心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

3章 自己の受容・未知への選択 −憎しみと絶望からの脱出−

 

この章のまとめ

■実践項目■

自己の受容 ・・・ ハイブリッド心理学においては、「唯一無二の成長への意志」を指す。

  必ずしも「今の自分を受け入れる」ことではない。変えるべきものは変える目を持つ。

  今を原点として前に進む。もし「死」を思うほど苦しいのであれば、「普通」という基準を捨て、

  自らの不遇と苦境をありのままに認めることがスタートになる。

未知への選択 ・・・ 心の根本変化は「未知」として訪れるものであることを知る。

  心の障害の根本治癒となる「自己操縦心性の崩壊」においては、最後はそれだけが支えになることも

  ある。もはや自分の身体を自分のものとは考えず守る、「ただ実存を守れ」が指図となる。

■実例■

Y子さん ・・・『理論編』登場済み。「愛」をめぐり心の危機に瀕していた女性。自らの「魂」の存在に気づく。

C子さん ・・・ 深刻な心の障害傾向の中で、ほぼ自殺を決意した中でメール相談開始。最初の絶望を脱する。

 

 

「自己の受容」

 

 もし心の障害がそれほど関係していないのであれば、「感情と行動の分離」という原則に立ち、「問題の切り分け」という基本的な心理学の知恵を使って、現実問題に建設的な対処をすることで、日々の問題をよりうまく解決でき、生活の基盤をより豊かにでき、その結果として湧き出る気分や感情を基本的により良いものへと変化させることは、そう難しくないのではないかと考えています。

 また人生というより大きなレベルでは、「愛」と「自尊心」の成長への正しい方向性について学んで歩むとともに、その方向性を支えるより本格的な行動学を学んで実践することが、人生の大きな豊かさへと向かい、「幸福」という大きな目標へと近づけてくれるものと考えています。こうした大きな方向性を、2部で主に説明します。

 しかし、心の障害が関係してくると、「病んだ心」に妨げられてそれらが難しくなってしまいます。

 幼少期からの来歴の中で蓄積した恐怖のストレスの中で、分裂した自己をかかえ、荒廃化した情動と歪んだ思考論理におおわれ、何が本当の自分であり、何が正しくて、何が現実で何が空想であるのか、全て分からなくなってしまうのです。そしてあらゆるものへの嫌悪と、生きることへの絶望と、それを自分に与えた世界への憎しみだけが、この人の心に見えるものになってしまいます。

 生半可な精神医学や心理療法の知識と、「素の思考」によって自分を「治そう」とする努力は、大抵効を奏することはありません。そうして「普通」にさえなり得ない自分の「病んだ心」を責め恨む怒りがさらに「病んだ心」の主な感情になるという、出口の見えない心の袋小路へと至ってしまいます。その苦しみは時に、人に「死」への願望さえも抱かせるものになります。

 

 その時、なすべき第一歩とは、もはや「感情と行動の分離」でも「問題の切り分け」でもありません。

 必要な第一歩とは、何よりも、自らが置かれた状況を、事実「死」を思い浮べるほどの窮地であることをありのままに認め、「普通」という曖昧な規準によって自らを縛ることをやめ、自らが自分を救うために、唯一無二の「病んだ心から健康な心への道」を歩むことへの「意志」を選択することではないかと、私は考えています。

 これを「自己受容」と呼んでいます。つまり、ハイブリッド心理学において「自己の受容」とは、まず「唯一無二の成長への意志」のことを言います。

 

 「自己受容」は、さまざまな心理学で取り上げられている、重要な概念です。それは多くの場合、「今の自分を受け入れる」「今の自分を好きになる」というように、「今の自分の姿で良しとする」ことのように語られます。

 しかしハイブリッド心理学における「自己受容」はそのようなことを言うのではありません。「今の自分」には良い面も悪い面もあるでしょう。それを把握したのなら、次は良い面を伸ばし悪い面を克服する方向への、建設的な歩みをするのみです。自分の「姿」を「どうなれたか」と見入るあまりにそうした「歩み」が止まってしまった状態を、ハイブリッド心理学では「障害」と捉えています。

 ハイブリッド心理学における「自己受容」とは、「自分の姿」の良し悪しをどう考えるかの話ではなく、「自分の姿」を眺める「主体」の側の「自己」を受け入れることを指します。眺めた結果の「姿」を「自己」だと考えるのではなく、単なる結果でしかない「姿」を生み出すところの、「先進への歩み」を「自己」だと考えることです。そしてその「自己」を、流れ移り変化する存在として受け入れることです。

