心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

2章 心が病むメカニズム−1  −「幼少期」の芽と「学童期」の発達−

 

 

幼少期に始まる「病んだ心」の芽

 

 前章で概観したような「心の病理」が、人の来歴の中でどのように生まれるものなのか、ハイブリッド心理学の考え方を説明しましょう。

 それは同時に、たとえ問題が「心の障害」として表面化はしていない場合でさえ、現代社会の中で人が心の健康と幸福を見失いがちである理由となる、人間の心の根源的なメカニズムを説明するものになります。

 

 病んだ心がどのように生まれるのかという背景については、心理学からは3つの事柄が確実なこととして知られています。

 一つは、問題は必ず幼少期から始まっていること。

 そして幼少期から始まる問題の中で、「心理発達課題の達成」が損なわれるという事態が起きているということ。

 最後に、「病んだ心」が表面化するのは主に思春期になってからであること。

 

 つまり、病んだ心の芽は幼少期にまかれているということになります。その芽がまるで潜伏期のように、見えないまま膨らんでいき、思春期に、子供の心がある節目を迎えるに至って、「病んだ心」が生まれていることが、人の目に明らかになるわけです。

 

 「心の荒廃」の表れと思われるさまざまな事件が起きるのは、主に小学校高学年あたりからであるのを、皆さんもご存知だと思います。

 大抵の場合、その子供はそれまでは、「おとなしくてあまり目立たない普通の子」でしかなかったかも知れません。そして事件を知った回りの人々は大抵、「なんでこんなことになってしまったのか分からない」と言います。

 しかし心理学的な観察ができる人であれば、その子がすでに心の何かを損なって育っていることが、事件が起きるずっと前から分かるはずです。それができれば、大人の側が子供への行動や態度を変えることによって、子供の心が病んでいくのを防止することができます。

 「なんでこんなことに」と人は良く言います。実に単純な話です。大人が子供の心を分からないと感じる範囲において、子供の心に問題の種がまかれるということです。

 

 この2章から次の3章にかけて、病んだ心の芽が子供の心に生まれてから、思春期になり「病んだ心」が表面化するまでの、「心が病むメカニズム」の基本的な流れを説明します。

 その後の4章以降で、この流れの中でも特に重要となる、「愛」「自尊心」という2つの大きな心理課題が妨げられる姿に焦点を当て、それぞれの心理過程を詳しく説明します。

 

 「心が病むメカニズム」を、ここでは3つの時期に分けて説明したいと思います。

 まずは「幼少期」です。これは出生から3、4歳頃までの時期にあたります。キーワードは「恐怖の蓄積」と「根源的自己否定感情」です。

 次は「学童期」であり、思春期を迎えるまでの「潜伏期」とも言える時期です。キーワードは「なるべき自分」と「自己処罰感情」です。

 そして「思春期」に、「病んだ心」が表面化します。キーワードは「病んだ心への飛翔」です。

 

幼少期−「恐怖の蓄積」と「根源的自己否定感情」−

 

 子供の心に「病んだ心」の芽が生まれる状況は多様です。

 

 「入門編」では、「心の障害は例外なく幼少期において納得できないような怒りを向けられる恐怖の蓄積として始まる」と述べました。それが一つの典型的な姿でしょう。

 しかしはっきり怒りを向けられなければ子供の心が健康に育つとは限りません。叱られることが全くなくても、親が子供に無関心で、無視するような態度で育てられたり、親が何でも子供の望みをかなえようと、「溺愛」する態度で育てられたりしても、やはり子供の心に「病んだ心」の芽が生まれるかも知れません。

 

 いずれにせよ、親の表面的な態度がどのようなものであったとしても、共通して言えるのは、親が子供を「成長していく一人の人格」として見る姿勢に立つ、自然な愛情が欠けている状況があることです。それは間違いなく、親自身が何らかの心の問題を抱え、子供を独立した別個の人格として愛する心の余裕がない状況です。

 それは親が子育てについて、頭で考えてていることと違う姿であるかも知れません。頭では「子供の心の成長」について熱心に考えていても、実際には「出来のいい子」を自分自身の飾りのように感じているかも知れません。「子供には愛情が必要だ」という信念を抱きながら、その「あるべき姿」への身構えが、逆に子供に自然に接することを妨げているかも知れません。

 

 子供の心に「病んだ心」の芽が生まれる状況について、それ以上詳しい検討はこの本の目的ではありません。すでに成長後において「病んだ心」の問題があるところから、「健康な心への道」を歩む方法を説明することが、本書の目的です。それは過去を問うことではなく、自らの未来を選択することです。

 そのために役立つ範囲において、出生からの流れで、心が病むメカニズムを理解して頂ければと思います。

 同時に、これから自らが子供を育てる側になる時、子供を健康な心へと育てるような「愛」とはどのように生まれるのかというテーマについても、この本を通して理解して頂ければと思います。

 

「根源的自己否定感情」

 

 そうしたさまざまな状況において、子供の心に芽生える「心が病むメカニズム」の種とは、自分がありのままの自分として存在することを望まれた存在ではなく「拒絶された存在」だという、強い恐怖を伴った、漠然とした自己否定感情です。

 

 もちろん子供がはっきりとそう意識するわけではありません。乳児期から幼児期にかけての子供の「意意識」は、まだ未発達であり、まだ「自分」と「他人」の区別さえついていない「自他未分離」の原始的な意識だと考えられます。

