しまのたかしハイブリッド人生心理学 島野隆ブログand掲示板
  
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2015


はじめまして / オメガ3
No.1153 2015/12/05(Sat) 17:11:54

島野さんの電子書籍を読ませていただいています。
私は短気な性格で日常でものや人に対してイラッとすることが多いもので、怒りの身体的、精神的に与える悪影響を知り改善していきたいと考えています。

そこで、実際に最近の怒りの場面において私の怒りへの対処法としていかがなものか、島野さんにコメントいただければありがたいです。


場面例「ネットで見たレシピとおりに料理をつくったがおいしくなかった」

感情:なんでレシピどおり作ったのにまずいんだ、このレシピ作ったやつばかか。ふざけんな。材料も用意して作ったのに無駄だった。

対処@自分はレシピを考えた人に対して、自分の思い通りの味にならなかったことについて怒りをもっているんだなと感情をそのまま確認する
対処Aレシピを作った人の味覚と自分の味覚は違うだろうし、作る環境の気温などで味は変わるかもしれない。と思い通りの味にならなかった理由を考える
対処B怒りの感情がでてしまったけど、なるべく怒らなくてすませるようになれたらいいなと考える


 
「生き方テーマ取り組み」として「怒り」に対処する^^ / しまの
No.1156 2015/12/18(Fri) 14:57:04

たいへん遅くなりました^^ゞ

「怒りの克服」とは一言で、
心の健康と成長のための基本であると同時に、その十分な達成は極めて高度な目標であり、生涯をかけて取り組むべき、地道で壮大な取り組みになる
とでも言えるものになりますね。

そのための「最初の一歩」として、書いていただいたものについては大体よろしいかと思います^^。
これを皮切りとして、上記のように地道で壮大な取り組み向かうためのポイントは、

・実際に怒りを感じてしまった場合に、怒りを捨てるよう、心の脱力(?)を図る
というような「気持ちの持ち方」取り組みではなく

怒り感じてしまった時や、感じそうな場面都度
・怒りを持つか否かの選択を決定づけるテーマを明瞭に定め、自らにその選択を問う
という「生き方テーマ」取り組みとして、しっかり実践を続けることだ、とアドバイスできると思います。
これを、生涯続けることです。ほんの僅かでも、「怒り」片鱗自分の心見えたならば。

「テーマ」とは、『辞典』まとめ始めているように、
「行動の基本様式」「行動学」「価値観」いったものがあり、場合により何故自分は怒りを抱いたのか「自己分析」といったものが必要になることもある、といったもの

では上記ネットのレシピの話はどんなテーマになるかというと、まず「破壊から自衛と建設へ」という「行動の基本様式」テーマですかねーという感じ。
ネットでとんでもないレシピを教え込まれるという事態(^^;)に対して、自衛ができていなかったわけですね。
無防備に、材料を用意して作るところまでやってしまった。
ではこれを自衛できる、つまり事前に用心して「これはちょっと駄目っぽいぞ」判断できるためには、どんなポイントがあるか。
といった思考
でまあ僕に思いつくものとしては、やはり自分の好みの味の傾向と、人のそれとの違い自覚する、レシピとして書いてある内容が、一般に評価されている類のものか、それとも一個人の思いつきで誰もやってないようなもの書いているのか、といった情報背景次回はしっかり見なければ、などと思考したりする。

ずると次回は、似た場面でも大分違う心持と行動出てくると思います。うんこれはちょっと・・事前嗅ぎ分けそれでもやって見るか!覚悟して作ってみる。ならば結果不味くても、これも一つの勉強ぞ、ということで怒り湧いてこない、ということにもなると思います。

ということで、書いて頂いた内容材料に、ちょっと僕ならという思考内容など書いてみました^^。
そうして、「生き方テーマ取り組み」として、出会う場面全て向き合っていく。その積み重ねに、1年1年とまるで別人のように変化成長していく歩みがある、ということになりますね^^。

ぜひじっくりそうした歩み向かって頂ければと^^。


(No Subject) /
No.1149 2015/11/17(Tue) 22:26:34

しまのさん、こんにちは。

現実に見合わない恐怖や動揺の克服について教えてください。

現在就職しまして、入社1ヶ月の新人です。その会社はマニュアルがなく、
すべて人に聞いたり、見て覚える方針です。
しまのさんの原理原則立脚行動法などを参考にしていたのですが、
どうしても身体に染み付いた恐怖のようなものが邪魔をして、
あまり成長できてないように感じます。

@会社では分からないことが多すぎるので質問しようと思うのですが、
あまり質問攻めになってしまうのも申し訳なく少しずつしか聞けません。
質問するまで心の準備が必要で時間がかかります。
うまい質問の方法ありますか?

Aその会社には元々入る気は無かったのですが、あっさり採用されたので入社。
周囲のやる気とのギャップを感じています。
モチベーションが上がりません。向上心が欠けているように思います。
でも、生きるために仕事は続けたいです。
やる気に頼らない成長の原理原則を教えてください。

B恐怖の原因は人の目。新人だから周りから注目されるのは当然だと腹をくくっているつもり
ですがやはり不安です。誰が相手でも大丈夫な行動(原理原則を考えて)で動く事を心がけて
いますがやはり私のような未熟者が我流で動いても不安がつきまといます。
一挙一動が注目されているような錯覚が常にあって心が休まりません。辛いです。
恐怖の克服方法を教えてください。

上記の三点が今現在気がかりなことです。自分ではどうしようもなくなったので教えてください。
身体が不調になるほど考えてしまいます。ストレスなく仕事がしたいです・・・
しまのさん、どうぞよろしくお願いします。


 
仕事における「質問の仕方」「モチベーション」「怖れの克服」^^ / しまの
No.1150 2015/11/23(Mon) 11:05:31

これは仕事における「質問の仕方」「モチベーション」「怖れの克服」という3つのテーマになると思いますが、
最初のものは、仕事におけるごく入り口外面行動法テーマ
一方残り2つは、多少とも入り口より向こうの、継続的で総合的な向き合いテーマ

ということで、位置づけがかなり異なり並べて同じようにアドバイスを書こうとするとかなり無理がある感じのため、まず最初のものについての具体的アドバイス中心返しておこうかと思います。
つまり、「仕事」というものを初めてする段階での「質問の仕方」といった、ごく入り口課題通過しないと、その先「モチベーション」「怖れの克服」といった総合的テーマは、ちょっと手につかない状況かと。に言えば、その入り口課題通過すれば、残り2つの課題テーマについて、どのように解決が見えてくるか、それとも全く見えない妨げがあるままなのか、といったことが見えてくる、あるいはじっくり腰をすえて取り組めるようになる、という道順になると思います。


「質問の仕方」

仕事のスキルとして「価値の生み出し」という話をよく言っていますが、「質問の仕方」についてもこれが当てはまります。
つまり、「価値を生み出す質問」であれば、大いにするが良い。そうではなく「価値を生み出さない質問」は、多少控えた方が得策、というものです。

平たく言えば、「何度もそんなこと聞くなよー」思われてしまうような質問避け「おっこいつできるな♪」先輩が内心で思うであろうような質問なら、どんどんすべし
後者が、「価値を生み出す質問」であり、後者が、「価値を生み出さない質問」です。

>うまい質問の方法ありますか?

質問方法ではなく質問内容重要になる、ということですね。
では具体的どんな内容のもののことかと言うと、「価値を生み出さない質問」典型的なものとは、「何をすればいいですか」といったもの。
良くできた先輩なら、穏やかにこう言うでしょう。「何をすればいいかを考えること、探すことをしなさい」と。
で、「それが分からないから聞いているのです」返すと、先輩内心「こいつできないな」思う^^; こうなるとおざなりにされてしまう可能性がでてきます。
そうでなく、「私はこの資料に従って確認作業をすればいいですか」質問したなら、先輩内心「おっこいつできるかも」と感じ、より親切丁寧にアドバイスするよう接してくるかも知れません。

>その会社はマニュアルがなく、すべて人に聞いたり、見て覚える方針です。

とのことですが、恐らくは、マニュアルがなくても仕事ができる人材求める社会に、今なりつつあるように思えます。さらに言えば、人に聞いたり、見たりしなくても仕事ができる人材です。
そんなことができるようになる、ノウハウあるんですね。

ではそのノウハウとはどんなものかここで説明する代わりに、まずは以下事例読んで頂ければと思います。既読であれば、今回自身の問題どう応用できるかという観点から、再読頂ければ。
メール相談事例集 No.002 視線恐怖および「職場での自分の位置への不安」の克服

以上を踏まえ、今回の課題テーマでは、

>会社では分からないことが多すぎるので質問しようと思うのですが、

という、「質問しようと思うこと」内容は何か、がまさに課題材料になります。
それは質問せずともノウハウ応用により分かること(価値を生まない質問)ではないか。そうではなく、職場特有の方法について、自分から進んで確認しようとするような質問(価値を生み出す質問)か。

まずは以上の情報で、どの程度分かることがあるか確認頂ければ。その状況に応じて、また書いて頂ければさらにアドバイス追加できると思いますので^^。


「モチベーション」「怖れの克服」

残り2つのテーマについては、ごく手短に、方向性のアドバイスを書いておこうと思います。

「モチベーション」については、
・「生み出す価値」において自らのモチベーションを問う
指針になります。
「生み出す価値」としては、生活費稼ぐといった消極的なもの、自分の能力の発揮やりがいといった積極的なもの、さらには社会と人々への貢献といった、それに心を注げられることが心の豊かさと安定つながるものがあるでしょう。
そうしたものを、今の仕事でどう感じられるか問いどうモチベーションを持てるかを、自らに問う

重要なのは、最初から「モチベーションを高めるために」という意識でそうした向き合いをするのではなく、嘘偽りのない自分の本心を問う作業として、それを行うことです。場合によっては、「この仕事では自分はモチベーションを持てない」という結論アリとして。その場合は、では別の仕事を探すか、という問い出てくることになります。
でもまあ、最初の仕事での「質問の仕方」といったごく入り口課題解決してから先の話にしないと、どんな仕事でもモチベーションが見えてこないと思いますので、まずは最初の課題じっくり取り組むのがお勧めですね^^。

「怖れの克服」については、まず何を置いても「仕事のスキル」獲得すること。それへの自信が、当然「怖れ」吹き飛ばすものになる、というのがまず言えることです。
「質問の仕方」は、そのため最初の一歩といこうとで。
で、さらに進んだテーマも含めて「仕事のスキル」を得て、「怖れ」もう過去のものになったか、それとも何か内面心理的な取り組み課題いまだにあるかに、取り組めるようになる。


まずはざっとそんな方向性道順になります、ということで^^。
具体的な検討は、とにもかくにも、今の仕事の内容がおおよそどんな内容で、何が分からなくて質問の仕方に苦労しているかの、具体的内容からになると思います。差しさわりない範囲で書いて頂ければ、より具体的アドバイスも返していけるかと思いますので^^。


 
Re: /
No.1151 2015/11/25(Wed) 22:46:53

アドバイス有難うございます。

広告制作の仕事をしています。
どの質問の仕方に困っているかと言うと、手が空いた時に仕事を乞うかどうかです。
自分で見当がつく仕事は一度上司に確認してから行いますが、どうしてもやる事がなくなってしまった時の手持ち無沙汰をどうすればいいのかです。入ったばかりで仕事も少なく空いた時間が多いです。
これはしまのさんの仰った「何をすればいいか分からないから聞いている」と同じですね。
価値の生み出しという事を念頭に置いて考えてみます。
今まではヒマができると、人の制作物を参考に練習したり、一旦終えた制作物の改良点を探していじってみたり、などしていました。周りのレベルに追いつく為必要だと考えたのですが、ヒマな時にやる事ではないですか?宿題としてすべきこと?

ある日上司と話す機会があり、言われた事が「あなたは新人なりにちゃんと仕事をこなせている、仕事も早くて助かっている」とのことでした。
自己評価と外からの評価が一致しないです。正直、上司は嘘をついているのではと思うほどです。
ギャップが埋まればストレスが減るのにな〜と感じる次第です・・・。
仕事のスキルを身に付けて不安を無くしていくというのは前提ですが、こうも違うと混乱します。
メール相談事例にもあった「現実を見る目」を参考にすればOKでしょうか?
他、参考になるページを教えていだたけると幸いです。


 
答えを自分で出すという基本姿勢^^ / しまの
No.1154 2015/12/08(Tue) 10:45:14

大変遅くなりました^^ゞ
・・というのも、ブログ(12/1)に書いたようにかなり多忙なのと、あとアドバイスポイントちょっと難しそうだと感じたここ、また島野の頭の回転年と共に遅くなっていることのトリプルパンチ(^^;)によるものなのですが、


答えを自分で出すという基本姿勢

といった戯言はさておき、多少アドバイス文面書いてみたりしてもどうもしっくり来ないなあと練ってみて、しっくりくる短文のアドバイス文章としてこんなん出てきました、とうのをまず書いてみますと。

その不安の原因は何よりも、自分自身で決めるべきことの答えを、人から与えられるもののように感じている基本姿勢にある可能性が大きい。
外面行動法のノウハウを学んで、答えを自分で出すという基本姿勢を築くことを何よりも重視しながら、目の前の問題への答えを出していく実践をするといい。

いったものです。

つまりまず、文面拝見して僕が感じた印象とは、答えはほぼ出ているのに・・というものなんですね。

>どの質問の仕方に困っているかと言うと、手が空いた時に仕事を乞うかどうかです。
>今まではヒマができると、人の制作物を参考に練習したり、一旦終えた制作物の改良点を探していじってみたり、などしていました。周りのレベルに追いつく為必要だと考えたのですが、ヒマな時にやる事ではないですか?宿題としてすべきこと?

このご質問に対し、不安解消つながるようなうってつけのノウハウというものは、それほどないんですね。というか、そこで書いていたものどれも、okなんです。

空き時間ができたのなら、過去のものを見直すなり、勉強をするなり、あるいは仕事を催促したりする。そのどれが「正しい」なんて話ではなく、そのどれをもやっていくのがまずは「順当」仕事の姿勢だと思います。
その適宜適宜の配分決めるのは、自分自身以外には不可能です。
ならば、黄さん不安原因となっている問題本質とは、そうして自分で決めるべきこと、決められることについても、人が答えを出してくれるものだと人の様子を伺おうとする姿勢あるのではないか、と感じた次第です。

これは浮かんだイメージとして、「災害救助隊」仕事仕方、というテーマです。
災害救助隊メンバーであれば、リーダーでなくとも、現地では自分で臨機応変な判断による行動求められます。常にリーダーからの指示待ちでは機能しない今置かれたその場では、自分がリーダーに順ずるものとして動くわけです。
「仕事」とは、そういうものなんですね。
それを、黄さんの場合は、災害救助隊メンバーとしてその場にいっているはずなのに、災害被災者のような姿勢なってしまっている、という印象不安に怯えている災害被災者の側に、と・・。。

まずはそんな話で、自身の姿勢見直しからできるか、ということになると思います。


「仕事場で行うべきこと」

ということで、出てきた話に触れてみますと、

>メール相談事例にもあった「現実を見る目」を参考にすればOKでしょうか?

については、ちょっとご案内が不親切だったかもですが、参考にして頂こうと思ったのは、No.002さん職場でやはり「何をしていいか分からない」状態だったのに対して、その仕事の経験がない僕かなり詳しいアドバイスをした部分の方です。
2回目および4回目アドバイスあたりになりますね。

これは上記短文アドバイスで言っている、外面行動法のノウハウ部分になりますね。
仕事場何をすべきかには、仕事内容違いに関わらず、普遍的な答えがあります。「指示された作業」論外として、作業をより質の高いものとして行うための、さまざまな調整、管理、準備(スキル向上勉強なども含む)、そしてそのためのコミュニケーションなど。結局これらがより高度に構築されていくと、企業の経営そのもの至るわけです。

今回上述のようにご自身で浮かんだ作業の範囲大体いいとして、そうした外面的ノウハウにも取り組みながら、今自分が何をしたいか、何をできるか、自分で決めるという姿勢大切、という


怖れの克服への基本

その姿勢、つまり自分で答えを出すという姿勢こそが、まずは何より仕事場での不安克服つながる、というです。

これは「怖れの克服」への基本、基礎ですね。自分から前に向かう姿勢です。
外面の困難状況同じでも、その姿勢がある時、「怖れの感情」消えます。一方、同じ困難状況でも、自分で立ち向かう姿勢失い、逃げる姿勢に回った時、「怖れの感情」によって心が押しつぶされてしまうわけです。

「怖れの克服」については、『辞典』収録「悪感情の種類別の克服対処の指針」では、
=======まず外面において正しく「安全」築き、それでも内面において残る恐怖「生きた」時、その怖れ人生でもう起きないものへと、根底から消えていく、というのが基本指針になります。=======
などと書いていますが、「自分で立ち向かう姿勢」は、「外面において正しく「安全」を築く」言葉含まれる、最初の基礎ということになりますね。

ですので、

>他、参考になるページを教えていだたけると幸いです。

については、「怖れの克服」という内面側テーマに関連しては、「現実を見る目」になったNo.002さん事例よりも、「全力を尽くして立ち向かう姿勢」になるという、
『取り組み実践詳説』
「全てを尽くして望みに向かう姿勢」という前進力
に出てくる、ネット相談女性の例(P.144)などが参考になるかも知れません。まかなり状況は違いますけど、自分から立ち向かう姿勢という基礎同じ話です。

あとはまあ「読書」一般に、心の懐を肥やしておくためのものです。
実際の問題場面への対処では、読書内容に従ってというのは無理であり、ここまで述べたような視点踏まえた上で、自分は一体何を怖れているのかという、自分自身の唯一の心のあり方しっかり向き合うことが必要になります。
まこれが精緻な「自己分析」となり、何か複雑で微妙な心理メカニズム焦点が当たってくることも、あるかも知れない。

いずせにせよ、最初に言った、
外面行動法のノウハウを学んで、答えを自分で出すという基本姿勢を築くことを何よりも重視しながら、目の前の問題への答えを出していく実践をするといい。
という前進仕方どうできそうか検討することから始めてみて頂くと良いかと^^。

あるいは、今回の話限らず「自分で答えを出す」ということへの基本的な苦手感というものがあるかもですね。答えは人が出すものと感じている心の姿勢。これは怖れの基本土壌です。
その見直しからになるかと。どう見直せば・・といったもまた出るかもですが、まずはここまでの話で、ご自身どの辺手がつきそうかなどから検討して頂くと良いかと^^。

あっあと、

>自己評価と外からの評価が一致しないです。
>ギャップが埋まればストレスが減るのにな〜と感じる次第です・・・。

自己評価外からの評価は、もともと一致など求めるべくもないものです。一致しようもない一致するとは、人の付属物になりきるような話です。まこれは多少極論ですが。
とにかくまず自分での前進の仕方を築くこと、そこにおいて自己評価を築くこと、です。上の話からも、それがお分かりかと^^。


現実場面での相談 / taka
No.1145 2015/11/11(Wed) 22:36:18

島野さん、こんばんは。
今を原点に成長思考で行こうと決意しましたが、なかなか心が不安定で特に朝は絶望的な気持ちになります。
今日は現実生活で心理的に困ってるいくつかの場面を相談させて下さい。

今まで自己イメージを作り上げて接客していたため、それがないありのままの自分だとどうお客さんと接していいかわからなくなりました。
やはり接客でも自分を演じないほうがいいのでしょうか?
笑顔は必要だと思いますが、素の自分だと笑顔が出ません。
今までは心の中で「ついてるついてる」や「生きとし生けるものが幸せでありますように」といったセリフを呟いていましたがこれも感情を強制することになるんでしょうか?

お店のディスプレーを頼まれてマネキンに服を着せたりするんですが、自信がなく
作った後に自分で見るとなにか納得できず不細工な印象を受けます。
そして他のスタッフに変だと思われてるんじゃないか、他の人がやった方がいいんじゃないかといった気持ちになります。
もともとファッションに対する強い憧れがあるんですが、同時にそういう華やかさに対する恐怖心もあって服屋さんに入るのにずっと恐怖心がありました。
自分が服屋さんで働き始めてからは、だいぶ和らいだんですが
自分のセンスに自信がなく、今はもう何がオシャレなのか
お客さんが何を求めてるのかわからなくなりました。
お客さんとの会話も自信が持てないため恐怖心がでて声をかけるのに躊躇しています。

お店にたまに上層部の方が来られるのですが、その人達とうまくコミニケーションがとれません。
すごく恐怖心を感じ避けてしまいます。
その時感じるのは自分の経歴や年齢にたいする負い目です。

他のスタッフが談笑しているとき、昔はそれに愛想笑いをしていたのですが、
本心は全然楽しいと思えず、そういう場合は無理に笑う必要はないのでしょうか?
それだと場が白ける気がします。

やはり自分の経歴や年齢にたいする負い目が強いです。
もう自分は社会的に死んでるんじゃないかと。

自分は本当はファッションの華やかさや人との触れ合いが好きです。
自分は小さいときから家で疎外感を感じていて、その拗ねた気持ちがネックになって
人と素直に交流できないんだと思います。

そういう面からも、今の仕事はある意味で自分の希望する職場なのかもしれません。
ここで店長を目指して、他の人と堂々と渡り合って、同僚にも信頼され
センスも良くてお客様にも頼りにされる、そんな自分になれたらと思います。

しかしアルバイトから社員を目指すのはハードルも高くかなり成績が良くないといけません。
その試験も半年に一回でありもう集計期間も始まっているため、こんな精神状態ではだめです。


こういう悩みを解決するにはやはりコーディネートや生地の性質などをコツコツ勉強して
一歩一歩向上しているという前進感でしょうか?

アドバイスがあればよろしくお願い致します。


 
「高い自己イメージ」を追うことなく外面問題に最善を尽くす^^ / しまの
No.1148 2015/11/13(Fri) 16:06:12

以下質問とも合わせてのコメントとしましょう^^。
『接客におけるプラスαの生み出し方について』 takaさん No.1142 2015/11/08

なお削除頂いたトピックにあった『「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ^^ 』コメント記事は、
『劣等感の解消』 takaさん No.1120 2015/10/03
トピック収録する形で載せておきます^^。

で、こちらを取り急ぎ手短に。
大分混乱しておられるようですが、「感情と行動の分離」の姿勢原則から言えるのは、
・外面問題については、できる最善のことをすればいい。そこで内面感情がどう良くなるかは問わない
ということです。

ですので、

>やはり接客でも自分を演じないほうがいいのでしょうか?

は、思いっきり演じればいいと思いますヨ^^。『接客』とはそうした仕事だと思います。
そこに、

>自分は本当はファッションの華やかさや人との触れ合いが好きです。
>そういう面からも、今の仕事はある意味で自分の希望する職場なのかもしれません。ここで店長を目指して、他の人と堂々と渡り合って、同僚にも信頼されセンスも良くてお客様にも頼りにされる、そんな自分になれたらと思います。

との気持ち込めればなお良し。その気持ち大いに結構じゃないですか^^。

そのように、外面においては、そこにある問題課題ごとに、最善のことをすることです。それが何かは、おそらくはお分かりになっているのでは。
内面感情多少の揺れただ流して、それをすればいいのです。

内面まで完成された自分を、すぐに求めないことです。
それが高い自己イメージばかり追わない、ということです。お分かりですかな^^。


劣等感の解消 / taka
No.1120 2015/10/03(Sat) 11:43:11

すいません。特定されると怖いので削除させて下さい。

すいません、自己イメージについてのトピックを削除したら、島野さんの記述も消えてしまいました。
せっかく書いて頂いたのに申し訳ありません。
みなさんの参考になる話だと思いますし、私自身また見返したいので
もし可能なら島野さんの記述だけでも復活させて頂きたいです。
申し訳ありません。


 
「劣等感の克服」へのハイブリッド心理学の「取り組み実践」^^ / しまの
No.1122 2015/10/06(Tue) 16:53:29

「劣等感」の克服

まず、「劣等感」克服は、ハイブリッド心理学からは一言で、

・生涯にわたる成長の総合的結果として、解消されていく。
言えるかと思います。
それが、

>なんとかこの劣等感を解消したいのですが、島野さんのアドバイスを頂けると幸いです。

への、まずは基本指針になるでしょうし、「この劣等感が足を引っ張ります」について言えば、それは足を引っ張るものというより、今立っている場所の話考える方が正解ではないか、ということになると思います。それを受け入れ、原点として、前に進むしかない、と。

つまりよくやる喩え表現というので言うならば、そうした「劣等感」というのは、足にクサリでつながれた重りというよりも、寒風吹きすさぶ北の氷雪地帯にいるという場所だと言えるかと。
その寒風足を引っ張ると言って、それをクサリの先の重りを断ち切るように解消する方法というのはまずなくあるのはただ一つ地道にそこから南国の楽園まで、自分の足で地道に前進していくことだ、と。
すると重要なのは、寒風に耐え、氷雪の地を前進できるような技術と能力だということですね。それなしに、温暖な地の快適な平野前進するのと同じ様子で、前進しようとしても無理、と。


「劣等感」とは

喩えるならそんな話ということで、心理学説明をしますと、

・「劣等感」とは、「自己否定感情がまとわりついた自分と他人との比較意識」
などと定義できるかと。

すると心理学的に、心の健康と幸福にとって問題なのはあくまで「自己否定感情」であって、「比較意識」必ずしも問題なのではない、というになります。
自分他人比較してみることが役に立つテーマや場面あるのであれば、比較するのも大いに結構。たとえば各種技術習得のため、うまくできている人から学ぶとか、あるいは人権が守られてない地域の人の姿を見て、自分がいかに恵まれているかを感じ取ったり、自分が何に貢献できるかを考えるきっかけにするとか。

ですので、「劣等感」へのアドバイスと言うと、得てして「自分と他人を比較するのは無駄。人は人自分は自分」といった言葉出てくるかと思いますが、ハイブリッド心理学からは、そうした言葉は出ないです。
そうではなく、自分と他人を比較することも時に役に立てながら、いかに「成長」の全体に向かうかを自分の課題と考える、というのを、基本アドバイスにします。

それによって、当然、比較意識の解消、が目標なのではなく、自己否定感情解消目標になるわけですね。
「自己否定感情の解消」とはどういうことかとハイブリッド心理学位置づけるのかと言うと、もうこれは成長の歩みの全体だということになるわけです。


ハイブリッド心理学の「取り組み実践」へ

まずはそれを総論として、実際何をどうすればいいかアドバイスとしては、

・そのようなものとしてハイブリッド心理学の「取り組み実践」に入ることを検討なされてはいかがかと^^
というになります。

その一言に尽きます、というかその一言しか言えません・・というのではあまりにも不親切かと思いますが(^^;)、実際、「取り組み実践」に入ってみて何をどう感じたかという情報が出てきて、より具体的アドバイス言えるかと思います。
まそれだけ、ハイブリッド心理学独自の心理学の世界展開しており、はあくまでハイブリッド心理学取り組む上でのご質問ご相談へのアドバイスだけができる立場です。

・・で話を終えてまさに不親切ですので(^^;)、少し見通し持つようなをしますと、ハイブリッド心理学取り組み実践に入るとはどうすることかと言うと、

・自身の悩み問題の克服と成長のための、手がかり足がかり視点を増やす
ということから始める、ということになるかと。
具体的には、サイト冒頭
『ハイブリッド人生心理学とは』では
実践の学び
での
3.行動学
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
5.各種悪感情への対処の理解

といったもの。
ごく簡略な説明『メール相談事例集』
はじめに・「取り組み実践」とメール相談 - 「取り組み実践」とは - 「学び」
などにありますので参照頂ければ^^。

それで言うなら例えば

>自分の過去について堂々と説明できないのです。結果的に人と深い関係を築けず、友達も恋人もいない状態です。
というのは、人との関係を築くということを、「愛」へのどのような価値観行動法持っている上での話なのか、そしてそこで起きる感情動揺悪感情詳しい内容と、その克服についての考え方どう持つか、
といった視点検討していきます。
そこにおいて、過去の話は、基本的に不要です。今、どのような価値観と行動法、そして自己理解を持つか、に取り組みます。


寒風の中を前進する技術

そうした視点持つことで、上述の、寒風に耐え、氷雪の地を前進できるような技術というもの、そしてそれを自分どうできるか能力といったものが、検討できるようになるわけです。
例えば引き続き、

>自分の過去について堂々と説明できない
について言えば、「愛」
=====
「愛」「分かり合い認め合う」ではなく、純粋「喜びと楽しみの共有」として目指す価値観

=====
立つならば、人との関係構築において、必ずしも自分の過去の説明など必要ありません。もっと重要なことがある。もちろん過去に触れることもあるでしょうが、何を重要と考えるかによって、話の仕方工夫できるでしょう。

そういったさまざまな検討を通して、

>もちろん私のような状況では厳しい道だとは思いますが、その職業を通して自分のアイデンティティを確立したいのです。そんなときこの劣等感が足を引っ張ります。

も、「引っ張られる」ものなどではない、という視野開けて来るかもしれない。
そうした「取り組み実践」を通して、「成長」が生まれ、その総合的結果として、「劣等感」などは根底からなくなっていく。これが見通しとして言える流れです。


そんなものとして、ハイブリッド心理学「取り組み実践」に入るのを検討なされては、という提案が、アドバイスになりますね^^。
その先は、カウンセリングやセミナーなど設けているわけではなく「自己取り組み」として進めて頂くという不親切なものになりますが(^^;)(その分全部タダ^^;)自己取り組みされる方手早く情報を探せるよう、『ハイブリッド心理学辞典』整備開始したところです。

まずはこんな話で^^。細かい質問等あればまたここで書いて頂ければアドバイス返します^^。


 
Re: 劣等感の解消 / taka
No.1124 2015/10/07(Wed) 11:43:45

島野さん、こんにちは。

大変わかりやすい、親切な返答をありがとうございます。
さっそくハイブリッド心理学の「取り組み実践」に入っていこうと考えています。
ハイブリッド心理学のHPや島野さんの著作を少しずつ読み進めています。


島野さんが提案してくださった実践の学びの
3.行動学
4.「愛」と「自尊心」のための価値観と行動法
5.各種悪感情への対処の理解
を取り組んでいこうと思います。

特に私は社会人経験が乏しく、3の「建設的対人行動法」「原理原則行動法」「ウインウイン行動法」という3種類の行動法、および「仕事の普遍的スキル」などは早急に取り組まなければと考えています。
実は今職場で窮地に立たされており、その面においても切実に必要性を感じています。

また島野さんが指摘してくださった愛に関する価値観についても、私自身納得するところがあり、たまにですが人との関係の中で喜びと楽しみの共有を感じることがあります。
その時は楽しく幸せであり、爽やかな気分を味わうことができました。
しかし愛とは「分かり合い認め合う」という価値観がもともと私が持ってきた価値観であり、今もその傾向は強いです。
その比重を逆転させ、喜びと楽しみの共有という価値観を強めていくことが、今の課題だと感じました。

ところで具体的な実践方法についての質問なんですが、行動学や愛と自尊心のための価値観と行動法を学ぶ方法として、読書を勧められていると思うのですが、それは基本的に自分で関心のある本を選んで読み進めていくという方法でしょうか?
もしくは、ハイブリッド心理学での推薦図書があったり、あるいは島野さん自身が行動学を直接ご教授されていたりするのでしょうか?
まだHPの内容を全部確認したわけではありませんが、今のところそういった記述は見つけられませんでした。

HPの内容を全部確認してから質問するのが、筋だとおもいますが、何分今切羽詰まった状況でして、できれば推薦図書などを示していただけると非常に助かります。

よろしくお願いいたします。


 
行動学の入り口情報など^^ / しまの
No.1125 2015/10/08(Thu) 15:05:55

>HPの内容を全部確認してから質問するのが、筋だとおもいますが、

いえいえ、現在膨大なページの中に散在しているになっていますので、全部確認するなんてのは大変すぎ。で『辞典』による整理自らの急務としている次第です。

まずはざっと以下あたりを読んで頂くと良いかと。この掲示板でよく出しているリンクです。
ブログ記事
2010.05.18 3つの「行動学」
2010.05.19 「原理原則立脚型行動法」(前)
2010.05.20 「原理原則立脚型行動法」(中)
2010.05.21 「原理原則立脚型行動法」(後)

より本格的に学ぶための「ハイブリッド心理学指定の必読書」。まこれはじっくり読書向け。
ハーバード流交渉術 (知的生きかた文庫)

あと『事例集』事例No.001、No.002ぜひ読んでみて下さい。


そんなところで、ざっと雰囲気つかめてくると思います。

あとは場面状況など差し障りない範囲具体的に書いて頂ければ、それに応じ具体的なアドバイスここで返していきます。まそれが僕からの直接指導になりますね^^。
適宜新規トピックで入れて頂ければ^^。


 
Re: 劣等感の解消 / taka
No.1129 2015/10/17(Sat) 12:48:14

島野さん、こんにちは。

さっそくハーバード流交渉術を買いました。
島野さんのHPと一緒に読み進めています。
どうもありがとうございました。
また具体的な場面でのアドバイスが欲しいときは
質問させていただくと思いますが、その時はよろしくお願いいたします。


 
Re: 劣等感の解消 / しまの
No.1146 2015/11/12(Thu) 18:33:20

僕のコメント一緒に削除されていますが、とりあえず原稿チェックのプリント残ってますので、OCRで復活させて次のコメント時に挟み込むなど考えておきますので^^。


 
「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ^^ / しまの
No.1147 2015/11/13(Fri) 15:43:41

(親トピック削除のためコメント記事のみここに収録しています^^)

これはじっくりアドバイスを^^。


「自己イメージ法」の役割と罠

これはまず、

>コーチングなどでは理想の高い自己イメージを持つことを推奨しています。

という、「理想の高い自己イメージを持つ」ことの役割意義理解から話を始めるのが良いかと。

一言で、「自己イメージ法」とも呼べるであろう、自分を高めるための方法、というになりますね。
定義としては、「高い自己イメージを持つことによって、気持ちを持ち上げ、目標への動機づけにする」というものだと言えると思います。

これについて僕の意見簡潔に述べるならば、まず墓本的にはそれは人生で役に立つものだと思います。まずは「こんな自分になりたい」という高い自己目標像描くことから、成長への歩み始まるそれはいいと思います。
ただしそこから、大きく2つもしくはが、待ち受けている、と。


罠その1・「内実」が伴わなければ「張りぼて」

1つ目分かりやすい話だと思います。
「高い自己イメージ」として抱くものとは、基本的「人の目にこう見られる自分」という外面体裁です。
ですので、そこに「内側内面の充実」である「内実」伴わないと、そこにあるの「はりぼて」といものになる、というものです。
正真正銘の張りぼてというのは、たとえば北京五輪の時、近くのみすぼらしい貧民街を高級そうなビルの絵を描いたつい立てでおおったものなど。
職業においては、正真正銘の張りぼてだとその職業が続けられないことになるものであり(ニセ医者など)、一応はまっとうな資格として就いている職業それなりの内実があるからだという話になりますが、それでも起きてくる可能性があるのは、その職業の意義を高めるような心こもっていないこもっていない、と評されるような姿です。
これが典型的で最悪なものは、警官が起こす事件とか、消防士が起こす放火など。
そうなるとそれはもう「精神的な張りぼて」姿だと言えるものになるでしょう。
ご質問の状況も、そうした「精神的張リぼて」が、まあそうした外面的悪質性なしに、ごく内面において起きているものと言えるかも知れませんね。外面体裁のレベル魅力を感じ、目標にしようとしたものの、それを自分がやる意義とやリがいを、心底からは感じられていない、というもの。


罠その2・「高い自己イメージ」は実は「低い内実」の表現

もう一つは、多少難しい心理メカニズムになってきます。
「高い自己イメージ」実は「低い内実」表現だ、というものです。
これは分かりやすい例として、「自転車に乗れる自分」という自己イメージとして、未出版(そのうち無料電子書籍化予定^^)ですが
『理論編上巻』
7章 「自尊心」の混乱と喪失−2  −なぜ自信が定着しないのか−

「自信」と似て非なる「高い自己評価(プライド)」感情
などで説明しています,
我々まだ自転車をうまく乗リこなせていない段階で、「うまく自転車に乗れる自分」という「高い自己イメージ」描きます。それを目標とし、また自分はそんなはずだ、と自分を鼓舞することが役立ち、またそれが必要にもなります。しかし本当に乗りこなせるようになった時、それはもういらない、と。
一般的に言って、高い技能ほど、高い習熟向かうごとに、向上導くのは「自己イメージ」なんて薄っぺらい(^^;)ものではなくなってきます。内側細かい技術なり精神性なりになってくる。

冒頭に書いたように、「高い自己イメージ」役に立つのは、「目標への動機づけ」というあくまで最初の最初であって、 そこからスタートしたらなら、視点変えなければならないわけです。
一般的に言って、そこから「専門性」出てきます。内側細かい技術なり精神性なりについての。「高い自己イメージ」言っている範囲では、そうした専門性いらない
そんな状況で、「高い自己イメージ」推奨しているだけコーチングとは、それこそ内実のあまりない、張りぼてのコー チングです(失敬^^;)。まあその安直さ人受けしてセミナーにすれば売れるんでしょうけどね^^;


「高い自己イメージ」が裏に生み出す自己嫌悪

さらに一歩踏み込んで考えるならば、技能などのレベルが高い人ほど、「高い自己イメージ」よりも、「いたらない自己イ メージ」より積極的に持つようにするのでは、とも思えます。
それが「謙虚」という美徳です。それこそ自分を本当に高め、自分に利益をもたらすものであることを、高いレベル向かう人ほど、感じているのでは、と。

そしてしきりと描こうとする「高い自己イメージ」というのは、得てして北京五輪で言ったように、臭いものに盖をするための強烈な香水であったりします。
そしてがそれに駆られる、という病んだ心理メカニズム起きてくるわけです。意識の表面では燦然と輝く自己像描かれ無意識追いやられた、「みすぼらしい自己像」心の底くすぶります。この心の膿深刻であるほど、意識の表面燦然とした自己イメージ空想に駆られる度合い病的に強くなってきます。
見逃せないのは、ここで「エセで傲慢な自分」という自己嫌悪感情が、無意識用意され、そして膨張していくことです。そしてそれから逃れるために、「高い自己イメージ」不自然高潔な精神的精練性を帯びたものへと練り上げ られていくかも知れません。そして薄氷「燦然とした自己像」と、「みすぼらしくエセで傲慢な自己像」錯綜し渦を巻く。
・・と少し病的心理メカニズムまで話を膨らませましたが、こうした心理過程心の底固着してきて、「神経症的人格」出来上がる次第です。

まそこまで錯綜した心理となるとここではもうど一でもいいとして(というより結構関心度の高い話?^^;)、こうした薄氷「高い自己イメージ」脆くも崩れ「みすぼらしくエセで傲慢な自分」という自己イメージへと雪崩を打って一気に切り替わっていく様子が、『悲しみの彼方への旅』などにも出てきます。P.146からの3ページにて。

ですので、

>人にどう思われるかあまり気にならなくなりました。

もともとそう深刻な話ではないとして、それだけ心の健康度が増してきたということかと思います^^。


「自己イメージ法」をはるかに超える成長へ

ということで、

>自己イメージを意議的に高<持つという事について島野さんはどう思われますか?

