心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

10章 人生への実践−1 −プラス行動学−

 

この章のまとめ

「行動学」「価値観」へのハイブリッド心理学の本格的取り組みを、実際の事例を通して紹介します。

ここではまず、心の障害傾向としては比較的問題が軽く、深刻な心の障害傾向の根本治癒に不可欠な「感情分析」「自己操縦心性の崩壊」などの特別な取り組みを必要とすることなく、「否定価値の放棄」というハイブリッド心理学のひとまずの習得ゴールの一端にまで向った事例として、「A子さん」のその後の実践の紹介をします。この章はその前編になります。

■実践項目■

「怒りによる対処」の根本的無駄の理解・・・科学的人間観から。建設的思考法は常に「加算法」の形。

「誉める」というプラス行動の行動学・・・「愛」の側面は「建設的思考法行動法」、「自尊心」の側面は「原理原則立脚型行動法」

感情を「看取る」・・・「感情はただ流す」をさらに前進させた姿勢。前向きな価値観の中でこれが根本治癒になる。

「心の自立視界」・・・ハイブリッド心理学が推奨する建設的価値観を根底で支える意識土台。

■実例■

島野 ・・・「怒りのない人生」の獲得までの主な経緯

A子さん ・・・ 僅か2週間ちょっとで「いつもの疲れ方は何?」と感じる変化を足がかりに、より本格的な取り組みへ。引き続き子供への対応を主に検討。

 

 

怒りのない人生・「思考法」から「価値観」そして脳の意識土台へ

 

 「建設的な思考法と行動法」によって、私たちは「怒りを用いることのない対処の仕方」をすることができます。

 一方、「建設的な価値観」を持つことで、私たちはもう心の根底から「怒り」の感情を持つことがなくなってきます。

 この違いが極めて重要です。

 

 つまり、「建設的な思考法行動法」ができるということは、「怒り」の感情にもうそれ以上自分からは加担せず、それ以上膨張させないようにすることができるということです。「怒り」の感情がもう全く起きなくなるということではありません。

 「怒り」の感情がもう全く起きなくなってくるのは、「価値観」がそれに応じたしかるべきものになった場合です。つまり「建設的な思考法行動法」だけでは根絶できない、日々の生活の中で残り続ける多くの怒りやストレスが、「価値観」の根本変革によって可能になってきます。

 ただし「価値観の根本変革」は、深さが重要です。「気持ちの持ちよう」といった、自分へのポーズのような心の表面思考では、まず「怒りの根本克服」はできません。

 怒りを本当に無用無駄とする価値観が、いわば脳の中枢にまで染み透った時、生理的な感覚のレベルから、「怒り」がもう湧かなくなります。

 

島野の「怒りのない人生」までの経緯

 

 私自身がそうした「怒りの根本消滅」を感じ始めたのは、2004年の年初の頃でした。

 そこまでの経緯を、ここで少し紹介しましょう。

 

 私は自分の心の障害からの最初の劇的な脱出を、まずはカレン・ホーナイの精神分析だけを頼りに乗り越えました。『悲しみの彼方への旅』にまとめた大学時代です。

 私にはこの時まだ、「怒り」が心の健康に害があるという認識が欠けていました。それがあのような厳しい道のりになった最大原因だと、今では感じています。

 「怒り」を克服課題だと知ったのは、大学院に進み、「論理療法」を学んででした。そこでは「怒りをなくす」ことが明瞭に課題として書かれており、そのために、怒りが本当に役に立つかどうかを見極めよ、という指針が述べられていました。

 怒りが有用なのは、相手が明らかな悪意で攻撃をしかけてきており、そして怒ることが問題の解決に役立つ時だけである。それ以外では、怒りは全く無用であり有害である、と。

 ただしこの頃に私が「怒り」の感情をかなりの程度において減少させたのは、それを学んだことだけによるものではなく、もっと大きな生きる姿勢の変化の結果としてであったように感じます。ただ「自らを知る」という精神分析だけの一本槍から、自分をより積極的に方向づけていくことを学ぶことで、自分が望ましい姿になるための膳立てが与えられないことに怒るというそれまでの内面姿勢が、自らを変えて行くという基本姿勢へと転換されると同時に、それまで怒りにおおわれた心にあった私は、かなりの程度においてもう怒るのをやめたのです。

 

 この変化は、私自身がその頃あまり言葉で捉えなかった、見えない変化でした。今ならば、そこに何が起きていたのかをはっきりと言うことができます。

 それは「心の自立」です。その最初の大きな転換が、その頃起きたのです。この「心の自立」というテーマが、このあとのこの本の後半全体を通して、最大のテーマになるものと言えます。

 

「否定価値の放棄」で大転換した心の風景

 

 何とか安定を獲得し始めた心で、その後社会人生活を歩みましたが、しばらくはまだ屈折した心を抱えていたことは、『悲しみの彼方への旅』の最後の章で紹介した通りです。

 交際相手探しに奔走する日々に向い、初恋の女性とも再会を果し、長続きしないデートへの気力が衰えてくる頃、神秘的な夢を良く見るようになります。やがて静かな内面生活の中で、仕事への精が出てきます。

 そうして30代後半になって学ぶようになった「ハーバード流交渉術」などの行動学や企業論が、私の意識変革に大きく役立ったように感じます。交渉とは、意見を戦わせる場ではなく、共通目標共通利益を見出す場である。そして、企業の使命とは、社会に対する価値の創出である。そうして知るようになった、この社会で最も優れた存在として最も強く生きる人々の姿とは、「怒り」の感情を全く使わないものだったのです。

 人に対して怒りを全く使わない行動法は、自分自身に対しても全く怒りを使わない思考法へと、私の意識を変革していきました。人生に「あるべき姿」などはない。与えられた場からいかに前進するかにあるのだ。ならば、この自分とは、「唯一無二の存在」なのだ、と。

 

 こうして意識変革がなされていく中で、心の風景が完全に一変したとも言える、明確な境目があったことが、私の記憶に強く残っています。同時に、その時自分が成した思考も。1997年の年の瀬が近くなった頃でした。

 その時私は、期待したほどの高い評価が得られなかった年末人事考果に、少し落ち込んだ感情の中にいました。仕事の成果がどんなにあっても、自分のこの人への積極性に欠けた性格は、職場で何も生み出すものでもない。自分は結局何の役にも立たない人間なのだ。これは明らかに不合理な思考であることが、私自身にももう良く分かっていました。

 ではなぜそんな思考が湧いてくるのか。私はそう自分自身に向き合う作業をしたのです。それはあたかもこの現実世界からいったん退(しりぞ)いて、「神」が用意した部屋にたった一人自分に向き合うような、深い思考作業になりました。

 なぜ自分はこのように「望ましくないもの」に駄目出し否定をすることで、自ら「自己嫌悪感情」という病んだ感情へと向うのか。

 

 その先に、私の中で決定的な自覚が成されました。

 「人は全能万能という幻想を追い求め始めると同時に、自分自身を破壊し始めるのだ」とホーナイは言った。それは確かに自分が神だという傲慢だ。だが僕は何も自分が神だなどと考えているわけではない。人間は不完全な存在だ。それでも望ましくない程度があまりの基準を超えたものを怒り否定するのは、当然のことではないか。

 だがこの「怒り否定すべき基準」というのは、不完全な存在である人間の中に、「この先は許されない」という一線を引くことになる。だが人間が不完全な存在であるのなら、人間が考えるその一線の位置も、かなり不完全なものだということになる。僕はそれを絶対的なものだと感じたのだ・・。

 これは自分が神になるということなのだ! 僕は間違っている!