 そんな自他未分離意識の中で、漠然とした「自分は望まれた存在ではない」という感情は、一種の生理的感覚として子供の心の奥深くに捉えられるものと推測されます。それはあたかも、自分がいるこの「宇宙の中で見放される」という恐怖の感覚です。

 ハイブリッド心理学ではこれを「根源的自己否定感情」と呼びます。

 

 そうした、出生の最も早期におけるマイナス感情が、病んだ心の根源になるという考えは、多くの心理学者によって支持されてきました。

 ハイブリッド心理学が大きな基盤としているカレン・ホーナイも、「基本的不安」という、心理学の歴史で有名な考えを出しました。

 人は幼児期から適切で十分な愛情の中で育つと、「基本的安心感」がはぐくまれます。自分はこの社会の仲間であり人々は味方という基本的な安心感の中で、人への愛着心が育ちます。

 一方何らかの形で適切な愛情が損なわれた時に、子供の心に芽生えるのが「基本的不安」です。基本的安心感とは対照的に、自分は世界で孤立しており、他人は潜在的な敵と感じ、それに対抗するには自分は無力だという感覚です。無力な自分は、世界全体という敵に脅かされ、味方はいない、という感覚です。

 

 そうした「基本的不安」には、病んだ心におけるマイナス感情の基本的な要素が凝縮されてほぼ揃っています。「不安」「恐怖」であり、本来自分を愛すべき者が自分を愛さないことへの「怒り」であり、自分は無力だという「自己否定感情」であり、さらに、自分が生きるこの世界に嘘が潜むという「不信」の感覚です。

 そうしたものが心の土台のように根づいてしまい、成長後の病んだ心のマイナス感情の源泉となる、という考えです。

 

「心の傷」

 

 「適切な愛情が不足する」では済まない、さらに深刻な事態が子供の心に起きる場合もあります。この最も端的で否定的なものが、「心的外傷体験」として知られています。つまり「心の傷」です。

 

 幼い心で受け止めることができないほどの、強烈な恐怖体験や、自分を否定された体験などが、心の底に傷のように残り、成長した心においても、うずくように恐怖や怒りなどの否定的感情を湧き出させます。

 事実、病んだ心を抱え悩む方の幼少期を詳しく見ると、彼彼女が自分や他人に向ける恐怖や怒り、嫌悪の感情の強烈さは、彼彼女がその不遇な幼少期にこうむったであろう恐怖の激しさを、そのまま引き継いでいるかのようです。

 本人もその関係に漠然と気がつき、自分のこの症状は、幼少期に否定されて育ったことから来る、「心の傷」なのだ、心の成長を阻害された「アダルトチルドレン」なのだ、と考えたりします。

 もちろん、そう考えて「分かった」気がしても、何が解決するわけでもありません。

 

 事実、これらは何とも悲観的な捉え方です。「心の傷」にせよ、「基本的不安」にせよ、それが心の底に根づいて感情の土台になるのなら、その後どう頑張っても、できるのはせいぜいそうしたマイナス感情を癒す方法を学びながら、一生「心の傷とつき合っていく」という話になってしまいます。

 

「心」ではなく「体」に刻まれた「根源的自己否定感情」

 

 ハイブリッド心理学では、かなり違う考え方をしています。

 確かに幼少期の否定的体験は、病んだ心の芽にはなります。しかし乳児から幼児へという、まだ「自分」と「他人」という区別さえできない原始的意識の中で抱いた恐怖は、「他人への恐怖と怒り」という明瞭な意識にさえなっていなかった、というのがハイブリッド心理学での考えです。

 

 つまり、「他人は敵で自分は孤立し無力だ」という、はっきりとした「意味のある恐怖」は、子供の意識を大人の意識で推察して当てはめて解釈したものに過ぎません。

 実際の乳児から幼児へという段階における恐怖感情は、「意味内容」は混沌とした、「心」で感じ取るというよりも「体」に刻まれた恐怖なのだと、ハイブリッド心理学では考えています。

 それが幼少へと成長し、意識がはっきりと「自分」と「他人」に分かれていく中で、「自分は他人を恐れているのだ」という解釈づけが、子供の心の中でなされるのです。

 もちろんこの「解釈づけ」は、子供の心においてはあまりに自然なことで、実際それが子供の置かれた状況に合っているので、わざわざ「解釈づけが成された」などと意識するような出来事ではありません。

 

 しかし重要になってくるのは、大人になってからの、他人への恐怖の克服です。

 「自分は子供の頃に他人への恐怖を植えつけられたのだ」と考えているだけでは、克服の方向性はほとんど見えません。

 それに対して、ハイブリッド心理学では極めて独特なアプローチを定義しています。大人になった今の自分で、「心の恐怖」と「体の恐怖」を「感じ分け」て切り分けるということを実践します。

 そして「心の恐怖」については、より客観的で現実的な知性に立って、この社会を生きる知恵を学び、正しい克服への実践を行います。

 

 それで全てが解決するのではありません。「心の恐怖」は次第に減少する一方で、「体の恐怖」が最後まで残るのです。

 それが、幼少期に心の底に植えつけられた、病んだ心の根源です。

 そして最後に、「現実」はその恐怖に値する恐ろしいものではないという感覚を心底から保ったまま、その「体の恐怖」がまるで膿のように流れる体験を経て、それが根底から消え去るという「根本的治癒」の現象が起きることを見出しています。

