心の成長と治癒と豊かさの道 第3巻 ハイブリッド人生心理学 理論編(上)−心が病むメカニズム−

5章 「愛」と「真実」の混乱と喪失−2  −心の真実への断片−

 

 

全ての根源へ

 

 視線をさらに根源へと向けたいと思います。

 今までの話を少し整理します。この章ではまず「愛情要求症候」として、「心の安定の愛への依存」「自己人格の相手依存」そして「論理性の歪みという愛」という表面が見られることを説明しました。

 その先に、人間の愛の感情の起源を遡った時、「子供への愛」として人間の心のDNAに刻まれていたであろう、「宇宙の愛」という全ての根源が見えてきます。

 その時、私たちは「人間の心の病」というものへの、一つの確固たる視点を抱くことになると感じます。

 それは、人の心がその出生の来歴において願ったものへの、挫折です。

 

 それを見据えた時、私たちの心に、「心の障害とは、愛なのだ」という深い感慨が流れるように感じます。

 それを解くための、決定的な視点を説明しました。「真実」と「要求」の差し替えです。

 「宇宙の愛」こそが、今あるべき「真実の愛」なのだ。自分はそれを知る高貴なる人間だ。

 この差し替えの中で、本当の「真実」が失われていきます。ここでの本当の「真実」とは、「傷ついた者への愛」です。この真実によってこの者を本当に救うことができるのは、この者自身です。

 

 「真実の混乱」という病んだ心の衣を取り去った先に、全ての根源が純粋に見えてきます。

 それは、魂が抱いた愛への願いと、その挫折への悲しみと、そして憎しみです。

 

魂が抱いた愛への願いと憎しみ

 

 ハイブリッド心理学が見出した「心の治癒と成長」は、文字通りその大きな2面からなるものです。

 「治癒」は、「病理」が解消される側面です。

 「成長」は、人間が元から持つ本性における成長の側面です。

 ハイブリッド心理学が見出した「病んだ心から健康な心への道」は、「治癒」だけでは成り立ちません。ではそこにおける「成長」とは何か。

 「健康な心における成長」ではありません。それが一度失われたことを原点とした成長に、この心理学では取り組んでいます。

 「治癒」が成される時、それはもはや「病んだ心からの成長」でさえもないように私は感じています。

 それは、「人間の心」という「(ごう)」からの成長なのだ、と感じます。

 これが、ハイブリッド心理学の最大の主題です。

 

 この章で解説した「真実と宇宙の愛の差し替え」という論理性の歪みの病理は、心の障害傾向が深刻なほど、「感情分析」という特別な内面取り組みを必要とした上で、遅かれ早かれやがて解かれます。それが同時にこの人の治癒成長への転換になるのは、比較的問題が軽いケースです。

 問題が深刻であればあるほど、病理が解けることが必ずしも問題の解決には直結せず、そこに、もはや何の論理的偽装もない、愛が奪われたことへの純粋な憎しみの存在が見えてきます。それは「真実の憎しみ」です。

 私たちはそこに、真の問題の根源と、人間の心の病というこの業の克服という、深遠なる目標を見ることになります。

 

 ハイブリッド心理学では、その克服への道を見出しています。

 その説明は、この『心の成長と治癒と豊かさの道』シリーズの全てがそれであり、中核となる考え方を『理論編下巻 −病んだ心から健康な心への道−』にて示すものになります。

 それはこの問題の終結を告げるものではなく、むしろ人がこれからどのようにそこに向い得るのかという、真の課題の始まりとなるはずです。

 これは、そのプロローグと言えるでしょう。

 

 病んだ心の全ての断面の底に、魂が抱いた愛への願いと憎しみがあります。

 そこからの回復と成長とは、どこにあるのか。

 ここでは、それを示唆する断片的な話を幾つか紹介して、「愛」についての章の絞めくくりとしたいと思います。

 

心の真実への断片

 

