務はほとんどが受信業務です。問い合わせや受付がメインでほとんど紋切り型に話しているため、人との会話が得意という感覚はあまりありませんでした。
また、電話営業のコールセンターで仕事していたことがあるんですが、商材が(映像コンテンツ)とてもお客にオススメできるものと感じれず(当時詐欺に近い商品だと感じていました)、営業のノルマも毎回越えられず結局会社をクビになり、営業職にかなり苦手意識があります。
そういった状態でも営業は候補に入れるべきでしょうか?


 
Re: 進路について / masa
No.879 2014/05/06(Tue) 01:55:12

すいません、また新規で書いてしまいました。以後レスから入れます。


 
「選択肢見極め思考」・職業選択における「現実を見る目」^^ / しまの
No.882 2014/05/12(Mon) 11:06:36

>すいません、また新規で書いてしまいました。以後レスから入れます。

同じ話でも読みやすい程度適宜新規入れて頂いてokです^^。ま先の僕がコメントする対象の記事離れ離れになってしまったので直した次第

ちょっと間伸び説明っぽく(?)なっていますが「選択肢見極め思考」とはどのようなものかと、
あと「職業選択」における「現実を見る目」からのごく実際的なアドバイスなど^^。


人生における重要場面での「選択肢見極め思考」

>選択肢の挙げ方もやはり目的思考をベースにしていないからこうなってしまっているのでしょうか?

何がいけなくてこうなってしまう、というより、こうならないような、今までとは違う思考法をどのように積み上げる、ですね。かなりの思考法鍛錬に、それができるようになります。

どーでもいい(?)参考話ですが、スキーの技術がうまくなるために、スキーがまだうまくない時ほど「どこを直せばうまく滑れる?」という発想を持つのですが、実際うまくなるほど「これを直せば」といったものとは話が全然違ってきて、今までやったことのない難しい運動要領どう積み上げられるかであるのが分かってきます。
この話どっかで触れたことがあるようにおぼろげに記憶しているのですが、探してもどーも見つからないのでここで書きますと、中にはまるで重力に反するように脚を使う、ありえないと思えたような運動技術出てくるわけです。こうしたのも、「直す」というのとはもう全然違う、新しい技術の地道な積み重ねの先に、そのための運動神経がまず備わってきて、さらにそれにパワーも加えられるといった展開によって、スキー本当にうまくなっていく。
これはバ−ンズ『いやな気分よさようなら』で、コーチが選手のミスを叱ったところでミスは直せないというにしたのと同じですね・・とこれに触れた原稿を探したところスキーの技術の話一緒に書いていましたね^^ゞ 「直す」のではなく技術の「追加形」だと。
『実践編上巻 10章 人生への実践−1 −プラス行動学−』
「テニス」検索するとヒットする箇所

人生における重要場面での「選択肢見極め思考」とでも呼べるものも、同じように、かなりの思考技術積み上げ積み重ねできるようになるものです。
『概説 - 5.歩みの道のり / 前進への基盤となる意識過程 一覧表』
にまとめた「意識過程」で言っても、その全て駆使して、総合的に導かれるものだとも言えます。

ですので、「目的思考をベースにしてないから?」というのは、やや、まだ何も本格練習しない段階で、自分がプロのようにできないのはどこがいけないから?という発想やや似ているのにご注意です。まこれはmasaさんそんな段階だと言うより、この喩え表現書きたかった次第^^。


「選択の前提」から「現実を見る目」で埋めていく

まあ実際この人生における重要場面での「選択肢見極め思考」というのは、かなり高度な思考技術によるものであって、今回のアドバイスに際しても、僕自身結構時間をかけ手順を踏んで思考した結果アドバイスしています。

参考までどんな手順思考したかと言うと、「選択の前提」から「現実を見る目」で埋めていくというのが重要になるかと。
ものごとの「良し悪し」を、あくまで「何の目的のためには」という「目的」ありきで考える「目的思考」確かに重要ですが、ここではさらに、その答えの内容与えるものとして「現実を見る目」重要になってくると思います。
「何をどう考える」という「どう考える」において「目的思考」活躍するとして、「何を」という思考材料段階で、「現実を見る目」材料の内容を決定するものになります。この段視野が偏ると、その後「どう考える」どう工夫したところで、良い答えは見つかりようもない。

で、僕がまず考えたのは2つのことです。
・就職をやめれば芸人としての成功に近づけるというわけでもない
・結婚の条件として言われたからという姿勢では、どんな職業も身につくものではない


そこで今回のアドバイスとして、2つ目の話前面に出すことをまず考えた今の彼女に結婚の条件として言われたから考えるという姿勢では、どのみちその職業は身につくものではない。言われたからではなく、自分からの人生設計として考える必要がある、と。
ただこれを言うと、どうも方向が変になるようにも感じたんですね。好きな道にこそ行くべきだ・・というと就職やめて芸人目標一本?というような。
でそこに上記1つ目の話再度加えると、これはもう「現実問題」としての「選択肢」は、芸人をどう目指すかとも、彼女に結婚の条件として言われたことにどう返すかとも違う、ごく自分個人の人生の問題として「本格的な就職」に向かうかどうかだけの「選択肢」が今はあるのが、浮かび上がってくる、という次第です。


本当の選択は何かを見極める

これは「選択」だと思っていた問題実は「選択」でない「選択」全く別のところにある。それについてまず自分自身としての選択を決めたならば、あとは、最初に「選択」だと思ったいたものもう相手(たとえば芸の審査員や彼女)に任せるしかない、つまり自分として何も迷い惑う必要もないことであるのが見えてくる、という流れ好例だと言えます。

こうした流れ僕自身の体験上も、結構あります。相手に受け入れられるためにはこうするのが良いのか・・だがそれではこれができなくなって・・で、相手の意向に沿うようにして受け入れられるか、それともそうせず相手に離れられてしまうかの選択のように思えてくるのですが、自分として本当に何を望み得るのかを、「現実を見る目」の下でとことん突き詰め「今自分にできるのはこれだ!」というものが見えた時、もうそこに「相手に受け入れられるか離れられるかの選択」は、消えているんですね。その惑いが、消えている。自分はこうする。あとはどうにでも好きなようにしろ、と。自分の前進の感覚が、相手側の反応の違いへの不安を、凌駕するようになるわけです。


職業選択における「現実を見る目」

ということで、「選択肢見極め思考」そのものはもうかなり総合的なものということで、それを培うためには上記参照「意識過程一覧表」全てじっくり取り組む先というになると思いますが、

・本格的就職を考える場合の選択肢候補
について引き続き「現実を見る目」だとどうなるというアドバイス追加しておくことができるかと。
それは書いて頂いたものに対してあまりに別世界の思考とも言えるため、一体どうすればそうした目が持てるのかというも出るかもですが、まずはとにかく書いてみるとこんな感じ。

>皆と同じことをして地味に生きたくない、自分は特別だ!という気持ちからなんだと思います。就職していく人を軽蔑していました。

これはもう「現実」何を見ているのでもなく、イメージだけの世界ですね。そこで「軽蔑」とは何を軽蔑していたのかさらに細かく分析してもいいのですが、まずはとりあえず過去のことということで今特に取り上げる必要はないかと。

>人との会話が得意という感覚はあまりありませんでした。

これは社会における自分の長所能力認識できていないという形での「現実を見る目」欠如言えるかもです。基本的に喋るのが苦手、活舌が悪いといった人沢山います。まず「声の出し方」レベルでは就職において使える能力があるということになると思います。

>商材が(映像コンテンツ)とてもお客にオススメできるものと感じれず(当時詐欺に近い商品だと感じていました)、営業のノルマも毎回越えられず結局会社をクビになり、営業職にかなり苦手意識があります。

それは「低質な営業の世界」典型例ですね。ノルマのための押し売り
そういうのとは全く別世界「高品質の営業の世界」というものを、どう知るかからになると思います。それこそまさに「価値の生み出し」の世界です。
それを説明する本結構あると思います。ま僕自身その方面では知識がちょっと少なく、とりあえず記憶からすぐ出てくるものとしてこんなものなど。
奇跡体験!アンビリバボー 十勝バスが北海道に巻き起こした奇跡 3月6日

>そういった状態でも営業は候補に入れるべきでしょうか?

まず「低質な営業の世界」だけで考えている状態脱するその上で、就職業種職種検討をすると良いでしょう。

「入れるべき」というという言葉はちょっと不適です。「現実を見る目」からは、「入れるべき」かどうかというより、就職の間口として何がどの程度あるのか客観的な数字の事実です。「入れるべき」というという言葉はちょっと道徳的
となると、「就職」というのは基本的「営業職」「技術職」「専門職」といった大きな切り口から成り、今回の話で言えば「技術職」「専門職」のための情報特に検討しなければ、まず「営業職」というのが間口としてあるということです。求人も多いでしょう。ただしそこから、自分として「高品質の営業の世界」として展開できるものを見出すことが課題になる、というになるでしょう。
「べき」もなにも、とにかくそうした現実の間口があるという事実を、まず認識する。 もちろん、それとは別のものととなれば、準備を積んでの技術職や専門職という選択肢もあるという事実

ここまでの話職業選択思考のための「材料」ですね。そこから、自分として何に優先基準置くかといった「選択思考」そのものんを働かせていく、ということになると思います^^。


経過のご報告です /
No.862 2014/04/19(Sat) 17:01:39

 前のトピックでアドバイス頂いた「「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法」を読み返しているうちに、学生の頃付き合ってた相手との出来事を思い出しました。音楽の好みが噛み合わない時に、相手から「私が聴いてる曲なのに…」と文句を言われたのを思い出し、その言葉に当時は多少の申し訳なさを感じ、以前ふと思い出した時は反発的な怒りを感じましたが、今回思い出した時はちょっと気持ち悪く感じました。
 ただ、当時〜去年のはじめぐらいまでの趣味娯楽の半分以上について考えてみると、どうやら周囲の比較的仲が良かった人に追従してやってたように思えます。一見楽しくのめり込んでるように見えて、内面では背景的に何かに追い立てられてるようなのめり込み方をしていたような…。別に生計立てるためにやってるわけでもないのに、「ああしなければ」「こうしなければ」が山のようにあったと思います。
 今は一人カラオケにのめり込み、採点機能でスコアアタックなどもやってますが、スコアと歌の上手さはイコールではないことを十分把握し、強迫観念もまず起きない。もちろん、間違えたりスコアが落ちたりしたら瞬間的に悔しくはなりますが。
 たぶん、この辺については、未熟な愛の価値観からの抜け出しは視野に入っているのかな、と感じてます。
 自尊心については、仕事中の悪感情への接し方の変化だったり、上記にある心底のめり込めるものに出会えたりと、日々生み出せてる感覚はじわじわと出てきているものの、まだまだ取り組むことが山のようにあるため、打ち負かし自尊心からの抜け出しには距離があるように感じています。今は自分に向上させることが出来そうなものを増やしつつ、未熟な価値観を表に出さないように努める時期なのだろうなあと。

 また、先日の刷り込まれた不要な観念に気付いて放り捨てた書き込み以来、怒りなどの裏側の感情みたいなものが少しは見えてきた感じがします。
 たとえば仕事中、ふとしたことで怒りを感じた時、まず「仕事中の自分は周囲に見下されている」という感覚を強く自覚し、次第に「自分も今の仕事を自分で見下している」ということを自覚しました。これだけでも怒りは一気に治まりましたが、こういう感覚を持つことへの自分が感じているメリット、デメリットというものも考えていきたいと思いました。こういう「自分が今居る環境への否定」の感覚が、過去の環境下でケアレスミスを多く引き起こすことにも影響していたのかもしれない、と、今文章を打ってる間に思い浮かんだので。
 別の日には、「どうせ世の中の連中にとっては、イケメンと女以外は問題外の存在なんだろうよ!」などと、かなりやさぐれた感情が湧きましたが、「イケメンは不細工よりも広範囲の物事が許される」という感覚があるようだ、と自覚しました。何かの言葉に「※ただしイケメンに限る」と続けるジョーク(…だと思いたいですが^^;)がたまにありますが、それがリアルに起きていると言わんばかりの感覚のようでした。実際に自分がそうなりたいかと自問自答してみると「見た目が良いほうが印象が良くなるのであればそれに越したことはないが、別に生活を切り詰めてまで整形したり値段の張る服を買ったりするほどでもないな」という感じで、「ならばそんなに金がかからない範囲で見た目を良くしていくぐらいのことならもう少し意識を持ってもいいのではないか。」と、日常生活の向上に関しての課題を一つ増やす形で落ち着きました。こっちに関しては、容姿を良くするという自然な望みが流行への反抗心で妨げられ、荒廃化させただけの話なんだろうな、と、理論を読み返した中で思いました。
 マスコミや政治家などの、影響力や権力を引っ提げてる連中への敵対意識も少しは減ったかもしれません。これについては従来、「世間は彼らの云う事を鵜呑みにしている。このままだと、声のうるさいだけの連中が支配することになり、日本はぶっ潰れてしまう!」という感覚が強かったことも影響してたのでしょう。今のところ「みんな本当にそういう連中の云う事を鵜呑みにしているのか?」という問いぐらいは出来るようになってますが。

 あとは、前のトピックで「誰も自分に味方など居なかった」という感覚があったという話について、この感覚自体が誤りだったのを自覚しました。母方の祖父母が離島に住んでいた頃…ちょうど私が中学に上がるぐらいまで、年にだいたい1〜2回ほど会いに行ってましたが、それを思い返すと、大抵のことでは祖父母が自分に味方してくれていたように思えました。祖父からはよく船でいろんなところに連れて行ってもらって釣りも教わり、祖母もよく郷土料理を振舞ってくれて、他にもかなり労ってもらいました。祖父はすでに他界してますが、お葬式があった当時は今よりも私の感情が荒廃していたこともあり、それを十分悲しむ精神的余裕がなく、つい先日、祖父が最後に自分に伝えてくれた言葉を思い出す中で涙しました。考えてみれば、両親からの愛情はあんまり適切なものではなかったかもしれないが、それを祖父母が補おうとしてくれたのではないだろうか、という思いと、「いつも味方になってくれたこと」への感謝の念なども込めて。祖母は存命中ですが、距離が遠いため、折を見て改めてお礼を言いに行きたいとも思っています。

 しっかり意味を把握しながら取り組もうと思い直し、最初の書き込みから半年を超えましたが、先日のトピックでの気付きのお陰か、思ったよりも前に進んでいるのではないか?という感じがします。
 それ以前は、周囲の他人の未熟な行動をあざ笑い、自分に向けられた不快な態度に無条件に怒り憎しみを向けるだけでしたが、今では不完全ながら怒りの裏側の感情を汲み取ろうとすること自体がかなりの前進なのではないかと。「感情と行動の分離と言われても、どうしても行動が感情に引っ張られるばかりでにっちもさっちもいかず、余計イライラする。自分には向いてない。やめてしまおう…」と、20代の頃に取り組みを諦めた頃のことも思い出すと、当時では全く想像もつかなかったろうなあ、と思います。
 より把握出来るようになったことだけが要因というわけでもなく、「他人に追従することなく心底から楽しめること」に出会えたことや、その前後で、結局一人でイベントで行動を起こす羽目になった中、成功とは言えないにしてもとりあえず実行はし切ったことなどが無ければ、以前同様どこかで投げ出していたかも知れません。
 何より、他人を笑う中で「じゃあ自分はどうなんだろう?」という思考が偶然起きて苦しみ、そこで感情の起き方が若干変わり、「こういうことが本当に起きるのであれば、もう一回ハイブリッドを試してみるか」と書き込みを始める経験が無ければ、未だに世の中や他人を憎み見下すだけの苦しみの中でもがいていたのだろうなあ、と。
 いろんな偶然の要因が積み重なって前進している感じが強いので、今後は自分で確信して前進できるように変わっていければ、と。そのためにも、また日常生活の向上に努めていきたいと思います。今のところ、ある程度「望み」として認識されているのは、日常生活を自分の手に取り戻すこと、のように感じられるので。


 
補足 /
No.863 2014/04/19(Sat) 18:02:45

>今のところ「みんな本当にそういう連中の云う事を鵜呑みにしているのか?」という問い
勿論自分に対する問いかけ、の意です^^;


 
隠れた観念の発見と崩壊 /
No.868 2014/04/22(Tue) 16:27:01

また連投になってしまいましたすみません^^;

上記の内容を書き込んだ時まであっさりスルーしていたのですが、祖父母からは随分良くしてもらったのに、何故か愛情やら心の問題に触れるときに全く考慮してなかったのはなぜか。それどころか、長い間細かな記憶が薄れていたのはなぜか。
少なくとも、忘れたいようなことではなかったので疑問を感じ、かなり重要なことだと日増しに思えてきたので思考をしてみると、また変化を感じました。

今までの感情の中での理論に則れば、そういう記憶を塗り潰す必要があるぐらいに、愛情を受け損ねたり災厄を受けたりしたという観念を重視していたのかもしれない。だとすると、自分はそういう災厄の中で生きてきたことで自尊心を得ていたのだろうか、という仮説が浮かびました。
小学校・中学校と、自分で取り柄だと思えることが勉強ぐらいしかなく、高校に進学すると、自分よりも成績の高い人間のほうが多くなり、勉強が取り柄だという自尊心も損なわれ、幼少の頃から家庭環境も学校での人間関係も良いものだとは感じなかったため、「修羅場の中で生きる運命を背負った」という観念にしがみついて自尊心を得ようとしたのだろうな、と。

先生の記述に「後に比較的深刻な心の障害を体験した人は、まず間違いなく思春期の一時期に「視線恐怖症」を体験していると私は推察しています。」とあるように、実際、高校の頃に視線を同級生と合わせるのが怖い時期がありました。眼が変だとか虚ろだとか言われ、ますます他人と視線を合わせることに怯えてた記憶も。
また、当時のことを思い出すと「現実が付いてこない」という感覚もあったと思います。スポーツも苦手、流行などわからない、最後の砦だった勉強も、進学校に入ってからは落ちこぼれの部類になってしまった。何のとりえもない状態でこんな場所に来てしまった。どうしよう。と、何もかも終わったかのような感覚もあったような。
ついでに、当時、ホームレスを見かけたときに恐怖心がありました。ほぼ間違いなく「将来こんな風になったらどうしよう」という感覚はあったと思います。最近でも、そういう方々を目にするたびに、当時の恐怖の残骸のようなものを感じることはたまにあります。結局、それらの恐怖心を塗り消し、自尊心を維持するため、「こんな修羅場の中でも何とか生きてこれた」ことを自尊心の土台にしてきたのだと思います。

修羅場を求めてる、と頭に浮かんで最初は「狂気の沙汰だ」と、ばかばかしく感じましたが、いろいろ思い浮かべていくうちに、当時の自尊心を崩壊させないためのものだったのだろうか、祖父母に関する記憶を薄める必要があるぐらい追い詰められてたのだろうか、というのは容易に考えがまとまりました。

後の人生では、当時好きだった声優さんなどの影響で根性論に染められたことなどもあり、自分の意識していないところで「修羅場のような環境」への執着があったのだと思われます。わざわざ自分の能力では遥かに及ばない難しいものに挑んだり、過保護な保護者の元で育った異性との交際にうつつを抜かしたり、今思うとそれが本当に「望み」からくる行動だったのか非常に疑わしい行動にばかり駆られていたように感じます。その割に「難しい。困った。どうしよう」と悩むばかりで、ろくに前に進めた実感は皆無に等しく、それでいて撤退することが「逃げ」で「人生の終わり」であるという感覚に追い立てられていたようです。一方で、修羅場である必要があるためか、周囲や世間の悪いところばかりが非常に目立つようになり、他人の言うことにも過剰に刺を感じ、些細なことで怒り憎しみを抱くようになり…。確かにこういう風に考えてみると、「空想と現実を逆転させて自尊心を守るシステム」として成り立ってるように感じられました。浪人までした末に地元ではレベルが高いとされている大学に入ることが出来た時も、第2希望だったとは言えさほど喜びを感じられず内心で困惑したのをよく覚えてますが、こういう価値観があったことを考えるとそれにも納得できます。数年前に過去の仕事の知識のみでマイナーなパソコン関連の資格に合格した時のほうがよほど感情としては嬉しかった気がします。3級ですが^^;

今の頭で考えるとこういう自尊心の得方は必要無いな、というのが即座に浮かび、次の瞬間、肩の荷が下りたというか、大きな安心感を得たというか、そういう感じがしました。しばらくして、ざっくり云えば「ヒーローになれなかった」的な、幼稚園児の描くような夢への軽い落胆を感じました。今頃そういうものを自分が感じることに滑稽さを感じたため、笑いながら落胆するという奇妙な感覚でしたが。ですが、少し考えると、これは内面の問題としては結構意味が深いものだったのかもしれません。その後は、気分がやけに高揚した日になりました。

あと、何となくですが、悪感情でも比較的健康なそれと不健康なそれに違いがあるのかなあ、というのが頭に浮かびました。上手く言えませんが、比較的健康な状態だと、パッと浮かんでもすぐに抜けていく感じがするような…。最近、怒りとか焦りとかの類が浮かんでも、以前に比べるとすぐに抜けていくような感覚があることも若干増えてきたので。

何にしても、内面の大きなつっかえが取れたようで、かなりホッとしています。
また、改めて先生のサイト及びハーバード交渉術を一通り読みなおし、どれぐらい理解納得が得られるか確認してみたいと思います。


 
Re: 経過のご報告です / しまの
No.869 2014/04/28(Mon) 09:24:05

いろいろ視野が深まる前進があったようですね^^。
ぜひ引き続き「これから向かうもの」への取り組みなど続けて頂ければと^^。


 
価値観の選択が視野に /
No.874 2014/05/04(Sun) 16:34:58

レスありがとうございます。

それ以降も細かな気付きなどはありましたが、特に先日価値観への取り組みが視野に入ったので引き続きご報告いたします。

前提として、今の仕事で抱えている内面の問題は、たとえ接客業じゃない場所に移ってもどこかで火種になるだろうこと、遠方の勤務地からの求人にも応募できるように多少貯えを作っておいたほうがいいことなどを考え、しばらく今のバイトで内面・外面への取り組みを行おう、という結論に至っている状況です。正直なところ、今の職場では苦手な分野で謎の評価をされている、という気分は拭えていませんが、何故か仕事中に内面の気付きや変化が多いため、ハイブリッドの取り組みには適している感がある、というのもあります^^;

割引券を配ってる時に「配布枚数がすくないのは受け取りやすさを考えずに漫然と配ってるから」という普段から自覚はしていることについて「では、改善したくない理由、改善の妨げになっているものは?」と自問し「そりゃ、昼はともかく、夜は酔っ払いやガラの悪い人が多いから、バカにされたり否定的なリアクション貰って怒りが起き、士気が下がるのは損だし…」と自答したところで、「否定的なリアクションを貰う、つまり否定されたと感じて怒りや傷つきを自覚するのは、愛の問題かそれとも自尊心の問題か」という問いかけが思い浮かびました。これは今までの取り組みの中でも初めてのことでした。ようやくこういう考え方が出来る準備が心に整った、ということでしょうか。
実際に考えてみると、見知らぬ人に愛を求める感情は今のところ自分の中に自覚できないので、ならば自尊心の問題だろうか、と考えると、確かに自尊心を損なったことに対する怒りや傷つきがある、と内面から返答が来ました。
「実践編(上)」の価値観に関する記述を読み返し、「打ち負かし優越」に価値を感じているからこそ、相手から打ち負かされていると感じた時に自尊心を損なうのだろうか、と考え、更に、この価値観の下では、自尊心は奪い合うものになってしまうという欠点も思い浮かびました。典型的なのは、「言い負かせば勝ち。言い負かされたら負け」というノリで行われてる、議論のための議論の場とか…。何にせよ、自分の現在の立場や能力というものを考えると、打ち負かされることのほうが多いであろうことは容易に推測され、打ち負かし優越の衝動に固執しても打ち負かされて怒りや嘆きを暴発する危険性のほうが大きいではないか、という考えに至りました。

では、「価値の生み出し」を元に考えたらどうなるか…。「生み出した価値を基準に自尊心を得るということでいいのかな」と判断し、今の環境で生み出してきた価値…出来るだけ具体的に、どれだけの人に店を案内し、どれだけのお客様に応対し、店のパソコンをどれだけ修理し、店の看板をどれだけ作り設置してきたかを考えているうちに、「知らん人に多少絡まれたところで、今まで生み出してきた価値は潰えることはない!」と内面から返ってきた気がしました。更に、以前の職場で生み出した価値や、他にも色々な場面を思い浮かべたあたりで、よくわからないけど泣きたい感情だったり、今までしんどかった、という思考だったりが浮かんできました。

先日ご報告した中で今の仕事への否定的な感覚を自覚したことも挙げましたが、「今の場所への否定がなくても、よりよい条件や職種での求人があれば面接を考えるだろう」という気付きもあったお陰か、仕事中の嫌な気分が、今までとは比べ物にならないレベルで全般的に激減しました。疲れや夜の冷え込みがある時、人通りがなくて暇な時に「帰りてぇなぁ」と思うぐらいのことは勿論ありますがw

これを元に今までに起きた問題を想起してみると、いかに不味い考え方でモノを判断していたのだろうか、ということに即座に気付きました。元来自分に足りていなかったのは「愛」ではなく「自尊心」であり、その自尊心も、打ち負かし優越することに価値観を置いた自尊心だったこと、友人や恋人との交流においても、主に求めていたのは愛ではなく自尊心であったことなどが、今これを打っている間に次々と自覚されていきました。自尊心を求める中で、それを愛の問題とごちゃ混ぜにして考えてきたため、どちらの問題もややっこしくなるという、先生の記述そのままの状態だったのか、と。
更に、弄られ役になることを極度に嫌う原因やら、「一人になりたい」と思っていた原因やらに、自尊心を失うことへの抵抗があったのだろうか、というのがおぼろげに見えてきました。

今回のことで、価値の生み出しについて、あるいは自尊心についてのご説明に関して、より理解が深まったのを実感しました。
何より、「愛」と「自尊心」を切り分けて問題を考えるという実践がスムーズに頭の中で進み、明確に価値観に切り込めたのは初めてでした。
また進展があったらお知らせします。


 
「学びの時期」の歩み方^^ / しまの
No.880 2014/05/08(Thu) 10:39:27

『概説 - 5.歩みの道のり / 5つの「成長の段階」』
で言っている「成長の段階」として、本格的「学びの時期」に入ってきたという感じかと^^。

書いて頂いたものを拝見して、とりあえずアドバイスとしては全体的な進み方で、日々新たな感じ方への向き合いになると思いますが、
・自分の今までの感じ方はこうだったという振り返り
がまずあるとして、その後には
・これから何にどう向かうかという自分への問いかけ
毎度セットのようにするのがよろしいかと。
するとまた、「やはりこれは・・」という妨げのようなもの見えるかも知れない。その時はそれについて答えが出ないまま向き合いが終わるような感じになることが多々あるのですが、実はそうして「意識では答えが出ない」まま、実は心に変化が始まっている、そしてしばらくして再び、新しい感じ方はっきりと自覚されてくる、という流れになる。これが僕の経験からもかなり基本パターンとして言えることです。

そんな進み方として、検討内容的には、あくまで大局的には「感情と行動の分離」「外面行動は建設的に、内面感情はただ流し理解」という両輪を携え、「望みに向かって全てを尽くして向かう」という根幹どう自分が向かうことができているか、という視点からが良い、というになると思います。
「望みにどう向かうことができているか」に、今取り組むべき視点の答えが出てきます。まず自分どんな視点見つけるか。それが「否定価値」というのをはっきり捉えるまでに、
『3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ』
ざっと列記したようなテーマ項目についてほぼ納得習得を得て外堀を固めるという歩みが、これからの数年間になるという大局感向かうと良いかと。

とりあえず日々の出来事に際してそうした検討という引き続きの実践でもいいですし、あとは以前自分で書いて方向性が見えなかった点について再確認してみるとかもいいですね。例えばが言った「オープンな交友関係」について、そんなものが世にあるとは思えないというようなこと(?)言っておられたものなど。
はまた新規トピックでどーぞ^^。


進路相談 / masa
No.871 2014/05/01(Thu) 02:19:12

こんばんは。島野さん、ハイブリッド心理学いつも参考にさせていただいてます。
僕は、現在25歳です。四月で芸人の学校(一年)を卒業したばかりなのですが、考えが大きく揺らぐ出来事がありました。

今付き合っている彼女と先日会ったときの話です。
年齢が三個下の彼女とは離れた場所に住んでいるので、お互いの時間の都合上、基本的に月に一度しか会えないような関係です。
会ってない間、彼女は僕に内緒で以前告白された男の子と食事に行った様で、その彼にもう一度告白されたとのことでした。そのとき彼に、「もし俺たちが結婚して子供が生まれたとしても俺は就職先があるし、今別で同時にやっている整体がうまくいけば将来独立するつもりだから、芸人の彼氏なんかより俺の方がお前を幸せにできる!」と言われたそうです。もちろん気持ちがなかったから断ったそうですが。
内緒で会っていたことに対し怒りを感じましたが、罪悪感を感じていたようだったので、彼女も学んでいるんだと考えるようにし行動化せずにすみました。が、彼が僕を否定したことを聞くと腹が立って、彼女に対し感情的に反応してしまいました。「それは違うだろう!俺だって将来のことよく考えてる!と…」その後は自己嫌悪に陥りました。

今まで二人で結婚の話はしたことがないのですが、彼女は上記の件もあって僕と会わない内に色々考えていたようで、20代後半までには結婚をしたいと考えていると話してきました。もし僕と結婚し、子供が出来たことを思い描いたとき、僕が芸人を目指していることを考えるとあまり現実的ではない。そして10年経つ頃(10年スパンで芸人を目指していると伝えているので)僕は結果が出ていず、それで別れでもしたら女の寿命を考えるとちょっと辛い…。だから出来れば就職して欲しいと思ってたし、将来を考えるなら、相手を改めた方がいいんじゃないかと迷っている自分もいたとのことでした。
僕が芸人、結婚についてどう考えているか聞かれ、好きでもないところに就職なんかしたくない!ということと、彼女との結婚をイメージしていてすぐではないけれど、結婚するのならゆくゆくは子供も欲しいと考えていることを伝えました。
僕はその話をしたときに、今後の人生で結婚して子供を育てることになったときをイメージし、現実的なリスク(経済的)を初めてあんなにリアルに意識しました。自分の子供には心理障害の影響を与えたくないのでかなり先の話だと思っていたのですが、彼女の希望も考慮にいれると検討しなければいけないと思いました。
また、内緒で会っていた彼の言葉を聞き反論はしましたが、反論している最中自分は現実地に足がついていない、意見が全く子供だなと感じていました。芸人を目指す(社会的に見たらかなり難しい)という事に対する甘さを感じました。まさに図星だったからこそ怒ったんだと思います。

僕は高卒で、卒業後ずっとフリーターでした。バイト、派遣、バイト、派遣、と転々とし、やりたいこともなく模索もせず、ふらふらとただ遊んでいた時期もありました。意見をあまり持たず流され続け、21歳くらいまで自分に自信を持つなんていう思考はない人生でしたが、自己啓発本や、人に出会い、自分でも頑張ればなんでもできるんじゃないかと思うようになりました。0か100かしかない思考でした。
芸人を目指した理由としては、人を笑わすことが嬉しいので芸人を目指すことで、本当に好きな事を見つける何かとっかかりになるんじゃないかということ、笑いの技術を使えば人生を生きていく上でコミニケーションが今より楽しくなるんじゃないかという期待、そして成功してちやほやされている自分の姿を想像してのことでした。
ですがハイブリッド心理学も参照し改めて自分と向きあってみると、芸人を目指すことは、結果を求めた枠はめの一つにすぎないんじゃないか。社会に反し人と同じことをやりたくなかったという気持ち、笑いをとることで自分に愛情をもらってるような錯覚をしているんじゃないか。ネタ書きもはかどらず、自分に圧をかけるような形で無理やりしていたこと。それらを考えると目指すことに疑問はあったのだと思います。結果ばかりを求めていたからか。何かを積み重ねたいという焦りもありました。もともと最近そういった矛盾は強く感じていたのですが、今回の件でさらにその問題がはっきりと現れたようでした。そして今就職という考え肩の荷が下りた様な感覚もあります。

今後もしお笑いが好きだったら職にしなくても趣味の範囲でやればいい。まだまだ先の事ですが、結婚や子供の事を考えたらやはり今のうちから職に就くことが現実的だなと思いました。今までアルバイトや派遣の仕事に惰性的に向かっていたので、今後は自分の成長のためにも、仕事に責任を持って取り組んでみたいと思っています。

現在深夜のコールセンターの派遣社員をしているのですが、お笑いの時間を作るために入った場所なので、就職するなら普通の昼の仕事をしたいと考えています。大企業などに憧れは感じますが、25歳の高卒では現実的ではないので、自分が就職できる範囲で一度就職してみたいと思っています。焦りも感じています。同じ就職先に一生勤めたいというよりは、就職のキャリアが欲しいのと、やっていくうちに派生して何か自分にあったものが見つかればいいなと思っています。就職活動の情報も何もなく、全く素人なのでネットで色々と調べてはいますが不安です。

結果的には島野さんの様に価値を感じれる仕事が出来たらいいなと思っていて、自分に何の職が合っているか模索してみましたが、自分が好きな仕事は頭で考えてもわからない、体験あって初めて見えてくるものなのだと思いました。自分に今できること、何が生み出せるんだろうと考えたとき、今までコールセンターに合計5年近くいるので、入りやすいとは思いましたが、コールセンター自体は給与が高く楽だからやっていただけで好きなわけではありませんし、やっていて特に楽しいとも感じません。

以前芸人を目指す前に儲かる事ないかな〜と、片手間で個人で海外から輸入した商品を二個だけ売ったことがあるのですが(利益はよかったのですが時間がかかるしつまらないのですぐに辞めてしまいました)、それからなんとなく、今後まだ発達していきそうなインターネット系の仕事(web関連、アプリ、マーケティング、コンサル)に興味が少しありますが、未経験でいけるところが少ないのでどうなのかなと。

反面、彼女との愛情に依存して就職という考えに至っている危険性もあるのかとも感じていて、何が自分にとって良いのかわからない状態です。
自分の本心があまり見えない今、自分を客観的に見れていないので、ハイブリッド心理学から見る指針、検討材料などがあれば島野さんのアドバイスを頂きたいです、よろしくお願いします。


 
進路相談 / masa
No.876 2014/05/05(Mon) 10:48:03

*管理者メモ*
No.872 2014/05/01(Thu) 11:53:20
として新規トピック入力頂いたのをレスに移しましした。


また、島野さんは心理学系とは別の職種についたようですが、当時どのような点が自分に合うと思い就職先を選んだのですか?


