心の成長と治癒と豊かさの道 第5巻 ハイブリッド人生心理学 実践編(上)−心と人生への実践−

12章 人生への実践−3 −「自分」という業への別れ−

 

この章のまとめ

「A子さん」の取り組み実践の完結。比較的健康な心のケースとして、「感情分析」など特別な内面取り組みを含まないまま、「否定価値の放棄」というハイブリッド心理学のひとまずの習得ゴールへと至ります。

■実践項目■

「否定価値の放棄」と「不完全性の受容」・・・ 「空想の自分」を「生」の主(あるじ)とする自己意識への別れ。「絶対なもの」という観念そのものの放棄。神になろうとするのをやめる。

■実例■

A子さん ・・・「空想の中にいたもう一人の私」の存在に気づき、それとの別れの道へ。新しい「生きる喜び」の世界へ向う。

 

 

「現実を生きる」という根底へ

 

 当面考えられる「思考法の検討」をほぼ出し尽くし、いよいよ深層心理への長い取り組みに入るかと予想していたA子さんでしたが、意外な方向から新たな展開が訪れました。

 

 そこに訪れたテーマとは、「現実を生きる」vs「空想を生きる」というテーマです。

 これはこの時、私自身のハイブリッド心理学の「取り組み実践」の整理からは漏れており、メール相談に際して具体的なアドバイスはあまり想定していなかったものです。

 

 もちろん病んだ心のメカニズムとしてのその決定的な重要性は、まさに私がこの心理学を単にホーナイ精神分析と認知療法の足し合わせを超えた独自の新しい心理学と自認させた、「現実覚醒の低下」という概念そのものでした。

 病んだ心は、健康な心における通常の意識とは全く別種の、「現実覚醒レベル」が低下した一種の半夢状態として動いている! だから「理想化された自己像」を基準とした「重ね合わせ思考論理」による極端な二極感情は、「現実理性」にはもう全く影響されることなく動くのだ!

 それを意識努力によって解くことは、まるで夢の中で、夢から覚めようと努力すると全く同じものに思われました。意識努力によってできることをハイブリッド心理学の実践として定義していくとして、この「現実覚醒の低下」の解除は、取り組み実践が促す心の自然治癒力に任せるしかない。

 私はそう考え、具体的な取り組み実践の中には、この話はほとんど入れていなかったのです。

 ただそれが自らによって突き破られる「自己操縦心性の崩壊」という特別な治癒現象が起きた場合は、それへの対処の仕方を、深刻な障害傾向ケース向けに用意していました。

 

 「感覚」の歪みへの、ごく基本的な対処の説明を送ったあと、GWに入り、A子さんの方でもゆっくりと自分の振り返る時間を持ちました。

 そこで読んだ私の自伝小説『悲しみの彼方への旅』の中から、A子さんはある極めて決定的な気づきを得ます。

 それは、今までのA子さんへのアドバイスが終始していた、「愛」と「自尊心」といった思考と感情の内容を伴う話ではなく、「空想と現実」という意識の外枠の話であり、そこにおける「自分」という意識のあり方の話でした。

 

== A子さんから 2007.5.3(木)「事実のみが進む道」==

ゴールデンウイーク9連休で自分を振り返る良い機会となっております。

先生の本を読んでいます。

P.209「現実を生きることができていません。空想の世界で生きています」

P.210「事実、「現実」こそが心の圧制者の嫌うものでした」

このあたりが「そうか、「空想の世界の自分」を今まで「自分」と思っていたんだ」という発見でした。

プライドも劣等感も作り上げていたのは「空想・妄想・想いの世界の私」でした。

「事実のみが進む道」という実感がします。

 

「感覚」としてきたものも「思い込みの産物」。

よく見ると、「気がした」だけで「事実はどうなのかと考えるのが重要」

主観だけが育ってきて客観性がないような感じですね。

 

「本当の自分ではなかった」「そこから逃げた者が私を覆いかぶさった」そんな風に考えています。

いつまでも人のせいにして「踏み出さなかった私」「空想の世界を疑うことはなかった」

 

これからの道のりは「100%が99%になって・・」とかなり長そう。

でもこっちの道に進んで生きたい。これからも、ご指導よろしくお願いします。

 

人間の心の業

 

