心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

1章 現代人の心の荒廃  −失なわれた「自己の重心」−

 

 

現代人の心の荒廃

 

 「心の荒廃」が今、社会で一つの危機的な問題として叫ばれています。

 

 その表れはさまざまです。「親殺し」に代表される、近親者の間での殺傷事件や、相手を選ばない、通り魔的な事件の発生。毎年3万人を超える自殺者。「いじめ」の問題や、職場におけるストレスと過労。あらゆる場面で見られる、人間関係の悩み。そして、「心の病」の増加。

 そうした「心の荒廃」は、大きく分けるならば、それによって他人が被害を受けるものと、本人が悩み苦しむものの、2つのカテゴリーに分けることもできます。本人が苦しむものを「心の障害」として、精神医療の現場ではさまざまな「診断」も行われます。「うつ病」「パニック障害」「境界性人格障害」などなど。

 しかしハイブリッド心理学では、全ての心の問題の根源は同じものだと考えています。

 それは人間がもともと持つ「心のメカニズム」の一つの側面なのだと。「心のメカニズム」なので、何種類もあるわけではなく、あるのは一種類のメカニズムだけです。心がその上で動く「脳」のメカニズムも一種類しかないからです。

 

 この本では、そうした「心のメカニズム」として、ハイブリッド心理学が「心の障害」をどのように捉え、どのような克服へのアプローチを考えているのか、その概要を説明したいと思います。

 

「心の病理」の本質とは

 

 まず、私たちは何をもって「心の障害」「病んだ心」と考えればいいのか、その正確な心理学的理解を図りたいと思います。

 

 別に心を病んでいなくとも、私たちは生きる上でさまざまな困難に出会い、動揺したり悩んだりすることはあるものです。大勢の人前で話す大きな舞台を前にしたり、重要な試験や試合に望んで緊張することは自然なことであり、大切な人との別れや、健康や財産を失った時に悲しみに打ちひしがれることは、別に「心の病」ではありません。

 むしろ、そのように人生においてかならずある困苦にありのままに向き合い、克服への向上の努力をすることが、「こんなことはあるべきではない」という怒りによって妨げられる姿が、「心の障害」なのだと考えることができるように思われます。

 つまり、強い恐怖や不安や悲しみ、そしてストレスが必ずしも心の障害なのではなく、むしろそれによって生活と人生を前に進めなくなってしまうことが、心の障害なのだと言えます。

 

 「病んだ状態」が「健康な状態」と違うことを示す本質的な特徴を、「病理」と言います。

 

 「心の障害」であることを示す「心の病理」として、ハイブリッド心理学では4つの特徴を考えています。

 「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」そして「論理性の歪み」です。

 それぞれを簡潔に説明していきましょう。

 

第1の病理「度を越えたストレス」

 

 「心の病理」の1つ目は、「度を越えたストレス」です。

 

 「ストレス社会」と呼ばれ、「ストレス」は現代社会の病理の一つだと言われることがありますが、強いストレスは必ずしも心の障害の表れではありません。

 たとえば、日本の総理大臣やアメリカ合衆国の大統領が日々感じているであろうストレスを、心の障害とは呼びません。オリンピックの試合で選手が体験する強烈な緊張感を、心の障害とは呼びません。これらは「現実に見合った」ストレスと考えられます。

 そうではなく、どう考えても「現実」とは不釣合いな、度を越えたストレスがそこにある時、それを心の病理として、心の障害の表れと考えることができます。何において「度を越えている」のかと言えば、ストレスが持続する時間およびストレスの強度においてです。

 

 ただしどの程度のストレスが「現実に見合ったもの」と考えるかは、かなり個人差のある話です。

 そして重要なことに、自分の持つストレスが「現実に見合った当然のもの」と考えるか、それとも「現実とは不釣合いなもの」と考えるかどうかで、ストレスの克服は全く違った話になってきます

 

 前者のケース、つまり自分の体験する強いストレスが「現実に見合った当然のもの」だと考えるのであれば、「現実」が変わらない限りストレスは逃れられないものと決め付けることになります。

 逆に、自分の体験する強いストレスが「現実とは不釣合いだ」と考えるならば、この人はストレスを脱する方法に関心を持ち、克服へと向う歩みが始まり得ます。

 私自身の感覚を言いますならば、強いストレスが明らかに不可避なのは、どう考えてもとにかく戦時下です。それに較べれば、現代社会、少なくとも今の日本は、ストレスはかなり克服が可能な社会だと考えています。事実私自身は、自らの心の成長への歩みの中で、会社の仕事場面でのストレスはほとんど皆無になりました。

 

 「日本人ジョーク」として、面白い映像を見たことがあります。短いマンガ映像で、一人の日本人男子が、まるで運動会のかけっこ競争よろしく、スタートの合図のピストルの音と共におぎゃーと生まれ、死んで天に召されるまで、目をつり上げ、駆け抜けて行きます。