 

 もちろんこれはそう簡単に成されることではありません。まず、私たちがあまりにも「身体的感情」をベースにして考える思考法に染まっているからです。

 これを根本的に解いていくために、感情を鵜呑みにしない「感情と行動の分離」という実践から始まる、体系的な取り組みを定義しています。これは『実践編』で実例を交えて詳しく説明します。

 

切り離された恐怖の色彩「感情の膿」

 

 そうした観察から、ハイブリッド心理学では「感情の膿」という考えを採用しています。

 

 それはまるで、「心の底に根づいた」というよりも、脳にたまった「恐怖感情物質の膿」であるかのようです。それによって「心に歪みが生じる」というよりも、「脳に歪みが生じる」というような印象を私は持っています。

 うつ病について、脳に生理化学的な変化が起きていると言われることがありますが、それに符号した話かも知れません。

 そしてまさに身体における「膿」と同じように、表面では見えないまま悪影響を及ぼし、その根本解消のためには、一度「膿を出す」という、蓄積していたものがありのままに表面に一度出るというのを経るという治癒メカニズムを、どうやらそれは備えているようです。

 

 なぜそんな「感情の膿」なるものができてしまうのか。それを説明するメカニズムが「切り離し」です。

 つまり、幼少期の心にとってはあまりにも破壊的なダメージを与えるような出来事が起きた時、それを「あるべきではないこと」として、「受け入れまい」とする心の機能が働くということです。意識でそれを真正面から感じ取ることは、幼い心にとってあまりにも破壊的で、正常な精神の維持さえ困難になるほどのものである時、その恐怖の感情が意識表面から「切り離され」ます。

 そして意識の表面においては、何ごともなかったかのような平静が現れるのです。

 

 この心理メカニズムは、心に受けたダメージが強烈であればあるほど、極端な動きをします。最も酷いケースでは、出来事の記憶が前後を含めて失われます。事実こうした現象は、心理学者によってしばしば観察されてきました。

 この典型的な痛ましい例が、2001年に起きた大阪池田小での児童殺傷事件でした。事件のことを全く思い出せない子供もいたとのことです。

 しかし「切り離された恐怖」は、消えてはいません。何かの形で脳に「蓄積」されているわけです。

 それは時に異常な形で意識に「漏れ出す」ことになります。子供の場合は、「悪夢」や「夜驚」、そしてちょっとした動揺でおきるパニックなどです。しかし子供自身がそれについて、自分に何が起きているのかと考える思考など、持ちようもなく、「そんなこともあった」程度にしか憶えていません。

 

 やがて、「切り離し」によって意識に触れることを回避されていた「感情の膿」が、「思春期」という心の節目を向かえ、もはや「切り離し」では済まされなくなるわけです。事あるごとにそれが刺激され、自分でも理由が分からないような恐怖に震える自分の体を見ることになります。

 これはまさに、自分の中に幼いままの恐怖に怯えるもうひとつの自分を持つことになります。

 かくして、例えば対人恐怖症に悩む人の場合、隣人へのちょっとした挨拶に向かおうとするだけで、まるで絞首刑の台に向かおうとするかのような強烈な恐怖に駆れらることになるわけです。

 

現代人が免れ得ない「感情の膿」

 

 ハイブリッド心理学では、このような「感情の膿」というメカニズムは、対人恐怖症などはっきりした心の障害として表面化するケースだけではなく、ほとんど全ての現代人において、程度の差はあれ存在するものだと考えています。

 

 なぜならば、それを生み出す最も基本的な背景が、「あるべき姿」を掲げて怒りに頼るという、現代人の生き方だからです。「何ぐずぐずしてるの!」「なんて悪い子なの!」「良い人になりなさい。悪い人間になってはいけません」

 そうした言葉によって怒りを向けられる体験の中で、子供の心には、自分の中に何か「悪い」ものがあって、それを出してしまうと自分は怒りを向けられる、という「基本的」な善悪観念と、「基本的」な自己否定感情を持つようになります。それは「心」における恐怖であり、主に次の「学童期」に至り、はっきりと定着します。

 

 しかしそうしたどこにでもある場面の中でも、「恐怖の切り離し」は起きています。それは自分が怒りを向けられた中に含まれる、最もトゲトゲしい色合いだけの切り離しです。

 その「色合い」とは、自分がまるで人間以外の劣ったものを見るような冷たい目、「異形の人間」を見るような、冷たい目を向けられたという、ぞっとするような「恐怖の色彩」です。

 

 乳児から幼児にかけての、「自他未分離」の原始的意識の中で抱かれる、意味内容の混沌とした「根源的自己否定感情」

 そしてその後の幼少期における恐怖体験の中で切り離された「恐怖の色彩」。

 それらを源泉として生み出された「感情の膿」は、もはや「心」における恐怖にとどまらず、「体」における恐怖として、脳に歪みを起こすような、病んだ心の根源として作用することになります。

 

 それでもしばらくは、それはないものであるかのような時期が続きます。心の障害の「潜伏期」とも言える、「学童期」の数年間です。

 

学童期−「なるべき自分」と「自己処罰感情」−

 

 ここで「学童期」とするのは、子供の心に「自分」という意識が芽生える3、4歳頃から、小学校高学年頃の「思春期」の前までの期間です。

 通常「学童」という言葉があてはまる小学生もしくは幼稚園児よりも、多少前の段階からを含んでいます。

 