 3つの話を紹介します。

 1つ目は、「怒りに変わる愛」。これが全ての根源です。これがどれだけ根深いものであるのかを、動物学の観点から考察します。動物の場合、それはやや救いのないもののようにも見えます。人間においては、「変化」への柔軟性が道となるでしょう。

 「入門編」で言ったように、閉ざされたのは「愛」ではなく「変化」なのです。

 2つ目は、「魂の望みに還る」。これが「変化」の入り口です。

 3つ目は、「魂の浄化」。これが「変化」の出口です。

 

心の真実への断片−1:怒りに変わる愛

 

 最初の話は、「怒りに変わる愛」です。

 これがすでに動物においても見られるという話です。ここではを取り上げています。

 人の心が病む来歴においては、それと同じことが、幼少期の自他未分離意識の中で起きている。これがハイブリッド心理学の考えです。それが早期の自他未分離意識の段階で起きているほど、心の障害の病像は重篤になることが考えられます。

 人間の脳は、もちろん、猫よりも遥かに柔軟性と変化への能力を持ちます。私はそれについてかなり楽観的な考えの持ち主です。その理由となる脳の仕組みについても、ここで若干触れています。

 紹介するのは、男子大学生の読者の方からの相談と質問への返答で書いたもので、「怒りの完全放棄」についての質問に答えた部分です。

 

 「憎しみの放棄」そして「復讐の放棄」は、人類の歴史において決着のつかないまま拮抗を続ける、永遠の課題のようにも見えます。

 まず、なぜそこまで「憎しみの放棄」が難しいものであるのかの説明を最初にしています。それは「怒りに変わる愛」という根源を前にして、「怒り」ではなく「愛」を選ぶということです。しかしそれが実に難しい。

 なぜなら、その「選択」に臨んだ時、選択肢の片方である「怒り」は現にそこに見えるのですが、選択肢のもう片方である「愛」は、まだその選択の時点では見えないからです。

 この見えないものを見る目が、これからの人類の課題になるのでしょう。

 

■「怒り」だけが見える状況での「怒りの選択」という隘路

 

なぜそれが人間の心の究極命題として、人類の歴史を通してあり続けるのかというと、その命題が問われる時というのは、実際のところ「怒り」がすでに生まれた状況においてだということです。

 

つまり、「怒りを取るか捨てるか」という命題とは、何らかの価値を持つものとして目の前に今実際にあるものと、それを捨てることで今は見ることのできない別の価値がいつか生まれることへの望みという、あまり対等ではない「選択」になるということです。

 

ですから、「怒りを捨てる」ことは、とても難しい。これが人間の心の現実だと思います。

そういった、人間の心の全ての側面を全て見通して、「選択」をするのがいいでしょうということまでが、ハイブリッドとして言えることです。あとは「選択」はもう自由です。

 

■「愛」によって生きる動物と「自由」によって生きる動物

 

選択は自由として、あとは動物学的な参考の話を言うことはできます。ハイブリッドは動物学の視点をすごく重要視しており。

基本的に、その種のDNAに沿った生態様式が、幸福への近道だという考えです。DNAの設計に反した生き方をすると何かと気分よくないことに囲まれると。

 

ここでの話においては、基本的に動物は2つのグループに分かれると考えています。

愛によって生きる動物」と、「自由によって生きる動物」です。

「愛によって生きる動物」にとっては、「怒り」は基本的に不幸なものです。「自由によって生きる動物」にとっては、特にそうではない。

 

「愛によって生きる動物」の代表は、です。仲間を失ったり、飼い主に見捨てられた犬は、とても不幸です。

 

「自由によって生きる動物」の代表は、森林で生きるです。大きななわばりを持ち、他の個体に出会うことはめったにありません。それはむしろ一つの緊急事態を意味します。

 

この中間型の代表は、です。代表というか、僕の知る範囲では猫がこの点特殊です。

 