 
「選択肢の正しい立て方」・「仕事」への入り方 / しまの
No.877 2014/05/05(Mon) 10:52:05

「選択肢の正しい立て方」

これはまず、「選択肢の正しい立て方」という課題になりますね。
つまり「選択肢の立て方」ちょっと間違っているかも知れない。だから混乱する。

つまりここでは、まず
「本格的就職はせず芸人を目指し続ける」vs「彼女のために本格的就職をする」
どっちを取るかという選択だと思考していると思います。

そこでちょっと間違いでは僕個人の意見として言うなら、
・本格的就職を避ければ芸人に近づけるわけでもない
のが現実ではないかと。芸人として生計を立てるというのは、よっぽど素質と才能がある場合であり、そうであればスポーツのプロを目指して一日数時間の練習時間が拘束されるというのとは違い、本格的就職上でも可能と思います。実際そんなケースの芸人結構いると思います。
ですので、今思考しておられるであろう上記選択肢の前者は、そもそも意味がないのではと。

となると、選択肢の後者、「彼女のために」というのも、選択肢としての意味がなくなってくるんですね。「彼女のために就職する」のをやめれば芸人に近づけるわけでもない。
つまりこれは「就職をやめれば芸人に近づける」という幻想が生み出した「選択肢」であって、そもそも実際には選択の問題ではないわけです。
単に本格的就職を目指すか、そんなの嫌だとするかだけ問題芸人という目標も、彼女に今言われたということも、関係なくと言えるものとして。後者は、今の彼女に限らず、結婚はしないという選択にもなってくるでしょう。

ただしもし、金にならなくとも今出番があり時間が拘束される芸人活動の場具体的にあるというのであれば、それと就職との選択という話にはなりますね。今はそうしたものではないと思います。
まあ順当に言って、本格的就職へと向かうことができるのであれば、そうするに越したことはない、というになるのではと^^;


仕事はまず実践スキルで選ぶ

就職における進路検討は、まず

>結果的には島野さんの様に価値を感じれる仕事が出来たらいいなと思っていて、自分に何の職が合っているか模索してみましたが、自分が好きな仕事は頭で考えてもわからない、

という僕の例を出したのが、僕の執筆活動指しているのだとしたら、手短に言って参考にするのは「間違い」です。
一方、

>また、島野さんは心理学系とは別の職種についたようですが、当時どのような点が自分に合うと思い就職先を選んだのですか?

前のIT系の仕事指しているのであれば、それを参考にするのが「正しい」

つまりその2つは、人生の段階として別のものだということです。
後者は、心身が健康であればまず向かいたい、「社会に出て仕事をする」という人生の活動段階
前者は、そこにおける自己の能力可能性の発揮ある程度形になってくると共に、人生後半視野に入り、さて残りの人生をどう生きるかという最後の進路選択可能になってくる段階
ご相談は、前の段階のものと思います。当然、前の段階をすっとばして最終段階を考えたいというのはナシです。

でまず「社会に出て仕事をする」という人生の活動に入るための進路検討ノウハウとしては、
「価値を感じられるか」ではなく、「金になり自分にその能力がある」ものから選ぶ
・仕事の
「印象イメージ」ではなく、中の様子を実際に見て、その実践面実務面におけるスキルで自分の適性を考える
といったものが基本になります。

そもそも「価値とは何か」を、実際に社会出て仕事などする中で学んでいくものになります。ならば、「これから社会に」「これから本格的就職を」という段階で、つまり「価値とは何か」がまだこれから学ぶ、要はまだ良く分からない段階で、「価値」どう感じられるかで仕事を選ぼうとするのは、かなり無謀(?^^;)です。それはかなり偏った判断になる危険がある。
だからまず、「金になり自分にその能力がある」という条件で、いかに幅広く検討するか、からなんですね。もちろんまっとうな仕事として^^;
ITの仕事選んだものも、それです。もう研究者の道は考えず就職しようと思った時、大学の教養科目でやったプログランミング自分にかなりの適正能力があったのに着目したわけです。そして社会はまさにバブルに突入、コンピュータ企業雨後の筍のように出てきた時代です。で就職自体はそれまでの「社会に出る恐怖」などに比べ結構スンナリ決まった次第。この辺の経緯『悲しみの彼方への旅』でも書いていますが(P.326あたり)、そうした具体的は話ちょっと割愛していますね。

基本的に、全ての仕事「価値」あります。価値のない仕事などありません。ただしその中で、自分が生み出すことに価値がある重みとなると、話が違ってきて、まさにそれを模索するのが、それからの人生の一つの段階になるわけです。
まず社会にあるレール熟知することです。それに乗るとどのように前進できるか。その上によくある障害とその対処法、その上でうまくバランスを取る思考法行動法。そしてレールの上で、どこまで到達できるのか。
そうした「社会を知る」ということがほぼ完了した時、人生の段階次のもの移行するわけです。引き続きレールの上で進むか、それともレールなき道を進むか。の場合、それまでに20年歳月を経た次第。で結局レールから降り執筆の道に向かったわけです。


「生活費」「能力」から「価値」「生きがい」へ

また
>自分が好きな仕事は頭で考えてもわからない

については、「仕事」というのは基本的「好きなもの」として入るものではないと思います。基本生活費を稼ぐためであり、そのために仕事をして、それで余った時間「好きなこと」をできればいい。それでも「嫌々ながら」とはならないのが、まずは健康な姿と言えるかと。
そうした形「仕事」へとエネルギッシュ向かうことができない場合、何か妨げがある一つの「症状」として取り組み得るものになるというになると思います。

「仕事」はまず「好き」「楽しみ」としてではなく、「生活費」のための「能力発揮」として入り、その中「価値」知っていき、さらにその中から「自分がやってこその重み」見出していく頃、やがてそれが「生きがい」となる。これは人生の段階として2つ別のものであり、前者20代30代後者40代50代という年齢見出すとい道のりイメージ向かうのが良い。
まとめるとそんな話になるかと。


コールセンター業務からの発展

以上が「仕事」への入り方としてハイブリッド心理学から言える一般的アドバイスとして、

>今までコールセンターに合計5年近くいるので、入りやすいとは思いましたが、コールセンター自体は給与が高く楽だからやっていただけで好きなわけではありませんし、やっていて特に楽しいとも感じません。
>今後まだ発達していきそうなインターネット系の仕事(web関連、アプリ、マーケティング、コンサル)に興味が少しありますが、未経験でいけるところが少ないのでどうなのかなと。

について、より具体的に、からの個人的意見など書いてみますと、
現在コールセンター業務であれば、それが勤まるというのもそれなりの能力特性あっての話になると思いますので、その能力特性からの発展としてどんな仕事考えられるか、という検討アプローチが考えられると思います。楽しいと感じるものというより、やはりとっつきのレベルにおいても「価値」感じるもの(例えば扱い商品)というからになると思います。

一方インターネット系というのは、僕自身のIT系の経験から言って、多少とも理数系の素養と、結構時間労働的なキツい面もありますので、それを突破できるだけのIT系能力到達必要になると思います。まず未経験からチャレンジするのは一般的にはかなりの困苦の道になるのを覚悟の上ならというになるかと。

ですので今コールセンターということであれば、人との会話が得意という能力特性が考えられますので、そこからの発展形として僕がまず浮かべたのは、保険の外交営業員とかですね。医療保険など、人の人生にとっても重要な商品であり、やり方によってやりがいのある仕事ではと(逆に言えばやり方がマズいとどんな仕事も価値を失う)それ以外にも、まずは営業関係検討候補になり、いくらでも間口があると思います。

そしてお笑い演芸引き続き目指すのであれば、そうした傍らコンテスト出場とかもできるでしょうし、そこで入賞とかなって初めて、仕事との選択という話現実味を持つということになると思います。


とりあえず書いて頂いた情報からのアドバイスは、そんな感じになりますです^^。


(No Subject) / こたろう
No.855 2014/04/11(Fri) 21:15:37

新トピで失礼します。
●自分なりの交友行動法
楽しみの共有として
向かうのはわかるのですが、その内容
(なにをどういう風にしたら
自分は現時点で楽しいと感じるのか)を
イメージではなく現実においての
体験で知る、ということで
いいでしょうか。

その内容は人の趣向、
あるいはその時点での
精神的な自立の具合による。

例えば買い物は好きだけど
人と一緒にいくのはわずらわしい。
その場合楽しいことだけど
共有する楽しみとはいえない。

山登りは好きだけど、
あのおしゃべりな人と行くのは
疲れるから、大人しいあの人と
行く。


●話のテンポ、雰囲気、リズムの合う、合わない

とりあえず大学には行けています。
今はほぼ誰とも会話していません。

自分は人間関係を築くに当たり、
100と0に二分してしまうのがやはり課題
だと思っているのですが、
例えば趣味が同じだという事がわかったと
すると、その人とは友達になるべきだ、
という圧力を感じます。

気が合うかどうかより、
その趣味がやりたいからやっている
という自立した姿にやはり
憧れる。
オープンなタイプの人だと、
共通の趣味について話が盛り上がれば、
「一緒にいこうよ」というのが
自然な流れだという事は多いと感じます。
もちろん、それがたんなる社交辞令だというのは
これから増えていく年齢ではあると
思うのですが、
それでもその言葉が恐ろしくて、
そういうタイプの人に自分の趣味を
隠したくなったり、新しい趣味をしたくても
知り合いに誘われるのが怖くて
やらなかったりします。

サーフィンとかやってみたいんですが...


共有できる楽しみがそこにあっても
(共通の趣味、興味)楽しくない、
というのはなんら不自然ではない事だ、
という認識は大丈夫でしょうか?
会話のテンポ、雰囲気、リズムの合う、合わない、
なども「楽しみ」の要素になりますよね。

これはある程度、健康な心の人でも
あること。

でも、心がより自立して、
自尊心が高まれば、
「どんな自分でも受け入れてもらえる」という
必要性が少なくなる分、
より広い交遊に、
居心地の良さも含めた「楽しみ」を
感じられるようになる。
しかし、これは長い目でみる
必要がある。




今は、居心地の悪さを感じずに済む関係の
中で、まずは「理解し合うこと」より
共通部分の楽しみを向上させる、という
ベクトルにしていきたいと思います。


また、共有できる話題を話すのみに
留め、一緒に休日にそれをしたりと
いうことはしない、という距離感を
作れれば、関係性の中の中間的、
グレーゾーンの付き合いを増やして
いける気がするのですが、
これに関しては具体的な言葉の使い方とか
を考えていった方がいいのでしょうか。

毎回用事をでっちあげるのも
変ですし、かといってあなたとは
休日は過ごしたくないというのも
変ですし。


 
「本当に確かなもの」を増やしていく^^ / しまの
No.858 2014/04/13(Sun) 17:02:18

>楽しみの共有として 向かうのはわかるのですが、その内容 (なにをどういう風にしたら 自分は現時点で楽しいと感じるのか)を イメージではなく現実においての 体験で知る、ということで いいでしょうか。

それでいいと思いますヨ^^。まあ多少イメージで把握もしておくことも有用だと思います。そして実際の体験で知っていく。両方ですね。後者より重いとして。
その積み重ねで、自分はどんなことを、誰とするのが本当に楽しいと感じるのか、「本当に確かなもの」を増やしていくのが成長であり人生の歩みになると思います。

書いて頂いたものざっとコメント入れるならこうしたもの。
「〜なら友達になるべき」という「圧力」をかけたところで友達にはなれない。
「姿への憧れ」から入るのはokだが、それだけでは長くは続かない。「結果」の姿ではなく、「過程」を楽しめるか
「共有できる楽しみがあっても楽しくない」は、実際のところ「共有できる楽しみ」ではないということ。人と一緒に行える活動かどうかのカテゴリー分けはあるとして、その後の話からが取り組みになる。
「自尊心」「自分を尊敬できること」であり、交友の広さとはとりあえず別の話
「言葉の使い方」は生活の全ての場面で重要。

>今は、居心地の悪さを感じずに済む関係の 中で、まずは「理解し合うこと」より 共通部分の楽しみを向上させる、という ベクトルにしていきたいと思います。

それでいいと思います^^。


 
Re: / こたろう
No.859 2014/04/17(Thu) 12:17:15

●望んでいるけど楽しめない

優越したい、打ち負かしたいという
感情が一番対人状況でリアルな
感情ですが、一方で一緒に楽しい
時間を過ごしたいという気持ちも
その底にはあります。
この場合は優越したい、
あらを探したい、自分が上だと
証明したいというのは出来るだけ
否定せず内に留め、楽しみたいという
気持ちをもとに外面行動をしていく
ということになると思います。


共有する行動への興味が
共通していても、
共有できる楽しみがないということ、
はやはりそうですね。

そのような場合の内容について
考えてみました。

●話があわない。
→普段の生活、笑うポイントなど。
●劣等感を感じて楽しめない。
→自分は人を好きになれないのに、彼は
友達を普通に作れる。
自分はやりたいことを見つけられてないのに、彼は
打ち込んでいるものがある。
自分は中身がからっぽに感じ、見た目ばかりに気を使っている気がするが、彼は自分の独自の価値観を持っているから見た目にそこまで執着していない。


会話をすればするほど劣等感で
心が萎えていきます。
情報が入ってくればそれが
比較項目として自動的に劣等感を
感じてしまう。

例えば

こないだ知り合いが...
→自分は知り合いが少ない
酒飲みの席で...
→大学で大人になる前にみんな社会人への
橋渡し的な関係性を学んでいるのに
自分は飲み会なんてほとんどいってない


会話ができないのではなく、
なにを聞いてもそれが「そっちは?」
に転じる事が嫌だし怖いので、
話すことがなくなってしまうんです。

それでも前者の意味では楽しみがあるんです。
くだらない話をしているだけで
面白い。一緒にカラオケでふざけたりとかは
楽しい。
だからこそ失いたくない交友。



しかし後者(劣等感によって話すことがない、居心地が悪くなる)があることで、
結果自分よりも劣っていると感じる人
たとえば友達はほとんどいない、
人とうまくやれない、見た目がダサい、
面白くない、流されて生きてる、

あるいは、劣等感を感じるけど
相手がそれを自虐する自分を見下すよりは
受け入れてくれる、あるいは笑ってくれる、
という2パターンの関係しか
作れない。

自尊心に向かうことが答えでも、
交友は相手あってのこと、
今は
劣等感で楽しめないから会わないという
選択をすれば、相手はもう縁が切れたと
判断する可能性も充分あります。

どう返事すればいいか迷っているうちに
旧友から
「しばらく連絡とってないだけで
切れる関係だとは思ってなかったんだが...
残念。」
というメールがきました。




関係を切りたくないけど今は
会う元気がないことを素直に
いうべきでしょうか。

僕の望みとしては彼らとは
共有する楽しみはあるので
切れたくないのです。


しかし今は会えないといって
いつか元気がでるのか疑問です。

だから劣等感を内に持ちながら
遊ぶ友達は増やしていきたいんですが...


一人きりで常に行動していて
周りの大学生は休憩時間がやがやして
いるのを見ると羨ましくて
死にたくなります。
大学の勉強も打ち込めるほど興味が持てるわけでもなく、行きの電車帰りの電車では知り合いに会うことに
怯え、家ではこんな自分にしたのは親のせいだと
いう感情にさいなまれ、不幸や不機嫌をみせつけるような態度をとってしまいます。
毎日頭痛がしますし日に日に笑えなくなりますし
表情の心配があるならその状況に入らない、
を続ければこの先表情は上向くことは
ないと思います。

人格障害的感情を
自分のハンディとして受け入れて
克服するんだという気持ちがポーズでしか
ないんだと実感しています。


とりあえず大学に通うのを最低ラインに
しているものの、日をおうごとに割れるような
頭痛が増していきます。
結局行けっていわれているからいっている、
みたいな感覚です。


ここまで書いていて自分は根本的に変われない人間
なんだと感じられます。
論理的に省みることが出来ている方とは
違って、感情に流されることしか
できないし、いつまでも現実から解離した理想にしがみつづけてしまう人間なんだなと思います。


このままだと感情が枯渇します。

その焦りもあって話したりする相手を
失いたくない焦りが
あるのだと思います。


 
「現実における選択」として「価値観の選択」に取り組む^^ / しまの
No.861 2014/04/19(Sat) 11:54:17

「自尊心」価値観の選択

>優越したい、打ち負かしたいという 感情が一番対人状況でリアルな 感情ですが、一方で一緒に楽しい 時間を過ごしたいという気持ちも その底にはあります。

その2つの感情は、両立しないと思います^^; 人を打ち負かしたいのなら、一緒に楽しい時間をすごすのはまず不可能ですね。

選ぶ必要があるということですね。
ハイブリッド心理学からは、感情「ただ流し理解する」ものであって「選択するもの」ではありませんが、感情生み出す根底になるものとしての価値観思考法行動法「選択するもの」です。

この話の場合は、「自尊心」のための価値観の選択重要になってきます。
『入門 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ / 4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法』
記載の通り、
========
「自尊心」 ・・・ 「人を打ち負かす」「人に認められる」よりも「現実において生み出す」こと、そこにおいて生み出す価値の、自分自身にとっての大切さにおいて獲得し築く
========
というものを、本当に自分のものとして選ぶか。それへの向き合いに、まず取り組む必要が出てくるということですね。

「価値観の選択」というのは、自分への建前思考では何の役にも立たない、結構難しい作業でもありますね。
これについては
『実践編上巻』
9章 価値観と行動学  −進み得る道はただ一つ−
などが参考になると思います^^。


「現実における選択」という根本

そうした「価値観の選択」できるための根底姿勢として、「現実における選択」というものが重要になります。
「現実の選択」という言葉で言っても良いかと。
現実というのは、空想で描いた通りの都合の良いものには、ほとんどならないものです。「これは現実においてあり得る」というものしっかりと見据え、選択しなければならない。上記の話で言えば、自分の中人との関係についての対立矛盾する感情を持ったまま、表面においては人と良い関係を築こうと望んでも、そうは「現実」という問屋が卸さない

だから、自分が実際現実においてどんな感情を持っているか向き合うことから始めたならば、それを生み出している自分の思考法行動法や価値観じっくり取り組み、その「選択」に向き合っていかなければならない、ということですね。

そうした「現実における選択」「現実の選択」として、確かなものを積み重ねていく中で、自分徐々に変化します。

>ここまで書いていて自分は根本的に変われない人間 なんだと感じられます。論理的に省みることが出来ている方とは 違って、感情に流されることしか できないし、いつまでも現実から解離した理想にしがみつづけてしまう人間なんだなと思います。

「空想通りに変われる」という幻想しがみ続けるか、それとも「現実における選択の積み重ね」によって変化していく道選ぶかですね。
実際、今、少なくとも学校に行っているという現実において、休学した自分からは変化しているわけです。まこれは暫定的な状態かも知れませんが、変化とはこうした地道な前進の積み重ねしか成し得ないということですね。

こうした「現実における選択」「現実の選択」のための心の基盤培うのは、『取り組み実践詳説』詳しく解説した意識過程の中では、「現実を見る目」になります。
「2章」にて主に説明していますので読んで頂くと良いかと^^。


 
Re: / こたろう
No.864 2014/04/20(Sun) 18:48:24

心底から「生み出すこと」を自尊心に出来ていないのは
感じます。
「生み出すもの」に価値を感じられるものがあまりないのかも
しれません。

行動としてそれを定着できれば、シフトする方向に行くと
理解していたのですが、今のところ向き合っても
「わかってるけど、人を打ち負かすのにうっすら喜びを感じるし、
揚げ足をとって調子に乗ってるやつをくじいてやりたい」
という感覚ですね。

打ち負かすことに快感を感じてしまうのは
感情が荒廃化している以上は、必然ではなかったですか?
その荒廃化感情を持ったまま行動は建設的に・・・というのが
方向性だと理解していたのですが。

感情では打ち負かすのに喜びを感じてしまっても、
これからの自分の価値観としてそれを選ぶか、ということでは
ないんですか?


後半、抽象的で理解できないです。
「現実における選択」「確かなもの」


確かではないものとはなんでしょうか。
価値観を、みせかけの納得で、それによって自分をかきたてる。
これは確かではないもの、ですね。

正直、ゴリゴリに心は依存に留まろうとしているので、
ハイブリッド心理学の価値観を自分に問うと、
反発ばかりって感じです。

だから確かな選択なんて全然できない。

なんで、自衛しなきゃいけないの?
社会に出る前に死にたい。
そんなめんどくさい事したくない。


心から返ってくるのはこういう言葉です。


結果、価値観をおしつけて強制的に
かきたてるような姿勢になってしまいます。



現実における選択の積み重ね。
どういう選択が積み重なっていくのか、イメージがわかないです。
価値観の向き合いの過程、なども。
例えばでいいんですが、バカなもので、
具体例が知りたいです。

でも価値観に向き合って感情が変わるわけじゃないんですよね。


 
「確かなもの」の「選択」の積み重ね^^ / しまの
No.873 2014/05/01(Thu) 14:03:18

ちょっと遅くなりました^^ゞ

>確かではないものとはなんでしょうか。価値観を、みせかけの納得で、それによって自分をかきたてる。これは確かではないもの、ですね。

「確かでないもの」とは、たとえば「占い」です。これからの天気予測したいならば、占いではなく気圧配置による天気予報など、より確かなもの「選択」する。
思考法行動法価値観についても同じように、より確かなものを選択していく取り組みになります。「みせかけの納得」はもちろん、確かではないものですね^^。

>現実における選択の積み重ね。どういう選択が積み重なっていくのか、イメージがわかないです。

どう積み重なるかその時は良く見えないとしても、人生上述のように「より確かなもの」を自分で選択していくことを、とにかく日々重ねていくものだということです。そこに「成長」があると。
今回の話で言えば、「とにかく大学に行く」という「選択」今後の進路選択も、この選択あってこその次の積み重ねになりますね。

>打ち負かすことに快感を感じてしまうのは 感情が荒廃化している以上は、必然ではなかったですか?その荒廃化感情を持ったまま行動は建設的に・・・というのが
方向性だと理解していたのですが。

>感情では打ち負かすのに喜びを感じてしまっても、これからの自分の価値観としてそれを選ぶか、ということでは ないんですか?

それは大体その通りですね^^。湧いてしまう感情選べないので、それを内面に抱えたまま外面行動可能な限り建設的にするのが良いのですが、内面感情があまりにすさんでしまうと、外面での建設的行動ちょっと無理で、破壊行動なんとか抑えるだけになってしまうと思います。
その状態から抜け出したいならば、すさんだ感情が湧き出る根本的な大元に、取り組む必要があります。それが「価値観」であり、「自尊心」「人を打ち負かす」ことそれとも「自ら生み出す」ことのどちらに、自分として本当に重みを置くかという、自分への「問いかけ」していくというになります。

>正直、ゴリゴリに心は依存に留まろうとしているので、ハイブリッド心理学の価値観を自分に問うと、反発ばかりって感じです。だから確かな選択なんて全然できない。

もちろん「選択」自由です。ハイブリッド心理学からは、これこれの「選択」したならば次にこれこれの道がある、という道筋の説明をするまでになります^^。その道に実際行くかどうかは、お任せしています^^。基本的自助自己啓発の心理学になりますので^^。

>価値観の向き合いの過程、なども。例えばでいいんですが、バカなもので、具体例が知りたいです。

むしろ「価値観への向き合い」として単独具体的に言えるような過程はない、と言えると思います。まず日々の生活の全てにおいて、「本当に確かなもの」「選択」積み重ねをする「成長」がある。まずそれがあって、「価値観への向き合い」できるようになる、まずは言えるかと。
ですので上記最初「確かでないものの見分け」といったがまず通過点であり、その次に来るものとして向き合ってみて頂ければ^^。


少しはコツが掴めたかも…というご報告です /
No.834 2014/03/26(Wed) 14:50:26

お久しぶりです。
前回の書き込み時点では、考えれば考えるほど、書き込めば書き込むほど混乱が強くなっていっていた感じもあったので、内面的な取り組みから離れ、とにかく破壊的な感情を行動化させなければ良し、という感じでしばらく日々を送り、若干落ち付いてから、人との関わりについてどう考え、どう感じるのか自分自身の確認を行いました。
次第に「とにかく煩わしい。俺は一人になりたいんだ!」という強い感情を自覚し、その感情について考えていくうちに、子供の頃から持ち合わせていた感情であることを思い出しました。
では何故、一人暮らしをしていて尚且つ自由度の高かった大学生活で、人の輪の中に入ろうとしていたのか。喜び楽しみの共有はあったのかと考えてみましたが、「喜び楽しみはさほど感じられなかった。一人だとバカにされる可能性があった」というのが思い浮かび、一人で過ごすことが増える前の人間関係を考えると、恋愛を含めて「バカにされたくないから」という動機が底にあったことに気付き、現状を考えれば一人で過ごすことでバカにされることはそうそうありはしない、ということを改めて認識しました。まあこれは、以前…特に学生の頃と現在では世間の認識も変わってきた、というのもあると思いますが。

それからしばらくは、本当に一人で生きていくとしたら必要になるものは何か、特に老後のことを考えたらどうすればいいか、などを真剣に考え、ある程度のプランをまとめてから、再びその感情に向き合いました。
なぜそういう感情を持ったのか自分に問うてみたところ、従来の「さんざん束縛されて育ったから」という思考以外に、自分の気に入らないものに対して曖昧な根拠で「ダサい」「キモイ」と罵り倒す輩が多数横行し、恣意的な善悪論で他人を排斥しようとしている世の中への反感が明るみになり、その背景に「ありのままの自分では迫害される」という感覚が見え、「愛されることはもう諦めているが、これからも迫害されるであろうことに憤りを感じる」という思いがあるのを認識しました。

このあたりで、以前の書き込みで取り組もうとしたことのミスや、なぜ依存に関する指摘を受けたのか(当時は正直なところ全然わかりませんでしたが)を実感し、何となくコツを掴んだのかな…とは思います。
見えてきた感覚から察すると、最初にご相談した「仕事中に通行人から罵られて怒りを感じる」状況の根っこにあるものもこれだったのかも知れないな、と思います。
これについては今後、「迫害とはどういうことを言っているのか。それは今の自分の現実と釣り合う感覚なのか。こういったものを「悪意ではなく未熟さや不完全さ」として扱う見方があるが、これについてどう考えるのか」などについて、折を見て自分で問いかけていこうと思います。

他には最近、年が近い割に甘えた態度で作業している新人にイライラすることがあり、当人は別に悪人ではないのは把握しているので、これこそ「悪意ではなく未熟さや不完全さによるもの」という典型例だと思い、自分の感情に取り組んでみました。
まずは、「では自分は甘えについてどう感じ、どういう経験があるのか」と問いかけてみると、子供の頃に親や親せきにあんまり甘えることができなかったのを思い出し、「もしかすると、甘えたいという感情をどこかで置き去りにしてたのかもしれない」という仮説が浮かびました。そこで「十分甘えた記憶がないのであれば、そういう欲求を当時持っててもやむを得ないしなあ」と考え、とりあえずそこで思考を保留しておきましたが、しばらくして次第に物悲しい感情がうっすらと流れてきたので流しました。
その新人へのいらつきも若干おさまり、今後は「何がどうまずいのか」の説明を行う感じでの指導がやりやすくなりそうだと思います。

取り組みに再挑戦してからも随分経過する中でようやくコツを掴み始め、まだまだ向き合う感情や問題が山積みですが、ようやく感情への向き合い方が見えてきたように思えます。あとは、幸福への取り組みに関して、社会生活どころか、日常生活の向上すらまだまだのように思えるので、しっかり取り組んでいければ、と考えています。


 
書き込んだ日の夕方以降からの変化 /
No.840 2014/03/28(Fri) 15:57:37

書き込んだ後の通勤中、「この療法(当時はハイブリッド療法だったので)で人生逆転させて、今まで自分に嫌な思いをさせてきた連中にざまあみろと言ってやる!」という、このサイトを見つけて連日読みふけっていた頃の心の動きをありありと思い出し、実際に感情への向き合い方が少しわかってきた現状との違いを感じ、うっすらと出てきた苦しみを流しました。
考えてみると、物心ついてからの物事への取り組み全般についても、そういう報復感情以外はほぼ空っぽの状態で物事を見ていたのかもしれません。

ハイブリッド心理学を知ってから今までに、かなりの年月が経過しているにもかかわらず、ここ最近まで何一つ分かっていなかったこと、もしくはそれまで完全に復讐の鬼と化した内面状態で過ごしていたこと、そしてその復讐の鬼が行き場を失くしたであろうことが考えられ、それまでの自分の無知を思い知らされました。
それを踏まえて、次第に「今まで人間嫌いの感覚や報復感情を成立させるために、他人のことを十把一絡げに否定的に見てきてはいないだろうか?」という仮説が浮かんだりしました。それが内面に染み渡るかは今後次第だと思いますが…。
少なくとも一連の変化で、仕事中に通行人から否定的なリアクションを受けて、「我慢している」という感覚が少し減ってきた感じはあります。

去年からの段階でハイブリッドに関する思考レベルでの勘違いをいくつも見つけ、最近感情レベルでの勘違いをようやく発見し、と…日常生活や社会生活以前の段階でノロノロした進み具合を痛感していますが、焦らず外面行動に取り組もうと思います。


 
想定外の変化 /
No.842 2014/03/31(Mon) 02:48:53

その後、面白い経験をしました。
(その間は面白いなんて言ってられないぐらい疲れましたがw)

些細なことで怒りを感じ、「また怒りを感じてしまった…」という思いと怒りに乗っかった思いが両方浮かんできて、しばらくして、「よくわからないけど苦しい」という感覚を味わいました。
この時は何事かよくわからず、「怒りに重きを置いた感覚が行き場を失くしたんだろう」という風にしか考えられませんでした。しかし、翌日雨の中を通勤してる時に妙にイライラしてることを自覚し、そういうものではなさそうだな…と思いました。

そして仕事中(^^;)しまの先生のサイトを読み返す中で「怒りを用いない行動法」というフレーズを見てる中で「あれっ?」と思い、何故今になって違和感があったのか考えているうちに、怒りを「用いない」という部分に対してそれまで何か違う捉え方をしていたことを自覚。次第に、従来はニュアンスとして「怒りを感じない行動法」という風に勝手に脳内変換されていたかもしれない、と思いました。「詳説・感情を鵜呑みにしない思考」を読み返してみると、今までよりやけに納得した感じで読み進めることができました。「それはなぜか」と自分で問うてみると、どう考えても「怒りについて問題だと感じる感覚が減ったからだ」としか思えませんでした。もっと言うなら「怒りという感情自体を否定し、忌み嫌う感覚」が減った、ということかもしれません。

まだ確信はできませんが、もしかして、今まで怒りが問題だと考えていた事柄については、むしろ「怒りが問題だと感じる感覚」が問題だったのだろうか、という風に思えてきました。かなりビックリするとともに、精神的に余裕が出てきてからは笑えてきました。先生のサイトでは「パラドックス」という言葉がよく出てきますが、もしかして、これが正にそういうことなのか?と。
実際、雨にイラついてる時、「これも特別扱いを望んでるということなのかな…?」という感覚が意図せず出てきました。感情が出てからそういう思考ができるまでの時間が、体感的にはかなり短くなったように思えます。抵抗感も減ってるような…。

想定外の変化で実のところ未だに戸惑ってますが、これが前進に繋がってくれてればいいんだけどな…という感じでいます。


 
「依存から自立へ」の視野の下での取り組み実践^^ / しまの
No.850 2014/04/07(Mon) 11:17:37

ちょっとアドバイスまとめるのに日数を要しました^^。

心の成長の前進のための思考基盤

これはまず状況としては、
・「感情と行動の分離」の両輪(外面行動は建設的に、内面感情はただ流し理解する)がそこそこ揃ってきて、感情動揺への向き合いで細かい効果が出てくるようになった。
一方、「望みに向かう」ことによる心の成長と人生の前進という大きな流れにおいては、まだ少々壁を前にしている。
といった状況かと思います。

でその理由としては、『入門』(後で『概説』に変更予定^^;)次の原稿(「歩みの道のり」分かりやすく整理したいと思っていますが、「感情と行動の分離の両輪を携え望みに向かうことによる心の成長と人生の前進」支えになる思考基盤が、結局大きくは2つの軸にあるということになると思います。

1)「自分自身への論理的思考」
これは「感情を鵜呑みにしない思考」というごく基礎的なことから始まり、「自分を偽らない」ことや「思考や感情の歪みの解きほぐし」といった、成長治癒への基礎になるものです。
これができると、取り組み向き合いによって細かい改善効果得られるようになる。
蓮さん今回報告なさったのも、これが整ってきたというものになると思います。「感情と行動の分離」両輪部分

2)「心の自立と成熟」への視野
一方、細かい改善レベルではなく、「望みに向かうことによる心の成長と人生の前進」という、日々別人へと変化するような、異次元のレベルでの変化は、「心の自立と成熟」への視野という思考基盤必要になります。

これはつまりまとめると、
・「自分自身への論理的思考」によって、今の自分における「本当に確かなもの」を見出す思考を持つ
・「心の自立と成熟」への視野によって、
今の自分を超えた「本当に確かなもの」を模索する思考を持つ
ということが必要になるということです。
で、蓮さんの場合前者は揃ってきているようだが、後者はまだちょっと不足しているようだという状況


依存を自覚できないのが依存^^;

で、後者の状況が、

>このあたりで、以前の書き込みで取り組もうとしたことのミスや、なぜ依存に関する指摘を受けたのか(当時は正直なところ全然わかりませんでしたが)を実感し、何となくコツを掴んだのかな…とは思います。

というのを生み出していると思います。
前回「依存が課題」だと指摘しましたが、それへの取り組みは、コツをつかむというより、大上段からの問いによって根本的な思考の転換取り組む必要があります。

一般に、「依存が課題」という時、その問題が深刻であるほど、本人は自分の問題が依存にあることを自覚できないという問題が起きます。に言えば、問題が依存にあることを自覚できない様子に、問題の深刻さが示されます。
まず、「感情」として自分の依存を自覚できなくなります。代わりに、「怒り」を感じます。
次に、「思考」依存を認めないもの変化します。「善悪」にすり変わるものとして。ここで問題が固定化され、「心の病」の傾向土壌となります。
さらに問題が深刻になると、依存をできない様子がさらに異質なものとなり、「知覚」依存の世界の中で依存を自覚できないものに変化します。自分が常に監視されている。思考が電波として漏れ出す。幻聴が起きてくる。この段階になると「心の病」の傾向よりさらに深刻化した「精神の病」段階
そのように、自分の依存を自覚できない、自覚しないというのが、心を病む根幹となる、恐るべきメカニズムとも言えるものなんですね。
全て「心の依存」「病み」温床です。それが克服課題です。

ですのでに、自分依存自覚できることから、成長そして成熟始まるわけです。まあ単に依存を自覚すれば成長に向かうのではなく、それがどんな克服の方向性の下にあるのかを感じ取ることにおいて、ということになるでしょう。
最後までです。最後まで、依存を根本的に脱した存在になどなり得ませんので。依存から自立へと向かい、そこに完全なる自立はなく、やがて向かうべきは、依存と自立の区別を超えたものになるわけです。それが「魂」「命」という流れ

>そこで「十分甘えた記憶がないのであれば、そういう欲求を当時持っててもやむを得ないしなあ」と考え、とりあえずそこで思考を保留しておきましたが、しばらくして次第に物悲しい感情がうっすらと流れてきたので流しました。その新人へのいらつきも若干おさまり、今後は「何がどうまずいのか」の説明を行う感じでの指導がやりやすくなりそうだと思います。