 人生の全体が、競争のストレスの中にあるわけです。多くの人が、それが今の日本社会なのだと考え、今の社会は生きにくいと考えているようです。

 これは果たして「現実に見合ったもの」でしょうか。

 もう少し別の視点を入れると、必ずしもそうではないことが、分かってくるのではないかと思います。

 ストレスは「現実」にあるのではなく、自らの内部にあるということがです。

 

第2の病理「自己の分裂と疎外」

 

 心の病理の2つ目は、心の内部に取り込まれたストレスによって始まる、次の連鎖的な病理だと言えるでしょう。

 それは、「自己の分裂と疎外」が起きるということです。

 

 自分自身にストレスをかけ続けた結果、本来一人の人間に一つのまとまったものとしてあるはずの「自分」というものが、矛盾した思考や感情に分裂したり、「自分が分からなくなる」といった状態が起きてきます。

 病んだストレスは必ず、心の内部に怒りと抵抗の反発を生みます。自分自身にストレスをかける方向と、それに怒り反発する方向。この両者が共に蓄積され、ある時点でその対立は、もはや表面の平衡を保つことが難しいほどのものへと膨張してしまいます。

 

 こうした「自己の分裂」は、仕事や恋愛など、日常の多岐に渡ります。その極端な姿は時に「人格分裂」「多重人格」として人の目にとまります。

 しかし実は、私たちのごくささいな心の悩みから、こうした「自己の分裂」が常に背景にあります。

 人と仲良くしたいが、人が好きになることができない。頑張らなくちゃと思いながら、やる気が出ない。

 それだけ、人間の心のメカニズムはもともと沢山の歯車の分裂と協調の中にあるのであり、その僅かな狂いでも「自己の分裂」が起きるのだとハイブリッド心理学では考えています。

 

「葛藤」

 

 自分自身の内面に矛盾し対立した自己を抱えることは、人の心の表面に「葛藤」と呼ばれる、苦しい心理状態を生み出します。これは「入門編」でも説明した通りです。

 

 「葛藤」とは、心の中に矛盾し相容れない複数の感情を抱え、そのどちらを選ぶこともできず、「心が引き裂かれる」ような苦しみを感じることを言います。

 「葛藤」とは、単に複数の選択肢のどれを選ぶかに悩む状態を言うのではありません。選択肢のどちらもその人にとって重要で、捨てることができず、必要不可欠と感じられながら、選択肢が互いにまったく相容れず、両立しない。その結果その人が選択不能の状態に陥ることを言います。

 そして選択不能でありながらも、どちらかを選択しないと、その人の存在基盤そのものが危うくなるかのような切迫した状況です。選択不可能であるのに、選択しないままでいることもできない。だから、「葛藤」は「心が引き裂かれる」という、精神的な強烈な苦しみとして体験されることになります。葛藤とは、実は選択肢の間の対立ではなく、人間としての相容れない存在の仕方の間での対立なのです。

 かくして人はカレーと中華の間で葛藤することはまずありませんが、不倫の恋と家庭の間では葛藤するわけです。

 

 「自己の分裂」が「人格分裂」と言えるほどに根深いものになった時、それは葛藤を生み出す「構造的背景」になります。

 構造的背景であるとは、その人の外部状況がどんなであるかに関わらず、内面の分裂が外面の葛藤として映し出されるということです。すると、人は人生のある時期に葛藤をなんとかやり過ごせても、しばらく時を経て奇妙に同じ構図の葛藤で苦しむことを、何度も繰り返すことになります。

 

「転位行動」と「嘘」

 

 葛藤によって心が引き裂かれるという破壊性を回避するために、動物においては「転位行動」というものが見られることも入門編で説明しました。

 相容れない2つの行動のちょうど中間のどっちつかずで迷った時、ストレスの緊張が極大になってしまうのを避けるために、全く関係のない行動をしていったん緊張を緩めるということが起きます。例えば、自分と同等の相手と出くわして、攻撃するか逃げるかどっちつかずの時に、急に体を掻いたりあくびをしたりといった行動をするというものです。

 そうして、緊張をいったん解除してから、再び逃げるか戦うかの行動を再開するわけです。

 

 人の人格に分裂が起き、意識の焦点が2つの人格にちょうどまたがった時、「心が切り裂かれる」という破壊性は容易にははかり尽くせません。

 最も重度な心理障害は、かつて「精神分裂病」と呼ばれていました。心の分裂は、「狂気」への入口でもあるようです。

 

 人間における「転移行動」とは、「嘘」であるとハイブリッド心理学では考えています。

 

 2つの相容れない事柄のどちらを選ぶこともできず、揺れ動く心の緊張が膨張する先に、道からそれるかのように、「現実」を別のものへと塗り変える虚構の試みられます。

 かくして、日本人の厳しい品質要求に応えることと、食品を売り尽くしたいという2つの相容れない課題を前に、賞味期限の偽造という「嘘」が多数発覚したというニュースが報道されました。

