心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

2章 怒りと焦りの解除の基本 −「マイナス思考」からの脱出−

 

この章のまとめ

■実践項目■

怒りの有益性基準 ・・・ 無駄な怒りを見分ける。怒りを減らしていくための基本となる。

失敗から学ぶ ・・・ マイナス体験をプラスに変える基本。

単なる気分としてではなく、「何をここから学ぶか」を自分に対して具体的に定義できることが重要。

焦りの解除 ・・・ 上記の応用形。「焦りの有用性」を考える。焦っても意味がない焦りは解除する意識を。

サバイバル世界観 ・・・ 豊かな現代社会を基準に考え過ぎない。生きていけるだけもスゴイという目や、

  ものごとの「善悪」とは別の面を見る思考も大切。

肯定形文法への変換テクニック ・・・ 「建設モード」増大への良い方法。

  思考や話し書き文章を、必ず「肯定形文法」で終わらせる。「・・ではいけない」を「・・だと良い」へ。

行動学の第一歩・・・ 相手が根本で望むものを見抜く。共通目標共通利益に着目する「建設的対人行動法」。

■実例■

A子さん ・・・ メール相談から2週間目にして、「今までの疲れ方はいったい何?」と思えるほどの変化へ。

 

 

「思考法行動法」の問題か「心の障害」の問題か

 

 この章では引き続き「A子さん」の事例を中心に、日常生活の広範囲に蔓延した怒りやマイナス思考を脱する実践を解説します。

A子さんの場合はもともと心の障害が深くは関係していないケースだったようで、基本的な思考法と行動法の習得によって、メール相談の開始から僅か2週間ほどにして、「今までの自分はいったい何?」と思えるほどの変化が起きた、良い例と言えます。

 広範囲に蔓延した怒りやマイナス思考が、実は単純な思考法のミスが原因であるケースと、より深い心の障害が関係するケースとでは、表面を見ただけでは見分けがつかないことが得てしてあります。これは本人でさえそうなのです。

 

 ですから私はメール相談の際には、まずはあまり心の障害の側面には切り込まずに、基本的な思考法と行動法についての検討を進めてみるようにしています。その中で、問題が本当にごく実践的な思考法と行動法にあるのか、それとも人生を通して抱いた深い絶望感にあるのかが、見えてくるのです。

 自己単独で取り組まれる方の場合も、もし最初から人生への深い絶望感が見えているのであれば、次章の「自己受容」へと視点を進めてもいいでしょう。そして落ち着きが得られてから、再び自分の思考法と行動法を振り返ってみるのがいいでしょう。

 自分の問題が心の障害傾向に関係するのかどうか自分でも良く分からない。そのような場合は、まずこの章で説明するような、基本的な実践を試みてみるのが良いでしょう。もしそこに困難を感じるのであれば、何が妨げているのかという視点から、より深い問題への取り組みに進むことができます。

 

「怒りの価値」

 

 ここではまず、広範囲な怒りやマイナス思考を脱するという課題に向けて、基本的な説明を少し加えておきたいと思います。

 

 ハイブリッド心理学では、「怒り」の感情を、全ての心の問題の根源だと考えています。

 「怒り」は本来、自分よりも強大な敵と戦うために、身体の怪我を前提として生き延びるような低機能の代謝状態へと変化させ、脳に血を集めて攻撃エネルギーを最大化させるための、一種の脳内毒のような役割として生み出されました。

 それはいわば、私たち生きるものの持つ「最終兵器」とでも言うべきものです。それは「窮鼠猫を噛む」というたとえの通り、時に「強大な悪」にひ弱な存在が立ち向かうためのパワーになります。

 しかしそれは同時に、この「最終兵器」を利用した個体を大きく衰弱させます。「怒りの多用」は明らかに私たち人間の健康を損ね、時に深刻な病の引き金となり、死に至らしめるものでさえあることが知られています。怒りは明らかに、「諸刃の剣」となるものです。

 

 人が「怒りの価値」について考える思考は、大抵、かなり矛盾しています。

 ある人は「怒り」を軽蔑し、「愛」や「優しさ」を誉めたたえます。そして優しさが欠けた他人を見ると、怒ります。ある人は「怒り」こそが真実の力だと考えます。そして怒るのですが、疲れてしまい、力を得るはずの「怒り」によって逆に弱くなってしまいます。

 

 いずれにせよ明白に言えるであろうことは、私たちが「怒りの使用」について揺ぎのない明確な指針を持たない限り、「怒り」は容易に私たちの足元をすくい、私たちを窮地に陥らせるものだということです。

 「怒り」についての漠然とした姿勢は必ず、自分自身に「怒り」が向かうという結果を招きます。なぜなら私たち人間はとても不完全な存在なので、何らかの「怒るべき悪しきもの」を時に自分自身の内面外面において抱えることについて、不可避だからです。

 そうして自分に向けられた「怒り」はしばしば、「向上への望み」さえも打ち砕き、飲み殺し、「悪しきもの」の克服への道を閉ざします。そして人の心に「絶望」という「病」が生まれます。キルケゴールが言ったように、「死に至る病」とは、「絶望」です。

 「絶望」は、さらに新たなる「怒り」を生み出すこともあります。それは「憎しみ」です。「憎しみ」に至った時、「怒り」はもやは自分を守るための感情ではなく、ただ相手を破壊することだけを求める感情へと変貌してしまいます。