 自分は役に立たないなんてことはない。この世界に、何も役に立たない存在などというものはない!

 

 この自覚の瞬間、私の心は一気に軽くなりました。あまりにも気分が軽くなってしまったせいか、こうして心に起きた出来事を詳しく日記に書くことさえやめてしまったようです。

 それらしい日記を書いたのは、後日のことでした。とにかくその時、それまでの重い気分が何か全て消えてしまい、直後に、もっと早くこの心境になってなかったのが悔しいと感じた、ということでした。もっと若い時にこの心境になれていれば、好きなように誰とでも女の子とつき合えただろうに・・と、多少思考が一気に軽薄化してしまった感さえあります。まあ実際そうは行かない心の成長の過程を、その後も歩むことになりましたが。

 事実これが、私の「否定価値の放棄」が起きた節目だったわけです。

 

 「否定価値の放棄」とはそのように、広範囲なマイナス感情におおわれていた心が一変する、心の治癒と成長における明確な一線になると、ハイブリッド心理学では考えています。

 その時、心の風景は、雪の混じる寒風吹きすさぶ北の街路の無機質な風景から、南国の暖かい空気の光景へと、ただし南国の薬園とはまではいかないやや荒涼とした南国の大地のような風景かも知れませんが、一変します。

 

島野の人生から「怒りが消えた」日

 

 このような「否定価値の放棄」は、心がもう自分からは「怒り」感情を湧き起さなくなる変化だと言えます。もし心の障害傾向がそれ程ないのであれば、事実これが「怒りのない人生」の獲得になるでしょう。

 一方心の障害傾向からこの取り組みを始めた場合は、「否定価値の放棄」だけではまだ完全に「怒りのない人生」へとは行かないようです。心が自分からは「怒り」の感情を湧き起さないとしても、来歴を通して脳の中に蓄積された、怒りの感情の脳内物質の塊のようなものが、恐らく実際の脳生理的な仕組みの中で残っている。そんなイメージを、私はその後の自分自身の治癒成長の経緯から感じています。

 それに取り組む、「感情分析」などのより本格的な心理学取り組みが、そこから始まることになります。「否定価値の放棄」を成した心で取り組むことで、右肩上がりに治癒作用が進むようになります。

 

 私の中で、そうした右肩上がりの治癒が進み、脳に残っていたストレス感情の塊そのものがもう消えていこうとしている。それを実感として感じたのが、私自身がこの心理学を体系化し、自らの病んだ心への対処がより着実にできるようになってきてからの、2004年の年初の頃でした。

 それは私にとっても印象的な出来事でした。思考の内容としては、「怒り」の感情が軽くは、そしてそれにつきものの、例のちょっと嫌な生理的体内感覚の変化が少しは起きても良さそうな出来事を前にして、「あれっ?」と思ったのです。怒りが消えている。心の中に自分からそれを探そうとも、もう見えない。

 その時のことをサイトの掲示板にも書いたものがありますので、紹介しておきましょう。

 

2004.7.17 怒りが消えた・・・

サイトで説明するものは、「生涯続く終わりのない成長の過程」と位置付けており、心がより健康になる、後戻りのない向上の過程である。

すると、どこまで変われるものかという興味も多少出てくる。

で、先日「おやっ?」と気づいたことがあり、それは「怒りが消えていた」こと。

「怒りが無駄」であることは主題テーマでもある。だが、実践上は、怒りが起きてから、この怒りは無駄ではないかという問いかけを自分にするような形態でした。

 

大した内容ではありませんが、新聞を読んでいて「これは..」と軽い怒りを感じるような場面。

その程度は多少であれ、「怒り」には、血流の変化とか頭に血が昇る感じとか、生理的感覚が伴う。

どころが今回、意識内容的には、今までかすかにでも、そんな生理感覚が伴うようなことと同じ意識が動いている。これはまずいんでないの?とか。

ところが、生理的変化感覚が全くなく、あれっ?と思った次第。

 

似たことが会社でもあり、先日の祖母葬儀の休暇のお土産を配るとき、秘書さんとちょっと会話。

内容省略しますが、「あっこの言い方はいまいちだなっ」と内心ちょっと恥ずかしい感じがあった時、これも心臓の動機とか生理的感覚としての「動揺感」が起きないのを感じて、おやっと思った。

 

これに関するあれこれの感想は省略しといて、これは僕の自己分析過程で、「感情の膿」がもう完全に消え尽くしたのに近いように感じている状態に対応しているような気がしています。

つまり、怒りや精神的動揺に伴う、血流とか発汗、赤面、動悸とかの生理的動揺感は、感情の膿が背景になって起きるものではないかという考察。

これがどうゆう話かの含みが沢山あるのだが、うまくまとまらん。省略(^^;)

 

 ここで「含みがある」と書いた続きも、後に掲示板の方で書いています。心の障害メカニズムについて本格的整理をしていた2005年暮れ頃に、ふと思い出してそのことに言及して書いたことです。

 結局、今まで「性格」「気質」といった基本的には変わらないと考えられていた性格傾向というものが、実は根本的に変化し得るダイナミックなメカニズムの上にあるという、今までの心理学常識を全く覆す考え方の方が正解だろうと。

 

 私がはっきりと「怒り」の感情を感じたのは、2004年の秋頃にあったものが、今のところ人生で最後のものです。

 その時の「怒り」は、「ニセへの怒り」であることが、その時の私自身の感情分析の中で自覚され、その怒りも消えました。

 この「ニセへの怒り」は、心の障害につきものの根深い怒りの感情です。「ニセに怒り攻撃を向ける自分はニセではない」という不合理な情緒論理が根底にあり、それが「実は自分がニセではないか」という自己嫌悪感情を背景にして動くのです。この深い洞察と、自らによって自分に対し正真であろうとする意志により、この怒りは根底から捨て去られます。

 それ以降、私ははっきり「怒り」と呼べるような怒りの感情を、この人生で体験していません。もう生涯体験することもないかも知れない、とも感じています。

 

「否定価値の放棄」にまで短期間順調に向った「A子さん」の事例

 