これは自分依存認め、そこにあった「依存の愛」という「魂の望み」感じ取ったために起きた治癒だと言えますね。
一方その前に書いて頂いている「煩わしい」「一人で生きていくためには」といった部分は、自分依存把握していないために、何かコツをつかんだかのように不明瞭だった感情明瞭化まではできているものの、それがどんな解決の方向にあるのかは見えない、といった状況になっていると思います。


「依存から自立へ」の視野の下での取り組み実践

いずれにせよ上記2つの話、つまり取り組み実践に必要な思考基盤、そして依存を自覚しない依存という問題への対処として、アドバイスしたいのは2つです。

1)最新説明の手順に沿った「取り組み実践」

まずは
『入門 - 3.取り組み実践』書いていること全体しっかり憶え、特に「3ステップ」「外面・内面・外面」手順しっかり頭に入れる。
そして
『実践ガイド - U−4.実践の基本的な進め方 / 2.実践の基本的な検討手順チャート』
図示しているものが、より正確な手順になるものとして参照頂ければと思います。

決定的に重要なのは、まず何が「問題・課題・望み」なのかの明瞭化から始めることです。そしてそこで「外面問題」と「内面問題」に分けることです。
「感情を鵜呑みにしない」というのが、ここから始まっています。何が問題なのかから、感情に流されずに考える。チャートではその下「学び」来るという流れで書いていますが、実は「何が問題なのか」の把握方法から、「学び」始まっていることになります。

「ハイブリッド心理療法」標榜していた頃から学んで頂いたようですが、そこで言っている手順では、かなり不足します。
一言で言って、それは成長治癒の変化起きる際の意識表面だけを取り上げているものであり、成長変化起きるための心の足場作り準備過程などは盛り込めていません。
その結果、心の変化への足場ができていない段階で、ただ感情を明瞭化するだけで、問題の本質と克服を理解しないまま、いきなり来歴の感情を「分析」してみるという、誤った進め方がありがちです。これは取り組み実践の全体が感情に流されて進められる「感情を鵜呑みにした実践」になってしまいます。
それでとしても新しい解説いつまでも模索していた次第です。ようやっと十分な解説が揃ってきた感じ。

何が「問題・課題・望み」なのかの明瞭化から始めることで、「依存を自覚しない依存」への取り組みできるようになります。これは下の具体例で説明しましょう。

2)そこに盛り込まれる「依存から自立への転換」についての理解

そうして「問題の把握」から「学び」を取り入れ、ただ感情を明瞭化するのではなく、問題の本質とその克服について理解するならば、そこに示される問題の根幹「心の依存」であり、その克服「依存から自立への転換」にある、というものに他なりません。
それが自分の問題において、どんなことなのか理解が、決定的に重要になる、ということです。
つまり、上述のように最新説明のようなしっかりとした手順取り組みを行うで、そこで把握される問題から克服までにどのように「依存から自立への転換」という盛り込まれるのかを、理解することが決定的に重要であり必要である、ということです。


取り組み実践の入り口と出口

そのように、取り組み実践一つ一つのサイクルは、

・「何が問題・課題・望みか」の明瞭化検討
から始め、それを感情を鵜呑みにしない、また「依存から自立への転換」についての「学び」を踏まえたものとして行うことを入り口にします。

そしてに、
・そうして明瞭化された「問題・課題・望み」に対して、心の成長に向かうために、今自分にできる、今自分が成すべき、最善の対処の姿勢と行動は何かを見出す。
当然「依存から自立への転換」についての「学び」を踏まえたものとしてです。
これが出口です。

最初から最後まで一貫して、取り組み対象として向かうものは、心の外部にある出来事それに対する外面行動法であることに、十分に注意下さい。感情に取り組むのではありません。感情を分析することで感情が良くなるのが出口なのではない、ということです。
これはブログ僕の写真の下「便利リンク」など載せていますが、「姿勢」としてリンクしている
2011-12-07『成長の道標への歩み方-13・取り組み姿勢の正誤』
参照頂ければ。
そうして、「依存から自立への転換」についての「学び」で、「問題・課題・望み」明確化し、心の成長向かうために今自分にでき今自分が成すべき最善の対処の姿勢と行動見出すという取り組み実践全体の流れあくまであってこそ、そこに混乱解消や、豊かな感情側面開放があれば、感情当然良くなります。
しかし良い感情最大の源泉は、取り組み実践の意識作業ではなく、「依存から自立への転換」において次の一歩を踏み出すという、その人の「生」のあり方の変化そのものだと理解しておくと良いでしょう。


具体的材料

まずはざっとそんなところが、具体的材料にあたる以前に、取り組み実践とは何をするものなのかについて押さえておかねばならないになります。
一言で、「依存から自立への視野の下での取り組み実践」であることを踏まえるということ^^。

それを踏まえて、ようやっと具体的な話を言えます。

>次第に「とにかく煩わしい。俺は一人になりたいんだ!」という強い感情を自覚し、その感情について考えていくうちに、子供の頃から持ち合わせていた感情であることを思い出しました。
>それからしばらくは、本当に一人で生きていくとしたら必要になるものは何か、

これらは一体、何がどう問題としてあるのか外面問題内面問題分ける外面問題については、他人に責任があるものと、自分に責任があるものについて分ける。その「責任の切り分け」のところに、「依存から自立へ」の転換関係してきます。
ともかく、何が問題なのかから。実践まだ始まっていないわけです。

>「ダサい」「キモイ」と罵り倒す輩が多数横行し、・・(略)・・「愛されることはもう諦めているが、これからも迫害されるであろうことに憤りを感じる」という思いがあるのを認識しました。

「愛されたいのか?誰に?」という問いからになると思います。そしてその相手は、愛されることを求めるのが妥当な相手なのか
自分では自分をダサい、キモいと思っているのか?という問い
そして「迫害」について押さえておかねばならないのは、「ここにいるな!出て行け」と実際に言われることは「迫害」であっても、人の輪に入れるきっかけになる誘いが来ないのは「迫害」とは言えないといったことです。

そういった問い視点縦横投げかけて、「問題・課題・望み」明瞭化していきます。

>これについては今後、「迫害とはどういうことを言っているのか。それは今の自分の現実と釣り合う感覚なのか。こういったものを「悪意ではなく未熟さや不完全さ」として扱う見方があるが、これについてどう考えるのか」などについて、折を見て自分で問いかけていこうと思います。

それから「実践」ですね^^。「悪意ではなく未熟さや不完全さ」という視点に、まず誰に何をされたのかという客観的事実確認から。そしてそれが他人と自分のどっちに、どのくらいの責任があったのか振り返り。その互いの未熟さどこにあったのか考えると良いでしょう。


「問題・課題・望み」と「成長の望み」

それらを通して、「問題」そして「課題」として見えてくるのは、ずばり
・思考と感情の全てが「受け身」で始まっている。しかもそれは事実ですらない。
といったことです。「受け身の感情」湧くことから、意識が始まっている。
「課題」とは、
・「受け身では駄目なのだ」と自分に問うこと
だと言えるでしょう。
なぜなら、もう受け身に生きる存在ではないからです。自分で問題と課題を見出し、自分の考えで、自分の「望み」に向かって、自ら方向を定めて生きる存在です。

それをどう感じ取るか。
具体的に何をどう考えるかに、そうした、自分根本的な姿勢向き合う
全てそこから始まると思います。その先何がどう見えてくるかは、受け身ではないエネルギーのようなものを自身の中見出した先のことであり、今僕が言及するのはアドバイスとして過剰かと思います。


押さえるべきこと全部書いているとキリが(^^;)なくなりますので、とりあえずこの辺で。最新説明の取り組み実践手順照らし合わせると、そうしたことが見えてくるであろうということで。
『取り組み実践詳説』で書いている心の成長への意識過程についてじっくり読み自分がそこで書いているような意識過程いかに自分のものとしているかの確認に取り組むような進め方が、お勧めできるものになります^^。


 
Re: 少しはコツが掴めたかも…というご報告です /
No.851 2014/04/08(Tue) 00:50:23

アドバイスに長い時間をかけて頂いたようで非常に恐縮です。
経過のご報告を、と思って書き込んだことによって、想像を絶するお手数をおかけしたことを、非常に申し訳なく感じました。

>「望みに向かう」ことによる心の成長と人生の前進という大きな流れにおいては、まだ少々壁を前にしている。

これに関しては、実際のところ「望み」という言葉に対して、未だ実感が掴めていない感じではあります。
これまで、たとえ無意識でも、嫌な相手に「ざまあみろ!」と言ってやることしか根底に無かったのもあり、自分自身がどういう風に、何を手駒にして世の中に向かっていくか、ということすら、つい最近少し意識し始めた、というレベルではあります。
今ざっと思い浮かぶことにしても、カラオケを最低でも週1回できれば当面はいいや(たとえ一人でもw)、というぐらいのことしか思い浮かばないという感じです。
強いて言うなら「自由と安全」だと思います。
とにかくいざこざを回避して平穏な日々を送りたい。

>・「何が問題・課題・望みか」の明瞭化検討

従来から感じている問題としては、かなり抽象的ですが、どういう事柄を考えるにしても、社会や他人(血の繋がりがあるかどうかを問わず、自分以外のほぼ全ての人)に対する否定と不信の念、だと思います。
「人は集えば相争う」「世の中は万人の万人との戦争」「世間にはチャラい奴しかいない」「仕事中の通行人はヤンキーばかりだ」
…まあ、子供の頃から両親が不仲でがっこうではイジメとは無縁で居られず、20代の頃は暴君タイプでなおかつカルト思考(「神様」だの「宗教or儒教(儒教も宗教っすかね…私には、生まれながらの上下関係を至高とした思想の一つに見えますが^^;)」だのに傾倒していた)の上司と関わることが非常に多く、なかなかまともな感覚のリーダーに恵まれなかったことが大きいようには思えます。
直属の上司が粛正魔に見え、同僚もほぼ全て、自分はさぼりたいくせに他人のことはチクリたい輩ばかりに見え、政治家もマスコミも嘘や誇張ばかり、という感覚なので、職場でも時事問題でも、何を信用したものか、と感じる次第。職場では毎日解雇を恐れ、選挙では白票を投じるようになって久しい。
望みは上記した自由と安全ですが、人は集えば相争うものだと感じている分、それも無理なんだろうなあ…と。
みんなで重箱の隅をつついて揚げ足を取りあい、破壊しあうのが今の世の中…。
自分から見た社会は未だにそういうものに思えます。

>「ここにいるな!出て行け」と実際に言われることは「迫害」であっても、人の輪に入れるきっかけになる誘いが来ないのは「迫害」とは言えないといったことです。

むしろ私は、誘いが来ないことにはあんまり関心はないかもしれません。
一番の問題は、誘い出しておいて苛められ役やいじられ役を強いる輩が沢山居ることです。手招きされてうかつに近づけば殴られる。罵倒される。そういう感覚なので、今は一人でカラオケに行って興味あるイベントに行ければそれでいい、そういう感覚です。
むしろ、迂闊に集団の中に入って行って苛められ、弄られるのが迫害だと感じています。
お笑い芸人にとっては弄られるのはおいしいのかもしれませんが、少なくとも私にとっては不快です。職場にもそういう馬鹿がいたのが不快、というところでしょうか。

とりあえず、現状の内面を洗い出しつつサイトを読み返し、日常生活の向上に努めます。


 
思考だけでの小さい前進? /
No.854 2014/04/09(Wed) 03:44:43

返答を書き込んで間もない状態で、一部の思考を翻す出来事が起きました。
読んだ直後、「依存」という言葉から「お前は何かに依存しているダメな存在だ」と言われてるような気がする、という感情を自覚。やはり自分は何をやってもダメな奴にしかなれないのだろうか…と凹んだ気分を引きずってる所での出来事だったので、従来なら泣きっ面に蜂、という感じで「また責められた」という感情で処理するところ…いや、最初しばらくはそういう感じでしたが。
テレビニュースで何か見たと思しき母親から、「Windowsはもうセキュリティがダメらしいから使わないほうがいい」と告げられ、一応パソコン関連の仕事の経験がある身として「ああ、XPのサポート終了のことか」と判断し、確認するとやはり母親はサポート終了という単語に頷いてたので、もうWindows7にとっくに変えてるから問題ない旨伝えると「テレビではそれもひっくるめてダメになると言ってた」の一点張りでいくら説明しても聞く耳持たず。最後は「せっかく忠告してやったのに…」などとイライラブツブツぼやいていました。
(念のために言うとすねかじりではありません。一応衣食住の面倒は見てます^^;)

こちらも、ろくに意味がわかってない状態での助言ではなあ…と呆れていたのですが、ふと「こんな調子で、母親は俺が小さい頃から、母親から見て危ないもの、くだらないものだと判断したものについては、俺が行動することに対して、脅しながらまるっきり反対してきたっけなあ。それもあってか、自転車に乗れるようになったのも同級生に比べて大幅に遅い時期だったし、身体能力も同級生の中ではかなり低いほうだった…」という記憶が浮かび、まあ当時の子供の間では勉強が出来る子よりもスポーツが出来たり流行にうまく乗れてる子のほうが人気があるものでしたが、それを考えると勉強ぐらいしか取り柄がなかった当時、苛められやすかったのも仕方のない話だったのかなあ、という考えが浮かびました。
あとは、子供の頃にバラエティ番組や音楽番組を観ようとすると両親から「そんなバカな連中が出てるのを見てどうする」「そんなもんはガキが観るようなものだから観るな。俺にチャンネルを貸せ」などと言われてきたのを芋づる式に思いだしたのですが、「こういう感じの言葉が身に着けば、下手をすると、世間にチャラい奴しか居ないと考えてきた原因の一つになるんじゃないか?」という風に思考が進んで行きました。更には「「バカな連中が出てる」「ガキが見るような」番組、という感覚を信じ込んでた場合、それが態度に現れれば、これもいじめの原因になりかねないぞ…」と。
ということは、他人と関わることが苦痛な原因の一つとして、苛められた経験を引きずっていたことを挙げているが、いじめの原因自体が家庭環境内のゆがんだ価値観からきているのか?という結論に至りました。

以上の記憶と思考から、少なくともいじめについては世間が原因というよりは家庭環境が原因であり、世の中チャラい奴ばかりというのも、実際は記憶にすらなかった両親からの歪んだ言葉が原因で起きた思い込みの可能性が高い、と。
とは言え、これも母親は歪んだ価値観にしがみついた結果の行動であり、父親は自分の観たいテレビ番組のことで頭がいっぱいだっただけの、たぶん「未熟さ」からくる行動であり、責めるというのは効率的ではない。まずは、それが自分にどういう影響を与え、どういう被害を招いたかが最大の問題だ、と、両親の非を攻め立てる気にはなりませんでした。ただ、どうせなら「私はこういう人が出てる番組は好きではない」とか「俺はこっちを見たい」とか、正当化抜きの正直な本音を告げてくれればこんな厄介なことになる確率は下がったろうになあ…という残念な気分は残りましたが。

同時に思い浮かんだのは、家庭や学校でこういう理不尽な思いをした当時(正確にはたぶん学校には非はない)、こういう思いをしたくないから、あるいはこういう思いをする人が減ってほしいから、と、法律関係の進路を考えたんだっけ?という記憶も浮かんできました。今の望みではないけど、当時の望みはこういうモンだっけなあ、と。

現状では金銭的な問題などもあり、さすがにまた法律家を目指すというのは現実的な話ではないですが、まあこういうものが見えてきたのは悪くない傾向なのかもしれないと思いました。少なくとも、記憶と思考だけで子供の頃のイジメの原因を分析できたのは初めてなので、一応前進といってもいいのかもしれない、と。

おそらく関連することなので、
>自分では自分をダサい、キモいと思っているのか?という問い。
に関して率直な回答を挙げるとするなら、「少なくとも流行を意識しながらの行動は苦手で嫌いだった」という感じになります。
来歴で上記のような感じだったのに加え「流行だからといってそれに乗っかるだけの行動は、人の目を第一にした、それこそ「依存」の典型になる」という感覚は元から持っていたように思えます。それに対して批判の目を向けられることに耐性がないのはどういうことか。今後はどういう考え方が出来るか。についてが、また考える必要のあることなのだと、現時点では感じています。


 
だいぶ解れてきました /
No.856 2014/04/12(Sat) 17:33:34

今回は連投が多くてすみません^^;

まず、流行に対する自分の思考・行動については、予期せず三国志がいい材料を与えてくれました。
三国志に関して自分なりの解釈を交えて考察しているサイトがあり、そこを見ていると「群雄たちが宗教やオカルトとどういう関わり方をしているか」考察しているページがありました。
まとめると「オカルトに傾倒している群雄も、逆にただ否定してる群雄も滅びの道を歩んでおり、(正史の)曹操などはそういうものを信用していたとは言えないが、うまく利用していた」という話になっており、横山光輝三国志で言えば「仙人を殺して祟られて死んだ孫策」と「妖術に見せかけた迎撃をしてきた敵に、まじないをして部下たちの恐怖心を取り去り、影響のないところから攻め込んだ劉備」が好例だと思ったところで「これって、扱い方を間違えば病んだ思考に陥りかねないもの全般に言えるのか?」という思考が浮かびました。下手をすると「人の目」に流されかねない「流行」「善悪」「悪感情」と言われるものを、危険なものだからと問答無用で否定して無視しようとした態度こそ、この孫策の姿に重なってくる、と。
結局、問題ない形で利用できるのであれば、そういうものも利用してやればいいのだという気付きを得ました。利用できないものについてはそれこそ「何もしない」

それから、歪んだ価値観を家庭環境で身に付けた可能性が高い、ということで、家庭環境の中で取り込んだ社会生活の妨げになりそうな価値観・思想を記憶の働く限り検証しました。
苛められていたことが家庭や学校の表ざたになった後、親から「てめえがシャキッとしてないからいじめられるンだ!」「ンなもん相手を心の中で見下してりゃいいンだ!」と叱責を受けたことを思い出し、「俺には誰一人味方などいないンだ…」と落胆したのを思い出し、「当時は味方が欲しかったのか…」という結論に至って感情を流しました。また、この感情は少なくとも20代半ばまでの人との関わりでもかなり影響していたことも自覚。結構悲しい感情ではありましたが、今必要なものではないな、という判断もつきました。今は一人でもカラオケ出来る、と^^;

あとは、一連の記憶を理論的に整理しました。

1.「危ないもの」「無駄なもの」と断じられたものには猛反対され、勉強ぐらいしかやれることがない状態に。
2.テレビを見ようとする際に「あんなバカが出てる番組観てどうする」「そんなんはガキが観るものだ」という言葉を内面のどこかで真に受け、そういうものが態度に出る。
1.2.により勉強ぐらいしか取り柄がなく、一般的な流行や娯楽を理解できない事態が発生。これは確かに、子供の間ではいじめの標的にされても仕方ないのでは、と思います。

余談ですが、1に関しては、世間話がてら友人に話したところ「『キャリー』って映画に出てくる母親かよw」という反応があったので映画について調べてみましたが、この映画の主人公も厳格な母親の元で冴えないオドオドした子に育ち、いじめられたことが発端で話が始まってるようですね。

「てめえがシャキッとしてないからいじめられるンだ!」
「ンなもん相手を心の中で見下してりゃいいンだ!」
これらの言葉は、事態に火に油を注いだ可能性が高いと思いました。
前者により「世の中に自分の味方になってくれる人は誰一人居やしないンだな…」という認識を決定的なものにし、後者により、自分に嫌な思いをさせたもの全てについて、心の底で悪いところのあら捜しをする意識が定着したと思われます。具体的なものはだいたい想像がつくと思われるので省略しますが、相手の欠点・弱みを衝くような感じの見下し方をするものが多かったと記憶してます。

これらについて、今まで学んできたことをベースに考えられる問題点としてまとめてみました。
・「苛められた原因」が、苛めてきた相手だけでなく、「自分が置かれた環境で問題のある価値観を身につけたこと」にも原因があることを認識できなくなってしまうこと。
・問題のある価値観が原因で苛められたにもかかわらず、それを認識できる当事者が誰も居らず、更に酷い事態を招いている。
意識の向け具合が「シャキッとしているかどうか」に向けられる上、「誰も味方になってくれない」という認識の上に心の底で相手を見下すという姿勢が生まれてしまい、「自分を不快にさせた相手」に対して、不倶戴天の敵であるという意識を不動なものにさせてしまっている。→「人間不信」「他人嫌い」の主要な原因と思われる。
・「相手を見下す」という態度をとっているが、それが真実だとは心底では信じられるわけでもない。そもそも、元々は自分に不快な思いをさせている、という状況をベースにして働かせている思考なので、心底では「正面から挑めば相手から叩き潰されてしまう」という認識がどうしても避けられなくなる。その上、「見下してる相手から不快な思いをさせられている」という認識が働くことは避けられず、怒りの感情を膨張させる原因になっている。→現状の「怒り」の主要な原因と思われる。
・「危ないもの」「無駄なもの」「バカが出てる番組」「ガキが見る番組」という、最初の認識が、更に毒々しいものとなって固定されてしまう。→「チャラい奴ばかり」「ヤンキーばかり」という意識の原因と思われる。

とりあえず一連の流れで、家庭環境から仕入れた価値観により「現実を見る目」を大いにふさがれていたのを確信しました。
元々何が原因か分からない状態で漠然と「これかな…?」と思っていたものではありましたが、これが妨げになっているとしたら、そこからの抜け出しだけでもこれから何年・何十年もかかってしまうことが予測されたため、自分の年齢を考えると、まさに「日暮れて道遠し」だろうな…ということで、あんまり認めたくないと感じていたものでもありました。
母親とのよくある意見の食い違いが発端でしたが、それだけでまさかここまで紐解くことが出来るものがあるとは思いませんでした。またこれをベースに生活向上に努めていきます。


 
既成観念を疑って実践^^ / しまの
No.857 2014/04/13(Sun) 16:25:24

既成観念を疑って実践

追加3つ入れて頂いていますが、まず2つ分見てのコメントが以下。

これは結構重要転換ですね^^。僕のコメント直後に返して頂いたレスの方は輪をかけて話が受け身依存(^^;)になっていますが、次のレスの方で「自分の側の問題」意識が移っている様子

つまり「受け身依存が問題」だと指摘しましたが、それは「他人の側の問題」意識が終始している様子のことです。
それに対し、「依存から自立へ」の転換が生まれた時、「自分の側の問題」意識が回せるようになってくる。
まあ実際のところ、「依存」問題である時、「依存が問題ですよ」というアドバイスをして依存を脱してもらうことは、かなり難しいというかかなり不可能なのが実情というのが僕自身体験的印象です。そうしたアドバイスに対して再び「依存」の中で反応してしまう。「依存だから駄目なのか」と、ただ自分が否定されたという反応になったり、「言われたように依存でなくならねば」というストレスを感じたりと。

まあそんな話はさておき、実践的には『入門編上巻』とかで強調している「自己の重心」というものが重要になりますね。人がどうこうより、自分はどうなのか。自分ではどう感じ考えているのか。
そうして「自分の側の問題」見えた時、話は「依存から自立へ」の転換というより、自分がその中に囚われていた、過去からの不合理自覚になる、と言えるかも知れませんね。上記お母さんとのやり取りの話のように。

他の話についても、「自分の側の問題」思考できるようになると、かなり有益かと^^。
まあその有益さは、気づいた時点心地良いものもあれば、気づくことかなり手痛いものもあるかも知れません。
いずれせよ、それらは「今までこう考えていた」ことの、大いなる誤りだといことになる。

僕からは、気づくこと心地良い(かな?と^^)ものをまず言っておきましょう。

>アドバイスに長い時間をかけて頂いたようで非常に恐縮です。経過のご報告を、と思って書き込んだことによって、想像を絶するお手数をおかけしたことを、

この「恐縮」「不適切」です。読者基本的質問相談であればどんなことを書いて頂くも自由僕自身が定め「権利」。一方長い時間かけてコメント書いたのは島野の好き勝手であり、次の原稿のためにもいい機会だと、この場を利用したまでです。にとっては全てが執筆の肥やしです^^)v
またにとってそれは「想像を絶する手数」ではなく、今まで何度もこれ以上の手間をかけたアドバイスを書いています。
つまりこれは、「相手を知る」というより、自分の既成の他人観反応されたものと思われます。

それと合わせ、蓮さんが書いている他人への否定的文章を見るに、察せられるのは、自分では自覚しない形で、かなり窮屈な社会観世界観の中におられることです。
まやはり「依存の世界観」なんですね。依存し合って生きている人々感覚世界。それとは全然違う生き方をしている人感覚世界を、知らないでおられるという印象
まあこれは時代でもあると感じます。「一人は皆のため、皆は一人のため」といった言葉が言われ、人の目依存の言葉ごく日常語になる時代。たどえば「受ける」など。
これは確か以前「道徳の授業型人生観」指摘しましたね。やはりその一環になると思います。

ともかく実践は、前レスで書いた通り、「何が問題・課題・望みか」明瞭化検討からです。「依存から自立への転換」どう反映するかとか難しい話はさておき、上述のような話として、ともかく自分の既成観念を疑って向き合うと、進みやすくなるかと^^。


「自己の重心」で「今の行動法と価値観」に取り組む

追加で入れて頂いた3つ目も、大よそ2つ目さらなる詳細検討のようですね。それはそれでいいと思います^^。

あとは、大きな視点としては、今の自分「問題」とその「原因」検討として、意識もっぱら「過去」に向いていると思いますが、「問題」「原因」について、「過去」の話はいったん置いといて、「今」の自分の行動法や価値観がどうかに取り組むことが重要になってくると思います。
たとえば「相手を見下す」という言葉が出てきていますが、それは
『入門 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ / 4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法』
において、ハイブリッド心理学とは別の道を取るということか。なら人や社会とうまくいかない「原因」について過去を分析するまでもなく、そこに一因があるのが分かる。

上述のように、自分の既成観念を疑うのと同時に、それによって自分が身に着けた「今の行動法と価値観」をじっくり取り上げ検討するというのがお勧めになります。
また何かあったらなるべくテーマ個別に明瞭化して新規トピックで入れて頂くと良いかと^^。


恐怖について / りょうたろう
No.849 2014/04/06(Sun) 22:10:09

前回から間が空いてしまいましたが、先日はアドバイスありがとうございました。

さて、前回の投稿から今までの間にも内面的な変化は目まぐるしくありましたが、それをここで詳しく述べることは止めておきます。膨大な量になるという理由もありますし、それにこれらのことはかなり詳細に日記に書き残してあります。結局は自分自身で受け止める問題ですから、ここでは主な出来事の報告と質問事項にとどめておこうというのが今の考えです。

まず、今現在の取り組みと内面の状態ですが、内面については悪感情と前進力が紙一重で目まぐるしく入れ替わっているような感じです。前者は以前のように破壊的なものではなく、静かに染み入るようなものが増えてきたようで、後者はまるで子供時代が帰ってきたかのように思わせるものです。体が動かなくなるほどの絶望感に襲われたかと思えば、些細なことを楽しむ感覚が蘇ってくる。あるいは、他人と親しくなりたいという望みを自覚した直後に、泣きたいほどの寂しさを感じる。かなり苦しい悪感情も何度も経験しましたが、それらと向き合ううちにだんだんと「他人の目」がその重みを減らしていっているのを感じます。例えば対人関係では、以前なら「無様なところを見られてしまった」と感じていたであろう場面で「自分としてはこうしたかったのだが、恐怖に妨げられて思ったのと違った結果になってしまった」と感じるなどです。

ただいずれにしても、正か負かにかかわらず感情に一々左右されない行動法を取れるかが重要だろうと考えています。最近の取り組みとしては「自尊心」をテーマにしており、対人関係を含めほとんどの場面で「どう行動すれば自尊心につながるだろうか」と考えるようにしています。やはり、自分の利益につながることを自分でできるというのは自尊心を生みますね。
その結果新しく芽生えてきた感覚として、「生活することが楽しい」というものがあります。「今日の夕飯は何にしよう」とか「窓の隙間を塞ぐのに丁度いいものはないだろうか」とか、何気ないことですが。しかしそういった日常のことをこなしていくことで、自分が血の通った人間に戻ったような感慨さえ抱いています。

それでも上にも書きましたが、かつてないほど明るい感情が湧いたすぐ後に、今までより悪化したとさえ思える悪感情に襲われる(あるいはその逆)ことが最近よくあります。
そこで今回質問したいのは恐怖の克服についてです。

ほんの数日前のことです。その日はいつになく自尊心へ向かう意欲が高まり、外面への強い前進力を感じました。ところがその翌日、バイトに向かった私は激しい恐怖に襲われたのです。それは「自分は何か間違ったことをしたのではないか、今にもそれを咎められるのではないか」というものです。今になってこんなことを感じることは完全な予想外でしたが、これは考えれば考えるほど根が深い感情のように思えます。突き詰めると「理由のわからない怒りを向けられる恐怖」であるからです。

すべての他人が究極的には敵だという感覚がやはりあります。そして仕事のように具体的な役割や責任がある場面ではこの感覚が一気に現実感を増し、「自分は責められているに違いない」という確信に近いものにさえなる、という構造が言えそうです。
前回の投稿で書かせていただいたような幼少期の体験も大いに関わっていそうな問題ですが、まず自分なりに考えたのは外面の対処です。自分の行動に不適切な部分が実際にあったかどうかという検討と、その判断基準の見直し。ハイブリッド心理学の「学び」も大いに参考にしました。

ただ私にできたのはそこまでです。この恐怖は心というより体の反応に近く、文字通り身がすくんでしまいます。
合理的な思考法に加えて、基礎体力のようなものとして自尊心を積み重ねることが克服への足がかりになるのではないかと私としては考えているのですが、どうでしょうか。恐怖の克服についてのアドバイスをよろしくお願いいたします。


ここからは余談ですが、最近は印象的な夢については日記に書き残すようにしています。今までの内面的な気づきの多くは夢から得られたものでした。恐怖や孤独、怒りなど。例えば深い孤独感を感じた夢では、「皆が自分から離れていく」ではなく「自分が皆から離れていく」という内容だったのが印象的でした。むこうで楽しそうにしている人たちに背を向けて、とぼとぼ歩いていく自分。「自分はあそこにはいられない」という思い。そこから、中身のない自分への否定感や他人に近づこうとする望みを自覚することになりました。
私が自己の深い内面とか現実を超えた情緒といったものに強い関心のある人間だと改めて感じています。車の窓から景色を眺めて感傷に浸るのが何より好きな子供でした。
さらに余談になりますが、私の愛読書であるミヒャエル・エンデの「はてしない物語」にハイブリッド心理学との驚く程の類似性を感じている今日この頃です。優れた文学作品というのはやはり人の心にある普遍的なものを描いているのかもしれませんね。


 
「愛」「自尊心」「怖れの克服」一揃いの取り組み^^ / しまの
No.853 2014/04/08(Tue) 18:16:52

>ただ私にできたのはそこまでです。この恐怖は心というより体の反応に近く、文字通り身がすくんでしまいます。合理的な思考法に加えて、基礎体力のようなものとして自尊心を積み重ねることが克服への足がかりになるのではないかと私としては考えているのですが、どうでしょうか。恐怖の克服についてのアドバイスをよろしくお願いいたします。

その通りですね^^。ハイブリッド心理学では「愛」「自尊心」そして「怖れの克服」心の3大テーマと定めており、こう考えています。
つまりそれらに向かうための答えはそれぞれ一つであり、それらは、それら全てが揃う形で達成される。決してどれか一つを単独一面的に達成することはできない、と。
それらに向かうための答えとは、
「愛」については、「喜びと楽しみの共有」として向かうものであり、
「自尊心」については、「自ら生み出す」ことに築くものであり、
「怖れの克服」は、「愛」と「自尊心」において「安全を正しく知る」先に「恐怖を生きる」ことによって、「怖れ」が心から根本的に消え去り達成されるのだ、と。

これらの「価値観」本当に自分のものとする選択と、実際の行動場面でそれを具体的なものにする「行動学」極めて重要になります。
『入門 - 3.取り組み実践 / 行動学』

取り組み実践においては、これらのつながりについての理解を深め心の懐を肥やしていくことと、実際の行動場面において自分の思考と感情じっくり取り組み、まず自身の建前思考や矛盾などにも取り組むことからになると思います。
例えば、

>すべての他人が究極的には敵だという感覚がやはりあります。

との根底には、「打ち負かし優越」の自尊心ベクトルがやはりあるかも知れない。

長い道のりです^^。
心の懐を肥やすことについては、『入門編下巻』『理論編』『実践詳説』などの読書を、時間の折定常的習慣として進めるのがお勧めになります。「この部分を」と言うより、まずは全てが関係しているということで^^。
実際の場面については、具体的状況なども書いて頂ければ具体的アドバイス可能です^^。


(No Subject) / こたろう
No.838 2014/03/27(Thu) 19:33:35

1.
昔の割とおしゃべりな自分とかと比較されて「どうした?病気?」と見られるのがおぞましい恐怖です。

⇒合理思考
自分が感じているほど他人は自分に興味はない。
これは宇宙の愛を求める、世界の中心が自分であるという感覚によってそう
感じている。
・・・しかし現実に他人と対面したら、その人の目は自分に向く。
表情に関しては昔とは違って上手く笑えなくなっているし、自分が輪に
入れない状況が続いたことによって、親愛の中にある雰囲気の他人に対して
憎しみが固着していて、やはり「どうしたんだこいつ?」とは思われると
思う。
しかし、そもそもの問題は他人の中の自己像を現実の自分の進歩や興味よりも
明らかに優先どころか、それが全てであることだと思う。


2.
>オドオドならまだいいですが無感情なのは異常者の印象をあたえそうです。

⇒これに関しては合理思考が思いつきません・・・
 異常者というといいすぎかもしれませんが、壁があって
 怖い、心を閉ざした関わりづらい空気を悪くする人間という感じの
 印象は与えると思います。
 
3.
>こういう転落イメージの膨張

⇒大学を中退しても、仕事が全くないわけではない。
 しかし大学の人間関係が出来ずに、社会人としての人間関係が
 築けるのか疑問。

「これこれの転落をする」という自動思考への対抗打になる合理思考を検討してみる。
(4.)
>内面感情を問う姿勢

⇒「荒廃化」した感情を抱えたまま生きる決意、というところですかね。
特に、「自分は何もせずに与えられるべき人間である」
「なぜ俺が頭を下げなければいけないのか。」
「あんたたちは俺のために何でも尽くすべきだ」といった
<宇宙の愛を求める態度>
全く実力も能力とも釣り合っていないのに
こういった感情が自分の仕草などに出てしまって
それを見抜かれる恐怖。


後は、こんな自分と一緒にいて幸せになれるはずがないのに、
相手と友達になったり、知り合いになったり、ましてや恋人になるなんて
望めない、というのは望む資格思考だと思うのですが、
どうしてもこれがぬぐいきれないというか。
それによって高貴に感じている部分もありますが、

実際には、資格というよりは
実際に付き合っていくうちに自分の傲慢さや、愛情の無さ、皮相さに
気づかれて、それによって嫌われるという経験を
避けるために、前もって自分を挫いているんだな、という感じですね。


 
合理思考の例^^ / しまの
No.839 2014/03/28(Fri) 10:29:55

では先のアドバイス(No.836)続きということで^^。

1.
>昔の割とおしゃべりな自分とかと比較されて「どうした?病気?」と見られるのがおぞましい恐怖です。
・どう思うかは彼らの勝手。仕方ない。
・そう思われたとして単位が不合格になるわけでもない。何も起きない。
・「どう見られる」かではなく、自分として何ができるか、何を望むかに向き合う必要がある。


2.
>オドオドならまだいいですが無感情なのは異常者の印象をあたえそうです。
・一時的な無感情は別に異常ではない。そもそも異常者とは何を言うことなのか、自分自身の思考を確認する必要がある。

3.
>こういう転落イメージの膨張
「これこれの転落をする」という自動思考への対抗打になる合理思考検討してみる。
>大学を中退しても、仕事が全くないわけではない。しかし大学の人間関係が出来ずに、社会人としての人間関係が築けるのか疑問。
・大学は中退しない。人間関係とどっちを選ぶかの問題ではない。

結局、大学を卒業することと、友人を前にしたキャラの演じ方と、どちらを重要視するか判断決断問題になると思います。
当然前者正解になると思います。
さらに言えば、そもそも人間関係のために何かを捨てるというような姿勢で、人間関係は作れるのかという問い必要になると思います。「人間関係」というイメージが先にくる思考そのものが、もう現実に何を生み出すものでもないということです。これをいかに直視するか。
人間関係などお構いなし(ただし当然建設的行動法の中で^^)本当の自分で行動し生きる先に、本当の人間関係ができます。人間関係ができなくても大学には行くといった「決断思考」こそが、将来の人間関係豊かにしていくと思います。

(4.)
>内面感情を問う姿勢
どんな内面感情をどのように問う姿勢が起きているのか、具体的にあげればこれも同様検討材料になります^^。
>「自分は何もせずに与えられるべき人間である」「なぜ俺が頭を下げなければいけないのか。」・・(略)・・こういった感情が自分の仕草などに出てしまってそれを見抜かれる恐怖。
・内面感情がどう見られるかではなく、実際そこにある行動場面材料について、どんな行動法で向かうかの問題になる。行動法の知恵とノウハウを使うとき、内面感情がどう見抜かれるかという問題は起きない。

まずはそんなところで^^。
今は人間関係がどううまく行くまいが大学に行くという決断こそを安全ラインとして、そこから自分にとっての本当の人間関係の築き方というものに、じっくり時間をかけて取り組む、というのがお勧めになりますね^^。

そしてその「決断」とは、結局根本は、感情に負け自分を失う(それによって感情がいっそう悪くなる)か、感情を超える意志を持つ(それにより現実を向上させることで感情が良くなる)かの姿勢の違いであり、後者持つかというになると思います。
(参照:『入門 - 4.心の成長変化(1) / 「感情を鵜呑みに考えない」という全てのスタート』)


 
Re: / こたろう
No.841 2014/03/29(Sat) 16:28:34

結局そこですよね。

内面感情なんですが、
自分もなんとか人の中に入れそうだと
思っているうちは、
そこまで嫉妬心による殺意?みたいな
ものが沸かないのですが、
無理そうだ、と思った途端にそれが
吹き出してきて、猛烈な劣等感に
かられ、態度に出さないのも厳しい感じに
なります。


異常者で意味するのは
この間逮捕された統合失調症の
通り魔みたいな感じですかね。
完全にまわりの人と自分を違うものだと
感じ、全く断絶した世界として壁を
作った感じ。
自分が明るい輪に入れないと感じたときに
同じような風になっている感じがして、
怖いです。

行動法がわかれば内面感情が
見抜かれる問題は起きないというのは
やっぱり納得できません。

同じ言葉を発していても、
やはり内面感情が見抜かれれば
関係は上手くいかないと思います。


 
Re: / こたろう
No.843 2014/04/03(Thu) 10:14:33

行動法についてです。


現段階では、
好かれるのも怖い、
嫌われるのも怖い、
良い印象を持たれるのも
悪い印象を持たれるのも怖い、
という状況です。

これは、好かれるのが恐いというよりは
一度期待される自己を裏切ってしまったときの
相手の落胆、その落差が恐いということで、
もちろん表裏一体だと思うのですが、
どう人と関わっていくか混乱しています。


つかず離れずで、
嫌われるわけでも好かれるわけでもない
キャラクターになろうとか...


