心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

8章 人生をかけた取り組み−4 −「感情強制」の解除・内面の解放−

 

この章のまとめ

この章では、「心を解き放つ」という根本テーマに関する、ハイブリッド心理学の実際の取り組み実践の側面を一通り説明しています。これは単独に取り上げて実践するものではなく、この後の全ての取り組み実践の基礎にもなるものです。

説明は1)取り組み初期段階での実践の考え方2)取り組み全体を通しての視点のまとめ(表で掲載)、と多少分けていますので、この後の章と合わせて参考にして下さい。

■実践項目■

(1)「心を解き放つ」ことを妨げるものを理解し可能な限り取り除く側面

 ・・・「感情の監視操縦」の理解・「感情強制」の解除

心自身の機能として「感情の監視」「感情の演技」「感情の停止」「感情の強制」があることを理解する。

実は現代人は子供の頃からこれを多用し過ぎ、無理な姿勢を続けて骨が曲がるかのように、心が曲がってしまうことが起きている。実践としては、この「感情の監視操縦」も「感情」であり、「感情と行動の分離」に従って、ただ理解し無理に正そうとせず、まずは自分で無駄と分かる「感情の強制」をやめていくことから。

(2)「心を解き放つ」ことそのものに向う側面・・・「現実を生きる」「今を生きる」という視点

行動法によって安全を確保し、あとはただ「現実へと向う」。

(3)心が解き放たれた後に出てくるものを捉えてうまく方向づける側面

・・・「望み」のメカニズムの理解・「望む技術」

「内側から望むvs外側から望む」・・・「内側からの望み」を内面を豊かにするために、「外側からの望み」を外面を豊かにするためにバランス良く使う。実際の行動はやはり「内側からの望み」によって推進することが充実感の中で効率よく行うための心の技術

■実例■

D男さん ・・・ この取り組み開始からの最初の「ただ現実へと向う」節目を経て、「心に血が通う」最初の大きな治癒の現れへと向う。「型にはめてストレスで押し出す」から「内面を開放し変化の中で前進する」という新たな生き方への理解を深める。

 

 

「問題を知る」ことと「解決を知る」ことは全く別

 

 ここまでに明らかになったD男さんの心の問題と、その克服のためのハイブリッド心理学の実践を振り返ってみましょう。

 

 はっきりと言えることがあります。「問題を知る」ことと、「解決を知る」ことは全く別だということです。

 私たちは得てして、「問題」を「何がいけないのか」という思考法で捉え、問題あるものを「決して許さない」ことが大切だと考えます。「それでは駄目だ」と否定できることが大切なのだと考えます。

 それは何の解決にもならないということです。

 これは心の問題について特にそう言えます。心の問題を目の前にして、決して許さず、それでは駄目だと否定の怒りを持ち続けることが大切なのだと考え、やがて怒り破壊の衝動の虜になっていきます。

 すると今度は、この姿がまさに、「決して許してはいけない」とした相手と同じものになっているのです。それは破壊への衝動に駆られ、人間の心を失った姿です。心の問題がこうして、終わりのない輪廻の中に置かれます。

 

 人が人生で犯す過ちをあまねく知り、自分は決してそんなヘマをしまいと万全に気をつければ、人生がうまく行く。そんなことを考える人がいるようです。

 実はすでに紹介した「C子さん」もその一人でした。自分の中に「間違いデータベース」を構築すれば全てがうまく行くはずだという思考を、大人になる過程で持ったとのことでした。しかしそれが現実において生み出したのは、皮肉にも、期待したものとは全く逆の、人生の行き詰まりでした。

 過ちや失敗を決して許さないという姿勢に身を固める一方で、真に人を前進させるものが失われていきます。その本質は何であるのか、視点を一歩先へと進めましょう。

 

「問題の軽減」から「真の解決」への前進へ

 

 D男さんに明らかになった問題とは、「ありのままの自分で現実に向き合うことへの恐怖」であり、「自分にストレスをかけ力づくの勢いでものごとをなそうとする姿勢」でした。

 これに対して、「人生をかけた取り組み」として、「感情と行動の分離」を支える一連の基本姿勢に取り組むことが、ここまでの過程でした。まずは「感情を鵜呑みにすることなく現実を見る」。次に「感情を鵜呑みにすることなく感情を見る」という姿勢。

 この多面的な視点を一巡する頃、D男さんに「中庸の目」という感覚が、単に頭で覚えるだけではなく、体で感じ取るものとして染み入り始め、頭痛が消えるという最初の治癒の兆しと共に、「脳がとろけて」きます。

 

 しかし実はこれはまだ、「問題の軽減」に過ぎません。動揺し暴走する「感情」に足元をすくわれる度合いを、外面向け姿勢および内面向け姿勢の双方において、ある程度において減少させることに成功したわけです。

 しかし「問題の減少」は、「解決の生み出し」を、何も含んではいません。

 

真の解決への原動力「心を解き放つ」

 

 真に人を前進させるものは、目に見えるものとしてではなく、目に見えないものとして心の中に現れます。

 前章の最後に、「中庸」について説明した通りです。それは「知る」ことのできるものではありません。「知る」ことができるのは、すでに「今」を通りすぎた「過去」のことです。それは「未来」へと前進する力を、もう何も持ちません。

 「知る」ことだけに頼るようになると、私たちは人生を前に進む真の原動力を見失います。これは私たち現代人が、「学習」に頼りすぎているということでもあります。うまく行った他の人達の行動を真似れば、それで人生がうまく行くと考える。真似るべき「人生の成功」がまるで既製服のようにTVやインターネットで伝えられるようになった昨今、誰もがより人生の幸福を見出すことができるようになっかというと、事実は全くの逆であり、社会に広がるのは心の荒廃です。

 

 前進への真の原動力は、「心を解き放つ」ことの中にあります。それは「知って」行うものではなく、「知る」ことができるものでさえもありません。それは、「今を生きる」ことです。

 「心を解き放つ」ことを学んだ時、そこに心の治癒と成長への全てが現れます。

 それは心の自然治癒力と自然成長力です。これはいかなる人工的努力によって生み出すことのできるものでもなく、私たちはその成り立ちについて何も知りません。「命」がなぜ存在するのかが分からないように。

 私たちは、それに身を委ねるしかないのです。私たちが「学ぶ」ことができるのは、それに身を委ねるとはどういうことかの、より具体的な実践です。

 

「心を解き放つ」ことへの具体的実践

 

 「心を解き放つ」ことについてのハイブリッド心理学の具体的な実践は、3つの側面で考えることができます。

 1)「心を解き放つ」ことを妨げるものを正しく理解し、可能な限り取り除くこと

 2)「心を解き放つ」ことそのものに向うこと

 3) 心が解き放たれた後に出てくるものを捉えてうまく方向づけること

 

 この3つの側面に対応するハイブリッド心理学の実践項目は、次の通りです。

 

(1)「感情の監視操縦」という心の機能の理解・「感情強制」の解除

 「心を解き放つ」ことを妨げるものとして、「感情の監視操縦」という心自身のメカニズムを詳しく理解します。その中でも心の健康に有害な「感情の強制」という姿勢を、可能な限りやめていきます。これをこのあと詳しく説明します。

 

(2)「現実を生きる」「今を生きる」という視点

 「心を解き放つ」ことそのものについて、何かを学んで意識的に努力して行うことは、実はあまりありません。

 そもそも「心を解き放つ」とは、意識的に努力して行うことではなく、意識的な努力をやめ、私たちの心の中に元からあるものを開放することなのです。それに、身を委ねることです。

 

 それでも、「現実を生きる」「今を生きる」という視点が、私たちが「心を解き放つ」ことに向うとはどういうことかを学ばせてくれます。

 過去を振り返ったり、将来を考えたりすることは、それはそれで意味のある重要なことですが、「心を解き放つ」とは、そのように頭の中、心の中だけで行うこととは全く別のことです。それは「現実を生きる」ことであり「今を生きる」ことです。

 そして「現実を生きる」「今を生きる」こと自体は、もう「知る」ものではなく、ただそこに向うもの、それをただ「生きる」ものとしてあります。

 これは時に、今で自分を縛っていたと同時に、仮りそめの平静を与えてくれていた心の殻を脱ぎ捨て、命綱を捨てて何も見えない闇へと飛び出していくような、「勇気」を伴う人生の節目として訪れることもあるでしょう。

 私たちはそのような体験を経て、「未知」の自分へと変化を遂げるのです。

 「現実を生きる」「今を生きる」ことへの視点とは、そのように「生きる体験」を経て自分が「未知」へと変化してくという前進を、頭で「理解」するというよりも体で「体得」することです。ハイブリッド心理学の取り組みの全てが、ここにつながってくると言えます。

 

(3)「望み」のメカニズムの理解・「望む技術」

 心が解き放たれて出てくる感情に対しては、それをうまく捉えて、内容を見分け、適切な姿勢を取り、うまく方向づけていくという側面が出てきます。ここに、ハイブリッド心理学で最も沢山の実践の領域が出てきます。

