心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

5章 人生をかけた取り組み−1 −「現実を生きる」ことへの視点−

 

この章のまとめ

■実践項目■

「感情と行動の分離」を支える一連の基本姿勢 (サマリーを文中の表で掲載)

ここではその中で、以下などを取り上げています。

・感情による決めつけの解除 ・・・ 「感情は現実を示すものではない」という基本。

・仕事の場での本格的な「焦りの解除」・・・ 「割り切り」と「最低ラインを決める」

・中庸の目 ・・・ 自分の長所短所の多面を同時に見る姿勢

・「推進力ある自己像の策定」・・・ 自己イメージを「中庸の目」視点から修正するテクニック。

■実例■

D男さん ・・・うつ症での休職から職場復帰に向う、「病める30代」の典型的事例。

 

「感情と行動の分離」を支える一連の基本姿勢

 

 ハイブリッド心理学の本格的実践の皮切りとして、「感情と行動の分離」の中にさらに含まれる、心の治癒と成長のための一連の基本姿勢について説明をしましょう。

 

 「1部 心の治癒と成長への第一歩」で紹介したように、「感情と行動の分離」による基本的思考法が心の問題の解決にすぐ役立つかどうかは、心の障害がどう関わってくるかによって、あまりにも違ってきてしまうのが実情です。

 心の障害が関わるほどに、内面の感情の問題と、外面の現実の問題を切り分けようにも、あまりにも動揺する感情によって心がおおい尽くされ、「空想」と「現実」の区別ができなくなってしまうのです。感情を鵜呑みにして、歪めた形でしか「現実」を見ることができなってくる。

 そのため、心の障害が深刻に関係してくるほどに、「感情と行動の分離」からすぐに「問題の切り分け」そして問題解決へとつなげることが困難となり、その前段階として、意識土台そのものへの取り組みが必要になってきます。

 

「感情依存」という課題

 

 「感情と行動の分離」がスムーズにできない心の状態を、ハイブリッド心理学では「感情依存」と呼んでいます。頭の中が全て、感情を起点として動き、感情でものごとを判断するようになってしまっているのです。

 具体的にどういうことか、「感情と行動の分離」の原則をここでまた確認してみましょう。

感情を克服したいのだから、まずは感情を鵜呑みにしないことである。内面感情と外面の思考行動をいったん分け、別々に考える。内面の感情はその良し悪しを問わず、ありのままに流し、自己理解するだけとし、「正そう」とすることは一切しない。その代わりに、外面への思考と行動は、建設的なもののみにする。

 まさにこの反対になるのが「感情依存」です。どんな感じになるのか描写してみましょう。

 始めだけは一緒です。自分の感情を良くしたい、動揺する感情を克服したいと、ただし「感情で」考えます。そのためにはまず感情を鵜呑みにしないのが原則なのですが、その後の全てが感情を鵜呑みにした形になってしまいます。

 感情の良し悪しを厳しく問い、ありのままに流すのではなく力ずくで良い感情にならなければと自分にストレスを加え、悪感情は「正そう」とし、内面に厳しくすることを大切にするのですが、外面については「建設的であること」について、すっかりおろそかになってしまう。

 これでは感情が良くなるはずもありませんね。

 

 そしておまけが加わるわけです。そうして一生懸命感情を良くしようと努力しているのに、いっこうに感情が良くならない自分を、責めるのです。これがさらに、最初の感情の悪さに輪をかける結果に、当然なります。

 その辺で大抵の人が、自分の姿勢と思考方法にどうも間違いがあるのを感じ始めます。しかし他に答えが見つかるわけでもありません。「考えすぎだ」と考え、もう考えるのをやめ、「気にしない」のがいいのかと考えるかも知れません。しかしそれで済むのなら、今までの問題も最初からなくて済んでいたでしょう。つまり、結局何も解決しないままです。

 後はもう、これは脳の病気なのだと考え、薬で直そうと考えたり、あとはもうただ、「癒しが必要だ」と考えるかも知れません。

 

「合理思考」「あるがまま」「リラクゼーション」

 

 こうした「感情依存」を修正するための基本姿勢を、やはり内面と外面でそれぞれ考えることができます。

 (1)感情を鵜呑みにした思考をすることで、マイナス思考や、現実を歪めて見る思考が多くなります。その結果、建設的な思考や行動ができなくなる。これをより合理的な思考プラス思考へとに修正します。

 (2)内面の感情の良し悪しを問い、感情を良くしようと自分にストレスをかけ、あるがままに内面感情を開放することなく、自分を圧迫している。これを、内面の感情を「あるがまま」に開放することを覚えるようにします。心の力を抜き、リラックスする習慣をつけます。

 

 メンタルヘルスに多少の心得がある方であればすぐお分かりだと思いますが、これは多くの心理療法気分改善法と重なるものです。

 私自身も勉強したものとしてすぐ浮ぶのは、「合理思考」「プラス思考」と言えば「認知療法」や「論理療法」があります。「あるがまま」の内面開放と言えば、なんといっても日本の「森田療法」が有名でしょう。またリラックス法については文字通りの各種のリラクゼーション法癒しのセラピーがあります。

 

内面と外面への主な基本姿勢

 

 ハイブリッド心理学では、そうした一連の基本的姿勢を、内面と外面ともに3項目づつに整理しています。

 ただしそれらは、単独に実践してすぐ役立つかどうかはまちまちです。次に示す外面向けおよび内面向け基本姿勢の3項目がどちらも、頭のものほど単独にすぐ役立つもの、後のものほど他の取り組み実践との関係で意味を持ってくるものという感じに、大体なります。

 また深刻な絶望感におおわれた危機的状況にある場合は、先の「C子さん」の事例のように、まず「自己受容」「未知への選択」に焦点を当てるとして、基本姿勢について検討することは恐らく困難であり、すぐに内面向けの深い取り組みとして「愛」や「自尊心」のあり方に向き合うことが役に立つという進め方を、一般的に言えるように感じます。

 

感情と行動の分離を構成する一連の基本姿勢

■外面向けの基本姿勢■

感情による決めつけの解除 ・・・ 比較的すぐ実践し効果を出しやすい

「こう感じるのだから、それが本当だ」という「感情による決めつけ」思考からの脱却。感情は現実を示すものではない。「得体の知れない恐怖」は別に現実にそんなことが起きているのではない。

