心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

3章 心が病むメカニズム−2 −「思春期」における発動−

 

 

思春期−「病んだ心」への飛翔−

 

 幼少期にまかれた「病んだ心」の芽は、学童期にはあまり表面には目立たないまま一連の連鎖メカニズムの中で発達し、やがて「思春期」に至り「心の障害」として表面化します。

 

 「思春期」は、一般心理学から見ても特別な時期です。

 まずそれは「子供から大人への転換期」です。その意味でここでは、「思春期」を、主に小学校高学年から中高生まで頃の時期として考えています。 

 

 もちろん、多くの方が「心の障害」を自覚して何らかの対処をしようと考えるのは、これよりもさらに後の、大人になってからの時期です。

 その多くは、仕事や家庭生活にはっきりした支障が出て、初めて、精神科や心療内科、そして心理カウンセラーを訪ねることを考えるでしょう。

 それでも恐らく、心の障害を体験した方々のほぼ全てが、最初の何らかの「心の変調」を、思春期の時期に体験したはずです

 それはちょっとした対人恐怖症や視線恐怖症のようなものであったり、生きることへの疑問と不安であったり、ちょっとした登校拒否や引きこもりのようなものであったりしたでしょう。

 つまり、「思春期」に、病んだ心のメカニズムが全て出揃うと考えることができます。以後は、出揃ったメカニズムの中での変遷になるわけです。

 

「思春期要請」

 

 「思春期」を迎えて起きる、心の状況の基本的変化をまず見ていきましょう。それを背景として、病んだ心の決定的なメカニズムが「発動」することになります。

 

 この状況変化には2つの側面があります。一つは健康な心においても起きる思春期特有の変化であり、もう一つは、心を病むメカニズムに特有の状況変化です。

 

 まず、健康な心においても起きる、思春期における心の状況の変化というものがあります。

 誰でも自分の経験として分かると思いますが、それまでの子供時代とは段違いに「自意識」が強くなり、自分に自信を持てることへの願望が強くなってきます。また、「第二次性徴」と呼ばれる、男女の性の違いに応じた体の特徴も発達してきて、異性への意識が芽生えてきます。

 一言でいえば、これからの人生を通しての課題として、「自尊心」と「愛」という2つの大きなテーマが、心の課題として現れてきたと言えるでしょう。それは明らかに大人としての「自立」という、生きるもの全てのDNAに刻まれた課題が、脳に作用し始めた結果だと言えます。

 

 ハイブリッド心理学では、このように思春期の心に何かの「課題」が課せられてくることを、「思春期要請」と呼んでいます。

 その「課題」には大きく3つがあるでしょう。2つは今述べた通りです。「自分に自信が持てる」という「自尊心」を獲得すること。「異性の獲得」を中心にした、これからの人生における「愛」を得ること。

 そして3つめの課題は、「人格の統合」です。つまり、自立した大人として前に進むためには、自分自身の中に矛盾や分裂を抱えていてはならないということです。

 この「人格の統合」への要請にとって、すでに起きていた「心が病むメカニズム」は、極めて不都合な問題を抱えています。それは内面に矛盾と分裂を引き起こしながら、今までは主に「切り離し」という単純なメカニズムによって何とかしのいで来たのですから。

 

「感情の膿の組み込み」

 

 かくして、心を病むメカニズムとして、今までにすでに起きている事柄においての状況変化が起きます。

 その端的なものが「感情の膿」です。まるで脳に蓄積した恐怖物質の塊のように、それは子供の心では受け止めることができないほどの(むご)い恐怖が、意識体験からは消去されたまま、何とか心がそれに触れることを免れていたものです。それが、「人格の統合への要請」によって、もはやそれでは済まされなくなります。

 ハイブリッド心理学では、それによって「感情の膿の人格への組み込み」が起きると考えています。

 今まで「感情の膿」は、「心の歪み」としてはほとんど表面化しないまま、心の中で切り離されていました。ごく断片的に、心の底に未解決の恐怖が置き去りにされていることを示唆する兆候が、時おり見られただけです。

 それが、「人格の一部」として「組み込まれる」ことによって、「人格の歪み」がはっきりと現れるようになってくる。

 何とも難解な話だと思いますが、これによって、今まで説明のつかなかった「病んだ心」のメカニズムの全てが、白日の下に解明されることになります。

 

病んだ心の「病理」に残された決定的メカニズム

 

 そのような心の状況を背景にして、思春期に発動する、病んだ心の残りの決定的なメカニズムとは何か。

 

 前章では病んだ心の「病理」について、「度を越えたストレス」「自己の分裂と疎外」「情動の荒廃化」「論理性の歪み」という4つを指摘しました。

 実はそれらを生み出すメカニズムは、すでにほとんどが登場済みです。

 「度を越えたストレス」は、幼少期から蓄積した恐怖の圧力から始まっています。

 「自己の分裂と疎外」は、「ありのままの自分」と「なるべき自分」の対立に、「自分についた嘘」と「善悪」をめぐる混乱が加わって始っています。

 「情動の荒廃化」は、「生から受けた拒絶」によって失わされた望みを始点に、幼少期から学童期にかけてすでに始まっています。

 「論理性の歪み」は「感性の歪み」によって、学童期に多少とも始まっています。

 

 そうした材料に加え、「思春期」という健康な心にあってさえ不安定な心境が、混乱の度合いを高めると考えることもできるでしょう。

 また思春期を迎えて「愛」と「自尊心」が大きな課題として現れることが、それまでの心理過程に内在していた問題を表面化させると考えることもできます。

 これはどちらもその通りです。

 ただし、これはまだ健康な心においても一般に言えることです。それだけ、思春期とは難しい年頃です。

 

 ただ一つ、心の病理の特徴の中で、残された問題がありました。「論理性の歪み」の中で起きる「現実からの乖離(かいり)」です。

 その最も端的なものが、1章の最後に解説した「自己の重心の喪失」が進行した末路とも言える姿でした。もはや私たちの日常感覚では理解不可能な、何らかの異質な異常性

 町田市の事件の少年の「何も悪いことしていないのに無視されたから殺した」という、明らかに何かの一線を超えた論理の歪み、そして心の障害が重篤化し、「精神障害」と呼ばれる病像になり発生してくる、「妄想」や「幻覚」などの異常性

 これらは決して学童期以前に起きることはなく、思春期に至り、何らかの心を病むメカニズムの決定打が加わって起きてくるものと考えられます。

 

病んだ心の世界への飛翔

 

 実はこれは重篤な心の障害に限らず、「心の障害」というもの全般について言えることです。

 「病んだ心」とは、心の中に病理特徴が4つ全てがあることを指すのではなく、思春期において生まれる、あくまで心そのものの特別な状態を指します。

 

 心の病理の4つの特徴はどれも、学童期においてすでにその歯車が回り始めています。

 ただしそれはあくまで、私たちの「普通」の日常感覚の延長でもまだ何とか理解できるものにとどまっています。強いストレス、自分の中にある矛盾、すさんだ感情、そして少し変形した感性。

 思春期においては、そこに新たな病理の特徴が加わるのではなく、心そのものが、病んだ論理の幻想世界で生きる、はっきりと病んだ心の姿を示しながら、それら4つの病理の特徴が、もはや「普通」の日常感覚の延長では理解不能なものへと、変貌するのです。

 それはおおよそ、この人にとっての「生きること」の全てが、絶対性を帯びた「あるべき姿」をめぐり、極端の中を揺れ動く感情と、自分と他人への怒り破壊へと向うような姿になります。