 つまりここで「学童期」とするのは、心理学的に重要な2つの節目(はさ)まれた期間ということです。

 「自分」という意識、つまり「自意識」の出現、そして「思春期」という「心の障害」が表面化する時期という、2つの節目の間の期間です。

 

 「学童期」は、「幼少期」に病んだ心の芽がまかれてから、「思春期」に心の問題が表面化するまでの、「潜伏期」にあたるような時期です。

 そのせいもあって、この時期における心の健康への取り組みとして特別なものは、あまり世に見受けられない傾向があります。

 しかしハイブリッド心理学では、実はこの「学童期」における心の健康への取り組みこそが、その後の心の問題の克服に決定的な役割を持ち得ると考えています。

 一言で述べれば、確かに病んだ心の種は幼少期にまかれます。一方、学童期は、後の自らの心の問題への、自己克服力への種をまく時期なのです。

 

 事実、私自身がそうした条件の揃った、特異なケースであったように感じます。幼少期に植えつけられた病んだ心の種はかなり強力なものであった一方、学童期において、自らそれを克服する力への種を、同時に植え付けられたように感じます。

 それは一言でいえば、「科学の思考」「自己決断の重視」という思考であったと言えるでしょう。

 そこから、自ら「病んだ心から健康な心への道」を歩み、この心理学を作ることになるという、宿命的な前半生を持つことになりました。

 一方、現在の社会そして学校教育が用意しているのは、残念ながらそれとは逆の、病んだ心の芽をしっかりと大きくするための、促進剤のようなものです。この状況の打開に、この心理学が少しでも役に立つことを願うばかりです。

 

「自分と他人」と「善と悪」

 

 「自分」という意識の芽生える3、4歳頃というのは、子供の心においてさまざまなものの区別が出来てくる時期です。

 その代表が「自分」と「他人」、そして「善」と「悪」です。

 全ての心の問題が、まずこの4つの観念をめぐって起き始める。これは何となくお分かりになるかと思います。

 

 子供の心が「自分」と「他人」を区別するのは、教えられてそうなれることではなく、生来的な話です。

 同じように、子供の心が「善と悪」の観念を持つこと自体は、生来的なものです。

 

 それは単に、望ましいもの、「好き」というプラス感情を向ける対象「善」と呼び、望ましくないもの、「嫌い」というマイナス感情を向ける対象「悪」と呼ぶという、言葉の話であるだけです。

 そして「善悪の内容」も、その延長で、多少は教えられることなく生来的に区別されていきます。

 自分を心地良く守ってくれる者がいればそれは「善」であり、自分を吠え立てて怖いと感じさせる野良犬がいれば、それは「悪」になるわけです。

 

 しかし「善悪の内容」は、多分に、「教えられる」ものでもあります。

 人はまず子供を「善悪の区別がつく子に」というものです。そして自分が感じ取った「善と悪」が、「教えられる」それと異なった時に、子供の心に混乱の芽が生まれるように思われます。

 さらにそれが、「自分と他人」というもう一つの区別にも関わる話である時、子供の心で歯車が狂い始め、子供の心に「病んだ心」の芽が生まれる。そのように私は感じています。

 

 そして「自分と他人」、「善と悪」という区別における混乱に、もう一つの大きな区別、「愛」「自尊心」というテーマが大きく迫ってきた時、人は心の中で起きた歯車の狂いを支え続けることができず、「病んだ心」が表面化する。

 そのようなもののように感じています。それが次の「思春期」になるわけです。

 この流れを詳しく見ていきましょう。

 

「悪いのは自分」

 

 まずは、心に蓄積した「納得できない怒りを向けられる恐怖」を、子供自身がどのように解釈するかが、問題になってきます。

 なぜならば、「怒りを向けられる」とは、人からは「自分」が「悪」だということになるからです。

 「自分」が「悪」であるのであれば、それは自分からも「悪」なのかも知れません。

 ならば「自分」とは「自分」が怒りを向ける対象となる「悪」だという話になってしまいます。

 

 ここで、「自他未分離」意識の中で抱かれた「根源的自己否定感情」の有無が、極めて決定的なものになってきます。

 なぜならば、それは自他未分離の混沌とした意識の中で抱かれる、「自分は拒絶される存在」という感覚であり、自分を拒絶したのははっきりとした「他人」ではなく、「自分」でもあるものからの拒絶ということです。

 それは生まれ出た「生」そのものから受けた拒絶なのです。つまりそれは、「自分」が「自分」にとっての「悪」であることを、支持することになるわけです。

 

 「根源的自己否定感情」のない子供の場合、話が大分違ってきます。

 他人から怒りを向けられるならば、それは嫌なことであり、自分がマイナス感情を向ける相手になるのですから、その「他人」がまず「悪」になります。

 しかしその「他人」は、「お前が悪い」と言っています。でも「自分」にとって「自分」が「悪」だなんてことは、とても支持できません。

 

 だから「反抗」がまず起きるわけです。大抵の親御さんは、子供が3、4歳頃、「自分」という観念を持つ頃と大体同期して、何らかの「反抗期」的な振る舞いを見たと思います。これは「最初の反抗期」と良く言われます。

 そこで親子のコミュニケーションが取られ、子供の心に納得が図られた時、子供はこの社会を生きる上での知恵を一つ学んだということになります。

 