■怒りに変わる「愛」

 

ちょっと話が膨らみまずが、動物番組が好きで、『志村どうぶつ園』を毎週録画して見ているのですが、「動物と話せる女ハイジ」というコーナーで、ある飼い猫が登場したものがありました。

 

その猫を飼っている家族の中で、ただ一人高校に入ったばかりの少年が、急にその猫の攻撃に合うようになった。それは少年が高校入学と同時に下宿住まいとなり、その家を離れ、2が月してまた家に戻った時、突然始まりました。

 

前にも可愛がっていたその猫に、「元気だったか〜」という感じで前と同じように抱こうとした所、爪を立てて腕を思いっきり引き割かれ、十数針を縫うという大怪我をしたのです。その後も、その少年の姿が見えたとたん、その猫は毛を逆立てた凶暴な姿に豹変し、襲おうとする始末。少年以外の家族はもとより、来客にも穏やかな様子にもかかわらずです。

で、どうしてなのかどうしたものかと思いあまり、番組の「動物と話せる女」コーナーに助けを求める手書きを出し、ハイジの登場となったわけです。

 

その時の映像が流されていましたが、実際その時の猫の様子は、今までいろんな動物を見てきた僕にとっても、始めて見る不思議なものでした。

 

檻に入れられた猫の入る部屋に少年も入ってきたとたん、その猫はうなり声を上げ、少年がハイジに挨拶しようと、檻の横に座ると、すかさず腕を一生懸命伸ばし爪を立てて少年の足を引っかこうとします。少年が慌てて離れる。

 

それはあくまで敵を相手にして怒り攻撃する姿なのですが、通常なら、その敵が消え去ること目的としたものになります。

その猫は違いました。自分から近づいて、ひたすらその少年を傷つけることを求めるかのように、何かに憑かれたように、一生懸命に檻から腕を伸ばし少年に爪を立てようとします。

 

ハイジが猫に向き合うと同時に、毛を逆立てていた猫がただじっと背を丸めて座る姿に変化します。

やがて判明したのは、実はその少年こそが、その捨て猫を拾ってきて11年くらいだったか、片時も離れずに可愛がっていた主人であり、理由も分からずに自分の元を離れた少年への寂しさが、やがて怒りに変わったということでした。

 

ハイジいわく、「彼女はとても怒っているの。家を離れる時に、説明をしたの?」。少年はいつものように「じゃまた元気でな」という感じで別れただけで、それが間違いだったとのことです。家族の言うことによると、その猫は1か月もの間、夜になると少年の部屋の前で鳴いていたとのこと。

「彼女は本当に寂しかったの。でもそれがやがて怒りに変わったのよ」と。

 

■「怒り」の根源に「愛」があるという問題の原形

 

この話をここまで詳しく書いたのは、実はここに人間の心の問題の原形があると考えるからです。

実際その猫の姿を最初に見た時、これはもう「処分」もあり得るなと、薄情な僕としては(^^;)考えました。なにせ一緒にいると必ず怪我を負わせられるわけですから。

しかし、それは「愛」だった。

 

人間の心が病む根源に、これがあります。全くそれと同じ形でです。

今回の原稿で、「愛」の章に、「魂が抱いた愛への願いと憎しみ」という副題をつけたものが、まさにそれです。

 

愛を願って生まれ、それが得られなかった時に、怒りに変わる。そしてその「怒り」が、「愛」を破壊する。そうして心に生まれた憎しみを、もう変えることはできません。それはすでに起きてしまったことなのです。

「怒りを取るか捨てるか」という人間の心の究極命題とは、そうゆう命題でもあるということです。

 

愛を求めたから、憎しみを抱きます。憎しみを捨てることは、愛を諦めるということを、少し意味します。つまり憎しみを捨てることが、愛を取ることではなく、空虚を意味することになる。だから憎しみを捨てることができない。そして憎しみによって、求めた愛を破壊する。