中庸の目・不完全性の受容 ・・・ 外面向けの総合的視点。「自尊心」において極めて重要になる

多面を同時に持つ一つの本質を見る。人間とは、そして現実とは常に不完全なものである。

「全か無か」思考、人を「こんな人間」と決めつける「レッテル貼り」思考、気分で「自分のせい」「誰のせい」と考える思考などへの対抗打。

「現実を生きる生」vs「空想を生きる生」視点 ・・・ 「心を病む」ことからの脱出への基本的視点

心を病むメカニズムの総合理解に立ち、健康な心を目指す。「人の目にこう見られたい」という意識とは、「他人の空想の空想」という、基本的に精神を病む意識形態であることを理解する。それは「人の心の中に自分がこう住む」という幻想であり、起きながら夢を見ている状態。目を覚まさなければならない。

■内面向けの基本姿勢■

悪感情の基本的軽減 ・・・ 取り組みの初期におおよその全体を理解するのが望ましい

怒りと焦りの解除。痛みをただ流す姿勢。悪感情への耐性を心がける。主な悪感情への対処原則を知り、この後の「自己分析」「感情分析」で総合的に取り組む(xx章)。

内面の開放・感情強制の解除 ・・・ ケースにより最初の実践課題になる

感情の強制は「心の無酸素運動」。人生は基本的に短距離走ではなく長距離走。力を抜き、なるがままに内面を開放することを覚える。疲労回復を越えた「攻撃的休息」や、自分なりの気分転換、リラックス法を見つける。

感情の放置 ・・・ 取り組みが比較的進み、方向性がはっきりするとともに出てくる姿勢

感情を自分で良くしようとする、「この感情をどうにか」という姿勢の完全放棄。これが病んだ心への決別として役に立つ。

 

 ここで参考までに、認知療法10種類のマイナス思考」として定義されているものと、その基本的な修正思考を載せておきましょう。

 その中で、「感情による決めつけの解除」などは、私の体験上は比較的単独に検討してすぐ役立つという印象があり、「外面向けの基本姿勢」にも項目として入れてあります。

 それ以外については、より深い取り組みがないと修正が難しいものが並んでいる印象がありますが、まず一通り検討してみて実際どう役立つかの状況が、この先のより深い取り組みのための糸口にもなるでしょう。

 

 認知療法による「10種類のマイナス思考」とその修正思考

(1) 全か無か・・・ものごとを白か黒のどちらかで考える。少しでもミスがあれば、完全な失敗と考えてしまう。

【合理思考】「完全に善い」人間などはいないし、逆に「完全に悪い」人間もいない。

 

(2) 一般化のしすぎ・・・たった1つの良くない出来事があると、世の中すべてこれだと考える。

(3) 心のフィルター・・・たった1つの良くないことにこだわって、そればかりくよくよ考え現実をすっかり暗く見てしまう。

(4) マイナス化思考・・・良い出来事をなぜか無視してしまうので、日々の生活がすべてマイナスのものになってしまう。

【合理思考】「どうせそうなる」、そう決め付けられる現実的証拠はあるのか?

 何故悪い面だけを見る? そこには一片のよい面もあるはずだ。

 それは物事の「悪い解釈」だ。では「良い解釈」をするとどうなるだろう。

 

(5) 結論の飛躍

 a) 心の読みすぎ:人が自分に悪く反応したと早合点してしまう。

 b) 先読みの誤り:事態は確実に悪くなる、と決めつける。

【合理思考】そんなイメージが湧くのはしかたない。だが現実がその通りである証拠はない。ならば、ひとまず心の中の空想にすぎないと心得ておこう。空想に反応して行動してしまうと、一人相撲になってしまう。想像したのと別のケースとはどんなものかも考えてみよう。

 

(6) 拡大解釈と過小評価・・・自分の失敗を過大に考え、長所を過小評価する。他人の成功を過大に評価し、他人の欠点を見逃す。この逆もあり。

【合理思考】確かに空想の中では、何か大そうなことのようだ。だが、現実にそこまで行ったのか?

 

(7) 感情的決めつけ・・・自分の憂うつな感情は現実をリアルに反映している、と考える。「こう感じるんだから、それは本当のことだ」

【合理思考】感情が「酷い」と感じたから、現実も酷いと思い込んでしまった。感情は単なる感情だ。現実を見る目は分けておこう。

 

(8) すべき思考・・・「〜のためには」「〜ならば」という前提のない「〜すべき」「〜すべきでない」という思考。そうでないと罰でも受けるかのように感じ、罪の意識をもちやすい。他人にこれを向けると、怒りや葛藤を感じる。

【合理思考】それは誰が「べき」と言ったのか? この世には絶対の「べき」なんて存在しない。

 

(9) レッテル貼り・・・極端な形の「一般化のしすぎ」である。ミスを犯した時に、どうミスを犯したかを考える代わりに自分にレッテルを貼ってしまう。「自分は落伍者だ」。他人が自分の神経を逆なでした時には「あのろくでなし!」というふうに相手にレッテルを貼ってしまう。そのレッテルは感情的で偏見に満ちている。

【合理的思考】それは自分の心の中の何かの感情を、レッテルのように相手に当てはめて固定してしまったものだ。自分も相手も流れる時の中で動いている存在だ。このレッテル貼り思考はやめよう。

(10) 個人化・・・何か良くないことが起こった時、自分に責任がないような場合にも自分のせいにしてしまう。

【合理的思考】自分のせいだという感情は、現実に基づいたものだろうか?ただそんな気分が起きただけではないか?

 

「病める30代」の典型D男さんの職場復帰までの事例

 

 比較的深刻な心の障害ケースで、これらの基本姿勢からまずアプローチした事例を紹介しましょう。

 「D男さん」と読んでおきます。30代後半。一流企業の第一線でバリバリ働いていたものの、ストレスから躁うつ症になり休職するのが2回目へとおよび、ハイブリッド心理学のメール相談の門を叩いた方です。

 相談申し込みのメールから紹介しましょう。それはまさに、「巨大なる焦り」の中で始まっていました。

 

==D男さんから 2007.4.22(日)==

14歳の時から現在まで不安神経症で悩んでいます。

できる治療方法を行いましたが、不安と自己否定が消えません。

カウンセリングはメールのみでしょうか。面談はないのでしょうか。

問題がいろいろとあり、どのような文章でお伝えすれば良いのでしょうか。

お教えください。よろしくお願い致します。

 

 参考になると思いますので、私がどのようにメール相談に対応しているのか、そして実際どのように相談者の方を手助けできているのか、おおよその雰囲気が分かるものを載せておきましょう。