 心が解き放たれて湧き出てくる感情の中で、より積極的に心の治癒と成長へ向うための原動力となるのが、「望み」の感情です。

 「望みの感情」とは、ここで一言で定義するならば、「一時的な欲求や衝動を超えて、長期的に人を方向づけ歩ませる原動力となる夢や目標への感情」などと表現することができるでしょう。

 そうした「望み」の感情をどのように自分自身の心で感じ取り、どのような目を向け、それによって自分の人生と生き方をどのように方向づけていくかが、とても重要になります。

 同時に、心を病む過程の中ですでに荒廃化してすさんでしまった「欲求」や「衝動」への対処や、より純粋な心への浄化という最も深遠な領域も現れます。

 これらの詳しい心理メカニズムを理解し、自分自身を「望み」の感情へとうまく導く心理的技術を学びます。

 

 心が解き放たれ湧き出てくる感情は、心の治癒と成長にとって望ましい、「望み」の感情だけではありません。今までの人生を通して葬り去り、目をそらし続けてきた悪感情が解き放たれて湧き出てくる可能性もあるのです。

これについては、もし湧き出てきた感情が今まで目をそむけてきた悪感情なのであれば、すでに説明している「感情と行動の分離」に関連する基本姿勢によってまず対処します。次に、悪感情の種類に応じた基本的対処法という話が沢山出てきます。これはこの後の章の「感情分析」のところで説明します。

 

「感情の監視操縦」という心の機能

 

 それではここで、私たちが「心を解き放つ」ことを妨げている、私たち自身の心のメカニズムについてざっと理解をしておきましょう。

 

 話はここで、これまでの「感情を鵜呑みにしない」という基本的な心得の話から、「感情を自分で操縦する」しないうんぬんと言った、一段階難しい心理学の領域に踏み込んだことになります。

 しかし実は、人間の心にはもともとこの「自分の感情の操縦」の機能と能力があり、私たち現代人は、実は子供の頃からこの心の機能をあまりに多用し過ぎているのです。その結果、無理な姿勢を続けることで骨が曲がってしまうように、心が曲がってしまうということが起きているのです。

 もちろん「怒り」に促されながらです。人との間で向け合う、そして自分自身に向ける「怒り」に促されてです。そんなんじゃ駄目だ、と。

 だからこの言葉が日常生活の中で溢れているわけです。「感情のコントロールが大切だ」と。

 

 それは基本的に誤った姿勢です。本当に大切なのは、感情そのものをコントロールすることではなく、感情が湧き出る土台となるさまざまな基盤の方の改善向上です。それは思考法行動法であり、現実の生活や人間関係のあり方です。

 感情が湧き出る基盤の方を改善向上させる一方、感情そのものは流れるに任せるという姿勢が、心の健康にとってより望ましい姿勢です。それをおろそかにしたまま、どんなにじっと自分の心に見入り、「感情をコントロールしなければ」と考えたところで、感情は結局コントロールできません。

 

 「感情と行動の分離」に始まるここまでの取り組み説明で、感情が湧き出る基盤の方を改善向上させるという、基本的なアプローチの感触がつかめてきたかと思います。

 視点をさらに心の内部に向け、私たちの心の、私たち自身によるコントロールのあり方について考えていきましょう。

 

「感情の監視操縦」の基本機能

 

 実はこの「感情の監視操縦」がどう心に悪影響をおよぼしているかは、人によりかなり千差万別です。実はそれは人それぞれの、心の障害傾向の深刻さの度合いの違いとほぼイコールです。

 一律の説明やアドバイスが難しい話になってきますが、そのごく健全な働き方から、病んだ働き方まで、ざっとここで説明しておきましょう。

 

 まず一応は「正常」な心の状態として、「感情の監視操縦」の4つの働き方があります。「感情の監視」「感情の演技」「感情の停止」そして「感情の強制」です。

 それぞれがほぼ文字通りのものです。まず「感情の監視」とは、自分がどんな感情でいるかと自意識を働かせて、自分の感情の良し悪しを感じるものです。

 これが自分の身体の健康状態を感じ取るのとほぼ同じ程度に働くものであればごく健全ですが、「こうなれていなければならない感情」という「感情の理想像」を掲げて、まるでそれを人間の価値基準であるかのように審判するかのような頭越しの視線になるにつれて、自分自身の感情への監視のストレスが出てきます。

 「感情の演技」は、特定の感情を感じているふりを外面の表情仕草として演技するという話ではなく、内面において実際に「こんな感情に」と自分で決めた感情に自らなってみるというものです。映画俳優などの名演技は、これなしには成り立たないと言えるでしょう。

 「感情の演技」はそのような文字通りの舞台演技など特別な活動場面で使われたり、あるいは日常生活でも、自分で気分を盛り上げたり鎮めたりするためのエンジンの始動もしくは呼び水程度で使われる限りは、ごく健全なものです。一方「感情の演技」がストレスの中で持続されるようになるものは、「感情の強制」という別の働き方になってきます。

 「感情の停止」は、望ましくないと自分で感じた感情が湧いてくるのを、文字通り「停止」させます。

 この方法としては、望ましくない感情を湧き出させた状況場面への意識を捨てて、心の関心を強制的に別方向に切り替えさせるようなものになるでしょう。あるいは、特定の望ましくない感情を停止させることを超えて、自分の感情を尊重せず無視するという「感情の切り捨て」が行われるようになってくると、心を病んでいる性質が強くなってきます。

 そうした「感情の切り捨て」としてしばしば行われる「望みの停止」が、人の心の成長にとってもっとも有害なものと言えます。『理論編上巻』で説明したように、それが人間の心が荒廃化する、最も直接的な原因なのです。

 「感情の強制」は、ありのままの自分の感情への自己否定感情の中で、特定の「こう感じるべき感情」の「感情の演技」を自分に強制するというものになり、ここにきてはっきりと内面ストレスを伴う病んだ性質が強くなってきます。

 

無意識自動化された病んだ「感情の監視操縦」

 

 次に、「病んだ心」の中で働く「感情の監視操縦」について説明しましょう。

 実は、「病んだ心」とは、この「感情の監視操縦」が自分で意識して行うのを超えて、無意識の中で勝手に起きるようになり、もはや自分ではコントロールできなくなったものだと言えます。

 それをハイブリッド心理学では「自己操縦心性」と呼んでいます。「自分自身を操縦しようとする心の性質」です。

 

 心が勝手に、まず「イメージ」を描き出すようになります。それによって感情が自動的に引き起こされます。それはもう自分が意識して行う感情の演技ではなく、心が感情の演技をするように、自分自身によって操縦されているようなありさまです。

 その根底には、人が来歴の中で抱えた、「根源的自己否定感情」のメカニズムがあります。これについても『理論編上巻』で詳しく説明しました。心が成長する過程の中で、幼い心の段階から、人間としての自分の存在を根本的に否定されるような、軽蔑と、嫌悪と、そして怒りが向けられるという可能性から逃れようと、自分自身の心を無理にコントロールしようするあがきを続けてきたのです。

 その結果、心が変形して、自分でコントロールできなくなってしまうという皮肉な結果が起きるわけです。

 

 そうして「病んだ心」である「自己操縦心性」の中で自動的に働く「感情の監視操縦」の特徴とは、強い内面ストレスによって「感情の監視操縦」が行われながらも、同時に、自分が「感情の監視操縦」をしているという事実の全体を自己否定しようとする、強い圧力が加わっていることです。

 その結果、しばしば起きてくるのが、自分自身の「感情の監視操縦」圧力に対する、自分自身の反発です。「感情の監視操縦」が、自分が自分で行っているものではなく、回りの人間や社会が、自分の感情を監視し、特定の感情を感じなければならないという圧力をかけてきているかのように感じるようになります。そしてそれに反発する思考を延々と繰り広げるようになります。

 

「感情の監視操縦」を「監視操縦」はせず

 

 ではこうした「感情の監視操縦」の有害な側面について、ハイブリッド心理学の取り組み実践としては何をするのか。

 何もしません。「感情の監視操縦」そのものをより正しいあり方に修正したり、その有害な側面を取り除こうとして「感情の監視操縦」を考えること自体が、結局は「感情の監視操縦」の繰り返しになるからです。

 取り組むべきは、「感情の監視操縦」の有害な側面の根源となっている、「感情の善悪」についてのその人の姿勢であり考え方です。これは、この後の「自尊心」や「愛」への取り組みと結びついたものとして、この後のハイブリッド心理学の取り組み全体を通して行っていきます。

 

 「感情の監視操縦」についてのハイブリッド心理学の取り組みの主旨は、まずは、今まで多用し過ぎていたそれを、それにもうあまり頼らないものにする、ということだけです。そんなものが自分の心に動いているなら、そんなものがある程度に知っておけばいい。それだけです。