 

 これは「そもそも“自己”とは何か」という哲学的な話や、「知性」や「意志」の役割といった少し難解な話も含みます。ハイブリッド心理学が考える「魂の成長」という深遠なテーマにおいて、それが重要になってきます。

 この章では、そうした少し難解な話はあとの章に譲り、ごく実際的な話として、「絶望と憎しみ」という、心を病む過程の先の断崖に置かれた人の心に、ハイブリッド心理学が何を伝えようとするのかの、幾つかの具体的な話をしたいと思います。

 

自分を優しく育てる

 

 もし可能であれば、「自分への優しさ」というものへの気づきを取り戻して欲しい。そう考えます。

 「もし可能であれば」とわざわざ言うのは、それさえ不可能になるケースがあるということです。それについてもこのあと説明します。

 

 そもそも、「自分への優しさ」は、「心の成長」についてのハイブリッド心理学の最も基本的な考え方として重要です。心は決して、「心がこうあらねば」と怒りによって心を縛ることで、成長することはありません。心が本来持つ自然成長力と自然治癒力に耳を傾け、それに味方する姿勢の先に、真の心の成長があります。それが心の成長のために必要な「自分への優しさ」です。

 

 これは弱った草木を優しく育てる時に必要な姿勢と一緒です。これは『入門編』でも言いました。

 実際、バランスを失った心にあなたが疲れているのならば、実際あなたは弱った草木の状態なのです。 弱った草木を健康な姿に治すために、怒りを向けて叱咤したところで、どうにもならないことは、すぐお分かりだと思います。水や栄養分を与え、適切な室温や日光を与え、静かに時間をかけて、健康な姿を取り戻すことができます。

 これをもし、弱った草木の状態を嫌い、「何でそんななの!」と怒りを向け、たとえば乱暴に打ちつけたとしたら、その弱った草木はすぐに死んで枯れてしまいます。

 実際、病んだ心にある人の、自分自身への態度は、まさにこれなのです。「何で自分はこんななの!」と激しい怒りを自分にむけ、自分を叱り付けて、「こうならなきゃ駄目でしょ!」というストレスを自分に加えているのです。その結果、心が枯れて、死んでしまうようなことが起きているわけです。

 

「自分への優しさ」を取り戻す

 

 そうした「自分への優しさ」が、ちょっとした言葉による「気づき」として取り戻されるのであれば、それはそれでとても望ましいことです。

 相談を寄せてくる方に対して、私がそうした「自分への優しさ」を促す言葉をかけるかどうかは、ケースバイケースです。すでに紹介しているモデルケースのA子さんやB子さんの場合は、「自分への優しさ」は損なわれていないため、最初から建設的思考法行動法の話をしています。

 一方、「自分を責める思考」があまりに広範囲に蔓延したケースでは、「自分への優しさ」の大切さに気づかせてあげることが重要です。

 

 今回はモデルケースとして経過を紹介するまではしませんが、『理論編』の「愛」についての説明で取り上げた、心の危機に瀕していた女性はその典型的なケースでした。

 自分を責めることが、何か自分の心の清らかさや気高さを保つために欠かせないことであるかのような感覚におおわれているのです。しかしそれが何かの具体的な向上を生み出すことなど、決してありません。頭の中で自己満足にひたるだけではなく、現実において成長することを望むならば、まず自分を責めることで自分が気高い存在だと感じる錯覚を、捨てる必要があります。そして、自分自身の中に味方するべき成長への芽があることを、感じ取ることが大切です。

 

 自分を責めるばかりのその女性の言葉に対して、私はこんな言葉を返しました。

 

== Y子さんから ==

苦しいです。死んでしまいたい。毎日苦しさが増すだけです。

理性はあります。でもただ、どうしたらいいか分からない。これがわたしの病なんですね。

自分を責めています。苦しみを彼のせいにして、自分自身への怒りを彼にぶつけていた。そして彼の愛をふみにじってしまった。今はこんなに分かるのに、なぜ分からなかったんだって。でも今は分かるよねっていうわたしの声も聞こえます。

気分転換はここから逃げることですか?昨日も公園では一時気分が落ち着きました。弟とドライブに行ったりするのは逃げですね。

体が震えています。全身から涙が出るようです。

 