 ここに、人間の心の業の原点ともいうべきものがあるように感じます。

 なぜ人間は「空想」というものを持つようになったのか。それは間違いなく、自分と人生を豊かにするためのものであったはずです。

 しかし、人は病んだ心の中で、自分と人生を豊かにするためのものであったはずの「空想」によって、自分を破壊してくのです。そして「愛」を破壊していきます。

 なぜこんなことが起きたのか。それを問う私の目に涙が流れるのを感じます。

 

 言えるのは、それが「人間」という存在なのだということです。それが「人間の不完全性」なのだと。

 そしてその不完全性を糾弾することに、解決はないということです。

 それを人間の不完全性として、そして「現実」の不完全性として、受け入れた時、それはパラドックスのように消え去ります。

 なぜなら、我々に我々自身を破壊させるようになった「人間の不完全性」を糾弾することで、自分が「あるべき完全」を知る人間だという高みに座ることを放棄した時、我々に我々自身を破壊させた「絶対なもの」という基準も、同時に消え去るからです。

 パラドックスです。私たちがそれによって苦しめられる「人間の不完全性」を許すまいとした時、私たちはまさにその姿勢が生み出す「絶対なもの」によって自らを責め苦しむことになるのです。

 私たちを苦しめる「人間の不完全性」を受け入れた時、私たちは自らを苦しめることから解放されるのです。

 それが同時に「愛」を守るものであるのならば、ハイブリッド心理学はそれをとります。

 

 一方で人は「愛」を守るべきものと感じ、「愛」がこうあるべきだという観念の中で、愛が不完全な姿を、「決して許してはいけない」という怒りの感情を抱きます。そして愛を破壊していく。

 これは「論理」の問題ではないのだ、と私は感じます。これは「人間の意識」というものの「業」の問題なのだと。

 そしてハイブリッド心理学は、この人間の業の克服の道を、ただ歩みます。

 

「否定価値の放棄」「不完全性の受容」へ

 

 同じ日、A子さんから引き続き広がりを増した気づきの報告が届きました。

 

== A子さんから 2007.5.3(木)2通目「内なる敵からの脅迫状」==

今考えると「空想の私」からは、かなりの脅迫状が届いていました。

 

もともと「その私」は自分を「不安から守る」ために発生したのではないのでしょうか?

それなのに破壊・破滅に追い込んでいってしまうのはなぜなんでしょうか?

「一部」だったものが「すべてを覆う」ようになってしまったのは、あまりにも対処を「怒り」にたよったからなのでしょうか?

(脅迫状)

*今の自分を幸せと思え。さもないと不幸になるぞ。持っているものを奪われるぞ。

*仕事をカゼで3日も休むなんてダメな人間だ。

*人間関係も上手く付き合えないなんて生きていく資格ないぞ。

*おまえが子供を愛せるわけがない。不幸な子供だ。事件でも起こしたらどうするんだ。

などなど、「きびしい心の声」にたえられなくなってきていました。

事実で考えるとおかしいことですよね。それなのに「従おうとする誠実さ」にうたがうことをしていませんでした。

 

 私に、その「なぜなんでしょうか」という問いに完全に答えることはできません。

 私にできるのは、ただ「不完全性の受容」そして「否定価値の放棄」というハイブリッド心理学の最大の道標への実践を説明することだけです。丁寧に。医学の姿勢で。

 

== 島野から 2007.5.4(金)「否定価値の完全なる放棄」「不完全性の受容」==

■「現実の選択」

 

大きな気づきだと思いますね^^

というのも、何をどう考えるかという中身ではなく、何に立って考えるかとという、言わば「意識の足場」の選択のような話だからです。

そして実際それが、愛や自尊心や人生をどう考えるかという中身の話の外側にある、人間の心に埋め込まれたミスのようなものに関わる、大きな話になります。

 

「空想に立脚」して考えるか、「現実に立脚」して考えるか、という「選択」です。

そしてこれが意識で選ぶというだけではなく、すでにそのどっちかに方向づけられた意識の中で、思考が動くという厄介な問題があります。

それはいわば「夢」の世界です。半分夢の世界で考えていたわけですね。

 

■自分を救うためにあったものが自分を破壊する

 

>今考えると「空想の私」からは、かなりの脅迫状が届いていました。

>もともと「その私」は自分を「不安から守る」ために発生したのではないのでしょうか?それなのに破壊・破滅に追い込んでいってしまうのはなぜなんでしょうか?