 「根源的自己否定感情」そして「感情の膿」がある時、そうはできなくなります。それが社会を生きる上での知恵の話に過ぎないことは分からないまま、「悪いのは自分」という、押し込められた感情を持ちながら生きるようになるわけです。

 これを「基本的な自己否定感情」と呼びたいと思います。特に「根源的」とつけずに単純に「自己否定感情」と言ったときは、これを指すものとします。

 残念なことに、子供の心に起きたそのような混乱をうまく整理するための思考法を、今の社会は子供に対して用意していません。用意しているのは、「道徳」という名の残酷な思考法ということになるのでしょう。結局それが言うことは、次の言葉に収束していくわけです。

 「悪いのはお前だ」と。

 

 「道徳」の中でも、幾つかの痛ましい言葉が、この先、心が病んでいく上での決定的な役割を果たすことになります。

 一つは「悪を決して許してはいけない」。もし「自分」が「悪」であるというならば、その言葉は一体なにをせよということなのでしょうか。「自分を殺せ」とでもいうことなのでしょうか。

 もう一つの有害な道徳思考は、「正しい者だけが望む資格がある」です。1章でも説明した、「望む資格思考」です。

 

 子供への「道徳教育」として望ましいのは、私の考えでは、やはり科学的思考に立って、事実をありのままに子供に説明することです。そして子供自身に、考えさせることです。

 このように行動するとこうなるよと。そして子供自身に選ばせ、対等な同じ目線に立って、大人の意見を返すことです。私はこれを、「自分」という意識が少しでも芽生えたのを見た段階で、もし自分に将来子供が出来たら行いたいと思っています。

 

「情動の荒廃化」の始まり

 

 こうして「感情の膿」と「自己否定感情」を抱えた子供の心に、一連の連鎖的変化が始まります。それが病んだ心の基本的な歯車になります。

 

 まず起きるのは「感性の歪み」です。

 これは主に3つあり、「情動の荒廃化」の初期段階、そして「否定価値」と「受動価値」の感性の発達です。

 

 まず、子供の心においてこの段階で「情動の荒廃化」がすでに始っていることを理解する必要があります。

 これは世の心理学でもあまり認識されていないことです。事のところ、これは現代人にとり基本的に起きていることであり、これが「普通」になっているので、病んだ心のメカニズムとして特に注目されていないだけです。

 

 それは、基本的に情緒が「怒り」の側に傾いているということです。何となく不機嫌で、ムッとした気分。それが「普通の状態」になってしまっています。

 

 なぜこれが起きるのかというと、前章で述べた「望みの停止による情動の荒廃化」のメカニズムが、最低限ではごく薄い形ではあっても、全ての現代人に働くからです。

 基本的に意識が芽生えた瞬間に、回りには「こうあるべき」と「怒り」の言葉がいくらでも飛び交っている世界です。そこで「生そのものからの拒絶」という強烈な「根源的自己否定感情」は植えつけられるのを免れても、「心を解き放ってありのままに成長」することなど、とても支持される世界ではありません。

 しかし何よりも「心を解き放って生きる」ことが、この世界に生きた「命」の、最初の「望み」であったはずです。それが「停止」された時、全ての現代人に、「怒りが基調」という心の世界が生まれたように思われます。

 

「否定価値」の感性

 

 「心を解き放って生きる」という「命の根源的な望み」を停止させ、「怒りを基調」として生きるようになった現代人に、自動的に2つの「感性の歪み」が起きます。

 これもやはり、現代人において「普通」であり、病んだ心のメカニズムとしては注目されないものです。

 それでもこの2つの「感性の歪み」の組み合わせが強くなってくると、次第にこの子供がちょっと心に何か歪みを抱えているのではないかという疑問を、回りの人間が持ち始めるようになります。

 

 まず「否定価値」の感性とは、「それは駄目だ」と「否定できる」ことを良しとする感性です。

 そうできると、自分が何か「正しいことをした」という気分を感じ、「否定できた自分」に何となく自尊心を感じるという、「感性」です。「否定価値感覚」とも呼びます。

 これも実に現代人において「普通」です。この「感性」を全く持たないまま生涯を過ごした人は、まずいないでしょう。

 そこまでこれは「普通」の感性なのですが、あくまでこれは病んだ感性であり、人間が業として抱える、「人間の心の病」なのです

 なぜなら、この否定価値感覚によって、人は「怒ることが正しい」と感じ、積極的に怒り、自らの心身を不幸にしていくからです。

 

 こうした感覚を持つ動物は、私の知る限り他にはありません。「怒り」はあくまで、自分より強大もしくは同等の敵からの攻撃という、望まざるものへの、怪我を前提にした反撃のための、体内に毒を放出する感情なのです。

 確かに相手を打ち負かす力の強さは、群れにおける優位や交配相手の獲得のために価値があり、積極的に「強さ」を目指すことは動物のDNAに刻まれた基本的課題ではあります。

 しかしそれは「怒り」の感情とは必ずしも一致した話ではありません。強い肉食獣が弱い草食獣を襲う時の感情は、「怒り」とはどうも違うように感じます。「怒り」はあくまで「望まないもの」によって追い詰められた時の感情であり、価値あるものではないのです。

 人間だけが、「好んで」怒ります。

 

 これは人間が、「精神的攻撃」にさらされるという、別の事情を背負ったせいでもあります。直接身体的な攻撃を受けるわけではないとしても、言葉で攻撃されることはありますし、社会で起きている不正は、めぐりめぐって自分にも関係します。それを怒るのは、確かに「正しい」とは言えるでしょう。