 

「怒りの放棄」という命題

 

 ハイブリッド心理学では、最終的には「怒りの完全なる放棄」という実践を、病んだ心から健康な心へと至る道のりにおける最大の中間道標として考えています。

 これは正確には「否定価値の放棄」です。つまり「怒り」そのものを放棄するというよりも、「怒りに価値を感じる感覚」を放棄することです。これは「ものは考えよう」「気持ちのもちよう」といった小手先の思考法ではなく、「善悪という観念の完全な放棄」というかなり極端な思想を採用することによってなされます。「善悪」という観念に潜む「絶対なるもの」という感覚を、自らが神になろうとする人間の誤りとして、捨て去るのです。

 ここではまだそのような「怒りの完全なる放棄」を言う段階ではありません。それは「愛」と「自尊心」に関する思考法の根本的な変換の先にあります。

 

 また、「絶望」と「憎しみ」の淵の中で、「怒り」だけが自分に力を与えるものとして見えている時、怒りや憎しみを捨てることを問うことは、さらに人間にとっての根源的な命題を提示することであるように、私は感じています。そこには、この世界に生まれ、「神の国」において愛されるべき存在であった自分がそうではなかったという、魂が抱いた「愛への願い」と「憎悪」という、根源的な情動の世界があるからです。

 これは「何が正しいのか」という「論理」を超えた世界のように、私には感じられます。しかし深刻な心の障害にあえぐ個人においては、これが「病んだ心から健康な心への道」へのスタートになるでしょう。そのため、「絶望」と「憎しみ」からの脱出への基本的な「心の選択」を、次の章で示したいと思います。

 

無駄な怒りをなくす

 

 この章では手始めとして、そうした根本的根源的な「怒りの放棄」の命題を問うのではなく、ごく実践的な話から始めましょう。

 つまり、「怒りの価値」についてどう考えようとも、誰でも同意できるであろうことがあるということです。

 それは、とにかく「無駄な怒りは減らす」ということです。

 

 私自身について言えば、2002年にこの心理学を整理し始めることで、私自身の心の変化も加速し、人生において「怒り」をはっきり体験したのは、今のところ2004年が最後になっています。これはもちろん「否定価値の放棄」も経てです。

 それでも「怒りの感情」という脳の機能そのものを捨てたかと言えば、そんなことはありません。怒りはやはり時に役に立つものであり、その時には大いに怒ろうと私は考えています。

 しかしそんなことが通常の社会生活の中で起きるとは思っていません。少なくとも暴漢に襲われるような事件に巻き込まれない限りは、人間相手には怒りは不要と考えています。まず考えられるのは、「山で熊に出くわした場合」のような話です。

 その時には、大いに怒りを奮い起こすでしょう。熊をひるませるためにです。

 

 そう話すことで、この「無駄な怒りは減らす」という実践の究極の目的そして目標も明確になってくると思います。「怒りの価値」という根本的根源的命題はいったん別の話としても、まず目指したいのは、自分で怒りの感情をコントリールできるようになる、ということです。

 本当に怒るべき場面だと考えるのなら、怒る。怒りが無駄だと感じたら、怒らない。無駄な怒りが湧き出るようなら、すぐにそれを解除する。

 

 多くの現代人は、この順序があべこべになっています。怒りが湧き出てから、怒りが「正しい」と思えるような論理を、作り上げるのです。感情によって、思考が変わってしまいます。やがて一貫した「自己」が失われ、怒りによる「感情による操り人形」のようになってしまうのです。

 そうではなく、まず怒りが有用かどうかについての、一貫した考えを確立する。その考えに従って、怒りの感情を見直す。この実践の積み重ねで、「怒りの感情のコントロール」が可能になります。それはつまり、自分自身が自らの感情に対する覇者となるということです。これが人間としての強さそして大きさにつながっていきます。

 

「怒りの解除」の基本

 

 「無駄な怒りの解除」を私が最初に学んだのは、大学院の時に論理療法を勉強してであったと記憶しています。そこでは、「無駄な怒りを見分ける、自分なりの規準をはっきりさせること」と述べられていました。

 それまでの、精神分析だけで自分の心の障害に取り組んでいた方法では、自分の心の病んだ部分を露わにするだけで、健康な心への方向性が欠けた、方手落ちのものであったと感じます。そんな私にとって、「怒り」が基本的に有害な感情であり、まずそれを解除する方法を実践することが、心の治癒成長となる。この合理的で具体的な指針が、私にとっても、自ら積極的に自分の心を健康なものへと方向づける、最初の実践になったように感じます。

 

 さて、私が論理療法から学んだ「無駄な怒りを見分ける規準」としては、次の2つがありました。

 1.「相手が実際に悪意を持って攻撃してきたか」。そうでない場合とは、相手がうっかりとか、見識不足からそうしてしまったということです。ならば怒りは無用である。

 2.「怒る行動によって現実的に望ましい結果が得られるか」。すでに起きてしまったことは、もちろん怒っても元には戻りません。一方、これからの相手を行動を改善させる役には立つかも知れません。

