心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

 

2部 ハイブリッド心理学の本格的実践・前編

 

 

 「2部 心の治癒と成長への本格的実践」では、まず4章にて、ハイブリッド心理学の「取り組み実践」の全体をまとめて説明します。実践の項目、およびその大まかな道順が出てきます。

 以降、その流れに沿って、実際の実践内容を事例を通して説明していきます。

 ここでは、『理論編』で解説したような心のメカニズムへの深い知識はまだあまり必要ではない段階までを説明します。

 

 事例として、大きく2つの流れを紹介します。

 一つは、比較的深刻な心の障害傾向からこの取り組みをスタートして、最初の大きな治癒兆候が現れるまでの段階で、生きることへの基本姿勢が主に取り組み内容になります。

 もう一つは、心の障害傾向としては軽いケースで、「A子さん」の引き続きの事例紹介です。ここでは、「価値観と行動学」という、人生への知恵とノウハウの領域が中心になります。その先に、「否定価値の放棄」という、ハイブリッド心理学のひとまずの習得目標にまで至る様子を紹介していきます。


 

 

 


4章 ハイブリッド心理学の実践と道のり概要

−全てが「自己の重心」から−

 

この章のまとめ

この章では、ハイブリッド心理学の取り組み実践の、全体の総まとめを説明します。具体的な話だけ引き続き読みたい場合は、この章は飛ばして構いません。実際に実践していく場面で、自分の進み方を把握し検討したい場合に、この章を参考にして下さい。

また「自己の重心」についても、この章で少し詳しく説明します。この後のハイブリッド心理学の全ての実践が、「自己の重心」を基本指針にしたものであることを理解して下さい。

■理解項目■

ハイブリッド心理学の実践メニュー

大きく「意識土台への取り組み」「内面感情への取り組み」「外面の思考と行動への取り組み」で構成。

ハイブリッド心理学の実践道のり ・・・ 大きく次の3局面で構成される。

 「前期」・・・ 「自己の重心」を前進指針、「魂感性土台の体験」を完了の節目とする。

「中期」・・・ 「価値の生み出し」を前進指針、「否定価値の放棄」を完了の節目とする。

「後期」・・・ 「魂の望みへの歩み」を前進指針、「命の感性の獲得」を節目とし生涯歩む過程となる。

■実践項目■

「自己の重心」・・・ 上記のようなハイブリッド心理学の道のりを歩むための、前進のための基本指針として全ての始まりとなる。「自己の重心」とは、「自己中心」「自分本位」のことではなく、「人が」「誰が」と他人のことばかりに関心が移っていた「重み」を、「では自分では?」と自分の心の中心に戻すこと。

「心の医学思考」・・・ 「心が良くなる」について、「今の心」で考えるのではなく、心理メカニズムの視点で考える、自分の心への医学的姿勢

 

 

ハイブリッド心理学の全体

 

 この章では、次の章から説明するハイブリッド心理学の本格的実践の全てを、総まとめします。

 もし具体的な実践内容の話をそのまま読み続けたい場合は、この章はいったん飛ばしても構いません。そしてより実際の自分自身での取り組み実践を考える時に、どのような進め方が良いのかを考える参考として、この章を読んで頂くのがいいでしょう。

 そのような総まとめとして、ハイブリッド心理学の本格的実践の内容のメニューと、それをどのように進めるのかという手順と道のりについて、この章で説明します。

 

 また、それらの実践を前に進めるための「前進指針」についても、この章で全体の概要を説明します。「実践」が車の車輪だとすれば、それが前に進むとはどういうことかです。地面や風景はどう変化して見えるのか。

 「自己の重心」が、ハイブリッド心理学の全ての実践にわたる前進指針です。『入門編』で説明したように、心を病み人生を見失うメカニズムは、「自己の重心の喪失」という一貫した特徴の中で起きます。それを逆に戻す「自己の重心の選択」が、病んだ心からの治癒と成長への一貫した前進指針になります。