 

「自分についた嘘」と「自己の疎外」

 

 現代人の心の成長過程に、この「嘘」という人間の転位行動が、深い影を落としているのを感じます。

 「自分についた嘘」という形においてです。

 ごく幼少期から、「ありのままの自分」でいることを良しとせず、「あるべき姿」へと怒りのストレスの中で自分を駆り立てるという生き方の中で、それは起きています。

 ありのままの自分でいたいという願望は、本来人間の本能です。それがありのままの自分では駄目だという自己否定感情、および怒りを向けられる恐怖との板ばさみになるわけです。

 その葛藤から逃れるために、子供の心に起きる転移行動。それが「自分自身についた嘘」です。

 自分はもともと「こうあるべき」人間なのであり、そんな人間なんだ。それでいいんだ。ありのままの自分だと思ったのは気のせいだ。悲しくなんてない。自分はもともとそんなものなんて求めてはいない。これでいいんだ。

 

 こうして、自己の分裂という病理から始まった「自分自身への嘘」は、この病理にもうひとつの側面をつけ加えることになります。

 それは、ありのままの自分の感情を感じ取ることから、遠ざかることです。自分が本当には何を感じているのかが、自分自身で分からなくなってくるのです。

 これが「自己の疎外」です。

 

 動物の転位行動は、主に身体的攻撃に絡んだ葛藤に際して起きるものです。それはすぐ解除して、しかるべき行動選択に向うものです。

 人間の場合、主に精神的攻撃に絡んで追い詰められた葛藤が、「嘘」という転位行動につながり、これは一度使うと解除が難しい性質があります。そして「嘘」はそれ自体が人間の心にとってストレスになる。ここに全ての心のストレスが固定化される決定打が打たれます。

 それはありのままの自分でいたい願望と、別の自分になりきることで逃れようと恐怖を、根本的に解決することなく、解決を永遠に先延ばしして、問題を固定化するものになると言えるでしょう。

 

 こうした「自己の分裂と葛藤」そして「自己の疎外」が、病んだ心の背景には必ずあります。

 「こうあるべき」通りになれているような自分。そうなれなくて、駄目な自分。人に合うと自動的にあいそ笑いをしてしまう自分。一方で、全ての他人への見下し気分の中で生活する自分。押しつけられた拘束に反発するように人に背を向ける自分。

 やがて何が本当で、何が真実なのか、そして何が現実なのかが、分らなくなってくるのです。

 

第3の病理「情動の荒廃化」

 

 心の病理の3つ目は、「情動の荒廃化」です。

 これは、思考や行動へのエネルギーが、全体的にすさんだ破壊性を帯びてくるというものです。怒りや憎悪が、行動への基本的なエネルギーになってくる状態です。

 

 たとえ心の障害というほどではないとしても、人は怒りに頼る思考法の中で、実際のところ人間を動かすのは怒りだという錯覚さえ抱くようになります。

 もちろん人を動かすのは「怒り」だけではありません。その最も素朴な基本が、「喜び」「楽しみ」です。「喜び」と「楽しみ」を行動の基本的な原動力にするのが、心の本来の健康な姿です。

 

 怒りに頼る思考法をしていると、人はしばしば、「喜び」と「楽しみ」の純粋形がどんなものだったのか忘れてしまいます。怒りと恐怖のストレスが軽くなることを、「楽しみ」だと錯覚したりするのです。

 かくして、「あるべき姿」にならなければというストレスの中で幼少期からを生きた青年は、一流大学や一流企業に入れることが「喜び」「楽しみ」だと考えます。しかしそれが本来の行動の原動力としての「喜び」「楽しみ」ではなかったことが、やがて何のために自分がそこにいるのか分からなくなり、何の行動への意欲もなくなるうつ症状としてしばしば示されます。人はそれを五月病(ごがつびょう)と呼んだりします。

 

破壊性の膨張という問題

 

 心の障害とは、基本的に自分と他人に向けられた破壊的衝動の表れです。ストレスとは、自分自身に向けた怒りです。「うつ状態」や「自己嫌悪感情」しかり。

 問題は、「破壊性の膨張」にあります。

 ほんのささいな「不満」が「怒り」となり、「怒り」が「憎悪」となるメカニズムが、人間の心にはあります。それが最後に行き着く、最も病んだ姿とは、「傷つけことが喜びになる」という姿です。つまり破壊が快を帯びるという姿です。

 

 この人間の心のメカニズムの最も(むご)い姿を、私たちは時に「快楽殺人」の事件として知ります。

 この最も端的な例として私の記憶に鮮明に残るのが、2005年11月に起きた「大阪美人姉妹強殺事件」の山地悠紀夫殺人犯でした。

 マンションで暮らしていたこの全く見ず知らずの美しい姉妹を、山地はまず帰宅した姉がドアを開ける背後から襲い、ナイフで胸を刺した後強姦します。そのすぐ後に帰宅してきた妹を、まだ息のある姉の目前で、同じように刺して強姦。ぐったりしている姉妹をそのままにしてベランダでたばこを吸った後、彼は改めてとどめをさすために姉妹の胸を突き刺し、室内に火を放って逃亡しました。