 

 「心の中に起きる何か」の話ではありません。

 「心そのもの」が、病んだ世界へと旅立つのです。この人の心自身に、「病んだ心の世界への飛翔」が起きるのです。

 

 ここで何が起きているのかは、私が2002年にこの心理学を整理し始めてからの、最初の大きな謎解きになりました。

 私にはその時、今までの心理学の説明ではどうも納得感が足りない、3つの事柄がありました。

 一つは病んだ感情の執拗(しつよう)です。病んだ心は決して、励ましや人生訓や説教など、理性による説得では修正できないことが、もはや周知の通りです。私自身の治癒体験も、もちろんそのようなものではなく、自分でも何が起きているのか分らないままの、心の激動を経ての治癒でした。

 もう一つは、病んだ心の中でしばしば観察されるものとされる、「全能感」や「万能感」という話です。確かにこれは「狂信者」という言葉にも示されるように、「躁状態」として観察されます。これは幼少期からの怒りと恐怖のストレスという流れとは、どうも少し毛色の異なるものです。

 

「現実感の増大」の特異体験

 

 そして最後の謎が、他ならぬ私自身が治癒の過程で体験した、強烈な「現実感の増大」体験の記憶でした。

 それは明らかに、健康な心で生活している中では起こりえない、極めて特異な体験です。それで私の記憶に鮮明に残っていたのです。あれは一体何だったのだろう・・と。

 私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』から、最も強烈な「現実感の回復」の体験が起きた場面の描写を抜粋しましょう。(P.237

 

 夜、私は漠然とした恐慌状態の中にいました。高揚感と不安感が入り混じっています。

 私は自分の将来の空想を始めていました。ホーナイ訳者に加えられて、やがて精神分析研究者としての生活を送っている自分。自分が本当に精神分析学者になっているかのような感情。頭の中はまるで交響曲が鳴り響くような騒がしさです。

 何かが間違っていると感じました。

 

 その瞬間です。私の回りをおおっていた何かのベールが破れて消え去り、一瞬にして頭の中から全ての空想が消え、静寂に包まれました。

 部屋の風景がぐわんと音を立てるように迫ってきます。

 

 「僕は今ここにいるんだ」。私は頭の中でつぶやきました。

 そこにあるのはただ、狭く殺風景な下宿の部屋の中で、静寂の中で呆然としているだけの自分でした。

 今、あの大学の学生であり、何人かの友人や知人を持っているのが、自分の現実なのだ・・。

 空想の中にいた時、現実は薄れ、重点は空想の世界に移っていた。僕はそのことに気づいた。現実というものに、より大きな重点を感じた。

 

 僕は今、現実に帰還した。

 

 私の治癒過程を振り返って思い起こされる、最も特異な、「治癒の直接感覚」ともいうべき体験でした。それは開放を得た感動でも、歩む方向を見出した喜びでもなく、まっさらで強烈な「現実感」だったのです。

 私はこの体験から、心理障害というものが、明晰な現実理性とは別種の、一種の半夢状態の中で動くという考えを持っています。後に私はこれを「自己操縦心性」と名づけ、自らの心理学理論の要とすることになります。

 

「自己操縦心性」

 

 つまり、病んだ心とは、意識そのものがもう健康な心での意識とは別種の、「現実覚醒レベル」が低下した一種の半夢状態として動いているということです。

 

 これを考慮することで、謎が一気に解けました。

 それは、現実覚醒レベルが低く、最初からこの感情メカニズムを持った独特な心理機構があり、この時点でそれが駆動を始めた、ということです。

 これはもう健康な心での思考とは別ものなので、理性に照らし合わせた解釈は無用です。それ独自がそなえた感情の論理の中で、理性の影響を受けずに自動的に動きます。これが程度を増すごとに、最終的な病像は、「精神障害」と分類されるほど重篤なものへと向かい得る。これも容易に想像できることに思われました。

 そこで駆動を開始したものとは、現実の不具合を一挙に解決した自己像を描き、現実よりもその空想を「あるべき現実」の「(あるじ)」と位置づけ、現実はそれに従うべき「従」の位置に置く、独自の思考パターンをあらかじめ持っている、一つの人格体とでも言えるものです。

 

 そんなものが、人間の心のメカニズムとして、最初から用意されている。それが今、駆動を始めた。

 私はこの心理機構に、自己(じこ)操縦(そうじゅう)心性(しんせい)という名をつけました。

 

 これはおそらく心理学の歴史の中でも、ハイブリッド心理学が初めて指摘するものになるでしょう。

 私はここに至り、自分の心理学が明らかに、ホーナイ理論の先の未踏領域へと踏み込んだと感じました。

 今まで、ホーナイを始めとして、病んだ心で動く感情の歪んだ内容についてはさまざまな説明が試みられました。一方、そこに同時に「現実覚醒レベルの低下」という厄介な問題が起きていることを指摘したことが、この心理学の独自視点になると思います。

 

 先に触れた「感情の膿の人格への組み込み」は、この自己操縦心性における「現実覚醒レベルの低下」に、深く関連していると考えています。

 それは、「現実感」を全般的に低下させることによって、できるだけ「感情の膿」が刺激されないような意識状態を作り出しているという、防御機構だと思われます。ただしこの結末は、そうして生まれた幻想世界によって、自ら人生を破壊する方向に向うという、皮肉な結果になるものとしてですが。

 

「重ね合わせ思考」

 

 自己操縦心性による思考や感情の基本パターンは、実に単純です。

 それを「重ね合わせ思考」と呼んでいます。

 つまり、空想に描いた自己像と、現実の自己を重ねあわせ、ぴったり合えばOKだし、そうでなければNGです。自己像を思い描き、それと現実を重ねる方法で何とか人生を生きようとするのです。

 逆に言えば、思い描けさえすれば、あとはミサイル誘導装置が目標と現在位置を合わせる方法でぴったりと命中するように、何にでもなれるし、何でもできる潜在力がついたことになるのです。これが「躁状態」として暴走する「全能感」「万能感」になります。

 たとえ病的な躁状態など一見見えない、むしろ逆にストレスによる圧迫気味の様子の人においても、実はこの思考論理が働いていることが、どことなく夢想的で現実味を欠いた、「本気を出せば自分だって・・」といった思考に示されることがあります。

 

 「重ね合わせ思考」の必然的な結果として、当然、思考や感情は2極の両極端になります。

 そこには、ぴったり合うか、そうでないかの、2つしかありません。たとえ差が僅かでも、重ね合わせた2つの画像は大きく乱れるからです。

 こうしてこの「重ね合わせ思考」の結果、この個人の基本的思考傾向が生み出されます。

 それは、ものごとを基準に合わせて決めつける白黒をつける完璧さを求めるというものです。

 

現実への三くだり半の突きつけ「現実離断」

 

 自己操縦心性の、まずは基本的輪郭を描写しました。

 それは現実覚醒レベルが低下し、空想世界を「主」、現実世界を「従」と位置づける論理を最初から備えた、一つの人格体のようなものである。

 

 次に、これが人の心の中で「発動」されるという事態そのものに目を向けると、そこに、病んだ心の成り立ちとして最も重大な、ある一つの「動き」が起きているであろうことを考えることができます。

