心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

4章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−1  −魂が抱いた愛への願いと憎しみ−

 

 

心の問題の始まり

 

 「愛」は本来、私たちの心がそれによって満たされ、人生が豊かになるための、最も大きな感情であるはずだったと感じます。

 しかし人は現代社会において、「愛」を求めて自分自身を見失い、傷つけ合い、破滅する。「愛」はそんな心の罠のようなものにも見えます。

 この心の歯車の狂いは、一体どこで生まれたのでしょうか。

 

 事実「心が病む」という問題は、その全てが人間の幼少期における「愛への挫折」から始まっていると考えることができます。

 それは、大きな存在に優しい目で見守られ、温かい愛で包まれるべきであった自分が、現実にはそうではなかったという、「この世界に生まれたことにおける根源的な挫折」です。それが、もはや意識体験の許容量すら超えた恐怖とともに、この人間の心の底深くに置き去りにされたのです。

 それが、全ての問題の始まりです。

 

 子供の頃に親から適切な愛情を十分に受けなかったことの、心への悪影響は、すでに多くの心理学で指摘されています。

 また、心の障害に悩む多くの方が、「子供の頃に愛されずに育った」と語ります。それが、自分の心の問題の根深さを確実に示すことであるかのように。

 しかし問題の根はそこにあるのではないと、ハイブリッド心理学では考えています。

 真の問題の根は、「愛されなかった」と語る心の裏で、この人が自分自身を肯定できていないことです。

 つまり「愛されなかった」ことが問題なのではなく、それによって「自分自身を肯定できなくなった」ことが、問題なのです。

 

幼児期−愛されることが自己肯定であった心の世界−

 

 「自分は親に愛されなかった」。そう語って押し沈んだ表情にある人の、実際の心の中で動いている歯車はきわめて複雑です。

 

 まず結論から述べましょう。

 「幼少期」の「自他未分離」の混然とした心の中で、「愛される」ことは「自分自身を肯定する」ことを意味します。自分を愛する大きな目が「他人」だという意識はまだなく、それは世界が自分を愛しているということであり、「生」が自分を肯定しているということです。だからそれは自分が自分を肯定していることでもあります。

 そうではなく「愛されない」時、それは「生」における拒絶となります。拒絶してくるのが「他人」だという意識はなく、ただ自分が「生」において「拒絶された者」だという感情だけが、この幼い心に刻まれます。それは「誰」が「なぜ」自分を拒絶したという、「論理性」を持たない感情です。

 これが2章でも説明した「根源的自己否定感情」です。

 

学童期−愛されることに依存しない自尊心への歩み−

 

 大きな節目が「学童期」の始まりに起きます。3、4歳頃の、「自分」という意識つまり「自意識」の登場です。

 「愛」における最大の節目は、実はこの人生の極めて早期にあります。思春期ではありません。

 思春期は、この節目から始まった問題の切迫度が急激に高まり、この節目から始まる歯車の狂いが支えきれなくなり、心の障害が表面化するというだけに過ぎません。

 

 「自意識」の登場によって人の心に起きる、「愛」における最大の節目とは何か。

 それは「愛」と「自尊心」の分離です。

 自意識がまだない時、愛されることは自分を肯定することと同じでした。自意識の登場によって、自分を肯定できるかどうかは、愛とは別の問題としても存在し得るようになってくるのです。

 ですから、3、4歳頃の子供から、何でも自分でやりたがるといった行動が出てきます。愛され褒めそやされることによってではなく、競争して人に勝つことで自尊心を感じているらしい様子などが、見られるようになってきます。

 たとえばこの話を私のインターネット・サイトの掲示板に載せた時、読者の方がこんなことを書いてくれました。

 

 たまたま昨日、5歳の娘とカルタ取りをして遊んだ時に気がついたことがありました。

 私は札を読みながら取り札を探すのですが、そこは大人なので子供より先に見つけてしまいます。でも、わざと分かっていながら取らなかったりして、子供を立ててやろうとしていました。

 すると最初は得意になっていた子供も、それに気がつき、「ママもちゃんと取って!」と言い始めました。でも、圧勝しても仕方がないので、手加減しながらやっていました。

 で、彼女が札を取った時、私に聞くのです、「ママも見つけたのに私の方が早かった?」と。

「うん、うん。あっと思ったら、もうアンタが取ってたから、ママ悔しかった〜」と答えると、得意満面。

 ここから思うのが、「自尊心の獲得」は、「愛情の獲得」よりも自分で何かができるようになることに由来するのではないか、ということです。

 

 さすが現役のママさん、観察が鋭いですね、と私も同意した次第です。

 

 子供はまだしばらくの間は、愛に支えられることを、前に進むためには必要とするでしょう。しかしそれからの勉学やさまざまな活動が、愛に依存することなく自尊心を持てるという目標に向かっての歩みだと言えます。

 人間社会にはそれだけ学ぶべきことが山のようにあり、やがてこの社会において「優れた者」になれることが、身近な者から愛されることに代わる、自尊心のための大きな基盤になるわけです。

 

思春期−自立した自尊心への要請−

 

 「思春期」において、「自尊心」への要請が一気に高まります。「自立」という、脳のDNAに刻まれた課題が作用し始めることで。

 