しかしこれは感情の揺れを最低限に
したいという選択であって、
どうなのでしょう...


人間関係が築けなくても
大学に通うのはもちろんなのですが、
やはり最初の印象はその後の関係性に
関わってきますよね。
なかなかラインが決まらないのは
それもあります。
最初にむすっとして壁を作ってしまうと
そういう印象が固まってしまうし、
そういう印象を持たれていること自体に
耐えられそうもない。
かといって話をしていけば
仲が深まり、距離感に悩まされる。

誘われたりしたら、断って相手を
避けていると思われるのが苦痛。

嫌われる、ひかれるのは
きついが
好かれるのも困る。
興味を持たれないのも
苦しい。


まあ、人にどう思われるかが
重要で、かつ自分が愛情を持てない
というならこの板挟みはある意味当然で、
どの苦しみを流していくのが
先の成長につながるか、ですかね。

対人関係にとらわれすぎて
自分の興味や関心に時間が
とれないのも厳しいですが...


●感情を出さない、について

先のレスをもう少し細かく言いますと、
内面感情を内にキープするってどういう状態
なのかなと、思いまして。

@表情や外面印象にもあまり差がない状態で、
かなりの不安や恐怖や怒りを内側にみてとれる。
その上で建設的な行動。
この場合だと、相手が自分の感情に気づいていないだろつうと思えるので、その安心感はある。

A表情や外面印象には出る。
声が震えたり、汗が出たり、顔が強張ったり、
目が死んでいたり。鬱病?と思われたりする
ように元気がなかったり。
その上で建設的な行動。
相手が自分の感情に気づいているかもと思われるので、
それが気づかれる怖さはあるが、
それは仕方ないものとして、
行動で関係は維持する。

B表情や外面印象には出る。
しかし、相手は自分の感情に気づいていても、
それによって軽蔑したり見下したりするかは
人によるし、そう感じるのは自分の自分に対する
見方だという認識が、安全の保証になる。
その上で、建設的な行動で
関係は維持する。

例えばですが、恐怖感、不安、
感じているとどうしても顔が強張り、
青ざめます。
血の気がひくという感じ。

ましてや恐慌感情の渦?心性崩壊に向かうような
状態で、人前に出れば、目は虚ろで、
顔は青ざめて、という状態だと思うのですが、

外面の安全をふまえてそれを流すというのは、
「嫌われない」
「悪い印象を与えない」
「関係が崩れない」
「引かれない」
という事ではなくて、

先のレスにあったように
「嫌われても死なない」
「悪い印象を与えても仕事がなくなるわけじゃない

「関係が崩れても、死なない」
「引かれても、生きていける」

といった事になるんですよね?


こういう風にみられた、こういう目でみられた、
というのは外化のメカニズムとして
感じざるを得ないということでしたが、
それを外化だと認識することで、
不安がそこまで肥大せず、顔色や挙動不審な
動きなどにはつながらないという事でしょうか。

こういう風にみられた→感情がゆれる
→ゆれた感情の動揺を見抜かれた
→さらに怖くなる→さらに挙動不審に
→さらにそれがみられていると思い
→さらにビクビクする

このループでどんどん外面の仕草、顔色などが
悪化していってしまう。
最終的に本当に
「病んだ人」
「関わりたくない人」
「目が虚ろで気持ちが悪い人」
大部分の人に
こういう印象を持たれてしまう
のではないかと思うのです。


外面行動ができれば、表情の問題が
起きないというのが、納得できないのは
こういうところてす。




恐慌感情に襲われても、
外面印象としては普段通りだというなら
勇気を出して向かえると思うのですが、
顔が強張り、笑えなくなり、額が冷たくなり、
青ざめているのに、それに向かうというのは
どうしても難しい感じがする。


勝手ではありますが、
復学が目の前に迫っていて、
すごく怖くて混乱しています。
アドバイス頂きたいです。


 
最低ラインの再確認^^ / しまの
No.844 2014/04/03(Thu) 11:44:17

取り急ぎ、恐らくはアドバイスできるのは今までと大体同じ話で、

>人間関係が築けなくても大学に通うのはもちろんなのですが、

結論として出たならそれで良くはもうあとの話になってきますね。

>やはり最初の印象はその後の関係性に関わってきますよね。

はまず、関係性は持てないことを覚悟するというになると思います。
重要なのは、自分にとって本当に確かな関係性とはどのようなものなのかを、これから模索することになるかと。ということは、確かでない関係性持たないという姿勢に、いったん安住の地を見出すことからではないかと。

そこから、今までとは全く違う関係性のあり方を、これからの人生築いていくということですね。それは長い道のり得るものであり、今は何もなくてもokだという姿勢で行くのがベストだと思います^^。

細かく書いて頂いた想定ケースについては、それぞれどう考えればいいかを考えても答えは出ず、それらの全てがもう問題なのではなく、実際に大学に行くことができるというのが問題。ということは、まずは無表情無口でも最低限必要な事務的会話はできるというのが、どの想定においても最低ラインになると思います。
まずはそれからですね^^。

それに耐えられないから何か方策を、という選択肢はなく、まずそれを耐えて次に何を模索できるか、というになると思います^^。


 
Re: / こたろう
No.845 2014/04/03(Thu) 18:58:11

それに、耐えられないから何か方策を?
のそれ、というのは
「しゃべらないで無愛想であることによって
とっつきにくい、接したくない、恐い、といった
印象を持たれ、避けられると感じた状態」
でよいですか?


実は今日前もって大学に用事があり、
行ったのですが、
想定外の旧友?二人に会いまして、
自分の事をどう話すかをある程度は
決めていたのですが、
流れで
メンタル崩して、体調が...とか
2年間ほとんどなにもしていないとか
いってしまいまして...

いう必要もないことを
言ってしまうのは「普通こうだろ」を
裏切るのが恐いからですね。
相手の中でつじつまがあってないと
ものすごい不信感を持たれているような
感覚になってしまう。
暗いけど、メンタル崩してるなら 仕方ないと
納得してほしいんでしょうね。


しかし態度は自動的に昔の感覚だったので
もうよくなってるじゃん、

かれらの繋がりで、よく一緒にいたメンバーで
呑もうよとかいう話になってしまいました。
また、インターネットのsnsで
●●復活!とか書き込もうみたいな。


やはり、突然音信不通になったのが
いったいなんなのかとウワサになっていた
みたいで...


しかし、また昔のような自分をってのは
無理そうで、でも連絡をとらないのもむずかしい...

しかしまた流れに沿って、
自分を演じれば、同じことの繰り返し
なんですよね。
だからリセットしたかったのに...


変わってしまったんだなと
失望されるのが得策だということですか?


すでに自分の存在を、当時の同期に
さらされてしまいました。


彼らとは縁は切りたくないですが、
全く関わらないのも難しいし...


 
Re: / こたろう
No.846 2014/04/03(Thu) 22:33:44

重ねて申し訳ないですが、
細かくかいた想定ケースは、
僕の状況があまりに外面的関係が
築けない現状だから、
という意味でどれというのは
ない、ということですか?


外面行動が安定した場合でも、
同じ疑問は抱くと思うのですが、、、
それとも論点自体がおかしいでしょうか?


 
交友行動の指針^^ / しまの
No.847 2014/04/04(Fri) 10:07:42

交友行動については、
・「破壊」の行動モードでなければ何でもok。「絶交する」は破壊ですが、「今回は参加しない」は破壊ではないですね。そうした、モノは言い様によって破壊にならないのをうまく使い、ゼロか100かではない、自分に可能なラインを築いていく。
・相手もあることなので、最初から「これで」と行動法を決めるのは無理。多少流される成り行きでも良し。
・「友達ならこうすべき」「裏切り」とかは不合理思考。あくまで「楽しみの共有」として可能なものというのが合理思考。


といったものを外面行動指針にして、その中で自分に可能なものを探して実行するというものになると思います。
あくまで「自分として何ができるか」優先基準です。「人にこう思われるように」という操縦的なものではなく。「こう思われる」という配慮無駄ではありませんが、あくまで2番手です。
それらの中で、本当に自分に無理なく、交友を豊かにする自分なりの行動法どんなものか探し、築いていくというものになります。
実際の行動で、体験通してです。

「イメージ」を基準に行動を決めるのではなく、「現実の体験」の中で自分を知り、行動法を向上させていくという地道な一歩一歩重要ですね^^。


 
Re: / こたろう
No.848 2014/04/06(Sun) 19:02:09

●感情を出さない、について

の下の部分についてが、
細かく書いた想定ケースなのですが、

感情と行動の分離によって、
心の中では恐怖や不安におびえながらも、
とてもムリだと感じながらも、
必要だから、あるいは望んでいるから、
現実に向かう、という事は
どこかでやることであって、
ハイブリッド心理学の基本ですよね?
交友に限らず。


そういうときに、
感情の膿がもとになって
白い眼でみられた、こういう風に感じられた、
というのは
「自分の内面でおこったことだ」
という理解が大切だという記述があったと思います。

心性崩壊が起こるときも、
その理解が大切だと。


そういった状況になるまで、
悪感情をかかえたまま行動するしかない。

そこで、上の@ABのどれがキホンになるのだろうか、
という事を聞きたいのです。


内面感情は見せるものではなく、自分で受け取るものだという
上で行動を磨いていく。
なぜそこまで表情や外面印象に関して島野さんがノータッチなのかがよくわからないのですが。それによって「現実」自体が変わってくると思うので。



交友を豊かにする自分なりの行動法、自分で考えることだとは
思うのですが、例えばどういった事になるのでしょう?
線引きを決めるということですか?


 
ありのままの自分を受け入れる一歩^^ / しまの
No.852 2014/04/08(Tue) 16:49:07

>外面行動ができれば、表情の問題が 起きないというのが、納得できないのは こういうところてす。

表情の問題も含め、「楽しみの共有」として行動できそうならば、積極的にそうすればいい。できそうでないならいったん孤独を受け入れる、というになります。
表情の問題あまりに不安になるようであれば、無理をせずというです^^。
ですので@ABのどのケースにおいても、それでも「楽しみの共有」として交友行動をできそうか、したいかという問いになると思います。Yesであれば向かえばいいし、Noであればいったん退却も良し最初からどれをベースに、と決めておくようなものではないと思います。

アドバイス全体としては、あくまで今大学に出ること優先であり、交友2番手。そうした人生全体の全体舵取りの中で、ありのままの自分を受け入れることにまず成長の一歩があり、受け入れる時間多少持つことで、感じ方変化するであろう、そこからまた新しい一歩模索に行く、というものになります^^。


>交友を豊かにする自分なりの行動法、自分で考えることだとは 思うのですが、例えばどういった事になるのでしょう? 線引きを決めるということですか?

紋切りアドバイス(^^;)になりますが、ハイブリッド心理学からの「交友を豊かにする行動法」は、「楽しみの共有」として向かうものです。互いの間柄や距離線引きをするようなものではなく、流動的でオープンなものとしてです。
ですので「楽しみの共有」できれば積極的に行動を共にする、できなければ無理に行動を共にしないという姿勢行動法こそが、豊かな交友と、個人の確立共に築くことのできるものと考えています。


生活 / ピヨ
No.829 2014/03/17(Mon) 21:45:11

 今日は、人生には過去からの現在の生活環境がある。また、年齢も加算していく。
生きると言うことは、毎日いろんなことを考える時間が、与えられているということのうれしさを実感しました。

 また、身近な特定の愛する方(異性)がいない方の場合、寂しさと体も心も満たされない思いが、憂鬱につながるのかと考えました。(仕事や対人関係からの憂鬱も無関係とはいえませんが。) 

島野さんは、執筆の生活やスキーなどの趣味も長年されているとのこと。ハイブリッド人生心理学では、愛についてがメインと考えられましが、寂しさは無くなるなどですが、島野さん自身は、身近に特定の愛する方がいなくても、活き活きと生きられるのでしょうか。


 
「生き生き生きる」ための条件^^ / しまの
No.831 2014/03/21(Fri) 16:22:29

「生き生き生きる」ための条件は、「愛」だけでなく「個の確立」というものも重要になると思います。
以下4つ条件だというのが僕の考えです^^。

【個の確立】
・「楽しみ」を持つこと(趣味、人とのお喋り、TVなど何でも)
・「やりがい」「生きがい」となる、打ち込めるもの、その目標を持つこと
【愛】
・本当に愛するものに向かうこと(人、ものごとを問わず)
・本当に愛する特定の相手を持つこと


この中で「本当に愛する特定の相手」というのが身近にいる必要があるか、それとも距離が離れていてもその条件を満たすかについては、人それぞれかと思いますが、まずは「本当に愛する特定の相手」がいるということが、「魂」のレベルで重要になると感じています。物理的距離どうか以前に。

僕自身について言えば、自分自身の時間を極めて重要視する傾向もあり、身近にいることは今は求めていない感じですね。距離は多少離れていても、そうした特定の相手がいます。
50代前半にして、そうした全体が揃ってきた感じですね。長い歳月の中で、日々向かうものの取捨選択の先に得るものという感じ取り組むと良いかと^^。


 
Re: 生活 / ピヨ
No.832 2014/03/22(Sat) 08:39:49

「個の確立」と、本当に愛する特定の相手を持つことの話、参考になりました。

 身近にいる必要があるか、それとも距離が離れていてもその条件を満たすかについては、人それぞれかとのこと。

 島野さんは、特定の相手が見つかり、全体が揃ってきたと充実した話を聞かせていただきました。

 「特定の相手がいない」と、生きがいを喪失している方も多くいるのではないかとも考えます。また、何か不安感につながることも考えられます。

 それから不安になった時は、人によっての方法がいろいろだと思われます。例えば、音楽を聴く・お風呂に入る・布団に入る・人に話す・紙に書く・目を閉じて悲しみに浸る等々。

 自己の確立と、出会いを視野に入れた、社会参加が必要かとの考えにいたりました。

 島野さんは、どうお考えでしょうか。再度、聞かせて下さるとありがたいです。

 


 
「不安」への対処・社会参加^^ / しまの
No.835 2014/03/27(Thu) 14:42:08

>それから不安になった時は、人によっての方法がいろいろだと思われます。例えば、音楽を聴く・お風呂に入る・布団に入る・人に話す・紙に書く・目を閉じて悲しみに浸る等々。

ハイブリッド心理学「取り組み実践」では、「感情と行動の分離」ということで「外面行動は建設的なもののみに、内面感情はただ流し理解する」という対処法になります^^。
「不安」であれば、

1)まずは自分が何をどのように不安に感じているのか「原因」についての「自己分析」

2-1)その「不安の原因」心の外部にあるものであれば、建設的な行動法による対処。たとえば家に泥棒が入られるのではという不安であれば、セキュリティ対策についてしっかり学び予算の範囲内設置するなど。「将来の生計への不安」であれば、長い人生設計として職業年金による収入計算するなど。
2-2)「不安の原因」心の内部にあるものになるにつれて、より深い心理学的学び取り組んでいく。

3)いずれにせよ「原因」に応じた「建設的対処」した後で、「この不安は実際には何も恐れる必要はないんだ・・」「流して」いく。

というのがまずは道筋になります。
まずは「原因分析」からですね^^。

>自己の確立と、出会いを視野に入れた、社会参加が必要かとの考えにいたりました。

その通りですね^^。「自己の確立」も決して社会に背を向けることではなく、「愛する相手を得る」ことと同じく、社会の中生きる中でのことですね。
仕事、交友、婚活などの社会参加全てが、「自己の確立」「愛する相手を得る」両方につながる、「総合的な人生の活動」だと言えるかと思います^^。


 
Re: 生活 / ピヨ
No.837 2014/03/27(Thu) 18:33:04

 総合的な人生の活動と。
 
 まだまだ、私のほうは、学び途中の段階ですので、島野さんのように全体が揃ってまでにはいたっていません。

 島野さん、回答ありがとうございました。


(No Subject) / こたろう
No.807 2014/03/01(Sat) 19:50:50

宇宙の愛が自分に向けられているべきだ。
それが真実だ。

自分のために他人が存在するべき、しているはず。

なぜ自分から相手に気を遣わなければ
ならないのか。

自分は何の努力もせずに
与えられるべき、好きなことだけして
生きていて良い人間であるはず。


こういう感覚がかなりあることに気づきました。


ありのままに内面感情を解放したら、
道行く幸福そうな人に対して
破壊的な感情がわきでてきます。
大学で一人でいたらおかしくなりそうというか、
すでにおかしくなっているのか。



優先順位として、大学の授業にとりあえず
出て、卒業したい、仕事の選択肢を狭めたくない
というのが一番。


しかし、未熟がこうさせるとわかっていても
恐ろしいですね。常にそれを自覚しながら歩いていると
ぼうっとしてきて、勉強どころではなくなってしまいます。


自分のありのままの気持ちに向き合っていると
なにも手につかない感じです。


この状態でよく日常が過ごせるなぁと
思ってしまうのですが、
この状態になると楽しいこともどうでもよくなって、
人と共有する楽しみを自分の中に増やす機会もどんどん失ってしまう。


心の中に憎しみを自覚しようとすると、
やはり表情に出ますよね。
ありのまま自覚するほど、顔もどんどん
鬱的になってきます。


しかし、自己操縦心性が感情の強制を自動化させるメカニズムに頼って今の状態だということもわかります。


感情と行動の分離では、
もちろん「ふるまい」 「表情」も行動のうちですよね。

感情は回りには見られていない、というのは
かなりこれが習熟して初めて一定の安心感を得られる気が
します。

これは認識としておかしいですか?


一瞬一瞬自分の傲慢さや、受けとる愛しか
ないとか、幼児性や甘い人間だという
雰囲気が漏れだし、それを気づかれて引かれている
イメージに覆われます。言葉の端々や、
ふるまいのぎこちなさなどから。


外化と現実の見分けが難しい。


表情だけ軽い笑顔を保ちながら、
内面に破壊的衝動を沸き上がらせる
練習。まさに仮面といった感じですが、
この方向で具体的な行動をつけたして
いけばいいのですか。

それとも、世の人は憎しみや鬱的な顔を
していても行動が建設的なら気づかないものなんでしょうか?

●望みの断念について

来歴を振り替えると、自分の場合
望みの断念は全て他人に対しての迷惑や、
他人の目が気になるというものがほとんどでした。

スポーツでは自分が迷惑をかける。

他人に馴染めない。



望む資格というよりは実際に迷惑や実害を
産み出している感覚がします。


行動としてではなく、雰囲気や空気。


これは白い目イメージとしてやり過ごして
望む環境にいくしかないんですかね。


島野さんは対人恐怖の時代に、
自分のギスギス感が場の雰囲気を悪くしているという
感覚がありながらやり過ごしていたのですか?

それは現実ではないという認識のもとで。

どうしても見抜かれる、漏れ出す、相手に
不快感を与えて動揺させてしまうという
感情をやり過ごせない...


白い目イメージはかなり後まで残るってこと
だったと思いますが、
これがありながら望みに向かっていくなかで
薄れてはいくんでしょうか。


 
「細かい場面ごとの合理思考」という外面軸実践を^^ / しまの
No.817 2014/03/10(Mon) 17:25:37

これはまず今のご心境としては、現状打破のため自分の心を何とかしなければ、心を治さなければ、といった焦りの中におられるかも知れませんが、
そのように「自分の心に向く」という内向き取り組みではなく、
「“心”以外のこと」に思いっきり視点を変えるような姿勢お勧めになると思います。

これはブログ僕の写真の下「便利リンク」として、取り組み実践キモになるような記事へのリンクをつけていますが、「姿勢」というのをクリックして頂くと出てくる
2011-12-07『成長の道標への歩み方-13・取り組み姿勢の正誤』
にしているものがずばり言えるものです。

つまり、

>感情と行動の分離では、もちろん「ふるまい」 「表情」も行動のうちですよね。感情は回りには見られていない、というのはかなりこれが習熟して初めて一定の安心感を得られる気がします。これは認識としておかしいですか?

というであれば、「ふるまい」「表情」「行動」「感情」回りにどう見られるかについてどう考えればいいか、といった十把一からげの問いではなく、「細かい場面ごとの合理思考」どんなものになるかという、かなり細かい場面ごとの(言葉の繰り返しですが^^;)思考法検討必要になる、ということです。

たとえば大学に行くのであれば、
a)講義の最中
b)その前後の時間一般
c)休み時間や昼食時などに輪となりその中にいる場合

といった場面ごとに、話は大分違ってきますね。これはよろしいでしょうか。

当然、自己の内面感情人に覗き見られるようなことにもなる可能性があるのは、c)の場面ですね。一方、a)の場面は、よほど挙動不振な動作(^^;)しない限り、それはないでしょう。
そのように、細かい場面ごとの合理思考検討し、その中で、今の心の状態でも何とか行動できるものを、探すことです。
そのように、自分の心をどうこう治すというのではなく、心の外部に向けた思考を合理的にする取り組みによって、自ず治癒と成長へと動き始めます。
もちろん内面分析として、もっぱら目線自分の心の内部向ける作業も、取り組み実践の過程においては有用となりますが、それも全てまずは外面において安全を保つことで得る安定足場にできる範囲でのみ、進めることができます。

ですので、やはりまずは友人に会うというのはナシの形で大学に行くというのを最低ラインとして持つのが、スタートラインになると思います、という^^。
まずその最低ラインつまりとにかく講義の席に身を置くという場面においては、

>表情だけ軽い笑顔を保ちながら、内面に破壊的衝動を沸き上がらせる練習。まさに仮面といった感じですが、この方向で具体的な行動をつけたしていけばいいのですか。それとも、世の人は憎しみや鬱的な顔をしていても行動が建設的なら気づかないものなんでしょうか?

という問いなくなると思いますがいかがかと。皆講義に集中している場面であれば、軽い笑顔を作る必要もない^^; 「建設的行動」を問うようなものでもなく、気づくも気づかないも、見ていない^^;
最低ライン行動そのようなもの安全を確保し、その一方で、「憎しみ」感じることがあれば、それはまた別の問題として、どんな場面でなぜ憎しみを感じるのかという分析検討をするのは良いと思います。これについては、
『怒りについて』 りょうたろうさん No.801 2014/02/25
トピック取り組み手順アドバイスしていますので参考にして頂ければ^^。

>外化と現実の見分けが難しい。
>どうしても見抜かれる、漏れ出す、相手に不快感を与えて動揺させてしまうという感情をやり過ごせない...

についても、まずは上述「細かい場面ごとの合理思考」取り組む中で、自ず見分けの感覚がついてくると思います。
「細かい場面ごとの合理思考」できるかどうかに、かかっていると言えますね。

ちなみに、

>島野さんは対人恐怖の時代に、自分のギスギス感が場の雰囲気を悪くしているという感覚がありながらやり過ごしていたのですか?

その当時は、そうした場面からは離れ、とにかく学業に向かうことに専念しました。そうして社会に出て、まず自分「楽しみ」持つにそれを共有する行動として人の中に、という道順克服した次第です^^。


 
Re: / こたろう
No.818 2014/03/10(Mon) 21:13:22

返信ありがとうございます。
細かい場面ごとの思考ですが、
a、bはもちろん気になりません。


人と顔をつき合わせて関係を続けて行くという場面ですね。
cの場面です。


自分の楽しみを持つにも、
a)一人でできて、一人ではじめられる趣味
b)一人でできるが、一人でははじめづらい趣味
c)一人では出来ない趣味

などあると思いますが、
a以外では人と顔をつき合わせて関係を続けて行くのが必要と
思われます。


そういった場面においての安全行動を構築するにあたり、
今までの「イメージによる練り上げ」を脱して、
内面感情をありのままに自覚しながら会話するという方法を
考えていくにあたり、表情に出てしまうのをどうやってやり過ごすのか、
聞きたかったのです。

また、常に自分の内面感情を自覚しようとすると、
道行く人を「心の健康な人」と「心の不健康な人」といった色眼鏡でみたり、
自分はあの純粋な笑顔を持つことはできないんだ。。。といった感覚にさいなまれて、
自分の楽しみや勉強どころではなくなってしまうんです。


コレに関しては、そういった感情が沸いてくるのだなぁ、と思いつつ、
自分の楽しみややるべき事になるべく気持ちを持っていくのは
「ごまかし」にはならないですよね?


なんだか心性崩壊に持っていくために自分を悪く考えようとしているような
感じもあります。これは何の意味もないんですよね。



講義に出るまでの外面安全を作る力は今でもあります。
課題になっているのが
グループ講義にあたって、または教授とのやりとりにあたって、
または望みを模索するにあたって楽しみの共有として人の中に入っていくにあたって、ですね。


 
Re: / こたろう
No.819 2014/03/10(Mon) 21:22:28

で、これらのひっかかりになるのが
「自分が入って迷惑にならない場なんてない」
「自分がギスギスした空気を作り上げる」
「自分が持っているのは偽者の関心でしかない」
「それが暴かれてしまう」


これらは、内面感情として流しながら、
でもそういった場に「参加してもいいんだ」という
「ゆくゆくは人を好きになれるために必要な場面なんだ」
「今は偽者の関心でも仕方が無い」
「多少それによって嫌われることも、一つのハンディだ」

といった思考によって、
望みを断念しないようにして、
外面行動を構築していくという感じですかね?


 
合理思考の王道 「原理原則思考」^^ / しまの
No.821 2014/03/11(Tue) 12:14:59

場面ごとの合理思考とは「原理原則思考」

>人と顔をつき合わせて関係を続けて行くという場面ですね。cの場面です。(休み時間の輪)
>自分の楽しみを持つにも、a)一人でできて、一人ではじめられる趣味 b)一人でできるが、一人でははじめづらい趣味 c)一人では出来ない趣味 などあると思いますが、a以外では人と顔をつき合わせて関係を続けて行くのが必要と思われます。(趣味の輪)
>講義に出るまでの外面安全を作る力は今でもあります。課題になっているのがグループ講義にあたって、または教授とのやりとりにあたって、または望みを模索するにあたって楽しみの共有として人の中に入っていくにあたって、ですね。 (グループ講義)

その3つ「人と顔をつき合わせる関係」がまた、場面としては大分種類が違います。そうした細かい場面の違いごとに、合理思考検討するというになります。
ですので、番号を振っていくならのようにするのが良いかと。

【授業場面】
a)講義の最中
 a1)一般講義
 a2)グループ講義
b)その前後の時間一般
c)休み時間や昼食時などに輪となりその中にいる場合
【趣味の場面】
d)一人で行う趣味
(これはもうこのテーマ外かもですが)
e)人と一緒に行う趣味(始める時のみの場合とその後も含めてもの場合がある)


重要なのは、こうした細かい場面ごとに、「合理思考」の中には違う言葉が出てくることです。
「こういう場面では、これこれを基準にして、こう行動するのが良い」という「これこれ」が、それぞれ違ってくる。
そうしたものを幅広く正確に体得していくのが成長であり、社会行動能力の向上です。

そうした、細かいキーワードしっかり使う思考が、「原理原則思考」です。
『入門 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ 3.行動学』
での「原理原則行動法」のための思考ですね。


合理思考の王道 「原理原則思考」

たとえば「グループ講義」であれば、

>で、これらのひっかかりになるのが「自分が入って迷惑にならない場なんてない」「自分がギスギスした空気を作り上げる」「自分が持っているのは偽者の関心でしかない」「それが暴かれてしまう」

といった内面懸念に対して、外面向け合理思考(原理原則思考)は、

・そこでの「迷惑」とは、講義テーマとは無関係な私語や、人の発言を遮るとかの行動
・「なごやかな雰囲気」といったものはグループ講義の目的からは2番手以降のもの
・自分の関心が本物か偽者かは、グループ講義では特に問題ではない

といったになると思います。

一方、

>これらは、内面感情として流しながら、でもそういった場に「参加してもいいんだ」という「ゆくゆくは人を好きになれるために必要な場面なんだ」「今は偽者の関心でも仕方が無い」「多少それによって嫌われることも、一つのハンディだ」

については、
・「参加してもいい」「人を好きになれるために必要」というより、単位のために参加する義務があるという話^^;
なおグループ講義への参加人を好きになれるかと言うと、ちょっと関係ない気がします^^; ハイブリッド心理学からは、まずは建設的行動法への正確な理解と納得および実践その道だというになるかと。
・自分が何によって嫌われると感じているかを明瞭にし、まずはその向上対処についての理解に取り組むのは良い。もちろんグループ講義での個人的な人の好き嫌いは2番手以降の問題。
といったになると思います。

そのように、「これこれの場面には、これこれの基準で参加の行動をする」という合理思考を、まず検討します。
それで、自分参加できるもの参加しなければならないものに、参加する。

そこまでの検討ができれば、

>そういった場面においての安全行動を構築するにあたり、今までの「イメージによる練り上げ」を脱して、内面感情をありのままに自覚しながら会話するという方法を考えていくにあたり、表情に出てしまうのをどうやってやり過ごすのか、聞きたかったのです。

という問題特に起きないのではと。
まず「内面感情をありのままに自覚しながら会話する」というのはちょっと違い「目的に応じた会話」をします。
上記のような細かい場面の違い応じたものとしてですね。それができれば、「表情」といったものは特に問題ではなくなってくると思います。
に言えば、それら「こうした基準で参加する」というものに自分が合わないようであれば、もう「表情」以前の問題として、参加は断念しなければならないかも知れない、というでもあります。これは上記番号を振りなおしたc)e)あたり関係しますね。たとえば人と一緒にいることへの不安の減少というのが、多少基準になる。動揺が多い場合は、ちょっと無理と。「関心の真偽」も多少基準であり、人にどう見られるか以前に、自分にとって本当に楽しめるものか検討する話として。

「“心”以外のことに目を」というのは、以上のような話です。まず外面軸として、自分の内面感情とは別の話として「原理原則」による行動法の枠を持つ。
その沿っていれば、まずは外面行動オーケー。次に、動揺を克服しより行動を広げるための内面分析へ、という道順になります。
じっくり検討あれ^^。


 
Re: / こたろう
No.825 2014/03/14(Fri) 22:16:38

おそらくなんですが、
先生と話した瞬間に幻想が崩れ落ちる
気がします。

それは、自分はなにもしなくても
食事を与えられ、否定されることなく
生きていけるという王様のような
感覚です。


大学に戻って話した瞬間に精神崩壊する
感覚が確かなものに感じられます。

ただ、自分はまだ完全に依存の状態で
ありますので、どういった形の崩壊になるのか...


目の前で崩壊しそうなんですが、
そこはどうも対策できないのでしょうか。


 
「崩壊」をやり過ごす^^ / しまの
No.826 2014/03/16(Sun) 16:14:03

・外面においては、何も起きず安全であること
・内面においては、「崩壊」を経て安定した心再生すること
この2点しっかりと心に入れて、あと「ただやり過ごす」ということになると思います^^。

「ただやり過ごす」とは、何もせずに時間が過ぎるのを待つということです。
注射をする時の恐怖やり過ごすのと同じですね。椅子に座ってを差し出し、あとはどうにでもなれ(^^;)何もせずその時間が過ぎるのを待つ痛みでパニくりそうな衝動だけは抑えて我慢することが大切ですね。

同じです。ただ授業に出て精神崩壊でパニくりそうな衝動だけは我慢して、あとはただ時間が過ぎるのを待つ
そうやってやり過ごして終わらせれば、次第新しい心の風景広がると思います^^。


 
Re: / こたろう
No.827 2014/03/16(Sun) 19:08:12

実際に、パニックになっておおなきする
感覚しかしないのですが、、、
のどがつまって体が震えだして...とか。


まあ、それでいいというのは
わかるのですが、


2年前は死ぬほど泣いてしまい、
とてもではないですがそのままいられる
状態ではなかったので...