 それは、「現実」とは駄目なものなのだという、この人物の心の根底でなされた深い断念であり、「現実」に対して突きつけた「三くだり半」とも言うべき姿勢です。

 事実、心の障害に悩む方のほぼ全てが、これを示す思考を自分の来歴において持ったことがあるのを、あるいは現に今抱いていることを、躊躇なく認めます。

 「どうせ現実なんて」という思考です。

 

 ここに至り、私たちはこの幼少期から始まる「心を病むメカニズム」の流れに、決定的な節目が訪れたのを見ます。

 これまでの流れは主に、最初に起きた問題の結果、ほぼ自動的な連鎖として起きていたものでした。それがすでに学童期までに進行していた、心の病理の4つの特徴の初期形とも言える変化です。

 それがここに来て、もはや自動的連鎖ではない、この人自らの心による決定的な「動き」が起きたのです。それが自己操縦心性の発動となり、病んだ心の出現を決定づけた。

 これがまさに、思春期においてこの人の心で成された、「病んだ心の世界への飛翔」の正体そのものです。

 この、現実への三くだり半の突きつけの心の動きを、これもまた奇怪な用語ですが、「現実離断」と呼んでいます。

 

 しかしながら、このように病んだ心の決定的成立が、感情メカニズムの自動的連鎖としてではなく、本人の心における能動的な動きとして成されたことは、心の障害の治癒についても極めて重要な示唆を与えるものになります。

 なぜなら、「自動的連鎖」であれば解除は不可能である一方、「自らの動き」として起きたのであれば、逆に自らによってこれを解除する可能性が示唆されるからです。

 ただし、思春期におけるこの病んだ心の成立の動きは、少年少女の心においては当然、それが起きていることを理性で把握することは不可能なまま、「感情の膿」の圧力によって全く抵抗しようもなく、ほぼ自動的に起きるものと考えられます。

 それを解除する道は、すでに発動された自己操縦心性の上でいくらこれを「解除しよう」と考えたところで何の意味を持つものでもなく、この心のメカニズムヘの深い理解を基盤とした、特別な取り組みの先に開かれるものになります。

 

現実の否定から始まる意識

 

 いずれにせよ、ここから始まる自己操縦心性の意識とは、実に特殊なものです。

 

 私自身の体験を振り返った時、それは事実、奇妙な意識状態であったのを感じます。

 それはまるで、何者かから追われて怯えて逃げている場面から始まる、悪い夢の中にいるような意識状態です。

 とにかく、今の自分は安全ではない。全てがそこから始まります。そして安全を得ると同時に、何かの栄光を得ることのできるような自分が描かれます。後は、その「あるべき自分」と「現実の自分」という、分厚いガラスを隔てたような2つのイメージの間を揺れ動く意識が続きます。

 

 全ての始まりにおいて、何から逃れようとしたのか。その前に何があったのか。

 実はそこに全ての鍵があります。それはまだ「自分と他人」「善と悪」という論理さえ存在していなかった、幼児期の心の中で抱かれた何かです。これがハイブリッド心理学の根本主題とも言えるものになります。

 

自分自身によって操縦される心

 

 自己操縦心性がもたらす意識状態の最も端的な特徴は、感情によって足元からすくわれる圧倒度の強さです。これが私が「自己操縦心性」という名をつけた由来でもあります。

 「自己操縦」つまり自分自身の感情によって、自分が操縦される心の性質です。

 まるで、自分が自分自身の感情による操り人形のようになってしまうのです。この表現は、心の障害にある方であれば「まさにその通り!」とお感じになるはずです。

 

 「自分自身によって操縦されてしまう」。私たちが日常使う言葉の中で、最もそれに近いのは、「自意識過剰」です。

 変に自分を意識した感情の中で、現実的でない思考や感情を浮かべてしまう。自分自身でそれが分かっていながらも、どうすることもできず、自分をぎこちなく感じてしまいます。

 実はこれも、程度が軽い自己操縦心性の表れだと考えて間違いはないでしょう。「感情の膿」が程度の差こそあれ、ほぼ全ての現代人の心の底にあるのと同様に、「自己操縦心性」も程度の差こそあれ、ほぼ全ての現代人の心はその中にあると考えることができます。

 

 これは脳のレベルで働くので、意識努力によって脱することはまずできません。事実、「自意識過剰をやめよう」がまた「自意識過剰」になってしまいます。いくらでも意識がループします。

 自意識で自分を操縦している。これは何ともじれったい、不快な心理状態です。しかしそれを脱することができません。なぜなら、自分自身によってどう操られているかと言うと、まさに自分で自分を操るように、操られているのですから!

 実は、もし自己操縦心性が軽度なのであれば、脱する方法があります。脱しようとしないことです。

 自意識過剰になる場面というのは、そうなるだけの何かの課題がそこにあるのですから、自意識過剰になってしまうことについてではなく、その大元の課題そのものに意識を向けることです。

 実はこのパラドックスが、本格的なハイブリッド心理学の取り組み方法においても、一貫として意味を持つものになります。

 

自己操縦心性の発動時の心の変調

 

 「自己操縦心性」が思春期に「病んだ心性」として動き始める時の様子は、その後の心の障害の深刻さの違いを超えて、全く同じです。

 それは一言でいえば、「現実への違和感」です。

 自意識過剰や空想過多の中で、思春期をぎこちなく生き始めた少年少女の心に、「ある日突然」ともいうような感じで、奇妙な違和感に気づく時が訪れます。

 「現実がズレている」のです。「現実がついてこない」のです。何に対してと言えば、空想に対してです。

 

 この「現実への違和感」は、まず最初は「現実の自分への違和感」です。

 空想した自分のようになるためのものが、自分にない。特に、空想した「なるべき自分」になるための、「感情」が湧いてきません。「なるべき自分」になど丸っきりなれそうもない自分。

 現実の自分への違和感は、暗雲の感覚とともに、「他人への違和感」そして「他人と自分の関係への違和感」へと広がっていきます。

 人々が何かぶ厚いガラスを隔てたような感覚の中で感じられ、次にその違和感そのものが、回りの人々に感じ取られて、変な目を向けられるという感覚が焦りと共に心に流れてきます。どうしよう。どうしたら良くなれるんだろう。

 

 心に漠然とした不安が流れ始めます。世界が崩壊する気がするような不安です。

 同時に、回りの人々の、自分を見る目が異様に強烈に感じてきます。まるで電波が発生されているような強烈さです。「なるべき自分」はこうなのに、全然違う自分。どうしよう。どうしたら良くなれるのだろう。

 絶え間なしに緊迫感が流れ始めています。

 

 こうして自己操縦心性が発動した最初の頃は、一気に心理的緊張が高まりますので、ちょっとした心理的変調を起こしやすい時期となります。

 最も典型的なのは「視線恐怖症」です。後に比較的深刻な心の障害を体験した人は、まず間違いなく思春期の一時期に「視線恐怖症」を体験していると私は推察しています。もちろん私もそうでした。

 

 それから大抵の場合、どうすれば自分が良くなれるのか、どのように生きればいいのかという思考を延々と繰り返す人生が始まるわけです。

 かくして、人生論の本や心理学、人間関係や恋愛論と成功哲学、精神世界、セラピーや癒し、心理カウンセリングや精神科および心療内科。そうしたものが今社会に膨大に溢れているわけです。

 

「今を生きる」ことの喪失

 