 「怒りのない人生」がハイブリッド心理学の一つの大きな目標であるとして、それに向うための根幹となる実践が、「感情と行動の分離」に始まる建設的な思考法行動法と、「否定価値の放棄」を大きな達成道標とする「価値観」への取り組みです。

 

 「価値観」への取り組みは、心の障害傾向に応じて、かなりの紆余曲折が生まれるのは前章で説明した通りです。

 ここではそうした紆余曲折をあまり経ることなく、つまり比較的深刻なケースに不可欠な「感情分析」の実践もあまりすることなく、根本治癒の峠につきものの「自己操縦心性の崩壊」や「感情の膿の放出」といった厳しい局面も経ることもなく、かなり短期間のうちに「否定価値の放棄」に相当する自覚にまで進んだ事例として、「A子さん」のその後を紹介したいと思います。

 A子さんの場合、もともと心の障害傾向としてはそれほど深刻ではなく、心配性で悩みを抱えやすいといった性格傾向への取り組みとして始められたものでしたが、それでも日々の生活の中で蔓延したマイナス思考やしばしばの苛立ちに悩まされる様子は、根の深い否定的感情の存在を十分に感じさせるものでした。事実A子さん自身がそうした傾向への「幼い頃の要因」についても関心を抱いた中で、この心理学の取り組みが始められたわけです。

 それでも結局、A子さんに対しては、「感情分析」の実践もあまり深くはアドバイスしないまま、「否定価値の放棄」に相当すると言えるような深い自己洞察の中で、彼女自身がこの人生への取り組みにおいて一人立ちできる自分自身を感じるに至ることになりました。

 

 これは比較的問題の軽い、心の障害というほどではない多くのケースの方に参考になるでしょうし、一方、同じ取り組み実践だけではそのように進むことのできない、他の事例は何に違いがあるのかという視点が、この心理学で見出された「病んだ心」のメカニズムと、そこからの回復への取り組み実践への理解を深める上でも、役に立つものになるでしょう。

 

「怒りによる対処」の根本的無駄への理解・プラス感情による行動法へ

 

 わずか2週間とちょっとという短期間のうちに、「いつもの疲れ方はいったい何?」と感じるほどの内面変化を体験したA子さんでしたが、これは建設的な思考法行動法に、「相手が根本で望むものを考える」という、行動学からの知恵をトッピングした成果でした。

 私はこの内面変化を良い足がかりにして、A子さんの歩みを一段階アップさせる前進へと話を進めました。「怒り」というマイナス感情に頼る行動法の、全く見合うもののない非効率さを知り、より明瞭にプラス感情を用いる行動法へ向う。子供を「誉める」という行動を題材にしてみます。

 

== 島野から 2007.4.3(火)「引き続き怒りの解除とその先など」==

■ストレス膨張だけに終わる「怒りによる対処姿勢」

 

>ってやっていったら、本当に楽でした。「いつもの疲れ方はいったい何?」と思うほどでした。

それは面白い話ですね^^

どうしてそんなことが起きるのかというと、それだけ「怒りによって対処しようとする姿勢」が全く現実に見合わない、得るものなくしてストレス疲労だけ膨張させるものだということになると思います。

 

怒りに駆られると大抵、怒る自分自身を嫌に感じる感情も起きます。その結果、現実問題が嫌だというのと、自分自身が嫌だというのとが合体して、もう「全てが嫌」という感情になってしまいます。

ところが現実問題はそれでは済まないまま残っていますので、「全てが嫌なまま何も解決しない」という感覚だけがどんどん膨張したまま残り続けるという構図になります。あるのただストレスの自己膨張です。

 

一方、「子供が何を望んでいるか」と考えるのは、「これが嫌!」という怒りとは全く無関係な、怒りに頼らない建設モードでの解決への鍵に着目することになります。

この結果、そもそもの問題が嫌という感情も起きないし、当然怒りに駆られる自分自身が嫌という感情も起きません。問題は解決への途上にあり、少なくとも「何も解決しない」と決め付ける状況は全くありません。

 

「怒りによる対処姿勢」は、実はストレス膨張だけあって問題が解決しないという代物で、天と地ほどの違いがあるわけですね。

 

■「プラス言葉」「誉める」という実践

 

ということで、まずは日常生活の中で、「怒りに頼らずに対処する」ということについて、さらに材料など見つけて実践を試みて頂ければと思います。

 

>でもいつもに比べれば「マイナス言葉は使わないように」と意識できただけでも良かったと思います。

さらにその先の、「プラス言葉」だとどうなるかですね^^

掲示板でも書いていますが、こうした建設的思考法行動法は、「建設的な自分になれたかどうか」よりも、まさに現実問題への建設的思考法行動法の中身の洗練習熟が、さまざまな知恵の世界がある奥の深いものになります。

 

子供さんへの対処については、まずは問題が起きてからプラス言葉で対処するの結構高度な話になりますので、まず問題が起きたのではない日常の場面で、「誉める」ということをどんな風にしているかを検討してみて頂くといいと思います。

子供は自分で新しいことが出来るのを、とても楽しく嬉しいことと感じるものです。誉められればそれが倍増します。

やがて問題対処で、それをうまく使うわけですね。あまりいい表現ではありませんが、それを餌にするわけです^^; ただしそのためには、親自身が子供の成長を喜ぶ姿勢と態度をまず日ごろから培うことがスタートです。

 

(続く)

 

「怒る理由」を探る

 

 私はこのメールで同時に、「怒る理由」を自分で把握するようにとアドバイスしました。「怒りによる対処」をやめていくと共に、なぜ自分が怒るのかの根本へと遡っていくのです。

 「怒りによる対処」の無駄を理解するほどに、この遡りは深くできるようになります。なぜ自分はこのように見合うもののない「怒り」を、この人生で抱くようになったのか。これが同時に「価値観」への深い取り組みにつながっていきます。

 怒りに頼るのではないプラスの行動法が検討できれば、同時に「怒る理由」を自分で探るという実践もできるようになってくるでしょう。

 

(続き)

 

■無駄な怒りの解除:「問題は何なのか」を問う

 

怒りに頼らない、「プラス言葉での対処」について実践を進める一方、一つ追加視点をアドバイスしておこうと思います。

怒りに流れそうになったら、「プラス言葉での対処」を考える一方、「自分はなぜ怒るのか」を問うことです。ポイントは、自分自身で論理的に納得できる説明を、自分自身にできるかを、真剣に問うことです。

 

例えば、

>完璧にはいかず、食事中におふざけからケンカになるという場面があったのですが兄が妹の頭をふざけてたたき「そんなに強くたたかないの!!」と怒りが爆発しました。

これは、何をA子さんは怒ったのか。

妹が受けた打撲が深刻だったということでしょうか。もしくは妹が傷ついたような仕打ちだったか。なら怒りより心配が先になるかも知れませんね。「怒りが爆発」というのは、A子さん自身が傷ついたような感じを受けたからかも知れません。それはどうゆうことか。