 そのように前進指針として最も基本となる「自己の重心」について、そしてそれが心をどのように成長変化させるかについて、基本的な考え方をこの章で説明します。

 

心の障害の深刻さによるアプローチの違い

 

 ではまずハイブリッド心理学の実践項目と道のりの概要から説明しましょう。

 

 「1部 心の治癒と成長への第一歩」で説明した通り、心の障害がどのように深刻に関係するかによって、実際にどう進むことができるのかは全く異なってきてしまうのが実情です。「感情と行動の分離」という最初の実践は同じままであってもです。

 

 なぜそうなるのか、明白な理由があります。

 それはこういうことです。揺れ動く感情を克服したいのだから、まずは感情を鵜呑みにしないことである。いったん内面の感情と、外面向けの思考と行動を分けて、別々に取り組む。

 そうなのですが、心の障害が深刻になるほどに、あまりにも感情に巻き込まれる度合いが強くなり、内面の「空想」と外面の「現実」の区別ができなくなってしまうのです。事実、心の障害が深刻に関係するほど、問題は単に「感情の揺れ動き」だけではなく、「思考の障害」さらには「意識の障害」とも言える様相を示すようになってしまいます。

 ですから、この先の心の治癒と成長への本格的な取り組みとしては、心の障害が深刻に関係するほど、外面向けの思考と行動の改善向上の前に立ちはだかる課題として、意識の土台からの改善向上への取り組みが必要になってきます。

 

ハイブリッド心理学の本格実践メニュー

 

 そのような状況を考慮した上で、ハイブリッド心理学の本格的実践項目のメニューを説明しましょう。

次のページの一覧表にまとめました。

 実践項目がこのように沢山になってしまうのは、今言ったような状況、つまり心の障害が深刻に関係してくるほど、内面感情への特別な取り組みや、意識の土台からの改善向上への取り組みが加わってくるからです。

 一方、心の障害があまり関係しないほどに、外面向けの思考法行動法の改善がすぐ役立つでしょう。その部分だけ取り上げて、誰にでも役立つ、この社会と人生を生きるためのノウハウとして活用して頂くことも可能です。

 

 どのように進めるのが良いのかは、実際のところ千差万別です。

 基本的には、まずは「1部 心の治癒と成長への第一歩」のような歩みだしを踏まえて、内面の問題が見えているのであればそれへの取り組みから、そうでなければ外面の思考法行動法へのより本格的な取り組みを検討してみるのがいいでしょう。その過程で、建設的で前向きな思考と行動が妨げられているものを感じた時、それを糸口にして内面向けの取り組みをする、という形になります。

 その実際について、この「2部 ハイブリッド心理学の本格的実践・前編」、および『下巻』を通して、さまざまな実例を交えて説明します。

 

 

 

ハイブリッド心理学の本格的実践項目のメニュー

 

 

 

 心の治癒と成長の道のり


 

2つの節目と3つの局面

 

 これらの取り組み実践は、一通りこなせば完了というものではなく、人生を通して何度でも繰り返す、「スパイラル」的なものになります。つまり「螺旋階段状」です。実践の繰り返しを続ける中で、徐々に心の根底の改善向上が始まっていきます。

 

 この本で説明するその内容は、決して1か月や2か月で習得するようなものではありません。まず1か月か2か月かけてじっくり読み、ハイブリッド心理学が目指す世界をまず心に入れ、まずは数年、さらには人生の全体を通して、それぞれの人生で実践して確かめて下さい。

 

 そのような長い心の治癒と成長の道のりについて、大きな2つの節目を目安にして、おおよそ3つの局面が生み出されるであろうと、ハイブリッド心理学では考えています。

 これを絵にしたのが実践メニュー表の次のページの図です。これがハイブリッド心理学の実践の道のりの絵になります。いわば、この新しいハイブリッド・カーの運転方法が先の実践メニュー表だとすれば、それに乗ってどこに向うかの地図が、この道のり図です。

 

「前期」の過程

 