 心に途切れることなく流れるようになった焦りとは、「審判の日」に向けての焦りとでも表現できます。

 それは自分が「なるべき姿」になれたかどうかが、全人の目の前に晒される審判の日です。それは栄光の日であると同時に、破滅の日であるかも知れないのです。

 未来とは、「天国」か「地獄」のどちらかです。自分はその「天国か地獄かレース」の出場者として、競技場に放り出された人間であり、全世界の目が向けられる場に立たされた人間と化します。外界は、彼彼女が天国に行くことを見守る聖母か、失敗し地獄へ落ちることを期待する意地悪な目のいずれかとなります。視線恐怖症とは、本人がこの視線の重圧に耐えられなくなった状態だとも言えるでしょう。

 

 「なるべき自分」は、時間が止まった静止画のように「姿」として描かれ、その中で生きる時間を持ちません。全てがそう「なれた」か「なれないか」です。

 そう「なれた」瞬間が来ない限り、「現在」は仮の時間であり、そう「なれる」瞬間に向かって、1秒でも早く走らなければならなくなります。

 こうして人は、「今を生きること」を知らなくなります。

 

 なぜ人の心はこんな道に歩み始めるのか。

 まず現実の自分に立ち、その足で汗をかきながら一歩一歩目標に歩いて行く。そんな生き方もあり得たはずです。

 そうではなく、「現実は駄目なものなのだ」という弾劾を全てのスタート地点とするかのように、完璧を描いた空想の世界にまず自分の立脚点を見つけ、そこから現実の自分を見下ろすという生き方。

 人の心はこれを選んだのです。

 

「悪魔との契約」

 

 人間の心のこの悲劇の根源を紐解く考察は、やがて心理学を超えて、人間の心のある原光景へと行き着きます。

 それを示唆したのが、他ならぬカレン・ホーナイでした。私がこの心理過程がただの連鎖によるものではなく、心自らの能動的な動きが起きていると考えた時、謎への鍵のように心に響いてきたのが、ホーナイがこの心理過程をある物語になぞらえて説明した文章でした。

 物語とは、「悪魔の契約書」です。

 

 ホーナイはこう述べています。私の印象では、栄光への衝動によって開始されるこの神経症の過程を最も明瞭に象徴したものが、悪魔の契約の物語だ。悪魔、もしくは悪を人間化した何かが、精神的もしくは物質的な問題に惑う人間に、無限の力を差し出して誘惑する。しかし人は無限の力を、自分の魂を売り渡すかさもなくば地獄に落ちるという契約の下に得るのである。

 この誘惑は、精神的に豊かな人間と精神的に貧しい人間のどちらへも、2つの欲望に訴える。絶対無限への願望と、そして安易な近道の魅力である。宗教の歴史によれば、ブッダやキリストなど人類の最も偉大な精神的指導者たちも、こうした誘惑を体験した。しかし彼らは堅固に自己自身を見据えていたため (firmly grounded in themselves)、それを誘惑と認識し、拒絶することができた

 この契約が求める条件とは、それにも増して、神経症の心理過程において人が支払わなければならない代価を象徴している。この物語の言葉で言うならば、無限の栄光への近道とは、不可避にも同時に、内なる自己軽蔑と自己拷問の地獄への道でもあるのだ。この道を選んだ時、人は事実、魂を、真の自己を失うのである(島野訳、『Neurosis and Human GrowthP.39

 

 何が起きたのか、そしてこの先に何が起きるのかは、もはや明らかのように私には思われました。

 私にはそれを示唆する悪魔のささやきさえ聞こえるかのようでした。2002年にサイトを開始し、掲載した感情メカニズム説明の中にも、それを書きました。

 

よし、これで契約は成立した。もう後戻りはできない。

この坂道の向こうには、お前の欲望を全て満たす素晴らしい世界があることを約束する。

ただし、この坂道を登ることを諦めたとき、お前は奈落の底に落ちる。

 

空想力をふんだんに使って、お前が誰よりも優れ、評価され、愛される自己像を描いて、完璧にその通りになれ。そうなれない時も奈落の底行きだ。邪魔する奴がいたら殺せ。そうなれない原因がお前にあるのなら、自分を殺せ。

 

それが嫌なら自己像を描き直してもいいぞ。ただしあまりやりすぎないことだ。それはお前の人格を引き裂き、廃人にするからな。お前の勝手だが。

 

 悪魔は真実を語りません。

 人生を取り戻す道は、そして自らの魂へと帰還する道は、あるのです。

 

「自己操縦心性」の内部メカニズム

 

 克服へと視野を転じるため、自己操縦心性のさらに内部に、最新の心理学の目を当てていきましょう。

 

 自己操縦心性においては、感情は半夢状態の意識で動くのですから、もはや理性による修正を試みることは、全くの無駄です。

 心の障害で起きる感情が、道徳的な「説教」や普通の「励まし」などでは全く効果なく、逆効果でさえあると良く言われます。そうなるのも無理ない話であるのはもうお分かりかと思います。

 大切なのは、自己操縦心性の中で動く感情のメカニズムを正しくそして詳しく理解し、理性によって力づくで「正そう」とするのではなく、違う方法で改善させる心理学的な知恵を学び、そして歪んだ感情を生み出した大元の源泉に働きかけることです。

 それが幼少期からの恐怖の蓄積であり、学童期に進んだ一連の過程です。大人になって心の障害が表面化してあわてて治そうとするのではなく、そうした大元の問題が起きる由来を知り、それに対処し得る新い思考法や心の姿勢を学ぶことが、極めて重要です。

 

 「歪んだ感情」そのものは、「自己操縦心性」が生み出すものではありません。「歪んだ感情」は、説明してきた幼少期からの問題と、私たち自身の誤った思考法が生み出しています。

 

 「自己操縦心性」が単独につかさどる心の機能は、基本にはたった一つです。

 「現実と空想の重みづけの逆転」です。それによって、歪んだ感情による「操り人形状態」という、最後の、ちょっとした、とは言っても決定的なつけ足しをしているに過ぎません。

 

 これは何をお伝えしたいのかと言うと、私たち自身の意識においては、「病んだ心が望ましくない感情を生み出している」と感じるのですが、事実はそうではないということなのです。

 望ましくない感情を生み出しているのは、私たち自身の思考法です。あるいは、私たちがありのままの自分を受け入れない姿勢が、生み出しているのです。病んだ心は、その感情をそのまま忠実に、忠実すぎるほどに、私たちの心を動かそうとする加速をしているということなのです。

 そしてそのあまりにも「感情的で不安定な姿」を、再び私達の思考が、駄目なものだという自己否定感情を抱かせるかも知れません。自己操縦心性は再び、それを忠実に私たち自身への圧倒的悪感情として表面化させるでしょう。

 

 しかしながら、そうして自己操縦心性が、私たち自身の思考が生み出した感情によって、忠実に私たち自身を突き動かそうとするやり方が、実に厄介な方法であるわけです。

 それはつまり、私たちが「空想」の中で生み出した感情が、「現実」であると思わせることによってなのですから!