 怒ることが有用なのは、この2つが満たされた時だということです。

 ただ、「相手が悪意を持って」そうしたのかどうかは、実際にはなかなか分からない話です。心が病むメカニズムにおいては、「情動の荒廃化の反転」によって、他人は概して悪意のある存在として心に映るという、厄介なメカニズムがあります。

 

 ですから私としては、基本的に「怒りが現実的に役に立つか」という規準を第1とするので良いと考えています。そして実際、「怒りが現実的に役に立つ」ことは、めったにありません。より正確に言えば、「怒りが役に立つ」こともあるのは否定しませんが、その同じ場面において、怒るに頼る行動法よりもはるかに望ましい結果が得られる別の行動法があるということです。

 これは実は相手が実際に「悪意」と言えるような動機で行動してきた場合でも、そうなのです。これはより高度な「行動学」という世界になってきます。この章では、少しその入り口とも言えるところまで、引き続きA子さんの事例を題材に説明します。

 

 「望ましい結果が得られるかどうかの問題ではない。怒ることに意味があるのだ。悪に対しては怒らなければならない」。そう考える方もおられるかも知れません。

 これは「怒りの価値」についての根本命題の話になってきます。それは「否定価値の放棄」の章で詳しく論じましょう。ここでは、比較的日常にも良くある、相手がそれほど悪意をもってしたのではないケースを中心に、「怒りの解除」の具体的実践を説明します。

 

 つまりまず第1に重要なのは、怒りが「現実において望ましい結果」を生むかです。

 実際にそんなことは、まずありません。怒りは基本的に解除し、怒りに頼るのではない、より望ましい結果を生む「建設的行動法」をするのがいいことです。つまり、「怒りを捨てる」ことそのものよりも、「建設的行動法」の内容をどう考えられるかが重要になってきます。「感情と行動の分離」の妙味とも言える「感情にとらわれない行動によって感情が良くなる」という、逆説的向上を目指すのが重要です。

 ここでさらに、私としては第2の知恵を入れておきたいと思います。「失敗から学ぶ」ということです。

 実際「怒り」は、多くの場合「失敗」に対して向けられます。人がなした失敗に対して。そして自分がなした失敗に対して。

 全ての失敗から、私たちは学ぶことができます。全ての「失敗」が、その中に学べる何かを潜ませている、実は価値あるものなのです。

 学ぶことができた時、それは有益な体験になります。そして「何を学ぶか」を考える思考作業においては、「怒り」はまったく不要です。ここでも、重要なのは「怒りを捨てる」ことよりも、「何を学ぶか」の具体的内容をどう考えられるかです。その結果によって、実際のところ、怒りは消えるのです。

 

A子さんの「けっぺき症」への怒り解除アプローチ

 

 A子さんが自分でも悩む「けっぺき症」「マイナス思考」に対して、私はまずこの「無駄な怒りの解除」のアプローチを開始しました。

 同時に、私は(あせ)り」の解除についても基本的な考え方を説明しました。これもやはり「無駄な焦り」を見分け、解除するのが基本です。「焦り」とはいわば、「これから怒ろう」という姿勢の慢性化とも言えます。その先の怒りが無駄である時、全ての焦りが同様に無駄です。まずその無駄さを知ることです。

 また、「やさしさを与えられる人になりたい」というA子さんの目標についても、ここでその最初の方向性の示唆をしました。つまり、こうして怒りや焦りを解除するという実践が、その最初だということです。決して「やさしさを与えられる人」をイメージしてそれを自分に当てはめるのが方法ではなく、です。

 

== 島野からA子さんへ 2007321(水)==

ハイブリッド心理学では、「怒りが正しいかどうか」という思考法はとらず、「怒りが役に立つかどうか」という思考法を採用します。

怒りが役に立つのは、「現在進行形の身体的攻撃」に対処するためです。つまり山で熊に襲われたような場合ですね^^; その場合は怒りを奮って反撃するのが適切です。そうした以外は、怒りは一切無駄だと考えています。

 

>昨日、家族で車で出かけたのですが、主人が混んでいるほうの道を行ってしまい渋滞しかなり時間がかかってしまったのです。私は、「この道いけば混むことわかっているはずじゃない」っと言わず一人イライラ。しまいには「今度はあっちの道で行こうね!!」とおかんむり。

>子供の失敗も同じように思い、「いけない、いけない」という感じなのです。

 

これも、まずはそうした「潔癖症」が問題なのではなく、怒りを使わない現実対処の具体的な答えを見出さないことが、問題です。

まず「分かっていたはずでしょ!」と怒れば、渋滞は消えるのか。消えませんね。

「ではどうすればいいか」。まあ渋滞にはまってしまったら、身動きできないのが現実です。これはもう仕方がない。必要なのは、それによって何か「現実的支障」があるかどうかですね。それを見極め、あれば対処が必要です。誰かと待ち合わせしているとか。

渋滞にはまったら、どうしようもない。後は「この失敗から学ぶ」です。

この辺で、単なる「思考法」を越えた「思考技術」というものが出てきます。精神論ではなく、実際に次に役立つ知恵を、その失敗から見つける思考技術です。なぜ込んだ道に入ったのか。その道は常にそうか。時間帯が問題か。こうした「どうすればいい」という「建設モード」での具体的解決策検討をする時、怒りの感情は実際消えています。

そうしたことを考え、「次にこんな時はこうする」と、明瞭に答えを出すのが重要です。「今度はあっちの道!」だけではちょっと具体性に欠けますね。

 