== 島野から ==

間違いなく、今が一番辛い時だと思います。

何ができるか・・・・感情をすぐ変えることはできないとしても、思考を変えることはできる・・。今その気力が残っているのか、難しいと思いますが、今まで間違った生き方をしてきたのです。それが何だったのか、振り返ることが必要だと思っています。

特に、空想と現実を見分けること、そして自己嫌悪の原因となっている、間違った善悪観などを見直すこと・・。

こう書いて、その気力があまりないだろうことを感じています。

 

助けてあげたい・・。でも、助けることができるのは、Y子さん自身だけなのですね。Y子さんの中で眠っている、無垢のY子さんを、Y子さん自身が最後まで守ることだけを願っています。それはY子さんの分身であり、赤ちゃんです。

今、「自分を責めています」ってメールくれましたね。ちょうどそのことを考えてもらおうと思っていました。

サイトの「自己建設型の生き方へ」の 4章で書いた「罪悪感の非現実性」などが特に関係すると思います。一応頭から読んでもらえれば。

 

>実家の弟とドライブに行ったりするのは逃げですね。

なんでそんなに自分に意地悪をいうのです。サイトの「入門編」の最初で書きましたが、Y子さんは今弱った草木なのです。無条件にいたわるべき存在です。

 

 この女性の場合は、自分自身に味方する姿勢の芽が幸い残されていました。私の言葉は彼女の心に届き、彼女の心に自分自身への共感が回復します。そして、私の援助を手助けに自らの心の謎を解く歩みが、その女性の中で開始されたのです。

 

== Y子さんから ==

>それはY子さんの分身であり、赤ちゃんです。

この言葉に何か・・・衝撃を受けました。正直な気持ちは、間違いだらけのこんなわたしに赤ちゃんなんて守れるの?ってことと同時に、どうしても守りたい!守り抜きたいっ!て思いです。

自分の今の存在をかけて、守りたい。ここには追い立てる衝動はないように思います。そう、何かのために、ではなく、守ることそのものが、欲求かつ目的として感じられます。

 

ああ、母親ってこんなきもちなのかなって、違う次元でも感じています。もちろん泣きながら・・・。

 

絶望の先の「未知」だけが進む先になる時

 

 心を病む過程の中で生み出された自己嫌悪感情があまりに強く、「自分への優しさ」「自分に味方する姿勢」がもはや爪の先ほどにも残されない絶望の中にあるケースもあります。

 その時、「生きていればいいこともありますよ」などという慰めの言葉は、もはや何の意味も持ち得ないかも知れません。否、ここではそうした慰めの言葉が役に立つかどうかではなく、事実そうした言葉が全く意味をなさないほど深く絶望した人を前にして、ハイブリッド心理学が何を伝えるのかを話します。

 そうした「完全なる絶望」を前にした時、「絶望の先にある未知」だけが、人の心を「生」につなぎとめておく役割を果たし得るのではないかと、ハイブリッド心理学では考えています。

 

 新しく生まれ変わったかのような、未知の心の状態への「再生」が、人が死に臨むような絶望体験の先にあります。その「未知の自分」に、自分の未来を委ねることです。もやは今の自分の身体を自分のものだと考えずに、ただ傷つけずに守ることだけをして、生き続けることです。

 これは他にすがるものがない苦肉の言葉ではありません。事実、「病んだ心」から「健康な心」への根本治癒の最大の仕組みは、「病んだ心」が根底から崩れ去る、今までの「生」における何らかの絶望になることを、ハイブリッド心理学では見出しています。

 もちろんこれは、「絶望すればいい」などというような安易な話ではありません。あくまでそれは、病んだ心に支えられた今までの生き方がもはや進む先がないものであることへの、深い自覚を含むことに意味があります。しかしそれが意識的な思考よりはるかに深い心の根底でなされた時、もはや本人にさえ何が起きているか分からないまま、意識の表面はただ深い絶望におおわれるのです。

 

 これはハイブリッド心理学の実践に取り組んでいる最中にも起こり得ます。病んだ心への「感情分析」の実践を通して、病んだ心の根底が、自らに絶望して崩れ去るような根本治癒の仕組みが促されるのです。その時も本人には何が起きているか分からないまま、大きな絶望の感情に包まれます。これが「自己操縦心性の崩壊」という治癒現象です。