 ここで全てが混沌と化します。

 そもそも私たちは、まず「現実」というものを見て、それについて「思考」し、それをどう感じたかという「感情」によって、次の「行動」を考え、それを「現実」に対して行ないます。

 しかし自己操縦心性とは、「感情」で描いた「空想」を「現実」だと思わせる機能をします。私たちは自分自身の「感情」を「現実」と思い込み、それについて「思考」し、それをどう感じたかという「感情」によって・・・という時点で、「現実」が塗り変わっているのです。

 

 一体何をどうすればいいのか、と恐らく混乱されるでしょう。無理もありません。

 答えは明確で、シンプルです。しかしこの明確でシンプルな答えにたどり着くまでに、私自身もかなりの年月を要しました。まさにそれを見えなくすることが、自己操縦心性の最も得意とするトリックなのでしょう。

 明確でシンプルな答えとは、こういうことです。5つの出来事が連鎖していると言えます。

 1)病んだ感情は、私たち自身が生み出したもの、あるいは来歴から持ち続けているものです。

 2)空想と現実が逆転してしまうのは、自己操縦心性によるものです。私たちのせいではありません。

 3)空想と現実が逆転することで圧倒度を高めた病んだ感情が、私たちの人生を破壊させてしまいます。

 4)自己操縦心性は、私たち自身が来歴から持ち続けている感情によって、駆動されています。

 5)私たちの意識は、自己操縦心性が働いた後で動かせるとができます。つまり、自己操縦心性を意識で変えることはできません。

 答えは単純です。それが具体的にどういうことなのかは、「愛」にせよ「自尊心」にせよ、具体的な感情テーマへの考察として出てくる、これからの話の全てになります。

 

 それら全てを通して、結局出てくる単純な答えとは、「空想と現実」の区別については、私たちは意識的に手を出すことはできないということです。私たちに意識的にできるのは、私たち自身が感情を生み出す思考をどう方向づけるか、そして来歴から抱いた感情に、どのような姿勢で臨むかだけなのです。

 

 これは「空想と現実」の違いについては無視せよという話ではありません。意識的にすることではない、つまり頭で考えてするのではないものに委ねるということなのです。

 それが「入門編」でお伝えした、「心を解き放つ」ということです。ただ「今を生きる」ということです。それが「現実と空想」を自ずとふるいにかけていきます。

 つまり、「空想と現実」の違いとは、意識的に努力して、「知る」ことで行なうことではありません。「生きる」ことで行ないます。

 これが実際にどういうことなのかは、「実践編」で説明します。ここに「入門編」で説明した最も基本的な姿勢と、この「理論編」で説明している緻密な理解と、「実践編」で解説する実際の人生での実践という、この心理学の取り組みの3段階を一貫として貫く、一つの答えがあるということだけ、ここでは指摘しておきましょう。

 

 より平たい言葉でも言っておきましょう。私たちは得てして、病んだ心が示す感情の極端さと激しい動揺にばかり目を向けるのですが、そこに注意を奪われている限り、答えは見えてこないということです。

 感情の強度と表現のされ方の違いには一切惑わされることなく、感情の本質に目を向けることです。リストカットのような症状を通して絶望的な激しさで求められる愛と、静かな悲しみの中で希求される愛の、同じ本質に目を向けることです。そしてそれに対する、心の健康と幸福のための、一貫とした私たち自身の姿勢を、確立することです。これが答えです。

 

自己操縦心性の基本機能:「イメージ」を引き金にした感情

 

 では私たちがそれによって惑わされないものにしたい、自己操縦心性による心の内部での感情の表現機能から理解していきましょう。

 その基本的な機能とは、明らかに、「イメージを引き金にして感情が湧く」という、いわば心のエネルギーの通り道機能です。

 

 この機能そのものについて言えば、健康な心でのその機能とは、もう本質的な違いはありません。「こんな自分に」という目標像を描き、その内容に応じてやる気が出るといったこと自体は、健康な心においてもごく自然な話です。「こうすると人はこう感じるだろう」という他人像を浮かべることについても、同じく。実際それが私達の行動のコントロールに役立っているわけです。

 

 ここでまず、学童期までにすでに進行している過程の基本的な影響が加わることになります。

 学童期の影響としては、否定価値の感性や受身の感性の中で、「外見見栄え」が法外な重みを帯びていることが、まず強く影響してきます。「愛」と「自尊心」も、外見見栄えを基準に感じ取られ、他人も外見見栄えにより重みが二極化します。自分に向けられる人の目のイメージは、親との関係の焼き直しを固定化したもののようになります。

 幼少期の影響としては、感情の膿の圧迫度にほぼ比例するような形で、上述のイメージが基本的に過多になります。それは生活のほぼ大半を空想の中で過ごすとも言えるものになるでしょう。

 

 こうした傾向がもたらす、この人の人生と心の成長にとっての、不利な結果が起きていることを、ここで理解しておくのがいいでしょう。それは、ありのままの他人というものを、感じ取れなくなってくるということです。

 人が人を知り、共感を育てていくというのは、本来的にはイメージによってでないということを理解しておくのがいいことです。それはつまり、健康な心は、イメージを使う意識そのものが少なくなるということです。イメージを介することなく、心を解き放った感情で人と人が触れ合う先に、真の相互理解や共感が育ちます。

 これは旅行に行くという行動で例えられます。イメージを用いた思考とは、パンフレットを眺めてどんな旅行になるかと思い浮かべてみることです。それで良さそうだと判断したら、あとは実際に旅行に出発して楽しみます。パンフレットを眺める時間よりも、実際に旅行している時間の方がはるかに大きいのが自然な話です。

 病んだ心の過程では、逆になってしまいます。パンフレットを眺めることが、旅行していることのように感じてしまうのです。

 

 ここまでが、自己操縦心性があくまで「感情の通り道」として、健康な心におけるものと同等の機能を果している範囲で起きてくる結果です。

 事実ここまでで済むものが、いわゆる「性格傾向」の範囲になるでしょう。

 

心の病理の成り立ち:切り離し感情のイメ−ジ化

 

 心の病理は、「イメージを引き金にした感情」という自己操縦心性の基本的な感情の通り道機能に、今まで「切り離し」という単純な防御機能によって意識に触れることを免れていた、膿のような感情が流入してくるという側面によって生まれてきます。

 つまり、自己操縦心性はそうした感情の膿についても、もうこれからは切り離しではなく、何とか意識体験可能な形でそれを本人の心に自覚させ対応を促そうとする、何らかの方策を用意することになります。

 これが破壊的な結果になります。心の病理とは、この「切り離し感情のイメージ化」という自己操縦心性の機能によって生まれる。これがハイブリッド心理学の見解です。

 

 これは大きく2つのものがあります。「破滅感情のイメージ化」「情動の荒廃化の反転」です。

 

「破滅感情」のイメージ化

 

 「切り離し感情のイメージ化」の1つ目のパターンが、「破滅感情のイメージ化」です。

 これは幼少期における心を病むメカニズムの根源、「切り離された恐怖の色彩」の蓄積である「感情の膿」の意識形です。

 幼少期の心においてはあまりにも破壊的であり、体験したら生きていけないような、まるで自分が人間ではないものを見るような目で見られ、世界の全てから見放されるという、ぞっとするような恐怖の色彩。その色彩にだけは意識が出会うまいと、今まで「切り離し」という単純な防御機構によって、感情というよりも脳内の毒物質のように切り分けられ蓄積したものが、こうして意識への接点を持つようになります。

 その結果、この人物の空想とイメージ、そしてそれに伴って動く感情の中に、「破滅」というイメージと感情が登場します。そしてこの「破滅」というイメージと感情によって人はまさに破滅に向うかのような行動に駆り立てられてしまう、ということが起きてきます。

 

 これは心の障害は特にない人も含めて、ほぼ全ての現代人に作用しているメカニズムであると、ハイブリッド心理学では考えています。

 「破滅」などといううものは、現実には存在しません。人間が抱く幻想の中だけにあります。

 

根本治癒メカニズムから分る「感情の膿」の仕組み

 