 ここで、極めて重大な問題が起きます。「根源的自己否定感情」を心の底に抱え、愛されることによる自己肯定を見失ったまま生きてきた個人の心には、「愛されないと自己肯定できない」という心理状態が残り続けていることです。そこでは、「自尊心のためには愛が必要」です。

 

 一方で、脳のDNAは別の言葉を語っています。「愛されることに依存しない自尊心が必要」だと。

 これはもう完全なるバッティング状態です。愛されないと自尊心を感じることができないのですが、そんな姿がまさに新たなる自尊心への要請を損なったものになってきます。

 心を病むメカニズムは人間の心のメカニズムの一面であり、多分に全ての現代人が程度の差はあれそれを持っていることを考える時、多くの少年少女が思春期になって抱く心の混乱は、これに符合する話であるのを感じられる方は少なくないと思います。

 

 「愛」の問題は決して単独で見ることはできません。それは常に「自尊心」と絡み合い、その2つがおりなす綾の中にあります。それが人間の心なのです。

 

「愛情要求症候群」

 

 心を病むメカニズムが、「愛」のあり方に影を投げかける様子を、「愛情要求症候群」と呼ぶことができます。

 ここで「症候」とは、細かいメカニズムの話ではなく、表面に現れる主な特徴だということです。

 まずは私たちが一般に「愛」と呼んでいる人間の感情や行動のあり方が、心を病むメカニズムの中で何かの変形を帯びるらしいという、ごく心の表面に表れる現象を整理しておきたいと思います。

 

 それで言うならば、実は私たちがそれを病んだ心の兆候だとは全く考えないまま、ということは、それがあまりにも現代人において「普通」になっていながらも、真に健康な心における「愛」とはどうも異なっている側面が、「愛」という言葉によって語られていることを、ここで最初に指摘することができるかも知れません。

 それがまさに、この「愛情要求」という言葉で表現されています。

 つまり、「愛」が、「愛情を求める」もしくは「愛情が欲しいと感じる」というように、まるで金品を欲しがるのと似た構図での、「自分に与えられるもの」としてイメージされていることです。

 事実、現代社会の中で、多くの人々が、そうして「愛」を求めているのでしょう。事実それは比喩にとどまらず、「愛」が金品化している側面と、それによって成り立っている職業さえあるのが現代社会です。

 これが、「愛情要求症候群」の、いわば「基本症候」です。

 

 この基本症候がどのように病んだ心の歯車として位置づけられるのかは、「愛情要求」という複合語の表現ではない、根源的な「愛」をこのあと理解することで、同時に見えてくるでしょう。

 ここでは先に、この基本症候からさらに進んで、「愛」のあり方に病んだ性質が明瞭になってくる症候を、3つ説明したいと思います。「愛情要求症候」と呼ぶ時はこれを指すものとします。

 

愛情要求症候−1:心理的安定の「愛」への依存

 

 愛情要求症候の1つ目は、愛のあり方に病んだ性質が含まれているのを人がまず感じ取る、最も基本的な症候です。

 それは、心理的安定を「愛」に依存するようになる、という傾向です。

 逆に言うと、「愛」が得られないと心理的に不安定になる、という傾向です。

 

 これは積極形消極形という、2つのパターンで理解することができます。

 積極形では、それがないと自分が不安定になるものとしての「愛」を、その通りに自分が求めていることを積極的に認めて、「愛」を求める行動に出るというものになります。

 心の底流には「身を削るような寂しさと空虚感」が常に流れており、「愛」はそれを埋めて消し去ってくれる、魔法の薬です。

 さらにこの底流に絶えることのない自己否定感と自己嫌悪感がある場合、少しでも「自分が必要とされる」ことが救いの麻薬であるかのように、「愛してくれる」相手を求めて揺れ動くという姿になります。これが深刻に進むと、依存恋愛やセックス依存として人の目にも触れるようになってきます。

 消極形では、こうした愛情要求を自分から積極的に認めることはありません。しかし人からのちょっとした拒絶に出会うと、たまらない憂うつ感や苛立ちにおおわれてしまうという形になります。

 

 この、愛情要求の積極形と消極形という違いに注目しただけでも、これらの底に「自尊心」のベクトルが複雑に交差してきているのを推し量ることができます。

 消極形では、愛情要求を認めること自体については、屈辱感が伴うケースがかなりあります。それが心の中で抱く愛情願望を、他者へと表現することへの抑圧が生まれ、この人を愛から遠ざけることもあるでしょう。

 積極形では、外見的には比較的素直な愛情願望表現に見えても、内面においては屈辱を自ら踏み潰した「隷従」や、性的関係を求めて自暴自棄的に自分を「堕とす」という心の動きが起きていることを考えるのが、まずは正しい理解につながるように感じます。それがどこかで、一転して爆発的な憎悪が表出される火種になります。

 

 こうした心理傾向の内部感情メカニズムは、極めて複雑です。そのフルセットを展開することは、この本の目的ではありません。

 ここでは、治癒克服への取り組みにおいては、こうした複雑な内部感情メカニズムを一つ一つ丁寧に確認していく地道な作業が大切であることをお伝えしておきます。「感情分析」の実践がそれになります。

 

愛情要求症候−2:自己人格の相手依存

 