 逮捕された彼はこの事件の動機を、「人を殺したかった」と供述しています。彼は16歳の時に母親を金属バットで殴り殺しており、その時「人を殺す楽しさを覚えた」とも言っていたようです。

 私はここに、日本の犯罪の歴史の中でも最も「荒廃した心」が表に現れた事件であったような印象を受けています。

 

「望みの停止」による情動の荒廃化

 

 一体なぜそこまで残酷な「情動の荒廃化」が人間の心に生まれるのか。

 「それが人間の本能の一面なのだ」と世に言う人もいます。しかしそれは何かを説明した気分がする以上の意味はない言葉です。

 なぜなら、DNA上に準備された可能性を「本能」と言うのであれば、単純な食欲から高度な学習能力および創造性といった、さまざまな人間心理の全てが、やはり「本能の一面」だからです。心理学的に問題になるのは、それらがどのような条件によって引き出され発動するのかという、心の歯車のメカニズムです。

 また、こうした「心の荒廃」の表れとなる事件の報道に際し、世の識者の多くは、それを「あまりに自己中心的で利己的」と怒り、「現代人は自分の欲求を抑えることを知らなくなった」と嘆きます。道徳教育の必要性も説かれます。

 しかし問題は「欲求を抑える」かどうかなどという話ではなく、なぜそんな「欲求」になるかなのです。それは子供がおもちゃを欲しがるのを我慢するというような話とは、全く訳が違うのです。

 

 その観点で見るならば、カレン・ホーナイが指摘したように、それら残酷な人間性を発達させる人物とは、例外なく、来歴において自分の人生に極めて深い絶望を抱いた人間であることを、古くから多くの文人たちが直感的に感じ取っていました。

 自分の人生に深い絶望を抱き、やがてそれが確定的ともいえる沈んだ断念がなされた時、人の心に、他人の幸福を破壊することに快感を帯びる情動が芽生え始めるのです。

 

 事実、山地悠紀夫殺人犯もそうした人間の一人でした。

 恵まれない家庭でした。父親は大酒飲みのろくでなし。母親は借金返済のために働き通しで、子供をかまう時間もない。家にはいつも借金取りが押しかけ、ガスや電気も止められる生活だったようです。

 彼が16歳の時に母親を撲殺したのは、当時彼が交際していた相手の女性に、この母親が無言電話をかけたことが引き金だったようです。彼はこの母親の行動が許せなかったのです。

 彼はこうも供述しています。「母親はいろんな事を一人で背負ってしまう。もっと相談して欲しかった。もっとかまって欲しかった」。こうした言葉は、彼が生まれついての快楽殺人者ではなく、人間の心の一端がその来歴の中にはあったことを感じさせます。

 そして少年院を出所するも生計は立たず、完全な自暴自棄に向かったわけです。「自分には守るべきものも失うものも何もない。どうせ自分のことを引き留める人もいないなら、やりたいことをやってやる」と。

 「自分のことを引き留める人」という言葉が心に痛く残ります。それは彼の中に最後に残された、人間性の残骸だったのかも知れません。もし彼の生い立ちに痛みを感じ、涙を流して彼の生活をいさめようとする人間がいたならば、2人の姉妹の命は救われたかも知れないのです。

 同じように、幼児強姦などの倒錯性欲の犯罪者が、例外なく、「どうせ自分なんて」と、同年代の異性に近づくことへの自棄的な断念を抱いた人物であることを、私はニュース報道の中で常に確認していました。2004年の奈良女児誘拐殺害事件の小林薫死刑囚もその典型的な例でした。

 

 ハイブリッド心理学では、「情動の荒廃化」の直接的な原因は、「自らによる望みの停止」だと考えています。

 それは主に、もの心ついた幼児期から思春期の前後に至るまでの間に、自分が生きる上での大切なものへの、深い断念が成されるという心の動きです。つまり「人生における望み」が停止した時、「荒廃化した衝動」が生まれるのです。

 

「心の荒廃」と「心の成熟」を分かつ分水嶺

 

 ここで極めて重要な話として、「情動の荒廃化」をもたらす「望みの停止」とは、「望みが現実において叶えられない」こととは、全く違います。

 心の中では欲求を思いっきり開放し、一方でそれが「現実の壁」により叶えられないことは、「情動の荒廃化」を全く起しません。

 そうではなく、心の中に欲求が湧き出ることそのものから禁じる心の動きが起きた時、その欲求はいったん意識から消えたかに見え、やがてその欲求が一段階荒廃化を帯びた不吉な姿で、雨後の筍のように意識に現れる、というメカニズムになります。