これも根本に関わる問いです。

 

その通り、「空想の自分」は、もともと自分を恐怖から守るために生み出されたものです。そうでもしないと耐えられないような、恐怖があったんですね。

だから、これは現実ではない、本当の自分は空想した方なんだ、という「空想による救済」メカニズムというものが人間にはあります。

 

>「一部」だったものが「すべてを覆う」ようになってしまったのは、あまりにも対処を「怒り」にたよったからなのでしょうか?

怒りに頼ったからではなく、恐怖が強すぎたからということになるでしょう。

 

ところが、やがてその空想の中で抱いた「こうあるべき」の価値が、一人歩きしてしまうんですね。

「こうあるべき」空想世界こそが主であり、「現実」は従となる。そして空想から現実を否定することで、その価値の確認をするという心の動きが生まれます。

やがてそれが、その心の動きが望む通り、現実を否定ばかりすることで、現実が貧弱になり、「空想から現実を否定できる」ことが確実になっていきます。

 

これは、人間の心に埋め込まれた、プログラム・ミスです。

それ以外の何ものでも、ありません。

なぜ心が否定破壊ばかりになったのか。それはあまりにも自分に不利な結果になるにも関わらずです。

確かにそこには、人間の脳に宿命として組み込まれたミスもあります。

しかし最後にあるのは、「愛」なんですね。全てが、傷ついたものを救おうとした愛に始まっている。「これは現実ではない」という空想によって、苦境の中にあった自分を救おうとしたのです。僕は今でもこの起源を遡った時、涙が出る感があります。

 

■「否定価値」の完全なる放棄へ

 

空想から現実を否定することが、大元では傷ついた自分を救うための「自己操縦心性の愛」に始まっていた。そのことを理解するならば、大きな転換を自分に問うことができると思います。

 

空想から現実を否定することでしか、自分を救い得なかったものがあった。それが全ての始まりでした。

ならば、これからはその役割を、自分自身が「現実を向上させる」という別の方法によって、担うことです。そのための強さを、自分がもう持ち始めていることを、しっかりと見据えることです。

 

それを選択するのであれば、あらゆる「否定価値」に、全く何の意味もないことが見えてくると思います。

これを「否定型価値感覚の放棄」と呼んでいます。「否定価値の完全なる放棄」と言ってもいいかと。

 

実際それは、「善悪」観念さえ完全に崩壊させるほどの転換でもあり得ます。

なぜなら「善悪」は、否定破壊を前提にした観念だからです。まあルールと罰則の遂行としては、それは確かに必要です。

しかし、もし「罰の遂行」という場面を除くならば、「否定する」のではなく「現実に向上させる」ために向き合うことにおいて、「悪」なんていう観念を使う必要は、全くないんですね。

 

まずはぜひこれを、日常の生活の中で確認して頂ければ。

なぜそれでは駄目なのか。それは結局、「駄目だ」と否定できることに価値を感じたから、駄目だと考えた。それだけのことしかないのではと思います。

 

■不完全性の受容

 

「それでもこれだけは」という「否定の基準」を保ち続けたい、という感覚も残るかも知れません。

>*仕事をカゼで3日も休むなんてダメな人間だ。

>*人間関係も上手く付き合えないなんて生きていく資格ないぞ。

この辺はその類ですね。

これは「不完全性の受容」というテーマに関連します。

 

「否定できる価値」のために否定するというより、あくまで「理想」として保ちたいという気持ちから、「これだけは許せない」という信念を守りたい。まあ世の人は大抵そう考えるものです。

僕はそれさえも完全に放棄したわけです。

なぜなら、それは「完全」を求める姿勢だからです。「現実」というもの、そして人間という存在の、不完全さを、認めない姿勢です。

そして結局、「これだけは許せない」という「基準」から、否定破壊を向けます。「現実」はそれによって破壊されます。結局同じなんですね。

 