については、一言で、それはあくまで「目標への動機づけ」としてはok
ただし実際何か目標向かうにおいては、さらにはその目標そのもの自分にとっての価値の妥当性再検討するにおいても、「高い自己イメージ」なんてものではなく、別の視点へと移る必要がある、ということになります。
そうした別の視点なしに、意識的に自己イメージをただ高く持とうとするというのは、あまり役に立つものではなく、があるというか、それ自体未熟病み症状のようなものだ、と。

ではその別の視点とはどんなものかというと、それがまさにハイブリッド心理学取り組み実践全てだということになリますが、ポイントまとめておきましょう。

まずスローガンとしてはこう言えます。
「自己イメ ージ法」はるかに超える成長へ、と。つまりそれは、
自己イメージを高めるのではなく、自己の現実を、そして自己の真実を、高めることです。

そうして「自己の真実を高める」ための実践とは、「感情と行動の分離」姿勢で始めるハイブリッド心理学取り組み実践です。
「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解することのみ行う」というものです。


自己イメージは「ただ流す」内面感情側の扱い

まずポイントは、そこにおいて「自己イメージ」は、「ただ流し理解する」という、内面感情一つとして扱う、というものになります。
ですので、「意識的に高く持つ」というよりも、まずは湧くがままに湧かせ、自分がどんな自己イメージを持つのかを、まずは把握することです。高い自己イメージも、「唾棄された自己イメージ」呼べるものも。
そしてそれを鵜呑みにすることなく、自己の現実、自己の真実の全体を高めるための方向を見極めてい<


「価値」と「望み」を見極めていく

すると見極めていくものが、外面および内面双方出てきます。

一言で、外面においては「価値」を、内面においては「望み」を、見極めていく、と。

まず外面における「価値」として、
たとえば税理士一つの目標になるのであれば、それがどう華やかな職業かというイメージどうこう描けるかではなく (それは一応内面感情として流すとして)、税理士が企業や社会にどんな「価値」を生み出すか、といった命題に、「価値言葉」答えられるようになるというのが一つ目安になるでしよう。
税理士目指すことが、自分にとってどんな価値があるかを自分に問える状態になるための、目安としてです。
こうした「価値言葉」での思考については、
『入門編下巻』P.212-213で書いていますので一読頂ければ。

あとそれと重なる視点として、「匿名性において生み出す」という姿勢視点知るといいでしよう。誰ともつかない者が行う、価値あること。それを自分は行うという姿勢です。
これについては、
『理論編下巻』
7章 人生の答え−2  −「魂の望み」への歩み−

「匿名性において生み出す」・「揺らぎない自尊心」への第一歩
解説しています。

重要なのは、こうして「価値を生み出す」という姿勢こそが、来歴において華やかな知人達の世界に入れなかったというような挫折感情を、真に克服するになるということです。
それは決して、「見返せるだけの華やかな職業」なんてイメージをどう追ったところで、克服できない、と。その先にあるのは、空虚孤独だ、と。これは内面「望み」視点として、 下でまた書きますので^^。
これは上記入門編下巻続き、P.214で次のように書いている通りです。
=====
 これは特に、来歴において自らの「存在の善悪と身分」を負ったような挫析感情がある場合に、その克服のために決定的に重要になります。
 この姿勢は必ず、人からの信頼を得ることができます。それがやがて、心の傷凌駕するのです。
=====

と。


「望み」への向き合いと「人生の道理」への目

そうして、外面においては「価値」向き合う一方で、内面においては、「望み」に、深く向き合うことです。

「高い自己イメージ」であれば、それによって、自分は何が得られるものとして、望んでいるのか
そしてそれが、「現実」において起き得るものなのかを、しっかりと見据えることです。「現実」というのは、しばしばイメ ージの華やかさとは裏腹な面を、我々突きつけるものです。それをしっかりと見据え自分が何を望んでいるのか、そして何が自分に真の幸福をもたらすのか、自分は何を本当に望んでいるのかに、向き合い続けることです。

その向き合い歩みで、人生の道理を見る目を、いかに築いていくかが、問われることになリます。
薄っぺらいものに心を奪われていれば、その薄っぺらいものに、やがて滅ぼされます。深いものに心を向けることができた時、やがてその深いものによって支えられるのです。
いくら他人に浅く広くちやほやされたところで、やがては空しさ孤独訪れるのは、著名人の自殺に示されます。 やはり愛する家族を持つことが、幸福一つの道標にはなるでしよう。しかし外面体裁を材料に、いわば力づくで結婚 したところで、得られるのはもう似て非なるものになる可能性が高い。等々。
こうしてどこまで人生の道理見極めることができるかは、もうその人次第ですね。しかしそれが、結局、その人「これが自分の人生だ!」言えるものつかむための、足場になるわけですね。


そうした向き合い歩みの道があるというのが、アドバイスになりますね。
この向き合いによって何を見出すかは、一度に全ての答えが出ることは、ありません向き合いで、次第違うも のが見えるようになっていきます。そして最後には、歩み最初からは予想だにつかない、最終的な答え訪れるそんなものです。10年20年、さらにはそれをはるかに超えた人生の歳月を通して、です。
ぜひじっくり検討してみて頂ければ^^。

       管理メモ:No.1131トピック(レス1133-1142)は削除

批判的思考を含めたカルチャーの趣味への望み、それに向かう事が嘘をついた自分になってしまう事 / こたろう
No.1132 2015/10/31(Sat) 17:25:20

話が拡散してしまったので、具体的に困っている問題テーマを
まずは軸にします。


具体的に困っている問題テーマとしては、
「批判的思考を含めたやりとりが、和気あいあいとしたコミュニケーションとして自然に存在する傾向のある人が多い趣味の「行為の内容」に魅力を感じるが、そこにいる人たちの自然なコミュニケーションに馴染もうとすると、自分を偽らざるを得ない(批判的思考を元にした言葉ややりとりを発する事が自然なので、そうしてしまう)場合、その趣味とはどう向き合うべきか」
です。


状況は、とりあえず趣味となるスポーツや音楽の集まりとします。

まず、自分の望みの一つとして感じるのが、その「批判的思考を含めたやりとりが多い人が多い傾向がある趣味」なのです。この言葉には色々な意味がありますが(本気でそれに取り組んでいない、という意味にとられる事があるが、ここでは違うという事)、「チャラい」と称される傾向がある趣味という事です。
それが僕の場合はサーフィンや、ストリートダンスになります。
サーフィンの場合は少し違って、自然志向が強いグループでは、やりとりも「登山が好きな人」一般のやりとりに近くなる気がしますが、ハデなトリック(技)を・・・といった色合いが強くなると、エクストリーム系スポーツ(スケボー、BMX、スノーボードなど)の雰囲気が強くなり、グループ内での会話のやりとりも、いわゆる「チャラい」雰囲気のもの、批判的思考を含めた和気あいあいとしたやりとりが自然であり、それがカルチャーであるという雰囲気になるわけです。

ストリートダンスも同じように、やはりお堅いオジサンには「チャラい」と称される傾向があり、上記のエクストリームスポーツに近いカルチャーがあります。そもそものルーツが、ケンカの代わりにダンスで勝負をする、という所から始まっていたり、ヒップホップという音楽はなじりあいや罵り合いを昇華したような部分もあります。握手からのグーパンチ、のような挨拶の交わし方や、下品さも含めて「カッコイイ」というカルチャーになるわけです。

必然的に、かわされる冗談も下品なものが多い傾向があったり、なじりあいや、からかいあう事が、和気藹々としたコミュニケーションとして一般的になるわけです。


僕の場合は、こういうカルチャーには馴染めないのですが、サーフィンでいえば行為そのものや、ダンスでいえばそのカルチャーに含まれる音楽と、それに合わせて踊るという行為は望みとしてあるのです。


それで、一応ざっくりと反対に位置するとしてしまえば、先のレスでも触れたような「穏やかな楽しみの共有」の傾向がある趣味の場合は、
比較すればはるかになじめるというか、自分が浮いているという感覚を感じずに済むのです。
それが、ハイキングや裁縫やガーデニングや料理など、になるのかなと思います。
これは自分の幼少期の、ままごとや人形遊びやお絵かきが好きだった、「穏やかにみんな仲良くしようよ」みたいな繊細で、少し気弱な少年の自己像に
よく馴染みます。そういう場にいると、心の底にいるこの少年の自己像を封印せずに、ある程度今の表層意識の自分が、年齢相応の社会性を添付して表現できる、という感覚が強いのです。

冗談などもあまり下品なものはなく、穏やかな方が多い。比較的仲がよくなっても、
なじりあいや、からかいあうなどのやりとりは少ないと思います。



やはりこの両方の環境で交わされるやりとりや、言葉の調子などは、
結構違うものだというのが実感です。「その趣味自体の話をする」その楽しみの共有をする、という意味では
共通していますが、そのやりとりの調子、冗談の傾向、関わり方の雰囲気などはやはり違うと思います。



そして僕は、「チャラい」カルチャーに馴染むために自分を偽らなければいけない事を感じたことから、「穏やかな趣味」に退却したように思うのです。実際には穏やかな趣味にもある程度の魅力は感じるものの、気持ちがより動くのは上であげたようなサーフィンやストリートダンスといったジャンルじゃないかな、と思っています。


島野さんの話でいうと、確かトランスが好きだったとおっしゃってたと思いますが、
同じようにトランスが好きな人の仲間内に入れば、それは「登山好き」「写真好き」の集団とはかなり
違う傾向があり、両方で同じような自分でいるのは難しいんじゃないかな?と思ったりします。そこをどのようにして処理したのかなぁ、と思った次第です。


そのほかに、学生時代の話だったと思いますが、男勝りな性格の女子生徒に対して、合わせるような事をしていたが、気疲れしてそれもやめた・・・といったシーンがあったかと思います。まさに僕も同じで、もともとやっていたダンスという趣味が、そういった外交的で、語弊があるかとは思いますが、ぶしつけで荒く、下品であるような人も多くいる趣味だったので、入って行けずに、その世界のはじっこで一人でやっているような感覚でいました。


 
「趣味交友行動」も成長の中で模索する^^ / しまの
No.1143 2015/11/08(Sun) 11:38:01

>そして僕は、「チャラい」カルチャーに馴染むために自分を偽らなければいけない事を感じたことから、「穏やかな趣味」に退却したように思うのです。実際には穏やかな趣味にもある程度の魅力は感じるものの、気持ちがより動くのは上であげたようなサーフィンやストリートダンスといったジャンルじゃないかな、と思っています。

これは一言で、「性格的な気後れで入れない趣味サークル」といったものになるかと。
アドバイスとしては、のような指針になりますね。
成長の歩みと、広い視野の中で、自分なりの趣味交友のあり方を模索していくのがいい。豊かさへの前進は、固定的な答えではなく、模索そのものが生み出す。
と。

触れていただいた僕の話にしながら、ポイントまとめますと、


1.成長の歩み ・・・ 固定的な自己像を力づくで演じる姿勢から、自分のありのままの内面感情に向き合い、真の自己における成長に向かう姿勢へ。

>学生時代の話だったと思いますが、男勝りな性格の女子生徒に対して、合わせるような事をしていたが、気疲れしてそれもやめた・・・といったシーンがあったかと思います。
「5章 解かれたパズル - 来歴の遡りの始まり」中(P.74)ですね^^。ちょっと長くなりますが引用しますと、
=====
 僕の中には、自分の容貌によって女の子に注目させようとする衝動があった。それでいながら、僕は〃恋愛のことしか頭にない″彼女達に軽蔑を向けていた。
 そうなった根底には、自分が女の子と自然に親しくできないことへの挫折感と屈辱感があったように思える。僕は中学の時、心の中では恋愛至上主義のような感情を抱きながら、外では女の子にぎこちない態度しか取れない自分をじれつたく感じた。男の子のような活発な女子に対して、きさくで親しみやすい自分を演じようとしたこともあった。だが何となく気後れから、自らその「試み」から「退却」した。以後その女子からは自分が「変な男」という感じで見られるという感覚を僕は持った。
 僕は、自分自身が理想的な姿になれなかったから、その原因を他人の中に求めた。僕は自分の不満感を、回りには愛するに値する人間が少なすぎるからだと自分に説明した‥。
=====


まあそれは偽りの自己像を演じようとして失敗した「小さな挫折」ではあったでしょうが、真の自己における成長への転換点にもなるというものですね。その転換点に立った大学4年の僕が、中学時代のその「小さな挫折」思い返すというシーンです。
この後は、当時は教えられなかったけど自然と、というか宿命的(?)に、「感情と行動の分離」歩みへと向かうわけですね。まずは内面開放で、置き去りされていた絶望開放されてしまったわけですが、何とか健康な心へと^^。


2.広い視野 ・・・ 多種多様人の交友あり方

これはずばり一言で言って、おおよそティーンまで仲間内自然発生的サークルの世界では、特定の性格傾向のカルチャーそこに成立し、後からそこに入ろうとするのは、よほど性格傾向が合わないと難しいというのが、実際に出てくると思います。

しかし、「社会人サークル」になると、もう違います「俺たち仲間だゼィ乗っていこうぜ」でも、「皆でぜひ仲良くし合いましょう」でもなく、それぞれが参加できる時に、参加できる範囲で、参加すればいいものもたくさん出てきます。性格傾向多様な人々から成る集団サーフィンストリートダンスにも、そういう社会人サークル少なからずあるのではと。
そうなると必要なのは、人に迷惑をかけず、そして基本的な人との親しみ行動が持てることです。
ですので、いろいろ書いて頂いた、性格カルチャーのような問題は、なくなってきます。


3.自分なりの交友行動の模索

2つからまず言えるアドバイスとは、こういうことです。
社会人以前と以降とでは、世界が全く違います。社会人以前の世界の固定イメージを脱し、まず社会人としての自信の全体に向かい、それを足場に、自分なりの交友行動のあり方を模索していくののがいいでしょう
と。

交友行動法は、いつも言っている通りです。より純粋な「楽しみ喜びの共有」として目指すことです。嘘のない自分としてです。
それができない場では、孤独受け入れる内面の妨げは、特定の性格カルチャーへの対処法なんて話ではなく、社会人としての人との一般的な親しみ行動がどう妨げられているかという視点で、取り組む必要がある。

タイムラインとしては、「新入社員」目の前に、まだ仕事も一人前になる前に、学生気分のような趣味サークルへの誘い来るかも知れませんが、「模索」もっとずっと後に続くと考えるのがいいでしょう。
仕事のスキルでの自信が、社会人としての一般的な親しみ行動への、一つの支えになります。というか、社会人としての自信がついてこそ、社会人としての一般的な親しみ行動自分はどうできるかが、一つの確かな足場の上で、模索できるようになります。
ここはもう一つ質問入れて頂いている「社会を生きるスキル」というテーマつながりますね。この後で^^。


4.模索の先にある豊かさ

これは先のトピック
『自己イメージについて』 takaさん No.1131 2015/10/28
コメント最後に書いた、
=====
この向き合いによって何を見出すかは、一度に全ての答えが出ることは、ありません向き合いで、次第違うものが見えるようになっていきます。そして最後には、歩み最初からは予想だにつかない、最終的な答え訪れる。そんなものです。10年20年、さらにはそれをはるかに超え人生の歳月を通して、です。
=====

が、そのまま言えますね。

流れとしては、
まず性格カルチャーに応じた自己像を演じるなんて姿勢捨て嘘のない自分との「楽しみ喜びの共有」行動どうできるのか模索開始する。そうして、ありのままの自分向き合うことで、そのための芽生え始めます。
そしてまずは社会人としての自信目指し向かう。それによって次第に、安定感生まれてきます。それが実際行動範囲を広げさせてくれます。そして本当に「望み」となる趣味交友活動向かってみたりする。

そうした「模索」の中で、「魂の感情」への向き合いもあれば、それ自体成熟生み出します。同時に、人との交友への願望という、持って生まれた課題が、次第満足感の中で、収まって行ったりもします。ま人生後半過ぎてからかと。
そうして、
a.人との交友がうまくいき、そこに満足感幸福感を得られる。
b.もしくは交友が必ずしも望み通りには行かなかったとしても、
「魂の感情」への向き合いによる心の成熟の結果、一人で過ごしていても満足感幸福感が湧く心の境地へ。

といった道のりが、ハイブリッド心理学の考える流れになます。


僕の話の例残りで言えば、

>島野さんの話でいうと、確かトランスが好きだったとおっしゃってたと思いますが、同じようにトランスが好きな人の仲間内に入れば、それは「登山好き」「写真好き」の集団とはかなり違う傾向があり、両方で同じような自分でいるのは難しいんじゃないかな?と思ったりします。そこをどのようにして処理したのかなぁ、と思った次第です。

社会人になって模索した交友は、テニススキー活動です。
20代後半から、まずはちぐはぐな内面を抱えながらも、なんとか「純粋な楽しみと喜びの共有の行動」見出し、参加を続け、30第後半あたりになって、社会人としての自信出てきて、そうした交友行動かなり安定したものへ。活動としてはもっぱらスキー
そして40代後半あたりから、それを生涯の交友とできるかどうか模索段階へ。で結局の場合、一人でマイペースに生きることが好きな面最後勝ち身体体力的な面もあり、スキー部活動からは一歩距離を置いて至ります。
トランス登山比較的後発趣味で、これはもとより人とどうこう共有するものでなく自分で楽しむもの位置づけです。

ですので、上記大学4年転機から、ありのままの嘘のない自分でどう行動できるかという中でのものであり、同じ自分でいられないのをどう処理するかといった問題は、ありません
まさにそうした「自分を演じる」という姿勢捨てることからが、スタートということですね^^。


接客におけるプラスαの生み出し方について / taka
No.1142 2015/11/08(Sun) 00:06:16

下のこたろうさんのトピックに関連するかもしれませんが、私自身販売の仕事をしていて、原理原則的な行動だけでは通じず、プラスαの部分が求められていると感じています。
プラスαとはお客様が感じる嬉しさや楽しさ、安心感や満足感といったポジティブな感情です。
原理原則的な行動のみだと、場合によっては冷たい印象を持たれるかもしれません。
ハイブリッド心理学の基本姿勢が原理原則的な行動や論理的思考にあるならば、このプラスαの部分をどう考えるべきか考えています。
もちろん楽しみ喜びの共有といった面もあると思いますが、それを前面に出し過ぎると、仕事としてはフランクになり過ぎると思います。

販売の仕事でも商品の知識といった点では論理的思考が可能です。
例えばコットン製品の説明については、ワタと言われる植物の種の周りに生えている繊維からとれ、それに撚りをかけて糸にして、その糸を編んで商品ができている。コットンは繊維の中心が空洞になっていて吸水性がよく汗をよく吸い、吸湿性もいいため蒸れずに肌触りが良い。といったように論理的につなげることができます。
また接客以外の業務も棚卸しや返品時のレジ処理などは会社としての原理原則がありそれに従って対応できます。

しかしお客様相手になるとそれだけではいきません。
一応接客に関しても会社としてのマニュアルはありますが、それをそのまま実行しても相手の反応も十人十色であり、なかなかマニュアル通りには進まないからです。
声をかけられて嬉しい人もいれば、話しかけられたくない人もいます。
同じ商品を勧めて喜ばれることもあれば、全く無関心ということもあります。
人間が相手の場合、コットンのワタのような論理的思考の始まりとなる確実なものがなく、自分の経験からくる想像から論理を組み立てていかなければいけなくなります。
このお客様は年齢はこれぐらいで服装の雰囲気はこうだからこれを勧めたら喜ばれるのではないかといったように。

相手の心情やニーズを自分で想像してそれをもとにするためどうしても不安定で恐れ不安が生じてしまいます。
また相手の心情を想像することは一歩間違えると病みにつながると思います。
ちょっとしたことですぐに、この人は怒っているのではないかなど想像してしまうと恐れがでて対人恐怖的になるからです。

しかし接客におけるプラスαを生み出すには相手の心情に配慮する心遣いが必要になってくると感じています。
もちろんしっかりした商品知識や業務に関する原理原則のうえにです。

これを生み出すにはどうすればいいか。

私の考えとしては、仏教やハイブリッド心理学を学んだり、名作とされる文学や絵画などの芸術を通じて、多くの人間に共通しているであろう心理や美意識に対する理解をベースに、自分の体験を積み重ねて、人に対する論理的思考の始まりとなるベースの経験値を広げていくのが良いのではないかと考えています。

そのベースをもとに接客のアプローチなどを論理的に繋げていきまた試行錯誤しながらベースの経験値を増やしていく。
つまり帰納法的なやり方になってきます。
それでも絶対に確実になることはなくあくまで対人においては不安定さを受け入れて。

そして自分の心が健康になるにつれて相手の心情に対する理解も病みにつながるようなものから、
建設的な発想をベースに行われるようなものになるのではないかと。

というのが現時点での私の考えです。

何か考察などがあればよろしくお願い致します。

管理メモ:No.1131トピック(レス1133-1142)削除
怒りの価値と恐怖の価値について / こたろう
No.1107 2015/09/04(Fri) 21:40:33

やはり、価値観に取り組まざるを得ないという事で、
あらためてこの二つを考えています。


まず、やはり否定価値感覚が花盛りであり、
昔から世の中や自然環境への高い理想、思いやり、気遣い、決して失礼のないようにする事などにおいて、周りの低い意識の人を否定して打ち負かす事が、自尊心のベースであったことは
いえます。
そして、その同じ強度の否定の怒りが、相手に向けられるというイメージと、
恐怖感情の強度になっているという事。


怒りの価値は、以前のレスで、
「大切な人が、無知によって身を滅ぼそうとしている時に使う」
という時には一つの意味があるという事でした。

また、改善向上のためにはむしろ落ち着いた心境の中での思考や行動が有用であり、
怒りはそれを妨げる、という事がまずは基本になると思います。

これは確かに共感できます。

逆にいうと、変わってほしい状態がある上で、自分でなんとか出来ない巨大な仕組みにおいて、それを変える事が出来る立場の組織や人物に、怒りを向ける事には意味があるのではないかと思いました。

しかしこれは、怒りを抱く事の意味というよりは、
怒りを「見せる」事の意味にはなると思います。例えばデモやストライキ。ぞろぞろとたくさんの人がいる場合に、その人たちがとても冷静に穏やかな表情でいれば、その訴えを投げかけられている側は「変えなければいけない危機感」を持たないはずです。それは巨大な怒りによって、「罪悪感」などを煽る意味があると思います。
ただストライキでは、出勤をしないという行動は、怒りを使う事のない行動での抗議とも
いえるかもしれません。
さらに、同じように抗議を抱く人を収集する事において、「怒りの共有」が大きな意味を持っていると思います。都心の駅前で拡声器で声を荒げているような団体は、それによって署名を集めようとしていますよね。
まぁただ僕は、あの怒りでむしろ話を聞く気もなくなってしまう側なのですが・・・。


あともう一つ。関西の文化である「ツッコミ」はどうですか?
まず状況によるというお答えは当然だと思いますので、それをふまえた上で、です。
基本的にはプライベートですね。


それから、「恐怖」についてです。不安や恐怖をつかさどるのは偏桃体だったと思います。

http://gigazine.net/news/20101225_fearless_without_amygdala/

そこまで長い記事ではないので、こちらを読んでいただきたいのですが、
「恐怖」という感情がなくなると、好奇心という感情が優先し
危険である物に近づいていってしまったりするという記事です。
また末尾において、恐怖という感情がなければ種は絶滅するという議論はよくあります。


ハイブリッド心理学においては、現実における危険を避けるために、実際の危険度などに
ついて感情に頼らずに知性で判断するという事になると思います。
また、タヌキが固まってしまって敵に食べられてしまう例がありましたが、
物理的な危険、社会的な危険に関わらず、実際に危険が迫った時に、基本的に冷静で体がリラックスした状態でいる方が有効な
対処が出来る事には基本的に同意です。


ただ、僕の中に色濃くあるのは「現実においての危険度と同じくらいの危険を感じなければいけない」という価値観です。例えば最初に、わっと浮かんでくる恐怖感情があるとして、それを知性で現実においての危険度を適切に判断した後に、最終的にその判断に基づいた「このくらい危険」という恐怖感情を持つことになる、というのが僕の考えられる対処後の状態なのです。その最終的な恐怖感情がないというのは一体どういう事なのかがわからないです。ある意味、「危険度を感覚として持てる」という事に安心感があるのでしょう。
それがあるからこそ安易な行動によって失敗をする事は今まで避けられたし、今後も
避けられるだろう、という事ですね。

「現実においての危険度と同じくらいの危険」だと思っているものが、
かなり誇大なものである、という事はまずあります。
それを差し引いて判断するという場合、それを差し引いた強度の「恐怖」は
感じなければいけないというのが僕のこの価値観の上での考えになります。


ハイブリッド心理学の考えだと、そうではなく、
実際の危険度について知性で判断を下し、その結果の危険度について「感情」として
抱く事はないという事が最終目標になるのでしょうか?
全く危険ではない状態と、危険な状態で、感情の状態としてはほぼ同じ状態を
保つことになるのでしょうか?それでも実際に危険を回避したり、建設行動をするという
動機付けが持てるのでしょうか?


というのは、「恐怖」を感じる事がないために、現実において
これらの対処をするという発想を持てずに、大失敗をする人を何度もみてきた経験が
あるからこれが疑問として浮かびました。


 
「怒り」「恐怖」の克服価値観 最新ハイブリッド心理学整理^^ / しまの
No.1112 2015/09/12(Sat) 09:18:48

考慮すべき視点ざっと整理してみました。以下7つパラグラフにて。まこのテーマについての最新ハイブリッド心理学そのもの整理ですね^^。
 1.議論の前提
 2.「怒り」「恐怖」の心理生理学的位置づけ
 3.「怒り」「恐怖」の社会行動学的位置づけ
 4.「怒り」「恐怖」への価値観
 5.「怒り」「恐怖」の克服
 6.「心の依存から自立への転換」による感情の方向変化
 7.視点の全体整理把握からの取り組み



1.議論の前提
内面取り組み最も基本的な実践になりますね。
 1)感情の種類とそれぞれの位置づけ役割を理解する
 2)自分の人生でそれをどう位置づけていくかの価値観に向き合う

と。
それに応じ、実際さまざまな感情が起きる場面への向かい方対処の仕方も、大きく変わってくるという話。

でまず議論をする前提として、上記
 1)については、心理学生理学から、知識としてのの真偽や正確さ問える
 2)について、真偽や正確さの問題ではなく、それぞれの人の、文字通りの価値観であり、あるいは「思想」とも言えるもの
というテーマ位置づけです。
もちろん後者人それぞれの自由です。


2.「怒り」「恐怖」の心理生理学的位置づけ
ということで、「怒り」「恐怖」について、1)心理学生理学からの理解としてハイブリッド心理学認識しているものを一言で書くと、

「怒り」 ・・・ 自分より強大もしくは同等と、怪我を前提に戦うために、体内代謝停止に近づけに集め、破壊攻撃への筋力パワー最大化するための感情
「恐怖」 ・・・ 対処不可能性のある危険遭遇した逃避行動促すための、危険察知血流低下などの生理的悪化を伴う感情
などと言えると思います。

ですので、「怒り」「恐怖」も、どちらも生物学的大いに役割があります。それがないと、生物種として存続できないと言えるようなものとして。
これについては、脳の扁桃体とかの話を書いているリンク記事が持つ認識と、同一になると思います。記事内容に、とくに異議を挟むものではありません。

一方、心理学生理学的理解として加えたいのは、そのように役に立つ側面同時に、害のある面役に立たない面があるということ。
まず両者とも、生理的に悪化状態を生み出すことです。そのではできるだけ短時間のうちに切り抜け、その感情を解除することが重要になります。継続的な怒りや恐怖の下にあると、心身健康を著しく損ないます。
「怒り」は、そうして心身健康を一時的に害する代わりに、破壊パワーを得るためには役に立つという、諸刃の剣です。
これが「恐怖」になると、役に立たない事態が起き得ます。これはよろしいかと。腰が抜けて、そもそもの目的の逃避行動ができなくなる場合がある。


3.「怒り」「恐怖」の社会行動学的位置づけ
そうしてまず心理生理学的事実認識について真偽正確さ踏まえたら、あとはそれらを自分の人生でどのように生かすものにしたいかは、もう人それぞれ自由価値観思想だというになります。
これについては、ハイブリッド心理学からはもう一切議論をするものではなく、ハイブリッド心理学が採用する価値観こうです、それに向かう道こんなものです、という説明するのみになります。

ですがその前にもう一つ、「怒り」「恐怖」人に向かって表現することがどう役に立つかという、社会行動学的な理解真偽正確さというテーマを言うことができます。
あるいはご質問この辺にあるかもと。
そもかくそれについてのハイブリッド心理学としての考えはこうです。

「人の動かし方」としてとりあえず考えられるもの命題とすると、

・怒りを表現することで、相手を動かせる?
これは相手怒りの表現怯える弱さがあり、かつ感情によって行動する人物であれば、そうできる場合もある。
に言えば、怒りの表現怯えない強さがあったり、原理原則によって、あるいは「楽しみ喜びの共有」によって行動しようとする相手は、怒りの表現では動かすことはできない
となりますね。ハイブリッド心理学取るのはもちろん後者になります。
一般に、怒りを表現して相手を動かそうとする行動法は、社会では望ましくない行動法として見られる傾向があります。ただ遠ざけられる結果になるか、程度がひどい恐喝などの犯罪行為として扱われる場合があります。

・恐怖を表現して、愛され守られる?(ご質問には含まれない命題かも)
これも相手情に厚く、世話好きな人間であれば、そうなれる場合もある。ただこれは怒りの表現に折れるというほど直接的にはいかず、「何が恐いのか?」という内容に目が向くというのが基本になると思います。
恐怖を表現して愛され守られようとする行動一般にどう見られるかは、これはもうかなり人それぞれの好み的な話、どんな性格が好きかの話になると思います。あまり意識的な恐がり表現になると、ワザと?と、恐がりとは逆のずる賢さに見えて敬遠される場合がありますね。
また自立と自助を重んじる価値観人物からは、恐怖を表現する人対しては、守ってあげたいと感じるよりも、自らを奮い立たせてほしいと感じるという、別の方向になります。ハイブリッド心理学が取る価値観これになってきます。


4.「怒り」「恐怖」への価値観
以上、「怒り」「恐怖」心理生理学的位置づけ、およびその表現行動社会行動学的位置づけについては、理解真偽正確さ議論できます。
に、それを踏まえそれらを自分の人生でどのように使いたいか、配分したいかについては、正しいか誤りかではなく、人それぞれ価値観であり好みであり、自由です。
まあタバコどのように良いか悪いか考え方については、医学的な正しさや誤り言えますが、それでも自分は飲みたい吸いたいというになれば、それはもうその人の自由というですね。
でもやはり当然正しい知識にしての選択お勧めできる、と。

ハイブリッド心理学価値観とは、ずばり、「怒り」「恐怖」については、人生を通してその根絶を目指すものです。そのための取り組みアプローチ展開するのがハイブリッド心理学です。
限りなくゼロに近づけるさらに言って、ゼロそのものにする。それを目指すものです。
そんなことができるのか?という質問に対して、ハイブリッド心理学では、エベレストの頂きのようなその目標へのと、その歩み方説明するまでを行います。あと事例多少紹介します。その全体を結構なところまで歩んだ事例としては私自身のものとして。
エベレストの登山ガイド作ったとして、これが本当に登れるのか?聞かれたら、人それぞれになりますね^^; 、と言ったになる部分もあるかも知れないのは、まさにそのままです。またそもそも登りたい思うのかそれぞれの自由と。
ただ実際エベレストに登る場合強靭な肉体必要として、ハイブリッド心理学場合は、強靭な精神力・・ではなく、地道な継続の根気強さ、というになるでしょう。


5.「怒り」「恐怖」の克服
そんな話はさておき、「怒り」「恐怖」根絶を目指すというその主旨と、アプローチごく手短に言うと、
「怒り」「恐怖」特に対人場面でのそれが、人生の不幸を生み出す代表的な材料感じるからです。それをなくしたい。まずは「怒り」「恐怖」自分にとって克服対象とする。これは自由選択として、そうします。

そのため、
・「怒り」克服としては、「怒りを用いない行動法」学び実践する。原理原則による行動法であり、「喜び楽しみの共有」による行動法です。そうした対処法困難な場合、問題場面からまず距離を置いて平静を回復してからまた検討、といった対処法になるでしょう。
重要なのは、怒りどう役に立つか立たないかというよりも、怒りではない、「楽しみ」「喜び」「安心」「愛」などのプラス感情をいかに増やしたいと望むかになるでしょう。そこに分岐路がある、と。

・「恐怖」克服としては、まず
 1)恐怖感情主観的な強弱によってでなく合理的、そしてできるだけ科学的な知性理性の目で、客観的な安全と危険判断し、それに対して自衛回避策取るという方向性の対処
 2)そうして正しく安全を確保した上で、それでも流れる恐怖「ただ流す」ことをする中で、恐怖根底から消えていくという心理過程を持つ。

というものになります。

ですので、

>知性で現実においての危険度を適切に判断した後に、最終的にその判断に基づいた「このくらい危険」という恐怖感情を持つことになる、というのが僕の考えられる対処後の状態なのです。その最終的な恐怖感情がないというのは一体どういう事なのかがわからないです。

についてコメントしますと、「知性で現実においての危険度を適切に判断」というのは同じですね^^。
「その判断に基づいた「このくらい危険」という恐怖感情を持つことになる、というのが僕の考えられる対処後の状態」というのがちょっと異なりますね。
まず、「危険判断に基づいた自衛回避行動を取る」であり、それにより危険消えれば、もう恐怖感情持たなくて良い、と。
またそこで恐怖にひるむよりも、自ら行動するという意志強く持つほど、恐怖感情消えます。恐らくここがポイントになるかと。恐怖感は、受け身の無力感表裏一体ですので。
つまり克服ポイントの続きとして、
 3)自ら能動的に事態に向かい闘うという意志によって、恐怖「覚悟」「前進力」という別の感情に変化する。
ということです。まこう一言で書いたものが、生易しいものでないんですけどね^^;

そうして最終的な恐怖感情がないというのは、
 ・一つの一つの恐怖場面を地道に克服し、実際にもう生きることの全体が安全に囲まれるようになることで、恐怖はなくなる。
恐怖心理生理学的位置づけで書いたよううに、「実際に危険に遭遇」してしまった場面で流れます。それを、そもそも遭遇しない段階で自衛できる生き方を築くわけです。
 ・それでも人生にある対処不能の不遇事態などについて、そこを自分はどう生きるかという能動的な「意志」「覚悟」によって、それは恐怖とは逆の前進力の感覚へと変化させ得ます。
という大きな2つによるものと言えるかと。


6.「心の依存から自立への転換」による感情の方向変化
まずはざっと以上が、「怒り」「恐怖」というものをどう理解し、自分の人生でどう位置づけるかについての、考慮ポイント網羅したものになります。
ハイブリッド心理学としては、それらの根絶を目指すという方向性になり、実際それが成し遂げられ得るもの考えている次第です。
で、そうした大きな方向性そのものについて理解納得なかなかできない場合、最後の検討ポイントとして、やはり心の基盤一番大きな命題である、
・「心の依存から自立への転換」
どう持つかという問題になってきます。

一言で、「心の依存」で、自分の怒りや恐怖を相手に見せつけることで良くしてもらう、という姿勢生まれ「怒り」「恐怖」感情そのもの価値があるような感覚抱くことになりがちと言えるかと。
これについては、まずは、
・「心の依存から自立への転換」によって、感情のあり方はどのように変化するのか
について、まず頭で知識を得て、それはどういうことか自分の心の中じっくり考えてみる、といった実践から始めるのがよろしいかと思います。
まずは以下が、そのための学びになるでしょう。
『概説』収録の、
5章 歩みの道のり - (2)真の前進へ
・「心の依存から自立への転換」
など。
そこに収録されている「「心の依存と自立」の根本影響 対比表」が、感情流れさまざま変化全体把握分かりやすいと思います。


7.視点の全体整理把握からの取り組み
ということで、「怒り」「恐怖」についての価値観検討のためには、
・心理生理学的な位置づけ
・社会行動学的な位置づけ
・それらの根絶を目指すという価値観とそのためのアプローチ
・その価値観の支えとなる「心の依存から自立への転換」という心の土台

といったテーマ全体把握してこそ、方向づけが決まってくる、ということになりますので、まずは上記全体把握からじっくり検討してみて頂ければと思います。

コメントとして返せるのは、一つ一つ、まずそうした全体の理解と納得として確認してみて下さい、というものになりますね。
書いて頂いたものの中では、

>例えばデモやストライキ。
>関西の文化である「ツッコミ」はどうですか?
>同じように抗議を抱く人を収集する事において、「怒りの共有」が大きな意味を持っていると思います。

まず「怒り」という言葉いっしょくたに言うことのある
・上記説明生理学的悪化を伴う怒りの感情
生理的悪化は伴わない、ということはごく思考想念レベルでの批判思考や観念
この2つのレベル心身の健康という観点ではもう全く違うものです。
前者有害であり、後者特に有害ではありません。
ですので、後者まで含めた根絶まで目指すというようなものでは、さらさらありません。これはよろしいでしょうか。

ですので、上記前者だけをここでは「怒りの感情」呼ばせて頂くとして、
デモストライキツッコミも、一言で、その行動正真正銘「怒りの感情」を行動化するというものでない限り、つまり平静な感情を維持して行われるものであれば、ハイブリッド心理学からも、また社会行動としても、何ら問題のあるものではないと思います(あくまで法に反しない行動範囲で)。
それが正真正銘「怒りの感情」でその行動をするという様子になってくると、反社会的「暴動」と見なされるなど、問題のあるものになってくる。
ツッコミも、愛着感とユーモアでやるのは大いに結構本当の怒りでやるとなるとツッコミというよりドツキとなり暴力行為になってしまう可能性もありますね^^;

>怒りの価値は、以前のレスで、「大切な人が、無知によって身を滅ぼそうとしている時に使う」という時には一つの意味があるという事でした。

上記社会行動学的位置づけで書いた通り、相手怒りの表現怯える弱さがあり、かつ感情によって行動する人物であり、まあだからでもありますが愚かにも自らを滅ぼそうとしている時、それに対し怒ることが役に立つこともある、というになりますね。
まあ一般的社会行動としてはまず出てこない話ですし、信頼関係が築かれているプライベート場面になりますね。そしてその信頼関係は、もちろんこっち側建設的行動法姿勢によってこそ築かれるものです。ということはまあ一言で、しっかりした親が、幼児下手な行動で怪我をしそうな時叱るというなどがまずは考えられるかと^^。
そしてこの場合、あくまで「怒りの表現行動」であり、実際怒りの感情不要です。
基本大人同士の関係考えるような話ではありません^^;


全体理解踏まえるとそんなということで、
とにかくまずは、全体理解から始めて頂ければ。そこから、疑問点等を、そのどこのポイント関わるかという整理から解きほぐし検討して頂くといいと思います。
それでまた分からない点等あれば、どのポイント関連します、という視点整理アドバイスからまた返していけますので^^。


 
Re: 怒りの価値と恐怖の価値について / こたろう
No.1117 2015/09/18(Fri) 17:17:45

すごく納得のいく説明をありがとうございます。

生理的悪化を伴わないごく思考レベルでの批判思考や想念は、
根絶まで目指すものではない、というのは正直今までの理解とは逆でした。

以前「バカじゃないの?」というじゃれあいの言葉についてお聞きした時は
否定言葉なので完全にアウトというご回答でしたので・・・

まぁこれも、状況によりますよね。

例えば、「バカじゃないの?」とツッコんでほしくて、バカな事をした時は、
むしろそう言ってもらえて嬉しいというのが僕の実感です。
呆れられつつもつい笑ってしまった、というイメージなので、ここで想定している
ものには生理的悪化は伴っていません。


テレビでも、「人を傷つける笑い」とか「誰も傷つけない笑い」とかよく分類
されますが、この辺も紙一重ですよね。笑ってしまう時には、自分の価値基準の見下しが
含まれている事も多いです。以外と簡単なようで、複雑な問題ではないかなと思います。


 
Re: 怒りの価値と恐怖の価値について / こたろう
No.1128 2015/10/15(Thu) 15:36:36

一応このスレッドにもコメントをいただきたいのですが、

『生理的悪化を伴わないごく思考レベルでの批判思考や想念は、
根絶まで目指すものではない』という部分に関しまして、

つっこみをはじめとして、今出したような例、また親密度の高い関係に
おける「じゃれあい」の中で出る思考レベルでの批判思考や言葉については、

自分ではそういうつもりで言ったものが相手には「感情レベルの批判」と
受け取られる可能性もありますよね。

逆にいうと、精神的に未熟であればあるほど、言葉に自身の軽蔑感情などを
投影して受け取ってしまうため、相手がごく冗談、つまりつっこみ程度で言った
「想念レベルの批判」の言葉を、自分は「感情レベルの批判」として受け取ってしまう
という事もあります。


社会人同士の関係では、つっこみ、じゃれあいなどをはじめとして、想念レベルの
批判思考は学生時代に比較すると減るんじゃないかなと思います。
やはり、お互いにこれは「感情レベルの批判」ではないという確かさを、積み重ねた
関係によって認識しているという事と、あるいは、形式的な関係や浅い付き合いの場合は
ぐっと飲みこむような「胸のうち」を、安心して吐露できる間柄であるという信頼感に
基づいたものだと思うからです。


ゆえに、行動法としてあえて想念レベルの批判を口に出す事は基本的には避ける
事を心掛けています。

難しい場面としては、
@ごく想念レベルの批判思考として、何かを素晴らしいと称えるが故に、同じジャンルの別のものを批判して盛り上がる、というコミュニケーションが結構よくあります。
書籍のタイトルなどでも、何かをたたえるようなタイトルもあれば、それがあるからこそ
何かを痛烈に批判するタイトルのインパクトによって、購買意欲を煽るものが多くあるように、やはり批判思考によって感情を共有するパワーはすごいんだな、と思います。

簡単な例でいうと、非常に高付加価値の肉を一度食べたら、
「もうスーパーの肉は食べられない」といった表現をしたり、
北アルプスに登ってみたら、「近所の山を歩くのとはスケールも気分も全然違う」
といった表現をしたり、という事があります。


他には、タモリさんの例を出すと、
「俺はウィスキーが好き。ワインなんて飲んでるやつは洒落臭い。」
「やる気のあるやつは帰れ」
などという台詞を残していますが、自らしっかりと積み上げた価値観に基づいた
このような批判思考は、魅力的にうつる事もあります。


また例えば女性の好みなんかについて、男同士で語り合う時も、
相違点について「いーや、それは違うね!」などと言い合うのは楽しいものです。


これらは、僕の実感では、「穏やかな楽しみの共有」の集団と比較して、
「和気あいあいと盛り上がる楽しみの共有」集団で多く発生する気がします。
これも勝手なイメージも含まれていますが、穏やかな楽しみの共有では、
ガーデニングや裁縫やハイキングなどの穏やかな趣味の集まり。
和気あいあいと盛り上がる楽しみの共有の集団では、ストリートダンスや、サーフィン、
ハードだったりにぎやかなスポーツ
などの趣味の集まり。