 1つ目の節目は、主に深刻な心の障害傾向から取り組みをスタートしたケースにおいて、治癒がかなり進んだことを示す兆候として現れる、「魂感性土台の体験」という節目です。今まで心の障害の中で動揺してきた心とは全く異なる、開放感と安定感に満ちた、脳の構造が全く異なるかと思えるような心の状態が出現するのです。もちろんこれが「健康な心」への大きな入り口となり足がかりとなるものです。

 同時にこの段階で、深刻な心の障害傾向はかなり収まり、外見的にはごく普通の様子で生活を送れるような、かなりの安定も得られてきます。一般の心理医療の場では、もう「完全に治癒」と言われるような変化になるでしょう。しかしハイブリッド心理学の本格的な歩みは、むしろここからになります。

 ここまでの期間を、ハイブリッド心理学では「前期」と呼んでいます。主に、心の障害傾向がかなり関係しているケ−スにおいて、それなりの取り組み期間が必要になってきます。

 

 心の障害があまり関係していないケースでは、この「前期」過程は、「取り組み期間」としては特に必要になるものではなく、すぐに次の「中期」段階から始めることも可能です。

 ただし、取り組み実践として行うことは、「前期」から「中期」へと、そしてさらにその後の「後期」に至っても、基本的には同じです。違ってくるのは、進む場所、つまり心の成長の到達先が違ってきます。そして「中期」からは、取り組み実践としては同じ内容のまま、進む場所をどう見極めていくかの方に、新しい話が加わってきます。

 

 ですから、心の障害があまり関係していない方の場合も、「前期」というのが期間として実際に必要になるかどうかは別として、取り組み実践、つまりこの新しいハイブリッド・カーの運転技術については、この本で「前期」段階として説明している内容を学んで下さい。それがこの「2部 心の治癒と成長への本格的実践」で説明するものになります。

 

 また、心の障害が関係しているかどうかに関わらず、この先の「中期」「後期」の道のりについても、まず一通り読んでイメージを心に入れておくことをお勧めします。

 それによって、「治癒成長できた自分」という結果だけを自分にあてはめようとする思考の轍が多少生まれることは、多少とも避けられないものとして留意が必要ですが、はっきりと目指すことのできる心の治癒と成長の答えがあることを知ることが、はるかに大きな意義を持っています。それがこの道を歩むことへの、勇気と動機を与えてくれるでしょう。

 

「中期」と「後期」の過程

 

 「魂感性土台の体験」を目安とする「中期」の段階から、いよいよ、この新しいハイブリッド・カーの運転技術を携えて、どこに向うのかの話になってきます。

 目指すべき最大の道標として、次の節目になるのが、「否定価値の放棄」です。これは、「怒り否定」することに「価値」を感じるという心の土台を、心の根底から捨て去る体験です。

 これは同時に、ハイブリッド心理学の取り組み実践の、まずは目標となるものであり、この達成が、ハイブリッド心理学のひとまずの習得完了になります。

 この「否定価値の放棄」体験を通り過ぎることで、心の状態が一変します。それまでの過程においても徐々に減少してきた悪感情が、ここで劇的に、これまでの比ではないレベルで減少し、心が開放されます。さまざまな悪感情の根源となってきた「否定価値感覚」が心の根底から取り去られるからです。

 

 それは同時に、今まで「あるべき姿」によって縛られていた心が、解き放たれ始めるということです。それが、全く未知なる自己への成長へと向う新しい人生の始まりとなるでしょう。こうして始まる新しい局面を、「後期」と呼んでいます。

 そこから先を導くのは、それぞれの人生そのものです。その先に、「唯一無二の人生」への歩みが、生涯終わることなく続くことになります。

 この心の成長の歩みに「完成」は恐らくないと思われますが、それでも、人間の心の成長の一つの完成形とも言えるものが、この段階で視野に入ってきます。それは「揺らぐことのない自尊心に支えられ、愛によって心を満たされ、何も恐れるもののない心」とでも言えるものです。