あともう一つ。自分自身がそうやって「失敗から学ぶ」ことを重視すると同時に、他人にもそれが起きることを重視することです。

旦那さんが次に道を考えるに当たって、A子さんが怒ったことと、実際にその渋滞によって旦那さん自身がうんざりすることと、どっちが現実的考慮材料になるでしょうか。多分後者でしょう。つまり旦那さん自身が学んでいるのです。それを尊重すると考えた時、「何も言わなくてもいい」ということも見えてくるでしょう。

子供さんへの対処では、こうした「失敗から学ぶ」という視点がさらに重要になってきます。まあこれも何か具体的な話があればさらに説明できますね。

 

そうして「怒りを解除する」思考法と同じように、「焦りの解除」も出てきますね。

「焦り」は案外、「習慣化」する傾向があります。つまり現実にせっぱつまっている訳でもないのに、物事をとにかく迅速に行なうことが良いことだという感覚が染み付いてしまうのです。歩くのもせっかちになったりする。

実際そこまで焦る必要があるのかと、じっくり問うことですね。そして焦ることが役に立つかどうかです。

 習慣化した焦りは、広範囲なイライラ感情の原因となり、怒りの間接原因になることが良くありますので、「焦りの解除」という実践を逆に習慣化すると、とても穏やかな気分が増えてくる効果があると思います。

焦りが習慣化していると、特に子供に対して「早くしなさい!」「何ぐずぐずしてるの!」といった言葉が出がちです。要チェックですね。なぜ急がねばならないのか。大抵、何の理由もないんですね。

のんびりすること、じっくり時間をかけることは、実は心身を整え、ものごとを楽しむという人生の豊かさの基本です。

ということで、悪感情そのものが問題というより、それをどうにかという考えに捉われて現実対処が視界から消えてしまうことが、問題と心得るのが最初の基本になります。これが実に沢山の話に応用できますので、ぜひ色々と目を向けて頂ければ。

 

「やさしさを与えられる人になりたい」ということについては、今回はその入り口のような話をしておきたいと思います。

まずは、その気持ちによってそうなれるのではない、ということです。

自分で自分をどんな人間だと感じられるかではなく、現実的に建設的な行動ができることが、実際その人を優しさの方向に向けます。相手に何が「正しい」かと教えるのではなく、「知恵」を与えてあげることです。ですから上述のような建設的思考法行動法が、そのまま人への優しさの方向でもあります。

 

もう一つは、心底からの優しさの感情がどう生まれ育つのか。

これは詳しくはまたの機会に説明したいと思いますが、「魂の成長」という話になってきます。ようは心の底からの感情が、どのように豊かになるかですね。

最初の基本は、自分自身の深い感情に向き合うことです。決して外から自分を眺めたり、人の目に映る自分の姿を考えることではありません。そしてまずは、今まで話した「現実対処」における「現実」とは全く別の世界のこととして、自分の心にある深い感情を認め、受け入れることです。

全ての人の心に、「この世に生まれて、果たされることのなかった何かへの、願いであり、怨念」が、出生後の幼少期の心に、置き去りにされたまま心の底に眠っています。それを感じた時、「幸せなはずなのに..」と感じるのでしょう。

それをまずは、現実世界のこととは全く別の、「魂の世界」のこととして受け入れることですね。人間の心が、そうなっています。決してそれが自分だけのことだと考えないことです。そして、その気持ちを見守り続けることですね。その姿勢によって、魂も成長を始めます。

この先は、幼少期からの問題に根ざした、深層感情への取り組みへの道があります。ただそれは少し心の手術的な面もありますので、まずは心の基礎体力の向上ですね。その後の話になります。

まずは、現実対処の問題と、心の深層感情の問題を、分けること。そして後者によって前者が影響を受けないようになるよう、頭で理解するだけではなく実際の体験を通しての習熟が大切です。まずはその実践を色々とやってみて頂いて、次のステップへの準備とするのが良いと思います。

 

 ここでは「魂の成長」というより深いテーマにも触れ始めています。これは『理論編下巻』で詳しく説明しますが、取り組みにおいては、最初からそれが見えるのであれば、それへの視点を促すのがいいことです。現実世界への対処と魂の世界という、まさにハイブリッドな道のりになるわけです。実際にどんな進め方が合っているかは、人それぞれです。

 

「破壊モード思考」から「建設モード思考」へ

 

 さて、A子さんはこれらのアドバイスを経て、「問題の切り分け」についてはかなりその効果に慣れてきて、さらに今までの「マイナス思考」を根本的に方向転換することについても、本格的に心が向き始めてきます。

 しかしそれはまだ成功しません。私の説明としても、「問題の切り分け」から始まり「怒りと焦りの解除」や「失敗から学ぶ」という方向性を示したのですが、A子さんの身に染み付いた「マイナス思考」という根底の方向修正についてはまだ手をつけていません。

 A子さんの場合、特に子供さんへの対応に気疲れが大きいようでした。

 

== A子さんから島野へ 2007325(日)==

問題の切り分けがとても大切だということがよくわかってきました。

今日なんかも日曜日で「あ〜明日仕事か〜やだな〜」「そんなこと言ってもしかたないよ〜」「ばかだなあ〜情けない自分だ〜」となってきとき、

「あ〜またいままでと同じことやろうとしてる」「ちょっと待てよ、現実と辛い気持ちを分けよう」と考えると「何か現実的な対処があるのではないか」と考えがでてきました。

 