これが人間の心の問題なんですね。

 

ちなみにその猫に対しては、「ただ一つ方法がある」とハイジは言いました。「心から謝ること。謝り続けること」それによってその猫が少年への愛を取り戻すかは、今は分からないけれども、と。

そして少年が涙を流しながら猫に語る日々が始まったわけです。「本当にゴメン。寂しかったよな」と。

番組のコーナーの方は、部屋の中でまだ檻にはいった猫と少年が二人だけで部屋の中で向き合い、少年が謝り続ける様子を流して終わっていました。猫はもう少年を攻撃しようとはせず、ただ静かに背を丸めてじっと少年の言葉を聞いている感じでした。

 

その猫と少年が和解をする日が戻るか。これは難しい話だとまず考えました。まず事の発端は、愛を遮断された喪失が、まるで敵に危害を与えられたことであるかのように、脳の中で回線が切り変わってしまった、一種の脳の配線ミスのようなものに思えたからです。そうして一度「敵意」が記憶された限り、愛に再び回復するのは難しいかも知れない。

 

心理障害に悩む多くの方が、これと全く同じ事態が自分の心に起きたことを、嘆き怒るわけです。自分は人に敵意を感じる心に育ってしまった。これはあるべきことではなかった。親が悪い、と。

 

回復への道としては、記憶を抹消するというのは現実的な話ではなく、問題はこの事態を修復するために、さらに上位の脳神経機能が進化するかどうかだと、僕としてはまず考えた次第です。

 

その猫のその後の様子は、まだ番組でも取り上げられていませんが、いつか情報が出されないかと関心を持っている次第です。

 

■人間はハイブリッド型

 

さて、いつか書こうと思っていた話のため膨らみましたが、人間は「愛」によって生きる動物かそれとも「自由」によって生きる動物かというと、やはりそのどっちにも単純には属さないというのが僕の考えです。

猫は中間型。

人間はさらにそれでもなく、ハイブリッド型だと考えています。やはり「ハイブリッド」ですね。

一言でいえば、「自由によって生き愛によって生かされる」のが人間だと考えています。

・・(略)・・

 

心の真実への断片−2:魂の愛の願いへの回帰

 

 次に紹介するのは、私自身の自伝小説『悲しみの彼方への旅』からの抜粋です。

 2つの場面を紹介します。

 

 1つは、「あるべき姿」を掲げた心の中で、苦しみと社会への怒りの中で生きた時期の描写です。

 そこには(いきどお)る者」の姿があります。同じような怒りの中で生きる人達が、今社会では増えているでしょう。

 それが出生における「生から受けた拒絶」という、幼少期の愛への挫折を根源とするものだなどとは、誰も夢にも思わないかのように、人々の思考は難しい哲学もしくは社会道徳の問題意識の中に駆られているかも知れません。

 

 しかしその先に、この者が本当に人生で求めたものに向った時、そこに、魂が願った愛への願いと、悲しみが見えてくるかも知れません。それが「病んだ心から健康な心への道」の、入り口となるのです。

 その時、幾ら思考を重ねても答えが出なかっただけの理由が、如実に示されることになります。それだけ濃い感情の膿を心に置き去りにしたままであったのだと。それが2つ目の場面になります。

 自らの心の真実に還るために、一度そこを通る道を選択するか。それがこれからの人々に問われてくるのでしょう。

 

「3章 心の旅へ」からP.34

 この頃私は、自分自身を「苦しむ人間」と捉えていました。苦しみが私のアイデンティティだったのです。

・・(略)・・

 苦しみを宿命として、そこから何かを生み出していくということに、自分の進むべき運命がある。そんな感覚の中にいたのです。

 

 私は同時に、社会に対する戦闘的とも言える視線を持っていました。自分のような苦しむ人間を生み出した社会の欺瞞を、自分なりの視点から分析する。それを自分の将来の業とする。そんなイメージも持っていました。ただ、大学1年の半ば頃には、書店に行って関心の持てそうな本を探すと、社会学よりも心理学の方に興味が移ってきているのを自覚していましたが。

