心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

7章 人生をかけた取り組み−3

−痛みをただ流す・感情への知性の目−

 

この章のまとめ

■実践項目■

「感情と行動の分離」を支える一連の基本姿勢の、「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」という内面向けの側面について、概要を説明の上、次のような具体的実践を取り上げます。

「痛みをただ流す」・・・「痛み」を嘆き強調することは、「苦痛」さらには「苦悩」への膨張を起こします。それを「痛みをただ痛む」姿勢によって、ただの「痛み」へと戻す。

「感情への耽溺」「感情の一人歩き」をけん制する ・・・ 現実的な中身を失った一人歩き感情を見分け冷ます。

感情を客観的に見る「純粋知性」・・・「理性で欲を抑える」のとは異なる、「知性」によって感情を把握し、「自己責任」において決断するという心の使い方を知る。より高度な「感情分析」実践への入り口。

「やる気」に頼らない行動習慣 ・・・ 「やる気」の勢いではなく、することの意義を客観的に判断して行動する姿勢の習慣をつける。

「中庸の目」・・・ より本格的な体得へ。「多面を同時に見よ。そこに未知が現れる」。「中庸」とは、多面を同時に持つ、一つの本質を感じ取ることであり、それは目に見えるものではない。見えないものを見るその「中庸の目」を「自分」に向けることが、「真の自尊心」への礎となる。

■実例■

D男さん ・・・「感情と行動の分離」の基本姿勢が身についたことで、頭痛が消えるという最初の治癒兆候が現れる。「中庸の目」の多面的な思考法ができるようになり、「脳がとろけてくる」。

 

 

D男さんの激しい身心疲労症状の原因

 

 D男さんが開始したハイブリッド心理学の歩みは、D男さんの心に潜んでいた、大きく2つの問題を明らかにしていました。

 一つは「現実に向き合うことへの恐怖」です。自分の過去を見返すための鎧を身にまとって生きることに疲れ、その鎧を脱ぎ捨てた時、露わになったのは、この世界を強く生きるすべを知らない、赤剥けのひ弱な心でした。まずはこれをこれからの成長へのスタートの原点として受け入れ、「人生をかけた取り組み」に腹を決めます。

 次に明るみに出た問題が、まさにそれに歩み出したD男さんの様子に示されました。自分をストレスで追い立て、「勢い」によってものごとをなそうとする姿勢。D男さんを休職療養に追いやったのはそれであったにも関わらず、今度は何とハイブリッド心理学を習得することへの意欲が、D男さん自身を押し潰そうとするストレスに化けたのです。

 危うくそれを見過ごすミスを何とかかわし、「一日にせいぜい2、3項目」そして「攻撃的休息」というアドバイスをすることで、D男さんにようやく「感情と行動の分離」の基本姿勢が身についてきます。

 

 実はこの2つの問題が組み合わさったもの、つまり「恐怖」、および恐怖をバネにして「自分にストレスをかけ勢いでものごとをなそうとする姿勢」という掛け合わせの相乗作用が、自宅療養を必要とするほどの強い身心疲労症状までも引き起こした、張本人と言える原因です。

 

「感情をただ流す」内面向け基本姿勢とストレス軽減

 

 「感情は内面でただ流し、善悪を問わず理解するのみとする。その代わりに外面は建設的なもののみにする」。この「感情と行動の分離」の原則において、「感情をただ流す」という内面向けの基本姿勢は、自分を追い立てるストレス症状の軽減に役に立つものです。

 ただしこれも単独の話で考えるのはあまりお勧めではありません。「ストレスを減らそう」と、自分の内面だけにじっと見入姿勢が、またストレスになるというパラドックス的な轍があるからです。

 やはり外面向けの姿勢と内面向けの姿勢のバランスが取れ調和したものがお勧めです。まず「感情を鵜呑みにすることなく現実を見る」という外面向けの姿勢を、しっかりとした(くい)として大地に打ちつなぎとめることによって、次に、感情の荒波から抜け出る方向へと舟をたぐり寄せることができるのです。

 

 D男さんの場合も、まずは外面向けの合理的で現実的な思考法からアプローチを始め、それを妨げている内面の問題が明確になり、今度はそれを焦点としたアプローチを行うという流れになったわけです。

 そしてその先に、最初に取り組んだ外面向けの思考法と、これから行う内面向けの基本姿勢の実践が、バランスある調和に至った段階で、内面のストレスが大きく減少を始める、最初の治癒効果が現れてきます。この後その流れを具体性に紹介します。

 

 このような治癒効果への取り組みは、「この手順で行けばいい」というようなワンパターンは、残念ながらないと考えるのが正解のように私は感じています。幅広く総合的な視点から、その人に合った取り組み手順を考えるしかありません。

 それでも、D男さんのように、総合的な視点を持った上で、まずは外面向け思考法へのアプローチを主導として次に内面向けの姿勢に焦点をあて、「感情と行動の分離」を支える外面向けおよび内面向けの一連の基本姿勢を習得することで、最初の治癒効果としてストレス軽減を図るというのが、かなり標準的な流れになるように考えられます。その先に、安定を増した状態の中で、さらに本格的な取り組みを内面もしくは外面の問題に対して実践するという流れになります。

 

内面向け基本姿勢の3つの側面

 

 「感情と行動の分離」を支える基本姿勢の、内面向けのものについて、概要を説明しましょう。

 4章および5章の表でもまとめた通り、主に3つの側面として整理しています。

 この3つの側面は、「病んだ心からの治癒と成長」への取り組み実践の、入り口から出口までの流れの3側面でもあります。私たちの心を惑わす「感情」というものに対して、この3つの姿勢を確立することに、病んだ心からの治癒と成長への道があるという、とても重要な視点になります。

 それはまず「足がかり」を得ることであり、次に治癒と成長への前進があり、そして最後に、病んだ心からの決別という流れです。

 それぞれを簡潔に説明しましょう。

 

(1)「悪感情の基本的軽減」

 文字通り、各種の悪感情についての、基本的な軽減法を理解します。ハイブリッド心理学がここで重視しているのは、小手先の思考法やポーズさらにはごまかしによって無理に一時的に気分を良くするのではなく、「心の医学」として合理的かつ継続的に実践でき、着実な効果があるものだけを厳選していることです。

 世に溢れる「気の持ちよう」には、得てしてそのような小手先思考やポーズによる、ごく一時的な気分改善効果しかないものが多いように私は感じます。「心の医学」として本当に確実と言える「感情改善法」はそれほど多くはなく、ここで説明するものにほぼ限られるというのが私の考えです。

 

 もちろん、「気分の改善法」としてできるのはあくまでごく表面の「軽減」であり、根本的な感情の改善は、さらに本格的な取り組みの先で生まれる、心の深い土台での治癒と成長の全体を通して生み出されるものです。

 それでもここで述べる「悪感情の基本的軽減」は、着実な効果があると同時に、「心の治癒と成長」への基本姿勢の一つともなり、実践の積み重ねを通して、一時的効果を越えて根本的改善へもつなげるための基礎土台になるものと言えるでしょう。

 

 そのような「悪感情の基本的軽減」として、具体的には4項目をあげることができます。

 @怒りと焦りの解除・・・まず軽減したい悪感情である「怒り」「焦り」への対処法。これまで説明している通り。

 A「痛みをただ痛む」姿勢 ・・・「感情はただ内面で流す」という「感情と行動の分離」の内面向け原則そのものがそのまま、「失意」「悲しみ」「苦しみ」など「痛み」感情の軽減に役立ちます。「痛み」はそれを嘆き強調する姿勢によって、「苦痛」さらには「苦悩」への質的膨張を起こします。それをただの「痛みを痛む」姿勢により、ただの「痛み」へと戻します。

 B悪感情への耐性・・・「耐性を心がける」という基本。悪感情の中にも有益なものがあるという理解と合わせる。特に、心の障害の根本治癒は、病んだ心が自ら崩壊するような悪感情を通るという仕組みがあります。これを知り、乗り越える先に、心が開放された根本克服があることを知るのが大切です。

 C主な悪感情への対処原則・・・「怒り」「焦り」に加え、「自己嫌悪」「罪悪感」「嫉妬」「憎悪」「フラストレーション」「自殺衝動」「無気力」など主な悪感情への対処と克服方向性を理解する。これが「自己分析」「感情分析」と合わせ、より本格的な内面取り組みにつながっていく。

 

(2)「感情強制の解除」「内面感情の開放」

 「悪感情」への取り組みについては、上述の軽減姿勢を足がかりにして、さらに「感情分析」を中心にした本格的な取り組み実践があります。

 ではその一方で、「良い感情」はどのように生み出すのか。どうしたら湧き出てくるのか。それについてのハイブリッド心理学の考えは明確であり、極めて重要な考え方になります。

 「良い感情」は、意識努力によって人工的に作り出すものではありません。自分の感情を良くしなければという誤った意識努力を捨て、心を解き放つことによって、いかなる人工的操作が生み出すものでもない、心の自然治癒力と自然成長力として、湧き出てくるものです。

 

 そのため、内面における基本姿勢として、「感情強制の解除」そして「感情の監視統制の放棄」といった姿勢を通しての、「内面感情の開放」という姿勢が重要になってきます。

 「内面感情の開放」は、心理療法の世界では「カタルシス」つまり「吐き出し治癒」のような治癒効果を持つものであることが知られています。一方、「開放」される感情は、必ずしも最初から良い感情だけでは済まず、人生の中で目をそらしてきた、真の恐怖や根深い自己否定感情が開放されるかも知れないのです。つまり「開放」はしばしば諸刃の剣になります。

 ですから、「内面感情の開放」についても単独で考えるのはあまりお勧めではありません。外面における建設的な思考法行動法や、根深い否定感情の根本的克服についての深い理解などを合わせた、総合的なアプローチを、ハイブリッド心理学では何よりも重視しています。それによって、「感情」とは別のところに拠りどころを持てるようにしていくと同時に、内面感情を解放することで、「良い感情」が増えてくるのです。

 

 この「感情強制の解除」「内面感情の解放」が習得されてくると、「感情」というものが、自分で良いものにしようと躍起になる、いわば絵の具を塗りたてるようなイメージのものから、淀みなく流れる川の流れのように、「流れ移るもの」として体験されるようになります。

 これが「感情」全体への健康な、最も基本的な姿勢になるものです。

 

(3)「感情の放置」による「病んだ心の世界」への決別

 悪感情については軽減のための心の技術があり、より健康な感情については、心の自然治癒力と自然成長力の解放によって促されます。

 ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」においては、それだけでは終わりにならない、もう一つの、感情に対する重要な基本姿勢があります。