 もちろん私も人の心を治す神様でもなく、人の心を透視する魔法のCT装置があるわけでもありません。今までの経験をフル活用して、相談者の方の言葉から糸口を探し、私自身の言葉をメスとして当てていき、反応をX線画像として集め、次第に相談者の方の心の3D映像をシミュレーションしながら次の水先を考える。そんな作業をしています。

 おそらく心臓や脳の外科医がそうであるように、身体の解剖学を熟知したとして、実際の症例においては「この手順でいけばいい」などというものなどない、千差万別の心の状態がそこにあるのです。

 それでも治癒と成長への原理は共通し普遍的なものです。妨げを取り除き、支えを追加し、あとはその人自身の自然治癒力と自然成長力に委ねる。しかし人を救う最大のものは、身体の場合も心の場合も、その人自身の治癒力でしかないのです。

 

==島野から 2007.4.23(月)==

D男さんの状況に合わせた説明をしようと思いますので、不安と自己否定を特に感じる状況などをお伝え頂ければ、それを踏まえてのアドバイスに致しますので、あれば何でもお伝え頂ければ。

文章はどんな感じでもokです。

 

メール相談のみにしております。ハイブリッド心理学では「自らによる心の成長」を神経症などの克服手段としており、ご本人がじっくり考え理解する過程を重視しているのと、あとは僕自身がカウンセリングよりも執筆を主業と位置付けており、面談カウンセリングは物理的に難しいためです。

 

 D男さんからは、あと半月後には復職しなければならない状況、そして今までに試した療法などが伝えられました。世に出ているあらゆる心理療法や精神世界論を試みて、答えを見出せなかったようです。まだ世に知られていないハイブリッド心理学のメール相談を寄せてくるのは、実は大抵がそのような方々です。

 より詳しい状況説明として、以前カウンセラーに渡したことのあるものとして、ワードで10枚を超える手記が添付されていました。

 

==D男さんから 2007.4.23(月)==

現在は会社を5月上旬まで休職する診断書を医師に書いてもらい、休んでおります。

医師の診断は「自己同一性の混乱」と言われました。確かに自分は何か、どう生きるのか、混乱しています。

 

復職がとても怖いです。

どう見られるのか、仕事をきちんとできるのか、別の部署がいいのか、社会に適応できるのか・・・

上司にも今の状況を説明していないので、どう説明すれば良いかも悩んでいます。

最近気付くことは、自分を大切にしてこなかったなあ、ということです。

消えてしまいたいと思っているほどなので、この際トコトン自分と向き合います。

 

今までの療法は森田療法、カウンセリング、催眠療法、薬物療法、フォーカシング・整体、NLP、断食、ヨガ、気功、イメージワーク、心理学の本読破等です。多くのセミナーや本を読んで、頭は混乱しています。長年、良い療法はないかと探してばかりです。これがいけないのかとも思います。

もう疲れました。

でも、脳が興奮がして、何かやらないといけないという強迫観念にとらわれています。

たまに俺は何をやっているんだと冷静になる時間もあります。

 

思考の禁断症状のような感じです。「対策を練らねば」と「どうせ自分は駄目だ」の繰り返しです。

どうも早く何とかせねば、と焦っております。不安です。

 

 手記の内容は、まさに今心の病の増加が社会問題にもなっている「団塊ジュニア」の世代、「病める30代」、さらには「新型うつ廟」と呼ばれるものの典型とも言えるものに感じました。

 病弱に生まれ、引きこもりがちな小中学校時代への挫折感と、やがてそれを塗り消そうという野心に追い立てられるように一念発起、名のある大学から企業へと進む中で、大学ではイベント主催に活躍し、企業ではかなりの自己発揮をした20代を送ったようです。

 しかし30代にもなり、責任あるポジションになる

とともに、ストレスが増加、気力は低下し、やがて回りへの疑心暗鬼の中で、仕事を続けることが苦しくなってきます。一度休職し、その時は何とか復帰したが、すぐ耐えられなくなり再度休職へ。

 今は自宅療養しながら心療内科へ通院中。今度復職してもまた失敗に終わるのではという不安が、D男さんの心に大きく重くのしかかっていました。

 

「心」への基本的な建設思考

 

 2週間で話が済むはずもありません。それでも「この際トコトン自分と向き合います」とのD男さんの言葉に、ハイブリッド心理学で行ける可能性を十分に感じ、私はまずこの心理学の教科書通りとも言える、「建設的思考法」という話から説明を始めました。

 少し長いですが、ハイブリッド心理学の最も根幹となる考え方の部分を載せておきましょう。

 

==島野から 2007.4.23(月)==

■「心」について「これが悪い」ではなく「ではどうすればいい」という思考法

 

我々には、「豊かな心と人生」という、「心」についての理想があります。これは人間の歴史を通してそうです。しかし「心」の問題になると、先に説明した3つの思考回路の中で、人間はもっぱら「破壊」だけしかほとんど使っていなかったのが実情です。

 

もちろん、実際に「豊かな心と人生」を獲得した人も大勢います。その人たちはまず、「建設的」であった人たちです。ただ、実際のところ心の問題に悩まないので、心の問題をどう建設的思考法で克服するかと議論することもなく、それで済んでいます。

一方、「破壊モード」思考で生きるとどうしても心と人生に問題が起きます。でそれを、再び「破壊モード」思考で考えるわけです。これが悪いんだ、と。そして良く議論します。

この結果どうしても、人間が「心の問題」について考える場所には、「破壊モード」思考ばかりが蔓延するのが実情です。

 

心はこうなるべきであり、人生はこうあるべきであり、社会生活はこうあるべきだ。

その内容は、大抵それで、いいんです。それについてあまり考えても、どうにもなりません。

 

問題は、そうした理想から現実を照らし合わせて、そうなれてないものを怒り否定する、という思考回路で対処していることです。まるで、悪いところを見つけしだい切除手術をしようとするかのようにです。そんなことばかりしていると、体そのものがなくなってしまいます。

 

同じように、「心」についても、「これが悪いんだ」という思考回路ばかり使っていると、心がなくなってしまいます。まさにD男さんが感じられた、

>医師の診断は「自己同一性の混乱」と言われました。確かに自分は何か、どう生きるのか、混乱しています。

というように。「自分」そのものが分からなくなってしまうわけです。

 

ですから、「これが悪いんだ」と否定するだけではなく、「ではどうすればいいか」という思考に切り替える必要があります。そして「どうすればいいか」の答えを、精神論ではなく具体的に知る必要があります。

 