 そうした感情悪化に際しては、「ただ実存を守れ」という言葉を銘として提示しています。もはや自分の身体を自分とは別ものに見立て、ただそれを守ることだけをせよと。実際、こうした瞬間にはもうそれだけしか頭が働かなくなってしまいます。

 人が深い絶望におおわれた時、それが病んだ心の治癒なのかどうかは、その時知ることはできません。ただ言えるのは、そうした絶望の先に、「心の再生」という最も神秘的な人間の心の変化があるということです。

 

 それに自分の未来を賭けてみないか。それがハイブリッド心理学が伝える言葉です。何がどうなるかを言うことはできない。ただ「未知への選択」だけが、そこにあります。

 「自分の心はそんな再生などあり得ないほど深く損なわれてしまったのだ。もうあり得るのは死だけだ」崩れ去ろうとする病んだ心が、まさにそう囁くでしょう。逆に「これで良くなれるのでは」という期待が残るのは、病んだ心がまだ維持される状態かも知れません。自分が完全に救われ得ないという絶望を経た時こそ、救われるのです。パラドックスです。絶望が深ければ深いほど、再生による変化も大きなものになり得るのです。

 

自殺を決意した中でメール相談を始めたC子さんの事例

 

 「C子さん」は、私が最も長くメール相談の対応を続けてきた、そして最も深刻な心の状態から始まった方の一人です。2004年からメール相談を始めた、20代後半女性です。

 「怒り」と「絶望」が、彼女のアイデンティティとも言えるものでした。「なるべき自分」になれない一方で、うまく生きている他人への嫉妬への苦しみに、彼女の心は自己破壊へと追いやられていました。

 

 彼女が私に相談のメールを最初によこした時、彼女は半ばすでに自殺を決意した状態でした。

 自殺への意図を告げられた時、私は特に何も反応しないことを基本としています。「心の選択肢」を示すことだけを行い、「選択」は本人に委ねるのが、ハイブリッド心理学の基本的なスタンスだからです。そして、絶望の先に未知があることだけを語ります。

 C子さんとの長いメール相談のやりとりも、その形で始まりました。最初の頃のやり取りから、幾つか抜粋しましょう。

 

== C子さんから 20042 ==

島野さんがサイトで書いていた「人生への嫉妬」という感情です。この嫉妬にはどう対処していいのかわかりません。抑えるほど爆発力が増大するので。急に自己嫌悪感情が湧き出し、自分の頭を叫びながら殴り続けることがありました。私は怒りをコントロールするために薬をもらいました。平日は毎日のようにもうビルから飛び降りようかなど考えます。

 

わたしは30位でなんとか理想通りになれなかったら、ダメだと思っています。

これ以降に長引くような長治療では、意味がないと考えているので、生きる意志はありません。「意味がない」というのは、自分の理想が実現できないなら、とうことです。

このような考えが病を呼ぶのは分かりきっていますが、捨てられないのです。それを捨ててまで生きていたいとか思えないのです。

若くて自分より経験をもっている女性に嫉妬しながら生きるなんて本当に勘弁したいので。私が誰かのエキストラになるぐらいなら死んだほうがましです。

 

「自分が本当はどんな感情を持っているのか知りたい」と思うときもありましたが、もうどうでもよくなっています。自分が望んでいる姿は絶対に手に入らないと感じるほど他人への嫉妬が抑えられないほど激しくなります。

自己イメージと実際の自分が違うなら実際の自分をつぶすまでです。

私の世界観がゆがんでいるというのなら私が消えます。

 

== 島野から ==

>わたしは30位でなんとか理想通りになれなかったら、ダメだと思っています。

僕は、なれませんでした。今も理想通りにはなれていません。でも、生きていることが楽しいし、嬉しいと今は感じています。

今お伝えできるのは、どんな風にして、こうなったのかという事実だけです。

>このような考えが病を呼ぶのは分かりきっていますが、捨てられないのです。

>それを捨ててまで生きていたいとか思えないのです。

僕もまさにそう感じました。自殺を決意しました。思考はそこでストップしました。

自殺の決行が伸ばされている時にある偶然が僕をこの世界につなぎとめました。そんなことが何度かあった後、僕は生きていることを苦しんでいない自分に気づきました。

 