 

11章 病んだ心の崩壊」からP.204

 私はまるで予定された事を行うだけの自動機械のように、次の日の心理学特講で提出するレポートを書く作業に入り始めていました。

 突然それをやめてしまいます。私は泣き出していました。

 自分でもはっきりした理由は分からない。〃自分の人生は何なんだ!〃という大きな感情が僕を襲ったのだ。

 僕は死にたいと何度も思った。自分はほんの小さい時にすでに死んでいたのだ。

 何が悲しいのかはっきり自覚できているわけではない。何をどうやっても、結局求めているものは自分には拒まれるのだ、という感情だろうか。。

 ただ悲しかった。

 

 私は何かを吐き出すように泣いていました。胸から血を吐き出すような涙でした。

 

 心の障害の根源である「魂の愛への願いの挫折」は、論理性を持ちません。それはもはや、現実世界での「親」との関係でさえないのです。自分の「命」と、自分が生まれ出たこの「生」との、関係における挫折なのです。

 それを今生きる自分の「心」で受けとめることが、治癒への転換点になります。

 

心の真実への断片−3:浄化

 

 最後に紹介するのは、「愛されない怒り」によって荒廃化した心が、清らかな心へと「浄化」する過程を示した事例で、世界の犯罪史の中で特異な人物として名を残すマリー・ヒリーの物語です。TV番組『アンビリバボー』で放映されたものとインターネット上の情報を基に、物語の書き下ろしをしてみました。

 これは深刻な心の障害傾向の中で、情動の荒廃化によって心に抱えるようになった、人間性を損なった感情が、どのような過程で「浄化」に向うのかを、如実に象徴したものと言えます。

それと同じものが、ハイブリッド心理学が考える「病んだ心から健康な心への道」においても、純粋な内面過程として起き得るということになります。

 

 それは2つの重要な通過点を持つことになります。

 1つは、真の愛に出会うこと。それによって自らの「愛への望み」に(かえ)ことです。

 もう一つ。心の「浄化」はそうして「愛への望み」に還ることにより生まれるのですが、それは同時に、今までの自分の荒廃化した心を、浄化されつつある心が目のあたりにすることで、この人間自身の内部における「罪」と「罰」が決せられる時が訪れるという構図です。

 これは時に、「死」「命」をかけたものになります。それを超えて「生き続ける」ことを支持するものとは何になるのかへの視点が、求められることになります。

 それが何よりも、この心理学が人々に伝えたいものだと言えるかも知れません。

 

不幸な未亡美人の素顔

 

 物語は、1951年、アメリカのアラバマ州アニストンで、ごく幸せそうな若いカップルが結婚したことから始まった。

 

 夫はフランク・ヒリー21歳。その妻マリー18歳。2人は幼なじみで、マリーは学生時代には学校一の美人にも選ばれたほど美しい女性で、やがて2人の子供にも恵まれ、誰の目にも、互いに愛し合う幸せな夫婦に見える生活を送っていた。

 夫フランクは「君ほど美しい女性を妻にできた僕は本当に幸せだ」といい、妻マリーは「私だってあなたのような本当にやさしい人と結婚できて幸せ」と。

 フランクがマリーに良くいう口癖は、「いつまでも美しい妻でいて欲しい」だった。

 

 異変は結婚から20年も過ぎた1975年に始まった。夫フランクが頻繁に体調不良と吐き気を訴えるようになり、医者に「伝染性の肝炎」と診断されるも、感染ルートは分からないまま、なんと入院から一週間後に急死してしまう。