これは生活、思考など全体の「リズム」のスピード感などが、
好きなものを条件付ける事があると思うので、ある程度はあると思うんです。
血気さかんな人は、より激しいスポーツに自然に惹きつけられ、
そういう方は性格の面でもある程度の共通点があったりする。

また、反体制的なカルチャーをバックグラウンドに持つ趣味や音楽は、
それ自体に「批判的な色合い」を濃く持っています。
ヒップホップミュージックや、プロレスなどの格闘技もそうでしょうね。
活動自体には楽しみを感じるのに、その批判的な色合いを持った文化、カルチャー
には馴染めないというケースが僕にもあり、これは望みとしてどう処理すればいいのか
難しいですね。


いずれにしろ、それが「場の楽しみ」につながるだろうし、求められていると
感じる事があります。僕自身もそれを楽しんでいるような気がする事もあれば、それをあまり楽しいとは思っていないんじゃないか、
と思う事もあります。
幼少期までさかのぼると、ケンカなどしている友人をみて、何も批判せず、誰も傷つかずに、みんな仲良くできればいいのに
と思っていた僕がいて、今も「望みの断念」などで荒廃化した他者批判的な自己の底に、
そういう自分がいる気がします。
そして「和気あいあいと盛り上がる楽しみの共有の集団」では、
往々にしてこの「批判思考」を冗談にからめたコミュニケーションが自然なものとして
存在し、自らそれに合わせに行ってしまう事が、「嘘である」という感覚にさいなまれる
結果になる、という事が結構あります。


しかし、そういった類の方が多い分野の活動に、実際自分自身が
魅力を感じている事も多くあるのです。


想念レベルの批判思考を許容する事は、ある意味心の声においても批判思考を
採用する事にもなるので、「〜はダメでしょ」から「〜すればいい」に転換するという
ハイブリッド心理学のアドバイスに反する気がしています。

またそれと、上記のような「批判思考」をカルチャーとして持つ分野の活動が
自分の望みとしてある場合、どのように付き合っていくのかについて、
もう少しお話が細かく伺えればと思います。


 
具体的課題場面での整理^^ / しまの
No.1130 2015/10/22(Thu) 09:27:50

ちょっと遅くなりました^^ゞ

・・とこれはちょっと問題テーマ自体不明瞭かもですね。
たとえば特定の外国文化との付き合い方であれば、その国の人結婚して親戚とのつき合い場面であったり、仕事場での対立場面であったりと、具体的場面ごとに問題課題設定でき、それぞれについて検討することになります。

それと同じで、どんな場面での、どんなことを課題とする問題の話かから、まず整理するとよろしいかと思います。
またそこで、内面感情問題外面現実問題自分の側の問題他人の側の問題、といった、さまざまな軸での整理もしていく。
そこから、自ず細かい視点展開されていきます。

検討頂き、また適宜新規トピックなどて質問入れて頂ければと^^。そこから「実践」始まりますので^^。


(No Subject) / SF
No.1126 2015/10/10(Sat) 15:35:06

島野さん、こんにちは、いつもアドバイスありがとうございます。さっそくですが、何もかも分からないんです。自分はもちろんです。混乱、錯乱、怒り、失望、絶望、思考もなんとか30%位保ってる感じです。薬を飲んでもです。脳、心、魂、体、何がどうなっているんですかね。正直、生きてるだけで一生懸命です。こういうことは病んでる人は通るところなんですかね。僕の根性では非常に厳しいです。やり過ごすしか出来ません。疲れました。疲れましたと思っていいんですか。つぶやいていいんですか。分かりません。認知行動療法の本ですが、半分くらいしか進みません。しかも、分かりません。せっかくのアドバイスですがすみません。
前が全く見えません。訳が分かりません。
何かありましたらアドバイスお願いいたします。


 
認知行動療法^^ / しまの
No.1127 2015/10/14(Wed) 07:13:24

自己取り組みでは難しい場合認知行動療法専門的に扱う医療機関カウンセリング援助を受けてみるのがお勧めになりますね^^。
それで多少とも落ち着きを得る中で、自己取り組み感触も得られてくるのではないかと思います。
ぜひ検討なされては^^。


つかざるをえない嘘の線引き / こたろう
No.1121 2015/10/03(Sat) 17:01:02

お返事ありがとうございます。


就職の内定式を前にして、さらに大きな問題が出てきました。
以前相談させていただきましたが、僕は2年の休学歴があります。そしてその休学歴の言い訳が
出来ずに、バイトの申し込みすら出来ないと。
そのまま、就職活動を迎え、どうしようどうしようと思っていました。大学のセンターや地域の就職相談機関にも
心理的な問題で休学をした事実を持って、どう就活に望んだらいいだろうかと、相談しました。そもそも仕事をやれるのかどうか、学内のカウンセラーに相談してくれ、
ある程度エピソードを作ってもいいんじゃないか、等様々な視点からアドバイスいただきました。

嘘をつくのはやはり苦しい。できればつきたくない。そこから始まったのですが、
僕の中では結局「嘘をつかなければ、希望するレベルの内定は絶対にとれないだろう」という結論に至りました。

また、「ごまかす」と「嘘」は違いますね。ごまかす、のレベルにとどめられればいいと思いました。しかし、面接官の立場なら、
ごまかしを出来るだけ見抜くために質問を考えるに決まっている、と思いました。
であれば、深掘りされても答えられる「嘘」をつく必要があるという結論に至りました。

その抵抗感と罪悪感を消すために、一般的な就職活動について調べました。
すると、就活はバイトリーダーや体育会の部長が大量発生するだの、ボランティアくらいねつ造するのは当たり前だの、
ざくざくとこういう話が出てきました。「もはやそのくらいの事は人事も想定しているだろうな」という風に自分を納得させました。

その代わりに、自分の人格を大きく偽る事はやめました。
例えば、慎重であり、皆を引っ張っていくよりは、話を聞いて下支えするタイプであるとか、
多面的に、かつ深く物事を考えるタイプなので、周りからはよく考えすぎだといわれる、とか、
「人と打ち解けられない」というのは絶対に言えませんが、上のようなものは長所であり弱点でもあるという
お話をさせていただくようになりました。

さらにいうと、こういった部分が結構評価していただけて、エントリーシートなども、今年の応募者の中でも一番ポイントをおさえて
書かれている、というフィードバックをいただけたり、グループワークでも深い視点のアイデアが評価され、それを軸に
僕がまとめていく立場になる、といった事が意外と多くありました。

こちらのスレッドで答えて頂いたように、プライベート場面や、和やかな談笑などが上手くできない事を受け入れられれば、
実はある程度社会で活躍できるんじゃないかと、そう思えるようになりました。


だからこそ、「希望するレベルの内定はとれない」から「嘘をつく必要」に駆られました。
企業にとって、活躍してくれた社員に休職してもらう事にはコストがかかりますが、回復してくれる事を想定すれば必要な出費でしょうね。
ただ、うつ病や不安障害、あるいは病名は言わずとも耐えられなくなって休学した、などのエピソードがある人物を、
新卒で雇うのはやはりただのリスクです。人が本当に足りていない場合、あるいはその経験を経て現在むしろ仕事の出来る人間になれているような
エピソードがあれば別ですが。


具体的についた嘘は、
@本当は人が怖くなって精神崩壊した事がきっかけで休学した事を、もともと興味がある分野の勉強のために、それを行っている現場に直接足を運びたかったため一年の休学期間をもらったが、休学してから軽い事故にあい、自律神経が悪くなった。体調をよくするために整体をはじめとした色々な方法論を試みて、肉体的にも精神的にも元気になるのに一年くらいかかった。その後、本来やりたかった分野の勉強のために、現場で泊まり込みで、複数の場所でお世話になるために、なんとかもう一年休学させてもらった。あわせると二年間の休学になってしまった。

→実はこの分野の勉強については、実際に一度足を運んで講習を受けた事もあり、また本やブログで勉強をしていた。
 しかし、人の中に入っていく恐怖で結局一度しかいけていなかった。内容の質問については、熱意を持って答えられるため、面接でも問題なかった。
 また、泊まり込みで別の場所でお世話になった事も一度はあるが、それは休学前。そのエピソードをもとに、いくつかの拠点を回った事にした。
 また、診断書にはならないくらいの軽い事故が徐々に体調を悪化させた事にした理由としては、不可抗力で休まざるを得なかった事になる。また、診断書にならないようなものが中長期的に自律神経に影響があった、というのは診断書の提出を求められた場合に有効な言い訳になる。
 心の弱さや対人不安のエピソードと比べると、雇ったうえでのリスクは低いと思うはずであり、長期間休んだ事の理由としても悪くないと思った。
 
 
A休学前の一年だったアルバイトを、丸二年やったという事に。
  休学中は軽い事故にあって体調悪化していたが、アルバイトはなんとか続けていこうと思って週に数回で続けていたという事にした。
  一年では経験として浅いと思われるだろうという懸念からこういう風にした。

→これについてはおそらく一般的に誇張されるレベルなのであまり問題はないかな、と思っています。


@で問題として感じているのは、一カ月半ほど泊まり込ませていただいた事にしているが実際は一度講習にいっただけの所が、ある商品を持っていて、その商品についての価値を僕が熱く語らせていただいたのですが、それに人事の方がすごく興味を持って、実際にそことコンタクトをとる可能性が生まれてしまった事。
これは「バレるリスク」です。非常に不安ですが、コンタクトをとらないような方向に話を持っていくくらいしかバレないための方法は思いつきません。
さらにそのテーマの内容が結構ユニークで、人事の方がすごく面白い話ができた、入社を楽しみにしている、とまで言ってくれてます。これに関してはもちろんほかの内定者にも言っている事ではあるという可能性はあると思います。

また、さらに根本的な話で、バレなければいいわけじゃない、という事があります。
おそらく、入社後もそのエピソードの設定を自分でしっかりと記憶し、自らはその話をせずに、聞かれた時はそれに応じた回答を
していれば、バレないという事は不可能ではないと思います。
でも、それをしている自分が本当に嫌になります。特に相手の方が、良い方で、興味を持って話を聞いてくれればくれるほど、
裏切っている気持ちになります。おそらく入社後の研修で数か月人事の方にはお世話になるでしょう。世話になればなるほど、苦しくなるだろうとしか
思えません。そこまで小規模の会社ではないので、配属が決まればそこまで会う機会がなくなる可能性もありますが。

そんな思考に、「お前だって好きであんな形で休学したわけじゃないだろう。そのボトルネックのために、自分の可能性を潰すのか?社会はそんな自分を全部開示して
それでもお金を払ってくれるほど甘くないよ。だったら、今問題なく働けるようになればいいだろう」という反論が心に浮かびます。


これについての疑問です。

「嘘はどんな人でも生来的に嫌悪感を感じるものである。」という立場に立つとしたら、
上記の嘘を持ったままその嘘をついている方々と一緒に仕事をしていくのは自分にとって破綻につながるものでしかない、という結論になるかなと思います。
会社は働いてお金をもらうところだと割り切れればいいのかもしれません。しかし、本当にほがらかでいい方が多いので、だからこそやっていけそうだと
思えたという事があり、なかなかそうは思えません。

もう一つは、「自分の欠点や弱さを相手に受け止めてもらいたい」という、心の依存基盤があるからこその、
裏切っている気持ちである、という立場です。僕のようなケースに限らず、仕事をはじめてからうつ病で空白期間があいた、あるいは
定期的にある程度の辛さを伴うような持病がある、あるいは四年間本当に無気力に大学に通っただけであり、何も話せる事がない、過去に犯罪歴がある、など。
外面現実においてマイナス面を抱えてしまう場合はたくさんあるはずです。
それを開示した上で、雇ってくれというのは、そもそもそっちの方がお門違いなのかもしれないぞ、と。

なぜなら、それでも雇ってくれるところが、そういう方にとって働きやすい環境かといえばそうでないケースも多く思えるからです。
ホワイト企業はやはり、中堅以上の企業に多いです。人手不足の企業は雇ってくれるかもしれませんが、人が多くやめるような環境
だからこそ人手不足であるケースがかなり多いでしょうね。もちろん賃金もそれに応じて低くなってしまうと思います。

そういう場所から徐々にレベルアップ、これは専門性がすごく必要な仕事でない限り難しいのが現実だと思います。



今回の話をひとつ抽象化してまとめると、まず外面現実の嘘と、内面心理の嘘という視点があると思います。

今回は、「仕事がちゃんと出来る人間だ」と認めてもらうために、「過去の外面現実」について嘘をつきました。
ハイブリッド心理学の考えでいうと、内面心理については「自己開示」はしない事になりますよね。
つまり、あの時、どう思ったか?これを偽る事は問題ではないと思っています。
あえて開示しない事は嘘ではありません。もし、相手の方に質問をされた場合に、そうではない事を答える事は
一応嘘になりますが、それも仕方ないでしょう。
それを正直に言う事が、目的のためにならないとしたらです。

しかし、外面現実についてはやはり嘘はつかない事が望ましいという事になると思います。
それでもなぜ外面現実について嘘をつくのかといえば、内面心理についての嘘を支えるための証明、としての役割が
あると思います。思考や気持ちは、エピソードとして行動に現れている。そのズレを作らないために、過去の外面現実についても
嘘をつかなければいけない。そういう風に思ってるのに、行動が伴っていないじゃないか、あるいは反対の行動をしているじゃないか、と。



そして、行動の選択肢については

@土下座するくらいのつもりで謝りに行く。事実を述べ、嘘をつく必要があった理由も話す。しかしその上で、就職活動を通じて自分は仕事をしていける自信を持つようになった、
  述べた自分の性質については事実である、周りに負けないように本当に努力します、と伝える。その上で内定取り消しという判断になればもう仕方ないと思っている、と伝える。この選択肢をとる場合、取り消しになった場合に備えて、嘘をつかないでこれから他の会社で内定をとらなければいけない。

A入社して、ある程度仕事が出来るようになった段階で、死ぬ気で謝る。その代わり、本気で会社に貢献しますので、という姿勢で。

B必要な嘘だと割り切り、とにかくそこの部分の話が深掘りされないようにする。
  深掘りされた場合は矛盾のないエピソードを述べるしかない。



@を選んだ場合、芋づる式に自分の弱点について開示する事になってしまいそうなのが怖いです。
なぜそういう判断をしたのか、といった内面的な部分については、「仕事をする上で問題がないレベル」にやはり
脚色して準備する必要はあるのかなと思います。
しかしもう@を選びたいくらい申し訳なさと罪悪感で占められています。特に、人事の方が本当に優しく興味を持ってくださったからこその罪悪感でも
あると思いますが。これを抱えながら、研修や業務のための勉強をこなしていくのは非常に苦しい気がします。


最近本当に「未熟な自分でもいいから、なんとか世の中で自分を維持しながら成長したい。日の当たる場所にいたい、少しづつでいいから成長したい。」
という思いを本当に感じます。

今からでも、過去に精神的に調子を崩した事を開示しても受け入れてくれる企業を今の自分のレベルだととらえて、
なんとかそこを探す方がいいのかな、とも思ったりします。
しかしやはり懸念材料になるのは、そういう場所では成長が頭打ちにになり、自分の中にある他の部分の長所を活かしきれず、転職のスキルアップも難しい未来が待っているのではないか、という点です。
あるいは、そもそも人手不足でブラック要素の強い企業であり、体力的にも精神的にも負担が強くなってしまうのではないか、という事です。
実際、新卒の就職活動では、多少の嘘は企業側も調べようがなく、なんなら「嘘だとしてもつらぬきとおせる能力」も一つの
評価になるとか、内容よりもその場での印象が大事だとか、そういう話も聞きますが、
中途になると前職の履歴を偽ったりする事はすぐにバレてしまいますし、言い訳も困難であるという話も聞きます。

つくべき嘘の線引きについて、どうとらえたらいいのかヒントを頂けると幸いです。


 
「ついてもいい嘘」の原理原則^^ / しまの
No.1123 2015/10/06(Tue) 22:29:43

手短早めに^^。

「ついてもいい嘘」の原理原則

これはまあ結論から言えば、

>B必要な嘘だと割り切り、とにかくそこの部分の話が深掘りされないようにする。深掘りされた場合は矛盾のないエピソードを述べるしかない。

いいんじゃないのーといのが僕の感想
・・と他人ごとのような安直コメント(^^;)から入りましたが、実際のところそこに重要ポイントがあります。

つまり「感情と行動の分離」実践として、
・外面行動については、他人ごととして客観的に考え得る「原理原則」明確にする
・その上で、主観的内面感情解きほぐし向き合いをする
という両面取り組み必要になる、ということです。

「嘘」についての原理原則を言うなら、まず嘘はつかないのが原理原則です。「つくべき嘘」などどいうものはない。
ただ、「ついていい嘘」ある^^;
違いが良く分からないという声が聞こえてきますが(幻聴ではなく空想です、と断る必要もないでしょうが^^;)、要は、「こういう場合にはこういう嘘が良い」などという積極的なものなどなく、嘘はつかない行動法というのがあらゆる場面一番手になるのであって、あくまで、行動法がうまく取れない窮余の策として、「ついてもいい嘘」出てくるという

そんな話はさておき、「ついていい嘘」原理原則は、2条件満たすものです。
1)一生ばれない可能性が十分にある
2)万一ばれても大きな問題は起きない

そうであれば、まずは「ついていい嘘」と言える。
この点、最近話題VWディーゼル車問題は、この原理原則を考慮できなかった、極めて愚かなものだったということになるでしょう。不正ソフトという現物があるのだから、いつかばれる可能性十分あり、万一ばれた場合嘘をついて避けようとした不利益(車の売り上げ低迷)はるかに超える損失を、嘘をついたことへの社会経済的非難として生み出すことになってしまった。

上記で書いて頂いたものについては、少々ボーダーラインにもあると感じます。なら、まずは上記原理原則内に収まるようなものに、万一今度その話が出る出るようなら全力を尽くして補正するしかない^^; 嘘としての重大性を、ミニマイズするように^^;
その点、こっちから自発的に「重大な嘘をついてしまいました」と言うのは、相手が内容を問わずに拒否感情反応を起こして聞く可能性もありますので、あまり得策ではありません。

そこで重要なのは、より正確に、問題の程度と性質を見極めることです。
つまり、就職にとってクリティカルな条件要素だったものについて、嘘があったのであれば、問題が大きい資格や、学課履修状況など。
一方、参考情報程度のものについての嘘があった場合話が蒸し返された場合に補正が可能あり得るサークル活動での活躍度など。
このどっちなのかによって、適切な対処行動法正反対とも言えるほど違ってくると思います。
一言で、前者場合内定取り消し覚悟で「自首」することです。それが人生で禍根を膨張させない最善策です。
一方後者場合「やりすごし方」ベストを模索するという自分からどうこうするより、相手の出方待つ相手がもう取り上げなければ、一切触れずに時間が過ぎるのを待つのが最善、と。相手の取り上げ方に応じて、内容を訂正し誤るというのも必要になるでしょう。


過去の精神的不調は人に説明する必要なし

まずはそんなところ基本的な考え方として、加えれば、過去の精神的不調正直正確に伝える必要はない、というのが僕の考えです。
なぜなら、正確に伝えようとしても、相手は正しく理解できない可能性があるからです。誤った先入観で解釈するかもしれない。
さらに言えば、そもそも正確にどういうことだったのか、本当に正確なことなど誰にも言えないのが、心の不調という現象です。だから、そこから自分で回復しようとする人間は、それについて他人にはもう何も説明する必要などないのです。

ですので、「うつ」による休学期間であれば、学校の就職相談も言ったように、多少ストーリーを作って話をぼやかすのもあり
精神的不調を隠すことに問題があるのではありません。事実ではない話を盛りすぎることには問題がある。

この原理原則をまずはしっかり踏まえて検討してみて頂ければ、というのをまずはアドバイスとしましょう。その線再度具体的ポイントについて何かあれば、僕としての個人的意見などもさらに言えるかと^^。


>こちらのスレッドで答えて頂いたように、プライベート場面や、和やかな談笑などが上手くできない事を受け入れられれば、実はある程度社会で活躍できるんじゃないかと、そう思えるようになりました。
>最近本当に「未熟な自分でもいいから、なんとか世の中で自分を維持しながら成長したい。日の当たる場所にいたい、少しづつでいいから成長したい。」という思いを本当に感じます。

大きな前進成長じゃーないですか^^。そうしたプラス側面だけ外との関係取り上げることです。マイナス側面自分の中だけに収めておけば良し^^。
社会の現場も、健康な人そうして動いています。


(No Subject) / SF
No.1118 2015/09/20(Sun) 17:52:00

こんばんは、島野さん、認知行動療法の本、弟に買って来てもらいました。ですが、今の私の頭では理解が出来ません。アドバイス、ご返答いつもありがとうございます。それと質問があります。負のエネルギーみたいなのが身体中に流れます。タコみたいになって体をくねらせています。これは他人には迷惑をかけていません。疲れるけどそうせずにはいられません。これでいいんでしょうか。それと精神錯乱を起こします。これも流せばいいんでしょうか。認知行動療法の方はちょっと頭が回る時に読んで見ます。


 
「感情の揺れには一切関わりないもの」を持つことから^^ / しまの
No.1119 2015/09/24(Thu) 10:36:36

認知行動療法については、自己取り組みが難しい場合に、医療援助受ける際お勧めになります^^。できるだけそれを扱っている医療機関当たってみるよろしいかと^^、ということで。まああまり数がないのが難点かもですけどね。

負のエネルギーなり精神錯乱なり、まあ「流す」しかないと思います^^; もちろんそれを行動化しては生活破壊になりますし、意識的努力で解消霧散させようとしても、ストレスが増すばかりにもなりがち。で「ただ流す」

重要なのは、そうした感情の揺れには一切関わりなく影響を受けないものとして、生活外面で保つもの持っていくことですね。
まずは3度の食事の時間といったことから。それを、病院内さらに自宅での生活の場面材料広げていく、というのがまずは取り組むいいものになります。
そうした「感情の揺れには一切関わりないもの」として安定させることで、荒れ狂う波「ただ流す」ことができるようになる、という次第です。

そうして、まずは安定した生活のリズム得るというのを考えると良いかと思います。そこまで行くと、そこから先がまた大きく広がりますので。まそれはまたその時に^^。


(No Subject) / SF
No.1116 2015/09/12(Sat) 20:09:40

こんばんは、島野さん、いつも訳がわからない事に返事してくださいましてありがとうございます。


(No Subject) / SF
No.1111 2015/09/10(Thu) 18:40:33

島野さん、こんにちは、しぶとく、やっています。とはいっても薬でですが。もうダメかと必死で病院にたどり着き、入院か薬を増やすかを迫られたと思います。島野さんのアドバイスを守れませんでした。残念です。一歩進んで三歩さがる。今は少しだけ冷静です。最近なんですが頭がおかしいんです。何もかも訳が分からなくなる現象が起きます。分からないんです。分からないんです。何なのですか。気分的にはよくありません。申し遅れましたが46才、男性、離婚しましたけど子供が2人います。状態が悪く逢うことも出来ません。ちょっと失望しています。アドバイスは毎日読んでいます。アドバイスがあったらお願いいたします。


 
一歩一歩^^ / しまの
No.1115 2015/09/12(Sat) 18:13:29

僕からのアドバイスごくざっくりとしたものでしたので、お気になさらず^^。
とにかく一歩下がったまた一歩ということで、まずは落ち着ける状態見つけて頂ければと。
そこからまた次の一歩として、アドバイスしたように、「はっきりした外面問題がなければ流す」というのに取り組む良いかと思います^^。


Re 世間話 / ミズ
No.1108 2015/09/05(Sat) 10:26:57

 自分と相手の関係により、どの位会話を持つか考えられます。その対応の中、相手の基準もあり、あの方とは、距離を持ちたいと考える一つに、仲間はずれなどもあるように思います。
 学生、社会人の中でも、仲間はずれ、いじめなど、相手が困るようなことを考え、自分の思いどおりに事を運ぼうとする方がいます。

 そのような方とは、自分にとって大切な相手としての会話を持つという以外に、仲間はずれにならないために、世間話を含めた会話を持つように、している人もいるようです。

 相手の対応だけではなく、自分はどういう対応を考えたいのかであり、そうした中で
 さまざまな人への自分なりの、より安定した態度になるということでしょうか。


 
行動法の選択肢を用意して考える^^ / しまの
No.1113 2015/09/12(Sat) 17:09:34

>相手の対応だけではなく、自分はどういう対応を考えたいのかであり、そうした中で さまざまな人への自分なりの、より安定した態度になるということでしょうか。

そうですね。相手への対処法があり、自分としてはどうしたいか。
そこで「相手への対処法」としては、ハイブリッド心理学からは「3種類の行動学」というのを用意しています。
=====
・建設的対人行動法 ・・・ 共通目標共通利益のみに着目して行動する
・原理原則行動法 ・・・ 相手人物に感じたことは一切言わず原理原則について話すという行動法
・ウインウイン行動法 ・・・ 相手を勝たせて自分も勝つという行動法
=====

というもの。

ちょっとこの言葉だけでは分かりにくいかと思いますが、まずは、
・相手への対処法の選択肢を何種類か用意して、自分としてはどうしたいか、と検討する。
というものになる、とまずは頭に入れておく良いかと思います。

「3種類の行動学」についてより詳しくは、今後『詳細情報インデックス集』ら詳しい説明に行けるよう整理する予定です^^。


 
Re: 世間話 / ミズ
No.1114 2015/09/12(Sat) 18:10:11

「3種類の行動学」が言えるとのこと。

 相手への対処法の選択肢を何種類か用意して、自分としてはどうしたいか、と検討する。

『詳細情報インデックス集』から、整理予定と。

 ご意見、ありがとうございました。


(No Subject) / こたろう
No.1104 2015/09/02(Wed) 19:19:54

前回のスレッドでは、「分かり合い認め合う」価値観に立ったまま、攻撃感情を内面で湧きあがらせて、かつ外面行動では建設的である事はありえない、というお話と、
急務の課題としてどのように振る舞うか、という点は具体的な場面ごとに検討し、
感情強制にならなければどんなバリエーションもOKという前提で考える、というレスを最後に頂きました。


現在就職活動中で、そちらの方に時間をとられ、価値観選択か・・・結局また最初から論理的思考の所を積み上げていかなきゃいけないのか・・・との思いで、なかなか前進できていません。


そんな中、避けてきた「和やかな談笑のある人の輪」の具体的場面が久しぶりに
訪れ、自分としては恒例の、具合が悪くなって先に帰宅するというパターンになってしまった
ため、前回最後にいただいたレスも通してまた考えてみたいと思いました。

内定者の懇親会で、人事部門の本部長などの役員の方や、仮に入社した場合に教育を担当
される部署の部長さんもいらっしゃる会で、お酒も入った立食パーティのような会です。

相変わらず気を抜くと、他人への興味を失い、死んだ魚のような目で人を睨みつけるような
外面印象になってしまうため、感情演技(とりあえず数時間は持つので強制ではないのでしょうか。)で一定の和やかさを身にまといました。元気いっぱい、みたいなのはもう完全に
感情強制の領域に入ってしまうと自覚しているため、大人しめだけど和やかで、話をよく聞くような印象です。内定者は、全体でいうと明るく、屈託なく初対面でも打ち解け、先輩社員の方にも気軽に話しかけにいくような人が多く、僕としては彼らは恐怖の対象でしたので、
その中でも比較的なじみきれないようなメンバーに近づき、彼らに質問をしながら会話をしていました。興味ありげに話を聞き、いや、興味は実際多少はあるのですが、なじみきれないと判断したメンバーへの強烈な軽蔑感情とふとした瞬間に全く相手の事なんてどうでもいいと思っているような態度が垣間見え、それが見抜かれてしまう恐怖感。いかに健康な心を持っているかを最低限印象として作り上げるか、それに気を使いながら残りの注意で会話をします。実に自然に質問をして、自然体で会話のやりとりをする周りのメンバーに比べて、自分は積極的に話を聞いているようだけど、心は相手に向いていなくて、そしてそれが明確に外面印象としては自然体の人たちと見分けるものができるものだ、と強く感じました。

面接の中で、あるいは内定後に業務内容について先輩社員に質問をする、というプログラムの中では、業務についての具体的な質問など、次々と思い浮かぶのですが、
こういう和やかに談笑している場になると、人事部長さんや教育部長さんと何を話せばいいのか全然わかりません。というよりは、談笑するような会話は出来るにはできますが、それをする事への徒労感みたいなのがひどくて、入って行けませんでした。
おそらく途中で減速してバッテリーが切れたような状態になるのが自分でもわかっていたからです。

そして、これもまたいつものパターンなのですが、最初になじみきれないと判断したメンバーが、お酒が入ってきてリラックスしてきたのもあり、明るく積極的なグループともコミュニケーションをはじめて、全く入って行けなくなります。
どこを見回しても、人の輪ができていて、ガハハと豪快に笑う声が聞こえ、
先輩社員には「これから頑張れよ、期待してるぞ」というような声をかけてもらっている
他の内定者。僕は、問題解決のために話し合って工夫していく過程は好きですし、その能力を高めていきたかったですが、
その過程に付随するこうした和やかなやりとりのちぐはぐさから結局大学では研究室もサークルも避けてきました。
彼らは大学のサークルや研究室で、こういった場を何度も経験して、
当たり前のように過ごしているだけなんだろうな、という思いです。

完全に行き場がなくなり、食事に夢中なフリをして立ち尽くしながらひたすら食べていました。面接してくださった人事の方に、「入れていないな、彼」と思われるイメージ。偽物に間違えて内定を出してしまったかな、と思われるイメージ。実際、僕は人事の方とも今でもかしこまって接していますが、ほかの内定者はフランクに談笑していて、僕と話す時は人事の方もかしこまったような様子になります。疲労感で和やかな感情を維持するのも苦しくなり、離人感や非現実感と共に、実際に今この姿が人事の方に見られていて、上手くやっていけない人間である事が認識されている事、バレている事が現実である、という事実に冷や汗が出てきました。たまらなくなって、トイレに逃げ込み、そのまま具合が悪くなったと告げ、一応先輩社員には挨拶をして周り、帰宅しました。
歩いていてもフラフラしてしまうような状態だったので、具合は実際に悪くなったのですが。



これが一応、場面になります。
正直、社員の方の印象が現実でどうなっているのかという点はよくわかりません。
具合が悪くなった、朝から少し体調が悪かった、という嘘をついたので、
もともと人と気軽に打ち解けられない、同期とも打ち解けられない、という印象を
持たれる事は避けられたかなとは思います。
現実対処としても、帰宅できた事は連絡でき、心配をかけてしまった事をお詫びも
出来たので、とりあえず内定が取り消される事はないと思います。
ただ、具合が悪くなったことを、こういう場が苦手だからだ、という可能性を感じられているということはありえると思います。


誰と話していても強烈な見下し感情と、お前の事なんてどうでもいいという思いが沸き、
疲弊します。


今回の件を、いままでいただいたアドバイスや学びから判断すると、
●自分にはこういう環境は無理だというのが現実で、現実に自分が続けていける
 環境を選ぶ必要がある。

という視点がまずひとつあるのかもしれないです。実はITの会社であり、流通を中心とした
システムを作るのが業務なのですが、比較的上流の行程が多くて要件定義や設計に必要な、
お客さんとのコミュニケーションをとる力があるかどうかを一つのポイントにして採用をしているのかな、と感じました。IT業界はおとなしくて、なかなか人と積極的に打ち解けられない人も多いイメージだったのですが、それに合致するのは特殊なプログラムを組めるようなスペシャリストや、下流行程の方なのかな、とも思いました。
しかし、今後海外に開発部分は投げるような流れもありますし、上流の方が人材としても重宝されますし、実際に目的を持って思考する能力はある程度あって伸ばしていけるとの自負があるので、上流の会社でやっていきたいと考えています。

談笑が出来ないから社会に出られない、っていうのはおかしい、まずは業務内容についての
会話が成立する事が出来ればいい、といったお話を以前もしていただきました。
社会に出る、どんな仕事でもいいから仕事をする、という意味でいえばそうかもしれませんが、待遇もよく、お客さんとのコミュニケーションが必要になればなるほど、会社としては談笑が出来るような人材を欲しているのではないでしょうか。
となりで働きたいような、かわいげのある人物。
最初はそういうコミュニケーションが要求されないような場所を選べばいいのかもしれませんが、そこからレベルアップしていったり、異分野に挑戦したり出来るようには社会って出来ていないと思ったりもします。加えて、自分は色々と思考してアイデアを出して、実際に企画していったりといった仕事をゆくゆくは目指して、「生み出す価値」によって自尊心を磨きたいという思いがあります。そういう仕事になればなるほど、業務が円滑に進むために普段からのコミュニケーションや、人として好かれている事が必要とされるというのがついてきます。

ひたすら真面目にやるべきことをこなしていくような仕事で、自分は生み出す価値を感じられるとは考えられないですし、そうなると精神的にも円熟できず、ますます転職などで前進していく事ができなくなるのではないか、と思い、暗く沈んだ気持ちになります。

これについては、以前に「プラス材料によって検討すればおのずとマイナス材料を回避するような結果に大抵なる。」

というお話を頂きました。僕が自分のプラス材料だと思っているのは、物事を掘り下げて考えたり、問題解決のために工夫をして、今までにない発想で
アイデアを出したり、お客さんのニーズや感じている問題点についてじっくり話を聞いて整理したりできる点です。
これはプラス材料ですが、これらを活かそうとすると、マイナス材料が必ず足を引っ張ります。
全然、回避するような結果になっていないです。


●仕事上コミュニケーションがかなり必要な場合でも、プライベートな話や雑談は一切なくて大丈夫。

この視点ももしかしたらアドバイスとしてあるのかな、と思いますがどうなのでしょうか。
僕はこれはやっぱりありえないと思います。出世するのも、結局気にいられているのが大前提だという話をよく聞きます。楽しみの共有という視点でいうと、心がふさぎ込んでいて、楽しいという感情が本当に薄いので、孤独を受け入れたら上司とも同期ともぱったり話さなくなると思います。
仕事自体は、知的に商談や議論をして結論を出していく事ももちろんあると思いますので、
それを繰り返していく事によって自尊心も成長し、好きなものも増えて、気軽な話でも楽しめるようになるのかもしれません。

しかし、そこに至るまでにもやはり雑談、談笑、必ず要求される場面が大量に発生すると思います。コミュニケーションが苦手だけど、ひたむきに仕事をする、いわゆる可愛がられる一生懸命な人もいますよね。僕の場合は、強烈な相手への見下し感情が隠しきれなくて外面に出ていると思いますし、知的な議論になると率先して比較的饒舌に話したりもしますので、そういう風にも思われないと思います。


この内容に沿った少し古いスレッドの島野さんの返信を引用させていただくと、

あまり重要なことではなく、あまり気にしない」になると思います。「休憩時間」「飲み会」であれば。

実働時間、業務時間において円滑なコミュニケーションを持てることは重要になりますね。



ただしそれは「愉快」というのとはちょっと違うと思います。趣味の集いだけではなく本格的技術向上などを求めるスポーツなど団体行動も含め、「仕事」というものであれば、「愉快」を求めるものではなく、「達成感」や「成果」を求めると思います。それは基本的に厳しいものであり、愉快になれるというより、困苦の克服を共にするというものが団結への方向性になると思います。

それが「健康形」であり「成長形」になりますね。


になるのかなぁ、と思いますが、業務時間に円滑なコミュニケーションを持てるために、レクリエーションや飲み会を設ける会社も
大量にありますよね。実際、そうやって相手の性格や趣味嗜好についてわかっている方が、仕事を振りやすかったり、頼みやすかったり、
困った時に気持ちよく一部の仕事を引き受けてくださったり、するのだと思います。
というか、そういう話をされます。

「達成感」や「成果」のための具体的な話し合い、これは出来ます。和気あいあいとしたやりとりが出来ない代わりに、こういう話をして、
間を埋めようとすることが多いです。そうすることで、「気持ちいい可愛い後輩」にはなれなくとも、「立派」である事によって認められておきたいという
心理があると思います。ただ、「達成感」や「成果」も、業務内容しか話すことがないような同僚とはなかなか共有できないのではないか、と思います。
実際ソフトウェア系の会社ではプロジェクト前にキックオフ飲み会があったり、打ち上げがあったりもしますが、
これは「愉快」をベースとして作る事でプロジェクトを円滑に進める事が目的ではないでしょうか?

ドライな社風の会社を選べば、そういうスタイルでも浮かずにすむと思いますが、実際には手厚く後輩を指導してくれたり、わからない時に
質問がしやすい雰囲気の会社はそうではない社風が多い気がします。いくつかそういう会社にも内定を頂いているのに、あえて殺伐とした職場を選ぶというのもどうな
のかなぁ、と思いますし。

また、お客さんであっても、いきなり業務の話をするのはヘンですし、それしか話さないのはおかしいと思います。
小売業のように、毎日違う方と接する場合は不自然ではないですが、ルート営業や、相手の業務を長い期間をかけて把握するITの要件定義などでは、
同じお客さんと何度も何度も対面するため、業務の話しかしない人は「距離の縮まらない人」として敬遠されるのではないでしょうか。


●現実的な自己像で生きていくしかない。

この視点でいうと、同期や人事の方から「あまり積極的に人と交われない、自意識過剰の人。どこか上から目線で壁を作られている感じがするし、積極的に打ち解けようという姿勢もない。誘いづらい。でも、プレゼンテーションや議論については問題なくできる。」という
風に思われる立場に甘んじる、という方向性になるのでしょうか。コミュニケーション能力が未熟だけれども、かわいげがある、この場合はいいと思います。しかし僕の場合は、会話でも主導権を握ろうとする感じや、少し相手より上の立場に立とうとするような態度で、実際この会で一人の内定者から「もう働いているような落ち着きを感じる」といわれました。一つ前のスレッドで相談させていただいた

後者は「俺」という一人称です。前者は力が抜けながらもすっと背筋が伸びていて、

後者は首を少し出して腕組みをしている感じです。


こっちの自分が外面印象としては出ていたと思います。いつか「自意識過剰」で「挙動不審」な自分がみられるくらいなら、
この「落ち着いた大人な自己像」を相手の中に生んでしまうのはむしろその落差が怖いので、最初から弱弱しい自分でいったほうが
いいのかと思ったりもします。最初から挙動不審である事と整合性がつくような振る舞いをしていれば、落ちる恐怖におびえる事もない。しかしあえてそうするのもまたおかしいのかな、と思ったり。
少し偉そうな雰囲気を出してしまう事自体が、「未熟」であり、現時点での現実的な自己像だと考えたほうがいいのでしょうか。


長くなりましたが、アドバイスの方をお待ちしています。


 
「プライベート談話場面恐怖症」の克服アプローチ^^ / しまの
No.1110 2015/09/09(Wed) 14:23:26

これは先にコメント返したみどりさん質問No.1103トピック)と悩み場面構造同じで、問題程度ちょっと深刻なものと言えるかもですね。
「プライベート談話場面恐怖症」などと呼べるかと^^。

基本指針同じで、
・仕事場面でのコミュニケーションスムーズさ仕事そのものへの習熟と熱意によって支える。それを足場に、仕事から一服置いた場面でのコミュニケーション人それぞれであり、それに接しながら、人生の歩みを通して自分なりのもの模索していけばいい。
というものになります。
ただしそれが「どんなものが良いか困惑」といった程度を超えて「その場にいられなくなる」といった問題になると、ちょっと必要な視点がやはり一段階本格的な心理学のものになると思います。
つまりそこにあるのは、どのようにゼロからプラスを増やせば、という問題ではなく、はっきりマイナスのベクトルが働いているという問題。それを解きほぐし解消するという取り組みになると思います。

その指針手短に、外面視点内面視点2つ
どちらにおいても基本指針同じ「健全形」を知ってそれを基準に取り組むというで、外面行動法模索内面解きほぐし行います。


1)外面視点
「仕事そのもの以外の談話場面に、どのように参加すればいいか」について、まず健全形理解します。
これは一言で、「多少は業務の一貫として、明確な参加不能理由がなければ参加する」というものであり、ただしそこでの「盛り上がり度や興味の入れ込み度はあまり問われない」というものだと言えます。
基本参加する。でないと、そもそも仕事場面に入るための入り口いけなくなってしまう可能性がありますね。そこで仕事以外の話どう盛り上げられるかは、もう人それぞれの好みと性格で、その人に合う姿勢し。
ただしもちろん、攻撃的などのマイナス方向ないものとしてです。

もちろん、仕事そのもの以外会話で、どう回りに好かれ上の人からの寵愛を受けるかといった煩悩(^^;)を持つことからスタートするで、まず言って我々仕事場就くのですが、これはやはり、「楽しみ喜びの共有」としてそれができるなら積極的にできないなら孤独を受け入れるという指針です。それしかない。そのにおいて、自分なりの位置を模索するのが人生の道のりです。

そうした自分なりの姿勢と位置模索するための、望ましい内面姿勢や実践一方の話になります。

外面視点として、

>●仕事上コミュニケーションがかなり必要な場合でも、プライベートな話や雑談は一切なくて大丈夫。

は、「一切なくて大丈夫」仕事場も、場合によってはあると思います。ただしこれを「仕事をするにおいてはどんな仕事場でも」とするのは、ちょっと無理があるかと^^;
どの程度プライベート談話が求められるかは、こっちで決めることはできず、向こうの状況によります。そこから、自分なりのもの模索マイナス方向出なければ「自分ではほとんどそうした話はしない」でもその仕事場いられなくなるということはないはずです。


2)内面視点
まずは上記の、外面の健全形理解前提です。でないと内面解きほぐし再方向づけ正しくできない
で次に、内面の健全形を、これもまた解きほぐし前提として、理解取り組みます。

内面の健全形とは、ずばり、「どう見られるか」という「外からイメージ」によってでなく、「自分は何をしたいか、何ができるか」という内面エネルギー基準に、自分の行動法を決めるという姿勢です。
もちろん、外面結果として攻撃的などマイナス不可、また「楽しみ喜びの共有」少なければ好かれる度合いも減るという事実受け入れるという、外面において守るべき最低ラインと覚悟しっかりとしたでです。

より具体的に、書いて頂いたもの材料に、こうした態度が取れるといい、というのを書きますと、

>この視点でいうと、同期や人事の方から「あまり積極的に人と交われない、自意識過剰の人。どこか上から目線で壁を作られている感じがするし、積極的に打ち解けようという姿勢もない。誘いづらい。でも、プレゼンテーションや議論については問題なくできる。」という風に思われる立場に甘んじる、という方向性になるのでしょうか。

という「こう見られるイメージ」は、「方向性」ではなく、「ただ流す」対象になります。それはただ心に浮かぶ空想であり、それを最終材料には行動はできない
ですのでそれはただ流すことをして、
「で、自分は何をしたい?何ができる?」自分に問い、内面のエネルギーを模索して、自分なりの行動見つけていく。
という姿勢です。上記1)外面視点→2)内面視点という向き合い手順にてです。
この積み重ねです^^。


深い妨げへの取り組み
基本的な取り組みはそのようになるのですが、書いて頂いた状況を見るに、内面のエネルギー模索しようにも、それが妨げられている大きな問題がある様子
それへの取り組みが、まず行き当たるものになるかと。

一つごく大きな方向性で、上記引用部分についての続きになりますが、

>●現実的な自己像で生きていくしかない。

という「自己像で生きる」という姿勢そのものの、根本転換重要になると思います。
上述の通り、「自己像」「内面でただ流すもの」にしかなり得ませんそれによって自分を方向づけようとするのは、「感情操縦」「感情強制」という病み直結してしまいます。
「こんな自分で」という「外からイメージ」を、場合によっては補助的に使うのもいいですが、あくまで補助輪です。それだけで行動する生き方を続けると、強度のないその補助輪折れて、転んでしまいます。
それを、「自分は何をしたいか、何ができるか」という内面エネルギーをしっかり主輪にして生きる姿勢へ。

これは手短に書いていますが、極めて大きな転換になります。「自己像の崩壊」というのを通らないと、それが見えてこない面もある。
まあ逆に言って、自分がもう崩壊したと思えるような感情に、むしろ積極的に目を向け、その底に芽生える内面エネルギーに目を向けるのがいい、とアドバイスできるかと。

あともう一点は、内面感情について、はっきりとマイナス方向を向いたものについて、それをただ感じ流すのではなく、自分の価値観としてどう位置づけるのか取り組むことです。
たとえば、まずは「その場にいられなくなる」という状態とは自分がどんな心と身体生理状態になったということだったのかについて、しっかり自己把握することが必要
そしてそれについて、自分としてどう感じるか。オーバーな反応だった感じるか。それともそれしか感じられないのか現状か。それらの合理性を自分自身でどう考えるか。
また、

>なじみきれないと判断したメンバーへの強烈な軽蔑感情

といった動揺起点のようなマイナス感情について、自分自身でどう向き合うか。書いて頂いた内容ではどんどんその後の流れに意識が転げ落ちて(^^;)いく感じですが、一番向き合い意義を持つのは、そうした起点部分マイナス感情です。
自分はどんな理想像価値観において、他人への軽蔑を感じたのか。それは自分として合理的な理想像価値観と考えるか。
といった向き合いになるでしょう。

そうした価値観向き合いになってくると、また追加で入れて頂いた質問重なってきますね。引き続きコメント入れますので^^。
ともかく、克服アプローチ全体としては上述全体しっかり踏まえないと歯が立たないと思いますので、まず全体をぜひしっかり把握して頂ければと思います^^。


(No Subject) / みどり
No.1103 2015/08/28(Fri) 18:14:59

しまのさん、こんにちは。
職場での世間話について困っています。

私は世間話などの会話が苦手で職場では喋りかけることはしません。
話を振られたら答える程度です。
それが精一杯だったのもあります。

ですが最近そういった会話がスムーズに仕事をする上での潤滑剤や、自分がリラックスして仕事するための大事な要素なのではないかと感じはじめました。

そこでアドバイスをいただきたいのですが、様々な人に対して他愛もないコミュニケーションを取るために必要な要素を教えていただきたいです。
具体的な方法はありますか?