■「こうでなければ」という型枠に心を合わせる方法

 

では心と人生を良くするための具体的方法とは、どんなものがあるか。

これについて人間が取り得る、大きく2つの「やり方」があります。

 

一つの「やり方」は、「破壊モード思考回路」が使うやり方です。「こうでなければ」という型枠を決めて、「心」を力づくでそれに合わせる、というものです。

実際多少そんなことができてしまうメカニズムの広さが、人間の心には、つまり脳にはあります。

ハイブリッド心理学ではこれを「感情の強制」と呼んでいます。

 

ただしこれは、ストレスを伴います。ストレスによって行う心の機能です。この結果これを多用していると、心の表面で「自分はこんな人間でなければ」とあれこれ考えて一進一退している一方で、ストレスは蓄積しますので、どんどん蓄積疲労状態になります。

 

その結果、人生のある時点で、もうどうにも心が機能しなくなります

これはもうこれ以上詳しくその様子を説明しなくても、身に覚えがあることとしてお分かりになるかと^^;

 

実はここまで説明した話が、D男さんの場合かなり典型的なんですね。

「破壊モード」の思考回路で生きてきたこと。「こうでなければ」という型枠に「心」を合わせるというやり方で来たこと。

手記をざっと読ませて頂きましたが、率直直感的に感じたのは、全てが「勢いでどうにか」という姿勢の中におありだったようなイメージです。

浮かんだイメージは、粘土人形を作るやり方です。「こうなるべき」という枠型を作ります。そして粘土をそこに向けて勢いつけて押しつけます。すると粘土人形のできあがりです。

 

■始まったばかりの「心を良くする」科学

 

心と人生を良くするための、もう一方の「やり方」は、例えば見慣れない何か貴重な植物の種を得ることができた状況を想像するといいと思います。全てがその種子の中に、「本性」として含まれています。それがどんな草木に育って、どんな花を咲かせるべきだなどという発想は、全くの無駄です。

 

その命が持つ本性が開花するのを、大切に見守る姿勢が何より必要になります。それが実際はどんな植物の種子か、調べるのもいいでしょう。それに応じた適切な植育方法があるでしょう。科学の世界です。

「心」についても、実はまったく同じなんですね。

 

「力づく」で「心」をこんなものに、とストレスをかけることなく、それが本来持つ成長力を発現させるための、「技術」があります。「心の使い方」ですね。

 

 今すぐにでも復職したい、そうできるように何とかしてくれ、と焦っている方には、まるで朝礼の校長先生の話のようなものかもしれません。それでも、こうした大上段から考えるのが、この心理学なのです。

 私はさらに、建設的思考法について具体的な説明を幾つかサイトからピックアップし、読んでもらうようにしました。

 読み進めるのに苦労しながらも、この心理学に取り組もうとするD男さんの意欲が伝わってきました。

 

==D男さんから 2007.4.27(金)==

実践メニュー等を読みました。コンテンツ量と漢字が多く、苦労しました。

とても私に合った方法だと思いました。「道のり図」が興味深かったです。

 

確かに私は破壊モード思考回路になっています。今も朝から夜まで頭の中ではグルグルと破壊モードで苦しいです。

寝ていても頭が興奮して眠れません。なので、体に気を回そうと散歩や運動をやろうかと思います。

薬は飲みたくないのです。いい方法はありますか。

 

焦りの解除・本格版

 

 私がまずD男さんに説明してみた「心の使い方」は、主に2項目です。

 「焦りの解除」。それを今回は、復職に向けての焦りという、A子さんやB子さんの事例よりも大きな話として検討します。

 もう一つは「中庸の目」という話で、外面向けの「現実を見る」基本姿勢の一つです。ものごとを「全か無か」の極端で見るのではなく、不完全な現実世界と自分というものを受け入れ、完璧を求めずに、そこそこうまく行けるという落とし所を決断できることが、「仕事」において、そしてそこでの「焦りの解除」のために、極めて重要になってきます。

 

 D男さんは、手記の内容や会社での状況を聞く限り、社会の中でもかなり優秀な人間とされる部類に、私には感じられました。まるで学校の成績でいつも1番でいたのが、2番に落ちてしまったことに激しく落ち込んでいるような。

 それで、C子さんのように内面の絶望感を乗り越えるアプローチではなく、ごく普通に言われるような話にも近い、「現実的で合理的な思考」から最初にアプローチしてみたのです。

 完璧でなくとも、いいんです。D男さんは今のままで大丈夫です、と。まあこの言葉そのままではすでに聞いた言葉でしょうから、ハイブリッド心理学としては「気休め・励まし」ではなく、「心の科学」として説明するわけです。

 

 まず、仕事の場面における「焦りの解除」の大原則についての説明です。

 

==島野から 2007.4.27(金)==

■「焦りの解除」課題:「外から見た結果」ではなく「内から行う過程」に意識を戻す

 

復職をまずを材料にしての取り組みということで、「仕事における思考法行動法」という領域になります。

これを、今の目の前の問題を何とかやりくりするという短視眼的な発想としてではなく、仕事を進める上で普遍的に通用する知恵を知り、その応用として、今の問題を解決するという姿勢が重要です。

一度そのように身をもって学んだことは、状況の異なる後の問題にも応用できますので。

 

それで言いますと、「焦りの解除」という課題になりますね。

 

仕事は、また仕事でなくても、物事を「作業」として行う時は、「焦りの中で」行ってはいけません。これは鉄則です。

なぜなら、焦りがあるとは、問題が差し迫っておりスムーズに正確に処理しなければならないから焦るわけですが、実際そうして焦りの中で作業すると、問題が差し迫っておらず余裕があるときよりも、皮肉にも効率が悪く、ミスが連発するようなことになります。

 

これは心理学的には当然なんですね。

なぜなら、「焦り」とは、「早く出来たという結果」ばかりが「そうならねば」と頭にちらつき、肝心の作業の内容への意識が妨害されるものだからです。

 

これは歌手がアガッって一瞬歌詞を忘れる現象でも説明できます。その瞬間、「ちゃんと歌を歌っている自分でないといけないのにそうでない自分」というイメージが頭に浮かび、歌詞への意識が飛んでしまうのです。そして一瞬、頭が真っ白になる。

 

ですから、「外から見た結果」ではなく「内から行う過程」に意識集中するという姿勢が、そうしたことを防止する方法ですし、これは多少意識訓練で習熟向上できるものです。

これが「仕事」およびそれに類する領域における、鉄則なのです。

 