 つまり、「感情の監視操縦」のもっと良い使い方を考えたり、逆に、「感情の監視操縦」そのものを取り除こうという取り組みでは一切ないということです。なぜなら、「感情の監視操縦」というものそのものが結局は「感情」であり、「感情の監視操縦をなくしたい」もやはり「感情」です。

 ですから、「感情と行動の分離」の原則に従い、それについてはただ流し理解するのみとし、これからの人生の生き方については、それとは全く別の思考を築いていくのです。

 

 実は心の障害傾向に悩む多くの方が、自分自身の「感情の監視操縦」の圧迫を自覚し、どうすればそれを取り除けるかと考えます。どうすればこの「忌まわしい自意識」を捨てることができるのか。

 それがまさに「感情の監視操縦」をしようとする姿勢であり、「感情」なのです。

 ですからまずは、それを鵜呑みにせず、「感情と行動の分離」によって、感情とは全く別に現実問題を考える思考法などから始めて、やがて「愛」と「自尊心」へのより根本的な取り組みなどを通して前進する、心の治癒と成長の全体に応じて減少していきます。

 

まずは「自覚可能な感情強制の解除」から

 

 ですから、より具体的な進め方としては、次のようなアドバイスをできます。

 もし自分の心の圧迫状態に絶望感を感じているのであれば、そこにかなり病的なものがあっても、ハイブリッド心理学ではその完全な克服治癒のメカニズムを見出しており、そのための取り組み実践の道のりがあるという事実を、まずは心に入れて頂ければと思います。

 それを原点として、「唯一無二の成長」を歩むという「自己受容」を、そして「未知への選択」をまず第一歩として頂ければと思います。

 

 そして意識関心の向け方に人それぞれの紆余曲折があるとして、結局は「自己受容」に始まり「自己の重心」を基本指針として、「感情と行動の分離」の実践がある程度身につき、自分の変化を感じ始めた段階で、アプローチの視点をここで説明したような内面メカニズムへと一段階精緻化してみる、というものが、まず望ましいものになるでしょう。

 そして具体的に何かを変えていくとするならば、自分ではっきり無駄と分かる「感情の強制」をやめていくことです。

 何が無駄と分かるかは、ここで特別な実践が加わるわけではあまりなく、取り組み開始からの流れの中で自然と見えてくるでしょう。

 

 また、ここで整理した「感情の監視操縦」からの脱却は、この後に出てくる「自尊心」や「愛」への本格的な取り組みなどの全体を一貫として貫く根底命題になります。

「自尊心」や「愛」を得るために、「こうあるべき」自分の姿を描き、それに向って自分の「感情の監視操縦」を行う。事実、これが私たちが現代社会に生まれてまず身につける「生き方」です。

 それとは根本的に異なる、新しい生き方を模索する歩みになります。

 自分の内部に起きているこうした細かい心の動きを見る視点を持つことが、これからの「心を解き放って生きる人生」への序章になるのだと言えるでしょう。

 「感情の監視操縦」の基本機能と、その病んだ心における働き方については、それを理解するための視点を別途、表にまとめておきました。取り組み実践の中で再確認する際などで適宜、参照して頂ければと思います。

 

「望み」への視点

 

 さて、「心を解き放つ」ことを妨げる「感情の監視操縦」については、意識的努力としては「特に何もしない」一方、「心を解き放つ」ことに続く過程、つまり心から湧き出たものをうまく捉え、自分を方向づけていくことについては、意識的に行うことが沢山出てきます。

 「心を解き放つ」中で歩む心の治癒と成長としては、「望みへと向う」ことが、全ての基本になります。

 

 これについても、具体的な実践は、この後の「自尊心」や「愛」への本格的な取り組みとして行います。ここでは、それら本格的な取り組みを通して基礎となる、「望み」への基本視点を表にまとめておきましょう。

 本格的な実践はまさにここからです。この後の章と合わせて理解を進めていくと共に、自分での実際の取り組みの進め方を考える際などで、適宜参照して頂きたいと思います。

 

「感情の監視操縦」への視点のまとめ ・・・ 自分の心に起きていればまず知る

「感情の監視操縦」の基本機能

「感情の監視」・・・ 自分の感情を自分で観察し、その良し悪しを感じる

ごく健全なものとしては、自分の身体の健康状態を自分で感じ取るのと同じように、自分の心の健康状態を感じ取るものとして機能する。仕事にやる気が出なくなったのを感じた時、仕事の見直しをしてみるなど。

内面ストレスがある場合は、「こんな感情でいなければ」「自分は今どんな感情か」と感情の監視自体の圧力が増してくる。面接場面など。これは背後に「こんな感情になれなければ」という自己ストレスと、それにしくじった場合の自己処罰への不安緊張が控えていることを意味する。これが皮肉にも、そもそもの「こんな感情になれなければ」を妨害しがち。

また「感情の監視」の圧力が高まると、自分の感情を監視した結果でさらに感情が起きるという、「自己循環反応」が起きやすくなる。ちょっと気分が低下すると「こんなんじゃ駄目だ」と、どっと落ち込む。気分が上向くと、「これはいいぞ」と頭に血が昇る。これが無意識化された中で起きるのが、躁うつなどの「気分障害」の主メカニズムと考えられる。

「感情の演技」・・・ 「こんな感情に」と自分で決めた感情に、実際になってみる

 映画俳優などの名演技は、これなしには成り立たないものに思われます。泣く演技を、目薬をさして涙の振りをするのではなく、実際に悲しい気分になり泣いてみる。

 日常場面では、パーティに参加して、「盛り上がろう」と考え、「楽しい気分」になってみる。

 ごく健全なものとして働くものとは、そのように感情を演技できることに自分で積極的な意義を感じて行うもの。あるいは、エンジンの始動もしくは呼び水程度に使われるもの。これが「こんな感情にならなければ」というストレスによって持続されるものになるにつれて、心の健康に有害な次の「感情の強制」に変わってくる。

 この「感情の演技」のために使われるのが、「イメージ」「自己暗示」。「イメージ」は特定の感情を引き起こしやすい場面の空想などを描き、「自己暗示」ではその「空想」の方がむしろ「現実」だとするかのように、空想に真剣味を持たせることが行われる。つまり「空想と現実の逆転」を行うわけである。

「感情の停止」・・・ 心に湧いた感情を「この感情はマズい」と停止させる

 ごく健全なものとしては、お葬式の最中に面白いことを思い出して笑いたくなっても、それを抑える。そのために目の前のお葬式場面に意識を集中させる。

 これは実は「感情の演技」とは逆のことをしているものと言えます。感情を引き起こした「イメージ」をかき消し、意識を「現実」に戻します。

 「感情の停止」でごく健全なのものとは、そのように元から無駄なイメージにより起きた感情を「やめる」程度の場合。それ以外の「感情の停止」は概して心の健康に望ましくない。感情には全てそれなりの意味があるからである。対処を考えるなら、それが起きた理由に遡ってが正解。不安感を「気にしなければいい」と考えて消そうとするのは、心の知恵を欠いた望ましくない方法です。

 最も有害なのが「望みの停止」であり、「心が悪化」する、つまり「心の荒廃化」の最大原因となる。心を病む来歴においては、しばしばこれが「望み」だけではないもろもろのを含んだ「感情の切り捨て」として思春期前後に成されることが多い。

「感情の強制」・・・ ありのままの自分の感情では駄目だという自己否定感情によって持続される感情演技

 いちおう正常な心の働きとして作用しながらも、心を病む性質を帯びてくる。

 まっさらな白いキャンバスに自由に描く健康な「感情の演技」とは異なり、最初から、1)自分のありのままの感情2)それに駄目出しをした自己否定感情3)なるべき感情という混成状態となり、基本的にうまく行くことのない、すでに淀んだ色彩で描かれた絵を弱い絵の具で必死に塗り変えようとする、悲しいあがきの様相に大抵なる。

その結果、「感情の強制」場面が過ぎた後に、どっと全身の疲労を感じるのと、「敗北感」の中で沈む感情が現れるというのが、典型的な流れ。「宴会恐怖症」での「楽しめない敗北感」などのメカニズムとなる。

 取り組み指針としては、そこで、自分の全身の神経が張り詰めていた事実をしっかりと自覚する。また「敗北感」の底にある、自分の「善悪思考」さらにその背景の「自尊心」や「愛」への価値観への取り組みが重要になってくる。

 

病んだ心において働く「感情の監視操縦」

「自己操縦」・・・ 「根源的自己否定感情」を背景にして、「感情の強制」が無意識自動化した姿

「生きる」ことそのものにおいて、何かの「感情の強制」が働いている状態。これが「病んだ心」として働くメカニズムとは、この自己監視操縦をしている事実の全体を否定しよとうする強い圧力が加わって来ていること。