世間話をしようとした時、
その場にそぐわない話をしてないか、会話が続かないのではないか、会話がつまらないのではないか、などの不安でやめてしまう事が多いです。
私が振った会話内容に、私自身が興味がない時もあります。
また、人の中にいると、緊張でこわばったり、ひどいと体調を崩してしまいます。


 
仕事場での「世間話」への姿勢^^ / しまの
No.1105 2015/09/03(Thu) 13:40:36

う〜んこれはどんなアドバイス返そうかと悩んだのですが、
単刀直入に言って、

>ですが最近そういった会話がスムーズに仕事をする上での潤滑剤や、自分がリラックスして仕事するための大事な要素なのではないかと感じはじめました。

というその発想が、まさに自分を追いつめているのではないかと^^;

仕事スムーズにさせる潤滑油は、まずはその仕事そのものへの習熟熱意になるでしょう。仕事中世間話雑談は、場の空気を和ませる程度であれば歓迎されることもあるでしょうが、度を越えたものはもちろん仕事への妨げになりヒンシュクを買うことにもなるでしょう。
和やかな雑談というのは、リラックスするために必要というよりも、に、リラックスすることで、その適度なものが見えてくる、おまけ程度のものと考えるのが正解だと思います。最初からそれを必要としている仕事場というのは、皆が仕事への熱意をあまり持っていないとそうなるかもしれませんが、となるといずれ仕事場そのものが存続できなくなります。

ですので、「和やかな雑談が必要」と感じるのは、まず緊張不安があって、それが消えたイメージを思い浮かべるとそんなものが浮かぶのだと思いますが、イメージだけ一人歩きさせて自分に押しつけるのは不合理と心得、まずは仕事そのものに集中することで緊張不安を克服するという正攻法で向かい、それによって得る安心感リラックスによって、自分にとって適度な雑談というのはどんなものか探していく、という姿勢あたるのがお勧めです。

そうした順番で、

>様々な人に対して他愛もないコミュニケーションを取るために必要な要素

について言えば、ただ「それが好きであること」になるかと。これは人それぞれです。興味もない話を、無理にする必要もない^^;
まあ確かに、ざまざまな人他愛もない会話できることが、あまりにも重要に感じる人生の時期というのはあると思いますが(僕も経験済み)人生重要なのは、
・自分の能力の発揮というものをいかに見出すか、そして
・「さまざまな人」とではなく「自分にとって本当に大切な相手」といかにコミュニケーションできるか

メインストリートがあり、そこに向かう成長の中で、「さまざまな人」への自分なりの、より安定した態度培われる、という長い目であたるのがお勧めになります^^。


 
Re: 感想 / ミズ
No.1106 2015/09/04(Fri) 19:24:16

  島野さんの意見は、説得力のある、素敵な内容で、私も学ぶことができました。


 
Re: / みどり
No.1109 2015/09/08(Tue) 02:12:26

ひとつひとつの疑問に納得できる回答をしていただいて、嬉しいです。また、考え方の参考になります。ありがとうございます。
仕事でのコミュニケーション能力は、結局仕事そのものへの習熟と熱意に関係しているのでしょうね。

大切な人とのコミュニケーションの重要性は、ここ最近実感しています。
近しい人ほど感情的になってしまい、それで関係にヒビが入り後悔した出来事がありました。
それからの人間関係にハイブリッド心理学は大変参考になりました。感謝や思いやりが、人と接する時の感情の一部となりそれが徐々に強くなっているような気がします。(恐怖は依然存在しますが)
辛いときでも、不完全ながらも建設的であるように努めた事が、役に立っています。感情の強制しか知らなかった頃があったので、感情を野放しにしてても勝手に変わっていくことを体験したときは不思議でした。


(No Subject) / SF
No.1101 2015/08/27(Thu) 19:38:35

島野さん、読まれると思うので、先程のメールは相当、失礼で無駄な内容だったのでしょう。本当にお詫び申し上げます。すみませんでした。


 
Re: / しまの
No.1102 2015/08/27(Thu) 20:04:52

No.1098投稿の話ですかな(直メール等は何も来てないです・・)。
ノープロブレムです。僕として感じたのは、そんなアドバイスできますという、それ以外にはありませんので^^。


(No Subject) / SF
No.1098 2015/08/24(Mon) 15:18:13

島野さん、いつも本当にありがとうございます。でも、感情を流すことと薬のこと以外は理解が出来ません。正直なことをいうと自分はもうダメだと思っています。それなのに相談するなんて生きてるなんて矛盾しています。薬は1種類、ぬきました。何も出来ませんが精一杯です。
神経症のことですが、音と声に対し、うるせえクソという感情も流すようにした方が良いのでしょうか。頭おかしいんですがおかしくなりそうです。きついです。みんな、悪気がない、ただの生活音です。弟の部屋が近くにあるのですが私の部屋よりは静かです。逃げも大切なのでしょうか。でも、逃げたら自分の部屋に帰れなくなりそうです。分かりません。
矛盾していますがなんとかまだ生きています。何かありましたらアドバイスをお願いいたします。そして、いつも本当にありがとうございます。


 
じっくり取り組みを^^ / しまの
No.1100 2015/08/25(Tue) 21:58:04

感情で駄目と決めつけず、外面問題一つ一つじっくり解決していくことで、やがて感情も穏やかに安定してきますので、大丈夫だと思いますヨ^^。

>音と声に対し、うるせえクソという感情も流すようにした方が良いのでしょうか。

これもアドバイスした通り、「外面問題があるもの」「はっきりとした外面問題がない悪感情」分けるということで、生活音の範囲であれば後者ということで、「流す」で良い、ということになると思います。

ぜひまずは今回アドバイスしたものを、に書いてに貼って毎日眺め、どういうことか考えてみるというに、時間をかけて理解に取り組むというところから始めて頂ければと思います^^。


近況 / book
No.1088 2015/08/11(Tue) 21:56:02

2008年頃に島野さんのページに出会って以来お世話になっています。
2014年にアドバイス頂きました。先ずは仕事がうまくいくようにコミュニケーションをとることの重要性を助言頂きました。

今、ひとまずは外部との関係は良好な状態となっています。
しかし、いつか自分の目標が達成できない状態になるとまたパニックに陥入りそうです。
今が偽りの状態なのか、しかし今の状況で自分の目標に向けて歩めばいいのか。
そんな疑問に駆られることがあります。慎重に歩むつもりではあるのですが。

今現在の追求が不足しているのでしょうか。
単純な質問ですが軽くでも助言いただければありがたいです。


 
「外面目標への姿勢 概説」^^ / しまの
No.1092 2015/08/16(Sun) 10:53:41

「外面目標への姿勢」というテーマになりますね^^。

基本指針としては、やはり「感情と行動の分離」一貫とした姿勢実践ということで、
・感情でものごとを考えるのではなく、冷静かつ客観的に「目標」について判断した上で、自分の「望み」に向き合う。
ということになります。

多少詳細化するならば、3ステップじっくり踏むことが大切かと。

1.「目標」についての客観的な知識と判断(「世の中を見る目」)
その「目標」のために必要となる資質、能力とはどのようなものか。それはどのよう習得達成され得るか。努力だけではどうにもならない要素とはどのような部分か。
などなどについて、感情で考えることなく、冷静で客観的な知識と判断を持つ。必要に応じ、その実際の達成者の言葉から、それを知ることも重要になる。
ただしそうした「成功」というのは、多分時代と社会の情勢によっても変化するものであり、それを見渡す「世の中を見る目」持つことだ、ということになる。

2.「自分の可能性」についての客観的な判断
上記を踏まえ、「自分の可能性」冷静かつ客観的に判断する。
まずは抜け出したい、もしくは心の中に流れても「ただ流す」だけにしたいのは、「どうせ」といった論理性のない悲観論、また逆に「頑張れば何でもできる」といった論理性のない精神論になると思います。
取りたい最大の姿勢は、ずばり、「自分の可能性を数字で把握、予測する」という姿勢です。何割がた行けそうといったレベルか、それともごく数パーセントだけ可能性、さらには、1パーセントの可能性すらないことか。

2.「望み」への向き合い
上記を踏まえ、「どうしたいか?」自分の「望み」に向き合う

ここで、

>いつか自分の目標が達成できない状態になるとまたパニックに陥入りそうです。今が偽りの状態なのか、しかし今の状況で自分の目標に向けて歩めばいいのか。そんな疑問に駆られることがあります。慎重に歩むつもりではあるのですが。今現在の追求が不足しているのでしょうか。

と、ややもやもやした状態について、まずは上記1と2の両方やや不明瞭になっている可能性が考えられます。
目標達成のために必要なものと、それについての自分の可能性判断を、冷静かつ客観的に検討するという作業。また目標達成のためのノウハウ収集十分か再確認どころ。

そしてさらに、そうした基本的検討に加え、その目標そのものが、自分にとって、
a)安全圏で行きたいもの
b)多少の冒険をしてでも行きたいもの
c)「だめもと」で「いちかばちか」に打って出るもの
b)成功失敗という尺度を越えて向かいたいもの

という風に分けられるものの中の、どのタイプのものか。
についても、自分の考えをはっきりさせる向き合い検討行うと良いでしょう。

まずはざっと以上のような視点じっくりと検討頂くと、かなり整理ができると思いますので、検討頂ければ^^。
目標内容に応じた達成のノウハウについては、内容を言って頂ければ、具体的ノウハウそのものとまでは行かないまでも、ノウハウの方向性についてのヒント程度のアドバイスさらにできるかも知れませんね^^。

加えて、上述「世の中を見る目」「自分の可能性」そして「望み」という3セットは、人生の年季を積み重ねる中で変化熟成していくものですので、常に、性急な結論を急がずに、人生を通して向き合いを続けるもの、と腹を決めておくのが良い姿勢だと思います。
そうして安易に安全圏でないもの立ち向かう場面では、それこそ腹を決めるという、「覚悟」という心の働き重要になってくるのが、目標に向かう姿勢キモだと言えると思います。


 
Re: 近況 / book
No.1099 2015/08/24(Mon) 21:11:59

返信頂き有難うございました。現実の把握と自分の能力の客観的評価、それでも自分はどうそれに立ち向かうか、と。
示唆深いお話ですが、少し咀嚼させてください。
また投稿させて頂きます。


(No Subject) / SF
No.1095 2015/08/21(Fri) 16:18:40

こんにちは、薬のことですが今のところ睡眠薬はぬけません。他の薬はたまにチャレンジしたりしますが失敗に終わっています。怒りイライラに負けてしまいます。
気持ちのことですが、もう死んでくれと願ってしまいます。
マイナス感情、マイナス思考、マイナス相念がひどいです。そのまま流すようにしています。
怒りイライラも流すように心がけているのですが、もがき回ってしまいます。本当に自分はダメだなぁと思います。非行動化ですよね。何かアドバイス、コメントがあったらお願いいたします。


 
「外面対処思考」優先の実践^^ / しまの
No.1097 2015/08/24(Mon) 11:07:01

「外面対処思考」優先の実践

前アドバイスNo.1091トピック)が基本的な考え方説明として、のような実践お勧めになると思います^^。

1)外面問題テーマへの「感情」によらない対処思考
うつ的悪感情(「死にたい」など)とりあえず取り組み対象にせず「流す」だけにして、ごく実践的な外面問題への合理的な思考による答えと知恵見出すことに取り組む

2)「外面の答え」を得たテーマに関連する内面悪感情の不合理や無駄への向き合い
ごく実践的な外面問題への合理的な答えと知恵を得た事柄について、答えを得る前に感じていた悪感情がどのように不合理、無駄であったかを検討する。これが、同じような悪感情動揺繰り返さないことにつながっていく。

たとえばこの掲示板への投稿がうまくいかず、ちょっとした感情動揺があったかと思いますが、実際書き込めなかった原因が分かり、問題なく投稿できるようになったその感情動揺の内容どのように不合理、無駄だったか考えてみる。
たとえば、それは「答えを探す前に駄目と決めつけ絶望する」いったものではなかったか、など。

うつ的悪感情も、これですぐに消えるとまでは言えないまでも、結局そうしたもの塵も積もれば山ということで起きているものと考えられますので、まずは上述のように、ごく実践的な外面問題への合理的な思考による答え見出していく取り組みというのを、地道積み重ねてみるのがお勧めになります。

ということで、まずは今感じるさまざまな悪感情動揺の中で、「外面問題があるもの」「はっきりとした外面問題がない悪感情」分けることから始めるとよろしいかと。
そして前者について、上述実践行う、と。


優先順位づけして薬を減らす

今回書いて頂いたでは、

>薬のことですが今のところ睡眠薬はぬけません。他の薬はたまにチャレンジしたりしますが失敗に終わっています。怒りイライラに負けてしまいます。

「外面問題があるもの」になりますね。
前回アドバイスでは、
・「薬物を求めない気持ちになれるかどうか」は検討外として、薬物を絶つという行動を実践する。
としましたが、まあこれもそうすぐには難しいかも知れませんね。

ならば
・減らしていく優先順位づけをして、徐々に減らしていく
というのを検討なさると良いかと。
副作用などの害が強いものから、減らしていく。その優先順位の高いものから減らすことに取り組み、それ以外はまずは自分に許すことにする。
といったやり方でいくと、無理に薬をやめようとするのがまたストレスになり、薬をやめられなくなるといった悪循環防止しながら減らすことに取り組めるかと思います。これも「知恵」ですね。

一方、
>もう死んでくれという感情についてですが、自分の未来が怖いのです。あまりにも感情や行動がおかしく、ひどいため、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと不安になります。
No.1096
は、「はっきりとした外面問題がない悪感情」であり、当面「ただ流す」だけにしておく。

他にも「外面問題があるもの」材料があれば、また具体的アドバイス可能ですので^^。


p.s
つけたし情報など書き込む時は、トピックタイトル右「Res」(レスポンス)ボタンを押して開くフォームに入れて頂くと、ご自身追加欄に入力できまずので、適宜ご利用頂ければ^^。


(No Subject) / SF
No.1096 2015/08/22(Sat) 17:47:41

何か私の専用ページみたいになってすみません。もう死んでくれという感情についてですが、自分の未来が怖いのです。あまりにも感情や行動がおかしく、ひどいため、ああなったらどうしよう、こうなったらどうしようと不安になります。特に犯罪者になったらどうしようと不安になります。それだけは避けたいのです。一度、それで入院しました。運命というのがあるのでしょうか。島野さんの本やブログにも犯罪者のことがでているので気になるところです。今は怒りイライラもカタルカシスかもしれないと思い。なんとかやっています。でもやはり不安です。もう入院は嫌だから、何か起こったら良い運命を祈るだけです。書き加えてすみません。


(No Subject) / SF
No.1094 2015/08/17(Mon) 18:09:54

島野さん、ありがとうございます。まさか私の話に回答してくださるとは思っていませんでした。あまり理解が出来ないので何度も読み返してみます。


(No Subject) / SF
No.1091 2015/08/14(Fri) 19:18:06

やっと出来ました。状態についてですが病状はそう極性障害、はじょう型うつ病、重度の神経症、大うつ病と何がなんだか分かりません。音と声を異常に怒ります。引きこもりです。生活保護です。何がなんだか訳分かりません。そんな状態です。みんなと違うのは薬物依存です。


 
「薬物依存」「怒り」の克服への基本姿勢^^ / しまの
No.1093 2015/08/17(Mon) 15:32:55

お手伝いできる範囲

まずハイブリッド心理学お手伝いできる範囲としては、先日アップ
『ハイブリッド人生心理学とは - 始め方』
でも書いたように、「自己独力・自己取り組みの心理学」ということで、ご自身で取り組まれる場合の「考え方」「対処法」アドバイスになります。
こうすれば必ず克服できますヨ、なんていう安易なものではなく、また治してあげますお任せ下さい、というような手厚い援助でもなく、
・一つ一つのテーマについて、ハイブリッド心理学の考え方を心底から納得すれば、自ずと、ハイブリッド心理学が考える克服へと向かうだろう。
というようなものとして、考え方アドバイスするのがお手伝いできる範囲になります。


基本的な考え方

そうしたものとして、書いて頂いたような問題に対してアドバイスできる、ハイブリッド心理学からの「考え方」とは、
まず大枠としては、
・「気持ち(感情)を変えることで行動を変えることができる」という考え方
ではなく、
・気持ち(感情)を改善すること頼らずに、問題解決と向上への思考法行動法を実践する積み重ねによって、気持ち(感情)が改善されていく。
という考え方取るものです。

つまり「そう極性障害」にせよ「はじょう型うつ病」にせよ「重度の神経症」にせよ「大うつ病」にせよ、感情の動揺と混乱パターンを、そのように分類し、それをなんとか沈静化する薬を飲んで、感情の動揺が静まれば、健全な日常生活や社会生活に復帰できるのでは、と期待する、という考え方の下での「診断名」になると思います。
それに対しハイブリッド心理学では、最初っから、健全な日常生活や社会生活のための、そして心の健康と成長に向かうための思考法行動法とはどのようなものかを探求し、それを実践するというアプローチ取るわけです。どんな「診断」が下ろうとも、取るべき思考法行動法というのは一貫したものだ、と。

というのが基本的な考え方ですが、

>建設的行動とか難しいです。
(No.1090)

とのことで、そうした基本的な話とりあえずいい(?)として、実際の場面問題ということになるかと。


「薬物依存」の克服の考え方

ということで実際場面
「気持ちを改善することに頼らない、問題解決への思考法行動法」を、具体的場面ごと検討します。その積み重ねで、感情も安定し改善されます。
今回書いて頂いた範囲では、

>みんなと違うのは薬物依存です。

との「薬物依存」というのが、まずは「具体的場面」材料テーマになりますね。薬物をやめたいのに手が出てしまう、という具体的場面の問題として検討できるかと。
ハイブリッド心理学としては、また僕自身の人生経験として、「薬物依存」克服というのはあまり専門的に研究した範囲には入りませんが、上記基本的な考え方、そして一般的医学知識から言えるのは、まずは

・「薬物に依存しない気持ちになれること」を目標にするのは誤りであり、それでは薬物依存は克服できない。ということです。
「薬物に依存しない強い気持ち」になれる方法を探しているのであれば、それは誤りであり、克服できないということです。
なぜなら、実際それは不可能だからです。一度薬物が体に入ると、再度薬物を求めるように、脳が変化してしまいます。
ですので、
・「薬物を求めない気持ちになれるかどうか」は検討外として、薬物を絶つという行動を実践する。
のが答えだということです。
あとはこれどう実践するか。そこに多少、医療機関利用とか、専門的な話も出てくるかと。

まずアドバイスできるのはそんな話ですね。克服への基本姿勢、ということになりますね。


「怒り」の克服

あとは、

>特に怒りがあります。薬を飲んでも治まらず、暴れてしまいます。
(No.1090)

についても、考え方、克服への基本姿勢同じです。

・「怒りが消えれば破壊的行動をやめられる」と考え、「怒りが消える方法」を探し求める。
のは誤りであり、それではいつまでも「怒り」克服できない、ということです。
そうではなく、
・怒りが収まらなくても、破壊的行動はせずに別の対処法を取る。
という実践積み重ねによって、やがて「怒り」心の根底から起きなくなっていきます。


ということで、「まず感情が良くなるのが先」という姿勢ではなく、「感情は良くならないまま、解決向上への対処行動」という基本姿勢を、まず取れるかどうか検討して頂くと良い、というのがアドバイスになります。
その具体的なものとして、「薬物依存」「怒り」克服への、まあこれも基本的姿勢になりますね。
「怒り」起きた場面での、建設的対処法などについては、さらに具体的場面内容ごとノウハウ出てきますので、具体的に検討したいものがあれば書いて頂ければ、より具体的アドバイス可能です^^。


(No Subject) / SF
No.1090 2015/08/14(Fri) 18:14:20

悪化して1年8カ月になります。特に怒りがあります。薬を飲んでも治まらず、暴れてしまいます。睡眠も安定剤と睡眠薬で寝ています。自力では眠れません。建設的行動とか難しいです。まだまだ、続くと思うともう嫌でたまりません。元々はPTSDからでした。8年7カ月になります。


自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう
No.1050 2015/05/11(Mon) 13:57:48

同じ行動においても、価値観によって嘘か嘘ではないかが変わるという
事ですね。


続いて考えたいのが「意思」を表明するに当たって
その表現の仕方に個性があると思うのですが、それが嘘か嘘ではないか
という問題があります。


例えば話し方です。
自分の中に幼稚園の頃のまま凍結された自分、のような
物があると感じます。その自分は、舌足らずで甘えたような話し方をする感じです。
話し方も、ゆっくりとしていて、トロい印象です。
女の子っぽさも少し含まれているような感じです。(カメラを向けられると
首を横に傾けてまっさきに可愛いポーズをとる子供でした。)


一方で、年齢に応じて「年相応の話し方」を人物印象としてとりこんできました。
こちらは、上の自分と比較するとハキハキと歯切れの良い話し方です。
とにかく女っぽく思われたくないという感覚や、頭のキレる大人の男、みたいな
印象です。「草食系男子」とくくられる事に大きな抵抗があります。
「打ち負かし自尊心」に駆り立てられて、男らしさなどを自己イメージとして
取り込んできたのだと思います。

「愛され自尊心」と「打ち負かし自尊心」が衝突を起こしているようにも
見えます。



自分の嗜好(着たい服や趣味)も、それぞれで分裂してある気がします。
前者の自分が着たい服と、後者の自分の着たい服が違うのです。
また会う相手によってもそれを変えたくなるという事があります。


後者の方が後天的に身につけた自分である、と感じるため、
その自分に絶望するのがこの先の道なのかと思いましたが、
同じように男らしさを意識して話し方を年齢相応に変えるといった事は
多くの人が行っている事だとも思います。

また、TPOと相手との親睦度に応じて変化があるのも当然に思えます。
例えばビジネスの場面など。
これらは嘘にはならない、というのは何故なのでしょうか。


 
「意思表明」の嘘と「表現の仕方」の嘘^^ / しまの
No.1052 2015/05/14(Thu) 13:53:35

まず、

>「意思」を表明するに当たって その表現の仕方に個性があると思うのですが、それが嘘か嘘ではないか という問題があります。

というテーマそのものについて。
「意思表明」というのは、我々人間では基本的「言葉」行うものになると思います。
ですので、その「言葉」に嘘があるかないか、という問題はあると思います。たとえば就活「この仕事こそ私が一番やりたいことです」という言葉に、実は本当に一番やりたいのは別の仕事という嘘があるケースといった。まあ就活面接するならそう言うしかないわな、という^^;

その際表情仕草などの「表現の仕方」ですが、これはまず表明する意思に嘘がなければ、「表現の仕方」に嘘があるなしというのは、あまり問題にならないというか二義的な問題になりますね。
表明する意思に嘘がなければ、それはもう「嘘」とはあまり言わないものとして。
たとえば大病を患い闘病への意思相手に伝える時、相手を心配させないよう明るく振舞ったりと。

一方、表明する意思に嘘があると、「表現の仕方」に嘘があるかどうか、というか表明する意思そのものの嘘がバレるような表現の仕方ものでないかが問題になる、ということにはなると思います。
たとえば「この仕事こそ私が一番やりたいことです」という言葉瞬間目線が宙をさまようなど^^; それを見た面接官はまず「これは嘘だな」見抜く^^;

ですので、まず何を表明するという話なのか、自分の意思をしっかり持つといこと自体まず大切であって、表現の仕方については、その内容に応じてごく自然に、またその内容に応じた建設的な配慮をして、という考え方まずは良いかと思います^^。

違った服装の趣味があるといったのは大いに結構TPOに応じたお洒落といったものも、多少失敗も体験しながら自分なりのものを築いていく、という方向感問題ないと思います^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう
No.1054 2015/05/15(Fri) 13:11:41

ありがとうございます。


質問の後半部分には

「表現の仕方については、その内容に応じてごく自然に、またその内容に応じた建設的な配慮をして、という考え方でまずは良いかと思います」

の部分で答えていただいているのでしょうか?


時々感じるのは、前者の「少し甘えたところもある舌足らずな喋り方をする自分」が本来の自分で、その自分では「男らしくない」「嫌われる」と思ってしまった所から後者のような自分を作り上げて、
演じている。という可能性です。
つまりこれも「ありのままの自分で成長する事を放棄し、成長した後の外面印象だけを真似ている」可能性があるのではないか、と。


以前、店舗で接客を受けた時に、40代くらいの女性に甘えた子供のようなイントネーション(ゆっくりと、ほわほわした印象)で話された事がありました。
しかし会話の内実は、しっかりした物で、質問にも的確にアドバイスをいただけたという
経験がありました。


正直子供みたいな喋り方にイラッとするというか、店舗の他の店員から後ろ指刺されて笑われているんじゃないだろうかとか、思ったわけですが、それでもそのままでいれるのは自己否定感情が無いからか、あるいは葛藤の中自分のままの話し方を貫く事に決めた経験があったのかもしれない。実際それで問題なく仕事出来ているなら何も問題はないし、
別のお店で出会ったザ・セールストークマンのような店員(店員という役職のイメージを思いっきり身にまとい、まるで機械のようにしゃべる)と比べると、何だか生身の自分で接してもらっている感じがして、悪くないなぁと思った事がありました。


某芸人もマネしていた渋谷の女性ショップ店員の甲高い声の「いらっしゃいませ」
は外国人には奇妙に映るようです。例えばアメリカなどでは、店員に過剰な愛想を要求するような文化そのものが薄いため、プライベートと同じようなトーンで接客業も出来るのでしょう。

日本には「感情労働」という言葉があります。
CAさんなんかはその典型といえると思います。


これも本来の自分ではない「嘘の自分」を演じている事にはなるわけですが、
これに対しての解釈の仕方が不明です。

@仕事場面は愛される事を目的にしたものではないため、嘘の自分でも仕方がない。
A自分が望んでいるような振る舞いであれば、嘘ではない。


とりあえずこの二つが思い浮かんだのですが、いかがでしょうか。

Aに関しては、そもそも自分の話し方、声のトーンなどは何かの影響を確実に
受けているわけで、様々な影響を受けた結果そうなっている、という事は言えるわけです。
例えばアイドルが大好きな女の子は、ハマってからブリっ子のような喋り方になる事も
あるでしょう。



●「表現の仕方」の嘘のあるなしについて

闘病への意志を相手に伝える時に、心配させないように明るく振る舞う。

これに関しては「相手の心配をなるべく軽減する事を望む+苦しい、孤独だという感情は自分で受け止めたい」という意志のもと、建設的行動を考えた結果「明るく振る舞う」という理解で宜しいでしょうか。


今回触れていただけたので、また浮き彫りになったポイントなのですが、
「マイナス内面は表現しない」事において、マイナス内面を出さないというのは「出さない」というゼロでいればいいという事ではないんじゃないか、と思っていたんです。
以前「ふとした瞬間の無表情はおかしくない」と言っていただいたのですが、
普段健康な人の「無表情」と、精神的に病んでいる人の「無表情」は全く違うものです。
それはまず顔色であったり、目線の落ち方などで違いがあります。
気が付くと一点を凝視している時がありますが、これは精神状態がかなり悪化している
時に特有だと感じます。という事で、健常者の仮面を感情の強制によってまとう必要が
出てくると思うのですが・・・
つまりありのままの感情を出さない事にも「出さない」のではなく
「そうではない感情」をまとうという表面に見える感情をある程度作る必要性はあるのではないかという事ですが。


「友好的な自分を保つ事で精一杯」といった表記が悲しみの彼方への旅でも出てきますが、
これらは「建設的な行動法を知らなかったからそうだった」のか、
そのくらいの感情の強制は必要だったという事なのか、どちらなのでしょうか?


●共有するものがなければ孤独を受け入れる事、について

集団において、共有するものがなければ孤独を受け入れるという事についてですが、
観察していて、健康な心を持っている人ほど一見共有するものがない人とでも仲良く
話している様子がみえます。

病んだ人に特有のものではなく、「二人になって話す事がなくて気まずい」というのは
多くの方が悩む事と思います。


そんな時、
●積極的に共有できる部分を探そうと、色々と質問をする、あるいは自分の話をする

のは全く問題ないですよね?


多くの方は、それによってなにがしかの共有部分を多少無理して捻出して、
相手との関係の維持に努めると思います。


ですから集団において、共有する部分がなかなか見いだせない人に対して
孤独を受け入れるというのは、その人と「全く話さない」という事になるのでしょうか?
それは、なかなか難しいのではないか、と思います。


色々な方と交友を持っている方は、
@そもそもいろいろなものに楽しみを感じるので、それを共有できる相手が必然的に増える。
A違う考えや好みに触れる事が好きなので、価値感覚がカブらない人とも楽しく過ごせる。
B自分が何かに向かって全力を尽くして生きているため、同じように全く別のものに向かって
全力を尽くしている人に対して共感が生まれ、応援したくなる。


こういった要因があると思います。


ここで「一人でも価値を感じられる物をまずは持つ」という事になると思うのですが、
心が安全ではないうちは本当に価値を感じられる物が少なく、またその感情の動きも
小さいわけですよね。

それでも少しでも価値を感じられる物に向かう事になると思いますが、
そこでは一定の心の健康度の人が多くなるわけで、その人たちは素直に価値に対して
感情が動きます。

例えばその価値対象について話している時も、自然に盛り上がるし、楽しいという
雰囲気になるわけです。

そういった場で多少自分の「価値」を誇張する事は、場の雰囲気を崩さないために
必要になるのではないかと思うのですがいかがでしょうか。
これも感情の強制にはなるし、嘘ともいえると思うのですが。


何が嘘のない自分なのかわからず、どこでそれを判断すればいいのか、という
部分でこのように錯綜していまして、「嘘をつく事になりそう」である事に戦々恐々としているのですが、
結局は「嘘をついていた事に気づいて」一度その人から離れて、絶望を経て
その人と会うのがラクになるという過程をずっと繰り返すしかないという事を
覚悟して人の中に入っていくしかないにでしょうか。


 
「嘘のない自分」の築き方 概説^^ / しまの
No.1055 2015/05/20(Wed) 11:24:55

ちょっとじっくり解説^^

感情への「内面姿勢」と「外面表現姿勢」の基本理解

これは基本的理解において混乱しているご様子^^。
まず、感情について「内面姿勢」「外面表現姿勢」という、2段組み立て考える必要があると思います。
そのどっちの話かを明確にしないと、何の話題なのかからして混乱してしまいます。

ともかくちょーサマリーとしてまとめてみますと、以下のようになります。

=================
感情への内面姿勢 ・・・ 自分自身の心の中で、自分の感情どう感じ取ろうとしているかの姿勢
- - - - - - - - -
a)自然開放(健康) ・・・ ありのままに開放し流して感じ取る
b)意志統制(健康) ・・・ さまざまな内面感情から自分の意志でどれかを選択し向かう
c)自己演出(まあ健康) ・・・ 「こんな気持ちで行こう」と、その気持ちになってみる
d)感情強制(非健康) ・・・ ありのままの感情を否定し、「こんな気持ちにならなければ」と別の感情を自分に強制する
=================

より詳しくは、『実践編上巻』の以下を参照
8章 人生をかけた取り組み−4  −「感情強制」の解除・内面の解放−
収録
「感情の監視操縦」への視点のまとめ
この中「感情演技」として説明しているものは上記c)該当

=================
感情の外面表現姿勢 ・・・ 上記内面姿勢で感じ取った感情を、どのように人に向かって表現するかの姿勢
- - - - - - - - -
1)自然体 ・・・ 意識的感情表現はせず、その人なりごく自然に出てくる感情表現仕草や口調。タイプとして次の2つを考えると分かりやすい。
 1-1)基本的に内面感情を表(仕草や口調)に表すタイプの人
 1-2)基本的に内面感情を表に表さないタイプの人

2)意識的感情表現演技 ・・・ 特定の感情を意識的に外面表現する。これをまた2つに分けて捉えられる
 2-1)真の感情表現演技 ・・・ 実際に感じている感情を、さらに意識的に表現演技する

 2-2)偽の感情表現演技 ・・・ 実際に感じているのではない感情を表現演技する、もしくは実際に感じている感情を見せないような態度を取る
   社会行動の観点からは、これは
良質の行動(相手やマナーの配慮など)悪質な行動(詐欺など)に分かれる
=================

ざっと以上になります。
人の行動の様子は、上記「内面姿勢」a)b)c)d)と、「内面表現姿勢」1-1)1-2)2-1)2-2)組み合わせ成り立つことになります、まずはその組み合わせ全てのバリエーションあり得る、というになると思います。

この中で「NG」であるのは、内面姿勢として心の健康に害があるのは「感情強制」だけです。他の3つ内面姿勢は、「感情の自己演出」なども含めて全部健康です。
外面表現姿勢について、心の健康に害があるなしという話はありません。内面姿勢において自分の感情を感じ取る段階健康であれば、上記4種類の外面姿勢全てが、健康な心の中で可能になります。その中で、はっきり詐欺的な行動として行われる「偽の感情表現演技」が、心の健康としていう話ではなく、社会行動としてNGです。

まずはざっとそんな話になります。


「人の感情の受け取り方」の変遷の基本理解

合わせて追加しておきたい基本理解として、人が人の感情表現をどう感じるかの傾向というがあります。

心の未熟と病みの傾向があるほど、行動表現されている(時にはほとんど表現されていない感情を、大きく受け取り、大きく影響を受けます。
これについてはちょうど先日アップの、
『事例集 - No.002 4回目アドバイス』
でも、アドバイス文面中
=========
■「人が自分に感情を向けてくる」という意識世界からの脱却
=========
取り上げていますので一読あれ^^。

一方心の成長向かうごとに、感情表現およびそれにより感じ取ることのできるその時相手内面感情よりも、その相手長い目で何をしようとしているのかという、行動の全体や「意志」により目を向けるようになります。
そして心が成熟することで、「自発的幸福」『概説』ここ参照)が増大することで、次第相手の感情表現というものをあまり大きくは受け取らなくなり、人の感情のあり方にあまり影響を受けなくなっていきます。

ですので、これから心の健康と成長に向かいたいという時、自分が人の感情表現を感じ取っている内容を、かなりオーバー場合により妄想のような誤り(これは結局自分の内面を相手に映しているもの)である可能性心得、割り引いて考えることが有益になります。


「嘘」にならない範囲とは

で、ご質問の主旨は、外面におけるどんな感情表現行動が、「感情強制」であり自分への嘘ひいては他人への嘘になってしまうか、ということだと思います。

それについての答えは、「感情の自己演出」までにとどまっていれば、どんな行動の仕方も心の健康において特に問題はなく、「嘘」でもない、ということです。
書いて頂いた色んなケースも、 内面においては「感情強制」ではなく、また外面においては「社会的に悪質な偽の感情表現演技」なければ特に問題はなくそれぞれの人それぞれの目的向かう中で、可能な組み合わせで向かえば良い、というものになります。

では「感情自己演出」で済まずに「感情強制」になってしまうのは、自分の場合どんな行動なのか
それは結局体験を通して見分けていくしかない、ということになります。
それでも結構単純であり、「感情強制」だとどんな行動になるかと言うと、心が破綻して行動できなくなる、ということです。あまりのストレス動揺のために。
に言えば、行動できているなら、それでいいわけです。

実際そうして、つまり心が破綻して行動できなくなって、この心理学その一つとして、心の取り組み始まるわけです。
まず何が起きたのか理解することから。愛されるためにありのままの自分を否定して別人を演じようとしても、やがてその自己圧迫が、自分と他人への憎悪として戻ってくるのだ、と。
そこから抜け出し、「心の依存から自立への転換」足場にして、自分にとって本当に確かなことを一つ一つ見出していくことから始めるのだ、と。


「嘘のない自分」の築き方

以上を踏まえて、「嘘のない自分の築き方」整理するならば、こう言えますね。

まず、「基本理解」しっかり確認する。
・感情への「内面姿勢」と「外面表現姿勢」の基本理解
・「人の感情の受け取り方」の変遷の基本理解

という大きな2領域テーマ

これらは言わば我々人に向かう時の、心の中将棋の駒です。
将棋をするためには、まず全ての駒の種類とその動き方を、しっかり理解せねばなりません。それがないと、始まりません飛車王将つんで勝つのを目標にするのはいいとして、飛車の動きだけ理解して他の駒のことは全く知らない、というのではどうにもならないのはお分かりと思います。

そして「嘘のない自分」なりたければ、駒の打ち方の禁じ手を知りそれをしないように、というようなものではなく、まず正攻法の駒の打ち方を知ることです。
それは上記「内面姿勢」で言えばa)b)c)です。どうすればd)ならずに済むか。単純です。d)ならないように気をつける、ではなく、a)b)c)打ち方まずしっかり知ることです。

こうして全ての駒の種類と動かし方しっかり分かったら、いよいよ将棋を指すことを始めるのですが、まず最初に何をどうすればいいかは、一言で、まずはしっかり碁盤と駒を見ることだ、と。そこで自身が打ちたいと本当に思えるものから、打ち始めるが良い、と。
まあ、場面に応じてさまざまであり、紋切り型に言えるものなどない、ということですね。


アドバイスまとめ

ということで、上記質問へのアドバイスを、こうまとめさせて頂こうかと。

まず基本理解しっかり確認し直して頂ければと。それによって、上記で書いて頂いたさまざまなケースどれも問題ないものであることを、理解頂ければと。どんな組み合わせバリエーションになるか、と。
その段階もしなお分からない点があれば、どんなケースについて分からないか、適宜新規トピック化などしながら再度質問頂ければ。
一度に2、3ケースまでで書いて頂ければ。少しづつ着実に理解を進めることで、応用が利くようになりますので。

そうして基本理解しっかり確認できたら、

>結局は「嘘をついていた事に気づいて」一度その人から離れて、絶望を経てその人と会うのがラクになるという過程をずっと繰り返すしかないという事を覚悟して人の中に入っていくしかないでしょうか。

という質問最後のキモ部分への指針を言えるのですが、
まあ結論としては確かにそうした通り道あるかも知れない、と。重要なのは「自分への嘘に気づいて絶望を超えると多少は楽に」という消極的側面ではなく、多少は楽かはさておき、次の原動力がどこから生まれるかという積極面重要になるということ。

それは手短に言っておけば、心の動きとして、
まず自分としてはc)自己演出までの姿勢つもりが、やがてうまく行動できない自分に気づき、実はd)感情強制だったと自覚する。
いったん行動から退却して自分向き合い、まず自分本当はどう感じているのかという、a)自然開放から始め今までもアドバイスした価値観検討なども踏まえb)意志統制によって自分の新たな進み先を決断する、というものになる。
これが答えです。
d)感情強制ではうまく行かなかったから、もっと要領良くc)自己演出やり直し、はなし、ということです。

じっくり検討頂ければ^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう
No.1057 2015/06/05(Fri) 14:22:01

2軸がしっかりあるとまずは、整理できて良かったです。

今まで混乱していたのは、aと2−2の組み合わせの難しさを感じていた事が
結構あるかな、と思います。

つまり他者への憎しみが感情の表面を占めている時に、
外面表現である程度健康である事を表現するためには、
ある程度の感情の自己演出(cですね)が必要ではないのか、という事ですね。

それもあって、人と対している時に内面的には感情を湧きあがらせて(aですね。)
それでも表情は友好的である風を装う(2−2ですね)練習が必要なのではないか、という
質問を以前させていただいたんです。

●実際は、人と対していない時はaでいく事が出来ても、人と対している時はcに
なってしまう事はある程度仕方がないという理解で良い、という事ですよね?