「仕事は嫌なことばかりではないはず、マンネリ化した思い込みがよくないんだ」「お客さんは困ってネジを買いにきている、そんなお客さんの役に立てればうれしいんだ。それでいい

な〜んて考えを進めていったら別に月曜日も嫌ではなくなってきました。でも繰り返しやっていかないといけませんね。

 

子供が兄妹ケンカしはじめると私はイライラしてきます。「なんでけんかになるのよ〜もう静かにしてよ〜」と子供のことを考えられず自分よがりの怒りになってしまいます。

これもイライラと現実の対処を分けたほうがよいのですよね。まず一人一人の言い分を冷静に聞いてあげたほうがイイですよね。

考えるとわかってもその場ではなかなか冷静になれません。でも本当に子供に対して思いやりというか「自分の気分のはらいせ」を与えたくないので対処を考えたいです。

役に立たない怒りは解除していきたいです。「耐性の弱さ」の心理学もおしえてください。

 

 「マイナス思考からプラス思考へ」というのはどの心理学でも言っている話であり、それはそれでいいのですが、ものごとに現実にあるマイナス側面を正しく認識することまでも捨ててしまっては、一時的に気分が軽くなったような錯覚を生むだけの、ごまかし思考になってしまいます。

 ですから、やはりまずは、ものごとの良い面悪い面を公平客観的に認識する科学的な目を持つことが大切であり、その先で行う思考法の修正とは、「それは駄目だ」という「破壊モード思考」から「こうすればいい」という「建設モード思考」へと変換することを、基本指針と考えるのがいいことです。

 

 これは多少言葉の表現の問題でもありますが、「マイナス思考からプラス思考へ」と表現する時は、ハイブリッド心理学では主に、「すでに起きた出来事の解釈法」について言うのが良いと考えています。つまり「失敗から学ぶ」です。そうすると、全ての「マイナスの出来事」がプラスの意味を持つわけです。

 一方、これからどうすればいいかという「問題対処」においては、「マイナス思考からプラス思考へ」と言うよりはやはり「破壊から建設へ」と表現しています。

 

「建設モード思考」と「サバイバル世界観」

 

 「破壊から建設へ」というテーマと、「世界観」が密接なつながりを持ってます。「良い人間が幸福になれる」という道徳的世界観よりも、全てを自分が切り開くと考える「サバイバル世界観」の方が、「建設」モード思考に適しています。

 より本格的には「価値観検討」の領域になりますが、A子さんが「耐性の弱さ」の克服にも関心を持っておられたようなので、私はここで「建設モード」に徹するための「サバイバル世界観」についても説明した上で、思考法を具体的に説明する題材として、子供さんの兄妹ゲンカの内容なども尋ねてみることにしました。

 

== 島野からA子さんへ 2007327(火)==

「問題の切り分け」の実践はGoodですね^^。「問題の切り分け」はそのように、「問題」そのものはそのままでも、切り分けができただけで気分が劇的に軽くなったりするものです。

 

一方、切り分けた「問題」そのものが、残ります。これをしっかり対処解決する知恵と実践が次の話になります。これがないままだと、案外元に戻ってしまいがちです。

これについては、兄妹ケンカ場面への対処がいい題材になると思います。いい題材というか、A子さんにとってはマジに切迫した問題かと^^;

「役に立たない怒りの解除」はあくまで内面準備で、そうした現実的問題解決のために、さらに知恵を働かせるのが大切です。そのためにハイブリッド心理学が提供しているのが、「建設的対人行動法」と「原理原則立脚型行動法」という、2種類の行動学です。

これを応用した対処法を、ちょっと具体的に考えてみたいと思いますので、兄妹ケンカがどんな状況で起きているかをお聞かせ頂ければと思うのですが、いかかがでしょう。

子供に対して思いやりを持って一人一人の言い分を冷静に聞くというのは、姿勢として大切ですね。その上での、具体的な知恵の話です。

 

そのように知恵で道を切り開く姿勢というのは、やがて根本的な「生きる姿勢」の話につながってきます。根本姿勢がないと、付け焼刃で続かないんですね。

そうした説明も除々にしたいと思いますが、「耐性の弱さ」についての説明の前段準備として、「世界観」についてまず指摘しておきたいと思います。基本的に、この現実世界を生きるということはどんなことだと考え感じるかですね。

サイトでも整理していますように、「世界観」には、

 A.道徳的世界観 ... 良いことをすれば世界が自分を幸せにしてくれる

 B.サバイバル世界観 ... 「定められた姿」のない世界で進む道を自分で切り開く

という大きく2種類があると考えています。

「道徳的世界観」に立つと、「耐性の弱さ」が起きがちですね。何か嫌な事があるということは、自分が何か間違っているからだ、という感覚に結びついてしまうからです。それでちょっとした嫌なことが耐えられなくなってしまうわけです。

一方、「サバイバル世界観」では基本的に「何でもアリ。重要なのは自衛」という考え方ですので、ちょっとした嫌なことは、基本的に何でもいい勉強の機会と捉えることができます。