今日浮かんできたのが、
推進力のある自己像の策定を読んでいて、
オドオドする自分をみられるなら
死んだ方がいいという感覚で、
前もこの自己像が保てなくなったのが
崩落につながった気がします。


外面では安全を保つ、というのは
オドオドした自分でなく外面を保てるという
事ではないですよね?

そうできないなら死ぬ、という感情なんですが、
実際にはオドオドせざるを得ないんですよね、多分。


 
Re: / こたろう
No.828 2014/03/16(Sun) 20:29:49

原理原則では大学は勉強をするところだと
いうのが第一ですし、グループ講義も同じですね。

現実的な自己像を描くと、
やはり授業をこなし、ゼミの人間関係を
とりあえず作るくらいが限界なのですが、

その状態を人にみられることが
耐えられないです。


結局は、理想の自己像を保つために
まさにゼロ現実を選んでしまう、
というのはそうしないと心が崩れるからです。
しかし今回ばかりはリアルに中退という
方向になってしまうので、かなり現実が厳しくなる
ことも理解しているのですが、
感情は真逆で、推進力のある自己像を
断固として受け入れないという感覚です。


人に関わりづらいとか、みっともないと
思われる感覚に耐えられません...
ここが自己操縦心性の大きな壁なんでしょうか。
ほとんど全部が他者評価に依存していると自覚しました。


高校までの自分は自己理想にかなっていて、
幅広く交流を持っていて、今とは大分違います。


思考の上では、産み出す自尊心に向かうために、
今の自分から一歩一歩、と思っているのですが、
昔の知り合いにあって落ちぶれたと思われたら
死んでしまうという感覚もあります。


その点、とりあえず見た目に関しては
お洒落して爽やかにしたい気持ちもあるのですが、
そうすると「こんな雰囲気なのにオドオドして失望した」「見た目とのギャップがありすぎる」
と思われるのが怖くて、昔よりも大人しそうな雰囲気に
してしまいます。


完全に自己像が混乱してまして、
推進力のある自己イメージを描いても
いざ人に向かうとなると「オドオドしてなくて人と器用にかかわれる、イメージ」に心が支配されます。
あげく、どんな話し方が自分なのか?とか
考えてわけがわからなくなる...


●元同級生について

元同級生が一人同じ学年に復学します。
きっと、ほかに知り合いもいないから、同じ講義なら隣に座ったりすることに
なり、昼食も...となるのが自然な流れだと
思うのですが、そうはできそうもありません。


昼だけ一人で食べるのも変なやつだと思われそうで、
その次会ったら避けてるのか?変なやつだ...と
思われるのが怖いです。


全般にいえることですが、
オドオドして関係を作るのに限界がある自分を
全く受け入れられてなくて、常にその自己否定が
根底に流れている感じです。


これに関しては、
崩壊するとしても
外面現実の安定を実際に欠いているのだと
思うのですが、
実際にひかれたり、嫌われたり、変な目でみられる、
みっともなく思われるという現実ありきで、
崩壊は起こり得るのでしょうか、、、


とにかく自己像が崩れるのが怖くて体が
動かなくなりそうです...


 
「最低ラインの行動学」^^ / しまの
No.830 2014/03/21(Fri) 11:38:23

「外面における安全」としては、
・オドオドしても単位はもらえる
・自己像が採点されることはない

といったになると思います^^。

オドオドしても、必要な講義には出る世界一奇妙なオドオドした姿でも、必要な発言はする、といったものからが、まずは「推進力ある自己像」になると思います。そうしてスタートしました。えっへん。と威張る話ではない^^;

>元同級生が一人同じ学年に復学します。

については、僕の体験上からアドバイスするなら、「なりゆき」いいと思いますヨ。自分からこんな間柄モードでと決めるより、相手からの出方待ちの姿勢で行くのが一番、「最低ラインの行動学」的にベストになると思います。
相手こっちをもう親しく接する相手と見ず、何もしないで通り過ぎるかも知れません。あるいは「よっ」と表情を崩す程度かも。そうした場合でも、まずは「無視された怒り憎しみ」とかに走らなければ、健康な世界です。以前言った「薄い間柄」ではそうしたものになるのが、もうこれからの対人関係だという正解だと思います。
昼食とかも、誘われたらという程度に考えておけば良いかと^^。

まずはそうして、内面のオドオドそのままでも行動できる線模索することからですね。内面のオドオド減少するのは、それが身についてさまざまな場面での行動のバリエーションが持てるようになった頃からになると思います。それでも残るものについては、またアプローチの次元異なってきます。現時点での取り組みは、まず上述のようなラインの模索いかに向かえるかになると思います^^。


 
Re: / こたろう
No.833 2014/03/22(Sat) 18:03:02

もともと、そういうキャラクターだったら
まだいいんですけどね...


昔の割とおしゃべりな
自分とかと比較されて
「どうした?病気?」と見られるのが
おぞましい恐怖です。


周りの華やかな世界に入れないという
感覚、家族連れをみても自分は一生ああはなれないんじゃないか、だれも友達がいなくなる、これからどんどん荒んでいくんだ、とか考えが止まらず、性欲もなくなってしまいました。

内面感情を問う姿勢が大きな原因で、心の医学思考に
ならず、ただただ自分を断片的な言葉で責めている
状態になってしまいました。
頭痛もかなりあります。

これに関しては変えることは難しいのでしょうか。

医学思考を持つことで、将来的には望みにも
迎えるのだという認識を足していくことでしょうか。
そこまでは意識的に舵取りをする。


そういったことはむしろ絶望の妨げ?
かなと思って、放置していたら、日に日に顔が
死んでいき感情が無くなってきて焦っています。
よけいに人前に出られない自分に...

オドオドならまだいいですが無感情なのは
異常者の印象をあたえそうです。


オドオドした自分から出発して
現実において関係を作っていくという
決意に踏み切れません。
他人の中でまあまあイケてた高校時代の
記憶のまま消えてしまいたいという気持ちが
かけまわっています。


こういう転落イメージの膨張と
それに伴う疲弊にはどう対処していけばいいのでしょうか。

流す、というのは膨張しるままにすることでは
ないですよね。

医学的な目が難しい段階で
自分の気持ちに向き合いすぎたかなと
感じています。


 
「対抗打となる合理思考の検討」を^^ / しまの
No.836 2014/03/27(Thu) 15:13:01

これは認知行動療法にせよハイブリッド心理学「感情と行動の分離」にせよ基本同じで、
感情に流れマイナスの膨張に走る自動思考がそれらとして、対抗打となる合理思考どんなものか検討することが対策になると思います。

>そういったことはむしろ絶望の妨げ?

「絶望」自分から向かうものではありません^^; そんな絶望期待(?^^;)には何の意味もないです。
自分として全力で克服成功に向かうしかないです。

ということで、「対抗打となる合理思考の検討」自分でできてこそ克服になると思いますので、まずちょっとエクササイズなさると良いかと。その結果書いてみて頂ければ、これは即アドバイス(島野からの答案例^^)など返せますので^^。
とりあえず以下3項目あたりが材料になるかと。
1.
>昔の割とおしゃべりな自分とかと比較されて「どうした?病気?」と見られるのがおぞましい恐怖です。
2.
>オドオドならまだいいですが無感情なのは異常者の印象をあたえそうです。
3.
>こういう転落イメージの膨張
「これこれの転落をする」という自動思考への対抗打になる合理思考検討してみる。
(4.)
>内面感情を問う姿勢
どんな内面感情をどのように問う姿勢が起きているのか、具体的にあげればこれも同様検討材料になります^^。

レスが多くなってきたのでそろそろ新規トピックで入れて頂くとベターですね^^。


出会いとお別れ / ピヨ
No.803 2014/02/25(Tue) 21:38:49


 夜間、「最愛の方が、他界したらとてもつらいと」感じた時、とても声が出ないような苦しみを味わったことがあります。

 他界や別れなど、出会いと別れがあることや、辛さは時とともに落ちついてくると言われています。

 最愛の方に対して、上記の苦しみを感じることがあることは、その方を思い過ぎているからでしょうか。
 しかし、大事と思える方がいたと言う事実の方が、後悔とならないような気もします。

 愛を得られなかったと思う苦しみは、長年の苦しみになりますが、最愛の方との別れは、別の意味で短期間に強い苦しみがあると思えます。

 


 
「愛する人の死」への向き合い方^^ / しまの
No.813 2014/03/07(Fri) 16:47:52

「人を愛する気持ちが心豊かにする」とは

>しかし、大事と思える方がいたと言う事実の方が、後悔とならないような気もします。

そうですね、何よりもその視点大切になると思います^^。

よく「傷つくのが怖いから愛さない」とか「別れが辛いからつき合わない」とかの言葉聞くことがありますが、本当に人を愛する気持ち心をいかに豊かにするかを、知らないままの言葉ということになると思います。
では「本当に人を愛する気持ちが心を豊かにする」とはどういうことか。これがまた本を一冊かけてしまうようなになると思いますが、ごく手短に言うと以下2面があると思います。

1)「愛する気持ち」による心の充実とプラス感情
心が温かく、充実した気持ちになる。これはその時その時における、「今の心」の次元の範囲内におけるもので、変動がある。惑いが生じると乱されがち。

2)人生で「愛し尽くした時」「愛し遂げた時」により成熟し豊かな心に変化する
「より成熟し豊かな心」とは、一言「自分から愛することができる心」です。相手から愛されることを必要とせずに、まず自分から愛せる実際の対人場面において、安定した心でです。結果対人場面動じることがなくなってきます。
「愛し尽くす」「愛し遂げる」というのは人生長い歳月をかけないと良く分からないことである一方、それによる心の成熟と豊かさのこの変化後戻りがなく、「別の心」「別の人間」になるような、異次元の変化


「愛する人を失う悲しみ」が心の豊かさへの入り口

そうした心の仕組み踏まえると、どのよう心の豊かさ向かうか否かに、大よそ2つの道がでてきます。

一つの道は、「まず愛されること」しがみついてしまうもの。
相手から愛されれば自分も愛することができる。これはまあ「未熟」から始まる限り仕方ないことですが、問題は、「そうじゃないとプライドが許さない」なんて思考で、「自分から愛する」ことを嫌ってしまうもの。こうなるともう心が豊かになる道ブロックされ、いつまでも心が豊かにならず、動揺ばかりで、上記のような「知らないままの言葉」出てくることになります。

もう一つの道は、まず人生何らか「愛する人を失う悲しみ」「愛が得られない悲しみ」を、自分自身で受けとめ尽くすという体験をすることで、心の成熟と豊かさ入り口立つというものです。
つまり心が未熟であるうちは、「自分から愛する」という気持ちどういうものか、良く分からないまま、まず愛されることにあぐらをかくように生きてしまいます。しかしその相手が、死んでしまう。その時初めて自分が相手をどのように愛していたかを、自分自身で知る。それが、人生心の豊かさ向かう道入り口になる。
ごく波風のない日常場面で言えば、たとえばまず祖父母出会うのがそうした体験始まりであり、もっと鮮烈なのは震災関連して沢山見聞きしたと思います。

つまり、「本当に人を愛する気持ちが心を豊かにする」というのは、まず「愛する人を失う悲しみ」「愛を得られない悲しみ」を自分自身で受けとめるというのが、どうやらスタ−トになるのが人間というものなんですね。
それを過ぎて、ちょっとしてから、自分の心以前より豊かになっているのに気づいて、それから、「自分から愛する」というのがどういうことかが、少しづつ何となく分かるようになってくる。そしてそこから長い歳月をかけて、まず相手から愛されることを多少必要とする心の部分も持ちながらも、「愛し尽くす」「愛し遂げる」という心の営みの中で、さらに心が豊かに成熟していく。


「悲しみ」を経て「おおらか」へ

ということで、「愛する人の死」への向き合い方としては、上述のような心の豊かさの道心の懐入れておいた上で、あとは感じるままに気持ちを心の中で流すという姿勢お勧めになりますね。
つまり、
・悲しみを自分自身で受けとめる先に、心の豊かさがある。だから悲しみは思いっきり流していい。
・さらに心が豊かになる先に、人の死を「おおらかに受け入れる」気持ちというのも持てるようになる、というのもアリと心得ておく。
表面的には悲しんでさえおらずドライに見えるかも知れないが、薄情だなんて言う必要なし。
・あとはごく基本的な日常思考として、人はいつか必ず死ぬのが現実だということは頭に入れておく。覚悟しておく。
それを受け入れていないと、
「悲しみ」「苦しみ」に偏ってしまい、この場合も「受けとめられない」という状態で心が豊かにならないままになってしまいます。
などがポイント

一言で、
「愛する人の死」において、「苦しみ」は不合理思考から。
「悲しみ」を経て「おおらか」に向かえばいい。

のように憶えておいて頂くと良いかと^^。

参考まで、実は今日ちょうど3年前に亡くなった僕の母の命日なのですが(このあと一同で墓参り^^)母の死目前にして僕が感じたことを、
2011-03-06写真と言葉 『「魂の感情」と「命の感情」』
短文で書いていますのでご覧頂くと良いかと。全く別の2つの感情同居しているのが実に印象的でした^^。


 
Re: 出会い / ピヨ
No.814 2014/03/08(Sat) 16:25:30


 島野さん、こんにちは。
 
 具体的な助言をたくさん頂くことができました。愛について、今後も思考していきたい。

 「相手から愛されることを必要とせずに、まず自分から愛せる。」については、まさに日常の対人場面での理想の対応のあり方そのものでした。


 母の命日とのこと。
 2011-03-06 「魂の感情」と「命の感情」もきくことができました。

 対人場面について、別の著者の本に、人はそれぞれの人の関心によって違った思考があること。お互いの、思い違いがある。騙そうと思って生きている方がいる。
 自分の意見・意思をハッキリ相手に言って、生活することとある。相手の主張を、ただこちらが聞いているだけであると、相手はいつでも主張を強化してしまう。

 相手が、あまりにも考え方が偏って、話し合いにならない時は、その方とは事務的なやりとり以外は、関わらないようにします。島野さん、これらは誰に対しても、自分から愛せるようにとの考えには、反することになりますか。
 


 
認知 / ピヨ
No.815 2014/03/09(Sun) 09:55:21

 最近読んだ本の中で、自閉症の診断のことが書かれてありました。
項目の中で、「興味のあるものを見せる・持ってくる・指差す」を自発的に求めることの欠如などありました。
 たしかに、どのような場面でも欠如があるなどの診断となと考えられます。

 これとは別に、対人場面の中で、気のあわない方などに対しては、興味のあるものをみせたり、積極的に親しい関わりを取らないと、その方は不満になり、自閉・発達・精神等々の障害があるのではないかと解釈する方もいます。人が、何を思い・発言するかはその方らしさではありますが。

 対人場面を考える時、目の前にいる方は、どんな会話をされて、どんな行動をされるかはそれぞれ、第一印象や見た目、日々の行動で認知されています。
 心の成長を考えた時、いろんなことに対して不満を捉えるのではなく、より良い生き方を視点にしていくことかとまとまりました。

 島野さん、助言いただきたいです。よろしくお願いいたします。


 
一貫した行動法で^^ / しまの
No.820 2014/03/11(Tue) 10:40:08

>「相手から愛されることを必要とせずに、まず自分から愛せる。」については、まさに日常の対人場面での理想の対応のあり方そのものでした。

そうですね^^。ただまあ「まず自分から愛せる自分」という絵に描いたような理想の姿自分に押しつけてもなかなかそうはなれませんので、
「喜びと楽しみの共有として愛に向かい続ける。その中で思い通りにいかない場面では、まず愛されることにしがみつかずに、悲しみを自分自身で受けとめ、そこから再び喜びと楽しみの共有として愛に向かう」
ということの積み重ねで、年齢を重ねる中自然とそうした理想の姿にも近づく、と心に入れておいて頂くと良いかと思います。

こうした年齢の積み重ね必要というは、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「心の成長課題」と「成長の望み」の鍵 一覧表』
その下説明部分手短にまとめていますので参考頂ければ^^。

>相手が、あまりにも考え方が偏って、話し合いにならない時は、その方とは事務的なやりとり以外は、関わらないようにします。島野さん、これらは誰に対しても、自分から愛せるようにとの考えには、反することになりますか。

「誰でも自分から愛せる」というのは、以前ダライ・ラマにあげた「人類愛」これですね)ほどではないとしても、ちょっと理想が高すぎる(^^;)かも知れませんので、まずは「好きな相手」「愛する人」との実際の関わりあいで、相手から愛されることを待ちしがみつくではない行動を取れることが重要になってくる、ということからになると思います。
「好きな相手」「愛する人」ではない他人全般への行動法としては、これもあくまで「喜びと楽しみと向上の共有」という一貫した行動法になります。とくにその相手「愛する」とまでは行かないとしても。

つまり、行動法愛情の有無によって変えるものではないということですね。
そうした一貫した建設的行動法生きる中で、愛情をより自分から持てる人間へも成長するということです^^。

>心の成長を考えた時、いろんなことに対して不満を捉えるのではなく、より良い生き方を視点にしていくことかとまとまりました。

上述が、まさにそうした「より良い生き方」になるかと^^。

なお「自閉症」というのは心の問題というより、脳の先天的な障害が関係しているようですので、そうしたハンディがある相手という広い気持ちで見てあげるのがいいですね^^。


 
Re: 行動 / ピヨ
No.822 2014/03/11(Tue) 18:49:15

 こちらが、相手に振りまわされないようにと考えて行動を選択していても、相手はそれに対してさえ、不満な表情をされている方もいます。

 それぞれの性格・考え方が違うのであるから、相手がどう捉えようとしかたのないことですが。

 ただ、相手に振り回されないことは、基本に置いて、不満な表情にも気にせず、かつ
状況を経験しながら、自分から持てる人間に成長させて行くことが人生の課題のような気がします。

 島野さん、いかがででしょうか。

 コメント、ありがとうございました。


 
具体的な実践^^ / しまの
No.823 2014/03/13(Thu) 16:44:22

そうですね^^。あとはそうした課題に向かって、より具体的実際にどんな思考法行動法で対処すればいいかの、場面場面での具体的な検討重要になってくると思います。
それがハイブリッド心理学「取り組み実践」ですね。

振り回されてしまいそうな相手であれば、どんな「言葉」駆使して対処するかなど、具体的知恵ノウハウがまた出てくると思います。それを学び実践することの積み重ねによって、「成長」生まれます。

ということで、「この場合はどうすれば」といった具体的な材料があれば、細かいアドバイスを返していけると思いますので、あれば何でも入れて頂ければ^^。


 
Re: 対応 / ピヨ
No.824 2014/03/13(Thu) 21:15:21

 具体的な知恵とノウハウがまた出てくると思います。それを学び実践することの積み重ねによって、「成長」が生まれると。

「この場合はどうすれば」といった具体的な材料があれば、細かいアドバイスを返していけると思いますので、あれば何でも入れて頂ければ^^と。

 島野さん、ご親切にありがとうございます。

 その時は、よろしくお願いいたします。


質問 / 田中
No.800 2014/02/23(Sun) 18:01:04

以下の部分が気になっています。
>>>>
私たちは、「人の気持ち」によって望みを抱き、「人の気持ち」によって怖れを抱くのです。
そこに、「成長」があるのです。


そこで、「自分の望む気持ち」が「人の気持ちへの怖れ」を凌駕して、行動へと向った時、そこにはっきりと、「成長」が現れるでしょう。

「人の気持ちへの怖れ」があまりにも強く、「自分の望む気持ち」が行動へと至れない場合もあるでしょう。これをありのままに感じ取り、受け入れることも、また一つの「成長」になります。
やがて同じ場面で、「望む気持ち」が「怖れ」を凌駕する時の訪れに向っての、準備としての成長に。


人間の「不完全性」

これが「心の自立」の中に生まれる「意志」だけで可能になるかどうかは、人間の場合、とてもあやふやです。

そもそも完全な「心の自立」というものはないというのが、ハイブリッド心理学の考えです。(詳しくは『入門編下巻』で^^)


さらに、心に映る「人の気持ち」を疑えなくなる、「心を病む」という側面を、程度の差こそあれ誰もが抱えるのが人間だと、ハイブリッド心理学では考えています。

そこに、「意志」だけでは足りないものを補うものとして、「信仰」というものが出てくる。
それが人間の心なのかも知れません。


「信仰」がないと、「意志」も持てないのかも知れない。 それが人間の心なのかも知れません。
今はそう感じています。

>>>
これ理解はできるのですが、具体的にどのように他人に臨むのか具体例で教えてもらえませんでしょうか?
他人に接する時、その人と良い関係を持ちたいと思う。しかしながら、そう思えば思うほど失敗することに恐れを持つ。ということになると思いますが、どのような意識で人に向かうのが良いと思いますか?




人間の「不完全性」

これが「心の自立」の中に生まれる「意志」だけで可能になるかどうかは、人間の場合、とてもあやふやです。

そもそも完全な「心の自立」というものはないというのが、ハイブリッド心理学の考えです。(詳しくは『入門編下巻』で^^)


さらに、心に映る「人の気持ち」を疑えなくなる、「心を病む」という側面を、程度の差こそあれ誰もが抱えるのが人間だと、ハイブリッド心理学では考えています。

そこに、「意志」だけでは足りないものを補うものとして、「信仰」というものが出てくる。
それが人間の心なのかも知れません。


「信仰」がないと、「意志」も持てないのかも知れない。 それが人間の心なのかも知れません。
今はそう感じています。


 
「取り組み実践」で他人に臨む^^ / しまの
No.802 2014/02/25(Tue) 21:19:30

2010-04-30 『全ての根底は「命」と「信仰」-3』 ブログ記事書籍N0.5 P.15)
での言葉ですね^^。


「取り組み実践」が「向かい方意識」

>具体的にどのように他人に臨むのか具体例で教えてもらえませんでしょうか?

それを手順化しているのが「取り組み実践」になります^^。
『入門 - 3.取り組み実践』
ざっと説明しているのがその内容になります。

「感情と行動の分離」として、「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解のみする」という2つの軸両輪として、
自らの「望み」に向き合い、「望み」に向かって全てを尽くして生きる
というものの一環で、他人へも臨みます。

その検討手順としては、
「取り組み実践」の3ステップ
説明しているように、具体的な場面においては、
具体的場面での応用の「学び」
   ↓
「向き合い」

という検討を経て、実際の行動を選択し向かうというものになります。


建設的行動法によって他人に臨む

例えば間柄を深めたい相手がいる場合、
「応用の学び」としては(ここではちょっとまだ一般形ですが)
「外面行動」としては「楽しみ喜びの共有として向かう。それができないなら孤独を受け入れる」といったものとして、
「内面感情」については、間柄を深めたい気持ちが、楽しみ喜びの共有に向かいたいというものか、それとも相手を自分のものにしたいという所有欲のようなものか、といった感情の種類自己分析をする、といったものになります。
その結果相手への接近行動に自分として安心を持てるようなら、そうすればいいし、そうではないなら引き下がるしかない。そうした検討決断を自ら行う体験積み重ね「成長」がある、といったになります。

まずはこれが、ご質問「どのように他人に臨むのか」答えになります。

それで言いますと、言えるのは「建設的行動法によって他人に臨む」ということですね。これこれの行動法他人に臨む、というのは言える
一方、「こんな気持ちで他人に臨めば」とは言えないですね。それでは「気持ちの枠はめ」という、あまり健康でないものになってしまう。内面感情は、まずはありのままに流し理解するというのが、取り組み実践内面軸です。

>どのような意識で人に向かうのが良いと思いますか?

という「意識」には、多少「気持ち」というニュアンスも含まれる可能性がありますが、「気持ち」については、ありのままの自分の感情に向き合えること、それを分析理解できることまず重要になります。

これも含めて、「どのように他人に臨むのか」答えになります。これはよろしいでしょうか。


「意志」と「信仰」が「怖れ」を超えるものになる

一方そこで問題になるのは、「楽しみ喜びの共有」として相手に近づきたいけれど、うまく行かない「失敗」への「怖れ」があって近づけない、といったケースですね。
ご質問での

>その人と良い関係を持ちたいと思う。しかしながら、そう思えば思うほど失敗することに恐れを持つ。

も、そういったことですね。

参照頂いたブログ記事で触れている「意志」「信仰」は、そこでの「怖れ」克服するものとして役割を果たすものとして、テーマにしているものになります。
これは「他人への臨み方」の話ではなく、自分自身の心の基盤、心の足場になります。それをどう持つかという話。
ですので「意志」「信仰」は、「他人への臨み方」だけではなく、日常生活および人生の問題課題そして「望み」への向かい方の全て同じように作用するものになります。
ですので「他人への臨み方」の問題以前に、「意志」「信仰」持ち方そのものの問題として、向き合う必要があります。これはよろしいでしょうか。

では「意志」「信仰」によって「怖れ」どのように克服されるか。「意志」「信仰」というものを、どのように持てばいいのか、と、さらに深く膨らんでいくのですが、とりあえずここではこの辺までがよろしいかと^^。

「どのように他人に臨むのか」は、「感情と行動の分離」という一環とした姿勢と実践臨む。これをまず理解頂ければ。
そこで「意志」「信仰」「怖れ」克服するための心の基盤になるというを言っているものとして、また関連した部分を読んでみて頂ければと思います^^。


 
Re: 質問 / 田中
No.804 2014/02/26(Wed) 11:00:11


> そこで「意志」「信仰」が「怖れ」を克服するための心の基盤になるという話を言っているものとして、また関連した部分を読んでみて頂ければと思います^^。
はい関連個所は前部読みました。
具体例というのは、例えば典型的なものに異性に告白する場合がありますね。
好きであればあるほど、誰もが拒否される恐れを持ちます。
そういう状況に臨む場合、意志と親交がどう「怖れ」を克服するための心の基盤になるのか?ということが質問内容になります
そうですねぇ、島野さんが好きな女性をデートに誘う場合、
どのように「意志」「信仰」が「怖れ」を克服するための心の基盤になるという話を言っているものなのか教えていただきたくお願いします。


 
Re: 質問 / 田中
No.805 2014/02/28(Fri) 22:56:35

もしかして質問の意図が伝わらないでしょうか?
意思と信仰についての理論的な話はもう十二分なほど書かれていると思います。
しかしながら、具体例、つまり現実の中での具体的な事例を通しての説明はほぼ見つかりませんでした。
具体的な事例が無いとなかなか伝わりにくいため質問させていただきました。
どのようなものでも、説明しやすい物でもお願いしたく思います。


 
Re: 質問 / しまの
No.806 2014/03/01(Sat) 08:04:23

了解です^^)/
返答は入れた頂いた順に、1週間前後時間がかかることもありますのでちょっとお待ち頂ければ^^。


 
「好きな相手に向かう怖れ」の克服における「意志」と「信仰」の役割^^ / しまの
No.816 2014/03/10(Mon) 12:19:39

お待たせしまして^^ゞ

「好きな相手に向かう怖れ」の克服における「意志」と「信仰」の役割

まず何の話をするのかというテーマ確認から書きますと、「好きな相手に向かう怖れ」克服における「意志」「信仰」役割、ということになりますね。なるべく具体事例も込みで^^。
一通り把握するためには例により本が一冊書けるほど視点多岐にわたるになりそうなので、ちょっとキーワードレベル整理しておきますと、

まず上記テーマ前段として把握しておきたいものとして、好きな相手に向かうこと「怖れ」あまり感じない心の状態感じる心の状態がある、ということになると思います。
●好きな相手に向かうことに「怖れ」をあまり感じない心の状態
・心の成熟・・・「自分から愛することができる」ようになるにつれて、そうした場面での「怖れ」減少する。まず相手から愛される必要があるという心の未熟状態であるほど、相手の拒否に出会うことの怖れ強くなる
・相手との絆と信頼・・・信頼が深まっていれば、その相手に向かうことの怖れ少なくなる
・性格的要因・・・性格的な、不安怖れ感じやすさ社交性vs人見知り引っ込みじあん傾向など

ここでは、上記要因何らかの不足傾向があり、
>好きであればあるほど、誰もが拒否される恐れを持ちます。
ということにもなる状況でのということになります。


「好きな相手に向かう怖れ」の克服への心の基盤

に、そうした「好きな相手に向かう怖れ」感じる心の状態で、何とかその「怖れ」克服して相手への行動ができるようになるための、心の基盤どんなものになるかという全体的な話があります。
この段階で、心の取り組みの立場によって言うことが違ってくると思いますが、ハイブリッド心理学としては、

・心の成長成熟への総合的な歩みにおいて、そうした「怖れ」も克服される

という考え沿ったものになります。
なぜなら、心の成長成熟とは、「愛に向かう能力の増大」のことを指しているからだ、なんて言葉もここで添えられるかと^^。これは『入門編下巻』なり『入門』なり、歩みの後半段階説明しているものでよく言っている話ということでリンクなどは省略^^。

で、そうした大きな視点からは、「好きな相手に向かう怖れ」克服への心の基盤というのは、
・「家」のつくり
喩えられるかと思います。
表面に見えるものから、表には見えないものへと、以下およそ5段階にて、「怖れ」克服基盤となり支えられる

1)家の内装外装・・相手の目に見える自分容姿外見言葉や行動の仕方性格的印象などが、相手にも好まれるものになってきているという自信。まとめて「個性的自信」とか呼べるかと。
2)家の基礎の作り・・「社会的自信」呼べるもの。社会における自分位置職業収入財産家族と友人知人その他人脈などといったものを材料に、総合的感じ取れるもの。
3)家の土台・・・「人間的自信」呼べるもの。自分思考法行動法への自信信頼自分人間性心の芯の状態についての自信感

ここまでは結構単純な話で、要はまず自身の成長の中で、人生で出会う「好きな相手」からなるべく拒否されないような人間にもなっていくことが、「拒否される怖れ」克服の基盤になるというになると思います。
単純ですね。「拒否される怖れ」克服は、まずは「拒否されないという安心安全」を築くことだと^^;

ハイブリッド心理学取り組み実践、特にその中でも外面軸「建設的行動法」側面は、そうしたものへと焦りやストレスなく合理的に向かうためのものですので、まずその学びと実践メインになると思います。
ごく素朴な話としても、まず「手痛い拒否にあう可能性のある下手な行動法」回避し、「手痛くない拒否」に済ませられる(^^;)ような相手へのアプローチ行動法ができるように、というのが基本中の基本となり、それをとして下ろし安全を確保し、最初勇気を出して、それから多少を数をこなせば(^^;)もうほとんどそうした「怖れ」そのものが行動への障害になることはなくなってくる、という流れになると思います。ちょっと俗っぽい(?^^;)結論になってごめんなさい^^;
まこれが「デートに誘う」というレベルでのになるかと^^。


「意志」と「信仰」の役割

一方「告白」というのは一段重い行動で、そこに「意志」「信仰」といったものの役割登場する、というになると思います。

4)家の土台の下の地盤・・・「意志」
「意志」は、「怖れ」も含めた「惑い」の全般克服への心の基盤だと言えると思います。
今回のテーマで言えば、「この人いいな♪」と感じた相手一時的な魅惑感や熱情に駆られてアプローチというのではなく、「自分はこの人を愛することに決めた」「何があってもこの人と生きていく」という揺らぎなさにおいて心に持つものであり、「惑い」捨て去られ「怖れ」減少します。
つまり「愛する意志」というものですね。それによって、相手に向かうことの「怖れ」減少する。場合により消え去るとも言えるかも知れません。

ただしこれはもう「好きな相手に向かう怖れの克服法として意志を持とう」というような発想のレベルで持てるものではなく、「自らの意志によって生きる」ことと「怖れの克服」の全般への取り組みに、そうした「愛する意志による怖れの克服」といった心の境地見えてくる、と理解するのが良いかと思います。
なお「ではどうすれば意志を持てるか」については、関連したブログ記事でもはっきりとは書かなかった感じですが、まずは「一貫した思考」持てるようになることがその第一歩かなと今は思う次第です。

僕個人の意見としては、「告白」というのは、そうした「愛する意志」を相手に伝えるというのが、心の成長形だと思います。それは、相手からの色良い返りがあまり期待できなくても、揺らぎないものになるということです。まあ恋の駆け引き権謀術数のように(^^;)行う「告白」もあるでしょうが、それはもうここでの話のテーマとは別のものということで^^。

5)さらにその下の岩盤・・・「信仰」
が前に買って住んだ千葉のマンション結構な物件で、基礎30m下の岩盤まで打ち込んでいるとの触れ込みでしたが、それに喩えられる、一番深い心の基盤になります。それが「信仰」呼べるものであろうと。
つまりそれは日常レベルの動揺で持ちこたえられるかを問うものではなく、マグニチュード9の大地震が直下で起きたような時に、それによって最後に自分を支えられるか問われるものとしてあるものだということです

「信仰」とは、「怖れの克服のために最後に頼りにするものへの情緒」などと定義できるものです。つまり「この怖れはこれで乗り越えられる」と、合理的か否かは別として考えられるもの一切消失してしまう、何かの破綻破滅状態において、それでも支えとなるものを持つという情緒です。

実際そうした「信仰の情緒」が、好きな相手に向かう行動での「怖れ」克服場面として前面に登場するというのは、極めて稀なことだと思います。
つまりそれは、もはや「怖れ」を克服するという場面というものではなく、実際精神的破綻破滅状態直面した場面で、最後にそれを乗り越えるという場面のものになるかと。
それだけ、その「愛」その人にとって人生全てをかけるような重みがある場合ということになるでしょう。そしてそれが、実際思いの通りにはいかず、精神的な破綻破滅状態に直面する。そこに、それを乗り越える「信仰」のようなものが登場する。
グログでも若干触れていますが、ドストエフスキー『罪と罰』などは、そうしたもの主題の一つとしているのではないかと。


島野自身の「信仰による乗り越え」体験

具体事例としては、僕自身人生で一度だけ、そうした体験を持っています。社会人としての自信と、自らの成長への自信足場に、『悲しみの彼方への旅』で書いたような顛末を経て再び会うようになり、その後離婚をした初恋女性に、プロポーズ的な告白をしたことです。まメ−ルでしたけどね。
にとって初恋女性結局人生を通して生涯愛し続けるただ一人の相手になっており、その告白うまくいかず彼女とのつながりが絶たれることは、僕にとって一つの精神的破綻になることの怖れ十分あったのですが、それまでの成長の歩みからして、その行動をしないことはもう考えられなかった。で実際そうして、その時いい結果をもたらさず実際僕の中に一つの精神的破綻起きたわけです。そこから僕の中で、精神的破綻を起こした心と、それをただ静かに見つめるもう一つの心並存する時間が流れ、やがて精神的破綻を起こした心ぱったりと消え意識の全てが一度「無」に帰し、それから新しい自分として生き始める、という流れ経たわけです。ちなみのその人とはそれから長い時間を経て再びつながりを保つようになっており、まあ現在進行形の話でもありますね。