 しかし、人はそうして精神的な理由で怒るとき、相手からは何の身体的攻撃を実際には受けていないにも関わらず、怒ることによる自らの心身的ダメージは、実際に受けるのです。

 つまり、人は「精神的に怒る」時、一方的に自分自身の心身を、攻撃するのです。これは「病」以外の何ものでもありません。

 

「否定価値感覚の放棄」という最大の道標

 

 否定価値の感性は、「望みの停止」による「情動の荒廃化」が深ければ深いほど、その破壊的な強さを増すことになります。

 心に抱えた恐怖と自己否定感情が強ければ強いほど、幼い心に抱いた「望み」が深く押し込められ、「情動の荒廃化」が進み、結果として情緒全体の「怒り」への偏りが強くなるのです。

 

 否定されて育った子供は、人に対してもより積極的に否定の目を向けるようになる。

 それは単にそうした態度を「学習」した結果ではなく、内部においてそのような「望みの停止」を中核とした一連の歯車が回って起きていることであるのを理解することが大切です。

 

 一方、否定価値の感性は、たとえ内面に自己否定感情を抱えない子供においても、この社会において「学び」、それが一種の美徳であるかのように抱かれるものでもあります。「悪を許してはいけません」という道徳思考によって。

 その結果、やはり今の社会にあっては、子供の心が抱く最も純真な望みというものは、日常生活に蔓延した否定価値感覚のはざまで見えなくなる傾向があるように感じます。

 つまり、社会が基本的に、病んだ心のメカニズムを促しているわけです。

 

 このような状況の中で、「否定価値感覚の放棄」という、思考と感性の両方を巻き込んだ方向転換が、心の成長と幸福を目指す上で、最大の折り返し道標とも言えるものとして位置づけられます。

 「否定価値感覚の放棄」とは、望ましくないものを「それは駄目だ」と否定できることに価値を感じる感覚を、根本的に捨てることです。

 もちろんそれは「何でもオーケー」という姿勢のことではなく、「それは駄目だ」と否定する「破壊」ではない、「ではどうすればいいのか」という次の「建設」の段階に価値を置く思考様式を、心の根底において選択することです。この徹底は、今まで「望ましくない」と感じた感覚さえも根底から放棄する、「善悪観念の完全なる放棄」にさえも進むことができるものです。

 

 なぜそれが心の成長と幸福への、最大の折り返し道標になるのか。

 私たちは否定価値感覚によって、自らの望みを停止させているからです。

 その結果、まさに自分自身の心は清らかでいようと考えるその姿勢によって、心の中に「情動の荒廃化」を起こし、「欲求が貪欲で利己的なもの」になるという皮肉になっているからです。そして「欲を抑えることが大切だ」と考え、さらに「望みの停止」を進行させ、「欲求」はさらに荒廃化する。

 「否定価値感覚の放棄」は、この皮肉な悪循環の歯車全体を、逆の方向へと戻すことです。

 

 もちろんその先にあるのは、すでに荒廃化した「欲求」をそのまま開放することではありません。変形した欲求を生み出すに至った、来歴の中で停止された大元の純真な望みへと立ち還ることです。

 ここから、変形した感情を根底から「浄化」させ、失われた「心の命」を取り戻して人生の望みへと向かう、心の根底からの真の成長への道が始まります。

 

「受動価値」の感性

 

 「受動価値」の感性は、「望みの停止」によって生み出される、もう一つの感性の歪みです。

 

 これは、「価値」を感じられるものつまり「嬉しい」「楽しい」と感じられるものが、自分自身で自発的には湧いてこなくなり、誰がどう自分に接してきたかという、「受身」の中で初めて湧いてくるという感性です。

 「受けて動く」感性ということであり、「受動価値感覚」とも呼びます。

 

 この感性には3つの側面があります。

 

 まず1つ目の側面は、自己否定感情によって心が安全でなく、心の底に不安と恐怖が控えているので、感情が基本的に自分ではつまり自発的には湧いてこなくなっているという、基本的受身姿勢です。感情が湧いてくるためには、人からの働きかけを受けることが必要になっている。

 

 たとえば、楽しくお喋りするために、自分の心を盛り上げてくれる相手が必要になります。そうでない相手を前にすると、自分の心が閉じた感じになってしまう。

 こうしたことから、相手を過度に選ぼうとする態度や、相手をちょっとしたことですぐに嫌いになる傾向が生まれてくるかも知れません。

 

 2つ目の側面は、「自らは望まない」そして「人が自分にそれを望むならば望める」という姿勢です。

 

 これは「情動の荒廃化」がすでに多少とも進み、「欲求」がすでに利己性貪欲性を帯びた結果、「自分から望む」ことが概して罪悪感を伴うようになってきていることによります。

 子供はそんな深層心理メカニズムが自分の中で働いていることなど、自覚しようもありません。ただ自然と、そして「大人しい良い子」を誉め、「慎ましさ」を美徳とする大人の思考を取り込んで、自分から望む感情が喉元まで来たのを感じ瞬間に、自動的にそれを押し殺す姿勢を身につけていきます。

 かくして、学芸会で主役になりたい気持ちを心の中に抑えたまま、人が自分を推薦してくれるのを喉から出が出るように期待するという、私たちにも馴染みのある心理状態が生まれます。

 