 これが心を病む来歴の中で発達する過程は、次章にてさらに詳しく説明していきます。

 

 心の中で望みを開放し、現実へとぶつかっていく過程とは、むしろ「心を解き放ち現実を生きる」という、心が成長し成熟していく本来の健全な姿です。それが心を豊かにしていくのです。

 

「望む資格思考」という心の癌細胞

 

 ではこの「心の荒廃」と「心の成熟」を分かつ、実に微妙な分水嶺の仕組みとは何か。

 「心の荒廃」につながる、典型的な人間の思考があります。「望む資格思考」とこの心理学で呼んでいるものです。望むことに資格が必要だという思考。望むことが許されるか、許されないか。

この思考では、まず望みに自ら向い、現実へと向って、「現実の壁」に阻まれ失敗を重ねながらも成長を遂げていくという視点が失われています。問題は、自分に望む資格があるかないかです。その資格があれば、現実においてはもう叶えられるはずだ、否、叶えられるべきなのだと言わんばかりにです。

 この思考の内容が極端になるにつれて、それは現実から乖離(かいり)した幻想の様相を帯びてきます。

 

 これは実は、「正しければ幸福になれる」という道徳思考がまさに、そのルーツになっているかのような印象を受けます。人生と幸福が自分で努力して切り開くものではなく、善人になることによって与えられるべきものという、受身の人生思考。

 一方現代社会においては、この「望む資格思考」はもやは敬虔な道徳的思考もしくは宗教的思考ではなく、その型崩れのような、実に独断と偏見に満ちた思考として蔓延しているように感じます。

 その典型とは、たとえば「美男美女だけが恋をする資格がある」というようなものです。

 

 「望む資格思考」とは、いわば心の健康と成長にとっての癌細胞です。その蔓延は、社会における心の荒廃の表れです。

 

「存在の善悪と地位幻想」

 

 心の癌細胞ともいえる「望む資格思考」の根底には、さらに、人間の意識の(ごう)とも言える、ある根源的観念の存在があることを見出しています。

 それを「存在の善悪と地位幻想」とこの心理学では呼んでいます。人間の存在に善悪と地位や身分があり、人は現実世界においてそれに応じた扱いを受けるべきなのだ。

 「望む資格思考」とは、この「存在の善悪と地位幻想」の上に築かれた意識思考だと言えるでしょう。望む資格がある人間とは、望むことが許されるような良い性質や優れたものを持った、「存在が善」である人間として、何でも喜ばれる。そうでない人間は、「存在が悪」として、何をしても嫌われるのだ。望むなどもっての他である。

 極めて根深い、人間の心の業の一つです。人類の歴史におけるこの最悪の表れが、たとえばナチスによるユダヤ人大量虐殺などの歴史に示されます。

 

「人生における望み」が「病んだ心から健康な心への道」への根幹

 

 「望みの停止」が「情動の荒廃化」の原因である時、それとは逆の「望みの回復」による「情動の浄化」という深遠なる心理メカニズムへの視点を開かせます。

 それはもちろん、すでに荒廃化した衝動をそのまま開放するという話ではなく、そうした荒廃化を引き起こした大元の由来にある、「人生の望み」へと遡り、還ることです。

 

 この「人生における望み」が、ハイブリッド心理学が考える、病んだ心とその治癒のメカニズムについての、最も根幹となります。

 もちろん、「荒廃化した衝動」から大元の「人生における望み」への回帰は、単純な思考法や心の姿勢だけで成される安易なものではなく、思考法行動法から根本的な生きる姿勢の転換と共に、深層感情へとメスと光をあてる「感情分析」という特別な心理学的技術を使ってなされる、「人生をかけた取り組み」になります。

 

「嫉妬」と「貪欲」

 

 「情動の荒廃化」に関連する、比較的身近な人間心理について解説しておきましょう。

 

 破壊が快を帯びる「荒廃化」に関連する感情として、「嫉妬」が人類の歴史でポピュラーな感情です。嫉妬もやはり、それを引き金に、相手の幸福を破壊しようとする衝動へとつながります。

 これは一見して、人の持つ良いものを羨む気持ちと、競争心が暴走したもののにように見えるかも知れません。しかし実はこれも、「望みの停止」が先に起きています。

 それは必ず、望むものへと自ら積極的に努力する純粋な気持ちを捨てた、「そんなもの別に」という「自分自身への嘘」のポーズの姿勢が背景にあります。その上で、そのポーズを妨害するような、望みを刺激する他人出会った時、フラストレーションと敗北感が刺激されることで、爆発的な破壊衝動へと化すのです。

 嫉妬は比較的日常の中でも観察される感情であり、動物にも見ることのできる感情でもあります。そしかしそれは単純な欲望の感情ではなく、競争心の中で「そんなもの望まない」と自分につこうとした嘘が失敗して起きる感情という、かなり複雑なメカニズムをすでに備えた感情です。