 

 それは「感情の放置」とでも呼べる姿勢です。

 この言葉だけでは、「感情をただ流す」もしくは「感情強制の解除」や「感情の監視統制の放棄」と似た話に聞こえるかと思いますが、それを超えたものです。

 つまり「感情の放置」とここで呼ぶ姿勢とは、一つの「心」の中で感情にどう対処するかという姿勢を超えて、自分の中に幾つかの異なる「心」があることを感じ取り、その中にある「病んだ心の世界」への明確な決別をするという姿勢です。

 「病んだ心の世界」として自分の心に流れる、一連の感情の連鎖の全体に対して、一切の関わりをせずに、ただ放置する姿勢です。それらの感情は、「この感情をどうにかしろ」と訴えるでしょう。その声に耳をかすことなく、何もせず、否定さえせずに、ただ放置するのです。

 

 自分の中にある「異なる心」とは、「感性の違い」によって見分けられるものです。

 自分の心の中に、「感性」が異なる、まるで脳の構造が全く異なるような、別の心の領域がある。それを感じ取る先に、一つの「心」の中で悪感情を軽減し健康な感情を促すのを大きく超えた、自分の中にある幾つかの「心」そのものの取捨選択という取り組みが始まるのです。

  この「心そのものの取捨選択」取り組みは、「魂の感性」「人の目感性」の違いが分かってくる、「中期」の段階からの取り組みになります。その2種類の感性がそれぞれ、「健康な心の世界」と「病んだ心の世界」に対応するものです。

 「中期」の段階の取り組みは、「前期」からのハイブリッド心理学の一通りの取り組み実践に、この2種類の感性の違いの視点を加味するものになります。どの感性において、自分の内面にどのような感情が流れ、外面への思考法はどのように変わるのか。

 その先に、自分の生きる心の世界の主座を、明確に「健康な心の世界」に置くという「選択」が、「中期」の完了節目として訪れます。それが「否定価値の放棄」です。

 

 「感情の監視統制の放棄」をさらに超えた「感情の放置」姿勢が分かるようになってくるのは、「否定価値の放棄」を過ぎた後の、「後期」の段階に主になってくるでしょう。

 それは同時に、人間の心の業と真実を知る、味わいの深い体験になるでしょう。

 そこにおいて私たちは、私たち自身の心を壊そうとする、私たち自身の心の中にある深い罪とも言うべきものに、「否定破壊」という同じ轍を繰り返すことなく、ただ何もせず見つめたまま放置することによって、それとの決別を果すことができます。

 そしてその先に、やがて「病んだ心」が「健康な心」の命の鼓動の波間に消えていく、全ての解決を見ることができるゴールが見えてきます。これがハイブリッド心理学の見出した答えです。

 

 揺れ動く「感情」を「放置」できるようになるとは、別の観点から言えば、「感情」とは別の何かを、自らを生かす原動力として得ることを意味します。

 それは単に調整やブレーキとして働く「知性」「理性」を超えたものです。それが「感性」と「意志」が手を組み、人の心を大きく支えるようになるものであり、そのように成熟した心の土台を、ハイブリッド心理学では「魂の感性」そして「命の感性」と呼んでいます。

 この詳しい内容を、「4部 心と魂の終わりなき成長へ」で説明します。

 

 このように、一つの「心」の中での悪感情の軽減、および健康な感情の促しを超えた、「病んだ心の世界への決別」があるということは、この心理学の取り組みがやはり「この通りにすれば心が良くなる」と決められた手順を行う、受身の「療法」ではないという話につながってきます。

 つまり、最後に決め手になるのは、誰に言われてそうするのでもない、本人の「意志」だということです。ですから私はこの心理学を「心理療法」とは位置づけず、あくまで「自らによる心の成長」のための心理学だと位置づけています。

 

「痛みをただ痛む」・何もしない姿勢

 

 さて、D男さんの取り組み実践の内容に戻りましょう。

 「感情と行動の分離」の基本姿勢が板につき始めてきたD男さんでしたが、まず何よりも解消を図りたい目の前の問題は、自宅療養を余儀なくさせ続ける、激しい心身疲労症状でした。それは「ありのままの自分で現実に向き合う恐怖」と、「恐怖をバネにして自分をストレスで駆り立てる姿勢」との、相乗効果が生み出したものです。

 D男さんからは、引き続き心身症状が報告されました。僅かながら改善の兆しが見えてきたものの、相変わらず生活に支障が出るほどのものであることが察せられます。まずはともかく、このストレスを減らしたい。

 

== D男さんから 2007.5.13(日)2通目 ==

今の状況は、不安、恐怖の感情が出て、体が緊張し、思考が働かない。1日のうちに4回ほど、恐怖に襲われる。1回1時間続く。「どうせやっても無駄だ」「働かなくていいのか」「社会復帰できないぞ」などとその時に言われたくない言葉が浮かぶのは変わらずで、それを流しています。行動にはつなげていません。

 

以前より時短して、のんびりしてきた感じはあります。

今イライラしているな、不合理なことをやろうとしているなあ、とちゃんと感じてきました。

夜が寝られないのは困ったものです。その場合は軽い睡眠導入剤を飲みます。医師には抗不安薬をもらっていますが、薬は抵抗があります。

 

 心身疲労の回復のために、「ストレスを取り除きリラックスしましょう」と言うだけなら、心理学はいりません。事実、「リラックス」さらに「攻撃的休息」という話について、私はすでにD男さんにしています。

 それを超えた、ストレス軽減のための心理学的な知恵と、思考の技術が必要になってきます。それが、「感情を鵜呑みにすることなく現実を見る」という外面への基本姿勢から引き続き取り組むことのできる、「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」という基本姿勢です。

 私はそれを、「悪感情の基本的軽減」の中の「痛みをただ痛む姿勢」という話から、より本格的な内面取り組みである「感情分析」への入り口となる「自分の感情の論理を客観的に把握する」という話まで、単純な話からやや難しい話へと順にアドバイスを始めました。

 

 まずは「痛みをただ痛む」という、最も単純な姿勢の話からです。

 これは同時に、「いっさいの意識努力を捨てる」という姿勢の導入でもあります。これが「不安」「恐怖」「苦しみ」「悲痛」などの「痛み感情」全般において重要です。なぜなら、痛み感情を無理に解消しようと意識努力するストレスが消えた時、痛み感情そのものが本来持つ治癒への働きが発動し始めるからです。

 こうした「意識努力の放棄」は、「不眠」への対処にもなります。眠ろうと努力するから、眠れなくなるわけです。

 D男さんにとってこれらは、今までの人生で思ってもみなかったことのようでした。

 

== 島野から 2007.5.14(月)「体に任せる姿勢」==

■「苦悩」を「苦痛」にそしてただの「痛み」へと戻す姿勢

 

やはり以下あたりはまず軽減化したいですね。

>不安、恐怖の感情が出て、体が緊張し、思考が働かない。1日のうちに4回ほど、恐怖に襲われる。

>夜が寝られないのは困ったものです。その場合は軽い睡眠導入剤を飲みます。

 

とりあえず「流す」という話の延長ですが、“「苦悩」を「苦痛」にそしてただの「痛み」へと戻す姿勢”というのは感覚的に分かりますかねぇ。

サイト資料からの抜粋で、前に他の相談者の方に送ったメールですが、

------------------------------------------------------

「痛み」は、それを嘆くことにより、「苦痛」になります。

「苦痛」は、それがない状態を「あるべき姿」と考え、それが実現するような救いがないことを嘆くことで、「苦悩」になります。

まずこの基本メカニズムが働いていないか。広範囲に自分の日常の思考を点検して下さい。

 

歯医者が好きとのことですが、痛みの受け流し方とか考えたことはありますか。

「痛いだろうか痛くないだろうか」と、痛みに精神集中すると、痛みが拡大されます。

痛む時に痛む存在として自分を受け入れると、苦悩は苦痛に、そしてただの痛みへと戻って行きます。

なぜ受け入れるか。僕の場合は、自分が動物だからと考えています。「こんな痛みなどあるべきではない」などと考えることのない動物のように、僕は痛みを痛もうと思っています。

-------------------------------------------------------

 

不安、恐怖、緊張の類も同じですね。不安があることに意識を集中して嘆くと、苦悶になります。怖があることを嘆くと、パニックになります。緊張を嘆くと、体が硬直します。

それを、ただ「不安が流れる」「恐怖が流れる」「緊張が流れる」だけに戻す姿勢。流れるに任せるという感じですね。

 

寝られないのを困ると、眠れなくなります^^; まさにその「困る」が、「意識活動」だからです。

逆に言えば、「困るために」には寝てはいられない。

 

これも、ある程度の就寝と起床時刻を決めたら、あとはなるように体に任せるのがお勧めですね。

眠れなくても目をつぶって横になれば、それなりに体は休息を取るものです。眠れなくて睡眠不足になったら、どこかで勝手に眠くなります。それをなるたけ、中途半端な時間帯ではなく定常的な就寝時間にお任せするようにする姿勢がお勧めですね。

 

== D男さんから 2007.5.15(火)==

>ただ「不安が流れる」「恐怖が流れる」「緊張が流れる」だけに戻す姿勢。

今はそうしています。衝動的な行動をしたい時は、その気持ちだけを流しています。

> 「体に任せる」という感覚が分かるか、ちょっと確認頂ければ。

気功を始めました。まさに「体に任せる」極意という感じです。

 

何もしないということは大事なんですね。

いつも何かをしないと落ち着かないわたしとしては目から鱗です。

 

 「心」が「何かする」時間だけの中で成長すると考えるのは、大きな誤りです。「心」は時に、私たちが頭をいっさい使わない時間の中で、勝手に成長をします。

 私も、原稿を書いていて、うまく文章がまとまらないことがあります。その時は、あまり無理に文章をひねり出そうとはせず、キーワードとそのつながりだけを頭にしっかりと放り込んでおきます。そして一晩眠って目覚めると、完成された文章が不思議と頭にすぐ浮ぶという感じに大抵なります。人間の脳というのは、見えない中で働く潜在力を沢山持っているのでしょう。

 そうした「何もしない中で起きる成長」を大切にし、それを否定するような思考法、そして無駄なストレスを捨てると共に、それを促す姿勢や生活習慣を取り入れるのがお勧めです。

「感情への耽溺(たんでき)」「感情の一人歩き」をけん制する

 