 愛情要求症候の2つ目は、愛のあり方が病んでいるというよりも、愛に向き合うことで、心を病んでいることが明瞭化する側面と言える症候です。

 それは、自分の人格のあり方を相手に依存するという傾向です。

 

 心の表面においては、それは思考や感情を相手に依存するという傾向に見えます。

 相手に対する自分の考えや気持ちを、自分で決めることができません。まず相手から自分がどう見られ、どう感じられているかを、示してもらうことが必要に感じます。

 相手への肯定的な感情を抱けることがこの人にとりどれだけ重要と感じるかには段階的ケースがあるとして、そのためにはまずもって相手から自分が肯定的に見られること、見られ続けることが、絶対条件になります。

 この結果、この人は相手に対して常に、「腹をさぐる」つまり本当は自分に否定的な感情を持っているのではないかという猜疑心に駆られるがちです。それをどう本人が自覚し行動化するかもケースバイケースです。

 

 こうした表面の下に、「人格の分裂」という病んだ心の問題があります。

 つまり、より根本的には、この症候においては、人は思考と感情を相手に依存するにとどまらず、自己の人格を相手に依存することになるということです。分裂した人格の中の、どれを選ぶかを相手に依存するような形に、まずはなるでしょう。

 

 本人はそのことを、まず自覚していません。自覚するのは治癒克服の取り組みへの入り口に立つ時です。

 自己人格を相手に依存していると自覚する代わりに、この人は、相手をいかに「信用できるか」という思考の課題のように感じます

 相手は、自分が「友好的で素直な自分」であり続けるのを支えるような、暖かい目を、常に自分に向けている必要があります。相手がこの「義務」をおろそかにして、自分とは別の友人と一緒にいたり、暖かい表情を一瞬でもやめたりすると、この人の心は疑心の暗雲におおわれます。

 そして「友好的な感情」は湧き出すのが困難となり、相手との関係が途切れがちになり、やがて相手から自分への好意が消えているのがはっきりしてくると、「裏切られた」と、憎しみに駆られるという流れが典型的なものとなります。

 

 こうした傾向が対人姿勢の全般におよぶと、この人は「人間不信」に悩むようになります。

 こうあるべきなのに・・。しかし人は・・。人間なんて信じられない。

 この思考は大抵、お決まりの言葉で終わります。こんな自分が大嫌いだ、と。

 ここでは、「善悪」の思考が「愛」に影を投げかけているのを見ることができます。

 「愛」はそこで、もはや命の純粋な輝きであることをやめ、硬い儀礼と化しています。

 

 その先に、人はしばしば、「愛とは何か友情とは何か」という難解な哲学的疑問を抱き始めます。

 やがて「愛とは相手を疑わないこと」などと考えて自分を律しようとしたりもするのですが、同時に、自分が間抜けなお人よしのようにも感じられて、孤独を選ぶ哲学へと揺れ動いたりもします。

 そして再び「人を信頼するとは一体どうゆうことなんだ」と悩むのですが、その問いに答えが出ることは、永遠にありません。問いが出るずっと前に、すでに道からそれているからです。

 そして、真の問題は「愛」ではなく、この人の「自己」そのものにあるからです。

 

「相手への人格依存」の底にひそむ「自己放棄」

 

 心の障害傾向が比較的深刻になった段階で、この「相手への自己人格依存」の一症候として、相手の思考をそのまま自分の思考だと思いこもうとする心の動きが、無意識のうちに出てきます。

 その内容は、ものごとの善悪、生き方や仕事の姿勢などの考え方、さらに趣味嗜好といった日常全般の思考にまでおよび得ます。

 

 この傾向自体が実際にこの人の対人生活にどう現れるかは、これもケースバイケースです。

 一方、それがごく僅かな範囲であろうと、それとも広範囲におよぼうとも、この傾向があるところにおいて共通して言えるのは、背景として人生の初期おそらく学童期の初期あたりに、「自己放棄」が起きていることです。本人によるこの自覚が、やはり治癒克服へのスタートラインとして重要なものになるでしょう。

 

 この「自己放棄」にも、主に「感情」の側面におさまるものと、「知性思考」にまでおよぶものと、多少ケースの違いがあります。後者の方が深刻度を増します。

 感情のレベルにおいては、「感情の切り捨て」になります。つまりこの現実世界を生きるにあたって自分の感情なんてものは誰にも大切にされないし、何の役に立つものでもないという、深い断念が成されるというものです。

 知性思考のレベルにおいては、「自分で考えることは無駄」と、知性思考そのものの広範囲な放棄が起きてしまうのが、最も深刻な話になるでしょう。自己内面の混乱を自ら克服する道が閉ざされてしまうからです。最も重度の高い「精神障害」は、この先に起きるのではないかと私は感じています。

 もちろん一般的な心の障害ではそこまで行かず、主に自分の人生の生き方を方向づけるための価値観や善悪観の領域において、自己独自の知性思考を築くことをやめてしまうという姿になるように感じます。

 すると、人が生きる上で極めて重要な「価値観」というものが、その人にとっては、「そう考えている様子を人に見せる」という、「飾り」のようなものに感じられてきてしまいます。その結果、自分で考え自分で決断することによってしか導くことのできない「自分の人生」と「自分の幸福」を、見失ってしまいます。