 

 「人間の欲とは際限のない貪欲なものだ」という言葉を良く聞きます。これもやはり「望みの停止」によって起きるものです。

 人生で本当に求めたものにおいて挫折し、その挫折を塗り消そうとするかのように、何かの栄光を帯びたものを求めた時、それは「貪欲」化します。なぜ貪欲化するのかというと、本当に求めたものに目をそらしたままの、穴埋め腹いせの形になるからです。

 すると、どんなにその欲求が叶ったところで、心が満たされることがありません。一時的に晴れた気分はすぐに空虚と化し、さらに多くを得る刺激が必要なのだと感じます。一種の中毒のように、膨張する欲求を満たすことに駆られることになります。

 私たちはその原型を、不十分な愛の下で育った子供が、やがて際限のない物欲に走るといった姿に見ることができます。

 これが「貪欲」のメカニズムです。

 

第4の病理「論理性の歪み」

 

 心の病理の最後の4つ目が、独特な「論理性の歪み」です。

 

 これは思考や感情、さらには視覚や聴覚などの感覚感性までに渡って、人が健康な状態でものごとを論理的につじつま正しく認識するのとは異なる、何らかの「歪み」が起きているらしい、ということです。

 これを「現実からの乖離(かいり)という少し難しい言葉を使って呼ぶこともあります。心が現実とは別の、何か不条理な論理に満ちた幻想におおわれてしまうのです。

 

 この極端なものは、「妄想」「幻覚」として知られます。実際多くの異常な犯罪事件が、妄想や幻覚の中で行われたことが疑われる時、「精神鑑定」が行われ、心を病んでの行動であったのかが論議されます。

 例えばこの原稿の整理を始める直前に起きた事件ですと、2007年5月に、横浜の地下街で2歳の女の子がいきなり見知らぬ若い女にナイフで背中を刺されるという事件がありました。その時の犯人女性を目撃した通行人の言葉では、「焦点の定まらない危険な目つきをしてブルブルけいれんしていた。意識がないように見えた」との報道です。その後犯人女性が供述したのは、「人に狙われている」「自分の前を裸の子供が歩いていた」「子どもに手をかまれてしまうと思い、自分を守るためにやった」といった言葉です。

 

 これが「現実から乖離」した「妄想」であることは、恐らく間違いないでしょう。しかし実は私たちが普段の生活の中で人間関係や仕事の問題に悩む時、心に飛び交うイメージが本当に現実通りだとは限らないのは、たとえその「乖離の度合い」は異なるにせよ、本質はかなり似たものなのです。

 人にこんな風に思われているんじゃないか。こんな目で見られた。どうすれば人に評価され、好きになってもらえるのか。こうなったら破滅だ。そうした「イメージ」がストレスの中で一人歩きして、自分が追い詰められているという焦燥感に陥り、すさんだ怒りがたまり、やがて今までに見せていた自分が保てなくなり、「キレて」分裂した別の自己へと走ってしまう。

 

 下線を引いた通り、「心の病理」は問題の程度の差を越えて、同じ構造で現れます。ささいな心の悩みから、深刻な心の障害まで、心の問題があるところの全てにおいて、同じものが現れるのです。

 

 では最後の、「論理性の歪み」の共通項とは何でしょうか。

 心の健康と幸福が見失なわれる時、同じように現れる「歪み」とは。

 

「自己の重心」の喪失

 

 この実に大きな特徴を指摘した心理学を、私は他にあまり見た記憶がありません。これは驚くべきことのように感じます。

 ハイブリッド心理学では、それがまさに、全ての心の問題を貫く、一貫した「歪み」なのだと考えています。

 それは「自己の重心」の喪失という歪みです。

 

 「自己の重心」とは、自分の思考や感情が、自分と他人の間のどこに「重み」を置いて感じ取られるかということです。自分の思考や感情なのですから、「自己の重心」は自分にあるのが自然で健康な状態です。

 それが、「自己の重心」が損なわれ、「自己の重心」が軽くなってくると、自分自身よりも他人の側により大きな「重み」が移ってきます。自分のことよりも人のことを大切にするという意味での「重み」ではありません。あくまで自分で自分のことについてどう感じ考えるかということそのものにおいて、「自分」の重みが失われ、「他人」の比重が大きくなっていくのです。

 例えば、怒りの感情を感じた時、健康な心では「自分が誰々を怒った」と考えます。それが、自己の重心が失われてくると、「誰々が自分を怒らせた」という思考になってきます。つまり、「自分によって」ではなく、「人のせいで」になってきます。

 

 このように、病んだ心において「自己の重心の喪失」が起きていることは、私たちが日常使う言葉でも、時に直感的に表現されます。例えば、「あの人には自分というものがない」。

 一貫した感情や行動が見られない。性格に裏表がある。相手に合せていい顔をしようとするだけみたいで、中身がない。

 