 それを生み出す節目として、「魂感性土台の体験」と「否定価値の放棄」という2つの大きな節目に続いての、「命の感性の獲得」という節目がありそうであることを、ハイブリッド心理学では見出しています。ただしこれはもう「後期」をさらに別の局面に分けるものではありません。

 

 このような「中期」から「後期」への道のりについて説明するのが、『実践編下巻 −終わりなき成長への道−』です。

 

全ては「自己の重心」「自らの望み」から始まる

 

 このような全体からなるハイブリッド心理学は、たしかにかなり複雑で難しい心理学かも知れません。

 しかし実際にこの心理学において行うことは、実にシンプルなのです。

 それは「自己の重心」です。「人が」「人が」と、自分から離れて他人へと向っていた自己の重心を、自分自身へと取り戻すことです。人にこんなことを言われた。では自分ではどう考えるのですか? 人にこう感じられてしまう。では自分では本当に自分をどう感じているのですか? 人はこうしている。では自分ではどうしたいのですか? そして、自らの人生で何を望むのですか?

 全てがそこから始まります。全てが、そのためのツールに過ぎないのです。

 

 そのことを先のページの実践メニュー表道のり図にも書いています。「前期」「中期」そして「後期」で、結局のところこの取り組み実践とは何を行うものであるのかの、基本方針をそれぞれ記しておきました。

 全ての始まりが、「前期」からの「自己の重心」です。これが全てにおいて基本指針となる姿勢です。

 それによって、「自らの望み」が何であるのかを、探究することです。『入門編下巻』で説明したように、心の成長は「望み」に向かって歩むことにあります。

 「心が病む」とは、これが妨げられた姿です。自己の重心を失い、重心が自己を離れ他人へと向かい、自ら望むことができなくなり、「人の目」を通して望む中で、自分と、自らの人生を見失っていきます。これを逆に戻す歩みが、ここから始まるものになるのです。

 まずこれをしっかりと問い、これから始まる本格的な歩みへの準備を整えます。

 

「自己の重心」から始まる心の成長変化と「心の医学思考」

 

 ここで「自己の重心」についてもう少し詳しい説明をしておきましょう。

 

 「自己の重心」とは、「自分の思考と感情」が湧き出る源泉の中心点が、自分と他人の間のどこに感じ取られるかという、少し抽象的な話です。

 「自分の思考と感情」なのですから、自分自身の心の中心から湧き出ると感じ取られ、「自分自身がこう感じ考えた」と感じ取られるのが健康な姿です。

 それが心を病む姿においては、「自分の思考と感情」が自分自身から湧き出るのではなく、まるで「他人のせいでこう感じたこう考えた」という風に、他人に重心をおいて思考や感情が動くようになってしまいます。

 その結果、自らがこの人生において何を望むかという、心の成長への原点が見失われ、「人の目がどうか」ばかりに揺れ動く生き方になってしまう。

 それを、「では自分では?」どう考え、どう感じ、何を望むのかという、思考や感情の重みのを自らの心の中心に戻す「自己の重心の選択」によって、心の健康と成長への前進が始まるようになります。

 

 同時に、それが今まで自分の心にじっと見入り、それが目に見える形で良くなることを期待していたのとは根本的に異なる、どんな取り組み実践によって心の根底がどう変化するのかという、「心の医学」の姿勢を持つことが、極めて大切です。

 このことについて、ごく最近メール相談を始めた方に説明したものがありますので、多少長めですが紹介しましょう。「S子」さんとしておきます。詳しい内容は省略しますが、一度「自己の重心」の思考法によって怒りが減少します。しかしその後に「自己の重心」を意識しても、今度はそうならないとのこと。

 私は「自己の重心」についての正しい理解から話を始め、「心の医学思考」までを説明しました。

 

== 島野から 2008.4.17(木)==

■「自己の重心」を思考のみでなく「感情」「感性」においても把握する

 

>このように現状で、自己の重心として考えると、心で文句ばかりを言うような感じになります。もっと言えば、単なるわがまま感情しか出てこなくて・・。

この辺が最初の前進へのいい突破口になりそうですね^^

それは「自己の重心」についてちょっとと言うか大きく勘違いで、それは全く逆の「自己の重心喪失」型になったものなんですね。

 