焦りの中でことを進めては、決していけません。

その場合は、まず「焦りの解除」そのもののための「作業」をする必要があります。

 

■山積の問題を整理する:「割り切り」と「最低ラインを決める」

 

ですから、僕も会社の仕事をしていて、追い詰められるような山積の作業を抱えて焦りの中に置かれた時は、これを良く実践したものです。

つまり、山積の仕事を早く片付けるために急いでそれに着手する、のではなく、逆に、いったん全ての作業を止めます。そして、山積の仕事を整理して、「割り切る」ことと、「最低ラインを決める」ことを行います。

 

まあこの場合に何をまずしたかというと、「しなくても大きな問題にならない」仕事や作業を、思い切って捨てます。これをかなり徹底して行います。

そしてどうしても済ませなければならない作業の、最低ラインの日取りを決め直します。決して既存のスケジュールを素直に実行することだけを考えてはいけません。非難を受けないような遅延理由も徹底的に考え、最も遅らせられる新しいスケジュールを考え、関係者への合意を取り付けます。

 

そうやって、徹底した「割り切り」と「最低ラインを決める」ことをまず行って、「これならもう余裕だ」と感じ、焦りが消え安心感が体の中に広がって、初めて、手っ取り早く済ませられる作業から着手します。

もう焦りもなく、スケジュールをそれほど気にすることもなく、作業は効率的に進む、という次第です。

 

これが鉄則なんですね。「決して焦りの中でことを進めてはいけない」。

 

 このような、ごく現実的で合理的な思考法について、私はサイトから他にも幾つかの資料を読むよう指示しておきました。

 それらを読み終わったD男さんの様子は、どうも「ピンと来ない」という感じのものでした。私はまずD男さんの問題を、「思考法」にあると感じたのです。しかしD男さんの様子は、「心そこにあらず」という感じで、問題が別のところにあることを伝え初めていました。私はまだその深刻さを見抜いていません。

 思考法への感想は言葉少なく、現在の心身の症状が新たに私に伝えられてきました。確かに心療内科に通院する以外の外出がほとんどできないほどの、身体面にまでおよぶストレス下にあるわけです。復職への不安内容についても、さらに具体的に伝えられてきました。

 

==D男さんから 2007.5.1(火)==

気持ちが支離滅裂なので、あえて、そのまま言葉にしました。

 

サイトの文章を読みました。理論としては8割くらい理解できた感じがします。

でも本心はどうなのかな。やはり焦ってすぐに治したい気持ちがいっぱいで、一気に読みました

優等生になろうとしています。いつもの癖です。

・・(略)・・

 

現在の状況は

全身が緊張して、疲れる。肩が凝る。

・気分がコロコロと変わる。やろうと思ったけど、翌日にはやる気が起きない。その分、衝動的な行動はなくなった。

・傷つきたくない気持ちが強い。会社にはまだ行きたくない。このまま逃げたい。

・感情は何もせずに流す。時折、強力な感情が出てきた場合、ひたすら寝てやり過ごす。

・現在、何をやったら良いかわからない。目標がなくなった。以前の趣味に興味がなくなった。

メンタル系の病気の人を見ると攻撃したくなる。自分を含めて。

・今までとは違うラクな感じがある。別にできなくてもいいかな、という、だらけている感じがする。

 

復職に対して思うこと。

(以下は抜粋)

・幹部候補として推薦してくれた上司の期待を裏切った。申し訳ない。

・どんな顔で出社すれば良いのか。なにか言われるか。

・後輩たちにナメられるのだろうか。威厳はない。駄目な奴と思われる。

・社内中に噂が広まっているんだろうなあ。イヤだ。

・誹謗中傷を言われたら、立ち直れなくなる。傷つきたくない。

・一度目の復職のように、みんながイキイキとして仕事している姿を見て嫉妬するのか。

・楽しい姿を見せたら、不謹慎か。

・駄目な奴のレッテルを貼られるのか。

・慰められるのもイヤだ。

・ここでアピールして現在の部に残るか。アピールする方法が浮かばない。

・もう自分のことは忘れてほしい。会社辞めたい気分。

・数年後を考えると、たまらなく不安だ。

 

不安がつきまとい、建設的に思考できない自分を否定しています。

この問題を考えるのも少々苦痛です。このメールを書くだけでも相当のストレスがありました。

でも治したい。焦っています。文章がめちゃくちゃですみません。

 

「中庸の目」

 

この時、私はD男さんの「一気に読みました」との言葉に、彼が今その明晰な頭脳で、猛スピードで吸収の途上にあるとイメージしていました。これは私の目測ミスであったのがやがて判明しますが。

 私は「現実的で合理的な思考法」の手綱を緩めることなく、「優等生になろうとしています」という言葉を取り上げ、視点をさらに進めました。

 

 それは「中庸の目」という視点です。

これは「自尊心」にとって極めて重要な視点になります。

 自分の長所や短所を断片的に見て一喜一憂するのではなく、その多面を同時に持つ一つの存在として、そして不完全性を抱える一人の人間として自分を認め、そこにおいて前に進むことを自らに宣言することです。

 私はこれを認知療法のデビット・バーンズの本から学びました。それは人生で自分が進む先についてまだ惑いの中にあった私にとって、一つの救いになる言葉だったのです。私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』でもそれに触れています。

 

『悲しみの彼方への旅』P.245より

 彼が進むべき道は、「多面を同時に見る」中庸の目の先にあります。自らの短所を自己卑下に陥ることなく見据え、ひとつの制約条件として受け入れると同時に、自分の長所を傲慢に陥ることなく認識し、それを役立てることです。

 そして自分を、長所と短所の差し引き合計の結果として捉えるのではなく、さまざまな側面を持つひとつの本質として、前に進む存在であることを宣言することです。

 真の自尊心は、その姿勢によってこそ導かれます。真の自尊心は決して「高い評価」を与えられることによって「獲得」されるものではありません。主体的存在としての自己の可能性に向かって生きていく意志として、自ら選択するものなのです。認知療法のデビッド・バーンズが述べたように、真の自尊心とはそのようにして、「勝ち取らねば」ならないものではなく、「勝ち取る」ことができるものでさえないのです。

 

 人生で大切なのは、自分にできることをすることです。決して優等生になることが大切なのではありません。

 

==島野から 2007.5.3(木)==

・・(略)・・

■「完璧主義のゼロ現実」vs「不完全性の受容と現実の豊かさ」

 