会っている時間が終わった時に、外面行動を保つ必要性がなくなり、
内面姿勢としてはcからaに移るという事です。



内面姿勢の変遷に関しては、相手の感情表現を受け取らなくなるという事、
参考になりました。

これに関してもう一歩踏み込んで質問させていただくと、
「気づく」という事と「影響される」という事はまた区別できるという事ですよね?

例えば思い悩んだ様子や苦しみを抱えている事に気づく事は出来るし、助けてあげる
事が出来るならそうしてあげたい、と思う健康な心を持った方はいらっしゃると
思います。一方で、全くそれに気づかない人もいます。どちらかというといつも自分の
話に夢中で、相手の顔や感情などに意識を向ける事自体が少ない人ですね。

後者のような方は今までの経験だと、裏で嫌味を言われていたり、一緒にいて疲れると
言われていたりする事が多い印象です。
まぁこれは、相手の感情に意識が向くかどうかというより、全般的に人に対しての気遣い
が欠けているため、一方的に話したり、話を途中で遮ったりする事が原因かもしれません。


●気づく事が出来るけど影響されない人というのは、
相手がつまらなそう、苦しそうだと感じたからといって、自分もつまらない気持ちになったり、自分のせいでつまらないんだと思って自責感を抱いたり、といった事が少ないという事ですよね。



一番キモになる部分の
「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、
内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?


別人を演じるというのは、この二軸だけでは語れない事ではないかという
疑問があります。
例えばcと2-2の組み合わせだったとしても、実際に感じている感情が敵意や憎しみだと
して、それとは違う「好意」を表現するにも色々です。

例えば、自分は内面的には「宇宙の愛が得られて当然だ」という感情がある。
その時に相手が何か特別な事をしてくれた。プレゼントをくれるなり、忙しいのに
家に泊めてくれた、など。
心の中では「そのくらいの扱いを受けるのは当然」と思っているとして、
外面行動としてそのような言葉や態度を出せば、呆れられます。
そこで、感謝の言葉を伝えるわけです。

「ありがとう」でも「ありがとー!」でも「サンキューです★」でも「本当に感謝してるよ。」でも
どれも「好意」「感謝」の感情表現であるといえると思いますが、これは内面姿勢の
cかdかの度合という問題ではなく、その人のキャラクターや個性という問題に
なってくると思います。


例えば、自分とはとても不釣合いだと思うような美人なお嬢様とデートをとりつける事が
出来たとして、普段は「ありがとー!」なんて言う方が「本当に感謝しているよ。」と
カッコつけて言うシチュエーションがあると思います。


僕が「ありのままの自分とは別人を演じる」でまず想像したのは、こういう
構図です。つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという
事です。


これはまた、感情の内面姿勢と外面表現姿勢と別に発生する問題ですよね?


 
「感情の取捨選択」の基本^^ / しまの
No.1060 2015/06/11(Thu) 10:36:23

これはやはり基本的理解のところでもう一個確認必要ですね^^。
「感情の取捨選択」基本

>つまり他者への憎しみが感情の表面を占めている時に、外面表現である程度健康である事を表現するためには、ある程度の感情の自己演出(cですね)が必要ではないのか、という事ですね。

人への憎しみある時それでもその相手に近づく行動をするために、どんな内面姿勢および外面姿勢になるか、というだと思いますが、

まず内面姿勢としては、基本はまずa)自然開放によって、自分の内面感情「ただ流し理解する」ことを行います。するとそこに、
@相手への憎しみ
Aそれでも相手に近づきたい気持ち
という相容れない2つがあって、@をどう隠すかといった話にもなり得るのですが、ハイブリッド心理学取り組み実践における「ただ流し理解する」として、それぞれの感情についてしっかりと理解する「向き合い」を行います。

@相手への憎しみは、相手にどう自分を踏みつけにされたということか。それは事実として相手の横暴があるということか。それともただの空想であったり、自分がむしろ傲慢に特別に良くされることを相手に要求しているということか。前者ならその憎しみ多少とも合理的ですが、後者であれば不合理ですね。といった向き合い理解を行います。
Aそれでも相手に近づきたい気持ちは、それでも共有する楽しみ喜びがあり、交友を保ちたいという気持ちとかになるでしょう。

そうした感情への向き合い経て自分としてそのどっちの感情に基づく行動を選択するか、という「決断」を行うわけです。これがb)意志統制です。
そうしてA相手に近づきたい気持ち基づく行動をするでは、外面行動姿勢としてはまずは1)自然体良い、という
よろしいでしょうか。
そうしてあくまでA相手に近づきたい気持ちにおいて行動し、@相手への憎しみはただそんな不合理な感情心の片方に流れているのを見るだけにすることで、やがて薄れ消えていくでしょう。
これが「感情の取捨選択」基本になります。

これがもし@相手への憎しみ合理的だという話になったら、これはもう行動テーマ自体が、「トラブル解決」という別の話にもなってきます。

ということで、内面感情姿勢においてc)自己演出というのは、あくまでエンジン始動誘い水であり、ごく一瞬の話、通常は用いないのが心の健康上の基本理解頂ければと思います。
外面行動姿勢としても、2)意識的感情表現演技社会行動としてのごく特殊な場面に限られます。ハイブリッド心理学ではまず基本的な社会行動における健康話題にしていますので、その範囲においては、まずは1)自然体基本です。

ということで、揺れ動く内面感情あった時対人行動は、動揺感情をいかに隠すかというのではなく、まず感情の理解向き合いをしっかりと行うことが大切、ということになります^^。


>「気づく」という事と「影響される」という事はまた区別できるという事ですよね?

これはその通り^^。

>気づく事が出来るけど影響されない人というのは、相手がつまらなそう、苦しそうだと感じたからといって、自分もつまらない気持ちになったり、自分のせいでつまらないんだと思って自責感を抱いたり、といった事が少ないという事ですよね。

その通りですね。基本的には、上述のような感情と行動の取捨選択積み重ね、自分を確立する成熟に、人の気持ちのありようで自分の気持ちが揺らぐことも減ってくる、というになると思います^^。

>一番キモになる部分の 「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?

これはご質問ちょっと良く分からない(^^;)のですが、愛されるためにありのままの自分とは別人を演じようとしても、d)感情強制の内面ストレスによって心が破綻し行動不可能になる。だから愛されるために別人を演じようとする心の全体を抜け出す必要がある、という話を言っています^^。

>つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという事です。

自分を成長させる取り組みですので、「自分のキャラ」なんていう既存観念縛られないことが大切ですね。行動法の選択取捨結果として、性格個性より輝かしいものに変化していきます^^。


 
感情をただ流す場合の対人状況での身体的な状態 / こたろう
No.1063 2015/06/15(Mon) 15:37:01

動揺感情を「理解するに留めてただ流す」「感情への耐性を心がける」という部分、これ以上は触れられてないと思いますが、これが結構難しいです。

感情の取捨選択に関しては理解しているのですが、片方を選んで片方をただ流すというのは
流せる感情の大きさが小さくなるまでは、外面的印象としては「近づきたいという気持ち」が表現されているというよりは、両方が混在したちぐはぐの印象になるのではないかと思います。

であるからして、流すべき感情の大きさに応じて、その時々のリアルタイムの状況で、前のレスで書いていただいたような内面姿勢のレベルa、b、cが生まれるのではないかと理解していました。つまりほとんど軽く流せるくらいであれば、人との会話中に自然解放しても大丈夫。もう少し強度が強ければ、意志統制という感じで選ぶ。さらに強度が強ければ、流すべき感情である感情は持っていないように、表現すべき「意志」に応じた行動に見合った感情を自分にもっているように圧力をかける。


そうではなくて、人と会う前にa、会っている時はbと使い分ける、という事でしょうかね。


戻りますと、不合理なまでに相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ
大きくある時に、bの感情の選択によって「近づく」感情を行動へつなげるとして、
相手といる時間、話している言葉に対してイライラしたり攻撃したくなる感情が沸きますね。


その時、感情に対してaの自然解放姿勢をとっていると、感情が沸き上がった瞬間に体が「怒り」をそのまま表現した生理反応をみせます。眉間に皺がよる、顎が少し出る、目が据わる、あるいは見開かれる、拳を握りたくなる、そして血が上る、顔が赤くなる、など。


これを外面にそのまま出してしまう事は、建設的な言葉の表現を選択していても印象としては
真反対になりますので、もちろん避けるべき事でしょう。


であれば、上で言ったように表現すべき「意志」に応じた「感情」を自己演出する、
なんなら人と会っている間はそのスイッチをオンにしていなければ、流すべき感情が
態度に出る事を防げない。その意味でbではなくてcになってしまう、という風に言ってました。選ぶという事はその時は感情が生まれた強度のままある程度浮上してくるため、身体反応や仕草に現れる事が考えられます。


●言葉の表現を超えて身体の動きとしてはどうなっているのか

これは一応一つのテーマとして答えて頂けると助かるのですが、
「流す」「耐性を心掛ける」「踏ん張る」事について、もうちょっとミクロに「体の動き」ではどうなっているのかお聞きしたいと思います。感情を抑圧する、あるいは外面に表現しないようにするという時、一般的に上のような生理反応が表出しないように、自分を内側に閉じ込めるような形で筋肉が動くと思います。首を押し下げ、奥歯を食いしばり、小鼻の力を入れ、
胸郭をつぶし、息を浅くし、膝を踏ん張ります。

このような姿勢で「感情解放」する事は自分の体で試した限り難しかったです。
やはり体と心は繋がっていますので、自分の中に起こった感情をグッと抑えつけようと
した時には、文字通りその起こった部分を押さえつけるような形で筋肉に力が入っていました。そして押さえつけた感情を湧きあがらせるというのは、押さえつけた筋肉の力を抜く事でした。怒りであれ悲しみであれ、それが本来の強度を取り戻し、押さえつけた部分をこえて首、頭、目と上がってくるのを感じますし、胃腸を焦がすような痛みが出てきます。
そのまま押さえつける力を加えないようにしていれば、涙が流れ、悶絶するような顔をしたくなるでしょう。
子供の体があれだけリラックスしているのは、まず感情表現が禁止されていなければ、この押し下げる力を加える必要がない
という事と、緊張状態が起こった場合は「泣く」事によって筋肉の緊張を内側からマッサージする事によって緊張がリセットされるからだと思います。


日常的に外面に表現すべきでないマイナス感情が沸く機会が多い人ほど、
その感情が沸き起こってきたタイミングでのみ上記のような押し下げをするのではなく、
日常的に自分を閉じ込めるような形で筋肉の力を加えている場合が多いと思います。
僕自身それが固着し、首をすくめて息を殺すような姿勢が常態化していました。
これは病んだ感情を抱えた場合の「攻撃」「従属」「離反」の「従属」と「離反」の方に多い事だとは
思いますが。


「解放する」「流す」「踏ん張る」というのはこれらの筋肉の力を加えない状態を
保つ事だと今の所は解釈しています。
首や喉を押し下げる事なく、胸も開いたまま、力をなるべく抜き、沸き起こってきた
マイナス感情には、どうぞ体を流れてください、といった体の状態です。
「開いた状態」と一応表現しますね。


まず確認しておきたいのは、
@自分一人でいる時に、感情と向き合う場合は常にこの状態が望ましい。
これです。


続いて、対人場面においての流すべき「相手から向けられる嫌悪感」や「相手への攻撃衝動」
についても、この状態が保てるのが望ましいと思っています。
一方で、難しいのはこの状態がすごく「無防備」な印象を自分に抱かせる点です。
外面から、内面から、双方に対してです。

外面でいうと、この開いた状態でいると「相手から向けられる嫌悪感」が含まれた視線の圧力がものすごく強くなります。

内面でいうと、自分の内面に相手への軽蔑衝動や攻撃心が強く沸き起こってくる時に、その生理反応がダイレクトに上に登ってくる事は、それが晒されてしまい、見抜かれる恐怖があるからです。


意志統制において感情を選ぶ、という時に、身体の状態はどうしても押し下げ、食いしばりが
起こります。この状態では、流す方の感情を一応「怒り」「悲しみ」などとして認識する事はできても、それ自体が持つ本来の強度は圧殺されています。
●これでは「流す」「受け止める」事になっていないのではないか?という疑問があります。あるいは対人場面においてはある程度これは仕方がなく、
実際に「認識」する事さえできていれば意志統制であるといえる、じっくりと感情解放を行うのは
対人場面を終えた後の向き合いの時間で良い、という事になるでしょうか。

実際、起こってくる不都合な感情を持って、人といる中で「踏ん張りがきく」という表現では後者も連想されます。

そもそも体の動きとしてどうなっているかという風には考えていなかったと思いますが、
感覚でいうとどうなっているだろうか、と振り返って頂けると助かります。


これは実際、いかにして「建設的行動法」に合った感情表現、外面印象を作るかという
話なので、その前に向き合いが大切である事は指摘頂いた通りですね。それは最も大切な
視点だと思うので忘れないようにしたいと思います。


 
「価値観選択」が「感情の取捨選択」の前提^^ / しまの
No.1068 2015/06/21(Sun) 16:03:56

>戻りますと、不合理なまでに相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ大きくある時に、bの感情の選択によって「近づく」感情を行動へつなげるとして、相手といる時間、話している言葉に対してイライラしたり攻撃したくなる感情が沸きますね。

これは単純ですね^^。「価値観の選択」まだしていない、まだできていない段階ということになると思います。
交友や恋愛の行動を、「楽しみ喜びの共有」と位置づけ、それができない場面においては孤独を受け入れる、という価値観です。
それとは対照的な、「分かり合い認め合い尽くし合い」だとする価値観まだ立っているから、「相手に一方的によくしてもらうことが当然だという感情が未だ大きく」なる。

前者の価値観心底から立った時、後者の価値観基ずく感情もはや身体反応を支配するような大きなものにはならず、「流す」ことが可能になる、ということです。そして流しながら行動できる体験の中で、やがて根底から消え、湧き出ることもなくなっていく。
後者の価値観に立ち、攻撃感情が湧くまま、それを外面表面で消して建設形の行動を取る方法というのは、ハイブリッド心理学範囲外ですし、僕の人生経験においてもないです^^;

「価値観選択」「感情の取捨選択」前提であり入り口ということになりますね。入り口を通らずして先の道を進む方法なし、です。
まずは、「価値観の選択」じっくり向き合うのが順序だと理解頂ければ^^。

「価値観の選択」のための意識姿勢などは以下などで詳しく説明していますので参考頂ければと思います。
実践編上巻 9章 価値観と行動学  −進み得る道はただ一つ−

価値観選択について質問などあれば、また新規トピックなどで入れて頂ければ^^。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / こたろう
No.1085 2015/08/10(Mon) 17:20:49

※二つ前の返信に対しての返信になります。


>一番キモになる部分の 「愛されるためにありのままの自分とは別人を演じる」という部分ですが、内面姿勢dの感情強制が発生しない以上は起こらない、という事でしょうか?

これはご質問がちょっと良く分からない(^^;)のですが、愛されるためにありのままの自分とは別人を演じようとしても、d)感情強制の内面ストレスによって心が破綻し行動不可能になる。だから愛されるために別人を演じようとする心の全体を抜け出す必要がある、という話を言っています^^。


→これは、感情強制のない「ありのままの自分とは別人を演じる」事もあるはずだ、という考えからの疑問です。本来は明るく天真爛漫な人が、おしとやかなフリをする。バラエティ番組をみて爆笑したいのに、親の前では何も面白くないかのように過ごす。文化祭など、皆で仲良く楽しみたいのに、そういう事を言うと調子に乗っていると責められるので、けだるそうにする中学生。逆であれば、親しさなどの感情を強制的に湧きあがらせるといった事はわかるのですが、この場合はむしろ「平静を装う」といった「ありのままの自分とは別人を演じる」です。
これらは、感情強制とは考えづらいですが、実際起こる事も多いかと思います。
わかりやすい例でいえば、今までやんちゃしてきた女の子が、
育ちの良いおぼっちゃんと交際する事になり、おしとやかな女性を演じる。

しかし、a,b,cにとどまっていれば「嘘をついた自分ではない」という表現(解釈が違っているでしょうか。)をなさったので気になりました。


後は、内面感情と外面感情はわけて考えるものだとして、
「偽の感情演技」には少なくともc、感情の自己演出が必要だと思うわけです。

>つまり感情の強制うんぬんよりも、自分の個性やキャラクターを偽るという事です。

自分を成長させる取り組みですので、「自分のキャラ」なんていう既存観念に縛られないことが大切ですね。行動法の選択取捨の結果として、性格や個性もより輝かしいものに変化していきます^^。


→よくわかりません。長い目でみれば、そうやって変化していくのでしょう。
しかし、今どう振る舞うのか、は急務の課題としてあります。その人の「自然体」でまずいい、という事ですが、
それすらもよくわからないのです。
この一つ前のレスで書きましたが、


時々感じるのは、前者の「少し甘えたところもある舌足らずな喋り方をする自分」が本来の自分で、その自分では「男らしくない」「嫌われる」と思ってしまった所から後者のような自分を作り上げて、
演じている。という可能性です。
つまりこれも「ありのままの自分で成長する事を放棄し、成長した後の外面印象だけを真似ている」可能性があるのではないか、と。


この部分。選択肢があるのです。自然体、どちらが自然なのかわかりません。
少なくともいえるのは後者は少し「作っている」という感覚があるという事です。
もっとわかりやすく言えば、前者は「僕」という一人称になり、
後者は「俺」という一人称です。前者は力が抜けながらもすっと背筋が伸びていて、
後者は首を少し出して腕組みをしている感じです。

実践編でD男さんは「もうガードを固めるのに疲れた。俺はこんな人間だーと叫びたい」
とおっしゃってました。ここから感じたのは、こういう感情がある、というよりも、こういう「弱い自分」みたいな人格が別で自分の中にあるイメージです。


 
Re: 自分への嘘と他人への嘘 つづき / しまの
No.1089 2015/08/12(Wed) 11:54:46

>感情強制のない「ありのままの自分とは別人を演じる」事もあるはずだ

その理解良いと思います^^。


>「偽の感情演技」には少なくともc、感情の自己演出が必要だと思うわけです。

これもその理解良いと思います^^。


>今どう振る舞うのか、は急務の課題としてあります。その人の「自然体」でまずいい、という事ですが、それすらもよくわからないのです。

具体的行動課題場面内容ごと検討します。どんな行動課題場面のことを検討したいか、個別に書いて頂ければアドバイスできるかと^^。


>選択肢があるのです。自然体、どちらが自然なのかわかりません。少なくともいえるのは後者は少し「作っている」という感覚があるという事です。

「多少作る」のも場面によってはアリだと思います^^。自然体なお良し^^。
言えるのは、心の健康害があるのは感情強制だけであり、その他のバリエーション行動課題場面に応じて全てアリだということです。
そして感情強制どうかの判断は、自分自身にとって無理があると感じるのがまずはそれだといことであり、最終的には自分自身で判断する必要があるということです。

お答えになりましたかどうか^^。いずれにせよ行動課題場面内容で考えるのが重要かと^^。


方法 /
No.1084 2015/08/08(Sat) 21:47:26

 本を出版されたり、自分の意見を書かれることで、多くの学びを得ていることを思います。
 島野さんは、自分の意見を、例えば、一対一の場面で、自分のこれまでの話、つらかった話などをするやりとりなどは、多いのですか。
 精神分析や、カウンセリング。また、認知療法というようなものではなく、親であったり、相手はどなたでも良いですが、誰かと一対一の場面で話し合いから、島野さんの学びが増えてきているものですか。


 
「人との会話」で学びを得たことはなく^^ / しまの
No.1086 2015/08/11(Tue) 11:19:44

かなり極端な話ですが、自分の体験辛かった話などを、人に話したことありません人に受けとめてもらうことは期待せず、自分で受けとめて、今の成長成熟があると感じています。まあそれハイブリッド心理学として伝えているということでもあります。

同様に、人との一対一の会話の場面から学びを得たことは、人生で一度もありません学びは「読書」と「体験そのもの」から得たというのが基本になります。

これは『メール相談事例集』
島野のメール相談活動
でも、以下の述べた通りです^^。
=====
つまり、私自身成長体験においては、人に直接言われたことで変化できたことなど、私の人生で結局一度もなかったのです。全てが、自ら読書する学びと、人生の体験の中での模索訪れたものでした。学びの中で本当に人生で役立った言えるものとして最後まで残ったのは、カレン・ホーナイ認知療法ハーバード流交渉術などの行動学といったほんの僅かなものであり、その先最後の答え導いたのは、私自身の中にあった「魂」との向き合いだった、というものとしてです。
=====


『悲しみの彼方への旅』を読んで頂いても、ご質問状況に該当するような場面など一度も出てこないというのがお分かりかと思います^^。
まあこれは、それがいい悪いという話ではなく、人との会話の中では得られないような成長へともっぱら向かったというといことであり、心理学としてもその独自な領域展開することになった、ということかと^^。


 
Re: 方法 /
No.1087 2015/08/11(Tue) 18:53:20

私も、島野さんの本などを読みましても、人に話してという場面は、なかったと思いましたが、聞いてみないと分からないですので、質問いたしました。

 ロジャーズの本では、相談者の答えは、その方自身が持っているとあるように。島野さんも、自分で見つけ出したことはつながります。

 つらかったことを、ノートに書くことは良いとあります。それから、辛かったことばかり考えると、その気持ちが強まるため、今後の期待することなどを考えていくことが望ましいとの意見もあります。

 読書や模索は、自分で考える作業となります。

 ありがとうございました。


対人 / ヨム
No.1080 2015/07/26(Sun) 14:01:03

 外見は、生まれた時からの顔形がありますが、自分を高めようとしている方では、外見を意識して、おしゃれなど気を使っている方では、見た目がさわやかであり、好意を感じる場合、自意識の感情だけではないと考えます。

 楽しみの共有、生活の共有から、魂の世界と現実の世界の双方で成長になる。それから、魂の感情を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるも大切なこと。

 魂の成長の促進のためには、楽しみの共有や生活の共有を継続を望む場合では、魂の感情というよりも、会話を楽しむことを優先することが必要と思います。

 島野さん、よろしくお願いします。

 
 

 


 
まず「現実世界における前進」から^^ / しまの
No.1082 2015/07/28(Tue) 17:52:19

>魂の成長の促進のためには、楽しみの共有や生活の共有を継続を望む場合では、魂の感情というよりも、会話を楽しむことを優先することが必要と思います。

そうですね。今アップしている『ハイブリッド心理学とは』でも、
歩みの道のり - 「現実世界における前進」と「魂の世界における前進」
で、その辺の話を書いています。

より平易な表現をするなら、「前進」2種類があり、
・まず現実世界での行動がうまく行くようになる ・・ 「現実世界における前進」
・現実世界での行動がうまく行かない時に、さらに自分の「望み」に向き合い、本当の自分が見えてくる
・・
「魂の世界における前進」
という感じになるかと。
で、まずは「現実世界における前進」へとしっかり努力するのが、全ての始まりになる、と。それが優先良いというになりますね。

ですのでまずは、趣味会話共有など、「現実行動」模索することからになると思います^^。


 
Re: 対人 / ヨム
No.1083 2015/07/28(Tue) 19:19:35

 まずは「現実世界における前進」へとしっかり努力するのが、全ての始まりになる、と。趣味の会話の共有など、現実行動を模索することからになることが、優先で良いという話。

  心の未熟によりそうはできない自分という壁に出会い、心が崩壊し、やがて自らにストレスをかける必要もなく、前に進み得る心が自分の中に芽生えていることに気づく、という流れ。

  現実世界を行っていくとのこと。参考になりました。
 島野さん、ありがとうございました。


(No Subject) / natu
No.1079 2015/07/26(Sun) 13:11:02

うれしさ」というより、「怖さ」からということになると思います。
良く聞く話で、普通の相手とは気軽に話ができても、本当に好きな相手と話そうとしても緊張してできなくなるという話でイメージできるかと思います。また怖くて近づけないなど。

理解のポイントとしては、本当に好きな相手への感情は「魂の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怖れ」を抱く。
一方、利己的打算的に好きな相手(たとえば相手の外見や財産とかで)への感情は「自意識の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怒り」を抱く。
この違いです。

>また、魂の成長のために、起きていることなのですか。

そうですね。「魂の感情」をしっかりと自分自身で受けとめるごとに、「自分から愛することができる」という「心の豊かさ」が増大する。これが「魂の成長」です。

それは相手との現実関係の成就を必ずしも必要としない。というかむしろ逆に、「現実関係の成就」とは別の世界に、それがあるというのがハイブリッド心理学の見出す道です。
2段階的に、と言えるものとしてです。
まず「現実関係の成就」が壁につき当たった時、相手への自分の感情が「魂の感情」なのか、それとも打算的な「自意識の感情」だったのかが、見えてきます。
そしてそこに「魂の感情」があるのであれば、それを自分自身で受けとめる一方、次にそれを受けての相手との関係は、あくまで再び現実的で具体的な「楽しみの共有」「生活の共有」の観点で考える。
そうして、「魂の感情」を自分で受けとめ「魂の成長」に向かうということが、「現実世界」とは別の「魂の世界」でのことになってくるのが見えてくる、ということです。


「魂の成長」のための「現実の世界」での相手との関係

といった話を前提に、

>考えるのを止めたとありますが、止めない選択では、どう成長できると考えられますか。

ですが、まず上記の「女性タレント」の話では「恋を遠ざけることを選んだ」ということであり、考えるのを止めたというより、彼女なりに考えた結果、相手と距離を置くことにした、もしくは恋愛とデートという人生活動そのものに距離を置き、別のもの、つまりタレントの仕事に専念することにした、ということだと思います。

とうことで、「現実世界」においては、相手と、あるいは恋愛そのものと、距離を置くことにした、ということですね。
一方「魂の世界」でどうかは、その女性タレントの言葉の中では語られていません。まあ言葉の後の「大粒の涙」というのに、それなりに「魂の世界」での「受けとめ」があったと察していいのではと思います。

とうことで、まずは「考えるのを止めない選択でどう成長できるか」という問いは、しなくて良いかと思います^^。
つまりその女性タレントのケースでは「魂の世界」と「現実の世界」の両方でしっかり成長した経緯を語ったのが、それらの言葉ではないかと。

ポイントは、恋愛に距離を置くことが、「魂の世界」と「現実の世界」の双方での成長になる、そんな人生の時期もある、ということですね。
「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における、「未熟の愛からの旅立ち」に該当する時期です。

ちなみにその女性タレントとは実はベッキーで、『金スマ』で見かけたものです。入門編下巻の原稿にしたのが6年前の2009年。つまりまずはベッキーが10代後半くらいの時のことを話していることになると思います。
そして10代後半くらいの時の恋愛というのは、得てして、互いが好きという感情がどう一致するか以外のことが見えない、とても未熟なものであることがあり、それに虜になることは、心の成長をむしろ妨げることもある。「恋を遠ざけることを選んだ」というその選択は、その点で誤りではなかったのでは、というのが僕の考えです。
それを『入門編下巻』の上記文章の続きとして、こう書いた次第です。
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 彼女の選択は特に間違いではないでしょう。また、彼女の涙には真実があり、もし嘘があるとすれば、それは「恋をしなきゃ」と言う回りの言葉の方でしょう。しかしその涙の先にある壁は、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできないのです。
======

ちなみに「その涙の先にある壁は、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできない」という言葉の先に、『入門編下巻』のその後の難解な部分がつながっていくのですが、一言で、「心の死と再生」を含めた「命」の力が、壁を最終的に越えさせる、という話だと理解しておいて頂くと良いかと思います。いずれにせよ難解ですが^^;

いずれにせよ、「魂の成長」のために、「現実関係」をどう続けるかはもうケース・バイ・ケースですが、一言で、「魂の感情」を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるといい、とは言えますね^^。


 
Re: / natu
No.1081 2015/07/26(Sun) 14:03:47

送信ミスです。
 失礼いたしました。

 作成、コピー時、知らない間に、送信されていることを、後で分かりました。


(No Subject) / こたろう
No.1077 2015/07/20(Mon) 21:29:29

ある価値を生み出す事によって何も生み出さない人間、あるいは生み出している価値の大きさによって打ち負かす、という感覚はどう整理すればいいのですか?

生み出す自尊心、愛され自尊心、打ち負かし自尊心は対立した別のものと理解してましたが
上記のような感覚があります。


 
価値観への取り組み^^ / しまの
No.1078 2015/07/26(Sun) 11:45:45

まず、

>生み出す自尊心、愛され自尊心、打ち負かし自尊心は対立した別のものと理解してましたが

「対立」というより、多少とも「混在」する形で、どれにより重きを置いていくか取り組みになる、と言えると思います。
「未熟」というスタート地点では「愛され自尊心」「打ち負かし自尊心」占めており、「生み出す自尊心」見出していくのが成長方向、という話。
ただまあ「愛され自尊心」「打ち負かし自尊心」いきなり否定しようとするのは無理があり、それを多少バネにして「生み出す」ことに向かえればそれも良し考えるのが実際にマッチすると思います。

>ある価値を生み出す事によって何も生み出さない人間、あるいは生み出している価値の大きさによって打ち負かす、という感覚はどう整理すればいいのですか?

これもやはり「感情と行動の分離」一貫とした取り組み変わりはなく「感覚」「感情」については「ただ流し理解する」というのが整理仕方であり、その上で、それに流されることなく外面行動法などを検討するという取り組みになります。
その感覚とは、人に勝ちたいという衝動であり、「打ち負かし自尊心」表れということになるかと。
これが内面感情理解

一方外面行動としては、人を打ち負かすという感情流しておいて、外面において本当に生み出すものがあるのであればそれ自身は良しとして、生み出すことに向かうという選択十分可能かと思います。
これは「価値」と言っている内容そのものいかんになってきますね。

以上内面感情理解と、外面行動法の検討
加えて、「自尊心とは何か、どのように高めることができのるか」という「思考」日ごろ持つようにするのが、価値観そのものへの取り組みになります。

以上ざっと取り組み視点など。感情理解行動法検討思考と総合的な取り組みになりますね^^。


「人と接する技術」を要求される場合 /
No.1056 2015/06/02(Tue) 15:23:16

お久しぶりです。
仕事への向かい方に関するご説明を読んでいる途中で疑問点が生じたので、ご質問させていただきます。

事例集の中にあったご説明の、
「ハイブリッド心理学的に、心の深層感覚について指摘したいのは、技術習得作業に向かうということ自体が、何か「人に向かう」ことであるかのような感覚を持っていないか、ということです。
技術習得作業であるとは、その対象は人ではなくモノだといういことです。しかしそのモノの向こうに、人の表情がある。そんな感覚。」
という部分に関して、技術系の仕事については納得いったものの、接客や営業などの、技術習得作業そのものでダイレクトに人を相手にする場合は、どういう感覚が健康な状態になるのでしょうか。あるいは、「店舗のPR作業で仕事中変な人に絡まれない技術」なんてのもあるのでしょうか?店舗のPCや作業道具の修理に関しては、かなり気楽にやれるようになったのですが…。

私個人の場合、そこがよくわからない状況がずっと続いているのもあって、未だにバイトへの苦手意識やストレスが続いてます。ただ、何となくこれは改善が必要なのではないかと感じている自分も居るので、仕事を変えるにしても変えないにしても、課題にはなると思ってます。
よろしければそのあたりのご説明を頂けたらと思います。


 
「絡まれることのない接客や営業」^^ / しまの
No.1058 2015/06/07(Sun) 16:21:08

>接客や営業などの、技術習得作業そのものでダイレクトに人を相手にする場合は、どういう感覚が健康な状態になるのでしょうか。

まずはごく基本概念的簡潔にしますと、何か商品を扱う接客営業であれば、
1)商品についての知識スキル
2)接客の対人姿勢およびスキル

という2面双方について、向上に真摯に取り組む、という意識がまずは健康なものになると思います^^。

その2面しっかり習得できることが重要になりますね。片方で他方をカバーしようとなどせず。商品知識完璧だからと言って、接客気配りをおろそかにしたり、商品知識不足接客スキルカバーしようとなどせず。

>「店舗のPR作業で仕事中変な人に絡まれない技術」なんてのもあるのでしょうか?

上記2面全てにおいて、何か不備不具合があれば、それが絡まれる要因なり得ると思います。その要因は、一言でいって星の数ほどということになると思います。
ですので絡まれるようなことがあれば、まずはその原因を自分で把握でき、改善向上の方向性を見出せることが重要になりますね。そうして要因全て克服していくという地道な積み重ねに、「絡まれることのない接客や営業」築かれるということになるかと^^。

絡まれる具体的場面など書いて頂ければ、一つ一つ具体的僕から見てアドバイス可能かと^^。


 
Re: 「人と接する技術」を要求される場合 /
No.1059 2015/06/08(Mon) 22:51:13

 ありがとうございます。
 アドバイスを元に絡まれる状況を切り分けてみましたが、よくよく思い返してみると、PR作業で店に興味を示してくれたお客様から反感を持たれるケースはかなり少なかったようです。お客様への対応ミスで起きたトラブルは、少なくとも最近はほぼ無かったと思われます。

 PR作業は店の外でやることが多く、店に興味を示さない通行人とも接点がかなり多いため、問題なのはどちらかと言えば、「変な人に絡まれる」というフレーズが自分の言葉で出てくるあたりからも、売り上げに関係のない人…具体的に言えば、酔っ払いやヤンキー、自称暴力団関係者(高確率でハッタリ)等の年配のチンピラに目をつけられやすく、喧嘩腰で難癖をつけられるなど、他のスタッフに比べてよく絡まれることのように思えます。最悪の場合は警察を呼んだりもするのですが、そのことによって作業効率が落ちてしまい、神経も削りますし、時間や労力のロスに繋がってしまいます。
 運の問題として片づけてしまえば簡単なのかもしれませんが、そういうものに全く絡まれたことのないスタッフも居るため、やはり何らかの差があるのではないだろうか、という風に思えます。
 絡まれたことのないスタッフに秘訣を聞いてみましたが、本人もよくわからないとのこと。物理的な違いと言えば、その人が学生で若いということや、顔などの見た目が私よりも整ってるということでしょうか。

 こうやって考えていくと、仕事としての問題というよりもむしろ、日常生活の中でガラの悪い人に絡まれやすいという問題点なのかもしれない、とも思えます。幼少の頃からヤンキーに絡まれやすく、よく苛められていましたので。
 日常生活との違いと言えば、絡まれても基本逃げられないことや、看板を持って原色の法被を着ることを義務付けられているため目立たない格好をするわけにはいかないこと、ではあります。
 こういう中で、無用なトラブルに巻き込まれないために行える行動というのはありますでしょうか?