 これらの側面は、心が基本的に「他人頼み」になっているという状況と同時に、当然、人に「どう見られる」かという「自分の姿」が、決定的な重要性を帯びて子供の心に感じられてくるという状況を意味します。

 自分の「容姿」「性格」といった外見見栄えを法外に意識することへのベクトルが、これらの側面から生まれ始めます。

 

 3つ目の側面は、そうした外見見栄えが、他人を見る上でも決定的な重みを帯びてくるということです。

 これは相手が大きな価値を持つ相手であればあるほど、自分の中に湧く感情のプラス度が高くなるというメカニズムの結果です。よりきれいな子から、より明るい子から話しかけられた方が、自分の感情もより積極的に湧き立つというものです。

 この結果、子供の心の中で、他人の2極化的な「選別」の傾向が生まれ始めます。一言でいえばそれは、「持てる者」と「持たざる者」の選別です。

 

 これが子供の抱く「人間観社会観」に、根の深い「浅薄化」を引き起こしてしまいます。人間の価値とは、美しさや才能や性格の良さといった、外から見える「見栄え」にあるのだ、という感覚です。

 当然、この後の生育過程の中で抱かれる「なりたい自分」は、そうした「見栄え」のいい人間になりうたいという願望に偏ってきます。

 そうした「カッコ良さ」を理想として描くこと自体は特に不健全なことではありません。しかし問題は、この世界はそうした「見栄えの良さ」を競う競争であり、「見栄え良さ」を得ることに失敗した人間は負け犬になるのだという、極めて浅はかな社会観人間観が根づいてしまうことにあります。この後の心が病む過程は明らかに、この人間観社会観の中で、自らを破滅へと追いやることになるからです。

 

「なるべき自分」

 

 心の底に蓄積した恐怖自己否定感情

 情動の荒廃化の始まりによる、情緒全体の「怒り」への偏り。

 否定価値感性受動価値感性の発達と、それによって浅薄化した人間観社会観

 

 こうした心の背景の中、小学生になる頃には、自分がどんな人間になりたいかという「なりたい自分」の観念が出てきます。

 これによって、心が病むメカニズムを構成する主要な要素が大体そろってきます。

 加わってくるのは、「なるべき自分」「自己処罰感情」です。

 

 「なりたい自分」は、子供の心にとってごく自然な願望であると同時に、自己否定感情から逃れるために、切迫したものになります。かくして「なりたい自分」は「なるべき自分」と化します。

 

 そして外から見た見栄えに法外な重みを置き、望ましくないものを否定することを良しとする感性の中で、この子供が自分自身の姿を見た時、一つの悲劇的な結末とも言える、新しい感情の出現を見ざるを得ません。

 どんなに恵まれた才能や美貌に生まれた子供であっても、全ての面で「なるべき自分」にすぐなれることはありません。そもそも今の自分とは違うものとしての、より望ましい自分の姿を描くのが「なりたい自分」なのですから。

 ですから、「なりたい自分」になる「成長」とは必ず、「なりたい自分」とは違う自分の姿をスタートラインにした、一歩一歩向上する過程です。

 ところが、外から見た見栄えに法外な重きを置き、望ましくない姿を「それは駄目だ」と否定することを良しとした感性の中で、その「なるべき自分」に向かおうとした時、事態は必然的に、「自分は駄目だ」という観念を引き起こすということになります。

 

 これは根本的に、例外のないメカニズムになります。いかなる美貌才能などの外的条件に恵まれていてもです。

 なぜなら、このメカニズムのそもそもの原点となった「根源的自己否定感情」が、もともと、いかなる外的条件にも左右されない、論理性のない、いわば「絶対的」な自己否定感情の形を取るからです。

 それを逃れようとして描いた「なるべき自分」に利用しようとした外的条件は、まさにそう利用しようとしたことにおいて、「自己否定するための理想」の構図で心に抱かれるのです。

 自己嫌悪感情に悩む多くの方が、「もし自分がこうだったら」と、美貌や才能が自己嫌悪感情を脱するために必要なものだと考えます。そうではありません。これはスタートラインの条件に関わらず、あらゆる「向上」を意識した瞬間に自動的に動くメカニズムです。

 だからどんな美人や成功者でも、このメカニズムの罠にかかって自殺する人がいるわけです。

 この克服は、問題が外面ではなく、心の内部にあることを知ることから開かれます。

 

「自己処罰感情」

 

 そうして「なるべき自分」への「向上」を意識し、そこに「現実の自分」のギャップを見た瞬間に起きる、新たなる感情。それが「自己処罰感情」です。

 

 これは基本的に、3つのマイナス感情の合成としてまず始まります。自分への「怒り」と、理想と現実のギャップを見る「自己否定感情」と、幼少期から蓄積した「恐怖」の逆なでです。

 さらに、「なりたい自分」という自然な願望の先で期待した、「愛」と「自尊心」がそれぞれ損なわれることへの失意の感情が加わります。

 つごう5つの感情の合成と言える、極めて苦痛度の高い感情になります。

 

 本人の意識においては、自己処罰感情とは、自分が何かうまく行うことをしくじった時に起きる、生理的な不快感と不調状態を伴う、自分を責める感情です。

 生理的不調とは、血が逆流するような気分がしたり、胃が痛くなったり、胸がしめつけられるような気分になったり、気分があまりに沈んで体が重くなったりするということです。恐らく、そうした「体調悪化」が、実際に体の中で起きていることが推察できます。