つまり考えたこと、感じたことは全くC子さんと同じだったのです。そして、それが通らなければならない通過点であったことを、後で知ったわけです。全てそれで良かったのです。ただ、命をこの世界につなぎとめておく、それは僕自身の意志でそうしたわけではなかったけど、それがあまりに大きな世界を分け隔てていたのです。

僕は偶然にこの道にたどり着いたので、どのように人を導いたらいいのか、分かりません。自分で真実と今感じていることを書き続けたいと思います。もちろん僕よりももっと適切にこうしたことを説明してくれる方もおられると思うし、僕とは違う道の開き方の考え方もあるでしょう。

答えはただ生きることだけの中にあると信じています。

 

>このような考えが病を呼ぶのは分かりきっていますが

これは逆です。心の病が、このような考えを生み出しています。

「それを捨ててまで生きていたいとか思えないのです」という感情は、この病が自らに絶望し、心を去る時に、必ず生み出す感情であり、通過点です。

 

絶望からの最初の脱出

 

 こうした言葉で簡単に心の向きが変わるほど、根深い否定感情は生易しいものではありません。何度かメールのやり取りをしましたが、C子さんの中で自殺念慮は止まらず、やがて「明日自殺する」という「通知」が届きます。

 私はそれについて何も言いません。ただ、考える余地のある事柄が山のようにある事実だけを、伝えます。

 

== C子さんから 20043 ==

あれから相変わらず私は生きています。しばらくメールを書きませんでしたが、ひどい絶望感があった後、比較的前向きな気持ちが沸いてきました。

しかし、再び闇に飲まれそうです。やはり私にとって、どうしても捨てられないとしか言えないものがあります。一度は捨ててあきらめたかに見えたのですが、やはりどうしてもそれなしでは人生を楽しむことができません。

 

苦しいことを耐えて、手に入れるものが理想でないなら、なんで努力することに耐えられることか。

もうなにも努力したくない。どうでもいい。人生ってなんてくだらない...

 

明日自殺しようと思います。何度もメールでご支援くださったのにこんな結果になってしまいすみませんでした。

この世で生きていく限り私だけでなく、多かれ少なかれみな持っている理想です。生きている限り、逃れえないものなのです。いつもそんな傷口をつつかれながら生きるなんてまっぴらごめんです。

そんな気持ちを味わうぐらいなら死んだほうがましなのです。ごめんなさい。

 

== 島野から ==

最初に、心理学とは離れてふと感じたことなのですが、僕はC子さんの実際の容姿や仕事振りや生活とかを知りません。だから、それほど、自分が理想から遠いように感じておられるのが果たしてどれだけ現実的なのか、分からないわけです。

 

世の中には、同じ言葉を口にして自殺された、才能や容姿に恵まれた人々が沢山いました。自分がどれだけ自分が理想との距離があると感じるかは、外側で与えられたものではなく、内面の視野によって変わるわけです。

もちろん、この視野が理性によって簡単に修正できるようなものではないことも分かっています。一方で、心の変化というものが、完全な存在ではない人間として、与えられたものを最大限に生かし、幸福を感じ取れる状態にまで至ることが可能であることも分かっています。

まあ、脳そのものが変わるようなと言えるほどの変化ですね。もちろん1日や1週間で完了する話ではありませんが。

 

 それから私は、私たちが「素の思考」で考えがちなこととは全く異なる、さまざまなハイブリッド心理学の視点を説明するやり取りをしました。この本で表現している最新説明に比べれば、整理もまだあまりできていない内容でしたが、とにかく「今まで考えもしなかったさまざまな話がある」ということを彼女に実感させたことに、意味があったと思っています。

 主な内容としては、心の治癒と成長とは未知への変化であり、結局のところ今どう考えることができるかではないのだ、ということ。そしてもう一つ大きなテーマとして、彼女がその中でもがいている「屈辱」とは「現実」ではなく「幻想」にすぎないということ。例えばこんな表現を私はしました。

 

== 島野から ==

心の障害は怒りと恐怖と憎悪のストレスの蓄積であり、まず基本的に、怒りが無駄な感情であることを知り、憎しみを捨てるという選択が見えるようになる必要がある。

ところが、頭では分っても、体が憎悪に向かう。なぜならば、屈辱の強度が上述の選択の可能性を上回っているからです。

これを何度も見ました。そして、これをどうにかできないものか、と考え、その人が置かれた屈辱の強度を思う時、これはもう手がでないメカニズムなのか・・、と多少無力感を感じたこともありました。