「自己の重心」とは、「自己中心」ではありません^^; また「自分本位」「自分都合」に考えるということでもなく、「重心」、重みの中心、つまりいわばコンパスの支点が自分に置かれているか他人に置かれていかという、ちょっと抽象的な話です。

まあ「論理構造」の話、というような、多少難解な話でもある。

でそれは「思考」だけではなく「感情」「感性」においても出てくる話として、人間の心の状態を全く変えてしまうものなのですね。

 

分かりやすい捉え方としては、まず「起点」というのを考えるといいでしょう。

S子さんの場合も、人に給料の額を聞かれて「良く分からないけど不快なことを言う人」という怒りを感じた件について、「自己の重心」を意識して2通りの思考をしてみたわけです。

 

a)

>人に給与の額を聞くなら、自分も言ってよ。他人にボーナスの額を聞いておいて、そのときも自分は言ってなかったよ。

>まだ、ここの会社入って、12ヶ月だし、どういう仕事をするのかをみてもらうしかないかな。でも、人のがんばりが見える人、見えない人はいるし、見えない場合はしょうがない。その人が査定するわけじゃないし。

 

そしてこの時は、ご自分でも「あれっ?」と思うように、怒りが消えていた。

>文体がものすごく昨日と違い、やわらかくなったような。怒りを感じていたはずなのに、体裁のいい言葉に変わってしまった・・?

と。一方、今回は次のように「単なるわがまま感情」になってきてしまう。

 

b)

>その給与のお話をした人ですが、今でもなるべく関わりたくないうちの1人なんです。顔を見ると、必ず、この話をまず最初に思い出します。

 

この2つは多少分かりにくい例になりますが、前者は思考や感情の「起点」がS子さん自身の心の中心から発したものになっています。

後者は相手の人物です。その人のの顔が起点。

 

別の捉え方を言うと、「自己の重心」があると、他人が多少「匿名化」します相手が誰かを問わず、自分としてそう感じ考えるという、一貫性が出てきます。

 

「自己の重心喪失」型だと、相手が誰かという「相手人物」によって、思考や感情がまったく違ってしまう。

「自分として」が消え、「誰が」「人が」ばかりになる。だから結局、とても依存的で、子供じみて幼稚、結局「自己中心」「自分本位」「自分都合」な姿になっていきます。

 

■「心を病んでいる」程度とは「自己の重心喪失」の程度

 

心の健康や成長は、もちろん「自己の重心」がある方にあるわけです。「自己の重心喪失」が進むと、自分というものがなくなり、何かによって操られ、回りに対して極端な揺れ動きをする、おそらく想像可能な最終像へと向います。

 

>それから、私はどのくらいのレベルで病んでいるのでしょう。

これを、自分で考えられるようになることが大切です。「心を病む」とは病気ではなく、医者に診断され薬を飲めば済むというものでもないですから。

まず自分で自分の心を病ませない知恵が重要になります。

その根本が、「自己の重心」です。自分が「どう病んでいるか」を、まず「人にどう見られるか」という問題ではない、自分で自分を理解する問題として認識するよう方向修正するのがいいですね。

 

で僕から見るに、S子さんは実際にそうであるより病んでいると思います。つまり心の障害の程度としては、実はあまり深刻でないように、僕には今のところ見えています。

しかし、その上で、S子さんの意識思考が積極的に病んだ世界を目指しして一生懸命病もうとしている。そんな印象です。まるで犬が飼い主と別の方向に行こうとリードを引っ張っているみたいに。

 

十分健康な心の下地があるのに、その上の表面の心は、病む方向に行こうとしている。そんな感じ。

だからちょっと思考法を変えてみると、すぐ健康な感情が現れたりする。でa)のような言葉が出た。本当に深刻な心の障害ケースでは、まずそうはならないんですね。

 

■「感情依存」から「心の医学思考」へ

 