 「痛み感情をただ流す」「なにもしない」の次は、感情のストレスを減らすために、「何かする」ことです。

 まず、自分から積極的に感情のストレスを膨張させる姿勢がないか、確認するのがいいでしょう。まるで飛んで火に入る夏の虫のような姿勢。

 

 これは「感情への耽溺(たんでき)」「感情の一人歩き」の問題として捉えることができます。心のスクリーンに、「とにかく感情!」と目いっぱいに映しだして、他のことがまるで見えなくなってしまうのです。

 「痛み」が「苦悩」に化けるのも、この姿勢の結果と言えます。「感情」というのは、それに見入って強調すると、どんどん怪物のように化けていく性質があります。そしてしばしば、「感情」がそれに対応する「現実内容」をもはや持たずに一人歩きすることが起きがちです。

 まずはこれが自分の中に起きていないかを確認します。もしそれが起きているのであれば、その「現実との不釣合いさ」をしっかりと見据えることです。

 「正そう」とはしなくてもよろしい。「正そう」と考えると、また話が「ストレス」の振り出しに戻ってしまうからです。「正そう」とすることなく、「現実との不釣合いさ」をしっかりと見据えることで、自然とそれは鎮静化します。

 

 ただし「感情に見入り耽る」ことの全てが良くないことだとは、ハイブリッド心理学では考えていません。

 「感情に見入り耽る」のが有害になるのは、それが本来「外界現実への反応」として起きる感情の類である場合です。「怒り」「嘆き」がこの典型です。「怒り」に見入ることは、間違いなく「怒る自分への怒り」「自分を怒らせたものへの怒り」として自己膨張し、最後には何に怒っているのか分からなくなるような一人歩きになります。

 一方、「自発性の感情」に耳をすませ感じ入ることは、逆に心の成長と健康に望ましいことです。これは「楽しみ」「喜び」がその代表です。また、「悲しみ」の中にも、心の深い部分から湧き出る「自発性」の部分があり、それに感じ入ることが心の障害からの治癒において、根本的な役割を果します。

 そのように、感じ入ることが心の成長と健康にとり極めて重要な感情は、ハイブリッド心理学においては「魂の感情」として分類されるものです。詳しい説明を4部で行います。

 

 見分ける目を持つことが大切です。どんな感情が私たちの心を成長と幸福に導くのか。

 D男さんも今、それを学ぶ道の入り口に立っています。

 

「感情への耽溺」に求めているものを意識化する

 

 「感情への耽溺」「感情の一人歩き」を鎮静化するにあたり、実際の取り組み実践としては、それを把握し「現実との不釣合いさ」を自覚するだけでは、実はまだ不足します。

 さらに、「感情への耽溺」「感情の一人歩き」が何を求めているのかという積極的な意味を把握することで、初めてその「現実との不釣合いさ」とのトレード・オフが心の底の天秤にはかられ、無理に「正そう」とするのではない、心の底からの捨て去りが起きます。

 感情に耽溺することの中に、自分は何を求めているのか。一人歩きする感情は、何を目指しているのか。それを把握する実践がここに出てきます。話が少し、精神分析的なものに近づいてきます。

 

 私はD男さんへの「何もしない」の次の一歩として、先日「人生をかけた取り組み」だと伝えた時に同時に始めていた話に、再度焦点を当てました。「自己処罰感情」に耽る中に、「苦しむ人間は高貴」という自尊心感情や、「愛を求める甘い感情」は含まれていないか。

 その際にD男さんはこんなコメントをしていました。

持病用の薬が近い感覚です。苦しい時ほど、恍惚感が味わえます。麻薬です。

この薬の習慣のせいか、結果をすぐに求める。早く楽にさせてくれ、となっているのかもしれません。

 「感情への没入」傾向が、とにかく強く存在することをうかがわせる言葉です。

 もしその中に、「自分のことなんてもう忘れたい」という「忘我衝動」が含まれていた場合、今のD男さんであればそろそろそれを捨てることのできる段階ではないか、と私は考えました。それは自分を成長向上させる方法が何も分からない時に耽ることのできる、甘い感情ではあったでしょう。

 

 一方、何か大きなものに自分を委ねたいという、単なる自己放棄を超えた深い情緒があることも、人間の心の真実と言えます。「神」という観念も、そこから生まれたのでしょう。人間は不完全な存在であり、弱い存在なのです。

 そうした深い情緒を認める一方、「現実世界」においては、「自分なんて」と自己放棄したところで何も始まらない。

 心の中にあるものを、否定し正そうとすることなく、全てしっかりと見ることです。そしてその意味をしっかり見分けることです。そこに心の底から不合理なものを感じ取る部分があれば、それは自然と心の底から捨て去られていきます。これが「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」基本姿勢の、心の治癒と成長への作用の原点となるものです。

 

== 島野から 2007.5.16(水)==

>何もしないということは大事なんですね。いつも何かをしないと落ち着かないわたしとしては目から鱗です。

その通りですね^^

まあ、1)何かするなら本当に「有益なことをする」のと、2)「無駄なことをやめる」と、3)「成長のためのなにもしない時間」を持つこと。この3つが基本になりますね。

 

・・(略)・・

■「感情没入」「忘我衝動」

 

「結果をすぐに求める。早く楽にさせてくれ」という中に、「もうどうにでもなれ」といった「自己放棄衝動」がある場合に、「感情に耽って我を忘れる」という「忘我衝動」の心理メカニズムがあります。

 

これは耽る感情が「恐怖」でもあり得るかも知れません。まあ自分のことを忘れるために恐怖に耽る..というのもちょっと変ですが^^;

いずれにせよ、「自分のことを忘れたい」という気持ちが先にあると、恐怖感情の餌食になって怯えるばかり、ということはあるかも知れませんね。

 

参考まで、先日掲示板でも引用したホーナイの説明を書いておきます。

=====================================

大きな何かに自己を明渡したいという願望は、多くの宗教のなかの本質的な要素であるように思われる。・・(略)・・それは愛に対する切望という形をとるばかりではなく、他にも多くの形をとって現れるのである。

それは、あらゆる感情に我を忘れようとする彼の傾向の中の一要素にすぎないのである。彼は「涙の海」や、自然に対する恍惚とした感情や、罪悪感への沈溺や、性の快感や眠りの中での忘我状態への熱望や、究極の自己消滅としての死への願望に我を忘れることもしばしばなのである。

=====================================

もしそうした「忘我衝動」があれば解除するのがいいですね。

どう解除するかと言うと、う〜んまあ、「恐ろしいから恐怖を感じるのではなく、自分を忘れるために恐怖に耽っているんではないか」と振り返る感じですかな。

 

 しかしD男さんからの返信は、私が切り込んだ角度とはまたちょっと別のものでした。「感情への没入」が、「自己放棄」というよりも、「自己誇大衝動」の一人歩きとも言える方向に作用しているようです。

 

== D男さんから 2007.5.16(水)==

>「感情に耽って我を忘れる」という「忘我衝動」の心理メカニズムがあります。

これに近い感覚はあります。

30歳前後の好調な時には、スケジュール帳がいっぱいになるほど予定を埋めて、自己啓発に励んでいました。時折、忙しくて死ぬほどの思いを何度もしました。健康を害するくらい。

私の言葉にすると、「空中分解してしまう!」感覚です。

 

でも、これが選ばれた人間しかわからない苦痛だという快感はありました。

その間にみんなは遊び惚けている。俺は違うと。神に選ばれた者というか。

今も恐怖に苦しんでいますが、この苦しみを越えると「素晴らしい自己が芽生える」という期待はあります。

・・(略)・・

他の人間にはできない経験をして、これからは「私の時代が来る」とふと思うことがあります。

世の中のみんなとは違うと。私の経験がこれからはすごいノウハウになるという気持ちはちょっとあります。会社の人たちを見返してやるという気持ちも含まれます。

 

また、映画や本、セミナーですごい人の話を聞くと、すぐに近づいて奥義を教えてほしくなります。

自分を変えてもらえるという期待があるのです。すぐに飛びつく。先生に近づく。親しくするなど。

結局、今は駄目でも潜在的な自分は「素晴らしい」という可能性を信じていますね。

また、わたしをすごいと言ってくれる人を選んで友人になっている部分もあります。

 

「感情没入」「忘我衝動」をよく考えると、かなりありそうです。

これによっての成功体験もありますから。

これからも自己観察してみます。

 

一人歩きする「誇大衝動」をけん制する

 

 「誇大衝動」、つまり「すごい!」という感情が一人歩きしている状況があるようでした。

 D男さんの場合、それが「自己誇大衝動」つまり「自分はすごい」と感じられることへの熱望として一人歩きしていると同時に、「他者誇大衝動」つまり「すごい!」と感じる他人になびいてしまう感情の一人歩きとしても作用しているようです。

 時にそれは、何が「すごい」のかの内容さえ失った、単なる興奮状態の一人歩きにさえなります。それが滑稽な姿になるほどに明らかである場合は、ともかくその無意味さを自覚して、熱を冷ましたい。

 

 私はそれをD男さんに指摘すると同時に、そのように一人歩きする感情に頼る姿勢の代わりに、何を目指すのが良いかを伝えました。

 それが「感情を鵜呑みにすることなく現実を見る」姿勢の中核となる、「中庸の目」です。取り組み実践のスパルラルがこうして、一段階アップして同じテーマに戻ってきます。

 

== 島野から 2007.5.17(木)==

>「感情没入」「忘我衝動」をよく考えると、かなりありそうです。

とのことで、これとも関連のある話を入れたいと思います。

 

■「感情の一人歩き」

 

「感情没入」とも実に関連する話で、「感情との適切な距離」というのが課題になる話ですが、

「感情の一人歩き」という状況について確認してみるといいと思います。

>また、映画や本、セミナーですごい人の話を聞くと、すぐに近づいて奥義を教えてほしくなります。自分を変えてもらえるという期待があるのです。すぐに飛びつく。先生に近づく。親しくするなど。

 

この「すごい!」という感情の一人歩きですね。

こんなイメージ。「すごい!すごい!すごいよ!」とAさんがBさんに伝えようとします。Bさんはちょっと忙しくて煩わしそうにして話を聞くのに時間がかかる。Aさん「すごいんだよ!Bさん何やってるの..こっちはすごいんだよ!」

で暫くしてBさん「で何がすごい?」。Aさん「あれ何がすごいんだっけ..」チャンチャン。

 

そう言えば先日の

>一度ある本がどうしても欲しくなり、アマゾンで購入したところ、届いた瞬間に興味を失せました。

もちょっとそんな感じがある気がしますね^^;

 

■感情に揺らがない「中庸の目」

 