 つまりこれは、「感情の監視操縦」をしていないかのように、「感情の監視操縦」をするという、自己ループの自己撞着矛盾が、一定の意識変形の中で平衡を獲得するに至るものである。この「平衡」とはつまり、「現実感」が薄れた、何かの空想的な意識の中で常に心が働く状態になるというもの。これが「病んだ心のメカニズム」の本体、「自己操縦心性」に他ならない。

「自己操縦心性」・・・ 「病んだ心」を駆動する本体メカニズム

 幼少期に抱いた「根源的自己否定感情」が、意識体験の許容範囲を超えたものとして意識外に追いやられ、「感情の膿」として脳に蓄積される。やがて思春期にこれが人格に「取り込まれる」と、「根源的自己否定感情」から逃れるための「感情の監視操縦」が、意識が心の表面に現れる以前に働き、全ての意識が一定の変形を帯びたものから始まるというメカニズムとなる。

 この克服は、「自己操縦心性の崩壊」「感情の膿の放出」などの特別な治癒メカニズムがあるという、専門的な心理学の知識を携えての、本格的な取り組みによって可能となる。

「自己反発」と「見えない自己循環」

 「自己反発」は、自分の中に「感情の強制」のニュアンスを感じさせる場面や相手への、極めて強直した生理的反発感情。これは「感情の強制」が働いていながら、その大元となった自己理想が取り下げされるという事態によって、必ず生じる。

 この状況では同時に、自分自身への「感情の監視」が、基準となる自己理想が全く見えないまま働き、自己反発への罪悪感や、罪悪感を自分に感じさせたものへの敵意憎悪など、めまぐるしく極端な感情の中の揺れ動きが自動的に起きるようになる。それが本人の意識思考では、「自己の重心」が大きく損なわれ思考の重心がすっかり他人に移っている中で動くのだから、常人には理解しがたい対人感情の揺れ動きになるわけである。境界性人格障害で典型的な感情の揺れ動きを生み出すメカニズムと言える。

「偽装された感情」・・・無意識化された「感情の演技」により作り出された、「こうなれている」感情

 これが起きている場合は、自分に対して「ニセへの嫌悪」が向けられる不安や「薄氷感」が良く起きるというメカニズムを理解しておくと良いでしょう。これが「外化」されると、他人が「見せかけ」「ニセ」だというイメージが起きます。まずはこれら全てに巻き込まれないことが大切です。

 

「望み」への視点のまとめ ・・・ より積極的に意識を向け取り組み実践を進める

「望み」を捉え方向づける基本視点

「望み」と「欲求」「衝動」(ハイブリッド心理学での言葉の定義)

ハイブリッド心理学では「望み」を、「一時的な欲求や衝動を超えて長期的に人を方向づけ歩ませる原動力となる夢や目標への感情」として定義しています。

「欲求」「衝動」は、「具体的な行動そのものに駆り立てる、心に湧く直接的な情動」として使っています。

これらがまだ未分化の段階の漠然とした感情を「願い」「願望」という言葉で指すこともあります。

「望み」を何を材料に感じ取るかが重要です。「欲求」「衝動」をそのまま「望み」だと勘違いしてしまうのが、人が人生の生き方を見失う最大原因だと言えます。

「内側からの望み」vs「内側からの望み」・・・ することの内容そのものを望んでそれを行うのと、それをできた結果の自分の姿を望んでそれをしようとするのとの違い。

心の治癒成長の観点からは、基本的に「内側からの望み」にじっくり目を向けていくことが望ましい。これは行うことの内容を「楽しく」感じるかどうかに限らない。せざるを得ない仕事などでは、どう「意義を感じる」かといった観点になる。

「外側からの望み」に偏ると、うまく行った結果の姿の空想ばかりが一人歩きして、現実的継続性を損なうことが多い。また「偽装された望み」が生まれがち。

 ただし「外側からの望み」が全て有害なのではなく、基本的には「内側からの望み」は内面を、「外側からの望み」は外面を豊かにするというそれぞれの役割があるのをうまくバランスと調和を取るのが望ましい。

「望みの開放段階」のメカニズム・・・「自ら望む」「自らに望むことを許す」ということは、心理学的には細かい段階メカニズムとして捉えられます。その開放段階をうまく調整することがとても重要

1)「欲求」「願い」の自認。相手に惹かれる自分の感情の自覚など。

2) 満足状況の空想。欲求願いが満たされた状況を具体的に思い浮かべてみる。相思相愛になりデートしている場面の空想など。基本的には自分に都合の良い内容として描かれる。

3) 現実行動化。思いを相手に告白表明するなど。

心の健康としては、望みは心の中では思いっきり、つまり2)まで開放し、現実行動については現実的調整をできる思考法行動法を築くことが望ましい。

このバランスが崩れたのが「望む資格」思考で、「抑圧」や逆の自己中心性や傲慢を生み、対人感情の安定を損なう根底原因になる。

荒廃化しすさんだ欲求・暴走する欲求・苦しみを伴う望みへの対処

まずは無理に抑えるのではなく、心の中で思いっきり開放し満足空想に耽るような方が安全です。外面行動については当然「破壊の非行動化」を守る。

その先は「感情分析」の取り組みになります。欲求の満足イメージが含む、幾つかの心理要素を感じ分ける。純粋に相手と一緒にいたい感情、異性相手の「所有欲」、相手を得る自尊心欲求、など。

さらにその先は、「自己の重心」「心の自立」といった基本指針を軸として、自分の人間としての存在のあり方を問う、心の成熟への歩みの先に答えが出てきます。

「心の望み」「魂の望み」「命の望み」・・・ 詳しくは『理論編下巻』『実践編下巻』にて。

ハイブリッド心理学の取り組みは、やがて自分自身の中に「感性土台」の全く異なるものがあることを感じ取る段階へと向かいます。「心」「魂」そして「命」というものを、それぞれが別の実体として感じ取り、それぞれが「望み」を持つ主体であることを感じ取る先に、人間性の根底からの成熟変化への、そして「何も恐れるもののない心」への道が現れます。

 

すでに減少を始めていたD男さんの「感情の強制」圧力

 

 ではD男さんの事例の紹介に戻りましょう。

 「ありのままの自分で現実に向き合う恐怖」「自分にストレスをかけ勢いでものごとを成そうとする姿勢」という2つの大きな問題が判明したD男さんでしたが、「中庸の目」の感覚が見え、頭痛が消失するとともに「脳がとろけて」くるという最初の治癒の兆候から、圧迫されていたその心に血が通う、最初の大きな治癒の表れが訪れるまで、そうは時間のかからないものとなりました。

 

 ここでその所見を述べておくならば、心身の激しい疲労や頭痛を引き起こすほどのストレスは、「偽装された感情」を持続させようとする「感情の強制」のストレスが最大の原因である。これがハイブリッド心理学の見解です。

 これは私自身が体験して身にしみて理解したことでもあります。「感情の強制」が起きていた場面状況が過ぎ、精神的に安全な一人の状況に戻ると、どっと全身の疲労を感じると同意に、全身の神経が弛緩してくるのが目に見えるように分かります。

 そうした場面では「不安」「緊張」も起きているのですが、身体的な疲労はなによりも、「不安」「恐怖」にさらされるストレスよりも、「身構え」の中で起きている「神経が張り詰める」ことに遥かに大きくあったことを、体が安堵感に包まれる中で実感することになります。

 ですから、D男さんの場合も、この段階ですでに「感情の強制」の圧迫が大きく減少していたと考えることができます。「感情の強制」そのものについては特に取り上げていないままにです。

 

 それがここまでの実践の中の何によって得られたのかといった前進要因の分析は、実はかなり難しいものです。

 心の治癒と成長への変化は、4章で話を出したように、固くしまった蓋を四方八方からすこしづつずらしてみるような取り組み実践の中で、直接の前進要因がどれかはあまり分からないまま進むというのが、私の経験から言えることです。

 ここまでのD男さんの取り組みを振り返ると、「空想の中の自己理想像」を絶対視して、それに向って自分をストレスで駆り立てるというこれまでの姿勢が、「中庸の目」を支点にしてより多面的で柔軟な思考ができるようになったのが、この「感情の強制」圧力の減少の要因のようにもまずは見えます。

 しかしさらにじっくり考えるならば、実はそれよりも、D男さんが今まで心の底に隠し続けていた、「ありのままの自分を否定し別人を演じて生きる人生」という問題の根源を、ありのままに自らに晒し、ありのままの自分を原点としてこれからの人生を歩むことへの意志という「自己受容」が、「中庸の目」の感覚の中で深まった、というのが最も大きな要因ではなかったかと考えます。

 

 心の治癒と成長への取り組みが何らかの良い結果を生んだ時、人々の関心は今度は「どうやってそうなれた?」ということに移るのですが、そこでもまた、目に見える表面だけに注意が向きがちです。常に「見えないものを見る目」が大切であることを、ここでも指摘することができます。

 

「自己操縦」に「中庸の目」を向ける

 