なぜそんなことが起きてしまうのか。結局「完全なるもの」という、「空想の世界」に立っているからです。

別にそんな完全を求めているのではない。あまりにひどいものがあるということだ。そう感じるかも知れません。実際僕はこの選択に際して、そう問いを出しました。

しかし、それが本当に「あまりにひどいもの」なのか。そうして自分が考えた「基準」は、正しいのか。

そう考えるならば、不完全性とはまさにそこにあるんですね。「あまりにひどいもの」と感じる基準を定める能力自体、不完全なわけです。それが自分の感覚が正しいと主張することは、自分が完全なる神だと主張することです。

 

そう考えた時、僕の中で、「それはひどい」という感覚そのものが、根底から崩壊したわけです。

そして日常生活の中で、全てにおいて、ほぼ100%、「肯定形」だけで思考するように変化して行きました。

やがてそれが、「怒り」が根底から消える変化にもなった次第です。僕が人生で「怒り」に駆られたのは、いちおう2004年頃が最後です。

 

ということで、「否定価値の完全なる放棄」「不完全性の受容」というのが、とても大きな転換点になります。これをぜひ日常生活の中で確認実践してみて頂きたいですね。

 

その後のことまで書いておきますと、「現実への歩み」はそこから始まります。否定価値を放棄し、不完全性の受容を「頭の中」では成した時、心の世界は一変すると思います。

しかしそれもやはり「空想の世界」にあります。

より肯定的な姿勢で、望みへと向かい、人に接することです。すると初めて、「心の現実」が見えてくるのです。

今掲示板で書いているような、「置き去りにした弱い魂」を再び迎えに行く歩みが、そこから始まります。

 

人間の心の業への別れ

 

 A子さんからの相談メールは、これで終わりになりました。後日、一人立ちできる自分を感じたと、お礼の言葉が届きます。

 

 A子さんがたどった思考の取り組みは、「感情分析」や「自己操縦心性の崩壊」など病んだ心への特別な取り組みを含まない、ごく日常的な人間思考の延長において、ハイブリッド心理学が見出した心の治癒と成長のための積極的意識取り組みの、ほぼ全ての範囲のものを実にコンパクトに網羅した好例となりました。

 その歩みをこうして整理してきた時、最後まで「なかなか破壊モードを抜け出せません」と伝えていたA子さんが、最後に至ったのが、「空想の自分からの脅迫」への決別という、それまでのごく実践的な思考法取り組みとは少し毛色の異なった、「空想と現実」という人間意識の根源への向き合いであったことを、改めて見出します。

 その実に一瞬のような気づきが、A子さんの歩みを最後にして、一瞬にして完結へと向わせるような、「破壊モードの心」からの脱出への根本的な転換となったのです。

 これは、より深刻な心の障害傾向からスタートした私自身の歩みに、最大の変化の節目を与えた自覚と、ほぼ同じものであることが感じられます。

 

 それはそこに至るまでの思考法行動法取り組みとは、やはり少し異質な転換です。ごく直感的に言うならば、それまでの思考法の取り組みとは、自分を変化させるための思考修正です。それが心の土台に染み込むほどに、心の基盤そのものが成長し、湧き出る感情もより良くなっていくという、「緩やかな変化」を感じ取ることができます。

 最後の「空想と現実」をめぐる「自分」との向き合いとは、それとは異なります。

 それは明らかに、自分という一人の人間の中にいた別の何かとの別れなのです。別れを告げる対象と、これから生きる自分の間に、決して溶け合うことのない対峙を、目の当たりにする瞬間になります。

 より深刻に病んだ心からの治癒と成長への取り組みにおいては、これが全く異なる様相で、しかし全く同一の普遍的な構造の中で現れます。

 これが、人間の心を根本から変化させるものなのです。

 

 人間の心のこうした深奥なる心の動きは、この心理学を整理するようになった私自身が、時を経るごとに、それが何であるのかをより清明に見ることができるようになってきたものでもありました。

 ごく最近、私はそれをある夢で描かれた感情の記憶によってはっきりと自覚しました。日記にこんな言葉を書きました。

 

2008.2.8(金)

・・(略)・・この感覚の底には、人間の心をただ破壊へと向かわせる塊とでも言うべきものへの、嫌悪と対決の感覚があるということなのかも知れない。それは自分を生み出し、愛し、壊そうとしたものという、人間の出生の業との、闘いなのだ。

 

 別れを告げる対象とは、「自分」です。それは「自分」であると同時に、「業」なのです。

 「自分」という名の「人間の心の業」への別れです。

 