 「入門編」で説明した通り、「自己の重心」「感情の自発性」という、心の健康と幸福にとりとても重要な状態と密接なつながりを持ちます。

 自己の重心がしっかりと自分自身の中心に保たれている時、「感情」は自分の内側のなにもないところから、必要に迫られることなく湧き出てくるように感じられます。このように「自発性」が高い感情の代表が、「楽しみ」「喜び」そして「愛」です。

 「自己の重心」による「感情の自発性」ことが、幸福の源泉なのだと言えるでしょう。

 

 一方、自己の重心が失われると、自発的な感情があまり湧き出てこなくなってきます。自分自身で湧き出る自発的な感情が、枯渇してくるわけです。当然、内面には「空虚感」が起きるようになってきます。

 感情はもっぱら、他人から受ける刺激への反応として起きるようになってきます。このような感情を「反応性の感情」と言い、最も代表的なものは、「恐怖」と「怒り」です。これは明らかに、「不幸」と結びつく状態です。

 

「心が病む礎」としての「自己の重心の喪失」

 

 私たちはこのような「自己の重心の喪失」を、現代社会のあちこちに見ることができます。

 

 「道徳」や「善悪」の思考は、もともとかなり自己の重心を失った思考法です。個人の主体によってではなく、集団の力で解決しようとする思考。「善」であれば、「皆」が味方してくれる。「悪」は、「誰か」が罰を与えてくれる。

 自己の重心を喪失した思考法はしばしば、非科学的思考とも結びつきます。あんなことをしたせいで、ばちが当たった。これも神のおかげ。こんなおまじないをすれば。

 

 そうして、「自分が」何を考え何を望むのかという、「自己の重心」を失った思考法が、生活の広範囲に蔓延してきます。「自分が怒った」のではなく「あいつのせいで怒らされた」。誰々のせいで一日じゅう気分が悪くなった。あの人が私を元気にしてくれる。あの人がいると明るくなれる。

 「自殺はいけないことですか」。生きることに悩む中高生がそんな質問を新聞やインターネットに投稿します。それを見た大人は、大抵、慌てふためいたような、訳のわからない答えを書きます。

 問題はその問いへの答えではないのです。自殺を思い浮かべるような感情の荒廃と、そして自分の命さえもが良いか悪いかという話に化けている、思考の歪みが、問題なのです。

 

 こうして生まされた「自己の重心の喪失」は、そこからさらに「心の病理」が深刻化する上での、いわば「心が病む礎」とも言える役割を果たすことになります。それはいわば、心が病むメカニズムを構成する歯車全ての、共通構造です。

 

「自己の重心の喪失」の末路

 

 それはやがて2つのタイプの悲劇的な最終結末へと膨張することを指摘できます。

 

 一つは、「人にどう扱われるか」「人にどう思われるか」が「自分自身そのもの」と化します。つまり、「人にこう見られる」のが「自分自身」なのであり、自分自身の「存在」をかけて、「人にこう見られる」ことが必要になってくるのです。

 人にそう見られないとは、「自己の存在」そのものを失い、自分自身を破壊されるということです。「自分をこう見ない」他人に対して、自己存在そのものを危うくされた怒り憎しみが起きてくるようにさえなります。そしてその憎悪が行動化される悲劇が起きます。嫌われたから、殺すのです

 

 この典型例とも言える殺人事件として、2つの事例が記憶に新しいものとして浮かびます。

 一つは、2005年に京都の学習塾で小学6年女子が塾講師に殺傷された事件です。犯人である萩野裕被告は供述で、「キモいと言われた言葉が消えない」といった言葉を述べていたとのことです。そして「彼女が消えれば苦しみから解放される」と。

 もう一つの鮮烈な「自己の重心の喪失」の表れの悲劇が、2005年の11月に起きた町田市女子高生刺殺事件でした。高校1年の少女が自宅で体や顔など50か所以上を刺されて死亡しているのが発見され、間もなく同級生の男子が犯人として逮捕されます。そして供述で述べられた言葉が、「何も悪いことしてないのに無視されたから殺した」というものでした。

 

 これは一体何なのか、という鮮烈な疑問が私たちを捉えるのを感じます。そこには、明らかに「現実から乖離」した歪んだ論理の先に、「善と悪」そして「愛と自尊心」といった人間の心のテーマが深く絡んでいることが見えてきます。

 

 「自己の重心の喪失」の、もう一つの悲劇的な最終結末は、「心の病理」の重篤化です。これは「自己の重心の喪失」が思考や感情のレベルにとどまらず、視覚や聴覚などの「感覚」にまで及んでくるものです。

 自分の感情はもはや自分が抱くものではなく、他人に操られるものとして体験されるようになってきます。意識の中で、現実と非現実の境界が崩壊をはじめるのです。自分の感情や思考が、他人からの電波で操られる。自分の思考や感情が漏れ出て行く。これは「精神障害」と呼ばれる段階になってきます。