また、そもそも生きることは格闘だとも考えられるわけです。仕事についての考え方も、こうした価値観世界観に影響されますね。

我々現代人はあまりに整った生活環境に馴れているので、仕事の味気なさに悩んだりもします。でも最低限生きるために食わねばならぬわけです。どんな仕事であろうと、まずそれが出来るということは、このサバイバル世界観においてとてもスゴイことなんですけどね。大自然では、皆死に物狂いで生きているわけです。

その上で、やりがいのある内容や、人のためのことができるという価値を、加算的に考えていくこともできます。その視点で仕事を変えることを考えるものアリです。

そうした日常のさまざまな思考が、根底でどんな価値観そして生きる姿勢を持つかによって、大きく方向付けられます。目先の現実対処ということと一緒に、そうした根底の思考法についての視点も持つと、現実対処もさらに確かなものになっていくという次第です。

 

建設モード思考のための「肯定形文法への変換テクニック」

 

 A子さんが伝えてきた兄妹ゲンカの状況とは、こんなものです。

 

== A子さんから島野へ 2007329(木)==

子供のケンカは、あまりに頻繁すぎて、「どういう状況か」なんて考えたことありませんでした。昨日一日、観察して勉強になりました。

 

*はじめは仲良く遊んでいるのに途中からこじれるパターン(これが一番多いかな)

DSゲームをそれぞれがやっていて、お互いに「今こうなっているよ」と楽しそうに並んでやっていました。

ちょっと飽きてきたのか、兄がちょっかいだし始めます。「ばっかだなあ〜おまえは〜」妹も「ばかじゃな〜いもん。そんなこというのがバカだよ〜」「ふざけんな〜このくそやろう」「ふ〜んだ。ばかやろう」(バシッ)兄がたたく。妹も負けずにたたきかえす。

しばらくバトルが続く。「うえ〜ん、お兄ちゃんが強くたたいた〜」と私に言いつけにきます。

 

ボール投げを楽しくやっています。お互いのルールがくいちがい。よく聞いてみると「お兄ちゃんは自分の時だけ壁にはねかえったのは無しといい私の時はアウトにする〜」本当なのかと聞くと「ちがうもん、さちこのほうがずるいんだよ」どっちかを私が「悪い」というと「なんでいつもオレばかり怒るの!!」とブーブーいわれます。

 

*ママ争奪パターン

週末スーパーやホームセンターに買い物に行くと「ママと手をつなぎたい」「オレもママと手をつなぐ」「じゃあ順番にしよう」「うん」納得してるはずなのに相手が手をつないでいるのをいやがらせしてたたいてきたり、足をふんずけてきたり。私が「もう二人とも手をつながない。買い物できないじゃん!!」となります。

 

外食いっても「ママの隣すわりたい」「オレもママのとなりがいい」私が「今日はどっちの番だっけ?」「この間お前二回続けて座っただろ!」「でも今日はさっちゃんの番だもん。」お互い譲る気配がありません。

私は怒って「お母さんは、お父さんの隣にすわるから、二人とは座らない!」

「またはじまったか〜」という感じです。

 

 まあ実にありがちというか、聞く分には実にほほましく、私はニンヤリとしながら読みましたが、こうした場面の繰り返しで気疲れを抱えているのが、今の日本の多くのお母さん達なのでしょう。それがちょっとした思考法の転換で、どれだけ劇的に変わるかとぜひ多くのお母さん世代に伝えたいものです。

 事実、A子さん自身がこの後、私が聞いても少し驚くような変化を体験することになります。

 

 私はまず、A子さんの思考が「マイナス思考」というより典型的な「破壊モード思考」に傾いていることを指摘しました。

 そしてこれを「建設モード思考」に方向転換する方法の一つとして、「肯定形文法への変換テクニック」というのを説明しました。これは無理に「マイナス思考をプラス思考へ」と話の内容までこじ曲げるのではない、言葉の文法だけを変えてみる、無理のないテクニックと言えます。

 関連する話題として、「善悪思考」が基本的に「破壊モード思考」であること、子供さんへの「破壊から建設へ」の実践としては、「叱るより誉める」という話題なども伝えました。

 

== 島野からA子さんへ 2007330(金)==

お子さんのケンカですが、内容をお聞きしますと、まあありがちというか、かなり傾向と原因がはっきりしている感じですね。

「現実問題への対処」が今問題になっているのですが、根本的には、それは今生まれた問題ではなく、大元にある根本的な「生き方の姿勢」によって前々から生まれているという認識が良いかと思います。付け焼刃の問題対処を考えるより、問題を生み出している大元の「生き方の姿勢」の修正向上から考えていく方が効果があるかと。それを考えれば、今の現実問題への答えも、自然に導かれてくる、という按配です。

 

と言いますのは、どうもA子さんの日常の思考が、かなり「破壊モード」に傾いているらしいということです。

子供さんがケンカする時、互いに「破壊モード」の思考をぶつけ合います。一方、それに対してA子さんも、

>私が「もう二人とも手をつながない。買い物できないじゃん!!」となります。

>私は怒って「お母さんは、お父さんの隣にすわるから、二人とは座らない!」

とバリバリ破壊モード(^^;)で対応しているご様子。子供は親を映す鏡と言いますが、ま大体その通りで、親御さんの思考方法を大体そのまま受け継ぎますね。

 一方子供は大人よりずっと柔軟ですので、A子さんが思考法を「破壊モード」から「建設モード」に変化させれば、それだけで子供さんも自然にかなり変わるかも知れませんし、そうでなくても子供さんを「建設モード」に導く対処法が分かってくると思います。