 

何で怒ったのか、自分でも良く分からないという話を良く聞きます。これは案外、怒るような理由があったというより、「問題が起きたら怒る」という日ごろの習慣が自動的に起こした、カラ怒りのようなものかも知れません。

そうやって、怒りでない対処を考えると同時に、「そもそも問題は何なのか」を考えるのがいいですね。無駄な怒りの解除と、問題を明確化することで解決へも近づくという、同時の効果があります。

 

それでもどうしてもしっくり来ない怒りが残る場合があります。切り分けをして残る感情は、現実対処とは全く別の内面の問題として、深層の感情に取り組むという、全く別の話も出てきます。

これもまずは現実対処は現実対処として切り分けてこそ、取り組めるものになります。

 

 「怒りの価値」への心残りがあるような場合、プラスの行動法の検討も、「怒る理由」の探究も共にできなくなってきます。怒ることがあまりに当然だと感じ、いかにそれを行動化できるかに心が駆られてしまうのです。その場合はアプローチを大きく変更する必要が出てきます。内面の攻撃性にはっきりと焦点を当て、破壊攻撃的な自分の価値観を認め再検討するなどです。

 

 A子さんの返答は、それには全くおよばないものでした。

 ごく素直に怒りの無駄さに納得関心した様子。「子供を誉める」というプラス行動についても、さっそくトライしてみているようです。マイナス思考の蔓延からも、脱出への変化が感じ取られ始めてきました。

 「怒る理由」には、「焦りの慢性化」「正義感道徳感」そして「過去を引きずっていると思われる怒り」がありそうだ。子供の誉め方として考えたものを書いてみる。

 

== A子さんから 2007.4.4(水)==

怒りって本当は自分にとっては体力、気力とも消耗させるだけのものだったのですね〜〜だから疲れやすかったのかな〜

 

*怒りの問題を考えてみました。

1、焦りの慢性化

 前にご指摘されたように子供に対してイライラして「早くしなさい」など言ってしまう。

 仕事中もただ単に「早くしなきゃ」など。よく考えればそんなに焦ることはないのに焦ってしまう。

2、正義感、道徳観の良い・悪いで腹がたつ。

 前回の食事中の子供のけんかもこれです。

 「たたいてないもん、さわっただけだよ〜」という反省のない息子の言い草、「無抵抗な者へ対して

 よくそういうことができるな!」大げさですがこんな怒りです。

3、過去を引きずっていると思う怒り

 これは子供がなじりあったり、たたきあったりで、やめてもらいたい時に不安と心配が大きくなります。

 昔、両親が夫婦げんかしてる時に同じような気持ちだったと思います。

 孤独と恐怖みたいなものが残っています。

 

*ほめる事をやっていく

1、回数をふやす

 ちょっと、わざとらしくなってしまうのですが、さっそく「ねえ、あそこ何県だっけ?」息子「岩手県」

 「すご〜い何で知ってるの???☆」こんなんでいいのかな?〜〜

2、質を上げたほめ方を研究する

 水泳でタイムがとてもよかったとして「ちょ〜と!オリンピックにでれるよ〜すごい☆」

 これはちょっと変ですよね?

 年下のいとこの面倒をよくみれる。「あなたのそのやさしさは誰にもできるものじゃないわ。

 いつもやさしくしてあげてること、おかあさんうれしくおもうわ〜 だいすきよ〜☆」

 なあんかくすぐったいな〜〜。良い誉め方のアドバイスお願いします。

 

*建設的行動法「機械的にプラス言葉」を使うにあたって

 気持ちは伴わなくても「マイナス脱出養成ギブス」として、プラス言葉を出していきます。

 無意識に「自分はダメだ〜」と思うのがクセになっていて

 それも「こう思ったほうがイイ。自分はすばらしい」に変化しつつあります。ありがとうございます。

 

短期での変化への最初の分かれ道

 

 ここで「怒りの根本的無駄」についてA子さんから示された冒頭の素直な納得感が、他のより深刻な心の障害ケースとは異なる、短期間の順調な変化への最初の分かれ道になっているのを指摘することができます。

 より深刻な心の障害ケースでは、このように素直に怒りの無駄さに関心するという形にはあまりなりません。その代わりに「そうは言っても・・」というためらいもしくは抵抗が現れてきます。そして抵抗を受けた水が別の流れ先を見出すように、感情と思考が一気にそれていくのです。

 「そうは言っても人は・・!」と。つまり「自己の重心」が外れて、思考と感情の全体が「人が」「人が」という自己の重心を喪失したものの中で、怒りに駆られる姿へと戻るのです。内面向けのより深い取り組みへと、アプローチ変更が求められてきます。

 

「怒りによる対処」とは脳のプログラムミス・解決は常に「加算法」で

 

 A子さんの良好な反応を確認し、私はさらに話を進めました。

 まず「怒りによる対処」とは、実は「無駄」「非効率」であるどころの話ではなく、そもそも脳のプログラムミスなのだと。

 これは「怒り」を生物学的な視点から捉えたもので、「科学的人間観」になります。そして「怒りの価値」という観念が一種の脳のミスとして生まれるということは、健康な脳においては怒りはそう重視されるものではないという考え、つまり「性善説」の考え方になってきます。

 

 これが実はA子さんが自己把握した「正義感や道徳感からの怒り」への、一つの答えの方向性になってきます。

 性悪説に立つ限り、人間の心に問題があればそれを見逃さず取り上げ、それを責め否定することがどうしても重要になってきます。しかしそうした「破壊」の姿が、再び問題を生み出すのです。人間の心の問題が、永遠の輪廻の中で続くことになります。

 一方性善説に立つ時、問題をあえて問題として取り上げないことが、解決への方向性になってくることがあるのです。もちろんこれは内面感情の問題についての話であり、外面問題については原理原則的な対処がしっかりと分かった上での話です。

 内面感情の問題をあえて問題として取り上げないことで、あとは「新しい今からの感情」に任せるのです。するともうそれは波間に消えて、いつしか見えなくなります。

 

 「プラス思考法行動法」としては、「それでは駄目だ」と否定する「減算法」の思考ではなく、「こうすればいい」という知恵を常に追加していく「加算法」の思考法が望ましいことを説明しました。これは「肯定形文法への変換テクニック」と同じく、内容を問わずに機械的に当てはめていくことでプラス思考と行動を増やしていく、良い方法です。

 

== 島野から 2007.4.6(金)==

■「怒り」は「解決方法」ではなく「解決できない」の表現

 

>怒りって本当は自分にとっては体力、気力とも消耗させるだけのものだったのですね〜〜

その通りですね。

そもそも「怒り」は生物学的には、自分より強大な敵と戦うために用意された心身の仕組みです。多少の怪我をするのを前提として、頭に血を集め、身体血管を細くし、痛覚を一時的に麻痺させ、代謝機能を低下させて、何とか生き延びれる状態にするわけです。延命のための仮死近似状態にするための、一種の脳内毒の放出です。