「生きる喜び」へ

 

 心を病んだ度合いによって、それが現れる様相はどのように異なるにせよ、こうした「自分という業との別れ」は、人間の心に、「心の変化」というよりも「脳の変化」とも呼ぶべき、非連続的な自己感覚の変化を生み出します。

 それはまさに脳の生理的変化が起きているかのようです。「思考による気分の切り替わり」とは異なり、数日から数週間を経ての、外部要因の全く見当たらない「未知の感覚」「未知の感情」の増大となって自覚されてきます。

 それはまっさらな、生きることへのエネルギーの感情であり、もはや「生きる」ことに何の疑問も抱くことなく、ただ「生きる」ことに向う感情です。それはまた、「なるべき自分」と「現実の自分」という「イメージ」がほとんどない意識感覚です。

 ただ「現実」があり、それを生きる「自分」がある。

 その先に、「生きる喜び」がある。

 

 A子さんからのお礼のメールが届いたのは、5月も下旬になった頃でした。

 A子さんの目に映る世界に、「生きる喜び」の光が溢れ始めていました。

 

== A子さんから 2007.5.29(金)「ありがとうございました」==

島野先生、こんにちは。

おかげさまで一人歩きできるぐらいに回復してきました。

 

心の枠が少しづつとれてきた感じです。

家の壁がとれて外の「さわやかな風や蝶が飛んでいる様子が感じられる」

そんな気がしてきています。

 

不安に悩まされる日ももちろんあるのですが、「建設的思考」をモットーにと肝にめいじています。

そうすると、「ふりこ」のように何日かすると「さわやかな日」がやってきます。

その日はわたしはとても「シンプルな気分」でいられます。

うちで飼っている犬にも学んだのですが「ご飯がおいしく食べれればそれでいい」そんな感じです。

 

生きているのは私自身のはずなのにいつのまにか「人がこう言った。だから傷ついた」など、他人の言動に振り回され、よく考えるとその正体はもう一人の自分だった。

妄想に振り回され、エネルギーも奪われていった。

 

もう、へんな考えはやめよう。

よろこびいっぱいに生きている「うちの犬の行動学」をもうすこし観察してみよう。

先生の心理本、出版されるのを楽しみにまっています。

ありがとうございました。

 

「心」と「魂」の根源への取り組み・人間の心の真実へ

 

 最後にもう一つ、A子さんの事例が私たちに教えてくれたことがあります。

 「生きる喜び」とは、行動法の上達を前提にするものではない、ということです。

 A子さんに行動法の上達があるとすれば、それはこの後の話です。それは「生きる喜び」にさらに安定と豊かさを加えるものにもなるでしょう。

 これはそもそも、ハイブリッド心理学における行動法とは感情の操縦法ではない、という話からも自明です。この点でやはりハイブリッド心理学に取り組み始めた方の多くに勘違いがありがちです。

 「生きる喜び」とは、行動法によって作り出すものではありません。それは私たちが生きることを喜ぶかという、「選択」なのです。

 むろんこの「選択」はそれを選択しようという意識努力によって成せるものではなく、意識努力として成すものとは、「感情と行動の分離」に始まる、「自己の重心」を指針としての、建設的な思考法行動法、そしてその先において「否定価値の放棄」の選択を自らに問うという、ただそれだけです。ハイブリッド心理学の取り組み実践の骨格は、とてもシンプルです。

 

 それはもう一つ別の表現にもできるでしょう。

 「生きる喜び」とは、一切の外部条件に無関係であるということです。なぜならそれは「選択」なのですから。心の根底の。さらには、脳の構造における選択とも言えるものとしてです。

 

 より深刻な心の障害傾向におけるその取り組みは、全く異なる様相と経過を示し、そこに今までの心理学や心の医療の世界で全く理解されないままでいた、病んだ心の根本治癒メカニズムが示されることになります。しかしその根底構造は、ここで述べたものと全く同じです。

 そうした、全く異なる様相を貫く全く同じ構造への視点を持った時、私たちは人間の心の根源構造を理解することになります。さらに、その先に繰り広げられる歩みへと向った時、そこに人間の心の真実が見えてきます。

 

 私たち人間の未来と、これからの社会のために、私たちはそこに踏み出す必要があります。

 

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