でそんな感じになる最大の原因は、S子さんが「目に見える」形で自分の心を良くしようとする姿勢の虜になっているからだと思います。

それをすると、てきめんに逆に心が悪い方向に向う傾向がかなりあります。

 

なぜなら、それは「今の心で考える」ことの徹底なんですね。心を今の心よりも格段に良いものへと変えたいのですが、もしそうなったとしたら、変化した心を今の心が知ることはあり得ないんですね。今の心で何をどう想像しても、それは今の心において映されるものでしかないからです。

 

ですから、「心が良くなる」ことについて、今の心で自分の心の良し悪しを感じる「感情依存」で考えてしまっては、絶対にアカンわけです。

 

その代わりに、「心の医学思考」で行く必要があります。気分や感情で捉えるのではなく、何か客観的な、医学的な目星で考える姿勢

 

その第一歩が、「自己の重心」なんですね。

そして同時に、「自らの望み」です。

つまり、「誰が」「人が」を起点に思考が始まり、「誰が」「人が」どうあって欲しいというものから、相手人物よりもまず自分の心の中心から発するものに耳をすませ、自分が何を望むのかに着目する。

 

その先に、原理原則やら感情分析やら価値観やらの、コロコロと変わる視点が沢山出てきます。

 

■見えないものに働きかける姿勢を

 

でそれでもって、自分の心を良くするためには、自分の今の心で見える自分の心をどうこうしようとするのではなく、その根底にあって見えないものに対して、何かの働きかけをするという姿勢を基本にする必要があります。

 

自分の今の心で見える自分の心をどうこうしようとしても、それは結局今の心の中で心を回すだけの話です。心を根底で生み出している見えないものに働きかけることによって、心が根底から変化し、今の心では分かりようもない別の心へと、変化していくわけです。

 

昨日「休息や睡眠の中で治癒が起きるというイメージは良い」と言った話もその一つです。目に見える今の自分の心をどう練り回すというよりも、脳をどう改善するかという基本姿勢が重要です。

 

思考法の改善もそうです。それがどう気分を楽にするかという短視眼思考ではなく、根底で何が変わるかという、見えないものを見る姿勢が重要です。

 

その結果、実際心が根本的に改善治癒向上する時は、自分でも理解できない形で起きます。この実例はこの後の「D男さん」そして「C子さん」のその後の話で実情が分かるでしょう。

 

■心の治癒成長は算数ドリルよりは芸術技能向上

 

「一つ一つ理解して」もイメージ違いです。心の治癒成長は、算数や英語のドリルのように、一つ一つ理解して、一度こなしたらokというものとは根本的に違う世界のものです。

スポーツや芸術の世界のように、何度でも同じことを繰り返す中に、スパイラル的に根底能力の向上が進んでいく。そんな感じになります。

 

例えとして分かりやすいものを言うと、ぴったりと硬くしまった深い蓋を開けるのに似た進み方です。

一箇所を持って力づくで開けようとしても、決して開きません。四方八方から少しづつずらしていくと、ある時、突然開きます。

 

心の治癒成長はかなりそれに近い過程の様相を示します。いろんな視点からアプローチしていく中で、その中心には見えないものがある。何度もそれを繰り返しているうちに、スパイラル的に見えない根底に近づいていくわけです。

そしてある時に、全てが同時に変化する節目が訪れます。取り組みは四方八方から少しづつなのですが、実際の治癒が起きる時は、一気に全てが同時に起きます。ですから治癒の過程というのは、最初に蓋をずらすことに成功した時と、最後に一気に蓋が開くときが、クライマックス的な姿に大抵なります。途中はやや中だるみ的^^;

 

まあそんな感じで、まずは今までの「心を良くしたい」絡みの発想を全て捨てて、何から考えていけばいいか「心の医学思考」に切り替えることから始めてもらうといいと思いますね。

まずは「自己の重心」のあり方を、日常生活もしくはこれまでのメール内容でもいいですので、ちょっと考えてみるなどしてみると良いかと。

 