 この結論が導き出された論拠から説明しましょう。治癒のメカニズムです。

 

 科学的思考に徹し、この社会で生きる知恵とノウハウを学び、実践を通して上達していくごとに、私たちはこの「現実世界」における恐怖をかなり減らすことができます。

 はっきり申し上げておきますが、これは1年や2年でできる話ではありません。人生全体における勝利として、全ての人が生涯かけて目指すものそのものの話です。まず方向性を知り、それを歩むことが大切です。このための具体的な知恵とノウハウも、「実践編」で解説します。

 やがて人生のある節目になり、この「現実世界」で強く生きることのできる自分を感じるようになる。

 

 それでも、この「感情の膿」がある時、人生で大切なものに向かう時、恐怖が流れるのです。それはもはや「現実世界」おける恐怖ではなく、「魂の世界」における恐怖であるかのように感じ取られるでしょう。

 それでもそれが、「現実世界」についての恐怖ではなく、現実において「破滅」などというものはないという確固たる理性を築き、人生で大切なものへと積極的に行動した時、まさに膿が放出されるかのように、もはや心における感情としての恐怖ではなく、身体現象としての恐怖が、どばっと流れるような体験が起きます。

 それがまるで、文字通り出した分だけ膿が減るような、心の機能さらには脳の機能の全般的改善向上が起きるのです。これは後戻りのない改善向上であり、もはや恐れることなく人生で大切なものへと向うことができるようになります。

 これが、ハイブリッド心理学が見出した、心の障害の根本治癒メカニズムです。

 

「破滅」を避けようとする行動が「破滅」を作り出す

 

 もちろん、世の人はこんな治癒メカニズムがあるとは夢にも思わないでしょうから、むしろ逆に、「破滅」があるというイメージに自ら積極的に敏感になり、「こうなってはいけない」と、一生懸命になって「破滅」を避けようとする。

 しかしそうして「破滅」を避けようとする行動こそが、実はまさに現実において破滅に向う事態を作り出すという、実に皮肉ともいえる悲劇を生んでいるのが、「人間」なのです

 

 人が自殺するのは間違いなく、この「破滅」の観念感情が根本的由来です。これはまさに窒息するような苦しい感情なので、「死んだ方がまし」という観念が起きてしまうのです。

 

 この「破滅を避けようとして破滅を作り出す」行動パターン2つ説明しておきます。まずはこの罠にはまってしまわないようにすることが大切です。

 

 一つは、「受身の材料」ばかりで自己像をイメージする先に起きがちな「破滅」のイメージがあります。自分に与えられる何かで、未来の「自分」をイメージする。それは会社での評価であったり、異性にどう見られるかであったり、「健康」という天からの授かりものがどうなるかであったりするでしょう。そうした「受身の材料」の合計が、自分である。

 これは人生の生き方として、ちょっとアウトです。

 人生はそう都合の良いことばかりで構成されるものではありません。そうした「受身の材料」は、年齢の積み重ねと共に、むしろ何かと「取りこぼし」になっていくのが宿命のように私は感じます。

 で、やがてその大多数が、幸運の女神の選に漏れ、「自分」から消えていってしまう。

 この結果、八方塞りの袋小路に自分が至ったという、「破滅の感覚」になります。この手も足も出ない窒息感が、自殺念慮などの引き金になります。

 あるいは、「そうはなるまい。そのためには・・」と自分にストレスを加えて疾走し続けた結果、身体の健康を壊すということにもなるかも知れません。

 

 これは「なるべき自分」の理想像をしくじることについて、感情の膿が刺激されたことによる感情イメージという直接的な結果である一方、実はこの「受身の材料」で自分をとらえているということが、そもそもの問題の原因でもあります。

 つまり、座って待ち続けるのではなく、自分から歩かないと、良いものもめぐってこないという、基本的な人生の原則があります。それをただ受身に回る姿勢が、与えられたいものから自ら遠ざかる姿勢を、実は心の底で作ってしまっている。それが八方塞がり感の真の原因であることが実に多いです。

 かくして、就職したいあまりに、面接のことばかり気にする人は、自分が何をしたいかさえ忘れることで、必然的に「自分は就職なんてできない」という感情を生み出すことになります。

 自分は一体何をする人間なのか、できる人間なのかという、自分自身を始点においた思考の切り替えが、これへの効果てきめんの対処法になります。これについては「実践編」でも、「推進力ある自己像策定テクニック」などとして紹介しています。

 

 もう一つは、「人に向けられる目」における破滅の感覚です。これはまさに「切り離された恐怖の色彩」が再現されたものです。全く相互理解不能な、人間の皮をかむった得体の知れないけだものを見るような、不信の目を向けられてしまったという感覚。

 これは「現実を示すものではなく心理メカニズム現象」だとして、やり過ごす以外には良い手はありません。そうせずに「それを何とかしなければ」という衝動に突き動かされ、さらに相手に接近して「何とかする」行動が、まさに破滅的事態を招いてしまうことが多いのです。

 その典型的な例が、1章でも紹介した、「キモいと言われた言葉が消えない」と小学6年女子を殺害した塾講師のケースです。

 

「情動の荒廃化の反転」

 

 「切り離し感情のイメージ化」の2つ目のパターンが、「情動の荒廃化の反転」です。

 これが、最も破壊的な結末を生み出すものになります。

 人間の長い歴史を通して、人間と人間の間に起こる悲劇は、実はこのメカニズムが原因だとさえ、私は考えています。

 

 まず「情動の荒廃化」とは、感情が怒り憎悪の側に傾き、その内容もすさんで行って、相手を傷つけ破壊することが快を帯びてくるというものです。これは人を残忍で粗暴にしてしまいます。

 それが「反転」します。

 逆に清らかになるという「浄化」が起きるのではありません。3つの歯車が働きます。

 

 (1)「情動の荒廃化」が起きているのは自分の心ではなく、他人の心だというイメージが描かれます。つまり、残忍で粗暴で嘘に満ちているのは自分ではなく、他人です。

 これが2段階による「切り離し感情のイメージ化」であることが推測されます。まず自分自身の情動が帯びた荒廃性の中でも「情緒的に悪質で醜い色彩」が、「自らは望まない」ことによって切り離されます。次にその「情緒的な醜さの色彩」が他人に映し出されるというメカニズムです。

 (2)その粗暴な他人を敵とすることによって、自分の心は清らかだという感覚が得られます。この結果、漠然と他人全般が悪人であり、自分一人が気高いという、実に論理性のないイメージができがちです。

 (3)そしてさらに、この感覚が単なる空想ではなく「事実」であることを支持するものとして、相手との関係において自分がこうむった「苦しみ」が意識強調されます。

 

 これは極めて強力な心理メカニズムであり、その基本的な部分は、もはや病んだ心のメカニズムというよりも、人間の心が基本的に陥る罠と言えるでしょう。

 それは「復讐の合理化」です。自分はこんな酷い仕打ちを受けたのだ。だから、これだけの仕返しは当然だと、さらに酷い仕打ちを相手に返します。

 そうして、この地球上に、長い人間の戦争の歴史があります。

 

 しかしその中に病んだ心のメカニズムが介在するにつれて、自己処罰感情による苦しみと、快を帯びた荒廃化衝動が、手を組んでしまうのです。

 荒廃化した怒り衝動が激しくなればなるほど、この「直せない自分の感情」への自己処罰感情による苦しみはやはり激しくなります。一方でそれを自己操縦心性は「人が自分を糾弾した苦しみ」というイメージとして映し出します。

 そして他人への報復的破壊攻撃衝動が、その苦しみによって合理化されます。

 

 事実それはもはや「合理化」といえるほど浅はかなものでさえありません。なぜなら「こうむった苦しみ」が復讐破壊の「快」を相殺し、意識の上では「快」のためではなく、「正しい」から復讐するとなるのです!