 
「街頭営業で絡まれない基本姿勢」^^ / しまの
No.1064 2015/06/18(Thu) 10:05:03

これはまず考えられるのは、
「絡まれるという意識が原因で、絡まれる」
といったものになるかと^^;
つまり、「相手を悪しき不快なものと見る目線」が、相手怒りを覚えさせ攻撃をふっかけられてしまう、というもの。

>日常生活の中でガラの悪い人に絡まれやすいという問題点なのかもしれない、とも思えます。幼少の頃からヤンキーに絡まれやすく、よく苛められていましたので。

というのについても、「いじめ」などももちろんどっちが悪いかと言えば「いじめる方」「悪い」のですが、「いじめられる方」にもどうしても「いじめ」などを「呼び込んでしまう特徴」があるというです。そこから考えると、克服が見えてくる。
今回の話についても、

>PR作業で店に興味を示してくれたお客様から反感を持たれるケースはかなり少なかったようです。

ということは、接客モード入るということかと。となると考えられるのはまずは上記1点です。「相手を悪しき不快なものと見る目線」受け取られ得るものを、相手に向けてしまっているのでは、と。

まあこう聞いてまずは「そんなつもりはない」思われるのではと推察しますが、重要なのは、「相手を悪く見る目線は送っていない」という消極形ではなく、「相手を悪く見る目線とは全く異なる姿勢と行動法を持っている」という、積極形有無です。
後者ないと、「ごく自然な振る舞い」さえ、相手から「悪く見る目線を向けられた」というものに転じる可能性がある、ということです。

具体的どういうことかは、まず以下トピック読んで頂くと良いかと思います。基本的な考え方同じになります。
『暴漢に襲われた友人』 コジマさん No.765 2014/01/22

それを今回のお話アレンジすると、どうやってそうできるのかといった細かい話は置いといて、
「街頭営業で絡まれない基本姿勢」としては以下のような要点のものになるかと。

1)表情の基本
イベント服を着て街頭に立った瞬間から、「素の自分」ではなく「街頭営業マンとしての自分」表情切り替える
道行く人に向けて、「私はあなたに特別な意識は持っていません」というメッセージとなる表情。まずは少しだけ口角を上げた微笑でいるというのが基本になるかと。

2)接客モード以前に相手を「見ない」
実際に接客する時以前に、相手を見ない。これはつまり、実際に営業接客に入る相手そうでない相手かを、その相手を「見る」のではなしに判断しなければならないということ。その判断相手「見る」のはアウトだというのが僕の意見になります。

>酔っ払いやヤンキー、自称暴力団関係者(高確率でハッタリ)等の年配のチンピラに目をつけられやすく、

ということは、接客モードになる「相手を見た」からこそそう感じたのではと。次のポイントとも重なりますが、そうした「人物レッテルイメージ」を持って接客モードになる「相手を見て」しまっては、絡まれてしまう様子容易に想像できる次第^^;
「人物レッテルイメージを捨てた意識」と合わせ、接客する相手かどうか判断を、視界の中央ではなく周辺で捉えた相手の様子などで行うのが、キモになると思います。

3)人物レッテルイメージを捨てる
書いて頂いたような「酔っ払い」「ヤンキー」「チンピラ」といった、まさに人物レッテルイメージ捨てた意識でいる。医者患者に接する時、そうしたイメージが意味を持たないように。
一般に、特定の共通目的下において、そうしたレッテルイメージは消えると言えます。スポーツなり、災害援助活動なり。そうした、「目的」を意識することでレッテルイメージを捨てる意識どう持てるか。
さらには、どんな人にも仲間意識を持てるような心の境地を、どう自分の中に見出すか。もちろんこれは「そう感じるようにしてみる」といった小手先の話ではなく、10年20年人生の歩みとして、自分の目標にできるかさえ不明瞭遠望するというところからになると思います。

まずは以上のようなポイントになりますね。「そんな考え方はとても・・」と感じるような話かも知れませんが、実際のところ、今の僕ならそれができると考えながら書いたものであり、一方、30代までの僕にはちょっとできなかったであろうと感じるものでもあります。
「そんな考え方はとても・・」と感じるような、思いもつかないような別世界思考たたき台にしてこそ、自分を変えるための方向性検討もできるのではないかと思いますので^^。


 
Re: 「人と接する技術」を要求される場合 /
No.1066 2015/06/20(Sat) 15:09:45

ありがとうございます。非常に参考になりました。
まず、街頭営業という言葉の使い方が珍しくて驚きました。
世に言う「キャッチセールス」として、大抵は忌み嫌われるものだという印象を持ちながら作業していたので、こういう言葉を使われると、いかにも「まっとうな仕事」という感じがしてきます。
また、「絡まれやすい」ことを悩みに挙げてWebで質問されてる方は結構いらっしゃいますが、今回のように明確なアドバイスを頂ける場面は貴重だな、と感じました。
自分でも検索をかけて調べてみましたが、大抵は「気にするな」程度の精神論的な答えしか出てなかったようなので。

>「そんなつもりはない」と
思う事態は、非常に都合のいいタイミングで内面との向き合いが起きたため、回避出来たようです。

順を追って、その経緯を考えてみました。

先々月から数回、カラオケ好きで歌の上手い同僚にカラオケ屋に連れて行かれたり、それによって耐性がついたため、以前Webで誘いのあったカラオケのオフ会に先月参加したりと、人との関わりに入っていく機会がありました。どちらかと言えば受け身な形での交流ですが、まだそういう段階なのだろうと自分では思えます。ハイブリッド心理学に戻ってくることがなければ、あれこれ理由をつけて誘いを断り、一人で居ることに専念した可能性もあるので、自分にとって面倒でない関わりを遠ざけなくなったのは、それだけでも収穫かもしれません。
先生にご相談した後も、絡まれにくくなるような情報は何か無いかとちょくちょく検索をかけていたのですが、ふとTwitterを眺めているうちに、「この二つの交流がなかったら、今も一人で歌い続けてただろう。特に同僚が居なければ、オフ会に参加する度胸は付かなかったかもしれない」と、涙ながらに思い浮かべることがありました。
翌日の作業中、以前態度の悪い警官から詰問口調で声をかけられたのを思い出し、「こちらは異業種のキャッチとは違って、付き纏ったりしつこい勧誘したりしてねえっつーの。あいつら、ハナっから仕事やってる人間を悪者扱いしやがって…」と内心で毒づいたりしていましたが、ガラの悪そうな通行人が視界の端っこに入った時に「あの態度の悪い警官と同じ視線を、俺はあいつらに向けていた」という自覚を初めて持ちました。
カラオケによる他人との交流と悪者扱いの感情は、一見関連性の無い話ではありますが、私の内面では、オフ会で初対面の人々と関わる中で、他人というものへの見方を僅かながらも変化させ始めるキッカケがあったように感じられました。若い頃の人間関係のような「馴れ合いのための馴れ合い」や「集まりのための集まり」というものとは違い、共通の楽しみというものが明確に見えた中での集まりだったのが良かったのかもしれません。

ということで、上記の経験や内面の気付きにより、
>「相手を悪しき不快なものと見る目線」
に関するご指摘への抵抗感は、偶然にも薄れ始めていたようです。

自分の内面に起きた現象と今回のアドバイスを合わせて思い浮かんだこととして、「全く絡まれたことのないスタッフ」と私の根本的な違いに挙げられるのは、その人が「昔は結構やんちゃなこともしていた」と話してた点に収束されるのかもしれません。自分にそういう経験があれば、特にそういう目線を向ける気にもならないものでしょうから。
これも一つの「善悪の解体」に繋がるという実感があります。先生のブログのご説明で「依存からの抜け出し」のために非常に場数を踏む必要があるのだというのを認識しましたが、「善悪の解体」で場数を踏む必要があることも今回の件で認識し、「この取り組みは、自分が生きてる間に終わるのだろうか?」という疑問も浮かんできました。否定型価値観から抜け出す前にお迎えが来そうだな、と^^;
恐らく、以前軽く書き込んだ全般的な焦りはそういう風に起きてるのかもしれません。

アドバイスの内容に関しては、2)までの項目は、ビジネススキル、或いは防衛手段の確立法として抵抗なく読めました。
3)の問題としては、「野放しにしていたら死角から殴りつけられるかもしれない。最悪不意打ちで殺されるかもしれない」という感覚が付き纏います。何の特徴もない人が、不意に刃物を持って暴れまわるご時世ですので^^;

カラオケの声域を広げるためにボイストレーニングの情報を漁ってる時に、口角を上げた方が声の出が良くなるというのを見つけたことがあったので、1)は、従来は接客の中で声の出方が悪い時だけ意識していた感があります。
表情はお客さんにだけ取り繕っておけばいいや。あとの連中は知ったことじゃない、と^^;
ということで、1)は自分の身を守るためという考えで、随時実践することに致します。

2)については、自分のPR作業を細切れにして、「基本モード」と「接客モード」の境目を考えてみました。
A:近づいてくる通行人を確認
B:「お願いします」と、割引券を差し出す
C:受け取ってくれたら「ありがとうございます」
D:何か訊かれたら対応する
こう考えると、「接客モード」であるべき場面はCとDだけになりますかね。しかも、相手を「見る」必要性が強いのはDで、Cは自分から割引券を貰いに来た場合など、必要に応じて、という考え方も。
経験上、CやDの頻度は作業時間全体の中でもかなり低く、相手を「見る」ことはあんまり無い、というのが分かってきます。
問題はBで失礼な態度を取らないことになりますが、深々と頭を下げながら配る、という方法が使えそうだと思えました。これなら目線が合わなくても不自然な感じにはならなそうなので。

まずは、アドバイスを参考にしたやり方で様子を見てみます。


 
ごく補足^^ / しまの
No.1069 2015/06/21(Sun) 18:30:24

ごくごく補足^^。


>「善悪の解体」で場数を踏む必要があることも今回の件で認識し、「この取り組みは、自分が生きてる間に終わるのだろうか?」という疑問も浮かんできました。否定型価値観から抜け出す前にお迎えが来そうだな、と^^;

「急がば回れ」ではありませんが・・というかそのものですが、ハイブリッド心理学の「選択」とは逆のものを自分が選んでいることをしっかり正確に把握できることが、実はハイブリッド心理学の「選択」に向かうための最短の道だと理解頂いていいようなになります。

例えば、

>以前態度の悪い警官から詰問口調で声をかけられたのを思い出し、「こちらは異業種のキャッチとは違って、付き纏ったりしつこい勧誘したりしてねえっつーの。あいつら、ハナっから仕事やってる人間を悪者扱いしやがって…」と内心で毒づいたりしていましたが、

「毒づく」というのはかなり典型的「打ち負かし自尊心」持ち主行動パターンです。自身がそうであると自覚できるか
そこから、「自尊心価値観」として「価値の生み出し自尊心」自分は目指すのか問う。そしてはっきり目指すという心境変遷があり、さらにその具体的行動日常生活100%に近づいた時、「信仰」思考についても問うといった道筋を経て、「否定価値の放棄」問えるという道のりになります。
そうした道のり理解と合わせ、自分が逆の選択をしていることの把握ができることが、最短になるというになります。
人生まるまるかけてどこまで行くか長い道のりであることに変わりはない話かと思いますが・・^^;


>3)の問題としては、「野放しにしていたら死角から殴りつけられるかもしれない。最悪不意打ちで殺されるかもしれない」という感覚が付き纏います。何の特徴もない人が、不意に刃物を持って暴れまわるご時世ですので^^;

そうした用心捨てるわけではなく、実際のところ刃物持っているわけでなければ多少ガラの悪そうな人にも親しみを持てる心と、万一の無差別攻撃者用心する心、この2つ両方装備した心の状態というのが、一つの目標像になるというとして理解頂ければと思います。


 
Re: 「人と接する技術」を要求される場合 /
No.1072 2015/06/23(Tue) 11:41:19

補足ありがとうございます。
親しみを持ちつつ用心もする。同時にというのは、残念ながら今のところは、漠然と思い描ける程度です。
用心、警戒するような相手には親しみを持つことは無理だ、というのが現状ではありますが、とりあえず、完成形として頭の片隅に入れておこうとは思います。

「打ち負かし自尊心」については、別のところでの自覚が顕著です。
商売敵のPRスタッフが近くで作業を始めた場合に、相手より良い結果を出そうと一時的にモチベーションが上がることなどは、まず打ち負かし自尊心が根拠になりえると思います。
あとは、今の仕事が社会のド底辺だという自覚があるから楽しめない。せめて標準レベルの社会的評価を得られるような仕事をしたい、という衝動も。
この場合においては、どうも手を出しあぐねるものでもあります。
今の仕事をしている根拠が、せいぜい生活費を稼ぐためのものでしかないので、そもそも楽しみを見いだせない、というところでもあります。お客さんを集めるという目的は把握していたとしても。
また、全般的に…ゲーム等の遊びごとでもですが、過程を楽しむことよりも、良好な結果が出ることを重視してしまう自分が居る自覚もあります。
「多少の余裕をもって相手に勝つ」ことで満足感を得ようとしている自分が居る。
今までいろんな場面を振り返ると、「かなりの余裕を持った状態、或いはこちらが有利な状態でなければストレスを感じる」という側面もありそうです。
そうでなければ、安全だと感じられない。或いは危険だという感覚が非常に強かった場面が多いかもしれない、と。
そうして、不利な状態を自覚すればするほど、「好き好んでこんなことやってるわけではない」という感覚が強くなっていった感があります。
この仕事でも、数字が出ず、通行人からはバカにされ、或いは頻繁に絡まれ、上司からは脅しに近い発破をかけられ、警察からもよく高圧的に声をかけられ、同僚のうちの誰かと衝突する、という状況が全て重なることもありましたが、そういう場面では、いっそ自殺して永遠の休息を得たい。好き好んで生きているわけじゃない、という感覚が非常に強かったです。来歴の中で言えば、家庭内不和と学校内での苛めが重なった時(…とは言っても学童時代の殆どですが)にも、そういう感覚が強まった覚えがあります。まあ、学童期は確かに味方が少なかったのだろうと今考えても思えますが、自分を取り巻く環境の全てが敵であるかのように感じられました。
初めてハイブリッド心理学に則った気付きを偶然体験した直前は、「自殺を認める宗教なんてモンがあってもいいと思うけどな。生き辛い人間が沢山居るから、年間数万の自殺者なんて出てくるんだろう。この世を否定する宗教があってもいいじゃないか」なんて感覚に陥ったこともあります。
根本的には、生きることを楽しめないという衝動かもしれません。「小さな良かったことの一つ一つに満足するのは負けな気がする。事実、世の中には危険な外敵が沢山存在する。そいつらに…ひいては世の中に敗北を認めることになる。まさに負け犬の落穂拾いじゃないか」と。実際、世間話の中で、内容はもう覚えてませんが、「それ、嬉しかったんじゃないですか?」と訊かれて、猛烈に反論しまくったこともあります。確実に「嬉しいと答えたら負け」という感覚がありました。
今回のアドバイスを参考にした結果まで含めて考えると「安全を正しく知る」ことが出来てない現れだとも考えられますが、また改めて、自尊心の項目を何度も読み返してみようと考えています。

相談内容に関してですが、アドバイスを受けてまだ実践は数日ですので、絡まれなくなったかどうかを判断するにはまだ微妙なところがありますが、作業内でかなり変わったところがあり、「どういうことなの…?」という感じで驚いてる次第です。
まず、割引券の配布枚数が大幅に増えました。あと、心なしか、割引券を差し出した時にバカにされる頻度が減ったように感じられます。
頭を下げることで印象が良くなったのか、それとも余計なところで目を合わせなくなったことでマイナスな印象を与えなくなったのか、どっちが影響しているのかは今のところ不明ですが、想定外かつプラスの副作用を生み出しているようです。
ただ、これは人通りの多い週末の結果だけなので、平日の様子も見ないと完全とは言えませんが。
マイナスの副作用として、上司にこの問題について相談しても「まあ別にそれで評価を下げてるわけじゃないし」だの「気にしなければいい」だのという返答しか寄越さなかったことに、ジワジワと腹が立ってきた感があります。
社員なら沢山のスタッフを見てきただろうし類似の事例はあっただろうに、ボーっと見てきただけかよ!と。
明確な理由も分からないままリーダーに祭り上げられてますが、他の不満点も考えていくと、上司の人物鑑識眼にも疑いの目が強まってきます。
まあ、真っ当な行動学が普及してればここまで生き辛くはなかったでしょうから、怒りをあらわにする気にはなりませんが。

全体的な配布枚数が増したあたり、ガラが悪いとまで言い切れないような通行人に対してまで、ガラが悪い人に向けるような視線を向けていたのではないだろうか、という可能性を疑ってもよさそうに思えました。
「こいつらは私に嫌な態度を示してくる」という感覚の中で、「相手を悪しき不快なものと見る目線」に受け取られ得るものを、普通の相手に向けてしまっているのかもしれない、と。
トラブルが激減して配布枚数が増加した状態が続くのであれば、俗にいう被害妄想的な状態を疑うのは有りかもしれなません。
そこで、一段階踏み込んで、目を合わせざるを得ない人にそんな目線を送っている可能性がある場合、それを防ぐ行動法というのを知りたくなりました。
基本は口角を上げた穏やかな表情だと思われますので、まずは意識しなくてもできるようになるまで意識してみます。


 
Re: 「人と接する技術」を要求される場合 /
No.1073 2015/06/24(Wed) 17:02:54

 上記で挙げていったものについて、繋がりが見えましたので、連投失礼します。
 結局、学童期の「周囲は敵ばかり」という感覚に繋げて「それなら、自分を守るために敵は追い払わないと」という風になり、「追い払うためには打ち負かさないと」という発想になっていたのではないか、と。それならば、対人的に嫌なものが一気に押し寄せればすべてが敵に思えるのもまああり得なくはないなあと。
 まずは大元にある「周囲は敵ばかり」という感覚を本心から打ち破るような状況を作り出すのが順当のようにも考えられます。それを考えるなら、最近出来た人間関係は確かに風穴を開けるきっかけにはなったのかもしれません。あとは、「考えているよりも敵は少ない」というのを本心から分からせるための行動法。そういう意味では先日のアドバイスはかなり役立てることが出来そうです。

 あと、作業姿勢を変えてから思ったことですが、相手を視界の端で確認することに慣れていると、相手の特徴というのが目に入ってきにくい分だけ、ガラの悪さという情報があんまり強烈に入ってこないですね。このまま、「周囲は敵ばかり」という感覚に対抗できるものになっていけば、と思います。


魂の愛への望みについて / ヨム
No.1062 2015/06/12(Fri) 20:29:41

 1、メール相談集、003について

 現実世界以外での、このような出会いがあった時に、結婚などされていても、他の方に惹かれることは、魂の愛への望みが深まり、成長に必要なことと考えられる。

 そして、現実の生活を離婚などで、生活を変える方もいらっしゃるとも考えます。
 別の方と、生活をしていくこともあるでしょう。また、シングルマザーを選択される方もいることです。

現実は、そのままに魂の愛を続ける方もいる。

 島野さんの言葉では、以下のように。

・その2つの世界を、しっかりと生き続ける。最後まで交わることのないその2つの世界 を、最後まで歩み続ける。魂の「自分から愛する気持ち」のためにあるものと考える。

・あまり性急にものごとを変えようとしてしまわない。
 そして多少は落ち着いてから、じっくり「現実」をどうするのがいいか、考えていけば いい。
 
・「現実世界」と「魂の世界」というものが別々にあり、まずはそのそれぞれを支えてく れる両者に感謝するのが良い、当面は何かを変えようとしなくとも良い。

・あくまで現実的で具体的な「喜びと楽しみの共有」さらには「生活の共有」として考え る。

 とあり、とても参考になりました。

 2、これまでの著書の文について。

「好きな方に会うと、赤子のようになり、話もできないくらいになってしまう」ため、その方のことを考えるのを止めたようなことが載っていました。

 このことでは、好きな方を目前にすると、ワクワク・ドキドキといううれしさの心境から、話が出来なくなるというものですか。また、魂の成長のために、起きていることなのですか。考えるのを止めたとありますが、止めない選択では、どう成長できると考えられますか。

 普通に話が出来る方を相手に選ぶ方もいれば、ドキドキする方を好きになる方もいて、ドキドキに耐えられなくて、止めてしまう方もいるようにも感じます。

 島野さん、回答をお願いします。
 
 

  


 
「魂の成長」のための「現実の世界」での相手との関係^^ / しまの
No.1067 2015/06/21(Sun) 10:35:52

「魂の成長」

>「好きな方に会うと、赤子のようになり、話もできないくらいになってしまう」ため、その方のことを考えるのを止めたようなことが載っていました。好きな方を目前にすると、ワクワク・ドキドキといううれしさの心境から、話が出来なくなるというものですか。

『入門編下巻』以下の文章ですね(P.265)
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 最近TVで見た話では、いつも元気一杯の美人タレントが、恋した相手を前にするとうまく話せなくなってしまうと語っていたのを、まさに愛の深淵だなと感じながら眺めました。
 その女性タレントは、恋を遠ざけることを選んだと言うのです。いつも元気一杯の、今の自分の方が好きだから、と。恋をしなきゃあと、沢山の身近な人が言う中でです。
 それを語った瞬間、その女性タレントから大粒の涙がこぼれます。その意味を、彼女自分でも説明できません。
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「うれしさ」というより、「怖さ」からということになると思います。
良く聞く話で、普通の相手とは気軽に話ができても、本当に好きな相手話そうとしても緊張してできなくなるというイメージできるかと思います。また怖くて近づけないなど。

理解のポイントとしては、本当に好きな相手への感情「魂の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怖れ」抱く
一方、利己的打算的に好きな相手(たとえば相手の外見や財産とかで)への感情「自意識の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怒り」抱く
この違いです。

>また、魂の成長のために、起きていることなのですか。

そうですね。「魂の感情」をしっかりと自分自身で受けとめるごとに、「自分から愛することができる」という「心の豊かさ」が増大する。これが「魂の成長」です。

それは相手との現実関係成就必ずしも必要としない。というかむしろ逆に、「現実関係の成就」とは別の世界に、それがあるというのがハイブリッド心理学見出す道です。
2段階的に、と言えるものとしてです。
まず「現実関係の成就」壁につき当たった時相手への自分の感情「魂の感情」なのか、それとも打算的な「自意識の感情」だったのかが、見えてきます。
そしてそこに「魂の感情」あるのであれば、それを自分自身で受けとめる一方、それを受けて相手との関係は、あくまで再び現実的で具体的「楽しみの共有」「生活の共有」観点考える
そうして、「魂の感情」を自分で受けとめ「魂の成長」に向かうということが、「現実世界」とは「魂の世界」でのことになってくるのが見えてくる、ということです。


「魂の成長」のための「現実の世界」での相手との関係

といった前提に、

>考えるのを止めたとありますが、止めない選択では、どう成長できると考えられますか。

ですが、まず上記「女性タレント」では「恋を遠ざけることを選んだ」ということであり、考えるのを止めたというより、彼女なりに考えた結果相手と距離を置くことにした、もしくは恋愛とデートという人生活動そのものに距離を置き、のもの、つまりタレントの仕事専念することにした、ということだと思います。

とうことで、「現実世界」においては、相手と、あるいは恋愛そのものと、距離を置くことにした、ということですね。
一方「魂の世界」でどうかは、その女性タレント言葉の中では語られていません。まあ言葉の後「大粒の涙」というのに、それなり「魂の世界」での「受けとめ」あった察していいのではと思います。

とうことで、まずは「考えるのを止めない選択でどう成長できるか」という問いは、しなくて良いかと思います^^。
つまりその女性タレントのケースでは「魂の世界」「現実の世界」両方しっかり成長した経緯語ったのが、それら言葉ではないかと。

ポイントは、恋愛に距離を置くことが、「魂の世界」「現実の世界」双方での成長になる、そんな人生の時期ある、ということですね。
「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における、「未熟の愛からの旅立ち」該当する時期です。

ちなみにその女性タレントとは実はベッキーで、『金スマ』見かけたものです。入門編下巻原稿にしたのが6年前2009年。つまりまずはベッキー10代後半くらいのことを話していることになると思います。
そして10代後半くらいの時の恋愛というのは、得てして、互いが好きという感情がどう一致するか以外のことが見えない、とても未熟なものであることがあり、それに虜になることは、心の成長むしろ妨げることもある。「恋を遠ざけることを選んだ」というその選択は、その点誤りではなかったのでは、というのが僕の考えです。
それを『入門編下巻』上記文章続きとして、こう書いた次第です。
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 彼女選択特に間違いではないでしょう。また、彼女には真実があり、もしがあるとすれば、それは「恋をしなきゃ」と言う回りの言葉の方でしょう。しかしそのにあるは、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできないのです。
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ちなみに「その涙の先にある壁は、私たちの通常の意識世界のままでは越えることはできない」という言葉に、『入門編下巻』その後難解な部分つながっていくのですが、一言で、「心の死と再生」を含めた「命」の力が、壁を最終的に越えさせる、というだと理解しておいて頂くと良いかと思います。いずれにせよ難解ですが^^;

いずれにせよ、「魂の成長」のために、「現実関係」どう続けるかはもうケース・バイ・ケースですが、一言で、「魂の感情」を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるといい、とは言えますね^^。


 
Re: 魂の愛への望みについて / ヨム
No.1070 2015/06/21(Sun) 21:11:00

「うれしさ」というより、「怖さ」からということ。

本当に好きな相手と話そうとしても緊張してできなくなるという話でイメージ。

理解のポイントとしては、本当に好きな相手への感情は「魂の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怖れ」を抱く。

「魂の感情」をしっかりと自分自身で受けとめるごとに、「自分から愛することができる」という「心の豊かさ」が増大する。これが「魂の成長」。

2段階ポイントは、恋愛に距離を置くことが、「魂の世界」と「現実の世界」の双方での成長になる、そんな人生の時期もある。

「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における、「未熟の愛からの旅立ち」に該当する時期。

女性タレントについては、タレント名から、イメージを持つことが出来ましたので、教えていただいて良かったです。

一言で、「心の死と再生」を含めた「命」の力が、壁を最終的に越えさせる、という話だと理解しておいて頂くと良いかと思。

一言で、「魂の感情」を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるといい、とは言えますと。

 島野さん、上記など考えさせられる話を聞くことが出来ました。本の内容の解説までしていただけました。ありがとうございました。

 現実世界で続けられるなど、自分の成長につながることは、挑戦して行くことも、加害であること再認識いたしました。


 
Re:  誤字あり / ヨム
No.1071 2015/06/21(Sun) 21:14:24

> 「うれしさ」というより、「怖さ」からということ。
>
> 本当に好きな相手と話そうとしても緊張してできなくなるという話でイメージ。
>
> 理解のポイントとしては、本当に好きな相手への感情は「魂の感情」であり、相手とうまくできないことに対しては、「怖れ」を抱く。
>
> 「魂の感情」をしっかりと自分自身で受けとめるごとに、「自分から愛することができる」という「心の豊かさ」が増大する。これが「魂の成長」。
>
> 2段階ポイントは、恋愛に距離を置くことが、「魂の世界」と「現実の世界」の双方での成長になる、そんな人生の時期もある。
>
> 「未熟の愛から旅立ち、自立の自尊心を経て、成熟の愛に向かう」という「命の生涯」における、「未熟の愛からの旅立ち」に該当する時期。
>
> 女性タレントについては、タレント名から、イメージを持つことが出来ましたので、教えていただいて良かったです。
>
> 「心の死と再生」を含めた「命」の力が、壁を最終的に越えさせる、という話だと理解しておいて頂くと良いかと思。
>
> 「魂の感情」を見捨てないだけの相手との関係も、「現実世界」で続けられるといい、とは言えますと。
>
>  島野さん、上記など考えさせられる話を聞くことが出来ました。本の内容の解説までしていただけました。ありがとうございました。
>
>  現実世界で続けられるなど、自分の成長につながることは、挑戦して行くことも、課題であること再認識いたしました。


はてなブログ / まる
No.1061 2015/06/12(Fri) 20:16:13

前から愛読させていただいております。
濃い内容が充実しているにもかかわらず、知名度が低くて不思議です。
はてなブログへ移行されたらもっと反響があると思います。はてなは割と知的なレベルが高い人の利用が多いので、おすすめです。
FC2はえげつないアダルト広告で最近敬遠されていますし…^^;


 
Re: はてなブログ / しまの
No.1065 2015/06/18(Thu) 10:20:28

ありがとうございます。はてなブログ、見ておきます^^!
FC2カスタマイズの自由度で選んだ感じですね。『日記ブログ』開始の時また検討しようかと^^。知名度の方はまだ整備途上ということであまり気にしていませんので^^。


サトラレ / corta
No.1051 2015/05/13(Wed) 09:47:14


私は、私の思ったことや考えたことが他人に聞こえる、いわゆる「サトラレ」です。100%統合失調症ではありません。原因、治療法など分かりますでしょうか?
よろしくお願いします。


 
Re: サトラレ / しまの
No.1053 2015/05/14(Thu) 14:24:33

まず僕の意見としては、でも言葉の流れ表情などで「悟られる」というのはあって当然であり、それが人間同士の行動がスムーズ円滑に流れる、大きな基盤でもあると思います。もしそれがゼロになるとなると、いかに対人行動が済むまで時間が増えることやらと^^;

一方で、「自分はこうしたい」という「意思表明」は、ちょうどさっきコメントを入れたこたろうさん質問へのレスでも言った通り、自分「言葉」で行います。
相手こっちの思考どう悟ろうと悟るまいと、結局自分自身で最終決断し、自分の言葉で意思表明したものが、最終的に社会行動として取り上げられ、有効になります。

ですので、相手にどう悟られるか悟られないかに関わらず、そしてどう悟られるか悟られないかあまり気にせず、問題内容に応じた、自分なりの揺るぎない考えを持つことに、日々の生活人生取り組む、という向かい方よろしいかと思います^^。

なお、

>私の思ったことや考えたことが他人に聞こえる、いわゆる「サトラレ」です。

という、頭の中の思考物理的に「聞こえる」ということ通常ないと思います。
ただご存知か『志村どうぶつ園』に出てくる「動物と話せる女性ハイジ」のように、相手の思考を実際に聞くかのように感じ取るという特殊事例があるのも、僕としては否定しない事実として認識しています。
それも含め、対人行動法などでの基本的な指針上記になり、思考が直接聞き取られるといった問題そのものについては、僕の方では詳しい知識はなく専門外になりますのでご了承下さいm(_ _)m


職場における同僚との問題 / にーな
No.1041 2015/04/02(Thu) 16:41:26

島野さん

お久しぶりです。にーなです。
仕事以外のことについては問題ないが、仕事が絡むとうまくいかない人がいます。
私自身がその人の協力がないとどうしても遂行できない業務があったとして、時間がある時に話し合いをしたい旨を伝えたり、ミーティングを開催したりするのですが、うやむやに聞かれたり、出席してもらえなかったりします。わざとそうされているような気がして、自分の気持ちがどんどん卑屈になっていきます。きっと私なんて失敗して辞めていけばいいと思っているんだろうと思ってしまいます。仕事に関係ない趣味の話なんかは陽気に話しかけてきますが、仕事になると背を向けられるかんじです。
私は、仕事に関係ないことも仕事も協力してやっていきたいと思いますし、自分が相手よりも知っているものについては出し惜しみせず協力しているつもりなので、相手の態度をとても悲しく思います。自分の心が映し出されたものかもしれませんが、相手がとても腹黒く見えて、もう以前のように何気なく話しかける気も起きてきません。
こういった場合でも、基本は原理原則、仕事に必要なことは感情抜きで確認することだと思うのですが、感情がグラグラしてしっかりと自己の重心を保っていられません。彼女の一挙一動を気にしています。このような場合の、感情分析・原理原則に基づいた判断はどのようにすすめたらよろしいでしょうか?


 
「意図的に非協力的な同僚」への対処と原理原則行動^^ / しまの
No.1043 2015/04/05(Sun) 17:02:50

これは2つポイントもしくはテーマになりますね。
 1.「意図的に非協力的な同僚」への対処
 2.それ以前の仕事の基本姿勢と行動法



1.「意図的に非協力的な同僚」への対処
まずはご相談直接的内容何らかの原因があって、どうも自分に意図的に非協力的になっている同僚どう対処するのが良いか。

これについて理想に感じる解決法を言うと、
相手に何か問題があるらしいことを一切取り上げることなく、相手をことさら意識してもいない風を装い、多少の問題も可能な範囲で甘く大目に受け流した上で、自分にとっても相手にとっても利益が最大になる結果を生み出し、その上でしばらく様子をみる。
といったものです。
それができればまず言って、相手の行動はこっちに同調してくるというものとしてです。

その対照として、望ましくないと思われる対処法の典型パターンは、「真意を問い話し合う」といったものです。
これをすると、わだかまりトゲトゲしい感情さらに敵対感火をくべる可能性がある。もちろん話し合うことが解決につながるケースもあるでしょうが、これは原因がかなり特定的な誤解などによる場合です。
書いて頂いた文脈「真意を問い話し合う」というのをすると、まず前者になるだろう直感^^;
その相手は、何らかの原因で、 にーなさん漠然とした反感を感じているという状況が考えられるからです。特定の誤解というより。
その場合それを話し合うなんてよりも、上述「大目に受け流し互いの利益が最大になる結果を生み出し続ける」という対処法の方が、断然解決になります。これはもう経験則から言えることです。

その線考えるに、まずその相手非協力どんな支障なのかを、具体的に考える必要があります。
僕の経験から感じたことを言えば、回りの非協力が仕事の失敗に直結するというのは、あまりないです。あるのは、仕事の顧客相手の責任者や直接担当者が非協力的である場合です。この場合もうかなり成功が望めなくなる。
こっち側の周り非協力的仕事失敗というのは・・さてどんなものかと。


2.仕事の基本姿勢と行動法

でそれをちょっと具体的に見て進ぜようかと文面を見るに、この一文気になるわけですね。

>私は、仕事に関係ないことも仕事も協力してやっていきたいと思いますし

仕事の内容と状況具体的内容書かれておられないため、とにかく僕の考えからの答えを言いますと、
仕事は「協力し合う」ことで行うものではない、ということです。
仕事は、「明確な役割分担」で行います。

組織の役割分担明示されていないような「協力」は、むしろすべきではない、とさえ言えると思います。なぜならそれは組織のミッションそのものしっかり体系化されていないということだからです。まずそれを改善する必要があります。個人の努力としてではなく、組織としてです。
積極的な協力し合いに頼ると、どこかで足元をすくわれる事態が訪れます。そうでなくとも、非効率です。下手な「協力」時間を無駄にしたり、さらには足手まといになったりすることさえあります。・・とそんな経験沢山あって出てきてしまう言葉^^;
まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること。これが重要です。


結論

ということで、ちょっと期待外れというか不本意なアドバイスかもしれませんが、まず取り組むといいのは、仕事の進め方、そこでの人の行動のあり方についての基本的な考え方の見直し再構築といったことになるんですねー。
「協力し合い」ではなく「明確な役割分担」という基本理念選択検討の上でです。

あくまで正確な話もっと具体的な内容いかんですが、文面から僕が察するに、良かれと考えながらハイブリッド心理学非推奨形にまっしぐら、というような・・^^; 論理的、原理原則的ではなく気持ち的、道徳的というもの。
その人の様子原因としても、まず考えられるのは、過度に巻き込まれる、自分の時間を奪われることへの抵抗を感じているといったものになります。

>自分が相手よりも知っているものについては出し惜しみせず協力しているつもりなので、

これもちょっと危険な雰囲気を漂わせている言葉^^; さらに不本意な指摘かもですが、押しつけがましくなったり先輩ズラされたという不快感相手に与える可能性がゼロではありません。
これも僕の経験から言いますと、僕自身「自分の方が知っている」という意識相手に接した時相手との関係は「アウト」になってたと思い返されます。相手も相手なりに工夫するのをまず尊重する、そして相手から聞いてきたり頼んできたりしたら惜しみなくというのが良い姿勢になると思います。

そうした基本的な理念や対処姿勢見直した上で、具体的行動法再検討する。
たとえばミーティングの召集仕方過剰に人を呼ばない。本当に必要であれば、どんな役割において参加してもらうのかを、組織全体に明示するような形で召集するのが良い行動法になると思います。

そうして、まずは相手「過度に巻き込まれる」という反発感じさせないような仕事の進め方ができれば、意図的に非協力的になった相手に対して、上述「大目に見て様子を見る」という対処法スムーズにできると思います。
検討してみて頂ければ^^。

参考:
ちょっと古い原稿ですが以下など一読されておくと良いかと。
旧掲示板2006.02
ハイブリッド推奨 人生勝利の原理原則10則-2  No.894 2006/02/03


 
Re: 職場における同僚との問題 / にーな
No.1046 2015/04/15(Wed) 16:33:32

島野さん

早々に回答いただきありがとうございます。

島野さんへ質問をする時の自分は余裕が無いというか、心理的に追い詰められた状態なので、かなり感情的に流されていることが多いなと思いました。ご指摘いただいた文面もそういった整理できていない気持ちがほとばしったところかも、です。

1について

まずは「大目に受け流し互いの利益が最大になる結果を生み出し続ける」という姿勢で対処しようと思います。相手の非協力による支障として一つの例を挙げさせていただきます。
私の役割はIT部門でのプロジェクト管理、彼女の役割は基幹システムの管理とユーザサポートです。ここに新機能のインストールという業務が発生したとして、私は業務のスケジュール・プラン->人の配置->ミーティングの開催等を行います。私の役割はプロジェクトの管理なので、人の割り当てなどはもっと上位レベルで決まっており、実際私が行うのはメンバーとコミュニケーションを取って、プロジェクトを進め完了するということです。例えば、開発が終わり、テストの段階になったとします。彼女はミーティングもすっぽかすし、テストも誰か他の人にやってもらってくれと言います。仕方なく別の人を代理に立てます。その代理者がテストを行った結果、OKと出たので次の段階へ進みます。そして業務が完了します。そしてその後に、ユーザからの報告でバグが出た場合、突然「どことどこを変えたんだ!」と怒りをあらわにされるといった具合です。私は、変更されたプログラムのリストはすでに彼女にも送られていることを伝えながら、再度自分のメールから探して転送するというアクションを取ります。そして、懸念があれば貴方がシステムをチェックする時間を設けるのだから、ミーティングに出てほしいし、今後は事前に言って貰いたい旨を伝えます。その時には、彼女はもう私の話なんて聞いていません。リストを見ながら、システムのチェックに意識が向いているかんじです。私が何を言っても適当に「わかった」と半分無視の状態で答えられるだけです。前回、島野さんから指摘されたように、自分自身のコミュニケーションの未熟さもあると思います。彼女は私より年齢的にも社歴もかなり上の方で、システムも私より熟知しているので、私なんかの指示は受けたくないし、何も教えたくも無いが、何か不具合があるとこちらに怒りの矛先を向けてくる感じです。


2について

>まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること

私の働く会社は外資系企業なのですが、上記に問題があると感じています。以下、主観も入りますが、日ごろ感じていることです。

-組織図と役割の構成図はかなりしっかりとあるものの、効率的に機能していない、または海外事務所の末端で働く人まで浸透していない。
-役割の定義があいまいなために(実際やっていることと役割の定義にズレがあり、上の人たちはそれについては放置)グレイゾーンに落ちる問題が多い。
-一度、関連グループのコンセンサスと上司の承認を取ってスタートした課題でも、途中誰かの横槍が入ると、決定が180度翻ることが頻繁に起こる。それについては上司が判断を下さないので、しかたなく放置状態が続き、思い出した頃に「あれ、どうなった?」とまるでボールがこちらにあるような態度を取られる。

社風を理解していただくために参考までに書きました。ちなみに、コミュニケーションの相手は全て海外にいる外国人です。問題の同僚は同じオフィス内ですが、やはり外国人です。役割分担がはっきりしないことへの不安定感が、「協力し合う」という間違った態度へ自分を駆り立てるのかもしれません。
こういった状況について問題提起をして解決を試みるというのは、問題が大きすぎて、島野さんのおっしゃる「真意を問い話し合う」と同じアプローチである気がして、ドツボにハマる危険性があります。一生懸命やろうとすればするほどジレンマに陥るので、適当に流そうとすると不意打ちを食らう、不意打ちを食らった部分に関しては向こうが正論だったりするので反論を言えない。でも、不意打ちを食らわせる人間が原理原則に基づいてしっかりと仕事をしているかというとそうでもない時もある、でもこちら側はそれに対していちいち指摘しない。感覚的なものでもありますが、ざっとそんなかんじです。

組織がしっかりと役割を体系化していないところで、自己主張の強い人間がコントロールをしようとする、こういった中での自衛と建設を教えていただけると助かります。


 
「プロジェクト」における役割定義と仕事の段取り^^ / しまの
No.1047 2015/04/17(Fri) 11:30:00

僕の経験も踏まえ、ちょっと詳しく「プロジェクト管理ノウハウ」関連など。


>私の役割はプロジェクトの管理なので、

ならずばり、またノウハウポイントが出てきます^^。

3.「プロジェクト」における役割定義と仕事の段取り

というものとして。
つまり上記2.仕事の基本姿勢と行動法において、
まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること。
というのは、まさに「プロジェクト」ではない一般的職場業務です。銀行の支店業務なり役所の窓口業務なりモノ作りの現場業務なり、一つの組織体永続的一つの業務果たすという一般形態における
一方「プロジェクト」の場合は、まず期間限定あり、かつしばしば組織横断的になってきますね。

ですので、「プロジェクト」の遂行ノウハウは、かなり特別なスキル領域になってきます。それなりの習得習熟求められる
ところが昨今は、プロジェクト遂行ノウハウを教えられないまま、比較的若手段階からプロジェクトを任されて、プロジェクト遂行に合った行動がうまく取れずに板ばさみの中で苦労するケース増えているかも知れません。

話が膨らみますが、社会がそれだけ成熟し、大組織による巨大戦艦軍隊方式のプロジェクトというのから、ゲリラ戦方式の小プロジェクト五月雨式に(?)という変化があるかも知れません。ITの仕事し始めた時は、銀行の「3次(第3世代)オンラインシステム」など1000人規模のプロジェクト束ねるためのプロジェクト管理ノウハウなんてものが追求され、「プロジェクト管理者」という役割極めて重視されましたが、そうしたものなくなってきた昨今、プロジェクト管理ノウハウという話がないままプロジェクトが行われ、結果苦労する若手多いという状況ままあるように推測

いずれにせよとにかくプロジェクト管理というのは通常の組織業務とはまた違う特別なスキルになるという心得をまず心に入れて頂き、今回の話関連して、僕の経験を踏まえ具体的なポイントとしては、3つになるかと。


1)プロジェクトにおける役割定義とその徹底はプロジェクト管理者の業務になる。
一般業務での「組織がしっかりと役割の体系化をする」とは少し異なってきて、多少の役割割り当て組織がやっていたとしても、プロジェクトにおける役割定義は、そのプロジェクトの管理者が最終的に厳密に定義する必要があります。
組織行うのは、人の割り当てだけというケースもあります。そして往々にして、組織が個々のプロジェクトの都合よりも大きな損得勘定から人の割り当てを突然変えてしまうことさえあるでしょう。
まさに、

>一度、関連グループのコンセンサスと上司の承認を取ってスタートした課題でも、途中誰かの横槍が入ると、決定が180度翻ることが頻繁に起こる。それについては上司が判断を下さないので、しかたなく放置状態が続き、思い出した頃に「あれ、どうなった?」とまるでボールがこちらにあるような態度を取られる。

というように。実際そこでは、ボールが実に勝手にプロジェクト管理者のところにころがってきているわけですね^^; それをうまく拾えるかどうかに、プロジェクト管理者の手腕というものが出てきます。
どうするか以下

2)プロジェクトにおける役割分担は「指示」ではなく「合意」で進める。
プロジェクトしばしば通常上司−部下という指揮命令系統横断的に人集めされて進められますので、プロジェクトではそうした指揮命令系統が使えないケースが出てきます。特に参加者がプロジェクト掛け持ちになるようなケース
プロジェクト責任者は、「責任者」となったからといって、組織の責任者のようにはメンバーに「指示命令」はできない場合往々にしてある。
ですので、プロジェクトにおける役割分担は「指示」ではなく「合意」で進めるという基本理念基本姿勢大切です。
具体的にどうするかがさらに以下

3)役割の事前合意確認を3回は行う
具体的には、プロジェクト管理者参加者に対し、「私としてはプロジェクトをこのように進めたいと思う。そこでのあなたの役割はこれこれでありこうした作業をして頂きたいと思う。よろしいですね?」という事前合意確認を、まずは3回行います。

1回目事前合意確認は、プロジェクト発足時です。これは「プロジェクト計画書」というドキュメントを作って、関係者を招集し、合意を取りつけるものとして行います。
この「プロジェクト計画書」というのが極めて重要です。精通した人間からは、「プロジェクト計画書」出来具合で、そのプロジェクトの成否9割がた予測できます。内容は、実現しようとうする機能内容プロジェクトの体制スケジューリングなど。詳しくはここではよろしいかと^^。
でまず参加者には、この「プロジェクト計画書」を渡して、そこで自分の役割実際の作業内容が分かるレベルで、合意取る