でそうした「一人歩きした感情」という極端を通すことなく、ものごとを評価する目が、一度テーマになった「中庸の目」だと言うこともできます。

 

「中庸」というのは、ヤフーの辞書だと以下のように出ていますね。

-------------------------------------------------

かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。また、そのさま。「―を得た意見」「―な(の)精神」

アリストテレスの倫理学で、徳の中心になる概念。過大と過小の両極端を悪徳とし、徳は正しい中間(中庸)を発見してこれを選ぶことにあるとした。

-------------------------------------------------

ハイブリッドでは、「中庸の目」を「多面を同時に持つ一つの本質を見る目」と定義しています。

 

僕としては、この「中庸の目」で自分自身を見ることが、D男さんの今回の復職までの主テーマになると思っています。これを色んな角度でアドバイスして行こうと思いますが、まずは「感情の一人歩き」を確認することからして頂ければと。

 

 このような「興奮感情の一人歩き」については、D男さんとしても、その弊害を重々自覚できるようでした。とにかく心身へのダメージは相当なものだと。

 しかしそれですぐすんなりと捨てることができるものでもありませんし、ここで「中庸の目」が分かるわけでもありません。弊害を嫌に感じても、一方でそれが持つ役割利益に、まだ少し後ろ髪が引かれるものも残っているようでした。

 そうしたプラス面さえも超えることのできる、新しい思考法と姿勢が身について初めて、古い姿勢が心底から捨て去られていきます。そのためには、まだもう少しスパイラルを回して、視点を追加していく必要があります。

 

== D男さんから 2007.5.19(土)==

現在、感情と行動は切り離しています。衝動的に思ったことはそのまま流して、本当にやりたいことかを確認しています。

ほとんど一時的な感情ですね。一晩置くと考えが変わります。行動することの半分は行動する必要がないですね。

 

とても脳が興奮していると実感できます。興奮の中身は「怒り」「焦り」「悲しみ」「恨み」など。

長い間私はこれらの感情を使って目的を達成してきました。崖ぶっ地に追い込むことで火事場のクソ力を出していたのでしょう。

短期的にみると達成は早まりましたが、心身のダメージは相当なものです。

今も脳が興奮して誤動作を起こしている感じです。これらを行動にしていたら、今の状態になるのも、うなづけます。

 

しかし、「会社のみんなに追いついてやる」、「俺がすごいことを証明してやる」、と思っています。

もう一方で、「やっても意味ない」、「俺は駄目」とも思っています。

両方が私を苦しめています。焦るくせに否定する二重の苦しみ。

 

当分脳のクールダウンが必要ですね。「何もしない」という。

この「なにもしない」という行為も、私にとってかなり恐怖です。「目標をもって何かすること」→「物事の達成」という公式が染みついているからです。

でもこの目標も怪しいものです。仮想の敵をつくり、正確に狙って撃ち抜くにはどうしたらいいのかを悩んでいた感じです。そもそも敵はいたのか。いないですね。

 

今は「何もしない」で、ゆっくりと生活しています。早め早起き、食事など規則正しい生活をしながら、心身を休めようと思います。

この生活でいいのかと自問しますが、とりあえず続けようと思っています。

今回は自分を見つめるいい機会です。2回目の休職なので、開き直ってきました。

 

 D男さんのこうした自覚の言葉は、実に「もの分かりの良い」ものに聞こえるかも知れませんが、本当に前進するために必要なものの全体を見る、心理学の目が重要です。

 D男さんのこの言葉は、弊害を取り除きたいという気持ちを代弁してはいます。しかし、弊害が起きる一方でそれに向って駆り立てられているものの本質も、それに代わる方向性も、D男さんの視界にはまだありません。

 実は、問題の本質にまだ取り組み始めてもいません。ハイブリッド心理学において「問題の本質」とは、「愛」と「自尊心」がまずその筆頭です。今はまず、それに取り組めるような姿勢を作るという準備段階の、ほんの入り口なのです。

 それをまずは心身ストレスの軽減という、目の前の問題への対処を兼ねたものとして進めます。

 一人歩きする感情の弊害を見る目の次は、一人歩きする感情の論理を客観的に見る目を取り入れることです。これが感情のストレス軽減と同時に、より本格的な内面取り組みである「感情分析」への入り口になります。

 

 私は受信連絡がてら、それを一言伝えておきました。D男さんとしては、やはり「クールダウン」以外には発想が湧いていないようです。

 アプローチを一段階上げる前進を、私は練り始めます。

 

== 島野から 2007.5.20(日)==

>とても脳が興奮していると実感できます。興奮の中身は「怒り」「焦り」「悲しみ」「恨み」など。

>しかし、「会社のみんなに追いついてやる」、「俺がすごいことを証明してやる」、と思っています。もう一方で、「やっても意味ない」、「俺は駄目」とも思っています。両方が私を苦しめています。焦るくせに否定する二重の苦しみ。

これらについては脳のクールダウンでは解けず、「感情分析」の実践を通して、全く異なる思考回路による感覚や感情を自分の中に見出して行く「活動」が必要になると考えています。

その辺の説明をちょっとまとめ、明日には送ろうと思いますのでちょっとお待ち頂ければ。

 

== D男さんから2007.5.20(日)==

これはクールダウンでは解けないのですか。

ご説明よろしくお願いいたします。

 

「感情分析」とは何か

 

 「感情分析」については、「人生をかけた取り組み」だという視点を伝えた際に、すでに導入し始めています

 その時は、「空想から現実を見下す」生き方から「現実をベースに向上する」生き方へという大目標を検討する一貫で、「自己処罰」に「高い理想意識への自尊心」や「愛を求める甘い感情」が含まれているのではと指摘しました。

 その時D男さんは「選民意識」の存在を自覚しているようでした。過去の「コンプレックスへの反動」かも知れない、と。ただしその後は、ハイブリッド心理学の習得への焦りにパンク状態になっていることが判明し、「攻撃的休息」の導入を経てここまで来たわけです。

 「感情分析」はそのように、心理メカニズム理論に沿った形で、今まで一つの感情であるかのように体験していた自分の感情を、複数の感情要素に「感じ分け」、その個々において、別々の対処姿勢を取るようにしたり、不合理な部分を自覚したりするといった、高度な心理学的思考技術だと言えます。

 それによって、「素の思考」では太刀打ちできない複雑な心の問題へと、根本的な克服への取り組みをすることができる、ハイブリッド心理学の実践の中でも大きな役割を果すものです。

 

 それでもその根本は、先に、「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る基本姿勢」の、心の治癒と成長への作用の原点と書いたものと同じです(P9)。つまり、心の中にあるものを、否定し正そうとすることなく、全てしっかりと見ることであり、その意味をしっかり見分けるということです。そこに心の底から不合理なものを感じ取る部分があれば、それは自然と心の底から捨て去られる、と。

 

 ハイブリッド心理学の「感情分析」は、有名なフロイトの「精神分析」の流れをくむ取り組み実践です。中でも特に、カレン・ホーナイの精神分析理論を一つの大きな基盤として、私はこのハイブリッド心理学を整理してきました。

 精神分析は、複雑で難解な心の障害の症状へのアプローチとして有効なものですが、それ自体がかなり難解なものであり、机上の勉強だけで理解することはまず不可能です。その結果、精神分析をとかく神秘的な、魔法の治療法のようにイメージしたり、逆に精神分析そのものが虚構の学問だと批判したりするといった、偏った受け取られ方をしがちです。

 しかし、少なくともハイブリッド心理学の「感情分析」は、もちろん神秘的な魔法の治療法などではなく、その効果の根本は、「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」という内面向け基本姿勢の効果そのものの、積み重ねでしかありません。

 つまり、1)痛みをただ痛む姿勢や基本的対処法を知ることなどによる悪感情の基本的軽減2)感情強制を解除し内面感情を解放すること、3)決別すべき心の領域で動く感情であれば断固として放置する姿勢、という3つの側面です。

 逆に言えば、この内面向け基本姿勢がないまま、いくら闇雲に「分析」したところで、治癒の効果はないといういことです。

 

 難しいのは、その効果の起き方の難解さになるでしょう。これについては、「7章 感情分析の心理技術」で詳しく説明します。

 ここで言えるのは、効果の基本がさきほど言ったように「心の底から不合理なものを感じ取る部分があれば、それは自然と心の底から捨て去られる」ことだとして、それが実に遠回りな形で、さまざまな感情がつながっていることを自己理解する思考作業に、感情分析の「分析」たるゆえんがあります。それがなされた時、心の底に何かの「ひらめき洞察体験」のようなものが起き、心の底に変化が起きるというものです。

 その上で、どんな自覚がどんな変化を生むかの様子が、実に複雑で難解です。これはもう「精神分析」もしくは「感情分析」の難解さというよりも、人間の心そのものの複雑さと難解さを示しているのでしょう。

 

 いずれにせよ、そのような複雑で難解な人間の心というものを、自分自身でマスターして、自分の心の根底の変化を導く。それが「感情分析」の取り組み実践です。

 これは私たちの複雑な身体機能をマスターして最大限の力を生み出すという、武道と全く同じ話です。いわば、ハイブリッド心理学の「感情分析」は、心における合気道のようなものです。

 基本は実にシンプルであり、「自分を知る」ということです。

 

感情を客観的に見る・「純粋知性」で感情を把握する

 

 さて、ここでは「感情分析」の本格的内容には立ち入らず、その入り口となる基本姿勢部分に注目しましょう。

 ポイントは、自分の感情を客観的に見る、ということです。

 「知性」で感情を把握するということです。「純粋知性」によってです。

 

 私たちの「素の思考」は、とかく感情を感情で良し悪し判断しています。こんな気持ちになってはいけない。この気分は実に壮快だ。こんな感情の持ち主とは、とんでもない人間だ、あるいは素晴らしい人間だ。

 それをそうではなく、「純粋知性」によって、感情をただ客観的に把握する。いまこれこれの悪感情が自分の心に発生した。これは快の感情である。これこれの感情を心に持つ人は、他人からは概してこのように感じられるだろう。

 自分の感情に少し距離を置く、「自分自身への傍観者」的な感じに多少なります。ただしこれ自体が心の成長や健康ではないことにご注意ください。これはあくまで自分の生き方の方向転換を検討するための、一時的なブレーキをしっかりと踏めるということなのです。「自分自身への傍観者」が一時的なブレーキではなく、生活の全面にわたるようになると、「無気力無感動」という、それ自体が心の障害の一つの姿になってしまいます。アクセルとブレーキのオンオフをめりはり付けられることが望ましい。