 

愛情要求症候−3:「病んだ幻想世界」という「愛」

 

 愛情要求症候の3つ目に至り、人はそれをはっきりと、「愛」の問題ではなく「心の病理」の問題として認識するようになります。

 しかしハイブリッド心理学では、まあ歌謡曲の台詞ではありませんが「それも愛」なのであり、むしろそこにこそ、心の病理が根本的に「愛」の中にあることが示されているものと考えています。

 

 その症候とは、他ならぬ心の病理の本尊とも言える「論理性の歪み」です。

 それは人の目に、人が愛を求め期待する感情と思考の全体を次第におおってくる、「現実から乖離した幻想的な論理性の歪み」として映ります。人はそれを、心の病理に巻き込まれて、愛をめぐる論理性が歪むのだと感じます。

 そうではありません。「論理性の歪み」そのものが、「愛」なのです。

 ここでは、そのごく表面の現象面から見ていきましょう。

 

 その最も鮮烈な表れが、たとえば町田市の女子高生殺害事件の犯人少年の言葉でした。「悪いことしてないのに無視されたから殺した」。

 「実践編」に事例として紹介する相談者の方からも、似たような言葉が私に伝えられたことがあります。「自分に無視される義務はないはず」だと。自分だけが人から親しくされないことへの怒りの中でです。

 ここでは、「論理性の歪み」とは、あまりにも一方的に自分に愛情や好意が与えられることが、「あるべき世界」として描かれているということと言えるでしょう。それは親と乳飲み子との間には成立したであろう関係が、成長後の現在の自分において今あるべきだという論理の構図が考えられます。

 その「あるべき世界」通りであることをしくじった他人への、激しい怒りと憎悪が湧き起っています。

 

 「論理性の歪み」が深刻化するもう一つの方向性が、「幻覚」や「幻聴」といった重度の心の障害症状でした。

 そこでは「現実覚醒レベルの低下」が重篤に起きており、実際のところ起きながらにして夢の中にいるような事態が考えられます。

 一方その「夢」の中で描かれるものとは、現実的な論理性をすべて取り払った先にある、幾つかの感情の象徴のように思われます。それはやはり親と乳飲み子との間にあるような「愛」であり、それを損なった世界への「憎しみ」であり、「全く相互理解不可能」な「異形なる他人」といったものです。

 そこには、心の障害の原点としてこの心理学が考える、自他未分離世界から分離世界へと意識が変遷する過程で起きた、「生から受けた拒絶」という悲劇の構図が見えてきます。

 

 病んだ心が抱く憎しみの先に、愛を求める乳飲み子のような心理が見えます。これはバージニア工科大銃乱射事件のチョ容疑者のような姿においても同じです。

 まだ自分と他人の区別さえ良くできていないような、人生のより早期の段階において、彼の心の問題がいわば「固着」していたからこそ、彼の憎しみは世界の無差別な人々に向けられたのです。

 

人間の心の起源へ

 

 なぜこのようなことが起きるのか。

 この考察は、人間の心がどのように成り立つのかという起源へと、私たちの関心をいざなうように感じます。それは同時に、「愛」の起源へのいざないでもあるでしょう。

 

 私にとってこの問題がはっきりと整理の対象になったのは、2004年の夏頃のことでした。

 それまで、2002年にこの心理学を整理し始めた私にとっても、「愛」はまだ「相手への肯定的感情」という漠然とした一くくりで捉えるものでしかありませんでした。

 これは私自身が「愛」についてまだ人生の途上だったという背景もありました。私はこの心理学を、私自身そして他の人々の実際の「人生の体験」だけを実証として構築しています。

 やがて私が私自身の愛のあり方を模索する中で、全力を尽くしてそれに向う歩みが、私の心を成長させ、今まで見えなかったさまざまなことが見えるようになってきました。

 

 そんな中、2004年の夏、私はある深刻な人格障害傾向を持つ女性への、メールを主に使っての濃い援助体験を持つことになりました。

 その中で、私はさらに私自身の中の未知の愛の感情に出会い、この愛の起源の謎を解く、一つの奇跡のような日々を体験することになったのです。

 

「愛」とは何か

 

 「Y子さん」としておきましょう。

 彼女は結婚生活に心を満たされぬまま、他の男性との恋に落ちていました。それは運命的な恋として彼女の心に映る一方、その男性のちょっとした冷たい言葉などを前に、彼女の心は激しくバランスを崩し、破壊的な憎悪によって見境がつかなくなるいう問題を起こしていたのです。

 それは相手との関係のみではなく、彼女の家庭、そして彼女自身の人生の全てを、危機へと陥らせていました。

 

 当時の私には、自分の心理学が心の障害を解決し得ることへの過信が少しあったと感じます。「ハイブリッド心理療法」なるものを掲げ、いずれ新進の心理カウンセラーとして社会に打って出る自分。もちろん今はそんな気分もなく、この心理学をもう「心理療法」とは呼んでいないことは、前章でお伝えした通りです。

 そんな野心ともつかぬものを背景にしてかしないでか、私はY子さんを救うことへの情熱に駆られました。Y子さんも、すぐに私の言葉を神の声として慕ってくるようになります。この頃私はかなりの結婚願望を抱いていたこともあり、それは次第に、この私自身にも良く似た感性を持った女性への、個人的な異性愛の感情さえ抱かせるに至ったのです。