2回目事前合意確認は、フェージングの節目に行います。システム導入であれば、要件定義フェーズ開発フェーズテストフェーズなどのフェーズ移行の節目にと、まず考えるので良いでしょう。
つまりそこで、そこまでのフォーズの状況と、それを踏まえた次のフェーズの確認周知を、メンバーに対して行います。当然そこに、次のフェーズ役割を持つメンバーに、プロジェクト管理者期待するものをやってもらえるかの合意確認含まれてくることになります。

そして3回目事前合意確認は、実際の作業に入る直前の定例ミーティングなどにおいてです。まあ実際の作業1週間前以内ということになってくるでしょう。

そうしてまず3回は、参加者の役割分担果たしてもらう内容について、それぞれ本人に合意してもらう。本人「了解しました」という言葉なり、文書への確認サインなり、はっきりとした言質を取ることが重要になります。
フェージングあまりない場合は、上記2回目というのは省略し、つごう2回必ず事前合理確認ということになりますね。
また場合によっては「根回し」というのも、うまくできるかどうか天下の分かれ目(^^;)になることもあります。

ともかくこんな感じでやれば、実際の作業段階になってすっぽかしなどの問題が起きることは、まずないと思うのですが・・。


一方、上記のような事前合意確認しっかりできていないプロジェクトというのは、得てして、「各自の裁量で各自なりに役割を果たす」というものになる可能性がありますね。時にこれは「船頭多くして舟進まず」というパターンへ。
で書いて頂いたその人の様子も、実はこの「各自の裁量で各自なりに役割を果たしている」という結果見える節もあるのですが、いかがかと。

まずはこんなもの基準に、ご自身考え方進め方など確認して頂くと良いかと思います^^。
万一、かなりこの通りやってるのも関わらず、書いて頂いたような問題が起きているという場合は、再度状況確認させて頂ければと^^。


 
Re: 職場における同僚との問題 / にーな
No.1048 2015/04/17(Fri) 17:38:53

> プロジェクトにおける役割分担は「指示」ではなく「合意」で進める

これは、なるほどと思いました。反発に会わないための方法だなと思いました。



>まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること。
というのは、まさに「プロジェクト」ではない一般的職場業務の話です。

言葉で伝えるのは本当に難しいと思いました。
問題がある」と箇条書きで書いた部分(-で始まる3項目)は、プロジェクトではなく、一般的職場業務の話として書きました。プロジェクトはもちろん、プロジェクト管理者がそういったことをクリアにしていかなければならないと感じています。

詳しくは説明できませんが、ちょっと変わった組織構造をしています。組織の構図と役割の定義はあっても、その中で個人がしっかりと役割を果たすことができないと感じます。全員が感じているかどうかはわかりませんが、少なくとも私はそう感じます。私のような末端の人間が、そういった問題提起をして取り上げられるとは思えません。みんながその中で、半分目をつぶりながら、自分が機能していける形を模索しながら働いていると思います。
「まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること」が無い会社は辞めたほうが良いのでしょうか?
正直、ストレスは感じるものの、良いところもあり辞めるほどではないと感じます。

基本は、「原理原則、建設的」になるかと思いますが、このような環境での個人の働き方はどのようなものでしょうか、島野さんのアドバイスをいただけたらと思います。


 
Re: 職場における同僚との問題 / しまの
No.1049 2015/04/18(Sat) 23:28:50

ちょっと状況が良くわからない感もあるのですが、とりあえずプロジェクト業務場面の問題として書いて頂いたものへのアドバイス上記になりますです^^。
また他の具体的場面問題など書いて頂ければ、また別の話が出るかも知れませんので、支障ない範囲で取り上げられるものなどあれば何でもお寄せ頂ければ^^。

あるいは今回ケースについて状況説明を補足追加という場合、さらに分かりにくくなる怖れもありますので、改めて新規トピックとして「こんな場面では?」という表現を考えて頂くといいかも知れませんね。
検討頂ければ^^。

なお、

>「まず個人がしっかりと役割を果たせるということ。そして組織がしっかりと役割の体系化をしていること」が無い会社は辞めたほうが良いのでしょうか?正直、ストレスは感じるものの、良いところもあり辞めるほどではないと感じます。

はもちろん、辞めた方がいいという話はないと思いますヨ^^。プロジェクト受託事業内容とする会社は、会社組織としては役割の体系化はあまりしなくなり、人材の管理と割り当てメインになります。これも上に述べた通り。IT系はホント組織流動的でつかみどころがないのが多いです。
各自プロジェクト管理者として、上述のようなやり方自ら役割調整できることが重要になりますね^^。


仕事 / コト
No.1042 2015/04/02(Thu) 22:02:31

 トピックについて島野さんは、自分で考察が出来ない段階の方が使用しているなどの文から、自分で考えることにしていますし、コメントを載せることを今回躊躇しましたが、本日は疲労が多いためもあり、島野さんのご意見も聞こうと考えました。

 職場全般を見て、その方が発する言葉は、発言する方は大体決まっていて、そしてその方に合わせて、面白おかしく反応する方がいる。反応せずにいると、つまらないとか空気が読めない方、元気が無い方、相性が合わないなど、否定的な反応がある。場の雰囲気としては、明るく活発なリアクションを望んでいる方が多い。そのような中、私の方は、合わせるのではなく、その方の発言を否定も賛成もせずに、たくさん話をする方なのだなと感じながら、特に率先して会話の反応をせずに過ごすことが多いです。私だったら、そのようなことではいちいち人に愚痴やリアクションをしないけどなと思いながらの時もあります。他の方では、仕事に集中している方も数人います。それそれが、その方の接し方があり、このことが人間関係というのであると考えます。
 また、そのリアクションに合わせた場合、好意を持たれる利点はありえます。しかし、その方に合わせることで、自分として考え実践したい対応があるため、合わせる事は無理やり行う行動になります。
 私が魅力を感じる方としては、相手にリアクションを求めることは特に無く、何かに取り組んでいることや、教えてもらいたい時に、自分の聞きたいことをしっかりと聞いてくれ、アドバイスなどの話し合いがあるなどです。
 リアクションを楽しんでいる方からすると、私は人の目を気にすることなく、自分自身のあり方を実践している姿や私の対応の仕方に不満がある方がいます。たしかに、その方々は、場の雰囲気や気を使っているからリアクションを持つこと、また素の感情での対応も考えます。
 また、どちらかといえば、実際の場面で、心の中で私はこの方はこのような対応をされる方だなあと、その方について客観的に考えています。
 知人とこのようなことについて話をした時は、いろんな方の反応の仕方をみて、学ぶと良いよなど話されていました。私は、人の顔色を気にして動くのではなく、人に好かれるためにというより、また嫌味を言われることを考えてしまうよりも、ぶれることの無い芯のある自分を作って実践をしていきたいと考えています。しかし、一部の方は、そのような対応をする方には、変わっているとか空気が読めない、つまらない人、発達障害や字人格障害があるのかとか、何かの疾患に結びつけ悪口のはけ口や、いじめ・攻撃をする方も多いと考えます。
 いじめや攻撃については、いじめられる対象は目立っていたり、その方の態度に不満であったり。しかし、いじめる方が、イライラや不満が多くて、人や物・環境に当たることが多いと考えます。
 リアクションが思うように出来ないなどその方は、ため息が多く、疲れた様子を感じることがあります。一人ひとりが、業務の疲れや、日々の生活の対人の場面でいろいろ考え、誰もが疲労があると考えます。私は、以前は気を使う方でしたが、現在はいろいろ考えて動じない自分が増えているため、動揺が少なくて穏やかな感じでありあります。
 島野さんのご意見を下さい。


 
「職場業務外の親交への不安」の克服指針^^ / しまの
No.1044 2015/04/08(Wed) 10:57:19

「職場での業務外の親交」における不安

これはまずどんな課題テーマかの確認からしますと、広く
・職場における業務外での人とのつきあい方
というものになると思います。
休憩時間での歓談に始まり、宴会、さらには休日のレジャーなどなど。

でそれについての僕の考えとして答えずばり言いますと、
・定型的な答えはなく、柔軟に対応するのが良い。業務の一部のようなものがあれば、それを的確に判断し、極力前向きに参加する、そうでないものはもう全く人それぞれの好き好きになる。
というのがまず言えるものになります。

ですので、

>場の雰囲気としては、明るく活発なリアクションを望んでいる方が多い。

というのはその人たち好き好き自分もそれに参加したければ参加すればいいし、それより他の時間の過ご方したければそうすれば良し、という話になりますね。
しかしそうはスンナリ穏やかに落ち着けない、という問題になると思います。自分もそうした人たちにうまく合わせられないと駄目なのではないか、うまく合わせられないと白い目で見られたりひどくするといじめに遭ったりしてしまうのではないか、といった不安さえ起きてくる。

>ぶれることの無い芯のある自分を作って実践をしていきたいと考えています。しかし、一部の方は、そのような対応をする方には、変わっているとか空気が読めない、つまらない人、発達障害や人格障害があるのかとか、何かの疾患に結びつけ悪口のはけ口や、いじめ・攻撃をする方も多いと考えます。

も、そうした懸念方向にあるものかと。


「職場業務外の親交への不安」の克服指針

そうした「職場業務外の親交への不安」克服へのハイブリッド心理学からの指針は、3つになると言えるかと思います。
 1.「ただ流す」という原則
 2「頑な」でなく「柔軟」に
 3.自分なりの交友を幅広く模索し続ける

それぞれ要点ごく簡潔に説明しますと、以下の通り。


1.「ただ流す」という原則

職場業務外親交場面についても、「内面感情はただ流し理解し、外面行動は建設的なもののみ行う」という「感情と行動の分離」姿勢実践を、一貫して行います。

この話の流れ特に重要になるのは、「内面感情はただ流す」という側面になるでしょう。

>一部の方は、そのような対応をする方には、変わっているとか空気が読めない、つまらない人、発達障害や人格障害があるのかとか、何かの疾患に結びつけ悪口のはけ口や、いじめ・攻撃をする方も多い

といったものを、実際に何か言われたのではない限り、あくまで「空想」として受け流し、その空想に反応した行動をしてしまわないことです。たとえばにぎやかに談笑している人たちにらみつけてしまうとか^^;

また万一何か陰口で言われたような場合も、極力過剰な反応をしないことが大切です。
「つまらない人」と言われたのであれば、相手の趣味嗜好に合わないという仕方のないこととして流す
一方「空気が読めない」と言われたなら、どんな問題があったのかを自分なりに考えてみて、もう少し明瞭にする。
障害があるのかと言われたのなら、実際そうした障害を持つのかどうかでまた話が違いますが、人にどう言われたかの前に、自分自身として障害というものにどう向き合うかが問われてきます。
そのように、万一「言われたこと」については、一つ一つ建設的対応法を考えるのが実践になります。言葉の一つ一つ内容が違いますので、面倒ですがその実践地道な積み重ね成長への道です。

また「否定的に言われる」のと「いじめ攻撃」とはまたかなり話が違います。ここではこれ以上省略しますが、まさに一つ一つの内容の違いを見分け、それぞれに建設的対処をじっくり考えるという実践になってくるわけですね。


2「頑な」でなく「柔軟」に

そうして「一つ一つの内容の違い」というともつながりますが、「こんな自分で行けば」と一つのパターンを決めて人に接するというのはちょっと無理があり、否定的行動でない限り多少は流されるのも可、という考え方でいくのがお勧めになります。
揺れ動きの中からこそ、本当の自分が見えてくるからですね。可能性の発掘というのもあるでしょう。
「こんな自分で」というのを最初から決め打ちしてしまうのは、得てして成長をブロックする姿勢になります。
ですので、

>ぶれることの無い芯のある自分を作って実践をしていきたいと考えています。

といのは、「ぶれることのない芯のある自分を作って」から「ぶれることの中から自分の芯を見出していって」というに、ちょっと補正するとよろしいか^^。


3.自分なりの交友を幅広く模索し続ける

そうして、多少は流されるのも可として、むしろ揺れ動きの中から自分の芯を見つけていくような、「交友関係」の自分なりの形を、長い目で模索しいていく
というのがまずは指針になります。

それを、生涯にわたる歩みとして、続けなさい、というのがハイブリッド心理学からの答えになります。
つまり職場の業務外場面でのそうした心の揺れ動きの問題は、職場での行動法の問題というよりも、人生全体における自分なりの交友のあり方問題の、一つの場面過ぎないということです。

本当に揺れ動きがなくなるのは、もうかなり人生も後半「円熟」段階になるという長い目で見ておくのが良いかと。
それまでは、全てを成長の場面機会として受け入れることにこそ、まずは心の落ち着き見出したい
そこから上述のように一つ一つの言葉で内容も違うという人との接し方場面に、一つ一つじっくり取り組んでいく。


まずはそんな指針になりますね。検討してみて頂ければ^^。
なお「芯のある自分の見つけ方」については、事例集次のアップ具体的意識法など説明しますので、それを参考頂ければと^^。


 
Re: 仕事 / コト
No.1045 2015/04/08(Wed) 18:02:59

  島野さん、たくさん考察して下さいました。読みながら、そう・そうと同感しました。
 また、柔軟さが必要と感じました。
 
 新学期の季節、新しい方との出会いで、いろいろと苦戦されている方も多いと考える。

 保育園児・学校・社会人・高齢、どの場面でも、人との付き合い方を考え、学ばれていることも考えた。

 自分を振り返ることも含めて、今回のコメントを振り返り、取り組んで行こうと考えます。
 とても参考になりました。ありがとうございました。


焦りとペース / こたろう
No.1039 2015/03/17(Tue) 19:10:30

焦りの解除に取り組んでいると、時間がゆったり流れるような感覚に
なりますね。一人でいる時は、なるべくゆったりと物事に取り組みたいと
思うようになりました。
人といる時に、そのペースを守れるのかどうかが課題です。



日本人、特に都会のペースは何でもセカセカしている気がします。

テレビ、そしてインターネットはどんどんスピーディーに進化してきていますね。

会話のペースなんかも、速すぎて、それについていけない事が悪いと
思ってました。でも、実際そうしたいかというとそうしたくないんだと
思います。昔はもっとゆったりしてたのかなと思うとうらやましいです。
もちろん現代でも、自分のペースを乱さずに生きている人はいますが、
昔は多数派だったんじゃないかな、と想像してしまいます。

テレビやインターネットそのものが、ずっと触れ続けているとそのスピードに
脳がフィードバックを受けるものであると思います。
ある分野のスピードが上がると、他の分野の既存のスピードがストレスに
感じるようになり、その解消が一つの課題になった時、それを解消したサービスが
市場において「価値」を持つようになりますよね。
もしもサービスの質が同じならば、速い方を選ぼうというのが一般的かと
思います。

しかし、そうやって日常に受けられるサービスが高速化していくほど、
心も焦っているのではないかと思うようになりました。
(焦りには、悪感情からの逃避という側面もあると思いますので、
悪感情が少ない人は、実際に速いテンポで焦りというストレスは無く生きている人も
いるのかもしれませんが。)
今までは、自ら立ち止まって一つ一つ処理していこうと思わなくても、
コンピューターの速度が自分が考えるスピードよりも遅かったのが、
今は立ち止まるという選択をしないと考えるよりも速いペースでどんどん
次の事を調べていく事が可能です。
「ネット・バカ」という本で、ハイパーリンクが埋め込まれたwebページに
常に触れている事で、一つのものにじっくり取り組んだり、じっくりと本を読んだり
する能力がどんどん劣化している事が指摘されていました。


この方向に価値を生み出していく事が、本当に人のため、社会のためなのか?
と思うようになりました。


一方、「ゆっくり」というのも一定の需要があると思われます。
それは忙しない日常の反動から生まれたものが大きいのかもしれません。

例えば、料金の高いホテルやレストランでは、迅速な対応よりも、
ゆったりとした時間を邪魔しないような対応が求められるのではないかと
思います。単価の安いサービスになればなるほど、回転率も上げなければいけないため、
スピードが要求される物が増えていくのではないかと思います。


出来るならば、ゆったりと焦らない自分で生きていきたい。
それに、ゆっくりとした時間は価値であるはずだ。
それを生み出す事もいいんじゃないのかな、と。


そう思うと共に、現代においての広い「社会を生き抜く強さ」には背を
向ける事になってしまうんじゃないかな、という不安があります。

なぜなら、仕事ではスピードが要求されるものが
やはり多く、どこでもやっていける!という自信を持つためには
それも能力の一つになるのではないか、という事からです。


ゆったりと丁寧に動いたり話そうとする自分が、
「何か飾っている人間」だと嫌悪感を向けられる恐怖もあります。


悲しみの彼方への旅で、
積極性の欠如でしかないものを「落ちついた自己像」として美化していた、
という記述があったと思います。


それから、「最初から見た目のスマートさを求める」事に対しての
悪い意見もあったかと思います。



これらと、焦りを解除して目指そうとする先が、
かみ合わない気がして、指針がぶれています。
何かヒントをいただけないでしょうか。


 
「焦りの解除」と「行動のペース」^^ / しまの
No.1040 2015/03/21(Sat) 11:21:51

「焦りの解除」ポイントは、『取り組み実践詳説』
「学びの一覧表」「4. 悪感情の克服」サマリーしたように(P.6)
================
焦り・・焦りは比較的即座に解消が可能であり、またそれが必要な悪感情でもあります。ものごとは焦りの中では行わないのが基本です。「最低ラインを決め、あとは思い切って捨てる」のが基本です。
================

というものになりますね。
つまり、「こんなペースでこれだけやればこれだけできる」という、行動の習熟と計算しっかりやり、「今回はこれでいい」という「覚悟」によって、「焦り」捨て去ることができるというもの。

従って、取り組み個々の行動課題ごとになります。
一律に「家で一人でいる時のゆったり感」を目標にできるものでもないかもですね。街でショッピングを楽しむのであれば、ぜひそうでありたい。一方、スーパーのレジのバイトをするのであれば、そうもいかない。それが田舎都会かでもまた話が違ってくる、というように。
それでも何事も、「熟練」の域達した時には、外面迅速てきぱきと行動しながら、内面家で一人で過ごすのと同じゆったり感、といったことも可能になるかも知れません。

ですのでまずは、

>一人でいる時は、なるべくゆったりと物事に取り組みたいと思うようになりました。人といる時に、そのペースを守れるのかどうかが課題です。

についても、あくまで行動課題場面ごとに、どんな課題か、そしてそのスキル向上どんなものかという内容にまず取り組んでみて頂くのがお勧めです^^。
最初から「ゆったり」を目標にするのではなく、あくまで自分が目標とする行動課題のスキル向上、それがある程度できてきてから、自分なりにどう望む「ゆったり」が可能か取り組んでみる、という順番お勧めですね^^。


>ゆったりと丁寧に動いたり話そうとする自分が、「何か飾っている人間」だと嫌悪感を向けられる恐怖もあります。

これについては、
1)やはり場面に応じた適切な行動法の模索と習得
2)それでも残るそうしたマイナス感について、「ただ流す」、さらに必要に応じより細かい色合いの自己分析

と、やはり外面建設的行動法をまず船の碇もしくは安全弁とした、2段階2面のアプローチになります。


>悲しみの彼方への旅で、積極性の欠如でしかないものを「落ちついた自己像」として美化していた、という記述があったと思います

成長向かう過程一般言えることで、「ありのままの自分に向き合う」という課題一場面ですね^^。そこからまた、次の一歩向かう


>それから、「最初から見た目のスマートさを求める」事に対しての悪い意見もあったかと思います。

「見た目のスマートさ」とらわれると能力向上の本質を見失ってしまうものもあれば、「見た目のスマートさ」手掛かりにして向上できるものも、両方あると思います。やはり行動課題内容いかんですね。


ということで、「焦りと解除と行動のペース」という課題テーマについては、やはりまず個々の行動課題ごとのアプローチがあり、その中その課題も取り組めるというものになると思います。その取り組み総論的ではなく、各論的になる・・という表現で分かりやすいかどうか。
行動課題としてこんなもの特定して頂ければ、さらに具体的アドバイスも可能かも知れませんね^^。


仕事 / コト
No.1034 2015/02/26(Thu) 20:20:42

 私は、どのような所で求人を出しているのかと考え、求人を見ることが好きな方です。
そして、受けてみたいと思う求人があり、最近応募し、合格にはつながらない経験をしました。
 自分の経験よりも、会社側が、できれば即戦力や同社と同様の経験者。それから、より若い年代新規採用者に近い方を採用するなどと考えられます。私は、現在の仕事もやりがいやありがたさはありますが、これまでの経験を他の所で活かしたいと考えることや、今まで無かった求人を目にした時に、受けてみたいと感じることがありました。
 今回のような、合格につながらない時、残念な気持ちになります。しかし、今受けてみたいと感じた求人は、今の自分だからそう感じているのであり、過去にはそのような求人は無かったことであるため、年齢でも引っかかってしまうのはしかたないとは感じます。そして、この現状を受け止めることと、再度自分の現在の毎日の仕事をしっかりとこなすことを考えて行っています。それから、興味がある求人に挑戦することは、良い行動とは感じていてます。また、求人を見ることで、自分の仕事に対する姿勢が作られていくことにつながっているように考えています。
 島野さんの、求人に対する経験があると思いますので、参考までご意見が聞けたらと考えました。


 
求人求職における「自分」と「相手」^^ / しまの
No.1035 2015/03/01(Sun) 17:32:34

求人に接した体験というのは、人生の中で3つの時期のものがあるという状況です。
1つ目学生時代アルバイト
2つ目大学院修士卒業時の、IT系を絞った就職活動
そして3つ目は、出版した『入門編』売れ行きが低調(^^;)で、執筆では生計は立たないのを自覚し、とにかく生きるための再就職というのを考えた2011年経験。これについては『取り組み実践詳説』などでも触れていますが(P.263)幾つかの会社に応募し不採用になる中で、自分にはやはり執筆しかないと確信に至り、とにかく自分一人なら食いつなぐという形で執筆専念継続となった次第です。

それぞれ体験談ちょっと添えておきますと、学生時代のバイト軽作業部類でしたが、にちょっと接客的作業が入るものもあり、若い頃無愛想だった性格が災いしクビになったものがあり、その時自分は社会で受け入れられない人間かと失意感じたなんてのもありました。
一方大学院卒業時1985年社会バブル景気へとまっしぐら超売り手市場だったこともあり、IT会社への就職結構スンナリ
出版の不成功再就職検討した時は、執筆開始当初から生計が立たないようなら潔く執筆を辞めるという覚悟でしたので、これも運命、今までに得た「社会を生きる自信」をまた生かす時だと、本気で再就職を考えたという経緯で、今から振り返ると不採用になってホント良かった・・感じる次第です。受かってたら執筆なんてもう無理ですからね。ほんとアブナイアブナイ^^; という感じ^^; まともかく、よっぽどの即戦力でないと本格的再就職なんてなかなかできない今日この頃という感じですね。

そんなよもやま話を踏まえ、僕の意見としては、
@「自分が」 社会で何をしたいか、何をできるか、どんな能力スキルを目標にするか
A「相手が」 自分をどう選ぶか

という2つを、しっかり分けて認識して向き合うことが大切だ、ということになるかと。

もちろん、まずは@の方にしっかりと向き合うことが大切だ、ということになりますね。しっかり「向き合う」だけではなく、その対象分野について、また関連する社会動向などについてしっかり学び、情報を仕入れることを、いかに着実にできるかが大切
それによって、Aの方は自ずと結果がついてくる。ただし、@がしっかりできれば必ず自分が選ばれるとは限らず、応募者が多数であれば、ほんの僅か自分より条件の整った人が選ばれることもある。それはもうほんの紙一重の差程度のものとして。ま多少とも「水もの」(運に左右されるもの)だということですね。そうした覚悟もまた重要だということになりますね。

こうした二面の向き合い認識持つ先に、僕の学生時代のように、無駄に「自分は社会で受け入れられない人間だ」なんて感じる必要もなくなってくる、というになると思います^^。


 
Re: 仕事と言葉について / コト
No.1036 2015/03/01(Sun) 19:06:21


  島野さんの、良く考えていただいた意見を読むことができました。

 採用に至らないとは、人気の企業であり、また若い方のが採用されやすい、競争に残るには、並みでは乗れないとのこと感じます。
 さらに、不採用になってから、良く考えると、実際その企業で働かないで、今の生活を続けた方が良いとの察しが下さっていることもあると感じることもありました。
 受からない失意も、挑戦には伴い、これも自分にとって自分の行動の結果であり、自然な感情とも思えています。

 「社会で何をしたいか、何をできるか、どんな能力スキルを目標にするか
その対象分野について、また関連する社会動向などについてしっかり学び、情報を仕入れることを、いかに着実にできるかが大切。自分が選ばれるとは限らず。」と。その通りと、感じたことと、失意が軽減しています。

  本日は、ある方のホームページで、読んだ記事がありました。
 「母子関係で大切なことは、安定して安心と安全、満足と快を子に供給し続けることで、豊かな情が育ち、それが充足されていないと、大人になって心理的にうまく接することは出来ない。」と書かれていました。

 このことは、当然の事で、重要な言葉であり、言葉で言うのは簡単ですが、そう言い切れるものなのだろうかと課題が残りました。
 そして、私自身振り返って考えてみると、幼少時は満足のある親の関わりがあった。しかし、親自身の生活環境から、すべて子供に満足の環境を与えていられるのもでもないといえるし、自分が成長するにつれて、自分の考えや、親の考え方の違いも考えるようになるため、もっとこういう親であったらと、親のせいにしていた子ども自身の思考の部分も大きく影響すると考えられた。
 このように、自分が大人になってから、気がつくことが多く、ただ言葉での「安心と満足と快を子に供給し続けること」だけでは、子育てを実際する方にとっては、では具体的なアドバイスになってはいないように感じられました。
 たまたま、この記事を目にした日に、レストラン席の隣席が、可愛い赤ちゃんと父の2人で、父が良い関わりをしているのを感じました。子育て中は、食事、身の回りのお世話など、無我夢中で行っていることと言えますし、親自身良い関わりを持とうと努力をしていると感じます。しかし、子供のタイプ個性や、親の個性により、言葉や行動は、それぞれ一人ひとりことなることや、思春期から大人になってから、多くの方が人間関係で困難を感じる方が多いのは、ある意味自然というか、人間ゆえとも感じられます。
 親も、子も、良い関わりをすることは、重要と安易な言葉を言う前に、親自身も、子供自信も「自分は、社会では受け入れられない人間だとは思わないように」という言葉の方が、惹きつける言葉に考えられます。しかし、社会では受け入れられない人間だと思わないようにという言葉の具体的な言葉は、やはり安心と快の充足に行きつくのかもとも考えられますが。大人から見た快の充足でも、子供から見たら快の充足ではなく、お互いの考えが食い違うこともありえますし、子供はまだ自己中心的であるから、大人が教え導くことも生活でありなど考えます。
 このことについて、島野さんならではの考えをお願いいたします。


 
母子関係と成長^^ / しまの
No.1037 2015/03/02(Mon) 15:25:08

>「母子関係で大切なことは、安定して安心と安全、満足と快を子に供給し続けることで、豊かな情が育ち、それが充足されていないと、大人になって心理的にうまく接することは出来ない。」と書かれていました。
>このことは、当然の事で、重要な言葉であり、言葉で言うのは簡単ですが、そう言い切れるものなのだろうかと課題が残りました。

そうですね、それだけだとちょっと話が狭すぎるかも知れませんね^^;
ハイブリッド心理学では、大人になってどう人にうまく接することができるようになるかは、その人心の成長と成熟総合的結果だ、と考えます。
まあ幼少期の母子関係というのも、その中一つの要因。ただし完璧な親はいませんので、蒸し返してもどうにもならない面が多く(^^;)、そこに何か不十分なものがあったとしても、誰もが持つハンディの一つとして、自身がどう人への接し方を学びか、そして成長全般に向かうか重要になってくる、ということになると思います^^。


 
Re: 記事について / コト
No.1038 2015/03/02(Mon) 18:54:55

早速、コメントを読むことができました。島野さん、ありがとうございます。

「心の成長と成熟の総合的結果であり、生活の過程では、誰もが持つハンディの一つとして捉え、自身が人への接し方を学び、成長全般に向かう」と。

 自分自身をまとめると、人の記事に左右されるのではなく、自分はこうしていくという、心の成長に向かう行動を貫くことであると考えることが出来ました。


パニック 不安について / えむ
No.994 2014/10/31(Fri) 14:13:48

しまの様

十数年前に医師からパニック障害と診断を受けました
症状を怖がったり、逃げたりして、行動範囲が狭くなり、このままではいけないと思い症状と向き合いつつ行動をしています
思考に振り回されながらの行動は非常に辛かったのですが、ある時ふと思考と行動を別にすると楽に行動が出来てる事に気づき、現在少しずつ行動範囲を広げているところであります
もっと思考と行動を別にするという事について考えを深めたいと思い、ネットで検索していたら、しまの様のブログに出会う事ができました
強く共感する事が多く、やっぱり思考と行動を別にする事は間違っていなかったんだと思いました
先日、今までにないくらいの平坦な気持ちで外出が出来、パニック発症前のような外出を普通に行ける感覚を思い出すくらいでした
思い出せた喜びさえも、冷静なものでした
そのように行動できる事が少し続いていました
そのような状態だったのですが、急になんともしんどい思考がグルグル...と出てきました
今までの、順調にいっていたのに症状が戻ってしまったとかではない感覚...、自分ではどうしようもないというか...
もちろんその思考を無視しつつ、行動は続けています
これは治っていく過程のものなのでしょうか
今までのようにこの思考が出て来てショックを受けているという感じではないのですが、一体これはなんだろうという感じです
私はもう前に行くしかないので、ここからの進み方も含め教えていただけると嬉しいです


 
感情と思考と行動の食い違いの中にこそある成長^^ / しまの
No.996 2014/11/02(Sun) 11:47:04

これは明快ですね。
まず、「感情」「思考」(今できる)行動」常にうまい具合に歩調を合わせ、悩み動揺のない状態が金輪際続くようになるということなどあり得ず、もしそうだとしたら、「成長」を一切止めた状態だということです。ま臨終間際の悟りの境地というのであれば、そんなのもあるかも知れない^^;
つまり「感情」と「思考」と「行動」の食い違いの中にこそ、我々が別の人間のように成長変化していくための、糸口があります
その糸口に向き合い、「感情」と「思考」と「行動」の食い違いの中に、自己の成長のための「学び」を見出すことです
それを、生涯続けることです。これが生涯続くものと考えておくのが正解です。

「学び」は、「これを心がければ後はもう大丈夫」というような大雑把いっしょくたのものではなく、具体的場面状況内面状況の一つ一つについて、沢山「学び」が出てきます。
ハイブリッド心理学はそれを可能な限り全て扱っているので、説明も膨大になっており整備がこれからですが、まずはもうすぐ完結する『ハイブリッド心理学 概説』
3.取り組み実践
を読んで頂くと、実際どんな「取り組み」をするのかがざっとイメージできるかと。

あとは本当にもう一つ一つの場面状況ごとに、この掲示板ご質問相談頂いているように、具体的検討を行います。
何でも材料あればまたいつでもお寄せ頂ければ^^。


 
Re: パニック 不安について / えむ
No.1031 2015/02/17(Tue) 10:40:25

しまのさま
具体的な場面での相談をさせてください

所謂不安発作を経験し、その記憶があるので、逃げられない場所(自分がそう思っている)にいると、またその発作がこの場所で起こったらどうしようと解決できない不安でいっぱいになり、それに伴い身体反応が出てきてさらに不安になります
記憶は消えないものだし、予期不安がありながら行動しても辛いという状況には変わりはありません
徐々に慣らせば自信がついて楽になると聞きますが、日によって近い場所でも怖いし、そのまた逆もあります
私の場合、自分が意図しないタイミングで不安に気持ちがいかない出来事などが起こり、自然にそちらに気を取られていれば遠い場所でも大丈夫だったりします
要は意識すれば大きな不安が起こり、意識をしない、忘れていれば不安は起こりません
何回遠くに行っても、意識するしないの問題であり、記憶があるかぎり辛い症状は慣れそうにありません
ただただ我慢しながら行動しています
以前と比べると、思考、感情によって行動を全くしなかった時を考えると随分進歩はしたのですが、行動しても辛い症状が緩和されないので凹みつつはあります
行動する事でまた新たに辛い記憶を作っている気もします
苦手な場所での不安、湧き上がる感情との向き合い方を教えていただきたいです
一つの具体例を申しますと、車で移動し、距離が遠くなるほど帰りは無事運転して帰れるだろうかと考え、不安が大きくなり身体反応も出てきてしまいます
すごく不安になるから身体反応が出てきて当然ですよね...
ちょっと行き詰まりを感じ、焦っているのかもしれません
アドバイスをいただけると幸いです
よろしくお願いします


 
不安発作への感情と行動の分離アプローチ^^ / しまの
No.1033 2015/02/22(Sun) 18:24:51

ハイブリッド心理学の「感情と行動の分離」

これはまずは、「感情と行動の分離」呼んでいる心の取り組みの、ハイブリッド心理学独特の内容理解から始めていただくとよろしいかと思います。

その言葉ただ聞いただけでは、行動と感情を切り離し、行動は思い切って感情を切り離して行うといったことを連想するかと思いますが、ハイブリッド心理学での「感情と行動の分離」は、
・外面行動への取り組みと、内面感情への取り組みを、それぞれ別に行う
というのが主旨になります。「外面行動は建設的なもののみ、内面感情は流し理解することのみ行う」、というものとして。
感情を切り離して行動する、ではなく、感情への向き合いと行動のへの向き合いを切り離す、とでも言えますかな。
そこから、行動法の考え方感情への向き合い方それぞれについて、ハイブリッド心理学独特の、詳しい内容が出てきます。

>以前と比べると、思考、感情によって行動を全くしなかった時を考えると随分進歩はしたのですが、行動しても辛い症状が緩和されないので凹みつつはあります 行動する事でまた新たに辛い記憶を作っている気もします

これはまだ、ただ「感情を切り離して行動」という素人思考(失敬^^;)の段階かと。そのため、小手先の意識法多少の効果はあるようなものの、根本的な克服永遠に望めない、という状況かと思えます^^;

ではハイブリッド心理学アプローチによる、根本的な克服はどうなるのか、基本的指針から具体的取り組み内容までざっと書いてみますと、


「外界現実」の危険と安全を感情で判断しない

まず基本的指針としては、「動揺する感情を克服したければ、まず感情を鵜呑みにして考えない」という、「感情と行動の分離」最初自明の原則をより具体的に、今回「不安発作」という問題テーマについて言うと、

・「外界現実」の危険度もしくは安全度を、感情を鵜呑にして判断しない
というものが出てきます。
この、つまり感情で外界現実の安全と危険を判断することで、我々道を誤るわけです。不安を感じるから外界が危険だと判断することで、外出恐怖になったり、何でもできる気分道頓堀に飛び込んで死んだり(^^;)します。
そうではなく、外界現実の危険と安全を、あくまで「客観的論理思考」で判断する姿勢と、その具体的内容を築きあげることが重要になってきます。精神論姿勢論ではなく。
そうして、
・「客観的論理思考」で判断できる「外界現実」への対処能力を築いた時、感情は自ずと安心安定化する
とうことです。


身体反応を込みにした状況の客観的判断の取り組み

今回の問題についても、まず不安感情の有無で外界現実の危険と安全を判断しようとするという姿勢根底にあり、
======
自分は不安ではないかと意識する
  ↓            ↑さらにマジに
身体反応が出てくる→危険だと感じる
======
という膨張パニック不安起きているものだと思います。

でそれへの対処は、不安感情の有無によって外界現実の危険と安全を判断するのではなく、客観的事実による判断をするということなのですが、恐らくそれは、
======
不安の有無で判断しない→身体反応が起きない
======
という安直なものにはできず、

・身体反応を込みにした状況について、不安かどうかではなく客観的事実による判断をできるようにする
という取り組み必要になると思います。
つまり身体不安反応含めたもの「外界現実」として認識し、それを、感情を鵜呑みにせず客観的論理思考で判断するようにする、ということです。

もしそれが心臓発作による心肺停止や意識喪失につながるほどの症状であるのならば、はっきりとそれは危険なことであり、長距離の運転を諦めべきだ、ということです。
あるいはそれは、多少とも「流せる」ものなのか、つまり身体反応が出ても一気に運転不能にはならず、何分くらいなら耐えて安全に車を停止させることができるのかを、見極めることです。そしてその後に、深呼吸するなり落ち着いて運転復帰できるか、それとも数時間は回復しない症状となるのか、を見極めることです。

そうした見究め取り組みによって、自分は今この程度なら身体反応があっても運転可能だという、客観的判断をするようにしていくわけです。
そうした見究め判断と、次に多少とも距離を伸ばせるかどうか模索を行う。
これをとことん、続けることです。人生をかけて、と言えるような本腰を入れた取り組みとして。


アプローチとしてはざっとそんな感じですね。不安反応が起きない意識法」というような安直なものではなく、不安反応とことん分析するといった感じになりますね。
パニック不安にせよ、他の不安症状にせよ、ハイブリッド心理学からのアプローチはそのように、「気にしない」ではなく「とことん合理的に向き合う」というものになります。

実際にはさらに「身体症状」内容について個々の検討といったことも出てくるかも知れませんが、まずはアプローチ方向としてはそんな話として、できそうか検討してみて頂ければと思います^^。

「外界現実を感情で判断しない」ということについては、以下など参考文献としてじっくり理解頂くとよろしいかと思います^^。
ブログ記事書籍No.1ハイブリッド人生心理学の紹介
(4)内面感情の開放カテゴリー
「感情による決めつけ」の解除シリーズ
ブログ記事書籍No.8心の成長と治癒の過程
特説・「心が良くなる」とは


(No Subject) / こたろう
No.1009 2014/12/08(Mon) 00:44:08

こんにちは。
まだまだ理解できない部分もありながら、
最近はほかの事に時間をとられ、
なかなかハイブリッド心理学に目を通す時間が
取れていません。
自分ではなにが聞きたいのか、どこが
疑問なのか、という時点で頭がぐちゃぐちゃに
なってしまう所がまだまだ多く、、、
そういう意味でも、メール相談実例集を
楽しみにしております。



さて、今回の質問なのですが、
思考記録についてです。
島野さんは、悲しみの彼方への旅、を
読んでいても、自己と向き合い、それを
言葉にするという作業にすごく時間を
割いていたのではないかと思います。
土台に一つ一つを積み上げる論理思考が
あるので、時間にするとそんなに長くは
なかったのかもしれませんが、
僕はものすごく時間がかかります。


また媒体がアナログとデジタルと
二つの選択肢があることもあり、
あっちに書いたりこっちに書いたり、
毎日違うテーマで考える事が出てきて、
とても一つ一つ考えて解決していくように
出来ません。



これは心理面以外の考察も含めて、
自分の中で迷いがあるんですが、
いわゆる完成した、その時なりの答えや、
形ができた文章(blogに書いてるようなかんじですかね?)ではなく
暫時的な思考や分析などを書いたノートは
どうしていましたか?(あるいは現在どうされてますか?)



悲しみの彼方への旅では、大きな動揺があった
後に、とっさにメモをするシーンなどもありますね。
書いたノートは、どうされていましたか?



最近認知行動療法の
カウンセリングを受けています。
注意点として、ものすごく言われたのが、
出来事の具体的な時間の始まりと終わりと、時系列での自分の思考、行動、対処などの順番を具体的に印すという事でした。

いつもこういう風になるんだよなー
ではなくて、
具体的な一つの出来事の間に
起こった自分の心や体の反応、行動や対処を細かく知る事を積み重ねる。
ハイブリッド心理学でも具体的なエピソードの
振り返りが出来ていると進歩が生まれやすいのかなと思います。


こういったアセスメントシートというプラットフォームがあると、ブロックごとに思考、行動、感情、と別れていて振り返りやすく感じました。



島野さんが自分の感情と向き合っていた時
(現在もあると思いますが)どのように
ノートを取って、管理していたのかな、
という事をできるだけ具体的に知りたいです。



 
感情と思考の記録整理^^ / しまの
No.1010 2014/12/11(Thu) 16:03:52

>暫時的な思考や分析などを書いたノートはどうしていましたか?(あるいは現在どうされてますか?)
>悲しみの彼方への旅では、大きな動揺があった後に、とっさにメモをするシーンなどもありますね。書いたノートは、どうされていましたか?