 この人間の心が実際にどのように荒廃化しているのかは、もうその意識感情で測ることはできず、実際に行われた行動全体の構図によって示されます。

 心に残された健康な部分が多ければ、当然その構図が自分でも分かります。そしてあまりに自分が心の狭い姿であったかに、再び自己嫌悪感情を感じるというのが、典型的な流れになります。しかし怒り破壊に向かった後に「反省」したところで、心は変わることはありません。「正しければ怒る」という誤った思考法から根本的に見なおすことが、まず脱するための第一歩です。

 

 「情動の荒廃化の反転」のメカニズムの最も悲劇的な表れの例が、2007年に米バージニア工科大学で起きた米国史上最悪の銃乱射事件でした。

 チョ・スンヒ容疑者は、裕福な人々への憎悪を抱いていたことが知られています。「俺にこんなことをさせたのはお前らだ!」と。

 確かに彼は、心ない(いじ)めの言葉を、「事実」として学童期に受けていたかも知れません。しかし自分が「言葉で受けた暴力」と、自分が成そうとした銃乱射殺害という「身体的破壊攻撃」は、それだけを比較するのであれば、あまりにも釣り合わないことは、彼自身でも分かったはずです。

 それでもなぜ彼はあのような行動に駆り立てられたのか。それは、彼とは何の関係もない、穏やかな表情で大学を歩く全ての他人さえも、そのような行動によって復讐反撃するに十分値する、残忍で暴力的な感情を抱いているという幻想的なイメージが、彼の心を覆っていたことが推測されます。

 つまり、彼にとって、他人は彼自身よりもさらに残忍な存在として映っていたのです。

 

 「すさんだ残忍性」とともに、「浅ましい見せかけ」も「反転」しやすいものの代表です。

 心の障害傾向が深刻化したケースでは、大抵、世界の全ての人間が「おぞましいニセモノ」だという幻想的な感覚におおわれている様子が観察されます。

 この延長上で多少風変わりな心理も典型的に起きます。いたいけな幼児や少女に、「自分が可愛いことを分かっている不気味さ」を感じると言うのです。恐らくそこに「おぞましい見せかけ感情」を映し見ているというメカニズムが考えられます。

 

「怒り発作」への帰結

 

 こうした「情動の荒廃化の反転」と「破滅感情のイメージ化」が組み合わさることで、今までの心理メカニズムの全てが、ある収束点へと向かいやすくなります。

 「怒りの発作」です。

 それがどんな不合理なメカニズムによって起きるのかをしっかりと理解することが、それに流されるのを防止するのに役立つでしょう。

 その「収束」とは、残忍で粗暴で利己的な他人が、自分を何か理解不能で駄目な人間だというような目を向けてきて、自分が破滅に向かわされている、という構図のイメージです。

 そして幼少期から蓄積した恐怖のストレスをバネにした、追いつめられた獣のような直情的な怒りが発作のように噴出します。

 まずはこれが、「現実に対応した感情」などではなく、「心理メカニズム現象」なのだという、自分の感情を客観的に見る目が大切です。ここから、病んだ心の根本的な克服への道が始まります。

 

「感情の強制」と「自己像」の破綻

 

 心が病むメカニズムの、この先の結末まで話しましょう。

 最初に起きた問題があるところであれば、程度の差はあれ全て同じ形になる、基本的な流れです。今までの「誤った心の使い方」が引き起こす問題を一通り理解して頂いた上で、「正しい心の使い方」を理解するための準備としたいと思います。

 

 「自己操縦心性」の機能とは、今まで説明したように、人が抱く、もしくは来歴の中で抱えつづけてきた、あるいは今まで「切り離し」によって意識に触れることを防御していた感情を、「イメージを引き金にした感情」という通り道によって表現し、そこに「感情の膿」の圧迫による「現実と空想の逆転」をほどこし、感情によって足元からすくわれる強度を増すというものになります。

 

 ここにもう一つ、人間にもとからそなわる心の機能からの流れが合流してきます。

 それは「感情の強制」という心の機能です。

 これ自体は、健康な心にも存在する機能です。そして健康な心においても、「感情の強制」は、「イメージ」を活用することによって成されます。

 たとえばスポーツの試合に臨んで、自分の心を鼓舞します。悲しいことがあって涙を流していても、人前に出る時には、相手への配慮から明るい笑顔を保ちます。それぞれ、気合の入った自分を、気分の回復した自分をイメージして、それを型枠にして自分の心を押し出す、という感じ。

 人間の脳には多少そんなことが可能だという高度な機能があります。それを使うよう、人に促すのが「励まし」です。「頑張って」と。

 

 ただしこの「感情の強制」には、ストレスが伴うという難点があります。

 その結果、原則として長続きしません。「感情の強制」は、言わば心の無酸素運動です。全力で走る短距離走にたとえられ、それに比喩される通り、せいぜい数分程度に収めるのが心の健康には望ましいものです。まずそれを呼び水程度に使い、あとはごく自然な自分の感情に任せるのが、心の健康に良いことです。

 

 問題は、私たち現代人が、「なるべき自分」になるために、この「感情の強制」を使うことにあまりにも頼りすぎている人生を送っていることです。

 その結果は、子供の頃から良くない姿勢を続けていたために、骨が曲がってしまうようなことが起きてきます。

 これもやはり典型的な流れがあり、「なるべき自分」になれているという高揚した自意識の期間が人それぞれ多少あった後に、「なるべき自分」のための感情が湧き出なくなったという暗雲の感覚を境目に、心の障害の兆候が表面化してくるのが大抵です。

 次第に、自分への強制によって湧き出させようとする生き生きした感情は湧いて来ず、ストレスばかりが蓄積してきます。それに対する反発と抵抗が、生理的なレベルで起きてきます。生理的な抵抗感や無気力感です。

 それを再び、「なるべき自分」からの自己処罰感情で叩く、ということになるかも知れません。

 自己処罰感情を嫌い、「なるべき自分」を取り下げるという心の動きも起きてきます。ところがとんでもないことに、自己処罰感情のエネルギーだけは働き続けるという事態になることは、前章で述べた通りです。

 

 こうした「感情の強制」の過程全体が、自己操縦心性に取り込まれるということが起きます。

 始めは自分で意識して「イメージ」を使って感情の強制をしていたものが、やがて自己操縦心性によって勝手に描かれる「イメージ」によって、操り人形のように、自分に強制を加え、それに反発するという翻弄状態に向かいます。自らが自らに加えたストレスは、利己的で粗暴な他人と、その集団として構成される社会が、それに従わない自分を破滅させようとする脅迫のストレスと化します。

 

 この先の流れは、もやは詳しく追うにおよびません。あるのは、感情の強制自己像の破綻を繰り返す中で、内面はもはや「大混乱」の一文字のみとなり、あとは絶望的な必死さで自分を鞭打つか、強制への反発と抵抗の中で、自分を見捨てた社会への憎しみをつのらせるかという、「既定」とも言える流れに向かいます。

 

克服への方向性

 