 

 それが、4章で「自己の重心」に関連して説明した、「心の医学思考」につながります。

 自分の中に流れる感情が、心のメカニズムにおいて、そして心の治癒と成長と幸福の仕組みにおいて、どこに位置づけられるのかを、客観的医学の姿勢で把握する姿勢です。それが先に述べた、1)痛みをただ流す基本的軽減、2)内面感情の解放、3)決別すべき心の感情の放棄、という内面向け基本姿勢の、より高度なものへの基盤になるのです。

 「理性」によって感情を抑える、という話は聞いたことがあると思います。それとはまた違うものです。「理性」と「知性」の違いとは何か。D男さんもその違いがあまり分からなかったようで、この後テーマになります。

 

 さて、D男さんにつきまとっている「怒り」「焦り」「悲しみ」「恨み」そして「俺がすごいことを証明してやる」、「俺は駄目」といった「脳内興奮」は、「クールダウン」だけでは鎮めることはできない。「解く」という「感情分析」の取り組みが必要になる。

 私はそれを一通り説明するメールをD男さんに送りました。

 そのメール上で私は、D男さんの主な「脳内興奮感情」を解くためのヒントも出しました。しかし、それで実際に「ひらめき洞察体験」まで行くには、まだかなり難しい内容です。まずはD男さんがどこまで分かるか、様子を探ります。

 

== 島野から 2007.5.21(月)==

・・(略)・・

単純に頭に血が昇ったような、生理的な過剰興奮状態などなら、「解く」のはクールダウンでokです。まあその場合は「解く」というより、「鎮める」だけですね。

上述のD男さんの言葉に表現されているのは、「優越衝動」や「徒労感」という「感情」であり、単純な生理的興奮ではなく、その質的内容を検討するのであれば、「鎮める」ではなく「解く」になりますね。

解くための活動が必要になるわけです。

それが「感情分析」になるわけです。

 

■「感情分析」アプローチ

 

「感情分析」は、自分自身の感情をじっくりと吟味して、その意味合いや論理をしっかりと自己把握する作業です。その中で、今まで一つの感情として意識していたものを複数の感情に感じ分け、その連鎖の流れを自分で理解する作業です。

 

重要なのは、「自分の中の何が悪いのか」という、感情の良し悪しを問う目を向けずに、純粋に、感情の意味と論理の流れを把握する目を向けることです。

「この感情が悪いんだ!」という「自己処罰」になったら意味ありません。そうならないように、というかそうならないような自己把握の仕方をするのが感情分析です。

 

これは例えれば、謎解きゲームの時に使う思考回路を使います。ちょっと例を出しましょう。

3人の人間がいて、一人だけ嘘つきがいる。A「私は正直者です」。B「嘘つきはCです」。C「嘘つきはAです」。さて誰が嘘つきでしょう。

答えは言わないでおきましょう。ちょっと考えれば分かります。

 

さて、それを考えた時、嘘つきを怒る思考や感情は使わなかったと思います。使ったのは、ひたらす論理を解く知性です。

で誰が嘘つきか分かったら、良し悪しを問う怒り思考が起きるかも知れませんね。

しかしこの論理パズル思考と怒り思考は全く思考回路が違うので、間に切り替わりが入ります。どっちの思考回路を使っているか、自分で分かると思います。

 

感情分析とは、まさに上記の謎解きゲームをやってみて頂いた時に使った論理パズル思考を、自分の感情について行うものです。

自分の感情は、どんな論理で動いているのか。

・・(略)・・

 

■感情分析のための地図が心理メカニズム理論

 

これはワインのソムリエに例えられるというか、実際に匹敵するような、実践の積み重ねによる熟達があるものです。

まず大きな味の違いがある2つのワインを用意して、味の違いを実際に味わって、憶えてみる。それを繰り返すと、味見しただけでどっちのワインかが分かるようになる。

次に、その中間の味の違いのワインを、似たように練習していくと、さらに微妙な味の違いのワインを味見で分けることができるようになる。

 

それと全く同じように、頭で一通り理解すれば終わりのような算数ドリルや英単語ドリルとは違う、じっくりと日数をかけて行う作業になります。

まあ、感情分析は一度始めたら、生活の中で必要な都度、生涯を通して携えていく、一種の心理学的サプリメントという感じのものと理解して頂ければと思います。

 

でワインのソムリエもそうですが、「実際にどんなものがあるのか」の地図のようなものが必要になります。ワインの場合は銘柄表のようなものですね。

感情分析の場合は、「心理メカニズム理論」がそれに当たります。心理メカニズム理論に沿って、該当するものが自分の心の中にどう働いているのかを、感じ分けるわけです。

 

ですから、心理メカニズム理論は感情分析に役に立ってこそ、良く出来ている理論だと言えますし、僕としてもハイブリッドの心理メカニズム理論を常に進化させて、感情分析がより容易になるようなものにしようとしている次第です。

 

(続く)

 

「自尊心感情」の一人歩きと「先回り自己処罰」

 

 さて、ここまでが「感情分析入門・概説」です。

 次がD男さんの脳内興奮感情を解くためのヒントです。

 私がここで説明したのは、人間の「自尊心」の感情に幾種類のものがある。それを自分の中で見分けるように、という話です。

 私はここで「敵対型自尊心」「自律型自尊心」という2種類を説明してみましたが、この言葉ではやや分かりずらいかもしれません。ポイントは、回りの人々を圧倒できるような「全能万能」を求める空想的な自尊心と、現実を客観的に見ることに基づく着実な自尊心の違いです。

 その違いを説明するために、私はちょっとした寓話を創作してみました。

 同時に、D男さんの主問題とも言える「先回り自己処罰」(6章アドバイスメール/主な「治癒課題」と「成長課題」を把握する)がその「敵対型自尊心」から生まれるというメカニズムも説明しました。つまりそれを、現実を客観的に見る「自律型自尊心」へと方向転換することが、解決への出口になるということです。

 

(続き)

 

■「魔法の石を持つ者と鉱物学者」の話

 

2つの自尊心の違いを理解頂くために、ちょっと寓話のような話を用意してみました。ハイブリッド寓話という感じですかな。題して、「魔法の石を持つ者と鉱物学者」の話。

 

「魔法の石」を自分が持つと言う者がいます。「この石は全能万能の力と幸福をもたらす魔法の石だ。すごいだろう。この石を持つ我こそが、この国の王となる人間だ」。

多くの民はそれに驚き、信服し、ひれ伏してこの「魔法の石を持つ者」を崇め奉ります。「魔法の石を持つ者」は、頂点の栄光を手にいれた高揚と歓喜を抱きます。

 

一方、その「魔法の石」を疑う民衆も出てきます。「そんなのただの石ころではないか。お前はいかさまではないか」。「魔法の石を持つ者」は怒り狂い、この民衆を弾圧しようとする。

しかし疑う民衆の方が優勢になると、「魔法の石を持つ者」は薄氷感と焦りの中に置かれる。自分でもそれが本当に「魔法の石」なのかあやふやになってくる。恐怖に駆られ、逃げ出したくなってくる。

 

そこに今度は「鉱物学者」が出てきます。その「魔法の石」を分析し、それがゲルマニウム鉱石で、それが発する磁気が細胞を活性化させ健康に効果があるという調査結果を示す。

 

■「一人歩き感情」を通さずに現実を見る目

 

上の寓話が、「感情を通さずに現実を見る」という姿勢、そして「空想に立って現実を見る」のではない、「ありのままの現実を見る目」を説明するものになります。

 

事実D男さんの場合、感情は「魔法の石を持つ者」のように動いているのではないかと。

まず「どうだすごいだろう」と誇示する感情がある。その感情に合うような、仕事振り仕事内容を自分にあてはめるという方向で思考で動く。その感情をエネルギーにして、自分を駆り立てる。

 

一方、その感情があろうとなかろうと、D男さんにできる仕事というものがあり、それが実際社会でどのように位置付けられるかという、「現実」があります。

これは、上の寓話が示す通り、栄光の歓喜と高揚にも、薄氷感と焦りと恐怖にも、関係なく淡々とした事実として、あります。

 

それを見る目を自分自身で持つと、自分のこれからの仕事はどう考えられるか。

それを探ってみるということですね。

 

■「墜落への恐怖」が生み出す「先回り自己処罰」

 

「先回り自己処罰」も、上の話の延長で理解できるかも知れません。つまり、頂点の栄光が実はニセモノだという不安があると、その予防のために、先回りして自分を挫くという心理メカニズムがあります。

 

これを「墜落への恐怖」と呼んでいます。カレン・ホーナイが指摘した心理メカニズム。

ものごとがうまく行く直前に、自分からそれをチャラにしてしまうような行動に、この心理が表れがちです。

なぜかというと、頂点に立ったという誇らしげな姿の中で失敗して無様な姿をさらすのは、その誇大的な態度が大きければ大きいほど、そのイカサマ性への糾弾が激しくなるからです。「大きな口たたいて!」と。

ですから、自分で有頂天になって人に糾弾されるより、先回りして自己処罰した方が、心理的には楽なんですね。ホーナイの言葉を引用すれば、「高く登れば登るほど、墜落の恐怖が高まる」わけです。

 

これが無意識に働く場合がある。何か事を始めようとすると同時に、できていない自分を責めたてる。

そうした感情の論理が働いていないか、などを自己観察するのが、感情分析になります。

 

 この「魔法の石を持つ者と鉱物学者」の話は、実際のところ人間心理のエッセンスとも言えるものを表現していように感じます。

 「全能万能」を求める幻想と、それに魂をあけ渡した者がたどる自滅の運命。一方、その全てに中立の姿勢を向ける、科学の目。そこに、混乱と錯綜の世界に一線を引く、向うべき道が示されます。

 それがハイブリッド心理学の探究するものの一つの凝縮されたテーマであると同時に、人間の歴史を通して語り継がれたさまざまな寓話が、実はこの主題を原型として生まれているように感じます。

 

治癒への最初の兆候:頭痛の消失

 

 D男さんの返信は、数日を置いてからになりました。内容を把握するのに時間がかかったようです。無理もありません。外出ができないほどの心身疲労にまず取り組んでいる段階です。

 それでも、治癒への最初の兆しが、男さんからの返信で伝えられました。「頭痛が消えた」とのこと。恐らく、今回の話が直接生み出した治癒作用ではありません。ここまでの取り組み過程の積み重ねが、今始めて目に見える治癒効果となって現れたのです。