 ここまで濃い援助体験を持つことは、この先にも後にも、もう私の人生にはないでしょう。のちに私がこの心理学から「心理療法」の名を取り外したのも、実はこの援助体験での「失敗」を踏まえてのことで、彼女への援助が終わろうとした日のことでした。

その時私ははっきりと感じたのです。これは「療法」などではないのだ、と。

 

 カウンセラーの立場を明らかに越えた私の感情は、私に、彼女の人生そのものを引き受けてもいいという覚悟さえ抱かせていました。男性との決別も選択肢に含まれる状況だ。どうせ依存するのであれば、僕に依存してもらうがいい。私はその気持ちを彼女に短い言葉で伝えます。

 期待とは裏腹に、彼女の心はさらに深くバランスを崩しました。

 Y子さんと私が強く連携した歩みに向かったのは、実はそこからでした。

 私は自分の間違いに気づいたのです。彼女の感情は、依存恋愛ではないと。それは私自身が、私自身の心の闇の世界から、今のこの明るい世界に戻ってくるまで、遠く輝く一点の恒星のように私を導き続けた愛と、同じものだったのです。それは明らかに真の愛でした。

 私はそれについて電話も介して深くY子さんと話し合い、やがて私自身がY子さんの心の一部となるかのような、二人三脚による彼女の問題の克服への歩みが始まったのです。

 そしてある日、「心の大手術」とも言うべき出来事が訪れます。Y子さんの心のベールが()がされ、彼女の中の心の罠と、彼女の中の無垢な魂の戦いが繰りひろげられます。

 それは同時に、私が「愛」の謎を解く時となりました。

 

 そもそも「愛」とは一体何なのか。納得のいく説明を、人生で読んだ記憶がありません。それはただ実際の人生だけが、私にその答えを教えてくれるものでした。

 世の人が愛について説明する時、それはまるで「愛」そのものではなく、愛が実現したらしい「姿」を描いた絵の話をしているかのようです。それは優しい表情で乳飲み子を見守る母親の表情であったり、愛し合い見つめあう若く美しい男女の姿であったり、溢れる笑顔で手を取り合って歩いている家族の姿であったりするかも知れません。

 しかしそのどこに、「愛」があるのでしょうか。見つめあう、うっとりとした感情が「愛」なのでしょうか。その絵のような「あるべき姿」を演じようとする、律儀な感情が、「愛」なのでしょうか。

 

 この「愛」の謎解きは、「愛とは何か」について、Y子さんに説明する長いメールから始まりました。

 同時にその中で、私はY子さんに、私自身がY子さんに新たに抱くようになった「愛」も、そのまま正直に伝えることにしました。彼女を支えるために、ではなく、彼女に彼女自分の誤りを気づかせるために、です。

 なぜか今、これを打つ私の目にも涙が流れてきます。

 

 愛とは一体何だったのか。その起源へと遡りたいと思います。

 

愛の起源

 

 「愛」とは、「一体化」への感情です。

 

 これが定義です。お互いが同じ感情を感じ、同じところにいて、ひとつになること。

 これは身体的なものから精神的なものまでへと至ります。スキンシップ、セックス、たわいないお喋り、スポーツにおける一致団結、難しい課題への共同作業、エトセトラ。

 その全てが、一体化することそのものを志向する感情において、愛です。

 

愛の種類

 

 そうした「愛」の感情において、「真実の愛」と呼べるものに、およそ3種類があることが、すでに私には分かってきていました。

 ここで「真実の愛」とは、相手がその相手であることにおいて無条件にそれだけを目的にし、他の目的はないことにおいて、「真実の愛」と呼べるでしょう。

 逆に、相手がその相手であることにおいてではなく、他の条件を目当てにして抱かれる愛は、あまり真実の愛」ではないということになります。

 私はY子さんへのメールで、真実の愛の種類について説明し始めました。

 

 「真実の愛」の一つは、「異性愛」の中に見出されます。

 これは「種の保存」のために生まれたものと言えるでしょう。子供を産むために、まず異性愛というものが作り出された。

 そうした真実の異性愛として、まるで闇夜に浮ぶ月を見つめるように、生きることの全てをその愛に向けるような、「月光の愛」とも呼べる感情と、明るい日光の下で、誰にでもおおらかに笑顔を向けることのできるような、「ひまわりの愛」とも呼べる感情があります、と。僕は今前者から後者へと移ってきた感じですねと。

 

 「真実の愛」のもう一つは、「子供への愛」です。

 私はこの頃、これをとても強く感じるようになっていました。小さな子供を見ると、可愛くてたまらない気持ちになるのです。

 以前の私は、自分の「人格の欠損」を感じて恐がるだろうからと、むしろ自分から突き離すような感情を小さな子供には抱いていました。この「子供への愛」という未知なる感情の出現が、何よりも私に私自身の変化を自覚させていました。

 「子供への愛」もやはり、人間の心の発達における、「種の保存」という目的の支配力の下にあるように感じます。

 