細かい経緯はさておき、そうした「精神的破綻」怖れ自ら向かうような行動の中で僕を支えたのが、「未知への信仰」感情だったわけです。
「望みに向かい続ける」ことの先に、「未知」への成長がある、ということを堅く信じる気持ちによって、はそれを乗り越えたわけです。それ以外にはもう何も頼りにするものはなかったという経緯

これはもうかなり特殊事例になると思いますが、心の闇の最も深い部分最終的に克服されるのはこうした流れのようで、その体験を持ったからこそ、その底にある心の仕組み、そしてそれを踏まえ心の成長への歩み方を伝えるハイブリッド心理学書くようになったという次第です。
僕自身のこの体験の流れ全体書こうとしているのが、まずは今後始める『島野日記ブログ』という次第(前宣伝^^)


基本的考え方のまとめ

ということで、一般的には「デートに誘う」「告白をする」といった行動における「怖れの克服」は、まずはしっかりと建設的行動法などの習熟による「社会的自信」基本になると思います。それも結局、「社会行動」の一つですので。
そしてそうした人生体験積む中で、心が成熟してきた頃に、「愛する意志」というのがだんだん分かってくる。ここでまずそうした行動テーマにおける「怖れ」克服ゴール考えていいと思います。

そこまでに、かなりの人生の歳月要すると思います。僕のケースでも、「勇気を出してデートに誘う」といった段階(20代後半)から、「愛する意志」が見えて、人生で重要な「告白」の体験(40代初め頃)をするまでに、ざっと10年強の歳月を経ています。まこれは多少間延びだったかも知れませんが^^ゞ

「信仰」がそうした行動場面意識の前面において問題になることは、一般的なものではないと考えていいと思います。
一方で、「信仰」情緒持ち方は、そうした行動テーマにおける成長の全体関わっていると思います。たとえば「お金信仰」「他人依存信仰」といったものである場合は、前者そもそも「愛」と似て非なるものに向かう、後者自分から行動することへの怖れ基本的に克服できないまま、という流れ考えられるなど。
だから、「信仰」あり方根本を支配しているというですね。見えないままにです。

そうとして、「デートに誘う」といった最初の段階における場面場面における意識上の話としては、「意志」と「信仰」以前の、「社会的自信」獲得そして「手痛くない拒否におさめられる」行動法といったものが、もう9割5分いや9割9分くらい(どっちでもいい?^^;)になると思います^^;
「取り組み実践」としては、このテーマだけに関わらず、建設的行動法幅広く学び実践するで、「意志」「信仰」といったものも自ずと培われるというのがハイブリッド心理学の考えです^^。

とりあえずすぐ書ける具体的話も入れた説明として、まずはざっとこんな話になります^^。


怒りについて / りょうたろう
No.801 2014/02/25(Tue) 00:35:27

お礼が遅くなってしまいましたが、返信ありがとうございました。返信を待っている間に自分なりに考えたことと新たに頂いたアドバイスをもとに、ここ最近は内面の自己分析を主に行っていました。その結果、かなり手応えを得られる結論に至りましたのでお知らせしたいと思います。

今までの人生を通して流れていた怒りと復讐の感情について考えるにあたり、まず思い至ったのは幼少期の私と兄の関係についてです。現在は全く違いますが、そのころ私は事あるごとに兄から否定、怒り、嘲りの言葉を受けていました。「バカ」「グズ」とよく言われ、兄を怒らせたら「ごめんなさいもうしません」と言う決まりでした。

順当に考えればまず理不尽な否定をしてきた兄に対する怒りだとなりますが、これはどうも違和感が残ります。特に気になったのは、その当時の私は兄に対して一切反発したり自己主張したりしなかったことです。いつかの投稿でも書いた気がしますが、怒りを向けられることは当時の私にとっては世界の終わりのように感じられ、ただ目の前が真っ暗になるような恐怖があるばかりでした。ということは、その時既に「理由は分からないがとにかく自分は悪だ」という自己否定感情があったことになります。そうなるとここからさらに遡る必要があるのか?とも考えましたが、これはもう「物心ついた時から」としか言いようがないように思われました。そしてこれこそが「自分は人並みでない」と幼い頃から私が思い続けていたことでもあります。私は親に虐待されたわけでもなく、兄との関係にしても別段珍しくもない兄弟間のいざこざと言える。それなのに周囲の多くの人と違って自分は心の自立に向かうことに失敗し、心をめぐる問題に苦しんでいる。
  
しかしこれでは論理性も何もないため、「人並み」や「悪」について今の自分はどう考えるかと問うてみました。そして気づいたのは、自分に何かが欠けているという考えは後付けのものにすぎないということです。そもそも「少なくともこれだけのものは持っていないといけない」といったって、生まれたばかりの赤ん坊は何も持っていないとも言えます。今の私が執着している容姿や能力にしても、それさえあれば注目と尊敬そして愛が得られるようなものとして描かれますが、そんなことを言いだしたら私を含め殆どすべての人間に愛される資格はないことになってしまいます。この価値観は明らかに歪んでいる・・・そこで閃きのように次の考えが浮かびました。理不尽な否定を受けたことも、そして物心つく前にあったであろう愛への挫折も、自分に落ち度があったわけではない!と。

今までは「悪いのは自分、変わるべきは自分」という大前提の上に立っていたことがはっきりと意識されました。そう考えると、前回の投稿で書いた小学生の時の決断も自分にとってはきわめて自然なこととして成されたであろうことが分かります。認められるためには自分が変わらなければいけないと。

ここまで自己分析が進んだところで、また怒りがふつふつと湧いてくるのを感じました。そして同時に、幼い頃の自分が望んでいたことが初めてはっきりと思い出されました。それは「この苦しみを、そして自分は悪くないんだということを理解して欲しい」というものです。

小さな子供が泣きながら怒り狂っている姿は大人からすれば微笑ましいとも思えるものでしょう。しかし、私が何よりも深く傷ついたのはそうやって軽くあしらう態度によってだったのだと思います。理不尽な否定を受けたことそれ自体によって引き起こされたのは恐怖や悲しみまでのようです。怒りを感じたのはその後、傷ついた自分を誰も顧みなかったことに対してです。まあ今考えれば私は自分の正当性を主張するようなことは自己否定感情に妨げられてできなかったわけですが、それでも誰か大人に真剣に向き合って欲しかったと思います。両親が共働きだったことも関係しているかもしれません。

あの時の私に必要だった言葉とは、「ひどかったね、君が悪いわけじゃないんだよ」といったものになるでしょう。否定される理由が分からないというのは幼い私にとって存在に関わる重大なことでした。ただ今となっては自分で自分自身にその言葉をかけてやるより他はありません。それで心がどう変化するか今はまだわかりませんが、少なくとも刺さっていたトゲが抜けたようなすっきりした感じはあります。

それでもまだ、なぜ自己否定感情を抱くようになったかは納得のいく答えが得られないままです。正直に言うと不思議でならないのです。私は両親から十分に愛されたという記憶しかありません・・・そこで最後に一つ質問したいのですが、「幼少期に挫折した愛への望み」というものは今の私が意識で感じ取れるものなのでしょうか?それとも、今試みているところですが、すでに存在している自己否定感情の不合理性と向き合うことしかできないのでしょうか。お聞かせください。


 
「外面→内面→外面」で問題整理^^ / しまの
No.812 2014/03/05(Wed) 15:24:16

『入門』原稿佳境部分頭がふさがれていたためお待たせしました^^。


内面取り組み(自己分析)の役割位置づけ

これはまず取り組み実践における内面取り組み(自己分析)役割位置づけについておさらいしておきますと、
『入門 - 3.取り組み実践 / 「外面・内面・外面」と繰り返す「向き合い」の実践』
説明している通り、

【外面】
「日常生活と人生における問題課題と望み」への
外面行動法についての学び
  ↓
【内面】
それについての自身の納得理解への向き合い
 ・内面感情の解きほぐし理解(自己分析)
  ↓
【外面】
今取るべき外面行動法の結論検討


と、「外面→内面→外面」という一連の向き合い一つのサイクルとする、というものになり、
「自己分析」内面取り組みにおいて登場するものになります。


「来歴への怒り復讐」への取り組み

で、上記報告頂いたのは、前回の
『外面と内面』 りょうたろうさん No.782 2014/02/04
での僕のアドバイス・・まあ「内面感情の理解」の、かなり大上段からのポイント説明などになってますが、その終わりで言った
=======
「怒り復讐」とは一体何をどうされたということかというテーマ片付けると、かなり心がすっきりするのではと推測する次第です。
=======

対応したものだと思います。

それについては、上記「外面→内面→外面」における「外面」としてハイブリッド心理学から示す「学び」は、
「今そしてこれからにおいては、怒り復讐の行動化はしない」さらには、
「彼らの行動に何か落ち度があったとしても、それは彼らの悪意ではなく未熟と不完全さによるものであり、非難はしない」

という姿勢を、まず取る、取れるか?と自分に向き合うというものになります。

その姿勢選択できる上で書いて頂いたような自己分析展開されたということでしたら、それなりに「治癒」つながる一つの解きほぐしだと思います^^。

一方そうではなく、「彼ら」を非難したいという気持ちしか見えない状態での自己分析であれば、それは解きほぐしではあるかも知れないが、「治癒」にはまだあまりつながらない
一応念のためその場合は、一言で、「自ら幸福に向かうことができるようになること」全般取り組みます。日常生活と人生の問題課題の、具体的材料ベースでです。自分から幸福に向かうことができるならば、人は復讐を無駄と感じ、自然と放棄するからです。それができない時、怒り復讐に固執する、という心理メカニズムがあるからです。
参考:『入門編下巻』P.78より
=====
 「自ら幸福に向かうことができる」と感じている人は、怒りや憎しみを放棄することが、かなり簡単にできます。これは怒り憎しみの「正しさ」などという理屈の問題ではなく、自分の未来の幸福が見えるのであれば、「復讐」よりそっちの方が美味しそうに見えるという、単純な話です。そして実際、当然そっちの方が美味しいものです。
=====


まずアドバイスできるのは、こうした取り組み順序説明ですね。それについてりょうたろうさん実際どこに立ち、どっちに向いているのかについて、ご自身に向き合ってみて頂くというのが取り組み実践になります^^。

いずれにせよ、一つの取り組みサイクルで起きる心の変化微量であり、一回向き合って俄かに変化するようなものではありませんので、これから出会うさまざまなことがらに、「外面→内面→外面」という取り組みあたってみて頂ければと思います。変化は、その積み重ねになります。


「自己否定感情」へのアプローチ

>それでもまだ、なぜ自己否定感情を抱くようになったかは納得のいく答えが得られないままです。正直に言うと不思議でならないのです。私は両親から十分に愛されたという記憶しかありません・・・そこで最後に一つ質問したいのですが、「幼少期に挫折した愛への望み」というものは今の私が意識で感じ取れるものなのでしょうか?それとも、今試みているところですが、すでに存在している自己否定感情の不合理性と向き合うことしかできないのでしょうか。お聞かせください。

テーマごと視点とアプローチがあります。それを全て把握するのは大変ですが、まず一つ一つの問題テーマについての取り組みアプローチ自分自身でしっかり理解することからになります。
これは身体の病気からの回復にあたり、原因から対処法までをまず理解できることが必要であり、に、それを実践できるかという順序になります。
心の問題同じで、まずテーマごとの取り組み法理解することからになります。そのに、長い実践の日々始まります。
一つ一つ、こつこつと。生涯の学びと実践になる次第です。
たとえば「怒り復讐」への取り組みについては、アプローチ上述のような道筋というのもその一つ

・・という前置きはさておき、

「自己否定感情」については、その克服のためのアプローチは、
・自己否定感情の原因ではなく、自己肯定感情を高めることにどう向かうことができているかに取り組む必要がある
というのが、大大大原則(キーボード打ちすぎミスではなく^^;)になります。
なぜ自己否定感情を抱くのかではなく、自己肯定感情を高めることをどうできているか確認する。そうすれば、自己否定感情原因自ずと分かってきます。
まず言えるのは、今これから自己肯定感情を高めようとしている方法誤りがあれば、自己肯定感情に向かわず自己否定感情に傾くのは当然
自己肯定感情を高める方法として正しいものでき、それでも自己否定感情あるのであれば、そこから自己否定感情そのものに着目して、その原因から探るという取り組み意味を持つようになります。

また心理学的な観念から自己肯定感情の原因(責任)を幼少期に求めることがよくありますが、それは「今これからの成長」を知らないまま自己肯定感情を持ちたい願う誤った姿勢です。しばしば、「今これからの成長」向かうことができていないというその人の姿勢こそが、自己否定感情最大の原因です。

ですから、まずは自己肯定感情を高める方法として正しいものどう選択できているかに、取り組む上述の、具体的材料ベースでの、「外面→内面→外面」アプローチとして。
「正しいもの」についての「学び」として、
『入門 - 3.取り組み実践 / 「学び」の主要テーマ』
のような内容しっかりと踏まえながら。

「自己否定感情」へのアプローチとしては、大よそそうしたになります。
りょうたろうさんご相談について言えば、「自己否定感情」一言で言っておられることを、もっと詳しく明瞭に、自分の何をどう感じているかからが、「分析」活躍するものです。そこで感じている細かい内容によって、またアプローチ違ってきます。
これは
『実践詳説』 - 「学び」の一覧表電子書籍版P.6)
「悪感情の克服」項目などで参照可能です。
たとえばそれが「自己嫌悪感情」というようなものであれば、
========
自己嫌悪・・・これにそのまま直接対処しようとするのは誤りであり、
  改善向上すべき、もしくはハンディとして受け入れるべき外面問題と、
  自分の内面衝動の何かに対する自己嫌悪に、まず分けるのが基本です。
  前者は外面向けテーマへ、後者は内面向けテーマおよび心の成長の全体への
  取り組みへ。その先に、「魂の感情」によって浄化されるという
  道のりになります
========

書いていますが、まず「外面の問題」「内面の問題」といったものに、しっかり分けることから。そこから、上記ではごく短文で表現している、膨大な取り組み始まります。

上の「怒り復讐」ともつながりますが、まず問題として何があってそうした話になっているのかという、話の始まり明瞭にすることからですね。


「幼少期に挫折した愛への望み」

「幼少期に挫折した愛への望み」というテーマについて言えば、それを思い出せば即座に何がどうなるとは言えないながらも、「問題の根源」として探求するのが良いもの、という理解まずは良いかと思います。
問題の「原因」として、ではなく。

このテーマは、「望みの根源」探求する、という姿勢で当たるのが正解です。そこに、「魂の望み」あるからです。「魂の望みの感情」は、それを体験し、自分自身で受けとめることで、成熟作用が起きます。
「望みに向かう」という取り組みの根本一環として、それに向き合えばいい。

幼少期において愛への望みに挫折したのが自己否定感情の原因だという目線で取り組むと、完全に方向違いになりますのでご注意です。自己否定感情原因についての正解上述の通り。
その目線は、そもそも「依存」なんですね。「依存」の中にとどまることも、自己否定感情大きな原因一つになります。

ですので、まず「今からの成長」として、上述の通り、自己否定感情の原因に取り組むよりも、自己肯定感情を高める方法の正しさに取り組む
それは結局「社会を生きるスキル」とかのです。それを足場に、「望み」向き合うその中で、「幼少期に挫折した愛への望み」一体どんなものであったかが、思い出されるかも知れない。

あるいは最後まで、それは思い出せない可能性もかなりあります。それはそれで仕方ないことであり、それで別にいいことです。
なぜなら、意識の構造つまり脳の構造が、もう違っているからですね。
参考:『入門編下巻』P.196より
=====
 もうお分かりだと思います。本当の問題の始まりとは、出生のごく早期において、自他未分離の、混沌とした意識の「魂」において起きた、挫折だったのです。
 もの心ついた以降の私たちの意識で、それを思い出すことはできません。なぜそれが起きたのか、悪いのは自分だったのか、それとも他人だったのかを知ることはできません。なぜなら、それはもともと自分と他人の区別のない、渾然一体の意識世界で起きたことだったからです。
=====


いずれにせよ、「幼少期の回想」は、それ自体心の治癒成長のために必要というものではなく、あれば解きほぐしの一環になる程度に考えておいていいと思います^^。


ということで、
「外面→内面→外面」という取り組み手順
・そこで特に「外面」において、どんな問題があり、結局最後(内面向き合いを経て)どんな行動法を選択すればいいか
検討するのが取り組み実践だという理解進めると、より整理しやすくなると思います^^。
これは
『入門 - 4.心の成長変化 / ・「成長」と「治癒」の相互依存関係 』
で、
「外面側の軸が主輪、内面側の軸が補助輪」と言っている通りです^^。


Twitter について / TJ
No.808 2014/03/02(Sun) 10:01:30

こんにちは。
ハイブリッド人生心理学の言葉をTwitter(@tshybrid_words)で抜粋して配信させていただいています。
基本的に引用ですが、文字数の関係上、一部細かい句読点や文脈が変わらない程度の文章の省略をしてあります。
また、イラストも抜粋してアイコン・背景等に使用しております。
上記のような引用・改変等について問題がありましたら対応いたしますので、ご確認のほどよろしくお願いいたします。


 
Re: Twitter について / しまの
No.809 2014/03/02(Sun) 11:02:29

これは事務連絡ということで、取り急ぎ先に^^。

島野の執筆内容を特に改変しなければ、どんな形でも再配布して頂いてかまいません。さえそうしているものであり^^。
ただそうして再展開して頂いた内容についての確認チェックやフォローなどのサポートちょっと手が回らないご了承頂ければと思います^^。ここでのご質問相談にも時間を食ってしまっている状況でもあり^^ゞ

Twitterやってないので、今は見れない感じです(ID登録すればすぐ見れるのでしょうが・・)。とにかくご自由にお任せしまーす^^)/


 
追記 / しまの
No.810 2014/03/02(Sun) 11:10:24

あっお名前あとのホームページリンクからID登録しないまま見れますね。
とりあえず島野本人による発信ではないことが分かるようにしておいて頂ければ、内容はどんな感じでもオッケーでーす^^)/


 
Re: Twitter について / TJ
No.811 2014/03/02(Sun) 20:18:26

早々にご返信、また許可をいただきありがとうございます。
プロフィール部分に本人発信ではない旨を追記いたしました。
今後ともよろしくお願いいたします。


色々な思いについて / book
No.792 2014/02/15(Sat) 21:51:12

島野様

こんな雑漠なメールですが、
読んでいただけますか? 
何が最優先に取り組めば良いのでしょうか?

7〜8年前に、仕事で行き詰まり、また、個人的な事情もあってか、会社に行けなくなりました。こんなことは初めてでした。30年近く仕事をしてきましたが…。
自宅のパソコンで、どういうきっかけか、島野さんのページに出会い、その時救われました。

優越の感情を基本に生きてきたことの認識と、それではこれから通用しそうにないこと、自分を優しく育てる感覚、など、掲示板を読ませていただき、また社会に向かって歩き始めた感じでした。

でも、去年から、仕事がうまくいかず、具体的には部署の責任者である自分が、現実と噛み合うことなく一つの方向に向けてがむしゃらに進めた結果、多大な他部署の助けを借りなければお客様との約束を果たせない状況となり、会社に対しうる貢献もマイナスとなってしまった状況の中で、厳しく責任を問われ、また、心が苦しくなってしまいました。
結局は現実を見ていなかったのだと思います。

心が未熟で、何処かで誰かに褒められることを求めていることから、策があるわけでもない約束を社外にも社内にもしてしまった。
建設的行動どころではない状況です。
その一方で何処かで今回の失敗を誰かのせいにしたい自分がいたり、元気がない自分を見てか、声をかけてくださる客先に救われる気持ちを持ったり、なかなかすんなりとは行きません。果てしなく疲れた気分もあります。

本当に自分が好きなのは、勉強なんだと思っています。
歴史とか、いろんな勉強や学問を、やりたい。
教養という言葉に憧れがあるのですが、それすらも、子供の頃の幼い状況を引きずったままの自己操縦心性の結果なのだろうか。

でも、また元気が(喉元を過ぎたら)戻るでしょうが同じことの繰り返し、これを少しでも何とかしたいと思っている状況です。
社会人として基本的な期限を守るだとかスケジュールを管理するだとか、疲れてしまってできない気分です。
でも、喉元を過ぎればまた、
やりますと言ってしまう。
本当はきっと出来もしないのに、背伸びするだけ。

なぜなら、そう言わなければ「ならないから」という理由で、結局は解決になっていないのだと思います。
それから、気持ちがスッキリするのが怖い? 気分があります。
うまく行くことのプレッシャーでしょうか? うまくいかなくて、怒られた方が、気が楽だ、、心の何処かで思っているような気がしています。
要するに、普通ではない。普通を装うことはできても、結局は普通になれない。
自分の心の本質は変わっていない。

人に嫌われるのが極端に怖い。

それが、問題点なのでしょうか。


 
Re: 色々な思いについて / しまの
No.798 2014/02/20(Thu) 09:40:19

>何が最優先に取り組めば良いのでしょうか?

これはもう迷うことではなく、まず仕事を安定させることだと思います^^。
自分にできることの範囲で、しっかり計画実行をする。それにおいて、関係者との必要なコミュニケーションをしっかりと行う。
そうして仕事を安定させ、余裕ができてきたら、

>本当に自分が好きなのは、勉強なんだと思っています。

についても、どう向かうことができるか検討始められると思います。時間の折の趣味のように進めるか。あるいは思いきって今の仕事とは別の道を検討するか。
いずれにせよ、今の仕事を安定させることについては、そのための答え今すぐあるものであり、一方将来の進路なり内面のさまざまな悩みについては、多少時間をかける問題になると思います。ですからまずは、今の仕事を安定させ、心の余裕さらには時間の余裕を作り出す
それが最優先になると思います。全てそれからですね^^。

仕事場面の行動法や対処法については、検討したい具体的材料があれば、また詳しく具体的にアドバイスできると思いますので^^。

あっあと参考情報としては、この掲示板「仕事の普遍的スキル」とかのワード検索頂くと、具体的な事例での関連アドバイス結構豊富に出てきて参考になると思います^^。


 
Re: 色々な思いについて / book
No.799 2014/02/20(Thu) 11:42:13

島野様

コメントを頂き、ありがとうございました。
私にとって、大変貴重なものだと思いました。

特に、迷うことなく、仕事を安定させることがポイントであり、そのための答えは「今すぐに」ある、内面の悩みは少し時間をかけるべきものである、という言葉が印象に残りました。

少し時間をかけて、島野さんの文章を読んで、実行して見ます。
また、わからないことが出ましたら、相談させて下さい。ぜひ助言をお願いいたします。


会話について / ピヨ
No.777 2014/02/01(Sat) 13:52:15

 
 会話では、いつも同じ方がたくさん話し、周りの方は聞いていることが多い場面を目にします。

 話題性の有無や、話したいより聞いていたい時や、相手が一方的に話していると言うことも考えられます。 

 お互いの考えや行動を話し合い、決めていくよりも、一方的に決めて、相手の発言を否定しする方が多い気がします。 
 

 対等性があれば不満も言い合え、解決策を互いが考え話し合い、解消出来るということを考えると。

 豊かなコミニュケーションが出来る方は、あまり多くは無いと言えるのでしょうか。

 個々の育った環境から、会話の取り方が身につくと考えられます。


 
Re: 会話について / しまの
No.779 2014/02/02(Sun) 12:06:23

>対等性があれば不満も言い合え、解決策を互いが考え話し合い、解消出来るということを考えると。豊かなコミニュケーションが出来る方は、あまり多くは無いと言えるのでしょうか。

そうですね、豊かなコミュニケーションができる人というのは、そう滅多にいるものではないと思います。
ですので、先にまず自分「解決策の案」持つようにして、それから会話入るについて意見交換する、という姿勢心がけるようにすると、会話をより実りあるものへと向けていくことができるようになってくると思います^^。


 
Re: 会話について / ピヨ
No.780 2014/02/02(Sun) 15:53:33

 島野さんの意見が聞くことができました。
 
 相手がこうだから、と考えているだけではなく、自分が、何を話したいと考えているのかを見失わず行こうと志向出来ました。

 先ほど、図書館で予約した本の中では。

 子供が2人いると、個性の違いが目の当たりに体感され、生まれ持った個性が行動や
会話に表現されているのに気づく。一人は、活発。もう片方は、のんびりなどとありました。

 生まれ持った個性と、育つ環境からその方が在り、社会で生きていくためには、会話能力が必要とありました。

 感情をコントロールする能力は、豊かな対等な会話と言える。


 
本当に愛する相手に向かうについて / ピヨ
No.781 2014/02/02(Sun) 16:10:00

 共依存という言葉については、自分自身のことより相手のことを考えて等々が記されています。自立とは、言いがたい状態と考えられます。

 人が豊かに生活できることは、上記の無い状態と言えます。

 親が乳幼児や、動物に触れた時など愛おしいと感じることや、本当に愛する相手に向かうについて愛に溢れた充実したものと。その後には、特定の相手というよりも心が満たされるとあります。

 島野さんの考えでは、共依存についてや愛する相手に向かうについての大きな差など、どのように捉えられますか。


 
「愛」のバランス^^ / しまの
No.785 2014/02/08(Sat) 17:33:45

「愛」色々な種類があるということについては、さまざまな食材による食事たとえて考えると良いかと思います。
まあどの食材が一番お腹を満たすかというより、ハランスの取れた食事がいいですね。異性愛お肉であり(アハハ^^;)、家族愛ご飯、子供や動物への愛ビタミンたっぷりの野菜とか^^。

そのどれが心を一番満たすかというよりも、心が成長成熟するごとに、そうしたさまざまな「愛」の大よそ全体を、バランスの取れた食事にすることができるようになる。そんな考え方になります。
心が未熟であるほど、バランスが取れなく偏ったり食材そのものが傷んでしまっていたりする。

「共依存」とは、一言で、「互いに過剰な依存を向け合うことで成り立つ、病的な人間関係」などと定義できるかと。

ハイブリッド心理学では、そうした病んだものであるにせよ、ごく一般的な未熟からの取り組みにせよ、変わることなく次のような指針を述べています。
========
『入門編下巻』 P.268

愛だけに見入らず

 ハイブリッド心理学の取り組みの道のりは、「愛」をめぐる深刻な問題を抱えたケースも、そうでないケースも、全て同じです。
 まず外面における建設的な思考法行動法の習得を、大きな目標として進めます。あまりにも絶望感や恐怖感が強い場合は、内面的な解きほぐしをより多く取り入れながらです。
 つまり、あくまで人生の生き方の全体に取り組むのです。
========

人生の生き方の全体に取り組んで、「心の成長」の全体向かうことで、傷んだ食材健康なものへと回復し、やがて人それぞれのバランスうまく食材を組み合わせて、お腹を満たせるようになるということですね^^。


 
Re: 愛のバランス / ピヨ
No.786 2014/02/08(Sat) 22:15:39



本当に愛する相手に向かう愛から、その後には、特定の相手は無くても満たされるようになるということでは、心が充実して過ごせることなのだと考えられますが、具体的にはどのようになることと言えるのでしょうか。


 
Re:愛のバランス / しまの
No.789 2014/02/15(Sat) 10:56:49

『実践詳説』での以下の記述あたりの話ですかな^^。
終章 「真の望み」への道 / 「望みの成熟」の2つの道 (P.244)
=========
そこで人の心がたどる道筋の、ごくアウトラインを書くならば、この世に生まれ、まずは身近な人々との「愛」への望み充足に支えられ、「誉れ」への望み原動力に、社会で生きる能力獲得努力へとまい進し、そこで得た自分への自信をいわば手土産にするように、一人の異性との「愛」への望み、そして自分の家族への「愛」への望みを生き、それと平行して、全ての「人」への「愛」、そして引き続きの「誉れ」への望みに向かう中で、思い通りにはなかなかいかない困苦に、他人との比較競争意識や、社会での評価といった「自意識」の惑いを次第に脱し、ただ自分にできること精一杯に行っていく、そこに社会における自分の位置があるという「誉れ」への望みゴ−ルへと次第に近づいていく。その頃には同時に、との間での直接的な、濃い愛情を求める「愛」望みからの卒業見え始め、全ての人への穏やか「人間愛」へと向かい、やがてその生涯閉じていく。そのようなものになるであろうと感じます。
=========


「人との間での直接的な、濃い愛情を求める「愛」の望みからの卒業が心に見え始め、全ての人への穏やかな「人間愛」へ」
という部分ですね。

これは「特定の相手は無くても満たされるようになる」というより、ちょっと逆の感じで、「人生をかけて愛した特定の相手の存在によって、何もなくても心が満たされるようになる」というものになると思います。
これはまあそれなりに歳がいってからのことと考えると、何となく理解できるのではないかと。大恋愛だったおじいちゃんおばあちゃんではそんなこと影にも見えないような、何気ない日常の中で、相手が存命中のケースすでに他界したケースも、残りの人生のんびり楽しく過ごしていくといった姿
まずはそんな話でどうかと^^。

まあすぐ当てはめようとしても無理筆頭であり(^^;)、まずは「楽しみの共有」において幅広く「愛」を探すことから始めるのが、人生の歩みになりますね^^。


 
Re: 幅広く愛を探す / ピヨ
No.790 2014/02/15(Sat) 11:44:32

 私自身学習不足なのかと思われますが、

「楽しみの共有」において幅広く「愛」を探すこととは。

 楽しみの共有を意識して、日頃行動し様々な場面での社会生活での対人相手に、愛で接すると言う目を持つことを指しているのでしょうか。


 
Re: 幅広く愛を探す / しまの
No.795 2014/02/19(Wed) 10:26:13

そうですね。「愛」とは「楽しみと喜びの共有」だというを持ってさまざまな対人場面向かうことが、実際健康で豊かな愛をはぐくみ育てることにつながっていくと思います。

ただ「愛で接するという目」という表現は、あまりハイブリッド心理学ではしない感じですね。共有できる喜び楽しみあれば、積極的に行動を共にする。なければ無理に相手に合わせるようなことはしない。互いが別の人格の存在であることを見る重要ですね。
最初から愛で接するという意識ではなく、喜び楽しみを共にできた時、その結果として豊かなるということだと思います^^。


 
 愛を探すとは / ピヨ
No.797 2014/02/19(Wed) 18:27:46

「愛」とは「楽しみと喜びの共有」。

 実際に健康で豊かな愛をはぐくみ育てることにつながっていく。

 共有できる喜び楽しみがあれば、積極的に行動を共にする。なければ無理に相手に合わせるようなことはしない。互いが別の人格の存在であることを見る目も重要。

 喜び楽しみを共にできた時、その結果として愛も豊かになるということ。

 上記、最近の自分のテーマでしたので、とっても参考になりました。

 島野さん、具体的な助言ありがとうございました。


お礼と近況のご報告 / serori
No.791 2014/02/15(Sat) 20:21:25

 こんにちは。以前、アドバイスをいただいたseroriという者です。
 今回は、お礼と近況のご報告です。私よりも急を要して回答を必要としていらっしゃる方もいるかと思いますので、返信はどちらでも構いません^^
 ですが、もし気になる点などありましたら、お手すきの折りにアドバイス等いただければ幸いです。

 ハイブリッド心理学を繰り返し読み返しながら、「楽しいことだけやって生きたい」という望みを指針に、「現実に価値を生む行動法」を心がけて生きていたところ、「楽しいと思えることがどんどん増えていく」という、それだけで楽しい現実に直面しております。
 以前は「楽しくないことを排除する」ことを中心に据え、しかしどうにもならない現実に嘆いていた気がするのですが、同じ入り口でも、まずは「楽しくないこと」と向き合って、「なぜ、楽しくないのか」を考察し、対処法を具体的に検討し、試行錯誤していくと、不思議と「楽しくなかった事」が「そうでもないかな?」と変化し、「いや、意外と楽しいね」と変わっていくことが多いのに気付きました。

 そのような感じで自分は楽しくて仕方がないのですが、最近は周囲との生き方のギャップも大きくなり始めてしまったように感じたので、同じ状況に直面した際の、一般的な(多数の人がそうと思う)感じ方も、様々な方面から学習し始めております。以前は嫌で仕方がなかった「周りにの意見に同調する」ことや、いわゆる「大人な対応をする」ことですが、それもこれも、なんだか楽しくなってきております。

 「愛」については、未だよく分かっていないところが多いのが現状です。しかし、それについて深く考えるよりも、今の自分が「愛しい」と思えるものに全身全霊で向き合い、それを「楽しいこと」と感じているので、そうしております。いつか、自分なりの「愛」が、誰かを幸せにしている、という実感を得られたら、更に嬉しいのですけれど^^; 気付いていないだけなのか、実際に誰も幸せにはしていないのか、今の私には分かりませんし、今は、まだ分かる段階ではないのかもしれません。
 とりあえず、これを次の課題というか、「知ったら楽しいだろうなあ、知りたいなあ」と思っております。

 また、行き詰まったら具体的アドバイスをお願いしたいと思います。
 その際には、ぜひよろしくお願いいたします m(_ _)m


 
Re: お礼と近況のご報告 / しまの
No.796 2014/02/19(Wed) 10:57:15

>「現実に価値を生む行動法」を心がけて生きていたところ、「楽しいと思えることがどんどん増えていく」という、それだけで楽しい現実に直面しております。

これはベリーGoodな前進ですね^^。うまく行く知恵得るごとに、いやでも楽しくなるという話かと^^。


>「愛」については、未だよく分かっていないところが多いのが現状です。しかし、それについて深く考えるよりも、今の自分が「愛しい」と思えるものに全身全霊で向き合い、それを「楽しいこと」と感じているので、そうしております。いつか、自分なりの「愛」が、誰かを幸せにしている、という実感を得られたら、更に嬉しいのですけれど^^;

これは実際に誰とどんな関係を持てるか、絆を育てられるかという、具体的テーマとして取り組むのでいいと思いますヨ^^。実際に誰とどんな関係という具体的なものの中で、自分の愛がどう相手を幸せにできるのか実感というものも、生まれてくると思います^^。

具体的検討材料など出たらまた何でもどーぞ^^。


(No Subject) / こたろう
No.768 2014/01/26(Sun) 00:33:43

はじめまして。12月頭からハイブリッド心理学を学び始めました。
一通り全ての文章に目は通したのですが、まだまだ理解できない部分も
多い事ご容赦いただき、質問させていただいたいと思います。

何から質問してよいか・・・という感じですが、
タイムリーなトピックと問題点がリンクしてそうなので、
これについてまず質問させていただこうかなと。

@
>我々は「人物印象型自己理想像」にまつわる感情動揺の不合理な面を解きほぐし捨て去ることで、そのインパクトを多少減らすことができたとしても、その自己理想を基準にして起きる動揺や否定感情(たとえば怖れや気力低下さらには抑うつ感情など)によって現実行動が妨げられるという事実は、もはや捨て去りようのない心の現実さらには真実でさえあるものになる、ということです。


>「理想像内容の不合理」つまり「動揺内容の不合理」を捨て去ることができたとしても、「動揺によって妨げが起きている事実」は捨て去れないというのは、「人物印象型自己理想」を抱く前からあった動揺と妨げが、前からそうであったのと何の変わりもない深刻さで、ほぼそのまま続いているものにすぎないのです。


これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる
「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、
「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と
同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、
という事でしょうか?