まず「そのまま保管しているだけ」です^^。

なお、書く媒体については、以下のような変遷がありますね。
30代くらいまで・・・書く作業が結構早くできたので(特に学生時代)、そのままB5の大学ノート日記として。それができない状況(授業中など)手帳メモ書きなど。
40代くらいまで・・・きれいに(読めるように^^;)書くスピードが次第に遅くなり、A4コピー紙をたたんだものポケット持ち歩き、殴り書きでまとめてB5の大学ノート写し書きする。何と書いたか自分で判読できないものたまにあり^^;
50代以降(今53^^)・・・PC上のテキストファイル直接打つ。なんかこれが楽で早くもあり^^。

>注意点として、ものすごく言われたのが、出来事の具体的な時間の始まりと終わりと、時系列での自分の思考、行動、対処などの順番を具体的に印すという事でした。

重要ですね。それが自分の心の動きを自分でしっかり把握するということになると思います。

>こういったアセスメントシートというプラットフォームがあると、ブロックごとに思考、行動、感情、と別れていて振り返りやすく感じました。
>島野さんが自分の感情と向き合っていた時(現在もあると思いますが)どのようにノートを取って、管理していたのかな、という事をできるだけ具体的に知りたいです。

これは日記など書いたものについて、その内容を整理するための何かの管理方法などあるか、というご質問ですかな。

ならば返答としては、「ない」です^^。
つまり、自分自身の心の動きや、自分の考えを整理するという作業を、まず自分の心の中、頭の中で行います。そして整理できたという感覚をもって、書くという作業を行います。
また、ある程度整理された結果を書くという前提があるので、書くためにしっかり頭の中心の中で整理するという意識作業が起きている、とも感じます。

思考整理のためのワークシート的なもの以前メール相談の中でも検討したことがあるのですが、結果的にあまり効果が感じられず、やめています。
これについて改めて考えるに、自分の心の中頭の中で整理できるということが、まさに前進の基盤になるのではないかと。で、心が成長変化する。
まあいい喩えかどうか、自分の部屋自分で整理掃除できることが重要ということですね。整理したい場合外部の人を呼ぶというのだと、部屋結局いつも散らかったまま

自分の頭の中心の中での整理作業とはどんなものかと言うと、『概説』では
・「言葉」による実践の推進
として説明し、最近僕自身の体験例ブログ
2014-12-07『初冬の北アルプスで向き合った「望みに向かうこと」と「幸福」-5』
書いたりしましたが、
とにもかくにも、「言葉を使って自分自身との対話問答をする」ということです。
「今起きている問題とは何か」「外部で客観的に起きている問題は」「自分の心の側の問題は」「行動学ではどうなるか」などなど。

>土台に一つ一つを積み上げる論理思考があるので、時間にするとそんなに長くはなかったのかもしれませんが、僕はものすごく時間がかかります。

一つ一つを積み上げる論理思考は、車輪と同じで、それがないともう時間の長短の問題ではなく全く前に進めなくなると思います。思考整理全滅というのが得てして起きかねない。
カウンセリングで題材になったものなどを書いていただければ、一つ一つの論理思考から、どんな感じになるか具体的アドバイスもできるかも知れませんね^^。

p.s
『メール相談事例集』ようやっと作業着手できる感じです^^。


 
Re: / こたろう
No.1011 2014/12/24(Wed) 00:03:01

お返事ありがとうございます。

なるほど。

言葉を使って自分自身との対話問答をする、というのは
落ち着いていないとキツいですね。

うつ病でよく言われるのが「ワーキングメモリの劣化」ですが
如実に実感します。
一度に意識に保っておける問いかけや言葉などがストレス状態に
よって大きくムラがありますね。湧いては消えていってしまう事が
多いです。

そういう時に中途の思考を紙面で行う事は
現段階では仕方ない気がします。

「今起きている問題とは何か」「外部で客観的に起きている問題は」「自分の
心の側の問題は」「行動学ではどうなるか」

などの問いを控えておくのは良いですね。



ここでまた根本的な問いなんですが、

行動学を用いて行う行動はなぜ「嘘」にはならないのでしょうか?


 
論理的思考エクササイズ^^ / しまの
No.1012 2014/12/26(Fri) 14:09:27

>行動学を用いて行う行動はなぜ「嘘」にはならないのでしょうか?

論理的思考良い題材になると思います^^。
論理的思考をするならば、以下のように順序立てて、それぞれをじっくり思考検討するになりますね。
以下、まずご自身で考えてみるエクササイズをしてみてはいかがかと^^。

@「行動学」とは何か
ヒントとしては、その「種類」明瞭にすることです。ハイブリッド心理学では、3種類の行動法から成るものを行動学と呼んでいます。
その3種類とはか。ハイブリッド心理学の説明からそのまま抜き出すので構いません。
『概説』 3.取り組み実践
などから。

Aここでの「嘘」とはどんなことを取り上げるか
これも「種類」考えると良いでしょう。オレオレ詐欺のような「嘘」か。今年大きなニュースとなった某音楽家某生命科学研究者における「嘘」か。それとも「自分自身への嘘」という、内面心理における「嘘」か。

B上記@とAがどうつながり、「行動学による行動は嘘にならない」という命題がどのように成立するか。

まあそのように、「行動法」なり「嘘」なりの「種類」関係しますので、「行動学による行動は嘘にならない」大きなくくりで言う話ではない感じですね。
あるいは、そこでの「嘘にならない」というものに関係するのは「行動学」よりも「価値観」かも知れないですね。

ともかく、どの辺までは思考検討できたか報告頂ければ、次のアドバイスへ、ということで^^。

論理的な「答え」を導き出すためには、「問い」からまず論理的に考えることが重要、という次第です^^。


 
Re: / こたろう
No.1016 2015/01/01(Thu) 14:36:05

失礼しました。

下巻前半で触れられている
「自分自身への嘘」ですね。


自分自身への嘘は、閉ざされた世界、あるべきものがある世界で
愛されるためにつくものであるとして、

開かれた世界の行動法として建設的行動法が
紹介されていますよね。



建設的対人行動法 ・・・ 共通目標共通利益のみに着目して行動する
原理原則行動法 ・・・ 相手人物に感じたことは一切言わず原理原則について話すという行動法
ウインウイン行動法 ・・・ 相手を勝たせて自分も勝つという行動法


相手に合わせるために行きたくも無い場所へ行ったり、
話したくも無い事を一生懸命聞いたり、という事が嘘になるので、
建設的対人行動法が一番そのテーマに
合うのかなと思いますが。


これは確かに納得がいきますね。



そもそも、人といる時に自分に嘘をついていない状態ってなんだろう?と、
思うんです。
例えば、家にいる時の自分が嘘のない自分なら、
相手に話しかけられても「あぁ」、興味がない話なら「へぇ」で終わりです。

人といる時は多少なりとも、自分に負荷をかけて思考し、
積極的に疑問を言葉にしたり、相手に対しての問いかけを考えたりします。

これも「自分自身についた嘘」なのでしょうか?


 
「自分自身への嘘」の克服は「感情のまま行動できる」ことにあらず^^ / しまの
No.1020 2015/01/08(Thu) 16:19:55

「自分自身への嘘」とは

>下巻前半で触れられている「自分自身への嘘」ですね。

「自分自身への嘘」というのはかなり難しいテーマですが、これもやはり「問い」から論理的に整理していくのが大切ですね。
まずテーマ正確な定義から。

「自分自身への嘘」は、内面感情で起きることを指します。自分自身にとって本当のものではない感情を自分は感じていると思いこめるように、自分の心にストレスをかけている状態です。かつそストレスさえも自覚できない状態です。
これは「心の病み」であり、やがて感情が自己コントロールできない暴走を起こす危険があります。まず自分がそうしたストレスを自分自身の心にかけていることに気づくことから、心の健康への歩み生まれ得ます。

ですので、

>相手に合わせるために行きたくも無い場所へ行ったり、話したくも無い事を一生懸命聞いたり、という事が嘘になるので、

これは外面行動法の問題であり、「自分自身への嘘」とはまた別の話です。
相手に合わせるために、本当は行きたくない場所自分は行きたいのだと自分に思い込ませようとしたり、話したくもないこと自分は話したいのだと自分に思い込ませるといった心の動き起きるにつれ、それは「自分自身への嘘」という心の病みの問題になってきますね。


「自分自身への嘘」の克服

その克服は、まずは「心の依存」から「心の自立」向かうという転換に、歩みの始まりがあるというのがハイブリッド心理学考えです。
自分の感情を相手に受けとめさせるのではなく、自分の感情を自分自身で受けとめ、外面行動は「行動学」によって建設的に行動する。

それによって「自分自身への嘘」すぐ克服されるのではなく、まず「自分自身への嘘」純粋自分自身との関係における問題になる、ということです。その先に、最終的な克服は、「望み」向かって生き歩みの全体が、この人生み出します。『概説』説明している「心の成長変化のベクトル」全てを通して、ですね。


「感情のままに行動」が健康形成長形ではない^^;

ですので、

>そもそも、人といる時に自分に嘘をついていない状態ってなんだろう?と、思うんです。例えば、家にいる時の自分が嘘のない自分なら、相手に話しかけられても「あぁ」、興味がない話なら「へぇ」で終わりです。
>人といる時は多少なりとも、自分に負荷をかけて思考し、積極的に疑問を言葉にしたり、相手に対しての問いかけを考えたりします。

については、外面行動法問題と、「自分自身への嘘」という問題を、それぞれ別テーマ問題として考える必要があります。

まず留意しておかなければならないのは、感情のままに行動できることが、必ずしも健康形でも成長形でもないということです。
多少は相手に合わせることが自分自身にとっても良い結果になると思えば、「相手につきあう」というのもごく自然で健康交友行動法です。相手への配慮のため、多少は自分に負荷をかける必要が出る場面もあるでしょう。
こうした判断も、「心の自立」の先に、積み重ねていくことで「成長」つながっていきます。

ということで、テーマの整理からですね。よろしいでしょうか^^。


 
Re: / こたろう
No.1025 2015/01/29(Thu) 01:36:46

では下巻五章の、閉ざされた世界でつかざるを得ない嘘というのは、「自分自身への嘘」ではなくて他人への嘘という事ですね。

他人への嘘をついている事に気づかないように
自分を騙している事が自分への嘘だ、と。

125pで、
ありのままの自分を感じとる感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに自分への嘘が、つきまとい、自分がそれを激しく嫌悪していることを、感じとるかもしれません。

とあります。
ここでの自分への嘘という言葉は外面行動を指しているように思えますがどうでしょうか。


 
「他人への嘘」と「自分への嘘」^^ / しまの
No.1026 2015/01/30(Fri) 16:37:31

>では下巻五章の、閉ざされた世界でつかざるを得ない嘘というのは、「自分自身への嘘」ではなくて他人への嘘という事ですね。他人への嘘をついている事に気づかないように自分を騙している事が自分への嘘だ、と。

やはり言葉の定義一つ一つ確認して整理するのが大切ですね^^。面倒かと思いますが。

「他人への嘘」・・・他人を欺くために、真実でないこと(これが「嘘」)を意図的に示すという外面行動
「自分への嘘」・・・自分自身にとって本当のものではない感情(これが「嘘」自分は感じていると思いこめるように、自分の心にストレスをかけるという、内面状態

ですので
>ここでの自分への嘘という言葉は外面行動を指しているように思えますがどうでしょうか。
「自分への嘘」はあくまで外面行動のことではなく、内面状態です。

また「閉ざされた世界」とは、「存在の規律がある世界」です。
その結果起き得るのは、「他人への嘘」「自分自身への嘘」両方だと言えるでしょう。

「閉ざされた世界」においてどのように「他人への嘘」起き得るのかは、某隣国を思い浮べれば具体的にイメージできると思います。これはよろしいですかな。
そしてまた「閉ざされた世界」において「自分への嘘」起き得るのも、某隣国具体的にイメージできると思います。実際にはこんな国なんてと思っているのに、この国サイコー!と自分で思いこもうとする。なぜなら、それが一番安全だから。

こうした「他人への嘘」「自分への嘘」という問題は、それぞれがどのように起きているのかを、それぞれに考えることが重要です。どっちが起きているのか、ではなく。
そこでキモになるのは、「自分への嘘」起きている時、それがどのように「他人への嘘」でもあるのかは、もうあまり問えない、ということです。なぜなら、何が真実かが、自分で分からなくなるのが「自分への嘘」だからです。

ですので、まずはとにかく内面において「自分への嘘」という内面問題脱する
に、それがどう「他人への嘘」という外面問題巻き込んで引き起こしていたのかへの対処をすればいい、という主旨になりますね。

いずれにせよ概念的にはそんな話ということで、より具体的には、具体的問題場面の何をどう検討したいかになると思います^^。


 
Re: / こたろう
No.1029 2015/02/16(Mon) 18:55:13

「自分への嘘」・・・自分自身にとって本当のものではない感情(これが「嘘」)を自分は感じていると思いこめるように、自分の心にストレスをかけるという、内面状態。


であれば、愛されるためにつかざるを得ない「自分への嘘」はこれとは少し種類が
違うのではないだろうか、と感じました。


具体例を挙げてみます。

医学部家系に育った子供が、自分は本当はロックミュージシャンになりたいという願望を抱いたとします。しかし、親からは教養としてクラシック音楽を叩き込まれ、反体制派的なロックミュージックやJ-POPなどは、低俗な物として一蹴される。この子供は、ありのままの自分は受け入れてもらえない経験を幼少期にしているため、根源的自己否定感情を抱えていて、愛情欲求を抱えている。


結果として、親の前で「親の求める自己像」を無意識に演じる事となる。
自分の興味から目をそらし、そもそもそんなものは最初から求めていなかったのだと思い込み、
「あるべき姿」に向かうために多大なる努力をし、医学部に進学。

しかし、いくら親の求める自己像、つまりこの人物にとっての愛されるための「あるべき姿」を獲得する事に成功しても、そこには「自分への嘘」があるため、親に愛される事そのものに価値を感じる事が出来ない。


こういった論調で「自分への嘘」という言葉が使われている時、
「自分への嘘」で指しているのは、次のうちどちらなのか、という質問です。



@親の前で自分の本当の望み(少なくともこの時点で感じられる望み)をごまかして、愛されるための自己を追求している事そのもの。



A本当の望みを自覚しても、それに向かう事は親から愛されなくなる事を意味するため、
恐怖のあまり自覚する事を拒む無意識の動きが起きる。

つまり、親に求められた姿を追求する事、あるべき姿を追求する事を、
「自分の本当の望み」であると自分に思い込ませること。



自分としては、こういった論調の話の流れ(前のレスで触れた部分)でいわれる「自分への嘘」という言葉は、

@を指しているように思えます。

しかし、島野さんの最後のレスを見る限り、
これは「他人への嘘」を指しているように思えます。


@とAの両方が「自分への嘘」という言葉で述べられているような
気がしたため、言葉の定義を確認しておきたくなった次第です。


 
Re: / こたろう
No.1030 2015/02/16(Mon) 19:41:55

加筆します。2つ前の僕のスレッドで挙げた
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
125pで、
ありのままの自分を感じとる感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに自分への嘘が、つきまとい、自分がそれを激しく嫌悪していることを、感じとるかもしれません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここから考えた事は、
「いかなる外面行動を行おうとしても、そこに自分への嘘が、つきまとい」
の部分は、「他人への嘘」ではないのか、という事です。

つまり自分の現状、意識に上る本心では、荒廃化した感情のみが見える。
しかし、外面行動においてはそれをそのまま示す事はできない。
なぜなら、それを示せば相手に嫌われてしまうし、建設的な関係も築けないから。

だから、ふさわしいと思える外面行動をする。
しかし、目に見える感情が荒廃化している以上、それは「他人への嘘」に
なるのではないか、という事です。


これが、このスレッドの僕の二つ目のレスにある
>行動学を用いて行う行動はなぜ「嘘」にはならないのでしょうか?

という部分に繋がってきます。


島野さんに示していただいた「自分への嘘」と「他人への嘘」の定義でいうと、
学びの応用思考によって、導き出された「建設的な行動法」は、
心が荒廃化している段階では「他人への嘘」ではないか、という事が言いたかった事です。


>「他人への嘘」・・・他人を欺くために、真実でないこと(これが「嘘」)を意図的に示すという外面行動。


心が荒廃化している以上、このようになると思うからです。


これに対しても二つの発想が考えられると思いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
@他人への嘘ではない、という立場
 
 現在荒廃化した心を持っているとしても、荒廃化した感情の元になっているのは、
 愛、自尊心、善のすべてに矛盾する事なく向かえるものである。
 目の前に見える感情の底にあるものに目を向け、それを実現するべく行っている
 行動は、嘘とは言えない。例え、今自分が抱いている感情の中で、意識に上っている
 ものとは食い違った行動に見えるとしても。

A他人への嘘は必要だ、という立場

 これは他人への嘘になる。しかし、建設的な行動法にマッチした「心の成熟」が
 実現するまでは、他人への嘘というのは必然的に必要になる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

書いてみて、おそらくAは違うだろうな、と思います。
感情と行動の分離という事が必要になるすべての場面が嘘だという話に
なってしまいますので。

が、この辺の事を明確な言葉でもう少し整理したいので、質問してみる事にしました。


 
「意志」によって克服する「自分への嘘」と「他人への嘘」^^ / しまの
No.1032 2015/02/20(Fri) 11:25:50

>「自分への嘘」で指しているのは、次のうちどちらなのか、という質問です。
>@親の前で自分の本当の望み(少なくともこの時点で感じられる望み)をごまかして、愛されるための自己を追求している事そのもの。
>A本当の望みを自覚しても、それに向かう事は親から愛されなくなる事を意味するため、恐怖のあまり自覚する事を拒む無意識の動きが起きる。
>しかし、島野さんの最後のレスを見る限り、これは「他人への嘘」を指しているように思えます。

@Aも、「自分への嘘」ということになると思います^^。また結果的に、それは「他人への嘘」にもなると言えるかもしれませんね。
一応分けるなら、@「強い望みによる自分への嘘」であり、A「強い怖れによる自分への嘘」と言えますね。
成長過程は、「怖れの克服」を経て「望み」に向かうというものであり、まずA脱し最後@脱するという流れがある、ということは言えると思います。そうして真の自己確立されていく、と。


>つまり自分の現状、意識に上る本心では、荒廃化した感情のみが見える。しかし、外面行動においてはそれをそのまま示す事はできない。なぜなら、それを示せば相手に嫌われてしまうし、建設的な関係も築けないから。だから、ふさわしいと思える外面行動をする。しかし、目に見える感情が荒廃化している以上、それは「他人への嘘」になるのではないか、という事です。

内面感情を全てそのままさらけ出す、それによって分かり合い認め合うことを良しとする姿勢にいるなら、その通り、それは「他人への嘘」のように思えてしまうかも知れませんね。
が書いた
--------
ありのままの自分を感じとる感受性が損なわれていなければ、自分が求めているのは愛であり、それを得るためには自分に嘘をつかなければならないという心の現実、そしていかなる外面行動を行おうとしても、そこに自分への嘘が、つきまとい、自分がそれを激しく嫌悪していることを、感じとるかもしれません。
--------
も、自分の内面感情を人に見せるという姿勢において、「自分の感情がこうでなければ」というストレスが、「自分への嘘」であり「他人への嘘」にもなるのが、人に向かうあらゆる行動感じてしまうという心理状態を書いたもの、と言えます。

一方ハイブリッド心理学での「建設的行動法」は、そもそも、
・内面感情を全てそのままさらけ出す、それによって分かり合い認め合うことを良しとする姿勢
・自分の内面感情を人に見せるという行動
から脱却するという、大きな転換背景としています。

それは一言対比を言うなら、
・流れ変わる「感情」を超えた「意志」によって行動する。そこにおいて人との建設的共有を見出し行動する。見出せないなら孤独を受け入れる
・自分の「内面感情」ではなく、「意志」を人に見せる行動

だということになりますね。

そこにおいて、「自分への嘘」という問題も、「他人への嘘」という問題も、なくなります。
揺れ惑う内面感情という問題は、引き続き残ると思います。しかしそれはもう人との間での問題ではなく、純粋に自分自身内部の問題になる。

手短そんな話になりますね。「感情」ではなく「意志」だという大きな転換があるという話。もちろんこれは「心の依存から自立への転換」一環でもあります。これだけで本が書ける、大きなテーマです。
詳しくは、
グログ記事書籍No.2愛と能力の成長課題
対人行動と対人感情カテゴリー
などを読んで頂くといいかも知れません。

トピックかなり長くなりましたので、またあれば新規で入れて頂くとよろしいかと^^。


騒音トラブルに対する建設的行動法 / masa
No.1027 2015/01/31(Sat) 00:52:53

こんにちは。お世話になります。
現在2階建ての賃貸アパートの2階に住んでいるのですが、下の階の住民が音楽やテレビを大音量で流していて騒音に迷惑していました。管理会社に伝え3回程注意して頂きましたが収まらず、なんとかしてくれるよう頼んだが、管理会社は「ずっと住んでる人が立場上強いから、口で注意することしかできない」とのこと。自身で下の住民に注意しに行き、一時的に収まりました。

それから数週間経って現在、週末になると下の階の住民が友人を呼び、夜中にそこからの話声、笑い声が響いてきて迷惑しています。
この間も夜中3時頃下の階から聞こえてくる大音量の音楽で起こされました。そのときは少々睡眠不足で仕事にいきました。
翌週末に自身で下の住民に注意に行った際、「迷惑なのでボリュームを下げて下さい。同じ様にお金を払って住んでるのだからお互い迷惑をかけずにいきましょう」と伝えるものの、ついついにらみつけてしまい、火に油を注いだのか騒音が大きくなりました。なのでその日は警察に通報し、二度注意してもらうことで少しはおさまりました。
木造で壁が薄く、音が響きやすいこともあるとは思いますが、困っています。
自分なりに柔らかく注意しても相手は気にしていない様子です。(うなずいてばかりで謝りもせず)ただ、思いつくのは怒りで怒鳴って直させる方法ばかりで、悩んでおります。
自分なりに調べたものの、騒音に関しては結構グレーゾーン的な感じがして、法的にもうまい対処が見つかりません。
管理会社で働く友人にもこの件について聞きましたが、逆に騒音を気にする人は、クレーマーみたいに見られて管理会社からはけむたがれるとのこと。唯一、勧告文を出してもらい、注意してもらうという方法を聞いたので、それを管理会社にお願いしてみようかと思います。大家にも直接取り合ってみようとも思っています。

このように、相手に注意してもほとんど聞きいれられていないような場合や、迷惑を被っても相手のモラルに左右されてしまう際の、建設的な注意対処方法はあるのでしょうか?


 
「隣室の騒音」への建設的対処の考え方^^ / しまの
No.1028 2015/02/04(Wed) 13:53:09

これはまず「破壊から自衛と建設への選択」という基本命題から考えますと、
「破壊」・・・望ましくないものに出会ったらそれを攻撃し消滅させる
「自衛」・・・望ましくないものに出会わないよう先回りして防ぐ
「建設」・・・望ましいものに囲まれる生活基盤を築く


ということで、書いていた頂いた状況「すでに望ましくないものに出会ってしまった」場面になりますので、それへの対処大きなレベルでは「建設的行動法」にはもうあまり入りにくくなってくると言えるかも知れませんね。
まあそれでも、相手山まで出くわしたクマ街で襲われた暴漢といった部類(^^;)でない限り、幾つかの対処姿勢「建設的行動法」呼べる可能性があるものもある、といったになるかと。

「隣室の騒音」という問題であれば、そうした大きなレベルから目の前の遭遇場面への緊急対処まで、ざっと以下のような視点が出てくると思います。

1.人生レベルの建設的行動・・・隣室の騒音という問題自体があまり起きないような家を手に入れる。
郊外の一戸建てや、防音のしっかりした鉄筋コンクリート建マンションなど。
まあこれが人生設計上の長期目標するかどうかとして、それ以前短期、中期的対応としては以下へ。

2.積極的自衛・・・隣室騒音を事前に察知し回避するための物件選び法を習得実践する。
僕はその手の専門ではないので考えられる詳細などは省略しますが、その手のプロと言えるレベルの知恵とノウハウ持つことが必要になると思います。

以下実際に隣室騒音に出くわした場合対処

3.消極的自衛・・・自身の「流す能力」を徹底探求する。
高性能の耳栓(?^^;)なり、何かの道具を見つける。あるいは、それでも耳に入る騒音「聞き流す」という自分の意識能力追及するという姿勢歯医者での治療での痛み流し耐える能力良しとする姿勢ほぼ同じ

4.緊急対応の建設的対人行動法・・・懐柔的対処行動。
怒りで相手を変えようとする行動法は、書いて頂いたように、一般に逆効果です。それとはに、菓子折りの一つでも持っていって、笑顔「もう少し静かにして頂ければ、とても有難い」といった言葉で。
ただしこれが無理なくできるためには、全ての人を自分の仲間として扱えるような、心の懐の広さ必要にもなってきます。

ざっとこんな感じですね。いずれにせよ、これらはもう「善悪」でものを考えるのとは別世界考え方になり、いざ騒音遭遇場面だけで考えても、上述のような視点選択は難しいかも知れません。まず先怒りの根本的放棄や、全てを「善悪」ではなく「能力」として向かう姿勢、全ての相手に懐の広い対応ができることといった人生レベルの目標を持つかどうかによって、その一環としてこうした問題場面での、上記のような発想可能になってくる、と言えるかも知れませんね。

まあだとしてもごく現実問題夕方のニュースでよく見るような事件だけには最悪ならないよう上述の視点総合して、なるべく穏健な対応考えるのがお勧めですね^^。


 掲載本など / コト
No.1022 2015/01/21(Wed) 19:53:01

 最近、心の成長と治癒と豊かさの道の第1巻と第2巻を、じっくりと読んでみました。それにより、これまでメール相談を自分がしていたことについて、「この本のように、捉えていれば、(この本を熟読していたら)相談質問をしていた回数がグッと減っていただろう」と感じることが出来ました。
 今回、心の成長と治癒と豊かさの道を読みましたが、その他の本や資料で、読んでいた方が良いとの物は、どれでしょうか。多々あるようですので、どれを読んだらいいかとすぐに決められていません。
 島野さんは、生き方・精神の健康から快調のようであり、その中で身体的な所はどうなのかと聞いてみたいと感じました。年齢などに関係なく、身体も健康な方なのかと。(例えば、年齢からくるものや生活の習慣からの身体の痛みや不調など。答えられる範囲でもし、可能でしたら。)
 よろしくお願いします。


 
お勧め本・島野の身体健康^^ / しまの
No.1023 2015/01/24(Sat) 15:06:46

>今回、心の成長と治癒と豊かさの道を読みましたが、その他の本や資料で、読んでいた方が良いとの物は、どれでしょうか。多々あるようですので、どれを読んだらいいかとすぐに決められていません。

やはり「まず読んで頂くと良い本」は、『入門編』の上下巻(『心の成長と治癒と豊かさの道 第1、2巻』)があるとして、最新
『ハイブリッド人生心理学 概説』
ですね。それでハイブリッド心理学大まかな把握をして頂く。

あとは『実践詳説』なり『悲しみの彼方への旅』なり、『心の成長と治癒と豊かさの道 第3、4、5巻』本-全一覧ページより。整理中^^;)なり、興味を持った順に読んで頂ければと思います^^。
一気に全部読もうなんて姿勢ではなく、少しずつ継続的に、というのがお勧めになります^^。

>島野さんは、生き方・精神の健康から快調のようであり、その中で身体的な所はどうなのかと聞いてみたいと感じました。年齢などに関係なく、身体も健康な方なのかと。(例えば、年齢からくるものや生活の習慣からの身体の痛みや不調など。答えられる範囲でもし、可能でしたら。)

はい、身体的にも今とても健康です^^。
次のような要因寄与して、ということになるかと。
・生活習慣・食習慣・運動習慣
・日ごろの健康管理意識、家庭の医学知識
(ネット情報やTV番組)、医者好き(^^;)、などにより何かあればすぐ医者に行って軽微な症状から治す習慣
・心の健康


病気怪我には自分ではどうにもならない要因によるものもあるかと思いますが、上記要因総合的な寄与というのも本当に大きいと思います。

年齢もありということで、視力低下耳鳴りというのがあるのが、まあ身体機能の低下症状という感じですね。まあこれは特に気になるものでなし
身体面の不調嫌になるものとして今大きな課題と感じているのが「二日酔い」(深酒による暴食の結果でもある^^;)であり、これをなしにするべく、お酒の飲み方根本的に変える取り組みをちょうどしているところです^^。これも成果が出た(あかつき)には、ホント絵に描いたような快適健康生活になるかと自分でも思っています^^。


 
Re:  掲載本など / コト
No.1024 2015/01/24(Sat) 18:55:44

  まず始めに、最新の『ハイブリッド人生心理学 概説』を。そして、次に『実践詳説』を読むことにします。
 『悲しみの彼方への旅』は、以前に読みました。

 生活習慣を意識し取り組まれ、身体的に健康とのこと。生活習慣と年齢を重ねても、生活習慣病を免れているのですね。

 お酒は、生活習慣病の一種の原因になり得ます。高齢になっても心身の健康で、生きるためには、飲食は大きな要因と考えられています。

 回答ありがとうございました。

 ハイブリット心理学を時間を読み始めようと思います。

 


怒りについて / こたろう
No.1017 2015/01/01(Thu) 16:33:07

社会行動においては、
どんな場合でも怒りよりも良い行動法がある、
という事で二つのケースでお尋ねします。


これは親子関係(親から子に対しての接し方)においても当てはまるのでしょうか?


僕は、親に怒りを向けられたから不満を持っているというよりは、
同じ目線に立って、話を聞いてもらったり、時には対決する事も覚悟の上で、
「向き合って」ほしかったという感覚が大きくあります。


確かに頭ごなしに自分の考えを押し付けられ、全く聞く耳を持たない態度で
こられていたら、同じように大きな不満や憎しみをためていたでしょう。


しかし、問題をさらりと交わしたり、こっちが自分の意思をぶつけても、
まるでゴムに衝撃を吸収されるかのように取り合ってもらえず、
しばらくすると
何も問題は起こらなかったかのように、優しい態度でまた応対される。


真剣に話を聞いて、大人としての絶対に正しい意見というのではなく、
個人として「こう思う」という事をぶつけてほしかったと思うんです。
怒る事すらも面倒に思うほど、真剣に向き合う覚悟もないくせに、
お父さんは〜とかお母さんは〜とか言われても、そうはよびたくないという
根深い抵抗感があります。


いつでもかかってこい、というくらいの気構えでいてもらえたら、
反抗期を向かえる事も出来たのに。
信頼していないと反抗が出来ないというのに凄く共感できます。


これはヒステリックに自分が否定されたことに逆上するような怒りでは
ないですが、相手と対決し、対等に向き合っているからこその怒りが
あるのではないかと感じます。




次に、友人が危険を省みない行為を行う事に対して、です。

今回は、雪山登山でした。

島野さんも今年から雪山を始められたようで、ご存知だと思いますが
雪山登山には様々な危険がつきもので、道具類、知識、歩行技術など様々な
準備が必要です。

自分はもともと登山をしていて、雪山には登った事はないものの、
身近に登っている人がいたため、どれくらい危険であるかは肌で感じていた
つもりでした。


友人は今年はじめて山に登ったにも関わらず、いきなり赤岳(八ヶ岳)に
一人で登ると言い張っていました。
僕はもっと低い山で歩行技術などを学んでから、最終的に今シーズンの
最後に目指せばいいじゃないか、といいました。
また、登山用品店に一緒に行き、店員から冬の赤岳の難易度などを
彼に聞こえるように質問したりしていました。

しかし「いける気がするからいく。」と聞きません。

終電電車でアクセスし、前日に買ったピッケルを持って登りました。
すでに厳冬期の時期なのに、保温性の無い3シーズン用の靴に
軽アイゼンをつけて登りました。
バスがないので登山口までも歩き、計18時間くらいの行程でこれまた終電電車で
帰宅。
天候が良かった事もあり、凍傷も免れ、帰ってきました。


会ったらどういう態度をとればいいのか迷いました。
なにバカな事してるんだよと怒りたい気持ちと、その行程や状況について
聞きたいという気持ちが混在していました。
また、「一人では危険だし、人といる事が怖い自分は、雪山に挑戦したい気持ちが
どこかにありつつも、出来ないとくすぶっていたのに、ろくに勉強もせずに
すぐに雪山に登りやがって、ふざけるな」
「18時間も歩きとおせる体力は自分には絶対にない」
「せっかく近しい友人が共通の趣味をはじめたと思ったら、
自分ではついていけないレベルの登山にどんどんのめりこんで行って、
凄い人たちとしか山に行かなくなるんじゃないか」
など羨望の気持ちも混ざっていて、錯綜状態だったともいえます。


結局「なにやってんだよ・・・死んでたかもしれないんだぞ・・・」
と静かに不機嫌な態度をとる結果になりました。
「次は絶対ツアーか雪上訓練受けろよ」と何度も言いました。


その後、
上記の行程を越える無茶な行程を組みました。
また終電でアクセスし、今度はもっと歩行時間のかかる登山口から登ると
いうのです。

今回もつらつらと、そっち側は雪が多いからラッセル時間がかかるとか、
山荘のブログで、固い雪に新雪が積もって雪崩がおきやすくなっていると
書かれているとか、とめましたが、

「いや、いける」と聞きません。

最終的にイライラしてきて「もう知らないわ」と呆れて怒った風で
僕は背を向けて帰りました。
自分が登るわけでもないのに、コースの危険箇所などを調べている自分にも
イライラしてきていましたし、どうとめたらいいのかに一日中右往左往していて、
他の事に手がつかない事にイライラしていました。

その時買いたての雪山用登山靴を持っていたため、
それを一時的に奪ってしまう事も出来ました。


結局、強行的スケジュールで、夜間に尾根から滑落して、
遭難状態になりました。ほとんど寝ずに二日間行動し、幻覚を見たりも
しながら何とか自力下山しましたが、軽度の凍傷や打撲などの後遺症が残りました。


一歩間違えたら本当に死んでいました。


「嫌われたくない」という思いがもっと小さければ、
馬鹿な事するんじゃないともっと強く言えたと思います。
頬を引っぱたいても良かったんじゃないかと思います。



でも同時に、ほとんど唯一の友人ともいえる彼に依存しすぎている
面も大きく感じ、それは別途課題だとは思ったのですが。



どういっても理屈や論理では通じない時に、
怒りが心を動かす事もあるんじゃないかな?と思うケースでした。



今回は、友人という立場、また本人が心配をかけたいとかいう心理ではなく、
純粋に危険を認知していない、でも行きたい、というケースでした。

しかし例えば非行少年を息子に持った時に、同じように危険な事に
向かっていってしまう事もあるかもしれません。
そういう時、真剣に声を荒げて叱ってくれる、止めてくれる事を求める
心理がどこかにあるのではないでしょうか。


上記は自己保身のためのヒステリックな怒りではなく、
他人に対して自分の身を切って真剣に向き合う時の「怒り」だと思いますが、
こういったものも使わない方が良い結果につながるのでしょうか。


 
Re: 怒りについて / しまの
No.1021 2015/01/13(Tue) 10:00:47

ちょっとどんなアドバイスにしようかと時間食いましたが、ごく結論のさわり(?^^;)だけ手短に。

>社会行動においては、どんな場合でも怒りよりも良い行動法がある、という事で二つのケースでお尋ねします。これは親子関係(親から子に対しての接し方)においても当てはまるのでしょうか?

もちろんそうですね。
親子関係であっても、何か具体的問題(たとえば家事の分担とか互いの生き方とか)があるのであれば、互いが別の人格であることを尊重し、行動学を駆使した建設的行動法お勧めになります。これは問題の内容いかんになります。
そうした具体的問題というよりも、親が自分にとって何か理想的なあり方でなかったことへの怒りといったことであれば、完璧な親などいないという不完全さとして受け入れ、「何もしない」のがより良い行動法だということになると思います。

>上記は自己保身のためのヒステリックな怒りではなく、他人に対して自分の身を切って真剣に向き合う時の「怒り」だと思いますが、こういったものも使わない方が良い結果につながるのでしょうか。

まずは「遭難しそうな行動を怒る」よりも、「どうすれば遭難しないかの知恵を伝える」のがより良い行動法だということになると思います。
それでも相手が聞かない時どうするか。
一般に、自分にとって大切な相手が、愚かな行動によって自らを滅ぼそうとしている時、それに対して「怒り」を表現して止めることは、意味のあることだと思います。まあ相手は知恵のある行動ができない結果がそれなので、知恵をアドバイスするというのが得てして功を奏さない、切羽詰った場面ということになると思いますので。

ただし相手の愚かな行動を怒りによってどう変えられるかは、もうあまり言えることはなくなってきますね。結局相手自身が、知恵のある行動を目指すのでないと。
建設的行動法が通じない相手を、怒りで変えようとしても限度があり、究極的には、相手がそんなことをしない一番確実なのはその相手を殺すことなんてことにもなってくる。まあ実際殺人事件一部は、そうした思念の下に起きるのかも知れませんね。

ですのでやはりこれも、最後は相手の自己責任自己判断に任せ、それ以上「何もしない」という以外には答えがない場面があることも、受け入れるのが良いかと思います。

いずれにせよ、書いて頂いたような、結構特別な場面への検討だけでは最終的な答えは見出せず、対人関係全体そして人生全体への取り組みを通して、長い歳月を経て、心が落ち着く答えが、向こうからやってくる、という長い目持つのが良いかと思います^^。


仕事 / コト
No.1013 2014/12/26(Fri) 19:45:41

 仕事とは、業務を取り組む場所であり、やることがたくさんあります。その時間の中で、淡々と業務をこなすだけではつまらなく疲れるから、不満の発言のりアクションや、ワイワイと楽しい話題をする方がいた方が良いと話される方もいます。
 たしかに雰囲気というものはあり、おもしろい話題があった方が、楽しいということは分かります。しかし、仕事をこなすことを優先させ、仕事量が多く時間を目一杯取り組みたいという姿勢があります。
 雰囲気の不満を言う方は、仕事が大変だから、楽しい雰囲気が必要なことや、楽しく仕事をしたいと考えているのかと思います。
 仕事は、仕事をするために集まった集団であり、友人関係とは違う。
 日々、集団内で個々が、対人の持ち方を考えていると思います。
 島野さんの、ご意見をお願いします。


 
仕事場における親しみ^^ / しまの
No.1014 2014/12/29(Mon) 18:36:23

もちろん、仕事場仕事をすること第一の目的として集まる場であり友だちを作ることを第一の目的として集まる場ではありませんね。
ただもちろん、だからと言って仕事を通じて親しくなる相手ができる可能性に、背を向ける必要もないということになると思います。

まあそれが基本的な話として、ハイブリッド心理学から加えることのできる視点としては、以下2つになるかと。

仕事がつまらないからワイワイしたい(ということはそれは仕事とは関係ない話題)といった消極的、逃避的な親しみではなく、仕事を前向きに行う向上心や楽しみ、情熱を共有するという積極的、成長的な親しみに向かいたい。

・そうした積極的、成長的な親しみどう向かうことができるかは、仕事場に行ってからではなく、生活と人生の全体日々そうした積極的、成長的な親しみ向かうことへの取り組み重要になってくる。

まずは手短に、そんな視点になりますね^^。


 
Re: 状況 / コト
No.1015 2014/12/30(Tue) 18:11:09

私も、同感です。
また、仕事を前向きに行う向上心や楽しみ、情熱を共有するという積極的、成長的な親しみは、すばらしいことです。
生活と人生の全体で日々そうした積極的、成長的な親しみに向かうことへの取り組みが重要になってくるということも、その通りと思います。
 ただ、このように考えていない方としては、違う対応をされていることが現実にはあります。

 個々人は、これまでの生き方・考え方で、状況や方法を見ることから、態度や対応の違いが出てしまうのだと感じます。それゆえ、ある意味、相手に対する苦痛を感じるのではなく、自分自身の方法はどうしていくかということなのかと思いました。

 島野さん、補足がありましたらお願いいたします。
 
 
 


 
「取り組み実践」^^ / しまの
No.1018 2015/01/03(Sat) 14:59:18

>相手に対する苦痛を感じるのではなく、自分自身の方法はどうしていくかということなのかと思いました。

そうですね。まさに、自分自身としてはどんな姿勢どんな行動法で行くのかが課題となる。
そうした「積極的で成長的な親しみ」理想だとして、実際どうすればそれに向かうことができるのか。

そこにまさに、 ハイブリッド心理学「取り組み実践」始まる、というになります。
それは「積極的で成長的な親しみ」絵に描いた餅のように自分に押しつけるのではなく、

「外面行動は建設的なもののみ行い、内面感情はただ流し理解する」という「感情と行動の分離」の基本姿勢と実践を携え、「望み」に向かって生きる。
というものを、生活と人生の具体的場面一つ一つについてじっくり検討するというのを、生涯にわたり行っていくもの、ということで^^。

そうした「取り組み実践」について、ごく大まかなこと『概説』で、より詳しく『取り組み実践詳説』説明し(無料電子書籍こちら^^)、また今後『メール相談事例集』でその具体的な様子など紹介していきますので、ぜひ参考にして頂ければ^^。


 
Re: 生活場面 / コト
No.1019 2015/01/03(Sat) 16:37:07

 
 私自身、日々遭遇する生活の中で、考えていることが、

 まさに、相手はどうであれ、自分はどんな姿勢と行動法を選ぶのか。そして、「感情と行動の分離」の基本姿勢と実践を携え、「望み」に向かって生きることは、自分のためであるということ。そして、相手にとってはこの行動方が気に食わないと思っている方がいても、躊躇せずに貫くこと。

 生活と人生の具体的場面の一つ一つについて、じっくり検討するということが、
生涯にわたり行っていくものであることを気づかされました。

 島野さん、新たに前に進めます。ありがとうございました。

 




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