 「真実の愛」の3つ目は、「異性愛」と「子供への愛」のような「強い一体化」を志向するものではなく、「緩い一体化」への感情になります。

 これを「普遍の愛」と呼んでいます。

 この世界で愛するさまざまなものへの感情として、心に普遍的に流れるような愛の感情です。「友情」は主にこの中に属する愛情のように私は感じています。

 先の2つの愛が、双方向の「密結合」であるのに対して、この愛では片方向での「疎結合」だと言えます。ですから重要なポイントとして、この「普遍の愛」では「自由」が確保されます。先の2つの愛では、多分に「自由」が奪われます。健康な心においても、しばしば自分自身の自由と両立できないことがあります。

 先の2つの愛では、「あなただけを愛しています」という言葉が成り立ちます。「普遍の愛」ではこの言葉はありません。その代わり、「みんな愛してる」とは言えるということになります。

 

 さらにもう一つ、それらとは異なる、真実の愛の感情があります。

 それが、今僕がY子さんに向ける愛です、と私は説明を続けました。

 

「傷ついた者への愛」

 

 もう一つの真実の愛。それは「傷ついた者への愛」です。

 

 私はその頃、寝ても覚めてもY子さんの心のことについて考えていました。今どのような心理状態にあり、何をどう考えてもらうのがいいのか。

 この日の朝、目覚めた私は、前日夜に彼女に送った、これからの心の姿勢について説明した長いメールを、寝床の中のまま何度も何度も読み返さずにはいられませんでした。3回も、いや4回も。

 やがて私は、声を出して泣き出していました。今の自分にとってはもはや容易に乗り越えられるであろう混乱と葛藤であっても、まだ全く弱い彼女が、今その中にいる。その苦しみが、まるで水晶に映される映像のように、私の心に響いていました。

 

 しばらく涙を流し、やがて落ち着いて考えると、これは私自身にとって不思議な体験でした。自分が声を出して泣くなんて、一体いつ以来のことだろう。この気持ちは何なのだろうと考えました。

 それは間違いなく「愛」でした。

 これはどう考えても愛です。まるで同じところにいるように、まるで同じ人間であるかのように、僕にはY子さんの心が響いてきます。僕の心はY子さんと一緒にいるのです。僕の心がそれを求めています。

 

 しかしそれは、「強い一体化」を目指す他の2つの愛つまり「異性愛」と「子供への愛」のどちらとも違う愛でした。

 私はこうした「援助」や「救助」の人間行動を、最初は漠然と、弱いものつまり子供への愛の薄いバージョンかと考えました。多少ここには異性愛的な感覚も混入しているか、と。

 しかしその時私の中で明瞭になった「愛の感情」は、もはやはっきりと、他の愛とは違うものであることが分かってきました。

 

 それを一番特徴づけたのは、「愛しています」という言葉がそこでは全く成立しないことでした。

 この愛において、その言葉は全く意味を持たないのです。それが不思議に思えました。

 他の愛では、「愛しています」と言います。男女の間で。親子の間で。

 この愛では言わない。なぜか。

 それは立っている相手に対して言う言葉だからです。こんどの愛は、立つことができなくなっている者への愛です。だからそこで「愛しています」ということは意味がないのです。

 私はメールに、Y子さんを思い浮かべてまた涙を流しながら書いています、と添え、説明を続けました。

 

 この愛も、一体化を志向しています。でもそこで行うのは、対等な一体化ではありません。僕は、Y子さんの中に入っていくのです。そしてY子さんの治癒への力になるのです。愛していますという言葉が意味がないのはそのためです。

 これは「傷ついた者への愛」です。これは人間の真実でした。相手が何を満たすかどうかは何もありません。無条件の愛です。

 

 私はそれについて、『ウルトラセブン』のある一話を思い出したことを伝えました。原因不明の難病に苦しむ女性。実は宇宙から来た微小怪獣によるものだった。ウルトラセブンは目に見えないほどの小ささになって、女性の体の中に入り、自分の命を投げ打って微小宇宙怪獣と戦う。

 ウルトラセブンが勝って、女性が目をさます。立っている諸星ダンと目が合い、不思議な愛の確認が一瞬流れます。そんな愛ですね。微笑むY子さんの姿が浮びます。

 

 こうして、「一体化」へのもう一つの愛が確認できました。

 その時、私には謎への糸口が見えてきたような気がしました。

 なぜなら、病んだ心の中で、人はこの「傷ついた者への愛」を見失うからです。そして傷ついた者へ、さらに容赦ない怒りを向けるのです。傷ついた他人に対して。そして傷ついた自分自身に対して!

 

至上の愛

 

 人はなぜ、病んだ心の中で、「傷ついた者への愛」を見失うのか。この答えは、「月光の愛」「ひまわりの愛」「子供への愛」「傷ついた者への愛」という4つの愛について、漠然と色んなことを考えているうちに近づいてきました。

 私はY子さんに問いかけるように続けました。

 

 この4つの愛の中で、どれが最高の愛だと思いますか。

 僕は「子供への愛」だと思っています。自分が健康な心になって見出した、とても確かな感覚として。

他と質が違うんです。

 どう違うか。他の愛では「自分」が残っているのです。

 2つの異性愛もそうです。「自分」と「相手」との一体化。傷ついた者への愛も。「相手」の中に「自分」が入る。他にも傷ついた者がいたら、少し手を休めてそっちも見なければいけない。「自分」を失うわけにはいかないんですね。