「魂感性土台の体験」という節目

 

 こうして「自己の重心」を最も基本的な前進指針として、「感情と行動の分離」に始まる、さまざまなハイブリッド心理学の実践を進め、やがて「魂感性土台の体験」が訪れること、もしくは、「魂感性」と「人の目感性」の違いが実感として分かることが、より本格的な心の治癒と成長への歩みへのの準備が整ったことの目安になります。

 これによって、自分の心の中にまるで脳の構造が違うのではないかと思えるほどの、意識の動き方の異なる領域があることを足がかりにして、人間性の根底からまるで別の人間のように成長変化する、ハイブリッド心理学の本格的な歩みが始まるのです。

 ここまでが「前期」の段階になります。

 

「心の自立」「価値の生み出し」という本格的前進

 

 「中期」は、「自己の重心」という基本姿勢から、いよいよ特定の方向へと新たなる人生の歩みをはっきりと踏み出す段階になります。

 

 方向性への最大の前進指針として、「心の自立」という命題が出てきます。

 「自立」とは、全ての命あるものに定めたれた根底摂理です。それが全ての生きるものの心のDNAに定められた摂理であり、それに反して生きることの中には、愛や自尊心の成長はあまりありません。

 そして人間の心の問題は、出生の来歴において「魂」が愛を願いながらそれが叶えられなかった挫折の中で、この「心の自立」が置き去りにされたという大きな背景が、ハイブリッド心理学の考える取り組み課題になります。

 「心の自立」とは、経済的な自立や自活のことではありません。まず内面において、自分の感情は自分で受けとめることができることを指します。心の成長と成熟の全てが、それを前提にして、心の自然治癒力と自然成長力として発現されるのです。

 

 「心の自立」を外面において支えるものとして、「価値の生み出し」が大きな指針となります。

 「価値の生み出し」とは、この現実世界において、生み出される「価値」とは何かを知り、「価値」を「人物」からは切り離して捉える姿勢であり、それによって自らも「価値」を生み出していくという行動のことを呼んでいます。

 この「価値」を「人物」からは切り離して捉える姿勢を、「匿名性思考」と呼んでいます。

 心を病む中で、「人が」「誰が」と他人にばかり向かっていた意識を解除し、「人の目」によって揺れ動いていた思考と感情を克服し、「人の目」に依存しない揺らぎない愛と自尊心を確立するために、これが極めて強力なツールの役割を果たしてくれます。

 

 「匿名性思考」による「価値の生み出し」は、この局面の準備として実感として分かるようになっている「魂の感性」と、とても良く馴染む性質があります。「人物」を問わない「価値の生み出し」と、自他未分離意識の中で「この感情において生きる」という深い感情が流れる「魂の感性」が手を組むことで、「人の目」には全く揺らぐことのない、この世界を生きる自分の方向性が獲得されてくるのです。

 自分が進むことのできる、揺らぎない方向性を獲得することは、もはや何によっても「傷つけられ」ようもない、確固とした自尊心の源になってきます。

 そして確固とした自尊心に支えられ、人生を通してその中で惑っていた、「愛される」という受身の愛情要求とは全く異なる、自らが人と社会を「愛していく」という、より積極的な姿で満たされた心への芽を、本人がまだ自覚することなく準備し始めます。

 

 ハイブリッド心理学の最大の道標である「否定価値の放棄」が問えるようになるのは、その段階です。

 これはとても深い人生における問いとして心の中で検討され、やがて「あるべき姿」に満たないものを怒るということが、「自分が神になろうとする」不実と傲慢だという、心底における深い自覚と共に、この不完全な現実と人間の存在の全てを受け入れる心の扉を開くことにつながるでしょう。

 

 これが、ハイブリッド心理学の実践習得の、ひとまずの完成になります。

 人間性の根底からの成長変化が、ここで完成するのではありません。むしろ、ここから始まるのです。

 

魂の望みへの歩み・愛と命へ向う

 