その結果、「窮鼠猫をかむ」ということが起き得るわけです。普段では考えられない強いパワーになり得ると同時に、基本的に「捨て身」です。我々も山で熊に襲われた時は、これが基本になると思います^^;

 

ということで、「怒り」は本来「解決方法」ではなく、「解決できない」という結果の表現なんですね。

それを人間が、「怒り」を「解決手段」だと大勘違いして、最初から「解決できない」と決め付ける構図の思考法行動法をしています。

これはもう一種の脳のプログラムミスだと僕は考えています。まあ人間の脳があまりに高度に発達しようとした中での不完全さであり、あまりに高度化した故の脳の配線ミスのようなものだと考えています。

 

■怒ると怒りの対象と同じ姿になるというパラドックス

 

ですから、怒りを解決手段だと考えると、「解決できないとすることが解決手段だ」というような、おかしな事態になります。

世の人は「正しければ怒って当然」と考えるのをあまりに自然なことと考えるようですが、実はとんでもなくおかしなことなんですね。やはり「素の思考」と心理学的生物学的思考では、大分話が違ってきます。

 

そのおかしさは、怒りで対処しようとすると、どうも怒る対象問題を、自分自身の姿として示す、という形になるようです。

つまり「お前は駄目だ!こんな風に駄目だ!」と、自分自身が駄目と考える姿になって見せることが、どうやら「怒りによる対処」というものらしいんですね。

何でそんなことになるのかの心理メカニズムは僕としてもまだじっくり考えていませんが・・

 

>2、正義感、道徳観の良い・悪いで腹がたつ。前回の食事中の子供のけんかもこれです。「たたいてないもん、さわっただけだよ〜」という反省のない息子の言い草、「無抵抗な者へ対してよくそういうことができるな!」大げさですがこんな怒りです。

これもそんな感じになっちゃってるかもですねぇ^^; 子供は親に愛されないと無力な存在です。「無抵抗な者へ対してよくそういうことができるな!」と子供を叱る姿が、まさに「無抵抗な者への攻撃」になってしまいかねません。虐待もそうした構図で起きます。

 

「優しくなければ生きていく資格がない」という言葉を聞いた記憶がありますが、これも実にパラドックス的です。実に厳しい言葉と^^;

「優しくなければ駄目。優しくない人間なんか、殺してやる!」という感じになってしまいます。

これは「ない」「駄目」といった否定論理を、解決方法と考えたミスが原因です。

 

正義感や道徳観を大切にすること自体は、大いにいいんです。

問題はどうすればそれが現実において向上するかです。

少なくとも、怒っても向上しないと思います。

「怒れば良くなるはずだ」と考える人が、やはりいます。これはもう「選択」ですね。どっちの考えを取るか。ハイブリッドでは、怒りが向上をもたらすことはないという考えを採用しまていす。

 

認知療法のデビッド・バーンズが「テニス選手が良くボールをネットに引っ掛けるとコーチが小言を言ったところで、エラーが減るものでもない」と書いていましたが、その通りですね。

必要なのは、技術を追求することです。テニスでも、ボールを安全に相手コートに入れるために、どのようなスピンをかけるかがあり、そのためのラケットの持ち方や筋肉の使い方があります。僕はスキーの指導員資格があり教えることがありますが、「ここを直す」という教え方はほとんどせず、「こう滑れるためにはこの技術が必要」と、どんどん細かい技術を「追加形」で教えます。実際そうゆう技術技法が実に沢山ある、奥が深いものです。

 

僕は世の問題の全てにつれて、同じだと考えています。「これが駄目」という思考法をせずに、「ではどうすればいいのか」とノウハウを探求し始めると、実に豊富な知恵の世界がある。

その基本を次に説明しましょう。

 

子供さんの仕草に怒りを感じてしまった場合は、とにかく怒りをぶつけずに静観するのがいいですね。怒りをぶつけたところで、どうにもならない。

どうしても止めなければならないような場合は、怒りを見せずに制止する感じが効果的かも知れないですね。たしなめるとしても、「やりすぎだよ」という感じの言葉、つまり相手自身への否定を含まない言葉がいいと思います。

 

(続く)

 

「誉める」ことの中の「愛」と「自尊心」

 

 次は「誉め方」の話です。

 実はこれは単純な話ではなく、ハイブリッド心理学が取り組む、人間の心の表面から深層までの、全ての範囲のテーマが出てくるとも言えるものです。ごく実践的な行動法という話もありますし、その根底においては何のために誉めるのかという問題があり、「愛」と「自尊心」という人間の最も重要な感情のテーマが出てきます。

 

 ハイブリッド心理学での考え方を完結に説明しましょう。

 「誉める」という行動には、「愛」「自尊心」という2つの側面があります。

 「愛」の側面とは、子供自身が自らの成長を喜ぶ感情と、子供の成長を喜ぶ親の感情を、共有することです。子供は何でも、できなかったことができるようになるのを喜びます。それを人にも、特に親にも見てもらいたいと感じるものです。それを見てあげて「すごいねえ」「よくできたねえ」といった理屈のない単純な言葉をかけてあげるのは良いことです。

 一方、それがどのように良く出来たことなのかの理屈を含む話を言うようになってくると、それは「自尊心」の側面になってきます。子供が自分自身をどのように自己評価し、自尊心を育てていくことができるか。

 これは、子供が生きていくこれからの社会の中で、子供自身が合理的な自己評価をできるように導くものが望ましいものです。これはもう「愛」とは無関係に考えるのがお勧めです。親バカは無用です。気分や感情で考えずに、客観的な評価をできることが重要です。

 

 この2側面を総合して言えることとは、子供を「高く評価して誉める」ことを、「愛情を与えること」だと考えてはいけない、ということです。それでは子供が、高く評価された時だけ愛されると感じ、心の底では自分は愛されないという自己否定感情を抱く可能性があります。

 基本的な愛情は、そのようなものではなく、「誉める」こと以前にある、「無条件の愛」として与えられるものだと考えています。人間の心は、成長することによって自然にそのような無条件の「子供への愛」を湧き出させるようになるものだと考えています。これがハイブリッド心理学の人間観です。

 

 ただしここでは、あくまでそのような子供への愛というプラス感情が心にすでに見えている、比較的健康な心の状態での取り組み実践を説明しています。

 そうしたプラス感情が最初から損なわれたケースでは、この後の章から説明するより本格的な内面取り組みの道のりになります。その長い道のりを踏まえた人間観は、「4部」にて示されます。

 

 「子育て」に関する論議は常に、そもそも人間というものがどのような存在なのかという「人間観」、そしてこの社会と人生を生きるとはどういうことなのかという「社会観」そして「人生観」を、意識前提にします。その意識前提が人それぞれで全く異なることを見過ごしていると、「議論がかみ合わない」ということになります。