 でも相手のために自分を投げ出すエネルギーというのは大したものです。僕もこの数日、ちょっと体内が変化している感じがちょっとありました。睡眠時間が短くなってるのに全然影響ない感じ。災害救命隊の人が一日1、2時間しか寝ずに何日も救助作業を続けるのを関心して見たことがありますが、何か分かった気がします。それに比べりゃ楽なもんですが。

 

 「子供への愛」では、「自分」が完全になくなるんですね。

 自分が宇宙になって子供を包むんです。

 子どもが宇宙の中心になるんです。

 

 他の愛では、どこかに自分が残る。最後には自分を守らなければならないんですね。「子供への愛」は違います。自分は子供の宇宙なのです。子供しかいない。自分はその宇宙。

 他の愛では、相手の命が失われそうなときに、自分も同時に命を失う危険がある時、相手を救うか自分を救うかという、選択肢が出ます。人がどっちを選択するかによってドラマがありますね。

 でも「子どもへの愛」においては、その選択肢はないんです。なぜなら自分は子供の宇宙だからです。

 実際のところ、こうした「子どもへの愛」を持つ親がどれだけいるかは、もう言及するまでもない悲劇的状況です。

 

問題の始まり

 

 私の中で、謎が解け始めます。私は引続きY子さんに語りました。

 

 問題は、人間の心のメカニズムにおいて、子供は、この愛を求めている、ということです! そしてそれが満たされることを求めているのです。

 そして本来、それは満たされていたのが自然な人間の姿だったわけです。

 そうして自分の足で立って歩く力の中で、人生への能力をつけていく。

 

 人間が「子供への愛」を見失った時、全ての歯車が狂い始めました。

 子供は、自分が宇宙で見放されていると感じます。一面に広がる、世界への不安。「なりたい自分」が「なるべき自分」へと緊迫度を高める一方で、いっこうに育たない人生への能力。なるべき自分になれそうもない自分。現実がズレている。

 やがてこの現実に三下り半をつきつけ、空想の世界を(あるじ)とする人生の危機回避システム、「自己操縦心性」が発動します。

 

自己操縦心性がついた嘘:「宇宙の愛」と「真実」の差し替え

 

 ここで結論を言うことができます。

 病んだ心の中に見られる「論理性の歪み」とは、愛が「宇宙の愛」であるべきだという論理です。

 

 「愛」とは、自分を宇宙の中心にしてくれるものです。それが大人になった今の自分において、あるべき世界だという幻想的な論理が描かれます。

 しかしそれはもう現実に与えられるものではありません。与えられるのは、それぞれが対等な「自分」を持った世界の、限定つきの愛でしかありません。

 

 この幻想論理は、人が誰でも自分の親だなどということはないという現実を保ちはします。

 その代わりに、この人の空想世界に、極めて独特な幻想的感覚をつけ加えます。それは、人の目と心が自分を取り囲んでいるという感覚です。

 あたかも他人は、自分のことを思うためだけに存在するかのようです。それが必ずしも愛や賞賛などの肯定的感情に限られる必要はありません。彼彼女を嫌い、非難し、糾弾することでさえもが、この幻想世界においては、他人が自分のために存在しているという論理を描くために、必要となるのです!

 さらにこれはこの者が今現実において得る可能性を残された、最後の「真実の愛」に「適合」します。それは「傷ついた者への愛」です。

 

 やがてここで「愛」とは本来別のルートから来る、人間にとって決定的に重要な感覚が合流し、逆手に取られるようです。

 それは「真実」という感覚です。

 

 相手が自分のことだけを思い、自分のためのことだけをするのが、「真実の愛」になります。

 つまり、「宇宙の愛」が真実の愛です。相手がほんの僅かでも、相手自身のための「自分」を持つ愛は、「真実の愛」ではない。

 自分はこの「真実の愛」を知る、この汚れた世界に生きる一りんの白百合のような高貴な存在なのだ。

 

 ただしこの者がすでに大人である時、それは真実ではありません。

 ここに、「自己操縦心性がついた嘘」があります。

 

 そして「自分は真実を知る」という感覚がこの人の自尊心と結びつきます。

そしてこの人の自尊心への衝動は、「情動の荒廃化」の過程によって、すさんだ攻撃性を帯びています。

 ここに、ターニングポイントが生まれます。愛を求め、現実の中でその不完全さに出会った時、愛はは荒廃化を帯びた破壊的憎悪へと切り替わります。

 

憎悪の源泉

 

 憎悪の根源は、さまざまな要因が重なり合っています。

 

 「憎しみ」とは、「自分を苦しめ続けるもの」への、破壊的な復讐への衝動です。

 そして現にこの人生において苦しみを抱え続け、そこから抜け出すすべについて無知なままでいる時、この人の心は、憎悪の弾薬が減ることなく用意された倉庫を持ち続けるようなものにならざるを得ません。

 

 「苦しみ」は複合的に生まれています。その最大の源泉は、他ならぬ彼彼女自身が自らに加えている「望みの停止」と「自己処罰感情」の拷問に他なりません。

 心の問題の状況が深刻であればあるほど、「望みの停止」はより深刻になり、それが生み出す「情動の荒廃化」の加速によって、自らに向ける自己処罰感情の残忍性も増すことになります。