だがそうではないことがはっきりと見えてきました。強度の問題ではない。屈辱が真実であると感じているから、そうなるのです。「屈辱の真実」とは、「屈辱は真実ではない」。これが真実です。

 

自分がある異性から好かれている。そんなナルシズムが幻想に過ぎないと疑うことは、人は比較的容易にできます。

でも自分が軽蔑されたという屈辱が幻想であることを、人はほとんど思い至ることができません。でもそれも幻想なのです。実のところ、「軽蔑する」という行為自体が幻想の中で行われる営みであり、屈辱が真実に感じられやすいのは、向き合う2者の間でこの幻想が重なりやすいのですね。

 

 この説明はまだ十分なものではありません。そしてこの「軽蔑」と「屈辱」という、私たちが良く知りごく単純な感情のように感じているものの裏に、「愛」と「自尊心」が連綿とした人間の心の成り立ちと、病んだ心から健康な心への分岐点を知るための鍵があるのです。この結論は『理論編』を通して説明します。

 

 どこまで納得できたかは何とも言えませんが、C子さんの心に、「もう少し生きてみようか」という気持ちが回復したのでしょう。やり取りが途絶えてからしばらくして、C子さんから心境の変化を伝えるメールが届きました。

 

== C子さんから 20049 ==

お久しぶりです、C子です。長い間、メールを出しませんでしたね。

私としては、最後のメールからまだ3ヶ月程度しか経っていないほうが驚きという感じです。

 

あれから、私の状態は良くなってきました。連れに対する暴力も、めっきりなくなりました。

まだまだ感情的にイラつくことはあっても、その怒りが、確実に自分自身を傷つけ、損傷するということがわかるようになりました。そして、なるべく怒りを捨てたいと考えられるようになり、怒りに飲み込まれることも減った感じです。

以前より、ものの見方も、もう少し広がったように感じます。今までは苦しくなると、何もかもすっとばして「死ぬ」に直結していましたが、今はもう少し余裕をもって周りを見渡すようになってこれたかなと思います。

 

自分が、自分としていてもいいのだ、そんなに悪びれたり恐れる必要はない、と思えるようにもなってきました。

「私は私という人間であって、それ以外の何者でもない。私が私として存在してどこが悪い」うまくいえませんが、そんな感じの自信も、ついてきたかなあと思います。これは島野さんのハイブリッド心理学あってのものだと思います。ありがとうございます。

とりあえずご報告したくてメールしました。

 

 通常の心理カウンセリングにおいては、これで一件落着とされるかも知れません。

 しかしこれはほんの最初の一歩にすぎません。否、まだ始まってさえいないとも言えます。ハイブリッド心理学が目指すのは、この現実世界を生きる中での、揺ぎない自己の人生の獲得だからです。

 事実C子さんの場合も、やがて自分の心に起きた変化がそうやすやすと現実を変えてくれるものではなく、自分が同じ悩みに煩わされ続ける存在であることへの怒りと憎しみが、再び荒れ狂う時がやってきます。

 なぜそうなってしまうかと言うと、彼女はまだ自分の心にじっと見入る姿勢の中にしかいないからです。その範囲で、ちょっと前向きな感情が現れると何か全てが解決するかのような気分がしてしまう。「気持ちが大切」と考え、「気持ち」が良くなれば現実問題も解決するかのように考える、基本的な心の罠の影響がやはりあります。

 重要なのは、「気持ち」に左右されることなく、現実世界を建設的に生きる方向性をしっかりと、かつ具体的に体得することです。そのための取り組みは、まさにこれから始まります。

 

 それでも、そうした具体的な取り組みを超えて、私たちが常に、最後の根底で保ち続けるべき重要な2つの選択を、この章で説明しました。

 「自己の受容」「未知への選択」です。「なるべき自分」という、外から眺めた姿を規準にして自分の良し悪しを考えるのではなく、「なるべき自分」を抱く前の、「主体」としての自己の存在を感じ取ることです。

 「主体」としての自己は、常に「未知」へと変化する存在としてあります。それを見失い、「なるべき自分」という「既知」のイメージから自分を見始めた時、成長を止められた私たちの心は「絶望」に追いやられることになります。「未知」を選択した時、「絶望」は「再生」への通過点にすぎません。

 

 「絶望」とは、問題の深さを示すものではなく、「未知」という解決の「無知」を示すものにすぎないのです。

 

inserted by FC2 system