 いずれにせよ、D男さんに現れた最初の治癒の兆候は、まだ「問題の軽減」を意味するものでしかありません。そこには真の「解決への前進」はまだ含まれていません。

 それは「心を解き放つ」ことの中に現れるものです。

 私からしたことの中に、それをつかんでもらうための特別なものがあったわけでは、必ずしもありません。まずはこの章でまとめたような、より精緻な心理学の視点へと話を進めました。ちょうどこの頃サイトの掲示板でも、「自己操縦という生き方」についての解説を展開しており、メールでさらに直感的に分かりやすそうな説明を送りました。

 同時に、「それがいけない」という否定の目を向けるのではなく、感覚がつかめてきた「中庸の目」を向けることが方向性であることを。

 キモの部分を載せておきましょう。

 

== 島野から 2007.6.4(月)==

■「自己操縦」と「中庸の目」

 

>>感情を自分の外からやってきた力のように利用しようとする感覚が、「自己操縦」と関係します。

>自己操縦とはなんでしょうか。理想という型にはめて、自分を強制的に操縦するという意味でしょうか。

 

まあ基本的にはそうなのですが、ハイブリッドで「自己操縦」と呼んでいるのは、理想に合わせて自分を操縦するということそのものよりも、操縦しようとしている「自分」が、本当の自分ではない「操縦される自分」になっていることを呼んでいます。

 

つまり、「自分を理想に向けて向上させる」のではなく、「操縦される自分を理想に合わせる」になっていることを「自己操縦」と呼んでいます。

つまり、「自分」と「理想」の関係という構図ではなく、「操縦しようとする自分」と「操縦される自分」という分裂構造があり、「理想」があるという構図です。

 

それは自分の中に押し込められながら、外界において何物かになろうと駆り立てられる人間の姿です。あたかもそれは、SFドラマの中で、巨大な怪獣が実は遠隔ロボットであり、それを操縦している主は、実はみずぼらしい小動物のような知的生命体だった、という姿を連想させる、人間の「生き方」の姿です。

 

そんなものが、自動的な感情として動いてしまいます。それが「自己操縦心性」です。

 

これは昨日の話の延長で言いますと、やはり「中庸の目」ではなく、一面の断面だけを見る目で自分を見た上で、「理想」と比較してしまうということですね。

ある時には理想に近いと感じ、ある時には駄目だと感じる。

しかしそれはあくまで自分の断面でしかないわけです。

 

そうした断面を見る目ではなく、多面を同時に持つ本質として、自分を見る目で、まず「自分という未知なるもの」を感じ取ることが大切になってきます。

するとそれはもはや「操縦する自分」と「操縦される自分」という2極にはならないものになってきます。

 

・・(略)・・

■「感情の強制」vs「心の成長」

 

自分の感情のあり方を自分で評価する。自分の感情がこうであるべきだという観念の下で、自分の感情がそうなるように自分に働きかける。時にはストレスを加える。

そうした人間心理は、「気持ちが大切」「やる気があれば」「明るい自分で」「人を好きになれば」といった言葉に表現されます。

 

現代社会においては、そうした「心の姿勢」はあまりにも当たり前のものに聞こえますが、自己操縦心性のメカニズムにおいては、「感情の強制」が心理障害悪化の主因となります。

それは感情を直接変えようとする試みであり、草木を育てることに例えると、無理に引っ張ったり、型枠にはめることで形を整えようとするようなものです。

 

一方、ハイブリッドが示す「心の成長」は、感情操縦を一切使わず、感情を直接変化させようとはせずに、感情に対しては間接的に働きかけることで、感情が湧き出る大元の心の方を成長させるという「技術」を使います。

それは草木には直接手を加えず、それが育つ土壌を良くし、必要な日光や温度を与えるという方法です。無論これが「育てる」という本来の姿であることは言うまでもありません。

 

僕自身の現在の感覚としても、自分の感情をどうこう変えようとすることは、一切していません。自分なりに開放感に満ちた生活をしている感覚から言うと、そもそも自分の感情を自分で操縦しようとすることは、極めて不自然なことというのが実感です。

 

■「自己否定」が前提となる「感情の強制」

 

では一般心理としても、「感情の強制」はどんな時に起きるのか。これは通常の人間生活の状況においては基本的に不要なものと思われます。

・・(略)・・

これらを考えるならば、「感情の強制」ということが一般心理として起きるとしても、それは「自己否定」を前提にしなければ起きない、という考えに至ります。

これは「道徳」の世界です。人はこうあるべきである。今の自分は駄目だ。その自己否定があって初めて、自分の感情を直接変えようとする心の動きが起きます。

・・(略)・・

 

■「自己分裂」は一切正さない

 

そうした「自己操縦」を克服して「中庸の目で見る自分」の向上に向かうための努力としては、「自己操縦をやめよう」と考えたり、断面で自分を見る分裂状態を直そうと考えるのは、誤りです。

先にも書いたように、それらはとにかく入れ込まずに、ただ流すだけにします。

 

そして必要なのは、「中庸の目」で自分を見た上での進む先を考えるという、新しいものを加えるということです。

つまり減算法ではなく、加算法が正しい姿勢です。減算法で「これが駄目なんだ」と考えると、再び「操縦する自分とされる自分」という分裂の轍に戻ってしまいます。

 

 D男さんとしても、これが今までの人生で試みた、どれとも異なる方向への道であることが、頭の中で良く整理できてきたようです。

 

== D男さんから2007.6.4(月)==

>■「自己操縦」と「中庸の目」

本題に入ってきましたね。1ヶ月やっているためか、納得しながら読みました。

 

自己操縦、感情統制感情を読むと、私はなるべくして現在の状態になる思考パターンの持ち主だったんだと思いました。ハイブリッド心理学的には典型例ではないでしょうか。(笑)

でも、小さい頃からの教育、道徳、根性論、ポジティブ思考、成功思考など、ほとんど自己操縦の方法論ではないですか

他の人たちは大丈夫なのかな。性格によって、顕在化されるのでしょうか。

 

いくつか質問させてください。

・・(略)・・

 

「望む技術」への視点の導入

 

 D男さんの質問の中には、「操縦される自分」をやっていると判断する方法はあるか?というものがありました。「何とかしよう、頑張ろう」ではまた自己操縦になってしまいそうだ。

 これについて今コメントを言うならば、自己操縦になってしまうことについて心配するよりも、その中で実際に自分がすることが、いかに自分の成長に向う建設的なものであるかを、「中庸の目」で見ることを加えることが大切だと言えるでしょう。「自己操縦」の有害な側面を自覚したら、あとはもうそれに代わる心の土台の成長に合わせて、それが根底から捨てられていくのを長い目で見るのが正解です。

 

 視点をより積極的に自らの成長に向ける上では、「自己操縦」を多少は引きずりながらも心の中に見え始める、「望み」の感情の部分に着目することが良い方法です。

 そこに「望む技術」というものが出てきます。

 私はその端緒として、「内側からの望み」と「外側からの望み」という話をしました。先の表にもまとめましたが、「内側からの望み」とは、行うことそのものの内容に意義を感じる感情によってその行動を進めることであり、一方「外側からの望み」は、何かをできた結果の自分の姿を望む感情によって、その行動に向うものです。

 心の成長にとり、「外側からの望み」が全て望ましくないわけではなく、「内側からの望み」を内面を豊かにするために、「外側からの望み」を外面を豊かにするためにバランス良く使うのが理想的です。その上で、実際の行動はやはり「内側からの望み」の感情によって推進することが、それを充実感の中で効率よく行うための心の技術だと言えます。また「外側からの望み」だけで考えていると、望ましくない「自己操縦」に落ちるという轍を、それによって回避すことができます。

 

 まずは、こうした「心の技術」を、実際の体験の中で、自分の意識をどう変えてみるとどう心の風景の全体が変わるかを「体得」することから始めていきます。

 

== 島野から 2007.6.5(火)==

>自己操縦、感情統制感情を読むと、私はなるべくして現在の状態になる思考パターンの持ち主だったんだと思いました。ハイブリッド心理学的には典型例ではないでしょうか。(笑)

「自己操縦」はD男さんだけでなく、全ての人がそうです。それが心の障害の母体の基本メカニズムなんですね。

 

>でも、小さい頃からの教育、道徳、根性論、ポジティブ思考、成功思考など、ほとんど自己操縦の方法論ではないですか。他の人たちは大丈夫なのかな。性格によって、顕在化されるのでしょうか。

その通りですね。結局心の底の自己否定感情が解決しない限り、全てごまかしか一時しのぎにしかならないと思います。世の中で成功している人というのは、実はその「成功則」以前から、最初から自己操縦とは違う健全形の要素が優勢で、素直に望みを追う努力をした人が大半だと思います。

 