 「否定価値の放棄」から始まる、人間性の根底からの真の変化の過程とは、いわばこの新しいハイブリッド・カーの運転技術に加え、実際にこの人生と世界をそれに乗って進む、ドライビング技術の習得を完了した、旅立ちです。おのおのがこの人生と世界へと、好きな場所へと向うのがいいでしょう。

 

 そこでまず始まるのは、今まで「動揺体験」として何とかハイブリッド心理学の助けをかりながら通り過ぎてきたような日々の出来事が、心にどんな治癒と成長が起きているかが自分でもはっきり分かる形で、「治癒成長体験化」するというものです。

 この結果、自分の成長変化が右肩上がりに進むのが分かるようになってきます。当然、対人行動や社会行動の幅が広がってきます。状況が許せば、自分でも驚くような、より大きなことを人生でするための大胆な決断が訪れるかも知れません。

 

 「望み」の感情は、深さを増してきます。人の目にどう見られるかという皮相なものから、自分がこの人生で何をできるのかという、「命」がより身近に、そしてより力強く感じられるものとして。

 やがて「自尊心」も含めて、「魂の感情」が全て「愛」の感情であることが分かってきます。人に優越することで感じる自尊心でさえも、それを見てくれる人がいなければ、意味はほとんどありません。結局、全ての根底に人とのつながりがあり、根底を支配しているのは、「愛」なのです。

 それが分かってきた時、私たちの心に、自分を偽ることなく愛に真正面から向っていくことへの願いと勇気が生まれてくるように感じます。

 

 そうして「愛」に感じるものの深みが増すと、やがてそれは「命」そのものとほとんど同じものであることが分かってきます。

 「命」は「愛」のためにあります。それは「命が望むもの」です。

 「何のために命があるのか」という問いへの答えが、そこに見えてきます。「命」は、「命」のためにあります。「命」が「命」を望むことが、人間の心では「愛」として体験されるのです。

 

人間の心の真実・「命の感性」と「何も恐れるもののない心」へ

 

 ハイブリッド心理学のこの歩みが、「魂と心の分離」という考えに立ち、「心」と「魂」を感じ分けていく実践の上にある時、ここで思いもかけなかったような答えが、そして人間の心の真実が、見えてくるように感じられます。

 私たちの心を真に満たすのは、「魂の望みの感情」です。しかしこれは、「魂と心の分離」において、それは「自分」ではない別の存在が望むということになります。「自分」として感じることができるのはあくまで「心」であり、「魂」は「自分」ではないからです。

 そして「魂」が望むのが「愛」であり、「愛」が「命」そのものになってくる時、実は真の望みの根源は、「魂」をあたかもその伝令とするような形で、「命」そのものにあるのではないか。そんなことを思わせる姿へと、心の成熟が向っていきます。

 

 それが示唆する「人間の心の真実」とは何か。

 「望みに向かい続ける」ことに、心の成長と成熟があるという視野の先に、この歩みがありました。

 しかし最後に見えてくるのは、「望むのは自分ではない」という事実です。望むのは「自分」ではなく、「魂」であり、そしてその大元における「命」です。そしてそれに向うことに心が満たされる時、それは自分ではない別のものの望みによって自分が生かされるということです。

 これは「自分」というもの自体が、一種の「仮りもの」にすぎないという感覚を、最近私に感じさせています。

 ならば、もう「自分の望み」を叶えなければと躍起になる必要もありません。望むのは自分ではないのですから。でも、それによって満たされている。ならばもう何も恐れる必要さえありません。「自分」がどうなったとしても、自分を生かす何かが、永遠に生き続けるからです。

 これを心の底が感じ取る節目を、「命の感性」の獲得と呼んでいます。

 

 ここに、「何も恐れるもののない心」という、人間の心の成長の一つの完成形のようなものが見えてくるように感じます。

 同時に私にはそれが、人間の歴史を通して古くからさまざまに言葉を変えて伝えられてきた何かの真実と、完全に符号するものであるように感じるのです。

 

 では、そこに向っての本格的な取り組み実践へと、歩みだしましょう。

 

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