 

それでまず理解頂きたいのは、「善悪思考」は基本的に典型的な破壊モード思考であることです。

「どっちが悪い」という思考法になると、「そっちが悪い」とされた相手に駄目出しをするという、「破壊」しかありません。

子供に善悪区別を教えるのは正しいことと世の人は考えますが、問題は教え方です。善悪区別を教えることを無下に否定するのも無理があるかと思いますが、ハイブリッドではそれを建設モードで行なうことをお勧めしています。

まずは言葉の使い方になるでしょう。「誰が悪い」という言葉は、極力使わないのがお勧めです。それは破壊モードでしか機能しません。とくに子供の場合、「お前が悪い」と言われることは、「お前は皆から嫌われる嫌な人間なんだよ」と言われるのとほぼ同じ意味を持ちます。下手すると心の傷になりかねない。

 

ハイブリッドの実践の一つである「善悪の解体」では、「善悪」という観念を使わずに、それが誰や何にとって何故どのように望ましいもしくは望ましくない、という思考法をします。「善悪」という「評価結果」ではなく、誰にとって何にとって何故という「評価基準」の方をより強く意識する思考法と言えるでしょう。

それによって、望ましくないものを一概に「悪い」と非難するのをやめます。誰にとって何にとって何故かと考えるとは、誰にとって何にとって何がなぜ望ましいかという、マイナス方向ではなくプラス方向でものごとを考えることにつながります。

これが基本的に建設モードへの変換の入り口と言えます。

 

漠然と「建設的に考えねば」と考えても、なかなかそうは思考は変わってくれないものです。具体的な方法論が必要ですね。そのための一つのテクニックとして、「肯定型への文法変換」というのを試して頂くといいかも知れません。

このテクニックのいい所は、感情を無理に建設的に変えようとするのではなく、単純機械的な方法であることです。つまり、思考内容を「建設的内容」に変えることさえ考えなくてokです。全く同じ内容でも、とにかく文法として否定形ではなく肯定形で考えるようにします。「こうしなくちゃ駄目!」を「こうするといい」に。

>私が「もう二人とも手をつながない。買い物できないじゃん!!」となります。

>私は怒って「お母さんは、お父さんの隣にすわるから、二人とは座らない!」

なら、「それじゃ買い物できない」ではなく、「こうすると買い物できる」。

「二人とは座らない」とは言わずに、「お父さんの隣にすわる」だけにする。

そうして機械的に思考の文法を考えることだけでも、結構気分が変わってくるものです。まあ思考の文法に意識が向けられるので、怒りに向けられる意識が減るというのもあるでしょう。

まずはそうして、A子さんご自身の思考方法を肯定文法形にすることから考えてみて頂くと良いかと。感情まで変えようと焦ると、あまりうまく行かないものです。そうして自分自身で肯定文法形で考えるようにした言葉を、子供さんへの言葉の基本とするのがお勧めですね。

 

そしてその先の方向性としては、子供さんの「躾」・・これはあまりいい言葉ではないと僕は感じるのですが、子供さんを導くための対応の基本を、叱ることではなく誉めることで行なうというのがお勧めになります。

まず普段、誉めることがどれだけあるかですね。いかがでしょう。

「すごいねー」「良くできたねー」といった単純な言葉で、子供は生き生きとします。ケンカをやめさせるための抜群の方法も、この誉めることをうまく応用する形になります。

 

「行動学」の助けをかりる

 

 さて、この説明を受けてのA子さんですが、自分が「バリバリ破壊モード」だという私の指摘は、彼女にとってもいい刺激になったようです。

 そしてすぐの返信で、翌日から家族でスキーに出かけると伝えてきたのですが、私はその中にいい材料を見つけ、「建設モード」で考える発想のヒントを手短に伝えておきました。

 

 実はここでさらにつけ加えている実践があります。それは「行動学」の知恵を活用するということです。

 「破壊から建設へ」という基本的思考様式の転換、そして「肯定形文法テクニック」という、思考法の基本枠を方向転換するのですが、その中身は、はやりもう一歩進んだ「行動学」という領域によって、充実したものになります。

 世の大抵の人は、これについてあまりに損な無知のなかにいます。それはごく少ない数の「普遍的な原理」を学ぶことで、実に沢山の場面に応用でき、実に劇的に良い結果をもたらすものです。

 詳しくは「行動学」の章で説明しましょう。どんなものがあるかだけ先にお伝えしておきますと、2種類の行動学があります。これは「人間関係」および「社会で生きる」という人生での2つの大きな領域に対応したものです。

 一つは「建設的対人行動法」。これは良い対人関係を築き、「愛」の成長へと向かうための行動学です。これはもちろん「自尊心」にもつながっていきます。

 もう一つは「原理原則立脚型行動法」です。これは「社会で優れる」「社会で勝てる」という「強さ」や「優越」のための、合理的な行動法を定めた行動学です。これは「自尊心」に大きく役立ちます。「愛」と対立することのない自尊心を育ててくれるものです。

 