「感情」に依存せず「現実」に立った思考法という話でしたが、D男さんにまず検討頂きたいものとは、「現実」そのものなんですね。「現実とは何か」。それは空想とは違うものなのです。

 

当然だ、とお感じになるかも知れませんが、この検討として自らに問いて頂きたい「選択」があります。

「完璧主義のゼロ現実」を取るか、それとも「不完全性の受容と現実の豊かさ」を取るか、という「選択」になるでしょう。

 

つまり、D男さんの思考は、「こうなってはまずい」「こうにもならねばならない」という、「何でも取り」になっています。それをD男さんご自身も、

>優等生になろうとしています。いつもの癖です。

と自覚しておられる。

しかし、はっきり申し上げますが、優等生になろうとした結果が、「何もできなくなった現実」ではなかったのでしょうか。

 

「現実」とはそんなものではありません。「現実」は常に不完全なものです。不完全さを受け入れることに、一つの前進があります。そして次の前進はまた、新しく見えてくる不完全さの受け入れと共に成されます。

そうして常に不完全性を受け入れて前進していく結果として、人からは完璧無比のような豊かな姿になるかも知れません。しかし本人の意識においては、そうゆうものでは全くないんですね。

 

少なくとも、ハイブリッド心理学として言える、そして僕が知っている方法とは、それだけです。

世の中には最初から完璧を目指して、一点の曇りも許さない姿勢で、うまく行った人もいるかも知れません。それはよほど資質と運に恵まれたか、超人的なストレス耐性の持ち主だったということになるでしょう。

そうした方が言う成功則というのも、やはり世には出ています。まあそれを否定する気もありませんが、結局内容は「やればできるという自己暗示」的なあまりに単純なもので、ちょっと僕みたいに複雑な心理メカニズムを解かないと問題解決できなかった人間としては、あまり役に立たない感がありましたねぇ。

まあこれは人それぞれの好き好きにお任せするしかないですね。

 

でハイブリッド心理学として結局、「完璧主義のゼロ現実」と「不完全性の受容と現実の豊かさ」のどっちを取りますか、という選択を提示するしかないと考えるわけです。

・・(略)・・

 

一つヒントを言っておきましょう。

D男さんが今感じることを列挙して頂いた中に、「こう見られてはまずい」というものがあります。

しかし、人が実際そう見るかどうかは、人にもよりますし、何とも言えません。言えるのは、それは大抵、ものごとの悪い面だけを見る姿勢、アラ探し姿勢の先にあるものだということです。つまり、建設的で心が健康な人々は、あまりそうは見ないものです。

 

ですからそのような「こう見られてはまずい」について検討すべきは、そうした悪い面だけを見る姿勢、アラ探し姿勢をしているのは、実は自分自身ではないか、という問いになってきます。

D男さんの場合も、それがありますねぇ。

>メンタル系の病気の人を見ると攻撃したくなる。自分を含めて。

これをどう考えますか。まあそうした感覚が「自動感情」として湧くのであれば、まずは力づくで払い消そうとするのではなく、「感情と行動の分離」で、そうした破壊衝動を非行動化することです。

 

そして、そうした感覚が、果たして現代社会において通用する感覚なのかを、問う必要があります。メンタルへの対応が重視されてきたこの社会でです。

 

 ここで私は最後に一つ深層心理の視点も追加したわけです。

 D男さんは復職しても前のように活躍できず、回りに見下されることを恐れています。しかし、優等生基準を掲げて、それに満たない者を激しく見下す感情を抱いているのは、実はD男さん自身です。

 このことに目を覚まし、ともかく「見下される恐怖」の軽減ができないか。

 

「空想に生きる生」の根深い問題が現れ始める

 

 私はこうした「中庸の目」の言葉がD男さんの心に染み入り、治癒成長への効果が生まれ始めることを期待しました。

 しかしD男さんからの返信は、その期待には外れる形で、今までとはトーンが変化してきました。私の言葉を素直を受け入れるのではなく、「抵抗」が起き始めています。実はそれが問題の核心に触れてきたことの兆候なのです。

 

==D男さんから 2007.5.3(木)==

現実との向き合いですか。やはりここがポイントですか。薄々感じていました。

・・(略)・・

>「現実」は常に不完全なものです。

だから怖いです。できれば、向き合いたくない。それをいかに避けるかで生きてきました。

 

>建設的で心が健康な人々は、あまりそうは見ないものです。

健康な人はそう考えないと言われましたが、会社を見ても不健康な人が多そうで、私と同じ考え方をするのではないでしょうか。

 

「多面を同時に見る中庸」というものも難しいです。物事をいろんな面から検討する。しかも現実に沿って考えると。最近やっていない思考です。感覚がよくわかりません。

・・(略)・・

意外と考えさせられました。仕事は大人なら当然にやるものとインプットされています。

だから、休職していると、居たたまれない気持ちになります。

 

「推進力ある自己像の策定」

 

 「現実に向き合わずに生きる」とは、「空想の中で生きる」ということです。これが病んだ心の基本的な特徴です。

 「現実」に何かの困難があるとして、それに向き合わずにいたところで、何も良くはなりません。「現実」には、向き合うしかありません。今までは「現実」に向き合おうにも誰も答えを示してくれなかった状況があったかもしれませんが、ハイブリッド心理学でははっきり答えを出します。

 

 私はその一つの考え方として、「推進力ある自己像の策定」という話をしました。自己像を描く時のひとつのテクニックのような話です。「中庸の目」とあわせて活用すると、対人行動や社会行動の場面での不安恐怖を乗り越えるために実に役に立ちます。

 例えば、対人緊張に悩む人の場合、「緊張しない自分」という理想像から、現実の自分を審判することばかりに心が奪われ、その結果「緊張することに緊張」して、前に進めなくなってしまいます。それを、多少の緊張については腹を決め、「おどおどしていても言う内容はしっかりしている自分」といった、自分自身で受け入れることのできる、現実的な自己像を描いてみるわけです。

 もちろん、深刻な対人恐怖症がこれだけで解決すると言った簡単な話ではありませんが、さまざまなアプローチの中の一つとして、これを一助にして道が開けることもあるでしょう。

 

==島野から 2007.5.6(日)==

■「空想立脚」から「現実向上」へ

 

まず最も基本的な考え方。

>>「現実」は常に不完全なものです。

>だから怖いです。できれば、向き合いたくない。それをいかに避けるかで生きてきました。

これは向き合うかどうかというよりも、向き合い方の問題が大きいですね。

ちょっと表現が難しいのですが、まあ例えれば検事として犯人に向き合うか、弁護士として犯人に向き合うかで全く話が変わります。向き合う前に、まず「どこに立って」向き合うかが重要になってくるわけです。