>自分の心の未熟と妨げについて、「こんな自分になれれば」と「人物印象」として自己理想を抱いて、そうなれれば解決する、そうなれなければ駄目だと考えた思考と衝動の全体が、そもそも結局「空想の中の感情」であって、「現実における成長と問題解決」とは全く無関係なのです。
話は単純であり、当然なのです。「こうなれれば」「なれなければ」と考えている時の感情動揺の全てが、「現実」における成長や問題解決とは、関係ない。それでも「現実」において問題や妨げがあるのであれば、その問題や妨げに対して、直接、「現実」における克服と成長への取り組みをすればいいのです。


ここがよく理解できません。
「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も
問題解決も出来ていないということでしょうか?
なぜならその「こんな自分になれれば」のもとになったのは、
その思考が生まれる前の来歴における基本的不安が原因であるから。

それでも現実において妨げがあるならば、直接「現実」における克服と成長への
取り組みをすればいい。

「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、
一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?


しかしそれに取組む事に対しての妨げは、
「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、
のではないのですか?


「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、
現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、
進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。





A建設的行動法に対しての疑問


ハーバード交渉術も購入し一通り読みました。
原理原則型行動法は自尊心のためであり、
楽しみの共有は愛を守るための行動法。

理屈も納得ができました。


自分は2年前に、島野さんが「悲しみの彼方への旅」で書いていた、
合宿での精神的破綻と同じような状況になりました。

それまでは多くは無いですが大学に友人もいました(内面的なつながりはなかなか感じられませんでしたが)
しかし、いわゆる明るく、広い交友関係を作るタイプの人や、女子とは
話せず、内向的で関わりづらいイメージの目を向けられている印象を、同じ教室の
たくさんの人に対して抱いていました。

島野さんと同じように合宿に行くことになり、その同じ教室のたくさんの人と
普段は接していないのですが、グループ分けをして接することとなりました。


友人たちの数名も同じ合宿にいたのですが、彼らはその明るく、広い交友関係を
作るグループの人たちと馴染んでいきます。日中の作業が終わって、夕食の時間、
風呂の時間、みな大声をあげて笑っています。
普段、友達の前ではある程度明るく振舞っていましたが、
その時の取り残されていく感覚と、自分の中にある明るい人たちへの、近づきたいという
感情と、うすっぺらな人間だと軽蔑する感情がうずまき、自分の化けの皮が
どんどんはがれていく感覚で、時間がたつにつれてどんどん元気がなくなっていき、
顔から血の気が引いていく感じでした。
友人たちの「どうしたんだ?」という心配そうな顔や声がけに、「いや・・・」としか
答えられない自分。
その時は、あるがままの感情を感じつくせば、それを抜けられる、といった
スピリチュアルの実践をしていて、夜は寝たフリをしながらずっと自分の恐怖感を
感じつくそうと力んだり、逆にあるがままに流すんだと力を抜いたりを繰り返し、
朝になってしまいました。


その日に限界を迎え、合宿の引率の先生にか細い声で「かえらせてください」といって
別室にいくと、そこで大声でむせび泣いてしまいました。
こんなに泣いた事は10年ぐらいなかった、というくらい。
そのまま、合宿から帰ることになり、当時の友人たちにどう説明していいかもわからず、
心配して送ってもらうメールも全て無視し、そのまま大学を休学しました。

そこからはひきこもり同然の生活をしながら、瞑想合宿にいってみたり座禅をしてみたり、自然の中にでかけたりしながら、1年10ヶ月が経ってしまいました。


話が膨らんでしまったんですが、
合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、
ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

現実に対して向かい合う具体的な行動をたずさえて、
その行動が上手くできれば内面とのギャップからそれが破綻に向かったり、
行動が出来ないほどの妨げがあればそれがみえることで破綻に向かうなど。


復学する前に破綻を繰り返せれば、とか思うんですが、
そうはいかないと。

現実を生きる中で・・・そう考えると、また新たに作った人間関係が
全て崩れてしまう恐怖感がありすぎて、行動できません。

それが全て壊れるとわかっていながら現実に向かう・・・。


あ、そうではないですよね。壊れずに作れるという行動法が以上の
ものですよね。


しかし、お互いを理解しあうというものから、
楽しみの共有のほうが明らかに健康系だとわかっても、
その「楽しみの共有」の場を自分がぶち壊しにしているという
感覚に襲われます。


自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。

ぎこちないものになってしまう。


どこにも入らない事が一番世の中のためだ・・・
という感情。深刻系ですよね。


人の輪の場に入るたびにその感覚に打ちのめされ、しばらくひきこもり、
また別の輪に入ってみて打ちのめされ、しばらくひきこもり、を繰り返して
きてしまいました。


ようは、「建設的行動法」はトラブルの無い関係を作ることは出来ても、
「楽しみの共有」を取り合えず、表面的にでも維持できることは難しいという
印象を受けます。


その場合、例えば「会話術」「雑談術」などを学ぶことも
建設的な行動法になるのでしょうか。
穏やかにでも盛り上がる。

中間距離の人との雑談(バイトの業務での会話ではなく休憩など)などが
ダメダメです。


大学生という「ノリ」が関係に大切?な時代だから、もあると思いますが。


自分の場合は、そういった表面的な盛り上がりや雑談がもう少しできれば、
ある程度安定した関係性を築けるような気がするのですが。



具体的な不安としては

●2年前の同級生のほとんどは卒業するが、研究室のタテのつながりであうこともある。
また、ほかにも休学していた人がいて、その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。

●少なくとも当時友達として毎日一緒に授業を受けていた人たちには会いたいし、
突然連絡もとれなくなったから、関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。
それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方が
いいのか。


●新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう
話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

●そもそも、研究室などで継続的な関係を築ける気がしない、また自分が
斜にかまえて関わりづらく、空気を乱しているという感覚で、ろくに話せず
取り残されるとしか思えない。
⇒これに関しては今の感情で未来をとらえているので、
少なくとももう少し良い展望が抱けるくらいの人間関係作りを復学前にしておきたい。


B「楽しみと喜びの共有」について

人に対しての愛情を保つために、行動や発言は「楽しみと喜びの共有」へ。

心を開いて、では結果的に破滅的な結果にしかならない。
ということですよね。

上の質問のくくりでもあるのですが、(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)
「自己開示」についてです。

楽しみと喜びの共有を中心にすえた人間関係においても、
「自分の弱さを認める」というのは、関係作りに積極的な価値を持つことが
あると思うんです。


例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。


相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。


こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。


これが、「人見知り」だということを認めてもらい、閉鎖的な依存関係に
もって行きたい、という動機であれば、それは「愛を破壊する」発言といえる。


この理解はどうでしょうか。





まとまっていなくて申し訳ありません。


 
今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」^^ / しまの
No.776 2014/01/30(Thu) 18:02:33

克服成長への心の仕組み

まず克服成長への心の仕組み理屈部分^^。

>@
>これは、不合理だと理解して、「行動戦略型自己理想」につながる「建設的行動法」を見据えて、現実行動に出ようとしても、「人物印象方自己理想像」を持って同じ現実行動に出ようとした時と同じような否定感情が沸かざるを得ず、現実行動が妨げられ、実行ができなくなる、という事でしょうか?

いえ、「人物印象型理自己想像」不合理だと感じ、意識思考の上では捨てたとしても、それだけではまだ「人物印象型理自己想像」働きを続けているかのような否定感情く、というです。
分かりやすいかもしれないストーリーで言えば、たとえば「主婦の理想像」の信念抱きながらもそうなれず「うつ」になる、といったケースカウンセリングを受け、そんな完璧な主婦などいないという言葉納得し、心が楽になったのを感じる。そうして意識思考の上ではもう理想信念は持たなくなるのだが、ふとまた自分よりもそうした理想像に近い他人を見かけた時、心が沈んでいき、無気力が起きてくる・・。そんな流れ
つまりでは「こんなマイナス感情に値する問題ではない」と思いながらも、はというか引き続きマイナス感情を起こす、というような話です。
まあこれは要は一言で、理想を捨てれば低い自己評価、自信のない状態が解決するというわけではないということだと言えるかと。理想を捨てればいい、ではなく、自信を持てるようになる何かを持てることが真の解決、と。

で、それについて「現実」における克服成長への取り組みをしましょう、というです。
それが「建設的行動法」になる、という
ですので、「建設的行動法」を見据えて現実行動に出れるようになってくれば、かなり話が違ってくると思います。

ただしこの2つつまり「不合理な自己理想を捨てる」「建設的行動法ができるようになる」には、かなり距離あります。一度に切り替えることができるようなものではありません。
まず「人物印象型理自己想像」不合理を理解し、それを捨て去ることで一段階がそれをどう受け入れられるかに、多少とも時間がかかるでしょう。
に、「建設的行動法」学ぶので一段階。それをどう理解納得できるかに、また多少時間がかかるでしょう。ここでもやはり、がそうした新しい心の世界向かうことができるかどうかが、問われてくるかも知れません。
実際の行動ができるようになるのがまた次の段階
年単位で、一歩一歩を歩んでいくものになります。


「自己理想」を問う前に行動法を学ぶ

>ここがよく理解できません。「空想の感情」?つまり、こんな自分を演じられたところで現実における成長も問題解決も出来ていないということでしょうか?

「演じる」とは、本当ははそうでないから(言葉は悪いですが)その振りをする、というになると思います。シナリオ作成から結果評価までをふんだんに「空想」を駆使して。
真の問題解決は、もはや何の意識も働かせる必要もなく、自動的に、安定したプラス感情が湧き出るようになることです。「これはどう?」と、人がどう思うかなどの空想を働かせる必要もなく、好ましい「結果」「現実」において生み出せることで。
そのために、「建設的行動法」学ぶことから始めるものとして、「現実における克服」向かいましょうという話。
ただし「演じる」というのが全く無駄ということではなく、「その場しのぎ法」としては役に立つ場面もあります。これも結構重要^^。

>「行動戦略型自己理想」を組み立てるために「建設的行動法」をベースにした、一つ一つの場面や問題に対しての言葉、行動を選択するということですか?

まずは「建設的行動法」とはどんなものかを学ぶことからです。自己理想どう描けるか以前に。
その習熟豊富になるほど、やがて「行動戦略型自己理想」描けるようになってくる、という道筋です。

>しかしそれに取組む事に対しての妨げは、「行動戦略型自己理想」を作ったところで同じようにのしかかってくる、のではないのですか?「行動戦略型自己理想」が確かな物に感じられた上で、現実に対した場面で、妨げの感情が沸き、行動できなかったという経験が、進みようがない心を自覚させて崩壊に向かうということなのでしょうか。

順番で、自己理想(人物印象にせよ行動戦略にせよ)どう描くか以前のさまざまな「建設的行動法」習熟することで、妨げが減っていき、「行動戦略型自己理想」が描けるようになってきます。
「崩壊」については次の話の方に含めましょう。


「心の死と再生」・「依存」から「自立」の転換

>A建設的行動法に対しての疑問
>話が膨らんでしまったんですが、合宿の時明らかに自分が破綻するような状態になったのですが、ようは自分で破綻に誘導するようにはできないということですよね。

その通り基本的にはできません自分の足首つかんで足元さらって自分を転倒させられるかと言えば、できないと思います^^; それと同じです。
自分の意識破綻する可能性もある体験の場に、その可能性を想定した上で、勇気を持って向かうというのは可能ですね。ただしその場合でも、意識の破綻崩壊は、「破綻崩壊したい通りに破綻崩壊」などど安易に受け入れられるものとして起きるのではなく、感情としてはあらゆる面において受け入れられないものとして起きます。まさにそうであるからこそ意識が死んで再生するものであることを知っておき、耐えてやり過ごすことが大切になるわけです。

さらにただしそうした体験「再生」としての意味を持つのは、「依存から自立へ」という転換への姿勢持っている場合です。その時、今までの「依存」に根ざしていた心死に、「自立」の心の足場を一歩強めた心再生されます。
でないと、駄目な体験がまた一個、だけで終わってしまう^^;

この「依存から自立へ」という転換への姿勢については、まずは関連内容掲載途中ですが、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「心の成熟」の法則』

3)「愛」を単一軸とした「心の成熟」
参照
そこで書いているように、その転換とは、「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までとは別の心」へと向かう、という転換であることが重要です。
そこで「大自然を生きる一匹の獣」というをしていますが、人間以外の動物は、「自意識」あまり持たないので、自然とその大きな転換向かいます。その最初の転換は、しばしば親獣から突き放されるというで。それは子獣にとってその時失意になったとして、「自意識」あまり持たない獣の心では、「命」が生み出す「自立」への力直接働きほどなくして「自立する心」へと切り替わるわけです。
人間「自意識」があるので、大抵「今までの心」にしがみつき、「今までの心」の中で思考しようとします。まあいつまでもを始めとする他人や社会の庇護の下で生きるという生活様式もあり。

それを超えることが重要になるわけです。つまり「今までの心」のまま行動法を変える工夫というレベルのものではなく、「今までの心」とは全く違う「新たな心」の芽が自分の中にあることを感じ取り、それに立って、新たな行動法に向かう、という取り組みになるわけです。もちろん社会の庇護から外に出るなんてことではなく(ターザンでもなし^^;)社会というものを自分が生きる大自然としてうまく使うものとして。


「依存から自立へ」の転換と共にある「建設的行動法」

ですので、「建設的行動法」一言でいっているものも、実は「依存から自立へ」という、「行動法」というテーマよりもさらに根本的根源的な、「依存から自立へ」というテーマを含んでいるものであることを、ご理解頂ければと思います。

それはつまり、即実行に移せるプラス行動法であると同時に、実行するしないに関わらず自分の中にある「新たな心」に気づくためのヒントでもあるということです。このような行動法をする心とは、どんな心なのだろうか。自分の中に、それはあるのか・・向き合うこととして。
そしてそうした行動法向かうことができる自分の心存在気づいた時、その行動向かうという新たな局面始まるでしょうし、そうではなくとも、そうした学び心の懐に入れながら、潜在的「依存から自立へ」という転換を受け入れ始めた時、今までの心ではもう先にいけないというどん詰まりの体験の中で「意識の破綻」「心の死と再生」になるということが、起き得るようにもなる、ということです。

ですので、我々意識実践として行うことができるのは、まずはとにかく「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」を学び、その理解納得を問うことからになるわけです。
それが、
『入門 - 3.取り組み実践 / 「取り組み実践」の3ステップ』
で説明している、「応用の学び」「向き合い」という手順です。結局全てこれを通るんですね。

そこで妨げ軽ければ「建設的行動法」への理解納得がすんなり進み、行動に向かうことができるかも知れない。
妨げ深かった場合2パターンが考えられる。
a)今までの「依存」の心へのしがみつきが続いてしまうかも知れません。「建設的行動法」への理解納得ができない。これはハイブリッド心理学による取り組み進まないケース。その場合の他の取り組み方法は、僕は知らない^^; (僕の専門はあくまでハイブリッド心理学ということで^^)
b)そうではなく「建設的行動法」への理解納得ができ始める。「習熟」などはまだ遠く妨げが強く向かうこともできない。「崩壊」が起きることが考えられるのはこの段階です。つまり今までの心ではもう先にいけないことを、意識よりも深いところ心が感じ取る段階です。だからと言って「今までの心」が自分で自分を「新しい心」に入れ替えることなどできないわけです。だからそこで一度「今までの心」が死ぬということが起きます。そし新たな心再生されます。
『悲しみの彼方への旅』がまさにこの段階の様相を書いたものであるわけです。

ということで、結局「取り組み実践」としては、まずは今直面する問題課題についての、「依存から自立へ」という姿勢を込みにしたものとしての「建設的行動法」学んで頂き、まずそれについて自身の理解納得に向き合って頂く、というものからになるわけです。


理解納得できていない自分に気づくことが第一歩

そこで「自身の納得理解に向き合う」という段階で、重要なポイントを言っておきますと、
「自身の納得理解を問う」とは、「いかに自分は納得理解していないか」を自身に明瞭にすることから始まる。
ということです。
これは上記妨げが軽い場合も、深かった場合でもです。

というのは、まずは、心底での納得をしないまま、自分に当てはめてみるという思考姿勢始めるからです。
それで多少うまくいく面もあれば儲けもの。でもどうもやはり言われた通りには行かない。そこまで行って、初めて、入り口立つわけです。自分の心底での本当の感じ方考え方こうなのだ、と自覚することから始めるものとして。
そうして自分がいかにハイブリッド心理学が示す「建設的行動法の学び」とは違うものに向いているかを認めることができた時こそが、第一歩踏み出した時だと言えるでしょう。
まあこの第一歩の間に、起きるべき「崩壊」あるのなら起きているでしょう^^。


今問うべき「自立した心の世界の建設的行動法」

ということで、上記引用の文章に書いて頂いたお悩み内容については、その言葉一つ一つコメント入れるのではなく、ざっと全体を見て、ハイブリッド心理学から示すことができる「学び」はこうだ、というのをずばり短文で出しておきましょう。
それはこんな感じのものです。
     *     *     *     *     *
貴方がこれから(今)向かう人間集団は、特定の目的の下に運営されるものであり、その中における馴れ合い親しみの和は、第一の目的ではない。まずその「特定の目的」を果たすことに、徹しなければならない。学校であれば勉強。授業を受けること。
また、与えられた集団で馴れ合い親しみの和があり、その中に入れることを「あるべき姿」と感じるのは「ティーンの世界」までのことであり、まずはその世界に別れを告げなければならない。少なくとも外面行動としては。
人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。
そしてそもそも、これからまず向かうべきは、人との和に入ることではなく、「社会に出る」ことを見据え、そのための情報を得ることなどから実際にその活動へと向かい、また社会を生きるスキルについても基本的な学びを得始めることである。

そうして一度今までの「依存の愛」から旅立ち、「社会で生きるスキル」による「自立の自尊心」を得てから、再び「愛」という人生の課題に向き合うと良い。その時、心はもう別のものへと変化しており、全てが、今とは違う見え方をするであろう。そこで「愛」に向かうことに再び妨げが現れたとしても、まさにその克服の模索によって、今の心からは全く未知なる答えが、見出されるだろう。
     *     *     *     *     *

といったものです。

まず言えるのは、「どうすれば談笑の輪の中にいられる自分に」というテーマに、心が虜の状態だと思います。しかし「今向かうべき成長」は、もうそれではないのだ、ということです。
それについて僕の感慨を書いておけば、「幸せなティーンの時代」を得るために、それは必須なものだと感じます。しかしそれを得る人間と、得ることができないまま人生の次の段階に向かわなければならない人間がいる。
後者でした。そしてこたろうさんも、今の段階では後者でしょう。それを受け入れず、そうした「幸せなティーンの時代」を得てから「社会に出る」という観念に、しがみついているという印象。でに、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感とらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖あえいでいる昨今・・。

これから向かうべき成長とは、社会に出て必要となる「仕事のスキル」などであり、それは「談笑できること」なんてのとはもう全く別のものです。この点は今の学校教育が、そうした現実の社会を生きる術教えていないことに弊害があると感じるのですが・・まあ教師が実際社会を知らないのだから始まらない・・なんてはさておき。
この辺具体的な話は、この掲示板「仕事の普遍的スキル」なんてワード検索してもらえれば、どんな話多少つかめると思います。

まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」得るとは、そこに必ず人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこからに、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
それが、「幸せなティーンの時代を得なかった者が、やがて豊かな人間関係を築く」ための、僕が知る王道です。
「仕事」なんてまだピンと来ないという状況だとしても、大学に入ればもうその視野は持てる段階です。これについては、りょうたろうさんへのちょっと前のコメント
『「勝てる原理原則」は人生の駒を動かした先全てで学ぶ^^』 しまの No.744
2013/12/17

など読んで頂くとよいかと。


マイナス内面は表現しないのが基本

今回は以上をまずはアドバイスとし、まずそうした大きな話について、どう感じるか向き合ってみて頂くと良いかと思います。

ご相談文面後半は、そうした大きな視点を全く持たずに細かい話を書いて頂いているようなので、逐一コメントを返すのは省略し、ちょっと気づいた点、もしくは上記最初に言った「やり過ごし方として結構重要」な点などを書いておきましょう。上述大きな話向き合うことで、細かい点多少対処が見えてくると思うのですが・・。

>その人たちと会ったら、自分の当時の状況と休学の2年をどう話して良いかわからない。
>関係をまた作るには自分のことを説明するべきか。それとも、対人恐怖感などは自分の中の感情として、適当な言い訳を作った方がいいのか。
>新たな関係を築く事になる人たちは、年下だが、自分の状況、休学についてどう話していいかわからない。また年齢や学年について、どういう関係性(学年が下だから下として敬語が良いか?)がいいのかわからない。

「分かってもらう」ための説明など一切いらず、「つなぐための言葉」言えればよろしい。たとえば「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」とか。とにかく話の向き先込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。
面と向かって言いずらいが伝える必要のある言葉先にメールで送っておき、会った時にはもう触れない、というのがこういう場合一番洗練された行動法になると思います。まもっと熱い会話を好む人など、人による好みはあると思いますが(僕はあっさりドライな方が好き♪^^;)
新しい学年では、聞かれない限り話す必要はないでしょう。ごく一般的な敬語かタメ口でいいと思いますヨ。

最悪、「輪に入らない普通の人」「演じる」ことも考えるといいかもですね。あまりにビビってしまうなら、どうやって「会う」かは諦め、一人おとなしくするしかない^^;

>(対人恐怖傾向を、なかなか人とうまくやれない、とカミングアウトしたほうがいいか?という疑問)「自己開示」についてです。
>こういう動機でのカミングアウトならば、「建設的な行動」といえるのでしょうか。

「自己開示」しません「自己開示」という発想は、人に心を閉ざす感情によって妨げられている人が、明るく人と接する人というのは「心を開いている」のだと、誤ったイメージを抱いた結果観念です。明るく人と接する人は、「自分」を開示することでそうなるのではなく、話題となる、「自分」ではない「ものごと」が、心底から面白い楽しいと感じているからです。それだけのことです。心底から面白いと感じずに、話が盛り上がる人間になどなれないということです。

マイナスの内面は、「カミングアウト」のみでなく全ての形において、表現しないのが基本です。一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。
回復したいなら、マイナスの内面表現しない回復しなくて固定させていいのなら、好きにしていい。(おざなりアドバイス^^;)

あっあとこれ。

>自分がその場に入ることによって、その場が悪いものになってしまう。ぎこちないものになってしまう。

「幸せなティーン」の絵「あるべき姿」という善悪思考にまで高めてしまった結果。これはよろしいですかな。


ともかくまずは大きな話からですね^^。


 
Re: / こたろう
No.778 2014/02/02(Sun) 00:38:06

前半部分の、依存の状態では破綻が成長の糧にならない、などの記述、
参考になりました。
細かい向き合いに関してはもう少し深め、また質問したいことが出たら
お願いします。
今回は取り合えず後半部分の
「幸せなティーン」の部分に関して・・・


>人との親しみの和に加わりたければ、自分のことを話して分かってもらって、というものではなく、自分が心底から興味と楽しみを感じる、「自分」ではない「ものごと」についての話題を共有するという行動法のものによって、行わなければならない。それが見出せない、そこに加わることを心底から楽しめないのであれば、孤独を受け入れるべきである。

コレに関してはおおむね納得できるのです。が、輪の個人個人との付き合いが
深まっていく過程で、「ものごと」ではなく「自分」に関しての情報のやりとりが
増えていくと思うのです。
物事、に関しての話ばかりではなんだか自己閉鎖的で、とっつきにくい印象を
抱かれているような感覚がします。
そのうちに周りが仲良くなっていって、取り残される・・・という恐怖感で
その場から逃げ出してしまう、ということが多い。


大人同時の集まりでも、近況や「感情」の共有によって仲が深まっていっている
印象を受けました。

えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という
会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。
それに関して、具体例などありましたらお願いします。


>で逆に、「談笑できない自分のままでは社会に出られない」なんていう恐怖感にとらわれるようにもなる。そうして多数の若者が、社会に出ることにへの誤った不安恐怖にあえいでいる昨今・・。

そうですね。実際、アルバイトでそういう雰囲気を感じました。
仕事のスキルに関してはほとんど問題なく(まぁ、アルバイトなので)
むしろ休憩時間や、お客さんが居ない時間の雑談、あるいは帰りに一緒に駅まで
歩く、といった状況の苦痛に耐えられずに、やめてしまった。という感じで。


>まあその上で、「談笑できるようになること」なんて目標を持っておくのもいいと思いますヨ。「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。

こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。
島野さん的なノウハウは何かありますか?



>とにかく話の向き先が込み入ったことに向かないよう言葉を配置するのがポイントです。前向き言葉で終えるなど。この辺は「言葉の選び方」という人生の日常の学びですね。


●「ちょっと軽いうつで休学していたけど復帰し、今後授業の方頑張りたいのでまたよろしく」

ここらへんと、自己開示、に関してもですが、ここの部分で「どこまで話せばいいのか」という部分で惑いがあって、結果関係をフェードアウトするパターンが多い事に
気がつきました。

2年間顔を合わせていないのに、いきなり軽いうつだったけど復帰したけどよろしく、
っていうのでは納得ができないのではないか?と感じます。
不信感を持たれるというか。

あるいは、その時にそう返して納得されても、また一緒になるタイミングで
聞かれることもあると思います。結局どういうことだったの?みたいな感じで。

いつそれを聞かれるかという恐怖におびえていたら、その人を避けることに
なりそうです。

そうなると、相手がある程度納得でき、不信感を抱くこともなく、
かつこれから気を遣いすぎないような言葉で伝えられたら
その後過ごしやすいと思うのですが。


それと、自分の全てを話せること自体に「強さ」を感じている感覚があります。
弱さをさらけ出せないのは自分を強く見せようとしているからだ、という自己処罰
感情が起こります。

おそらく自分の今の感覚では、自分自身の弱さや思考、惑いなどのマイナス面を
開示せずに、人に「信頼」や「親しみ」を感じてもらうことは難しいという感覚が
あります。


一方で、この感覚自体が少し歪んでいて、それによって、相手が別に「もっと心を
開いて欲しい」と思っていないにも関わらず、そうできない自分を責め、結果
勝手に「自分をさらけ出さないことで不信感をあたえて空気を悪くしている」という
感覚におそわれ、常に緊張しているという状況もあると思っています。



>一度表に出した自分のマイナス内面は、必ず一人歩きを始め、おうおうにしてそれが自分の内面を回復する妨げになります。そうでなくとも、何らかの「後始末」が必ず必要になります。面倒この上ない。

ここを具体例で説明していただけると助かります。
マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし
逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。

そういうケースも多いが、それでも自分の内面の成長、を目的にするなら出さない方が
絶対に良い、というなら納得できると思うので、
どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか
具体例があればお願いします。


 
「交友行動」が課題ではない人生の段階へ^^ / しまの
No.783 2014/02/06(Thu) 11:52:22

2種類の交友行動法

これはまずは、ごく一般的な交友行動法として、「かなり深いつき合い」相手「まだ浅いつき合い」相手とでは、多少行動法が異なるということから考えると良いかと思います。

書いて頂いたように、
・「自分」についての情報のやり取りが増える
・ナイマスの内面を表現することも絆を深めることにつながり得る

のは、基本的には「かなり深いつき合い」相手ですね。家族親友恋人などごく少数相手

一方、社会に出て「まだ浅いつき合い」相手への一般的な行動法としては、
・自分のことばかり話すのではなく、相手と楽しめる話題があればそれについて話す
・マイナス内面は表現しない

というのが基本になると思います。そこから、いかに相手とのつき合いを深められるかは、自分が相手と心底からつき合いを深めたいと感じるか、相手がそう思っているかに、まずは拠りますね。どっちかがそう感じてないなら、ちょっと無理^^; まあこれは恋愛に限らず「片思い」というのが人生で体験するものですね。それを見分け、スマートな行動法にすぐもっていけるようになるのが、人生経験の積み重ねによってになってきます。
それもまずは、「まだ浅いつき合い」の相手への一般的な行動法ができることからだ、というになると思います。それができればまずは安全、というものとして。
はっきり共有することに楽しめるもの見出すことから。それがないなら無理に交友を強めようとする行動しない、と。

社会に出る、また「大学」という段階からは、「まだ浅いつき合いの相手」さらに「つき合いもしない相手」への、友好的な行動法というものが基本になると思います。
それに対して、小中高でまず最初に出会った友だちとの行動法でもって、大学以降の交友行動も考えると、とてもぎくしゃくしてしまうと思います。もちろん「大学」さらには「就職」においても、「最初に出会った仲間」とは、最初から「かなり深いつき合い」交友行動取れるケースもある。そんな相手ができるのは人生の賜物一つですね。
しかし、一度それを「逃してしまった」ら、深いつき合いはその形ではもう得られるものではなく、「まだ浅いつき合い」の行動法をしっかり取ることから始め、「かなり深いつき合い」にできかどうかをじっくり探るというモードに、切り替えなければならない、と言うことができると思います。


「まだ浅いつき合い」が行動法ベース

ということで、こたろうさん場合も、「かなり深いつき合い」の行動法だけで考えているのが一因ともなっている、ぎくしゃく度かなり重症(^^;)なものと言えると思います。
もちろん考え方だけではなく、来歴に由来する根深いマイナス感情の問題もあるでしょうが、その克服のためにも、まずは行動法を安定させることからになると思います。まず行動法を安定させ、それでできてくる余裕足場に、じっくり根深い問題にも取り組めるようになる。

重要なのは、「まだ浅いつき合い」の行動法ベースに考えるのみでなく、実際それをベースに行動できることです。それができて、その中で、どう深められるかを探り、そうできる材料をしっかり見つけたら、深めていく。
これは「行動学」からも、つまり行動法の効果理屈で考えても言えることです。実際
a)まず「まだ浅いつき合い」の行動法取ってから、「かなり深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的対人関係の「豊かさ」に向かう方向性なのですが、これがに、
b)まず「かなり深いつき合い」の行動法行動法を取って、「まだ浅い深いつき合い」の行動法模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法どう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。
まあそれがに、本人「依存」を脱し「自立」に向かう姿勢があったならば、「今までの意識の崩壊」による健康化つながる道になるのですが、そうではなく本人がたとえば攻撃性を伴う依存にとどまったままだと、ストーカー的行動へと道をそれてしまうことも出てきます。

そうした話を踏まえ、こたろうさんのケースで言えるアドバイスとしては、「かなり深いつき合い」の行動法多少とも検討し得るとしたら、相手からそれに相応しい働きかけが、今実際にある場合です。今現時点において、深く心配するような連絡があるのであれば、検討できる
しかし2年も会ってないということであれば、いったん全てリセットされたものとしてゼロから、という想定で、具体的行動法を検討するのがベスト、ということになると思います。


「目的ベースのコミュニケーション」と「雑談」

以上が考え方の、前回からの補足として、細かいご質問への返答など書いておきますと、

>えと、これはそもそも「物事」と「自分をわかってもらう」という会話内容についての区分があまりハッキリしていないのかもしれません。それに関して、具体例などありましたらお願いします。

僕自身の体験で言いますと、僕の場合心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話盛り上がるわけです。どの斜面どんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

>>「仕事のスキル」を得るとは、そこに必ず、人とのコミューニケーション材料を、今までの学生時代の馴れ合いの輪の中の談笑とは全く違う形で、得ていくことでもあります。そこから逆に、仕事以外の場における人との交友への入り方というものも、見えてくるかも知れません。
>こういうものは、いわゆる「雑談術」などのビジネス本から得るのでしょうか。島野さん的なノウハウは何かありますか?

これについては、まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10
への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========

のところなど読んで頂くと良いかと。「雑談術」というより、仕事の知識そのものですね。というか「雑談術」「ビジネス本」ではないような・・「自己啓発本」ではあるかも・・まどーでもいい話^^;

上述スキー部の会話、また仕事場面のコミュニケーションも、「楽しみ」伴うか否か違いはあるとしても、どちらも「目的」がかなりはっきりしたコミュニケーションです。前者スキーの楽しみ共有後者は仕事

それに対し「雑談」というのは、そうした「目的」がない会話ですね。
ごく手短に言えば、これはコミュニケーション術としては2番手になると思います。まず1番手目的ベースのものとして。
まずこの優先順位しっかり踏まえそうした「雑談術」が必要か、という問題からになると思います。
これもごく手短に言えば、にとってはそれはあまり必要なく、「雑談術」も特に持たない結果となった次第です。まあそれがあれば宴会が苦手とか克服できるのではと考えたこともありましたが、そんな漠然としたものより、スキー部への参加人生のパートナーの模索といった人生の歩みの中で心が成熟し、やがて執筆に心血注くようになったという経緯で、「雑談」というのは今は特に必要とも感じない次第です。というかちょっと時間の無駄を感じる面も・・^^;
まこれはあまり参考にならないコメントかもでしたね^^。


マイナス内面は出さない原則

>ここを具体例で説明していただけると助かります。マイナス感情は全て出さないというのはやはり極端だし、そういう人は不自然だし逆に人から避けられる気がします。良い人だけど人間味が無くて、とか。
>どういう意味で「後始末」が必要なのか、「一人歩き」とはどういう事なのか具体例があればお願いします。

「一人歩き」は、最近の言葉で言えば、「話が拡散する」というようなことです。
たとえば「対人恐怖傾向をカミングアウト」といったものが、話が拡散して友人知人にまず「対人恐怖の誰々さん」という認識のされ方になる可能性があります。人づてで面識を持つ際も、「あ、対人恐怖の誰々さんね」と、そうした話が先行する交際になる可能性があります。
一生それで良く、それで心が楽になる(?^^;)のであれば、カミングアウトするも良しということです^^。でない場合は、どうにかして、自分はもう対人恐怖ではありませんということを、知人友人に納得させる行動必要になってきます。これが「後始末」という話。

これも考え方の話に戻れば、マイナス内面の表出は、ごく限られた「かなり深いつき合い」では、場合によっては絆を深めることにもつながるかも知れません。
しかしそれも、それによってそのマイナス内面の克服の方向性がある場合はです。たとえば受験就職への不安などはそうした類かも知れません。

「対人恐怖傾向」の場合は、カミングアウトによって克服するものなのかは・・う〜んどうなんでしょうね(←長嶋さん口調?^^; いや無用なジョーク失敬^^;)
ハイブリッド心理学では、自己取り組みによって克服するものになりますので、少なくともハイブリッド心理学の取り組み実践するのであれば、カミングアウトはなしになります^^。

マイナス感情を出さない人不自然だと人に嫌われるなんてことはないと思いますヨ^^。実際の人の様子良く観察してみれば分かると思います^^。
最初の方で書いて頂いた

>例えば、人見知りだといわれれば人見知りの人は安心感を持つ場合がある。相手もリラックスして「喜びと楽しみの共有」がしやすくなる。

も、実際大抵の人むしろ緊張してしまうと思います。言わないでおくのが華です^^。


「交友行動」が課題ではない人生の段階へ

ということで、大きな話に戻って総括しますと、こたろうさんの置かれた状況においては、まず何よりも、「交友行動」が課題ではない人生の段階へ向かう、そのための知恵とノウハウを得ていく、という大きな視点何よりも重要になると思います。
そこにおいては、今交友行動がうまく取れないことも、妨げにはならないのだという心の視野得ることが、なによりも心の支えになるのではと。

そのためには、当面の行動法については、上述の通り、交友関係かなりリセットスタートという前提で行動法を安定させ、安定した日常のリズム中で、ハイブリッド心理学の取り組み法についても時間の折にじっくり読んで学んでいく、という今後の進め方ができれば、というのがアドイバスになります^^。

あっあと、より大局的人生の歩み方として、「依存の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という流れの中にあるというのが一番大きな話になりますので、それについては『入門』今掲載中の部分(次に掲載予定の「取り組み実践による「心の成熟」への歩み」など引き続きじっくり読んで頂ければと^^。


 
Re: / こたろう
No.787 2014/02/09(Sun) 18:11:13

>まず「かなり深いつき合い」の行動法の行動法を取って、次に「まだ浅い深いつき合い」の行動法を模索し向かうというのは、基本的には難しいことであり、そこでは関係が「破局破綻」そして「消滅」に向かうというものになります。

>また、心理学からは、「まだ浅い深いつき合い」の行動法が取れない状況で、「かなり深いつき合い」の行動法をどう取れるか悩むというのは、まず言って相手がそれを求めている、自分はそれに応えなければという思考によってになるのですが、これは得てして「関係妄想」の原型と言えるものです。「現実」に出てそれが覆った場合、程度の深刻さにバリエーションはあると思いますが精神的破綻が起きます。


すみません。「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?
確かに、深い付き合いを求められているという感覚にすぐになってしまうのは
心当たりがあります。

「まだ浅い付き合いへの行動法」がよくわからないという部分もあると思いますが、
どちらかというとその距離感のまま安定(安心?)をある程度持って
その場にいる、というのが難しい感じがします。


「まだ浅い付き合い」だと認識していながら、一緒に行動するという
感覚に耐えられなくなってしまう。
これはやはり「自分を絶対に否定されたくない」「全て理解されていないとリラックスできない」、つまり自分の気持ちを自分で受け止めるのではなく、目の前の人に
受け止めてもらいたいという心の動きかたですね。


>僕自身の体験で言いますと、僕の場合の心の健康化に大いに役立ったものとして、会社のスキー部への参加がありました。そこは基本的に心が健康で明るい人々の輪でしたが、まずはスキーの話で盛り上がるわけです。どの斜面でどんな滑りとか。
まず「自分」のことから話す人はいない感じですね。
ごく短いこの話で、違いが多少分かるかどうか。

これは、わかるんです。
例えばスキーにしても「自分はこうこうこういうスタイルが好きだ」とか
「自分はこういうやりかたです」とかありますよね。
こういう話は「自分の話」とは括らないということですよね?