 ハイブリッド心理学の人間観社会観そして人生観はこの本の全体を通して示すものとして、そこから導かれる「子育て」への基本的な考え方とは、子供を親に都合の良い人間に仕立て上げることではなく、子供を親とは別個の人格を持つ存在として尊重し、子供を育てることを理屈抜きの喜びと感じる命の本性の営みとして、個人の自由として行えば良い、というものです。

 事実こうした「子育て」への考え方の違いは、「価値観」について十分に検討しない限り、「意識前提があまりにも違いすぎる」ものになるかも知れません。「価値観」の検討が重要になってくるゆえんです。

 

「誉め方」は原理原則立脚型行動法で

 

 「誉める」ことに関するハイブリッド心理学の具体的実践とは、かくして、主に「自尊心」の側面になります。子供を、子供自身がこれから生きる社会の中で正しく自己評価できるように導くことです。

 「愛」の側面は、意識努力でどうこうすべき問題ではありません。「愛」は人間の心の成長の結果、自然に増えてきます。それが損なわれた心への取り組みは、ハイブリッド心理学の取り組み全体の話になります。

 ですから、子供への誉め方としては、まずは「すごいねえ」「よくできたねえ」といった単純な理屈抜きの言葉をかけてあげることを基本として、その先は感情に依存せず客観的にものごとを考える、「原理原則立脚型行動法」が望ましいものになります。

 

 A子さんから報告のあった「誉め方案」それぞれについて、私はこの視点からのコメントを書きました。

 

(続き)

 

■「誉める」も原理原則立脚型行動法で

 

怒りを使わずに、知恵を使う対処方法の基本が、「原理原則立脚型行動法」です。

これは、「相手への感情」は一切示すことなく、その代わりに、自分が何をどう感じ考えるかの、「原理原則」を相手に示すという方法です。そして、相手への気持ち感情を理解してもらうのではなく、「原理原則」についての相手の考えを確認し、可能であれば合意を取ることです。

 

「あなたは間違っている」とは言わずに、「私はこう考えています。あなたは?」という言い方になります。つまり相手が持つ「原理原則」を確認するわけです。

そして相手が自らの原理原則をこっちの原理原則と同じであることを認めるのであれば、あとは相手自身が自ら、こっちの願う通りの行動をするでしょう。

 

>良い誉め方のアドバイスお願いします。

については、実は誉めるのも原理原則立脚型行動法がかなりお勧めです。

つまり、相手を誉める感情を示すのではなく、なぜ誉めるような大切なことかの原理原則を、相手に伝えることです。

まもちろん、誉めるというプラス感情を示すことを無理に押さえる必要はありません。

ただ〜し、無理にプラス感情を演じることはお勧めではありません。それは本能的に分かるからです。特に子供は親の演技を敏感に見抜きます。そして親の「感情を押し付けられる」ことを、嫌います。ウザイわけですね^^;

 

(続く)

 

 「無理にプラス感情を演じる必要はない」というのは、逆に言うと、無理にプラス感情を演じるのは、自分もしくは相手を操縦するという心の使い方です。それを不要とする行動法を説明しています。

 「誉める」ことを、子供の心の操縦手段と位置づけてはいけません。「感情の操縦」は、必ず内面に嫌悪と反発を生みます。これが自分の中でも、人との間でも必ず起きます。だから操縦姿勢を持つ親の下で、もの心ついた子供に「反抗期」が現れるのです。ハイブリッド心理学の行動学は、そうしたものとは一切無縁です。

 A子さんが考えた誉め方案の中にも、多少そのような「操縦」に傾いているものがあるようでした。原理原則立脚型行動法だとどのように修正できるかを書いてみます。

 

(続き)

 

>さっそく「ねえ、あそこ何県だっけ?」息子「岩手県」「すご〜い何で知ってるの???☆」

何で知ってるのか本当に疑問に感じたのであれば、それでいいと思いますね。

 

>水泳でタイムがとてもよかったとして「ちょ〜と!オリンピックにでれるよ〜すごい☆」これはちょっと変ですよね?

ちょっと変かも知れませんね^^; オリンピックに出れるためには、まず該当年齢における日本一くらいにはなれないと難しいと思います。実際どんなものだったか。

 

>年下のいとこの面倒をよくみれる。「あなたのそのやさしさは誰にもできるものじゃないわ いつもやさしくしてあげてること、おかあさんうれしくおもうわ〜 だいすきよ〜☆」

これは要注意です。「そのやさしさは誰にもできるものじゃ」という、やや他人の見下しによって持ち上げるという、否定モード込みになっています。

また「感情の押し付け型」ですね。ちょっと重ったるい^^; また、いとこの面倒が母に気に入られるためにしなさいと暗に言われているような感覚を、少なくとも男の子なら感じてしまうと思います。操縦されている感覚。この辺は男女差もあるかも知れません。

 

「誉める」という話をしたら、一気に「過剰」に傾いてしまったような気もするのですが(^^;)、「誉める」のは、子供が子供自身の持つ成長力に気付き、それに向かうことを喜ぶことを促すためにすると考えるのがいいと思います。

愛情を示すためにでは、ないと考えています。誉められた時に愛されていると感じるという形とは、誉められないと、自分は愛されていないと感じる形になる可能性がある。愛は本来そんな限定的なものではないと。

 

子供への愛情の示し方としては、まずは何を置いても、親自身が建設的な生き方をすることだと思います。それで自然に伝わっている。無理に示すことは考えなくてもいいと思います。

基本は建設的であることで、まずは怒りによって対処しようとしたものの見直しからです。その一環として、「叱る」という形で子供に対処しようとしたものがあれば、それをやめ、どうすれば子供を導けるかという思考方法に切り替えていく。そうしたことの基本材料として、「自然な誉め方」も考えてみて頂ければと思います。

何もないところで誉めるのを増やすまでには及ばないかと^^;

 

(続く)

 

「建設的な生き方」を支える価値観

 

 さて、このように「怒りによる対処」の根本的無駄から、プラス思考および行動法への考え方などまで、「建設的な生き方」への視点をざっと説明するのですが、それがこれからの生き方の答えとして十分に前進力を持つかどうかは、それを支える価値観がどれだけ心の根に築かれるかに依存します。

 人間が持つ「価値観」の類型についてざっと概観しておきましょう。

 

 9章の終わりに載せた、価値観のサマリー表を参照頂きたいと思います。

 人生の建設的な生き方を決するのは、「人生観」です。人生を「与えられた場からの前進」にあると考えるか、それとも「あるべき姿基準からの評価」にあると考えるか。

 人生を「与えられた場からの前進」にあると心底から感じた時、「怒り」はほとんど意味のないものになります。それは現実において「破壊」しかできず、何も生み出さないからです。