 

自己の重心の回復へ

 

 以上が、「心が病む」という現象の「表面」です。

 ハイブリッド心理学では、こうして説明して来た、ごくささいな心の悩みから重い精神障害までが、心の問題は一貫した一つの同じメカニズムの上で起きる、連続的な現象であると考えています。

 幾つかの種類の「心の病気」があるのではなく、あくまでこれが人間の心のメカニズムの一面なのだと。

 それでも、最後に触れた町田市の事件での犯人少年の言葉や、視覚や聴覚のレベルにまで至る「歪み」は、もはや私たちの日常感覚では理解不可能な、何らかの異質な異常性が起きていることを、誰の目にも感じさせると思います。

 ハイブリッド心理学では、さらにその内側のメカニズムも明瞭に見出しています。それが「愛」「自尊心」という人間の心のテーマと、どのように関係するのかも。次章からその考察へと移ります。

 

 いずれにせよ、「自己の重心の喪失」が心を病む歯車全ての共通構造であるならば、「自己の重心の選択」が、病んだ心から健康な心への治癒と成長の、さまざまな取り組みを貫く基本選択になります。自分自身の思考と感情を、自分自身を始点にして考えることです。

 「人のせいで」と考えるのではなく、「自分自身によって」と考えることです。「誰々が自分を怒らせた」ではなく「自分が何々を怒った」。「侮辱された」ではなく、「自分が侮辱として受け取った」。

 もちろん、動揺する感情がそれだけで消えることはありません。まず行うのは、自分が何を求めていることにおいてそうした感情が起きるのかという、自分の問題の根本を自分自身に取り戻すという姿勢の転換を図ることです。事実そのように「思考の方向」を変えることによって、問題の解決と向上への道が目の前に出現することが、すでに私たちの内面を変化させ始めるのです。

 

日常生活の中の「自己の重心」

 

 それは実は、ごく日常生活の中においても、私たちの人生のあり方そのものを大きく変えるものになるかも知れません。

 この心理学の整理が進んでいた頃にあった、そんなエピソードを2つ紹介して、この章を締めくくりましょう。

 

 一つは2006年の、「平成18年豪雪」として歴史に残ることになったシーズンでの、OB参加した会社のスキー部合宿での出来事です。

 その時私は講師の一人になる予定で、車には初参加で友達同士の女性2人を乗せていく予定だったのですが、そのうちの一人が、大雪を心配する家族に止められたとのことで、出発直前になってキャンセルしてきたのです。まあ新潟のスキー場では雪崩が発生したとかのニュースが騒がれていた頃です。

 私が確認していた範囲では、これから出かける白馬八方方面は、特に天候が悪化する気配はなかったのですが、それでも責任は持てない話なので、特に説得を試みることもせず、残りのメンバーで出発しました。

 土日のゲレンデは、めったにない快晴と良い雪質の、絶好のコンディションでした。一人になり心細そうだったもう一人の女性は、とても楽しめたようです。

 

 日曜、都心に戻ると、そこはまるでスキー場に戻ったかのような積雪でした。関東地方は天候が大崩れだったわけです。

 それで私は、はは〜んと感じたわけです。どうやらキャンセルした女性の家族は、自分たちがいる東京の天気を心配して、今回のことに至ったらしい。私は、自分達の経路の天気だけを見ていました。

 それで私は感じたわけです。これは「自分の心配をして人の行動に口を出すという構図」だなあと。

 

 これは「自己責任による自己決断」という、人生の基本ノウハウの話でもあります。

 自分でどう感じ考えるかという「自己の重心」に立ち、最終的には自らの責任において自ら決断する。人の決断には原則として口をはさまず、楽しみや喜びを共有できる範囲において、喜んで行動を共にする。そうした人々の人間関係は、楽しいことだけが表に出てくるようになります。

 一方にあるのは、「自己の重心」および「自己責任と自己決断」を失った、相互牽制し合うだけのような人生です。そこでは、不満と苛立ちが、まず間違いなく人間関係の表に表れやすい感情になるでしょう。

 

 もう一つの出来事も、同じく2006年のことで、ある心理関係の知人に連絡を取った時でした。大学当時の知人で、当時も素直でけなげな性格が印象に残っていた女性です。ちょっとしたきっかけでメールを交わすことになりました。

 本題を済ませる一方、私はその人の様子が少し気になっていました。かなり心労の日々を送っている様子。「私もぎりぎりの精神状態の中でがんばって生きてます」と。

 後日彼女のブログを覗いてみると、メンタルヘルスについての彼女の考えをいろいろと読むことになりました。「追いつめられている人への、心の癒しが大切」というような内容です。

 

 もう改めてメールを出すにはおよびませんでしたが、私は思わず声をかけてあげたくなりました。

 「いや、追いつめているのは、自分自身なんだよ」、と。

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