== A子さんから島野へ 2007330(金)==

(笑)「バリバリの破壊モード」と書かれ大笑いです。

本当マイナス思考になっているのですね。文字にするととてもわかりやすいんですね。

モンモンと悩んでいました。私は怒りの感情と一緒に「破壊の言葉」がでてしまいますので、「一歩考えて」という感じがしました。

 

私の感情は「私を困らせようとしている、ぜったいそう!!」こういう「思い込み」が強いです。「ちょっと待てよ」と考えてから発するようにします。大切な子供と主人のために。

うちも今夜からスキーに出かけますので、はじめは「機械的」にでも「肯定の言葉」を発するよう心がけます。

 

 私がA子さんに伝えたのは、「建設的対人行動法」による発想です。

 「私を困らせようとしている!」。そうかも知れません。ならばそれは「悪意」かも知れません。

 それでもいいんです。なぜ困らせようとしているのか、相手が望むものの根本を考えることです。その中には、何らかの共通目標共通利益を見出せるはずです。ならばそれだけに着目した行動をすることです。相手が今目の前で取った行動にとらわれずにです。これが「建設的対人行動法」です

 私はそのヒントをごく手短に、即返信しました。今までの長い説明よりも、その短いヒントの方が彼女には役に立ったかも知れません。

 

==島野からA子さんへ 2007330(金)==

>私の感情は「私を困らせようとしている、ぜったいそう!!」こういう「思い込み」が強いです。

これも、その「思い込み」を変える必要はあまりなく、捉える方向を否定形から肯定形に変えることができます。実際、困らせることで何かを訴えようとしているのでしょう。子供はそんなものです。

そして「困らせようとしている」ことではなく、訴えている何かに着目する。これは建設的な対処方法というものがあり得る世界です。

 

 後日、その劇的な効果を彼女が伝えてきました。

 

==A子さんから島野へ 200742(月)==

この週末は、「余裕のある目で見れた」という感じがしました。

「否定的な言葉は使わない」「子供が訴えてる何かに着目する」というのがテーマでしたが、行く車の中で、いろいろ考えました。

「コテージに着くと、いつも自分のやらなきゃいけないことと、子供の世話でつかれるんだよな〜〜ちょっとまてよ、いつもは自分のことからやりだして、あまり子供のことは見ていなく、何か聞かれたり頼まれても“自分でやりなさい”とか、“そのかばんにはいっているでしょ、もうっ”って感じになるから、子供が何を望んでいるのかを最初に考えよう」

ってやっていったら、本当に楽でした。「いつもの疲れ方はいったい何?」と思うほどでした。

 

完璧にはいかず、食事中におふざけからケンカになるという場面があったのですが、兄が妹の頭をふざけてたたき「そんなに強くたたかないの!!」と怒りが爆発しました。

でもいつもに比べれば「マイナス言葉は使わないように」と意識できただけでも良かったと思います。

 

私の行動も積極的になってきた面があります。

*朝に散歩を始めた。

*犬を買おうと家族に話をしてみた。

この2つは「やりたいけど散歩をはじめてもつづかないからやめよう」「犬買いたいけどいろいろ大変なことがある」とあきらめていたことなのです。

やってもやらなくても「それによって悩む」のだったらやってみよう!!「なんとかなるさ」と思えるようになってきました。

 

 もちろんまだうまい思考法ができずに怒りが出てしまうこともあります。しかし「いつもの疲れ方はいったい何?」という彼女の言葉に、思考法の転換がもたらす変化の、ある事実が示されるでしょう。

 つまりその変化とは、「思考」を変えることそのものを超えた別次元の変化だということです。「変える」のは、あくまで「思考」をより合理的で効率的なものにしたことです。だがその結果生まれた変化は、「自分の思考法が変化した」にとどまらずに、「今までの自分は一体なに?」と感じられるようなもの、つまり「自分」そのものが「変わる」ということです。

 思考を「変える」ことで、自分が「変わる」。感情を変えようとしたのではありません。思考を「変える」ことで、感情が「変わる」のです。

 これが、「ものは考えよう」「気持ちの持ちよう」もしくは無理な「プラス思考」で気分や感情を「変えよう」とする方法ではない、感情が湧き出る大元の方に働きかける、正しい心理学技術による方法だと言えるでしょう。

 

 A子さんの場合、ここまでに要したのがメールカウンセリングを始めてからまだ僅か2週間とちょっとです。これがほんの最初の一歩に過ぎないと言う時、ハイブリッド心理学が目指す向上変化が、今までの他の心理学とは別次元のものであることを察して頂けるのではないかと思います。

 一方、A子さんの場合はもともとあまり深刻な心理障害は関係していなかったという背景もあります。そうではなく、心が病む過程が深刻に進んでいる場合、内面においては「望み」が見失われ、外面においては怒りと憎しみによる思考と行動によって心がおおい尽くされてしまうという、二重の隘路の中にあります。「苦しみ」と「自己嫌悪」そして「絶望」だけが、その人の心に見えることになることも少なくありません。もはや「建設的であること」について考える余地さえもないほどの、強力な否定感情へと向かう力が働いています。

 そうした深刻なケースにおける、「最初の一歩」に目を向けましょう。それは「マイナス思考」からの脱出というレベルではなく、人生における深い絶望と憎しみからの脱出になるはずです。

 

inserted by FC2 system