僕にとってもそうした世にある「成功則」の中で、人生に役に立ったと思えるものはほぼ皆無という惨憺たるものだったのが現実ですね。

唯一役に立ったのが、「ハーバード流交渉術」です。これは自己操縦ではない、ホンモノです。

関心あれば以下などご参考。

・・(略 *次章にて解説します*)・・

 

■「内側からの望み」と「外側からの望み」

 

>「操縦される自分」をやっている、と判断する方法はありますか。自分ではやりたくて、やっている中にもありそうです。何とかしよう、頑張ろうは操縦になりそうですね。

へのヒントをお伝えしておきましょう。

 

「内側からの望み」「外側からの望み」という区別がそれに該当します。

前者は「真の自己向上」になり、後者が自己操縦になる。

これについての説明を、他の相談者の方への返答メールから抜粋しておきましょう。

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>なんだかその「ものすごくストレス、どうせできないんだから辞めたい」と投げ出すのと、「かすかに楽しいかも」と作業するのを繰り返していました。

これは非常に面白い感覚の対比が見えてきたと思います。

何が面白いかと言うと、結果的にやっていることは、まるっきり同じということです。

ところが、視点が変わると、天と地の差とも言えるほどの別世界になるわけですね。

 

■「内側から望む」と「外側から望む」

 

この違いは、「内側から望む」と「外側から望む」のとの違いという風に大体言えます。

自分の内側から望むか、自分の外側から望むかです。

「望みに向かう」ことを言っていますが、うまく望めないのは、外側から望む心の使い方をしているからなんですね。

 

外側から望むとは、何かを行っている自分の姿を外から見て、その姿の実現を求めることです。

内側から望むとは、行うことそのものを求めることです。

 

すると、結果として行うことはまるっきり同じなのに、世界が変わるわけです。

内側から望むと、そこには前進の感覚と、統一の感覚と、快い労働感と、楽しみや喜びの感覚の輝きがあります。外側から望んだ瞬間、焦りとストレスの暗雲が立ち込め、吹きすさぶ荒風に打たれる苦しみと、放棄への誘惑と葛藤が現れます。

 

■望む技術

 

ここで「望む技術」という話が出てきます。

全く同じことをするのにも、視点が変わると別世界になる。

ならばその視点をどう自分自身の人生に取り入れていくか。これを望みの対象にするというのが、望む技術です。

 

まずは視点を変え、その視点で自分の行動を計画する努力をすることからですね。そうゆう視点で努力してみないことには、どこに本当の能力不足があるのか、全然わからないんですね。

 

どうすれば、「かすかに楽しいかも」が自分の時間の全体を占めるようになれるのか。じっくり検討してみて下さいな。

多少、正真正銘の管理技術の話も出てくるでしょう。案外それは、こんな悩みを抱えていた人間にとって得意なことだったりします。

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 実はこのメールで引用した「他の相談者の方」とは、「C子さん」です。絶望感におおわれていた彼女も、仕事が「かすかに楽しいかも」と感じることが出てくるような、変化への前進の中にいました。彼女の事例紹介の続きについては、『下巻』にてまた触れましょう。

 

D男さんの「心を解き放って生きる人生」の序章へ

 

 「心を解き放つ」ことを妨げるものを可能な限り取り除き、心から解き放たれた衝動についてはうまく捉え、自分の方付けをしていく「心の技術」を学ぶ。

 この駒の一手を打てる準備が、D男さんの心にできてきました。しかしそれはまだ頭で理解しただけに過ぎません。

 

 「心を解き放つ」ことそのものについて、それを「知って」行うものとして教えてくれるものは、何もありません。

 「心を解き放つ」ことを私たちに教えてくれるものが、たった一つあります。それは「現実へと向う」ことです。「現実を生きる」ことであり「今を生きる」ことです。

 頭で考えられることが一通り揃ったら、あとはもう「現実」へと突き進むしかありません。時にそれは「空想」という巣の中で得ていた仮りそめの安泰に自分をつなぎとめ続けようとする命綱を切って、闇へと飛び込むようにです。

 

 その日の夜D男さんから届いたメールには、私の話への感想は特に書かれず、代わりに、これからの行動の仕方についての相談が書かれていました。明日に元上司、その翌日に現上司と面談するとのこと。

 心を解き放ち、「未知」へと向うのが成長への方向性であるとして、現実の行動場面にはそのための、それなりの行動法があります。それは「既知」としておく必要があります。私としても、それをアドバイスするのみです。

 

== D男さんから 2007.6.5(火)==

明日、元上司で現・人事部長に会い、明後日は、現部長に会います。

 

いろんな気持ちが出ているので、中庸を練習するためにも整理の意味でもメールさせてください。

本日のお昼から現時点まで、感じた欲求を並べます。自己否定をしそうでしたが、深入りしていません。

・どんな顔で会えばいいのか。会話はどうするか。

・不利になる会話はしたくない。

・病人の感じも出さないといけないか。

・現部長は策士だから、何か策がありそう。対策しなくていいのか。

・人事時期で、希望を聞くと言っているが、どう答えるか。

・早いなあ、もう2度目の休職は2ヶ月やっているのか。自分は変わったのか。

・働く自信ない。怖いよ。そんなことを言ったら、やる気なしと怒られるたら、どうしよう。

・生活費を稼ぐために、このままではいけない。

・今気づいているのは、感情は流すだけということと、今までの思考は偏っていたこと。

・会いたくない。逃げたい。

・でも、いつか会う必要がある。

・・(略)・・

・家族や仲間、仕事の上司、同僚には心配かけて、お世話になった。お礼をしたい。

・心身において、今は無理できない。まずは健康状態を維持したい。

いろいろと感情を流して、それを知性で眺めようとしています。

 

ぼんやり浮かぶのは、「傷つきたくない」「評価を戻したい、維持したい」というもの。結局自分だけいい子ちゃんになりたい、と。それを評価する人たちのことはあまり考えていない。

 

評価される私だけで、評価する上司を考えていない。愛される私だけで、愛する妻を考えていない。

自己中心だな、と自分で思いました。自己否定はせずに、そういう考えの持ち主なんだ、と。

原因は複数でしょうが、自己否定によって損なわれた自尊心を供給したいのでしょうか。

 

以前は仕事がバリバリとできたから、自尊心が供給されていた感覚がありましたが、今は休職中で、供給が絶たれている。だから、「どんな顔であえばいいのか」となっています。

また、供給がほしい。取り戻したい。

 

しかし、この他人から自尊心を供給されたい、というのが気持ちが減れば、もう少し違う視点を持ちそうです。自分で供給する方法です。

でも減らそうと自己操縦したくないので、「こういう考えもある」に留めます。

 

正直な気持ちとしては

・まだ混乱はしているが、気づきがあり、回復している。

・健康的な生活を心がけて、主治医の指示に従っている。

・今は健康第一で考えるので、人事も定時で帰れる、残業がない部署を希望。

・具体的な部署は、経験のない部署は判断つかないので、ご相談させてほしい。

・逆に現在、会社がどのような状況かが知りたい。

 

という感じでしょうか。

中庸は見えない世界というだけあって、どうなんだろうか?

なんとかしたい、と少々自己操縦のような感覚があり、それを流して、眺めようとの切り替えが交互にある感じです。

 

 これはまだ「気持ち」を中心に行動を考えている文章です。自分の中に潜んでいた自己中心性に気づくのはいいでしょう。でも、世界はD男さんの内面がどのように成長し、問題がおさまるかとはとはまた別の目標や関心に向って動いています。そうした社会を強く生きていくための、感情に揺らぐことのない行動法があります。それを実践することが、自尊心を育て、内面の安定を生み出します。

 この状況でまず考えられることは、実際のところD男さんの置かれた状況に対して、会社の方がどれだけ厳しい姿勢を向けてくるのかによって、これからの身の振り方が全く変わってくるということでした。

 厳しい状況にあるのであれば、それなりに思い切った対応を考える必要があります。一方そうでなければ、下手に見通しを語ったりしない方がいい。

「混乱はしているが気づきがあり回復している」といった「内部事情」は取り除き、D男さん自身の現状をありのままに、虚飾なしに伝え、あとはとにかく向こうの出方を待つのが、とり得る最善の手です。

 

 こうした、行動する時のいわば将棋の駒をさすような思考方法は、今までD男さんとしてもあまりしてこなかったものと思われます。

 今でこそ言えますが、私はかなり厳しい状況が出てくる一抹の可能性も感じながら、その不安は一切文面に出さずに、ごく軽い文面でこの不確定な状況で考えられる行動法をストレートに伝えました。

 

== 島野から 2007.6.5(火)==

まず今回は、

------------------

・健康的な生活を心がけて、主治医の指示に従っている。

・今は健康第一で考えるので、人事も定時で帰れる、残業がない部署を希望。

・具体的な部署は、経験のない部署は判断つかないので、ご相談させてほしい。

・逆に現在、会社がどのような状況かが知りたい。

------------------

という姿勢を示せばいいと思いますヨ。とりあえずまだ3週間あるということで、使える猶予は使うのが得策です。

 