 人間にとって何を「強さ」そして「価値」だと感じるかによって、そうした「人生観」は左右されます。人を打ち負かす優越を「強さ」だと感じると、「怒り」が意味を持ってきます。相手を打ち負かすために役に立つからです。すると「あるべき姿」の基準から人を見下し打ち負かせることが人生であるように感じてきます。

 「価値を生み出す」ことに「価値」を感じた時、人生が「与えられた場からの前進」にあると感じられるようになります。これは「価値観」の中でもさらに狭義での「価値観」です。

 

 人間が本性において攻撃性を湧き出させる存在だと考えたると、相手を打ち負かす強さがどうしても高い価値を帯びます。それがないと自分はまず攻撃され滅びてしまうからです。

 人間が本性において愛を湧き出させる存在だと考えると、相手を打ち負かす強さの価値は優先順位を落とし、人との和や絆を築く能力が「強さ」と位置づけられるようになってきます。これは「人間観」です。

 日常的に科学的な思考で生きるか、それとも道徳的もしくは宗教的な思考で生きるかによって、「人間観」は大きく異なってきます。道徳的もしくは宗教的な考え方からは、人間が善人と悪人に分けられます。そして善人が幸せになるべきだと考えます。全ての人が善人であるという理想をめぐって「性善説」「性悪説」がしばしば繰り広げられます。

 科学的な思考は、それら全てに中立な視線を持ちます。そもそも「善人が幸せになるべきだ」という時、何がどうなって善人が幸せになれるという仕組みがあるのでしょうか。そこには結局、誰かが善人を見たら良くしてあげるという、「目」の存在が仮定されています。たしかに人間社会にはそうした一面もあります。

 一方大自然の大海原には、もうそんな「目」はありません。「善悪」という概念そのものが薄れ、自分で生きる道を切り開く前進への能力が全てになってきます。これは「世界観」です。

 

 最後に、脳の構造とも言える深さで価値観が左右される側面があります。子供は自分の生きる世界を、親の目の下にあるものとして考えます。世界を「自分−保護者−外界世界」という構図で考えるわけです。「正しければ幸せに」という道徳的世界観が主流になってきます。こうした意識土台を「心の依存視界」と呼んでいます。

 人は大人になる過程で、「自分−外界世界」というダイレクトな構図で考えることを学んでいきます。「正しければ幸せに」という思考の世界から外に出て、「正しければ幸せに」といえる社会を誰が作らなければならないかという思考を持ちます。それは自分達自身です。これは「心の自立視界」です。

 

 私がA子さんに「怒りの根本的無駄」を語り、「誉める」というプラス行動における「愛」と「自尊心」の位置づけと行動学を説明した時、それがA子さんの前進につながるかどうかは、A子さんの心の底に、「生み出していく」ことに価値を感じる人生観と、愛を本性と位置づける人間観がどれだけ定着しているかに依存します。

 ここではそれ自体を正面から問うことはしていません。問わずに済んだのです。「自らによる心の成長」を目指すというハイブリッド心理学の実践において、心の障害傾向としては軽度な場合、こうした進み方になってくることが考えられます。

 

 深刻な心の障害傾向のケースの場合、「生み出していく」ことに価値を感じる人生観を取れない、という意識表面がまず見えてきます。「あるべき姿」からの評価が、人生なのです。

 やがて詳細な意識分析の先に、その根底に、もはや彼彼女の心の表面の悩みとは遠く別問題にも見える、幼少期の挫折の中で置き去りにされた「心の依存視界」の問題が、根深く横たわっているのが分かってきます。そうした深刻なケースでの価値観への取り組みについては『下巻』で触れたいと思います。

 

感情を内面に守る・感情を「看取る」

 

 私はこの一連の説明メールの最後に、A子さんが「怒る理由」として自己把握した3つの問題の残り2つ、「焦りの慢性化」「過去を引きずっていると思われる怒り」への対処について触れました。

 ここではもう「感情と行動の分離」の基本姿勢に少し毛がはえた程度のことしか言いいません。感情は内面でただ流し、理解するのみにする。

 それがA子さんの問題への答えとして前進になるのは、この裏で価値観の変革があってこそです。ただここではあまりに話が膨らみすぎますので、価値観の話そのものには踏み込まないまま、「感情をただ流す」から「感情は内面に守る」という一歩前進した表現で説明します。

 

(続き)

 

■感情は内面に守る・外面は建設的知性

 

上述のように、「相手への感情を示すことを使わない」もそうですが、ハイブリッドの推奨する建設的思考法行動法は、基本的に知性を非常に重視します。知恵とノウハウで導くことです。

それは内面感情を軽視するということではなく、むしろ、感情を無闇に外に晒さずに、内面で守るという考え方です。

いろんな感情が内面にある。それは認め、否定しません。でも外界現実は、また、それとは切り離して考えることのできる、外界現実なのです。

「感情は内面に守る・外面は建設的知性」という基本姿勢ですね。

 

>1、焦りの慢性化 前にご指摘されたように子供に対してイライラして「早くしなさい」など言ってしまう。仕事中もただ単に「早くしなきゃ」などよく考えればそんなに焦ることはないのに焦ってしまう。

焦ってはいけないと考える必要もありません。

ただ内面の焦りを眺めたまま、現実における「焦る必要性」を客観知性で考えることです。

 

>3、過去を引きずっていると思う怒り  これは子供がなじりあったり、たたきあったりでやめてもらいたい時に不安と心配が大きくなります。昔、両親が夫婦げんかしてる時に同じような気持ちだったと思います。孤独と恐怖みたいなものが残っています。

これは僕も経験があり分かります。人が口喧嘩などしているのに出くわすと、何か取り返しのつかない破壊的事態になるかのような不安イメージが流れるわけです。両親が喧嘩しているのを、全くの無力感の中で怯えていた幼少期の経験からです。

でも建設的思考法行動法に慣れるに従って、人は柔軟に変わるものだということも分かってきます。建設的に生きる積み重ねを通じて、人の怒りに怯えることも、争いの前で不安を感じることもなくなってきました。

 

子供がなじりあったりの場合も、まずは、「何で喧嘩するの!」とさらに喧嘩する(^^;)ことのないよう、対処法を考えてみることからですね^^

 

 建設的に生きることを支える価値観へと自己変革することで、内面で開放する感情は、より強く豊かなものへと自然に変化していきます。それにただ任せることです。

 幼少期に根ざす淀んだ感情は、もはやそれを問題として取り上げるのをやめ、「別れを告げるべき感情」として、ただしっかりと見据えます。こうした姿勢を「感情を看取る」と表現しています。前を向く価値観姿勢の中でこれを成すことによって、後ろ向きの感情はもはや心を強く叩くことをやめ、卒業した過去の感情の記憶の座へと納まっていきます。

 

「心の自立視界」へ

 