 一方、私の説明を自分自身のひらめき洞察体験につなげるには、まだ少し頭が回りきらないようでした。相変わらず「解く」ことのできない、生理的な激情とも言えるものが時に湧き起こる様子が伝えられます。

 

== D男さんから2007.5.25(金)==

現在、自然治癒力を引き出すため、規則正しい生活をおこなっています。部屋にこもることも減らし、なるべく自然の多い公園などで過ごす時間を増やしています。

 

> 上述のD男さんの言葉に表現されているのは、「優越衝動」と「徒労感」という「感情」であり・・・「この感情が悪いんだ!」という「自己処罰」になったら意味ありません。

自己、他人処罰の感情が出ますが、そのままに流しています。

規則正しい生活と決めながら、できない日は自分を責めがちですが、それも流しています。

こういう日もあるさ、と思いたいところですが、まだ責めます。これも仕方ないか。

 

感情と行動を分けられたことで頭痛からは解放されました。

ただ、最近は体の疲れが感じられて、ゆっくりしたいと思っています。これは身体感覚が蘇ってきたのでしょうか。前みたいな行動はできないですね。

まだ、気分の上下があり、行動する日、しない日がはっきりしています。

今日は何もしたくない日です。食事も面倒くさい。

 

>感情論理把握作業をすると、「この感情は不合理だからやめなければ」と頭で考えることなく、心の底がそのあまりの不合理性を感じ取って、感情が消滅したりします。

これは実験中です。不合理な空想を多く持っていることは自覚してきました。

もともと私を守るためにこれらの空想は作られたのですね。当時はありがたい空想ではないかと。

でも今は苦しい。もう卒業する考え方かもしれません。

・・(略)・・

 

一方、時折腹の底からグォーとのどと頭を締め上げる感情があります。この場合は理由が見あたらないですね。よくわからない感情です。ずいぶん前からこの感情に襲われています。

後追いで、不快な理由付けをしますが、しっくりと当てはまらない。頭を掻きむしりたくなるようで、すべてを破壊したくなる衝動に陥ります。世界をぶっ壊したい。何もかも消えてしまえ。

この対処は難しいです。

 

> 「依存型自尊心」、「敵対型自尊心」と「自律型自尊心」です。

気づくことは、行動しない人への攻撃、普通の生活をしている人への攻撃です。

淡々と生活している人を見ているとイライラしますね。投影しているのでしょうか。

島野さんの文章にあった、結局自分はただの人のような記述がありましたが、私はそう思うことは怖いです。平凡で人生が終わるのは、もったいない気持ちです。見返したいのかもしれません。

これだけではないですが、「敵対型自尊心」は強いですね。

 

「自律型自尊心」は実感がないです。よくわかりません。喜びから生まれる自尊心?

*「自律型自尊心」は、人に高く評価されることによってでなく、自らが楽しみ喜べるものによって築かれます。この頃サイトの掲示板で解説していました。

喜びで思い出しましたが、自分の好きなことや喜びから行動すると罪悪感があります

先日、好きな画家の美術館に行きました。それ自体は楽しかったのですが、働かずにこんなことして、と思いました。楽しいことをやることは現実逃避。世の中は甘くないんだ、と感じて罪悪感を持ちました。

人に認められる行動は良く、自分だけが楽しい行動は罪と感じます。

「自律型自尊心」と関係があるでしょうか。

 

> これを「墜落への恐怖」と呼んでいます。カレン・ホーナイが指摘した心理メカニズム。

今回の休職も、これです。他人に低い評価をされるなら、会社を病気で休んで評価が下がった方がいい。

人に嫌われる前に、自分から離れるということもよくやります。

・・(略)・・

「鉱物学者の眼」でこれらを見ると、どう見えるのでしょうか。考えてみます。

 

ps.島野さんの方法論はとても頭脳を使いますね。できないよ、と愚痴もたまに出ます(笑)

でも、後で振り返ると、「その考えはその通り」と感じます。

 

 まあ多少、ここまでのハイブリッド心理学の「詰め込み教育」への疲れも出てきたようです。

 さらに落ち着いたペースを探りながら、あと少し、視点を追加していきます。

 

自分の変化を期待しながら「ありのままの自分」を知ることはできない

 

 私が察したところ、D男さんの様子は、指摘された不合理感情については何となく分かるのだが、それについてどう考えればいいのかが頭が回らない、という感じでした。

 同時に、「生きることへの価値観」についての、D男さんの基本的思考の問題が明らかになってきていました。「自分の好きなことや喜びから行動すると罪悪感」「人に認められる行動は良く、自分だけが楽しい行動は罪」といった思考法です。これでは、人生を楽しく生きられるはずもありません。

 ここに至り、取り組みの焦点が、「痛みをただ流す」「感情の一人歩きをけん制する」といった感情への外枠姿勢の問題から、思考や感情の中身そのものの問題に移ってきたわけです。

 しかし、それをどう方向修正するか、頭が良く回らない。

 

 これは、D男さんが「知性によって感情を客観的に把握する」ということが、まだ基本的にできていない状況のように思われます。つまり感情に流される形でしか、自分を感情を見ることができないわけです。それでは感情の川の流れからどの方向に向かって抜け出すかも、考えようがありません。

 これはいわば、「心の医学思考」ができないでいる、「心の素人(しろうと)療法思考」だけの状態です。

 無理もありません。「心の医学思考」というのは、もともと人間の「素の思考」の中にはなく、学んで取っていく姿勢だからです。まさに「医学の姿勢」がそうであるように。

 

 そのためには、とにかくまず、感情からは中立的な「純粋知性」を自分自身の感情に向けるという、基本姿勢の獲得からです。

 D男さんの場合、それがどうも何かによって妨げられている。

 私はその片鱗を、私の感情分析説明に対する、D男さんの言葉の切れ端に直感的に感じました。「これは実験中です」というD男さんの言葉にです。これは本当に純粋知性で感情を把握する姿勢とは、ちょっと違うニュアンスです。

 なぜなら、「実験」は必ず、「結果」を期待するものだからです。「純粋知性」で自分の感情を把握する時、それによる変化を期待すると、そこにバイアスが入り込み、本当のありのままに自分の感情を知性で把握することが、できなくなるのです。

 一方、「思考実験」というのはハイブリッド心理学で取る手法の一つです。A子さんの事例で紹介した「肯定形文法への変換テクニック」などはその例です(2P10)。この場合は、はっきりと、結果がどう変わるのかを確認し、これからの自分の思考法修正に役立てます。

 「感情分析」などにおいて、まず「知性」で自分の感情を把握する作業は、それとは根本的に次元の異なる、意識の表面よりも深いところでの、心の自然治癒力の発現を促すことを目的としたものです。これは単なる「思考法技術」を超えた、いわば「心の医術」です。

 

 その「心の医術」とは、まずは一切の期待を捨てて、ありのままの自分を把握することから始まります。次に、それが心のメカニズムと、心の成長と幸福の仕組みにおいて、どんな位置にあるものかを、じっくりと把握する。

 この3つが、つまり「ありのままの自分」を知ることと、「心の成長と幸福の仕組み」を感じ取ること、そして後者に対する前者の位置づけ関係を感じ取ること。この3つが揃った時、神秘なる心の根底の治癒力と成長力が発動する。これがハイブリッド心理学が見出している、「感情分析」の効果の原理です。

 

 そのために、D男さんの場合、まずは「自分の心がどう良くなる」という期待を含まずに、ありのままの自分を純粋知性で見るという、基本姿勢の習得が必要です。

 「痛みをただ流す」「感情の一人歩きをけん制する」といった、「感情を鵜呑みにせず感情を見る」という一連の姿勢を取り上げてきたわけですが、実はその最も着実な基盤となる姿勢の習得が、ここで焦点になったわけです。

 

「理性」と「知性」の違い

 

 そこで私は、話の方向をまた少し変え、『入門編上巻』で説明したような「心理学的幸福主義」の視点に沿った、心理学的な思考法の説明をしてみました。

 「人に認められる行動は善、自分だけ楽しい行動は悪」については、まず「自分が楽しく感じ、かつ人にも認められる行動」が一番であり、それを探るのが人生であると。また「善悪」というものも、結局は全てが人間の欲求によって判断されるものでしかない。全てを「自己の欲求」という同列において天秤にかけていくという思考法も大切だと。

 

== 島野から 2007.5.26(土)==

>ps.島野さんの方法論はとても頭脳を使いますね。できないよ、と愚痴もたまに出ます(笑)

>でも、後で振り返ると、「その考えはその通り」と感じます。

そうですね^^。とにかく「感情が病む」という問題を克服するので、感情に流されずに知性をフル活用する方法を追求しているのがハイブリッドです。まあ究極では知性を超えた「意志」が決定的になってきますけどね。

 

>感情と行動を分けられたことで頭痛からは解放されました。

ベリーグッドですね^^

 

>>感情論理把握作業をすると、「この感情は不合理だからやめなければ」と頭で考えることなく、心の底がそのあまりの不合理性を感じ取って、感情が消滅したりします。

>これは実験中です。不合理な空想を多く持っていることは自覚してきました。

「実験」というと何か「結果」を求める行為という感じになりますが、感情分析は「結果」を求めずに、とにかく自分の感情論理の知的理解に徹するのがいいですね。

「結果」を求めるとどうしても、「こうなれれば」「こうならねば」に流れてしまいます。それを一切含まない、純粋な理解の作業です。

・・(略。「心理学的幸福主義」の視点からの説明)・・

 

 しかしD男さんが自分の感情を客観的に見ることができないのは、実はもっと基本的な問題にあったようです。

 「理性」と「知性」の違いです。「理性」で欲求を抑えるという話は分かるが、「知性」で感情を客観的に把握するということがどういうことなのか、良く分からない。

 

== D男さんから 2007.5.27(日)==

もう1ヶ月が経ったのですね。早いです。

まずは質問です。

> 「実験」というと何か「結果」を求める行為という感じになりますが、感情分析は「結果」を求めずに、とにかく自分の感情論理の知的理解に徹するのがいいですね。

 

この「知的理解」と、

>感情分析で感情の論理を把握するというのも、結局何を欲して自分はこう感じたりこう考えたりするのかという、「自己の欲求の天秤」にかける作業だと言えます。

> 同じ天秤にかけるから、余分なもの、つまらないものは、頭で理性的に考えるという人工的なやり方ではなく、自然に捨て去られます。

この「理性的に考える」の違いは何でしょうか。私には同じに思えます。

 