さっきのメールの話とも重なりますが、自分の内側からの視点が固まらない内に、外側から画策してもボロが出てしまうだけと思います。

今回は一方的に相手からの話を聞くことに徹し、返答を求められることがあれば数日間の猶予をもらって返答するというスタンスで問題ないと思います。

 

>中庸は見えない世界というだけあって、どうなんだろうか?なんとかしたい、と少々自己操縦のような感覚があり、それを流して、眺めようとの切り替えが交互にある感じです。

さっきその点を簡単に付け加えておこうと思い書き忘れでしたが、中庸と自己操縦は最後は切り分けられるものではなく、混在する部分が残ります。それについては、あとは実際に行動して「生きる過程」そのものの中でより明瞭にしていくしかありません。

 

多少の自己操縦を含めて決断することが、また中庸の目になります。深いですねー^^

 

 幸い、私が頭の片隅で想像したような厳しい状況は特になく、人事部長さんはごく暖かい励ましをD男さんに伝えただけのようでした。メンタルへの理解がここまで重要と叫ばれている昨今でもあります。

 D男さんは、私のアドバイスをそのまま実行しました。

 

 特に何の手を打ったわけでもありません。ただ「現実へと向う」のです。行動法による安全策を確保した上で。あとは命綱を捨てて闇へと飛び出すように。

 心が解き放たれます。

 

== D男さんから 2007.6.6(水)==

本日、元上司で現人事部長と1時間ほど会いました。

会う前はメールに書いたとおり、怒られる、評価が下がると構えていたのですが、全然違いました。いい経験にしなさい、という感じでした。

内容は、

・病状 ・新しい組織の変更 ・異動の希望

などです。

 

私は

------------------

・健康的な生活を心がけて、主治医の指示に従っている。

・今は健康第一で考えるので、異動も定時で帰れる、残業がない部署を希望。

・具体的な部署は、経験のない部署は判断つかないので、ご相談させてほしい。

・逆に現在、会社がどのような状況かが知りたい。

------------------

を中心に言いました。

 

この方とは3年前まで4年間上司だった人なので、私の仕事ぶりや性格を知っています。

「まあ、ゆっくり回復しなさい、でも復帰がしやすいように早めがいいと思う。」

「おまえは格好つけるからな。生真面目だし」「今の部署よりも体力回復のために内勤系に異動がいいのでは」などのアドバイスを頂きました。

また、ご自身が35歳で転職して、あらゆる部署に異動したことに関しては、「しょーがないね。独立する才能ないし、会社で必要とされる部署に行くのだから、しょーがない」という上司なりの受け入れる気持ちをを感じました。現実と向き合っているというのでしょうか。

 

帰る途中、全身が脱力して、あらゆる感情がわきあがりました。

最近、感情がむき出し状態、という感覚があるのです。

 

なんというのでしょうか。

子供が思うようにいかないときに、「わぁーー」と暴れたくなる気持ちや安心してお母さんに甘えたい気持ち、最近では、隠して守って我慢していた感情を出したいがあります。

「俺はこういう人間なんだよー。もうガードを固めることに疲れたー」と叫びたい。

そんな喜怒哀楽すべてを表現したい状態です。

今はそんな気持ちをとにかく入れ込まずに、ただ流すだけにします。結構しんどいです。

 

さて、質問です。

>「内側からの望み」「外側からの望み」 外側から望むとは、何かを行っている自分の姿を外から見て、その姿の実現を求めることです。内側から望むとは、行うことそのものを求めることです。

この内側の望みとは5/26のメールにある、

>「自律型自尊心」は大きく2つの要件があります。まず「人の目」には一切依存することなく、自分で価値を感じられるものを持つことです。自分で楽しく感じられるというのも、その一つになります。

に近い考えに思えました。どうでしょうか。

 

私の行動のほとんどは他人からどう見られているかが多いですね。

元々は物事を好きで始めても、途中から認められたいに変わっていきます。

もし、他人が見ていなくても、評価しなかくても、やり続けるかという質問に「じゃー、やめた。」となることでしょう。これが外側からの望みですか。

 

内側からの望みはなんでしょうか。

さきほどの「俺はこういう人間なんだよー。もうガードを固めることに疲れたー」と叫びたい。

は内側かもしれません。外側も混じっていますが。

 

今は身の丈の自分をカミングアウトしたい気持ちでいっぱいです。

この気持ちも、いじらずに、そのまま流します。

 

 このD男さんの心に湧き出た「喜怒哀楽すべてを表現したい」という感情の息吹が、これからのD男さんの心の成長へと直接前進させるものであるのかは、こうして湧き出たものを見たその時点では、分かりません。

 それでも今は、心の泉を固く閉ざしていた蓋を取り去り、まずはそこから何かを湧き出させること自体に、意味があるのです。同じ水質のまま湧き出し続けるのか。それとも安定した本流が現れるまで、刻々と変化していくのか。おそらく後者である可能性の方が高いでしょう。

 またそれは待つ必要があるものでさえありません。心の成長とは、待って与えられるものの中にはなく、自ら進むことの中にあるからです。

 

 「心を解き放つ」先に何があるのか。それに向うための羅針盤があります。

 それは「心の自立」です。その先にあるのは人それぞれの唯一無二の「未知」であるとしても、それが必ず通り道になるからです。

 「自己の重心」という最大の基本前進指針の先に「心の自立」という次の大きな指針があります。それがハイブリッド心理学の道のりです。「心の自立」とは、自分の感情を自分で受けとめるという、自分自身との二者関係の確立だと言えるでしょう。それはやがて自分自身の「魂」との関係へと進化し、そこに人間としての存在の根底からの変化への道が始まります。

 

 「望み」への視点も持ちはじめたD男さんのこのメールへの返信が、私がD男さんのメール相談援助の中で初めて、この「心の自立」という視点に触れるものになりました。自らの感情を自分で受けとめること、「内側からの望み」に着目すること、その先に、変化し続ける自分に向かい続けること。

 これからの「心を解き放って生きる人生」への、まずは序章への総括説明という感じの長いメールになりました。説明が重複する部分は省いて、一部を紹介しましょう。

 

== 島野から 2007.6.7(木)==

■「感情は開放する」ただし「受け取るのは自分」

 

>帰る途中、全身が脱力して、あらゆる感情がわきあがりました。最近、感情がむき出し状態、という感覚があるのです。

それ自体はいいことですね^^

 

「感情と行動の分離」について、特に感情面に焦点を当てた説明になりますが、感情は内面において思いっきり開放するのが原則です。そもそも流れ移るものである「感情」を、自分でせき止めたり、型を決めて押し出すような心の使い方が、「自分自身にストレスを加える」ということである訳です。

感情はまずは、流れ移るままに任せる。

一方、外面の行動は建設的なもののみとし、非建設的感情は非行動化します。

 

これはさらに突っ込んだ話として、感情を外に出さず内面にとどめることに価値があるというよりも、「自分の感情をしっかりと自分で受け止める」ことに、心の治癒と成長への価値があります。

 

>なんというのでしょうか。子供が思うようにいかないときに、「わぁーー」と暴れたくなる気持ちや安心してお母さんに甘えたい気持ち、最近では、隠して守って我慢していた感情を出したいがあります。「俺はこういう人間なんだよー。もうガードを固めることに疲れたー」と叫びたい。そんな喜怒哀楽すべてを表現したい状態です。

>今はそんな気持ちをとにかく入れ込まずに、ただ流すだけにします。結構しんどいです。

確かにそうした感情は、表現して人に見せても、人としてはあまり受け取りようがない感じでもあります。だから内面にとどめるのが得策です。

しかしより重要なのは、そうした感情を、さらに自分がどう受け止めるかなんですね。そこに治癒と成長という話が始まります。

 

それはつまり、心の成長というのは次第に、自分と他人との関係という二元構図から、自分自身との関係がありそれを果たすために他人との関係へ向かうという、三元構図になってきます。

深い話は今回は省略しますが、それが「自分の魂」との関係という話になります。自分自身の魂との関係をしっかりと持った時、人は心に揺らぎない芯を持つようになります。

 

それぞれの感情に応じた受け止め方という話が出てきます。それはまだで、これから色々と学んで頂く話になります。

課題一覧の最後には「置き去りにした愛情願望への向き合い」というのを載せてありますね。多少そんなものが見え始めてきた訳ですね^^

 

>上司なりの受け入れる気持ちをを感じました。現実と向き合っているというのでしょうか。

については、上司に感謝すると共に、それに応えるためにも頑張りたいという気持ちを感じたのではと思いますがどうでしょう。それは、今まで行動へのエネルギーにした、人を見返すという衝動とは、ちょっと違う感情であるのが分かるのではないかと。

 

それが「内側から望む」の一つでもあるんですね。

 