 やがて最愛の夫を失ったこの美しい未亡人を、信じられない不幸が次々と襲うようになる。1年後に庭先で不審火による火事が発生。放火を予告する電話が度重なった挙句のことで、これが何度か重なる。マリーは警察の事情聴取で、電話の声に思いあたるものも、また人に恨まれる覚えもないと語った。幸い警察が電話に逆探知機をつけると、それらしき電話もぴたりと止んだ。

 間もなく、自宅に空き巣が入り、宝飾品を盗まれる。治安は本来良い街であり、一家に何かが起こり始めていることが、誰の目にも明らかだった。

 

 マリーを襲う不幸は怒涛の様相を示すようになった。1977年、マリーにとって最大の理解者である最愛の母ルシルが癌のため他界。次に、娘キャロルの体にも異変が起こる。それは体調不良と吐き気で、他界した夫の症状に酷似したものだった。

 挙句の果てには、キャロルのために家具を買った際の小切手が不渡りとなり、警察に逮捕される。担当判事としても、「一家の大黒柱を失った経済的打撃の先で気の毒だったが、法律は法律で仕方がなかった」と語った。

 

 しかしこれらの不幸には全てがあった。夫や母の死、そして宝飾品盗難、実はこれら全てが、保険金という報酬をマリーに与えていたのだ!

 全ての不幸が実はマリー自身によって作り上げられたものであることが明るみになったのは、彼女の拘留中、入院していた娘キャロルが医師に、「いつも母がしてくれる注射はしなくても良いの?」と尋ねたのがきっかけだった。「そんなものは指示していない。何のことだ!」「だって良く効くんでしょう?」と。

 医師の通報によって家宅捜査をした警察は、ヒ素を成分とした農薬のビンを発見。キャロルの体内からもヒ素が検出された。

 警察の尋問を前に、ついにこの女の魔性がその姿を現す。うすら笑いするマリーの口から出た言葉は、「だって、あの子の我侭にはホントうんざりだったもの」であった。

 

 この事態を受け、夫フランクの死因の再調査のため墓が掘り返された。驚いたことに、フランクの死体はほとんど腐敗していなかった。真の死因は一目瞭然であった。ヒ素には強力な防腐作用があるのである。同様にして母親ルシルの遺体からもヒ素が検出された。

 

II 生い立ち

 

 マリーが生まれたのは1933年、世界大恐慌の真っ只中であった。共働きで家に不在がちだった両親は、娘に物を買い与えることで埋め合わせをしようとしたが、幼いマリーはそれに対して素直ではなかったようだ。「そんなものいらない!」と。両親はさらに高価なものを買い与えることで、なんとか娘をなだめた。「彼女が本当に欲しかったのは両親の愛情だったのかも知れません」と担当判事は語っている。

 

 やがて成長したマリーは、町一番の美人になると同時に、その我侭さもエスカレートして行き、金使いの荒い性格になっていったようだ。結婚後もマリーは夫の収入のほとんどを自分自身のための買い物で使い果たし、「いつまでも美しい妻でと言ったのは貴方じゃない!」と言い訳した。度重なる彼女の浪費にさすがに夫が咎めると、今度は自分宛の偽のラブレターを作り、それを夫に見せびらかし離婚を匂わせ、美人妻を持つことに虚栄心を抱いていた夫を折れさせることに成功したのである。

 

 やがて彼女の浪費は、夫に隠す多額の借金を抱えるまでに膨れ上がった。督促が増えるようになり、自分で返すことなどできる由もなく、夫に打ち明けることもできない。窮地に至った彼女が思いついたのが、夫の殺害だったというわけである。彼女はそれにより実際多額の保険金を手にし、再びそれを浪費に当て、金が底をつくと放火や盗難を装った保険金を手にするという行為を繰り返すに至った次第である。元は他人の夫だけならず、実の母や娘まで毒牙にかけるその精神は、容易には想像できないものがある。

 

III 放浪

 

 こうして逮捕に至ったわけだが、彼女の話が他に類のないものとなったのは、これで彼女の事件が一段落したのではなく、実は幕開けとも言える事態になったことである。

 