 

生きる姿勢として「現実に向き合う」あり方で重要なのは、空想に立って現実を評価するという「空想立脚」から、現実をベースにして向上していく「現実向上」に転換することが重要です。

これは結局のところ、「空想」を取りますか、それとも「現実」を取りますか、というシンプルな問いです。

 

「現実」に向き合うのを怖れて、現実に向き合わないままでいると、現実はどんどん貧困化して行きます。すると、「現実」は、怖れた通りに向き合い難いものになります。

これは奇妙な話なんですね。「現実」が恐ろしいものだから向き合い難いのでは実はなく、恐ろしいと考えることによって現実がその通りになる、というような。

 

ですから、とにかくまずは現実に向き合い、現実を受け入れて、それをベースにして向上させていることを考えることです。

..と言ってもそれだけでは、そんな事は言われなくても分かっている、それが出来ていればこんな苦労はしていない、ということになると思います^^;

 

・・(略)・・

■「推進力ある自己像」の策定

 

そのように、どう考えたところで一個しかない現実の自分を、受け入れられるものとして捉えるための思考法が次です。これはかなり「思考の技術」的な話になってきます。

 

まず基本は「覚悟」ということです。「こうなっては」「ああなっては」はというものの中から結局覚悟を決め腹をくくって受け入れるものを決めるしかない。

 

ところがここで面白い点を考えて頂くことができます。

そうしたことを考えていると、大抵「いっそ死んでしまおうか」という観念が起きがちです。しかし、そこでは「死ぬ覚悟」さえできてしまったかのような思考になるわけですが、それだけの覚悟ができる人間が、「こうなっては」「ああなっては」には覚悟がつかないという奇妙な現象になります。

つまりその内容は、大抵、「死ぬ覚悟」はできても「人に嫌われる覚悟」ができない、というようなものになってしまいます。

 

これは一種の思考の罠のようなもので、なぜ「こうなっては」「ああなっては」の中で「もういっそ死んだほうが」という観念が起きるのかと言うと、「こうなっては」「ああなっては」という観念の中で、自分が前に進めない八方塞がり状態だという感覚が、根本原因です。

つまり、「こうなっては」「ああなっては」ということそのものよりも、それによって「自分が前に進めない」という感覚が起きることが、そうしたことの原因です。

「いっそ死ぬ」だと、こっちは一応「推進力」があるんですね。

 

ですからこれを発想を逆転し、「こうなっても」「ああなっても」これなら行けるという「推進力ある自己像」が見つかると、実にあっけなく問題が片付いてしまったりします。

 

そうゆう形で、「覚悟」が重要なんですね。つまり「こうなってしまう」「ああなってしまう」への覚悟というより、とにかく自分が何をする人間なのかということについての「覚悟」です。あくまでその「覚悟」に立った上で、「こうなる」「ああなる」は腹をくくる。

 

・・(略)・・

■具体的職務のレベルで「推進力ある自己像」を決める

 

D男さんが復職するにあたって実践してみて頂きたいのは、この思考法なんですね。

「推進力ある自己像」を決めるということです。

それを、具体的な「職務内容」のレベルで決めるのがいいと思います。復職にあたり、自分はとにかくこの業務職務をする、と。

 

前回「会社とは仕事とは」という設問をしたのは、そのためです。その観点ですと、

>生活の糧。給料で生活する。ローンを払う。家族を養う。

これは大いに明確でいい判断材料だと思います。まそれがやはり大きいですよね。で次に、

 

>自己実現 (以前の部署ではそうでした)

これは自分がやりがいのあることをするということで、まあいいでしょう。それができれば当然その方が望ましい。一方、上記が火急の要件であるのに対して、これは長い目で調整していけばいいと考えるのがいいと思います。まずはとにかく食って家族を養って、ローンを払うこと。

 

そのためにD男さんができることを、しっかりと定義するといいと思います。復職して自分に可能な職務業務を、具体的に決めることです。

 

 ここまでの話で、「現実的で合理的な思考法」というアプローチが大体一つ成立したような形になります。まあごく一般的な人生訓のような話でもありますが、ハイブリッド心理学特有の、深層心理への視点もトッピングして。

 

心の障害の根源「感情の膿」に触れる

 

 ではその結果はと言うと、D男さんの反応が急変します。

 明らかに、問題の核心に触れたのです。それはもともと、「現実の論理」だけで済む問題ではなかったのです。

 心の障害の根底には、自分でもその論理性が良く分からないような、「恐怖の塊」が潜んでいます。それに対しては、特別な視点を用いたアプローチが必要になってきます。一方それが、心の障害の根本治癒のために、通ることを避け得ないものとなるのです。

 

 D男さんからの返信は、まず比較的穏やかな文面で、しかしその翌朝に、心の状態の緊迫化を伝えるものになりました。これは私の伝えた内容に加えて、当初の5月上旬までという休職期間の明ける日がいよいよ近づいたという外部要因がかなり影響しています。

 このように、何かが現実味を帯びることが心の状態の急変を起こす作用を、「現実性刺激」と呼んでいます。

 

==D男さんから 2007.5.6(日)==

「現実に向き合う」という言葉にかなり動揺しています。

島野さんに現実を見なくては駄目だと言われている感じがしました。

やはり俺は現実逃避なのか、と自己嫌悪です。

 

>生きる姿勢として「現実に向き合う」あり方で重要なのは、空想に立って現実を評価するという「空想立脚」から、現実をベースにして向上していく「現実向上」に転換することが重要です。

この空想か、現実かの境目が難しいです。

・・(略)・・

 

>ひたすら空想が暴走する形で「自分」を認識する心理現象がある、ということです。これが自分に起きていないかを振り返ることは役に立つと思います。

起きていると思います。しかし、空想と現実の違いがわかりません。今はしょうがないのでしょうか。

 

>大抵、「死ぬ覚悟」はできても「人に嫌われる覚悟」ができない、というようなものになってしまいます。自分が前に進めない八方塞がり状態だという感覚が、根本原因です。

その通りです。もう死にたいとは思いませんが、八方塞がり状態です

 

>「推進力ある自己像」を決めるということです。

今は、恐怖が薄れて、自分を客観的にある程度見られて、仕事が普通にできる状態にならないと復職できないのではないか、と思っています。

・・(略)・・

 