 その結果、「望みの停止」はあらゆる自分の願望の圧殺とも言える、文字通りの窒息状態のような苦しみをもたらします。「自己処罰感情」は次第にはっきりと、自分自身に身体的攻撃さえ向ける「自虐」「自傷」の様相を示すようになります。

 「苦しみ」はそのように、心が病む過程を生み出した元の問題の強さに応じて、引き起こされるメカニズムの内部相乗によって、一気に「累乗的」に膨張してしまいます。

 

 他ならぬ自分自身が自らを苦しめていることを、漠然と感じもします。しかし彼彼女は他人への憎しみを抱かざるを得ません。

 なぜなら彼彼女を苦しめる最大の要因である「望みの停止」が深ければ深いほど、彼彼女は「自らは望めない」存在となり、「他人を通して望む」ようになるからです。

 その結果、彼彼女の苦しみも、「自らの望みの停止」によるものではなく、「他人のせいで望めない苦しみ」になるのです!

 

 この身勝手な論理転換を、実は彼彼女の心の底は自ら咎めています。まさに心の底が行なった操作なのですから。しかしこの自己への咎めも、彼彼女がこうむる苦しみの度合いに追加した上で、ふたたび同じ感情の歯車が回るに過ぎません。

 全てが他人のせいです。自分のことを自分の問題として考えられなくなった、壊れた心になったのも他人のせいです。そうして苦しんでいるのも、全て、他人のせいなのです。

 バージニア工科大銃乱射事件のチョ容疑者が、「全てお前らがこうさせたのだ」と言ったように。

 

 もう一つ、憎しみを捨てることが難しくなる、現実的要因がしばしばあることを指摘しなければなりません。

 ります。それは彼彼女が現実において来歴で体験した虐待体験や「いじめ」などの屈辱体験です。

 

 彼彼女は、全ての他人が人を傷つけることに快感を覚える、残忍な悪意の持ち主だと感じます。それが彼彼女の心に「ありありと」感じられる部分において、それは実は現実ではなく、心のメカニズムです。彼彼女自身の「情動の荒廃化」が、反転して他人に映されたもです。

 しかし現に彼彼女は他人の悪意による苦痛をかつて味わっているのですから、そうした幻想と現実の違いを見分けることができません。

 心を病む過程が深刻であればあるほど、それを自分の内面の問題として認識することへの抵抗が強くなり、他人の悪意は「事実」だという考えに執着することになります。

 

 こうした「憎しみの膨張」の心理メカニズムは極めて複雑であり、さらに多数の要因が絡み合って、「人への憎しみ」そして「ニセの愛への憎悪」という感情に終結する傾向があります。

 この全てを十分に解説することも、やはり本書の目的ではありません。病んだ心から健康な心への道における、そのスタートラインの概要を理解するという目的のためには、このくらいで十分でしょう。

 

真実への復帰へ

 

 私がY子さんに送ったメールでの説明は、「宇宙の愛」と「真実」の差し替えという病んだ心のメカニズムまでを中心とし、そこにもう一つ、Y子さんがその少し前に私に伝えたある疑問への答えを伝えるものになりました。

 その疑問とは、彼女が恋人男性の前でバランスを崩し、破壊的な衝動をほとばしらせた時、恋人男性は今までの間柄では考えられないような、怯えた表情をしたと言うのです。彼女には、それが許せませんでした。

 

 それは彼のY子さんへ愛がその時、「傷ついた者への愛」だったからです。

 この愛は、自分は無防備になって相手を救おうと、相手の中に入っていく愛です。ウルトラセブンがそうしたように。

 ここに一つの危険が生まれます。もしそうして救おうとした相手が本当に「傷ついた者」ではなく、この状況の全体が実は一つの罠だった時、この者は救おうとした相手によって逆に殺される危険が出てきます。

 これに対する恐怖を、精神分析では「飲み込まれる不安」と呼ぶことがあります。

 彼の場合もその時、この心理が働いたのかも知れません・・。

 いずれにせよ、Y子さんは一度、この「自己操縦心性のついた嘘」と手を組んでしまっていたわけです。

 

 全てはここから始まります。これからの歩み先を決する時です。

 私はメールの最後で、それを伝えました。

 

・・(略)・・

もうY子さん自身の選択が見えてくる時です。

つまり、これからの人生を、この「自己操縦心性の嘘」と手を組んだまま生きていくのか、それとも現実を受け入れて生きていくのか、です。

はっきり言います。空想通りになれることを世界に要求して生きるのか、不完全な人間としてこれから地道に成長して生きていくのかの選択です。

 

もうイメージ通りにY子さんを運んでくれる愛は、どこにもないのです。

まず自分自身への、傷ついた者への愛を受け入れ、自分をいやすことからです。

そして自分に向けられる、傷ついた者への愛を、有限なものとして受け入れていくことです。

 

そして自分の足で、傷ついた今の状態から、歩いていくことです。

その方法がちゃんとあります。それで幸せになっている人が沢山います。僕もそうです。歩き方を教えていきます。

 

 Y子さんは、大きな涙の中で私の言葉を受け入れたことを伝えてきました。今、ここに真実を見ます、と。

Y子さんの新たなる歩みが、ここから始まりました。

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