 最後の結末の部分はきわめて短く書きました。実際は、これらの心理メカニズム過程の「感情内容」として、「愛」「自尊心」が交差してくるという様相になります。

 このあと、この2つの大きな感情テーマからの大局的な流れを、それぞれ詳しく説明していきます。

 

 ただし心が病むメカニズムの歯車は、前章とこの章で説明したものが基本的には全てです。多くの精神医学や心理学が注目するのは、主にこのあとの心の混乱によって社会生活や家庭生活が妨げられるほど深刻化した結末の姿です。そして沢山の「症状」を分類して、沢山の「診断名」をつける。

 しかし結末段階に注目しても、克服への糸口は何も見えないと私は考えています。

 多様な結末の前に、同じ一つのメカニズムが動いています。それが、「心が病むメカニズム」という、人間の心のメカニズムの一つの側面なのです。

 

 事実、心の障害が表面化した時に人が注意を向けるのは、幼少期という問題の始まりと、思春期に至り発動した心の病理だけです。

 しかしそれは病んだ心の表面に過ぎません。表に見えるそれら病理の歯車の回転を駆動しているのは、むしろ前章で学童期に進むものとして説明した、私たち人間のごく基本的な思考における歪みの方なのです。

 その最たるものが、「正しければ怒って当然だ」という怒りに頼る思考法、そして「正しい者が望む資格がある」という心の癌細胞、「望む資格思考」でした。それによって、人は「自らは望まない」という自らについた嘘の中で、情動の荒廃化へと向かいながら、もはや一貫性さえ失った「あるべき姿」をめぐるストレスと怒りの洪水に覆われていくのです。

 

 話をそこからの克服と解決への道へと移しましょう。

 

 まず間違った姿勢の典型的なものがあります。それはこうして病んだ心を、「こんな心では駄目だ」「こんな感情になっては駄目だ」「この感情を何とかしなければ」と考える姿勢の中で、心の障害を「理解して治そう」とする姿勢です。

 実はまさにそれこそが、心が病むメカニズムの最後の続きなのです。

 それがまさに、自分で自分を追い立て、そして自分から逃げたくなり自分を見失うという、全く同じことの繰り返しになります。そして絶望に至り、「こんな心になったのは親のせいだ」「いじめに遭ったから心が壊れたのだ」と過去への憎悪に駆られます。

 

 正しい克服への道は、何よりも、表面に現れる感情を良くしようと躍起になるのではなく、感情が起きるメカニズムを正しく知り、感情の大元になる思考法や生きる姿勢を変えていくと共に、病んだ心のメカニズムの歯車を回す原動力となったものとは全く異なる、「心の使い方」を知って実践することです。

 

 そのために、ハイブリッド心理学では「感情と行動の分離」という、感情はいったん内面だけにとどめ、行動は建設的なもののみにする姿勢を第一歩とした、体系的な実践を定義しています。

 これは、特に心の障害がなくても、全ての現代人の心の成長と幸福に役立つことができるものであることを、私は確信しています。

 

 一方、心の障害が深刻な場合は、さらに専門的な心理学的取り組みが役に立つでしょう。それは幼少期からの蓄積と変形によって、もはや自分自身でも何を感じ考えているのか分からないような心の紛糾状態を、感情メカニズム理論の助けを得て、ひとつひとつ解きほぐしていく実践になります。

 これは基本的には「精神分析」の取り組みになりますが、ハイブリッド心理学ではそれをより日常的な感覚で分かりやすいものにした、「感情分析」という実践を定義しています。

 

内面における「自己の再生」へ

 

 そうしたハイブリッド心理学の取り組み実践によって、全ての心の障害が根本的に治癒解決し得るか。

 

 言えるのは、ハイブリッド心理学はあくまで「自らによる心の成長」のための心理学だということです。心の障害の「治療法」つまり「療法」ではありません。

 「療法」という時、それは「療法」を「施される」者が「施す」者の言う通りにするということを指します。「こうすれば良くなりますよ」と、言われた通りに実践するのが「心理療法」です。

 

 ハイブリッド心理学はそのようなものではありません。あくまで、自ら考え、自らの意志によって、自らの心の使い方と、自らの人生の生き方を「選択」するための、手助けをするための心理学です。

 従って、どのような心の障害がどのように根本解決するかは、結局のところこの心理学に取り組まれる方自身が、自分の問題をどのように捉え、どうしたいかと考える、意志にまず依存します。

 

 それでも言えるのは、深刻な心の障害からの取り組みであっても、「自らによる心の成長」の先に、病んだ心が根本的に突破される、特別な現象があるということです。

 「現象」などという言葉を使った通り、それはもはや意識して「実践」することではありません。実践による「心の成長」が、意識努力を超えた心の深層において、病んだ心を根底からつき破り、病んだ心を崩壊させるような「現象」が起きるのです。

 これをハイブリッド心理学では「自己操縦心性の崩壊」と呼んでいます。

 この時、感情は良くなるのではなく、逆に深刻な悪化であるかのような姿を見せます。それは「完全なる絶望」とも言うべき状態です。

 しかしこれこそが、今まで心の土台となっていた病んだ心性を、心が根底から捨て去ろうとしていることの、意識表現になります。事実この感情悪化は、必ず短期間で終わり、そのあとに「脳の構造が変化した」としか考えられないほどの、開放感に満ちた「未知」の心の状態が現れます。

 

 私自身がそれを体験し、その詳しい描写を、『悲しみの彼方への旅』に小説化しました。

 また、この心理学に取り組まれている方々においても、すでにこうした体験を持つ方が出始めています。幾つかの事例を「実践編」で紹介します。

 

 実はこの「自己操縦心性の崩壊」という現象は、時折私たちが耳にする、人が死に直面することで根本的に生き方が変化するという話と、実に良く似た変化です。

 実は本質においては同じものではないかと、私は考えています。この心理学においてはそれを、現実の臨死体験という危険なしに、安全な心理学的な技術として追求します。

 つまりそれは内面における「自己の再生」です。一度今までの自己において死に、新たなる自己で生きるということです。

 

 これはあくまで深刻な心の障害があった場合のケースですが、この「再生」の視点は、それ以外でも案外多くの現代人にとって、「新たなる生き方」を模索する上で役に立つものなのかも知れません。

 

病んだ心から健康な心への道

 

 ハイブリッド心理学は、さらに深遠な領域へと考察を進めています。

 「再生」の根底には、「生」と「死」というテーマがあり、「命」というテーマがあります。そしてそれが「病んだ心から健康な心への道」に深く関わるものである時、全てが一つの連綿とした流れの中にあることが浮かんできます。

 

 それは「心」と「魂」というテーマです。人の心がこの世に生まれ、生涯を通じて変遷する中で、その根底に、私たちが目で見ることはできない、「魂」というものがあり、そのあり方に一貫とした「摂理」とも言うべきものが見えてきます。

 これは今まで、主に宗教や哲学においてのみ論じられてきたテーマですが、ハイブリッド心理学ではあくまでそれを、心のメカニズム、つまり脳のメカニズムとして考えます。そしてそのDNAに刻まれた「成長」の摂理に従うことが、心の健康と幸福への医学的な近道のようであるように感じます。

 「病んだ心から健康な心への道」における細かい実践の全てが、それに符号するものであることも、この心理学では見出しています。

 

 それは「愛」「自尊心」をめぐる、人間の魂の変遷と言えるでしょう。

 人間の心におけるこの2大テーマについて次に理解し、この「魂」の歩む道のりへの入り口としたいと思います。

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