さて、この1ヶ月で私が理解したことおよび現状を書きます。

・・(略)・・

今は行動と切り離している。頭痛は消えた。これは大きい。

・・(略)・・

今回自分を見つめると、

・臆病 ・とらわれる ・不安症 ・ネガティブシンキング ・理屈っぽい

とあります。

これも見方によっては長所(場合によって方法)になるのではないでしょうか。

この特性を持ち駒にする方法はないでしょうか。

 

中庸の視点をもつには、あらゆる面を持ち駒にすることかなと思いました。

私の考えでは

・慎重

・繊細 これらはクリエーターには必要な要素ですし、

・相手の痛みがわかる。カウンセラー、コンサルタントなどにも使える特性かな、など

ご意見よろしくお願いします。

 

 頭痛が消えたことについては、D男さんとしても、はっきりと大きな治癒兆候として感じるようになってきたようです。

 一方「この1ヶ月で私が理解したことおよび現状」の内容は、新たな思考法を確認する上で良い材料になるものでした。「多面を同時に見る」という「中庸の目」の感覚も少し分かってきたようです。

 そこで私は、D男さん自身が書いた「理解したことおよび現状」の内容を使って、さらに「中庸の目」そして「感情と行動の分離」の思考法を確認するエクササイズを出してみることにしました。

 その前に、「理性」と「知性」の違いです。それは全く違うものです。次のように説明してみました。

 

== 島野から 2007.5.29(火)==

>今は行動と切り離している。頭痛は消えた。これは大きい。

これはちょー進歩ですね^^

まあ時には頭に血が昇っての頭痛感が起きることもまだあると思います。その時は今度は、何が原因で頭痛が起きるかを正確に把握してみるといいと思います。

自己処罰の時か、それともハイテンションの時か。案外後者かも知れませんね。そう分かると自然にテンションの緩和ブレーキが働くようになると思います。

これも「中庸」ですね^^

 

■「知性」と「理性」と感情分析

 

>この「知的理解」と「理性的に考える」の違いは何でしょうか。私には同じに思えます。

言葉の定義の話になりますが、「知性」「理性」を別の意味で使っています。

 

「知性」という言葉は、感情からはいちおう完全に独立した知能のこととして使っています。

「理性」は、欲求をそのまま開放するのではなく制御する思考行動という意味で使っています。まあ道徳倫理の思考ですね。

 

「知性」はパズルを解くことであり、「理性」は女風呂を覗きたいのを我慢することです。アハハ。

 

感情分析は知性で行います。感情分析に理性は無用です。より正確には、感情分析では純粋に「知性」だけを使って、「理性」を含めた感情の論理把握を行います。

 

女風呂を覗きたい衝動とそれはマズイという理性の葛藤を(アハハ)、知性で分析するわけです。

その衝動の意味は何か。まごうことなき本能だと結論できるか。それとも、スリルを味わいたいという要素はないか。他の男どもに自慢したいという要素はないか。

どうマズイのか。見つかったら警察に突き出される可能性があるというということか。それとも自分の人間性が疑われ信頼を失うのが嫌か。

 

そうやって、知性で分析しながら自分の感情を「吟味」するわけです。ワインのソムリエのように。

 

女風呂を覗きたいのはまごうことなき俺の本能だ、となったとしましょう。一方、見つかったら自分の人間性が疑われ信頼を失う。

ならば、次は見つかって信頼を失った状況を、できるだけ現実味を持って、自分がどう感じるかシミュレーションすることです。ヘタすると人生が駄目になるかも知れない。

その恐怖と、女風呂を覗きたい本能を、天秤にかけるわけです。人生を駄目にする覚悟で覗くか。そこまで覚悟があるなら、もうあまり言うことはありません。

まあ大抵は、そこまで突き詰めればそんな気も失せるのが健康(アハハ)な話でしょう。

 

そんな風に、今まで自分の感情について頭で考えていたものをいったん解体して、同じ「欲求」の天秤にかけ、心底からの「取捨選択」を問うわけです。「自己責任」において。

 

この結果が、今まで「理性」で考えていたもの同じ通りになる場合もあるでしょうし、場合によって、今まで「理性」で考えていたことが全くの自分へのごまかしであって、何か危険を冒して行動に出る意欲へと変化するといったことがあります。それはまあ女風呂を覗くような話ではなく、人生において価値ある冒険のような部類です。

 

感情分析とは、そんなものです。

 

ちなみに僕も、2005年夏に会社を辞める経緯では、そのような感情分析によって、「経済的見通しが立つまでは今の会社で」なんていうそれまでの「理性思考」を捨てるに至った経緯がありました*)

*)これについては『入門編下巻』8章 人間の真実「人生」P.248にて紹介しています。

 

(続く)

 

「中庸の目」による「感情と行動の分離」確認エクササイズ

 

 「理性」と「知性」の違いについては、この説明で十分でしょう。

 私は引き続きこのメールで、D男さんの先のメールでの「この1ヶ月で私が理解したことおよび現状」の内容を使って、思考法の確認エクササイズを出してみました。

 

(続き)

 

>中庸の視点をもつには、あらゆる面を持ち駒にすることかなと思いました。

これはその通りです。なんでもアリで考えるのがいいと思います。

次に重要なのは、持ち駒をどう使うかです。これは将棋と同じで、戦法がないと持ち駒も使えない。守備と攻撃の双方に、大体何を回すかですね。

 

そんな意味で、今回D男さんが、

>さて、この1ヶ月で私が理解したことおよび現状を書きます。

と書いてくれたのはとても良くまとまっており、これが現在のプラスマイナス両面込みでの持ち駒になると思います。それをどうするかですね。

 

でちょっとエクササイズをしようかと思います。

大体材料としては以下の部分になると思います。表現している内容に応じて、A〜Iの番号を振ってみました。この中で、そのままでいいものと、考え方を修正する方がいいもの2つに大体分類できると思います。D男さんが「成長」を目指す上ではですね。

 

まあハイブリッドの視点ということになりますので、すぐ僕の意見から説明してもいいのですが、頭を使う練習ということで、まずD男さんの方で考えてみて頂ければ。

試しに分類してみてでも、全く分からないということでもokですので、また好きな段階で報告下さい。

 

(続く)

 

 これはぜひこの本の読者の方にも考えて頂くといいでしょう。

 ポイントは、心の健康として良い状態と悪い状態を区別するということではなく、「そのままにしておくもの」と「積極的に思考法の修正を図るのがいいもの」を分けてみるということです。

 心の健康として良い状態と悪い状態を見分けるだけなら、誰でも先刻承知の話になるでしょう。「感情と行動の分離」に始まる実践とは、それを無理に「正そう」とせずに流すだけにするものと、自ら積極的に変えていくべきものは何かを、見分けることから始まるのです。

 

 ではD男さんの「理解したことおよび現状」にAからIまでの番号を振ったものを出しましょう。

 もう一度「感情と行動の分離」の原則を書いておきます。「感情は内面で流すのみとし、その良し悪しは問わない。その代わりに外面行動は建設的なもののみにする」。

 さて、AからIまでの中で、「これはじっくり見直したい」というものが幾つかあります。それはどれでしょうか。

 

(続き)

 

A)私は空想の中の「べき」理想像を掲げて努力する。

この努力は自分を崖に追い込む。達成したときの恍惚感があるから。甘い快感があるからやってしまう。

 

B)しかし同時に肉体や思考を破壊してきた。結局、理想像に実体はなく、他人の目という曖昧なものを基準にしている。視野が狭い。中庸とはほど遠い。

 

C)ここまで努力しているのは、自分と真っ正面から向き合いたくないからだ。

D)理想とはかけ離れた「ただの人」と認めたくない。これまでの悔しい過去を見返したいのだ。周りの人たちを認めさせたい。

 

E)「自己の欲求」はたくさんある。

  ・好きなことをやると罪

  ・向上したい

  ・傷つきたくない

  ・社会に出るのが怖い

  ・普通、平凡はイヤだ

  ・周りの人たちを認めさせたい

  ・周りの人たちを安心させたい

  ・社会で活躍したい

 

F)ハイテンションの日は、やりたいことが次々と浮かぶ。俺はすごいと思う。

寝られないほど、いろいろと行動してしまう。それを抑えるのがつらいくらいだ。

G)そして、普通の人や平凡に対して攻撃する。他人否定。自己優越。

 

H)ローテンションの日は、無気力だ。朝が起きられない。

やりたいと思ったことが無駄に思えてくる。

外にも出かけず、寝てばかりいる。

I)自分に対して攻撃をする。自己否定。他人優越。

 

 あまり細かく考えずに、心の大きな動きとして、目指すべき方向性が言えるものは何かを、総合的に考えるのが大切です。私が考えるとどうなるかは、この後説明しましょう。

 

「やる気」にあまり頼らない行動姿勢

 

 D男さんとしてもそのエクササイズには大変興味を感じたようですが、その前に、「ローテンション時に、やる気が出ずイライラして、人にあたったり自己否定を感じたりして、すべてが意味がなくなるように感じる」のを何とかしたい、とのことでした。

 これについても、問題全体の克服は、この後の取り組み実践を通しての、治癒成長の全体の話になってきます。

 それでも当面意識したい姿勢として、「やる気にあまり頼らない行動姿勢」というものを言うことができます。「やる気」を感じることで行動をしようとする姿勢ではなく、「やること」の内容意義を客観的に判断することで行動をしようとする姿勢へ

 これも、「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」という基本姿勢に立って、外面行動は建設的なものにするという基本例であり、他の相談者の方にもアドバイスすることが多いものです。

 キモの部分だけ紹介しましょう。

 

== 島野から 2007.5.31(木)「やる気と作業の自己調整法」==

■「やる気の風を帆に受けて〜」の姿勢

 

まず、自覚できる姿勢の問題から見ていきましょう。

 

考えられる姿勢として、「やる気に乗って」作業ができる、物事を進められる、という姿勢があるのではないかと思いますがどうでしょう。

やる気があると、物事を進められる。まるで「やる気の風を帆に受けて〜♪」という感じで、やる気の風が吹くとどんどん進められる。

ところがそれがなくなると、「あれ〜?」という感じで船がパッタリと止まってしまいます。手も足も出ない、停止状態。

 

そんなイメージはありますかねぇ。

 

まず心がけたいのは、そんな場合でも、自分の手足で漕ぐことですね。帆に風を受けたようには行かないとしても、手で水をかげば、少しづつでも進みます。

それも必要だと考え、多少の無気力気分の時でも、するべき事は進める、という習慣をつけるといいと思います。「やる気の風」に頼る極端さは減っていくでしょう。

・・(略)・・

 

「中庸」が見えてくる

 

 さて、それから2日後にD男さんからエクササイズ答案が提出されました。

 