 というのも、夫と母の遺体からヒ素は検出されたものの、それが直接の死因であったことが断定されなかったからである。母の直接の死因はやはり癌と断定された。結果、彼女の嫌疑はまず娘への殺人未遂保険金詐欺のみとなり、裁判の結果、1万4千ドルの保釈金にて釈放された。その後彼女は街から忽然と姿を消した。

 皮肉なことに、フランクの死因がやはりヒ素であったことが最終的に断定されたのは、その後であった。FBIが彼女の捜索に乗り出すも、もはや居場所はつかめなかった。

 

 その数か月後、1000キロ以上離れたフロリダのとある酒場に、一人の美しい女性が現れ、カウンターで男性に優しそうな声で声を掛ける。「ハーイ?お名前は?わたしはリンジーよ」。

 マリー・ヒリーその人であった。偽名を使い、12歳もサバをよみ36歳と詐称していた。男はこの町の造船所で働くジョン・ホーマン。彼女は既に何人かの男を手玉に取り収入を得る生活を送っていたようであるが、子供の頃母親をなくし、身よりもなく孤独な人生を送っていた素朴な性格のジョンが、彼女の最も格好の餌食となったわけである。

 

 ジョンは美しく優しいリンジーことマリーに魅了され、2人は結婚する。彼女はリンジー・ホーマンという新しい名を手に入れる。

 ジョンは結婚後も彼女への優しさと誠実さを変えることはなかった。彼はこうも言った「君のように美しい人に話し掛けられるなんて、騙されているのかも知れないとも思った」。マリー、「あなたは十分魅力的よ」。全て彼女の想定内だった。

 

 彼女の想定外だったことが2つある。一つはジョンの収入が期待以上に貧しかったことだ。彼女はそれに苛立ち、お決まりのようにジョンに多額の保険金を掛け、再び毒を盛る準備を始める。

 

 もう一つ、ジョンの誠実さが、彼女の想定を超えたものだった。ある日、「新しい洋服が欲しいわ..」と訴えるマリーに対して、ジョンは言った。「君も分かっているように、僕の収入は多くない。でも欲しいものがあれば好きなだけ買えばいい。ただ..これだけは憶えておいて欲しい。僕は君が美しいから好きなわけじゃない。君が何を着ていたって、僕の気持ちは永遠に変わらないよ。」

 

 その後台所には、眉をひそめ心底からの疑問を繰り返すマリーの姿があった。「美しいからじゃない・・? 自分の美貌こそが男性を惹きつけると考えて人生を送っていた彼女にとって、それは人生で始めての言葉だった。過去の男は誰もが、「美しい君が好きだ」と言った。だがジョンは違った。着飾らない時も、病気になった時も、どんな時も、ジョンは彼女に優しく接した。マリーにとってジョンは、外見ではない本当の自分を愛してくれる、人生で始めての人物となったのである。

 

IV 変化

 

 マリーの心に明らかに変化が起きたのは、彼女がまさにジョンに毒を盛った食事を与えることを決行しようとした時だった。かつての鉄面皮はなく、心の迷いを映すように、彼女はやや生気を失っていた。ジョンが変わることのない優しさで尋ねる。「元気がないね。体調でも悪いのかい」。答えない彼女を横目に、食事を口に運ぼうとした瞬間であった。

 「食べちゃ駄目!」 マリーは食事をテーブルから叩き落す。驚くジョンに、彼女は「今日はおいしく作れなかったの」と言い訳をした。

 

 この後彼女が取った行動は実に奇妙なものだった。心理学的に関心深いものであると同時に、彼女の心の中を想像することは深い感慨に余りあるものがある。

 

 通日後、マリーはジョンに「実は子供の頃から心臓に病があるの。でもいい病院が見つかったので明日から入院しようと思うの」と打ち明ける。驚くジョンを尻目に、翌日マリーは家を出る。数週間後、ジョンに「リンジーの家族の者」と名乗る女性の声で、リンジーが亡くなったと電話が入る。ジョンはただ呆然とするだけであった。