スキーに関しての自分の思いや知識を、スキーを共通点とした友人と
話す。

しかしそれだけでは間が持ちません、と思うのですが。

島野さんはスキー合宿にいって、スキーの話以外のコミュニケーションを
とらないんですか?

例えば自分は子供がいなくても、相手に子供が居た場合、
その子供の近況などの話を聞いたり、兄弟どうしてる?とか、
そういう話もしますよね。

あ、この場合は、「自分が子供に興味がある」から、その意味で
共通部分の楽しみという括りになるんですかね。


それに自分と趣味が全く異なるけど、その話を
聞いていることがそんなに苦痛じゃないこともありますし、
新しい発見をすることもありますよね。


これも「興味がある範囲で」「楽しめる範囲で」聞いて、
あとは積極的に取り上げない。


それを、相手の悩みを解決してあげたいとか、どんな悩みがあるのか
理解したい、一生懸命相手の好きなものの話を聞いてあげないと仲良くなれない、
とかいう風になってくると、徐々に不健康系になっていく、という感じですかね。


同じ空間にいるほかの二人が、
自分の入れない話題で盛り上がっていると、自分もそれに興味を持って
話を聞かなきゃいけないような気分になる、このケースが確かに多いです。
やはりどこかでどちらの人にも「一番に楽しい人間になりたい」という衝動が
根っこにありますね。
しかしこれは不可能ですし、全体を通して島野さんが今回言うように
「自己の重心」や「自立」にまったく背を向けた姿勢ですね。

そこは「孤独を受け入れる」ですね。
決して「興味を持って仲良くその場に入っていられない」から『仲間はずれ」ではなく、
その集団が健康ならば、あの人とはこの話、あの人とはこの話、といった感じになると。


その時に内面に「仲間はずれ、いないほうがいい」という感情が流れるとして、
頭の理解では「いや、そもそも共通部分以外は共有できなくても、それが最善の関係。」という理解をもつ、と。


 
Re: / こたろう
No.793 2014/02/17(Mon) 15:12:02

やはり依存から抜け出せません。
もう復学してもまた同じようにひきこもりになるイメージしかわきません。
しかし3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...
それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと
思うといかなくてはいけないのに、
もう無理...
破綻してるのに心はしがみついたままです。
質問になってないですね。

どうしたらいいんでしょう


 
「今なすべきこと」の優先順位づけから^^ / しまの
No.794 2014/02/17(Mon) 18:03:09

>「まだ浅い深い付き合い」とはどういうことでしょうか?

「まだ浅いつき合い」打ち間違いです^^; コピペ使ったせいもあり^^ゞ

「交友が深まる中で出てくる話題」というのは、書いて頂いたような話として言えますね。その場の目的限定した話題から、徐々にプライベートな話題へ。
ただに、「出せば必ず交友が深められる話題」というのは、言えないですね。いきなりプライベートな話題をしても引いてしまう人もいるかも知れないし、いきなり悩みの語り合いを望むのはやっぱあまり健全形ではない^^;

結局、交友が深まるのは、かなり総合的な要因の結果だと思います。人間的な近しさや、互いにとっての魅力、そして一緒にいる安心感信頼感など。
ですので、基本的に、ストレスに駆られて交友を持とうと思っても、交友はあまり成立しない。これをしっかり心に踏まえることが大切になると思います。


「今なすべきこと」の優先順位づけから

・・・等々、書いて頂いた質問一つ一つアドバイスしようとしても収拾つかない雰囲気を感じましたが、一番重要なのは、「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」見極めができていないのが問題ではないかと。
それで言えば、「会話でどう間を持たせられるか」なんてのは、今それどころではない状況ではないかと^^; どう会話できるかよりも、まずとにかく学校に出席するといった「優先順位づけ」重要です。

そうして「自分の人生で今本当にすべきこと、できること」の最低ラインから見極めて、行動する。その積み重ねで次第に心は成長し、心が成長すれば気持ちに余裕も生まれ、友人との会話といったことも考えられるようになるかも知れない。

>3年間の休学になるともう仕事の選択肢が...それどころかバイトも雇ってもらえないのではないかと思うといかなくてはいけないのに、

についてであれば、バイトのためには前レスでの

まず「仕事場面のコミュニケーション」については、
『はじめまして』 きてれつさん No.541 2013/02/10への第2レス
『仕事場面への向かい方など』 しまの No.547 2013/02/21
=========
「100円ショップの商品の品出し」であれば、・・(略)・・
=========


といった視点です。

結局、今はまず雑談など一切しなくてもできる行動というものを見極めるというになりますね^^。前の2つのレスもそうした優先順位づけのための知識です。

あるいは、「自分の人生で今本当にできること」とは、何かサポートを得ることかも知れない。大学の何かそうした相談機能とか。
それも含め、検討してみて頂ければ^^。


外面と内面 / りょうたろう
No.782 2014/02/04(Tue) 20:24:45

先日は詳しい解説をありがとうございました。今回は主に内面について質問したいと思います。

前回の投稿をしてから数週間にわたって、私の内面感情は嵐のようでした。しかし起こったことを全て書いているとあまりに分量が増えてしまうので、要点と思われるところだけ書こうと思います。

まず最初にあったのは怒りの放出でした。あるとき、じっと座っていても何か頭を掻き毟りたくなるような衝動を感じ、これは何だろうと考えてみて「そうだ、怒りじゃないか」と気づいたのをきっかけに始まりました。それはもう凄まじいもので、何に対しての怒りかわからないままに脈打つような頭痛に襲われ、腹筋が激しく痙攣しました。そのため全身がのたうつような形になり、そのときは一人でしたが傍から見るとさぞかし異様な光景だったことでしょう。しかし不思議と「自分が怒っている」という感覚ではなく、怒りという一つの生き物が自分の中で暴れているような印象を受けました。私はただ好きなだけ暴れさせることを選びました。そしてじっと耐えながら、いろんなことを考えました。この嵐を乗り切ったら、自分はついに病んだ心を抜け出せるのだろうか。そしたら勉強も趣味もバリバリこなせるようになって、仕事だって…とそこまで考えたところで、何かが違うと感じました。人生の成功なんかじゃない、本当に望んでいるのは「何があっても自分自身でいること」だと。「健康な心になり幸せを手に入れること」ですらなく。その時はそう感じました。

しかし結論から言うと、一夜明けてもやはり心が生まれ変わっているなんてことはありませんでした。しかしやや頭はすっきりし、いろいろ気付いたこともあります。まず、普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。また、人間関係や趣味その他、様々な活動を妨げることにかけては「怒り」は「恐怖」の比ではないとも思いました。

自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。そんな感慨が起こりました。時折いつものように、周囲から賞賛を浴びて自分は「そんなことないですよ」と謙遜して…と空想が浮かんだところでハッと我に返り愕然とします。自分はこんな薄っぺらい姿を本気で理想として描いてきたのかと。

何だか生きるための内面においての前進力を失ってしまったような状態がしばらく続きました。しかし一方で外面においてはむしろ以前より向上している自分を感じました。例えば部活に関するメールのやり取りでは、何か自分に落ち度があった時に「ごめんなさいごめんなさい」ばかりでなく「代わりに自分はこうするつもりである」と自分から示すなどが身についてきました。またバイトでは、以前よりきびきびと動けて周囲とのコミニュケーションも円滑になっていました。

しかしここで一つ出来事がありました。ある日バイト先から電話がかかってきて、その内容は「先日の書類がまだ出ていないようだが、どうなっているのか?」というものでした。原因は私の勘違いです。ここで取るべき行動はまず謝罪し、何があったかを説明し、
今からでも大丈夫か尋ねる…といった感じになるかと考え、実際そのように対応しました。が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。しかしそれが自分自身の内面にあるものだということはもはや明らかでした。

そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。激しい頭痛と吐き気に襲われ、「死にたい」という考えも一瞬よぎりました。この時私に訪れていたのは、自分の醜さと罪という感覚です。少し前の投稿で「苦しみの中にいます」と訴えた時と同じ場所に再び私は立っていました。ただあの時と違うのは、私自身の社会に対する捉え方でしょうか。人はまずは自分のために生きているのであり、内面についてはその人自身の問題であると。人間関係において気持ちを道具として使い、いわば「矢面に立たせる」必要はないと。「罪」についても他人への害を基準に考えるものであることも、納得はできています。

しかしその上でなお、まるで叱られている子供のような気持ちで一日を過ごしています。これが今現在の私です。寝ている時でさえ、延々責められる夢を見ることもありました。
今でも時折空想が現れることがありますが、苦痛から逃れるためという側面が強いようで、以前のような「支配される」というほどの圧倒感はありません。

長くなってしまいましたが、以上が今の私の状態です。ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。


 
Re: 外面と内面 / りょうたろう
No.784 2014/02/06(Thu) 21:58:41

吐き気として現れる自己嫌悪感情はひとまず治まったようです。あとに残ったのは荒んだ怒りの感情でした。
望みを妨げられて憎悪に燃える自分の姿がはっきりと現れてきたように思います。

実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
その日私が登校して教室に入ると、クラスメイトたちはいつものようにわいわい遊んでいました。自分もそれまではすぐさまその中に入っていたのですが、その日の私は違いました。「バカみたいに」ヘラヘラと笑っている周囲に冷ややかな視線を向けると、すました顔でまっすぐに自分の席へと歩いて行ったのです。その日から、感情を表に出ないようになり、また周囲を見下すということを始めたのもその時だったと思います。
「よくできた子だ」と言われました。「小学生とは思えないほど大人びている」とも言われました。しかしその時既に、心の根底には怒りがあったことが今になって思い出されます。

なぜそんなことをしたのか。楽しく笑いながら生きていくのではダメだったのか。そう考えた時、あの「冷たい目」のイメージが思い出されました。今の私でさえ足がすくむようなあの恐怖を自分は小さい時すでに持っていたのだとしたら、ありのままの現実を生きることは自己の存在を脅かすほど過酷なものだったのではないかと。そうしてまた思い出したのは、当時の私が周囲の楽しそうな同級生たちに向けていた感情です。それは次のようなものでした。「お前らはなぜヘラヘラと笑っている?なぜそんな自分を恥じない?」と。そしてそんな周囲に軽蔑の視線を向けながら、自分はいち早くその「間違い」に気付いて自分を律しているのだと優越感に浸るようになったのです。

結局のところ、根底にあったのは「自分はありのままでは駄目だ」という思いでした。そして同じように駄目なはずの周囲が幸せそうなのを見て、「許せない!もっと自分を恥じろ!それが正しいんだ!」と憎しみを募らせていったのです。

素直に楽しむということをやめてしまったのは、紛れもなく私自身の選択でした。しかし、自己分析で辿り着けたのはここまでです。私のもともとの望みは何だったのか?以前苦しみの中で思ったように「ありのままの自分でいること」なのだろうか、と考えてもみますが、それで何が起こるわけでもありません。こういう時はおとなしく引き上げて外面に再び向かうのがよいかとも思いますが、「イヤイヤながら生きている」という感じが拭えないのも事実です。まあそんな内面とは関係ないのが外面行動法だと思うので、今はひとまずバイトや勉学以外での過ごし方については「楽しいと思えないことはやらない」ことを念頭においています。

以上、追加したいと思った点です。


 
「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」の実践^^ / しまの
No.788 2014/02/13(Thu) 14:12:39

>ここからどのように取り組みを進めたらいいか、お聞かせください。

これはずばり「自分の内面感情の論理的理解と向き合い」実践課題になると思います^^。

内面感情については、「感情と行動の分離」では「ただ流し理解する」と言っていますが、書いて頂いたのは、まずは「ただ流す」段階ですね。「理解する」についてはまだ手つかず
というか、ややあおり気味の感も^^; ま最初の段階はそんなものかと^^。「理解する」できるようになるのと平行して、「ただ流す」というものも本当にできるようになっていくと思います^^。


「内面感情の理解」によって行うこと

でまず「自分の内面感情を論理的に理解する」とは一体何を行うことかと、『入門』取り組み全体大局的整理がかなりでききたのも踏まえ、改めてまとめますと、大きく以下3ステップの流れ向かうための役割のものと言えるかと。

1)自分の感情(特に悪感情)を、「原因−結果」という論理的思考で理解する
これによって、感情を無理に変えようとするのではなく、感情の「原因」正しく対処することで、感情自ずと良くなるという基本的姿勢および実践身につける
重要なのは、「原因−結果」として「何々が悪いからこう感じた」という善悪思考(特に他人のせいにするもの)から、「自身の望み」を起点にした論理的思考考えることです。自分がこれこれを望んでおり、それがこのように妨げられたことで、これこれの悪感情が流れた、と。
これは心の外部の出来事論理的思考で考えるのと同じく自分の心の動きについても論理的思考で考えるという、心の成長への「礎」になります。
それがあって、が生まれる。

2)「成長」と「治癒」
「成長」として、「望み」を起点とした建設的行動法へ。これは「感情と行動の分離」外面軸であり、これがうまく行くようになれば自ずと感情も良くなる。
「治癒」は、そうした「成長」の外面軸基盤ができるのと並行して、悪感情解きほぐしを行い、不合理な悪感情自ずと捨て去られていくようになるというもの。
「成長」「治癒」のこの位置づけについては、
『入門 - 4.心の成長変化 / 「感情と行動の分離」の両輪が生み出す「成長」と「治癒」』
大まかに説明した通りです。

3)「魂の感情」への向き合い
建設的行動法を取ろうとしてもがある場合に、「失意を超えて望みに向き合う」ことで「魂の望みの感情」感じ取れるようになります。これが外面の成功というのとはちょっと別次元の答え生み出すようになります。
この流れが、
「心の業の捨て去り」と「魂の望みの感情」による心の成長の本格的前進
以降で説明している話になります。

ということで、「内面感情はただ流し理解する」における「理解する」とは、一言で、
自分の内面感情を、自身の「望み」を起点とした「原因−結果」の論理的思考によって理解することで、建設的行動法による「成長」や、悪感情の解きほぐしによる「治癒」、さらに「魂の感情」への向き合いによる「浄化」「成熟」「超越」につなげることを行うものである。
などと言えるかと。


感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイント

りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見ますに、感情が流れる場面に応じた「原因と結果」の検討ポイントとして、ある程度定石的なものがありますので、それが参考になると思います。
まず視点列記してみますと、

1)現在場面における感情動揺
 a)動揺の内容と強さの合理性の検討
 b)他人イメージの内容の合理性の検討
2)人生について流れる悪感情
 c)どのような大元の「望み」があって起きたことか
 d)そこにおける妨げの責任は誰にあったのか

など。もちろんこれが視点全てではなく、りょうたろうさんが書いてくれた感情内容ざっと見て、必要思い浮かんだものです。

とまあ取り組み実践堅苦しい理屈の話を並べましたが、要はこういうことです。

>普段から頭を占領している空想は怒り復讐という面を多分に持っているということです。
>自分の今までの人生はまさしく怒りと復讐の人生だった。
何をどうされたことへの怒り復讐か。

>自分が優れた資質(容姿でも頭脳でも性格の良さでも)を持っていて、それに対して周囲は参りましたと平伏す、そんなイメージです。
そのイメージ現実性合理性どう考えるか。他人どれだけそれ(りょうたろうさんの資質^^;)に関心を持っていると思うかなども含め。

>が、私の内面は激しく動揺していました。まず「あの書類まだ出してないよね?」と聞いた瞬間にまるで激しい糾弾を受けているように感じ、返事もままならないありさまでした。また自分の勘違いについて説明している間、呆れを通り越してもはや真面目に取り合う価値もないというような視線を向けられていると感じました。本当にぞっとするような、血の通った人間のものではない冷たい目というイメージです。
同じく、そのイメージ現実性合理性をどう考えるか。
さらに上記も含め、現実の他人はどうだと考えるか。特に「健全形」として考えられる内容検討するのが重要になります。

>そこからの数日感はもう感情というより体調の悪化で寝込んでしまいました。
この辺はまあ論理的理解で切り込む部分ではない感じですね。問題は、感情に呑まれる強度ですね。
これは感情への論理的思考をはば広く持てるようになるにつれて、対抗力や耐性がついてくると思います。

>実は、私自身が「理想に立って現実を見下す」ことを「選択」した時のことは、かなり具体的な瞬間として思い出すことができます。あれはおそらく小学校中学年のときでした。
これ以降の部分も、まずは内面の感情材料出し段階の話ですね。「分析」は、なぜそのような流れになったのか、書いて頂いた以前の段階思い出すことです。これがかなり難しい可能性、つまり記憶から消されている可能性もありますが、それもまずは記憶を確認してからです。

>私のもともとの望みは何だったのか?
まずそれは「愛」にしたものであったであろうというのが、ハイブリッド心理学自己分析ガイドラインになります。そので、自分に向き合い、自分に問いてみる良いと。
これは
実践詳説 - 9章 「成長の望み」と「真実の望み」の導き / ハイブリッド心理学の「心の成長の思想」』(P.169)
参照
「私たちの「望み」とは結局、・・」部分です。


まずは怒り復讐からの抜け出し

歩み方全体の方向性についてアドバイスしますと、まだ年齢若いと思いますので、先日アップした
・取り組み実践による「心の成熟」への歩み

「20歳前後という若い段階で取り組み始めた場合、・・」として書いている通り、心の変化性急に期待しても、そもそもそれはまだ準備されてないということが考えられます。
目標は、まずは外面目標に向かうことへの惑いの減少になりますね。内面の解きほぐしも、それに役立つものとしてあるのが若い段階です。
りょうたろうさんの場合は、僕が察するに、「怒り復讐」とは一体何をどうされたということかというテーマ片付けると、かなり心がすっきりするのではと推測する次第です。

それについては、
実践詳説 - 6章 心の成長の道のりに向かう / 心の成長のメインテーマ 「愛と自尊心」に向かう』(P.122)
でも、自分の感情を論理的に把握することで、やがて「愛」「自尊心」というテーマにいきつくという話をしており、そこで自分のこととして認めるのは結構手痛い話も書いていますが参考になるかと思います^^。


勉強法について / りょうたろう
No.758 2014/01/06(Mon) 20:56:12

あけましておめでとうございます。
お礼が遅れてしまいましたが、前回の返信ありがとうございました。今回は最近の取り組みの報告と、新しい質問をさせていただこうと思います。

年末年始は地元に帰り、久しぶりに家族と過ごしました。その中で、内面と外面において変化が感じられる場面がいくつかありました。例えば私は兄とよく本の薦め合いをするのですが、今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。また、携帯電話の機種変更のためショップに行った時も、契約や質問事項を主眼にして店の人と応対し、同伴していた父よりも自分の方がしっかりしているという印象を勝手に持ったりもしました。そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

また、「悲しみの彼方への旅」を改めて通読して、大きく感銘を受けました。最近では以前よりは確実に現実に向かって向上していることを感じはするのですが、そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

最後に、少しアドバイスをいただきたいと思うことを書きます。勉強法についてです。
自分なりに調べて実際に検証してみた結果、「いくら頑張って憶えても繰り返さなければいずれ忘れる」「試験の合格だけを考える場合、網羅的な学習よりもいかに問題が解けるかが重要」といったようなことはひとまず勉強における原理原則と言えるかなあと考えています。こうして見ると当たり前のことのような気がしますが、目指したいのはこういうことをたくさん知っている人だなあと今はしみじみ思います。受験生時代は「この勉強法で一発逆転」などと謳うものに飛びついたものですが。
何か勉強法についてアドバイスがあれば、ぜひお聞かせください。

本当はアルバイトでの行動法についての質問もあったのですが、長くなってしまうので新規トピックで改めて質問させていただこうと思います。よろしくお願いします。


 
「動機づけ勉強法」^^ / しまの
No.763 2014/01/15(Wed) 22:05:16

あけましておめでとうございます^^。
ここ数日雑用ですっかり忙殺されている中、『悲しみの彼方への旅』「心の圧制者」と呼んだものである「自己操縦心性」について再考している間にすっかり日が経っている今日この頃です^^ゞ

取り急ぎ「勉強法」について、3年くらい前メール相談「記憶法」についてアドバイスしたものを、そのまま転載します。

これは法律学校に通っていた方へのアドバイスです。一般の大学の場合、この中で言っている「想像力」働かせ方さらに工夫が必要になるかも知れませんね。
まずは取り急ぎ転載部分を。追加アドバイスなどまた後日^^。

======================
■記憶法

これはまず心理学的には、2段階を考えるのがいいと思いますね。
1)動機づけ
2)実際の作業法


1)動機づけについては、とにかく記憶力がモノを言う場面に自分を置くことです。試験の話ではなく、実際に役立つような場面の話として。
そうすりゃ、が勝手にいやおうなく記憶力を発揮し始めます。

まあ実際にそんな社会現場に立つの話としては、想像力を生かすことですね。
法律の話で言えば、例えば、『行列のできる法律相談所』のゲスト弁護士として自分が出演することになった場合のことを考えます。
次の収録は、遺産相続がらみの話らしい。となれば、いやでも民法の該当項勉強する気になりますね。

勉強する都度、次の勉強範囲について、そうした「動機の空想」などしてみて、やる気が高まってから取り掛かるという習慣にできれば、ベストだと思います。

まあ僕自身は、まとまった受験勉強という形でそうしたやり方を使った経験はあまりなかったですが、社会人になってからの知識吸収というのは常に「必要性動機」が強くあって行うという形となり、実際の作業法とも合わせ、かなりの記憶力でいったと感じています。

2)実際の作業法としては、棒暗記的な方法も一概に悪いとはいえず、極端な例ではサヴァン症のような話として単純記憶に秀でた人もおり、結局人それぞれが自分に最も合ったやり方模索するしかないと思います。
ただ、Aさん現時点そうした方法をあまり取り入れてないということは、合っていればとうの昔からやっていたであろうこととして、実際そうしたやり方がAさんにはあまり合ってないということだと思います^^; ま僕もそのタイプかな。

それとは対照的に、とことんしっかり理解しながら記憶していく進め方になりますね。
「深い理解」を携えながらがお勧めです。法律であれば、「法の精神」というものがあります。該当する法律における「法の精神」とは何かと、言葉で言えるようになって欲しい。まあ基本的には根本社会制度のようなことになるのだと思いますが。

該当する法律項目が、そうした精神から生まれていることを理解しながら覚える。一文一句も、分からない言葉を含んだまま次に進むのはお勧めではありません。そうした個所から記憶が後で崩れて消えていくんですね。
自分としての意見も持つことです。例えば刑法時効がありますが、廃止すべきだと考えています。そうした見の一方で、現法ではこうこうである、という、単に受身に覚えるのを超えた姿勢で勉強するのがお勧めです。

そうした姿勢漏れのない記憶を築いていくという勉強法は、最初は時間がかかるように一見見えますが、記憶の定着度バツグンに強いので、長い目ではアドバンテージがあると思います。棒暗記では5回読む必要があるのが、この方法だと2回で強く記憶されると思います。

最後にごく手先の作業法の話ですが、記憶を高めるためには、やはり目で追うだけではなく、手を動かすのがいいと思いますね。中高生が良く英単語の記憶をカードめくりでやっていますが、手を使う動作記憶の定着を促しているのだと思います。

法律文で考えるなら、単語一つ一つ指やペン先で指さしながら読んでいくような読書法
また僕自身年齢を重ね、より短い時間有効に覚えるよう自然に身につけた方法ですが、ペンで書き込んでもいいコピーを取り、読む行レ印でチェックし、キーワードには下線を引くなどしながら読み進めます。どの行までどんなキーワードで読んだか一目瞭然で、中断後の再開スムーズですし、その紙しばらく持っておいて、後でちょっと再確認が必要な時に瞬時に必要個所が見つかるという風に役に立ちます。実はメール相談で受け取るメールもその方法で読んでいるんですけどね。
がそのやり方をするようになったのは、ITの仕事超有能なプロジェクトマネージャーがそうしているのを見てからだったかなー・・。
======================


 
「人物印象型自己理想」の克服への歩み(前) / しまの
No.766 2014/01/25(Sat) 17:50:16

では引き続き、進み方全体についてのアドバイスですが、先日ブログ
2014-01-23『時間食ってます^^;』
お知らせした通り、ただアドバイスコメントというより、「自己操縦心性と人物印象型自己理想」などというテーマについて現時点での僕の考えを一通りまとめることになり、その結果あまりに文章量が増え、解説部分をブログ記事化など考えましたがいまいちすっきり抜き出せず、全部このトピック入れてしまいます。

まあ長い人生の歩み方要(かなめ)テーマになりますので、人生の参考書がてら心の懐に入れて頂くと良いかと。
それにしてもあまりに長いので、レス3つ分割しようかと。
まずおおよそテーマ理解部分『(前)』『(中)』で。


ということで、報告して頂いた頭の部分からです。最初の方は先に書いていたのですが、その後の話があまりに長くなり、「勉強法」についてワンポイントで入れておいた次第です^^;

「目の前の対処」と「長い目からの展望」

>今までと違って「お互い楽しめる本に出会えたらそれでいい、自分の貸した本が相手の好みに合わないならそれは仕方のないことだ」と思えるようになっていました。今までは相手を楽しませなければという力みがあり、貸した本がつまらなかったと言われれば自分が否定されたような気持ちになっていたものです。

一歩前進ですね^^。

>そして今回の帰省で新しく気づいたのが、たとえ家族内であっても、原理原則に従えば信頼を得られるし楽しみの共有を意識すれば快適に過ごせるというのは変わらないんだなあということです。

その通りですね。相手家族であろうと赤の他人であろうと、いかなる相手に対しても一貫として取ることのできる行動法です。
「対人行動と社会行動の全てを、これらの行動法で行うようにする」ことを指針謳っているゆえんです。
『入門』 - 3.取り組み実践 - 「学び」の主要テーマ - 3.行動学

多少追加アドバイスなど書いておけば、取り組み実践としては、
1)そうした「目の前の課題への具体的対処」というものと同時に、
2)自分が人生でどこに向かうのか、そこにおいて自分はどのように変化し得るのかの、「長い目からの展望」
持つようにする、というのをやると良いと思います。

それで言いますと、前段お兄さんやお父さんとの出来事については、それはそんな感じでいい話として、家族外との関わりになるとどんな感じになるかに、検討の目を広げることかな・・と。
まこれはまた具体的材料ありきにもなってきますね。


「心の圧制者」 (「自己操縦心性」)

一方、より「長い目からの展望」という観点でちょっとコメントしておきたく感じたのが以下について。

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。ただ最近は「今ここに現れている感情だけを感じる、去っていく感情は追わない」という姿勢が身についてきたせいか、感情が果てしなく悪化することはなくなってきたように思います。感情を想像によって再現しようとするのは途方もないエネルギーを使うことに気づいたための変化かもしれません。

まず「感情を想像によって再現しようとするのをやめる」「去っていく感情は追わない」という姿勢は、まずはいいと思います。「感情はただ流す」という方向性として。
また、そうして悪感情ただ蒸し返すのはやめる一方、一つの感情混在する要素感じ分けるために、「蒸し返し」ではなくとも多少「反復吟味」するというのが、自己分析の上級編(^^;)になると多少出てくる、という知識持っておくと良いと思います。まおいおいそんなことが必要になることもあるかも知れない、と。上記姿勢良いとして。

そこで重要になってくるのは、「追わない」かわり「何に向かうか」です。

ちょっと心の仕組み解説一緒に書いておきますと、『悲しみの彼方への旅』の中で「心の圧制者」と呼んだのは、ハイブリッド心理学用語(^^;)で言う「自己操縦心性」のことですね。
「自己操縦心性」については、最近ではNo.630などでも触れていますが、そこでは“根源的自己否定感情を原動力として、「もしこうなれれば」という空想の衝動によって意識・・というか精神の全体が支えられていた状態”とか書いていますね。
より手短に、「空想によって心が支えられている状態」とか言えるかと。

『悲しみの彼方への旅』でどう表現していたかと検索するに(電子書籍はこれが便利♪)
==================
今まで私の人生を支配し、そして苦しめ続けていた自己。失わされた世界を見返すために、なるべき自分の姿を掲げ、走り続けようとした自己。それは、ありのままの現実を生きようとして立ち上がり始めた無垢な自己に、その座をあけ渡すことを決して許そうとはしません。この心の圧制者は、そのためならば自らの人生を捨てることをささやくのです。(P.161)
==================

「空想によって心を支えている様子」描写ですね。
さらに自分で読み返して、より重要なポイント次の描写にあるかと。
==================
事実、「現実」こそが、心の圧制者の忌み嫌うものでした。
この下らない現実はお前の生きる世界ではない。お前が特別な存在であり続けることができる空想の世界こそが、お前の生きる世界なのだ。
そうして心の圧制者は、この人間に「自己像を生きる」という一つの人間の存在様式と、分裂した人格を強制します。栄光ある自己像を描けないのであれば、世界から迫害された異端者の絶望さえも望むところなのです。(P.210)
==================

==================
心の圧制者が再び、現実世界を見下すことを私に囁きます。(P.212)
==================

つまり「自己操縦心性」とは、「自己理想像の空想によって心を支えている状態」であり、それはさらに「現実を見下す」ことによって心を支えている状態、ということになる。

余談ですが、「現実を見下すことによって心を支えている状態」なんていうとんでもないものであったことを、そこから抜け出して間もない頃だったからこそ書けた感じですね。自分を支えるために「現実」を見下しているのですが、それは同時に、「自分の現実」を見下すということでもある。自分を潰そうとするものから自分を守り支えるために行っていることが、自分を潰すものになるというメビウスの輪状態。
抜け出したことさえ記憶から薄れているとなっては、「自己操縦心性とは」と考えてもそこまで浮かばない。あれ、空想過剰程度のことだったかしら・・という感じ。
空想過剰程度ではない、人間の心の悲劇が、そこにあったわけですね。その中にいたからこそ書けた過去の文章(日記)が、これからの僕の執筆にとってのようになるだろうと感じる今日この頃です。

その結果、「自己操縦心性」というのは基本的「破綻」「崩壊」向かう性質を持っています。どんな自己理想を抱こうが、いざそれを実現しようと「現実」に出会った瞬間、大元にある自己否定感情が刺激されて、意識の全体が破綻し崩壊するするという心の構造としてです。
そしてそれが逆に、「心の死と再生」への大きな転換なり得るわけです。本人自我が、「現実における成長」強く望んでいた場合、ということになるでしょう。でなければ、「自己操縦心性の崩壊」なんとかやり過ごして心の安定化が多少生まれる程度、もしくは巻き込まれて本当に潰れてしまう、というおよそ3つの分かれ道現れるかと。
それが『悲しみの彼方への旅』主題でもありますね。ぎりぎり3つ目の道免れて、1つ目の道向かったわけです。僕自身の力だけでは、それはできなかった・・と目が潤む感^^;

そんな訳で、小説中「心の圧制者」と呼んだところの「自己操縦心性」自体は、かなり病的な心の状態指しているものでもあります。
その点りょうたろうさん場合

>そのためにいっそうはっきりと「心の圧制者」と小説内で呼ばれていたものが自分を支配しているのを感じます。

は、文面の印象からはかつての僕の場合ほど(^^;)深刻ではないという印象^^「破綻」「崩壊」による「再生」といった話は、あまり一番手に考えず、そうしたことも起こり得るという知識程度心の懐に入れておくので良いかと思います。

(続く)


 
「人物印象型自己理想」の克服への歩み(中) / しまの
No.767 2014/01/25(Sat) 17:57:13

(続き)

「人物印象型自己理想」と「行動戦略型自己理想」

いずれにせよ、コメントしたいと思ったのは、

>それは飽くことなく理想の自分―男前だがそれを鼻にかけることなく、優しいが芯は強く、ユーモアがあるが下品ではなく、といったような―を空想します。そして現実の自分はというといつもムスっとして他人と自然に接することができない、と惨めな気持ちも湧いてきます。

における「理想の自分」内容そのものです。

まず「自己理想イメージ」というもの全般について心理学的整理などしておきますと、
「自己イメージ」というのは、先日
『「自己イメージ」 概説^^』 しまの No.747 2013/12/22
解説したように、
1)基礎的自己イメージ(健全形)
2)評価づけした自己イメージ(健全形)
3)人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)

という3層構造積み重なり複雑化するものとしてあります。

そこで「心の成長」観点からの位置づけなども書きましたが、要点まとめるとこのようになります。
はおおよそ「未熟」の中で、得てして膨張させた「人の目の中の自己イメージ(煩悩・惑い・病み形)」からスタートし、「依存」にとどまった場合はその惑いと病みをただ深める方向に向かい、「自立」へと向かう中で、より安定した「評価づけした自己イメージ(健全形)」へと移行していく。
それは「依存」の中で、「自己イメージ」「人の目」に映るために、得てして自分自身に嘘をついて「演じる」ために使われる傾向が強くなるのに対して、「自立」においては、ま