■「望みに向かう」ことなくして「真の自尊心」はない

・・(略)・・

■「内側からの望み」は内面を「外側からの望み」は外面を豊かにする役割を担う

・・(略)・・

■変化し推移し続けるものとしての自己を受け入れる

・・(略)・・

総合すると、自分自身との関係があり、他人との関係があるという、三元構図にどうしてもなります。もともと心がそうゆうメカニズムになっているんですね。

とっかかりとしてはややこしいかも知れませんが、最初にそれをきっちりと整理した方が、後で全ての物事がスムーズに進むようになると思います。それをしないままだと、自分のありのままの感情を知らなかったり、無駄なストレスを自分に加えたりするのを、永遠に続けることになります。実際多くの現代人がそれで人生を終えているのが現状だと思います。

 

自分が現実世界の中で進むべき方向というのは、そうした多面を並べて、内面感情から「内側からの望み」そして「外側からの望み」を拾い上げていき、浮き上がってきたものへと、最後は「決断」するのみです。

 

重要なのは、自分を成長に導くものの答えは、その「決断」の時に最終形が見えて進むなどということはあり得ないということです。行動することによって、今言った「多面」が全て変化し移り行きます。もし最初の「決断」とギャップが生まれてくるのであれば、やがて再び「決断」をしし直すべき時が来るかも知れません。

 

もともと人間の成長とは、そうゆうものなんですね。最初に「なるべき形」を決めてそに向かって自分を押し出すというのではなく、変化し推移し続けるものとしての自己を受け入れることに、成長の始まりがあります。

 

心に血が通う最初の大きな治癒の現れへ

 

 翌日、私の総括説明への返信がD男さんから来ました。私の説明への理解確認として、これからの生き方方向性と、今までの生き方の違い。現上司との面談の報告も書かれていました。私が示唆した行動法ができているようです。

 内面感情が開放されたことで、D男さんの心身に思いもかけない変化が起き始めていたようでした。心の通り道が変わると、「気持ちの持ちよう」といったレベルを明らかに超えた変化が起きるのです。

 

== D男さんから 2007.6.8(金)==

今回のメールの確認です。

・感情は思いっきり開放して、自分でしっかりと受け止める。

・その感情などの中から内側から望むもの(本心から望むもの)を見い出していく。

・これは自分との関係であり、他人はその後の関係となる。3元構図。

・自律型自尊心は「内側から望むもの」が前提にあって、外側からの望みが加算される。

・最後に決断する。最終形は変化するもの。

という理解でよろしいでしょうか。

 

今までの私だと

・感情はポジティブでなければならない。ネガティブはコントロールして捨てるか、変形させる。

・外側からの望みは、内側から望みと同意義。みんなに認められて私が存在する。

・あるべき姿に近づくために、現在位置と比較して、足りないスキル等を埋めていく。

・最終形は変わらない絶対的なもの。

ははは、全然違いますね。

ここまでが確認です。

 

昨日は現部長に会って話しました。前日同様に異動時期なので、希望を聞きたいとのことです。

即答はできないです、と言って、とりあえず月曜日の朝までに希望を言う約束をしました。

これらを具体的な材料として、本日は原理原則で検討したいと思います。

これは私にとって「仕事」とは何かでもあります。

 

感情が泉のごとく流れていますが、そのままにして、なるべく知性で考えたいと思います。

まだ、不慣れなので、修正点などがありましたら、お教えください。

 

●私にとって仕事とは?

・・(略)・・

おぼろげに異動する部署は見てきていますが、ここで決断を誤ったら、と慎重になっています。

今はこのレベルの認識です。感情は激しく入り交じります。

 

また、面白いことを発見しました。感情を開放すると、イヤな気分はあるのですが、体がポカポカして、エネルギーが湧く感じがします。

ご意見を頂けたら幸いです。

 

明日は10年ぶりの大学のゼミ同窓会です。

同級生には、休職していること、悩んでいることなどを話したい気持ちがあります。

内側から望む感覚に注目して、カミングアウトしてみようかな、と思います。

弱さを受け入れるために。こうやって練習、実験するというコントロールがいけないのかもしれませんね。不自然でしょうか。

 

 私は改めてD男さんに起きている心身の変化について説明を送りました。

 この章で概観した「感情の監視操縦」とは、結局のところ「心の無酸素運動」です、と。私たち自身の心の健康に対する「感情の監視操縦」の位置づけについて、これがその頭越しの否定もひいきもしない、「医学的中立性」に立った正しい理解だと言えるでしょう。確かにそれが役に立つ場面も生活の中には出てくるでしょう。ただし長く続けるものではない

 人生は「心の有酸素運動」を主体にして歩むものです。

 

== 島野から 2007.6.9(土)==

いろいろと復帰に向け始動開始という感じですね^^

それに向けた話に焦点を当ててアドバイスしましょう。

 

>という理解でよろしいでしょうか。

Very Goodです^^

 

>ははは、全然違いますね。ここまでが確認です。

そこまで確認できていれば全然okです。これからは、どうするとどのように変化するのかを理解する段階へですね。もちろん、違うものを「これがいけない」と否定するのは、全くその答えではないわけです。望ましくないものを消すのではなく、それとは全く異なる正しい「心の技術」を加算するのが基本

 

■「感情の操縦」は「心の無酸素運動」

 

>また、面白いことを発見しました。感情を開放すると、イヤな気分はあるのですが、体がポカポカして、エネルギーが湧く感じがします。

まあこれはそれほど新しい話ではありませんが、そうした「心の技術」の最も基本となる話になります。

なぜそのようなことが起きるのかの仕組みを理解しておくといいでしょう。

 

実は、先日の人事部長さんとの面談を契機に多種多様な感情の噴出が起きたようなので、一晩寝た翌日に今まで体験しなかったような「開放感」が起きたのでは?と指摘しようと思っていたところでした。

 

まあ単純に、「心に血がめぐってきた」ということだと言えると思います。

感情を型にはめて押し出すという「感情の強制」は、息を止めて力を込めるという感じで、いわば血がうっ血したような状態になります。それをやめ、うっ血した血を開放すると、思いがけない感情が湧き出ることもあるとしても、とにかく血が通った状態が回復するわけです。

 

まあ言わば、「感情の操縦」は「心の無酸素運動」です。

この例えが示す通り、感情の強制も時には必要になることもあります。多数の人を前にした時や、人生における勝負に向かうような時。これは短距離走であり、無酸素運動です。

 

しかしそれをずっと続けていたら、当然体が壊れるわけです。同様に、「感情の操縦」を延々と続けていると、心が壊れます

身体運動もそうだし、心の運動も、基本は有酸素運動です。これは感情を強制せずに、基本的に感情を湧き出るままに湧かせ、それを確認材料として運動の方法や強さを調整するという形です。

 

ですから、

>感情はポジティブでなければならない。ネガティブはコントロールして捨てるか、変形させる。

これが一番、長距離走における正しい対処法を、今後は学んで実践するのがいい面ですね。

長距離走で疲れによってスピードが落ちた時に、その方法はスピードを回復させようと全力での短距離走の無酸素運動に切り替えるような話になってしまいます。マラソンでそんなことしたらどうなるかは、火を見るより明らかです。

長距離走でスピードが落ちたのを挽回するためには、まあ詳しい話は知りませんが、使う筋肉を細かく変えることや呼吸法の調整になると思います。

 

それと同じように、ネガティブな感情は、しかるべき心の状態を示すものであり、それに応じた正しい対処法があります。これはまだ今まで各論は出していない、かなり具体的なものになってきます。まこれはおいおい、具体的なネガティブな感情をテーマにお伝えしていければと思います。

 

 私はこのメールで同時に、D男さんの「カミングアウトしたい」については、慎重にいくようにとのアドバイスをしておきました。その理由も明瞭に述べて。これは続きの説明に回しましょう。

 「自尊心と愛のための行動学と価値観」という、心の治癒と成長のための明確な考え方と、取り組み実践への確固とした指針と内実のある、本格的な取り組みがここから始まります。

 「心を解き放って生きる」というこの章で概観した方向性が、新しい生き方への骨組みである一方、「愛と自尊心のための行動学と価値観」それに血と肉を注ぐものになります。

 

 D男さんの心に訪れた最初の大きな治癒は、もはやD男さん自身にとっても疑う余地のないものとして、D男さんの心を包み始めていました。

 

== D男さんから 2007.6.10(日)==

●心の状態

今は心に血が通った状態です。

全身からあらゆる感情が吹き出してきて、ブルンブルンと感情に振り回されていますが、「生きている」という感覚が少々あります。

 

>興奮と落胆、疲労と休養、そうした「自分の中に潜在的にあり得るもの」全てを一度かき混ぜ湧き上がらせ、混沌の中から中庸の目で進みどころを決断していく。その積み重ねが「成長」です。

今はトコトン自分の中で感情は開放しつつ、徐々に知性で復帰に向けて建設的な行動に入りたいと思います。

 

(続く)

 

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