 私がこの説明メールを書いている間、A子さんの方ではサイト掲示板の価値観の解説を読み、何かをつかんだようでした。

 それがまさに「心の自立視界」についてのものでした。全ての価値観が、この「心の依存視界と自立視界」という意識土台を支点にして、別世界のものへと切り替わるのです。

その解説部分と、A子さんからの感想を紹介しましょう。

 

(旧掲示板)2007.04.04(水)

 

■「価値を捉える姿勢」の転換

・・(略)・・

人間が持つ価値観において、「価値を捉える姿勢」には、大きく異なる2種類があると考えています。

 

1)「人の目の中で」価値を捉える姿勢

例えを出すのが分かりやすいでしょう。これは「学校の教室の中で価値を捉える姿勢」です。

先生という一つの大きな目と、自分と大体同格の沢山の目があります。その中で褒め称えられるものが「価値」になります。勉強ができること。スポーツがうまいこと。性格が良いこと。美人やハンサムであること。

自分を取り巻く「沢山の目」の中で価値とされるものが、価値になります。それを自分が獲得し、兼ね備えることが栄光になります。

「これが良いことですよ」と言われたことを、良いことだと考えます。そう言われたから、そうしようと考えます。

「学校の教室」という例えを出した通り、それは「これから成長」しようとする心が、まずはそこからスタートするものです。未成長段階であり、良い表現をするなら心が若い段階です。

それが良い悪いという話はここではまだなしです。人間の成長の始まりというのは、そんなものです。

 

2)「全世界と対峙」して価値を捉える姿勢

これも例えで表現しましょう。「無人島で生き抜く中で価値を捉える姿勢」になります。

 

自分自身で生きる道を切り開く能力が、ほぼ全てになります。その視点から、「価値」を考えます。

どんな「大きな目」が言った、「これが良いことですよ」という言葉も、まあ参考にはするでしょうが、アテにはできません。その「良さ」の「価値」を、自分自身の生きる能力に命をかけた実践の中で、現実において、確かめるしかないのです。

そして現実において役立ったものだけに、彼彼女は「価値」を感じるでしょう。現実において役立たない飾りのような「理想」は、もう不要です。

 

これが「全世界と対峙する姿勢」になるとは、「大勢の目」はもう重みを失うということです。それはもうこの人間が何かを見るための「目」ですらなくなってくるでしょう。「目」と言えるものは、自分が持つ「目」だけです。「大きな目と同格の大勢の目」の全部を合わせて、せいぜい自分自身の目よりは多少劣る重みを持つ程度の話です。

 

(続く)

 

「死」と「望み」に向き合う

 

 私はここで、こうした「心の自立視界」を促す姿勢についても説明しました。この2種類の視界は、意識努力を超えた脳の根底構造のように横たわるものでもありますが、人が人生で成すある姿勢によって、切り替わりが起きる側面があります。

 その筆頭が「死に向き合う」ことです。『理論編下巻』の3章で、私は「死」を「病んだ心から健康な心への道」の第4の鍵として説明しました。それは心に「浄化」をもたらす鍵です。同時にそれは、「心の依存視界」を「心の自立視界」へと転換する鍵でもあるのです。

 「心の自立視界」と「心の浄化」が密接につながっているということになります。このつながりも極めて重要な鍵として、ハイブリッド心理学の取り組みの歩みの全体を貫くものになります。

 

(続き)

 

人はどのようにして、こうした「全世界と対峙」する姿勢を持つのか。2つのことが言えると思います。

 

一つは、自分自身の「望み」に、正直に向かうことです。その時、「望み」そのものの重みが、「大きな目と同格の大勢の目」を凌駕するように感じます。

 

もう一つは、「死を見据える」ことです。「死」について念慮することそのものよりも、「死」を自分のこととして受け入れる姿勢が意味を持つように感じます。従って、「イメージの嘘」が映し出す希死念慮*ありのままの自分ではない別人になろうとするイメージとしてのもの*)はこの限りではありません。

 

なぜ死を自分のこととして受け入れることが、全世界と対峙する姿勢を人に生み出すのか。

この辺のメカニズム的な話は、僕としてもあまり整理したものではまだありません。少なくとも言えるのは、死を前にして、無駄な嘘は大抵捨て去られるということです。上に述べた「自分自身の望みに正直に向かう」というのとつながってくる。

また、死は自分自身の「姿」の消滅を意味します。この時、「学校の教室の中での価値」はほとんど意味を失うんですね。これは「価値を捉える姿勢」の転換と同時に、「価値とするものの内容」の転換にも関連します。

 

 A子さんの感想です。

 

==A子さんから 2007.4.6(金)==

4/4の掲示板を読んでいたら、すごくわかったような気分になりました。

「見出すもの」に価値を見つけていく。少し目線がまっすぐになったような気がしました。

 

無人島にいたら、サバイバル生活で責任はあくまで自分で取るということですよね。

一方、人の中にいるとどうしても「村八分」では生きていけない。誉められた人などみて「あ〜なりたい」と思ってしまいます。「人間関係」が上手くいかないと、「助けてもらえない」とか私は思いがちです。

 

プライドや嫉妬、不安や依存はもう選びたくありません。

人を攻撃したりされたりで必ず自分に衝撃が戻ってきます。抜け出したいものです。

 

 A子さんのこの最後の言葉に、短期での向上変化に向う第2の分かれ道があるのを感じます。

 より深刻なケースでは、このように「自分に跳ね返ってくるから抜け出したい」とはなりません。その代わりに、「プライド」が全てとなり、自分に「嫉妬」に与えた相手を憎むとなってしまいます。「不安」は自分の選択ではなく外界現実の問題であり、自分が「依存」の中にあることは、自覚できません

 その根底への取り組みは、他の事例にて進められることなります。

 

人間の「心の罠」との向き合いへ

 

 これで、かなり断片的に題材を取り上げながらも、「建設的な生き方」を支える一連の思考法行動法と、価値観のほぼ全てを一巡したことになります。

 この日私はシーズンも終わりに近づいたスキーに出かけ、A子さんの方では週末にじっくり考える時間を持つことになりました。A子さんは果たしてどんな前進を見出すことができるだろうか。

 

 土曜の朝、そして月曜とA子さんから届いたメールは、その期待とは異なり、ちょっとトーンが変化したものでした。D男さんに「現実への向き合い」を伝えた時のような緊迫化ではありません。静かに、自分の内面に向き合おうとしているようでした。

 私の説明は確かに前進への力を与えてはいるようでしたが、まだ抜け出せない罠に落ちている心の部分があるようです。

 「とにかく前進!」と言うだけの説明では、やはり足りないものがありそうです。前進への方向性が見えてくる分、それを妨げているものも良く見えてくるということにもなるのでしょう。

 

 行動学と価値観の領域に入ったA子さんの本格的取り組みが、次の段階へと前進します。

 

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