== D男さんから 2007.6.2(土)==

では、エクササイズをいきます。

 

A)私は空想の中の「べき」理想像を掲げて努力する。

この努力は自分を崖に追い込む。達成したときの恍惚感があるから。甘い快感があるからやってしまう。

→空想や理想を浮かべて楽しむのは良い。ノートにアイデアとして書き込み、頭の体操をする。

でも、行動した場合のメリットとデメリットは検討する。その上で、行動する。

 

B)しかし同時に肉体や思考を破壊してきた。結局、理想像に実体はなく、他人の目という曖昧なものを基準にしている。視野が狭い。中庸とはほど遠い。

→心身を痛める、存在を否定するなどがある場合は行動せずに、ただ感情を流していく

他人の目も1つの視点としては持つだけ。絶対基準にしない。

 

C)ここまで努力しているのは、自分と真っ正面から向き合いたくないからだ。

トコトン向き合う。30代で自分を見つめる機会はありがたい。ラッキーだ。自分を通して、人間を知りたい。ここでも、自己否定は避けて、冷静な観察者として向き合う。無理はしない。

 

D)理想とはかけ離れた「ただの人」と認めたくない。これまでの悔しい過去を見返したいのだ。周りの人たちを認めさせたい。

「ただの人」とはどんな人かを検討する。空想っぽいなあ。

見返したい、認めさせたい気持ちは奥が深そうだ。休職中に副業で儲けようと思う考えも同じだ。

これは今後も課題。今はよくわからない。

 

E)「自己の欲求」はたくさんある。

  ・好きなことをやると罪

  ・向上したい

  ・傷つきたくない

  ・社会に出るのが怖い

  ・普通、平凡はイヤだ

  ・周りの人たちを認めさせたい

  ・周りの人たちを安心させたい

  ・社会で活躍したい

→これも見返したい、認めさせたい気持ちが強い。傷つきたくないも根底が同じっぽい。

休職中に純粋にやりたいこと、他人に関係なくやりたいことを検討してみたい。

社会に出たら、周りの影響をたくさん浴びるだろうから、

今のうちに自分の純粋な部分を知りたい。

 

F)ハイテンションの日は、やりたいことが次々と浮かぶ。俺はすごいと思う。

寝られないほど、いろいろと行動してしまう。それを抑えるのがつらいくらいだ。

→やりたいことをすべて行動すると心身つらいので、アイデアをノートに記し、できる範囲からやる。

夜は寝る。健康第一

 

G)そして、普通の人や平凡に対して攻撃する。他人否定。自己優越。

→思ってしまう感情は仕方ない。受け入れる。相手に言うかは、メリット、デメリットの検討。

 

H)ローテンションの日は、無気力だ。朝が起きられない。

やりたいと思ったことが無駄に思えてくる。

外にも出かけず、寝てばかりいる。

最低限、生きるために必要なことはする。食べる、寝るなど。

復帰したら、定時出勤はするなど。あとはだらけてもいいか。

これも健康と生活を第一とする。

 

I)自分に対して攻撃をする。自己否定。他人優越。

これはやめたい。奥が深そう。

他人も自分も仮想敵をつくって、努力するというパターンが染みついている。

 

 期待した以上に細かく逐一に考えてみたようでした。

 私から見て、細かい点では少々方向違いなものもありました。例えばG)「平凡への攻撃」を「相手に言うかは、メリット、デメリットの検討」と考えたこと。実はこの「平凡への攻撃」に潜むD男さんんの価値観が、私が本格的に取り組むべきものと考えた一つです。

 もう一つ、私が取り組み課題と考えたのは、B)「実体のない理想像」です。これは根本的に内面感情と現実の不整合を招きます。

 それ以外は、特にあまり問題視すべきものではありません。ただ流せばいい。

 「正そう」と取り組み努力しても、無駄です。否、その以外の全般的な否定的感情の側面を、「正そう」という自己否定のストレスをかけた時、全てが強固な維持の循環の中に置かれるのです。まずは「感情と行動の分離」の原則によって、内面感情はただ流し、放置すればいい。

 その代わりに、外面行動は建設的なもののみにする。すると、悪循環の強力な輪の一部に緩みが生まれます。そこに、本格的に攻め入る道が開けるのです。

 

 ただし、この時点では、もうそうした細かい点は取り上げるにはおよばないものに感じられました。それよりも、D男さんが「感情と行動の分離」の基本姿勢を身につけた上で、実に多面的な思考法ができてきたことが、十分の進歩です。

 その進歩はさらに、このエクササイズ答案に引続き「まとめ」として記されたD男さんの感想に示されました。「中庸の目」というものがどういうものなのか、実感として分かってきたということです。

 それが、単に頭で憶えるだけではない、体で感じ取る「体得」というものです。

 

■まとめ

書いていて、良い意味で脳がとろけてきました。結局、物事はどんな考え方もありではないか。

上記も考えに関しても、別の考え方がいくらでもできる。

 

富士山を登るのに、南から、北から、東からなど、どのルートからでも頂上に登れる。

その頂上から360度見た視点が中庸ではないかと思えてきました。

今まで「中庸」は、「このくらいでいいかな」という二者択一の真ん中と思っていましたが、あらゆる方向からの真ん中に位置するのが中庸ではないでしょうか。深すぎる

 

べき思考や善悪思考は二者択一の考えで、本当は360度の選択肢がある。

と考えると、頭の中がグラグラと溶け始めました。現時点の容量オーパーです。

 

 D男さんが使った富士山の例えも、実に良い例えでした。

 私はここに至り、明らかにD男さんの前進の節目が来たことを感じ、答案へのコメントはまたの機会とし、「中庸の目」についての説明を改めて送りました。富士山の例えを少し修正してです。

 その「中庸の目」を、自分自身に向けることです。するとそこに、今まで目に見えるものとして見ようとした時には感じ取ることのできなかった、「見えない一つの本質」としての自分が感じ取れらてきます。それは目で見ることはできない「未知の自分」です。その成長に向うことに、道があります。

 5章で紹介した私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』からの言葉を、ここでも引用していますが、じっくり読んで頂くために、再度そのまま出しておきましょう。

 

== 島野から 2007.6.3(日)==

■「見えないもの」を感じ取るのが「中庸の目」

 

>富士山を登るのに、南から、北から、東からなど、どのルートからでも頂上に登れる。その頂上から360度見た視点が中庸ではないかと思えてきました。今まで中庸は、「このくらいでいいかな」という二者択一の真ん中と思っていましたが、あらゆるあらゆる方向からの真ん中に位置するのが中庸ではないでしょうか。深すぎる。

それは重要な洞察ですね^^

 

「中庸の目」とは、まさにその深さそのものを見る目だと言えます。

 

つまりそれは「見えないものを見る目」なのです。二者択一の真ん中を「見えるもの」として単純に足して2で割ったような答えを、「中庸」と言うのではありません。

「2面を持つ一つの本質」を見る目なのです。その「本質」は「見えるもの」ではありません。

 

360度見た視点が中庸、しかり。「見ることができるもの」は、その中のどこかの角度とどこかの時間で切り取った断面でしかありません。それは富士山という本質そのものではなく、あくまでその一面でしかないんですね。

富士山という本質は、「見る」ものではなく、「存在」としてそこにある。それを感じ取るのが中庸です。

 

■「中庸の目」が見る「自分」という「未知」

 

ハイブリッドでの「中庸」はそうゆう風に使っており、一つの銘のようにこう言っています。

「多面を同時に見よ。そこに未知が現れる」と。それが中庸である。

 

「未知」とは、我々が「知る」以前のものだということです。我々が何かを「知った」時、それはもう過去のことでしかないんですね。それに気づかず「知る」ことばかりに捉われると、生きる上での重要な本質を見失ってしまいます

 

その最大のものが、まさに「自分」なんですね。空想の中で「こうなりたい」と描いた自己、実際に「こうだった」と認識する自己。それら全てが「既知」に過ぎません。

しかしそれは本質ではありません。本質は、それら全てを生み出す以前の、「見ることができないもの」が、「自分」の本質です。

 

■真の自尊心は「未知」に立つ「意志」

 

前に「中庸の目」の説明として引用した『悲しみの彼方への旅』からの文章は、そのことを言うものです。

-----------------------------------------------------------

 彼が進むべき道は、「多面を同時に見る」中庸の目の先にあります。自らの短所を自己卑下に陥ることなく見据え、ひとつの制約条件として受け入れると同時に、自分の長所を傲慢に陥ることなく認識し、それを役立てることです。

 そして自分を、長所と短所の差し引き合計の結果として捉えるのではなく、さまざまな側面を持つひとつの本質として、前に進む存在であることを宣言することです。

 真の自尊心は、その姿勢によってこそ導かれます。真の自尊心は決して「高い評価」を与えられることによって「獲得」されるものではありません。主体的存在としての自己の可能性に向かって生きていく意志として、自ら選択するものなのです。認知療法のデビッド・バーンズが述べたように、真の自尊心とはそのようにして、「勝ち取らねば」ならないものではなく、「勝ち取る」ことができるものでさえないのです。(P.246)

-----------------------------------------------------------

かなり抽象的な話ですが、極めて重要な話なので、今日はこの話だけにしておきましょう。

D男さんが今まで自分について、自信感を感じたり逆に自己唾棄をしたりしたのは、全てが一面しか見ない目の中ででのことだったと思います。

 

それとは全く違う目で自分を見ることの中にある「真の自尊心」。これが成長への大きな第一歩になります。

この話をしばしじっくり吟味して頂ければ。

 

 「脳がとろけてきた」というD男さんの言葉も、この「病んだ心から健康な心への道」を歩む人間が体験する変化を、実際に体験した本人感覚としてうまく代弁していると思います。

 それは「心が楽になる」「気分が癒される」といったものとは、かなり次元の異なる体験です。脳が変化します。病んだ心から健康な心への変化とは、そのような大掛かりなものの先にあるというのが、ハイブリッド心理学の見出した事実です。

 そのような大掛かりな脳の変化が、この後さらにD男さんに次々に訪れます。その多くが今までの心理医療の世界において知られていなかったものであることを、D男さん自身の言葉が表現することになるでしょう。

 

 まずはここまでが、メール相談を開始してから1か月を少し超えた段階です。これは私の相談事例の中でもかなりハイペースな方であり、それだけ治癒と成長への潜在力があったケースと言えるでしょう。

 圧迫されていたD男さんの心に血が通う、最初の大きな治癒の現れが訪れるまで、あと一歩です。

 

inserted by FC2 system