長年 空想の中で頑張っていたのか、と思うと自分がみじめでしょうがありません。感情を抑えて必死にやってきて、評価もされて、自己実現したと思ったのに今は悶々としています。

栄光にしがみつき、没落を認めたくない自分

 

休職して一カ月があっと言う間に経って、自分は何していたんだろうか、と自己否定しています。

嫁に言わせると、最近人間らしくなったね。この際、ゆっくり休んでしまえば、と言われます。

いい成長の機会なのでしょうか。

 

 私がD男さんからのこのメールを見たのは月曜になってからで、受信連絡がてら手短なメモだけ打っておきました。

 D男さんの心の状況に、明らかに変化が起きているのを感じながらです。それは特に、D男さん自身の視線が、今現在への焦りから、来歴全体を見るものへと変化したことにポイントがあります。これが実は、治癒変化への兆候であると同時に、感情が悪化する典型的状況なのです。

 私はアプローチを自然に変え始めています。精神分析的な、来歴の振り返りへと。

 

==島野から 2007.5.7(月)==

>この空想か、現実かの境目が難しいです。

やはりこれが重要なポイントになりそうですね。

 

「空想に合わせるのではない生き方」という話を説明しようと思います。お急ぎと思いますので明日送ろうと思いますので、ちょっとお待ち頂ければ。

先に糸口だけちょっと書いておきますと、「うまく行っていたこんな自分」という空想がいつどんな風に「誕生」したかが糸口です。それが何かを「見返す」ためのものという部分が、ストレス源になります。

 

 しかし私のこのメモがD男さんに届くのと入れ違いで、この日緊迫度を増したD男さんからのメールが飛び込んできました。

 

==D男さんから 2007.5.7(月)「激しい抵抗、恐怖を感じています」==

本日朝起きたら、激しい抵抗感があり、いまだに続くので、整理する意味でもメールさせていただきます。

 

ゴールデンウィークが終わり、朝早くから嫁は出勤し、世の中が通常に戻ったことで、休職して何もしていない自分がとても罪深いことをしていると感じています。

働くもの食うべからず 世の中に適応できない駄目な人間だ、と自分を責めます。

 

また、休職期間が終わるので、焦っています

この焦りや不安定な状況を会社の人に見られたくない、変なことを言って、嫌われたらどうしようと思います。これまで10年以上も通勤していたのに、今はとても怖いのです。

それでも、教えていただいた方法を実行しています。この感情は行動に移さず、流しています。

・・(略)・・

 

 ここに至り、最初の「思考法」一辺倒のアプローチは一見、というか確かに、アプローチミスではありますが、十分に想定内であり、かつ、通ることを避け得ない最初の方向探りの局面です。C子さんとの違いのようなものは十分に踏まえても、そのようなものになります。

 また、こうしたアプローチ試行はもちろん無駄になるものではなく、アプローチを変えて行く先に、最初のアプローチで取り入れたものと組み合わさることによって、初めて治癒成長への本格的作用が起き始めるようになります。

 援助者側には、心のこうした複雑な進み方への見通しが十分にでき、事態の急変に即座に対応できるような、経験の深さが求められることになるでしょう。

 

 D男さんからは引き続き、私の短いメモへの返信も届きました。

 問題の焦点は、はっきりと、今の焦りから、D男さんの人生の生き方全体へ移ってきています。

 

==D男さんから 2007.5.7(月)==

「うまく行っていたこんな自分」2632歳です。

10代に

 ・女性にもてない ・勉強できない ・運動できない ・目立たない。地味。消極的。

それが20代になり

 ・女性と次々と付き合う。羨まれるような女性を選ぶ。

 ・ブランド大学、会社に入社。ちやほやされた。

・人前で話す(講演会など)。イベントの企画をする。主催者は目立つ。

・人と違う仕事をバリバリやって、目立つ。評価される。出世。

そんなことをやっていました。しかし、やりたいことは達成しても、充実感は一瞬で、また他の高い望みに向かって行動します。

また、いつもイライラしていて、恋人や友人、自分に当たっていました。気分の上下が激しかった。

32歳過ぎから、もう高い望みをできるネタもパワーもなくなり、人目を気にして行動するのも疲れました。

 

10代の惨めな自分を馬鹿にした人たち(親、親戚、友人、社会)を見返すために、高い評価の自分を20代に作り上げてきました。それがいつの間にか、誰に対しても対抗意識を持ち、どこでも評価されたい、となりました。仕事後や週末はいつも勉強などのスキルアップです。常に自分が上にいることを証明したかった。それに向かっている時だけ、生きている感じがしました。

 

とにかく、素の自分(弱い自分)を出すのが怖かったのです。孤独の自分より、ちやほやでもいいから人気があるという場面が欲しかったです。

島野さんの「現実と向かい合う」という言葉に「素の自分を出しながら生きること」と言われている感じがして、とても怖いのです。

 

素の自分が今まで人に嫌われ、物事の失敗を導く存在であると思うからです。根底では「駄目人間」というベースが横たわっています。

今は鎧を取り外しました。そこには人生を無理してきて疲れた男がいます。裸で外に出る勇気がないので、他の鎧はないかと探しています。

見すぼらしい肉体の裸のままでいるのがイヤです。

 

 私はこの日はとにかく安心感を与えるためだけのメールを打ち、次のアプローチを練り始めました。

 

==島野から 2007.5.7(月)「怯える必要はありません」==

「素の自分」「駄目人間」「人生を無理してきて疲れた男」「裸で外に出る勇気がない」「見すぼらしい肉体の裸」これもまた「空想」なんですね。「空想に合わせる生き方」とは、そうして「鎧」という空想を身にまとう生き方なのですが、鎧を失ったと感じた時の自己像も、また空想なのです

 

だから、「空想に合わせるのではない生き方」とは一体何か、という視点が必要になるわけです。

 

怯える必要はありません。ま無理して「怯えては駄目だ」と考える必要もない。

恐怖は「頭痛」と同じで、それ自体を問題にするよりも、根本原因を知り、それに取り組めばいいんです。

まずは、感情の歪みを直したいので、感情は鵜呑みにしないことです。

「恐怖を感じる。これは現実が恐ろしいことだ」という「感情による決めつけ」思考に陥っていないかを、まず確認して下さい。そして頭痛がする時と同じ姿勢で、むやみに嘆き焦らず、また無理もせずに心身を休めることを考えて下さい。

 

「感情による決め付け」をすることなく、その次に知性で何をどう理解するべきか、時間が取れ次第早めに書いて送りますので。

 

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