 

 容易に推測できるであろうが、「リンジーの家族」というのは嘘で、マリー本人である。心臓病ももちろん嘘だ。

 この行動は、マリーの中にジョンへの純粋な愛情が芽生えると同時に、大罪からの逃亡者である自分がジョンに相応しくないという罪悪感のために、自ら身を引いたものであろうと伝えられている。恐らくそれは間違いではないだろうし、マリーの中に生まれた、人生で初めての、人への本心からの愛は真実であったであろう。だが彼女は真実を彼に伝えるのではなく、虚構を演じるという、それまでの人生の中で骨の髄にまで染み付いた業ともいえる性癖の中でしか表現できなかった。

そこに、真実とまがい物の混合物があったと言える。

 

 彼女の虚構の性癖は、事実、ジョンから身を引いたはずのマリーが再びジョンに近づく行動に現れた。彼女としては、ただジョンの傍で生きることが望みとなっていたのであろう。さらに深い真実とまがい物の混合物という様相だ。

 マリーが再びジョンの前に姿を現したのは、半年ほどたった時だった。今度は「テリー」という、「リンジーの双子の妹」と偽ってである。髪も金髪に染め、性格も別人を演じた。「一緒に姉の死を乗り越えましょう」と。ジョンはさすがに驚いたが、彼女を受け入れた。

 

愛を求めて

 

 運命の皮肉が再びマリーを翻弄したのは、テリーとしてのジョンとの生活が軌道に乗ろうとしていた時だった。実はこの運命のいたずらが、マリーに真に清らかな心を取り戻させた、この数奇なる人生を生み出した神の手の最後の仕業だったのかも知れない。

 マリーは突然、なんと全く無関係な麻薬密売の容疑で逮捕された。恐るべき偶然の一致で、同じく「テリー」と名乗り、マリーが詐称したのと同じ36歳、しかもブロンドの、FBIが追っていた麻薬密売人の女と見なされたのだ。

 

 マリー自身はこの時もちろん逃亡犯マリー・ヒリーとして捕まったのだと思い、心底から観念したようである。「もう観念するわ。正直云って、もう疲れました。自分が誰だか混乱してしまって..」と。混乱したのは刑事たちも同じだった。やがて彼女が指名手配犯マリー・ヒリーであることが判明し、彼女はようやく夫の殺害娘の殺人未遂容疑で、19831月、彼女の故郷アニストンで裁判にかけられ、終身刑が言い渡される。法廷に向かうマリーの表情が映像に残されているが、うつむきがちな中で時折何かを真っ直ぐ見つめる、単なる囚人とは異なる表情を感じさせる。

 

 全ての真実を知ったジョンは、それでもマリーへの愛を貫いた。弁護費用も含め、彼女を支えるために全財産を投げ打ち、何度も面会に通った。「最初から似ているとは思ったけど、まさか本当にリンジーだったなんて..早く言ってくれれば良かったのに..。」 それを聞いたマリーは、ただ泣くだけであった。

 

 彼女はその後刑務所でとても真面目に暮らした。担当判事、「模範囚として出所し、ジョンと暮らすことを夢見ていたのかも知れません。」

 19863月、彼女は模範囚として3日間だけの仮出所を許された。2日間をジョンと一緒に過ごし、3日目、ジョンに何も告げることなく姿を消した。その4日後、彼女は生まれ育った家のポーチで、ボロボロの姿で発見された。全身が雨に濡れ、体は冷え切り、傷と(あざ)だらけの姿で。救急車が呼ばれたが、間もなく息を引き取った。

 

 彼女は今、最初の夫フランクの隣で眠っている。ジョン・ホーマンはその後いつまでも、何度も、彼女の墓を訪れた。

 

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