 そのような「体調体調」を引き起こす「自己処罰感情」を「獲得」し、その後の人生において「なるべき自分」になるための自分自身に対する鞭として、「利用」するようになるのです。

 

 「自己処罰感情」についてサイトの掲示板に説明を載せたところ、時折相談を頂く方から、ご自身の体験談を頂きました。抜粋して紹介しましょう。「受身の感性」や「望む資格」の影響も見ることができます。

 

 掲示板の解説、まさに私の状況と一緒!と思い当たりました。・・(略)・・小学生の頃はいつもお腹がいたいのが当たり前だと思っていました。神経性胃炎だったのではないかと思います。

 クラスの子と一緒に帰るにも「一緒に帰ってもいい?」とお伺いをたてていました。「一緒にかえろ!」って言うのが普通の小学生の言葉なのに・・。「シンデレラ」の劇の配役を決めるに当たっては、私はお姫様になる資格はないんだ、と自ら意地悪お姉さんの役を選び、その迫真の演技に好評を博しました。

 

 「自己処罰感情」は、そのような「生理的不調感情」を体験しない人から考えれば、あまりにも不幸な話です。

 なぜなら、人生を生きていく上で、物事がうまく行かないことなど、毎日いくらでもあるからです。その都度、その人は自己処罰感情を自らに加え、体調不良を起こすことになります。

 

 そんな「自己処罰感情」で自分を鞭打ったりしなくとも、物事がうまく行かない時は不満を感じます。

 それを改善する、うまく行く方法を学べば、喜びを感じます。そうして成長することは本来、楽しいことです。

 それが「自己処罰感情」によって一変します。生理的不調状態という現実的な災禍によって、自分自身を「脅す」ということが基本になってくるのです。

 当然「成長」は楽しいことではなく、自分が何かをうまくできるかどうかは、恐怖との向き合わせになってきます。自己向上への願望そのものから、退却するという心の動きも当然出てきます。

 

 現代人は、これを子供を育てるための手段だと考えて、「叱る」という行為を採用してきました。「躾」です。

 当然、「自己処罰感情」という恐怖を抱えた子供は、「おとなしく」なります。それが「良い子」なのです。恐るべき事態です。

 

「情動の荒廃化」の膨張

 

 「自己処罰感情」の登場によって、学童期における「病んだ心のメカニズム」の最後を飾るとも言える、一連の過程が進行します。

 それは「望みの停止」の深刻化と、それによる「情動の荒廃化」の膨張です。

 

 自分自身に向ける怒と自己処罰感情の苦痛によって、子供の心に、そもそもの「なりたい自分」への願望そのものを取り下げるという心の動きが起きがちになります。望まなければ、もう自分を責めたてる必要はなくなるからです。

 しかしこれは極めて悲劇的な諸刃の剣となります。

 

 一つは、「望みの停止」によって「情動の荒廃化」が進み、この子供の心に湧く「欲求」がさらに一段と、破壊的な性質を帯びてくることです。

 それは楽しそうにしている他人を邪魔したい、他人のアラ探しをして攻撃したいという衝動の類になってきます。当然、人間関係は育たず、人からの拒絶に遭いやすいという現実的不遇を招きがちになってきます。

 

 そしてさらに悲劇的なメカニズムが介入します。人は自己処罰感情の苦痛から逃れようと「なるべき自分」を取り下げ、「理想」を抱くこと自体が持ちえる価値を捨てる一方で、「望み」を出口として求める心のエネルギーは完全に消し去ることはできず、自己処罰感情だけは働き続けるという、とんでもない事態になってくるということです。

 

 かくして、「自己理想」を次々と断念し、さまざまな面での「努力」が放棄されることで、現実において貧弱な姿になっていくと同時に、内面の欲求は荒廃化し、人間性を損なった自分の姿を見る、それがさらに「望みの停止」を引き起こすという、雪だるまが坂道を転げ落ちるような膨張に向かう方向性が生まれることになります。

 私たちはこうして人が自ら「廃人」とも言えるような姿へ落ちていく様子を、たとえば太宰治の『人間失格』に見ることができます。

 

 ただしこの膨張は、学童期においてはまだ緩やかです。

 「愛」と「自尊心」への願望が切迫化する「思春期」に至り、病んだ心の決定的なメカニズムが発動するとともに、急激な膨張へと向かうことになります。

 

 また、こうして説明してきた「心が病むメカニズム」は、最初の「根源的自己否定感情」からあとは自動的に引き起こされま、意識的な抵抗は不可能な、不可避なものとして進みます。

 一方で、こうしたメカニズムがそうやすやすと人の心の全てを占領することはなく、それに影響されない健康な心の部分も残ります。その割合は人それぞれでさまざまです。もちろん、問題の発端となった幼少期の状況が深刻であればあるほど、病んだ心の割合も大きくなるでしょう。

 

 思春期に至り、病んだ心の決定的なメカニズムが発動する一方で、残された健康な心の部分をいかに活用するかが大切になってきます。これら心が病むメカニズムの全体と、健康な心の歯車の違いを正しく理解することで、心の歯車の全体を治癒と成長のメカニズムへと転じさせることが十分に可能になってきます。それは2つとして同じものはない、人それぞれの唯一無二の「治癒と成長」への歩みになります。

 その実践については『実践編』に譲り、引き続き、病んだ心のメカニズムの根幹部分の理解へと進みたいと思います。

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